瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2021年12月

天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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  前回までに、塩飽の信長への従属関係を示す「信長朱印状(塩飽勤番所)見てきました。今回は、もう少し広い視野で塩飽を巡る瀬戸内海の勢力関係を見ておきましょう。

最初に、塩飽と能島村上氏の関係を見ておきましょう。いつから塩飽は能島村上氏の傘下に入ったのでしょうか?
永正五年(1508)、能島村上氏は、周防の大内義興が前将軍足利義植を擁して上洛した時に海上警固役を勤めた恩賞として、次のように細川高国から塩飽島代官職を与えられています。
就今度忠節、讃岐国料所塩飽嶋代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申候、謹言
卯月十三日         高国(花押)
村上官内大夫殿
この文書からは、16世紀初頭から塩飽は能島村上氏の支配下に入っていたことが分かります。この支配が戦国後期にも続いていたことは、永禄十三年(1570)6月に、村上水軍の統率者であった村上武吉が塩飽島廻舟に宛てた次の文書から裏付けられます。

豊後の戦国大名大友宗麟の家臣本多鎮秀の上方への航行に対して「便舟之儀、不可有異乱候」と命じていること、

ほぼ同じ頃、大友宗麟が村上武吉に対して、堺港まで家臣を差し上すについて、塩飽津における公事銭徴収を免除してくれるよう依頼していること

 その後、能島村上氏は毛利氏に従うようになるので、塩飽も村上氏を通じて毛利氏の支配下にあったことになります。
「毛利氏 ― 能島村上氏 ― 塩飽衆」という関係が大きく変化するのは、元亀二年(1571)になってからです。
この年の五月に、阿波三好氏の重臣篠原長房は、阿讃の兵を率いてふたたび備中児島に侵攻します。前回と異なるのは村上武吉が、豊後の大友氏と通じて毛利氏に背いていたことです。 一方、備前の浦上氏も大友氏の支援を受けて毛利氏に対して挙兵します。次の書状は大友宗麟が、村上筑後守らに宛てたものです。
今度村上武吉被申候、至塩飽表有現形、各被顕心底之段感悦候、弥至武吉以入魂堅固之御覚悟肝要候、猶自杵越中守可申候、恐々謹言、
二月十二日           宗麟
村上筑後守殿
村上内蔵太夫殿
村上源左衛門尉殿
村上輔三郎殿
村上平右衛門尉殿
村上丹後守殿
この宗麟書状からは、村上筑後守ら村上水軍が塩飽島(本島)を拠点に、塩飽衆を率いて備前の浦賀氏を支援していたことが分かります。この時の塩飽は村上武吉の反毛利勢力の拠点の一つであったようです。
 一方、三好方の篠原長房は宇多津に在陣して、児島に侵入した阿讃軍の総指揮に当っています。長房の子長重は、元亀二年正月に、宇多津西光寺に禁制を発した文書が残っています。これは、阿讃勢の字多津集結を示すものと研究者は考えています。これをまとめておくと次のような構図になります。
 塩飽本島 大友氏方 村上水軍ー塩飽衆
 宇多津  毛利氏方 阿波三好・篠原長房 

  能島村上氏が毛利氏と争っているときに、塩飽衆は能島に水と兵糧を送り込もうとします。その時の記録が毛利藩に残されています。
態申遣候、(中略)、沖口之儀能嶋要害為合力、阿州衆岡田権左衛門塩飽者共相催、以船手水兵糧差籠候処、沼田警固井来嶋・因嶋衆懸合、敵船八端帆三艘切取、宗徒之者数十人討果之由候、相残舟之儀務司麓繋置之、(下略)
七月十七日           輝元御判
内藤彦四郎殿
其外番衆中
意訳変換しておくと
報告いたします。(中略)村上武吉の能島は要害で、なかなか攻略が出来ない。そんな中で阿州衆の岡田権左衛門と塩飽衆が、船で兵糧を運びこもうとしたのを、沼田警固や来嶋・因嶋村上水軍が見つけ、敵船・八端帆三艘を拿捕し、乗組員数十人を討果した。残舟も務司城の麓に係留した、

これは毛利方の史料だから、割り引いてみなければならないものでしょう。それにしても、一方的な敗北だったようです。ここにも前回お話ししたように、塩飽衆の性格が現れているようです。つまり塩飽船の任務は、能島に水・兵糧を搬入することで、毛利水軍と合戦するための軍事行動ではなかったのです。塩飽は水軍ではなく、輸送部隊であったことが裏付けられます。

また、この文書の「阿州衆岡田権左衛門、塩飽の者共相催し」に研究者は注目します。
塩飽船は、村上一族の者によってではなく、阿波三好氏の岡田権左衛門に率いられて、兵糧輸送に出発したと読めます。ここでは、塩飽衆が次第に阿波の篠原長房の支配下に置かれ、それが、阿波三好氏、香西氏らの強い影響下に留まることになっていったと研究者は推測します。そして、香西氏が信長に着くと、その影響下にあった塩飽も信長傘下に入っていくという道筋が見えてきます。

1565 5・19 三好義継・松永久秀ら,足利義輝を攻め殺す(言継卿記)
1567 6・- 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
1568 11・- 香西氏,阿波衆とともに,備前の児島元太の城を攻める.
       香西又五郎配下のもの,児島元太勢によって討たれる(嶋文書)
   6・- 阿波の篠原長房,讃岐国人を率いて備前で毛利側の乃美氏と戦う
   9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1569 6・- 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1570 6・15 能島の村上武吉が塩飽衆に対して,大友義鎮配下本田鎮秀の堺津への無事通  行を命じる(野間文書)
   9・- 石山本願寺の顕如が,信長に対し蜂起する(石山戦争開始)
1571 1・- 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
   5・- 篠原長房,備前児島に乱入する.
 6・1 足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡ることを請する     
   7・- 塩飽衆,阿波の岡田権左衛門に属し.伊予能島に兵粮を送るが,沼田警固衆   
       並びに来島・因島衆に襲われ船3艘・船方数十人討たれる
   8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国援助を毛利氏に要請する.
   9・17 小早川隆景が岡就栄らに,讃岐へ渡海し,攻めることを命じる        
   10・3 足利義昭が吉川元春に,阿波・讃岐を攻めることを命じる(吉川家文書)
1573 5・13 三好長治が大内郡引田に船で襲撃し、篠原長房・長重父子を討つ
   8・- 宣教師がカブラルが塩飽島で8日間滞在。この間,宿の婦人がキリシタンとなる 7・4 足利義昭,山城槇島城で織田信長に対し再度挙兵する.ついで同月18日,信 長に降伏する〔室町幕府崩壊〕
1574 10・- 三好長治が三好越後守・篠原入道らに,勝賀城の香西氏を攻めさせるが,墜とせず退く
   10・- 三好越後守・大西覚養など寒川郡昼寝城を攻めるが落とせず退く
1575 4月、 河内高屋城に拠っていた三好康長(笑岩)が信長に服従
5・13 宇多津西光寺が石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する
   5・25 備前の浦上宗景が安富盛定に書を送り,宇喜多直家との合戦の状況を伝え,協力を求める
1576 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
 5月 淡路の安宅信康が、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じらる。
7・13  毛利軍が,第一次木津川の戦いに勝利し,石山本願寺に兵粮を搬入する   
  8・29 宇多津西光寺が,石山本願寺顕如より援助の催促をうける
   この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める
1577 2・1 奈良玄蕃助が三好越後守より,鵜足郡津郷内皮古村を与えられる
   2・ 宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃される。
   3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書)
    3・  三好長治が死亡
   7・- 元吉合戦 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
   11・- 毛利氏が讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方および讃岐惣国衆と和す
1578 1        三好長治死亡後に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐ
   この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
   この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する
  11・16  第2次木津川の戦いで、織田信長の水軍が毛利水軍を破る

1575年4月に三好康長(笑岩)は信長側につきます。その後信長の意を受けて、康長(笑岩)は阿波・讃岐の諸将への懐柔工作を行い、信長に従うように勧めます。翌76年には、その誘いに応じた天霧城の香川之景や勝賀状の香西佳清は信長に服します。以後、香川之景は信長から一字を与えられて信景と名乗ります。東讃の安富氏も羽柴秀吉を通して信長に従うようになります。これらは『南海通記』に記されていることなので、そのまま信じることはできませんが、香川之景がこのごろから名乗りを信景に変えているのは事実ですから、『南海通記』のこの記事も認めておくことにします。そうすると1577年2月に、宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃されていることと辻褄は合います。信長方についた多度津の香川氏が、配下の水軍山路氏などに毛利船攻撃を命じたことがかんがえられます。その反撃として、村上水軍による信長方の船舶への「無差別攻撃」も行われるようになった可能性はあります。そのような中で信長が堺代官に命じたのが、「3・26の堺に至る塩飽船の航行保証(塩飽勤番所文書)」ということになります。
また阿波では、強硬な反信長派であった篠原長房が、1573年5月に三好長治によって討たれます。そしてその4年後の1577)3月には、その長治も亡くなってしまいます。翌78年1月に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐことになります。存保は、それ以前から信長支配下の堺にいて、その影響下にあったようです。さらに淡路の安宅信康も信長に属していたようで、天正4年5月に、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じられています。このような情勢のなかで、塩飽も信長方に強く引き付けられていったと研究者は考えています。

塩飽が信長方に引き付けられていた過程を見てきました。
しかし、注意しておきたいのは、塩飽水軍が信長の水軍に組み込まれたことを意味するものではないことです。信長の松井友閑宛の朱印状にあるように、塩飽船は塩飽と堺とのあいだを往来し、通商活動行っていました。また、塩飽衆が信長方にがついた時期を年表で見る限りは、塩飽船の軍事的輸送力を必要とするような軍事的緊張は見当たりません。塩飽船が上方と讃岐を結んで軍兵や軍事物資を輸送した様子はないようです。
 では、何のために塩飽船が堺港に出入りしていたのでしょうか?
それは主に通商のためだったとであろうと研究者は考えています。
塩飽本島笠島の年番を務めた藤井家に伝わる「塩飽島諸訳手鑑」の中の「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」には、信長の朱印状について次のように記されています。
信長様御代之時塩飽嶋中な方々材木薪万事御用御使被成候御ほうひ廻船之御朱印塩飽嶋中堺之津にて被下候其刻御取次衆宮内卿法印以御取次頂戴仕候御事
意訳変換しておくと
信長様の時代には、塩飽嶋の方々は「材木薪万事御用御使」として、木材や薪を海洋輸送して、その褒美に廻船朱印状を堺湊でいただいた。その時の取次代官が衆宮内卿法印である。

 ここでは、塩飽船が材木・薪を廻船で運んだ、その恩賞に朱印状をもらったと記されています。塩飽船が運んでいた材木・薪は、 一部は軍事用に使われたかもしれませんが、多くは「方々より」の御用に使用された商品だったと研究者は考えています。
 『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)の一年間に兵庫北関を通った船は1900隻あまり記されています。その船舶は、塩、米や麦・胡麻などの雑穀、海産物、材木、そのほか膨大な量のさまざまな物資を西日本各地の港から上方へ運んでいます。そのうち材木の量は37000余石〆で、塩の10600余石につぐ量になります。これらの品々は上方の人々の生活にとって欠かせないものでした。阿波の三好氏の上方での成長も材木輸送と販売を経済的な基盤にしていたことが知られています。
 毛利水軍が、天正四年七月に木津川の戦いで信長水軍を破ったことによって、東瀬戸内海の制海権を掌握したと云われてきました。
 その制海権は、軍事物資を石山本願寺に搬入するルートを確保したという点では、その通りかも知れません。しかし、商品輸送をも含めた上方への流通路を手中に納めたとまではいえいようです。毛利氏は赤間関・尾道・鞆など主要な港町を直轄地や一門領として支配しました。しかし、領国内の港の船だけで瀬戸内海の商品流通をカバーするのはできません。また領国を超えて毛利氏の勢力下にない備前・播磨・讃岐などの東瀬戸内海沿岸諸国の港や船まで統制して、それらを毛利氏の流通支配下におくようなことはできるはずがありません。瀬戸内海沿岸諸国の船は、今まで通り内海を往来し、上方へ商品を運んでいたはずです。塩飽船もそのなかに交じって、材木その他の品々を積んで堺港に出入していたのでしょう。
 しかし、天正四年の木津川での信長水軍の敗北以後、東瀬戸内海エリアでの反信長派水軍(村上水軍)による海賊行為が活発になったことは想像できます。信長方とみなされた船への襲撃、掠奪は、頻繁に行われたでしょう。村上方を寝返って信長方に付いた塩飽船などは、眼をつけられて狙われたでしょう。こうした情況に対して、信長政権としては、塩飽船の航行の安全を保証することが必要となり、発したのが松井友閑宛の信長朱印状であったと研究者は考えています。
この時期は、木津川の戦いで信長水軍が一時崩壊した時期です。そんな時に海賊停止を命じた信長朱印状が、どれだけ実際の効力を持ち得たかは疑問です。これに対して、国島氏は次のように指摘します。

 封建権力は自己の支配下にあるもの、あるいは支配下に入れようとするものに対して、実効性の有る無しにかかわらず、その権利や安全を保証することを宣言しなければならない。眼前の情況にとらわれてそれをためらうなら、彼の権力は支持者を失って崩壊するだろう。またその保証がいつまでも空手形のままであっても、支持者が離反して権力は衰退する。信長政権は九鬼水軍を用いて、毛利水軍・紀州一揆水軍を壊滅させたことによって、保証を現実のものとし、権力の強大さを誇示した。

