瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2021年04月


うどんのルーツと考えられている物には、次の4つがあるようです
その一は、昆飩(こんとん)
その二は、索餅(さくべい)
その三は、饉飩(ほうとん)                            
その四は、不屯(ぶとう)
では、このうちのどれが、饂飩の原形だったのでしょうか。饂飩のルーツを探って見ることにします。テキストは羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)です
伊勢貞丈が1763年から22年間にわたって書き綴った『貞丈日記』には、次のように記されます
饂飩又温飩とも云ふ、小麦の粉にて団子の如く作る也、中にはあんを入れて煮たる物なり。昆飩(こんとん)と云ふはぐるぐるとめぐりて何方にも端のなきことを云う詞なり。丸めたる形くるくるとして端なき故昆飩という詞を以て、名付けたるなり。食物なる故、偏の三水を改めて食偏に文字を書くなり。あつく煮て食する故、温の字を付けて温飩とも云ふなり。是もそふめん(素麺)などの如くに、ふち高の折敷(おしき)に入れ、湯を入れてその折敷をくみ重ねて出す也。汁並び粉酷(ふんさく)さい杯をそへて出す事、さうめんまんぢうなどの如し。今の世に温どんと云ふ物は切麺也、古のうんどんにはあらず、切むぎ尺素往来にみえたり。

ここからは次のようなことが分かります。
①温飩の原形は小麦粉の団子で、中には「あん」を入れた。
②「昆飩」と呼ぶのは、細長くてぐるぐるまきで端がないのでそう呼ばれた。
③食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」になり、熱くして食べるところから「温飩」と変化した。
④今の「温飩」は「切麺」というのが正しく、昔の「うんどん」とは違うものである
⑤うどんの原形は「饂鈍」である。
  ここで私が興味深く思えるのは、①の「団子の中にあんをいれた」という所です。讃岐の正月には、あん餅入りの雑煮が出てきます。このあたりにルーツがあるのでしょうか。どちらにしても古来の「饂飩又温飩」は、素麺のような切麺ではないとあります。現在のうどんからは想像できない代物であったことがうかがえます。

近世後期の喜多村信節の随筆集の『嬉遊笑覧』には、次のように記されています。
按ずるに、昆飩、後に食偏に書きかへたるなり。煮て熱湯にひたして進むる故、此方にて一名温飩ともいひしなり。今世、温飩は名の取違へなり。それは温麺(うーめん)にて、あつむぎといふものなりといへり。鶏卵うどんといふは、麺に砂糖を餡に包みたるものなり。これらを思ふに、其のもと饂飩なりしこと知らる。名の取違へにもあらず。むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したとあって、「昆飩」は食偏に改めて「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。

ここからは次のような事が分かります。
①昆飩は、食偏の饂飩に書きかられたのは、煮て熱湯にひたして食べるからである
②今の温飩とは間違いで、正しくは温麺(うーめん=あつむぎ)と書くべきである。
③鶏卵うどんは、麺に砂糖の入った餡に包んだものである。
④ここからは、その根源は饂飩だったことが分かる。名前を取違へているのではない。
⑤むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したと言われる。
⑥ここからも「昆飩」が「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。
ここにも③④には、餡を入れただんご(餅)をお汁の中に入れて食べていたことが書かれています。
雑煮にあん餅を入れる風習に、何らかの関係があるのかと思えてきます。それはさておき、本論にもどると、喜多村信節も饂飩は「温飩」に由来すると伊勢貞丈の説を支持しています。
  そうだとすると現在のうどんのルーツは、中国・唐菓子の昆飩(こんとん)ということになります。それが「昆飩 → 饂飩 → 温飩 → うどん」と変化してきたというのです。これが戦前までの「定説」だったようです。しかし、これは現在では疑問が持たれるようになっています。
源順が930年代に著した『和名抄』は、饂飩のことが次のように記されています
 饂飩は切り刻んだ肉を水を加えて捏ねた小麦粉で包んで、熱湯で煮たものだ。そして昆飩は豚肉・葱・胡椒などを小麦粉の生地で包んで茄でた中国料理の雲呑(わんたん)のことである。

