瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2019年08月

 「こんぴらさん」は、江戸時代後半の19世紀になると全国からの参詣者が集まる聖地となります。その一方で、こんぴらさんの鎮座する象頭山も景勝の地としても知られるようになります。その背景には、象頭山を景勝地として売り出すための巧みなプロデユース戦略があったようです。
象頭山を景勝地として売り出すために、どんな戦略をこんぴらさんはとったのでしょうか。それを今回は見ていきましょう。
 金刀比羅宮には、象頭山の十二の景勝をテーマとする詩絵がいくつか残されています。作者によって内容は異なりますが、四季折々のお題は同じで、次の12題です
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 左右桜陣 後前竹囲 前池躍魚 裏谷遊鹿 
 群嶺松雪 幽軒梅月 雲林洪鐘 石淵新浴 
 箸洗清漣 橋廊複道 五百長市 萬農曲水
例えば「運林洪鐘」というテーマで絵と漢詩がセットで作品を構成します。
この場所は、現在の旭社(旧金堂)周辺の境内です。現在の賢木門をくぐって右脇にある遙拝所は、神仏分離以前は鐘楼でした。その鐘が雲のかかった象頭山に鳴り響くシーンが詩と絵画で描かれていくという趣向です。それが全部で12枚でセットになります。
狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」(金刀比羅宮所蔵) 画面上から本社(1659)、鐘楼(1620)、鳥居(1659)、二天門(1660年に改称)、多宝塔(1673)が描かれている。かっこ内は建立年
      狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」
 上絵には画面上から次のような建物が描かれています
本社(1659)
鐘楼(1620)
鳥居(1659)
二天門(1660年に改称)
多宝塔(1673)
(かっこ内は建立年)
いくつかある12景図の中で注目したいのが「象頭山一二景図」です。
この絵は幕府の奥絵師であった狩野安信(1613ー85)と息子の時信(1642ー78)が) 十二景を六幅ずつ描いています。そして、幕府の儒官であった林鳶峰と息子の鳳岡が六景ずつ詠んだ詩が各図に記されています。これだけ見ると、江戸で評判の学者と絵師が、訪れた象頭山の美しさに心打たれて筆をとった合作のように思えます。所がそうではないようです。
 享保三年(一七一八)に高松藩儒の菊池武雅が記した「象頭山金毘羅神祠記(しんしき)」によれば、次のような過程を経て制作されています。
①金光院別当(住職)の宥栄(ゆうえい)が、象頭山の十二景を選んで鳶峰と鳳岡に詩作を依頼
②それとは別に安信と時信に図を依頼
③金毘羅の楽人で書に優れた上左兵衛に命じて各図に林父子の詩を書き写させる。
 鳶峰らが詠んだ詩の原本は、「讃州象頭山十二境」と題する寛文十一年(1671)の詩巻として別に伝来しています。各六詩を自筆したもので、「想像彼境、倣着題体」という奥書から、二人は象頭山を訪れることなく、題に応じて想像しながら詩作したようです。

 一方、やはり金刀比羅宮に伝わる「象頭山十二境図巻」は、高松藩初代お抱え絵師の狩野常屏が描いたもので、安信と時信が描いた十二景とほぼ同じ図が二巻の画巻に収められています。常屏は安信の門人で、安信と金光院の間の取り次ぎ役もしていたようです。「状況証拠」から考えて、この團巻は幕府奥絵師の安信らが江戸にいながら象頭山の景観を描けるよう「参考史料」として常屏が描いて渡したものだと考えられます。この二作品の存在は、先の「神祠記」の記述を裏付けるものになります。
それにしてもなぜ、金毘羅大権現の最高責任者である宥柴は、このような手間をかけてまで「象頭山十二景」をひとつの作品に仕上げようとしたのでしょうか。
当時の金毘羅の境内を取り巻く状況を見てみましょう。
慶安元年(1648)幕府朱印地指定以後に初代高松藩主松平頼重の寄進が続く
万治二年(1659)本社造営をはじめ諸堂の移転や改築が進む。
寛文八年(1668)頼重が以後、毎年棟梁が二基ずつ寄進する
延宝元年(1673)頼重寄進の多宝塔完成
 こうして、金毘羅は頼重の寄進により境内の景観が大きく変わりました。「象頭山十二景図」が描かれたのは、こうした主要な建物の造営・改築をひととおり終えた時期にあたります。そういう目でこの十二景を見ると「雲林洪鐘図」には本社や鐘楼、二天門のほか、頼重寄進によって寄進されたばかりの多宝塔が描かれています。見方を変えれば、この図は完成間もない建物が意識的にとりあげられていることに気がつきます。それは新たに整えられた境内の姿を、詩歌に詠まれる地という伝統的な景勝イメージの中に位置付ける「広告戦略」かもしれません。
 そのために、金光院の別当宥栄は、境内が整ったこの時期に自分の手で象頭山の景勝を12選んだのです。そして「象頭山十二景図」として完成させます。
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その狙いとは、
幕府儒官と奥絵師という当代随一の学者と画家に合作させることで作品の評価を高めることでしょう。そして、変化を遂げた境内と象頭山の素晴らしさ融合させると同時に権威付けようとするねらいがあったのではないでしょうか。
 似たような試みは各地で行われていました。
近江八景や宮島八景などの景勝に習って、全国に無数の八景や十景、十二景が創り出されていました。それらを題林に江戸・京都他で活躍する学者や画家たちに依頼した詩書画作品が数多くのこされています。作品の名声が高まれば、後世の学者や文人たちが詩や歌に詠むことでその景勝地の知名度は広がっていきます。それは、現在の観光地の売出方法にも通じるものがあるようです。
 こうして世に送り出された「象頭山十二景」は、その後も折々に京都五山の学僧や文人たちによって詩画に表され、金毘羅に新たな価値を与え続けました。それは「金毘羅信仰」とはまた違うオーラーを象頭山にもたらすことになります。高名な詩人や歌人の作品の舞台となった金毘羅を訪れたいと思う気持ちと、現在の映画のロケ地の聖地巡りとは相通じる部分もあるように思います。
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 明治維新を迎えて象頭山が琴平山に改名されると、すぐに「琴平十二景」が創られます。神仏分離令により神社に変身した金刀比羅宮は、再び大きく変化させた境内の姿を新たな「お題」によって詠み描かせています。時代の変化にあわせて景勝を創出することが、観光地として生き残っていくひとつの戦略なのです。それを怠り、世間から忘れ去られていく旧跡や名勝は数多くありました。
金刀比羅宮は自らの新しい姿を表現し、時代にあったニューイメージを作り上げてきたようです。そして、その手法は今も受け継がれているように思います

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  参考文献 松岡明子 景勝を創る 金比羅宮と象頭山一二景  香川歴史紀行156P

  

 

 近世になると寺社は宝物を揃え「開帳」を行うようになります。それは文字通り秘仏・秘宝の帳を開き、特別に公開して、本来衆生に結縁の機会を与えるという宗教行事でした。
  本山寺に伝わる「本尊開帳諸記録」を見ながら、約二百余年前の文化二年(1805)の開帳の様子をのぞいて見ましょう。
本山寺の開帳準備スケジュール
1804年
10月 建札を披露し翌年3月3日から4月4日までの開帳告知。告知の立札、丸亀城下町と金毘羅口や伊予街道・遍路道などの要所
1805年 
2月    軽業興行を願い出。
2月 4日 初午市が開かれていた際に上高瀬組内一五か村の庄屋が集められ、村内外の檀家総代と打ち合わせ。
2月15日 檀家総代と再び庄屋が集まり、庄屋中へ村々からの寄付を要請
2月17日 高野山から住職帰国、
  25日 延命院から幡(ばん)が、勝造寺から両界曼荼羅など仏画や仏具が借り出される
  27日 新調された仏具が観音寺湊に到着
3月 朔日 竹田村の辻武治から客殿の幕が寄進。仏画類は客殿に掛けられ、月末までに開帳準備完了。
3月3日  開帳開始 4月3日までの開帳期間中は、毎日誦経がなされた。
4月4日  開帳した本尊への供養。
期間中の行事は本山寺の僧だけではなく、延命院など近隣の真言宗寺院からの僧も参加協力しています。また諸堂の番や餐銭などの管理は、予め各村に人数を割り当てられ、檀家から適任者が選ばれて当たっています。また諸堂には解説札(会解)が作られ、開帳の諸仏の解説がつけられて、解説員も配置されるなど、今でいうと「博物館的空間」が創り出されています。
開帳の目玉の本尊は、どのように人々の目の前に現れたのでしょうか 
現在国宝に指定されている本堂内陣奥にある厨子の扉は開かれます。
そして本尊馬頭観音像、脇侍阿弥陀如来・薬師如来像が開帳されます。この須弥壇上の左右には多聞天・持国天像が安置され、内陣中央部には前立馬頭観音像や四面器・三具足(みつぐそく)が置かれました。
内陣最前列には愛染明王坐像と三面大黒天像が配置されます。
まさに本堂内陣には諸仏が立ち並ぶ光景が産みだされたのです。
 参詣者は筵が敷かれた外陣を右から左へと進みます。
本堂を出ると竹垣に沿って、すぐ左側の大日堂に導かれます。
ここでは、ぬれ縁から堂内中央の大日如来坐像と、経文板木を拝観します。
その後、南側の十王堂と大師堂へ進みます。
十王堂では、閻魔王をはじめとする十王像・地蔵菩薩像・三十三観音像が、後者では弘法大師坐像・十大弟子画像が公開されています。
 最後に本堂表へ回り、持仏堂・客殿に入ります。
釈迦如来像を中心に、弘法大師御衣・地蔵菩薩像を配置し、
その背面には弘法大師像・両界曼荼羅・阿弥陀如来像など多数の仏画が掛けられ、出口には東山・桑原流生花が色を添えています。
 この開帳を支えたのは、檀家を中心とする地域の人々でした。
本山寺の場合は、近世以前からの檀家集団の形成と結合があったようです。それは江戸時代になっても藩・郡・組の枠を越えた財田川流域の地縁・血縁集団として維持されていきます。三豊のこの地域では、檀家を中核としつつも、檀家以外の人々も藩の支配機構である組・村を通じて本山寺の支援集団に組み込まれていったというのが特徴的です。丸亀藩や檀家組織を越えた広い地域からのメンバーで運営組織は形成されています。
 加えて、若者組や講など自発的な支援があります。開帳の準備・運営だけでなく、必要経費もこれらの地域の寄進によって賄われています。このような不特定多数の参詣者から寄せられた散銭は、寺内整備に用いることができ、開帳の経済的効果大きかったはずです。
 同時に開帳は地域イヴェントでもあり、地域興しでした。
開催に当たっては、娯楽の場を求め、丸亀藩の領内を問わず領外からも数多くの人々が参拝に訪れています。ここには本山寺が宗派に関わらず檀家以外にも多数の人々を集める、存在感ある寺院として、三豊に根を下ろしていたことがうかがえます。このような「財産」が土台にあったからこそ、この寺は百年後に明治の五重塔建設に挑戦していくことができたのでしょう。
    参考文献 胡 光 本山寺の秘宝 香川歴史紀行

     
  幕末の瀬戸内海の芸予諸島を描いた一枚の絵図を見ています。
9639幕末~明治期古地図「宮島 錦帯橋 金毘羅ほか鳥瞰図
この絵は尾道・三原上空から南の瀬戸内海を俯瞰した形で描かれています。

i-img1024x767尾道沖2
下側には山陽道沿いの海岸線と主要な港町が東(左)から下津井・福山・とも(鞆)・尾道・三原と続き、

i-img1024x7宮島
 
竹原・おんど(音戸の瀬戸)を経て広島湾から宮島へと続きます。そして、西(右)端の岩国まで描かれています。

さて、この絵の作者の描きたかったのは何なのでしょうか?
この絵図はこのエリアの4つの名所を紹介するために書かれた絵図のようです。 分かりやすく描きたかった所には、丸い枠の中に地名が書き込まれています。
i-img1024x767-宮島・岩国

それは「宮島」・「岩国錦帯橋」「とも ギョン宮」「こんぴら大権現」のようです。しかし、この絵図で、最も丁寧に描き込まれているのは宮島、その次が錦帯橋ではないでしょうか。鞆と金毘羅大権現は脇役のような印象を受けます。関西人にとって瀬戸内海のナンバーワン名勝は「日本三景」の宮島でした。その宮島に匹敵するほどの参拝客が金毘羅を訪れるようになるのは19世紀になってからのようです。
 今回は大坂の船問屋が乗船客に配布した引札の金毘羅参拝絵図の航路図の変遷から見えてくるを探ってみます。

この絵図は18世紀末に、大坂の船問屋のはりまや伝兵衛が金毘羅船の乗船客に無料で配布した航路図です。
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両面刷りで、表(上)が高砂から金毘羅まで、裏(裏)がとも(鞆)から西の宮島までの海路が示されています。この絵地図の題名は「こんぴら並みやじま船路道中記案内」で、金毘羅と宮島の案内を兼ねていたことが分かります。つまり、18世紀後半の金毘羅の案内図は、宮島と抱き合わせであったようです。この図が出されてからは、各地の宿屋がこのような道中案内を出すようになるのですが、金毘羅単独ではなく宮島や西国巡礼の案内を兼ねた道中記です。
  ちなみにこの時期に何種類も出された「西国霊場並こんぴら道中案内記」の中には、
「さぬきこんぴらへ御さんけいあそばされ候は つりや伊七郎方へ御出被成可被下候、近年新宿多く出来申候てまぎらはしく候ゆへ ねんのため此方より御さしづ奉申上候」
と、金比羅詣での宿の手配依頼を受け付けることが書かれています。
    この時期の金毘羅さんには単独で四国讃岐まで遠方の参拝客を惹きつける知名度がなかったようです。

それが当時の旅ブームの高揚に載って、江戸での金毘羅大権現の知名度が高まる19世紀初頭になると多くの人たちが四国こんぴらさんを目指すようになります。前回見たように、十返舎一九の弥次さん北さんが「続膝栗毛」で金比羅詣でを行うのもこの時期です。そして、19世紀半ば頃から幕末に架けてひとつのピークを迎えるようになります。
そうなると、金比羅詣での客を自分たちの所へも呼び込もうとする動きが各地で出てきます。そのためにおこなうことは、金比羅詣でのついでに、我が地にもお寄りくださいとパンフや地図で呼び掛けることです。こうして、今までにないルートや名所が名乗りをあげてくることになります。
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 この絵図に何が書かれているのかが分かるためには少し時間が必用です。私も最初は戸惑いました。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。しかし、この地図の変わっているのは、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主金屋茂兵衛です。
彼がこの絵図を発行した狙いは、どこにあるのでしょうか。
私には、紀州加田から撫養へ渡り、讃岐の内陸部を通る新しい金毘羅参りのコース開発に力を入れているように思えます。もともと東国からの参拝者は弥次さん・北さんがそうであったように伊勢や高野山参りのついでに、金毘羅さんをめざす人たちが多かったのです。その人達の四国へのスタート地点を大坂から加田に呼び込もうとする目算が見えてくるようです。
さらに時代を経て出された絵図です。

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標題は「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻弁播磨名勝附」となっていて、「加田」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。
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讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。
 この絵を見ていると、地図制作技術が大幅に向上しているのが実感できます。色も鮮やかです。気がかりなのは、紀州加田の金毘羅への道の起点になろうとする戦略はうまく行ったのでしょうか?


さて次は、丸亀に上陸した後で旅籠から渡された絵図です。
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参拝者たちはこの地図を片手にウオークラリーのように、金毘羅さんだけでなく善通寺や弥谷寺などの名所旧跡にも足を運んだのです。いうなれば「讃岐版の金毘羅案内図」ということになるのでしょうか。
標題に「金毘羅並七ケ所霊場/名勝奮跡細見圖」とある通り、絵図の中では描写が写実的で最も細密でできばえがいいものです。絵師の大原東野は、文化元年(1804))に奈良から金毘羅へやってきて、定住していろいろな作品を残しています。それだけでなく「象頭山行程修造之記」を配って募金を行い金毘羅参詣道の修理を行うなど、ボランテイア事業も手がけた人です。彼の奈良の実家は、小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍でもあったようです。
   さて、前回に登場した弥次さん北さんがそうであったように、江戸の参拝者は好奇心が強く「何でも見てやろう・聞いてやろう」と好奇心も強い上に、体力もタフでした。そのため「折角四国まで来たら金毘羅山だけではもったいない」という気持ちが強く、空海伝説の聖地である善通寺や弥谷寺などにも足を運んだことは紹介しました。

 その好奇心を逆手にとって、金毘羅客の呼び込みに成功したお寺が現れます。そのお寺が出した絵図がこれです。
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この絵図も見慣れない構図なので最初は戸惑いました。真ん中の平野のように見えるのは瀬戸内海です。金毘羅が鎮座する奥の象頭山と手前の丸亀の位置が分かると見えてきました。この絵図がアピールしたいのは丸亀と海を挟んで鎮座する喩迦山です。
 備前児島半島の喩迦山蓮台寺は、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないと、巧みな宣伝をはじめます。これが功を奏して参詣客を集めることに成功します。これはその「両参り」用の案内書です。これを帰路の丸亀で見せられた参拝客は喩迦山まで足を伸ばすようになります。そして、次第に往路に喩迦山に立ち寄ってから金毘羅をめざす参拝者も増えるようになります。その結果、弥次・北の時代には室津から出発して小豆島の西で備讃瀬戸を横断していた金毘羅船の航路は、喩迦山の港である田の口港に寄港した後に丸亀に向かうようになるのです。その結果、金毘羅と喩迦山の間では門前町の宿屋や茶屋、土産物屋の間で参詣客の分捕り合戦が演じられるようになり、田引水の信仰や由来が作られ、双方が相手をけなし合う泥試合になっていきます。
これを庶民が表した諺が残っています。
○旨いこと由加はん 嘘をおっしゃる金毘羅さん 
観光誘致の所産の諺として、当時の人々に広まったようです。
塩飽諸島の盆歌に「笠を忘れた由加の茶屋へ空か曇れば思い出す」というフレーズがあるそうです。由加山蓮台寺門前町の昔のにぎわい振りがしのばれます。
 
18世紀までは、伊勢や高野山、宮島の参拝ついでに立ち寄られていた金毘羅さんでした。それが19世紀半ば頃から知名度を上げ「集客力」を高めるようになると、他の「観光地」が金毘羅さんからお客を呼び込もうとする戦略をとるようになっていったのです。
 観光地同士のせめぎ合いは、この時代からあったようです。
関連年表
延享元年 1744 大坂の船問屋に金毘羅参詣船許可。日本最初の客船運航開始
宝暦3年 1753 勅願所になる。
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
明和3年 1766 与謝蕪村、金毘羅滞在し「秋景山水図」を描く
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工。
文化7年 1810 『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』弥次郎兵衛と北八の金毘羅詣で
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠建つ。(太助燈籠のみ)
  多度津港に新湛甫できる。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
嘉永6年 1853 黒船来航。吉田松陰参詣。
嘉永7年 1854 日米和親条約締結。
安政6年 1859 因島金因講、連子塀燈明堂上半分上棟。
  高燈籠の燈籠成就。
   参考文献 町史ことひら第5巻 絵図・写真編66P~

丸亀の宿は船頭の旅籠 
 順風に恵まれて弥次・北を乗せた金毘羅船は、三日目の夕方には東汐入川の旧港に入港します。前回に話したとおり、大坂の船宿に申し込むと、船から讃岐側の宿まで全て手配されるというシステムですので、上陸して宿を探す必要がありません。船頭が丸亀の宿まで案内してくれます。弥次・北の宿は、船頭が経営する旅籠ですからその心配すらありません。安心して船頭に任せっきりです。
DSC01089丸亀旧港
 福島湛甫完成以前の丸亀港の様子が分かる絵図 東汐入川河口が港
旅館までの足取りを見てみましょう
 
 讃岐丸亀の名は諸国に広がりて、ここも買船入津の一都会なれば、繁昌ことに言うべくもあらず。町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり。弥次郎兵衛・北八は、船頭の案内(あない)に連れて大物屋というに入り来るに、女ども出で向かい、
女ども「コレハようお出でなさんした。サアこちお上がりなさんせ。」
弥次郎兵衛「アイ、お世話になりやしょう。」
 と、上へ上がる。このうちは船頭の宅なれば、母親らしきが走り出で、
母親らしき「親方ち殿戻らんたか。アノネヤ昨日ぶりの大あなぜナァ。たまがった(仰天)じゃあろナァ。」
  と讃岐弁で一昨日の大嵐のことを心配し、宿に導き入れます。
1丸亀金毘羅案内図1
丸亀から金毘羅までの街道が示された案内図

そして風呂に入るところで一騒動です。
弥次郎兵衛「どうだ北八、早くあがらねぇか。」
北八「コレコレ弥次さん、ちょっと見ねぇ。コノ風呂はなんだろうテ。」
 と、言うゆえ弥次風呂場へ入りて見れば、素焼きの瓶を据え風呂にしたるなり。すべてこの辺の習いにて、風呂桶の代わりに素焼きの瓶を用ゆ。そこより少し上のかたに三所四所、焼き付けたる土のあるにもたせて下(げ)す板を置く。京大坂などにいう五右衛門風呂というに等し。詳しくは図に表すがごとし。金毘羅参詣の人は皆よく知るところなりとぞ。
弥次郎兵衛「ハハハハ、なるほどこいつは珍しい。」
 と絵図入りで丸亀の風呂を紹介します。それによると風呂桶の代わりに素焼きの瓶を使った五右衛門風呂風の風呂だったようです。これが当時の丸亀の一般的なお風呂だったのかどうかは、私には分かりません。
  風呂から上がり、夕食も済ませると、一昨日の厄払いに一杯飲もうということになります。
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そこで酒の肴の話になるのですが「讃岐ことば」が分からずに、右往左往します。
弥次郎兵衛「おかげで今夜こそは大船に乗ったような心持さ。ヤ時にこの海上無難に着いた祝いに一杯やろうか。モシ何ぞおめぇの所に肴はありやせんか。」
船頭「エイ茶袋とな、“どうびん”ノウありおったネヤ、どうばりとも煮付けてなどあげましょかいネヤ。」
北八「茶袋と土瓶を煮付ける。こいつはとんだ話だ。そんなものが食われるものか。」
船頭「そしたらナ、とっぱこ(鯵)のお汁はどうじゃいなァ。」
弥次郎兵衛「とっぱこいやろか。三番叟の吸いもので外へはやらじと、俺ばかり呑もうか、ハハハハ。何でもいいから早く酒を出してくんなせぇ。」
北八「モシモシその茶袋や土瓶の後で、鉄瓶を刺身にして薬鑵のころいり、鍋釜の潮(うしお)煮なんぞよかろうぜ。」
船頭「ハハハハハ、えらいひょうまづいて(きょくるということ)じゃ。ドレいんま一気にあげましょいネヤ。」
 と、勝手へ行く。ほどなく女盃を持ち出ると、やがて“うづわ”の煮付けたるを鉢に入れて、船頭持ち出づる。後より女房銚子と蛸のさくら煮を持ち来たり
船頭「“どうびん”の太いのじゃがな。あんじょら(味良く)とようたけ(煮)たわいなァ。サア一つおあがりなさんせ。」
北八「ハハァ、“どうびん”とは蛸のこと、茶袋というはこの“うづわ”のことだな。」
船頭「さよじゃ、サアろくに居ざなりなさんせ。わしさきへじょうらく(胡坐かく)も、お許しなされ。そのだいナアお方が“いんぎん袋”じゃネヤ、ハハハハ」
 “いんぎん袋”とは、袴のことなり。女房が前垂れしているを洒落て、かくは言うとみえたり。
弥次郎兵衛「おとし役においらから始めやしょう。オトトトありますあります」
 と、一杯ぐっと呑みて北八へさす。
北八「おっと、いただきのわたせるはしにか、ありがてぇの」
弥次喜多の旅は、滑稽と駄洒落が軽快に飛び交い、軽く、他愛がないものです。
 土地の言葉が通じないすれ違いのおかしさと珍しさが、この場の狙い目なのでしょう。作者の一九は讃岐の言葉や風呂桶などに解説を加えています。これは江戸の読者の「旅心」をくすぐり、関心を煽るような「ネタ」になっているようです。
その後、寝静まってからの女中衆との艶っぽい話もあるのですが、それは残念ながら省略して・・
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 翌朝、船頭の道案内で金毘羅に向けての街道を歩きます。
金毘羅への道筋が「道中案内記」のように詳しく記されているのかと思いましたが「道案内」はありません。あくまでこの冊子は「滑稽本」なのだということを思い知らされます。
  例えば丸亀から餘木田(与北)までの記述は、以下の通りです。
早くも夜明けて起き出で支度整え、今日はお山に参るべしと、船頭を案内に頼み、この宿を立ち出で行くほどに、餘木田(与北)の郷といえるに至る。(丸亀より一里半)それより松が鼻というには、厄払いなりとて十歳餘りなる子供に獅子頭をかぶせ、太鼓打ち叩き銭を乞うものあり、
厄払い「サアサア旦那様方、お厄ノウ払いましょ。銭下んせネヤ。」
 トンチキ、トンチキ、トトトトトン、トトトトトン。
弥次郎兵衛「ナンダ厄払いだ。晦日に来さっし、払ってやろう。」
     節分の夜にはあらねど厄払い おもてに立る松が鼻かな
   以上です。与北の茶堂や灯籠などは一切出てきません。

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そして、次は榎井まで場面は一気に飛びます
 余木田の郷、松が鼻を過ぎ、さらに行くと旅寵屋・茶屋などの多い榎井村に入ります。ここには江戸の人の建てたという唐銅の鳥居があり、そのたもとの茶屋で一休みということになります。酒を断っている弥次郎兵衛が、餅を十個注文して、酒好きの北八が腐っている所へ、「大坂講中月参」と染め抜いた羽織を着た男が入ってきて酒五合を注文、グィと呷って二人にも振る舞おうとするのです。この場面も江戸者と大坂者、それに地元讃岐の茶屋女の間で交わされる方言の応酬が面白くテンポよく続きます。
 「讃岐 + 大坂 + 江戸」 それぞれのお国言葉の面白さ
 『東海道中膝栗毛』『金毘羅参詣続膝栗毛』も、十返舎一九の狙いのひとつは色々な土地の者がしゃべる方言の面白さにあると言われます。彼の方言への注目のきっかけは『膝栗毛』が出版される数年前に、江戸の俳諧師越谷吾山によって刊行された「本邦初の本格的方言辞典」と言われる『物類称呼』です。これを「教科書」にして、この物語の讃岐人のセリフは書かれたのでしょうか。しかし、ほとんど知らない讃岐の言葉を『物類称呼』だけでここまで書き込むことは無理です。一九は若いころに八年間、大坂で浄瑠璃作者として修行した経験を持っていますので、関西の地理・人の言葉には慣れていたはずです。とすれば、『続膝栗毛』に見られる讃岐者の言葉は、まず大坂の言葉で文の骨格を作り、そこに『物類称呼』などの書物から得た知識を加えて肉付けし、それらしく仕立て上げたと研究者は考えているようです。
222金毘羅山大権現 浮世絵 木版画

