高群逸枝が娘時代に四国遍路を行っていることを知りました。彼女が日本の「女性史学」の創設者であり、詩人でもあったくらいの知識しか持ち合わせていなかったので、大正時代に若い女性がなんで、四国遍路なの?というのが最初の感想でした。
その疑問に答える前に彼女の生い立ちを見ておきましょう。
生い立ちから遍路行まで 観音の子として誕生
高群逸枝(1894~1964)は、熊本市南郊の農村で、小学校の校長を務める勝太郎、登代夫妻の長女として日清戦争が始まる年に生まれます。夫妻には3人の男の子が生まれましたが、いずれも育たなかったたようです。そこで、一姫二太郎式の考えから、筑後大和郡の清水観音に女児出生の願をかけます。勝太郎夫妻の願い聞き届けられ、天は初観音の縁日(正月十八日)の女児を授けます。こうして生まれた逸枝は父母から
「観音の子とよばれ、その待遇を受けて育つ男」
として育てられたようです。 逸枝は、学校長を務める父の転勤で農山村を転々としながら育ちます。母登代は、結婚してから夫に学問の手ほどきを受け、塾生に教えるほどの素養の持主だったようです。幼い娘には、昔話や物語を語り聞かせたといいます。逸枝の「夢みる人」という資質は、母に負うところが多かったようです。
最初に簡単な年譜を示しておきます
1909年 熊本県立熊本師範学校女子部入学
1909年 熊本県立熊本師範学校女子部入学
1910年 師範学校退学
1912年 熊本女学校4年に編入
1913年 熊本女学校修了。鐘淵紡績に女工として就職
1914年 西砥用尋常高等小学校の代用教員に就任。
のち、父が校長をしている佐俣小学校へ転属
1916年 父と共に払川小学校へ転属。橋本憲三と文通を開始
1917年 教職を辞職し、熊本市専念寺で新聞記者修行に専念
1918年 四国巡礼に出発。九州日日新聞に『娘巡礼記』を連載
1919年 九州新聞で『愛の黎明』を、大阪朝日新聞に破調短歌を投稿。憲三と婚約
1920年 上京。世田ケ谷村の軽部家に寄宿。母の登代が死去
1921年 『新小説』4月号に長篇詩『日月の上に』掲載。熊本県八代郡弥次海岸に転居
1922年 再び上京
1927年 父の勝太郎が死去
1930年 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、『婦人戦線』を創刊
最初の疑問「なぜ若い女性が四国遍路に出かけることになったのか?」にもどりましょう。
逸枝が満23歳を迎えた大正6年(1917)、ヨーロッパでは第一次大戦のまっただ中でロシア革命が勃発する年になります。日本が戦争景気で好景気に沸いていた時期でもあります。この年に、後に夫になる橋本憲三との出会い、その恋愛問題に悩むことになります。一方秋には、教職を辞して、九州日日新聞社に入って新聞記者になろうとしますが失敗。「一週間も二週間も食べない」と自伝に記すほどの窮乏生活に陥ってしまいます。
①日に三度血書を届けたというH青年からの求愛②恋愛関係にあった憲三との仲のこじれ③転職の失敗
などの問題が渦巻いて、どうにもならなくなったようです。
「憲三からは冷やかにあしらわれ、H青年からは逃げきれず、職なく、飢え、人生と生活とのいっさいに追いつめられた敗北からの捨身の脱出」とも、「無銭旅行の、生死さえも運命の手にゆだねる出発」
と自伝には記されています。まさに「戦局打開」のための「転戦」が四国巡礼だったのかもしれません
逸枝は、最初は花山院の御遺蹟である西国三十三ヶ所の巡礼を最初は考えたようですが、立案過程で経済的な理由から、より近場の四国八十八ヶ所になったようです。御詠歌だの御和讃だのを見せられると、その気になって胸が躍り、和讃の一節を参考に四国遍路の準備を始めます。先達から宿の心得も聞きます。
