高野街道の河内国三日市宿
高野街道の河内国三日市宿は、高野山への参拝客の利用する宿場駅として繁栄してきた街です。ここには金毘羅参拝客をめぐって、紀州加太とライバル関係にあったことが残された史料からは分かります。どうして加太と三日市が対立関係になったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは 北川央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者 ことひら52 H9年です。
河内平野には、四本の高野山への参詣道があります。
まず一番東側には、京都府八幡市の石清水八幡宮を起点に枚方市に入り、生駒山脈の西山麓を南北に真っ直ぐ、交野市・寝屋川市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市と通過し、そこから藤井寺市・羽曳野市・富田林市を経て河内長野市に到るのが東高野街道です。
2番目は西高野街道で、堺市の大小路を起点に、大阪狭山市を通過し、河内長野市の長野町で東高野街道と合流します。
この東高野・西高野の二本の間に、中(上)高野・下高野の二街道があります。中高野街道は、大阪市天王寺区の四天王寺南から奈良へと向かう亀瀬越大和街道(奈良街道)の平野で分岐し、松原市・美原町・大阪狭山市を経内長野市の楠町で西高野街道と合流します。
このコースの起点である平野は、平安時代初頭に征夷大将軍として覚法法親王が久安四年(1148)六月に高野山を参詣した時に利用した道と推定され、四本の中では最も古くから高野山参詣に利用された道のようです。
最後の下高野街道は、四天王寺を起点として、天王寺区から阿倍野区・東住吉区を経て松原市に入り、堺市・美原町を通過して大阪狭山市の狭山で中高野街道に合流します。もともとは中高野街道の枝道であったと研究者は考えているようです。
河内長野市の長野町で最終的に一本となった高野街道は、紀見峠を越えて和歌山県の橋本市に入り、そこから高野山上へと向います。三日市宿(河内長野市三日市町)は、河内と紀伊との国境紀見峠から三里手前にあり、享和元年(1801)刊行の秋里離島著『河内名所図会』は、その賑いが次のように記されています。
三日市駅京師・難波よりの高野街道なり。旅舎多くありて、日の斜めなる頃より、出女の目さむるばかりに化粧して、河内島の着ものに忍ぶ染の施襴美しく、往きかふ人の袖引き、袂をとどめて、 一夜の侍女となならはしる事、むかしよりの風俗とかや)
意訳変換しておくと
京都・難波からの高野街道の途上にある。旅籠が数多く有り、日が傾き始めると、遊女達が目が覚めるほどの化粧をして、河内島の着物に忍ぶ染の帯を巻いて、往きかふ人の袖を引く。 一夜の侍女となる習いは、むかしからの風俗だという。
赤く囲まれたのが三日市町
この賑わいは大阪や京都からの高野山参りだけがもたらしたものではないことが近年明らかになってきました。
三日市には、関東・東北など東国から人たちが押しかけるようになっていたのです。伊勢参りを終えた東国の人たちは、その後に次のようなコースをめぐっているのが分かってきました。
①奈良・大坂・京都の市中見物を行い、中山道を辿る「伊勢参宮モデルルート」と、②伊勢参宮の後は一番那智山から32番谷汲山まで西国三十三ヶ所の巡礼を行ない、中山道を復路とする「伊勢 十 西国巡礼ルート」
さらに金毘羅信仰が高まる19世紀になると、これに金毘羅や安芸の宮島を加えた次のようなコースも登場するようになります。
③「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現」④「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現 + 宮島」
西国巡礼をともなうコースは、西国巡礼の途中で四国に渡り、金毘羅参詣を行います。そして、再び西国巡礼の旅に復帰するというコースを設定する必要があります。そのため四国への渡海地としては、播磨国の高砂、室津、あるいは備前国児島半島の下津丼、下村に限られていたことが分かっています。
一方、西国巡礼を行わない場合は、児島半島の下村・田ノロの他、備前の片上や、大坂から乗船するケースが多かったようです。西国巡礼をおこなうにしても、行わないにしても三日市宿を利用していたのです。そのため伊勢参りや金比羅参りが増えれば増えるほど三日市を利用する客も増えたのです。
ところが19世紀半ばになると様子が変わってきます
新たな金比羅参拝ルートが開かれるのです。それが紀州加太~阿波撫養ルートです。このルートによって三日市宿は、大きな打撃を受けるようになったようです。それを示す史料を見てみましょう
ところが19世紀半ばになると様子が変わってきます
新たな金比羅参拝ルートが開かれるのです。それが紀州加太~阿波撫養ルートです。このルートによって三日市宿は、大きな打撃を受けるようになったようです。それを示す史料を見てみましょう
嘉永五年(1852)2月16日付で、河州錦部郡三日市駅の駅役人武兵衛と庄屋五兵衛・安右衛門の二人が連名で大坂西町奉行所に次のような願いを提出しています