そして、いよいよ金毘羅参詣です。
 此所をたちいで五六丁ゆけば、こんぴらの町にいたる。丸亀より是まで三里なり。まちのなかほどにさやばしといふはしあり。上にやかたありて、いとめずらしきはしなり。上を覆ふ屋形のさやにおさまれる御代の刀のやうな反橋是より権現の宮山に登る。
麓より二三町ばかりのほどは、商家たちつづきて、地黄煎薬飴売る家多し。
弥次郎その商人の白髪なるを見て、
  うる人の頭の白髪大根はちとさし合ふか地黄煎見世 
頓て仁王門に入り、十五六町の坂をのぼりて御本社にいたる。
その荘厳いと尊く、拝殿は桧皮葺きにしていかめしく、華麗殊にいわんかたなし。先づ広前に額突き奉りて、
 露盤に達せし人も神徳のおもさはしれぬ象頭山かな
此の御山より海上の島々浦々里々、一望の中に見わたされて、風景いふも更なり。
さすが宝前は大真面目で、その点で前後とは色合いを異にしています。
しかし、金毘羅
参拝で触れられているのはこれだけです。鞘橋と地黄煎薬飴(こんぴら飴)と本社からの絶景など、気抜けするくらい簡単です。私は、もう少し分量を割いて筆を走らせるのかと思っていましたので、期待外れでした。しかも、金毘羅に一泊して精進落に金山寺の歓楽街に繰り出していくのかと思っていると、金毘羅には泊まらないのです。
 それは御参りが終わり石段を降りて行く大坂の女と父親に、よからぬ魂胆を抱いて近付き、道連になったからです。そして、女と父親が善通寺から弥谷寺に詣でると聞いて、下心からこの二人に同行することになるのです。こうして、参拝が終わると精進落としもせずに、多度津街道を善通寺方面に向かうのです。
DSC01390善通寺
善通寺 後の五岳山
  さて善通寺参りの場面をのぞいて見ましょう
このうちはや善通寺に至る。本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。ここに参詣して門前の茶屋に休まんと入る。
亭主「ようお出でなさんした。」
弥次郎兵衛「何ぞうめえものがあるかね。」
女「わしゃナいこひもじゅうてならんわいな。」
弥次郎兵衛「おめぇ飯にしなせぇ。コレコレ御亭主さん、何ぞうめえ肴でこの子に飯を出してくんなせぇ。」
北八「おいらは酒にしよう。」
弥次郎兵衛「酒はならねぇ。断ちものだ。」
  多度津街道の様子は何も触れられません。そして、善通寺への御参り場面はこれだけです。本堂の薬師如来には御参りしたようですが、誕生院まで行って朱印をもらったかどうかは分かりません。「花より団子」で、すぐ4人での昼飯場面に転換します。
女の大飯喰らいに驚いた弥次さんが
「イヤおめぇ顔に似合わぬ大食いだな、コリャおそれるおそれる。」
と、二人は肝ばかりつぶして見ているうち、女は委細かまわず、さっさと食いしまうと、かの親父もたらふく呑んでしまい、
親父「サア、えいぞ、えいぞ。もうお出でんかいな。」
弥次郎兵衛「いかさま出かけやしょう。ご亭主さん勘定はいくらだの。」
茶屋「エイエイ六百五十文おくれなさんせ。」
弥次郎兵衛「コリャえらいわ。北八半分出さっせぇ。」
北八「エエしかたがねえ。」
 と、不承不承に、このところの払いをなして立ち出で、曼陀羅寺へ参り、やがて弥谷寺の麓に至る。金毘羅よりこのところまで三里あり。
  と昼食後は曼荼羅寺まで飛びます。そして、夕刻前には弥谷寺の麓の旅籠に4人で泊まります。
230七箇所参り
絵図では丸亀の奥に、多度津、その奥に天霧山と弥谷寺が描かれる
  そして、事件発生です。夜になって同道した女の閨に忍び込んでいくと・
弥次郎時分はよしと。北八が寝息を考え、そっと起き出で、次の間の唐紙をそろそろと開きたるに、有明の灯火なければ、探り回りて女の頭に手がさわり、これこそとて布団を引きまくり入らんとするところ、女しきりに呻く様子に、弥次郎声を潜めて、
弥次郎「コウコウおめえどうぞしたか。」
女「誰じゃいな、オオ好かん何しいじゃぞいな。」
弥次郎「何をするものか。内々の咄があって来たものを、おめぇも承知であろうじゃァねえか。」
女「わしゃナ、先にから按配が悪いわいな。」
弥次郎「何としたのだ。」
女「アノナ持病の疝気がおこったわいな。」
弥次郎「イヤ悪じゃればかり言う。女に疝気があってつまるものか。」
女「ナンノイナ、わしゃ女じゃないわいな。」
弥次郎「女でなくてこんな美しい男が、どこにあるものだ。但し女か男かドレドレ見届けてやろう。」
 と、無理にこすりつきて、そこら探り回わせば、手足は毛だらけ、弥次郎とは相婿どし、角突き合いでもしようという様子に、弥次郎びっくりして、
弥次郎「ヤァヤァヤァヤァ、コリャ男だ、男だ。どうしておめぇが男だか俺にはさっぱりわからねぇ。但しはかど違えではねぇか。合点がいかねぇ。」
女「そじゃあろぞいな。わしゃ赤村鼻之助というてナ、道頓堀の舞台子じゃわいな。去年えろう痔を煩ろうてナ、もう死ぬかと思うた程のこっちゃあったがナ、このととさんは、わし一人頼りにしてじゃさかい、金毘羅様へ願かけしてじゃあったが、そのお影やらしてとんとようなったさかい、それでお礼参りに参じたのじゃわいな。したが船でえろう冷えたせいかして、また先にから痔が痛うて、それに持病の疝気があるさかい、一時に起こって、おお痛おお痛、どうぞ腰さすっておくれいな。オオ痛やの痛やの。」
弥次郎「ハァそれでさっぱり分かったが、おいらぁとんだつまらなくなった。」
鼻之助「そないなこと言わんせずと、ちとの間じゃ、ここさすっておくれんかいな。」
弥次郎「おいらぁもうおめぇを女だと思いつめて、とんだ余計なことをした。ホンニこの疝気の看病をしようとは夢にも知らなんだ。ソレここかここか。」
鼻之助「アイお嬉しいこっちゃ。どうやらちとようなった。もう行てお休みなされ。」
弥次郎「アイ大きにお世話、休もうと休めぇと、コリャァねっからうまらねぇこった。」
 と、ぶつぶつ、小言言いながらわが寝所へ帰り、思えば思えば馬鹿馬鹿しい目に遭った。こいつ俺ばかり恥をかくこともねえ、北八をも勧めてやらんと心に頷(うなず)き、よく寝入りいるをゆすり起こして、     
弥次郎「コリャ北八、北八、ちと起きさっせえ。」
女は道頓堀の役者男(オカマ)だったのです。そしてまたドタバタ劇が始まります。
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弥谷寺 空海の学問所とされていた
さて、一夜明けて翌日の弥次・北の道のりを見てみましょう
 弥次郎・北八二人のみ先へ出掛けて、かの男を女と思い違いせし話など、語り興じて弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠を打ち越えて、屏風ヶ浦というに下り立つ。
    薄墨に隈どる霞ひきわたす 屏風ヶ浦の春の景色
 それより弘法大師の誕生し給うという垂迹の御堂を過ぎて十四津橋を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。
弥谷寺 → 海岸寺 → 多度津 という行程を歩いています。
地元讃岐では、戦前では「七ケ所参り」という御札巡りが地元の人たちに、よく歩かれていました。それは
「善通寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺」という6つの四国霊場札所と海岸寺を加えたものです。神仏分離以前の江戸時代には、これに金毘羅大権現も加えられて「一日巡礼」で、多くの人がこの道を歩いて御参りしていたようです。

DSC01386多度津街道1
多度津より金毘羅への道 多度津街道の案内図
 そして、各地からやってきた参拝客も金毘羅山だけを御参りしたのではないようです。
例えば、大坂の船宿が利用者に無料で配った参拝案内図の表題は「金毘羅案内図」ではありません。「金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図」なのです。そこには、丸亀から金毘羅への丸亀街道と、金毘羅から多度津への多度津街道の二本の街道を中心に参拝地として金毘羅・善通寺・弥谷寺が描かれています。当時の旅行記を見ても、善通寺から弥谷寺に足を伸ばしているのが分かります。金毘羅山に御参りして、丸亀街道を往復というパターンは少なかったようです。

IMG_8067善通寺
善通寺
なぜ、善通寺や弥谷寺までに足を伸ばしたのでしょうか?
善通寺は空海=お大師(おだいし)さんの誕生地です。
弥谷寺は、お大師さんの「学問所」です。
つまり、善通寺周辺は弘法大師伝説=太子伝説の聖地でもあるのです。
それを、江戸時代の人々は金毘羅大権現とともに御参りしていたようです。
今からの視点からすると「弥谷寺」の健闘が光ります。弥谷寺は金比羅詣でにやって来た参拝客の多くを惹きつけていたのです。そして、天霧山を越えた海岸寺も「空海生誕地伝説」が流布された時期があります。
こうして「金毘羅大権現 + 太子伝説の聖地」を巡礼して、多度津から丸亀に戻っていきます。
どうして多度津港から大坂行きの金比羅舟に乗らないのでしょうか?
  丸亀の宿に、荷物を預けていたようです。江戸からの参拝客は、荷物を丸亀の宿に預けて身軽になって金毘羅さんや善通寺・弥谷寺に御参りして、出発点の丸亀に帰って行く人が多かったようです。そして、馴染みとなった船宿の船に乗って大坂への帰路に着いたのです。
 また、多度津に新港が開かれ参拝客が急増するのは、これから後のことになります。
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新港完成前の多度津港
さて、北さんが多度津で歯が痛くなったようです。
弥次郎兵衛「チトそこらで休もうか北八手めぇどうぞしたか。とんだ顔つきがなまけてきた。」
北八「イヤ今朝からどうしてか、虫歯が痛くてならねぇ。久しくこんなことはなかったが、アアこたえられなく痛んできた。」
弥次郎兵衛「ソリャわりいの。金毘羅様へ願をかけるがいい。
北八「酒を断ってか。そうはいかねぇ。」
弥次郎兵衛「イヤ幸い向こうに、アレ金毘羅御夢想虫歯の薬という看板がある。買ってつけて見さっせえ。」
北八「ドレドレあんまり痛い。買ってみようか。」

 北八が虫歯の歯痛をこらえかねて立ち寄った歯医者が、実は下駄の歯入れ屋でした。虫歯の隣の歯を抜かれて散々の挙げ句、頬を抱えながら、未の刻(午後三時)過ぎに、丸亀の宿大物屋にたどり着くところで、この話は終わります。
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 讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、弘法大師=太子伝説あり、金毘羅あり、の「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした案内絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。それを支える航路や街道、旅籠なども整備され、旅行案内本や地図も用意されていたようです。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族だったようです。

        
 今から二百年ほど前の文化年間の江戸では「旅」ブームが湧き上がっていました。
その中で大ベストセラーになったのが『東海道中膝栗毛』です。この売り上げに気をよくした版元は、続編の執筆を十返舎一九に依頼します。こうして、一九は、主人公の弥次郎兵衛と北八をそのまま使って、大坂から讃岐金毘羅へと向かわせる道中記を一気に書き上げ、翌年の文化七年(1810)に刊行します。それが『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』です。

13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
  十返舎一九『金毘羅参詣続膝栗毛初編」の弥次さん北さんを描いた挿絵

 これに刺激されて全国的な金毘羅参詣が湧き上がって行きます。この本は、その後も版を重ねて読まれますが、明治以後はあまり顧みられなくなってしまったようです。
 この本で弥次・北コンビの金比羅詣の様子を追って見ましょう。
『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次郎兵衛と北八は、江戸を出発して途中数々の滑稽な失敗を重ねながら、大坂は長町にたどり着き長い道中を終えます。そこで二人は帰国の旅支度を始めるのですが、たまたま相宿になった五太平という関東者から金比羅詣を誘われます。その誘いに乗り、足を伸ばして金毘羅参詣に赴くという設定で物語は始まります。
 ここに、弥次郎兵衛・北八なるもの、伊勢参りの刷毛(はけ)ついでに、浪花長町に来り逗留し、既に帰国の用意なしけるところに、相宿(あいやど)に野州の人の由、(名は五太平)泊り合わせたるが金毘羅参詣に赴くとて、一人旅なれば、この弥次郎・北八をも同道せんと勧むる。
 両人幸いのこととは思いながら、路用金乏しければと断わりたつるを、かの人聞きて、その段は気遣いなし、もしも不足のことあらば、償わんとの約束にて、讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」
船頭「左様じゃわいな。」
五太平「そんだらハァ、許さっしゃりまし、ここの施主殿に会いますべい。わしどもハァ、金毘羅様へ行ぐのだが、船賃サァいくら積んだしますべい。」
船宿の亭主「ハイ、おいくたり様じゃな。」
五太平「三人同志でござる。」
船宿の亭主「ハイ、お一人前、船賃雑用とも、拾八匁(じゅうはちもんめ)づつでござりますわいな。」
五太平「あんだちぅ、ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
船宿の亭主「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
五太平「それだァとってむげちない、主(にし)達ゃァあじょうするのし。」
弥次郎兵衛「ハテ、お前(おめぇ)、定値段といやぁ如才はあんめえ。」
五太平「あるほど、金毘羅様へ心ざしだァ、あじょうすべい。」
 と、打ちがえより金取り出し、船賃を払う。弥次郎・北八も同じく払いて、
北八「モシ、船はどこから乗りやすね。」
 船頭は讃州者
船頭「浜へ下りさんせ。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、一気に出(づ)るわいな。サアサア、皆連(つ)んのうてごんせ、ごんせ。」
 と、このうち船には、がたひしと揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえ、苫(とま)を吹きかけると、水子(かこ)どもは布団、敷物、何かをめいめいに運び入れると、船宿の店先から勝手口まで居並びたる旅人、皆々うち連れて、だんだんと、その船に乗り移る。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり。」
菓子売り「菓子んい、んかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆、船賃サえいかいネヤ、コレ、そこの親がたち殿、えっとそっちゃのねきへついて居ざらんせ。」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい。」
 と、人を跨いで向こうへ座る。弥次郎・北八も同じく座ると、遠州の人「エレハイ、どな達も胡座(あづ)組みなさい。乗り合いだァ、お互いにけけれ(心)安くせずにャァ。時に船頭どん、船はハイ、いづ出るのだャァ。」
船頭「いんま、あただ(急)に出(づ)るわいの。」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。コレハあなた方、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、いてお出でなされませ。」
 と、もやい綱を解きて、船へ放り込むと、船頭共竿さして船を廻す。このうち、川岸通りには時の太鼓、「どんどん、どどん」。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹、「がらがら、がらがら」と、このうち船はだんだんと下へさがる。
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           大坂の船宿の引札(広告) 明治期
私が読んでいて気になった点を挙げていきます。
1 弥次・北八コンビの当初の目的は「伊勢参りの刷毛(はけ)」でした。その、ついでに金毘羅詣でをすることになります。
もともと東国からの金比羅詣客は、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったようです。この時期に残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。弥次喜多も「伊勢参りの刷毛(はけ)のついでの金毘羅詣」だったのです。
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 大坂から丸亀の航路図 下が山陽道で左下が大坂 上が四国で右上が丸亀

 金比羅船の運行はいつ頃から始まるの?
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
       参詣船渡海入割願書人
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相腹之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申 候将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷井代 参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
    金光院様御役人衆中様
延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請です。申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ参拝船の運航許可を求めています。ここでは、金毘羅船は「参詣船」と書かれています。
 内容は、金毘羅詣の人々は、海上通路が不便で困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるようにしたと目的が述べられます。加えて荷物だけでなく、大小の封状も届けるといいます。そして万一難船、破船があっても「御山(金毘羅)」には迷惑をかけないとします。
  こうして、18世紀半ばに金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」といわれます。以後、金毘羅参詣渡海船は年を追う毎に繁昌します。
135721十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』
運行開始の3年後に金毘羅門前の旅籠「虎屋」は新築します。
その造作が「分限不相応」とされ当局から一時閉門になる事件が起きます。これも大坂の船問屋多田屋と虎屋が結んで、多田屋の客を虎屋へ送り込むようになって急増した宿泊客への対応をめぐる結果ではなかったのかと言われます。
 享和二年(一八〇二)若狭の船問屋古河泰教が参詣した時の紀行文にも「多田屋の相宿が虎屋」と記されています。後に多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納しり。絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っており、金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。こんな関係から金比羅舟の舵取りや水夫には、讃岐出身者が多かったようです。
 しかし、多田屋は幕末には衰退し、それに代わって台頭してきたのが平野屋です。
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これは「平野屋グループ」の引札(広告ちらし)です。
大坂で平野屋の船に乗った客は、丸亀では備前屋藤蔵が出迎え、金毘羅・内町の虎屋惣右衛門方へ送り届けていたことが分かります。参拝客は大坂の船宿まで行けば、後は自動的に金毘羅まで行けるシステムが出来上がっていたようです。
 そして平野屋の店や船だけでなく、丸亀の備前崖、金毘羅の虎屋も山に平の字印の看板を出しておりひとつの「観光グループ」を形成していたようです。
さて弥次喜多コンビの船宿大黒屋の主人との船賃交渉です
船宿の亭主が「お一人前、船賃雑用ともで18匁(もんめ)」というと
「ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
と値切り交渉が始まるのかと思ったら船宿の亭主は
「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
と軽くいなします。
 ここには、値下げによる価格競争を防ぐ智慧があります。同時に、運行開始から70年余りで運営が運行ルールが定められシステム化していることがうかがえます。

こうして弥次喜多は「丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋」と行灯を掲げた船宿に行き、船賃・雑用込み一八匁の約束で、讃州船の人となります。
当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
下の絵は「続膝栗毛」に載せられた挿絵です。川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。
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 彼らが乗り込んだ金毘羅船は、苫(とま)屋根をふく程度の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
「金毘羅膝栗毛」の四年前になる文化三年(1806)に刊行された『筑紫紀行』にも、大坂での乗船風景が載せられています。やはり船上は、まだ屋形ではありません。弥次喜多が載った船と同じくように「苫掛け」だったことがわかります。
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 上の絵は、それから50年近く後の幕末に出版された『金毘羅参詣名所図会』に出てくる金毘羅船です。船には垣立が装備され、本格的な渡海船に成長しています。ここからは文化から弘化までの四〇年の間に、苫掛けから総屋形に発展していったことがうかがえます。この時期は、江戸の金毘羅信仰が最も高揚した時期とも重なります。東国からの乗船者の急増への対応がこのような形になったのではないでしょうか。ちなみに広重の「日本湊尽」の丸亀の船も、総屋形の金毘羅船として描かれています。
金毘羅船の航路を追ってみましょう。道頓堀から夜に出航します 
  船は暗くなった戌の刻(午後八時前後)に道頓堀を出船して淀川を下ります。
夜中の暗いときに出て行きますが、淀川を下っている間は、揺れもなく貸し布団で快適に眠れたのかも知れません。
寅の刻(午前四時前後)に河口から沖に乗り出します。順風を受けて日の出のころには兵庫沖を通過します。
はや木津川口に至れば、夜も子(ね)の刻ばかりになりぬ。
 ここに風待ちして夜明けなば、乗り出ださんと、船頭・水子もしばらく休息のていに、船中もひそまり、おのが様々、もたれ合うて居眠るもあり。あるいは肘枕あるは荷物包ようのものに、頭をもたせて打ち伏しけるが、
 やがて、寅の刻(午前4時)にもやあらんと思う頃、船頭・水子どもにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱引き上げなどして、今や沖に乗り出でんとする様子に、船中皆々目を覚まし、船端に顔差し出し、手水使いて象頭山の方を伏し拝む。
弥次郎・北八もともに遙拝して、
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 かく興じつつ船出を寿(ことぶき)、彼これうち語るうち、早くも沖に走り出し、船頭がヨウソロ、ヨウソロの声勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るごとく、はや日の出でたる頃は、兵庫の沖にぞ到りける。(大坂よりこの所まで十里)
 ここにて四方を見渡せば、東の方に続き、甲山(かぶとやま)、摩耶山(まやさん)、丹生のやま、鉄塊(てっかい)が峯なんど目前に鮮やかなり。
    仙人の住むかは知らず霞より 吐き出したる鉄塊が峯
 また、陸地(くがじ)には西の宮、御影(みかげ)、神戸、須磨なんどいう、浦々里々見渡されて、眺望の景色はいうばかりなし。
和田の岬、烏(からす)岬といえるを廻る頃は、牛の刻ばかりなん。
このとき、にわかに風変わりたりとて、帆綱引き換え、楫(かじ)取り直し、真切走りということをなして走るほどに、船中には野州の人、船に酔いたるにや心もち悪しきとて、色青ざめ、鉢巻きして、・・・・・
113574淡路・舞子浜
淡路島と舞子浜の間を明石海峡に向けて進む金比羅舟
神戸・須磨と船中からの眺めを楽しみながら正午ころに和田岬にさしかかります。
ところが急に逆風・大風に変わり、水子たちは、帆に斜めに風を受けながらジグザグに前進する「真切り走り」の航法を取ります。その間の船酔いから、同行の五太平が死んでしまうというハプニングが起こります。ようやく波も静まり、夜になって室津に上陸します。
 室津は
「西国諸侯方の船出し給う所にて、播州一箇の繁昌の地なれば、商家みな土蔵づくりの軒を並べて建ち続けり」
という賑わう港町で、ここでも女郎達の誘いを受けます。
13576室津の女郎
室津の色町の女
しかし、船中で急死した五太平の弔いが先です。お寺を探すのですが死人が「往来手形」を持っていないためにひと苦労します。ようやく死者を無事にともらい船に還った二人は
酒肴をとりよせ、船頭・水子ども相手にして、その夜は寝もやらず飲み明かしける。
    死ぬものは貧乏なれやこれからは 船に追風の富貴自在なれ
 かく祝い直して、既に夜明けなれば、船頭・水子ども船中を洗い清め、修験者を呼び来たりて不浄除けの祈祷をなし・・・
   室津から丸亀までの船中は順風満帆の瀬戸内クルージング
 翌日、修験者によって清められた船で室津を出航します。
135725 ■金毘羅参詣 続膝栗毛. 室津jpg
室津港
朝の追風(おいて)に帆かけて、この湊口を乗り出し、早くも備前の大多婦(おおたぶ)の沖に至りける。(播州室よりこの所まで五里)
 海中には小豆島の見えたるに、
景色の実入りもよしや小豆島 
       たはらころびに寝ながらぞ見る

 それより牛窓前という辺りを行くほどに、八島(屋島)の矢くり(八栗)が獄、南の方に鋭く聳(そび)え、讃岐の小冨士手にとるごとく、下津井の浦見えわたり、海中には飯山石島など、すべてこの辺り小島多く、景色佳麗(かれい)、いわんかたなし。その日申(さる)の刻過ぎたると思う頃、讃岐の国丸亀の川口にぞ着きたりける。(室よりこの所まで二十三里に近し)
 龍宮へ行く浦島にあらねども 
           乗り合うせたる丸亀の舟
 
折節、汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り、弥次郎兵衛・北八は、大物屋(だいもつや)といえる旅籠屋に宿る。これは船頭の宅のよし、案内に任せてここに入り、始めて安堵の思いをなしたりける。
 室津からは順風満帆の瀬戸内海クルージングです。幕末から明治に船で日本にやって来た西洋人達が楽しんだ「船から移りゆく景観(シークエンス)」を楽しみます。備前大多婦沖に入ってくると南に小豆島、北に牛窓が見えてきます。そして、讃岐方面には八島(屋島)・八粟獄を望み、甘南備山の讃岐の小富士が少しずつ近づいてきます。まさに島々の景色佳麗を賞でながらの船旅です。
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備前から見た青野山・飯野山と備讃瀬戸
金比羅詣での人気のひとつに、「船旅の魅力」があったようです。
日頃乗ったことのない船に乗って瀬戸内海を渡って行くという経験は得がたい経験でした。しかも、自分の足で歩かなくても船に乗っていれば丸亀に運んでくれるのです。これは、東海道や中山道を旅するのとは違いました。この辺りの魅力を挿絵入りで書き込んでいます。旅行記としても及第点が与えられます。



丸亀港は遠浅で干潮時は入港出来なかった?
「続膝栗毛」は、丸亀港への入港の模様を次のように述べています。
「その日中の刻過ぎ(午後三時ころ)、丸亀河口(に到着したが干潮で港には入れなかった。満潮を待って、暮れ頃に港に乗り入れて上陸した」

   丸亀河口(土器川河口)の舟入に満潮を待って入港したと記します。弥次北がやって来たときに、丸亀の新港である「福島湛甫」は、出来上がっていなかったのでしょうか?
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福島湛甫 
丸亀市史には、福島湛甫について次のように記されています。
文化三年(一八〇六)、福島町北岸に船舶の停泊所をつくり、福島湛甫と称した。その規模は、東西六一間(約一〇九・八び)、南北五〇間(約九〇び)、東側に一八開(約三二・四び)の入り口を設けた。水深は満潮時に一丈余であった。場所は、現在丸亀港にかかる京極大橋の西橋脚の付近である。
 従来は、福島町の東岸の石垣に船が繋留されていたが福島湛甫へ完成により、丸亀港の航行が容易となったばかりでなく、上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅寵、土産物屋などが急増し福島町は賑わった。
 干潮でも入港できる福島湛甫は1806年に出来上がっています。「続膝栗毛」の刊行は、その4年後です。これをどう考えればいいのでしょうか? 
 十返舎一九は、福島湛甫の完成を知らずに、完成前の自分の経験と情報で丸亀上陸の部分を書いたのでしょうか。
彼は、「続膝栗毛」の巻頭で次のように述べています。
「予、若年の頃、浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したり・・・」
「予、彼の地理行程のあらましは知得した」
と若い頃に一度金毘参りをしたことがあることを述べた上で、けれども全てを知っている訳ではないと断っています。福島湛甫の竣工という「最新情報」を知らずに書いたようです。

弥次喜多が上陸した丸亀の港は、どこにあったのでしょうか?
丸亀城下町比較地図41


丸亀城の外堀は、東は東汐入川で、西は外堀より分かれた堀によって海につながっていました。そして、東西の両汐入川の川口が港となっていたようです。港は河口のために、年とともに浅くなっていきました。江戸時代初期の山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。つまり、近世初期における丸亀港は、東汐入川の河口が港だったようです。

丸亀市東河口 元禄版
 また17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす
  網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」
御供所の川口に上陸した旅客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。ここからもこのころまでは東川口が丸亀の港であったことが分かります。


丸亀城下町 土器川との関係

弥次喜多の乗った金比羅舟は、潮待ちしたことを次のように記します
「汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り

ということは、旧来の東川口の港のことを示しています。
そして、この船の船頭の自宅である大物屋という旅籠屋に入ったところで上巻は終わります。
DSC01089丸亀旧港

「丸亀繁昌記は、東河口の賑わいぶりを次のように記します。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがたい象頭山金毘羅へ向かう海の道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。ここで一泊して、弥次喜多は金毘羅へ向かいます。
その模様は、また次回に・・

10 

  

  前回までに、金毘羅信仰が18世紀末から江戸で高揚したことをお話ししました。今回は、それを背景に、江戸で作られた金比羅講が丸亀に大きな銅灯籠を寄進するまでの経過を見ていくことにしましょう。

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正面が丸亀城 右が福島港 左が新堀港 
五代藩主京極高中の時代の文化三年(1806)に完成した福島湛甫が、金毘羅参詣客の上陸湊として賑わっていました。福島湛甫は、東西六一間、南北五〇間の船泊で規模としては相当大きいものではあったわけなんですが、30年経つと「手狭なという状況」になってきたようです。それだけ、瀬戸内海各地からの金毘羅船が増えたということでしょう。 加えて、新京橋の架橋で通町船泊の繋留が出来なくなるということも重なり、丸亀港は再びオーバーユース状態になりました。
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1806年完成の福島湛甫
 
福島湛甫が手狭化した背景は?
 それは参拝客の急増にあります。参拝客増加の理由は、18世紀後半の「日本一社の綸旨」にひとつのきっかけが求められるようです。文化から文政年間に印刷された讃岐の名所案内図の数の増加ぶりに「綸旨」の効果がうかがえます。また、江戸における金毘羅信仰の高まりといった動きも無視できません。
大名の江戸藩邸では、勧請していた自国の霊験あらたかな神社を庶民に公開していました。丸亀藩邸でも、金毘羅社の開帳日である各月の十日には早朝から夕方まで参詣人が群集したようです。藩邸の金毘羅山御守納所への初穂金が金毘羅に届けられていますが、最初に届けられた宝暦七年(1757)は一両でした。それが20年後の天明元年(1778)には百両、同五年には二百両、が届けられるようになり、これ以後は幕末まで毎年百五十両とどけられています。
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この信仰の高まりを、港築造や灯寵建立の利用して「民間資金での公共工事」を実現させようとする智慧者が現れます。
 天保二年(1831)、丸亀の「通町 柏屋団治」や宿屋業者・土産物業者らの五人が発起引請人として、「西川口波戸東手」へ新堀湛甫の築港を藩へ願い出ます。彼らは町の年寄で、この人たちの願出を受けて、灯寵建立、湊の修築の費用を調達するのに大きな役割を果たしたのが、京極藩江戸留守居役の瀬山登という人です。彼が残した記録は「湛甫新堀漫筆」として、丸亀図書館に残っています。
   町年寄からの築造願いは、次のような内容でした
 金毘羅山への諸国参詣人が日増しに多くなり、浜方も益々繁盛し商売も順調であるのも偏に国恩のお陰と有り難く思っております。この繁盛について、旅舟の入津が多いのですが、湊が手狭で、舟も乗り大老幼も難儀しているようです。
そこで、西川口御番所のあたり波戸束手へ湛甫を造れば湊も広くなり、城下の見渡しもよく、諸国への評判、浜方繁栄の基にもと存じます。それで私どもが発起人として考えたことを申し上げたく存じます。
 
ということで、彼らの工事に向けたプランを示します。
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     左が新堀港 江戸からの大きな青銅製灯籠が3つ並ぶ