和讃の一節麻の衣にあじろがさ背に荷俵三衣のふくろ足中草履をめし給ひ首にかけたる札ばさみ縦6寸に幅2寸金剛杖を右につき左のみ手に数珠を持ち
準備した遍路の旅装、携帯品一、つま折れの菅笠 |一、おひづる(背には亦条を入る)一、脚絆、足袋、草鞄、手貫一、札挾み(縦6寸巾2寸)一 袋((紙インク、ペン、書籍、着更、小刀、印、諸雑品)
そして、彼女なりの次のような「出発の哲学」を掲げます。
「刻々の推移に不安をもこたず、欲するものを率直にもとめ、拒まれれば去り、生命に執着しない。」
これを胸にして四国に向けて出発します。それは 大正7年(1918)の6月のことでした。
一笠一杖、四国に向かう
堀場清子氏は、この旅立ちを
「無」に立って出てしまう 「捨身」で人生をきりひらく』
と評します。
「無」に立って出てしまう……こうした捨身の行為を逸枝は生涯に何度も敢行して人生をきりひらき、自伝の中で『出発哲学』とそれを名付けている。だがその決然たる信念とはうらはらに、巡礼初日の彼女は、ハンカチを顔にあて、好奇の目や囁きの間をぬけていく。沿道の人々は彼女を暖くもてなし、巡礼になるような人じゃないと不審がり、由ある家の家出娘だろうから保護せねばと相談したりする。」
周りの好奇な視線や質問に対しては、こんな話をしたようです。
「私が生まれる時に母が、観音様に『此子を丈夫に成長さして下さいましたら屹度(きっと)一人で巡礼いたさせますから』と誓った事(その前幾人もの子供がみんな亡くなつたから)を話した。此れは事実である。私の母は大の観音様信心である。」
と逸枝は答えるようになります。そして、豊後を目指す道筋での彼女は、こんな歌を詠んでいます。
さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい
境の谷の 夕ぐれのみち
そして四国目指して前に進んで行くにつれて、胆がすわっていきます。意気軒昂と歩いていると夕暮れ、一人の老翁に呼び止められます。それが伊藤宮次老人でした。
大正7年(1918)6月4日、熊本の寄寓先の専念寺を出発し、大阿蘇の連山を目に歩き始めます。
6月4日 熊本出発。途中、歳を18と偽る。大津泊。
6月5日 立野、梅原広一宅泊。
6月6日~阿蘇郡坂梨村浄土寺2泊。坂本元令様に感謝。
6月8日~竹田、新高野山(瑞泉寺)にて宿泊を断られ、岡本村狭田、古谷芳次郎宅2泊。
6月10日~東大野村中井田、伊藤宮次(伊東宮治)老人(73歳)に出会い、同宅長期滞在。老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と理解し、女王さまのように扱われる。しかも、四国への同行を申し出る。サンチョパンサの登場。
7月9日~伊東老人と中井田から汽車で大分に向かう。大分市塩九升町、伊東老人の親戚、阿部宗秋宅。
逸枝は、伊東老人との出会いをこんなふうに記しています。
見知らぬ国の山路にはかなく行き暮れた旅の娘に、温い一夜を恵んでくれた孤独の老人(73歳)が、夢に観世音のお告げを得たとて、繊弱い処女を護るべく私に従い、共にへめぐった四国八十八ヶ所、四百里、行乞と野宿の一百日の思い出を、昨日のことのようにも思い出す止とができる。
老人は観音を夢見し、高群を垂迹者と思い込み、女王さまのように扱います。そして、四国への同行を申し出るのです。実際、この伊藤老人は同行中には
彼女に対して主従の礼をとり、炊事にも手を出させず、一緒に食事をとらなかった。荷物は一人で背負い、彼女には修業(行)させず、会計をつかさどり、宿に着けば、まず塩で彼女の足をもむ
