瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2021年01月

 醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝の師真雅は時の権力者である藤原良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめました。それは弟子の聖宝からは「天皇家専属の護摩祈祷師」のように見えたこと、それが聖宝と真雅の歩む道を次第に遠ざけていったことを前回は見てきました。
 そのような中で貞観十三年(871)、応天門が再建された年に、四十歳になった聖宝は、師の真雅から無量寿法を受学しています。真言密教をより深めていくと同時に、山林修行の道も極めようとします。顕教と密教を研究し、ふたつを包み込んで実践する道をえらんだのでしょう。聖宝は、行動する人でした。
研究者は聖宝を次のように評します。
  「貴族社会に進出し、有力な貴族の援助のもとにつぎつぎと建立する大寺院の中に真言宗の勢力を扶植して真雅のような道を行くのではなく、そうした方向に批判を感じながら、山林料藪の修行を重ね、日本の土着の信仰と仏教との関係の中に新しいものを摸索しっづけた」(大隅和雄『聖宝理源大師』)。

 このころの聖宝は、山林修行に活動の場を求めつづけ、諸方の山々を縦横に歩きまわっていたようです。そして真雅との距離を保つためにも、聖宝は新たな自分の活動拠点を創り出す必要に迫られていました。そうしたなかで捜しあてた地が、山城の宇治郡の笠取山(京都市伏見区醍醐)でした。
岩間山から東海自然歩道で宇治へ 岩間寺は西国三十三観音霊場 十二番札所(大津市石山千町)です。 2016・2・17  先週、千頭岳へ登った時、岩間山への分岐で石山寺へ下山してしまったので少し気になっていました。この日の朝、なんとなく岩間寺 ...

今回は、どうして聖宝がこの山を選んだのか、そこで何を行おうとしていたのかを見ていくことにします。

  テキストは 参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館です。

笠取山は高さ370mほどの醍醐山地の一山で、北に485mの高塚山、南に251mの天下峯が連なります。
そのありさまを『醍醐寺要書』は弟子の観賢の言葉をは、次のように引用しています。
適々(たまたま)、貞観の末を以て此の峰(笠取山)に攀じ昇り、欣然として故郷に帰るが如し。黙示として精舎を建てんことを思ふ。樹下の草を採り奄居を結成し、石上の苔を払ひ尊像を安置す。

これが醍醐寺創建の端緒のようです。
理源大師 醍醐寺発祥の地 醍醐水
醍醐寺発祥の地 醍醐水

『醍醐寺縁起』には、聖宝が醍醐寺を開創するまでの経緯が記されています。その書きだしの部分を意訳してみましょう。
聖宝は、諸名山を遍歴し、仏法の久住の地を求めていた。たまたま普明寺において七日間、仏法相応の霊地を祈念していたところ、その祈請に答えて、五色の雲が笠取山の峯にたなびくのを見た。聖宝は、この峯に登つて、このうえなく喜び、あたかも故郷に帰ったかのようであった。物も言わないで、ただ精舎を建てようとしたのである。そうすると谷あいに一人の老翁がいて、泉の水を嘗めて、醍醐味であると褒めたたえた。
 聖宝は、その老翁に、
「ここに精舎を建てて、仏法を弘めたいのだが、永く久住の地となるかどうか」

と訊ねた。老翁は、
「この山は、むかし仏が修行したところで、諸天が仏を護衛し、仏が遊行なさったところであり、名神のおられたところである。如意宝生の嶺、功徳の集まる林、法燈がつづいて、龍幸の開くに及び、僧侶は絶えず鶏足山に弥勒かあらわねる時に至るのである。
 私はこの山の地主神(横尾明神)である。この山を永く和尚に献ずるが、仏法を弘め、広く人びとを救うために、わたしは、ともにお護りしたい」
と答え、たちまち見えなくなってしまった。梢に飛び交う鳥が三宝を唱え、聖宝は、感涙にむせぶばかりであった。

聖宝の前に現れた地主神(横尾明神)については、『醍醐雑事記』巻第二に、次のように記されています。
「横尾明神、往古の本所は薬師堂の跡と云々。御願の勝地に立つ可き為るに依り、尊師(聖宝)、今の横尾に勧請し奉らると云々。本は地主明神と申すと云々」

ここからはもともとが「地主明神」で後世になって「横尾明神」と呼ばれるようになったことが分かります。
東海自然歩道放浪記

聖宝が笠取山の地に「醍醐水の霊泉」を見つけ、そこに草庵を設けるようになった理由は何なのでしょうか。
 第一に考えられることは、笠取山周辺は聖宝にとって通い慣れた地であった研究者は次のように指摘します。
 つまり聖宝が奈良・東大寺に遊学していたころ、近江の国の石山寺は東大寺の末寺で修練の道場でした。そのためこの間を何度も行き来して、その間に山中の踏査を行なったのであろうというのです。
 また笠取山は、山城、近江、大和への道の要衝であって、笠取山の西麓を南北に走る道は、この時代の京都と奈良を結ぶ主要な道でもありました。東山から山科に入り、勧修寺、小野、下醍醐、日野、六地蔵と山麓の隈を抜けて宇治に抜ける道を見おろす地点に笠取山はあります。さらに、笠取山の山頂から尾根伝いに東に進めば、石山を経て琵琶湖の南岸に至り、山頂から南へ山伝いに行けば宇治に至るようです。笠取山を通る尾根伝いの道は、山林修行の行者道でもあったと研究者は考えているようです。
 笠取山の山頂に草庵を構えた聖宝は、貞観十六年(874)六月一日に、准胆(じゅんでい)・如意輪のふたつの観音像を造像するための木材を、みずから斧を手にして切り出したと云います
 聖宝と宇治の宮道氏             
  新たに寺院を建立するには経費が必要です。つまり保護者や支援者がいなければできることではないのです。聖宝の背後にいた人物は誰なのでしょうか。聖宝の支援者は、都の皇族や貴族でなく、山城の国宇治郡の大領であった宮道弥益だったと研究者は考えているようです。
  正史の記すところによると、宮道弥益は朝臣の姓をもち、聖宝が笠取山に堂舎を建立した翌年の貞観十九年(877)、正月に漏刻博士の任についています。そして外従五位下から従五位下に昇っています(『三代実録』元慶九年正月三日乙亥条)。
理源大師 宮道氏と醍醐天皇

 
 宮道弥益は、その後に醍醐天皇の外曾祖父になる人物でもあるようです。
弥益と醍醐天皇が誕生されるまでのいきさつは『今昔物語集』巻第二十二の第七「高藤の内 鴨大臣の語」に詳しく物語られています。長くなるのでここでは触れませんが、後の醍醐天皇との結びつきがこのあたりから見えてきます。宮道弥益の勢力下にあったのは、現在の下醍醐の一帯であったようです。
聖宝が笠取山に醍醐寺を創建した大きな理由を、研究者は次のように指摘します。
「聖宝が笠取山を開き、醍醐寺が醍醐天皇の勅願寺となったことの背景に、宮道氏の存在があったこと」
「聖宝が笠取山に入って山上に堂を建てる際に力を貸したのがこの宮道氏であった」 (大隅和雄『聖宝理源大師」参照)
以上をまとめておくと、聖宝が上醍醐の笠取山に醍醐寺を開いたのは、次の2点が考えられるようです。
①山林修行の中で適地だと考えていたから
②支援者の宮道弥益のテリトリーであったから
聖宝は、この寺院をどんな性格の宗教施設にしようとしていたのでしょうか。
それは本堂に安置されたふたつの観音さまからうかがうことができるようです。それは 准抵(じゅんでい)観音と如意輪観音です。こののふたつの観音さまを安置する堂舎が笠取山の山上に姿を現したのは、貞観十八年(876)六月十八日のことでした。
准胝観音 - Wikipedia

その堂舎が准胝堂で、三間四面の檜皮葺でした。ここに安置された観音さまは今までの観音さまとは違っていたようです。これは聖宝が創り出したニュータイプの観音たちで、彼独自の信仰を表現したものとされます。
京都の仏像その3 醍醐寺 | 京都大好き隆ちゃん - 楽天ブログ

准胝観音は、当時の「円珍入唐求法日録」などの経典で仏母(准瓜仏母、七倶抵仏母)とされる観音さまです。
この観音の効験については、経典では次のように説かれていました
「准胝陀羅尼を誦すれば、薄福無善根の人々も、仏の教えを受けて真実の悟りに達することができ、聡明になり、湖善不善をよく知るようになり、悪と戦う争いには勝っことができ、夫婦は敬愛し、愛し合わなかった夫婦も制愛を得て子を生み、望みの子が与え婿られ、諸病は治癒して長寿を得、降雨などの祈りに効験がある」

不思議体験日記(京都 醍醐寺展~真言密教の宇宙~ 仏様たちからの心暖まる慈愛のメッセージ 1) |  菊水千鳳の不思議体験日記~神仏の声を聴いて、人と神仏との橋渡し役をさせていただいております。視えない世界をご紹介しています。

 一方、如意輪観音の効験については、『如意輪陀羅尼経』で次のように説かれています。
「一切の衆生の苦を救い、すべて福を求める事業において意の如く成就させる」
「世間の願、つまり富貴、資財、勢力、威徳などをすべて成就させるとともに、出世間の願、つまり福徳、慧解、資糧などをととのえて慈悲の心を増大させて人々を救うことを成就させる力がこめられている」
「如意輪観音を深く信仰し、如意輪陀羅尼を念誦する者は、珍宝を授けられ、延寿、宇宙宙や心の災を除き、安心・治病を得、鬼賊の難を免かれる」

聖宝の造立した如意輪観音像は、現在は残っていませんが、六腎の尊像だったと研究者は考えているようです。
醍醐寺 如意輪観音坐像 - はんなりマンゴー
 
『醍醐寺縁起』には、聖宝の如意輪観音像について、次のような伝説が記されています。
 聖宝が如意輪観音像を准抵堂に奉安しようとしたところ、その尊像は、みずから東の峯に登って、石上の苔がはびこっている所に座していた。そこで聖宝は堂を建て、崇重にあつかい昼夜にわたって行じつづけた。すると如意輪観音は、聖宝に 

「この山は補陀落山であり観音菩薩が住む山である。この道場は、補陀落山の中心であって、金剛宝葉石があり、自分は、この上に座って十方世界を観照し、昼も夜も、いつも衆生の苦しみを抜き去り、楽しみをあたえているのだ」

と語ったと伝えられます。
この伝説からは、聖宝がとくに如意輪観音を信仰の中心に置いたのは、衆生救済のためであったと研究者は考えているようです。
理源大師 准胝堂跡
准胝堂跡 落雷により焼失
   聖宝が笠取山(醍醐山)に今までにない二つの観音さまを安置する安置する堂舎を完成させたのは貞観十八年(876)でした。
この年の11月に、清和天皇は位を皇太子貞明親王に譲っています。その時、右大臣の藤原基経は、九歳の新天皇陽成を補佐するために摂政となります。
 清和天皇の譲位の詔は次のように述べます。
君臨漸久しく、年月改る随に、熱き病頻に発り、御体疲弱して、朝政聴くに堪へず。加以、比年の間、災異繁く見れて、天の下寧きことなし。此を思ふ毎に、憂へ傷み弥 甚し。是を以て此の位を脱展りて御病を治め賜ひ、国家の災害をも鎮め息めむと念し行すこと年久しくなりぬ。(『三代実録』貞観十八年十一月二十九日千宙
条)
   ここからは、清和天皇の譲位の理由が、自身の病気と国家の災異・災害にあったことが分かります。清和天皇はこの時にまだ27歳です。それでも退かなければならないところへ追い詰められてとも考えられます。この背景には、4月10日の大火があります。大極殿から出た火は、小安殿、蒼龍・白虎の両楼、延休堂、および北門(照虜門)、北東西三面の廊百余間に延焼し、数日にわたって燃えつづけます。清和天皇をはじめとして、すべての人びとは、先の応天門の変という忌まわしい事件が思い浮かんだでしょう。
理源大師 如意輪堂(重文)
如意輪堂(重文) 准胝堂と共に最初に建てられた建物とされます

一方聖宝の師真雅は、どのような動きを見せていたのでしょうか 
  
 聖宝が上醍醐に堂舎を完成させる2年前の貞観16年2月23日、真雅は絶頂の極みにいました。貞観寺に道場が新しくできたのを祝って大斎会(だいさいえ)が設けられたのです。その催しのさまは、「三代実録』貞観十六年二月のように記されています。
「荘厳、幡蓋灌頂等の飾、微妙希有にして、人の日精を奪ひ、親王公卿、百官畢く集ひ、京畿の士女、観る者填喧(みちあふれる)しき」

 この時の真雅の誇らしげな顔貌は、際立って人びとの目に映ったのかもしれません。ところが大斎会が終ってから三カ月余り経ったころから真雅は、病気勝ちとなり、肉体の衰えを感じたのか、しきりに僧正の地位からおりることを申しでるようになります。しかし、 その辞任は認められないまま亡くなっていくのです。
 真雅の死と共に、聖宝には今まで考えられなかったような道が開けてくることになります。

理源大師 願堂として創建された「五大堂」
醍醐天皇の御願堂「五大堂」 真ん中が聖宝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 佐伯有清 聖宝の笠取山開山 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館


理源5

聖宝は16歳で空海の弟真雅に入門し、東大寺でいろいろな宗派を学びながら山林修行にも関わるようになっていたことを見てきました。南都奈良での修学がいつまで続いたのかはよく分かりません。歳仁寿三年(853)・聖宝22歳の時に東大寺の戒壇に登り、受戒したする伝えがあります。(雲雅『理源大師行実記』、祐宝『続伝燈広録』) また受戒後に、元興寺の願暁らに随従したという説もあります(雲雅、前掲書、竜海『理源大師是録』)。
 しかし、これらの説は、同時代史料ではありません。聖宝に理源大師の論号が贈られ「理源大師伝説」が語られるようになる宝永四年(1707)以後に成立した伝記書に記されるものです。これらを信ずることはできないと研究者は考えているようです。
 このような伝説の中に、聖宝が四国にやって来たと伝えるものがあります。それを今回は見ていこうと思います
天安二年(858)、聖宝が27歳の時に四国を遍歴し、観賢を見出だしたという説話です。最初に確認しておきたいことはこの話は、観賢が五、六歳の童子のころであったという他の記録から「逆算」して創作されたものであることです。そのため聖宝が実際に、天安二年に四国を巡錫したとすることはできないと研究者は考えているようです。それを念頭に置いた上で、見ていくことにします。
聖宝の四国巡錫のきっかけは、聖宝と師の真雅との対立だったようです。

理源大師 醍醐雑事記

この話についての一番古い記録は、『醍醐雑事記』で、犬をめぐって師弟の争いが、次のように記されています。
真雅は、犬をたいそう可愛がり、大事に飼っていた。聖宝は、犬を憎み嫌悪していた。二人の犬にたいする愛憎は、水火の仲といってよいものであった。真雅が外出していた折りに、門前に猟師が行ったり来たりして、犬を見ながら、いかにもその犬を欲しそうなそぶりをみせた。聖宝は、それを察して欲しいなら捕まえて、早く立ち去れと言った。猟師は、たいそう喜んで犬を連れて行ってしまった。
 やがて真雅が寺に帰って、食事の時間に愛犬を呼んだが、もちろん犬は顔をみせなかった。翌日になって真雅は犬を探したが犬の姿はどこにもみあたらなかった。この時、真雅は怒って、「この寺房には犬を憎んでいるものがいることを私は知っている。私の寺房の中で、私が可愛がっているのを受けいれないものは同居させるわけにはいかない」といった
 聖宝は自分のしたことを顧みて、真雅の言いつけを気にかけ、寺を抜けだしてて四国に旅立ち修行につとめることになった。
真作)室町古仏画 理源大師像 九曜紋の時代箱入 聖宝 真言宗 修験道 醍醐寺 仏教美術 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報  オークフリー・スマートフォン版

 ここには師の真雅が大事にしていた愛犬を、聖宝が勝手に猟師にあたえてしまったこと。それを反省し、聖宝は四国山林修行に旅立ったというのです。話としては無理があるようです。しかし、この説話からは聖宝と真雅とのあいだに確執があったことはうかがえます。研究者は次のように指摘します。
「聖宝が真雅と必ずしも信仰と行動をともにせず、仏教のあり方についてもこの師弟が考えを異にしていた」

 真雅は時の権力者良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめてたことは以前にお話ししました。
 一方弟子の聖宝は、前回に見たように南都奈良で修学中のエピソードからは、東大寺の腐敗した上座僧侶を批判していたことがうかがえます。その腐敗が、天皇や藤原家への接近の中から生まれてきたことを見抜いていたはずです。そのため真雅のやり方に同調することができず、批判の眼をそそぐようになっていたことが考えられます。だとすれば、師弟のあいだに隙間ができるようになったのは当然かも知れません。 この説話の中に出てくる「犬=宮廷貴族勢力」と聖宝が捉えていたと見ると、当時の様子が見えてくるのかも知れません。
  説話に戻りましょう。次のシーンは四国辺路巡りに出た聖宝が、幼い日の観賢と出会うシーンです。
 讃岐路で聖宝が人家の前で乞食をしていると、門のあたりに五、六歳くらいの子供が遊んでいた。聖宝が立ちどまって、よくよく見ると、その子供は非凡な顔だちをしており、仏法の大立て者となるにちがいない相をしていた。
聖宝が、その子供に父親はどこにいるのかと訊くと、子供は、「父は田植をしているが、母は家にいる」と答えた。聖宝が、子供の家に行って物を乞うと、家の主は、聖宝を見て深く尊敬の念をおこし、「食物を召しあがるか」と言ったので、聖宝が「いただこう」と応じると、大豆の飯を新しい黒色の上器に盛ってきて、食べるように勧めてくれた。食事をすませて立ち去ろうとしたら、門の外には、まだその子供がいた。そこで聖宝が、「さあ坊や、都に来ないか、美しいものを見せてあげるよ」と話しかけると、その子供は、「はい」と答えた。聖宝は子供を抱いて、足早にそこを立ち去ったのであった。

地域の偉人・観賢僧正のお話 | おじゅっさんの日々
観賢
 これが聖宝とその弟子観賢との出会いです。
観賢は、後に弘法大師の入定留身説を説き始め、現在の大師信仰を広めた真言宗再興の大きな貢献者として、高い評価を得ています。
 観賢の出身については史料がなくよく分からないようです。
 『東寺相承血脉』に「大師(空海)の甥也 七歳聖賓(宝)具足洛中入給」

とあって、空海の甥で、7歳の時に聖宝に伴われて洛中にやってきたと記します。しかし、これをすぐに信じるわけにはいきません。大師(空海)の甥というのは、無理があります。
理源1
  左から観賢、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

 観賢の生まれは、讃岐国呑東郡坂田郷(高松市西春日町)の生まれとされます。そのために奏氏であるとも、大伴氏の人とも云われまが、これもよく分かりません。
どこいっきょん? 観賢僧正など(高松市西ハゼ町)

誕生地とされる西春日町には観賢堂というお堂が地元の人たちによって建立されています。お堂の周りには「観賢御廟」「弘法大師剃刀塚」の二つの石碑があり、地元の信仰を受けてきたことが分かります。
観賢さん | おじゅっさんの日々
観賢堂(久米寺)香川県高松市西ハゼ町

説話に戻りましょう。まるで人さらいのように観賢を讃岐から平安京へ連れ帰った聖宝です。

ほどなく都に帰ってきた聖宝は、仁和寺や般若寺などの庵室に、その子供を置き、都に出かけては乞食をつづけます。しかし、一日に供養を受けた食物は、あくる日の分に残すことができなかった。このような苦労をかさねて、聖宝は、月日を送っていた。ある日、中御門の下で、しきりに先払いの声がして、集まっている人びとを追いはらつていた。聖宝は扉の陰に隠れて、ひそかに見ていると、先払いの主人が藤原良房であることが分かった。聖宝が扉の陰に隠れていたにもかかわらず、良房は聖宝に目をとめて、驚いた様子で、「どういうお方か」と訊ねた。聖宝が、「乞食法師である」と答えると、良房は、
「あなたは非凡なお方であろう。深く敬意を表したい。しかるべき日に、かならずわたしの家に来てもらえないか。お話ししたいことがある」

と語った。聖宝は、それに応じたのであつた。

理源大師 藤原良房
邸にもどった藤原良房は、
「しかじかの日に、僧がやって来て案内を乞うたら、すぐに取りつげ」

と家人に命じた。約束した日に、聖宝が参上すると徳の高そうな老人がすぐに取り次いだ。良房は、聖宝を召し入れ、普段着のまま聖宝と対面した。しばらくして良房は若君を呼びだして、聖宝に、
「申しつけたいのは、この若君のために祈一幅してもらいたいことだ。今後、祈躊してもらえないものか。」

聖宝はそれを引き受けることにした。
その後、聖宝が子どもを般若寺に住まわせて、乞食をしながらその子どもを養っていることを話した。すると良房は、若君の衣服を持たせて、子供を迎える使者を般若寺に遣わした。やがて連れてこられた子供を見た良房が、
「この子供は、非凡な相があり、聡敏さも人に抜きんでている。この邸に住まわせ、若君(惟仁親王(後の清和天皇?)と遊ばせたい」

と言うと、聖宝は、
「毎日、倶舎の頌(世親の著で唐の玄美が訳した『阿昆達磨倶舎論本頌』)を読ませているので、御殿に伺候させれば、学問は怠りがちになるから、時々参上させたい」
と答えた。
その子供は、読書をすれば、たちまち理解してしまい、ふたたび質ねるようなことはなかった。たちまち倶舎の頌三十巻を覚えてしまったのである。般若寺の僧正観賢こそが、この子供なのであった。
 聖宝が師の真雅から勘当されていることを良房に語ると、
良房は、
「わたしが一緒に貞観寺へ行って、勘当を許してもらえるようにしてやろう。その日になったら来てほしい」

と言った。それに応じた聖宝は、良房のもとを退出した。
理源大師 金剛草履
金剛草履
 藤原良房は、家人に命じて墨染めの衣服と狩袴、そして金剛草履を用意させた。聖宝が約束した日に参上すると、良房は以前のように対面し、用意させた衣服と狩袴を聖宝に着せて、同じ車で貞観寺へ向かった。良房の車が貞観寺に近づくと、先払いの声が、しきりに聞えてきたので、寺の人びとは、良房がどのような用事で、寺にやって来たのか計った。良房が車から降りようとした時、踏み台に金剛草履が置いてあっためを目にとめた寺の人びとは、不思議に思った。それは聖宝が車から降りる時に履くための草履であった。
貞観寺跡
真雅

  良房は真雅と面会して、
「聖宝が勘当されているのを聞いたので、許してもらえるようにと一緒に参ったのである」
と語った。それに答えて真雅は、
「わたくしから申しあげることは、なにもない。思いもよらず聖宝を離別させてしまい、それ以後は、いつも後悔し、残念なことだと思っていた。聖宝がもどって来たのならば、このうえもなく嬉しいことで、わたくしの本心を満足させてくれることになる」

と述べた。良房は喜んで、真雅のもとに来た時と同様に聖宝と同じ車に乗って帰ろうとしたが、聖宝は辞退したために馬で送ろうとした。しかし、聖宝は金剛草履を履き、般若寺へ歩いて帰っていった。
ヤフオク! - KM484 大峰山 深山辯才天 大峰役行者 理源大師 ...
修験者姿で描かれた聖宝(理源大師)
 
これが聖宝が真雅の勘気にふれ、四国遍歴に出かけたさいに観賢を見出だし、また真雅の勘当を藤原良房のとりなしで許されたという説話です。この『醍醐雑事記』を撰述したのは慶延です。彼は12世紀後半の人物で、鎌倉幕府成立の頃には、このような話が醍醐寺に伝えられていたことが分かります。
 ちなみに『醍醐雑事記』では、聖宝が観賢を抱いて讃岐の国から「ほどなく都にもどった」とあります。しかし、後の憲深の説話には
「小者(観賢)を取りて打ち負ひて、一日の間に般若寺に着き給ひけり」

に「発展」します。「観賢を背負って、一日で讃岐から京に帰ってきた」と、「聖宝=スーパーマン」説が強調されるようになります。鎌倉時代初期には、聖宝が不思議な能力を持っていた修験者として、描かれるようになっていたことがうかがえます。
 この説話には、藤原良房の時代には、まだなかった仁和寺や般若寺などが出てきます。仁和寺は、仁和二年(886)に起工され、翌年に完成した寺です。般若寺は、延喜年間(901)に観賢を開基として建立された寺院です。どちらも観賢と関係の深い寺です。ここからは、この話が「創作」されたものであって、事実を物語るものではないことが分かります。
 また、聖宝が良房から祈祷を頼まれた「若君」というのは、良房の外孫惟仁親王(清和天皇)であったかもしれません。そうすると、この説話は、天安二(858)年頃のことを踏まえて語られていると研究者は指摘します。
この時期の聖宝の師である真雅の動きを見ておきましょう。
嘉祥3年(850年)右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。真雅は親王生誕から貞観16年(874年)まで24年間、宮中に詰めて聖体護持
仁寿2年(853年)惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院建立。
仁寿3年(854年)10月、少僧都に任ぜられる。
斉衡3年(856年)10月、大僧都に任ぜられる。
貞観2年(860年)2月、真済没し、東寺一長者に就任
貞観4年(862年)7月、嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
元慶3年(879年)1月3日、貞観寺にて入滅。享年79。
  真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 真雅は、貞観寺創建と前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  このように真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。しかし、聖宝から見れば真雅は「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。このような布教方針や真言教団の経営方針に、聖宝は批判の目を向けていたとしておきましょう。
  聖宝と真雅の師弟の間に生まれた亀裂が埋められることはなかったようです。この時期の聖宝の行方が「空白」なのも、山林修行ばかりのせいではなさそうです。聖宝に光が当たり出すのは、真雅の亡き後のことのようです。それは高野山の真然によってもたらされるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館


理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

前回は聖宝(理源大師)が、空海の弟真雅に入門し、奈良の東大寺で次のような師からいくつもの宗派について学んだことを見てきました
①三論宗を元興寺の願暁と円宗に
②法相宗を東大寺の平仁に
③華厳宗を同寺の玄永(玄栄)に
④真蔵のもとで律宗を
もちろん師である真雅からは密教も学んだでしょう。聖宝の南都奈良での修学が何年までのことかは分かりません。南都での修学を終えて都に帰ってきた年代を確定することはできませんが、聖宝20歳の半ば、すなわち斉衡三年(856)頃としておきましょう。これは空海没後約20年後のことになります。
理源6
八経ケ岳の聖宝像

この時期から聖宝は、山林修行をすでに行っていた形跡があるようです。
 聖宝が師真雅の犬をめぐって怒りを受けて破門同然になり、四国へ巡錫の旅に出たり、乞食の行をしたりしたという説話があります。これも、聖宝の山林修行が反映していると研究者は考えているようです。
聖宝の山林修行については、『醍醐寺要書』の延喜十三年(913)十月二十五日付の「太政官符」に引用されている観賢の奏状に、次のように記されています。
先師(聖宝)、音、飛錫を振つて、遍く名山に遊び、翠嵐、衣を吹きて、何れの巖を踏まず、白雲、首を払めて、何れの岨を探らざるはなし。然らば則ち徒、遁世長往のい収を側めんとす
意訳変換しておくと
聖宝は、むかし錫杖を手にして、数多くの霊山・高山を遊行・修行した。緑の山の気が、衣を動かし、いずれの大きな岩(巨石信仰)を踏まないことがなく、白い雲が頭をかすめて、いずれの山の洞穴を探らないことはなかった。こうしてただ、山林に隠遁し、修行を行う場所をさだめようとした。

とあります。ここからは、聖宝が霊山の行場で、岩籠もりして、巨石や霊石に座して山林修行を行ったことが分かります。
理源5

それでは、聖宝が修行の霊山として選んだのはどこだったのでしょうか?
 聖宝が修行の地としたのは吉野の山々だったようです。
善無畏三蔵(637~735)が訳出した『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』一巻の所説にもとづく虚空蔵求聞持法という行法があります。この行法の分別処法には、空閑静処・浄室・塔廟・山頂・樹下の場所を選ぶという条件があげられていて、山林修行を一つの重要な行法としています。これを実践したのが若き日の沙門空海でした。
空海は「三教指帰」の序文で次のように記します。
爰(ここ)に一の沙門有り。余に虚空蔵聞持の法を呈す。……
ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鑽燧に望む(精進努力し、道を求めてやまない)。阿国大瀧嶽に踏り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す(修行につとめた結果、虚空蔵菩薩の応化があった)。

ここからは、空海が虚空蔵求聞持法にもとづいて阿波の国の大瀧嶽(徳島県太龍寺)や土佐の国の室戸岬(高知県室戸市)で山林修行をし、虚空蔵菩薩の応化をえたことを語っています。空海が求聞持法を行ったことは、その弟子たちにもつながっていたと研究者は考えているようです。
 以前にお話ししましたが、空海に虚空蔵求聞持法を教えた「一の沙門」は、大安寺三論宗の碩学勤操とされてきました。しかし、今では勤操説に疑いをかける研究者が増えているようです。ただ、勤操と空海とのあいだに師弟関係がなくても、両者は親密な間柄であったことはうかがえます。入唐して、虚空蔵求聞持法をももたらした道慈から善議へ、そして善議から勤操へと伝えられた同法の影響を空海が受けたとしておきましょう。聖宝は空海の高弟真雅のもとで、出家したのですから空海が持っていた虚空蔵求聞持法の行法の流れのなかにいたことになります。
 元興寺法相宗の大成者とされる護命(750~834)は、空海と同時代人です。彼は吉野山に入って苦行した学僧ですが、次のような事を実践していたと記されています。
「月の上半は深山に入り、虚空蔵法を修し、下半は本寺(元興寺)にありて、宗旨を研鑽」

彼が入った「深山」とは吉野山の現光寺とされます。そこで、月の半分は虚空蔵法(山林修行)を行い、残りの半分は元興寺で修学していたようです。ここからは、 元興寺の法相宗唯識では、学僧のあいだに虚空蔵求聞持法の行法が伝えられ、法相を学んだ願暁にも、その行法の知識が受けつがれ、実践されていたようです。この時代には、山林修行と修学が一体と考えられるようになっていたことがうかがえます。そのような機運の中で、讃岐の中寺廃寺のような山岳寺院が各地に建立されていくことになるようです。
 そのような中で、いろいろな宗派に関心を持った若き聖宝も虚空蔵求聞持法を実践するようになり、霊山に入るようになったとしておきましょう。
 閑古鳥旅行社 - 金峯山寺本堂、金峯山寺二王門
聖宝の山林修行で、もっとも有名なのは金峯山への入峯です。
その中で最も信憑性のある『醍醐根本僧正略伝』には、次のように記されています。
「金峯山に堂を建て、並に居高六尺の金色如意輪観音、並びに彩色一丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造る。……
金峯山の要路、吉野河の辺に船を設け、渡子、倍丁六人を申し置けり」

ここからは聖宝の業績として次のようなことが記されています。
①金峯山における堂舎の建立、造像
②金峯山への要路である吉野川の渡船の設置と船頭、人夫の配備
しかし、これは聖宝が南都奈良で学んでいた若い頃のことではないようです。研究者は次のように指摘します。
「そうした活動が可能で、しかも実際に山岳を跛渉して激しい修行を続けることができた年齢を考慮す」
              (大隅和雄「聖宝理源大師』)

聖宝の宗教的活動が、かなり熟していた時期のことだというのです。
大峯山・大峰山
金峯山は大峰山(山上が嶽 標高1720m)を盟主とする連山の総称です。
聖宝が金峯山に入峯したことを伝えるもっとも古い伝説は『諸山縁起』です。この書には聖宝は念怒月緊菩薩の峯に二部経(『無量義経』『法華経』『観音賢経』の法華の二部か)と天台大師智顎の『摩訂止観』などを埋納し、醍醐天皇の使いとなって天皇震筆の『法華経』を般若菩薩波羅蜜の峯に安置したと記します。天皇の使いとして、金峯山の峯のに経塚を作り納経したというのです。
 これに対して研究者は次のように指摘します。
『醍醐根本僧正略伝』以外に金峰山における聖宝の修行を語るものは、すべてが伝説である」 (大隅和雄「聖宝理源大師』)

その根拠を見てみましょう。
聖地に残る怖い信仰(5)(金峯山寺と大峰山) - 慶喜

金峯山での埋経は、寛弘四年(1004)八月に入峯した藤原道長の事績がよく知られています。
 寛弘四年(1004)8月11日に、大峯山に登った藤原道真は、前年に書写した『妙法蓮華経』をはじめ、あらたに書写した『弥勒経』三巻、『阿弥陀経』一巻などあわせて十五巻を銅筐に納めて埋め、その上に金銅燈楼を立て、常燈を奉った(『御堂関白記』寛弘四年八月十一日条裏書、金峯山出土「経筒銘」参照)とされます。その経筒が金峯山経塚遺跡から出土していて、遺物と記録とが一致します。道長の埋経が確認できます。出土した銅筐の銘文には、次のように記されています。
「先年、書き奉り資参せんと欲するの間、世間病悩の事に依りて、願ひと違ふ」

 金峯山などへの埋経は、この時に初めて道長が行なったものではなく、すでに埋経の風習はあったようです。しかし、9世紀の聖宝の時代には「経塚」が普及していません。埋経が盛んに行われるのは、11世紀の後半から12世紀になってからのことです。聖宝の金峯山への埋経も、そのころから語られだした伝説であって、事実を物語るものではないと研究者は考えているようです。
大峰山
聖宝は「強力」だったという伝説が金峯山には伝えられてます
 もっとも古いものは『東大寺要録』諸院章第四、三面僧房に次のように記されています。
「件の房、椚の下に赤石一丈ばかりを埋む。僧正(聖宝)、金峯山従り脇に爽み持ち来れりと」
意訳変換すると
「この房の椚の下に赤石が一丈ほど埋まっていた。これは僧正(聖宝)が金峯山から脇に抱えて持ち帰ってきたものである」

十三世紀後半に書写された『尊師御一期日記』の「私に云はく」には
「嶽獄(金峯山)従りして自ら大石を持ち来り、斯を履脱の所と為す。即ち今にいたる迄、之に有り。其の力、等倫(同じ仲間)には無し。事已に以て顕然たるものか」
意訳変換しておくと
「金峯山から大石を持ち来り、これが現在の靴脱ぎ場の大石である。聖宝の力は、同じ仲間にはない。飛び抜けた力を持ていたことが分かる」

というかたちで伝えられます。
さらに時代を下った14世紀前半の『元亨釈書』になると、
庭上に巌石有り。世に日ふ、宝(聖宝)、金峯山従り負ひ来れりと。而して其の大なること人の力の耐する所に非ざるなり。宝、修練を好み、名山霊地を経歴す。金峯の瞼径、役君の後、榛塞ぎて行く路無し。宝、葛苗呻を撥ひて踏み開く。是れ自り苦行の者、相ひ継ぎて絶えず。
意訳変換すると
庭に巌石がある。これが宝(聖宝)が金峯山から背負って持ち帰った伝えられる石である。その大きさは人の力で動かせるものではない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴した。。金峯の険しく危険な小径は、役行者の後は廃絶されて路もなくなっていた。これを聖宝は再び踏み開いた。こうして、苦行の者(修験者)は、再び多くのものがこの道を辿って修行を行うようになった。

という話に「成長」して、聖宝の強力伝説となって、ひろく世に伝えられます。同時に聖宝は、役小角ののちに絶えていた金峯山への入峯を開いた人物として人びとのあいだで信じられることになります。なかでも修験者から聖宝は、「金峯山修験道再興の祖」として崇められるになります。
理源大師 (江戸後期)
聖宝(江戸時代)
修験者は、霊山などで修行することによって超自然的な力を獲得した者のことです。
聖宝が金峯山から大きな巌石を持ってきたという強力伝説も、聖宝を修験者とみなすことから生まれた伝説でしょう。そして、聖宝が厳しい修行の末に、超自然的な験力を持っていたと信じられていたことがうかがえます。ある伝記には、聖宝が一日で醍醐を出て、大峯山の蔵王堂に参詣し、ついで東大寺に立ち寄り、正午には醍醐寺に帰って勤行をしたと記します。これは聖宝は、醍醐寺から山上(大峯山)へ日参修行していたことになります。まさにスーパーマンです。

理源4

『真言伝』は、栄海が正中二年(1325)ごろに撰述したものです。
その聖宝の伝には、次のように記されています。
「凡ソ幼少ヨリ斗藪ヲ業トシテ大峯等ノ名山霊地経行セズト云事ナシ」
「又、大峯ハ役行者、霊地ヲ行ヒ顕シ給シ後、毒蛇多ク其道ヲフサギテ参詣スル人ナシ。然ルヲ僧正、毒蛇ヲ去ケテ山門ヲ開ク。ソレヨリ以来斗藪ノ行者相続テ絶ル事無シ」
意訳変換しておくと
「聖宝は幼少の頃から、山林修行を行っており、大峯などの名山霊地を遍歴していた」
「また、大峯は役行者が開いた霊地であるが、その後毒蛇が多く、この道を塞ぎ参詣する行者は途絶えていた。そこで聖宝は、毒蛇を退散させて山門を再び開いた。以後、山林行者も絶えることなく訪れるようになった
ここに初めて、聖宝の大峯山での大蛇退治に関する有名な伝説が登場します。
この大蛇退治の話は、承平七年(九二七)九月に書かれた『醍醐根本僧正略伝』にはないので、後世になって付け足された伝説のようです。
 正安元年(1299))四月に定誉によって『醍醐寺縁起』が書写されたころに金峯山での大蛇退治伝説が付け加えられたとすれば、その伝説の成立は、13世紀末期のことになります。前回に大蛇退治伝説は、東大寺の住房での大蛇伝説に影響を受けて成立したものであるとしましたが、それと合致するようです。