そこには、具体的な資金集めの方法も記されています。
灯明料は舟持共からの寄付でまかなう。こうすれば闇夜でもまして不案内の旅舟などの出入りに大いに役立つ。そして、舟持からの寄付の取り方は、舟の大小を千石船に換算して船数五万艘と見積もって一石一銭ずつ一度限りの寄付を募る。もっともも対象は廻船だけのつもりである。
 寄付の取立方法は、江戸では金毘羅への信仰の厚い本所ニッ目塩原太助に頼み、銀子は江戸屋敷にて預かっていただく。大坂・兵庫は講元世話人共から頼んだ問屋で取り立ててもらい銀子は大坂屋敷にて預かっていただく。当地では役所にて預かっていただくようにお願いしたい。
という内容のものであります。
 外様で弱小藩の丸亀藩は、財政危機状態で資金はありません。それを知った上で発起人の「町年寄」たちは、藩の財政に頼らない資金集めの方法まで提案しています。それは今風に言うと「民間資金の導入による公共土木工事の推進」の手法と言えるのかも知れません。
 まずは、廻船業者からの寄附を募ります。     
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 大まかなプランとして、当時の全国の大小の船を千石船に換算するとおよそ五万艘になると計算します。そして、船一石につき一銭を一度限り寄附してもらう。千石船一艘について十匁になります。全国の廻船業者にこの趣旨を説明し寄附を依頼するというもので「海の神様 金毘羅さん」という信仰心を、うまく利用したやり方です。
藩は自分の腹が痛まないプランですから、さっそくこれを取り上げ幕府の勘定奉行村垣淡路守へ伺い出ます。
これに対して幕府は認可の意向を示したので、丸亀藩は藩主名で次のような正式の伺書(計画書)を提出します。
城下の湛甫の儀は、いつ頃出来と申す年暦も相知れ申さず。
前々より領分廻米諸産物廻し方、専ら相弁来侯処、近来金毘羅参詣の旅船多く入り込み、別て三月十日会式の節は、繋船充満仕り用弁差し支え、諸国廻船一同混雑仕り、風波の節は凌方難渋仕り候二付き、城下町人共湛甫新たに箇所増願出申候 右の通り領分廻米等差支候儀は、湛甫全場狭故の儀に御座侯間、有来侯振り合ヲ以て、一ケ所取建侯、用弁差し支えもこれ無く、諸廻米風波凌二も罷り成り都合宜く御座侯間、相成るべく儀二御座侯バ、別紙絵図面の通り申し付け度く存じ奉り侯、尤も城下の儀二付き差し障りは勿論、他領迄も差し支え相成り侯筋、御座無く侯、此の段御内慮伺い奉り侯、以上
 十月廿六日             京極長門守高朗
この結果、翌11月に幕府の承諾が得られます。記録には、お世話になった
「老中勝手かかり水野出羽守・勘定奉行村垣淡路守ら一六人に贈り物を携えお礼のあいさつをした」
と記されています。
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 丸亀藩は、翌年(1832)三月から築造工事に取りかかる準備を進めます。
工事の具体的計画を立て、大庄屋・庄屋を呼び寄せ意見等を聞き、各郡に下記の通り人足を割り当てます。
那珂組  7486人  善通寺組 9480人 
上高瀬組16659人  比地組  7802人 
中洲組  9633人  和田組 10129人 
大野原組 1427人  福田原組 116人
 庄内組  1015人  人足計 63743人
 人足扶持については、初め福島湛甫の時と同額で予算を組んでいました。が、交渉の結果、物価上昇なども加味して人足賃金が引き上げられ、一人一日米一升、別に菜代一匁となります。また、新港の石垣普請を請け負った城下の平野屋利助からの次のような願出が出ています。
「新堀普請用の石は塩飽島から取り寄せ、一〇〇石積み一般分五、六匁で予算は組まれているが、、このころは塩飽産の石は値上がりしている。安く手に入る丸亀領分の石を買い取るようにしてほしい」
 着工した天保4年(1833)には、天保の大飢饉が起こり、翌年には各地で米騒動が発生しています。また、翌年には多度津藩の新湛甫も起工します。不況時の公共事業で、雇用チャンスや景気の刺激にもなったようです。港建設費用は2000両で済みました。当時、建立されていた金毘羅大権現の金堂3万両に比べれば、小規模な「公共事業」のように思えます。
 こうして新堀港の工事本体は、スムーズに行われ翌年の天保四年には完成します。
湛甫は東西八〇間、南北四〇間、西側に一五間の出入口、満潮時の水深一丈六尺でした。周囲には埋め立て地をつくり、その外法は東西一町五三間、南北一町三五間で、これを新堀湛甫と呼んだと「旧丸亀藩事蹟」に記されています。

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 太助灯籠

ところが苦労したのは銅灯寵でした。 
 天保3年三月、丸亀の町年寄の発起人らは江戸に行きます。
 話は前後しますがこれより数年前、江戸本所相生町(墨田区両国二丁目)の塩原太助が金比羅参詣に来て通町の柏屋団治方(四国銀行の所)で泊まった時のことです。団治がこの話を太助に持ち出したところ大いに賛成してくれてました。そこで、柏屋団治たちは早速に塩原太助を尋ねます。ところが丸亀で灯籠寄進の話をした二代目塩原太助は既に亡く、三代目太助の世となっていたのです。三代目太助は
「講の世話はできないが八十両を五ヵ年間に出そう
と約束してくれました。
灯籠寄進の話を太助の知人などを頼って話したところ、拒む者、意外にも賛成してくれる人などさまざまだったようです。藩の江戸屋敷でも力を入れ、瀬山登らが中心となり、丸亀藩に出入りする江戸の町人、伊勢屋兵衛、河内屋伝兵衛、三島屋半七、林屋半六、三河屋善助の五人を世話役として協議します。
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そして、銅灯籠寄進のために千人講の設立案を作ります。
①一人一ヵ月百文ずつ五ヵ年掛ける。(米の値段からみて、当時の一両は約六千六百文に当たるので五ヵ年では〇・九両になる)  
②一人で何口加入してもよい。
③三十人以上世話してくれた人には、五ヵ年のうちに1回金比羅参詣をしてもらう。その費用として三両差し上げる。
このの規約を世話人を定め「讃州丸亀平山海上永代常夜燈講」として加入者を募ります。ちょうどこの頃に、大久保今助という男が浅草観音へ献納する金灯龍一基をあつらえ大門通り伊勢屋万之助方で完成させていました。ところが、あまりに大きすぎるために寄進先から差し留めらされ困っていることが伝わります。これを交渉によって二四〇両で購入することにしたのです。これが現在の「太助灯籠」になります。
千人講の募金集めはどうだったのでしょうか
 講開きから一か月後の五月十日までの集金高は、三〇両三朱と一八九文でした。その後は、毎月四〇両前後で、年末までの合計319両です。翌年の天保四年には、加入者も増え、毎月五〇両前後で推移します。

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 講主の伊勢屋喜兵衛の見積もりは次のとおりでした。
講加入者数 2400人 五か年の講金2150両 
必要経費 灯寵      1135両 
     新堀湛甫ヘ   1015両 
ほかに御供え初穂料など    50両
 新堀湛甫の工事経費は2000両とされていましたので、これでは約900両余の不足となります。そこで講の勧誘に、力を入れることにします。
 天保五年には、金毘羅参詣の廻船の便を利用して、240両で購入した灯籠を積込み、金毘羅へ送り出します。収入伝票には「船頭らに祝儀五両」の記録があります。そして、盆前には伊勢屋喜兵衛ら三人が丸亀へ赴き、実地見聞を行い、十月朔日棟上、会式(金毘羅大祭)を見学後に十二月帰府しています。
 青銅の台座に1400人に近い人名が刻まれ、鎖のある竿の部分に「天保九年十月吉日江戸講中」とあります。台石に二ヵ所と燈龍の竿の所に江戸講中とあるので、「江戸講中燈龍」あるいは「金毘羅青銅燈寵」と名付けられました。そして、近年は最高八十両を寄進した塩原太助の名をとり「太助燈寵」とも呼ばれようになっています。
しかし、気になるのは竿の部分の年号が「天保九年十月吉日江戸講中」とあることです。天保五年に建立したのち、講中の人名その他を補足し同九年に再建したのでしょうか?

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 天保四年八月に新堀湛甫は完成し、翌年には1基だけですが巨大な銅灯籠が建ちました。
計画当初は「灯龍12基建立」を予定していましたが、千人講の募金活動で集められる資金では、無理なことがわかります。そこで、天保七年に家老本庄七郎右衛門らの意見を受けて、三基建立に大幅に減らすことになります。残り二基の建立については、人名の刻み、建立などにさらに年月を要するとして、天保八年から同十三年までの五か年間の延長願と収支見積調書を藩役人へ提出しています。
天保八年には五年間の講の期限が来ます。
そこで集まった金額で、燈寵を2基を注文します。
燈寵は丸亀藩江戸屋敷出入りの大工大和屋和助を棟梁とし、鋳工は江戸の森田屋仁右衛門と鋳鉄の盛んな武州川口(埼玉県川口市)の名門永瀬文右衛門藤原富次、その子喜一郎に発注します。
嘉永三年(一八五〇)末に三基目の灯寵ができあがります。
しかし、不足品が多く、延包一三個に分け丸亀へ積み出したのは嘉永六年五月になります。さらに、残務整理や関係者への慰労などがが終わるのは文久二年(1862)になりました。天保3年から始まったこの大事業は、結局32年の歳月を要したことになります。
これに対して、発注から何年も経つのに残りの灯籠が丸亀に送られてこないことへの不審に思う空気が広がり、江戸表の担当者たちへの不信感となっていったようです。

   江戸詰藩士の瀬山登も建立に尽力します
しかし、なかなか到着しない灯籠について、いろいろな噂が飛び交うようになります。「湛甫新堀漫筆」の最後の部分では、彼は不本意な思いを吐露しつつ事業をふりかえっています。そこには長引く事業に対して地元丸亀では「寄付金を横領したとの悪評」が立っていたことをうかがうことができます。その無念さを慰労するかのように太助灯籠の前には彼の銅像が据えられています。
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 幕末に3基据えられた、灯龍は今では一基が残っているだけです。
あとの2基は、太平洋戦争の時に「戦争遂行のための金属供出」で溶かされたようです。残っている一基には、その中央に最大の金額八〇両を最初に寄付した塩源太助の名前が大きく鋳込まれており「太助灯龍」と呼ばれるにふさわしい体裁を見せています。
   丸亀の新堀港や太助灯龍は「江戸千人講」の江戸町人の資力を中心として、丸亀まち年寄柏屋団治ら五人を発起人として、丸亀藩の事業として建立されたということになるようです。
 どちらにせよ丸亀湊は、この新港の完成によって、岡山から上方さらにそれ以東の金毘羅参詣客や北前船などが一層利用することとなり、これまで以上の繁栄を見せるようになります。また、同時期に、完成した多度津湊は、瀬戸内海の備後以西の国々からの金毘羅参詣客を集めるようになり、多度津街道は急速に整備されていくことになります。

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  ◇ 最後に太助灯籠をじっくりと眺めてみましょう
 この灯籠は青銅製です。三段の台座の上に基盤・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、全長五・二八㍍台石を合わせると地上約六・六㍍にもなる大型の灯籠です。港に出入りする船の目じるしとして、燈台の役割も果たしたことでしょう。
 仰ぎ見ると、五葉の請花に支えられて伏鉢に空高く大きな火焔を三方に宝珠は載っています。笠は円くふくらみをもつ八面で、末端の龍首は海上をにらみ、二本の牙が大きくそり反りっています。下には風鐸が風に揺れます。
 火袋は八面格子で、内部がよく見えます。戦後直後までは、電球が収められ、近所の人が暗くなると点灯していたようです。火袋を受ける中台は八角形で、丸亀らしく各側面に天狗の団扇を浮き出させています。
竿の北面には「天保九年戊戌十月吉日」、下に「江戸講中」とあります。しかし、括れているためか下からは見えにくいのです。
基盤の下には青銅製の三段の台座が、花圈岩の三段の台石の上に載っています。この台座には1380人の寄附者・世話人らの名と住所などが刻まれています。今は姿を消した他の二基は一1444人と約1000人であったそうです。まさに千人講により寄進された銅灯籠と呼ばれる所以です。
参考文献 新堀と銅灯籠 丸亀市史276P
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              丸亀新堀湛甫と太助銅灯寵の年表 
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
寛政元年 1789 絵馬堂上棟。 寛政の改革~4年間。
寛政3年 1791 高松の御用達中より真鍮の釣燈籠奉納。
寛政5年 1793 江戸高松上屋敷に金毘羅大権現を勧請。
寛政6年 1794 円山応挙、壁画を画く。小林一茶参詣。
         多度津鶴橋に鳥居建立。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 金堂建築の計画。丸亀福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化7年 1810 宝塔下の坂道普請。太鼓堂修繕普請。
文化10年1813 金堂起工式。
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
文政7年 1824 茶屋、旅籠の区分決定。
文政11年1828 琉球人、生野村に石燈籠寄進献立。
文政12年1829 摂津芥川に燈籠建立。鞘橋普請。
天保2年 1831 丸亀の年寄が湛甫構築と灯寵建立を藩へ願出た。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保5年 1834 米騒動、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 箸蔵寺で贋開帳。芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠完成。多度津新湛甫完成
  多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。

10 

大きな屏風絵が金刀比羅宮に残されたいます。
この屏風絵は二双から成り、「清信筆」の署名と「岩佐」(方印)、「清信」(円印)の押印がありますので、作者が狩野休円清信であることがわかります。描かれた時期は、元禄年間(1688~1703)とされています。
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 二双になっているのは、二王門から上のところを描いた山上の図と、二王門から下を描いた山下の図とに分かれているからです。屏風絵のテーマは、十月十日の金刀比羅宮の大祭で、頭人行列を中心に金毘羅の町のにぎわいが描かれています。この絵を見ながら、今から約三百年前の元禄時代の大祭で賑わう金毘羅の門前町の様子を見てみましょう。 
DSC01397大門祭礼図

日蓮の命日であるお会式(えしき)と金毘羅さんの関係は?
汪戸時代のはじめになると全国の大きな寺社のお会式(えしき)、御開帳の祭礼に盛大な市が立つようになります。お会式(おえしき)は、日蓮の命日の10月13日にあわせて行われる法要のことです。日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩きました。古くは、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだったようです。それが、江戸末期から明治時代に町火消たちが参詣に訪れるようになると纏を振るようになり賑やかになったようです。日蓮宗の寺では、境内に鬼子母神を祀る場合が多く、鬼子母神の祭りを兼ねる場合も多いようです。また、寺によっては花まつりではなく、お会式や千部会に稚児行列が出る場合があります。
 どうして日蓮のお会式が金毘羅大権現に関係あるの?
  戦国末期に、インドからこの山に招来した金毘羅神は新参者です。信仰する信者集団もいなかったために法華宗の祀った守護神である三十番社の祭礼を、奪って金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」するという荒療法を行いました。そのために金毘羅大権現の大祭には法華八講の祭礼が色濃く残るとともに、開催日も日蓮の命日であるお会式前後の十月十日になっているようです。
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 十月十日の祭礼当日の門前町ことひらを見ていきましょう
 高松道からやって来た頭人行列の動きに合わせて東(右)から西(左)に町並みの様子をたどります。まず行列は木戸をくぐります。ここが天領である池料と金毘羅社領の境でした。
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この木戸は、ここからが社領の入口であることを示す役割を持っていました。この木戸を抜けると金毘羅領です。図には、頭人の奴行列の道具を持って金毘羅領に入ろうとしているところが描かれています。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。
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すぐに鳥居が迎えてくれて、その手前で北からの道が合流しています。ここが丸亀街道の終点になります。丸亀街道からの参拝客を併せて、より大きくなった人の流れは、西(左)へと進みます。
新町の街並み
 この辺りは「新町」と呼ばれる町で、延宝3年(1675)に天領との土地交換で新しく寺領になった所です。それから20年余りで、道の両側には、板屋根の店棚がすき間なく並ぶ門前町を形成しています。地替えは、金毘羅さんには大きなプラスになったようです。 

新町の店は、道に面したところに簡単な棚を作り、その上に商品を並べているようです。よく見ると店の奥行は浅く、間取りは一部屋ほどですぐ裏に抜けます。裏は庭になっていたり、畑になっていたりします。この時期の新町は「新興商店街」で大店のお店はなく小さい店が並んでいたようです。
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 新町の町並みを木戸口の辺りから順にみてみましょう。
道の南側(下方)には、小さな宿屋と思われる家が並んでいます。屋根は板葺きがほとんどで、その中に茅葺きの屋根がポツンポツンと混じっています。その中には、生け花を飾った床の間のある部屋をもつ家や、主人と思われる人が魚を料理している家、食事の用意をしている家、参詣の旅人らしい人が横になり休んでいる家などが鞘橋まで続きます。
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 向かいの家並み(上方)の家並みでは
木戸口のところからめし屋、うどん屋と並び、丸亀道で一旦途切れます。そして、鳥居から魚屋、古着屋(服屋?)、道具屋(小間物屋?)、さらに同じような品物を並べた古着屋と続いて、屋根の付いた鞘橋のたもとにやってきます。
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 鞘橋のたもとに来たところで、川を見ると・・。裸になって泳いでいる人が・・・
最初、この絵を見たときの私の感想です。これは素人の見方です。
本当は金毘羅山に参拝するために、ここで身を清めているのです。鞘橋の下は、沐浴(コリトリ)場として神聖な場であったことを、この絵から知りました。
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鞘橋のたもとのところにも南からの道が合流しています。これが阿波からの阿波街道です。こちらからもたくさんの参詣人がやって来ています。阿波道の角のところには陶器屋が陶器類を並べています。
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身を清めて鞘橋を渡ると、町並みの南側には宿屋と思われる家並みが続いています。
 さらに西(左)へ進むと、この辺りから内町に入ります。
道の南側は宿屋(茶屋)がずっと続いています。入母屋の瓦屋根で立派な建物で、大きな庭もあります。内町は、「高級旅館街」として門前町の中心的な町として栄えていきます。先ほどの新町の宿屋は板葺屋根でしたので「格」が違うようです。後の史料からは茶屋二七軒、酌取旦雇宿六軒の計三三軒があったことが分かります。 「讃岐国名勝図絵」に
「南海中の旅舎、三都に稀なる規模にて当地秀逸と謂べし」と讃えられた「とらや」
は延享四年(1747)に入口・玄関の普請が分限不相応として閉門を命じられ、破風・玄関・式台を取り除いてやっと許された大旅館でした。その他にも、芳橘楼(ほうきつろう)・余島屋などの大旅館と共に、天保の打ちこわしで破壊対象になる米屋・酒屋・油屋などの大商店が軒を並べていました。
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 南側に対して、北側は鞘橋を渡ったすぐのところが服屋(古着屋か)です。その横に、北から合流する道があります。ここが多度津街道のゴールです。多度津道沿いの店は、角が服屋です。その隣(絵で見ると奥側)には、馬方が馬を数頭休めています。馬継所なのかもしれません。残念ながら、そこから奥はきちんと描かれていません。道を挟んだ向かい側は、煎餅らしいものを焼いている店があります。参詣客が、店主に注文しているようにも見えます。何を焼いているか分かりませんが、気になるところです。

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その隣の多度津道と本道との交差する角に当たる所は、惣菜屋(めし屋?)のようです。食べ物を売る見せも多いようです。
一方北側を見ると、惣菜屋の隣は、弓師の店です。続いて、小間物屋、道具や、二軒分の家が空いて、桶屋と続きます。 
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そして、西へ進んでいくと登り坂になって行きます。坂の両側にも、食べ物屋、うどん屋、宿屋、うどん屋、服屋、あめ屋と続きます。
参道の上り口に当たるこの辺りには札場があったので、札ノ前町と呼ばれました。
そして、その上には大門までの両側に階段状に町が形成されます。札之前町には一一軒、坂町には四軒の茶屋がありました。この両町は、参詣客が両側を見ながら参道を登って行く所で、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。
 代表的な土産物には、上鈴(神鈴了延命酒・薬草・金毘羅団扇・天狗面・白髪素麺(宝暦十=一七六〇年、素麺師かも屋甚右衛門が移住し、製造が始まったと伝えられる)・びっくりでこなどがありました。なかでも、金毘羅大権現の神徳を象徴する土産として特に有名になったものに、大門付近などで売られた金毘羅飴があります。あめ屋の向かい、少し斜め上辺りから南西(左)に、伊予からの道(伊予街道)が合流しています。
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伊予街道沿いの町並みが谷川町です。
 延宝三年の地替図では本殿への参拝道が脇道で、伊予街道の方が本道のように描かれ、谷川町が奥の広谷墓地に向かって伸びて賑わっている様子が描かれていました。それから30年余りで状況は逆転して、この屏風絵では参詣道の方がはるかににぎやかになっているようです。谷川町は伊予街道のゴール地点として食べ物屋が建ち並んで、にぎやいだ雰囲気があります。                                                                                    
 これより上、大門(二王門)までは坂町です。
この町並みには宿屋と思われる店がずっと並んで描かれています。大門を入ると、そこは山上と呼ばれる境内です。これからは金光院家中の家が続きます。
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芝居小屋が並ぶ金山地町の賑わい
 さて山上の様子は、またの機会にして、ここからやってきた道を鞘橋まで引き返します。
先ほど見た高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わりますが史料は残りません。
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 街に入ると、ちょうど歌舞伎小屋が立ち、中では歌舞伎が演じられているようです。常設の芝居小屋である金丸座が建つのは百年後のことです。
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さらに奥へ行くと、浄瑠璃を演じている小屋もあります。道を挟んだ向かい側には、別な歌舞伎小屋も見えます。参詣客は、歌舞伎・浄瑠璃などを十分に楽しんで、あとそれぞれの村、家へ帰っていったのであろう。この屏風絵には、金毘羅の大祭の賑わいがリアルに描かれています。

  この屏風絵が描かれた元禄年間(17世紀末)の金山寺町の広場には、所狭しと小屋が架けられ、芝居が興行されていたのです。
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 江戸中期以降、全国に131か所もの歌舞伎小屋が散在していました。
その場所と規模を伝えるものに「諸国芝居繁栄数望」(天保十一年子之十一月大新板)という芝居番付が残っています。そこには金毘羅大芝居は金沢・宮島などと並んで、西の前頭六枚目の最上段に「サヌキ金毘羅市」と名前が載っています。ここからは金毘羅の芝居が西国における第一級の芝居として、高い知名度と人気があったことが分かります。
 井原西鶴の「好色一代男」の中にも、安芸の宮島と金毘羅の賑わいを、旅芸人に語らせるシーンがあります。元禄年間おいては、金毘羅の賑わいは有名であったようです。しかし、それに引かれて東国から参拝者が押し寄せるようになるのには、まだ百年の歳月が必要でした。
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 この絵からは人寄せのために芸能や見世物などが催されにぎわうこんぴらの様子が伝わって来ます。金毘羅信仰が盛んになるにつれて、市立と芸能は共に栄え、門前町ことひらは一層繁栄するようになっていった様子が分かります。
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参考文献 金毘羅門前町 町史ことひら 127P~

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前回は金毘羅神を江戸で広げたのは山伏(天狗)達ではなかったのかという話でした。今回はそれをもう少し進めて、山伏達はどのように流行神として金毘羅神をプロモートしたのかを見ていきたいと思います。
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まず江戸っ子たちの「信仰」について見ておきましょう。
 江戸幕府は、中世以来絶大な力を持っていた寺社勢力を押さえ込む政策を着々と進めます。その結果、お寺は幕府からの保護を受ける代わりに、民衆を支配するための下部機関(寺請け)となってしまいます。民衆側からするとお寺の敷居は、高くなってしまいます。そのため寺院は、民衆信仰の受け皿として機能しなくなります。一方、民衆は 古道具屋の仏像ですら信仰するくらい新しい救いの神仏を渇望していました。そこに、流行神(はやりがみ)が江戸で数多く登場する背景があるようです。
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江戸っ子達は「現世利益」を目的に神社仏閣にお祈りしています。
 その際に、本尊だけでは安心・満足できずに、様々な神仏を同時に拝んでいくというのが庶民の流儀でした。これは、現在の私たちにもつながっています。
 神社・仏閣側でも、人々の要求に応じて舞台を整えます。氏神様は先祖崇拝が主で、病気治癒や悪霊退散などの現世利益の願いには効能を持たないと考えるようになった庶民に対して、新たに「流行神」を勧進し「分業体制」を整えます。例えばお稲荷さんです。各地域の神社の境内に行くと、本殿に向かう参道沿いに稲荷などの新参の神々が祀られているのは、そんな事情があるようです。地神の氏神さまは、それを拒否せず境内に新参の流行神を迎え入れます。
 寺院の場合も、鬼子母神やお地蔵さんなどの機能別の御利益を説く仏さまを境内に迎えるようになります。
境内には「効能」に応じた仏やいろいろなお堂が立ち並ぶようになります。
このような「個人祈願の神仏の多様化」が見られるようになるのは江戸時代の文化・文政期のようです。つまり「神仏が流行するという現象」、言い換えれば「人々の願いに応じて神仏が生まれ流行する」という現象が18世紀後半に生まれるのです。それを研究者は「流行神(はやりがみ)」と呼んでいるようです。それを流行らせたのが「山伏・聖者・行者・巫女」といったプロモーターだったようです。
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 元禄から百年間の流行神の栄枯盛衰を見てみましょう
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、
 是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
ここには元禄時代から百年間の「流行神」の移り変わりが辿られています。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →
紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」
と神様の流行があったとふり還ります。
ちなみに、金毘羅神の江戸における広がりも「十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る」ことから、元禄から百年後の19世紀初頭前後が江戸における金毘羅信仰高揚の始まりであったことがうかがえます。
 
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流行神の出現を 弘法清水伝説の場合を見てみましょう
 宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。
そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
 これは四国霊場のお寺によくある弘法清水伝説と同じ内容です。出家(僧)の言葉で石から清水が湧き出したことから、霊験があると巷間に伝えられて流行りだしたといいます。
流行神の登場の仕方には次のようなパターンがあります。
    ①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。
    ②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。
    ③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
    こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。
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修験者(行者・山伏)がメシアになった例を見てみましょう。
彼らはいろいろな呪法を行使して祈祷を行ない、一般民衆の帰依を受けることが多かったようです。霊山の行場で修行を経て、山伏が、ふたたび江戸に帰り民衆に接します。その際の荒々しい活力は、人々に霊験あらたかで「救済」の予感を感じさせます。そういった系譜を引く行者たちは、次のように生身の姿で人々に礼拝されることがありました。
 正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、

単誓上人
もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ
(『譚海』五)
 ここに登場する単誓・澄禅の二行者は、山岳で厳しい修行を積み、生身の弥陀の来迎を拝んだり、山中の窟を金色の浄土に変ぜしめたりする奇蹟を世に示す霊力を持つようになります。いわば「生れながら成仏の果を得たる人」でした。かれらの出現は、まさに民衆にとってはメシア的な存在で、信仰対象となったのです。
 このように修験者(山伏)の中には、「生き神様」として民衆の信仰を集める人もいたことが分かります。
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一方、山伏たちは、江戸幕府にとってはずいぷんと目障りの存在だったようです。
このことは、寛文年間の次の町触れの禁令の中にもうかがうことができます.
 一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事
 一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事
 一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
 一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事
 一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
 この禁令からは、山伏、行人たち宗教活動に大きな規制がかけられていることが分かります。一方では、こうした町触れが再三再四出されていることは、民衆が行者たちに祈祷を頼んだりして、彼らを日常的に「活用」していたことも分かります。山伏たちは、寺院に直接支配されない民間信仰の指導者だったのです.
  このような中に、天狗面を背負って金毘羅山からやって来た山伏達の姿もあったのではないでしょうか。四国金毘羅山で金光院や多門院の修験道修行を受けた弟子達が江戸でどんな活動を行ったかは、今後の課題となります。
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  江戸庶民の流行神信仰リストとその願掛けの御供えは? 
因幡町庚申堂にはを備よ
  赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ
  小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ
  内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ
  駒込正行寺内覚宝院霊像にはに蕃根を添備ふ
  浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ
  谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ
  大願成就の特に米の団子を備ふ
  小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ
  代官町往還にある石にも塩を備よ
  所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ
芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す
四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん
 永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん              『かす札のこと下』
文化文政期ごろの江戸庶民の願掛けリストと、その時のお供え物が一覧表になっています。このうち、地蔵、閻魔、鬼王、奪衣婆、三途川老婆、浄行菩薩などは、寺院の境内にある持仏の一つであり、どれも「粉飾した霊験譚」をつけられて、宣伝された流行神ばかりです。同時に、どんな願をかけているのかを見ると「病気平癒」を祈っているのが多いようです。
 その中でもっとも多かっただのは、眼病でした。
よく知られた江戸の眼病の神は、市谷八幡の境内に祀られていた地主神の「茶の木稲荷」でした。『江戸名所花暦』には、
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
と記され、約一週間茶断ちして祈願すれば、眼病は平癒するといわれていました。

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 歯病も眼病と並んで霊験の対象となっていました。
 歯の神として、江戸で名高かっだのは、おさんの方です。西久保かわらけ町の善長寺に祀られた霊神の一つで、寺の本堂で楊枝を借りて、おさんの方に祈願すると痛が治るとされ、楊枝を求めてきて、おさんの方に納めたようです。
 おさんの方は、『海録』によると、備後国福山城主水野日向守勝成の奥方珊といわれます。彼女は一生、歯痛に苦しみ、臨終の時に誓言して、
「我に祈らば応験あるべし」
と言い残したと伝わります。寛永十一(1634)年に流行だしたと史料に残っています。
このリストを見れば、まさに現世利益の「病気治癒」の神々ばかりが並んでいるのが分かります。

