瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2020年10月

一宮寺 現況境内図

 調査報告書によると、一宮寺には本堂・仁王門・大師堂・菩薩堂に合わせて48の仏さんたちがいらっしゃるようです。制作年代で分けると、平安時代1、鎌倉時代1、江戸時代46(台座のみ2点含む)となるようです。安政3年(1856)の「大宝院記録」でチェックしながらお堂ごとにみていきましょう。
一宮寺 見どころ - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 本堂
本尊の聖観音さまは、秘仏のため未開扉ですのでお目にかかることはできません。高松周辺の四国霊場には観音さまを本尊としている所が多いようです。戦乱の世が終わり、世の中が落ち着いてきた承応2年(1653)に、四国辺路を訪れたのが澄禅の『四国辺路日記』承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
「社壇モ鳥居モ南向」と、札所は神社であったようです。お寺の姿は記されていません。
「四国遍路日記」には、「長尾寺」について次のように記します。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここからは「国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺・長尾寺」が「讃岐七観音」のネットワークを形成していたことが分かります。中讃の善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような観音霊場ネットワークがあったようです。しかし、そこに一宮寺は入っていません。どうしてでしょうか。疑問としておいて先に進みましょう。
 生まれたばかりの金毘羅大権現も、この時期には観音信仰の拠点を目指していた形跡があります。江戸時代初期の讃岐における観音信仰ブームがうかがえるようです。

 本尊脇侍には不動明王像と毘沙門天像がいらっしゃいます。
このふたつの天部の仏様は「大宝院記録」には「京都仏師赤尾右京」の作と記されるので、京都の仏師に依頼して作成されたもののようです。その依頼主は、高松藩初代藩主の松平頼重だったようです。延宝7(1679)年前後に、松平頼重は一宮寺の再興を行っています。本堂再興に伴いふたつの天部の仏様も発注されたようです。
 松平頼重の寺社保護については、政策的なねらいが隠されていることは、以前にも長尾寺や根来寺についてお話ししたときに触れました。この寺については、一宮神社(田村大明神)から、この時に分離させているようです。いわば「神仏分離」を行ったことがうかがえます。一宮寺は寺領などの寄進を受けますが、一宮神社の別当職は失ったのです。そして、四国霊場札所に専念することになったようです。こうして、現在地に本堂が松平頼重の手により再興(新築?)されることになったとしておきましょう。
 
 
香川県高松市「一宮寺」観光途中に立ち寄った巡礼第八十三
2 仁王門
「大宝院記録」には、仁王門の阿吽仁王像は「京都仏師赤尾右京作」と記されています。先ほど見た本堂の天部の仏達も「赤尾右京」でした。一宮寺再興の仏達を一手に引き受けて、一門で作ったことがうかがえます。同時に、この時期に一宮寺は新たに「新築=創建」されたとも考えられます。
一宮寺 仁王像
一宮寺 大師堂 - 高松市、一宮寺の写真 - トリップアドバイザー
3 大師堂
明治になって書かれた「大宝院記録」には大師堂は「祖師堂」と記されています。そして、そこには本尊の弘法大師空海像・金剛界大日如来像のふたつの仏像があったことを記すのみです。それが今では、いろいろな仏が安置されています。明治になってからやって来た仏のようです。「仏は寺勢の強い寺に移動する」の言葉通りです。
一宮寺 弘法大師座像

本尊の弘法大師空海像は、江戸時代中ごろの作のようです。
この時代に庶民の間にも弘法大師伝説が広がり、弘法大師信仰が高まっていきます。そのため各霊場でも大師堂が作られ弘法大師像が安置されるようになります。その時流の中で作られたようです。

「大宝院記録」には厨子入りの薬師如来像があったことが記されます。しかし、これは今ある薬師さんとは違っていると研究者は次のように指摘します。

一宮寺 薬師如来像

 現存の薬師如来坐像(写真20)を見てみましょう。蓮華座に座り、輝く火炎に照らされた若々しい薬師さんです。
像底には次のような朱漆銘があります。
一宮寺 薬師如来像墨書

弘法大師の御作を讃州(讃岐)香東郡石清尾浄光院中興開基の阿閣梨増快が再興した像であると記し、延宝3年(1675)秋の年号があります。

香東郡石清尾浄光院とは、石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院のことです。そこからやってきた仏で「後世の移入像」のようです。この他、歓喜天像を納めている丸厨子底面にも石清尾浄光院の名前が記されています。これも「浄光院旧像」のようです。そして、この仏達には制作者の「赤尾右京法橋」のほかに「栄朝」「栄秀」「右衛門」などの仏師達の名前が記されているのです。
 
これをどう考えればいいのでしょうか。京都の「赤尾右京法橋」一門は、次のものを手がけていたことになります。
①一宮寺の本尊脇侍の不動明王像と毘沙門天像
②一宮寺の仁王門の阿吽両像
③石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院の歓喜天像丸厨子
さらに志度寺などの讃岐の有力寺院の造像にその名が見られるようです。名代の仏師として高松藩との関係が長く続いたことがうかがえます。「赤尾右京」は、松平頼重から信頼された「御用達仏師」であったようです。
どうして石清尾社神宮寺の仏達が一宮寺にやってきたのでしょうか。
明治の神仏分離政策は石清尾八幡神社の姿を大きく変えました。それまであった多宝塔や仏像も撤去されます。その際に、多くの仏像は関係寺院に分散して安置されたと研究者は考えているようです。
 愛染明王像も石清尾社神宮寺からやってきたと考えられているようです。明治の「大宝院記録」に記されていないので、神仏分離・廃仏毀釈運動が落ち着いた頃に、一宮寺に移されて来たようです。
岩清尾八幡にあった愛染明王像を見てみましょう。
一宮寺 愛染明王像

 台座軸木を受ける材に「大仏師内匠」の墨書があり、作者仏師は佐々木内匠と分かります。
一宮寺 愛染明王像墨書

 松平頼重は、白峯寺像・志度寺にも愛染明王像を寄進していますが、それも「大仏師内匠」に発注したものであることが分かっています。
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像

これらと一宮寺の愛染明王像を比較して、研究者は次のように指摘します。
①一宮の像は獅子冠上の五鈷杵ではなく、反花座上の宝珠あるいは舎利容器であること
②腹前の右足首から垂れる裳端の表現が大きな撓みをあらわすことなく、通例的な表現に留まっていること
③獅子冠の獅子頭部には丈があり、前二像のやや扁平な感の強いものとは異なる造形感覚であるこ
④光背ホゾ部にみえる「一」が、もし造像の順番を示し、かつ石清尾八幡社神宮寺から移入された他像が存することを考慮すれば、本像も石清尾社に関わるものであることが考えられる。
そして、全体的な印象として
「白峰寺・志度寺の二像を圧するような迫力ある造形の印象は、原初像として風格に起源する」
と研究者は考えているようです。
  つまり、ここから分かることは
①松平頼重は京都の仏師「大仏師内匠」に愛染明王像を3体発注した
②それは石清尾八幡社神宮寺浄光院と白峰寺と志度寺に寄進された
③一宮寺の愛染明王像は、石清尾八幡社神宮寺浄光院のものが神仏分離の際に移動してきたものと考えられる
④しれは、3体の愛染明王像の中で最初に作られたもので、最も迫力を感じる作品である。
ということになるようです。京都で制作された愛染明王像は、どのようにして運ばれ、各寺院に納入されたのでしょうか。
高松藩の専用船が使われたのでしょうか
一度高松城に運びこまれ、松平頼重が検分して、それぞれの寄進先を決めたのでしょうか。
一番できあがりの良いとされるものが岩清尾八幡に寄進されたのは、どうしてなのでしょうか
いろいろな疑問が湧いてきて楽しくなります。

この他にも大師堂には2つの不動明王がいらっしゃいます。
一宮寺 不動明王 平安期

ひとつは、平安時代後期のものと考えられる不動さまです(写真121、122、123)です。体部は「前後二材矧ぎで、頭部は後補」で、底面は塞がれていないので、足ホゾが前面材から両足とも刻み出していることが見えます。この不動さまも「移入された客仏」のようです。

もうひとつは鎌倉時代12世紀の不動さまです。
一宮寺 不動明王 鎌倉期

前代風をよく伝えるもので、頭体幹部を一材から彫りだしたもので、両足首から先を後補です。表情や穏やかな作風で、「優品の不動明王像の一躯」と評価されています。


4 菩薩堂
この堂は「大宝院記録」には「阿弥陀堂」と記されています。
由緒には「先住霊算」が「復旧之志」により勧進して、阿弥陀如来二十五菩薩像を再興したとします。ここも長尾寺と同じく中世には高野山系の念仏聖によって阿弥陀信仰が広まっていたことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来g

  この阿弥陀如来(写真126)の台座には「彫刻人 京仏工 赤尾右京亮 橘栄□」とあり、台座内には
「寛政四(1792)子年 九月 光孝天皇後胤 定朝法印三十一世也 赤尾右京亮作」

と記されいます。またしても「赤尾右京」に発注しています。世代を超えて、同じ工房に発注しているのは、それだけの信頼関係があったと同時に、「赤尾右京」が名代の仏師として評判もよかったことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来2g

この阿弥陀さまは、着衣のひだが流れるように深く刻まれています。顔立ちは鎌倉時代風で、イケメンです。「近世の佳作のひとつ」と評価も高いようです。
 菩薩堂には、この他にも五大明王像(不動明王像と軍茶利明王像を欠く)の三像がありますが、文化2年(1805)の制作年と仏師「京大仏師 赤尾右京」の台座内墨書が見つかっています。さらに仏師「赤尾右京」工房との関係が増えました。近世京仏師が、地方からの造像注文にどのように応えていたのか興味のあるところです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

 一宮寺周辺の「都市圏活断層図」
上の地図は一宮寺周辺の「都市圏活断層図」です。
地図上の東部(右側)に網掛けがされていますが、この部分が安定した扇状地上にあることを示します。一方、西側(左)は香東川の沖積低地になります。一宮神社(田村神社)や一宮寺は、この扇状地の端に立地していることが分かります。
一宮寺 香東川流路

一宮寺の西側約1 kmには香東川が北流しています。
香東川は近世初めまで一宮寺の南側の香川町付近で東西に分岐し、高松市北西部の紫雲山の東西で北流し現在の高松港付近から瀬戸内海に流れ出していました。近世初頭に高松藩主生駒家の客臣(藤堂高虎が派遣)の西島八兵衛により、東側の流路を堰き止め、西側に一本化したとされます。それ以後は香東川はほぼ現在の流路となったようです。
野原・高松・屋島復元地形図

 そのため流路が替わってもかつての川床にあたる一宮町、鹿角町、田村町などには多くの伏流水が地下を流れています。一宮寺の北東部にも「花ノ井」という出水があります。これらの出水を利用して、近世以降には、稲作を中心とする水田農耕が盛んな地域であったようです。
⛩田村神社|香川県高松市 - 八百万の神

  一宮寺のすぐ西には、扇状地と沖積低地との境があることを押さえておきましょう。
一宮寺 周辺遺跡図
地図はクリックで拡大します
 一宮寺周辺の歴史的環境を見ておきましょう
約1,7km南東の⑦百相(もまい)坂遺跡からは、弥生時代後期前葉の遺物が少量出土した溝状遺構が確認されていますが集落は確認されていません。約3km北方の③上天神遺跡や太田下・須川遺跡では自然河川や灌漑用の水路などが確認されています。特に上天神遺跡では朱を保管したと考えられる土器が、大田下・須川遺跡では壺形土器の頸部に鹿の線刻が施されたものが出土しているので、このあたりに大規模な集落があったことがうかがえます。
 古墳時代には、一宮寺よりも東側や南東側に、古墳や集落があったようです。れは西側が先ほど見たように香東川の氾濫原であったためでしょう。
 ⑨百相坂遺跡の南側の独立丘陵の山頂部には、全長51mの前方後円墳である⑩船岡山古墳があります。この古墳から出土したとされる到抜式石棺が地元の浅野小学校にあり、埴輪片も採集されています。また、船岡山古墳の丘陵から旧国道193号線を挟んで南東には、⑪船岡古墳があり、横穴式石室の一部とされる石組みが残っています。このように、古墳時代には地域の有力者の存在がうかがえます。
 古墳時代の集落としては、一宮寺の北東約1,5kmの⑤大田原高須遺跡で古墳時代後期の竪穴式住居や自然河川、灌漑用の水路と考えられる溝状遺構などが見つかっていて、大規模な集落があったことがうかがえます。これら古墳の主達の基盤とした集落と考えられます。また、④大田下・須川遺跡からも5世紀の須恵器を伴う竪穴住居跡などが見つかっていて、古墳時代に継続して集落があったことがうかがえます。
これらから一宮寺の東側の大規模な扇状地は、古くから開発の進んだ地帯だったと研究者は考えているようです。一宮寺が東側が扇状地、西側が沖積低地にあたり、いわば地質の変換点にあたる所に立地していることが改めて納得できます。
この地域を開いた首長墓と見なされる古墳群を築いたのは讃岐秦氏だと研究者は考えているようです。
秦氏の本拠地は「原里」で百相郷も含みます。中間郷も秦氏の重要な拠点で、『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の支配エリアであったようです。
 その秦氏の歴代の盟主墳墓が双方中円墳の船岡山古墳で、石枕付石棺が出土しています。また直径20mほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳(6~7世紀)

へと推移したと考えられます。
田村神社 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 
原郷には、秦氏によってまつられた田村神社(一宮)が鎮座します。
祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神です。その女神が「花の井」の出水で、祀られ豊穣の祈りが捧げられてきたのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力の高まりによって律令体制下では讃岐一宮に「格上げ」されていったと研究者は考えているようです。
ちなみに一宮寺は最初から田村神社の別当寺ではなかったようです。
 秦氏の氏寺として作られた古代の氏寺でもないようです。秦氏の氏寺は、別の所に建立されていたからです。百相坂遺跡の北側には舟山神社があります。この社殿南西部には、礎石と云われる大きな石が残っています。これが ⑧百相廃寺跡と云われ、奈良時代の複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦なども出土しています。この寺が秦氏の氏寺のようです。
船山神社 - 香川県高松市 - 八百万のかみのやしろ巡り
舟山神社境内にある百相廃寺の鐘楼跡碑と説明版

この百相廃寺が中世の神仏混淆の結果、一宮である田村神社と結び付いて神宮寺となります。先ほども云った通り、ここは今は船山神社ですが、地元では神宮寺の名で親しまれており、バス停の名前はいまも神宮寺のままです。田村神社の神宮寺(別当寺)は、もともとは百相廃寺であったことを確認しておきます。
船山神社 (香川県高松市仏生山町甲 神社 / 神社・寺) - グルコミ
舟山神社

 一宮寺縁起について
一宮寺は、真言宗御室派に属し、山号は神皇山、院号は大宝院。聖観世音菩薩を本尊とします。創建については、安政三年(1857)の『大宝院記録』(古文書・古記録 番外)や『四国霊場一宮寺大宝院興隆会設立趣意書』『順礼大師縁起』などがありますが、すべて近代以降のものです。その内容を概観しておきます。
①創建は奈良時代初期の大宝年間で、院号も年号を取って「大宝院」としたこと
②和銅年間に諸国一宮の整備に伴い、伽藍の修築などが行われたこと、
③弘法大師が滞在中にみずから聖観音を彫ったことから法相宗から真言宗へ改宗したこと
④戦国時代の天正年間に兵火により堂塔ことごとく焼失したこと
⑤その後中興の祖である宥勢大徳により、伽藍等が再建された
と伝えます。しかし、①②については古代瓦の出土もありませんし、一次資料も、遺物もありません。近世以前のことは分かりません。

 近世史料に見える一宮寺
 近世になり四国辺路から四国遍路へとリニューアルするに従って、中世のプロの修験者による辺路修行から、素人による札所巡礼に姿を変えるにつれて参拝者増え始めます。そして四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、一宮寺に関する記述が見られるようになります。
それらの大衆向けの巡礼パンフレットに一宮寺がどのように紹介されているのかを見ながら、伽藍レイアウトも見ていきましょう。
まず『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
夫ヨリ北エ二里斗往テ高松二至。ここハ松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石ノ城下也。此京兆(松平頼重)ハ水戸中納言頼房卿ノ長子也、家康公の為ニハ孫也。黄門舎兄ノ亜相ヨリ早誕生在リシ故、此京兆ヲ幼少ヨリ洛西ノ天龍寺ニ預ケ置テ世二披露シ玉ハズ、?ルヲ家光公聞及玉テ召出テ当国ヲ拝領也。
 京兆ハ成ノ年ニテ当年ハ三十一歳成ガ、中々利根発明ニテ政道二無レ私、万民ヲ撫育シテ下賤ノ苦楽ヲ能知り玉フト也。当国白峯寺以下ノ札所二旧記二倍シテ皆新地ヲ寄附セラル。当時ハ在府也。家老ハ彦坂織部ノ正、其外谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人老中評定衆也
 祈願所ハ天台宗喜楽院卜云、水戸ヨリ国道ニテ入国也。城下二寺ヲ立テ置ル也
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。
  意訳しておくと
一宮寺は社壇も鳥居も南向きで、本地は正観音である。
ここから北へ2里行くと高松に至る。ここは松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石の城下である。この殿様は水戸中納言頼房卿の長男で、家康公の孫にあたり、水戸黄門の兄である。黄門さまよりも早く誕生されたので、幼少の時に京都の天龍寺に預けて世間には披露しなかった。これを家光公が伝え聞いて讃岐高松領を与えた。京兆(松平頼重)は当年31歳になるが、中々利発で政道にも私心なく、万民を慰撫し、下賤の苦楽をよく知っているという。
 当国の白峯寺などの札所に、旧来の倍に当たるような寺領を寄進している。当時は江戸に参勤交替中で不在であった。家老は彦坂織部ノ正、その他、谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人が老中評定衆である。祈願所は天台宗喜楽院という。水戸から入国して、城下に寺を建立した。
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
澄禅の「四国辺路日記」の時代には、一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺になっていました。綾氏の衰退と共に氏寺の百相寺も廃絶したのに、代わったのでしょう。
 境内の記述は「社壇も鳥居も南向き」と田村神社に関する記述があり、神仏混淆の姿を自然に受け止めています。そして「本地正観音也」と一宮寺の本尊に触れるだけです。ここからは、本堂の姿は見えてきません。社殿に安置されていたのかとも思えてもきます。
 この時期は以前にもお話ししたように、阿波の霊場は本堂もなく仮堂に仏様の破片が積まれ、修験者や虚無僧が堂守として居住していた札所がいくつもあったことを澄禅は見てきています。彼は当事のエリート学識層で観察視点や表記はぶれません。一貫した記述です。そこからすると、この時代に本堂はなかったのではないかという「仮説」も出てくるように思います。
 同時に、当事の高松藩の情勢分析なども的確にされています。高松から屋島への潮の満ち引きによって変わる街道紹介も的確です。澄禅の知識人としての洞察力や表現力がうかがえます。

澄禅から約30年後にやってきた真念の『四国遍路道指南』(貞享四年:1687)には次のように記されます
七十三番一之宮 平地、堂はひがしむき。かゞハ郡一宮村。
本尊正観音立三尺五寸、大師御作。
詠歌 さぬき一の宮の御まへにあふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
是より屋島寺迄三里。但仏生山へかくるときハ、一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下へ行バ、一宮より屋島寺まで四里有也。
○かのつの村○大田村、八幡、標石有。○ふせいしむら、八まん宮.○まつなわ村、行て大池有、堤を行。○北村、三十番神宮有、過て小川有。○ゑびす村○春日村○かた本村。これより屋島寺十八町、坂、地蔵堂有。
意訳すると
七十三番一之宮寺は平地に、堂は東向きに建つ。香川郡一宮村にあり、本尊は正観音立で三尺五寸の弘法大師御作である。
詠歌 さぬき一の宮の御まへに あふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
ここから屋島寺までは三里。仏生山へ立ち寄るときには一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下を経由すれば、一宮より屋島寺まで四里になる。
○かのつ(鹿角)の村○大田村、八幡、の標石がある。○ふせいしむら(伏石村)、八まん(八幡)宮.○まつなわ(松縄)村、を行くと大池があり、その堤を通って行く。○北村には三十番神宮があり、そこを過ぎると小川がある。○ゑびす村○春日村○かた本(潟元)村に至ると、これより屋島寺は18町で、坂に地蔵堂がある。
 ここには「堂はひがしむき」とのみあり、東向きの本堂があったことが記されています。澄禅巡礼後に、このお堂が造られたのではないでしょうか。
 「大宝院記録」(安政三年:1857)には、延宝7年(1679)に高松松平家により、田村神社の第一別当寺を解職され、寺領を新たに寄進されたことが記されています。これは松平氏による「神仏分離」がおこなわれたことを意味します。他国の一ノ宮が、明治の神仏分離で別当寺が切り離されたのに対して、近世初頭に「神仏分離」が行われていたとも云えます。その際に、高松藩初代藩主の松平頼重は寺領を与えると同時に、一宮神社の隣接した現在地にお堂を建立したとも考えられます。
松平頼重の宗教政策をいくつか挙げると
①金毘羅大権現の保護育成と朱印領地化、そして全国展開支援
②菩提樹としての仏生山法然堂の建立と保護
③高松城下町の鎮守岩瀬尾八幡の保護
④真宗興正寺派との姻戚関係と連携保護
⑤根来寺・長尾寺などの天台宗改修と保護
これらには政策的・戦略的な狙いをもった宗教手段が執られていたことがうかがえます。一宮と一宮寺の分離にも、何かしらの思惑や政策的なねらいがあったはずだと穿った見方をしたくなります。
寂本の「四国遍礼霊場記」(元禄二年:1689)を見てみましょう
蓮華山一宮寺大宝院
当寺の啓迪年祀久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号す、即猿田彦の命なり。
或は人王第七孝霊天皇の御子とも云、貞観九年御位をすゝめらる。宮は寺の前別に屋敷を構へたり。松樹しげく、木立物ふりにたり。左に花の井といふ名水あり。寺の本尊聖観音立像長三尺五寸.。寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。
意訳しておくと
当寺の歴史は久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号し、猿田彦命を祀っている。
あるいは人王第七孝霊天皇の御子とも云い、貞観九年御位している。宮は寺の前に別に屋敷を構へている。松の樹が繁り、木立が覆って鎮守の森となっている。左に花の井といふ名水(出水)がある。寺の本尊は聖観音立像長三尺五寸。境内には別に稲荷社があり、前に鐘楼もある。
一宮寺 寂本の挿絵見取図
  寂本の挿絵見取図を見てみましょう。
「寺の前別に屋敷を構えたり。」とあるとおり、田村神社(田村大明神)の境内とは別に一宮寺の境内が整えられてきています。また、「寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。」とあるとおり、境内には本堂(大宝院)の他に稲荷社があり、鐘楼が描かれています。
もう少し詳しく見てみましょう
①一宮寺には田村大明神(田村神社)との間に道があり、門は2ヶ所に設置され、南側の門の方がやや広いようです。これが現在の仁王門のようです。
②大宝院と書かれた建造物が東向きなので、これが本堂のようです。
③その北側と南側にも建造物がありますが、これについては、なにも記述はありません。
④境内南東部に稲荷と注記のある祠があるので、これが稲荷社と分かります。
⑤その前面灯籠に挟まれた建物がありますので、これが鐘楼のようです。
⑥境内の塀は竹垣のようで、土塀のようなものはありません。それに比べて、田村神社の周りの塀は立派なように見えます。高松藩の田村神社と一宮寺への「格差政策」のようにも思えてきます。
⑦田村大明神北西隅の外側の一官寺との間の道沿いに小堂があり、花ノ井と書かれています。これが花ノ井出水のようです。
 ここからは田村神社と一宮寺の全体的なレイアウトは、現在と変わらないことが分かります。しかし、一宮寺境内に今ある御陵などの石造物や地蔵堂や菩薩堂は、描かれていません。この時期には、まだなかったとしておきましょう。
3『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)
八拾参番一之宮 蓮花山大宝院
香川郡一宮村 屋島へ三リ、仏生山へまわりて五リ
詠歌 さぬき一の宮のみまへにあふぎて神の心をたれかしらゆふ
本社田村大明神、祭神猿田彦命、宝蔵、本堂本尊聖観音立像 御長三尺五寸、大師の御作、大師堂 方丈の脇にあり。
一の宮町、此所にて一宿.
二十三日 雨天出立 仏生山町、一ノ宮より是迄十八丁。惣門、十二堂、蓮池、仏生山
法然寺、釈迦堂 本尊の涅槃 大師像仏也 常念仏也 上にあり 諸堂多し。是より八島迄三里余、片本村、此所二て一宿。
二十四日 雨天出立 潟本村、此所より八島迄十八町。庵麓にあり 平杖泉  坂半ばにあり、大雨に濁ず 水に不増不減なし くわずの梨子 泉の次にあり 深き古事あり、畳石 薄き石たたみの如し、故号す、念仏石 大師御彫刻の六文字梵語あり 仁王門南面山と額有り、南谷の筆なり。

「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)の挿図を見ていきましょう。一宮寺 四国遍礼名所図会1800

一之宮(田村神社)との間の道に建屋に連続するように門が描かれ、道沿いは土塀で、その他は柵でうなもので囲まれています。
①仁王門から入ると、正面奥に東向きの本堂と思われる堂があります。
②その南側(左)には鳥居と小さな祠があり、稲荷社のようです。
③境内の北側には比較的大きな建物が3並んであります。最も本堂に近い位置にある小堂は、本文に「大師堂方丈の脇にあり」とある大師堂のようです。その他の建物は、本文に記載がありません。④は鐘が吊されているようなので、位置的にも鐘楼のようです
その他は、書院や庫裏など一宮寺の経営を所管する施設としておきましょう。

田村神社については、松並木の参道が南へ伸び、鳥居も南側の街道沿いにあります。鳥居の近くには狛犬も立派な灯籠も見えます。このころには現在と同じように、南側を通る街道からの参道が整備されていたことが分かります。


一宮寺には安政三年(1857)に高松藩へ提出した「真言宗香川郡一ノ宮村大宝院記録」という文献が伝わっています。
 当時の境内にあった建造物や所蔵什物の一覧で、二部以上作成し、一部は役所へ提出し、残りは控えとして保管されていたようです。今は原本は行方不明で、昭和時代にコピーされたものが一部残っているようです。そこには安政三年段階の建造物として、次のようなものが挙げられています。
本門(仁王門)、本堂、阿弥陀堂、祖師堂(大師堂)、稲荷明神
稲荷社、地蔵堂、薬師堂、鐘楼堂、茶堂、書院、庫裏、大蔵、納屋、路次門、建家
 このうち地蔵堂と薬師堂はなくなり、その本尊であった地蔵菩薩と薬師如来は、本堂におさめられています。茶堂、大蔵、納屋、路次門、建家は今はありません。石造物として孝霊天皇石塔と宝医印塔という記載がありますから四国遍礼名所図会が描かれた寛政12年から安政3年までの間に、これらの石造物が移設されたようです。

 棟札等から見える一宮寺の空間構成
一宮寺には本堂の修繕と客殿の建立の棟札2点が残されています。す。これによると、本堂は明治34年(1901)7月に修繕されているので、それ以前の建立だったことが分かります。修繕にあたっては、檀家衆が講を組織して援助しています。また、客殿は文久三年(1863)2月16日の幕末に建立されたことが棟札に記載されています。しかし、安政三年(1857)の大宝院記録には客殿についての記載がないので、この時に新規に建立されたもののようです。建立にあたっては、寒川郡鶴羽村(現在のさぬき市津田町鶴羽)の大工が施工していることが分かります。

ここまでをまとめて研究者は、次のように指摘しています
①一宮寺の縁起では、法相宗の寺院として大宝年間に創建され、田村神社の別当寺として伽藍が整備されたのを、弘法大師がやってきて本尊が安置された際に真言宗に改宗されたとします。これは、他の札所と同じように、江戸時代の大師伝説や大師信仰の高まりが背景にある
②一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺として機能していた。近世初頭までは他の一ノ宮と同じく、一ノ宮が札所であった
③しかし、一宮寺所蔵の「大宝院記録」では、延宝七年(1679)に高松松平家により別当寺を解職された。田村大明神(一宮神社)の管理からは切り離され、札所寺院として機能するようになった。
④このことは、他の一ノ宮の状況とは異なるもので、四国遍路の中では特異な例です。結果的に、明治の神仏分離の影響を最小限に抑えることができた「一宮寺」と言える。
⑤明治維新後は、他の札所と同様に経営状態が厳しい時代もあり、 曼茶羅寺や善通寺の影響を多く受けた。
一宮寺 建造物変遷表
 現代の一宮寺
現在、一宮寺は、上の表の通り境内には仁王門、手水、鐘楼、本堂、大師堂、納経所などの施設のほかに、平成18年(2006)に新たに建立された護摩堂が本堂の北側にあります。本堂の南側には稲荷堂という小さな祠がありますが、これは近世の絵図に描かれていた稲荷社です。境内の南側には小規模の庭園があり、中島を巡るように池が設置されている。中島には凝灰岩製の中世の石塔がありますが、いつごろからこの場所にあったのかについては分からないようです。
一宮寺 現況境内図

現在の一宮寺の諸堂の建立年を見ておきましょう。
仁王門は明治9年ごろ
大師堂は大正年間
大師堂の裏側の相の間及び礼堂は昭和30年
境内南西にある菩薩堂は昭和3年
多くは、近代以降に整備されたものです。境内に南端のコンクリート製の建造物は三密会館と呼ばれ、各種会合や講座等を行う会場として利用されていますが、元々は宿坊として建てられたものののようです。
一宮寺と遍路
記録によれば、境内の建造物の一つとして
「藁葺一建家壱軒(桁行五間/梁行弐間壱尺)
但し四国順拝之遍路共江近村ろ接待仕候節、貸渡候、尚又遍路共寺内等二而、俄二相煩申候節、先不取敢相休せ、急難ヲ相救申候場所二引除申候」

とあり、遍路のための接待施設があったようです。
ほかにも、鐘楼そばの墓地には「一心法印」という墓石があります。裏側には「石州遍路」と刻まれているので、石州から遍路に来た僧侶の墓であることがわかります。
 今まで、私はこの寺を明治の神仏分離で、一宮神社から分離されたものと思い込んでいました、そうではないことが分かりました。感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

.1善通寺地図 古代pg
       
 旧練兵場遺跡とは、その名の通り戦前までは11師団の練兵場があったことから名付けられた名称です。今は東側が国の農事試験場として畑が広がっています。西側は、旧国立病院エリアになり「子どもと大人の医療センター」という長いネーミングの病院にリニューアルし、そこに看護学校や特別支援学校も併設するユニークな施設群を形成しています。かつて、ここの集中治療室で10日ほどお世話になり、その後一般病棟で過ごしたことがあります。その時に、手にした旧練兵場の分厚い調査報告書を眺めた思い出があります。
1旧練兵場遺跡5

 その後の発掘で次のような事が明らかになってきています。
①旧練兵場遺跡は弥生時代中期中葉から継続した大規模集落である
②他地域との交流を通じて鏡片・ガラス玉・銅鏃などの貴重品を多く保有する集落である
③県内の弥生時代の銅鐸・平形銅剣等の多くの青銅器が旧練兵場遺跡周辺に集中している
④善通寺病院遺跡が竪穴住居や掘立柱建物の集中から旧日練兵場遺跡の中枢部であった
⑤竪穴住居群は生産活動や対外交渉など異なる機能をもち、大規模集落の中で計画的にレイアウトされていた
つまり、この病院の立っているところが古代善通寺王国のコア施設を構成する所であったようです。
弥生時代のこの周辺の地形は、どんな地形だったのでしょうか?
その当事の復元地形の変遷図を今回は見てみましょう。
旧練兵場遺跡は、弘田川水系と金倉川水系が合流する扇状地の扇端付近にあり、旧河道や凹地といくつかの微高地があったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 全体図1
地図はクリックで拡大します
発掘調査から明らかになった旧河川は、地図上の黒い帯のような部分で2本あります
①旧河道1は、弘田川西岸遺跡から彼ノ宗遺跡ヘ向かう現弘田川の旧河道
②旧河道2は、仙遊遺跡東側から善通寺病院の北東部を通り北西へ流れる旧河道
①が上の地図の左下側の流れで、②が右上側の流れになります。旧練兵場遺跡の集落は、このふたつの旧河道にはさまれた微高地にあったようです。
集落の変遷を見てみましょう
弘田川の西側遺跡からは、弥生時代の遺構面から縄文時代後期土器がまとまって出てきています。また、善通寺病院の旧河道2からは、縄文時代晩期の刻目突帯文上器の出でてきています。ここからは近くに縄文人達の集落があり、ここを拠点に生活していたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 変遷図1