ここからは昆飩の製造過程の中に「包丁で切る」という工程がないことが分かります。しかし、うどんには「包丁で切る」工程があります。「包丁で切る」という工程を含まない饂飩をうどんのルーツにはできないと研究者は考えているようです。ここから昆飩(こんとん)は、うどんのルーツではないとします。
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次にみていくのが唐菓子の索餅(さくべい)です。
索餅は小麦粉に水を加えて捏ねて手で引き伸ばしたもの二本を撚って縄のようにして、油で揚げた菓子です。奈良時代後期には、索餅は今日の干し饂飩のようなものになり、別名を麦索といい、売買されていたようです。
『正倉院文書』に「索餅茄料」とあり、『延喜式』には「索餅料」として糖(水飴)・小豆・酢・醤・塩・胡桃子をあげています。ここからは、小豆・糖を用いて菓子として食べ、酢・醤・塩・胡桃子などで味をつけて惣莱として食べていたとようです。

索餅も手で引き伸ばしてつくられるもので、製造過程の中に「包丁で切る」という工程はありません。饂飩の原形ではなかったとしておきます。ところが室町~江戸時代に登場する索餅は、その姿を変えて細くて素麺のようなものになっています。
『多聞院日記』文明十年(1418)五月二日条には次のように記されています。
「麦ナワト云フハ素麺ノ如くナル物也」

とあります。江戸時代中期の百科辞書「和漢三才図会』にも「按ずるに索餅、俗に素麺と云ふ也」とあって、麦素(索餅)が素麺のようなものであったことが分かります。奈良時代後期にの菓子の索餅から、千し饂飩に似た麺類の索餅に「変身」していたようです。これを別名「麦索」と呼んだようです。江戸時代になっても菓子と麺類、この二つの索餅が食べられていたことがうかがえます。現在、素麺の少し太いものを冷麦と呼んでいますが、室町~江戸時代の麺類の方の索餅は、丁度現在の冷麦のようなものであったと研究者は考えているようです。
3番目の饉飩(ほうとん)を見ておきましょう。
中国で六世紀前半に成立した『斉民要術』は、饉飩(ほうとん)を
「小麦粉に調味した肉汁を加えて捏ね、親指程の大さにして、二寸程の長さに切り、手の平で薄く伸ばして、熱湯で茄でたもの」

である記します。
これが『和名抄』には「干麺方切名也」であるとして、短冊状の扁平なもので、現在の群馬県のひもかわうどんのように長い帯のようなうどんだったことがうかがえます。
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群馬のひもかわうどん

藤原頼長の日記『台記別記』には、
「仁平元年(1151))八月、左大臣で氏の長者でもある頼長が春日大社に参詣した時、参道に問口六間(約11m)の饉飩をつくるための仮の小屋を建てて、伎女十二人を配し、楽人が酎酔楽を演奏するのに合わせて、伎女たちに饉飩をつくらせて、小豆の汁をそえて食べた」

とあります。この小豆の汁は糖(水飴)や甘葛(蔦の樹液を煮つめてつくった甘味料)が使われ、甘くしたことが考えられます。このように、平安末期に頼長の食べた饉飩は菓子としての性格が濃いものであったようです。
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  今でも山梨県では、小豆の汁粉の中に「ほうとう」を入れた「小豆ほうとう」をハレの日に食べる習慣があるそうです。また、ほうとうにはきな粉や飴をまぶして食べることから菓子としての性格があるようです。これは、先ほど見たように古代の貴族達が饉飩を菓子として食べていたことと関係するのかも知れないと研究者は考えているようです。

