中世のまんのう町岸上(きしのうえ)には、中世に光明寺というお寺があったようです。しかし、このお寺については、金毘羅大権現の多門院に伝わる『古老伝旧記』に次のように出てくるだけでした。
一、岸上光明寺之事右高松御領往古焼失堂寺も無之、龍雲院様御代当山へ御預け被成、当地より下川師と申山伏番に被遣、其跡二男清兵衛代々外今相勤居申也、本尊不動明王焼失損し有之也、年号不知、右取替り之御状共院内有之由(貼紙)(朱)「光明寺高一、下畑九畝拾五歩、畑方免三つ六歩、高五斗七升一、下畑三畝三歩、高壱斗八升六合一、下畑壱畝九歩、高七升八合畝〆壱反三畝弐拾七歩、高〆八斗三升四合、取米三斗一、米九合 日米 一、米三升三合 四部米〆三斗四升弐合一、米四合 運賃米 同八升三合 公事代米同 費用米一、大麦弐斗九合 夏成年貢 一、小麦壱斗四合 同断麦〆三斗壱升三合也」
意訳変換しておくと
岸上の光明寺について、この寺院は高松御領の岸上にあったが、往古に焼失して本堂などは残っていない。所有権を持つ龍雲院様が、当山金光院に預けていた。そこで当院(多門院)は、下川師(そち)という山伏を番人に派遣していた。今は、その二男清兵衛がつとめているという。本尊の不動明王は焼失し、破損している。いつのことかは分からないが、この不動明王と預条が多門院の院内にある。
さらに貼紙が付けられ、朱書で光明寺の石高が書かれていますが、水田ではなく「下畑」とあります。「岸上」は、その名の通り金倉川の左岸の「岸の上」の丘陵地帯に立地するエリアです。金倉川からの取水ができないために、灌漑水路の設備が遅れていたようです。
金倉川の南側に「岸ノ上」と見える
多門院が光明寺跡に番人として派遣していたという「下川師(そち)という山伏」を見ていきます。
初代金光院院主宥盛が高野山での修行・修学が終わり、帰讃する際に,麓の下川村の山伏師坊を召連れて帰った。それが下川師(そち)だというのです。宥盛は、修験者としても名前が知られる存在だったようです。そして、後進の育成にも努めました。その修行を支えるスタッフの役割を果たしていた人物なのではないかと私は考えています。そうだとすると、宥盛と下川師は、精神的にも深いつながりで結ばれていたことになります。宥盛は、金毘羅山を修験道の山、天狗の山にしようとしていた形跡がうかがえます。そのために、土佐の有力修験者を呼び寄せて多門院を開かせています。その多門院の下で、手足となり活動していたのが下川師ではないでしょうか。
下川家の二代杢左衛門も,はじめは大雲坊という修験者で,金毘羅に近い岸上村の不動堂の番をしていましたが、後に還俗して下川を姓とし,金光院に出仕する役人になります。杢左衛門の長男は我儘者であったので,二男喜右衛門が後を嗣ぎますが病弱で若死します。そこで、妹に婿養子をしたのが四代常右衛門になります。彼は、薪奉行,台所奉行など勤めています。五代杢左衛門は台所奉行から作事奉行にも出世します。六代常右衛門は山奉行,玄関詰,御側加役などを勤めます。そして、七代伴吾の時に、下川の姓から枝茂川と改め、御側加役から買込加役になっています。覚助は書院番などを勤めたが若死にした。養子保太郎が九代となった。十代直一,十一代文一まで金刀比羅宮に奉仕しますが,その後は名古屋へ移住したようです。
天狗面を奉納にやってきた金毘羅行者
ここからは、金毘羅大権現の草創期には各地から修験者たちが集まってきて、この地に定住していったことが分かります。下川家の場合は、金光院に使える高級役人として明治まで仕えています。また、金比羅行者と云われた修験者たちが先達となって、各地の信者達を金毘羅大権現参拝に誘引してきます。その際に、泊まらせたのが彼らの家で、それが旅籠に発展していった店も多いようです。旅籠の主人も、先祖を辿れば修験者だったという例です。話が脇道に逸れたようです。本道にもどしましょう。この史料からは光明寺が、かつて岸上にあったこと分かりますが、それ以上のことは分かりませんでした。
新しい発見は、観音寺市大野原町の萩原寺に保管されている文書類でした。ここには、光明寺に関することが書かれていました。
[金剛峯寺諸院家析負輯] 三 本中院谷明王院本尊並歴代先師録草稿(中略)阿遮梨勝義字泉聖房取樹無量壽院長覺阿闇梨灌頂之資。後花園院御宇永亨十一年戊午九月廿日婦寂○西院付法下云。琥讚岐國岸上光明寺櫂大僧都高野山明王院文○秀義考云勝師婦寂之年月恐謬博乎。中院流亨徳記曰。亨徳二年四月十六日於紀伊國高野山金剛峯寺明王院道場。授中院流。心南院博法灌頂入寺重義大法師勝環雨受者。日記大阿閣梨法印櫂大僧都勝義泉聖房(年七十三、明王院)。讃岐國真野郷岸上大多輪息文 既後干永亨十戊午経十有六年。典師所記知謬博也○又大疏讀様高野所博血泳云。明算・良禅・兼賢・定賢・明任。道範・賢定・仁然・玄海・快成。信弘・頼園・長覺・勝義(泉聖房 高野山明王院。讃岐国岸上人也。享徳三年二月二十日入寂。)重義文同伊豆方所侍血詠云。賞意・賞厳・賞園・全考・宥祥・宥範・宥重・宥恵・勢舜・勝義(泉聖房 讃岐岸上光明院。兼住高野山。享徳三年二月二十日入寂。七十四。)後略
