瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2020年07月


空海の家系についての研究史について、代表的な四つの空海伝を見ていきます。
第一は、守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』が挙げられるようです。
文化史上より見たる弘法大師伝

この本は、空海の入定1100年を記念して刊行されたもので、いまから90年以上もまえのものです。当時の空海へのアプローチは、信仰対象としての空海像を描くことにあったようですが、鋭い問題意識や指摘が至る所にちりばめられていて、刺激的な内容です。それまでの空海伝の集大成という内容で、諸説を全て併記・紹介し、あえて結論を出さない姿勢で貫かれています。結論を急がずに読者にゆだねる方法は、読者である私たちが考えるという姿勢を生み出すことにも繋がり好感が持てます。
この本の中で、空海の家系については次のように書かれています。
①佐伯氏には数系あるが、『御遺告』、『空海僧都伝』、『新撰姓氏録』の史料から、空海の家系は神別の佐伯氏であること
②その証拠として、空海の父・田公に連なる11名が宿爾の姓を賜わったときの「貞観三年記録」をあげる。
③これらの諸書と『弘法大師年譜』とを綜合して、つぎの佐伯氏の系譜を提示します。
1 空海系図

 四男一女を出す、今其女を掲ぐ、而して之を分の説により仮に二男って圏績を以てす。

④これは「貞観三年記録」と合わせると不合理な点がいくつか出てきます
⑤そこで、空海の兄弟姉妹の数等を検討し、次のように問題点を指摘しています。
大師の御生母玉依御前と云う方が是等の男女の兄弟を全部生んだか、さうとすると真雅以下の兄弟の年齢と玉依御前との間に首肯し得ない年齢の相違もあり、大師と貞観寺僧正(真雅)が兄弟であって27歳の年齢の隔たり、真雅と真然と伯父甥の間柄で僅かに年齢が3歳しか違って居ない点からすると、真然の父が真雅の弟であり得ないと思われる点等の疑問が生じて来るのである。

 「その通り」と、相づちをうちたくなるのは私だけでしょうか。
空海についての本は、毎年沢山出版されていますが、真雅を初めとする空海の弟たちや甥たちとの関係をきちんと系図を用いて説明したものはほとんどないような気がします。90年前の疑問がいまだに解けていないのが現状なのかもしれません。空海の父母と兄弟の関係、そして空海と甥との関係は、いまだにミステリアスです。

2番目は、渡辺照宏・宮坂宥勝著『沙門空海』です。
 

この本は、中世以後に書かれた2次、3次史料を排して、できる限り根本史料にもとづき、人間空海像を描き出そうとした労作で、画期的なものだと評価されています。戦後の自由な空気の中でこそ生まれた研究成果です。その新しい見解と問題提起は、以後の空海伝研究の指針となったと云われます。しかし、空海の家系に関しては、次のような簡略な記述しかありません。
①まず「貞観三年記録」をひいて、讃岐の佐伯直と大伴・佐伯の両宿爾が同祖であること、空海の父が田公であったことを述べ
②空海も天長五年(828)、按察使として陸奥国におもむく伴国道に詩文を贈り、大伴と佐伯とはふるくから兄弟であったと「佐伯氏=大友起源説」を紹介し、
③佐伯氏には二系統あり、一つは播磨・讃岐などに配置された蝦夷を支配していた地方の佐伯直、 一つはその佐伯直を中央で統括していた佐伯連であって、空海は讃岐の佐伯直の出身であった、と記すだけです。空海の家系については
①佐伯氏が大伴室屋から出ていること
②空海の出自が讃岐の佐伯直であったこと
③父が田公であったこと
に触れているに過ぎません。
3番目は、櫛田良洪著「佐伯氏をめぐる問題」です
この本では讃岐の佐伯氏について、次のようなことが論じられています。
①空海が讃岐の佐伯氏の出身で、田公を父として生をうけたこと。
②その根拠に「貞観三年記録」全文が挙げられ、当時の讃岐多度郡には実恵流、道雄流、そして空海・真雅流などの佐伯氏が広く分布していたことと、讃岐の佐伯氏から多くの名僧が輩出したことを指摘する。
③『新撰姓氏録』などにもとづいて、大伴氏と佐伯氏の関係、中央で活躍していた佐伯氏の人々および佐伯氏の全国的な分布を紹介し、空海は神別の佐伯氏であり、播磨の佐伯氏は皇別とする。
④空海が上洛し、大学に学び、官吏への道に進ませたのは佐伯氏を取り巻く状況が仕向けたとして、一族の佐伯毛人・真守・今毛人らの華々しい功績が紹介される。
⑤最後に、佐伯院の建立など、都を中心に活躍した佐伯今毛人・真守らの事績を記して終わる。
ここからは、空海が生まれる前後の佐伯氏の広がりはある程度は分かりますが、空海の出自については、分からないままです。空海の家系が明確になったとは思えません。家系の説明には系図は不可欠ですが、それもありません。
最後が、高木諌元著『空海 生涯とその周辺』です。
空海 生涯とその周辺

これまでの伝記研究を集大成したともいえる本です。
「今日手にすることができる空海伝の白眉」とも云われているようです。しかし、空海の家系については『沙門空海』同様に、次のように簡略に記されているだけです。
①田公の男・鈴伎麻呂など十一名に宿而の姓が勅許されたときの「貞観三年記録」を全文あげ
②上奏するにいたった背景を推測し
③姓(かばね)に言及する。
④改姓・改居をゆるされた11名はすべて空海の兄弟、甥たちで、このなかに真雅も含まれていたとし、
⑤父の田公とその息子たちをあげ、豊雄が伴善男を介して上奏したのは、大伴氏と佐伯氏が遠祖を同じくすると信じられていたからであった。
と述べます。
そして最後に、「伴氏系図」を次のように紹介します。

佐伯の氏姓を最初に賜ったのは、健日命(武日命)から四代目の歌連のときとするけれども(『続群書類従』七下)、佐伯の姓は佐伯部に由来する。もともと佐伯部は、五、六世紀のころに大和朝廷に征服された蝦夷の存囚であったが、隷民として播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波などに分散配置された。これらの佐伯部を管掌していた地方の国造は佐伯直の姓を称していたのである。空海はその讃岐地方の佐伯直の戸口(ごく)として出生したのである。

と、
①佐伯の名の由来を佐伯部にもとめ、
②歌連から佐伯を称するようになったこと、
③空海は讃岐の佐伯直の生まれであること、
を述べて終わっています。
以上、空海の家系についての先行研究をみてきましたが、用いられている史料は
①昭和初期は天保四年(1823)の得仁の『弘法大師年譜』
②第二次世界大戦後は、「貞観三年記録」
という傾向が見られるようです。
 先行研究を見る中で「何かが足りない」と感じます。

その第1は、系図です。
1空海系図2

空海の家系についての研究を深めていくためには、「佐伯家の系図」が必要不可欠であることを実感します。系図に基づき一族の人物を紹介していくのが、普通のやり方です。それがないまま空海の家系を紹介したことにはならないでしょう。系図が示されているのは90年前の『文化史上より見たる弘法大師伝』だけなのです。

21世紀になってやっと、系図を示して空海の家系が語られる環境が整いだしてきます。それを次回は見てきたいと思います。

 
淵野(ふちの)というところは、むかしから淵や沼の多いところでした。
沼を開墾して、田圃にしていましたが、田が深いので農作業は大変でした。
特に、田植えのときは吸いこまれそうになるので梯子を置いて苗を植えたといいます。
この淵野のお寺で、働く娘さんがいました。
とってもよく働く娘さんは、夜ぐっすりと眠ります。
よく眠っている娘さんのもとへ、若い男が通って来るようになりました。
若い男は、とても色が自く背もひょろりと高いそうです。
若い男はあまり話もせずに、夜が明けると帰って行きます。
毎晩、通ってくるのはいいのですけどあまりにも肌が冷たく気味が悪くなりました。
体中が、水のなかから出てきたようにひんやりしています。
娘さんは、お母さんに相談してみました。
「どこの人ですか。お名前は」
「わかりません。黙って帰りますもの」
「それじゃ困ります。どこのお人かたしかめましょう」
「でも、名前を言ってくれなかったら…」
「それじゃ、こうしましょう」
お母さんと、娘さんはひそひそと話しあいます。
「糸を長く通した針を、男の着物の裾につけるのです。糸は、くるくるとけるようにしておく
のですよ」
「はい」
「男に、知られないように針を刺すのです」
「はい。わかったわ」
「くれぐれも、気をつけて…」
娘さんは、お母さんに教えられたとおり男の着物の裾に針を刺しました。
翌朝、お母さんは娘の寝室から延びている糸をたどって行きました。
糸は、屋敷の外まで続いています。
そして、まだまだ長く延びているではありませんか。
田を越え、沼を越え、淵のなかへ入っています。
深い淵は、土路が淵です。
お母さんは、土路が淵の中をのぞきこみました。
すると、ぼそぽそと話す声が聞こえてきました。
「正体をさとられてしまったな。もう、通ってはいけないぞ」
「でも、娘の腹には子が宿っているワ」
色の白い男と思ったのは、土路が淵の蛇だったのです。
娘さんは、妊娠しているというのです。
それも、蛇の子を宿してしまったというので、お母さんはびっくりしてしまいました。
でも、お母さんは、あわてません。
なおも、聞き耳をたてていました。
「しかしな、人間というものは利口なものだ。菖蒲の酒を飲むと、子はおりてしまう…」
土路が淵の蛇の親子の話し声です。
お母さんはこれはいいことを聞いたと、いそぎ足で帰ってきました。
菖蒲の酒とは、五月五日の節旬の菖蒲を浸したものです。
同じように二月三日の、酒も効果があるといいます。

「お前は、たいへんなことになっています。はやく、菖蒲のお酒を飲みなさい」 
一ぱい、二はい、もう一ぱいと娘さんは菖蒲の酒を飲みました。
ほどよく菖蒲酒が身体にいきわたったころ娘さんは、お腹が痛くなりました。
つきあげてくるような、ものすごい痛さです。
痛さにうずくまっていた娘さんは、驚いなたことに蛇の子を産みました。
盥に、七たらい半、蛇の子を産んだのです。
蛇の子を産んだあと、娘さんはは亡くなりました。
もちろん、蛇の子も死にました。
  沼や淵の多い淵野には、娘さんのお墓がひりと建ててあります。
そして、節句の酒は、飲むものだと言い伝えられています。

                            北条令子 さぬきの伝説 より

     第46回星霜軒月釜 『空海の茶会』 – 茶室 星霜軒
空海は、讃岐の善通寺で生まれた、そして故郷の満濃池を改修したと小さいときから信じてきましたが、それに異を唱える説が出てきているようです。空海は母の阿刀氏の里・河内で生まれ育ったというものです。にわかには信じられないので、ひとつずつ資料を見ていくことにします。
空海の伝記史料には、空海の出自は、どのように記しているのでしょうか。
「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」をテキストに見ておきましょう。

 平安時代に成立した空海伝は8つあるようです。その中の空海の出自に関する部分に絞って見ていきます。
一番古い空海の伝記は、「空海卒伝」のようです。
これは、藤原良房・春澄善縄らが編纂した正史の一つである『続日本後紀』巻四、承和二年(825)三月庚午(二十五日)条に収められています。『続日本後紀』は、貞観十一年(969)八月に完成しています。空海は835年に亡くなっていますので、死後130年近くを経ってからのものです。「空海卒伝」は、わずか247字の簡略なもので、空海の出自に関しては、
法師は讃岐国多度の部の人なり。俗姓は佐伯直
と記すだけです。この卒伝から分かることは次の2点のみです。
①空海は讃岐国多度の郡の出身であること、
②俗姓は佐伯直であったこと、
しかし、これだけでは空海が讃岐で生まれたかどうかは分からないと研究者は考えているようです。
当時は、地方豪族の中には中央官人として都で活躍する人たちもいましたが、その本籍地は出身地にそのまま残されているということが多かったのです。地方豪族にとっての夢は、中央官僚になって本貫を都に移すことでした。そのためには、実績を重ねや献金を積んで本貫を都に移すための様々な努力をしていたことが史料からはうかがえます。空海の佐伯家や和気氏の智証大師も同様です。
 そのため「讃岐国多度の部の人なり」は戸籍上の表記であって、出生地とは限らないと考えるようです。
空海伝説

2番目は、貞観寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』です。
奥書から寛平七年(895)の成立とされ、次のように記されます。
初めは讃岐国多度の部の人なり。姓は佐伯氏。後に京地の俗に移貫す。宝亀五年甲寅に誕生す。殊に異相有り。
ここには新しい情報が2つあります。
①本貫、つまり本籍地が讃岐から京に移されたこと
②宝亀五年(774)の誕生が明記されたこと。
空海の死後に佐伯氏の本貫が京に移されたようですが、ここにも生誕地は示されません。
3番目は、『空海僧都伝』です。
巻首に「真済」とあり、巻末に「承和二年十月二日」と記されていて、10世紀半ばの成立のようです。本文を見てみると、
和上、故の大僧都、諄は空海、灌頂の号を遍照金剛と日う。俗姓は佐伯直、讃岐国多度の部の人なり。その源は天尊より出ず。次の祖は、昔日本武尊に従って毛人を征して功あり。因って土地を給う。便ち之に家す。国史・譜牒、明著なり。相続いて県令となる。
とある。ここには次のような新たな3つの情報が出てきます。
①大師の先祖は天孫(尊)であること。
②次の祖が日本武尊の蝦夷征討に加わり、その勲功によって讃岐に土地を給い、住むことになったこと。
③代々県令(郡司)を出していたこと。
 ここで初めて蝦夷遠征の軍功で、讃岐に土地を得たこと、代々軍事の家柄であったということが記されます。後代の「佐伯家=国造・郡司」説となる情報です。しかし、生誕地はありません。
巻物 [ 複製 ] 重文弘法大師二十五箇条遺告 醍醐寺所蔵の御遺告 1巻 ...

4番目は、『遺告二十五ヶ条』です。

これは『御遺告』と呼ばれ、空海の遺言状として、別格扱いされてきた文書です。しかし、今日では空海の時代のものではなく、十世紀半ばに書かれたものというのが定説のようです。本文には次のようにあります。
此の時に吾が父は佐伯氏、讃岐国多度の郡の人なり。昔敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。
とあり、『空海僧都伝』と同じく、蝦夷征討の功労によって讃岐に土地を賜わったことが記されています。そして、初めて母方の阿刀氏が登場します。しかし、ここにも生誕地はありません。
弘法大師空海の「御遺告」(最終回) | 新MUのブログ

5番目は、清寿の『弘法大師伝』(
長保四年(1002)です。
古典籍総合データベース

ここで生誕地が初めて次のように記されます。
生土は讃岐の多度の郡、俗姓は佐伯氏、後に京戸に移貫す。去じ宝亀五年甲寅に誕生す。殊に異相有り。
とあり、『寛平御伝』とほぼ同じ内容が書かれています。注目すべきは、「生土は讃岐の多度の郡」とあって、控えめに空海が讃岐国多度郡で誕生されたことを窺わせる記述がでてきます。
6番目は、東寺長者を務めた経範の『弘法大師御行状集記』(寛治三年(1089)です。
1弘法大師御行状集記
「俗姓の条第二」の項に、次のように記されています。
有る書に曰く。父は佐伯氏、昔敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。

「昔敵毛を征して班土を被れり」は、『御遺告』の文章と記述内容が一緒なので、「有る書」とは『御遺告』のことを指しているようです。『御遺告』を見ながらこの書物が書かれたことになります。
7番目は、高野山遍照光院・兼意の『弘法大師御伝』(永久年間(1113~18)です。
本文には次のように記されています。
父は佐伯直氏〈源は天尊より出ず〉、讃岐国多度の郡屏風ヶ浦の人なり。父は昔、敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。
ここには「屏風ヶ浦」という地名が初めて登場します。また、注目したいのは「父は昔、敵毛を征して班土を被れり」と、蝦夷征討に参加して土地を賜わったのは空海の父であった、と今までとは違う解釈が出てきます。
最後が、醍醐寺金剛王院の聖賢の『高野大師御広伝』広伝』元永元年(1118)です
この文書は、今までのものとくらべると記述が詳しく長くなっています。そして空海の父の名前、父から四代さかのぼった伊能までの名前をあげます。全文を紹介します。
讃岐国多度の郡屏風ヶ浦の人なり。俗姓は佐伯直、天尊より出ず。〈案ずるに、姓氏録に云わく。景行天皇の子、稲背入彦命の孫、阿良都別命の男豊島、孝徳天皇の時、初めて佐伯直の姓を賜る〉。少き時の御名は真魚。其の父を田公と曰う。
 田公の父は男足、男足の父は標波都、棟波都の父は外従八位上大人、大人の父は伊能なり。伊能の父祖は所見なし。其の先は、昔倭武命に随って毛人を征し、功勲世を蓋う。土地を讃岐国に賜う。因って之に家す。(三代実録を案ずるに、大納言伴善男の表に云わく。佐伯直の別祖は高産霊尊の後なり。裔孫大伴健日辿公、修武命に随って東国を平定す、と云々〉.子孫相次いで県令となる。
この内容を箇条書きにすると、
①空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦の人で、俗姓を佐伯直といったこと。
②その祖先は天尊から出ていること。
③幼少のときの御名を真魚といったこと。
④父の名は田公、田公の父は男足、男足の父は根波都、標波都の父は大人、大人の父は伊能であるが、伊能の父祖は不明であること。
⑤祖先のひとりが倭武命の蝦夷征討に従軍して勲功をたて、その賞に讃岐国の土地を賜い、ここに住むようになったこと。
⑥その子孫は相次いで県令、すなわち郡司を務めたこと。
 ここには今までになかった情報が数多く示されます。それを挙げると
①空海の幼名 真魚
②空海の父  田公
③父から四代さかのばる先祖の名
75番善通寺~空海一族の氏寺 四国88箇所車遍路(68) - 四国88 ...

貴人の伝記類は、最初に書かれたものは最小限の記述だけでコンパクトな物が多く、後になるに従って、いろいろなものが付け加えられて長くなっていく傾向があります。そして、後に付け加えられたものはそれぞれの思惑や時代の空気を反映して、不正確になりがちです。

  以上、平安時代の空海伝の空海家系について見てきました。
これらの記事に対して、研究者は次のような4点を指摘します。
①後世の空海伝は2番目の『寛平御伝』、3番目の『空海僧都伝』、4番目の『御遺告』が基本となっていること。
②特異なもの・注目すべきものとして、3番目の『空海僧都伝』と⑧番目の『御広伝』の二つがあること。
③3番目の『空海僧都伝』は後世の伝記にあるすべての情報源となっていること。
④番目の『御広伝』、記事の分量も多く、幼名と父の名を記し、父・田公から男足―標波都―大人―伊能と、四代さかのばらせる記事を載せること。
以上から⑧の「御広伝』の6項目は、平安期の空海伝の到達点と云えるようです。
もういちど空海誕生について見てみましょう。
この中で空海の「讃岐生誕説」の根拠となりそうなのは、⑤の『弘法大師伝』と⑥の『行状集記』の2つだけのようです。残りの6つには、空海が讃岐国で誕生されたとは明記されていません。「讃岐国多度の人なり」だけでは、
本籍地は多度郡かもしれないが、出生地が多度郡とは云えない
という指摘には応えることが出来ません。「空海=讃岐多度郡生誕説」は、平安時代の資料からは確実とは云えないようです。


金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
鷲羽山からの四国方面の眺望 

江戸時代の下津井の北前肥料問屋は、下津井鉄道の誕生に重要な役割を果していることを、前回は見ました。今回は、どのようにして北前肥料問屋が、回船業者に変身したかを最初に見ていこうと思います。
IMG_8105下津井より広島方面」

 近世の北前肥料問屋は、完全な仲継問屋でした。北前船の積荷としてもたらされたニシン粕を預って、委託販売し、これを内陸部の綿花栽培農家に売りさばいて利益を上げていました。しかし、明治になって棉花、藍などは、輸入商品によって農家に大きな打撃をもたらし、下津井の北前肥料問屋の経済基盤を突き崩します。先を見た北前船肥料問屋の中には、西洋式帆船を購入し回船業者に転じる道を選ぶものが現れます。
img000038小下津井
江戸時代の下津井湊
その時期は日露戦争前のようです。経営方式は、近代海運企業のコモンキャリアー(con!rnon carrler)ではなく、自己の荷物を自己の持船で運び、運賃と商利をあわせとるプライベイトキャリアー(private carrler)の形態を採っていたと研究者は指摘します。この方式は、もともと北前船の経営方式でした。

1907年12月末日に、下津井を船籍港とする船舶は第五表の通りです。
下津井 港の船

ここからは次のような事が分かります。
①洋式帆船11隻、和式石数帆船2隻が下津井港と長浜港(大畠)に船籍を置いていること
②下津井の回船問屋所有の洋式帆船は、スクーナーかトップスルスクーナー型であること
③建造年月は、日清戦争後に集中していること
④建造地は地元もあるが、長崎や伊予・筑前・紀伊など県外への発注もあること
⑤洋式帆船所有者の家は、ほとんどが下津井鉄道の大株主であること
ここからは、洋式帆船を使った回船業で蓄積した資本が下津井鉄道建設の経済的基盤になっていることが分かります。
 洋式帆船所有者には、次の2種類の船主たちがいました。
①近世の北前肥料問屋より転じた者
( 岩津、三宅、中西、古西など)
②大畠の商家・酒造業出身で、明治になって回船業に進出してきた者(渡辺、永山、毛利)
 彼らが当時の下津井の経済界の有力者といえるようです。
     
200017999_00045下津井2


 下津井鉄道建設の動機は、宇野・高松航路へのライバル意識であったことは前回にお話ししました。下津井・丸亀間の四国連絡航路を残したいという危機感と願いが彼らの団結をもたらし、地方鉄道の建設を実現させたのです。
それでは営業成績はどうだったのでしょうか。
 まず下津井・丸亀間航路を見ておきましょう。この航路は、第一次世界大戦が始まる1914年3月から運行を開始します。しかし、賞業成績は振るわず、汽船および関係物件全部を田中汽船合資会比(塩飽本島)に譲渡し、これと連帯運輸契約を結んで、1922年1月には営業中止に追い込まれます。再びこの航路を系列会社として、経営を再開させるのは昭和になってからです。
   次に鉄道部門を見てみましょう。

下津井鉄道5
 下津井鉄道は、直接に岡山市には乗り入れていません。
国有化された宇野線との接続駅である茶屋町が終着駅でした。茶町は当時は小さな集落で、集客力のある施設もありません。単に距離的、地形的に最も近い駅として、接続駅に選ばれたにすぎませんでした。そのため茶川町まできた乗客は、ここで宇野線に乗りかえて岡山に行くか、馬車か人力車で倉敷に出るかのどちらかのコースをとらざるえません。つまり、下津井鉄道は直接に岡山市や倉敷市に乗り入れていないために、利益が上がりにくい鉄道だったのです。
下津井鉄道建設8

 このために倉敷・岡山方面への連絡能力の向上が求められました
 このため試みられたのが茶屋町・倉敷間6,4㎞の軽便鉄道免許申請でした。まだ下津井鉄道が運転を始める前の1013年9月23日に免許申請して、翌年11月6日に認可されています。しかし、問題は資金です。会社は設立当初に資本金30万円を集め、1913年には、資金不足のために20万円の優先株による増資をすでに実施していました。倉敷へ路線延長には、増資額14万円が必要との見積もりが出されます。しかし、これを調達するだけの力は、地元にはなかったようです。認可免許については、申請期限の延期が繰り返された末に、1916年5月22日の三度目の延期願が却下されてます。そして1ヶ月後の6月22日官報に免許失効の公示が掲載されました。

下津井鉄道建設6

 当時の会社の努力は第九回営業報告書(大正五年度上期)に、次のように記されています。 
乗客貨物ノ誘致吸収二対シ種々努カシ、貨物賃ノ割引又ハ督励金割戻金等ノ奨励法ヲ行ヒ一面天城倉敷間ノ人力車連絡ヲ開キ、且ツ期末春陽二際シテハ団体、遊客ノ募集ヲ行ヒ専心注意ヲ怠ラザルモ……
意訳しておくと
貨客誘致のために努力を行った。貨物に関しては割引や払戻金制度を導入し、取扱貨物の増加を図った。また、天城駅と倉敷の間には人力車を配置した。また、行楽シーズンには団体や行楽客の募集を行うなどの利用促進を図ったが・・・・

 結果としては、収益増には結びつかなかったようです。
下津井鉄道

開業から10年を経た1925年、会社は次のような改善計画を鉄道省へ申請します。
 弊社下津井町茶屋町間鉄道ハ 運輸営業開始以後拾数年ヲ経テ 此ノ間鉄道ノ起終点ナル下津井港及茶屋町ハ勿論沿線ノ各町村二於ケル時勢二伴フ文化ノ発達ハ異常ニシテ、加フルニ近時下津井港及対岸ナル丸亀港間二連絡期成同盟会成立シ 岡山方面ヨリ弊社線ヲ経テ丸亀方面ノ連絡運輸二対シ時間ノ短縮、輸送方ノ増大頻繁ヲ要スルニ至リ候二付テハ鉄道軌間ノ拡張及電化工事等時勢に順応セル施設ヲ致度別紙申請仕候也▽

意訳すると
弊社下津井鉄道は、営業開始以来10数年を経ました。この間に下津井港や茶屋町はもちのんのこと、沿線の発展は著しいものがあります。加えて下津井・丸亀港間の連絡期成同盟も設立され、岡山方面から弊社路線を使って丸亀方面への連絡については、時間短縮や輸送量の増大が求められるようになっています。このような情勢に応じて鉄道軌間の拡張と電化工事など時勢にマッチした施設への変更を別紙の通り申請いたします。

ここからは
①下津井港と丸亀港に「連絡期成同盟会」が結成され、航路と鉄道の利用促進運動が行われていたこと
②下津井鉄道が「鉄道軌間ノ拡張及電化工事」の申請をしていること
が分かります。
「電化計画」について、申請書ではその狙いを次のように具体的に述べています。
(前略) 乗客漸次幅接シ殊二其ノ全乗客ノ大部分ハ岡山間ノモノニシテ此レガ省線茶屋町駅二於ケル乗替ハ 非常ナル困難且ツ相当ノ時間ヲ浪費シ乗客ノ不便甚ダシキヲ以テ御省御管理ニ係る宇野線茶屋町岡山間二於テ之レヲ電化施設ヲナシ弊社地方鉄道電車ヲ乗入レ運転致度 本計画ノ施設二関シテハ万事御省ノ御規則並びに御指定遵守仕ル可ク侯 間特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成ド度此脚御願奉候也
意訳しておくと
(前略) 下津井鉄道の利用者は、次第に増えてきました。しかし、その乗客のほとんどは岡山行きのために終点の茶屋町で下りて、宇野線に乗り換えなくてはなりません。そのため不便な上に大きな時間の浪費となっています。
 つきましては、鉄道省管理下の宇野線茶屋町と岡山間を電化して、弊社の電車を乗入運転できるようにしたいのです。本計画の施設整備については、鉄道省の運行規則を遵守いたします。本計画について、特別の御詮議していただき許可されるようお願い申し上げます。