ほど誠実に逸枝の面倒をみたようです。私に言わせれば、若き娘のドンキホーテーとサンチョパンセのような関係にも思えてきます。
この伊藤老人との出会いとその後を、河野信子氏は次のように記します。
高群逸枝は巡礼の過程で、なま身のままで、土地のひとびとの幻想をさそいだしてしまったようだ。(中略)九州山地の街道で、以後同行することになる伊藤老人にであい、観音の化身と思い込まれてしまった。また、その地の近郷近在のひとぴとは、彼女の杖にふれると病気がなおる信じてあつまってきた。本人にとっては、地から湧きでたような珍事にはちがいないが、私には察しがつく。おそらく、少女高群逸枝の全身からあふれでる雰囲気が、(中略)霊気を漂わせていたことであろう。
こうして「若き教祖とその老僕」の四国巡礼の旅が始まります。
肥後から豊後までの徒歩行で、遍路の記を寄せるとして新聞社から「前借り」としてもらった稿料10円もすでに使い果たしていました。しかし、彼女の前に進む決意は萎えません。
ジャンヌダルクかドンキホーテか迷うような姿に、私には思えます。「妾は飽くまで八十八ヶ所の難を踏破せばならぬ。」「行かう、行かねばならぬ。無一文でも行かねばならぬ。八十八ヶ所の霊場、わが為に輝きてある」
九州から船で八幡浜へ
7月14日 午前3時大分出航。佐賀関経由の「宇和島丸」にて八幡浜入港。この地の大黒山吉蔵寺(当時衰微していた37番岩本寺から3500円で本尊と納経の版を買い取り、37番札所の権利を得たとされる)を訪問、1泊。
7月15日 逆打ちとして43番明石寺を目指して出発。なぜ逆打ちとしたかの理由は語られない。道を間違えて大窪越えの難路で、野宿。
逆打ちで伊予の地を南に
「四国来るー四国来る 眼前に聳立する是れ四国の山にあらずや。九州か四国か四国か九州か、故郷か旅か故郷か。胸轟かすひまも無く佐田岬から八幡浜へ、上陸は午前十一時頃」
とあり、佐賀関経由の宇和島運輸の汽船「宇和島丸」で初めて四国の地を踏む娘らしい感動が伝わってきます。
八幡浜で一泊して、7月15日が四国遍路のスタート日になります。
なぜか「逆打巡礼」で、四十三番の明石寺をめざします。なぜ逆コースを選んだのかは何も触れられていません。初日から道に迷います。仕方がないので大窪越えの難路をたどることになり、急坂蕗で疲れ果てたうえに、初日から野宿となります。その様子を、次のように記します
凸凹の石多き草地に野宿する。石を掘り出し、毛布を敷き、草鞄を脱ぎ、脚絆を解けば、足の痛みが襲ってきて一歩も歩けない。看物を被って蚊を防ぎ眠る。初めは昏々として深く、次にしだいに苦しくなる。目覚めれば、蟻、毛虫の類もじやもじゃとと私の上をを這いまわっている。着物も髪も露でシトシトだ。月が寂しく風は哀しく、ああ私はいったいどうしてここに坐つているのか。この月、この風、熊本やいかに。これから先何百里、かよわい私に出来る事であらうか。ああ泣いて行かう。いえ、花を摘んで歌つていかう。足は痛いが立たねばならぬ。み仏よ助け給ひてよ。道は一すじ、疲れは疲れを生み、目を上げるとまるで世界が黄色になつてグルく廻転している様だ。(1918年7月15日大窪越えにて)
次の日も野宿と前途の多難を予想させまする。
野宿も大変、食事も粗末、加えて難路の連続。そこへ柏坂の難所。「山に山あり、峯に峯あり。越えもて行くほどに、おりしもあれ、銀雨くずれきたりて、天地花のごと哄笑す。請うらくは駿馬と鞭をあたえよ」という急坂を、
「此所を柏坂と云ふ。急坂二十六町、風が非常に荒く吹さ出した。汁も熱もすっくり吹き放され且笠や侠まで吹き捲くられる。面白い!風に御して坂道を飛び下る。髪を旗のやうに吹きなびかせつつ、快活に飛び行く私を、お爺さんはハラハラした顔付で見送り乍ら杖を力に下って来られる」
