以前に旧練兵場遺跡について紹介しましたが、その後に平成12年度に開かれたシンポジュウム資料を入手しました。ここには、この遺跡の持つ特徴がコンパクトにまとめられていますので、メモ代わりにアップしておきます。
旧練兵場遺跡は、現在の「子どもと大人の医療センター」から農事試験場を含む広大なエリアになります。国立病院の建て替えに伴い西側部分が発掘対象となり、何次にも渡る調査が行われ、分厚い報告書が何冊も出ています。しかし、素人の私が読んでもなかなか歯が立ちません。コンパクトにまとめて、問題点を指摘してくれるシンポジウム資料などは有難い「教材」になります。
まず旧練兵場遺跡の地形復元図を見てみましょう。
この遺跡は、北流するふたつの川にはさまれた微髙地に立っています。ひとつは弘田川で有岡大池から流れ出し、誕生院の裏側(西)を取って北流していきます。遺跡の西側の境界となっています。
もうひとつが中谷川で源流は大麻山東山麓の大麻で、四国警察学校に至り、大通り(県道24号)の側溝となって北流し、農事試験場の北東部のコーナで大きく西流し、甲山寺(四国霊場)あたりで合流します。ちなみに中谷川は現在は小さな川ですが、かつては金倉川の旧ルートであったようです。
この二つの川の合流点の南に旧練兵場遺跡は広がります。これまでに発掘調査が行われた面積は約2、2万㎡で、遺跡の全面積は約50万㎡と言われますからまだ4%しか発掘は終わっていないことになります。
まず、遺跡の大きさを資料で確認しましょう
①弘田川と中谷川に挟まれたエリア面積は約50~70ha②生活域となりうる微高地(周辺より高い地形)は約25ha③水田などに利用された低地部分が20~40ha
発掘から復元された地形は、幾筋もの支流が流れ、その間にできた自然堤防のような微髙地の上に、それぞれの集落が現れます。地形復元については、以前にお話ししましたので省略します。
これまで発掘された丸亀平野の遺跡と比べると、格段に規模が大きいことが分かります。
旧練兵場遺跡からは環濠が出てきません。
これをどう考えるかは別にして、遺跡の範囲をどこまでとするかが難しいようです。微高地と微高地の間の低地部を含めて遺跡面積を計測すると、50haになるようです。これを吉野ヶ里遺跡(佐賀県)、池上・曽根遺跡(大阪府)、唐古・鍵遺跡(奈良県)などの各地域の環濠集落と比較するために縮尺を同じにして並べたのが下の図です。
吉野ヶ里遺跡よりも広いのにびっくりします。しかし環濠をもたない比恵那珂遺跡群(福岡県)や、文京遺跡を有する道後城北遺跡群(愛媛県)と比較すれば、それらを下回る規模になります。環濠があるかどうかで、大きな違いがあるようです。
それにしても、香川県内ではずば抜けて大規模な古代の集落跡であることは確かなようです。当時、西日本に姿を現しつつあった小国家のひとつだったのかもしれません。
旧練兵場遺跡のもう一つの特徴は、集落が継続して営まれていることだと研究者は考えているようです。
弥生中期後半以後は、すべての微高地で建物が確認され、それが終末期まで続きます。弥生時代の全期間に渡って途切れることなく、集落が続いているのです。弥生時代の拠点集落は、中期末から後期にかけて廃絶するものがほとんどです。この現象を 「集団の再編成」などと研究者は読んでいるようです。しかし、具体的に何がどう変わったのか、一つの遺跡で追いかけることができるのは少ないようです。ところが、その断絶がなく継承している旧練兵場遺跡は「弥生社会の変化」が何であったのかを知ることができる「貴重な資料」でもあるようです。
住居の推移の中では、
①多角形住居が出現する後期後半②方形住居に統一される終末期
に研究者は注目しています
①については、この時期に登場する多角形住居には南九州のいわゆる花弁形住居に似た「張出部」をもつものが見つかっているようです。ここからは、他地域の住居との影響がうかがえるようです。つまり、「平形銅剣=瀬戸内海文化圏」のリーダーとして、九州勢力や吉備勢力と活発な交流が始まったことがうかがえます。
②については、それまではいろいろな形だった住宅が終末期に方形住居に統一されます。しかも住居の方向性をみると、微高地のどの地区の住居も北から20°ほど東に振った方向に向いて建てられるようになります。それまでは建物方向はバラバラだったことから比べると、すべての集落がひとつのまとまりとして意識されるようになったことを示すものと研究者は考えているようです。これがオウとクニの誕生につながるのかもしれません。
<掘立柱建物>
掘立柱建物は住居でなく倉庫として使われたと研究者は考えているようです。
掘立柱建物(倉庫)が登場するのは中期後葉になってからです。梁行が2.5~3.5mで、桁行は短いものもあれば、長いものもある(図5-5)。出現期の中期後葉は面積が20㎡を超えるものが3棟出てきています。
掘立柱建物(倉庫)が登場するのは中期後葉になってからです。梁行が2.5~3.5mで、桁行は短いものもあれば、長いものもある(図5-5)。出現期の中期後葉は面積が20㎡を超えるものが3棟出てきています。
