「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を片手に玉垣めぐりをしてきました。この本には文化財に指定された金毘羅さんの鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。今回は、地元讃岐の人たちの奉納した玉垣めぐりをしてみたいと思います。
桜馬場詰めT11 観音寺からの奉納玉垣
まずは分布図で確認です。玉垣番号「T11」が三豊・観音寺周辺からの奉納のようです。これを分布図で見ると・・・桜馬場詰めの階段の玉垣のようです。向かって右側で、その背後は社務所のようです。
T11の玉垣を紙面に起こしたのが下の表になります
石段を登っていくと親柱3と4の笠石に「観音寺」という地名があります。また小柱には「小漁師中」とあります。「中=仲間」で同業者組合としておきましょう。ここでは、網元ではない小規模の漁師達が資金を出し合ったことがうかがえます。
親柱5のBに「富処(当所) 取次 森屋善太郎」とあります。
取次世話人で実質的な責任者で、金毘羅金光院と連絡事務や石工との連絡事務、支払会計などをすべて行った人物で、金毘羅門前町の大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
石工は「幾造」とあります。
幾造は、太田幾造で金毘羅の石工で、以下の4つの玉垣を残しています。
慶応 三年(1867) (T50)慶応 四年(1868) (T11)明治十二年(1889) (T13)明治十五年(1892) (T39)
石灯籠の初期のものは大坂を中心に、西日本各地の石工名前があります。それが、奉納がさかんになるにつれ、丸亀の石工に中心が移り、やがて、金毘羅の石工が多数を占めるようになります。わざわざ遠くから運ばなくても、地元で造れるようになったのでしょう。この背後には、金毘羅さんへの石造物奉納が増え、石工が住みついて生活できるだけの環境が整ったことが考えられます。
その推移の時期をおおまかにいえば、
①丸亀の石工が多くなるのが文化年間(1804~18)②金毘羅の石工にかわるのは天保年間(1830~44)
になるようです。
玉垣と石燈龍を比べると、その細工は玉垣のほうが技術的に簡単です。最初は石燈龍を遠くの石工がつくり、わざわざ運んできたのは石灯籠の細工は高度の技術が必要で、加工できる職人が地元にはいなかったからでしょう。また、需要もなかった。それが、幕末期にはほとんどが金毘羅の門前町に住み着いた石工たちの手によって作られるようになります。
親柱5と6の間には小柱がありません。ここで一区切りして、親柱6から一連のつななりがはじまります。その親柱6のAに「慶応四年三月」と奉納年月日があります。この年は、10月からは元号が明治と変わる明治維新でもあります。1月の鳥羽伏見の戦いの後、金毘羅さんに「ええじゃないか」の騒乱と土佐軍の進駐占領、そして神仏分離が進められた年です。そのような中で、この玉垣は石工幾造の手で作られていたことになります。そして、奉納したのは笠石に刻まれた観音寺の人たちだったことが分かります。
玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
そして、平地では親柱と親柱の間には10本の小柱が入ります。小柱10×大柱10=100本という勘定になります。別の言い方をすると100人の名前が刻めるということです。そこで、一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。
そして、平地では親柱と親柱の間には10本の小柱が入ります。小柱10×大柱10=100本という勘定になります。別の言い方をすると100人の名前が刻めるということです。そこで、一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。
現在では玉垣奉納は、神社の社務所に願い出れば、奉納金を納めるだけです。受付順に奉納者の名前がならぶことになります。隣同士の関係は無関係です。
しかし、当時はそうではありませんでした。
例えば「玉垣講」の寄進の場合は、世話人と玉垣に名前が掘られた人たちの間に講員同士というつながりがあります。金比羅講で参拝したメンバーに呼びかけて玉垣奉納に賛同する人々を集め、奉納金を集めるのが現地世話人の仕事になります。玉垣の柱の数と支払金額は前もって分かっています。予定通りに集まらなければ、資金力にゆとりのある人に何本分かの金額をお願いすることもあったでしょう。それでも集まらない場合は、自腹を切ったこともあるかもしれません。
このT11は小柱の数が少ないようです。