最後に聖宝伝説がどのようにして生まれてくるのか、大蛇退治伝説で見ていくことにします。
金峯山には、素材となる話が「人に危害を加える竜の話」として10世紀前半にあったようです。まず、これを語ったのが聖宝の門弟・貞崇であることを押さえておきたいと思います。その話は、醍醐天皇の皇子重明親王の日記である『吏部王記』の承平二年(932)二月十四日条にありましたが、今は伝わっていません。しかし、逸文が九条家本『諸山縁起』と『古今著聞集』にあって、次のように記されています。
 古老が伝えている話によると、昔、中国に金峯山という山があって、金剛蔵王菩薩がそこに住んでいた。ところが、その山は飛び去って大海を越えて日本に移ってきた。それが吉野の金峯山である。山に捨身の谷があって、阿古谷(あこだに)といわれ、 一頭八身の竜がいた。
 昔、本元興寺の僧のもとに童子がいて、阿古と名づけられていた。幼少なのに聡明であったので、得度を受ける前に行なわれる試験の時に、師は阿古に身代わり受験させる。合格すると、かわりに他人を得度させてしまうことが三度ほどあった。阿古は恨み怒って、この谷に身を投げ、竜となった。師は阿古が投身したことを聞き、驚き悲しんで谷に行って見ると、阿古は、すでに竜に化していて、頭はなお人の顔をしており、走ってきて師を害しようとした。その時、金剛蔵王菩薩の冥護があって、石を崩して竜を押しつけてしまったので、師は害をのがれた。
 貞観年中(859)に観海法師が竜を見ようとして、その谷に行ってみると、夢に竜があらわれて、翌朝お目にかかりたいと頼んだのであった。夜明けごろになると、雲が湧き起こり、雹が降ってきて、竜が首をあげるのを見ると、高さは二丈ばかりで、一頭八身であった。
 観海は竜に祈って、「八部の『法華経』を写し奉って、汝の苦を救いたいから、私を害しないでくれ」と言った。竜は、なお毒気を吐きつづけたので、害が観海の身におよぼうとした。観海は、大いに恐れ、心神が迷い惑った。そこで金剛蔵王菩薩に帰命して、『法華経』を写すことを願った。すると雲霧が立ちこめて暗くなり、竜のいるところが見えなくなってしまった。
 しばらくして雲霧が晴れると、たちまち菩薩の御座します所に至った。観海は祈感して願いのように経を写し、これを供養しようと善祐法師を請じて、講師とした。善祐法師は、それを固辞した。夢に菩薩が告げて、「我は今、汝を請じるのだ。あまり固辞するな。すべからく『法華経』方便品まで漢音で読まなければならぬ」と言った。善祐は感じ悟って起請し、菩薩が告げたとおりにした。『法華経』の第二品である方便品に至るころになって、大風が経をひるがえして、経典の飛び去った所がわからなくなってしまった。したがって、八部の『法華経』は、現に、その一巻が欠けているのである。
この説話からは、十世紀の前半以前に、すでに金峯山には竜が住んでいた話があったことが分かります。
物語は、そして人を害する竜に化身した阿古という童子の悲しい物語です。そのなかで活躍するのが僧観海法師です。この人物は、聖宝の同時代人として、実在の人物だったことが他史料から分かります。
  観海のことは、それ以外には分かりませんが、「状況証拠」から真言密教系の僧で、金峯山で山林修行をして、金剛蔵王菩薩に帰依していたのでしょう。修験者としても有名だったので世に伝わっていたのでしょう。これを親王に語ったのが聖宝の門弟の貞崇なのです。
 ここから研究者は次のように推察します
①吉野の鳥栖に住んだ貞崇が親王に観海のこととして語った話だった
②貞観年間に阿古谷の竜の障害を止めさせた観海が、聖宝であるかのように受けとられた
③この時期は、聖宝が南都で修行中の時期でもある。
つまり、「観海=聖宝」と「株取り」「接ぎ木」されたと指摘します。 たしかに『理源大師是録』に引用されている『源運僧都記』には、次のように記されています。
金峯山は、聖宝僧正以前は 一切参詣人なし。その故は、大蛇ありて参詣すれば、悉く是を嗽食(たんしょく)す。尊師彼山に参詣し玉ふに、蛇是を悦びて尊師を嗽食せんとす。
尊師蛇尾を踏玉ふに、起んとすれども、強力に踏付られて起事能はず。尊師蛇に宣し含め仰せらるゝは、永く遠く此御山を去るべし。若猶来らば命根を断べし。如此降伏して後、阿古谷に追ひ入給ひ畢云々
意訳変換しておくと
金峯山は、聖宝がやって来る前までは、一切参詣人はいなかった。それは大蛇がいて、参拝人を嗽食(たんしょく)したからだ。聖宝が参詣すると、蛇は悦んでこれを取って食おうとした。聖宝は蛇の尾を踏んだ。蛇は起きようとするが、強力に踏付られて起きられない。聖宝は、蛇に次のように言い含めた。「この金峯山から去るべし。もし、この山に近づけば命根を絶つ。」
 こうして大蛇を退治して行場に入って行かれた。

ここでは蛇退治の主役は観海でなく、聖宝にすり替えられています。
ただ入峯した人を食らうのは、竜ではなく大蛇です。大蛇が竜にとってかわるのは、聖宝に理源大師の論号が贈られた宝永四年(1707)正月前後のころからです。
理源の龍退治

その翌年に刊行された雲雅の『理源大師行実記』には次のように記されています。
悪竜、威ヲ和(やまと)ノ金峯山二檀(ほしいまま)ニシテ、毒ヲ吐(はき)人ヲ害スルフモツテ、斗撤(とそう)ノ行者、峯二入ルコト能ズ、修験ノ一道、既二断絶ニヲヨブガユヘニ、此災アリト云云。コレニヨツテ、上皇師二詔シテ而モ衣裳宝剣ヲ賜り、用テ竜ヲ伏シ、道フ開シム。
 師、勅命ヲ奉テ剣ヲ侃ビ、錫ヲ持チ、芳野二発向シ、径(ただち)二金峯二今り、安居谷(あこたに)ニ至テ、遙二コレノ観察スルニ 幸ヒナルカナ毒龍首ヲ南ニシテ障臥ス。師、右手に独古(独鈷)ヲ持、左手二錫杖ヲ付いて,僅カニ其尾ヲ踏メ、竜大二古痛シ鬣(たてがみ)ヲ揺シ、鱗ヲ振ヒ、頭ヲ撃(ささ)ゲ身ヲ煩(もだえ)へ後ヘニ顧ミ、前二躍テ山谷二宛転(えんてん)シテ毒ヲ吐コト尤劇(はなはだ)シ。
 師、燿怖(くふ)シ玉フコト無シテ、印ヲ結ビ明ヲ誦シテ、遂ニコレヲ降伏シテ、即上皇賜トコロノ宝剣ヲ以テ其鱗爪ヲ抜採コト三枚、時ニ竜首ヲ低(た)レ救ヒヲ求ム、憐ンデタメニ法ヲ授ケ、帰戒ヲ受シメテ、以テ他処二永ク移シ、霞ヲ喰ヒ、雲二臥ルノ輩ヲシテ悩害アルコト無ラシム。
ここには次のようなことが記されています。
①金峯山の悪龍のために修験者たちが参拝できなくなっていたこと
②悪龍退治のために上皇は、衣装と宝剣を聖宝に授け勅命を与えたこと
③安居谷=阿古谷(あこたに)で龍を退治したこと
④上皇から与えられた宝剣で悪龍の鱗を3枚採集したこと
これが現在に伝わる聖宝の悪龍退治のモデルになったようです。この原型は、貞崇が重明親王に語った金峯山の竜伝説を下敷きにして、登場人物を聖宝に置き換える「接ぎ木」が行われていることがうかがえます。しかも、悪龍退治は上皇による勅命であったと権威付けが行われます。 
 その背景には、聖宝が「修験道中興の祖」として、当山派の修験者たちの信仰対象となっていたからでしょう。こうして、いくつもの聖宝伝説が、当山派山伏たちによって創作されていくことになります。それは弘法大師伝説を彷彿させるものです。しかし、違う視点から見れば、それほど聖宝(理源大師)が庶民信仰化していったともいえます。

理源2
神変大菩薩像とは役行者のこと 役行者と並ぶ存在になった聖宝

 こうして聖宝の誕生地とされるようになった讃岐の本島には、多くの信者達が訪れ、沙弥島にも聖宝(理源大師)のお堂が作られるようになったことは、前々回にお話ししました。
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坂出市沙弥島の理源大師堂
そして聖通寺は「聖宝の学問寺」を称するようになっていきます。それでは、このエリアで聖宝伝説を流布した宗教勢力は、どんな勢力だったのでしょうか。それは今の私には分かりません。今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝の山林修行 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館

聖宝3
聖宝(理源大師)
 前回は、聖宝が王族出身で大和を本貫地としていたこと、そして生まれも大和であることを見てきました。今回は、聖宝の青年期に当たる東大寺での修学と、そこに残された伝説を見ていくことにします。
 聖宝が真雅(801~79)のもとで剃髪し、仏教の修行に励むようになったのは、承和14年(847)、十六歳の時のことのようです。真雅は、空海の末弟で兄空海から真言宗を学び、当時は、東大寺の別当に補任されています。この時、真雅は四十七歳です。真雅は16歳でしたから30歳の年の開きがある師弟だったことになります。
 聖宝が真雅を選んだのは、真雅が栄達の極みにあると同時に、聖宝の母が、佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。
弟子入りした聖宝は、真雅の下ではなく東大寺で修業したようです。
そのころの聖宝をめぐる著名な伝説に、次のようなものがあります。
修学の比(ころ)、東大寺の東僧房の南第二室に住めり。件の房は、本願の時従り、鬼神が栖(すみか)たるに依り、内作(内部の造作)もせず、並びに荒室と号し、人が住むこと能はず。而して居住の房無きに依りて、件の室に寄住す。其の間、鬼神種々の形を現し、戟を持ちて遂に勝つことを得ず。鬼神、他処に去り畢んぬ。
意訳変換しておくと
聖宝が居住していた東大寺の東僧房の南第二室は、建立した時から鬼神の栖となっていたようで、内部の造作もしないままに放置され、「荒室」と名づけられていたのです。僧侶が住める状態の部屋ではありません。しかし聖宝は住む所がなかったので、その部屋に寄宿することになった。鬼神は、さまざまな形であらわれたけれども、聖宝に対抗することができないで、ついに退散していったというのです。

 この伝説は、聖宝が亡くなった後、28年がたった承平七年(937)九月に書かれた『醍醐根本増正略伝」に、すでに書きとめられていて、かなり早くから語られていた伝説のようです。
 ここには、後の大蛇伝説のように蛇は登場しません。この話をベースにして、要約や潤色が加えられていろいろな物語にとして残されています。それだけ聖宝が伝説化しやすい人物であったのでしょう。
これには省略されたところあるようです。それを補って、研究者が「完成版」としたのが次の物語です
聖宝が少年の時に、東大寺にやって来たがまだ住む房舎がなかったので、師資相承の次第を書き記して、寺務に住房をあたえてくれるように願いでたのである。その時、聖宝には、まだ一人の弟子もいなかったので、寺司は嘲笑いを浮べながら住房を認める判を押してくれた。それを受け取った聖宝は、鬼神が住むと畏れられていた東僧坊の南第2室に居住することになった。
 その夜、聖宝は燈をもやし、徹夜で学問に励んだ。眠気覚ましに茶を一杯用意して鬼神かあらわれるのを待りていた。真夜中になると、天井から大蛇がが頭を垂れ、目を開いて、まさに聖宝を呑みこもうとした。大蛇の頭が、茶碗の底に写ったので、聖宝は上を向いて、剣を抜いて大蛇を斬り落とした。
 翌朝になると、雌の蛇が人になってあらわれ、聖宝に、「この部屋は、近年、私たちの住んでいた部屋です。私は、いま夫を喪い、住居もまた失ってしまいました。どうか、慈しみ哀れんでくださって、住まわせてください」と懇願した。そこで聖宝は、その雌の蛇を他の所に住まわせた。その間、多くの奇妙なことが、数えきれないほどあった。
 すなわち一匹の蛇が命にかえて、多くの人びとの寿命を延ばしてくれることになったのである。蛇であるこの小菩薩は、戒律を堅く遵奉したので、饒益有情(もろもろの衆生を救済すること)と名づけられた。道理にはずれている行ないをしたものでも、仏の説いた道によく熟達するというのは、これを言うのである。
この伝説の奥にかくされている意味を、研究者は次のように汲みとります。
ひとつは、東大寺の破戒僧の存在が浮びあがってくるといいます。
それは、ここに出てくる寺務です。彼は鬼神の住処だと触れまわって、人びとを恐れさせ、その部屋に人を住まわせないでいた。それは、そしてこっそりと「妻」をその空き部屋に置いていたためだった。寺司は鬼神が出ると語ったのに、聖宝は、いっこうに怯まず、その部屋に長く住みこむ気配であった。これでは寺司にとって、まことに都合が悪い。蛇の姿に化けた寺司が、聖宝を驚かせ、部屋から退散させようとして夜中にあらわれたのはよいが、逆に聖宝に剣で打ち殺されてしまう結果となった。
 ここからは一人の破戒僧の姿と、腐敗した東大寺の姿がダブって見えてきます。
この伝説で研究者が注目する二つ目は、「金峯山の聖宝の大蛇退治伝説」よりも、こちらの東大寺の方が成立が早いことです。
金峯山の大蛇退治伝説の成立は、13世紀末期のことです。
 ちなみに『元亨釈書』の大蛇伝説では、聖宝がただ蛇を叱りつけただけで、剣で斬り落とした話がありません。これは僧侶である聖宝が剣を身のまわりに置き、大蛇を斬るといった話は、ふさわしいことではないから、故意に抜剣のことを取捨選択した結果のようです。醍醐寺の『東大寺具書』には、大蛇を斬ったのは聖宝ではなく、「誰人」かが斬った「異朝伝来」の剣であるとします。もっとも早い『醍醐根本僧正略伝』には、鬼神伝説だけが記されていて、大蛇伝説はありませんでした。鬼神伝説に潤色が加えられて大蛇伝説が添えられたようです。鬼神伝説の背後には、次の3点があったことを確認しておきます
①当時の東大寺の中に派閥的争いがあったこと
②東大寺の僧侶の破戒行為や腐敗堕落した状況があったこと③聖宝の霊力と正義感を伝えようとしていた
僧侶の乱れに聖宝が抵抗していたことを物語る説話があります。
絹本著色 聖宝僧正渡一條大路図
小堀鞆音作 「聖宝僧正一条大路渡る事」

『宇治拾遺物語』巻第十二の「聖宝僧正一条大路渡る事」を見てみましょう。
その昔、東大寺に上座法師(僧侶集団において上座(かみざ)に座るべき高僧のこと)で、きわめて富裕な僧侶がいた。取るに足りない物でも他の人に与えることをせず、物惜しみをし、貪欲で罪深く思われた。
 聖宝は、そのころまだ若い僧であったが、この上座の僧侶の物を惜しむ罪の極端さを見るにみかねて、故意に争いごとをもちかけ「あなたは何をしたら多くの僧たちに供養をしますか」と問いかけた。
 上座の僧侶は「争いごとをして、もし負けた時に供養してもつまらない。そうかといって、多くの僧侶のなかで、こういうことについて何も答えないのも残念なことである」と思い、聖宝には、とてもできそうにないことを思いついた。
 そこで聖宝に「賀茂祭の日に、まる裸になり、揮だけで、千鮭を太刀としてさし、やせた牝牛に跨がって、 一条大路を大宮(皇居)から賀茂川の河原まで、『わたしは、東大寺の聖宝である』と大声で名乗りをあげて通ってみよ。そうすれば、東大寺の大衆から下部にいたるまで、すべての僧達に大いに供養することにする」と語った。

上座の僧侶達は心の中で、そんなことを聖宝がするはずがないと思い、かたく賭の約束をしたのである。上座の僧侶は、聖宝をはじめ東大寺の大衆をすべて呼び集めて、大仏の前で鐘を打って誓い、仏に告げて去って行った。上座の僧侶が約束した日が近くなって一条の富小路に桟敷を構え、聖宝が通るのを見ようと東大寺の大衆がすべて集まってきた。上座の僧侶も、もちろん群集のなかに顔を見せていた。しばらくして、 一条大路の見物の人たちが、ひどく騒がしくなった。何事が起こったのかと思って、頭を突きだして西の方を見てみると、牝牛に跨がつた裸の聖宝が、千鮭を太刀としてさし、牛の尻を鞭で打ち、そのあとから何百何千という子供たちがついてきて、「東大寺の聖宝が、上座の僧侶と賭をして、今こそお通りだ」と大声をはりあげてやつて来たのである。この年の賀茂祭において、これが、まさに第一の見ものであった。
こうして東大寺の大衆は、それぞれ寺に帰り、上座の僧侶に大いに供養を施させたのである。これを聞いた天皇は、「聖宝は、自分の身を捨てて、他の人を導く立派な人物である。現代に、どうしてこのような尊い人物がいたのであろうか」と聖宝を召しだして、僧正に昇任させたのである。

 聖宝が権僧正になったのが71歳、僧正になったのが75歳のことです。ここからすると、結びの部分が説話らしい誇張であることはすぐに分かります。しかし、聖宝ならばこんなこともやりそうだという雰囲気を持っていたのかも知れません。彼の豪放な性格を語り、東大寺修業時代の姿をしのばせるものだと研究者は考えているようです。
同時に、強欲な東大寺の上層部僧侶にたいして、聖宝が批判の眼をそそぎ、敢然として上座の僧に抵抗する姿勢がうかがえます。

聖宝は、奈良の東大寺で誰から何を学んだのでしょうか
①真言を真雅から
②三論宗を願暁と円宗に、
③法相宗を平仁に
④華厳宗を玄永に、
⑤律宗を真蔵に
ついて学んだようです。いくつかの宗派の教学を併せて修めることは、当時の僧侶の間だでは、さして珍しいことではなかったようですが、聖宝の場合は際立っています。それは聖宝の強い探究精神によるものなのでしょうが、それだけではなく当時の仏教界の置かれた状況が背景にあったと研究者は考えているようです。つまり、仏教界の腐敗堕落の傾向がなかで、仏教の真理を求められるのは、どの宗派なのかを模索していたとも考えられます。
 後世の東大寺の凝然(ぎょうねん 1240~1321)が著わした「三国仏法伝通縁起』の三論宗の項において、凝然は聖宝のことを次のように評します。
「三論を以て本宗と為し、法相、華厳、因明、倶舎、成実を兼学す。顕宗の義途は、精頭にして究暢し、秘蔵の真言は、旨帰を研致す。包括の徳は、敵対する者無し
意訳変換しておくと
三論を本宗とし、法相・華厳・因明・倶舎・成実を兼学し、顕教の正しい道を詳しく調べて、究め広げ、密教の真言の趣旨を深く明らめ究めた。その包括した教化に対抗できる者はいなかった

と評しています。 いろいろな宗派の研鑽につとめた聖宝にたいする評価の言葉です。
 このような中で聖宝は、自分が歩むべき方向を見つけ出していきます。
それは、空海が大学をドロップアウトした後に歩んだ山林修行の道であったようです。師である真雅は「天皇のお抱え祈祷師」として、貴族世界への寄生する存在であり、そして東大寺の上座たちと同じように写ったのかもしれません。師弟の対立は避けられないものとなっていきます。
今回はこのあたりで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館人物叢書

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坂出市沙弥島の柿本人麻呂碑と瀬戸大橋

いつものように原付ツーリングで宇多津から坂出方面をドライブしていて、海を身近で見たくなったのでやって来たのが沙弥島です。この島は今は坂出と陸続きになっていますが、名前だけは住民の意志で「島」を名乗っています。「その心意気やよし」と応援したくなる島です。
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小さいけれど、箱形石棺から方墳の千人塚、ナカンダ濱の製塩遺跡、柿本人麻呂の碑と、掘り下げれば瀬戸内海の島らしい歴史が出てくるところでもあります。そして、なによりこの島からの瀬戸大橋は絶景です。あまり知られていませんが海に沈む夕陽が見える讃岐の数少ないヴィユーポイントでもあります。

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 さて、千人塚を報告書を片手に見て帰って来ると見つけたのがこの標識。「理源太子堂」と書かれています。今まで気付かなかった標識です。道標の示すとおりにお堂を訪ねてみます。
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おもっていたよりもおおきな規模の敷地とお堂です。
かつては、祭事には多くの信者達が集まってきたことがうかがえます。しかし、管理はされているようですが、境内の手入れはされていません。今は、訪れる人もいないようです。このままで朽ち果ててしまいそうな雰囲気もします。
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沙弥島は近世初頭には、無人島になっていました。そこへ、塩飽から人名が入ってきて「入植開発」を始めます。そして、その宗教的センターとして、新たに建てられたのがこのお堂のようです。

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なぜここに理源大師のお堂があるの?
そういえばこの沙弥島に来る前に立ち寄ってきた聖通寺には「理源大師学問所?」という看板も掛かっていたように思います。後で知ったのですが、聖通寺は聖宝(しょうぼう=理源大師)が通った寺だという言い伝えでその名がつけられたのだとも云われています。この周辺は、理源大師との関係が深いようです。
 その後、四国辺路に関わる修験者たちのことを調べて行くにつれて、理源大師を避けては通れなくなってきました。読書メモ代わりにアップしておこうと思います。テキストは、佐伯有清 「聖宝」 吉川弘文館です
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沙弥島の理源大師堂

聖宝(しょうぼう=理源大師)の業績とされるものを、まず押さえておきましょう
①京都山科の醍酬寺創建
修験道中興の師 後に当山派による伝説化
③真言宗教団の主柱として活躍
④准紙、如意輸観音像の造像と″観音信仰″の祖
  聖宝1
 
  次に聖宝の出自を見てみましょう。
 聖宝の俗名は恒蔭王(つねかげ)といい、父は正六位下の位に相当する兵部大丞の官職にあった葛声(かつな)王だというのです。名前から分かるように、聖宝は王氏の家柄のようです。遡ると天智天皇の皇子である施基皇子(しきのみこ)を始祖としていた名門のようです。
施基(志貴・志紀・芝基)皇子の子には、後に光仁天皇となる白壁王や湯原王・榎井王・春日王などの兄弟がいました。聖宝は、その中の春日王の子孫といわれます。
『三代実録』仁和九年二月十五日辛丑の条には、次のような記事があります
左京の人、大舎人助正六位上氏宗王の男峯兄、峯行、峯良、峯安、峯依、峯永、正六位上氏世王の男俊実、正六位上浜並王の男有相、正六位上弥並王の男善益、秋実、秀範、春淑、正六位上富貞王の男恒並、恒世、今恒、浄恒、良並、恒身、恒秀等の十九人に姓惟原朝臣を賜ふ。其の先は田原天皇の後春日親王自り出づるなり。

 例の如く、賜姓記事です。田原天皇は、施基皇子のことです。施基皇子の子白壁王が天皇になったので、施基皇子にも田原天皇の称が後から贈られたようです。その子の春日王も、天皇の皇子に準じて親王と呼ばれるようになります。

聖宝系図1

そして、仁和元年(885)二月に惟原朝臣の氏姓を賜わった峯兄以下、十九名の人たちの続柄は、上のような系図が伝えられています。
次頁に掲げた系図によって明らかなように、惟原朝臣の氏姓を賜わった峯兄らの父親、すなわち氏宗王、氏世王、浜並王、弥並王、富貞王は、ともに五世の王であって、聖宝と同じ世代です。
 系図を見て分かるのは、五世の上の富貞王の子の多くが「恒」の字を通り名としていることが分かります。「恒」の字は、聖宝の俗名にもふくまれています。この一族のあいだでは、「氏」「並」「世」「実」などの字が、兄弟をこえて、ひろく名前にもちいられています。ここからは恒蔭王(聖宝)は、恒並、恒世ら兄弟の近親者であって、恒並らの父富貞王とは従兄弟の続柄にあったと研究者は考えているようです。
 その関係を系図にしたのが下図になるようです。
聖宝2


もし、聖宝が僧籍に入らなかったら、その氏姓が惟原朝臣であったことは確かなようです。聖宝は、史料的にも王族出身であることが裏付けられるようです。
王族出身の聖宝が、どうして讃岐で岐で生まれたとされるのでしょうか?
聖宝は、讃岐の塩飽の島で生まれたする説が地元にはあります。
その伝説によると、聖宝の母がこの地に流されてきた時、もしくは、ある罪をきて大宰府に流されていた夫の葛声王を慕って大宰府ヘ行く途中、この地に着いて聖宝を産んだと伝えます。そして天安二年(858)ごろに、空海の弟真雅から破門され聖宝が讃岐の国を巡錫したさいに、沙弥島に一堂を建てて、亡き母を供養したというのです。(竜海『理源大師完録』上)

 沙弥島の権現山の山頂(28m)の方墳千人塚は、聖宝の母の墓であると、地元では言い伝えられてきました。
さらに塩飽の沖の塩飽諸島の本島(丸亀市本島町)にある正覚院(妙智山観音寺、本島町泊)の地が聖宝の誕生地であるという異伝もあります。
 聖宝の誕生地に関しては、明治の初めに沙弥島と本島との間で、裁判沙汰にまでなっています。その結果、明治12年8月26日に下された和解案は、次のようなものでした。

本島正覚院は誕生地、沙弥島は母(綾子姫)御着船のところなり

母が乗った船が着いたのが沙弥島で
母が聖宝を生んだのは本島
と、両者の顔が立つ「名調停」です。こうして、近代になって香川県では聖宝は、讃岐の本島生まれで、「讃岐人」であるかのようにあつかわれてきました。
聖宝3

 しかし、同時代史料には聖宝が、塩飽の島で生まれたという記録はありません。
死後、300年以上経った鎌倉時代の「明匠略伝」や「元亨釈書」から登場する話なのです。それを受けて江戸時代に書かれた聖宝伝「理源大師完録」にも塩飽生まれと書かれています。
近世になると、聖宝は醍醐寺の当山派修験道の祖として、神聖視されるようになります。その結果、修験者たちがいろいろな伝説を作り出し、付け加えていくようになります。聖宝伝説の始まりです。私には、醍醐寺系の修験者たちによって作られ、広められた伝説のように思えます。
 同時代史料に、何も書かれていないことが、後の時代に新たに付け加えられるのは、書き手の作為がある場合が多いようです。聖宝の場合も、生誕地を塩飽生まれとすることは、後の時代になって布教上必要な勢力や教団によって、作られ流布されたと私は考えています。それを流布する背景があったはずです。そのような視点にたって、聖宝と修験道の関係を見ていきたいと思います

それでは、なぜ「聖宝=讃岐誕生説」が広まったのでしょうか。
聖宝は讃岐と、なにも関係がなかったのでしょうか?
 聖宝の誕生地が讃岐の国と結びついているのは、聖宝の母が、讃岐の国の佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。聖宝が讃岐の国の佐伯直氏の一族である空海の実弟真雅の門に入って出家したのも母方の縁によるものかもしれません。佐伯直氏一族であることを前面に出した方が、真言宗教団の中では何かと有利だったようです。

それでは聖宝は、どこで生まれたのでしょうか。
多くの研究者は、大和の国の人と考えているようです。その根拠を見ていきましょう。
『密宗血脈抄』には、「大和の国の人、兵部丞葛声王の息」
同書に引く『或記』に「大和の国の兵部大丞葛声王の息」
『石山寺座主伝記』が引用している『石山寺僧宝伝』には、
「大和の国の人、兵部郎中葛声王の子」

と記されているようです。どれも、同時代史料は、父葛声王と共に大和の国の人と明記しています。
また、竜海『脚測対師息瞭』上には「葛声王大和より左京に移り玉ふか」とあり、平安京に都が移されるまで葛声上の家は、大和の国を本貫の地(本籍地)としていたことがうかがえます。大和で生まれたとするのが自然なようです。
 父が九州に流刑になっていたということを証明する史料もありません。流刑された夫を折って身重の母が、瀬戸内海を舟で行くというのは物語としては面白いですが現実的ではありません。聖宝伝説のひとつとしておきましょう。
最後に史料として「香川叢書 第1巻 386Pの沙弥島嶋縁起」を意訳して載せておきます。
 沙弥自派は、人郊遠ク、蒼海を四方に囲まれた波浪静な瀬戸の島である。この島の南方に、壺平山があり、そこは佛法が繁榮し、聖宝の霊場で、聖通寺がある。北の海は塩飽七嶋山が並び、峰峰が高くそびえている。雲佛霊社がいくつも鎮座し、堂塔佛閣の数はしれない。寺院坊舎は甍をならべ、朝暮勤行が止むことはない。東は白峯の山脈で、山頭に雲霧をいただき、断崖巖石がそびえ立つ。西は湖のような瀬戸内海が漫漫と波を写す。誠に曼茶九品の言葉通りである。その中にこの嶋は、決然とある。
 嶋の周辺は一里にも足らないほどの小島であるが、清浄霊地である。昔、光仁天皇ノ孫葛馨王は、ここで生を受けた。その後、入京・出家して聖宝尊師と称し、醍醐寺を開山した。聖宝は修練を好み、名山を遍歴して、霊地を巡った。金峯の峨峨の峻嶽瞼嶺で修行した。 役小角以後、空飛ぶ鳥や、地を走る獣も通わなくなった行場の再開拓を聖宝は行い、踏み跡を残した。こうして苦行修行を行う人(修験者)たちの活動は、今に続くことになった。
 清浄な霊地は、不思議なほど美しい。聖宝は権化の身となったが、その生を辺境異域に受けている。聖宝は古郷を忘れがたく、群情利済の霊佛なので萬民之塗炭を救い、四輩の迷方を導く。こうして聖宝の名はますます高く広まり、生地に伽藍を建立し、その島を沙弥島と名付けた。華臓を心海に観て、実相をこの嶋で念ずる。峨々な巖嶋は率法の華台を現す。白砂が敷き詰められた様は、化仏浄土にも似ている。煩悩は、乃ち菩薩を観ているようにも思えてくる。深海の浮船は彼岸の船筏。波浪揺動は生界の彼方。波濤寂静なことが則ち佛界の智水である。生佛の二界の霊地が目の前に拡がっている。瀬戸の海を東西南北に行き交う船は、上韓下韓の法でもある。生死は寂静の道場。と察すべし。

役行者の縁起に曰く。行者の叔父願行に云う。行者は角帽子をつけ、九條を用いる。嚢を被り、錫杖ついて、獨鈷を持つ。義學は初て頭巾や不動袈裟を来て、剣を持つ。義玄は寶冠架裟を着て、笈を担ぐ。義真は賓冠を着て、珠敷袈裟を持つ。壽元は角帽子袈裟を着て、索を持つ。(以上は山伏五代の次第である)
 木集に掲載された歌は次のようにある。葛城屋木間仁比加留稲妻渡、山伏乃宇津火加登許曾兄礼。三井寺の山伏の入峯が、私に云ったことに「昔は、入峯する者の神名を問うていた。神が答えて入山の許可を出した。琥は一言主ノ神とされる。光仁帝の孫恒蔭王の子葛磐王は、出家して聖宝を名のった。聖宝は讚岐國の人である。真雅(空海の弟)の弟子として、東大寺で学んだ。その庭上に岩石があった。聖宝は、その岩を背負って金峯山にやってきたと伝えられる。その力は人力の及ぶところでない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴し、役行者以後は通うことのなかった金峯の険しい行場を再興させた。このため、苦行者(修験者)たちの行場は閉ざされることなく今に続いている。また、金峯山に衛役を置いて、渡舟を設け、人々の吉野川の行き来を助けた。

興福寺の坤の隅に、葛城一言主神の祠がある。祠前には木忠樹が植えられている。平家が南都を焼き討ちした際に、煙がこの木忠樹の孔に入って、くすべられた。人々は火を消そうと灌水したが、七十餘日たってもくすぶり続けた。平清盛が熱病にかかったときに、この樹穴からは煙が強く上がった。ところが清盛が亡くなると、その火は忽ち消えて、再び枝葉が繁茂した。人々は奇っ怪なことだと噂した。

聖宝尊師は、生を讚州の小さな名小島受けた。それは延喜九年七月六日ノ暁天のことで、寛文13年には764年目のことになる。そして醍醐寺で亡くなった。無上菩提の台に眠り、永く常槃我浄睡の床についた。
 その後、この島は浪高く陸遠いため、澄む人もいなくなり、伽藍佛閣は零落破烈した。そして、信仰は中絶し、日往き月落チ、歳霜は積み重なった。その間に、水緑の草は秦々とし、青苔は年々に厚く、島は森に埋もれた。そのため近年まで、人影は絶え、往時の姿は見る影もなくなった。
 このような中で、溝縁庄兵衛の尉宗重がこの嶋のに渡って、主人となった。そして、開墾を進める中でかつての伽藍古跡を発見して、それが聖宝の遺跡であることを知った。そんななかで宗重は奇異な霊夢を観た。そこには聖宝尊師の御影を拝む姿であった。そこで、新たにお堂を建立し、御影と形像を安置し、青蓮之眸を開いた。五限具足は備り、形は醍醐寺に、心魂は、この島にある。こうして、寛文十一辛亥之暦林鐘中旬に、一堂を旧伽藍跡にお堂を建立した。
佛法守護の鎮守は、葛城一言主紳を勧進し安置した。この地は、濁世末代の衆生の印身成佛の直路を祈念する場である。島の翁・宗重は、この中古開山である。これは聖賓が再び出世し給ふと信じるが為である。
右の一巷は、先徳師が古歴を捜し、旧訳を集め、新たに書いたものである。誤りがあるであろうが、それは後の世の人達に正してもらいたい。悉く皆世上の咲卓である。盲者の怖さ知らずで書かれたものである。
讚陽賀郁桑門の沙門捨典稽へ綴りし之畢ス。
寛文十三天夷則中旬                           溝淵庄兵衛尉宗重
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館 平成3年

 
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現在の金山神社(旧金山権現)
79番天皇寺の寺伝は、空海との関係を次のように記します
 空海が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井(八十場の清水)を汲んで大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した。

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 金山神社内に残された瓦

 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。
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金山神社

ここからは次のようなことが分かります。
①これは金山権現(摩尼珠院妙成就寺)の由緒で、天皇寺のものではないこと
②金山権現は、もともとは金山の上の現在地にあり、金山権現が札所であったこと
③権現を祀るのは修験者たちで、ここが修験者たちの行場であり、聖地であったこと
 ここからは現在の天皇寺と金山権現とは、まったく別の寺院であったことがうかがえます。どこかで「株取り」されたか「接ぎ木」されたようです。それを史料で見ていきたいと思います。
   テキストは 「五来重 天皇寺 四国遍路の寺」です
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金山神社の敷地内の瑠璃光寺

まず、金山の麓の79番天皇寺高照院を見ておきましょう。
本尊は十一面観音、御詠歌は
「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

崇徳上皇が白峰で亡くなられて、死骸をしばらく八十場の清水に漬けて腐敗を防いだという伝承から作られているようです。

「浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえも こういうところをさすらったのだ」

という風に解すようです。ここには、天皇の御遺勅を八十場の水に浸したという伝えが歌われています。そうしておいて、京都に通知し、指示を仰ぎます。その結果、勅許によってこの地で荼毘に付すということになったようです。遺骸を安置したところに白峰宮という神社が建てられ、後に別当寺として摩尼珠院妙成就寺ができたようです。神仏混淆の時代ですから神社を管理したのは、社僧達で修験者たちでした。
西庄 天皇社と金山権現2
①天皇社と④金山権現(讃岐国名勝図会)

さて、現在の天皇寺です。
 グーグル地図で見ると、このお寺の西にあるのが崇徳上皇の遺骸を清水に浸けて保存したという③八十場の清水です。金山からわき出る清水が途切れることなく流れだし、夏場はここで名物のところてんが食べれます。その光景は、何十年も変わらないままです。

八十八ところてん清水屋(香川県坂出市の創業200余年

 現在は広場に金山権現がまつられていて、金山がもともとの信仰対象であったことがうかがえます。そして八十場の水源に当たる金山(181m)に、当時の本社があったようです。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、④金華山摩尼珠院と呼ばれていたようです。これが、札所としてはもともとのもとの山号です。そして「金華山摩尼珠院」は、奥の院であると同時に、札所であり、寺地であったようです。
Yasoba Gushing Spring 8 - 坂出市、八十場の湧泉の写真 - トリップアドバイザー
八十場の湧き水

17世紀半ばの澄禅の『四国辺路日記』には、次のように記されています。
まず、讃留霊王(神櫛王)伝説がでてきます。
悪魚退治伝説 八十場
悪魚退治伝説の八十場霊水を飲んでの蘇りシーン(讃岐国名勝図会)

神櫛王が八十余人の兵とともに悪魚を退治した時に、魚の毒気に当てられたのを、八十場の霊水で蘇生させたシーンです。その後、弘法大師がこの八十場の泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王を祀ったが高照院の起源と紹介します。ここからは、金山が霊山で、そこからわき出る八十場の霊水が古くから信仰対象であったことが分かります。

八十八水 第四巻所収画像000022
八十場
ここで金山の霊山への道を、「仮説」も含めて簡単に辿っておくことにします。
①新石器時代の金山は、かんかん石(サヌカイト)の産地で、「石器工房」があった。サヌカイトは瀬戸大橋の橋脚となった塩飽の島沿いに岡山方面にも運ばれている。サヌカイト分配センターであった。
②稲作が始まると、金山からわき出る豊富な用水は、下流域の稲作の水源とされ、集落から信仰の山とされるようになる
③周辺には、綾氏に連なる古代豪族のものとされる醍醐山古墳群など大きな横穴式石室を持つ古墳群が集中する。
④金山の西側(現坂出市街)は、古代の鵜足郡の津があり、綾氏の鵜足郡進出の拠点ともなった。
⑤同時に、古代瀬戸内海の交易湊でもあり、金山は航海の目印として、「海の民」の信仰対象でもあった。

 このように農耕民や海の民から信仰対象とされていた金山に、熊野行者がやってきて霊山として開山します。それが金山権現です。権現とは、修験者が開山した霊山であることを表す言葉です。その宗教施設は、もともとは現在の金山権現が安置されている場所でした。そして、麓の八十場の清水も霊地化していきます。金山の上と麓にふたつの宗教施設が現れたとしておきましょう。
 これを後の弘法大師伝説では、次のように伝えます。

