調査報告書によると、一宮寺には本堂・仁王門・大師堂・菩薩堂に合わせて48の仏さんたちがいらっしゃるようです。制作年代で分けると、平安時代1、鎌倉時代1、江戸時代46(台座のみ2点含む)となるようです。安政3年(1856)の「大宝院記録」でチェックしながらお堂ごとにみていきましょう。
本堂
本尊の聖観音さまは、秘仏のため未開扉ですのでお目にかかることはできません。高松周辺の四国霊場には観音さまを本尊としている所が多いようです。戦乱の世が終わり、世の中が落ち着いてきた承応2年(1653)に、四国辺路を訪れたのが澄禅の『四国辺路日記』承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
「社壇モ鳥居モ南向」と、札所は神社であったようです。お寺の姿は記されていません。
「四国遍路日記」には、「長尾寺」について次のように記します。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここからは「国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺・長尾寺」が「讃岐七観音」のネットワークを形成していたことが分かります。中讃の善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような観音霊場ネットワークがあったようです。しかし、そこに一宮寺は入っていません。どうしてでしょうか。疑問としておいて先に進みましょう。
生まれたばかりの金毘羅大権現も、この時期には観音信仰の拠点を目指していた形跡があります。江戸時代初期の讃岐における観音信仰ブームがうかがえるようです。
本尊脇侍には不動明王像と毘沙門天像がいらっしゃいます。
このふたつの天部の仏様は「大宝院記録」には「京都仏師赤尾右京」の作と記されるので、京都の仏師に依頼して作成されたもののようです。その依頼主は、高松藩初代藩主の松平頼重だったようです。延宝7(1679)年前後に、松平頼重は一宮寺の再興を行っています。本堂再興に伴いふたつの天部の仏様も発注されたようです。
松平頼重の寺社保護については、政策的なねらいが隠されていることは、以前にも長尾寺や根来寺についてお話ししたときに触れました。この寺については、一宮神社(田村大明神)から、この時に分離させているようです。いわば「神仏分離」を行ったことがうかがえます。一宮寺は寺領などの寄進を受けますが、一宮神社の別当職は失ったのです。そして、四国霊場札所に専念することになったようです。こうして、現在地に本堂が松平頼重の手により再興(新築?)されることになったとしておきましょう。
2 仁王門
「大宝院記録」には、仁王門の阿吽仁王像は「京都仏師赤尾右京作」と記されています。先ほど見た本堂の天部の仏達も「赤尾右京」でした。一宮寺再興の仏達を一手に引き受けて、一門で作ったことがうかがえます。同時に、この時期に一宮寺は新たに「新築=創建」されたとも考えられます。
3 大師堂
明治になって書かれた「大宝院記録」には大師堂は「祖師堂」と記されています。そして、そこには本尊の弘法大師空海像・金剛界大日如来像のふたつの仏像があったことを記すのみです。それが今では、いろいろな仏が安置されています。明治になってからやって来た仏のようです。「仏は寺勢の強い寺に移動する」の言葉通りです。
本尊の弘法大師空海像は、江戸時代中ごろの作のようです。
この時代に庶民の間にも弘法大師伝説が広がり、弘法大師信仰が高まっていきます。そのため各霊場でも大師堂が作られ弘法大師像が安置されるようになります。その時流の中で作られたようです。
この時代に庶民の間にも弘法大師伝説が広がり、弘法大師信仰が高まっていきます。そのため各霊場でも大師堂が作られ弘法大師像が安置されるようになります。その時流の中で作られたようです。
現存の薬師如来坐像(写真20)を見てみましょう。蓮華座に座り、輝く火炎に照らされた若々しい薬師さんです。
像底には次のような朱漆銘があります。
弘法大師の御作を讃州(讃岐)香東郡石清尾浄光院中興開基の阿閣梨増快が再興した像であると記し、延宝3年(1675)秋の年号があります。
香東郡石清尾浄光院とは、石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院のことです。そこからやってきた仏で「後世の移入像」のようです。この他、歓喜天像を納めている丸厨子底面にも石清尾浄光院の名前が記されています。これも「浄光院旧像」のようです。そして、この仏達には制作者の「赤尾右京法橋」のほかに「栄朝」「栄秀」「右衛門」などの仏師達の名前が記されているのです。
これをどう考えればいいのでしょうか。京都の「赤尾右京法橋」一門は、次のものを手がけていたことになります。