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金毘羅神は「海の安全」の神様といわれ始めます
しかし、この時代に「海の神様」というキャッチコピーでは、江戸っ子には受けいれられなかったと私は思います。金毘羅神はこの時期は「天狗神」として、「病気平癒」などの加持祈祷を担当していたのではないでしょうか。それを担当していたのは山伏達たちだった思うのです。

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 前回は金毘羅信仰の高まりが金比羅講の結成につながり、寄進物が増えていく様子を見てみました。その信仰の広がりと高まりの背景に山伏(修験者)達の布教活動があったのではないかということを指摘しました。
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 大坂湊のスタート 天保山
今回は熱烈な金毘羅信仰「ファン」を見てみましょう。
江戸の人山田桂翁が、天保二年(1831)71歳の時に書き上げた「宝暦現来集」には、天明のころ両国薬研堀に初めて金毘羅社を祀った元船頭の金毘羅金兵衛という男のことが載っています。その金毘羅金兵衛という名前からも熱烈な金毘羅信者であったことが想像できます。こう言う人物が何人も現れてきたようです。
 金毘羅山の境内には、金毘羅参拝を何度も行った人の記念碑が建てられています。まず、それを見ていきましょう。
寛政五年(1793)伊予国松山の吉岡屋伝左衛門が100回参詣
天保十三年(1843)作州津山船頭町の高松屋虎蔵(川船の船頭?)が61度の参詣
安政元年(1854)信州安曇郡柏原村から33度の参詣を果たした中島平兵、
万延元年(1860)松山の亀吉は人に頼まれて千度の代参
万延元年 参州吉田宿から30度目の参詣したかつらぎ源治、
文久四年(1864)松山から火物断ちして15度の参詣を遂げた岩井屋亀吉。
金毘羅山に回数を重ねて何度も参拝する「金毘羅山の熱狂的ファン」が出現しています。今でも似たような碑文を、四国霊場のお寺の境内で見ることがあります。一般の参拝客が増える中で、強い信仰心を持ち参拝回数を競うように増やし、それを誇りとして碑文に残しているようです。現在の「ギネス記録に挑戦!」といったノリでしょうか。

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難波湊を出航して
大坂の高額寄進者、廻船問屋西村屋愛助の場合は?
 当時の金毘羅大権現は、薬師堂を金堂に立て替える大規模工事が文化10年(1813)から始まっていました。それに伴い寄進を求める動きが活発化していた時期でもあります。それに応えていく信者の代表が大坂の廻船問屋の西村屋愛助です。
彼の名が最初に見えるのは、江戸と大坂で同志を募って天保十二年春に奉納した銑鉄水溜の銘文の中に刻まれています。しかし、この水溜は、戦時中の戦争遂行のための金属供出で溶かされ、弾薬に姿を変えてしまいました。それ以外で、彼の名前の残るものを挙げてみると
天保13年月 金堂の用材橡105本を奥州秋田から丸亀へ廻送。
天保14年 「潮川神事場碑」の裏に讃岐の大庄屋クラスの人々と名前あり。弘化4年(1847) 五月に100両を、続いて11月に150両を献納
金堂が完成するのは、着工から30年以上経った1845年のことでした。愛助のような熱烈な信者がいたからこそ総工費三万両という大事業であった金堂が完成にこぎ着けることができたのでしょう。全国の金比羅講と共に、裕福で熱心な信者の人々によっても金毘羅信仰は支えられていたことが分かります。
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文人旅行客が残した参拝日記(道中記)から分かることは?
各地での金比羅講の成立と共に、講から送り込まれる金比羅詣での人たちが増えていきます。そして、参拝よりも「旅」に重きをおく「旅行者」も増えます。例えば「弥次さん・喜多さん」のような個人客も混ざってきます。彼らは信仰としての参拝というよりも、物見遊山・レジャーとしての参拝の色彩が強いようです。そして、裕福でゆとりをもった目、何でも見てやろうという好奇心の目で周囲を眺めながら、その様子を日記(旅行記)に記す人が現れます。
 承応二年(1653)の澄禅の「四国遍路日記」や元禄二年(1689)刊の「四国徊礼霊場記」にも
「……金毘羅は、順礼の数にあらすといえとも、当州の壮観、名望の霊区なれは、遍礼の人、当山には詣せすという事なし……」
と記されているように、四国巡礼の人々も善通寺参拝のついでに金毘羅まで足を伸ばすことが多かったようです。当時の人たちにとっては神も仏も関係なかったのです。さて、参詣者の数が増え始めるのは享保年間(1716~)のあたりからです。年表を見ると、この時期に急速に諸堂が整備されていったことが分かります。
享保7年 1722 文殊・普賢像、釈迦堂へ安置。
享保8年 1723 神前不動像、愛染不動像出来る。新町鳥居普請。
享保15年1730 観音堂開帳
享保17年1732 広谷墓地に閻魔堂建立。享保の大飢饉。
享保18年1733 龍王社造立
1730年の33年ぶりの観音堂の開帳に向けての整備計画が行われことが分かります。それが、また人々を惹きつける要因になります。
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東国からの金毘羅参拝者が増えるのはいつから?
文政11年(1828)鹿児島の郷士右田此右衛門一行は、伊勢参宮の途上に金毘羅に参詣し「……参銭の音絶ゆるひまなく・…」と記しています。参拝客の落とす賽銭も増えます。
また、九州の豊前中津藩や肥後熊本藩、筑後柳川藩などの藩士らの出張願いなどには、神社、特に金毘羅への参詣を希望する者が多かったことが史料に残っています。
安政二(1855)出羽の清河八郎は、旅行記『西遊草』に次のように記します。
「……金毘羅は、数年この方、天下に信仰しない者はなく、伊勢の大神宮同様に、人々が遠国から参拝に集まり、その上船頭たちが、大そう尊崇する
……数十年前までは、これほど盛んなこともなかったのであるが、近頃おいおい繁昌するようになった。…金毘羅と肩を並べている神仏は、伊勢を除いては、浅草と善光寺であろう……」と。
  ここには、金毘羅信仰が「数十年前までは、これほど盛んなこともなかった」と述べられています。つまり、18世紀の末頃までは金比羅詣で客は、伊勢神宮などに比べるとはるかに少なかったというのです。
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それでは、いつ頃から伊勢と肩を並べるほどに参拝者が増えたのでしょうか?
 18世紀に書かれた東国発の伊勢神宮への参拝道中記である宝永三年(1706)の「西国道中記」、宝暦十三年(1763)の「西国巡礼道中細記」と享和三年(1803)のを見てみましょう。すると一番最後の19世紀なって書かれた「西国巡礼道中細記」だけが、伊勢参拝後に金毘羅にも参詣しているのが分かります。関東地方からの参詣者が増加するのは、私が思っていた時期よりも遅く文政期以後(1818~)のようです。参拝者の急増を追い風に、金毘羅山の金堂は着工したのかもしれません。
 もうひとつ注目しておきたいのは、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったことです。残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。
  ここから、「東日本から金毘羅宮へ参詣するようになるのは、19世紀初頭年前後からという結論が出される」と研究者は言います。

113574淡路・舞子浜

 讃岐は巡礼スタンプラリーのメッカ? 
東国の人々が、金毘羅参詣を行うようになってくるのは、19世紀の文化・文政期になってからといいました。それは東国に限らず、全国的に「旅行する」ということが盛んになってくるのが、宝暦から天明ごろだったことも合致します。このころから、「四国八十八ヶ所巡礼」「西国三十三ヶ所巡拝」「伊勢参宮」などの聖域・聖地を巡る人々が増えているのです。讃岐においても巡礼に関する記事が庄屋に残史料の中に見られるようになります
       願上げ奉る口上
 一私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、これに依り二・三ヶ年以来申し合わせ少々の講結び御座候 而何卒道印石灯寵建立仕り度存じ奉り候、則場所・絵図相添え指し出し候間、
願の通り相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、
願上げ奉り候、以上
 文化七午年   香川郡東大野村百姓     半五郎 金七
    政所交左衛門殿
これは、高松の大野村百姓の半五郎と金七が政所(大庄屋)の文左衛門にあてて願い出た文書です。そこには半五郎らの家の近くで、仏生山へ参詣した後に金毘羅へ向かっている遠方からの旅人が、道に迷って困っている事例が多く出てきている。そこで道標・石灯籠を建立したいと庄屋に願い出ています。
 庄屋・藩の許可がないと灯籠も建てられないという江戸時代の一面を映し出していますが、ここで注目したいのは仏生山に参拝した後、金毘羅へ向かう遠方からの旅人が多数いるという内容です。
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四国霊場でもない仏生山に遠方からの旅人が参拝するのはなぜ?
 法然寺へ参詣するという動きは、法然上人の五百五十回忌の宝暦十一年に、法然上人の遺跡として、二十五霊場が指定されます。これ以後、法然信者による聖地巡礼が始まります。高松藩主松平頼重により菩提樹として整備された仏生山法然寺は、その札所の二番目に指定されます。ちなみに最後の二十五番目は京都の大谷知恩院のようです。この時期は、その二十五番霊場巡りが知られるようになり巡礼者も増えていたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1

 こんなことを知った上で、当時の瀬戸内海をはさんだ讃岐と山陽道を描いた絵図を見てみると別の見方が浮かんで来ます。讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、金毘羅あり、そして法然上人ゆかりの遺跡があり「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族になっていったのかもしれません。
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参考文献 旅行者から見る金毘羅信仰 町史ことひら97P

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 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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  戦国末期に建立された金比羅堂が別当を務める金光院の歴代院主の手腕によって、他の諸堂を圧倒する権勢を誇るようになります。17世紀半ばには、幕府から金光院に朱印状が交付されたことで「お山の殿様」としての地位を確立したことを前回は見てきました。
 今回はそれから20年後に起こった事件を見ていくことにします。内容は、追い詰められた三十番社が金光院を幕府に訴えた事件です。結果は、訴えた社人が獄門貼付の厳罰に処せらことで幕を閉じます。
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 内記太夫の控訴までの足取り
 時代は移り世代がひとつ新しくなります。三十番社の相続をめぐって弟・権太夫と争った松太夫の長男徳は幼少の時から金光院主宥睨にかわいがられ、その口添えで京都の吉田家から装束を授けられ、内記太夫の名を与えられます。内記太夫は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなります。しかし、吉田家神道の影響をうけてでしょうか、次第にかつて父が争った叔父の権太夫に近づき、金光院の僧侶の横暴をひそかに幕府に訴えようと考えるようになります。
 内記太夫から相談を受け行動を共にし、後に追放の刑に処せられた与北村の瀬兵衛の口述書が残っています。それによると
1670(寛文十)年6月23日、内記太夫は伊勢参宮を名目にして丸亀を船出し、先発していた権太夫・理兵衛の二人と、大坂平野町徳左衛門方で落ち合います。
27日には与北村の瀬兵衛が到着したので4人で連れ立って堺筋の輿左衛門という分限者を訪ねます。輿左衛門は大坂では指折りの分限者で、江戸にも手筋(于づる)の多い人であったといいます。瀬兵衛は、権太夫に依頼された通りに金毘羅さんの事情を述べ、「今度の訴訟は必ず理運が開けるから……」と、資金的な援助を依頼します。
7月1日、宿の主人徳左衛門の紹介で、京都の人で神道に明るい太郎左衛門を宿に招いて事情を説明し、訴訟の見込みについて尋ねています。太郎左衛門は、次のように応えます。
「金毘羅の義は、院号や山号もあるので神とも仏とも申し難い。そのうえ出家といっても代々支配して来ており、御朱印なども頂戴しているので、訴訟しても勝目は少ないと思う。しかし権現の本地が何であるか調べてみよう」
 この悲観的な意見を聞いて瀬兵衛は訴訟を諦め、一行と別れて帰国したと後に口述しています。
7月17日 内記太夫と権太夫は、堺筋の与左衛門と共に京都に上り、神祇宗家の吉田家に申し出ます。二人は吉田家の指図を受けて訴状をしたため、京都所司代に差し出します。しかし、「この事件はここで解決する問題でないから、江戸へ参るように」と突き返されます。そこで二人は江戸に出て寺社奉行小笠原山城守へ訴状を提出したのです。これが寛文10年8月8日のことでした。

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意訳した訴状の内容を見ながら、背景などを補足していきます。
私どもは讃岐金比羅三十番神社の社人(=神人=下級神職)です。
宮地の中に金光院という出家僧侶がいます。この寺は先年までは下の坊を呼ばれた滅罪寺(=金光院)です。そのため今でも金光院の坊主達は扶持切米を潰し、死人の取扱を行っています。宮地の中に観音堂・薬師堂・釈迦堂があります。これらは金光院が管理していますが、土佐の長宗我部元親の侵攻のの折に、よしみを通じて私どもより奪っていったものです。
 そして賽銭などは金光院が管理するようになりました。賽銭の外にも神楽銭がありますが、これについては私市良太夫が管理していましたが、開帳と称して、私たちが作成した御幣を取り出し、信者に授け、神楽銭までもを理不尽に奪い取り最近は、袖神楽銭のみを与えられている始末です。
  金光院に対して申したいことは、出家が神楽を管轄するという珍奇なことを止め、前々通りに私どもに管理運営を任せて欲しいのです。また、皆のものが納得しない所へ神楽場を建て、袖神楽のみを勤めておりますが、その上に最近は、権現の後方の遠いところへ神楽場を移して、参拝するものも分からない所なので、訪れる人も少なく私どもは飢え死に及ぶような有様です。しかし、両者の神事については今まで通りきちんと勤めております。
①金光院は下の坊と呼ばれる菩提寺であったこと。
②宮地の中には観音堂・薬師堂・釈迦堂があるが、もともとは三十番社が管理していたこと。
③それを、土佐軍の占領時に、長宗我部元親が土佐出身の宥厳を金光院住職に据えてこれらを三十番社から奪っていった。そして今では、これらの賽銭は金光院が管理するようになってしまった。
 とあります。

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  この訴状の中には、三十番社の神職からみた戦国時代末期からの金毘羅山の様子が記されています。それは残された別の史料から推察してきたを裏付ける内容です。つまり、
①からはもともとは金光院は「下の坊」であり「死者のおもむく」広谷墓地の慰霊の寺院であったこと、その位置も観音堂や三十番社のある現金刀比羅神社本殿の位置よりも下にあったらしいこと。
②③からは、諸堂が並立していたがその管理権は、長宗我部元親の占領以前には三十番社にあったということ。長宗我部元親が従軍していた土佐出身の修験僧宥厳を金光院住職に据えて、保護したのを背景に、金光院が山内での権勢を強めたということを裏付けます。訴状は具体的に、金光院が三十番社から奪ったと主張しています。
「町史こんぴら」などには「天正末期に金毘羅山のお山で大変革があったこと。それは金比羅堂の出現で、背後には別当である金光院の台頭がある」と記されていますが、この訴状は、より具体的にそれを裏付ける内容です。「長宗我部占領下の大改革」を、三十番社の立場から見ればこうなるのかもしれません。
 更に訴状は、神楽銭の管理権までを金光院に奪われたことや神楽場の設置場所についての不満を述べた上に「僧侶が神楽を管轄するという奇妙なことは止めさせて欲しい」と金光院の横暴を訴え自分たち神職の経済的な苦境の救済を求めています。
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  生駒家からの寄進が毎年十月十日の祭礼に使われていないことについて
毎年の10月10日・11日の神事について、小松庄四條村の百姓上頭と下頭に、申し分かちて担当してきました。この神事祭礼の経費については生駒一正様より80石の社領の寄進を受け、それを上当・下当の経費に充てて神事を勤めてきました。その後、250石の社領寄進を受け、併せて330石の寄進を受けています。
 ところが、これらを神事に使わないため4ヶ村の百姓達は迷惑を受けておりましたので申し出たところ、金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています。9月から11月までの祭事期間中の賄い額は大きく当人は殊の外迷惑を被っています。古来よりの神事と思い勤めてはおりますが、事によっては神事から退かせていただくことも考えざる得ません。身分の奢りを究め、何軒もの下屋敷を建て、一門には商売をさせ質物を取るありさまです。
10月10日の大祭の経費に関わることが述べられていますが、注目すべき点は、
初期の寄進である生駒一正からの寄進80石は、大祭の経費に充てていたこと、ところがその後の250石については金光院が独占し、大祭経費に使用していないと訴えます。ここからは、三十番社の神官達が
「生駒家の寄進は、金毘羅山の祭事のために寄進されたもので、金光院単独に贈られた物ではない」
という認識を持っていたことが分かります。そして、初期に寄進された80石に関しては、実際に祭事に使われていたようです。
 その後に、申し立てたところ
「金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています」
とありますが、「生駒藩のお袋様」とは生駒一正の側室オナツのことでしょう。オナツは金光院の宥厳と同じく財田の山下家出身で、宥厳とは甥と叔母の関係にありました。オナツが産んだ左門は、この訴状では「生駒藩の殿様」となっていますがこれは誤りで、殿様の異母弟になります。しかし、当時の金毘羅山の山内では「生駒藩のお袋様」と呼ばれていたようで興味深いところです。ここからも「宥厳ーオナツー生駒家」の強いつながりと金光院の権勢がうかがえます。
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漁師の御供えについて
浦々の漁師たちは願をかける際に、肴を両社へ供えることが恒例となっています。これについても、私どもへの御供えを妨げ、寺に取り入れる始末。清僧であれば肴を扱うことは憚られるはずです。
ここからは、この時期から金毘羅山の諸堂へ漁師達の参拝があったことが分かります。同時に「肴を両社へ供えることが恒例」となっていることから金比羅堂と三十番社が同等であったことがうかがえます。
三十番神権現大行事三社の正月の松注連飾りについて
 三十番神権現大行事・三社の正月のお注連はり(しめはり)は、私どもが長年担当して参りまいた。しかし、観音堂・釈迦堂・薬師堂は金光院より沙汰があり、ここ十数年は右三社の注連飾りは金光院が行うことになりました。その際、理不尽にも証文を出させたのに、書物は渡されていません。まさにやみうち的な仕打ちです。金光院の威勢を恐れ仕方なく押印したした次第です。
 最初の表題に注目したいのですが「三十番神権現大行事」であって「金毘羅大権現」大行事ではありません。ここからも、もともとは三十番社が金毘羅山の諸堂管理権を握っていたことがうかがえます。そして金光院の権勢の高まりと共に、証文を書かせて管理権を奪い取っていった経過が記されます。


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新法の押しつけ
以前は年に三度の市の際に、私どもは神前に上がる習わしでしたが、5年ほど前から金光院の許可を得た後に上がるようにと新法を申しつけられ迷惑を被っています。
 先年の閏十月に参拝者があったので神楽所へ参り、袖神楽を行い参拝者から神楽銭を少々いただきました。ところが理不尽にもこれをこちらに渡しません。その上、年に2・3度の市以外は神前に上がらせないと申しつけられ、袖神楽銭も金光院が取ることになってしまいました。
  この時期に金光院により「新法」が作成され、山内に新しいルールが施行されていった分かります。この提訴から約20年前に金光院は、幕府から「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状が与えられました。これは金光院を封建君主とする全山支配する権力が確立されたことを意味します。これを受けて、金光院を「主」、三十番社他の諸門を「従」とする主従体制の法的整備を進めます。それが「新法のおしつけ」という形で現れているようです。
 戦国時代末には三十番社と金比羅堂の「対等」な関係だったのかもしれません。しかし、朱印地のお墨付きをもらった金光院は「主従関係」に法的面でも、儀式的面でも示せる体制づくりを進めます。つまりこの時点で、三十番社は金比羅堂(金毘羅大権現)に奉仕する立場になっていたのです。しかし、訴状からは三十番社の神人たちにそのような「大局観」は読み取れません。「金光院の僧侶は、三十番社の既得権利を奪う無法者」というのが訴状を貫く主張です。
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多門院の重用と布教活動に対する批判
土佐国の浪人で山伏を多門院と名付けて重用し、今までの例にない土佐での金光院勧進を行わせています。このような事に関しても本来は私どもが行うことであるはずなのに、留めおかれて迷惑を受けています。
多門院の重用とその布教活動が批判されています。
少し長くなりますが多門院について、触れておきたいと思います。
多門院というのは、土佐出身の修験僧宥惺(幼名「熊の助」)にはじまる院坊です。宥惺の父は高知県高岡郡南片岡村の片岡八兵衛尚親です。片岡家は長宗我部家と婚姻関係にある有力家で、後には山内家とも懇意な関係を継続します。
 父尚親は、島津討伐を命じられた長宗我部元親に従軍して九州に渡り、「四国武将の墓場」となった豊後・戸次川の戦いで死亡します。父を亡くした片岡熊の助は、土佐出身の宥厳の後を継いで金光院四代となっていた宥盛を頼り、金毘羅山にやって来てその弟子になり宥惺を名乗り、修験道の修行に励んだようです。この時に、宥惺は宥盛のから多聞天像を与えられたので院号は「多聞天」と呼ばれるようになります。
琴平神宮の正史の中にも「慶長11年(1606)片岡民部(熊の助)、多聞院を名のる
と記されています。
 ところが、慶長18(1613)年に宥盛が死亡し、山下家出身の宥睨が院主の座につくと、宥惺は武士ににもどり、金毘羅山を飛び出していきます。彼が向かったのは大阪城でした
彼は長宗我部家に恩義を感じていて、元親の子が大坂城に入るとそこに馳せ参じたのです。そして、「冬・夏の陣」で大暴れします。元和元年(1615)に、大坂方が敗れると宥惺は金毘羅に逃げ帰ってきます。彼は大坂城の戦いでは目立っていたらしく、徳川方の追求の手は厳しく金毘羅山まで伸びてきました。そこで、修験者に姿を変えて土佐まで逃れ、山中や海岸での修行生活を続けます。その結果、宥惺は修験者のリーダーとしても名声を得るようになっていたようです。
 その後16年後の寛永八年(1631)に、宥睨は宥惺を金毘羅山に呼び戻します。
宥睨もかつては、宥盛に仕えていましたので、宥惺とは同じ門下の弟子として周知の間柄だったと私は思います。当時の宥睨は、金光院院主として生駒家の信頼を得て寄進地を増やし、門前町の形成に着手していた時代でした。金毘羅大権現の発展に伴う諸問題の対応に、自らの右腕を期待して宥惺を土佐からリクルートさせたのだと思います。それを示すかのように宥睨は金光院の門外で小坂に広大な宅地を与えられます。これが新たに興された多門院です。
 宥惺は「金刀比羅を修験道の聖地とする」という戦略を持っていたようで、そのために京都の醍醐三宝院の末となる一方、度々大峰山へ行き、行者の修行を重ね人的なネットワークを形成していきます。こうして「修験で立つ多門院」として立場を強化します。そして当山派修験道と金比羅堂の別当を兼務していた金光院に代わって「山伏の義は多門院へ御譲りにあいなり」と、金毘羅山における修験道は多門院が代行していると主張するようになります。それを裏付けるように多門院の記録には、修験道関係者の記述が詳細に残っています。
 訴状の「土佐での金光院勧進」という記述からは、多門院が土佐で「布教活動」を行い成果を挙げている様子がうかがえます。それは宥惺の土佐での「逃亡中の修験生活」の経験を活かした「布教活動」だったのでしょう。その結果、山内家の藩主にお目通りできる修験者は「多門院」のみと言われるようにまでになります。
 また、讃岐山脈を猪ノ鼻峠で越えた箸蔵寺は阿波修験道の聖地でした。これを最初に、金比羅大権現にとりついだのも多門院であったと言われます。箸蔵寺周辺には多門院の弟子たちが多数存在していたことが箸蔵寺側の史料からも分かります。このようなつながりを背景に、箸蔵寺は「金毘羅大権現の奥社」を称するようになっていくのではと私は考えています。
また、「1757(宝暦7)年3月11日 但州(たじま)の山伏20人と俗人が参拝。「堂床」の回廊で初穂を渡す」
など(修験道山伏関係のとの記録が数多く残されていることから、多門院が金毘羅大権現を天狗信仰の聖地として「山伏の参拝」を進める拠点機関としての役割を果たしていたことが分かります。
   確認しておきたいのは、多門院が「土佐から来たよそ者で、もともとは浪人の新参者」だったということです。「新参者が山内で大きな顔をしている」ことへの旧勢力を代表する三十番社の反発がこの条項からは見て取れます。
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 宮林(みやばやし)の管理について
金毘羅山の神域の社叢については、落葉一枚でも取れば悪事のことと申しつけながら、金光院一門に対しては薪材木などを自由に伐らせ、その他にも取り巻きのお気に入り集についても同様のありさまです。
 ここには、神域の社叢管理についての不満が述べられています。かつては、社叢に入って落葉や薪などを取ることが出来たのが「新法」では「悪事」であるとされるようになったようです。これも、当時の丸亀藩や高松藩が進める森林の管理強化という流れと期を同じくする動きのようにみえます。
金光院院主の山下家世襲と横暴に対する批判
十数年前に真光院という下坊主に社領の内の16石を分与しました。我が友共神職は日に日に餓死に及んでいる有様なのに、身内に関しては我が儘次第です。
三十番社より二丁半ほど下に金光院の墓所を設けていますが、これは参拝者の通り道に当たります。権現への社参の際の障害にもなります。取り除きどことなりへ移動させるように申しつけくだされば有り難く存じます。
生駒家の殿様の側室となったオナツの甥で宥睨が金光院に院主になって以後は、山下家が世襲化する時代が続きます。その結果、山下家出身者やその死者への厚遇が批判の対象となります。真光院を新設し分家のように山下家の関係者に継がせたこと、さらに金光院=山下家の墓所を三十番社のすぐ下の参拝者の道筋に設けられていたことが分かります。
 以上 金光院が金比羅町内において我儘の具体的な実例を書き上げました。
私ども先祖より代々、今に到るまで神事祭礼を勤めて参りました。
古くは社壇の中へ僧侶が出入りすることもありませんでした。ところが金光院が年々威勢を増すにつれて私どもをないがしろにし圧迫するという浅ましい姿になりました。このことは数年来訴え出てきました。
 しかし、金光院の威勢に恐れるとともに、道中路銀等にも事欠く次第。ただ打ち過ぎていくばかりで家中は餓死に到るような有様で、乞食のような躰でこの度、参りました。 御慈悲の上、金光院を召し出して、今までの先例通りに行うように申しつけいただければ有り難く存じます。   
   寛文十年戌八月八日 讃岐国金毘羅社人 権太夫判 
                      内記 判
   御奉行様                    
 以上のように、権勢を増す金光院の僧侶に対する三十番社の社人の訴えが綴られています。ここには追い詰められた日々の生活にも困窮した神人の様子が見えます。こうした訴えに対しては、従来は幕府は介入することを避けて、その国の藩主に仲裁させる方法をとっていました。しかし、内記と権太夫の訴状には、京都の吉田家の介添えがあったからでしょうか、寺社奉行は直ちにこれを受理してしまいます。そして金光院に対して、返答書を提出して翌月中に江戸に参府するように通達させたのです。
 訴状の裏書を受けた内記太夫と権太夫は、讃岐に帰って8月27日に高松藩庁にこれを提出します。藩はこれを金光院に送付したので、金毘羅のお山は大騒ぎとなります。
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  訴えられた金光院の対応は?
 金光院は、九月に入って返答書を幕府に提出します。その草案の写しを見ると、極めて調子の高いトーンで次のように反論します。
「金毘羅大権現が主格であり、それに奉仕するのは金光院であって、訴人たちは金光院の家来であり神楽役人で「主従」の「従」に過ぎない」
と「主従関係」にあることを強調しています。
 そして、江戸に反論審問のために出府することになります。そのメンバーは、金光院からは、隠居の宥典が山の事情に通じた真光院を従えて出府、高松藩からは朱印状を幕府から受けた時に尽力した寺社奉行間宮九郎左衛門が同行します。金光院の一行は高松藩の関船を貸し与えられて、瀬戸内海を大坂に渡り東海道を上り21日に江戸へ到着します。宥典は老齢の身での長旅で、持病が再発し、対決の延期を願い出て療養に努めるます。高松藩ではこの間を利用して、両寺社奉行への情報収集と工作を盛んに行っています。
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金光院と権太夫の対決と裁きの結果は?
 10月9日、寺社奉行月番の小笠原山城守の役宅で、金光院と内記太夫の双方を呼び出して、両者の主張が聞き取られます。高松藩の間宮九郎左衛門が審理に先立って「金光院が所持している御朱印状と、両人の訴状の内容が相違しているから、その点を引き合わせてもらいたい」と述べ、朱印状を与えられた時の事情を詳細に説明が行われます。それに続いて双方の問答が行われ証文が提出されますが、対決は単なる形式に過ぎなかったようです。
寺社奉行は即座にその場で、
「内記太夫・権太夫 家来に紛れ無き証文これ有る上は、金光院家来として主人へ逆意を企てた不届者である。両人の者共は、金光院に下しおかれ 何分にも金光院心次第に仕置申し付けよ」
と申し渡されます。つまり
「内記太夫・権太夫は金光院の家来となることに同意した証文に押印している。家来が主人を訴えることは逆意でありゆるされない」
と、神仏の争いには立ち入らずに、封建社会の大義である「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」の大義名分論でこの問題を裁いたのです。