ここから分かる具体的な計画と狙いを、まとめると次のようになります。
①下津井鉄道の軌間を現行の762㎜から1067㎜に拡張して、鉄道省線の宇野線と同一にする
②同時に、鉄道省宇野線の岡山駅までも、電化して電車運転を行なう
③そして、下津井鉄道の電車が鉄道省の線路と架線を使って岡山駅に乗り入れる
というものだったようです。
 宇野線岡山・茶屋町間を下津井鉄道の手で電化し、岡山までの直通運転を計るとともに、四国連絡ルートとしての機能大改善を計ろうとするものです。ここには、会社側の決意が感じられます。電気供給は中国水力電気より行なわれるものと予定だったようです。問題は、鉄道省の対応と資金集めだと予想できます。

鉄道省の対応から見ていきましょう
 申請書を受けた鉄道省監督局は監督局長名で、1925年2月16日で関係各局の意見を聞いています。これに対する各局の意見は次のようなものでした。
   運輸局意見 
宇野線ハ国有鉄道ノ本州線卜四国線トノ連絡幹線ナルヲ以テ 之二他鉄道ノ回数多キ電車ヲ乗入セシムルガ如キハ将来運輸上二支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認セザルコト致度

   工務局意見 運輸局卜同意見
   電気局意見 
省ニテ岡山・宇野間ヲ電化シ茶屋町・岡山間二会社車両ヲ乗入レシムル方技術上便利卜認ムルモ差当り同線ヲ電化スルノ計画ナシ

ここからは次のような事が分かります。
①運輸局、工務局は、下津井鉄道の乗り入れを認めることは、宇野線の輸送容量からして「将来運輸上二支障」になることを挙げて反対しています
②電気局は独自の意見を出し、電化をするならば宇野線全線の電化を鉄道省自らの手によって行なうべきであるとします。そして、乗入れは便利と認めるが、今のところその計画はないと回答しています。
 当時の鉄道省線の電化は、東京付近の電車区間と信越本線の碓氷峠越え以外には、なかったようです。東京・小田原間、大船・横須賀間の工事が進行中で、全国的な電化が始まったにすぎません。そのような中で、山陽本線が電化されていないのに、その支線の宇野線の電化などは計画にもなかったはずです。鉄道省側の立場としては、下津井鉄道の申請を認めることは、ありませんでした。
 監督局では1926年4月21日付で下津井鉄道に次のように照会します。(監鉄第七六三号二)
 客年一月二十二日付工事方法変更並省線乗入運転二関スル申請中省線乗入運転二付テハ承認ナキモ軌道改良工事ハ尚遂行ノ意志ヲ有セラルルヤ何分ノ回報相成度

これに下津井鉄道は、4月20日付で次のように回答しています。
去月12日付監鉄第七六三号ニヲ以テ御照会相成候件左二御答仕候 省線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態二御座候 間可然御処理相成度候
宇野線への乗入許可が下りない場合は、軌道工事も中止するという回答です。こうして下津井鉄道の岡山乗入計画は挫折します。もしこの計画が認可されたとしても、その資金60万円を増資で集めることは、難しかったのではないでしょうか。
 会社は、方針を転換して、岡山方面への乗入れバス路線を開くという次善策で打開していきます。
 1924年11月29日に、下津井・岡山間・碑田・田ノロ間・茶屋町・倉敷間の三路線についてバス営業免許を申請していました。これが翌年1925年2月26日、茶屋町・倉敷間を除いて認可されます。この区間が認められなかったのは倉敷鉄道免許線(倉敷・茶屋町間)と重複したからのようです。会社のバス事業への進出は、下津井ー岡山間・下津井ー倉敷間、田ノロー彦崎間に、バス営業者が現われたのに対する対抗策で、鉄道の岡山乗入計画も、これに刺激されたのかもしれません。
 このバス路線は1925年3月より営業を開始します。これによって、岡山方面への直通運転は達成されたことになりますが、当時のバス輸送能力は貧弱でした。また鉄道の輸送能力の改善は、それ以後は手が付けられずに放置されます。戦後のバスの発達によって、運行回数が少なく乗換えの必要な鉄道は、不便な乗り物として利用者を減らしていくことになったようです。

以上をまとめておきます
①下津井鉄道は、下津井と丸亀市の株主の持株が全体の過半を占める。
②建設目的は、山陽線との連絡だけでなく、下津井・丸亀間航路を維持しようとする意図があった。
③大株主の多くが下津井の回船業者と内陸部の水田地主から成長した織物業者であった。
④下津井鉄道の建設動機は、鉄道院宇野線の開業と宇高連絡航路開設に対する対抗策だった。⑤下津井鉄道の建設を可能としたのは、軽便鉄道法施行だった。
⑥開業後の経営困難打開のために、宇野線へ直通電車を乗入れを計画するが挫折した
 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  

  前回は鶴林寺から太龍寺の中世の遍路道が、紀伊熊野の海賊衆の支援を受けて作られたことをお話ししました。ここに残された四国で一番古い丁石からは、中世の「古四国霊場」の姿が垣間見ることができました。さて、今回は鶴林寺と道隆寺の発掘調査から分かってきたことを見ていきたいと思います。
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 鶴林寺は、標高505mの鶴林寺山の山頂部にあります。
今は樹木が茂り、視界は眺望が余り効きませんが、南北方向に開け、北は勝浦川、南は那賀川を流れる二つの川を見下ろすことができたはずです。つまり、里からはよく見え山で、古代から霊山として崇められていたことがうかがえます。

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 境内は、南西方向から北東方向へ延びる尾根線上に位置し、東西約200m、尾根頂部を平らに造成して、境内を作りだしています。詳細測量で、寺院建物群が建つ平坦面の他に、本堂から南東側斜面には階段状に数段の平坦面があったことが分かりました。今は、この平坦面に建物はありませんが、もともとはお堂などが建っていたようです。
元禄2年(1689)の僧寂本の『四国徊礼霊場記』の挿絵を見てみましょう。
ここには、北室院(現、忠霊殿)を含め六力寺の子院が描かれています(図3)。
四国徊礼霊場記 鶴林寺
右側から仁王門をくぐって参道が延びてきて突き当たりを上がると本堂があります。本堂に延びる道の反対側に下って行くと上から、北室院・不動院・愛染院・宝積院・東蔵院、そして谷を隔てて「水神」を祀る石室院が見えます。どの塔頭も修験者の院主の存在を暗示します。ここからこの鶴林寺がもともとは、真言密教系の修験者の山岳寺院であったことがうかがえます。発掘調査からは、次のような事が明らかになりました。
①北側(参道右側)の子院跡は後世の開墾等で攪乱され礎石等の遺構は見つからなかった。
②「宝積院跡」では、斜面下段側に盛土造成した下から、焼土を多量に含む土坑、柱穴二ヵ 所が見つかった
③遺構からは14世紀頃の土師器坏片・小皿片が出土した。
③東蔵院からは、南北方向の石垣状の石積が出てきた。
「石室院跡」では、東西に細長い建物礎石(11m×7m)と床石が出てきた(図4)。それは『四国徊礼霊場記』の挿絵の建物によく似ている。
⑤各トレンチ内からは、古代の須恵器壹片・中世陶器(備前甕・揺り鉢)・青磁碗片等、明の青花磁器と思われる小片も出土した。
鶴林寺石室院

以上から、鶴林寺の前身の古代山岳寺院にあたると研究者は考えているようです。山岳寺院の果たした役割については、以前お話ししましたので省略します。
鶴林寺3

 太龍寺も、標高約500mの東西方向に延びる尾根線上に伽藍があります。
参道は北側からは谷筋を利用した遍路道が、東側からは尾根線を利用した旧遍路道「かも道」が太龍寺に延びていました。また、太龍寺からは「南の舎心(捨身)」の岩場を通り、次の22番札所平等寺への遍路道「いわや道」「平等寺道」が東に続きます。

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 精密測量の結果、仁王門から境内西端の子院跡までの約500mの東西に長い境内で、九段の平坦面があり、そこに多くの建物群があったことが明らかとなっています。
 寂本『四国偏礼霊場記』の挿絵(図5)と現在の建物配置を比べてみましょう。
太龍寺伽藍

この寺は、空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺となっています。14世紀後半の太龍寺縁起には
「鎌倉末期ごろには太龍寺にはがあった」
「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」
  と密教系縁起らしく大法螺を吹いていますが、瀧があったことは事実のようです。
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。また絵図左上には「南舎心」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。本堂を挟んで「南の舎心」と「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)があったことが分かります。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。修験者たちは、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。その中に空海の姿があったのかもしれません。
中央下には「瀧」が描かれています。
これがもともとの「大瀧寺」の由来になったと研究者は指摘します。『阿波国太龍寺縁起』には
「南の舎心」+「北の舎心」+「大瀧の岩屋」を併せて「三重之霊窟」

と記しています。
太龍寺 大瀧跡

 さて元に戻って、現在の伽藍配置と『四国偏礼霊場記』の挿絵を比べると変化点は、次の2点だけのようです。
①七子院が明治に全て山下に移転した
②貞享元年(1684)建立の三重塔が、昭和34年に愛媛県四国中央市の興願寺に移築
太龍寺は『歴代録』にあるように焼失と、再建を繰り返してきましたが、建物配置の上では17世紀のものが今も同じ位置にあることが分かります。つまり、この挿絵に描かれている景観が現在まで保たれているのです。
 中世のプロの修験者たちの修行の拠点であった霊場が、近世には素人の巡礼の札所に変身していきます。そのため伽藍配置や位置までもが変化していることが分かってきました。そういう中で中世からの伽藍配置がそのまま残されているという意味では、非常に貴重な場所と云えそうです。
 太龍寺では、建造物群に使用されている石材についても調査が行われています。
 このお寺の礎石や石段など石造物には、石灰岩(大理石)が多く使われています。太龍寺山には東西方向にいくつかの石灰岩の岩脈が走り、南北に延びる遍路道がその岩脈を数カ所で横切っているようです。そのため大正時代から昭和の初めにかけて「阿波の大理石」として採掘され、国会議事堂の建設にも使われました。そのため絵図に描かれた「大瀧」周辺は、セメント採石場に売却され瀧や岩屋は消えてしまいました。残っていれば空海修行の「大瀧」として、観光資源にもなったかもしれません。残念です。
 この寺での大理石の使用例を見ると、明治10(1877)年建造の大師堂や御影堂(御廟)の基壇や礎石に使われているほか、多宝塔の基礎や礎石、相輪楳の基壇にも使われています。多宝塔の建築年代は文久元年(1861)、相輪楳が文化十三年(1816)建立なので、大理石を建築資材として用いるようになったのは、江戸時代後期まで遡ることになります。
 この石材の採掘場は、太龍寺境内から約2㎞南東方向に延びる遍路道「いわや道」沿いにあったことが発掘調査から明らかとなっています。石材の採掘・切出しの手法などから、江戸時代の作業場とされ、丁場には削り取られた大量の石灰岩の屑のほか、一辺90㎝角の未製品石材が残っていました。この丁場に残された石材は、境内建造物に使用されている石材と一致するようです。
 遍路との関係では、文献・伝承で太龍寺山裾の水井村で良質の石灰岩の岩脈を発見したのは、寛政年間(1789~1802)に遍路として、当地を訪れた彦根藩の竹内勘兵衛という人物とされているようです。そうだとすれば、石灰製造技術や大理石の切出し技術も遍路が四国に伝えた文化・技術一つと云えそうです。

1四国遍路日記
 
 17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料です。
この中には、阿波の霊場が戦乱の傷跡から立ち直れずに、伽藍が焼け落ち残った本堂もぼろぼろで、仏像も壊れたままうち捨てられている姿が何ケ寺も出てくることを以前にお話ししました。
 そのような中で、鶴林寺と太龍寺は別格で、大寺院の風格を失っていないようです。17世紀半ばの二つのお寺の様子を見てみましょう。
    鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
 
本堂も本尊も立派で、緒堂が立ち並んでいて、住職は「上人」です。他の寺院のように無住であったり、山伏や禅僧が住み着いた住職とは格が違うという雰囲気が伝わってきます。
そして「寺領百石、寺家六万」と記します。檀家が6万というのはオーバーにしても、他の札所が困窮しているなかで大寺らしい伽藍を維持できてていた数少ない寺院だったようです。
それでは大龍寺は、どうだったのでしょうか? 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石 六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
 
  ここからは大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。
同じ山岳寺院であった焼山寺と比べててみましょう
      12番 焼山寺
本堂五間四面東向 本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。

意訳すると
 本堂五間四面で東面し、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔は瓦葺き屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、熊野権現が祀られている。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代が慶安3年に再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。

 ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。かつての栄華はみえません。

なぜ那賀川の北と南にある鶴林寺と太龍寺は、戦国時代を生き抜き、近世に寺勢をつないでいけたのでしょうか。同じ山岳寺院でありながら衰退した焼山寺との「格差」は、どこにあったのでしょうか。これが澄禅の『四国辺路日記』を読みながら涌いてきた疑問のひとつです。考えられるのは戦国時代の混乱の中でも、ふたつの寺には大きな伽藍を維持できる自前の経済基盤があったということでしょう。次に、その基盤とは何かということになります。
私は、それは森林資源ではなかったのかと今は考えています。シナリオは次の通りです。
①古代の山岳寺院が国府によって建立された理由の一つに周囲の森林資源の管理があった
②山岳寺院は広大なエリアの森林資源を自己の支配下に置くようになる。
③中世に那賀川流域にやってきた熊野海賊(海の武士団)は、海上交易活動も行った。
④その最大の地場商品が木材であった。
⑤そのため熊野武士たちは、森林資源エリアをもつ山岳寺院と関係を深める
⑥有力者の保護を受け、木材販売で利益を上げた山岳寺院は山上に広大な伽藍を建立する
⑦室町時代には三好氏などと良好な関係を維持し、木材を堺港市場に提供し戦乱の中でも経済的な打撃を受けなかった。
⑧地元の武士団からも攻撃を受けることは無かった。
以上のような想像はできます。しかし、焼山寺ととの「格差」の理由は説明できません。
どちらにしても、鶴林寺と太龍寺は中世から近世にかけて、寺勢を維持し伽藍を保持し続けたようです。つまり、中性的な景観を良く残している寺であることになります。それは「古四国巡礼」の原型とも云えるようです。
参考文献
早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場  
                                                      四国霊場と山岳信仰 岩田書院

                                                    
「四国遍路形成史 山岳信仰の後に、弘法大師伝説はやってきた」の中で、四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが現在の定説になっていると紹介しました。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
それでは、四国霊場の成立を考古学者たちは、どのように考えているのでしょう。
今回のテキストは、「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」四国霊場と山岳信仰 岩田書院です。
 阿波徳島藩により描かれた「阿波国大絵図」寛永十八年(1641)を見てみましょう

太龍寺 阿波国絵図
東側から俯瞰した構図で、中央を左奥から手前中央に流れるのが那賀川になるようです。その那賀川の両側の山の上には伽藍が見えます。
右(北側)が、20番札所の鶴林寺で、
左(南側)の二層の建物が描かれているのが太龍寺
です。そして、各村々の名前が記され、それをつなぐ道も赤く描かれています。ふたつの寺院をつなぐ道も見えます。これは札所寺院と札所寺院をつなぐ道(遍路道)を描いたものしては、最古のもののようです。山岳寺院を結ぶネットワークが早くからあったことがうかがえます。
 地図上に見える「かも道」は賀茂村(現、加戊町)から太龍寺の参詣道です。現在の遍路道以前の「古遍路道」で、中世にまでさかのぼることが分かってきました。
太龍寺 かも道

勝浦川から鶴林寺への参拝道である「鶴林寺道」には、南北朝期の町石(明徳二年(1391)が11基が残されています。つまり、南北朝時代には、鶴林寺への参拝道が整備されていたことを示します。
誰によって整備されたかは後ほど見ることにして、もう少しこの丁石を見ていきます。この丁石は「無傷」ではありません。近世になって「遍路」のための丁石として再利用され、全ての町石に新しい丁数が刻まれたのです。
   例えば明徳二年造立銘の「十二町」の丁石は、他の面に「五丁」と刻まれています。(写真1)
太龍寺 鶴林寺丁石

南北朝期の丁石が、いつ遍路道の丁石に転用され、新たな丁数が彫られたのかは分かりません。一つの手がかりとして、鶴林寺に参詣する別ルート(勝浦町棚野集落からの参詣道)には、地元の福良与兵衛により道の整備とともに建てられた享保3年(1718)銘の丁石が立ち並びます。この道の整備と併せて、周辺部の遍路道も整備されたようです。その際に南北朝期の町石にも、新しい丁数が彫られて転用されたと研究者は考えているようです。

 南北朝期の町石は、四国では鶴林寺と太龍寺への参詣道(遍路道)の二ヵ所でしか見つかっていません。

太龍寺 鶴林寺道2

このことは、中世から山岳寺院であったと云われる鶴林寺や太龍寺のルーツを考える上では重要な材料になるようです。
 例えば、この丁石がどこで作られたかを探ると、地元で作られたものではないことが分かってきました。丁石は、兵庫県の六甲山系花岡岩「御影石」が使われていたのです。わざわざ船に乗せて、大阪湾から紀伊水道・四国東海岸をめぐる物資の流通ルートに乗って運ばれてきたようです。この背後からは、当時の人とモノの流れがうかがえます。
 鶴林寺の遍路道の八丁石の背面には、願主の名前が刻まれています
  「七町 貞治五年 六月廿四日 真道願主 清原氏賓

願主の清原氏実とは何者でしょうか
この人物が、鶴林寺への参拝道の整備を行った信者の一人のようです。彼は、観応二年(1351)に那賀川下流南岸の阿南市宝田町から長生町にかけての竹原荘の地頭職に赴任していた周参見(清原姓)氏とされます。紀伊側の資料から、紀州牟婁郡で熊野水軍を率いた海の武士団(熊野海賊衆)の棟梁だったことが分かります。清原氏実の名は「泉福寺文書」に、文和三年(1354)竹原荘への土地の寄進に関わる文書にも出てくるようです。
   つまり、この八丁石は紀伊熊野からやって来て、竹原荘地頭職になった清原氏実によって寄進されたものということになります。さらに、阿南市那賀川町の三昧庵にある町石にも「十二町」「清原氏賓」の銘が刻まれています〔勝浦郡志〕。
 中世の那賀川河口には熊野からやってきた武士団(海賊)が拠点を構え、精力を上流に伸ばしていたことがうかがえます。

太龍寺 鶴林寺道

 少し想像力を飛躍させ、筆を走らせてみます。
海賊衆は、古代の「海の民」が分業した軍事勢力で、平時は船団をもち交易活動も行います。那賀川流域は木材の産地で、古代から奈良や京都の運ばれ、寺院建築などに用いられていました。阿波を拠点に畿内に勢力を伸ばす三好氏の経済基盤は、堺港における木材販売でした。阿波における木材販売の占める位置は、大きかったのです。紀伊熊野も木材の産地です。そこからやってきた清原氏実は、那賀川流域の森林価値を充分に分かっていたはずです。
 それを己の手中に収めるための方策を考えたはずです。
古代に森林管理センターとして機能するようになったのは、国府の建てた山岳寺院です。山岳寺院の経済的な役割については、以前に「仲寺廃寺」でお話しましたので省略します。
 勢力のある山岳寺院はいくつもの坊を列ね、大学として、医療センターなど様々は機能を持っていました。紀伊からやってきた外来勢力の清原氏実も、地元に根付いていくためには鶴林寺や太龍寺のもつ力を利用することを考えたはずです。
 もしかしたら、これらの寺院の僧侶の中には熊野修験者として阿波に定着した一族出身の僧侶もいたかもしれません。どちらにしても残された丁石からは、熊野海賊衆と那賀川流域の山岳寺院との関係が見えてきます。
太龍寺 地図

丁石以外にも紀伊の海賊(海の武士団)棟梁と目される「願主清原氏実」が残した痕跡としては、次のようなものがあるようです
①観応2年(1351)に竹原荘の地頭職を得た安宅氏が文和3年(1354)に再興したと伝えられる泉八幡宮、
②泉八幡宮周辺の本庄城跡
③泰地氏の城館跡と考えられている中郷城跡(泰地城)
 紀伊の小山家文書や安宅家文書など中には、小松島市・阿南市周辺の所領地名も記されています。
ここからは次のような事が分かります。
①那賀川流域では、熊野海賊衆と呼ばれた紀南武士が河口を中心に活動していた。
②彼らは、荘園支配以外にも海上交易を活発に行っていた。
③彼は鶴林寺や太龍寺などの山岳寺院を保護・信仰していた
④山岳寺院は熊野行者の活動拠点でもあった。
四国霊場成立前の那賀川流域には、政治・軍事組織として熊野海賊の姿と、宗教的な存在としての熊野修験者の姿が重なって見えてきます。
 太龍寺への古遍路道を見てみましょう 
太龍寺 かも道

太龍寺への現在の遍路道は、阿南市大井町から那賀川を渡り、水井から若杉集落を通過し太龍寺に至るルート②です。
しかし、中世の道は、阿南市加茂町から参拝する道「かも道」でした。貞享四年(1687)に真念が著した『四国辺路道指南』には、次のように紹介されています。
「これより太龍寺まで一里半、道は近道なり。師御行脚のすじは、加茂村、其のほど二里、旧跡も有り」
この中の「旧跡」とあるのが、南北朝期に建てられた町石と研究者は考えているようです。この「かも道」に建つ[太龍寺の丁石]は、鶴林寺の町石と同形式のものが19基残っています。その内の41丁石には[貞治六年 願主 道円]と刻まれています。そして、この願主の道円も紀州の人と言われます。
  「かも道」からは、発掘調査で経塚と考えられる列石を伴うマウンドが出土し、
①経筒の外容器に使った12世紀頃の東播磨系須恵器甕片
②室町時代の「阿波型板碑≒正面に阿弥陀如来を線刻」
が38丁石のすぐそばの斜面から出土しています
東播磨の須恵器甕も丁石と一緒に船で運ばれてきたのでしょう。
太龍寺 遍路道発掘

 同じように播磨産の石造物を、この周辺で探すと
①海陽町の木内家墓所の、正面に半浮き彫りの地蔵菩薩を配し、石柱上部に二線をめぐらした石造物
②由岐町の「九州型板碑」と呼ばれる形式の板碑も、六甲山系の花崗岩使用
③徳島県東海岸沿の六甲山系の花岡岩を石材とする五輪塔をはじめ多くの石造物
があるようです。
  ここから
「鶴林寺や太龍寺の参詣道に播磨から持ち込まれた町石は、紀伊水道の海上交通路を抑えた熊野水軍との関わりの中でもたらされたもの」
と研究者は考えているようです。

太龍寺 遍路道
最初に紹介した「四国霊場2段階成立説」を、最後に再度確認しましょう。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
  つまり、ここに示されているのは①の段階です。そして、鶴林寺や太龍寺の南北朝の丁石や「かも道」は、中世の辺路巡礼の遺物と研究者は考えているようです。
 那賀川流域に熊野海賊の支配エリアがあり、その保護を山岳寺院が受けていたこと、そして山岳寺院は熊野行者たち山岳修験者の宗教的な拠点として機能していたことを示しているようです。
参考文献
「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」
                四国霊場と山岳信仰 岩田書院

短い夏の夜が、明けました。
今日も、朝からカンカン照り。
今年は、雨が少なかったというものの無事田植えもすませ、稲は見事に育っています。
でも溜池の水は、もう底をついてしまいました。
水不足で、田圃がひびわれはじめたところもあるといいます。
日照りの空を見上げて、人々はためいきをつきます。
「雨、降らんものかな。田圃が干上がってしまうワ」
「水がないから、稲の葉先が巻き上がってしまつた」
「井戸の水も、少のうなってしまつた」
「困ったものだ」
「雨雲は、どこにもないワ」
「お―い、お―い。おこもりすることになったぞ―」
「雨乞いのおこもりが、決まつたぞ」
DSC07612

大水上神社の龍王淵に、おうかがいをたてることになったようです。
雨乞いの神さまの水上神社へ参籠することになりました。
神前で祈願したあと、龍王淵へ参ります。
老杉がおい茂った境内は、暑さをわすれさせてくれます。
でも、龍王淵の水はいつもの年よりこころなしか、水量が少な目です。

DSC07616

龍王淵の水をすべて汲み出してしまい、淵の底にひそむウナギの色によって、雨うらないをしようというのです。
「ウナギが、黒なら、雨まちがいなし。ウナギが、白なら、まだ雨は降らないという、お告げ
なのだ。ウナギは、神さまのお使い姫さまだ」
「はっ―」
選ばれた男たちが、水を汲み出します。
日焼けした腕も背もあらわな男たちが、水を汲み出します。

DSC07613

首すじにも、背中へも汗が流れ出ます。
淵の神水を頭から、ざ―ぶリーとかぶりました。
真夏の木もれ日がきらきらと水を輝かせ、淵の水はだんだん少なくなって来ました。
こんな作業が、どのくらい続いたでしょうか。
淵の底が見え始めます。
淵を取り囲んだ人々の目が、淵底の白砂に注がれました。
と、淵の底が、かすかに動いたようです。
声のないざわめきが、まわりから起きます。
あっ、また動きます。砂の中で、何かが動いています。
「あっ、お使い姫さまだ。お使い姫さまが、お姿を見せられた」
「黒だ、黒いウナギだ。お使い姫さまは、雨が降るとおつしゃっている―」

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お告げは、黒いウナギ。雨が降るといいます。
人々は大喜びです。
「雨が降る、稲に穂が出て、花が咲く。豊年じゃ、万作じゃ」
「これで、飲み水の不安もなくなった」
こんなお告げがあってから、ほどなく雨が降り出したのです。

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さて世の中には変わり者もいますし、 へそ曲がりもいます。
この、 へそ曲がりがこんなことを言います。
「なんだと、ウナギが黒なら雨、白だと晴、馬鹿、馬鹿しい。
そんなことがあるものか。
仕掛けがあるに違いない。ひとつ、俺が見破ってやろう」
と、こっそり龍王淵へやってきました。

DSC07611
そして、水を汲み出しにかかります。
せっせと水を汲み出し、ひそむウナギを見つけました。
へそ曲がりは、大きな手を出してウナギを捕らえようとしますが、すらりと逃げてしまいます。
へそ曲がり、とうとう腹を立て、かっかとウナギの追っかけっこ。
水を、ちょろちょろ動かせては隠れてしまいます。
へそ曲がり男、気分が悪くなってしまいました。
お腹が痛くて痛くてたまりません。

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腹をかかえて家へ帰って来ましたが、とうとう寝込んでしまい起きることができません。
「めったなことはできんぞ、龍王淵のウナギは神さまのお使い姫だ…」
「あの男、ウナギを取りにいって腹が痛くなったそうな…」
「馬鹿だなあ…」
里の人々は、ひそひそとうわさをいたします。
でも、腹痛で寝ている男に同情はしませんでした。
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龍王淵はウナギ淵とも呼ばれ、現在も、山の清水を集めています。
いかにも、水上といった神淵なのです。


道隆寺 堀越津地図

 多度津町の四国霊場第77番の道隆寺周辺の中世の復元図です。この復元図からは、次のような事が分かります。
①道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港があった。
②金倉川河口西側に砂堆があって、そこに多度津があった
③弘浜は砂堆と砂洲との間にあり、ここが堀江津であった。
④砂洲の背後には潟(ラグーン)があり入江を形成した。
⑤入江の奥に道隆寺があり、船着場として好地であった
⑥道隆寺は堀江津にも近く、港をおさえる位置にある。
砂州が沖合に一文字堤防のような形で形成され、その背後に大きな潟ができていました。まさに自然の良港だったようです。そして道隆寺の北はすぐに海です。多度郡の港町は 
①古代 弘田川河口の白方
②中世 道隆寺背後の堀江
③近世 桃陵公園下の桜川河口
と移り変わります。中世に堀江が港町だった時代に、その港湾センターの役割を果たしたのが道隆寺であることは、以前にもお話ししました。
道隆寺1航空写真

今から約60年前の1962年の航空写真です。
多度津・丸亀線が道隆寺境内が境内の北側を通るようになったために、今では北側の駐車場に車を止めてお参りする人が多くなりましたが、雰囲気があるのは南側からのお参りです。人や車の行き来が少なくなって、昔の趣が残されています。

道隆寺山門

この寺にお参りすると風通しの良さというか、のびのびとした感じを受けます。なぜそう感じるのかを考えて見ると、本坊や庫裡が伽藍の中にないのです。善通寺の東院と同じよう感じです。朱印記帳も伽藍の方でできるので、本坊がどこにあるのかは分からずしまいです。

道隆寺伽藍

それでは本坊は何処に?