讃岐地域の中期の掘立柱建物の面積は、平均15㎡ほどであるから、それよりも一回り大きいことになります。
面白いのは、面積の大小に関わらず梁行の長さは一定なのです。つまり、面積を大きくするには行方向に建物を伸ばしています。収納物の重量を主として桁柱で支える構造です。このような点も掘立柱建物を米や物資を蓄える倉庫とみる理由のようです。生産力と向上と、備蓄品の増加が背後にはあったのでしょう。
もう一つの特徴は、柱穴が平面方形だと研究者は指摘します。
近隣の矢ノ塚遺跡・西碑殿遺跡や、庄内半島の紫雲出山遺跡で見つかった掘立柱建物の柱穴も方形だったようです。これは讃岐西部の特徴と研究者は考えているようです。
掘立柱建物は、後期後半以後には姿を消します。
終末期も多数の竪穴住居はありますが掘立柱建物(倉庫)は見つかっていません。後期のある段階から倉庫姿を消す現象は、讃岐だけでなく吉備でもみられるようです。その背景については、後ほどに廻します。
終末期も多数の竪穴住居はありますが掘立柱建物(倉庫)は見つかっていません。後期のある段階から倉庫姿を消す現象は、讃岐だけでなく吉備でもみられるようです。その背景については、後ほどに廻します。
旧練兵場遺跡からは近畿地方の「方形周溝墓」、北部九州の「甕棺墓」などのような埋葬場所は見つかっていません。
遺跡内に墳墓が作られるのは、弥生後期後半になってからです。
仙遊調査区では人面を線画した箱式石棺が見つかっています。しかし、終末期になると遺跡内からは成人墓はなくなります。集落外に墓域を造るようになったようです。
周辺からは、王墓山古墳の下層に箱式石棺が集中する場所が見つかっています。
また香色山山頂周辺には、多数の土器棺や箱式石棺が出ています。このように終末期には、墓を集落の外に作るようになりますが、小児墓だけは集落内に埋葬され続けます。
周辺からは、王墓山古墳の下層に箱式石棺が集中する場所が見つかっています。
また香色山山頂周辺には、多数の土器棺や箱式石棺が出ています。このように終末期には、墓を集落の外に作るようになりますが、小児墓だけは集落内に埋葬され続けます。
微高地内には小規模な水路が網目のように流れます。
旧弘田川や旧中谷川から低地に網目状に伸びる小さな水路が数多く見つかっています。河川から伸びる水路は、弘田川と中谷川の合流点あたりの水田域に水を配る用水路であったと研究者は次のように指摘します。
居住域に近い水路は、生活雑器類の廃棄場ともなっていたようで、何回かの堀直しや人工的な埋め立てなど行われていた。水田維持のための用水路修繕や居住域の拡大などが埋め立てなども行われていた。
遺跡内で水田遺構はまだ見つかっていません。人口が増加するにしたがって、微髙地周辺の居住地が埋め立てられていきます。水田面積は次第に減少したと推定されます。遺跡内の水田面積は約18haだったと研究者は考えているようです。
発掘された竪穴住居の数からおよその人口を研究者は次のように推定しています
後期後半には、西・東の2つの居住区をあわせて1500~2000人の人口規模だったします。そうすると18haの水田からの米の収穫量では、2ヶ月足らずになくなってしまいます。年間を通して、人口を維持するには、もっと広い範囲に水田が広がっていたと考えなければならないようです。
中谷川を北に越えると、金倉川の河川水系になります。
そこには九頭神遺跡をはじめとして、小規模な遺跡が点々と存在します。周辺の集落とは、弥生時代中期以来、利水の利害関係から始まり、水田維持・水路造成の労働力や矢板・杭など大量に必要となる木材、集団祭祀に必要な祭祀具など、様々な物資のやりとりが行われていたと研究者は考えているようです。
例えば、旧練兵場遺跡では木材を伐採するための石斧は、3本だけです。一方で、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことが予想されます。
イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。
旧練兵場遺跡は丸亀平野西部の小国家として、周辺集落を影響下に置くようになっていったことが考えられます。それがその後の野田院古墳の造営につながっていくのかもしれません。周辺の集落の求めるものは、鉄でしょう。鉄を提供できることが指導者の条件だった時代だったようです。
旧練兵場遺跡は丸亀平野西部の小国家として、周辺集落を影響下に置くようになっていったことが考えられます。それがその後の野田院古墳の造営につながっていくのかもしれません。周辺の集落の求めるものは、鉄でしょう。鉄を提供できることが指導者の条件だった時代だったようです。
住居の型式や倉庫のあり方など、集落の内容の変化に話を戻しましょう。
後期前半までは竪穴住居と掘立柱建物(倉庫)はセットで存在します。ところが、後期後半になると倉庫が姿を消し、終末期には住居が小形化し均質化して、方向も棟筋をそろえて配置されるようになるのは先ほど見たとおりです。何かしらの統制が加わったことがうかがえます。