「八十場の泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井(水場)とした」

後に崇徳上皇がここで崩御したので、この寺の別名が天皇寺となります。
以上を整理すると、金山権現と八十場の清水には次のような信仰が積み重ねられていることがうかがえます。
①稲作の水源信仰
②海の民の航海安全信仰
③神櫛王伝説
④弘法大師伝説
⑤崇徳上皇伝説
 このようないろいろな信仰や伝説が、行場で修行する修験者や高野聖たちによって、時代と共に付け加えられていったと私は考えています。
  天皇寺が高照院と呼ばれるのも、かつてこの寺が金山の中腹にあったころに、その常夜灯が海から見え燈台の役割を果たしたからだとある研究者は指摘します。確かに、ここから東北に白峰山と五色台も見え、備讃瀬戸を行き交う舟も木陰から見えます。

1天皇寺
白峰宮と天皇寺は隣接している。
澄禅の『四国辺路日記』には、天皇寺と金山権現の関係が次のように記されています。

世間流布ノ日記ニハ如此ナレドモ、大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也。実ハ天皇ハ人皇七十五代ニテ渡セ玉ヘバ、大師ニハ三百余年後也。天皇崩御ノ後、子細在テ玉体ヲ此八十蘇ノ水二三十七日ヒタシ奉ケル也。其跡ナレバ此所二宮殿ヲ立テ神卜本崇、門客人ニハ源為義・同為朝力影像ヲ造シテ守護神トス。御本堂ニハ十一面観音ヲ安置ス。其他七堂伽藍ノ数ケ寺立、 三千貰ノ領地ヲ寄。此寺繁昌シテ金山薬師ハ在テ無ガ如二成シ時、子細由緒ヲモ不知 辺路修行ノ者ドモガ此寺ヲ札所卜思ヒ巡礼シタルガ初卜成、今アヤマリテ来卜也。当寺ハ金花山悉地成就寺摩尼珠院卜云。今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。

意訳変換しておきましょう。
世間では71番札所は天皇寺とされている。しかし、弘法大師が定めた札所は金山薬師(権現)である。崇徳上皇は弘法大師よりは、300年も後の人である。崇徳上皇が亡くなったときに、子細あって玉体(遺体)をこの八十場の水に37日、浸して保管した。その跡なので、ここに神社が建てられ、神として祀るようになった。その別当寺が成就寺摩尼珠院であった。参拝者の中には源為義・為朝の像を造って守護神として寄進するものも現れた。その別当寺の本堂には、十一面観音が安置され、七堂伽藍が揃い、三千貫の寺領を持つ大寺となった。
 この寺が繁昌すると、山の上の金山薬師は在て無きが如しとなり、子細も由緒も忘れられてしまった。辺路修行の修験者や聖も、この寺を札所と思いこんで、巡礼するようになる始末となった。しかし、この寺もいつしか退転(衰退)して今は、民家の屋敷となっている。
ここで澄禅が記していることを、要約すると次の通りです。
①四国辺路の元々の札所は、薬師如来を祀る金山権現であった。
②それが里の八十場の近くに崇徳上皇を祀る成就寺摩尼珠院が現れ、いつしかそこが札所となった。
③成就寺摩尼珠院(金山権現)が衰退すると、 巡礼者たちは隣接する天皇寺に参詣するようになり、金山権現は忘れ去られた。
つまり次の両者は、まったく別の宗教組織であったことが分かります。
金山権現  金華山摩尼珠院 
崇徳天皇社 別当成就寺摩尼珠院  → 別当天皇寺 
どちらも摩尼珠院であったために混同がおこったようです。悪意に捉えると、現在でも後進企業が先行企業を追いかける場合に使う方法です。先行者の名前と混同させることによって「利益」をあげようとする手法ともいえます。この結果、山の上の金山権現を参拝するものはいなくなり、「成就寺摩尼珠院」を札所として納札する巡礼者が増えたというのです。そして摩尼珠院が「退転」すると、隣接していた天皇寺が札所を兼ねるようになったと云うのです。

崇徳天皇社・天皇寺
成就寺摩尼珠院と天皇社(讃岐国名勝図会)
金山権現 → 別当摩尼珠院 → 天皇寺 の関係を、今はどのように説明されているのでしょうか。ウィキペディアには、次のように記されています。

  寛元2年(1244年)後嵯峨天皇の宣旨により崇徳天皇社は再建され、摩尼珠院はその別当職に任じられ崇徳院永代供養の寺という役割を担わされた。そして、いつの頃か札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院を「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。

 金山薬師は「議岐国名勝図会」では、現在地に金山権現と記されています。 以上からは戦国期から近世初頭にかけては、まだ四国霊場の札所は、流動的であったことが分かります。同時に中世における金山権現の宗教的な意味合いは、はるかに大きかったことがうかがえます。坂出地区の中世の宗教的な拠点は、金山権現だったと私は考えています。それが、白峰寺が別院・子院の「行人(山伏・僧兵)」などを擁して巨大化すると、その勢力を失っていったのではないかと推察できます。
高照院天皇寺(四国第七十九番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
天皇寺 背後は金山

ここからは私の「仮説」です。
この周辺には、修験道復興の祖でもあり、醍醐寺の祖ともされる聖宝(理源大師)の痕跡が残ります。それを挙げると
①聖通寺山の聖通寺。この寺は聖宝の学問寺とされ、「聖通寺」も「聖宝」に由来すると云います。
②聖宝誕生の地としての本島と沙弥島。この二つは明治初期に生誕地を廻って裁判で争っています。その時の和解案は「聖通寺は、母の漂着地、本島は出生地」です。
③さらに聖通寺や金山、城山にかけては修験者の行場とみられる巨石や岩屋が点在します。
④ここからは本島 → 沙弥島 → 金山権現 → 三谷寺にかけての行場ゾーンが存在したことが考えられます。それが、聖宝に関係する醍醐寺系の当山派の修験者であり、高野聖達であった。
以上が私の「仮説(妄想?)」です。
 それは、以前にお話しした観音寺と善通寺を結ぶ七宝山の行場のようなものだったのではないかと考えます。その拠点の役割を果たしたのが
①宇多津の聖通寺
②坂出の金山権現
③城山の南側の三谷寺(丸亀市飯山町三谷)
であったのではなかろうか思っています。
 そのような中で疑問に思えてくるのが、聖通寺がどうして四国霊場の札所にならなかったのかということです。
この寺は、立地条件や修験者の拠点であったこと、歴史性などからしてもその条件に適う寺だと思うのですが、選ばれることはありませんでした。このエリアから選ばれてのは郷照寺です。この寺は、時宗念仏聖など、聖集団の拠点でした。この辺りの経緯が今の私には見えてきません。
   以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五重等 四国遍路の寺 天皇寺
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空海のあとを受け継いだ真言教団のリーダーたちをみると、空海の血縁者が多いようです。前回に見た実恵にしても、真雅、真然、智泉など、いずれも空海の血をひく佐伯直氏の出です。初期の真言宗教団のなかで佐伯直氏一族は強い勢力をもっていたことがわかります。空海の死後に、真言宗教団をまとめたのは東寺長者の実恵でした。その後が、空海の末弟の真雅です。しかし、兄の空海とは、年が27歳も違います。異母兄弟と考えるの自然です。
佐伯直家の本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを中央政府に求めた「貞観三年記録」には、空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
1 空海系図

今回はこの真雅(しんが)を見ていくことにします。
 真雅についての根本伝記は、寛平5年(893)に弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝になるようです。
 それによると、真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたのが、申請運動の結果、宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになたことが記されます。真雅の兄は空海で、年齢的には27歳も年が離れています。異母兄弟と考えるのが自然です。父と子ほども年齢が離れていることは、頭の中に入れておきます。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
真雅像(地蔵院流道教方先師像)

 真雅が生まれたのは延暦20(801)年です。この当時、兄の空海は、大学をドロップアウトし、沙門として各地の行場を修行中です。もしかしたら行方知れずで、弟の生まれたことも知らなかったかもしれません。真雅は9歳の時、讃岐から上京しています。官吏となるためには、この頃からから書道や四書五経について学ぶ必要がありました。しかし、彼の進む道は、兄空海の栄達と共に変化していきます。この時期の空海と真雅の動きを年表で見ておきましょう
801年 真雅誕生
805年 長安で青竜寺の恵果に師事し密教を学ぶ。
806年 明州を経て十月帰国。
809年 上京、高雄山寺に居を構える。
810年 勅許を得て実恵、智泉らに密教を教える。真雅上京
813年 真言密教の本旨を示す。
816年 高野山開創を勅許。(43歳) 弟真雅(16歳)を弟子とする。
817年 高野山開創始まる。
819年 真雅(19歳)に具足戒を授ける。
822年 東大寺に灌頂道場建立。
823年 嵯峨天皇から東寺をもらう。
     真雅(23歳)天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。
834年 空海が東寺で実慈と真雅に両部灌頂を受ける。
835年 空海死亡
  真雅にとっては、記憶にほとんどない兄が突然遣唐使になって唐に赴くことになったことは驚きだったでしょう。それがわずか2年で帰国し、その後は密教のリーダーとして飛躍していく姿には、もっと驚いたかも知れません。

大師堂(神護寺) - コトログ京都
神護寺大師堂

真雅が空海と初めて出会ったのは、いつどこででしょうか。
 それを示す史料はありませんが、九州太宰府での「謹慎待機」が解けて、空海が京都の髙尾山神護寺に居を構えてからのことでしょう。それに時期を合わすように、真雅は上京しています。この時期の空海の動きは密教伝来の寵児として、スッタフの拡充充実が求められます。真雅が16歳になるのを待っていたかのように、真雅を出家させ、19歳の時には具足戒を授け、スッタフの一員としたようです。
 真雅は、唐の長安・青竜寺住職恵果和尚から伝えられた新しい密教の教義を、むさぼるようにして兄から学んだのでしょう。そんな真雅を空海は身近において、宮中へも連れて行ったようです。
   『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には、真雅の活躍が次のように記されています。
 真雅(23歳)の時、内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、天皇はよろこび、厚く施しをした。

また、この年に空海は10月13日には、皇后院で息災の法を三日三夜修法し、12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっています。このような儀式に空海は真雅を伴って参内したようで、淳和天皇や朝廷の面々の知遇を得ることができました。これが後の真雅の人的ネットワークとして財産になり、空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立ったようです。
真雅

承和元年(834年)9月、真雅と実慈は、病が重くなっていた空海から東寺で、共に両部灌頂を受けます。空海が後事を託したのは、一族の実恵と真雅の二人だったことがうかがえます。
「東寺長者」には実恵が就きますが、遺命で東寺の大経蔵管理については、真雅に全責任を任したと云います。東寺の大経蔵は、空海が唐から持ち帰ったおびただしい数の経典や密教の法具など一切が納められていた真言密教にとって最も重要な蔵です。ある意味、空海後の真言宗組織は、実恵・真雅の「二頭体制」だったといえるのかもしれません。以後の真雅の動きを年表で追ってみましょう

835年 弘福寺別当、また、一説に東大寺真言院を委託される。
847年 東大寺別当に任ぜられる。
848年 大権律師、9月:律師に任ぜられる。
850年 3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。
     真雅は親王生誕から24年間、常に侍して聖体を護持
853年 惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。
860年 真済死亡後の東寺長者となる(先任二長者の真紹をさしおいて就任)
862年 嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
864年 僧として初めて輦車による参内を許される。
874年 7月、上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)。
879年 1月3日、貞観寺にて入滅。享年79歳79。
1828年 950回忌に、法光大師の諡号が追贈。

この年表を見ると、850年の清和天皇の誕生が真雅の大きな転機になっていることがうかがえます。

真雅と藤原良房
藤原良房

そこに至るまでに真雅は、実力者藤原良房への接近を行っています。良房の強大な力を背景に、真雅は天皇一家の生活に深くくい込んでいったようです。良房をバックに真雅が天皇家と深いかかわり合いを持ちはじめたころに発生するのが「承和の変」です。

真雅と承和の変

良房が図ったこの政変は、天皇家を自らの血縁者で固めようとしたもので、これに反対する皇位継承者や重臣橘逸勢らを謀反人と決めつけて流罪・追放します。ところが実権を収めた良房に舞い降りてくるのが
①応天門の放火炎上
②流感のまんえん
③地震の続発
です。当時は、これらは怨霊のたたりとされていました。たたり神から身を守ってくれるのが先進国唐から導入された最先端宗教テクノである密教でした。具体的には真言高僧による祈祷だったようです。ここが真雅の舞台となります。
真雅と応天門2
こうした世情のなか、真雅は良房の意を受けて
①仁明天皇の病気平癒
②惟仁親王(のちの清和天皇)の立太子祈願
などの重要な収法の主役を演じます。
 真雅の躍進は、藤原良房の保護・支援が大きいようです
嘉祥3年(850)3月25日に生まれた惟仁親王(後の清和天皇)は、文徳天皇の第4皇子でしたが、母は藤原良房の娘です。そのため11月には皇太子に立てられます。これは童謡に次のように謡われたようです。
大枝を超えて走り超えて躍り騰がり超えて、我や護る田や捜り食むしぎや。雄々いしぎやたにや。」

「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇には4人の皇子ありながら、その兄たちを超えて惟仁親王が皇太子となったこと風刺したもののようです。その皇太子を護持したのが真雅でした。
 また藤原良房の娘明子が文徳天皇のもとに入った後、長らく懐妊しませんでした。ここでも藤原良房は真雅と語り、真雅が尊勝法を修した結果、清和天皇が誕生したとも記されます。
真雅と応天門の変

このように惟仁親王(清和天皇)降誕の功もあって、真雅は藤原良房より信認を受けるようになっていきます。
仁寿3年(853)10月25日には、少僧都
斉衡3年(856)10月2日には大僧都
僧官を登り詰めていきます。さらに清和天皇が即位した翌年の天安3年(859)に嘉祥寺西院に年分度者を賜ったのも、それまでの真雅の功に対する、摂政藤原良房からの賞であったのかもしれません。
真雅と清和天皇

清和天皇
 真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 実恵は、空海のワクのなかで忠実に法灯を守ろうとしました。それに対して、真雅は師空海の残した法灯と貴族社会との結びつきを強めていったと言えそうです。
  この結果、真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。
しかしある意味、「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。
 これが天台宗との大きな違いだったと私は思っています。真言宗は、空海がきちんと教義を固めて亡くなります。それを継いだ宗主たちは、教団内部の教義論争に巻き込まれることはありませんでした。そして、真雅は「天皇家の専属祈祷師」の役割を引き受けます。
 一方、天台宗の場合は最澄は、教義の完成を志し半ばにして亡くなります。
残された課題は非常に多く、内部論争も活発に繰り返され、そこから中世の新宗教を開くリーダーが現れてきます。それだけカオスに充ち満ちていて、新しいものが生まれだしてくる環境があったのでしょう。これが比叡山と高野山のちがいになるのではないでしょうか。少し筆が走りすぎたようです。話を真雅にもどしましょう。

真雅は藤原良房の政治力をフルに活用し、真言宗の拡充を図ります
そのひとつが貞観四年(862)に、伏見区深草僧坊町に貞観寺を開創し、初代座主となったことです。この寺は、東寺をはるかに上まわる大伽藍と、広大な荘園を有するようになりますが、やがて東寺、のちに仁和寺心蓮院の末寺となり、中世に衰退して廃寺となります。

 真雅は、貞観寺創建と相前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  「幸いにして時来にかない、久しく加護に侍る。かの両師(実恵と道雄)と比するに、たちまち高下を知らん」(『日本三代実録』巻5、貞観3年11月11日辛巳条)

と評されたように、真言宗においても実恵と道雄の権勢は高まります。そのため真雅の貞観寺には多くの荘園が寄進されます。朝廷と密接な結びつきのある貞観寺に寄進することによって、租税から免れることを狙うとともに、有力者と接近して地域の権益の保護をはかるためでしょう。貞観寺の田地は約755町(750ha)にも及んだといわれます。

 真雅は自分が法印大和尚位についた年、師の空海が死後も無位であることに気を遺います。そして、空海への法印大和尚位の追贈を、清和天皇へ願い出て許されています。
 
貞観の大仏開眼供養会があった年の十一月、
讃岐の国多度郡の佐伯直氏の一族十一人に、佐伯宿爾の姓があたえられ、あわせて平安左京に移貫することがみとめられます。    
空海の甥たちの悲願がやっとかなったのです。これより先に一族を代表して佐伯直豊雄が、宿爾の姓を賜わるために提出した申請書には次のように記されています。

今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸ひに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師 実恵と道雄)に比するに、忽ち高下を知らん」(「三代実録」貞観三年十一月十一日辛巳条)

ここからは、賜姓と京への本貫地の移管が、叔父真雅の威光を背景に行われたことがうかがえます。豊雄らの賜姓を周旋したのは、佐伯直氏の本家とされる中納言伴善男でした。(『三代実録』同上条参照)。
 真雅も伴善男と組んで佐伯氏一族の賜姓と移貫を実現させるために工作したのでしょう。
 貞観六年(864)二月、僧綱の位階が制定されたさいに真雅は、法印大和尚位の位階を賜わり、僧正に任ぜられています。もともとこの新位階の制定は、真雅の上表によって定められたものです。こうして真雅は、僧綱の頂点に立って仏教界を牛耳る地位を獲得したのです。
 しかし、そのころの政局は、けっして平穏ではありませんでした。咳逆病の流行による社会不安が広がっていました。そのような中で起きるのが先ほど述べた応天門の変です。応天門は、大内裏の正殿である朝堂院(八省院)の南中央に位置する重要な門です。そこから火が出て、門の左右前方に渡廊でつながる棲鳳・翔鸞の両楼も応天門とともに焼け落ちてしまったのは、貞観八年(866)二月十日の夜のことです。そして、半年後には時の大納言伴善男は、息子の中庸とともに応天門に火をつけた主謀者として告発され、善男らは大逆の罪で斬刑を命じられますが、罪一等を減じられて遠流の刑に処せられることが決定し、善男は伊豆の国へ、中庸は隠岐の国ヘ配流されます。伴善男は佐伯直氏の本家とされ、賜姓を周旋した人物です。賜姓決定が、もう少し遅ければ佐伯直氏の請願も認められることがなかったかもしれません。

874年7月
「上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)」

とあるように、真雅は七十歳を過ぎたころには、何度も朝廷へ一切の要職から引退したいと願い出ますが聞き入れられません。
『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)には、真雅の死を次のように記しています。

 晩年真雅は病に伏せ、医者や薬に頼ることなく、手に拳印を結び、口に仏号を唱えて遷化した。享年79歳。元慶3年(879)正月3日のことであった。真雅は清和天皇が降誕以来、左右を離れずに日夜護持していたから、天皇ははなはだ親しく重んじていた。天皇は狩猟を好んでいたが、真雅の奏請によって山野の狩猟を禁じて、自らもこれを断ったばかり、摂津国蟹胥・陸奥国鹿尾の贄を御膳に充てることも止めたほどであった

彼も江戸時代末期の文政十一年(1828)になってから法光大師の号が贈られています。
真然像
真然(しんねん)像

最後に真雅や空海の甥に当たる真然を見ておきます。
彼は空海の実弟である佐伯直酒麿(佐伯田公の五男)の子といわれ、真雅や空海とは叔父。おいの間柄になります。真然は、空海から密教の教義、真雅からは両部潅頂を受けています。そして、空海没の翌年の承和三年(836年)に、遺唐使として真済とともに出港します。その際に、空海の死を長安・青竜寺に報告する手紙を託されますが、乗船の難破で入唐が果たせず、命からがら帰国しています。
空海の遺命で、その後の真然は金剛峰寺の伽藍造営に全力を傾注します。
真然廟(高野山)
真然廟(高野山)

そのためか、空海亡きあとの真言教団は、東寺派と金剛峰寺派に分かれ冷戦状態が続き、円仁、円珍らによって降盛をみせていた天台宗とは対照的な様相をみせます。心配した真然は晩年、真言宗の復興へ動き出しますが、果たせないまま党平二年(890年)9月に没します。真然の果たせなかった夢を継ぎ、真言宗を盛り立てたのが益信、聖宝、観賢らになるようです。
真然大徳廟

  以上見て来たように、空海は真言教団の重要ポストに佐伯直親族を当て、死後も彼らが教団運営の指導権を握っていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 讃岐人物風景1 四国新聞社 1980年

 「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち 
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
この系図は以前に見ましたので、分かること、疑問に思うことを要約して指摘しておきます
1 空海系図


①空海家の苗字は、佐伯直氏であること。
②父は田公で、官位はないこと(無冠)
③空海には、弟たちが4人いたこと。(ここには記されませんが妹もいたようです。)
④一番下の弟真雅とは、年齢が27歳離れること。
以上からは、次のような事が推察できます。
①空海の父田公には、官位がないので郡長等の政治的な職務にはついていなかった
②父田公の家系は佐伯直家の本流ではなく傍流であった。
③田公の兄弟の中に佐伯直本家を継承する一族がいて郡衙の郡長等に就いていた
④本家筋は、田公一族に先駆けて都に本籍を移し、中央貴族への道を歩み出していた。
⑤田公は官位がなかったがその息子達は、僧侶になった空海・真雅以外は官位を得ている。
⑥田公の時代に、一族の急速的な経済的な上昇があったことが考えられる。
⑤空海の甥たちの課題は、空海や真雅などの高僧をだした家として、本家一族のように本貫を京に移し中央貴族への道を歩み出すことにあった。
   佐伯直一族をとりまく情勢を押さえて上で、空海の高弟達を視ていくことにします。平安京で活躍した讃岐の佐伯一族は、空海のあとに何人かの高僧を輩出します。
空海をはじめとする讃岐の五大師です。
①空海高弟集団のトップとされる実恵=道興大師
②空海の実弟である真雅      =法光大師
③空海のおいで因支首(和気)氏出身=智証大師
④真雅の弟子である聖宝      =理源大師  醍醐寺創設
 このうち、空海の甥になる和気氏出身の智証大師(円珍)は、空海と対立していた最澄のもとで、のちに天台宗座主となります。それ以外は、すべて真言宗の法灯を継いでいます。④の理源大師以外は、佐伯氏の血脈に連なる者達なのです。この点に焦点を当てながら、空海の後継者となった実恵を、見ていくことにします

実恵は、延暦四年(785年)多度郡に生まれたといいます。

1 空海系図52jpg

松原氏が考える上の系図によると、田公とは異なる佐伯直家本家筋にあたるようです。空海が774年生まれですから年齢的には一回り若いことになります。ちなみに空海と末弟の真雅よりは15歳ほど年長という関係でしょうか。
  実恵が生まれた時には、まだ空海は善通寺にいたかもしれません。空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあったり、幼い実恵とは顔見知りだったと考えることもできそうです。
 奈良・大安寺で得度し、空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた時代から傍らにいたようです。そのため空海第1の弟子とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。
 また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)32歳の時になります。実恵が大阪府河内長野市に観心寺を開創したのは、その十年後の天長四年(827年)です。この頃になると、空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。

「わが滅後、諸弟子は実意によりて教えを受くべし」

と、東寺の学僧たちに空海が指示したと伝えられています。
東寺の最高位は「東寺長者」と呼ばれ、その歴代が『東寺長者補任』(『群書類従』巻第五十八所収)にまとめられています。空海と実恵の部分を見てみましょう。
(承和)同二年乙卯 長者大僧都空海
正月八日。於宮中真言院被始行後七日御修法。依重宣下止勘解由司庁号内道場真言院。
三月廿一日丙寅。寅尅。於金剛峯寺御入定。年六十二。
同三年丙辰 長者権律師実恵。五月十日任権律師。年五十一
同四年丁巳 長者権律師実恵。
同五年戊午 長者権律師実恵。
同六年己未 長者権律師実恵。
同七年庚申 長者権律師実恵。九月廿八日。転任少僧都。年五十五。
同八年辛酉 長者少僧都実恵。権律師真済。十一月九日。任権律師并長者。四十三。元内供。二長者初也。
同九年壬戌 長者少僧都実恵。権律師真済。
同十年癸亥 長者少僧都実恵。権律師真済。
同十一年甲子長者少僧都実恵。権律師真済。
同十二年乙丑長者少僧都実恵。権律師真済。
同十三年丙寅長者少僧都実恵。権律師真済。
同十四年丁卯
十五年六月十三日改元。長者少僧都実恵。十二月十二日入滅。年六十二。寺務十二年。号檜尾僧都。法禅寺是也。権律師真済。
 四月二十三日転正律師。十一月至一長者。年四十八。 権律師真紹。
 四月二十三日任権律師。十一月補二長者。年四十二。

毎年の東寺長者名とその年齢がが記されています。最初に記されているのが空海です。その後に「実恵 → 真済」と引き継がれていったこと、また実恵が東寺長者に就任したのが51歳の時だったことが分かります。実恵が「真言二祖」と呼ばれたのは、空海に続いて「東寺長者」に就任したからだったようです。

空海が亡くなった翌年の承和三年(836年)、実恵は唐の長安、青竜寺にある空海の師・惠瓊和尚の墓前に空海の死を報告する一文をしためています。
……その後、和尚、地を南山に卜して一伽藍を置き終焉の処とす。今上の承和元年をもって都を去り行いて住す。二年の季春、薪尽き火滅す。行年六十二。ああかなしいかな。南山、白に変じ、雲樹悲しみを含む……。
この報告文は、弟子の真済、真然の二人が入唐するのに託したものす。しかし、出発後間もなく船が難破して失敗、翌承和四年(837年)の入唐僧円行へ改めて託します。ところが円行の乗った船もまた途中で引き返し、翌年五月に再度出発し、目的を果たす。実彗の書いた名文は三度目にやっと長安。青竜寺の恵果和尚の墓前に供えられたようです。
 このことは、実恵の記録の中で必ず触れられます。先代の葬儀を執り行うことは、後継者の正当性を示すことにもなります。長安の恵果墓前への報告も、実恵の後継者としての正当性の主張のひとつと私は考えています。つまり、高野山の真雅との間に、何らかの確執があった可能性があります。
実恵は、東寺の別当職として真言宗門を率いるトップの座に座ります。
彼の人柄は、師の教えに忠実な、極めて実直な性格だったと研究者は考えているようです。そのため強い政治力を発揮するといったタイプではなかったようです。ある意味。大きな支えであった空海を失ったあと、真言宗の統率は、実恵にとって重荷だったのかもしれません。
 実恵の没年は承和十四年(847年)11月で、空海と同じ62歳です。その生涯の業績を見てみましょう。
空海が没した後に直面した課題は、未完成のままの東寺伽藍群です。
それは食堂をはじめ、わが国最大の五重塔などを完成させることです。これを朝廷の厚い保護を受けながら完成させて、東寺別当の地位を固めます。
 しかし、空海が初めて創設した庶民の学校である綜芸種智院を廃校にし、校舎を処分しています。承和12年(845)9月のことで、空海の没後十年のことです。このため
「わが国初の庶民の学校として空海の肝いりで作られた綜芸種智院を廃校にした実恵

という評を後世には受けるようになります。東寺の伽藍整備に精いっばいだった実恵には、付属機関である学校経営まで手が回らなかったとしておきましょう。その代わりとも言えますが、実恵はその二年後の承和十四年(847年)から東寺で「伝法会」を開くようになります。伝法会とは大日経や金剛経など真言密教の教義についての講義や研究を行うもので、空海の教えを忠実に守り広めていこうとする実恵の意図がうかがえます。
 この伝法会の開催には多額の経費が必要だったようです。そのために、綜芸種智院の建物を処分した費用で丹波国(兵庫県)の大山に荘園を買い求め、その荘園からあがる年貢で賄ったと云われます。しかし。これも、彼の没後には中絶してしまいます。
実恵は師の教えを忠実に守った律義者としての性格が強いようです。
例えば彼が好んだ仏像の作風は、師の空海とは違い、繊細な日本的風潮だったようです。
1東寺御影堂不動明王国宝

東寺御影堂の不動明王(平安初期作 国宝)は、空海の念持仏と伝えられますが、その作風は空海独特のインド的な神秘さではないと研究者は考えているようです。
観心寺】 秘仏如意輪観音像ご開帳 楠木正成の菩提寺 / 大阪府河内長野市 | 西国巡礼手帖

また河内長野市の観心寺の本尊の如意輪観音像(国宝)も、日本的です。ここからこの2つの仏像は、実恵時代に作られたものでないかとという見方もあるようです。

実恵は、承和十四年に亡くなります。
その後、千年近くたった江戸時代の安永三年(1774年)8月に、後桃園天皇から道興大師の号を贈られます。空海後の真言宗門の混乱を未然に防いだ実恵の功績は高く評価されます。しかし偉大でありすぎた師の空海の陰で、目立たない性格ゆえに、実恵の存在に人々の目は向けられなかったようです。
ある本は
「空海の教えのワクから一歩もはみ出ようとしなかった実恵は、ある意味で最も讃岐人らしい讃岐人だった」
と評しています。

ところで、高野山金剛峯寺における空海の後継者は弟の真然(伝燈国師)です。では、実恵と真然、どちらが実質的な後継者だったのでしょうか。年齢的には先ほど見たように実恵のほうが一回り年上のようです。また、空海との関係も実恵の方が緊密で長かったようです。

最後に実恵を、空海の甥たちはどのように見ていたのかをみておくことにしましょう。
空海の甥たちが本貫を京都に移すことを政府に願い出た 「貞観三年(861)の記事」の後半部を、見てみましょう。原文は以前に紹介したので意訳のみにします。

1 空海系図52jpg

①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。このことは実恵・道雄の功績によること。しかし、我ら田公の一門はまだ改居・改姓ができていない。
②実恵・道雄の二人は、空海の弟子である、 一方田公は、空海の父であり、我らの叔父にあたる。
⑧田公一門の大僧都真雅(空海末弟)は、今や東寺長者となっている。しかし、田公一門と実恵・道雄一門に比べると、格差は明らかである。
③身内の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえりみて悲歎することが少なくない。なにとぞ正雄等の例に従って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

ここからは甥たちの実恵・道雄の本家筋への不満が聞こえてきます。同時にここからは田公の息子や孫たちの系譜は、佐伯直家の傍流であったことがうかがえます。実恵・道雄を輩出した系譜で、佐伯家の本流(本家)だったようです。空海や真雅の系譜は、佐伯家の中では傍流で「位階獲得競争」の中では遅れをとっていたようです。
系図の実恵・道雄系の真持の経歴を正史で確認しておきましょう。、
承和四年(837)十月 左京の人 従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月 正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年  (846)七月 従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月 従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす。
同五年(863)二月 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和介とす。
ここからは、本家筋に当たる真持は、23年前の承和四年(837)十月に、すでに佐伯宿雨の姓を賜わっています。また「左京の人」とあるので、これ以前に都に本貫が移っていたことが分かります。そして、真持はその後は昇進を重ね栄達の道を歩んでいきます。
  つぎに、正雄の経歴を正史で確認しましょう。
嘉祥三年(850)七月 讃岐国の人 大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
とあり、正雄は真持におくれること13年で宿爾の姓を得て、左京に移貫しています。ここからは、佐伯家の本家筋に当たる真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
 これを空海の甥たちは、どのように思っていたのでしょうか。
「謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。」

と申請文書には書かれています。真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるというのです。今見てきたように実恵・道雄は、空海の十大弟子です。そして、俗姓は佐伯氏で空海の一族(本家筋)にあたります。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

とあって、生国は記されていませんが、佐伯氏の出身であったことが分かります。
  真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)なので、東寺は東寺長者であった実恵の尽力があったのでしょう。実恵は承和十四年(847)に亡くなっているので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居には関わりを持つことはなかったはずです。
 これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっているので、前年の正雄の改姓に力があったのでしょう。ここからは、
①実恵は真持一門に近い出自であり、
②道雄は正雄一門に近い出身
と研究者は考えているようです。

空海の甥たちの思いは、次のようなことではなかったでしょうか。
  真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場である。なのに空海を出した私たちは未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅は、東寺長者となった。しかし、我々田公の系譜と実恵・道雄一門とを比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。

 地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったことがうかがえます。佐伯一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったのです。空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたようです.実恵と真雅の間には、本家筋と分家の一族的なつながりと同時に、反目やしがらみがあったことがうかがえます。これは、円珍の場合も同じであることは以前見たとおりです。


西行1

西行といえば有名な歌人として私の中にはインプットされていました。彼の作品は、のちの連歌師宗祗や俳講師芭蕉の手本となったように、旅を生命とした吟遊詩人でもあったというのが私の西行観でした。
 ところが「西行の本業は高野聖」であったということが書かれた本に出会いました。「五来重 高野聖 13章 高野聖・西行」です。ここには「隠遁性・廻国性・勧進性・世俗性」などの視点からすると、西行は高野聖だと云うのです。その本を見ています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
坂出市青海町

西行は、讃岐にもやって来ています。

白峰寺で崇徳上皇の怨霊を鎮めたり、弘法大師が捨身修行したと伝えられる善通寺の我拝師山で庵を結んで、三年近くの山岳修行も行っています。その合間に、記録や歌を残しています。讃岐での生活も、修行よりも、歌の方に関心が向けられることが多いようです。しかし、讃岐への旅も、芭蕉のような風雅の旅ではなく、慰霊の旅であり、四国辺路の聖地での修行であったのです。その余暇に歌は作られていました。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

西行が、いつ、どこで、どのくらい修行したのかを、年表化して確認しておきましょう。
保延六年(1140)23歳 出家
久安五年(1149)32歳 高野山入山
治承四年(1180)63歳 高野山退山 
ここからは32歳から63歳まで約30年間を高野聖として、隠遁と廻国と勧進にすごし、その副産物として多くの歌をのこしたことが分かります。
高野山に入るまでの西行の姿を追ってみましょう
西行は出家して2年後の康治元年(1142)二月十五日、内大臣頼長の邸に一品経の勧進にあらわれたことが次のように記されています。
西行法師来りて云ふ。 一品経を行ふに依り、両院以下の貴所皆下し給ふ也。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふ可しと。余軽々しくは承諾せず。又余年を問ふ。答へて曰く、二十五、抑も西行は、右兵衛尉義清(のりきよ)也 重代の勇士を以て法皇に仕へ、俗時より心を仏道に入れ、家富み年若くして心無愁なり。遂に以て遁陛す。人之を歎美する也
意訳変換
西行法師がやってきて次のようなことを言った。「一品経の書写を、両院以下の貴所が全て行うことになった。紙の善し悪しにかかわらず、自筆で行うのがよい」と。私は、軽々しく承諾しなかった。そして、西行の年齢を聞いた。二十五歳と答えた。そもそも西行は、佐藤義清(のりきよ)である。彼は、勇士として法皇に仕へながら、俗事より仏道に心を奪われた者である。家は富み、年は若くしながら心は無愁で、隠遁生活を選んだのだ。これを賛美するものが多い。

ここからは次のようなことが分かります。
①西行が勧進僧として活動していること
②当時の年齢が25歳であったこと
③西行の隠遁が、世の中の人々の話題になり、賛美されていたこと
この勧進活動は、大治元年(1126)11月19日に焼亡した鞍馬寺再興のためのものだったようです。その活動の中に、西行の姿はありました。彼は宮中に顔がきいていたので、鳥羽・崇徳両上皇以下の貴族を勧進しています。
 自筆一品経というのは28人の結縁者に法華経二十八品を写してもらい、その供養料をあつめて如法経埋経供養と、別所聖の生活資縁にあてるものです。西行は、この後も東山や嵯峨を転々とします。双林寺・長楽寺・清凍寺・往生院のまわりに群れ集まる念仏聖や、勧進聖たちのあいだに混じって生活していたことがうかがえます。
 『西行物語絵巻』に描かれた彼の寓居は、聖の庵が建ちならんで商人が往き交い、子どもがが遊ぶなど、雑踏の巷です。このとき詠んだとされる歌が以下の歌です。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて、人々よみけるを
うなゐ子が すさみにならす 麦笛の
こゑにおどろく  夏のひる臥
  絵巻には、この歌のように西行が昼寝している姿が描かれています。これは西行を隠者とするイメージではありません。聖は「仙人」ではないようです。それでは食べていけません。俗塵にまじわらなければ生活できなかったようです。出家後に西行は勧進僧になっていました。
西行4
西行 東下りの図

なぜ西行は高野山にやってきたのか
久安五年(1149)に高野山の大搭・金堂・灌頂院が雷火で焼け墜ちます。そして、勧進活動が開始されることになります。そのために、経験のある有能な勧進聖が招かれて、復興勧進にあたることになったようです。このとき西行を高野山にまねいたのは、この大火を目のあたりに見て日記に記した覚法親王(白河上皇第四皇子、堀河天皇の御弟)と、大塔再興奉行だった平忠盛だったと研究者は考えているようです。西行は、高野山と京都とのあいだを往復して、文学の才をもって貴族のあいだにまじわり、高野山の復興助力をすすめたようです。復興の総元締めである平忠盛の西八条の邸に出人りしていたことが記録されています。
 高野山復興のパトロンである平忠盛が亡くなると、その子の清盛のサロンにも出入りするようになります。こうしたサロン活動を通じて、期待された勧進目標を確実に果たしていたようです。そういう意味では彼は優秀な勧進僧であったと云えそうです。
 そして勧進活動の合間には、大峯修行や熊野那智で滝行など、聖らしい苦行も行っています。同時に、大原や東山・嵯峨の聖との往来も重ねます。とくに大原三寂といわれる寂念(藤原為業)・寂然(壱岐守頼業)・寂超(頼業の弟)および西住とは、しばしば歌論や法談をかわしていることが『山家集』にも記されています。生業の勧進、サロン活動、ロマンス、創作活動、修験など、彼の人生は充実したものだったようです。
西行2
天竜川を渡ろうとした西行が武士に鞭打ちされた話 ここでも笈を背負っています

最初にも述べたように、西行の廻国は美化されています。

そのため、一生を旅から旅へ「 一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけのようです。しかもそれは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 たとえば東大寺勧進聖には勧進帳が、高野聖には大師像のはいった笈が必需品だったのです。田亀(たがめ)は、笈を負う形に似ているというので、高野聖は「たがめ」とも呼ばれたようです。讃岐にやって来た西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせます。      
西行3