  塩飽は、その後も信長の配下に在り続けたように私は思っていました。
ところが、そうではないようです。その後の史料をみると、塩飽は再び毛利氏―能島村上氏の支配下に取り込まれています。どうして信長から村上武吉側に再び、立場を変えたのでしょうか
天正七年(1579)の2月から3月にかけて、毛利氏は、信長方とみられる備前児島や姫路の商船が九州へ下るのを阻止するため、備中鞆から周防柳井・大畠に到る領海で海上封鎖を行います。
  この時、鞆の河井源左衛門尉が鞆と塩飽の間の警備を命じられています。ここからは、塩飽がこの時期には毛利氏の海上警備の一翼を担っていることが分かります。
 また1581年3月(日本暦天正九年二月)、イエズス会巡察使バァリニャーノ一行を乗せて豊後を出発した船が、バァリニャーノとの約束に反して塩飽の泊に入港します。その時の塩飽には、能島村上氏の代官と毛利氏の警吏がいて、一行の荷物を陸に引き揚げて、綱を解きこれを開こうとして騒いだと宣教師の記録にはあります。ここからは塩飽が、村上武吉の支配下にあったことが裏付けられます。
 当時の東瀬戸内海をめぐる信長と毛利氏との争いを年表で見ておきましょう。
天正6年2月、播磨の別所長治が、10月には摂津の荒木村重が、本願寺に通じて信長に背く。
天正7年9月 荒木村重が伊丹城をすてて尼崎へ移って没落
   10月 毛利氏に属していた備前の宇喜多直家が信長に降伏、
  8年1月 別所長治が羽柴秀吉の攻撃をうけて播磨三木城で滅亡
    3月、石山本願寺が信長と講和し、法主顕如は大阪を去って紀州雑賀に退く。
天正9年10月 吉川経家の守る因幡国鳥取城が羽柴秀吉の包囲を受け、経家が開城。
このような背景の中で、塩飽の信長方から毛利方への転換したことになります。毛利氏は塩飽を、どのようにして取り込んだのでしょうか
研究者が指摘するのは、天正5年間7月の毛利氏の讃岐侵攻である元吉合戦です。元吉合戦については以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
 多度郡元吉城にいた三好遠江守が、阿波三好氏に背いて毛利氏に寝返ります。これに対して阿波三好氏は配下の中讃の武将長尾・羽床氏らに元吉城攻撃を命じます。これに対して元吉城を護るために、毛利輝元は乃美宗勝らの警固衆を援軍として送り、毛利勢は多度津に上陸し、元吉城の西南摺臼山に着陣します。こうして天正五年間7月20日、毛利軍と長尾・羽床・安富・香西・田村・三好などの阿波・讃岐勢が激突し、後者が敗れ去ります。勝利した毛利軍は毛利一族の穂田元清を大将とする軍勢が派遣し、阿波・讃岐勢を威圧します。戦後の緊張関係が続く中で、鞆に亡命していたいた前将軍足利義昭が和平調停に乗りだし、毛利軍は11月には、長尾・羽床氏から人質をとって讃岐から引き揚げていきます。鞆の足利義昭の思惑は、毛利と三好を結ばせて信長に対抗させることでした。
  この合戦によって、毛利氏の勢力が讃岐におよぶことになったと研究者は考えています。
  『香川県史』はこの事情を次のように記します。
  「元吉合戦は、毛利氏の本願寺救援と瀬戸内海制海権奪回をめざす目的をもった戦いであった。讃岐を押えることにより、信長の制海権を破壊しようとしたのであった」

  讃岐を押さえると同時に、塩飽の支配を回復しようとするのは、毛利側にとっては当然の戦略です。だとすれば、塩飽は天正6年11月の第2次木津川の戦いでの毛利水軍の敗戦以前に、毛利側に取り込まれていたことになります。
 もし、そうだとすると塩飽の立場は強固に信長を支援するような立場ではなく、状況に応じての信長支援だったことが考えられます。信長からすれば「塩飽は信用ならぬもの」として猜疑心をもって塩飽の行動を見ていたことが考えられます。そのように見てくると、信長朱印状(塩飽勤番所)について、次のように解釈した橋詰茂説は妥当性をもつことになります。

塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したもの

 この解釈によれば「違乱之族」とは、密かに本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。

塩飽勤番所に保管されている信長朱印状をめぐる謎と疑問は、いろいろなことを私たちに考えさせてくれます。どちらにしても貴重な史料です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 
『香川県史2・中世』446P
山内譲著『海賊と海城・瀬戸内の戦国史』114P

   
前回は塩飽勤番所に保存されている信長朱印状は、塩飽に特権を認めたものでないという説を紹介しました。それを最初に「復習」しておきます。
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。
信長朱印状
 信長の朱印状(塩飽勤番所)
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
この文書の解釈について、通説では次のように解釈されてきました。

 堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである

瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
橋詰茂 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 

これに対して、橋詰茂氏は、次のような異論を提示しました。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すとするが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が「触れ掛り」を示す文言とはいえないこと。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、堺代官の松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権も持っていたように云うが、本来このような権限は、堺代官の持つ権限であること。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈にすぎない。
このような視点から信長の朱印状と云われる文書を、橋詰茂氏は次のように解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
この橋詰氏の「信長朱印状=塩飽特権付与説否定説」については、反論が出されています。
それを今回は見ておきましょう。テキストは「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」です。
まず他の信長発給文書との構成比較を行います。例として出されるのは、石山本願寺に味方する越前朝倉氏との対決姿勢を強めた信長が、越前と大阪のあいだの連絡を遮断するために出された文書です。
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、
四月五日           (信長朱印)
平野荘
 惣中
近江の姉川から朝倉のあいだの通行を商人も含めて、陸路・水路ともに一切禁上し、この禁令を破るものは成敗するように木下秀吉に命じています。
次の文書は、商人に紛れて本願寺に入ろうとするものがあるから、不審者は厳しく取り締るようにと細川藤孝に命じたものです。
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、
七月三日
細川兵部太輔殿
         (信長朱印)

 研究者が注目するのは、何に対して、どう取り締まれという具体的な名称が書かれていることです。これと天正五年の松井友閑宛の信長朱印状を比べて見ましょう。
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 塩飽船と石山本願寺との連絡を監視して取り締るように堺代官の友閑に命じたものであれば、秀吉や細川藤孝に命じたものとスタイルが同じになるとはずだと研究者は指摘します。文章表現や構造が違うと指摘します。つまり、秀吉や藤孝に出した命令書と松井友閑宛の書状とは性格が異なるとします。

 橋本氏は「違乱之族」を、裏切りの可能性のある塩飽衆としました。
しかし、国島氏は「塩飽船に保証された堺港出入を犯すもの」とします。つまり、反信長方を指すというのです。その理由として、前年七月に信長水軍を木津川口で破って勢いづいた毛利水軍・紀州の水軍は、堺港に出入りする塩飽船に対しても妨害行動をとりはじめます。それに対して、従来からの塩飽船の堺港出入を改めて保証し、それを妨げるものを成敗することを示す必要が生じたために出されてものとします。そして、松井友閑宛の信長未印状は、友閑によってただちに塩飽船の責任者に与えられたとします。
 この説では「違乱の族」とは、塩飽船を妨害する村上・紀伊水軍など反信長勢力を指すことになります。そしてそれを成敗するのは、堺代官ということになります。信長は、味方に付いた塩飽船の活動を保護するために、この朱印状を堺代官に出したという説です。

 この説には、次のような問題点が残ります。
 信長の松井友閑宛文書(信長朱印状)が塩飽にもたらされたのは、前回述べたように元禄13年以後のことです。元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。その時には、この朱印状があれば必ず取り上げているはずです。とすると元禄の時点では、塩飽にはなかったということになります。信長朱印状が登場してくるのは、享保になってからなのです。松井友閑宛の信長未印状は、すぐには塩飽にはもたらされていないようです。

 国島氏が反論点としてあげるのは「塩飽水軍」は軍事的に頼りになる存在だったのかということです。
信長が松井友閑宛に朱印状を発した目的は、塩飽衆を信長方に取り込むためというのがほぼ通説です。塩飽を取り込むとは、その水軍としての軍事力を取り込むことだと考えられてきました。 

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

真木信夫氏は次のように述べています。

「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。

それでは塩飽水軍の実力とは、どんなものだったのだったのでしょうか。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。

 ここからは以前にお話したように「塩飽水軍はなかった、あったのは塩飽廻船だった」と、研究者は考えていることが分かります。塩飽の水軍力は期待できるものではなかったようです。そうだとすると、
信長は「塩飽船を用いて安芸門徒の流通路の壊滅をはかり、そして塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはか」ることが期待できたかと問われると、「?」が漂います。

第一次木津川口の戦い - Wikipedia
第一次木津川の戦い 村上水軍の勝利で本願寺に兵粮輸送成功

 塩飽が信長方に寝返ったとされる時期は、毛利・村上水軍が織田水軍を木津川口に破って意気盛んな時期です。

そんな時期に塩飽は、村上水軍を敵にまわし、信長についたことになります。しかも海上戦闘力では、塩飽は村上水軍の足下にも及ばない存在なのです。本気で信長の命じるとおり、本願寺支援ルートの遮断を考えていたのでしょうか。ちなみに、塩飽船が村上水軍と戦ったという記録はありません。
船の戦い
信長の鉄船が登場した第2次木津川の戦い

 天正6年(1578)6月、大阪湾に新兵器の鉄船が姿を現します。
船の長さ約20m余り、幅32m、大砲三門を備えた大鉄船7隻です。伊勢の九鬼水軍に操られて、阻止しようとした紀州の門徒水軍をけ散らし、11月には木津川口で六百余艘の毛利水軍を壊減させます。この鉄船は信長の命令によって建造されたもので、天正5年の春ごろには建造が進んでいたようです。信長は毛利水軍・紀州門徒の水軍の壊減は、伊勢の九鬼水軍に担わせていたのです。
 以上からは信長は、塩飽勢に軍事的な期待はしていなかったことがうかがえます。
 信長が塩飽船に期待したのは、あくまで海上輸送ではなかったのでしょうか。村上水軍の交易船に代わって、塩飽船を重用するというものではなかったかと私は考えています。これは、備讃瀬戸から大阪湾にかけてのエリアで独占的な交易権を認められたものだった可能性があります。だからこそ、その利権に惹かれて、塩飽衆は村上武吉を裏切り、信長側についたのではないでしょうか。
 そういう意味では、「信長による塩飽水軍の軍事力取り込みという説」というのは、確かに疑問です。「信長による塩飽船への広大な市場提供」が塩飽を信長側に付けたと言い換えた方がよさそうです。

 以上、信長朱印状が塩飽に対しての行路独占を認めたものではないという新説への反論を見てきました。塩飽衆の海軍力は期待できるレベルではなかったという点には、教えられるものがあります。

以上から次のような説を、私は考えて見ました。
①信長は石山本願寺との長期戦を終わらせるには、毛利の本願寺支援ルートを遮断する必要があると考えた。
②軍事的には、九鬼水軍に鉄船造船を命じて対応させた。
③一方瀬戸内海の経済活動については、毛利配下にある村上水軍などの交易船の上方の寄港停止などの経済封鎖を行った。
④その際に、信長が交易権を与えたのが塩飽衆であった。
⑤そのため塩飽船は、村上水軍など反信長側の船舶から攻撃を受けるようになった。
⑥これに対して、信長は松井友閑宛文書(信長朱印状)で、塩飽船保護と危害を加える反信長方の船舶への成敗命令を堺代官に命じた。

⑤については命じただけで、実質的な軍事行動が行われることはありません。ただ「天下布武」を掲げる信長としては、このような形で威厳を示す必要があったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」

信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
 サーフK - 村上海賊の娘。 - Powered by LINE
ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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丸亀街道地図 公文周辺
丸亀街道 神野神社より富隈神社まで

赤ルートが金毘羅丸亀街道です。燈籠⑱⑲⑳と道標⑧⑨⑩が集まっているのが前回に見た与北の茶屋でした。ここには5mを越える大燈籠が大坂の順慶町の商人によって寄進されていました。中間地点の与北の茶屋で一服した後で、旅人たちは街道を南に歩み始めます。今の道は、明治になってから県道4号(丸亀・三好線)として整備されたものです。昔は、これよりも狭く、真っ直ぐでもなかったようです。
金毘羅丸亀街道
旧金毘羅丸公文周辺公文周辺

 街道が三叉路になって左右に分かれる真ん中に道標㉓㉔が立っています。
DSC06205
丸亀街道と大川街道の分岐点にある㉓道標(善通寺与北町)
もう少し近づいてみましょう。
DSC06206
㉓道標
左面  右 金毘羅
  左 大川剣山     道
右面 右 すぐ丸亀 
と読めます。この周辺の燈籠一覧表で、その他に何が書かれているのかを見てみましょう。
丸亀街道 公文 富隈神社の道標
        丸亀街道道標一覧表(与北・公文周辺)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