中尾佐助『料理の起源』(昭和47年)の51Pには、
中国華北ではアズキを軟らかに煮た汁の中にウドンを入れて煮込んだものも見た

あります。ここからは、華北では小豆や大角豆の汁の中に饂飩を入れて、煮込んで食べていたことが分かります。日本でも平安末期に頼長は、ほうとんに小豆の汁をそえて食べ、また、山梨県では今も小豆の汁粉にほうとうを入れて食べています。そして、山梨ではうどんのことを「ほうとう」と呼んでいます。ここからは、どうやらうどんのルーツは、ほうとんの可能性が高いと研究者は考えます。
最後に不屯(ぶとう)をみておきましょう。
うどん=不屯(ぶとう)起源説を紹介する記事が『四国新聞』(2009年2月8日付)に、載せられていました。要約して紹介します。
美作大学大学院の奥村彪生氏は、「日本のめん類の歴史と文化」と題する博士論文の中で、饂飩のルーツを次のように説明します。中国料理では饂飩は雲呑(わんたん)のことで、豚肉や葱、胡椒などを小麦粉でくるんで茄でたもので、昆飩と饂飩とは似ても似つかないものである。それに対して唐代に「不純」という切り麺があつて、これが発展したのが「切麺」で宋代に盛んにつくられた。切麺が13世紀前半に、禅宗の僧侶によって日本に伝えられた。饂飩が初めて文書に登場するのは、南北朝時代の1351年の法隆寺の古文書で「ウトム」とある。その後、饂飩に関する記述は、京都の禅寺や公家の記録に頻出するようになる。饂飩は13世紀の終わり頃に、京都の禅寺で発明された。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中しているところから、饂飩の発祥の地は京都だ。
 江戸時代の記録によると、饂飩は茄でて水洗いしてから、熱湯につけて、つけ汁につけて食べていた。現在の「湯だめ」である。禅宗の僧侶が伝えた「切麺」は中細で、湯だめにすると伸びてしまうので、伸びない太い切り麺として発明されたのが饂飩である。不純は湯につけて食べるところから「温屯」になりになり、温の三水を食偏に改めて「饂」と作字し、混飩の「飩」を参考にして「饂飩」と書くようになった(「追跡シリーズ」四五七号、うどんのルーツに新説 中世京都の禅寺で誕生?)。
 ここで奥村氏は饂飩の起源は、13世紀前半に禅僧にによってもたらされた切麺にあると主張します。しかし、これには次のような反論もあるようです。
①切麺という名称があるのにわざわざ「不純」を引っ張り出してうどんの語源とする必要があるのか。
②つけ汁につけて食べるようになったのは醤油が広く普及した近世中期以降の食べ方で、中世にはつけ汁の食べ方はない。なぜなら醤油がなかったから。

中世から近世前期まで、饂飩は味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、饂飩も醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。ここからも「うどん=不屯(ぶとう)」説は成立しないと研究者は考えているようです。
 
うどんの歴史文書の初見記録は奈良です。しかし、その後の記録の多くは京都に集中しています。
ここからは、うどんは奈良で発明されて、京都にいち早く伝えられ、京都から全国各地に広がっていったという仮説が考えられます。
平安時代の日本では、中国のように肉食が普及していません。そのため饉飩(ほうとん)も肉汁は使わないで、小麦粉に水を加えてこねて薄く伸ばし、包丁で短冊状に切って熱湯でゆでて、醤や塩で味をつけて惣莱として食べたり、糖や甘葛を用いて甘くした小豆の汁をそえて菓子として食べていたとしておきましょう。
 うどん誕生の背景を、羽床氏は次のようにストーリー化します。
 鎌倉時代に禅宗の僧侶が、点心(食事が朝・晩の二食であった時代に、二食の間に食べた軽い食事)を伝えます。そして、点心の習慣が盛んになった時に、かつては良く食べられいたのに忘れられたようになっていた饉飩(ほうとん)が再び注目を集めるようになり、点心として食べるようになります。饉飩は作業手順が複雑で、簡単につくれるものではありませんでした。それが南北朝時代前半に、奈良のある僧侶が作業工程の効率化を生み出します。それは、水を加えてよく捏ねた小麦粉を薄く伸ばして、乾いた小麦粉を振り掛けて、くっつかないようにしてから折りたたんで包丁で切って、効率よく作れるようにするというものです。これを「ほうとん」と呼んでいました。それがいつしか「ほ」が失われて、「うとん」とか「うとむ」と呼ぶようになります。さらに「と」を濁らせて、「うどん」とか「うどむ」と呼ぶようになります。さらに、うどんは温めて食べるところから「温飩」と書くようになり、食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」と書くようになったというのです。