応永20年(1413)の「高野山五番衆一味契状」には、次のように記されています。
   高野聖とりし、空口(=おい)を負ひ、諸国に頭陀せしむ
  笈が高野聖のシンボルになっていたのは、宗教的権威の象徴だったからのようです。
歴史めぐり源頼朝~西行に出会う~

西行の東大寺再興勧進
勧進聖は、一つの寺の専属ではありませんでした。依頼されれば、他寺の勧進におもむいたようです。西行は関わった最も大きい勧進は、東大寺勧進でした。治承四年(1180)12月に平重衡の南都焼打ちによって東大寺は炎上しました。その再建のために重源が大勧進空人に任命され、多数の勧進聖をあつめます。西行は重源に頼まれて、鎌倉と東北の平泉を勧進のために訪れています。これも西行の名声を利用した大口勧進(募金)であったようです。
知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ | 神奈川県 - 観光・地域 - Japaaan - ページ 2
西行と頼朝

『吾妻鏡』(文治二年(1186)八月十五日)は、次のように記されています。
二品(頼朝)鶴岡宮に御参詣、而るに老僧一人烏居の辺に徘徊す。之を怖しみ、景季を以て名字を間はじめ給ふの処、佐藤兵衛肘憲清法師なり。今の西行と号すと云々(中略)
則ち営中に招引して御芳談に及ぶ。此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り。(中略)
恩問等閑(おんもんなほざる)の間、弓馬の事に於ては具(つぶさ)に以て之を申す。即ち俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。絆終夜を専にせらると云々
意訳変換しておくと
将軍頼朝が鶴岡宮に参詣した時のことである。老僧が一人烏居の辺を徘徊している。これを怖しんだ景季が、その名を問わせると、佐藤憲清法師で、今は西行と名乗っていると云う。(中略)
すぐに営中に招き入れて、歓談に及んだぶ。この間、歌道や弓馬の事について、将軍はいろいろと尋ねられた。(中略)それに対して西行は、弓馬の道はみな忘れました。和歌についてもその奥義については私にも分かりませんと答えた。頼朝は西行が気に入って、夜通し話しをした。

 これが有名な頼朝と西行の出会いシーンです。頼朝は西行に鎌倉に滞在するようしきりにひきとめますが、西行は先を急ぐといって平泉に出かけてしまいます。
重源上人の約諾を請け、東大寺析として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く

とありますので、奥州平泉旅行が勧進行であったことが分かります。

これには、頼朝が西行に錢別に銀作りの猫をあたえたが、門前の子供にあたえて去ったというエピソードが加わります。西行の無欲さを協調する人もいますが、旅行の荷物になるからと研究者は考えているようです。しかし『吾妻鏡』によると、この銀猫は、義経滅亡のとき平泉で発見されたと記されます。いずれが真か偽か謎が残ります。
 頼朝は、これより先にすでに(米)一万石、沙金 千両、上絹千疋を重源に贈っていましたので、このときには勧進に応じなかったようです。また、奥州平泉でも秀衡は寿永三年(1184)6月に沙金五千両を東大寺に奉加していました。西行の重ねての勧進に応じたかどうかは分かりません。関東・平泉への旅も勧進目的であったことは押さえておきたいと思います。
西行上人歌集 山家集類題 ノ元袋(松本柳斎編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

西行の世俗性                           
西行の世俗性とは、具体的に妻子がいたのかどうかです。これには、次のようなふたつの見方があるようです。
①歌聖にふさわしく、まったくの清僧であるから、妻子などもってのほかで、歌のなかにあらわれる女性もたんなる文学上の交友にすぎないという立場で、『山家集』に妻子をよんだ歌が一首もないのも、妻子がいなかったことを示すものだ
②妻帯だけはみとめようとする立場
②の立場としては、次のような見解も出されています
「妻子を振り棄てたからには、一向家の事、家族の事を顧みず、直ちに山林に入って関係を絶つのかというとそうでもない。俗縁の者と居を共にせず、僧堂山林に起居して念修するだけのことで、俗縁の家族はやはり家族に相違ないから、時々会見もすれば消息も明らかにしておく」
 また、次のような説もあります。
「僧として、人前に通るまでは、分相応に多少修行をしなければならない。その期間だけは、毎日家庭から弁当をもつて通ふわけにはゆかぬから、妻子の傍を離れるとということはある。西行にもそいう期間が若干はあったろう。しかし、修行が終われば俗縁への出人は自由である」

 これだと「修行中のみの別居で、その後は妻帯可」ということになります。このような俗聖(ぞくひじり)の妻帯は、行基や空也や親鸞がそうであつたように、特殊な階級として許されていたようです。しかし、俗聖では僧位・僧官は、のぞむことができず、本寺からの衣食住の支給もありません。そのため、聖は勧進によって身をたてるほかはなかったようです。当時は「僧」にもいくつかの階級があり、清僧と俗聖の間には、明快な一線があったとしておきましょう。西行は俗聖だったのです。
和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 五来重 高野聖 13章 高野聖・西行

多度津周辺の島や海岸部のお墓と寺院・神社の関係を見ていくと、そこに高野聖の痕跡が見えてくるようです。南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀・念仏信仰を庶民に広げた高野聖の姿を追ってみましょう。まずは備讃瀬戸の島巡りです。
 瀬戸内海の多度津沖の佐柳島は、今は「ねこ島」として人気があるようです。多度津港から1時間足らずで到着するこの島は、お墓が県の有形・民俗文化財に指定されています。

両墓制
佐柳島長崎の埋墓
 島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
猫だけじゃない佐柳島(両墓制のお墓と玄武岩の岩) | 旅女 Tabijo 〜義眼のバックパッカー〜
佐柳島の埋め墓
佐柳島の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から上げた石だそうです。ここでは埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。 『万葉集』の巻二は、ほとんど挽歌ですが次のような歌があります。
「讃岐狭岑島(沙弥島)に石中の死人を視て、柿本人麻呂の作れる歌」
「(上略)名ぐはし 狭岑(沙弥)の島の 荒磯面に 廬りて見れば 浪の音の 繁き浜辺を 敷妙の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ(下略)」

意訳変換しておくと
讃岐坂出沖の沙弥島にて、石中に眠る死人をみて柿本人麻呂が作った歌
名ぐはしき沙弥島の荒磯に舟から下りてみると 浪の音の繰り返す浜辺に 砂を枕にして 荒磯を床にして臥す君がいた 
君の家を知っていれば 飛んでいって家族に告げようにも それもできない 無念なことだ」

「石中の死人」から、死体のまわりに石を積んであったこと、つまり積石だったことがわかります。おそらく古代の沙弥島も佐柳島も、同じような葬法がとられていたのでしょう。このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。
1両墓制

 そして、肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
 佐柳島に行く途中にフェリーが立ち寄る高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。それぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島をやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?

  多度津の陸地部でも、見立(みたち)浜の墓地は、かつては埋め墓と拝み墓の両墓地が分けられていたようです。
その隣の、西白方の西の浜の墓地のすぐ近くに熊手八幡官があり、宝光院、上生寺もあります。東白方の墓地の一枚の田を隔てた南側に、荒神さんという字の氏神があります。
墓と寺と宮とは別々のもののように今は思われていますが、神仏分離以前の日本人の感性としては、どれも人の霊を祭る所で同じものだったようです。明治以後に見方が変えられただけです。この墓と寺と宮は三位一体で混淆していましたから、一緒に祀られているのは当然だったようです。

道隆寺 堀越津地図
中世の堀江周辺の地形復元図 東西に伸びる砂州の背後に潟湖があった

 中世に多度郡の津があった堀江の墓場を、多度津町史は、次のように記します。
 集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。堂の裏に古い墓がある。堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏はすぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。
 墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。宮と墓と寺と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。

 ここからも先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスがうかがえます。また、社も鎮霊施設として墓地周辺にあったことが分かります。

P1240931
陣屋は広大な両墓制の墓地の上に作られた。
桜川に架かる極楽橋が墓へのお参りのために架けられた。

近世から明治にかけては多度津の中心地であった元町周辺のお寺を見てみましょう。
多度津町誌には、桜川改修に伴う極楽橋の着け替え工事の際のことについて次のように記されています。
 両岸を掘り下げていた人が金縛りとなって動けなくなったという。不思議なことだと思っていると、沢山の古い人骨と五輪の供養塔が埋まっていた。
 またポンプ場工事の時、富士見町の桜川への流れこみの川の底からも、五輪塔が掘り出された。今は埋め立てられて新町になっているが、弁天山のすぐ下まで海が入り込んできていて、古い骨壷が出上したこともある。
 そこに法輪寺があり、いわゆるえんま堂がある。言うまでもなく墓地である。それから桜川の川口近くの両側は須賀(洲家とも書く)という昔の洲である。
  中世の地形復元図でも、現在の桃陵公園から堀江付近までながい砂州が描かれています。桜川河口は、その砂州と桃陵公園の間を抜けて、海に流れ出していたようです。

道隆寺 堀越津地図

その砂州一帯が、佐柳島と同じように古代には死体の捨て場であったようです。
それが埋葬概念の普及と共に「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになっていきます。桜川の北側(現JR多度津工場)のあたりには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」だったようです。そして、橋の南の袂に観音堂がありました。そこから発展したと考えられるのが摩尼院や多門院です。摩尼院の本尊は地蔵さんの石仏です。これは先祖供養の民間信仰から生まれてた「庶民の寺」から発展したお寺らしいと多度津町史は指摘します。
1陣屋

摩尼院の道向こうにある多聞院も同じような性格のお寺だと推測できます。
 多度津の墓場周囲に作られた宗教施設は、民間信仰に根付くもので善通寺などの「鎮護仏教」系の寺院とは異なりました。古代の仏教は、国家・天下の平安を祈るもので人々の現世利益や鎮霊・葬送に応えてくれるものではありません。中世になって、先祖供養や来世往生などの庶民信仰に応えてくれたのは、聖たちでした。時宗聖たちが京都の悪霊(感染症)にたたられた死者を埋葬し、戦国時代には戦場にうち捨てられた死者達を葬り、供養したこと、それを記録として残し、縁者に伝えたことは以前にお話ししました。
明治の多度津地図

 瀬戸内海の海運拠点などでも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここには、高野山系の念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてくることは以前にお話ししました。
 そして、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であると多度津町史は考えているようです。(多度津町史912P)
 次に摩尼院に残る版木を見てみましょう。
多度津摩尼院 版木
多度津摩尼院の五輪塔形曳覆(ひきおおい)曼荼羅の版木
  
この版木は縦91、5㎝、横35、5㎝で、
表面には五輪塔形
裏面には胎蔵界中台八葉院・幡形・
が彫られています。制作年代は江戸時代初期頃とされます。
この版木で摺ったものを葬送の時に、死者に被せました。減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する真言・陀羅尼などが書かれています。これが後には、経帷子に変化していくようです。摺られたものは、死者とともに火葬されるものなので、遺品は残りません。しかし、版木が全国で20例ほど見つかっています。
五輪塔形曳覆曼茶羅の版木からは、何が分かるのでしょうか? 
この版木のデザインは、密教と阿弥陀信仰が融合してキリークが加わり、さらに大日如来の三味形としての五輪塔と一体化します。そして、五輪が五体を表す形になったようです。それが鎌倉時代末の事だとされます
中でも研究者が注目するのは、滋賀・圓城寺や、京都・西明寺のものです。圓城寺の版本は、
A面には五輪塔形、
B面には胎蔵界中台八葉院と幡形が彫られ、
その傍らに「南無阿弥陀仏」とともに「承和元年三月十五日書之空海」と彫られています。ここには「南無阿弥陀仏」の六宇名号と空海の両者が登場します。これは
真言密教 + 弘法大師信仰 + 念仏・阿弥陀信仰」
 =真言念仏の公式
にぴったりと当てはまります。
 西明寺のものには、蓮台の上に「南無阿弥陀仏」、その背後には船形の光背がみえます。光背の上下にはキリークとアがあり、さらに『観無量寿経」と陰刻されています。研究者が注目するのは、版本が納められる箱に「高祖大師御作 船板六字名号二枚 加茂大野邑西明寺什物」とあり、これが船板名号と呼ばれている点です。船板名号は時衆系念仏聖に関わりがあるとされることは、弥谷寺の船板名号で以前にお話ししました。つまり、五輪塔形曳覆曼茶羅には、時宗系の高野聖が関わっていたと研究者達は考えているようです。高野聖の痕跡がうかがえるものが、摩尼寺には残っているのです。

一魁斎 正敏@浮世絵スキー&狼の護符マニア on Twitter:  "「季刊・銀花/第36号」の御札特集に滋賀県・石山寺さんの版で良く似たものが「曳覆五輪塔」(正確には五輪塔形曳覆曼荼羅)の名称で掲載されていますが、亡者の棺の中に入れて覆うのに用いるそうです。…  "
        大宝寺の五輪塔形曳覆曼荼羅
 
この版木が所蔵される摩尼院は、今は多度津町の中心街に位置しています。
 しかし、この寺はかつては桜川河口の砂州の上の両墓制のお墓が広がるエリアの入口付近にあったことは、先ほど見たとおりです。そこで滅罪供養と向き合った高野聖がいたのでしょう。彼は、弥谷寺や白方の海岸寺などの流れをくむ聖であったかもしれません。
 近世初頭の江戸時代に瀬戸内海交易の活発化に伴って、沿岸拠点湊は成長を遂げていきます。塩飽の島々の湊も、ターミナルセンターの役割を果たし、人とモノと金が動くようになります。
 この時期は阿弥陀・念仏信仰をもつ高野聖が、高野山から追放された時期とも重なります。彼らは、中世以来の念仏聖の拠点であった宇多津の郷照寺や弥谷寺に居遇しながら、その活動先を多度津や塩飽などの繁栄する湊町に広げて行ったのではないでしょうか。

多度津摩尼院 鬼念仏
鬼念仏(摩尼院)
『祗園執行日記』の康永2年(1343)八月十四日の条には、次のような「営業活動」を行う高野聖の姿が記されています。
高野遁世者正心、師匠寂心の為、教養念仏勧進の次(ついで)、仏舎利奉拝せしむ。
一粒奉請するの処、当座に於て二粒分散し了んぬ。巳上三粒なり、又袈裟十帖代三連渡し了んぬ
意訳変換すると
高野聖正心は、亡師の追善供養という口実で仏舎利を参拝させ、結縁(寄進)をよびかけていた。
 このときに私(顕詮)が、仏舎利一粒を奉請(借りうけてまつる)すると、分散して三粒になる奇瑞があった。引導袈裟10枚を買って3連(1連=100文)を渡した。

 ここには、高野の時宗化下した念仏僧が、京都の四条橋あたりで、笈(おい)を据えて仏像を掲げ、仏舎利をかざり、鉦をうちながら寄進を呼びかけている様子が描かれています。研究者が注目するのは最後の「袈裟十帖代 三連渡し了んぬ」と袈裟10枚を300文で売っていることです。
 念仏勧進は、ただで念仏させるのではなくて、六字名号の念仏紙(賦算札)を拝受させ、うけた喜捨の何分の一かは高野山におさめ、のこりは聖の収人となったようです。その上に、舎利を貸し出しして喜捨をうけ、なお引導袈裟を売るのですから、なかなかよい商売です。高野山からの出張路上販売とも云えます。
 この時代から250年後の多度津の摩尼院の高野聖は、五輪塔形曳覆曼荼羅(引導袈裟)を、自前の版木をそろえって、自分の寺で摺って「販売」していたのです。こうして塩飽諸島の繁栄する湊にも滅罪供養のために高野系の念仏僧が定着するようになり、それが寺院に成長して行ったというストーリー(仮説)が考えられます。それは、あまり古いことではなく中世末から近世初頭にかけてのことのように思えます。
以上をまとめておくと
①中世の多度津周辺の海辺の湊には、海岸に死者を埋葬する風習があり、「埋め墓」「拝み墓」という両墓制が見られた。
②その周辺には、観音堂が建てられ阿弥陀仏が祀られたりするが最初は無住であった。
②死霊に対する鎮魂意識が広がった中世に、滅罪供養に積極的に取り組んだのは高野の時宗系念仏聖であった。
③高野聖は、阿弥陀・念仏信仰のもとに極楽浄土への道を示し、そのためのアイテムとしてお札や
引導袈裟を「販売」するようになる。
④江戸幕府の禁令によって高野山を追放された念仏聖先は、定着先を探して地方にやってくる。
⑤その受け入れ先となったのが、荒廃していた四国霊場や、滅罪供養のお堂などであった。
⑥多度津の摩尼院では、高野系念仏聖がもたらした五輪塔形曳覆曼荼羅(引導袈裟)の版木が残っている。ここからは、高野聖の滅罪寺院への定着がうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
多度津町史 第9編 寺社と信仰(911P~)
武田和昭 四国辺路の形成過程
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   前回は、近世初頭に高野聖たちが四国辺路の札所に定住していく過程を見てみました。今回は、四国辺路にとらわれずに全国の村々に、どのように定着していったのか。また、その結果として何が生まれ、何が残されているのかを見ていくことにします。
テキストは 五来重 高野聖 です。

高野聖の地方定着していく方法のひとつは、荒地の開墾開発です。
越中の中新川郡山加積村(現、上市町)の開谷と護摩堂の二集落は、高野聖による開村を伝える集落です。そして、開谷には踊念仏系の棒踊や太刀踊がのこっています。ここからは踊念仏と高野聖と関係がうかがえます。
越中是安村松林寺の、『文政七年書上帳』には、松林寺の先祖について次のように記されています。

祖先は「高野山雲水知円」という者で、文禄二年(1593)以前に越中砺波郡山田野に小庵をかまえて定住した。このとき神明宮も一緒にまつったが、文禄二年に修験道をまなんで、神明宮の別当になった。宝暦12年(1761)に山号寺号を免許されて、山田山松林寺と称した

ここからは高野聖が修験者に「転進」し、神社の別当社の社僧として定着したことがわかります。
 これとおなじような例は越中高宮村法船寺にもあります。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。

①高野聖→ ②修験道者 →③地域の神社別当職の真言系僧侶 →④明治以後の神職

  また、越中には高野聖のつたえたものとおもわれる踊念仏系の願念坊踊が分布しています。
2016願念坊踊り | 見て来て体験メルヘンおやべ:富山県小矢部市観光協会
越中願念坊踊
 
越中願念坊踊で有名なのは、石動(いするぎ)町(小矢部市)綾子のものです。
ここでは黒衣に小袈裟・白脚絆・白足袋・白鉢巻の僧形の踊り手や、浴衣の下に錦のまわしを締め込んだ踊り手が、万燈梨花傘を立てて踊ります。花笠は二段に傘を立て、音頭取りはその傘の柄をたたいて音頭をとるのは住吉踊とおなじです。楽器は拍子木と三味線です。こうした願念坊踊は婦負郡八尾町付近、上新川郡大沢野町大久保でも行われていたようで、このときには伊勢音頭が謡われたようです。

 伊勢音頭をうたいながら願人坊踊をするところは、長野県下伊那郡天龍村坂部の冬祭です。これの芸能の始まりに、高野聖が関わったと研究者は考えているようです。
願人坊主(がんにんぼうず) : あるちゅはいま日記
「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の大道芸。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。
願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたりして銭を乞うた。

 越中の中新川・婦負・東砺波・西砺波では、祭礼行列に「願念坊」という仮装道化が現れます。
「オドケ」とか「スリコン」、または「スッコン棒」と呼ばれる黒衣に袈裟の坊主頭で、捕粉木やオシャモジやソウケ(宗)をもって道化踊をします。これを「スッコン棒」とも「願人」とも云います。スッタカ坊主やスタスタ坊主は「まかしょ」ともいい、高野聖の異称のようです。また江戸時代には高野聖は「高野願人」ともよばれていました。ここからは、これらの仮装道化も高野聖や願人坊が伝えた念仏踊の道化だったことが分かります。そして、越中砺波地方には、高野聖の碑が各地にのこります。
八郎潟町〉願人踊 ▷エネルギッシュな踊りを繰り広げる | webあきたタウン情報
八郎潟町の願人踊り

願人坊踊は願念坊踊とか道心坊踊ともよばれるもので、もともとは卑猥な踊りをして人をわらわせるものでした。
この「願人」とは鞍馬願人や淡島願人などもいて、有名社寺への代願人(「まかしょ」)たちのことです。願人は、代参人として喜捨をえていたので、高野聖だけをさすわけではありません。しかし近世にはいって、高野山へかえることのできなくなった高野聖の大部分が、願人の群に入っていたようです。その数は相当数にいたことが予想できます。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
  門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。念仏踊や雨乞踊りなど風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったという仮説が示されます。本当なのでしょうか。史料的な裏付けはあるのでしょうか。
住吉踊とは - コトバンク
住吉踊り

『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第11巻、三一書房、昭和45年)には、次のように記されています。
躍り(伊勢踊)の手は、願人坊主、手を付て願人躍りの如く、
三味線・太鼓・すりがね等にてはやし、傘をさし、
住吉躍りのごとし

意訳変換しておくと
伊勢踊の手の動きは、願人坊主(高野聖)が(振り付けて)た願人踊りとよく似ている。三味線・太鼓・摺鐘などではやし、傘をさすのは住吉踊りのようでもある。

ここからは、高野聖が関わった願人踊りが、伊勢踊りや住吉踊りの起源になっていることがうかがえます。高野聖たちは「願人」として、風流踊念仏から伊勢踊や住吉踊り、そして住吉踊りの変化した阿波踊までも関係していたことを研究者は指摘します。

住吉踊り奉納2015 : SENBEI-PHOTO
住吉踊り

そのような役割を、どうして高野聖が果たすことができたのでしょうか。
研究者は次のように指摘します。

 高野聖が遊行のあいだに、雨乞や虫送り、あるいは非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることからおこったのであろう。

 つまり、雨乞いや虫送りの年中行事や、ソラの集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、新たに作り上げる役割を果たしたのが高野聖であったのです。つまり、僧侶や神主などの宗教者よりも、彼らは庶民信仰に近い位置にいたことがおおきいと研究者は指摘します。

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聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。

それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。

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聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが高野聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのも、高野聖でした。さらに以前にお話しした庚申信仰も、彼らが庚申講を組織していったようです。

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滝宮念仏踊り
こういう視点で、讃岐の民俗芸能を改めて見返してみるといろいろと新しい事が見えてきます。
例えば念仏踊りです。現在の由来では、菅原道真や法然との結びつきが説かれています。しかし、これを高野聖によってプロデュースされたものという仮説を立てれば、次のように見えてきます。
①近世において、善如(女)龍王信仰に基づいて真言寺院による雨乞祈祷の展開。それに対して、庶民側からの雨乞行事の実施要求を受けた高野聖(山伏)による雨乞念仏踊りの創始
②宮座中心の祭りに代わって、獅子と太鼓打を登場させ祭りを大衆化させたのも高野聖
③佐文の綾子踊りも風流踊りと弘法大師信仰を結びつけたののも、高野聖

今まで見てきたように、高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。

修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったことがうかがえます。


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諏訪大明神念仏踊(まんのう町諏訪神社)

高野聖そのものが、神としてまつられた所もあるようです。
 三河の北設楽郡東栄町中在家の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖がきて窟に住んでいたと云います。やがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」としてまつるようになります。子供の夜晴きや咳や腫れ物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えないといいます。
大林寺
 おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も、廻国の高野聖が重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話したと伝えられます。童達と仲良くした聖は亡くなる時に次のような話を残します。
「・・私は死んでも魂はこの村に残って、この村の繁栄と皆さんの病気を治してあげます。病気になったら私の名を3べん呼んで下さい。治ったら私の好きな松笠を・・・・・・・・」
 お聖様が亡くなってからも、お聖様の評判は一層高くなり、近郷の村々にまで伝わって行き、お願いに来る人や、お礼参りに来る人でにぎわい、お墓は松笠で埋まってしまう程でした。やがて心ある村人によって聖神(ひじりがみ)としてお祠が建てられ、さらに大林寺の横に聖堂(ひじりどう)が建てられ、参詣者があとを絶たない。
鳳来の伝説(鳳来町文化協会発行)より引用

聖の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと云い残して亡くなったようです。
聖堂(大林寺)
大林寺住職は、この聖のために聖堂を建ててまつり、また神主・夏□八兵衛は、これを「聖神」として祀ったと伝えられます。
聖神宮
昔から高野聖と笠は、深い関係があるので、笠のかわりに松笠をあげて願をかけたようです。
聖堂には松笠がいまでも供えられています。


神としてまつられた高野聖は、四国の土佐長岡郡本山町にいます。
この聖の子孫は本山町の門脇氏で、 一枚の文書が残っています。(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年) ここには「衛門四郎という山伏」が出てきます。この人物は、弘法大師とともに四国霊場をひらいた右衛門三郎との関係を語っていた高野聖だったようです。
門脇家に残る「聖神文書」は、これを次のように記しています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、
奥大田へやって来て、 杖を置いて
木能津に着いて、蛇石に誓い 
鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた
分家は 下関にある。吉三という家である
門脇氏の若宮八幡を祀り
井戸(釣井)注連縄を引き、
八大龍王を清浄に祀ることするること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」とまつったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社とされてきました。本山町のものは、高野聖が自分の形見をのこして、聖神として祀ったことが分かります。
日吉大社御朱印②(日吉大社上七社権現) | 出逢いは風の中
聖真子(ひじりまご)社のお札

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑のあとが斜面いっぱいにのこっていたと云います。今ではすっかり萱藪におおわれています。しかし、耕地の一番上に、袈裟と衣を埋めたという聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)は残っているようです。

本山町付近では、始祖を若宮八幡または先祖八幡としてまつることが多いので、聖神と同格になります。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
 また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。

以上をまとめておくと
①高野山が全国的霊場になったのは、高野聖の活躍の結果であった。
②高野聖は高野山の経済と文化の裏方として中世をささえてきたが、つねにいやしめられ迫害される存在でもあった。
③高野山は真言宗の総本山としてのみ知られているが、かつては念仏や浄土信仰の山でもあった
④日本総菩提所の霊場となった高野山と庶民をつないだのが高野聖であった。
⑤弘法大師信仰は、高野聖が庶民のなかに広めた
⑥官寺的性格の高野山は、「密教教学の山で真言宗徒の勉学と修行の場」であり、庶民にとっては垣根が高く、無縁の存在だった。
⑧一方、高野聖たちは、弘法大師を「真言宗の開祖」というよりも、「庶民の病気を癒やす、現世の救済者」と捉えた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑩近世の高野聖は、地域への定着を迫られ、村々の文化的宗教的行事のプロデューサーの役割を果たすようになる。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献

弥谷寺 高野聖2
 
高野聖
 
江戸時代になると幕府や各藩は、遊行者、勧化僧の取締りをきびしくしていきます。これも幕藩体制強化政策の一環のようです。また民衆側も信長の高野聖成敗以来、高野聖の宿借りを歓迎しなくなります。宿借聖や夜道怪などといわれ、「人妻取る高野聖」などといわれては、それも当然です。高野聖が全国を遊行できる条件は、狭められていきます。
画像 色木版画2

 また、高野聖の中には、もともと高野山に寺庵をもたず、諸国を徘徊する自称高野聖もすくなくなかったようです。また弟子の立場であれば高野山へかえっても宿坊の客代官や客引きをつとめるくらいで、庵坊の主にはなれません。このような立場の高野聖は、村落の廃寺庵にはいって定着し、遊行をやめるようになります。地域に定着した高野聖は、高野十穀雫ともよばれて、真言宗に所属したものが多かったようです。
 近世初頭の四国霊場の置かれた状態を見ておきましょう。
  17世紀後半に書かれた『四国辺路日記』の中で、札所の困難さを次のように記しています。
「堂舎悉ク退転(荒廃)シテ 昔の礎石ノミ残れり」
「小キ草堂是モ梁棟朽落チテ」
「寺ハ在レドモ住持無シ
ここには、かなりの数の寺が退転・荒廃したことが記されています。阿波の状態は以前にお話ししましたが、23ケ寺中の12ケ寺が悲惨な状況で、そこには山伏や念仏僧が仮住まいをしていたと記されます。天下泰平の元禄以後でこの状態ですから、戦乱の中では、もっとひどかったのでしょう。
 例えば永正十(1513)年から元亀二(1571)年には、
①讃岐国分寺の本尊像
②伊予の49番浄土寺の本尊厨子
③土佐の30番一の宮
には落書が残っています。土塀などなら分かりますが、本尊や厨子に落書ができる状況は今では想像も出来ません。そのくらいの荒廃が進んでいたとしておきましょう。そんな落書きの中に
「為二親南無阿弥陀仏
「為六親眷属也 南無阿弥陀仏
「南無大師遍照金剛」
という文字が確認されています。
さらに52番太山寺には、阿弥陀如来像版木(永正11(1512)年があるので、四国辺路に阿弥陀・念仏信仰が入ってきていることがうかがえます。

四国辺路道指南 (2)
四国辺路指南の挿絵
四国辺路への高野聖の流入・定着
そうした時代背景の中で、天正九年(1581)年に 織田信長が高野聖や高野出の僧1382人を殺害したり、慶長11(1606)年に徳川幕府による高野聖の真言宗帰入が強制されます。これがきっかけとなって、高野山の僧が四国に流人してきたのではなかろうかと研究者は考えているようです。
 例えば、土佐の水石老なる遁世者は、高野山から故あって土佐に移り住んだとされます。時は、まさに高野聖にとって受難の慶長11年頃のことです。また、伊予・一之宮の社僧保寿寺の僧侶は、高野山に学んだ後に、四国にやってきたと云います。このように、四国の退転・荒廃した寺院へ、山伏や念仏信仰を持った高野空などが寓居するようになったのではないかと研究者は考えているようです。
四国辺路道指南の準備物

 そして高野山の寺院から四国に派遣された使僧(高野聖を含む?)も、そのまま四国の荒廃した寺院に住みつくようになったというのです。この時期の高野聖は、時宗系念仏信仰を広めていた頃です。高野山を追い出された聖達もやはり念仏聖であったでしょう。彼らにとって、荒廃・退転していた寺院であっても、参詣者が幾らかでもいる四国辺路に関わる寺院は、恵まれていて生活がしやすかったのかもしれません。
四国遍礼絵図 讃岐
四国辺路指南の挿絵地図 讃岐

高野聖による四国辺路広報活動
 彼らは念仏信仰を基にして、西国三十三所縁起などを参考に、今は異端とされる「弘法大師空海根本縁起」などを創作します。それを念仏信仰を持つ者が各地に広め、やがて四国八十八ケ所辺路ネットワークが形成されていくというのが研究者の仮説のようです。
 同時に高野聖は、高野山に住む身として弘法大師伝説も持っていました。弘法大師と南無阿弥陀仏(念仏信仰)は、彼らの中では矛盾なく同居できたのです。こうして勧進僧として民衆への勧進活動を進めた高野聖は、四国辺路を民衆に勧める勧進僧として霊場札所に定住していったとしておきましょう。

四国辺路道指南 (4)
四国辺路指南 弘法大師

ここからは弘法大師伝説や四国辺路形成が身分の高い高僧や学僧達によって形作られてものではないこと、庶民と一体化した高野聖達の手で進められたことが明らかにされます。その際の有力なアイテムが弘法大師伝説だったのでしょう。同行二人信仰や右衛門三郎伝説も、四国遍路広報活動の一環として高野聖たちによって作り出されたものと研究者は考えているようです。
 しかし、高野山の体制整備が進むと末寺である四国辺路の札所寺院でも、阿弥陀・念仏信仰は排除され、弘法大師伝説一色で覆われていくようになります。そして高野聖の痕跡も消されていくことになります。それが四国辺路から四国霊場への脱皮だったのかもしれません。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
ひとでなしの猫 五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
参考文献
五来重 高野聖
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰
参考記事

  小豆島霊場の真言宗のお寺では、今でも日常的に護摩祈祷を行っています。そこで用いられるのは四角い護摩壇です。ところが三角の護摩壇もあったようです。これは特別なもので、悪霊や邪悪なものを鎮めてしまう時に用いられたようです。その三角の護摩壇が寺の名前になっているのが三角寺のようです。どんな悪霊を鎮めたのでしょうか?
イメージ 1

四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

意訳変換しておくと
①この寺の本尊は十一面観音で、大きさは長六尺二寸。大師の御作で、60年毎の甲子の年に開帳する。
②今は弥勒堂があり、これにちなんで慈尊院と云うのだろうと思い当たる。
③もともとは阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂が並んでいたという。
④社の前に池があり、その中の嶋に大きな老杉がある。弘法大師も、この池から龍王が出て行くのを見たという。
⑤庚嶺は、もろこしの梅の名所となっている。ここももともと、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

イメージ 2

ここからは次のような事が分かります。
①②については、弥勒菩薩は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことになります。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているようです。この「お寺のもともとの本尊は弥勒菩薩だったのが、後から十一面観音を移して本尊としたと研究者は考えているようです。
③には、阿弥陀堂がありますので、ここが熊野系の念仏聖の拠点だったようです。周辺に真言念仏の信者達がいたことがうかがえます。
④社前の池で弘法大師は三角護摩壇で祈祷を行い、龍王を追い出した。ここから三角寺と称したのだと解釈しています。
三角形の護摩壇の跡 三角の池 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー
雨沢龍王

 ③に挙げられる緒堂の中の「雨沢龍王」を見ておきましょう。
これは龍王山の龍王です。これを調伏するために三角の護摩壇がありました。「社の前に池あり」の「社」とは、雨沢龍王の社伝を指します。その前に池があったようです。今は、龍王ではなくて、島の中に弁天さんが祀られています。かつては善女龍王を祀っていた社が、庶民の信仰変化を受けて弁天さんに取って代わられているのと同じ現象です。今は龍王は、奥の院の仙龍寺でまつっているようです。
③には「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、由来には
「龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた」

とされています。つまり、弘法大師がここで龍王を調伏した。それがこの池に設けられた三角護摩壇だということになります。しかし、三角寺の縁起には、悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

三角寺(四国第六十五番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
三角形の護摩壇跡 今は池になっています

 この寺の起源は龍王の水源信仰にあるようです。
龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための三角護摩が焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができているようです。旱魃に苦しむときには里の人々は、三角寺の僧侶(修験者)に護摩祈祷を依頼したのでしょう。
四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
奥の院 仙龍寺

  それでは、その水源はどこにあるのでしょうか。
三角寺周辺には、それらしきところが見当たりません。
それは龍王山の反対側の山向こうの谷にあります。そこには龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。これが三角寺の奥の院でした。仙龍寺は何故か、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。
 実は昔の奥の院は、現在の仙龍寺のもっと上にあったようです。旧奥の院跡としておきましょう。これが仙龍寺と三角寺の共通の奥の院になります。そこが水源信仰の聖地だったようで、その水源神として祀られていたのが雨沢龍王です。その本地仏は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王になります。龍王は荒れやすい神です。それを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと研究者は考えているようです。 四国・愛媛】龍が棲む山 仙龍寺 | 備忘録

今度は三角寺の奥の院仙龍寺の歴史を見てみましょう
①里人は里から望める龍王山を龍の住む霊山として崇めた
②そこに弘法大師(熊野系修験者)がやってきて龍王を調伏した
③そして旧奥の院に、水源神として雨沢龍王やその本地物・十一面観音が祀られた。
④旧奥の院の下流の行場には、多くの行者が滝行や窟寵りをするために訪れるようになった
⑤そこに仙人堂を建てられ、仙龍寺として独立し、後には舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化した
⑥仙龍寺の大師は「作大師」として米作の神とされるのは、旧奥社以来の水源信仰を受けているから。
 この仙龍寺や宿坊の運営に関わったのが地元の「めんどり先達」と呼ばれる熊野先達たちでした。彼らは旦那を熊野詣でに誘引すると同時に、仙龍寺やその宿坊の「広報活動」を展開したようです。仙龍寺の信者達が中国地方や九州からもやって来ていたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

澄禅の「四国辺路日記」には、65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

昔ヨリケ様ノ(中略)者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
昔から住み着いた住持が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①仙龍寺の住持が、念仏信仰者に対して激しい嫌悪感を示していること。
②それに対して、澄禅は厳しく批判していること。ここから彼自身は念仏信者であったこと
③澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたこと
④しかし、17世紀後半の仙龍寺では念仏排斥運動が起こっていたこと
⑤一方、三角寺には阿弥陀堂が建立され、念仏信仰が保持されていたこと
この時期に修験者たちの間には、念仏排斥運動が起きていたのかもしれません。
1三角寺~仙龍寺 遍路地図

三角寺は、いつ、どのように姿を見せたのでしょうか
中世の辺路修行者は、行場で修行するために霊場を廻っていました。しかし、近世の遍路はアマチュアで辺路修行は行わず、納経と朱印が目的化します。彼らにとって険しく不便な山の上の札所に行く必要はないのです。そのため札所寺院は、遍路の便を図って里に下りてくるようになります。
 仙龍寺が札所では、平石山を超して遍路はやって来なければなりません。仙龍寺には、瀬戸内側の平石山の北麓に、弥勒菩薩を本尊とする末寺の慈尊院がありました。ここを新しい札所にすることにします。こうして、雨沢龍王の本地仏であった十一面観音は旧奥の院から慈尊院に下ろされて本尊とします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られたり、雨沢龍王などのお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から「里下り」したお寺さんなのです。ところが、後に仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、現在では関係が断ち切られているようです。その原因は、三角寺が弘法大師信仰に転換してから起きたようです。それはまた別の機会にして・・。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

三角寺に残された古い仏像を見てみましょう
①本尊は平安時代前期、十世紀前半の十一面観音立像で、四国内でも屈指の古像
②毘沙門天立像は足下に地天が置かれた兜跛毘沙門で、平安時代後期十一世紀の制作
③不動明王も平安時代末期12世紀の古像
④本堂には平安時代後期11世紀の聖観音菩薩立像
⑤別の御堂には、朽ち果てた尊名不明の大きな像(平安時代後期以前)
 ここには、平安時代後期の仏達がそろっています。
以上からある研究者は三角寺を、次のように高く評価します
「四国霊場の中でも、屈指の古い歴史を誇り、特筆すべき重要な寺院」