㉓道標の建立日が、明治11年11月吉日と彫られています。世話人は、地元与北山下の山口藤兵とあります。この時期になると世の中も落ち着いてきて、幹線道路や里道整備が進められるようになります。それまで屈曲していた丸亀街道が真っ直ぐになり、幅も広げられ、新たに高篠から吉野へ抜けて行く道が整備され、この地点でつながったのかもしれません。
 しかし、目的地が「大川剣山 」というのが私には気になります。どうして、「大川剣山」なのでしょうか?
 大川山は、この地点からも遠く望める丸亀平野の里からの霊山で、雨乞い信仰の山でした。周辺には、山伏の存在がうかがえ、里での宗教活動も行っていたようです。それでは剣山が到達地として書き込まれたのはどうしてでしょうか。ここからは私の仮説です。この道標を建てた人たちは、山伏関係者ではなかったと私は考えています。
 阿波の剣山が霊山として開かれたのは、以前にお話ししてように近世も半ばになってからのことです。木屋平の龍光寺や見ノ越の円福寺の山伏たちによって、行場が開かれ開山されていきます。明治になると、神仏分離によって多くの山岳宗教が衰退するのを尻目に、龍光寺や円福寺は修験道組織の再編に乗り出します。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげ教勢拡大を果たしていきます。そのような中で阿波の山伏たちは幕末から明治にかけて、箸蔵寺などと連携しながら讃岐に進出し、剣山への参拝登山を組織するようになります。こうして、彼らは箸蔵道の整備などを行う一方で、剣山への集団参拝を布教活動の一環として行うようになります。そのため伊予街道や金毘羅街道にも「箸蔵寺へ」という道標が出てくるようになります。善通寺の永井にも「はしくらじへ」へと書かれた大きな道標があります。あれは、ある意味では阿波の山伏たちの布教成就を示すものと私は考えています。そういう目で見ると、この「大川剣山」は見逃せない意味があるように私には思えてくるのです。
 さらに公文の地には、木食善住上人の活動の拠点が置かれていました。
DSC06227

周辺には、山伏の共感者たちのネットワークが形成されていました。そのようなことを背景にして、この道標を改めて見てみると、明治の頃の山伏の活動が見えてくるような気がします。

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山裾に残る丸亀街道の道標兼常夜灯

 丸亀から90丁の地点に発つ㉓道標を右手にとると、街道は如意山の裾野をたどるようになります。この辺りが古い街道跡がそのまま残っている場所になるのかも知れませんが、ルートは寸断されてよく分かりません。先ほどの道標一覧表を見ると、この周辺にあった道標は富隈神社の参道に遷されています。
 富隈神社を描いた金毘羅参詣名所図会を見ておきましょう。
丸亀街道 公文から苗田
公文の富隈神社から苗田まで(金毘羅参詣名所図会)

如意山の山裾を削るようにして付けられた街道が高篠・苗田方面に伸びています。如意山の尾根の先に鎮座するのが富隈神社です。金毘羅街道に面するように鳥居が建ち、その奧に本堂への参道階段が伸びているように見えます。山の向こう側には、式内社の櫛梨神社があります。街道沿いには、東櫛梨の産土社である大歳神社や、苗田の産土社である石井八幡が見えます。ここで私が気になるのは、やはり背景の山々です。このアングルだと後には大麻山から続く、象頭山が描かれていて欲しいところです。この山脈は象頭山には見えません。ほんまに取材旅行にきて、実際にみたんな?と突っ込みを入れたくなります。

DSC06212
丸亀街道から見上げる富隈神社
  ここからは更にデイープな話になります。
私がお気に入りの眼鏡燈籠が3基あります。
DSC05156
          眼鏡燈籠(摩尼輪灯) 善通寺東院
 ふたつは、善通寺東院の五重塔の東側にあります。ここからは、本堂が覗き見えます。

DSC05157

 足下には「岡山家中」と彫られています。最初は、岡山の人が善通寺に寄進した変わった形の眼鏡灯籠やな、くらいにしか考えていませんでした。
DSC05159

そして、眼鏡を通して見る本堂は絵になるなと、やって来る度にこの眼鏡灯籠から見る本堂を楽しんでいました。

DSC04654櫛梨神社
櫛梨神社参道に立つ眼鏡燈籠 
 ところがこれと同じものを、櫛梨神社の参道で見つけました。眼鏡から見える善通寺の五岳山を眺めていて、じわっと疑問が湧いてきました。下にはやはり「岡山家中」と彫られているのです。なんで同じものが善通寺と櫛梨神社にあるの?   この疑問はなかなか解けませんでした。善通寺や櫛梨神社を散策した時には、眼鏡燈籠の眼鏡を通してみることが、楽しみにもなってきました。
DSC04755櫛梨神社の眼鏡燈籠
眼鏡燈籠越しに見る五岳山 我拝師山
あるとき図書館から借りだした 善通寺文化財協会報のバックナンバーに、 川合信雄氏が木食善住上人について次のように述べていました。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったこと。各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたこと。上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人との交流もあり、人望も厚かったこと。そのため岡山藩の藩士達が、眼鏡灯(摩尼輪灯)2基を寄進設置したこと。

 ここからは、眼鏡灯(摩尼輪灯)3基は岡山藩の家中の中で、木食善住上人と生前に関係の深かった人たちによって送られたことが分かります。それでは摩尼輪灯は、どこに設置されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが明治になって発行された原田屋版の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」です。高灯籠の右側が公文山になります。  拡大して見ると
丸亀街道 公文眼鏡灯籠

富隈神社のすぐ下の金毘羅街道沿いに眼鏡燈籠が2基並んで描かれています。燈籠建立は上人死後の翌々年のことなので明治5年(1872)になります。ここからこの案内図は明治5年以後の発行であることも分かります。

 上人をともらう人もいなくなった頃に、県道4号線に昇格し、道整備が行われ、その邪魔になったのかもしれません。そこで、ひとつが善通寺へ、もうひとつが式内社の櫛梨神社に引き取られたと推測できます。もともとあった富隈神社に、どうして残せなかったのかと思ってしまいます。文化財の保護のあり方にも関わってくる問題なのかも知れません。摩尼輪灯の由来は解けましたが、以前のように素直に眼鏡燈籠からの景色を楽しめなくなってしまいました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
 参考文献       川合信雄   木食善住上人    善通寺文化財協会報

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  丸亀街道地図 郡家から与北まで
    丸亀街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
赤で示されたルートが金毘羅丸亀街道です。
⑩が丸亀郡家の一里屋燈籠
⑬が神野神社前の燈籠
で、前回紹介した燈籠です。⑬からすぐに県道に合流すると旧街道らしい雰囲気はなくなっていきます。ふたたび旧街道らしい静けさが味わえるのは⑱燈籠手前で県道から分かれて以後になります。
この郡家の神野神社から、まんのう町公文までの金毘羅街道のルート図を見ていて気がつくのは燈籠⑱~⑳、道標8~10と石造物モニュメントが密集する所があることです。これが与北の茶屋になるようです。今回はこの茶屋を見ていきたいと思います。
テキストは「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」です
DSC06183
  与北茶屋手前の⑱燈籠 奥に見えるのが象頭山

 与北の茶屋は、金毘羅と丸亀のちょうど中間点あたりにあります。そのため多くの参拝者がここで、休息したようです。

「金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(板元栄寿堂。江戸末期)には、「与北茶堂」①と註して入母屋造りの茶堂が描かれています。

丸亀街道案内 三軒家・郡家・与北 拡大図
さらに与北茶屋を拡大すると

 丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋8 郡家・与北・善通寺

拡大図 下真ん中に与北茶屋 
暁鐘成の「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記されています。
丸亀街道 与北・公文・高篠

意訳変換しておくと
「与北村 
村の中間に茶堂あり。当村よりの永代接待所である。金毘羅参詣の旅客はここで憩う。路の右にあり」
 丸亀街道の中間の休憩所として、利用する人が多かったようです。
もう少し、しっかりと与北の茶屋が書かれた絵図があります。

丸亀街道 与北茶屋

  手前が与北の氏神様である皇美屋(宮)神社です。その向こうに金毘羅街道が南北に通っています。街道が少し屈曲しているところに与北の茶屋があったことがこの絵図からは分かります。建物も入母屋で大きな構えで、附属の建物が何棟か見えます。立派な茶堂だったようです。茶堂の南側の街道の向こう側には寺院らしきものがありますが註には何も記されていません。現在は、この位置にはお寺はありません。また、買田池方面から俯瞰的に、東北方向を眺めた構図ですが、不思議なことに背後の山では、飯野山ではありません。この構図ならば、ばっちりと讃岐富士が描き込まれないと決まりません。実際に現場に足を運んだのか疑いたくなります。まあ、雨天で飯野山はみえなかったことにしておきます。
 絵図の左中頃にある金毘羅御供田は、髙松藩初代藩主松平頼重が金毘羅の金光院に寄進した寺領です。髙松藩の領地の一番西にあたるこの地が寺領に寄進されました。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋9与北公文g

 茶堂をとりまく様子をみましたので、それでは近づいていくことにします。

DSC06184
⑱燈籠をさらに南に丸亀街道を進むと・・・

DSC06188
丸亀街道 与北茶屋の大燈籠

   茶堂は、いまは黒住教与北教会所となっているようです。その前に、屋根よりも高い大きな灯寵が立っています。まず大きさを確認しておきます。
円形空輪直径約45㎝、高さ30㎝、
笠石 六角形で厚さ80㎝、
火袋 六角形で直径62,5㎝、高さ58㎝
受台 六角形で直径100㎝
石竿  円錐形で最大直径78㎝
石竿から空輪頂点までだけで、約3mを越える大灯龍になります。この灯龍を支える台石は、方形で五段積みで、石竿をうける上段の台石は一辺78㎝、最大の最下段の台石は一辺278、5㎝で、台石全体の高さは208㎝。台石を合わせた灯龍の高さは、546㎝の巨大な燈籠です。金毘羅街道沿いの灯龍の中で最大のものとされます。
DSC06187

 ところがこれだけ立派な燈籠なのですが、その寄進についての記録は残っていないようです。これだけ大きな燈籠を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか。灯寵に刻まれた文字情報を研究者は、次のように読み解いていきます。
①石竿に常夜灯
②台石には上段から大坂、繁栄講、
③台石側面に講元順慶町大和屋弥三郎以下約六十名の名前
④石竿側面に文政十一(1828)戊子九月吉日
丸亀街道 与北茶屋大燈籠
与北茶屋 大燈籠の寄進者一覧

ここには講元に「順慶町」とあります。
丸亀街道 与北燈籠 順慶町
        「順慶町夜見世之図」歌川広重画

「順慶町」は、現在の大阪市中央区南船場1~3丁目(旧順慶町通)のことで、新町遊郭の東口筋にあたります。この町は豊臣秀吉の城下町建設の際に、筒井順慶が屋敷を構えたところと伝えられ、その名が町名として残ったといわれるようです。江戸時代を通じて、船場の一郭で商業の町として栄えます。秋里蔽島の「摂津名所図会大坂部 四上」(寛政八年刊)には、順慶町について次のようにその繁栄振りを記します。
「順慶町の夕市は四時たへせず夕暮より万灯てらし種々の品を飾て、東は堺筋西は新橋まで尺地もなく連りける。これを見んとて往かへりて群をなし、其好に随ふて店々にこぞる。(以下略)」
意訳変換しておくと
「順慶町の夕市は、四時ころから始まり、夕暮からは万灯を照らして種々の品を飾って、東は堺筋、西は新橋まで店が隙間亡く連なる。これを見物するために、多くの人が繰り出し黒山の人だかりとなる、人々は好みの店々こぞる。(以下略)」

 順慶町にはいつの頃からか夜店が並び、その賑わいぶりには江戸から来た人も驚いたというのです。順慶町通は新町から心斎橋筋にはいる道筋にあるので、この夜店の賑わいが次第に南下し、江戸後期には戎橋まで連なる夜店でも有名で、心斎橋筋とも肩を並べるほどの繁華の町であったようです。
 講元の最初に名前があるのは大和屋弥三郎です。彼が講元となって繁栄講という金毘羅講をつくり、商売繁昌の祈願と道中安全のために、献灯したと推測できます。
 燈籠が寄進された文政11(1828)年頃は、上方一帯に金毘羅信仰の高まった時期にあたるようです。西国街道芥川宿(大阪府高槻市)の金毘羅灯寵も、建立されたのは同じ文政12年です。大阪の船場商人たちが、金毘羅信心の象徴として、その富を誇って寄進を計画したのでしょう。それは、巨大さゆえに金毘羅境内ではなく、金毘羅街道沿いの多くの人々が憩う与北茶屋に建立されたのではないでしょうか。
 大坂繁栄講の石灯寵は、旧丸亀港頭に江戸人千人講の献進した青銅製の「太助灯寵」と方を並べる存在です。一方は江戸の商人たちが、一方は大坂商人の寄進によるものです。江戸商人に負けるかという大坂商人の心意気がうかがわれるようです。

 この大燈籠は、戦争直後の南海大地震で倒壊します。
多度津街道の永井の燈籠も、南海地震によるものでした。そしてその後、長い間放置されてきました。倒壊から20年後の1966年の文化の日、金刀比羅宮図書館で大阪教育大学教授の位野木寿一氏が「金毘羅灯寵と郷土文化」という講演を行います。その中で位野木氏は、次のような事を話します。

 金毘羅灯寵の信仰と交通上の意義、特に灯寵を通じてみた各街道の役割や信仰交通圏、さらに灯龍の時代毎の変化から交通路や丸亀・多度津両港の盛衰を述べ、街道の献灯が明治十年代にいたって終末をみたこと。
 最後に文化財保護についての外国の事例をあげ、ローマやパリーでは古い遺物・遺跡に市民の愛情がそそがれ、保護していること。新しいものをつくる際も古いものとの調和を図ってつくられていることを紹介して、金毘羅灯寵についても保存に積極的な協力を関係者に求めます。

 この話を聞いた善通寺市与北町の有志たちが、この燈籠を再建し元の姿に返したのです。燈籠のそばには復元記念の碑文が建っていますが、これは地元の依頼を受けて猪木氏が書いたものです。そこには次のように記されています。

DSC06195
 金毘羅燈寵復元の碑
 本燈寵は文政十一年大阪繁栄講の寄進したもので、金毘羅街道上最大の石造灯龍として、高く信仰の光明を照らしてきた。しかるに昭和二十一年南海道沖地震のため倒壊したのを地元の有志ならびに市文化財保護委員会いたく惜しんでこれが復元に尽し、ここにその燈影を再現するにいたった。
右由来を碑に刻んでながく記念する。    位野木寿一