と笑い飛ばしながら通り過ぎて行きます。
そして、四十番観自在寺では本堂での通夜、
「本堂の大きな古い円柱が月光の中に寂然と立ってゐる。虫が鳴く、風が響く、世界は宇宙は、人は、私は、みんな夢だ、夢の様駱。」
との感慨に浸る。
逆打ちの土佐から阿波への道。
ここで逸枝は約2か月もの日数を費やし、その間様々な体験を重ね、若い感性で見聞を広めています。
その行程と主な出来事は次のようになります。
その行程と主な出来事は次のようになります。
7月16日 卯之町経由で43番明石寺を巡拝。歯長峠の山中、小屋を見つけて軒下で野宿。
7月17日~42番仏木寺、41番龍光寺を巡拝して宇和島到着。(約17kmの歩行)個人宅泊。雨天のため連泊。
7月21日 宇和島出発。柏坂の手前、畑地村にて野宿。(約20kmの歩行)
7月22日 雨中の柏坂越え。初めて海を見る。夕刻40番観自在寺到着。夜が更けるまで光明真言を唱え、本堂軒下に通夜。
7月23日 深浦という一小港に至る。「大和丸」という蒸気船で土佐片島港(宿毛)まで乗船。恐ろしき遍路の目(注1)に出会う。39番延光寺拝礼。門前の寺山屋という木賃宿に宿泊。翌日は風雨強く連泊。
7月28日~延光寺→市野瀬→大岐→足摺(38番金剛福寺)→大岐→市野瀬の打戻りに4日かかり。市野瀬1泊、大岐2泊。7月31日に真念庵到着。
8月2日 市野瀬を出発し、伊豆田越えをして、四万十川を渡船で渡って、入野の浜にでる。この狂波怒涛に、残してきた恋人の思いを重ねる。この浜で野宿。
3日 土佐佐賀を通過し、単調な歩行でお爺さんを困らせたり、熊井のトンネルの反響で遊んだり、…。岩本寺の手前で野宿。
4日 37番岩本寺を参拝。仁井田村平串(土讃線仁井田駅の近く?)の宿屋に宿泊。
5日~七子峠を登り、下りは不動が滝(滝に不動尊を安置)ルートで、土佐久礼で宿泊。
6日 須崎から36番青龍寺まで船便を利用しようとしたが、時間が合わず須崎にて宿泊。ルートは記述なく、36番青龍寺に参拝したとの記述もなし、高岡(土佐市)にて2泊。
10日 35番清滝寺を参拝。
11日 福島から渡船で36番青龍寺を参拝。夕刻34番種間寺を参拝。宿も満室で断られ、寺の通夜も断られるが、大師堂できちんと腰掛けて一睡もせずに夜明かしする。
11日 福島から渡船で36番青龍寺を参拝。夕刻34番種間寺を参拝。宿も満室で断られ、寺の通夜も断られるが、大師堂できちんと腰掛けて一睡もせずに夜明かしする。
12日 33番雪渓寺参拝。種崎の渡船で浦戸湾を渡る。
13日、三里村(高知市内)吹井屋に宿泊。たった2kmしか歩いていない。
14日、32番禅師峰寺、31番竹林寺を参拝、市内の本屋で長居したりして、五台山村の大前屋宿泊。お爺さんに用事ができて、長逗留。
28日 高知を出立。逗留中にお爺さんだけで30番善楽寺、29番国分寺を納経していたので、直接28番大日寺を参拝。赤岡を過ぎ、夜須の遍路宿に宿泊。
29日 風雨の中を出立するが、体調が悪く安芸の手前の町で宿泊。この日、親切なお爺さんとは撫養(鳴門)で別れ、一人旅することを決心する。
30日 安芸川の橋が落ちていて、2里上流の橋まで迂回。27番神峰寺のふもとの坂元屋に宿泊。
31日 27番神峰寺を参拝。宿がなく、金剛頂寺手前の浜で野宿
31日 27番神峰寺を参拝。宿がなく、金剛頂寺手前の浜で野宿
9月1日 26番金剛頂寺、25番津照寺を経て、砂浜を歩き、山によじ登り24番最御崎寺を参拝。山を下り有るか無きかの道を辿るが、お爺さんが疲れ果て、また野宿。雨に降られ仮小屋に避難するが、雨漏りひどく、涙も出ない。
土佐の遍路道をゆく中で見えてくるものは?