道隆寺 堀越津地図2
多度津道隆寺周辺 入道屋敷跡
 航空写真で見ると、仁王門や金堂などの建つ伽藍から東南東に100㍍ほどの所に本坊があります。
今回とりあげる居館跡は、この本坊西側の長方形の畑です。
東西75m・南北65mの畑で、20年ほど前までは周りに堀城の凹溝があったとそうです。この土地は昔から「入道屋敷」と呼ばれ、道隆寺と関連する城館址とされてきました。畑の周りは水田なのにここだけが畑なのは、周囲より少し高く水掛かりが悪く水田に出来ないからだといいます。この入道屋敷の主は誰なのでしょうか?  もし武士だとすると、なぜ道隆寺のすぐそばに居館があるのでしょうか。道隆寺との関係をどう考えればいいのでしょうか?


道隆寺 グーグル

 
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には14世紀初頭(1304)の発願状があって、寺の由来を次のように記しています。
①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
②讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと
③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
 道隆寺は、もともとは法祖宗のお寺でしたが、その後衰退したのを那珂郡鴨庄・地頭の堀江殿が「入道」し、本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などを建立し伽藍整備を行ったとします。堀江殿は「道隆寺中興の祖」で、「入道」して修験者でもあったようです。彼は真言密教の修験者なので、その後の道隆寺は真言宗に属すようになります。

道隆寺 道隆廟

 なぜ堀江殿が道隆寺を復興(実際には新規建立?)したのかというと、由来書は善通寺を建立した善通と、道隆寺を建てた道隆は兄弟であったからだというのです。ここには、当時西讃地方で最も名の知られていた善通寺と、道隆寺が因縁の深い寺であるというセールス戦略があるようです。この由来を、そのままは信じられませんが中世の港である堀江港を支配下に置く地頭の堀江殿が「入道」し、道隆寺を建立したというのです。
道隆寺は堀江殿の「氏寺」として「再」スタートしたということになります。
「入道」は広辞苑には
「在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。」
「沙弥」は「剃髪しても妻子があり、在家の生活をする者」
とあります。道隆寺を建立し、堀江港の港湾管理センターの機能を担わせるには「入道」は良い方法のように思えます。
 
道隆寺3

道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
(嘉元二(1304)年)
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、
重修造伽藍
ここからは鴨庄の領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたことが分かります。そして鴨庄は道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。

金倉 鴨
道隆寺と多度津鴨庄

 以上をまとめておくと、嘉元二年(1304)、鴨荘下村の地頭沙弥本西(堀江氏)が田畠を寄進し、僧円信を助けて伽藍を修造するとともに、新たに御影堂を造るなどして再興し、氏寺としたということです。
その後は、領家光定をはじめ、西讃守護代で多度津に拠点を置く香川氏やその家臣とみられる管主などさまざまな階層から所領の寄進を受けるようになり、道隆寺は発展します。
 ある研究者は、本西(堀江氏)が子々孫々に対して道隆寺を氏寺と定め、その一族や一門にも信仰を厳命したことについて、

「氏寺の信仰を媒介として一族の結合と所領経営の維持・強化を図る武家の惣領としての強固な覚悟の表現である。ここに、氏のための寺である氏寺としての大きな役割がある」

と、道隆寺が中世においては、武士団の結束を固める一族の寺であったとしています。
道隆寺仏像

 伽藍整備などのハード面の整備は堀江殿によって行われたとしても、お寺に魂を吹き込むのは僧侶たちです。優れた僧侶がいないとお寺は繁栄しません。

道隆寺の復興を行った僧侶は、永仁三年(1295)に院主となる円信のようです。『道隆寺温故記』には、永仁三年(1295)二月の記事として、次のような記事があります。
 円信、従根来持若干ノ自相・教相ノ書峡井仏像・絵多幅、仏道具等、来暫住当山、故慶、譲院主於信、謀興廃道隆寺、因以同七月十一日、移住于明王院焉、
次のように意訳します。
 円信が紀伊国根来から、若干の事相・教相の書物をはじめ仏像・絵、諸道具等を持って暫く道隆寺に滞在したところ、明王院主であった信慶が、この円信に院主を譲り、荒廃していた道隆寺の再興をゆだねたため、円信が明王院に移住した

ここからは次のような事が分かります。
① 円信は紀伊の根来寺の僧侶であったこと
② 聖教や各種の書物や仏像を持って堀江津にやってきた
③ 興廃していた道隆寺の院主に請われて就いたこと
 円信が道隆寺住職に就任した9年後に、堀江氏(本西氏)による伽藍建立が始まります。この間に円信は堀江氏を帰依させ、強い信頼感と信仰心を抱かせ、氏寺として復興しようとする決意を形作らせていったことになります。堀江氏の円信に対する信頼は強かったようで、道隆寺のお寺としてのランクを維持するために必要な道具・本尊・経論・聖経などを調えたは円信であったとして、彼の功績を賞賛しています。

道隆寺本堂

 それでは円信はこれらの「寺宝」を、どのようにして手に入れたのでしょうか?
それは瀬戸内海海運による各地域とのネットワークで入手したと研究者は考えているようです。注目するのは道隆寺と根来寺との関係です。例えば道隆寺に残る医書『伝屍病計五方』の奥書には、次のように記されています
「千時建武元年十月七日於讃州香東郡野原書写之、大伝法院我宝生年三十五」
ここからは建武元年(1334)に紀州根来寺からやってきた我宝という僧侶が、讃岐国野原(現高松市のサンポート周辺)のお寺で、これを書写したとあります。根来寺の僧侶が書写する書物をもとめて讃岐にやってきています。
 この我宝は、大須観音宝生院の真福寺文庫の『蓮華院月並問題』の奥書にも名前が残っています。
  杢二
為院家代々之祖師報恩講抄之。
正平九年甲午四月廿九日 第八代院務権少僧都頼豪 七十二
同十四年己亥一一月十八日  我宝      (朱書)
  貞治三年五月中旬比於讃州道隆寺明王院書写丁
この奥書からは、分かることは
①院家代々の祖師への報恩講のために書写した
②正平九年(1354)4月に根来寺の頼豪(72歳)が書いた本を
③5年後に我宝が書写した。書写の場所は、根来寺か野原(高松)かは分かりません。
④貞治三年(1363)五月に道隆寺明王院で、再度書写された。
根来寺の我宝が書写した本が、道隆寺にもたらされていたことが分かります。ここからも道隆寺と根来とのつながりが見えてきます。
道隆寺多宝塔

 書写は修行の一貫とされていました。
若い僧侶は、まだ見ぬ書物を求めては各地の寺院に出かけ、時には何ヶ月もかけて書写を行っていたようです。それが修行でした。貴重な書物を多く持つ寺院は自然と学僧が集まり、評価が高まっていきます。姫路にはそれを山号にした書写山圓教寺というお寺もあるくらいです。書き写すべきものは経典だけでなく、医学書や薬学・土木工学などにもおよんでいました。多くは中国から日宋・日明貿易を通じてもたらされましたが、留学僧が持ち帰ったものもあります。留学僧の目的のひとつは、どれだけ多くの書物を持ち帰るかにあったようです。そのためパトロンの博多商人から多額の資金を集めて、留学するのがひとつのセオリーでもあったようです。
 このようにしてもたらされた貴重な書物をどれだけ保管しているかを、有力寺院は競い合っていたようです。今の大学が「内の図書館の蔵書は100万冊で、珍本として○○がある」という自慢話と似ています。まさに、近世以前の大寺院は「大学」であり、学問の場でもあったようです。

 話を元にもどします。道隆寺は円信と堀江氏の連携で再興を果たして寺院体勢を整備していきます。それが可能となった背景の一つに、交易活動が活発に行われている港にある寺院という強みがありました。それを生かして道隆寺は、円信以後も紀伊国根来と人とモノの交流を行っていきます。それは経済的な交易活動ももちろん含みます。双方向だけでなく根来寺が作り上げた「瀬戸内海 + 東シナ海」交易網のひとつの拠点として、堀江津は動いていたことになるようです。
 当時の寺院は奈良の西大寺のように、積極的に瀬戸内海に進出し、拠点港に寺院を構えます。ある意味、寺院は交易上の「支店」でもありました。そのネットワークは日明貿易を通じて、東アジアに広がっていきます。この交易網に属していれば、巨大な富の動きに関われます。
 この時期の堀江津の道隆寺は「堀江殿」によって、根来寺のネットワークに参加することができるようになったのかもしれません。道隆寺再興には、堀江港の繁栄があったのです。繰り返しになりますが道隆寺は、堀江氏の自前の寺なのです。そこに居館が置かれても商人たちが不満や反発することはありません。この点が宇多津の日蓮宗の本妙寺や、観音寺の禅宗聖一派の西光寺と異なるところです。
 堀江津は最初の地図で示した通り、砂嘴の入口にあったようです。
そこには港として町屋があり、海運業者や問屋などが集住していたかもしれません。そこを避けて自分の居館のある入江奥の地に、堀江殿は道隆寺を建てたのかもしれません。居館が先、氏寺はその後、だから伽藍と本坊が分離したとも考えられます。
 港をおさえる立場にあった道隆寺は海運を通じて、塩飽諸島の寺社を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。まさに、海に開かれた寺院に成長していくのです。そこには、真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺や沙弥島には及んでいます。そのような影響が道隆寺にも及んでいたと私は思っています。
 まとめておくと
①中世の堀江津を地頭が堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に、衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑦西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
  以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  上野 進 海に開かれた中世寺院 道隆寺  香川県立ミュージアム調査研究報告


下津井鉄道5

下津井鉄道の設立については、白川友一が深く関わっていたので以前に触れたことがあります。今回、その成立過程について書かれた論文に出会いましたので紹介したいと思います。テキストは青木栄一「下津井鉄道の成立とその性格」 地方紙研究97号 1969年です。
 瀬戸大橋の岡山県側のスタートは、鷲羽山のを掘り抜いたトンネルです。トンネルを抜けると青い瀬戸内海が広がり、瀬戸大橋が四国へと空と海の間を続いていきます。その西側に下津井港が見えます。この港のかつての繁栄ぶりをしのぶものは数少なくなってしまいました。しかし、この港は北前船の寄港地として、金比羅船の発着港として近世には大いに栄えていました。
 そして、港には財を成す商人たちが数多くいました。その子孫たちが明治末に、下津井から児島を経て、茶町までの鉄道を引きます。その建設過程を見ていきたいと思います。
下津井鉄道以前に、児島鉄道が設立されたが・・・
 実は下津井鉄道が設立される以前に、児島までの鉄道計画があったようです。その動きをまず見ておきましょう。
 山陽鉄道が兵庫県との境の船坂峠越えて岡山県内に伸びてくるのは日清戦争前の1891年です。西進する山陽線を待ち受けるかのように1893年11月、「児島鉄道」という私設鉄道が山陽鉄道倉敷駅から児島湾の味野までの仮免許申請を出しています。これが児島半島に鉄道路線を伸ばそうとする最初の試みだったようです。
この児島鉄道について「日本鉄道史」は次のように記します。 
 児島[南北]鉄道ハ、明治二十六年二月岡山県児島郡野崎定次郎外十一名ノ発起二係り、資本金十七万円ヲ以テ倉敷ヨリ、味野二至ル十二哩余ノ距離二軌図二幄六吋ノ軽便鉄道ヲ敷設セントスルモノナリシカ、陸軍省ノ意見ハ定規ノ軌間ナラザレバ免許スヘカラズト消フニ在リシカハ、普通鉄道ノ計画二改メ、資本金ヲニ十八万円二増加シ、同年十一月仮免状ヲ受ケ会社ノ位置ヲ倉敷町二定メ、大橋平右衛門外二名ヲ取締役トシ、片山精吾外二名ヲ監査役トシ互選ヲ以テ大橋平右衛門ヲ社長トシ、ニ十九年三月六日免許状ヲ受ケタリ、
 同年五月大橋平右衛門辞シ、取締役佐藤栄八之二代り、三十年四月取締役藤本清兵衛又之二代り、十月取締役鳩山和夫又之二代リテ社長卜為ル、是ヨリ先二十九年四月中備鉄道発起人ハ倉敷ヨリ高梁二至ルニ十一哩ノ仮免状ヲ受ケクリ、該線ハ吉備鉄道トノ競願二係ルモノテビア初児島鉄道発起人二於テ延長ノ意アリシモ、当時児島鉄道ハ末夕免許状ヲ得ザリシカバ別二中備鉄道ヲ発起シ、吉備鉄道二対抗シ仮免状ヲ受クルニ至レリ、而シテ児島鉄道ハ中備鉄道卜合併ヲ約シ三十年五月資本金ヲ四十五万円トシ、倉敷高梁間延長敷設ヲ願出テ中備鉄道ハ合併二異議ナキ旨ヲ副申シタリ、同年十一月児島鉄道ハ仮免状ヲ受ケ三十一年六月社名ヲ南北鉄道卜改称シ、十二月十九日免許状ヲ受ケタリ、是年九月社長鳩山和夫取締役ヲ辞シ十一月取締役堀田連太郎之二代り社長卜為り、三十二年堀田連太郎亦辞シ取締役渾大防益三郎之二代レリ、而シテ会社ハ二十年度二於テ資本金ヲ増加シタルモ、
 当時財界不振ノ為旧株七万円ノ払込ヲ為シタル外残余ノ払込困難卜為り、新株募集ノ成績亦不良ニシ、建設資金ヲ挙クルコト能ハズ、斯クシテ三十三年二至り工事竣工期限ハ己二切迫セントシ、前途ノ希望確実ナラザルニ由り、寧口事業ヲ廃止スルニ若カズトシ、株主総会の決議ヲ以テ三十三年九月二十六日会社ハ解散ヲ遂ケタリ▽
 ここからは次のような事が分かります
①日清戦争直前に、西進する山陽鉄道を迎えるかのように多くの地方鉄道が作られた
② 児島でも塩田・繊維業など地元の有力者が倉敷からの鉄道建設を計画した。
③しかし、予定した軌道は狭すぎて免許が下りず、資本金の大幅増額を迫られた
④その後も、社内役員交代が続き経営の一貫性がなく経済不況のため資金が集まらず設立後7年目に解散
ということになっています。
  ここに登場する人物の中で、野崎定次郎と渾大防益三郎はともに児島郡の出身です。野崎定次郎は味野の塩田王と呼ばれた野崎家の分家で味野町長をつとめ、味野紡績所の創設に参画しています。渾大防益三郎は、下村の出身で下村紡績所、児島蚕業会社、児島養貝会社の創立など、繊維業を中心に幅広い活動を行なっています。地元の経済界の有力者により鉄道計画が進められたようですが、不景気と資金力不足で挫折したようです。
下津井鉄道1

 明治42年以前の山陽地方の鉄道申請は第一表の通りです。
岡山・広島、山口の三県内では私設鉄道として全部で12件、10社の仮免許が出されています。しかし、このうち開業までこぎつけたのは岡山・津山間を結んだ中国鉄道だけです。当時の私設鉄道条令(後の私設鉄道法)にパスする鉄道建設のためには
「沿線地域社会の資本調達力が小さすぎたため」

と研究者は考えているようです。児島鉄道も例外ではなかったようです。鉄道建設ブームに乗って、免許申請は行ったけれども資金不足で開業には至らなかったという地方鉄道が多かったようです。

  児島鉄道が頓挫して10年後の明治末の1910年に「軽便鉄道法」が施行されます。
この法律は、小規模な鉄道建設を奨励するために出された法律で、企業の形態、軌間寸法、勾配、曲線の制限、諸施設や車両設備に関する規定が今までよりも大幅に緩められます。今で云う「規制緩和」による民間鉄道建設の奨励策でした。翌年1911年には、国会議員になったばかりの白川友一の活躍などで「軽便鉄道補助法」も成立し、政府よる補助金支給も受けられるようになります。このような政府の支援策を受けて、各地で再度鉄道建設ブームが起きます。
下津井鉄道が建設免許を得たのも1910年のことです。
これには「規制緩和」や「補助金支給」が得られるようになったこともありますが、下津井鉄道の建設の「刺激剤」となったものがあります。それが岡山・宇野線の開業です。この開業は、下津井にとっては大きな脅威となりました。それまでの四国側の海の玄関は、金毘羅参り船の出入りする丸亀や多度津でした。そして、岡山側の拠点は下津井港が大きな役割を果たし、多くの人の参拝客の寄港地として栄えてきたのです。しかし、宇野線の開通と高松航路は、それまでの人の流れを大きく変えることになります。下津井の有力者に、危機意識が生まれます。この緊張感を背景に、下津井鉄道は計画されたと研究者は考えているようです。
ライバル・ルート宇野線の開業に至る経過を見ておきましょう。
1901年3月鉄道敷設法の敷設予定線となり
1904年1月 山陽鉄道が岡山・宇野間の仮免許状獲得
1906年11月山陽鉄道が岡山・宇野区間の本免許状獲得
1907年山陽鉄道が国有化され、政府の手によって着工
1910年6月 国有の宇野線が開業

 山陽鉄道は岡山港からの四国連絡をスムーズにするために、系列下の山陽汽船による高松航路の運行を1903年3月から始めます。そして山陽鉄道の国有化と同時に連絡線も国有となり、運行ルートも岡山・高松から宇野・高松間に変更します。新しい四国連絡港として寒村にすぎなかった宇野が選ばれたのは、岡山からの線路勾配が最も緩やかな路線を選定だからとされています。(最急標準勾配10パーミル)。
 岡山・宇野線の鉄道開業と宇野・高松航路の開設は、それまでの四国連絡港としての下津井港の地位を失うことになります。
   下津井鉄道の成立とその建設意図は?
 宇野線が開通した1910年11月に、下津井鉄道は軽便鉄道法により、
「岡山県児島郡下津井町大字下津井字西ノ脇ヲ起点トシ、同郡赤崎村、味野町、小田村、郷内村、藤戸村、興除村ヲ経テ、同県都窪郡茶屋町大字帯江新田字蟹取川内二至ル間」

の12マイル(21㎞)の免許を受けます。国有鉄道の宇野線の茶町駅から分岐して、児島を通り、鷲羽山を抜けて下津井港までのコースになります。
 免許申請者は下津井町の中西七太郎、荻野東一郎、赤崎村の山本五三郎の3名で、発起人として連署した者は、166名にものぼります。免許申請書は、予定路線の経路のみを示した簡単なもののようです。免許申請書を受付けて、これを鉄道院に送った岡山県知事谷口留五郎は内閣総理大臣桂太郎あての1910年10月11日付副申書で、次のように記します。
本線敷設ノ暁二於テハ本県ノ南部及四国トノ聯絡運輸交通ノ便不紗有益ナル事業卜相認メ候条 至急御認可相成様致シ度意見二候間
と四国連絡の意義を強調していますが、作文的な文章で実質的内容は何も記されていません。
下津井鉄道2

 免許申請書に署名した発起人の地域別内訳を見ておきましょう
①一番多いのが対岸の丸亀市48名であること
②下津井と丸亀を併せると全体の半分になること。
③「児島鉄道」の際に中心となった味野(児島)が少ない
下津井と丸亀からの出資者が多いようです。


岡山の鉄道会社に丸亀の人たちが、なぜ出資しているのでしょうか。
「下津井鉄道の建設意図が単に児島半島内の交通改善のみを目的としたものではない。近世以来繁栄してきた下津井・丸亀間の連絡航路を鉄道建設によって維持しようとする意図」

があったと研究者は考えているようです。
 当時の地方鉄道の免許申請書には、発起人は関係市町村の市町村長、議員など公職にある人物の名前を並べたものが多いようです。 そのため発起人の分布と、実際に出資した株主や重役の分布とは一致しないのです。下津井鉄道の場合も同じような傾向がみられるようです。つまり「建設には総論賛成、しかし金は出さない」という人たちが多かったということです。
 下津井鉄道の場合も、申請人となった三名は、中西が下津井町長、荻野が同助役、山本が岡山県会議員というメンバーです。会社発足後に株主として名はありますが、経営者としての中心人物とはなっていません。
発起人は、下津井鉄道の経営をどのように考えていたのでしょうか
免許申請書に添付された「下津井軽便鉄道収支目論見表」を見てみましょう。
下津井鉄道3

これによると年間の旅客収入49640円・貨物収入18750円が見込まれています。その根拠はまったく分かりませんが、この表からは旅客収入中心の鉄道経営を考えていたことがわかります。
 下津井鉄道の二代目社長・永山久吉はその回顧録「下電と私」の中で初代社長白川友一の十三回忌(1953年3月)の際に読みあげた追悼文を採録して、次のように記します。

旧幕時代より中国、四国の連絡は五挺立て押し切り渡航船によって、丸亀・下津井関の連絡が唯一のものでありました。交通機関の進歩に伴い、宇野線建設、宇野、高松間を鉄道省によって、連絡が出来ることになったので、丸亀、下津井の有志に衝撃を与え、両地の有志は互に手を握って、下津井・茶屋町間の軽便鉄道敷設を思い立ったのであります。私があなたに始めてお目にかかったのは、明治44年4月中旬でありました。

 ここからは、下津井鉄道建設の動機の一つとなったのが宇野線の開業にあったことが裏付けられます。高松・宇野ルートに、顧客を取られるという危機感がバネになっていたのです。

 下津井鉄道の第一回営業報告書の株主名簿(1912年4月30日現在)から株主351名の地域的分布を示したのが表4になります。
総株数6000株(50円株)で、一株25五円です。
下津井鉄道4

 ここからは、次のような事が分かります。
①地元株主の比率が高く岡山・香川県以外の株主は2人だけ
②零細株主が多く、9株以下の株主が351名の株主中202名を占めた。
③持株数の多い株主は下津井町と丸亀市に集中し、全株数の過半を占める。
 下津井鉄道の地元株主の占める比率は、他の地方鉄道に比べてもはるかに高いようです。ここからは地元の人たちが少しずつお金を出し合って株式を購入し、下津井鉄道を誕生させたことがうかがえます。その動機には宇野・高松ルートの出現に対する危機感と対抗意識が働いていたことがここからもうかがえます。鉄道建設で下津井・丸亀間航路を維持しようとする姿勢が見えてきます。

 最後に大株主の経済的基盤を見ておきましょう。
(●印は重役)

白川友一3
旧下津井駅前の白川友一像

●白川友一 (420株、香川県仲多度郡)
 南村(現丸亀市)の素封家(地主)白川家の養嗣子で県会議員を歴任し、日露戦争後、満州、朝鮮において、土木請負業、通運業、貿易業などによって財を築いた。明治末期には衆議院議員に当選、中央政界にも活動した。軽便鉄道補助法の成立にも尽力しています。
白川友一
白川友一

