古代からの水稲栽培の大きなポイントは、次の2点でした。
①農業用水の確保のための潅漑②肥料を施すこと
①青色 里山から小枝を刈り取ってくる②赤色 馬や人が背負って、集落に下ろしてくる③緑色 馬に踏まして、水田にすき込んでいく④紫色 灰にして散布する
古代には刈敷の草木を刈り取るのは、条里制内の耕作放棄地(年荒)や常荒田と、条里制周辺の未墾地でした。これらの土地は、荘園主などの領主の所有地ですので、農民は人山料を支払って刈り取っていたようです。
背負われてきた小枝が水田に置かれます。田に馬を放ってすき込ませます。
背負われてきた小枝が水田に置かれます。田に馬を放ってすき込ませます。
鎌倉時代の農業技術
中世になると善通寺を中心とする一円保では、農地開墾も盛んに行われ、耕作放棄地や常荒田等も耕作されるようになります。また、潅漑技術が進歩して有岡大池が作られ、水田の乾田化か進み、二毛作が行われるようにもなります。この結果、刈敷を刈るための里山がますます必要になります。領主は山の管理を厳しくして、他領の者が入山したり肥灰を他領へ持ち出すことを禁止して肥料の確保に努めるようになります。
室町時代になると領主の肥料管理権は、農民の手に移っていきます。
荘園が次第になくなり、灌漑水利等を共に管理する集落が惣村をつくるようになります。そこでは、名主を中心に刈敷を採取する野山を共同所有地とし、ルールを作って共同で使用するようになります。領主は、領民に刈敷の原料となる草木の刈取りや、更には薪の採取までも認めるようになります。その代わりに集落に対して年貢納入を求めます。こうして、一定エリア内の住民に草木の採取が認めら、それが入会権(のさん)につながっていきます。里山や山林の入会権は、中世松には出来上がっていたようです。
それでは、近世はじめの丸亀平野の場合はどうなのでしょうか?
1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割せよという指示を受けていました。そのために再検地を行っています。新しく「村切」も行って、高松藩と丸亀藩の境界を引きます。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争がに起る可能性がありました。それを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の政所の覚書の提出を求めています。各村の庄屋が確認事項を書き出し提出したものです。
仲之郡の柴草苅を行う山について松尾山 苗田村 木徳村西山 柴木苅申村 櫛無村 原田村大麻山 与北村 郡家村 西高篠村一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる一、三野郡の麻山の柴草は先年から鑑札札で子松庄が刈ることを認められている一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる寛永拾八年巳ノ十月八日
芝草刈りのための入会林を従来の通り認めるという内容です。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。
内容を見ておきましょう
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証(鑑札)で、札一枚には何匁かの支払い義務があったようです。
また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証(鑑札)で、札一枚には何匁かの支払い義務があったようです。
ここからは仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことが分かります。ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものですから、この時代にはなかった呼び名です。
「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域なので、佐文の既得権があったようです。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域なので、佐文の既得権があったようです。
他の文書で「多度郡には山がないので、多度郡の者は那珂郡の山脇・新目・本目・塩入(旧仲南町)で柴草を刈ることとができる。」とされています。
以上からそれぞれの山の入会権をもつ村々を整理しておきましょう
松尾山 苗田村 木徳村西山 櫛無村 原田村大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
小松庄(五条・榎井・苗田)・佐文(鑑札なし)旧仲南町 多度郡の各村七箇村東西 那珂郡狹間山 垂水村 高篠村
各村の代表者(政所)の同意・確認の上で、青山・伊丹の引継責任者は、新しく丸亀城の藩主となる山崎甲斐守に覚書(引継書)を送っています。そこには、各村の政所の意向を受けた上で、執るべき措置が箇条書きにされています。その内容を見てみましょう
意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。一、仲郡の大麻山での草柴苅について、前々から行っていたと云う。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也寛永拾八年 伊丹播磨守巳ノ十月廿日 青山大蔵少山崎甲斐守殿
