瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2021年05月


まんのう町 光明寺

中世のまんのう町岸上(きしのうえ)には、中世に光明寺というお寺があったようです。しかし、このお寺については、金毘羅大権現の多門院に伝わる『古老伝旧記』に次のように出てくるだけでした。
                          
一、岸上光明寺之事
右高松御領往古焼失堂寺も無之、龍雲院様御代当山へ御預け被成、当地より下川師と申山伏番に被遣、其跡二男清兵衛代々外今相勤居申也、本尊不動明王焼失損し有之也、年号不知、右取替り之御状共院内有之由
(貼紙)(朱)
「光明寺高
一、下畑九畝拾五歩、畑方免三つ六歩、高五斗七升
一、下畑三畝三歩、高壱斗八升六合
一、下畑壱畝九歩、高七升八合
畝〆壱反三畝弐拾七歩、高〆八斗三升四合、取米三斗
一、米九合 日米  一、米三升三合 四部米〆三斗四升弐合
一、米四合 運賃米  同八升三合 公事代米同 費用米
一、大麦弐斗九合 夏成年貢   一、小麦壱斗四合 同断麦〆三斗壱升三合也」
意訳変換しておくと
岸上の光明寺について、この寺院は高松御領の岸上にあったが、往古に焼失して本堂などは残っていない。所有権を持つ龍雲院様が、当山金光院に預けていた。そこで当院(多門院)は、下川師(そち)という山伏を番人に派遣していた。今は、その二男清兵衛がつとめているという。本尊の不動明王は焼失し、破損している。いつのことかは分からないが、この不動明王と預条が多門院の院内にある。

 さらに貼紙が付けられ、朱書で光明寺の石高が書かれていますが、水田ではなく「下畑」とあります。「岸上」は、その名の通り金倉川の左岸の「岸の上」の丘陵地帯に立地するエリアです。金倉川からの取水ができないために、灌漑水路の設備が遅れていたようです。
まんのう町 満濃池のない中世地図
金倉川の南側に「岸ノ上」と見える

 多門院が光明寺跡に番人として派遣していたという「下川師(そち)という山伏」を見ていきます。
 初代金光院院主宥盛が高野山での修行・修学が終わり、帰讃する際に,麓の下川村の山伏師坊を召連れて帰った。それが下川師(そち)だというのです。宥盛は、修験者としても名前が知られる存在だったようです。そして、後進の育成にも努めました。その修行を支えるスタッフの役割を果たしていた人物なのではないかと私は考えています。そうだとすると、宥盛と下川師は、精神的にも深いつながりで結ばれていたことになります。宥盛は、金毘羅山を修験道の山、天狗の山にしようとしていた形跡がうかがえます。そのために、土佐の有力修験者を呼び寄せて多門院を開かせています。その多門院の下で、手足となり活動していたのが下川師ではないでしょうか。
 下川家の二代杢左衛門も,はじめは大雲坊という修験者で,金毘羅に近い岸上村の不動堂の番をしていましたが、後に還俗して下川を姓とし,金光院に出仕する役人になります。杢左衛門の長男は我儘者であったので,二男喜右衛門が後を嗣ぎますが病弱で若死します。そこで、妹に婿養子をしたのが四代常右衛門になります。彼は、薪奉行,台所奉行など勤めています。五代杢左衛門は台所奉行から作事奉行にも出世します。六代常右衛門は山奉行,玄関詰,御側加役などを勤めます。そして、七代伴吾の時に、下川の姓から枝茂川と改め、御側加役から買込加役になっています。覚助は書院番などを勤めたが若死にした。養子保太郎が九代となった。十代直一,十一代文一まで金刀比羅宮に奉仕しますが,その後は名古屋へ移住したようです。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納にやってきた金毘羅行者
 ここからは、金毘羅大権現の草創期には各地から修験者たちが集まってきて、この地に定住していったことが分かります。下川家の場合は、金光院に使える高級役人として明治まで仕えています。また、金比羅行者と云われた修験者たちが先達となって、各地の信者達を金毘羅大権現参拝に誘引してきます。その際に、泊まらせたのが彼らの家で、それが旅籠に発展していった店も多いようです。旅籠の主人も、先祖を辿れば修験者だったという例です。
 天狗面を背負う行者 浮世絵2
話が脇道に逸れたようです。本道にもどしましょう。この史料からは光明寺が、かつて岸上にあったこと分かりますが、それ以上のことは分かりませんでした。
別格本山、地蔵院萩原寺(香川県観音寺市)

新しい発見は、観音寺市大野原町の萩原寺に保管されている文書類でした。
ここには、光明寺に関することが書かれていました。

[金剛峯寺諸院家析負輯] 三 本中院谷          
明王院本尊並歴代先師録草稿
(中略)        
  阿遮梨勝義
泉聖房取樹無量壽院長覺阿闇梨灌頂之資。
後花園院御宇永亨十一年戊午九月廿日婦寂○西院付法下云。
讚岐國岸上光明寺櫂大僧都高野山明王院文○秀義考云勝師婦寂之年月恐謬博乎。中院流亨徳記曰。亨徳二年四月十六日於紀伊國高野山金剛峯寺明王院道場。授中院流。心南院博法灌頂入寺重義大法師勝環雨受者。日記大阿閣梨法印櫂大僧都勝義泉聖房(年七十三、明王院)。讃岐國真野郷岸上大多輪息文 既後干永亨十戊午経十有六年。典師所記知謬博也○又大疏讀様高野所博血泳云。明算・良禅・兼賢・定賢・明任。道範・賢定・仁然・玄海・快成。信弘・頼園・長覺・勝義(泉聖房 高野山明王院。讃岐国岸上人也。享徳三年二月二十日入寂。)
重義文同伊豆方所侍血詠云。賞意・賞厳・賞園・全考・宥祥・宥範・宥重・宥恵・勢舜・勝義(泉聖房 讃岐岸上光明院。兼住高野山。享徳三年二月二十日入寂。七十四。)
  後略
  忠義法印
讚岐國岸上之人。字泉行房。勝義遮梨入室附法資也。人王百四代 後士御門御宇頃乎。自勝義賜忠義印信。文明七年文寂日七月十三日 ○覺證院主隆雄。五大尊田地寄附之書物文明十四年文
○法印入滅之歳、雖末分明。恐明應文亀之頃乎。何以知然。自筆玉印砂奥書云。文明十五年秋比。依聞此名。物名字以使者於高雄寺苦努八旬老眼開了忠義財計又三―山―三種秘法印信奥云。明應二年正月十一日博授大阿遮梨忠義上人授興朝盛文西院印信奥云。右明應三年職畝卯月廿八日。於高野山明王院灌頂道場雨部博法職位畢。博法大阿閣梨権大僧都忠義授興朝盛。文血詠年月同印信也。又開眼文一紙。其文日。泉州久米多寺開山行基大士之尊像一證奉開眼所也。高野山金剛峯寺明王院住権大僧都泉行房忠義判。明應七年端歓拾月八日。申剋右勘之自文明十五
(「続真言宗全書」第二十四 所収 町誌ことひら 史料編282P)

ここには、高野山の明王院の住持を勤めた2人の岸上出身の僧侶が「歴代先師録」として紹介されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」と記されます。
忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地の岸上光明寺をも兼住していたこと
③彼らを輩出した岸上の光明寺が繁栄していたこと
④讃岐出身者が高野山で活躍していたことが

それでは、高野山明王院とは、どんな寺院なのでしょうか
 
高野山 明王院の赤不動
明王院 赤不動
明王院は日本三不動のひとつ「赤不動」として知られるお寺で、高野山のなかほど本中院谷にあるようです。寺伝では弘仁7年(816年)、空海が高野山を開いた際に、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したと伝えます。
  不動明王を本尊としていることからも修験者の寺であったことが分かります。中世の真野郷の岸上からは、高野山の修験道の明王院の院主を輩出していたことになります。当然、岸上の光明寺も明王院に連なる法脈を持っていたはずです。ここから光明寺は、丸亀平野南部の修験者の活動拠点で、全国を遍歴する修験者たちがやってきていたのではないかと、私は考えています。

 高野山の明王院住持を岸上から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、
永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                                                       
                    祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は指摘します。以前にお話ししたように、中世の、道隆寺や金蔵寺、そして前回見た尾背寺などは「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 そして彼らは「不動明王」を守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたようです。その讃岐のひとつの拠点が東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽の活動だったことを以前にお話ししました。光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。そのために優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。
光明寺 法統

上の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが⑥勝義 ⑦忠義の讃岐岸上出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。⑨の良昌は、飯山にある島田寺の住職を兼ねながら高野山金剛三昧院住持を勤めた人物です。
   また、明王院勝義・忠義を経て金剛三昧院良恩から萩原寺五代慶祐に伝えられた法脈もあります。この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。この中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥盛もいたのです。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持っていたようです。

金毘羅周辺絵地図

 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 岸上の光明院の行場ゲレンデのひとつは、金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルートだったことは以前にお話ししました。また、まんのう町の金剛院には、多くの経塚が埋められています。
大川山 中寺廃寺割拝殿
中廃寺の割拝殿

そこから見上げる大川山の中腹には、中世山岳寺院の中廃寺の伽藍がありました。さらに、西には前回お話しした尾背寺があり、ここでも活発な書写活動が行われていました。大野原の萩原寺には、尾背寺で書写された聖教がいくつも残されています。ここからも尾背寺と萩原寺は人脈的にも法流的にも共通点が多く、中世は修験道の拠点として機能していた寺です。さらに四国霊場の雲辺寺は、萩原寺の末寺でもあり、やはり学問寺でした。
 こうしてみると中世讃岐の修験道のネットワークは金比羅・善通寺から三豊・伊予へと伸びていたことがうかがえます。これが修験者や聖など行者達の「四国辺路」で、これをベースに庶民の「四国遍路」が生まれてくると研究者は考えているようです。

DSC03290
金刀比羅宮の奥の院の行場跡に掲げられる天狗

 このような修験者ネットワークに変動が起きるのは、長宗我部元親の讃岐制圧です。
ここからは私の仮説と妄想が入ってきますので悪しからず
元親は、宥雅の残した松尾寺や金毘羅堂を四国総鎮守として、讃岐支配の宗教的な拠点にしようとします。その際に、呼び寄せられたのが土佐の有力修験者南光院のリーダーです。彼は宥厳と名前を改めて、讃岐の修験者組織を改編していこうとします。その下で働いたのが宥盛です。長宗我部元親撤退後も、宥厳は金毘羅にのこり金毘羅大権現を中心とする修験者ネットワークの形成を進めます。それを宥盛は受け継ぎます。

DSC03291
金刀比羅宮奥社の天狗

 新興勢力である金毘羅大権現が新たな修験道のメッカになるためには、周辺の類似施設は邪魔者になります。称名院や三十番社、尾背寺などは、旧ネットワークをになう宗教施設として攻撃・排斥されます。そのような動きの中に、光明院も置かれたのではないでしょうか。そして、廃墟化した後に、番人として宥盛は高野山から連れ帰った山伏を、ここに入れた・・・。そんなストーリーが私には浮かんできます。どちらにしても、金毘羅大権現とその別当金光院にとっては、邪魔な存在だったのではないかと思えます。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4
松尾寺の弘法大師座像の中から出てきた宥盛の願文

 そのような金光院の強引なやり方に対して、善通寺誕生院は反撃のチャンスをうかがいます。しかし、生駒藩においては、金光院の山下家と生駒家は何重もの外戚関係を形成して、手厚い保護を受けていました。手の出しようがありません。そこで、生駒騒動で藩主が山崎家に変わると善通寺誕生院は「金光院はの本時の末寺だ」と訴え出ます。これは、善通寺の末寺であった称名寺や尾背寺などへの金光院の攻撃に対する反撃の意味合いもあったと、私は考えています。 

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達

  中世山岳寺院としての尾背寺や修験道の拠点としての光明寺の歴史を探っていると、近世になって登場してくる金毘羅大権現と金光院の関係を考えざる得なくなります。現在、考えられるストーリーを展開してみました。
 最後に、光明寺はどこにあったのでしょうか?
まんのう町岸の上 寺山
明治38年の岸の上村
明治38年の国土地理院の地図を見てみると、現在の真福寺の北辺りに「寺下」「寺山」という地名が見えます。ここが光明寺跡ではないかと私は考えています。現在の真福寺は、初代高松藩主松平頼重によって、法然ゆかりの寺として建立されたとされます。それ以前に、その北側の丘の上に光明寺はあったのだと思います。それが地名としてのこっているという推測です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

尾背寺跡

   昔から気になる廃寺があります。まんのう町の尾背寺です。ここには、かつてはキャンプ場があり、若い頃は野外指導のために夏の間に何度も登っていました。そんな中で発掘調査が、1978・79年に行われ、その報告書も出されれています。それを読んでも、「中世山岳寺院のひとつ」ということくらいしか頭には残りませんでした。しかし、大川山中腹の中寺廃寺が発掘され、次のような事が見えてきました。
①讃岐の山岳寺院がネットワークとして結ばれていたこと
②熊野行者をはじめ修験者たちが頻繁に訪れ、辺路修行を行っていたこと、
③里の本寺の奥の院として、行場であり、学問所の機能を果たしていたこと
尾背寺が孤立的に存在していたのではなかったようです。そんな中で、町誌ことひらの史料編を眺めていると、大野原町・萩原寺の文書の中に尾背寺との関係がうかがえる史料があることを知りました。それらの資料で、尾背寺について分かることをまとめておこうと思います。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

「尾ノ背寺跡の発掘調査書」には、発掘成果について次のようにまとめられています。
①寺の存続期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間と推定。
②その中心は、瓦片が集中出土する現在の尾野瀬神社拝殿周辺である
③拝殿裏には礎石が並んでいることから、ここが本堂跡の最有力地
④神社すぐ下の通称「相撲取場」と呼ばれる平坦地も候補地
⑤残存状態は良好で、礎石が点在する
⑥尾野瀬神社の在る平坦地から、墓ノ丸までの一帯には平坦地や石垣が多数検出され、いくつもの坊があったことを実証づける
⑦尾ノ背寺の寺域は広く、神社からさらに上方にも平坦地があり,「鐘撞堂」などの地名が残っている
調査で出土した遺物多くは、土師質の小四・杯のようです。
その土師器に特徴があるようです。出土した土師器は、地元の讃岐の元吉城ではない、外部から持ち込まれたものがあるようです。それは、底部の切り離しの際には、回転ヘラ切りが行われるのが一般的です。ところが小皿・杯 に各1点 づつ糸切りのものがあるようです。これは、在地のものではなく、讃岐以外の地から持ち込まれたものと研究者は考えているようです。修験者など、国を超えた移動が行われていたことがうかがえます。この時の調査では、仏具が出てきていないので、寺の性格については明らかにすることが出来なかったようです。
尾背寺 白磁四耳壷
尾背寺跡出土 白磁四耳壷 

  次にこの寺の文献資料を見ておくことにします。
まず挙げられるのが『南海流浪記』(宝治二年(1248)十一月)です。これは高野山の学僧道範の讃岐流刑記録です。道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記 尾背寺・称名寺参拝の部分

 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をして、次のように記しています。
「同年十一月十七日、尾背寺参詣。此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ柚山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影並二七祖又天台大師ノ影有之」
意訳変換しておくと
「尾背寺は、弘法大師が善通寺を建立したときの柚(そま)山であると云われる。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には七祖又天台大師の御影が祀られていた。

 ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には、善通寺創建の時の柚(そま)山として、建築用材を供給した山と伝えられていた。この時も、宥範の手で進められていた善通寺復興のための木材確保のためにやってきたのかもしれません。この寺が善通寺の柚(そま)山の「森林管理センター」や、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
②本堂には弘法大師作とされる薬師如来が祀られていたようです。善通寺の本尊も薬師如来です。ここからは、熊野行者的な修験者たちによって両者が結びつけられていたことがうかがえます。
③本堂以外にも御影堂があります。その他の坊も存在もうかがえます。何人もの修験者たちが修行や学問に励んでいたことがうかがえます。
尾背寺 出土瓦
 
このように13世紀半ばには、尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

称名寺 「琴平町の山城」より
 尾背寺で一泊した翌日、道範は帰路に小松荘の称名院を訪ねています。称名院は、現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院です。それを次のように記しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
     
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。

ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土教の寺。
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。

ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。これは、以前に四国霊場の弥谷寺に庵を構えていた高野の念仏聖の姿とよく似ています。彼らは、「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 修験者」の性格を併せ持った聖達でした。その影が称名院の僧侶達からもうかがえます。そしてこれらの寺院や庵は「善通寺 ー 称名寺 ー 尾背寺」と、修験者や高野聖たち行者のネットワークで結びつけられていたことがうかがえます。
尾背寺跡 地形図
尾背寺跡地形図
江戸時代に金毘羅金光院に仕えた修験寺院多聞院の〔古老伝旧記〕には、次のように記されています。
尾野瀬寺之事 讃州那珂郡七ヶ村之内 本目村上之山 如意山金勝院 尾野瀬寺 右寺領新目村 本目村 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南之尾立に墓所数々有 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
 意訳変換しておくと 
「尾野瀬(尾背)寺について この寺は讃州那珂郡七ヶ村、本目村上之山にあり如意山金勝院と号する。 尾背寺の寺領は新目村 本目村で 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南の尾根に墓所が多数ある 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」

ここには、かつての尾背寺は、新目・本目を寺領としていたこと。本堂が七間四面あったと、山伏らしい法螺(?)が記されます。さらに本堂以外にも、数々の緒堂や山門があり、坊跡も残る寺院があったことが記されています。江戸時代になっても、かつての尾背寺の繁栄ぶりが伝わっていたことがうかがえます。
 ちなみにこの文書を残した多門院は、初代金光院院主とされる宥盛が土佐の修験道の有力な指導者を迎えて、設立した院房です。全国にネットワークを持つ金比羅行者の養成・指導機関として、機能するとともに、金比羅の街の警察・行政機関の役割も果たしていました。多門院には、阿波の箸蔵寺などを拠点とする修験者たちを始め、全国の修験者たち(天狗)が出入りしていたようです。そのために修験道者の交流・情報交換センターでもあったと私は考えています。

大正七年(1918)刊の『仲多度郡史』に「廃寺 尾背寺」として、次のように記されています。
「今の尾瀬神社は、元尾脊蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」

昭和十三年(1938)刊の『香川県神社誌』もそれを受けて
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、両部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興(中略)明治元年 脊を瀬に改め尾瀬神社と奉称」

と記されています。
ここにはもともとは「尾脊蔵王大権現」と称し、神仏混淆の「蔵王大権現」が祀られていたとします。「蔵王権現」は、修験者の信仰対象です。ここにあった尾背寺は「山伏寺」と認識されていたことが分かります。萩原寺所蔵の聖教類では、真言宗本来の教学修法の下にあったとされますが、山伏集団の拠点であったようです。それが長宗我部元親の侵攻で兵火に会い焼失したというのです。

  以上、文献史料や発掘調査から分かることをまとめたおきます
①鎌倉時代から戦国時代にかけて、尾背寺と呼ばれる山岳寺院が存在した。
②現在の尾背神社の拝殿辺りに本堂があったようで、本尊は薬師如来であった。
③尾背蔵王権現と呼ばれ、山岳修験者たちの修行地でもあった。
④善通寺の奥の院として、杣山の管理センター的な役割も果たしていた。
⑤寺域には、多くの院坊跡がみられ多くの修験者たちがいたことがうかがえる

   町誌ことひらは、尾背寺に関する新たな文書を史料編の中で紹介しています。それは、観音寺市大野原町の萩原寺に伝えられる文書です。それを次に見ていきましょう。

萩原寺地蔵院の「地鎮鎮壇法」には、文保元年(1317)尾背寺下坊で書写したと記されます。
御本云、寛喜二(1230)年四月廿二日、於北白川博授了、道範文賓治二年戟四月廿四日、於善通寺相博御本、同三年二月六日書篤畢、賞弘 抑賜御本而同年十月廿日、癸巳、左衛門少尉紀範忠氏寺筑佐堂之鎮壇修之、重験不思議也、是偏御本無誤之故也、不能委注耳、賞弘在判 文保元(1317)年目十一月十二月、於尾背寺下坊書篤了、
(東京大学史料編纂所架蔵「史料蒐/集目録』二五七、香川県萩原寺)
 この聖教は寛喜二年(1230)四月、道範が北白川で受法します。その後、道範は寛元元年(1243)讃岐へ配流されますが、その5年後の宝治二年(1248)四月に、善通寺でこの法を実弘に伝えたようです。翌三年二月に、実弘は自分用に、もう一度書写しています。その転写を行ったのが尾背寺下坊で文保元年(1317)のことです。配流の身の道範が伝えた聖教が、尾背寺下房で書写され、それが大野原の萩原寺の聖教として保管されていたことになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①道範がいくつかの聖教を善通寺に伝えたこと
②その一部は、伝来され尾背寺で書写されていること。
③尾背寺には「下房」があったこと。
④「善通寺 ー 尾背寺 ー 萩原寺」という高野山系僧侶のネットワークがあったこと

   四 〔授法最略作法〕
正平十二年後七月十二日、以相承之
本書加道叡法印了、御判(聖尊)
右、以師主遍智院宮三品親王(聖尊)、御自筆之本書篤之了、 道興右、以此本奉授与照海大徳即以了、
應安四(1371)年十月十八日
道興(花押)

ここには三品親王聖尊自筆の本を、醍醐宸尊院道興が写して応安四年(1237)十月に、尾背寺の照海に与えたことが書かれています。萩原寺の中興真恵も、聖尊・道興から高野山宏範を経てこの法を受けています。尾背寺の照海も、また聖尊と道興の法を受けています。ここからは、萩原寺と尾背寺の院主は「兄弟弟子」の関係にあったことが分かります。法流の面でも、人脈の面でも二つのお寺は親密であったことがうかがえます。

〔真成授真尊印信〕
護摩口決
(中略)
明徳三年正月五日、 令書篤畢、照海
應永九年八月廿二日、於讃州尾背寺遍照院、書篤畢、成紹
應永廿一年八月五日、書篤畢、真成
康正三年二月廿七日、書篤畢、真尊
ここからは〔真成授真尊印信〕の「護摩口決」が先ほど出てきた照海から成紹に伝わり、真成・真尊と書写され受け継がれていることが分かります。そして、成紹の書写は「讃州尾背寺遍照院」で行われたとあります。下房以外にも、「遍照院」もあったようです。
尾背寺文書
成紹授真恵印信 尾背寺金勝院で書写されたことが記されている