忠義法印讚岐國岸上之人。字泉行房。勝義遮梨入室附法資也。人王百四代 後士御門御宇頃乎。自勝義賜忠義印信。文明七年文寂日七月十三日 ○覺證院主隆雄。五大尊田地寄附之書物文明十四年文○法印入滅之歳、雖末分明。恐明應文亀之頃乎。何以知然。自筆玉印砂奥書云。文明十五年秋比。依聞此名。物名字以使者於高雄寺苦努八旬老眼開了忠義財計又三―山―三種秘法印信奥云。明應二年正月十一日博授大阿遮梨忠義上人授興朝盛文西院印信奥云。右明應三年職畝卯月廿八日。於高野山明王院灌頂道場雨部博法職位畢。博法大阿閣梨権大僧都忠義授興朝盛。文血詠年月同印信也。又開眼文一紙。其文日。泉州久米多寺開山行基大士之尊像一證奉開眼所也。高野山金剛峯寺明王院住権大僧都泉行房忠義判。明應七年端歓拾月八日。申剋右勘之自文明十五(「続真言宗全書」第二十四 所収 町誌ことひら 史料編282P)
ここには、高野山の明王院の住持を勤めた2人の岸上出身の僧侶が「歴代先師録」として紹介されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」と記されます。
忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。
以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地の岸上光明寺をも兼住していたこと
③彼らを輩出した岸上の光明寺が繁栄していたこと
④讃岐出身者が高野山で活躍していたことが
④讃岐出身者が高野山で活躍していたことが
それでは、高野山明王院とは、どんな寺院なのでしょうか
明王院 赤不動
明王院は日本三不動のひとつ「赤不動」として知られるお寺で、高野山のなかほど本中院谷にあるようです。寺伝では弘仁7年(816年)、空海が高野山を開いた際に、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したと伝えます。 不動明王を本尊としていることからも修験者の寺であったことが分かります。中世の真野郷の岸上からは、高野山の修験道の明王院の院主を輩出していたことになります。当然、岸上の光明寺も明王院に連なる法脈を持っていたはずです。ここから光明寺は、丸亀平野南部の修験者の活動拠点で、全国を遍歴する修験者たちがやってきていたのではないかと、私は考えています。
高野山の明王院住持を岸上から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
一、志求佛生三味耶戒云々奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は指摘します。以前にお話ししたように、中世の、道隆寺や金蔵寺、そして前回見た尾背寺などは「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
そして彼らは「不動明王」を守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたようです。その讃岐のひとつの拠点が東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽の活動だったことを以前にお話ししました。光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。そのために優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。
そして彼らは「不動明王」を守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたようです。その讃岐のひとつの拠点が東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽の活動だったことを以前にお話ししました。光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。そのために優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。
上の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが⑥勝義 ⑦忠義の讃岐岸上出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。⑨の良昌は、飯山にある島田寺の住職を兼ねながら高野山金剛三昧院住持を勤めた人物です。