  この大燈籠の復元を契機に、金毘羅街道に残る燈籠や丁石などの石造物への興味や関心も少しずつ高まっていきました。そして、保存と活用をどのように勧めていくかについて行政もとりくむようになって行きました。そういう意味では、与北の大燈籠の再建は金毘羅街道ルネッサンスの始まりと云えるのかも知れません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」

    
丸亀街道地図 柞原から郡家2

骨付き鶏一角の丸戸交差点で南に転じて、丸亀市の産土神である山北八幡宮を東に眺めながら南に進むと杵原町西村の理容店の北で、道は二つに別れます。
丸亀街道 20丁 柞原町理容店前1
金毘羅丸亀街道20丁石 右が旧街道 

左側(東側)の広い道は、昭和48年頃に整備された県道で、旧街道は、右側(西側)です。こんぴら街道二十丁とあるので中府から2㎞あまりきたことになります。奧の理容店の横に、台石には「右 こんひら道」と刻まれた常夜燈がポツンと建っています。

丸亀街道 20丁 柞原町理容店前2

かつては現在地より少し北の街道沿いにあったようですが、県道整備に際にここに移されたそうです。この常夜灯に以下のような文字が刻まれています。

丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯
丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯の寄進者

ここからは、この燈籠が文久三年(1863)4月吉日に、丸亀商人の金比羅講によって建立されたことが分かります。丸亀商人たちがいくつもの金比羅講を組織していたようです。石工は、大手の泉屋が担当しています。

   ここから旧街道沿いの道がしばらく続きます。国道11号を横切って田村池の堤防のすぐ東側を抜けて行きます。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
三軒家南の三ツ角 奧に田村池と金毘羅街道が抜ける田村が見える

前回見た三軒家からの絵図に描かれていた田村村と比べて見ましょう。田村がこの金毘羅街道沿いに家並みが続いていたことが分かります。この付近から⑬燈籠のある神野神社あたりまでは、古い街道の様子が少し残っているような感じのするコースです。
 次の⑩燈籠は、高速道路をくぐってすぐの変速四叉路にあります。
伊予街道との交差点 一里屋の常夜灯兼道標
ここが高松城下を起点とする伊予街道との交差点のようです。ここは丸亀城下から一里(約4㎞)で、一里塚があったので一里屋と呼ばれています。かつては駐在所があった所に、道標を兼ねた⑩燈籠があり。竿に「北丸亀 西いよ こんそうじ ぜんつうじ 東高松 南金毘羅」と刻まれています。他にも次のようにあります。
丸亀街道 郡家一里屋の⑩燈籠
         一里屋の常夜灯兼道標の寄進者
刻まれた文字から明治七年(1874)に、丸亀の商人たちの発願で、郡家村の石工札造によって作られたものであることが分かります。明治になっても、金毘羅参拝客は増え続けます。そのため金毘羅街道の重要性は高まったようです。時代が落ち着いてきて、四国新道などの幹線道路や鉄道の登場で、次第にその役割を終えていくことになります。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋8 郡家・与北・善通寺
「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記 原田屋版」 右下に「ぐんげ」

 この旧伊予街道を越えて金毘羅街道を南に進むと、神野神社の鎮守の森が見えてきます。この森が金毘羅参詣名所図会に描かれていますので見てみましょう。

丸亀街道 神野神社、郡家八幡宮2 金毘羅参詣名所図会
丸亀街道の神野神社・郡家八幡(金毘羅参詣名所図会)

右下(西)に神野神社とあり、鳥居や本殿・拝殿が見え、廻りを松の社叢が囲んでいます。参道には松並木が金毘羅街道へと伸びていますが、雲に隠されてよく分かりません。右奥(南)に伸びていくのが金毘羅街道で、分岐点には大きな道標が見えます。街道沿いには人家が建ち並び「郡家村」と記されます。街道の反対側にも鳥居と社が見えます。「八幡宮」と「社家」の註が書かれています。この絵図を見て、私がとまどうのは「郡家八幡」のことを知らないからです。本文を読んでみましょう。
丸亀街道 神野神社、郡家八幡宮 金毘羅参詣名所図会
郡家八幡宮・神野神社(金毘羅参詣名所図会)

郡家八幡宮
郡家村にあり、村中の生土神にて、往還の右の方の社頭あり。祭日は9月13日。
神野神社
国守が象頭山御参詣の時に、当神主の館で休息しが結構で最もよく同村八幡真向にありて、往還の左にあるので地元では、皇子の社と云う。延喜式の那珂郡の二座のひとつである。
  この説明によると次のようになります。
往還の右が郡家八幡で神主の館(社館)がある方
往還の左が神野神社で、俗称が皇子神社
絵図を拡大しもう一度見ても、街道を行く人は左から右に歩いています。絵図と説明文が合いません。
丸亀街道 神野神社 八幡宮34

  グーグル地図を見ると、旧金比羅街道を挟んで宮池手前に、皇子神社はあります。これがかつての郡家八幡なのでしょうか。しかし、皇子神社は近世に宝幢寺池が作られるときに、池に沈むのをここに遷したものとされます。郡家八幡については、今の私にはよく分かりません。宿題にしておきます。

 神野神社の参道付近には「郡家の茶堂」がありました。
このあたりは、丸亀城下を出て一里余りの地点です。ここで郡家の村人から茶の接待を受け、しばし憩いの時を持ったのかもしれません。ここには、台石には「すくこんひら道」と刻まれた道標⑬を兼ねた金比羅燈籠が立っていいます。

丸亀街道 神野神社 燈籠
丸亀街道 神野神社の燈籠寄進者名
ここからは、文政13年(1830)に丸亀の商人仲間により建てられたものであることが分かります。この時の石工は泉屋です。まだ地元の石工の出番はなかったようです。
茶堂跡から200mも進むと、街道は再び県道4号線丸亀・三好線と合流します。この辺りからは象頭山が右手に大きく見え始めますが街道の姿を追うことは難しくなります。

丸亀街道 郡家・与北

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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     金毘羅参詣名所図会  1848年
     金毘羅参詣名所図会

弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。

「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」

 ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
追い風に帆を上げた金毘羅船が丸亀港に向かうシーンから始まります。
金比羅船IMG_8033

  金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。

次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
  丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 金毘羅参詣名所図会

 瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。

金毘羅参詣名所図会の本文を、見ておきましょう。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 圓(丸)亀湊

那河郡円(丸)亀湊 
讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
  意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。
 浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。

意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。
「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。

福島湛甫ができる前の船着きは土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の港で、干潮時には沖で潮待ちをしなければ上陸できませんでした。

丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の川口湊

 そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
丸亀城 福島町3
新堀湛甫が完成する前の丸亀港と福島

福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
 弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋2県デジタルアーカイブ
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋

 旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」
「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」
「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」

  丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
 丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会

  金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。

丸亀街道 中府口・三軒家
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口   
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。
中府村  
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。
三軒家  
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
  三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。

象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。
 その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
 ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。

丸亀街道地図 丸亀城周辺

 そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋6 三軒家標識

   上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

 原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋7 三軒家標識
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には
右 イヨ
左 こんぴら江
右側の標識には、
右 弘法大師 善通寺
と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
丸亀街道 田村 馬子
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
  今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
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神社の鳥居は、神域と俗界の境目に建ち、ここからは神聖で、邪悪のものは入るを禁ずといった一種の関所でもあったようです。金毘羅さんも参拝客が増えるにつれて、金毘羅門前町だけでなく、街道沿いにも建てられるようになります。
金毘羅街道鳥居一覧表2
金毘羅街道鳥居一覧表
それを一覧にしたのが上表になります。この表からは、次のようなことが分かります。
①金毘羅参拝客が増加する18世紀末から各街道沿いのスタート地点と金毘羅のゴール地点に燈籠が建立されたこと
②奉納者は地元よりも、讃岐以外の他国の人たちによって建立されたものが多いこと
③その後の道路交通事情などによって、移転された7基あること
そんな中で多度津街道の②永井鳥居は「崩壊」とあります。どうなったのでしょうか。今回は、永井鳥居の崩壊をめぐる事件を追いかけてみます。テキストは「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。

多度津街道には、3つの金毘羅鳥居が建っていたことが分かります。
多度津街道ルート上 jpg
           金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より

永井の鳥居は、三井八幡から条里制に沿って伸びる多度津街道を五岳山や象頭山を見ながら歩いていくと国道11号を越えて暫く行った所にある十字路にあります。ここは東西に伸びる伊予街道との交差点で、行き交う人が多かった所です。近代になっても、この街道が旧国道11号として整備され、基幹道路として現在の11号線が整備されるまでは使用されていました。そのため街道沿いには、病院があったりしていまでも家並みが続いています。拡大図を見てみましょう。
多度津街道ルート4三井から永井までjpg
多度津街道と永井周辺の丁石と燈籠分布 
多度津街道道標一覧2
多度津丁石一覧
 道標番号11と12が永井の鳥居と同じ所にあることが分かります。またそこに何が彫られているかも分かります。
DSC06060
永井の多度津街道と伊予街道の交差点

  多度津街道を原付バイクでツーリングしていて、永井集落の交差点にやってきました。道の両側に円柱状のものが立っています。変わった石造物だなと思って近づいてみると・・・

DSC06061
永井鳥居の石柱(東側南面)
「天下泰平」とありますが・・・鳥居がポキンと根元から折れているのです。
   DSC06069
多度津街道 永井鳥居の石柱(西側)
西側の柱には、丸い柱に多くの人たちの名前が次のように刻まれています。
発起施工
松嶋屋惣兵衛  米屋喜三右衛門  福山屋平右衛門  湊屋儀助
 一段、
草薙伝蔵(仲之町) 草薙甚蔵 松嶋屋弥兵衛 大和屋亀助 
阿波屋浅次郎 
海老屋輿助(仲之町) 三谷簡能 松本屋辨蔵 
油屋平蔵 岡山僅巾― 油屋調 麦堀爽兵衛 
 二段
嶋屋弥兵衛(浜町) 増金屋友吉 高見屋平次郎(浜町) 綿屋林蔵 木屋清兵衛  竹屋平兵衛槌屋幸吉 
 三段
中村屋源右衛門(浜町)  米屋清蔵 柏屋惣右衛門 備前屋左兵衛  土屋嘉兵衛  米屋七右衛門(若宮町)蔦屋幸吉 油屋佐右衛門
・徳次(角屋町) 吉田屋藤吉
 升屋彦兵衛・仙吉(若宮町)   唐津屋長兵衛 
ここからは、安政四年(1857)に、多度津町有志によって、建立された鳥居の柱基部であったことが分かります。
いつ折れたのでしょう? どうしてこんな形で残されているのでしょうか?
東西の柱の根元を見ると、彫られた字が地面の下に隠れされてた状態になっていることが分かります。柱が途中から折れた状態のままで維持されているのではないようです。倒壊し残された柱の一部だけをもとの位置に建て直したのだろうと最初は推測しました。

この疑問に答えてくれたのが「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。
ここには1988年9月に行った現地聞き取り調査の結果を次のように報告しています。
①戦後直後の1946年の南海大地震で永井鳥居は、東の柱が上から1/3あたりで折れて北側に倒れ、笠石や貫石も額束も倒れてくだけた。西柱は、そのまま立っていた。
②部落の世話人が金刀比羅宮に報告したところ、再建のめどもつかないので、額束石は金刀比羅宮へ納め、その他は処分してもよろしいとの通知があった。
③そこで近くの石屋に、残っていた西の柱も取りくずして処分を依頼した。
④鳥居の台座の石は2メートル平方の見事なもので、東の分は、土地改良工事の際、川底へ埋め、西の分は鳥居の石材を処分した石屋が持ち帰った。
⑤その後、付近の人たちによって、折れた柱を立て鳥居の遺蹟をつくることになった。
⑥その時、交通の便を考えて鳥居の柱の間を、今までよりも広くあけて立てた。
DSC06057
多度津街道 永井の交差点 手前が伊予街道
三井の金崎宅の庭には、このときの鳥居柱の一部が保存されているようです。「右た」とあり、これは「右たどつ」の事で、反対の面には「安政四年丁」の文字がみえます。これは安政四年丁己五月とあった柱の上の部分石になります。この柱の下の部分が、永井の西側にある柱です。この柱石は、一度三井の石屋に払下げられますが、「もったいない」と金崎氏が引き取り、自宅の裏庭に立てて、保存してきたようです。 
 DSC06054

永井鳥居の額束は、南北両面に掲げてあったようです。
南面は行書、北面はてん書の字体であったと云います。南海地震の時、鳥居は北に向って倒れたようです。そのため北の額束は砕け散りました。かろうじて南側のものは、姿をとどめます。それを永井の人たちが鳥居の石材の一部と、額束を金刀比羅宮へ運びます。永井鳥居の額束は今でも、金刀比羅宮に保管されているようです。
 聞取り調査による永井の鳥居の姿は次の通りのようです。
 西の柱 北面 左こんぴらみち
     南面 安政四年五月
     天下泰平国家安全
     当村世話人  乾 善五郎
            乾 呉 市
 乾善五郎、乾輿市氏は鳥居の立っている土地を提供した人。
 東の柱 東面 右たどつみち

 下部に発起人や献納者の名がある。
 毎年、秋祭りには、鳥居の下で金毘羅さんを拝し、獅子舞を奉納されてきたそうです。

以上をまとめておくと
①多度津街道も18世紀後半から金毘羅参拝客が増え始め、19世紀後半には起点の多度津鶴橋と、ゴールの琴平高藪口に鳥居が建立される。これらは松江や粟島の人たちの寄進によるものであった。
②多度津湛甫完成によって、多度津の町は大いに潤うようになる。そのような好況を背景に19世紀半ばに多度津の人たちによって、永井に鳥居が建立された。
③永井は多度津街道と伊予街道が交差する地点で、人通りも多く建立に相応しい場所とされた。
④ところが戦後直後の南海地震で鳥居は倒壊し、残った石柱でモニュメントが道の両側に建てられた。これが現在の永井鳥居跡になっている。
倒壊した鳥居を後世に残そうとする地元の人々の熱意で、ここに鳥居があったことが伝えられていくモニュメントとなっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」

 丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
金毘羅案内図 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 町史ことひら5絵図・写真篇には、金毘羅信仰をめぐるいろいろな絵図や写真が収められています。前回まで見てきた金毘羅案内絵図も、この中に載せられている絵図類です。これらのパターンは丸亀港に上陸して、金比羅から善通寺+四国霊場七ヶ寺巡礼」をおこなって丸亀に帰ってくるというパターンでした。そんな中にあって、毛色のかわったものがひとつ収められています。
それが、下の多度津を起点とする絵図です。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

丸亀城が右下の端で、存在感が小さいようです。そして丸亀福島湛甫や新堀を探すと・・・・ありません。丸亀城の上(西)を流れる金倉川の向こうに道隆寺、その向こうに大きく広がる市街地は多度津のようです。多度津の街並みを桜川が堀のよう囲っています。この絵図の主役は、多度津のようです。多度津から金毘羅への街道が真ん中に描かれます。多度津には、大きな港が見えます。私は、これが多度津湛甫かなと最初は思いました。しかし、右上の枠の中には「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とあります。当時の年表を見ておきましょう。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。
天保5年 1834 多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 金毘羅芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。観音堂開帳。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。
 多度津湛甫が完成するのは、1838年のことですから、この絵図が書かれた時には湛甫はまだなかったことになります。ここに書かれている港は、それ以前の桜川河口の港のようです。丸亀港の繁栄ぶりを横目で見ながら、多度津の人々が次の飛躍をうかがっていた時期です。天保年間の多度津の港と町を描いた貴重な史料になります。
 ちなみに「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とある工屋長治は、金毘羅神事の潮川神事の時に使われる祭器を作る家でもある格式のある家柄だったようです。

  全体絵図のモニュメントの完成期を見ておきましょう。
①善通寺の五重塔 天保11(1840)年落雷を受けて焼失するまで存続
②金毘羅の高灯籠 万延元(1860)年に完成なので、まだ見えず
③金比羅金堂   弘化2(1845)年完工。
③の金毘羅金堂は描かれているようです。これは、着工から30年近くかかって完成していて、瓦葺きから銅板葺への設計変更などもあり、それ以前から姿をみせていたということにしておきます。
 
 多度津町内部分を拡大して見てみましょう。
多度津絵図 桜川河口港

陣屋と市街地を結ぶ極楽橋が見えます。陣屋はかつての砂州の上に立地しています。中世は、ここが埋墓で、その管理や供養を行っていた
のが多聞院や摩尼院であることは、以前にお話ししました。ここには、高野の念仏聖などが住み着いて、阿弥陀信仰布教の拠点となっていたようです。墓地と寺院を結ぶ橋なので「極楽橋」と名付けられたのでしょう。そこに近世も終わりになって陣屋が建てられたことになります。
この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①桜川に囲まれたエリアが「市街地」化している。
②桜川の東側は田んぼが広がっている
③桜川には、極楽橋・豊津橋・鶴橋の3本の橋しかなく、桜川が防備ラインとされていたことがうかがえる。
④豊津橋から西へ伸びる道と河口から南に伸びる金毘羅街道が戦略的な要路なっている。


多度津陣屋10
多度津陣屋
多度津港は陣屋が出来る前から、桜川の河口にあって活発な交易活動を展開していたようです。 18世紀後半安永年間の多度津港の様子を、船番所報告史料は次のように記します。
「安永四(1775)年、四月四日の報告には、一月八日より二十五日までの金比羅船の入港数が「多度津川口入津 参詣船数五百十一艘・人数三千二百十四人」

 正月の17日間で「金比羅船511隻、乗船客3214人」が多度津の桜川河口の港を利用していたことが分かります。一日平均にすると30隻、190人の金比羅詣客になります。ちなみに一隻の乗船人数は平均6,3人です。以前にお話したように、18世紀後半当時は金毘羅船は小型船であったようです。
 金毘羅山名勝図会
金毘羅山名勝図会
  文政年間(1818年~31)年に、大原東野が関わって出された「金毘羅山名勝図会」には、次のように記されています。
 (上巻)又年毎の大祭は、十月十日、十一日、又、三月、六月の十日を会式という。丸亀よりも多度津よりも参詣の道中は畳を布ける如く馬、升輿の繁昌はいうもさらなり。
 (下巻)多度津湊上只極壱岐守の御陣屋有此津も亦諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなじく大都会の地にして、舟よりあがる人昼夜のわかちなし。
丸亀と同じく金毘羅詣で客で賑わう港町であることが記されて、次のような絵図も載せられています。

多度津港 桜川河口港
桜川河口の多度津港 金毘羅山名勝図会

この絵図にも桜川沿いに多くの船が係留され河口一帯が港の機能を持っていたことがうかがえます。また川沿いには蔵米館や倉庫が林立している様が見えます。桜川沿いに平行に街並みは形成されていたこともうかがえます。

19世紀に入ると、十返舎一九の弥次喜多コンビも丸亀港経由で金毘羅さんにお参りするように、金毘羅詣客が激増します。

丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀の福島湛甫と新堀湛甫

そのため丸亀藩は新たに福島湛甫を建設し、受入体制を整えます。しかし、それも30年もしないうちにオーバーユースとなり、新堀湛甫を建設します。それほど、この時期の参拝客の増加ぶりは激しかったようです。そのような繁盛ぶりを背景に金毘羅さんは三万両の資金を集めて金堂新築を行うのです。
 一方、多度津に陣屋を構えたばかりの多度津藩も、大きな投資を行います。それが多度津湛甫の建設です。建設資金は、一万両を超えるもので、この額は多度津藩の1年の予算額に相当するものでした。親藩の丸亀藩からは「不相応なことはやめとけ」と、云われますが強行します。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。 
  天保九(1838)年に完成した成したのが多度津湛甫です。9年後の弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」には、多度津湛甫がきれいに描かれています。

多度津湛甫 33
多度津湛甫 弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」

ここからは①の桜川河口の西側に堤防を伸ばし、一文字堤防などで港を囲んだ多度津湛甫の姿がよく分かります。桜川と隔てる堤防の上に船番所が設けられています。船番所は現在の多度津商工会議所付近になるようで、ここで入遊行船や上陸者を管理していたようです。新しく作られた港についてはよく分かるのですが、この絵図は多度津の街並みや、桜川河口の旧港は範囲外で知ることが出来ません。多度津の街並みについては、先ほどの絵図に頼るほかないようです。
  話が横道に逸れて今しました。もとに返って多度津港と金毘羅街道をみていくことにします。
多度津金毘羅案内図 多度津拡大

 多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。須賀金毘羅宮には、多度津旧港周辺に寄進されていた常夜燈がすべて集まられているようです。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。

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多度津本町橋
ここが現在の本町橋です。ここにはかつては、多度津街道最古の燈籠(明和六年(1796)や丁石八丁跡などが立っていたようです。
ここを右に折れ川端道を進むとすぐに鶴橋に出ます。
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多度津鶴橋
ここに弥谷道と金毘羅道に分かれる道標がありますので、ここが金毘羅道の起点と研究者は考えているようです。
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鶴橋の道標 右いやだに寺 左 こんぴら
  
鶴橋から金毘羅街道を100m程行くと次のようなモニュメントが建っていました。
①寛政六年(1794)に、雲州松江の金毘羅信者講が寄進した明神造大鳥居
②天保十一年(1840)に、芸州広島廻船方の鶴亀講寄進)の一対の燈寵
この絵図の中にも①の鶴橋の鳥居は描かれています。この鳥居は、寄進者のなかに「雷電為右衛門」等力士の名があるので雷電鳥居とも呼ばれていたようです。
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雷電鳥居 現在は桃陵公園の登坂に移転
現在は、鳥居・燈寵とも西の桃陵公園の登坂の途中に移転されています。
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雷電鳥居の東柱

東柱の寄進者氏名 松江世話人
    一 段 目
左官文三良 奥屋伝十 渡屋勘助  内崎屋六左衛門 中條正蔵  魚屋利兵衛 野自村久七 同村興三右衛門 内田屋新吉 畳屋茂助 木挽新蔵
    二 段 目
 廃屋茂吉 同 久五良 木村屋仙次郎  肥後屋喜右衛門 
自潟魚町 講 
同町石井戸講  古潭屋嘉兵衛  末次屋新三良 
田中屋次平  
高河屋彦三郎講 大芦屋次兵衛  船大工喜三八講 
坂井七良太 市川善次 川津屋善七講 津田海道講 高見亦吉 高見清二良 
    三 段 目
 乃木村甚蔵 隠部村嘉右衛門 福富村祖七 大谷村定右衛門 木挽覚三郎  筆屋祐兵衛 櫛屋平四郎 弦師屋忠右衛門 鍛治文三良講 荒嶋屋太五良 東海屋友八 木挽惣兵衛 吉田屋久兵衛  山根屋勘兵衛 張武浅吉講 久家太十 持田屋十左衛門  同 十五良 間村舞申 肝坂嘉左衛門
    四 段 目
 白潟上灘町講 寄進某 同町講中 南天神町講 湯町屋松之助講
 木挽惣兵衛講
 乃木屋伝兵衛講  古浦屋喜助講 伊予屋丁中 上灘町講中 寺町講中 
 筆屋文吉講
 灘町中組講 同町新講中 左官文吉講 名和野屋善兵衛 三
 吉屋覚兵衛 灘町講中
 福田善九郎 門脇七良左衛門
   五 段 目
 水浦屋五兵衛講  棟物屋兵吉講 三代屋伝之助講  坂井屋又右衛門講 本湯屋勝太良講  田中屋庄兵衛講 古浦屋定七講 西尾屋久助講 山本屋文吉講 和田見講中 川津屋善助 森脇屋伝 加茂屋次右衛門  木村屋藤右衛門 野波屋嘉左衛門 木挽政之助 八百屋七兵衛 八軒屋丁講 岩倉祖吉 布屋嘉兵衛
寛政の名力士「雷電為右衛門」は、鳥居の足下辺りに刻まれています。
  多度津の鶴橋から金毘羅までは、善通寺を抜けて約3里(12㎞)の距離でした。これを多度津街道と呼んでいました。この街道については、また別の機会に紹介します。
  
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  香川県歴史の道調査報告書第5集 金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年
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丸亀:金毘羅参拝図 高灯籠以後 
金毘羅案内図
金毘羅船で丸亀にやってきた参拝客は、案内絵図を手渡されます。その案内図に従って「金毘羅+四国霊場善通寺 + 七ヶ寺」巡礼を行って、再び丸亀に帰ってきて、帰路の船に乗ることが多かったことを、前回までにお話ししました。案内図には、目印となるモニュメントが描かれるのがお約束でした。新たに描かれるようになったモニュメントで、その案内図がいつごろ出版されたかもわかります。今回は絵図に描かれたモニュメントを見ながら絵図の発行年代を推測していきたいと思います。

最初に、参拝道モニュメントの完成年を押さえておきます。
天明2年 1782 粟島庄屋、高藪の鳥居寄進。
天明8年 1788 二本木銅鳥居建立。
文化元年1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九、「讃岐象頭山金毘羅詣」
天保2年 1831 金堂初重棟上げ。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永4年 1851 二本木に江戸火消組奉納の並び灯龍完成
安政元年 1854 安政地震で新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
  道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
安政2年 1855 新町に石鳥居再建。(位置が東に移動)
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政6年 1859 一の坂口の鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成
文久元年 1861 内町本陣上棟。
元治元年 1864 榎井村六条西口に鳥居建立。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。旗岡に石鳥居建立。
上の年表を、年代判定の「ものさし」にして。案内絵図の発行年代を推測してみます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
      E27「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
 この絵図で、大きな指標となるのが丸亀港のふたつの湛甫①②と、二本木周辺⑤のモニュメント群です
②に天保4年(1833)に完成した新堀が描かれ、江戸町人の寄進灯龍2基が並ぶこと
⑤に万延元年(1860)に建設された高燈籠が描かれていること。
さらに金毘羅の山上を見ると、金堂が旭社と改名されていること
ここからは、神仏分離の進んだ明治以後に発行されたものであることが分かります。年表を見ると慶應3(1867)年に、賢木門前に真鍮の鳥居建立されたという情報があります。確かに、賢木門前には鳥居があります。しかし、これが、真鍮かどうかは分かりません。また、金毘羅大権現から金刀比羅宮へと切り替えが進み、神仏分離が実質的に進められるのは、翌年の明治2年以後です。下限年代を絞り込む情報を、私は見つけることができません。絵図の発行年代は明治2年(1867)~明治5年くらいまでとしておきます。

善通寺・弥谷寺
善通寺 ないはずの五重塔が描かれる

私がこの案内図を見ていて不思議に思うのは、善通寺の五重塔です。
この塔は、戦国末期に焼け落ちてなかったものが文化元年(1804)に再建されます。ところがそれもつかのまで、天保11(1840)年には落雷で焼失します。それが再建されるのは明治の後半になってからのことです。つまり、幕末から明治前半には、善通寺の五重塔は姿を消していたはずです。ところがどの金毘羅案内図を見ても、善通寺の五重塔は描かれているのです。これをどう考えればいいのでしょうか?