 うどんは、小麦粉に水を加えて良く捏ね、様々に成形して加熱した食品です。これは中国の食文化の影響下で成立した食品で、製造過程の中に「包丁で切る」という工程を含むのは唐菓子の饉飩だけです。これが最もうどんのルーツにに近いし、うどんの語源も饉飩(ほうとん)である可能性が高いと羽床氏は考えているようです。
うどんが登場するのは、中世以降のこと 
歴史的な文書にうどんが登場するのを挙げて見ましょう
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」
以上から14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは、「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、うどん屋の看板をかかげられています。中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。この店以外にも2軒のうどん屋が描かれています。


1 うどん屋の看板 2jpg

讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。後に「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)など、特別な日の御馳走として、各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れてつけ汁につけて食べ、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。
 それでは、うどんは讃岐へいつ伝えられたのでしょうか。先ほど見たように、「うどん」が日本に登場するのは室町後期の奈良地方です。それが京都で流行し、讃岐に伝えられるのは安土桃山時代と研究者は考えているようです。逆に言うと、空海の時代にはうどんは日本にはなかったのです。うどんについては、讃岐では「空海が唐から持ち帰った」という「空海伝説」が語られています。それを最後にみえおくことにします。
空海の弟子・智泉は讃岐国にうどんをを伝えたか?    
うどんの製法を智泉が讃岐に持ち帰ったというのです。智泉は滝宮天満宮(その別当寺の滝宮竜燈院)出身の僧侶と云われてきました。そのため滝宮を「うどん発祥の地」とする説があるようです。
木原博幸編「古代の讃岐』(昭和63美巧社)256頁には、智泉について次のように記されています。
智泉は延暦八年(789)に讃岐国で生まれた。父は滝宮天満宮の宮司であった菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉であった。九歳の時、空海に伴われて大安寺に入り勤操大徳に師事して延暦23年に剃髪受戒した。天長元年(824)九月には、高雄山寺の最初の定額僧の一人に加えられたが、健康にすぐれず、翌二年二月十四日、37歳の若さで高野山東南院で没した。

「讃岐に生まれた人間。空海 下」(四国新聞『オアシス』第337巻、2005五年、四国新聞社発行)には、
智泉は、滝宮竜燈院(現在の滝宮天満官)に嫁いだ空海の姉の子であり、大師が九歳から奈良に連れてゆき、仏教の勉強をさせた程の器。(中略)
空海は智泉を、将来は教団を任せられる人物のひとりと考えていましたが、健康を害して三十七歳で死去。
  両方とも、智泉を滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉と記します。しかし、この説には無理があると羽床氏は指摘します。なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が活躍するのはその百年後のことです。太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも、根拠がありませんし、年齢的にも無理があるようです。「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」「智泉は滝宮天満官の官司家や竜燈院の出身ではなかつたし、その母が空海の姉というのも嘘」と厳しく批判します。
 さらに空海が日本にうどんを伝えたという俗説も、饂飩は南北朝時代前半に誕生したもので、空海の時代にはないものであって、空海が伝えたものではないことは、資料で見てきた通りです。智泉の生きた頃にはうどんは、まだ生まれていないのです。空海や智泉の生きた頃には、現在の干し饂飩に似た素索(索餅)や饂飩の原形の饉飩はあったことは資料から裏付けられます。しかし、麦索は饂飩に似ていても饂飩ではなく、空海や智泉を饂飩を伝えた人物とすることはできないのです。「滝宮=饂飩発祥の地」説は、資料に基づいたものではない「虚説」と専門家は批判します。

以上をまとめておくと、うどんはそのルーツを中国に持ち、それがいまのような形になるのは中世以後のことで、付け麺で食べられるようになるのは、醤油が普及する江戸時代後期になってからのようです。

参考文献 羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)
関連文献 

満濃池「讃岐国名勝図会」池の宮

 災害記録から色々なことを学び防災に役立てようという動きが広まっています。歴史に学ぶという視点で幕末の満濃池の決壊を見てみましょう。ペリー来航の翌年1854年7月に満濃池は決壊します。これについては「大地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。しかし、近年見つかった史料は、工法上の問題があったことを示しています。