「成紹授真恵印信」は、尾背寺の照海の後継者成紹が真恵に授けた印信が七通集められています。 
塔印 口決在之
明  (梵字)
右於讃州尾背寺金勝院道場、授於
大法師真恵畢、
   應永十二年 二月十六日
博授阿閣梨位成紹

ここからは足しかけ3年にわたって、さまざまな法流が成紹から真恵に授けられたことが分かります。それが行われたのが「讃州尾背寺金勝院道場」です。金勝院という院房もあったことがわかります。

以上から次のようなことが分かります。
①中世の尾背寺は萩原寺と同門で、密接な関係があったこと
②尾背寺では、いくつもの院房があり、そこで活発な書写活動が行われていた。

それでは、尾背寺はどうして衰退したのでしょうか。
讃岐の寺院は、土佐の長宗我部元親の侵攻により兵火に会い、衰退したと由緒に書いている所が多いようです。これは、江戸時代後半になって郷土意識が高まるとともに、讃岐を「征服」した長宗我部元親に対する反発が強くなり、いろいろな書物が「反長宗我部元親」を展開するようになったこともあるようです。
 尾背寺の衰退には、当時台頭してきた新興勢力の金毘羅大権現の別当金光院との対立があったようです。
  先ほど見た『古老伝旧記』には、尾背寺と金毘羅金光院の間の争いがあったことが記されています。当時の金光院院主は宥盛でした。宥盛は、新興勢力の金毘羅神が発展していくために旧勢力との抗争を展開していきます。
  金比羅堂を創建した長尾家出身の宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命ていました。その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を藩主の生駒家藩主に訴えています。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束していた金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾背寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。このようなお山の「権力闘争」を経て、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位を確立させていったのが宥盛です。
宥盛は、すぐれた修験僧(山伏)でもあったようです。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、金毘羅山周辺には多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデにして、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
  彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
 特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
 宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
 同時に、同門の善通寺とは対立し、その末寺的な存在であった称名寺や尾背寺に対して、攻撃を展開したことがうかがえます。その結果、 尾背寺の大師御影は金光院の所有となり、真如親王の御影も金光院御影堂に収められたと『古老伝旧記』には記されます。以前に現在の松尾寺に伝わる弘法大師座像は、「善福寺」にあったものを金光院の宥盛が手にして、金毘羅大権現に祀られていたものであったことは以前にお話ししました。坐像の中から宥盛自筆の祈願文が出てきました。宥盛の山伏としての辣腕ぶりがうかがえます。
  
ちなみに彼は金毘羅神の創建者として、今は神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。

近世はじめまで山岳寺院として繁栄してきた尾背寺は、戦国時代に衰退するとともに、江戸時代になると金毘羅大権現との抗争で廃寺となったようです。そして、その跡に明治になって尾野瀬神社が建立さるのです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
町誌ことひら 古代・中世史料編 268P  

 
正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

野原・高松・屋島復元地形図

中世の高松周辺の海岸線です。屋島は島で、現在の高松城のある野原の地との間には、「古・高松湾」があったと研究者は考えているようです。イラストで見ると、こんな風になるようです。
野原・高松・屋島復元図

以前に高松城の西側の宮脇町のことは見ました。今回は高松城の東浜(東側のエリア)の変化を見ていきたいとおもいます。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です
高松城 周辺地理図

この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」は、江戸初期の高松城の東の地形について、次のように記します。
東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟坂田中河原迄潮先来ル也。
意訳変換しておくと
東浜は④野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。

「野方口迄潮サシ込」は、上図④の「ノカタ(野方)ロ」の付近のことのようです。確かに絵図でも、野方口から東は海岸です。南海通記と絵図は一致します。「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の「高松ヨリハ嶋(屋島)ヘー里半、塩浜一里」の説明文とも合います。
「南海通記」の「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」と思われる道が、上図では④の「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。
高松野原 中世海岸線

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。
真言宗の念仏僧侶で梵語に造詣の深かった僧澄禅の四国巡礼記録です。ここには、一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が次のように記されています。
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
 ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。
高松天正年間復元図1

野方口とは、干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。
この遠干潟の部分が近世になると、新田干拓されていきます。

古高松湾は、どのようにして現在の姿になったのでしょうか。
高松城周辺 正保絵図

上図は国立公文書館版「正保国絵図」の古・高松湾の沿岸部です。
木太村の海側に①富岡村 ②夷村 ③春日村が新たに姿を現しています。この夷・富岡村については、生駒期の史料に次のように記されています。
寛永一六年(1629)二月讃州御国中村切高惣帳。
新田
一、高三六拾七石壱斗            富岡蔵入惣所
一、高三百五拾九石弐斗式升七合  夷村蔵入惣所
寛永一七年二月一五日生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳、
一、高三百六拾七石壱斗          富岡新田
一、高三百五拾九石弐斗弐升七合  夷村新田

生駒騒動の結果、生駒家から讃岐一国を没収されたのは、寛永17(1630)年7月のことです。この記事は、その直前のものになります。寛永16年以前に、夷・富岡の地で、新田開発が行われ、その後に造られた「正保国絵図」に、村として記載されたようです。この新田開発については、高松藩校講道館教授の菊池武賢が著した地誌『翁姐夜話』(延享二年(1745)に完成)に、西島八兵衛の評伝として次のように記しています。
寛永五年脩シ満濃池ヲ、築三谷池ヲ、十二年為陣内池ヲ。十四年築テ堤ヲ障サヘ海水ヲ、為田卜。福岡・木太ノ滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名、是レ也。今並二為ル熟田卜。民大二頼(カウムル)其利ヲ。到マテ干今二称ス之,

意訳変換しておくと
寛永5(1628)年に満濃池を再築し、三谷池を築造する。寛永12(1635)年には陣内池、14年には堤防を築いて海水をせき止め、水田干拓を行った。福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名がこれである。今は美田となっていて、民はその恩恵を受けており、今になるまで西嶋八兵衛を賞する。

同書の松浦正一所蔵本には、続けて次のように追加文章があります。
謂木太春日新開也。下往還大路、自此時始。
半以西属東浜、半以東属木太。其境有溝、架石小橋。
木太・春日新開は、この時に拓かれた。下往還大路も、この時につけられた。この西半分は東浜に属し、東半分は木太に属す。其境には溝があり、小さな石橋が架けられている。

ここからは、伊勢の藤堂藩から生駒家に家老級の扱いでレンタルされていた西鳩八兵衛が、寛永14年に、福岡村から木太村を経て春日村富岡にいたる間の新田開発を行ったことが分かります。これが後に木太・春日新開と呼ばれるようになります。
宝永地震における高松藩の被害状況

その範囲については、「英公外記」(明治15年完成)の寛文七年(1667))条に、次のように記されています。
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松鳩木太春日の潟新開成る。下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛か築し所なり。

ここには、西嶋八兵衛が拓いた木太・春日新開のさらに海側を、寛文七年に新田開発したと記します。
この「下往還」より南手の新開とは、どこにあたるのでしょうか?
「下往還」とは、下大道、東下道とも呼ばれた高松藩五街道の一つ志度街道のことだと研究者は指摘します。下大道については、慶応三年(1867)成立の石田忠恒著「政要録」に「讃岐大日記に慶安元子年山田郡下大道を作る」という記事が見えます。この道はもともと干拓に伴って築造された汐止堤防で、それを改修して慶安元年(1648)に街道として整備されたようです。それまでは、姿のなかった街道なので、絵図に登場することはありませんでした。

天保国図 高松東部
下往還について、上図の「天保国絵図 讃岐国」で見てみましょう。
先ほど見た【図6】のふたつの絵図では、福岡村・夷村・富岡村に海岸線がありました。それがこの天保絵図では、そのさらに海側に、高松城のそばの東濱村から古高松村向けてほぼ直線の道が赤く記されています。ここからは、西嶋八兵術が寛永一四年に新田を開発したのは、この赤く記された道よりも南側の地域であることが分かります。
また、【図6】の「正保国絵図」と天保国絵図を比べると、川の流れが大きく変化しています。

高松春日川付け替え工事 
絵図に描かれた河川は、西から順に、香東川の(後の御坊川)、詰田川、春日川、新川です。それが【図6】の「正保国絵図」では、春日川と新川が夷・富岡両村の間で合流し、河口部では一つになって描かれていました。ところが、天保国絵図では、二つの川は分離して、別の河川として描かれています。ここからは「正保国絵図」が造られた後に、大規模な河川改修が行われたことがうかがえます。

下の【図8】は、「高松平野地形分類図」に「正保国絵図」に見える村々を書き込んだものです。
   1
ここでは旧河道が黒く描かれています。それを見ると、新川・春日川は河口部の三角州帯では、のたうつ大蛇ののように幾筋にも分かれて、蛇行していたことが分かります。これらの旧河道の痕跡は、今でも残っているようです。
 これについて『讃岐のため池誌」は、次のように述べています。
新川は現在では高松市春日町の河日で、春日川から分岐しているが、新川のほぼ中流部で久米池の西側にあたる高松市東山崎町中免には、かつて新川がこの附近で真直ぐ、春日川に流れこんでいた痕跡跡が明瞭に残っている。おそらくこの地点で春日川と新川を合流させたのでは、そのあとの洪水量が大きくなりすぎて、その制御が難しいところから、新川を春日川から分離し真北へ新しく付け替えることによって洪水を三分し安全に海に導くことができると考え、新たに新川を開さくしたものと思われる。

ここには、次のようなことが指摘されています。
①新川と春日川が合流していたこと、
②洪水防止のために河道を三分離したこと
③そのために新たに付け加えられた放水路が「新川」であること
④その時期については、何も触れていない。

さらに「英公外記」には、寛文七年(1667)のこととして、次のように記されています。
「此年松嶋すべり之沖より 潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松嶋木太春日の潟新開成る」

ここからは松平頼重の治政下に、松嶋から滑(洲端)の沖を経て屋島の潟元までの潟の新開が行われたことが記されます。これは先ほど見た下往還より海側のエリアになります。この新田開発は木太・春日新開からさらに沖へ向かって突き出すかたちでなされました。
三十幸太郎著の「近讐要録」には、西嶋八兵衛の項に次の記事が記されています。
高松盛衰記二云フ英公ノ初年二矢野部平六卜謂フ入アリ是亦経済家ニテ開拓整溝ノ事ヲ掌ル 頻二海面ヲ埋メテ田畑ヲ増加セリ 西島氏津二在テ此事ヲ聞テ曰く 吾新田ノコトヲ気付カサルニ非サルモ海面ニ向ッテ広ク新地ヲ築出ストキハ河水ノ下流漸々洪塞シテ水患ヲ引起スコト多カラン 永遠ノ后ハ得失相償ハサルモノアラント味ヒアル言ナリ

意訳変換しておくと
高松盛衰記には、次のように伝える。英公(松平頼重)の初年の頃に、「経済家」の矢野部平六が開拓整備の実権を握り、海面を埋めたて田畑を増やした。これを津に引退していた西嶋八兵衛が聞いて次のように云ったという。
 私もこの新田開発のことは考えたこともあった。しかし、海面に向って広く新地を築いて突き出すと、河水は下流で滞留して、水害を引起すことが多くなる。長い目で見ると損得は、相半ばすると考えて実施しなかったと述べたという。

生駒騒動の前に、念願叶って伊勢国津の藤堂家へ帰っていた西嶋八兵衛の言葉です。頼重期に行われた矢野部(矢延)平六による新田開発の手法について危惧したことが記されています。それは、海面に向かって広く新地を築き出すと、川の下流は次第に「瀞塞」して、水害を引き起こすことが多いと指摘しています。
高松地質図

 この弊害を解消するために取られた手段が干拓地へ流入する河川の改修だったと研究者は考えているようです。【図8】から見てとれるように、新川・春日川・詰田川の河道は、三角州帯においてほとんど直線的です。この改修のねらいは、蛇行していた河道の直線化することで、川の流れを早め、河口付近における砂や泥の堆積を防ぐことを目的としたのでしょう。
 松平頼重の時代には、新田開発の画期でもありました。万治・寛文年間(1658―73)には、高松城下の西部で香東川と本津川の分離が行われ、二つの川は別の河口を持つことになります。高松の東西において、同じころ同じ手法で新田開発が行われていたと研究者は推測します。
高松地図明治14年
明治14年の高松城
 さらに、前回見たように丸亀平野でも、満濃池の築造と、その用水路整備のための金倉川の流路変更、さらに変更後の河口域での新田開発とがセットでおこなわれていました。治水のための流路変更や、灌漑のためのため池建設、用水路整備は、単独では成立しないものであったことが改めて分かります。
   以上をまとめておくと
①中世は海が屋島と野原の間に入り込んで、組んで「古高松湾」があった。
②そのため海岸線は、福岡村・夷村・富岡村にあり、街道もこの海岸線沿いを通っていた。
③寛永14(1637)年に、西嶋八兵衛が堤防を築いて、神田干拓を行った。
④それが福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村である
⑤松平頼重の時代に矢延平六が、海面に向かって広く新地を築き出す形で新田開発を行った。
⑥そのため河川の水害が危惧されることになり、対策として川を分離した上で、新たに新川を開削した。
⑦その際に流速を早くするために直線的な川筋が引かれた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)
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1 讃岐国丸亀絵図
山崎藩が提出した丸亀城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。他にも城下の町割・川筋などが載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを紅葉山文庫に保管・収蔵していたようです。幕末には131図が所蔵されていたようですが、現在は63の正保城絵図があります。この絵図は、山崎藩が提出した丸亀城絵図です。これを山崎藩が提出したのは、幕府の指示があった翌年、つまり1645年とされます。しかし、これについては、私は疑問を持っています。その疑問の背景を年表から見てみましょう
丸亀城を、年表で見ておきましょう。(香川県史の年表より作成)
1600年 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
1601年  生駒一正,徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵       生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280 人を丸亀城下へ移住させる
1602年  生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1610年  生駒一正没する.56歳 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1615年  徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
     一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
1621年  生駒正俊,没する.36歳.生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見する
1626年  間旱魃となり,飢える者多数出る
1628年  西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
     西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
1640年  幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を,出羽国矢島1万石に移す.
1641年  肥後天草の領主山崎家治,西讃5万石を与えられる。城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年  松平頼重,常陸下館から讃岐高松12万石へ移封を命じられる。山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府は諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年  初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
  生駒騒動後に、肥後天草からやって来たのが山崎藩で、1641年のことです。居城をどこにおくかについては、後ほど幕府に報告せよとの指示でした。引渡手続きに当たっていた要人達は、観音寺・多度津・丸亀を候補地としていましたが、丸亀に居城を置く可能性は低いと推察していたようです。
満濃池水掛村々の図

 その理由は、上の絵図を見ると分かります。これは明治初頭の「満濃池水掛かり村々図」で、丸亀平野の領地区分が次のように色分けされています。丸亀平野は、国割りの境界線が金倉川沿いに引かれ、領地区分けは次のようになりました。
①ピンク 高松藩
②草色  丸亀藩
③白色  多度津藩(京極家分家)
④黄色が天領 池御領
⑤赤色  金毘羅大権現金光院寺領
これを見ると分かるように、丸亀は高松藩の領地の中に取り込まれたような形になります。丸亀城から南に見える水田は、ほとんどが高松藩のものになります。丸亀は、西讃の東端になるだけでなく、戦略的にも問題があります。そのために、ここにお城を構えることはないだろうというのが、大方の見方でした。しかし、山崎家治は生駒時代の丸亀古城跡を改修し、新たな居城とすることを選択します。

年表でその後の流れを再確認すると、次のようになります
1642年 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府が諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年 初代丸亀藩主山崎家治が没する.山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
                   
最初に見た丸亀城の正保城絵図は、1645年に幕府に提出されたとされます。しかし、それに対する私の疑問点は以下の通りです。
①42年に「古城を修築」開始し、3年で完成していたのか。工期が短すぎる。
②48年に「丸亀城修復・普請などの指示を出す」とある。これが幕府からの正式の改修許可ではないのか。
③山崎氏の丸亀城は、48年以後に正式に大規模改修工事が始まり、それが完成したのは数年後のことではないのか
④丸亀城の正保城絵図は、1650年代半ばに完成した丸亀城を描いたものではないのか。
 当時は幕府の了承や指示なしで、お城に手を加えることは御法度です。それを破った安芸の福島正則がお取りつぶしになったことを、大名達は目の前で視ています。山崎家も廃城となっていた丸亀城を、居城とすることを幕府に伝えて、最低限の改修工事を行い、正式の許可が下りるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その許可が下りたのが1648年ではないのかという仮説です。その指示を受けて、新城に向けた大規模工事工事が始まったのでしょう。そうだとすれば、工事終了はさらに後のことになります。
  「各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出」とありますので、各藩もすぐに提出したのではないようです。山崎藩の場合は、改修が完成した「晴れ姿」の丸亀城を描いて提出したかったはずです。そうだとすれば、提出が一番遅かった藩かも知れないと私は考えています。
そういう目でもう一度、生駒藩時代の丸亀城と、正保城絵図の丸亀城の拡大図を比べて見ましょう
       1 丸亀城 生駒時代
生駒藩時代の丸亀城
讃岐国丸亀絵図2
       山崎藩が提出した丸亀城絵図

この2枚の絵図から基本的な構図に変化はないようですが、建築物については、二の丸などの構造物も増えて大規模な改修が行われ、一新された姿になっていることが分かります。これは、肥後からやってきて2,3年で行えるものではないような気がします。仮説として、この絵図が作成されたのは1645年ではないこと、48年に幕府からの工事許可が出て、数年を経て完成した姿を描いたものである可能性があることを指摘しておきます。どちらにしても、復興した山崎藩の丸亀藩の姿を伝える貴重な絵図です。

この丸亀城の海側を見ながら読み取れる情報を挙げていきましょう。
讃岐国丸亀絵図 拡大

「讃岐国丸亀絵図」から海辺に近い部分を拡大したものです。
①東側(左)に土器川
②土器川から東側の外堀につながる東汐入川 河口の砂州の上に船番所
③北側の海岸線には、③砂州①が伸びて遠浅の浜辺を形成、
④西側にも砂州2があり、砂州1との間から⑤西汐入川が海に流れ出している
⑤の西汐入川は⑥舟入に船が入ることが出来る
⑥の外堀は⑧の寺町の水路を経て⑤西汐入川につながる
⑦古町と表記されたエリアが⑤西汐入川沿いにある
この絵図の④の砂嘴2が現在の福島町に発展していきます。福島町は、無人の砂嘴の上に作られた町場です。そして、③と④の砂嘴の尖端には、船番所が置かれています。

研究者が注目するのは、⑨の「古町」です。
丸亀城下町の海浜部
「古町」エリアを黒く塗りつぶしたのが上図になります。古町に当たる町名を、挙げると次のようになります。
上南条町  
下南条町  
塩飽町  
横町(現在の本町) 
船頭町 (現在の西本町)
西平山町 北平山町御供所町
これらの町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町です。だから「古町」なのでしょう。この絵図からは、丸亀城が廃城になっても、西汐入川の河口周辺には、漁師(水夫)や廻船関係者などが残り、浦や町場があったことが分かります。山崎氏が、ここを居城とした理由の一つかも知れません。
古町のルーツを見ておくと
①西平山・北平山・御供所の三町は、宇多津の聖通寺山麓の三浦から漁夫を、
②塩飽町は、沖合の塩飽諸島からの人たち
を生駒藩が丸亀城の築城の際に、この地に移住させて成立させたものです。
何のために、漁師達を城下に呼び寄せたのでしょうか? 
新鮮で美味しい魚が食べたかったという理由もあるかも知れません。しかし、当時の生駒藩を初めとする瀬戸内海の諸藩の課題は、九州平定や朝鮮出兵に向けた水軍の整備でした。そのため城下と一体になった湊の整備が求められていたようです。そのためには、水軍の主体となる水夫を城下に配置する必要があったと私は考えています。それは、高松城の場合にも見られる事です。
 「高松国絵図」に見えていた「町」は、このエリアのことでしょう。丸亀城廃城後も町場や浦(湊)が存続していたことが分かります。それは、東西の汐入川は、港(舟入)として用いられ、船番所も置かれています。また、この二つの川は、外堀につながっています。ここからは、城下町の整備と同時に建設された水路(運河)でもあったと研究者は考えているようです。これらが行われたのも山崎藩の時代になってからのようです。とくに西汐入川は、明治43年に河口に近い部分が付け替えが行われて、現在の流路となるまで、その役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

丸亀城下町比較地図51

以後の丸亀城下町は、海に向かって発展していきます。先ほど見たように④の砂堆②に福間町が現れ、さらにその北に福島港が作られます。
1 文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

そして、大坂からの金比羅船の受入港として発展していくことになります。
丸亀新堀1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
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金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
DSC08913
丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
DSC04906

今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
DSC05436
大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
DSC05465
大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
DSC05440

さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
DSC05442

薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
DSC05446
ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

DSC05451

 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
DSC05452

しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
DSC05456

称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
DSC05439

現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献

小松庄 本荘と新荘
本庄城と石川城の推定地(山本祐三 琴平町の山城)

「本条(本荘)」という地名が琴平五条に残っています。このエリアが九条家が小松荘を立証した際の中心で、もともとの立荘地とされているようです。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。新荘(庄)については、榎井にあたり、そこに石川氏が居館を構えていたことを前回に見ました。今回は、本荘を探ってみることにします。テキストは前回に続いて「山本祐三 琴平町の山城」です。

五条にあったとされる居館跡(城址)は史料には、次のように記されています。
『讃岐廻遊記』1799年
榎井村光泉(興泉)寺  一向宗にて 美景の庭有り 井法蔵ひくの尊像有 和田小太郎兵衛正利 屋鋪と云
『讃州府志』1745年
本庄城 小松庄ニアリ 能勢大蔵之二居タリ 文明(1469~87)中 泉州人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)此邦ニ来リ大蔵ノ嗣トナル…入道シテ寺ヲ建テ祐善坊卜云フ 今の興泉寺是ナリ
〇興泉寺  同上 真宗興正寺末寺 天文二年(1533)榎井僧祐善ノ開基也 昔文明二年泉州人和田小太郎兵衛正則ナルモノ  此邦ニ来リ能勢大内蔵ノ養子トナリ 姓フ泉田卜改メ後剃髪シテ本願寺二帰シ 祐善坊卜琥シ寺ヲ立テタリト云フ
  ●『全讃史』1828年(現代語訳)一古城志―
本庄城  同郡(那珂郡)小松庄に在る。
能勢大蔵(のせおおくら)がここにいた。文明(1469~87)中、泉州の人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)がこの邦に来たり、大蔵ノ後嗣(養子)となった。天文(1532~55)中に入道し寺を建てて祐善坊といった。いまの興泉寺がこれである。
●『讃陽古城記』1846年
一 同(那珂郡)  同村小松庄割季分城屋敷  能勢大蔵 今本庄卜云
一 同(那珂郡)  同村泉田屋敷   和田小太郎兵衛正利 右正則 泉州之住和田和泉守孫ナリ 文和(文明の誤りか)年中当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之養子分二成り 後改名泉田氏卜云 剃髪シテ号祐善坊卜 今興泉寺卜云
  ●『古今讃岐国名勝図絵』1854年
◎榎井村
○興泉寺  同所にあリ ー向宗京都興正寺末寺
 文明2年(1470年) 泉州人和田小太郎兵衛正利なる当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之の弟子となり 姓を泉田と改め、剃髪して本願寺に帰し、祐善坊と号し寺を建てたという
○割季分城屋敷跡 同所にあり 能勢大蔵といふもの是に居たり 今此地を本荘という。
○泉田屋敷跡 同所にあり 和田小太郎兵衛正利と云者是に居たり 正則は泉州和田和泉守が孫なり
○本庄城  小松庄にあり 能勢大蔵之に居たり 文明中(1469~87)和田小太郎兵衛正利(正則の子)此邦に末り大蔵嗣となる。天文(1532~55)入道して寺を建て祐善房と云う
  ●『新撲讚岐国風土記』1898年
本庄城  那珂郡榎井村  能勢大内蔵    六条の南民四、五軒ある所を本庄という。少し東に小祠ある所など城跡ならむ
馬場  那珂都五条村    馬場南大井堀地 馬場北
  『仲多度郡史』(大正7年(1918)
本庄城址  神野村 大宇 五條
村の北部 榎井村 宇 六條の地に接する所にあり。
元は榎井村たりき。而して今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。
榎井村興泉寺々伝に「沙円祐善の草創なり。文明二年(1470)和田小太郎兵衛正利、この地に来たり 能勢大内蔵の養子と為り 姓を和泉田と改む。後剃髪して本願寺に属し 祐善坊と称す」云々とあれは 廃城の事明らかなり。今榎井村の血泉秀八は其の一門の裔なりと云ふ.