現在の本尊とされている①の「十世紀前半の十一面観音立像」ですから、同じ時期には三角寺も現在地に建立されたものと私は考えていました。ところがそうともいえないことは、先述したとおりです。近世になって三角寺が旧奥の院から里下りしてきたときに、移されたもののようです。残念ですが三角寺には古代・中世の史料がないので、詳しい寺歴が分かりません。その姿が見えてくるのは16世紀末期になってからです。

三角寺 本堂 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー

 本堂内に安置されている騎獅文殊像には胎内銘が記されます。それを要約すると、次のようになります。
①文殊像の造立には四国辺路の供養のため、里山(三角寺周辺)の諸旦那や辺路衆が参加した
②施主は三角寺の乗慶、仏師は薩摩出身で、法花寺に住した佐意
③三角寺奥院(仙龍寺)の慶祐と、その弟子も助力して
④文禄二年(1593)に造立された
 これに関連して三角寺の麓にある東本願寺末の正善寺の縁起は、次のように伝えます
⑤日向国出身の山川刑部大輔五郎左工門国秀が、永禄年間(1558~70)中に当地に来た。
⑥そして、この土地の永蔵坊とともにふたりで秘仏を背負い四国霊場を巡拝した
⑦やがてこの地に住み着いき、水蔵坊が正善寺を開いた
ここに登場する五郎左工門国秀や永蔵坊は、廻国聖か山伏のような修行者だと研究者は考えているようです。二人は秘仏を背負って「四国辺路修行」を行っています。これがすぐに②の胎内銘の法花寺の仏師佐意と直結するものではないかもしれません。
しかし、次のような事は分かります。
①この文殊苦薩像は四国辺路衆が関与したこと
②三角寺奥院(仙龍寺)には、中納言や少納言と名乗る僧がいたこと
③仏師が九州薩摩から移り住んだ山伏か廻国聖とみられる人物であったこと
ここからは戦国時代頃の三角寺も、廻国性の強い修験者や聖達を受けいれやすい雰囲気に包まれた寺院であったようです。
その後、寛文十三(1673)に本堂(観青堂)が建立されます。
その棟札からは、次のような事が分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院の道正」です。
②本願は「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清」
④導師は地蔵院(萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことが分かります。江戸時代初期の三角寺や奥の院には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国辺路をする人々に勧進を行っていたのかもしれません。これらの人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、さまざまな宗教活動していたのでしょう。それが本堂再建(創建?)の原動力になっていたはずです。そして、ここには藩主の寄進や保護はみられません。

④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。
萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。もちろん彼らは弘法大師信仰の持ち主で、その信仰拡大のために尽力する立場の人たちです。
次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間であったようです。
現在の四国霊場の形成史を研究する人たちは、霊場の起源を熊野信仰に求めようとしています。
霊場の多くが熊野権現を鎮守としていることから、霊場の開山は熊野行者によって行われたと考えるのです。その後に、若き日の空海のような沙門たちや、行者達がやってきて、行場として賑わい、そこに庵ができてお寺へと成長して行くという物語になります。
 その寺院は、ときどきの流行の仏教信仰に刻印されます。高野系の念仏僧によって、阿弥陀信仰の拠点になったり、弘法大師信仰が高まるとそれを受けいれたり、同時に弥勒信仰を受けいれたりしていきます。そのため霊場に伝わる仏教思想は重層的です。いろいろな痕跡を見せてくれます。三角寺も、雨乞い信仰=龍神信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰、弘法大師信仰、弥勒信仰などの痕跡がお堂や残された仏像から見えてきます。

三角寺に残る熊野信仰の痕跡を見てみましょう
熊野に残る「熊野那智人社文書」には、次のような伊予の旦那売券があります。
永代うり渡□旦那之事芋
合八貫九百文
右彼旦那ハいせの国高野之宮成寺円弟引、
同いよのめんとり先達 
同法華寺、何も地下一族ニ 依有用々
永代八貫九百文二廓之坊へうり渡申処実正也(後略)
永正二年三月二十日        山城
廓坊                      助能(花押)
「伊与国もれ分先達之事」
一、めんとり先達三角寺法花寺の坊
一後略)
意訳変換しておくと
熊野先達の旦那権利について、八貫九百文で永代売り渡すことについて
伊勢国高野の宮成寺円弟が保持していた伊予の旦那権を、伊予のめんとり(妻鳥)先達の三ヶ寺と法華寺に永代譲渡する。以後は、地下(じけ)によって旦那権を管理する
この永代権を八貫九百文で廓之坊へ譲渡する(後略)
ここからは次のような事が分かります。
①永正二年(1505)三月二十日に伊勢の先達から伊予のめんどり先達が伊予の旦那権を購入したこと
②「めんとり先達三角寺法花寺の坊」とあるので、めんとり(妻鳥)先達と総称される中に、三角寺と法花寺も含まれていること
③したがって三角寺や法花寺の寺中に、熊野先達として活動した人物がいたこと。
以上からは、16世紀初頭から戦国時代にかけて、 三角寺周辺の旦那達が、これらの先達に率いられて熊野に参詣していたことがうかがえます。そして本堂に安置される四国辺路供養の文殊菩薩像に銘文にある三角寺と法花寺とは、このニケ寺になると研究者は考えているようです。
  このように三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことが分かります。

最後に、三角寺周辺の熊野行者はどのようなルートでやって来たのでしょうか。
P1190594
新宮の熊野神社(四国中央市)

   伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。その意味で新宮の熊野神社は、宇摩地方の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。そのため次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
参考文献
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

       水間寺 千日隔夜宝篋印塔(享保十二年 1727年)

隔夜信仰
(かくやそう)という言葉は、私は初めて聞きました。
もともとは、空也上人の念仏行から来ているようです。
隔夜信仰は。『元亨釈書』には、空也上人が長谷に千日参拝の願立てして春日一夜、夜を隔てて泊まり、3年3月の間、念仏の流布を祈ったことに始まるとされます。当初は、奈良の春日大社と長谷寺への千日参詣で、春日に一夜、長谷に一夜、と夜を隔てて泊り交互に参拝を行うものだったようです。つまり、奈良と長谷寺を毎晩、提灯を灯し、念仏を唱えながら千日歩くという修行です。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜宝篋印塔

前かがみ提灯を差し出し、念仏をとなえながら歩いたという隔夜僧
 
『多聞院日記」の永禄九(1566)年五月二十二日の条には、次のように記します
ナラ、ハセ隔夜スル法師、南円堂より六道迄つれて雑談之処、彼者ハ当国片岡ノ生レ信貴山先達ノ所二九才ヨリ奉公了、奥州柳津虚空蔵二一年二百日参籠了、峯へ入事四十一度、京ニテ四十八度ノ百万返供養、高野大師卜当社トヘ片道三日ツツニテ、以上十一ケ年ノ間五百度参詣成就、ナラ、ハセ隔夜今年既二三年ニナル間、明年三月ニテ三年三月可有供養ム々、当年四十六才ナルニ申、扱モ/ヽノ事也
意訳変換しておきます
奈良と長谷を隔夜修行している法師と興福寺の南円堂より六道まで連れ添って歩いて雑談した。その時に聞いた話では、彼は大和国片岡の生まれで、信貴山先達の所で29才に奉公を終えて、奥州柳津の虚空蔵で1年2百日の参籠を行った。峯(吉野大峰?)へ入る事41度、その後、京都で48度の百万返供養を行い、高野大師(高野山)と当社(春日)とへ片道三日ずつ、以上11ケ年ノ間かけて五百度参詣を成就させた。
 奈良、長谷の隔夜修行も、今年で既に3年になるという。来年3月で供養も終わるようだ。当年46才になると云う。
ここからは隔夜修行を行っている僧侶について次のようなことが分かります。
①大和生まれで信貴山先達の所で29歳まで修行を行った。
    → 当山派修験者的性格
②高野大師(高野山)と当社(春日)への11年かけて五百度参詣 → 真言僧侶で弘法大師信仰
③そして隔夜修行者
 この法師は、山伏であり、念仏僧であり、真言密教僧侶であり、弘法大師信仰も持ち、あるゆる修行を各地で積んでいる人物のようです。これが、室町時代末期の遊行僧の典型のようです。つまり現在のように「分業」ではなく、行者とはこうした多様性を持ち供えていたことがうかがえます。これも神仏混淆のひとつの形であったのでしょう。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜
「鳥取八幡宮、一千日隔夜供養、當寺観世音」とあり、鳥取八幡宮と水間寺の間で隔夜千日参詣が行われたことが分かります

 ここで研究者が注意するのは、いろいろな修行の最後に目指したものが隔夜僧であることです。彼らは、夜に南無阿弥陀仏を唱えながら歩いたのです。強い阿弥陀信仰をもっていたようです。


隔夜僧の成就碑が四国霊場のお寺には、残っているようです。今回は、それを追いかけてみることにします。
四国百名山 雲辺寺山

最初に66番雲辺寺の隔夜念仏の石碑を見てみましょう。
天和三(1683)年五月二十八日の建立で、
正面 「南無大明 慈悲阿弥陀如来 高照山濾峯寺 
    正観世菩薩七宝山観音寺 
    千手観世音菩薩巨鼈山雲辺寺
左側面「百日隔夜行脚信心 願主敬心 天和三癸亥綺五月二十八日」
右側 「為現在当二世大安楽也 敬白」
これは、濾峯寺と七宝山観音寺と雲辺寺の三ヶ寺への百日隔夜念仏行の成就記念碑のようです。
 観音寺と雲辺寺は札所です。まず雲辺寺から見ていきましょう。
雲辺寺山頂公園 | 香川県 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
雲辺寺公園からの三豊平野と観音寺

この寺は、讃岐山脈の西端の標高950mの三豊平野を見下ろす山上にあり、山岳仏教の拠点だったようです。しかし、熊野信仰の形跡は、史料からは見えてきません。ただ『阿波国摩尼珠山高越寺私記』の中に、次のように記されています。
①熊野・金峰・山王・白山・石鎚(五所権現)が勧請された
②山上には阿波坊を持法院、讃州坊を王蔵坊、伊予坊を善蔵坊、土佐坊を年行寺の四国坊が建てた
ここからは熊野権現が勧進されていることと、修験者たちがそれぞれ坊や子院を構えていたことが分かります。熊野信仰をもつ修験の寺であつたことはうかがえます。
観音寺市の寺・神社 クチコミ人気ランキングTOP4【フォートラベル】|香川県

 次に、観音寺を見ておきましょう。
この寺は、鎮守は雲辺寺と同じ五所権現です。以前にお話したとうに、中世には七宝山のいくつかの行場を統括し、善通寺の我拝師山と結ぶ辺路ルートがあったようで、修験の寺でもあったようです。同寺所蔵の『弘化録』(弘化三年(1845)刊)には、貞享九年(1684)のこととして、次のように記されます
「仁王像彩色、願主木食恵浄、仮名本念」

ここからは、仁王像を彩色するに当たり、木食が恵浄が勧進活動を行ったことが分かります。これは、敬心が百日隔夜を行った翌年のことになります。その頃の観音寺周辺には、こうした遊行僧が活動していたことがうかがえます。中世の修験の寺は、外部からやって来た念仏聖などが生活しやすい環境にあったのでしょう。観音寺には、惣持院など六ケ寺の搭頭寺院がみられますが、これらの寺院に念仏聖などは寓居していたと研究者は考えているようです。

最後に濾峯寺という耳慣れないお寺です。
この寺は、観音寺から南に財田川(染川)を越えた約五〇〇メートルの所に、今は庵としてあるようです。江戸中期の火災で焼失し、その後に再建されたようで『西讃府志』には「廬峰寺、高照山号ク、禅宗興昌寺末寺、本尊阿弥陀仏、開山梅谷、四十六石八斗四升八合」とあります。現在は規模の小さな無住の庵となり、本尊は地蔵菩薩となっているようです。江戸時代前期に隔夜信仰と、どのように結びつくのかはわからないようです。
   百日の隔夜行を行った敬心は、この3つのお寺に泊まりながら毎夜の参拝を続けたのでしょう。
しかし、私が不思議に思うのは、そうして雲辺寺と観音寺の間の札所である太興寺が選ばれなかったのかということです。
その理由として考えられる要因を挙げてみましょう。
①太興寺は江戸初期には荒廃していた
②太興寺が念仏僧を嫌悪し排除する体制にあった。
今の私に想像できるのは、この程度です。今後の課題と云うことにしておきましょう。ただ、長期に渡る隔夜行が続けられるためには、支援体制が必要だったでしょう。雲辺寺や観音寺は、それに対して協力的だったのでしょう。だから、境内への記念碑の建立もできたのでしょう。
 また、夜に歩くのですからある程度、道も整備されていなければなりません。参拝の道は、遍路の道が使われたことが考えられます。この隔夜行が行われていたのは真念が四国遍路を何回も回っていた時期と重なります。ある程度、遍路道も整備されていたのでしょう。
高知県室戸市浮津200 - Yahoo!地図

次に土佐室戸の行当岬の隔夜信仰を見てみましょう  
 太平洋に突き出た室戸には、2つの霊場が東西にあります。
東の室戸岬 最御崎寺(東寺=奥の院)   胎蔵界
西の行当岬 金剛頂寺(西寺=本寺)     金剛界
平安時代は、東西のお寺を合わせて金剛定寺でした。その奥の院が室戸岬で、そこでは海に向かって火が焚かれる行場でもあったようです。後に分院されるのが現在の最御崎寺(東寺)です。

このふたつのお寺は10㎞ほど離れていますが、西寺と東寺を往復する行道が見つかっています。これが「中行道=中辺路」です。そして、金剛頂寺の下の海岸が「行当頭=行道岬」です。ここには、不動岩があり「小行道」と呼ばれる行者道がありました。

隔夜信仰 行当岬
室戸の行当岬

つまり、修験者たちの行場であったようです。地元では「空海が悟りを開いたのは、室戸岬ではない、こっちの行当岬だ これぞ まっこと空海」と云っています。
 確かにここには、波が寄せているところに二つの洞窟があって、不動さんを祀っていて、今は波切不動に「変身」しています。

金剛頂寺のある山が金剛界、室戸岬の最御崎寺の方が胎蔵界とされていたようす。密教では金胎両部一体ですので、行者たちは両方を毎日、行道します。例えば、円空は伊吹山の平等岩で行道したと記しています。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行ったのです。窟籠り、木食、高野聖など、中世の室戸周辺には行道修行する坊さんが数多くいたようです。まさに修行のメッカだったのです。
そのような行当岬に、つぎのような隔夜修行の祈念碑が残されています
元禄三(1690)庚午歳八月八日 願主
(サク) 佐州
(キリーク)三界万霊有縁無縁
  隔夜五百日廻向 頼円法師
これは元禄三年の真夏に、五百日の隔夜修行が成就したことが記されています。多分、金剛頂寺と最御崎寺の間の隔夜修行だったのでしょう。この二つの寺を交互に念仏を唱えながら参拝したようです。これを行った頼円は、夜な夜な二つのお寺を南無阿弥陀仏を唱えながら通ったようです。強い念仏・阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。実は、彼はここにやって来る前にも隔夜修行を行っているようです。それは58番佐礼山仙遊寺にも、彼の記念碑が残されていることから分かります。そこには「隔夜」の字句はありませんが、阿弥陀三尊の種子や「三界万霊有縁無縁」などの文字は行当岬のものと共通します。
        キリーク:阿弥陀(金剛界四仏の種子)

そして元禄二(1689)年二月一十八日という年月が刻まれています。ここからは、伊予の仙遊寺での修行を終えたあとに、続いて室戸岬にやって来て500日の隔夜修行を行ったことが分かります。
 この碑のそばには、もうひとつ隔夜の石碑があります。
そこには「南無阿弥陀仏」の名号とともに「天和三年九月二十六日・天和四年正月六日、府中七ケ所」と刻まれています。行者名は上野国利根都沼円郷の浄雲とあります。研究者が注目するのは「府中七ケ所」です。それは国分寺・佐礼山・円明寺・三島(南光坊)・泰山寺・一之宮・八幡宮なのです。これらの寺院は、どれも四国霊場の札所寺院です。かれは、この7ヶ寺で隔夜行を行い、室戸にやってきているのです。ここに出てくる札所は、念仏の糸で結ばれていたことになります。念仏信仰の強い行者達が、どうして四国霊場の札所にやって来たのでしょうか。
 

伊予松山の56番太山寺にも、2基の隔夜碑があります。
 (向右) 五百日隔夜念仏廻向  谷上山
                  願主河内国錦郡 徳誉清心
正面 南無阿弥陀仏      
左  三界無縁法界萬霊      石手寺
裏面 延宝四丙辰年八月二十五日太山寺
ここからは、延宝四年に太山寺 → 石手寺 →谷上山(伊予市宝珠寺)の3ケ所を結ぶ寺院で、河内出身の徳誉清心が五百日の隔夜念仏を行っていたことが分かります。太山寺と石手寺は、ともに八十八ケ所の札所になります。八十八ケ所寺院と熊野信仰・隔夜念仏がが重なりあうようです。
 隔夜念仏の石碑が残る寺は、中世に真言念仏(密教系阿弥陀信仰=高野山系時宗念仏僧)が活動していた所が多いことを研究者は指摘します。江戸時代に活躍する隔夜僧も、中世に遡る念仏信仰の下地があるお寺を修行場として選んでやって来たようです。
10番 切幡寺

阿波の十番切幡寺にも、次のような隔夜碑があります.
  天和三□年   宗体
  奉修行従当山霊仙寺迄
(ア)百日隔夜所願成就所  敬白
  六月二十一 日   常心
天和三(1683)年の建立で、雲辺寺や・仙遊寺・太山寺のものと同じ年になります。この頃に四国で、隔夜信仰が盛んになっていたようです。この碑で研究者が注目するのは「本修行、当山従り霊仙寺まで」とあることです。十番の切幡寺から一番霊山寺の間を修行していたことがうかがえます。これを「十里十ケ所」詣りと呼ばれるもので、これを一夜の間に念仏隔夜修行していたようです。
 讃岐の善通寺を中心とする「七ケ所(寺)詣」や高松を中心とする「観音七ヶ寺詣」のように、中世の「中辺路」ルートをリニューアルした道が遍路道として使われるようになっていたのかもしれません。

隔夜僧は どうして修行場に四国霊場を選んだのでしょうか.
そこには念仏僧を引きつけるものあったからなのでしょう。隔夜僧の僧侶からすると「念仏信仰の寺」と見え、好ましいと写ったのでしょう。それが中世以来の念仏化した高野聖の「伝統」が残っている所だったのかもしれません。
 四国内で隔夜念仏が行われたのは、江戸時代前期の延宝頃で、この時期は真念が四国辺路した時代と重なりあいます。真念は伊予や土佐の札所で、鉦を叩きながら念仏を唱える隔夜僧に出会ったはずです。
 どちらにしても、真念が廻った17世紀後半の四国霊場は、南無阿弥陀仏を唱え参拝する念仏僧や、隔夜行で念仏を唱えながら夜の遍路道を参拝する人たちいたのです。まだまだ、念仏・阿弥陀信仰は霊場に根付いていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

    現在の常識からすると霊場札所で「南無阿弥陀仏」を唱えるのは非常識とされるでしょう。霊場では般若心経が「常識」です。ところが、江戸時代初期の遍路さんたちは、札所で南無阿弥陀仏を唱えていたようです。それを前回は追いかけて見ました。 それでは四国霊場を廻りながら南無阿弥陀仏を唱えるという人たちの心の中は、どうなっていたのでしょうか。「数式」にすると
弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」=初期の四国霊場巡礼者

になるのかもしれません。これを「真言系阿弥陀信仰(真言念仏)」と研究者は呼んでいるようです。

この真言系阿弥陀信仰を広げたのが高野聖たちだったようです。
 五来重氏は「高野聖」の中で、次のような事を明らかにしました
①高野山の千手院聖をはじめとして、後期高野聖が時衆化したこと、
②室町時代以降には、高野聖の多くが念仏化したこと
③高野聖は廻国性があり、諸国をめぐり弘法大師伝説や念仏信仰を流布したこと
④その拠点となったのが全国の有力寺院であること
こうして、南無阿弥陀仏を唱える高野系念仏聖が大きな寺院の周辺に住み着き、坊や院を構え勧進活動を行うようになります。修験者たちが修行のために訪れていた四国辺路の霊場寺院にも、このような動きはやってきます。こうして弘法大師伝説と南無阿弥陀仏は、霊場周辺でも「混淆」していきます。
 それでは、その「混淆」はどのような形で現在に残っているのでしょうか。
今回は「真言系阿弥陀信仰の遺物」めぐりを行って見たいと思います。テキストは前回に続いて「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」です
高野山 名号(みょうごう)板碑

最初に訪れるのは高野山奥の院です
奥の院参道の芭蕉句碑から御廟側へ約30m行った左側にある板のように薄い石碑に大きく南無阿弥陀仏(名号)と刻まれています。これを名号版碑(いたび)と呼ぶようです。石材は、徳島県北部の吉野川沿の緑泥片岩製が使われています。阿波には、庚申信仰などの板碑が数多くある所で、阿波式板碑(あわしきいたび)として知られていることは以前にお話ししました。
 この板碑も、徳島県で作られたものが奥の院まで運ばれてきたようです。康永3年(1344)3月中旬に建てられたもので、碑面には、次のように刻されています。
中央 南無阿弥陀佛
右側 為自身順次往生? 亡妻亡息追善也、奉謝二親三十三廻
左側 恩徳阿州国府住人、康永参?甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白

阿波国府の住人が、亡妻追悼と33ケ所詣の成就のために建てたもののようです。これを最初に見たときには「なんで、高野山に南無阿弥陀仏を???」という感じでした。しかし、14世紀頃の高野山の状況を考えると納得します。先ほど見たように、念仏聖化した聖達によって、高野山は阿弥陀信仰の中心地のひとつとなっていたのです。だから時宗念仏の一遍もやってきたのです。
 こうした背景の中で、「南無阿弥陀仏」の六文字を記す板碑が、高野山の最も聖域である奥の院に建立されたようです。今ならば決して許されることではないでしょう。しかし、当時の高野山は弘法大師信仰と阿弥陀信仰が混淆した時代です。その後、「真言原理主義」運動が高揚し、高野聖たちは高野山から追放されます。それと同時に、高野山から阿弥陀信仰も消し去られていくことになります。その中でわずかに残った念仏信仰の遺物といえそうです。
 
次に研究者が向かうのは高知県の名号念仏です。

大日如来 種字2
大日如来の種字(サンスクリット文字)

須崎市神旧飛田の名号碑を見てみましょう。
(ア一) 南無阿弥陀仏  
    明応五天五月十六日
この名号石の梵字のアは大日如来の種子で、その下に南無阿弥陀仏とあります。真言密教の核心仏・大日如来 + 南無阿弥陀仏」ですからまさに「密教的阿弥陀信仰」です。真言念仏と研究者は呼んでいるようです。
大日如来 種字1

つぎは高岡都中土佐町上ノ加江のものです。
(サ一)             天正―九年 敬
(キリーク一)(キャカラバア) 為周陽侍者禅師也
(サク一)            三月二十七日 白
最上部に阿弥陀三尊、その上に五輪のキャ・カ・ラ・バ・アがあります。
五輪塔 種字


これも阿弥陀三尊と密教の五輪(水・火・風・空)が融合したもので真言念仏のひとつの形でしょう。同じものが
①香北町猪野々の猪野家住職逆修碑(天正三年(1575)十月二十一日銘
②土佐山田町須江の須江念仏供養塔(慶長十九年(1614)三月―五日銘
などがあるようです。時代は、中世末~近世初期のもののようです。これらの供養塔からは、この時期・この地域に真言的念仏信仰が拡がり、念仏講が形成されていたことがうかがえます。
そしてこれは土佐ばかりではなく、四国全体に広がっていた痕跡があります。この真言系の阿弥陀・念仏信仰を伝え、さらに近世初期に駒形の墓石の形式を持ち込んだのは、誰なのでしょうか。
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の岩壁に刻まれた南無阿弥陀仏

真言系阿弥陀信仰の遺物は、四国霊場の弥谷寺にもあるようです
 弥谷寺は死者が集まる祖霊の寺と言われてきました。本堂のすぐ近くの石壁面には、浮き彫りの阿弥陀一尊や南無阿弥陀仏の六字名号が彫られています。弥谷寺が古くからの阿弥陀信仰の霊地であることを示しています。
弥谷寺 舟石名号

 この寺は、近世初期には、弘法大師の父をとうしん太夫、母をあこや御前とする「空海=多度津海岸寺誕生説」の像が安置されていました。つまりこの寺は「阿弥陀信仰(念仏信仰)と異端の弘法大師伝説」を流布していた寺なのです。中世には念仏聖が拠点として活動していた所だと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
 本堂のすぐ下の墓地の中に、次の念仏講の碑を研究者は見つけています
    延宝四内辰天八月口□日
大見村□□念仏講中二胆安楽也
建てられたのは延宝四(1677)年です。澄禅や真念のやってきた時期に当たります。大見村は、弥谷寺の南麓の村です。その時代に念仏講があったことが分かります。大見地区は三野平野に袋状に入り込んでいた三野湾の東部に位置し、瀬戸内海交易に活躍した勢力の存在がうかがえる地域です。
少し想像力を膨らませて、この地に念仏講が組織されるまでの経緯を描いてみましょう。
 高野山の念仏聖が瀬戸内海の熊野水軍の交易ルートに沿いながら紀州の湊を出て、次のような聖地を廻国します。
①引田湊背後の大内郡・水主神社周辺
②児島五流修験のテリトリーである小豆島・直島・本島
③そして塩飽を経て、多度津・道隆寺
④道隆寺の末寺である白方・海岸寺へ 
⑤そして海岸寺の奥の院(?)である弥谷寺へ 
こうして弥谷寺には高野系の念仏聖が何人も住み着き、坊を開き子院を形成していくようになります。彼らは生活のためにも周辺住民への布教活を行います。病気治療や祈祷などで、住民の心を捉えながら、念仏講へと導いていく。さらに瀬戸内海交易に乗り出す地元有力者を熊野水軍のネットワークに紹介し、彼らも信者に加えていく。こうして大見村の階層を越えた人々の間に念仏講を作り、その指導者に収まっていく。これを念仏聖の周辺部への浸透と呼ぶのかもしれません。こうして近世初頭には弥谷寺周辺には念仏講があり、念仏信者が数多く存在していたという仮説に至ります。

念仏講1
昭和50年頃の念仏講
 この石碑の周辺には、念仏講に関係したと思われる次のような墓もあります。
「(ア) □□妙昌呂仲定尼  明暦二年□月□□日」
「自性妙蓮禅定尼霊位 延宝五年丁巳一月二十七日」
(ア)は大日如来の種字です。
大日如来 種字4

これらの墓は当時としては上質の石(御影石)が使われていて、念仏講には経済的に恵まれた人たちも参加していたことがうかがえます。

DSC03896父母院
仏母院(多度津白方 熊手八幡神社の旧別当寺)

古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

DSC03860

 当時のこの寺は「空海=白方誕生説」が流布されていました。
 それは空海は、多度津白方で生まれで、父は藤新太夫と母はあこや御前とされていました。父母寺は、その名の通り空海の父母が住んでいた館跡と自称します。ここを訪れた澄禅は『四国辺路日記』に、父母寺・御影堂の弘法大師像を開帳し、その霊験を住持が説くのを聞いたと記します。先ほど見た念仏講逆修碑からすると、この寺の住持も、高野山系の念仏聖であったのかもしれません。どちらにしても仏母院にも、弥谷寺と同じように念仏講があったようです。そして、その講を組織する念仏聖が異端の弘法大師伝説を流布していたとしておきます。
仏母院の墓地には、この他にも次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。
享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。さらに文化年間(1804~18)には山伏寺であったことも分かります。仏母院は熊手八幡神社の別当を勤めていた関係もありそうです。
 以上のように、仏母院は近世初期の住持は念仏聖で、「空海誕生地」説を流布していたようです。「空海=白方誕生説」を流布した仏母院や弥谷寺は、善通寺とは別の系譜の僧侶や聖がいたことがうかがえます。その後、弥谷寺は善通寺からの指導者を受入れるようになり、「空海=白方誕生説」の流布を止めますが、白方では父母寺に代わって海岸寺がこれを流布し、奥の院を建立します。それを本寺の道隆寺も保護します。これが善通寺と海岸寺の争論へと発展していくことは以前にお話ししましたので省略します。
DSC03829
海岸寺奥の院

続いて75番善通寺の真言系阿弥陀信仰の痕跡を探してみましょう
この寺には、御影堂の西にある墓地に多くの歴代院主の墓石が建立されています。その中に次の墓石があります
(サ)    明暦四□年
(キリーク) 為□□□□禅定問
(サク)   □月二十日 施主 近藤喜三
明暦四年(1658)の建立で、上部に阿弥陀三尊の種子、両側面には五輪塔が浮き彫りされておいるようです。このような例はほとんどない珍しい形式だと研究者は指摘します。これも「真言系阿弥陀信仰の遺物」と言えるようです。

72番出釈迦寺奥院(いわゆる「禅定」)にも自然石に刻まれた名号石があるようです。
禅定は捨身ケ岳ともいわれ、弘法人師が幼いときに捨身修行した時に、釈迦如来が現れ救った所として、中世の修験者の中では聖地として有名だったようです。
DSC02600

西行もここへ来て何年も修行しています。この山は弘法大師修行の地と修験者たちには聖地で、我拝師山と呼ばれてきました。

DSC02575

現在の我拝師山は、塔跡といわれるところに大師堂と鐘楼があます。そこから東に捨身ケ岳を仰ぎ見ることができます。名号石は本堂・鐘楼堂のすぐ下に、北面して建てられています。これが当初からあった場所なのかどうかは分かりません。「南無阿弥陀仏」あるだけで、建立年代などはありません。研究者は、江戸時代中期頃以前と見ているようです。
 この名号石の少し上の場所に釈迦如来の石像があります。こちらは天保七年(1836)と刻まれています。江戸時代末のものです。この周辺に十王石像が十体並べられています。我拝師山には地蔵菩薩の世界と通じる信仰の痕跡がうかがえるようです。
 この我拝師山について、五来重氏は西行『山家集』などの記事から「我拝師山(がはいし)」は、もともとは「わかいち」のことで、熊野の若王子が祀られていたと指摘します。若一王子は、熊野修験者が信仰したものです。熊野信仰の痕跡もあることになりますが、ただ現在は、その遺物は何も確認されていないようです。ここにも熊野信仰に、後から弘法大師信仰が接木された跡はあるようです。
屋島寺縁起絵
屋島寺縁起絵
84番屋島寺にも六字名号があります。
自然石に刻まれていて、我拝師山の禅定にあるものに比べると風化が進んでいるようです。建立年代は江戸時代中期以前と研究者は見ています。場所は、旧遍路道治いの屋島山上に近い場所で、坂道を登ってきた遍路達を迎えたのでしょう。当時の遍路達は、ここで手を併せて南無阿弥陀仏を唱え、拝したのかもしれません。
屋島寺は、鎮守が熊野神社です。寛文十年頃の『御領分中寺々由来』には、次のように記されます。
当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法人師之勧進之也

熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。まさに熊野信仰と弘法大師信仰の合体の典型例を見るようです。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりません。しかし、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあることは以前にお話ししました。
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 
という熊野修験者のテリトリー拡大の時期のこととしておきましょう。
 大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永十四(1407)年の行政坊有慶吐那売券には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 屋島寺には「熊野本地絵巻」があります。熊野絵巻は熊野比丘尼が絵説きしたといわれますので、熊野比丘尼がいたこともうかがえます。
屋島寺 金毘羅参拝名所2

さらに本堂の東方には「皿の池」が残ります。これは源平合戦で、戦の後に刀を洗ったと伝えられます。しかし、熊野比丘尼がいたとすると『血盆経』と関係がありそうです。「血盆経」は血の穢(けが)れのために地獄へ堕ちた女人を救済するための経典とされます。

霊場に残る念仏・阿弥陀信仰の痕跡を追いかけ見ました。
これらをもたらしたのは、時宗念仏化した高野聖だったと研究者は考えているようです。彼らは弘法大師信仰も同時に持っていました。こうして修験者や聖などの廻国性の宗教者が集まる寺院では、「弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」が広がっていきます。
 しかし、高野山本山での「原理主義運動」の高揚の結果、高野聖達が排斥され、念仏信仰も粛正されていきます。その影響は、四国霊場寺院にも及びます。高野山と同じように、念仏信仰の痕跡は消えていくことになるのです。
そして、札所で南無阿弥陀仏が唱えられることはなくなります。代わって光明真言が最初に唱えられることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」
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四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

  

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。
二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

DSC03479

これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

増吽 水主神社jpg

  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
この神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。水主神社はその名前からも分かる通り、もともとは水源の神を祀った神社だったようです。三豊の二宮川上流の大水上神社と性格がよく似ています。そこへ中世になって、熊野三所権現が勧進しされて、併せて祀られ同体とされるようになります。つまり、地神が水主神、客神が熊野権現ということになります。
水主三山 虎丸山

 水主神社の「大水主大明神和讃」は、中世の水主神社知る上では貴重な資料です。熊野信仰との関係がどのように記されているのかを見てみましょう。。
従孝霊天皇元年、至応永十七庚賞一千六百三十四年。
親依明神之御託宣直以和讃二結玉フ。又熊野与明神一外之事ハ、依熊野ノ若殿ノ御託宙、除今宮五郎殿ノ段、熊野本宮結御前与明神同一之由直承之。我御山ニテモ、水主二テモ、雖有因呆之不同一口也 神言銘肝、結和讃給。
 北御前ハ 如本宮証誠 天神六代 此ハニ親大御前ハ 結御前 南御前ハ 早玉 熊野両所三所権現卜中モ 一所大明神卜中モ 一然卜云々
明応第五天卯月五日書之。是偏二大明神之神慮卜存也。其故ハ、愚僧此和讃ヲ先年所持之処、行方不知失畢。乃此年来五六ケ年之間、彼方此方雖尋申更不得遇事然処二、此本ハ地蔵院宥改、大水主山麓之砌、自社中申出、所持之乃今熊野任神慮苦写之畢。此和讃之趣興大水主差図縁起寸分相違之儀無之。但従安居院神道出ル処ノ水主ノ本縁起ニハ、相違之処多之。但神秘之儀式、能々思エハ、只秘事ヲ尽シタル迄ニテ、更々無相違云々。
  意訳変換しておきましょう。
孝霊天皇元年から応永十七(1410)年に、明神の御託宣によって、この和讃が完成した。
熊野と明神は一体であり、熊野の若殿の御託宙、今宮五郎殿ノ段を除き、熊野本宮の御前で明神と同一であることの由緒を承った。我山、水主においても、この二つを同一とすることは肝に銘じるべしと和讃は結んでいる。
 北御前は、熊野本宮であり 天神六代は 親大御前は 結御前 南御前は 早玉熊野両所三所権現とも、三所大明神とも申す。明応五(1496)年に卯月五日にこの書は書かれた。これは大明神の神慮である。それ故に、愚僧(宥旭)は、この和讃を先年より所持してきたが、行方不明となっていた。近年の五・六ケ年の間、見つからなかった。ところが偶然に、宥改が、大水主山麓の地蔵院のにあることお申出でてきた。さっそく手元に置いて、書写して和讃の趣と大水主差図縁起を比較してみたところ寸分の相違もなかった。ただし安居院神道の水主本縁起と比べると、相違する所が多い。神秘の儀式については、よくよく考えるに、ただ秘事を尽したるに過ぎず、更々相違はない。
ここからは次のような事が分かります。
①応永十七年(1410)に、明神の託宣によって、増吽がこの和讃を作成したこと
②大水主大明神と熊野三所権現とが一体であること
③明応五年(1496)に僧宥旭が、これを書き終わるとしている。
④安居院神道の水主の縁起とは相違するところが多い
⑤この和讃以外にも縁起が存在した
ことが述べられています。
この和讃については『大水寺山緒』では、増吽の作としています。
つぎに、水主神社所蔵の「水主神社社坊図」をみていきますが、残念ながら絵図はアップできません。悪しからず。
 この図は文政四年(1821)に石門露珍によって描かれたもののようです。水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアに多くの宗教施設がひしめきあっている姿が描かれています。水主神社を中心にして本宮山・新宮山・那智山が描かれ、その山麓に数多くの寺院・庵・神社などが極彩色で細かく描かれています。それぞれに短冊形の銘記欄を設けて、寺院名や坊の名が墨書されていますが、墨書の部分が剥落していて分かりにくい状態です。後世の貼紙に墨で寺院名や坊名が記されているので、個々の名称を知ることができます。有難いことです。
 しかし、江戸末期にこれほどの建物がこの地にあったとは、考えられません。
「讃岐国名勝図会」の挿図と比較してみます。
水主神社 讃岐国名勝図会

ここには大水寺以外は、何も描かれていません。また次のように本文には記されています。
「往古は大内一郡の惣鎖守なれば、社家も七十五員、僧坊四十二宇ありて繁栄なりしが、(中略)さるにより社殿・境内は古のままなりといへども、社家・僧坊もあまた退転し、寺跡当村に所々に存せり」
「仲善寺跡、釈迦寺跡、孝徳寺跡、葉王寺跡、蔵坊跡、観通坊跡、念仏坊跡、多聞坊跡、新蔵坊跡、善福寺跡、その他三十四坊一々挙ぐるにいとまあらず」

 ここからは江戸時代末期には、寺跡を残すだけになっていたことが分かります。そのため文政四年の社坊図は、中世末の室町時代ころの全盛期の様子を描いた古図を模したものと研究者は考えているようです。作者の石門露珍も「臨写」したと記しています。「臨写」とは「手本を見ながら写す」という意味になるようです。
 そのような視点で「社坊図」をみると、「大水主大明神旧記」にある嘉古二年(1442)九月八日の「大水主社供僧座配之事」の記述と、一致していると研究者は指摘します。そこには、供僧名が次のように記されています。
宰相坊・薬王坊・党音坊・釈迦寺・円光寺・満蔵坊・宝幢坊・定光寺・持宝坊・玉泉坊・仲善寺・善福寺・孝徳寺・城琳寺・宝積坊・岡之坊・財林坊・北之坊・継養坊・聖無動坊・十輪寺・妙光坊・浄土寺・多聞坊・十乗寺・遍照寺・忠日寺。光善坊・本蔵坊・善勝坊・智海坊・宝住坊・高原寺・I蔵坊・念仏寺・慈尊坊・報恩坊・願成坊・国護坊・観通坊
これだけの院坊が水主神社の周囲にはあり、僧侶や修験者・聖が住持していたことになります。以上のことを頭に入れた上で、研究者は絵図を読み込んで、次のように指摘します。
①大水主神社を図の中央に大きく描き、参道には桜並木があり、赤い大きな鳥居が一基描かれる。
②その奥まったところに本殿や摂社などが並び、三重塔が傍らにみえる。いかにも神仏混淆の中世の伽藍らしい
③水主神社に隣接して大水寺がみられるが、その規模はかなり大きい。
水主神社 看板