弥生時代前期~中期前葉(図2)
最初に竪穴住居・掘立柱建物が姿を見せるエリアは、
①善通寺病院区
②彼宗地区
③弘田川西岸地区
で、居住域1には50㎡を超える大型掘立柱建物が姿を見せます。遺構分布からは、この時期は彼ノ宗地区が集落の中心部だったようです。
  また、旧弘田川河床跡からは舟の櫂も出土しています。当事は小さな川船は、弘田川河口の海岸寺からこの辺りまでは上ってこられていたようです。②③は、旧弘田川沿いに立地し、小さいながら川湊的な機能も持っていたのではないでしょうか。

旧練兵場遺跡 変遷図3

 弥三時代中期後葉~末葉(図4)
 前時代と比べると、居住域が拡大し、居住域は8ヶ所に増えます。
①東の仲村廃寺地区(現ダイキ周辺)や四国農業試験場地区でも村落形成が始まる。
②居住域1・2には掘立柱建物が集中して建てられるようになり、貯蔵エリアが形成され始めたこがうかがえる。

旧練兵場遺跡 居住区1の掘立柱建物

③掘立柱建物にも、1間×1間の柱構造の大型化したものが登場し、前段階からの梁間1間タイプのものと混在して使用される。ここからは、掘立柱建物群の中での「機能分化」があったことがうかがえます。
④彼ノ宗地区の居住域8の掘立柱建物の柱穴からは、朱の精製遺物と見られる石皿が出土した。朱の原産地の徳島県名東遺跡の活動が始まるのもこの時期からで、県内でも初期の事例となります。
⑤居住域1からは、古墳時代以降の遺構に混入して扁平紐式銅鐸片が出土した。この時代に埋納された可能性が高い。
地図を見ると西側エリアでの居住区や掘立柱建物の質的量的な発展と、旧河道2を越えた東部エリアへの拡大が同時進行で進んだ時期になるようです。


旧練兵場遺跡 変遷図4
 弥生時代後期初頭~前半(図6)
 前段階と比べると、居住エリアが拡大しています。集落全体では12ケ所に増えています。この段階の居住域の広がりが「善通寺王国」のその後の集落形態の原型になるようです。
①住居が集中するのは居住域3で、人口密集率は善通寺王国でもっとも高いエリアである。
②居住域3と居住域2の間の凹地には、四国島内・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中する。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきた
④居住域2でも数は少ないが竪穴住居内から他地域からの搬入土器が出てきた。
⑤居住域2・3は、この段階で遺跡のコア単位に成長し、外部との交流に特化した機能をもつようになった。
旧練兵場遺跡 各居住区の配置図

⑥他の居住域は、竪穴住居4~7棟程度に掘立柱建物が2棟程度付属する小規模な単位と見られる(図7)。また、掘立柱建物は、本段階をもって消滅する。
旧練兵場遺跡 変遷図5
 弥生時代後期後半(図8)
居住エリアが15ケ所に増えています。この遺跡の始まり段階ではは、善通寺病院エリアの「居住域3」に遺構が集中していました。それが、この段階では分散的な傾向を示すようになります。そして居住域1~3、彼ノ宗地区の「居住域5」に主要遺構の分布が見られるようになります。「居住域3」では、多角形住居がまとまって見られます。これは「都市機能の過度集中に対する分散策」がすすんだのでしょうか。
①川向こうの四国農業試験場は大規模な発掘調査が実施されていませんが、過去のトレンチ調査にから次のような事が分かっています。
居住域8は、竪穴住居が密集
住居住域7~9、11~14は中心的な居住域を補完する小規模な居住単位
ここでも居住地8が副都心のような形で、その周辺に子集落が形成されているようです。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が1棟確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できるようになったようで、これ以降には確実に鉄器が増加します。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 変遷図6
弥生時代終末期~古墳時代初頭(図9)
 居住域の分布は前段階と大きな変化はないようですが、小さな居住域が姿を消して居住エリアが減っているようです。
①川向こうの仲村廃寺地区では、遺構の再編成が行われたようで竪穴住居・一部円形・多角形住居が見られますが、ほとんどが方形住居に姿を変えています。そして方形竪穴住居は、南北方向へ主軸を揃えて建てられています。なんらかの新たな「強制力」が働きはじめたようです。
②居住域1・2には一辺が約8mの大型方形住居が登場します。家族のあり方にも何らかの変化が起こっていたのかもしれません。
③貴重品として「居住域1・2・5」から鏡片が出土しています。
④「居住域3」からは水晶製の玉未成品(多角柱体)が出土しています。ここに工房があったのでしょうか。
⑤弘田川西岸地区の居住域7の大型土坑からは鍛冶炉があった痕跡があり、集落の周辺で操業していたことがうかがえます。

古墳時代前期以後
 古墳時代前期から中期後半までの期間は、遺構の分布が見られなくなり、集落は解体したようです。この集落の解体は何を意味するのでしょうか? どちらにしても古墳時代の前期から中期に善通寺王国は一度、「滅亡」したのかもしれません。そして、古墳時代中期になると再び竪穴住居群が現れ、後期には広範囲に竪穴住居群が展開するようになるのです。
 以上をまとめておくと

①旧練兵場遺跡の居住域の形成は、弥生時代中期中葉に善通寺病院地区と彼ノ宗地区を中心に始まった。
②弥生時代後期初頭から集落の拡大が始まり安定する。
③仲村廃寺地区と四国農業試験場地区の居住域が消滅・移動を繰り返しているのに対して、善通寺病院地区と彼ノ宗地区、弘田川西岸地区の居住域が安定的に営まれる
④集落の中心となる善通寺病院地区でも遺構内容の変化は著しい。
⑤掘立柱建物が消滅する後期後半以後は善通寺病院地区の居住域1が遺構分布の中心となり、同時併存で最大30棟前後の竪穴住居が分布する。
  居住域の交流・生産活動については
①他地域との交流を示す搬入土器・鏡片がある。
②後期初頭から前半期には居住域3に搬入土器が集中するが、それ以後は特に集中する居住域は見られない。
③鏡片は終末期に居住域1・2、居住域5で出土しており、中でも居住域1に集中する。
④他地域との「外交・交易機能」をはたしてした居住域3は、終末期にはその機能を居住域1に移している。
⑤後期後半期に居住域2で鍛冶炉をもつ竪穴住居、終末期には居住域7南部において鍛冶炉があった
 善通寺王国の首長達の眠る古墳群と、この村落の変遷図を結びつけるとどうなるのでしょうか。
  古墳時代の後期には、善通寺王国の「死者の谷」ともいわれる有岡の谷に、王墓山古墳や菊塚古墳が首長墓として築かれる時期でもあります。その形成母体となった村落を古墳時代後期に再生された旧練兵場跡の勢力と考えればいいのでしょうか。そうだとしても、首長の屋形らしきものは発掘からは姿を見せていないようです。善通寺の誕生院は、空海誕生の佐伯氏の館の上に建つと伝えられてきました。その伝え通り、誕生院周辺に首長の屋形はあったのでしょうか。

そして、7世紀後半には古代寺院中村廃寺が居住地10に姿を見せることになります。それは、短期間で現在の善通寺東院へと移され再建されていくようです。この2つの古代寺院の出現をどう捉えればいいのでしょうか。わかったことが増えると分からないことも、それにつれて増えるようです。まだまだ謎が多い旧練兵場遺跡と有岡古墳群と善通寺と佐伯氏の関係です。
参考文献

DSC04801
     綾川のしらが渕 ここで綾川は大きく流れを変える。向こうの山は堤山

山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。

祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王

 さて、奈良時代のことです。島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。

どんがん岩というのもあります。
どんがんは、大きな亀ということで泥亀が、この淵のヌシだとも伝わっています。洪水のとき、ごうごうと流れる水音にまじって、こんな声も聞こえてきます。
「お―ん、お―ん」
泣き声のようです。
お―ん、お―ん、と、悲しそうな泣き声なのです。 
一体、誰が泣いているのでしょう。

綾川シラガ淵

 北西に向かって流れてきた①綾川は、④シラガ淵で流れを東に変えて滝宮を経て、府中に流れ出しています。しかし「河川争奪」が行われて流路が変更されたのではないかと、研究者は考えているようです。
綾川シラガ渕
綾川としらが淵
  かつては綾川は堤山の北側を経て栗熊・富隈を経て、大束川に流れ込み、川津で海に流れ出していたというのです。そうだとすれば現在は小さな川となっている大束川も「大河」であったことになります。その痕跡がうかがえるのが堤山と国道32号の間に残された「渡池」跡だと研究者は考えています。渡池は、綾川から取水して、大束川水系に水を供給していました。その水利権を持っていたことになります。それが昔話では、次のように伝わっています。

滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。」

滝宮の牛頭天王とは、何者なのでしょうか?

滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

 河川変更の土木工事を行った「犯人捜し」をしてみましょう。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。  https://t ...
快天塚古墳
ここに眠る王は、大束川水系と綾川水系を統一した王のようです。
そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと首長と研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントが、この前方後円墳でなかったのかというのがひとつの仮説です。

綾川の大束川流れ込み
しらが淵周辺の古墳群

シラガ渕で流路が変更されることによって起こった変化を挙げると
①大束川水系の拠点は川津遺跡で郡衛性格も古代にはあったが、大束川の河口で洪水の危機に悩まされていた。
②そこで綾川流れを羽床のシラガ渕で変更することで、川津を守ろうとした。
③同時に周辺や飯山の島田、栗熊などの氾濫原や湿地の開拓を進めることを狙いとした。
④一方、綾川では水量が増え河口から滝宮までの河川交通が開けた。
⑤それを契機に羽床より上流地域の開発が進んだ。
⑥それを進めたのは、ヤマト政権の朝鮮政策に従い半島で活躍した軍人化した豪族達である。また、戦乱を逃れた渡来人達も数多く讃岐に入ってきた。
⑦流路変更工事を主導したのはシラガ渕(新羅系渡来人)たちではなかったのか。
⑧それは周辺古墳から出てくる遺物からも推測ができる。
こんな「仮説(妄想)」を考えている今頃です。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 
北条令子 さぬきの伝説 

調査書に載せられている仏達を見ていくことにします。
近世に伽藍復興の際のお堂再建の順番は、
A観音堂(本堂)→ B阿弥陀堂 → C護摩堂 → D大師堂

のようです。それぞれのお堂を成り立ちを考えると
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点として
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立されもの。
   各お堂の成り立ちを見ても、熊野行者と高野山の念仏系聖たちの果たした役割は大きかったことが分かります。近世に再建された宗教施設は、この寺の宗教的重層性を反映したものなのでしょう。それでは、それぞれのお堂に、どんな仏達が安置されていたのか見ていくことにしましょう。

本堂に安置されている本尊・聖観音立像は秘仏
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。その観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。秘仏とされる聖観音の制作者とされる人たちを見ておきましょう。
聖徳太子(「御領分中寺々由来」)
行基(「補陀落山長尾寺略縁起」)
弘法大師(『四国辺路道指南』、『四国遍礼霊場記』)
など諸説あるようです。創建の由来と同じく分からないということのようです。ただ、近世まで長尾寺の本山だった宝蔵院の記録「古暦記」には、文永元年(1264)と永仁6年(1298)に開帳されたという記録はあるようです。また、天正年中に諸堂が焼失した際も本尊だけは遺されたこと(前出「略縁起」)などが伝えられています。
 過去に撮影された写真もあり、そこからは右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像であるようで、香川県教育委員会が実施した調査では、檜材寄木造、平安時代の作と報告されています。(『文化財地区別総合調査報告 第一集_香川県教育委員会、1972年)。
  しかし、これ以上は分かりません。

長尾寺 聖観音立像

秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風です。しかし、研究者は次のように指摘します。
 「窮屈そうな上半身や動きの少ない下半身、直線的な側面観や簡略化された背面の作風から、台座裏の墨書銘にみえる元禄6年(1693)正月頃の作とみて大過ないであろう。作者は地方仏師と思われる。」

台座裏に墨書名があるようです。見てみましょう。
長尾寺 聖観音墨書

奉寄進 元禄六
聖観音正月一八日 源英
讃岐高松藩初代藩主松平頼重の号は「龍雲軒源英」ですので、松平頼重によって寄進されたことが分かります。前々回にお話ししましたように、松平頼重はこの寺を天台宗の拠点寺院に仕立てていくために、元禄期に本堂や仁王門などを寄進しています。新しくなった本堂へ秘仏の前立像として寄進したのがこの観音さまだったようです。
松平頼重が保護した天台宗の寺としては、金倉寺と根来寺があります。
根来寺には、彼が京都の仏師に発注して造らせた見事な四天王像があります。もともとは、彼の隠居屋敷の護摩堂用のものだったのが、後に根来寺に移されたもののようです。このような仏像発注を見ても、松平頼重には宗教的なブレーンがいたことがうかがえます。思いつきや一時的な宗教心で行っているものではないようです。
 自分が日常的に祈る四天王は京都の仏師へ発注し、長尾寺の前立・世観音像は地方仏師というような「格差」も興味深いものがあります。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
 阿弥陀如来坐像

 最初に見たとき「ニッコリと微笑んでいるお地蔵さんみたいな阿弥陀さま」という印象でした。材質は何なの?という疑問も涌いてきました。報告書を見てみましょう
「肩上から顔面および背面上部は銅造で、頭部前面の地髪・肉醤部、体部および後頭部は鉄造。印相は阿弥陀定印(上品上生印)とみられる。鋳型は頭部の耳後ろから、体側部は両肘手に沿って膝に至る前後に分けて作られ、一鋳で造られているようにみえる(あるいは頭・体部別鋳かもしれない)。
また後頭部の形状からみて、元の肉醤部は現状より高かったように見える。背面から両肘にかけて鋳上がりの悪いところがあり、割れが入っている部分がみられる。」
つまり「肩から上は銅、躰と頭は鉄」でできているということのようです。銅と鉄との耐久性の問題もあるのでしょうが、銅で造られたお顔周辺部分はきちんと残っているが、躰の部分は腐食して錆落ちた状態のようです。しかし、それが「景色となり、味わい」を出しているようにも見えてきます。
 いつ頃のものなのでしょうか。調査書には、次のように記されています。
「頭部は大きな肉善や地髪に小粒の螺髪が整然と並んでいて平安時代後期の様式を示しているが、面貌表現には白鳳仏を想わせる微笑をたたえるなど違和感もみられるので、鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。体部は左胸から腹前にかかる平行線状の衣文線の表現や堂々とした側面観・背面観からみて平安時代後期の定朝様を踏襲した作と推定される。像底からみた形状にも安定感がある。

この仏像は
頭部の螺髪は平安時代後期
表情は白鳳仏の微笑み
体部は平安後期の定朝様
と時代が異なる要素が混じり込んでいるようです。そのために銅製の頭部は
「鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。」
と研究者は考えているようです。  整理すると
①白鳳時代に銅製で全体が造られた。
②その後、体部と頭部の螺髪が破損した
③それを平安後期に鉄製で補修した。
ということでしょうか。
  「ニッコリと微笑んでいる」という最初の印象は「白鳳仏の微笑み」からきているものだったようです。びっくりしました。
長尾寺 阿弥陀如来坐像

平安時代後期になると木彫仏が主流になりますが、それでも少数は木彫風の金銅仏が造られていたようです。それは飛鳥・奈良時代の様式と少しちがうものでした。また、鉄で造られた仏も、朝鮮半島の新羅では多く造られています。しかし、日本では少数派で鎌倉時代にわずかに造られているに過ぎないようです。そうした状況からすると本像も鎌倉時代に作られた可能性もでてきます。しかし、研究者は

「後頭部の立ち上がりや胸から腹に至る衣紋線、膝前の衣の処理などには平安時代の様式が認められるので、ここでは平安時代後期の造像とみておきたい。また、数少ない鉄造仏として注目したい」

と結論づけています。

 平安時代後期に修復されたこの阿弥陀さまを、長尾寺にもたらしたのはどんな人たちだったのでしょうか。
 中世のこの寺を考える場合には、志度寺を抜きにしては考えられません。志度は瀬戸内海の熊野水軍の寄港地として発展し、その港の管理センターとして志度寺が発展します。その管理は、熊野行者達が担うようになります。そして、熊野行者は補陀洛渡海の行場としての志度寺と山岳宗教の拠点となる女体山の大窪寺を「辺路」するようになります。
 さらに、室町時代になると高野山の念仏系聖たちがやってきて周辺農村部への勧進と布教活動を進めます。
彼らは次第に村々に迎えられ、そこに庵を結び定住していくようになります。長尾は志度寺のヒンターランドで、その寺域の中に入っていました。長尾寺は、そのような志度寺の子院のひとつとして生まれたと研究者は考えているようです。
 阿弥陀信仰や念仏信仰をもたらしたのは高野聖たちであり、彼らの登場が阿弥陀仏の出現と阿弥陀堂建立につながるというのが私の仮説です。長尾寺の本堂に安置される阿弥陀仏は、高野聖たちが熊野水軍の舟に載せられ志度までやってきて、それを陸路で長尾まで運んできたものと勝手に私は想像しています。
 近世になって長尾寺は真言宗から天台宗に改宗され、阿弥陀信仰は忘れ去られ、阿弥陀堂も再建されなくなります。そこに祀られていた阿弥陀さまも安住場所を失い、本堂に移ってきたものなのではないでしょうか。
長尾寺 不動明王
長尾寺の不動明王立像(本堂)

この不動さまを見たときの私の印象は「上半身と下半身が別物のよう・・・洗練されていない素人ぽい不動さま」でした。逆に見ると、専門の仏師の手によらない半素人の修験者が造ったのかも・・・と思えたりもしました。
専門家の評価を見てみましょう。
全体に大まかで荒々しい表現や太く頑丈な足柄およびその腐朽状況からみて15世紀頃の地方作と推定される。なお、台座裏に墨書銘(写真91)があり、享保3年(1718)に台座が新補されたことが分かるが、像自体は室町時代頃の作とみて良いと思われる。

室町時代の在地仏師の作品という評価のようです。江戸時代に造られて台座裏に墨書があるようです。見てみましょう
長尾寺 不動明王墨書銘

享保3年(1718)吉日 長尾観音寺不動
補堕落山観音院長尾寺
為春月妙香尼 秋月妙花尼 菩提也
施主 寒川郡石田村山王
   遠藤藤左衛門 為二世安全
この時点では、地元ではまだ「長尾観音寺」と呼ばれていたことが分かります。施主の石田村山王の遠藤藤左衛門が、「春月妙香尼と秋月妙花尼」の「菩提」のために寄進したとあります。
 長尾寺の「過去帳」(古文書古記録3-1)には、寒川郡石田村の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳4年(1714)3月20日に死去した「春月妙香信女」と、遠藤金左衛門家の先祖として、享保2年(1717)9月21日に死去した「秋月妙香信女」が記されているようです。台座の「春月妙香尼」「秋月妙香尼」はこの両名のようです。ここから、このお不動さまの台座は、「秋月妙香信女」が亡くなった翌年に供養のために寄進されたことが分かります。石田村山王は、山王権現周辺で現在の寒川支所の辺りになるようです。
 この時期は、松平頼重やその子達によって進められた「元禄期の長尾寺再建」により伽藍が一新した時期です。その後は鐘楼の鐘や各堂内の備品などが、地域の有力者の寄進によって整えられていく時期でもありました。そのような中での石田村山王の庄屋からの寄進のようです。不動さまは室町時代、その台座は江戸の享保年間のものということになります。
このお不動さまは、どこにいらっしゃったのでしょうか。
  いまは本堂にいらっしゃいますが、もともとは護摩堂に安置されていたのではないかと私は考えています。
長尾寺 黄不動

今、護摩堂に安置されているのは黄不動立像(写真99)のようです。
 黄不動立像とは円珍と関係のある仏で、比叡山や唐に渡る際に再三、身の危険を救われたとされます。文章博士・三善清行の『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』(902年)には、次のように記されます。
承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させた。

 黄不動は後世に模作されたものが、現在6つほどのこっているようです。そのひとつが長尾寺のこの像になります。ここからは、この像が真言宗から天台宗に改宗された後に、円珍由来の黄不動として造られたことがうかがえます。そして、今まで安置された護摩堂に、旧来の不動さまに替わって置かれたと私は考えています。そして旧来のお不動さまは、本堂に安置されるようになったのではないでしょうか。これも「観音寺から長尾寺」へのリニューアル策の一環であったのでしょう。

長尾寺 毘沙門天立像4
 昆沙門天立像

頭に宝冠を被り、右手に戟を持ち、左手は・・・今は何もありませんが宝塔を捧げ持っていたはずです。邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の上に立つはずですが・・・???
 見るからに西域風の出で立ちです。兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)と呼ばれるとおり、兜跋国(現中国ウイグル自治区トルファン)出身のお方です。この方は、一人の時には毘沙門天と呼ばれますが、4人組ユニットの「四天王」のメンバーの時には、多聞天と呼ばれます。守備エリアは、北方です。
 この毘沙門天は、様式的には先ほど見た不動明王さまと共通点が多く、同じ仏師の手で同時期に造られたものではないかと研究者は考えているようです。
 なお、足下に踏みつけている邪鬼は、彩色は後に塗り直されていますが、当初の作とみられ、顔の表情や筋肉表現には見るべきものがあり、15世紀室町期の地方作と研究者は考えているようです。
長尾寺 毘沙門天台座墨書銘
  
  この台座裏にも上のような墨書銘があります
「享保三(1718)成天初冬吉日」
「右為真元円照 春花智清 各菩提也」
「寒川郡石田村山王 施主為二世安全 遠藤藤左衛門」
さきほどの不動明王の台座寄進者の「遠藤藤左衛門」と同じで、寄進日も字体も同じです。「過去帳」には、寒川郡石田村山王の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳元(1711)年6月21日に死去した「真元円照信士」と、正徳6(1716)年3月9日に死去した「春花智清信尼」が記載されています。台座の「真元円照」「春花智清」は、この2人のようです。墨書銘から、享保3(1718)年初冬に遠藤藤左衛門が先祖の菩提供養のために、不動明王立像の台座とともに寄進したようです。

 ここで遠藤伝次郎が享保3年に寄進したのは台座だけなのか、それとも2つの仏像も一緒に寄進したのかという疑問が涌いてきます。不動さんと毘沙門天さんは、同時代・同一工房で造られた可能性を研究者は指摘していました。ここからは次のような2つのことが考えられます。
①不動明王と毘沙門天はセットで、従来から長尾寺に伝来していた。それに台座をそろえて寄進した
②享保3年に、2つの仏像と台座をそろえて遠藤氏が寄進した

報告者は、「松平頼重によって寄進された前立の聖観音立像の脇立としてセット」したと考えているようです。遠藤氏が室町時代の仏像に新たな台座をつけて寄進したということでしょう。しかし、これに対しては、私は違和感を感じます。先ほど述べたように、この寺の成り立ちとして修験者が守護神し、護摩堂にまつる不動明王が祀られていたはずだからです。新たに天台宗の黄不動明王を招いたとしても、従来ものを破棄するとは考えにくいのです。しかし、不動さまと毘沙門天はセットであったとすると、それまで毘沙門天はどこにいらっしゃたのかという疑問も涌いてきます。「今後の検討課題」ということにしておきましょう。
長尾寺吉祥天

最初の印象は「華やかな吉祥天 しかし、顔立ちは古風」という感じでした。近代に「加飾」(お色直し)されてされているようです。そのために身につけてものがモダンで近代風に見えます。しかし、頭のてっぺんなど見えない部分は加飾されず、木質部がそのまま露出しているようです。白髪染めがされていないようなものかもしれません。そこからみえる木質は、腐朽状況から近代のものではなく「相当の年月を経てきた」もののようです。
 そう言われて改めて全体を見てみると量感はふくよかです。
「側面観や大きな足柄など、平安時代の様式が看取される。」

と研究者は評価します。顔立ちが古風と感じたように、天平美人につながるものがあるような気がしてきます。近代のお化粧直しは、もとの彩色や木質部分を削り直して彩色が施されたようで、原型が分かりにくいようです。しかし、「平安時代の作であった可能性」を研究者は指摘します。
長尾寺 弥勒如来

 左手を与願印、右手を触地印とする珍しい印相の弥勒如来です。
この印相は日本ではほとんどなく、中国や朝鮮半島で如来の通印とされるものです。顔立ちがお茶目で、おもわず微笑んでしまいそうになります。指も長いです。研究者はこの仏を次のように評価します。

長い指の表現など様式から見て朝鮮半島・高麗時代の作、または中国の作とみられる。この印相の如来は韓半島でよくみられる。また韓半島では日本以上に弥勒信仰が盛んであった。
 朝鮮半島の高麗時代の作品と考えているようです。伝来の経緯は分かりませんが、秀吉の朝鮮侵略の際の「戦利品」というのが考えられます。

最後に大師堂の大師達を見ておきましょう
大師堂は、弘法大師信仰の広がりと共に、どこの霊場にも宗派に関係なく江戸時代注記頃から姿を見せるようになります。そこに安置されるのはもちろん弘法大師像です。しかし、ここは天台宗のお寺ですからどうなのでしょうか?どんな大師さんがいらっしゃるのでしょうか。長尾寺の大師堂には3人の大師がいらっしゃいます。
  
長尾寺 弘法大師座像

真ん中に弘法大師、
長尾寺 天台大師

向かって右側が天台大師
長尾寺 円珍坐像

左が卵頭がトレードマークの智証大師という並びになっています。
天台宗のお寺らしい大師堂という感じです。3つの大師像を見ると、同一仏師の作だということは一目で分かります。大師堂が作られた時に、都の仏師に同時に発注したもののようです。それは18世紀前半のことでしょう。それを示す墨書名はないようです。

お堂とそこに安置されている仏達を見てきました。それは長尾寺の成り立ちを考えることにもつながるようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

長尾寺 本堂と境内 1921年

仁王門から真っ直ぐに本堂に近づいていくと違和感を持つのは屋根の形です。天守閣に見られる入母屋の千鳥破風が正面に出ています。それを下の唐破風が受け止めている印象です。なぜわざわざこんな荘厳(デザイン)にしたのだろうかという疑問がわいてきます。その疑問を抱きながら調査報告書で本堂の項目を読んでいきます。本堂については次のように記されます。

[柱間装置]
正面中央間は諸折の桟唐戸、正面両脇間と両側面第1間。第2間は横舞良戸を引違とし室内側に明り障子1枚が立つ。その他各間は白壁とする。内部の内外陣境は透かし格子戸引違。
[床 組]
切石の束石に床束立ち、大引に根太組。外陣は板敷、内陣は板敷で手前側に畳3枚を敷く。脇陣は各々9畳の畳敷とする。
長尾寺 本堂平面図
長尾寺本堂平面図

本堂の歴史について見ておきましょう。
①8世紀後半の瓦が出土しているので周辺有力豪族の氏寺として、建立された。
②中世の本堂は不明だが戦国時代末期に本堂以外は兵火により灰焼に帰したと伝える。
③江戸時代に入り、生駒氏によって再興されたと伝わる
④初代高松藩主松平頼重が天和3年(1683)11月、真言宗から天台宗への改修を命じ、以後伽藍の整備が集中的に進められた。
松平頼重によって改修された本堂については、蓮井家文書(156-201「覚」)に記述があるようです。
それによると、元禄7年初頭、「長尾寺観音堂御再興奉行」に郡奉行矢野孫八郎組の永井孫吉が命じられています。
4月6日には「観音堂御普請、大工頭領多兵衛・甚左衛門てうな始」とあります。この日から観音堂の普請が始まったようです。
2ヶ月後の6月6日には「観音新堂棟上ヶ」とあり、6月初旬には棟上げが行われています。さらに、
「八月十三日迄二観音本堂・二王(仁王)堂・阿ミた(阿弥陀)堂迄普請相済、同日より長尾寺寺(ママ)諸材木てうな始」
とあります。ここからは、観音堂の他に仁王堂や阿弥陀堂の普請も同時に行われていて、8月中旬にはある程度まで終了していたようです。
長尾寺 棟札(観音堂再興5) (1)

しかし、長尾寺に残る観音堂(本堂)や阿弥陀堂再興の棟札(棟札5・9)の年代は、元禄14年(1701)9月18日です。蓮井家文書の記録とは一致しません。
普請が終わった後も手が加えられ、元禄14年になって落成したと研究者は考えているようです。このときの本堂(観音堂)の大きさは棟札(棟札5・8)から三間半四方の規模だったことが分かります。
松平頼重によって建立された本堂は、幕末の嘉永7年(1854)には拡張され「五間半四面」で建て直されています。それが現在の本堂です。幕末にはそれだけの「需要」があり大型化が必要とされたようです。その背景は何だったのでしょうか。それは後で考えることにして、幕末に大型化し再建されたことを押さえておきます。建設後百年以上経った昭和35年(1960)と平成19年(2007)に、屋根の雨懸り部材や、内部の建具などの改修が行われたようです。このように長尾寺の本堂は、棟札や記録等から近世以降の沿革がはっきりしていて貴重です。

長尾寺 本堂千鳥破風

専門家の本堂の評価を聞いてみましょう。
「来迎柱が本屋背面柱筋まで後退し、内陣脇陣境が開放的な平面形式に特徴があるほか、向拝をはじめ各所に用いられた彫刻の豊かさも特筆される。また、千鳥破風の桟唐戸の構えは、年に一回、一月七日に行われる大会陽(だいえよう)の際に開かれ、その前に櫓を組んで住職が宝木を投下する(現在は餅を撒く)ために使われるもので、当堂における最大の特徴といえる。
入母屋屋根の垂木は、向拝部の平行垂本を除き、すべて扇垂木として雄大な外観を呈する。妻飾り、二重虹梁など、新材に補修の痕跡が認められるものの、江戸時代末の大型三間堂として貴重である。」
長尾寺 本堂会陽舞台

ここからは、「千鳥破風の桟唐戸の構え」が大会陽の時に、住職が宝木を投下するための舞台に変身することが分かります。確かにこの本堂を見ながら変わっているなあと思っていたのですが、宗教イヴェントの晴れ舞台になるのです。

 大祭や開帳などの宗教イヴェントが大衆化し、19世紀になって大型化するといままでにないような参拝者が集まるようになります。そのため大衆的な人気や祭礼イヴェントを持つ寺院では本堂が大型化していきます。金比羅さんの金堂(現旭社)や善通寺の誕生院の本堂が大型化するのもこの時期です。同時に、本堂前の空間をできるだけ広く取るようなレイアウトが伽藍配置にされるようになります。これもそこで繰り広げられるイヴェントを意識したもののようです。
長尾寺 本堂と境内 1909年

長尾寺でも大会陽のための本堂が幕末に登場し、それが現在まで大切に維持されてきたようです。長尾地区だけでなく周辺のイヴェントセンターの場としての役割を求められ、それに応えるための宗教空間が出現したとしておきましょう。そして、その公的役割を果たしていたからこそ、明治に30年間も仮郡庁として機能を果たしたのででしょう。
長尾寺 西大寺会陽1

それでは、「大会陽」とは何なのでしょうか?
 この行事を今でも行っているのは、岡山県西大寺です。昔は、長尾寺と西大寺は会陽の音が響きあっていると云われたようです。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、その響き聞いた人には幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記には書いてあるようです。海を挟んで志度寺に伝わっていたものを、長尾寺が継承していたと研究者は考えているようです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
西大寺文化資料館:西大寺会陽の宝木
西大寺の寛政9年の牛玉宝木(神木)

 所によっては、1つの寶木を割って『陰』『陽』の2本にわかれるようにしたところもあるようです。その場合は福男は2人出ることになります。これに香を塗り込み、牛玉宝印(ごおうほういん)で包みます。包み方はそれぞれの寺、神社で異なるようで、何重にも包んだり、お札や小枝とともに包んだりしたようです。
会陽って何だろう-寺社の紹介(備前地区)

 この上に牛玉宝印を何枚も糊で貼って離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込みます。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。時には、割れずに一人が手中にすると、モロシソギといって二倍の賞品がもらえたようです。
会陽って何だろう-寺社の紹介(備前地区)

この神木の中にある牛王宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のことです。神社では牛王神符ということもあります。略して牛王(ごおう)・牛玉とも書かれて、中世文書には良く登場してきます。もともとはカラス文字とも呼ばれ、熊野神社で用いられていたもののようです。それが熊野行者の全国展開と共に各地の神社仏閣に広がっていきました。
 そして牛王宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、その裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われるようになります。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされました。
牛王宝印- 熊野の本宮・速玉・那智、天川村の龍泉寺: Neko_Jarashiのブログ
 牛王宝印を熊野ではカラス文字を使ってデザインしています。
ひとつひとつの文字が数羽のカラス(と宝珠)で表されているのです。そのため、熊野の牛王宝印は俗に「おカラスさん」とも呼ばれます。
 牛王宝印のカラスの数は増減しますが、現在の牛王では、本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽のカラス文字で五つの文字が表わされています(右の写真は本宮の牛王宝印)。
本宮の烏の数が88羽なのと、中世の熊野行者が四国辺路の原型を形作ったとされることから「四国88ヶ寺」の88もここから来ているのではないかという新説も最近は出されています。
熊野三山の烏牛王符だけが「牛王(牛玉)宝印」じゃない!~各地の牛玉札のバリエーション&蒐集の記録と探訪記~(随時更新) (2ページ目) -  Togetter