●中西七太郎(303株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「高七」の当主で、明治期には紡績業、九州の炭鉱業に進出するとともに回船業者をも兼ね、明治後期における下津井最大の富豪と称されていた。当時下津井町長であった。
●荻野休次郎(208株、下津井町)
 近世末より明治前期にかけて北前肥料問屋を対象とした金融、倉庫業を営んでいた荻野屋の一族で最もあとまで繁栄していた東荻野家の当主。荻野屋は近世末には備前藩の融通方を勤め、下津井最大の素封家であったが、明治期には衰頑の傾向にあった。
 岩津先太(200株、下津井町)
近世以来の北前肥料問屋豊後屋の当主で、米の仲買を兼ね、米専門の回船業者として活動した。
●中塚勘一郎(150株、小田村)
 小田村の地主で、織物業も営んでいた。
 西尾甚太郎(130株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋の家で、吹上村(下津井四ヶ浦のIつ)の庄屋の家柄であった。当時はすでに家作経営を主とし、下津井郵便局長の職にあった。
●三宅万五郎(122株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「湊屋」の当主で、明治期には回船業者「永徳」となり、のち被服製造業にも進出した。児島銀行の経営者の一人であった。
●片山徳次郎(115株、小田村)
 小田村稗田の地主で、織物業をも営んでいた。
●荻野岩太郎(102株、下津井町)
 荻野家の分家花荻野家の当主。元の北前肥料問屋を対象とした倉庫業を営んでいた。
 中西林蔵(102株、下津井町)
「高七」の分家で明治末期には回船業者、北洋漁業者として活動
黒瀬元五郎(100株、丸亀市)
 丸亀の地主で近世末には下津井の荻野家より養嗣子が出されていて、血縁関係にある。
●秋山文治郎(80株、藤戸村)
 藤戸村天城の地主で、児島銀行の経営者の一人であった。
●渡辺来蔵(77株、下津井町)
  下津井町大畠の素封家で、当時主として酒造業を営んでいた。
 岡村万吉(70株、下津井町)
  鮮魚問屋「味万」の当主
 西原陣三郎(70株、味野町)
  味野町の地主で、織物業も営んでいた。
 柘野文六(70株、小田村)
  小田村小川の地主で、織物業を営んでいた。
 古西政次郎(60株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「西徳」の当主で、明治後期には、回船業者となり、のちに米穀商を兼ねた。
 亀山政三(55株、岡山市)
  質屋、精米業を営んでいた。
  ●永山久吉(54株、下津井町)
下津井町大畠の素封家で父久平は酒造業で財を成したが、久吉は回船業者として活動し、一方足袋製造にものり出して自己の回船業を利用して、販路を拡張した。下津井鉄道創立後社内における地位の向上に努め、昭和期 初頭には鉄道の実質的リーダーとなり、1937年、白川友一辞任の後をうけて社長に就任した。
 岡万次郎(五二株、下津井町)
  下津井町田之浦の素封家で酒造業を営んでいた。

 大株主リストを見ると分かるのは、下津井鉄道の大株主には
①下津井町の回船業者、酒造業者の系統
②小田村・味野町の地主・織物業者の系統
のふたつのグループがあったこと。そして、かつての北前交易で財を為した北前肥料問屋が、この時点でも経済力を維持し、重要な役割を演じていることです。彼らの危機意識と経済力と危機意識が対岸の丸亀の白川友一を巻き込んで、下津井鉄道建設の原動力になっていったようです。
おつきあいいただき、ありがとうございました
参考文献
青木栄一「下津井鉄道の成立とその性格」
              地方紙研究97号 1969年


 「四国遍路を世界遺産に!」というスローガンの下に、遺蹟や遍路道の調査が進められ、その調査報告書もたくさん出されるようになりました。同時に四国の各大学でも四国霊場に関する文献研究が進められ、その成果が論文となって出されています。
それでは、研究者たちは、四国遍路の成立をどのように考えているのでしょうか。  その到達点をのぞいてみましょう。
テキストは、胡光「山岳信仰と四国遍路」「四国遍路と山岳信仰」所収 岩田書院です。

 四国遍路と言えば、お大師さんの遺蹟を訪ね、本堂と大師堂にお参りする巡礼方法です。お遍路さんが「同行二人」や「南無大師遍照金剛」の文字を身にまとう姿が直ぐに思い浮かびます。しかし、このような装束も戦後のものであること研究者によって明らかになってきました。
 そして、いろいろな山岳信仰が先にあって、江戸中期から明治時代にかけて大師堂が建てられるようになります。つまり、大師信仰は霊場には後からやってきたと研究者は考えているようです。例えば、現在の四国霊場を見ても、真言宗以外のいろいろな宗派が含まれています。
  【資料1】現在の四国霊場八十八ヶ所
真言宗79 真言律宗 1  天台宗 4  時宗 1
臨済宗 2 曹洞宗 1
大師信仰に関係のない宗派がなぜ霊場になっているのでしょうか。
①真言密教系修験者によって開かれてお寺さんが、後に改宗した
②修験者が行場とする山岳宗教の拠点寺院に、弘法大師信仰が後から持ち込まれた
の二つが考えられます
明治の神仏分離以前には、次の神社も札所に含まれていました。
 近代(明治維新)の札所変更(数字は札所番号)
③一宮 → 大日寺  ? 一宮 → 善楽寺 
?五社大明神 → 岩本寺 ?稲荷宮 → 龍光寺 
55 三島宮→南光坊 57 八幡宮→栄福寺 62一宮→宝寿寺 
68 琴弾八幡宮→神恵院  83 一宮→一宮寺
   ここからも札所を「弘法大師伝説」や「旧蹟」だけで、とらえることはできないことが分かります。最近は四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが定説のようです。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする

それでは、四国霊場を成立させたのは誰なのでしょうか
それは、山岳信仰に関わる修験者たちだったようです。
  四国遍路に関わる古い文献は、平安時代木の『今古物語集』と「梁庫秘抄』です。
『今昔物語集』(平安時代12世紀初)には、
四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬にうちなされたる。」
「今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也。其の僧共、其を廻けるに思ひ不懸ず山に踏入にけり。深き山に迷にければ、浜の辺に出む事を願ひけり。」
意訳すると
今は昔、仏の道を行う三人の僧が一緒に、四国の辺地と云われる伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺を廻っていました。その僧たちは辺路を廻っているときに。思いもかけずに深い山に踏み入り、道に迷ってしまいました。浜の方に出たいと願い・・・」
 ここからは、仏の道を修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と呼んでいたことが分かります。
四国辺路1

 辺地(路)の様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』です。
「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ。」
とあります。
「忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負」うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたことが分かります。

四国辺路3 

 鎌倉時代初期の戦記物語である『保元物語』にも「仁安三年(1168)の秋のころ、

「西行法師諸国修行しけるが、四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡(り)」とか、「此西行は四国辺路を巡見せし」とあります

 このように平安・鎌倉時代の「四国辺地(路)」に、プロの宗教者である修行僧が修行ゲレンデを求めてやってきていたのです。このような中に、若き日の空海の姿もあったのかもしれません。
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「四国辺路(遍路)」(ヘンロ、もしくはヘジ)の文字が最初に登場するのは、「醍醐寺文書」です。
  【資料5】「仏名院所司目安案」(醍醐寺文書、鎌倉時代、弘安年間(1278~88))
一 不住院主坊事者、修験之習 両山斗敷、滝山千日、坐巌窟冬籠、四国辺路 三十三所、諸国巡巡礼遂共芸、
「(前文略)四国辺路、三十三所諸国巡礼(下略)」
この中では、修験の習いとして挙げられているのが次の3つです。
①山岳修行
②西国33ヶ所巡礼
③四国辺路
 ここからは修験者たちが修行のために、全国各地の霊山で修行を重ねると同時に、西国33ケ寺観音霊場や四国辺路にもやって来くるなど「諸国巡礼」を行っていたことがうかがえます。これらの「巡礼」は、写経などと同じ修行の一貫でした。四国辺路は修験者にとっては、自分の修行や霊力アップのためには是非行ってみたい聖地でもあったのでしょう。

神奈川県の碑伝【資料6】にも、熊野本宮長床衆の修行のひとつとして「四国辺路」が次のように記されています。
  神奈川県「八青神社碑伝」(鎌倉時代正応四年(1291)
秋峯者松田僧先連、小野余流、両山四国辺路斗敷、余伽三密行人、金剛仏子阿閣梨長喜八度 □庵、正応四年辛卯九月七日、小野、滝山千日籠、熊野本宮長床[衆]竹重寺別当生年八十一法印権人僧部顕秀初度以上三人
  ここからは13世紀末に、熊野の修験者(長床衆)が、修行のために四国辺路にやってきていることが分かります。
 南北朝時代になると、四国側の史料にも、熊野修験者の修行のひとつに「海岸大辺路」が見られるようになります。
  徳島県「勧善寺人般若経奥書」(南北朝時代、嘉慶2年1388)
嘉慶弐年初月十六日、般若菩薩、十六善神、三宝院末流、滝山千日、大峰葛木両峰斗敷、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼、水木石、人壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者為法界四恩令加善云々…熊野山長床末衆

  ここでも大峰山や葛城山や観音三十三霊場と併せて「海岸大辺路」が修行場として選ばれています。「海岸大辺路」というのは、熊野の辺路も考えられますが、「四国辺路」の可能性の方が強いと研究者は考えているようです。
 ここでも「熊野山長床床衆」が登場します。熊野信仰の修験者が四国で、辺路修行を行っていたことは確かなようです。
 そして、南北朝時代までは、四国辺路の史料に空海の名前は出てきません。では、熊野信仰の修行場に大師信仰を加えていったのは、誰なのでしょうか

研究者の間で注目されているのが、増吽僧正です。
増吽は、現在の香川県東かがわ市与田寺を本拠として、讃岐・備前・備中などの荒れ果てた寺院を次々に復興再興し、弘法大師の再来と言われた名僧です。中央にも名が知れ、熊野へも度々の参詣していますし、地元をはじめ四国各地へ熊野三社の勧請を行っている記録が残ります。
 熊野とかかわりの深い増吽は、大師信仰に何らかの関わりがあったのではないでしょうか

四国辺路3 弘法大師
研究者が注目するのが「善通寺御影」と呼ばれる大師像です。鎌倉時代の善通寺にあつたと紹介されたことから名づけられたもので、大師が釈迦如来に出会って悟りを開く様子が描かれていいます。この絵図が、増吽が活動した讃岐と吉備の寺には、よく残つているのです。
 これらの「善通寺御影」の裏書には、増吽の名が記されているものがあります。ここからはの図像を使って、わかりやすく民衆にも大師信仰を語ったのではないかという推察ができます。そうだとすれば、修験者の辺路修行から民衆の八十八ヶ所遍路への転換ポイントを果たしたひとりが増吽ということになります。
   
大師信仰が「四国辺路」に見え出すのは、中世末期の戦国時代になってからのようです。
現在の札所には、約500年前の室町時代の落書きが残っている所があります
讃岐国分寺(80番札所)本尊の下身の落書に
「弘治三丁巳(1558)六月二八日、四国中遍路 同行二人」
「大永八年(1528)五月二十日安芸宮嶋宮之浦同行四人 南無大師遍照金剛」(永正十年(1513)四国中辺路
とあります。落書きを残した四国中辺路を巡る修験者の姿が見えてきます。そして、注目したいのは「同行二人」「南無大師遍照金剛」と弘法大師伝説とつながる言葉が見えます。彼らには自分たちが弘法大師と共に、その旧跡を歩いているという実感があったことがうかがえます。つまり、ここにきて初めて弘法大師の姿が見えてくるのです。
16世紀に残された落書きで、研究者が注目するのは「四国中辺路(遍路)」という言葉です。
「中辺路」とは、一体何なのでしょうか?
  時代は下って、江戸・元禄期の案内記「弘法大師御伝記」元禄元年(1688)に
四国八十八ヶ所の札所を立て、坂の数四百八十八坂、川数四百八十八瀬、惣て四百八十八里、大辺路七度、中辺路二十一度、小辺路三十三度成る、

と四国八十八寺霊場が登場し「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類の辺路が記されています。ここからは、四国遍路が八十八ヶ所となるには、大辺路・中辺路・小辺路という熊野信仰からの影響があったことがうかがえます。
  また同じ年に出版された『奉納四国中辺路之日記』(元禄元年(1688)には
合八十八ケ所 道四百八十八里、川四百八十八川、坂四百八十八坂、空[海](印)
元禄元年土州一宮 長吉飛騨守藤原
  とあります。表題が「四国中辺路之日記』ですから「八十八ヶ所巡礼=中辺路」とされていたことが分かります。
それでは、「大辺路」とは何なのでしょうか。
澄禅『四国辺路日記』を読むNO1 江戸時代初めの阿波の四国霊場は ...

四国遍路を確立したとされる真念より早い承応三年(1653)の澄禅『四国辺路日記」(仙台塩竃神社蔵)には、八十八ヶ所は登場しますが番付はありません。そして、八十八ヶ所に大三島の大山祗神社や石鎚山が含まれています。さらに奥の院や金毘羅大権現など八十八ケ所以外の寺社も入っています。そして、真念の遍路道よりはるかに道程が長いのです。これが「大辺路」で、中世の辺路修行の名残をとどめるものではないのかと研究者は考えているようです。.
 そして、澄禅が記すように、修行のプロが修行した危険な場所は、時と共に避けられるようになります。そして、素人の巡礼者は「八十八ヶ所=中辺路」のみを巡るようになっていったのではないかというのです。
四國遍禮道指南 全訳注』(眞念,稲田 道彦):講談社学術文庫|講談社 ...

 道標や遍路宿を創設して、最初の四国遍路ガイドブックを版行した真念は、大坂寺嶋の高野聖と云われます。その著作中には、空海生誕地を多度津の海岸寺周辺とする不適切な「世間流布ノ日記」に対して怒りを表現していることは以前お話ししました。
 「空海=多度津海岸寺生誕説」は、真念の案内記『四国辺路道指南』とほぼ同時期に土佐一宮で出版されています。善通寺文書の中には、これらの土佐一宮で出された「日記」(ガイドブック)が、実質的には讃岐海岸寺(香川県多度津町)が刊行し、石手寺周辺(愛媛県松山市)で販売したものだと記す包紙が残っています。海岸寺は、江戸時代に大師誕生地の名称をめぐって善通寺と争う古利です。
  ここからは、八十八ヶ所の形成記には、真念たち高野聖とは別のグループが海岸寺や土佐一宮にあって、ともに異なる主張で八十八ヶ所を広めていったと研究者は考えているようです。つまり、八十八ヶ寺のメンバーは、まだ確定はしていなかったのです。
 この背後には、真念のような高野聖や真言系修験者の動きが見えます。弘法大師大師伝説が、しっかりと霊場に根を下ろし始めたことも分かります。
 以上をまとめておきます
①初期の四国辺路は、熊野信仰に代表される山岳修験者たちの修行ゲレンデであった。
②そこには、熊野信仰に基づく熊野修験者たちの活動は見えるが、弘法大師伝説は見えない。
③修験者たちは山岳修行の一環として、西国三十三霊場や四国辺路(地)を巡る修行を行っていた④四国辺路は長さによって「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類に分類されていた。
⑤その内の危険が少ない「中辺路」が「四国遍路」になり素人が巡礼を始める。
⑥そこに高野聖や真言系密教修験者たちが影響力を行使し、弘法大師伝説を付け加える
⑦そのため四国霊場の初期段階は、番付やルートなども流動的であった。
ここからは「四国辺路」の時代には、あくまでプロの修験者たちの行場であり、すべての霊場が弘法大師伝説を持っていたのではないことが分かります。それが16世紀頃から弘法大師伝説が四国辺路に加えられていき、17世紀になって「四国遍路」が形作られていくことになるようです。
最後に「四国八十八ヶ所」の「八十八」という数字は何に由来すると研究者は考えているのでしょうか。
「八十八所」の初見は、室町時代後期の高知県本川村鰐口の記録とされてきましたが、内田九州男氏によって疑問視されて以後は定説ではなくなっています。江戸時代の真念は、八十八の由来について「煩悩説、厄年説、仏数説」などを出しています。
四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳 ...
弟子の寂本はその著書の 【資料15】寂本『四国偏礼霊場記』(江戸時代、元禄2年(1689)で
  八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院ハ大師出生の霊霊跡にして、偏礼の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす、

 と「八十八の次第はさだかならず」とします。いまから300年前には、すでに分からなかったのです。
  それでは、今の研究者たちはどう推理するのでしょうか。
注目するのは、熊野九十九王子との関連です。
  これまで見てきたように、四国霊場と熊野は深い関係にあります。そこで、八十八ヶ所の成立にも、熊野の影響が強いのではないかと研究者は考えます。そして「八十八」と「熊野」を結びつける物を挙げていくと、姿を現すのが熊野本宮の「牛王宝印」だというのです。これは中世や近世の起請文にも使用されたもので、当時はよく知られたシンボルマークでした。

四国辺路4 師
 
「熊野山宝印」と書かれたカラス文字のカラスの数は八十八羽です。熊野先達によって神札としても広められたので、民衆にも広く受け入れられていました。同時に「八十八」は、信仰的な数字としてのイメージもあったようです。これを証明する文献史料は、今のところありません。あくまで仮説のようです。しかし、私にとては魅力的に感じる仮説です。

四国辺路4 熊野牛王

 おつきあいいただき、ありがとうございました。

三頭峠の谷あいに、権兵衛さんと二人の娘さんが住んでいました。
権兵衛は、谷川の流れをせき止めて、田を造ろうと思うのですがなかなかの難工事です。
何度、造っても流されてしまいます。
「谷をせき止められたら、いいのになあ。
堤を築いてくれたら、わしの娘を嫁にやってもいい…」
権兵衛のひとりごとを、山の猿が聞いていました。
山の大猿が、聞き耳をたてていたのです。
大猿は、さっそく猿どもを呼び集めて堤を築きはじめました。
権兵衛がいくら努力しても築くことのできなかった堤を、大猿はこともなく成し遂げました。
ある夜のこと、権兵衛の家の戸をほとほとた たくものがいます。出てみると、大猿です。
「お約束のものを、いただきにきました」
「なに、約束とな…」
「谷をせき止めました」
「えっ…」
権兵衛は、びっくりしました。でも、谷をせき止め田ができるというのはうれしいことです。
あれほどの難工事を成し遂げてくれたのだから、約束は守らなければなりません。
さっそく、二人の娘に聞いてみました。
「堤を築いてくれたら、娘を嫁にやると約束をした。おまえ、猿の嫁さまになってくれるか」
「いやです。そんなこと絶対にいやです」
一番上の姉娘は、絶対にいやだといいます。
今度は、二番目の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに行ってくれぬか」
「勝手に約束したのでしょ。私は知りませんわ。
猿の嫁さまなんて死んだって、いやよ」
二番目の娘も、死んでもいやだと、いいます。
二番目、末の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに…」
権兵衛は、もうあきらめていました。
末の娘も、いやだというにちがいないと思っていました。ところが、
「お父さんが約束したのだから、私が嫁に行きましょう」
「なに、行ってくれるのか…」
「はい。持って行きたいものがありますから用意してください」
権兵衛は、涙を流してよろこびました。そして、末の娘が欲しいというものを整えました。
それは、水がめと綿。
綿を、水がめに詰めます。
それと、かんざし。きれいなびらびらかんざしを、髪にさして猿の嫁さまになるというのです。
婿殿の大猿が、嫁さまを迎えにやってきました。
末娘は、綿を詰めた水がめを婿殿に背負ってもらい、びらびらかんざしをゆらしてついてゆきます。大猿は、ふりかえっては嫁さまをたしかめます。
末娘は、にっこり笑っては花かんざしをゆらします。
山の風が、嫁入り唄を歌ってくれます。
谷の流れがきらきらとかがやき、小鳥たちも嫁さまの美しさに見ほれているようです。
山の道を登り、淵のほとりへ来かかりました。
末娘は、きものを直すふりをして、かんざしを淵へ投げこみました‥
「あ―れ、私の大事なかんざしが滞へ落ちました。早く拾っておくれ、早く、早く…」
嫁さまの悲鳴に、大猿は大あわて。嫁さまの大事なかんざしを、早く拾おうと淵へ飛びこみ
ました。水がめを背負ったまま、淵へ飛びこんだのです。水がめのなかには、綿がぎっしり詰
められているので、水を吸った綿はだんだん重くなってきます。
大猿は淵へ飛び込んだまま、いくら待っても姿を現わしませんでした。淵の流れの音は、いつもと同じように響いているのに、猿の婿殿は帰ってきません。
末娘は、ふたたび権兵衛の家へ戻ってきました。
でも、人々は、末娘のことを「猿後家」と呼びました。
三頭峠のあたりで、猿後家は住んでいましたが、現在はどこへ行ったのかわかりません。

琴南町史より

 三角は、するどい角をもった崖山がそそりたっているところから、名付けられました。三つの角を持った岩石の底を流れる渓流は、とびっきり美しく冷たい流れ、清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、三角の淵には、龍神社がお祀りされてあります。
さて、三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在は「美霞洞」。温泉は「三角の美霞,洞温泉」と呼ばれ親しまれています。
さて、この淵の話は数えきれないほどたくさんあります。
そのひとつ、三角の淵と大蛇のお話をはじめましょう。
むかし、戦国時代も終わりのころ、武田八郎という武士が、三角までやってきました。
そのころ三角の集落では、人々がおそれおののいていました。
淵の大蛇が、通行人や山里の人を襲うというのです。
武田八郎は大蛇の話を聞き、人々を苦しめる大蛇を退治しようと考えました。
山中の小屋にたてこもって、矢を作りはじめました。
ある日のこと、美しい女が訪ねてきました。
「矢を、作っているのですね。矢は、何本作るのでしょうか」
武田八郎は、あやしい女が来たものだと思いながら答えました。
「ああ、矢を作っている。ここは、女の来るところではない。早く帰れ」
「あの―、矢は何本作っているのですか」
女は、何度も聞きます。そこを、動こうともしません。
八郎は、少しめんどうになってきました。
「矢は、九十九本だ」
  八郎が答えると、女はどこへともなく姿を消してしまいました。
矢の用意が整ったので日も暮れてから、八郎は三角の淵へやってきました。
大蛇の現れるのを、待つつもりです。
草木も眠る丑三刻、なんともいえない生臭い風が吹いてきました。
淵の底から、ご―お―と音がしたかと思うと、淵の水が泡だちもりあがってきます。水しぶきがあがり、水が、あふれはじめます。
ものすごい音です。
もりあがった水の中から、なにかが迫ってきます。
武田八郎、弓に矢をつがえてよくよく見ると、
淵の真ん中に立ちあがった大蛇は、頭にすっぽりと鐘をかぶっているではありませんか。 
一の矢を、力いっぱい放ちました。
第二矢、第二矢、いくら矢を射ても、矢はカーン、カーンと、はねかえされてしまいます。
九十九本の矢は、たちまち射うくしてしまいました。
すると大蛇は、かぶっていた釣鐘をはねののけ炎のような舌を出して、武田八郎をひとのみにしようと襲つてきます。
八郎は、かくし持っていた一本の矢を必死で射ました。
矢は、大蛇の喉首を見事射ぬくことができました。
八郎は、矢を百本持っていたのです。
今まで盛り上がっていた淵の水が急に引きはじめ、
大蛇の姿は淵の底へ底へと沈んでいきました。

こんなことがあってから、三角の淵の大蛇は二度と人を襲うことはなくなりました。
人々に害を加えることがなくなったばかりか、逆に日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。
また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。
淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。
三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

琴南町史より

1 承久の乱

承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐためにその荘園に、新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。 
丸亀平野では、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうち
法勲寺(鵜足郡)
櫛無保
金蔵寺領
善通寺領(那珂郡)
の四箇所が新補地頭です。
1 承久の乱2

新補地頭職には、東国の御家人たちが任命されてやってきます。政治的には、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込まれてきたのです。彼らは武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、
地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」

といったところでしょうか。
 彼らにとっては、勝者として新たな任地に乗り込んでいく占領軍のような気分もあったようです。そして、讃岐人との間には「言葉の壁」「文化の壁」もあったはずです。さらにオーバーな言い方をすると、言葉もなかなか通じないような「異邦人」であったかもしれません。地縁関係がない「よそ者」ですから年貢の取り立てなども容赦が無く「泣く子と地頭は勝てぬ」という諺が生まれることにもなります。どちらにしても、新たな支配者としてやって来た東国の武士集団は、讃岐においてもカルチャーショックをもたらしたようです。
1 承久の乱4j守護配置pg

 少し遅れて弘安年間(1278~88年)にやってきたのが甲斐源氏の秋山光季はその典型と云えそうです。
 彼は三野郡高瀬郷に拠点を構えて移り住みます。秋山氏は宗教的には熱心な日蓮信徒だったので、本門寺という日蓮宗の氏寺を建立します。そして、一族だけでなく、後には高瀬郷全体を日蓮宗に改宗していくことを進めます。清教徒によるアメリカ開拓と新世界建設のイメージとダブってくる光景です。このような鎌倉新仏教にによる宗教活動・文化活動は讃岐では初めてのことだったようで、周辺に大きな影響を与えます。
 また、彼らは軍事集団として百姓に寄生していただけではありません。自らが開発領主として、周辺開発に乗り出していきます。秋山氏のような西遷御家人は、東国で治水灌漑に取組み、先進的な技術と経験を持っていました。その経験を生かし、三野湾の干拓や丘陵部の耕地化などに積極的に乗り出していきます。
飯山国持居館1
 
東国からやってきた地頭たちの住まいは、どんなものだったのでしょうか。
彼らは東国での館を、讃岐の地に再現します。発掘で出てきた武士の居館跡は、全国的な統一性・共通性が見られます。これは各地域で独自に発展したと云うよりも、東国からやって来た西遷御家人が「東国基準の居館」を任地に建て、それを基準に広まったと考えられます。
そんな居館跡が高松でも発掘されています
 旧高松飛行場のあった高松市林町は、京都妙法院領の林庄にあたります。ここからは13世紀の武士の居館跡が出てきています。条里型地割の中に、約一町四方を大溝で囲み、その中に主屋・厩・倉と「庭(広場)」という建物配置になっています。ここでも、まんのう町吉野の大堀遺跡と同じように、大溝は地域の用水網に組み込まれています。この居館の主は「地域開発の主体者」であると研究者は考えているようです。
 主屋周辺からは、普通の集落からは出てこない素焼きの皿(カワラケ)が大量に出てきます。このカワラケは、それまで讃岐からは出てこなかった鎌倉的な形です。東国の御家人たちが地頭として定着し、構えた居館跡というイメージが浮かびます。この居館に周辺の人々を招いて酒宴が開かれていたのでしょうか。「よそ者」が地域に溶け込むための努力を行っていたのかもしれないと考えるのは、酒好きの私だけでしょうか。
 また馬の歯も見つかっています。
東国武士の騎馬姿が連想できるだけでなく、耕地開発に牛馬が使われた可能性を研究者は指摘します。この居館跡は、林庄の中心部の微高地からやや下がった低湿地部で、未開墾地だったところのようです。飯山町の法勲寺の「サコ田」と同じように、残された未開墾地の開発(再開発)に取り組んだ領主の住まいと研究者は考えているようです。
 もうひとつ注目したいのは、周囲に集落がないことです。
小規模な建物がまばらにあるだけです。ここからは近世のように集落が密集して村落を形成するというスタイルではないことがうかがえます。領主の居館の周辺に、屋敷が散在する「散村」スタイルの村落形態だったことが分かります。ここからは、この時期の耕地開発と経営が小範囲ごとに行われ、なかなか安定軌道に乗っていなかったと研究者は考えているようです。
飯山地頭一覧

