瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2019年11月

IMG_9764
前回は、観音寺の本堂やお堂を見てみました。今回は、調査報告書を片手に各堂の仏達を見ていく事にします。
まず、仁王門です。ここには2mを超える阿・吽の仁王さんが迎えてくれます。
報告書には次のように記されます。
 肉身各部の誇張や妙な力みのさまによる破綻がなく、頭体腕足の均整に優れ、写実を自然にこなした彫りが感じられる。鎌倉時代に流行した仁王像の力感表現の伝統を引きながら、穏やかに敷街したかのようにみられる優品である。

観音寺仁王像1
 現在の仁王門については、宥英法印の宝永3年(1706)に再興されたことを記した棟札が残ります。しかし、仁王さんについてはもっと古く
「像表面の傷みに対して砥の粉を塗られるなど近世以降の修理を受けるものの、作風からすれば、享徳ころの制作と考えてもよい」
と報告書は記します。
神恵院本堂8

次はコンクリート製で近未来的な神恵院本堂に行ってみましょう。
ここの本尊は、琴弾八幡宮の本地仏であった来迎印相の木造阿弥陀如来立像です。近年修理されて、全身を金泥を塗り、漆箔金の照りを抑えて落ち着いた雰囲気にしあげられています。ここへやって来たのは「見仏記」的には脇檀にいらっしゃる毘沙門天立像にお会いするためです。報告書は次のように紹介します。

神恵院本堂仏5
 頭体を一木から彫成するもので、内刳りなく、面部を彫り直しているのは残念ではあるが、制作は平安時代中ごろではなかろうか。現状では両肩から先を後補されるようであり、足ホゾを作って岩座上に立つ。右手を挙げて戟を執り、左にやや腰を捻って屈腎して掌上に宝塔を提げる毘沙門天像としては通例の像容である。痩身の体部に甲冑を付けるが、その細部は省略されているものの像容は力強く、あるいは修理により像表に具材の古色を厚く掛けたものか。
 本像の岩座は後補となるが、その天板裏面銘によれば、もと西金堂(現・観音寺薬師堂)の四天王像の一体であると記す
 この毘沙門天は「平安の古像であり、四天王像の一体」のようです。
もともとは薬師堂の薬師如来をお守りしていた四天王さんのメンバーだというのです。そうだとすれば、西金堂(薬師堂)本尊の薬師如来像と同じ時期に作成されたと考えられます。しかし、この毘沙門天の連れ添い達は、薬師堂にはいないようです。今は本堂で本尊の観音様を護っているのです。かつては薬師堂で御薬師さんを護っていた四天王が、今は本堂の須弥檀の四隅に配されて本尊の観音さまをお護りしています。しかし、毘沙門天はメンバーから引き離されて、神恵院本堂にいらっしゃいました。
  調査書には次のように記されています。
観音寺本堂の四天王
 足下に踏み付ける邪鬼まで含んで、頭体幹部を一材から刻みだしたもので内刳りなく、ほほ等身大の像高をはかる。忿怒の形相や武具を振りかざす姿態などは、やや穏やかにあらわされているものの、古様な着甲の像容であり迫力にも富んでいる。邪鬼にのこる彩色の痕跡からして、当初は彩色仕上げとされていたものと考えられる。現状は、正面側の像表面の荒れを調整して古色仕上げとされている。
  一人ひとりを紹介するのでなく、四体まとめての紹介というのは、平安生まれの四天王に対して、礼を欠くような気もしますが・・・。

さて、もともと四天王が護っていた薬師如来は、どんなお姿なのでしょうか?
 薬師堂はかつて西金堂と呼ばれていたようです。今の巡礼者達は、本堂と太子堂にお参りして、薬師堂まで階段を登ってくる人はいません。人の訪れることのない薬師堂です。しかし、この薬師如来坐像は、丈六の大像でした。報告書を読んでみましょう。

観音寺薬師如来坐像1
 現状は古色仕上げを施される。三角材の木寄せの緩んだ三角材部分から体内と膝前材のようすを観察することができた。その結果、当初材には多孔質な木肌からクスを用いているものと推定され、体部材には内刳りを施し、基本的には前後に数材ずつ寄せており、現状は後世の鑓で各材を留めて峯郡を構成していることが確認され、頭部は耳後ろで前後二材をよせている。体内の首ホソから肩にかけては新補のマチ材が複数あてられており、判然としないが、おそらく三道下で割首仕様としているものとみられる。膝前材は内刳りを施した当初のクス材部分に新補材を寄せて結珈する脚部や衣文を彫り直しているようである。左半身の構造は確認できなかったが、手首は挿しこみとなっており、右上腕材元残存状況から当初材がのこされている可能性が高い。右前賢と両手は後補とみられる。
 本像の面部は、傷んだものか残念ながら彫り直しを受けており、当初の顔貌かを大きく損じていると思われる。しかし、耳の造形や螺髪の端正な割りつけと刻み方をみると当初のものとして良く、鉢を開かず細面とし、肉誓と地髪の段差を控え目にして、緩やかな繋がりをみせる頭部の形状は、平安時代中期乃天台系如来像に通じる特徴として指摘する意見があり、或いは本像もこれに連なる可能性がある。
報告書には「西金堂丈六薬師尊像」の修復を記した元禄6年(1693)銘の木札が発見され、新補材並びに古色仕上げは、この時の修理によるものとされます。そしてこの薬師如来坐像は平安時代中ごろに制作された可能性があるとのこと。元禄の大修理を受けたようです。江戸時代になり、観音寺は京極藩の保護を受けて、堂舎・仏像の再興活動がなされていたようです。それが、仏達を今に伝える事につながっています。

釈迦阿弥陀発遣来迎図
 琴弾八幡の本地仏を描いた阿弥陀如来来迎図 
 最後に神恵院十王堂を見てみましょう。ここには閻魔王像のほかに十王像がいます。
司命・司録の二官、奪衣婆像・赤・青の二鬼、さらには人頭檀荼憧までを備えた地獄差配する群像が並んでいます。『元禄六気葵酉四月 豊田郡坂本組寺社帳』(『観音寺市誌』1985年所収)の「神恵院」の条には、「十王堂」がみえるので、江戸時代初期には存在していたようです。
 木札裏面にみえる発願主の「大こ彦兵衛」の名は十王のうちの5体に、また、「萩田伝八」の名は閻魔王像の台座天板裏の銘文に「東高屋村萩田伝八安重」「同光輪恵照尼」「同家内中」として記されており、萩田氏の家族が願主です。
 木札裏面にみえる「仏師京都 田中弘教」の各像にも記されており、十四体は「大仏師 田中弘教」の作のようです。ただし、閻魔王像だけは、古材を修補していることがうかがえるので、室町時代以前まで遡る可能性があるようです。制作者の「大仏師 京 田中弘教」は江戸時代17世紀後半から活躍の知られる名代の仏師です。

神恵院3
 香川県においては、文化12年(1815)旧高瀬町勝造寺の吉祥天・善賦師童子雷を制作しています。そのほかにも四国霊場71番札所弥谷寺や、同65番札所三角寺にも弘化年間の作例があり、さらに、仏生山法然寺の二王像の首ホソにもその名が記されているようです。仏師田中家は讃岐の寺院からの依頼をよく受けていたようです。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行

たぬき5
旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。

そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
今回は狸と山犬の話を紹介します。
 平成狸合戦のように阿讃の里山でも狸が竹やぶの中、岩のくぼみ、神社の森などで暮らし、人との交流を求めていたようです。
石鎚山今宮4
 
 夜、大きな石が山頂からころげ落ちる音がしたので、翌朝山へ行って見ると何ともない。これは狸の仕業であるという。また、砂ほり狸は自分の流した小便をかくすため、前かきに砂をぱらぱらとかけるのだという。
また、朝もまだ明けやらぬころから稲刈りの音がするので、出かけてみると、稲刈りのあとはない。これも狸の仕業で、見る者は呆気にとられるとかいう。

たぬき1
 狸の嫁入りの話は平野部にも多い。
夜もうす暗くなったころ、嫁入り提燈の行列が連なる。
ことに小雨模様の時にこうした光景がよく見られる。
狸の灯は青い灯に見え、葬列の灯のようであるとも伝えられ、とても明るく家の中では障子の骨まではっきり見えるという。
狸は自分の尻尾につばをつけて振ると、灯がついたように見える。
大きく振ると大きく、小さく振ると小さく見える。
たぬき2
狸は蕗の茎を食べると酔う。
ある男がこの酔った狸を見つけ、足元のおぼつかない狸を捕らえ、それを狸汁にしてしまった。そして仲間を呼んで、その汁を食べたところ、みんな腹の調子をそこねてしまった。
狸を捕らえた男は数日寝込んでしまったという。
いずれにしても酔ぱらいは相手に出来ない。
狸ならなおさらのことだと、自らを省みたという                     
たぬき7

 中熊谷に沿う道、大きな木のある所はタヌキ道だという。
そこを通るとシャリシャリと小豆を洗う音がいる。
だれかいるのか、とのぞくがだれもいない。すると向かい側の谷から叫ぶ声がする。
「おーい、クリの木でくびつりが舞いよるぞ」
「何、首つりとか!。」
 二、三人の男達は鎌をさげて栗の木の下まできたが、首つりなどはいない。
ただぽかんと本の上を見上げている、というしまつである。
たぬき3
 また、ある夜のことである。
今にも降り出しそうな雨気の多い夜、ちらちらと青い灯が見える。
一列に並んで歩いている。嫁入り行列の灯のようである。
すると、向かいの谷から叫ぶ声がある。
 「どこぞ嫁さんが来たのか」
 どこにも祝いごとはない。これも狸の仕業である。
 狸道のやぶの脇に道がある。
ある日のたそがれ時、一人の男が道を通って帰宅を急いでいた。
するとやぶが動く。よくのぞくと赤い髪をふりかざしたおんぼろしゃぐまの大きい奴が現れたので、悲鳴をあげて逃げた。こうしたことから、このやぶをシャグマヤブと呼ぶようになった。

山犬1

    山犬の道案内
 琴南の山村では葉たばこをよく栽培していた。
その収穫は多忙をきわめ、ネコグルマにいっぱい積んで運ぶ。
その仕事が夜半に及ぶこともある。
男は疲れた足どりで、とぼとぼと山道を山の神さんを祀ってある所までたどり着いた。ところがそのあたりから、仕事襦袢の裾をくわえるように山犬がついてくる。別にいたずらをするでもなくついてくる。橋にさしかかろうとすると、山犬は橋のたもとでとどまって見送る。男の家はもう近くに見ることが出来る。山犬は、じっと見送ってくれる。
 この山犬は白い犬でやせ細っている。これは山の神さんのお使い姫の山犬さんである。家にたどり着いた男は素足で土を三回すり、手を合わせてお礼をする。
山犬2

 山中で道に迷った時、こうした山犬さんに助けられ道案内されたという話は多い。
野生のオオカミがこのような話に出てくる時、異常にやさしい動物として登場する。
 あるおおつごもりの夜のことである。
普通山に入ってはならない時なのに、やむなく山へ入った男が、山犬に裾を咥えられて家まで送られたいう話もある。
こんな時にお札の仕方は、足をすって手をあわせるものだという。
山犬3

参考文献 琴南町誌 昭和61年琴南町

観音寺境内図1
「四国霊場を世界遺産へ」というスローガンの下に、いろいろな取組がされているようです。「学術調査」の面でも予算が大幅に付けられて、霊場や遍路道などの調査が今までにない規模で行われています。その成果を示すように調査報告書が毎年、四国各県で出されています。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
 観音寺は山頂に琴弾八幡宮が鎮座する琴弾山の東斜面にあります。
この寺が話題になるのは、68番札所である神恵院と同じ境内にあることです。
 まずは、境内に行って見ましょう。ちなみに銭形見学後にこの寺を訪ねると、寺の上から訪れる事になります。これは、便利ですが「正道」ではありません。できれば下から仁王門をくぐりてお参りすることをお勧めします。
1観音寺仁王門
    
 まずは仁王門から見ていくことにしましょう。
|構造形式】八脚門、切妻造、本瓦葺
1建立年代】寛政9年(1797年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 仁王門は階段を登った上にあります。報告書に書かれた専門家の説明を読みましょう。
 仁王門は切妻造、本瓦葺の八脚門で、中央間を四半敷の通路とし、両脇問正面側には金剛力士像2躯を祀る。宝永3年(1706)の棟札を残すが、後述する絵様や彫刻からこの時期の建物には見えず、『琴弾伽藍古録一覧』「仁王門」の項に、寛政9年(1797)「地形引直再興」の記事があり、絵様や彫刻から判断される建築年代と難敵はない。したがって、ここでは寛政9年の建築とみておく。
 同史料には、「施主当町富田氏世話人定右工門/大工萩田善右工門同栄治/大塚重三郎」とある。基壇は亀甲形の石積基壇で、最上段には後補の花尚岩切石の葛石を並べ、中央通路部分を聚き、上面をモルタルで仕上げている。基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。
  中略
以上の構造および細部意匠から、建築的には18世紀後期~19世紀初頭頃の建立年代が想定でき、『琴弾伽藍古録一覧』に記された寛政9年(1797)再興は、信がおけるものと考える。2000年頃の修理時に部材の多くを取り替えているため、当初材は頭貫・台輪の一部・組物・桁・妻飾・彫刻で、垂木以上はほぽ新材だが、建物の規模や意匠に大きな変更はなく、往時の構造・意匠を保っている。
 全体として構造的には簡素であるが、随所に華麗な彫刻を配しており、特に棟通り中央間に集中する彫刻は立体的で躍動感があり、江戸後期の高い彫刻技術を示している。観音寺の正面を飾るにふさわしい建築と評価できるだろう。                   
 
観音寺仁王門

気になるのは「基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。」の部分です。以前の基壇がそのまま使われているかもしれないというサジェスチョンなのでしょうか?。
  随所にあるという「華麗な彫刻」を探して「立体的で躍動感がある江戸後期の高い彫刻技術」を見る事にしましょう。

さて仁王門をくぐると、内側の参道沿いには、明治30年代の年代が刻まれた石灯寵が7基並んでいます。石造物については、また別の機会に見ていく事にして・・・先を急ぎます。
闘伽井を左手に見て緩い傾斜をもつ石敷きの参道を西へ真っ直ぐに進み、石段を上ると本堂や寺務所、庫裏などが建つ南北に細長い平坦地に出ます。
 仁王門からの石段を上りきると正面に巨大な楠が迎えてくれます。そして右手(北)に鐘楼が建ちます。

観音寺鐘楼1
 この鐘楼は彫刻がふんだんにされていて、見ていて楽しいものです
鸚造形式】桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、木瓦葺
1瞳さ年代】文化7年(1810年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 さて、ここでも報告書を開いて見ます。
 柱は上下に踪をもつ角欠きの面取角柱(一辺304mm、面内294mm)で、四方内転びとする。崖地の建つため、平坦面を造る石垣の上に切石を4段積んだ比較的高い基壇を築いている。西面には5曇の耳石付の石階を備え、基壇内側に若干切り込む。基壇上面はモルタル仕上げの土間とし、西面の階段葛分を除き縁辺部に高欄を施す。礎石は方形の切石で、その上に平面角形で側面をはらませた特徴的な礎盤を置き、柱を立てる。現在の基壇・礎石・礎盤は、屋根の葺き替えとともに、2000年頃に改修されたものという。
 中略
 顎貫・台輪・花肘木は、いずれも部材表面を覆いつくす雲や波の彫刻が施されている。台輪上の中備には四面とも力士像を置くが、各面で意匠が異なる。正面である西面のもの、両手で桁を支える。南北面のものは、外側に正対せずにやや正面側を向いているため、片手で桁を支えている 133)。また東面のものは、正対するものの肩で桁を受けている・・・・・中略
評価
 元禄9年(1696)の鐘楼堂の棟札が伝わるが、現存する鐘楼は意匠的にみてそこまでさかのぼりえない。鐘楼の建築年代は、彫刻の意匠からは19世紀前半と考えられ、『琴弾伽藍古録一覧』「鐘楼堂」の項にみえる文化7年(1810)再建の記事と整合するため、これを認めてよいだろう。
また『琴弾伽藍古録一覧』によると、「大工棟梁荻田栄治貞在/後見丸亀永井貞右工門道親/小工荻田嘉兵工良茂」とある。
 ところで、西面にかかる扁額には、「支那沙門雪珍書」の陰刻銘がある(写真139)。雪片(1649~1708)は黄聚宗の中国僧で、17世紀末~18世紀初頭に伊予国千秋寺の第4代住持であったことが知られる。裏面には「信主営町上町浦/岸氏仁右衛門」の陰刻銘がある。この扁額は、前身の鐘楼に掲げられていた可能性もあるが、鐘楼以外の建物に掲げられていたものかもしれず、現状では雪片と観音寺の関係を含めて明らかでない。なお、梵鐘は昭和22年(1947)のものである。
   刻まれた力士達の姿をいろいろな方向から眺めているだけで楽しくなります。また、最後の茶道の流れを日本にもたらす黄檗派の中国僧の扁額というのも気になります。というのも、これから見る本堂の内陣の大形厨子には禅宗様の要素が取り入れられているからです。
   さて、やっと本堂に正面から向き合います。
観音寺8

本堂(金堂)は、境内の北側に山を背負って南面します。
「構造形式」桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、向拝1問、本瓦葺
【建立年代】延宝5年(1677年/棟札/室町時代前期 前身堂を改造)
 この本堂は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定され、その後に解体修理工事がおこなわれています。その際の修理工事報告書には、次のように記されています
観音寺本堂3

①この堂は、もともとは南北朝時代に建設された方5間の「前身堂」であった
②それを万治年間(1658~1661)に大改修して現在の規模(桁行3間、梁間4間)にした
③しかし、この時の修理では完成せず、さらに大改造をおこなって、16年後の延宝5年(1677)に上棟した。
つまり、南北朝時代に方5間の規模で建立ものが、江戸寺の始めに大規模な改修を加え、今の形に生まれ変わったようです。この再建は、前身堂の両貿面および背面の各1間を取り除いたもので、柱間の変更、柱位置の入れ替え、軸部の構造の改変などをともなっています。つまり前身堂の「保守的な修理」ではなく、新たな建物に「前身堂の古材を用いた」と考えるレベルの改修規模だったようです。そのため、今の本堂は近世の建築形式・技術で建てられており、建立年代は延宝6年と専門家は考えているようです。その後、明和年間には内陣の厨子と須弥壇を改造して間口を拡大し、寛政13年(1801)には脇仏壇が増築されています。そして昭和35~37年の修理工事によって、脇仏壇が撤去されたのが現状のようです。
観音寺本堂1

 このように、この本堂は近世の建立とされますが、南北朝期の前身堂の部材を残し、改造はありますが中世の仏堂の雰囲気を残しているようです。前身堂の復原もある程度可能であり、中世における三豊地方の建築を知る上でも重要とされます。私の中で沸いてくる疑問は、もともと5間あったものを、どうして3間規模の建物に縮小したのか?です。しかし、報告書は、それには答えてくれません。ここの本堂は心地よい印象を受けます。私の中の「讃岐の霊場の本堂ベスト3」の中に入ります。ちなみに、あとの2つは本山寺・屋島寺です。
 
観音寺本堂しゃみだん
 本堂で私が注目したいのは内陣の大形厨子です。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
   また、本山寺に現在の本堂が姿を現したのを追いかけるように、観音寺でも方5間規模の「前身堂」が建立されていることになります。本山寺と観音寺はの関係は深かったことがうかがえます。
観音寺本堂2