土佐は「50町1里」(一般に36町1里)で、他国と基準がちがうのです。土佐を行く遍路達が辟易とし、苦渋、疲労困悠もするのは、土佐の距離基準が他国とはちがうのです。
「市瀬(市野瀬)出初日は大岐に一泊、此所から足摺山へは四里だと云ふ。但し五十町一里での四里である。(中略)一寸の休息もしないで、打ち通しに大岐まで帰り着いたのが午後九時何分、宿の人達は、驚愕する。なぜなら、弱々しい私が山坂越を八里(三十六町一里に換算して十一里四町)歩き通したと云ふ事が実際不思議」
だと人々が驚いたと記されています。
「足摺岬の金剛福寺へ参る時には、大岐からの往復八里を飛ぶように歩いて、老人を弱らせています。土佐の旅では
『愛せねばならぬ、愛せねばならぬ一切は私の愛人だ…』
と、一心不乱に念じながら歩いたといいます。長い道のりを、ゆき会うすべての人々にむかって、「一切愛」の実践を試みながら彼女は苦しい旅を続けています。
土佐の遍路道は、川が多く、川を渡ることにも難渋しています。
雨のため舟渡しもできず川止めをされたり、橋の決壊で迂回させられたりなどして、なす術もなく日数を重ねるしかありません。
「濁流滔々として、渡らるべくも見えざれど、熟練せる船頭により難なく対岸に着くを得たるは幸ひだった。
とも記します。そして9月19日には、とうとう
「四国は川がうるさくて困る。少し荒い雨が降っても川止めだ。まるで昔の旅行同然」
だと嘆きだします。
ただ、雨での足止めが、多くの遍路や地元の人との接触のきっかけとなっています。
遍路同士で話すと
「方々の国から集まつてゐるだけに言葉が大変面白い。(中略)殊に四国に入って初めて聞いた『哺うし』だの『あいあい』だのたまらなく懐かしい響きが、こもって聞こえくる。」
そして土佐の自然に感動しています。
快絶!白浪高く天に躍りて飛沫濠々雲煙の如し。何ぞ其の壮絶なる嗚呼何ぞ其の暫く無言、わが身直に狂濤に接す。あはや!足土を離れて、飛ばんとす其間髪をいれず、『何を?』お爺さんに引止められ愕然として我に返り、太平洋の狂波怒濤と自分の魂が一致した瞬間に恐ろしさを感じる
伊藤老人の静かな寝姿に
海と夕やみと、七十三の萎びた老人の亡骸の寝姿と一私は静かな落ちついた心で『死』を考えていた。
昭和4年記の「遍路の秋」で逸枝は、四国遍路の思い出を次のように記しています。
「四国の秋は美しい。私はうはには、忘れがたいものが多い。いつか折りがあったら、またぜひ行ってみたいとおもっている。こんどはたれとも連れ立たずに独りで。そしてやはり遍路になって。」
若い娘にとって、宿は苦労の連続でした。
娘と云うことで断られたこともしばしばです。そんな中で見つけた遍路宿は、
「此宿こそ如何にも蛆が湧いてゐさうな不快な宿である。寧ろ海辺の野宿のほうがいいと思うほどで、入浴もせず、食事も取らず、お茶も水も駄目の夜を過ごす。
真野俊和氏は、当時の遍路宿について次のように記します
「往時の遍路宿・木賃宿のすさまじさは、全部が全部ではないにしてもたいへんなものだったようだ。(中略) 遍路宿は木代の最低が8銭から、高いのは25銭ぐらいまでのひらきがあったという。こんな最低クラスの木賃宿も二人は当然のことながら何回かとまりあわせた。」
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして、善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められます。お気の毒だが納屋でよろしいか」と聞かれて、うなずくと農家の老爺に案内された所は、厩と隣接しており、異臭が鼻をつく宿であったりもします。
なんでも見てやろう、何でも一度は受けいれようとする姿勢でのぞむと見えてくるのは
まず、「遍路の墓」の見方が変わってきます。