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判決後の二人を待っていたものは? 
内記太夫と権太夫は、「逆賊」としてその場で搦め取られ、高松藩邸の牢舎につながれる身となります。勝利した金光院の一行は、10月15日に江戸を出発し、囚人となった二人を連れて旅を続け11月2日に高松に還ってきます。
 10月9日の審判が下ってからの対応は、幕府の寺社奉行小笠原山城守と、高松藩主松平頼重・金光院別当宥栄・隠居宥典の間で細密な工作が行われたことが、三者間を往復した文書から細部まで分かります。先ず松平頼重が武家の掟に照らして、内記太夫と権太夫の両人は傑獄門の極刑、子供は獄門、その他の者は斬首という方針を決定しています。これを寺社奉行の小笠原山城守が内諾します。一方、金光院別当は一党の減刑を松平頼重公に願い出ます。頼重がこれを容れて罪一等を減じ、小笠原山城守に事後承諾を求めるということシナリオが事前に決められ、その筋書き通りに運ばれたことが分かります。
事件によって引き起こされた金毘羅の山内の動揺をどう収めるか?
金毘羅山の山内では神人側の意見に賛成する人もあり、これまでの金光院の横暴に対してこれを憎む人たちもいたようです。特に僧侶が家来の神人を処罰することについては、宗教的に疑義を抱く人々もありました。そのような動揺を抑えるために金光院と高松藩は処罰に先立って、各寺門を始め、寺下の指導者五十数名の連署連判の誓書を提出させ、忠誠を誓わせています。この誓約書の文面は、金光院の幕府への返答書が正しいことを確認させ、内記太夫と権太夫は逆意を企てたものであることを承認し、以後も金光院に忠誠を尽くすことを誓ったものでした。
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 こうして、11月11日を期して処刑を行うことになります。
高松の獄舎を出た一行は、足軽20人毎に前後を警固され、円座・滝宮を経て金毘羅へ護送されます。一夜を明かした後、翌11日の早朝に金毘羅町内を引き回しの上、金毘羅領と高松領の境に近い狹間村の祓川の松林の中で処刑が行われました。
内記太夫と権太夫は獄門、内記太夫の子二人と権太夫の子三人、権太夫の弟吉左衛門とその子二人、金光院下僕の坂の下六右衛門の九人が斬罪となりました。「反逆の罪は九族に及ぶ」のが封建の掟ですが、子供の中には五歳と七歳、それに乳飲み子も含まれていました。いたいけな子供が親の罪に連座してその細い首を打ち落とされ、枯草が血に染めたのです。金毘羅神も、金毘羅大権現も、釈迦も、不動明王も、十一面観音も、この惨劇を金毘羅山の山上からじっと見下ろしていたのです。
 これは金毘羅山内における権力者が誰であるのかを、劇的に示すことになります。金光院に刃向かう者は「獄門打首」になるということを天下に知らしめたのです。
  金光院の権威を高める「ショック療法」としては、これ以上のものはない劇的なものでした。


しかし、強い処置には副作用が伴います。
処罰された内記太夫と権太夫についての伝承がそれを物語ります。
 内記太夫と権太夫の首は、獄門台に曝されたが、両眼を見開いてその怨みを訴え、長くその眼を閉じなかったと伝えらます。
やがて「祓川には鬼火がともる。松太・権太の眼が光る」という里謡が歌われるようになります。
刑場はいつか権太原と呼ばれるようになり「高松藩士が権太原を通ると、馬が突然狂い出して大怪我をした」という噂が広がります。やがて高松からの金毘羅参詣の道は、権太原を避けてその南を通るようになります。これは菅原道実や崇徳上皇の「悪霊伝説」に見られるパターンと同じです。しかし、内記太夫と権太夫が神として祀られることはありませんでした。
 しかし、内記太夫と権太夫が社人であった大井八幡神社の社人職を嗣いだ金関氏は、ひそかに二人の霊を祀っていたとも伝えられます。
 社人がいなくなった金毘羅さんでは、五人百姓が神役を一時的に代行するようになります。
翌年六月には、その打開のために、白鳥神社の神官猪熊千倉に送って援助を依頼します。そして金毘羅の山下家から二人の子供が選ばれ、白鳥神社に送られて教導を受けさせています。
その際にも、宥典は今後の神人の統制のことを心配して、神役としての神前の手ほどきを受けるだけにとどめ、神道の教えを受けることを固く断るように指示しています。以後、金光院は京都の吉田家と絶縁して、神仏混淆、仏道優先の金毘羅大権現として発展を続けることになります。
 高松藩の寺社奉行間宮九郎左衛門は、この事件の経過を日記風に書きとめ、これの副本を作り、関係者の間で往復した文書の副本をも添えて、後の記録として金光院に贈ります。そのために多くの人が書き写し、数多く残る結果となりました。
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  内記太夫と権太夫の墓は
 高松行の電車が、琴平を出て土器川(祓川)の鉄橋を渡りきった所の左手に墓地がります。その墓地の南の端の線路に一番近い所に、石殿造りの小さい墓が二つある。1㍍余りの石組みの台の上に置かれているのが内記太夫と権太夫の墓です。その墓の前の石の献灯には「松田宮・文久三(1863)年十一月吉祥日」と刻まれています。事件から二百年後の幕末になって建てられたものです。                     
 その墓のそばには、高さ1㍍あまりの石組みの台の上に置かれた全長二㍍余りの立派な宝篋印塔が立っています。この塔は、事件から百年以上経った文化文政ごろ、大金を拠出できる立場にあった人が匿名で建立したと言われます。長い相輪、馬耳風の尾根の線の優美さ、小さい塔身、見事な彫りを見せた請花と反花、人きい塔身の周囲には型通りに六四字の掲が刻まれしその塔身を受ける請花(うけばな)と反花(かえりばな)が美しい塔です。

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   祓川の墓地の説明板には次のように記されています
   慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘羅三十番神の兼帯社人であった。
その長男を松太夫といった。寛文十年(1670)八月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。
幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封建制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文十一年(1671)十一月十一日、その一族は高松藩によって、祓川の刑場で処刑された。
その後、金光院においては不幸が相次いで起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約二百年後の文久三年(1863)十一月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。
とあります。
これを読むと、幕末に建てられた慰霊碑は金光院によって建てられたとありますが、宝篋印塔については何もふれていません。しかし、百年・二百年後の人たちにも、この事件は語り継がれていたことが分かります。
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「びっくりでこ」は獄門頸?
  この後、金毘羅さんのお土産店では「獄門人形」という小さい粘土作りの人形の首が土産物として売られるようになります。この人形は赤・白の一対で、短い棒の先に取り付けられ、白首の方を松太夫、赤首の方を権太夫と呼び、共に両眼を見開いて断末魔の苦しみを現していると言われました。そのころの金毘羅さんの土産物といえば粘土の神鈴と、大門の内側で五人百姓の売っていた糖飴でした。そこに登場した「獄門人形」は「びっくりでこ、こんぴらめかやり」とも呼ばれて参詣客に喜ばれ、人形にまつわる悲話と共に広く各地へ伝えられたようです。
 また、この人形は金毘羅
大芝居に出演した上方の千両役者の立役や悪役の隈取(くまどり=顔の彩色)のきいた顔を現したのが「びっくりでこ」であるとも伝えられます。獄門首か、役者の似顔か、いずれにしても金毘羅商人のたくましい商魂の産物といえるものかもしれません。
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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち         満濃町誌1173P

戦国時代末期の金毘羅山内は?
 そこには観音堂・釈迦堂・金比羅堂・三十番社・松尾寺などの諸堂が建ち並び並立する状態でした。その中心は観音さまを本尊とする観音堂=松尾寺でした。そして、この観音堂を守る守護神が三十番社だったようです。
正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保年間 江戸時代初期の金毘羅大権現の宗教空間
そのような中で地元の有力武将である長尾氏出身の修験僧・宥雅が一族の支援を受けて、観音堂の下に金比羅堂を建立します。そこには、讃留霊王の悪魚退治伝説から作り出された守護神・金毘羅神が祀つられるようになります。そして、宥雅はこの金比羅堂の別当として、金光院を開きます。これが金毘羅大権現のスタートです。
 ところで「別当」(べっとう)は、なんなのでしょうか?
 平安末期からの神仏習合では「神が仏を守る」「神が仏に仕える」という「仏が主で、神が従」という考えが広がります。具体的な例としては、東大寺を守るために宇佐から勧進された八幡神が挙げられます。そして、神社を管理するために寺が置かれるようになり、神前読経など神社の祭祀を仏式で行うようになります。その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだのです。ここから別当の居る寺を、別当寺と呼ぶようになります。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同じです。
 別当とは、すなわち「別に当たる」であり
「仏に仕えるのが本職である僧侶が、神職の仕事も兼務する」
という意味になるのでしょうか。
 次第に「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて、僧侶が入り込み渾然一体となっていきます。こうして神社で最も権力をもつのは別当(僧侶)であり、宮司はその下に置かれるようになっていきます。
 神道においては、祭神は偶像崇拝ではありません。
つまり目に見えないのです。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝します。別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝できることになります。神社側にもメリットが多かったのです。
別当が置かれたからといって、その神社が仏式になったということではありません。
宮司は神式に則った祭祀を行い、別当は本地仏に対して仏式で勤行する「分業」が行われたのです。信者は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行ったのです。つまり、お経を唱えながら、神事祭礼が行われたのです。こんなことは神仏分離以前は、普通の信仰形態だったのです。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなります。
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金比羅堂の別当であった金光院住職・宥盛の戦略は?
   関ヶ原の戦いが終わって、幕藩体制が整えられていくころに金比羅堂の別当となったのは金光院住職の宥盛でした。彼は、仙石権兵衛・生駒親正・一正・正俊の歴代領主から社領の寄進を受け、金毘羅さんの経済的基盤を確立します。
宥盛が背負った課題のひとつが金比羅堂の祭礼を創出することでした。
金比羅堂は宥雅によって建てられたもので、招来したインドの蕃神金比羅神を祀った新来の神でしたので、信者集団が組織されていませんでした。そこで、宥盛が行ったのが三十番社の祭祀を、金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」して祭礼儀式を整えることです。三十番社からすれば、御八講の神事・祭礼を金比羅堂に奪われていくことになります。これに対して、三十番社の社人たちの金光院に対する不満は、次第に高まっていきますい。

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宥盛を鉄砲で殺そうとした三十番社の社人・才太夫  
 金毘羅宮の縁起によると
「金毘羅大権現が入定した廓窟の中に仏舎利と金写の法華経が龍め置かれている」

と伝えられます。この法華経の守り神として三十番神が祀られ、その神殿が観音堂の近くに建てられていました。才太夫は、この三十番神社の社人を勤めていました。生駒家のバックアップを受けた金光院の宥盛の勢いが強くなり、祭祀の改変整備などで三十番社の立場は弱くなり、その収入も減少していきます。つまり、台頭する金毘羅堂、衰退する三十番社という構図です。
 こうした不満が爆発したのが慶長年間、生駒一正が藩主であった頃(1610頃)のことです。
才太夫は、金光院から大権現社に参詣しようとして参道を進んでいた宥盛に鉄砲を射ちかけたのです。が、暗殺未遂に終わり、宥盛を倒すことはできませんでした。才太夫は宥盛の手の者によって捕えられ、一族や関係者の人々と共に高松へ送られて生駒家の手で斬罪に処せられます。今風に言うと
「神に仕える社人による仏に仕える僧侶への殺人未遂事件」
です。
なぜ、殺意を抱くほどに才太夫は、宥盛を憎んでいたのでしょう。ここには、三十番社と金光院との対立が背景にあったようです。

正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保時代の宗教的空間 ①大夫屋敷が神職王尾家

新たに三十番社の社人となった王尾氏について 

この事件で、三十番神の神事を勤める社人がいなくなってしまいました。そこで宥盛は、五條村の大井八幡神社の社人であった王尾市良太夫を、三十番神の神役を兼帯させることにします。
 市良太夫は、長男の松太夫が十四歳の時に妻を失いましたが、数人の子供があったので後妻を迎えます。やがてこの後妻に権太夫・吉左衛門などの子供が生まれるのです。市良太夫は病いのために亡くなる直前に、複雑な家庭の将来を考えてこまごまとした遺言状をしたため、遺産の分配についても指示します。しかし、後妻の子である権太夫が成人すると、遺産の相続について先妻の子である松太夫との間に争いが起きてしまいます。

弟に訴えられた兄・松太郎
 才太夫事件から約40年近く経った1646(正保三)年6月29日、成人した権太夫は目安(訴状)に起請文を添えて兄松太夫を金光院に訴え出ます。この訴訟関係の資料が残っているので、その詳細がある程度分かります。それを見ていくことにしましょう。
 争いの第一は、三十番神の神役の相続問題です。
 松太夫の訴状は、父市良太夫の譲状の内容を詳細に書いてます。そして、幼少であった権太夫のことについては市良太夫が、次のように遺言した記します。
「権太夫の義は、太夫と成るか坊主となるかもわからないから、若し太夫となったならば、三十番神様の神楽(かぐら)を勤めさせるようにしてほしい」

これに対して、弟権太夫は「宥睨様へ継目の御礼を申上候 跡職にて相違御座無く候」と、当時の金光院住職の宥睨に対して「自分が三十番社の正統な後継者である」と反論しています。
争いの第二は、大井八幡神社の神主職など、小松荘の各神社の社頭の神楽と市立の権利と、その収入の分配です。
争いの第三は、父・市良太夫の遺産の分配をめぐるものです。
 この訴状と口答書からは、三十番社の神職である松太夫や権太夫が山内において次第に勢力を失って、生活が苦しくなっていっている様子がうかがえます。訴状の文面からは、兄弟が仇敵のように憎しみ合って、相手を非難攻撃し、妥協のできなくなっていく姿がうかがえます。二人は、互いに相手を攻撃することによって金光院の宥睨に取り入ろうという卑屈な態度をとり続け、兄弟争いで三十番社の神人としての立場を失うことに気付いていないようです。
 この争いは、4年間の和解調定作業を経て、慶安2年6月21日に次のような和解案が成立します。
①松太夫と権太夫が共に三十番神の神役を勤めること
②大井八幡神社の神主職や、市良太夫の遺産相続の解決。
しかし、松太夫と権太夫など王尾一族が骨肉の争いを続けている4年間の内に、彼らの立場は根底的なところ変化していたのです。それは生駒藩から高松松平藩・松平頼重に主導権が移り替わっていたのです。
 当時の高松藩の宗教政策を見てみましょう。
1642年(寛永十九)年に初代高松藩主として讃岐にやってきた松平頼重は、金毘羅さんのために社領の朱印状を幕府から貰い受けることに尽力します。当時の幕府は、各地の寺院や神社が保存している大名からの社領や寺領の寄進状に基づいて朱印状を与え、将軍の代替りごとに書き改めてこれを確認する方法をとるようになっていました。
 そこで1646(正保三)年、金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を願い出ます。当時は、神仏習合の中で時代で社領と寺領の区別が明らかでなく、また多くの塔頭が並ぶ大きな寺院では、どの院が朱印状を受け取るのかなどをめぐって全国各地で紛争になることがありました。そこで幕府は松平頼重に対して次のように指示しています。
金毘羅の寺家・俗家・領内の者に異議のないことを確かめて、更に願い出るよう

これを受けて高松藩は、藩の寺社奉行間宮九郎左衛門を金毘羅に派遣して、御朱印状を受けることについての異議の有無を確認させます。
 その時期は、松太夫と権太夫が骨肉の争いを繰り返していた時に当たります。
正保3年 1646 金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を提出。
正保3年 1646 王尾松太夫、権太夫の三十番社等の相続争いの提訴
慶安元年 1648 幕府より330石の朱印状を受け取る。
慶安2年 1649 松太夫と権太夫の訴訟事件が和解成立
寛文10年1670 王尾松太夫、権太夫が江戸に出て訴状を提出
冷静に考えれば、彼らが主張すべきことは次の2点でした。
①松尾寺の本来の守護神は三十番社であること、
②金毘羅神は新参の神であること
この2点を主張し、神人の立場を守ることが賢明な策だったと云えます。例えそこまでは望めなくても、ある程度の留保条件をつけて朱印状を金光院が受けとることを認めることだったのかもしれません。しかし、それは一族が骨肉の争いを繰り広げる中では、神職集団として一致団結して金光院に対応することは望むべくもありませんでした。松太夫と権太夫は、調停者の金光院の歓心をかうために連判状に調印します。こうして三十番社は、金毘羅大権現の別当である金光院の家来であることを誓約します。これは結果的に、今まで金毘羅堂(金光院)と共有していた松尾寺の守護神の座を奪われたことになります。

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金光院が金毘羅山のお山の大将に
 この作業を受けて、頼重は金毘羅山の一門が金光院の家来であることを認めさせ、主要な人々の連判状をとって、正保四年に幕府の寺社奉行に提出します。翌年の1648(慶安元)年に宥典が金光院別当となり、その継目の挨拶に江戸に出府することになります。この時、頼重は家老彦坂繊謬を同行させ、寺社奉行に働きかけ「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状を受け取らせています。これは、金光院が封建君主として金毘羅山の全山を支配する権力であることが幕府に認められたことを意味します。 
 和解した松太夫と権太夫の兄弟は、揃って三十番神の神役を勤めることになります。
しかし、その地位は金光院の完全な支配下に置かれ、いろいろな圧迫を受けて三十番社の衰退と共に収入も次第に減少します。20年後に  松太夫の長男徳(内記太夫)は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなりますが、金光院の圧迫にと横暴に腹を据えかねて幕府を訴えるのです。しかし「それは主君を訴えた従者」として「逆賊」あつかにされ獄門貼付の厳罰に処せられる結果となります。それはまた次回に・・・

DSC01241

参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち              満濃町誌1173P

 近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
高松藩初代藩主 松平頼重
寛永十九年(1642)に東讃岐12万石の領主となった高松藩主松平頼重は、家康の孫に当たり、家光とは従兄弟、そして弟が光圀という徳川家の御三家の出身です。彼は、初代藩主として金毘羅を保護し、金毘羅領330石を朱印地にすることに尽力しました。領主としても、代拝も含めると17回の金比羅参拝が記録されています。特に、幕府から朱印地に認められた年の八月には、参拝して一泊しています。

讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
金毘羅周辺地図

松平頼重が金毘羅大権現に祈願のための願文をささげたことは二回あるようです。
1回目は寛文五年(1665) 養女大姫の安産を祈ったものです。大姫は頼重の父徳川頼房の娘女でしたが、頼重の養女となり将軍徳川家綱の命によって、熊本藩主の細川綱利に嫁していました。
2回目は寛文十一年(1671)に、

「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」との願文を出しています。

「心中所願」とは、当時頼重は病みがちであり、隠居願いのことだったようです。二年後に、隠居が許されると頼重は、江戸から帰藩すると直ちに金毘羅大権現へ参拝しています。これより先延宝元年(1673)正月に、頼重は社領五〇石を三条村から割いて寄進しています。このときの寄進状は次のとおりです。

 那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。」

50石の内訳は、神供料が10石、千体仏堂料10石、神馬料30石でした。三条村に住んでいた善左衛門に耕作が命じられています。

決壊中の満濃池
金比羅領(赤)と天領池御料の3村(白)

 前回お話ししたように朱印地金毘羅領330石の土地は、生駒時代に十数回にわたって寄進されたものです。そのため土地は飛び地でした。満濃池の池御料として天領の苗田村・榎井村・五条村と、境界が入り組んでいたようです。
天領池御料
天領池御料と金毘羅寺領(明治維新拡大図)

そのため松平頼重の肝煎で、金毘羅大権現の寺領(「院内廻り」)周囲に集められることになります。これは頼重の指示があったからこそ、できたことです。現在金刀比羅宮には、この時の絵図の写しが残っています。その絵図には、幕府寺社奉行三名の裏判が押されています。

この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。

つまり、天領3村の中に飛び地として分散していた土地を金毘羅領内にまとめようとしたようです。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
       金比羅領(赤)と天領池御料の3村(黄色)
この
結果、榎井村では一町ほどの土地が金毘羅へ、金毘羅領に遠い四條村の場合はすべて池領へ移っています。そして、全体ではほぼ同じ面積、石高が交換されています。おそらく、金毘羅に有利な形で、境界も定まったと思われます。これは、天領と金毘羅大権現の土地交換という難しい作業でした。実施に向けては、時の幕府の重役達の内々の同意を取り付けることが前提になります。これが出来るのは、親藩高松藩主としての頼重の政治力を抜きにしてはできなかったことでしょう。
 実施に当たっては、次のような要人が立ち会っています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋
丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋
池御料からは代官・庄屋
金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
これも、後に禍根を残さない配慮でしょう。この結果、朱印地の寺領は、金倉川を越えた東側にも広がることになります。

金毘羅全図 宝暦5(1755)年
金毘羅神社絵図(宝暦5年 18世紀後半) 鞘橋から東が新町

この時に、金倉川の東側で得た現在の「新町」については、「古老伝旧記」に次のように記されています。

「地替相調い候て町並に家も立ち候」

地替(土地交換)で得た土地に家が建ち街並みとなっていることが分かります。高松街道沿いに榎井方面に向かって家々が並び立つようになり、門前町の発展に大きく寄与することになります。これも頼重の金毘羅に果たした大きな業績のひとつです。
一の橋・鞘橋
金倉川に架かる鞘橋と、それに続く新町

松平頼重の寄進で境内は、どのように姿を変えたのでしょうか?
 松平頼重は、多くの寄進を金毘羅山にしています。建築物だけを数え上げると
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、
慶安三年(1650)神馬屋の新築、
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。

IMG_3856
頼重寄進の仁王門(大門)
さらに石灯籠をみると、次のようになります
石灯籠 両基  寛文8年正月10日 本社前両脇
石灯籠 両基  寛文9年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文10年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文11年正月10日 本地堂上
石灯龍 両基  延宝元年5月3日 場所本地堂上
石灯寵 両基  延宝3年5月10日 場所本地堂上
寛文8年から11年までの四年間に、毎年正月に石灯寵を二基ずつ、
延宝元年と同3年にも石灯寵を5月に二基寄進しています。
これらの松平頼重の多くの寄進によって、境内は面目を一新します。同時に高松藩の殿様の厚い信心を受けていると評判になったはずです。整備された境内の堂舎は人々の目を楽しませ、殿様の寄進建築物・灯籠として話題になり、参拝者の数を増やしていったのではないでしょうか。
DSC04053石灯籠(頼重寄進)


松平頼重は、自分が身につけた刀や甲冑なども寄進しています。
それが讃岐国名勝図会に、次のように載せられています。

4344104-58松平頼重
松平頼重寄進の太刀

4344104-57松平頼重
松平頼重公寄進の太刀

4344104-56讃岐国名勝図会
           松平頼重公寄進の長刀

4344104-49福山城主阿倍氏甲冑
          松平頼重公寄進の馬具

4344104-48讃岐国名勝図会
          松平頼重公寄進の鎧

4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
        松平頼重公寄進の鎧(左側)
ちなみに讃岐国名勝図会の挿絵は、若き日の松岡調が担当したとされます。そうだとすれば、讃岐国名勝図会が発刊される1850年代に、松岡調は金刀比羅宮にやってきて、これらを描いたことになります。
4344104-73
讃岐国名勝図会の裏表紙裏には「真景 松岡信正(調)模」と記されている
ちなみに、神仏分離後に松岡調は金刀比羅宮の禰宜として、仏式の金毘羅大権現から神道の金刀比羅宮への変身を進めていくことになるのは以前にお話ししました。

日本史賢兄賢弟

 頼重の弟が水戸光圀です。
光圀は弟である自分が水戸本家を継いだことについて儒教的孝徳意識から「不義」感を持っていたと言われます。そこで、兄頼重の実子の綱方、綱條を自分の養子として、水戸藩の家督は綱條に継がせます。一方、兄頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に幕府より隠居を認められ高松に帰ってきます。そして、真っ先に、金毘羅山に参拝し、報告しています。
 頼重は病気と闘いながら元禄8年(1695年)に没します。これ以後、金毘羅山は頼重が寄進したものを財産として、大きな発展がはじまるのです。

関連画像
頼重の眠る高松松平家菩提寺 仏生山(高松市)

   
琴平 本庄・新庄2
中世末期の琴平

 戦国時代末期・天正年間の象頭山のお山では、松尾寺を中心に三十番神社などの諸社が建ち並び、そこに新参者の金毘羅堂が割り込んでくるという神仏・諸堂の雑居状態でした。人々は金倉川の東側に広がる中世以来の小松庄に生活していて、金毘羅山の麓には「門前町」は、まだ姿を見せていませんでした。

 豊臣秀吉の天下統一の動きが進む中で、讃岐の領主は、仙石氏から尾藤氏、そして生駒氏へと目まぐるしく変っていきます。この中で、金毘羅山内では新参者の金毘羅神・金光院がその中心的地位につくといった大変革が進んで行きます。その変革の中心にいたのが金光院院主の宥盛や宥睨であったことを、前回までに見てきました。
 宥睨は、実家の叔母オナツが生駒家二代目の一正の側室に入り、左門という男子を出産するという「運と縁」を授かります。甥と叔母という縁を活かし、生駒家からの寄進を幾度も重ねて得ることに成功します。それは最終的には330石という石高になります。これは、他の神社仏閣への寄進高と比べるとダントツです。

詳しくは「http://tono202.livedoor.blog/archives/1684460.htmlを参照


生駒正俊の家紋「生駒車」とは?香川の丸亀城を守りたかった戦国武将 | | お役立ち!季節の耳より情報局

生駒正俊
 このような中で、第三代藩主になった生駒正俊は、金毘羅支配の方針にといえる「条々」を慶長十八年に出します。
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事
一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事
一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
  住宅仕り候様二申し付けらるべき事
一 神役前々の如く申し付けらるべき事
一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
意訳変換しておくと

 金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。
一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。
一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事      
  住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事
一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
 以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
ここからは、生駒正俊が寺高・諸役の免除、城山勝名寺領の寄進、金毘羅への商人などの移住奨励、神役負課、金光院の院領内の裁量権を従来通りに認めたことが分かります。
 ある意味では、金毘羅山域に対してある種の「治外法権」が認められていたといえます。特に研究者が注目するのは、、金毘羅門前への「他国よりの移住奨励策」が認められている点です。これが金毘羅領が門前街として発達していく重要な条件になります。

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   35年もの間、金光院住職を勤めてきた宥睨に、最後の荒波が押し寄せます。
それは生駒騒動の結果、生駒家が矢島へ転封になってしまうのです。宥睨は理解ある大切なパトロンを失います。そして、新たな領主との関係を作ることが求められることになります。その交渉相手が初代高松藩として水戸からやって来た松平頼重だったのです。これは、宥睨にとっては幸いなことでした。

讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか : 瀬戸の島から
松平頼重
 頼重は、生駒家の宗教政策を基本的に継承し、金毘羅山の既得権を認めます。

そして、当時幕府が行っていた全国の神社仏閣の朱印地認定作業に、金毘羅山の登録申請を行うのです。頼重の配慮、努力によって、慶安元年(1648))三月十七日に幕府からの朱印状を得ます。 
『徳川実紀』に
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二

とあるように、このとき朱印状を与えられたのは金光院だけでなく、全国の寺社領が対象でした。その182の寺社の中のひとつに、金毘羅山も登録されたと言うことです。

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朱印状の内容はは次の通りです。
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領
同郡五条村内百三拾四石八斗余、
榎内村の内四拾八石壱斗余、
苗田村の内五拾石、
木徳村内弐拾三石五斗、
社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、
先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如く
いよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。
    慶安元年二月廿四日
  御朱印  別当金光院

決壊中の満濃池
明治維新時の天領池御料と金毘羅寺領
朱印料として認められ他のは、金毘羅領と、その金倉川の東岸の3つの村に飛び地としてある土地です。三つの村が寺領となったのでは、ありません。これらは生駒藩時代に寄進された物です。これらを総て併せた330石が朱印地として認められたことになります。

金毘羅山を代表して朱印状を受けたのは金光院でした。
朱印状が渡される前年には、これを金光院が受け取ることについての賛否が山内で問われたようです。後に金光院を訴え獄門にされる三十番社の神職が起こした訴訟資料には、次のように記されています。
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、
一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。
門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江  府へ持参仕り、(後略)
意訳変換しておくと
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。

ここからは次のようなことが分かります。
①正保三年(1646)12月に、金光院宥睨が亡くなり宥典が継ぎいだこと、
②正保四年に朱印状を金光院が受け取ることについての賛否が問われたこと
③その結果、「一山の者」全員が金光院が金毘羅山の主人として受け取ることに賛成したこと
④それを「連判の手形」として署名したこと
これは、中世以来の松尾寺・三十番社・金比羅堂等の諸寺諸堂の並立状態が終わったことを意味する者です。ここに正式に、金光院が金比羅領の「お山の大将」としての地位が確認され、金光院の権勢が確立したことを示します。
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  同時に金光院院主が、330石の寄進地を含む「お山の領主」になったことを意味します。
それは、讃岐国は松平家と京極家、塩飽の「人名」に加えて、金毘羅山という新しい「領主」の誕生と言えるかもしれません。金光院院主は、宗教的な存在としてだけでなく、金比羅領の「殿様」として政治的な存在として、この地に形成されていく金比羅門前町を治めていくことにもなるのです。
この時すでに宥睨は亡く、院主は宥典に交代していました。
 宥睨は生駒家から得た寄進地を、幕府の朱印地に格上することに成功したわけです。そういう意味では、宥睨が金毘羅山に果たした役割は大きく「金毘羅山の大恩人」として、江戸時代に書かれた書物では大きく評価されることになります。それが宥睨の実家である
山下家が金光院住職の地位を世襲化することにつながるようです。