 牛王のなかで最も神聖視されていたのは熊野の牛王でした。
とくに武将の盟約には必ずといっていいほど、熊野牛王が使われいます。『吾妻鏡』には、源義経が兄・頼朝に自らの誠実を示すための誓約文を熊野牛王に書いたことが記されています。熊野の神への誓約を破ると、熊野の神のお使いであるカラスが三羽亡くなり、誓約を破った本人は血を吐いて地獄に堕ちるとされていました。
 また、熊野牛王を焼いて灰にして水で飲むという誓約の仕方もありました。熊野牛王を焼くと熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬといわれます。その罰が誓約を破った人に当たって即座に血を吐くと信じられ、血を吐くのが恐くて、牛王を飲ますぞといわれると、心にやましいものがある者はたいがい飲む以前に自白をしたと云います。元禄赤穂事件では、赤穂浪士が討ち入り前の連判状に熊野牛王を使ったようです。
 このように熊野牛王は誓約に用いられた他にも、家の中や玄関に貼れば、盗難除けや厄除け、家内安全のお札にも霊験あらたかとされました。こうしてこのカラス文字で書かれた札自体が信仰の対象となっていきます。仏前でみんなで奪い合うのにふさわしいお札だったようです。
 同時に、ここには熊野信仰と熊野行者の活動がうかがえることに注意しておきたいと思います。志度寺には熊野行者の影響も多かったようです。そして、志度寺を通じて長尾寺にもその影響は及んでいたことがうかがえます。

 長尾寺の絵巻物で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、神木だけでなく串牛玉をたくさん上から投げています。そうすると、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。当事の人たちにとって牛王宝印というのは本尊さんの分霊と考えられていたようです。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださる、そんな思いで参加していたようです。

 餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。
長尾寺 西大寺会陽2

撒かなくても手渡しでいいのではないかと思うのですが、それでは「福」は来ないのだそうです。投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神のようです。
 どうして会陽とよぶのでしょうか。
 それも西大寺を見れば分かります。西大寺の場合はシソギ(宝木・神木)を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと伝えます。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことだと民俗学者は云います。立ち会いの前に、力士が鉄砲を踏むのと同じのようです。起源は相撲と同じようです。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みを「ダダ」と呼ぶそうです。東大寺のお水取には「ダッタソ」があります。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となるようです。
以上をまとめておくと
①古くから寺社では神木を奪い合う行事が行われていた
②その際に悪魔払いに「エイヨウ」とうかけ声と共に地面を踏んだ。
③これが漢字表記されて「会陽」となった。
④この行事は、熊野行者の瀬戸内海進出とともに、各地の神社仏閣に広げられた。
⑤その際に、熊野行者は神木に「牛玉宝印(ごおうほういん)」を入れて、熊野信仰とリンクさせた。
⑥会陽は西大寺や善通寺・長尾寺には近世には伝わり、大イヴェントになった。
⑦この行事を行うためには大きな空間が必要なため伽藍の再レイアウトが求められるようになった。
⑧長尾寺では、護摩堂・本堂・大師堂を一直線にして、会陽の展開スペースを確保した
⑨同時に、幕末に本堂を大型化する際に、宝木を投げるための舞台装置として千鳥破風妻造りの屋根が登場した。この前に櫓が組まれ、そこから宝木が投げられるようになった。
⑩長尾寺の本堂は会陽の会場として、地域のシンボルタワーの役割も果たすようになる。
⑪また長尾寺は長尾街道と志度・大窪街道の交差する要衝にあるため、明治には郡役場が30年近くに渡って置かれた。
長尾寺は、四国霊場の札所であると同時に、地域の文化センターや祭礼センターとしても機能してきた歴史を持つようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 長尾寺本堂 装飾

   参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

   中世末期に長尾寺は、戦乱に巻き込まれて衰退したようです。
『補陀落山長尾寺略縁起』には
「寺の縁起・記録等、天正年中の比、国家の擾乱によりて、皆ことごとく焼失、諸堂と同じく灰焼となるに本尊は不思議に残った」

と記されます。天正年間(1573~92)に兵火のため諸堂は焼失したと、讃岐の有力寺院と同じような記述が見えます。 また『讃岐国名勝図会』には「文明年中兵火にかかり」とあるので、それ以前の文明年間(1469~87)にも焼失した可能性もあります。しかし詳しいことは分かりません。

近世になっての長尾寺の復興は、どのように進められたのでしょうか
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、次のように記されます。
「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」

ここからは、当時の境内が、かつての壮麗な伽藍の姿を失い、「時遠く事去て、荒蕪蓼蓼」とた寂しい状況だった様子が分かります。それを惜しんだ生駒家が再興したと云いますが、その具体的な内容は記されていません。
2 長尾寺 境内図寂然

元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』に描かれた長尾寺の挿絵です。
真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめたもので、天下泰平の元禄時代を迎えて、長尾寺の伽藍が次第に整備されている様子が読み取れます。観音堂(本堂)以外にも、鎮守である天照大神を祀る社殿や、高野の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は復興しています。また入口には仁王門らしき建物も見えますし、長尾街道には門前町も形成されています。そして、観音院と呼ばれる庫裡も姿を見せています。
元禄2年(1689)の時点で、長尾寺がここまで復興していたようです。
長尾寺の復興推進の力になったのは何だったのでしょうか。
 讃岐の近世の復興は、天正15年(1587)に讃岐へ入部してきた生駒氏によって始められます。宗教的には、流行神の一つとして生み出された金比羅神を保護し、330石もの寄進を行い金毘羅大権現へ発展の道を開いたのも生駒氏です。讃岐の近世を幕開けたのは、生駒氏ともいえます。
 玉藻集には、荒廃していた長尾寺に再興の手を差し伸べたのは生駒家2代目一正だったとあります。また『讃岐国名勝図会』も
「慶長年中 生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ
と記します。ここからは、慶長年間に、長尾寺を初めとする札所寺院の復興が生駒氏によって始められていたことが分かります。
これは、阿波や土佐に比べると讃岐は、札所復興のスタートが早かったようです。
 それでは生駒時代に長尾寺の復興は、どのレベルまで進んだのでしょうか。
天下泰平になり復興が進み、中世の修験者や六十六部のようなプロの参拝者に替わって、アマチュアの「四国遍路」が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺。八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ 七ケ所ナリ」

彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと
③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②③から、この時にはこの寺は観音寺と呼ばれ観音信仰の拠点だったようです。東讃の札所霊場では、讃岐七観音が組織されていたことが分かります。
①では伽藍については、本堂のみです。その他のお堂については何も触れていません。澄禅は、その他の霊場のお堂については全て触れています。書いていないのは、本堂以外にお堂がなかったと推測できます。生駒藩によって再興されたのは、この時点では本堂だけだったとしておきましょう。
 寛永17(1640)の生駒騒動によって生駒藩が取りつぶされた後、東讃岐に入ってきたのが水戸の松平氏です。
高松藩初代藩主の松平頼重は、独自の宗教戦略を持っていたようです。彼の宗教政策のいくつかを挙げてみると
①藩主松平家菩提樹である仏生山法然寺の創設と高位階化
②金毘羅大権現の朱印地化と全国展開
③京都の真宗興正寺との連携と興正寺派の寺領内での保護
  ただ保護するだけではなく、彼の寄進保護の背後には政策的な狙い隠されていたように思われます。

寛文9年(1669)に、松平頼重が領内寺院の由来等を報告させた「御領分中寺々由来」には長尾寺は「讃州宝蔵院末寺」の真言宗寺院として
「正保年中、松平讃岐守頼重被再興之事」

と記されています。これが事実ならば、頼重は入封して間もない正保年中(1640年代)に長尾寺を再興したと記します。しかし、具体的にどの建築物を寄進したのかは触れていません。「玉藻集」等の史料でも、頼重の再興については何も記されません。「歴史的な裏」がなかなか取れず、本堂を再興したのは生駒氏か松平氏か判断する信憑性のある史料がないようです。「四国遍路日記」で見たように1653年段階では、長尾寺には本堂しかないとすると、松平頼重が再興した建物は何だったのでしょうか。考えられることは、次の通りです。
①本堂は生駒氏が再興した。
②生駒騒動で建設途上になっていた本堂を、松平頼重が完成させた。
私は、入国直後のこの時点では松平頼重が長尾寺を保護する理由がなかったとおもいます。長尾寺の優先順位は、低かったはずです。長尾寺が松平頼重の視野の中に入ってくるのは、もう少し後だったのでは内でしょうか。
 『改訂 長尾町史(下巻)』には、天和3年(1683)から貞享2年(1685)にかけて、傷んでいた本堂の茅葺き屋根を修復したと記します。茅葺き屋根なら何年かに一度は、やり替えないといけません。これを修復というのでしょうか。どちらにしろ時期や内容、規模等は分からないにしても、1680年代には松平家の保護を受けるようになり、何らかの修理等が引き続いて行われたことはうかがえます。そこには、なんらかの思惑が松平頼重にはあったはずです。

 それに続く記録は、貞享4年(1687)、真念が四国を歩いて書いた「四国辺路道指南」です。そこには長尾寺は、次のように短く記されています。
「平地、南むき。寒川郡なが尾(長尾)村。本尊正観音 立三尺六寸、大師御作」

ここには伽藍の様子は、ほとんど書かれていません。そして、最初に見た『四国偏礼霊場記』元禄2年(1689)ということになります。
 松平頼重は長尾寺を天和3年(1683)に、真言宗から天台宗に改宗させて実相院門跡の末寺にしています。
それは長尾東村の本寺極楽寺の支配を離れるということです。中世から近世当初には「観音寺」と呼ばれ観音信仰の拠点であったこの寺は、この「改宗」を契機に「長尾寺」と名を改め、長尾村の有力寺院・長尾寺として本寺から自立し独自の道を歩み始めることになります。松平頼重によって、同じく真宗から天台宗に改修させられて札所寺院には根来寺があります。根来寺の改修にも松平頼重の思惑があったことは、以前にお話しした通りです。つまり、根来寺とともに長尾寺を天台宗に改宗し、高松藩における天台寺の拠点とする宗教方針が明確になってきたのでしょう。それは真言勢力への「牽制勢力養成」という戦略的な意図があったと私は考えています。
 天台宗に替わった天和3年頃には、それまで茅葺であった本堂を瓦葺きにする修復が進められたようで、貞事2年(1685)に落慶した記録があります。同時にお堂なども建立され始めたようです。それが四国偏礼霊場記に記されているようです

『四国偏礼霊場記』に描かれているのは、元禄期の造営が行われる以前の長尾寺の姿なのです。
松平頼重の長尾寺伽藍整備は、天台宗に改宗し長尾寺と「改名」してからがスタートでした。
長尾西村の庄屋であった蓮井家に伝わる「蓮井家文書」に次のような記事があります。元禄7(1694)
4月 観音堂(本堂)の普請が始まり、
6月 棟上げ、
8月「観音堂」「二王門」「阿弥陀堂」の普請終わり
と、本堂をはじめ仁王門と阿弥陀堂が同時進行で建てられていたことが分かります。これは「長尾寺略縁起」が「今の堂、二王門等は頼重建立で元禄7年に造営した」という記述と一致します。

長尾寺 聖観音立像
        松平頼重が本尊の前立像として寄進した聖観音立像

また元禄6年に松平頼重が本尊の前立像として聖観音立像(彫刻3)を寄進していることとも時期的に矛盾しません。こういうやり方は、金毘羅さんへの寄進や奉納と同じです。「短期間に集中して、しかも継続的」な寄進を行うのです。
長尾寺 棟札(観音堂再興5) (1)
長尾寺観音堂の再興棟札 元禄14年の年紀が見える

 しかし、長尾寺が所蔵する観音堂と阿弥陀堂の再興棟札(棟札5・9)は、元禄14年(1701)9月のもので、2代藩主松平頼常の名が記されています。縁起は元禄9年、棟札は元禄14年となり、両者の普請時期は一致しません。
考えられるのは、つぎのようなことでしょうか。
①頼重の後で、頼常の代に再び改築が行われたのか、
②元禄7年で終わらず手を加えながら後年完成した
頼重は元禄8(1695)年4月に亡くなっていますので、そんな事情もあったのかもしれません。
 なお、この時に阿弥陀堂は再建されることはありませんでした。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
         阿弥陀堂本尊だった阿弥陀如来
中世の高野山系の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は再建されることなく姿を消します。中世に勧進聖として活躍した彼らの痕跡は消されていきました。
 仁王門については、この時に建てられたものが修理を経ながら今日に至っているようです。そうすると、境内では最も古い建築物となります。

元禄期(1688~1704)の松平頼重や頼常が進められた境内整備状況を年表化しておきましょう
元禄2年 頼常が長尾寺に殺生禁断の制札を与える、
元禄6年 寺領5石寄進。頼重は前立像にあたる聖観音立像を寄進
元禄7年 本堂・阿弥陀堂・仁王門・御成門再建。
     本堂内陣の厨子はこの本堂再建時のものと伝え、戸張に
     「三ッ葉葵」の紋が施されている
元禄14年 本堂及び阿弥陀堂が再建され、棟上げが行われた
元禄期  釣鐘が当地の有志木戸広品によって造られた
宝永7年(1710) 鎮守・天満宮の創建され(棟札10)、
享保3年(1718)、元禄年間の釣鐘が壊れたので、本戸伊通が一族で釣鐘を新造
享保年間初頭 護摩堂が「再建」
 天台宗の拠点寺院にふさわしい伽藍造りが目指されたと私は考えています。仏生山の法然寺とある意味同じような宗教的・政治的威信が求められたのでしょう。元禄期に藩主によって進められた改修を受けて、その後は地域の人々の手によって境内整備等が行われたようです。
これを進めたのが当事の長尾寺住職・了意だったようです。
彼は元文4年(1739)に逝去し、その墓が住職墓域にありますが、こらが長尾寺に残る墓では一番古いようです。長尾寺の住持は隠居や逝去するまでその任を務めることよりも「栄転」することの方が多かったようです。その栄転先は、鶴林寺や金倉寺、実相院門跡など他の天台宗寺院だったようです。ある意味、長尾寺がそれらの転住先の寺院に次ぐ位置にあったことが分かります。ここからも新たに天台宗の有力寺院を作り出すという松平頼重の意図がうかがえます。

長尾寺 阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来像
このような状況を伝えるのが、寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」です。本文には
「本堂本尊聖観世音立像〈御長三尺二寸、大師の御作〉、大師堂(本堂の裏に在〉、天神社(大師の前に在〉」

と記されます。著者九幕主人は「長尾寺門前にて一宿」して、これを書いたようです。
長尾寺 四国遍礼名所図会

この絵を見ると、大師堂が本堂裏にあると書かれているので、
①境内北側中央にある宝形造の堂字が本堂、
②右奥のやや小ぶりな建物が大師堂
③本堂左横の入母屋造の堂字が護摩堂
④大師堂の前方、境内右端奥にあるのが天満宮で、
⑤その手前が宝筐印塔
⑥仁王門は街道からやや奥に建ち、門前には2基の経幢
⑦仁王門前には、境内南端に沿って水路をまたぐ橋
⑧仁王門を入って左の建物は茶堂の可能性
⑨その奥には格子のある小さな建物が見えるが不明
⑩左奥には茅葺屋根の下方を瓦葺にした客殿・庫裏
⑪客殿の土塀に設けられた二つの間のうち護摩堂側は御成門
⑫門前には藁葺きの家屋が並ぶ門前町があり、遍路者や街道を通る人々のための宿等が営まれている。
この絵を見て気づくことは
A 現在の境内の中心的な建物であるる本堂、大師堂、護摩
  堂の三棟が、この頃には整えられていたこと
B 今の境内から比べると大師堂がかなり後方にあったこと
C 阿弥陀堂が消え、代わりに鐘楼が描かれていること。

長尾寺 阿弥陀如来坐像11
長尾寺の阿弥陀堂の本尊だった阿弥陀仏坐像

(3)19世紀前半頃の長尾寺
 幕末から明治初期にかけて全国を遊歴した松浦武四郎は、天保7年(1836)に四国八十八ヶ所を参拝し、弘化元年(1844)に「四国遍路道由雑誌」としてまとめています。そこには長尾寺については、次のように記されています。
「(略)長尾村ニ至る。少しの町家、二王門並びに茶堂等有。八十七番補陀落山観音院長尾寺、従八十六番萱り、在道斗也。此寺は聖徳太子之開基なりと云博ふ。其後大師再興し給ひしとかや。本尊は御長三尺六寸。正観音。聖徳太子之御作なりとかや。境内大師堂=鎮守之社有。」

ここからは門前に「少しの町家」が並び、「二王門」や「茶堂等」のほか「大師堂」「鎮守社」があったことがわかります。さして初めて「茶堂」が明記されています。「二王門並二茶堂等」という記述から、仁王門近くに建っていたとがうかがえます。
 遍路者等の供養記録「他檀家過去帳」にも「茶堂」のことが記されています。
遍路の息絶えた場所では「二王門」に次いで「茶堂」が多いようです。また、安政7年に没した金沢出身の「鏡心法師」よいう人物は、「当山茶堂居三年」とあり、茶堂で3年居住した後に亡くなっています。遍路としてやってきて、その後に参拝者への接待の場である「茶堂」の管理人を務めていたのかもしれません。
この頃の景観を描いたのが、嘉永7年(1854)刊行の『讃岐国名勝図会』です。
本文では境内については、次のように記します。
「本尊聖観音〈行基大士作)、大師堂、護摩堂、○鎮守社(天満宮)」、
「寺記曰く、当寺は天平十一年行基菩薩草創なり。天長二年この国の刺吏良峰安世諸堂を修造して、地名によりて今の寺号に改む。文明年中兵火にかかり、慶長年中生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ、天和年中国祖君源英公(松平頼重)この寺をもって国中七観音の一とす。その余、国分寺。白峰寺・根香寺・屋島寺・八栗寺・志度寺これなり。寺領を賜ひ度々御修造なしたまふ」
とあります。
 挿図は、長尾寺境内と門前の様子を、近隣の西善寺、秀円寺と共に俯瞰して描いています。

長尾寺 『讃岐国名勝図会

①境内の中央奥に「本堂」が南面して建ち
②右横に「大師堂」
③左横に「護摩堂」
④かつては奥まったところにあった大師堂が、本堂に並ぶ位置に出てきています
各堂の配置は、今と同じになりました。しかし、詳しく見ると
「本堂には千鳥破風がなく、大師堂と護摩堂も入母屋造であるなど、建物の姿は現在と異なる」

と研究者は指摘します。現存の本堂は、『讃岐国名勝図会』刊行と同じ年に再建されているので、描かれているのはそれ以前の姿のようです。
87番札所 長尾寺の『大師堂拝観』に行ってきました(*^▽^*)♪@長尾: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
長尾寺大師堂

 拡大すると境内の東端、大師堂の前方には台座に並ぶ3つの仏像らしきものが見えます。これが現在大師堂横にある石造の三世仏のようです。石仏の下方に手水舎が描かれ、右横の現薬師堂が建つ近辺には小さな建物が見えます。これが何なのかは分かりません。その横には「鐘楼」が建ち、長尾街道沿いの境内南端の土塀は、現在のように鈎型に窪んでいません。仁王門に真っ直ぐ連なるように描かれています。
 門前には、2基の経幢と、水路にかかる橋が見えます。仁王門を入って左の建物は、先ほどの史料から茶堂でしょう。
境内奥を見ると、本堂と護摩堂、さらに左の「納経所」まで貫くように渡り廊下が真っ直ぐに続いています。納経所横の二層の建物には「鼓楼」とあり、隣接する「方丈」の土塀の角に建っていたようです。しかし、この絵図の他には、その存在を示す史料等はないようです。

長尾寺

 方丈の土塀には御成門があり、その奥に庭を画する塀の一部が見える。御成門の手前に見える本殿と拝殿、鳥居の上には「鎮守」と記されいます。ここから18世紀には、境内の東側にあった鎮守社(天照大神)が、現在と同じ西側に移されたことが分かります。
 さらに、鎮守社は本堂等のある境内との間を南北に延びる土塀で画され、境内中心部の外に位置するような配置となっています。現在はこの上塀がなくなり、鎮守堂を西端に配置することで、境内中央に広い空間が生まれました。大きな宗教的イヴェントを行うための空間が確保できたことになります。納経所や鼓楼、茶堂などは今はなくなっていますが、今から200年前には、主要な建造物が今日とほぼ同じ位置にあったことが分かります。
 また、境内南の長尾街道を見ると、参詣者だけでなく往来する多くの人々の姿が描かれています。街道の賑わいと、そこに面して立地する長尾寺の「都市の寺院」としての性格を伝えているようです。
長尾寺 毘沙門天立像4
長尾寺 毘沙門天
19世紀後半頃の長尾寺                   
幕末のペリー来航の翌年嘉永7年(1854)9月に、本堂(観音堂)が再建されます。ところが、2ヶ月後の11月に安政の大地震が発生し、「鐘楼・客殿・釣屋・長屋・大師堂」などが大破します。すぐに修造が行われますが鐘楼は再建されずに、鐘は仁王門に吊されたと伝えられます。
長尾寺(四国88箇所:第87札所 香川県)
長尾寺本堂
地震後の復興の様子を年表化してみましょう。
安政2年(1855) 天満宮拝殿の修理。灯籠(境内石造物8)が建立
延元年(1860)  天満官の鳥居(境内石造物22)建立
文久3年(1863) 灯籠一対(境内石造物7)が奉納
明治元年(1868) 10月、護摩堂が再建。露盤宝珠は11代藩主松平頼聰寄進。これは藩主が藩知事となる前年のことで、高松藩主として長尾寺に遺した最後の足跡になる
明治33年(1900) 天神社(「天満自在天社」)再建の上棟
明治36年    天神社の「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」が完成
「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」は、菅原道真の没後一千年大祭紀念のため調えられた奉納物で、手洗鉢は高松工芸学校長であった黒木安雄の図案だったようですが、今は不明となっているようです。三角形水屋は、長尾寺客殿の中庭に今も遺されています。

明治維新後の長尾寺にとって大きな事件は、明治15(1882)に郡役所が長尾寺に置かれたことです。
 長尾史に掲載されている当時の部役所職員の写真を見ると、御成門を背景に撮影され、門柱に看板らしきものも見えるようです。ここから御成門とその奥の客殿が仮庁舎として使用されたことがうかがえます。庁舎としての使用期間は、明治15年(1882)から大正6年(1917)に郡役所庁舎が新築され移転するまで30年以上続いたようです。
 明治42年(1909)発行の『四国霊場名勝記 全』24には、この頃の境内を写した写真が掲載されています。
長尾寺 本堂と境内 1909年

今から110年ほど前の写真になります。本堂と護摩堂は現在と同じ再建後の姿で、本堂前の線香立(境内石造物17)や、雨受一対(境内石造物20)も見えるようです。本堂前の一対の灯籠は、文久3年銘灯籠(境内石造物7)のようですが、現在はこの場所にはありません。注目したいのは、燈籠の手前にある2つの石造物です。
1長尾寺 石造物

これは、前回に紹介したの経幢のようです。近世には仁王門前にありましたが、明治には本堂前に移されていたようです。「改訂 長尾町史1上巻)』には、
「明治26年(1893)に門内に移し、同45年(1912)に元の位置に戻した」

と記されています。経幢が本堂前にあった時の姿をを記録した貴重な写真かもしれません。
 境内全体が写されていないのでよく分かりませんが、本堂、護摩堂、大師堂をつなぐ渡り廊下は、現在のものとは形が違うようです。また、地面を見ると参道の石敷がなく、本堂前には今よりも多くの松の木が生えていたことが分かります。

20世紀以降の長尾寺           
20世紀になると、境内の造営のことが「[過]去霊簿」に次のように記されています
「参道敷石仁工門筋塀墓地移転 大仏(注:師ヵ)堂再建」
棟札からも
明治44年(1911) 筋塀18間の新造(棟札13)
大正2年(1913) 栗林公園の北の「雌ノロ御門」を、払い下げを受け、移築して新たに東門設置
大正7年(1918) 郡役所が境内から転出
大正10年(1921) 大師堂上棟と完成
郡役所の転出を受けて大師堂再建をはじめ、改めて境内全体の整備が行われたようです。
当時の写真が、大正10年(1921)発行の『四国人十八ヶ所写真帖 完』にあります
長尾寺 本堂と境内 1921年

本堂右横に僅かに見える大師堂の屋根形状から、大師堂専建以前に撮影されたと研究者は指摘します。画面中央にあるのは安政2年(1855)奉納の灯籠(境内石造物8)で、今はやや東側に移されています。地面を見ると、仁王門の方向から玉堂、大師堂をつなぐように参道が敷石で敷かれているのが分かります。参道整備に伴って、灯籠などの移動が行われたようです。
 この後、大正15年に現在の太子堂が完成します。
そして、渡り廊下で本堂と結ばれていきます。こうしてみると長尾寺の現在の姿は、約百年前に整えられたものであることが分かります。その間に何度かの大修理を重ねているのはもちろんですが・・
長尾寺 不動明王
長尾寺 旧護摩堂本尊の不動明王

以上をまとめておきます
①境内出土の古瓦から、奈良時代には仏堂があったと考えられる
②縁起によれば天正年中に境内諸堂を焼失し、17世紀前半に生駒家により再興されたという。
③『四国偏礼霊場記』からは、17世紀後半には現在と同じ場所に境内があり、南向きの本堂のほか、観音院(客殿等)や街道に開かれた仁王門が建ち、町家が並ぶ門前の街道に茶屋などがあった
④阿弥陀堂など失われたものもあるが、境内の立地や建物構成は現在と同じで、遍路道も確認できる。
⑤元禄期に松平家による造営等により諸堂が整えられた
⑥寛政12年(1800年)の「四国遍礼名所図会」には、中心となる本堂、大師堂、護摩堂と思われる三棟の堂宇が建ち、仁王門や客殿、御成門なども現在とほぼ同じ場に描かれている。
⑦19世紀前半には、大師堂・本堂・護摩堂が横一列に並ぶレイアウトとになり、鎮守社も境内西側に移され、祭礼空間として広いスペースが生み出された。
⑧幕末に本堂が再建されたが、地震で複数の建造物が大破したが、鐘楼など一部を除いて復旧した。
⑨明治には30年以上にわたって客殿等が郡役所仮庁舎として使用され、境内は公的空間として機能した
⑩庁舎移転後に、大正15年(1926)の大師堂再建など境内整備が進められた。

長尾寺 現在の伽藍配置図

長尾寺 建物変遷表

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年
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          香川県四国八十八箇所霊場と遍路道 調査報告書12 長尾寺調査報告書(香川県教育委員会) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

図書館を覗いてみると長尾寺の調査報告書が入っていました。いつものように、のぞき見てみることにします。長尾寺がいつ出来たかについては、同時代史料がなく分からないというのが結論のようです。
しかし、報告書はできるだけの史料を集めて、分からないことを史料に語らせています。それにつきあってみましょう。
87番札所 長尾寺の『大師堂拝観』に行ってきました(*^▽^*)♪@長尾: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人

①江戸時代中期の『補陀落山長尾寺略縁起』には、

天平11年(739)に行基が本尊の聖観音菩薩を刻んで安置したことに始まり、天長2年(825)に藤原冬嗣が再興したという。いわゆる行基開基説です。しかし、再興に藤原氏が登場するのはなぜでしょうか?よく分からないまま、読み進んで行くことにします。
②『讃岐国名勝図会』には、良峰安世が諸堂を修造し、地名にちなんで長尾寺に改めたと記されます。
③長尾寺は、中世から近世初期まで極楽寺宝蔵院(さぬき市長尾東)の末寺であったようです。極楽寺の寺歴をまとめた『紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記』では、天長2年に藤原冬嗣が建立したとします。再び藤原冬嗣の登場です。
続いて近世の縁起・由来を見てみましょう。
④寛文9年(1669)に各郡の大政所が寺社の由緒を提出した『御領分中宮由来・同寺々由来』では、延暦年間(782~806)に空海が創建し、本尊聖観音は聖徳太子の作とします。
⑤讃岐最初の地誌で延宝5年(1677)の『玉藻集』には
「此寺はもと聖徳太子開建ありしを、弘法大師、霊をつつしみ紹隆し給ふと云う」
と云うのです。
⑥明和5年(1768)の序文がある『三代物語』でも聖徳太子の草創で、後に空海が修造し、正観音菩薩をつくり安置したとします。
   こうしてみると、次のような変化が読み取れます
中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
近世になると「聖徳太子・空海開基」説
この変化の背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。私の師匠の口癖は
「だいたい札所の寺というは、由緒が分からなければ開基は行基か弘法大師となるもの」

だそうです。この寺もその例にもれず
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

と四国遍礼霊場記には記されて、聖徳太子や弘法大師の登場となります。つまり、この寺の縁起がはっきりしないことを示しています。このように長尾寺の成立については、いろいろな説がありますが、どれも後世の史料で信頼性のあるものではないようです。確かにこれでは研究者は「不明」とする以外にないでしょう。

 ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。
この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実のようです。
さぬきの古代時代

ここは南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたは云えるようです。

長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図 
私が疑問に思ったのは、長尾寺の由来に志度寺との関係が出てこないことです。以前に見たように「状況証拠」からは、中世には志度寺に拠点を置く高野聖たちの周辺地域での勧進活動などが活発に行われていたことがうかがえることはお話ししました。これには何も触れられません。
遍路・87番札所 長尾寺(ながおじ ・香川県 さぬき市) : 家田荘子ブログ ~心のコトバ~

2 中世の長尾寺
中世における長尾寺の動向についても、文献史料がなく分からないことだらけです。残されたモノ(遺物)を見ていく他ないようです。
この寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)

経幢(きょうどう)は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
 
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書

建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。13世紀後半には、有力者からこれだけの石造物を寄進される寺院があったということになります。
1長尾寺 石造物
長尾寺の経幢(きょうどう)

中世の長尾寺は、近隣の極楽寺の末寺だったと報告書は云います
 本寺であった極楽寺は真言宗寺院です。そうするとその末寺であった長尾寺も、この時期には真言宗であったことになります。寛文9(1669)の『御領分中宮由来・同寺々由来』に「讃州宝蔵院末寺」として「真言宗 寒川郡長尾寺」と記されているが裏付け史料になります。ただ大正15年(1926)の「大川郡誌』には次のようにあります。

「長尾寺が天和3年(1683)に、天台宗の実相院門跡の末寺となった」
「始メ法相宗、次二天台宗、中古真言宗二転ジ、今又天台宗二復帰ス」

ここからは大川郡史が書かれた時には、このことを記した寺の記録があったのでしょうが、今はこのようなことを記す史料は長尾寺には残っていないようです。三豊の大興寺や多度津の道隆寺のように、真・天台両勢力が併存した時期があり、しだいに高野聖の活発化と共に真言宗が優位になったとしておきましょう。
 「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記』には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
 境内や墓地には五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているので、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。しかし、石造物も仏像と一緒で「有力寺院」に集まってくるので、すぐには判断できないようです。報告書は「さらなる検討が必要」としています。

香川県さぬき市 長尾寺 彫刻1 | yasakuhinmokurokuhakoのブログ

中世の長尾寺の活動について、別の視点から探ってみましょう。
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、長尾寺が次のように記されています。

「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」

ここからは次のようなことが分かります。
①長尾寺の本尊は観音立像で、大きさは1㍍ほどの小ぶりな仏で、弘法大師作とされていた。
②阿弥陀仏が傍らに安置されていた。
③鎮守は天照大神であった
④かつての壮麗な伽藍の姿を失い、もの寂しい状況だったのを慶長年間に生駒家が再興した
注目したいのは本尊の他に阿弥陀如来像があり「傍らに安置」していたほか、境内に天照大神を祀る鎮守社があった神仏混淆の伽藍であったことです。
これより12年後に出版された「四国偏礼霊場記』には、長尾寺の境内が描かれています。真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめて遍路のための案内パンフレットして元禄2年(1689)に刊行されたものです。長尾寺については「玉藻集」の記事を引用して

「さし入に二王門あり。寺の前 遍礼人の寄宿所有」

と書き加えてあります。この絵は貞享年間(1684~88)頃の長尾寺の実際の景観を描いたもののようです。
2 長尾寺 境内図寂然

この絵図からは次のようなことが分かります。
①境内の北側中央に「観音堂」(本堂)があり、右横に「天照太神」、その下に「阿弥陀」と書かれた小堂が見えます。阿弥陀像を本尊を祀る観音堂のすぐそばに安置していたようです。これは「玉藻集」の記述と合致します
②観音堂左下の「観音院」と記された2棟の建物が客殿のようです。下方の境内入口には仁王像を安置する仁王門があります。
③門前に描かれた方形の箱のように見えるのは、水路にかかる橋のようです。
④仁王門左上の建物は、接待用「茶堂」と研究者は考えているようです。
⑤境内に接する長尾街道の両脇には家が建ち並び、「茶屋」と書かれた家があります。拡大すると中には黒い茶釜らしきものが描かれています。これが「さし入に二王門あり。寺の前 遍礼人の寄宿所有」の施設かもしれません。記録によると善根宿などは、宿泊は無料か、それに近いくらい安価であったようです。しかし、食費はそれ相応の値段だったことが分かります。
   17世紀後半の長尾寺には門前らしきものが姿を見せ、遍路に対しての宿泊サービスも提供されるよいになっていたことがうかがえます。
  「玉藻集」と「四国偏礼霊場記」には、共通して描かれているものがあります。
その中で「観音堂」(本堂)と、その右横の「天照太神」、その下の「阿弥陀」に焦点をあてて、当事の信仰形態を探ってみましょう。
まず観音堂について見てみましょう。
世の中が平和になり、参拝者が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。
1四国遍路日記

彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと
③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②によると、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたようです。③には観音信仰は長尾寺だけのものではなく坂出から高松に至る海岸沿いの札所の多くがメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、あったことがうかがえます。

観音寺と呼ばれていたのが、いつ頃から長尾寺になったのでしょうか。
承応2年(1653)の『四国遍路日記』では「観音寺」
承応4年(1655)の宗門改帳においても「長尾西村 観音寺」とあるようです。
それが長尾寺になるのは、この寺が真言宗から天台宗に改宗して以後のことのようです。寛文9年(1669)の『御領分中宮由来・同寺々由来』には「長尾寺」とあり、この頃から長尾寺の表記が一般的になったようです。改宗や新たな末寺編成が行われた天和3年には、寺名も長尾寺に定まっていたのでしょう。貞享4年(1687)の真念の遍路案内記『四国辺路道指南』には「長尾寺」として登録されています。
遍路・87番札所 長尾寺(香川県さぬき市) : 家田荘子ブログ ~心のコトバ~

 長尾寺の鎮守がどうして天照大神なのか。

熊野の若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合若王子(にゃくおうじ)とも呼ばれます。若一王子の本地仏は、十一面観音で、天照大神瓊々杵尊と同一視され混淆されます。いまでも若一王子は若宮として、熊野本宮大社熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られ、天照大神のこととされているようです。
 もちろん、若宮は天照大御神ではありません。熊野の信仰が出来たときに、新宮に伊井諾尊、那智に伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになったようです。そのために、熊野では天照大御神になってしまったようです。そういういきさつから若宮といわれるものは若王子を祀っています。若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。簡略化すると

「長尾寺の本尊聖観音 = 天照大御神 = 熊野の若宮
 =若王子 = 海の神様」

というように混淆・権化してきたようです。ここからは、長尾寺の鎮守はもともとは海の神様だったことがうかがえます。熊野行者が背中に背負ってきた観音様を祀り、その化身の若宮(=天照大神)を守護神とした例は数多くあります。
 例えば、高野聖の一員として修行を重ねていた西行が善通寺にやってきて、勧進活動を3年間行っています。その間に善通寺の背後にそびえる五岳の我拝師山にある修行場の捨身が瀧について「わかいし」と書いています。「わかいし」と「若一王子」のことです。西行のころには、まだ若一王子が札所に祀られていたことが分かります。

なぜ、海に関係する「若王子」が長尾寺の鎮守となったか
 それは熊野行者が観音信仰と補陀落信仰を志度寺にもたらしていたことと関係するようです。その仮説を順番に並べてみましょう。
①仏教以前に、志度の砂堆上に海との間を祖霊が行き来する霊場があった。
②そこへ熊野行者がやって来て、海とつながりのある観音信仰と補陀落信仰を「接木」して神仏混淆を行った。そして、霊場の管理センターとして志度寺が現れた。守護神は「若王子」とされた。同時に志度寺は志度港の管理センター役割を果たすようになる。
③その後、高野山から高野聖たちが阿弥陀信仰をもってやって来て志度は浄土へつながる場所とされた。
④高野聖たちの中には、念仏聖もおり、勧進と布教活動を周辺で行った。
⑤当初は志度寺周辺にいた念仏聖たちの中には、周辺部の村々に迎え入れられて定着するものも現れた。
⑥志度寺の後背地の長尾には、志度寺の子院となる寺院が数多く姿を見せるようになる。
⑦長尾寺の山号が志度寺と同じ補陀落山なのは、もともと長尾寺が志度寺の子院であったのが、その後に独立したためである。
⑧近世に「弘法大師伝説」が四国霊場に広まってくると、天台宗ではあるが大師堂を建立する。
私が今考えているストーリーは、こんなものです。
上のストーリに17世紀後半の「四国偏礼霊場記』に見られる長尾寺の宗教施設を落とし込んでいくと、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)と守護神の天照大神は、②の熊野行者がもたらしたものです。
B「阿弥陀堂」は、③④の高野聖たちがもたらしたもの。
C「大師堂」は⑧の大師信仰の拡大の中で建立された。
つまり、長尾寺の17世紀の宗教施設は志度寺の宗教的重層性を反映したものであるというのが今の私の仮説なのです。調査書を読んでいて、刺激を受けて筆があらぬ方に走り出してしまいました。テーマの「調査報告書を読む」からは、大きく逸脱した内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

高松城 周辺地理図
讃岐国髙松・丸亀両城図 讃州髙松
この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。簡単な線で描かれていて、景観はかなりデフォルメされていますが、高松城成立当初の周辺地形を知る上では貴重です。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」(以下「通記」)は、江戸初期の高松城周辺の地形について、次のように記します。
 寛永ノ比今八十年ノ古迄ハ其要害ノ体モ残テ我見之也。先(A)江東ノハナ穴薬師卜云々観音ノロ迄満潮サシ込、山ノ側二上リテ往来ス。干潮ノ時ハ潮地ヲ渡ル也。西浜楯ノ木ノ辺ヨリ潮渡于ンテ満潮ノ時ハ山ノ根一円二広海卜成也。四月三日右馬頭臨時祭ノ時、(B)石清尾塔ノ下橋迄潮指込タルヲ我之ヲ見ル也。(C)東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟い坂田中河原迄潮先来ル也。
 
意訳しておくと
 寛永の今に比べて、八十年前まではその要害の地形も残っていたのを私も見た。(A)「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた。西浜楯ノ木の辺りから潮は入り込み、満潮時には山の麓付近まで一円の海となった。四月三日の右馬頭観音の祭の時には、(B)石清尾塔の下橋まで潮が満ちてきたのを私は見たことがある。
(C)東浜は野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。
 享保期(「通記」の成立時期)よりも80年年ほど前の寛永時代には、海岸線が内陸に入り込んだ様子が記されています。(A)江東ノハナ穴薬師」は、「讃州高松図」の①「カウトノハナ(郷東ノ鼻)、城ヨリ一里」にあたるようです。
それでは(A)は、現在のどこにあたるのでしょうか?
   「穴薬師」については、『讃岐国名勝図会』の「松岩寺」の説明に次のような記述があります。
「岩窟に薬師を安置す、穴薬師といふ。往古は海岸なりしとぞ」

ここからは松岸寺に「穴薬師」があり、付近が海に面していたことが分かります。地形描写が「通記」の記述と一致するので、「穴薬師」は、松岩寺(高松氏西宝町)の位置にあったようです。
高松市松岩寺
 
松岩寺の位置を「グーグル」で確認すると、石清尾山麓の北端にあたります。かつては海に突き出す岬の先端だったことが分かります。

 「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた

 とありますから満潮時には、ここまで潮がやってきて、人々はここを往来するときには、山手の上の道を選んだようです。海への突出地形を示す「ハナ=鼻」の表現にふさわしい場所です。「穴薬師」があった「江東ノハナ」=「カウトノハナ」は、松岸寺付近の地点としておきましょう。
野原・高松・屋島復元地形図
中世の髙松湾と野原
 絵図には①「江東ノハナ」からさらに②「いわしお山=石清尾山」の麓まで海が入り込んでいる景観が描かれています。これも「通記」(B)の石清尾八幡宮付近まで潮が満ちたのをかつて目撃したこと云っていることと符合します。17世紀には、西宝町から昭和町を経て岩清尾神社付近までは入江が入り込み、干潟だったようです。そして、中世は現在のサンポート周辺が河口の一部でした。

「昭和町」の歴史を振り返って起きます。
①近世当初は昭和町は、河口に湿原だった
②松平氏の時代になり岩清尾八幡により開拓され寺領となる
③開拓地の水資源として姥ゲ池が築造される
④明治の上知令で岩清尾八幡の社領は国家に没収される
⑤以後、学校施設が配置され、住宅化がすすんだ。
高松市東部グーグル

 次にお城の東側を見てみましょう
  「通記」の(C)「野方口迄潮サシ込」と、図中右部分に見られる④「ノカタ(野方)ロ」の付近が海岸となっている様子が一致します。
「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の
「高松ヨリハ嶋ヘー里半、塩浜一里」の説明文と合います。
「南海通記」の
「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」

と思われる道が、図では「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように、「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。真言宗のエリート僧の四国巡礼記録です。一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が記されています。

 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。④の野方口とは
干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。

高松天正年間復元図1

  高松絵図で城の部分を拡大してみましょう
高松絵図 15の拡大

この絵図には外堀、中堀、内堀の三重構造、西ノ丸を含むL字形の曲輪、三ノ丸・ニノ丸・本丸と渦郭状に連続しする構造が描かれています。ここからこの絵図が描かれた慶長後期の時点までには、高松城の基本的な構造は出来上がっていたことが分かります。

 絵図の⑨と⑭には、東西それぞれ「舟入」の書き込みがあります。
高松城の特徴のひとつは、堀を港としていることです。それが絵図からも確認できます。
 しかし、西側の舟入の位置については、後の絵図の一致しますが、東側については「舟入」の書き込みが外堀ではなく、中堀の所にあります。また、この段階では舟人の入口部分には、施設の設置などが見られないようです。
 城の海側の北面部分には、矢倉(櫓)が二つ描かれ、三ノ丸北部には門が設けられています。門は海側にあり、海に直接出るような構造に描かれています。城の外郭に接続してもおらず、具体的な機能は不明です。
高松城北側の海岸利用図
 城下の様子を見てみましょう
高松城 周辺地理図

外堀と中堀間に⑩「侍町」があり、東側に⑧「町屋東浜」⑩「町屋西之丸浜」と記されています。その他に城から南東の位置に③「町屋」と記されている場所が見えます。これは、中世の野原段階で形成された町かもしれません。
「町屋京浜」は、生駒時代後期には「東かこ(加古)町」となる地域、「町屋西之丸浜」は武家地となる地域です。つまり、この絵図に示されたものと後の城下町プランには、かなり違いがあることが分かります。この絵図では城下は、外堀を境界線として、
外堀内=城郭内に「侍町」=武家地、
外堀外=城郭外に「町屋」=町人
という明確な区分けがあったことが分かります。そうすると、東側の中堀にある「舟人」は誤まって記されたのではなく、この位置に舟入があった可能性があるようです。

外堀の南側を見てみましょう。
ここには丸亀町を中心に町人地が続くエリアの筈ですが、何も描かれていません。南東のやや離れた場所に「町屋」があるだけです。
 丸亀町の名の由来については、「綾北問尋抄」に次のように記されています。
「同(慶長)十五年(生駒)一正卒し給ふ。時に五十六歳。令嗣左近太夫正俊世を継ぎ、高松の城に居住す。此時丸亀の市店を高松の郭に移し、丸亀町といふ。」

ここからは、慶長15年(1610)、生駒正俊(三代目)が丸亀城下の商人をここへ「強制移住」させて街並みを整備したことが分かります。この絵の外堀南側には「町屋」がないのは、その「強制移住前」の前の状態が描かれているのかもしれません。
 生駒時代の当初の町屋形成は、東西の舟入の外側のエリアで優先的に町場形成が行われていたようです。そのあとに丸亀城からの商人を、外堀南側の街道沿いに配して丸亀町が形成されたとしておきましょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 御厨 義道     高松城における海辺利用の変遷について

志度寺には「讃岐国志度道場縁起(海女玉取伝説)」とよばれる、14世紀前半につくられた縁起があることを前回はお話ししました。この「縁起」は、能にとり入れられて「海人」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となったといわれます。「讃岐国志度道場縁起」は中世芸能の担い手達からも注目されていたことがうかがえます。
 志度道場縁起は漢文で書かれているので、簡単に現代語に意訳して見ます。
 藤原鎌足がなくなって後、その子である不比等は父の菩提を弔うために、奈良に興福寺を建立してその本尊として丈六の釈迦仏を安置しようとした。その時鎌足の妹は美人の誉れが高く、そのうわさは唐にまできこえ、唐の高宗皇帝の切なる願いにより、唐にわたって皇后となっていた。
 この妹が兄の寺院建築のことを聞いて、たくさんの珍宝を送ってきた。その中に不向背の珠という天下無双の宝玉があった。これらの珍宝を積んだ船が、瀬戸内海の讃岐房前の浦(志度)にさしかかると、にわかに暴風が吹き波は荒れ狂い、船は転覆しそうになった。そこで珠を守るため珠を入れた箱を海中に沈めようとしたところ、海底から爪が長く伸び毛に蔽われた手が出てきて、その箱をうばいとってしまった。唐の使いは都に着いてその仔細を不比等に報告すると、非常に残念に思った不比等は珠がうばわれた房前の浦までやってきた。
 不比等はその地で、海底でも息の長く続く海人の娘と結婚し、三年が過ぎると二人の間に、一人の男の子が生まれた。この時になって初めて不比等は自分の素姓を明かし、唐から送られた宝玉がこの海で龍神にうばわれたことを話した。そして、その宝玉を何とかして取り返したい旨を妻に告げると、彼女は死を覚悟で珠を取って来ようとする。
その際、気にかかるのは残される子のことである。海人は自分がもし命をおとすようなことになれば自分の子を嫡子としてとり立ててくれるよう約束して、龍宮を偵察するために海にもぐって行く。
 海人は一旦海底を偵察した後で、自分が死んだら後世を弔ってほしいと遺言して多くの龍女たちに守られた玉を取り返そうとして腰に長い縄を結び付けて玉を得ることができたら、合図に縄を引くから引き上げてくれるように頼んで再び海中の人となった。舟の上では合図を今か今かと待っていると、かなりの時聞か過ぎて縄が引かれたので、急いで引き上げると海人は、玉をとられたと知った龍王が怒って追いかけ、四肢を食いちぎった無残な死体となっていた。
志度寺 玉取伝説浮世絵
海女玉取伝説の浮世絵

 海人の死体は近くの小島に安置され、人々が嘆き悲しみながらよく見ると、乳の下に深く広い疵がありその中に求める玉が押し込められていた。そこでその小島を真珠島と名づけ、島の南西の浜の小高いところにある小堂に海人の遺体を安置し、寺を建てて志度道場と名づけ、なくなった海人のために仏事供養を行なった。
 玉は不比等が都に持って帰り、興福寺の釈迦仏の眉間に納められた。海人と不比等の間に生まれた子は房前と名づけられ、十三才の時に母のなくなった房前の浦に行き、母の墓を訪れると地底より母の吟詠の声が聞こえてきたという。

 以上が縁起の、大体のあらすじです。この話については前回にもお話ししましたので、今回は、この縁起は何をよりどころに生まれてきたかに焦点を絞って見ていくことにします。

  二、書紀の玉取り伝説
 志度道場縁起のタネ本と目されるのが『日本書紀』允恭天皇十四年九月条にある次のような記述だと研究者は考えているようです。
 天皇、淡路島に猟したまふ。時に大鹿・猿・猪、莫々紛々に、山谷に満てり。炎のごと起ち蝿のごと散ぐ。然れども終日に、一の獣をだに獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。島の神、崇りて日はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に、真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉。に獣を得しめむ」とのたまふ。
  爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と日ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須曳かりて出でて日さく、「海の底に大蝶有り。其の処光れり」とまうす。諸人。皆日はく、「島の神の請する珠、殆に是の腹の腹に有るか」といふ。亦人りて探く。爰に男狭磯、大腹を抱きて認び出でたり。
 乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち腹を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち島の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで在。とある、

これが男狭磯の玉取り伝説で す。意訳しておきましょう。

 天皇が淡路島に猟に行ったときに大鹿・猿・猪、などが山谷に満ちて炎のようにたち、蝿のように散る。しかし、一日が終わっても、1頭の獣さえ捕らえることはできない。そこで、猟を止めて占った。島の神が云うには、「獣が獲れないのは、私の仕業である。赤石(明石)の海の底に、真珠がある。それを我に奉ずれば、たちまち獲物は得ることができるようにしよう」と云う。
 そこで処々の白水郎(海に潜るのが上手な漁師)を集めて、赤石の海の底を探がした。海は深くて底まで潜れるものがいない。唯一、海人の男狭磯が潜れるという。彼は阿波国の長邑の人で、どこの白水郎よりも潜ることにすぐれていた。腰に縄を繋けて、海の底に入って行った。海から出てきて云うには「海の底に大きな蝶々貝があります。その中から光がしますと云う。人々が口をそろえて言うには、「それこそが島の神が求めている珠にちがいない」いいます。そこで男狭磯は、また海に探く潜り、大腹を抱いて上がってきましたがすでに息絶えていました。縄を下して海の深さを測ってみると六十尋あった。貝の腹を割ると、まさに真珠が中にあった。その大きさは桃の実ほどもある。これを島の神に捧げて猟をしたところ、たちまちにして多くの獣を得ることができた。男狭磯が海に入って、亡くなったことを悲しみ、墓を作り厚く葬むった。其の墓は今もあると云う。

これが、男狭磯の玉取り伝説です。
物語のポイントは、志度道場縁起も書紀の允恭紀・男狭磯も、息の長く続く秀れた海女がいて、海中深く潜って珠を得た後に、亡くなるという点では全く一緒です。
 幕末から維新にかけて書かれた「日本書紀通釈」によると、
「或人云、阿波国人宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村鰯山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り、是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそと云り、聞正すへし」
これも意訳すると
「伝承では、阿波の人・宮崎五十羽が伝えるには、板野郡里浦村鰯山の麓に古蹟がある。。里人は「尼塚」と呼ぶ。これが海人・男狭磯の墓であると地元の人たちは伝る」

ここからは江戸末期から明治の初め頃にかけて、阿波の板野郡には男狭磯の墓と伝承される古蹟があったことが分かります。この古蹟は今もあり、鳴門市里浦には尼塚と呼ばれる宝飯印塔があるようです。
 この古蹟の伝承書紀に載せられているのですから、それよりも古いことは明らかです。
『延喜式』巻七、神祗の大嘗祭の条には、
 阿波国、一漱並布一端、木綿六斤、年色十五缶し瓢根合漬十五缶、乾羊蹄、躊鴉、橘子各十五簸皿剋・鰻鮨十五増、細螺、輯甲羅、石花等廿増特認四・其幣五色薄絢各六尺、倭文六尺、木綿、麻各二尺、葉薦一枚、作具鏝、斧、小斧各四具、鎌四張、刀子四枚、範二枚、火讃三枚、並壇濁、及潜女心曜造酒

とあって、天皇即位の大嘗祭には、阿波忌部と那賀郡の海女たちによって、いろいろの神饌が差し出されていたことが分かります。
 允恭紀に出てくる海人・男狭磯も那賀郡(長邑)の人で、『延喜式』でも那賀郡に海女の集団がいたことがわかるので、男狭磯の物語は那賀郡の海女集団によってつくられ伝承されたと研究者は考えているようです。
 そして、この海女集団は大嘗祭の神饌の献上を通して、阿波忌部とも密接な関係にあったようです。男狭磯の物語は、那賀の海女と阿波忌部氏の間に、伝承されてきた物語であるという仮説が出来そうです。
 阿波忌部は麻殖・名方・板野の三郡に分布していたといわれ、板野郡に男狭磯の墓と伝えられる古蹟があるのは自然です。それでは、この阿波忌部と那賀郡の海女の間で伝承された物語が、どのようにして中央に伝えられ、『日本書紀』に採録されるようになったのでしょうか。
 男狭磯の物語は書紀にあって、古事記にはありません。
そこで、『阿波国風土記』は720年以前に成立し、紀の編者はこれを見て書紀の中にとり入れたということも考えられます。そうすると『阿波国風土記』は、諸国の『風土記』の中でも、成立年代の早い方の一つであったことになります。

以上を時代順に並べると次のようになるようです。
①阿波には古くから那賀郡の海女の集団と忌部によって伝承される男狭磯の物語があった。
②この説話は板野郡の尼塚を中心にして伝承され、中世になって志度道場縁起の中にとり入れられた
③それが、さらに能「海人」や幸若舞にもとりいれられ、中世芸能として発展した
  
 以上をまとめておきましょう
①阿波の那賀郡には古くから、那賀の潜女とよばれる海女の集団がいて、男狭磯の物語を伝承していた
②この海女の集団は、大嘗祭の神饌を通して阿波忌部と密接な関係を持ち、そのため男狭磯の物語は忌部にも伝えられた
③それが板野郡に尼塚という伝承地となって伝えられるようになった
④この男狭磯の物語は、『阿波風土記』の中にとり入れられ、さらに『日本書紀』の中にとり入れられることになった。
⑤男狭磯の物語は、今は伝わっていない『阿波国風土記』の一つの物語であった可能性がある。
⑥中世になって阿波の男狭磯の物語が隣国の讃岐・志度寺の縁起の中にとり込まれた。
 それが志度道場縁起である
⑦志度道場縁起は、能にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となった。「海士」は世阿弥の頃からあった古曲であると云われます。中世には讃岐も阿波も管領となった細川氏の支配地でしたから、志度道場縁起が能にとり入れられる素地があったのかもしれません。このように、海人の玉取り伝説は、古代に遡る可能性のある古い物語のようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 海人の玉取伝説と志度寺縁起    ことひら
    -古代伝承の継受を中心に1

 昔話が親から子へ、そして孫へと伝えられている間は、大きな変化や改編は行われません。しかし、外部からやって来た半俗半僧の高野聖たちの手にかかると、おおきなリメイクが行われることがよくあります。四国では四国辺路(遍路)のためにやってきた高野聖たちが昔話を縁起化・教説化がして、仏教布教のため寺の縁起として利用していたようです。そんな例として、志度寺の縁起を見てきました。
今回は志度寺縁起の創作や広報伝播に関わった高野の念仏聖たちに焦点を当ててみたいと思います。
 
志度寺の7つの縁起を呼んでいると、寄進・勧進を進め、寺の経済を支えた下級の聖たちがいたことが見えてきます。
例えば、仏教的な「作善(善行)」を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると説いています。
「白杖童子蘇生縁起」を見てみましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた馬借であった。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。
 ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につれられ閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうち「一堂建立」の願いごとが判明し、王は感嘆して

「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」

 こうして童子は、蘇生の機会を得てこの世に生還する。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生したというのがこの縁起あらましです。
この縁起はどんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 まず考えられるのは、志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えているようです。
 囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促しています。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善が求められます。それは
「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」

です。ここでは造寺という大業を果たした白杖童子を語ることで、庶民にもそうした心を植えつけ、ささやかであっても寺に寄進するようすすめるのがこの物語のドラマツルギーのように思えます。こんな説教を聞いて、人々は今の禍いや来世の地獄の責苦からのがれるために「作善」を行おうと思うようになったのでしょう。こうした話を、寺院の修造建築のために村々に出向いて説いて勧進して歩きまわった勧進僧(唱導聖)が、志度寺周辺に数多くいたようです。
志度寺縁起の「阿一入道蘇生縁起」を見てみましょう
伏見天皇の文保元年(1317)に阿一は急死します。ところがその日のうちに蘇生して冥土から帰ってきます。その理由は閻魔王宮に到着した阿一が
「偏に念佛申、後世菩提の勤を営みたらましかば、観音の蓬台に乗して、極楽へこそ参べきに、世にましはり妻子脊属をはくくまんとせしほどに一生空く茫々として夢幻のことく馳過にき」

と閻魔様に述懐したためです。
 この姿を見た琥魔大王は
「汝十八日夜、志度道場三ヶ年よりうちに修造仕覧と起請文書たるか」
「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也。彼堂を三ヶ年よりうちに修造せむと大願を立申さは、汝を娑婆へ帰し遣へし」
 と、今後三年間で志度道場(寺)の本堂修造の起請文書を閻魔様に差し出し、娑婆(現世)に送り帰らされることになります。こうして、阿一は現世に帰り、寺の修復にあたることになります。
 ここから分かることは、閻魔様は、阿一は荒廃した志度寺の修造に当たらせるために蘇生させたのです。その裏には寺を修造するという仏教的作善があります。それが復活の機会を与えることになったようです。
先ほどの縁起の中には「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也」と書かれていました。志度寺は「閻魔大王の氏寺」だというのです。そのため「死(渡)度寺」とも書かれていたようです。
 志度寺は、死の世界と現世との接点で、海上他界観にもとづく補陀落信仰に支えられた寺であったようです。この寺の境内では6月16日には、讃岐屈指の大市が立ち、様々なものが集まり取引されました。陸路だけでなく瀬戸内海にも開けていたために、対面の小豆島から舟で農具を初め渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めにやって来ました。島では、樒(しきみ)の葉を必ず買い求めたと云います。志度寺の信仰圈は小豆島にまで及び、内陸部にあっては東讃岐全域を覆っていたようです。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいました。
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。この時には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて十五日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。

「死者の渡る寺」をプロデュースしたのは、どんな集団だったのでしょうか
  それが高野聖だったようです。高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖だったと研究者は考えているようです。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があるようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

 高野聖の廻国は有名で、研究者の中には「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。
 時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。
 観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。

高野の聖は、志度寺をどのようにプロデユースしたのか?
高野聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進にのために知識(信仰集団)を組織し、講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。
 唱導の第1歩は、
志度寺の縁起をや諸仏の誓願や功徳を説き、
釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、作善に導いていく導入路を開きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 しかし、元ネタがなければ第1話の本尊薬師如来の由来記のように、長谷寺のものをそのまま模倣するという手法も使われます。高野聖にとって、高野山に帰れば全国のお寺の情報を得ることが出来ました。先進実践例や模範由来記があれば、真似るのは当然のことです。これも文化伝播のひとつの形です。
 志度寺の海女の玉取伝説は、日本書紀に出てくる阿波の記事をリメイクしたものであることは前回お話ししました。これは出来の良い縁起っもの語りになりました。息子の栄達のために命を捧げる物語のというテーマは「愛と死」です。これほどドラマティックな要素はありません。この2つの要素を聖たちは、壮大な伝奇的構想のなかに織りこむことによって、志度寺の縁起物語を創作したのでしょう。出来が良い説経は、能や歌舞伎、浄瑠璃に変化して世俗的唱導と姿を変えていきます。これを語ったのは放浪の盲僧や山伏や、社寺の勧進聖たちでした。その際に唱導は、文字で伝えられたのではありません。語り物として口から耳へという伝えられたのです。そこでは自然と、語り口に節がつけられ、聞くものを恍惚をさせる音楽的効果が伴われるようになります。これが「説経の芸能化」なのでしょう。
縁起物語のもう一つの方向性は、軍記物(合戦談)です。人間の死ほどドラマティックなものはありません。また庶民は勇士や豪傑の悲壮な死や、栄枯盛衰に興味は集中していきます。その結果、生まれるのが『平家物語』とか『源平盛衰記』です。この一連の作業工程に、大きく関わったのが高野聖たちではなかったのかと私は考えています。

最初に思っていた方向とは、だいぶんちがう所へ来ていましたようです。今回はこのあたりで・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起
五来重  高野の聖

前回に「志度寺縁起絵」の中に描かれた中世の志度の「港」をみてみまた。そしたら「志度寺縁起って、なーにー?」と問われました。志度寺縁起が何者かであるのを答えるのは私の力の及ぶところではありません。私の考える「志度寺縁起」を備忘録代わりに残しておくということにします。
志度寺縁起 6掲示分

6篇からなる壮大な縁起で、全体が一つの物語。
 縁起絵自体は6本の大きな絵図です。日本に現在残っている縁起絵の中でいちばん大きなものと云われているようです。一幅が巻物の二・三巻に相当する大きさなので、絵巻物にすれば二十巻ぐらいのボリュームがあります。
 そこに物語が順序を追って描かれていて、上から下に、下から上に進む大胆な構成の絵を幅物にしてあります。それに長い漢文の詞書が付いています。縁起物語をかたる絵解き材料だと云われています。つまり、行事の時に多くの信者に、これを見せながら絵解物語を語ったのでしょう。ある意味、大きな大きな6篇の紙芝居と云えるかもしれません。編名は
「御衣木之縁起」
「讃州志度道場縁起」
「白杖童子縁起」
「当願暮当之縁起」
「松竹童子縁起」
「千歳童子蘇生記」
「同一蘇生之縁起」
絵は6つですが、その絵を見ながら語られるのは7つの縁起です。
それでは、順番に見ていくことにします。ご開帳・・・・!