「遍路墓でことにあわれなのは、道中、あるいは丘辺、あるいは渚辺の土まんじゅうの上などに、ただ笠杖などの差し置かれてある光景である。さらにあわれなのは、現実に生命の終わる日までたえず巡礼をつづけているお遍路さんたちのことだろう。」と日記に記します。『あゝ遍路の墓 何と云ふ懐かしい美し墓の姿であろう。
永久に黙然として爾来数知れずその前を通り行く遍路の群を眺めて立つてゐ。」「遍路のみ墓よ、さらば静かにおはせ。生より死へ…有為より無為へ…道は一路で有るを。」「あゝ大悟徹底とは大なる諦めで有る事を、今に及んで知る事が出来た。」
遍路道の傍らの墓に対しても、視線を配りリスペクトする力が養われていきます。
その2は、お大師様にまつわる伝説の多さに対する驚きと興味です。
それらを細かく、時に粗らくとり上げて
「何れその中に八十八ヶ所中の伝説一切を詳しく調べた上で折を見て書くことにしよう」
と若者らしい学究的な意欲も見せます。また、生意気な娘らしい言葉も並べます。一方で、逸枝は
「わが求むるものは愛なり。妾は今まで非常に苦悶しぬ。(中略)妾は一切 に愛せられつつ楽く茲にあり。」
との高みに達していきます。
9月 阿波から瀬戸内へ
2日、尻水村にて宿泊。
3日、宍喰の善根宿に宿泊。
4日、四方原村(阿波海南駅近く)に宿泊。名にし負う阿波の八坂八浜を越え、牟岐の先に宿泊。6日、23番薬王寺参拝、近くの旅館に宿泊。
7日 新野町豊田(現阿南市)、木元徳三宅に宿泊。
8日~ 高群が一人旅をすると漏らしたため、お爺さんが怒って、高群を宿に残してどこかへいってしまう。
11日、20番鶴林寺の手前までいったお爺さんが戻ってくる。
19日 22番平等寺参拝。さらにあえぎつつ登り21番大龍寺の奥の院に至る。那珂川の渡船(現在は橋がある)が川止めであろうと言われ同所て宿泊。
20日21番大龍寺を参拝。さらに20番鶴林寺を参拝。山を降りて農家の納屋にて眠れぬ一夜を過ごす。
21日~28日、19番立江寺を参拝。
「朝から晩まで歩き続けに続けて18番恩山寺から1番へ一瀉千里、其間に有名な12番焼山寺の山道も極めて無事に抜けてしまった。」とだけ28日の記事に記して、その間の詳細な行程は記録されていない。
29日、引田を朝早く出発し、夕方88番大窪寺参拝、寺を下りて宿泊。
30日、4里半歩いて87番長尾寺を参拝。さらに歩くととがった八栗山、平坦な屋島を見る。
10月1日 86番志度寺参詣の記述なし。85番八栗寺の山を登り、84番屋島寺を参拝。高松手前の木賃宿に宿泊。(83番から72番に関する記述なし)
6日 71番弥谷寺を参拝。長居している間に、お爺さんを見失う。お爺さんは、高群が先に行ったものと思い、先を急いだ。その日、別々に宿を取るが、翌朝、無事再会。(70番から50番に関する記述なし)
14日、今治を出発し3ケ所の札所を巡拝。菊間の町を抜けて、「あさましき家」に宿泊。
翌日は道後の旅人宿ではお遍路さんお断りと宿泊を断られ、「また汚い宿」に宿泊。
16日、51番石手寺、50番繁多寺、49番浄土寺、等6ケ所を参拝し、泥濘の三坂峠を越える。
17日 45番岩屋寺を参拝、畑の川という宿駅(現在の民宿和佐路あたり)に宿泊。
18日、44番大宝寺を参拝、本願成就。最初に野宿した滑稽な思い出がふと胸に浮ぶ。
行かう!行かう!行かねばならぬ。私の厳かな戦場に。
19日 内子の近くの善根宿に宿泊。
20日 八幡浜に向かう途中、女の乞食遍路に出会い、金を無心され、残っていた10銭を喜捨。
残金は1銭5厘となった。八幡浜の三津山という木賃宿に滞在。
残金は1銭5厘となった。八幡浜の三津山という木賃宿に滞在。
24日、11時ごろ御荘丸という汽船の三等室で八幡浜を出航。佐賀関に上陸し、宿泊。しばらく大分で休養する。