233善通寺 五岳
善通寺の東院と誕生院 五重塔

  善通寺にとって五重塔は必要不可欠のアイテムなので、実際になくても描くというのが「お約束」だったのかもしれません。どちらにしても五重塔は、絵図がいつ描かれたかを知るための基準にはならないことを押さえておきます。

丸亀街道 E22 ことひら5pg
E㉒「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

これも原田屋の版で、先ほど見た明治ものと描かれているモニュメントはほとんど同じです。ところが、山上の宗教施設の註が全て異なっています。金堂や観音堂など神仏混淆時代の呼名が記されています。ということは、神仏分離前に発行されたものであることが分かります。山下のモニュメントを見てみると、次の2つが描かれています
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)
以上から、E㉒は高灯籠建立後から明治維新までの間に出されたものと分かります。

丸亀街道 E27 ことひら5pg
      E㉗「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

E㉗を先ほどのE㉒と比べて、何がなくなっているかを「引き算」してみます。
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)がありません。
・しかし、1851年に完成した並び燈籠はあります
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)もありません。
・新町の燈籠もありません。



年表を見ると分かるように、新町の燈籠は、安政元年(1854)の大地震で倒れてしまいます。そして、その翌年・安政2(1855)年に、位置を東側に移して石鳥居として建立されます。これが現在のもののようです。以上からこの案内図は、新町鳥居の建立より前で、並び灯籠完成後の間に出版されたことになります。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
      E⑳「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
最後にE⑳です
①天保4年(1833)に完成した新堀湛甫が描かれ、江戸町人の寄進灯龍も3基並ぶこと
②弘化2年(1845)に完成した金堂が描かれていること。
③万延元年(1860)に、二本木に建設される高燈籠が描かれていないこと。
④安政元年(1854)に倒壊した新町の鳥居が再建前の位置に描かれていること。
⑤二本木に嘉永4年(1851)に江戸火消組奉納の並び灯龍がなく、玉垣だけであること
以上からE⑳は、1845年~51年の間に出版されたと推測できます。しかし、金堂に関しては、完成の5年前には、銅葺き屋根は姿を見せていたので、さらに遡る可能性はあります。
高灯籠8
幕末の二本木 高灯籠建立後で二本差しの武士が見えるので幕末期

こうしてみると金堂が整備される時期にあわせて、石段や玉垣なども整備され景観が一変していきます。それが人々にアピールして、さらなる参拝客の増加を招くという結果を招きます。案内絵図を見ていても燈籠や道標などのモニュメントが急速に増えていくのも、この時期です。高灯籠の出現は、この時期に出現したモニュメントのシンボルであったと私は考えています。
丸亀街道 弥谷寺めぐり


 丸亀から善通寺や七ヶ所霊場を周遊する霊場巡りは、明治になっても変わりません。これが大きく変化していくのは、明治20年代に登場する多度津と琴平を結ぶ汽車です。汽車の登場によって、歩いての金毘羅参拝は下火になり、善通寺やそのまわりの七ヶ寺を巡礼する参拝者は激減していくようになります。金毘羅参拝と四国巡礼が次第に分離していくことになります。それ以前は、神仏混淆下で金毘羅も善通寺もおなじ金比羅詣でだったようです。
高灯籠23
明治の二本木周辺 並燈籠+鳥居+一里塚の巨木+高灯籠

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 福島湛甫と新堀湛甫が並んで見える
 
19世紀になると金比羅船で上方からやって来る参拝客が激増して、受入港の丸亀は大賑わいとなります。そのため新たに、丸亀藩では福島湛甫や新堀湛甫を建設して、参拝客の受入対応が整備されていきます。その結果、船宿や旅籠や茶屋やお土産店などが数多く立ち並ぶようになり、観光産業が港周辺には形成されていきます。
 彼らの中には、参拝客獲得の客引きのために金毘羅案内図を無料で配布する者も現れます。これは、大坂の船宿が金毘羅船の航路図を配布していたのと同じやり方です。案内図を渡しながら次のような声かけを行ったと私は想像しています。
「金毘羅大権現だけでなく、弘法大師さんお生まれの善通寺もどうぞ、さらにはお四国めぐりの七ケ所めぐりもいかがですか」
「丸亀から帰りの船も出ますので、荷物はお預かりします、お土産は途中でお買いなると荷物になりますので、船に乗る前に当店で、是非どうぞ」
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
福島湛甫と新堀湛甫

 こうして多くの金毘羅参拝者たちは、「金毘羅大権現 + 七ケ寺巡礼」(金毘羅大権現→善通寺→甲山寺→曼荼羅寺→出釈迦寺→弥谷寺→海岸寺→道隆寺→金倉寺)を周遊巡礼して、丸亀に帰ってきました。そこで、帰路の船に乗船する前に荷物を預けたお土産店で、土産を買い込みます。
こうした動きを先取りしたのが、前回紹介した丸亀の横闘平八郎です。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
金毘羅土産所の図 当時の金毘羅土産がわかる
 彼は板木を買い取り、自分で案内図などの出版を手がけるようになります。彼の金毘羅詣でなどの案内記には、丸亀・金毘羅の名物紹介したページが載せられるようになります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。観光業から出版業への進出と云えそうです。
「金毘羅御土産所」で扱っていた当時の金毘羅名物を見てみましょう
①玉藻のつと
②五しゆ漬
③小不二みそ
④あけぼの
⑤無事郎
⑥しだやうじ
⑦にとせし
⑧ちん其扇
⑨国油煙墨       油を燃やして煤を採煙し、膠、水、香料などと混ぜ合わせて造られた墨。
⑩寿上松葉酒     松葉は「ここに天の神薬を頂き、この身は天の無限の力
⑪はら薬舎
⑫五用心
⑬直に任せて
⑭あかひむ
⑮わすれ貝
 上に挙げられているお土産が一体何であるのか残念ながら私にはよく分かりません。③がみそ、⑨が墨、⑩が滋養酒のようです。それ以外にも飴、湯婆・みそ・松茸・索麺・生姜が含まれているようですが見当も付きません。ご存じの方があったら教えて下さい。
案内図の板元と土産店を経営する丸亀の横開平八郎が出版したふたつの絵図を見てみましょう。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」 (町史ことひら5)より

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」には、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、それ以後に出されたものであることが分かります。これは、前回見たように、買い求めた版木に自分の名前と一部を入れ替えただけのものです。今まで丸亀から各地への里程が記されいた左下隅の枠内には、金毘羅案内の書物9部の広告が載せられています。広告の最後には、次のように記されています。
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横関平八郎)

  ここからは横開平八郎は、房号を碧松房といったことが分かります。また先ほどの「金毘羅土産所の図」と併せると「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。丸亀の金物屋平八郎(碧松房・横関平八郎)は、金物屋から土産店、そして出版版元へと多角経営に乗り出していたことが見えてきます。

丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5
E⑬ 象頭山喩伽山両社参詣道名所旧跡絵図

E⑬も横開平八郎の刊です。
今まで絵図に比べると上下が広い印象を受けます。そして見たことのない構図です。それもそのはずです。E⑪の下に、瀬戸内海と対岸の備中が付け加えられているのです。追加された下の部分で目立つのは、丸亀対岸の児島半島の喩迦山蓮台寺です。蓮台寺では、五流修験者たちが金比羅詣で客を喩伽山に引き込むためにいろいろな営業活動が行われるようになります。そのひとつが、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないという巧みな宣伝です。このため19世紀半ばになると参拝客も増えます。そのために出されたのが「両参り」用のこの案内書E⑬のようです。喩伽山とタイアップして、観光開発をすすめる平八郎の経営姿勢がうかがえます。
 丸亀街道 E⑭ 町史ことひら5
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」標題下の板元名の欄が空白です。また、左下欄も半分が真っ白です。それ以外は、横関平八郎が版木を買って発行したE⑪と全く同じもののようです。板木が摩滅して見にくくなっています。ここからは、横関平八郎の手元にあった版木が、嶺松庵に売り渡されて出されたものがこのE⑭になるようです。版木は、売買の対象でした。横関平八郎は、「金毘羅バブル」に乗って、は派手な仕事をしていたようで、経営は長続きせずに板木を手放したようです。
丸亀街道 E⑮ 町史ことひら5
E⑮「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」

 E⑮はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」にもどりました。板元は丸亀富屋町原田屋です。左下の枠の中に、丸亀より、こんひら・ぜんつうじ・いやたに・たかまつへの里程を示し、金毘羅の3度の会式、善通寺の御影供と誕生仝の期日を示したあとに、「別二御土産物品々御座候」とあります。ここからは、原田屋も金物屋平八郎と同じように、土産物経営と絵図出版をセットで行っていたことが分かります。
E⑮では、福島湛甫は見えますが、東側に新堀湛甫がまだ姿を見せていません。新掘湛甫竣工は天保4年(1833)年なので、それ以前のものになります。この図で面白いのは、左上の伊予街道の牛屋口の上に高い山と道が書かれていることです。私は最初は伊予の石鎚山かと思いました。よく見ると阿波の箸蔵寺なのです。箸蔵寺周辺は、阿波修験者の拠点で、寺院建立後に活発な布教活動を展開します。そして喩伽山と同じように、金毘羅山の参拝客を呼び込むための広報活動も展開されます。その動きを受けて、丸亀の原田屋は、ここに箸蔵寺を書き加えたことが考えられます。金物屋平八郎は備前喩伽山、原田屋は箸蔵寺の修験者たちの影響下にあったことがうかがえます。

以上を整理しておくと
①金毘羅船就航以後、金比羅参拝者は激増し、丸亀港は上方からの人々で溢れるようになった。
②それを出迎える丸亀では、金毘羅船の船頭が船宿を営み、旅籠やお土産店などが数多く現れ観光産業を形成するようになる。
③その中のお土産店の中には、金比羅詣案内パンフレットを自分の手で発行する者も現れる。
④そこには、兼業するお土産店やタイアップする旅籠などの広告が載せられ客引き用に用いられた。⑤案内図が示す参拝ルートは、丸亀から金毘羅を往復ピストンするものではなく、善通寺 + 四国霊場七ケ寺」の巡礼を奨める者であった。
⑥当時の金毘羅参拝客の多くが「金毘羅 → 善通寺 → 甲山寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 白方の海岸寺 → 道隆寺 → 金倉寺 → 丸亀」の周遊ルートを巡っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
DSC06659
右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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      山下谷次(まんのう町)    
山下谷次像 仲南小学校(まんのう町)

まんのう町出身の国会議員・山下谷次(1872年3月30日 - 1936年6月5日)のことを調べていると、彼が金刀比羅宮が設立した明道学校の出身者であることを知りました。山下谷次は仲多度郡十郷村帆山(現在のまんのう町)の中農の四男として生まれています。決して豊かな家ではなく、父も早く亡くなったために、上の三人の兄たちは小学校卒業後は、家の農作業を手伝っていました。谷次の前にあった道は、兄たちと同じように家の仕事を手伝うことでした。ところがその道を変更するものが現れます。それが金刀比羅宮が開校させた明道学校でした。明道学校は開校当初は、特待生は授業料が無料だったのです。谷次の希望を受け止めた母親が、兄たちに説得し明道学校へ通うことになります。谷次が後に国会議員に成長して行く岐路に現れたのが明道学校だと私は考えています。そんなわけで、今回はこの明道学校について見ていくことにします。テキストは西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」です。

ペリー来航の頃には、金毘羅大権現には正風館という塾がありました。それが明治維新期には、旭昇塾と名を換えて引き継がれていったとされます。しかし、旭昇塾についての文献は殆どありません、後の『明治43年 金刀比羅宮沿革取調草稿』の中に、次のように記されているだけです。
旭昇塾
当塾ハ、宝物館西方ノ岡ノ上二当ル場所二存セシモノニシテ、瓦葺二階建ナリキ、後名称ヲ明道学校卜改メタルガ、明治二十九年廃校卜同時二取払ヒタリ、
(『金刀比羅宮史料』第七巻)
意訳変換しておくと
当塾は、宝物館西方の岡の上にあったもので、瓦葺二階の建物であった。後に名称を明道学校と改めたが、明治29年に廃校となり、同時に取払われた。 
ここから分かるのは、旭昇塾が「宝物館西方の岡の上」にあったことだけです。その教育内容なども不明です。旭昇塾は、金刀比羅宮の神職や職員などの子弟の教育機関となっていたと研究者は考えています。
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明道学校跡付近の大楠

金刀比羅宮は1878(明治11)年4月に、明治維新以来の課題であった御本宮正遷座を終えます。これで神仏分離の混乱も一段落して社内も落ち着きを見せるようになります。そのような中で、地域社会の子弟を対象とした教育機関開設の動きが出てきます。
 当時中央では、 明治10年(1877)頃から神道の大教宣布の不振や、これに続く祭神論争に対して、政府内では神道の研究・教育センターとしての学校設立を求める動きが出されていました。これを受けて明治15年(1882)には、明治天皇が有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、飯田町に皇典講究所を開学させます。これが後の國學院です。
  このような中央の動きを受けて、香川県の神道の中心センターであった金刀比羅宮でも、神道の教育機関を立ち上げる構想が出てきます。当時、旭社で行われていた定期的な神道講習会も、思うような成果は挙げられていなかったようです。神道の国民生活へ浸透の担い手となる若き指導者たちの育成が急務とされたのです。そのような中で、金刀比羅宮附属の教育機関の設立構想が膨らんでいきます。その中心となったのがすでに設立されていた「皇典学会」です。「皇典学会」の事業としては三種類(教育、談論、編修)が掲げられていました。その中で学校は「教育部の現場機関」という位置づけでした。
IMG_3935
明道学校跡
「皇典学会教育部規則」と、細則「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ておきましょう。
皇典学会教育部規則
第一条 本部ハ本会規約ノ趣旨二拠り、 私立学校ヲ設立シテ、専ラ国典ヲ講明シ、兼テ支那、欧米ノ学二渉り、子弟ヲ教育スル者トス
第二条 学校ハ、先ツ其本校ヲ讃岐国琴平山二設ケ、漸次会員、生徒増員二従ヒ各地方二設置スヘシ
第三条 琴平山二置クモノヲ単二明道学校卜称シ、其各地方二置クモノヲ明道学校某地方分校卜称ス
第四条 学校諸規則ハ別冊ヲ編シ、之ヲ詳記セリ、就テ見ルヘシ
第五条 図書館、博物館、幼稚園ヲ漸次二開設ス
第六条 図書館ハ古今内外ノ書籍ヲ蒐集シテ庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第七条 博物館ハ古今ノ器物、書画、物理、農エノ器械、動植、金石ノ見本等ヲ蒐集シ、庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第八条 幼稚園ハ、幼子女ノ薫陶スル所トス
第九条 図書館、博物館、幼稚園ノ細則ハ、開設二随テ之ヲ編製ス、
(『金刀比羅宮史料』第十九巻、
ここには、琴平に本校を置いて、その後は各地に地方分校を開設していく計画が示されています。また学校だけでなく、附属の、図書館・博物館・幼稚園などの開設計画もあったことが分かります。学校教育と社会教育を総合した教育機関という構想がうかがえます。