志度寺縁起 御衣木縁起
「御衣木之縁起」クリックで拡大します
「御衣木之縁起」のあらすじ
 近江の国に白蓮華という大きな大きな木がありました。雷が落ちて琵琶湖に流れ出しますが、その木は霊木で行さきざきで災いを引き起こします。瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流されます。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄ります。それで志度では、霊木で十一面観音を刻みました。
というのが「御衣木之縁起」です。これは、どこかで聞いたことのある話です。それもそのはず「長谷寺縁起」そのものです。本来は志度ではなくて、大和の当麻の村に留まって、百年間、疫病をはやらせていたのが、徳道上人が仏像に刻んで当麻寺ができたという話を、あちこちにつなぎ合わせた「パクリ」で、地方の寺院にはよくあることです。それも文化伝達のひとつの形としておきましょう。「商品登録」「著作権」もない時代のことです。
 この絵には、上から下へに霊木が流れ着く所で起きる禍が描かれています。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
志度寺に現れた十一面観音と当時の志度寺周辺

最後に流れ着いたのが一番下に描かれる志度寺です。そこで禍を与えていた霊木が十一観音に生まれ変わっていく場面になります。志度寺が砂堆の東端にあり、南側は潟湖が広がっていたことが分かります。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

また、製作年代が文保二年(1318)、発願者が「薗の尼」という比丘尼の名前と「一幅二図シテ」と書かれていますので鎌倉時代末には出来上がっていたことが分かります。
志度道場縁起

志度寺縁起の中で、最も有名なのが「讃岐志度道場縁起」の「海女の玉取り」話です。
この絵は、志度寺の本堂にレプリカが置いてあります。この物語の主人公は、なんと藤原不比等なのです。物語は、一人の海女の悲しい伝説として伝えられています。 
 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた不比等の娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
 しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。
 海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。
 龍神との死闘の末、海女は自分の胸を切り裂いて、乳房に宝玉を隠します。
志度寺 玉取伝説浮世絵
浮世絵絵の玉取伝説 左端が玉を胸に隠した海女

腰に命綱をつけた海女の合図があり、不比等が綱をたぐると、海女の手足は竜に食いちぎられていました。しかし、十文字に切った乳房の下には、玉が隠されていたのです。
海女の玉取り物語 « 一般社団法人さぬき市観光協会

不比等は約束通り海女の生んだ房前を藤原家の嫡子とします。
若干13歳で大臣となっていた房前は、東大寺建立のため全国を行脚していた行基について志度に訪れます。その時に母の死の理由を知ります。房前は、母を偲んで志度寺の堂を広く立て直し、そこに千基の石塔を建て菩提を弔むりました。
 母を供養した房前はその後も活躍し、藤原家の栄華へとつながったとさ。
これが『海女の玉取り物語』です。ストーリーとしては「子の出世へ、命を投じる海女(母)」の物語です。しかし、登場してくる相手役が藤原不比等なのです。この絵を見ながら絵解きを聞いた人々には「志度寺=藤原家の菩提寺」ということを自然に信じるようになったでしょう。 同時に
「藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。この海辺は極楽浄土へ続いている」と人々は信じるようになります。後世に「死渡が変化して志度」になった。その名は町の名称にもなった

と、近世の歴史書には書かれるようになります。
 いつ、どこの、だれが物語を創作したのかは分かりませんが、平安末期のプリンス、後白河天皇が今様の和歌を記した「梁塵秘抄」に「志度」という地名が登場する程、朝廷では志度は名の通った土地だったようです。その後も、この物語は語り続けられます。そして能にも取り入れられて能「海士」が作られます。
志度寺 玉取伝説能

 この能の成立背景には、興福寺と志度寺(香川県)を結んで瀬戸内海に教線を拡大する西大寺流律宗の活動があったようです。律宗が中世絵画の傑作『志度寺縁起絵』を生み出した要因だというのですが、それは又の機会にすることにします。

1志度復元イラスト 白黒
 海女が息を引き取った真珠島は、今は埋め立て地の丘になっていてます。
後世は弁天様が祀られているので「弁天」の方が地元では通りがいいようです。現在でも10月の多和の秋祭りの次の週末には、志度寺にてお経があげられていると云います。志度寺の境内には、こけむした海女の墓があります。

 志度寺縁起の3つ目は「白杖童子縁起」です。
 
志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

主人公は貧しい馬借の白杖童子です。馬借は「馬借一揆」に登場する流通業者です。白杖童子が一つのお堂を建てたいという願を立てていましたが、完成しないうちに死んでしまいました。しかし願を立てたという功徳だけで、閻魔の庁で
「お前を帰すが、志度の道場にかならずお堂を建てよ」
といわれて帰ってきます。
 白杖童子が地獄にいるとき、一人の女が鬼に道いかけられていました。白分が蘇生させてもらえるよりも、哀れな女を先に蘇生させてやってほしいと頼んだところ、お前は感心だというので、若い女も共に放免されて、この世に蘇生します。その女は讃岐守をしているたいへんな金持ちの娘だったので、夫婦になって三年間でこの寺を建てた、めでたし、めでたしという話になっています。
  この絵から読み取れるのは

志度寺 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

①閻魔大王が登場すること。上の絵図の右半分が閻魔庁で、門外には赤鬼に死者が伴われて連行されています。中には正面に閻魔大王はじめとする「十王」のメンバーが待ち構えています。十王とは、冥土で亡者の罪を裁く十人の判官です。
 この縁起を見に集まった人たちは、説教法師の話を身を乗り出して聞いたことでしょう。同時に「十王信仰」がこのようにして絵解きを通じて広められていったうかがえます。この時代に地方の真言有力寺院は競うように「十王堂」を、建立することになります。
②もうひとつは、このお話の「落ち」はどこにあるのでしょうか
それは「寄進するものは、救われる」という善行の教えでしょう。このような教えが人々の間に広まっていたからこそ、有力寺院は大規模な造営・改築事業ができたのです。
4番目の縁起は「当願暮当之縁起」で、満濃池の龍の話です。
前編に登場した白杖童子がこの寺を三年かかって建てて供養した場所に、当願と暮当という二人の猟師が結縁のためにお参りにやってきたという所から話は始まります。二つの物語をつなげる手法としては、なかなかうまく作られています。
 当願が堂の前に座っているうちに心身朦朧として、立とうとおもっても立てなくなってしまいます。暮当は当願が帰らないので、探して道場に来てみたら、顔だけは当願で、からだは蛇になっています。当願が
「白分は蛇になってしまった。弘法大師の造った満濃地に沈めてほしい。そこに住みたい」

と云います。そこで、暮当は蛇になった当願を背負って満濃に放した。三日目に当願はどうなっているだろうと見にいったら、当願が「お前にこれをあげる」といって一眼をくり抜いて差し出したと書かれています。
 大蛇や龍の眼をもらうと、すべての願いがかなうという話はいたるところにあります。暮当が酒壷の底に沈めると、美酒になった、汲めども汲めども尽きなかったという話も、よくある果てなし話をうまく取り入れています。不思議におもった妻がそれを発見して、みんなに吹聴してしまいます。
 国司がそれを聞きつけて献上せよというので、暮当はしかたなく差し出します。その評判が朝廷にも聞こえて、朝廷に差し出せというので、朝廷に差し出したところ、こんどは宇佐八幡がそれを欲しいといいだした。その玉を宇佐に運ぶ途中で、遊女となじんだ船頭が龍神に取り返されたのを、遊女の自己犠牲によって取り返したというたいへん紆余曲折のある物話になっています。昔話の手法を縁起の中にうまく取り入れているようです。
 5・6番目の「松竹童子縁起」「千歳童子蘇生話」です。、

志度寺縁起 阿一蘇生

松竹童子が25歳で早死にしていまいます。すると観音の使いがやってきて「葬式は三曰待て」と云います。そのまま置いておいたところ、3日目に松竹童子が生き返っていうには、閻魔の庁で志度寺再興の命令を受けたというのです。その閻魔の庁の描写も非常に細かく、絵そのものもなかなかのできばえです。志度寺修造を条件にして帰されたので、松竹童子は母親と共に出家して、洛中を勧進して廻ります。勧進して集めたお金は、多くはありませんが、それを志度寺に献上します。二人は寺のわきに庵室を追って住み、お参りに来る人々の助勢を願って、ついには五間四面の礼堂を建てた。母親は六十歳で亡くなり、松竹童子は蓮華寿という法名を得て、七十二歳で亡くなったという話がドキメンタリー風に書かれているようです。

志度寺縁起 阿一蘇生部分

 最後が「同一蘇生之縁起」になります。
 阿一なる者が死からよみがえって、志度寺再興のために勧進を行います。ところが、この時代は勧進したお金をごまかす輩も現れたようです。それを防ぐためにいろいろな誓いを立てさせられる話が出てきます。
 絵巻物の最後は
「もし嘘をいったならば血を吐いて死ぬ。梵天、帝釈天、曰本国中大小の神祇は罰をくだすであろう」

となっています。絵解きは、たんに寺の縁起を話るにとどまらず、寺の寄進(募金)のために使われました。最後の一巻で、集められたお金は、このように確実に志度寺再興のために使うということを物語として語ります。今で云う「説明責任」を果たしていいるのでしょうか。勧進に応じた人々を安心させる工夫が感じられます。
 志度寺縁起は志度寺の宝物館に保管されているようです。いちどに全部は、出ていませんが、一巻か二巻ずつ出しているようです。

この志度寺縁起を知ると
藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。
この海辺は極楽浄土へ続いている」
死渡が変化して志度になった。その名は町の名称にもなった。
という由緒が、素直にすとんと受け止められるから不思議です。これが縁起絵図や物語の魅力であり魔力なのでしょうか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 昔の港というと鞆や御手洗、室津などの北前船が出入りした港を私はイメージします。そこには石積みの突堤があり、灯台がわりの大きな灯籠が建ち、雁木に横付けされた船着場には何艘もの小舟が横付けされ、忙しげに人夫達が荷物の積み卸しを行う・・こんな姿が私の港イメージでした。しかし、このような港が姿を現すのは19世紀になってからのことのようです。
それでは中世の港とは、どんな姿だったのでしょうか。
それに応えてくれるのが、新高松駅やサンポート開発の際に発掘された野原(現高松)の調査報告書です。そこからは16世紀末期に高松城が生駒氏によって築城される前の中世の港の姿が現れました。それをイラスト化したのが下の景観図です。ここには次のような事が描き込まれています。
野原の港 イラスト
中世の高松港復元図(野原)
①元香東川河口の東西からのびる砂堆が発達して、自然の防波堤の役割を果たしていた。
②その背後には奥深く潟湖が入り込んできており、そこが積荷の積み下ろしが行われる港湾施設でであった

中世の高松港
中世高松港拡大図

③荷揚げの時の安定した足場を確保するために波打ち際には赤い板石が敷き詰められている。
④イラスト左側(西側)の船着場は杭と横木を組み合わせてある。
⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない
⑥潟湖の内側の水深は浅く、大型船は入ってこれないため沖合に停泊し、小型船に積荷を載せ替えて入港していた。沖合の女木島には大型船が停泊している。

①については、旧香東川は近世までは栗林公園を経て現在のホテル・クレメント辺りが河口であったようです。
野原の港 俯瞰図イラスト

②の船着場があったのは、新高松駅と中央通りの間のエリアになります。
野原・高松・屋島復元地形図jpg

そして、③④⑤を見ると、雁木も突堤も灯台もありません。近世の鞆港とはイメージが大きくちがいます。ある意味港湾施設が何もなく貧弱におもえてきます。中世の港とは、どこもこんな感じなのでしょうか?
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。
ここも砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。
「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。海岸線の白磁一括廃棄が出土した第十四次調査においても、港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは、博多港も砂堆の背後に広がる潟湖の波打際に立地して、砂堆が波除けの役割を果たし、静かな水域の浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。
「⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない」についても、
12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったようです。河口のぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないのです。ある歴史家は
「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」
と云っています。
 ここに建物(浜之町遺跡)の形成が始まるのは13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所であったようです。

野原 陸揚げ作業イラスト
中世高松港 陶器の荷揚げシーン
このイラストは近畿圏から運ばれきた陶器を荷揚げしているシーンです。
野原の港からは多量の和泉型瓦器椀のかけらが出てきましたが、そこには摩滅の痕跡なく使用された跡がないといいます。新品を廃棄していたのでしょうか? どうもこれは近畿から運び込まれた器を荷揚げして選別し、不良品をその場で廃棄していたようです。チェックに合格したものだけが後背地に向けて出荷されていたのでしょう。
 この絵には海岸線に赤い石が敷き詰められています。これが③の「礫敷き遺構」です。
野原 礫敷発掘現場
平成8年(1996)の高松城下層遺跡(高松城跡西の丸町B・C地区)からは、波打際から礫敷き遺構が出てきました。潟湖の緩斜面に拳大の安山岩角礫を貼り付けるように構築し、平坦部は敷き詰められていました。上の図11の右側が海で、海から緩やかに陸に上がっていく緩斜面に石が敷かれているのが分かります。礫敷きは、時代を経て同じ所に何回も敷き詰め直されたようです。継続的な維持・管理が行われていたことがうかがえます。
  この敷石は、どこから運ばれてきたのでしょうか?
礫敷きに使われているのは安山岩角礫です。一番近い採取場所として考えられるのが、南約2kmの石清尾山塊です。石清尾山北麓の亀尾山には、山城の石清水八幡宮を勧請したと伝えられる石清尾八幡宮旧境内があり、その付近で節理の進んだ安山岩の露頭があります。ここから運ばれたと考えるのが自然のようです。それは、この港の管理運営に石清尾八幡宮が関わっていたことがうかがう材料になるようです。
 同じ角礫を用いた礫敷き遺構は、直島・積浦遺跡(12世紀)からもでてきています。
この遺跡は、直島南東部に湾人する小規模な潟の出入口にあり、自然の海岸線に安山岩角礫を貼り付けています。直島では花崗岩はありますが安山岩はありません。高松(中世は野原)から舟で運ばれてきた可能性もあると研究者は考えているようです。もしそうであえば、直島群島を経て児島あるいは牛窓に至る備讃海峡横断ルートが、野原を起点にこの時期に整備されたということになります。
 正応二年〈1289)に、播磨・魚住泊の修築料を室津・尼崎・渡辺などが負担している例があるようです。魚住泊を航路上の中継地として必要とした主要港町が、修築費を出しているのです。ある意味、受益者負担での原則で港湾整備が行われていたことを示す事例です。これが慣例的に行われていたのなら直島に、野原港(高松城下層遺跡)と同じ礫敷きが作られたのは、野原勢力による寄港地確保のための造営とも考えられるようです。
野原の港 木碇
礫敷きにの近くからは、木碇も出土しています。これに石などをくくりつけて碇にしていたようです。
野原の港 係留施設

この出土品は④の船着場に使われていた杭と横木です。この杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。


石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)
 これが当時の河口港の現実の姿だったのである。ただし船の出入りの多い瀬戸内の多数の港では、大きな河川も少ないため港湾の地形に応じた石組の波止を設けるという、大がかりな築港工事を行っている。これは日本の土木史上特筆すべき事業だと思うのだが、全く評価されてないのは残念である」(石井謙治「ものと人間の文化史」
それでは、雁木や灯台・灯籠などが港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀
雁木が現れるのは、江戸時代の後半になってからのようです。
灯台・灯標は、いつ現れるのでしょうか?
香川県仁尾宿人の木造金毘羅灯籠(寛政12年(1800)
鞆の石造金昆羅灯籠(安政六年(1859)
丸亀新堀湛市の太助灯籠(天保九年(1838)
などは、灯籠としては大き過ぎます。港内に置かれた位置からも灯台の役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 一方、普通の石灯籠の形を取るもののは、ほとんどが金毘羅灯籠です。
波止の先端(多度津湛甫)
砂堆の先端(坂出浦)
湛市の港口(宇多津)
岬の先端(香川県与島浦城)
などには19世紀前半~中葉の年紀が刻まれています。やや先行する事例として和田浜湛甫では、寛政四年の石灯籠があります。
また高松城下では、 17~18世紀の絵画史料には東浜・西浜舟入などに灯標が描かれていませんが、19世紀前半~中葉には描かれるようになります。そして明治15年(1883)の古写真では北浜の本造灯籠と東浜舟入波止の石灯籠が写されています。
 以上から灯台・灯標の普及は、19世紀前半のようです。これは「19世紀前半の長大な波上による船溜まりの出現」と期を同じくするようです。
高松城122スキャナー版sim

ドック(船蔵)が姿を見せるのは16世紀末葉~17世紀前半の城下町建設からのようです。
「高松城下図屏風」には、藩専用の西浜舟入に多数の船蔵が描かれ、その背後の建物に材木が多数積まれています。商人たちが使用していた東浜舟入の背後でも船が作られている様子が描かれています。ドックの機能は、それ以前からもあったはずですが、特定の場所が船蔵あるいは焚場として「施設化」するのは、海に面した城下町が姿を荒らさすのと同じ時期のようです。
DSC02527
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤竜馬 前近代の港湾施設 中世港町論の射程 岩田書店
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1志度復元イラスト カラー

中世の港町の地形復元作業が香川県でも進んでいるようです。今回は志度を取り上げてみます。テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」です。
1志度復元イラスト 白黒
中世志度の港の位置を確認しておきましょう。港の中心は、志度寺が所在する志度浦(王の浦)と研究者は考えているようです。中世の港は宇多津や野原(高松)の発掘から分かるように、長い砂浜にいくつかの泊が並んで全体として港として機能していました。志度では
①志度浦の北西にあたる房前
②志度浦の東北にあたる小方・泊
までの範囲一帯で港湾機能を果たしていたと研究者は考えているようです。志度浦は、近世後期の『讃岐国名勝図会』に
「工の浦また房崎のうらともいへり」

と記され、近世になっても、北西の房前浦と一体的に捉えられていたことがうかがえます。

1中世志度港の復元図1

小方は、嘉慶二年(1388)に「小方浦之岡坊」で大般若経が書写されています。

ここからは、この浦に大般若経を所蔵する古寺(岡坊)があったことがわかります。中世の港の管理センターは、寺院が果たしていました。それは、
野原(現高松港)の無量寿院
宇多津の本妙寺
多度津堀江の道隆寺
仁尾の覚城寺
観音寺の観音寺
など、港と寺院の関係を見ると納得がいきます。この付近にあった岡坊も港の管理センターとしての機能を果たし、周辺には町場が形成されていたようです。
3 堀江
多度津の堀江津と道隆寺の関係を中世復元図見て見ると

瀬戸の港町形成に共通する立地条件としては、砂州が発達し、それが防波堤の役割を果たし、その背後の潟湖の砂浜に中世の港はあったようです。志度もその条件が当てはまります。志度浦の東北に位置するは、北西風をさける地の利を得た天然の良港だったでしょう。古くから停泊し宿る機能があったことから「泊」と名がつけられたとしておきましょう。
 鎌倉時代後期~南北朝時代に成立した「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」を見てみましょう。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」
「御衣木之縁起」
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

この絵からは次のようなことが分かります。
①西の房前や小方・泊には家々が集まって町屋が形成されている
②房前は、舟も描かれ、寄港場所であった。
③志度寺の南には潟湖が大きく広がっている。
④志度寺は砂堆の上に建っている
⑤潟湖の入口には、木の橋が架かっていて塩田と結ばれている。
⑥真珠島は、陸とつながっていない。
⑦志度寺周辺に町場集落があった。
1「志度寺縁起絵」の「阿一蘇生之縁起」

1「阿一蘇生之縁起」
阿一蘇生之縁起
「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」と「阿一蘇生之縁起」に描かれた地形と現在の地形を比較して見てみましょう。志度の町場は、志度湾の砂堆の上にあり、砂堆の東側・南側は大きな潟(潟湖、ラグーン)跡と研究者は考えているようです。低地が広がる志度寺とその東側との間にはあきらかな段差があります。志度寺は、この安定した砂堆の上に建っています。
 それを証明するように「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも志度寺が砂堆上に描かれています。また志度寺の由来を記した「志度寺縁起」にも、志度寺の前身となる小堂について
「彼ノ島(=真珠島)ノ坤方二当り、海浜ノ沙(いさご)高洲ノ上二一小堂アり」
と記されています。これも、志度寺がやや高い砂堆の上にあったことを裏付ける史料です。
  砂堆の東側には、近世初期に塩田となり、明治40年頃まで製塩が続けられたようです。
現在も塩屋の地名が残り、塩釜神社があります。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも真珠島の南側に塩田が見えます。中世の早い時期から小規模な塩田があったことが分かります。塩釜神社の北側には、砂洲斜面と見られる段差があります。この付近に、潟出口に面して砂洲があったようです。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも、砂堆から東側の真珠島へ延びた砂洲が描かれていて、縁起絵の内容とあいます。
砂堆の南側については、中浜・田淵・淵田尻など海浜や淵に関連する地名が残ります。
とくにJR志度駅の南側一帯には低地が広がり、さらにその南方の政池団地付近は直池とよばれ、葦が繁茂する沼地だったようです。それが大正初年の耕地整理事業で埋め立てられます。このあたりまで潟湖だったのでしょう。
志度浦東北の小方は、近世には鴨部下庄村に属し、かつえは「小潟」と表記されていたようです。
その名の通りに後背地が潟跡跡で、今は低地となっています。古文書に
「鴨部下の庄はもと入江なりしも、上砂流出し陸地となれり」

とあるようです。微地形の起伏などに注意しながらこの辺りを歩いてみると、海岸沿いの街道はやや高い所にあり、潟跡跡の低地とは明らかな段差があるのが分かります。
 かつての真珠島

  真珠島は、志度と小方との間にある島でした。
海女の玉取り伝説にちなんで名づけられた島で、志度寺の由来を記した「志度寺縁起」に
「玉ヲ得タル之処、小嶋之故真珠嶋と号名ス」

と記されます。大正時代のはじめに陸続きとなり、戦後に周りが埋め立てが進み、今はは完全に陸地になってしまいました。しかし、周りを歩いてみると島の面影をとどめています。ここは志度寺の鬼門になるので、山頂(標高7,6m)に弁財天を祀るようになったので、江戸時代には「弁天」とよばれて崇敬されてきたようです。また、海にやや突き出した小高い山として、海側から近づく舟にとってはランドマークの役割を果たしていたとのでしょう。
蘇る聖地/香川県さぬき市志度町/真珠島/瀬織津姫/青龍/竜宮城/2019/10/18 |  剣山の麓よりシリウスの女神いくえと龍神・空が愛のあふれる世界を取り戻すため活動中

次に、志度の町場と道についてみてみましょう。

1志度寺 海岸線復元 街道

  町場は、東端の志度寺を起点に、海沿いに西へ向かう志度街道を軸に展開します。地図を見ると志度街道(点線)は、砂堆の頂部に作られていることが分かります。街道沿いの町場が中世前期まで遡るかは分かりませんが、守護細川氏による料所化との関連も考えられます。
しかし、戦国期以降に整備された可能性もあります。町場の起源は、発掘してみないと分からないということでしょう。
 江戸時代には、高松藩はここに、志度浦船番所や米蔵を置いていました。平賀源内の生家もこの街道沿いにあります。『讃岐国名勝図会』には真覚寺・地蔵寺など寺院や家々が志度街道に沿って密集して描かれています。
 志度寺から南の造田を経て長尾に至る阿波街道があり、志度は陸路によって後背地の長尾につながっていました。志度寺の後背地にあたる長尾には、八世紀後半に成立したといわれる長尾寺があります。志度寺と長尾寺はともに「補陀落山」という海にちなむ山号を持ちます。長尾寺が志度寺の「奥の院」であったと考える研究者もいるようで、ふたつのお寺には親密な交流があったようです。長尾寺にとって志度は、沿海岸地域に対する海の窓口の役割を果たしていたのでしょう。いまも歩き遍路は、志度寺から長尾寺、そして結願の大窪寺へと阿波街道を歩んで生きます。

中世の志度寺周辺の交通体系は、志度寺門前から海沿いの東西の道とともに、志度寺から南へ延びる道が整備されて行ったようです。志度寺は、東西・南北の道をつなぐ交通の要衝に位置し、人やモノの集散地となっていきます。中世の志度は海と陸の結節点に位置していたといえます。
 地名と地割を見ておきましょう。
砂堆にある町場は、寺町・田淵・金屋・江ノロ・新町などから構成されていたようです。その周囲に塩屋・大橋・中浜などの地名が残ります。町域の西側に新町・今新町の地名があります。ここから江戸時代の町域拡大は、志度街道沿いに西側へと進んだことが考えられます。町割は志度寺門前の空間が「本町」であったとしておきましょう。

町域は標高3mの安定した砂堆上にあり、町場周辺では塩屋~大橋が(0,6m)、中浜(1,8m)で他より低くいので、この付近に低地(潟)が広がっていたことがうかがえます。
 また、寺町と金屋の間に「城」の地名が残ります。
中世の志度城館跡(中津城跡・中州城跡)があったと伝えられますが遺構は確認されていないようです。ただ、この付近が中世領主の拠点となった可能性はあります。志度城城主は、安富山城守盛長とも、多田和泉守恒真であったともいわれているようです。
 志度街道の両側には短冊形地割が残り、明治~昭和初期の町家が散在します。街道の南北両側にも街路がありますが、町域全体を貫くものではありません。これは近代以降に、断続的に低地へ町域が拡大したことを示すようです。本来的な町割は、 一本の街路(志度街道)の両側に設定されていたと研究者は考えているようです。
志度の古い町並み

では、志度はどんな地形環境の変化を受けてきたのでしょうか?
幅広く安定した地形は、志度寺から西へ続く砂堆が古くから形成されていたことによると研究者は考えているようです。砂堆の東側・南側に入り組んで広がる潟は、その内岸が古代から寄港場所となっていた可能性があります。しかし、早くから潟湖は埋まり湿地状になっていきます。そして中世になると潟の内岸は、港湾としては使用できなくなります。一部は塩田となったようです。
 「志度寺縁起絵」のうち「御衣木之縁起」や「阿一蘇生之縁起」をもう一度見てみましょう。
潟の出口に簡単な橋が架けられ、潟の沿岸では塩田が造られています。また内陸部に広がる潟の内岸には舟がないのに、海に面した砂堆北側には舟があります。ここからは砂堆北半部が着岸可能で港機能があったようです。とくに「阿一蘇生之縁起」では、海に面した砂堆北半部の西側に舟が着岸しています。古代は、潟湖の内側が港だったのが、中世には潟が埋まって寄港場所が変化したようです。

中世志度の景観について、研究者は次のようにその特徴をまとめています。
①港町としての志度は、海浜部の砂堆の上にあった。
砂堆の東・南側には潟(入江)があって、砂丘の東側には真珠島に向かって砂洲があった。海に突き出した小高い真珠島は、海側からはランドマークとして機能した。「志度寺縁起絵」に描かれた志度の景観は、基本的に鎌倉時代末期~南北朝時代の現地の実態を踏まえて描かれている。
②中世の志度の港湾機能は、海に面した砂堆の北側にあった。
「志度寺縁起絵」には砂堆の北西に舟が着岸している。もともとは、潟の内岸の方が船着場として適地だが埋没が進んで、寄港場所を潟の内岸から海岸沿いに変化させていった。近世の『讃岐国名勝図会』には、砂堆西側の玉浦川の河日周辺に舟がつながれている様子が描かれいる。玉浦川は、砂堆背後の潟の排水を目的として近世に開削された可能性がある。
③志度湾岸には孤立した条里梨地割群が残る。志度南側は早くから耕地化されていた可能性がある。
④砂堆東側に志度寺が位置し、その門前から西側に延びる志度街道沿いに町場集落が広がる。志度寺は交通の起点であり、長尾など後背地にとっては沿海岸地域への窓口となった。志度寺は港湾の管理センターでもあった。
⑤志度湾には志度寺を中心とした志度のほか、房前・小方・泊など複数の浦があった。中世の志度はこれらの複合的な港湾から構成されていて、それぞれに町場があった。「志度寺縁起絵」には房前・小方・泊には家々が密集して描かれている。


以上から次の課題として見えてくることは
①中世讃岐の港湾には、国府の港であつた松山津をはじめ、志度や宇多津、仁尾、観音寺などがあります。これらは砂堆の背後の潟湖に船着場がありました。ところが中世には堆積作用で埋没が進み、港湾機能が果たせなくなり衰退する港もでてきます。松山津や多度津の堀江は、そうして衰退した港かもしれません。でも、潟が埋まって浅くなり、船着場・船溜りとしての機能が失われても、志度は港湾機能を維持し繁栄しています。その要因はどこにあったのでしょうか。志度の場合は、港湾の管理センターの役割を果たしていた志度寺の存在が大きかったのではないかと研究者は考えているようです。
この世とあの世の境「志度寺」 : おかやま街歩きノオト(雑記帳)

 もうひとつは、砂堆上に志度寺や多度津の道隆寺、野原(現高松)の無量寿院は建てられています。
なぜ、地盤が弱く建設適地とは思えない砂堆や砂洲に寺社がつくられたのでしょうか?
「洲浜」は絵画等のモティーフとされることが多かったようです。それは神仏の宿る聖域としての意味があったからだと研究者は指摘します。志度寺が砂堆・砂洲に位置した要因についても、聖なる場所というイメージがあったのかもしれません。
 島根県の出雲大社がわざわざ斐伊川の悪水の排水点に建てられたのも、そのコントロールを神に祈る場所であったとする指摘もあるようです。水をつかさどる寺社と潟の排水等との関係もあったのではないかと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」でした。

三頭越え 久保谷の大師堂

  前回は金比羅阿波街道の三頭越の峠道のまんのう町美合・久保谷の大師堂を訪ねて見ました。そこには、幕末に峠道が改修されるのに併せて、新しく金比羅堂が建立され、整備された街道沿いにミニ巡礼の石仏が丁石代わりに安置されるなど、快適で安全な阿讃峠越えの金毘羅街道が姿を現しつつありました。これをリードしたのが「道造り坊主=智典」でした。かれは半生を、金毘羅街道の整備に捧げています。こう書くと、菊池寛の「恩讐の彼方に」の主人公・了海が 耶馬渓の青の洞門をうがったように、
「破れた衣を身にまとい、唐鍬を振って黙々として一心不乱に道路を修繕する名も知らぬ僧」

といったイメージを抱きそうです。しかし、近年見つかった彼の手紙がそのイメージを打ち砕いたようです。
今回は、金毘羅街道整備に尽くした僧・智典を見ていきたいと思います。知典については「金刀比羅宮史料」第四十二巻に、次のような記事があります。安政2(1855)年6月に、金毘羅の民政を預かる普門院に、金山寺町の花屋房蔵が智典を金比羅の花畑作方に推挙した「推薦状」的な文書です。見ていくことにしましょう。
乍恐奉願上回上
 奥務伊達郡桑打御料 御代官御支配虚 伊達崎村大内又右衛門悴 留八事、知典 五拾六オ
右者天保十亥年富國へ罷越 多度津光岸寺二而致剃髪依心願
弘化四より安政元迄九ヶ年之間丸亀より御当山へ参詣道直シ相勤居候内より入魂二御座候虚 最早漏願相成元来 御当山至而信仰二付何卒御花造り立差上度心願も有之候由 然ル所内町余嶋屋吉右衛門発起御世話申上候 裏ノ谷御花畑作人も無之幸右知典随分人柄も宜敷相見へ申候二付 吉右衛門へも申談候虎於同人同様御願申上度申居候 間何卒右御花畑作方被 仰付被為下候ハヽ於私共も難有仕合二奉存候附候而者 所送り並びに多度津摩厄院より之送り書請取差上置申候 自然彼是之義 御座候共私御引受申上卿御役介相掛申間敷候 間何分宜御取計之程奉願上候以上
安政2年卯六月          御納所 金山寺町
                     花屋房蔵
普門院様
意訳すると
恐れながら願い奉まつり申し上げます。
奥?伊達郡桑打御料の代官支配地の伊達崎村大内又右衛門の倅(せがれ)留八こと、知典56オについて
右者は天保十亥(1840)年に当国に罷り越し、多度津光岸寺で剃髪し出家しました。
弘化四(1847)より安政元(1854)年まで、丸亀から当山へ参詣道(丸亀街道)の修繕に入魂し相勤めましたので、最早に満願成就となりました。元来、金毘羅への信仰も厚く花造りについても心得があると聞きました。それならばと内町の余嶋屋吉右衛門が発起世話人となり、裏ノ谷御花畑作人がちょうど不在なので、知典は人柄もよいようなので、吉右衛門へも相談した所、賛同してくれましたので推薦することになりました。何卒、花畑作方に仰せ付けいただければ、私共も難有仕合せでございます。所送り並びに多度津摩厄(尼?)院からの送り書請取を提出いたします。智典のことについては、私共が保証人となりますので何分宜しく取計お願い申し上げます。
智典の出自については
「伊達郡桑打御料の代官支配地の伊達崎村大内又右衛門の倅留八」とあります。「伊達崎村(だんざきむら)は、福島県伊達郡に存在した村。1955年1月1日、合併して桑折町となったため消滅した。」とあります。福島市の北にあった村のようです。最初に見たように、寛政12(1800)年の誕生ですので、40歳前後で東北の福島から讃岐にやって来たことが分かります。この年は、丸亀街道の修繕に尽力した東野が亡くなった年でもありました。
  多度津で仏門に入った後のことは分かりませんが、東野の思いを受け継ぐように丸亀街道の修繕に打ち込んでいったようです。また父親が「大内又右衛門」とあり、名字があります。出自が武士か名字の許された有力者の家柄であったことがうかがえます。何らかの事情があって、会津福島を出奔して、讃岐で仏門に入ったようです。
以後の彼の動きを年表にしてみましょう。
寛政12(1800)年 会津伊達郡桑打御料の伊達崎村・大内又右衛門の倅として誕生。
天保10(1840)年 来讃し多度津光岸寺で剃髪し出家(40歳前後)
弘化3(1846)年から、丸亀金比羅街道の修繕に入魂し、8年相勤め満願成就。
安政2(1855)年6月 金山寺町の町宿花屋房蔵が智典を花畠作人に推挙し採用。
 ちなみに丸亀街道については、これより先に大原東野が独自のやり方で改修を進めていました。東野の金毘羅街道整備にかける生きざまを、智典は身近で見聞きし、感化を受けたのかもしれません。智典が丸亀街道の改修に着手するのは、東野の死去後6年目の弘化4年(1846)からのことです。そういう意味では、智典は東町の道作り事業の後継者とも言えるようです。
 街道改修の業績が認められた智典は、金山寺町花屋房蔵から、花作り作人に召使われたいと、金光院に推挙されています。智典は五十六歳。この推挙によって、智典は金光院によって扶助される人となり、大麻の茶堂主となったようです。金毘羅神の御加護によって、安住の地を金比羅に得たとしておきましょう。

 前回見たように、元治元(1864)年から3年がかりで進めて慶応3(1867)年まで、まんのう町美合の三頭越の金比羅阿波街道の改修工事までの約10年間がミッシングリングとなっていました。
 その後分かってきたのは仁尾町史の中に、安政4年に,仁尾村吉祥院と覚城院から,金比羅の万福院・尊勝院宛に卯之本峠開削のために智典を借用したい旨の願出が出されたことが記されています。智典は、卯之本峠の仕事も引き受けて完成させたようです。
  このように智典は課題となっていた丸亀街道改修をやりとげ、道造りの専門家として名声を得るようになっていたようです。そのために周辺の仁尾からも声がかかるような存在となっていたことが分かります。これは単独で黙々と鶴はしを振るイメージではないようです。測量・線引きから人足手配、資金集めなどを行う土木専門家で棟梁的な存在だったようです。それをさらに補強するような手紙が近年に見つかりました。
智典の手紙から分かることは?
昭和61年11月に、琴南町誌発刊後に、関係資料の整理中に智典法師が、旧琴南町川東村の司役稲毛千賀助に宛てた一通の手紙が発見されます。明治3年の手紙を束ねた中にあったもので、その内容からも明治2年の手紙であることが明らかなものです。手紙は、縦16㎝、横77㎝の書翰紙に走り書きで書かれたものでした。
1智典の手紙1
1智典の手紙1-1

光陰は矢の如く最早秋冷が訪れる頃になりました。
夏の候には雨天が続き、季節柄不相応の冷気でしたが、貴家様御一統も差し障りなく、益々御賢勝のことと伝へ聞いて、安心しております。さて、拙老も健吾でございますのでご安心ください。①春に阿波より帰ってきましたところ、自村内の村役人の小里正や顔役の人たちから、理詰の難題を云われ、このことで煩わされています。というのも自村内の道筋が整備されずにそのまま放置し、外の道ばかり修繕するのは不人情であると、村中の者から云われました。まさに理詰でもっとも至極の次第と、②早速に阿波に置いてある諸道具を取寄せ、自村中の道普請に五月中旬より取りかかっています。
 ところがこれが大望の修行となりました。③金毘羅から多度津までの150町の全区間の多度津街道の修繕を行うことになったのです。この懸合(折衝)等に、方々を走り廻っています。
この春二月上旬に④御貴面方の御取次の請願について、御一新の国政となったので高席も憚らず、高府(高松)古新町の議事局へうかがって願出ました所、
1智典の手紙2