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満濃池の底樋と竪樋とゆる
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 
 満濃池の底樋は、かつては木製で提の下に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 このような樋管替えの負担を減らしたいと考えていた榎井村庄屋の長谷川喜平は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。その時に決壊時に流された石材が金倉川から改修工事で見つかっています。
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満濃池の石造底樋官(まんのう町かりん会館)
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工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に喜平次は
「伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候」
と誇らかに役所へ報告しています。これで樋管替の普請から解放されるという思いが伝わってきます。

 しかし、近年に榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書が直島の庄屋から見つかりました。そこには次のように書かれています。
「石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していた。(中略)そのため、上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置いたが、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい堰堤は崩れるであろう。」

 これ以外にも関係者からは、次のようなという風評があったようです。
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」

つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、関係者の間では「欠陥工事」という認識があったのです。
 三 嘉永7年7月9日 満濃池決壊
 嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが行われました。その後、6月14日に強い地震が起こり、7月5日に池守りが底樋の周辺から濁り水が噴出しているのを発見します。そして4日後には、堤防は決壊するのです。
この後、満濃池は16年間、明治維新を迎えるまで決壊したまま放置されるのです。どうして修復されなかったのでしょうか?  それはまた次回に・・。

満濃池結果以後1869
決壊したまま放置された満濃池 池の中を金倉川が流れる
 
参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊 香川県立文書館紀要
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満濃池 底樋

満濃池の樋(ユル)は木製でしたので、定期的に交換しないと朽ちて堤が崩壊してしまいます。そのために堤を何カ所に分けて、数年ごとに樋替え普請(工事)が行われました。これには、水掛かりに関係なく讃岐全域から人々が動員されました。つまり、三豊や高松の農民も動員されたのです。大きな出費や労力を負わされた人々は
「行こか まんしょか(やめようか) 満濃普請 百姓泣かせの池普請」
と歌ったといいます。

ため池普請2

 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三(1820)年の池普請に参加した佐伯民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。この記録から池普請に動員された人たちを見てみましょう。
 この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町の和田組の村々からは、約三百名の人足が動員されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池にやってきます。九月十二日の早朝に出立した人足集団は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された帆山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。ちなみに帆山までが丸亀藩、福良見は高松藩でした。ここに当時の「国境」があったのです。そのため丸亀領の帆山の寺院などに分宿したようです。食料持参の自炊で、手弁当による無償動員なのです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 翌日、太鼓の合図で周囲に分宿していた人たちが集まってきます。それが「蟻が這うように見えた」と記します。十三日は雨天で工事は休み、十四日もぬかるみがひどく休日。十五、十六両日は工事を実施。和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
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 ところが事件が発生します。和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されたのです。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。その結果、池御料側の櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内々に処理することにこぎつけます。そのためか十六日は、事件を通じて顔見知りになった櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。

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 同日昼下がりに、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。
 三豊の百姓にとって自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請に、寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じて他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元での土木工事に生かされるという面もあったようです。財田の大久保諶之丞も若い頃に、この普請に参加して土木工事技術を学んだようです。それが後の四国新道工事に活かされていきます。
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池遊鶴図(1845年) 
当時は鶴が池のまわりを舞っていたようです

  参考文献 大野原町史

  満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813
  
 幕末の「讃岐国名勝図会」には、源平の戦いの最中の元暦元年(1184)の大洪水で決壊してから、満濃池跡は
「五百石ばかりの山田となって人家なども建ち、池の内村と呼ばれた」
と記しています。それでは、満濃池はどのようにして再築されたのでしょうか。「満濃池営築図」を見ながら再築の様子を追ってみましょう。
まんのう町 満濃池営築図jpg
 この図絵に描かれているのは、崩壊から450年間放置された江戸時代初めの堤付近の姿です。
①の上から下に伸びる道路のように見えるのが金倉川で、川の中には石がゴロゴロと転がっています。
②の中央の島のように見えるのが池の宮があった丘で
③の右側の流れは「うてめ」(余水吐)の跡ですが、川のように描かれています。
③金倉川を挟んで、左右に丘があります。古代の満濃池は、この丘を堰堤で結んでいました。
④左(東)側が「護摩団岩」で、空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる所です。今は、この岩は満濃池に浮かぶ島となってほとんどが水面下です。
⑤右上の池の内側に当たる所に注目してください。ここに数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、池跡にあった「池内村」のようです。
満濃池DSC00881
「うてめ(余水吐け)」の奥には、家屋や田んぼが描かれている