 鵜足郡法勲寺領の地頭職になった壱岐時重とは? 
 上の表は、記録に残る鎌倉時代の讃岐の地頭一覧です。
法勲寺地頭職を得た壱岐時重も、承久の変後に讃岐に置かれた新補地頭の一人です。『吾妻鏡』に、彼の地頭職を巡る判決が次のように記されています。
(建長二年五月)
廿八日突巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、令兼帯本補新補両様之由、雑掌就訴申之、有評定、経年序之由、地頭難中之、無其理之間、於一方者可被停止、然者可為本司跡鰍、将又可為新補歎、随望申、可被仰下、可注申一方之旨、今日被仰下、云々
書き下すと
 廿八日、発巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、本補新補両様を兼帯せしむるの由、雑掌之れを訴え申すに就いて、評定有り、年序を経るの由、地頭之れを申すといえども、其の理無きの間、一方に於いて者停止せらるべし、然らば本司の跡たるべきか、はた又、新補たるべきか、望み申に随って、仰せ下さるべし、一方注中すべきの旨、今日仰せ下され、云々
 ここに出てくる法勲寺とは法勲寺領のことで、荘・郷などと同格に扱われています。法勲寺荘との関係は分からないようですが、寺の経営する、もともと井上郷内の公領(国有領)であったものが荘園化したものと研究者は考えているようです。その地頭職持っていた壱岐七郎左衛門尉時重が「本補と新補」の両方の権利を主張したのに対して、評定では、その理はないので、一方どちらかを選ぶようにとの裁定が降された。とあり、壱岐尉時が法勲寺領の地頭であったことが分かります。
 しかし、壱岐時重や壱岐氏については、よく分からないようです。
 一つの説は、承久の変の時に京都守護として在京していた伊賀光季の子に「時重」と名乗る者がいます。そのため伊賀光季の息子と、同一人物だと考える説です。
 2つ目の説は、下総国葛西荘出身で奥州黒沢に所領がある葛西時奥がいます。この葛西氏の諸系図には、仁治元年(1240)に讃岐に移ったとあるので、これを壱岐時重と考える説です。
 壱岐時重の名は、『吾妻鏡』康元元年(1256)6月2日条にも出てきます。
ここでは、時重は幕府から次のように命じられています。
「近年、奥州街道において夜討・強盗が度々蜂起して往還の旅行者の煩いとなっているので街道の警備に当たるように」

この命を受けて時重は、同族または兄弟の壱岐六郎左衛門尉ら24人とともに奥州街道の盗賊掃討に当たっています。これらの人々は、すべて奥州街道筋に所領を持つ地頭御家人です。まさに治安維持のための地頭の職務にふさわしい活動です。ということは、この時期には時重は、まだ讃岐にやって来ていなかったことになります。
 『吾妻鏡』には、壱岐時重と同時期に活躍する葛西七郎時重の名前が見えます。
 このふたりが同一人物がどうかも分かりません。岩手県に伝わる「葛西氏諸系図」には、壱岐時重を葛西三郎清重の子としています。葛西清重は、下総国葛西荘を本拠とし、文治五年(1189)の源頼朝の奥州征伐に従軍し、奥州総奉行に補任された幕府の功臣です。清重が陸奥に所領を得て、葛西氏は大勢力となり勢力を拡大します。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに遅参し、葛西七郡すべてを失い滅亡するようです。
 「葛西氏諸系図」には、時重の讃岐法勲寺地頭のことが記され、仁治元年(1240)に、讃岐へ赴いたことが記されているようです。これを信じると、壱岐時重は葛西氏の出身になります。
 飯山町史によると飯山町の葛西姓の家には、中世に香西郡円座保に来住し、その後に法勲寺地区へ円座の技術をもって移住したと伝えが残っているようです。葛西氏としてやってきて、讃岐で壱岐氏に改名したとしておきます。
 どちらにしても、壱岐時重は地頭として法勲寺にやって来て、居館を構えたようです。その居館がどこにあったかは分かりません。しかし、候補地の一つとして、以前見たように讃岐富士の麓のダイキ飯山店に眠っている居館跡が考えられます。ここも中世の大束川支流跡に堀を巡らした居館でした。ここを拠点に。周辺の未開発地の開発に乗り出していったのでしょう。その一族の中には、土器川の氾濫原や大窪池の谷筋のサコ田の開発を行うものも現れます。かれらは開発地に屋敷を構え、武士団を発展させて行ったのかもしれません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
 この時期の開発領主が、どのように地域支配をおこなっていたのかがうかがえる史料は数少ないようです。そんな中で丸亀市川西町にあった二村庄で、その一部を垣間見ることができます。
 まず、1204~06年(元久年間)に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分が興福寺領として荘園化します。それを地元で押し進めたのは開発領主・藤原貞光という人物です。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で古代綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。しかし、これは寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
 このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします。しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。
13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
参考文献 飯山町史

   以前紹介した、朝鮮の日本回礼使として来日した宋希環が記した『老松堂日本行録』には、瀬戸内海を航行した時の様子が詳しく書かれていました。応永二七(1420)年のことで、足利将軍への拝謁を終えて、帰国する瀬戸内海で海賊に何回も出会ったことが記されています。その中に備前沖で、船に乗り込んできて酒を飲んでいった護送船団の司令官のことが書かれています。名前は「謄資職」と名乗っています。
「謄資職」という人物は何者なのでしょうか?
 謄は、藤原の「藤」姓を中国風に表記したもので、「資職」は香西氏が代々使う「資」の字があります。ここから資職は、香西氏の一族と推定できると研究者は考えているようです。この記事では、酒を飲ませたと記されていますが、実態は警固料を支払ったことを示すようです。備讃瀬戸を通過する船から香西氏が警固料をとっていたことがうかがえます。
 これから200年前のことです。鎌倉幕府成立直後は、西国に基盤を持たない源氏政権を見透かすかのように平家の残党と思われる海賊が活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、海賊を召し捕るように命じています。寛元四年(1246)3月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺の「海賊討伐」の最初の史料のようです。海賊討伐に名前を残している「藤左衛門尉」も姓は「藤」氏です。想像力を膨らませると、警護船のリーダーの「謄資職」は、「藤左衛門尉」の子孫かもしれないと思えてきたりします。そうだとすると香西氏は、鎌倉期から備讃瀬戸で海上軍事力をもった海の武士であったことになります。
  香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家です。そして備讃海峡の塩飽諸島から直島にも勢力を伸ばした領主です。対外的に名乗るときには「藤」氏を用いていたようです。南北朝期以降は守護細川氏に仕え、近畿圏で活躍し、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移したことは以前に、お話しした通りです。
 細川氏の瀬戸内海制海権実現のために、海上防衛体制を任務にしていた気配があります。

香西氏が備讃瀬戸の東域を管理していたとするなら西域を担当していたのが仁尾浦の仁尾浦の神人たちだったようです。
香西氏と考えられる「謄資職」が朝鮮からの使節団の警備を行った同じ年に、守護細川満元が次のような文書を仁尾の神人に出しています。
 兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、
甲乙人帯当浦神人等、於致狼籍輩者、可處罪科之状如件
 応永廿七(1420)年十月十七日 
                  (花押)
 仁尾浦供祭人中
意訳すると
 求めに応じて兵船を提供するなど平素からの忠節は、非常に神妙である。仁尾浦の神人が狼藉の輩を取り締まり罰する権利があるのはこれまで通りである

文書の出された年月を見ると、先ほどの文書と同じ応永27年になっています。ここからは仁尾浦の神人たちも朝鮮の日本回礼使の際に、守護細川氏の兵船として御用を努めていたことがうかがえます。
 神人たちは仁尾浦の賀茂神社に奉仕する集団でした。
賀茂社は原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を仁尾大津多島(蔦島)に勧進したのが始まりとされます。その後、堀河上皇が諸国に御厨を置きますが、そのひとつが蔦島周辺だったようです。こうして仁尾浦の住人は、賀茂社の神人として特権的な立場を利用して海上交易活動にも進出していきます。明徳二年に、細川頼元が別当神宮寺を建立して以後は、祭礼に毎年のように細川氏から使者が遣わされるようになります。守護細川満元は、仁尾浦御祭人中に対する京都の賀茂社の課役を停止し、代わって細川氏に対する海上諸役を勤めるように命じます。こうして仁尾浦は京都賀茂社の支配から、細川氏の支配下へ組み込まれていったようです。
 このように仁尾浦は、
①賀茂社神人らの海上交易・通商活動の拠点であり、
②守護細川氏の守護御料所として瀬戸内海海上防備の軍事上の要衝でもあり
③直接支配のために香西氏が浦代官として派遣された。
仁尾浦が背後に七宝山が迫る耕地の狭い地形でありながら「地下家数五六百軒」を擁する町屋を形成していたのは、海上交易による経済力の大きさがあったからのようです。

 仁尾浦の警固衆は海賊衆から発展したのではなく、賀茂神社の御厨(みくり)として設置された社領の神人たちから形成されました。そのために守護直属の海軍力として、すんなりと変更できたのかもしれません。ここからは
①管領細川氏(備中・讃岐守護)による備讃瀬戸の海上交易権の掌握
②その実働部隊としての讃岐・香西氏
③香西氏配下の海上警備部隊としての仁尾・塩飽・直島
という海上警備・輸送部隊が見えてきます。このような警備網が整っていないと、安心安全に瀬戸内海の交易活動は行えません。また、京都の富の多くは瀬戸内海を通じて西国からもたらされていたのです。そして、非常時には細川氏は瀬戸内海海上輸送ルートで讃岐の武士団を招集していました。そのためにも、瀬戸内海交易ルートの防衛は、重要な意味を持っていたと研究者は考えているようです。
 小豆島の海賊衆 
小豆島の史料の中にも海賊(海の武士団)の姿が見えるようです。
 永享六年(1434)に、小豆島周辺に海賊が横行しているために、幕府は備後国守護山名氏に遣明船警固を命じています。この海賊衆は小豆島を拠点とした一団であったと考えられます。
 これより以前の南北朝期に、備前国児島郡の佐々木信胤は、小豆島へ渡り、島の海賊衆を支配下におき、南朝勢力として活動します。信胤は南朝方の紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、備讃瀬戸の制海権を握ろうとしたようです。その拠点が小豆島だったと考えられます。

しかし、直接的に小豆島の海賊衆の存在を示す史料はないようです。
 室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下にあり東讃守護代の安富氏によって管轄されていました。『小豆島御用加子旧記』には、細川氏のもとで小豆島は加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
  室町後期の小豆島池田町の明王寺釈迦堂の文字瓦に、次のようなことが記されています。
 大永八年(1528)戊子卯月二思立候節、細川殿様御家 大永六年より合戦始テ戊子四月に廿三日まて不調候、
児島中関立中堺に在津候て御留守此事にて無人夫、
本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀仏も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年廿七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ

意訳すると
 この文書は「大永七年(1527)に、細川晴元が軍勢を率いて堺へと渡り細川高国と戦った。その際に晴元は、児島と小豆島の海賊(海の武士集団)から兵船を徴発した。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余堺に出陣し、島を留守にしたために人夫も手当てできなかった。
  ここには「児島中関立中 堺に在津候て」と「関立」がでてきます。「関立」とは、当時の海賊の呼称であったことは以前お話ししました。小豆島にも大永年間には、海賊衆(水軍)が存在していたようです。また、その海賊衆は細川晴元の命令で動いているようです。
  天文18年には晴元と三好長慶が摂津で戦いますが、東讃守護代の安富氏は晴元に従わずに戦いには参加していません。そのためか晴元は敗れています。この時には小豆島は安富氏に領有されていたようです。小豆島の海賊(海の武士団)の命令系統は、次のように考えられます
  ①管領・細川氏→ ②東讃守護代安富氏→ ③小豆島の海賊衆

 その後の島の海賊衆の動きが見える史料はありません。
ただ『南海通記』は、島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記します。細川氏の御用下で、塩飽と同じように能島村上氏の支配下に当たっています。しかし、その状況を示す史料はなく、詳しいことは分からないようです。

以上見てきたことをまとめると
①管領細川氏は西国支配のために瀬戸内海海上ルートの防衛体制に心を砕いている
②備中と讃岐を自分持ちの国として、その間の備讃瀬戸の制海権確保に努めた。
③その際に、香西氏や仁尾浦・小豆島の海上力を利用している
④讃岐と近畿との海上輸送が確保できていたために、讃岐武士団の近畿への動員もスムーズに進み、細川家の政治運営に大きく寄与した。
⑤細川家衰退後には備讃瀬戸には、能島村上氏の力が及ぶようになり、塩飽や小豆島はその支配下に置かれることになる。
⑥また弱小の海上軍事勢力(海賊衆)は、存在意味をなくし衰退し、丘上がりをするものも現れた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂   讃岐海賊衆の存在  瀬戸内海地域史研究8号2000年



史料に出てくる讃岐最初の海賊は?
 瀬戸内海は古代から「海のハイウエー」として機能してきました。そこには海賊が早くから出没したようです。海賊は、平安時代初期の史料には見え、末期になると活発化します。鎌倉幕府成立後、西国に基盤を持たない源氏政権を、見透かすかのように活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、召し捕るように命じています。
 寛元四年(1246)三月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺で最初の「海賊討伐」史料のようです。しかし、この海賊がどこを拠点としていたかは分かりません。そのような中で、讃岐の海賊衆の活動がうかがえるのが次の史料です。
   僧承誉謹中
    当寺御領伊予国弓削島所務職間事
    (中略)
 去正和年中讃岐国悪党井上五郎左衛門尉・大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下凶賊等、率数百騎大勢、打入当島、致悪行狼籍之時者、承誉以自兵糧米、相具数百人之勢、捨身命、
致合戦、討退彼悪党等、随分致忠節早
    (後略)
意訳すると
鎌倉時代の正和年間(1312年から1317年)に讃岐の悪党・井上五郎左衛門尉と大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下の賊党が数百騎を率いて、伊予の弓削島を襲い悪行狼籍を働いた。承誉は、数百勢を率いて防戦し、命を捨てて戦い悪党どもを打ち払った。忠節な輩である。

讃岐の悪党が塩の荘園として有名な東寺の弓削荘を襲っている記録です。ここに出てくる「悪党」は海賊衆でしょう。讃岐から芸予諸島に出向くには、燧灘を越えていかなければなりません。船が必要です。悪党=海賊と考えられます。ここには、讃岐の海賊衆の姿があります。
それから約140年後にも讃岐の海賊は、弓削荘への略奪・押領を行っています。その主役である山路氏のことについて、以前お話ししました。山路氏のその後の歩みについて、今回は見ていきます。

弓削荘の寛正三年(1462)の史料にも山路氏は登場します。
  (紙背)
  弓削島押領人事  公家奉公 小早川小泉方  
  海賊 能島方 山路
  此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永専口説記之
前の史料に出てきた小早川小泉・能島(村上氏)・山路がここでも登場します。小早川小泉は「公方奉公」とあります。後の小早川隆景の配下で活躍する小早川家の有力一族です。能島と山路には「海賊」の注記があります。小早川小泉は海賊でありながら細川氏の奉公衆として仕えていました。そして、能島村上氏は後の村上武吉を生み出す海賊衆です。ここでは、山路氏は能島村上氏と同列に、海賊衆として記されています。山路氏は西讃守護の香川氏の配下に入って行くことになります。その過程を追って見ようと思います。

西讃守護代の香川氏と山路氏の出会いは?
香川氏は天霧城を拠点に、後には領域支配を広げて戦国大名化していきますが、応仁の乱以前においては、あくまで守護細川氏に忠実で支配エリアも狭かったようです。そのような中で、香川氏の活動の一端がみえるのが瀬戸内海の交易活動です。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』では、国料船の船籍地が変更されています。
国料は寺社などの修造費のために給付された修造料国料の〈国料〉に由来するようです。転じて海の関所通行にあたって関銭免除の特権を持つ船になります。過書による船の特権が1回限りのもので、積荷の品目・数量についても関所でその都度、検査が行われたのに対して,国料船のチェックは緩やかだったようです。
 香川氏が守護代として管理する国料船の船籍は、元々は宇多津でした。それが香川氏のお膝元の多度津に移動しています。香川氏は、多度津の本台山(現桃陵公園)に居館を構え、詰城として天霧城を築いていたと云われます。
 多度郡の港は次のように変遷していきます。
①古代 弘田川河口の白方港
②中世 砂州後方に広がる入江の堀江港 
    港湾管理センターは道隆寺
③近世 桜川河口の多度津港
 香川氏は多度津に居館を築くと同時に、それまでの多度郡の港であった堀江湊から桜川河口に新たな港を開き直接的な管理下に置こうとしたと私は考えています。そして、瀬戸内海交易活動によって経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃一帯へ力を広げていくという筋書きが描けます。
それでは、その船の管理運営にあたったのは誰なのでしょうか?
そらが白方を拠点に「海賊」活動を行っていた山路氏だと研究者は考えているようです。燧灘を隔てた芸予諸島の弓削荘への「押領」活動が出来る海上輸送能力を山路氏は持っています。新たに開かれた多度津港に出入りする船の管理・防衛を行うには山路氏は最適です。香川氏にすれば海賊衆を支配下におくことにより、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を計ろうとしたのかもしれません。これは能島村上氏と毛利氏・小早川氏の関係にも似ています。

もうひとつ山路氏の活躍する場面が考えられます。
応仁の乱後の讃岐武士団の動きを年表で見てみましょう。

1467 寛政8・26 細川勝元,西軍の将一色義直を攻め,応仁の乱はじまる
   6・24 讃岐西方守護代香川五郎次郎と東方守護代安富盛保,上洛し合戦参加
   10・3 安富元綱,相国寺合戦において西軍に討たれる
1477 文明9 11・11 応仁の乱,終わる
   1・2 香川氏,一条家領摂津国福原荘の代官をつとめるが,年貢納入を果た
       さ ぬため興福寺より催促をたびたび受ける
1487 長享1 足利義尚,六角高頼を討つため近江坂本に布陣する
     12・7 香川元景・安富元家・安富与三左衛門尉・香西五郎左衛門尉ら,細
        川政元に従い近江六角攻めに参加する(蔭涼軒日録)
1489 延徳18・12 香西・牟礼・鴨井・行吉ら,香西党としてその勢力が京都に
        おいて注目される
 1491 延徳3 香西元長・牟礼次郎・同新次郎・鴨井藤六ら,細川政元の奥州遊覧
        に随行する
   5・16 香川元景・安富元治,細川政元邸での評定に参加する
   8・- 安富元家,足利義材より近江守護代の権限を与えられる
1492 明応13・28 香西五郎左衛門尉,荘元資とともに備中守護細川勝久と戦う
       が敗れ切腹する.
この戦で, 讃岐の軍兵の大半が討死する
   9・21 安富元家,帰京し,近江より四国勢を帰国させる.
1493 明応26・18 京都の羽田源左衛門,讃岐国は13郡,西方は香川が東方は安富が統治し,
小豆島は安富が管理していることなどを蔭涼軒主に伝える

年表からは次のような事が分かります。
①応仁の乱に、香川氏・安富氏など讃岐武士団が細川方の主力として上洛参戦している
②讃岐武士団は、京都で常駐し、その勢力が注目を集める存在になっている
③しかし、1492年の備中守護細川勝久との戦いに敗れ,讃岐の軍兵の大半が討死し、讃岐武士団の栄華の時代は終わる。
 この年表を見て気がつくのは、香川氏は細川氏の招集に応じて、京都に向けて大規模な軍事行動を応仁の乱も含めて2回行っています。
 畿内への出陣には、輸送船や警護のための兵船も必要でした。それを担ったのも山路氏ではなかったのでしょうか。山路氏は、香川氏の支配下に入り、香川氏の畿内出陣への海上勢力となったと研究者は考えているようです。
 晴元が政権を掌握した後には、西讃岐の支配は香川氏によって行われるようになります。
「讃岐国は13郡あり,西方は香川が、東方は安富が統治し,小豆島は安富が管理する」

という「蔭涼軒日録」の記述にあるように、生き残った香川氏の一族は、領国支配への道を歩み出すことになります。 その香川氏の配下についたのが山路氏や高瀬の秋山氏のようです。
 なぜ、山路氏は香川氏の配下に入ったのでしょうか。
その背景には、能島村上氏による瀬戸内海の制海権掌握が考えられます。能島村上氏は、16世紀になると管理エリアを拡大し、塩飽や小豆島までも直接的な支配下に置くようになります。謂わば村上水軍による「海の平和」が一時的にせよ、もたらされたのです。この体制下では、巨大な海軍力をもつ村上氏に楯突くことはできません。弱小海賊衆は海賊行為もできないし、警固衆として通行税の徴収もできなくなります。つまり、弱小海賊衆の存在意義が失われていったのです。
そのような中で山地氏が生き残りの活路を求めたのは、戦国大名に脱皮していく香川氏です。
  山路氏は、海賊衆から陸地の武士へと転換せざるを得なかったようです。そして、香川氏の方にも海賊衆山路氏を支配下に収めることにより、新たな領主の道を歩もうとします。両者の思惑が一致します。それが讃岐の海賊衆の終焉でもあったようです。

香川氏は、細川氏の一族抗争による衰退後は、独自の領域支配を行うようになります。
それは戦国大名化していく道でした。それに応じるように山路氏は香川氏の下で、海から陸への「丘上がり」を果たしていきます。
その姿を追ってみましょう。
  次の史料に見えるのは、香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす山路氏の戦闘姿です。それは海ではなく、陸の戦いでした。「天正十一年の香川信景の感状」です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 信景
     山地九郎左衛門殿
これは大内郡入野庄の合戦での山地九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面山に陣を敷きます。そして、十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉方の仙石秀久軍を攻めます。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山地氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
 この文書の奥付には、後世に次のように追記されています。
「右高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利薙侍之、此九郎左衛門ハ香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子乎」

とあり、意訳すると
この文書は高知の山地氏が保管していたものである。元親の次男五郎次郎が、讃岐の香川信景の養子となったが、後に病で高知に帰ってきた。岡豊城の西の小野村に居を構え、元親の家臣となった内藤左衛門・山地利薙侍は、この感状に名前のある九郎左衛門は、香川家の旧臣であり利奄蓋九郎左衛門の子のことである。
この文書からは次のような事が分かります。
①山地九郎左衛門は、香川信景の家臣として参陣している。
②山地九郎左衛門の子孫は、長宗我部元親が土佐一国に領土を削減された際に、香川氏と共に土佐に亡命し、元親の家臣となっていた
さらに研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、三木池戸村(三本松)中城跡  安富端城也、
後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、
詫間ノ城ノ城主
ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は、かつての安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。

三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。

ここからは三本松・中城の城主・山地九郎右衛門は、海賊衆山路氏の末裔であったことが分かります。そしてもともとは詫間に城を持っていたといいます。
 どうして、海賊衆であった山路氏が詫間城主となり、その後三木郡へと移動したのでしょうか。
『西讃府志』に、その謎を解く記述があるようです。
 詫間弾正居レリト云、古城記二ハ 甲斐国山地右京進細川氏二従テ来リ、此城二居テ多度三野豊田等ノ三郡ノ旗頭夕リ、(中略)
旧ク詫間氏ノ居ラレシコト明ナリ、山地氏ノ居リンハ、恐ラクハ此後ノコトニテ、香川氏二属テ、詫間氏ノ城ヲ守りシナドニヤ、又兎上(爺神)山ニモ詫間弾正ノ城趾アルナド思フニ弾正ノ時二至り、細川氏二此地ヲ奪レ、兎上山二移りシナルヲ、ヤガテ山地右京進二守モラシメシガ、其子九郎左衛門二至り、故アリテ池戸城二移サレツルナルベシ
西讃府志は、同時代史料ではありませんが、そこに書かれていることをまとめておきましょう
①甲斐国から細川氏に従って、讃岐になってきた山地氏は詫間城に拠点を構えた。
②しかし、もともとは詫間城は詫間弾正の居城であったものを守護・細川氏に奪われ
③詫間弾正は高瀬の兎上(爺神)山に逃れて、そこ拠点として新城を築いた
④その後に、守護代・香川氏は、山路氏を支配下に収めると、西讃支配を強化のために山路氏を詫間城に入れた
⑤白方から詫間へと山路氏は移動するが、詫間の港も併せ管理運用するようになった。
⑥詫間の南の高瀬郷は、同じ西遷御家人の秋山氏が香川氏のもとで領域を拡大しつつあった。

疑問点としては、甲斐からやって来た御家人がどのようにして「海賊」になって、弓削島まで荒らすようになるのかは分かりません。どちらにしても山地氏は、守護の細川氏と深い繋がりがあったようです。
 そして守護・細川氏が衰退していく中で、戦国大名への変身を遂げる香川氏の勢力下に山地氏も組み込まれていったようです。香川氏が領域支配の拡大をするにつれて、山路氏は海賊衆から陸地の領主へと性格を変えていきます。そのような中で長宗我部氏に配下に下った香川氏は、東讃平定の先兵の役割を担わされることになります。
 その先陣を勤めたのが山地氏です。入野合戦の戦功により、城を与えられたのが「中城」なのでしょう。『讃陽古城記』に「安富端城」とあるように、もともとは安富氏の出城でした。ここに山地氏を入れることにより、東讃攻略の拠点とします。東讃攻めのために十河氏を包囲する戦略的な要地です。香川信景は長宗我部勢の一隊として戦いに参陣しています。石田城攻めにさいしては、秋山杢進(一忠)も信景から次のような感状を受けています。
 今度石田城行之刻、別而被抽粉骨、鑓疵数ヶ所被蒙之由、誠無比類儀候、無心元存候条、為御見廻、此者差越候、能々御養生専一候、委細任口上候間、不及多筆候、恐々謹言
 中
 二月廿八日  
               信景(花押)
     秋山杢進殿
           まいる
このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。そして、論功行賞は、長宗我部元親ではなく香川氏が行っています。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度任されていたのではないかと研究者は考えているようです。
それを窺わせる次のような元親の書状があります
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」
意訳すると
敵の数は多かったが撃ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」
「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 山地氏を詫間から三木の池戸へ移したのも、香川氏の東讃攻略の一つかもしれません。入野合戦の際には、山地氏はこの池戸の城から出陣したはずです。その際の姓が「山路から山地」へと改名されています。これは単なる「誤読」ではなく、海賊衆から陸の武士への変身に合わせて改称したとも思えます。山地となることにより、香川氏の家臣団の組織に組み込まれたことを示すと同時に、山路氏の海賊衆からの「足洗い」の意思表明だったのかもしれません。
以上をまとめてみると
①讃岐白方を拠点とする山路氏は、芸予諸島の弓削荘に対して海賊行為や押領を行っていた
②山路氏は海賊であり「海の武士団」として備讃瀬戸の海上軍事力勢力であった
③その力を西讃守護代・香川氏は活用し、交易船や軍事行動の際の軍船団として使った
④能島村上氏の備讃瀬戸への勢力拡大と共に、讃岐の弱小海賊は存在意味をなくしていく。
⑤このような中で山路氏は、香川氏の配下で詫間城を得て丘上がりする
⑥さらに長宗我部元親の東讃平定時には三本松の城主として、戦略拠点の役割を果たした。
⑦長宗我部の土佐撤退時には香川氏と共に土佐に「亡命」した。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