「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ると、明道学校の教授内容(教科目)などが分かります。
皇典学会教育部明道学校諸規則
第一編 教  則
第一章 教旨
第一条 本校ハ国典ヲ基礎トシテ普通中学科ヲ授ケ、国体ヲ講明シ事理ヲ研究シ、以テ智識ヲ発育シ道徳ヲ涵養セシムル所トス
第二条 学科ヲ分ツテ本科、予科ノニトス
第二条 本科ハ古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、記簿、書法、図画、体操トス
第四条 予科ハ就学時期ヲ失シテ、本科二入ルヘキ学カヲ有セサルモノヲ養成スルモノトシ、学科ハ之ヲ予定セス
第五条 本科、予科ノ外、別二須知科ヲ設ケ、余カヲ以テ講読セシムルコトアルベシ
第三章修行年限
第六条 終業年限ハ四ヶ年トス
第四章 学     期
第七条 学期ハ一ヶ年ヲニ期二別ケ、二月二十一日ヨリ七月廿日マテヲ前学期トシ、八月二十一日ヨリニ月二十ロマテヲ後学期トス
第八条 学級ヲ八級二別チ、毎級六ヶ月間ノ修業トス
第五章 授業 日
第九条 本校ハ左ノロヲ除クノ外、総テ授業スルモノトス
日曜日      大祭祝日
金刀比羅宮大祭日
夏期休業 七月二十一日より八月二十日まで凡川口‐11‐「「
冬期休業 十二月二十五日より一月五日まで
臨時休業ハ時二掲示スベシ
第十条 授業時数ハ一日六時トス
第二編 校  則
第一章 入  退  学
第一条 生徒ハ品行端正ニシテ、左ノニ項二適合スルモノヲ以テ、入学ヲ許ス
  第一項 小学中等科以上卒業ノ者、及十四年以上ニシテ第十五条ノ試業二合格ノモノ
  第二項 種痘又ハ天然痘ヲ為シタル者
第二条 入学期ハ毎年両度、定期二月七月試業ノ後トス、尤モ校ノ都合ニヨリ、臨時入学ヲ許スコトアルヘシ
第三条 入学期日ハ、之ヲ三十日以内二広告スヘシ
第四条 入学志願ノ者ニハ、第一号書式ノ入学願書及ヒ履歴書ヲ差出サシム
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻、)

本科には古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、簿記、圭[法、図画、体操の二十科目が設けられています。

 明道学校が開校準備を行なっていた頃、明治14年(1881)七月の文部省達『中学校教則大綱』によると、当時中学校は初等中学科四年・高等中学科二年の修業年限で、それぞれ次のような教科目を履修する規定になっていました。
初等中学科(初等科) 修身・和漢文・英語・算術・代数・幾何。地理・歴史・生物・動物・植物・物理・化学・経済・簿記・習字・図画及び唱歌・体操
高等中学科(高等科) 修身・和漢文・英語・簿記・図画及び唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学
つまり、これらの科目を開設しないと中学校とは見なされなかったのです。金刀比羅宮の経営戦略としては、神道専門学校の設立を目指すものではなく、地域に開かれた中学校を目指していましたから、文部省のカリキュラムに準じたものではなりません。そのため英語も当然入ります。
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明道学校跡からの光景
当時は香川県には公立中学校がない時代でした。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
明治十九年四月、中学校令が公布されて、一県一中学校の制に基づき、高松に置かれていた愛媛県第二中学校が廃止された。爾来、明治二十六年、香川県尋常中学校が設置されるまでの数年間、香川県に公立の中学校は全く途絶した。
この間隙を埋め、尋常中学の教育過程にのっとり、中等教育の役割を果たしたのが、私立坂出済々学館である。のち、その閉校に際し、功績を称えて香川県参事官は言う。明治十九年
「公立ノ中学校ヲ廃セシヨリ、我ガ讃ノ一国僅二琴平ノ明道学校卜微々タル一二ノ私塾」がみられる程度で、「仮令資産裕カニシテ有為ノ志ヲ懐クモノト雖モ、遠ク山海数千里ノ地ヲ践ムニアラザレバ、完全ナル小学以上ノ教科ヲ修ムル能ハズ、為メニ俊秀ノ子弟ヲシテ進修ノ念ヲ絶ツニ至ラシメタルモノ砂カラズ」、そこで坂出町の有志十数名が出資して、十九年夏、私立済々学館を設立した。(○中略)
 その後二十六年四月二十一日、
「今ヤ、時来り機熟シ、髪二県立中学校ノ設立ヲ観ル、因テ本日フトシ閉館ノ式ヲ挙ゲ、学生ヲシテ県立中学二入ラシム」
と、二年級以下の生徒六〇余名が香川県尋常中学校に編入を認められた。まさに公立中学校の代役を終えて、私立坂出済々学館は閉館した。教育熱心な有志に支えられて、中等教育の命脈は保たれていたのである。
(『香川県史』第五巻〔通史編 近代I〕、ルビ筆者)
  ここでは、私立坂出済々学館のことが主に書かれていますが、金刀比羅宮の明道学校も同じでした。香川県が愛媛県に合併され、「一県一中学校の制」で讃岐から県立中学校が姿を消した時代でもあったのです。 明道学校のカリキュラムが、当時の中学校の教育内容を意識した科目編成であることには、そんな背景もあったようです。

金刀比羅宮をめぐる動きを年表で見ておきましょう
明治14年 1881 水野秋彦、明道学校教授に任ぜられる。
明治15年 1882 古川躬行着任。
明治17年 1884 明道学校開校。
明治19年 1886 四国新道起工式。
明治20年 1887 電灯点灯。
明治22年 1889 大日本帝国水難救済会設立。琴平、丸亀間に鉄道布設。猪鼻峠新道工事完工。
明治23年 1890 久世光熙、琴陵家の養子となる。
明治25年 1892 宥常没53歳。南光利宮司となる。
明治29年 1896 明道学校廃校。善通寺に第11師団設置。
開講2年前に準備に向けて、水野秋彦を招いています。
彼の履歴書が『明道学校関係書類』の中に残っています。それを見てみましょう
(水野秋彦履歴)
                                       常陸国茨城郡笠間桂町三百五十四番地
茨城県士族
水野秋彦
嘉永二己西年十二月十三日生
当明治十六年八月二十三年九月
一 文久元年ヨリ同三年迄、新発田(しばた)藩浪士小川容斎二従テ漢学ヲ受ケ、慶応二年ヨリ明治三年迄、笠間藩賓礼教師鬼沢大海二従ヒテ皇学ヲ受ク
一 明治三年庚午十一月十五日、笠間藩史生二任シ、同四年辛木九月二日、旧藩主家従二雇ハレ、同五年壬申正月八日、笠間県学助教試補命セラル
一 明治七年二月十日、岩城国国弊中社都々古別神社権宮司に任じ、集中講義ニ補し、同年3月31日、大教院ヨリ、磐前県神道教導取締命セラレ、同八年二月二十日、依願免本官並職
一 明治十四年二月廿七日、琴平山明道教校教授二雇ハル
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻)

ここからは、嘉永二年(1849)に常陸国笠間藩医士の家に生まれで、国漢の学を修め和歌にも秀でた人物であること。維新後は笠間県学助教試補や都々古別神社権宮、警視庁四等巡査などを経て、明道学校の前身旭昇塾教授として金刀比羅宮の招きでやってきたことが分かります。明治22年(1889)11月に41歳にて病没するまで、明道学校教長(校長)として神道や国典などを担当しています。
  この他にも明道学校で教鞭を執った人物を見ておきましょう。
金刀比羅宮の禰宜であった松岡調や地元では名の知られていた黒木茂矩(しげのり)らの名前も講師陣として挙げられています。しかし、これらは国学や神学の学者です。数学や理科などの理系科目や、英語など当時求められていた文明開化をリードする科目ではありません。そのような実学の教授たちを招致するのは、大変だったようです。

 英語の教師として埼玉から原猪作という人を招くことに成功しています。
その給料は、当時の校長の俸給の倍額にあたっていたようです。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。

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明道学校跡からの眺め
伊佐庭如矢は、文政11年(1828)に松山城下の医師の三男として生まれています。
幼少の頃より学問を好み、28歳の時に私財を投じて松山城下に「老楳下塾」を開いて子弟教育にあたります。明治になると愛媛県庁吏員として、「城郭廃止令」によって取り壊そうとされていた松山城の保存を訴え、松山公園として開園させた手腕は高く評価されています。
 その後、明治16年(1883)には県立高松中学校長となりますが、さきほど見たように「一県一中学校の制」で高松中学が廃校になりリストラされたようです。それを、金刀比羅宮がスカウトします。明治19年(1886)4月に金刀比羅宮爾宜に就任し、明道学校校長も兼務しています。しかし、わずか半年余の在職の後に退職し、翌年には愛媛県道後町初代町長となっています。
こうしてみると講師陣はあまり長続きしていないようです。地方の私立中学校において、優秀な講師陣を揃えることは至難の業であったようです。

このような事業を行うための経済的な基盤は、どうだったのでしょうか?
 明治になって移動(旅行・参拝)の自由が保証されて、金毘羅参拝客は、明治になって増加したようです。参拝客たちがもたらす寄進物や奉納品はも増加します。そして、何よりの経済基盤となったのが以前にお話しした崇敬講社の全国展開です。このネットワークが張り巡らされいくにつれて、講員が増えると巨大集金マシーンとして働き始めます。
1崇敬講社加入者数 昭和16年
金刀比羅宮 崇敬講社新規加入数(明治16年)
この資金を使って、金刀比羅宮は本殿の遷宮や、明道学校などの新規事業、芸術家たちへの支援育成事業などにも積極的に取り組むことができたようです。お金の心配はしなくていい時代だったようです。鉄道や道路を新たに建設しようとする新規授業者は、資金援助をもとめて金刀比羅宮通いを行ったことが記録に残っています。
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明道学校跡付近の大楠
明治17年(1884)1月6日、旭昇塾は組織替えして、新たに地域の中等教育を担当する学校「明道学校」として開校します。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
松岡調は『年々日記』に次のように記します。
六日 ことにてる、うらヽかにて春のことし、本日ハ学舎の開業の日なれハ、とくより明道館へものセハ、康斐、俊次、生徒をつとひて、教場なる学神を斎き奉るしたくセんとて、帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置、中央に新しき檜のひもろきを置奉る、又昇降口にハ忌竹をさし、注連縄をハリ、日章のふらふを打ちがへてなびかセたるハ、開業式のさま見へたり、やう/\会幹、教師の人々出仕ありしか、 一時すきたりて副会長琴陵宥常ぬしもものセられたり、ほとなく会員もつとひたれハ、御祭式にかヽらんとす、会長深見速雄主の出仕あらねハ、宥常ぬし祭主つかうまつれけり、勝海ハ奉設長たり、まっ宥常ぬし、勝海、準吉等神雛の御前に進ミて一段拝ありて、宥常ぬしハ微音にて学神を招き本る、勝海和琴、準吉警躍つかうまつる、しハしの間に招神式ハてヽ両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒奉れり、此間奏楽あり、次に祭主祝詞を奏セリ、此祝詞ハ水野秋彦かつくりまつれると、

意訳変換しておくと
六日のことについて、うららかな春のような本日は学舎開業の日なので、明道館へ出向いてみると、康斐、俊次など生徒が集って、教場に学神を招く準備を行っていた。帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置き、中央に新しき檜のひもろきを奉る、又昇降口に忌竹をさし、注連縄を張り、日章旗を挙げてなびかせている。開業式の準備が整うと、会幹、教師などの人々が集合してきた。一間空いて副会長の琴陵宥常も現れ、会員が集合した。御祭式が始まった。会長深見速雄主は不参加であるが、宥常が祭主を務め、勝海が奉設長である。宥常、勝海、準吉などが神雛の御前に進んで一段拝して、宥常が微音で学神を招き入れる、勝海和琴、準吉警躍で仕える。しばしの間に招神式は終わり、両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒が奉れた。その間も奏楽が奏でられる。次に祭主祝詞が読み上げられる。この祝詞は水野秋彦か作成したものであり、次のようなものであった。