それは急な階段のために構造的に親柱間を短く取らなければならず、その結果ここでは小柱3本だけになっています。もちろん親柱に名前の刻まれた方が奉納金は多かったことは云うまでもありません。それだけ有力者であったということでしょう。
それは急な階段のために構造的に親柱間を短く取らなければならず、その結果ここでは小柱3本だけになっています。もちろん親柱に名前の刻まれた方が奉納金は多かったことは云うまでもありません。それだけ有力者であったということでしょう。
ここには、現在でも営業を続ける馴染みの店の名前もあります。150年近く前の明治維新に玉垣を奉納した先祖に連なる人たちが今も同じように観音寺で商売を続けているようです。
書院下石段の玉垣T13・14・15 三豊観音寺周辺からの奉納
この玉垣は大門から直進してきた参道が書院前に登っていく階段にあります。
親柱1に「慶応四年八月」とありますので、T11が「慶応四年3月」でしたから同じ年の夏に引き続いて作られたことが分かります。石工は多度津の「和泉屋常吉」とあります。金毘羅の石工ではないようです。多度津の石工はめずらしいようです。
小柱には「洗心館」が並びます。これが何者であるのか、旅館なのか、運動団体なのか、今の私にはわかりません。次には平田正節の名前が並びます。先ほどの「世話人=空き柱自腹説」によると、目標金額に達しなかった部分を「洗心館と平田正節」が埋めたということになります。この二人がT13奉納の中心人物のようです。
この玉垣群が先ほどのT11と違うところは
T11 観音寺旧市街の檀那衆T13・14・15 観音寺周辺の郡部の檀那衆
という点です。T13には、辻村・大野原・河内邨の地名が掘られています。
讃岐一の大地主 大喜多家の玉垣 T14の親柱11・12
起点になる親柱12には「河内邨 大喜多卿英」とあります。大喜多家については以前にもお話ししましたが、「西讃一の地主」と云われると同時に、サトウキビ栽培から砂糖製造など手広く商いにも手を伸ばしていた最有力家です。地元の河内村の鎮守にポケットマネーで太鼓台を寄付したりしています。今でもその太鼓台は現役のようです。「何某」というのも実は、大喜多家のことではないかと思えてきたりします。
親柱1Aに寄進者が西讃仁尾 石登講とあり
B 発願 吉田太良右エ門 塩田調亮利亘
B 発願 吉田太良右エ門 塩田調亮利亘
C 奉納日が慶応3年3月吉日とあります。
奉納者の氏名は、塩田と吉田のふたつだけです。仁尾を代表する二つの檀那衆が明治維新の前年に、奉納したものであることが分かります。塩田家は、仁尾塩田の持ち主で仁尾一の財力があったと云われます。明治になっての三豊女学校の講堂への寄付金額などを見ても、仁尾の塩田家と、先ほど見た河内の大喜多家の二家が飛び抜けていたことを思い出します。
奉納者の氏名は、塩田と吉田のふたつだけです。仁尾を代表する二つの檀那衆が明治維新の前年に、奉納したものであることが分かります。塩田家は、仁尾塩田の持ち主で仁尾一の財力があったと云われます。明治になっての三豊女学校の講堂への寄付金額などを見ても、仁尾の塩田家と、先ほど見た河内の大喜多家の二家が飛び抜けていたことを思い出します。
以上見てきた玉垣の奉納順を見てみると、次のようになります
①慶応3年(1867)3月 T15 仁尾の塩田・吉田家②慶応4年(1668)3月 T11 桜馬場詰め 観音寺の檀那衆③慶応4年(1668)8月 T13・14・15 書院下石段の玉垣 三豊観音寺周辺
ここからは想像できるストーリーは?
「知っとるか? 仁尾の塩田家と吉田家が、金毘羅さんに玉垣を奉納したげな」「知っとる、知っとる。それも、親柱にしか名前を掘ってないらしいで。小柱はないんやそうな」「なんかもったいないような気がするわ。儂の名前でも入れてくれたらええのに・・・」「あほゆうな。場所も社務所の前の一等地らしいで」「さすがは、塩田王やのお」「ほんまや、けど聞いた話では観音寺の檀那衆も負けじと奉納する話が進みよるらしいわ」
仁尾の塩田家の玉垣寄進が、周囲に波紋を与え広がって行く様子がうかがえます。 これをまねるように明治15年に茶屋前石段左に現れたのが玉垣T16です。
T15の二人奉納に刺激されて、現れた一人奉納がT16だったとしておきましょう。鳥取天道が何者であるのかは、今の私には分かりません。
以上をまとめておくと
①明治を迎える直前に金毘羅大権現の社務所周辺の玉垣整備を行ったのは三豊の檀那衆であった
②それは仁尾の塩田王塩田家の奉納にはじまり、観音寺旧市街から、大野原や辻のような郡部にも広がった
③そして、河内の大喜多家も奉納している
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 印南敏秀 石段と敷石
金毘羅庶民信仰資料集巻2
金毘羅庶民信仰資料集巻2