   橋詰 茂    讃岐海賊衆の存在     瀬戸内海地域史研究8号2000年

 応仁の乱が始まった翌年の9月に前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、中村と上方の間を堺港を利用して何度も往復しています。そのため堺を支配する細川氏との関わりも深かったようで、『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。

「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

 一条氏の急速な台頭の背景には、日明貿易に参入し、巨大な利益を上げていたという説があるようです。一条氏の日明貿易の実態について探ってみることにします。

一条氏を祀る一條神社 本社拝殿と天神社(四万十市)

まず一条氏対明貿易参加説です。
この説は戦前の昭和十年(1935)に野村晋域氏が「戦国時代に於ける土佐中村の発達」で、発表されました。この論文では、次の2点が指摘されました。
①土佐一条氏が対明貿易に参加していたこと
②土佐中村の外港下田が遣明船の寄港地であったこと
  その根拠として示されたのが一条氏が巨大な貿易船を作っているということでした。
その貿易船について、少し詳しく見ておきます。
 天文五年(1536)四月に貿易船建造のために一条氏が土佐国幡多郡から木材を切り出している史料が見つかったようです。しかし、一条氏に貿易船建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラーであった板原次郎左衛門は、この依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如上人は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。この結果。天文6年(1537)年三月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったことが見え隠れします。
日明貿易1

中世の交易船

 中村で船の組み立てが終了すると、板原次郎左衛門は艤装のために船を紀州に廻航しています。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如上人は堺まで出向き密かに見物しています。この船は上人にとっても意味のある船だったようです。こうして、一条氏は堺の技術力で貿易船を建造しているのです。

日明貿易3

この時期から日明貿易で手に入れたと考えられる品々を毎年朝廷に貢納するようになります。
さらに、一条氏は平均子疋を朝廷に献金し、一万疋を出して官位を得ようともしています。つまり一条氏の経済力の向上が見られるというのです。このような史料や状況証拠をもとに
「貿易船建造の史料での確認 + 経済力の向上」= 一条氏の対明貿易参加説

が出されることになったようです。
 戦後に出された「高知県史 古代中世編』でも
「一条氏は大坂の石山本願寺や堺と緊密な連絡を保ちながら、日明貿易に関与していたのであろう」

と、石山本願寺と堺商人などと共に対明貿易に参加したと推論します。これが定説でした。
09-05-15 土佐一條公家行列「藤祭り」

これに対して一条氏対明貿易不参加説が戦後になって出されます。
小松氏は
「下田港で唐船は造ったらしいが、貿易は中途挫折してゐる」

として、一条氏の対明貿易不参加説を示します。。
 小松氏に続いて下村敷氏も『戦国・織豊期の社会と文化』で
「対明貿易で手に入れたとされる珍しい外国商品は堺の商人によって、土佐国に販売されたものである」

と小松氏の説を補強します。つまり、天文期には、土佐中村はすでに堺の商圏に入っており、外国商品は一条氏が対明貿易で得たものではないという考え方です。
 これに対して『中村市史』は
「土佐一条氏は対明貿易船の実際経営に当る堺商人と関係を結んでいたことを思えば、堺商人を介して対明貿易に関与したことは十分考えられる」

とします。裏付けとして、天文九年正月一条氏から石山本願寺の当主に贈った唐犬や、朝廷への献上品を挙げて参加説を支持しました。
どちらかというと、地元の高知は関与説のようです。
 しかし、下村氏はその後の論文で、堺商人を大内派と細川派に分けて考察し、天文八年四月に渡海した遣明船のうち、1・2号船の二隻は博多商人が担当し、3号船は
「堺衆でも大内氏と結んでいた片山与三衛門・池永宗巴・同新兵衛・盛田新左衛門などが乗船、細川方の堺衆木屋宗観・小西宗左衛門などが計画していた土佐中村建造の渡唐船は、この時ついに渡海しなかった

ことを明らかにします。『中村市史』が裏付けとする天文8年7の朝廷への献上品、さらに天文9年正月、一条氏が鐙如上人に贈ったとされる唐犬などは、天文8年4月に遣明船によってもたらされたものではなかったのです。これで、一条氏が対明貿易に関与したとする論拠が崩れました。
現在では、一条氏対明貿易不参加説をとる研究者の方が多いようです。その根拠を見ておきましょう。
第一に一条氏が堺商人と共に参加していれば、もっと多くの外国商品が中村市場に出廻り、朝廷へも多種類の品物が献納されたはずであると研究者は考えているようです。貿易船を運用していたにしては、もたらされている貿易品が少なすぎるということです。
 勘合による遣明船の輸出入品は、輸出品は刀剣・鎧・硫黄・銅を主とし、扇・蒔絵・屏風・硯・漆器などがあり、輸入品は銅銭を主とし、生糸・高級織物・錦・書籍などでした。これらの流通が中村周辺では見られないようです。

日明貿易2
第二は、貿易船の乗組員です。
天文8年4月に五島奈留浦より渡海した遣明船の乗組員は
①1号船 官員15人・商人112人・水主58人・合計185人
②2号船 官員 5人・商人 95人・水主40人・合計140人
③3号船 官員 6人・商人 90人・水主38人・合計134人
となっています。相当数の商人・水主を確保しなければならないことが分かります。さらに明国への進物の経費・勘合請料の支払もあります。これらの費用の一部は乗船料・荷駄料から支払われるとしても、一隻の請料は巨額の費用が必要でした。そのため貿易船は、多くの商人が資金を出し合って運営されたいました。また帰国後の輸入品販売のための市場確保も課題です。このような山積みされた課題に一条氏が対応できたのでしょうか? 
 先ほど見た貿易船の建造や水夫(かこ)にしても、堺や紀伊に頼らなければなりませんでした。博多や堺に割って入る形で一条氏が参入できたと考える研究者は少ないようです。
一条教房|中村めぐり

 一条氏が貿易に関与していないとすれば、朝廷や貴族たちに進物した外国商品は、どこから得たのでしょうか
この時期になるとは堺の商人が土佐にやって来るようになります。
琉球との交易の際に、立ち寄ることが多くなったようです。つまり、土佐は堺の交易圏だったのです。その際に、対明貿易で仕入れた商品がもたらされたと研究者は考えているようです。
 それ以外にも一条氏と大内氏の姻戚関係が成立し、大内義興の女が一条房冬に嫁いで、大永四年若君を出産しています。後にはその若君が、大内氏に迎えられ義隆の養嗣子となり晴持として元服します。彼は天文12年5月月に20歳で亡くなりますが、大内晴持の実家は一条氏です。大内家と一条家は強い姻戚関係で結ばれていました。そのため大内義興・義隆父子は、博多商人が遣明貿易でもたらした珍しい高価な品物を、一条氏に進呈したことは十分考えられます。
 つまり一条氏が手に入れた中国からの舶来品は、堺商人や大内氏を通じて手に入れたものだとします。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...

また一条氏が南蛮物を手に入れる手段としては、琉球船の来港がありました。琉球船は土佐清水に入港し、そこに南蛮の品々を下ろしていたようです。この交易活動の背後にも、大内氏の支援があったようです。
 このように、一条氏が朝廷や三条西実隆・鐙如上人らに進物とした外国商品は、堺の商人によって土佐へもたらされたものや、当時婚姻関係で結ばれていた大内氏から送られた物が多かったのではないかと研究者は考えているようです。
参考文献
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年

中世は宗教が科学の役割を果たしていました。武力や技術、医療なども宗教と深く結びついていました。そのため人々にとって神仏は、身近な存在でした。すべては神仏で説明されたのです。
そんな中で、上皇や貴族たちから始まった熊野信仰は、鎌倉時代になると、皇族や貴族をまねて地方の武士たちも熊野に参詣するようになります。そして、後には富裕層も参加するようになり、次第にさまざまな階層の人々に受け入れられ、全国に広がったようです。
熊野信仰は、どのようにして各地に広がったのでしょうかに

 「瀬戸内海交通路を通じた霊場の系列化により浸透した」

と研究者は考えているようです。
熊野水軍に代表されるように古代からの熊野の海上交易ルート沿いに熊野領荘園の設置や熊野権現の勧進が行われます。しかし、それだけでは熊野詣を行う原動力にはなりません。身近で熊野に行こうと働きかけてくれる人物が必要です。それが熊野先達でした。
熊野先達の果たした役割を見ておきましょう。
先達の指示した精進潔斎を行って、参拝者(檀那)は熊野に出発します。先達は道中の道案内、関所、渡船、宿泊などの世話を行ないます。船で紀伊について熊野詣道に入ってからは、熊野王子などの霊地で拝礼や垢離などの導師を勤め、帰路や帰還後の作法を取り仕切ります。これだけ見ると現在の団来旅行のインストラクターのようですが、これは先達の職務の一部でしかありません。さらに先達は参詣をできない人の喜捨を熊野にとどける「代参」も行います。つまり、参拝しない信徒も抱えているのです。そして、熊野に参詣したり、寄進する人(信者)を「檀那」と呼んでいました。
 熊野にやってきた檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案内などに従事したのが御師です。
先達は檀那を熊野に導くと、御師あてに檀那の在所、氏名、自己の在所、名前、提出年月日などを記した願文を提出しました。その形式は、次のようなものです。
     上野国高山修理亮重行(花押)
一    応安五年三月四日
一   道先達金峯山別当民部律師
一   那智山御師六角堂弁法眼
 この願文は応安五年に、上野国高山の檀那の修理亮重行が、大和の先達・金峰山別当民部律師を仲介として、那智山御師六角堂弁法眼に提出したものです。このように願文は、本来は熊野に到着した際、檀那が先達・御師を介して熊野権現に祈願をとりついでもらうために提出する祈祷依頼状でした。ところがこの願文には、今後は必ずこの御師のもとに来ることを契約した内容も含まれています。それだけでなく、この先達が導いた檀那、その檀那の一族のものにも同様のことが義務づけられるようになります。そのため後には、願文とあわせて系図が提出させられ、御師は檀那の系図を作って保管するようになります。
つまり「願文提出」は、先達と檀那との契約関係ともいえるのです。今と違うのは神仏を介して成立していることです。熊野本宮の神前で御師・先達・檀那により交わされたもので、熊野権現への誓約という形で行われています。つまり神をバックにする御師・先達と、ただの人間の契約で対等なものではありません。契約を破れば、神仏から罰せられることになります。しかも契約は一代かぎりでないのです。子孫まで拘束するものであったことが文書から分かります。
  こうして以後は、子孫に至るまで「檀那・先達と御師」との結びつきが続くことになります。こうした御師と先達・檀那の関係を「師檀関係」と呼んでいるようです。願文は先達・檀那が署判して御師に提出する師檀関係の締結を示す契約状の性格をもつようになります。

 熊野の御師は、どんな風に全国の檀那を「登録管理」していたのでしょうか?
 熊野では、鎌倉時代から室町時代初期までは、檀那を一族単位で掌握していたようです。それが後には、在所単位に移っていきます。「那智山社法格式書」に、諸大名・諸氏は名字・氏・系図にもとづき、町人・百姓は生縁の在所によるとあるように、古くは、在地領主は一族単位で掌握されていたことが分かります。東北、関東など、在地領主の支配力が強い地域では、一族引きの形がとられたようです。ここからは、同じ地域に住む一族が一緒に、熊野詣をしていたことがうかがえます。
 御師にとっては師檀関係を結んだ檀那や先達は、他の御師へ鞍替えは出来ないシステムだったので、まさに永遠の「常客」です。このリストを持っている限り、参拝客が熊野にやって来てた場合には、宿泊料や取次料が入ってきます。そのため檀那リストは貴重な財産とされるようになります。
 御師は、檀那・先達の願文を保存し、さらに名簿や檀那の系図なども作って大切に保管するようになります。そしてやがてこれらの檀那・先達リストは譲渡や売買の対象としたり、借金の抵当となるのです。これは、そこに名前の記されている檀那や先達の意志と関係なく、御師の間で行なわれ、変更後にこのことを檀那や先達には知らせていたようです。現在の旅館がこんなことをやれば、怒りをかうでしょう。
 その際、御師の間ではのちの紛争を防ぐために檀那や先達の譲渡状、売買や借金に関する文書が取りかわされています。その上で、相手方に願文や檀那・先達リストが渡されています。
現在熊野の那智大社と本宮大社には、御師文書と呼ばれるこれらの文書が一括して保存されているようです。このうち那智大社所蔵のものは、『熊野那智大社文書』全六巻にまとめられています。
 この中にある「願文・願文帳・檀那譲状・檀那売券・借銭状・先達や檀那の名簿」をもとにして研究者は、各地の能野先達や檀那の活動を明らかにしているようです
その中の先達が「檀那権」を譲渡・売買した譲状を見てみましょう
これは、先達が親子・師弟などの間で檀那を無償で譲渡するものです。
    永譲渡檀那事
  合 上野国 玉村保住人讃岐公
  右件檀那者、京尊之相伝也 然聞所譲渡于玄善房実也、但後日証文之状如件、
   永仁七年卯月十七日                  京尊花押
 これは先達の京尊が上野国見桃保(群馬県玉村町)の檀那讃岐公を玄善房に譲渡したものです。
最初に「譲渡檀那事」とあります。「永」が文頭に記されているのは、「期間限定のレンタル譲渡」もあったからです。その場合には、レンタル期間が記されています。
 ここからは 参拝者(檀那) ー 熊野先達 ー 熊野の御師という関係(師檀関係)を、先達たちも互いに譲渡・売買していたことが分かります。 
 熊野先達を勤めた人たちは、どんな人だったのか
  先達は山伏だったと研究者は云います。石鎚山や中国地方の大山などの山岳霊場で修行する一方で、自分の拠点周辺の住民などを熊野へ引導しました。その途上、彼らは道筋にある神社や社寺などに泊まることもあったようで、その手続きや宗教儀礼なども執り行います。また。檀那の代理として参詣したり、礼を配ったりするなど、日常的に檀那と深くつなかっていました。今私たちが考える団体旅行のインストラクターとは、まったく違ったものです。ある意味、先達は檀那の信仰を菅理する立場で、師匠でもあり、怖れられる存在でもあったようです。13世紀の説話集「沙石集」からは、檀那が先達に畏怖の念を抱いていたことがうかがえます。
先達は檀那の信仰に深く関わり、その代償として利益を得ています。
だから、檀那との関係が動産化し譲渡や売買の対象となったと研究者は考えているようです。
徳島県吉野川市鴨島町の仙光寺所蔵の古文書は、地方の熊野先達に関する貴重な文書が残っています。そこには「十川先達」という熊野先達の名前が出てきます。彼は「柿原別当」という師匠について修験活動を行う山伏でした。彼の活動歴を残された文書から見てみると、周辺の先達から檀那株を買ったり、いろいろな手段で檀那を増やし、活動・経済基盤を固めている様子が次のように見えてきます。
① 14世紀には吉野川市鴨島・川島町が、檀那の分布域であった。
② 15世紀には柿原別当から石井町、吉野川市鴨島町の檀那を買い取った。
③ 16世紀初頭には、鴨島町西部に新たな檀那をもつようになる
④ さらに、鳴門市や徳島市、美波町、三好市などの檀那が散在するようになる。
このように、鴨島を中心に霞(かすみ)と呼ばれるテリトリーを拡大し、広域的に活動するようになります。ところで、檀那株を買った先の「柿原別当」は、もともは十川先達の師匠であったようです。ここからは十川先達が師匠から自立し、川島町を拠点に檀那を増やした。そして師匠の「柿原別当」が引退すると、その檀那株を譲り受けたという筋書きが描けそうです。
  熊野詣には、どれほどの費用が必要だったのでしょうか?
 吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達の残した史料から、参詣の費用について見てみましょう。
 白地城(三好市)の城主として名高い武将である大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げたものが残っています。ここからは
大西覚用 ー 十川先達 - 御師という師檀関係

が見えてきます。覚用がこのときに、自分自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって参詣したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。
史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは3745万8750円で、大変な高額です。これは、御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。こちらについての記録は内容ですが、地域の有力武士団の棟梁クラスは、このくらいの「参拝料」を収めていたようです。商人たちは参詣講を組織し、グループで参詣していたようなので、こんな高額にはならなかったのかもしれません。しかし、一般庶民の手の出る者ではありません。近世の伊勢詣でや、金毘羅詣でとは違って庶民性は薄いようです。ところが、こんな方法ではなく、信心の強い人は物乞いをしながら熊野へ向かった人もいたようです。参詣に要する経費はさまざまであったということになるのでしょうか。
 どちらにしても紀伊からやってきた熊野修験者たちが四国各地に定着し、多くの檀那を確保して熊野詣でに参道していたようです。

 金比羅神を追いかけていると修験者の姿が目に入るようになり、修験者を追いかけると熊野行者に行き着くことになりました。しかし、熊野信仰については知らないことばかり、分からないことばかりです。そのための読書メモを取りながら読み進んでいくしかないようです。その読書メモの一部を備忘録代わりに公開しておきます。

讃岐の熊野信仰関係で史料で、最も古い記録は熊野本宮の「実賢檀那譲状写」弘安3(1280)のようです。
そこには、熊野にやってきた次のような5人の人たち(檀那)の名前が記されています。
十郎刑部、
十河(そがわ)(木田郡十河村)の三郎左衛門、
庵治(同郡庵治町)の四郎左衛門、
香西(高松市)のエモム、
柞原(丸亀市)
ここからは次のようなことが分かります。
①13世紀後半には熊野行者が讃岐にやってきて、信者獲得のための布教活動を行っていたこと
②熊野行者の布教エリアは東讃から丸亀までの広範囲およんでいたこと
③熊野先達に引率されて、5人の檀那が熊野詣でにやってきたこと
その次に古い資料は永仁六年(1296)の「導覚紛失状」です。
ここには逸見一門があげられています。しかし、その後の南北朝期の先達や檀那の動きを示す史料はないようです。

  次に熊野詣でが出てくるのは室町時代になります
まず登場するのが、讃東の大内荘(大内町)与田寺の増吽です
彼は明治以前の讃岐では空海に次いで有名なお坊さんだったようです。その増吽が応永(1394-1428)末頃、阿波と讃岐の経衆二十人、伶人三人をともなって船で能野に詣でています。増吽は、この熊野詣での前の明徳年間(1390-94)に、大内荘に能野三山を勧進(再興)しています。与田寺周辺の大内荘は真言密教系の僧侶の動きが活発で、書写活動や勧進活動が大規模に行われており、その中心に増吽はいたようです。そして増吽に連なる僧侶たちは、修験者で山野での修行も行っていたようです。
 大内荘には文正二年(1467)白鳥の先達の名前が見られます。実報院と廊之坊の檀那帳には、東山(白鳥町)の先達善知房、その東隣りの引田港(大川郡引田町)には先達筑前がいたことが分かります。鎌倉期から百年ほどで、熊野先達を行う修験者の数が増えていることが分かります。
 次に資料に残る高松近辺の先達を挙げてみましょう
①高松氏一族を導いた屋島の高松寺(八十四番札所)
②熊野社のある池田(高松市)の善清坊、
③三谷郷(高松市)の香西一族の束殿内方や豊後殿の女中を導いた実報院先達西林房
④円座の西蓮寺
⑤一宮の持宝坊(共に高松市)、
⑥飯田の西坊。林の武蔵坊(共に高松市)
⑦塩の積出港の野原(現高松市)の角坊
⑧白峰寺の先達(八十一番札所、坂出市青海町)
ここからは、次のようなことが分かります。
①⑤⑧は現在の四国霊場の札所になります。
四国霊場の中には、熊野先達の流れをくむ修験道の痕跡が色濃く残る所があります。屋島寺や一宮、白峰寺など、修験者の行場があるところには熊野先達がいたようです。①の屋島寺はの熊野先達は、高松氏の帰依を得て、熊野詣でに導いています。 
 JR屋島駅の南の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここが高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人です。建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、讃岐守護を務める重要人物を屋島寺の熊野先達は檀那にしていたことが分かります。これは屋島寺にとっては、大きな加護となったでしょう。
③の高松西部の三谷郷の先達は、香西氏や豊後氏の帰依を得て檀那として、その婦女子を連れて熊野詣でを行っています。高松地区では、有力武士団の棟梁層が熊野先達に帰依していたことが分かります。
⑧の白峰寺は、先ほど見た大内荘の増吽が請われて住職を勤めたことがあります。中世の讃岐の修験道ネットワークの拠点のひとつと考えられます。ここにも熊野先達はいます。

鎌倉時代のこの地区の先達は「庵治(同郡庵治町)の四郎左衛門」「香西(高松市)のエモム」の二人のみでした。それが百年余りで、庵治周辺や、香西周辺にテリトリーを拡大して、数を増やしています。
続いて中讃の熊野先達を見てみましょう
①福江(坂出市)の玉泉坊
②宇多津の仲善坊
③垂水郷(丸亀市)の釈迦堂。光泉坊
④竹鼻の宝光坊
⑤杵原(丸亀市)の明法坊、
⑥国府(坂出市?)の菖蒲池椎ゐ尾正連坊。宝林坊
⑦飯山別当成福寺
⑧陶(綾歌郡綾南町)の陶王子坊主
⑨南条山(旧綾上町)の新坊
⑩小松(琴平町)の津守兵部
⑪高篠(まんのう町)の泉阿闇梨
が記録に残っています。
①の福江は、悪魚退治伝説に登場する中世の港で、現在の坂出になります。②の宇多津は、中世においては讃岐で最も活発な交易活動を行っていた港です。先ほど見た高松地区の⑦の野原(現高松市)も高松平野を後背地とする港町です。熊野先達は、瀬戸内海交易を活発に行う港町などに拠点を置く者も多かったようです。
13世紀末には柞原(丸亀市)に熊野先達が拠点を構えていましたが、それが周辺の③⑤⑦⑩⑪などへも広がっているのがうかがえます。
讃岐西部の三豊・観音寺を見てみましょう
①細川氏の先達の観音寺
②坂本(観音寺市)の宝林坊
③中郡(三豊郡)天王(仁尾町)の安全坊・勝蔵坊・加戒坊
鎌倉時代末期には先達の記録がなかったこの地域にも、熊野先達が定着しています。ここでも熊野先達たちは、財田川河口の琴弾八幡神社の門前町として開け海運業が盛んであった観音寺や、京都賀茂社へ御厨として神人が海運事業に進出した仁尾に拠点をおいています。背後の七宝山や紫雲出山の行場での鍛錬を重ねながら先達の役割も果たしていたのでしょう。彼らは勧進活動や書写活動も展開します。これらが仁尾や観音寺の中世寺院の隆盛に繋がっていくようです。
国境を越えた伊予の先達を見ておきましょう。
  宇摩郡新宮村には大同二年(807)勧請と伝える熊野社があります。この神社は、周辺の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたと研究者は考えているようです。吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。ここを拠点に伊予方面にも進出していきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の奥だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
大山祗神社をまつる大三島では、妙光坊、弥勒寺、大山祗二十四坊の一つ宝積坊、いとく寺、道場左衛門太郎などの先達の活動が記録されています。大山祗神社の各坊にも熊野修験者たちの影響力が及んでいたことが分かります。
 松山近辺には数多くの先達がいたことが記録されています
五十番札所で近世期に石鎚山先達も勤めた繁多寺
道後神崎荘の先達大弐公重勢・少先達大進公、
同荘宮前大弐阿闇梨坊宥清、
同荘北方重蔵房律師少弐、
道後和気郡の法善坊、宝性房賢慶、
長福寺の近江阿闇梨直海・法性房阿闇梨賢慶、宝泉寺、道後福王寺、道後三谷先達
などです。四国でもっとも先達の数が多かったのが伊予のようです。伊予に先達や檀那が多かっだのは、天文から天正頃に、来島村上氏が堺への「定期航路」運行していたようで、これを利用できる利便性にあったと研究者は考えているようです。
山内譲「中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運」『瀬戸内海地域史研究』

 熊野先達とは、どんな人たちだったのでしょうか 
研究者は、熊野先達の性格を4つに分類して分析します。
第一は、熊野の御師が自分の直接配下とした先達です。
熊野の御師の直属先達です。これが出来るのは、那智山で大きな勢力を持った廊之坊と実報院だけだったようです。この2つの御師だけが直属の先達を擁していたようです。
第2の先達は、各地を遊行して、その先々で檀那を熊野に導く遊行先達です。
彼らは、屋島や石鎚山などの霊山や社寺などに、修行のために客僧として住みつきます。やがて、その社寺の僧侶・社僧、近くの武士を熊野に導くようになります。先達の中には、自分の出身地を示す国名や地名をつけた名前を持つものがいます。これが遊行先達のようです。例えば 
讃岐阿闇梨円慶(越後)、伊与法眼(美作)、伊与(因幡)・
土佐公(美濃)、土佐公玄智(近江)、土佐先達(山城)、土佐律師(美作)

括弧内は、活動した国名です。讃岐阿闇梨円慶は、讃岐出身ですが故郷には帰らずに越後で熊野先達として活動したようです。特に武蔵や越後には、遊行先達が多く入り込んできています。彼らは戦国末から江戸時代初頭にかけて定着して里修験となっていきます。
第三の種類が在地先達です。
彼らは各地の霊山、社寺、港などを拠点に、在地の宗教者や俗人を熊野に導いた先達です。熊野で修行した後に、各地の行場を巡った山伏が、霊山や社寺、熊野権現などに客僧として住みこみ、在地の僧侶、社僧、武士などを熊野に導くのです。その後、彼らはその霊山や社寺に常住するようになります。そして、その子孫が能野先達になったり、住僧や社僧の中からも熊野先達が育まれたようです。このパターンが四国霊場の札所には、いくつも見られます。また、讃岐の増吽が勧請した熊野三山がある大内荘の白鳥先達もこれに分類できるようです。
能野先達の中には修験者以外に念仏聖・比丘尼・六十六部・十穀聖・陰陽師などもいたようです
  ①念仏聖は社寺よりも港・市などの町場を活動の舞台としているものが多いようです。特に時宗とかかわりがある念仏聖が多かったことが熊野本宮の願文からは分かります。
  ②参詣者の中に武士や人の妻女、比丘尼など数多くの女性が含まれていました。讃岐の香西氏の女人をつれて、熊野詣でを行っている先達がいたことは、先ほど見た通りです。比丘尼のうちには、口寄せをする巫女(神子)もいたようです。これらの中には先達を勤めた女子もいたらしく、美濃の平野荘の「みこ先達」、越後国山東郡白鳥には神子坊の永吽と慶順などがいます。こうした比丘尼や神子がのちの熊野比丘尼へと成長していくようです。
 また阿波国では文安四年(1444)に乞食坊主が先達を勤めています。さらに阿波・阿波には、陰陽道の舞々の一類、讃岐の陰陽師若杉・月の下門下三白・讃岐の陰陽師光勝坊などの記録が残ります。陰陽師も熊野先達を務めたいたことが分かります。

 檀那の種類については
社寺の神職・僧侶・比丘尼・聖、武士や豪族・彼らに所属した下人・地下人・百姓など・町や市・港の商・職人・漁民などがいたことが分かります。しかし、熊野詣でには大金が必要でした。庶民がお参りする近世の伊勢詣でや金毘羅詣でとはちがって、誰もが行けるものではありません。経済的に裕福な人たちだけに許された参拝でした。

 京都、大坂、堺や全国各地の都市や港で結成された熊野講は、リニューアルした姿で近世に姿を見せます。それは、庶民が自分たちで結成して大峰登拝を始めた大坂や堺の八嶋役講、富士講、木曾御岳講などです。それが地方に伝わると立山講、白山講、大山講、石鎚講というプロの御師によるものではない、俗人による登拝講に姿を変えていきます。つまり、石鎚講は熊野修験者の組織が原型にあるということになります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。


   
小豆島地図
  小豆島の安田の辺りの路地を歩くと醤油の匂いが漂ってきます。
この辺りには、マルキン醤油以外にも今も醤油醸造者が何軒も創業を続けています。各地域にあった醤油屋さんが姿を消した中で、小豆島の醤油倉だけが生き残ったのはどうしてなのかという疑問が昔からありました。その答えのヒントになりそうな論文に出会いましたので紹介します。テキストは「中山正太郎 明治期の小豆島土庄醤油会社の経営構造」 瀬戸内海地域研究第1号 です。

 明治を迎えたばかりの日本で、酒・醤油・味噌造などの醸造業は、地方有力者が手を出したいあこがれの産業でした。『明治七年府県別物産表』には、醸造品(酒・醤油・味噌を含む)の生産額は、3100万円余で織物の1700万円をはるかにしのいで第一位を占めています。明治前期の中心産業は、醸造業と織物業であったといえるようです。
 文化元年(1804)に、小豆郡安田村の高橋文右衛門が、大坂の醤油屋近江屋及び島新へ醤油を運び出しているのが小豆島醤油の最初の記録のようです。それ以前に小豆島で醤油醸造を始めていた蔵本があったことが分かります。
 明治三年(1870)には、小豆島の東部には75軒の醤油醸造家があり、諸味仕込高10699石、醤油製造石高5360石斗、西部の六ヵ村を加えると小豆島全体で約100軒の醸造家が醤油生産に従事していたことが記録から分かります。それが明治十年代になると醤油醸造家は218軒と倍以上に急増しています。約10年間で、75軒から218軒への増加というのは、どういうことなのでしょうか?