これらの史料から分かることは、
①本庄城の城主は、能勢大蔵(おおくら)則季(のりすえ)
②「泉田屋敷」は、興泉寺の地のことらしい。
③泉州から移ってきた和田正則が、本庄城主の能勢大蔵の弟子となって本庄城の北の興泉寺の辺りの「泉田屋敷」にいた。
④和田正則は後に剃髪して祐善と号し、興泉寺を建立した。
⑤「泉田屋敷」と呼ぶのは、和田正則がもともと泉州に居た和田氏(泉州之住和田和泉守孫)の子孫なので、琴平に来てから「泉州+和田」=「泉田」と名乗った。
⑥彼が住みついたところが「和泉屋敷」で、後に興泉寺と呼ぶようになった。興泉寺というのは「州からる」の意味
ここまではなんとかまとまるのですが、以後が文書によってバラバラです
⑦和田正則が能勢氏の養子となって、本庄城と和田屋敷を相続した
⑧和田正則には男子がなかったので、能勢家から男子を迎えて養子とした
興泉寺に残る「橘楠和田系図」は⑧の立場です。「琴平町の山城」では、この系図が信頼性が高いとして、⑧を採用しています。
 
  ちなみに泉州からやってきてた和田正則は「入道して寺を建て祐善房と云う」とあります。彼は修験者であったのではないかと私は考えています。この時期から金毘羅山は修験道のメッカであった気配がします。そして、能勢氏も入道し、修験活動を行っていたのではないでしょうか。その能勢氏に和田正則は「弟子」となり入門し、男子がいないので師匠の子どもを養子として迎えたと推測します。金毘羅山の里には、そのような修験者たちが住み着き有力者に成長していたことが考えられます。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址2 

もう一度、能勢大蔵則季の居館とされる「本庄城(居館)」の位置を見てみましょう。
 これは、現在の琴平高校の北側の「八反地」とよばれるエリアだとされてきました。そして、仲多度郡史には「今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。」とあります。
ここからは、六条の南民四、五軒ある所が本庄で、その少し東に小祠ある所が「城跡」らしい。しかし、数年前に取り壊された」とあります。約百年前に、祠はなくなったようです。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址 

 小松荘本荘は、琴平町 五条に相当します。
そして、五条の「本条 八反地」に居館跡はあったようです。明治の地籍簿を見ると、「八反地」は現在の琴平高校の北側のエリアであったことが分かります。広さは、2400坪ですので(1坪=畳2丈=1,8㎡)で計算すると、4320㎡で、約65m×65mの広さになります。中世の居館としては、少し小規模な感じです。
 この付近が九条家荘園の小松庄の立荘の際の中心で「本所」であったと、町誌ことひらは推測しています。
琴平町八反地 本庄城址 
「山本祐三 琴平町の山城」から

手がかりはとなるのは、次の記述です
①六条に接する辺りには「田城(居館)」があった。(『琴平町史』(昭和45年(1970))
②居館の東に祠あり、「椋木祠」と称せりが、数年前に廃せり「仲多度郡史』大正7年(1918))
手がかりは「椋木祠」のようです。「椋木祠」があれば、そこが居館の東側にあたることになります。「琴平町の山城」には、現地を歩いて「椋木祠」を探しています。そして、二本の石柱を見つけます。これが「椋木祠」跡ではないかと推測します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「山本祐三 琴平町の山城」

 DSC04801

  以前に紹介した「琴平町の山城」です。著者は私のかつての同僚で、ライフワークとして讃岐の山城を歩きつぶしていました。退職後はその集大成として、調査した山城の成果を各町毎に次々と出版しています。「琴平町の山城」の中には、私にとっては刺激的な山城がいくつか取り上げられています。そのひとつの櫛梨城は、以前に紹介しました。今回は小松荘(琴平町)の榎井にあった石川城(居館)を、この本を手に散策してみることにします。
 琴平 本庄・新庄
琴平町の山城より引用

 小松荘には「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこには、それぞれ有力な地侍がいたことを前回は見ました。それでは「本荘」と「新荘」は、現在の琴平町の、どこにあったのでしょうか。また、その有力者とはどんな勢力だったのかを今回は見ていくことにします。
 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、下の地図の党利現在の琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアではなかったのかと研究者は考えているようです。
琴平 本庄・新庄2
山本祐三「琴平町の山城」より
 
一方、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。
 「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」・「新荘殿」と記されています。ここからは、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。それでは新荘殿とは、どんな武士団だったのでしょうか?
 それを知るために榎井の「春日神社」を訪れてみました。
 
DSC05386
春日神社(琴平町榎井)
この神社は小松の荘が九条家(藤原氏宗家)の荘園として立荘された際に、藤原氏の氏寺である奈良の春日大社が勧進されたのが創始されたと云われます。しかし、社伝には、そうは書かれていないのです。社伝には、もともとは榎井大明神を称しており、社伝によれば榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられたと云います。そして次のような記録が残ります。
寛元 二年(1244) 新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治 元年(1362) 新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄十二年(1569) 石川将監が社殿を造営

 新庄氏・本庄氏については、前回に見た観応元年(1350)十月日付の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などの名前が出てくる一族です。彼らは、もともと小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として、戦国期には小松荘を基盤に活動する地侍たちと研究者は考えているようです。
 ここからは、中世に榎井明神(春日神社)の維持管理を行ってきたのは、新庄氏であり、その一族である石川氏であったことがうかがえます。このようにして見てくると、この春日神社は新庄氏、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたと町誌ことひらは指摘します。
DSC05364
春日神社の出水
 春日神社には、神域の中に出水があります。
南の大井神社方面から流れてくる水脈が地下を流れているようです。この出水を中心に古代には、開発が進められたようです。この湧水地に水神や水上神が祀られ、それが祠となり、中世には建造物が姿を現すようになったことが想像できます。それが榎井大明神と呼ばれていたのが、いつの間にか春日神社と名前が変わってしまったのかも知れません。
DSC05362
春日神社の湧水と水神社
 この神社を訪ねて私の印象に残るのは、本殿の南側の湧水です。底から湧き出す伏流水は青く澄んでいます。ここには水神さんの祠が建てられています。これがこの神社の原初の姿だと私には思えてきます。ちなみに、この透明な湧水で近くの武士団のお姫様が化粧の際には、顔を洗ったので「化粧堀」とよばれているという話が伝えられています。

DSC05391

 春日神社の北側には、醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけて見ると、下図のように石川氏の居館跡の続きます。
小松荘 石川居館

春日神社の西北には、中世武士の居館跡があったようです。
「琴平の山城」には、上のような地図が掲載され、2つの推定エリアが示されています。小さい「中心部?」という枠で囲まれたエリアが居館跡になるようです。これは、現在では、国道319号によって貫かれたエリアで、コトデンの高架橋の南手前の信号付近になります。
この地図を参考に現地を歩いてみました。居館周囲の堀の痕跡が次のように残っていると指摘します。
DSC05411
東側の堀跡(隣は長谷川佐太郎の墓地)
①東側の堀が、長谷川佐太郎墓地との墓地の間に

DSC05403
北側の堀跡
②北側の堀が京金醤油のとの間に残ります。
居館跡の西端には、榎井蔵中の新しい鎮守堂が鎮座しています。
DSC05408
榎井鎮守堂
この鎮守堂に掲げられた「説明板」には、次のように記されていました。

DSC05406

当地は石川将監の「石川城址」であり、子孫の豪族石川家が居住し、江戸時代榎井村の庄屋をつとめ、金比羅祭の頭人(とうにん)を出す頭屋(とうや)であった。石川家鎮守は、古代石川城の西に位置し、霊験あらたかな神として万人に崇敬されている。祭神  弁財天
善女龍王(清瀧権現)」

この鎮守堂が建つ所から東側が石川氏の居館跡のエリアになると 「琴平の山城」は記します。

DSC05405

そして、次のような聞き取り調査の結果を記します。

「この鎮守はもともとは「石川家鎮守堂」ですが、個人名では、一般の人のお参りがしにくいので、今では「榎井町鎮守」として祀られている。7月26日(正当縁日)は、石川氏の命日として、今でも毎年お祭りをしている。

昭和の初めまで、このあたりは樹木と竹藪が覆い茂って「石川藪」と呼ばれていた。東側の外堀(現在は水路)は、春日神社からの清らかな水が流れていて、城の姫はこの水で顔を浄め化粧したと伝えられる。そのためこの水路は、化粧股と呼ばれていた。
 
  中世の武士居館の特徴は、水源開発と絡んで行われることが多かったようです。居館まで水源から用水路を整備し、それを居館周囲の堀として、さらにそこから周辺に用水を供給するというプランです。

DSC05401
榎井神社からの用水路の又(分岐点)に建つ三十番社

DSC05399

ここでも榎井大明神(春日神社)の湧水を居館まで用水路で引き、その後に周辺に用水路として農業用水を配布していた地侍達の農業経営の姿もうかがえます。
 この居館の主は、どんな武士だったのでしょうか。
「琴平の山城」は、次のような史料を紹介しています
『讃州府志』1745年
榎井城 榎井ニアリ 石井(川?)将監之二居タリ
『全讃史』1828年(現代語訳) 一古城志一
榎井城  那珂郡榎井村に在る。石井(川?)将監がここに居た。
『讃陽古城記』1846年
 同(那珂郡) 榎井村大屋敷  石川将監居城卜云テ 今有小城ト云
讃岐岐国名勝図絵』1854年
榎井村屋敷跡  同所(榎井村)にあり 石川将監是に居たりしなり。今の地を小城ともいう 
●『新撰讃岐国風土記』1898年
石川城  那珂郡榎井村  石川将監 中町の北裏にあり 石川将監之に居たり。全讃史に石井とあるのは誤りなり。いまは六反ばかりの畑地にして、将監が子孫と云う石川某が屋敷となれり。又北には三方に外堀残れり。また北には樹木茂りて、東には地蔵堂、西には弁天祠あり。
『仲多度郡史』(大正7年(1918)
石川城址  榎井村 中ノ町の北裏に営れる所に在り。石川将監の城址なりと云ふ。現今は六段餘歩の畑地となりて 将監が子孫と称する石川某の屋敷なれり。東北西の三方には外堀残れり。又北には樹木を存し 東に地蔵堂あり、西に弁天祠あり
或記|こ「榎井 石川兵庫助従五位下 七千二十石」と見ゆるは是に由あるか
ここからは次のようなことが分かります。
①榎井の城(居館)の主は、石川氏であること
②明治の中頃には、居館跡とその周囲の六反ばかりは、畑地となっていたこと
③東西北に外堀が残っていたこと
④東に地蔵堂があり(現在はない)、西側に弁天祠があった。これは現在は鎮守堂として残っている。
居館の周辺の施設を確認しておきましょう
①東には三十番神堂、榎井大明神(春日神社)
②東の堀跡に面して、長谷川佐太郎墓地、
③西側に鎮守堂(弁天祠、善女竜王堂)。
④西南には、玄龍寺。

以前にも紹介したように、中世武士の居館は、周囲に堀を巡らし竹木を植えた土塁を○○城と表記していました。石川城址は、百年前の大正時代までは東北西に堀を巡らした、竹木の藪であったことが資料から分かります。これは典型的な中世武士の居館です。このエリアが石川氏の居館である可能性は高いようです。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
中世の居館
石川氏についての史料には、どんなものがあるのでしょうか?
石川氏については、西長尾城主の長尾氏が南北朝時代に軍功を挙げて、庄内半島から長尾(まんのう町)やってきた。その際に、家臣として長尾氏についてやって来て、小松庄に定着したのが石井氏や石川氏であると記す史料があります。これが「石井家系譜」で、町史ことひらにも収められています。

 石井家系譜

意訳変換しておくと
十一世 石井太郎左衛門  信光
貞和二年(1346年)正月に、三野郡の海崎・詫間両城主の大隅守橘元高(もとたか)に仕えて五百石を受け、馬廻り武士組となった。
 その後貞治元年(1362)に主人の大隅守が北朝の勅命によって、南朝方の長尾城(西長尾城)に遠征し、中院源少将(なかのいんみなもとのしょうしょう)を誅伐し、その勲功によって主人橘元高は讃岐国の奈賀(那珂郡)・鵜足(宇多津郡)の二郡を賜り、學館院領とした。讃岐国で、北朝将軍(足利)義詮公より六万石を賜っている。
 これによって橘元高は長尾に新城を築き、応安元年(1368年)正月七日に海崎城より長尾城へ移り、長尾大隅守と改名した。
 この時に石井太郎左衛門・石河兵庫介・三井大膳守も勲功によって、那珂郡小松庄に領地をもらつた。榎井・五条・苗田の半分の三か所はおよそ學館院領のうち三千石となり、石河兵庫介に下された。石河はすなわち榎井に居城した。また四条本村・苗田本村・松尾本村のおよそ学館院領のうちの二千石は石井太郎左衛門に下された。石井は松尾愛宕山の陣所に居城した。四条半村・松尾半村・大麻上村はおよそ学館院領のうちの二千石となり、三井大膳に下された。三井は松尾西山に居城した。

しかし、これは300年以後の後世の文書で、同時代史料ではありません。石井・石川氏たちが海崎氏(後の長尾氏)に、西長尾城にやってくる以前から仕えていたということが強調された作為が感じられる史料のようです。どちらにしても、小松荘の地侍たちが長尾氏に従っていたことは押さえておきます。

それでは、石川氏が同時代文書に出てくるのはいつ頃からなのでしょうか。 
前回見た「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったようです。
 南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘の惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったことが想像できます。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。この中に榎井の石川家も入っています。

 法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。その背景には、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

次に町誌ことひらの史料編に収められている〔石川家由緒書〕を見てみましょう。
石川九左衛門事
一 曽祖父            改
           石川権兵衛
右者生駒讃岐守正俊様へ被召出地方二而弐百石頂戴、榎井村二住居仕 御番出府仕候
一 祖父        石川六郎兵衛
右者生駒家牢人之後、藤堂大学様へ罷出、中小性役相勤居申候処、病氣二付、御晦申請罷帰り、榎井村二牢人二而住居仕居申候
一 親         石川平八
延宝之頃御料所榎井村庄屋役被仰付候
御預り地之頃る御出入御目見被為仰付候
右平八悴
                          平八
当時御出入御目見被為 仰付候
            倅 弥五郎
当時庄屋役相勤御出入御目見へ被為仰付候
            倅 石川九左衛門
            御駕籠脇組頭役相勤居申候
当時酒井大和守様二相勤御小性役相勤居申候
右之通二御座候 以上                     平八(二代目)
意訳変換しておくと
曽祖父の石川権兵衛は、もともとの名である九左衛門を改名したものです。曽祖父が生駒家から知行をもらいながら、榎井村に住み、御番の際には高松城下に出府していました。
祖父・六郎兵衛は、生駒騒動後に浪人となりましたが、その後は藤堂家に中小性役として仕えていました。しかし、病身のため暇を頂き、榎井村へ帰って牢人していました。
私の父である初代平八は延宝年間に、池御料所の榎井村の庄屋役を仰せつかるようになりました。
そして、享保六年(1721)年から高松藩の預りの池御領に出入り御目見えさせて頂くようになりました。二代平八の私や、倅の弥五郎もそれを引き継いでいます。なお、もう一人の悴である九左衛門は、酒井大和守様に奉公しています。
この由緒書からは次のようなことが分かります。
①祖父母の時代に生駒家に地侍として知行二百石で召し抱えられた。
②しかし、生駒騒動で牢人となった
③祖父の時代に、生駒家の外戚である伊賀藤堂家に召し抱えられたが病弱で帰讃した。
④小松庄に帰った後に。父平八の代には、榎井村の庄屋を務めるようになった。
⑤この由緒書きを書いたのは二代目の平八である。

生駒藩は讃岐の地侍達を数多く召し抱えます。それ以上に、生駒家の重臣達が召し抱えた地侍は多かったようです。以前にもお話ししましたが生駒藩では、家臣達は自分の領地に居着いたままであったようです。石川氏も、長宗我部元親の讃岐侵入をやり過ごし、なんとか戦国末期を乗り切り、生駒氏の地方侍として知行を得る身になっていたとしておきましょう。
 しかし、生駒騒動でお家は断絶し、浪人の身となりますが生駒藩の外戚である伊賀の藤堂家に再就職ができたようです。しかし、祖父が病弱のため暇乞いをして讃岐に帰ってきたと記されます。
 ここで疑問に思えるのは石川氏は中世以来、小松荘の有力地侍であったはずです。前回見たように、「神事記」には石川家の名前は、宮座の構成メンバーとして次のように登場します。
慶長十二年石川庄太郎
元和 三年石川権之進、
寛永十八年石川幾之丞
承応元年(1653)喜太郎子三太郎、
寛文三年(1663)喜太郎子権之介
の名前が見えます。
ここからは、戦国末期からは、石川氏は小松荘の庄官でもあったことが分かります。しかし、提出された由緒書きには、そのことが何も触れられません。庄大郎以前のことは、忘れ去られていたのでしょうか。それとも別系統の石川氏なのでしょうか。今の私には、このたりのことはわかりません。

 豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。この史料からは小松荘の地侍のひとりである石川家は後者を選び、榎井村の庄屋としての道を歩んでいたことが分かります。それが、石川氏の居館跡で、その周囲六反地だったのかもしれません。しかし、石川家が途絶えた後は、居館は堀に囲まれた竹藪と、その周辺の畑地となっていたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献
山本祐三 琴平町の山城 石川城 
町誌ことひら第1巻 室町・戦国時代の小松・櫛梨
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金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

地侍の魂 : 日本史を動かした独立自尊の精神(柏文彦 著) / みなみ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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    藤原鎌足より続く藤原一族の宗家にあたる九条家は、小松荘(琴平)の荘園領主でもあったようです。九条家に残る史料から小松荘という荘園を見ていきます。テキストは町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」です。
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九条兼実(かねざね)と讃岐那珂郡小松荘          
 小松荘が最初に史料に見えるのは、元久元年(1204)4月23日の九条兼実が娘で、後に鳥羽天皇の皇后となった宜秋門院任子に譲った25の荘園(女院庁分)の一つとして「讃岐国小松荘」と出てくるのが初めてのようです。
五摂家とは - コトバンク

九条兼実は、久安五年(1149)、摂政藤原忠通の三男として生まれます。
彼の生きた時代の主な事件を挙げると、
 8歳の時  保元の乱
11歳の時  平治の乱
37歳の時  平氏の滅亡、
44歳の時 源頼朝の征夷大将軍就任
という事件に遭遇しています。後白河上皇の院政  → 平氏の全盛と滅亡 → 鎌倉幕府の成立という歴史の大転換期を生き抜いた人物のようです。関家の三男ですから出世は早く、13歳の時に権大納言、13歳で内大臣、18歳で右大臣ととんとん拍子です。彼は、まじめな性格の兼実は、放縦といっていい後白河院政に対して批判的で、成り上がりの平氏政権にも非協力的な態度で接します。そのために両者から疎んぜられます。院や平氏に近づいて摂政関白となった長兄基実の子基通や、次兄基房とはちがい、政治の中心から遠ざけられて、官職もしばらく右大臣の地位のままにあったようです。

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しかし、それが幸いするようになります。鎌倉幕府が成立すると、後白河天皇や平家に距離を置いていた兼実は、頼朝の推挙を得てにわかに脚光を浴びることになります。京都九条に邸宅を構えていたことから、九条右大臣と呼ばれ、兼実の後は九条家を称するようになります。また、父の忠通の居宅近衛殿に住んだ基実の子孫は、近衛家となり、ここに藤原摂関家は九条・近衛の二流に分かれることになります。これが後の藤原氏の宗家をめぐっての争いの原因を生み出すようです。
九条良経とは - コトバンク
九条良経(よしつね)

九条家領小松荘の成立   
 小松荘がいつ成立したのは、建永4年(1209)以前に、兼実の子良経(よしつね)が讃岐の知行国主であった時に寄進されたものではなかと研究者は考えているようです。荘園のエリアは詳しくは分かりませんが、小松郷のほとんど全域が荘園化されたようです。

