前回は「塩飽大工」という本に導かれながら島の大工の活動を見てきました。そこからは明治当初の塩飽では700軒を越える家が大工を生業としていたこと、それは3軒に1軒の比率になることなど、大規模な大工集団がこの島々にはいたことを見えてきました。塩飽は人名の島、廻船の島でもありますが、大工の島でもあったことが改めて分かりました。
もう一度、明治5年の壬申戸籍に基づいて作られた上表を見ていきます。ここには各浦毎の職業別戸数が数字化されています。例えば、本島の笠島(上から3番目)は、(カ)列を見ると人名が95名がいたことが分かります。ここが中世以来の塩飽の中心であったことが改めてうかがえます。(イ)列が大工数です。(エ)が笠島の全戸数ですので、大工比率は(オ)38%になります。
大工比率の高い集落ベスト3を挙げると、
①大浦 65%、 72軒②生ノ浜61% 43軒③尻浜 58% 28軒
で3軒に2軒は大工という浦もあったようです。
「漁村だから漁師が住んでいた」
という先入観は捨てないと「海民」の末裔たちの姿は見えてこないようです。ちなみに小坂浦は漁業230軒で、大工数は4軒です。そして、人名数は0です。ここが家船漁民の定着した集落であることがうかがえます。
人名の次男たちが実入りのいい宮大工に憧れて、腕の良い近所の棟梁に弟子入りして腕を磨き、備讃瀬戸周辺の他国へ出稼ぎに行っていたことを前回はお話ししました。
どんな所に出稼ぎに行っていたのでしょうか?
表の見方の説明のために、本島の泊浦(上から4番目)を見てみましょう。泊浦は本島の南側に開けた集落で、中世以来讃岐とのつながりの強い集落です。ここには50人の大工が明治5年にはいました。
彼らの先輩たちが残した寺社建築物が、どこに残っているかがわかります。
「倉敷・玉野」、「浅口倉敷」と讃岐の三野郡(現三豊市)の3つのエリアが群を抜いて多いようです。この3つが泊の大工集団のお得意さんであったことが分かります。
他の大工集団の動きを、「塩飽大工」では次のように指摘しています
・本島笠島
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
・本島大浦 倉敷市に集中し、備中国分寺五重塔(総社市)に関与
・本島生ノ浜 倉敷市と総社市が多い。橘家の活動が大きい。
・本島尻浜 岡山県を広く活動。矢掛の洞松寺、大通寺が目立つ。
・本島福田 矢掛町、笠岡市が多い。明治には丸亀もあり
・広島 讃岐が多い。東坂元村(丸亀市)へ移住した都筑家の影響か?
・高見島 倉敷市に限定し、中でも連島地区が多い。
この表から塩飽大工の出稼ぎ先について見えてくることは
①圧倒的に倉敷市が多く、次に総社市で、このふたつで5割を超える②備前池田領、讃岐松平領など「大藩」が少ない。③浦によって、出稼ぎ先が固定している。④17世紀までは讃岐への出稼ぎが多く、18世紀になると備中が全体の7割近くを占める
これらの背景を研究者は、次のように分析します。
①②については、岡山・高松の大きな藩はお抱えの宮大工集団がいるので、塩飽大工に出番はなかった。③については、例えば本島泊浦から三野郡に29の寺社の建造物を建てているが、それは、泊浦の山下家が高瀬、三野、仁尾へ移住し、移住後も島からの出稼ぎが続いたため。
山下家は上から4番目になります。その寺社建築は
①17世紀初めに極楽寺(牛島)から始まり
②以後は、讃岐の仁尾で、八幡神社(仁尾)→賀茂神社(仁尾)を手がけるようになります
塩飽大工で最も多い建築物を残す大工集団で、活動期間が長く人数も多かったため次のような分家が出ています
もう少し詳しく山下家本家の活動について見ておきましょう
①1620元和6年 極楽寺(与島)建立から聖神社まで80年間で16の建造物造営、 極楽寺は、牛島を拠点に活躍した塩飽廻船の丸尾家の菩提寺です。檀那は丸尾家で、財力に任せた寺社建築を、棟梁として出がけたのでしょう。この時の経験や技術力が後に活かされます。
②与島での仕事と同時進行で仁尾でも活動しています。
高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
③1671延宝2年 地元泊浦の木烏神社再建④1687貞享4年 冨熊八幡神社(丸亀市) 本殿、1707宝永4年 同拝殿建立。⑤1710宝永7年 高瀬(三豊市)の森神社を建立。⑥1822文政5年 沙弥島(坂出市)の理源大師堂建立
泊山下本家は泊浦に住みながら三野の仕事場に、長年船で出向いていたのでしょう。もちろん毎日「通勤」出来るわけはありません。三豊に家を構え出張所のような存在ができ、それが、高瀬、三野、仁尾へ移住し、分家(支店)となっていったようです。
高瀬山下家の活動について
山下家本家から分かれた泊山下分家は、九兵衛実次に始まり、理左衛門実義、小左衛門実重と続きます。この家系の理左衛が寛文年間(1670年頃)に高瀬へ移住し、高瀬山下家が始まったようです。