以上をまとめておきます。
①近世初頭の 象頭山は、さまざまな宗教施設の混淆状態にあった。
②そこに長尾家出身の僧宥雅が、守護神として金毘羅神を造りだし、そのお堂を建立した。
③長宗我部元親はこの地を占領すると、土佐から有力な修験者を招き、松尾寺の管理運営を任せた。
④こうして、金毘羅は丸亀平野の拠点宗教センターに改装された。
⑤当時の松尾寺は、天狗信仰の修験者たちの拠点で、彼らがいくつもの院坊をもち管理するようになった。
⑥その中で最も有力になったのが宥盛の金光院であった。
⑦金光院は、生駒家に姻戚関係をもつ院主の元で寄進地を次々と増やして行った。
⑧生駒家転封後の高松藩初代藩主・松平頼重は、金光院への保護を継続した。
⑨松平頼重によって、金光院の寺領は朱印地となり、その領主として金光院が認められた。

こうして見ると、近世初頭に流行神としてして登場した金毘羅神が急速な成長を遂げるのは、長宗我部元親・生駒藩・松平頼重という支配者達の保護を受けてきたことが大きな要因であることが分かります。
ここからは金毘羅信仰を「庶民信仰」として捉える従来の考えに対する疑問が生まれてきます。時の支配者の寄進・保護を受けて経済基盤を調え、伽藍整備を行い、その後に庶民達がやってくるようになったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最終改訂2024/01/12
町史ことひら

参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~
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 前回までは、戦国末の天正年間に金毘羅大権現の基礎を確立した宥盛の手腕について見てきました。その中で疑問に思ったのは、生駒藩が金毘羅に、度重なる寄進をおこなった理由です。その背景にあったものを探ってみることにします。
そこには、オナツという女性の存在が浮かび上がってきます。
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生駒家の讃岐入国 父親正と子一正
天正十五年(1587)8月、前任の仙石氏・尾藤氏が一年にも満たない間に改易された後に、讃岐国領主として入ってきたのが生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子です。この生駒家の下で讃岐の国は戦国時代の荒廃から抜け出す道を歩み出していくことになります。次の戦いに備えて、引田・高松・丸亀の3つの城の造作が進められます。そのような国づくりの中で、関ヶ原の戦いを迎えることになります。生駒家も「生き残り戦術」として信州の真田家と同じように、父親正が豊臣方へ、子一正が家康方につき戦うことになります。結果は豊臣方の敗北で、父親正は蟄居を余儀なくされ、実権を握った一正は戦後に丸亀城から高松城に拠点を移し、新しい国づくりを継続していきます。

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一正の愛したオナツとその子左門
 一方、男盛りの一正は讃岐入国後にオナツ(三野郡財田西ノ村の土豪山下盛勝の息女)を側室としていました。オナツは一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになり、元服後に腹違いの兄・京極家第三代の高俊に仕えることになります。寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
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それでは、オナツと金毘羅を結ぶ糸はどこにあったのでしょうか?
   それはオナツの実家である財田村の山下家に求められます
山下家は戦国時代に一条家(現四万十市)に仕えていた武将のようです。主家の一条家が長宗我部元親に滅ぼされた後に財田にやって来て、勢力を養ったようです。財田において長宗我部と戦ったとの言い伝えが残っていないことから、親長宗我部派であり、土佐軍と共にやって来て「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつと考える研究者もいるようです。とにかく戦国の世を生き抜いた財田の武将・山下盛郷が山下氏の始祖でになるようです
 山下家の二代目が盛勝(オナツの父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久でオナツの兄です、父と同様、郷司となり西ノ村で知行200石支給されます。しかし、彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この盛光の息子が宥睨です。宥睨は、宥盛死後にその後を継いで金毘羅の院主となります。
つまり、生駒藩の殿様である一正の寵愛を受けるオナツと、当時の宥睨は姻戚関係では「甥と叔母」という関係にあったわけです。
宥睨の弟・盛包は兄宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)ごろに、河内村の屋敷を引き払って金毘羅の門前町に移ってきます。この家が金光院住職里家の大山下となります。そして、後には山下家が金光院院主の座を世襲していくことになります。
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オナツの甥・宥睨を支える血脈の形成
こうして慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨には、出里の山下家の叔母オナツを中心とする心強い「応援団」がいたようです。そのメンバーを確認しましょう。
生駒藩では一正は慶長十五(1610)年に亡くなっていますが、
①一正の未亡人オナツ
②オナツの息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門、
③一正との間に生まれていた息女、
④③の息女の夫生駒将監
⑤③と④の長男生駒河内
など山下家ゆかりの人が大きな権勢を誇っていた時期なのです。これが金毘羅への度重なる寄進と後援につながったようです。
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 山下家の宥睨と宥盛の関係は?
宥盛(在職慶長五年~十八年)は、金毘羅大権現の基礎を築き、象頭山の守護神・金剛坊として奥社に祀られている人物ですが、宥睨とも姻戚関係がありました。それを見ておきましょう。
 宥盛の父は井上四郎右衛門家知といい、生駒家家臣で東讃川鍋村で四〇〇石を知行していました。宥盛が出家したので弟である井上家之が跡を継ぎますが、天和元年(1618)大坂夏の陣で討死にしてしまいます。弟・家之の妻は、三野郡詫間町の山地右京進の娘です。そして、その姉は詫間の山地家からオナツの弟の盛光のもとに嫁ぎ宥睨を産むのです。
 なかなかややこしいのですが、宥盛にとって宥睨は「弟の妻の姉の息子」という義理の甥関係になるのでしょうか。どちらにしても、両者には婚姻関係があります。このような姻戚関係も宥睨が金光院住職となる際には、力を発揮したのかもしれません。もちろん、オナツを通じての生駒家の後押しが金毘羅に対してあったはずです。
 同時に、宥盛も宥睨の背後にあるオナツを中心とする山下家の「血」の力に「期待」していたはずです。それに応えるだけの成果を、挙げたからこそ宥盛は次期院主に宥睨を指名したのだと私は思います。
 
DSC03191
さて、生駒藩の寄進時期とオナツのに関係する事項を並べて、
        「色眼鏡」をかけて見てみましょう
天正15年(1587)8月、生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子が入国。
天正15年(1587)生駒親正、松尾村20石寄進。
天正16年(1588)生駒一正、榎井25石寄進。
天正17年(1589)生駒一正、小松村5石寄進。
         一正がオナツを側室とする。
慶長 5年(1600)オナツが実家(財田西ノ村)で一正の子・左門を出産
慶長 5年(1600)生駒一正、院内31石寄進。関が原の戦い
慶長 6年(1601)生駒一正、金毘羅42石寄進。
   生駒一正、三十番神社改築。
慶長 8年(1603)観音堂改築 丸亀城竣工。
慶長12年(1607)生駒一正、高篠村30石、真野10石、買田村10石、真野5石寄進。
慶長15年(1610)一正死亡 正俊が生駒家継承
慶長18年(1613)オナツの甥・宥睨が金光院の住職就任(以後32年間)
慶長18年(1613)生駒正俊、寄進状。
元和 4年(1618)生駒正俊、院内73石、苗田村50石、木徳村23石、寄進。
元和 6年(1620)生駒正俊、鐘楼堂建立。
この頃、オナツの産んだ左門は、腹違いの兄の京極家第三代高俊に仕えるようになる。
元和 7年(1621)正俊が36歳で死去 生駒高俊が幼くして継承、五条村へ100石寄進。
元和 8年(1622)生駒高俊、寄進。合計330石となる。
寛永17年(1640)お家騒動(生駒騒動)発生、生駒家は出羽国矢島へ配流
     (1645)金光院院主 宥睨死亡
①第1期は、天正年間です。生駒家の入国の天正十五(1587)年1月24日から始まり、3年連続します。田地の所在場所は、松尾村・江内村(榎井村)・小松村と象頭山の山麓のかつての小松庄に集中します。しかし、これは国内安堵のためであり、他の神社仏閣と比べて飛び抜けているという印象は受けません。
②第2期は、慶長年間前半です。関ヶ原の戦の後に集中します。これは、一正が実権を握り戦勝への御礼と「オナツの男 子出産祝い」ではないでしょうか。この辺りからオナツの意向を感じます。
③第3期は、慶長年間後半です。オナツからの宥睨への「院主就任祝い」ではないでしょうか。
④第4期は、元和年間です。第三代の正俊が急死した後の、弔意の性格と同時に、オナツにすれば息子左門が元服し 家禄に付くことが出来た返礼もこめられているのでは?
以上、私の大胆な推察(独断)でした。
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改めて生駒家の寄進高を見て思うのは?
①生駒家の金毘羅に対する330石という寄進は、ずば抜けて多くトップです。
②2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石で、これは三好実休の時代からの寄進で例外的です。
③3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石です。
④国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院でも60石程度。
⑤仙石家からは100石の寄巡をうけていた白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥以下、屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの金毘羅神に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツの力もあったのでしょうが、それだけで説明できることはできなようです。

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参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~

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象頭山にあった松尾寺の守護神は、もともとは三十番社だったとされます。
金毘羅権現の創生期を考える時に、三十番神の存在を避けて通るわけには行かないようです。ということで、今回は三十番神と向き合うことにします。
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江戸時代中期に書かれた「箸片治良太夫日記」という記録があります。
これは「象頭山内五家之神職」、つまり、五人百姓の一つである箸片家の日記です。箸片氏は、御寺方と称し象頭山内で神職の地位にあり、神前において箸一本を得たので箸片氏と改めたと記されています。この中に、つぎのような記事があります。
 御寺方之事 往古依神代古式以神職付山内故云御寺方 
 明応六年秋山土佐守泰忠 三十番神奉勧請使加祭御八講  
明応六年(1497)、秋山泰忠が三十番神を勧請して御八講の神事を始めたというです。
讃岐の日蓮宗は正応二年(1289)に秋山泰忠が日華を招いて、那珂郡杵原郷(現丸亀市)に本門寺大坊を建立したことに始まります。同寺は焼失した後は、日仙が正中元年(1324)に三野郡高瀬郷(現)に本門寺を建立します。秋山氏は所領など関係をもっていた那珂郡の柞原などの讃岐内の七か所に日蓮宗の三十番神を建立したといいます。その一つが、この史料の象頭山の南嶺の三十番神なのでしょうか。
 法華宗信仰は、祖先や由縁の人々を供養する法事として、平安時代以降広く一般民衆の中に深く根を下ろしていきます。小松荘の墓寺としての機能を果たしていた松尾寺に法華経講会が行われていても不思議ではありません。
 しかし、鎌倉末期の泰忠と箸方氏の泰忠とは、時代の差に二百年の隔たりがあります。ただ、秋山氏を先祖とする法華経信者集団の信仰行事であると考えることはできます。つまり、秋山氏の讃岐の祖先で、讃岐における法華信者の大恩人としての秋山泰忠を担ぎ出したのかもしれません。
 あるいは、明応六年の15世紀末に、番神社が再興(創建?)されたことを示す物かもしれません。いずれにしても、この象頭山の地でも法華信仰に伴う八講の法会は、死者への追善供養のために行われ、とくに、墓寺や氏寺では、氏人らの回忌ごとに盛んに行われていたようです。
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  それでは、守護神である三十番社とは何者なのでしょうか。
古代末から中世には「神が仏を守る」ということが始まります。
その先駆けは八幡信仰です。九州の八幡神が東大寺造営の際に守護神として勧進されたのをスタートに、八幡神は寺院の境内の中に守護神として「勧進=移住」してきます。こうして「仏を守る守護神」たちが姿を変えて、寺院の境内に姿を見せるようになります。それは「神は仏の姿を変えたもの インドの仏が日本では神に化身して現れる」と神仏習合へと進むようになります。
 番神は、最澄が中国の唐から帰り、比叡山に天台宗法華経の道場を開いた時、その山門を守護してもらうため、これまで日本にあった神々を祭ったことに始まるといいます。
 「三十番社」の画像検索結果  
続いて円仁は、法華経の功徳は「授持・読誦・解説・書写」にありといって、法華経の経典を人に授けたり、持っていたり、唱えたり、解説したり、書写したり、そのどれか一つを行っただけでも仏の功徳を受けることができると説きます。円仁自身も法華経八巻約七万字を越える経典を三ヵ年かかって写経し、これを如法経と呼びます。この写経を安置する堂を比叡山横川に造って根本如法堂として、この法華経の守護を神々に願います。

番社神の神像の一部
 そして日本国中から主な神々三十神を勧進して祀り、一ヵ月三十日を一日交替で守護するようにしました。三十の神々が順番に守護するから、三十番神と呼ばれるようになります、現在で比叡山では、根本道場の横川如法堂の隣に鎮座して、法華経を守護しています。
 鎌倉時代に出た日蓮は、法華経を最高の経典と定め、その教えを実践し布教することが真実の道だと説きます。そのためには、まず日本の国の神々に加護を願わねばならぬと考えるようになります。こうして、法華経とともに大小の神々を祭るという思想が発展します。
三十番神像
厨子に入れられた三十番社神 
長崎県島原市の護国寺

丸亀市の田村町にある番社を訪ねてみましょう。 
丸亀城の西側の田村町の旧国道沿いの道路の北側に面して鳥居が立っています。
これが番神宮です。ここの三十番神は、木像で、五体七段の35体が厨子に祀られています。それぞれ厚畳の上に座る神像で、一体の高さは約七㎝と小さいものです。
最も下の段は、両端に一体ずつの衛士、中央の三体は向かって右から、一日の熱田大明神、三日の広田大明神、四日の気比大明神であり、最上段は向かって右から、十日の伊勢大明神の座像、大日天王の立像、中央は大明星天王の立像、大月天王の立像、左端は十一日の八幡大菩薩の僧形座像です。最上段のこの五体を特に五番神と呼ぶようです。
 厨子には「開眼主 慧光山本隆寺日政(花押)」と記されています。
日政は弘化四年から嘉永三年まで本隆寺貫主として四ヵ年在職していますが丸亀を訪れたという記録はありません。この神像は京都の仏師によって作られ、日政によって開眼された後に丸亀へ祭られたものではないかと考えられています。田村の番神さまは、江戸末期の天保から弘化のころまでに作られたもののようです。
 ちなみに、京極藩は藩主とともに家臣にも番神信仰が厚かったようです。
三十番神の全像(祭壇の中)
 それでは日本中から勧進された三十の神々を見てみましょう
一日 熱田大明神 愛知県名古屋 衣 冠
二日 諏訪大明神 長野県諏訪 狩人姿
二日 広田大服神 兵庫県西宮 黒束帯
四日 気比大明神 福井県敦賀 衣 冠
五日 気多大明神 石川県羽咋 黒束帯
六日 鹿島大明神 茨城県鹿島 神将姿
七日 北野天神  京都府葛野 衣冠
八日 お七大明神 京都府愛宕 唐 服(女神)
九日 貴松大明神 京都府愛宕 鬼神形
十日 伊勢大明神 三重県伊勢 黒束帯
十一日 八幡大菩薩 京都府鳩峰 僧形
十二日 賀茂大明神 ″ 愛宕 黒束帯
十三日 松尾大明神 ″ 葛野 黒衣冠
十四日 大原野明神 乙訓 唐 服(女神)
十五日 春日大明神 奈良県奈良 鹿座
十六日 平野大明神 京都府葛野 黒束帯
十七日 大比叡大明神 滋賀県滋賀 僧形
十八日 小比叡大明神 滋賀県滋賀 大津 白狩衣
十九日 聖真子権現  滋賀県滋賀 僧形
二十日 客人大明神  滋賀県滋賀 唐服(女神)
二十一日 八王子大明神 滋賀県滋賀 黒束帯
二十二日 稲荷大明神 京都府紀伊 唐服(女神)
二十三日 住吉大明神 大阪府住吉 白衣老形
二十四日 祇園大明神 京都市八坂 神将形
二十五日 斜眼大明神 京都府談山西麓 黒束帯
二十六日 建部大明神 滋賀県瀬田  ″
二十七日 三上大明神 滋賀県野洲  ″
二十八日 兵主大明神 滋賀県兵主 随身形
二十九日 苗鹿(のうか)大明神 滋賀 唐 服(女神)
三十日  吉備大明神 岡山県岡山 黒束帯
「日本中から集めた」といわれますが、殆どが畿内で、最も東が鹿島大明神(茨城県鹿島)、もっとも西が「吉備大明神」(岡山県岡山)のようです。東北・九州・四国からは一社も呼ばれていないようです。当時の「世界観」の反映なのかなと思ったりもします。
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「金毘羅大権現神事奉物惣帳」 伝宥範書写の神事記について
この文書は、冠名に「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも、適当ではなく、『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。
また「右件の惣張(帳)者、観慮元年己未十月日於讃屈仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢」とありますが、書き込みや年号などの検討から善通寺中興の祖である宥範が松尾寺に関係したかは疑わしいと研究者はしています。
 ここに記載された神事の主体は、法華八講にかかるものです。また、江戸時代以降の金毘羅大権現の大祭の儀式も、その頭人名簿のことを「御八講帳」と呼んでいます。さらに、精進屋の祭壇の後ろに掲げられる札にも「奉勧請金毘羅大権現御八講大頭人守護所」と書かれているなど、中世の法華八講の系譜を引くものです。

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 諸貴所宿願状は第一丁から第八丁までの料紙に記載された事項です。
ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前を書き、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。それらの家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えるなど、当時のこの地域を支配する国人・土豪クラスの領主などと比定することができます。
 家名の順序は、地頭方の地頭、地頭代官、そして、領家方の面々となっています。
つまり「実態」があるのです。このことからこれらが、祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示していると見られます。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれている。内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。
  以上から、この史料は宥範が写したものというのは疑わしいようですが、16世紀前半ころに小松庄の三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことを示すものです。
  その祭事を、戦国末に金比羅堂を建立し、金比羅信仰を創出した初期の指導者である宥雅・宥盛は、三十番社から金比羅大権現の祭事に「接ぎ木」したということです。

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琴平の地元では、こんな話がよく言われます
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。
金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。
そこで三十番神が承知をすると、大権現は、三十番神が横を向いている間に十の上に点を入れて千の字にしてしまった。
そこで千年もの間借りることができるようになった。」
この種の話は、金毘羅特有の話ではなく、広く日本中に分布するです。重要なポイントは、この説話が、旧来の地主神と、飛来してきたり、後世に勧請された新参の客神との関係を表現するものであることである。つまり、三十番神が、当地の地主神であり、金毘羅神が客神であるという事実を伝えているのです。
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 現在、三十番神社は金刀比羅宮本社の左方に鎮座し、睦魂神社とされています。
金毘羅会式の祭礼日である十月十日には、今でも頭人が本社に参詣の後、この社に奉幣するのだといいます。三十番神社の存在は、金毘羅会式の頭人たち、すなわち、小松庄における中世以来の宮座を組織し、祭事を担ってきた人々の後裔たちにとって三十番神社拝礼は、特別の意味をもっていたはずです。そうした過去の伝統に対して畏敬の念を示すものであり、かっての儀礼・作法の残照と言えるのかも知れません。そして、これは、永く三十番神の祭礼として興行してきた「法華八講」の法式を金毘羅権現の祭礼として取り込んでしまったことへの鎮魂のセレモニーかもしれません。
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 土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入する直前に、金刀比羅のお山に新たに金毘羅神を招き金刀比羅堂を建立したのは宥雅でした。とすれば、彼が金毘羅大権現の「創始者」とされてもいいはずです。しかし、彼は正史から「抹殺」され、忘れ去られた存在になっていました。
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宥雅の出自や業績については、下記で紹介しました。詳しくはこちらをご覧ください
金比羅信仰 宥雅はどのようにして金毘羅神を登場させたか
 
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宥雅の業績を「まとめ」ると
 ①西長尾城主の甥(弟)で、一族の支援の元に金比羅大権現を松尾寺の新しい守護神に据え、金比羅堂建立したこと。
 ②滝寺の十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神の創出
 ③金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作したこと
 ④「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神(クンピーラ)を結合工作したこと。
 ⑤三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用したこと
 ⑥金光院を松尾寺から金比羅大権現の別当に付け替えたこと
 ⑦以上の大改革の推進中に、長宗我部元親が丸亀平野に侵入。長尾氏の一族であった宥雅は難を避けて、宝物を持って泉州堺に「亡命」したこと。
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どうして宥雅は、弟弟子の宥盛を訴えたのか?

1600年 関ヶ原の戦いの年に、長宗我部元親が院主に据えた宥厳が亡くなり、宥盛が新しい院主になります。これに対して、堺に亡命中だった元住職の宥雅は、自分が正統な院主であると訴訟を起こします。土佐の長宗我部の勢力も消滅し、自ら築き上げた金毘羅堂を取り戻すための反撃を開始したのです。その矛先は、金光院住職を継承した弟弟子の宥盛に向けられます。
 慶長十二年(1607)5月吉日、宥雅が、生駒藩の奉行に訴状を提出し、宥盛の非法を訴えました。その訴状の内容は
第一は、宥盛は金光院の「代僧」で、正式の住職ではない。
第二は、宥盛が金光院下坊を相続したとき、その時の合力の報酬として(毎年)百貫文ずつ宥雅に支払することの約束を履行しない。
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第一の争点については、宥雅は金光院前住の立場から、宥盛の不適格性を指弾します
そして、自分こそが金比羅の主としてふさわしいとするのです。
これに対して、宥盛は生駒藩奉行へ申し開きの書状「洞雲(宥盛)目安申披書」を提出して反撃します。
 「洞雲(宥雅)拙者を代僧と申す儀 毛頭其の筋目これ無く候。(中略)
土佐長宗我部入国の節 おひいだされ落墜仕り、
其の後仙石権兵衛殿当国御拝領の刻、落墜の質をかくし、
寺をもち候はんとは候へとも、当山はむかしより、
清僧居り候へば、叶はざる寺の儀二候ヘ、
落墜にて居り候儀其の旧例無く候故、堪忍罷り成らず候二付き、拙者師匠宥厳二寺を譲り
 まず冒頭に、宥雅が「拙者を代僧と申儀」、末尾に「拙者師匠宥厳二寺を譲り」とあります。ここからは宥雅は、長宗我部元親さえいなくなればいつでも帰山できると考えていたことがうかがえます。だから、宥厳の後嗣である宥盛を「代僧」ともいったのでしょう。長宗我部退却後の生駒藩になっても帰山が許されないとわかってはじめて、宥雅は宥厳に松尾寺を「譲った」と思われます。
 これに対して宥盛は「代僧」については、その筋目(根拠)のないこと、洞雲(宥雅)は金毘羅下の「そくしやう」の者、つまり俗姓の者でもなく、少しの間金光院住であったものの長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転するなどの悪行を重ねたことを挙げて、反論します。
また、長宗我部退却後の仙石氏入国の際には、寺を捨て「亡命」したことを隠して、金比羅に還ろうとしたが許されなかったこと、その結果、宥雅は松尾寺・金比羅堂の二寺を宥盛の師である宥厳に譲ったこと。その上で、宥盛自身が、生駒雅楽頭親正から承認された正統な住職であることを主張します。
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 ここには、宥雅が金比羅神創出に係わったことは、一言も触れられません。
これが、後の金比羅側の宥雅像になり、後世の記録から抹殺されることにつながっていくようです。別の面から注目しておきたいのは
長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転

とあり、宥雅が一族の長尾氏とともに反長宗我部勢力側に立って金比羅のお山を「武装化」していたこともうかがえます。
  第二の件は、下坊(=金毘羅堂)をめぐる契約不履行の問題です。
「中正院宥雅証文」で宥雅は次のように記します
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。然れ共今程は前々の如く、神銭も御座なき由候間、拾貫ツツニ相定め候間、此の上相違有る間敷く候」
宥雅が下之坊(金比羅堂)を譲ったときに毎年銭百貫ずつもらう約束をしていた。が、下之坊が別当する神殿の寞銭が、その後は前ほどでなくなったので十貫ずつで辛抱することになった。ところがこれも宥盛は守らない」とあります。
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。」

ここからは宥雅は、長宗我部元親撤退後の仙石氏の統治下においても、金毘羅への帰還が認められなかったために、宥厳に下の坊を譲ったことがうかがえます。下之坊が別当する神殿といえば「金毘羅 下之坊」ですから、宥雅が建立した金毘羅神殿のことと考えられます。
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宥雅はこの訴訟に先立つ16年前の天正十八年(1590)に、宥盛に督促状を送っています
そこには「下坊=金比羅堂」の管理権のことが触れられています。もともと金比羅堂は長尾一族の支援を受けて宥雅が新たに建立したものです。そこで「所有者」の宥雅が亡命した後の管理が問題になります。宥雅との交渉を行ったのが、弟弟子にあたる宥盛だったのではないでしょうか。
 宥盛は、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った別当の宥厳の権勢が衰えかけた頃に、高野山から讃岐に帰り、宥厳を補佐するようになります。仙石氏や生駒氏との信頼関係を築き、寄進石高を増やす中で、宥雅との交渉を進めたと私は考えています。
 そして、「合力」として毎年百貫ずつを宥雅に送るという「契約」を結んだようです。宥雅は「神銭不足の折から十貫に値下げ」されたのに、その約束さえも守らずらないと宥盛を責めています。
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 これは、推察すると宥雅と宥盛の間には、「密約」があったと研究者は考えているようです。
つまり毎年百貫の銭を送る以外に秘密協定として
宥厳の後は、宥雅が院主の座に返り咲く。

といううものではなかったのでしょうか。
 ところが、宥盛はこれを守らなかった。宥盛自らが院主の座につき、約束の銭も送らなかった。つまり宥雅からすれば、弟弟子に裏切られ、金毘羅の山を乗っ取られたということになります。
 宥雅は、コネをつかって自らの主張、すなわち金光院へ帰還を遂げようと工作します。
年未詳八月八日の生駒讃岐守一正書状によると、宥雅は、豊臣秀吉の時代にも大谷刑部少輔吉継や幸蔵主など秀吉の側近・奥向き筋を利用して、その旨を陳情しています。しかし、その結果は「役銭の出入りばかり」色々いってきたが一正の父親正は承引しなかったと記されています。

 
さらに、宥雅は、宥盛の「かき物」(その旨の契約状)を堺から取り寄せ、証拠書類として提出することも書き加えています。
そして、この証文通りにしないのなら
「愛宕・白山の神を始め、「殊二者」金毘羅三十番神の罰を蒙であろう」
と脅しています。修験者らしい台詞です。ちなみにこの時に宥雅が集めた「証拠資料」が、後世に残りこの時代の金毘羅山の内部闘争を知る貴重な資料となっていることは先述したとおりです
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   訴訟の結果は、どうだったのでしょうか?
宥雅の完全敗訴だったようです。しかも、宥盛の言い分によれば
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。
(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」
と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
これらの内容は、後世の金毘羅史諸本の説く「金比羅堂建立者」としての宥雅の所業とは、かなり違っています。ちなみに宥雅の宥盛を非難しての物言いは「彼のしゅうこん(秀厳=宥盛の房号)いたつら物」、すなわち、悪賢い者といっている程度です。
 それに比べて宥盛の宥雅に対する反駁の形容詞は猛烈なまでに辛辣な表現です。ここには、以前にも述べた宥盛の「闘争心」が遺憾なく発揮されているように思えます。
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 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。まさに金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしいとされ、後の正史には「創始者」として扱われ、彼は神として現在の奥社に祀られます。
 一方、金毘羅神を創出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
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参考文献
唐木 裕志   讃岐国中世金毘羅研究拾 
 