ここには引継ぎに際しての申し送り事項が書かれています。紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目は、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は同一の山なので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
ここで気がつくのが大麻山の壁のような遺構です。電波塔から東に向かうと稜線沿いに、長く塀のような遺構が続きます。これがこのときに設置された那珂郡と三野郡の境界壁ではないかというのが私の仮説です。
ここで気がつくのが大麻山の壁のような遺構です。電波塔から東に向かうと稜線沿いに、長く塀のような遺構が続きます。これがこのときに設置された那珂郡と三野郡の境界壁ではないかというのが私の仮説です。
「刈敷の山の口が開く日」という表現で、解禁日も採取場所も決まっていたようです。これは諏訪南部の刈敷指定場所
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいという指摘です。鑑札札をもって、番所でチェックを受けて大麻山には周辺の多くの農民達が入って行ったことでしょう。
このような引継ぎが行われていることは、幕府要人も、各村の農民の人会権を認めて、肥料源を確保させることは、勧農政策の重要ポイントだと、認識していたことがうかがえます。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいという指摘です。鑑札札をもって、番所でチェックを受けて大麻山には周辺の多くの農民達が入って行ったことでしょう。
このような引継ぎが行われていることは、幕府要人も、各村の農民の人会権を認めて、肥料源を確保させることは、勧農政策の重要ポイントだと、認識していたことがうかがえます。
こうしてみると丸亀平野を囲む里山は、それぞれの村々に入山権が割当てられたことが分かります。当時の人々の目からすれば、狹間山を見れば「垂水村・高篠村の山」と認識されていたのです。それぞれの山に入山権が設定されていたことを押さえておきたいと思います。
こうして、里山は春が来て新芽が芽吹く頃になると周辺の村々から農民達が入り込み、木々の枝を刈り取り、それを背負って田んぼに敷き込むことがどこでもおこなわれるようになります。そして、それが多ければ多いほど増収につながるのです。農民達は競って里山に入り、木々の枝を刈り取ったのです。多度郡の農民達の入会地は、はるか南の讃岐山脈の麓でした。朝早くに出発して、小枝を刈り取り、それを背負って暗くなった道を家路に急いだのでしょう。その際に、番所では木札を見せ、決められた銭も支払いしました。
刈敷のための小枝伐採や採集が続くとどうなるのでしょうか。
藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎が母を伴って、金毘羅詣でにやってきた時の記録を見てみましょう。道中の丸亀街道に「四国富士」(讃岐富士)が見えてきます。
「四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳変換しておくと
「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。当時は年に一度しか登ることが許されていなかったようです。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。私が気になるのは「草木不足」という事場です。お椀を伏せたような山は、どれも草木が茂っていない=裸山だ
と記します。
清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、描かれた「讃岐 象頭山遠望」です。
岡田台地からの「見返り坂」を上り下りする参拝者の向こうに象頭山(大麻山)が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
岡田台地からの「見返り坂」を上り下りする参拝者の向こうに象頭山(大麻山)が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、刈敷で「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?
歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、先ほどお話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。
そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、金毘羅大権現の鎮座する象頭山以外は丸裸のはげ山だったのかもしれません
以上をまとめておくと
①中世には田んぼに大量の小枝をすき込む刈敷が行われ肥料とされた。
②水田開発と共に大量の小枝が里山から刈られて田んぼにすき込まれて
③そのために周辺の里山は、それぞれの村の刈敷の山とされ、外部の者を排除するようになった。
④刈敷山のない多度郡の農民達は、阿讃山脈の麓まで小枝刈りに通わなければならなかった。
⑤江戸時代になって高松・丸亀藩に分割された際に、刈敷山の入会権を確認するための調書が作成された。そこには、当時の里山の入会権が記されている
⑥刈敷が長期間にわたって続くと里山も疲弊し、禿げ山化したことが旅行記や浮世絵からはうかがえる。
⑦周囲の里山が禿げ山化するなかで神域とされた象頭山は青々とした原生林の山の姿を残した。
⑧その姿が金毘羅大権現のひとつの売り物であったかもしれない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃町誌293P 山林資源