外部の者であるにも関わらず、丁寧に取り計らっていただきました。しかし、御大守(松平頼聰)公は、東京に出向いて留主(守)中で、請願は聞き届けられませんでした。太守が帰国すれば、また推参しお願いするつもりです。五月上旬旧府大殿様へも、高役衆の配慮で意向を伺っていただいたようです。これも又有難きご高配を蒙りました。ともかく御大守公が遠勤中(江戸在中)のことなので、強いて再願することは控えています。 高松に帰られた折に、また請願するつもりです。
 ⑤このような雑事に取り紛れ、暑中見舞のことも失礼してしまいました。先達ては御支配地の造田や美合で、外国(阿波)の無法狂乱の者どもが、不法に讃岐に入国し混乱したことが、こちらにまで伝わっています。(明治3年5月12日 脇町の稲毛家の家臣三百有余名が、猪尾村から越境して高松藩に訴えた事件で、 一部の稲田家家臣が琴南町域へ「亡命」してきたこと)
 その対応に苦労されたことでしょう。しかし、思いの外に騒ぎが拡大しなかったように聞いて、蔭ながら胸をなで下ろしています。その御見舞にもうかがうべき所を、この通りの身上故実で寸暇もない有様で、重々の失礼をお許しください。また大変失礼ですがそちらの明(妙)覚十殿並びに、⑥衆中御一統様へも、暑気見舞の無沙汰の段について集会の際歳にでも、愚老よりの失礼の段を御伝達いただければ幸いです。
1智典の手紙3
 
 尚々末筆で失敬ではありますが、貴家様御一統方へ、愚老よりの言づてを伝えていただければと思います。いずれ拙老も遠からざる内に、そちらにうかがい、⑦阿波の打越(打越峠は阿波昼間と男山を結ぶ峠道)辺りまで(工事に)参る予定があります。その際に、入懇者方へ書面を渡したいと思っていますので、委細はその節に書面でお届けします。積る話を楽しみにしております。 不具。
七月下旬   
東讃阿野部川東村           西讃多度郡大麻村 茶童主
本村 御司役                  当暦七十一オニ及
稲毛千賀助様                    愚老 智典

明治2年7月下旬に書かれた手紙から読み取れるポイントを押さえておきましょう
①②⑦から春まで阿波打越峠(昼間)で道路工事を指揮していたこと
③から金毘羅多度街道150町の全区間の修繕を担当することになったこと
④から高松の県庁へ誓願に行ったが知事(旧藩主)不在のために会えず事務局に請願書を提出したこと。
⑤以上のような多忙のため、報告や暑中見舞いが出来なく申し訳なく思っていること
⑥経過報告が出来ていないので、 御司役稲毛千賀助の方で一統(関係者)への説明をして欲しいこと
この手紙から受ける印象は、謝罪の手紙という感じです。これが書かれた背景を想像すると、稲毛千賀助からの報告遅延の督促便についての返事のように思えます。それに対して、いろいろな理由を挙げて弁解しているようにも聞こえます。しかし、その弁解理由の中に、智典の当時の行動がうかがえます。つまり、彼はいくつかの街道整備を同時並行で請け負っていたようです。それが
A 讃岐の金毘羅多度津街道
B阿波の打越峠(昼間・男山間?)
のようです。「阿州阿州へ頂置諸道具取寄せ」とか「金毘羅より多度津までの150町の間、営み直す熟談云々」からは智典の活動範囲が、讃岐から阿讃山脈を越えて阿波の各所で道普請に従事したことが分かります。なにかしら誇らしげにも感じます。
  彼の実像は、大麻の茶堂を拠点とした道作り坊主集団の統領として、金光院役所、高松・多度津・丸亀・徳島の各藩との交渉や、郡の大庄屋や庄屋間の調整に奔走し、現場にあっては技術的な指導者として活躍したと研究者は考えているようです。

さらに踏み込んで推察すると、慶応三年(1867)に、三頭峠から落合までの道の開削に一応区切りをつけた智典は、難関区間を残して、その後は阿波の道路の開削に従事していたようです。そして、明治三年の二月上旬に阿波の工事現場からの帰路に川東村に立ち寄ります。その際に村民の指導者から、その後の三頭越道の工事捨置きの不人情をなじられ、5月中旬から再び工事を再開した経緯があるようです。
 この手紙は明治2年のものですが、この手紙の趣旨は
「御集会の制、愚老より中訳の段然る可き様御伝達下され度く、尚々末筆二て失敬二は御座候得共、貴家様御一統方、愚老よりの過伝馨宜舗様二御申述下され・・」

にあるように、三頭越の工事が未完のまま放置し、阿波や多度津など他の街道工事を行っている事への釈明文のようです。
「二月上旬兼々御貴面方御取次の御願一条に付云々」

と述べられている内容は文面から推論すると、三頭越の工事は、地域の人々だけで行うのには難事業であるので、郷普請並みの藩側の経済的な支援が得られるよう、智典が高松藩に掛け合ったことを示しているようです。更に、煙硝使用などについて藩の指導と、使用許可を藩に求めていたのかもしれません。
  ちなみに、手紙の宛先の稲毛千賀助は、天保年間(1830~)に火薬の製法を福山藩上某について学び、文久三年(1863)には、自ら製造した煙硝三十貫を、藩に献納しているほどの人物です。火薬の扱いには慣れた専門家でもあったようです。三門の断崖を火薬で爆破して砕いて道を付けるということも考えていたのかもしれません。そのためには県の許可が必要です
 明治三年の二月上旬、智典は高松古新町の議事堂に陳情し、更に、五月上旬には旧府の大殿様(頼胤)にも嘆願していますが、彼の希望は入れられなかったようです。
  当時の彼は「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていたことになります。これは個人できることではありません。それだけのスタッフが必要になります。まさに土木工事の棟梁だった言えるのではないでしょうか。

智典は、手紙の中で「寸暇これ無く云々」と述べて、その多忙振りを訴えています。
しかし、このあたりにはいささか誇張があるのではないかと研究者は指摘します。特に文中の④「又々五月上旬旧府大殿様えも云々」の部分は、旧府とは昔の政庁のあった場所、高松城中を指すものですが、明治2年の4月23日以後、頼胤公は宮脇村の亀阜別館に移って生活して、政治とは遠ざかっていました。智典が、高松城で「有難き御高語を蒙る」ことは考えられないと云うのです。
 旧府の二字を智典の誤記と認めるか、それとも一つの誇張と認めるかは、判断が分かれるところです。しかし、これをもって彼を一個の宣伝家とみなすのは、彼の功績は余りにも大きく、彼の行為は余りにも純粋であると研究者は考えているようです。

中世の勧進と聖人と街道整備の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は
「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」
であったとされるようです。
しかし「勧進」は、彼の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業をうけおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。
 経済的視点からすると
「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」
とも云えるようです。
 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

金毘羅街道整備の意義は?
元禄年間(1688~)頃から次第に、その信仰圏を拡大した金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰えっています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」

多額の金銀を奉納し、灯籠を築き、絵馬を奉納する金毘羅信仰がありました。それとは別の場所で、道普請のために寒暑を厭わず鍬を振い続ける、道作り行人の群像があったようです。彼らもまた、金毘羅への厚い信仰心を持っていました。
その後の金毘羅阿波街道は?
その後、三頭越の道普請は、日露戦争直前の明治36年に、笠井喜二郎氏の発起によって、勝川・川東の有志46名が金品や土地を寄進し、道幅が広げられて柴車が通れるようになります。しかし、三角の滝の上の岩盤は、依然として人馬の通行を阻んだままでした。この岩盤が、善通寺工兵隊の爆演習によって取り除かれ、工兵隊の道路建設によって全線が開通したのは、明治42年の幕れになってからのようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  
大林英雄  道作り行人 智典法師について  ことひら平成2年45号
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2014(平成26)年は、空海が四国霊場を開創して1200年目になる年とされ、各札所では御本尊の御開帳や宝物の公開、特別法要など様々な記念行事が行われました。
どうして、2014年が四国霊場開設記念の年になるのでしょうか?
 霊場会は
「空海が815年(弘仁6)、42歳の厄年に四国霊場を開創し、2014年(平成26)が1200年とされる」

といいますがその根拠は何なのでしょうか?よくわからないまま私も各イヴェントに参加していたのですが改めてその理由が分かる文章に出会いましたので紹介します。テキストは 「大本敬久 弘法大師空海と四国遍路開創伝承 ちくま新書四国遍路の世界所収」です。
1四国霊場1200年記念

 815年(弘仁六)、空海が42歳の厄年のときに四国霊場を開創したという伝承が2014年(平成二十六)の千二百年祭の根拠になっているようです。確かに四国八十八ヶ寺のうち、815年を創建年とするのは13ヶ寺あります。それ以前に創建されたとされる寺院でも、弘仁六年に修行等で空海が訪れたという伝承を持つ札所は十ヶ寺あります。つまり、815(弘仁六)年の空海伝承が伝わる寺院は23ヶ寺で全体の約四分の一がこの年に、空海が訪れたことを伝承に持つことになります。ただし、これはあくまで寺伝、縁起で語られる年代で、歴史的事実かどうかはすぐには判断できません。
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815年(弘仁六)に空海が数え年で42歳だったのは、どうして分かるのでしょうか
空海がいつ生まれたかを明確に示す一次史料はないようです。しかし、空海の没年については  朝廷の公的記録である『続日本後紀』には
①空海の没年が835年(承和三)年3月21日であること、
②その時の年齢が63歳であったこと(数え年で)
は詳しく書かれています。そこに記された没年齢により、誕生年を逆算すると774年(宝亀5)となり、774年が生誕年となります。しかし、空海の弟子真済(しんぜい)が著したとされる「空海僧都伝」には、没年が62歳とされています。両者には1年の差異があることになります。
 空海生誕の宝亀四年説、宝亀五年説の二つの説については、もうひとつの有力資料が決め手となるようです。
それは空海の漢詩文集「性霊集(しょうりょうしゅう)」の中におさめられた空海自作の詩「中寿感興詩」に
「嵯余五八歳」(ああ、私は四十歳〔五×八=四十〕になった)

とあります。ここに具体的な年や日付は記されていませんが、最澄が813年11月25日付で書いた泰範宛書簡の中に、空海がこの詩(「五八の詩」)を送ってきたことが記されいてます。ここからは813年に40(数え年なので実年齢は39歳)の寿を迎えたことが分かります。813年-39歳=774(宝亀5)年となります。これが宝亀五年誕生説の主な根拠のようです。現在では、この説が定着しています。つまり、815年(弘仁六)に空海は数え年で42歳であったことが史料的には類推できるようです。 その1200年後は2014年になります。
室戸青年大師像。弘法大師・空海が修行したと言われる室戸岬に建つ
室戸岬の青年空海像

 ただし、平安時代初期の根本史料である『日本後紀』・『日本紀略』を見ても815年に空海が四国霊場を開創したという記述はもちろんありません。
815(弘仁6)年の空海の活動記録として確定できるものは、
一月に陸奥守として赴任する小野琴守に餞別歌を送り、渤海使の王孝廉からの書状の返事を書いたこと、
四月に弟子の康守を東国に派遣し密教経典の流布を依頼したこと、
十月に式部丞仲守のために先父の周忌の願文を作ったこと
が『性霊集』や空海の書簡を集成した『高野雑筆集』に見えるだけです。空海が四国を巡拝した史料はないのです。
1四国遍路 空海と性霊集

ただこの年のこととして『性霊集』巻九に、次のような文章があります。
「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉暉る応き文」
ここからは密教経典の写経を勧め、密教を広く広げようとしていたことがうかがえます。4月5日に東国で活躍していた僧侶の徳一(とくいつ)に協力を要請した手紙も『高野雑筆集』に収められています。
1四国遍路 空海と徳一

徳一は若い頃は奈良東大寺で学び、会津地方に拠点を移して活躍し、茨城県筑波山の中禅寺、福島県磐梯町の慧日寺等の東回約七十ヶ寺の開基とされます。徳一は「三一権実争論」での最澄との論争で有名な僧侶です。彼は南都仏教、特に法相宗の立場で天台教学を批判し、返す刀で空海に対してもその教学への疑間をまとめた『真言宗未決文』を著しているように活発な活動を展開しています。この頃は天台宗や真言宗など諸宗間の論争が高まり、それに刺激されて各宗派の布教活動も盛んになった時期のようです。
空海が四国霊場を開創したとされる弘仁六年は、東国をはじめ全国に真言密教を広めようと活動していた時期でもあるようです。
 見てきたように、当時の史料からは空海が四国に渡って寺院や霊場を開創した記述は確認できません。「空海42歳厄年 四国霊場開創説」を史実として実証することは難しいようです。しかし、空海が真言宗を広める活動を本格的に開始した年とは、いえるかもしれません。
四国八十八ヶ所霊場のはじまりと歴史

四国霊場=空海四十二歳厄年開創伝承は、どのように生まれたか?

これまでの四国霊場開創記念式典の様子を見てみましょう。
開創千年は江戸時代後期の1814年(文化11)になります。しかし、この時に何らかの記念事業が行われた史料はないようです。なにも行われなかったと云っていいようです。ここからは、200年前には、815年(弘仁六)に空海が四国八十八ヶ所を開いたという話は、広く知られた伝承ではなかったことがうかがえます。幕末から明治時代以降に定着した伝承のようです。
「空海42歳厄年 四国霊場開創説」は、どのように定着して行ったのでしょうか?
四国八十八ヶ所の札所寺院を巡ってみると、1964年(昭和39)の開創千百五十年記念や1914年(大正3)の千百年記念で建立、寄進された石造物や奉納物が多いことに気づかされます。
  出版物にも開創を記念して刊行されたものがいくつもあります。
たとえば1914年に三好廣太が著した案内記『四国遍路 同行二人』には、翌年の「四国霊場御開基一千百年」を記念して、この本で得た利益で遍路道に道標を建立しようとしていたことが記されています。この案内記は版を重ね 1925年(昭和10)には21版となっています。広く長く利用されて普及したようです。ここからは弘仁六年開創の伝承が大正時代には定着し、昭和初期にかけて広まっていたことがわかります。
টুইটারে (一社)四国八十八ヶ所霊場会(公式): "「お大師さまと歩む四国遍路」3日目 須磨寺〜淡路島  須磨寺さまで小池猊下をはじめ皆様にお世話になりました。また朝に改めて信者さんと一緒に参拝させていただきました。 今、出発しました。淡路島を目指して  ...
真言宗豊山派の管長を務めた小林正盛の『四国順礼』(1932年刊)によると、
愛媛県松山市にある第五十番札所繁多寺住職の丹生屋隆道らが1907年(明治40)に巡拝した時には、札所寺院の連合組織はなかったと記します。これを結成することが丹生屋たちの願いであり、この年の巡拝の際に住職たちと会う中で多くの賛同を得たようです。この動きが連合組織「四国霊場会(連合会)」の結成につながります。
 真言宗の専門誌『六大新報』五百五十号によると、
「開創事業は四国の各霊場同士の融和をはかり、内外に千年以上にわたる弘法大師の事績や霊徳を広めようと意図」

したようで、1911年7月に香川県の善通寺で「第一回四国霊場連合大会」が開催されています。この時に3年後の1914年(大正3)に「開創一千百年記念大法会修行」の実施が決議されます。翌年の五月には愛媛県の石手寺で第2国連合大会が開かれ、記念法会の具体的な実施案を全会一致で決議します。このように開創千百年の記念事業は、設立されたばかりの四国霊場会によって企画実行されたイヴェントだったようです。
 1914年の第一回の開創事業行事を見てみましょう
2月1日の総供養により開幕し、5月21日までの2ヶ月にわたり多くの霊場で御開帳や宝物展覧会などさまざまな企画が実施されています。例えば
室戸市の最御崎寺では記念事業として護摩堂を総工費二千円で建築
愛媛県浄土寺では境内を修繕して仁王門を再建
石手寺では記念法会や寺宝の展覧会を行うなどして境内には立錐の余地がない程ほど参拝者が多く大きな盛り上がりを見せます。
 それまで霊場間の横のつながりは、ほとんどなかったようです。しかし、このようなイヴェントに協同で連携してとりくむことで、各霊場寺院間に連帯が産まれていきます。同時に境内の修繕や新たなモニュメントが作られていきました。
満濃池を見つめる弘法大師像 - まんのう町、神野寺の写真 - トリップアドバイザー
満濃池神野寺の空海像

香川県の満濃池のほとりの四国霊場別格寺院の神野寺に、本山寺の住職が音頭を取って空海の大きな石像が建てられるのも、この時のことのようです。このように開創千百年を契機として、四国霊場が近代的再編を遂げることができたと研究者は考えているようです。 この四国霊場会が、戦後に「四国八十八ヶ所霊場会」へ発展していきます。
 四国霊場会が開設当初に取り組んだ「開創千百年記念行事」が、その結果として弘仁六年の「空海四十二歳厄年 開創伝承」が定着することにつながったようです。

ただし、弘仁六年開創伝承はそれよりも前の1877(明治10)年代には四国霊場の案内記や由来書に出てきています。明治10年代は、廃仏毀釈による各札所の荒廃が一段落し、は再興に向けた動きが活発になった頃です。新しい時代の四国遍路の出発点となるべき時期で、その機運を現すように多くの案内記や縁起が出版されています。
 周防大島出身で280回も四国を巡拝した中務茂兵衛は『四国霊場略縁起道中記大成』(1882年刊)の序文に
「夫四国人十八箇所拝礼の権興(はじまりの意)ハ往昔嵯峨天皇の御宇弘仁年 中真言開祖弘法大師四拾二歳の御時末世衆生済度の験力を興し(中略)梵字を建立」

と、空海が42歳の時に八十八ヶ所を建立したことをが記しています。このような42歳開創説は明治時代以降には称えられ始め、1914年の千百年記念で定着したといえるようです。

八十八番札所大窪寺の幕末の縁起には、行基菩薩が開基、弘仁年間に四十二歳の弘法人師が再興し、八十八番札所にしたとあります。
ここからは四国霊場を42歳の大師が開創したという伝承は、幕末までは産まれていたことがうかがえます。しかし、それがどの時期まで遡ることができるかは分かりません。
秘境徳島、四国88カ所寺巡り(薬王寺・太龍寺)』阿南・日和佐・海陽・那賀(徳島県)の旅行記・ブログ by Yumingさん【フォートラベル】
 厄払いの寺として有名な徳島日和佐の薬王寺

四十二歳の厄年の習俗、慣習は江戸時代以降に定着した新しい風習です。
一般的には厄年は男性二十五歳、四十二歳とか、女性十九歳、三十三歳とされます。徳川将軍家でも、厄払いのため寺院に参詣することが始まるのが1700年代の半ばのことになるようです。11代将軍の徳川家斉が25歳や42歳の厄年の厄除けのために関東の川崎大師平間寺(へいけんじ)に参詣するようになります。それに影響された庶民が四二(「死に」)や三三(「散々」)の厄年の時に厄を落とそうと社寺参詣が広まっていきます。このように厄払いが庶民の間に定着していくのは江戸時代の中期から後期です。つまり、空海が42歳の厄年の時に四国霊場を開創したというのは、「厄年習俗」の歴史から考えても江戸時代後期以降に成立した伝承だといえるようです。
1四国遍路 薬王寺厄坂

四国霊場の中には徳島・日和佐の薬王寺のように厄払いの寺として売り出している寺が数多くあります。薬王寺では、厄年に準じた階段を作り、厄払いのシンボルにしている所もあります。厄払いの風俗が四国にも定着してきた時期に、「四十二歳の厄年に空海が四国霊場を開いた」というのは、新たなセールスポイントになったでしょう。ある意味42歳でないと、その「商品価値」は下がってしまします。そこへ42歳の男達が厄除けにお参りするというのは、何かしら説得力があるように思えてきます。
四国八十八ヶ所霊場会公認のバッジ - お遍路コンシェルジュ~ひょいと遍路へ 晴れきってゐる

 これも弘法大師伝説が生み出したもののひとつかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     大本敬久 弘法大師空海と四国遍路開創伝承 ちくま新書四国遍路の世界所収

  
現代の四国遍路では、札所の本堂・大師堂の前で読経を行うのが霊場会の作法となっているようです。そして、
開経、懺悔文、三帰、三境、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、本尊真言、光明真言、大師宝号、回向(えこう)文

の順で唱えていきます。この中で般若心経は外すことができないものとされます。私も巡礼の際には、にわか信者になって般若心経をお勤めしてきました。しかし、般若心経は江戸時代初めには、唱えられていなかったようです。
おきらく道場 続・お遍路本

1687年(貞享四)の真念『四国辺路道指南」には、仏前勤行について
「本尊・大師・太神官・鎮守、惣じて日本大小神祗・天子・将軍・国主・主君。父母・師長・六親眷属」などに礼拝し、「男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

とあります。ここには光明真言や大師宝号を唱え、御詠歌を詠むとはありますが、般若心経には全く触れられていません。
これに変化が現れるのは19世紀になってからです。1814年(文化11)に刊行された『四国編路御詠歌道中記全』は、札所の本尊図と御詠歌を中心とした簡単な案内書です。そこには、遍路の効能を書いた序文の次に、「紙札打やうの事」とあり、その後に十三仏真言、般若心経、十句観音経、懺悔文が載せられています。今のところこれが般若心経を載せる最も古い案内書のようです。しかし、一般には広がっていなかったようです。般若心経を唱える人はわずかだったのです。 
明治時代の仏前勤行
明治になると1868(明治元)に神仏分離令が発布され、 各国の一宮などの神社が札所から排除されて、八十八の札所はすべて寺院となります。 一方で、廃仏毀釈運動の高まりの中で住職が還元していなくなり廃寺になった札所も少なくなかったようです。さらに3年後には、寺社領上知令が出されて、今まで持っていた寺領が新政府に没収されます。明治初年は、四国遍路だけでなく日本の仏教界にとって経済的な打撃も与えました。
 このような中で仏教側からの建直しと「反攻」機運も出てきます。
札所の多くが属する真言宗では檀信徒への布教・教化を積極的に進めていくために、在家勤行法則を制定します。これまで真言宗では布教や教化はあまり重要視されていませんでした。しかし、神仏分離・廃仏毀釈という今までにない危機のなかで、檀信徒に対して真言宗の教えをわかりやすく説く必要が認識されたようです。こうして1880年に真言宗各派が東京に集まって第一回布教会議が開かれます。、そこで作成されたのが「在家勤行法則」(著述人・三条両乗禅)のようです。
東寺 真言宗 在家勤行法則』京都みやげ経本 - 川辺秀美の「流行らない読書」

この「在家勤行法則」は、次のようなもので構成されています。
懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、光明真言、大師宝号・真言安心和讃・光明真言和讃・回向文」
からなっています。見れば分かるように、これから2つの和讃を除くと、現在の四国遍路の仏前勤行になります。どうやら明治の「在家勤行法則」が原型になっているようです。しかし、ここにはまだ般若心経はありません。
明治になると、江戸時代までのものとはちがった新しい四国遍路案内書が次々に登場してくるようになります。
1四国遍路案内一覧

この表は一番左が出版された年で、明治以降に刊行された案内書の仏前近郊主なものを並べたものです。右のページの二番目が般若心経の列ですが、その数はそれほど多くありません。昭和の戦後になってからのものには、般若心経が入っているようです。

1四国遍路 勤行法則pg

明治の遍路者は実際には、どのような仏前勤行を行っていたのでしょうか。
1902年(明治35)に遍路に出た菅菊太郎の巡拝記を紹介した「佐藤久光『四国猿と蟹蜘蛛の明治大正四国霊場巡拝記』岩田書院、2018」には、
「遍路者は、祈念文、懺悔文、三竟、三党、十善戒、光明真言、大師宝号、十三仏真言によって「一通りお勤が済む」が、丁寧な者は般若心経、観音経、真言安心和讃、光明真言和讃、弘法大師和讃などを唱える」

と書かれているようです。ここからは祈念文から十三仏真言までが「標準」で、般若心経を唱えるのは丁寧な遍路者に限られていたことが分かります。
お経をよむ|遍路道(歩き遍路ブログ)

十大正時代以降の仏前勤行は?
明治の仏前勤行は、般若心経が唱えられることはあっても一般的ではなかったようです。大正時代になっても状況は変わりませんが、研究者が注目するのが1910(大正9)に出された丹生屋隆道編『四国八十八ヶ所』です。この本の著作兼発行人は50番札所繁多寺の住職さんです。そして発行所は、四国霊場連合会となっています。ここにも「勤行法則」の中に、般若心経はありません。序文には、1918年の第6回四国霊場連合大会の決議によって、この案内書を作成したとあります。四国霊場連合会は、明治末年の1911年(明治44)に第一回大会を善通寺で開催して、活動を開始していたようです。そして、第一次世界大戦後の大正時代には、まだ般若心経は入っていないことが分かります。

昭和になると、安田寛明『四国遍路のすゝめ』のように仏前勤行に般若心経を含める案もありますが少数派です。そう言えば、山頭火などの巡礼記録を見ても般若心経は出てこない気がします。
それでは、いつから今のように般若心経が唱えられるようになったのでしょうか。それは、どうやら戦後になってからのようです。

白衣姿の遍路が登場するのはいつ頃から?
般若心経とならんで遍路の必需品とさえるようになった白衣は、いつ頃からのものなのでしょうか。真念の『四国辺路道指南』には、やはり白衣は登場しません。
1四国遍路 江戸時代の遍路姿

江戸時代後期の『四国遍礼名所図会』や『中国四国名所旧跡図』(上図)に描かれた遍路者も紺、縞、格子の着物を着ているようです。
88箇所遍路

幕末に書かれた喜多川守貞の『近世風俗志』(『守貞漫稿』)には、四国遍路について、次のように記されています。
「阿州以下四国八十八ヶ所の弘法人師に詣すを云ふ。京坂往々これあり。江戸にこれなし。もつとも病人等多し。扮定まりなし。また僧者これなし」

 「扮定まりなし」とあるおで、決まった装束はなかったことが分かります。それは、明治に入っても変わりません。
愛媛県松山市野忽那(のぐつな)島の宇佐八幡神社に1884年(明治17)に奉納された絵馬には四国遍路の道中の様子が描かれています。男性が5名、女性が12名(うち子供2名)みえます。着物は、全員が縞模様や格子など柄物です。
1四国遍路 meizino 遍路姿

上の写真は、愛媛県西予市宇和町の山田大師堂に奉納された明治時代の四国遍路の記念写真です。これも全員が着物姿で白衣ではありません。このように、明治になっても遍路者は白衣を身につけていません。
白衣がみられるようになるのは昭和になってからのようです。
旧制松山高等学校教授の三並良は、
「青々した畑の間を巡礼が白衣でゆく姿がチラ/ヽと見え、鈴の音が聞える」
(三並良「巡拝を読む」『遍路』1932一九三二)
旅行作家の島浪男も
「お遍路さんに二組三組出会ふ。白い脚絆に白い手甲、着物はもとより白く、荷物を負ふた肩緒も白い」
(島浪男『四国遍路』宝文館、1930)と書いています。1936年(昭和11)に遍路に出た女性は、
「当時は先達以外に、白衣を着る人はいなかった」
(印南敏秀「戦前の女四国遍路」『技と形と心の伝承文化』慶友社、2003)と述べています。
「四国巡拝の手引」(1932年)に
「服装は平常着の儘にて、特に白衣などを新調する必要なし、但し白衣の清浄で巡る御希望ならばそれも結構です」

とあります。ここからは戦前は先達は別として、普通の遍路が白衣を着るのは珍しいものだったようです。




 戦後に社会が落ち着いてくる昭和20年代後半になると遍路に出る者が再び、増えてきます。
1953年(昭和28)に出された案内書『四国順礼 南無大師』(四国霊場参拝奉賛会)の「巡拝用品」にはまだ白衣はみえません。
岩波写真文庫の平均価格は511円|ヤフオク!等の岩波写真文庫のオークション売買情報は63件が掲載されています

1956年の岩波写真文庫『四国遍路』(岩波書店)には札所や遍路者の写真が数多く収められていますが、遍路者の約半分が白衣姿のようです。
1四国遍路姿 岩波

そして高度経済成長が始まる1960年代始めに出された案内書『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店)には、
「四国は今に白衣姿が一番多く、次いでハイキング姿です」

と紹介されます。いよいよ白衣の流行の時代がやって来たようです。こうしてみると、白衣が普及するのは思っていたよりも新しいようです。昭和の高度経済成長時代に、貸切バスで先達さんに連れられた遍路の団体から流行が始まったのかもしれません。先達さんだけが着ていた白衣が、かっこよかったのかもしれません。あるいは、先達さんの勧めがあったのかもしれません。どちらにしても白衣も般若心経も案外新しく戦後になって定着したもののようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界 ちくま新書



四国遍路を正式に行おうとすると、納経帳、般若心経、白衣は必需品のようです。白衣を身につけ、本堂と大師堂で般若心経を唱え、納経帳に納経印をもらうというのがお決まりの作法のようになっています。これは、いつからそうなったのでしょうか。
今回は遍路スタイルの変遷について見ていきたいと思います。
テキストは「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界」所収 ちくま新書」です
四国遍路の世界(筑摩書房) [電子書籍]
最初の四国遍路のガイドブックといわれる真念『四国辺路道指南(みちしるべ)』1687年刊の冒頭には、遍路者へのさまざまな注意書があり、納め札、笠、杖、脚絆などについては詳しく書かれています。しかし「納経帳、般若心経、白衣」のことは、どこにも触れられていません。当たり前なので触れなかったのではなかったようです。真念の時代の遍路者は、白衣を着ず、納経帳を持たず、般若心経も唱えていなかったようです。では、いつころからこれらは普及したのでしょうか。
天保11年(1840)四国八十八ヶ所の納経帳 | 古今御朱印研究室
天保8年の納経帳

今回は納経帳について見ていきたいと思います
寺社に経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状を納経状といい、それらを集めて帳面にしたものが納経帳と呼ばれます。ここで注意したいのは「経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状」が納経状であるということです。つまり、経典を納めない者には、出されることは元来はなかったのです。

御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室
 
この「納経帳」を最初に採用したのは「六十六部」のようです。
六十六部とは、日本全国六十六ヶ国を巡り、各国の有力寺社(決まってなくて随意の寺社)に法華経を本納するという巡礼者のことのようです。六十六部の納経状の最も古いものは12世紀のものが知られていますが、中世の六十六部の納経状は数も少ないようです。つまり中世に六十六部巡礼者の数も多くなかったのです。 それが世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部の活動が行われていたことが大量に残された納経帳からうかがえます。彼らの活動状況はからは次のようなことが分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
と、長期間をかけて各国を回るようになり、その数も急増したことが分かります。
一之輔独演会 花見の仇討ち - garadanikki

どんな経典が納められていたのでしょうか?納経帳に記された奉納経典についてみてみると
18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。そして1760年代以降になると、奉納経典は記載されなくなったようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の残した納経帳

納経帳の書かれた奉納経典の変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経寺社数が100以下の限られていた時期ならともかく、巡礼する寺社数が増えるにつれ、難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなったようです。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯を研究者は考えているようです。
四国69番 観音寺〈文政8年〉
文政8年の納経帳 讃岐観音寺

四国の札所の納経帳は、六十六部の納経帳のスタイルを真似たものとして登場するようです。
六十六部が四国を巡った際に、札所にもあわせて納経します。すると六十六部の巡礼者は四国札所の納経帳が出来上がることになります。そこには四国の札所の多くに納経したことが記されています。これはあくまで六十六部の納経帳であり、四国遍路の納経帳ではありませんでした。しかし、これを見た遍路の中に「あれええな、わしも作ろう、朱印を集めよう」と思う者が出てきたのでしょう。 

四国八十八ヶ所の納経帳は、いつごろから登場するのでしょうか
四国遍路者の納経帳で、今のところ最も古いとされているのが1753(宝暦3年)のものです。18世紀後半になると四国遍路の巡礼者も納経帳を持って四国をを巡るようになったようです。
中古】満願達成 重ね印 四国霊場八十八ヶ所 明治16年 弘法大師誕生1200年 淡路島七福神 納経帳 御朱印帳 御影帳 まとめて /お遍路巡礼札所  の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

どうしてこの時期に納経帳が普及するのでしょうか?
第1の理由は、納経帳の持つ魅力だと研究者は考えているようです。
納経帳には各寺社の本尊や祭神が大書されてあり、単なる書類綴りとは異なって諸国の神仏を集めた「神名帳」としての意味を持っていました。納経帳は、各札所を廻った証であるとともに、神聖なもの、ご利益をもたらすものと人々は考えていたようです。

19世紀初期に大坂で、四国遍路の普及につとめた菱垣元道は、四国遍路の入門書と納経帳がセットになった『四国道中手引案内納経帳』を作り、五万冊以上を無料配布します。そこには、次のような事が記されています
①納経帳を持って遍路をすると、持たない場合に比べて功徳が七倍になる
②納経帳を一枚ずつ水に人れて飲むと流行病にかからない
③納経帳を死後棺桶に人れると極楽往生できる
などの効用が説かれています。ここまで言われると納経帳はありがいものに思えてきます。納経帳は、神聖でありがたく、効能があるものとされるようになったのです。