墳墓を見ると、後期後半に箱式石棺墓や土器棺墓が姿を見せます。そして、終末期には成人墓が集落の外部に設けられ、丘陵の上に作られるようになります。
このような動きの中で、最も重要な時期は後期後半にあると研究者は考えているようです。
倉庫が姿を消したのは、それまで微髙地の集落単位で管理していた米などが、一括管理されるようになったからだとします。
後期後半からは鉄器・青銅器・装身具の出土量が増えます。伊予や吉備などの他地域の土器が出てくるようになるのもこの時期です。後期後半以降は、丸亀平野の周辺集落との関係とは別に、遠く離れた瀬戸内海の「小国家」の関係が活発化したことがうかがえます。
この時期の彼ノ宗調査区ST09では、小形倣製鏡がでてきています。
これはそれまでの平形銅剣や銅鐸などの青銅祭祀具が、古墳時代に引き継がれる「鏡」ヘと変化したことを示すものだと研究者は考えているようです。
鏡は、個人帰属的性格の強い祭器です。箱形石棺や古墳にも埋葬されるようになりますし、卑弥呼の鏡好きは有名です。シャーマン達は、自前の鏡で占うようになったのです。
これはそれまでの平形銅剣や銅鐸などの青銅祭祀具が、古墳時代に引き継がれる「鏡」ヘと変化したことを示すものだと研究者は考えているようです。
鏡は、個人帰属的性格の強い祭器です。箱形石棺や古墳にも埋葬されるようになりますし、卑弥呼の鏡好きは有名です。シャーマン達は、自前の鏡で占うようになったのです。
人口が1000人を超えた旧練兵場遺跡は、それを統括する社会システムが必要になってきます。
「約50年後に出現する前方後円墳(野田院古墳)は、この地域の首長の墳墓とみて差し支えない。」
と研究者は記します。
先ほど見たように、終末期の住居が規格化されていたことを、それを住民に徹底させる階層社会が現れたとみることができます。つまり、オウ(首長・王)の登場です。
しかし、強力な首長権力が外部からやって来て、この時期から急速に階層社会ヘと変化したとは研究者は考えません。継続して続いてきた旧練兵場遺跡からは、外部からの侵入者の存在や征服の痕跡は見えないからです。
この時期に急速に組織強化が図られるのは、旧練兵場に居住する集団が積極的に外部との交渉を行い始めた結果だと研究者は考えます。対外的な活動や交渉の目的は「鉄」の入手でした。
後期後半から終末期にかけて香色山の流紋岩が砥石として使用され始めます。それまでの石器用の砂岩や安山岩の砥石とはちがって、きめが細かく粘りのある石材です。その後、中世まで砥石石材として使用され続けています。このように、香色山の砥石から見ても後期後半に、鉄器化が急速に進んだのは明らかです。鉄資源を入手するために、瀬戸内海を広域的に動き回り、各地の拠点集落と交易や情報交換、人的な交流が求められるようになったのでしょう。単独で鉄を入手することが難しければ団結・連合も行います。それが前回お話しした「平形銅剣文化圏」の形成だったのかもしれません。鉄の入手なくしては、周辺集落をつなぎ止めておくこともできません。鉄の入手は、小国家の存続条件になっていきます。あるときには北部九州勢力に組入り、あるときには近畿勢力に荷担し、朝鮮からの「直輸入の仕入れ」に参加するなど、外交方針までもが鉄の入手とリンクする時代だったのかもしれません。
後期後半から終末期にかけて香色山の流紋岩が砥石として使用され始めます。それまでの石器用の砂岩や安山岩の砥石とはちがって、きめが細かく粘りのある石材です。その後、中世まで砥石石材として使用され続けています。このように、香色山の砥石から見ても後期後半に、鉄器化が急速に進んだのは明らかです。鉄資源を入手するために、瀬戸内海を広域的に動き回り、各地の拠点集落と交易や情報交換、人的な交流が求められるようになったのでしょう。単独で鉄を入手することが難しければ団結・連合も行います。それが前回お話しした「平形銅剣文化圏」の形成だったのかもしれません。鉄の入手なくしては、周辺集落をつなぎ止めておくこともできません。鉄の入手は、小国家の存続条件になっていきます。あるときには北部九州勢力に組入り、あるときには近畿勢力に荷担し、朝鮮からの「直輸入の仕入れ」に参加するなど、外交方針までもが鉄の入手とリンクする時代だったのかもしれません。
私が気になるのは、善通寺地域の初期首長は鉄の入手のために、何を「売り物」にしたのかという点です。
以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡では弥生時代中期から人口集中がみられ、同じ場所で人口密度を高めながら後期を迎えた。
②弥生時代後期後半以後の住居の変化や、祭祀具の変化から見て、首長権力という古墳時代に続く 下地が形成され始めていること
③後期後半~終末期の倉庫群や首長居館などの大形建物などはいまだ見つかっていない。
④古墳時代前期になると、突然集落内の住居が激減するが、この要因は明らかではない。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 森下英治 旧練兵場遺跡の集落構造 旧練兵場遺跡シンポジュウム資料 平成12年