瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2020年05月

 

2

「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を片手に玉垣めぐりをしてきました。この本には文化財に指定された金毘羅さんの鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。今回は、地元讃岐の人たちの奉納した玉垣めぐりをしてみたいと思います。
6 玉垣書院下

桜馬場詰めT11 観音寺からの奉納玉垣
 まずは分布図で確認です。玉垣番号「T11」が三豊・観音寺周辺からの奉納のようです。これを分布図で見ると・・・桜馬場詰めの階段の玉垣のようです。向かって右側で、その背後は社務所のようです。
 T11の玉垣を紙面に起こしたのが下の表になります
6 玉垣書院下

ここには講名・取次者・奉納者や住所・奉納年月日・石工などが刻まれています。普通は一番最初の柱に、世話人や講名・奉納年月日があるのですがありません。
石段を登っていくと親柱3と4の笠石に「観音寺」という地名があります。また小柱には「小漁師中」とあります。「中=仲間」で同業者組合としておきましょう。ここでは、網元ではない小規模の漁師達が資金を出し合ったことがうかがえます。
親柱5のBに「富処(当所) 取次 森屋善太郎」とあります。
取次世話人で実質的な責任者で、金毘羅金光院と連絡事務や石工との連絡事務、支払会計などをすべて行った人物で、金毘羅門前町の大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
石工は「幾造」とあります。
幾造は、太田幾造で金毘羅の石工で、以下の4つの玉垣を残しています。
  慶応 三年(1867)  (T50)
  慶応 四年(1868)  (T11)
  明治十二年(1889)  (T13)
  明治十五年(1892)  (T39)
 石灯籠の初期のものは大坂を中心に、西日本各地の石工名前があります。それが、奉納がさかんになるにつれ、丸亀の石工に中心が移り、やがて、金毘羅の石工が多数を占めるようになります。わざわざ遠くから運ばなくても、地元で造れるようになったのでしょう。この背後には、金毘羅さんへの石造物奉納が増え、石工が住みついて生活できるだけの環境が整ったことが考えられます。
 その推移の時期をおおまかにいえば、
①丸亀の石工が多くなるのが文化年間(1804~18)
②金毘羅の石工にかわるのは天保年間(1830~44)
になるようです。
 玉垣と石燈龍を比べると、その細工は玉垣のほうが技術的に簡単です。最初は石燈龍を遠くの石工がつくり、わざわざ運んできたのは石灯籠の細工は高度の技術が必要で、加工できる職人が地元にはいなかったからでしょう。また、需要もなかった。それが、幕末期にはほとんどが金毘羅の門前町に住み着いた石工たちの手によって作られるようになります。
親柱5と6の間には小柱がありません。ここで一区切りして、親柱6から一連のつななりがはじまります。その親柱6のAに「慶応四年三月」と奉納年月日があります。この年は、10月からは元号が明治と変わる明治維新でもあります。1月の鳥羽伏見の戦いの後、金毘羅さんに「ええじゃないか」の騒乱と土佐軍の進駐占領、そして神仏分離が進められた年です。そのような中で、この玉垣は石工幾造の手で作られていたことになります。そして、奉納したのは笠石に刻まれた観音寺の人たちだったことが分かります。
6 玉垣書院下2

玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
そして、平地では親柱と親柱の間には10本の小柱が入ります。小柱10×大柱10=100本という勘定になります。別の言い方をすると100人の名前が刻めるということです。そこで、一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。

 現在では玉垣奉納は、神社の社務所に願い出れば、奉納金を納めるだけです。受付順に奉納者の名前がならぶことになります。隣同士の関係は無関係です。
 しかし、当時はそうではありませんでした。
例えば「玉垣講」の寄進の場合は、世話人と玉垣に名前が掘られた人たちの間に講員同士というつながりがあります。金比羅講で参拝したメンバーに呼びかけて玉垣奉納に賛同する人々を集め、奉納金を集めるのが現地世話人の仕事になります。玉垣の柱の数と支払金額は前もって分かっています。予定通りに集まらなければ、資金力にゆとりのある人に何本分かの金額をお願いすることもあったでしょう。それでも集まらない場合は、自腹を切ったこともあるかもしれません。
6 玉垣書院下5
T11 桜の馬場詰右側の玉垣 親柱26 観音寺
  このT11は小柱の数が少ないようです。
それは急な階段のために構造的に親柱間を短く取らなければならず、その結果ここでは小柱3本だけになっています。もちろん親柱に名前の刻まれた方が奉納金は多かったことは云うまでもありません。それだけ有力者であったということでしょう。
6 玉垣書院下3

ここには、現在でも営業を続ける馴染みの店の名前もあります。150年近く前の明治維新に玉垣を奉納した先祖に連なる人たちが今も同じように観音寺で商売を続けているようです。
 
書院下石段の玉垣T13・14・15  三豊観音寺周辺からの奉納
6 玉垣書院下6 大野原2jpg

この玉垣は大門から直進してきた参道が書院前に登っていく階段にあります。
親柱1に「慶応四年八月」とありますので、T11が「慶応四年3月」でしたから同じ年の夏に引き続いて作られたことが分かります。石工は多度津の「和泉屋常吉」とあります。金毘羅の石工ではないようです。多度津の石工はめずらしいようです。
小柱には「洗心館」が並びます。これが何者であるのか、旅館なのか、運動団体なのか、今の私にはわかりません。次には平田正節の名前が並びます。先ほどの「世話人=空き柱自腹説」によると、目標金額に達しなかった部分を「洗心館と平田正節」が埋めたということになります。この二人がT13奉納の中心人物のようです。
  この玉垣群が先ほどのT11と違うところは
T11 観音寺旧市街の檀那衆
T13・14・15 観音寺周辺の郡部の檀那衆
という点です。T13には、辻村・大野原・河内邨の地名が掘られています。
讃岐一の大地主 大喜多家の玉垣    T14の親柱11・12
6 玉垣書院下6 大喜多

  T14の親柱11には「何某」とあります。現代風に云うなら「匿名希望」なのでしょうか。どんな人物だったか、あるいは、なぜ匿名にしなければならなかったのか想像力が刺激されます。
6 玉垣書院下6 大喜多.2jpg
 起点になる親柱12には「河内邨 大喜多卿英」とあります。大喜多家については以前にもお話ししましたが、「西讃一の地主」と云われると同時に、サトウキビ栽培から砂糖製造など手広く商いにも手を伸ばしていた最有力家です。地元の河内村の鎮守にポケットマネーで太鼓台を寄付したりしています。今でもその太鼓台は現役のようです。「何某」というのも実は、大喜多家のことではないかと思えてきたりします。

   仁尾の塩田王 塩田家の奉納玉垣  T15

6 玉垣書院下7siota 2

T14の反対側の上部に並ぶのがT15です。ここの玉垣は変わっています。下の絵のように小柱がないのです。
6 玉垣書院下7siota

親柱1Aに寄進者が西讃仁尾 石登講とあり 
   B 発願 吉田太良右エ門 塩田調亮利亘
   C 奉納日が慶応3年3月吉日とあります。
奉納者の氏名は、塩田と吉田のふたつだけです。仁尾を代表する二つの檀那衆が明治維新の前年に、奉納したものであることが分かります。塩田家は、仁尾塩田の持ち主で仁尾一の財力があったと云われます。明治になっての三豊女学校の講堂への寄付金額などを見ても、仁尾の塩田家と、先ほど見た河内の大喜多家の二家が飛び抜けていたことを思い出します。
 以上見てきた玉垣の奉納順を見てみると、次のようになります
①慶応3年(1867)3月 T15 仁尾の塩田・吉田家
②慶応4年(1668)3月 T11 桜馬場詰め 観音寺の檀那衆
③慶応4年(1668)8月 T13・14・15   書院下石段の玉垣 三豊観音寺周辺
   ここからは想像できるストーリーは?
「知っとるか? 仁尾の塩田家と吉田家が、金毘羅さんに玉垣を奉納したげな」
「知っとる、知っとる。それも、親柱にしか名前を掘ってないらしいで。小柱はないんやそうな」
「なんかもったいないような気がするわ。儂の名前でも入れてくれたらええのに・・・」
「あほゆうな。場所も社務所の前の一等地らしいで」
「さすがは、塩田王やのお」
「ほんまや、けど聞いた話では観音寺の檀那衆も負けじと奉納する話が進みよるらしいわ」
 仁尾の塩田家の玉垣寄進が、周囲に波紋を与え広がって行く様子がうかがえます。 これをまねるように明治15年に茶屋前石段左に現れたのが玉垣T16です。
6 玉垣書院下8

これも小柱には何も刻まれません。親柱だけに「当国三野郡笠岡村 鳥取天道」とあります。

6 玉垣書院下82

T15の二人奉納に刺激されて、現れた一人奉納がT16だったとしておきましょう。鳥取天道が何者であるのかは、今の私には分かりません。
以上をまとめておくと
①明治を迎える直前に金毘羅大権現の社務所周辺の玉垣整備を行ったのは三豊の檀那衆であった
②それは仁尾の塩田王塩田家の奉納にはじまり、観音寺旧市街から、大野原や辻のような郡部にも広がった
③そして、河内の大喜多家も奉納している
おつきあいいただき、ありがとうございました。

 金刀比羅宮は、明治まで神仏習合の金毘羅大権現のお山で修験道の山岳寺院としてスタートした由来があります。そのため本宮は、標高524㍍の象頭山中腹に鎮座しますので、そこまで登らなければなりません。そこで整備されたのが石段です。
こんぴらさん」の本当の魅力は、長い長い石段を登らないと分からない ...
 金刀比羅宮の石段は、旅館がつづく内町一ノ坂口から大門、大門から本宮、さらには樟やカゴノキ・樫などの常緑樹のに繁る森の間を登り、象頭山8合目に建つ奥社まで続きます。
それぞれの段数は
 内町から大門まで   三六五段
 大門から御本宮まで  四二一段
 御本宮から奥社まで  五八二段
で、合計は1368段になります。以上は上りの参道ですが、本宮から三穂津姫社にまわり旭社に下る下向道も石段です。
  三穂津姫社から旭社までの下向道 一六三段
    旭社の前            九段
以上計1540段の石段は、すべて信者からの奉納です。この中で、重要有形民俗文化財の指定をうけた石段は本宮前の四段坂と睦魂神社前の石段の二ヶ所です。
  本宮前の四段坂の石段は、いつだれが奉納したのでしょうか
5 敷石四段坂1

 闇峠から本宮に登る最後の急坂につくられた石段には(P-1~5)の記号が付けられています。坂の途中にひと息つくために三つのおどり場があり、石段が四段に別れているので「四段坂」と呼ばれています。この階段の「記念碑」を見ると一度に造られたのではなく、4回に分けて作られたようです。

  一番古い一番上段四二段(P-5)の奉納碑文を見てみましょう。

 
5 敷石四段坂2

奉納碑文裏面(左端)に寛政十年(1798)十月吉日とあります。大祭に合わせての奉納だったようです。大坂世話人に但馬屋の名が見えます。正面には「傘の下に中」の記号があり、江戸・上州・京都・奥州・大坂の宰領中からの奉納であることが分かります。
さて宰領とは?
国史事典を引いてみると
荷物を運送する人夫を支配・監督する人々のこと、飛脚問屋仲間をさす。民間の町飛脚が出来るのは江戸時代初めの寛永頃で、当初は、各々の店ごとに書状や荷物の運送を請負った。それが、上方商人が江戸に進出するにしたがって仕事量が増大し、飛脚屋が組合をつくって、相対で営業するようになっていく。寛文四年(1664)には、三都(江戸・大坂・京都)の飛脚屋によって、三都間を毎月三回決まった日に往来する三度飛脚もはじまった。町飛脚がはじまる以前から幕府の経営する継飛脚や、大名が領国と江戸間の連絡をとるための大名飛脚があったが、やがて町飛脚に託するようになっていく。このことは、飛脚屋や御用をうけ、飛脚網が全国にはりめぐらされていたことを示すものである。
 
 どうやらこの石段は全国の飛脚組合のメンバーが、道々の安全を願って奉納されたもののようです。 同時に、この奉納を通じて各地に点在する仲間内の結束を強める狙いもあったのでしょう。
 まとめ役としては、大坂の津国屋十右衛門と江戸の嶋屋佐右衛門が世話人となっています。二人は相仕の飛脚問屋で、大坂・江戸という東西の中心地にあったことから代表者として取りまとめをしたようです。
 この石段は、金毘羅さんの参道で最初に石段化されたエリアだと考えられます。現在に続く石段の起点となる記念碑的なものかもしれません。それが、地元からの奉納ではなく全国的な飛脚ネット組合からのものであったというところが、その後の金毘羅さんの境内整備の方向を示しているようにも思えます。

二番目は、上から二段目の二六段の石段(P-3・4)です。
5 敷石四段坂5

記念石版を見ると、文化八年(1811)6月に土州(高知)から奉納されています。奉納者には、室戸岬の先端に近い、室津浦・浮津浦・吉良川津(現室戸市)の8人の人たちです。
 二段目の石段(P-2)も土佐室戸からの奉納です。

5 敷石四段坂55

上のP3と同じ年の文化八年(1811)十月に奉納されています。
奉納者は先の石段と同じ土州の室戸市の宮地十太夫と奥宮三九郎の二人です。P3とは同年ですがこちらは2人だけでの奉納です。
当時の土佐の捕鯨業のことを調べてみると、次のようなことが分かりました。
江戸時代の初めころから津呂(室戸市)などで行なわれていたが、紀州の熊野浦や西国から捕鯨船が集まってくるようになり、地元の捕鯨業は一時衰退した。そこで、津呂浦の郷士多田吉左衛門は紀州に出向き、網取り法という新しい捕鯨技術を学び、津呂組をつくる。冬は椎名(室戸市)と窪浦(土佐清水市)、・春は津呂浦沖での捕鯨を再興した。この津呂組から分かれたのが浮津組で、宮地武右衛門が管理するようになる。そして津呂組も寛政三年(1792)元浦(室戸市)の庄屋奥宮四郎右衛門があとをついだ。

 この石段の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を奉納しています。土佐の捕鯨業に大きな足跡をのこした宮地氏と奥宮氏ゆかりの人たちだと研究者は考えているようです。
  時代は下りますが明治20年の「捕鯨事務日誌」の12月12日の条に
「当津呂村神官本日より琴平神社二於テニ夜三日間漁猟海運ノ祈祷ヲ為ス」
とあり、十五日には
「当日ヨリ足摺山へ日参ヲ始ム、是旧来ノ慣例于ンテ本日ヨリ十五日間水陸夫等更ル々々参詣スト云フ」
とあるように、津呂村の琴平神社と、足摺山の金剛福寺を参詣して、捕鯨祈願をしています。津呂村には琴平神社が勧進されていて、安芸郡室津浦の鯨方商人と思われる阿波屋菊之丞が元文五年(1740)に建てた石碑と、文化十五年(1818)に鯨方網元の奥宮三九郎の寄進した石灯龍11基、それに、文政九年(1826)に安芸郡浮津浦や室津浦の鯨方商人の数人が奉納した手洗い鉢があるようです。
  この安芸郡の鯨方網元の奥宮三九郎は、琴平町の金刀比羅宮に石段を奉納した人物なのでしょう。このようにみてくると、土佐の捕鯨の盛んな浦々にはた金比羅宮が、漁業信仰の対象として建立され大漁祈願のために参詣していたことが分かります。 
 奥宮氏は、この11年後の文政5年に、睦魂神社前の石段も奉納しています。
5 敷石四段坂6

これも金毘羅の旅籠の主人桜屋が取次をしています。また安政二年(1855)には、網取り法による捕鯨の光景がみごとに描かれたの大絵馬も奉納しています。それらの奉納のスタートがこの石段だったようです。

最後に最下段の51段の石段(P-I)の記念石版を見てみます
5 敷石四段坂7

これも土州からで文化九年(1812)三月の奉納です。この上段の翌年と云うことになります。
 奉納者の浦々の羽根浦(室戸市)は鰹船の根拠地、野根浦(安芸郡東洋町)・佐喜浜(室戸市)も漁港で、すでに述べた津呂浦・浮津浦・室津浦・吉良川浦を含め、みな室戸岬周辺の漁浦からの奉納です。土州寄進津呂浦(現室戸岬港)の奉納者の名前は、
 四手井又右衛門
 笹屋善
 堺屋達
 戎屋文
と、漁師町らしい名前が並びます。
4 敷石 羽裏敷石桜の馬場1

 吉良川の松屋紋平は二番目の石段の奉納者銘にも名前があります。また浮津浦の扇子屋・大津屋など同屋号の人々もいます。さらに、土州世話人の蔦屋平左工門は、三番目の石段の世話人でもあります。ここからはこんなストーリが想像できそうです。
「金毘羅さんにお参りして、海の安全をお願いして、ついでに本宮前の石段を奉納してきたぞ」
「おまえらもお願いして、石段を奉納してきたらどうじゃ。海の神様云うけんに効能は抜群じゃ。わしが世話してやるわ」
という話を聞いて、俺たちも遅れを取ってはならじと翌年に奉納しにやってきたというストーリーが描けそうです。
 土州から奉納された石段の当地世話人は、金毘羅内町の宿屋桜屋が全てつとめているようです。桜屋を仲介者として、室戸岬の人々が連絡を取りながらたがいに協力しあって、この四段坂の石段を土佐の鯨取りの手で奉納したのです。
5 敷石 muroto

  以上、四段坂の石段の整備過程をまとめておくと、上から次のようになります
①寛政十年(1798)江戸・京都・奥州・大坂の飛脚問屋奉納
②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たちからの奉納
③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納

    おつきあいいただき、ありがとうございました。

  前回は伊予の松山三津濱と大洲から奉納された玉垣について見てきました。そのなかで、玉垣を奉納した人たちのつながりや職業、経済的な活動が見えてくることが分かりました。
 今回は阿波の人たちの奉納した玉垣と敷石を見ていくことにします
大門を入って五人百姓の傘の間を抜けると桜馬場と呼ばれる真っ直ぐでフラットな参道が広がります。その桜馬場左右の玉垣(T-2・3)は阿波の人たちの奉納玉垣です。

4 玉垣桜馬場211

各親柱には「阿波藍師中」とあります。そして奉納者の名前が続きます。
4桜馬場1

これだけではよく分かりません。最初と最後の親柱に奉納団体や年月日・世話人住所などが刻まれているというのがお約束ですから、一番最後の親柱を見てみましょう。
4 玉垣桜馬場21

  ラストの親柱14には 「阿州穴吹 阿波屋政藏 澤屋伊兵衛」の名前が大きく掘られ、その下に4名の名前があります。これだけでは、この人たちが世話人であるかどうかは分かりません。しかし親柱11から以後は、親柱に地名が「阿川村 船底」「別枝村」「桑村」「穴吹」とあります。 

「阿波藍師中」という団体名からは、藍産業に関係ある人たちであると云うことは推察できますが、それ以上は私には分かりません。少し調べてみると次のような事が分かってきました。
   藍師は、原料となる葉藍から染料の藍玉をつくる製造家のことで、阿波藍師中とは阿波国の藍玉製造家仲間ということになるようです。

 阿波で藍が大規模につくられるようになるのは近世以後で、吉野川の中・下流付近が藍作に適し、藩が特産物として奨励したため急速にひろまっていきます。寛永十二年(1635)には藍方役所が置かれ、宝暦五年(1755)には藩の専売制となります。
 しかし、藍作はひろがりますが実際に利益を上げたのは上方の藍玉問屋だったようです。彼等は藩に運上金を納め、直接藍作人から葉藍を買い集め加工するというシステムで利益を吸い上げていきます。そのため葉藍をつくる阿波の藍作人の生活は向上せず、むしろ専売制により貧しさを助長することになります。
 一八世紀の中頃になると、革新官僚を中心に藩でもこのような現状を憂い、地元に利益が落ちる方策が考えられるようになります。そのために、地元藍師の育成・組織化が進められます。藍玉の取り引きを藍方役所が監督し、徳島市中で行うように改め、大坂商人の藍玉積み出しも禁止します。こうした「地元資本」育成政策は地元藍師の成長をうながし、藩内に利潤が落ちるようになります。阿波の藍師は地元の利をいかし、葉藍から藍玉の製業をするばかりでなく、肥料の前貸しなどにより土地を集め、豪農に成長していきます。そして、彼らのなかには自分の廻船をもち、各地に出かけて商するなど商業資本として活動する者も現れます。
   天保十五年(一八四四)に桜馬場に玉垣を奉納した「阿州藍師中」とは、当時の阿波藍の主導的役割をはたした地元の藍師中のことのようです。この玉垣奉納の4年後の弘化五年(一八四八)藍方役所から命ぜられ、代官所の相談役として苗字帯刀を許された者がでてきます。その中には、この玉垣に名前がある人たちがいるようです。
 名東郡北新居村 久次米兵次郎、
 同郡南新居村  渡辺弥兵衛、
 同郡中村    手塚甚右衛門、
 名西郡高原村  元本平次兵衛、
 同郡桜間村久米 曾左衛門
     (西野嘉右衛門編『阿波藍沿革史』参照)
  この玉垣に名を連ねた人々は、当時の代表的な藍師だったようです。彼らは完成を翌年に控えた金堂完成間近の金毘羅さんに、お参りして玉垣を奉納したのかもしれません。
阿波の人たちの金毘羅さんへの奉納品
 阿渡は讃岐山脈を背中合わせにして金毘羅に近く、金毘羅信仰のさかんな土地でした。そのため奉納品も数多く寄進されています。例えば石燈龍は、安永八年(1779)をはじめとして、十三基奉納されています。その中には、文政三(1820)年、阿波藩主十二代蜂須賀斉昌からのものもあります。石鳥居も、嘉永元年(1848)に吉野川上流の村々から阿波街道に奉納されていることは以前にお話ししました。

4 玉垣桜馬場321

  桜馬場の敷石も阿波の人たちからの奉納で敷かれています
 敷石奉納の奉納石版には、次のように刻まれています(Q-1)
4 敷石桜の馬場1

ここからは最初の奉納が、徳島の敷石講中二百人に及ぶ人々によって奉納さたれことが分かります。これが阿波の敷石奉納のスタートで、文久二年(1862)です。
続いて奉納石版(Q2)です。
4 敷石桜の馬場21

慶応元年(1865)に、井川・白地・辻・池田など徳島県西部の三好郡の敷石講中160人の名前があります。 
これらの村々は三野町芝生、三加茂町加茂、井川町辻・井川、池田町池田・馬路・白地・佐野・脇津・州津・西山・川崎・中西・大利、山城町川口・黒川・国政・大野・小川谷・信正・政友など、吉野川とその支流伊予川に沿った村々です。
 奉納世話役の中心は、池田町の山下国三郎や山城町の米屋儀八・大野辰次・西屋時三郎といった人々で、奉納者に池田町と山城町の人々が多いようです。昨日見た玉垣奉納者よりもさらに西の地域の人々です。
最後は桜馬場詰に近いところでの奉納石版(Q3)です。
4 敷石桜の馬場221

Q2の翌年の慶応二年(1866)に奉納されています。地名を見ると「辻・川崎・祖谷・馬路・山城・山城谷・白地・大利」と、三好郡のさらに奥の方まで伸びているようです。
阿波からの桜馬場への玉垣や敷石の奉納からは、次のような動きが見えてきます
①文政三年(1820)阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848)阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860) 石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862) 阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという流れがうかがえます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、は五年間をかけて完成させています。
 取次は全て、児島屋卯兵衛・源兵衛が務めています。敷石ごとに世話人も異なり、時期も幕末の騒動期で、お山と奉納者のあいだにたって取次に苦労したことが察せられます。
 こうしてみると桜馬場の敷石や玉垣の殆どは、阿波国の人々たちの奉納だったようです。しかも、その地域は先ほど云った吉野川流域に限られています。桜馬場を現在のように歩きやすく、また美しくしたのは阿州の人々の力が大きかったと云えるようです。そして、ここの玉垣の美しさは、石段や敷石ととよく調和した雰囲気を出しています。



  
1

幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 前回は重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居10基の内で、境内にある4基を見て回りました。今回は、残り6基を見ていきます。これらは琴平に集まってくる5本の金毘羅街道の起点に作られたものです。しかし、時の流れの中で最初に建てられた所から移動しているのもあるようです。
 古い順に鳥居を並べてみると、次のようになります  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島 廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
3 高藪町の鳥居

まずは①北神苑(高灯籠公園)の鳥居です。
 この鳥居はもともとは、多度津街道の高藪口に建っていました。写真のように鳥居が建てられると灯籠が並んでいくようになり、多度津からの参拝客を迎える玄関口の役割も果たしていました。
 ところが昭和48年、この鳥居に生コントラックが衝突し一部が壊れてしまいます。そのために安全性を考え、高燈龍の南側正面に移されたようです。移築の背景には、モータリゼーションの普及で狭い旧街道にも車が入ってきて、通行の邪魔になり出したという社会的背景があるようです。道路拡張と共に、旧街道を跨いでいた鳥居は「邪魔者」として取り除かれたり、移築されるようになります。しかし、移築先は高灯籠の正面で一等地です。今では最初からここにいたような顔で、建っています。

3 高藪町の鳥居2
 この鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、約240年前の天明二年(1782)に粟島廻船中によって奉納されています。今ある鳥居の中では最も古いものになるようです。粟島(三豊市詫間町)は庄内(三崎)半島の沖合に、3枚のプロペラの様な形で浮かぶ小島です。ここは塩飽諸島と同じように古くから優れた船乗りのいたところで、江戸時代になり海上運送がさかんになると、廻船の船主、あるいは船乗りとなって活躍し、島に大きな富をもたらします。この鳥居は海上運送で大きな役割をはたした粟島廻船の船主や船乗りたちによって奉納されたようです。
3 鳥居meisyou
 この鳥居の奉納経過を、残された資料から見てみましょう。
建立の前年安永十年(1781)に建立願が次のように出されています。
 乍恐奉願上口上之覚
笠石共惣高 壱丈六尺五寸一 
石ノ鳥井 横中ノ庭サ地際二而内法り壱丈六尺
柱ふとささし渡り 壱丈五寸
右者丸亀御領阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門
御宮山江御立願御座候二付、此度御願申上建申度由御座候、数年私方常宿二而熟懇二仕候、
何卒御願申上呉候様ニト申參候、右願之通被為仰付被下候ハバ難有奉存候、
右之段宜被迎上被存候様卜奉願上候。
  以上
          内町 中嶋屋長七
 安永十年丑四月十六日
          組頭 嘉原治殿
意訳すると
恐れながら次の通り鳥居奉納について願い出ます
笠石も含めて全体の高さは壱丈六尺五寸 
石造の鳥居で 笠石を除くと内法は壱丈六尺
柱の長さは 壱丈五寸
この鳥居を、丸亀藩の阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門が、お宮へ奉納をお願い申し上げます。この旅の奉納願いは数年前より考え、計画してきたことです。何とぞ、お聞き届けいただき、この計画書通りに許可していただければ有難いことです。以上通り、謹んでお願いいたします。
            以上  内町中嶋長七
 阿波嶋(粟島)の庄屋徳右衛門(徳兵衛の間違い)は、鳥居に名前が刻まれている「取次 徳重徳兵衛」のことで、内町中嶋屋長七とあるのが「世話人富所、中嶋屋長七」のことです。つまり、粟島の徳兵衛が金毘羅参拝の際に、定宿としている内町の中嶋屋長七に粟島廻船中が鳥居を奉納する願いをもっていると相談をもちかけ、それを長七が金毘羅当局に聞きとどけてもらえるようにと組頭嘉原治に申し出た文書です。
 しかし、この申し出は一度では聞きとどけられなかったようす。
翌年の天明二年(1882)3月15日に再び同じような書状が長七から嘉原治に出されています。
 なぜ許可が下りなかったのでしょうか。
 それは建立を申請した場所に問題があったからのようです。
「高松様並びに京極御両家其外他國諸侯方より萬御寄附物留記」の天明2年4月朔日の項に次のような記録があります。
高藪町入口江 石鳥居丸亀領粟嶋 庄屋徳右衛門より寄附
 但一之坂上り口江相建中度願出候得共、御神前より一ノ阪迪鳥居之数四ツニ相成不宜候二付及断高藪町入口江取建候事
意訳すると
高藪町入口へ石鳥居が丸亀領粟嶋の庄屋徳右衛門より寄附された。
ただし、最初は一之坂上り口へ建設願い出されたが、ここは神前から一ノ阪までの鳥居の数が四つ目になるため宜しくない。そのためにこの場所に建てることは断り、高藪町入口へ変更した。
一之坂上り口は、内町方面からの参拝道と、伊予土佐方面からの参拝道が出会い、金毘羅五街道すべての道が一つになるところで、最も参拝客で賑わうところです。そのため札場も置かれていました。奉納者の気持としては、より神前に近く、より多くの参拝者の目にふれる所に建てたいと願うのは当然のことです。しかし、金毘羅さんにも思惑があります。この時点では一ノ坂に鳥居をたてるのは「不吉」と判断したようです。結局、一ノ坂上り口ではなく高藪入口に建立するこで許可が下りたようです。

3 高藪町の鳥居3
   ところで、この鳥居の笠の部はバランスを失なっていると研究者は指摘します。その理由は、笠を中央で支える額束が短かすぎるためだと云います。これについては嘉永七年(1854)の11月の金光院当局の書きとめた記録に次のようなものがあります。
新町石島居柱損少し西へ傾き、高藪口石鳥居笠木四寸斗喰違候由申出手常申付候へども及暮笠木等も難出来、今晩は番人附置通行人用心可致、明朝より足いたし飯高藪口ハ外二明地有之候ゆへ鳥居下ハ縄張いたし通不中段夜四ツ時村井為右工門拙宅へ来り申出候事
意訳すると
新町の石島居の柱が損傷し西へ傾き、高藪口の石鳥居も笠木が四寸ほど食い違っていると報告があった。今晩は監視人を付けて通行者に用心するように知らせ、明朝より対応することにした。高藪口は周りに空き地があるので、鳥居の下は縄張して通行禁止にした。夜四ツ時に村井為右工門がやってきて以上の報告を受けた。

  嘉永七年(1854)の大地震は、讃岐にも大きな被害を与えました。前年に底樋工事を行った満濃池も工法ミスから堤防が決壊し、金毘羅の町も多くの橋が流されます。地震の揺れで、この鳥居も笠木が中央部で、四寸(21㎝)喰違ったとあります。このとき笠木をうける額束もいたみ修理を行ったのが、今の姿ようです。今では鳥居の建っていた一帯は家が建ち並んでいますが、その当時は空地がいっぱいあったことも分かります。

  書院下の鳥居       丸亀街道の起点・二本木の金鳥居
3 二本木鳥居

現在、境内の書院下に建つ青銅製の黒く見える大鳥居は、もと丸亀街道が金毘羅領に入ってすぐのところに建っていました。上図の右手に建っている黒い鳥居です。ここには、丸亀街道をはさんだ両脇に一里塚の松と桜の大樹があったところから二本木と呼ばれていました。そのためこの鳥居も二本木の鳥居と呼ばれるようになります。
 丸亀からこの鳥居までは百五十町、今でもここには「百五十町」と書いた町石があります。丸亀から馬や駕寵できた参拝者も、ここからさきは歩いて参拝したと云われます。
 この鳥居は天明七年(1787)、九月に発願され、翌年5月には完成しています。願主は、江戸茅場町の鴻池儀兵衛で、さすがに豪商鴻池一族が中心となっただけに手際もよいものです。

3 金鳥居2
   その間の経過を史料で見ていきましょう。
天明八年正月に、鴻池儀兵衛、世話人鴻池太良兵衛・同栄蔵の連名で、鳥居の各部寸法、および青銅の重量を記したものが提出されています。先ほどの場合もそうでしたが奉納を願うときには、奉納物の寸法も書き添えています。それは、鳥居を建てる用地が問題となるからでしょう。
 「二本木鳥居用地覚書」によると、
 天明八申三月、江戸鴻ノ池儀兵衛抒中田藤助と申仁施主二而二本木下之唐金鳥井寄進有之、則三月廿二日右藤助十人斗大召連到着有之、廿五日尊勝院此方多聞院同道二而二本木下地とこ見分候處、追々尊勝院より藤助へ及相談東西場所田地 禰右衛門持地高屋禰右衛門持地五間四方相調相済書附也
意訳すると
 天明八(1789)申三月、江戸の鴻ノ池儀兵衛が而二本木に唐金(青銅)鳥居を寄進した。
3月22日に 藤助が関係者を連れてやって来た。25日尊勝院と多聞院が同道して、二本木の建設予定地を下見し、具体的な建設地点を確認した。その上で、建設予定地の持ち主である禰右衛門と高屋禰右衛門の同意を取り付け、書類も提出させた。
 こうして、用地も整い二ヶ月後の五月に完成します。高灯籠が姿を現すのは幕末ですので、この鳥居の姿は、ランドマークとして旅人の目を奪い、丸亀街道を通った人の旅日記にも必ず記されるようになります。菱谷平七の旅日記には
道の中に大なるからかねの鳥居あり、江戸の人びとの建てるよし
とあります。金毘羅の町の人たちも親しみを込めて「かねんとりい(金鳥居)」と呼ぶようになりました。
1 金毘羅 高灯籠1