納経帳普及の理由の第2は、 18世紀後半になると経典を奉納しなくても納経印がもらえるようになったことです。
真念の時代の四国遍路では、八十八の寺社にお札は納めてはいたが、経典を納める慣習はなかったようです。先ほどの六十六部の所でも触れましたが、当時は、経典を奉納しないと納経印がもらえなかったのです。納経印をもらうために、大量の経典を写経したり、買ったり出来る人は限られています。そこまでして納経帳をつくる遍路者はいなかったでしょう。しかし、18世紀後半になると、納経料さえ払えば納経印がもらえるようになります。この変化が巡礼者の多くが納経帳を持つようになった背景ではないかと研究者は考えているようです。

まとめておくと、
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこない。
②実際に納経を行っていた六十六部は「納経帳」を残している。
③四国遍路の四国遍路の納経帳は、六十六部の納経帳から生まれ、18世紀の後半から四国遍路者の間に普及した。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったこと
⑤納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界所収 ちくま新書」です

  
DSC00870長善寺遠景
勝浦の旧長善寺

勝浦村の御林守幸助は、文政十一(1828)年の春以来、阿州加茂宮村の百姓伝右衛門の娘いせを、阿野郡北加茂村の知り合いの娘であると偽って召し使っていました。いせは器量よしで気立ても良かったので、伝右衛門の長男豊吉とも親しくなります。そして、豊吉の友人で御林守幸八の次男利右衛門と、内縁関係を結ぶようになったようです。
 幸助は、いせが阿州者であることを知らずに、利右衛門が愛情を深めていくことが心配になってきます。ある夏の夜、幸助宅を訪れてきた利右衛門と、豊吉の間で、ちょっとしたことが原因になって、激しい口論が起きます。この機会を捉えて幸助は、息子の豊吉に味方して、利右衛門を叱責して利右衛門の出入りを禁止します。
 しかし、幸助が、いせをどこかへ連れ去って、自分との仲を引き裂くのではないかと心配した利右衛門は、翌日夜に、いせを幸助宅から連れ出し、出奔して身を隠してしまいます。当時、このような「掠奪婚」が「流行」していたようです。友人の助けを借りて女を掠奪し、同居して結婚の事実をつくり、周囲の人々に認めさせる結婚形式です。

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 二人は、阿野郡の陶村の知人の家に隠れ住んでいました。

これを見つけた利右衛門の兄・多次郎も、いせが阿波出身であることは知りません。二人の立場に同情して黙認します。
一方、いせがいなくなった幸助方では、利右衛門が友人を語らい、徒党を組んでいせを奪ったと村役人に訴え出ます。関係者が次々と村役人の取り調べを受け、利右衛門といせが陶村から連れ帰られたのは、その年の秋も深まる十月でした。
 利右衛門の兄の多治郎と一類の鹿蔵、五人組の文蔵・丈八・庄八が誤り状を書き、幸助と豊吉も、阿波の女を雇っていたことについて、誤り証文を村役人に差し出します。いせは、阿波の親元に送り返され、利右衛門もこの扱いに不足はなく、いせに未練のない旨を書いた一札を、村役人に差し出して、事件は一応内済になったようです。慶安の協定が、二人の愛情の結を断ち切ったことになります。
 このような経過を記録した文書が勝浦の庄屋だった家には残されています。ここから分かることは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人(逃散)防止協定」が二百年近く経過した幕末にも機能していたことです。江戸時代に、阿讃の両藩間での婚姻関係は認められていなかったことが分かります。
DSC00826勝浦

 ところが事件は、これでは収まりませんでした。
讃岐方の勝浦から親元の阿波へ連れ返されたいせは、弥三郎という男と結婚していました。それを聞いた元カレの利右衛門は、請めきれずに今度は国境を越えての掠奪結婚に出たのです。その事件を知らせる手紙が文政十二(1829)年2月17日の早朝、勝浦村の庄屋佐野佐蔵のもとに届けられます。差出人は、いせの嫁ぎ先である阿波の庄屋小笠七郎次からで、そこには次のように記されてありました。
一筆致二啓上一候。追々暖和に罷成候所、弥御堅勝に可被成御座、珍重目出度奉存候。然ば其御村OO免幸八倅利右衛門と申者、 今晩大勢の人数召連れ、当村〇〇名百姓多美蔵と申者宅へ罷越、倅弥三郎妻、有無の言不二申出横領し召連れ罷帰り申候に付、弥三郎儀留守の事故、親多美蔵義利右衛門に取付、申間せ候は、如何相心得右様横領の仕成仕侯哉と申聞せ候得共、何の言も無之、多美蔵を四ケ所迄打測に相及び、 其儘罷帰り候。其内名内の者共久付候得共、 大勢の者共夜中の事ゆへ行衛相知不申由、野士方へ申出候に付、右様横領成る義故難二捨置、其上多美蔵義四ケ所の大疵に付、命数の程
も難′計侯に付、右利右衛門儀御召集御行着可被下債。御行着の上有無御返事、此者へ御聞せ可被下候。委細の義は指越候者より型司取可
   意訳しておくと
一筆啓上致します。追々に暖かくなっていく季節ですが、堅勝であられましょうか。この度、次のような事件が起きましたのでお知らせします。そちらの勝浦村の幸八の倅・利右衛門と申す者が、 今晩、大勢の人間を引き連れて、当村の百姓・多美蔵宅へ押しかけ、倅の弥三郎妻を横領し召連れ帰りました。これは弥三郎の留守の間のことで、多美蔵は利右衛門に取付いて、このような「横領」をおこなうことの不法を申聞せたが、何の返答もなく、その上に多美蔵を四ケ所も打ち据える始末です。
  大勢の者がいたようですが夜中のことで、行方知れず、野士方へ申し出ることになりました。この横領については、放置することができません。その上、多美蔵の四ケ所の傷害に付いては、命に別状はありませんが放っておくことも出来ません。利右衛門を召喚して、詳細をお聞き取り頂き事の次第を返事でお知らせ頂きたい思います。委細については、使者より口頭でお聞きください。
DSC00870長善寺遠景

 手紙を受け取った佐野佐蔵は、造田村庄屋の西村市太夫に急報します。市大夫の指示を受けて3月18日に郷会所へ注進しています。郷会所の元〆の指示によって、利右衛門が行方不明であるので、取り押さえ次第取り調べて報告する旨の返事を、翌々日には佐野佐蔵から小笠七郎次に送ります。
1勝浦 佐野作蔵の手紙

こうして行方不明の利右衛門といせの二人の探索が始められます。
 高松藩の町奉行所から、同心衆、上下10人が勝浦村にやってきてます。郡奉行所からも二人の手代が入村して取り調べが始まります。利右衛門の父幸八は、御林守の職を停止されて所蔵に入れられます。高松藩領には、利右衛門の人相書と罪状を述べた御触れが出されます。
「稲毛文書」 の中の利右衛門の人相書には、次のように記されています。
月代: 乱志&流三の落語徘徊
O鵜足郡勝浦村御林守小八倅
利右衛門  年二十八
但年齢相応に相見え、中勢中肉丸面にて、冒毛厚き方、
色赤き方、言舌静か成る方、限・歯並常然、
月代(さかやき)厚き方。
その他、衣服や所持品、その犯行についても細かに書かれています。これは当時の大スキャンダルになったでしょう。二月末には、村内から11人の若者が捜索隊員に選ばれ、六班に分かれて、東は白鳥から西は豊浜までの各地を調べ上げます。しかし、利右衛門といせはもちろん、利右衛門に協力した者も発見することができません。一方、傷を受けた多美蔵は、すでに回復していることが探索者の間き込みにで明らかになり、一同は一安心しています。
四月桜の季節になって、利右衛門といせが、阿波の芝生村の知人の家に隠れているのが発見されます。
利右衛門といせは、徳島に送られ取り調べが行われます。その結果、利右衛門に協力したのは阿州の者で、後難を恐れて足抜きしていることが明らかになります。
 ここで、寛永21(1644)年の「走人防止協定」を再確認しておきましょう。この協定は、逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したもので、第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。

第16条では、
「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では
「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」

とされてきました。
 事件は思わぬ方向へ急転回することになります。
「走人防止協定」によって、利右衛門を処罰すれば、利右衛門といせを隠していた芝生村の人々も厳しく処罰しなければならなくなったのです。この対応に当たったのが、阿州・太刀野山村の庄屋山本新太夫と、芝生村の庄屋平尾平兵衛です。ふたりは協議し、芝生村の百姓喜八と清兵衛を使者として、平尾平兵衛と親しい関係であった中通村庄屋東三郎方に派遣し、今度の事件を内済とするように運動することを願い出ます。公になれば芝生村の人々にも火の粉が飛んできます。それを「内済」にすることで、村の人々を守ろうとしたのでしょう。

DSC00786長善寺道標

 同時に、山本新太夫は、勝浦村の長善寺の住職に手紙を送って協力を依頼しています。長善寺は美馬・郡里の安楽寺の末寺で、真宗興正寺派の讃岐への布教センターの役割を果たした寺で、この地域では政治力もある寺でした。また阿波にも檀家が多く、法要などを通じて住職とは面識があったようです。

DSC00821
勝浦の旧長善寺

 しかし、高松藩側の態度は硬化して、なかなか内済に応じなかったようです。
利右衛門はこれが2度目の略奪婚です。前回に反省文も出しています。にもかかわらず同じ事を今度は国境を越えてやったのです。いわば「再犯者」です。すぐに内済扱いとは出来ないのも分かります。
ぞのため条件とされたのが、利右衛門の父幸八の所蔵入を免じ、利右衛門の処分が決定し、その決定に阿波側の庄屋小笠七郎次が同意したということが明らかにならなければ、内済に同意しないという態度を示します。

DSC00853福家神社鳥居
勝浦の福家神社
徳島藩では、利右衛門を徳島の獄につなぎ多美蔵と弥三郎を呼んで事情を聞き取り、いせを弥三郎の妻として復縁させています。このことは7月になって、讃岐側にも伝わってきます。
  「不埓の事あり」として、50日間の入牢を申し付けられていた利右衛間が、阿波と讃岐の境である引田の逢坂峠で追い払われたのは、八月末になってでした。このことを、勝浦村庄屋に通知した小笠七郎次は、その手紙の中で、暗に、この度の処置に満足していることを述べています。

DSC00855勝浦福家神社鳥居

 この事件の解決に奔走した造田村庄屋の西村市太夫は、事件の頭末を、美濃紙二枚綴りの一件記帳留にまとめ、その最後の一頁に、
「右の通大変にて有之候得共、色々取計い、利右衛門一人出奔、除帳人に相成、其外少しも御咎め無之結構御訳付に相成り申候」

と結んでいます。ここには庄屋として、勝浦の関係者を守り切ったという満足感と安堵感が現れているようです。

国の作法に反抗して、再び掠奪結婚を試みて失敗した利右衛門のその後はどうなったのでしょうか。彼の集落の墓地には、彼の墓はないようです。 郷里に立ち帰らなかったのかもしれません。
 
 この事件から分かることは、寛永21(1644)年の「走人防止協定」第18条の「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」が、幕末になっても阿讃国境では生きていたことです。峠を越えての恋が成就することは江戸時代には御法度とされ続けていたようです。
DSC00856福家神社道標

慶安の協定によって、阿波と讃岐の愛情が、無残に引き裂かれることは、その後もあったようです。  天保十四(1843)年7月に、造田村の弥作が村役人に提出した一札(「西村文書」)があります。
ここには出身地を偽って彼の家に奉公していた娘と彼が内縁関係になり、娘が阿波の出生であるために許されず、娘が父親に連れられて阿波に帰ることになった時、彼が娘に未練のないことを述べたものです。しかし、その行間に、断ち切ることのできない愛情が猛れているように思われます。
  天保14年6月、造田村で心中事件が起きます。
池に身を投じて自らの命を、ともに断ったのです。男は、阿州三好郡川崎村出身の加蔵で、彼もまた出身地を偽って、造田村で奉公していました。家の主人が多忙な人であり、その妻が病弱で、野良仕事はその家の娘と、加蔵の二人で切り盛りしていたようです。若い二人の間は、急速に近づき内縁関係になります。しかし、加蔵が阿波の出身であるとにらんでいた娘の父親は、二人の仲を裂こうとして、加蔵に暇を出します。二人の水死体が見つかったのは、それから間もなくのことであったようです。
 造田村の庄屋西村市大夫からの手紙を受け取った川崎村の庄屋友吉郎は、加蔵の兄久太に返書を持たせて造田村へ急がせます。造田村に着いた久太は、水死者の一人が弟の加蔵であることを確認し、たどたどしく筆を走らせて、迷惑をかけたことを詫び、弟加蔵の死体を引き取らせてもらいたいと、願い出ています(「西村文書一))

DSC00844勝浦福家神社

「走人防止協定」で、阿讃の国境を越えた恋は成就できない掟となってきましたが、次第に人々の「人権意識」が目覚めていくのがうかがえる記録も残っているようです。
「牛田文書」の中に、草案ではありますが、次のような手紙原稿が残されていました。
指上申一札の事
私儀、此度長谷坂亀三郎倅甚七、阿州三好郡東井の川村辻住居、きぬと申す婦人と、先達てより内縁仕り、右きぬ親立会の上にて、其方女房に相定候得共、甚七一類腹入不仕義に付、 日地書わけ別宅仕り、 其席に立会不申侯得共、只今迄夫婦に相暮居中候処、此度甚七神願に付、 内々神参り(出稼ぎ)可仕に付てハ、女房預り人も無之、無拠引連罷越趣に承り、併右きぬも妊娠に相成、追々臨月にも相及候由、旅立候ては難渋に相見へたる事に御座候。右きぬ女親呼寄掛合中候所、何分宜敷様取扱呉候様、達々願候に付、双方懸合中処納得仕候に付、万事私引請中候間、御内々御聞置可被下候。若し他所者の儀に付、以後如何様の引縫出来仕候共、 御村方御役人中様は不及申上甚七一類に至迄厄介の筋、少しも相懸申間敷、為後日指上申一札如件。
他所婦人引請
               かつら村 甚 八
               一類   八五郎
               組合     富 蔵
慶応三年年七月
御村方御役人衆中
意訳しておくと
一札の事さし上げ申し上げます
 この度長谷坂亀三郎倅・甚七が、阿州三好郡東井の川村辻の住居のきぬという婦人と、先達てから内縁関係になりました。そこできぬの親の立会の上に、女房に迎えることにしました。しかし、甚七の親族はこれに反対し、田地を分け別宅を建て、その席にも立会わないと申します。こうして、ふたりは夫婦として暮らしてきましたが、甚七が神参り(出稼?)に出ることになり、きぬも妊娠していることが分かりました。時が進み臨月になり里に帰ることも難渋に思えます。きぬの女親を讃岐に呼寄ることをお願いして欲しいと何度も依頼されました。そこで双方に懸合い交渉をすすめた所、内々にお聞き置くださることになりました。
 もし阿波出身の他所者であることで、今後どんなことが起きましょうとも、村方役人様には害が及ばぬように致します。甚七親族一類についても、少しも懸念なきように後日のために一札差し上げる次第です。
DSC00800長善寺鐘楼

ここからは次のような事が分かります。
①長谷坂の亀三郎の倅甚七が、阿波生まれのきぬと結婚しようとした時、親の亀三郎などはこれに反対したこと
②それに対して、親類の甚八と八五郎、五人組の冨蔵が甚七に味方して結婚させ、その後甚七が神参り(出稼か)に出ることになった
③その間、妊娠中のきぬを責任を持って預かるという証文を、村役人に差し出している
ここには、家の反対に関わらず親族や近所の中に、夫婦になった二人を「掟」を破っても守ってやろうという意識が周囲に形成されてきたことがうかがえます。
かつては、藩の定めた不合理な協定の前に屈伏していた人々が、この掟に抵抗し、自らの愛情に忠実であろうとする人々を応援し、たとえ近親が協定を恐れていても、これらの人々を守ってやろうという姿勢を示すようになっているのです。
 阿讃山脈の国境の村々には不合理な藩の掟に抵抗して、結婚の自由、住居の自由を獲得しようとする自覚が産まれていたと言えるのかもしれません。それが明治維新になって幕藩体制が崩壊し、「結婚・住居の自由」が保証されると、峠の道を花嫁行列が行き交うようになり、阿讃に跨がる通婚圏が成立していくようです。
 逆に言うと、江戸時代には両者の間には通婚圏(権?)は、存在しなかったことになります。これが、お隣の丸亀藩にも当てはまるのかどうかは、今の私には分かりません。
参考文献 国境の村々 琴南町史307P

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
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  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

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文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅大権現が発展していく礎石となったのが、生駒家時代の寄進地でした。
何回にも分けて金毘羅に寄進された石高は330石になります。
これを他の寺院と比較してみると寄進地が圧倒的に多いのが分かります
①2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石
②3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石
③国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院(善通寺)でも60石程度。
⑤白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの新興宗教団体の「金毘羅大権現」に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツという女性の力があったことを以前にお話ししました。
生駒一正 - Wikipedia
生駒家2代藩主・一正
 
一正の愛したのが於夏(オナツ)です
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を三豊の山下家で産んでいます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 
寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。 金毘羅大権現への寄進・保護を進めたのも於夏とその子ども達です。
オナツと金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか? 
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
①2代目・一正未亡人の於夏
②一正とオナツの息子で藩内NO2の石高を持つ筆頭家老・生駒左門
③一正とオナツとの間に生まれた娘山里(?実名不明)(左門の妹)
④於夏の娘山里③が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
⑤於夏の娘山里③の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、外戚山下家の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたのが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進になるようです。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒藩・重臣達の屋敷配置

オナツの娘(山里?)について、生駒記には次のように記されています
家嫡正俊、讃岐守ニ任ジ四品二叙シ家督相続ス。二男左門ハ五千石宛行、家老並ニナル。女子一人猪隈人納言公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル。
意訳すると
生駒家二代一正は、長男正俊を讃岐守に任じ四品を叙任し家督を相続させた。二男左門(正俊異母弟)には、五千石を知行させ家老並に扱った。女子一人(山里?)は、猪隈人納言公忠公に嫁がせたが故ありて高俊の代になって国に戻ってきた。

この様に史書は一正の息女が猪隈大納言へ嫁しことを伝へています。
しかし、「公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル」とあり、京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが「故あって」懐胎したままで讃岐に帰ってきます。なぜ帰ってきたのでしょうか、しかも懐妊状態で?
 前置きが長くなりましたが「謎の女・オナツの娘(山里)」について紹介した文章に出会いましたので紹介したいと思います。
テキストは「山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年」です。
ここには、宮中一の美男子と云われた猪熊大納言公忠卿に嫁した「オナツの娘(山里)」が、なぜ懐胎したままで讃岐に還ってきた理由が明らかにされています。史料を見てみましょう。
幕末の金光院の役人山下盛好の覚書の一文です。

1オナツの娘の離婚理由

意訳して見ましょう
後陽成天皇 慶長十三(1608)年3月、
猪隈侍徒教利(この家は今は絶家となっている。生駒一正侯ノ女、猪隈大納言公忠公に嫁いだと記録にあるのは、この教利の一族のことである)
鳥丸参議光廣公(同家六代目ノ所に見える人物である)
花山院少杵忠長公(同家の系譜からは削除されたのか見えない。今の花山家とは別かもしらない。
徳大寺少特実久公(同家十九代目である)
飛鳥井少将雅賢公(同家十四代目である)
難波少膳宗勝(同家十四代目である)
松本少格宗隆等
以上の者達が共に結んで蕩遊し、密かに宮女五人を誘い出し、これを姦した。(内二人は実承寵幸)
これを知った後陽成天皇は震怒し、
1オナツの娘の離婚理由

家康公の京都所司代・板倉四郎左衛門宗勝に告発し、糾すように求めた。慶長14年(1609)11月に次のような処分が下された。
猪隈教利は斬首 宮女五人を八丈島に流した。宗隆・頼国は硫黄島、忠長を松前(北海道)、雅賢は隠岐、宗勝は伊豆へ流された。光廣・実久の二人は、許しを得て位階を復活させた。この引書は、逸史・続国史略・王代一覧に書かれていることに依った。
  これはなかなかスキャンダラスな内容のようです。いまの週刊誌風に表現すると
イケメン貴族達 宮女5人と乱交バーテイー
 天皇は激怒し 首謀者は斬首
というようなタイトルが飛び交いそうです。

報道には「裏をとる必要」があるので、別の資料にも当たっておきましょう。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
   徳川幕府が成立し戦国時代の窮乏からは解きはなたれたものの政治から隔離された生活をしいられるようになると公家衆の風紀は著しく弛緩してゆく。宮廷随一の美男子ともてはやされると右近衛権少将猪熊教利は、女官との愛に溺れて素行がおさまらず、慶長十二年(1607)2月に勅勘をこうむり、京から出奔した。一説に相手の女官は後陽成天皇の寵をうけていたという。ところが事件発覚後も宮中の気風はいっこうに改まらず、慶長十四年七月には典薬の兼康備後なる者が手引きをし、参議鳥丸光広・左近衛権中将大炊御門頼国ら公卿と典侍、広橋氏、権典侍中院氏らの女官が、今でいう乱交パーティーをくりひろげた。
この一件を知った後陽成天皇は激怒、公卿の官位を剥奪し、女官をそれそれの実家に帰し禁錮にした。さらに天皇は出奔して行方知れずの猪熊教利を捕縛のうえ乱交に加わった男女ともども極刑に処するよう幕府に求めた。
 これにたいし徳川家康は、同年11月に教利が日向国で逮捕されると、京へ押送させ、兼康備後とともに死刑にした。しかし、天皇の御母新上東門院や女御近衛氏による助名嘆願もあって鳥丸光広、徳大寺実久を無罪。他の公卿、女官を配流とするにとどめた。
   金光院の山下家の文書と現代の歴史学者の説は一致しているようです。一正とオナツの娘(山里)、故あって懐胎したままで讃岐に帰ってきた背景には、こんなスキャンダルに巻き込まれたからのようです。
山下家の記録には、一正とオナツの子ども達が次のように記されています。
  一男ハ生駒左門
西村大屋舗(現在―三豊郡山本町)(山下盛久宅ナリ)ニテ誕生、慶長五子年也
幼名 熊丸卜云、九才ノ時
南無天満大自在天神卜染筆有、今宗運寺(山下盛久建立)ノ什物也
連技家老トナリ五千七十石
寛永十七辰年生駒家没落、作州森美作守侯へ御預、五十人扶持ニテ為方卜有
万治三子年五月九日死去六十一才
体本院雄心全功居士
女子 猪隈大納言公忠卿二嫁ス
(逸史略、続国史略、慶長十四年六月猪隈侍徒斬罪ノ吏有)
有故高俊侯ノ代国二返り有胎ノマヽ一子ヲ生ム 後生駒特監二再嫁ス生駒帯刀ノ継母ナリ
意訳すると
逸史略、続国史略には、慶長十四年六月に猪隈侍徒斬罪となったことが記される
そのため三代高俊侯の時に、懐妊状態で讃岐に帰り、男子を産んだ。その後、生駒特監に再嫁し、生駒帯刀の継母となった
一子ハ生駒河内(猪隈大納言公忠卿の子) 
釆地三千石余被下置、生駒騒動二際シ追放サンル。子孫、高松二有卜云フ
                                (以上、山下家譜)

どうして、一正は娘を公家に嫁がせたのでしょうか?
理由のひとつは、一正が戦国武膊の悲情さ・無常さを充分味って、栄枯盛衰の少ない公家社会へ嫁がせたという説です。生駒家も関ヶ原の戦いでは、父親親正と子の一正は豊臣方と徳川方に引き裂かれました。また、勝ち馬に乗れなかった武人達の末路も見てきました。一正の心の中には「可愛い愛娘は、武将の嫁より宮廷人の嫁へ」と思ったのかもしれません。
第二の理由は、宮廷人(九条家)と姻戚関係を結ぶことで、生駒家の権威を得ようとしたのかもしれません。
しかし、選んだ相手が悪かったようです。こんなトラブルに巻きこまれようとは、おもってもいなかったでしょう。懐妊して讃岐に身も心も疲れ切って帰ってき娘にかける言葉もなかったのではないでしょうか。黙って見守った一正の心配りは父親としての愛情を感じさせるものでした。父なし子として産まれてきた子を自分の養子として育てます。そして後には、家老並みの知行を与えています。また母親となった山里には、家老・生駒格監の後妻として再婚させています。
 こうして、山里は新たな伴侶と幸せに暮らせたかと云えば、そうではなかったようです。
 再婚相手の生駒生駒格監も寛永9(1632)年に亡くなります。この病死については、毒殺説もあるようです。この頃から生駒家では、外戚山下家の権勢に反発する空気が広がっていきます。
それが生駒家騒動につながります。この結果、(山里)につながる人たちは次のような道を歩みます
①継子 帯刀は、松江藩松平家預五十人扶持
②兄 左門(連技家老5070石)は、美作藩森美作守侯へ御預、五十人扶持。万治三子年五月九日死去六十一才
③一子 生駒河内(釆地三千石) 追放サレル。子孫高松二在リト伝ヘラル          (山下家家譜)
この様に山里は、二人の夫、継子、兄、実子と別れ別れになります。彼女の晩年を伝へるものは、何一つ残されていないようです。継子と共に松江へ移ったか、兄と共に作州へ、それとも実子とともに追放され高松近在で余生を送ったのか分かりません。
一正とオナツの娘を「山里」と呼んできましたが、これも実名かどうかも確かには分からないようです。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
 母オナツと彼女につながる山下家の血縁が、生駒家の中で外戚として、大きな政治勢力となり、それが新興宗教施設の金毘羅大権現にとっては大きな力となったことを、記しておきたいと思います。
 最後まで、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年

 

      
4 阿波国絵図3     5

久保谷の大師堂                                            
まんのう町を南北に貫く国道438号は、三頭トンネルが出来るまでは行き止まりの国道でした。今は長いトンネルを抜けるとわずかの時間で美馬・郡里へつながるようになりました。しかし、かつては讃岐山脈の険しい峠道を越えて行く姿が戦前までは見られたようです。今回は、まんのう町と美馬町をつないだ三頭越の峠道のお堂を見ていくことにします。
三頭越え 久保谷の大師堂

三頭トンネルの入口の手前が久保谷です。
土器川の支流に架かる橋が三頭越の入口になります。久保谷川はかつては郡境で、川の南は鵜足郡勝浦、北は阿野郡川東でした。この久保谷橋を渡った所に、二間四方の大師堂があります。その祭壇中央に阿弥陀如来を、右側に寄せ木造りの大師座像を、左側には、舎利仏と呼ばれている仏像が祀られています。舎利仏像の厨子には
「安政七(1860)年庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」

と書かれています。安政の大獄のあった時期に、峠の向こうの美馬猿坂の住人によって寄進されたもののようです。祭壇の左偶には、数枚の祈祷札が立て掛けられてありますが、下の方から腐食が進んでいるようです。祈祷札の中に、
①「安政第五(1858)年、奉修不動明王護摩供養二日 二月占良日」、
②「慶応第二(1866)年 奉修不動明王護摩供養三日」
の二枚の祈祷札があります。
 その他にも
③明治四年と明治十四年の、「金毘羅宮奉二夜三日祈祷 講中安全守護所」
の祈祷札もあります。
①②は、ここで山伏たちが不動明王に護摩祈祷を行っていたことがうかがえます。③は、金毘羅大権現の大祭に、祈祷が行われていたことが分かります。①②③や舎利仏も幕末から明治にかけてのものなので、この時期に大師堂が創建されたのかもしれません。
DSC07393

 実は昔の大師堂は、今ある場所から50m久保谷へ入った所にあったようです。昔の大師堂の前には広場があって、毎年にぎやかに盆踊りが行われていたといいます。この旧大師堂は、昭和13(1938)年の洪水で流されてしまいました。そのため講中の人たちの手によって、新しい敷地を求めて建てられたのが現在の大師堂だそうです。
むかし栄えた久保谷の金毘羅堂
 そして、橋の手前に金毘羅堂はあったようです。その金比羅堂の正面には金毘羅さんを祀り、右に舎利仏像、左に善光寺石仏が安置され、踏込みの土間に沿って、広い縁があり、板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていました。土地の人はそれを「金の錐子」と呼んでいたそうです。
DSC07392大師堂より
大師堂から景色

 旧金比羅堂は、三頭峠から足下の悪い沢沿いの谷道を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換場となっていたようです。久保谷の土地が阿讃を往来する人々の旅宿となり、休憩所となり、情報交換の場となり、お互いに金毘羅信仰を温めあう聖地であったことを、物語ってもいます。琴平以南で最も活気のある金毘羅堂としてにぎわっていたようです。そしてまた、金毘羅信仰の一つの拠点として色々な行事が行われていたのです。それが先ほど見た明治の金毘羅宮の祈祷札や、幕末の不動明王護摩供養札からもうかがえます。幕末から大正ごろまで、この地では金毘羅信仰が盛んで、関連イヴェントが行われていたことを教えてくれます。
 しかし、昭和に入ると鉄道網の整備が進むにつれて金毘羅詣客が、この街道を利用することが少なくなり、これらの行事も次第に行われなくなったようです。金毘羅堂も老朽化がひどく、戦後の昭和21(1946)年頃には取り払われたようです。中にあった仏や御札は、再建された大師堂や境内に移されました。
  現在の太子堂境内には、いろいろな石仏や祈念碑が並んでいます
向って右の山際に、堂から順に、手洗鉢・舟型石仏三体と金毘羅祠が祀られています。

DSC07389久保谷金比羅堂

手洗鉢は正面に31㎝の○金が刻まれていて、もともとは金毘羅堂にあったものだそうです。石仏三体(地図図79)は、一番奥が、一光三尊形式で信濃善光寺と刻銘された慶応三年(1867)のもので、やはり旧金毘羅堂にあったものです。
DSC07390善光寺

この石仏については
「光背に厚く彫り出された化仏も立体的で美しく、地方作とは思えない秀作」
と評価されているようです。
   その右側に、西国三十三番観音霊場一番札所那智寺の石仏があります。
DSC073913つの石仏

この久保谷から、三頭越を越えて阿波の三頭神社まで、ミニ西国三十三観音霊場の石仏が丁石を兼ねて街道沿いに置かれていました。ただ制作年号が分かるのはこの像だけのようです。久保谷から数えて、三頭越の峠までを16丁で16番目になります。33丁目の三頭神社では峠すぎの17番から33番までの石仏が迎えてくれていたようです。
三頭越え 標識

当時は、三頭越ルートの道が改修されていた頃になります。改修の成功を願い、道中の安全を祈って、阿波の人たちが寄進したものと研究者は考えているようです。
   境内の一番手前は、二十四輩の二十四番の石仏です。
これも三十三観音の1番と一緒に、もともとは橋の向こう側の旧金毘羅堂付近にあったようです。
どうして、西国巡礼1番と関東巡礼24番の石仏が並んでいるのでしょうか?
①関東二十四輩の石仏達は、落合から久保谷までの路に、一丁毎に建てられていた
②西国三十三番観音霊場の石仏は、久保谷から阿波の三頭神社までに一丁毎に建てられていた
つまり、久保谷の旧金比羅堂が、関東二十四輩の最後の札所であり、西国の最初の札所でもあったようです。金比羅堂が関東霊場と西国霊場の「ジャンクション」だったのです。久保谷までは二十四輩に、久保谷からは西国三十三観音に、旅人は守られていたということでしょうか。
三頭越え 丁石

  ちなみに、いまは久保谷から三頭越までは四国の道として整備されていて、道標や案内板も設置されています。ゆっくり歩いても2時間足らずで峠にたどり着くことができます。

 久保谷までの二十四輩で残っているのは21体で、もとの位置にあると思われるのは20・22・23・そして久保谷の金毘羅堂跡の4つです。これを丁石と考えて、旧道に配列すると、川東の林付近がスタート地点で一番札所があったことになるようです。林からは、険しい谷あるいは山道を久保谷まで街道は進んできます。行方不明になったり、動いている石仏(丁石)は、旧道が消えてしまった部分に当たるようです。

三頭越 丁石配置
現在残っている丁石

  しかし、西国ミニ巡礼は分かりますが、なぜ関東二十四輩の石仏達が設置されたのでしょうか?
それは、この三頭越の峠道を整備した僧侶の出自と関わっているようです。
DSC07386道路修繕碑