 両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
観音寺太子堂
  本堂の次は・・・? 太子堂というのが常道でしょう。
【構造形式】正面3間、側面4間、一重、宝形造、向拝1間、本瓦葺
【建立年代】宝暦11年(1761年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 大師堂は仁王門をくぐり、参道の階段を登った正面左手に、愛染堂と並んで建ちます。
太子堂ですから本尊には、弘法大師が祀られています。「各部の虹梁絵様は18世紀中期の様相を示し、宝暦11年(1761)に再興」とあります。ちなみに、太子堂については、『琴弾伽藍古録一覧』に次のような再建記録があります。
①『弘化録』に長和2年(1013)に当堂の存在が確認できること、
②弘長3年(1263)の御影堂の棟札(木札資料6-6)、
③永禄9年(1566)の御影堂建立棟札(木札資料6-4)、
④慶長2年(1597)良海の代に再建されたことが記される。
⑤慶安元年(1648)の御影堂再興棟札(木札資料5-3)、
⑥延宝4年(1676)の弘法大師堂再興棟札(木札資料5-6)、
⑦延宝5年(1677)の御影堂再興棟札(木札資料5-7)
以上の史料が残るようです。①は史料としては不確実なものですが、②以下は棟札ですから、存在した可能性が高いと考えられます。戦国末期の混乱の中でも寺が機能存続していた事がうかがえます。
太子堂の「評価」について、報告書は次のように述べます 
当初より、背後に仏壇を突出させていたと考えられ、弘法大師を祀る正堂と、その前方の礼堂という構成をとる。礼堂にあたる主屋は正方形平面の内部に内陣を設けるが、内陣が中央になく背後に寄せて外陣の空間を確保している点が特徴である。
 ただし、当初は外陣の構えをもたず、内陣の周囲は間仕切りがなく、あたかも一間四面堂のような様相であったと考えられる。内部に改修はあるものの、当初形式をほぼ留め、天井画などの装飾性が豊かな点も特徴としてあげられるだろう。なかでも、内陣二重折上格天井など高い意匠性を認められ、虹梁絵様の意匠からも18世紀中期の仏堂と評価できる。
 足元まわりが、昭和51年の土砂崩れの被害を受け、花尚岩製の方形切石を入れてかさ上げされているが、外部の構造・意匠は概ね建立当初の形式を伝えている。社蔵記録から宝暦11年(1761)の再興が明かな点も、同時代の周辺地域における建築の建立年代を考えるうえで重要な意義をもっと考える。
 うーん。読んでいると頭がくらくらしてきます。情報を受け止めるだけの準備不足を感じてしまします。もう一軒行ってみましょう。
観音寺薬師堂1

さて次に向かうのは階段の上の薬師堂です。
 この建物は、『琴弾伽藍古録一覧』には、大同2年(807)に弘法大師が建立したと記されます。続いて、慶長9年(1604)の上棟、正保4年(1647)と元文4年(1739)の再建の記事があります。さらに
「随正和上代正徳四年寺社帳二ハ 四間四方トアリ、光巌和上代宝暦四年明細帳ハ 五間四方トアリ」
との朱書が記されています。これを信じれば、正保4年再建の堂が4間四方、元文4年の堂が5間四方であったようです。現在の薬師堂は大正時代の再建です。建立に関する資料としては、仏壇の南側の脇間に棟札が置かれているようです。その棟札には「再建西金堂」、[大正三年三月二十一日]、「大工棟梁 大塚竹治」などの字句がみえ、西金堂を再建するという意味で薬師堂を新築したということだそうです。

観音寺薬師堂2
  この建物は「西金堂=薬師堂」という性格をもつようです。
 このほか、正面石階の側面羽目石のほか、正面に点在する灯篭・香立て・花立てなどの石造物にも大正3年(1914)の銘を確認できます。また大工棟梁の大塚竹治は、昭和3年(1928)におこなわれた琴弾神社本殿(寛保3年=1743建立)の第37回遷宮(修理)の大工棟梁もつとめていることが、『琴弾八幡宮昭和流記』(1989年)から分かるようです。
この薬師堂の性格を一変させるのが明治の神仏分離令です。
廃仏毀釈運動の影響を受けて琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来が、この建物に遷ってくることになります。その結果、第68番札所の神恵院の本堂として使用される事になるのです。それは、2002年に現在のコンクリートの本堂が出来るまで続きました。その役目を終えて、現在は再び薬師堂と呼ばれるようになっています。
それでは報告書の薬師堂の「評価」を見てみましょう
 薬師堂は、正方形の内陣の四周に庇をめぐらせる基本的な平面をとりながら、内陣の床や天井を上げることで、正面側を外陣、両側面を脇陣とし、背後に寄せて仏壇を設けるといった平面的な特徴を備えている。正面側まわりと内陣柱との柱筋がそろわないため、内外で柱や束の立てる位置が異なり、また大虹梁側面から挿肘木を出して天井桁を支えるといった変則的な納まりとなるところがあるが、内陣の三方を虹梁で囲い、大きな本尊に対応した高い内陣の空間などが特徴的である。全体の意匠は、和様を基調として、台輪、柱の綜、花頭窓など禅宗様の構造や細部をとりいれ、側まわりを中心に彫刻などの意匠が豊富である。とりわけ向拝周辺の虹梁絵様や彫刻などは精緻で、大瓶東に二重虹梁を挿す構造的な面を含めて薬師堂のみどころの一つである。
 また、組物は柱上だけでなく、柱間の東上や柱間にも置くなど、詰組に近い構成となっている。向拝の丸桁や仏壇正面の貫状の水平材に施された地紋彫りは珍しく、彫刻技術の高さを示している。それゆえ、隅柱の内法長押や切目長押の納まりが正統的でないのが、やや不可解である。
 棟札により、建立年代や大工が明らかである点も特徴に挙げることができる。大きな改修を受けず建立当初の姿を伝えており、近世社寺の流れをくみながらも架構などに独特な点がみられる近代の仏堂と評価できる      
   
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疑問が残るのは、なぜ観音寺に薬師堂があり、古仏の薬師像が祀られているかです。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
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観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
さて、神恵院の本堂は、薬師堂の階段を一旦下りて、観音寺の大師堂と神恵院の大師堂の間を西に進んで、さらに石段を上った所にあります。最初に、この本堂の前に立った時の違和感をいまでもおぼえています。この本堂は、2002年に鉄筋コンクリートで新築された「未来的な建物で、未来的な宗教空間」なのです。これを建てた建築家にエールを送ります。
  このお寺の歩んだ歴史については、また別の機会に
   南無大師遍照金剛
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行


観音寺・神恵院調査報告書2019.jtdcの画像
中世讃岐のある港町の復元イメージ図だそうです。
ふたつの河が分流し海に注ぎ込んでいます。その中州に走る街道沿いに集落が形成されています。引田でも宇多津でもなく・野原(高松)・松山林田でもなく、観音寺だそうです。
地図上に地名を落としてみると次のようになります。
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 家々が集中するのは、財田川の河口に浮かぶ巨大な中洲です。そして、画面手前側は急速に陸地が進み、手前の川は小さな支流(現一ノ谷川)になっていきます。人々の居住区の向こうには、財田川をはさんで琴弾山があります。これは古代からの甘南備山で、頂上には琴弾八幡宮が鎮座します。川の向こう側が聖なる地域であったようです。
 聖域の琴弾八幡には、早くから橋(原三架橋)が架かっていたようです。参道から財田川に架かる三架橋を経て、真っ直ぐに中州に伸びてくる街路が町の中心軸となっています。このセンターラインの街路と交差する道が何本か伸びて、集落化しています。
 「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(享徳元年(1453)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。そして放生会の祭には、住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたことが分かります。それだけの経済力を持った港町に成長していたようです。その背景は、瀬戸内海交易への参加です。絵図からは町場がそれぞれの港を持っている様子が分かります。(絵図の湊1~3)この港は漁港としての機能だけでなく交易港としての機能も果たしていました。
 例えば、文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記録されています。財田川河口の港を拠点に、活発な交易活動を展開する各港は、まとめて「観音寺」と呼ばれました。
 各町場には、中核として寺院、なかでも臨済宗派寺院が多く建ち並び、港や流通に深く関わっていたようです。注目したいのは室町期以降に増加する興昌寺・乗蓮寺・西光寺などの臨済宗聖一派の寺院です。円爾(聖一国師)を派祖とする聖一派では、京都東福寺や博多を拠点として各港町の聖一派の寺院でネットワークを築き、相互に人的交流を行っていました。観音寺が三豊屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の寺院が創建されていったようです。
  専門家達はこのイメージ絵図のように観音寺は、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世からすでに町場が形成されていたとみています。

琴弾宮絵縁起

 琴弾神社に八幡さんは、どのようにして招来されたのでしょうか。
それを語るのが「琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ)」(重文)です。
観音寺に所蔵されるこの絵は、琴弾山周辺の景観を描いた掛幅であり、琴弾宮草創縁起の一部が絵画化されたものです。
さて、それではこの絵図を縁起と突き合わせながらみてみましょう。
  この絵図を最初に見て、これが琴弾神社を描がいたものとは思えませんでした。
琴弾山が有明海に向かって立っている姿なのでしょうが、「デフォルメ」されすぎています。研究者は
「そこには本図に社寺の縁起を絵画化する縁起絵としての側面と共に、琴弾宮一帯を浄土とみなす礼拝図としての側面も含まれている」
といいます。なるほど「琴弾宮一帯を浄土」として描いているのです。リアルではく「宗教的な色眼鏡」を通して描かれていると理解すればいいようです。
 一方でこの絵からは琴弾宮周辺の景観を意識したと要素が見て取れるといいます。例えば、井戸や巨石など指標物の位置が現在のものとほぼ一致しているようです。
琴弾宮絵縁起3
下を右から左に流れるのが財田川です。
財田川に赤い橋(三架橋?)が掛かり、参道が一直線に山頂に伸びます
頂上には本殿や数多くの建物が並び立っています
財田川には河床に張り出した赤い建物が見えます。何の用途の建物かは分かりません。
川にせり出した建物と広い広場を向かい合って、山を背に社殿が建ちます。
  簡単に言えば、両縁起文を絵図化して「説法」用に使用したのがこの「琴弾宮絵縁起」のようです。
 『四国損礼霊場記』に従って、どんな事件が起きたのかを見てみましょう
①この宮は文武天皇の御宇、大宝三年、宇佐の宮より八幡大神爰に移りたまふといへり。
其時三ケ日夜、西方の空鳴動し、黒霊をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、②西宮の空より白霊虹のごとくたなびき、当山にかかれり。
③この山の麗、梅腋脹の海浜に一艘の怪船が流れ着いた。中に琴の宮ありて、共宮美妙にして、嶺松に通ひはり。
④この山に上住の上人あり。名を日証といひけり。
⑤日証上入が船に近づきて
「いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉ふ」ととひければ、
「我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐から上り出たが、この地霊なるが故に、此にあそべり」
とのたまへり。
⑥上人又いはく
「疑惑の凡夫は異端を見ざれは信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へ」と。
⑦共夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂藪となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嵯せずといふ事なし。
⑧上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数十人を集め、此山竹の谷より御船を峰上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴井に御船いまに殿内に崇め奉る。
琴弾宮絵縁起1

簡単に意訳すると・・
 天変地異の如く、黒雲が月日を隠しています。そこへ 「②西の空より白霊虹のごとくたなびき」大分の宇佐神宮から琴の宮に「③一艘の白い怪船」が流れ着きます。
⑤怪しんだ日証上人が「誰何」すると、神は「八幡大菩薩」と名乗り、「帝都に近づき擁護」するたの途上であると答えます。そこで日証上人は「凡夫は奇蹟をみないと信じられません、何か奇蹟を起こして見せてください」と云います。すると、その夜に海水に浸かっていた湿地に竹が生え、砂浜は松林に変わります。奇蹟が起きたのです。これを見て人皆、この神の尊さを知ります。
琴弾宮絵縁起2
 上人は村々を回ってお説経をし、まだ欲を知らない無垢な童見数百人を集めて、
⑧竹の谷から御舟を山上に引き揚げ祀り、これを琴弾別宮と号して祀るようになりました。この時の神舟は、今でも殿内にあり祀られています。
  ここにはもともとの地主神である琴弾神の霊山である琴弾山に、海を越えたやって来た客神の八幡神が「別宮」として祀られるようになった経緯が示されます。つまり、琴弾神と八幡神が「神神習合」して「琴弾 + 八幡」神社となっていく姿です。
 さて、この宗教的イヴェント(改革)を進めた日証上人とは何者なのでしょうか?
  日証上人についての史料はありません。
  観音寺寺の由来には次のように記します。
大宝三年(703)、法相宗の高僧日証(證)上人が琴弾山山頂に草庵を結んで修行をしていた折、宇佐神宮から八幡大菩薩が降臨され、海の彼方には神船が琴の音と共に現れた。上人は、里人と共に神船と琴を引き上げて、
①山頂に琴弾八幡宮を祀り、
②神宮寺を建立して、当山は仏法流布、
③神仏習合の霊地
と定められた。
 時は平安の世に移り、唐より帰朝された弘法大師が、大同二年(807)に当山に参籠。八幡大菩薩の御託宣を感得され、薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王等の尊像を刻み、七堂伽藍を建立。
④山号を七宝山、寺号を観音寺と改められ、八幡宮の別当に神恵院をあてられた。大師はしばしの間、当山に留まられ第七世住職を務められたと寺伝にある。以後、
⑤真言密教の道場として寺門は隆盛を極めた。
  観音寺の設立年代や、空海伝説は脇に置いておくとして、ここからは次のような情報があります。
①②③琴弾八幡宮の別当寺神宮寺(旧観音寺)を建立し神仏習合の霊地となった。
④空海が山号を七宝山観音寺に改めた
真言密教の道場として隆盛した。
 まず山号が琴弾山ではなく七宝山であることに注目したいとおもいます。そして「真言密教の道場」だったというのです。
琴弾神社9 金毘羅参詣
 ちなみに四国霊場の本山寺も山号は七宝山です。そして、その奥の院は七宝山山中の興隆寺跡です。この伽藍跡には花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。 寺の縁起や記録などから、この石塔群は修験道の修行者の行供養で祈祷する石塔であったようです。一番下の壇には不動明王(座像)の磨崖仏を中央にして、状態のいい五輪塔約30基が並びます。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 3
 つまり、ここから不動の滝、そして高室神社に架けては行場が点在する修験者にとっての聖地だったのです。本山寺が修験者の活動の拠点寺院であったように、観音寺もおなじように真言修験道の拠点であったと私は考えています。観音寺と本山寺は、行場である七宝山を共有し行者達が行き交うような関係にあったのではないでしょうか。それはひとつの「辺路修行」であり、それが四国遍路へとつながって行くのかもしれません。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 4

『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿建立精舎
とあます。ここには、弘法大師が創始した「七宝山修行」があったと記されています。そして観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から五岳の山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼といっても良いかもしれませんが、これが
観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルート
でなかったのかと想像しています。これはもちろん現在の遍路道とは、ちがいます。
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神恵院・観音寺の成立について、今までのべてきたことをまとめておきましょう。
① 神恵院・観音寺は元々、琴弾八幡宮の別当寺として機能した神宮寺であった。
② 琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊とし、神恵院は弥勒帰敬寺と称され、観音寺も、当初は神宮寺宝光院と称されていた。
③ 平安時代初期になって、神恵院とともに七宝山観音寺と改称された。
④ 財田川河口は、中世には港町として知られ「兵庫北関入船納帳」にも「観音寺」からの船舶が塩や干魚などを納めていた。この港を管理していた寺社が琴弾八幡宮であった。別当寺である神恵院・観音寺が港の庶務を管理していた。
⑤ 琴弾八幡宮や観音寺の境内には、中世の石造物である層塔や宝塔、五輪塔などが残っていて、中世・通じて琴弾八幡宮の別当寺として神恵院・観音寺が隆盛を誇っていたことをうかがわせる。
⑥このような状況は、宇多津や志度などにおいても、同じような状況が見える。
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⑦この状況は明治維新によって一変します。
 明治維新後、新政府の神仏分離政策により、神宮寺は神社から分離されます。神恵院も、琴弾八幡宮からの分離を余儀なくされ、明治4年(1871)に本尊の阿弥陀如来画像(琴弾八幡宮本地仏)を観音寺の西金堂に移し、神恵院の本尊とします。そして観音寺の西金堂を神恵院の本堂とし、ここを七宝山神恵院と称するようになります。現在の観音寺の「一境内二札所」は、こうして成立します。
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大山祗神社神域図

大山祇神社の神仏分離前の痕跡である
祖霊社を探して、神域を歩いてみまた。
 宝物館の裏から長い階段が伸びています。上にある建物は見えません。登って行くと入母屋の寺院的な建物が現れます。しかし賽銭箱子もなければ宗教的な雰囲気さえしません。なによりもまわりはフェンスで囲まれて、有刺鉄線も張られています。倉庫のような雰囲気さえ醸し出しています。何が祀られているのか?
 ここが祖霊社と呼ばれる建物です。
祖霊殿3
大山祇神社の祖霊社

『大三島詣で』(大山祇神社々務所)は、この建物ついて次のように記します。
「神宮(供)寺は四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺(今は今治市南光坊)として殷賑を極めた時代もあったが、明治元年の神仏分離令によって仏像・仏具その他全てが他所に移され」寺は大山祇神社末社「祖霊社」になった

祖霊社と呼ばれていますが、今は何にも使われていない建物のようです。しかし、神仏分離前はここが寺院ゾーンの中心センターだったのです。そして、その他の院坊が現在の国宝館辺りには立ち並んでいたようです。確かに、北側に神社ゾーンがあり、それに並ぶように寺院ゾーンがあった気配はあります。
 ここでも中世は、神仏習合が行われていたのです。
  本地仏の大通智勝仏について
  霊力を低下させた神様は、蛮神の仏に姿を変えて人々を救うとされ、神仏習合が中世には広がります。大山祇神が権化(=変身)したのが「大通智勝仏」という仏様です。人の名前のようで聞き慣れない仏名です。この仏については、後に触れるとして・・・
大通智勝仏
大通智勝仏

大山祇神が権化の本地仏「大通智勝仏」 16人の王子を持ちます
大山祇神社に神宮寺ができるのは保延元年(1135)のことで、当初は「神供寺」と呼ばれていました。「三島宮御鎮座本縁」には
七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。 
 別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。 其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。 亦は本寺堂と云。 是れ神供寺の初め也云云。
前半部は暗闇が何日も続く「天変地異」が続いたこと、これを大山祗神が治めたので、朝廷から勅使がやって来て本宮・末社を造営した事が記されます。同時に別当寺が建立されます。さらに
「神供寺のほかに「一于の堂」を建て、そこに大通智勝仏(東西南北四方八方を守護するとされる仏)の像を安置し、大山積神の本地仏とした、また、摂社末社の本地仏も調え、それらを大通智勝仏の左右に並べ、この堂を「仏供院」とも「本寺堂」とも称した、これが大山祇神社の「神供寺」の初めである」
と記します。このようにして、この神社では国家主導の形で神仏習合は進めれたようです。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点であったのでしょう。現在にまで法燈をつないでいるのが、今治市の南光坊(四国巡礼札所)と大山祗社に隣接する東円坊の二坊のみのようです。瀧本坊は、熊野における那智大滝を統括していた坊名です。ここからも大三島における熊野修験者の活動がうかがえます。

大山祗神社3

 神域を歩くと、楠の巨木に何本も出会います。
その中で、もっとも存在感があるのは、境内の中心に聳える「小千命御手植の楠」でしょう。
『大山祇神社略誌』には、次のように紹介されています。
 小千(おち=越知氏の祖先)命は神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。

小千命御手植の楠

 そしてもう一本、霊木「能因法師雨乞いの楠」があります。
『略誌』は、この楠について次のように奇譚を述べます。
 伊予守藤原範国の命により祈雨のため大三島へ詣でた能因法師が「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と詠じて幣を奉ったところ、伊予国中に三日三晩降り続いた(金葉和歌集)という。宇迦神社前の古木がこれである。