 ところが25年後の文化十一年(1814)10月26日の夜に台風による大風が吹いて、この鳥居は倒れてしまいます。この灯籠はみんなから愛されるものになっていましたから、丸亀と金毘羅の多くの人々のボランテイアなどによって、4年後の冬に再建にとりかかり、文化同十五年の二月二十七日に完成します。
3高灯籠
明治時代の写真
 再建から約80年後の明治三十五年再び倒れるのです。このときは、しばらく倒れたまま放置されたようです。再再建されるのは大正になってからで、大正元年九月に姿を見せます。この時の再建には、大阪四天王寺生まれの十二代朝日山四郎右衛門の寄附や、同じく大阪の鋳縫人の協力によって行われたようです。そして10年後に、二本木から現在の書院下に移されます。

3 金鳥居

 命あるものは死に、形あるものは壊れるのが必定です。出来上がった時には、その立派さから壊れたり朽ちたりすることまで考える人はあまりいません。しかし、半世紀も経つと青銅や石の灯籠でも壊れるのです。それが修理され維持されていくのは、信仰という心で結ばれた人たちの手がさしのべられたからなのかもしれないと思うようになりました。 この鳥居は天明八年に建立されてから現在まで、江戸・大坂・丸亀・金毘羅といった多くの人々の協力で維持されてきたようです。
この鳥居の履歴をまとめておきます。
天明七年 (1787年)丸亀街道、金毘羅町口の二本木に建立
文化11年(1814年)大風により破損倒壊
文化15年(1818年)再建
明治35年(1902年)8月28日、破損取壊し
明治45年(1912年)6月10日、再建起工
明治45年(1921年)10月9日、金刀比羅宮社務所南側に移転建立

  牛屋口の鳥居

3 牛屋口鳥居2

 土佐伊予方面からの参拝者は、伊予川之江から讃岐の豊浜に入り、伊予見峠を越えて佐文(さぶみ)の牛屋口から金毘羅領に入りました。牛屋口は、象頭山のちょうど鼻の部分にあたり、街道最後の峠で金毘羅領への入口でした。ここは、琴平から豊浜方面に抜ける新道が別ルートでできたため、むかしの雰囲気が残る数少ないスポットです。ここの狛犬は個人寄進により川之江の石工によって掘られたもので特徴があります。この狛犬については、以前に紹介しましたの省略して先へ進みます。狛犬の向こうに鳥居が建ち、それに続く道筋の左側は、石垣を築いた上に土佐から奉納された石燈龍が並び建ちます。
 
3 牛屋口鳥居
 さてここの鳥居ですが、寛政六年(1794)の銘があり、この峠に2番目に現れた奉納品のようです。一番早いのは前年に奉納された参拝碑です。それに続いて、石燈龍が明治はじめにかけて次々と奉納され、立ち並んでいくようになります。ここでも奉納品のスタートは鳥居です。
   この牛屋口の鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、予州宇摩郡野田村(愛媛県宇摩郡土居町野田)の績木孫兵衛宗信により奉納されたものです。 績木家は代々庄屋をつとめた名家で、野田村の金毘羅信仰の中心にいた家です。これも個人寄進で左側の柱に奉納者の績木孫兵衛宗信の名前だけが刻まれています。

  学芸参考館前の鳥居   阿波街から移された阿波鳥居
 
3 阿波町鳥居

南神苑(神事場)から新町に至る一帯を阿波町と云います。阿波から金毘羅に来た人々が、まずこの町に入ってきたからこの地名がついたようです。現在、学芸参考館前に建つ鳥居は、もともとは阿波町の人口、南神苑の東側に建っていました。ところが、多度津街道の鳥居と同じで、自動車の時代をむかえ、大型車が通りぬけできないようになります。石鳥居を保存する上でも、通行円滑のためにも移転されることになります。それで昭和三十年代のはじめ解体され、学芸参考館の前方に移されたようです。
 この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の数多くの人たちによって奉納されています
三好郡は阿波国では西端で、金毘羅とは阿讃山脈をはさんで背中合わせの関係にあります。人的・経済的な関係も深かったようです。鳥居の銘文にある講中の村々を見てみましょう。
 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町) 中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)
と吉野川の両岸に分布する村々です。その中心部にあたる昼間村から講元引請人と世話人四人を出しています。この近くには「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があります。箸蔵寺は真言密教系の修験者の寺で、いつの頃からか金毘羅大権現を祀るようになり、周辺に金毘羅信仰を広げていきます。そのため信者たちは、本家の金毘羅さんにも定期的にお参りする人が増えてくることは以前にお話ししました。箸蔵寺は今も金毘羅大権現を祀る寺院ですが、その境内の玉垣には日本に留まらず朝鮮や中国東北部からの信者の寄進が数多く見られます。戦前に至るまで活発な宗教活動が行われたいたことがうかがえます。それが現在の立派な仏教伽藍にも現れているのでしょう。
そのような中で昼間村を中心とした集金マシーンが働き、鳥居の寄進となったのではないかと私は考えています。
  新町の鳥居   高松街道の起点
3 新町の鳥居

 新町の鳥居は、旧高松街道の新町商店街の中に建っています。花崗岩製の明神鳥居で、安政二年(1855)、高松市川部町の武下一郎兵衛によって奉納されたものです。これも個人奉納です。
 一郎兵衛は、中讃から東讃にかけての酒と油の販売権をもっていた人で、盛期には使用人が百人をこえ、掛屋・札差といった金融業など手広く商をしていた商人です。この鳥居が奉納された頃は、彼の事業の最盛期でもあったようです。
 この鳥居には、笠木の裏側に剣先型の彫り込みが見え、不動明王の種子と願文が彫られていると研究者は云います。残念ながら私には確認できません。この彫り込みは建造物の棟札をイメージしたものと研究者は考えているようです。
 しかし、掘られているのが不動さまというところ引っかかってくるものがあります。不動明王は修験者の守神です。奉納者と修験道に何らかの関係があったのではと勘ぐってみたいのですが、いかんせん資料がありません。
 新町には以前から鳥居が建っていました。金毘羅さんへ奉納された鳥居のなかで街道に建てられたものとしては、新町のものが一番古いのではないかと研究者は考えているようです。
 元和七年(1621)に、「新町に鳥居が建った」という最初の簡単な記事があるようです。
 次は寛永十年(1633)でと『古老伝旧記』の中に次のように記されています。
   新町石之華表(鳥居)之事
 寛永十契酉年造立(朱)
「施主当國岸之上村荒川安右衛門」
  惣高さ壱丈八尺弐寸 笠木厚壱尺八寸
  内のり壱丈三尺三寸 笠木長弐丈五尺
  柱廻り目通にて 五尺六寸
  右鳥居は古は木にて有之也

 岸之上村の荒川安右衛門が木の鳥居にかえて石の鳥居を建てたとあります。木の鳥居は元和七年のもので、11年後に石の鳥居に建てられたということでしょう。しかし、この鳥居は嘉永七年(1854)末に火事や地震で倒れ、取除かれてしまったようです。その翌年になって建てられたのが現在の鳥居になるようです。

3 新町鳥居
 元禄時代の「祭礼図屏風」には、前の鳥居が描かれています。その位置は高松街道と丸亀街道が出会う合流点です。つまり今の鳥居より50㍍ほど金毘羅さん寄りに建っていたようです。
 文化年(1804~17)の末頃に書かれた『中国名所図絵』には、この鳥居について
「石鳥居(丸亀街道から)新町を行常り角にあり。右は參詣道、左は高松街道(後略)」
と記されます。
屏風図をもう一度見てみましょう。ここには10月10日の大祭に、お山に上がっていく頭人行列の人々が枯れています。彼らは高松街道(右)をやって来て、金毘羅さん(左)に動いていきます。それを見守る人々の姿も描かれています。注意してみて欲しいのは、白い鳥居の前で高松街道と丸亀街道が合流し、人々が密集していることと、その右手に白い柵(木戸)があることです。ここが金毘羅領と天領の榎井村の境界であったようです。現在の鳥居が建っている位置は、このあたりになるようです。現在地になってからは、丸亀街道をやって来た人たちがこの鳥居の下をくぐることはなくなりました。
   前回も触れましたが、金毘羅さんの石鳥居で現在残っているものは近世後半のものです。近世前半のものはありません。金毘羅さんだけでなく鳥居自体が中世以前のものは少ないようです。ほとんどが近世中期以後と考えてよいと研究者は云います。その理由としては
①石鳥居を造る技術をもつ石工が全国的に少なかった
②鳥居は大きくて重量で運搬も大変であった
こういったことを合せて考えると、寛永十年に高さ5,5㍍と小形ではあっても石鳥居が奉納されていることは誇るべき事なのだと思います。

10 

                                                                                     

C-11
 金毘羅さんには、いくつの鳥居があるの?  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
⑪1915 大正四  白峰神社上    岡山 中村某  
⑫1916 大正五  下向道      大阪 油商仲間他
⑬1918 大正七  白峰神社下    淡路 間浦喜蔵 
⑭1925 大正一四 大宮橋詰     愛知 金明講    
⑮1933 昭和八  桜馬場詰     東京 前田栄次郎  
⑯1955 昭和三四 奥社下    福岡県戸畑市山田宇太郎・同鈴子
⑰1974 昭和四九 桜馬場入口    愛媛県波方町 斎宮源四郎他 
⑱1982 昭和五七 奥社     香川県坂出 田中義勝・妻(ナエ)
現在ある鳥居がいつ、誰によって奉納されたかがこの表からは分かります。境内と旧町内のものだけだと18基が数えられるようです。しかし、これらの鳥居がはじめて、そこに建てられたことを意味するものではありません。以前あったものに代わって建て替えられたことも考えられます。

C-12-2
 ①~④の一番古い4基のグループが建てられたのは18世紀末で、それぞれの金毘羅街道の起点に建てられています。
①は多度津街道の起点の高藪町に、粟島の廻船衆が奉納
②は、丸亀街道の起点(現高灯籠)に江戸の豪商が奉納。
③は、伊予土佐街道の金毘羅領の入口に故人が奉納
④は、本社から奥社への参拝道の始点に三野郡の庄屋が。
この時期には、個人や少数者で奉納していて「講」による団体奉納はないようです。その後、何故か半世紀ほどの空白期間があります。第2期の鳥居建立は、幕末期になります。
⑤は阿波街道の起点に、阿波の人たちが奉納。
⑥は高松街道の起点に、高松の豪商が個人で奉納
⑦は、伊予土佐街道の起点に、伊予講中が団体で奉納。
奉納された8基の鳥居の建てられた位置を見てみると、仁王門(現大門)より内側のものはないようです。しかし、内側に鳥居がなかった訳ではありません。絵図などには、いくつかの鳥居が内にも描かれています。それらは石造ではなかったのかもしれません。
②明神鳥居

 明治になって、奉納によって石造の鳥居が大門の内側に建てられるのは、次の順番です
⑧賢木門外側 → ⑨四段坂御本宮前 → ⑩闇峠
と、かつての金堂(現旭社)から本社への間に、3つの鳥居が明治大正に建ちます。そういう意味では、思っていたよりも現在の鳥居が姿を現すのは新しいようです。
 
金毘羅さんで重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居は、上から数えて10番目までです。それが何で出来ているかで分類すると
石造製7
青銅製2
鉄製 1
立地場所で分類すると
1 境内 五
  書院下・賢木門前・闇峠・四段坂 奥社道入口 
  神苑2(学芸館前・北神苑)
2 街道  高松街道・土佐伊予街道・札ノ前
しかし、このうち次の三基は事情があって今の場所へ他から移転したものです。
①境内書院下の鳥居は丸亀街道から移転、
②神苑学芸館前の鳥居は阿波街道から移転、
③北神苑の高灯籠正面の鳥居は多度津街道から移転
この3つと旧位置に戻してみると、
 境内 4  街道 6
となり、金毘羅五街道の各街道口には、どこも鳥居が建っていたことになります。

  まず、指定されている境内にある4つを参道の下の方から順番に見ていくことにしましょう。
⑧賢木門(二天門)前の鳥居  明治になって松山の講中より奉納
 
2.金毘羅大権現 象頭山山上3

神仏分離以前の金毘羅の姿です。幕末に二万両をかけて完成した金堂を中心に多宝塔や諸堂が立ち並ぶ仏教伽藍世界があったことがよく分かります。神道的な空間は本社と三十番社の周りだけです。

 金堂(旭社)まで登ってくると、ここで参道は二つに別れます。
御本宮への登り道と、参拝を終え三穂津姫社をめぐって下る下向道です。
3 賢木門鳥居

⑧の鳥居は登り道の入口に建つ賢木(さかき)門の前にあります。青銅製の明神鳥居で、柱の銘文から伊予松山の松齢講が、慶応三年(1867)九月に奉納したものであることが分かります。
   この鳥居のすぐ左側に切り石の台座を据えた青銅製の角柱碑が建っています。
正面には大きく
「麻鐘華表(鳥居) 伊予国松山松齢構中」
とあり、この碑が鳥居と共に奉納されたもののようです。他の三面には講員の人名と奉納の経過、和歌などがぎっしりと刻まれています この碑文からは、次のような事が分かります。
①万延元年(1860)に青銅製の鳥居を奉納したが、鋳造がうまく出来てなかったのか自然に折れて壊れてしまった。
②慶応二年(1866)九月、再び青銅製鳥居の再建が発起され、明治四年十二月に落成
③明治十六年三月中旬にめでたく上棟式が行なわれた。
鳥居の慶応三年九月の紀年銘は、完成した年ではなく、再建発起した年のようです。
 この位置には、古い時代から鳥居が建っていたようです
1 金毘羅 伽藍図1
 境内変遷図を見ると、金光院から本宮までの参道は、かつては真直ぐに登っていたようです。それが金毘羅信仰の隆盛で人々で賑わい出すと諸堂がいくつも新しく建てられ、元禄頃に参道が延長され、登り道とは別に下向道も造られます。この鳥居は、参拝道と下向道を一目でわからせる意味もあって、はやくから建てられていたようです。
 現在の鳥居は高さが二四尺(約七・ニ㍍)と巨大で、加えて青銅製です。建設資金は相当かかったと思います。そのために「松齢講」という講が組織されます。講元は松山萱町二丁目の和泉屋蔵之助、発起人も同じ松山の三津ケ浜の三和屋常助です。講の構成を見ると、
①個人参加が933名、
②生串村中・三町村中といった村の有志からの寄進
③第一・第二金刀比羅丸・下怒和丸と船名があるので、船員からの寄進
④網方中といった漁師の奉納
 多くの人たちからの寄進を集めています。いわゆる「勧進」方式です。そのため発起から落成まで六年がかかっています。この鳥居を奉納するには、それだけ多くの人々の協力が必要だったということなのでしょう。
 講員は、現在の松山市を中心に中予全域に広がっていますが次のような特徴がうかがえます
①上浮穴郡久方町といった山間部では少ない。
②講元の和泉屋蔵之助か松山萱町二丁目で、発起人の三和屋常助も松山三津ヶ浜と、海沿いであることが影響している
③安居島・興居島・恕和島といった島嶼部や海岸線の村々に分布が濃く、仁社丸勝五郎・長久丸元吉といった船主の名前が見られ、金毘羅さんに海上安全などを願って寄附した人が多かった
 松山の豊かな経済力をもつ商人層と周辺の信者の合力で、奉納された鳥居といえるようです。
 闇峠の石鳥居    明治四十三年五月京都の錦講中から奉納
 賢木門を入ってすぐ右側の遥拝所から、手水舎をすぎてすぐのところにかかる連理橋までの間を闇峠と呼ぶようです。この間は、常緑樹が欝蒼と繁り、真夏の太陽の下でもなお薄暗い。そんなところから闇峠と名付けられたといいます。その手水舎の手前に鳥居が建っています。
3 闇峠鳥居
 闇峠の鳥居は花岡岩製の神明鳥居です。金毘羅さんに建つ鳥居は、神明が明神鳥居かのどちらかです。多いのは明神鳥居で、神明鳥居は、明治以後奉納された三つだけです。神明鳥居は伊勢神宮に代表される鳥居なので、明治以後国家神道の影響をうけて、奉納されるようになったようです。
 この鳥居は柱の銘文に、明治43年5月に京都の錦講中から奉納されたことが記されています。錦は京都市中京区の錦小路に面し、古くから生鮮・加工食料品店が建ち並ぶ「京都市民の台所」として有名な町です。奉納者として名前が記されている45人も、錦町の店主たちなのでしょう。
 錦からの奉納は、これがはじめてではないようです。この鳥居の奉納よりも80年ほど前の天保五年(1834))に、錦の魚立店の講中から燈船が一対奉納されています。賢木門前に並ぶ青銅製の燈船のひとつです。錦の人々のあいだでは、金毘羅信仰がつづいていたようです。

2
  四段坂の鳥居                      37P
 闇峠を抜けると、御本宮を正面にあおぎ見る最後の石段が待っています。4つに別れているので四段坂と呼ばれます。この階段の途中、事知神社前に鳥居が建ちます。ここからは本宮まで、あと数十段の石段をのこすのみです。

3 四段坂鳥居
 この鳥居は花崗岩製の神明鳥居で、明治11年4月、丸亀の浜町に住む平野屋利助と津怜によって奉納されています。 鳥居は奉納物としては規模も大きく費用もかさみます。そのため個人での奉納は少なく、講中や仲間といった団体での奉納が普通です。先ほど見た賢木門前の青銅鳥居の伊予講中などがその代表例です。そんな中でこの四段坂の鳥居は、小さいとはいえ、個人の奉納です。

3 四段坂鳥居2
どんな人が奉納したのか興味がわいてきます
 奉納した平野屋利助は石工だったようです。金刀比羅宮の大門の前に、この鳥居と同じ明治11年12月に富山の売薬人中が奉納した石燈龍が建っています。花崗岩製で、笠の四面の軒先に破風をつくり出すなど、精巧な造りで職人芸を感じます。この石燈龍の銘に「石工平野屋利助」とあります。利助は腕のいい石工だったようです。
 ただの石工ではないようです。天保のころ(1830~48)の丸亀の町のことを描いた『丸亀繁昌記』のなかに、彼の店が次のように登場します。
 商売の元手堅むる礎には石屋のきも連りて 神社の玉垣、石灯龍、鳥居の出来合、望次第。施主の名をほる石盤に阿吽の高麗狗のき端を守る。石凛然と積上たり
 彼の店は、本にも取りあげられるほどの大きな石屋だったようです。鳥居を個人で奉納したのは、それまでの感謝や信心もありますが、利助自身が腕の良い職人として手広く商売を行っていたという経済力を抜きにしては考えられません。
 また、ここにはそれ以前から鳥居があったようです。享保ころの絵図には、四段坂に鳥居が描かれています。御本宮の前ということではやくから建てられたようです。

  奥社道入口の鳥居                   
 讃岐平野と瀬戸内海の眺望を後に、奥社への参道入口で迎えてくれるのがこの鳥居です。

3 奥社参道入口鳥居
花崗岩製の明神鳥居で、寛政六年(1794)仲秋(旧八月)に奉納されています。願主は三野郡(現三豊市)の次の4人の庄屋です。
羽方村(三豊郡高瀬町羽方)の森在久、
松崎村(同郡詫間町松崎)の白井胤林、
上勝間村(同郡高瀬町上勝間)の安藤清次、
大野村 (同郡山本町大野)の小野嘉明
3 奥社参道入口鳥居.2jpg

金毘羅が鎮座する象頭山の西側の三豊の村々です。これらの村の中には、象頭山や大麻山の西側に入会権を持ち芝木や下草刈りによく登ってきていたようです。近世初頭までは、大麻山の頂上稜線一体は、牛や馬の牧場であったことが資料からは分かります。本社から奥社への道は、修験者の通う修行の道であると同時に、農民たちにとっては下草刈りなどの生活の道だったと私は思っています。

以上、金毘羅さんの重要有形民俗文化財に指定されている10の鳥居の中で、境内に建てられた4つを見て回りました。感じるのは、案外新しいものだということです。今ある鳥居は、全て18世紀末になって姿を現したというのが以外のようにも感じます。
 金毘羅さん=古くからの神社という先入観に囚われすぎているのかもしれません。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  印南敏秀  鳥居 
         「金毘羅庶民信仰資料集NO2」

1 金毘羅 伽藍図2

前回に続いて金毘羅さんの狛犬を見て歩記(あるき) します。
訪れるのは「金毘羅庶民信仰資料集2」に紹介されているように古い順なので、場所が前後しますが悪しからず。よろしけらばおつきあいください。

 大門前の狛犬  河内国全域の村々から享和元年(1801)に奉納
 こんぴらさんへ交通安全のお守りを買いに②金刀比羅宮の表参道 | 土佐 ...
石段を登って行くと両側のお土産店の上に大きな建物が見えてきます。その前には下乗の木札が建ちます。これが大門で、かつての仁王門です。しかし、神仏分離で仁王様は撤去され焼かれてしまい、大門と名前が変わりました。今は参道をはさみ狛犬が向かいあっています。
1 金毘羅 大門狛犬11
 
右側(阿)
〈基壇一段〉
正面 大坂谷町二丁目
   世話人
   亀屋善兵衛
〈基壇二段〉
正面 堂島涜二丁目
   大塚屋宗八
   舟橋村松永氏
   鴻池新田
   箕輪村弥三兵衛
   同村 弥三右工門
   八尾座村塚口源七
   川辺村源右工門
   河湯油方
右面 河州
右面 長田村源三右ヱ門
   同村市兵衛
   稲 田 村
   高井田村
   上若江村善左ヱ門
   下若江村彦兵衛
   小坂合村
   菱屋新田
   三島新田
   萱 振 村
   御 厨 村
   稲葉村善助
左面 享和元辛酉十月吉日
左面 川辺村田中氏
   水本村元右ヱ門
   毛人谷村茂八
   箕南備幸右ヱ門
   南別井村
   北別井村
   山 城 村
   伯 原 村
   市村新田七良兵衛
   二俣新田
   安中新田右ヱ門
   中山村甚右ヱ門
裏面 木戸村徳兵衛
   松原村半左ヱ門
   岩 室 村
   今 熊 村
   円 明 村
   太田村七良左ヱ門
   長田村妻右ヱ門
   近江堂村
この狛犬は、高さ三尺余と大門前におかれる狛犬にしては少し小ぶりな印象です。しかし、形は小さくとも基壇に「河州」と大きく二文字が彫り込まれています。河州とは河内国のことで、河内国全域の広い範囲の村々の名前が基壇には見えます。これらの村々から享和元年(1801)に奉納されたもののようです。
 銘文中に「菱屋新田」「三島新田」「鴻池新田」というのが見えます。これは、元禄17年(1704))に行なわれた大和川つけかえ工事の後の旧大和川筋や、深野池・新開池を埋め立てて出来た新しい村だそうです。中でも宝永四年(1707))に大坂の豪商鴻池善右衛門によって開発された鴻池新田は200町歩(約二平方キロメートル)におよぶ広大なものでした。このような新田開発で開かれた耕地には、稲作が行われるのではなく、綿花が栽培され有名な河内木綿の産地になります。
 北前船が運んでくるニシン粕などの金肥を使えば使うほど、良い綿花が大量に出来たと云います。ニシン粕などの金肥なしでは、綿花栽培はなかったのです。讃岐のサトウキビ栽培と同じように、北前船への依存度が高かったようです。東讃の砂糖産業に関わる農民たちが高灯籠を寄進するように、河内の木綿産業に関わる人たちにも金毘羅信仰が広がっていたことがうかがえます。
2

 正面基壇の一番最後にある「河州油方」とあるのは、灯油用の油を商った人々のことだそうです。
北河内地方は、米の裏作として菜種の栽培もさかんで、菜種から絞りとっだ種油は灯油用として大坂に集められ、多くは江戸への「下り物」となっていたようです。このように河内地方の村々は「天下の台所」の大坂に近く、はやくから大坂と結びついて、農村とはいっても貨幣経済が浸透していました。この狛犬の世話人大坂谷町二丁目の亀屋喜兵衛がどういった人かは分からないようです。しかし、大坂の町場だけでなく河内の村々から寄附を集めているのは、新田開発などで潤う村々の経済的な発展があったことがうかがえます。
 なお、この狛犬には頭に角がなく、獅子です。大門は神仏分離以前は、松尾寺の仁王門で仁王像が立っていました。寺社であったので、その前に狛犬でなく獅子が置かれたのでしょう。
1 金毘羅 真須賀神社1

                      真須賀神社の狛犬 
 真須賀神社は、賢木門をくぐってまっすぐに進んだ突き当たりにある摂社です。もともとは神仏分離以前には、ここには不動明王を本尊とする本地堂が建っていました。したがって、この狛犬もどこかからここへ移動してきたようです。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12

右側(吽)          
 正面 紀州   壽永講   若山(和歌山)   
右面 願主
    日高屋平左衛門
   元掛世話人
    有田屋文右衛門
   世話人
    粟村屋禰兵衛
    駿河屋荘兵衛
    船所村新九郎
    桶屋助五郎
    有本村徳三郎
    田中屋楠右ヱ門
    山東屋傅蔵
    雑賀屋清蔵
裏面 南紀和歌山住
    石工 辻 林蔵
〈基壇二段〉
裏面 富所取次 備前屋幸八
この狛犬は右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽で頭上に角があります。獅子と狛犬で一対をなす一般によく見られる狛犬のペアです。奉納は「紀州若山(和歌山)」の「壽永講」で、文化七年(1810)に奉納されています。
 石質は大門前の狛犬と同じ砂岩です。大阪府と和歌山県の境には、和泉山脈が東西に横たわり、中世以来、ここから和泉砂岩の良質の石材が切り出されてきたようです。そのため和泉地方には、石工も多くいました。この狛犬の作者、石工辻林蔵のいた和歌山市の石工については、よく分かりません。しかし、和泉地方の石工と交流があったようで、先ほど見た大門前の狛犬と真須賀社の狛犬は全体のプロポーションや前後の肢の表現がよく似ていると研究者は考えているようです。
1 金毘羅 賢木門狛犬1
  賢木門前の狛犬 
   この狛犬は、賢木門前の石段の左右に向かいあっています。
1 金毘羅 賢木門狛犬21

 基壇2段目の正面に発起人の名古屋の藤屋松兵衛・同瀬戸物方と飛騨高山の井筒屋源左工門があります。そして3、4段目には、「尾州名古屋」を中心に、「大坂」「信州飯田」(長野県飯田市)「濃州高山」「江州」「東部」「東都」と非常に広い範囲の人々からの奉納です。どうやってこれらの人々からの寄進を集めたのか、その人的なネットワークに興味がわきますが資料はありません。
 「明治三年十月吉日」とありますから、神仏分離直後の十月十日の大祭にあわせて奉納されたようです。この狛犬は、この賢木門くぐった先にある前回紹介した遥拝所の狛犬と非常によく似ていると研究者は指摘します。遙拝所の狛犬は、天明元年(1781)に松江惣講中から奉納されています。こちらは明治3年ですから約110年後のものになります。狛犬の高さは、この狛犬のほうが五寸程大きいようです。しかし、全体のプロポーション、なかでも特徴あるたてがみや尾の毛束の手法、狛犬をのせる円形の台座や牡丹の彫り物などは共通します。さらに石質も共に凝灰岩製ですが、賢木門前の狛犬のほうが若干簡略化されているようです。110年前に奉納された狛犬をモデルに、江州で作られたのかもしれません。
  この賢木門前の狛犬の基壇には「石工久太良」とあります。
久太良(久太郎)は地元琴平の石工で、幕末から明治にかけて金毘羅さんに奉納された石造物を数多く手がけた名工です。しかし、ここでも久太郎が関わったのは台石だけで、狛犬は完成品が持ち込まれています。硬質の花崗岩と軟質の凝灰岩では、彫る技術も、道具も異なるようです。久太郎のつくった石造の奉納物はみな花崗岩製です。独特の様式および石質の類似性から考え、賢木門前の狛犬も、雲州地方から完成品を運んできたと研究者は考えているようです。
 この狛犬のように基壇だけを地元の石工がつくる例は、青銅製の燈龍や狛犬、あるいは一部の石造の狛犬に見られます。その方が運送の手間を省くことが出来ます。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬g

                        三穂津姫社の青銅製狛犬
 三穂津姫社の社前にの青銅製の狛犬です。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬21g

 右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽であるが頭上に角は見えません。全体に細身で、それがかえって精悍な印象をあたえています。製作は青銅器具の製造で全国に知られる富山県高岡市の竹中製作所です。青銅製の台座の銘文には、愛知金明講が昭和四十八年十月に参拝百年を記念して奉納したことが刻まれています。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬1g

 愛知金明講は、幕末、今の愛知県西春日井郡西枇杷島町に住む佐藤定蔵が、目の病いに罹り金毘羅さんに祈願したところ、お蔭があって全快します。それで金毘羅さんへの信仰を深めると同時に、周囲の人々にも勧めて金明講をつくったのがはじまりで、六代定蔵さんまで金明講の講元は代々佐藤家がつとめたようです。
 西枇杷島町は濃尾平野のほぼ中ほどで、名古屋市に隣接するという地の利もあって金毘羅講は急速に発展し、大正のはじめ頃の三代目定蔵が講元のとき「愛知金明講」「名古屋金明講」「乙金明講」に発展分化したようです。金明講は団体参拝をするので、講員が多くなりすぎると参拝が難しくなるようです。適度の人数というのがあるようです。
 講元として名前が彫られている定蔵は、初代定蔵から六代目、講元としては五代目になるようです。
彼が講元を勤めた戦前は300人、昭和30年には専用列車で500人の参拝者を出したといいます。しかも、昭和39年までは現在のように十月十日の大祭だけでなく、三月十一日の春祭にも参拝していたようです。もっとも参拝者は全員が講員というわけでなく、希望者があれば自由に参加することができるシステムだったようです。そのため毎年参拝をくりかえす講員よりも、何年かに一度、講の参拝に加わる人が多かったと云います。こうした参拝者の構成は、狛犬奉納者についても同じことがいえるようです。
 銘文には、発起人9人、世話人22人、功労者21人と、会社名などを含め451人の奉納者名があります。発起人は世話人と同じく、狛犬奉納に関して寄附を集めるなど実務的な世話をした人々で、高額寄附し奉納推進に大きな功績をはたした人々です。また、功労者はかつての世話人たちで高齢者が多いようです。彼らの師弟が発起人となっている人もいます。
 私は寄附したのは、ここに名前の刻まれている人たちだけだと思っていました。ところがそうではないようです。銘文を彫る場所の都合で彫られなかった人々が、数多くいるのです。そのために、狛犬の台座のなかには寄附者全員の名を書いたものが納められているそうです。その数は約800人といいます。こうしたなかには、奉納の呼びかけで講員ではないけれども、参拝に参加した人などが寄附をしたようです。 愛知金明講は、代々の講元、および世話人といった人々の努力によって維持されてきたようです。
 愛知金明講からの奉納は、この狛犬に限らないようです。琴電琴平駅前の大宮橋詰の高さ15㍍のの大鳥居は、参拝50年の記念に建てられたもので金刀比羅宮に奉納された鳥居としては最大のものです。こうした奉納が行われたのは、遠い愛知県に金毘羅信仰が根付いていたからこそでしょう。

1 金毘羅 高灯籠1
              高灯籠の丸亀街道の狛犬                       
 高燈龍のすぐ東側、丸亀街道の旧金毘羅領入口にいる狛犬です。
もともと、ここは丸亀から4里の位置で、一里塚の大松が参拝客を迎えた場所です。丸亀街道をやって来た人たちにとっては金毘羅の町の入口でもありました。そのためここには、天明八年(1788)に奉納された青銅製の「金鳥居」が建てられました。この金鳥居は名物となり、金毘羅の町を描いた一枚刷りの絵図にも、良く描かれています。幕末には、ここに高灯籠が姿を見せ、一里塚の大松や金灯籠とともに描かれるようになります。
1 金毘羅 高灯籠1