ここからは水主神社の別当寺として、大水寺があったことが分かります。
私は、水主神社の別当寺は与田寺だったと思い込んでいたのですが、そうではないようです。水主神社の別当寺は大水寺であったようです。水主神社と与田寺がかなり離れているので、神仏分離後に与田寺が移動したのかなと思っていました。それなら大水寺と与田寺の関係はどうなるのでしょうか? 今後の宿題としておきます。

大水寺について『御領分中寺々山来』には、次のように記されています。
「大水主人明神之別当にて在之候、開基は知不申候、中古応永年中、増吽僧正再興、則自筆之棟札有之事」

とあり、増吽の棟札が残り、彼が再興したと伝えます。また『御領分中寺々由来』には大水寺の項に
「当寺開基詳ならず、初め社坊といいしを寛文の頃、今の寺号に改む」

とあり、大水寺というのは江戸初期ころからの寺号とします。
たしかに『大水寺大明神社旧記」には、
永享四年(1432)卯月十五日の御法楽には「水徳山神宮寺宝珠院」とあり、古くはこの寺が神宮寺と呼ばれていたようです。また水主神社の鳥居の下部に位置するところの数棟には、浄土寺と刻まれているようです。
  この浄土寺は「御領分中寺々山来」には
「水主山石風呂在之事  、弘法大師堂、代々堂守之寺にて有之候、文禄年中再興、共後元和年中再興棟札有之事」
とあり、次のような事が分かります
①水主の石風呂があったところにあった
②弘法大師堂があり、弘法大師伝説が伝わっていた
③その大師堂の堂守を代々勤めていた寺である
④元禄期に再興された

①については「社坊図」を見てみると、堂宇に隣接して小さな建物があります。これが石風呂になるのでしょうか。よく分かりません。

その後は『讃岐国名勝図会』の「弘海寺」の項目に「はじめ浄土寺といえり」とあるので、浄土寺から江戸時代の末期には弘海寺と改名していたようです。
大水寺の変遷を整理しておきます
①中世は水徳山神宮寺宝珠院
②鳥居には浄土寺
③江戸時代の末期には弘海寺
④その後、大水寺?
 この変遷を見ていると、ひとつの寺院系譜ではないような気がします。中世には水主神社に仕えた社僧の寺がいくつかあって、並立していたのではないでしょうか。彼らが寺の寺勢とともに別当職を交替して担当していたようにも見えます。

社坊図には、背後に大きな山が描かれます。
水主三山のようです。  水主三山とは水主神社を取り囲む虎丸山・那智山・本宮山の三山です。今でも「ミニ熊野三山巡り」のハイキングルートとして親しまれています。社坊図には、それらの山の頂きには、那智・新宮・本宮と注記され、鳥居と社殿がみえます。特に那智には、滝が流れ落ちています。熊野の那智の滝にちなんだデフォルメのようです。
水主三山 虎丸山

この他に銘記欄には、依守太夫・定吉・貞遠太夫・守重太夫・楠谷太夫などと記されます。これらの人物は『大水主人明神旧記』の文安元年(1444)の「大水主神人座配之事」の座配に出てくる人物名と同じです。
 社坊図には、数多くの寺院や坊が書き込まれていますが、□□坊と記される建物は、小さく簡素なものです。
ここに居住したのが水主神社を根拠地とする熊野修験者であったのではないかと研究者は考えているようです。中世には、与田山の若一王子権現社や水主神社を中心とする熊野信仰を背景に、東讃の地には熊野系の勧進聖や先達が数多くいたようです。増吽はそうした熊野先達の中心的な存在であったことは前回に見たとおりです。

増吽 那智山

 水主神社を囲むように配置された水主三山の熊野権現は、熊野三山を勧進したものです。
それを増吽を中心とする熊野勧進集団は信仰し、勧進活動を進め、この地に数多くの神仏施設を作りあげていったのでしょう。それは、建物や施設だけでなく教学センターや書経センターも含め、一大宗教センターとなり、「東讃の新熊野」として機能していたようです。そのような姿は、海を越えた備中児島の五流修験の活動と重なり合ってきます。増吽が児島の数多くの真言寺院を創建したと語り伝えられていることとつながります。

水主三山 那智山
水主三山の那智山からの瀬戸内海方面

以上のことから、与田山や水主の地は、五流修験の児島と共に熊野信仰の極めて盛んな霊地で、熊野信仰の四国の拠点として機能していたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰

増吽 与田寺

  讃岐大川郡の与田寺の増吽は、天皇から「大師(弘法大師)ノ再誕」とまで称えられ、戦前は弘法大師に次いで讃岐を代表する高僧と高い評価を受けていたようです。戦後は、忘れ去られてような存在になっていますが、再評価の動きがあるようです。どうして、彼が再評価されるようになったのかも含めて、見ていきたいと思います。
増吽
 増吽上人(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)
まずは、 香川県史の増吽(ぞううん)に関する記述を挙げてみましょう
①増吽は、貞治丑年(1366)、大内部与出郷西村(現大内町)に生まれた。
②父は、不詳。母は、蘇我氏の末、安芸左衛門九郎盛正の女と伝える。
③幼くして、当時、水主(みずし)神社の別当寺であった薬師院神宮寺(与田寺)に入寺した。
④薬師院の住僧増慧法印に師事して竜徳坊と称した。
⑤高野山・東寺に真言密教を学び、教学に秀でると共に画像彫刻もよくしたという。
⑥水主寺の寺伝によると、増吽は、師である増慧が河野郡北条の天皇別院であった摩尼珠院に移ったので後住となり、薬師院を改めて虚空蔵菩院神宮寺(与田寺)とした。
増吽も高野山で真言密教を学んでいるようです。そして、仏像彫刻や仏画にも秀でていたようです。そのため彼の描いた弘法大師像が数多く残されています。しかし、彼の若い頃のことは、よく分からないようです。
増吽 与田寺2


増吽は、明徳二年(1391)に虚空蔵院(現与田寺)の住職となります。このお寺の「由緒」には、末寺として次のような寺院を記します
 下野小股(小俣)の会同院・同国小山の会削袖寺
 武蔵国高橋虚空蔵院
 尾張国冥福寺・
 播磨国無最寄院・
 備中国清氷山惣持院・同日女生山性椋院・
 備前国安寄院・阿波国虚空蔵院・
 同国談義所黒田寺・
 同順良骨寺・
 小豆島北山宝生院など国外21か寺、
 そして、大内・寒川郡に100か寺というのです。
 また「御領分中宮由来、同寺々由来」には、これらとは別に、宝生院末寺21、安寿院末寺等20、惣持院末寺50、性徳院末寺20、無量寿院末寺15、阿波の虚空蔵院末寺3とあって、末寺を全部合わせると104か寺と記します。
 この「由来」の成立は、寛永年間といわれ、寺社の本末関係がまだ明確になっていない時期です。この内容は誇大であり、自称が大部分であったと研究者は考えているようです。しかし、これら名が挙げられた寺は、増吽が関係した寺々であることに間違いはないと言います。それらは、増吽が修業や再興修造するなど、何らかの関係があった寺だと云うのです。そうだとすると、まさに偉大な勧進僧だったことになります。
 
水主神社の近くに若王子(東かがわ市与田山)という寺院があります。
ここには応永六年(1399)から応永九年にかけて書写された「大般若経』があり、そこには次のように記されています。
「若王寺大般若経』
外題実、歳空蔵院住持 金資増吽生年三十七、升亮勝一局増範、応永九年三月三十日、敬以三諮日夜功労乎、常一日写也、右筆真海六十九 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二
  応永九年三月三十日の年紀を持つ巻に、増吽と噌範の名前があります。増吽は「天王寺大般若経」の書写にも、増範らとともに重要な役割を果たしています。
 この「大般若経』は若王子権現の常什の為に赤松前出羽守顕則が願主となって筆写されたもののようです。写経には、与田山・水主近在の僧侶を中心に、讃岐国三木郡や遠く若狭・薩摩国の僧侶たちが参加しています。
白鳥町誌に記された関わった写経者名一覧を見てみましょう
  一 国外からの写経者と認められるもの
   阿波国板西郡 宥真房(小野流)
   若狭国遠敷郡神宮寺   円玄房
    同  上      伊勢公
   阿 波 国 河 嶋   良吽房
   播磨国一乗寺  竜泉房増真
   薩摩国日置惣持院   円海
   越後・国上寺  円海
   阿波国名西郡  尊恵
   阿波国葛(萱力)嶋荘   覚舜(禅密系の僧か)
   阿波国萱嶋荘吉成   勢舜(禅密系の僧か)
   阿波国秋月荘  禅意
   阿波国板西郡建長寺   天海(禅密系の僧か)
    同  上      玉巷(禅密系の僧か)
   阿波国板西下荘  口口(不詳)
   摂津国多田荘清澄寺   良祐(三宝院流)
   (播  磨  国)   赤松顕則(範力) (願主)
  二 讃岐国内のうち大内郡外からのものと認められるもの
   三木郡氷上村長楽寺   教義
   三木郡田中郷     観照
   三木郡毎平(堂平力)   豊後公
  三 水主神社関係者と認められるもの
   虚 空 蔵 院   増吽
     同  上      増範
     同  上      増楡
   薬師堂般若坊  (不明)
   薬   師   堂   覚舜
   与田郷東大谷 増祐
   大   水   主   良闇
     同  上      小輔
   大水主無動寺  賢真
   大水主円光寺  定全
   大水主中(仲) 善寺  良啓
   金 剛 寺 坊 主   (不明)
  四 尼僧と認められるもの
              知栄尼
              法智禅尼
  五 与田山若王子関係者と認められるもの
   当山住人当寺住職   増光
   王 住 呂   増円
   下山長福寺   詠海
    同 上      真海
   長福寺東琳社   (不詳)
六 その他(若王寺・水主神社の住僧が大部分と思われる)
   相三郎丸  戒乗  教賢  教忍  玉泉坊
   賢実  源禅  孝斉  慈範  慈明  信照
   実仙  重賢  成鏝  成範  増任  増継
   増快  増信  増元  増意  増珍  増明
   増門  増(?) 朝等  了舜坊呈賢  等畦
   入野中山(某) 念尊 本乗 法林寺(表
   明通  祐光  宥慧  良恵  良成
   良仁  良尊  亮全  了海

 まず感じるのは、写経に関わっている僧侶の数が多いことです。これだけの数の書経スタッフがいたことに、びっくりします。そして参加者のエリアが広いことです。この写経には、当時37歳で虚空蔵院院主だった増吽も参加しています。それは巻一に、弟子二人とともに名前があることからも分かります。しかし、分担筆写から見ると、増吽は、この写経勧進にあまり主体的に関わっていないと研究者は考えているようです。この書写は幡磨の一乗寺増真が中心となって行われたようです。
次に、目が行くのは、阿波国の僧侶の多さです。
大内郡と地理的にも近いこともあるでしょう。当時の人々は、南海道の大坂峠を頻繁に行き来していたようで、阿讃山脈の険しい峠越えは、気軽な旅程だったかもしれません。参加者の拠点名を見ると吉野川沿いの寺院です。中でも宥真は40巻を書写しています。国外者では最も多い巻数になるようです。

なぜ、この大般若経は播磨の赤松氏が願主となっているのでしょうか?
「若王子大権現縁起」によると、鎌倉末期の元弘年中(1331~34)、大塔宮護良親王が赤松則祐・岡本武蔵坊の両人を連れて大内郡にやってきて、在地武士の佐伯季国の協力を得て虎丸山に一城を構えたと記されています。そして滞在の間に、親王が大般若経五〇巻を筆写して若王子権現に奉祀したとされます。赤松氏に縁のある者が鎌倉幕府討滅の軍勢を催すため大内郡にやってきて、同時に、若王子に戦勝祈願を行ったと解しておきましょう。
 それから約70年後のことになります。
奥書の年紀を見ると、応永八(1401)年三月五日、播磨国一乗寺の住僧増真は、巻四百二十五を書写し終えています。ついで、翌六日、巻四百十六を摂津国河南辺北条多田荘清澄寺の良祐が、そして、七日には巻四百四十九を赤松顕則がそれぞれ写経して筆を置いています。この三人は日を合わせるように、若王子権現にやってきて、同時期に経巻を筆写し終えているのです。一乗寺の増真と清澄寺の良祐は、播磨国守護赤松氏の所領にあるお寺です。赤松氏とその勢力基盤であった土地の住僧が、3人そろってやって来て大般若経を寄進したのは、どうも「戦勝祈願」だったようです。それを70年前の先祖の例にならって、行ったようです。
 増吽から話が逸れたようですが、ここで確認しておきたいのは、水主神社や与田寺周辺には、大勢の書写スタッフが存在し、それを取り巻くように広い範囲の支援ネットワークが形成されていたことです。
これがどのようにして、形作られていったのかが次の課題です。
 増吽の名を高めた最大の功労者は、彼の直弟子(詳しく見ると増慧の相弟子に当たるので弟弟子?)である増範であったようです。
少し回り道になりますが、増範について見ていきます。
 増範は、応永六(1399)年の若王子権現の大般若経書写のときは、34歳の働き盛りです。当時は、虚空蔵院にいて高墜房と称していました。この時に増吽は、37歳で同院住職を勤めています。増範は、その後まもない時期に上洛したようです。増吽の名声を高めたとされる応永十九(1412)年の北野社一切経の奥書によれば、覚蔵増範と署名しています。
  増範が北野社覚蔵坊主となって、この一切経書写供養会を主催したと研究者は考えているようです。
覚蔵坊は、写経会が行われる北野経王堂の管理と運営を執り仕切っていたようです。したがって、増範が、写経会に際して願主となって主催したことになります。その時も、虚空蔵院の増吽とその一門が参加しています。多度津の道隆寺第22世・23世の良秀・賢秀らの門下を始め、讃岐から35人が加勢しています。摂津からは20人の僧侶が参加し、そのエリアは山城・和泉など畿内から北は越後、南は九州諸国にいたる25国にもおよびます。それだけの人脈を増範は持っていたようです。しかし、これは増吽によって培われた人脈だったのかもしれません。そうだとすると増範の出世は、増吽によりもたらされたものと言えるかもしれません。
増範の業績で特筆すべきは『北野社一切経』の書写事業と勧進です。
mizmiz a Twitter: "経王堂  足利義満が三十三間堂の倍の長さで建て、江戸時代まで存在してたらしい!この立面が衝撃的で調べてたら石山修武も日記で同じこと言ってたw  https://t.co/Zc0CN9AzXe… "

 北野社経王堂は、応永八(1422)年に足利義満が建立したものです。ここでは明徳二(1391)年に起こった明徳の乱における戦死者を弔うために、将軍が主催して万部経読誦会が行われるのが恒例になっていました。「北野社一切経」は、この行事のために新たに書写されることになったようです。増範は北野社万部経会の経奉行として、実際の経営にもあたっていました。当然のことながら増範は「北野社一切経」の大願主で、多くの経巻に大願主や大勧進として名前が記されています。
 この事業は、応水19(1412)年12月17日から8月15日までの五カ月間にわたって書写し、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波・讃岐・河波・肥前和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美作・日向の国々の僧侶などの百数十名が参加する大事業でした。このために大内郡の水主神社の書写社僧スタッフや全国ネットワークがこの時にも活躍したはずです。
 北野社の一切経五千五百帖が調ったのは、応永十九年のことです。この功績によって彼は、この後北野経王堂(願成就寺)住持となり、年々盛んになっていく万部経読誦会の経営に当ることになります。このような増範の異例とも云うべき出世には、讃岐東分郡守護代の安富氏の後援と管領細川氏の支援があったと研究者は考えているようです。
増範の出世を踏まえて、増吽のことに立ち返えりましょう。
 北野社一切経奥書の増吽の肩書には、
「讃州崇徳院住 僧都 増吽」

と記されています。ここからは増吽が白峯崇徳院(頓証寺)に「栄転」していたことが分かります。時は応永十九年三月十七日のことです。翌年の崇徳院250年遠忌法要の導師に、増吽が選ばれたためのようです。この時には、讃岐に流刑となっていた高野山の学僧宥範は、赦されて讃岐にはいません。増吽をおいて適任者はいなかったようです。
これが、増吽の讃岐一国に知名度を飛躍的に高めるイヴェントになります。増吽は、崇徳院の法要を無事済ませ、虚空蔵院へ帰ってきます。それを追うように、後小松院から任僧正位の吉報があったと研究者は考えているようです。このような増吽の出世には、弟弟子の増範と同じように讃岐東分郡守護代の安富氏の後援があったようです。

 15世紀初頭の応永年間の大内郡は、水主神社を中心として仏神事が盛んに行われて宗教的にも隆盛であったようで、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。これらの環境は形成には、安富氏の力があったとしておきましょう。

「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範のほかにも、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。
良仁は「讃州大内部与出虚空蔵院筆良仁」や
   「讃州大内郡大水主社良仁」
賢真は「讃州大内虚空蔵院賢真」
   「讃州大内大水主社住僧賢真」
と名乗っていて、虚空蔵院とも大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で虚空蔵院が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していたのです。
旅 809 水主神社 (東かがわ市): ハッシー27のブログ

社僧の名前だけでなく、大水主社が書写場所であったことが分かる記録もあります。

ここからは、当時の大水主社は、多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことがうかがえます。それを形作っていったのが増吽ではないかと研究者は考えているようです。
増吽と写経集団
水主神社の「外陣大般若経』巻第二百七十は「水主、千光寺如法道場」で書写されたと記されます。この奥書からは、大水主社にも如法道場が設けられていたことが分かります。さらに想像力を働かせると、水主・千光寺如法道場は書写スクールの機能を果たしていたのではないかという仮説になります。讃岐だけでなく、隣国の阿波からやってきた僧侶達が水主神社で修行し、経衆(書経スタッフ)として帰国していく。そして、別当寺の増吽や増範の依頼があれば、割り当てられた巻を書経して水主神社に届ける。そんな書経ネットワークの存在が見えてくる気がします。この写経集団は増吽を先達として、水主神社を拠点としていたのでしょう。
水主神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
水主神社

もう一度、増範のいる北野社に自を向けましょう。
 北野社万部経会は1万部を千人の僧が読経する経会のようです。北野社一切経会とともに幕府にとって重要な年中行事でした。この万部経会に使用する経本は、毎年新写して僧侶達に頒布したとされます。この毎年新写される法華教を、増吽率いる経衆が書写していたのかもしれません。これも仮説です。
次に注目したいのは、増件が率いる経衆の誕生過程です。
大水主社のある水主地区は本宮・虎丸山(新宮山)・那智山に囲まれています。ここに増件が熊野三山を勧請したと伝えられます。ここからは増件が熊野系勧進僧であったこと、つまり熊野信仰を強く持っていた修験者という姿が垣間見えてきます。高野山で学んだのですから当然のことかもしれません。このことについては、また別の機会にします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
水主三山 虎丸山

 参考文献   
唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       
香川史学1989年

  増吽
倉敷市の蓮台寺旧本殿(現奥の院)に祀られている増吽上人

戦前には「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽には、熊野信仰と弘法大師信仰が重なり、いくつかの別の顔が見えてきます。
①熊野信仰にも傾倒する熊野系の勧進聖 廻国性
②弘法大師を深く信仰する真言宗の僧侶
③写経・工房集団を束ねる先達
前回は③の姿を追いかけましたので、今回は①の熊野信仰との関係を見ていこうと思います。
関西の力】祈りの場(1)熊野詣で 上皇も歩んだ「霊性」宿る参道 - 産経ニュース

 院政期から鎌倉時代にかけて、熊野詣が大流行するようになります。この流行をもたらす役割を担ったのが、熊野先達や熊野系の山伏・聖たちの勧進・布教活動でした。讃岐大内郡の与田山への熊野三山勧請を、増吽の時代のこととする説もあるようですが、香川県史はこれを否定します。増吽以前の、南北朝から鎌倉末期に遡るものという立場です。まず、熊野権現の与田山への勧進時期について確認しておきましょう。
増吽 水主三山

与田山の熊野権現勧進由来は、次のように伝えます

元弘年中(1331)、後醍醐天皇が捕らわれの身となり皇子大塔言(激趾親王)は、熊野へ落ち延び難を逃れようとした。その時、主従別行動することになり、その離別の瞬間に一羽の烏が西に飛び立った という。その烏は、神の導きとして与田山に飛来した。

烏の飛来は、熊野権現の使いを意味するものでしょう。ここからは、南北朝初期にはすでに与田山に、熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。

水主三山の那智山上空からの瀬戸内海
 水主三山の那智山上空からの瀬戸内海

 背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)の活発な交易活動と布教活動が展開」されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。
水主神社 地図
水主神社やその神宮寺であった与田寺が熊野信仰関わっていたことを示す史料を挙げてみましょう
①与田寺縁起には、観応二年(1351)の預所沙弥重玄の寄進状があり、祝師阿闇梨苦海に免田畠が寄せられている
②貞和2(1346)年の銘文のある棟木がある 
③応永十七年(1410)に増件が作ったとされる「熊野水主大明神秘讃』には、熊野三所権現と大水主大明神は同一体であると記されている。
④水主神社の「外陣大般若経」巻第八十八には「敬白泰法山川市大水主社 五所大明神御賢治等」とあり、「為熊野権現」とある。大明神とは『大水、五所大明神和讃』から、熊野三所権現を指すようです。

そして、水主神社が熊野信仰の拠点であったことを示すのが「若王子大般若経」巻第二百二十八です。ここには次のように記されます。
真敬白 組斗書写率、讃州大内郡与田山王子常住御経由、右執筆宥南無熊野権現当世成就、子時志永七年三月二十一日
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会)
ここには大般若経の書写成就を熊野権現に祈願しているのが分かります。増吽が言うように、当時の水主神社では、熊野三所権現と大水主大明神は、同一体であったことが裏付けられます。

 このほかにも若王寺の鎮守社与田神社には、平安後期から室町時代の熊野権現の本地を表した懸仏が伝わります。その後、文正年間や長亨年間に、大内郡の白鳥や引田の先達たちが檀那を導いて熊野詣でを行っている文書も残っています。以上からは、大水主社周辺では熊野信仰が人々の間に浸透していたことが分かります。
 大内郡に熊野信仰を持ち込んだのが熊野修験者たちでした。
その結果、水主神社周辺には修験道も浸透していたようです。それは以前にお話したように「内陣大般若経」が石鎚山から修験者によって運ばれたという「牛負い般若伝承」からもうかがえます。修験道の霊山・石鎚山から逮ばれたという伝承から、修験道との関係を読み取れます。
増吽(与田寺)
増吽(与田寺蔵)

 ここで増吽に再び目を向けましょう。
増吽は、このような熊野信仰や修験者が活躍する大内郡で生まれ、高野山で真言密教を学んでいます。当時の真言密教は山岳信仰と深く結びついていますから空海が行ったような山岳修行を僧侶達も行っていました。増吽もこの流れの中に身を投じたことが考えられます。その修行の中で、彼は多くの霊山や行場を巡り、人的なネットワークを形作って行ったのではないでしょうか。それは、増吽が勧進修験者への道を歩むことでもありました。
 
 「旧記』には、増吽が大水主・五社南宮を勧進活動により建立したと記されています。また熊野三山を水主に勧請したとも記されます。事実は別にして、当時周囲からは増吽が熊野系勧進僧として見られていたことがうかがえます。
茂木町の文化財「大般若経600巻他」
大般若経
 増件のもう一つの顔は、写経集団のリーダーであったことです。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、写経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの写経依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業の痕跡とも考えているようです。これが前回お話しした「北野社一切経」という大事業につながります。
 「北野社一切経」は、増吽の弟弟子の覚蔵院増範が大願主となっていますが、今見たように増吽を先達とする写経集団が背後にあったからこそできた事業でした。増吽だけでなく讃岐や阿波の僧侶たちがこの写経集団に加わっています。
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面

それでは、彼らと増吽を結びつけたものは何だったのでしょうか。
その精神的紐帯は熊野信仰にあったようです。増吽は、幾度となく熊野参詣を行い、厚く信仰したと伝えられます。彼が先達として行った熊野参拝の様子を伝える文書が、仁尾の覚城院文書の中に残っています。
先度、付使宣、進状候しに、預御返事候、乃熊野参詣之銭送給候、令祝着候、道中散銭候て、可致祈疇候者哉、事繁候、篤志誠以喜存候、今日十九日舟出し候ハんと申居候へは、五月雨水々しく候て、末天陰に天気待居候、経衆ハ廿人、於阿讃両州調之候、伶人両三人同じく参候、彼是如法経百日ハ管弦と申候て、伶人参詣事被申下候、毎事計会、可被察候、露命之習、秋までも存命候者、下向候て、可入見参候、何事御助成大切候、恐々
五月十九日                                                     増吽(花押)
覚城院御返報
意訳変換しておきます
先日の進状にお返事をいただきました。熊野参拝の費用について送銭いただき喜んでいます。道中は費用がかかり、祈祷なども頻繁に行っていますがいただいた篤志は、誠に喜びに絶えません。本日19日に、出港予定でしたが五月雨で天気が悪く、天候待ちとなっています。
 経衆20人、伶人(楽人)2~3人は、阿波と讃岐で調え同行予定です。如法経百日管弦のために、伶人(楽人)を伴って参詣するようにと云われているので、それを適えて参拝することができます。秋まで熊野に留まる予定ですが、帰国後は、また出向きます。その時にお会いできることを楽しみにしております。最後になりましたが、御助成いただきありがとうございます。

最後に「覚城院御返報」とあります。熊野参詣に際しての仁尾の覚城院からの餞別への返礼のようです。内容は、熊野参詣のため船出しようとした増件は、五月の長雨により足留めされているようです。
足止めされているのは、どこなのでしょうか? 
与田寺の外港の引田湊が第1候補です。先ほども述べましたが、当時の引田湊は熊野水軍の拠点湊でもあり、多くの舟が紀伊や熊野との間を行き交っていたようです。芸予諸島の大三島と熊野の間には「定期船」も運行されていたと考える研究者もいます。そのため引田湊は、伊予や讃岐からの熊野詣信者が舟に乗るために集まってくる集結地点であったと私は思っています。引田港の後にあったのが水主神社とその神宮寺の与田寺でした。増吽が先達として、経衆(書写スタッフ)20人、伶人(楽人)2人を引き連れて、熊野詣でに出発する湊にはふさわしい場所のように思えます。
 第2候補は、阿波の那賀川河口です。

水主神社 那賀川流域jpg
この周辺には、増吽の率いる経衆(写経スタッフ)が多数いたところでもあり、紀州との関係が深いところでもありました。増吽は逢坂峠を越えて、ここまでやって来て、紀州への船便を待っていたのかもしれません。その間に熊野詣でに参加するメンバーを整えていたことも考えられます。
 さらに、如法経百日管弦のため伶人も伴い熊野参拝するとあります。「如法経」とは、法華教を写すことです。この行事に参加するために、20名もの書写スタッフを引率しているようです。このような「集団写経遠征」は、熊野だけでなく備中や阿波などに向けても行われていたのではないかと私は考えています。各地で行われる大写経事業に、大勢のスタッフを引き連れて応援に駆けつける増吽の姿が私には見えてきます。そして、そこで何ヶ月か泊まり込んで、写経を行い完成式典に参加して帰国する。そんな活動を増吽は重ねていたという仮説を出しておきましょう。これも勧進聖のひとつの活動パターンだったのかもしれません。このような活動を通じて、増吽の人的なネットワークは広く、遠くまで張り巡らされ、それに連れて名声も高まったのかもしれません。
水主神社2(讃岐国名勝図会)
江戸時代の水主神社周辺(讃岐国名勝図会)
後世の江戸時代前期になると、増吽と熊野を結びつけた文書が増えます。
『御領分中寺々山来』には、つぎのように記されています。
熊野三所大権現を以て同鎮守と為す。増吽僧正恒に熊野三所を信す。始め毎歳熊野に参詣。応永年中熊野新宮再興。増吽幸に参詣あり、祝等増吽に遷宮の導師憑。増吽曰汝等来る午日寅の一天に。新殿に於て神体を遷す可し。予は亦讃州誉田に於て開眼供養す可しと。契証有つて、当院に帰る。件の日寅の一人に当院に供養有り。其の時増吽檀上にて振鈴の声虚空に響いて熊野山に聞くと。村翁の伝説也。将、当所水主山にして三双の高嶺有り。
増吽後に、この山に熊野三社を勧請し。当寺中に於て塩水湧出の泉を掘る。毎朝塩水にて垢離あって医王山の嶺に踏。勧請の三社を伏拝。則伏拝の松並塩水涌出の泉今に之れ在る也。
意訳変換しておくと
 熊野三所大権現を勧進して、鎮守とした。増吽僧正は、熊野三所を信仰し、毎歳のように熊野に参詣し。応永年中の熊野新宮を再興の際に、増吽は参詣した。その際に新宮の祝が増吽に遷宮の導師を依頼した。そこで増吽は次のように応えた。「午日寅の一天、新殿に神体を遷すべし、私はそれを讃州誉田(与田寺)で開眼供養します」と。参拝が終わり、讃岐へ帰って来ると、約束した日に、与田寺で供養を行った。その時、増吽が檀上で鈴を振ると、その音が虚空に響いて熊野山に届いたという。これが村翁の伝説である。当所には水主山という三双の高嶺がある。増吽は後に、この山に熊野三社を勧請した。そして、当寺の境内中に塩水が湧き出る泉を掘った。毎朝塩水にて、垢離をとり、医王山の嶺に登り勧請の三社を伏拝する。伏拝の松と塩水涌出の泉は、今に伝わっている。

また『虚空蔵院・大水寺由緒』の「増吽僧正は常に熊野権現を信ず」には、つぎのように記されています。
応永年中熊野新宮再興あり。其節増吽熊野に参詣ある。社務・巫祝など増吽を以遷宮の導師と頼み奉る。増吽の曰く 我れ国に有り遷官の法執行す。来る午の日寅の一人に神を新殿に移し奉る可しと。契諾有って帰国せり。去れば契約の日に増吽遷宮の供養の法を之れ執行す。共の時供養法の鈴の声熊野由に於て虚空に聞こえるム々。増吽自筆の棟札など新宮に之有リム々。また水主村において一所の高山有り。増吽老年の後、熊野一所権現を勧請して当寺の鎮守と為す。塩水を以垢離を取り、当山自り毎日これを伏拝す。当山に於て其塩水涌出の泉あり、又伏拝の所の松とて古本今に之有り。

 さらに「讃岐国大日記』は、増吽が熊野に「毎月参詣」したと記し、『御領分中寺々山来』には「毎年参詣」とあります。参詣の回数については誇張があるとしても、熊野に度々参話していたことは事実のようです。ここからは増吽が強い熊野信仰を持ち、先達を勤めるなど熊野修験者であったことが分かります。
次に増吽が熊野三所権現を、水主三山に勧請したということについて見ておきましょう
『讃岐府志』には、
  水主三山権現。大内郡に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。以、三山権現と為す。
『讃岐国人睡譜』には、
  増吽、常に熊野三社を信じて、月詣す、故に彼の三社を水主山に移し、毎日参詣而怠らず云々。

とあります。しかし、増吽以前から熊野信仰の痕跡が見えることは、前述したとおりです。つまり、増吽以前から水主神社には、熊野権現が勧進されていたと香川県史は記します。
これに対しては、次の2つの考え方が研究者の中にもあるようです。
①江戸時代初期に「増吽の伝説化」と共に、増吽勧進説が流布されるようになった。
②水主山には若一王子権現が古くからあったが、正式に熊野三所を勧請・再興したのは増吽である。
さてどうなのでしょうか。それを証明する史料はありません。
虎丸城 - お城散歩

増吽との関係で資料に記されているものに「石風呂」があります。
『水主石風呂記』(寛保三年( 1743)には、石風呂が次のように記されます
  また一説に熊野権現の風呂とも云う。水主村三高山ありて、南最高嶽の嶺に新宮大権(本地薬師)石の社建つ。西高嶽本宮(本地阿弥陀)、北の高根那智(本地観音)なり、この一の麓に三の石風呂ありしに、ただ新宮山下の風呂のみを償し、自他の人あつまり人治養す風呂の谷と名つせく、二所の風呂はいつとなく破壊す、ゆえに今の世の人、是を知らず。

ここからは次のような事が分かります
①水主村三高山には、
南の嶺に新宮大権 (本地薬師)石の社、
西高嶽に本宮 (本地阿弥陀)
北の高根に那智 (本地観音)の三者が山上に鎮座している
②三高山の麓に熊野権現の風呂と呼ぶ石風呂がある。
③新宮山下の風呂は、多くの人が集まり、人々を治養するので風呂の谷と呼ばれている
④その他の風呂は、いつとなく途絶えていまい、今は誰も知らない
虎丸城 - お城散歩

『讃岐府志」にも、同じような内容が次のように記されます
水主三山権現大内部に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。三山を以、権現と為す。旧一石室有り。温泉に擬し、痢疾の徒を療す。其法生柴を以、石室の内に焼き、然れば灰炭を払い、洒たに塩水を用い後、瘤者を延べ、而して石室の内に坐じめ。炎気酷烈する寸は則ち出る。この如くすること一日二三次、或るは七日を期す。沈病の者十に六七を全。皆謂う増吽か行感至りこの如く。死者起きせしむ。俗に岩風呂と曰く。(中略)
按ずるに往苦より影行有りと雖も、中絶に依り、増吽再興す。諸人歩を運び石室を見ること、三嶺の麓に各之在り、今風呂は新宮風呂なり。
  意訳変換すると
水主三山権現は大内郡に鎮座する。明徳年中に、僧増吽が新宮本宮那智の三所神を勧進し、三山を権現とした。そこに古い石室がある。温泉のようで、様々な疾病の人々を癒やす。その使用法は、生柴を石室の内で焼いて、その後で灰炭を取り除いて、塩水をまく。そこへ瘤者を入れて、石室の内に座らせる。炎気酷烈なので長くは居られない。これを一日に二・三回、七日程続ける。そうすると沈病の者でも、十人の内の六・七人はよくなる。増吽さまのお陰で、死者も生き返ると皆が云う。俗に岩風呂という。(中略)
 この歴史を考える古くから岩風呂はあったが、いつしか途絶えていたのを、増吽が興したのであろう。かつては、、三嶺の麓に三つの石風呂があったが、今は新宮風呂だけになった。
ここでも三山の麓に風呂があったが、今は新宮のみであることが記され、増吽が再興したとされます。

では、この石風呂はどのような意味をもっていたと研究者は考えているのでしょうか。
  以前に湯屋と風呂のちがいについて次のように分類しました。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
讃岐で古来から見られるのは②の温室(風呂)です。瀬戸内海の海岸部の岩屋では、海藻をつかって蒸風呂として利用したところがいくつか知られています。水主の石風呂は、熊野権現の風呂と言う別称があるように、このエリアの中世以来の熊野信仰と関係があります。神仏への参詣の前には、精進・みそぎがおこなわれましたが、水垢離(コリトリ)・塩垢離による熊野精進を熊野修験者は行いました。

水垢離 (みずごり) - なごみの散策
水垢離(コリトリ)

熊野本宮参詣では昌之峰温泉でコリトリを行いました。
これと同じような関係が、水主の熊野三山と石風呂にもあったようです。水主の風呂は、中世の大内郡の人々や熊野への参詣がかなわない人々が、水主の本宮那智新宮の山麓に設けられた石風呂に入浴して三山詣を行ったのでしょう。
 山岳宗教では女人を不浄としましたが熊野神社は、女人を嫌いませんでした。水主の三つの風呂でも江戸中期まで、新宮風呂に入る女性に、弘海寺(浄土寺)で水除けの符を配て入浴させていたといいます。これを見ても水主の石風呂の起源は、中世まで遡るようです。近世になると、これら石風呂の宗教的な起原は忘れ去られ、湯治目的の温室としてのみ引き継がれていくようになります。
 中世の石風呂は、現在のように衛生・娯楽よりも宗教施設であったことは以前にお話しした通りです。熊野三所と熊野権現風呂を再興したのが増吽という可能性も、大いにあるようです。
以上、増吽を熊野修験者として捉え、熊野詣での先達、熊野権現の勧進、石風呂の設置などについてみてきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
   唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       香川史学1989年
 香川県史 

 増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。
幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。
與田寺 (香川県)の初詣・初日の出情報 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です

まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。
 制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。
 同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

なお、研究者は風天図の構図を見て
「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

と指摘します。ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。

これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。
  1弘法大師1

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。
弘法大師御影 善通寺様式

御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
醍醐三宝院のこの様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。そこで、「善通寺形御影」と呼ばれているようです。
その中で京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同多度津之御影供一衆流通物
(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
咋閣梨七十九而書之
文安元年四月仏誕生日 大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓

「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
 また「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。

岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。
本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。
仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】 - 讃州菴

中でも仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。

増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたのではないか、と研究者は考えているようです。

弘法大師御影 県立ミュージアム版

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。

以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

貴族の専有物であった古代寺院が、どのように民衆化していくのかを修験者や聖の視点から見ていこうと思います。空海・最澄の登場によって、平安時代になるとそれまでの都市仏教から、山深い山岳に巨大な寺院を建立されるようになります。
この時期の山岳寺院には、次のような特徴があると云われます。
①規模が比較的大きいこと
②山岳を修行の場とする密教寺院であること
③国家を鎮護し貴族の安穏を祈る国家的または貴族的仏教
役小角 - Wikiwand

11世紀を過ぎるころから、それまでの寺院の枠組みを越えて修行する山岳修行者=修験者・山伏が現れます。彼らは修行集団を形成し、諸国の霊山をめぐるようになります。諸国の名山とはたとえば12世紀に著された『梁塵秘抄』に見える七高山です。