 絵図の上部には、文字がぎっしりと書かれています。ここには寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、そして最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が記されています。
満濃池の再築に向けて、二人の間で何が話し合われたかを推測してみましょう。
再築工事開始の二年前、寛永3年(1626)8月に、生駒藩奉行の西嶋八兵衛が池ノ内村の矢原正直方へやって来た。毎年の日照りについて相談がなされた。そこで、正直は池の内に所持している田地を池の復興のために残らず差し出すことを申し出た。
 つまり、この図に描かれている田畑や家屋が池の内村で、その領主が矢原家であったようです。満濃池を再築するにあたっては、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったのでしょう。  
 この功績に対して生駒藩は矢原家を満濃池を管理する池守に任じ、同時に池上下において五〇石を与えます。
 「讃岐国名勝図会」の「神野神社の釣燈篭銘文」からは、矢原家の歴代当主が氏神である神野神社の社殿の再建を願主として行っていたことが分かります。つまり、矢原家は池内村の領主であったようです。
 こうして、堰堤が出来上がり水がためられると池の内村は、池の中に姿を消すことになったのです。
満濃池史
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1869年 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。
    8月、満濃池、岩盤の掘削によって底樋とする工事に、軒原庄蔵を起用`満濃池の復旧工事に着手。
    9月、岩盤の掘削工事に着手。
1870年3月、石穴底樋貫通。6月、満濃池堤防復旧。7月、満濃池修築完了

  参考文献
 香川大学名誉教授 田中健二 歴史的史料からみた満濃池の景観変遷 満濃池名勝調査報告書

 町報に満濃池が国の名勝指定のことが伝えられていました。そこで、今回は満濃池が消えていた中世の様子を見ていくことにします。
 幕末の「讃岐国名勝図会」(1854年)は
「平安末期に、大洪水により堤は崩壊して跡形もなくなり、石高500石ばかりの山田となり、人家も置かれて、池内村と呼ばれた」

と記します。旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができて池内村と呼ばれていたと言うのです。本当なのでしょうか?
  史料から中世の状態を確かめましょう。
堤防崩壊から百年以上経った14世紀初頭の「昭慶門院御領目録」には、亀山上皇が皇女に譲った讃岐の29の荘園の郷名が記されています。そこには、吉野郷や吉野新名とならんで「万之(満濃)池」の郷名が見えます。その下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名もあります。秦久勝は、亀山上皇の家臣です。つまり「万之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となり、領有していた地元開発領主が、国司の収奪から逃れるために亀山上皇に寄進し、泰久勝が上皇の荘園管理人として「万之池」を支配していたことが分かります。しかし、その時の現地の開発領主が誰なのかは、記されていません。なお、当時は「まんのう池」でなく「まの池」と呼ばれていたことも分かります。
 その後「万之池」は京都の上賀茂社の社領に移ります。
上賀茂神社には「長禄二年(1457)五月三日」の日付の入った次のような送状が残されています。
「合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬乃池内御公用銭、送り進すところくだんのごとし   賀茂御社沙汰人御中       瀧宮新三郎 」
これは讃岐在住の瀧宮新三郎が荘園主の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書です。内容は「讃岐国万萬乃池内」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています」とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が可能でした。また、請負人の瀧宮新三郎は、その姓から現在の滝宮を拠点とする綾氏に連なる武士団の統領かもしれません。
 以上の史料から池跡地は、田地化が進み、讃岐の国人が請け負って上賀茂社へ年貢を納めていたことがわかります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。荘園の表記は「万乃池」です。「池内村」と表記されているのは、江戸時代初の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵)が初めてのようです。

まんのう町 満濃池のない中世地図
図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現すことになります。
参考文献 
  香川大学名誉教授 田中 健二 
 歴史資料からみた満濃池の景観変遷    
 満濃池名勝調査報告書
  