 明治21年度の香川県全体の各郡の醤油醸造所を示したのが図1です            
小豆島醤油1

ここからは次のような事が分かります。
①香川県には394の醤油醸造所があり、
②その醸生産高は61462石余、
③一醤油醸造所当り平均約156石
④小豆郡は、香川県内で醸造所数の55%
⑤造石高の約65%を占めています。
小豆島は、他の郡が全部集まっても適わないだけの醤油屋さんがあったことになります。
 香川県の全国に占める醤油生産の推移をしめしたのが表2です。
小豆島醤油2
 明治38年・45年・大正9年の生産高が示されています。ここからは次のような事が読み取れます
①千葉・愛知・香川のトップグルーが生産量を急激に伸ばし、市場占有率もじりじりと上げている。
②兵庫・和歌山の生産高の伸びには勢いがなく、占有率を下げている。
③香川は全国市場占有率約6%前後で、大正9年には府県別順位を第3位に上げている
小豆郡の大正四年の生産規模別階層構成を示したものが表3です。
小豆島醤油3

明治21年に218あった醸造所は約半数の108に減っています。生産能力は、一醸造所当り約885石に上昇していて、約6倍弱の規模に拡大してます。この中で生産能力が一番高いのはマルキン醤油で、1万石を越えていたようです。それに続いて
5000石以上が4社、
1000石以上が26社で
全体の25%近くを占めるようになっています。ここからは小豆島醤油業は、明治後期から大正期にかけて、生産規模の拡大と中小醸造所の淘汰が行われたようです。その大激変期をくぐり抜け、競争力をもった会社が生き残ったことがうかがえます。

さていよいよ土庄での醤油工場の設立です。
 明治19年~22年の企業勃興の大波は、小豆島にもやってきます。この波を受けて、安田地区の醤油醸造の隆盛に負けじと、土庄地区でも醤油会社の経営に乗り出そうとする人たちが現れます。
明治21年1月25日、大森弁蔵や三枝重太郎ら土庄地域の有力者ら七名は、小豆島土庄醤油会社創立発起人申令規約を作成し調印します。この申合規約には、次のように約されています。
一 当会社ハ有限責任トシ、資本金ハ金壱万円トス。
一 前項資本金ハ之ヲ弐百株二分割シ壱株五拾円トス。
一 株金受持及募集方法ハ左ノ如シ。
  弐百株之内
  百弐拾弐株 発起人二於テ受持
         此内訳
          四拾株 大森 弁蔵
          弐拾株 三枝 林造
          弐拾株 三枝 重太郎
          拾五株 原田 清四郎
          拾弐株 三枝 定蔵
          拾 株 大森 八蔵
          五 株 原田 安八
   弐百株之内
      七拾八株  他ヨリ募集ス。
    (中略)
一 当社倉庫・器機・宅地ハ発起人之内原田安八現今所持ノ
  宅地・畑・倉庫及器機〔座敷釜床ヲ除キ〕一切代価七百
  円ニテ購求シ、之二副築及増設ヲ加フルモノトス。
一 当会社発起人中所持シ 醤油製造用家屋及器機ハ、相当
  直段ヲ以テ当社ヱ購入スルモノトス。但、値段ハ発起人
  中二於テ相談之上之ヲ定ム。(後略)        
 ここからは次のような事が分かります。
①会社は有限責任会社で、資本金は一万円
②うち6100円は発起人7名が受け持ち、他を一般から募集しています。
③倉庫・器機・土地等は、原田安八所持のものを七〇〇円で購入し、
④発起人の醤油製造用の家屋・諸器機類は、相当の直段で購入
 こうして設立された会社は、同年4月13日に開業届を県庁に提出し、同月16日には臨時株主総会を開き、社則・業務細則等を議定し、同月18日開業式典を開くという手順で開業へと歩みます。
 新しく設立された醤油会社の経営に当たったのは、誰でしょうか 
小豆島醤油4
当初の役員は、表四の通りです。社長の大森弁蔵は、自ら塩・大豆・小麦・薪等を商う商人で、後には小豆島紡績会社や小豆島銀行を設立した企業家です。また県会議員・同議会議長を務めた名望家でもあったようです。三枝重太郎・太田耕治も県会議員等を歴任した人物で、他の人も手広く商業を営んだ地元の有力者達のようです。
 この内、三枝定蔵・林蔵・重太郎らは、以前から醤油醸造業を営んでいました。また、三枝定蔵と大森弁蔵は義理の兄弟にもなります。三枝の醤油醸造所で培ってきた技術や販売先をベースにして、資本を集めてより規模を大きくして行こうという話が身内の大森氏と三枝氏の間でまとまったのかもしれません。
 こうして公募された株式状況を示したものが表5です。これが新会社の株主たちと云うことになります。
小豆島醤油5

大森弁蔵・亀太郎・角平・三枝林蔵・定蔵・重太郎・原田清四郎・安八・太田耕治・森亀齢治らの役員及びその一族らは、予定通りの304株分の6080円を払い込み、株式を所有します。その他の人たちが残りの株式を購入しています。
 ⑤の九富森太郎は600円を出資していますが、小江で海運業を営む人物で、醤油をこの会社から買込み輸送した海運業者でもありました。 この表からは出資の呼びかけに応じたのは、土庄の有力な商人や海運業者・名望家・企業家であったことが分かります。ほぼ全額地元資本によって設立された醤油屋さんのようです。

新たに船出した土庄の醤油会社に、大波が打ち寄せます
原料の大豆・小麦・塩の価格変動です。大豆・小麦の一石当りの価格の変動と総購入量を示したものが図1です。
小豆島醤油6
この表から分かることは
①創業直後に原料の大豆の価格が高騰した。
②明治30年・36年・大正2年の三回の高騰期がある。
③日露戦争期以前には、麦より大豆の方がやや割高だったのが、41年以降は小麦の方が高くなった。
④大正七年の米騒動以降は、大豆・小麦ともに一石20円以上に暴騰した
⑤大正9年には、大豆・小麦共に高騰し、翌年には暴落するなど、原料価格の大変動期に突入した。 
安定して原料を買い付けるのが、難しい時代を迎えたと云えます。この時期に購入量が大きく増減するのは、大豆・小麦の価格変動を見ながら、価格が安くなれば購入量を多くし、価格が高くなれば購入量をひかえていることがうかがえます。
 小豆島では、田畠が少なく、醤油原料としての大豆・小麦は島内で自給することはできません。そのため大半を島外から買い付けていきました。どこから買い付けていたのでしょうか。以前に、江戸時代末期に、マルキン醤油の創業者の所有する廻船の動きを紹介したことがあります。マルキンの廻船は、九州の有明海沿岸にまで出向いて小麦や大豆を買い付けていました。
明治維新を経て買付先は、どのように変化しているのでしょうか?
最大の買付先は、朝鮮半島になっています。半島の小麦や大豆は国内産よりも安かったので、全体の4割を朝鮮から購入するようになっています。そして、同量を肥前、残りの15%が肥後となっています。
 購入先も一番安いところから一番多く買い付けていますが、集中しないようにバランスを保ちながら買い付けているようです。
 創業時に、原料買付を行っていたのは誰でしょうか 
小豆島醤油7

大豆購入量260石の半分を、購入しているのは社長の大森弁蔵です。小麦も購入量331石余のうち3/4を、大森弁蔵が扱っています。塩はどうでしょうか? 塩の購入量995俵のうち1/2を社長の大森弁蔵が購入しています。塩の購入先は全て小豆島の塩田地主です。
 のこりの原料費となるのが薪です。購入量の半分は八代定治からの購入です。彼は、この醤油会社へ塩の1/5強を納入しています。彼は塩田を経営しながら、薪も大量に売り捌いたようです。
  社長自ら原料の買付を行っていたようです。
さて、作られた醤油は、どこで売っていたのでしょうか?
 醤油の販売先は、明治三〇年代では
「大阪府ヲ主トシ、兵庫・広島之二次キ、他九州・台湾等ナリ」
と記されています。大坂・神戸・広島・九州と瀬戸内海交易のエリアで販売しています。当然、船で運ばれたのでしょう。
それでは、明治25年の醤油売上先を表19で見てみましょう。
小豆島醤油8

この表を見て、驚いたのは、総売上量の70%が地元小豆島関係者分に売られていることです。残りが大阪・兵庫などに販売されているのです。地元小豆島の消費用として生産されていたのかと思いましたが、そうではないようです。
 全体の4割に近い醤油を買い上げているのは、先ほど見た⑤の九富森太郎です。彼は小豆郡四海村出身で、土庄に在住する海運業者で、会社成立時に30株600を出資していました。彼は、買い入れた醤油を小豆島で売捌いたのではないようです。神戸・大阪方面へ自分の船で運んで、売ったようです。
 どうやら会社設立当社は、自前の販売網を持っていなかったので、売ってくれる地元の海運業者(仲買業者)に、半分以上を売っていたようです。
しかし、創業から20年近く経った明治44年の醤油売上高を示した表20を見ると、地元の小豆島への販売高は激減しています。そして、大阪が約1130石で全体の約1/2、神戸が約530石で約1/4を占めるようになっています。お得意さんを開拓し、自前の販売網を持つようになってきたことがうかがえます。

経営状態について
醤油屋さんの経営は、分かりにくいところがあります。原料の購入から仕込み・熟成を経て商品化するまでに最低一年数力月が必要です。そのため、その年に投入した資本が、その年内に回収されるものではありません。原料を仕込んでから商品化するまでに、長い時には3~5年もかかることもあります。さらに代金回収は、またその先になります。資金繰りが長期サイクルになるのでかなりの資金的余裕が必要なようです。
この会社の経営状態を見てみましょう
 支出部門の最大品目は、原料代です。創業時の明治21年には、半分が原料費です。以後、原料費が平均すればと48%になります。2番目が諸経費で約14%です。ここには、役員・雇用人の給与、雇用人への賞励金、会議費等を含む諸雑費が含まれています。そのうち最大のものは、醤油造りに直接携わる蔵人達の給与で、支出全体の約8%に当たります。その他の主要な支出項目としては、税金の約13%、製品残品・空樽・運搬費などです。
純益金の最高額は明治23年の1819円余で、その割合は18,6%になります。これは近隣の備前児島の東近藤家の12,8%、播州竜野の円尾家の6,8%に比べても高収益をあげていたようです。その原因が、どこにあったのかは現在の所は分からないようです。今後の課題ということでしょうい。
小豆島醤油9
 図二は、純益金額・純益金率の推移を示したものです。
純益金率の推移をみると、次のような5つの時期に区分できます。
①明治20年代の利益率が高い時期
②明治30年代前半の利益率の急激な低下
③明治30年代後半の日露戦争期に回復傾向
④明治41年の急激な低下、
⑤その後の一時回復と大正期の低迷
 この様な利益金率変動の原因を研究者は次のように考えています。
①明治20年代の高収益率確保の原因は、大豆・小麦価格の低価格安定。
②明治30年代前半の落ち込みは、小麦・大豆の価格高騰
③明治30年代の後半は、大豆・小麦の価格低下と日露戦争の影響
④明治41年の急落は、戦後恐慌による影響と三〇年代末の原料の高騰が
⑤大正期の低迷の原因は、大豆・小麦が一石一〇円を突破し、その後も暴騰を続けたこと
こうして、大正期の原料暴騰期を迎え、利益金率が大幅に低下するなかで、全国の醤油醸造業は経営の激動期を迎えることになります。
 この経営の危機を乗り越えるためには、革新的生産技術の開発と新しい経営形態への脱皮が求められることになります。小豆島の醤油屋さんは、それをどのように乗り切っていったのでしょうか。

 以上、まとめておきます。
企業勃興期の明治21年、小豆島でも新しい醤油醸造会社が、地域の有力者たちによって設立
② 小麦・大豆などの原料は、会社の役員など地元の有力商人達の手を通じて購入された。
③ 小麦・大豆は、江戸時代に引き続いて九州から買い入れているが、大豆は安価な朝鮮のものが使われるようになった。
④ 塩は明治末に台湾塩が使われるまで、地元小豆島産に限定されていた。
⑤ 醤油の販売先は、創業当初は、地元の関係者であったが、明治末期になると大阪・神戸がその中心となった。
⑥ 経営状態は原料価格に大きく左右され、大正時代に入ると利益率は悪化した。

おつきあいいただき、ありがとうございました。

  
丸亀平野の条里制 地形図
 丸亀市飯山町の法軍寺には、中世以来の地名が残っています。
そんな地名を追いかけて見ると何が見えてくるのでしょうか。
地図を片手に、法勲寺を歴史散歩してみます。まずは法勲寺の位置を確認しておきます. 
飯山法勲寺開発1地図

 法勲寺荘は土器川の東岸、飯野山の南側で鵜足郡に属し、古代の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。エリアの東側を大束川が北流し、飯野山の東を通って川津方面に流れていきます。今は小さな川ですが、古代においてはこの川沿いに開発が進められたと研究者は考えているようです。古代地名を復元した飯山町史の地図がテキストです。
飯山法勲寺古地名全体
この地図を見て分かることは
①大束川流域の上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域であること
②西部の東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割が一部にしか見えない
③また大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えないこと
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと思われます。

大束川旧流路
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg


新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水があったのでしょう。これを利用して中世になって、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した名主たちがいたようです。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。
飯山法勲寺古地名2jpg

 さきほどの中方橋のさら北側のエリアになります。ここには
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
などの古地名が見えます。
「出水」は分かりますが「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水をめぐる水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。

 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
この付近に荘園の管理者、つまり実質的な荘園支配者であった荘司の屋敷か、彼の直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。それが、阿波安楽寺からの伝道者の「道場」となり、農民たちに一向信者が増えると真宗寺院に成長していくというのが丸亀平野でよく見られるパターンのようです。

 土器川東岸の東小川が開発されたのは、いつ、誰によってなのでしょうか?
 飯山町史は鎌倉後期のこと考えているようです。そして、開発の先頭を切ったのは、地頭などとして関東から移住してきた東国の御家人やその関係者であったとします。確かに、彼らは関東を中心とした広大な湿地帯や丘陵地帯で開発を進めてきた経験と新技術を持っていました。それを生かして、自分たちの領域の周辺部の未開拓地であった氾濫原の開発を進めたというのは納得がいく説明です。
飯山法勲寺古地名大窪池pg

この地図は、東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、「ぞう堂」という地名も見えます。その背後の丘陵地帯に大窪池があ。法勲寺跡の南側に伸びていく緩やかな傾斜の谷の先です。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。相争い分立する中世の領主達に、こんな大きな池を作り出す力はありません。彼らには古代律令国家の国司のように「労働力の組織化」ができないのです。満濃池も崩壊したまま放置され、その池跡が開発されて「池内村」ができていた時代です。大窪池のある台地は、「岡田」と呼ばれますが。ここが水田化されるのは近世になってからのようです。話を元に戻します。
 今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。
飯山地頭一覧
  飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。全てが実際に讃岐にやって来たわけはなくて、代理人を派遣したような人もいます。例えば那珂郡の櫛無保の地頭となった島津氏は、薩摩の守護職も得ています。後に、島津藩の殿様になっていく祖先です。島津氏は、荘官を派遣して管理したようです。その居館跡が「公文」という名前で、現在も櫛無には残っています。
 法勲寺を見ると壱岐時重という名前が出てきます。
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
以上をまとめておきます。
①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史

中津八幡神社

丸亀市中津町の中津八幡神社付近のグーグル写真です。
ここに「オーヤシキ」(鬼屋敷・大屋敷)といわれる居館跡があるようです。今では住宅に囲まれた辺りがそうらしいのですが、周りと比べてそれらしい地割は見当たりません。堀跡らしい痕跡もありません。周りの条里型地割の中に溶込んでいます。しかし、航空写真で南北約81m。東西約88mの周囲を回る細長い地割の水田が、周囲よりほんの少しだけ低く凹地となっていることが読み取れると云います。

DSC05936中津八幡神社
中津八幡神社
 航空写真は、隣り合う空中写真の画面に約60%の重複があり、これを実体視することで、その高低差が分かるようです。周囲の地割に溶け込んでいるような場合でも、注意深く判読すると、堀状にめぐる地割が見えてきて、さらにそれを手がかりに周囲より低くなっている低地が分かると研究者は云います。

DSC05938

 オーヤシキの南には、土居の南、堀のたんぼ、蓮堀などと呼ばれる地名が残ります。
昔の居館跡を推定できる名前です。また、オーヤシキから東約100mの水田からは、百年ほど前の昭和5年に大きな石と一緒に、中国の唐宋時代の古銭が数千枚出土しているようです。居館の主が、いざというときに備えて隠しておいた「埋蔵金」なのかもしれません。いまは、住宅地の中になっています。

DSC05943

このオーヤシキの主は、どんな武士だったのでしょうか
『西讃府志」の「中津為忠墟」には、次のように記されています。

  下金倉村東ニアリ、鬼屋敷トイエリ 延宝年間 廃して田畝トナセリ 相伝フ六孫王経基ノ五男 下野守満快二十一世ノ孫、三郎左衛円為景、此地二居テ、金倉杵原等ヲ領セリ、其子為忠将監卜稀ス、武力人二絶タリ。自其勇ヲ頼ミ、騎奢限リナシ、人呼ンデ鬼中津トイヘリ、香川信景卜善カラズ、天正三年信景、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守卜相謀り、 討テ是ヲ滅セリ。

意訳変換しておくと
 下金倉村の東に鬼屋敷という所がある。ここは延宝年間に、屋敷は廃されて今は田畝となっている。この鬼屋敷の主は六孫王経基の五男である下野守満快の21世の孫で、三郎左衛門為景という。ここを拠点に、金倉や杵原を領有していた。その子の為忠は
武力に優れ、それを自慢に奢ることが多かったので、「鬼中津」と呼ばれた。
 
為忠は天霧城の香川信景と対立関係にあった。そこで、香川信景は天正3(1575)年に、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守と相談し、 為忠を滅ぼした。

天正3年に香川信景(之景)に滅ぼされたとする点は『南海通記』にも記されています。『西讃府志』の記述は、『南海通記』に拠ったものと研究者は考えています。『西讃府志』の編者は、金倉顕忠の居趾が明らかでないとし、おそらく顕忠は為忠のことではないかと推測しています。いずれにしても金倉氏(あるいは中津氏)が金倉を中心として、その周辺に勢力をもっていたことがうかがえます。そして、それは西讃守護の香川氏との敵対関係を招き、滅ぼされたと云うのです。
 ここからは「オーヤシキ」は、鬼屋敷こと中津将監為忠の屋敷跡だったことがうかがえます。これを裏付けるものとしては、金倉寺や賀茂神社には「中津乗太郎為衡・中津三郎左衛門為景」の名で、金倉郷・杵原郷の内で370貫を領有し、天文十三年(1544)には、金倉寺や加茂の寺、神社へも田地を寄進している記録があるようです。

 為景の子が為忠です。彼は中津将監とも云い、武勇にすぐれ並ぶ者がなかったと伝えられます。
そのため為忠は、次第に驕りたかぶるよになったので鬼中津とも呼ばれたようです。西讃の守護代であった天霧城主香川信景は、中津為忠を戒めて従わせようとしますが、かえって為忠にたびたび多度津方面に侵入されるようになります。そこで香川信景は香西伊賀守、福家七郎、滝宮豊後守、羽床氏ら綾氏一族の力を借り、天正三年(1575)中津為忠を討ちとります。武勇にすぐれた為忠は馬にまたがり奮戦しますが、多勢に無勢で討死します。

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 この経緯からは次のようなことが分かります
①戦国大名化した多度津の香川氏が勢力を広げ、金倉川沿いの中津にまで及ぶようになった
②香川氏の領域支配に、従わず抵抗したのが中津為忠である
③香川氏は香西・福家・滝宮・羽床などの旧綾氏一族と連携し
④天正3年(1575)年に香川・旧綾氏連合は、孤立化させた中津氏を滅ぼした。
この時に討たれた中津為忠の居館が中津の「オーヤシキ」というのです。もしそうなら、先ほどの石の下から出てきた中世銅銭は、中津氏の「隠金」だったのかもしれません。
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年表で当時の讃岐の情勢を見ておきましょう
1568 永禄11 11・香西氏,阿波衆が備前の児島元太の城を攻める.
     9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1570 元亀6 9・- 石山本願寺光佐(顕如),信長に対し蜂起(石山戦争開始)
1571 元亀2 9・17 毛利軍の讃岐渡海と、櫛梨城をめぐる元吉合戦開始
1574 天正2 10・三好長治が香西氏の勝賀城を攻めさせるが失敗。
1575 天正3 5・13 宇多津西光寺.信長と戦う石山本願寺へ.援助物資搬入。
  香川信景が、那珂郡の金倉顕忠を,福家・滝宮氏などに討たせる
1576 天正4 香川之景と香西佳清が、信長に従う。之景は信景に改名
   7・13 毛利輝元が信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮搬入
1578 天正6 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
       11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る

年表からは、中央では信長と本願寺の石山戦争が開始され、瀬戸内海の諸勢力がどちらにつくかの判断を求められている時期にあたることが分かります。対立構図をまとめると
石山本願寺方 将軍足利義昭・毛利輝元・小早川・
村上水軍・塩飽水軍 宇多津の西光寺
信長方    阿波三好氏・西讃守護代香川氏
このような情勢の中で、孤立無援状態で中津為忠は香川氏と戦う羽目になったのでしょうか?