12日 中井田の伊東老人宅に戻っている。
18日 この日、阿蘇を歩いている。
20日 熊本に帰着。
結願に向けて瀬戸路を行く
南四国路の難渋に比べて、瀬戸内に入ってからの遍路行は比較的順調に進んだようです。
秋風ふかくなりて、道も寂しくなりぬ。寺のあまたを経めぐり、石多き谷をわたり、日没寺の垣根の輝きに心ひかれなどするほどもなくて、讃岐なり。伊予なり。屋島に源平餅を食うべ、高松の木賃宿に虱を漁り、根香山のほとりに崇徳上皇の遺跡を訪ね、十月十四日ともなりぬれば、今治の町を出でて、松山街道をたどる。菊間町を過ぐれば海なり
10月18日、今回の本願成就となる四十四番大宝寺に詣でて、八十八ヶ所を打ち納め、「夢の様な長旅もいよいよお了ひだ」と記し、この遍路行で出会った人々を回想しています。
此度の旅行は色んな人々を私に見せてくれた。易者だの僧侶だの浮れ節屋だの煙管の棹がへだの鋳掛屋だの一様々な人々が住んでゐるものだ。(中略)京都の人(中略)にお会ひした。その人からは色々な世間物語りも聞かされたし、般若心経だの十一面観世音陀羅尼経だの頂いた。六十位の人で発句に趣味を有たれてゐなさるさうな。其外数々のお寺を巡るうちには、色々な若い僧侶の人にお会ひしたり、可なりに複雑な詩の様な事件が私を追つかけたりしたが、振り返る事なく流るゝ様に、それが旅人の常で有る。可憐な少女や慕はしい老尼や懐かしい婦人や、然うした人々とも残る処なく、すっぱりと別れて了った。
讃岐では、崇徳帝の御遺跡地及御陵にも参拝し、善通寺から金毘羅さまにもお詣りしたが、其帰りの汽車の中では芸者の方とも近づきになった。世間には実に色んな人々が住んで居る。そして其人々は各自に色んな思想界なり、道徳界なりを形造っては生きてゐるのだ。(中略)兎に角面白い世の中である。
出発したときの混沌としたカオスを突き抜けたようです。生きていく勇気をもらった四国遍路だったのでしょう。逸枝自身も
「私はこの遍路によって、心身の鍛練を得たことが多い。」
と述べています。
大正7年(1918)、老翁と連れ立った白無垢の遍路姿の娘が四国の地を歩く。無からの出発という若い彼女の感性が多くのものを吸収していきました。一度きりの遍路でした。しかし、後々になっても遍路にかかわる思いを綴っていることからも、彼女の遍路に関する思いが強かったことがうかがえます。
『九州日日新聞』に掲載された「娘巡礼記」の評判は、どうだったのでしょうか?
24歳のうら若き女性が時に野宿をし、
「冷えてコツコツの御飯に生の食塩では、食うにも何も咽喉を通らない苦労の旅」
は評判となり、105回の連載道中記となります。これで逸枝の名も知られるようになります。
逸枝が橋本憲三と双方の両親の祝福をうけて約婚したのは、遍路行の翌年の春でした。この夫妻の二人三脚の生活が、後の逸枝の大作を生むことになります。
逸枝が四国の遍路路を歩いたのは、一回限りでした。けれど遍路への思いはやみがたかったようです。機会があればいつでも旅に出ることを望んでいたといいます。諸般の事情が許さなかったのです。
昭和13年(1938)に出版された「お遍路」には、次のように記されています
どんな不信な者でも、足ひとたび四国に入れば遍路愛の雰囲気だけは感ぜずにはいられまい。ここでは乞食同様のみすぼらしい人であろうが、癩胤で不当な虐げを受けている人であろうが、勝ち誇った富家のお嬢さんであろうが、互いになんの隔たりもなく、出会う時には必ず半合掌の礼をする。これは淡々たる一視平等の現われで、世間的な義理や人情の所産ではない。」と云い、最後に「遍路には祖互愛念平等愛と犠牲愛との三つが、現に完全に行はれてゐる。」と結んでいます
参考文献
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