お隣の讃岐では、国守の菅原道真自身が雨乞祈祷を行っていますが、ここでは霊験のある修験者に雨乞祈願を行わせています。
そのために
能因法師がやって来たのがここです。注意したいのは「幣を奉った」のが本殿ではなく、この大楠であったこと。また、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」にしても、本殿神ではなく大楠に宿る神への奉納歌であること。ここからは能因法師は、この大楠に大三島の水霊神(雨を司る神)が宿ると認識していたことがうかがえます。
 『略誌』は「宇迦神社前の古木がこれである」と書かれているだけで、その後の説明はありません。しかし、この霊木があるのは宇迦神社の前で、その本尊は龍神のようです。境内の中にも、いろいろな神々が祀られていたことがうかがえます。
大三島詣で』は、宇迦神社について、次のように書いています。
宇迦神社
鎮座地  本社境内(放生池の島
祭 神  宇賀神
例祭日 三月十五日
 木造・素木・流れ造り・屋根銅板葺き。池をはさんで木造・素木・屋根銅板葺きの拝殿。現在の社殿は昭和五十七年十二月新築。
 例祭のほか、本社の例大祭にさきだち、旧暦四月十五日から二十一日までの七日間、大祭期間中の好天を祈る祈晴祭が、当日晴天のときには旧暦四月二十四日に祈晴奉賽祭が行なはれ、その神饌は放生池に投供される。
 古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されており、雩の神事には安神山頂の龍神社にお籠りをし、つづいて宇迦神社の放生池(土地の人が、べだいけんと呼ぶ)をさらえ、境内で千人踊りをした。

放生池の中島にまつられる宇迦神社
放生池の中島にまつられる宇迦神社
 宇迦神社は「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社」とあります。
このことを知っていたから能因法師は、本殿ではなく宇迦神社の前の霊木の前で、雨乞祈祷をおこなったのかもしれません。ここには、大山祗神と宇賀神が「地主神と客神」の関係にあったのではないかという疑問も沸いてきますが、それはここでは封印しておいて・・・
 ここで見ておきたいのは、中世において院坊が数多く成立し、そこを拠点に熊野系の修験者が周辺への「布教活動」を展開している様子がうかがえることです。大三島周辺の島々への布教を行い、勃興する村上氏などを信仰下に置いて行ったのは、修験者たちだったようです。

それでは大山祗神社の社僧(=修験者)たちが聖地とし、行場としたのはどこでしょうか?
 大山祇神社の神体山はふたつあります。

安神山(大山祇神社の神体山の一つ)

ひとつは、龍神社を山頂にまつる山が安神山です。
もうひとつが、大山祇神社本殿の右後方に聳える山、鷲ヶ頭山です。この山には現在TV塔が建っていて、サイクリストのヒルクライムのトレーニングゲレンデにもなっていますが、ここに立てば絶景が広がります。
 さて、この山の谷にあるのが行場の「入日の滝」です。
研究者は「大三島において、修行・信仰の対象となりうる滝は、この「入日の滝」をおいてほかにはありません。」とまで云います。
滝山寺2
入日の滝

この滝までが、かつては大山祇神社の神域だったのではないでしょうか? 
現在、ここには滝山寺(無住)があり、その本尊は十一面観音です。古い供養塔などがみられ、その鎮守社は小さな祠ですが、祠内には「出雲大社」の神札がみえます。
 大山祇神社一の鳥居の横にある観光案内板は、この「入日の滝」について、
「鷲ヶ頭山の山麓にあり、高さ一六m男瀧女瀧にわかれている。その飛沫が夕陽に映じて美観を呈する夢幻境で俗塵が洗われる。古くから蛍の名所として知られている」
と記すのみです。神仏混淆時代の修験者の活動について、触れる事は当然ありません。

滝山寺本尊
滝寺の十一面観音
 しかし、しかしここの滝神は、先ほど述べたように本地仏を十一面観音とし、出雲大神を滝神と見立てています。この神仏習合関係を研究者は次のように指摘します

「この関係は、熊野・那智と似ています。那智において、大滝の神(飛滝権現)の本地仏は十一面千手観音ですし、熊野那智大社は那智大滝の神を出雲大神としています。また、滝山寺の御詠歌には、「大三島西国第一番台[うてな]の瀧山」とあます。
 これは、熊野那智(那智山青岸渡寺)が西国三十三観音巡礼第一番札所であったことを擬したものでしょう。「入日の滝」の滝神が、熊野那智の滝姫神を投影させたものであることは明らかで、熊野那智の滝信仰が、大三島の「入日の滝」にはまるごと再現されているようです。」

 ここからも大三島周辺で活躍した修験者達が熊野系であったことが推察できます。さらに一歩踏み込むなら、吉備児島の五流修験の流れではないかと考えられます。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立てて「新熊野」を名乗り、瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしていきます。その流れがここまで及んでいるようです。

祖霊殿2

参考文献 月の抒情、瀧の激情 http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-9.html?sp

 

 
大山祗神社1

 大山積神社は芸予諸島の真ん中にあり、一番大きな大三島にあります。古来から瀬戸内海交易ルートのど真ん中にあるで、モノと人が行き交う流通ルートに位置していました。この神社の由緒は古く延喜式内社で、のちに一ノ宮と称せられ、明治時代には国幣大社となっています。この神社には、有名な武将たちが奉納した鎧兜・太刀等が数多くあります。その数量は国宝七点、重要文化財七四点に達し「刀剣・兜の宝庫」ともいわれます。平安初期から鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代を通じての、逸品が時代を超えて納められています。
大山祗神社 甲冑1

例えば国宝に指定されている平安期のものを4つ挙げてみると、
①わが国最古の作品といわれる沢潟威鎧兜(国宝)
②源頼朝が寄進したという豪壮華麗な紫綾威鎧(平安末期の制作 国宝)
③源義経の奉納と伝える赤糸威胴丸鎧(平安末期、国宝)
④伊予の豪族河野通信の寄進にかかる紺糸威鎧兜(平安末期 国宝)
  武将が武具類を奉納した背景には、祭神大山祗神が海の守護神であるとの信仰があったようです。
「大山祗神社=大三島神社=海の神様」というイメージを私も、何の抵抗もなくうけいれてきました。しかし、考えて見れば、大山祗神そのものは山の神です。それが、なぜ海の神に「変身」したのでしょうか。そこには、神社をとりまくいろいろな社会事象があったようです。それを今回は見ていく事にします。

大山祗神2
 大山祗神は、もともとは山を祀る神
 この神社の祭神は大山祗神であって、大山積・大山津見とも書き、三島大神・三島大明神とも呼ばれました。今では大山祗と表記しますが、古くは大山積でした。『古事記』によると、大山祗神はイザナギ・イザナミの二神の子です。この神を同書および『日本書紀』の一書では山の神とし、また書紀の一書に火神の分神としています。大山祗とは山津持を意味し、山を持つ神すなわち山を掌る神としています。
大山祗神1
大山祗神
 また古事記では、伊井諾命が十拳剣カグツチ石神を斬った時、オド山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生まれたことを伝えます。本居宣長の説によると、大山祗神はこれらの山神を統轄する神であるとしています。
 ところが、天平二十年(七四八)までに編集されたと思われる『伊予国風土記』逸文のなかに大山祗神に関する異説が記載されています。そこには次のように記されます。

 宇知(越知)郡御島坐神御名大山積神、一名和多志大神也、是神者仁徳天皇御世、此神自百済度来坐而津国坐云々、謂御島者津国御島名也、
この本文のなかの「宇知」は「乎知」(すなわちのちの越智)の当字と考えられます。意訳変換しておくと、
越智郡の大三島に鎮座する大山祗神は、別名を和多志大神と称する。この神は仁徳天皇の時代に百済国から渡来して津国(伊予)に鎮座したという。御島とは伊予の島名である。

ここに書かれる津国の神社とは、式内社の三島鴨神社のことのようです。伊予以外に、由緒の古い三島神社は、伊豆国賀茂郡にもあって、同社の金石文によると天平二年に伊予国から勧請したと記されます。これらの三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、また伊予国越智郡内に鴨部郷があるので、はじめは伊予国には賀茂氏の手によって勧進されたと研究者は考えます。
 越知氏が越智郡司となって権勢が強大になると、越智氏は大山祗神を氏神(一族の守護神)として祭祀するようになります。
 風土記逸文のなかに書かれた大山祗神の説話については、次のようないろいろな解釈があります。
その1 仁徳期の朝鮮半島遠征の際に、従軍した越知氏がもたらした説
しかし、仁徳期に、越智氏とよぶ強大な部族の出現は視られません。越知氏の存在が分かるのは7世紀になってからです。この説を研究者は次のように考えています。
「この説話は史実ではなく、恐らく風土記が編集されたころ、大山祗神が百済国から渡来したとの伝承が醸成せられていたのであろう。この説話の背景に、先進国家百済国と関係づけ、その評価を高めようとする考えがひろく存在していたことがうかがえる。」

  その2 越智直が百済救援軍に参加した伝承と深い関係があるとする説
『日本国現報善悪霊異記』のなかに、越智直が百済に出征した際、不幸にして唐軍の捕虜となり中国に拉致され、九死に一生を得て帰国した。朝廷ではその労苦をねぎらうため、彼の要望によって越智郡がつくられた旨を述べています。そこで、彼が帰国した事件を奇縁として大山祗神が百済から渡来したとの説話を生むようになったと解釈する説です。
   霊異記は弘仁十三年(812)に景戒の手によって編集された仏教説話集です。そのため大部分は因果応報物語で、資料的な信憑性について問題があるのは当然です。研究者達は次のように指摘します。
「この説話は史実として見るべきではなく、越智郡の創設された時期を推察する一参考資料として取扱わなければならない」

大山祗神が百済から渡来したとの説話を、霊異記と関係づけて伝承史料とするには、無理があるようです。
 仏教が伝わり、平安時代中期に神仏習合思想がおこり、日本の神々の本地は印度の仏菩薩であり、仏菩薩が衆生を救済するために神の姿で現れると説きます。
大山祗神は、どんな仏が神様に「変身」したものなのでしょうか?
伊予の豪族河野家で編集された『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、大山祗神の本地仏は大通智勝仏としています。大通智勝仏は法華経化城喩品の中に登場する仏で、はるか昔に出世した仏となっています。
大通智勝仏
 大通智勝仏
大山祗の本地仏を大通智勝仏としたのなぜでしょうか? 
それは本社を祀った越智氏(のちの河野氏)が、自分の姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」ことから出発して、仏教思想に結びつけたからのようです。また平安末期の河野通清・通信をはじめとして、その嫡子たちが名前に通の字を使用したのも、大通智勝仏にあやかったからでしょう。後世の記録ですが『北条五代実記』のなかには、このことについて次のように記します
 抑三島大明神卜申ハ 元来ハ伊予国二御鎮座アリ、(中略)本地ハ大通知勝仏ニテ御座ス、是二依テ彼御神ノ氏人伊予河野ノー門ハ、今二至テ大通ノ通字ヲ名乗トカヤ、越智ノ姓是也、

意訳しておくと
そもそも三島大明神は、もともとは伊予国に鎮座していた。(中略)
その本地仏は、ハ大通知勝仏である。ここにこの神の信者(氏人)の伊予河野ー門は、今にいたるまで大通の通字を名乗るという。越智の姓もそうである。
大通智勝仏の弟子達1
               大通智勝仏の弟子達

 大山祇神社の創建については、『予章記』などの郷土史料に次のような「創建説話」があります。

越智玉興が海路により伊予国に帰る途中、備後国の沖で飲料水の欠乏に苦しんだ時、霊験によって潮中に清水を得て、苦難をまぬかれた。そこで玉興はこの奇瑞を朝廷に報告し、勅宣によって大三島に社殿を造営し、大山積大明神と称した
 
創建説話とは別に、確実な史料によって本社の変遷をたどってみましょう。
『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月の条に、大山祗神に神階従四位下と神戸五戸があてられています。
天平神護二年夏甲辰、伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、井授従四位下、充神戸各五戸、

この記事によってすでに奈良時代には本社が存在し、地域の尊崇をうけていたことが分かります。さらに大同一年(八〇六)に神封五戸があてられ(『新抄格勅符抄)承和四年(八三七)に明神に列しています(『続日本後紀』)。

大山祗神社3

 延長五年(九二七)に『延喜式』の編集が完成し、その神名帳のなかに、本社が国幣大社として記載されています。神名帳に登載された神社は、延喜式内社と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇をうけ、祈年の頒幣に預かった官社でした。その中でも神祇官の祀る神社を官幣社、国司の祀る神社を国幣社と称しました。国幣社に指定されていたという事は、この神社が特別な厚遇をうけ、また国との関係も深かったことが分かります。
 天慶三年(九四〇)九月に封戸が施入されますが、これには藤原純友の乱討平の祈願がこめられていたようです。その後も幾たびかの火災に遭いながら現在の本殿および拝殿が再建されたのは、応永年間(一三九四~一四二八年)のことです。

大山祗神社2

さて、この神社を神仏混交時代に管理していたのはどのような人たちでしょうか
 この神社には早くから塔頭が置かれ僧侶が勤務していたことが『大山積神社文書』によって分かります。また大三島の『神原文書』からは、大三島の十六坊が16世紀初頭の文亀年間にはあったことも分かります。ここからも神仏習合の下に、社僧による神社の管理が行われていたことがうかがえます。そして社僧の多くは熊野系の山岳修験者であったようです。

越智氏の台頭と大山祗神社の関係は?
大山祗神社の保護者であった越智氏は、古代末期に風早郡河野郷に移住して河野氏と称するようになります。河野氏はどんな一族だったのでしょうか?また、どのような過程をたどって武士化したかのでしょうか。
 越智氏の出自については、古くからいろいろの説があります。
①孝霊天皇の子伊予親王から出た説(『予章記』・『予陽河野家譜』による)
②武内宿禰から出た説(一条院坊宮内侍原刑部卿家蔵本『河野系図』による)
③大山祗命から系統を引く説(『三島系図』および『水里玄義』による)
④伊予御村別の祖先である武国凝別命から出た説(『和気系図』・『与州新居系図』による)
 これらの説に対し考証がすすめられた結果、現在ではニギハヤヒ命から出た小致命の子孫とする説(『天孫本紀』・『国造本紀』による)が妥当なものと研究者達は考えているようです。
 越智氏は、はじめ伊予国の中枢部に位置する越智地区を本拠としていました。
『国造本紀』によると応神天皇の代に大新川命の孫の小致(おち)命が国造に任ぜられています。その後、越智郡が設置されると、その子孫は越智郡司に任命されます。したがって、越智氏は国造→郡司のコースを歩んだ地方豪族のようです。

 越知氏が郡司であったことを物語る史料は「正倉院文書」の「正税出挙帳」です。
これは天平八年(七三六)に伊予国から政府へ提出された正税に関する報告書で、次のように記されますある。
   郡司 越知直広国 主政越知東人
  「?」税穀「?」千伍栢弐拾肆餅玖斗陸升参合
  頴稲肆万伍仔陸俗五拾漆束捌把
  出挙壱万弐千束
  借貸壱万「?」
  「?」伍拾漆東捌把
この記録には、大領の越智広国と主政の越智東人らの名が見えます。さらに『続日本紀』の神護景雲一年(七六七)二月二十日の条によると、大領の越智飛鳥麻呂が「あし絹」および銭貨を献納した功によって、外従五位下に叙せられています。

神護景雲元年二月庚子、伊予国越智郡大領外正七位下越智飛鳥麻呂、献絶二百舟疋銭一千二百貫、授外従五位下。

当時は物資を献納して叙位されることはよく行われていました。ここからは越智氏が開発領主として大規模な農地経営に乗り出して経済的な成長を背景に位階を高めている様子がうかがえます。
 海賊討伐と越智氏の武士化
 古代律令体制の傾きとともに、瀬戸内には海賊が横行するようになります。伊予国も彼らの震源地となります。治安の維持のために警備増強が求められるようになります。しかし、海賊の横行は激しくなるばかりで官物を強奪し、人の命を奪うので瀬戸内海の交通も途絶えがちになります。『日本紀略』『本朝世紀』・『扶桑略記』等には、朝廷が各国府に対し山陽・南海の両道の海賊を逮捕するように命令し、諸社には海賊鎮圧の祈願をさせた記事が載せられています。
 このような中で伊予では、藤原純友が瀬戸内の海賊をまとめて、宇和郡日振島を拠点にして反乱をおこします。越智郡司であった越智氏も、政府の討伐指令に従って動いたはずですが、正史のなかにその名を見出すことはできません。
信頼できる史料によって、それ以後の越智氏の活躍を追ってみましょう。
『貞信公紀抄』によると、越智用忠が海賊の平定につくしだので、天暦二年(九四八)七月にその功労を賞するために、国衙から叙位を申請しています。
天暦二年七月十八日、伊予国申、越智用忠依 海賊時功、可叙位解文等、
令公輔朝臣奏之、加用忠貢書即還来、伝仰可被叙之状、
この海賊がどこのものであるかは解りませんが、純友の一軍だったものかもしれません。
また『権記』によると、長保四年(1002)に越智為保が伊予追捕使に任ぜられています。
 長保四年三月十二日戊申、(中略)伊予追捕使越智為保任符、
奉送前守許、依有彼守之所示、令労成也、
さらに『除目大成抄』によると、
治安三年(1023)に越智時任が大目に(『江家次第』)
永久五年(1117)に越智貞吉が大徐に任ぜられている(『除目大成抄』)
越智氏はもと武官ではありませんでした。しかし、在庁官人の地位を長く占める事で、中世の混乱かの中で在地土豪化し武装化するようになったようです。そして「海賊討伐」などを通じて地方の兵権に関わり、彼ら自身が武士集団化するようになります。当時の愛媛の在庁官人層は精神的な拠点として大山祗神社を重視し、その祭祀に務めていました。
大山祗神社6重文宝塔

 越智郡を本拠とした越智氏は、親清の代に風早郡河野郷に移ります。
そこで中世には姓を河野氏ともよばれるようになります。越智氏一族の移動した時期は、十二世紀の前半期のようです。河野氏は道前と道後との境にある髙縄山(986㍍)に城砦を築きます。
河野氏は武士団を結成するにあたって、越智郡から風早郡にわたる地域の中小領主層を多く従え、家臣団を組織していきます。その間、家臣による私有田経営も行なわれ、また荘園の開発も積極的にすすめられたようです。こうして河野氏一族の所領は、伊予国の各地域に拡大されていきます。
 一方河野氏は、引き続き大山祇神社を氏神として奉祀します。
また風早郡内の式内社である国津彦神社・櫛玉姫神社も尊崇します。これらの神社を本所とし、みずから領家となった荘園も出てきます。
大山祗神社5

  大山祗神は武士団の団結を誓う聖地へ
 源平の争いである保元・平治の二大乱(1156・1159)の結果、西国に根拠地を持つ平氏が源氏の勢力を圧倒して、一門の極盛時代を迎えます。河野氏は源氏に親しかった関係から、平氏の制圧をうけて失意時代を経験することになります。しかし、それも長くは続きませんでした。治承四年(1180)八月に、源頼朝が平氏討伐の兵をあげると、河野通清・通信父子はこれに応じ(『吾妻鏡』・『源平盛衰記』)高繩山城に兵を集結させます。
 さらに源義経が四国に上陸すると、その指令によって屋島・壇の浦海戦に舟師を率いて活躍しました。また義経の死後、頼朝は奥羽の藤原泰衡を討って、全国の統一をはかりますが、この奥州征伐に河野通信が従軍したことは『吾妻鏡』に詳細に記述されています。ここからは河野通信は頼朝に非常に近かったことがうかがえます。そのため河野家は頼朝亡き後の北条氏政権に素直に従えないところがありました。
 こうして上皇方に加担した河野氏は敗軍となります。
通信は伊予国に帰り、高縄山城によって抗戦しますが、幕府の征討軍によって陥落し、通信は傷ついて捕えられ、奥州平泉に配流されます。
 『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』には、承久の変のまえにして、通信は大山積神社に参詣し神託を請うたところ「幕府に応ずべし」とあったにかかわらず、神慮に背いて上皇側に味方したと書かれています。
 これは家譜の編者が承久の変における結果論から「創作した説話」とも考えられますが、その背後に大山祗神に対する崇敬心の厚かったこともうかがえます。

大山祗神社117

 承久の変によって、河野家は衰微の過程をたどります。これを再建したのは通信の孫通有です
彼は元寇で功績をたてます。通有は文永の役(1274)の後、幕命によって防衛のために九州に出動することになります。その際に『八幡愚童記』によると、大山祇神社に参詣し
「一〇年以内に蒙古が来襲しなかった場合、異国に渡って戦いを敢行する」
との起請文を神前に捧げ、これを焼きその灰をのんで武運の長久を祈願したという話を載せています。
 この後に、弘安の役(1281年)に通有は、博多湾内の志賀島の海戦に大きな功を挙げます(『八幡愚童記』・『蒙古襲来絵詞』)
 このエピソードからは、河野氏が大山祇神を深く信じていたことが分かります。
また河野氏にとって、大山祗神社が一族の精神的な精神的拠点であり、危機的事案が乗じたときには一族で、ここに集まり協議し、祈願したのです。そのため、この神社の神事費用は一国平均役として調達されたようです。これらの史実・伝承からは、河野氏が軍事的に海上に活躍する際には、お山の神様である大山祗神に海上の守護神の性格を習合していたことが見えてきます。