一、当駅之儀者過半旅籠屋井往来稼仕候而、往古から御用向相勤来候駅所二御座候、外二助成二可相成儀一切無御座候、然ル処、東国筋から伊勢参宮、夫から大和名所を廻り、紀州高野山から大坂江罷出、讃州金毘羅江参拝仕候旅人者、悉く先年から当駅ヲ通行仕候処へ、近年高野山から紀州加太浦、夫から阿州むや江新規之渡海船ノ持、四国路から金毘羅江之道法取縮メ、又当駅大坂江掛り、播州路江之本道之道法者相延し、判摺招之絵図面・道中記を新規二諸国江相弘メ、右二付、西国・中国・四国路之旅人も、金毘羅からむ・かた浦江渡り、高野山、夫から大和名所廻り・伊勢参宮仕、京・大坂江仕道、播州路から国元江罷帰り申候、右様諸国参詣仕候旅人之向者、多分新規之閑道江罷通り、高野山本道之当駅者御用通り而己二相成、実々困窮仕詰、難渋之駅所ニ成候、乍恐御憐察奉願上候、
意訳変換しておくと
三日市駅は、ほとんどの者が旅籠屋や往来稼で暮らしています。古くから駅として御用を勤め、嘆願などをしたことはありませんでした。かつては、東国からのお伊勢参りの人たちは、大和名所を廻り紀州高野山から当駅を通って大坂へ出て、讃岐金毘羅へ参拝していました。ところが近年になって、紀州加太浦と阿州撫養に新たに渡海船が開設され、撫養から金毘羅までの道のりを短く宣伝し、当駅から大坂や播州路への本道の距離を長く記した絵図面・道中記を新規に摺って諸国に広める始末です。そのため西国・中国・四国路の旅人までが、金毘羅から加太浦へ渡り、高野山から大和名所廻りや伊勢参りを行い、京・大坂を通って播州路から国元へ帰るコースを取るようになってしまいました。このように、諸国参詣の旅人が新規の閑道を利用し、高野山本道である当駅を通らないようになって、誠に困窮しております。つきましては・・・
ここからは次のようなことが分かります。
①三日市宿は、かつては東国から伊勢参りを終えた人たちが、奈良や京都の名所巡りをしたのち高野山に詣で、それから大坂に出て金毘羅参詣に向かうコースの駅として大きな賑いがあった。
②ところが、19世紀になって紀伊の加太浦から阿波国撫養へと向かう渡海船が就航し、金比羅参りの新ルートが開かれた。
③加太浦ルートの業者は、撫養と金比羅間の距離を実際より短く記し、逆に三日市コースを実際の距離よりも長く刷り込んだ絵図・案内記を使って、全国に宣伝し、利用客を拡大した。そのため三日市を利用する旅行者が激減し、大きな打撃を受けている。
ここからも三日市ルートが本道で、これに後から加太ー撫養コースが新規参入してきたことが分かります。無料で配布されたという絵地図を見てみましょう
「高野山より紀州加田越四國札所本道筋並二讃州金毘羅近道順路」です。高野山から紀州加太からの金毘羅への参拝案内で「近道順路」と記されています。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。
この地図の特徴は、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田(加太)」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
確かに、この地図を見ると山陽道を進むよりも撫養からの四国道を進んだ方が近そうです。また、風待ち船待ちで欠航や大幅な遅れのあった大阪からの金毘羅船よりも。加太ー撫養間の航路の方が短く、船酔いを怖れる人たちにとっては安心できたかも知れません。
確かに、この地図を見ると山陽道を進むよりも撫養からの四国道を進んだ方が近そうです。また、風待ち船待ちで欠航や大幅な遅れのあった大阪からの金毘羅船よりも。加太ー撫養間の航路の方が短く、船酔いを怖れる人たちにとっては安心できたかも知れません。
この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主である金屋茂兵衛です。彼や粉川寺の僧侶達のプロデュースで「加太ー撫養」振興計画が展開されていたようです。
さらに時代を経て出された「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」です。
表題から「近道」がなくなりました。「行政指導」があったのでしょうか。これも「加田(加太)」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み、法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。 屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。この絵を見ていると、四国遍路も意識していることがうかがえます。「加太=撫養」コースは、金毘羅詣でや四国遍路達によって利用されるようになっていきます。
表題から「近道」がなくなりました。「行政指導」があったのでしょうか。これも「加田(加太)」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み、法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。 屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。この絵を見ていると、四国遍路も意識していることがうかがえます。「加太=撫養」コースは、金毘羅詣でや四国遍路達によって利用されるようになっていきます。
江戸時代のも新興観光地(霊場・名勝)と、既存の観光地の旅行客の争奪戦が展開されていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 北川 央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者 ことひら52 H9年