泊山下分家の実績を詳しく見ておきます
棟札による高瀬山下家の建造物
氏名 居住 建造年 建造物 所在
山下理左衛門実義 新町 1671 寛文11 弥谷寺千手観音堂 三野町
山下理左衛門真教 1676 延宝4 八幡宮 高瀬町
山下七左衛門 新町 1681 延宝9 弥谷寺御影堂 三野町
山下七左衛門 新町 1683 天和3 弥谷寺鐘楼堂 三野町
山下利左衛門豊重 1696 元禄9 賀茂神社長常 仁尾町
山下理左衛門豊重 新町 1699 元禄12 賀茂神社社殿 仁尾町
山下利左衛門豊重 下高瀬新町1702 元禄15 履脱八幡神社拝殿 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下甚兵衛理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村 1710 宝永7 森神社 高瀬町
山下理左衛門豊重 新名村 1716 享保元 善通寺鐘楼堂 善通寺市
山下甚兵衛賞次 新名村 1718 享保3 宗像神社 大野原町
山下甚兵衛賓次 新名村 1718 享保3 中姫八幡神社 観音寺市
山下利左衛門豊重 新名村 1722 享保7 賀茂神社長床 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村 1723 享保8 賀茂神社幣殿拝殿 仁尾町
山下甚兵衛賞次 新名村 1724 享保9 千尋神社 .観音寺市
山下利左衛門 新名村 1724 享保9 千尋神社 観音寺市
山下理左衛門豊之 新名村 1734 享保19 賀茂神社釣殿 仁尾町
ここから琴平移住?
ここから琴平移住?
山下太郎右衛門 苗田村 1760 宝暦10 善通寺五重塔(,建始)琴平町
山下理右衛門豊春 1823 文政6 石井八幡宮拝殿 琴平町
山下理右衛門豊春 1824 1文政7 石井八幡宮 琴平町
琴平綾へ改名
綾越後豊章 高藪町 1837 天保8 金刀比羅宮旭社 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町 1841 天保12 金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町 1849 嘉永2 金刀比羅宮寵所 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町 1852 嘉永5 金刀比羅宮米蔵 琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町 1852 嘉永5 金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町 1852 嘉永5 金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町 1854 嘉永7 金刀比羅宮廻廊 琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町 1857 安政4 金刀比羅宮宝蔵 琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町 1859 安政6 金刀比羅宮奥殿 琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町 1859 安政6 金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三 高藪町 1875 明治8 金刀比羅宮神饌所 琴平町
綾坦三 高藪町 1877 明治10 金刀比羅宮本宮 琴平町
(作成:高倉哲雄)
①高瀬山下家の三野郡最初の作品は、弥谷寺千手観音堂(三豊市三野町・1671寛文11年)のようです。
この棟札の高瀬山下家の棟梁の居住地は「新町」とあるので、すでに下高瀬新町に移住していたようです。それから25年後に利(理)左衛門豊重が棟梁として仁尾の賀茂神社(三豊市仁尾町1696元禄9年)を建てています。仁尾へは元禄までは山下本家が直接に出向いていましたが、この時から以降は、高瀬分家が仁尾を担当するようになります。これは、40年間も続く大規模で長期の仕事だったようです。
仁尾の仕事の後に、高瀬山下家の棟札が見つかっていないようです。
分家と考えられる新名村を居住とする棟梁の名前はありますが、高瀬新町の山下家の棟梁の棟札は三豊では見つかりません。高瀬山下家「空白の90年」が続きます。この時期の高瀬山下家は困窮していたようです。その打開のために、金毘羅さんの麓の苗田(のうだ)へ移住したのが太郎右衛門です。