まんのう町の郷
小松郷と周辺郷

国衛領である郷が寄進されて荘園となることについては、「善通寺一円保」の所で以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
11世紀後半ごろになると、国司は有力な地方豪族たちを郡司や郷司などの地方役人に任命します。そして、彼らの力を利用して、農民の支配や徴税を進めようとします。こうなると、郡や郷は国の行政単位ではなくなり、郡・郷の徴税権、農民の支配権をあたえられた地方豪族の所領へと性格を変えていきます。こうして豪族は、自分の開発した所領ばかりでなく、郡司・郷司という肩書きを得て、郡・郷全体の個人所領化を進めていくようになります。国家の所領をかすめ取り、個人所有化が進められたのです。
 しかし、このようなことができたのは、彼ら地方豪族が、国司から任命された郡司・郷司の地位にあったからです。そのため国衛への官物、年貢の納入を怠ったり、国司の命令をきかなかったりして、その職を解任されれば、たちまちその基盤は崩れてしまいます。そこで彼らは、国司より権力がある皇族・公卿あるいは大寺社などに、自分の開発所領のみならず、国から委託された郡・郷までも寄進して、その有力者の荘園にしてしまうようになります。これが郡・郷単位で広大な寄進地系荘園が成立してくる背景です。

寄進系荘園の成立

讃岐の場合は、郡がそのまま荘園化するのは、東讃の大内郡が荘園化した大内荘以外にないようです。しかし郷単位の荘園は多数でてきます。金倉川流域だけでも、次のような荘園がありました。
①琴平の小松荘(九条家)
②まんのう町の園城寺領真野荘
③善通寺の金倉荘
④善通寺の善通寺領良田荘、
⑤多度郡の賀茂社領葛原荘
⑥多度郡の高野山一心院領仲村荘
 荘園成立の際には、自分の開発所領だけでなく、本来国衛領である土地を自分が支配権を握っているのを利用して寄進するのです。これは国衙の管理する土地が減り、減収を意味しますから、国司の立場としては反対するのが当然です。
荘園構造

そのため寄進先は、国司の反対を十分に抑えることができる有力者が選ばれることになります。寄進を受けて荘園領主になった寺社や貴族を領家と云います。領家が国司を抑える力がない場合は、さらに領家から上級の有力者、例えば院、摂関家、大寺社などに再寄進されることになります。その再寄進を受けた上級領主が本家と呼ばれます。そして寄進した地方豪族は、下司・公文などの荘園役人となって実質的な荘園支配を行うようになります。
 こうして成立した荘園は「本家―領家―下司ー公文」という階層的に重なった形となります。その下は、荘園のなかに住む有力農民が名主となり、その経営する田畠(名田)の年貢と公事を納入するようになります。残りの農民は小百姓や下人といい、名主の名田や下司・公文の領地、荘園領主の直属地を小作します。これが寄進地系荘園の構造です。高校で習った日本史の復習のような感じになってしまいました。
以上は、寄進が在地領主によってなされた場合です。これに対して知行国主や院などが寄進を行う場合があります。例えば、兼実の孫の九条道家が讃岐の知行国主であった時に、寒川郡神崎郷を興福寺に寄進して神崎荘としています。また真野荘は後鳥羽上皇によって那珂郡真野郷が園城寺に寄進されたものです。摂関家が荘園に対して持っている権限は、本家職である場合が多いようですが、九条家が小松荘に対して持っていた領主権は、領家職でした。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 小松荘も在地領主による寄進ではなく、九条兼実が、良経の讃岐知行国主としての地位権限を利用して、九条家に関わりある寺社に寄進して荘園としたということは考えられます。そしてその寺社を本家とし、自らは領家としての権限を握るという手法がとられたのかもしれません。ただし兼実やその後の譲状には、本家としての寺社の注記はないようです。これもあくまで推測です。
寄進系荘園の構造

 建武三年(1336)6月、九州から攻め上った足利尊氏は、上皇の弟豊仁親王を立て光明天皇とします。
その10日後の8月24日、九条家の当主道教(みちのり)は、自分の知行地の目録を提出し、次のような足利尊氏の安堵を受けています。
御当知行の地の事、武士の違乱を停正し、所務を全うせしめ給うべく
 候、恐々謹言
     九月十八日      尊氏御判
   九条大納言入道殿        
この辺りの次の天下人の見極めが九条家の眼力であり、生き残りの力だったのかもしれません。この安堵状に付けられた目録には道教の所領が40か所、記されています。そのなかに「讃岐国小松荘領家職」が見えます。ここからは小松庄(琴平)が14世紀の半ば頃までは、引き続いて九条家の所領となっていたことが分かります。その後は、金蔵寺が小松荘の地頭職を持つようになるようです。

「金刀比羅宮文書」の中には南北時代の寄進状が4通あるようです  
①康安二年(1362)4月15日 預所平保盛小松庄松尾迦堂免田職寄進状
②応安4年(1371)11月18日 僧頼員断香免田寄進状
③康暦元年(1379)9月17日 御寺方御代官頼景寄進状
④永徳二年(1382)3月26日 平景次子松荘松尾寺金毘羅堂田地寄進状

この中の①④は松尾寺金比羅堂への免田寄進状ですが、年号的に明らかな偽書であると研究者は指摘します。金毘羅神が産み出され、そのお堂が建立されるのは16世紀後半になってからです。①④は始めて金比羅堂を開いた宥雅によって捏造された文書と研究者は考えているようです。この中で信用できそうなのは③の康暦元年の寄進状です。これを見てみましょう。
奉寄進  
松尾寺鐘楼 免田職事
 合参百歩者 御寺方久遠名無足田也。在坪六条八里十一坪
 右件の免田職に於ては、金輪聖王、天長地久、御願円満、殊には、当荘 本家、領家、地頭、預所安寧泰平故也。勁て寄進し奉らんが為め、状件の如し、
   康暦元年九月十七日
            御寺方御代官 頼景(花押)
意訳変換しておくと
奉寄進について  
松尾寺鐘楼の免田職について、合わせて三百歩は久遠名のことで、六条八里十一坪に位置する。この免田職については、金輪聖王、天長地久、御願円満、さらには当荘の本家、領家、地頭、預所の安寧泰平のためであもある。寄進し奉納すること件の如し
 康暦元(1379)年九月十七日
            御寺方御代官頼景(花押)
ここからは次のような事が分かります。
①14世紀後半の小松荘(琴平)に、松尾寺という寺院があったこと
②松尾寺の鐘楼管理のために免田が寄進されたこと
③その免田は久遠名と呼ばれ、位置は那珂郡の六条八里十一坪あたること
④寄進状の「本家・領家・地頭・預所」が小松荘の領主階級であること。具体的には
 A 本家・領家は荘園領主で、小松荘の本家は不明
 B 領家は、九条家
 C 地頭は荘官で、在地領主で実際に小松荘周辺を拠点にしていた武士団(不明)
 D 預所は荘園領主(領家)によって任命され、領家の代理として荘園の管理を行う人物。領家の腹心の人物で、摂関家領の場合は、摂関家に仕える家人が任命されることが多かったようです。
⑤「御寺方御代官頼景」とあり、花押を書いた頼景の肩書きは「御寺方代官」とあるので、この人物が「預所」だったことが分かります。

以上を総合すると、小松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。これ以外にも一定の寺領があったようで、その寺領の代官を「御寺方御代官頼景」が兼ねたとしておきましょう。
 さて、それでは松尾寺鐘楼の免田は、どこにあったのでしょうか。寄進状には「六条八里十一坪」とあります。これを条里制遺構図で見てみると・・・
岸の上遺跡 那珂郡条里制
  
 丸亀平野の条里制は、東から一条→二条。里は南から一里→二里と打たれています。小松荘(現琴平)は、「金比羅ふねふね」で謡われるとおり「讃州那珂郡 象頭山 金刀比羅宮」で、那珂郡に属します。那珂郡の条は上図で見ると「六条」は現在の金倉川沿いのエリアになります。八里は現在の善通寺と琴平の境界線の北側のエリアで、赤印が「六条八里」になります。大麻神社の北東部になるようです。旧市街周辺にあるものと思っていたので、意外な感じがします。
  延慶二年(1309)の「九条忠教注給条々」という文書には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には馬を飼育する牧場があったことがうかがえます。本当なのでしょうか?
  江戸時代初期、生駒騒動で生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』には、こんな記事が載せられています。

「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」

意訳変換しておくと
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があるが、これに三野郡の麻山を加える

ここに出てくる「能(よ)き牧」とは牛馬が放たれていた牧場のことのようです。確かに大麻山のテレビ塔から南には、石の遺構が長く伸びて残っています。これは、一体何だろうと疑問に思っていたのですが、この文章を見て牧場跡の遺構ではないかと密かに推測しています。中世には、大麻山の緩やかな稜線は牧場で牛や馬が飼育されていたとしておきましょう。話が横道に逸れてしまいました。元に戻しましょう。 
金蔵寺の小松荘地頭職 の獲得について
 預所に対して地頭は、その多くは荘園の寄進者でした。彼らは在地領主で下司・公文などに任じられていたようです。これが鎌倉将軍の御家人となり地頭と称するようになります。その任命権を鎌倉幕府が握ぎり、東国からの御家人が占領軍指令のような気分で西国に乗り込んできます。ある意味、東国武士団による西国の占領地支配です。そのため預所と地頭は荘園支配をめぐって、しばしば対立し争そうようになります。小松荘の鎌倉時代の地頭が誰なのかは分かりません。しかし、南北朝時代の地頭については「金蔵寺縁起条書案」という文書に次のような記載があります。

尊氏将軍御代、貞和三年七月二日、小松地頭職 御下知状給畢                          金蔵寺

  ここには貞和三年(1347)7月2日に金蔵寺が足利尊氏から小松荘地頭職を与えられたというものです。この「縁起条書案」という文書は、金蔵寺が享徳二年(1453)までの主な出来事を箇条書に記したもので、内容的には信用できるものが多いと研究者は考えているようです。
 さらに嘉慶二年(1388)に金蔵寺から寺領に課せられた段銭を幕府へ納入した時の請取状にも次のような記載があります。
 金蔵寺領所々段銭事
 同上荘参分一、4十壱町五反半拾歩者、
合 良田内陸(六)町4段者、同不足追下地九反小、門分弐百捌(八)拾文、
 子松瀬山分七段者、尚追不足分銭三八文正月十七日、
    都合拾肆(4)貫五百玖拾陸(六)文者、
 右、請取る所の状件の如し、
   嘉慶弐年十二月一日    世椿(花押)

 金蔵寺領の段銭について「子松瀬山分柴段」とあって、金蔵寺が小松荘の瀬山に寺領を持っていたことが分かります。地頭というのは本来は治安や徴税の任に当たる荘園の役人の職で、現在で云うと「警察署長 + 税務署長」のような存在です。その役職に、金蔵寺の僧侶がつくのはおかしいという気もします。しかし、鎌倉中期になると地頭職というのは、その職に伴う領地という面が強くなります。善通寺市吉原町にあった吉原荘でも、建長4年(1152)に九条兼実の子・良平の孫である京都隨心院門跡厳恵が地頭職に任じられています。金蔵寺も小松荘の瀬山というところに地頭職という名目で領地を持っていたと研究者は考えているようです。ちなみにこの「瀬山」がどこに当たるかは、分からないようです。
 金蔵寺は小松荘地頭職を、南北朝時代最末期まで持っていたようですが、その後は分かりません。室町時代の「金毘羅大権現神事奉物惣帳」には、「御地頭同公方指合壱石弐斗五升」とあるので、この時期にも地頭がいたようです。しかし、これが金蔵寺を指すものかどうかは分からないと研究者は考えているようです。

 備中守護細川家による小松荘支配    九条家領から細川家領へ  
「九条家文書」の「諸御領仏神事役等注文」のなかには、尾張国の大鰐社恒例役の成就宮祭禄上絹のところに、「動乱以後無沙汰」という注記があります。この「動乱」は、鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱と考えられるので、この「注文」は南北朝時代前期のものとと研究者は考えているようです。この注によると、小松荘では仏神事役のうち、報恩院御畳六帖と御八講中小坑飯一具、それに宜秋門院御忌日用途が無沙汰であると記されます。つまり、納入されていないと云うのです。他の荘園を見ても、ほとんどが諸役の半分以上が無沙汰です。和泉国日根荘からは、すべての役が無沙汰になっています。これは、九条家の荘園経営が困難に落ち入っていることを物語っています。

九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。
 一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。
細川頼之とは - コトバンク
讃岐守護 細川頼之
守護による権力の行使
南北朝時代の守護は、敵方の武士から没収した土地や、死亡などで所有者のいなくなった土地(欠所地)を、戦功のあった部下に預け置く権利(欠所地預置権)を持っていました。この権利を用いて、守護は任国内の武士を被官(家臣)にしていきます。また、欠所地を自分の所領に加えることもありました。この史料に出てくる讃岐の「金武名、高篠郷一分地頭職、高篠郷の公文職」は、細川頼之が讃岐守護であった時に、こうした方法で所領としたものと研究者は考えているようです。逆に見ると、ここには細川頼之に抵抗した勢力がいたことになります。それを没収し、戦功のあった武士たちに恩賞としてあたえたようです。
 それでは、「金武名」とはどこにあったのでしょうか? 
中(那珂)首領跡とあります。想像を働かせると、もとは那珂郡の首領郡司の地位にあった武士の所領で、頼之に敵対する行動があって没収されたのではないでしょうか。丸亀市垂水町に金竹の地名が残っています。この辺りに金武名があり、那珂郡の首領がいたとしておきましょう。高篠郷公文職は、まんのう町公文の地でしょう。
 小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
   守護が荘園を支配下に入れる方法の一つに守護請があります。
内乱の時代になって荘園支配が困難になった荘園領主たちは、守護と契約を結んで、荘園の管理を一任し、代わりに豊凶に関わりなく毎年一定額の年貢・公事の納入を請負わせることで、収入を確保しようとします。これが守護請で、実際には、現地の実力者である守護の被官が代官に任命されて、荘園の管理と年貢の納入に当たりました。しかし、守護請代官たちは、契約に違反して領主に年貢を送らないことが多く、結局、荘園が守護被官や守護の支配下に入ってしまうことになります。
守護請を簡単にわかりやすく解説するよ【半済令のパワーアップ版です】 | まなれきドットコム

九条家領でも、応永二十六年(1419)8月に、所領の回復を幕府に訴えた「不知行所々注文」(蒜家)に
  近江国伊庭荘伊庭六郎左衛門入道押領
  和泉国日根荘昌詣年
  丹波国多紀北荘代官増位入道押領
などとあります。ここからは、守護や守護請代官による荘園押領が進んでいることがわかります。。
 備中守護細川家の小松荘支配と伝領              
小松荘も、同じように讃岐守護である細川氏の所領になってしまったようです。以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、満之、頼重、氏久、勝久と、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は、怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の大乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
乱後の延徳三年(1491)十月、備中守護代荘元資が反乱を起こし、勝久は浦上氏らの援助を受けてかろうじて元資を破りますが、備中守護の権威は地に落ちてしまいます。こうして、細川氏の備中支配は急速に衰退に向かうようになります。讃岐の所領も、このころにはその手を離れたと研究者は考えているようです。以後の備中細川家関係の安堵状には、讃岐小松荘の名は見えません。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。それは、また別の機会に・・・

以上をまとめておきます
①那珂郡小松郷は、13世紀初めに摂関家九条(藤原)兼実の荘園となった。
②九条兼実は、法然を保護し、四国流刑となった法然を小松荘で保護した。
③九条家は14世紀頃の南北朝時代まで、小松庄を所領としていた。
④小松荘の地頭職を金蔵寺に認める足利尊氏の文書が残っている。
⑤鎌倉幕府滅亡の混乱の中で、九条家の小松庄経営は困難に陥った
⑥代わって守護として入国した細川氏が小松荘を支配下に置いた
⑦さらに小松荘は、備中守護細川氏の所領になっていった。
⑧応仁の乱の混乱の中で、小松荘は備中細川氏の手を離れた。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」 
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図書館で「新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 2015年」という報告書を見つけました。この報告書を見たときに、「新田橋」っていったいどこ?という印象でした。
家電量販店のエデイオンの建設工事にともなう発掘調査だったようです。
丸亀の海岸線 旧流域図3
新田橋本遺跡周辺旧流域想定図
報告書のページをめくると出てきたのが上の図です。「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」と題されています。私が探していた丸亀平野北部の流域復元図がありました。高速道路や11号バイパスの発掘で明らかになった流路をつなぎ合わせていくと、こんな流路復元図が描けるようです。かつて丸亀平野を流れていた河川の流路が黒く示されています。地図の西側を金倉川が流れています。その姿は現在の姿とは、かなり違います。堤防が整備される以前の金倉川は暴れ川で、一条の流れではなく幾筋もの流れとなって、網の目のような姿で瀬戸内海に下っていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図
その痕跡がこの復元図からはうかがえます。この図からは見えませんが金倉付近から平池・先代池へと分流する流れもあったと言われます。その流路跡に、平池や先代池は近世になって作られたようです。
 以前に丸亀平野を流れていた四条川のお話をしました。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
ここからは四条川と金倉川は蛇が絡み合うかのように丸亀平野を流れ下っていたことがうかがえます。四条川は櫛梨山と摺臼山の間を、金倉川とともに下り、そして上金倉で流れを東に変えて、土器川と合流していたというのです。最初、これを読んだときにはそのルートを頭の中に思い浮かべることが出来ませんでした。しかし、発掘調査報告書に載せられたいくつもの復元流路図を見ていく中でなんとかイメージを描けるようになりました。
平池南遺跡 5m等高線地図

しかし、丸亀平野北部の河口部がどうなっていたのかは分かりませんでした。今回、この復元図が初めてです。
丸亀平野の扇状地

 もう一度、復元図を見て分かることをまとめておきましょう。
丸亀の海岸線 旧流域図3

①近代以前の金倉川は一条の流れとはなっていないことです。堤防もない時代は、台風などの洪水の時には丸亀平野を網の目のようになって海に流れ下っていました。その中の微髙地に人々は集落を構えていたとされます。これは、近世になるまでかわらないようです。
②新田橋本遺跡の西側には、かつての金倉川支流の西汐入川・竜川の旧流路や低地帯が広がり、瀬戸内海に注ぎ込む直前のエリアになるようです。
③遺跡の西側には天満池の低地が、また、東にも地形が緩やかに下っていきます。つまりこの遺跡は東西の低地に挟まれた微高地上にあったことがわかります。
④この遺跡から北には、集落遺跡は見つかっていません。そういう意味では、この「遺跡は丸亀平野の北限の集落遺構」となるようです。
⑤津森天神社あたりが河口で、那珂郡の湊があったとする人もいますが、確かに津森は河口にあたるようです。

  
調査書が記す丸亀平野の「遺跡概観説明」を見ておきましょう。
報告書の概況説明というのは、研究者には当たり前のことがさりげなく書かれていますが、素人の私にとっては始めて知ることも多くて、見逃せない部分です。私にとって気になるところを拾い読みしていきます。
まず弥生時代の集落遺跡ついては、次のように記されています。
弥生時代前期では、新田橋本遺跡の西に隣接する道下遺跡とその南部に続く中の池遺跡、平池西遺跡、平池南遺跡、平池東遺跡でまとまった前期後半の集落跡が確認されている。特に中の池遺跡は、屈指の規模を誇ることに併せて多重環濠を有することで注目されている
弥生時代中期には、飯野山中腹や南部の山間部など高地性集落へと移行しており、平野部全域で遺跡密度が極端に薄くなる。唯一旧練兵場遺跡で集落が造営される。

弥生時代後期になると、前期集落の分布区域に対応するように、集落が再生されているが、若千生活区域の変動が見られ、金倉川に程近い中の池遺跡では直近地における集落の再生は見られない。生活区域の変動によつて、平野北部では新田橋本遺跡、平野中央部で郡家原遺跡、三条番ノ原遺跡などで新たに集落が営まれるようになる。

ここからわかることは丸亀平野には、環濠をもつ集落がいくつも現れるのですが、それが続かないことです。前期の遺跡は中期になると姿を消していきます。その中で善通寺王国の王都である旧練兵場遺跡だけが継続して発展していきます。これをどう考えていいのか、気候的な変動があったでしょうか? 今の私には分かりません。
 それが弥生後期になると「復興」したり、「新興」の集落が登場してきます。そして、古墳時代には弥生後期の集落を継承する形で存続します。それが古墳時代後期になると、より内陸部に移動した集落が増えていると研究者は考えているようです。
 金蔵寺条里地図

 古代に入ると白村江の戦い(663年)後には、唐や新羅による侵攻に備えて、古代山城である城山が作られます。ここには、渡来人の技術力があったことがうかがえます。また、宝幢寺や田村廃寺などの古代寺院も地元の豪族達によって建設され始めます。彼らは同時に中央政府の進める条里制工事を積極的に担います。こうしての丸亀平野の大部分に条里制の地割が引かれます。大規模土地改良が行われた所は、大きく姿を変えていきます。この条里制による地割りは、現在においても一町(109.09m)四方に区画された方形の地割が残っていて、グーグル地図で見ると碁盤の目状の条里地割がよく分かります。しかし、これは一気に行われたのではなく、その多くのエリアは放置されたままだったことが発掘調査からは分かってきています。照葉樹林帯の森の中にぽつんと開かれた農耕エリアがあったとイメージした方がよさそうです。丸亀平野の開墾・開拓は近代まで続きます。その成果が、現在の姿です。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