①一宮寺の本尊脇侍の不動明王像と毘沙門天像②一宮寺の仁王門の阿吽両像③石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院の歓喜天像丸厨子
さらに志度寺などの讃岐の有力寺院の造像にその名が見られるようです。名代の仏師として高松藩との関係が長く続いたことがうかがえます。「赤尾右京」は、松平頼重から信頼された「御用達仏師」であったようです。
どうして石清尾社神宮寺の仏達が一宮寺にやってきたのでしょうか。
明治の神仏分離政策は石清尾八幡神社の姿を大きく変えました。それまであった多宝塔や仏像も撤去されます。その際に、多くの仏像は関係寺院に分散して安置されたと研究者は考えているようです。
愛染明王像も石清尾社神宮寺からやってきたと考えられているようです。明治の「大宝院記録」に記されていないので、神仏分離・廃仏毀釈運動が落ち着いた頃に、一宮寺に移されて来たようです。
愛染明王像も石清尾社神宮寺からやってきたと考えられているようです。明治の「大宝院記録」に記されていないので、神仏分離・廃仏毀釈運動が落ち着いた頃に、一宮寺に移されて来たようです。
岩清尾八幡にあった愛染明王像を見てみましょう。
白峰寺の愛染明王像
これらと一宮寺の愛染明王像を比較して、研究者は次のように指摘します。
①一宮の像は獅子冠上の五鈷杵ではなく、反花座上の宝珠あるいは舎利容器であること②腹前の右足首から垂れる裳端の表現が大きな撓みをあらわすことなく、通例的な表現に留まっていること③獅子冠の獅子頭部には丈があり、前二像のやや扁平な感の強いものとは異なる造形感覚であるこ④光背ホゾ部にみえる「一」が、もし造像の順番を示し、かつ石清尾八幡社神宮寺から移入された他像が存することを考慮すれば、本像も石清尾社に関わるものであることが考えられる。
そして、全体的な印象として
「白峰寺・志度寺の二像を圧するような迫力ある造形の印象は、原初像として風格に起源する」
と研究者は考えているようです。
つまり、ここから分かることは
①松平頼重は京都の仏師「大仏師内匠」に愛染明王像を3体発注した②それは石清尾八幡社神宮寺浄光院と白峰寺と志度寺に寄進された③一宮寺の愛染明王像は、石清尾八幡社神宮寺浄光院のものが神仏分離の際に移動してきたものと考えられる④しれは、3体の愛染明王像の中で最初に作られたもので、最も迫力を感じる作品である。
ということになるようです。京都で制作された愛染明王像は、どのようにして運ばれ、各寺院に納入されたのでしょうか。
高松藩の専用船が使われたのでしょうか
一度高松城に運びこまれ、松平頼重が検分して、それぞれの寄進先を決めたのでしょうか。
一番できあがりの良いとされるものが岩清尾八幡に寄進されたのは、どうしてなのでしょうか
いろいろな疑問が湧いてきて楽しくなります。
一度高松城に運びこまれ、松平頼重が検分して、それぞれの寄進先を決めたのでしょうか。
一番できあがりの良いとされるものが岩清尾八幡に寄進されたのは、どうしてなのでしょうか
いろいろな疑問が湧いてきて楽しくなります。
この他にも大師堂には2つの不動明王がいらっしゃいます。
ひとつは、平安時代後期のものと考えられる不動さまです(写真121、122、123)です。体部は「前後二材矧ぎで、頭部は後補」で、底面は塞がれていないので、足ホゾが前面材から両足とも刻み出していることが見えます。この不動さまも「移入された客仏」のようです。
もうひとつは鎌倉時代12世紀の不動さまです。
4 菩薩堂
この堂は「大宝院記録」には「阿弥陀堂」と記されています。
由緒には「先住霊算」が「復旧之志」により勧進して、阿弥陀如来二十五菩薩像を再興したとします。ここも長尾寺と同じく中世には高野山系の念仏聖によって阿弥陀信仰が広まっていたことがうかがえます。
由緒には「先住霊算」が「復旧之志」により勧進して、阿弥陀如来二十五菩薩像を再興したとします。ここも長尾寺と同じく中世には高野山系の念仏聖によって阿弥陀信仰が広まっていたことがうかがえます。
この阿弥陀如来(写真126)の台座には「彫刻人 京仏工 赤尾右京亮 橘栄□」とあり、台座内には
「寛政四(1792)子年 九月 光孝天皇後胤 定朝法印三十一世也 赤尾右京亮作」
この阿弥陀さまは、着衣のひだが流れるように深く刻まれています。顔立ちは鎌倉時代風で、イケメンです。「近世の佳作のひとつ」と評価も高いようです。
菩薩堂には、この他にも五大明王像(不動明王像と軍茶利明王像を欠く)の三像がありますが、文化2年(1805)の制作年と仏師「京大仏師 赤尾右京」の台座内墨書が見つかっています。さらに仏師「赤尾右京」工房との関係が増えました。近世京仏師が、地方からの造像注文にどのように応えていたのか興味のあるところです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書