大山祗神社52

 長々と大山祇神社と越知氏(河野氏)の関係を述べてきましたが、ゴールにたどり着いたようです。武士化した越知氏、河野氏にとっては、戦いは海上戦を伴うものでした。そこでその戦いの勝利をもともとは「山の神様である大山祗神」に祈るようになったのです。
 こうして大山祗神社は、一族的な団結を図る聖地として機能すると同時に「海の神様」としての信仰を集めるようになったようです。

 

石鎚山お山開き6
   「お山迎え」 石鎚から帰って     
お山開きの山上での興奮を胸にして、講員達は里に帰ってきます。石鎚参りに行った人たちを、村の人たちはどのように迎えたのでしょうか。
石鎚講ではお山から帰ってくる人たちを迎えることを「お山迎え」といったそうです。
 まずは、出発するときに無事をお祈りした氏神やその他末社に、お礼参りをします。また村人の加持祈祷をして廻る事もあったようです。各地の事例を見てみましょう。
 今治市北新町などでは、石鎚登拝からもどるとその足でまず大浜八幡神社か吹揚神社に参拝しました。その後、浅川海岸で家族たちの出迎えを受けました。そこで「お山迎え」の酒盛りをして解散する習いだったようです。

石鎚山お山開き5
越智郡菊間町では、氏神加茂神社の秋祭のお供馬の鞍を付けた飾り馬で、今治まで出迎えたと云います。参拝者達が帰ってくることを知らせる法螺貝が鳴ると、村人も出迎え、一行からお加持(祈祷)をしてもらったり、土産をもらったと云います。
 石鎚登拝に門注連をして出発することは以前に述べましたが、帰ってくるとこれを取り外したようです。門注連を外さないと足の疲れがとれぬと伝えられました。
石鎚大権現2
 石鎚登拝者は村に帰ってくると、神社参拝にお礼参りをして、それから村内の祈祷をして廻っています。その際には、草履を脱がないで、そのまま座敷口から上がり、裏口に通り抜けると、家が清められ悪事災難を退散させると信じられていたようです。神社と、村周りの祈祷が終わった後で、酒宴をして解散するのが一般的でした。
 小部では、氏神に家族がご馳走を運び、ここで登拝者一同が酒盛りをしました。これを「精進落し」と云いました。伊予郡砥部町川井では、先達の家で「お別れ講」をしたといいます。
石鎚山蔵王権現5
以上、出発から帰村までをまとめてみると
 1 出発時に必ず氏神に参拝して行くこと。
 2 帰村時にも氏神に参拝し、村人の加持祈祷をして廻ること。
 3 特定の場所(親戚、神社、先達家、村境)まで食物を用意して出迎え、そこで共同飯食すること。

お山参りの効力は?
  修験者は加持祈祷によって、いろいろな願いを叶えられるパワーを持つ「天狗」というイメージを生み出してきました。しかし、そのパワーは里で暮らしていると次第に低下してきます。パワーを上げてレベルアップしていくためには、神聖な行場での修行が不可欠とされました。そこからは、行場から帰ってきたばかりの修験者が一番パワーポイントが高くて「成就力」もあると考えられるようになります。こうして江戸などでは、修行帰りの修験者が聖者視され「流行神」として崇められる例が数多く現れました。

石鎚山数珠1
このような風潮の中で、霊山石鎚に参拝登山してきた人たちにも霊力があると云われるようになります。
そのため登拝者を聖者として出迎え、里人がこれに跨いでもらったり、加持祈祷や家の清祓をしてもらったりするようになります。例えば登拝者がお山がけした草履にも呪力があるとされるようになります。その草履をはいたままで田の畦を踏んでもらうと作物がよくできるとか、オゴロ(もぐら)除けになる、種蒔きするとよいと伝わります。また草履で身痛いところを撫でたり、出入口に吊して悪病災難除けの呪物とした家もあるようです。面白いのは、お山に登った草履を履けば、水虫が治るという伝えまであるのです。

石鎚山修験者1
石鎚土産と呪物は?
 このように参拝登拝者や身につけていたものが効能があるとすれば、石鎚山の御札だけでなくありがたいお土産も買って帰ろうとするのは、自然の成り行きです。
石鎚土産としては、「お山柴」と「助け猿」が定番だったようです。
お山柴はシャクナゲのことで、登拝者は必ずこれを土産に持ち帰り、神札とともに竹に挾んで田畑に立てました。これが虫除けになります。家の出入口に吊すと魔除けになったようです。
石鎚山お土産お助猿
 助け猿
助け猿は、縫いぐるみの小猿で子どもの背につけたり、家の出入口に吊して災難除けとしたようです。伊予郡中川原では、男の子が生まれると、十五歳になれば登拝すると願掛けして、この猿を石鎚山より請けてもどり、願解きのときに倍にしてもどしていたといいます。ちなみに猿は石鎚山のお使いだと言う人もいます。
 お助猿は戦後になってもお土産として人気があったようで、石鎚山近くの学校に通っていた人の作文には
「その時期が近づくとお猿さんの形をしたお守りの『助け猿』をたくさん作って、小遣い稼ぎをしていた」
と書かれています。『病気が去る』とか『魔除け』として、買って帰る人が多かったようです。参拝した人々が、自分の腰に三つ、四つ、助け猿を付けて歩いているのを覚えていると云います
石鎚山朱印1
 また、当時の石鎚登山の拠点であった伊予小松駅周辺で戦後に売られていたお土産については、次のような記憶が書き留められています
 「お山開きのときには、駅前通りの店舗のほとんどが、土産物売場を設置していましたし、出店もたくさん並んでいたことを、よく憶えています。出店の前を通った男の子が、『おいちゃん、ニッケ(クスノキの樹皮を乾燥させてつくった飴)ちょうだい。』とねだっていた光景が思い出されます。

 漢方薬もお土産として売られていました。
 陀羅尼助とは、俗にオヤマダラスケとかダラスケと呼んで胃腸薬、強壮剤、痛みどめの漢方薬だったようです。黒っぽい塊で、修行僧が長ったらしい陀羅尼経文を読むときに、口に含んで睡魔を追い払ったところから言われだした名前だと云います。ここには、お寺や先達が漢方薬を作り販売していたことがうかがえます。そして、その漢方やニッケの材料を集め、お助猿を作っていたのは、今宮や黒川などの石鎚街道沿いの集落の人たちだったようです。
山伏信仰1
 山伏の中には、元禄期の別子山村に来た南光院快盛法印のように病人に薬草を施して治癒するものもいました。
 また、南予の一本松町では、歯の痛みに「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れたものを山伏が売っていました。歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるというのです。
 山伏がよく口にする呪文に「アビラウンケンソワカ」があります。久万町直瀬では、子どもが虫歯で泣くと、お婆ちゃんがまじないにいに
「秋風は冬の初めに吹くものよ、秋すぎて、冬の初めの下枯れの霜枯れ竹には虫の子もなしアビラウンケンソワカ」
とか呪文を唱えたようです。
 また、まむしが多い山に入るときには
「この山に錦まだらの虫おらば、奥山の乙姫に言い聞かすぞよ アビラウンケンソワカ」
という呪文もあったようです。何か、こんなのを聞いていると楽しくなってきます。物語の世界に入って行けそうです。
登山口となる石鎚神社本宮
  戦後になると、小松駅前で下山してきた修験者の中には札を売る者もいたようです。
「修験者は見物人の最前列にいた私に小さな木のお札を示して、『このお札を身に付けていると何が起こっても守ってくれる。』と言って、その木札をタオルで私の額に巻きつけました。そして突然『ヤーッ』と大きな気合いとともに手刀で私の頭を打つまねをしました。私はびっくりして身を縮めて固く目を閉じてしまいましたが、恐る恐る目を開けてタオルを取ってもらうと、額に挟んでいた小さな木札が真っ二つに割れていました。私が唖然としていると、修験者は、『お札があなたを守ったんですよ。』と言いました。見物していた大人たちは納得したのかどうか分かりませんが、お札はどんどん売れました
      以上のような聞き取りが残されています。「データベース『えひめの記憶』えひめ、昭和の記憶 (平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業) 第1章 昭和の町並みをたどる」より

1 石鎚信仰が石鎚講を通じて、そのネットワークを広げて信者を増大させていくシステムを確立したこと
2 明治の神仏分離の混乱を乗り越えて、大正期には予讃線開通もあり、より広くからの信者をあつめるようになったこと
3 地域に根ざした石鎚講は、宗教的な側面だけでなく社会的なボランテイア活動も行い地域を支えたこと
そんなことが見えてきました。 
IMG_6636


参考文献 森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚山と西国修験道所収
                                       

 


       
現在の黒瀬ダム周辺
           「伊豫之高根 石鎚山圖繪」(昭和9年発行)
 各地から集まった石鎚参拝をめざす講員は、里前神寺(現石鎚神社)や香園寺を基点にして、いろいろなルートで常住(成就)社をめざしました。どのルートをとっても最終的には西条川上流の河口(こうぐち)集落へと集まってきます。ロープウエイができるまでは、ここが登山バスの終点で、ここから成就社に向けて歩き始めました。
石鎚古道 今宮道と黒川宿の入口の河口
水祓所、三碧橋が架かる前の河口橋 ここが今宮道と黒川道のスタート地点
河口からは
  ①西条藩領である尾根を登る今宮道と(前神寺・極楽寺信徒)
  ②小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)
のどちらかをたどって常住(現在の成就社)に向かいました。
さて、お山開きに集まってきた参拝者たちは、どこに泊まったのでしょうか。
最初に見たように、12000人近くの参拝者が三日間で山頂を目指しているのです。宿泊所は成就にいくつかの宿坊があるだけです。 これを引き受けたのが「季節宿」だったようです。いわばお山開中の「民宿」です。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
 季節宿が開いたのは、今宮・黒川登山道筋の黒川と今宮部落です。
 各地からやってくる講中は泊まる宿を決めていて、毎年決まって定期的に訪れるので、宿の入口に講札を打ちつけて目印にしていました。宿になる民家は、有力者の家で石鎚参りの宿にふさわしく、間取りも三間並列型で、襖を取り払えば大広間に一変するような家でした。宿に到着した講中は、旅装を解くとオツトメにかかります。会符・鈴・法螺貝・数珠・もば(海藻)などを床の間(権現様を祀る)に置き、先達の唱導にて勤行をなし、その後に白衣を脱いで休息します。

石鎚山今宮3
今宮の大きな廃屋
 民宿は米持参で昔から「一山八合」といわれます。一泊して登拝をするに必用な分量です。一人四食分で一食1,5合で二合余ります。これが宿へのお礼米になりました。水田のない黒川や今川では、この余米が貴重でした。食事は一汁一菜の簡素なものだったようです。
石鎚山今宮2
 ちなみに、今宮・黒川の季節宿はその後も参拝者達を迎え続け栄えます。もっとも賑わった大正8年には今宮集落では、「全戸数36戸(人口178人)中,11軒の宿屋があった」とあり,小学校の分校もあったようです。そしてお山開き中の10日間に1万人を越える宿泊者があったといいます。
石鎚山黒川集落1
 私が最初に、この登山道を通ったときに、今宮は廃墟になっていました。そして不思議に思ったものです。こんな山の中に、どうしてこんな大きな家があったのだろう?と、
しかし、交通ルートの変更があった場合には沿線の商業施設は大きな影響を受けるのは、歴史が示すとおりです。東の川から成就へのロープウエイ開設が、人の流れを大きく変えました。歩いて成就を目指す参拝客は、ほとんどいなくなったのです。そして、今宮の家屋は自然に帰っています。
石鎚山お山開き2
江戸時代の石鎚山のお山開き お上りとお下りとは?
  お上りとは、冬の間、里前山寺に下りていた本尊の蔵王権現を頂上に上げるて開張することです。旧五月晦日に前神寺から仏像三鉢を唐櫃に納めて、成就社に遷します。そして翌日の朝に弥山に奉安するのです。このとき信者たちは、仏像を奪い合い熱狂的な信仰世界を山上に展開するのです。

蔵王権現
 石鎚の本尊だった蔵王権現

 仏像奉遷は道中奉行が差配しましたが、土佐の信者が供奉して行なうのが古式の慣行でした。また道中奉行は、石鉄山御用会符一号を所持する伊藤家(天徳院)が世襲していました。
 弥山に開帳された蔵王権現(石鎚権現)を前にして、大自然の中(天上に近い霊域)で、心ゆくまで加護を直接的に請けられるのです。信者にとっては、何にも代えがたい空間に身を置く喜びを感じる瞬間です。
石鎚山お山開き8
  お山開きの最終日のお下り行事(下山)は、仏像を弥山から本寺に遷す行事です。
仏像が里前神寺の山門に到着すると、長い参道に信者たちは土下座して「走り込み」を待ちます。仏像を納めた唐櫃が信者の頭上を通り抜けてゆくと、そのとき信者は合掌念仏をして、奉迎します。この前神寺お山開き行事は、形を変えながらも神仏分離後の石鎚神社に継承されているようです。
石鎚山お山開き4

「お上り」を体験した俳人の坂上羨鳥は、『花橘』に、次のように記しています。
一七日の精進清火の前行を修め奥前神寺(成就)に通夜
晦日は塔の禅定方百町斗南ノ嵩二行、高サ十六丈余の岩窟の塔、大師(空海)暫時祈玉ふて湧出となり。頂に苔むす諸木露にしやれ魔風昼夜をはかず。此外密所数多を詣る。
極楽を汲か岩洩る苔清水 羨鳥 
朔日前宵丑ノ刻、別当先達貴賤ともに白衣を着し、かけまくも縄の厚、続松手毎に燈、一同高音に御名を唱。空天に響、気も魂もそぞろくるはしく、木の根菅の根取付くなど所々の王子に読経。弥山間近き小笹原、夜明しとこそ云ル 岩戸原明を待って、ものいはじと臍る数十丈の鉄の鎖掌に冷て南無南無南無を観念せしは何にたとへん。
やんごとなく頂上に禅定宝殿御尊像を拝し、空澄渡る朝気色所々の山海雲下にミゆ。つみもむくいもただ消然たる心の底如意満足しかならむ。
此涼し現未新に無垢世界 羨鳥
 この文章を見ると、上りの前々日に成就の奧前神寺の宿坊に泊まっています。お上りに参加するためには、成就社の近くに前泊しなければならなかったのです。それが今宮や黒川の季節宿が繁盛した理由でした。
翌日は空海が修行した「塔の禅定」の下の「岩窟の塔」を訪れています。これが石鎚三十六王子のひとつでもある天柱金剛石のことでしょう。
石鎚山 天柱金剛石
言葉を添えて意訳してみると
「お上り」当日である。夜明け前、別当先達貴賤を問わず白衣を着た多くの信者が縄でつながれた本尊を高みへと誘っていく。暗闇の中、松明を持ち、高く真言を唱える声が、天空に響く。
気持ちが高揚し、魂が揺り動かされる。行く道の神木の根に鎮座する王子にその都度、読経しながら隊列は進む。
空が白み、弥山(石鎚)が間近に見えてくる笹原に出た。ここが夜明け峠だ。
そして、覆い被さるような岩稜に架けられた数十丈の鉄鎖を登る。手は冷やされるが、心は熱く南無南無南無」を唱えるのみ。この瞬間を何に喩えられようか
無事に安置された蔵王権現に祈念し、そして空澄み渡る朝の冷気の中から雲下に見える山海をながめる。罪も報いもただ消えゆき、心の底には満ち足りた思いで満たされる。
 羨鳥は熱心な仏教信者で深く仏道に帰依していたようです。石鎚登拝を「補陀落」と感じています。「雪解る高根の方か補陀落か」(『高根』元禄十四年刊)の句を残している事からも分かります。
石鎚山開山3

 石鎚山上の自然の「大劇場」で展開されるドラマは、非日常的で宗教的な情熱を沸き立たせるものだったのでしょう。この興奮と感激は忘れがたいものとなったはずです。だから、信者となり、そして先達として、この霊山に通い続ける人々を生み続けたのでしょう。
 こうして、石鎚は劇場化するとともに霊山としての神秘性を高めて云ったのかも知れません。
石鎚山お山開き9

次回は、石鎚参拝登山から帰った人たちを待っていたものは何かを見てみようと思います

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
絵図は「
旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

   
石鎚山お山開き

 霊峰石鎚山の山開きは、現在は七月一日から十日までの十日間です。
でも、もともとは旧暦の旧六月一日からの三日間だけでした。お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのです。それが江戸末期になって旧暦五月二十五日より六月三日まで十日間開くようになりました。

石鎚弥山
どうして「お山開き」の期間が延長されたのでしょうか?
 ペリーがやって来た4年後の安政四年(1857)六月三日の『小松藩会所日記』の記録に、
石鉄(石鎚)祭礼出役(中略)
参詣大夥敷、先は廿ヶ年来参詣と相唱候由。
五月廿五日四千五十人、其前後千人或は千五百人位、朔日二百人計、大凡一万二千五十人もこれあり。廿三日前にも少し登候趣、横峯寺も別条なく珍敷参詣人の趣、委細承之。
とあり、参拝者が大幅に増えていることが分かります。幕末のこの時期は、伊勢参りや金毘羅詣でも参拝者が急増して、それが「おかげまいり」へ暴走していく時流につながります。
 今までにないこの参拝登山客の急増に対応して、西条藩でも藩士を派遣して取締りと保安に当たらせています。しかし、その混雑ぶりは、お山のオーバーユース問題を引き起こします。この対応のために、山開きの期間を三日から十日に大幅に広げたようです。幕末には今までないほどの多くの人が山開きには石鎚を目指すようになっていたのです。
今回は石鎚参拝者の出発から帰宅までの動きを追ってみようと思います。

1石鎚山登山衣装
なぜ人々は、石鎚山を目指したのでしょうか。
 石鎚参拝は個人や家族で、登山するレクレーションではありませんでした。石鎚講という組織に属して、そのメンバーを先達(修験者)が引率・指導して行く集団登山でした。メンバーの中には毎回参加する人もいれば、初めて参加する少年もいました。

山伏装束1
どうして少年が参加したのでしょうか?
 「この山に登ったら一人前」と云われる霊山が各地にあります。村には若者組があって村祭りや芸能、公共事業などに奉仕しました。彼等は力石、俵持ちなどをして日頃から体力を鍛え、技量の練磨に励みました。それは「一人前」と云われるためでした。
 伊予では、石鎚登拝と四国遍路の体験が男一人前のひとつの前提条件になっていたようです。「石鎚は一度は来ても二度は来な」と云われ、村里では一度は体験すべき「山」と目されていたのです。