新田橋本遺跡の時代ごとの様子を見てみましょう
【弥生時代】            
弥生時代後期頃から、この地域では灌漑用水路の整備が始まります。東西両側が低地に挟まれた微高地にあたるために、集落が形成されるには適していますが、農業を行うためには農業用水に不足するエリアです。そのため上流域から大型の水路を整備しています。弥生時代に開削されたと考えられる大型の溝は3条見つかっています。これらの溝は、古代まで継続的に利用されていたようです。3本の用水路の中でもSD02は、他の溝と比べても合流等が多く、水量も多かったようで、特に重要なものだったと研究者は考えているようです。
 この時代の土器等は出てきたので集落機能はもっていたようですが、建物遺構は出てこなかったようで、詳しいことは分からないようです。
【古墳時代】
弥生時代に整備された大型の灌漑用水路が、古墳時代になっても使われています。しかし、中には埋没し、機能を終えた用水路もあったようです。溝は少し小規模化したようですが、その背景は分かりません。しかし、弥生以来の溝のほとんどは、条里制施行でほとんどが廃止され使用されなくなります。弥生時代と同じように、少量の土器の出土しましたが、建物遺構は出てきません。
【古代】
丸亀平野では、8世紀初頭から条里制施行の大規模土地区画事業が始まります。この遺跡の東にある津森位遺跡では、7世紀の終わり頃には条里地割に沿った溝跡等が確認されています。この遺跡の古代の遺構としての特徴は、条里地割に沿った溝が縦横に多く整備されていることです。更に、建物群が集中して建てられていたことです。出てきた建物跡は、全て掘立柱建物で、それ以前にも建物はあったようですが、条里制施行による土地改良で消失してしまったと研究者は考えているようです。
 発掘エリアの南部では、条里地割の坪界があり、ここには大型の東西溝があります。その南側には、少しランクの落ちる溝が併走しています。この間が道路と研究者は考えているようです。
特徴的なのは、海との関連が強く感じられるものが出てきたことです。
①製塩土器の出土があったこと、
②飯蛸壺が8か所から14点出土したこと。
津森位遺跡からは、やはり飯蛤壺保管用と考えられる土坑も見つかっているので、海岸線近くに立地した集落であったことがうかがえます。
【中世】
古代の景観が基本的には継承されているようです。15棟の建物遺構の内のいくつかは、柱穴の切り合い状況や形状から見ても中世に属するものと研究者は考えているようです。出土遺物も土師質土器片が多く出てきています。大型円形土坑が多く出てきましたが、これは中世につくられたもののようです。各圃地の隅部や縁辺部に配置されているので農業関連遺構のようですが、詳しくは分からないようです。
【近世】
古代以降の条里制地割が継承されています。柱穴列が確認されているので、近世までは継続して集落があったことがうかがえます。その後は、基本地割や景観を保ったまま今に至っていると研究者は考えているようです。

さて、注目したいのは「条里地割の坪界」とされる大型の東西溝がみつかっていることです。
丸亀平野北部 条里制

上図は丸亀平野の条里制復元図です。那珂郡は丸亀城を通る南北ラインを基軸手として、東から一条・二条と五条まで条があったことが分かります。里は南から打たれているので北側は24里まであったようです。
 空白部は条里制が未実施な所とされます。先ほど見た金倉川流域は空白地帯です。そして海岸線を見ると道隆寺より北側も空白地帯です。これは、当時はここが海岸線だったことを示します。
 ⑤の平池から北に流れているのが西汐入川です。その右岸(東側)は空白地帯です。つまり新田橋本遺跡付近は、条里制は施行されていなかったと研究者は考えいました。実際はどうだったのでしょうか。報告書を読み進めていきます。
土器川 扇状地


この遺跡は小字名に『新田』とあるように、周辺は近世の新田開発により形成された地域です。
史料には「町新田・丸亀新田・新興・丸亀新興」という名前で登場してきますが、正式な地名はなかったようです。明治になって丸亀新田となり、明治11年に新田村として那珂郡作原郷に属していましたた。

丸亀平野北部 条里制復元図

 この遺跡の場所は、新田町の北西端で、北は今津町、西は金倉町に接しています。そして、西の天満池水系と東の皿池水系に挟まれる微高地の上にあり、周囲には水田地帯が広がります。しかし、皿池水系エリアでは、条里地割とは軸がずれて水田が整備されています。ここからは、このエリアが古代の条里制施行の時に開発されたものではなく、近世の開発によることがうかがえます。そして、地元の研究者も、「新田」という地名から江戸期になって初めて開発された所と考えていたようです。
 しかし、今回の発掘では古墳時代の用水路が条里制施行によって埋められている跡が出てきました。つまり、この遺跡周辺も条里制実施エリアであったということになります。その復元図が上図になります。この復元図からは、新田橋本遺跡が那珂郡三条二十一里一ノ坪」に位置していたことが分かります。条里制施行による区画整理が行われた後は、大きな地割の変更は行われずに現代に至ったようです。現在の地割が、古代の状況を比較的留めていると研究者は考えているようです。
平池南遺跡 5m等高線地図

調査報告書には、発掘成果を次のようにまとめています
①弥生時代の灌漑用水路が、予想通りにでてきたこと
②古代の条里制施行により土地改良が行われ、現在の地割になったこと、そして、その後に新しい地割に沿った集落遺構が作られたことを裏付ける遺構が発見された
③新田橋本遺跡において初めての建物を検出したこと
④この地割に沿った集落造営は近世まで継続していたこと
①からは、微髙地に水を引いてくるために、上流の湧水などから用水路が整備されていたことが分かります。これは丸亀平野の弥生遺跡の一般的な姿のようです。
②③からは、この微髙地も条里制工事の対象で、8世紀の早い時期に工事が行われ、その後には集落が形成されるようになったことが分かります。
また、海岸線に近く丸亀平野で一番海に近い集落として、漁労活動も行っていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 丸亀市埋蔵文化財発掘調査報告書20号 2015年
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 空海には謎の行動がいくつかあります。そのひとつが帰国後の九州滞在です。
弘法大師・空海は下関市筋が浜町に帰国上陸した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

空海は806年8月に明州の港を出帆しますが、いつ九州へ着いたのかを記す根本記録はないようです。10月23日に、自分の留学成果を報告した「御請来目録」を宮廷に提出しているので、それ以前に帰国したことはまちがいありません。ここで、多くの空海伝は入京を翌年の秋としています。とすれば九州に1年いたことになります。この根拠は大和国添上郡の虚空蔵寺について、「正倉院文書抄」が大同二年頃に空海が建立したと書かれているからです。
空海―生涯とその周辺 (歴史文化セレクション) | 高木 〓元 |本 | 通販 | Amazon

しかし、この文書については、高野山大学の学長であつた高木伸元は、『空海―生涯とその周辺―』の中で、この記述は後世の偽作だと論証しています。そして空海が入京したのは、大同四年(809)4月12日の嵯峨天皇の即位後のことであるとします。そうだとすると、空海は2年半も九州に居たことになります。
 どうして、空海は九州に留まったのでしょうか。あるいは留まらざる得なかったのでしょうか。
この答えは、簡単に出せます。入京することが出来なかったのです。空海は長期の留学生として派遣されています。阿倍仲麻呂の例のように何十年もの留学生活が課せられていたはずです。それを僅かな期間で、独断で帰国しています。監督官庁からすれば「敵前逃亡」的な行動です。空海は、そのために自分の持ち帰ったものや書物などの目録を提出して、成果を懸命に示そうとしています。しかし、それが宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったということです。そこには最澄の「援護射撃」もあったようです。まさに九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。
スポット | たがわネットDB
香春神社
それでは、その間に空海は何をしていたのでしょうか?
その行動はまったく分からないようです。研究者は、二年半の九州滞在中に、宇佐や香春の地など、秦氏関係地をたずねて、その地にしばらく居たのではないかと推測します。この期間が結果として秦氏との関係を深めることにつながったと云うのです。
伊能忠敬が訪れた香春神社がある香春町の街並み。後方は香春岳の一ノ岳 写真|【西日本新聞ニュース】
香春岳のふもとに鎮座する香春神社(秦氏の氏神)
「空海=宇佐・香春滞在説」を、裏付けるものはあるのでしょうか?
①秦氏出自の勤操は、空海が唐に行く前から、虚空蔵求聞持法を通してかかわっていた
②空海は故郷の讃岐でも秦氏と親しかった
③豊前の「秦王国」には虚空蔵菩薩信仰の虚空蔵寺があった。
④虚空蔵寺関係者や、八幡宮祭祀の秦氏系の人々は、唐からの帰国僧の空海の話を聞こうとして、宇佐へ呼んだか、空海自身が八幡宮や虚空蔵寺へ出向いた(推理)
⑤最澄は入唐前に香春岳に登り、渡海の平安を願ている。最澄が行ったという香春へ、空海も出向いた(推理)
⑥「弘法大師年譜』巻之上には、空海は航海の安全を祈願して香春神社・宇佐八幡官に参拝し、「賀春明神」が「聖人に随いて共に入唐し護持せん」と託宣したと記す。
⑦空海は虚空蔵信仰の僧であった。
⑧和泉国槙尾山寺から高雄山寺へ入寺した空海は、「宇佐八幡大神の御影を高雄寺(高雄山神護寺)に迎えている」と書いている。虚空蔵寺のある宇佐八幡宮に空海がいたことを暗示している。


空海に虚空蔵求聞持法を教えたといわれている勤操は、空海の師と大和氏は考えています。そして、次のように推測します。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」

 この期間に勤操は「遊行中」で所在不明となっている。唐から帰国して九州にいた空海に会って、虚空蔵求聞持法についての新知識を聞いたりしていたのではないか

「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」

以上のような「状況証拠」を積み重ねて、2年半の九州滞在中に空海は師である勤操と連絡をとりながら、八幡宮の虚空蔵寺や香春岳をたずねたのではないかと大和氏は推察します。

虚空蔵寺跡

  虚空蔵寺は、辛嶋氏の本拠地辛嶋郷(宇佐地方)に7世紀末に創建された古代寺院で、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったようです。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられます。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は、この虚空蔵寺を改名したものです。秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があったようです。
法蓮は新羅の弥勒信仰の流れを引く花郎(ふぁらん)とも言われます。
彼は7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学びます。そして、「秦王国」の
霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術(巫術)に長じていたとされます。
 このような秦氏の拠点と宗教施設などで、
空海は九州での2年半の滞在を過ごしたのではないか。その中で今まで以上に、秦氏との関係を深めます。それを受けて、秦氏は一族を挙げて、若き空海を世に送り出すための支援体制を形成してきます。その支援体制の指揮をとったのが空海の師・勤操ということになるのでしょうか。大和氏の描くシナリオは、こんな所ではないでしょうか。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」

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前回は空海と丹生(水銀)との関係を見てきました。その中で松田壽男は次のように述べていました。
「水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことは、後の真言修験に関係する重大な問題である。このことを前提としない限り、例えば即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

 今回はこの課題を受けて、空海と錬丹術について見ていこうと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」です。
ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影(内藤正敏) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 内藤正敏は「ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影―』の中で、空海を錬丹術者と位置づけています。
すぐには信じられないので、眉に唾を付けながら読んでいきます。
内藤氏は応用化学を学んだ専門家なので、煉丹術の化学反応を方程式を駆使してくわしく述べます。そして『抱朴子』巻四金丹編の
「世人は神丹を信じないで草木の業を信じている。草木の薬は埋めればすぐ腐り、煮れば爛(ただ)れ、焼けばすぐ焦げる。自らを生かし得ぬ薬が、どうして人を生かし得よう」

という文章を示して「漢方薬が多くつかう草根木皮でできている薬は効きめがなく、鉱物性の薬品を上等のものと考えている」と指摘します。当時の民間医術で用いるのは「草根木皮でできている薬」ですが、それに対して「鉱物性の薬品」は特殊技術なしには作れない業です。その技術を古代人は「巫術」とみていました。これを『日本書紀』は「巫術」と書いています。
 続いて、内藤正敏は、空海の「巫術」について次のように記します。
「丹薬はこれを焼けば焼くほど、変化はいよいよ妙である。黄金は火に入れて百煉しても消えず、是を地中に埋めても永遠に朽ちない。この二薬を服して身体を錬るから、人は不老不死にできるのだ」と「金丹編」には記される。仙薬の中でも丹つまり水銀化合物と金を中心に考えている。その理由は、金はさびることもなく、熱で熔かしてもまた金になり、永久に変化しない。一方、水銀は熱や化学反応によっていろいろと変化し、しかも、多くの金属とアマルガムをつくって、他の金属を熔かす作用がある。つまり、金を不変、水銀を変化の象徴として考え、これに各種の物質を高温で作用させて、人工的に金や、もっと霊力のある神仙の薬をつくろうとしたのである。

 このような視点で空海の書いた『三教指帰』や『性霊集』を読んでみると、空海は確実に中国式の煉丹術を知っていたことがわかった。あの水銀を中心に数々の毒物を飲む中国道教の神仙術を知っていたのである。そればかりか、空海自身も水銀系の丹薬を飲んでいたらしい。今まで「三教指帰」や「性霊集」について論じた学者は多い。しかし、そうしたことに気づかなかったのは、これらの書物を単に、宗教・哲学・思想という面からしか見なかったからであろう」
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
「三教指帰」(題名は「聾瞽指帰」と書かれている)
 
内藤は、「三教指帰」や「性霊集」を「化学書」として読むと、空海の「化学者・薬学者」の面が見えてくると云うのです。その例として挙げるのが「三教指帰」です。この書は、空海が渡唐前の24歳の時に大学をドロップアウトして、立身出世の道を捨て仏道を歩むことを決意するまでの心の遍歴が戯曲ふうに書かれています。しかし、これを化学書として読むと、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。

白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

「白金・黄金は水銀と金です。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されています。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬です。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(天のこと)に昇ると締めくくっています。
 ここからは空海が『抱朴子』などの道教教典から、神仙術、煉丹術の知識を、中国に渡る以前に、はっきり理解していたことを示していると研究者は指摘します。さらに詳細な記述や熱の入れ方は、空海自身が思想的には仏教を肯定して、道教を否定しようとしながら、体質的には道教の神仙術、煉丹術に異常な興味を示していたことがうかがえると記します。
薬用原料採集補完記録02「錬金術と錬丹術」- 海福雑貨通販部

それでは、これを空海が表に出さなかったのはどうしてでしょうか。
これについては、次のように説明します
「煉丹術の全盛期の唐の長安で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはない。ただ、日本では真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかったただけだと思うのだ」
性霊集〈巻第二、第三、第五、第六/第七、第八、第十〉 文化遺産オンライン
性霊集
空海の死に至る病気について、内藤氏はどのように見ているのでしょうか?『性霊集』の補闘抄には、次のようにあります。
巻第九「大僧都空海、疾(やまい)に罹って上表して職を辞する奏状」に、天長八年庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、五月の末に「悪麿」が体にできて直る見込みがなく、死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して白山の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡は『大師御行状集記』では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。

 大僧都辞任の奉状を提出した翌年の天長9年の11月12日から空海は、穀断を始めたことが「御遺告」には記されます。空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないかと研究者は考えているようです。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったかと云うのです。そして、次のように続けます。
「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」

以上のように、内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを指摘します。
錬金術 仙術と科学の間 中公文庫(吉田光邦) / こもれび書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

吉田光邦は「錬金術~仙術と科学の間」で丹生(水銀)の変化について次のように述べています
変化の原因はすべて熱によるものばかりだ。火つまり熱によって、硫化水銀の赤色が、白く輝く水銀となり、ときには酸化して黒くなることも大切な変化と考えられていた。赤は火の色に通じる。そこで火による物質の変化の重要さが、神秘的なものとして認識されることになる。水銀を中心とした色の変化を火の生成や消滅と対応させてゆけば、いっそう複雑な変化の様式を考えることができる。『参同契』のなかに記される錬丹術は、こうしたものである」

煉丹術錬金術違い 錬金術 – Brzhk

鉱物による薬物を記す『神農本草経』(中国の医薬の祖といわれる五世紀中頃の陶引景の著)には、上薬とされる鉱物の薬27種が挙げられています。これらは錬丹術で使われるなじみの薬ばかりです。その中で、不死になるもは水銀だけです。他のものでは効果が見られないと、当時の錬丹術師たちは考えていたようです。その水銀の供給者が秦氏・秦の民だったとしておきましょう。

抱朴子 内篇・外篇 1-2巻 (全3冊揃い)(葛洪 著 ; 本田済 訳註) / ぶっくいん高知 古書部 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

東晋の道教思想家葛洪(かっこう)は「抱朴子」の中では次のように述べています。
三斤の辰砂〔真丹〕と一片の蜜〔白蜜〕を混合して、全部を大麻の実〔麻子〕の大きさの九薬〔丸〕を得るために日光で乾燥すれば、 一年のうちに取れた十粒の九薬は白髪に黒さを回復させ、腐った歯をふたたび生ぜじめるであろう、そして一年以上も続ければ人は不死になるのだ。

「辰砂」は「火に投ずると水銀を造り出す」「死による再生の秘儀」を暗示しているとされています。「白」には、死と再生の意味があったようです。そして「赤」には「不老不死」の常世イメージがあったようです。
丹道篇 外丹 外丹原稱煉丹術,為避免其與內丹相混淆,改稱外丹。 這是以爐鼎燒煉礦物類藥物,製取“長生不死” 仙丹的一種方術。  丹砂(即硫化汞)和汞(水銀)是煉丹的重要原料。 我國的外丹術最遲在秦代已經出現。 道教創立後,道士從方士手裏繼承了煉丹 ...
天工開物に描かれた錬金術と煉丹術

 さらに葛洪は錬金術の理念を、次のように記します
いったい丹砂の性質は、焼けば焼くほど恒久的になり、変化すればするほど霊妙になる。黄金は火の中に入れ、くりかえし精錬しても減少せず、地中に埋めても永久に腐らない。このふたつの物を服用し、人の身体を錬成する。だから人を不老不死にする。

錬金術は錬丹術でもあります。金と丹(丹生)を活用する術だからです。しかし金だけでなく銀・鉛も使います。9世紀の道士孟要甫が残した『金丹秘要参同録』は「修丹の十」には、「坩堝(るつぼ)と炉の制作の規則を知り、そのうえで龍(水銀)と虎(鉛)の法則の学を理解し、鉛と禾(水銀)のもつ究極的な真実の不思議さを認識しなければならない」と記されています。
 ここからは彼らが一定の科学知識と実験精神をもっていたことがうかがえます。そして、丹生(水銀)は錬金術にとって欠かす事の出来ない必需品であったことが分かります。
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空海は、このような当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していたと研究者は考えているようです。
そして、丹生に深くかかわっていたのは秦氏集団です。アマルガム鍍金法を用いて水銀を大量に生産した技術を持っていたのは、秦氏・秦の民です。空海の虚空蔵求聞持法の師は、伊勢水銀にかかわる泰氏出身の勤操でした。
須恵器「はそう」考

丹生(水銀)は薬として用いられましたが、空海は単なる薬として用いたのではないことは、彼が虚空蔵求聞持法を習得した僧であったことからうかがえます。空海も当時の錬金術という最先端技術の虜になっていたのかもしれません。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究

丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵
 
 『今昔物語集』(巻十一)(嘉承元年(1106年成立)には、空海の高野山開山のきっかけが記されています。そこには弘仁七年(816)4月ごろに空海が高野山に登って、高野の地主神である丹生明神に会ったことから始まります。これは康保五年(968年成立)の『金剛峯寺建立修行縁起」がタネ種のようです。

高野山丹生明神社

ここで注目したいのが、高野の領地は丹生明神の化身の山人から譲渡さたということです。つまり高野山の元々の地主神は丹生明神だったことになります。丹生明神は、丹(水銀)と深く関わる神です。「高野山=丹生明神=水銀」という構図が見えてきます。今回は、これを追いかけて見ます。テキストは、前回に続いて 「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究」です。
丹生大師(丹生山神宮寺)を訪れた目的は愛宕山(多気郡多気町丹生) – 神宮巡々2
三重県の丹生大師(丹生山神宮寺)

 丹生山の神宮寺は、宝亀五年(774)に空海に虚牢蔵求聞持法を伝えた秦氏出身の勤操(ごんぞう)が開山した寺です。
丹生山の神宮寺は弘法人師の大師をとって「丹生大師」と呼ばれています。これは勤操が創建し、その後に空海がこの寺の緒堂を整備し、井戸は空海が掘ったという伝承からきているようです。このような伝承を生み出したのは、丹生に関わりのある伊勢の秦の民だと研究者は考えているようです。伊勢の丹生伝承は、勤操―空海―虚空蔵求聞持法が結びついてきます。

水銀の里 丹生を歩く|イベント詳細|生涯学習センター|三重県総合文化センター

 弘法大師が掘ったという井戸について、松田壽男は「水銀掘りの堅杭の名残」とします。
 神宮寺には、水銀の蒸溜に用いた釜と木製の永砂器が保存されているそうです。神仏分離までは一体だった隣の丹生神社の神体は、鉱山用の槌と鑿(のみ)とされます。さらに金山籠(かなやまかご)という鉱石搬出用の器具も残されています。これらは水銀掘りに使われたものと研究者は考えているようです。
丹生大師 三重県多気郡
 松田壽男氏は、丹生神社の神宮寺所蔵の蒸溜釜は、古墳時代の「はそう」と呼ばれた須恵器とまったく同じだと指摘します。壺形で上部が大きく開き、腹部に小孔があります。この形は神官寺所蔵の蒸溜釜と比べると、「構造がまったく同様で、古墳時代の日本人が朱砂から水銀を精錬するために用いたと見てさしつかえない」とします。

須恵器「はそう」考
須恵器「はそう」

 ここからは、この地では、古くから朱砂採取が行われていたことが分かります。秦集団の丹生開発のようすが見えてきます。

丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
錬金術と錬丹術の歴史 |
錬丹(金)術
 佐藤任氏は、空海が錬丹(金)術に強い関心をもっていたとして、次のように記します。
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が銅を産出する地質であったこと
これらの事実から、空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとみてよいと思われる。もしその後の高野山系に丹生(水銀・朱砂)や鉱物の関心がまったくなかったなら、人定伝説や即身成仏伝説の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は起こらなかったであろう」

として、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたと記します。
 松田壽男も次のように記します。
空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

本地垂迹資料便覧

内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のような説を展開します
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。
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これを補うように内藤正敏は、空海が唐に渡った時代のことについて次のように記します
「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ
 
これらを積み重ねると、自ずから空海が丹生の産地の高野山に本拠地を置いた理由のひとつが見えてくるような気もします。
水銀と丹生神社の関係図
松田壽男氏は「丹生の研究」に「高野山の開基と丹生明神」と題する次のような文章を載せています。
   金剛峯寺から引返して、道を高野山のメーンストリートにとり、東に歩いてきた私は、 一の橋かられ地をぬけて、奥の院の大師霊廟へと進んだ。香花に包まれた空海の墓。その傍らにも丹生・高野明神の祠があることは、すでに紹介ずみである。私はさらに、この聖僧の墓地の裏側に廻り、摩尼山の山裾にとりついてみた。こうして、奥の院から高野山の東を限る摩尼山の画面にかけての数地点で採収した試料からも○・○〇五%という高品位の水銀が検出されて、私を驚喜させた。科学的な裏付けは、西端の弁天岳だけではなかった。少くとも弁天岳から摩尼山までの高野山の主体部、すなわち空海の「結界七里」の霊域は、すべて水銀鉱床と判定され、鉱産分布の地図に新たにマークをしなければならないことにになったのである。