織田方につくでもなし、毛利や三好に保護を求めるわけでなく、外交的な思惑もなく力に任せて、他領を侵していたとすれば「驕り」と書かれても仕方がないのかもしれません。ちなみに中津氏を討ち取った香川氏の「外交戦略」は、次のように変化します。
①元吉合戦の時には毛利氏に
②中津氏を滅ぼした翌年には、信長に鞍替えし
③2年後に土佐の長宗我部が侵入してくると、その先兵となって讃岐制圧に協力
「機を見るのに便」なのか「風見鶏」なのかよく分かりませんが、生き残っていくための彼なりにの身の振り方だったのでしょう。中津氏も、この対立構図からすれば、阿波三好方についていたのかもしれません。しかし、それを確かめる資料はありません。
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 ちなみにこの話には、次のような後日談があります。
 中津為忠には幼児がいて、家臣の西山吉左衛門、前川久左衛門らは、阿波の櫛田の深山に隠れ住みます。やがて四半世紀を過ぎ、関ヶ原の戦いも終わり、讃岐にも生駒氏の手によって天下泰平の世がもたらされます。阿波の櫛田で成長した為忠の一子は、姓を遠山と改めて遠山甚太夫忠英と名乗ります。そして家臣の西山や前川らの家臣ととも金倉へ帰って、金倉川氾濫原の開発にあたったようです。
 当時の生駒藩では新規開発地は、開発者のものになるという有利な条件でしたから周辺の国々から讃岐に多くの入植者が入ってきたようです。中津の川向こうの葛原を開発したのが以前に紹介した木谷氏です。木谷氏も芸予諸島の村上水軍に属していたようですが秀吉の海賊禁止令後に讃岐にやって来て、生駒氏の下で急速に耕作地を広げ、大庄屋へと成長していきます。

DSC05942

 中津氏(遠山氏)も中津で耕地を拡大していきます。
以後、遠山家は代々下金倉(中津)に住し、その家は分かれてこの地域の有力者として江戸時代を生き抜いていきます。

参考文献 直井 武久 丸亀の歴史散歩

垂水城 航空写真
写真は、丸亀市の南端にある垂水城の比定地付近の航空写真です。
写真右(東)側に白く写っているのは土器川の河床です。矢印で示しているのが「古城山浄楽寺」という浄土真宗の寺で、垂水城の故地とされています。
讃岐名所図会には、浄楽寺について次のように記します。

一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり」

阿波の美馬にある安楽寺の末寺で、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し、創建したと伝えられています。
買田の恵光寺の記録には、次のように記します。

塩入の奥に那珂寺あり、長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建

 現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また浄楽寺の檀家もいます。このことから垂水の藤田大隅守の城跡へ、旧仲南の塩入から浄楽寺が移転再建されたと考えられます。
 どちらにせよ当時は、阿波美馬の真宗興正寺派安楽寺が、讃岐山脈を越えて布教活動を活発化させていた時代です。山から里へ伸びてきた教宣ラインの最前線に建立された寺院のようです。しかし、江戸時代になると安楽寺を離れて、西本願寺に帰属します。
『讃岐国名勝図絵』には、垂水城は藤田大隅守城跡とされ、次のように記されています。

「南北84㍍、東西69㍍の寺の敷地が城跡。その西北部に幅4m高さ2mほどの土塁の一部が残り南西辺および西辺の外縁にそれぞれ幅3㍍・9,3㍍の堀跡を示す水田地がある」

 しかし、写真からは、西辺の細長い水田以外に、それらしい地割を見つけることはできません。周囲には丸亀平野の条里制が良く残っています。しかし、これを古代からのものとみることはできないようです。
土器川 生き物公園治水図
土器川生物公園付近(丸亀市垂水町)は、もとは遊水池
この辺りは土器川がすぐそばを流れていて、広い河床はかつての霞堰堤だったところです。そこが今は「土器川生物公園」として整備されています。つまり、垂水は江戸時代に堰堤整備が行われる前は氾濫原だったようです。古代の条里制整備の対象外だった所です。条里制は古代に線引計画は行われますが、それが全て着工され整備された訳ではないようです。中世になってから耕地化されたところもあるのです。垂水は「後発地域」だったことになります。その開発を行ったのが東国からやってきた武士団だったというのがひとつの仮説です。

 話が横道に過ぎてしましました。私ならこれで「探求停止」になるのですが、研究者は、ただでは起きません。別の地点に居館跡を見つけたのです。
垂水城 地図

それは浄楽寺の東北に広がる点線で囲んだエリアです。
ここはよく見ると周囲の条里制地割と方向が少しちがいます。堀や土塁の痕跡は見えませんが、周囲は1町(110㍍)四方になります。
付近の小字名を調べると、
①垂水神社の参道を境に西が馬場、東が行時と呼ばれている
②馬場の西北部が「ホリノクチ」と呼ばれている。
③東北角×部の「鬼門」のところから、五輪石の一部の石造物が多量に出土
④浄楽寺は「裏鬼門」の方向に当たる
「ホリノクチ」は「堀の口」で、居館の入口があったところと考えられます。

垂水城 グーグル

それでは、先行研究はどう記しているのでしょうか。
福家惣衛は昭和30年に調査した結果を次のように報告しています。
 城郭の規模は、東西六九丁、南北八四丁、面積五八で(約五反八畝)、土居(築地)は西北に残り、長さ96㍍、幅9㍍、高さ2㍍である。堀は南と西にその跡があり、南側では東西73㍍、西側では南北78㍍、幅は南西の所で6㍍、北西の所で9㍍あり、東側と北側に堀は無い。南側の西の方では堀のあった跡は農道となり、東側には満濃池の用水路が造られていたが、現在ではわずかに溝を残してブロック塀が築かれ浄楽寺の境内となった。西南にある鐘楼の所は隅櫓があった所であろう。
 さらに西隣の田地20町(約二反)と六町余(約200坪)の田地は旧城に付随していたものと思われる。また近くに馬場や弓場という地名があり、調馬場や弓の練習場であったのであろう。
この調査報告以後は「浄願寺=垂水城」説が定説となっているようです。航空写真による「浄願寺東北部=垂水城」は、それに対する仮設となるようです。どちらにしてもここにあるのは武士の居館で、私たちがイメージする近世以後の城郭とは、ちがうことだけは確かです。
垂水城ではなく垂水居館と呼んだ方が、いいような気もします。

飯山国持居館1
武士の居館
ここを拠点とした武士集団の性格を私なりに考えて見ました。
 垂水居館の主は、土器川の氾濫原の開発に積極的に取組み、上流に井堰を築き導水し、居館の周りを水堀としていたのかもしれません。そして周辺の開拓を推し進めたのではないでしょうか。
近くには垂水神社がありますがこの神社が氏神とすれば、面白い物語が浮かびます。
垂水神社の由来は、次のような悪魚退治伝説を伝えます。
 昔、日本武尊は南海に悪魚がいることを聞きこれを退治した。その時に負傷した兵士に水を飲ませたところ快癒したという所が坂出にあり、かヤ參の水として知られている。
その後、尊の子孫が那珂郡三宅の里を治めていたが、日照りが続き人々は苦しんだ。その時、この地の松林の中によく茂った松の大木が三本あり、その枝葉の先から水が滴り落ちていたので地下には水の神が鎮まっていると考え、社を建て神々を祭り垂水の社と名付けたところ、以後は豊かな水に恵まれて豊作が続き、天平勝宝八年(756)には社殿も再建され村を垂水というようになった
というものです。
悪魚退治伝説は、中世に綾氏系譜に最初に登場します。古代のものではなく中世に作られた伝説です。綾氏の祖先が悪魚退治を行った神櫛王で、その功績として讃岐を賜り最初の讃岐国造となり讃留霊王と呼ばれた。その子孫が綾氏であるというものです。神櫛王を祖先とする綾氏一族(擬似的な血縁集団)は、この出自を誇りとして一族の団結を深めました。その際の聖地が綾氏の氏寺である飯山の法勲寺(後の島田寺)だと私は考えています。一族は法勲寺に集まって先祖をともらう「法要」を営むと同時に、一族の団結を誓ったのでしょう。
 これを逆に見ると悪魚伝説を伝える神社は、(意識的には)綾氏一族に属する武士集団の氏寺であったことになります。土器川周辺に広がる神櫛王の悪魚退治伝説は、綾氏一族やその配下の勢力範囲と一致するというのが私の仮説です。ここに居館を構えた武士たちも自分たちが神櫛王の子孫と信じる綾氏につらなる武士たちだったのかもしれません。
 さらに想像を飛躍させれば、次のような物語も紡ぎ出すことが出来ます。
綾氏一族(=香西氏・羽床氏・滝宮氏)の本拠は阿野(綾)郡です。
羽床氏や滝宮氏は、大束川沿いに阿野郡から鵜足郡へ勢力を伸ばします。坂出福江湊を拠点に大束川を遡ってきた綾氏の勢力と飯山地域で合流します。そして、土器川を越えて垂水に居館を作ります。そして那珂郡や多度郡の勢力と対峙することになります。つまり悪魚退治伝説のある垂水神社や櫛梨神社は、東から伸びてきた綾氏勢力の最前線だったと私は考えています。戦国末期には、丸亀平野は多度津・天霧山の香川氏か、西長尾城の長尾氏が南北に分かれて勢力範囲を分け合う情勢になります。綾氏一族のエリアは、羽床・坂本・岡田・垂水・櫛梨ラインになるのでしょうが、この時点では「神櫛王伝説」も効力を失い、綾氏の結束は乱れます。
 そのよう中で垂水の居館にいた「棟梁」は、どのような道を歩んだのでしょうか?ついでに、それも想像で描いてみましょう。
①神櫛王伝説を信じる一族が土器川を渡り、その西にある垂水の地に居館を構える
②土器川の氾濫原開発を進め急速に力を蓄え、垂水神社を氏寺として造営する
③綾氏一族の祖先を祀る法勲寺で行われる「法要」には必ず参加し、結束を深める
④阿波美馬の安楽寺からの浄土真宗の布教ラインが土器川上流より次第に北上してくる
⑤多度津の香川氏と西長尾の長尾氏の小競り合いが周辺で多発するようになる
⑥頼りにする綾一族は、香西氏や滝宮氏・羽床氏が抗争を激化させ後盾とはならなくなる
⑦動乱への予感と不安の中で、垂水居館の主は浄土真宗へ改宗し、館の南西に「道場」を開く。
⑦そして戦国末の動乱の中で垂水居館の主は敗れ去り、姿を消した
⑧後に子孫が浄土真宗の僧侶となり、かつての居館の道場があった所に浄楽寺を開く
⑨垂水神社に伝えられていた悪魚退治伝説は、金毘羅神として生まれ変わり、金毘羅大権現繁栄の道を開く
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
    木下晴一   中世平地城館跡の分布調査 
           ―香川県丸亀平野の事例 大堀館
                     香川県埋蔵文化財調査センター  研究紀要3 1995

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


中学生の使っている歴史の資料集を見せてもらうと、中世の武士の居館を次のように説明しています。
飯山国持居館1
武士の居館
武士は、土地を支配するために、領内の重要な場所に、土塁・堀などに囲まれた館を造り住みました。武士が住んでいた屋敷のことを「居館」と呼んでいます。居館は堀ノ内・館・土居などとも呼ばれます。館の周囲に、田畑の灌漑用の用水を引いた方形の水堀を設け、この堀を掘った土で盛り上げた土塁で囲んだ中に、館を構えました。

 ここからは中世の武士たちが用水が引きやすい川の近くに堀を掘って、土塁を築いた居館を構えていたことを子ども達に伝えています。しかし、居館はその後、土に埋もれて忘れられたものが多いようです。そんな中で「丸亀平野の中世武士の居館捜し」を行っている論文を見つけました。その探索方法は、航空写真です。
飯野山の麓の今は忘れられた居館を見に行きましょう。
もちろん航空写真で・・  
飯野山の麓の飯山北土居遺跡
飯山国持居館2航空写真
クリックで拡大します
この写真は1962年に撮影された丸亀市飯山町西坂元付近の写真です。北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。写真中央に南から北へ北流する旧河道が見えます。その流れが飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。この南東側に、周りの条里制遺構とは形が違う小さい長方形地割がブロックのように集まって、大きな長方形を造っているのがよく見ると見えてきます。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mになります。

飯山国持居館2地図

 この長方形の北辺と東辺の北部には、縁取りのような地割が見えます。また、地割ではありませんが長方形の西南部には周囲よりも暗い色調の帯(ソイルマーク)が白く写る道路の南側と東側にあります。これは、城館の堀だと研究者は考えているようです。この堀で囲まれた長方形部分が居館になります。
 北辺はこの撮影後に道路造成で壊されたようですが、その後の水路改修工事の際には、この部分から滞水によって形成されたと考えられる茶灰色粘土質によって埋った溝状遺構がでてきたようです。水路工事は、この下部まで行かなかったので発掘調査は行われなかったようですが、中世の土器片が採集されています。ここからも細長い地割は、中世のものでかつての堀跡と考えられます。周囲に堀を巡らした中世の長方形の区画は、居館跡のようです。この遺跡は飯野山北土井遺跡と呼ばれることになったようです。
 この地域は敗戦直前に、陸軍飯山飛行場が造成されました。
昭和20年5月に国持・西沖を中心とした地に陸軍の飛行場建設が始まり、田畑借上げとともに家屋の立退きが命令されます。借上田畑の面積21町余・立退家屋16で、建設は動員により突貫工事で進められます。8月に敗戦となり、立ち退きを命じられた農家は、滑走路を元の姿に返す作業に取り組まなければなりませんでした。昭和21年に国営開拓事業飯野山地区として指定され、復旧工事は進められ昭和30年頃までには、ほぼもとの水田にかえったようです。かつて滑走路になった所は航空写真からは、その痕跡をみつけることはできません。人々の記憶からも忘れ去られていきます。土地所有者の変動などで旧地名や字名も忘れ去られてしまったようです。ちなみに、この飯山北上居遺跡の所在する小字は「土井」です。
飯山国持居館3グーグル地図

グーグルで飯野山北土井遺跡が、現在どうなっているのかを見てみましょう。
①居館跡の西側はダイキとセブンイレブンの敷地。
②居館跡の北側には町道が通っている
③居館跡の南東角をバイパスが通っている
④旧河道はいまでもはっきりと見える。
ダイキが出来る前には、発掘調査が行われたはずですから報告書がでているはずです。読んでみたくなりました。  私が興味があるのは、この旧河道です。中世城館跡は川の近くに立地し、川筋を軍事用の防衛ラインとして利用していた例が多いようです。この飯野山北土井の城館遺跡も西側と北側は、旧河道が居館を回り込むように流れていきます。川が外堀の役割を果たしているように見えます。
 もうひとつは、この川の源流がどこなのかという点です。
飯山国持居館3グーグル地図2

河道跡ははっきりしていて、グーグルで上流へと遡っていくことができます。行き着く先は、旧法勲寺跡です。ここは大束川の支流が不思議な流れをしている所です。なにか人為的な匂いを感じますが、今は資料はありません。今後の課題エリアです。
5法勲寺images (2)

ここに居館を構えていた武士団とは、何者なのでしょう?
 居館のある飯野山の南麓は、現在は西坂本と呼ばれています。ここは「和名抄」に載せられた阿野郡の8つの郷のうちのひとつ坂本郷のあったところです。

飯山国持居館5鵜足郡郷名
角川地名辞典 香川」は、西坂本について次のように記します。
土器川の右岸,飯野山(讃岐富士)の南に位置する。地名の由来は,坂本郷の西部に位置することによる。すでに「和名抄」に坂本郷とあり、昔,坂本臣がこの地を領していたのに始まるといわれている。地内の国持については、天正19年1日付の生駒近規知行宛行状に・当国宇足郡真時国持村と見えている(岩田勝兵衛所蔵文書 黄薇古簡集」
ここからは次のような事が分かります。
①坂本郷は、古代の「坂本臣」に由来するという伝来がある
②坂本郷が東西に分かれ、近世初頭の生駒藩時代には「国持村」があった。
確かに地図には「西阪本」や「国持」という地名が見えます。
さらに地名辞典には近世の項に次のようなことを記します
③江戸時代は西阪本は、「坂本西分」と呼ばれ、高柳村と国持村に分かれていた。
④神社は坂元神社ほか2社。庄屋は天保9年真鍋喜三太の名が見えるが、多くは川原村か東坂元村の兼帯であった
と記されます。地図に出てくる「国持」は名主名で、戦乱の中で武装化し「武士」になって行くものが多いようです。居館がある所と「国持」は、ぴったりと一致します。我田引水的で申し訳ありませんが、手元にある情報は、今はこれだけなので
飯山北土居遺跡に居館を置く武士団が周辺を開き、その周辺を当時の棟梁名「国持」でよばれるようになった
としておきましょう。
大束川旧流路
飯野山南の土地利用図 旧大束川の流路が記されている
 もう少し、想像を飛躍させて「物語」を創作すると、こんなストーリーになるのかもしれません。
①古代豪族の綾氏が坂出福江湊から大束川沿いに勢力を伸ばし、坂本郷へ入ってきた
②綾氏の一族は、坂本郷に開拓名主として勢力を築き、武士団化
③彼らの結束の場となったのが綾氏の氏寺法勲寺(後の島田寺)
④島田寺の真言密教の修験者は、神櫛王の「悪魚伝説」を創作し、綾氏一族のルーツとする。
⑤その綾氏一族のひとりが「国持」で、彼は飯野山南麓の旧大束川支流の屈曲点に拠点を構えた。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
 木下晴一       中世平地城館跡の分布調査 香川県丸亀平野の事例                      香川県埋蔵文化財調査センター  研究紀要3 1995
 

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

       

  
ニッカリ

脇指 無銘 ニッカリ青江((丸亀市立資料館蔵、重要美術品)
刃長60・3cm  反り1・1㎝  元幅3・2㎝ 
全長76・3cm
(茎)め金象嵌銘「羽柴五郎左衛門尉長(以下切)」
裏に金象嵌銘の上部のごく一部が残る (造込)三つ棟、鏑造 (茎尻)切 (目釘孔)三つ (茎鑢日)切 (彫)表裏に棒樋掻き通す
 地鉄は板目肌に映りが立つ。刃文は直刃調に小のたれを交え、匂口締まる。南北朝時代特有の大切先に、大きくのたれて入り突き上げて深く返る錐子刃を焼く。もとは長大な太刀であったものが大きく磨り上げられ、現在の姿となる。角立四ツロ結紋を彫った金鋼がつく。無銘であるが備中国青江派の刀工による作と極められている。
江戸時代には丸亀京極家にもたらされていたようで
「京極に過ぎたるもの三つあり、につこり(ニッカリ)、茶壷(野々村仁清作の陶器類)に多賀越中(京極家家老、佐々九郎兵衛とも)」
と、小藩丸亀藩には過ぎた品と評されていたのが分かります。
 どうして「ニッカリ」という号がつくのでしょうか?
この刀はもともとは江戸で保管されていたようです。それが江戸時代半ばに丸亀に移されます。近代になってから京極家を離れますが、その時期は分かりません。しかし、大正4年(1915)6月の「所蔵品台帳京極別邸」には記載があり、翌年の大正5年に東京に移されたと朱書の追記がありますので、丸亀を離れたのはそれ以降になります。その後、個人所有を経て、現在は丸亀市立資料館に収められています。

ニッカリ青江 名物帳
 
豊臣家が所蔵していた「ニッカリ青江」
「ニッカリ青江」は「大坂御腰物帳」のリストの中に記載があるので、豊臣家の所蔵刀剣であったことが分かります。そこには「につかり刀」とあるだけです。他のことは書かれていませんが、その名称から同一物であることは間違いないでしょう。大切な物が保管されていた「一之箱」に収蔵されていたので、豊臣家所蔵刀剣の中でも、ランクは上位に位置づけられていたことが分かります。

ニッカリ青江3 
 所有者を刻んだ金象嵌銘は「羽柴五郎左衛門尉長」と読めます。

 ここから豊臣家のものになる前は、丹羽長秀か、その子長重が持っていたことが分かります。よく見ると所持銘の下部分が切れています。これは刀を短くしたため(磨き上げ)で、丹羽氏は父子ともに五郎左衛門尉を名乗っていたので、その下が見えないとどちらの持ち物だったかは分かりません。また丹羽時代に、当主の名前を切って、磨り上げが行われたとは思えません。短くされたのは、丹羽家を離れた後のことと研究者は考えているようです。
松平頼平の「京極家重代 珂加理刀之記録 稿」には、「ニッカリ青江」の磨り上げは、秀吉によるものとしています。しかし、特に根拠となる資料や背景は示されていません。

埋忠寿斎明栄が写した「刀絵図」には「ニッカリ青江」の押形が載せられ、次のような詞書が添えられています。      
ニッカリ青江4


A 御物/につかり 長サ 二尺  作あおヘ(青江)
B 秀頼様すり上り 光徳オ参候而 寿斎持三度仕申候
C いんすにてそうかん也
Aの「御物」は豊臣家所蔵であったことを示し、
号、法量、作者が「長サ 二尺 作あおヘ」と記されます。
Cは「羽柴五郎左衛門尉長」の金象嵌銘に関する文言で、
「印子(いんす)金」で象嵌されていることを注記しています。
 研究者が注目するのはBの文です。
『図説刀剣名物帳』では「秀頼様ョリ上り」と解読しますが、片仮名の「ヨ」としている文字を「寸」をくずした平仮名の「す」であると解読すると「ニッカリ青江」は、秀頼の命で「磨り上げ」たと読めることになります。
寿斎が写した「刀絵図」には、原本に記されていた詞書に加え、寿斎による追記があります。その中で豊臣秀頼に関わるものがいくつもあるようです。そこには
「金具寿斎仕候/さめさや・墨さやニツニ成申候」
とあり、秀頼の指料として刀装の金具を寿斎が担当したことが分かります。そして、秀頼の注文を受けて、意匠直しを行ったりもしています。
 「ニッカリ青江」は、秀頼のお気に入りの刀であったのかもしれません。そうだとすると、「ニッカリ青江」を自分の好みにあわせて磨り上げを行ったのも秀頼ではないのかという解釈も可能になります。
 名刀と評価された刀剣を自らの好みにあわせ磨り上げることは、織田信長なども行っているようです。「ニッカリ青江」の場合、磨り上げの際には、丹羽長秀か長重の名前の一部を切り落とすことになります。それを命じることができる立場の者は、限られてきます。「ニッカリ青江」の磨り上げを行わせたのは、秀頼と考えるのは説得力があるように思えます。
丸亀藩(京極家)の家紋 | 家紋, 戦国時代, 丸亀
 
京極家へは、どのようにしてもたらされたのでしょうか?
豊臣家が所蔵していた「ニッカリ青江」が京極家所蔵に移ったことについては、専門家は次のように指摘しています。大坂冬の陣での徳川・豊臣の和睦の際の京極家が仲介に対する恩賞として、秀頼から下賜されたのが「ニッカリ青江」であったとし、現在はこれが定説になっているようです。
「ニッカリ青江」は「一之箱」に仕舞われていたことから分かるように豊臣家の重要刀剣です。そして秀頼は「ニッカリ青江」がお気に入りだったことはすでに見てきました。この時に和睦の重要性を考えると、秀頼が愛用の「ニッカリ青江」を和睦成立の恩賞としたことは、妥当な流れのようです。
続ニッカリ青江

『埋忠銘鑑』の「ニッカリ青江」の図には「元和二霜月十一日二金具出来申候/寿斎」の記述があります。ここからは京極家が大坂夏の陣が終った翌年に、埋忠寿斎に依頼して金具を新調したことが分かります。秀頼から拝領して、意匠直しをおこなったことになります。どうしてでしょうか?

享保19年(1734)12月作成開始の「御刀脇指御印帳」では、
京極藩所有の刀剣ランキングを次のように記します。
1番目に「長光衛府御太刀」(後に「備前長船真守」)
2番目に「守家御太刀」
3番日に「ニッカリ青江」
また、丸亀の刀剣台帳と云える享和三年(1803)作成開始の「御刀脇指御印帳」では、「ニッカリ青江」が筆頭に記されています。
享保の「御刀脇指御印帳」の中では、「ニッヵり青江」が徳川将軍拝領品よりも上位にランクされています。この「特別扱い」は、どこからくるのでしょうか
享保十七年(1732)、京極家は、将軍徳川吉宗からの求めに応じて伝来の遺物を供覧のために提出しています。この時提出されたのは
①ニッカリ青江
②後奈良上皇から拝領の二尊旗
③佐々木高綱の乗馬「生崚(生食いけづき)」の轡を直した道具
④佐々木信綱所用の壷簸
です。近江源氏佐々木氏の流れを汲む旧族大名家であることに由来する伝来品と「ニッカリ青江」が組み合わされている点に研究者は注目します。別の見方をすると「ニッカリ青江」は豊臣秀頼からの拝領品としてではなく、京極家の由緒に関わる品として位置付られていたのかもしれないと思えてくるのです。

      次の資料をみてみましょう。
伊佐孫二郎先祖佐々木太郎定綱ノ末 春貞父駒丹後守渡辺綱末也、丹後守佐々木屋形十番備ノ頭、近江長光寺ニテ化物ヲ切り候、其刀青江弐尺壱寸、柴田修理亮子息権六指申候ヲ丹羽長秀取り、太閤様江上ケ、太閤様ョリ若狭宰相殿日被遣候、今京極備中守殿御所持につかりと中刀之由、外ニニツカリノ御由緒書モ有之也

大正四年(1915)「所蔵品台帳 京極別邸」の「ニツカリ刀」についての記述です。文中に「今京極備中守殿御所持」とあることから、この文章は寛文二年(1662)から元禄七年(1694)まで丸亀二代藩主を務めた京極備中守高豊の時代に表わされたものと分かります。
 太閤(豊臣秀吉)から若狭宰相(京極高次)に遣わされたと記されています。しかし、秀吉没後も「ニッカリ青江」は豊臣家の下にあり、秀頼が愛用していたのは見てきた通りです。この記述は誤っているようです。ここからは大坂陣から半世紀経った時点で、京極藩への来歴は不正確になっていたことが分かります。
「外ニニツカリノ御由緒書モ有之」とあり、該当すると思われる文書があります。その文章の全文は次のとおりです。
佐々木八九代已前
近江佐々木明神はけ物有、夜四つ時分参候刻、はけ物出につかりとわらい中候事度々ゆへ、其後参詣之もの無之、其段申上候、就夫其時之佐々木殿御一人御刀御指被成候、御越被成候、則かのにつかりと笑候はけ物につかりといたしゆへ、そのまゝ御切被成候ヘハ、ふるき石燈ろうをけさをかけて御切落申給候ゆへ、につかりと名付候
 年紀がなく内容からも時期は分かりません。紙質や書体から、江戸時代に記されたものと研究者は考えています。内容は「ニッカリ青江」と呼ばれるようになった霊異譚です。
 ここで研究者が注目するのは「ニッカリ青江」の所有者で、化物を斬った人物です。
「名物帳」では所有者は「九理(「クノリ」とふりがなが付けられています。「久理」は太夫で、近江八幡山を領する者の弟となっています。
「所蔵品台帳 京極別邸」の説明書きでは佐々木家の縁者で佐々木家に仕えた「駒丹後守」、
「につかり由緒書」では、特定の人名は出ませんが佐々木家当主となっています。
こうしてみると京極家の記録では、高祖佐々木家につながる人物となっている点に気付きます。さらに「につかり由緒書」では、化物の出没地も佐々木家ゆかりの「近江佐々木明神」です。
 つまり、京極家に伝わる「ニッカリ」の出来は、京極家の祖先である佐々木家に引き寄せた内容になっているようです。
ここに「ニッカリ青江」を佐々木家ゆかりの品と一緒に、将軍家の供覧に提出した意図も見えてきます。それと裏腹の関係で、大坂陣で豊臣秀頼から下賜された記憶はうすれていったのでしょう。
 京極家は「ニッカリ青江」から豊臣家との関わりを消していったようです。それは拝領した翌年に大坂陣で豊臣家が滅びると同時に、「ニッカリ青江」の金具新調を行った時から始まっていたと研究者は考えているようです。
ニッカリ青江6

仮設も含めてまとめておくと
①丸亀京極家の「ニッカリ青江」は、豊臣家の「一之箱」に納められた重要な刀剣のひとつであった。
②「ニッカリ青江」は秀頼の愛刀のひとつで、磨り上げを行ったのも秀頼である。
③京極家への伝来は、大坂冬の陣の調停への秀頼からの下賜であった。
④)京極家内での「ニッカリ青江」は、京極家を代表する重要刀剣に次ぐものとされていた。
⑤その動機は、豊臣家よりの拝領という来歴ではなく、家の由緒に関わる品とされていた。
ニッカリ青江7

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 御厨 義道
高松松平家の「切刃貞宗」と丸亀京極家の「ニッカリ青江」
香川県立ミュージアム調査研究報告第8号(2017年3月)

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