彼は、善通寺に売り込みを行って受け入れられ、善通寺五重塔(三代目)の材木買付に関わったことが、再興雑記(1760宝暦10年)に出てきます。ただし、五重塔の棟札には彼の名がありませんので、棟梁格ではなかったのでしょう。
これをきっかけに高瀬山下家は再興の機会をつかんだようです。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
1831天保2年に、金毘羅大権現の旭社(旧、金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前が見えます。
これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
以上から幕末に金毘羅さんで活躍した大工のルーツは、
塩飽本島泊の山下家 → 高瀬山下家 → 琴平へ移住し改名した綾氏と
塩飽大工の系譜につながるようです。
次に【三野山下家】 を見てみます。
三野山下家の過去帳が下表です。
三野山下家の過去帳が下表です。
①最も古い棟梁は弥平治(1697元禄10年11月13日)になるようです。屋号が大貴屋となっていて、本来の屋号塩飽屋ではないのですが元禄以前に汐木(三豊市三野町)へ移住していたようです。
②棟札に初めて名が出るのは、吉祥寺天満宮(1724享保9年)の山下治良左衛門です。その後、吉祥寺と本門寺のお抱え大工のような存在として、両寺院の建築物を手がけています。そして、江戸末期には領主が立ち寄るほどの格式の家になっていたようです。
最後に仁尾山下家を見ておきます
仁尾と塩飽の関係は、1631寛永8年の賀茂神社鐘楼堂に始まり、それ以後賀茂神社天神拝殿(1694元禄7年)までは泊山下家が出向いています。そして、1696元禄9年賀茂神社長常からは、高瀬山下家に代わっています。仁尾居住の山下家とはっきりしているのは賀茂神社門再建(1800寛政12年)の藤十郎からです。
仁尾山下家には安左衛門妻佐賀の位牌(1804文化元年没)が残ります。この位牌から安左衛門または子の藤十郎がこれより一世代前に、塩飽本島から仁尾へ移住したと推測できます。ただ、仁尾山下家は高瀬から分家移住という可能性もあるようです。
仁尾と塩飽大工の関係は350年以上も続き、確かなものだけでも履脱八幡神社、賀茂神社、金光寺、吉祥院、常徳寺、羽大神社、恵比寿神社があります。仁尾の寺社建築の多くは、塩飽大工の手によって建てられたようです。
本門寺は高瀬大坊と呼ばれる日連正宗派のお寺です。この寺は東国からやって来た秋山氏が建立した寺で、西国で最初に建立された法華宗寺院の一つとされます。広く静かな境内には山門、開山堂、位牌堂、客殿、御宝蔵(ごほうぞう)、庫裡など、立派な堂宇が建ち並んでいます。この寺には、次のような棟札が残り、三野山下家との関係を伝えます。
1726享保11年 前卓 工匠 山下治良左衛門藤原義次
1727享保12年 宝蔵 大工頭領 山下治良左衛門吉次
1781天明元年 本堂 棟梁 汐木住人山下浅治郎
旅棟梁同所 山下吉兵衛 山下守防
後見 丸亀住人 三好与右衛門宣隆
丸亀住人 藤井善蔵近重
大工世話人 比地村 九左衛門
1811文化8年 大法宝蔵 大工棟梁 山下治良左衛門暁清
1819文政2年 庫裡 棟梁禰下治郎左衛門暁次
後見 森田勘蔵喜又
1822文政5年庫裡 棟梁 山下治郎左衛門暁次
後見 藤井善蔵近重
「桁行5間 梁間5間 入母屋造 向拝1興 本瓦葺 総欅造」
日蓮聖人の御影が座すので御影堂とも呼ばれ、本門寺一門の本堂として御会式を始め重要な儀式が行われる所です。建て始めから棟上げまで58年もかかっています。
「塩飽大工」には次のように紹介されています
側面は角柱、正面は円:札、組物は出組。中備墓股は波や草花文様が凝っており風格がある。長押と頭貫の間を埋める連子と、両併面の荘重甕が上品である。軒二軒角繁(のきふたのきかくしげ)。妻飾りは二重虹梁大瓶東で、結綿は鬼面が虹梁を噛む。虹梁間の慕股は、二羽の島が羽を円形に広げて向かい合う二つの円と一羽が大きく羽を円形に広げた一つの円で珍しい。隅垂木を担ぐ力士像は良い表情をしている。向拝は角柱、組物は連三斗、正面墓股の龍や木鼻の獅子は躍動感がある。内部にも木鼻の獅子や墓股など外部と同系の彫刻が施されている。
隅垂木を担ぐ力士像は近重作と銘があります。後見人の藤井善蔵近重が彫っているようです。
以上をまとめると
①塩飽大工は浦毎に大工集団として棟梁に率いられて活動した
②讃岐三野郡には、本島泊の山下家の大工集団がやってきて島嶼部の粟島などの神社を手がけた
③その後、仁尾や託間の寺社建築を手がけ、出稼ぎ先に定住する分家も現れた
④高瀬山下家は、琴平への移住し綾氏と改名し、金毘羅大権現の旭社(小松尾寺金堂)の棟梁として活躍
⑤三野山下家は、日蓮宗本門寺のお抱え大工として活躍
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会