 ここからは高野山の霊域の全体が「水銀の鉱徴を示す土壌が露頭」していて、「全山がそっくり水銀鉱床の上に乗っている」ことが分かります。それを知った上で空海は、ここを選んだようです。逆に言えば、空海が丹生(水銀)に関心がなかったら、ここを選んではなかったかもしれません。
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  空海と丹生(水銀)の関係は深そうです。それは、同時に秦氏との関係を意味すると研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海の出身地の讃岐の西隣は伊予です。ここにも、秦氏が多く住んでいたと大和岩雄氏は「続秦氏の研究」に記します。伊予の秦氏の存在を、どのように「実証」していくのか見ていくことにします。

技能集団としての秦氏

最初に、大岩氏が注目するのは大洲市の出石山です。

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この山は地図で見ると分かるように、九州に向けて突きだしたの付け根の位置に当たる所にあります。頂上からは瀬戸内海を行き交う船が見える眺望を持ちます。古代以来、九州と豊後灘を経ての海上交通の要衝の地であったことがうかがえる山です。豊後を基盤とした秦氏も、この山を目指して豊後水道を渡ってきたのかも知れません。この山の頂上には出石寺があります。

愛媛 南予にきさいや! 長浜の出石寺に行ってきました。

 大和氏は「日本歴史地名大系39」『愛媛県の地名』の出石寺(しゅっせきじ)に関する記述を次のように引用します。

「喜多郡と八幡浜市との境、標高812mの出石山頂上にある。金山と号し、(中略)・・大同2年(807)に空海が護摩を修し、当時の山号雲峰山を金山に改めたと伝えられている。「続日本後紀」によれは、空海か四国で修行したのは阿波国の大滝之岳と土佐国の室戸岬であるが、空海自らが記した「三教指帰』には『或登金巌而或跨石峰』とあって、金巌(かねのだけ)に加爾乃太気、石峰に伊志都知能人気と訓じてあるので、金巌は金山出石寺をさすものと解され、空海は金山出石寺と石鎚山に登ったとされている」

 ここには、現在の出石山が石鎚と同様に空海修行の地であったと記されます。空海は、大滝山と足摺で修行したことは確実視されますが、その他はよく分かりません。後世の空海伝説の中で、修行地がどんどん増えて、今ではほとんどの札所が空海建立になっています。その中で、出石山も空海修行地だと考える人たちはいるようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル

 佐藤任氏はその一人で、次のように述べます。

「金巌(かねのだけ)は、この出石山(金山出石寺)か、吉野の金峯山のどちらかと考えられている。近年では、大和の金峯山とみる説が多いというが、同じ文脈に伊予の石鎚山とみなされている石峯が出ているから、伊予の出石山とみることも決して不可能ではない。しかも、どちらも金・銀・銅を産する山である」

 もちろん『三教指帰』の「金巌」は大和国の金峯山とするのが定説です。しかし、伊予の石鎚山に空海が登ったという伝承が作られたのは、伊予が丹生(水銀)産地で、秦の民の居住地だったからというのです。佐藤任氏は、伊予の「金巌」といわれている出石山付近には水銀鉱跡があると指摘します。

山村秘史 : キリシタン大名一条兼定他(堀井順次 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

堀井順次氏は、伊予の秦氏のことを「山村秘史」に次のように記します。
「伊予の秦氏についての詳しい記述があり、伊予の畑・畠のつく地と想定される。(中略)
  まず東予からたずねると、旧宇摩郡(現川之江市)の県境に「新畑」がある。そこは鉱物資源帯で、秦氏ゆかりの菊理媛祭祀神社が周辺地区に残っているが、秦氏伝承はない。同郡内の土居町には 畑野」があり、秦氏開発の伝承があった。越智郡には今治市に「登畑」があり、近くの朝倉村の多伎神社には秦氏伝承があると言う。玉川町の「畑寺」の地名と、光林寺(畑寺)の由緒にも秦氏の名が残っている。
中予地方では旧温泉郡に畑寺・畠田。新畑等に秦氏を想い、立花郷には「秦勝庭」の名が史書記され、この地方も秦氏ゆかりの地と考えられる。伊予市大平地区に「梶畑」(鍛冶畑)があり、「秦是延」の氏名を刻んだ経筒がそこから出土しているから、やはり秦氏ゆかりの地だろう。

南伊には大洲市に「畑・八多浪(畑並)八多喜(秦城)」等があり、南宇和郡には畑地があって高知県の幡多郡に続いている。
秦氏一族が伊予各地に分散していたことは、 一族が関係する産業の分散を示すものである 古代産業の分布状況は古代創祀神社の跡で推定できるだろう。愛媛県を東西に走る山岳地帯は、すべて鉱業地帯である。南予では石鎚山系のいたるところに銅採出跡がある。
(中略)
他に荷駄馬産業を見落してはならない。駄馬は山塊地帯の鉱業には欠かせない資材・鉱石等の搬送機関だった。律令制以後も近代に至るまで物資運送機関として秦氏の独占下にあった。荷駄馬の飼育地を駄場と言う。駄場地名は全国的に見て四国西南部に集中し、四国では南予地方に集中している。そこには必ず秦氏ゆかりの白山比売祭祀神社があった。
 
 以上のような推論を重ねた上で、伊予の秦氏は、南予地方の工業開発にかかわったとします。
そして次に示されるのが「南予地方秦氏関係神社表」です。
1南予地方秦氏関係神社表

この表から堀井氏は、次のように論を進めます。
「南予地方の古代朱の跡を、考古学領域で考えて、弥生時代まで遡上できるだろう。幡多郡五十崎町の弥生遺跡で採収した上器破片には、鮮やかな朱の跡が残っていた。史書で伊予に関る朱砂の歴史を考えると大化年間に阿倍小殿小鎌が朱砂を求めて伊予に下向して以後、天平神護二年の秦氏賜姓の恩典までの百余年間は、朱砂の線で繋がれていると見てまちがいなかろう。
 これを民俗学の領域で見ると、八幡浜市の丹生神社に始まり、城川町から日吉村まで続いている。その分布状況を迪ると、南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さにはおどろかされる。その中で最近まで稼働していたのは日吉村の双葉鉱山だけだが、その朱砂の線上に多くの歴史が埋もれているにちがいない」
ここでは「南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さ」の存在と秦氏の信仰する神社との重なりが説かれます。これは中世の山岳寺院とも重なり合うことが下の図からはうかがえます。
2密教山相ライン

 佐田岬半島の付け根に位置する出石山の頂上には「金山出石寺」があります。この寺の縁起は次のような内容です。
開創は元正天皇の養老二年(718)6月17日で、数日間山が震動して「光明赫灼とした」。そのため鹿を追っていた猟師作右衛門が鹿を見失ったが、「金色燦然たる光」を放って、千手観音と地蔵尊の像が地中から湧出した。作右衛門はこの奇瑞に感じて殺生業を悔い、仏門に入って「道教」と改名し、仏像の傍に庵をつくり、「雲峰山出石寺」と号した。
 その後、大同二年(807)に空海がこの山に登り、護摩ケ石に熊野確現を勧進して護摩供を修し、この山を「菩薩応現の勝地、三国無双の金山なり」と讃嘆した。
 空海がやって来たかどうかは別にして、この地域からは金・銀・銅・硫化鉄が採掘されていたようで、出石山(金山)には水銀鉱の跡があると云います。
また『続日本紀』文武天阜二年(698)9月条に、伊予国から朱砂を献上させたとあります。
これには秦氏・秦の民がかかわっていたようです。この地に弘法大師信仰が盛んなのは、高野山に丹生神社があり、弘法大師信仰には丹生がかかわるからだと研究者は指摘します。 丹生は泰氏集団と空海に深くかかわり、両者を結びつける役割を果たしていたのかも知れません。ちなみに丹生(にゅう)とは「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物が採取される土地を指す言葉です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。
「要するに天平以前の日本人が“丹”字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は“に”と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ“そほ”には“赭”の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう
それでは、丹生と空海にはどんなつながりがあったのでしょうか。
それは、また次回に・・・
渡来集団秦氏の特徴

参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究



以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

秦氏と空海

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一宮となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その8年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、7年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。

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渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。

 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)
 このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという
(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1

「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10」には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、次のように記します。

葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。

大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。

技能集団としての秦氏

山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
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藤原保則伝に描かれた9世紀の備中・出羽・讃岐
      『考証前賢故実』に描かれた藤原保則
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 藤原 保則(やすのり)という平安時代前期の公卿がいます。地方官として善政により治績をあげ良吏として知られた人物のようです。後に、三善清行がその功績を称えて『藤原保則伝』を著しています。
  その中に、藤原保則が讃岐国司としてやってきて残した言葉が記されます。9世紀の讃岐のことを知る手がかりにもなるようです。
今回は、『藤原保則伝』を史料に国司から見た地方の情勢を見ていきたいと思います。
悪霊だらけ(その7) | 京に癒やされ
三善清行

『藤原保則伝』を書いた三善清行は学者で政治家で、菅原道長のライバルとされる人物です。
三善清行がどちらかというと理想主義者で、道真がやることがあまり面白くなかったようです。道真を冷ややか見ていて、律令こそが本来のあり方だという考え方を持った人です。9世紀後半は、そういった理想と現実の間で政治家は揺れ動くような時代だと研究者は考えているようです。
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 三善清行は「意見封事十二ヵ条」という意見書を、当時の醍醐天皇に対して提出しています。その中に備中国下道郡邁磨(にま)郷という地域を取り上げて、こういうことを言っています。
もともと渥磨郷の地名の由来は、そこに2万人の人たちがいた。ところが7世紀後半に倭国は百済を救援するために朝鮮半島に軍隊を送り込み大敗北します。いわゆる白村江の戦いです。その時に西日本の成人男子が兵士として大量動員されます。その結果、西日本の成人男子の人口が減ってしまうのです。この遜磨郷は時代が下るに従ってどんどん成人男子の数が減ってきている、と三善清行は言っています。天平年中(765~767年)には、成人男子が、1900人いたと云いますからかつての2万人から比べると激減です。2万人が本当かどうかは別として。それからおよそ百年年後の貞観年間(866年頃)には70人余りになったと云うのです。これが藤原保則が備中の役人だった時のことです。かなり大げさに書いているようですが、人口が減ってきている、とくに税金を納めるべき成人男性が減ってきているということはたしかです。一つの郷でさえこのような状況だから、他もそうなんじゃないかと、だから今は大変な時代だと、三善清行は国家に向かって警告しています。一見、唐風文化とか中国風の文化を取り入れて、都の方では「先進文明化」が進んだように思っているかも知れないが、備前を始め地方社会はかなり疲弊しているじゃないか、と三善清行は警告していたわけです。三善清行とはそういう政治家であり、現実主義の菅原道真とはそりが合わなかったようです。彼が理想の地方政治家としたのが 藤原保則であり、そのために後に伝記を残したようです。

前置きが長くなりましたが本題の藤原保則について、見ていきましょう。
藤原保則(やすのり)が飢饉で大打撃を受けた直後の備中に赴任することになるのは貞観8年(866年)のことです。これがはじめての地方官への転出で、40歳台のことです。
 『藤原保則伝』には、備中・備前国司時代の業績が次のように記されます。  
 藤原保則は、貞観8年42歳にして、備中権守となり赴任した。当時の備中国は大飢饉の後を受けて、とくに今の阿哲郡の辺りは、疲弊最も甚だしく白昼にも強盗が横行し、道にさえ餓死したものを見るありさまで、全くの生き地獄であった。そこで、保則は、まず貧困者を救い、大いに農耕を励まし倹約を勧めたので、漸く窮民も豊かになり盗賊も後を絶った。
貞観16年(874年)備前権守となったが政策方針は殆どかわらない。部下に悪者あらば、ひそかに説き、或は、自分の財産を分け与えた。もし、国内に大事あれば、必ず自ら吉備津神社に詣でて、これを祈った。すると常に感応があった。為に教化が大いに行われて、父母のごとく慕われた。
 あるとき、安芸の賊が備後に入り込み、調の絹を盗んで備前磐梨郡にきて、宿の主人に備前国司のことを聞くと、藤原保則の善政がいき渡っており、「仁義を持って教え、国人みな廉潔を守り、信義を重んじること神明に通じている。ゆえに、もし悪事あらば吉備津の神のお叱りを直ちに受ける。」このことを聞き、盗人大いに驚いて、夜も寝られず、夜明けとともに、国府にいたり自首していった。
「わたしは、備後の官絹40匹を盗みました。どうかお仕置きください。」
と保則その状を喜び、召して食事をとらせ、その絹を封じ、添え書きして備後に持ち帰らせた。備後の国司小野喬査、怪しみ且つ喜び直ちに盗人を赦し、自ら備前に至り、保則に深謝した。

貞観17年役目を終えて、京に帰るとき、両備の人が道を遮り、泣いて別れを惜しむ。老人が酒を持ってきて酒、肴を勧めて止めない。保則老人の言に反することをおそれ、滞留すること数日、その間訪れる人絶え間なく、保則困り果てて、ある夜、ひそかに小船にのって去った。従者を待つため、和気郡方上津に停泊した。郡司その糧食の少なきを聞きて、白米二百石を贈る。保則その志を喜んで是を受け、国の講読師に書を送り、「船中に怪事が多い。僧に頼んで祷らしめよ」と。そこで、国分寺の僧を遣わす。保則乞うて般若心経一本をよませた、贈られた白米は全て布施して去った。これぞ、官界に職を奉ずるものの鑑である。

他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話や、保則が任を終えて帰京する際に、人々が道を遮り泣いて別れを惜しんだというエピソードを三善清行は、挿入してその善政ぶりを記しています。
 これ以外にも当時の備中の情勢を次のように記しています。
藤原保則が備中の役人になった時に、ここでは略奪をして殺し合いをしたり、税金を払うのを嫌って逃げたりして、税金を納めるべき成人男子が一人も残っていなかった。これを書いた三善清行は、最初に述べた通り、後に備中国に国司として赴任した経験があるので、当時の備中国が大変な状況だったことを知っていました。それを藤原保則は、見事に統治したと云うのです。
 その後に保則は、お隣の備前国の国主になります。
吉備津彦神社/岡山県岡山市(Kibitsuhiko Jinja,Okayama-shi,Okayama,Japan) - 神社と狛犬見て歩き

ここには吉備津彦神社が登場してきます。この神社が、備前国の命運を左右するような大事な神様であると記されます。当時の国守達も吉備津彦神社が精神的な支柱となっているとを肌身で分かっていたようです。これも一つの地域観でしょう。どんな神様を信仰しているかは、地域によって違います。その神様がどういうことをしてくれるかということも、地域によって違うわけです。この神様に対してよい行いをすれば豊作になり、そうでなければ罰を受けるということがここには書かれています。祭事と政事は、まさに一体であったことが改めてうかがえる史料です。

清和朝末の貞観18年(876)に、保則は平安京に戻り、検非違使佐となり都の治安に手腕を発揮します。元慶2年(878年)出羽国で蝦夷に反乱が発生し、官軍が大敗します。すると保則は地方官としての経験を期待され反乱の鎮圧を命じられてます。この戦争は、蝦夷が圧倒的に有利でした。
菅原道真と空海の蝦夷(えみし)観。 – 太古につながる生活者の目

そのような状況下に保則は、出羽でどう対応したのでしょうか。
一言で言うと、力でねじ伏せたのではなく、懐柔政策を取ります。それが功を奏して平定されます。その後、秋田城の建直しまで行います。具体的には、保則は早速現地へ向かい、防備のため兵の配置整備を行います。また反乱の原因を調べると、当時は全国的な飢饉が起きていたにもかかわらず、役所の人間が厳しい取り立てを続けていたことが分かります。そのために起きた反乱だったようです。そこで保則は、まず役所にしまいこまれていた米を民衆に配ります。このような対応ぶりに懐柔策も軌道に乗り、蝦夷の指導者が投降してきます。保則はこれを受け入れ、中央への報告書には「反乱は鎮まりましたので、穏便な措置をお願いしたい」と記します。それを政府も受けいれます。この蝦夷の反乱を【元慶の乱】と呼びます。ここには、藤原保則の国守としての能力がいかんなく発揮されたシーンが描かれています。
 「藤原保則伝」には、前任者の国司のことが次のように記されています。
秋田国守の良岑近(よしみねのちかし)は
「聚(あつ)め斂(おさ)むるに厭(いと)うことなく、徴(はた)り求むるに万端なり(税を徴収することはいっさい厭わない)」
「貪欲暴獷(ぼうこう)にして、谿壑(けいがく)も填(うづ)みがたし(広い谷も填めきれないほど貪欲である)」
「もし毫毛(ごうもう)も(少しでも)その求めに協(かな)わざるときは、楚毒(そどく)(苦しみ)をたちどころに施す」

といった人物であったと記します。
  ここからは乱の原因が、前年の不作にもかかわらず、国司たちが農民から収奪を繰り返したことにあったことがうかがえます。また『藤原保則伝』には、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことを行っていたことが記されます。馬や鷹は、東北の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの利益を上げることができたようです。ここからは現地官僚の悪政だけでは片付けられない一面が見えてきます。見方を変えると、中央集権的な律令国家が変容して、地方の現地官僚がその政治の実権を握って、自分の利益を追い求める政治が行われるようになっていたことを示します。こうした国司らの圧政に抵抗して、生きるために多数の蝦夷が反乱に立ち上がったと云えそうです。

それが「藤原保則伝」には、
「出羽国は公民と蝦夷が雑居していて、田地が豊かで珍しい特産物もたくさんある。力の強い官吏が居座って租税を増やし、勝手に賦課を加えている」

と記されています。
これに対して藤原保則は何をしたのでしょうか。
『藤原保則伝』には「法律を百姓に教え示す」とあります。法律に暗い人たちに対して法律を教えたと云うのです。これを最初に読んだときには、脈略がつながらずに「支離滅裂」という印象を受けました。

 その後、藤原保則が讃岐国守としてやってきて残した言葉を読んで、その意図が何となく見えてきました。そこには、出羽とは対照的なことが讃岐については書かれています。
「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」

文章が上手い人が多いというのです。そして、次のように讃岐のことが記されます。
「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」

 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多いとして、かえってやりづらい、やり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。これは出羽国とは対照的です。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多く、そういう争いを止めるように、保則が取り成すことを讃岐では行ったようです。
 ちなみに藤原保則は、菅原道真の前任者になります。
保則が讃岐を去るに当たって次のような言葉を残したと三善清行いうのです。
「今度の新任の国司はたしかに大学者であり、私の能力の及ぶところではないけれども、内面の志を見ると危険な人物なんじゃないか」

ということを語ったと三善清行は記します。確かに菅原道真は中央政界に戻ったあと左遷されます。これはたぶん、保則の口を借りて三善清行の本音が語られていると研究者は考えているようです。

 「藤原保則伝」では、かなりの分量を割いて出羽国を治めることがいかに大変だったかということが書かれています。しかし讃岐国はあっさりと書かれていて、統治の上ではあまり手がかからなかったような印象を受けます。

 最後に藤原保則は九州の筑前・筑後・肥前に行きます。
そしてこの地域を「群盗が多く、治安が悪く、まるで法律がないがごとく略奪される」であると言っています。いろいろな人たちが集まってくる地域なので、なかなか秩序が守られないというのです。それに対して保則が、それを守らせるようにしたという美談が語られています。確かにこの地域は朝鮮半島や大陸と近い関係にあるところで、ある意味で「防衛前線」にあたるエリアです。讃岐とは置かれている地域の状況が違ったようです。出羽国は蝦夷がいるし、大宰府は新羅が攻めてくるかもしれないという緊迫感があります。そのなかで、讃岐の地域はみんなが法律を学んでいるというのです。このような任地の状況を、藤原保則はどう考えて地方長官として対応したのでしょうか。地域によってさまざまだなという感じがします。これを「多様性」と云うのかも知れません。9世紀の日本は、地域によって多様性のあふれる国家だったとしておきましょう。
 
 保則はその後は都に帰り、その業績が認められ官位をどんどん上げていきます。最終的には公卿の一員にまで登ります。公卿というのは、公家の中でも一定以上の地位にある人たちのことです。今のお役所に例えるとすれば、国家公務員の中でも「○○長」という役職についている人くらいの感じになるようです。政治中枢で活躍した人が多いとはいえない藤原南家の中では、かなりの出世です。それにおごり高ぶることはなく、亡くなる直前には比叡山に入り、念仏を唱えながら往生したと記されます。
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
886 1・16 菅原道真を讃岐守に任命する(三代実録)   
888 5・6 守菅原道真,降雨を阿野郡城山神に祈る
890  春 菅原道真.任を去る(菅家御伝記)
 年表を見ると9世紀後半の讃岐には、藤原保則や菅原道真など、有能な実務型国司が実際に赴任してきます。讃岐の国司のトップの守は、中央政府の主要メンバーである「参議」という役職を兼任している人が多かったようです。そのため実際には讃岐の国にやってこない人が多かったようです。ところが、藤原保則や菅原道真は実際に赴任し、讃岐にやってきます。そういった特徴が讃岐国の国司にはあるようです。
 例えば、藤原保則の後にやって来た菅原道真は、その後右大臣までとんとん拍子に上がっていきます。
菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)-人文研究見聞録

その中で彼はいろいろな政策を出しています。例えば、税収が上からないことに対して、国司を責めるのではなく、ある程度国司が国内のことを自由に運営できるようにしたらどうかというような制度改革をやります。ある意味「寛平の改革」と云えるかも知れません。これはひょっとすると、讃岐国での実務経験を踏まえた上で、そのような政策が行われたのではないかとも思えてきます。それは「保則伝」にあるように、讃岐国は他の国に比べて非常に治めやすい国だ、という評価とも関わってきます。藤原保則の赴任地を見ると、他の国はかなり苦労している様子がうかがえます。ところが讃岐はそうではないようです。讃岐の国司になることが、国司としてある種のステータスのようなものがあったとも思えます。
 「寛平の改革」は、9世紀の終わりに行われた地方改革で、きちんと税収を取るにはどうすればよいかということに焦点を合わせて、毎年にわたって改革を進めています。そこには道真の讃岐における実績・業績が反映されていて、それは都の論理では分からない、都の論理だけでは思い付かない改革ができたのではないかと研究者は考えているようです。だとすれば、讃岐における経験が大きなものだったとも云えます。そういう意味では、讃岐国の統治というものは、大げさに言えば中央の国政を左右するようなものであったという認識が、役人の間でもあったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献    シンポジウム記録「地域から見る古代史の可能性」 香川県歴史ミュージアム