 「泉州堺」(大阪府堺市)の富貴講による奉納で、篭屋伊兵衛と池宮九兵衛が講元です。篭屋内中・米荷廻船中・南薪中買仲・柳力世話中など、名前を見ているだけでもさまざまなな職種の人々が参加していることが分かります。総数は122名だそうです。
 この狛犬は寛政七年(1795)の奉納ですから黒い金鳥居ができて7年後に、寄進されたようです。以後、この狛犬を起点にして街道沿いには富士見町にいたるまで灯籠が並んでいくことになります。その灯籠建立のスタートを告げる狛犬です。しかし、この付近の灯籠は、砂岩が使われているので欠損がめだちます。


  JR琴平駅前の狛犬     多度津街道の入口にあったもの
文化・文政の頃河内楠葉栄講の奉納した狛犬(阿)
1 金毘羅 JR駅前狛犬1

 右側(阿)
 〈基壇一段〉 右面 河州楠葉さかへ講
 〈基壇二段〉
  右面 中村屋半左ヱ門
  左面 取次新町  大工荘右ヱ門
     大坂取次  多田屋新右ヱ門
     丸亀船宿  大和屋傅次郎
     石工    丸亀  中村屋半左ヱ門
 この狛犬は、もともとは多度津街道の金毘羅入口にいましたが、今はJR琴平駅前広場に移されています。狛犬は砂岩、基壇は花崗岩です。 
1 JR琴平駅前狛犬

「河州楠葉」の「さかえ(栄)講」からの奉納です。楠葉は京都との県境に近い淀川沿いの村で、今は大阪府枚方市になるようです。石工は丸亀の中村屋半左ヱ門ですが、紀年銘がありません。取次の大坂船宿多田屋新右工門と丸亀船宿大和屋傅次郎の二人は、金毘羅山内に奉納された石燈に取次として共に名前を連ねていますので、だいたい19世紀前半の文化年間の奉納と考えられます。

1 金毘羅 備前焼狛犬1
  備前焼の一ノ坂口の狛犬               
 一ノ坂の登り口(札ノ前)のもと鉄製の鳥居が建っていたすぐ後脇に据えられている狛犬です。 右が阿、左が吽で頭上に角をはやした通例の狛犬です。高さが約五尺の大きなものですが、通常と違うのは備前焼で作られていることです。奉納は備前岡山の「長柴講」で、紺屋町講中・久山町講中他、69名の名前が見られます、天保十五年(1844)に奉納されたものですが、基壇には天保十三年(1842)の紀年銘があるので、基壇が先に出来ていたようです。
 備前焼は、岡山県備前市伊部を中心に古くからつづいた焼物で、壷を中心にさまざまなものがつくられてきました。備前焼の狛犬もその一つで近世、岡山を中心に数多く残されているようです。この狛犬は、伊部の木村長十郎他六人の細工人によってつくられたようです。彼らは木村一族の人々で、長十郎は金毘羅の他、岡山市の高松稲荷の狛犬にも細工人として名前が残っているようです。
1 金毘羅 備前焼狛犬1
   右側(阿) 
    〈狛犬の左腹部刻名〉    正面
     備前國
      伊部村御細工人
       木村長十郎友直
       同新七郎貞泰
       同儀三郎貞幹
     天保十五年
       辰三月吉旦   作
 
  牛屋口に建つ寛政六年(一七九四)の石鳥居の前の砂岩の狛犬
1 金毘羅 牛屋口狛犬1

「西條新居郡多喜潰」(愛媛県新居浜市多喜浜)の岡本政治郎が個人で、弘化二年(1845)に奉納しています。基壇部に石工銘があり、愛媛県川之江市の泉屋清兵衛と分かります。猫足を形どった二脚の基壇は、ユーモラスで独特な感じがします。
1 金毘羅 牛屋口狛犬12
以上、金毘羅さんの狛犬めぐりでした。おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 参考文献 印南 敏秀  狛犬 
              「金毘羅大権現信仰資料集NO2」

  今回は「金毘羅大権現信仰資料集NO2(以下略:資料集)」を片手に、境内の狛犬たちを見て回ろうと思います。文化財指定をうけた狛犬は全部で13対です。
出かける前に狛犬についての「予習」をしておきましょう
 邪悪なものが神域を入らないように、社殿の前や参道の入口に据えられたのが狛犬です。狛犬は獅子とも呼ばれ、いまでは「混同」して「同一視」されています。しかし、違いを確認しておくと同じく守護獣ではありますが、次の違いがあります。
①狛犬は頭上に角をはやし、
②獅子は角を生やさない
 神社の狛犬を見ると、頭上に角を生やした狛犬と、角を生やさない獅子を一対として据えてあることが多いようです。そのため、今では狛犬と呼んでも獅子と呼んでもあやまりとはいえなくなっています。
寺院は仁王様、神社は狛犬が守護神
 狛犬は、平安時代に神像がつくられるようになり、神像の守護獣として作られるようになります。仏教では、獅子は釈尊の足もとにいて守護獣のライオンを形どったもので、日本でも奈良時代に寺院の門に安置されるようになります。やがて、獅子のなかで角を生したものが狛犬といわれるようになりペアで宮中の御帳の前に守護獣としておかれるようになります。これが神社では、神像の前に据えられるようになります。そして「狛犬は神社、仁王は寺院の守護神」といわれるようになったとされます。しかし、神仏混淆の時代には、狛犬と仁王様が一緒に祀られることが多かったようです。金毘羅さんもそうでした。
1 金毘羅 伽藍図2

 金毘羅さんでも明治以前には、別当の金光院、その配下の五ヶ院(寺中)があり、数多くの仏教伽藍が立ち並んでいました。境内の入口には二王門(現在の大門)が建ち、仁王像が祀られていました。しかし、神仏分離で二王門は大門と名をあらため、仁王像は明治五年境内の裏谷で焼かれます。そして守護獣としての狛犬だけが残ったのです。
  金毘羅さんにの狛犬を、奉納年代の古い順に表にしたものです。
  
1 金毘羅 狛犬表
       「金毘羅大権現信仰資料集NO2」
この表にしたがって、古い順に金毘羅の狛犬を見ていきましょう
1 四段坂の狛犬
1 金毘羅 狛犬13表

四段坂というのは本堂へに続く、最後の階段で、4段に分かれていますのでこの名が付けられています。御本宮を仰ぐ石段道の左右に狛犬がいます。「資料集」は、この狛犬について次のように記します

1 金毘羅 狛犬11
四隅に隅入の装飾をほどこした花圈岩製の基壇(石工は丸亀の中村屋利左工門)があり、その上に青銅製の狛犬(鋳物師は大坂の長谷川久左衛門)がのっている。右側は口を開いた阿の獅子、左側は頭上に角を生やし口を閉じた吽の狛犬で、共に体は参道に対して直角に向くが、顔は下から登る参拝者の方にむけられている。邪心のある者を威嚇しているのかもしれません。たてがみや尾の毛束をのぞけば、むしろ動きのない狛犬である。しかし、しっかりと踏みしめられた前肢やひきしまった体からは、邪悪をはね返そうとする強い意志のようなものが感じられ、洗練された優品である。

1 金毘羅 狛犬1
四段坂御本宮前の狛犬 宝暦七年大坂の萬人講の奉納した青銅狛犬(阿)
狛犬―青銅製
右側(阿)
〈狛犬の〉 鋳物師 大坂住 長谷川久左衛門作

〈基壇二段〉
正面 萬人講
右面 講元大坂大川町 多田屋新右衛門
   丸亀石工    中村屋判左ヱ門
  金毘羅船の創始者多田屋が奉納した狛犬
基壇に「萬人講」と大きく刻まれています。この狛犬は宝暦七年(1757)に、人講によって奉納されたことが分かります。これは「この指止まれ」方式で「心願」ある人たちが社寺に奉納するため、不特定多数の人たちにひろく寄附者つのるためにつくられた講です。村や町を単位とした地縁、あるいは問屋中、魚買中といった商人仲間がつくったような特定の地縁や社縁の人たちがつくった講ではありません。
この萬人講の講元の名前が「大坂大川町の多田屋新右衛門」と見えます。 多田屋新右衛明は延享元年(1744)ころ、金毘羅さんの許しを得て、金毘羅参拝専用船を最初に運航した大坂の船宿の主人です。波隠やかな瀬戸内海の船旅は比較的安全で、早ければ3日ほどで丸亀に着くことが出来きました。これは山陽道を歩くよりも速いし、歩かなくても船が丸亀まで運んでくれます。船に乗るという経験が少なかった当時の人たちにとって、「瀬戸内海クルージング船」でもあったのではないかと私は考えています。「速くて安くて、便利でクルージング気分も楽しめる」と云うことで、金毘羅船の人気は急速に高まり、多田屋は繁盛したようです。
 この狛犬が建立されたのは金毘羅船が許可されて10年余り経って
多田屋が繁盛し始めた頃です。商売の増々の繁盛と、商売を許されていることへの御礼の意味も込めて、自分が講元となって萬人講をつくり、乗客や泊客などを含めひろく同志をつのって奉納したのでしょう。
 しかし残念ながら、名前が刻まれているのは講元だけで、萬人講のメンバーの名前はありません。どれだけの人数が、この狛犬奉納に加わったかは分かりません。
 多田屋はこの他にも、多度津街道の狛犬や境内の石燈箭に取次として名が残ります。金毘羅大権現とは馴染みの関係であったので、奉納者と金毘羅さんの間にたって仲介の労もとっていたようです。
 この狛犬を最初に見たときに基壇に「丸亀石工 中村屋判左ヱ門」とあるので、大坂から丸亀の石工に発注して作られたものだと早合点していました。しかし、よく見ると本体は青銅製です。どういうことなんだろうと不思議に思っていました。その不思議を解決してくれたのが「金毘羅大権現信仰資料集」です。力強い「工具」です。制作者の名前は狛犬の尻尾に刻まれていることも、この本から教わりました。

②睦魂神社前 明和二年江戸の駿河屋奉納の狛犬(阿)
 狛犬・台座-青銅製 基壇-花崗岩製

 睦魂神社の前に建つ石鳥居の背後に、いる頭を下げ尾を高く上げた狛犬です。
金刀比羅宮(ことひらぐう)の睦魂神社をご参拝 | 今日どんな本をよみ ...

「資料集」には次のように記されています
1 金毘羅1 狛犬11

 狛犬の乗る台は、下の二段の基壇が花南岩製、上端の台座が青銅製である。上端の二面は枠どりされて、なかに牡丹の花と蕾の彫りものがる。この狛犬は右が阿、左が吽だがが、吽の頭上には角がなく、左右とも獅子である。共に前肢を折って低くかまえ、今にも飛びかかろうとする一瞬の姿をとらえ動きのある像である。しかし、たてがみや尾の毛束などにも見られるように装飾性が強過ぎ、それだけに力強さを欠くものとなっている。

台座に刻まれた文字から、
  奉納者は江戸本八丁堀四丁目(現中央区八丁堀)の駿河屋川口勝五郎で、明和(1765)に奉納されていることが分かります。江戸から奉納された最初のものになるようです。鋳物師も江戸神田住の西村政時で、飾装性が強いのは華やかさを好む江戸でつくられたからかもしれません。
金刀比羅宮(琴平町) | たんぽぽろぐ

 この狛犬は睦魂神社の前に座っています。
ここには明治以前には三十番神社が祀られていました。金毘羅堂が建設される前の松尾寺の守護神とも云われます。金毘羅金光院は、この神社と権力闘争を繰り返しながら象頭山のお山の大将に成長していきます。三十番神は法華経守護の神として祀られるようになった神で、天台仏教との関りが強かったようです。しかし、三十番社は仏教色の強さ故に、明治の神仏分離の際に、廃されます。代わって、修験者で金光院初代宥盛が祀られ、その後に大国魂神・大国主神を合祀した睦魂神社(境内末社)が、ここには建立されました。祀る神は代わっても、その前の狛犬はそのまま残ったようです。

                         ③ 桜馬場入口の狛犬
1 金毘羅 狛犬22表

 大門を入って五人百姓の傘を抜けると、桜馬場の長い玉垣がはじまります。そのスタート地点にいるのがこの狛犬です。上の写真では、傘の上に止まっているように見えます。参道をなかに向かいあい、顔だけが少し大門に向いている
1 金毘羅 狛犬222表
ようです。
資料集には次のように書かれています。
「台座基壇は計四段で下二段の基壇は花圈岩製、上二段の台座は青銅製である。最上段・の台座は、正面一区、側面二区に分けられていて、各々中央に龍の彫り物がある。狛犬も青銅製で右(阿)が頭上に角を生やし、左(吽)は珍しく頭上に宝珠をのせている。顔はもちろんのこと像の全体に誇張した表現が見られるが、太目につくられていることで、かえって各部が誇張され、守護獣としての風格が感じられる。」
 奉納は神田日本橋の江戸講中で、日本橋を中心とした総数210人の人たちです。よく見ると「長州家中」「雲座神門郡」(島根県出雲地方)の村々の人の名前もあります。こうした多方面の数多い人々の協力があって境内最大の高さの狛犬奉納となったのでしょう。奉納は明和三年(1766)で、睦魂神社前の狛犬が江戸八丁堀の駿河屋川口勝五郎によって奉納された翌年になります。この頃から灯籠・玉垣が競い合うように寄進され始めます。

鋳物師をみると、右側の狛犬は「江戸神田住、太田近江大橡藤原正次作」となっています。ところが左側のものは「鈴木播磨大禄作」です。左右が別の人の作のようです。別々の石工に発注し、基壇は、左右ともに当地丸亀の石工大坂屋文七です。ここからは青銅製の台座と狛犬は江戸から運ばれ、当所の石工の作った基壇にすえられたことが分かります。それから250年を越える年月が流れた事になります。

④遥拝所の狛犬
1 金毘羅 狛犬遙拝所3表
◆天明元年出雲の松江惣講中の奉納した狛犬  
 1 金毘羅 狛犬遙拝所33表
円型台座
 右面  雲陽松江
    奉願主 佐々木重兵衛
 左面 雲州松江
    石工門兵衛
 〈基壇一段〉
 正面 雲州松江
    奉 献
    惣講中
 右面 願主 山口口口口
        大口口口口
    頭取 口口口口
        石口口口口
 左面 天明元口口六
     松江寺町  石工口右衛門

 賢木門をくぐった遥拝所の玉垣の内に、一対の狛犬が奉納されています。台座・基壇から狛犬まで総て凝灰岩製です。この石は風化しやすい石材なので、台座・基壇の銘文の一部が剥離し、狛犬の口の辺が欠けています。二段の切り石造りの基壇上に、円形の台座を据え、円形の台座には正面と背面に、ここにも牡丹が薄肉彫りにされています。牡丹は中国から江戸時代に渡来し、豊麗な花として大流行したようです。「牡丹に唐獅子」のイメージもあって、狛犬の台座装飾に使われたのでしょう。当時の流行の一端が見えます。
 ここの狛犬は右側が口を閉じた吽、左側が口を開いた阿です。
これは普通見るポジションと例と左右が逆になっています。どうして?
 遥拝所は、神仏分離以前は仏教伽藍の鐘楼があった所です。それが撤去されて「崇徳上皇の白峰」との関係を示すために「遙拝所」とされました。その時に、ここに移動してきたようです。その際に左右を間違えて据え付けてしまったようです。150年前のことです。居心地が悪そうにも見えますが、そんなことも受けいれているような気もしてきます。

 願主は雲州松江惣講中で、講元は佐々木重兵衛と刻まれています。
天明元年(1781)奉納で、石工も同じ松江の門兵衛で、松江近辺で採れる凝灰岩(来待石か)をつかい、狛犬から台座・基壇まで同地方で作り、完成したものが金毘羅さんに運ばれ、奉納されたのでしょう。石造狛犬は細工するのにむつかしいので、技術が求められます。最初は、この狛犬のように軟質の凝灰岩や砂岩が多く利用されたようです。ここでも奉納元の大工に発注し、それが金毘羅まで運ばれています。地元讃岐の石工に直接に注文した方が便利なように思えますが、作られるのは地元です。
以上 金毘羅さんに残る狛犬を古い順に4つ見てきました。残りはまた次回に・・
参考文献 印南敏秀 狛犬 「金毘羅庶民信仰資料集NO2」

           金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 今から40年ほど前の1979(昭和五十四)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。
その指定を記念して、金刀比羅宮から調査報告書三巻が出されました。三冊の報告書は非売品です。図書館で借りだしては眺めるようになり、今では私の愛読書のひとつになりました。

1 金毘羅年表1

この報告書に続いて出されたのが「年表編」です。

 最初、この年表を手にしたとき驚きました。近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。
 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった
筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。
 
DSC01034
そしてこの年表は、次の項目から始まります。      
1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か),矢一手を奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親,松尾寺仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久,松尾寺に制札を下す。
       10.19仙石秀久,金毘羅へ当物成十石を寄進。
                                                                以下略
 それまで金毘羅さんの歴史としては、以下のような事が説かれ、その由緒の古さや崇徳上皇とのつながりをのべてきたものです。それがすっぱりと落とされています。
 それまで書かれていた近世以前の金毘羅大権現の年表
長保3年 1001 藤原実秋、社殿、鳥居を修築。
長寛元年 1163 崇徳上皇参拝。
元徳3年 1331 宥範 宥範、善通寺誕生院を再興。
建武3年 1336 宥範、足利尊氏より櫛梨社地頭職が与えられた。
観応元年 1350 別当宥範、当宮神事記。
観応3年 1352 別当宥範没。
康安2年 1362 足利義詮、寄進状。
応安4年 1371 足利義満、寄進状。
 崇徳上皇との関係も書かれていません。宥範のことにも触れられません。尊氏や義満からの寄進も載せません。これを最初見たときには驚きました。そして、研究者としての「潔さ」と、その出版を認めた金毘羅宮の懐の深さに感心したのを覚えています。
 後で振り返ってみれば金毘羅研究史にとって、ひとつの節目となるのがこの「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」だったように思います。後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、
「近世以前の金毘羅の史料(歴史)はない」
という姿勢をとるようになります。それは「金毘羅神=流行(はやり)神」という視点から金毘羅神を捉え直す潮流とも結びつき、新たな研究成果を生み出すことになりました。今では、金毘羅さんの確実な歴史が分かる資料は近世以後で、それよりの前の史料はない。古代や中世に遡る史料は見つかっていない、というのが定説になったように思います。

DSC01231
 
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここには「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が修験者の金光院宥雅であることが記されています。宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。
 宥雅は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いを加筆します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。これらの史料は、宥雅の偽作であると多くの研究者は考えるようになりました。
200017999_00076本社・旭社

この年表の後記の中で、40年前に松原氏が
「金毘羅信仰を考える際の新たな視点と課題」
として挙げていることを、今回は振り返ってみよう思います。

権力者との関係。特に生駒家と高松松平家の関係を押さえる必要がある
 讃岐に戦国時代の終わりをもたらした生駒家は金毘羅大権現に対して、多くの社領寄進を行っています。何回かに分けて行われた寄進は、他の寺社に比べて数段多く、全部で330石に達します。生駒家菩提寺の法泉寺百石、国分寺や善通寺誕生院でも60石前後です。金毘羅が生駒家から特別に扱われていたようです。
それでは、その理由は何でしょうか。
 後に出されて「町史ことひら」では、その理由として生駒家2代目藩主の側室オナツの存在と、その実家である山下家に通じる系譜が「外戚」として、当時の生駒家で大きな門閥を形成したことを挙げています。また、この門閥が時代の流れに逆行する知行制を進めたことが生駒騒動の原因の一つであると考える研究者も現れています。どちらにしても生駒藩において、時の主流であった門閥の保護支援を受けたことが、金毘羅大権現発展の大きな力になったようです。

200017999_00077本社よりの眺望

松平頼重の寄進
 讃岐が高松・丸亀両藩に分れたあと高松へ入部した松平家も金毘羅保護支援を受け継ぎます。藩祖松平頼重は,社領330石を幕府の朱印地にするための支援を行うと同時に、次のような寄進を立て続けに行います。
境内の三十番神社を改築
大門建立のための用材を寄進
阿弥陀仏千体を寄付、
神馬とその飼葉料三十石を寄進,
そして時を置いて、以下の寄進を行います。
木馬舎を建立,
承応3年 良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の木額を奉納,
明暦元年 明本一切経を寄進,
万治2年 それを納めるための経蔵を建立
寛文8年から4年間 毎年1月10日に灯籠1対ずつ寄進,
延宝元年12月 多宝塔を建立寄進
これは思いつきや単なる信仰心からの寄進ではないように私には思えます。
象頭山に讃岐一の伽藍施設を整備し、庶民の信仰のよりどころとする。さらに全国に売り出し、全国的な規模の寺社に育てていくという宗教戦略が松平頼重の頭の中には最初からあったような気がしてきます。それは、以前お話しした仏生山の建立計画と同じような深さと長期的な視野を感じます。
金毘羅大権現は,
①生駒家の社領寄進の上に,
②頼重の手による堂社の建立があって
他国に誇るべき伽藍出現が実現したと云えるようです。
 松原秀明氏が指摘するように「生駒藩・松平藩を除外して金毘羅のことは考えられない」ことを押さえておきます。
2 金毘羅神を支えたのは「庶民信仰」という通説への疑問
 金毘羅神が庶民信仰によって支えられるのは、流行神となって以後のことです。今見てきたように

権力者の金毘羅大権現保護が原動力
金毘羅大権現発展の原動力は、大名の保護

①長宗我部元親の讃岐支配のための宗教センター建設
②生駒家の藩主の側室オナツの系譜による寄進と保護
③松平頼重の統治政策の一環としての金毘羅保護
上記のような大名からの保護育成政策を受けて、金毘羅大権現は成長して行ったのです。例えば代参や灯籠奉納も最初は、大名たちが行っていたことです。それを、後に大坂や江戸の豪商達が真似るようになり、さらに庶民が真似て「流行神」となって爆発的な拡大につながったという経緯が分かってきました。庶民が形作っていったというよりも、大名が形作った金毘羅信仰のスタイルを、庶民が真似て拡大するという関係であったようです。

金毘羅大権現の成長原動力

3 「海の神様 金毘羅さん」への疑問
  松原氏は「海の神様・金毘羅」についての違和感を、次のように記します。
   金毘羅のことで発言する場合,必ず触れなくてはならないこととして「海の神金毘羅」という問題がある。これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
  金毘羅大権現は海の神であるという信仰は,多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅神は最初から海の神様でなかった?
海の神様が出てこない金毘羅大権現

 例えば17世紀半ばに出された、将軍家の金毘羅大権現への朱印状には、次のように記されています。

「専神事祭礼可抽国家安全懇祈」

宝暦三年に,勅願所になったときの摂政執達状は、次のように記します。
宝祚長久之御祈祷,弥無怠慢可被修行」

朱印状とか摂政執達状とかは「国家安全」「宝祚長久」を祈祷するよう命じるのが本来なので「海上安全」の言葉のないのは当たり前かもしれません。それでは1718(享保三)年に、時の金光院住職宥山が,後々まで残る立派なものを作りたいという考えで,資料を十分用意して,高松藩儒菊池武雅に書かせた縁起書「象頭山金毘羅神祠記」を見てみましょう。
「祈貴者必得其貴,祈冨者必得其冨,祈寿者必得其寿,祈業者必得其業,及水旱・疾疫,百爾所祈,莫不得其応」

ここにも海との関わりを強調するような文言はどこにもありません。
 金光院の日々の活動を記録した「金光院日帳」でも,神前での祈禧は五穀成就と病気平癒の祈願がほとんどです。高松藩からは,毎年末に五穀豊穣祈願のため初穂料銀十枚が寄せられ,正月11日に祈祷修行して札守を指出すのが決まりだったようです。ここでも祈願していたのは「五穀成就」の祈祷です。
  それでは海の安全がいつごろから祈られるようになったのでしょうか? 海洋関係者が奉納した「モノ」から見ておきましょう。

1 金毘羅 奉納品1


 燈寵奉納は?
1716(正徳5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭たち奉納の釣燈寵
1761(宝暦11)年 大坂小堀屋庄左ヱ門廻船中寄進の釣燈寵
この2つが初期のもので、1863(文久2)年 尾州中須村天野六左ヱ門に至るまで海事関係者からの奉納は、十数回数えられるだけです。その間,他の職種の人達の奉納は150回を越えています。海事関係者のものは,全体の1/10にも満たないことになります。
 絵馬奉納は?
1724(享保 9)年 塩飽牛島の丸尾五左ヱ門が最初で
1729(享保14)年 宇多津廻船中奉納のもの
絵馬は燈龍よりも奉納されるのがさらに遅いようです。
DSC01230

 船模型は?
1796(寛政 8年) 大坂西横堀富田屋吉右ヱ門手船金毘羅丸船頭悦蔵奉納
のものが一番古く,あとは嘉永4年,安政4年と、さらに遅いようです。
DSC01234

 「年表」のなかに出てくる「海事関係記事」を時代順に並べると次のようになります
1643(寛永20)年 高松藩船奉行渡辺大和が玄海灘で霊験
1694(元禄 7)年 日向国の六兵ヱ佐田の沖で難船を免れた。
1715(正徳 5)年 塩飽牛島の丸尾家の船頭が青銅釣燈寵一対奉納
1724(享保 9)年 塩飽丸尾家四代五左ヱ門正次が「鯛釣り戎」の額を奉納,
 同年         宇多津の廻船中から「翁」の絵馬が献納
1 金毘羅 船模型小豆島1

小豆島草壁の金毘羅丸の船模型絵図

 以上のように奉納品からは、金毘羅さんと塩飽島民や宇多津の廻船との結び付きが、ある程度は分かります。特に牛島を拠点とした丸尾家の奉納品は早い時期からあるようです。宇多津は中世からの讃岐
NO1の港であったので廻船業が盛んだったのでしょう。

 しかし、海事関係者全体の奉納品の数を見るときに、果たして18世紀以前から金毘羅さんが「海の神様」と呼ばれていたかどうかは疑問が残ります。
海事関係者からの奉納物

享保頃は,ごく一部の人が海の神としての金毘羅の霊験を語っても,まだ金毘羅そのものが全国から広い信仰を集めていたわけではないようです。将来、「海の神となる可能性を秘めていた時代」と研究者は考えているようです。そして19世紀半ば以後に、金毘羅といえば海の神という受け取り方が定着してきたとします。金毘羅は、流行神になったときから海の神としての性格を強くしたととも云えるようです。
1 金毘羅 奉納品2

以上をまとめておきます
金毘羅「庶民信仰・海の神様」説
金毘羅「庶民信仰・海の神様説」への疑問
①「金毘羅庶民信仰資料集 年表編 1988年刊行」には、近世以前の項目は載せられていない。
②これ以後、戦国末期に作り出された金毘羅神が流行神として広がったと考えられるようになってきた。
③金毘羅信仰の発展過程で大切なのは、時の権力者からの保護支援であった
④金毘羅信仰は 長宗我部 → 生駒 → 松平という時の権力者の保護を受けて成長した
⑤これらの権力者の保護なしでは金毘羅信仰の成長発展はなかった。
⑥その意味では「金毘羅信仰は庶民信仰」という定説は疑ってみる必要がある
⑦金毘羅神が「海の神様」として信仰されるようになるのは、案外新しい

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 松原秀明  解説・年表を読むにあたって   
               金毘羅庶民信仰資料集 年表編

DSC04827
 
善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
1000000108_L (1)

 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
zendu_large

 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

   前回は「金毘羅神」創作の中心となった宥雅と法勲寺や櫛梨神社とのつながりを見てきました。今回は、宥雅の一族である長尾氏について、探って見ようと思います。宥雅は、西長尾城主(まんのう町長尾)の長尾大隅守の甥とも弟とも云われています。長尾氏周辺を見ることで、金毘羅神が登場してくる当時の背景を探ろうという思惑なのですがさてどうなりますか。
 最初に、長尾氏の由来を押さえておきます
  長尾氏については、多度津の香川氏などに比べると残された史料が極端に少ないようです。また、南海治乱記などにも余り取り上げられていません。ある意味「謎の武士団」で、実態がよくわからないようです。そのため満濃町史などにも、一つのストーリーとしては書かれていません。
 県史の年表から長尾氏に関する項目を抜き出すと以下の4つが出てきました。
①応安元年(1368) 
西長尾城に移って長尾と改め、代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 
長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月 
長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物
④天文9年(1540)
7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進
荘内半島

まず①の長尾にやって来る前のことから見ていくことにします。
『西讃府志』によると、長尾氏は、もともとは庄内半島の御崎(みさき)に拠点を持つ「海の武士=海賊」で「海崎(みさき)」を名乗っていたようです。その前は「橘」姓であったといいます。讃岐の橘氏には、二つの系譜があるようです。
一つは、神櫛王の子孫として東讃に勢力を持っていた讃岐氏の一族が、橘氏を称するようになります。讃岐藤家の系譜を誇る香西氏に対して讃岐橘姓を称し、以後橘党として活躍する系譜です。しかし、これは、東讃中心の勢力です。
もう一つは、藤原純友を討ち取った伊予の警固使橘遠保の系譜です。
 この一族は、純友の残党を配下に入れて「元海賊集団を組織化」して「海の武士」として各地に土着する者がいたようです。例えば源平合戦の際に、屋島の戦いで頼朝の命を受けて源氏方の兵を集めに讃岐にやって来た橘次公業は、橘遠保の子孫といわれます。橘姓の同族が瀬戸内海沿岸で勢力を持っていたことがうかがえます。海崎氏は、こちらの系譜のように思います。

○○○絶景を求めてドライブ/琴平リバーサイドホテルのブログ - 宿泊 ...
荘内半島から望む瀬戸内海(粟島方面)
 想像を膨らませると、平安時代の末ごろから橘氏の一族が讃岐の西の端に突きだした庄内半島に土着します。あるときには海賊として、あるときには武士団として瀬戸内海を舞台に活躍していた海民集団だったのではないでしょうか。それが、源平の合戦で源氏側につき、海上輸送や操船などで活躍し、軍功として地頭職を与えられ正式な支配権を得るようになったとしておきます。

船越八幡神社 (香川県三豊市詫間町大浜 神社 / 神社・寺) - グルコミ
            船越八幡神社
この地は、陸から見れば辺境ですが、海から見れば「戦略拠点」です。なぜなら燧灘沿岸の港の船は、紫雲出山の麓にある「船越運河」を通過していたからです。興味のある方は、船越八幡神社を訪れると、ここに運河があったことが分かります。仁尾や観音寺、川之江の船は、この運河を通って備讃瀬戸へ出ていたようです。その運河の通行税を、取っていたはずです。それは「村上水軍」が通行税を、沖ゆく船から「集金」していたのと同じです。つまり、三豊南部の海上輸送ルートの、のど元を押さえていた勢力だったと私は考えています。
海崎(新田の)城 お薦め度 低 | 脱サラ放浪記(全国城郭便覧)
庄内半島の海崎(みさき)城跡
 山城の海崎(みさき)城跡は、紫雲出山に連なる稜線上にあります。ここからは360度のパノラマ展望で、かつては沖ゆく船の監視センターの役割も果たしていたのでしょう。
「海の武士」だった海崎氏が、どうして丘上がりしたのでしょうか?
  南北朝の動乱期に、細川頼之が南朝の細川清氏と戦った白峰合戦で、海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として預けられます。頼之の中国筋から宇多津進出に船団を提供し、海上からの後方支援を行ったのかもしれません。
庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。

長尾氏 居館
長尾氏居館跡の超勝寺(まんのう町長尾)

 居館があったのは城山の西側の長尾無頭(むとう)地区で、現在の超勝(ちょうしょう)寺や慈泉(じせん)寺付近とされています。この当たりには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っています。           

 どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)
西長尾城のあった城山の麓にある超勝寺

 拠点を構えた長尾を取り巻く情勢を見ておきましょう
 この居館の背後の城山に作られたのが西長尾城になります。ここに登ると360度の大パノラマで周囲が良く見渡せます。北は讃岐富士の向こうに瀬戸内海が広がり、備讃瀬戸にかかる瀬戸内海まで見えます。西は土器川を挟んで大麻山(象頭山)がゆったりと横たわります。そして、南には阿讃山脈に続く丘陵が続きます。この西長尾城から歴代の長尾氏の当主たちは領土的な野望を膨らませたことでしょう。しかし、庄内半島からやってきたばかりの14世紀の丸亀平野の情勢は、長尾氏のつけいる隙がなかったようです。