 大川山 割拝殿から
中寺廃寺割拝殿跡から見上げる大川山

大川山を仰ぎ見る中寺廃寺の礎石に座って考えたことが今回のお題です。中寺廃寺からは銅製の密教法具である錫(しやく)杖(じよう)や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。そこから修験者が、寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていたことがうかがえます。また、出土した法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。つまり「空海以前」に中寺廃寺は存在し、行者達の修行が行われていたようです。

大川山 中寺廃寺

 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(ごくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶が現れた時期でした。中寺廃寺は、これにうってつけの場所で壊れた法具の破片は厳しい自然環境の中、呪力修得にむけ厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏塔復元図
 大川山信仰に始まるこの聖地に、仏堂・割(わり)拝(はい)殿(でん)や僧房などが建てられ、讃岐国の中で重要な山岳寺院に発展していくのが十世紀頃とされます。ところで山岳修行は、寺院というハコモノがなくともできます。
ではなぜ、この時期に、この山奥に寺院が建立されたのでしょうか。
 まず、その立地条件です。今は「山奥」ですが、かつては讃岐と阿波をつなぐ「街道」がいくつも近くを通っていました。また周辺山間部は、炭・漆・粉板(屋根葺き材)などの産地として有名で、豊富な山の資源が得られる場所でもありました。平安時代には、地方豪族や大寺院による山野の囲い込みと開発が進んだと云われます。こうした動きと山岳寺院の建立とは深い関わりがあるようです。同時期の金倉寺や道隆寺など、平野部での新たな寺院建設も、平野や海浜部での開発と関係します。これらが十世紀前後からの「第二の寺院建設ブーム」を生みだし、学問寺や修行道場(山岳寺院)といった今までにないスタイルの「思索の場としての寺院」が生まれる背景があります。その整備が後の空海をはじめとする讃岐出身の高僧輩出を、もたらすことにつながります。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺割拝殿復元図

 中寺廃寺が、修行の場から山岳寺院へと変貌し、建物が建設されはじめるのが十世紀前後です。
それは、山岳寺院のネットワーク形成のスタートでもありました。この寺の西には野口ダムの谷を挟んで尾野背寺、さらに讃岐山脈の稜線をたどれば中蓮寺から雲辺寺と山岳寺院が山上に続きます。それは遠く石鎚まで伸びています。そして目を里に向ければ、種子には宗教荘園が開かれ金剛院が、その宗教センターとして機能するようになります。これらの山岳密教寺院は孤立していたのでなく、行(ぎよう)場(ば)ネットワークとして結ばれていたのです。各地に開かれた行場を「辺路修行」することが「四国遍路」につながります。つまり、ここは四国霊場の原初的な姿が見える所でもあるのです。
参考文献

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 図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会いました。手にとって見ると寺に伝わる資料を編纂・解説し出版されたもので読み応えがありました。この本からは、真宗興正寺派がまんのう町へどのように教線を拡大していったのかが垣間見えてきます。尊光寺が真宗を受けいれた戦国時代末期の情勢と、長尾城主の長尾氏の動きを見ておきましょう。

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まんのう町種子のバス停から見える尊光寺

  長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。
そのためか讃岐の大名となった生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入ります。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだのです。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
 まんのう町での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬市郡里の安楽寺です。
この寺は興正寺の末寺で、真宗の四国布教センターの役割を担うことになります。カトリックの神学校がそうであったように、教学ばかりか教育・医学・農業・土木技術等の研修センターとして信仰的情熱に燃える若き僧侶達を育てます。そして、戦国時代になると彼らが阿讃の峠を越えて、まんのうの山里に布教活動に入ってきます。山沿いの集落から信者を増やし、次第に丸亀平野へと真宗興正寺派のお寺が増えます。