戦国末期の天正時代の讃岐琴平のお山は、カオス状態でした。
松尾寺とそれを守護する三十番社という関係に対して、長尾氏出身の宥雅が新たな守護神金比羅神が創りだし、金毘羅堂を建立します。ところが、そこへ土佐の長宗我部元親が侵入し讃岐を平定、琴平のお山の大将になります。金比羅神を創りだした院主の宥雅は、これを嫌って泉州堺に亡命。そこで、元親は従軍ブレーンで陣中にいた南光という修験者(山伏)を宥厳と改名させ、この山の院主に据えます。こうして元親支配下において土佐修験道グループによるお山の経営が始まります。
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讃岐平定を成就した返礼に、元親は三十番社を修復し、松尾寺に仁王堂(現在の賢木門)を寄進建立します。これが1583(天正11)年10月9日のことです。当時の象頭山のお山には、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の社やお堂が並立状態だったのです。つまり「お山はカオス」状態だったともいえます。
 元親は、四国平定を成し遂げて、この山を「四国の総鎮守」として保護していくつもりだったのではないかとも思えてきます。征服者としてやってきた自らの支配の正当性を創りだしていく宗教センターとして機能させていくという意図も見え隠れします。
 しかし、元親の支配はわずか数年で終わりを告げます。秀吉という巨大な存在が、元親の野望を吹き飛ばしてしまします。元親は土佐一国の主として、讃岐を去ります。お山の院主であった宥厳は、元親という保護者を失います。そして、お山を発展させるために、新たな統治者との良好な関係を結ぶという難しい舵取りを担うことになります。
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  第2代別当の「宥巌」について見ておくことにしましょう
 宥厳はもともは南光院と呼ばれ、補陀落渡海の行場として有名な足摺岬で修行を積んだ土佐の当山派修験のリーダーでした。長宗我部元親の讃岐遠征に従軍ブレーンとして参加し、無住となった琴平山の院主に任命され、創生期の金比羅堂の発展に大きな役割を果たしていくことになります。彼の業績として挙げられるのは2つあります。
 ひとつは、修験の山へと大きく舵をきったことです。
彼は先ほど見てきたように、土佐の足摺周辺で修行を積んだ修験者でした。そして、松尾山(現象頭山)も善通寺の奥の院であり、修験者の行場でした。長宗我部元親から与えられて松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、宥厳は四国の行場の新たな中心地としていくことを目指したのかも知れません。これは、次の院主となる宥盛にも引き継がれていきます。こうして近世初頭の金毘羅さんは修験道の山になり、天狗信仰の中心地として知られるようになってきます。その契機は宥厳の登場にあったと私は考えています。
 もう一つの業績は、松尾寺の宗教施設の中心を「金比羅堂」にシフトしたことです。
 以前にも紹介したように羽床雅彦氏は、松尾寺の宗教施設は西長尾城主の甥である宥雅が、長尾一族の支援を受けて新たに建立したものであるとして、つぎのような建立年代を提示しています。
1570年 宥雅が松尾山麓の称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立
1573年  四段坂の下に金比羅堂建立
金比羅堂は、松尾寺本堂の守護神として宥雅が建立したものです。
神仏混淆信仰のもとでは、「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。そこで、宥雅は力強いインド伝来の蛮神を創造してます。それは、神櫛王の悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったのです。この神は宥雅が創ったのですからそれまでいなかった神です。まさに特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者や天狗信仰者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。
 これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きな「特徴」です。これは、讃岐にやって来る藩主への売り込みの際のセールスポイントになります。しかも、宥厳は長宗我部元親から「四国鎮撫の総本山」の使命を、松尾寺にもたすように使命づけられていた節があります。そうだとすれば、そのために培っていた手法を、新たに讃岐の藩主としてやって来た仙石氏や生駒氏・松平氏に使っていけばいいことになります。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺という一般的な宗教施設ではなく、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が得策と判断したのではないかと私は考えています。松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に行われたようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。

 しかし、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことは後の金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。
後の記録は宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600(慶長5)年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。
 さて、親方であった元親が去った後、新しい支配者に宥厳は、どのように向き合ったのでしょうか。しかし、このテーマに応えるのは資料的に難しいようです。
先ほども述べたように「宥厳は元親敗退後は隠居」というのが正史の立場ですので、宥厳は表には登場しないのです。残っているのは寄進状ばかりです。しかし、寄進状が増えていくと言うことは、新領主とのいい関係が結べているということなのでしょう。

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  宥厳の時代に金毘羅山にもたらされた寄進状を見ていきましょう。
讃岐の新たな領主として秀吉が送り込んできたのは仙石秀久でした。彼は、秀吉が羽柴隊(木下隊)と呼ばれた頃からの馬廻衆で、最古参の家臣として寵愛を受けてきた武将です。秀久は天正13年(1585年)7月、四国攻めの論功行賞により讃岐1国を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)に入城します。
この直後の八月に秀久が松尾寺へ出した禁制が金毘羅宮に残っています。
  小松内松王寺(松尾寺)
 一当手軍勢甲乙人、乱妨狼籍の事。
 一山林竹木を伐採の事。
 一百姓に対し謂れざる儀、申し懸ける族の事。
  右条々、堅く停止せしめ吃んぬ。
若し違背の輩これ在るに於いては、成敗を加うべき者なり。価って件の如し。
    天正十三(1585)年八月十日  秀久(花押)
 まず、宛先が金比羅堂でも金光院でもありません。
「小松内松王寺」となっています。小松庄の松尾寺とです。ここからは、当時のお山の代表権が松尾寺にあったことを示します。ちなみに、長宗我部元親の仁王門も松尾寺への寄進でした。内容的には、松尾寺境内での不法行為の禁止を命じたもので、新領主が領内安堵のために出す一般的な内容です。続いて、仙石秀久は、
①1585年十月 10石を「金毘羅」へ寄進、
②1586年二月 「金比羅」に社領として三〇石、
 「金ひら 下之坊」に寺領として六条(榎井村の内)で三〇石」を寄進しています。
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寄進先名が「松尾寺」から「金毘羅」へ変化しています。
寄進先の「金毘羅」・「金比羅」は金毘羅大権現です。
「下之坊」は金毘羅神殿の別当、つまり金光院のようです。
ここでは、松尾寺・三十番社・金毘羅堂の並立状態から金毘羅が大権現として、抜け出してきたことをうかがわせます。その渦中にいたのが金光院の宥厳だったのではないでしょうか。

仙石秀久との信頼を得たかのように思えたのもつかの間でした。
翌年天正14年(1586年)、九州征伐が始まると、仙石秀久は先陣役として派遣される事になった四国勢の軍監に任命され、長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海して豊後国の府内で島津軍と対峙します。この時の四国勢は、前年までは激しく敵対しあったもの同士の「呉越同舟」の混成軍で、さらに長宗我部氏は四国攻めの降伏直後という状態で、結束に乏しかったようです。
 さらに冬季の渡河作戦という無謀な戦術の結果、戸次川の戦いで大敗北を帰し、無断で讃岐へ退却してしまいます。これに対して秀吉は大激怒。讃岐国を召し上げ、秀久に対しては高野山追放の処分を下したのです。 こうして仙石秀久の讃岐支配は一年も経たないうちに幕を閉じたのです。

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次に讃岐の領主として入封してきたのは生駒親正です。
親正も、先の支配者の元親や秀久に習ってこの山を保護します。入封翌年の天正16年(1588)正月に、
「中群小松郷内松尾村に於いて、高弐拾石末代寄進申し候上は、全く御寺納有るべき者なり」

と、まず二〇石を寄進しています。その、宛先は松尾寺でなく金光院です。以後生駒家からの寄進状等はすべて金光院宛です。金光院は元々は松尾寺の別当でした。それが、宥厳の下で金毘羅大権現の別当に「転進」して、その地位を確立しつつあったようです。
以後の寄進を見てみると、生駒家からの信頼を
天正16(1587)年 榎井村で五石が寄進されて計25二五石、
天正17(1589)年 小松村の興田(新田開発地)五石が寄進。
慶長 5(1600)年 関ケ原合戦後に「松尾御神領」として、22石を「院内」において寄進している。
慶長 6(1601)年 社領四二石五斗が「寺内」で与えられた。
  宥厳は、長宗我部元親の配下の土佐出身の真言密教修験者でした。
そのため元親後も、琴平の山に院主として留まることについては、山内の各勢力から強い批判の目が向けられたようです。それを裏付けるように「正史」においては、「宥厳は元親退去後は引退」したと記されています。そのような中で宥厳の右腕として活躍するのが宥盛です。
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  金毘羅大権現の基礎を固めたと宥盛とは?     
金剛坊宥盛(金剛坊が修験の号)は、高松川辺村の400石の生駒家家臣・井上家の嫡男で、高野山で13年間修業を経ている真言僧です。その実績を認められ、高野山南谷浄菩提院の院主を勤めていました。弟・助兵衛は後に生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命します。また、長宗我部元親の侵入に際して、堺に「亡命」した金光院院主の宥雅の法弟にあたるようです。
 天正十四年に、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った金光院別当宥厳の勢威が衰えかけたころに讃岐に帰り、金光院に仕えるようになります。そして苦境にあった宥厳の右腕として、仙石秀久や生駒一正との関係を取り結んでいくために活躍します。慶長5年に宥厳死後の跡を受けて別当となり、同18年に死去するまでの13年間は、金毘羅大権現の基礎が確立した時代です。

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宥盛が直面した課題とは何だったのでしょうか?
  第1に金毘羅神の神格をはっきりとしなければなりませんでした。
簡単に言うと、寄進者や参拝者にから「金比羅神」とは何者?と聞かれた場合に、きちんと経典を根拠を据えて説明できるSTORYを用意するということでしょうか。これが後に、幕府や諸大名から「金毘羅神とは如何なるものか」と尋ねられた時に答える由緒書きになっていきます。
 ちなみに宥盛と同時代の林羅山は「本朝神社考」の中で、金毘羅神の神格論次のように展開しています。
最澄が比叡山に建立した日古山王明神、空海が醍醐山に建立した清滝明神、
丹仁が三井寺に建てた新羅神は、金毘羅神であり、素戔嗚尊父子である。
  前略 以上の諸文によってこれを見る時は、即ち金比羅神は、王舎城の毘冨羅山の神主にして、薬師十二神の中には第一なり、十六神の中には第二たり
と、その最後を結んでいます。この本は「金毘羅龍王、鰐龍王」について「水神」との関係も示しています。後に盛んになる金毘羅神を海上安全の神とする信仰は、教義的にはこのあたりから生まれてきたのかもしれません。
 宥盛の時代に定着したと思われる金毘羅大権現の由来書は、次のように云います。
 金毘羅大権現は三国応化の神にて、往古より当山に鎮座したまい、日本一社の神として、他に奥の院又別宮有ること曽てなし、釈尊説法の時に及て、竺上に往現し、
仏法を守護し給い、其後当山に帰り給い、則ち神廟の岩窟に鎮座し給うこと、
一社の神秘にして他に知ることなし、権現自ら木像を刻み給ひそ、内陣の神秘是れ也、代々の伝説によりて開扉すること曽てなし、且師伝の本地は不動明王にて、別当の密伝なり。
余に霊験数多くありといえども人の知るところゆえに略す。云々
 
 このような神格化の作業が出来るのも、宥盛が高野山で深い知識を身につけた学僧だからできることなのでしょう。宥盛は、その点では「知識人」でした。

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  第2に、三十番社との関係の調整です。
 松尾寺の守護神はもともとは三十番神でした。そこに宥雅によって新たなインドからの金比羅神が守護神として迎えられたのです。しかし、新しい神には信者集団はいませんし、祭りを執り行うことも出来ません。そこで、従来からある三十番社の祭りを、アレンジして金比羅神の神事に組み立てて運用する必要がありました。
 その「接ぎ木」作業を行ったのが宥盛だと考えられます。
①上頭人の侍者であったと思われる下頭に、上頭人とほぼ同格の地位を与えている点、
②神前にお供え物を運ぶ女を、女頭人に格上げしている点、
③神事関係の記録である「頭人勤人物帳」が、宥盛の時代から書き始められている点
 などから、神事の規式を宥盛が定めたことがうかがえます
定めただけでは、祭りは変わりません。運営する指導者達を説得・同意させなければなりません。そういう点では宥盛は、人々を動かす力を持っていたのでしょう
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  第3に、新興勢力の金毘羅神が発展していくための旧勢力との戦い
  金比羅堂を創建した宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命しました。
その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を訴えるのです。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた合力の金も送らない
称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。
④の「才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った」というのも、先ほどの三十番社の祭事を、金毘羅神の祭事に付け替えるという「大手術」に反対した「才大夫」を追い出したとも考えられます。
このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのでしょう。ここには、宥盛の自分の属する金光院を発展させるために闘争心を感じます。
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第4に宥盛は、修験僧(山伏)として優れていました。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、地域に多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も現在の奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデの行場で、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
  彼は、自らの姿を木像に刻みました。
それは「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり、山伏の姿で、岩に腰掛けた木像でした。
そして自らを「入天狗道沙門」と呼んだのです。

  彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
 特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
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見てきたように宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
 そして、彼は金毘羅神の創建者として、神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。

             長宗我部元親像2
長宗我部元親像
讃岐を征服した長宗我部元親は、支配者としてどのような統治政策をとったのでしょうか。
江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の記録は「天正の長宗我部元親の兵火により焼かれる」という記録で埋め尽くされています。それは、織田信長の「比叡山焼討ち」に対する「罵詈雑言」にも似ています。歴史を書く側の社寺勢力を、敵に回した結果なのかもしれません。「破壊者」のみの側面が強調されているようです。
元親の讃岐支配は、数年という短いものでした。
しかし、元親は新たな讃岐の支配者たらんとしての新たな統治策を打ち出していたことが明らかになっています。新しい時代を開いていくためには「スクラップ & ビルド」で、破壊が必要になる場合もあります。しかし、破壊だけでは新しい時代は生まれません。新たな創造が必要になります。それを織田信長は行ったということが、戦後は認められるようになり「破壊者」から「英雄」へと見方が変わっていきました。元親の征服者としての「新たな創造」とは、なんだったのでしょうか?
金毘羅山への元親の宗教政策を、そんな視点から見ていくことにします。
 阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
天正七年(1579)四月には、西讃守護代で天霧城主・香川信景は、戦わずして元親と和議を結びます。
 信景は、元親の次男の五郎次郎親和を娘の婿に迎えて、天霧城(多度津町)を譲り、形式的には隠居します。こうして、三豊・丸亀平野を睨む天霧城を戦わずして元親は手に入れます。そして「長宗我部=香川」同盟を形成します。これは、後の讃岐攻略を進める上で大きな役割を果たすことになります。讃岐の武将達は、最初は形だけの抵抗を見せ籠城をする者もいますが、多くの者は香川氏の斡旋を受けいれて元親の軍門に降ります。

土佐軍が丸亀平野に侵攻してきた時に、元親はどこに陣を敷いたのでしょうか?
まず考えられるのは、善通寺です。善通寺の近くには同盟関係を結んだ香川信景の居館や天霧山城が、近くにあります。天霧城攻防戦の時にも、阿波三好氏の本陣は善通寺が置かれました。しかし、善通寺は三好軍退陣の際に燃え落ちたとされます。その後は、江戸時代になるまで再建されずに放置されたままです。大軍を置くには不便なような気がします。
いくつかの歴史書には、琴平山の松尾寺に本陣を置いたと記されています。
それを裏付けるのが天正7年(1579)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を琴平山の松尾寺に奉納していることです。当時、松尾寺の建物群は無傷で残りました。長尾氏出身の宥雅によって建立されたばかりの観音堂も、金比羅堂も無傷で残っていました。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
彼の本家である長尾氏は、一戦を交えた後に元親に下ったようです。しかし、宥雅はそれよりも早く逃げ出しています。後に生駒藩主となる生駒親正が聖護院内桂芳院にあてた文書は次のように記します。

洞雲(宥雅の別名)儀、太閤之御時大谷刑部少輔等へ走入(亡命)

ここからは宥雅が秀吉重臣の大谷刑部少輔を頼って、泉州堺へ逃げ出したことが分かります。院主である宥雅がいなくなった無住の松尾寺に、長宗我部元親は入ったのではないでしょうか。

土佐の『南路志』の寺山南光院の項には、次のように記されています。


「元祖 大隅南光院、讃州金毘羅に罷在(まかりあり)候処、元親公の御招きに従り、御国(土佐)へ参り、寺山一宇拝領

意訳変換しておくと

元祖の大隅南光院は、讃州の金毘羅に滞在中に、元親公の招きを受けて、御国(土佐)へ参り、寺山一宇を拝領した

ここからは、南光院(宥厳)が元親に招聘されて、金毘羅(松尾寺)の院主を任されたことが分かります。つまり、元親の山伏ブレーンの宥厳(南光院)が松尾寺の院主の座についたのです。これが「元親による松尾寺管理体制」の始まりになります。こうして松尾寺では、元親の手によって伽藍整備が次のように進められます。
天正十一年(1583) 松尾寺境内の三十番神社を修造。
  棟札には、「大檀那元親」・「大願主宥秀」
天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定
天正十二年(1584)10月9日 元親の松尾寺仁王堂の建立寄進
先ほど見たように4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼の意味が仁王堂寄進には込められていたのでしょう。その棟札を見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

金刀比羅宮(松尾寺)仁王堂(二天門)棟札 (長宗我部元親奉納)

中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
右に 大檀那大梵天王長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王権大法印宗仁

その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城の香川氏を継いだ次男「五郎次郎」の名前も見えます。さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
「天正十二甲申年十月九日」という日付も気になります。
10月9日というのは、現在でも金刀比羅宮の大祭日です。金毘羅大祭は、もともとは三十番社に伝わるお奉りでした。それを、金比羅堂の大祭に取り込んだことは、以前にお話ししました。その大祭日を選んで、奉納されています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

裏側には「供僧」として榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったと研究者は考えています。しかし、よく見ると江戸時代に金光院に仕えることになる院とは違います。長宗我部時代と江戸時代では、一山の構成メンバーが替わっているのです。ここに記されているのは長宗我部元親によってしめいされた「土佐占領下のメンバー」だと私は考えています。
 さらに「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」と多度津や宇多津の鍛治大工と瓦大工の名が記されています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
なお一番下右に「当寺西林坊」とあります。金光院という名前はでてきません。
当時の松尾寺の中心院房は
西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
裏側左には、次のように記します。(意訳)

「象頭山には瓦にする土はないのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。
 研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。ここには「金毘羅」も金光院も登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 宥雅が松尾寺の観音堂に登る石段の北脇に、金毘羅堂を建てた元亀四年(1573)のことです。つまり、この時点では金比羅神はデビューから10年しか経っていないのです。知名度はまだまだない「新人」だったのです。この時点では松尾山の宗教施設の中心は松尾寺であったようです。元親の寄進先は、中心施設の松尾寺に向けられたとしておきます。

多宝塔
元禄年間には二天門は、薬師堂の前にあった

さて、仁天門の棟札をもう一度見てみましょう
二天門棟札 長宗我部元親
二天門棟札(讃岐国名勝図会)
棟札の表の檀那と願主に、研究者は注目します。
檀那は「大梵天王 長曽我部元親公」
願主は「帝釈天王 権大法印宗信」
「大梵天王」「帝釈天王」とは何者なのでしょうか?
古代インド神話では、次の三神一体です。
①創造を司る神ブラフマー 梵天
②維持を司る神がヴィシユヌ
③破壊を司るシヴァ神
ブラフマーは、宇宙の創造を司る「世界の主」であり、万有の根源を神格化した神です。これが仏教にとり入れられて梵天となり、釈尊の守護者とされるようになります。そして、梵天は帝釈天と対となって、釈尊のそばに侍するものとされます。梵天の住み家は、須弥山の上の天上で、人間界を支配する神として敬われ、諸天の中で、最高の地位にあるとされたます。
 一方、雷神インドラは帝釈天となり、梵天とともに釈尊のそばに仕えます。帝釈天も住み家は、須弥山上で、その帝釈宮に住みます。日本に伝わった帝釈天は、自然現象を左右する神であるとされ、雨を降らす神だとか太陽神だと考えられるようになります。帝釈天の配下で、須弥山中腹の四門を守るのが四天王で、東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天が配されます。ちなみに北を護る多聞天=毘沙門天であり、多聞天が独尊で祀られる時、毘沙門天といわれるようになります。
 世界の主である梵天にあやかって「大梵天王」と記したのは、元親の宗教的ブレーンたちでしょう。

そして、その中心人物と目される宗信は「大願主帝釈天王権大法印宗信」と自分を帝釈天王と称するのです。元親を世界の主の大梵天王と称させたのは、この人物のようです。宗信は、このような表現で元親に「天下への野心」を焚きつけたのかもしれません。私が元親の小説や映画を作るならば、松尾寺仁王門建立シーンでの元親と宗信のやりとりは是非入れたいところです。 同時に、松尾寺は讃岐における宗教支配の拠点センターとしての役割をになうことが求められるようになります。

土佐出身の山伏指導者による松尾寺の管理・経営
先ほども述べたように元親の軍には、次のように多数の山伏が従っていたことが史料から分かります。
①三十番神社の棟札に名の見える宥秀
②仁王堂の棟札に名の見える宗信・宥厳
③帝釈天王を称する宗仁は、山伏たちを束ねる頭領
 ①の宥秀は幡多郡横瀬村の山本紀伊守の子で、九歳の時、足摺山で出家して僧侶となります。足摺山は補陀落渡海の地で土佐修験道のひとつの拠点です。
 ②の宥厳も大隅南光院と名乗る山伏でした。元親に従軍して松尾寺を任され、名前も宥厳とあらため松尾寺の住職となったことは、先ほど述べたとおりです。
「山伏」というと「流れ者」というイメージが今では広がっています。しかし、当時の山伏(修験者)は「金比羅堂」を創設した宥雅のように高野山で修行と修学を重ねた学僧もいました。中央の学問所で学んだ知識と人的ネットワークを持った僧侶は、祐筆(秘書集団)としてだけでなく戦国大名の情報収集や外交工作には欠かせないものでした。そこから毛利藩の僧侶から戦国大名にまで成り上がる恵瓊のような人物も現れてくるのでしょう。

 長宗我部元親は、僧侶の中でも修験道の山伏を重用したようです。彼らは、四国辺路など修行のために四国中の行場を自由に往来していました。これが敵国に攻め入る際には、情報収集活動や道案内を行うには適任でした。また戦功の記録係りや戦死者の弔い係りの役割も果たします。
 そして、松尾寺は元親に従う山伏達の集結する場となります。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
 ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
天正十三年(1582)には、伊予の河野通直を降し、四国統一を成し遂げます。
 このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。

参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号

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金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」というのです。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたのではないだろうか」と
 
 この元亀四年(1573)には、現在の本社に松尾寺本堂がありました。その四段坂の階段の下に金比羅堂が建てられ、そこに新たな金比羅堂が創建されたようです。しかし、金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。
 松尾寺には、十一面観音が祀られています。松尾寺は、近世初頭には観音信仰の寺でもあったようです。それが、現在の金刀比羅宮本社前脇に建っていた観音堂になるようです。
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 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう
それは「三十番社」だったようです。
地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が、神祇信仰において旧来の地主神と、飛来してきたり、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。
 これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。
しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれているようです。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたもののようです。
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なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」で、古くから墓所の山でもあったようです。そこに、墓寺的性格の松尾寺はあったようです。そのため小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもありました。やがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。
 そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれない。そこで、強力な霊力を有する新たな守護神の飛来が必要になったのではないでしょうか。ここに、金毘羅神の将来と勧請の意味があったと研究者は推測します。

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  正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、松尾寺別当金光院の院主です。ところが金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物です。現存する史料(元亀四年の棟札以下)には、彼の名前が院主として残されています。しかし、正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」は、次のように考えます
宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?

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 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は、『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)によれば、
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
とあって、当時、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。
そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

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金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
このように宥雅が、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。
 また、宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とするのです。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、
「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」と指摘します。
 
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さらに伝来文書をねつ造します

「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。
 「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。
 ある研究者は
「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号) より
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宥雅の最後の「課題は」は、金比羅神を松尾寺に伝来する十一面観音とどう結びつけるかです。
 いままでの流れを整理すると
金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」に求めました。つまり、インド仏教の守護神クンビーラです。クンビーラとは、ガンジス川の鰐の神格化したものです。それらインドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来されていました。大きく見ると、それらの守護神たちが二十八部衆に収斂されていたのです。
 ここで最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
しかし、金毘羅神の本地仏は、千手観音なのです。新たに迎え入れた金比羅神と本尊の十一面観音がリンクできなのです。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。
  真言密教の高僧でもある宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

 金刀比羅神社蔵 十一面観音立像(重文)=木造平安時代
 ちなみに宝物館にある重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。
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それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神で行っていた祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。
 こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

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丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。
 江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは近世以後のようです。 
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真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

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金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する神社の参道に立ってみます。
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。
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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

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琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より

 
大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
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放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
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象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

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 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

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金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗侵攻の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

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天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
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それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

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 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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  ○ 川女郎の泣き声
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声をひそめるように語る老女は、
爺から聞いたがもうおそろしゅて、はばかりへもたてなかった。
と言いながら記憶をたぐりよせてくれる。
 土器川の上流、清い流れの音が聞えるあたりに住まいを持つ人々は、
四季おりおり川の流れを見て暮らした。
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川女郎が泣いて大声をあげるようになると、川が氾濫するという。
川岸の岩と岩との間へ、川女郎は子をもうけてある。
流れがおだやかな日はいいのだが、水があふれそうになると、
大事な赤ちゃんが流されてしまうと泣くのだという。
まるで、人間が哀しむような泣き声の川女郎はさばえ髪をして、
人にゆき逢うものならさばえ髪の頭でふりかえる。
にっこり笑ったつもりの川女郎の唇からは馬鍬のこのような歯が見えた。
ゆき逢った人は、悲鳴をあげて逃げてゆく。
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あんまりわるさはしなかりた池いう川女郎に、逢った人は意外と多い
「川女郎の赤ちゃんのお父さんは誰なの」
と老女に質問すると
「それは聞かんだわ、今度合ったらきいておくわな」
と老女はスマしている。
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トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫
この川をどんどんのぼっていくと山と山のはざまの谷に至る。
谷川に水を飲みに来る鹿が住んでいった。
狩りをする人のことをセッショウニンと呼んでいたが、
山漁の達人だったおじいさんが炭焼きに行って鹿の尾角を拾ったことがある。
二年叉、三年又の見事な鹿の角が落ちていたと言うのだ。
この鹿の角を拾ってかえり、笛を作る。
手造りの角を吹くと、雄がケンケン寄ってくるそうな。
ケンヶン寄ってくるの雉は雄の雉。
そうすると、落角の笛は雉の雌の鴫き声ということになるのか。
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美合の山では、鹿の夫婦が山々をかけめぐり、恋の季節をたのしむ雉も住んでいた。
しかし、「鹿は、やたらに射るものでない」と、戒められていた。
トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫だとも教えられていた。
 ある日のこと、大川山へ出かけて行った山伏が、灯台角の鹿と出逢った。
これはいい獲物とばかり、鹿を射殺してしまった。
ところが翌朝のこと、鹿を射殺した山伏は野田小屋の桜の木のまたに吊りあげられていたと言うのだ。山伏が吊るされたという桜の古木は枯れてしまったが、古株は残されている。
 そして、野田小屋にある社のご神体はみつまたの灯台角だと伝えられている。
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「相撲をとらんか」とこわっぱが誘う
 峠を越えると山の細道は、下り坂となる。
つんのめるように降りるきんま道は谷川の流れに沿って、ぐんぐんくだる。
谷川の水がより集まって落ちこむところが渕となり、水音が急に高くなる。
山の尾が寄りあい、谷川の水が流れ込む。
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 雨降りあげくの日も暮れかかるころ渕のほとりを通りかかると、
小さな子供が出てきて
  「相撲をとらんか」と、いう。
こわっぱが相撲をとらんか言うて生意気な、
一手で負かしてやろうと相手になるともうおしまい。
へとへとになるまで相撲をとらされる。
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相手になるなと古老に戒められているのに、あんまりこんまい子なので、
つい負かしてやろうと取りはじめて動けなくなった者が多い。
あれは、子供でなくてマモノなのだ。
変化のものなのだと、
雨降り後水かさの増した渕の側はおそろしくて通ることができない
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
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まんのう町の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。そこには、妖怪が住んでいたらしくいくつもの妖怪の話が伝わります。
その中からとっておきの妖怪を紹介します。
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炭焼き小屋を訪ねてくるオオブロシキ
深山の静けさの中にいると、急に燈台角の鹿が現れても不思議がないような木立の茂みだ
このあたり、炭焼き小屋の跡が転々と散在している。
この小屋を訪れる妖怪も多かった。
炭を焼くときには、夜通し山に籠もるので寝起きをする小屋を造る。
小屋の中で茶もわかすし、飯も炊く。
そして腹持ちのよい餅も焼いた
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餅を焼くと芳ばしい匂いが山の隅々へまでただよってゆくとみえ、
人り口に吊るしたむしろを持ちあげてにゅうと、爺が入ってきた。
囲炉裏のほとりで、だまって火にあたって帰ってゆく。
黙って火にあたっているうちはいいのだが、餅を一つおくれとばかり手を出す。

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餅を焼き始めると爺がやってくる。
そして、火にあたりながら金玉をひろげはじめた。
なんぼでも広げる。
こりゃ包まれたら大変と、
山小屋の主はその広げたもの中へ焚木のもえかぶをほうりこんだ。
「キャキャッ」と泣き声をたて、山の奥へ爺は逃げこんでいった。
オオブロシキという妖怪だそうで、
広げたものの中へ人間をつつみこんでしまうともいう。
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炭焼き小屋には、ショウペンノミもやってきた。
小屋の外へたんごを置き、その中へ用を足していたのだが、
その小便をきれいに飲むものがいた。
塩気を欲するオオカミさんだとも言っていたが、
あからさまにしないところがおもしろい。
しかし、オオカミさんがいかって鴫く夜は山小屋で震えあがったと話してくれた。