長尾城2
 西長尾城本丸跡からのぞむ丸亀平野
承久の乱から元寇にかけて西遷御家人が丸亀平野にもやってきます。例えば、西長尾城から土器川を挟んだ眼下に見える如意山(公文山)の北側の櫛梨保の地頭は、島津氏でした。薩摩国の守護である島津氏です。その公文所が置かれたので公文の地名が残っているようです。宗教的文化センターが櫛梨神社で、有力地侍として岩野氏がいたこと、その一族から「善通寺中興の祖・宥範」が出たことを前回はお話ししました。どちらにしても「天下の島津」に手出しはできません。
西長尾城概念図
西長尾城概念図 現在残された遺構は長宗我部元親時代のもの

 それでは北はどうでしょうか
西長尾城は那珂郡(現まんのう町)と綾郡(現丸亀市綾歌町)の境界線である稜線上に建っています。その北側は現在のレオマワールドから岡田台地に丘陵地帯が広がります。領地であるこのあたりがに水が引かれ水田化されるのは、近世以後の新田開発によってです。その北の大束川流域の穀倉地帯は、守護・細川家の所領(職)が多く、聖通寺山城の奈良氏がこれを管理支配していました。この方面に勢力を伸ばすことも無理です。

西長尾城縄張り図
西長尾城縄張り図 曲輪は北に向かって張り出している
それでは東はと見れば、
綾川流域の羽床・滝宮は、結束を誇る讃岐藤原氏(綾氏)一族の羽床氏が、羽床城を拠点にしっかりと押さえています。さらに羽床氏は綾川上流の西分・東方面から造田にも進出し在地の造田氏を支配下に組み入れていました。つまり、長尾氏が「進出」していけるのは「南」しかなかったようです。
 この時期の神野や炭所では、丘陵地帯の開発が有力者によってを地道に行われていたようです。中世城郭調査報告書(香川県)には、炭所を開いた大谷氏について次のように記します。
 谷地の開墾 大谷氏
 中世の開墾は、国家権力の保護や援助に依頼することができなかったので、大規模な開墾は行われなかった。平地部の条里制地域の再開墾田は年貢が高く、検田も厳重であった。そこで、開墾は小規模で隠田などが容易な、湧水に恵まれた谷地などで盛んに行れた。
 鎌倉時代になってからまんのう町域でも、平地部周辺の谷地が盛んに開墾されたものと思われる。小亀氏と共に南朝方として活躍した大谷氏(大谷川氏)は、炭所東の大谷川・種子・平山などの谷地を開墾して開発領主となり、惣領が大谷川から大井手(現在の亀越池地)にかけての本領を伝領し、庶子がそれぞれの谷地の所領を伝領して、惣領制によって所領の確保が図られた。
  このように台頭してきた開発領主と姻戚関係を幾重にも結び「疑似血縁関係」を形成し、一族意識を深めていったのでしょう。
  『全讃史』には、長尾元高は長尾を拠点に、自分の息子たちを炭所・岡田・栗熊に分家し、その娘を近隣の豪族に嫁がせて勢力を伸ばしたと記します。長尾氏は、周辺の大谷氏や小亀氏と婚姻関係を結びつつ、岡田・栗熊方面の所領(職)には、一族を配置して惣領制をとったようです。
城山 (香川県丸亀市綾歌町岡田上 ハイキング コース) - グルコミ

西長尾城の西には象頭山があり、その麓には早くから九条家の荘園である小松荘(現琴平町)がありました。しかし、15世紀になると悪党による侵入や押領が頻発化し、荘園としては姿を消していきます。その小松荘の地侍に宛てた「感状」があります。金刀比羅宮所蔵の「石井家由緒書」の「感状」には、次のように記されています。
  去廿二日同廿四日、松尾寺城に於て数度合戦に及び、父隼人佐討死候、其働比類無く候、猶以って忠節感悦に候、何様扶持を加う可く候、委細は石井七郎次良申す可く候、恐々謹言
     十月州日            久光(花押)
    石井軽法師殿
 ここには松尾寺城(小松庄周辺)で、数度の合戦があり、石井軽法師の父隼人佐が戦死を遂げた。その忠節を賞し、後日の恩賞を約束した久光の石井軽法師にあてた感状のようです。久光という人物は、誰か分かりませんが、彼自身によって感状を発し、所領の宛行いも行っているようです。
   この花押の主・久光は、かつて細川氏の被官であった石井氏などの小松荘の地侍たちを自らの家臣とし、この地域を領国的に支配していることがうかがえます。これは誰でしょう。
長尾城全体詳細測量図H16
西長尾城 精密測量図

周辺を見回して、第1候補に挙げられるのが長尾大隅守だと研究者は考えています。九条家の小松荘を押領し、自らの領国化にしていく姿は戦国大名の萌芽がうかがえます。

③については、多度津町葛原の加茂神社所蔵の大般若経奥書に、永正9年(1512)4月の日付で次のように書かれています。

「当社壬申、長尾大隅守衆、卯月二十九日乱入して社内破却神物取矣云々」

 この時期、京都では管領細川氏の内部分裂が進行中でした。山伏大好きの讃岐守護の細川政元が選んだ養子・澄之が殺害され、後継者をめぐる対立で讃岐国内も混迷の仲にたたき込まれました。残された養子である澄元派と高国派に分かれて、讃岐は他国よりも早く戦国の状況になります。多度津の加茂社は、天霧城主の香川氏が実効支配する領域です。そこへ中央の混乱に乗じて長尾氏は侵入し、略奪を働いたということです。これは、香川氏に対しての敵対行為で、喧嘩を売ったのです。
 つまり、丸亀平野南部の支配権を固めた長尾氏が、北部の多度津を拠点とする香川氏のテリトリーに侵入し軍事行動を行ったことが分かる史料です。以後、香川氏と長尾氏は、対立関係が続きます。
 香川氏は西遷御家人で、多度津を拠点とする讃岐守護代で西讃地域のリーダーです。それに対して、長尾氏は、どこの出かも分からない海賊上がりです。そして、香川氏が阿波の三好氏から自立する方向に動き「反三好」的な外交を展開するのに対して、長尾氏は三好氏に帰属する道を選びます。丸亀平野の北と南で対峙する両者は、何かと対立することが多くなります。

浪打八幡宮 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
浪打八幡宮
④は、詫間町の浪打八幡宮に、天文9(1540)年7月11日に調製された「御遷宮奉加帳」が伝えられています
そこには 長尾左馬尉・長尾新九郎など、長尾一族と思われる氏名が記録されています。長尾氏は、もともとは庄内半島を地盤とする「海賊」であったという話を最初にしました。その関係で長尾に移って160年近く経っても、託間の浪打八幡宮との関係は切れていないようです。氏子としての勤めは律儀に果たしていることがうかがえます。あるいは、託間の港関係の利権が残っていたのかもしれません。そうだとすれば、長尾氏の海の出口は三野郡の詫間であったと考えられます。敵対する香川氏に多度津港は押さえられています。
長尾城10
西長尾城 本丸北側の曲輪郡
 『西讃府志』によると、戦国末期の当主高晴の時には、三野・豊田・多度・那珂・鵜足・阿野などの諸郡において六万五〇〇〇石余の地を領したと云います。『西讃府志』には生駒藩時代の慶長二年(1597)に神余義長がその家の覚書によって記したという「高晴分限録」があり、小松荘の地侍らしい名前と石高が次のように載っています。
五〇〇石 石井掃部、
五〇〇石 守屋久太郎、
四〇〇石 三井五郎兵衛、
四〇〇石 岡部重内、
二〇〇石 石川吉十郎
彼らは金毘羅大権現出現の松尾寺の守護神・三〇番社の祭礼の宮座を勤めた姓と一致します。小松庄の地侍たちを長尾氏が支配下においていたと考えることはできるようです。
 65000石と云えば、後の京極丸亀藩の石高に匹敵しますので、そのまま信じることはできませんが丸亀平野で香川氏と肩を並べるまでに成長してきた姿が見えるようです。

長尾氏の宗教政策
 当時の有力者は、周辺の付近の神社や寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握するという「勢力拡大策」が取られていました。 前回、お話しした善通寺中興の祖・宥範も櫛梨の名主層・岩野氏出身です。師弟を僧門に入れて、高野山で学ばさせるのは、帰国後有力寺院の住職となり権益を得ようとする実利的な側面もありました。寺院自体が土地や財産を持つ資産なのです。それが、「教育投資」で手に入るのです。これは、日本ばかりでなく、西欧キリスト教世界でも行われていた名家の「処世術」のひとつです。

 「周辺の寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握」するという「勢力拡大策」の一貫として16世紀前後から長尾氏が取ったのが、浄土真宗の寺院を建立することです。丸亀平野南部の真宗寺院は阿波の郡里(現美馬市)の安楽寺を布教センターとして、広められたことは以前お話ししました。阿波の安楽寺から阿讃山脈の三頭峠を越えて讃岐に広がり、土器川上流の村々から信者を増やしていきました。その際に、これを支援したのが長尾氏のようです。15世紀末から16世紀初頭にかけて、真宗寺院が姿を現します。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 この早い時期に建立された寺院は、民衆が坊から成長させたものではなく長尾氏の一族が建立したもののようです。ここには、一族の僧侶がこれらの寺に入ることによって門徒衆を支配しようとする長尾氏の宗教政策がうかがえます。
浄土真宗が民衆の中に広がる中で登場するのが宥雅(俗名不明)です。
彼は長尾大隅守高勝の弟とも甥とも云われます。彼は真言密教の扉を叩きます。なぜ、浄土真宗を選ばなかったのでしょうか?
彼が選んだのは空海に連なる真言宗で、一族の支援を受けて地元の善通寺で真言密教を学びます。それ以上のことはよく分かりません。基本的史料は、金毘羅大権現の一番古い史料とされる金比羅堂の棟札です。そこに彼の名前があります。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
  宥雅は、象頭山に金毘羅神という「流行神」を招来し、金比羅堂を建立しています。その際に、導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職です。この寺は数多くある高野山の寺の中でも別格です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。
世界遺産高野山 金剛三昧院

北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建されお寺で、将軍家の菩提寺となります。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などを建立されます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多く、落慶法要にやってきた良昌も讃岐出身の僧侶です。そして、彼は飯山の島田寺(旧法勲寺)住職を兼務していました。
 ここからは私の想像です
宥雅と良昌は旧知の間柄であったのではないかとおもいます。宥雅が長尾一族の支援を受けながら小松荘に松尾寺を開く際には、次のような相談を受けたのかも知れません。

「南無駄弥陀ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺は信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が院主を勤める金光院を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、近頃世間で知られるようになってきた島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」

「なるほど、新しい神を登場させるのですか、大変参考になりました。もし、その案が成就したときには是非、お堂の落慶法要においでください」

「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」

という会話がなされた可能性もないとは云えません。
 もちろん宥雅の金比羅堂建立については、長尾一族の支援があってできることです。その参考例は、前回お話しした宥範が実家の岩野氏の支援を受けて、善通寺を復興したことです。その結果、当時の善通寺には岩野氏に連なる僧侶が増え、岩野氏の影響力が増していたのではないでしょうか。それは、高野山と空海、その実家の佐伯家の高野山での影響力保持とも同じ構図が見えます。長尾家も、第二の佐伯家、岩野家をもくろんでいたのかもしれません。
 以上、今回は宥雅登場前後の長尾家とその周辺の様子をみてきました。まとめておきます。
①長尾家は庄内半島の箱を拠点とする「海賊=海の武士」であった。
②南北朝の混乱の中、白峰合戦で細川頼之側につき長尾(まんのう町)に拠点を移した。
③移住当初は、周辺部はガードの堅い集団が多く周囲に勢力を伸ばすことは出来なかった。
④その中で周辺の丘陵部を開発する領主と婚姻関係を結び着実に、基盤を固めた。
⑤細川氏の分裂以後の混乱に乗じて、周辺荘園の押領や略奪を重ね領域を拡大した。
⑥戦国末には、西讃岐守護代の香川氏と肩を並べるまでに成長した。
⑦当時の武士団は、近親者に教育をつけ寺社に送り込み影響下に置くという宗教政策がとられていた⑧その一貫として、小松の荘松尾寺に送り込まれたのが宥雅である
⑨宥雅は金光院主として、金毘羅神を創り出し、金比羅堂を建立する
⑩これは、当時西讃地方で拡大しつつあった浄土真宗への対抗策という意味合いもあった。
⑪しかし、宥雅の試みは土佐長宗我部の讃岐侵攻で頓挫する。宥雅は堺への亡命を余儀なくされる。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 長尾大隅守の系譜 満濃町史 第4編 満濃町の民俗1169P~

DSC04758
    霊山・如意山(公文山)に鎮座する櫛梨神社 
金毘羅さんの鎮座する象頭山の東を金倉川が北に向かって流れていきます。この金倉川を挟んで小高い峰峰が続きます。これが如意山です。この山の麓には中世には荘園の荘官・公文の館があったようで、公文山とも呼ばれています。この山の周辺は、古代中世からひとつの宗教ゾーンを形成していたと「町誌ことひら」は記します。
DSC04654

 如意山(公文山)の西に伸びる尾根の下に鎮座するのが櫛梨(くしなし)神社です。ここにも「悪魚退治伝説」が伝わっています。前回、讃留霊王に退治された「悪魚」が、改心して「神魚」となり、金毘羅神(クンピーラ)に変身した。そこには宥範から宥雅という高野山密教系の修験者のつながりがあることを前回は紹介しました。その二人の接点が櫛梨神社になるようなのです。今回は、この神社について見てみることにします。
1櫛梨神社

 この櫛梨神社は、讃岐国延喜式内二十四社の一つです。
高松市の田村神社(讃岐国一宮)、三豊市高瀬町の大水上神社(同二宮)と並び称される古大社だとされてきました。大内郡の大水主神社と三宮、四宮の席次を争った形跡があります。古代には、周辺に有力な勢力がいたようです。目の前の霊山として崇められたであろう大麻山(象頭山)山腹には、数多くの初期古墳がありました。善通寺勢力と連合勢力を組んでいたのが、どこかの時点で「吸収合併」されたと私は考えています。それが野田院古墳の出現時ではないかと思います。それ以後も、如意山周辺は丸亀平野南部の一つの政治的宗教的拠点であったようです。中世は、ここは東国出身の薩摩守護になた島津家の荘園になっています。櫛梨神社は、その櫛梨荘の文化センターであったようです。
DSC04658


「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」には、この神社の由緒を次のように記します。
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、
 付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、
櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、
城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。
天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
   
ここには次のようなことが書かれています
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた
②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。
③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。
④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。
⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった
⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失
 ここにも讃留霊王(神櫛皇子)の悪魚退治伝説が伝わっています。
それも、皇子の乗った船の漂着地であり、葬ったのが櫛梨山とされています。この伝説が作られた時の人々は、かつてはこのあたりまで海だったのだという意識を持っていたようです。空海生誕伝説の「屏風ヶ浦」の海の近くで空海は生まれたという当時の「地理感覚」と相通じる所がありそうです。
1櫛梨神社32.3jpg

 この神社の讃留霊王伝説で新味なのは「神櫛(醸酒一カムクシ)王を祭(祖先)神」として、その子孫酒部氏族が奉斎した氏神社としている点です。古くは、櫛梨山上の本台(山頂の平坦地)に社殿を構えていたといいいますが、祭神の性格からすると平地にあってしかるべき神社だと研究者は考えているようです。山上には、祠様があっただけで山そのものが神体であるされ、櫛梨山全体が信仰の対象だったのでしょう。
DSC04664

 櫛梨神社には悪魚退治伝説は、史料としては伝わっていないようです。伝えられているのは善通寺誕生院の宥範の縁起の中に書かれているのです。
 2つの【悪魚退治伝説】 
 悪魚退治伝説は、南北朝期の作とされ讃岐藤原氏(綾氏)の系図「綾氏系図」に冒頭に付けられているのが知られてきました。綾氏先祖の英雄譚として、氏族の栄光を飾るものと理解されてきました。そしてこの伝説を作ったのは、文中に出てくる寺名から法勲寺の僧侶であるとされてきたのです。つまり、この『綾氏系図』は、綾氏の有力な氏寺の一つである法勲寺の縁起としての性格をもっているとされてきました。
しかし、近年になって「綾氏系図』よりも古いとされる史料が出てきたようです。それが、高松無量寿院所蔵文書の中にある応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源の『贈僧正宥範発心求法縁起』(=宥範縁起」です。

DSC04665
 宥範は何者?
 宥範は櫛梨の有力豪族出身で、高野山や各地の寺院で修行を積み、晩年は善通寺復興に手腕を見せ「善通寺中興の祖」と呼ばれた名僧です。この中に、讃留霊公の悪魚退治伝説が語られているようです。
16歳で仏門に入り、高野山などに学び、当時の密教仏教界において、その博学と名声は全国に知られていたようです。善通寺復興に尽力し「中興の祖」と称されています。
 宥範は、各地ので修行を終えて翌嘉暦二年(1327)、讃岐国に帰り、
「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
します。そして『妙印抄』三十五巻本の増補を行い3年かかって『妙印抄』八十巻本を完成させ、これを善通寺誕生院に奉じます。念願を果たして、故郷・櫛梨の小堂から象頭山の称明(名)院に移り住んでいます。生まれ故郷の櫛梨の里を、眼下にできる寺に落ち着きたかったのでしょう。こうして、八十巻を越える大著を書き終え、静かに隠退の日々を送ろうとします。しかし、それは周囲が許しませんでした。
DSC04666

   善通寺中興の祖として 
  当時、善通寺は中世の荒廃の極みにありました。伽藍も荒れ果てていたようです。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、
建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り
建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」と研究者は考えているようです。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。「岩野」は宥範の本家筋の人物と考えられるようです。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。その有力パトロンとして、実家の岩野一族の存在が考えられます。
 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧によって奉じられていたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。
 別の研究者次のような見方も示しています
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。その伝記が弟子たちによって書かれるのは自然です。しかし、この「宥範縁起」の中に、どうして「悪魚退治伝説」が含まれているのでしょうか。悪魚と宥範の関係を、どう考えればいいのでしょうか?
宥範縁起(無量寿院系)と綾氏系図(法勲寺系)を比較してみましょう。
1櫛梨神社3233
それぞれの寺運興隆を目的に、作られたものですから、少しずつアレンジがされています。例えば、悪魚の表記は「神魚」と「悪魚」、凱旋地も「高松」と「坂出」のように相違点があります。どちらが、より原典に近いのか研究者もなかなか分からないようです。しかし、強いて云えば
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』
②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
と、宥範縁起の中にでてくる「悪魚退治伝説」の方が古いのではないかと「町史ことひら」は考えているようです。
  どちらにしても櫛梨神社に伝えられた悪魚退治伝説は、法勲寺系ではなく、高松の無量寿院系のものであることに変わりはありません。
無量寿院は、宥範が若い頃に密教僧侶として修行をスタートさせたたお寺でもあります。そして、このお寺の由来が悪魚退治伝説ならぬ「神魚伝説」であったようです。
宥範から聞いた神魚伝説は善通寺や櫛梨神社の社僧たちに語り伝えられていくようになります。
そして、櫛梨神社の例祭には、修験者の社僧(山伏)の語る縁起を聞きながら「神魚」や「櫛梨神社」への畏怖と尊崇とを新たにし、胸熱くして家路を急いだのかもしれません。この時にまだ金毘羅神は生まれていません。
 高松から琴平にかけての中讃地区の寺社の中には、似たような悪魚退治伝説がいくつか伝わっています。これらは、社寺縁起の流行する近世初頭に『宥範縁起』をテキストに広がったのではないかと研究者は考えているようです。
 このような中で人々がよく知っている「悪魚」を、神として祀ることを考える修験者があらわれるのです。それが前回お話しした宥雅です。彼は
 悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
というストーリーを下敷きにして、金毘羅神を創出し、それを松尾寺の新たな守護神を作りだし、それを祀るための金比羅堂を象頭山に建立したのです。その創出は彼一人のアイデアだったかどうかは分かりません。しかし、金比羅堂建設というのは、支援者や保護者なしではできることではありません。彼は、西長尾城の城主の甥でした。つまり、長尾氏の一族です。当然、背後には長尾氏の支援があったはずです。
 以上、前回の「悪魚が金毘羅神に変身」したお話の補足をまとめておきます。
①中世の公文山周辺は、丸亀平野南部の宗教ゾーンで、そのひとつが櫛梨神社である
②櫛梨神社には「悪魚退治伝説」が伝わるが、これは宥範伝来のものである。
③もともと高松の無量寿院の由来に登場する「神魚」が、そこで修行した宥範によって伝えられレ「宥範縁起」の中に記された
④中世の櫛梨神社では、この悪魚退治伝説が社僧たちによって人々に語られるようになる。
⑤社伝由来の流行で、古い神社ではどこにも社伝が語られるようになり悪魚退治伝説を採用する神社が増える。
⑥これは法勲寺で行われていた「綾氏祖先崇拝」による団結を図る武士団への広がりと同時に、中讃地区での悪魚退治伝説の広がりをうむ
⑦この広がりを下敷きに「悪魚」をモデルに新たな「金毘羅神」が登場してくる
⑧それを進めたのが西長尾城主の甥の修験者宥雅であった。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 第5章 中世の宗教と文化

 
12金毘羅ou  
        
金毘羅神とは何かと問われると、このように答えなさいと云う問答集が江戸時代初期に金光院院主の手で作られています。そこには、金毘羅とはインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、天部の武将姿に「変身」して仏教を護るようになったと説明されています。 日本にやってきたクンピーラは、薬師如来を護る十二神将の一人とされ、また般若守護十六善神の一人ともな武将姿で現れるようになります。彼は時には、夜叉神王と呼ばれ、夜叉を従え、また時には自らも大夜叉身と変化自由に変身します。仏様たちを護る頼れるスーパーヒーローなのです。 このような内容が、真言密教の難解な教義と共に延々と述べられています。
1drewniane-postaci-niebianskich

「神が人を作ったのではない、人が神を創ったのだ」という有名な言葉からすると、この金毘羅神を創り出した人物の頭の中には、原型があったはずです。「インドの鰐神=クンピーラ」では、あまりに遠い存在です。身近に「あの神様の化身が金毘羅か」と思わせ納得させる「しかけ」があったはずです。
1 クンピーラmaxresdefault

 この謎に迫った研究者たちは、次のような「仮説」を出します

 「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」

 松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。

「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」

「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
 羽床氏「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)
つまり、「讃留霊王伝説に登場する悪魚」が、金毘羅神(クンピーラ)に「変身」したというのです
Древнерусское солнцепоклонство. Прерванная история русов ...
 クンピーラはガンジス河にすむワニの化身とも、南海にすむ巨魚の化身ともいわれ、魚身で蛇形、尾に宝石を蔵していたとされます。金毘羅信仰は中讃の悪退治伝説をベースに作り出されたというのです。30年ほど前に、この文章を読んだときには、何を言っているのか分かりませんでした。今までの金毘羅大権現に関する由緒とは、まったくちがうので受けいれることが出来なかったというのが正直な所かもしれません。しかし、いろいろな資料を読む内に、次第にその内容が私にも理解できるようになってきました。整理の意味も含めてまとめておくことにします。
  讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。

この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。「大魚退治伝説」は、神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族が伝えてきた伝説です。これについては、以前に全文を紹介しましたので省略します。
この伝説については、研究者は次のような点を指摘しています
①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。
②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。
③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。
④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある
⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。
⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった
⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
 悪魚伝説が作られた法勲寺跡を見てみましょう。
 現在の法勲寺は昭和になって再建させたものですが、その金堂周辺には大きな礎石がいくつか残っています。また、奈良時代から室町時代までのいろいろの古瓦が出でいますので、奈良時代から室町時代まで寺院がここにあったことが分かります。
 中世になると綾氏の一族は、香西・羽床・大野・福家・西隆寺・豊田・作田・柴野・新居・植松・阿野などの、各地の在郷武士に分かれて活躍します。綾氏から分立した武士をまとめていくためにも、かつてはおなじ綾氏の流れをくむ一族であるという同族意識を持つことは、武士集団にとっては大切なことでした。
 阿波の高越山周辺の忌部氏の「一族結束法」を、以前に次のように紹介しました。
高越山周辺を支配した中世武士集団は、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
ここからは忌部氏の団結のありようが次のように見えてきます
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
阿波忌部氏のような一族団結のしくみを法勲寺(後には島田寺)の社僧(修験者)も作り上げていたはずです。
1 讃留霊王1
それの儀式やしくみを推測して、ストーリー化してみましょう。
 讃留霊王(武卵王)を共通の祖先とする綾氏一族は、毎年法勲寺へ集まってきて会合を開き、食事を共にすることで疑似血縁意識を養います。それに先立つ前に、儀式的な讃留霊王への祭礼儀式が行われます。そのためには聖なる場所やモニュメントが必要です。そこで、法勲寺の僧侶たちは近くの円墳を讃留霊王の墓とします。ここで集まった一族に悪魚退治伝説が語られ、儀式が執り行われます。そして、法勲寺に帰り食事を共にします。こうして自分たちは讃留霊王から始まる綾氏を共通の先祖に持つ一族の一員なのだという思いを武士団の棟梁たちは強くしたのではないでしょうか。こうして、法勲寺を出発点にした悪魚退治伝説は次第に広まります。
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社
②東坂元本谷の讃留霊王神社
③陶猿尾の讃留霊王塚
②の東坂元本谷には現在、讃留霊王神社が建っています。
③の陶猿尾では、小さな小石を積み上げてつくった讃留霊王塚とよばれる壇状遺構が残ります。そして「讃留霊王(さるれおう)塚」から「猿尾(さるお)」の地名となって残っています。この他にも「讃王(さんおう)様」と呼ばれる祠が各地に残っています。このように悪魚退治伝説は、丸亀平野を中心に各地に広がった形跡があります。
1讃留霊王2

 このような装置を考え、演出したのは法勲寺の修験者たちです
彼らをただの「山伏」と考えるのは、大きな間違いです。彼らの中には、高野山で何年も修行と学問を積んだ高僧たちがいたのです。彼らは全国から集まってくる僧侶と情報交換にある当時最高の知識人でもありました。
「悪魚退治伝説」と「金毘羅神」を結びつけたのは誰でしょうか?
 小松の荘松尾寺(現琴平町)には、法勲寺の真言密教僧侶修験者と親交のある者がいました。法勲寺を中心に広がる悪魚退治の伝説を見て、このが悪魚を善神に仕立てて祀るということを実行に移した修験者です。悪魚退治伝説の舞台は坂出市の福江の海浜ですが、それが法勲寺の僧侶によって内陸の地にもちこまれ、さらに形を変えて象頭山に入っていったのです。それが金毘羅神だというのです。
  推論とだけでお話をしてきましたが、史料的な裏付けをしておきましょう。  金毘羅さんで一番古い史料は元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札です。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
と云われてきました。しかし、近年の調査の中で、金毘羅さんにこれより古い史料はないことが明らかとなってきました。これは「再建」ではなく「創建」の棟札と読むべきであると研究者は考えるようになっています。つまり、元亀四年(1573)に金比羅堂が初めて建てられ、そこの新たな本尊として金比羅神が祀られたということです。これが金毘羅神のデビューとなるようです。
それでは棟札の造営主・宥雅とは何者なのでしょうか?
  この宥雅は謎の人物でした。金毘羅堂建立主で、松尾寺別当金光院の初代院主なのに金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物なのです。彼を排除する何らかの理由があるのだろうと研究者は考えてきましたが、よく分かりませんでした。
 宥雅については、文政十二年(1829)の『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)によれば、
宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
 御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去
 故二御一代之 烈に不入云」
意訳
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない

 とあって、
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥
②長宗我部侵入時に堺に亡命
③そのために金光院院主の列伝からは排除された
と記されています。金毘羅創設記の歴史を語る場合に
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
と今まで云われてきた所以です。
 ここからは長尾家の支援を受けながら金毘羅神を創りだし、金比羅堂を創建した宥雅は、その直後に「亡命」に追い込まれたことが分かります。
その後、高松の無量寿院から宥雅に関する「控訴史料」が見つかります 
堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の院主に復帰しようとして、訴訟を起こすのです。彼にしてみれば、長宗我部がいなくなったのだから自分が建てた金比羅堂に帰って院主に復帰できるはずだという主張です。その際に、控訴史料として自分の正当性を主張するために、いろいろな文書を書写させています。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのです。その結果、宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。このことについては、以前お話ししましたので要約します。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
①「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための文書加筆(偽造)
②松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏として、その垂迹を金毘羅神とする。その際に金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記す。
③「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」など寄進状五通(偽文書)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと泊付けねつ造

この創設工作の中で、宥雅が出会ったのが「神魚」だったのではないかと研究者は考えているようです。
 法勲寺系伝説が「悪魚」としているのに高松の無量寿院の縁起は「神魚」と記しているようです。宥雅は「宥範=金比羅堂開祖」工作を行っている中で、宥範が書き残した「神魚」に出会い、これを金毘羅神を結びつけのではないかというのです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものとします。
 つまり宥雅が参考にしたのは法勲寺の「悪魚退治伝説でなく、それに先行する『宥範縁起』中の無量寿院系の伝説」だとします。そして、宥範の晩年を送った生地の櫛梨神社に伝わる「大魚退治伝説」は、この『宥範縁起』から流伝したものと考えるのです。整理しておきましょう。
①「悪魚退治伝説」は 法勲寺 →  宥雅の金比羅堂
②「神魚伝説」  は 高松の無量寿院の建立縁起 → 宥範 → 宥雅の金比羅堂
ルートは異なりますが、宥雅が金毘羅(クンピーラ)の「発明者」であることには変わりありません。
 金毘羅神とは何かと問われて「神魚(悪魚)が金毘羅神のルーツだ」と答えれば、当時の中讃の人々は納得したのではないでしょうか。何も知らない神を持ち出してきても、民衆は振り向きもしません。信仰の核には「ナルホドナ」と思わせるものが必要なのです。高野山で修行積んだ修験者でもあった宥雅は、そのあたりもよく分かった「山伏」でもあったのです。そして、彼に続く山伏たちは、江戸時代になると数多くの「流行神」を江戸の町で「創作」するようになります。その先駆け的な存在が宥雅であったとしておきましょう。

 宥雅のその後は、どうなったのでしょうか。
これも以前にお話ししましたので結論だけ。生駒家に訴え出て、金毘羅への復帰運動を展開しますが、結局帰国はかなわなかったようです。しかし、彼が控訴のために書写させた文書は残りました。これなければ、金毘羅神がどのように創り出されてきたのかも分からずじまいに終わったのでしょう。
最後にまとめておきます
①讃留霊王の悪魚退治伝説は「綾氏系図」とともに中世に法勲寺の修験者が作成した。
②讃留霊王顕彰のためのイヴェントや儀式も法勲寺の手により行われるようになった
③綾氏を出自とする武家棟梁は、「悪魚退治伝説」で疑似血縁関係を意識し組織化された。
④綾氏系の武士団によって「悪魚退治伝説」は中讃に広がった
⑤新しい宗教施設を象頭山に創設しようとしていた長尾家出身の宥雅は、地元では有名であった「善通寺の中興の祖」とされるる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための工作を行っていた。
⑥その工作過程で高松の無量寿院の建立縁起に登場する「神魚」に出会う
⑦宥雅は「神魚(悪魚)」を金毘羅神として新しい金比羅堂に祀ることにした。
⑧こうして、松尾寺の守護神として「金毘羅神」が招来され、後には本家の松尾寺を凌駕するようになる。
⑨宥雅は、土佐の長宗我部侵攻の際に、堺に亡命した。後に帰国運動を起こすが認められなかった。
⑩自分の創りだした金毘羅神は、長宗我部元親の下で「讃岐の鎮守府」と金光院が管理していくことになる。
⑪時の権力者の宗教政策を担うことを植え付けられた金光院は、生駒・松平と時の支配者との関係をうまくとり、保護を受けて発展していく

以上です おつきあいいただき、ありがとうございました。

 西遊草 (岩波文庫) | 清河 八郎 |本 | 通販 | Amazon

    前回は幕末の志士清川八郎が母親と金毘羅大権現を参拝したときの記録『西遊草』を見てみました。しかし、まだ金毘羅さんの山下までしか進んでいません。今回は階段を上って、境内に入っていきましょう。早速、『西遊草』本文を読んでいきましょう。