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尊光寺
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍が整のっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、今から見ればちっぽけな掘建て小屋のようなものです。そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えます。農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていきます。この点が他の宗派との大きな違いなのです。ですから、山の中であろうと道場はわずかな場所で充分でした。
 縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行します。正信偈を唱え御文書をいただき、安楽寺からやってきた僧侶の法話を聞きます。そして、非時を食し、耕作談義に夜を更かすのが習いでした。
 やがて長尾氏のような名主層が門徒になると安楽寺から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間にしました。それがお寺になっていた場合もあります。
  尊光寺も長尾氏出身の僧侶で、この寺の中興の祖と言われる玄正の時に総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になります。安楽寺の支配に属する寺は、江戸時代には、讃岐50、阿波21、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し四国最大の真宗寺院に発展します。讃岐の末寺の多くは中讃に集中しています。中讃に真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、安楽寺の布教活動の成果なのです。

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尊光寺から見える種子集落と阿讃山脈
 本寺末寺関係にあった寺院は、江戸時代には阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行ます。また、讃岐布教の最前線となった讃岐側の山懐には、勝浦の長善寺や財田の宝光寺などの大きな伽藍を誇る寺院が姿を見せます。
 さらに、お寺の由緒に
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
と伝わるのは、布教の流れが「山から里へ」であったことを物語っています。このため中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は山に近い所に多いようです。
  最後に確認したいことは、この布教活動という文化活動は、瀬戸内海を通じて海からもたらされた物ではないということです。流行・文化は、海側の町からやって来るという現在の既成概念からは捉えられない動きです。 もう一度、阿讃の峠を通じたまんのう町と阿波の交流の実態を見直す必要があることを感じさせてくれました。

  新しいことは当分の間は書けそうにないので、これまでにまんのう町報のために書いてきた原稿を転載することにします。悪しからず。今回は、100年前の琴平以南の土讃線延長工事についてです。

琴平駅から南の土讃線建設は、どこから始まったか?                
今から130年前の1889(明治22)年5月21日に、丸亀・琴平間で「陸蒸気」が走り始めます。四国で2番目の鉄道開通でした。多度津駅構内での式典に参列した財田の県会議員・大久保諶之丞は祝辞の最後を
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」

と未来への大きな「夢と課題」を語りました。しかし、その後の鉄道は琴平から南にはなかなか伸びません。高知への路線が決定して、線路建設が始まるのは第一次世界大戦が終わって2年後の1920(大正12)年4月3日)のことです。琴平までの鉄道開業から30年以上の年月が経っていました。
 開業時の琴平駅は現在の琴参閣ホテルにあり、ここが終点駅でした。土讃線が琴平を通過するには線路を琴平市街の東側に移し、新しい駅舎を作る必要がありました。そこで、ルート変更が行われます。現在の大麻神社前の踏切から左にカーブして金倉川を渡り、直進した所に新駅が建てられることになります。ところが、ここに問題が起きます。当時、認可を受けていた高松ー琴平を結ぶ「コトデン」の線路と交差するのです。そこで、その解決策として土讃線を土盛りして、コトデンの線路の上を高架させる策がとられます。このために、新琴平駅と金倉川までの区間は高く土盛りする必要が出てきました。

コトデン 土讃線交差
コトデンの線路を跨ぐ土讃線高架 後は象頭山

琴平駅と土讃線の土盛り用土砂は、どこから運ばれてきたの?
 当時の新聞「香川新報」には着工後6ケ月たった進捗状況を
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」

と記されています。また1年経った5月30日の記事には
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」

とあります。  つまり、工事の起点は三坂山であったことが分かります。
まんのう町三坂山切通
まんのう町三坂山切通 ここから盛土はトロッコ列車で琴平駅方面に運ばれた
さて、それでは「三坂山」とはどこにあるのでしょうか?
三坂山は、土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する南西側の小さい丘のような山で、すぐ東側を金倉川が流れています。この山の裾の三坂山踏切に立ち琴平方面を眺めてみると、まっすぐに線路が琴平に向かってゆるやかに下って行くのが見えます。ここを切り崩した土砂で整備した上に土讃線のレールは敷かれていったのです。そして、琴平駅もここから「豆機関車」で運ばれた土砂で土盛りされた上に建っているのです。ちょうど百年前の話になります。
 また新聞には
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」

 確かにかつては「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。
まんのう町三坂山踏切
三坂山踏切からの象頭山

工事開始から4年目の春、琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。
1919 大正8年9月 実測開始 
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
 

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