石鎚登拝は、普通十五歳が初山だったようです。
 親が出生のときに
「無事に育ちますように、元気に育てばお山にお参りさせます」
と願掛けしておいて、十五歳がくると「願ほどき」に登らせるケースが多かったと云われます。頂上の「のぞき」と呼ばれる岩場から断崖絶壁の谷を覗かせたり、宙吊りして誓約を誓わせたりすることが、石鎚でもかつては行なわれていたようです。この冒険的体験が「一人前の男」になれたような誇らしさを、そだてる契機になったのかもしれません。これに対し、四国遍路の体験は「世間を知って、見聞を広める」という「自己拡大」の方に意義があったようです。
 大峯山には、山からもどると洞川あたりで女遊びをし、若い精気を発散させる精進落しがありました。しかし、石鎚の場合はその気配は資料的には見えません。でもなかったともいえません。例えば新居浜市大島では、若衆組に加入すればまず石鎚をやり、ついで讃岐の金毘羅参りをして「女郎買いをしてもどると一人前」と見るふうがあったと云いますから・。
石鎚登坂
さて、今なら石鎚に登るのに、持って行くものを準備し、ザックに入れておけば前日の夜にビールを飲んでいても大丈夫です。しかし、霊山への参拝登山はそうはいきません。
まず、登拝者は7日前から「精進潔斎」をしなければなりません。
これは海、川などで沐浴して垢離(コリ=穢れ)をとり、魚肉を断ち、殺生を慎しみます。蚤や蚊も殺さないように気をつけたようです。海から遠い地域でも、出発前日は潮垢離(コリ)を行う所が多かったようです。この時には参加する人たちが連れ添って行き、帰りには海藻を持ち帰ったり、登拝の宴銭を清めてもどったりします。
石鎚の最古の文献『日本霊異記』は、
  「その山高く峙ちて、凡夫は登り到ることを得ず、ただ浄行の人のみ登りて居住す」
と記されています。「浄行の人」だけが登拝できる険阻高峻の霊峯なのです。不浄者は山の天狗に放られると信じられていました。
石鎚講2
 各地の石鎚登拝者の精進ぶりを見てみましょう。
八幡浜市川上地区では、氏神の社殿に寵って別火生活をしながら七日間の垢離をとりました。出発は夜半で、途中は婦女子に会わぬよう心掛けた。登拝中は家族も精進潔斎して家業の漁業も休業し、虫一匹も殺さず、もし万一組内や親類に不幸があってもお山参りがもどるまでは弔問もしなかったと云います。
 越智郡波方町小部地区の漁村地帯は、昔から石鎚信仰の篤い地域でした。
十五歳で初山を踏む少年は、二十一日間の精進生活を行ったと云います。座敷口の土間に白砂を敷き、門注連を立てて座敷に寵り、ここに竃を構えて別火し、かつ食事毎に一日三回の潮垢離をとります。

山伏信仰2
 温泉郡中島町では、満潮時の潮で清めた藁で注連縄をない、これを先達の家に張ったり、ある家に張ってそこにお龍りします。登拝中は家族の者が潮汲みをし、頂上に到着した頃を見計らって行をします。登拝者の家に門注連を張ることは各地に共通しているようです。今治付近には、登拝中の頃合いを見て、この注連竹を少し抜きかけにしたといいます。これをアシヤスメ(足休め)と云い、参拝中の当人の足が軽くなるというのです。
 頭髪をすくことも遠慮したようです。髪をすくと登拝者の弁当にそれが入っていたり、頭が疼くなったりするというのです。

石鎚大権現2
  また登拝中の豆いりはタブーになっていたようです。足に豆ができるというのが理由です。まるで洒落のようで、ここまでくると微笑ましくなります。
 出発前からの本人の精進も大変ですが、家にいる家族もそれを支えるためのタブーがいくつもあって大変です。別の見方をすると、個人でお山に登っているのではない、家族と一緒に登っているという強い連帯性が要求されていたようです。これらのタブーのひとつひとつを、初めて登る少年達は先達や先輩の講員から学んでいったのでしょう。厳しい緊張感が伴う参拝だったことが、私にも少しずつ分かってきました。これは、レクレーションでありません。
  さて石鎚講の参拝者が先ず目指したのは、先達の属する石鎚信仰の拠点寺院でした。
江戸時代には伊予側からは、前神寺と横峰寺がその拠点となっていました。

前神寺1
少し横道にそれて、前神寺について見ておきます。
  現在、四国霊場六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として独立寺院になっています。この寺は神仏分離前までは、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきました。
石鎚山お山開き7
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。それが石土大神の本地仏だったようです  

1成就社から石鎚山
  中社(奧前神寺)があったのが「常住」です。
今は成就と改名されています。中社は石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので「前神」と称するようになります。同時に、これが石鎚山別当職を確保する要因になります。前神寺は、もともとはここに成立したお寺ですが、後に里に下社を作り庫裡を移し、そちらを里前神寺と呼ぶようになります。

前神寺1
  下社(里前神寺)は、現在の石鎚神社本社の場所にありました。
ところが明治時代の神仏分離で、頂上に祀る蔵王権現が仏体であると否定され、明治8年(1875)に一辺の通達で廃寺とされます。そして、里前神寺の権現神殿が神社となったのが石鎚神社(下社)です。神仏分離・廃仏毀釈の嵐は「前神寺がスクラップ、石鎚神社がビルトアップ」という現象を、石鎚信仰の上にもたらしたことになります。
 前神寺は、その後の檀家による復興運動が功を奏して、末寺の医王院があった現在地に前寺の名称で再建が認められます。そして各地の先達達の支援・協力もあって、長い時間をかけて復興し再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍が建ち並ぶようになりました。伽藍は明治以後の建物と空間配置なので近代的な感じを受けます。それも、このお寺のたどった歴史の所以なのでしょう。

石鎚山お山開き3
   ちなみに里前神寺は、江戸時代も納経所でした。
 前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』には、ここにお参りした場合は、上(成就)まで登らなければいけない
と書いています。蔵王権現が前神寺の本尊なので、成就社まで行かないと参拝したことにはならない。前神寺は「庫裡」であった、本堂ではないという考え方があったようです。
 これが当時の霊場の実際の姿でした。江戸時代に入ってから、山岳信仰のお寺は本堂を建てて寺の体裁を整え、行場や山頂から庫裡は里に下りていきます。しかし、もともとはお山の上の権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていたのです。だから奥の院に参らなければ意味がないと考えられていたようです。そのため四国巡礼のお遍路さんも成就までは登る人が多かったようです。

蔵王権現
石鎚山頂に祀られていた蔵王権現  

さて、ふもとのお寺までやって来たところで今回は終了、お山への道はまた次回に・・
石鎚信仰3

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
                                       
 

 


 
石鎚山と石土山(瓶が森)
前回は笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の3つの霊山が開山され、それぞれのお山に権現が勧進され、それを里の別当寺が管理し、山岳信仰がそれぞれのエリアで展開される鼎立状態にあったことをお話ししました。しかし、中世から近世にいたる中で、他を圧倒するようになったのが石鎚だったのです。今回は、近世の石鎚信仰を見ていきたいと思います。
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 中世の石鎚山 役小角伝説が広がり
中世期になると、吉野や熊野では役小角伝説が広がり、彼を開祖にした修験集団が発展していくようになります。それに少し遅れて、地方の修験霊場も役小角やその門弟を祖とする「修行伝説」を生み出していくようになります。この結果、どこの修験者も開祖は役小角となってしまいます。
 鎌倉時代の「金峰山創草記」には、
役小角が仏法流布の地を求めて三本の蓮花を東に向って投じたところ、一本は伊与国石辻に、一本は大和国弥勒長に、残る一本は伯者国三徳山に落ちたとの「三徳山縁起」の伝承がのせられています。
こうして「伊与国」の石鎚山も、中央の修験集団の間では「役小角有縁の地」として受けとめられるようになります。また、石鎚山側もこれに応えるかのように、室町時代以降になると役小角が弟子の石仙などの案内で石鎚山を開いたとの伝承を広げるようになります。
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 中世の石鎚山に関しては、いくつかの遺物が知られています。
年代順にこれらをあげて見ると、
興国五年(1344)の銘のある前神寺梵鐘
建徳二年(1371)の銘文がある横峯寺鰐口
元中三年(1386)沙門亮賢が勧進して作製した「大般若経経函」
応永十四年(1407)福島真守が奉納した「石鉄山」の神額
今に残るのは「大般若経経函」(讃岐・水主神社所蔵)だけですが、十四世紀末には石鎚周辺では、修験者が活発な山岳信仰活動を行っていたことがうかがえます。
  室町時代末の文明九年(一四七七)の年号が入った石鎚山の弥山山上の御宝殿の扉の銘書には次のように記されています。
扉右側に願文として
啓白帰命頂礼蔵王権現、奉造立赤銅金繰之御宝倉 右依造立功徳 
金輪聖皇御願円満 国郡泰平庄内安穏真俗繁昌 
諸人快楽一切善願悉皆成就殊奉念願処如此、
于時文明九年丁酉三月十二日
大願主として、別当権少僧都良真 俗姓当国朝倉住人長井弾正忠之息男・大工・小工六の名称が記され、左側には「奉 遷宮導師吉祥寺住侶権少僧都円意」の他大檀那の源勝久・越智通直・同通春・同通生・同重秀・同通重・藤原久永・奉職 吉辰若・勧進聖の澄順・秀範・義通・宥円・円良・法印の慶通・広勢・基因の名が記されています。
 ここからは、別当の前神寺・良真の発願で、勧進聖や法印の努力と、領主の源(細川)勝久や越智(河野)通朧ら越智氏の一族などの保護のもとに宝殿を完成させたことが分かります。そして前神寺と近い関係にあった吉祥寺住職の手で遷宮の法要がいとなまれています。
  この頃に前神寺別当良真が、金剛蔵王権現を本尊とし、石仙を開祖にいただく、石鎚山の信仰を地元の有力者の保護を受けながら、協力関係にある寺院の手を借りて展開していたことがうかがえます。
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石鎚山は河野家の外護と別当前神寺の努力で繁栄していたようです。
 その後、前神寺は戦国末期の混乱をうまく乗り切り、寺領を維持していきます。そして、天正15年(1587)に新領主として入国してきた福島正則の信心を得る事に成功します。正則は深く石鎚権現を信仰し、前神寺に宿坊を建てて参拝したと伝えられます。さらに、慶長14年(1609)豊臣秀頼は、正則を普請奉行として常住に神殿を建立するのです。こうして、前神寺はどんでん返しが多発した戦国末期において「危機管理」に成功し、寺勢を伸ばすことになります。
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 近世の石鎚山
 江戸時代に入ると石鎚信仰は、西条藩の保護と別当前神寺の展開する積極的な布教が功を奏して広く庶民に広がって行くようになります。
 例えば西条藩の保護政策を挙げると
①明暦三年(1657) 藩主一柳直興による里前神寺の堂宇建立
②寛文十年(1670) 紀州藩徳川出身の松平頼純による石鎚山社への寄進状
③元禄八年(1695) 石鉄山別当前神寺に殺生禁断の制札
④吉宗以降の将軍家の祈願を石鉄山社と伊曾乃神社が行う決定
こうして権力者からの保護と寄進を受けて、寺社(ハードウエア)の整備が進みます。
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しかし、参拝者を増やすためには、ソフトウエアが必要でした。
当時の石鎚参拝は今と違って、個人でお参りするものではありません。中世の熊野詣でと同じで、先達が地域の信者達を伴って集団でやってくるというスタイルです。そのため先達達を増やす事が、参拝客増加の重要なポイントでした。石鎚信仰PRと石鎚講普及のために前神寺は、独自の「先達制度」を調えていきます。
 
前神寺に『先達所惣名帳 金色院』という記録が残されています。
延宝四年(1676)辰五月廿九日のものです。ここには、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名が記されています。前神寺は、ここに記録された先達所を拠点にして。地域の講組織を作り上げていったようです。これを「先達所分布図」にしてみるといろいろなことが見えてきます。

石鎚山先達分布図
明和六年の「先達惣名帳」に載っている各地の先達分布図からは次のようなことが分かります。
①この時点では、先達はほぼ伊予の国に限られています。
②道後が43、道前が22と道後の方が多くなっています。これは石鎚講が地元の西条よりも道後平野を拠点にして組織されたことを示しているようです。
③高縄半島に分布が少ないようです。これは、熊野行者の存在があって、彼らは石鎚には参拝しません。
④この先達所の分布は、後の安永九年の鎖奉納の先達や講中と一致する所が多いようです。これらの講から先達達が信者を連れて参拝にやって来るとともに、いろいろなものを寄進し、登山道なども整備されていったのでしょう。
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こうして石鎚山が世間に知られるようになると、延宝五年(1677)には、木喰が石鎚山に登って「夢想記」を書いて紹介したり、正徳三年(一七一三)に刊行された寺島良安の『和漢三才図会』にも石鎚山や里前神寺、横峯寺が紹介されるようになり、伊予以外からの参拝者達も増えてくるようになり、石鎚信仰はレベルアップしていきます。
石鎚修行の目玉でもある「大鎖」が講によって設置されるのも、この頃のようです。
安永八年(1779)弥山の大鎖が切れると翌年に、作りかえた時の記録が残っています。これによると、前神寺が勧進帳を出し、尾道で鎖を作り、4月に西条本陣にはこび、5月前神寺で銘をきざみ、5月5日に極楽寺、6月奥前神寺と運ばれ、開山にあわせて7月に山上にかけています。
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その銘文には、次のように刻まれています。
「奉再興石鉄山 大悲蔵王権現 御鎖大小二筋 
施主 予州松山城下弁道後七郡及諸国当山信心講中、
安永九年庚子二月吉日 石鉄山別当前神寺住持仁岳記」とあり、
奉納者の名前が続きます。
勧化頭取の予州松山三津浜俗先達の木地屋市左衛門・同和田屋信八郎、
御鎖用掛の予州松山城下大唐人町、河野平治右衛門、越智義篤、
世話人の唐人町講中、大先達の和気寺・得誉廓山居士の名前があげられ、
予州の松山城下・同三津浜、温泉・伊予・和気・久米・浮穴・風早・越智の各郡、予州久万山・芸州広島領、備後の尾道・福山・松永及び諸国の講中、
御鎖をあげる人夫の費用を寄付した予州新居郡O講中、
治工の尾道鍛冶町の佐渡屋七良兵衛の名が見えます。
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気になる事を挙げると
①山名は石鉄山で、祀られているのは大悲蔵王権現です。石鎚という文字はありません。「石鎚」が使われるのは神仏分離以後です。
②勧進頭取は地元の西条藩ではなく松山の三津浜の先達二人です。
③鎖を作った治工は尾道鍛冶町の職人です。それが舟で西条に運ばれています
④この時期になると伊予以外の芸州広島領、備後の尾道・福山・松永にからの講が拡大しています。
 ちなみに、鎖の掛かえに功労があった木地屋市左衛門は、その年に一番活躍した先達として「先達絵符」が与えられました。これが現在の先達絵符制度のはじまりと云われます。こうして、先達達の活動に報いると共に、先達のランキング制を調え競争心も刺激していくシステムに「改善」していきます。これは先達のやる気を育て、数を増やすことにもつながります。18世紀末には土佐、宇和、備前にも石鎚登拝の講が作られていきます。信者や講のエリアを広げているのは、その成果なのでしょう。
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   石鎚常夜灯について
讃岐の金毘羅大権現につながる旧金毘羅街道(伊予街道)を歩いていると「金・石」の文字が刻まれた常夜燈によく出会います。
「金」は金毘羅大権現、「石」は石鉄山の略記のようです。
石鎚講は、集めた資金で石鎚参拝だけでなく自分の住んでいる所に、石鎚山遥拝所や、常夜灯を建てるようになります。○石=「石鉄(鎚)山」と○金=金毘羅大権現を刻んだ常夜灯が金毘羅街道沿い増えていくのは18世紀末からです。今風に言うと石鎚参拝という「集団登山」の中で養われた信仰心や一体感、帰属意識を「地域貢献」のために活用していると言えるのかも知れません。石鎚講は、地域では積極的に社会ボランテイア活動も行っていたようです。
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 それでは石鎚講の地域での日常活動は?
毎月、集まり「月並祭」を行う講が多かったようです。その日は、宿元に集まり、オツトメ(勤行)して、会食します。
 松山市東野の石鎚講では、
昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していたそうです。その日は必ず入浴して集まることが決まりだったといいます。宿元の床の間に、不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをします。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和します。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰(下山の意)ります。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷します。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンだったようです。
 温泉郡重信町では、講員が常夜燈の場所に集まり、
石鎚山を遙拝の後で、組中を巡回してから当元で勤行していたといいます。そして各戸から米を集めて廻り、それで会食します。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあったようです。
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 伊予郡松前町中川原では12月に代参者と宿元を決めます。
宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつけます。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をします。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合します。宿元の家の入口では、口を漱いでから家に入ります。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて次の勤行を先達に従って行います。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝が吹き鳴らされたようです。
 広島県竹原市福本講中は石鎚講の古いスタイルを伝えるといいます。
 福本講中では、大祭中の石鎚登拝に先立ち、講員は講元宅に参集して「幟起し」の行事を行います。幟は一本で講元宅の庭に立てます。終わって直会があります。講中で石鎚登拝をするのを「マイリ講」といい、毎月の月並祭は「コウマワシ」と呼ぶようです。
 出発にあたっては精進料理で直会をします。この直会の席で、船のコースや潮流について講元・先達・元老格の三者で協議してコースの決定と舵取りを行う者を決めます。また出立に先立ち、講元宅で力餅をまきます。祭壇に蔵王権現、弘法大師、不動明王の三幅の掛軸をかけ、その前に供物や奉納品を供えます。この祭壇前で講員一同でハナガタメ(直会)をします。それは(石)印付きの箱膳にご馳走を並べた大盤振舞の直会だったようです。
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  このように石鎚講は「参拝登山」の一時的なものでなく、地元の講組織に属することで日常的な社会的・宗教活動も伴っていたことがわかります。
現在の四国霊場巡礼団のように知らない人たちが集まって一時的に形成されるものではなかったのです。また先達は「ツアーコンダクター」ではないということです。これは、中世の熊野詣の「檀那と先達」の関係に近い要素を残しています。「お客(参拝者)にサービスを提供する」というものではありません。どちらかというと「先達=導者」的で、師弟関係的な要素が多分にあったようです。
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 以上のように、前神寺は「先達所」を決定し、また村落の指導者層を俗先達に任命してそれに「講頭補任状」や「院号、袈裟補任状」を発行してきました。それは石鎚講の組織化を図るためでした。このソフトウエアがうまく機能したために、前神寺は石鎚講というソフトウエアを組織することによって他藩にまで布教拡大策が行えたようです。
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参考文献  森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚と西国修験道
  

 

                                     

   
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 瓶が森は、今では全面舗装されUFOロードを走れば、お手軽に行ける山になりました。
かつて、重いキスリングザックを背負い面河から石鎚に登り、土小屋から山肌を切り崩した林道に毒づきながら、ここまでたどり着いた時の印象は忘れられません。山頂の西側に広がる氷見(ひみ)二千石原は、天上の楽園のように思えました。緩やかなササ原が広がり、アクセント付けるように、ウラジロモミの林、白骨樹が点在し、かなたには石鎚の姿がドーンと見えます。笹野原の中に幕営し、石鎚に落ちる夕日をながめた記憶は忘れがたいものでした。
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瓶が森からの石鎚

 この時に、子持ち権現の鎖場にも登ったのですが、その時には「石鎚の修験者の行場テリトリーの一部」としか考えていませんでした。しかし、その後に段々分かってきた事は、
石鎚山系には古くは、次の3つの霊場エリアが並立していたということです。
①石鎚山
②瓶が森 + 子持ち権現
③笹ヶ峰
 
今回は霊峰 瓶が森について見ていきたいと思います。
 瓶が森は石鎚山、二ノ森に次ぐ愛媛県内第3位の高峰です。この山は、山頂よりもその下の笹の海の方に目が奪われがちですが、よく見ると山頂は南北の双耳峰です。北側が三角点のある女山、南側が石土蔵王権現を祭る男山です。権現を祀るので霊峰であるが分かります。昭和初期頃までは「石土山」とも呼ばれていたようです。
石鎚山と石土山(瓶が森)

この山は、古くは石鎚山と互いに競いあっていたようです
 山麓の西の川の人々は石鎚山を権現さまとよび、瓶が森と子持権現の山を一緒にして子持ち権現さまとよんでいました。子持権現は瓶が森の西方に岩稜の峰で、切り立った岩壁で、鎖がなくては登れません。ここも大事な行場です。西の川の人の中には、瓶が森と子持権現を一つにして石土山とよんでいる人もいました。
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瓶が森から見た子持ち権現
 麓から見れば石鎚山と瓶・子持は、どちらも力高くて神秘にとざされた山で、両方ともに信仰していたようです。そういう山が並び立つ場合には、山争いの伝承が生まれてくるのが全国的な傾向のようです。ちなみに、早くから開けたのは地元に近い瓶が森のようです。地元では、その頂上には寺の趾があると言ったり、石鎚山は瓶が森が西へ飛んでいって今の山ができたなどという伝承があるようです。