       
3根室金刀比羅宮 地図

コロナ流行の前に北海道・道東の木道廻りと称して、岬の先端や砂州の背後の湿地に設けられた木道をいくつか歩いて廻りました。その時に、気づいたのが金比羅神社が道東の各漁村に鎮座していることです。特に根室半島周辺には、濃厚な分布度合いを感じました。どうして、道東にはこんなに金毘羅さんが鎮座しているのだろうかという疑問が沸いてきました。
そのような中で出会ったのが「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」です。これをテキストに、根室周辺の金毘羅さんを見ていくことします。
3根室金刀比羅宮
根室の金刀比羅神社

根室に一泊し、早朝に根室港の高台に立つ金刀比羅神社を訪ねます。
広い神域を持ち、近代的な社伝を持つ立派な神社です。展望台からは、港が眼下に広がり、海が見えます。そして、そこには大きなる展望台高田屋嘉兵衛の銅像がオホーツク海を見つめて立っています。高田屋嘉兵衛とこの神社は深いつながりがあるようです。

3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛PG

この神社の由緒については「金刀比羅神社御創祀百八十年記念誌」や「参拝の栞」に次のような年表が載せられています。
宝暦四年(1754)納沙布航路開かれ、根室に運上屋を置く
安永三年(1774)飛騨屋久兵衛、根室場所請負う
天明六年(1786)最上徳内・千島を探検
寛政四年(1792)露使節ラックスマン根室に来航し、通商を求む
寛政十年(1798)近藤守重が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
寛政十一年(1799)高田屋嘉兵衛が択捉航路を開く。幕府東蝦夷地を直轄す。
 文化三年(1806)高田屋嘉兵衛、根室に金刀比羅神社を創祀
文化八年(1811) 露艦長ゴロウニンを国後で捕える。高田屋嘉兵衛送還され、ゴロウニンの 釈放に尽力、九月解決す。
天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。
天保九年(1838) 社殿改築。
天保十年(1839) 山田文右衛門漁場請負。
弘化元年(1844) 浜田屋兵四郎、白鳥宇兵衛漁場請負う。
嘉永二年(1849) 藤野嘉兵衛再び漁場を請負い社殿修築す。松浦武四郎択捉島を探険 石燈龍奉納(納者柏屋船中藤野屋支配人)
安政元年(1854) 日露和親条約締結
明治二年(1869) 蝦夷を北海道と改称。開択使役所設置する。
明治五年(1872) 根室病院創設。温根沼に渡船場開設。
明治六年(1874) 根室本町へ遷宮
明治九年     咲花小学校開校。
明治十年     西南戦争勃発。根室一円の氏神として崇敬。
明治十一年    根室、函館聞の定期航路開設。
 明治十四年  琴平丘新社殿に遷宮。社格が御社。
明治十五年  開拓使を廃して、根室、函館、札幌県をおく。
明治十九年  本殿新築。拝殿修管。
大正七年   県社に昇格
大正十年   鉄道開通、国鉄根室駅開業。
 
 この年表には、根室金刀比羅神社の創建は文化3年(1806)のこととされています。この年に高田屋嘉兵衛が漁場請負権を得た際に、海上安全・漁業、産業の振興などを祈願して、祠宇を今の松ヶ枝町に建立し、金刀比羅大神を奉斉したとあります。
しかし、当時は神仏混交で金比羅さんは「金毘羅大権現」で権現さんです。金刀比羅というのは、明治以後の神仏分離後に使われるようになった用語です。ここでは金毘羅大権現としておきます。明治十四年に「琴平丘新社殿に遷宮」とあるので、それ以前は別の所に鎮座していたようです。高田屋嘉兵衛が創建したときの祠はどこにあったのでしょうか?

 高田屋嘉兵衛が根室にやって来た当時は、根室や国後、択捉島海域は北方漁業の宝庫として着目され始めた時でした。同時に、ロシア国との間に北辺緊急を告げていた時でもあったことは司馬遼太郎の「菜の花の丘」に詳しく描かれています。
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幕府は根室を直轄して、その開発と警備に当ったることにします。そして幕命により漁場を請負った高田屋嘉兵衛は、北方海域における航路の開拓と、漁業振興に心血を注ぎ、その安泰と繁栄を祈り、祠宇を建て金毘羅大権現を勧進したようです。そして、又弁天島(旧大黒島)には市杵島神社を建立したと記されます。もともと弁天島はアイヌの聖地であり、信仰を集める島でもあったようです。
3根室金刀比羅宮6
港の沖の弁天島(旧大黒島)に鎮座する市杵島神社
 
安政元年(1854)村垣範正が残した東蝦夷の巡視日記には、次のように記されます。
「弁天社及び金毘羅大権現は、文化三年高田屋嘉兵衛、当場所請負を命ぜられ、漁業満足祈願のため、社殿を箱館に於て切組み、当地に着するや、直ちに建立せしものなり」

とあります。建立当時の社殿は函館で材木が整えられて、船で根室まで運ばれて、組み立てられたようです。
 高田屋嘉兵衛によって建てられた金毘羅大権現の祠は、どのように引き継がれていったのでしょうか。
年表には「天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。」とあります。高田屋嘉兵衛の後を受けて、漁場請負権を得たのが藤野嘉兵衛です。彼が高田屋嘉兵衛が約30年前に創建した社殿改築を行ったようです。極寒の地なので、30年毎位で改築する必要があったことがうかがえます。改築の翌年・天保10年には、藤野嘉兵衛は肴場請負を山田文右衛門に譲り、根室を去っています。
3根室金刀比羅宮syuinn 3

年表にはありませんが、明治3年の文書には、次のように記されています。
「明治三年四月に、藤野家の根室人である蛯子源之助及び妻ハツの両氏は、信仰篤く、数年の立願を以て、黄金三十八両を献じて、讃岐に於て、御神像を奉製し、金刀比羅宮にて入魂式典を執行し、藤野家の手船「宗古丸」に奉乗して、同年五月本殿に奉鎮する」

 ここからは廻船業を営む藤野家の一族で根室に住む蛯子源之助とその妻ハツが讃岐の金刀比羅宮に参拝し、そこで「神像」を作り、自社の手船に載せて持ち帰えり、社殿に祀ったことが分かります。幕末から明治初期には廻船業者などの富裕な信者によって、社殿が維持されていたようです。
3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛2PG
高田屋嘉兵衛(根室金刀比羅神社蔵)

  高田屋嘉兵衛については「百八十周年記念祭記念誌」に、次のように記されます。
「高田屋嘉兵衛(1769~1827) 
明和六年淡路国都志本村に生まれる。兵庫に出て水主となり、苦労の末、寛政八年辰悦丸を新造し。船持船頭となる。その後北方漁場の重要さに着目し、函館に進出し、遂に幕府の信用を得て、蝦夷地御用船頭となり、文化二年(1805)には根室漁場を請負い、その卓越した識見と、商魂を以て、当地方の漁業振興に力を尽した。
 文化九年(1812)択捉島よりの帰途、国後島泊沖で露艦ディアナ号に捕えられ、カムチャツカへ連行され、幽囚の身となるも、常に日本の外交に心を尽し、露国の信用を得て、当時日露間の大きな問題となっていた、ゴローニン釈放等に奔走し、協定成立に努力す。
 文政元年家業を弟に譲り、淡路に隠退。文政十年病歿、享年五十九才。彼は当神社を創始した信仰深い人であったばかりでなく、北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者でもあった。」
高田屋嘉兵衛は、地元では「北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者」としてリスペクトされているようです。この神社に彼の銅像があるのが納得できます。
高田屋嘉兵衛の銅像建立趣意書も見ておきましょう
 この地方の開拓には、まことに多くの人々の尽力があった。然し高田屋嘉兵衛が活躍した当時は、鎖国と封建制の厳しい体制下であり、露国の南下、原住民とのあつれきが続いた厳しい時でもある。
遠隔寒冷の未知の北海に帆船を進めての開拓は、嘉兵衛の高邁な勇気と才覚、練達せる航海技術に加えるに徳実で誠実溢れる人柄、開拓にかける大きな使命感と責任感がこれをなさしめたものといえる。
 択捉島航路の開拓と産業開発に就て見ると、宝暦二年(1754)から寛政年間にかけて、北海道周辺は、外国船の出没が続き、また原住民の和人襲撃騒動などがあり、幕府としてその対策に努力している。そして寛政十年、幕府は180名からなる巡察隊を二手に分けて派遣したのもその一策といえる。
 根室、国後、択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を建て、更めて旧来の領土である事を宣言した。露国勢力は度々択捉島に迫り、我が国としては、同島を「日本領土」として明示する事は急を要していた。然しそこには一つの大きな障害があった。それは国後島と択捉島との間に流れる海峡であった。この海は「魔の水道」と呼ばれ、濃霧に覆われる事多く、潮流は荒れ狂い、原住
民の小舟は度々遭難し、その為に開拓に必要な人員や物資の大量輸送は不可能になった。
 寛政十一年函館に進出した嘉兵衛は「蝦夷地御用船頭」を命ぜられ、根室、国後島、厚岸で交易を始めていた。前年択捉島を調査した近藤重蔵は、嘉兵衛の優れた航海術に着目し、厚岸に於て嘉兵衛に会い、状勢の緊迫と、択捉島開拓の緊急を説き、大型船による択捉島航路の開拓を要請した。嘉兵衛は快くこれを承諾し、重蔵と共に、根室から国後島に渡り、同島のアトイヤ岬から、潮の流れを観察し、苦心の結果、三筋の海流が、狭い海峡で一筋となり、択捉島ベルタルベの突端に激突する事をつきとめ、安全な航路を見究め、自ら約十屯の宜温丸を操船し渡海に成功したのであった。
同島に上陸した彼は、詳に調査し、国後島に待つ近藤重蔵に報告した。この安全な航路の開拓は、幕府のその後の同島警備と開発に大きな進展を見せたぱかりでなく、高田屋の事業発展にも大きく連なっていった。
 択捉島航路開拓に成功した嘉兵衛は、幕府直轄制下にも拘らず、択捉島場所請負を命ぜられた。
翌寛政十二年三月、手船「辰悦丸」他五隻の船に、米、塩、衣類等をはじめ、漁場開設に必要な漁具、漁網、建築資材、大工労働者、更に医者、医療具を乗せ、幕吏近藤重蔵外数十人と共に、択捉島に渡り、上陸した彼は、海岸各地を調べて、十七ヶ所に漁場を設け、原住民達に漁具を与えて、日本式漁法を教え、その漁獲量に応じて生活に必要な物資を与えたので、彼等の生活水準は上り、渡島当初八百余人だった原住民の人口は、時と共に増え、。噂を聞いて渡島してきた者を合せると千二百人にもなった。
 嘉兵衛の下に、喜んで稼動し、それまでは日露両国の勢力の狭間に置かれていた原住民の不安と苦悩は消え、日本国民としての自覚を持つ様になった。原住民達も、日本式漁法に慣れるに従い漁狭量も飛躍的に上昇した。主なる商いは海産物であり、海獣皮、熊皮、狐皮、鳥羽などがあげられた。享和三年(1803)のサケ、マスの漁獲量は一万八千石に上り、内七千五百石は塩蔵、他は魚粕、魚油として内地に運送した。殊に魚粕は肥料として増産に寄与した。
 択捉島開拓は当初露国勢力の千島列島南下に対抗する最前線基地として、警備と原住民の撫育に重点がおかれたが、嘉兵衛の活躍によりその目的は達せられ、更に同島の豊富な資源の開発は、高田屋の事業を進展させ、幕府の財政に大きく寄与する事となり、根室や函館のその後の発展にも連なった。

  これを小説化したのが「菜の花の沖」なのでしょう。
そして根室の金刀比羅宮は、県社として周辺漁港に分社・勧進されていきます。根室周辺に金毘羅社が多いのは、この神社の「布教活動」の成果でもあるようです。
3 納沙布金毘羅大権現 4
納沙布岬の金刀比羅神社
そして、敗戦までは根室は「最果ての港」と云うよりも、千島列島の島々への拠点港として機能します。そのため北方領土の島々にも、金比羅神社を始め多くの神社が分社・勧進されることになります。敗戦時には次のような神社が鎮座していたようです。
 国後島 近布内神社
  り  老登山神社
 志発島 東前金刀比羅神社
  り  稲荷神社
 水晶島 金刀比羅神社
 多楽島 金刀比羅神社
     市杵島神社
     大海龍王神社
 色丹島 色丹神社
 これらの神社の御神体は敗戦後は、根室の金刀比羅神社に祀られているようです。
3根室金刀比羅宮2

以上をまとめておくと
①高田屋嘉兵衛によって根室に金毘羅大権現が勧進された
②その後、金毘羅大権現は根室の氏神様として信仰を集めるようになった。
③そして明治以後には、金刀比羅宮が周辺漁村へも勧進されるようになった。
④千島列島の島々にもかつては金刀比羅宮が勧進され祀られていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献

    「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」

豊臣秀吉の四国支配体制は?
長宗我部元親侵攻図

長宗我部元親の四国平定

天正一三年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいたと言われます。ここからは、四国の大名を一括して認識していたフシが見えられます。どんな思惑で秀吉は、大名達を配置していったのでしょうか。讃岐に生駒氏が配される背景を巨視的に見ていきたいと思います。テキストは「川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置 中世西国社会と伊予所収」です。 
51585年頃の大名配置図
  
四国平定後の秀吉の大名配置を見ておきましょう。
長宗我部元親には土佐一国のみの領有が許され、
阿波・蜂須賀家政
讃岐・仙石秀久
伊予・小早川隆景
が配されます。このほか詳しく見ると各国の一部は、
阿波には 赤松則房・毛利兵橘
讃岐には 十河存保
伊予には 安国寺恵瑣・来島通総・得居通久にも与えられています。彼らは、いずれも長宗我部戦での活躍が認められたものです。長宗我部から奪った瀬戸内三国を見ると、阿波・讃岐には豊臣大名が、伊予には秀吉に近い毛利系大名の小早川氏が配されています。以前から河野氏と結び伊予に進出していた毛利氏は、平定前に秀吉から伊予拝領を約されていました。この大名配置のねらいは、阿波・讃岐・伊予の瀬戸内三国に政権下の有力大名を配置し、九州征討に備えることにあったようです。それを裏付けるように天正13年~15年にかけて、この三国では検地が行われています。これは新たな軍役賦課のためであったと研究者は考えているようです。そして実際に、九州攻撃の先陣を務めたのは「四国衆」でした。
 
仙石秀久、戦国を駆ける | 書籍 | PHP研究所

 讃岐の領主とまった仙石秀久は天正14年(1586)9月に島津征討に参陣しますが、豊後・戸次川の戦で大敗し、その責任を問われて領地没収となります。代わって翌年正月に、讃岐国領主になったのは尾藤知宣です。しかし、彼もまた日向での作戦失敗で領知を没収されます。その後を受けて、天正15年8月に讃岐領主に封じられたのが、生駒親正(近規)です。短命に終わった仙石・尾藤氏に代わって領主となった生駒氏によって讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世へと脱皮していくことになります。

高松城 周辺地理図

生駒親正の高松城築城の戦略的なねらいは?

 天正十五年の九州平定後は、讃岐・伊予の大名が入れ替えられて瀬戸内の固めが増強されます。秀吉の子飼いの豊臣大名によって、この地域が占められるようになります。その中でも生駒親正が築城した高松城は、城の中に港湾機能を取り込んだ今までにない構造であることは以前にお話ししました。その規模や岡山城などの移転状況などから判断して、瀬戸内海の制海権を握るための重要な役割を担うために作られた水城だと研究者は考えているようです。
 秀吉は生駒親正を信頼し、頼りとしていたようです。秀吉は親正に「讃岐国一円領知状」〔生駒家文書〕を出し、国内に秀吉直轄の蔵入地を観音寺に設定し、その代官にも任命しています。豊臣政権下での讃岐や生駒親正の重要性をうかがい知れます。さらに、親正は中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老(小年寄)として、五大老・五奉行間の調整を図る要職にも就いています。
 こういう中で親正は、自らの居城築城を開始します。
その選定にあたっては、まず引田浦・宇多津という港町に入りますが適地とせずに、最終的に野原庄(現在の高松)を選定したことは以前にお話ししました。「南海通記」によれば、戦国時代の野原庄には香西氏配下の武将達の小城が多数あったとされます。その記録通りにサンポート開発の発掘によつて、港湾施設や積荷が出土し、中世の港町があったことが分かっています。西浜や東浜や砂州の存在、船便の良さや背後の高松平野のヒンターランドとしての潜在力も、高松選定の大きな要因だったと研究者は考えているようです。
 高松城と生駒親正は、西国全体を支配下に置いた豊臣政権にとって、瀬戸内海の防衛・侵略拠点としての大きな布石の役割を果たすことになります。

次に伊予の情勢を見てみましょう
小早川隆景の肖像画の画像 | 戦国ガイド 
小早川隆景(毛利元就の三男)
伊予を支配することになったのは、安芸から海を越えてやってきた小早川隆景です。彼は秀吉の意向を受けて、城割・検地などを実施し、近世伊予の礎を築いたとされます。これらの政策は、先ほど見たように九州侵攻をにらんでのことでした。しかし、伊予国内には先ほど見たように旧領主の河野氏や西園寺氏の領地も混在し、小大名領が入り交じった状態でした。その結果、中世的遺制が残り、これが払拭されるのは九州平定後のことになるようです。
 しかも秀吉は、翌年の天正15年(1587)6月には、隆景(毛利元就二男)に筑前一国と筑後二郡・肥前二郡が与えて九州に転封させます。これに併せて毛利秀包(元就九男・隆景養子)に筑後三郡が与えられます。この転封は、朝鮮半島への侵攻準備のためだと研究者は考えているようです。九州平定のために四国にその侵攻の中核となるべき大名が配置されたのと同じ手法です。秀吉の信頼の厚かった小早川隆景に、朝鮮半島侵攻の基盤となる筑紫が任されたのです。こうして筑前名島城に入った隆景は、太閤検地など近世的政策が展開され、地元領主階級の結集がなされていきます。
5 四国の大名配置表

このような動きと連動する形で、秀吉は四国の大名配置を行なったことを改めて確認する必要がありそうです。
九州平定とそれに続く朝鮮出兵の布石として、秀吉は四国の大名配置を行ったという視点です。その動きを簡単に見ておくことにしましょう。

5 秀吉の四国大名配置図

 小早川隆景を筑紫に転封したの後、秀吉は東・中予に福島正則、南予に戸田勝隆を入れます。こうして瀬戸内三国全てに、秀吉子飼いの豊臣大名が配されます。福島正則や戸田勝隆は、伊予の近世化を進め、地付きの土豪族を弾圧し多くの悲劇が生まれますが、それも後に控える朝鮮半島侵攻のためには不可欠な準備の一つだったと考えていたのかも知れません。領内の不満分子弾圧を果たした後、戸田勝降は大津城から板島丸串城へ、福島正則は湯築城から国分山城へ短期間で移ります。
国分山城 - 城見る人も好きずき
国分山城に迫る小早川軍
 
文禄4年(1595)7月、関白秀次は高野山へ追放され、切腹を迫られます。その検使役を勤めた福島正則は、尾張清州34万石に転じ、代わって池田秀雄が国分山城へ入ります。秀雄の子秀氏は、南予の大津二万石に移された。同じく文禄4年7月には、加藤点明が文禄の役の功によって増封され、淡路から正木に入ってきます。そして同月、板島の戸田勝隆に換わり、藤堂高虎がやって来ることになります。豊臣秀長配下で、高野山に隠居していた高虎を秀吉に仕えさせたのは、讃岐藩主の生駒親正でした。

国分山城の写真:今治城天守にあった解説文 | 攻城団

朝鮮出兵にみる「四国衆」
豊臣秀吉は四国の大名を「四国衆」と呼んでいたことは最初に述べました。秀吉は小田原の役から朝鮮出兵にかけて、四国衆を水軍として軍団編成を行ったようです。当時の四国衆の大名にとって、朝鮮半島出兵のための水軍編成が大きな課題として秀吉から求められていたことになります。しかし、朝鮮での実戦では「四国衆」として統一的に動くことはありませんでした。それどころか大名間で反目し、ばらばらに動きに終始して、そこを朝鮮水軍に各個撃破されることが多かったようです。
阿波の古狸と呼ばれた『蜂須賀家政』したたかに乱世を生き抜く - YouTube

その中で、讃岐の生駒親正と阿波の蜂須賀家政だけは名実ともに同一ユニットで動いていたと研究者は指摘します。蜂須賀正勝は、秀吉の与力としてその統一過程に深く関わり、播磨国龍野5万石余の大名となります。四国平定においても、嫡子家政とともに讃岐・阿波に侵攻して活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後に、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされます。土佐の長宗我部は秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である生駒・蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。それを裏付けるように城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されています。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が上佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。このような「讃岐・阿波」の同盟関係が朝鮮半島侵攻の際にも発揮されたようです。

 朝鮮出兵した豊臣大名同士でも大きな軋蝶があったことはよく知られています。
それがその後の関ヶ原の戦いなどにどのような影響をもたらすのか、ひいては四国の大名配置にどう働いたのかという視点で見ておきます
 伊予の藤堂高虎と加藤嘉明は、同じ水軍に編成されていました。しかし、この両者は激しく対立し、軍事行動の分離・排斥がたびたびあったようです。そのため高虎は独断で、秀吉に注進しています。その際に蜂須賀家政は嘉明に同情的だったと伝えられます。
 朝鮮出兵では、関ヶ原合戦の要因ともなる事件も起きています。
石田三成の腹心・福原長尭が軍目付として派遣され、蜂須賀家政らの戦線縮小策を秀吉に報告し、家政らが罰せられます。後に家政は、福島正則・藤堂高虎・加藤清止・浅野幸長・細川忠興・黒田長政とともに石田三成襲撃を決行しています。朝鮮戦線に出兵した大名達の間には、大きな亀裂が生まれ豊臣政権は内部から分裂していたのです。その中で「四国衆」と呼ばれた大名たちの連携・対立が次代へと受け継がれていきます。

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における四国大名の動向を見ておきましょう。

5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

徳川家康の東軍についていたのは
①阿波の蜂須賀至鎮
②讃岐の生駒一正
③伊予の加藤嘉明・藤堂高虎
石田三成の西軍についたのは
④讃岐の生駒親正
⑤伊子の安国寺恵瑣・小川祐忠・池田高祐・来島康親、
⑥土佐の長宗我部盛親