他方、寺院の枠組みを越えて活動するもう一つの僧侶集団が形成されてきます。
高野聖とは - コトバンク

僧侶の中では最下層に属し、半僧半俗的な性格を持つ聖集団です。
彼等は庶民を日常生活の苦難から救済し、仏教を広めるとともに、民衆から生活の糧を得て社会活動を行い、堂塔を建立するための勧進活動を行うようになります。
 つまり、寺院の枠組みを越えた集団である「修験者・山伏と勧進聖」が姿を現すようになったのです。ともすれば寺院のなかに閉じこもり、国家や有力貴族のためだけに活動していた仏教寺院を、民衆救済へ変化させていったのが「修験者・山伏と勧進聖」になるようです。
修験者と勧進聖の役割
修験者は信仰を深めるために厳しい修行を行うとともに、人々を組織して先達となって霊山・寺院へ誘引するようになります。それの一つが四国八十八所や西国三十三所巡礼へとつながっていきます。
 また彼らは民衆救済のひとつの形として、農業技術、土木事業、医療活動などの社会活動も行います。
勧進活動 行基
行基菩薩勧進帳 鶴林寺 文明八年(1486)
鶴林寺の開基は寺伝では聖徳太子ですが「六禅衆供田寄進状」(『鎌倉遺文』)には「当寺本願行基菩薩」とあり、行基菩薩が開いたとされます。中世では行基開創伝承もあったようです。この本勧進帳は行基坐像の胎内から発見されたもので、勧進により行基像が造像されたことがわかります。これによると、文明18年から勧進から始り、多数の人々の勧進により造像されたようです。

彼らがどれだけ大きな勢力を持っていたかは、鎌倉時代初期の重源の狭山池の改修や東大寺再建事業からもうかがえます。
勧進 狭山池勧進碑
狭山池重源改修碑 大阪府立狭山池博物館 建仁二年(1202)
古墳時代に築造された狭山池は、古くは行基も、池の修復を行っています。鎌倉時代初期に東大寺大勧進職であった重源も、彼の業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に狭山池を修復したとの記載があります。平成五年(1993)の改修工事中に、重源の改修工事記念碑が発見されました。重源が勧進活動により修復を行ったことが記されています。

勧進僧の活動の一つは、念仏聖を中心とした民衆の「死後」の恐怖からの救済でした。古代仏教は葬儀とは無縁の存在でした。その意味で民衆信仰としての「葬送」は、新時代の仏教民衆化の要になりました。死者への葬送儀礼に関わった宗派の僧侶が民衆からの信頼と支持を得ることになります。平安時代初期には、死者への葬送儀礼の作法は、道教の影響が大きかったようです。それが次第に仏教儀礼へと代わっていくのは念仏聖たちによる社会活動の結果です。

納骨塔元興寺 鎌含時代
納骨塔 元興寺 鎌含時代・室町時代
納骨は、死者供養の一種で、法華堂や三味堂などに奉納されました。元興寺寺も納骨寺院の一つであり、納骨容器である五輪塔以外に、宝珠医印塔や層塔などのもありますがすべて小型の木製です。中に骨を入れ、堂内の柱などに打ちつけられました。
戦場の陣僧
戦場の陣僧

その例を時宗僧侶の活動から見てみましょう。
時宗僧侶達は、「陣僧」と呼ばれ、戦場にでて人々の救済に尽くすようになります。鎌倉幕府減亡の元弘三年(1333)五月二八日付けの時宗道場・藤沢清浄光寺の他阿の手紙は、時宗僧侶の働きを、次のように記しています。
鎌倉は大騒ぎですが、道場は閑散としています。合戦前、寺に足繁く通ってきた武士たちは戦場にいます。城の中も攻める側も念仏で満ちていて、捕縛されて頸を討たれる武士に念仏を唱えさせ成仏させました。

ここからは、時宗僧が「陣僧」として戦場に残らず出かけたため、寺は閑散としていたことが分かります。合戦前には敵味方なく時宗寺院に通ってきた武士達が、戦場では殺し合いながら念仏を唱えています。首を討たれる武士にも念仏を唱えさせ、浄土に送っています。彼らが敵味方分かつことなく死の際で活動していたことが分かります。
時宗一遍

一遍を開祖とする時衆僧は「南無阿弥陀仏」の名号を唱え遊行したました。
日常を臨終と心得て念仏信仰をつらぬくスタイルは、合戦で死と隣り合わせになる武士と共感を持って受けいれられたようです。聖らは、戦場で傷を負ったものに、息絶える前に念仏を10回唱えさせて極楽浄土にいけると安心させ、往生の姿を看取ります。
時宗陣僧の活動をもう少し見ておきましょう
 河内金剛山の楠木正成討伐軍に加わり捕縛された佐介貞俊は、頸を打たれる前に、十念を勧める聖に腰刀を鎌倉の妻子のもとへ届けるように頼みます。そして十念を高唱して頸を刻ねられます。聖が届けた形見の刀で、妻は自刃します。それが『太平記』で語られています。
 応永七年(1400)の信州川中島での小笠原長秀と村上満信らの合戦を記した『大塔物語』を見てみましょう。
大塔物語

ここには、善光寺などの時衆僧らが切腹などで死の間際にあるものに十念をさずけています。合戦がおわると戦場に散らばる屍をあつめて葬り、卒塔婆をたてて供養し、戦場の様子を一族に報告したと記します。戦いを見届け、絶命するものに念仏を勧め、打たれた頸をもらいうけ、遺言とともに形見の品を遺族に届け、敵味方なく遺体をかたづけて供養し、塔婆をたててこれを悼む。
 ここには、戦場の一部始終を見届ける役回りを果たす陣僧の姿があります。彼らの語りが文字に姿をかえ、『太平記』『大塔物語』をはじめとする軍記物語に詳細に描き込まれることとなったと研究者は考えているようです。
  同時に、このような活動を行い死者を供養する姿に、武士達は共感と支持を持つようになります死者の魂と、どのように関わっていくのかが鎌倉新宗教のひとつの課題でもあったようです。

中世寺院の民衆化
中世になり律令体制が解体すると、国家や貴族に寄生していた中世寺院は、経営困難に陥ります。つまり国衛領や荘国による維持が困難になったのです。そのような中で、武士・土豪さらには一般民衆へと支持母体をシフトしていく道が探られます。それは結果として、中世寺院自体の武士化や民衆化を招くことになります。

DSC03402
一遍絵図

 寺院の周辺に民衆が居住し様々な奉仕を行っていたことは、一遍絵図を見ているとよく分かります。
時代が下がるにつれて寺院内へ僧侶または俗人として民衆自身が入り込むようになります。それまで寺院の上層僧侶が行っていた法会も、一部民衆が担うようになります。例えば、兵庫県東播地方の天台宗寺院に見られる追灘会(鬼追い式)が、戦国期には付近の民衆が経済的に負担し、行事にも参加するようになっていきます。これは「中世寺院の民衆化」現象なのでしょう。
追儺会(鬼追い式)|興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント

「民衆化」現象は、最初は寺院と民衆をつなぐ修験者山伏や念仏僧などの勧進聖から始まり、次第に中世寺院自体が民衆化していくという形をとります。
それが最も象徴的に現れたのが戦国時代末の戦乱期でした。
 戦国時代末になると、中世寺院では修行者山伏・聖集団が寺内で大きな地位を占めるようになります。そして、彼らは寺院周辺に生活する武士や民衆と寺院との間にも密接な関係を作り上げていきます。戦乱で寺領を失い、兵火で伽藍が焼かれた場合も、立ち直って行く原動力は、寺院内部では下層とされた修験者や勧進聖たちでした。彼らによる勧進活動が行われない寺院は、再建されることなく姿を消して行ったのです。まさに修験者や勧進僧が活躍しなければ、寺が再建されることはなかったのです。彼らの存在意義は否応なく高まります。
そういう意味では戦国時代末期は、中世寺院が最も民衆化した時期でもあったようです。
ところがこのように民衆化した寺院を一変させたのが、信長・秀吉・家康によつて進められた寺社政策です。
信長に寺領を奪われた中世寺院は、秀吉からそれまでの寺領のうち数分一の朱印地を返されたのに過ぎません。また中世寺院は、寺院周辺の民衆との関係を断ち切られます。さらに寺院内での修験者山伏や勧進聖の地位が低められたり排除されたり、また彼等の社会的な活動も大きく制限されます。これは中世前期の「本来」の寺院の姿に戻させるという意図があったかもしれませんが、修験者たちは経済的には困難な状態が続き、近世の間ずっと長期衰退状態が続きます。
他方、民衆と寺院との関係では巡礼・参詣などという信仰上の関係はそのまま続き、寺院経済の重要な支えとなっていきます。このように近世の中世寺院は戦国時代末期の姿で近世化したのではなく、かなり大きく変化させた形で近世化したとものであると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
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  中世寺社 遙任国司

十~十一世紀になると摂関政治の下で、国司の守に地方行政を委任する受領請負制が始まります。こうして受領と呼ばれた国司が、自分の家族や家臣らを任地に派遣し、自分はその国に出向かずに、摂関家の家司として仕えるようになります。これを遙任(ようにん)国司と呼んでいます。京都周辺の要所には「受領の蔵」として、任地からの富が運び込まれます。こうして受領層による地方行政が行われるようになります。
 地方では、介・禄などの旧国司らは、受領の派遣する「負名」の下で、国衛の職員化します。これが留守所です。荒廃した郡司制も再編され、彼らが郡や院などの納税を在庁名として請け負うようになります。こうして受領の身内や家来が国使や収納使などとなって在地にやってきて、新しい郡司や名主からの徴税を請け負うようになります。
日本史(27) 「地方政治の展開と武士① ~受領と負名~ 」 〇今回のポイント ①10 世紀以降、律

 このようなもとで、地方の国分寺や郡寺、式内神社などは、どうなったのでしょうか?
それを今回は見ていこうと思います。テキストは   井原今朝男     中世寺院と民衆中世社会の時代的特質 です
中世寺社 新任国司テキスト『国務条事』

平安時代文書集『朝野群載』巻22の「国務条事(国務条々事)」新任国司が赴任旅行から、着任、執務開始、日常政務に及ぶ決まり事、ノウハウ、心得などを42ヶ条にわたり、事細かくまとめたもの。

国司が最初に任国にやって来たときには、その国の神社への参拝が行われ国司神拝が行われていました。

讃岐に国司としてやって来た菅原道真も、国内の寺院や神社が誰の氏寺や氏神であるのかは頭に入れていたようです。それは、国司にとって押さえておくべき職務内容だったのかもしれません。そのため十世紀中葉までは、式内社神社の修理や式年遷宮なども国司の手で行われていました。
 ところが、11世紀には受領遥任制になって、国司がやってこなくなると国司神拝は、次第に行われなくなります。それにつれて国分寺や郡寺・寺社の修理も部分的になり、荒廃する所が多くなります。
承徳三年(1099)因幡国司平時範が因幡の宇倍社・惣社に参拝した記録が『時範記』です。
11世紀末というと受領遥任制が一般化している時代です。それなのに、時範はわざわざ任国の因幡国に下向しています。どうしてでしょうか?
 それは、国司が任地にやって来ず、国鎮守や惣社に参拝しないことや寺社が荒廃しているのに放置したままでにしておくことへの強い反発と不信が在庁官人には溜まっていたからだと研究者は考えているようです。それを解消するための国入りだったようです。
 因幡国ではその20年後に、藤原宗成が因幡守に就任します。やはり「九箇年間未だ下向せしめず」という有様で、国分寺をはじめ国内寺社の荒廃は放置されたままだったようです。国人らは「恐れ有るの由申し合うと云々」と、一致して因幡にやってきて国司神拝することを求めています。
 元永二年(1119)九年目になって、ようやく目代を派遣して初任神拝を実施します。それでも在庁らの不満は大きく不満は収まりません。そこで「国一宮」での臨時祭を行うため、国司宗成は直々に下向することにします。それでも「任終の秋に臨み初めての下向、衆人は不受の気有り」という雰囲気だったと伝えます(『中右記』)。
このように11世紀になり遙任国司の時代になると、都からやってこず、地方の神を祀らない「遙任=不在国司」のもとで、地方の寺社は荒廃するところがでてきていたようです。

11世紀、地方寺社の対応は、どうだったのでしょうか
 上野国では国司の事務引継書である『上野国交替実録帳』(長元三年(1030)が残っています。そこには、国司は国内の寺社を位階に応じて管理・登録しています。例えば山円郡では、
正一位美和名神社
那波郡では二位火雷明神社
三位委文明神社
の三つが登記されています。つまり、全部の式内社を管理保護するのを止めて、ランク付けをして階層の高い神社を保護するという方式に変えたと言えます。もちろん位階の高い神社は、当時の国衙留守所の有力豪族の氏寺や氏神が選ばれたことでしょう。
新国司と旧国司の職務引継ぎの際のやりとりを見てみましょう
 新しく国司となった良任は、神社・学校・寺院の仏像や礼服、祭器などが破損したり、なくなったりしているとし「其由如何」と質問しています。前任国司は、代々の国司の実情を引き継いできたのであって
「当任の間公平を存せんがため多く修造を加えた」

と反論しています。その例として、
甘楽都正一位の抜鉾大明神が30年一度の造替で万寿二年(1025)改造の年に相当していたので玉殿と御垣を新造した。勢多郡の正一位赤城明神社も七年一度の大修造の都市だったので、万寿四年(1027)に修造した

ことを挙げています。
  ここからは、国内の式内社の内で一の宮・二の宮・三の宮あたりまでは、国司の命により、式年祭毎に建替が行われていたことが分かります。讃岐でも、一宮神社(高松)や二宮神社(三豊市)は坂出の府中国府の管理下に置かれて、定期的な修造が行われていたことが考えられます。

 さて上総国に戻ってみると、国分寺尼寺の仏像などが破損しているという指摘についても、前任国司は次のように反論します。
「これ当任の解怠に非ず」
「既に数代に及ぶ」
「損失は年に積もり修造を尽し難し」
つまり、「それは、私の責任ではない。数代前の国司の代からすでに、壊れており放置されており修繕の手も及ばない」というのです。そして、自分は国司として、国分寺と定額寺の修理や彩色を行い、破損の内十分の二、三を過ぎるほど「随分之功」を挙げたと主張しています。
 ここからは、それまでは国司が管理修繕していた地方の寺社の中には、定期的な修繕が行われずに放置され衰退化していた所が増えていたことが分かります。

 そして上総国の新任国司は次のように記します
 金光明寺の十一面観音像は長保三年(1001)五月十九日の官符で前々司平重義が造像して安置した。定額寺の放光寺は、氏人の申請で定額寺より除いた。法林寺の金堂は人延三年(九七五)七月一日の大風で顛倒し、講堂は長徳元年(995)十一月十日野火で焼失した。弘輪寺、慈広寺など定額寺の実情は長和三年(1014)、寛仁四年(1020)、万寿元年(1024)の歴代国司の「交替日記(記録)」を、そのまま引き継いだ

  ここからは国分寺や地方定額寺の管理修繕は、事実上放棄されて荒廃にまかされていたことが分かります。

  このように11世紀の藤原道長・頼通政権下では、受領国司は国内寺社を管理し、修造年期の基準に基づいて修理していくことができなくなっていたようです。これでは、国司の国内諸社の巡回は行えません。
 しかし、律令体制の下では「政事=祭事」です。
地方の有力神社や寺院での祭礼や神事がなくては「政(祀)事」が行えません。そこで、考え出されたのが特定の郡内神社を指定して、「国内第一の霊社」とか「一宮」「二宮」などの呼称を与え、「国鎮守」「郡鎮守」として参詣することで国司神拝を合理化することでした。
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 また儀式も最勝講や仁王会、修正会など最重要な護国法会だけを実施し、国衛や国分寺の周辺にその分社を集めて惣社とします。こうして国府近くに「惣社」が新たに作られることになります。これが総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)で、地方の神社の祭神を集めて祀った(= 合祀)神社のことです。岡山には総社市という地名が残ります。讃岐には、国府の外港と考えられる坂出市林田町に総社神社があります。
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惣社神社 坂出市林田町
 
こうして、一宮や二宮神社以外は、それぞれ在庁の在郷豪族に管理をまかせます。
ある意味、国内運営の宗教的な負担金を削減し、遙任国司の取り分を増やしたということにしておきましょう。  受領国司がやってきた場合も惣社と、有力な神社だけに神拝することで済ませ、国内への諸神ヘの巡回を行うことはなくなります。こうして因幡国では、国府に近い宇倍社が元永二年(1119)には「一宮」と呼ばれるようになります。国一宮の出現は、国によって地域差があったようです。
 讃岐の場合も、国府の外港の林田港に総社が置かれ、高松の田村神社が一宮神社に指定されていくのも、このような背景があったようです。田村神社は、国府にも近いし、秦氏の氏寺とされていますので、その背後に在庁豪族としての秦氏の力もあったのでしょう。しかし、三豊の大水上神社が二宮とされたのは、どうしてなのでしょうか? この神社は二宮川の源流に鎮座し、弥生時代の青銅器も流域からはいくつも出土しています。古代以来の聖地だったことは分かるのですが、それを支えた豪族(氏神とした氏族)となると、よく分かりません。手がかりは、流域の古墳後期の大型石室をもつ古墳や古代寺院妙音寺を建立した勢力です。これを「丸部部臣(わにべのおみ)氏」と考える研究者もいるようです。どちらにしても、この時期に大水上神社が二宮に指定された背景には有力豪族の存在があったと思うのです。 
万寿二年(1025)東国疫病の流行で、上野国では郡司七人が死去したり、佐渡では百余人が死亡しています。
 当時は疫病は、地方神をないがしろにした祟りであると云われました。国司は、疫病退散のために任地に向かい儀式を行うことが求められます。そうしなければ職務怠慢と責任問題になります。
 甲斐守藤原公業は「祈願のため、勧農のため」に三月二十四日任国に下向しています。(『小右記』)。
 上野では康和二年(1100)雨が降らず早魃で庶民が苦しみます。上野介藤原敦基は、日代平周真を甘楽郡の抜鉾社に派遣し、宝剣を奉納して、「甘膏を牛漢に仰せ」と漢祭によって「十句之雨」を祈願しています(『本朝続文粋』)。
源氏物語: 2007年3月

 諸国での護国法会は国司の義務でした。
そのため特定の寺社を選んで祈願するようになります。この抜鉾社が中世には、上野国一宮貫前神社になります。
相模では国司橘輔政・藤原惟親の代には、国分寺の砂金や資財を国衛財政のために借用したままで、修繕が行われずに荒廃する一方になります。(『小右記』)。
四国第80番霊場 讃岐国分寺は特別史跡でもある - Pass Hunter
讃岐国分寺(復元模型)

国分寺は国によって、荒廃の度合いの格差が大きかったようです。
院政期なると、国府周辺の郡に国一宮、国衛、惣社、国分寺などが。それぞれ地方の実情にあわせて整備されていくようになります。国衙の政(祀まつりごと)のために、宗教的な施設や舞台は必要なのです。こうして、国鎮守や護国法会の最勝講・仁王会、流鏑馬、般若会などの年中行事が整備された舞台で行われるようになります。
 国衛には次のような関係書類が残されています。
「神社下符毎年員数事、仏寺同前」
国内神社員事、国寺事」
「神社仏寺免田事」
この「国内寺社」「国寺」が、国衛在庁が管理していた寺社になるようです。ここで注意しておきたいのは、ここに登録されている寺社は、古代の式内社とは異なると云うことです。新しい中世的な国内寺社秩序に基づいて、登録されたものになっています。
 讃岐の場合だと、延喜式内神社28社の全てが「国内寺社」として把握されたわけでありません。国府の管理下から離れた神社は、氏神とした豪族達の衰退と共に、姿を消して行きます。そして明治になって式内社神社捜しが行われるまでは、忘れ去られてしまった神社もありました。
四国・香川県高松市・讃岐国一宮 田村神社 | 奥宮

 以上をまとめておくと、
①かつて各国の一宮神社は、院政権力によって全国一律に画一的に整備されたものとされてきた。
②しかし、延喜式には式内神社をクラス分けした記録はない。
③「一宮制」「一宮惣社制」は、最初からあったものではなく、現在の一宮や二宮は、中世になって格付けされたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
井原今朝男     中世寺院と民衆 中世社会の時代的特質 所収


    中世寺院 一遍絵図湯屋
  一遍絵図を見ていると上のような建物が描かれていました。
右からはね釣瓶で井戸から水を汲み上げているようです。その左に五右衛門風呂のような窯が据えられて童が薪をくべています。屋根の上からは、煙が立っています。校倉造りの白い壁の建物が湯殿なのでしょうか。中世の大寺院には湯屋があったようです。それでは、湯屋は寺院にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
中世湯屋 上醍醐西谷湯屋

まず、湯屋と風呂のちがいについて確認しておきます。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
が本来の語義です。今とは違って、風呂が蒸気をあびるサウナだったようです。しかし、このふたつは早くから混じりあって、温室・浴堂などの言葉も使われるようになります。

中世湯屋 上醍醐西谷湯屋差図
  風俗史家の下川耿史さんは、湯屋について次のように述べます。
  「仏教では汚れを洗い流すことは御仏に仕える者の務めとする、沐浴の功徳が説かれていました。そのため寺院にとって不可欠な七つの伽藍には、浴堂も数えられています。それが揃うことで、初めて七堂伽藍といわれるほど、重要な意味を持っていたのです。実際に、東大寺には大湯屋と称される浴室が設けられていて、修行としての入浴と衆生救済の一環としての入浴が行われていました。これが、日本人が自然に湧き出している温泉以外の場所で入浴した、最初の事例なのです」

中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋2
東大寺の『大湯屋』

 大寺院には、戒律の中に月に二回湯を沸かして入浴することが定められていた所もありました。衛生面とともに、穢れを祓う潔斎の意味が大きかったようです。そのため湯屋は聖なる場でもあり、僧団の集団決定を行う集会の場にもなります。
中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋
東大寺の湯船
  
 大寺院は、構成員がフラットな平等関係ではなく、階層化された身分社会でした。そこでは入浴についても、身分秩序を守って湯を使うことになっていたようです。金剛寺・大山寺・鰐淵寺などには、湯屋を使う際のルールが残されています。また東福寺や東大寺二月堂などの湯屋内部には、そのルールを明記した札が掲げられていました。その中で、最も重要なものは「入浴順番」だったようです。それために建仁三年(1203)には、入浴の順序をめぐって比叡山の学生と堂衆が「闘争」を引き起こしています。(『天台座主記』)。

湯屋の様子を、本願寺の基礎を築いた覚如の一代記を描いた『慕帰絵詞』で見てみましょう。

中世寺院 慕帰絵詞

舞台は、美貌の少年覚如を興福寺に奪われまいと衆徒が鎧・弓矢で武装して守る三井寺南瀧院です。保護をうけた摂津国の坊舎では、部屋の奥に幕を垂らした湯屋があり、外では僧が薪を切り、童が火の番をしています。風呂焚きは童の仕事だったようです。
中世寺院 慕帰絵詞部分

浴室は湯を施す場として重視され、世俗の人々との接点の場として重視されていました。
中世湯屋 3

 中世の寺院では寺僧が湯浴みするだけでなく、寺辺の住民や有縁の俗人などに利用させるようになります。
これを「施浴・功徳風呂」とよびます。そうなると湯を沸かす回数も増えます。風呂を沸かすのには、大量の薪がいります。そのためには経費がかかります。経費に充てるために、有力者が湯料として所領を寄進し、その収入で湯を沸かす例も出てきます。建久四年(1193)の「礼阿弥陀仏田地寄進状」(東大寺成巻文書第九一巻)は、東大寺大湯屋のために湯田が寄進されたことを示す史料です。
 庶民に開放された湯屋を見ていきましょう
下野国足利荘の足利氏菩提寺堀内御堂(鑁阿ばんな寺)があります。
仁治二年(1241)二月、足利義氏は氏寺の堀内御堂での一族の忌日供養や大師講の時に「六齋日の湯」の興行をきめています。これは荘園や御厨の寄合で行い、郷ごとに薪三駄を引木として徴収することを公文所に命じています。郷から供出された薪でわかした湯が、郷住人の入浴に使われたわけで、堀内御堂は住人の保養センター的役割を果たします。粋な計らいです。周辺住民には歓迎されたことでしょう。
宮津市聟恩寺には、現在では手水鉢となっている鎌倉時代の湯船が残っています。

中世湯屋 宮津市聟恩寺湯船

今は手水鉢になっていますが、これが湯船だったようです。かつては、下から薪がくべられていたのでしょう。銘文には「十方檀那之合力」によって湯船が興法寺という寺院に設置されたと刻まれています。これも周辺住人を対象にした湯の例です。
 
村の湯屋は、病を治し、心をいやす場になっていたようです。
『今昔物語集』の三河守大江定基(寂照)の出家話には、次のような話があります。
五台山に参詣して湯施行を人々に行っていたところ、きたならしい女性が子どもを抱き、犬を連れて寂照のもとにやってきた。人々はいやがって追い払おうしたので、寂照は食べ物を与えて帰そうとしたところ、女性は「私には瘡があってつらいので、湯浴みしようとやってきたのです。お湯の功徳を私にいただけませぬか。」という。追われたのちにこつそりと子供。犬と湯浴みさせたものの追いかけてみると、スーッと姿を消していた。実は女性は文殊菩薩であったという。

ここからは聖者は、呼ばずともかたわらにそっと現れるものと考えられていたことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、カサブタで皮膚を犯された女性も湯屋に入ることができ、湯浴みは病を治すと考えられていたことです。また、尼寺法華寺では光明皇后がらい病者の垢を擦る話が伝えられ、中世には広く知られた話になっていたようです。
 らい病救済を積極的に行った奈良西大寺の律宗僧侶たちです。
その長老覚乗は信徒に「葬式に関わった後は穢れていないか」と問われて、清浄な戒律を守っている者は汚れないと答えます。このとき、白衣の童子があらわれて、それを認めて去ったと伝えられます。童子を神の使いとすると、律僧の行動はケガレに敏感な神祇からも認められた行為だったようです。
 こうして湯屋は身が清められて、聖なるものが出現する清浄な場と考えられるようになります。
そのため湯屋は僧侶たちの集会の場として使われるようになります。湯屋で決められたことは、清浄な場で話し合いの末に出した結論とされます。その決定は、僧集団の行動を一つにするにために、重要な役割を果たすようになります。裸のつきあいは、この時代から大切だったようです。
やがて南北朝期になると、時宗の京都六条道場では入浴者に料理が出されるようなります。
こうなると入浴とご馳走がセットになって、寺院の風呂は「休息・娯楽の場」の役割を濃くしていきます。戦国期の時宗寺院では歌・音楽を禁ずる禁制が出されています。禁止されると云うことは、逆読みすると、そのようなことが行われていたということになります。この時期の時宗寺院は、限りなく遊芸を提供する施設で旅宿化していたことがうかがえます。
中世湯屋 諏訪遊楽図

 こんなことが背景に有るのでしょう。美作国塩湯郷の永禄11年(1568)の地頭の掟には、湯屋造営は地下人の役で毎年春秋に興行すべきこととし、湯屋の管理をするものは湯旅人の役銭を徴収すべしと定めています。ここには、湯施行の姿とはちがった、現在に通じる湯治・娯楽としての湯が姿を見せていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①寺院の湯屋は、沐浴として穢れをはらう場ととして七堂伽藍の一つで重要な建築物であった。
②そのため湯屋は特別な施設として、集会などにも使用された
③中世になると周辺住民にも開放され、寺院の庶民化の一翼をになう施設になっていく。
④湯屋施設の維持のために、有力者が寄進を行ったりするようになる。
⑤時宗寺院では、入浴と料理がセットになり娯楽的な施設も登場してくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館


 真言密教の影響を受けた中世の国家儀式は、どんな形で行われていたのでしょうか。
空海は,本格的な密教と二つの新しい儀礼を中国から請来しました。
①現世利益をもたらす修法と
②密教への入門儀礼である結縁灌頂、師資相承儀礼の伝法灌頂
この儀式を行うための新しい儀礼空間が必要とされます。そして次のような密教の諸道具が整えられます。
①絵画(両界曼荼羅・別尊曼茶羅・祖師影像その他)
②法具、各種の壇(大壇・護摩壇など)
 この儀礼空間の中で大規模なものが、宮中真言院でした。正面五間、奥行二間の母屋に、一間の庇をめぐらし、母屋内部には両界曼荼羅を東西に対置させて、その前で密教僧が供養法を行うものです。
DSC04109

密教の儀礼というと「加持・祈祷」が思い浮かびます。
庶民はもとより、貴族にとっても「加持祈祷」は、日常生活とはまったくちがう空間で行われる異体験でした。私も、小豆島の島遍路の霊場で最初に護摩祈祷を体験した時の空間に驚いたのを思い出します
異香に満ちた密室空間
幾何学風の曼茶羅
念怒相の明王などの本尊
音読される陀羅尼
象徴作法を演じる僧侶
など非日常的な空間を作り出します。日本社会に基盤をもたない密教儀礼は、宋・遼風の八角九重塔をもつ白河天皇発願の法勝寺のように、数十・数百の新造本尊を前に、多数の壇を設けて行われることもあったようです。まさに、異国風の異文化の象徴だったのかもしれません。
国家儀礼としての密教修法の第一は、後七日御修法です
密教 後七日御修法
後七日法略記 元弘3(1333)年

これは天皇の安泰を願って、正月第二週に行われる行事で空海最晩年の創始と言われます。これが次のような要因を背景に中世の国家法会に脱皮していきます。
中世密教の成立
担い手たる東寺の権門化
天皇制の変化

それでは「後七日御修法」は、どのような空間で行われていたのでしょうか。
密教国家儀式

それが描かれているのが上の「年中行事絵巻(田中本)」です。平安時代の官中真言で行われた「後七日御修法」の儀礼空間が描かれています。絵画資料として見ていきましょう。
①東西に長い堂を南から俯厳した構図です。(正面が北)
②堂内部の東西に両界曼茶羅を対面させ、その前に大壇が置かれます
③北側に五大明王が掛けられ、中央に不動明王、そして四天王が配されています。
④東側の外に十二天の絵画が掛けられています
この配置は、現在も東寺灌頂院で行われているものと同じのようです。どんな儀礼が行われたのでしょうか。
①幕を巡らして薄暗い室内をつくり、内部で阿閣梨が修法を行う。
②両界曼茶羅、五大明王の絵画は、灯明に照らされ、描かれた仏の姿が浮かび上がる。
③曼茶羅の前方に置かれた大壇上の法具は、金に鍍金され、鈍い光を発している。
④阿閣梨は呪を唱え、印を手に結び、即身成仏の境地に達する。
⑤外側の床に列座する助修の僧侶は、同じく呪を唱え続ける。
⑥護摩壇からは炎があがり、その光が間欧的に、薄暗い堂内に反射する。
以上が研究者が考える儀礼の様子です。
中世寺院 後七日御修法再現

この宮中の儀式を模して、両界曼茶羅を対面させて掛ける形式をもつ建築が、東寺、東大寺、高野山、仁和寺など密教有力寺院には作られるようになります。同時に、法具類も用意されます。
DSC04109

そして寺院の場合は、結縁灌頂と伝法灌頂のための舞台として使われるようになります。時代が下ると、施設は持たないまでも、これらの絵図や法具をもつことが寺院のステイタスシンボルになります。そのため善通寺のような地方の真言有力寺院は、競って曼荼羅や不動明王・四天王の絵図を集め蔵するようになります。それが国家儀礼に連なる道でもあったからです。
 修法の場合は、必要な道具は、仏画、法具壇、などです。
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これらは簡単に移動することができます。そして適度な大きさの空間があれば、どこでにでも設営することができました。これなら地方寺院も手をだすことができます。同時に宮中や貴族の邸宅でも、験力のある修験者(僧侶)を招いて祈祷はおこなえます。これが各種の修法が頻繁に、貴族達の間で行われた理由のひとつのようです。
宮中真言院でおこなわれた後七日御修法は、東寺長者が主導するものでした。
しかし、真言宗が小野・広沢の両流に分かれ、儀礼について争論があきるようになり、その違いが重要な問題となります。それはある意味、自己の存在理由の宣伝の場でもありました。同時に、作法、設営の複雑さから、記録・指図が多数作られ、また編纂されて、次回の設営の参考とされるようになります。醍醐寺関係史料のなかに、後七日御修行法の設営を示す多数の指図が含まれているのは、そのためのようです。密教の法脈伝授儀礼である灌頂も、有力密教寺院で行われてきました。
こうして、国家法会を中心に中世の日本密教は形作られていきます。
注意しておかなければならないのは、密教諸派閥が個別に秘密口伝として相承していたわけではないことです。各派閥は対立する一方で、修法の百科全書(『覚禅砂』や『阿娑縛砂』)などが編集され、知識の共有化は進みます。また、修法に不可欠な本尊や道具を、院が秘蔵して「有効利用」することもありました。
例えば、如法尊勝法は、白河院時代に真言小野流の祖範俊が考案したと云われます。
久安二年(1146)に鳥羽院の命で寛信が行って以来、次第作法が整えられていきます。
如意宝珠 | 宙遊舞

そして、鳥羽院の意向で、本尊の如意宝珠は、修法中のみ院から与えられて大壇上の塔中に置かれることになります。三週におよぶ期間中、鳥羽院は何度も参加し、「客人斉々、見る者目を驚かす」(『覚禅砂』)という演出ぶりだったようです。 こうして権力の意思で「新奇な国家法会」が創設演出されることになります。
  
 密教 後醍醐天皇
藤沢清浄光寺所蔵の「後醍醐天皇像」
 ここに描かれている後醍醐天皇は有髪俗体です。
ところが、袈裟を付け密教法其を持っています。そして背後には「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」の神々を背負っています。
 これを「聖俗両界における権威を顕示した異形の姿」と研究者は指摘します。この肖像画に象徴されるように後醍醐天皇は両界にわたり個性的な行動と痕跡を残しています。
王法が外護する仏法、仏法が護持する王法

という古代以来の原則を掲げて、中世の寺院社会は公家との深い関係を保ち続けました。それが中世になると「外護」という枠を大きく超えて、深く寺院社会に足を踏み入れた天皇・上皇があらわれてくるようです。
参考文献 中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館

 修験道は、里人のお山信仰と深くつながっていたようです。今回は、修験と里人のお山信仰を比較しながら関連づけて行くことにします。テキストは   宮家準 修験道とお山信仰 修験道と日本宗教所収です 
◇ 蔵出し品 明治期頃 山岳信仰 「大峯山 曼荼羅」 彩色印佛 軸装品 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版
大峰曼荼羅

 修験道には、お山を曼荼羅ととらえる世界観があります。
平安時代初期に成立した『大峰縁起』の中には、次のような仏教聖界が説かれます。
①吉野から熊野に到る大峰山系の吉野側が金剛界曼荼羅、
②熊野側が胎蔵界曼荼羅
③大峰山の峰々に金剛界、胎蔵界の各部の諸尊が配置
 胎蔵界という言葉から分かるように、お山を「母なる山」とし、そこで修行することによって再生するという宗教思想がすでに生まれていたことが分かります。
絹本著色熊野曼荼羅図(西明寺)/甲良町ホームページ
熊野曼荼羅

密教の教義では、曼荼羅は宇宙そのものを神格化した大日如来、すなわち宇宙の全体像をさすものとするようです。
この視点からお山を金剛界、胎蔵界の曼荼羅ととらえる「宇宙山」の思想が生まれます。宇宙山は世界の中心軸をなす黄金の山で、吉野の金峰山が国軸山、金の御岳と呼ばれるようになります。
しかし、これはすでに行者達によって存在していた山中他界観を密教の立場から説明したものに過ぎないように私には思えます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰(その1) 【寄稿文】 福江 充」 | ZIPANG-2  TOKIO 2020

 日常の世界とは違う「他界」としてのお山を捉え、そこを仏の世界とするとらえ方からは、密教的色彩の強いお山曼荼羅観が成立しました。もっとも早いものは、奈良時代末までさかのぼるもので、お山や海岸近くの岬などを観世音菩薩の補陀洛の浄土とする信仰です。
熊野の那智山
東北の月山
関東の日光
四国の足摺岬
大和の松尾山
などが修験道の行場としてさかえます。
瀬戸内海に着き出した岬や海岸などが補陀洛浄土の出発地点とされ十一面観音などの観音がまつられている所は、讃岐にもいくつかあります。東から志度寺、屋島寺、根来寺、郷照寺、道隆寺、海岸寺、観音寺などは補陀洛信仰の痕跡がうかがえます。
兜率天とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
弥勒菩薩の治める兜率天
 次いで平安時代になり、末法思想が盛行し弥勒菩薩の信仰が人々の心をとらえるようになちます。
そうするとお山を弥勒菩薩が説法している兜率天の四十九院とする信仰が生まれてきます。
平安時代末期の『諸山縁起』は、大峰山の内に四十九院があるとしたり、『彦山流記』に彦山四十九窟があると説くのは、こうした弥勒信仰からきているようです。
やがて浄土思想が流行するようになると、お山に阿弥陀の浄土が描かれるようになります。熊野本宮や白山など阿弥陀如来を本地物や本尊とする霊山は、多いようです。
古代の人々は、お山を死霊・祖霊の居所と信じていたと民俗学者は云います。
 観音の浄土補陀洛を信じる人々は、遠く中国の舟山諸島にあるとされた補陀洛に往生することを願って、那智や足摺の浜から船出する行者たちを生み出します。また吉野の金峰山などは弥勒の浄土とされていましたので、そこへの参詣も、死後は兜率天に往生して弥勒の説法を聞くことを願ってのことでした。もちろん熊野への参拝は、阿弥陀の浄土での極楽往生を求めてのことでした。
つまり次のような分業体制があったことになります。
①観音菩薩=補陀洛信仰=熊野那智 
②弥勒菩薩=兜率天信仰=吉野金峯山
③阿弥陀菩薩=浄土信仰=熊野本山
こうして各地の霊山には、お山の景勝地に「弥陀が原」など浄土を指す名称が付けられていきます。 これを「山中他界観」と云うようですが、そこにはお山に骨をおさめたり、墓地を作ったり、供養塔を建てるというようなことも行われるようになります。東北の山寺(立石寺)、高野山などでは、これに修験者が関わることがもあったようです。ここから山岳寺院の中には、納骨の風習が残っているところがあります。それが「死者の帰っていく山」と呼ばれた霊山で、讃岐では三豊の弥谷寺が有名でした。近年では、修験関係の社寺では祖霊殿を設け、遺骨などをあずかっている所が増えているようです。
 修験者自身も、死後は死霊となってお山に帰ることであるとして、死亡を「帰峰」と呼ぶ人も多いようです。霊山にある供養塔や木曽御岳の霊神碑などは、死霊となってお山に帰った修験者の霊を弔うためのものなのです。
 お山には浄土や極楽だけでなく、地獄もありました。
立山山岳信仰 (吉村外喜雄のなんだかんだ)
立山曼荼羅地獄谷部分