1石鎚古道 瓶が森・子持ち権現
そしてこれには、次のような役行者の伝説がくっついています。
役行者は石鎚山を探しに行ったが、なかなか見つけることができない。途中に一人の老人がハツリをといでいるのに出会った。ハツリとは斧のことである。役行者が老人に一体何をしているのかと聞くと、老人はこのハツリをといで針にするのだという。ずいぶん気の長い話だと思ったが、やはり何事も辛抱が大事なのだと役行者は再び探しに出かけた。
 そこでオトウ(中腹の一地名)の奥の岩穴で修行をしていると、大きい石が割れた。それから二町ほど登ったら穴の薬師があって、その中で石鎚山は大蛇になってこもっていた。そこで、役行者がそこでは参詣者が行きにくいと言えば、石鎚山は飛んでいって今のところに納まったのだという。
 ここからは、
①瓶げが森が地元の人たちにとっては信仰の山であったこと
②しかし、結果として瓶が森が石鎚山に「吸収併合」されたこと
③「吸収併合」や移動させたのは外来の修験者(山伏達)だったこと
が分かります。
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 瓶が森から望む石鎚
別の伝説(西条誌)には、
石鎚権現はもと瓶ヶ森(笹ヶ峰ともいう)に祀られていた。それを西之川の庄屋高須賀氏の先祖が、今の石鎚山に背負って遷した。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は裃をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になった。

というもので、これも「瓶が森 → 石鎚」移動説をとります。どちらにしても、今でも地元の西の川や東の川の人達は、両方とも信仰しているようです。
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瓶が森

 さて、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。その勧進の主役は修験者達でした。その結果、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。

別当寺を設立の古い順に並べて見ると次のようになります
1 正法寺(新居浜市) 常仙(上仙)  笹ヶ峰
2 天海寺                              瓶が森(石土山) 
3  前神寺と横峯寺         石仙               石鎚 
 ちなみに、正法寺は古代の瓦が出土する古代寺院です。この寺は秦氏の氏寺で、その一族の上仙(常仙)によって開かれたとされます。また、上仙は、修験者で寂仙法師とも呼ばれ、石鎚、笹ヶ嶺、瓶ヶ森等の霊山を開山したとも伝えられています。しかし、歴史的にこのお寺が主張してきたのは、笹ヶ峯の「石鎚権現」の別当なのです。
2石鎚山と石土山(瓶が森)
   それでは瓶が森を行場とし、その権現を祀っていたお寺はどこなのでしょうか?
 瓶が森の「石土(蔵王)権現」の別当を主張したのは山麓にあった天海(河)寺でした。天海寺は瓶ヶ森中腹の「常住」には坂中寺があり、山頂のそばには弥山がもうけられていたといいます。
 今の石鎚は、神仏分離後はロープウエイ終点の「常住」は「成就」となりました。しかし、瓶が森では、神仏分離以後も「常住」と書かれていました。ここは瓶・子持権現を遥拝するにふさわしいロケーションです。石鎚山中腹の成就社と同じように、人がここまで参拝に来ると、神が下りてくる信仰があったのでしょう。かつては、ほんの小屋掛け程度のものがありましたが今は廃墟となっています。瓶が森・子持権現の信仰者が、神のまぼろしを見るのにふさわしい場所だったのでしょう。このように、天海寺は西の川から瓶が森・子持ち権現エリアを行場とする霊域をもっていたのです。
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瓶が森 
そこに中世になって新しい勢力が未開発地に入ってきます。それが前神寺です。
 その行場テリトリーは法安寺から横峯寺、常住の奥前神寺、山頂・天柱石(お塔岩)などを霊地を含みます。なお横峯寺は、かつては天海寺の末寺であったともいわれます。東西に向いあうように対をなしていたこの両寺には。いずれも杉の大木があったと伝わります。
前神寺には、永祚二年(990)の紀年銘のある阿弥陀仏、横峯寺には平安時代末といわれる大日如来や金剛蔵王権現がありますから、平安時代末には、2つのお寺は成立していた事が分かります。そして、このふたつを中心とする石鎚と、天海寺を別当とする瓶が森の東西の霊域が競合していく事になるのです。
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 それが「石鎚山は瓶ヶ森より、扇子の要だけ高い」とか、西条市の伊曽乃神社祭神との神婚説話の「石鎚神の投げ石」の伝説として残っているのでしょう。この話は、その後の石鎚山の信仰上の優位性を、しめす意図から作られた伝承といえます。言い換えれば、瓶が森から石鎚山に信仰が集約されて行く過程で作り出されたものなのでしょう。
  「笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の三山は、鼎立して殆ど同時に開け、同様に信仰の標的となったものであるが、中世末期か江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、次に瓶ヶ森が衰微したものと思われる。」
と研究者はいいます。
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  そして近世になると石鎚にひときわ強い光が当てられるようになり、四国の霊山としての輝きをますようになるのです。
絵図は「旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

      
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平家の馬場(剣山山頂) 
 いまは剣山の表玄関は見ノ越です。ここまで車でいきリフトにのればで1700メートルまで挙げてくれますので、頂上が一番近い「百名山」のひとつになっています。

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剣山リフトで1750mまで上げてくれる
西島のリフトから続く何本かの遊歩道のどれを選んでも1時間足らずで頂上に立つ事ができます。

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リフト終点から頂上へのルートは3本
このエリアを歩く限りは、この山が修験者たちの行場であったことをうかがわせるものに出会うことはありません。しかし、頂上から北側の穴吹川の源流地帯に下りて行くと、石灰岩の断崖と洞窟が続く行場が展開します。そして、いまでもこの行場は使われています。
 この行場はいつ、どんな人たちによって開かれたのかを見ていく事にします。
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剣山北面は修験者の行場
まず、剣山という山名についてです。頂上にやってきた人たちがよく言うのが「剣のように険しく切り立った山かと思っていたら・・・・四国笹の続く雲上の草原みたい」という感想です。

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剣山山頂の四国笹の草原

 この山が剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。
『祖谷紀行』によれば、旧名を「立石山」としています。
明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は
「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」
とあって、「石立山」と呼ばれていたことが分かります。「立石山」と「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたようです。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものとしておきます。
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剣山頂上の宝蔵石(山小屋に隣接)

江戸時代に藩主の祖谷山巡見の際に、お付きの絵師が書いたとされる祖谷山絵巻の剣山山頂です。
剣山頂上 祖谷山絵巻
祖谷山絵巻の剣山山頂(法蔵岩)
ここの描かれているのは、現在の登山者たちが目指す三角点のある頂上ではありません。宝蔵石と今は呼ばれている「立石」が、当時の頂上で、シンボルでもあり、信仰の対象になっていたことがうかがえます。
 また別の記録によると、この山はかつて「小篠(こざさ)」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」

ここでは「小篠」が「剣山」の別名として使用されています。権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
 この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎笈があります。
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次郎笈(ぎゅう)
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。研究者は次のように考えているようです。
「ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」

ここにも、修験者の影が見え隠れします。  つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈(祖谷山絵巻)
それでは、江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

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剣山直下の大剣岩
第一は、大剣神社の存在です。
この神社の御神体の大剣石が大地に突き刺さったような姿はインパクトがあります。ここには、剣神社(大剣神社、神仏分離以前は大剣権現)が祀られています。ここから剣山の名が生まれたとするものです。
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剣山直下の大剣岩
  たとえば、『阿波志』の「剣祠」(剣神社)の項には、次のように記されています。
 剣祠 祖山菅生名剣山の上に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以て神と為す、三月、雪消え人方に登謁す、其形の似たるを以て、名づけて剣と日ふ、祠中剣あり、元文中(一七三六~四一)人あり、之を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ

意訳変換しておくと
剣祠(大剣社)は、祖山菅生(すげおい)の剣山の上にある。菅生名から二里余、頂に岩が高さ三丈の岩が屹立する。地元の人達は、これを神と崇める。三月になって、雪が消えると人々は参拝に訪れる。この岩はその姿から「剣」と呼ばれている。祠の中には剣がある。元文年間(1736~41)に、盗人に盗まれたものを取り返し、小剣の岩窟中の人跡至らざる所に納めたが、後に行方が分からなくなった。

 「形の似たるを以て、名づけて剣と云う」とあり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したようです。だんだん「剣」が定着していく過程が見えて来ます。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩(神石)と大剣社(祖谷山絵巻)

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大剣神社

  また、宝暦七年(1757)、宇野真重著の『異本阿波志』には次のように記されています。
 剣山 祖谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、小篠(剣山)の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巌、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
六月七日諸人参詣多し、菅生名より五里此間に大家なし、夜に出て夜に帰ると云ふ、其余木屋平村より参詣の道あり、諸人多くは是より登る
 意訳変換しておくと
 剣山は祖谷山の東の端にあたる。この山上に剣の権現が鎮座していて、小篠(剣山)の権現とも呼ぶ。谷から高さ三十間ばかりの四方柱のような巌石が起立する。風雨にも錆ず、誠に神宝の霊剣である。六月七日には、数多くの人達が参詣登山する。菅生名から五里の間に集落はない。夜に出て夜に帰ると云う。この他には木屋平村からの参詣道あり、諸人多くは是より登る
ここにも 神石が「神宝の霊剣」として信仰の対象になって、菅生や木屋平からの参拝者がいたことが分かります。
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大剣岩と大剣神社の赤い屋根

その二は、剣神社に祀る神宝が剣であることに由来するとする説です。
この説を裏付ける江戸期の文献はありませんが、明治45年の田山花袋著『新撰名勝地誌』には、次のように記されています。

「剣山は四国第一の高山にして……(中略)……山頂に一小祠あり、剣の社と称す。安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ……(後略)」

ここには、平家と共に落ち延びてきた安徳帝の神宝の剣を、ここの神社に祀った。だから剣神社と呼ばれるようになった。「安徳天皇の剣=剣神社=剣山」ということになるようです。

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剣山頂の法蔵岩
 その三は、安徳天皇の剣を埋めたことによるとする説です。
 祖谷地方の伝承に屋島合戦に敗れた平氏一族が、密かに安徳帝を奉じて祖谷に入ってきたとする「平家落人説」があります。江戸末期の寛政五年(1792)、讃岐の文人・菊地武矩が当地を訪れた際の旅行記『祖谷紀行』には、次のように記されています。

「山上より遥に剣の峰みゆ、其山、昔は立石山といひしが安徳天皇の御つるぎを納め給ひしより、剣の峯といふとなん」

 3つの説に共通するのは、頂上直下の剱祠(大剣神社・大剣権現)が、人々の強い信仰を集めていたらしいことと、この山の修験的性格です。
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剣を埋めたと伝えられる剣山頂の法蔵岩

ここまでで、私が感じた事は、剣山の開山が石鎚に比べると新しい事です。
この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。
「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません。山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

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一の森への縦走路

 「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
 剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。

山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平の龍光寺
まず、木屋平の龍光寺の剣山開発プロジェクトを見てみましょう。
 龍光寺は、剣山の山頂近くにある剣神社の管理権を持っていました。当時の霊山登山参拝は、立山・白山・石鎚で行われていたように、先達が一般信者を連れてくるスタイルでした。先達が各地域の人々を勧誘組織化し信者として修行・参拝するのです。中世の熊野詣での先達と檀那の関係を受け継いでします。
 つまり先ず必用なのは修験道山伏たちです。彼が各地域で布教活動を進め、勧誘しない限り参拝客は集まりません。龍光寺は、阿波の修験山伏達との間に、相互協力の関係を作り上げて行く事に成功します。
 龍光寺大御堂には、寛元年間に造られたと思われる阿弥陀如来坐像など六体の像があります。そのうちの不動明王立像光背の裏面に、次のように記されています。
「元禄十丁丑年 銀子拾弐分たいこ 教学院口口口並口口口寄進 十二月十四日」

ここからは修験者、教学院が龍光寺と協力関係にあったことが分かります。龍光寺が江戸初期の頃に「剣山開発」に進出したこともうかがえます。
  龍光寺の剣山開発プロジェクトの次の手は、受けいれ施設の整備です。
木屋平 富士の池両剣神社
剣修行のベースキャンプとなった富士池

  剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

木屋平 富士の池道標

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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 一の森の権現さん
 実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。この背後には何があったのでしょうか?
 もともと、長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。

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剣と一の森を結ぶ縦走路

 そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。
 修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言となったのかもしれません。

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剣山北面の行場への道
 龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
 この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

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穴吹川源流に近い行場
これは、剣山の反対斜面の三好郡東祖谷山村にも、刺戟になったようです。
何故なら、剣山の半分は東祖谷山村のもので、剣山頂は同村に属しています。見ノ越の円福寺は剣山に社領として広大な山地も持っていました。龍光寺の繁栄ぶりを黙って見過ごすわけにはいきません。
 祖谷菅生の円福寺は江戸時代末に、見の越に不動堂(後の剣山円福寺)を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と祖谷山からのふたつのルートが開かれ、剣山への登山は発展を加えることになります。

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このように
剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています。ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

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さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します
①命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この命名が近世初頭を遡るものでないこと
③小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
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 明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

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穴吹川源流

 龍光寺の住職・明皆が明治十二年六月に信者に配布した「剱和讃」の全文があります。ここからは当時の模様を知ることができます。
          剱  和  讃
   帰命頂礼 剱山      其濫筋を尋ぬれば
   南海道の阿波の国     無二の霊山霊峰ハ
   元石立の山なるぞ     昔時行者の御開山
   秋は弘仁六年の      六月中の七日なる
   空海大師此峯に      登りて秘法を修し玉ふ
   眼を閉て祈りなん     神と仏と御出現
   殊に倶利伽羅大聖    大篠剱の御本地と
   愛染王は古剱乃      御本地仏と仰ぐなり
   されバ秘密の其中に    剱すなわち大聖尊
   此時空海石立の      山を剱と呼ひたまふ
   一字一石法花経の     塚(大師の古跡なり
   山上山下の障難を     除きたまへる事ぞかし
   古剱谷の諸行場は     役の行者の跡そかし
   中にも苔の巌窟には    龍光寺 大山大聖不動尊
   本地倶利伽羅大聖は    無二同鉢の尊ときく
   衆生の願ひある時は    童子の姿に身をやつし
   又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
   あら尊しや御剱の     神や仏を仰ぎなば
   五日も七日も精進し    垢離掻川に身漱して
   運ぶ案内富士の池     三匝行道する行者
   合掌懺悔礼拝し      御山に登る先達
   新客行者を誘ひてや    八十五町を歩きつつ
   右と左に絵符珠数     唱る真言経陀羅尼
   此の御剱の山なる     大聖尊の三昧池ぞ
   踏しおさゆる爛漫の    梵字即ち大聖尊
   壱度拝山拝堂を      いたす行者の身影の
   形いつも離るらん    悪事災難病難を
   祓ひおさむる御宝剱    六根六色備るを
   唯真心のひとつなり    深く仰て信ずべし
      龍光寺住職    明皆成誌
    明治十二年六月   当山教会者へ授共す
 
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 今では、見の越が剣山参詣の玄関口スタートになりました。
「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか。円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
 一方、藤の池派には本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

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参考文献 田中善隆 剣山信仰の成立と展開  大山・石鎚と西国修験道所収

 

                             
 今まで登ってきた山に霊山と呼ばれる山がいくつもあります。昔から人々の祈りの対象となり、その山で宗教活動が行われてきた山です。
なぜ霊山と云われるようになったのか、
またそこで宗教活動を行っていた集団とは何なのか?
その霊山信仰が広まったの背景は?
山に登りながら考えてきた事をまとめておこうと思います。
そんなことで中四国の霊山を、取り上げて見ていきたいと思います。
大山1
伯耆大山

まず最初に取り上げるのは大山です。
 大山は『出雲風土記』には大神嶽と記され、大国主命が国引の時に杭にした山とされています。『延喜式』には、大山には会見郡に大神山神社が鎮座すると記されます。大山神は大山の山宮にまつられた山の神で、大神山神社は里宮にあたるとされています。つまり、明治の神仏分離までは、山上には神社はなかったようです。お寺だけがあったのです。
 また、このは地元では古代から「死霊のおもむく山」とされてきたようです。
亡くなった死者の霊は、大山の谷間に集まり、その後に天上に帰って行くという死生観があったようです。
  この姿は、現在の下北半島の恐山の風景に似ているのかもしれません。死霊が集まり、冥界に去って行くところ、或いは冥界から帰ってくる山、その橋渡しをするシャーマンたち。古代の日本の霊山ではどこでも見られた姿かも知れません。
 そこに渡来神としての仏教が伝来します。
大山寺塔頭洞明院に伝わる『大山寺縁起』には大山の開山について、次のように記します。
出雲国玉作(島根県八束郡玉湯町玉造)の猟師依道が、たまたま美保の浦を通りかかった時に、海底から金色の狼があらわれた。狼は依道をいざなうかのように、どんどん逃げて大山山中の洞に入り込んだ。今がチャンスと依道が矢をつがえて、狼をうち殺そうとすると、矢先に地蔵菩薩があらわれた。驚き恐れる依道の前で、狼が老尼にかわり「私は登攬尼という山の神だが、あなたに一緒に地蔵菩薩をまつってもらいたいと思って狼に姿を変えてここまで導いたのだ」と語った。これを聞いた依道は発心して出家し、金連と名のった。
 金連は山中で仏法を学び修行にいそしんだが、やがて釈迦如来を感得し、南光院をひらいてこれを祭った。さらに阿弥陀如来を感得して祀ったのが、西明院であるという。
 この話を要約すると
①この山の神に導かれた依道が大山山中で地蔵菩薩を感得し、これを智明権現としてまつり、
②さらに釈迦をまつる南光院、
阿弥陀をまつる西明院をひらき、
④これとは別に大日如来と不動明王をまつる中門院がひらかれた
という「霊山への仏教伝来」伝説が記されています。大山が受けいれた仏は
 地蔵 → 釈迦 → 阿弥陀 → 大日(不動)の密教仏
となるようです。
最初に、大山が受けいれた仏は「地蔵菩薩」で、智明権現という形で受け入れたようです。
また、渡来神(客神)である地蔵菩薩は、押しかけてきたのではないようです。地元の山の神に頼まれて祀ったことになっています。背景には、神仏習合の進む中世の雰囲気があるのでしょう。
「地蔵霊験記」には、
  彼権現ハ地蔵ノ応化トソ、大智明神トアラワレ玉イ、和光利物新二在ス、
何ソ忽ノ義ヲ致サシ
ありますので平安後期には「大智明神」、「大智明菩薩」、「権現」などと呼び、その本地を地蔵とする垂述信仰が大山寺には成立していたようです。

賽の河原1

 さて、大山に招かれた地蔵菩薩への期待は、冥界と現世の境にいて、死者の亡魂を導くというものです。
地蔵さんは墓地の入口に六地蔵を建てたり、葬送の時に六地蔵をまつる習いは今でも広く見られます。 古来より大山を「死霊のおもむく山」としてきた周辺の人々にとっては「地蔵信仰」は、新たな霊力のある「仏」としてすんなりと受け入れられたのではないでしょうか。
賽の河原2
次第に、近世の大山寺には次のような光景が見られるようになります。
   里の人々は、四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積むようになります。三十三年目の弔いあげに、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流す人も出てきます。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
  大山山麓の人びとが、先だった親のためのに、あるいはは子供を失った親が「さいの河原」に登って、小石を積み、亡き親や亡き幼な子の菩提を弔うようになるのです。石を積むこと自体が死者への孝徳とされていました。ことに死んだ子供のためへの祈りは悲痛です。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なるさいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり、 二つや三つ四つ五つ 十にもたらぬみどり子が 
さいの 河原に集りて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は 
この世の声とはこと変り 悲しさ骨身をとおすなり
 大山の山はだをおおう荒涼とした眺めはいかにも「さいの河原」の説話にふさわしく、今もあちこちに小さな石積みが見られます。