4344104-36大門前
大門(仁王門)手前の石段 (讃岐国名勝図解)
原文 
 市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」といふ額あり。是まで家両岸に連れり。是よりは左右石の玉垣にて、燈篭をならべ、桜を植をきたり。
 壱丁余のぼりて右のかたに本坊あり。金毘羅の札をいだすところにて、守を乞ふもの群りあり。実にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
意訳
  麓から8丁(800㍍)ほどの急な上りで仁王門に着く。山門で「象頭山」の額が掲げられている。ここまで階段の両側には店が連なっている。しかし、この仁王門から先は、左右は石の玉垣で、灯籠が並び、そこに桜が植えられている。
  一丁ほど行くと右手に本坊(別当寺の金光院、現在の表書院)がある。ここで金毘羅の札をもらう人たちが大勢詰めかけている。これだけの人が求めるので、金銀の実入りも大したものであろう。私たちもここで開帳札をいただく。本坊を後にして石段を登ると、いろいろな末社が迎えてくれる。
1 金毘羅 伽藍図1

①幕末の時点で、仁王門(現大門)まで、石段と玉垣の整備されていたようです。さらに仁王門から先の平坦地には、すでに桜が植えられていたことが分かります。現在では、ここを桜馬場と呼んでいます。桜馬場の右手には、金光院に従って金毘羅領を統治する各坊が現在の大門から宝物館に架けて並んでいました。そして、一番上にあるのが「お山の領主サマ」の陣屋=本坊(金光院)です。
1 金毘羅 伽藍図2

②金毘羅の札も本殿ではなく本坊(金光院=表書院)で、取り扱っていたことが分かります。清川八郎もここで御札を求めています。本坊(金光院)は、神仏分離後は社務所となります。

4344104-33金光院
金光院本坊 讃岐国名勝図解

17世紀までの参道は、金光院の所で右折していました。それが18世紀になると参道は左折するようになったようです。その参道をさらに行くと、大きな建物が前方に姿を現します。現在の旭社(旧金堂)です。
  
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
薬師堂(金堂:現旭社)と多宝塔
原典 
壱丁ばかりにして、左の側、山にそひ、薬師堂(現旭社)あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫ものなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
   中門あり。
至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曾我部元親の賢木を以て建しものとぞ。少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈篭並びあり。夫外土佐侯、または京極侯の奉納あり。
意訳
一丁ばかり行くと左の山裾に薬師堂(金堂)が現れる。高さが五重塔ほどもあって、技術の粋をあつめたもののようだが、近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る。しかし、お金に糸目をつけずに建立したものだけあって、この付近で近年に作られた寺社建築としてはNO1のできばえといえるだろう。この薬師堂の前に、回廊が参拝者のための休憩所として提供されている。ここで、往路と帰路が別れる。
  往路を行くと中門がある。かなり古い建物に見える。長宗我部元親の寄進した木材で建てられたと云う。少し離れて鐘楼がある。これは生駒氏が寄進したものである。その他にも鼓楼や清少納言の塚がある。それから先には、高松藩祖の松平頼重が5回に分けて寄進した灯籠が並ぶ。他には土佐山内氏や丸亀京極氏の灯籠も見られる。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

①本坊(現表書院)から階段を上っていくと、大きな建物が現れてきます。これが現在の旭社です。
  「近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る」

と、古代の彫刻や建築物の方が雅で優れいるという清川八郎の美意識がうかがえます。本居宣長的なものの見方をもっています。そのため金毘羅大権現の「経営方針」などにも批判的な見方が所々に現れてきます。  しかし「近国にて新規の宮の第一といふべし」と、建物のできばえは評価しています。八郎は、この建物を「薬師堂」と記していますが実は、これは観音堂です。以前は薬師堂が建っていました。2年前に観音堂として完成したばかりでした。
「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています。

「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

DSC04048旭社

 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて仏教寺院の金堂として建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の観音菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。これを八郎も見上げたのでしょう。
 この後には清水次郎長の代参のために森の石松がやってきます。
この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点しても不思議ではなかったようです。
  金堂前の空間には灯籠が立ち並び、その下の空間には大きな多宝塔もあったことが当時の配置図からは分かります。まさに、旭社周辺は「仏教伽藍エリア」だったようです。それを、清河八郎は少し苦々しく思いながら本殿に進んでいったのかもしれません。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  旭社から往路を進むと門をくぐります。戦国時代に土佐の長宗我部元親が寄進した門と伝えられます。明治になると「賢木(さかき)門」と呼ばれるようになり、寄進者の元親を貶めるエピソードと共に語られるようになります。後に、松平頼重によって仁王門が寄進されると、そちらが大門、この門が中門(二天門)と呼ばれるようになります。
  「右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。」

とあります。現在の清少納言塚は大門の外にありますので、明治になって移されたようです。

i-img1200x900-1566005579vokaui1536142

金毘羅大権現本殿  原文
 本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、里などを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫らく休み、詠めありぬ。本殿の側に銅馬、其他末社多くありて、さみしからぬ境地なり。
 殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇せぬものなく、伊勢同様に遠国よりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびただしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、
近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦するものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。
 夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、ハツ頃に山門の前なる内田や甚右衛門にやどる。
 
4344104-39夜の客引き 金山寺
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現本社 讃岐国名勝図解
意訳
  本殿は五色に彩られ小さな建物ではあるが、美しいことには限りない。しかし、参拝者が多く群がり、開帳を忽疎(おろそか・なおざり)にしてすぎているように思える。本殿の左からは讃岐富士、海・山・里が一望できる素晴らしい景色が広がる。しばらく休息し、詩句などを作る。本殿の側には銅馬や、摂社が多く立ち並ぶ。

4344104-08観音堂・絵馬堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂
  金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、伊勢神宮と同じように遠くから参拝者が集まるようになった。特に水上関係者の信仰が厚く、船主の奉納品がおびただしい。そして、麓から本殿まで玉垣が途絶えることなく奇麗にめぐらされている。このような姿は、他の神社では見たことがない。
 数十年前まではそれほど参拝客が多いわけでもなく、建物も未整備であったのが近頃になって急速に台頭してきたのは、神様の思し召しなのであろうか。今では天下に肩を並べる神社としては、伊勢は別にしても、江戸の浅草か長野の善光寺くらいであろうか。
  神威については、世間の人々がよく知るところで金毘羅の入口にも、朝川善庵(松浦侯儒官。名は鼎、宇は五鼎、号は善庵。江戸の人。古学派)による由緒が大きな碑文に刻まれていた。神の縁起を詳しく知らないので、ここには記さない。荷物を預けた備前屋に帰り、精進落としに一献傾けてから善通寺に向かう。象頭山の山裾を70丁(約7㎞)あるいて、善通寺に八つ頃(午後3時)についた。宿は山門前の内田屋甚右衛門にとった。

ここでも建物や眺望は褒めながらも、寺社の運営については「参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり」と批判的に書かれています。数多く押し寄せる参拝客への対応が粗略に感じられたこともあるのでしょう。
IMG_8056
本殿よりの丸亀平野や瀬戸内海の眺望 讃岐富士がおむすびのよう

 その後の金毘羅大権現の発展ぶりについて
「数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけ・・・」
金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、」
と記されている点が興味深いところです。金毘羅は数十年ほど前まではたいしたことはなかったのに、突然のように全国から人々が参拝に訪れるようになったといいます。そこには、金毘羅は、古くからの神ではなく数十年前から全国に広まった「流行神」であると認識していたことがうかがえます。その流行神の急速な発展ぶりに、驚いているような感じです。

4344104-13鞘橋 潮川神事と阿波町
金刀比羅宮 鞘橋を渡る頭人行列

「金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。」

には、そのまま素直に受け取れない所が私にはあります。流行神として勃興著しい金毘羅に対して、批判的な目で眺めている八郎です。その彼が「神の縁記(由緒)を委しくしらざれば、ここにしるさず。」というのは素直には受け取れません。彼の知識からすれば書きたくない内容の由緒であったのではないかと穿った見方をしています。

DSC01390善通寺
  善通寺(当時は五重塔はない)
   善通寺は弘法大師の誕生の地にして、至ってやかましき勅願所なり。されども宮は格別誉むべきほどの結構にもあらず。本堂の前に大師衣かけ松あり。三本の中にいづれも高大なるふりよき松なり。松の下に池あり。御影の池といふ。古しへ大師入唐せんとせし時、母のなげきにたへず、法を以て此池水にその身の影をのこせし池とぞ。善通寺といふももと大師の父善通(よしみち)の宮居せし処ゆへ、名づくるとぞ。その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ
意訳
 善通寺は弘法大師の生誕の地であり、勅願所である。しかし、伽藍はさほどたいしたことはなく立派でもない。本堂の前に大師の衣架け松があり、3本とも高く枝振りもいい。松の下には池がある。御影池という。弘法大師が入唐の際に母の悲しみや心配・不安を除くために、この池の水面に自分の姿を写し残したと伝えられる。善通寺という名前も、もともとは大師の父善通からとられたものだという。その他に名所と云われるところはあるが、たいしたことは無いので省略する。
 
1丸亀金毘羅案内図1

当時は丸亀港にやってきた金毘羅参拝客は
「丸亀 → 金毘羅 → 善通寺 → 曼荼羅寺(出釈迦寺が後に独立) → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺 → 丸亀」

と巡礼していたようです。これは、もともと地元の人たちが行っていた「七ヶ寺参り」を、金毘羅参拝客も巡礼するようになったようです。ここには、地元の「地域巡礼」を全国区の巡礼エリアにグレードアップするための仕掛け人がいたはずです。それについては、以前お話ししましたので省略します。
 




八郎は国学的な素養をベースにした教養人ですから仏教寺院については、どちらかというと辛口に評価する傾向があるようです。善通寺についても、空海の生誕地であることのみで「その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ」といたって簡単です。

 この後に、母子は新しく完成したばかりの多度津新港から宮島方面に向けて、出港していきます。清河八郎が幕末の激流の中に飛び込んでいく前の母との「思い出旅行」だったのかもしれません。しかし、記録をのこしてくれたおかげで170年後の私たちは、当時のことを知る大きな手がかりとなります。感謝

1 清原八郎
 藤沢周平の「回天の門」の主人公 清河八郎について
「回天の門」中で、幕末の尊攘派の志士であり儒学者であった主人公の清河八郎を、藤沢周平は次のように記しています
「清河八郎は、故郷清川を家出という形で上京し、何の後ろ盾もない中、高い志のもと、人との繋がりを大切にし、類まれなる説得力で、幕末の数多くの同士をまとめていった。」

 藤沢周平は恩師が記念館の館長であった縁もあって、2年をかけて記念館に足を運び、展示資料を読み解くなどして、八郎の生涯を調べたそうです。この中で幼少の日々から、志半ばにして討たれるまでの八郎の行動と、彼を取り巻く人物たちを、史実に基づきながら丁寧に追っていくことで、八郎の人物像が描かれていました 
 その清河八郎が、安政二年(1855)26歳の時に、母親を連れて金毘羅さんにやって来ています。
母を連れての大旅行の出発のきっかけは?
  安政2年正月下旬、八郎が26歳の時です、神田三河町の清河塾が開塾3ヶ月にして延焼してしまいます。八郎は失意のまま山形の実家に帰ってきます。ぽっかりとあいた時間と心を埋めるために、母親の亀代が望んでいた伊勢詣でに出ることになったようです。下男の貞吉を連れて、春先の雪が残る3月20日に山形の清川をスタートします。まずは伊勢を目指します。しかし、当時の「伊勢詣で」は、伊勢だけにあらず・・」でした。その参拝ルートを見てみましょう。
①最上川を川船で下って、酒田港へ
②酒田から北前船で越後へ
③越後から北国街道で、善光寺詣で
④女人禁制の福島の関を避けながら木曽道を行き、
⑤途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道で伊勢詣
⑥奈良・京都・大阪・兵庫、播磨の「西国三十三ヶ寺巡礼」
⑦姫路書写山にお参り後に、岡山から四国に渡って丸亀へ
⑧讃岐の金毘羅・善通寺に詣で、
⑧多度津から船で瀬戸内海をクルージングしながら宮島
⑨さらに周防岩国の錦帯橋を渡って
⑩帰路に、残りの三十三ケ寺巡礼
という欲張り旅行は、半年を越える大旅行でした。今の私たちからするとびっくりするような長旅です。しかし、当時の東国からの人たちは
「善光寺 + 伊勢参り + 西国三十三ヶ寺 + 金毘羅 + 宮島 」
というのが基本的な伊勢詣でプランだったようです。一生に一度の「伊勢参り」ですから、ついでに「何でも見たやろう、参っておこう」的な巡礼パターンが一般化していたのです。日本人の好奇心・旅行好きはこの当たりからもう形作られていたのかもしれません。おそるべし、ご先祖様です
紀州加田より金毘羅絵図1
 清河八郎は、旅先の風俗を細やかに観察した旅日記を『西遊草』と題して残しています。その記録の意図を次のように記しています。
  我記するところの事を案じ、一世に一度は必ず伊勢いたさるべきなり。されども道中の労をしのび、孤燈のもとにて思ひのままをしたためたる此『西遊草』なれば、大人見識の見るに供するにあらず。但児童、小婦の伊勢参ばなしに、旅中のあらましをさとさんために、しるしおくのみ。

ここでは「想定読者」を「世の中の大人に見せるものではない」とし、後日、弟や妹が伊勢参りをする際、旅中のあらましをさとすため」の私的な作であると断っています。
DSC06658

その「丸亀・金毘羅・善通寺」の部分をのぞいてみることにします
(安政二年)五月十五日
 丸亀は讃州にて京極氏の城下なり。
城は築きたての山城にして、楼櫓列なり、しもより眺みるに、美事なる事いわんかたなく、あたかも村上の城に類して、またはるかに念の入りたるなり。町家も多く、殊に金毘羅渡海の港なれば、客船の往来たゆる間もなく、実ににぎわひの地なり。且金毘羅とは百五拾町へだてたり。されども象頭山は僅目の前に見ゆれども、路のめぐりめぐりするゆへ、遠迂になるなり。
 舟より直になはやなる家にて衣類をととのへ、且朝食をなしぬ。是日もやはり入梅の気にして、晴雨さだまらず。時々雨衣を被りき。此辺西南にひらけたる事かぎりなく、且四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳 
丸亀は讃岐の国にあり、京極様の城下町である。
城は山の上に築かれた山城で、楼閣が列を成して並び下から眺めると、その見事さは言い表せないほどで念が入った造りだ。町家も多く、金毘羅船の終着港でもあり、そのため客船の往来は絶えることなく、殷賑をきわめている。丸亀と金毘羅は150町(15㎞)ほど離れている。見た目には、象頭山はすぐ近くに見えるが、道はまわりめぐり続くので案外遠い。。
 金比羅船から下船し「なはや」という店で衣服を整えて、朝飯をとる。天気はこの日も梅雨入りに近いためかはっきりとしない。時々、雨具をつけて丸亀街道を進んでいく。このあたりは西南に方面に広く開けた地形で、「四国富士」という小山が街道から一里ほど向こうに突き出た山容を見せている。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、付近の子どもが教えてくれた。
この当たりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
岡山の児島からの船で丸亀港に着きます。船を下りて朝食をとっていますので、潮時の関係で夜に備讃瀬戸を渡ってきたようです。金毘羅参拝後に丸亀に引き返してくる場合には、十返舎一九の「弥次喜多」のように荷物を宿に預けてお参りにいきます。しかし、この母子は多度津から宮島へ行く予定なので荷物を持って、旅姿に着替えて丸亀街道を歩むことになります。
289金毘羅参詣案内大略図

 道中に「四国富士」(讃岐富士)が出てきます。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。
 ここからは、当時は年に一度しか登ることが許されていなかったことが分かります。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。「讃岐富士禁足」に触れた史料に、私は初めて出会いました。
 この時代の旅行記と今の旅行案内を比べると、大きく違うこととして私が思うのは
①宿の名前は必ず記すが、その善し悪しの評価はない
②食事も、内容や味には触れない
③街道の道案内記事はない。
考えて見れば筆で合間に記録するとすれば、それほど多くの情報を残すことは出来ないという制約もあったのでしょう。
230

 金毘羅までやって来ました。
金毘羅参詣のもの群がりて道中にぎにぎしく、やすらひながら昼頃に金毘羅麓にいたる。
 入口に金鳥井あり。夫より石燈篭並びあり。勿論昨年の洪水にて余程損じたるとて、いまだ全備せざりき。金毘羅の町は賑ひいわんかたなく、市中に屋根の付たる橋(鞘橋)を渡し、夫より両端旅篭や軒をならべ、いづれも美事なる家ばかりなり。
 空腹に及しかば、備前やなるにて午食をいたし、荷物をあげをき、参詣する。吾は再びなれば(八郎は7年前の嘉永元年に詣でている。)案内よく覚ゆ。金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり。 
意訳
 金毘羅街道をいく参拝者は数多く、道中は賑わっていている。休みを取りながら昼頃に金毘羅の麓に着いた。
 町の入口に鉄の鳥居(現高灯籠付近)があり、そこからは灯籠が並ぶ。昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していないと云うが金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋=一の橋で参道に当時は参道に架かっていた)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。
 お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。私は初めてではないので、案内はよく覚えている。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林(郷里清川の仙人堂をめぐる杉林)と同じように木々が茂り、大きな森となっている。
  丸亀から琴平まで4里(16㎞)足らずです。
DSC01118
その一里塚の大きな松が、かつては現在の高灯籠付近にはあったようです。そこにあった鉄の大きな鳥居は、現在は美術館横の石段に移されています。灯籠の一部はJR琴平駅前広場に移されていますが、一部は今でも交番付近に並んでいます。
 ここで注意しておきたいのは
「昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していない」
と出てくる「昨年の洪水」です。これは、以前にお話しした満濃池の決壊による被害のことのようです。
この時には鞘橋をはじめとする琴平の橋が殆どながされています。
DSC01211

「屋根の着いた橋(=鞘橋)」を渡ったとありますので、この時点では復興していたのかもしれません。どちらにしても、洪水の被害を受けながらも、金毘羅には多くの参拝客が訪れ賑わっていたことが分かります。鞘橋を渡った内町の旅籠外の家並みも美しいと褒めています。
讃岐の里山は、はげ山だった?
次に私が気になるのが
「金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり」
の部分です。
丸亀街道から周囲の山々をみた時にも
「すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。」
とあります。山は
「象頭に異ならずして、草木まれなり」
「いづれも草木不足なり。」
で、宮宮の鎮座する所は
「吾国の仙人林の如く、草木繁りあり」
なのです。これは、何を表しているのでしょうか?
  思い当たるのが象頭山の浮世絵です
1 象頭山 浮世絵

清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、広重によって描かれた  の「讃岐 象頭山遠望」です。岡田台地からの「残念坂」を上り下りする参拝者の向こうに像が眠るように象頭山が描かれています。
 山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、伐採が行われ「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?
6400

歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、以前お話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、丸裸のはげ山だったのかもしれません

zozuzan_mt
 あくまで私の仮説です。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

   18世紀半ばすぎから19世紀初頭の半世紀で御手洗の人口は4倍に激増しています。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
明治5年(1872) 戸数369
そして、明治10年(1877)には400戸を越えています。このあたりが御手洗の繁栄のピークだったようです。そして明治20年代に入ると、戸数はしだいに減少に転じていきます。それは塩飽や小豆島など島嶼部の港が共通にたどる道です。
どうして、明治二〇年代に瀬戸内海の港町の勢いが失われていくのでしょうか。いくつかの要因がありますが
まず第1に考えられるのが鉄道の到来です。
 日清戦争の際に広島に大本営が置かれるのは、広島まで鉄道が延びていたからです。明治27年の日清戦争の開戦時には、鉄道が広島までやってきていたのです。これは輸送革命をもたらします。輸送手段の主役は、船から鉄道へと代わっていくことになります。人とモノの流れが変わります。芸予の人たちは、船で大阪に向かっていましたが山陽沿いに鉄道が走るようになると、尾道や三原に出て鉄道に乗るようになります。御手洗をはじめとする瀬戸の港町は「瀬戸内海という海のハイウエーのSA(サービスエリア)」の地位を、次第に追われるようになったようです。
 2つめは、ライバル港の登場です。
明治になると、御手洗の北側にある大崎上島の東をぬける航路が整備されます。この航路に沿って燈台建設などが進められ、そのルート沿いの木之江や鮒崎が御手洗のライバル港として現れます。それまで御手洗を中心に形成されていた商業圏が崩れ始めます。
3つめは、船の変化です。
7 機帆船

 明治後半になると、江戸時代以来の帆船に変わり機帆船の数が増えはじめます。この時代になると人もモノも鉄道に流れ、北前船の姿は消えます。瀬戸内海物流の主役は、石炭になります。北九州の石炭を大阪に運ぶ機帆船が多くなります。この船は御手洗に入港しますが、その積み荷の石炭を御手洗商人が買い入れて、地域で売るということはできません。御手洗商人の活躍の場が無くなったのです。
 また、機帆船は焼玉エンジンを積んだ動力船なので、それまでの帆船のように風待ち、潮待ちを重ねながら航海をするということはなくなります。目的地の大坂を目指して、御手洗を素通りしてしまう船が多くなります。それに加えて、先ほど行ったように大崎上島の木之江、鮒崎が寄港地として台頭します。減った船を、ライバル港と奪い合うよう状況になっていったようです。
 それまで、芸予諸島西部の商業圏を、江戸時代に広島藩の海駅だった下蒲刈島の三之瀬と御手洗が二分してきました。ところが大正時代にはいると、大崎上島の木之江がめざましい成長をとげ、御手洗の北部の商圏は木之江のものとなっていきます。 御手洗を中心とする経済圏が、次第に狭められていきます。

 4つめは、焼玉エンジンが海のストロー現象を引き起こします。
7 御手洗 焼玉g
動力船の一般化によって島の人々の線の行動範囲は、ぐーんと広がりました。尾道、竹原、今治などの大きなまちに、一日で往復できる時代がやってきたのです。島の人たちは、動力船に乗り合わせて「都会」に買物にでかけるようになります。動力船が普及する前は、手こぎ船で往復できる御手洗、三之瀬、木之江というまちが商圏でした。御手洗商圏を動力船が突き崩してしまったのです。近年の高速道路や新幹線が、お洒落な人たちを三宮や梅田まで買い物に出かけさせるようになったのと似ています。百年前のストロー現象が瀬戸内海で起きていたのです。
  「繁栄」を続けていたのは、御手洗のどの地区なのでしょうか?
当時の地籍図からそれが読みとれるようです。明治28年の地籍図には、地租徴税のために御手洗の10の町毎にの宅地評価ランクが1~5等で示されています。ここからは屋敷地の評価価値を読みとれます。評価が高い町は、活発な活動が行われていると考えられます。
 
7 御手洗 M28

 一等の黒い宅地部分はは、住吉町の海岸通りと相生町です。
住吉町は、江戸時代後期に新しい波止場築かれ、船宿、置屋のある歓楽街として賑わいをみせてきました。それが、帆船がまだ多かった明治二〇年代には、寄港する船乗り相手に賑わいを維持していたことがうかがえます。また、相生町は、御手洗の商業の中心地です。中継的商業が衰退しても、賑わいの「残照」が残っていたようです。

 二等の斜線部分は、蛭子町と、住吉町、榎町、天神町のI部です。
蛭子町は、住吉神社の前の波止場が出来る前までは、北前船の荷揚げ場の中心でした。そのため蛭子町は、相生町にも増して賑わいをみせたところと思われますが、この頃には多くの宅地が二等となっています。
   三等の格子状部分、常盤町に多く分布します。
常盤町は、今でも古い町並みを残す一角で、江戸時代のある時期までは、御手洗の商業の中心であったところでした。しかし、明治二〇年代には、相生町、蛭子町より等級は落ちています。かつての賑わいがなくなっていたことがうかがえます。
それでは、これが16年後の明治44年には、どう変化しているでしょうか?
明治44年版は、25ランクに細分化されています。しかし、一等の黒い部分が一番高く評価されている宅地であることに変化はないようです。
7 御手洗 M44
 前回の明治28年に一等だった住吉町は、一~三等の三ランクに区分されています。大東寺付近が一等で、南に行くと三等となるようです。しかし、住吉町がトップランクなの変わりないようです。石炭をはこぶ機帆船が主流になっても、船員たちは大坂からの帰路には、馴染みの女がいる住吉町に立ち寄る者は少なくなかったようです。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」
という船宿の主人の言葉が思い出されます。
 16年前は二等であった相生町は九等まで下がっています。蛭子町は、大部分が10等です。やはり、住吉町の色町の輝きは船乗りを引きつける魅力があったようです。
戦前の御手洗の「主力商品」は、なんだったのでしょうか?
7 御手洗 交易表

  一番下の昭和13年の輸入金額でみると、最も多いのは「弁甲」とあります。私は、最初は「鼈甲」と勘違いしていて、不思議に思っていたことがあります。弁甲とは、九州日向産の杉のことです。これが木造船には最もいい用材とされたようです。それが御手洗港の輸入取扱額の半分以上を占めます。丸太材も10%ありますので、6割は木材ということになります。輸出に至ると、「弁甲」は8割近くになります。
 明治には米の取扱が半分だったのが、主役は「弁甲」に代わっているのが分かります。この背景には何があったのでしょうか?
弁甲は宮崎から御手洗に送られてきて、ここから阪神地方へと送られていたようです。丸太材は宮崎、高知、徳島から御手洗にはいり、やはり阪神地方に運ばれています。
 瀬戸内海は、古くから「海民」の活躍の場であり、その機動力として多くの船が作られてきた土地柄です。御手洗の近くにも広島県倉橋島や岡山県牛窓などの船大工が集まり、船造りが盛んな所がありました。
 明治末期から大正時代にかけ、その船大工の伝統をもとに、大規模な造船地が生まれてきます。大正時代にはいると巨大な造船地帯を形成するようになり、第一次世界大戦の戦争景気ではおびただしい数の船が作られて、造船景気を生み出します。
 御手洗の港で弁甲が大量に取引されるようになったのも、芸予諸島の造船地帯の勃興が背景にあったようです。御手洗は、弁甲産地の宮崎と、主な需要地の阪神地方のほぼ中間に位置し、また、瀬戸内各地に造船地帯を背後に持ちます。そのことが御手洗を船材の中継地としての役割を持たせることになったと研究者は考えているようです。
 もちろんそこには、中継的商業の伝統のノウハウが御手洗に根づいていたこともあります。御手洗は大正時代に「北前船の米」から、「造船所で使う弁甲」の中継地へと転進したようです。
 しかし、これも木造船から鋼鉄船へと変わる時代がやって来ます。それに対応する術は、なかったようです。

 現在の御手洗で、約百年前の昭和初年からの商売を引き続いて行っている家は、10軒もないと言います。大きな変動の中で多くの人が、ここから出て行ったのです。
 御手洗のまちを歩くと、塗寵造りの商家の二階の格子窓をぶちぬき、物干し場をとりつけたり、表通りの倉庫が蜜柑納屋に変わっている光景がかつてはありました。商家の多くが仕舞屋に変わったばかりでなく、いつの頃からか町中にみかん農民が住みはじめたのです
 戦後、御手洗の商業がまったくふるわなくなると、人びとは家を空けて、他の土地に稼ぎに出かけ、そのまま出先に住みつく人が増えました。あるいは旅稼ぎに出かけず、店をしまったまま老後を御手洗ですごした人もいました。その家もいつしか代替わりをし、次の世代を受けつぐ者が、よその土地で暮らしをたてはじめます。そこで、その空家を買い取り、新たな人びとが御手洗の地に住みついていったのです。
 戦後、住民が交替した家を研究者が調べてみると、現在の212戸の中で、53戸までが大長出身者であったようです。大長集落は、「大長みかん」で有名なところです。かつては、「農船」(農耕船)で、周辺の無人島に出作りに出かけていました。その範囲は、芸予諸島のほか、呉市から竹原市にかけての山陽沿岸、菊間町から今治市にかけての四国地方までも及んでいたことがあります。
 大長みかんはブランド化され、みかん農家は豊かになりました。このため末子相続制のこの集落では、自立した長男たちが分家の際に御手洗の空家を手に入れるようになったのです。そのためかつては商家だった家屋に、みかん農家が入り、みかんの納屋が建てられているという姿が普通に見られたこともありました。
 何もなかった御手洗の浜に、潮待ち風待ちに入り込んだ船を相手に商売を始めたのも大長の人たちでした。社会変動の中で、人びとがまちをあとにした後に、かつての親村である大長から人々が入って行って住み始めるのを、先祖たちはどんな風に見ているのでしょうか。
 いろいろなよそ者がやってきたが、最後は地元の大長の者の手に帰ってきたと、苦笑いしているのかもしれません。
参考文献  廻船寄港地御手洗町の繁栄とそのなごり
                

広島県呉市「御手洗」は懐かしい故郷のような町並み | 広島県 | LINE ...
 江戸時代の街並みは、大火災に見舞われた経験をどこも持っています。御手洗のまちも、元文、宝暦、文政、天保と、四度の火災にみまわれているようです。なかでも宝暦九年(1759)宝暦の大火は、延焼が127世帯におよんでいます。全世帯が300軒余りでしたから半数近くの家が失われたことになります。この大火の後、まちでは年寄紋右衛門(柴屋)以下四名が、豊田郡代官所にあて、救助を願い出で次のような家屋再建の用材を求めています。
壹軒分諸入用左之通
柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
合掌、向差、角木、拾本 壹丈壹尺位
家なか、垂木、ゑつり、ぬいほこ 共大から竹三乗 貳尺五寸手抱
藁 三拾乗 五尺手抱
縄 貳乗半 三拾尋操
   ここからは火災後に、どのような構造の家が建てられたかが推察できると研究者は云います。
「壹軒分諸入用左之通」とありますので、一軒の家再建のために次の材料を用いるということなのでしょう。この材料を使って再建されたのは、二間四方の藁葺き家だったようです。
①柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
 梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
 柱を一間間隔に四方にたて、柱の上に四本の桁と二本の梁をのせて木組みをした構造
②合掌とは、草屋根をささえる材、
③向差とは、妻側で草屋根をささえる材、
④角木は、家屋の四隅にわたして草笛根をささえる材
で、それぞれ、四本、二本、四本の計10本が必要です。
⑤家なか(屋中竹)は、合掌材の上にくくる竹。
⑥ゑつりは、藁の下地をなす桟竹
⑦ぬいほこは、藁をおさえる矛竹
⑧藁の量や縄の長さ 
ここからは、宝暦九年の大火で、更地になった跡地にあまり時をおかずに、御手洗商人たちは同規格の新たな家屋を一斉に新築していったことがうかがえます。一八世紀中期という時代は「戦後の高度経済瀬長期」と同じように、そんな再築方法が進められるだけの経済力と機運があった時代だったようです。

 今、常盤町に残る「妻入り本瓦葺き、塗寵造り」の家屋は、デザインだけでなく防火建築としても優れたものだと研究者たちは評価しています。それは「モデル住宅」を基準に、工法やデザインを共通にして建てられた建物群だからできたのではないかと研究者は考えているようです。常盤町では、古い土蔵をとりこわした際に、安永期(1772~80)の棟札が出てきたそうです。その頃には、すでに主屋の再建が一段落し、土蔵を建てる時代に移っていたのかもしれません。
 瀬戸内海の港町を歩くと「妻入り本瓦葺き塗寵造り」の町屋建築物がその「街並みの顔」となっている姿をよく見かけます。この建築様式は、18世期中期に確立されたと云われます。御手洗に今日に残る町並みも、
①宝暦の大火の後に、二間四方の藁葺き建物群が再建された
②その後、安永期にかけて現在のタイプに再建された
と研究者は考えているようです。それは
「御手洗の商人が、中継的商業を興しながら財力を築き、その力をもって生み出した町並み」
であるようです。