 小さな蜘蛛が人間を捕まえる話。
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 瀬戸の浜辺でとれた塩を峠を越えて阿波に運ぶ塩売さんから聞いた話
里から塩売りさんが渕のほこりの樹陰で一休み、
よほどつかれていたとみえ塩売りさんはうとうとうたたねをはじめた。
すると木の枝からするすると降りてきた蜘蛛が、男の足の親指へ糸をかけはじめた。
行ったり来たり、何度も往復してしっかり糸をからませる。
寝たふりをして見ていると蜘蛛はまだしきりに行ったり来たり、
男は親指の糸を木の伐株にひょいとかけなおした。
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もう十分に糸は掛け終えたものとみえ、
蜘蛛は底のしれない渕のあたりへ降りていった。
と、木の伐り蛛がものすごい音とともに渕の底へ引つぱりこまれた。
塩売りさんは、すっくりと立ちあがり軽々と荷をになって、
すたすたと去って行ったというはなし。
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その他、タオリバアとかタカンボさんとか山の妖怪には限りがありません。
祀られなくなった神の零落した姿が妖怪だといわれますが、よくは分かりません。
山の住人は、こんな妖怪たちにも恐ればかりでなく、
親しみを持って暮らしていたようすが伝わって来ます。
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参考文献
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より

まんのう町美合に伝わるお堂のお話
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まんのう町の南部の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。
そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
そこに伝わるお堂の話を紹介します。

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阿波から峠を越えてきた旅人が、水にのまれてしまった。
近所の子供が谷川へ落ちそうになった。
しかし、いくら恐しくてもこの道を通らなければならないと、
村人が困りはてているところへ山からまくれ落ちてきたものがある。
ころころ山から落ちてきたのは、石のお地蔵さん。
ありゃ、これは大川のお地蔵さんではないか。
はよ、もとの場所へお返ししとかんと、と村人はもとのところへお返しした。
ところが、翌朝行ってみるとまた一夜のうちにころころまくれ落ちてきている。
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村の人々は、おだやかなお地蔵さまのお顔を見ながら話しあった。
「これは、ここがお好きなのじゃ」
じゃここへお祀りすることにしようと衆議は一決。
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裏のおじいさんは、栗の木を伐ってきた。桜の丸太も持ってきた。
檜の柱も、床を張る杉板も集まった。
藁を一束、繩も
 一往、
竹藪でぼんぼん竹を伐る人。屋根ふきの達者が竹の長さを指図する。
小麦藁で葺いた屋根の厚みが整然と美しい。
茶堂は東向き、二間四面の大和天井、三方開け放しの一方へ、
ころがり落ちてきたお地蔵さんを安置した。
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むかいの婆が縫ってきた赤い前かけが、まるでお地蔵さまの晴れ着のよう。
三方壁なしの茶堂の前で、
だれから山仕事に行く人も、田畑を打ちにゆく人も、たちどまって掌を合わす。
陽ざしがきつい峠道を越えてきた旅人が、一休みして汗を拭く。
谷川の流れで手足を洗い、昼寝をたのしむ人もいる。
あけびを山龍いっぱいつんで帰る悪童が、お地蔵さまの前ヘーつ供えた。
一つ供えたあけび敲をそのままに、水の澄んだ流れに入りこみ魚を追っかけはしめた。
お地蔵さまは、にこにこにこにあけび龍の番。
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手も足も泥だらけの童が板の間へあがりこんで、供物を盗んでも知らぬ顔。
童ばかりか、山から降りてきた小猿も山犬もお供えを無断でいただく。
今年も秋の取り入れが終わるとお地蔵さまの前で‘お接待がはじまる。
めぐってくる遍路の中にはお大師さまがいらしゃるかもしれないと毎年、お接待をかかしたことはがない。
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秋の取り入れがすむと、茶堂でお接待をすることになっていました。
茶堂が、もとのかたちのままで残されたきた背景には、素朴な信仰が根強く生き続けているからのようです。


北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
                                

近世の史料を読んでいると、自らを讃留霊王伝説(=神櫛王)を始祖とする系譜を持つ一族によく出会います。一体、讃留霊王とは何者なのでしょうか。また、それはどのような一族と考えれば良いのでしょうか。私なりに考えてみました。
古代讃岐の開拓伝承のなかで讃留霊王伝説は広く流布しています。
地域的には、現在の綾川や大束川の流域、古くは讃岐国阿野郡・鵜足郡と呼ばれた地域を中心に残る伝承であり、近世には宣長の『古事記伝』にも取り上げられ全国的にも知られるようになったようです。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 
讃留霊王とは、景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王の諱です。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、讃留霊王がその退治に向かったところ、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。しかし、大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
②その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
③これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
④彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
⑤彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①です。
しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。
つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
200017999_00178悪魚退治

王悪魚退治のモデルになった話があると研究者は指摘します。
それを見ていくことにしましょう。
  阿蘇開拓の神健磐龍命(たけいわたつのみこと)」(蹴裂(けさき)伝説)
むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑をひらいた神様、健磐龍命のおはなしをしましょう。 
命は、神武天皇のおいいつけで、九州の中央部を治めるために、山城の国から、はるばる阿蘇の地にやって来たのです。
 外輪山の東のはしから、満々と水をたたえた湖を眺めていた命は、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えました。外輪の壁を蹴破ることは出来まいかと、ぐるっと見回し、北西にあたるところにやってきたのです。
 「よし、ここを蹴破ってみよう。」
 しかし、そこは、山が二重になっていて、いくらけってもぴくともしないのです。現在、二重の峠と呼ばれているところでした。命は、少し西の方にまわってみました。「ここならよかろうか。」
満身の力をこめて蹴りつけました。 湖の壁は大きな地ひびきをたててくずれ落ち、どっと水が流れ出したのです。
 あの阿蘇谷.南郷谷いっぱいの水も、みるみるうちに引いていきました。しかし、途中からばったりと流れがとまってしまったのです。
 「これはおかしい。水が動かなくなってしまった。」
 命は川上を調べてみました。
おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていたのです。
尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたといいますから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになります。
命は、この鯰を退治しました。
鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになりました。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 
土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 
小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、
水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、
スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれるのです。
阿蘇には、このように神話や伝説にちなんだ地名が多いようです。
この讃留霊王伝承の怪魚退治と、阿蘇祖神の健磐竜命の「なまず退治説」は
「土地開発、巨大魚退治、射矢伝承、巨石祭祀」など、いくつもの点でで類似します。
そこで、研究者は次のように考えます
①讃留霊王伝承の「悪魚伝説」は「大鯰退治」の転誂である
②共通点の多い両者の伝承を始祖神話としてもつ両者の関係は、もともとは出自も共通するのではないか
③つまり讃留霊王の「讃岐開発」者は、阿蘇開発者の息長氏や秦氏の系譜につながるものではないか
この説を少し、追っていくことにします。  
古墳時代の西讃には、わざわざ九州から運ばれた石棺を使用した古墳がいくつもあります。また、善通寺の大墓山古墳は九州的な要素を持つ石棺です。古墳時代から瀬戸内海の交易ネットワークの中で九州と西讃が結びついていたことがうかがえます。
 7世紀には坂出の城山には神寵石系の朝鮮式山城が築かれ、その麓の府中は、古代讃岐の中心地とされます。九州及び四国に分布す神寵石系の築造には五十猛神後裔氏族が関係していると言われます。
何かしら両者をつなぐ「糸」が見えてくるような気もします
まず、中讃の神櫛王を祀る神社巡りをしてみましょう。
ちなみに息長氏の始祖神は少彦名神といわれます
城山神社は神櫛命を祭神とします。
その社伝では、元は城山一峰に残る明神原の地に鎮座したといいます。今でも明神原を訪れると巨石群が茂みの中に林立しています。これがこの神社のもともとの磐境なのでしょう。

讃岐平野の真ん中にある飯野山(讃岐富士)にも巨石群があります。こちらは鵜足郡の式内社飯神社の磐座とされます。同社の祭神は飯依比古命(讃岐国の国魂神)・少彦名命とされているようです。
神櫛命は那珂郡式内の櫛梨神社(仲多度郡琴平町)でも祀られています。
「クシナシ」は酒成しで、造酒の意と説く人もいます。
しかし、「クシ」は酒ばかりではなく、「奇し」(神秘、霊異)にも通じるとしたら、讃留霊王という美称にも通じるのかもしれません。
 満濃池を見下ろす丘の上にある式内の神野神社(論社の一つ、まんのう町神野〔真野説〕。加茂大明神も合祀)は、境内社に神櫛神社があって神櫛王命を祀ります。この神社を創建した矢原氏も和気氏に連なるといい 讃留霊王伝説を引きます。ちなみに矢原氏は、江戸時代初期の満濃池再築の際に、旧満濃池内にあった池内村を生駒家に寄進し、後に「池守」と命じられています。
 神野神社については丸亀市郡家町に論社があります。
この神社は、伊予国神野郡の久留島なる者(和気氏の一族?)がこの地に移り住み、祖神の伊曽乃神(御村別君が奉斎:西条市)を勧請したと伝えます。社伝では、神託が綾大領の多郡君にあって社殿を再築し、推古天皇朝に郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになったといいます。内容についてはともかく、綾氏一族に関連することを伝えます。「多郡君」は綾氏の系図には「多祁君」という名で見えます。

 阿野郡には鴨郷に式内社の鴨神社(坂出市加茂町)があります
鴨氏族の祖神・別雷神(=少彦名神)を祀ります。綾氏一族の奉斎とされます。ちなみに、少彦名神は息長氏の始祖神ともされますので、両者のつながりがうかがえるといいます。
最後の一社が式内社が神谷神社(坂出市神谷町)です。
この本殿が鎌倉期の三間社流造で、神社建築では珍しい国宝指定がされています。 祭神は、『讃岐国官社考証』には天神立命とされますが、この神は天押立命ともいい、久我直等の祖とされます。実体は少彦名神の父神の天若日子(天津彦根命)です。
以上、見てきたように綾郡の式内三社にはすべて少彦名神で綾氏の関与が考えられるようです。
飯山町下法勲寺には、その名もずばり讃留霊王神社があります
 この神社は讃留霊王後裔の城山長者酒部黒丸の創祀と伝え、後裔には綾氏や和気氏があるといいます。しかし、現在の神社はもともとは八坂神社の境外末社であったものを近くにある円墳の上に移動して新たに作られたものです。明治以後に、新たに古代の天皇陵が指定されたようなもので、この古墳の埋葬者は誰であるかは考古学的には分かりません。明治以後になっても讃留霊王伝説を信仰し、その系譜の中に自分や一族を位置づけようとする人たちの熱意には驚かされます。
 今は丸亀市となった綾川町陶にある北条池の付近にも、讃留霊王神社があり、本殿裏の前方後円墳が、讃留霊王の墓と地元では伝えられています。

中讃地域の式内社を見て思うことは、
祭神が共通すると言うこと、つまり少彦名神か、それに連なる神々を始祖神として祀っているところが多いようです。古代においては、共通の神を祀る一族として互いに同族意識を持っていたのかも知れません。
次は、古墳の石棺を追いかけます。
阿蘇ピンク石(溶結凝灰岩)は近畿や讃岐などの古墳の石棺に用いられました。哀皇后が石作連を率て、仲哀天皇の遺骸を収める石棺用として讃岐国の羽若(綾歌郡羽床)の石を求めさせたという記事が知られます。産地の羽床に、中世に割拠したのが古代綾君の流れを引く羽床氏です。
三木郡庵治には同族の奄智首かおり、庵治の石は今も有名です。
瀬戸内海を越えた播磨には竜山石(宝殿石)があって、高砂市伊保町竜山に産する凝灰岩の石材で、仁徳天皇陵古墳、津堂城山古墳(雄略真陵)や今城塚占墳(継体真陵)などの長痔形石棺にも使用されています。竜山には巨大な石造物「石の宝殿」を神体とする生石(おうしこ)神社もあり、大己貴神・少彦名神を祀ります。
次は巨石祭祀です。
 伊予の佐田岬半島の付け根・愛媛県大洲市の粟島神社(大洲市北只。祭神少彦名命)には巨石遺跡があり、もとは大元神社の地といいます。何か国東や宇佐につながる感じがしてきます。大洲市内には仏岩や高山寺巨石群など巨石遺跡がちらばります。これらを同族の宇和別が祭祀したのではと考えるようです。また、佐田岬は宇和郡に属し、大洲市には稲積・菊地・阿蔵などの地名も残ります。瀬戸内海の海洋ネットワークを天かける息長氏につながる一族の活躍ぶりがうかがえる気もします。
しかし、「蹴裂(けさき)・大鯰退治」伝説を持つ阿蘇開発者の息長氏、宇佐地方の開拓者である秦氏、伊予の西条開拓者である和気氏と讃岐の古代開発者とは、共通点が多いのでないか」という位のことしか分かりません。
ただ、注意しなければならないのは「ヤマト政権による瀬戸内海交易ネットワーク」という風に捉えると、この時代の讃岐の動きは見えてこないような気がします。
「ヤマト政権を介してもたらされた」という従来の見方を一度棚上げして、人と物の動きを見ると別の景色が見えてくるような気がします。それは、例えば今まで見てきたような神社であり石棺です。これらは、九州から東へと「息長氏 → 秦氏 → 和気氏」らの氏族が瀬戸内海を東に勢力を拡大していく姿がうかがえます。中讃地域の古代開発者もこれらの動きの一環として捉えることが出来るような気もします。

さて、悪魚退治伝説に中世において、自らの家系を「接木」する一族が現れます。
                 
讃留霊王の悪魚退治というのは、綾氏の先祖を飾る話です。
古代において綾氏の名前が見えるのは阿野・香川郡一帯です。
その後に綾氏は多く枝分かれして、武家として戦国末期まで長く活動します。江戸期以降は帰農し、有力な庄屋として近代まで続いた家があります。そして、讃留霊王(=神櫛王)に始まる系譜を今に伝える家もり、地元香川県在住の岡伸吾氏が丁寧に系図収集につとめ「綾・羽床一族推定系図稿」「讃岐氏一族推定系図稿」として整理されています。
 平安中期には綾一族から押領使や大禄・府老など国管在庁役人などが多く出ます。
平安時代後期になると、綾氏をにはさらに2つのドラマチックなSTORYが付け加えられます。
 ひとつは、国司の落とし子説です。
一族の長の綾大領貞宣(羽床大夫)の娘が、讃岐守として赴任した藤原家成との間に、もうけた章隆だと言うのです。家成の讃岐守在任は、一年弱だから疑問もありますが、国司の「落とし子」章隆の登場で、以後の綾氏は、藤原姓を称して「讃州藤家」と名乗るようになります。その後の子孫一族は、羽床・香西・新居・福家など多くの有力な武家を出し、中世の讃岐において大きな力を持つようになります。
 もうひとつは、崇徳上皇をめぐる話です。
讃岐に配流となった崇徳上皇は、林田の雲井御所(綾高遠の旧宅という。坂出市)で幽閉生活を送ったと言われます。ここで、上皇奉仕したのが綾一族である綾高遠の娘・綾局だと言うのです。高遠の後裔は林田氏を名乗り、後に苗字が綾にも戻りますが、子孫が残した系図は宮内庁書陵部に『綾氏系図』として所蔵されているようです。

ちなみに、 讃留霊王の悪魚退治伝説が生み出されたのもこの時代ではないかと専門家は考えているようです
話の中に「瓦経」言葉が出てきます。これは経塚の要素が見られ、古代においては使われることない言葉です。そこから、この伝説の成立は平安末期と推定しています。古代まで遡る話ではなく「大鯰退治」をモデルに、讃岐でこの時代に作られたのが「悪魚退治」伝説のようです。
 その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
讃留霊王という先祖を同じくする伝説のヒーローの他に、新たに「国司落とし子」説や「崇徳上皇への奉仕」説が加えられて行ったのではないでしょうか。一族の結束を深めに、いつの時代にも行われてきたことです。その頃に、この説話の骨格はできあがったようです。
  そして、綾氏に近い擬似的な血縁集団も悪魚退治伝説をかたり、自分の始祖を讃留霊王とした系図を作るようになっていきます。
さらに、息長氏の研究者は次のように論を進めます
 綾君の「綾」について言うと、語源の「アヤーアナーアラ」は韓地南部、伽耶の同じ名の地域、安羅(「阿・安」十「耶・那・羅・良」「地域・国の意」を指す。漢字では「穴、荒」とも書かれて大和などの穴師にも通じ、日本各地に同種の地名が残こる。これら地名の担い手として、安羅方面からの渡来の天孫族や天日矛の一族があげられる。
日向国諸県郡にも綾の地名があり、中世に綾氏がいた。。肥後国の火君一族とみられる飽田郡領の建部君の流れとみられ、建部宿祢姓で日向国諸県郡(中郡)富山に起こり藤原姓と称した富山氏の一族と考えられる。綾の地名自体は日向国造一族が命名か)。
  つまり、綾とは朝鮮半島の加耶の「安羅」から来ていて日本での漢字表記は「穴・荒」だったというのです。これは私の今の守備範囲を大きく越えてしまいました。
 景行天皇の後裔と称する氏族について見ておきましょう
記紀に従えば景行天皇には八十人もの多くの皇子がいたことになりますが、無論史実とは言えないでしょう。記、紀、旧事本紀等にあげられる名前は、それが全てではないうえに、名の重複もあります。景行天皇の皇子たちは、国造としては、讃岐国造、針間国造、日向国造等を出しています。詳しく見てみると、近江及び大隅(日本武尊後裔と称)、讃岐(神櫛命の後裔)、播磨(稲荷人彦命後裔)、伊芦(武旧凝別命後裔)、日向(豊国別命後裔)及び美濃(人碓命後裔)ですが、実際には地方豪族がほとんどです。これら氏族の実際の系譜は、殆どが宇佐国造から分岐した大分・火国造と同族で、武国凝別命(別名が豊国別命、健磐竜命)の後裔、ないしは彦坐王一族の出と称した氏族(非息長氏族)と研究者は考えているようです。
  実際の景行天皇の皇子で後裔諸氏を遺したものはないようです。
その考えは以下の通りです。
①例えば、日本武尊の子孫の諸氏が近江や讃岐などに実在したことは、疑問が大きい。子と称する稲依別命の後とされる近江の犬上・建部君一族は、実際には息長氏と同系の伊賀国造の同族ではないか。
神櫛王は、日本武尊の子と称される武貝児命、息長田別命と同人であり、景行天皇の子とされる櫛角別命(茨田下連の祖)や、五十河彦命とも同人。
讃岐の綾君や吉備の宮道別君は、景行天皇の子と称する武貝児命(たけかいこう 武卵王、武鼓王)の子孫とされるが、実際には建緒組命の後裔と考えられる。
『記・紀』等では、武貝児王が日本武尊の子と伝える。
しかし、神櫛王は日本武尊の兄弟だするとと両者の関係は、神櫛王の甥が武貝児王ということになり、これだと別人なる。しかし、実際には原型が同一人物であり(本居宣長もそう示唆)、景行皇子の日本武尊とはまったく別人。
この場合、日本武尊に建緒組命を考えた方がよさそう。
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満濃池と龍3
 
 満濃池には、古くから龍が住むという伝承があります。
『今昔物語集』には龍の棲む池として、また中世の『志度寺縁起』には、蛇になった志度の猟師当願の住む池として語られています。
『讃岐国名勝図絵』嘉永7年(1854)刊行にも、空海の築堤の説話と、池に棲む大蛇が海に移る際に堤が壊れたと記されます。そのうえで、元暦の大洪水による決壊後は長らく村と化していたが、寛永年間に西嶋八兵衛により再築が行われたことが語られます。

満濃池と龍

 今回は西嶋八兵衛による満濃池再築を見ていくことにします。
「満濃池営築図」原図(坂出の鎌田博物館の所蔵)を見てみましょう。
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満濃池営築図 原図(寛永年間)
この図には、中央に池の宮がある小山が描かれ、その左右に分かれて水流が見えています。 ここに描かれているのは、源平の兵乱の中の元暦元年(1184)に崩壊して以来、450年間にわたって放棄された満濃池の再築以前(寛永初め)の景観です。少し見にくいので、トレス版でみることにします。まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 トレス版(寛永年間)
A 左下から中央を通って上に伸びていくのが①金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
B金倉川を挟んで中央に2つの山があります。左(東)側が④「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる「聖地」です。現在では、この岩は満濃池に浮かぶ島となっています。川の右(西)側にも丘があり、よく見ると神社建っています。これが②「池の宮」です。現在は神野神社と飛ばれていますが、江戸時代の史料では、神野神社という表記は出てきません。丘の右側の小川は③「うてめ」(余水吐)の跡のようです。「余水吐き」が川のように描かれています。
C古代の満濃池については、何も分かりませんが、この二つの丘を堰堤で結んでいたとされていいます。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿です。つまり、これが「古代満濃池の堤体跡」なのです。そこを上(南)側の旧池地から金倉川流れ落ちて、大小の石が散乱してます。

実は、これは絵図の全てではありません。絵図の上部を見てみましょう。
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満濃池営築図 原図(寛永年間)
④旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
⑤さらに上部には、文字がぎっしりと書かれています。
何が書かれているのか見ていくことにしましょう。
この絵図の上側に書かれた文字を起こしてみます。
 満濃池営築図[寛永年間(1624~45)】摸写図
満濃池営築
寛永五辰年 奉行西嶋八兵衛之尤
 十月十九日 鍬初 代官出張 番匠喚
 十一月三日 西側堀除
 十二月廿日 普請方一統引払候
同六巳年
 正月廿八日 取掛
 二月十八日 奉行代官相改
 三月十九日 東ノ分大石割取掛
 四月十日  奉行代官立会相改 皆引取
 八月二日  底土台 亀甲之用意石割掛
 同十五日  西側大石切出済
 十月廿八日 座堀取除出来
 十二月十二日台目取除二掛ル
 同廿二日  奉行一統引払
同七午年
 正月廿八日 取掛
 三月十八日 台目所出来
 四月十日  櫓材木着手
 同十一日  流水為替土手築立
 同十八日  底樋亀甲石垣取掛 ’
       五月廿四日迄二出来
 六月五日  底樋取掛
 同廿九日  一番櫓建立
 七月六日より底樋伏込 同廿九日迄二           
 八月十五日 木樋両側伏込
 十月六日  堤埋立出来 竪樋座堀掛
 同十八日  竪樋下築立 同晦日出来
 十一月十七日 打亀甲石垣
  同廿九日  二番櫓立                                 
 十二月十日 三番櫓立
 同十五日  四番櫓立
 同廿二日  五番櫓立
同八未年    裏
二月五日  堤石垣直シ
同十五日  芝付悉皆出来
上棟式終 普請奉行 下津平左衛門  福家七郎右衛門
那珂郡高合 一万九千八百六十九石余
宇多郡高合 三千百六十石余
多皮郡高合 一万二千七百八十五石二斗余
  三郷合 三万五千八百十四石二斗余
西嶋氏、寛永三年八月、矢原正直方え来、当郡年々旱損二付、懇談御座候付、池内所持之田地不残差出申候
 ここには満濃池再建工事の伸張状況が記されていることが分かります。
 寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、
 同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が書き込まれています。
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        満濃池営築図 トレス版

最後の文を専門家は次のように解釈しています。
寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来た。
那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされた。
そこで、正直は、池内に所持している田地を残らず差し出す旨、申し出た。
 研究者は、この図に描かれた家と農地は、池ノ内側に描かれており、ここが池内村の中心であって、その領主が矢原家であったと推定します。そこで、満濃池の再築のためには、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったというのです。 
 
矢原家が満濃池跡に所持していた田地を池の復興のため差し出したという内容です。これを、裏付けるのが西嶋八兵衛書状(矢原家文書)(a2)8月15日付の文書になるようです。漢文書下文)
先日は、御目に懸かり大慶存じたてまつり候。兼て申し上げ置き候、満濃池内御所持の田畠二十五町余、このたび断りいたし、欠け候のところ、衆寡替えがたく御思召寄す、今日御用にて罷り出で、相窺い候ところ、笑止に思召し候。
いずれも同前の事に候。なお追々存こ畜りこれある趣、仰せられ候。三万石余の衆人上下、承知せしめ候。千載御家たちまちに相聳い候成り行き、何とも是非に及びがたき事候。
恐々謹言        
 八月十五日      西嶋八兵衛之尤(花押)  
 矢原又右衛門様                  
このたびは ぬさも取りあえず 神野なり 
   神の命に 逢う心地せり         
現代語に直し意訳すると次のようになります。なお、括弧内は文意を整えるための補遺です。
 先日は、お目にかかることが出来て大変歓んでいます。兼てから申し上げていた矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。本日、御用で主君に会った折りに、その行為についてお喜びの様子であった。。
 いずれの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。三万石余の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

田畑25町を差し出した矢原家とは、何者なのでしょうか
 幕末に成立した「讃岐国名勝図会」には、平安末期の元暦元年(1184)に決壊した満濃池について次のように記します。

「五百石ばかりの山田となり。人家なども往々基置して、池の内村といった」

意訳変換しておくと
(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。

 当時の田1反(10a)当たりの米の収穫量は、ほぼ2石(300kg)です。西嶋八兵衛の書状に見える25町余の田畠は、石高でいえば、500石余にあたります。この石高は、「讃岐国名勝図会」に見える池内村の石高とぴったりと一致しますから、ここからは矢原家は池内村全体の領主であったことになります。
矢原家と池内村との関係を「讃岐国名勝図会」の記事から、探ってみましょう。
矢原家に伝わる「矢原家傅」には、矢原家は神櫛王の子孫酒部黒麿が、延暦年間(782 - 806)に池の宮の近辺に住んだことに始まと伝えます。池の宮(現神野神社)は、時代と共にその位置を変えながら現在でも、満濃池の堤に続く丘の上に鎮座します。
矢原家伝が伝える内容を箇条書きにすると
①貞治元年の白峯合戦では細川清氏方に加担。
②天正12年(1584)、長宗我部氏の西讃侵攻に際しては、矢原八助(正景)が、神野寺に陣取った元親の嫡子信親と戦い、のち和睦。
③豊臣秀吉の部将で讃岐一国の領主となった仙石秀久のとき、正景は那珂郡七ケ村東分で高45石を賜る。
④同13年(1585)、戦国秀久より長男正方と次男猪兵衛に刀と槍を賜わる。
⑤同15年(1587)6月、生駒家より合力米200石を賜り、文禄の役に際しては当主正方の弟猪兵衛が従軍し、
⑥慶長6年(1601)その戦功を賞して、200石の知行地を賜る。
⑦矢原正方は備前国日比家の養子となり衝三右衛門と名乗って宇喜多秀家に仕えた。
⑧宇喜多秀家が没落後は故郷に帰り、元和2年(1616)没。
⑨寛永3年(1626)、正方の子正直が、西嶋八兵衛によるに満濃池再築の際に、正直宅に寄宿して指揮に当たった。
⑩この間の功績により生駒家は正直を満濃池の池守にした。⑪正直は慶安2年(1649)に没した。
 上に述べた内容のうち、
①慶長6年(1601)、生駒親正より200石の知行地を賜った。
②寛永の再築時の功績により、生駒家は正直を満濃池の池守に任じた。
この2件については、矢原家文書の中に該当するものがあります。す。                     
矢原家文書[慶長六年(1601)・寛永十二年(1635)」
  ①慶長六年(1601年十月十四日 生駒一正宛行状 矢原家文書
  扶持せしむ知行所事
   豊田郡 五十七石一斗四升  植田
   香西郡百四十二石八斗六升  中間 ミまや
                 合二百石
 右の分まったく知行せしむべきものなり
   慶長六年十月十四日  生駒讃岐守 一正(花押)
 (日比呉三右衛門)
 ここには、慶長6年(1601)の知行地給付は、正直の父である日々典三左衛門(正方)宛てで給地は豊田郡植田、香西郡中間・御厩の計200石が記されています。
②寛永十二年(一六三五)四月三日 生駒家家老連署奉書 矢原家文書
 御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。よってくだんのごとし。
   寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)
                浅田右京 直信(花押)
 (正直) 矢原又右衛門
【資料 ②】からは、正直が満濃池を管理する池守に任命され、同池上下において50石を与えられたことが分かります。
 また、「讃岐国名勝図会」に収める神野神社の釣燈篭の銘文からは、矢原家の歴代当主が、氏神である神野神社の社殿の造替や堂舎の再建を願主として行っていたことが読み取れます。
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この由緒から次のような事が云えます
①矢原家は、神野寺付近に本拠を持つ小領主で
②戦国時代の末期は長宗我部氏と戦い、
③近世初期には、仙石・生駒藩に臣従していた
④満濃池の再築の功績により、池守に任じられた
矢原家は池内村の領主であったといえるようです。しかし、それがいつまで遡れるかは分かりません。池ノ内村を領有していた矢原家の奉納した池内村は、満濃池ができあがると再び池の中に姿を消すことになったのです。

参考文献 
香川大学名誉教授 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊

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  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国司が朝廷に対して次のように求めた。昨年より築堤を開始しているが、池が工大(広大)であり、人員不足により築堤工事に困難を極めていたため、讃岐国出身で民から父母の如く恋い慕われた空海を修築の別当として派遣して欲しい。
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


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