また、明王院勝義・忠義を経て金剛三昧院良恩から萩原寺五代慶祐に伝えられた法脈もあります。この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。この中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥盛もいたのです。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持っていたようです。
同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
岸上の光明院の行場ゲレンデのひとつは、金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルートだったことは以前にお話ししました。また、まんのう町の金剛院には、多くの経塚が埋められています。
そこから見上げる大川山の中腹には、中世山岳寺院の中廃寺の伽藍がありました。さらに、西には前回お話しした尾背寺があり、ここでも活発な書写活動が行われていました。大野原の萩原寺には、尾背寺で書写された聖教がいくつも残されています。ここからも尾背寺と萩原寺は人脈的にも法流的にも共通点が多く、中世は修験道の拠点として機能していた寺です。さらに四国霊場の雲辺寺は、萩原寺の末寺でもあり、やはり学問寺でした。
中廃寺の割拝殿
そこから見上げる大川山の中腹には、中世山岳寺院の中廃寺の伽藍がありました。さらに、西には前回お話しした尾背寺があり、ここでも活発な書写活動が行われていました。大野原の萩原寺には、尾背寺で書写された聖教がいくつも残されています。ここからも尾背寺と萩原寺は人脈的にも法流的にも共通点が多く、中世は修験道の拠点として機能していた寺です。さらに四国霊場の雲辺寺は、萩原寺の末寺でもあり、やはり学問寺でした。
こうしてみると中世讃岐の修験道のネットワークは金比羅・善通寺から三豊・伊予へと伸びていたことがうかがえます。これが修験者や聖など行者達の「四国辺路」で、これをベースに庶民の「四国遍路」が生まれてくると研究者は考えているようです。
金刀比羅宮の奥の院の行場跡に掲げられる天狗
このような修験者ネットワークに変動が起きるのは、長宗我部元親の讃岐制圧です。
ここからは私の仮説と妄想が入ってきますので悪しからず
元親は、宥雅の残した松尾寺や金毘羅堂を四国総鎮守として、讃岐支配の宗教的な拠点にしようとします。その際に、呼び寄せられたのが土佐の有力修験者南光院のリーダーです。彼は宥厳と名前を改めて、讃岐の修験者組織を改編していこうとします。その下で働いたのが宥盛です。長宗我部元親撤退後も、宥厳は金毘羅にのこり金毘羅大権現を中心とする修験者ネットワークの形成を進めます。それを宥盛は受け継ぎます。
金刀比羅宮奥社の天狗
新興勢力である金毘羅大権現が新たな修験道のメッカになるためには、周辺の類似施設は邪魔者になります。称名院や三十番社、尾背寺などは、旧ネットワークをになう宗教施設として攻撃・排斥されます。そのような動きの中に、光明院も置かれたのではないでしょうか。そして、廃墟化した後に、番人として宥盛は高野山から連れ帰った山伏を、ここに入れた・・・。そんなストーリーが私には浮かんできます。どちらにしても、金毘羅大権現とその別当金光院にとっては、邪魔な存在だったのではないかと思えます。
松尾寺の弘法大師座像の中から出てきた宥盛の願文
そのような金光院の強引なやり方に対して、善通寺誕生院は反撃のチャンスをうかがいます。しかし、生駒藩においては、金光院の山下家と生駒家は何重もの外戚関係を形成して、手厚い保護を受けていました。手の出しようがありません。そこで、生駒騒動で藩主が山崎家に変わると善通寺誕生院は「金光院はの本時の末寺だ」と訴え出ます。これは、善通寺の末寺であった称名寺や尾背寺などへの金光院の攻撃に対する反撃の意味合いもあったと、私は考えています。
金毘羅大権現と天狗達
中世山岳寺院としての尾背寺や修験道の拠点としての光明寺の歴史を探っていると、近世になって登場してくる金毘羅大権現と金光院の関係を考えざる得なくなります。現在、考えられるストーリーを展開してみました。
最後に、光明寺はどこにあったのでしょうか?
最後に、光明寺はどこにあったのでしょうか?
明治38年の岸の上村
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。明治38年の国土地理院の地図を見てみると、現在の真福寺の北辺りに「寺下」「寺山」という地名が見えます。ここが光明寺跡ではないかと私は考えています。現在の真福寺は、初代高松藩主松平頼重によって、法然ゆかりの寺として建立されたとされます。それ以前に、その北側の丘の上に光明寺はあったのだと思います。それが地名としてのこっているという推測です。
参考文献 町誌ことひら 古代・中世史料編 岸上光明寺 28
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