19世紀はじめの御手洗の人たちの職業は?
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」には、次のように記します。
当村町形勢気候民戸産業之事(前略)
御手洗町之儀者
問屋中買店商  三歩(3割)
船宿客屋風呂等焚キ渡世仕候もの三歩(3割)
農業並びに船抄日雇中背相混シ渡世仕候もの四歩(4割)
つまり、①問屋仲買人が3割  ②船宿・風呂屋が3割 ③農業と日雇い4割  という職業構成だったようです。当時、大長村と御手洗町をあわせた家数は、736軒。うち百姓481軒、社人2軒、医者4軒、町人118軒、職人13軒、浮過(日雇い)118軒とあります。百姓は大長に住んでいたので、
736軒 - 百姓481軒= 255軒
が御手洗の戸数と考えられます。そして、その3割が商人であり、日雇い無産階級の人々と同数であったということになります。
 三割を占める問屋、仲買、店商いは、どのような品物をあつかっていたのでしょうか?
  穀物 あいもの 荒物 小間物 酒 塩 薪 茶 味噌 醤油 酢 油 粕 蝋燭 呉服類 木綿 綿 紙 章汗子 銘酒 瀬戸物 琉球芋 桃 柿 諸茸類、金物細工もの類 野菜類 かう類
 以上の29品目です。主力商品は穀物(米)でした。3月から8月までは北国登りの廻船をを扱い、日本海の荒れはじめる9月から翌年の2月には、伊予、中国、九州の米穀を扱っていたようです。
  この頃には、御手洗は周辺の島々の商圏の中心地になっていました。そのため周囲の米需要を御手洗の米穀問屋が引きうけていたようです。芸予諸島の耕地は、水田耕作をするところが少なく、江戸時代は、麦や甘藷の栽培が主流でした。この畑は明治期を迎えると桃や蜜柑等の果樹園に変わり、以後も水田となることはありませんでした。そのため、島じまでは裕福な人たちは、御手洗商人から米を買っていたようです。寄港する船が購入する米も、少なくはなかったのでしょう。御手洗には、米の小売業を営む者が戦前まで多かったようです。
 小間物屋が多いのも、この町の特徴ですが遊女屋の女性たちの需要があったようです。船宿、客屋、風呂屋等については、次のように記します。
   茶屋については、
(前略)右遊女平常勤方之儀者、昼者かりと唱宿屋或者船杯ヘモ遊二参り申候、夜分者暮合頃より夜店ヲ出し時節流行之唱歌ヲ唱ひ三味線小弓杯ひき 四つ時限り夜店相仕舞申候
とあり、夜昼となく賑わいをみせていた様子がうかがえます。室町時代に、外交使節団長としてやってきた李氏朝鮮の儒学者が
「日本の港では、昼間から遊女が客を町中でひいている」
と、おどろいていましたが、時は経っても変わらない光景が日本にはあったようです。
   風呂屋については
 風呂屋之儀者貸座敷と中懸ヶ行燈ヲ出し 遊女芸子等すすめ候儀二御座候
とあり、風呂屋が貸座敷となり、客に遊女をすすめていたようです。
前回もお話ししましたが船乗りたちは船宿に到着すると茶湯の接待を受けた後,風呂に入り酒宴に興じます。この時に馴染みの女性が湯女として世話し、宴会にも侍ります。船宿に泊まるのは原則は船頭だけでしたが、船員の中には「ベッピン」と呼ばれる芸娼妓を伴い,船宿や旅館で一夜を共にすることも少なくなかったようです。置屋は,こうした芸娼妓たちの居住の場でした。芸娼妓たちは,置屋から船宿や料理屋へ出張したり,おちょろ船に乗って沖に出たりするだけでなく,置屋へ客を引き入れる場合もあったと云います。これらの業種は, 千砂子波止に近い築地通り沿いの住吉町にあったのです。住吉神社が姿を現して以後は、ここが御手洗の歓楽街だったようです。
   舟稼ぎ、旦雇、中背(沖仲仕)等については記載がありません
 船の荷物の積み卸しなどの作業には港湾労働者が必要です。彼ら「無産階級」が戸数の4割を占めていたことにも注意しておく必要があります。御手洗に来れば稼ぎ口があり、よそからの参入者を受けいれる土地柄であったのです。当然、人口流動性も高くなります。
7 御手洗 8北
  千砂子波止と住吉神社の出現が御手洗に何をもたらしたのか・
 19世紀になると御手洗には、北前船や各藩の廻船と共に、仲買商人や文人墨客など、沢山の船や人が集まる様になりました。そんな中でこの港の課題として浮かび上がってきたのが、港入口の岩礁の存在です。ここが難所となり、船を傷つけることがあったようです。そこで、幕府は広島藩に指示し、千砂子波止の着工を命じます。難工事の末、文政12年(1829)に完成した石造りの波止場は、当時「日本一無双の大波止」として、全国の船乗りに知られるようになります。
7 御手洗 波止場98北

 これの波止場の完成を契機に御手洗港は、ますます北前船が立ち寄るようになり、多くの物資が集まる巨大な経済圏の中心になっていきます。 この波止場の完成を記念して、広島藩はこの波止場に住吉神社の勧進建立計画を作成します。そして、有力者に神社建設の寄進の話を持ちかけるのです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

住吉神社の建立資金を出したのは、だれなのでしょうか?
広島藩の勘定奉行が話を持ち込んだのは、藩の蔵本で大坂商人の鴻池善右衛門でした。善右衛門は、即座に社殿の寄付を申し出ます。彼の頭の中の算盤には、御手洗の巨大な商圏を手中に収めておこうという算段があったのかもしれません。御手洗の経済規模は、それだけの投資をしても惜しくないものに成長していたのです。
  こうして造営は、鴻池家の寄進によって進められることになります。社殿寄付の話がまとまると、天保元年(1830)年5月から境内の埋め立てが始まります。 工事の材料入手や夫役が「波止鎮守社住吉大神宮寄進帳」に詳しく残されています。
 埋め立てに先だって海辺に長さ30間の石垣が築かれます。石垣のために1446石の石が付近の村から寄進されています。寄進したのは予州北浦、御調郡鰯島、安芸郡坂村、安芸郡呉村、瀬戸田村、大長村、大河原田村などの有力者30名です。船で、御手洗に運ばれてきたのでしょう。
 次に、埋立作業の人夫のことが記されます。
付近の東野村、沖浦村、中野村、明石方村、原田村、大串村、大長村、豊島村、久比村、大浜村、斎島の島じまの庄屋が世話方になり千人を超える人夫が集められ工事が始まります。さらには、芸予諸島以外の山陽側の田万里村、小阪村、七宝村、竹仁村、小泉村の庄屋も世話方となり、工事に力をかし、人夫を送り込んできます。御手洗の商圏エリアの有力庄屋たちが協力していることがうかがえます。   
 そして、地固めの際には茶屋の遊女が総出で繰り出し、華やかな踊りを披露して、港は祭り気分に湧きたったようです。その姿をひと目見ようと、近在近郷より見物入が舟を仕立てて群をなしてやってきたと記されています。新しい港の完成と、その守り神となる住吉神社の勧進事業は、一大イヴェントに仕立てられていきます。人を呼び込むことが、港町や門前町の必須課題なのです。
  海が埋め立てられ造成されると、上棟式が行なわれます。
鴻池氏の寄進になる社殿の材は、大阪から積み出されて船で御手洗に運ばれました。同時に、大工棟梁、金具屋、屋根屋も大阪からやって来ます。波止ができ、その鎮守の住吉神社が姿を現すようになると、住吉町は御手洗の新しい表玄関となります。次々に家が建ちはじめ、紅燈あでやかな町並みが出来ていきます。この海沿いの街に建ち並んだのは、船宿と置屋だったといいます。この街並みには住吉神社の由来から住吉町と呼ばれるようになります。
  現在の住吉神社を訪ねて、その歴史を感じてみましょう
 住吉神社は御手洗の斎灘を眼前にひかえた街の南端に鎮座しています。
呉市豊町御手洗住吉町 船宿cafe若長 - 大之木ダイモ|広島、呉の ...

この境内には創建時の奉納物が数多く残されています。大坂の鴻池家により建立されたという歴史から大坂と関係したものが多いようです。まず、迎えてくれるのは境内入口に高くそびえる石造高燈寵です。これには「太平夜景」と刻まれ、天保三年(1832)、金子忠左衛門、男十郎右衛門と寄進者の名が記されています。この金子氏は、三笠屋を屋号とする御手洗の庄屋です。
 境内入口にかかる太鼓橋は、もとは木造でした。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

それを明治43年に、鞆田幸七、今田愛兵衛の寄進により、伊予の今治から石工を呼び寄せて石造りに改修しています。
 鳥居は、文政13年(1830)、大阪の和島屋作兵衛が寄進したものを、大正2年、「住吉燥浜組合」が世話人となり改修しています。
7 御手洗住吉神社3
 拝殿の前に建つ一対の狛犬には、天保4年(1833)若胡屋亀女と刻まれています。御手洗で最大の勢力を誇った遊女屋からの奉納物です。手水鉢には、文政一三年大坂岩井屋仁兵衛と寄進者の名が刻まれています。
 参道両側に建ち並ぶ30基余りの常夜燈もみごとです。
その中で、鳥居前のひときわ目立つ位置におかれた常夜燈は、文政13年多田勘右衛門が尾道の石工に刻ませたものです。多田家は、竹原屋を屋号とする御手洗の年寄を勤めた家です。ほかの常夜燈にも寄進者の名が刻まれています。その中には大阪からの海部屋、和島屋、岩片、竹雌唯、町波屋、河内屋、住吉屋、姫路屋などからの奉納があります。九州延岡の石見屋からも寄進も混じっているようです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

 境内をとり囲む玉垣も住吉神社造営の時につくられたものです。
そこには多くの御手洗商人の名と共に、若胡屋、堺屋、扇屋内何某と遊女の源氏名もあります。住吉神社造営にあたり、彼女たちが競い合うように寄付をしているのが分かります。売られて来た身の行く末を案じて、神仏にすがることが唯一よりどころだったのかもしれません。
7 御手洗住吉神社5

しかし、この港の色町は「遊郭」とは、云えないと考える研究者もいるようです。
特に19世紀になって現れた住吉街は,千砂子波止の目の前に現れた歓楽街ですが、ここには「廓」がありません。女たちの生活と地域住民の間に垣根がないのです。地域住民と芸娼妓,船乗りが同じ、商店や施設を利用していました。大崎下島の若い男性が芸娼妓と懇意にしたり,芸娼妓が「地域住民の一員」として祭礼や運動会へ参加したりして、人的交流もあったといいます。これは「廓」に囲まれた遊郭とは、性格を異にします。女たちが地域に溶け込んでいたのが御手洗のひとつの特徴と云えるのかもしれません。

 19世紀初めに姿を現した新しい波止場と、その守護神である住吉神社の勧進は新しい御手洗の玄関口となりました。そして、その海沿いには歓楽街が姿を現したのです。そして、この歓楽街は機帆船の時代になっても生き残り、戦後の買収禁止法が出来るまで生きながらえていくことになります。
以上をまとめておくと
①17世紀末に埋立地に新しく常葉町が作られた。
②しかし、宝暦の大火で焼け野原になってしまった
③復興計画により同一規格の家屋が常葉町には並んで建った
④そして、この町が新しい御手洗の中心商店街となっていく
⑤18世紀初頭に新しい波止場と住吉神社が建立された
⑥そこは新しい玄関口として機能し、周辺は歓楽街となった
⑦そして、御手洗で最も最後まで活気がある場所として戦後まで存続した。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 港町御手洗の歴史一昭和33年(1958) 以前
年次
寛文 6年(1666)  御手洗への移住開始
延宝 (1673~8 1) 大長村から 18軒の商人が移住
貞享 2年(1685) 島外から商人が移住する
     4年(1707) 小倉から勧請した恵比寿神社を建て替える。
正徳 3年(1713) 町年寄役が設置される。
事保 2年(1717) 弁天~蛭子海岸線の埋め立て開始する。
事保 9年(1724) 若胡屋が広島藩から営業免許を受ける。
延享 2年(1745) 船燥場(ふなたでば)を設遣
:      年(1759)   大火が発生。
文政11年(1828) 広島藩が新たに市街地の開発を計画
文政13年(1830) 大波止ができる。大坂商人・鴻池善右衛門(広島藩蔵元)らが住吉神社を寄進
明治20年 (1887) 飛地交換分合により,大長村から独立
明治22年 (1889) 市制・町村寄せの施行で御手洗町となる。
大正 2年 (1913) 御手洗~尾道間の定期旅客線が就航
昭和33年 (1958)   売春紡止法の施行により,置屋業が廃業

旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

  御手洗が発展期を迎えたのは、18世紀半ばすぎの寛延から19世紀初頭の享和期にかけてのようです。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   御手洗の戸数は、この半世紀で四倍近くに激増しています。
  シルクロード沿線のオアシス都市では、やってくるキャラバン隊商隊の数と、その都市の経済力は比例関係にあるといわれます。そのためオアシス都市は宿泊場所やサライ(市場)などの設備投資を怠りませんでした。一方、キャラバン隊へのサービスも充実させていきます。その中にお風呂や娼婦を提供する宿も含まれました。キャラバン隊に嫌われた中継都市は滅びるのです。
 この時代の瀬戸内海の港町にも同じような圧力がかかっていたように私には思えます。港町は廻船を引きつけるためにあの手この手の戦略を練ります。廻船への「客引きサービス合戦」が激化していたのです。その中で、御手洗は新しい港町でネームバリューもありません。沖往く船を引きつけ、船員たちをこの港に上陸させるための秘策が練られます。その対策のひとつが「茶屋・遊女屋」設置だったようです。この申請に対して、広島藩は許可します。
日本の町並み遺産
 そして若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋の4軒に許可が下り、遊女屋が開かれることになります。
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」によると、
①若胡屋              40人
②堺屋(酒井屋)、藤屋(富土屋)  20人
③海老屋(のち千歳屋)       15人
の遊女を抱えていたと記されています。4軒あわせると百名ちかいの遊女がいたようです。
どんな人たちが遊女屋を開いたのでしょうか?
文化12年(1815)ころの町の記録「町用覚」に次のように記されています。
 若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広嶋中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや知か上ノ関二住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるものの世話となり小家をかり見せ(仮店)なと出し、いつしか此所の帳に入り住人とハなりぬ(後略)
  ここからは、次のようなことが分かります。
①若胡屋はもともとは広島城下で魚屋を営業していた海に関係ある一族のようです
②いつの頃からか上関(周防)に住み、めんるい屋の株を持って営業するようになった
③それが享保の頃に、御手洗にやって来て「船後家(?)」を営むようになった
④その後、土地の船宿の世話で陸に上がり、小家を仮店舗としてこの土地の者として登録されてるようになった。
分からないのは「茶屋子供をつれ船後家の商売」です。今は触れず後に廻します。「此の所の帳に入る」とは、正式にこの町の住人になったということのようです。
御手洗町並み保存地区 呉市豊町御手洗 | ツーリング神社巡り 狛犬 ...
もうひとつの桜屋を見てみましょう
 堺屋が御手洗に来たのは、若胡屋に少し遅れたころのようです。
 堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延享寛延の頃より若胡屋に等しく此湊へ船にて後家商ひしか、陸にあかり蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主増蔵栄介ふたりとも打つりきて不仕合して難渋にせまり一跡かまかり、引取しかいよく極難に降して公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり寛政の頃至り此所へ入帳して本住居となりぬ
 意訳整理すると
① 堺屋は蒲刈(三の瀬?)の茶屋であったが延享寛延の頃に若胡屋と同じように、この港で船の「後家商い」を行うようになった。
②御手洗に出店しても40年ほどの間は、御手洗へ「住人登録」せず、正月と盆には郷里の蒲刈に帰って行事を済ませ、再び御手洗に稼ぎに来るといった形をとっていた。
③その後、御手洗に移住したが、不都合な事件に出会い難渋し、ついには蒲刈の商売を手放し、正式に御手洗の住人となった。
お知らせ: HPA・Photo・ワークス
御手洗の沖に停泊する廻船 
 若胡屋、堺屋が商売としていた「船後家」とは?
 沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話や、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は「一夜妻」として伽をつとめるものです。どうも藩の公認以前から「後家商い」船を使ってやっていたことになります。桜屋の場合は、蒲刈から出張してきていたものが御手洗を拠点にするようになります。そしていつの間にか「陸上がり」して、人別帳に登録される正規の住人になっていたようです。面白いのは、船に女たちを載せて、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけて、やがては住みつくという方法は、どこか「家船(えしま)漁民」に似ている感じがします。この「漂泊」は「海の民の」の子孫の姿かもしれません。彼らは、御手洗を拠点としてからも、鞆、尾道、宮島、大三島などさかんに出向いている記録が残っています。
花街ぞめき Kagaizomeki
  何のために女たちを船に積んで、港に移動していたのでしょうか
鞆、尾道、宮島、大三島に共通するのは、どこも大きな社寺があります。その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったようです。船さえあればどこにでも行くことができ、商売もできたのです。

 四国伊予の大洲藩の船宿の建物が今も住吉町に残っています。
子孫の木村氏は、今から半世紀前に船宿のことについて、次のように語っています。
船宿の暮らしは、海を眺めているのが商売でした。沖になじみの船が見えると、まずは風呂を沸かします。風呂といっても、浴槽に狭い五衛門風呂です。船宿の主人が伝馬船に乗り、沖の船を出迎えに行きます。その時の挨拶は「風呂が沸いたけえ、おいでてつかあさい」というのが決まり文句でした。
 沖に碇泊する船の乗組員には、豆腐を手土産にするならわしでした。豆腐は、味噌汁の具とするものでしたが、船乗りは、豆腐が時化よけにきくと信じていました。
 船乗りが宿に着くと、茶湯の接待が行なわれます。宿の主人は、まずは船乗りに航海の労をねぎらいます。一休みすると、船乗りたちが風呂に入り、潮風にさらされた身体を流します。このとき置屋から遊女がかけつけてきます。遊女は、湯女として船乗りの背中を流します。
 港が夕闇につつまれると、酒宴がはじまります。船乗りのもとには、なじみの遊女がはべり、三味や太鼓もにぎやかに夜がふけるまで、宴がつづきました。戦前までの住吉町は、今日の姿からは想像のできないほどの賑わいがあり、夜ふけでも灯の消えた家は一軒もなく、船宿では大戸をおろすこともありませんでした。
 宴が終わると、船乗りたちはそれぞれ船に帰っていきます。
船頭のみが船宿で寝泊りします。次の朝、船頭は船宿に祝儀をおいて船に戻っていきます。祝儀の額については、定まった額はありません。船頭の心付けといった程度でした。船宿の収入のほとんどは、夜の飲食の代金でまかなわれていました。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」船宿を営んだ木村さんはそう話しています。
おちょろ船 御手洗 大崎上島

 先ほど話したように、港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつける必要があったことを改めて知ります。
この話から分かることは
①船宿は、お風呂と宴会の場を提供するだけで、船員は泊まらない。泊まるのは船頭だけ
②船宿の収入の夜の飲食の代金でまかなわれていた。
③置屋から遊女が呼ばれいろいろな世話をした
④遊女たちが船を引きつける大きな役割を果たしていた
  おちょろ船 御手洗 大崎上島
 同じ頃の讃岐を見ると、次のようなことがおこなわれていた頃です。
①上方からの金比羅詣で客を迎えるためのに丸亀新港建設
②九州方面からの金比羅詣客の受入のための多度津新港建設
③金毘羅大権現の金丸座の建設と富くじ、歌舞伎上演
備讃瀬戸と芸予諸島の間には共通する「事件」が起きていたことが分かります。そして、瀬戸内海の物流は明治に向けて、さらに発展していくのです。

7 御手洗 ti北

 御手洗は、江戸時代になって新たに開かれた港町です。
近くには下蒲刈島に三の瀬という中世以来の有力な港町があります。それなのにどうして一軒の家もなかった所に、新しい港が短期間に姿を現したのでしょうか。
   それは、航海技術の進歩と船の大型化、そして御手洗の置かれたロケーションにあるようです。瀬戸内海航路は、中世まではほとんどが陸地に沿って航行する「地乗り」でした。現在のように出発港から目的港まで、どこにも寄港せずに一気に航海するようなことはありません。潮待ち、風待ちをしながらいくつもの港町に立ち寄りながらの航海でした。
   例えばそれまでの地乗り航路は
7 御手洗 航路ti北
①伊予津和地島から安芸の海域に入り、
②倉橋島南端の鹿老渡(かろうど)を経て
③下蒲刈島三之瀬に寄港し、
④豊田灘にはいって山陽沿岸を、竹原、三原、尾道と通って鞆へ
と進むルートが一般的でした。
 ところが、以前お話ししたように朝鮮出兵の際に軍船として用いられてた「関船」の「水押」などの造船技術が民間の廻船にも使われるようになります。今風にいうと「軍事先端技術の民間への導入」ということになるのでしょうか。また、船頭の航海技術も一気に上がります。それが北前船の登場につながるのです。腕の良い船頭の中には、それまでの潮待ち、風待ちの「ちまちま」した航海から、大崎下島の沖の斎灘を一気に走り抜けていく航路を選ぶようになったのです。これを「沖乗り」というようになります。
風待ちの港、御手洗
赤が地乗り、黄色が沖乗り航路
 沖乗りルートは
①倉橋島から斎灘を一気に渡り
②伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸をぬけ
③岩城島、弓削島を経て鞆へ
向かいます。倉橋島から大三島にかけての斎灘には、多くの島が浮かんでいます。西から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島(以上広島県)、岡村島、小大下島、大下島(愛媛県)ですが、これらの島じまの南岸をみると、直接南風をうけるため天然の良港はなく、集落もほとんどありませんでした。それまでの多くの集落は、小島にはさまれた瀬戸にのぞんで風当たりの少ないところを選んでつくられていました。しかし、小島にはさまれた瀬戸の多くは、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮のときは、繋船ができないほどの沿岸流が流れます。斎灘から豊田灘にかけては、北東方向に潮の流れがあり、ほとんどの瀬戸は、斎灘から北東方向を向いてぬけています。そのため大型船が湊に入ったり、係留するには不向きでした。

御手洗 (呉市) - Wikiwand
 ところが、大崎下島と岡村島にはさまれた御手洗水道は、斎灘から北西方向にぬけているのです。それに加えて御手洗水道の北には、現在は橋で結ばれている中島、平羅島、初島が並んで浮かび、潮流や風をふせぐ防波堤の役割を果たしてくれます。そのため、この瀬戸は潮の流れがゆるやかでした。大崎下島の東岸の岬の内側にある御手洗が船着場として注目されるようになったのは、そうした自然条件があったからのようです。
 沖乗りの大型船が、この海峡に入り込むようになったのは、江戸時代になってからです。
 大崎下島では、寛永一五年(1638)、安芸藩による「地詰」が行なわれています。地詰とは非公式な検地のことで、地詰帳によると御手洗地区には、
田が二町二反五畝一八歩
畠が六町四反二畝九歩、
あわせて八町六反七畝二七歩の耕地
が記録されています。しかし、屋敷は一軒も記録されていません。近くの大長や沖友の農民が、出作りの耕地として所有していたようです。 
 御手洗に屋敷割り記録が残るのは寛文六年(1666)からです。
 幕命をうけた河村瑞賢が西回り航路を開く少し前になります。しだいに北前舟の沖往く船の数が増え、なかには潮待ち、風待ちのために寄港する船も出てくるようになります。それを目あてに、大長や沖友など周辺の人びとが移り住み、にわかにまちが形づくられたようです。御手洗の屋敷割りは、制度的には寛文六年(1666)ということになっていますが、それよりも早く人々が集まり住むようになっていたようです。それは、港町といっても小さなものだったでしょう。
広島藩の藩の保護育成政策を受けた御手洗
当時は、農地をつぶして屋敷地にすることは禁止されていましたが、御手洗は特別に許されていたようです。また、海を埋め立てて屋敷をつくることも行なわれています。しかも、地子免除であったようです。ここからは広島藩が、新興港町・御手洗に人びとが移り住むことを奨励していたことがうかがえます。
御手洗の戸数が記録にあらわれるのは、それから80年後で
寛延元年(1748) 戸数83
明和五年(1768) 人家106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   と18世紀後半の半世紀で御手洗の戸数、人口は四倍近くに増加します。そこで藩は、文化五(1808)年に、御手洗の大長村からの分離独立を行い、新たに町庄屋が任命します。
 斎灘に浮かぶ芸予賭島でそれまで広島藩の重視してきた港は、下蒲刈島にある三之瀬でした。

三之瀬は、広島城下の南東30㎞に位置し、ここに番所を設け用船を常備し、船頭、水夫をおいて公用に備えていました。御手洗は、城下から約45キロ離れ、伊予境に近くにあるために不便と考えられたのか、最後まで番所が設けられることはありませんでした。それが御手洗に「自由」な発展をもたらしたのかも知れません。
 御手洗のまちを歩いてみましょう。
 御手洗は、斎灘につきだした小さな岬の周囲をぐるりととりまく形で町並みがひろがっています。船が桟橋に近づくと、岬の先端に、海に向かって建てられた石鳥居が目に入ってきます。
  蛭子神社の鳥居です。
港町 | ShimaPro BLOG
明治22年の再建で、沖からのランドマークの役割を果たしていました。まずは、やってきた報告と新しい出会いを祈念して蛭子神社に向かいます。境内は、樹木もなく瀬戸の潮風が吹きぬける海辺の社といった印象です。入母屋造り瓦葺きの社殿が迎えてくれます。
境内には、一対の常夜燈を除いて古い奉納物はありません。この常夜燈は、寛政元年(1789)、御手洗で遊女屋を営む若胡屋権左衛門と、商人新屋定蔵・吉左衛門が尾道の石工につくらせて寄進したことが銘文に刻まれています。
御手洗(蛭子神社)「チョロは出て行く」の案内板 | 古今東西散歩
 蛭子神社は、御手洗の商人が篤い信仰を寄せた社であったようです。この神社がいつ創建されたかは分かりませんが「九州の小倉から勧請されたもの」と伝えられるようです。創建当初は、梁行二尺五寸、桁行三尺五寸の柿葺きの小さな祠であったと云います。
 まちの発展に歩調を合わすように社殿は改修がくりかえされ、境内が整えられていきます。記録にあらわれる最初は、宝永四年(1707)で、御手洗に町年寄がおかれたのを祝うかのように姿を現します。以後、次のように定期的な改修が行われます。
元文四年(1739)本殿の前に拝殿がつくられた。
明和四年(1764)その拝殿が新たに建て替えられる。
安永八年(1779)社殿屋根が瓦葺きに葺き替えられる。
このように改修が行なわれたのは、御手洗の港が発展し、商人たちの「資本蓄積」が行われたことが背景にあるのでしょう。
 蛭子神社の西には弁天様を祀った尾根筋が海に向かってのびています。この二つの山の鼻にはさまれたところに、天満宮が鎮座しています。ここは背後の山が谷をつくるところで地下水脈に恵まれたところです。境内には、古い井戸が掘られています。瀬戸内海を行く交易船が昔から港に求めたものは、まずはきれいな水です。絶えることのない泉があることが必須条件です。ここから南にある荒神様も窪地となり、いくつかの井戸があります。このふたつのエリアが、御手洗が港として開発される際のチェックポイントだったのでしょう。
御手洗の10の町筋について  
7 御手洗地図1
御手洗には、複雑に入りくんだ細い路地がいく本もめぐらされ、まちが形づくられています。町名を挙げると大浦、弁天町、上町、天神町、常盤町、相生町、蛭子町、榎町、住吉町、富永町の10町になるようです。
 それらのまちの表情は、それぞれ少しずつ違っています。
西方の大浦から見て行きましょう
大浦は明治中期までは、町外れで人家が三軒しかないさびし所い所だったようです。後に海岸を埋め立て家々が建ち、今日では隣の弁天町と町並みつづきになっています。かつてはここには「貯木場」があったようで、造船材をたくさん浮かべてあったと云いますが、今はその面影もありません。
  大浦の隣の弁天町は、弁財天が祀られている山の鼻付近にひろがるまちです
弁天社本殿は、間口四尺、奥行三尺程のトタン屋根の小さなな祠です。境内には材木問屋大島良造奉納の鳥居が建ち、須賀造船所奉納の手水鉢がおかれています。寄進者から海にゆかりの人びとに信仰された社なんだなと勝手に想像します。この弁天社がいつ創建されたかは分かりません。しかし、現在地に移されたのは、文化年間(1804~18年の約2百年前のことで、庄屋柴屋種次が境内地と材料を寄進して建てたものと伝えられています。
漁師が住んでいた弁天町の長屋
 今の状態からは想像しにくいのですが弁天社の地先は、もともとは海に突き出した埋め立て地でした。そして海際から奥に続く道幅二間程の細い街路には、軒が低くたれこめた長屋が並んでいたようです。長屋一戸分の間口は三間半で、なかにはそれをさらに半分に仕切った家もありました。屋敷の奥行は、六間半余りです。長屋の建物は、四間半の奥行で、いずれも裏に一間ほどの庭があり、さらにその後に奥行一間余りの納屋があります。ここには、どんな人が住んでいたのでしょうか?
 この弁天様の先の突き出した埋立地には、漁民が住んでいたと云います。御手洗は、港でありながら漁民の数は少なかったようです。それは、この港の成立背景を思い出せば分かります。何もないところに、入港する大型船へのサービス提供のために開かれた港です。漁師はもともとはいないのです。港の人口が増えるにつれて、魚を供給するために漁民が後からやって来たのです。まちのはずれの土地を埋め立て、そこに漁民が住みついたのです。漁師が活動していた港が発展した町ではないのです。ここでは後からやって来た漁師は長屋暮らしです。
7 御手洗 北川家2
   弁天様から天満宮へつながる道筋沿いの町が上町です。
 ここには、平入り本瓦葺き塗寵造りの昔ながらの町家が何軒か残っています。しかし、壁はくずれおちています。大半は「仕舞屋(しもたや)」です。辞書で引くと「1 商店でない、普通の家。2 もと商店をしていたが、今はやめた裕福な家」と出てきます。この町筋に商家はありませんが町並みや街路の様子から早い時期につくられたまちだと研究者は考えているようです。御手洗はこのあたりから次第に開けていったようです。いわば御手洗の「元町」でしょうか。

 天満宮がこの地に移されたのは、神仏分離後の明治四年のことのようです。

それまでは、満舟寺境内に三社堂があり、そこに菅原道真像が祀られていたようです。神仏分離で
明治初年に、この地に天満宮の小祠が建てられ菅原道真像が移され
大正六年に、今の社殿が建てられたようです。

 先述したようにここが「御手洗(みたらい)の地名発祥の地といわれるのは、きれいな湧き水があったからでしょう。そのため、ここに港町がつくられる際に、まず人家が建てられたのもこの周辺だったと研究者は考えているようです。
天神町には、瓦葺きの白壁のあざやかな御手洗会館が建っています。
日本の町並み遺産

今は公民館としてつかわれているようですが、この建物は「若胡屋」という御手洗で最も大きな遊女屋の建物を改造したものです。御手洗会館の前には、やはり白壁造りの長屋門を構えた邸宅があります。
豊町御手洗の旧金子家住宅の公開 - 呉市ホームページ
これが、御手洗の庄屋を勤めた金子家の屋敷です。このようなモニュメント的な建物が並んでいることからも、天神町が、かつての御手洗の中心であったと研究者は考えているようです。
 天神町から御手洗郵便局の角を左に折れると常盤町です。
ここは、古い町並みが一番残っている町です。妻入り本瓦葺き塗寵造りの家が軒を連ねています
①もと酒・米穀問屋を営んだ北川哲夫家
②金物屋の菊本クマヨ家
③醤油醸造を行なう北川馨家
などは御手洗商人の家構えをよく残しています。
御手洗街並みレポート

 上町と天神町が、自然の地形を利用して山麓に街並みが作られているのに対して、常盤町はどちらかというと人工的なまち並みのイメージがします。ある時代、海を埋め立てて作られた街並みではないかと研究者は考えているようです。そのため、屋敷は街路に沿って整然と区画されています。町家も、同じ時期に一斉につくられたようで、よく似た規模とデザインです。御手洗が港町として繁栄の頂点にあった時に、今までの街並みでは手狭になって埋め立てが行われ、そこに競い合うように大きな屋敷が建てられたというストーリーが描けます。そして、それまでの古い町筋の上町や、天神町に代わって、常盤町が御手洗のセンターストリートになっていったようです。
   常盤町から海に向かって三本の小路がのびています。
①旧大島薬局横の小路はやや道幅が広く、小路に沿って人家が並んでいます。ここには古い木造洋館を利用した旅館などもあり、昭和初期の港町の雰囲気が残ります。
②北川哲夫家の左右にある小路は、杉の焼板を腰壁とした土壁の建物がつづいています。港とともに繁栄をきわめた商家の屋敷構えが、小路の景観にあらわれています。
 御手洗郵便局から蛭子神社に向かう道筋が相生町です。
ここは本通りと呼ばれ、明治、大正、昭和初期にかけて、御手洗の商業の中心として賑わいをみせた通りです。この町の町家の多くは、繁盛した大正から昭和初期にかけて建て替えられたようで、、総二階建て、棟の高い家屋が多いようです。
 目印になる昌文堂は、もとは、酒・醤油の小売りをしていた家でした。それが明治42年に、本屋と新聞店として開業し、この港町に新しい時代の息吹きを伝えました。この店は、大崎下島唯一の書店で、戦前までは下島から大崎上島まで、教科書の販売独占権を持っていました。そのため店先には「国定教科書取次販売所」とケヤキ板に墨書きした古めかしい看板が、掲げられていました。
 昌文堂の三軒隣の新光堂は、時計を形どった看版が目印です。

明治
17年に神戸で時計修理の技術を修得した松浦氏が、船員が数多く立ち寄るこのまちで店をひらき、珍しかった時計を売りはじめます。時代の最先端の時計を売ることが出来る豊かさがこの港はあったのです。このように相生町は、常盤町と同時代に新しく御手洗の商業の中心地となった街並みのようです。
 ところで相生町には、伝統的な町家は二軒しか残っていません。どうしてでしょうか? 
それは、このまちが御手洗の商業地として賑わい、資本蓄積が行われ、それにともない建替えがくりかえされてきたためだと研究者は考えているようです。都会でも資本力のある店は、早め早めに店を建て替えて、お客を引きつけようとします。そのため有力な商店街に、古い建物は残りません。逆説的に云うと
「建て替えるお金がないところに古い建物が残る」
といいうことになるのかもしれません。神様はこういうプレゼントの仕方をするのかもしれません。
 蛭子神社付近が、蛭子町です。
岬を中心にコ字型の町並みがあります。御手洗商人の篤い信仰を得た蛭子神社のおひざもとのまちです。ここは相生町の町並みとつづきとなっていて、明治から昭和初期まで賑わいが残りました。
 蛭子町には、江戸時代からつづく旧家が何軒か残っています。神社裏側の七卿館は、幕末に三条実美をはじめとする七卿が宿とした家で、江戸時代に庄屋を勤めた竹原屋多田氏の屋敷跡です。
ひろしま文化大百科 - 御手洗七卿落遺跡
竹原屋多田氏の屋敷跡
 竹原屋が御手洗に移住したのは、貞享二年(1685)ですので、御手洗のパイオニア的な存在になります。また、脇屋友三家は、九州薩摩藩の船宿を勤めた家です。さらに蛭子町の町はずれにある鞆田稔家は、海鼠壁の意匠が目を引く構えで、明治期に力を蓄えた商家です。この家については前回に紹介しました。
瀬戸内海の道・大崎下島|街道歩きの旅
鞆田家
蛭子町には、昭和初期に建てられた洋館が多く残っています。鞆田家の前には、別荘として建てた洋館が海に向かって今も建っています。この洋館は、もともとは芸妓の検番としてつくられたもののようです。芸子たちがお呼びがかかるまでここで、海を見ながら過ごしていたのかもしれません。
 蛭子神社の近くで医院を開業する越智家も昭和初期の洋風建築です。
とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地:5日目(5)』大崎下島・豊島 ...
昭和になるとハイカラな建物が好まれ、競い合うように洋風建築物が現れたことが分かります。蛭子町は昭和初期には御手洗で一番モダンな雰囲気の町だったようです。
 蛭子町の南が榎町です。
Solitary Journey [1792] 江戸時代から昭和の初期までに建てられた ...