石仏に並んで、ここには自然石の一面を削って碑文を刻んだ高さ約1,5mの石碑が2つあります。ひとつが三頭越の道路建設碑で、幅0,6m・厚さ0,4mで、碑文は片かな交りの漢丈調のものです。碑文からは読み取れませんが、琴南町史には次のような碑文が載せられています。
意訳すると、次の通りです
「当山、此ノ川ノ中央ヲ以テ阿野鵜足郡境トシ、勝浦・川東両村二接シ、往昔ヨリ谷間・三頭山ヲ越エテ通行スルノ往還、岩石間関タルノ小路ニシテ、旅人苦慮ス。牛馬鉄映(正シク行クコトガデキヌ)ノ実況ナレバ、局外ヨリ之ヲ観下スルニタヘズ。東西二奔走シ、精神フ凝ラシ、十方ノ喜捨フ以テ、国境ヨリ明神落合マデ六十町ヲ鉾削(人カデ切り開ク)セラレタリ。元治元年ヨり三星霜ヲ経テ、慶応三年仲秋営業ス
十方寄附 発起人 
大麻村茶堂    智典
勝浦村   角原 歌次
琴平町   浜野 和平
勝浦村政所 佐野十次郎
川東村   黒川 勇古
勝浦村   牛円藤之進
川東村   西岡 滝蔵
同      高尾 棟松
ここからは次のようなことが分かります
①久保谷の前を流れる土器川支流が阿野郡と鵜足郡の郡境で、勝浦・川東両村の村境でもあった。
②三頭越の往還道は、岩場の悪路で旅人が苦労していた
③そこで、国境から明神落合までの60町を切り開く工事を元治元(1864)年から3年がかりで進めて慶応三(1867)年の仲秋に完成させた。
この工事の中心人物が発起人の一番上に名前がある「大麻村茶堂   智典」と「勝浦村  角原歌次」だったようです。
DSC07385智典碑

この碑に並んで建つのが智典法師の供養塔です
この日は建設碑と同じ型の自然石の上部に、サ(聖観音)の種字を刻み、明治12卯(1879)年 旧6月19日、行年82才と刻まれています。中央に約30㎝の方形のレリーフがあり、杯を手にした人と、鶴はしを手にした人が、ともに休息する姿が見えます。苔むして表情はよく分かりませんが、その精気が全身に充ち充ちているようにも思えてきます。
 地元の人の間では、智典法師と、その最大の協力者角原歌次の二人の姿を刻んだものであると伝えられているようです。碑の下段には、世話人の氏名が次のように刻まれています。地域の集落を代表する人たちで、智典と行を共にした人々なのでしょう。
世話人 角原歌次
ヲキノ 黒川八郎平
ヨコバタ(横畑) 西岡久松
カワノオク(川奥) 杉原好尺郎
カワノオク(川奥) 高尾初衛
カワノオク(川奥) 西尾金助
ナカグマ(中熊) 佐野弘造
ナカグマ(中熊) 西岡小太郎
笠井喜二郎
ハヤシ(林) 岡坂七平
メウジン(明神) 三宅鳥造

ここからは、街道整備後の明治12年に「大麻村茶堂    智典」が82歳で亡くなったこと。それを悼んで建設費と供養碑が同時に久保谷の金比羅堂周辺に建てられたことがうかがえます。
  以上を総合すると、幕末から明治にかけての三頭越の街道は整備が進み、それに併せるように街道沿いにはミニ巡礼の石仏が丁石を兼ねて安置されていきます。同時に拠点となる久保谷には新たに金比羅堂が建立され、舎利仏や石仏などが安置されたようです。今までにない街道とお堂に、明治と共に変身していった様子がうかがえます。
DSC07383久保谷 智典

 このようなきっかけを作ったのが「道造り坊主」と呼ばれた智典だったようです。
  私は琴南町史を読んで、ここまでの情報で智典を、菊池寛作小説「恩讐の彼方に」の了海のよう人物と勝手にイメージしていました。 耶馬渓の青の洞円をうがった良海のように、この金比羅・三頭街道の難所を開くために
「破れた衣を身にまとい、唐鍬を振って黙々として一心不乱に道路を修繕する名も知らぬ僧」

といった「道造り坊主」像です。ところが、どうもそうではないことが、近年発見された史料から分かるようになりました。彼は、街道整備の請負人でその組織の棟梁であったらしいのです。その話は次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町史
          峠の道調査報告書 三頭峠 香川県教育委員会

                                  

 金毘羅さんの博覧会は明治12年の方が有名ですが、それより6年前に明治6年(1873)3月1日に金刀比羅宮(当時は「事比羅宮」)社務所書院を会場として、第1回博覧会が開かれています。今回は、この時の博覧会について見ていきたいと思います

 禰宜(ねぎ)職であった松岡調は、「展覧会の引札(広告案内パンフレット)」が刷り上がってきたときことについて、次のように記しています。
  九日 とくより社務所にものせり、
(○中略)過日にゆるされたる展覧会のひき札(広告)を、今日より御守処にて詣つる人々に分布させつ、此彫したは、己かものして彫セたるなり、
 方今宇内ノ各国博覧会卜云ヲ開テ、天産ノ品ニョリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニョリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ、就中古器旧物二至リテハ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観センカ為、互二徴集ヲ鼓舞スル克卜ハ成レリ、サレバ其意二体シ、皇国中二於テモマヽ其設アリ、此ニョリテ今度官許ヲ乞テ、来酉年三月朔ヨリ四月望マテ、金刀比羅宮社務所二於テ展覧会ヲ設テ、神庫ノ諸品ヲ始、其他各地ノ物品、新古廳密二不拘、コトコトク之ヲ群集シテ、互二図ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス、故二四方ノ君子、秘蔵ノ奇品、古器等ヲ資シ来テ、此席二加列セン事ヲ翼フニナン、物品差出ノ規、売却交易ノ則等ハ、厳重二定タリ、当町内町虎屋、備前屋、桜屋三軒ノ内ヲ会談所卜設ケ置レハ、物品等持参ノ諸君子、先彼所へ到着有テ、巨細ノ規則ヲ尋問為給ヘカシ、
      明治五年壬申八月十日
                琴平山社務所
          (『年々日記』明治五年 三十五、)
 意訳すると、
先日認可された展覧会のひき札(広告)を、今日から御守販売所での配布を始めた。今回作成したものは、各国博覧会が天産品によってその国の気風を知り、国民が作ったもので、その国のエ芸のすぐれた所を表す、また、古器旧物からは、時勢の推遷、制度の沿革などを知ることができる。それは互の出展品を集め鼓舞ことにもつながる。このような目的のために、皇国の展覧会が各地で開かれるようになった。
 この度、博覧会の開催を、来酉年三月から四月まで、金刀比羅宮社務所で展覧会を開き、神庫の諸品を始め、その他各地元物産、新古廳密関わらず、ことごとくこれを集めて、互いの栄誉、精妙、古今の変遷を世に知らしめたいと思う。そのためにも、全国の人々が秘蔵する奇品、古器等を展覧会に出品することをお願いしたい。物品輸送屋・納入、売却交易などについては規則を定め厳重に取り扱う。内町の虎屋、備前屋、桜屋の3軒を会談所にするので、物品等を持参じた諸君は、ここで詳細の規則を確認していただきたい。
      明治五年壬申八月十日
ここには、開催目的が
①「天産ノ品ニヨリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニヨリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ」と、出品された品々を通じて全国各地の風気(風俗)や工芸のすばらしさを知ること
②「就中古器旧物二至りテ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観セシカ為」と、古器旧物(わが国古来の文化遺産)を見聞することで、時勢の推遷(移り変わり)、制度の沿革(変遷)などを知り
③「互二国ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス」と、国家の栄誉、産業の素晴らしさ、古今の変遷などを広く知らしめることを目的に掲げています。そして、当初の開会期間は「酉年三月朔ヨリ四月望マテ」だったようです。 こうして讃岐一円に出品を呼びかけ、展示品の提供を依頼しています。
どんな展示品が集まったのでしょうか。目録が残っているので、その一部を見てみましょう。集まった出品物と( )内が出品者です。
雅楽器類・舞楽装束類・舞楽面類
和琴(社蔵)・大倭舞装束(同)・琵琶(石清尾八幡宮蔵)
納蘇利面(白峯寺蔵)・翁面(社蔵)、蹴鞠装束(琴陵宥常出品)
・鞠(同)などの蹴鞠用具類、
弘法大師作観音木像・二王石像(垂水村大師堂蔵)
法隆寺百万塔(寺井寛吾出品)
長曽我部元親所持数珠(七ヶ村吉田某蔵)
以下仏像仏具類、
数珠百種(当村合葉文岳蔵)
土佐国産貝類(片岡正雄出品)
鯨歯(当村多田嘉平出品)以下鳥獣類
霞砂糖(黒羽村永峯某出品)諸国米穀井菓類以下農海産物、
高松望陀織縞・阿筋藍玉(阿州堀北民次出品)
越後雪踏(寺井寛吾出品)以下衣料その他日用品類など。
後水尾天皇御寄附天正長大判(社蔵)
慶長小判・丁銀・豆板銀・和漢古銭(松岡調出品)
諸国紙幣銭貨類、尾張瀬戸急須・古備前大水瓶(当村山下某出品)・南蛮水指以下茶道具類・青質富士石(琴陵宥常出品)・
水晶玉(片岡正雄出品)・金剛砂(当村菅善次郎出品)・馮瑠石(神恵院出品)以下玉石類など。
崇徳天皇御軍築(西庄村白峯宮蔵)
楠公朝敵御免綸旨(楠正信出品)
柿本人丸像(松岡調出品)
明人書画扇面帖(高松石田廬出品)
擲躊大木(当村守屋某出品)
虎皮・熊皮(鴨部村佐藤某出品)
奥筋金砿(琴陵宥常出品)・石炭油・洋犬・七面鳥

ここから分かることは、骨董的なお宝類が主で「産業革命の申し子」的な蒸気機関や機械類はないようです。どちらかというと、江戸時代の寺院の「開帳」の変化バージョンとも思えます。結果はどうだったのでしょうか?
開会式に供えて琴平警察に対して、場内整理のために「邏卒(巡査)両名其手先3名毎日当社博覧会入口へ出張の事」と、計5名の派遣要請をしています。
 そして幕を開けてみると、拝観者は思ったよりも多かったようです。そのため期間半ばの3月24日には、次のような会期延長を求める文書が名東県知事宛に出されています。
     博覧会日延長願
 当宮博覧会四月中旬迄願済の所、来ル五月三十一日まて日延仕度、此段奉願候也、
酉三月廿四日
           事比羅宮 権禰宜 宮崎冨成
                 同  松崎 保
                禰 宜 松岡 調
                 同  大久保 来
                権宮司 琴陵宥常
 名東県 権 令 林 茂平殿
 名東県 参 事 久保断三殿
 名東県 権参事 西野友保殿
   「第三十九号  右御聞届二相成候事」
         (『町史ことひら』2 現代 史料編)
予定では4月半ばまでの会期であったようですが、それを5月31日までさらに一ヶ月半の会期延長申請が名東県(権令)林茂平宛に出されています。これは、そのまま認められたようです。
  この時の入場者数などを記した記録がないので、どのような収支決算になっていたのかは分かりません。
なぜ、明治5年という段階で金毘羅さんは、こんな大きなイヴェントをやろうとしたのでしょうか。
 前年の明治4年(1871)10月10日から11月11日までの間、京都の西本願寺大書院を開場に「京都博覧会」が開催されています。これが、国内で最初に本格的に「博覧会」と称して開催されたものになるようです。
 この「京都博覧会」は、東京遷都で首都としての地位を失って、京都の商工業界は落ち込んで沈滞気味だったようです。そこで京都を活気付け、景気回復と新生明治の啓蒙を目的として、三井八郎右衛門(越後屋呉服店・三井両替店)・小野善助(井筒屋小野組・本両替商)・熊谷久右衛門(直孝・鳩居堂第七代当主)などの京都市内の有力商人が主催したものでした。
 10月10日に開場し、通り券(入場券)は、一朱・特別展観は二朱で、33日の期間中に1万人以上が観覧します。
本博覧会の広告文中に、
 西洋諸国二博覧会トテ、新発明ノ機械古代ノ器物等ヲ善ク諸人二見セ、知識ヲ開カセ新機器ヲ造リ、専売ノ利ヲ得サシムル良法二倣ヒ、一会ヲ張ランド御庁二願ヒ奉リ、和漢古器ヲ書院二陳列シ、広ク貴覧二供センコトヲ思フ、夫レ宇宙ノ広キ古今ノ遠キ、器械珍品其数幾何ナルヲ知ラズ、幸二諸君一覧アラバ、智識ヲ開キ、必目悦ゲソメ、其益頗ル広大ナリ、故二大人幼童共二幾度モ来観ヲ希フ而己。
 但物品ヲ出サンド望ム人ハ、会場二持来り玉へ、落手券ヲ渡シ謹テ守護シ、会終ラハ速二返却シ、薄謝ヲ呈セントス、但御庁ヨリ警固人数ヲ下シ賜フ故二御懸念シ玉ハス、数品ヲ出シテ此会ヲ助ケ玉へ 
 通り券ハ当地町々ニテ、一枚価金一朱宛二求メ玉へ他所並臨時来客ハ、会場門衛ニテ求玉フベシ
  未十月        博覧会社中 謹白    
                        
当時西欧諸国で開催されていた博覧会を真似たものですが、意義について「新発明の機器類を展示」し「おもしろさとともに智識を広める」ものであることが述べられています。
 この成功をバネに京都では以後、毎年のように博覧会が開かれ、しかも規模を拡大していくのです。この京都の動きに触発されたことが金刀比羅宮の広告などを見ても分かります。でも、京都と金毘羅では都市規模が違います。京都でやっていることを、そのまま四国の地方都市(?)が真似るという大胆さに、私は驚かされます。
 
 明治という新しい時代の扉は開かれましたが、鉄道や蒸気汽船はまだまだ四国には姿を見せません。目に見える形で、四国の村々に明治維新はまだやって来ていない時期です。そんな時期に、讃岐一円だけからでも、これだけの品々を集めて、展示公開するという企画力と実行力には目を見張らされます。これをやり遂げた後の金刀比羅宮の当事者の自信と感慨は、大きかったと思われます。

 明治6年の金刀比羅宮博覧会の意義は?
明治5(1872)年という年は、年表で見れば分かるように、まだ明治維新後の神仏分離の余波覚めやらぬ時期です。そのような中で、四国琴平の地でこのような博覧会が開催されたことは、大きな意味があったと研究者は考えているようです。
 明治維新を経て文明開化へと歩み始めた時代に、全国に先駆けて琴平の地においてこのような「博覧会」を開こうとした人々の先見性と実行力と勇気が当時の金刀比羅宮のスタッフの中にあったということでしょう。
  それでは、この企画の中心にいたのは誰なのでしょうか。
先ほど見た名東県への申請書類の中に出てくるのは  次の5名です。
 権禰宜 宮 崎 冨 成
     松 崎   保
 禰 宜 松 岡   調
 同   大久保   来
 権宮司 琴 陵 宥 常
この中で金刀比羅宮の年表に登場してくる人物を見てみましょう
明治5年 1872 松岡調、事比羅宮禰宜に任ぜられる。
 琴陵宥常、事比羅宮宮司に任ぜられる。
 仏像、雑物什器等売却後に、残った仏像焼却。
明治6年 1873 博覧会開催。
 深見速雄、事比羅宮宮司に補せられる。
明治7年 1874 事比羅宮崇敬講社設立。
明治8年 1875 元観音堂取崩し、本宮再営。
 三穂津姫社創建。
 別当宥盛に厳魂彦命と諡し、威徳殿を厳魂神社と改称。
明治9年 1876 宥常、事比羅宮宮司解任、禰宜となる。
明治10年1877 本宮上棟。
 琴平山大博覧会。コレラ流行で途中で中止。
明治13年1880 第2回琴平山大博覧会。火雷社改築。
明治15年1882 古川躬行着任。
明治16年1883 明道学校開校。
明治19年1886 宮司・深見速雄死亡、代わって宥常が就任

この年表からうかがえるのはM5に禰宜に就任した松岡調の存在の大きさです。
この時期の金刀比羅宮にとって大きな新規事業を並べてみると
①M5年 仏像仏具の売却・償却
②M6年 第1回博覧会の開催
③M7年 金刀比羅宮崇敬講社設立
④M8年 本宮再営・三穂津姫社創建 
⑤13年 第2回琴平山大博覧会。
とイヴェントが目白押しだったことが分かります。③や⑤の準備書面や申請書類はほとんどが松岡調が書いています。また⑤の最高責任者として開催を取り仕切っているのも松岡調です。そして、日清戦争まで、松岡調によって金刀比羅宮は取り仕切られていた気配がします。

 政府は琴綾宥常を社務職に任命し、願出のあった宮司職には最後まで就けませんでした。そして、鹿児島出身の深見速雄を宮司に任命します。彼が金刀比羅宮に着任するのが明治6年(1873)3月20日です。まさに、博覧会の開催中のことになります。
ここで①宮司  深見速雄  ②社務職 琴綾宥常 ③禰宜 松岡調 という体制が出来上がります。
 金刀比羅宮博覧会の成功をステップとして、崇敬講社設立や御本宮社殿の再営工事へと進んでゆきます。
 金刀比羅宮(当時は事比羅宮)では、明治7年(1874)2月21日に教部省宛に宮殿再営の願書を提出しています。それが認められると御本宮社殿の改築諸工事に取りかかり、明治10年(1877)4月15日に上棟祭を行い、翌年の11年(1878)4月15日に新営なった社殿への本殿遷座祭(正遷座祭)が斎行されています。
 このような経緯を見ると明治6年(1873)の「金刀比羅宮博覧会」は、本宮再営正遷座祭のプレイベントの役割を果たしたのではないかとも思えてきます。これらの企画・立案・実行などでも大きな力を発揮したのが松岡調で、彼はビッグイベントを取り仕切ることで、山内における地盤を固めていったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常 | 西牟田 崇生 |本 | 通販 | Amazon

 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
塩入から 満濃池 神野神社 神野寺 久保神社 御神事場 金刀比羅宮へ - 楽しく遍路

神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭

 明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
 報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである
②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。
③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

 「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住
明治七年十一月一日入構
               琴 陵 宥 常 印
                  当戌三拾六歳
  同         妻   千 萬 二拾一歳
  同    死去   長男  千 盾   壱歳 
            長女  瑞 枝 十年十ヶ月
            次女  八千代 九年一ヶ月
            三女  勝 也 六年十ヶ月
            四女  賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留
         松岡 調 印 当戌四拾五歳
   死亡 母  脇屋里喜      五拾七歳
   死亡 妻  松岡須磨      二拾九歳
   死亡 長男同 徳三郎       十八歳
      長女同 喜 志        八歳
      次女同 安 佐        五歳
      次男同 多 平        一歳
      
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
 ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
 象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
 金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
 この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。 

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2

 調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折  版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、
第4位中部502冊、
第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊
第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
 旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊
2 伊予814
3 阿波524
4 備中484
5 出雲466
6 備前297
7 伯耆308
8 丹波276
9 美作266
四国・中国地方の冊数が多いようです。しかし、地元の讃岐が見えません。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭3

年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。

奉納品 崇敬講社看板 
 講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
 彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
 江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月9日 朝祭

 「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。

講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
 こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
1崇敬講社加入者数 昭和16年

図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと
②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い
③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。
④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている

実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
 丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
  竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。

 茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。
   お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
 それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。
 籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。
全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
   ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった
②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。
④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。
⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。
⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。
⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。
⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
奉納品 崇敬講社看板 定休
 
 江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
 講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観
⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
 隣近所の人たちと連れだって、新緑の5月の象頭山に登るのは、ある意味レクレーションでもあったし、古代以来の霊山への参拝の系譜につながるものであったかもしれません。

DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
戦時下の戦勝祈願のための金刀比羅宮日参

 このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕

    各地に金毘羅への参詣講、寄進講ができて人々の金毘羅信仰は幕末にかけて急速な高まりを見せます。しかし、江戸時代には、これらの講を全国的に組織化しようとする動きはありませんでした。各藩の分立主権状態では、それは無理な話だったのかもしれません。
 しかし、明治になって維新政府は神道国教化政策の一環として、信徒集団の組織化を各神社に求めるようになります。そこで明治7年、金刀比羅本宮崇敬講社が結成されます。これは時流に乗り、入講手続きをして会員となる信者が増え、7年後の明治14年には、講員が200万人を超えます。これを契機に神道事務局の直属して、金刀比羅崇敬教会と公称することになります。さらに、明治22年には、講員300万人にまで膨らみます。この積立金基金が大日本帝国水難救済会の創立資金となったことは、以前にお話しした通りです。

 会員の特典のひとつが「安心して、安価で信頼の出来る指定業者」が利用できることでした。
「讃岐金刀比羅教会」の崇敬講社に指定されたのは「定宿」「乗船定問屋」「定休」です。
奉納品 崇敬講社看板 定休

「定休」は参拝の講員が休憩するところ、「定宿」は宿泊するところで、講社が指定した定宿に看板を渡して掲げさせます。
 講員は定宿に泊まれば割引になり、一方宿屋の方は「金比羅指定のお宿」ということで一般の参拝者もこの看板を見て安心して泊まるわけで、客の増加につながり、また、名誉なことでもあったようです。そのため、この看板は「金看板」とも云われたようで、この看板があるのとないのでは、宿のランクも利益も大きく違ってきたようです。この看板さえ掛かっていれば、全国からの金毘羅を目指す参拝客が利用してくれたのです。しかも、団体で・・。
それでは「定問屋」とは、何でしょうか?
奉納品 崇敬講社看板 

私は、金毘羅さん御用達の問屋だと最初は思っていましたが、大面違いでした。「乗船」を読み飛ばしていました。
 四国以外からの参拝者は、必ず瀬戸内海をわたらなければなりません。瀬戸内海の船旅は、十返舎一九が弥次喜多コンビに金毘羅詣でをさせたときに描かれているように、東国の人にとって魅力なクルージングでもありました。丸亀・多度津の港も整備され、江戸時代の18世紀中頃からは大坂から金毘羅船と称する定期船も出るようになっていたことは、以前にお話ししました。[定船定問屋]は、こうした参拝客をはこぶ出船所に掲げられたものでした。看板はケヤキの一枚板です。

1虎屋玄関表
内町の虎屋
交通の不便な時代、遠く離れた霊場へ参拝するのは庶民にとっては、金銭的にも難しいことでした。
そこで、信仰を同じくする人々が参拝講をつくり、少しずつ積みたてた金で代参者を月ごとや、年に一度代参させるシステムが出来上がります。こうして、都市部を中心に金比羅講が組織され、地元で毎月の参拝や会食を行い。その時に会費積み立てていくようになります。そして、積立金で代表者を四国の金毘羅さんに「代参者」として送り出します。
 こうして、講員になっていれば一生に一度は金比羅詣りが出来るようになります。これが江戸や大坂での金比羅ブームの起爆剤のひとつになったようです。このような日常的な宗教活動が、金比羅への灯籠寄進などにもつながっていくようです。

大坂平野町の「まつ屋卵兵衛」の崇敬講社定宿の「ちらし」です。
1崇敬講社 御宿広告

 金毘羅崇敬講社では、それまで交渉のあった各地の旅宿を定宿に指定し、目印になる旗と看板を配布しました。その看板を右側に、旗を左側に入れて、ちらしを作って配布したようです。赤と黄色のコントラストが鮮やかで、今までにないもので評判になったことでしょう。
 冒頭に「讃州金毘羅蒸気出港所」「各国蒸気船取扱問屋」とありますから、いち早く金比羅航路に蒸気船を投入していたことがうかがえます。ちなみに「まつ屋」は、崇敬講社の定宿の中で、「大坂ヨリ中仙道筋」の一等取締に就任しています。

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こちらは、短冊形で先ほどの「松屋」に比べると小形です。
船問屋や定宿では、これらをお土産がわりに無料で宿泊客に配布したようです。各船問屋が使用していた自慢の「金比羅船」も描き込まれていて、意気込みのようなものを感じます。
  このような定宿や船問屋のセールス活動が、ますます金毘羅さんへの参拝客の増加につながることになったようです。

 しかし、戦後になって車での参拝が多くなるにしたがって参拝講をわざわざつくらなくても気軽に参拝出来るようになると、このシステムは次第に衰退していくことになります。そして、昭和の終わり頃には、琴平の旅館にこの講社看板を掲げているところはなくなったようです。
 木札は旅館の玄関に掲げられたので、1m後の大きなものです。
古くなった木札は「御霊返し」といって、参拝時に返納され、新しいもの交換されたようです。そのために、金刀比羅宮に200点近い数の木札が保管されていたようです。中には広島県尾道市の富永家と香川県詫間町の森家のように、長い間自分の家に祀っていたものを、一括してお宮に納めたものもあります。定宿や定問屋は、琴平だけでなく金比羅参拝路のネットワークの各港の宿に配布されていたことが分かります。
 木札は形によって、いつ頃のものかが分かるようです。
神仏分離以前はの江戸時代のものは、形が剣先型で、上部が剣のように尖っています。これは先日お話ししたように、金比羅の御守札は、護摩堂で、二夜三日の護摩祈祷した後に、別当の金光院(一部に多聞院)が出していました。
 しかし明治以降には、神仏分離で護摩堂は壊され、本尊の不動明王もも片付けられて、蔵の中にしまい込まれてしまいました。それと共に、剣先型の形式のものはなくなります。ただ大木札中に明治以降金刀比羅宮から独立し、正当性を巡って明治後半に裁判でも争うことになった松尾寺配布のものも一部混じっているようです。松尾寺も独自の講制度を運用していたことがうかがえます。
 この看板を掲げた宿や船問屋は、金比羅客誘致や広報活動を先頭に立って行います。
そして金毘羅街道の整備や、丁石や灯籠などの建立にも取り組むようになります。また、金比羅さんへの寄進活動などにも積極的に参加します。明治になっても、金毘羅詣で熱は冷めることはなかったようです。その集客システムとして機能したのが崇禎講社だったようで

参考文献 印南 敏秀  信仰遺物 金毘羅庶民信仰資料集
                                                                              

1金毘羅天狗信仰 金光院の御札
金毘羅大権現と天狗達 別当金光院が配布していた軸

金毘羅大権現の使いは、天狗であると言われていたようです。
そのためか金毘羅さんには、天狗信仰をあらわすものが多く残されています。文化財指定を受けている天狗面を今回は、見ていくことにします。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3

おおきな天狗面です。
面長60㎝、面幅50㎝・厚さ48㎝で、鼻の高さは25㎝もあります。檜木を彫りだしたもので、面の真中、左右の耳、そして鼻の中途から先が別々につくられ、表から木釘、裏からは鉄製のかすがいで止めてあります。木地に和紙を貼り、胡粉を塗り、その上から彩色をしていたようであるが、今はほとんどはげていて木地が見えている状態で、わずかに朱色が見えているようです。

1天狗面

 目は青銅の薄板を目の形に形どり、表面から釘で打ちつけてとめてあります。彩色していたようですが、これも剥げ落ちて、元の色は分かりません。口からは牙が出ています。面の周囲や、口の周囲、まゆには動物の毛が植え込んであるようです。

この面だけ見ると「なんでこんなにおおきいのかな、被るしにしては大きすぎるのでは?」という疑問が沸いてきます。

被るものではなく、拝む対象としての天狗面
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4

 この面は、面長35㎝、面幅27㎝、厚さは30㎝、鼻の高さは14㎝で、別材で造ったものをさし込み式にしています。ひたい・あご・両耳の各部も別材が使われています。面は木地に和紙を張り、上に厚く胡粉をぬり、上から朱うるしを塗られています。口には隅取りがあり、ひたいの部分にも隅取りに似た筋肉の誇張と口と同じように朱うるしが塗られています。
 目と歯は金泥で、もみあげからひげにかけての地肌は墨でかかれています。瞳を除く各部には、人間の頭髪が小さな束にして、うえ込まれています。
 この面の面白い所は、「箱入り面」であることです。この箱から出すことは出来ないのです。それは背面を見ると分かります。面が箱に固定されているのです。両耳にあけられた穴に、ひもを通し背負いひもをつけた箱の内に固定されているのです。箱は高さは、54㎝、幅35㎝、厚さ17㎝で、置いたときにも倒れないようになっています。
 箱の上端にはシメ縄をはり、シデを垂らされます。それが面の前にさがっています。この天狗面は被るものでなく、おがむ対象だったと研究者は考えているようです。
 箱の背面には向って右側面と、あごの部分に次のような墨書銘があります。
  人形町
  天明2年(1782)
  細工人 倉橋清兵衛
 一家ノ安全
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

この面は 面長44,5㎝ 面幅34,3㎝、厚さは裏の一枚板から鼻の先までが44,5㎝、鼻の高さだけで28㎝もあります。鼻の部分は別材をつぎたしています。木地に胡粉を塗って、その上に朱うるしを塗っていますが、胡粉を塗った刷毛跡が見えます。目は金泥に、瞳を黒うるしでかき、頭髪とまゆ毛・ひげは人毛と思われる動物質の黒毛をうめ込んでいるようです。眉は、囲まりに毛がが植え込まれ、その内側は黒うるしが塗られています。口はへの字形に結ばれ、ユーモラスな印象を受けます。この面も裏側には、厚手の白木綿の背負いひもを通し、背負って歩けるようになっています。これも背負い面のようです。
面はどのようにして、金毘羅大権現に奉納されたのでしょうか?
これらの面は、今は宝蔵館に保管されていますが、もとは絵馬堂にかかっていたようです。最初に見た天狗面は、天明七年(1787)に江戸から奉納された額にかかっていたことが分かっています。
 
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 金毘羅大権現に奉納された天狗面は、背負って歩けるよう面の裏に板をうちつけたり、箱に入れたりしていました。天狗面を背負って歩く姿は、江戸時代の浮世絵などにも見えます

天狗面を背負う行者

 彼らのことを「金毘羅行人(道者)」と呼んでいました。全身白装束で、白木綿の衣服に、手甲脚半から頭まで白です。右手に鈴を持ち、口に陀羅尼などを唱えながら施米を集めてまわる宗教者がいたようです。

天狗面を背負う行者 正面

 白装束で天狗面を背負って行脚する姿は、当時は見なれた風俗であったようです。金毘羅さんに奉納されている天狗面は、背負って歩くにちょうどいい大きさかもしれません。金毘羅行人(道者)が金剛坊近くの絵馬堂に納めて行ったということにしておきます。

 金毘羅大権現が産み出された頃、天狗信仰のボスが象頭山にはいました。
宥盛?
宥盛(金剛院)

江戸時代の初期に金光院の別当を務めた宥盛です。宥盛は、金毘羅さんの正史では初代別当とされ、現在は神として奥社に祀られています。それだけ、多くの業績があった人物だったことになります。彼は、高野山で真言密教を学んだ修験者でもあり、金剛坊と呼ばれ四国では非常に有名な指導者だったようです。彼については以前にお話ししましたので省略しますが、慶長十一年(1606)に自分の像を彫った時に、その台座の裏に
「入天狗道 沙門金剛坊(宥盛)形像(後略)」

と、自筆で書き入れたと伝えられます。また彼自身が常用していた机の裏にも、 
某月某日 天狗界に入る

 と書き、まさしくその日に没したといわれます。宥盛と天狗信仰には、修験道を通じて深いかかわりがあったようです。

宥盛(金剛坊)が自分の姿を刻んだという木像を追いかけて見ることにします。
宥盛の木像は、万治二年(1659)以後は、松尾寺の本堂である観音堂の裏に金剛坊というお堂が建てられ、そこに祀られていたようです。ここからも死後の宥盛の位置づけが特別であったことが分かります。ある意味、宥盛は金毘羅大権現の創始者的な人物であったようです。
1観音堂と絵馬堂の位置関係

 本堂・観音堂の建っていた位置は、現在の美穂津姫社のところです。すぐ南に絵馬堂があります。つまり、絵馬堂と金剛坊をまつった堂とは、隣接していたことになります。奉納された天狗面が絵馬堂付近に、多くかかげられたのはこのような金剛坊を祀るお堂との位置関係があったと研究者は考えているようです。
 神仏分離の混乱がおちつきはじめた明治30年には、現在の奥社付近に仮殿をたてて、そこに金剛坊は移されます。神道的な立場からすると修験者であった宥盛を、本殿付近から遠ざけたいという思惑もあったようです。明治38年には奥社に社殿が新築されて、宥盛は厳魂彦命として神社(奥社)にまつられるようになります。
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つまり、宥盛は神として、今は奥社に祀られているのです。
 奥社の建つ所は、内瀧といい、奥社の南側は岩の露呈した断崖です。
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水が流れていないのにも関わらず「瀧」と名がつくのは、修験者の行場であったことを示します。ここ以外にも、葵の瀧など象頭山は、かつての行場が数多くありました。象頭山は、山岳信仰と結びついた天狗が、いかにもあらわれそうな所だと思われていたのです。
 今でも奥社の断崖には、天狗と烏天狗の面がかけられています。これが、宥盛と天狗信仰との深い結びつきを今に伝える痕跡かもしれません。
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このように、金毘羅大権現のスタート時期には象頭山は天狗信仰のお山だったのです。そして、天狗信仰を信じる行者や修験者たちが、大坂や江戸での布教活動を行うことで都市市民に、浸透していったようです。その布教指導者を育てたのが宥盛だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        印南敏秀  信仰遺物  金比羅庶民信仰資料集

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