東軍勝利の結果、合戦後の論功行賞では、
⑦伊予が加藤嘉明・藤堂高虎に三分
⑧土佐一国に山内一豊
⑨讃岐の生駒氏は親子が両軍に分かれて戦ったが、一正の活躍が認められ、旧領を安堵された。
⑩蜂須賀家政は、領国家臣を豊臣秀頼に返却して高野山に隠遁
関ヶ原合戦を四国衆の視点で見ると、次のようになるようです。
①徳川秀忠軍の遅参のために、家康は旧豊臣大名中心の陣立てで勝利を得た
②そのため戦後の論功行賞では、旧豊臣大名に報いる必要があった
③結果として徳川政権成立期には、阿波・讃岐・伊予には秀吉子飼いの「外様」大名領が残った

そのような中で、長宗我部氏の居城であった土佐浦戸城の受け取りには井伊直政が派遣されますが、長宗我部軍の激しい抵抗を受けます。阿波・讃岐・伊予軍の動員によって,ようやく城が明け渡され、翌年正月に山内一豊が入城し、高知築城に着手するという不穏な情勢もあったようです。徳川の天下に決まったとは思わない人たちも数多くいたようです。

徳川の時代到来と四国衆
慶長八年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任命され、江戸城・城ドの増改築を進めるなど二重公儀・東西分治体制を確立していきます。「四国衆」もこれに協力していく姿勢を取るようになります。山内一豊は、御前帳において9、8万石の拝領高を10、36万石に改正して提出します。応分の軍役を負担することをこのような形で申し出たのです。「四国の押さえ」としての自覚ともいえます。
 風見鶏と云われながらも外様大名として家康の信頼を得て、側近的地位を築いたのが藤常高虎です。
彼は伊予から伊勢・伊賀への転封後、家康の下で大坂を包囲する戦略を練り、それを具体化するための各地の城造りに携わります。高虎の旧領大津へ、洲本から高虎に近い脇坂安治が入ります。高虎は家康の意を汲んで、洲本城を大津に移し、板島城を改築して、大坂包囲網を完成させます。その後、伊達秀宗がこの地に入国し、宇和島と改称します。
大坂の陣へは、四国衆も出兵します。
戦後に、諸大名の中で最も高い評価を受けたのは、松平忠直・井伊直政・藤常高虎でした。四国衆では蜂須賀至鎮の評価が高かったようです。至鎮へは淡路一国7万石が加増さています。蜂須賀家では、この武功は後の世まで語り継がれることになります。
 大坂夏・冬の陣で豊臣家が減亡することによって、「二重公儀体制」は清算されました。しかし、秀吉時代に配置された旧豊臣大名が四国や西国を占るという問題は解消されませんでした。
            
 この状況が大きく変化するのは、三代将軍家光治世の寛永期になってからです。
この時期は、キリスト教禁止令・貿易制限令・ポルトガル船来航禁止令の発布、島原の乱平定など、幕府の「鎖国」(海禁)体制整備期でもあり、西日本は対外的・軍事的緊張が高まっている時でした。そのような西日本の軍事的緊張を背景に、瀬戸内海沿岸にも御家門が配置されていきます。それまで、瀬戸内の中国・四国筋に御家門はありませんでした。ただひとつだけ備後福山に「譜代」水野家があるだけです。そういう意味で、四国に御家門を置くということは徳川政権にとって家康以来の大きな課題でもあったようです。
寛永13年(1645)には、松山15万石、今治3三万石が久松松平家に与えらます。そして、この藩は正保4年(1647)のポルトガル船来航に際し、長崎警備を命じられています。
さらに生駒騒動の後、寛永19年には水戸徳川家の連枝として高松城に入った松平頼重もまた、徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されていました。将軍から「西国・中国の目附たらんことを欲す命」〔「英公実録」〕があったようです。幕府の意を汲んで、松平頼重は高松城の海側への拡張工事を行い、軍事機能を充実させています。頼重は、朝鮮出兵も経験した生駒家の船団をそのまま引継ぎ、さらに紀伊徳川家からは、軍船が武器を備えて贈呈されています。頼重はこの船に乗って、宮島参り称して安芸の宮島近くまで船団の「軍事訓練兼示威パレード」を何度も行っています。
高松城122スキャナー版sim

 つまり、生駒氏によって築城された高松城は秀吉の大阪城を守るためであり、瀬戸内海の制海権防衛の拠点、さらには豊臣家の外様である土佐長宗我部への備えという戦略的な意味がありました。しかし、松平高松藩の高松城は大坂防衛の水城であると同時に「西国・中国の目付」の役割を求められていたようです。それを体現したのが松平頼重による高松城の改修だったことになるようです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置
中世西国社会と伊予所収」    

1うどん

前回は、近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について見てきました。
そこからは、城下町などの建設ラッシュの進む都市への人口流入と、それに伴う「外食産業」の発展という流れの中にうどん屋の出現があったことが見えてきました。そして、うどん屋には「烏賊の干し物」のような独特の看板が掲げられていました。この看板については「看板研究史」として、詳しく取り上げられているようです。今回はうどん屋看板の変遷を見ていくことにします。
  テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です

看板の古典的な研究は、坪井正五郎 『工商技芸看板考』が挙げられるようです。
1 うどん屋の看板qjpg

この中には、うどん屋の看板についても詳しく触れられています。それによると、うどん屋の看板は、この本が書かれた明治20年頃には、すでに東京にはなくなっていたと記します。そして、東海道や中山道の宿場には残っているして、『江戸名所図会』の板橋のうどん屋には描かれていることを指摘しています。さらに、柳亭種彦の考証随筆『用捨箱』に紹介された事例を次のように記します。
 「此看板は元と市中でも用ゐたもので有るが追々に失せて場末の地にのみ存し、今日では夫も跡を絶て宿駅を通行しなければ見る事が出来なひ様になつたのでござります」

つまり、昔は江戸市内でも使われていた、今は街道沿いの旅籠などにに見られるのみとなっていると結論づけます。
用捨箱 柳亭種彦翁随筆 全3冊(柳亭種彦) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

次に、柳亭種彦「用捨箱」 (1841年刊)を、研究者は取り上げます。
この本にも、うどんの看板について項があって、次のように述べています。
〔十五〕温飩の看版芋川
昔ハ温飩(うんどん)おこなはれて。温飩のかたはらに蕎(そば)麦きりを売り。今ハ蕎麦きり盛さかんになりて其の傍に温飩を売る。けんどん屋といふハ、 寛文中よりあれども蕎麦屋といふハ近く享保の頃までも無なし。 悉(み)な温飩屋にて看板に額あるいひハ櫛形したる板へ細くきりたる紙をつけたるを出いだしゝが今江戸には絶えたり。(中略)今も諸国の海道にハ彼幣(しで)めきたる看板ばんありとぞ。 (後略)
意訳しておくと
江戸でも、古くはすべてうどん屋で、蕎麦屋は享保(1716~36)の頃までもなかった。看板として「額」や「櫛」の形をした板に細く切った紙を付けたものを使うが、これは既に江戸では絶えており、諸国の海道(街道)で見られる、
明治の『工商技芸看板考』とだいたい同じ事が書かれています。
ここにでてくる 「額」は、上部が尖り、屋根を付けた絵馬的な形状か、長方形の形状で「うどん」などの文字が書いてあるもので、「櫛形」は、上部がやや丸くなった比較的幅が狭いものを指すものと研究者は考えているようです。
この本にはうどん屋の看板の挿絵として、次の四つの例が載せられています。

1 うどん屋の看板jpg
①図8の右上が井原西鶴『好色一代男』 (天和二年〈1682刊)の「いも川/うむどん」に描かれたものです。東海道の二川付近の宿場「芋川」の名物だったうどんの看板です。尖頭形の板の部分に「いも川 うむどん」と書かれています。
②右中が『人倫訓蒙図彙』 (元禄三年(1690刊) 「旅籠屋」 の挿絵の中に 「うとん/そはきり」 の看板が掲げられていると記されます。板部分が長方形ですが、①の「いも川うどん」とおなじように、宿場の旅籠に吊されています。。
③左上が『道戯興(どうげきょう)』 (元禄11年1698刊)のうどん屋の図です。絵が小さいので読みにくいのですが「うとん/そば切/切むぎ」 と書かれた看板が軒下に掲げられています。 店内では、伸し棒で生地を伸ばす人物と、徳利、盃などと土間に竈があり、見世棚には、角樽と徳利などが置かれていて、うどん・蕎麦と酒を提供する店であることがうかがえます。道戯興は、 寺子屋の代表的な教科書である『実語教』のパロディー版で当時のうどん/そば屋のイメージを描いたものと研究者は指摘します。

④享保年間 (1716~36) 彫折本「江戸八景の内品川の帰帆」 (図8の下)
 品川の宿場にある茶屋か旅籠のもので、板に書かれたも文字は略されていますが、「うどん/そば切」などと書かれていたようです。
1 うどん屋3 『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬
『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬
江戸庶民風俗図絵には、うどん屋の看板を掲げた店が描かれています。
ここでは、店の外で麺類をどんぶりから立ち食いする男の姿、煮物を手前には薦被りの大きな酒樽が2つ見えます。縁台に座った男が飲んでいるのは、お茶ではなくお酒のようです。その隣では、串に刺された煮物にかぶりつく男があります。真ん中にたつ男が店の主人なのでしょうか。煮物をつぎ分けているようです。その隣の立ち姿の女は、手に勺を持っているのその妻でしょうか。その奥の奥戸さんには大きな二つの鍋が据えられています。ここで煮物は茹でられているのでしょう。手前の座敷敷には食べ終わった男達が休んでいるようにも見えます。持ち物から、彼らは飛脚人夫のようです。街道を急ぐ飛脚のなじみの店で、そこにうどん屋(麺類)の看板が掛けられているとしておきましょう。
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以上のように、江戸時代中期の元禄年間には宿場にうどん屋が描かれた事例が多いようです。そういえば、前回見た金毘羅大祭図屏風にもうどん屋が3軒描かれていましたが、この屏風も元禄時代の物です。この頃には、この看板は宿場でよく見られるもの、という認識が書き手にもあったことがうかがえます。

しかし、この看板は江戸中期以降の図絵には見当たらなくなります。
林美一『江戸看板図譜』にも、板に糸状の物を垂らした「烏賊の干し物」のようなうどん屋看板は、寛延・宝暦頃(1748~63)までは、上方では使われていたが、それ以後は市中から消えて行灯型の看板に替わったと記します。
江戸看板図譜 (林美一 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

研究者は次のように、うどん屋看板の変遷をまとめます
1 うどん屋看板変遷図
図9は、17~18世紀頃のうどん屋看板を時代順に並べたものです。上辺が丸みを帯びた「櫛形」の方が古く、尖頭形や長方形で文字を入れた「額形」が後からできたと研究者は考えているようです。そして江戸中期になると、後者が主流になります。糸状の部分は簡略化し、糸というより短冊的なものに変化する傾向があるようです。
「四条河原図巻」の⑤⑥は、製麺を行ううどん屋と祇園社門前の茶屋のうどんの看板です。前者は板部分が細く、後者は尖頭形で板の幅が広い「額型」です。新旧二つのタイプを絵師は店に応じて描き分けられたのでしょう。しかし、時代の経過と鞆に市中では行灯型の文字看板⑦にとって替わられます。そして、糸状の物を下げた旧来の看板は、街道沿いの宿場に残るという変遷を経たと研究者は整理します。
ちなみに⑩の金毘羅大祭図屏風に描かれたうどん屋の看板は、変遷上の一番新しいタイプになるようです。
 それでは、うどん屋看板は、どこで、どのようにして誕生したのでしょうか。
  堀越喜博『満州看板往来』 (1940年刊)には、中国奉天のうどん屋( 「切面舗」 )の看板が3つ載せられています。
1 うどん屋の看板 中国jpg
板状の部分が、 
①一つは模様(蝙蝠)の木彫り
②一つは「金絲切面」(面の異体字で麺の意)
③一つは「銀絲切面」 と書かれている。
中国東北部以外で、この看板が使われていたかを調べたところ、20世紀前半の北京でも、この看板は数多く見られたことが分かっているようです。江戸時代の日本のうどん屋看板と、中国のものは、どこかで共通の起源を持つことは間違いないようです。問題は、いつどのような形で、この看板が日本に伝わったのかです。中国などの風俗画を詳しくみていく他ないのでしょうが、その経緯はまだ分からないようです。
最後に研究者が挙げるのは、「うどん屋と暴力」の問題です。
前回見たように、近世初期風俗画には、うどん屋の主人が暴力的な人間として描かれていることが多いのです。その理由として考えられることを挙げると
①半裸で「のし棒」を使い、力を込めて麺を作る、という所から、棒をもって振り回して暴れるというイメージが出てきた。
②「新規の外食産業」に好奇の目が集まり、勢い偏見も生まれた
 急速に流行し始めたうどん屋に、偏見が集まったのかも知れません。より重要なのは、暴力的場面を好む風潮が当時はあった、ということです。前回に紹介した「築造図屏風」は、慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされていますが、うどん屋が玉をこねる前では、大勢の人夫達が入り乱れて喧嘩シーンが描かれています。安土桃山時代の風俗画には熱気ある喧嘩シーンは人気があってよく描かれたようです。

1 うどん屋 築造屏風図けんか

以上をまとめておきます。
一七世紀の初頭に、城下町などの近世都市の建設が一気に進み、労働者が大量に流入します。そして、単身赴任者でもあった人夫たちを当て込んだ「外食産業」が、東西の別なく流行します。そのトップバッターとして現れたのが、「烏賊の干し物」のような看板とともに現れたうどん屋だったようです。しかし、江戸中期になると蕎麦屋の出現と鞆に、うどん屋の看板は市中からは姿を消し、街道の宿場の風物として残ります。それが風俗画のひとつの素材となったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」

前回は、うどんのルーツを探ってみました。史料にうどんが登場するは次の通りでした。
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」、
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明しされています
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」とあります
ここからは「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれた「うどん」が、登場するのは14世紀半ば以降であることが分かります。つまり、空海が唐から持ち帰ったという伝説は成立しないようです。今回は、近世の絵図に「うどん屋」がどのように登場し、描かれているのかを追いかけて見ようと思います。テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です

  「うどん屋」が風俗画に描かれるようになるのは江戸時代になってからのようです。
江戸時代以前に描かれた「洛中洛外図屏風」には、うどん屋は登場しません。うどん屋が描かれるようになるのは国立歴史民俗博物館(歴博)が所蔵する「洛中洛外図屏風」の一つ(歴博D本、17世紀前期)が一番古いと研究者は考えているようです。
1 うどん屋 洛中洛外
     「洛中洛外図屏風」(歴博D本、17世紀前期)

ここには相国寺とおもわれる寺院の前の家に、軒に突き出した棒の先に、「うとむ」と書かれた看板が見えます。その下に細長いひもが何本もぶら下がっていて、これが当時のうどん屋の看板だったことが分かります。まるで私には「烏賊の干し物」のように見えます。
 しかし、うどん屋の内部は描かれていません。描かれているのは、店の入口で半裸の男が杓子を振り上げて怒っているのを止めにかかっている女達。その外では険しい顔の白い服を着た女が男を指さしているように思えます。研究者はこれをうどん屋の夫婦げんかと考えているようです。
1 うどん屋の看板qjpg

 戦塵の余韻さめやらぬ江戸時代の初期の風俗画には暴力的な場面もしばしば描かれます。その際に、うどん屋の主人がその役を担わされることが多いと研究者は指摘します。その背景は後に考えることにして先に進みます。

古いうどん屋の絵図として、研究者が次に挙げるのは「築城図屏風」 (六曲一隻、名古屋市博物館蔵)です。

1 うどん屋 築造屏風図

この絵図は慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされ、近世城郭の築城風景を描いた資料として貴重な絵画です。制作時期は、慶長年間の中頃ころとされ、盛んに城下町建設が行われていた時代のものです。この中にも、築城工事の現場近くにうどん屋、餅屋、飯屋の三軒の飲食店が描かれています。うどん屋と分かるのは、先ほど見た「烏賊の干し物」と同じ看板がかかっているからです。
1 うどん屋2 築造屏風図

店内では、 半裸の男がのし棒で生地を伸ばし、その右では朱色の椀を手にした男がうどんををすすっています。見世棚には、外が黒で内側が朱の椀や、全体が朱の椀、盆が重ねて置かれ、栓のある樽もあります。これはお酒でしょう。うどんの他に酒も売っていたようです。
 また、ここでも店の前では喧嘩が起こっています。うどん屋の主人自体が関わっているのではありませんが、「うどん屋=暴力」というイメージがあったことがここからもうかがえます。

うどん屋の光景を、最も詳しく描いているのは 「相応寺屏風」(徳川美術館所蔵)だと研究者は指摘します。

この絵は初期の妓楼遊楽図でさまざまな遊楽の情景が描かれた近世風俗画の名作で、寛永年間(1624~44)頃のものとされます。この屏風にも、遊里の町並みの一画にうどん屋が描かれています。
店の中では、主人が上半身裸でうどんの生地を伸ばしており、その傍にうどんが入った椀がもう一つ置かれている。客の上に描かれた軒先の部分には、例の「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板が掛けられています。
 この絵で研究者が注意するのは、うどん屋の看板の上にさらにもうひとつサインが記されていることです。木の枝を組んだ先には、中央部分を括った形の酒林があり、その下には、ヘラ状のものが下げられ「みそ有」と書かれている。これは擂り鉢から中の物を掻き出すのに用いられる 「せっかい (狭匙、 切匙)」の形です。味噌を連想させる物として、味噌屋の看板に使用されていました。酒と味噌は、両方ともに醸造によって作られます。一つの店で扱かっているのは必然性があります。さらにそこでうどんも提供する、という営業スタイルだったことがうかがえます。当時は醤油がまだ普及していませんでした。そのためうどんの汁も、味噌味であったことを考えると説得力が増します。また、狭匙の柄の部分のまわりには円形のものが描かれています。これは酢の看板です。酒から酢が作られるので、それも販売していたことが分かります。
6「江戸図屏風」 (国立歴史民俗博物館)
江戸図屏風 | 家や学校で楽しむれきはく | こどもれきはく(国立歴史民俗博物館)

この屏風は、明暦の大火(1657)以前の江戸のことが分かる数少ない絵画資料として貴重なものです。この屏風には7軒の「うどん屋」の看板が見えるようです。まず  ①不忍池の南側を見てみましょう。
江戸図屏風(湯島、湯島天神、東照大権現宮、不忍池)
「江戸図屏風」不忍池と寛永寺 
不忍池の南には、道の両側に計七軒の店舗が描かれています。これらの店は寛永寺の参詣客や遊覧客に飲食を提供する茶店のようです。その七軒の内、三軒に例の「烏賊の干し物=うどん屋の看板」が掲げられているのが見えます。向こう側の五軒の両端と、店内は見えない手前側の一軒で、どの店も看板は竹竿で掲げらています。
1 うどん屋の看板1 不忍池 2jpg

店内が描かれた向こう側の店について詳しく見てみましょう。
1 うどん屋の看板 不忍池 2jpg

右端の店には、うどんの生地と「のし棒」が描かれ、うどん屋であること分かります。見世棚を見ると、生け花と徳利と椀、そして角樽が置かれています。酒も出す店のようです。
1 うどん屋の看板 不忍池 3jpg

左端のうどん屋には、店内に黒い角盆に乗せた赤い椀状の食器二つと小皿があります。見世棚にも同様のセットと花器が置かれています。
その右隣の店には酒林が掲げられています。そして店内には徳利と角樽、 見世棚には、赤い盃と、中が赤で外が黒の塗椀もあります。ここも酒と、うどんなどの食事も提供する店であることが分かります。
1 うどん屋の看板 不忍池42jpg
不忍池の左側のうどん屋 竹竿に掲げられた看板があげられている。 
不忍池界隈のお店は、酒も飲めるうどん屋が多かったとしておきます。

近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について、まとめておきましょう。
①安土桃山時代の絵図には、うどん屋は登場しない。
②慶長年間の中期ころからうどん屋は描かれ始める
③店の立地としては、寺社門前、遊興地、街道沿い、普請現場、河岸などの多くの人が通る場所が多い
④営業スタイルは、酒屋および味噌・酢販売の店を兼ねていることが多い。
この時期のうどん屋は、江戸の「外食産業」 の走りだった研究者は考えているようです。
食事を提供する店舗としては、 明暦の江戸大火 (1657)からの復興とともに現れた「煮売り茶屋」が有名です。うどん屋の出現と流行は、それよりも半世紀ほど早いようです。大火後の復興で外食産業が発達したとすれば、うどん屋登場の背景は、近世都市の建設に伴う人口流入が考えられます。
1うどん

「築城図屏風」の普請場近くにうどん屋などの飲食店が描かれていることが、それを象徴していると研究者は指摘します。現場労働者は、外から流入した「単身赴任者」が多かったはずです。うどん屋などの「外食産業」発展のチャンスだったのかもしれません。「京都や大坂・江戸の以外の城下町でも、近世初期の都市の拡充と人口の流入・増大は目覚ましいものがありました。それまでの顧客を中心にした営業スタイル違った新しい飲食店が数多く現れたことが想像できます。それが酒と一緒にうどんのような簡単な食事を出したり、味噌も一緒に販売するようなお店だったと研究者は考えているようです。どちらにしても背景には、都市の膨張と都市への流入人口の増加、新たな外食産業の発展という動きが見えてきます。17世紀に入ってから突然うどん屋が現れ、普及していったのは、こんな背景があったとしておきましょう。
1うどん 『諸国道中金の草鞋』より

 元禄時代(17世紀末)に狩野清信の『金毘羅祭礼図屏風』の中にも、うどん屋の看板をかかげた店が門前町に3軒見えます。

1 金毘羅屏風の饂飩屋

1軒目は、右端です。天領の榎井方面から高松街道をやってきた頭人行列の一行が新町の鳥居をくぐったあたりです。
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風
2軒目は内町です。こちらでは包丁で、うどんを切っているようです。例の看板が掛かっています。
1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

3軒目です。これは、何をしているのでしょうか?麺棒らしき物を持っているので、うどん玉を伸ばしているのでしょうか。ここにも、うどんを伸ばす男の上には、看板がかかっています。江戸や大坂の看板が17世紀初めの金毘羅大権現の門前町には、広まっていたことが分かります。これが讃岐で一番古い「うどん史料」になるようです。
1 うどん屋の看板jpg

ところで「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板は、江戸時代中頃になると京都でも江戸でも、姿を消してしまいます。そして地方の街道宿場などでしか見ることが出来なくなっていきます。どうしてなのでしょうか。それは又の機会に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年
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