 立山や白山・大山のように火山だったお山では煙や熱湯が噴き出している所を地獄谷と呼んでいます。そこには極楽往生できぬ死霊が徘徊していると云われます。そして、供養のための「作善」として、小石が積まれたりするようになります。後世には、修験者がお山の極楽と地獄を描いた曼荼羅を持ち歩いて、極楽往生のための参詣を勧めるようになります。
泉光院の足跡 175 立山の地獄 - ヨリックの迷い道

 極楽には阿弥陀如来が、地獄には奈落に苦しむ死霊を導く仏として地蔵菩薩が配置されます。次第に地獄のおそろしさが強調されるようになると、死霊を極楽に導く地蔵菩薩への崇拝度が高まります。それに従って地蔵菩薩の対偶仏として天界を支配する虚空蔵菩薩が極楽の仏として崇められるようになります。
虚空蔵菩薩 - Wikipedia
虚空蔵菩薩
もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で行者が守護仏として重視した仏だったようです。それが空海が虚空蔵求聞持法のために修行した仏として有名になります。こういう背景があるためでしょうか、伊勢の朝熊山をはじめ当山派・修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としていることが多いようです。

霊山にある奇岩、巨石、滝、泉などは、神霊が宿るものとして、崇められていました。
すぐれた霊地の神霊、山の神、水分神などは、とりわけ大きな霊力を持つとされます。蛇・狼・狐・熊などの動物は、こうした神のあらわれとしておそれられ、信仰されたりもします。なかでも竜や蛇は各地のお山で水分神の体現とされていました。

理源大師の大蛇退治

 当山派修験には、開祖とされる聖宝(理源大師)が大峰山で大蛇を退治したという伝承があります。お山に入った修験者が竜を退治したという伝説は、修験者がお山の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているようです。つまり、降雨をコントロールできる霊力をもつ存在とされ、雨乞い祈祷を行うようになります。讃岐でも、村々で行われた雨乞い祈祷は、念仏踊りも、綾子踊りも山伏たちが主導していたと私は考えています。
 お山を曼荼羅とした場合には、いろいろな神霊は曼荼羅内の諸尊に当てはめられました。
大峰山などでは、その主要な八ヵ所の霊地に峰中修行の宿を設け、そこに役小角が体得した金剛蔵王権現の巻属である大峰八大金剛童子が一つずつ祀られています。大峰山中には、この八つの宿を含めて百二十(実際は七十余)の宿が設けられていたといいますが、その多くは修験者がお山に入る以前から神霊をまつる霊地であったようです。。
 葛城山系では、拝所に法華経二十八品を一つずつおさめて経塚が作られています。
葛城二十八宿経塚巡行 滝畑金剛童子から境谷、梶路峠、郷ノ峠 - 葛城二十八宿経塚巡行

その主な所には葛城八大金剛童子が配置されています。修験者がお山に入る以前には、ばらばらにあったお山の霊地が、修験道の影響のもとに一定の世界観にもとづいて体系化されていったようです。このように山中に、童子をまつったり、宿や経塚を作ることは、大峰や葛城などの以外の全国各地のお山の修験道場でも行われるようになります。
お山は邪神邪霊、邪鬼や神霊の使いである動物のすむ魔所として、里人は畏れていました。
 魔所に入り込んで修行する修験者を、邪鬼や動物霊と闘い、それを降伏させ命ずるままに使役する存在と畏れ敬うようになります。
役行者のこと
役小角と前鬼、後鬼
役小角が大峰山中で前鬼、後鬼を使役したとの伝承、修験者が飯綱を使ったとの民間伝承は、こうした力を体得した修験者の活動を示すのでしょう。同時に、修験者が信仰対象になっていく姿がうかがえます。
 さらに修験者は獅子にも変身したようです。
岩手県早池峰山麓の山伏神楽の権現舞では、魔界の王者である獅子(権現様)に変身した山伏が村人の安全を祈って舞います。
篠木神楽 | 滝沢わくわくNavi | 滝沢市観光協会【公式観光ポータルサイト】

羽黒山の修験者が峰中で用いる鈴懸の模様は獅子です。これは修験者が獅子への変身していることを表しているようです。秋祭りの獅子舞の起源もこの辺りにあるのかもしれません。
小田代神楽 権現舞 @祀りの賑い - 祭りの追っかけ

 天上や地下の境界であるお山で修行する修験者は、超人的な性格を持つ宗教者としてとらえられていたようです。ここから山伏を天狗としておそれる信仰も生まれます。修験者は、人間であり、鳥の姿をした天狗とされたようです。天狗信仰は、山伏の活躍する霊山に根付いています。金毘羅大権現の象頭山も天狗が住む山とされていました。修験者が根付く霊山だったのです。
天狗さま | 天宮の歳事記ブログ
 
また、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいたようです。
修験者が峰入に際して頭髪を一寸八分の摘髪にしたのも、僧でもなく俗人でもないことを示すためのものだったされます。修験者を半僧坊と呼ぶのもこうした性格を示していようです。このように修験者は、天上や地下の他界と此の世の人間を結ぶ「境界人」とされていたのです。
 修験者の峰入は、春夏秋冬のそれぞれに行なわれていました。
これも次のように人々のお山登拝が起源にあるようです
①「春の峰」は卯月八日の山あそびが基にあるようです。
大峰山寺の戸開式は、戦前は旧暦四月八日に行われ、修験者は山上の石楠花を手折って下山したといいます。これは、山上で山遊びをした乙女が花を手折って下山する卯月八日の行事に通じます。
②当山派の「花供の峰」は、六月に大峰山中の拝所に花を供えてまわるという行事です。これも、お山を旅する人々が霊地に花を手向けて旅の安全を祈った習慣に似ています。
③七・八月頃に、信者が大峰山に登拝する「夏の峰」は、大和地方で盆山と呼ばれています。これも、山中に眠る祖霊に会いに行くための峰入だったようです。羽黒山でも夏の峰は、月山から祖霊を迎えるためのものとされています。
④山伏が一定期間山中に寵る「秋の峰」
 羽黒山の「秋の峰」は子供たちの通過儀礼(成人式)の役割を果たしてきました。これももともとは修験者が、冬にお山に留まり春先に里に下って農神を守る山の神の力を体得するために、山の神が山中に留まっている間は、修験者も山中で修行したことと関係がありそうです。冬の峰の出峰の日が、山の神が里に下るとされる卯月八日にあたることも、これを裏付けます。
 冬の峰の修行者は、山中で年を越したことから晦日山伏と呼ばれ、特に験力に秀でた者として崇められたようです。
晦日山伏は出峰後、修行によって獲得した験力を競うために験競べを行なっています。十二月晦日から元旦にかけて行なわれる羽黒山の松例祭の鳥飛び・兎の神事・大松明まるき・火の打ちかえなどの競技は、冬の峰終了後の験競べの面影を今に伝える行事だと研究者は考えているようです。
PayPayフリマ|絶版 週刊日本の祭り 松例祭 大日堂舞楽 なまはげ芝灯まつり 出羽三神社山松例祭 山形県羽黒町羽黒山 秋田県鹿角市 秋田県男鹿市
羽黒山の松例祭の鳥飛び
 お山修行を終えた修験者は、山の神を招いて祭をし、託宣させる宗教者として活躍します。
①福島県の葉山まつりは、修験者は葉山の神を招いて憑依させ託宣を下す。
②木曽の御岳の神を中座につけて託宣させる御岳講の前座
③山中の護法を憑りましにつける美作の護法祭の修験者
などは、いずれも山の神霊が修験者に憑依し、神霊を操作する宗教者とし振る舞います。他にも
①権現と化した修験者が舞う早池峰の山伏神楽、延年の舞、
②修験的色彩の花太夫が榊鬼に神つけをする奥三河の花祭
③美作の荒神神楽
④石見の大元神楽の託舞
は、お山修行によって験力をえた修験者が山霊となり、分霊を使役する芸能です。以上をまとめておきます
①山岳信仰は、霊山を神々の鎮まる霊地として山麓から拝む神道となって展開するようになる。
②一方でお山に入って修行することによって山の神の力を身につけ、それをもとに呪術宗教的な活動をするという修験道を生み出した。
③修験道は、修行や呪験力を権威づけるために、仏教思想と混淆する。
④里人の山入り慣習にあわせて峰人修行行事を組み込み、仏教の成仏観をとり入れて、成仏や験力の根拠を説明するようになる
⑤こうした世界観を広げることによって、里人の現世利益的な願いや求めに応えて、呪術的活動を行うようになる。
⑥そして、近世には里人だけでなく都市庶民の間に深く浸透していき、流行神を登場させたりすることになる。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収

  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
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丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
DSC07605
大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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水主神社 古代郡名

 旧大内郡は讃岐の東端にある郡で、引田郷・白鳥郷・入野郷・与泰(田)郷の四郷からなります。その構成は、西に「中の山」(中山)が境界となり寒川郡と分かたれ、南は、讃岐と阿波の「中の山(大坂峠)」があって、両国を隔てます。さらに、郡内にも「中山」(伊座)があって引田郷と白鳥郷を分けます。そして、北と東は瀬戸内海に面し畿内と接します。 
中世の旧大内郡には、ひとつの宗教文化圏が形成されていたと研究者は考えているようです。
 南北朝期から室町期にかけて三方を山に囲まれ、北は瀬戸内海に広く開いた大内郡に花開いた宗教文化が形作られていたというのです。その中心が水主神社やその神宮寺の与田寺であったといいます。そして、その頂点の時代を象徴するのが増吽という真言密教系の僧侶であったと指摘します。

水主神社 地図
大川郡に形成された中世文化圏がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
旧大内郡には、中世以前の大般若経600巻を保有する寺社が二ヵ所あります。それだけの歴史と勢力を持っていた宗教施設と考えることが出来ます。
肉筆 古写経 大般若波羅蜜多経 全600巻揃 室町 江戸初期 中国経典経本唐本 真言宗天台宗 仏教密教 大般若経  古筆仏書和本古文書写本仏画(掛軸)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)
オークションに出されていた写経大般若経六百巻

まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
写経は、経典の一字一句を書き写すことですが、功徳の最も大きい行為だとされてきました。
①朝廷や諸経寺の写経所では、専門の写経生らが書き写しました。一般の僧俗らも盛んに写経を行いました。修験者たちも山野での修行と同じように、写経は修行ともされ、功徳ともされていたようです。
②写経は大般若経が主流でした。これは600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し、納めたのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます
③大般若経を真読する法会を大般若会といいますが、その目的は、現世安穏(あんのん)・菩提追修の祈願と国家安寧のための祈願のふたつがあったようです。これが、しだいに各階各層を越えて各地で流行するようになります。室町時代になると真読するのではなく転読することが盛行するようになります。
①真読は600巻すべてを読誦するために多くの僧侶と時間が必要です。
②そこで考えられた短縮方法が「転読」です。転読は、巻頭の経題と数行を読んで次に移る方法です。
③巻子本では、巻き取りに手間と時間がかかるため折本が使われるようになります。
④さらに、折り本を片手に巻末を扇状に広げると経文を読み通すような様になります。華麗な動作は、転読に主る祈願法会の「華」でした。
大般若経600巻を一気読み!日龍峯寺で大般若祈祷会が行われました! - 伝説ロマン溢れる津保谷(TSUBODANI)のブログ

旧大川郡で大般若経があるのは大内町の水主神社と白鳥町の若王寺です。
香川県内には古代・中世の大般若経六〇〇巻揃えて保存している所はほとんどありません。この2ヶ所以外では
①丸亀市の正覚院
②庵治町の願成寺
③観音寺市の宝寿寺
④高松市の随願寺(戦災で焼失)
だけです。その中でも、水主神社の大般若経は、国の重要文化財に指定されています。この経は、もともと巻子本であったものを転読しやすいように折本に仕立て直しています。600巻の中の7巻に奥書があります。さらに、その7巻の内巻388には、保延元(1135)年の年紀があります。ここから平安時代後期のものを中心に、鎌倉から室町時代にかけて補写したものが混しっていることが分かります。
秋の大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ) | 成田山 東京別院 深川不動堂
経函に保管された大般若経

 この経は、「牛負大般若経」と呼ばれてきました。
それが何故なのかは、経函の底に書かれた墨書から分かります。そこには「水主神社大般若経函底書」書かれ至徳三(1286)年に水主神社の末寺であった仲善寺の亮賢が勧進して作らせたものであることが記されています。
そして、伝来については次のように記します。
破損した箱を新たな物に交換する際に、書き直したと注記して次のように水主神社大般若経の由緒を記しています。
 本云伝聞、此大般若経、元伊予国石鎚社所奉安置御経也、而自彼国奉送当社之時、負牛運送之間、於泥中奉落、失般若二巻、雖然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形上、件子細具感夢想之間、参詣当社 此経内二巻書写之、奉加之、此子細聞及之間、為後代記之、洛陽比叡山末流阿闇梨幸厳

  意訳変換すると
 次のように伝え聞いている。この大般若経は、元は伊予国の石鎚社に奉安されていたものである。それが牛の背中に乗せられて運ばれてきた際に、泥の中落ち、般若二巻を失ってしまった。しかし、牛負大般若経の功徳を伝え聞いた沙門が阿現れ、当社で失われた二巻を写経し、奉納した。この子細については、後代の記録でよく知られている。比叡山末流阿闇梨幸厳

  ここからは次のような事が分かります
①この大般若経、元は伊予国石鎚社にあったものを移管したこと
②その際に牛によって運ばれてきたので牛負大般若経と呼ばれるようになった
③輸送中に亡くなった2巻については、写経し完成させた。
 このような牛負(荷)伝承は、仏教説話として各地に残るのもので、ありふれた内容です。しかし、面白いのは、伊予の石鎚社にあった経巻を水主神社に納めていることです。石鎚社は、長寛元(1163)年以前に、すでに熊野権現が勧請されて『梁塵秘抄』にも有名な修験行場の一つに数えられているように四国における熊野信仰の一大拠点でした。当然、伝来した時には水主神社でも熊野信仰が盛んで、熊野行者が相互に頻繁に往来していたことがうかがえます。
   それでは、だれが、いつ大般若経を石鎚社から水主神社にもたらしたのでしょうか。
 経巻奥書と函書に出てくる3人の人物で研究者が注目するのは、阿闇梨伝燈大法師幸厳です。彼は、牛負伝承の伝聞者であると同時に、仁治元(1240)年八月十七・十八の両日それぞれ巻186と316を書写した人物です。そして幸厳は、境内にある御幸殿に祭られています。これは大般若経六百巻をもたらした功によるものではないかと研究者は考えているようです。
   幸厳は、天台系の修験者を自ら示唆しています。
伊予石鎚社の横峰寺の最澄の弟子が仁寿四(854)年、延暦寺別当になっています。これらの関係を併せて考えると大般若経が水主神社に移されたのも唐突ではないようです。

至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①経函製作のための桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものでしょう。水主の地理的環境からして前者と研究者は考えているようです。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。
水主神社 那賀川流域jpg

それでは、「皆阿州吉井ノ木」とある吉井とはどこなのでしょうか。
阿波の吉井は、阿波国那珂郡の南北朝期、東福寺普門院領であった大野本荘にあたるようです。大野本荘の本所は、一条家です。この荘園は、鎌倉時代から熊野信仰の盛んなところで、正安二(1300)年三月三日付けの先達栄賢引旦那注文案(米良文書)によると、大野本荘にあった岩嶺寺の先達に導かれる旦那33家が目録に記されています。熊野先達にとっては、有力な旦那衆がそろっていたところだったようです。
 また、地図で分かるとおり吉井の地は、那珂川の下流に位置します。この川の上流は、鶴林寺や太龍寺があり、真言系僧侶(修験者)たちが山林管理も担当していたようです。また、紀州からやって来た集団の寄進を受けていたことは、以前にお話ししました。那賀川流域の流通・交流に熊野修験者のネットワークは大きな影響力を持っていたようです。ある意味、那賀川流域の木材の流通圏を握っていたのかもしれません。木材等は、那賀川で河口に運ばれ、そこから遡上して水主神社まで運ばれた可能性もあります。後世には、阿波木材は堺に運ばれ三好衆の大きな財源となっていたようです。そのようなルートが中世からあったと考えられます。

  大内郡における神仏習合
 旧大内郡は、13世紀後半以降、南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせます。そのため南北朝以降も新仏教勢力が浸透・定着が進まなかったと研究者は考えているようです。そのことを、当時の大川郡における神祇信仰から見ていきましょう。

水主神社 地図
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
先ほど見た大般若経の函書にあるように、大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですがは、「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会 幕末)
坊舎をふくめると100を越える数になったとでしょうし、与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。
 水主神社の残る神祇信仰関係の文化財を見てみてみましょう。ここには次のような国指定重要文化財があります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像 女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対
P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)

P1120167水主神社 女神3
女神像2(水主神社)

P1120169水主神社 女神4
女神像4(水主神社)
大水主神社獅子頭  松岡調
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会 松岡調筆)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。狛犬や獅子頭は、中世の村々に神社が姿を現し、本殿が造営され、その中に神像が納められていく時期にあたります。与田寺周辺にあった工房で作られて、周囲の寺社に提供されていたことが考えられます。
  どちらにしても香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはないと研究者は評します。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も大内地区は隆盛を迎えていたのです。これが後の浄土真宗の大内地区への教線拡大が進まなかった要因のひとつだと私は考えています。
大内郡全体を見てみると、誉田神社が2社あります。
引田の亀山と旧誉水村横内です。この二社は、県下の誉田神(応神天皇)を祭っている神社の多くとは異なり、中世以前の勧請で古社です。郷八幡社は、『宝蔵院古暦記』によれば、承平一(936)年秋八月に一郷一八幡勧請によって創始されたと伝わります。
 引田の誉田神社は社伝に、承和八(841)年に河内国誉田八幡宮を勧請して、当初中山伊座に祭祀していたものを延久元(1069)年、現在地へ遷宮したと記します。
 横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
 八幡神は、神仏習合の強い神で、源氏の氏神とされて以来、鎌倉時代からは盛んに武神としても祭られるようになります。河内の誉田八幡宮の創始は、平安時代末期のこととされます。したがって、大内郡の誉田神社両社の勧請は、それ以降のことになります。そうだとすれば、与田郷に地頭職を得て東国から遷住した小早川氏の勧請が考えられます。
 引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
  しかし、神祇信仰では、大内郡では圧倒的に水主神社の勢力が強かったようです。
このことは、江戸時代になっても松平頼重が水主神社の強勢に対抗させるため白鳥宮への保護政策をとったことからもうかがえます。このように、大内郡の宗教文化は、仏教と神祇信仰との習合と競合によって隆盛を見ることができました。その中心にあったのが水主神社と、その別当の与田寺であったようです。それは、熊野系修験者(真言密教僧侶)に担われていたようです。そのため、熊野行者のネットワークを通じて、水主神社は阿波や伊予の石鎚、或いは備中児島の五流修験、紀伊熊野と結びつけられ、活発な人とモノの交流が行われていたようです。
 その例が伊予石鎚社からの大般若経の奉納であり、阿波那賀川流域からの木材の寄進にみられました。また、熊野参拝の四国側の集結地点にも当たります。熊野参拝を目指す先達に連れられて、この地にやってくるきて信者への宿泊や行場を提供したはずです。その外港である引田港は、熊野水軍の拠点として寄港する舟も多かったことは以前にお話ししました。 
  四国巡礼(八十八ヵ所)の始発(打ち出し)上陸地は、金毘羅参詣の隆盛に押されるまでは、引田・白鳥・三本松が圧倒的優位を占めていました。
 大内郡における宗教文化を中世讃岐の文化史上に、正しく位置付けようとする試みが研究者によって続けられているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

同行二人 蓑笠

  私が持っている笠にも同行二人(どうぎょうににん)と書かれています。「同行二人」とは、お遍路さんがお大師さんと二人づれという意味と教えられました。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。そのため杖は大切に扱うように教えられます。
 それでは「同行二人」という考え方は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  「同行二人」のことを説明するときに語られるのが、右衛門三郎のお話です。この話を最初に見ておきましょう。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

   翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれました。その子は左手を固く握って開こうとしません。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたといいます。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。


同行二人 右衛門三郎伝説

右衛門三郎伝説の「石」は現在も石手寺(松山市)に奉られているようです。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)」が今も点在しています。右衛門三郎伝説は、近世になって石手寺の高野の念仏聖たちによって作られたと研究者は考えているようです。
この話が四国遍路の始まりと先達は語ります。
ここには、亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話です。これが大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰になります。つまり弘法大師は、今も四国霊場を巡礼すると同時に、巡礼者達を見守っているという「同行二人」信仰につながっていくのでしょう。
 そのためには、弘法大師は今もなお生き続けているという信仰が前提となります。
それは「弥勒入定信仰」から生み出されたもののようです。同行二人の基になる弥勒入定信仰を探ってみようと思います。テキストは武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程  です。

 右衛門三郎伝説以前の「同行二人」信仰について見てみましょう。
元禄三年(1690)の真念「四国遍礼功徳記」賛録は、次のように記されています
 遍礼(遍路)の事、或人のいへるに、大師の御記文(御遺告)
とて伝ふるに、身を高野の樹下にとどめ、魂を都率の雲上にあそばしめ、所々の遺跡を検知して、日々の影向をかずかずとあり。
 此文世の人信じあへる事にて、人々の口耳にとどまる事となんぬ。御遺跡へは大師、日々御影向あるにより、八十八ケ所の内いづれにてぞは大師にあひ奉といひなせるは、此よりなりと予江戸にありし時、ある人のいふをきけば、四国遍礼すれば大師にかならずあひ奉ると聞しにより、
 われ遍礼せし時、日々心をかけて、けふはけふは待しに、二十一日にてありしに、あんのごとく大師にあひ奉りこそ有がたけれと、手をあわせてかたりける。予いか様のすがたにてましましけるやといひければ、くろきぬの衣をめしけると覚え、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へ征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、ただ目を閉じ拝み奉る計にてすぎぬとなり、此たぐひ又おほし。
意訳変換しておきましょう
遍礼(遍路)のことについて、ある人から聞いた話によると、大師の残した文書には、身は高野の地に留めるが、魂は都率の雲上に遊び、四国の遺跡(霊場)を、日々巡り訪ねると書かれている。
この文章を信じる人たちによって、世に広められめられたようだ。大師が今も四国辺路を廻っているのなら、四国辺路すれば必ず弘法大師にあえるというのはここから来ているのだと思うようになった。真念が江戸にいた時に、弘法大師に会うために四国辺路した人から次のような話を聞いた。
 今日こそ、今日こそ出会えるかと心待ちに願っていたが、ついに21日目に弘法大師に出合うことができたという。まことに有難いことで、手を合わせて語りかけたという。真念が「どんな姿をなさっていましたか」と聞くと、「黒い衣を着て、征鼓を首にかけ、念仏を唱えられていました。征鼓は見えましたが、御顔は見えませんでした。ただ目を閉じ、拝んでいただき過ぎていかれました。」と言う。これはたぐいなく貴いことである。

 ここからは『御遺告』にあるように
「身は高野山の樹下に留めているが、魂は都率の雲上におられ、御遺跡(四国霊場)には日々御影向(巡礼)する」

ので「四国辺路すれば八十八ケ所の内のいずれかで弘法大師に出合える」と主張しています。これが弥勒下生信仰・人定信仰のようです。四国辺路には、古代・中世の弥勒信仰や弘法大師人定信仰が大きく影響していると、研究者は考えているようです。
次に進む前に、弥勒信仰の予習メモを見ておきます。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

兜率天(とそつてん)は、仏教の宇宙観にある天上界の一つで、欲界の第四番目の世界です。ここに住むのが弥勒菩薩です。上の図では一番上のゾーンになるようです。弥勒菩薩の登場は、お釈迦様の滅後56億7000万年後とされています。長くて待てない、との思いから弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)が生まれます。輪廻転生を繰り返して成仏を待つより、兜率天へ往生し弥勒菩薩から直接教えを聞く方が早道である、との考え方から兜率天往生の信仰がさかんになったようです。兜率天は弥勒菩薩の浄土として描かれることもありますが、天界は輪廻する世界のひとつですから、阿弥陀様の極楽浄土とはちがいます。浄土は、そこで成仏することができる究極の世界で、寿命は永遠です。兜率天は成仏できる世界ではなく、寿命に限りがあります。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

 古代新羅では、弥勒信仰が盛んだったようです。そのため新羅系の渡来人の中には信者が多く、大きな影響力を持っていたようです。また花浪集団の組織化や「聖徳太子伝説」などとも関わりがあったとされます。空海が生まれた時代にも、弥勒信仰が受けいれられていたようです。それが平安時代の後半から”兜率天へ行こう”の弥勒信仰から”極楽へ行こう”の阿弥陀信仰へと仏教界の流れは変わっていくようです。
仏像の種類:弥勒菩薩・弥勒如来とは】56億7千万年後に降臨する未来の救世主! | 仏像リンク

次に、弘法大師に弥勒信仰がどのように関わっているのかを見ていきましょう。
弘法大師と弥勒信仰との関係は『三教指帰』の中に、すでに見られます。それが高野山の弥勒浄上説や弘法大師入定説などへ展開し、弘法大師伝説へと成長して行きます。

① 弘法大師は『三教指帰』巻下「仮名乞児論」のなかで次のように記しています。
 所以に慈悲の聖帝(弥勒菩薩)、終を小したまう日、丁寧に補処の儲君、旧徳の受殊等に顧命して、印璽を慈尊(弥勒)に授け、撫民を摂臣に教ゆ、(中略)
余、忽に微旨を承って、馬に林ひ、車に脂して装束して道を取り、陰陽(道教)を論ぜず、都史(兜率天)の京に向かう。
とあり、若き日の空海が陰陽の道を進まず、弥勒菩薩がいる兜率天に向かったと、儒教・道教・仏教の中から仏教を選んだ理由を述べています。ここからは空海が弥勒菩薩の上生信仰(じょうしょうしんこう)を持っていたことが分かります。

②「性霊集』巻八「藤左近将監、先枇のために。七の斎を設くる願文」には、
所謂大師、異人ならむや 阿糾哩也 摩訶味鉾紺冒地薩錘(弥勒菩薩)即ち是也。法界宮に住して人日の徳を輔け、都史殿(兜率天)に居して能寂の風を扇ぐ。尊位は昔満じたれども権に辰宮に冊す。元元を子として塗炭を抜済す。無為の主宰、誰か敢えて名け言はむ。伏して推みれば、従四位下藤氏、担には四徳を蛍きて、晩、三宝を崇む。朝に閻浮を厭ひ、夕に都率(兜率)を願う。身は花と共に落ちつれども、心は香と将に飛ぶ。
とあり、「朝に閻浮(この世)を厭い、タベには都率天を願う」と、弥勒信仰を述べ、兜率上生を願っていたことが分かります。
同行二人 遺告

③『御遺告二十五箇条』「後生の末世の弟子、祖師の恩を報進すべき縁起第十七条に
吾れ、閉眼の後には必ず、まさに兜率天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、祗候して吾が先跡を問うべし。

とあります。これは弘法大師自身が、兜率天に往生し五十六億七千万年後に弥勒とともに下生して、自から修行した地を訪れるという意味ととれます。ここでは、弘法大師自身が兜率天に上生し、弥勒の下生とともに弘法大師も下生すると云っています。『御遺告』は、現在では後世に書かれたものというのが定説になっていますが、かつては承和三年(835)3月15日付けで、弘法大師入定の一週間前に弟子に与えた遺戒とされ、権威と効力をもってきました。

  やがて人定後170年後ころになると弘法大師は、生きたまま高野山に入定しているという信仰が登場してきます。
④『栄華物語』に道長が高野に参議した時のことが、次のように記されています。
 高野に参らせ給ひては、大師の御人定の様を覗き見奉らせ給へば、御髪青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、鮮かに見えたり、御色のあはひなどぞ、珍かなるや。ただ眠り給へると見ゆり。あはれに弥勒の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ
意訳変換しておくと
 高野山に参拝し、弘法大師の入定の様子を覗き見させていただいた。髪は青々(黒々)として、着ている衣は塵もついておらず、煤けてもおらず鮮やかに見え、そのお顔の色など、生きているかのようで、眠られているように見えた。弥勒の出世(下生)の時には、目覚めるであろうと思われるほどである。

 ここでは実際に、大師入定の堂を開いてその姿を見たという設定で、その様子が記述されています。ドキメンタリーではなく「物語」なので、許される記述としておきましょう。その姿は「まるで生きているように眠っていて、弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現すであろうことが記されています。
⑤ 康和五年(1103)   十一月の高野山大塔供養願文には
「紀州高野山者、弘法大師延暦年中、入唐求法之後、帰朝解純之時、遙隔万岨遠投三鈷、為値慈尊(弥勒菩薩)之出世、久結禅座而人定之地也」

というように、弥勒下生を願うために大師は、入定したというように変化していきます。
⑥康和六年(1104)に没した経範の『大師御行状集記』では、
「吾入定後、必住兜率他天、可待弥勒慈尊出世、五十六億余之後、必慈尊下生之時、出定祗候、可問吾先跡」

と記されます。ここではいろいろな経過を経て、弥勒信仰から弘法大師の入定説が成立したことが記されています。
⑦これに関連して、町旧市立国際版画美術館本の弘法大師図の賛文を研究者は比較検討します。
我昔遇薩錘 親悉伝印明 発無比誓願 陪辺地異域 昼夜万民 住普賢悲願 肉身証三味 待慈氏下生

読み下し変換すると
「我れ(弘法大師)は昔、薩睡(師)に遇い、親(まのあ)たりに、悉く印明を受け、無比の願いを発して、辺地やあらゆる場所において、昼夜の別なく万民を救済し、普賢菩薩の慈悲に住し、肉身のまま一味に入って、弥勒苦薩の下生を待つ

ここでも弘法大師が五十六億七千万年後の弥勒菩薩の下生を待つとされています。
 
⑧これに関連して、鎌倉時代作の三重・大生院本弘法大師図には、次のように記されています。
卜后於高野之樹下 遊神於都率之雲上  不?日々之影向 検知処々之遺跡

書き下し変換すると
「高野山奥院に住居し、兜率天に遊神し、日々影向し、各地の遺跡を検知す」
意訳すると
「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知(巡礼)する」

となるのでしょうか。これが室町・江戸時代を通して弘法大師御形に、常套句として見られるようになります。この文は「日々影向文」と言われるものです。この起源については、
⑨ 賢宝(1333~98)の『弘法大師行状要集』第五に、
興然閣梨自筆記云、或御筆丈云、卜居於高野樹下。心神雖遊兜率天上 不?間日々之影向。検知処々遺跡、云々東寺定額勝実 善通寺別当下向讃州。件下有此御筆文ム。勝実閑梨岨醐頼昭アサリ弟子也。

とあり、寛治年中(1078~94)に、東寺の定額僧勝実が善通寺の別当として讃岐に勤務したときに、善通寺で大師御筆の「日々影向文」をみたと記します。
⑩ さらに『阿波国太龍寺縁起』には、
卜居於之□□高野樹下 遊神於都率之雲上。庶貨坐会之雲。不閉日々之影向。移大滝之月。検知処々之遺跡。

とあり、兜率天の雲上にありながら、大瀧山に移る月を見るように、四国霊場を今も見守っていると記します。この縁起は承和3年の真然選とされますが、それをそのまま信じることはできないようです。

以上から「日々影向文」は、『御遺告』などに基づき成立したことがが分かります。
これが盛んに使われ出すのは鎌倉時代中期になってからのようです。そして興然(1121~1203)や勝実などのことを考慮すれば、平安時代後期には、「日々影向文」は知られていたようです。「日々影向文」を記した『阿波国大龍寺縁起』が、21番札所の縁起となっていることは「処々の遺跡を検知」という信仰、つまり弘法大師が聖跡を巡るという信仰と同じ地平に建っていることを示します。
 以上から「弥勒下生の時、人定を出て、私の旧跡(四国霊場)をたずねよう」とすることは、『御遺吉』から展開してきたものであることが分かります。
 弥勒下生説は、弥勒が下生する時に弘法大師も高野山奥院の人定から出て、自らが修行した旧跡をたずねるというのです。しかし、これでは、弘法大師に逢うためには、五十六億七千万年後の弥勒下生の時まで待たなくてはなりません。
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 そこで、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えるという説が登場してきます。
 熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者にとって、弘法大師の聖跡を廻る目的の一つは「日々影向文」にあるように弘法大師に出会うことでした。これが大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることに発展したのではないでしょうか。近世になって庶民が辺路巡りをするようになると、その傾向が益々強いものになります。その要望に応えて「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出しいったと研究者は考えているようです。

真念『四国偏礼功徳記』贅録の内容を再確認してみましょう              
 八十八ケ所霊場を巡る目的の一つに、弘法大師の遺跡(八十八ケ所霊場)を巡ることにより、大師に逢い奉ることが記されています。真念は、辺路の意義をしっかりと認識していたことは間違いありません。その背景や起源にある、弥勒下生信仰や人定信仰を継承していたとも言えます。
 このような弘法大師と弥勒との関係は、弘法大師の本地は弥勒菩薩だという考えを生み出します。
つまり弘法大師=弥勒菩薩説の始まりです。
ここから新たな弘法大師像が作り出されます。通常の弘法大師図は右手に金剛杵、左手に数珠を持ちます。しかし、弘法大師=弥勒菩薩説では左手に弥勒菩薩の持物である五輪塔が載せられます。こうしたスタイルの弘法大師像が江戸時代中期頃に作られるようになります。これが弘法大師の弥勒信仰の最終的な展開と研究者は考えているようです。
同行二人 密教の弥勒菩薩

四国霊場の中に、弥勒信仰はどのように残されているのでしょうか。
14番常楽寺は八十八ヶ所の中で唯一、本尊が弥勒菩薩です。その像高は八寸と云いますから30㎝足らずで、本尊としては本当に小さい仏様です。詳しい緑起などもなく、その来歴は不明のようです。
51番石手寺には、大師堂に隣接して弥勒堂があります。そこに安置される弥勒菩蔭坐像は、鎌倉末~南北朝ころの作とされ、この時期の弥勒信仰の四国への広がりを知ることができます。
65番三角寺は慈尊院と呼ばれ、境内に御堂があり、等身に近い弥勒如来が安置されています。ここでも、弥勒に対する信仰が一時期は大きなものがあったことがうかがえます。
讃岐に入って69番観音寺には、やはり弥勒菩薩が安置された弥勒堂があります。寂本『四国偏礼霊場記』の境内図にも描かれていて、現在もほぼ変わらぬ位置に建っています。
77番道隆寺には寂本『四国偏礼霊場記』の中に弥勒堂が描かれていますが、現在は弥勒像はありません。
 以上のように霊場寺院には、弥勒菩薩信仰の痕跡が残るのはわずかです。これ以外にも本堂や大師堂などの諸堂内に、弥勒菩薩の像があるはずです。例えば、竹林寺の大日如来坐像とされる宝冠を戴く像は、専門家は弥勒菩薩(如来)と考えています。八十八ケ所寺院でも弥勒信仰が広がっていた時期があるようですが、それは大きな流れにはならなかったようです。
弥勒信仰に基づく、弘法大師入定信仰を広めたのは誰なのでしょうか。
多くの研究者は、それは高野聖(こうやのひじり)達であったと考えているようです。高野聖にとって、四国の地に弘法大師人定説を広めることは、さほど難しいことではなかったかもしれません。
その例として、研究者は平安時代の歌人として著名な西行を挙げます。
彼を高野聖として位置づけたのは、五来重氏です。それは西行の「回国性・勧進・世俗性」などの特性を根拠としますが、重要なことは彼が長く高野山に滞住していたことです。仁安3 年(1168)十月、西行が讃岐を訪れた目的は、以前にお話ししたように崇徳上皇の墓前に詣でることと、弘法大師師誕生地や所縁地を訪ねることでした。
 実際に、西行は我拝師山で捨身行を行い、近くに庵を構えて何年も修行生活を送っています。そこには、弘法大師が幼いときに修行したところで自分も修行しているという思いが記されています。すでにこの頃には、高野山では弘法大師人定説が広がっていて、「日々影向文」のことも西行は知っていたはずです。弘法大師信仰者の西行にとって、弘法大師の聖跡地に詣でることは、重要な修行のひとつであったのでしょう。

  高野聖ではありませんが高野山と根求寺との紛争から責任をとり、仁治3年(1242 )に讃岐に流された高僧の道範も善通寺の傍らの庵に住みつきます。そして、弘法大師の聖跡や各地の真言宗寺院を訪ねています。
 このように高野山との直接的な交流の中で、弘法大師人定信仰は讃岐をはじめ四国内の諸国に、高野聖を通じて浸透したと研究者は考えているようです。

以上をまとめておきます
①弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)を空海は受けいれていた
②空海死後に高野山は「56億年の弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現す」という弥勒下生説を流布するようになる。
③そして弘法大師は亡くなったのではない。弥勒下生を願うために大師は、入定したとする
④「日々影向文」=「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知する」
 という「弘法大師=四国辺路巡礼現在進行形説」が生み出される
⑤そこでは、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えると云われるようになる。
⑥熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者が弘法大師に出会うために、大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることになる。
⑦「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出す。
⑧弘法大師伝説として新たな展開を示すようになった

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献   武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程 

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