大東寺の大楠が高くそびえ、ここには仕舞屋が並んでいます。満舟寺の石垣もみごとで、苔むした石が、野面積みで高く積みあげられています。
満舟寺石垣/豊地区 - 呉市ホームページ
 大東寺から海岸に沿って南にのびる町並みが住吉町です
まちの南端には住吉神社が祀られています。ここは斎灘に面したところて南風をまともにうける所で、台風などの時には被害が出ました。そのため御手洗がひらかれた時には、人家もないところでした。
 ところが文政11年(1828)に、ここに波止が築造されると、ここは御手洗の新しい玄関口なり人家が建ちこむようになります。船もこの波止場に着いたり、沖に停泊してここから渡船で行き来するようになります。波止のたもとに大坂から勧進された住吉神社が祀られたのは、その時期のことのようです。
 住吉町の山側が、富永町です。
このまちの裏手は小さな谷となっていて地下水脈に恵まれた土地のようです。この町の由来は、よく分からないようです。あまり商業が盛んでもなく、仕舞屋が並んでいます。
    隣の住吉町は船宿や置屋が建ち並びぶようになり、歓楽街として発展するようになります。この港には、オチョロ船という小舟が夜になると現れました。
おちょろ船 御手洗 大崎上島
船に遊女を乗せて沖に碇泊する船に漕ぎ寄せるのです。遊女は、船乗りの一夜妻をつとめました。彼女たちを船乗りは「オチョロ」と呼んだようです。この富永町は、このオチョロを乗せた伝馬船を漕ぐことを生業とした「チョロ押し」が多く住むまちだったと云われます。

         
大崎下島は、 大長みかんの島として知られています
今はとびしま街道のいくつかの橋で結ばれ呉市の一部となっています。芸予諸島のこの島も半農半漁の村で、明治の初め頃までは桃の木が山に多かったそうです。明治の終り頃に、温州ミカンの栽培が始まってから大きく変貌していきます。
大崎下島 - Wikipedia

 みかんのブランド化に成功するきっかけが選果機の導入だったといいます。
みかんは箱につめて出荷しますが、昭和の初め頃は、下の方には小さいのをつめ、上の方に大きなのを並べるのがあたりまえで、これをアンコとよんでいたそうです。買う方も不平を言いながらも、それを商習慣の一つとして受け取っていた時代です。このような「小さな不正」は、みな当前えに思っていたのです。
 そんな中で大正の終り頃、アメリカ農務省の嘱託として渡米した田中長三郎博士は、アメリカで機械選果機を見て感心します。これを輸人して選果して品質をそろえたら、きっと市場の信用を得て商品の価値を高めるだろうと考えました。そこで、3台の選果機を買って日本に送ります。その機械を導入して機械選果をはじめたのが、静岡・和歌山と大長だったようです。中には
「高い機械を買って選果して粒をそろえて売るのは、粒の小さいものが売れなくなり割に合わないし、もうからない」
という声も強かったようです。しかし、実際に選果機でより分けて大きさをきめ、それにあわせた定価をつけてみると、買う方は安心して買えるのでかえって信用が高まり「大長ミカン」のブランド力がいちじるしく上がったのです。
大長みかん Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
 プライドを持った農民たちは美味しいミカン作りに熱中するようになります。
売り上げも上がるので生産意欲もあがり、それまでサツマイモが植えられていた畑に次々とみかんの苗木を植えられるようになります。畑が足らなくなると、今度は誰も住まない沖の島々も買いとって、そこをミカン畑にしていったのです。そして
「大長のミカン畠は三〇〇ヘクタールであるが、島外にはそれ以上のミカン畑がある」
とまで言われるようになります。
島の末子相続がもたらしたものは?
 この島の人たちが、島外にミカン園をひろげるようになったのは、もう一つ原因があるといわれます。それはこの島の末子相続の風習です。長男が嫁をもらうと、少々の土地をもらって分家します。長男たちは、みかんを植えれば収益はあがるので、無人島に土地を買い足たし開墾して、みかん畑にしていきました。
 末子相続の風習は、芸予の漁民の間に昔からあったようで、そうした漁民たちが陸上りすると、その風習が農村社会にも引き継がれたようです。そのため、島では兄弟の関係がフラットで家長制度が緩かったと民俗学者は云います。
 大長のみかん農家は船を利用して、他の島々へ耕作に出かけていきました。
大崎下島・大長』を写真と紀行文で紹介 | 島プロジェクト

そのため大長の港は、かつては農耕船がいっぱい舫われていました。


寅さんも「難波の恋の物語」のロケシーンでムームーを行商したことがあります。この時はバックに多くの農耕船が映り込んでいました。しかし、今はその港に耕作船の姿はほとんど見られなくなりました。港の近くの公園に、一艘の耕作船が引き上げて展示されていました。
 ちなみに分家したみかん農家の長男たちが屋敷を求めたのが御手洗です。
ここにはかつての港町として栄え、大旦那の屋敷や店が軒を並べていました。しかし、昭和になるとその繁栄にも陰りが見え始め、歯が抜けるように商人たちは屋敷を残し御手洗から出て行きました。その後に移り住んだのが大長のみかん農家の長男たちだったようです。御手洗の街歩きをしていると、大きな商家風の建物に出会います。しかし、今そこに住んでいるのは商家の子孫たちばかりではないようです。

7 御手洗 北川家2
その中の一軒「北川家」をのぞいてみましょう。
瀬戸内海航路で「沖乗り」が行われるようになり、御手洗が潮待ち港として発展し始めるのは、江戸時代の後半になってからです。それまでここは、何もない海岸だったようです。港町の繁栄に引かれて周辺の大長から移り住む有力者が出てきます。北川家もそんな一軒だったようです。

 北川家の祖は吉郎右衛門で、もともとは大長の農家です。
末子相続によって、大長の家をついだのは次男兵次で、長男恵三郎が御手洗に出て商いを営むようになります。その後を継いだ喜兵衛は問屋商人として財をなし屋号を「北喜」とします。過去帳から喜兵衛は文化期に生またことが分かりますから、その活躍は天保期からあとの19世紀前半から半ばになるようです。喜兵衛の
①三男 定助が「北喜」をつぎ、
②五男 豊助が分家して「北豊」を興します。
「北豊」は廻漕店を営み、豊助の子利吉の代には、大正丸、北川丸をもち、御手洗と尾道のあいだを往き来して、廻船問屋として活躍します。
 その後、分家の成功を見て大長の本家をつぎ農業にいそしんだ兵次の孫仁太郎も御手洗に出て商いを営みだします。その家が「北仁」です。仁太郎は弘化期の生まれですから、その活躍は幕末の慶応から明治にかけてのことと考えられます。「北仁」は、蓄えた財力をもとでに金融業も営み、次第に大崎下島の土地を買い集めます。
 昭和になって廻船業が衰退すると「北仁」の当主は、商売をやめますが島は出て行きませんでした。先祖が手に入れた土地でみかん作りに乗り出すのです。みかん農家として島に生きる道を選んだ「北仁」の屋敷が残っています。この家は、常磐町の中ほどの海側に奥深くのびた作りになっています。
7 御手洗 北川家
②間口は約四間余りで、主屋の北に庭園があり、土蔵・離れ座敷が奥に建つ。別棟は渡り廊下で結ばれている。
③離れ座敷は、大正時代の建築で、入畳二室と茶室から成る数寄屋普請で、北川家が商家として全盛を誇った時代の建物。
④主尾は、妻入り塗籠造り本瓦葦きの伝統的な様式

この主屋は、北川家が御手洗進出以前に建てられていたものと研究者は考えているようです。つまり、以前に住んでいた人から買ったということでしょう。台所はのちに増築したもので、店の横の板敷きも改造した部分であるので、この増築部分を除くと、庭に沿って建屋が一列に並ぶという町家の間取りになります。
 廻船業から金融業、そしてみかん農家へと明治以後の北川家の活動の舞台となった家屋がここには、そのまま残っています。
  親子2代で御手洗の町長を務めた鞆田家を見てみましょう
7 御手洗 鞆田家
この家も幕末頃に佐藤家が立てたものを、後に鞆田家が購入したようです。佐藤家は屋号「里惣」で、幕末に船持ちとして活躍し、一代で財を築き、急成長をとげた家といわれます。その後、日清戦争を前にして軍港呉防備のために能美島に砲台が建設されることになり、「里惣」はこの仕事を請負います。ところが、工事に失敗し家運を傾けます。その際にこの「里惣」の屋敷は、そのころ金融業で羽振りの良かった鞆田家の手にわたったようです。
御手洗のクチコミ -重厚ななまこ壁の家 | 地球の歩き方[旅スケ]
 鞆田家は、それまでは住吉町に住んでいたようで屋号は「鞆幸」でした。
幕末から明治20年にかけて海産物・穀物問屋を営み、あわせて金融業にも手をひろげていた資産家です。「鞆幸」(ともこう)を名のったのは、幕末に活躍した祖父幸七に由来しているといいます。この辛七の子が市太郎で商売は行わず、医者として開業します。頼りになる
人物だったようで、明治後半には御手洗町長を勤めています。その間も、大崎上島や愛媛県岡村島、中島方面の土地を集積しています。
 市太郎の跡をついだ子は、教員となり、戦前は父と同じく町長を勤めています。先ほども云いましたが鞆田家が「里惣」(さとそう)と呼ばれる佐藤家の屋敷を買い取って、住吉町に移ったきたのは、明治三〇年ころです。
  この鞆田家の家屋を、研究者は次のように紹介しています

7 御手洗 鞆田家2
①主屋は「里惣」が全盛を誇った幕末のころのもの
②主屋は、間口四間半の妻入り塗籠造りで、脇に間口二間の平入り家屋を別棟でとりつけた造り。
③一階の開口部には当時の蔀が残されている。二階外壁の一部は、海鼠壁の凝った意匠がある。
④主屋の屋根は、寄棟桟桟瓦葺きで、御手洗の伝統的な町家の形式とは異なる。
⑤屋敷取りは、主尾の真に広い庭園を配し、土蔵、湯殿、二棟の離れ座敷を構え、それぞれが渡り廊下で結ばれている。
⑥道路をへだてた海辺には昭和10年ころに建てられた木造洋館があり、別宅としてつかわれている。
⑦主屋の間取りは通庭に沿って店、中の間、座敷の三重が一列に並ぶ
⑧台所は以前は土間につきでた板敷き、後に改造を加えて部屋とした
⑨土間の入口右手にある部屋は、市太郎が医業を営む際に用いた
御手洗の町家は、有力者の家でも通り庭に沿って部屋が二列に並ぶ造りは、ほとんどないようです。そこに中継的商業をなりわいとした問屋商人の住まいの特色があると研究者は考えているようです。

御手洗に残された有力者の家屋の遍歴を見ていると、その家を舞台に活躍した「栄枯盛衰」が見えてくるような気がします。都会では残されることのない幕末や明治の木造建築物が何軒も残っていることに驚かされると共に、そこには一軒一軒の歴史があることを改めて気づかせてくれます。
御手洗地区ガイドマップ | 田中佐知男のスケッチによる御手洗案内地図
参考文献 谷沢明 瀬戸の街並み 港町形成の研究

  

    海賊禁止令以後に行き場をなくした海賊たちが、家船(えふね)漁民の祖先ではないかというストーリーを以前にお話ししました。それに対して、小早川氏の中世以来の海賊対策に、家船漁民たちの問題はあると考える研究者もいます。この家が12世紀の終り以来、芸予地方にいたことが、大きな爪跡を残しているというのです。今回は「家船漁民=小早川氏原因説」を追いかけて見ようと思います。

まず、小早川氏について押さえておきます。
 小早川氏は毛利元親の息子隆景が養子に入って、大きな活躍をするようになりますが、元々は関東からやって来た「東遷御家人」です。その先祖を土肥実平と云い伊豆の土肥を出身地とした武士です。そのまえは平良文から出ているようです。その子孫の実平は、はじめ土肥郷にいましたが、源平戦の功によって、その北の相模の早川荘を与えられます。そして、その子の遠平(とおひら)の時に、安芸国沼田荘の地頭となって関東から下って来たようです。安芸では小早川を名乗るようになります。ここまでの「経歴」を見ても分かるように、もともとは海に縁のない家です。
 この家が芸予諸島の島々に進出するようになったのは、
沼田新荘の住人が海賊をはたらいたのを討伐したのがきっかけのようです。建保年間(1221年)の頃のことなので、安芸にやってきて土地勘や武士相互の人間関係にも不慣れな時に、海に出て行き「海賊討伐」を行うのは大変です。まず、一族には船を操船する者がいなかったでしょう。漁民か商船の船人をやとわなければなりません。そこから小早川氏のとった対応は、船を提供する漁民や商人には特権を与えて保護するけれども、海賊系の漁民に対しては冷くあたったと研究者は考えているようです。さらに、広島県下の漁民で周囲からいちだん低く見られたものの多くは、小早川氏に抵抗した系統の家ではないかとも云います。このような「差別」は、伊予側の漁村には見られないようです。
 なぜそのようになったのかを史料的に「証明」することはできないようですが、状況証拠として小早川氏の漁民分断政策が大きく影響しているのではないかという「仮説」を出します。

 小早川氏は、五代目の朝平も14世紀前半に海賊討伐で幕府から報償されています。芸予の「海賊」たちにとっては「嫌な家」という感じだったようです。といっても、中世の海賊と武士とは表裏一体です。小早川氏の領内にも、海賊は多かったようです。
 何度も取り上げますが応永二七(1420)年に、室町幕府の将軍に会うためにやってきた李朝儒家・老松堂の『日本行録』にも、渡子島・蒲刈・高崎など、小早川の領内で海賊に逢っています。どうも鎮圧しきれい状況だったようです。しかし、権威に従わない漁村に対しては、たえず圧迫は加えていたようで、他の浦に与えたような特権は与えずに冷遇していたようです。
   のちの広島藩には、玖波・江波・仁保島、向洋・長浜などに、特権を持った漁民がでてきます。特権を持ち保護された漁村は本浦として水夫浦として藩の勤めを果たし、それ以外の浦は藩との結びつきが弱かったようです。後者には、二つのグループがあって、
一つは近世に入ってから漁業をはじめたもので釣浦に多い。
一つは近世以前からの家船漁民で「海上漂泊」者です
このような状況証拠から、海賊鎮圧の役をおびた小早川氏からにらまれているような浦が差別視されたのではないかという「仮説」が出てくるようです。
もう一度整理して、さらに時間を進めます
①小早川氏は武力をもっているけれども船の操作には弱い。
②そこで漁民を軍船の水夫として使用し、協力的な浦には特権を与え水夫浦とする。
③小早川氏の正和三(1224)年と元応元(1319)年の海賊討伐は伊予の海賊であった
④この頃から伊予の海賊との間に敵対関係を生じた
⑤承久の変の功績で、竹原荘の地頭として海岸に進出する
⑥その結果、康永元(1342)年頃から「海への進出」が始まる
 「小早川家文書」からその進出過程を見てみましょう。
①生口島への進出、おなじ年にさらに因島へ
②翌年には伊予・弓削島を押領。
③さらに越智大島から大崎上島・佐木島・高根島・大崎下島にまで勢力をのばす
瀬戸内しまなみ海道|瀬戸内の島々|特集|広島県公式観光サイト ...

こうして芸予諸島を支配下に置くようになると、小早川氏自体が水軍的性格(海賊的?)を持つようになってきます。そして生口島を領有した小早川惟平は朝鮮貿易に参入し、その名は高麗にまで知られるようになります。
小早川氏と漂泊漁民について 
小早川氏から圧迫を受ける立場になった漁民は、はじめは芸予諸島の島々にいたようです。水軍力がなかった頃の小早川氏にとっては、攻めて行くにもいけなかったでしょう。海賊行為を働いた村上・多賀谷・桑原氏などの拠点は、どの勢力も島にありました。
村上水軍と海賊停止令 | けいきちゃんのブログ
 ところが豊臣秀吉の海賊鎮圧政策によって、これらの海賊は芸予諸島の島々から姿を消してしまいます。
それは討伐によって、全滅したためではないようです。そこで行われたのは、島にいた漁民たちの本土への強制移住だったと研究者は考えているようです。以前紹介した家船漁民の拠点である三原市能地なども、その「強制移住先」だというのです。能地だけでなく竹原市二窓・豊田郡吉名村・同郡川尻町・呉市長浜などは、近世以前は小さな漁村でしたが、近世に入って急に大きくなったようです。それは島の「海賊」たちの「指定移住先」であったという仮説です
 そうしたなかでも、三原市能地はテグリ網漁を主とした浦です。船を家にして瀬戸内海の各地を回る者が多く、よい漁場を見つけるとその付近に仮小屋をして、そこへ住み着いてしまうこともあったことは以前お話ししました。
 テグリ網で操業する家船漁民の生活は?
手繰網使用図 | 漁具画像
小さな網で、二人乗りか三人乗りの小さな船に網を積み、魚のいそうな網代へゆくと、浮樽に錨をつけて海に入れ、樽に綱の一端をつけておいて、一定の長さの綱を海中にはえ、そのさきに網をつけてあって、その網を半円形に海へ入れる。その先はまた綱をはって樽のあるところまで戻り、船を横にしてオモテとトモにいて二人で網をひきあげるのである。
 後には船を横にして帆を張り、網を海中に入れたものをそのままひいてゆき、適当なところまでゆくとひきあげる方法もとった。網にのるものは雑魚が多く、雑魚は主として釣漁の餌として売り、のこりは村々を女が売ってまわったものである。
 ハンボウという浅いたらいを頭にのせて売り歩くのが能地の女たちの一つの姿であった。売るといっても金をもらうことは少なく、たいていはイモ・ムギなどのような食物と交換した。
 この漁は夜おこなうことが多かったので、夜も沖にいることが多く、しぜん、女も船に乗り、子供ができれば子供も船の中で暮して大きくなっていった。
人口圧の高まりと、その打開策は? 
   時が経つにつれて人口増の圧力や「強制移住」策の緩和が行われ、「指定移住先」からの「脱出」が可能になったのではないでしょうか。そして、2つの道が開けてくるようになります。
 ①新天地の浦への移住
 ②強制移住以前の祖先のいた漁村への回帰
下蒲刈島の人々の選択は?
安芸灘とびしま海道|瀬戸内の島々|しまなみ|広島県公式観光サイト ...
今は呉市となってとびしま街道で本土とつながるようになった下蒲刈島の宝永二(1705)の村明細帳には、船が18艘しかなかったことになっています。家も34戸です。かつて、この島に三之瀬と呼ばれ朝鮮からの使節団が寄港するような港がありました。それが戸数34戸まで激減していたことが分かります。
 それが、宝永から100年ほどたった1805年ごろには310艘に増えています。かつての賑わいを取り戻しているのです。ここからも、島々にいた海賊は禁圧令によって島を追いはらわれ、一時、本土の指定された浦に強制移住された。それが18世紀になって追々と島へ帰ってくる者もいたかえっていったというストーリーが描けるのではないかと研究者は考えているようです。
18世紀の瀬戸内海をかえたのはサツマイモです。
甘藷 – 有限会社 新居バイオ花き研究所
このイモが栽培されるようになって、急速に人口が増えます。増える人口を養うために山がひらかれてイモ畑になります。増える人口に対応するために、天に向かって島の狭い土地が耕されます。そして「耕して天に至る」という光景が見られるようになります。幕末に瀬戸内海を黒船でクルージングした外国人が、瀬戸内海の美しさを賞賛しますが、そのビューポイントが山の上まで耕された段々畑でした。
耕して天に至る棚田・段畑 ―大地への刻印
 水平方向にも耕地開発の手は進められます
蒲刈島の周辺の島々では、山船(耕作船)が姿を現します。ずんぐりとして幅の広い船で、人々はこれに乗って小さな島の畑へ耕作にいくようになります。何よりもまず食料を確保することが島民にとっては大切でした。海賊行為は、島の食料不足が原因でもあったのです。
こうして強制移住地に閉じ込められていた家船漁民は、新天地を目指すか、故郷に帰って農民となるかの道を選ぶようになったのではないのでしょうか。
農船|岩城島
山船(耕作船)

 最後に、家船漁民を先祖とする豊島の漁民を見ておきましょう。
豊島 (広島県) - Wikipedia
この島も今はとびしま街道で陸と結ばれ、呉市に編入されています。この島をグーグルで見ると分かりますが、ゆるやかな傾斜面に家がびっしりと立て込んでいます。明治から現在までに、最も人口が増え発展した漁村ではないかとある研究者は云います。明治初年の記録には、漁家の数は14戸とあります。それが多いときには700戸を越えていました。
 漁船にはどの船の側面にも漁船番号が記されています。その頭に府県の記号が書かれます。広島県は「H」です。このHの頭文字が書かれた漁船が、長崎や対馬・平戸まで行って操業していました。そのほとんどがこの島からの「出稼船」(かつての家船漁民)です。そして、平戸や天草などに枝村を作ってきました。
 その操業スタイルは次のようなものだったといいます
目的の漁場へ着くと近くの漁港へ行っていって、漁業組合に挨拶し、民家に宿を借りる。民家の一間を借りて持ってきた行李をあずけておき、漁からかえってきたときや雨の日はそこで休み、風呂や食事の世話も依頼する。いわゆるる船宿である。行李の中には晴着も入れてあって、その地の祭などのときには村人同様に盛装してお宮へもまいる。その村の人たちからお宮や寺への寄付をたのまれれば義理を欠かすようなことはない。山口県平郡島の寺で寄付者の名をかいたものを見ていると、豊島のものが多いのでおどろいてきいてみると、漁にきた人たちの寄付であった。
 また村の寺に報恩講などがあれば、漁を休んでまいる。広島に近い海田市の寺の報恩講に見知らぬ参拝者がたくさんあるので、土地の人がきいてみると豊島の者が漁に来ていてまいったのだと言った。
 けんか早いのも豊島の特色だ。血の気が多いのであろう。が、とにかく世間のつきあいをよく心得た人たちであり、そのことによって、広い海を自由自在に活動しているのである。

 ひとつの漁村が活気を持って活動していくためには好漁場をいくつももっていることがひとつの条件のようです。
しかし、漁場を持たなかった家船漁民の子孫たちは、瀬戸内海を越えて東シナ海を舞台に活動していたようです。それれは先祖が倭寇と呼ばれた活動した舞台でもあったようです。
以上をまとめておくと
①東遷御家人として安芸にやってきた小早川氏は、当初は海は苦手であった。
②そのために地元の「海民」の協力を得て、水軍を編成し「海賊退治」を行った。
③小早川氏に協力するのが「水軍」で、敵対するのが「海賊」と識別(差別)された。
④芸予諸島に進出するようになり因島・能島の「村上水軍」を従えるようになる。
⑤海賊禁止令後に、海賊たちは強制移住され指定移住地での居住を強制されるようになる
⑥18世紀にサツマイモが人口増大をもたらし「人口圧」が急激に膨らむ。
⑦あるものは、家船漁船で新天地を求めて「開拓民」となった
⑧あるものは、故郷に帰り帰農し「耕して天に至る」道を選んだ。
⑨家船漁民の伝統を持つ浦では、豊島漁民のように東シナ海で操業するものもいた
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 宮本常一 「瀬戸内海 芸予の海」 

  

 
5 小西行長像5

 小西行長は、関が原の戦いで西軍に味方し戦って破れ、打ち首となります。切腹は自らの命を自らの手で奪う行為なのでキリスト教徒として拒否したようです。
 また、行長は肥後北部を領有した加藤清正とライバル関係に描かれます。忠君愛国が尊ばれた戦前には、キリシタンで忠臣清正に対する敵役と描かれたために、非常に人気のない武将だったようです。1980年、宇土城跡に建てられたこの行長の銅像に対しても、「銅像を打ち壊す」「公費の無駄遣い。許せない」といった怒りの声が寄せられたようです。そのため除幕式の翌日から2年近くトタン板で覆われていたといいます。彼がどのように、見られてきたかがうかがえます。

 前回は小西行長の「海の司令官」として颯爽と備讃瀬戸をゆく姿や小豆島での「神の王国」作りの様子を見てみました。今回は行長とキリスト教をめぐる情勢を高山右近との関係で見てみようと思います。まずは行長の出自を押さえておきましょう。
堺の小西家とは、どんな家だったのでしょうか

5
 小西家については、家の系譜も分かりませんし、いつ頃から、どのようにして堺に住みついたかも分からないようです。ただ堺の開口神社には、小西家一族が出てくる文書がいくつか残っています。ひとつは天文六年(1537)、石山本願寺が細川勢によって破壊された堺の坊を再建する計画をたてた時に、小西宗左衛門という人物が酒、竹木を整えて、力を貸したため本願寺に招かれたことを記します。

5 堺会合衆
 もうひとつはその翌年、この宗左衛門が堺と明との貿易再興に石山本願寺が尽力したことに木屋宗観と、一緒にお礼に訪れています。本願寺は堺から経済的資力を受けていました。小西宗左衛門は、本願寺と堺の関係に重要な役割を果たす会合衆の一人であったようです。
 しかし、小西宗左衛門が小西行長と、どういう関係にあるかまでは分かりません。堺には小西と名乗る一門が沢山いたのです。その一族の一人ということにしておきます。
小西一党の中には、ザビエルに接近する者もいたようです。

5 堺会合衆2

そのひとりが行長の父小西隆佐です。
ザビエルは鹿児島から瀬戸内海を経て都にのぼり、日本での布教許可を得ようとします。その時に、ザビエルは堺の豪商、日比屋了珪に宛てた紹介状を持っていました。そのため、日比屋の案内で京で布教活動の許可嘆願を行う一方で、日本最大の仏教大学のある比叡山に興味を持ち訪問を熱願します。その際に日比屋了珪は、京にいた小西隆佐に紹介状を書いています。その紹介状を持ってきたザビエルを、隆佐は従僕をつけて坂本に案内させています。小西一族が宣教師と接触したのは、これがはじめてになるようです。日本に最初にやって来た宣教師であるザビエルです。そういう意味では、小西家は早い時期に宣教師と接触したことになります。
 ザビエルが天文20(1551)に日本を去った後の永禄2年(1559)には、ヴ″レラが豊後から堺にやって来て、京や堺で布教活動を行います。この時には、日比屋了珪の家族と40人の市民たちとが洗礼を受けています。

5 堺南蛮貿易

 行長の父隆佐が洗礼を受けたのは、いつ?
シュタイシェソ神父の『キリシタン大名』によると、隆佐は

「行長と共に大坂城で高山右近の感化を受けて改宗した」

と書かれています。そして、フロイスの1569年6月1日付の書簡は、次のように記します。
「隆佐は当地方における最も善良な基督教徒だ」

 フロイスは、この4年前の永禄八年(1565)に、松永久秀が将軍足利義輝を殺し、京の宣教師を追放した時に、隆佐によって保護されながら逃れた経験があります。それから3年後には、織田信長に謁見を求めてやってきたフロイスを安土まで送り、知人の家に泊らせ、自分の息子に世話をさせたのもこの隆佐です。
 ここからは1565年から69年までの間に、隆佐とその家族たちが受洗したことがうかがえます。行長は1558年頃に生まれたようですから洗礼の時には7~9歳くらいであったことになります。
小西隆佐の受洗の動機は何だったのでしょうか。
遠藤周作は「小西行長伝」で、次のように記します。

我々は日比屋了珪や隆佐一家を必ずしも宗教心に溢れた堺商人だとただちに断言はできぬ。逆に当時の堺商人は現世的で快楽主義者の多かったことは石山本願寺の蓮如上人ものべている

 確かにフロイスも、次のように堺商人の快楽主義と不信心ぶりを嘆いています。

「堺に建てられた教会では1ヵ月の間、日夜話をきく者が絶えなかったが、これは他国者で市民ではなかった。市民は傲岸で罪ぶかく神の貴い話を聞く資格はない」

 日比屋了珪や隆佐の受洗の動機も最初は、「商人としての金儲け」だったようです。堺商人たちは、南蛮貿易の利益のための改宗を厭わなかったようです。ザビエルを世話した日比屋了珪にしてみれば、次のように考えていたのかも知れません。

「南蛮と堺との貿易をなめらかにするためには、まずおのれたちが受洗することだ」

じれは大友宗麟のように、南蛮船による利をえるため宣教師たちを保護し、自分も洗礼を受けたのと同じ手法です。そして貿易商人は、異人の扱いにも馴れています。
 いずれにせよ、この時期に小西隆佐は、妻子と洗礼を受けたようです。しかし、父が功利的な改宗者ならば、子もその父や母に従って受洗したにすぎなかったと考えるのが自然です。その信仰が「本物」になるまでには、幾たびかの「試練」を通過する必要がありました。そのひとつが高山右近との出会いだったのかもしれません。

   10年近く経った時の小西行長は、秀吉から備讃瀬戸航路海域の支配を任された「海の司令官」に成長していました。
5 小西行長 小豆島2

行長の快速船団には十字架旗が掲げられ、領地小豆島に「神の国」の建設を進めていたのは前回見た通りです。ある意味、秀吉の野望と行長の出世と信仰が相反することなく、人生のベクトルが一つの方向を向いていた幸せな時代だったのかもしれません。九州への遠征も島津に苦しめられるキリシタン大名を救う「聖戦」と信じることができた頃です。
   天正15(1587)年に、秀吉は大軍を九州に送り込みます。
島津に突きつけた九州和平案の条件に応じなかったためと云いますが、そんなことは口実です。

「太刀も刀もいらず、手つかまえたるべく候」

と秀吉は豪語しています。四国制圧の時と同じく、秀吉軍と九州の領主達の間には、大きな軍事力の格差が生まれていました。秀吉の心の中には、島津攻略は二の次だったかもしれません。この作戦の裏の狙いは、やがて行う大陸侵攻の兵糧の調達や整備演習で、朝鮮侵攻基地としての博多の再興にあると秀吉は考えていた節があります。

5 秀吉の九州討伐

九州討伐作戦は小西父子にとって、その能力を秀吉から問われた戦いでした。
彼ら親子は、秀吉が自分たちを引きたててきたのは一族の持つ水上輸送力と財務能力と、そして堺という貿易都市を背景にした財力によるものであることをよく分かっていました。水上輸送力があるゆえに行長は、瀬戸内海諸島の管理権を与えられ、四国、九州作戦に兵站責任者に登用されているのです。財務能力と堺をバックに持つゆえに隆佐は大坂城のブレインに昇進し、堺奉行に抜擢されたのです。まさに九州遠征は、小西家の力を見せるチャンスです。その成功の向こうに、さらなる飛躍があると信じていたでしょう。
 そして、大量の兵糧や馬糧など戦略物資の畿内からの後方輸送の任務に就きます。前年に、軍勢30万人分の兵糧米と2万頭分の兵車とが集められます。島津征伐だけには多すぎる量です。これは次の朝鮮出兵の準備であり、その調達には畿内の豪商が動員されます。
 堺奉行の小西隆佐も石田三成、大谷吉継たちとともに、前代未聞の大作戦に必要な軍需品や兵糧の補給に当たります。隆佐たちが集めたこのおびただしい兵糧や軍需品は兵庫、尼崎から瀬戸内海をへて赤間関(下関)まで船で輸送されました。その指揮を行ったのが行長です。文字通り父子一体となって大輸送作戦の立役者として働きます。本能寺の変以後の秀吉陣中において、華々しい功をたてるチャンスのなかった若き輜重隊長に活躍の場が与えられたのです。 行長領となっていた小豆島や塩飽にも船や水夫の動員令が出たはずです。
  塩飽諸島に宮本、吉田、妹尾、
  小豆島には寒川氏、
  直島には 高原氏
  などの水軍衆がいたはずです。彼らがどのような動きをしたのか史料には伝わっていません。

秀吉は行長が使い物になると見るや、兵站輸送以外にも次々と新しい仕事を与えます。
 まず朝鮮出兵のための玄海灘渡航計画の立案と、対馬の宗氏に朝鮮国王の朝貢を交渉させる任務です。行長がこうした特殊任務を秀吉から命ぜられたのは、秀吉家臣団の中で最も朝鮮通と見なされていたからだと研究者は考えているようです。
 もともと小西家は堺の薬種問屋と言われています。朝鮮人参をはじめとする高価な薬草の多くは朝鮮から仕入れたものでした。そのため小西家の持船が朝鮮に渡航し、言葉にも通じていた可能性もあります。そういう意味では隆佐や行長が当時の日本人のなかでは朝鮮について一番、知識を持っていたのかもしれません。また、切支丹である彼は秀吉の命をうけ、大村、有馬の領主と接触しています。そして同じ信仰を持つ領主たちの説得に当っています。こうして九州作戦は、わずか二ヵ月で終ります。秀吉は6月7日には、博多に凱旋します。
 そして6月19日、秀吉はバテレン追放令を突然に出します。
    
5 小西行長 バテレン追放令

     『吉利支丹伴天連追放令』原文
 定
1 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
2 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
3 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
4 黑船(貿易船)之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
5 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日     朱印
(意訳)
1 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
2 (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
3 キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
4 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
5 いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
第2条で、大名がキリスト教を強制すること、寺社を破壊することが禁止されています。「権力者が禁止令をだすのは、現実にその行為が行われていた」というセオリーが適応されます。キリシタン大名の支配地ではキリスト教強制が行われていたようです。
3条で宣教師に対しては20日以内の国外退去を求めています。しかし、次の条では宣教師は追放するが黒船(貿易船)はウエルカムよ、貿易は今まで通り続けましょうと云います。宣教師には腕を振り上げて威嚇した後、商人に対しては笑顔で迎えているような印象です。商売と宗教は別ですから、今後も宜しくという内容に読み取れます。
 この文書の補足として口頭で以下のことが周知されたようです。
①この禁止令に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰する
②大名によるキリスト教への強制改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由
大名が信徒となるのも秀吉の許可があれば可能
この①②の補足を見れば、事実上の信仰の自由を保障する内容のようにも思えてきます。 この内容からキリスト教徒追放令ではなく、バテレン追放令なのです。 バテレンとは、ポルトガル語で「神父」padreです。国外追放されるのはキリスト教徒でなく、宣教師たちなのです。江戸時代のキリスト教禁止令とは大きく違う内容です。
  バテレン追放令で秀吉がねらったキリシタン大名は誰?
 フロイスによれば秀吉は全切支丹に棄教するよう強制し、拒否する場合は宣教師と共に国外に追放すると威嚇したといいます。しかし、実際には黒田官兵衛や小西行長には教えを棄てるようにしむけることはありませんでした。宣教師の国外追放と同時に、この追放令には秀吉のもう一つの狙いがあったと研究者は考えているようです。
 秀吉は、利益になることと不利益になることの区別は、冷徹に計算した上で手を打っています。この中には、キリシタン大名を分断し、ある大名を孤立化させる内容が忍び込ませてありました。それは高山右近です。
右近への厳しい対応の背景は?