大山寺1

 かつて若い頃に何泊かの山行を終えて、この河原に下りてきて重いザックを下ろして、石に腰をかけてバスの時間を待っているときのことです。この石積みが死者への供養塔であること、ここが死者と生者の交歓の場であることを地元出身の先輩から聞きました。今まで見えていた風景が別のものに見えてくるようなショックを受けた事をいまでも覚えています。
 実際に実の子を失ったような悲しみを持ちながら「あの世とこの世」の境に身を置く体験がなければ、なかなか他者に伝わるものではないでしょう。
しかし、この空間に身を置くことを求めて多くの人たちが「参拝者」としてやってくるようになるのです。とくに、遠く離れた岡山南部の人たちの姿が近世後半には増えていきます。その背景には何があったのでしょうか?
備中では「大山」を勧請し「大仙」として祀る寺院が出てきます。
小田郡、浅口郡、井原市の一円では大仙院、大仙堂が現れるのです。そして、大山に行けない人々は、毎月旧の二十四日に参るとか、年の暮れと初めに参るようになります。死者が出ると、肉親者は一週間以内に参る、三五日、あるいは四九日などの中陰あけに参る、新仏の時には毎月参るなど必ずしも一定してはいないようです。
旅探 たびたん】明王院
天台宗明王院
  浅口郡鴨方町六条院、天台宗明王院の大仙堂は、その縁起には、次のように記されています。

白川天皇の王女、提子内親王が六条御所で崩ぜられたのを弔うために永長二年(1097)、大島郷を寄進して荘園とされ、地蔵堂を建立されたのが六条院という地名の起源であるとのべます。注目したいのはその後に、延宝元年(1673)洪水のため諸堂宇が埋没した時に、浅口郡五万人の大びとに勧進して、往古より縁由の深い大山智明権現を勧請して大仙堂と称した。

大仙院の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
笠岡市の大仙院
 笠岡市の真言宗大仙院は、勧進した人物名も分かります。
高橋興左衛門は、かねてから大川寺の智明権現(地蔵菩薩)を信仰していたが、偶偶大病にかかり平癒の祈願をこめて全快した。そこで、元禄5年(1692)に草庵を建てて、大山より智明権現の尊像を勧進し安置したのが起源である。後に彼は出家して政範と称した。

今でも本堂の左右の戸棚には、死者の衣類や生前の持ち物があふれています。本堂前の水向け地蔵に塔婆を供えて水をたむけることは、大川寺の作法通りです。この大仙院の餐銭箱に饅頭を供えると、その饅頭が冥途にいる子供の所に飛んで行くともいわれます。境内に
「法印政範上人、宝永六己年五月廿八日、
南無大師遍照金剛(右)南無地蔵大菩薩(左)」

の碑文のある石塔があります。
このように大山から勧進された「大仙堂」が今でも、地域の信仰を集めているのです。

これをプロモートしたのは、どんな組織なのでしょうか。
それは岡山県児鳥に本拠を持つ、かつては中四国の多くの修験道者達を影響下に置いた「五流修験」といわれています。五流修験は修験道の開祖とされる役行者が国家から弾圧を受けて投獄・遠島送りになった時に、その弟子達が熊野から児島に亡命してきて「新熊野」を打ち立てたのが始まりとされます。そして、中世から近世にかけて大きな影響力を持つようになります。
 岡山藩南部の修験者の多くは、この五流修験に組織化されていたようです。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして大仙へと足を伸ばす事になります。江戸時代には、五流修験は大山を行場とするようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。
 大山は彼らにとっては修行の「ホーム」だったのです。かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く役割を果たします。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになったようです。
大山地蔵1

子供の死んだ時は、子どもの着物を持って行き大山に続く地蔵に着物を着せるといいます。
  確かに、阿弥陀堂から続く街道の地蔵は、新しい頭巾やいろいろな布切れを身につけていて、ファッショナブルだと感じた事があります。
死霊の集まる霊山=大山と地蔵信仰 それに岡山の人々を結びつけたのは修験者達だったようです。

 

金毘羅さんの大祭は10月10日に行われるので、地元では「お十日(おとうか)さん」と呼ばれています。
大祭5
 現在の祭は、十月九日十日十一日のいわゆるお頭人(とうにん)さんとよんでいる祭礼行列です。これは十月十日の夜、本社から山を下って神事場すなわちお旅所まで神幸し、十一日の早朝からお旅所でかずかずの神事があり、十一日は山を上って再び本社まで帰るというスケジュールです。
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しかし、本社をスタートしてお旅所まで神幸し、そこで一日留まり、翌々日に本社に還幸するという今のスタイルは、神仏分離以後のもののようです。それ以前は、神事場もありませんから「旅所への神幸」という祭礼パレードも山上で行われていたのです。
その祭がどんなものであったか「金毘羅山名勝図会」の記述で見てみましょう。
「金毘羅山名勝図会」は19世紀前半に上下二巻が成立したものです。これを読むと大祭は次のふたつに分けて考える事が出来るようです
山麓の精進屋で何日にもわたる物忌と
その忌み龍りの後で、山上で行なわれる各種神事
そして、江戸時代に人々が最も楽しみにしたのが山麓から山上の本宮に到る頭人出仕の行列で、それが盛大なイヴェント委だったようです。当時の祭礼行列は下るのではなく、本宮に向けて登っていたのです
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大祭行事に地元の人たちはどんな形で参加していたのでしょうか
 金毘羅大権現が鎮座する小松荘は苗田、榎井、四条、五条の四村からなります。この四村の中には石井、守屋、阿部、岡部、泉、本荘、田附の七軒の有力な家があって、その七軒の家を荘官とよんでいました。大頭人になるのはこの七軒の家の者に限っていました。中世の宮座にあたる家筋です。その家々が、年々順ぐりに大頭人を勤めることになっていたようです。
9月1日がくると大頭屋の家に「精進屋」と呼ぶ藁葺きの家を建てます。柱はほりたてで壁は藁しとみで、白布の幕が張られます。その家の心柱の根には、五穀の種が埋められます。
9月8日は潮川の神事です。
この日がくると瀬戸内海に面した多度津から持って来た樽に入れた潮と苅藻葉を神事場の石淵に置き、これを川上から流して頭人、頭屋などが潮垢離をします。この日から男女の頭人と、瓶取り婆は毎日三度ずつ垢離を取り、精進潔斎で精進屋で忌みごもりをするのです。
9月9日は大頭屋の家へ、別当はじめ諸役人が集まります。
青竹の先に葉が着づきのままご幣をつけて精進屋の五穀を埋めた柱のところへ結びつけて、その竹を棟より少し高く立てます。
9月10日はトマリソメと言って、この日から大頭屋の家の精進屋で頭人たりちが正式に泊ります。
10月1日は小神事です。
10月6日は「指合の神事」です。
来年の頭屋について打合せる神富が大頭屋の家の精進屋で行なわれます。この時に板付き餅といって、扇の形をした檜の板の上に餅をおき板でしめつけます。これはクツカタ餅ともよばれます。この餅は三日参り(ミツカマイリ)の時の別当や頭司、山百姓などの食べるものだといいます。
10月7日は小頭屋指合の神事です。
10月10日は、いよいよ頭人が山上に出仕する日です。
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頭人は烏帽子をかぶり白衣騎馬で武家の身なりで出かけます。先頭には甑取りの姥が緋のうちかけで馬に乗って行きます。アツタジョロウ又はヤハタグチと呼ばれるこの姥は月水のない老婆の役目です。乗馬の列もあって大名行列になぞらえた仮装パレードで麓から本社への坂や階段を登って行きます。この仮装行列が祭りの一番の見世物となります。
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頭人は金光院の客殿で饗応をうけ、本社へ参詣し、最後に三十番神社で奉幣をします。
10月11日は、観音堂で饗応の後、神輿をかつぎ出して観音堂のまわりを三度まわります。これが行堂めぐりです。ここには他社の祭礼に見るようなミタマウツシの神事もなく、神輿は「奥坊主」が担ぎます。
 神輿には頭人が供奉します
頭人は草鮭をはき、杖をついて諜(ゆかけ)を身につけます。このゆかけは、牛の皮をはぎとって七日の内に作ったもので臭気があるといいます。そして杵を四本かついで行きます。小頭人は花桶花寵を肩にかけて行きます。山百姓(五人百姓)は金毘羅大権現のお伴をしてやって来た家筋の者ですが、この人たちは錐やみそこしや杓子等を持って行列に参加します。そして神輿が観音堂を三巡りすると、神事は終わりとなります。
金毘羅山本山図1

 この神事が終わると、観音堂で祭事に用いた膳具のすべては縁側から下へ捨てます。
祭事に参加した者はもとより、すべての人々がこの夜は境内から出て行きます。一年中でこの夜だけは誰も神前からいなくなるのです。この日神事に使った箸は木の根や石の下などに埋めておく。また箸はその夜、ここから五里ばかり離れた阿波の箸倉山(現在三好郡池田町)へ守護神が運んで行くともいわれます。

金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院zozuzan

11日の祭事が終わると、山を下りて精進屋へ行き小豆飯を炊いて七十五膳供えます。
14日は三日参りの式です。これは頭屋渡しとも云われ、本年の頭屋から来年の頭屋へと頭屋の仕事を引き渡す儀式です。
16日は火被の神事で、はらい川で精進屋を火にかけて焼きます。
 以上が「金毘羅山名勝図会」に記録された金毘羅大祭式の記事です。
江戸末期の文化年間の金毘羅大権現の祭礼はこのようなものでした。これを読んでいると分からないことが増えていきます。それをひとつひとつ追いかけてみましょう。
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大祭の1ヶ月以上前から大頭人を担当する家では、頭人の忌み寵りの神事が始まっています。
大頭屋は小松荘の苗田、榎井、四条、五条の荘官の中より選ばれていました。しかし、これらの村々には次のような古くからの氏神があって、いずれもその氏子です。
 苗田  石井八幡
 榎井  春日神社
 四条  各社入り組む
 五条  大井八幡
これらの社の氏子が大祭には金毘羅大権現の氏子として参加することになります。これは地元神社の氏子であり、金毘羅さんの氏子であるという二面性を持つことになります。現在でも琴平の祭りは「氏子祭り」と「大祭」は別日程で行われています。
それでは「氏神」と「金毘羅さん」では、成立はどちらが先なのでしょうか。
 これは、金毘羅大権現の大祭の方が後のようです。金比羅さんが朱印領となった江戸時代になってから、いつとはなく金毘羅大権現の氏子と言われ始めたようです。ここにも金毘羅大権現は古代に遡るものではなく、近世になって登場してきたものであることがうかがえます。
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鞘橋(一の橋)を渡って山上に登る祭礼行列

次に、およそ二ヶ月にもおよぶ長い忌寵の祭です。
これは大頭屋の家に建てられる「精進屋」で行なわれます。
「精進屋」の心柱の下には五穀の種子を埋めるとありました。その年に穫れたもので、忌寵の神事の過程で五穀の種子の再生を願う古代以来の信仰から来ていると研究者は考えています。
 また、五穀の種子を埋めた柱に結わえつけた青竹を、棟より高くかかげて立てて、その尖端は青竹の葉をそのままにしておいて、ご幣を立てるとあります。これは「名勝図会」の説明によると「遠く見ゆるためなり、不浄を忌む故なり」と述べていまますが、やはり神の依代でしょう。ここからは精進屋が、頭人達の忌寵の場というだけでなく、神を招きおろすための神屋であったことがうかがえます。

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元禄の祭礼屛風
 明治の神仏分離で大祭は大きく変化しました。例えば今は、神輿行列は本社から長い石段を下りて新しく造営された神事場へ下りてきて、一夜を過ごします。しかし、明治以前は、十月十日に大頭屋の家から行列を作って山上に登っていく行列でした。
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 祭礼行列に参加する人たちが「仮装」して高松街道をやってくる様子

その行列の先頭にアツタジョロウとよぶ甑取りの姥が参加するのはどうしてでしょうか
 甑取りというのは神に供えるための神酒をかもす役目の女性です。それがもはや月水のない女であるということは、古代以来の忌を守っていることを示すものと研究者は指摘します。
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木戸を祭礼行列の参加者が入って行くのを見守る参拝者達

三十番社について
 山上に登った頭人は本社へ参詣してから三十番神社へ詣でて奉幣すると記されますが、三十番神社については古くからこんな伝承が残っています。
 三十番神社はもともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやって来て、この地を十年間ばかり貸してくれと言った。そこで三十番神が承知をすると大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった
と云うのです。
 このような神様の「乗っ取り伝承」は、他の霊山などにもあり、金毘羅山だけのものではありません。ここでは三十番神がもともとの地主神であって、あとからやって来た客神が金毘羅大権現なのを物語る説話として受け止めておきましょう。なにしろ、この大祭自体が三十番社の祭礼を、金毘羅大権現が「乗っ取った祭礼」なのですから。
 本社と三十番神に奉幣するというのは、研究者の興味をかき立てる所のようです。
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祭礼後の膳具は、どこへいくのか?
山上における祭は十日の観音堂における頭人の会食と、十一日の同じ献立による会食、それからのちの神輿の行堂巡りが主なものです。繰り返しますが、この時代はお堂のめぐりを廻るだけ終わっていたのです。行列は下には下りてきませんでした。
 諸式終わると膳具を全て観音堂の縁側より捨てるのです。これを研究者は「神霊との食い別れ」と考えているようです。そしてこの夜は、御山に誰も登山しないというのは、暗闇の状態を作りだし、この日を以って神事が終わりで、神霊はいずれかへ去って行こうとする、その神霊の姿を見てはならないという考えからくるものと研究者達は指摘します。
 翌日、観音堂の縁側より捨てられた膳具はなくなっています。神霊と共に、いずれかへ去って行てしまったというのです。どこへ去って行ったのか?

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 ここに登場するのが阿波の箸蔵寺です。
この寺は
「祭礼に使われた箸は箸蔵寺に飛んでくる」
と言い出します。その所以は
「箸蔵山は空海が修行中に象頭山から帰ってきた金毘羅大権現に出会った山であること、この山が金毘羅大権現の奥の院であること、そのために空海が建立したのが箸蔵寺であること」
という箸蔵寺の由緒書きです。
金毘羅大権現 箸蔵寺2

私の興味があるのは、箸を運んだ(飛ばした?)のは誰かということです?
 祭りの後の真っ暗な金比羅のお山から箸倉山に飛び去って行く神霊の姿、そして膳具。なにか中世説話の「鉢飛ばし」の絵図を思い浮かべてしまいます。私は、ここに登場するのが天狗ではないかと考えています。中世末期の金毘羅のお山を支配したのは修験者たちです。箸蔵寺も近世には、阿波修験道のひとつの拠点になっていきます。そして、金毘羅さんの現在の奥社には、修験者の宥盛が神として祀られ、彼が行場とした断崖には天狗の面が掲げられています。箸倉寺の本堂には今も、烏天狗と子天狗が祀つられています。天狗=修験道=金毘羅神で、金比羅山と箸蔵山は結ばれていったようです。それは、多分に箸蔵寺の押しかけ女房的なアプローチではなかったかとは思いますが・・・
 天狗登場以前の形は十一日の深夜に神霊がはるかなる山に去って行くと考えていたのでしょう。いずれにしても十一日の夜は、この大祭のもっとも慎み深い日であったようです。


金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
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 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

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 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
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つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

西大寺

明治神仏分離の際に金毘羅を離れた「金毘羅大権現像」が、裸祭りで有名な岡山市の西大寺に安置されているといいます。どんな経緯で、象頭山から海を渡り、西大寺で祀られるようになったのでしょうか。そして祀られている「金毘羅大権現像」とは、どんなお姿なのでしょうか。
西大寺に今ある「金毘羅大権現像」を確認しておきましょう。 
1西大寺不動明王
       こんぴらさんから伝来した不動明王
牛玉所殿に安置される仏像三部の内の中央と左の二躰が「金毘羅大権現」として祀られているようです。中央が像高217㎝の不動明王像、左が邪鬼から兜までの総高が117㎝の毘沙門天像です。不動明王の方が一回り大きいようですが、おなじ形の厨子に納められていています。
西大寺の金毘羅大権現の毘沙門天
                   毘沙門天
 確認しておきたいのは、ふたつの仏像は「金毘羅大権現像」ではないということです。祀られているのは不動さまと毘沙門さまです。こんぴらさんに祀られていた「金毘羅大権現」像の姿については、幕末に金毘羅の当局者によって記された「象頭山志調中之能書」には次のように記されています。
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠、右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽・技芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子、技芸ハ制託伽童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神躰是也」
 
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

ここからは、内陣に御神体として祀られていた金毘羅大権現像は、優婆塞姿で山伏のような持ち物をもった姿だったことがわかります。まさに「頗ル役ノ行者ニ類セリ」とあるように、その姿は、役行者像そのものの修験道者姿だったのです。
 そうだとすれば、西大寺の2躰はこんぴらさんの内陣にあった金毘羅大権現像ではないということになります。さて、それではどこにあったお不動さんと毘沙門さんなのでしょうか?これを解く鍵を私は持っていませんので、先を急ぎます。
西大寺牛玉所殿1
       「金毘羅大権現」安置される牛玉所殿
毘沙門天像の厨子の内側には、次の墨書があります
  毘沙門天
 此尊像故有て更々 西京之仏司二命し 日ならず成工上 
 朝廷下は国家万民安全子孫繁昌のため敬て安置し畢于時 
 明治三年庚午孟春
 備陽岡山藩知事 源朝臣池田章政  謹誌
 この厨子は西京の仏司に命じ 日ならず完成したとあります。池田章政(1836~1903)は、明治元年三月に最後の岡山藩主となった殿様で、その年の六月岡山藩知事となり、明治四年廃藩置県により藩知事を免ぜられ東京に去ります。
 この厨子は明治3年に知事であった池田章政が、毘沙門天の保管のために作らせたもののようです。「此尊故有て」というのが、こんぴらさんからの「亡命仏」ということを暗示しているのでしょうか?
疑問を持ちながら前へ進みましょう。
西大寺2
吉井川河畔に面していた西大寺
不動明王の「亡命」のいきさつを追いかけてみましょう。
岡山県立博物館にある西大寺文書には、この金毘羅大権現像についての史料がいくつかあります。その一つが「金毘羅大権現由縁記」で、明治十五年三月五日に当寺の西大寺観音院住職 長田光阿が記したものです。長いのですが全文を紹介します。
 当山江奉安鎮 金毘羅大権現者、素卜讃岐国那賀郡金毘羅邑象頭山金光院二安置シ、其盛乎可知也、然ルニ年月ヲ経過シ、維新之際二至リ、当時之寺務者、何之故乎、仏像ヲ以テ神ナリト奏之、堂宇悉ク神道二変擬ス、依之彼仏像ヲ幽蔽シ、自来又祭ル者無シ、爰二明治三年有字法眼者、彼之尊像祭祠不如意ヲ歎キ、自ラニ鐙ノ尊像ヲ乞受而郷二帰リ、仮リニ同苗悦治ノ弟二置而、後光阿二祭祠センコトヲ請フ、然トモ時未至矣、

意訳変換しておくと
 当寺の金毘羅大権現はもともとは讃岐那珂郡の金毘羅(金光院)に祀られていたものであり、世間によく知られたものである。ところが明治維新の神仏分離によって、金毘羅は堂宇ことごとく神社に変わり、これらの仏像も神殿の奥深くに幽閉されてしまい、誰もこれを祭祀する者がいない状態になってしまった。これを憂えた有字法眼(宥明)は明治3年、二躰の仏像を譲り受けて自らの故郷である備前上道郡君津村(現、岡山市東区君津)の親戚角南悦治宅にこれを移し、光阿にその祭祀を依頼したが、時いまだ熟せず、実現はしなかった。
西大寺会陽 絵巻
                 裸祭りと西大寺
 宥明は金毘羅大権現の神仏分離の際にどんな行動を起こしたか?
この文章だけでは、象頭山で起きていた神仏分離、廃仏毀釈の嵐の様子が伝わって来ません。そこで明治末期の新聞記事からこんぴらさんのお山に吹き荒れた廃仏の大嵐を年表で見てみましょう。 
明治2年  金毘羅大権現本社、神道に転換 諸堂、御守所等残らず改革。
金堂を旭社などと改称し、仏像仏具を運び込み保管所へ
明治3年  万福院宥明、福田万蔵と改名、金刀比羅宮の幹部となる。
  旧多宝塔の建物除去。
         宥明が二躰の仏像を岡山の実家角南悦治宅に移す。
       県知事池田章政が、毘沙門天の保管のために厨子を作らせる
明治4年   廃藩置県で池田章政免官し、東京へ去る。
明治5年   神仏分離に反対する普門院宥曉、松尾寺に移動。
  仏像、雑物什器等売却。
  諸堂内の仏像を焼却
  象頭山を琴平山と改名
明治7年  7月12日 宥明(福田万蔵)が琴平の阿波町の自宅で死去。
明治13年  西大寺に牛玉所殿が造営
明治15年  両仏像が西大寺へ勧請

明治元年に、神仏分離令が出ると金光院宥常は復飾改名し、僧侶から宮司に転じて神社への「変身」を推し進めます。そのために僧職者を還俗させ、わずかばかりの一時金で山から下ろします。これに対して、脇寺の
普門院住職宥暁は、強硬に反対し、寺院維持を主張します。そこで、宥常は宥暁に対して、金毘羅大権現の堂塔や仏像などを山外に移し、(新)松尾寺を継承することを許します。こうして山内の仏像仏具経巻は、松尾寺の宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に集められ保管管理されます。しかし、宥暁は、あらたに松尾寺で金毘羅大権現を復活させ仏式で祀ることを計画したため、宥常は約束を反故にし、一切の仏像などを渡さず焼却することにします。こうして、明治5年に、旧金堂に集められていた仏像・仏具などは「浦の谷」に運んで全てが焼却さたのです。

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     現在に伝わった観音堂本尊の聖観音(宝物館蔵)  
 ちなみに、この際に焼却を免れ現在でも宝物館に残る仏像は2躰のみです。一躰が観音堂の正観音像、もう一躰が本堂の不動明王です。それ以外に今に伝わるのは、西大寺の不動さまと毘沙門さまということになります。

 宥明は、神仏分離によって還俗して、福田万蔵と改名して、明治3年には金刀比羅宮の幹部職員に「就職」していたことが史料から分かります。「明治3年、二躰の仏像を譲り受けて」とありますが、当寺の情勢の中で仏像を金刀比羅宮当局が宥明に譲り渡すということは考えられません。旧金堂(旭社)に集められた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したというのが真相ではないでしょうか。
 ふたつの仏像
の大きさは、先ほど確認したとおり、不動さんは2メートルを超えます。一人で運ぶ事は困難です。協力者が必用です。丸亀街道か多度津街道を人力車に乗せて夜に運び、舟で岡山に着いたのでしょうか。大変な苦労をして実家の角南助五郎宅に持ち込んだのでしょう。
 彼宥明者、備前上道郡内七番君津村之産而、角南助五郎二男ナリ、幼而師於金光院権大僧正宥天而随学、象頭山内神護院二住職シ、又転シテ万福院二住ス、後金刀比羅邑安波町福田氏ニテ上僊ス、時明治七年七月十二日也、宥明之為性 蓋シ可謂愛著仏像者矣、
而右仏像金毘羅大権現者世尊(釈迦)ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖(弘法大師)之所作ナリ、故ヲ以テ信仰之者日々ニ月々盛也、
意訳すると 
この宥明という僧侶は君津村角南助五郎の二男で、幼くして金毘羅別当金光院住職宥天大僧正に師事して学び、象頭山内の神護院住職、次いで万福院住職を歴任し、還俗後は福田姓を名乗り明治七年七月十二日に琴平の阿波町でこの世を去ったという。二躰の仏像の内、金毘羅大権現は釈迦が作ったもの、不動明王は宗祖弘法大師空海が作ったものと伝承され、角南家に祀られた両像は日を経るごとに多くの人の信仰を集めるようになった。

  ここには仏像を持ち出した宥明が金光院の脇坊であった万福院の住職であったこと、神仏分離で還俗した後に琴平で亡くなったことが記されています。さらに、彼が持ち出した仏像が2つであること、その内のひとつが金毘羅大権現で、もうひとつが不動明王と理解していたことが分かります。つまり、小さい方の毘沙門天を金毘羅大権現と考えていたようです。

なお、西大寺のHPには
万福院の住職宥明師が、明治7年(1874年)7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。
とありますが、この日付は宥明の死亡日時です。持ち替えたのは明治3年です。それは、毘沙門天の厨子の墨書の日付が明治3年となっていることからも分かります。
 而当国前知事 池田章政公者、厚ク信心之命于市街下、出石村円務院住職大忠令祭之、以テ天下安静ヲ祈ル矣、時政府廃藩之令出テ諸知事ヲ廃ス、依而知事東京二趣ク、而大忠故有テ大念二譲ル、而尊像祭祠不意、是れ以テ本院光阿迎而祭祠セントス、其臣杉山直及岡野篤等二之ヲ謀ル、而二人公(池田章政)二告ルニ 彼ノ寺之衰ヲ以テス、公又之ヲ許諾ス、乃チ命於本院遷移、既而光阿撰日、迎祭祠焉、当此時寺務者謂出還尊像、則以彼之寺益衰、依之防禦之資金若干ヲ以テス、此事件之成ルヤ、偏二杉山氏之尽力、其功居多卜云、
    金毘羅大権現由縁ヲ略記云
                   本院  光阿
      明治十五年三月五日奉迎 
 意訳すると
当時備前の藩知事であった池田章政は大変信仰心の厚い人で、岡山城下出石村(現、岡山市北区出石町)の池田家祈祷所円務院の住職大忠にこれを祀らせて、市街の人々にこれを信仰するよう命じ、以て天下安静を祈らしめた。
 けれども明治新政府が廃藩の命令を出し知事が廃されることとなったため、池田章政は東京に移ることとなった。円務院の住職は故あって大忠から大念に譲られていたが、仏像は満足に祭祀されていなかった。これを見た西大寺の光阿は、両仏を迎えて祭祀せんと決意し、池田家の家臣杉山直・岡野篤らに協力を要請した。
 両名が東京に去った池田章政に諮ったところ、円務院は寺自体衰微しつつあり、仏像のためにも移した方がよかろうとこれを許し、その結果、両像は西大寺に遷座することになった。光阿は良き日を選びこれを迎えて祭祀しようと思っていたが、円務院の方では両像を奪われては益々寺が衰微するとこれに納得しなかった。そこで若干ではあるが円務院にお金を渡し、ようやく遷座が実現する運びとなった。これも偏に杉山氏の多大なる尽力があったればこそ、
と光阿は締め括っています。
  ここでは藩知事であった池田章政がこんぴらさんからもたらされた両仏を引き取り、池田家祈祷所円務院の住職大忠に祀らせたことが分かります。最初に見た毘沙門天像を納めた厨子の池田章政の墨書は、角南悦治宅から両像を引き取り円務院に移した時に、京都の仏師に命じて両像を修理させるとともに、それぞれに合う厨子を新調させたことを記したものと研究者は考えているようです。
 どちらも明治3年のことなので、角田家に安置されていたのはわずかな期間であったようです。ところが翌年の明治4年に廃藩置県で、池田章政は東京へ去ります。池田家の保護を失い檀家もなかった円務院の経営は困難になったようです。そこで明治15年になって、西大寺の住職光阿は、池田家の了承を取り付けて、この仏像を西大寺に向かえます。
松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現
ふたつの仏像を円務院から西大寺に移す事については、明治十五年四月十七日付の桑原越太郎が岡野篤に宛てた次の書簡もあります。
 先年円務院江 池田家ヨリ安置被致候不動尊・毘沙門天二部之義ハ、当時杉山直祭典之者二付、其縁故ヲ以テ、右二躰、今般西大寺へ遷座致度段、両寺熟議之上、陳述方同人江及依願候二付、其旨東京本邸へ申出候処、頼意二被為任候由、尤此件二付テハ、素々御関係之義モ不砂候間、承諾被致候義、貴殿占両寺へ御伝達相成度候、及御伝候様、直ヨリ依願書差送間、此段及御通知候也
     十五年四月十七日 桑原越太郎刑
      岡野 篤殿
伸、本章之後、両寺へ御伝達之上ハ、将来不都合無之様、御注意有之度段モ、併テ申被遣候様トノ依頼二御座候也                     
 差出人の桑原越太郎は、当時内山下(現、岡山市北区内山下)にあった池田家事務所につとめていた人物のようです。杉山直から提出された円務院の不動尊・毘沙門天の二躰を西大寺に遷座させたいとの願いについて、東京の池田家本邸に伺いをたてたところ、希望どおりにせよとの回答が得られた、と伝えています。追伸として、将来にわたって両寺の間で問題が生じないように配慮せよ、と最後に記されています。
   東京の池田家より仏像のを西大寺に移す承諾があると、岡野篤は杉山直にその決定を伝えたのでしょう。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現

同年六月付で杉山直は西大寺の光阿に対し、次のように知らせています。
 備前国御野郡上出石村円務院二鎮座相成居候 旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候毘沙門・不動ノニ躯、今般同院協議之上、其院へ譲受遷坐相成候旨、池田従三位殿へ申達候処、被聞置候トノ事二候、此段及御伝達候也
  明治十五年
   六月  杉山 直
  備前国上道郡西大寺村
  観音院住職
   長田光阿殿
ここには「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ候 毘沙門・不動ノニ躯」と記されています。 こうして両仏像が西大寺に安置された翌々年に、光阿はこれをを金毘羅大権現として、開帳して良いかどうかを次のような文書で確認しています。
        奉伺
一、金毘羅大権現祭祀為 荘厳之提燈並幕・祭器等、御紋付相用度奉存候、不苦候哉、此段奉伺候、宜上申可被下候也
       西大寺観音院住職
   明治十七年    長田光阿俳
    桑原越太郎殿
  乙心伊書面之趣、承届候事
   十七年七月廿八日 桑原越太郎俳」
ここでは金毘羅大権現(両仏像)をお祭りするための提灯や幕に池田家の紋章を使っても良いかという聞き方です。これに対して、「内山下 池田家事務所」から円務院で使っていた麻幕・紫絹幕を同院から返上させたので使用するようにとの回答を得ています。これは、西大寺がふたつの仏像を金毘羅大権現として広めていくお墨付きを池田家からもらったことを意味します。こうして、「毘沙門・不動ノニ躯」は、「旧金毘羅大権現本地仏卜称シ」て広められていきます。
 以上から西大寺の不動明王・毘沙門天は、明治3年に藩知事池田章政によって同家祈祷所たる円務院に安置されたものが、明治15年になって西大寺に遷座されたという経緯が確認されます。
img003金毘羅大権現 尾張箸蔵寺
不動明王・毘沙門天は、こんぴらさんのどこに祀られていたの?
 ところで「略縁記」の中で光阿は
  「右仏像金毘羅大権現者 世尊ノ所作卜伝唱ス、又不動明王者宗祖之所作ナリ」
と記していました。ここからは、二躰の内一躰が金毘羅大権現で、残りの一躰が不動明王ということになることを指摘しておきました。
 金毘羅大権現の本地仏については
「本地は不動明王也とぞ」(『一時随筆』)
「本地不動明王之応化」(『翁躯夜話』)
「権現御本地「不動明王也」(「象頭山志調中之鹿書」)
などとされていますから、二躰の内の不動明王が金毘羅大権現の本地仏であったことは確かなようです。しかし、もうひとつの毘沙門天像をもって金毘羅大権現像とする見解には、研究者は次のような疑問の声を投げかかけます。
「役行者の如き像容をした江戸時代の金毘羅大権現像とは、全く姿を異にする」
と。
金毘羅大権現2

 もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』に、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録です。
「金毘羅二至ル。(中略)
坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ
ここには、金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。その姿は尊躰「法衣長頭襟ニテロヲ持シ玉リ」と表現されるように、役行者の如き像容をしています。そして、最後のに金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたと記されます。研究者は
「明治維新後金毘羅を離れ、現在西大寺鎮守堂に安置される不動明王・毘沙門天の両像はまさしくこの二躰にほかならないのであろう」
といいます。 つまり、西大寺の両像は金毘羅大権現像の脇仏であったようです。
それでは、金毘羅大権現像はどこへいったのでしょうか?
金毘羅大権現像については、役行者説と近世初頭の金光院住僧金剛坊説のふたつがあるようです。『古老伝旧記』は金光院住僧の金剛坊(宥盛)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
 金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂あると記されています。ここからは、江戸時代に金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当金剛坊宥盛であった研究者は考えるているようです。ちなみに金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その木像もひょっとしたら奥社に密かに祀られているのではと私は考えています。
 ここまでで分かったことは、江戸時代には観音堂裏堂には本尊として金毘羅大権現(宥盛)、脇仏として、不動明王と毘沙門天が安置されていたこと、そして脇侍が西大寺に「亡命」してきたようです。そして、本尊の金毘羅大権現は行方不明ということでしょうか。
 
西大寺牛玉所殿
             明治13年に造営された牛玉所殿
金毘羅大権現を祀った西大寺の戦略は?
西大寺の呼び物は「裸祭り」ですが、この裸祭りは正式には「会陽」というそうです。これは正月元旦から十四日間にわたって執行される修正会の結願の行事で、修正会で祈封した牛玉を参詣者に投授するというものです。陰陽二本の神木を、群がる信徒たちが裸体で激しく奪い合うという裸祭りは、研究者に言わせれば「牛玉信仰が特異な行事に発展したもの」のようです。

西大寺8
その西大寺における牛玉信仰の中核が、牛玉所大権現です。
こちらの権現さまは、金毘羅大権現(実際は不動明王・毘沙門天の二部)がやってくるまでは、単独で鎮守堂に祀られていました。今は金毘羅大権現とされるふたつの仏像と並んで祀られています。
7西大寺牛玉所殿
 金毘羅大権現を西大寺が勧進した狙いは何だったのでしょうか?
江戸時代後半以来、喩伽大権現(岡山県倉敷市の楡伽山蓮台寺)は「金毘羅さんと喩迦さんの両参り」を宣伝し、参拝客を集めていました。西大寺はそれに、牛玉所大権現を加えた「三所詣り」を喧伝していたようです。
5西大寺牛玉所殿

それを証明するかのように、竜宮城の姿をした石門を潜って出た吉井川の旧河畔には、次のように+刻まれた常夜燈が建っています。
 (竿正面) 金毘羅大権現
 (竿右面) 喩伽大権現
 (竿左面) 牛玉所大権現
 (竿裏面) 嘉永七年歳在庚戌六月新建焉
 (基礎正面)玉垣講連中
 ここからはこんぴらさんからやってきた金毘羅大権現を勧進することで、『三所詣り』の縁をより強くし、参拝客にアピールしたいという願いが読み取れます
8西大寺牛玉所殿

参考文献 北川 央 岡山市・西大寺鎮守堂安置金毘羅大権現像の履歴         近世金毘羅信仰の展開所収
 

    

          土器川で二つに分けられた二村郷 
讃岐国郡名

律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。
現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。
二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
川津・二村郷地図

 二村郷に荘園が初めてが現れるのは13世紀半ばのことです。
 荘園が立てられた事情は、仁治二年(1241)三月廿五日の僧戒如書状案(九条家本「振鈴寺縁起」紙背文書)に次のようにあります。
 讃岐国二村郷文書相伝片解脱上人所存事
   副進  上人消息案文
右、去元久之比、先師上人為興福寺 光明皇后御塔領
為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者 藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏 女了、皿鸚賜 于時当国在庁雖申子細、上人片親康令教訓之間、去進了、妥当国在庁宇治部光憲、荒野者藤原氏久領也、
皿準見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了
 但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者宿丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、
云当時御定、随御計、可存知之状如件。
    仁治二年三月廿五日       僧戒如
 進上 両人御中
①二村荘は法相宗中興である笠置山の解脱上人(貞慶)が興福寺の光明皇后御塔領として立荘した。
②その方法は国庁の抵抗を排除して二村郷の七・八両条内の荒野を地主(藤原貞光)から寄進させることにより寺領した。
③ところが鵜足郡の7・8条の荒地は藤原氏領になったが,耕作地は親康という状態で「里坪交通」で領地でたがいに交わっていてわずらわしかった。ちなみに「里坪」とは条里の坪のことです。
④そこで、両者の「和与」(和解契約の話しあい)により,見作(耕地)・荒野を問わず7条は親 康領,8条は藤原氏領とした。
丸亀平野と溜池
このようにして鵜足郡8条に成立した荘園の中心地が、「春日新宮」と研究者は考えているようです。
藤原氏の氏神さまは春日大社、菩提寺は興福寺ですから藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するようになりました。西二村郷の場合も、興福寺領の荘園ですから春日社を祀ったのでしょう。
 それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているようです。
1丸亀平野の条里制


なぜ、西二村の人たちだけが春日神社の氏子となったのでしょうか?
それは、先ほど述べたように興福寺領となったのは土器川の西側の七・八両条(=西二村郷)だけだったからでしょう。鵜足郡の条里は、常山ー角山ー聖通寺山を結ぶ線を一条として始まります。そして東から順番に八条まで引かれていました。それは、現在の地名に「土器村西村免八条」とか川西町金山に八丈池があることからも分かります。
  また、丸亀南中学は昭和57年に太夫池を埋め立てた上に建っています。この大夫池は古くから「傍示池」とよばれ、鵜足郡と那珂郡の郡界を示す「榜示」(標識)が立っていたところと伝えられています。ここから丸亀南中と八丈池を結んだ線が鵜足郡の8条で、那珂郡との群界という事になるようです。
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こうしてみると、宮西に所在する春日神社は八条に位置することになります。春日神社のすぐ南には字西庄という地名が残り、東隣は字七条です。
ここからも興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村(=川西町)だったことが分かります。そのため、右岸の東二村の地は興福寺とは関係ないので春日社を祀ることはなかったのでしょう。
 そして、興福寺領の荘園となった二村荘は、中世の動乱の中で悪党「仁木蒲次郎」の「押横」を受けているのをなんとかしてくれという史料を最後に、記録からは姿を消していきます。おそらく、南北朝時代に消滅したのでしょう。そして、名主や武士達の支配する地域へと姿を変えていったのでしょう。しかし、興福寺の荘園時代に西二村へ祀られた春日神社への信仰は途切れることなく、現在まで続いてきたのでしょう。
最後に、この史料を読みながら私の考えた事 
①なぜ、土器川が那珂郡と鵜足郡の群界とならなかったのか?
 A① 秦の始皇帝以来川などの「自然国境」を用いなかった。人為的な群界の方が優先された。 
 A② 古代土器川の流路が今と違っていた。那珂郡と鵜足郡の郡境付近に土器川は流れていた。
②荘園が立荘された時点で、当郷七八両条内荒野者」とあるように多くの荒野が存在した。
 この荒野が現在のように水田化され尽くすのはいつのなのか?
 A① 近世においても土器川沿いに入植者が入り、多くの土地を水田化し豪農に成長した家があることが史料から分かる。治水灌漑が未整備な時代は土器川沿いは荒地であり、大水が出たときは水に浸かっていたのではないか。江戸時代の治水事業の伸展によって水田化が進んだ?  以上
 

  阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
   前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。


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それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。

DSC01398
 どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)
御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せずこの両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
  『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
 この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護  神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
   と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
  箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。
薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。 
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。 
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。 
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
 しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
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 同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
 少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
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彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
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 ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
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参考文献   鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 

京都精華大学紀要44号

10 


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「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
230
①右下が丸亀湊で、ここには福島湛甫が描かれているので19世紀半ばのものであることが分かります。
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
④そして、大きな鳥居(現高灯龍)をくぐると高松街道と合流して、金比羅の街並みに入って行きます。
230七箇所参り

  さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
 弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
DSC01390善通寺
五岳を背景にした善通寺(拡大図)
 これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
 しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
  そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
 そのため、弥蔵も讃岐へは頻繁に旅をしています。

233善通寺 五岳
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか?
 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
 こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
IMG_8068善通寺五重塔
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?

IMG_8067善通寺
 『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
 ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔    大師七歳之御作
一  五色仏舎利 八祖伝来
一 水瓶    大師の御所持
一 木鉢    同断
一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君
一 二十五条袈裟 祖師伝来
一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、 
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
とありますから弘化二年のことのようです。それ以降、毎年のように百味講に参加しています。
IMG_8069善通寺誕生院
 どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
 以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
DSC01232

 この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
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この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
 こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
289金毘羅参詣案内大略図
    さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
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参考文献 
  鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号

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