5 高山右近
 キリスト教禁止を行えば宣教師たちが九州のキリシタン領主たちが手を組んで建ち上がり、反抗的姿勢を示すかもしれぬという恐れを秀吉は考えていたはずです。実際に、追放令後に今後の対応を考えるために平戸に集まった宣教師の一部から「日本占領計画」が提案されています。その際には、高山右近が最も頼りとなる人物であり、反乱の中心に担ぎ上げられる存在になる可能性が高い人物でした。なぜなら秀吉から見れば、右近だけが利害得失を離れて宣教師の味方となる人間であったからです。右近は「危険なる存在」だったのです。権力者にとって、危険をはらむ存在(仮想敵)は早く取り除かなければなりません。逆に云えば蒲生や黒田や行長は右近にくらべ「危険なる人物」と秀吉は考えていなかったことになります。

5 小西行長 バテレン追放令2

  追放令に小西行長は、どのように対応したのでしょうか?
 行長は黒田孝高や蒲生氏郷だちと同じように翌日には、秀吉に妥協しています。その理由は、布告のなかの次の2項目の解釈です
①百姓たちの切支丹信仰は自由だが、それ以上の者は許しを求めねばならぬ
②領主たるものは切支丹信仰を領民に強制してはならぬ
という項目があったからです。つまり、この二項目を守る限り、自分たちの信仰は認められる解釈できるのです。その後の動きを見ると
①蒲生氏郷はその後、棄教
②行長は、フスタ船で眠っている宣教師を秀吉に引き渡し
という行為が見られます。秀吉の威嚇の前には屈服しているのです。
それに対して、高山右近は、どんな対応をとったのでしょうか
 関白の使者の詰問を受けた右近は、ためらうことなく
「信仰は棄てぬ。領地は秀吉に還す」
という回答をします。秀吉は、この返答を予想していなかったようで、翻心して自分に仕えるよう再度の説得の使いを送ります。妥協案として明石領は没収するが、肥後に国替えを命ぜられた佐々成政に帰属するよう提案します。しかし、右近は考えを曲げなかったようです。
  彼は、9年前の荒木村重事件を経験しています。
荒木村重に従っていた右近は、村重の信長への反乱という事件にあいます。キリスト教を保護する信長と、主人の村重への義理との間に苦しんだ結果、領主としての地位を棄て、僧侶のように信仰のみに生きようとして家臣団に別れを告げた経験があります。その苦しい思いを味わった右近は、二度と権力者の道具、一つの歯車になることはならないと心に誓っていたのだと思います。彼の信仰は「本物」になっていたのです。
 翌朝、右近は家臣たちに自らの決意を述べて去って行きます。
「余の一身に関しては、いささかも遺憾に思うことはない。汝等にたいする愛ゆえにのみ、悲哀と心痛をおぼえるばかりである。余は汝等が余のために戦いにおいて共々、うち勝ってきた大きな危険に生命を賭したことを忘れず、その功に報いたいと望んでいる。にもかかわらず現状では汝等は余の手から現世の報いはできぬから、限りなく慈悲ぶかいデウスが、その栄光の御国において永遠、完全なる報いを汝等に厚く与えることを信じている。(中略)
 家臣たちはこの言葉に号泣し髪を切って共に追放の苦しみを味わいたいと誓った。右近はただ三、四人の者だけを連れていくことを明らかにした。」(プレネステーノ「ローマーイェズス会文書」)。
 右近は明石の領地を信仰のためすべて棄てたのです。
小西行長との違いは明らかです。秀吉のバテレン追放令は、キリシタン大名の信仰をためされる「踏絵」でもあったようです。そして、秀吉が差し出した踏絵を前にして敢然と首をふったのは右近だけだったのです。秀吉の読み通りでした。
  兄のように尊敬してきた高山右近のとった行動を見て、小西行長はどう感じたのでしょうか?
誰もが一度は自分のとった行為を正当化します。しかし、右近の烈しい信仰を見て、それができぬ自分にうしろめたさと恥ずかしさとを同時に感じたのではないでしょうか。その良心の補償のためにも右近を保護せねばならぬと思うようになったのではないかと遠藤周作は小説の中で、語ります。
 右近が博多湾上の孤島に移り、それから瀬戸内海の淡路島に逃れることができたのは、おそらく小西行長のひそかな援助があったからでしょう。前回にも述べた通り、行長は「海の司令官」として、瀬戸内海航路の管理者でしたから管理下にある船に高山右近を潜ませることは簡単であったはずです。堺に帰還する行長の船に、同船させたかもしれません。
高山右近が追放された今、宣教師たちの頼みの綱は行長です。
 京にいた前日本副管区長のオルガンテーノは、大坂や堺などの畿内の宣教師に行長の所領である播州の室津に集まるよう呼びかけます。行長の保護がほしかったのでしょう。しかし、行長は動きません。フロイスは
「行長は宣教師たちに冷たかった」
と書いています。
当時の行長の心境を遠藤周作は次のように描きます。
「行長は怯えていた。彼の信仰は今までたびたびくりかえしたように真実、心の底に根をおろしたものではなかった。六月十九日の夜、蒲生氏郷などと共に関白の威嚇に屈服した彼は今、自分も右近と同じ運命をたどることがこわかったのである。そのくせ彼は毅然たる右近の勇気ある信仰者に転び者が殉教者に感じたようなうしろめたさと恥ずかしさを感じていた。そのくせ自分の領地である室津に宣教師が集結することを怖れ、これ以上、宣教師たちの悲劇に巻きこまれたくなかったのだ。」

 室津に追放宣言を受けた宣教師たちが集結しているのが、秀吉の耳に入ればどうなるのでしょうか?
5 室津1

 集結した近畿の宣教師たちの退去を求めて室津にやってきた行長に対して、オルガンティーノは日本に留まることを主張します。行長とオルガンティーノの間で烈しいやりとりがなされたようです。そして、
「行長は連れてきた結城弥平次ジョルジと三時間、一室にとじこもった」
と宣教師の報告書は記します。
 三時間の間に、この二人が語りあったことは何だったのでしょうか
後の行長の行動を追うと分かってきます。それは秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを彼等は話し合ったと遠藤周作は考えているようです。
 このような時に、淡路島に隠れていた高山右近は、行長の家臣・三箇マンショと室津にやってきます。右近の登場でそれまでの雰囲気は激変します。右近は行長たちに向って、
「我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語った。それは地上の軍人から神の軍人に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えない」
と誓ったといいます。
 こうして行長と右近たちは協議して次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を小豆島にかくすこと
②神父と右近とは二里はなれて別々に住むが、万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の新知行地に逃げること
これは行長にとっては危険な行為です。国外退去命令の出た宣教師を自領の小豆島にかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする裏切です。しかし考えて見ればこれは、堺商人が権力者にとってきた処世術かもしれません。表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方です。関白に屈従しているとみせかけて、巧みにだますこと。これがこれからの行長の生きる姿勢になります。
 室津でこような「会議」が開かれたのは天正十五年(1587)の陰暦6月下旬から7月上旬であったようです。行長の成長には、バテレン追放令と高山右近の犠牲とが必要だったようです。

   室津は瀬戸内海の湊として、多くの人たちが利用してきました。法然上図には女郎とのやりとりが描かれています。しかし、行長をしのぶものは何もありません。室津は、行長にとって「魂の転機」となった場所だと遠藤周作は云います。

  小豆島に潜伏した、右近やオルガンティーノの動向は?
5 小西行長 小豆島1

 オルガンチーノ神父が、長崎などの司祭・修道士に宛てた書簡には次のように記されます
「我ら(他にコスメ修道士、同宿のレアン)が今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ませんでした。
 この島の住民はきわめて素朴で、アゴスチーノ(小西行長)が当地に置いております隊長に、万事において従っています。この隊長は、非常に善良なキリシタンで、我らが発見されないように、最大の注意を払っております。三名のキリシタンが、我らの居所を知っているだけで、彼らが必需品を届けてくれるのです。」
 また、髙山右近一家(妻子)の住まいについては、
①オルガンチーノ神父たちの住まいからは「2レグア」 (8km) の距離にあって、
②右近は時々単身で 訪ねて来て、2,3日泊まって、語り合いの時を持ったと
記します。続けて
右近は剃髪して迫害と窮乏の中に妻子と共に、 つつましく暮らしており、そして 歓喜に満ちて、何事もなかった如く見える。右近は、日本では戦争で領地を失い・殺され、あるいは死に至る者が少なくないのに、彼らに比し、自分はイエズス・キリストを愛するために 領地を失ったのであって、大いに喜ぶべきことであると語り、日々信仰心を増し、一切をデウスに任せ奉り、デウスのため 生命を失う準備を進めている。こうして、関白の権威に屈せず、何ものをも怖れず、暴君 および 悪魔に対し、光栄ある勝利をおさめた。」( 1587年 ・ 年報 )
と、右近の近況と信仰心の成長を伝えています。
 髙山右近が 潜伏した場所は、どこなのでしょうか?
小豆島の郷土史家は
①右近潜伏地を中山
②オルガンチノ潜伏地を肥土山
と推定しています。

5 小西行長 小豆島5

  前回、行長が宣教師を連れてきて半ば「強制改宗」を行い、1ヶ月で1400人の洗礼を行った場所が内海湾一帯の草壁地区と推測しました。さらに隠れ場を
「今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ません」
とあるので、海が見えない山の中の孤立した所のようです。そうだとすれば、中山や肥土山はぴったりのロケーションです。ここには、千枚田や農村歌舞伎小屋があり今は観光客も訪れるようになりましたが、隠れ家を置くには最適です。
5 小西行長 小豆島81

  ところで、小豆島は彼ら以外にも多くの亡命者を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。彼らに、右近追放の一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」
と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」
だったといいます。右近の一族や重臣の中には、右近と共に行長の支配する小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、当時の小豆島には
①行長による強制改宗による地元信者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことをここでは押さえておきます。
行長の宇土への転封

5 小西行長 宇土城jpg
 右近等が小豆島に潜伏したのもつかの間、翌年の天正16年(1588)、小西行長は秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。秀吉が肥後の北半国、二十六万石の領主としたのが加藤清正です。清正が陸戦将校ならば、行長はは軸重、輸送の輸送隊長で後方支援部隊の責任者です。
5 小西行長 領地1

秀吉の頭にあったのは、朝鮮出兵でしょう。
おびただしい兵力、兵糧を海をこえて朝鮮に運ぶ必要がある。そのためにも行長を肥後の南半国におくのは悪くない。しかも、天草の切支丹国衆たちを抑えるには、同じ信仰者の者がいい。そしてライバル意識を持つ清正と競い合わせる。一挙三得じゃ」
という感じでしょうか。こうして、同年輩の水と油のようにあい合わぬ二人の若者が肥後という国を背中合わせに支配することになります。
 小豆島1万石から宇土24万石への破格の抜擢の意味を行長は分かっていたはずです。
喜びと云うよりも、当惑の方が大きかったのではないでしょうか。秀吉の野心の道具として、朝鮮出兵を仕切る立場に立たされたのです。かつての行長なら嬉々としてうけたでしょう。しかし、バテレン追放令の高山右近の生き様を間近に見た今は違います。そして、今は秀吉を裏切り、右近を小豆島に匿っているのですから・・・。

 この頃は讃岐では、毛利・島津に備えての瀬戸内海防備ライン整備の一貫として、秀吉に命じられた生駒親正が高松城の築城に着手した頃です。行長の転封に従って、高山右近も九州・宇土に向かいます。しかし、右近は間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将と1万5千石の扶持で迎えられます。行長の心の重荷の一つが下ろされたのかもしれません。
 この後に展開される朝鮮出兵で、交渉を任された行長が秀吉に偽って明と和平講和を結ぼうとするのは、秀吉に対するある意味での裏切りです。しかし、それは心理的には右近を小豆島に隠したときから始まっていたのかもしれません。
 秀吉亡き後の関ヶ原の合戦では、行長は豊臣側につき捕らえられます。
この時、行長はキリシタンであることを理由に切腹を拒否します。そして戦犯として恵瓊とともに京の六条河原で斬首されます。享年42歳とされます。この死に様に、キリスト教徒としての成長を私は感じます。
5 小西行長 バテレン追放令6

 最後に小西行長の後の小豆島を見ておきましょう。
行長の宇土転封後に、代わって小豆島の支配者となったのはの、片桐且元(かたぎりかつも)です。  彼は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた人物です。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津で三千石を与えられるようになります。
 以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっています。天正15年(1587年)の九州遠征では、小西行長とともに後方支援を担当し、主に軍船調達に関わっていたようです。武闘派のように思われがちですが、実務的な仕事もできるタイプの武将だったようです。そのためこの頃から実施されるようになった検地の責任者として各地の検地帳に名前を残しているようです。彼の下では、バテレン追放令は、有名無実化していましたからキリスト教信者への組織的な弾圧があったとは思われません。
 その後江戸幕府の天領となると宗門改が厳しくなります。
①元和元年(1615)長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、
②元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)
③正保4年(1647)から幕府の直轄地
彼らの下で、次第に宗門改が厳しく行われるようになります。
 特に寛永7年(1630)の小掘遠州の時には、かなりの信者が捕らえられ、転宗させられたようです。小掘遠州は、茶人、造園家としてよく知られていますが、実務的な官僚でもあり宗門改にも真面目にとりくんだようです。そのため小西行長の時代から根を下ろしていたキリスト教信者が踏絵を踏まされ、あぶり出され改宗を迫られたようです。
 それでも、小豆島では以後もかなりの人数の隠れキリシタンがいたのではないかと云われます。それを裏付けるように、隠れキリシタンのものではないかと云われる墓が多く残っています。見る場所によっては十字架に見えるというのです。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。有力者が信者であったことを示すもので、高山右近時代の「亡命信者」の子孫たちだったのかもしれません・彼らは、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようです。今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などが、各所にあります。
5 堺会合衆haka

 また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きます。
この乱と小豆島とはいろいろな形で結ばれていたようです。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長が小豆島から転封された領地です。そのため、行長の家臣だった多くのキリシタン浪人が乱には参加していたとされます。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の家臣の一人だったと云うのです。
 この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されます。その時に篭城の3万7千人が全滅しました。この中の多くは農民で、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しす。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図ることにします。天領である小豆島にも移住者を出すことが求められます。そのため、小豆島から島原半島南部一帯に多くの人たちが移住しています。移住者の決定に当たっては
①坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者
②生活困窮のため自ら進んで移住した者
などがいたようですが「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったようです。
 その後も移住元と移住先という小豆島と天草地方の関係はその後も長く続きます。
例えば以前にも紹介しましたが、マルキン醤油の持ち舟の弁財船は、瀬戸内海を抜けて天草まで下り交易活動を行っています。その際に船が出て行くときには、島の塩や素麺・醤油を積んで、帰路航路には小麦や鰯かすなどの肥料が積まれています。丸金醤油は小豆島からの移住者たちを相手に、塩や素麺・醤油を売り、その帰路には原料の小麦を買って帰っていたようです。
   長くなりましたがおつきあいいただき、ありがとうございました。

5 小西行長1

若き日の小西行長は小豆島や塩飽の領主であったようです。領主として島に「神の王国」を作ろうとし、後には追放された高山右近をこの島に匿ったとイエズス会の宣教師は報告しています。
小西行長と小豆島・直島の関係を探ってみます。
小西行長が秀吉に仕えるまでのことは,よくわかっていません。
一説には,備前・美作(岡山県)を治めていた宇喜多直家に仕えており,直家が羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田信長に降伏した際の連絡役を務めていたといわれています。
その後の行長の出世ぶりを年表で見ておきましょう
天正8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)で所領を得て
天正10年(1582) 小豆島(香川県)の領主となり
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正十五年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。
 彼の所領を一万石ほどの「小さな島」と考えるのは大間違いです。
5 瀬戸内海

小豆島や塩飽は海のハイウエーである瀬戸内海のSAサービスエリアであり、ジャンクションでもあったのです。1万石の領土を任されたと云うよりも東瀬戸内海航路の管理・運営を任されたと考えた方がいいと私は思うようになっています。小西行長が秀吉に仕えるようになって4年、何か大きな戦功があったのかといえば「NO」です。本能寺の変の後、明智光秀や柴田勝家との戦いの中に彼の名前は出てきません。同世代の加藤清正や福島正則が「賤ヶ岳の七本槍」と勇名を馳せるのとは対照的です。長宗我部元親への四国遠征の際にも、後方支援で戦略物資を運んでいた輸送船団の若き司令官にしかすぎません。戦績もない青年将校が、戦略的要地の司令官に抜擢されているようです。先ほど触れた加藤清正は、当時は三千石です。戦場に出ず血を流すことのない主計将校、輜重武官として蔑んでいた行長が自分より秀吉の評価が高いことは、清正には愉快ではなかったはずです。
 秀吉はなぜ若い行長を抜擢したのでしょうか
  謎をとく一つの手がかりは、行長の父小西隆佐の存在だと研究者は考えているようです。
 同じ時期に行われた堺のトップ人事について宣教師フロイスは、次のような書簡をインド管区長に送っています。
「堺市においては切支丹にとって大いに悦ぶべきことが起った。同市の領主(奉行)が関白殿の怒りにふれて職を奪われ、奉行が二人おかれるようになった。代った一人は異教徒で、他の一人は隆佐と称し、切支丹の名をジョウチソという人である」(イエズス会『日本年報』)
 このフロイスの書簡のうち「同市の領主が関白殿の怒りにふれ」という部分が、信長以来の堺の代官が秀吉の怒りに触れて罷免され、隆佐が堺の代表者に任命されたと報告しています。この隆佐は行長の父なのです。改めて確認しておくと次のようになります。
  ①父・隆佐が堺の堺奉行
  ②子・行長が、小豆島・塩飽諸島と室津の領主
これには、人使いのうまい秀吉の思惑があったはずです。朝鮮出兵に向けた野望のために、父子二人を一体として使おうとしたのだと研究者は考えているようです。そのために堺と瀬戸内海交易路の戦略拠点である島と港を父子に与えたというのです。今風に云えば、
 父親は通産省の高官に、
 子は瀬戸内海の運輸省と海上保安庁の地元長官に
同時抜擢した人事処遇ということになるのでしょうか。秀吉はやがて行う九州制圧やその後の朝鮮出兵に向けて、軍兵、兵器、兵糧の海上輸送を行う船団の管理運営できるが人物の育成を行っていました。四国遠征では仙石秀久にその役割をやらせてみたのですが、秀吉の目にはかないませんでした。やはり武士や百姓出身の人間には、船や港や交易のことは分からないようです。そこで、抜擢されたのが堺商人の次男・小西行長だったようです。つまり商人出身の侍なのです。
  この時代の行長は、宣教師たちからは「海の司令官」と呼ばれていたようです。
その颯爽とした登場ぶりを史料から見てみましょう
天正13(1585)年の『イエズス会日本年報』
パードレ・フランシスコ・パショが豊後より都に赴く途中にて認めたる書翰
 七月六日「我等は佐賀関Sanganoxequiを出発し、12日に塩飽(Xluaquu)に着いた。途中海賊に會はず、風がなかったため常に櫓で進んだ。塩飽に着いて海の司令長官アゴスチニョ(小西行長)が異教徒である当地の殿に書翰を送り、予が到着した時、室までの船をあたえ、大いに飲待せんことを依頼した由を聞いた。アゴスチニョは、また我等が同地を通過する時に泊る宿の主人に、同じ趣旨の書翰を送った。
 同地には、またアゴスチニョ(行長)の家臣である青年キリシタンが一人居り羽柴筑前殿 (FaxibaChicugendono)(秀吉)の土佐、讃岐、阿波及び伊予の四国に派遣する軍隊を輸送するため、船の準備に塩飽に来た由を語り、アゴスチニョは同地より十レグワの所にて艦隊を待受けてゐる故、もし彼のもとに行かんと欲すれば、その船にて同行すべしと言った。
 予はこの招待に応じ、日比と称する地に着いたとき、未明に到着するはずである故そこにて彼を待つやう伝えられたた。アゴスチニョは果して、翌早朝多数の船を率ゐて到着し、十字架の旗を多数立てた大船に乗り、同所にゐた貴族達に面会することなく、直にわが船に来り、予をその船に移して大いに歓待した。ついで小舟に乗り、手に杖を待って、兵士を乗船せしめ、船を出航せしめたが、甚だ短き時間に沈着に一切を行った。然る後その船に還り、我等か暫く語った後、予に一艘の軽快な船をあたへ、直に堺に向ふため書翰ならびに兵士をあたえた。
ここからは次のようなことが分かります。
①小西行長が「海の司令長官」と宣教師から呼ばれ、室津を拠点としていた
②塩飽は当時は「異教徒の当地の殿」が治めていたこと
③行長の家臣が四国遠征準備のために塩飽にやってきていた
④十字架旗を立てた船団で日比にやってきた小西行長と歓談した
⑤小西行長の準備した快速船で堺に向かった
 行長は室津と小豆島の領国を持つ領主であると同時に,秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として動き,秀吉の命令を伝達するだけでなく,現地の情勢に応じて武将と相談し,秀吉の命令意図を実行できる立場にあった研究者は考えているようです。
 四国遠征直前に、部下を塩飽に派遣し船の動員についての打合せを「塩飽代官」と行わしたり、自ら快速船団を率いてあっちこっちを巡回打合せを行う若き「海の司令官」姿がうかがえます。

  小豆島でのキリスト教布教は、どのように行われていたか?
翌年の1586(天正十四年)に小豆島での布教の様子が次のように報告されています
 パードレが堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前に在って、小豆嶋と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のため2カ所の城を築造することを命じた。彼の最も望むところは、この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。彼は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは右の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人をさいた。
 八六年七月二十三日 堺を発し右のパードレを同行して、かの小豆島(堺より四十レグワ=160㎞)の前に到る。
牛窓と称し同じくアゴスチニョ(行長)に属する町に彼を残した。右のパードレは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。ビセプロビンシヤルのパードレが今居る長門の下関の港に着いた後一ヵ月半を越えざるうちに、大坂より来た書翰の中に、小豆嶋に留ったパードレの書翰があった。その中につぎに這べることが記してあった。
 予は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。同所にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆が集まり、彼等の半数以上はよく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとほりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモ(教理問答)の説教を受けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々にに斎座の火を燃やし給ひ、1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(約6㎞)の間に接績してゐた村々において、千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架をここに建て、神仏は一つも残さず破壊した。また聖堂を建てるため四十ブラサ(約八八㍍)四方の場所を選んだが、その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この嶋の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ余りの道を急いで予が滞在してゐた村に来り、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
当時の行長の国作りのお手本は、先輩キリシタン大名である高山右近でした。
5 高山右近

右近は秀吉からも天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ「神の国の地上での実現」をめざしていました。小西行長は、それを見習って国作りを小豆島で行おうとしていたようです。その一端が、イエズス会の立場から描かれています。
  行長の望むところは「この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんこと」として、どのような布教活動が行われていたかを上記の報告から確認しておきます。
宣教師が派遣されて、布教活動が行われます。
①小豆島の北側対岸の牛窓も行長の所領であったこと
②宣教師に「嶋の司令官であるキリシタンの貴族(=代官)」と同行したのは三箇マソショは結城弥平治ジョルジの両説有り
③場所は分からないが宣教師による布教活動が行われた
③1日目から百人を超ゆる聴衆が集まり、1ケ月で1400人を超える人達が洗礼を受けた
④信者は長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架を建て、神仏は一つも残さず破壊した。
⑤聖堂建設場所が選ばれ、(行長)は瓦葺きの聖堂を建設する予定であった
模範とする高山右近の領地では、2つの相反する宗教政策が行われたことが記録されています。
①右近の領内の寺社記録は「右近が領民にキリスト教への入信強制を行い、さらに 領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。」と入信強制と神仏破壊が行われたと記録します。
②キリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかった。しかし、右近の影響力が大きかったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたとします。
どちらにせよ、急速な入信者の増大は、自然発生的なものではないようです。そして、神仏破壊も行われているようです。こうして、小西行長の領地ではキリスト教の布教が領主の支援を受けて行われ、急速な信者獲得が行われ、その成果を誇示するように大きな十字架も建てられたようです。
さて、このときに宣教師たちがやって来て布教を行い十字架が立てられて場所はどこなのでしょうか

5 小西行長2

まずセスペデスの上陸地の条件は、牛窓との航路があったことです。
牛窓と小豆島との海上航路については、いくつかのルートが考えられます。上陸地の候補地をを、『海潮舟行日記』(文政六年)で探してみましょう。

5 小西行長5
 福田 家百軒    湊廣シ西風ノ外懸り無之、
 草加部 家数八十軒  何風ニモ吉大船何程モ懸ル、
 池田 家百八十四軒 湊内廣シ何肢モ懸ル、
 土庄  家百八十一軒 舟懸り無之浅シ、
 渕崎 家九十五軒  入口西ヨり、湊上々何赦モ懸ル、
 伊木洲江  家百軒  湊悪シ、
 屋形崎 家三十四軒 舟懸り無之、
 小海  家三十六軒 是ヨリ備前ノ牛窓へ三リ、
 大部  家百二十八軒 西風南風懸リ
牛窓に一番近いのは小海です。ここは中世以来の廻船業者が活動する湊で、牛窓との便数も多かったようです。しかし、周辺の人家数や人口が少なすぎます。小豆島の北側にある集落では1400人の人々を集めるのは無理があるようです。
 この布教から約160年後の延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、宗門改の結果、「転び切支丹類族」が新たに見つかった集落を挙げています
草加部村 54人
肥土山村  5人
上庄村に  3人
渕崎村に  2人
そして、草加部の項目には次のような記事があります。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。
 つまり、草加部の他に、池田、小海、福田にも、かつてはキリシタン信者がいた「死失仕り」っていないだけだと記します。単純に考えると、セスペデスの布教活動地はこの四つの村の一つに絞られるのかもしれません。しかし、後にも触れますが秀吉のバテレン禁止令以後、右近の信者たちが小豆島へ「亡命」してきています。その時の神社が隠れ住んだ可能性もありますので確かなことは分かりません
 
セスペデスが布教を行った場所について考えてみましょう。
 ①旧約六キロメートル連続した村々がある。
 ②約一か月間に1400人以上がキリシタンとなった。
 ③十五メートル以上の十字架が建てられた。
 ④キリシタソ達によって神仏が一つ残らず破壊された。
 ⑤聖堂を建てるための約88㍍平方の土地がある
 ⑥行長の支配の中心地に当り、館が築かれていた。
人口面からすれば内海湾に面して苗羽、安田、草壁、西村というような連続した村が続く島で一番の人口密集地帯である草加部村(内海町草壁地区)が有力でしょう。先ほど見た、「転びキリシタン類族」も54人と多く、ここに小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。
天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけの大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿
と書かれ、小西行長による神社仏閣破壊が室津でも行われていたことが分かります。
そして地元の「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」
とあり、この地区で小西行長による神社仏閣の破壊が行われたことを記します。しかし、これらも「状況証拠」で決定打ではありません。あえて想像するなら内海湾を見下ろす草壁の丘の上に大きな白い十字架が建てられた時代があったかもしれないくらいに留めておきます。
以上を整理すると
①秀吉が長宗我部と戦うために四国遠征軍の準備をしている時に、東瀬戸内海の「海の司令官」は小西行長だった
②彼は室津を拠点に、小豆島、塩飽の1万石の若き領主であり、同時に秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として瀬戸内海を動いていた。
③行長は高山右近をお手本に、小豆島を「地上の神の国」とすべく宣教師に布教を依頼
④領主の半ば強制で人々は大量入信し、短期間で1400人の洗礼者を獲得した
⑤そのモニュメントとして大きな十字架を建てた。その場所は内海湾周辺が有力である

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
5 小西行長3

参考文献 遠藤周作 小西行長伝 鉄の首軛(くびき)
関連記事

 

このページのトップヘ