明道学校開業国祭学神祝詞
琴平山之山上乃。朝日之日向処。夕日之之隠処。聳立在流学校乃高楼ホ。神離起大斎奉。皇神等乃広前。畏々毛白左久。世間乃人道。天地乃物 理。種々乃技芸等波。学ホ依ヽ覚明弁久。学ホ依人修成弁支物奈利斗。皇典学会員乃議計良久波。此会な教育、編韓、談論乃二部有流其中小毛。最重美之先須弁支波。世人ホ真道乎覚良之米。真理乎明米之米。万芸乎修之牟生。教育ホ古曽有祁礼。急速ホ。其学校乎開先物叙斗。議定之事乃隋(小。今姦明治十七年云茂乃歳初乃。今日乃生日之足ロホ。明道云美名負在此学校ホ。皇典 学会 々員。教員。学生。相集大。白三神等乃厳之御前″小。礼代乃物等十。横山―置在流古典。修身通之教訓L経古人申良小。言霊之幸御国乃言語斗。横ホ書成西洋語乎。惟年左太加ホ。歌詩乃詠法1。文洪文乃作則美外。法ホ実乎測量流算術。天地之万物乃理乎。博久知得流術々乎。阿夜ホ苛久。文字書支図画画久手乃芸乎。阿夜ホ愛久。落事無久令教給比。漏事無久令学給比人。此学校乃教育乃光乎。四方ホ偏久令輝。皇典学会乃功乎。大八洲国内体広久令施給開斗。天之八平手拍上人。恐々毛白須。
以下意訳のみ
この学会の主義を見事に言い表しているものである。
祝詞が終わると、最初のように両段拝があり、祭官が北方の座に着くと、御前に進みて一拝して、西北の方に向いた座について、古事記の天地初発の段を解いてた。それが終わると堀翁が進み出て語学の大意を述べる。次に秋彦が万葉集、敏足が中庸、荘三大が日本史、俊次がリードルの始め、沢蔵が算術の主意を述べた。この時に、俊次の英語を聞いて、心なき生徒の中には、初めて聞く英語に何を言っているのか分からず、くすくすと笑ふ者もいた。このように講義も無事に終った。
 私も会長に代って、御前に進み祝文をよんだ。荘三も進み出て、答辞をよむ。これも終わると、伶人発声し、その間に直会の御酒を、祭官を始め、生徒にいたる全員に振る舞われた。(以下略)(『年々日記』明治17年 83

ここで私が気になるのは、開校式典に、会長深見速雄が出席していないことです。これをどう考えればいいのでしょうか。当時の会長深見速雄と琴綾宥常の関係が以前から気になるのです。大事な式典に欠席するのは、ある意味で異常です。名目的存在に留まり、式典などにも参加していなかったのでしょうか。それは置いておいて、式典を見ていきましょう。
①学神を神簾(ひもろぎ)に招神して神崎勝海以下の奉仕で献餃
②斎主は水野秋彦の起草になる「明道学校開業日祭学神祝詞」を奏上
③祭典の後に、明道学校教授代表による講義
 講義は、先ず松岡調が『古事記』天地初発の段を講じ、
 次に堀秀成がわが国の言語学の大意を述べ、
 次に水野秋彦が『万葉集』を講じ
  敏足が『中庸』を講じ
 伊藤荘三が『大日本史』を講じ
 中村俊次がリードル(英文講読)を行ない
 大西沢蔵が算術の主意を講ずる
などです。殊に参列者の中には中村俊次によるリードル(英文講読)の際に、「心なき者ともハ、何吏を云ならんと思へるかくづくづ笑ふあり、」との松岡調は指摘します。初めて聞く外国語の不可思議さは、ある意味ではおかしさでもあったのかもしれません。

どうして明道学校と名付けられたのでしょうか?
明治14年(1881)6月20日に校長の水野秋彦が説教講究会でで、次のように述べています。
「今日し初むる講説の会はしも、皇大御国の本教の神道を明らめ究むる会にして」「わが国の本教たる神道を明らめ究める会」

つまり、「明道」とは「神の道を明らかにする」意であったようです。

 明道学校の廃校について
明道学校の存在意味のひとつは、讃岐から中学校がなくなったことを埋めることでした。明治19年(1886)四月に施行された『中学校令』(明治19年勅令第一五号)の第六条には、次のように規定されています。
尋常中学校ハ各府県二於テ一校ヲ設置スヘキモノトス、但土地ノ状況二依り文部大臣ノ許可ヲ得テ数校ヲ設置シ、又ハ本文ノ一校ヲ設置セサルコトヲ得、(『中学校令』)

 愛媛県と併合された香川県では、県庁所在地の松山にあった「愛媛県第一中学校」のみが残され、高松にあった「愛媛県第二中学校」は、一府県一中学校の原則規定にしたがって廃止されました。そのため讃岐には公立(県立)の中学校がなくなっていたことは、先ほど見たとおりです。
明道学校は、明治19年(1886)から26年(1892)まで讃岐に公立(県立)中学校がなかったために、私立中学校として坂出の済々学館とともに存在意義があったともいえます。しかし、1896年に丸亀に丸亀中学校(分校)が建学されると、ある意味で存在意義をなくしたようです。
 しかし、金刀比羅宮の附属学校、図書館・学芸館(宝物館)は、地方での学芸奨励という面からのアプローチは当時としては注目される試みだったと云えます。最初に紹介したように、まんのう町帆山出身の山下谷次にとっては、この明道学校がなければ世に出ることもなく、国家議員になることもなかったのです。彼にとってはまさに人生のスタートを切るチャンスを与えてくれた学校だったと私は考えています。

以上をまとめておくと
①金刀比羅宮は明治10年代になって、神仏分離への対応が一段落し、崇敬講社が軌道に乗り始めると、教育事業への投資を考えるようになった。
②それは皇典学会の「教育部門の附属機関」という形で、具体的には明道学校の建学という形になった。
③そのため将来の神道指導者の要請と同時に、「一府県一中学校」の原則で讃岐に中学校がなくなったことを受けての受け皿としても機能する学校作りを目指した。
④経済的なゆとりがあったので全国から有能な教師を招こうとしたが、なかなか長く定着してくれる講師陣は少なく、英語や理系科目の教師陣の招聘には苦労したことがうかがえる。
⑤結果、金刀比羅宮の附属学校として、国学や神学には強いが上級学校に進学するための「進学指導」には手薄になり、丸亀中学が出来ると存在意味を失い廃校となった。
⑥しかし、金刀比羅宮の附属機関としての教育機関という発想は、その後にも活かされ、附属図書館や附属学芸館(宝物館)の開設につながることになり、地域文化の拠点として機能していくことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑦

参考文献
         西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」

空海の生涯は謎だらけなのですが、その中の一つが、いつ出家・得度を受けたかです。これについては、『遺告二十五ヶ条』には次のように記します。
二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一.

 遺告二十五ヶ条は、空海の言葉を記したとされてきましたので、真言宗にとっては疑うことの出来ない「聖書」でした。そのため「二十の年に及べり」から空海の得度については「二十歳得度」説がとられてきました。この説だと大学を途中で退学して、正式に出家した後に山林修行に入り、四国の山や海で修行をしたことになります。
 ところが戦後になって、「三十一歳得度説」が有力視されるようになってきました。

この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
年三十一にして得度す。
延暦廿三年入唐留学し、青龍寺恵果和尚に遇い、真言を稟け学ぶ。(中略)
化去の時、年六十三

ここには空海が31歳で得度し、延暦23年(804)に入唐したと記されています。「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」と、得度と人唐を書き分けていますので、このふたつが連続はしているが同時ではなかったとされてきました。つまり、入唐直前に得度したというのです。留学僧に選ばれ入唐するために、慌てて得度したようにも思えてきます。
 また、31歳まで得度していなかったとすると、四国での山林修行は正式の僧侶としてではなかったことになります。さらに踏み込むと、空海が仏教に正面から向かい始めたのはいつからなのかという問題にもなります。それは二十歳という早い時点ではなかったことになります。

もうひとつの問題は、空海の31歳が何年に当たるかです。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
 しかし、得度した31歳を、何年のこととするかについては、現在では延暦22(803)年説と23(804)説の2つがあります。どちらにしても、空海の出家は入唐と密接なかかわりがあるようです。今回は、空海の出家と入唐の関係を見ていくことにします。テキストは  武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の入唐留学については、次のように考えられてきました。
第16次遣唐使の第一回目は、延暦22年(803)4月16日に難波津を出帆します。ところが5日後に、瀬戸内海で暴風に遭って航行不能となります。そのため、この年の派遣はやむなく中止されます。この時には空海は乗船していなかったとされてきました。
 嵐に遭ったものは不吉だとして、渡航停止を命ぜられた留学僧の欠員補充のため、新たに選任された一人が空海だと云うのです。つまり、延暦23(804)年の第二回目の出帆に間に合わせるために「急遠あつめられた」のが空海だったという説です。
空海の出家・入唐の根本史料としては、「空海卒伝」以外に次の2つがります。
①延暦二十四年(805)九月十一日付太政官符(「延暦二十四年官符」)
②大同三年(808)六月十九日付太政官符(以下、「大同三年官符」)
今回は①の延暦24年大政官符を中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文を見ていくことにします。延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年大政官符(中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文)

□政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位
      上佐伯直道長戸口同姓真魚
右、去延暦廿二年四月七日出家□□、□
□承知、依例度之、符到奉行、
□五位下守左少丼藤原貞副 左大史正六位上武生宿爾真象
延暦廿四年九月十一日

「去る延暦廿二年四月七日出家口□」の日付は、空海卒伝の「年三十一にして得度す」の年とぴったりとあいます。つづいて、「省、宜しく承知すべし。例に依って之を度せよ。符到らば奉行せよ」とあります。この官符の趣旨は延暦二十二年(803)四月七日に出家した空海に、前例に準じて度牒を発給するよう、太政官から治部省に命じたものです。根本史料と云われる由縁です。

短い通達文ですが、それまでになかった空海についての次のような重要な情報がいくつも含まれています
①空海の本貫が讃岐多度郡方田郷であること
②空海の戸主(戸籍筆頭者)が正六位上 佐伯直道長であることで位階をもっていること
③空海の幼名が真魚であること
④延暦22年4月7日に出家したこと

この「延暦二十四年官符」が注目されるようになるまでは、空海の出家は22歳のことだとされていました。それがこの史料の出現で大きく揺さぶられることになります。旧来の立場からは偽書説も出されてきました。
空海 太政官符

この太政官符は、本物なのでしょうか?
この太政官符は、今は大和文華館に収蔵されているようです。この史料が知られるようになったのは、案外新しく戦後のことのようです。本当に本物なのでしょうか、偽書ではないのでしょうか?。研究者が、この史料をチェックして、どう評価しているのかを見ておきたいと思います。

「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
空海 太政官符2
「延暦二十四年官符」野里梅園編『梅園奇賞』所収

「延暦二十四年官符」が、はじめて紹介されたのは、文政十一年(1828)に発行された野里梅園編『梅園奇賞』二集だったようです。
太政官符 野里梅園編『梅園奇賞』二集
野里梅園編『梅園奇賞』二集
右中に「石山寺什太政官符」とあるので、石山寺に伝来したものを手本として発行されたことが分かります。しかし、それが注目を集めることはありませんでした。この官符が注目されるようになったのは、戦後になってからのようです。
ヤフオク! -「中村直勝」の落札相場・落札価格
中村直勝博士蒐集古文書

 「再発見」のきっかけとなったのは昭和35年(1960)に、中村直勝氏が蒐集した古文書を収録した『中村直勝博士蒐集古文書』が出版されたことです。刊行時の解説は、簡略なものであまり注目を集めなかったようです。この中村直勝氏が蒐集した平安末期書写の案文を「中村蒐集官符」と研究者は呼んでいるようです。こうして、同じ内容の文書が2つ現れたことになりました。
『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」と「中村蒐集官符」は、どんな関係になるのでしょうか?
『中村直勝博士蒐集古文書』の解説は、次のような簡単なものでした。
「この案文の原本と思われるものが「梅園奇賞」二集に収められており、それも同じ個所が欠字になっている」

ここからは、これが「案文」であり、「梅園奇賞」所収のものが原本と考えられていたことが分かるだけです。そのためほとんどの研究家は無視したようです。
空海 朝日選書 461 (上山春平 著) / 株式会社 wit tech / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
 この問題を本格的に考察したのは上山春平氏でした。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
「虫損その他欠損部分の形状を入念に模写しているばかりでなく、文字の形まで実に精密に模写している」
文字を忠実に写した例として、「貞嗣」を「貞副」とする点と「朝臣」を右傍らに小さく追記してある。
つまり、「中村蒐集官符」が原本で、『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」が模写であるとしたのです。上山春平の報告で、この史料は広く世に知られるようになります。そこには、空海の得度が「延暦22年4月7日に出家」と明記さています。これは、それまで真言宗が採ってきた「二十歳得度」説を否定するものです。その結果、大きな反響を呼ぶことになり、「延暦二十四年官符」=偽作説まで出てきました。

空海 太政官符2

二つの史料を比べて見て、一目で分かるのは大政官印の有無です。
『梅園奇賞』所収の官符には「太政官印」が五つ描かれています。これに対して「中村蒐集官符」には全くありません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
それを実際に見た研究者は、次のように報告しています
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

一行目 上端の字は、従来推定されているように、「太」とみなしてよい。
二行目は、通常の官符どおり一字下げで始まり、 一字目は残画から「留」とみなしてよい。
二行割注の最後、「真魚」の「真」は「魚」を墨書した上に「真」を重ね書きしている。
三行目、下端の三字は、空海の出家・入唐にかかわる、この官符のもっとも重要な箇所であるが、残念ながら判読不能というしかない。
この史料を用いる場合の問題点を、研究者は次のように挙げます
第一 この官符が正文なのか、案文なのか
第二 空海の年齢が記載されていない点。
第二 解文が付けられていない点。
第四 「延暦廿二年四月七日」は作為的な改点か否か。
第五 官符の日付・延暦二十四年九月十一日をどう理解するか。
第一は、「中村蒐集官符」は正文・案文のいずれであるのか、の問題です。
研究者は「中村蒐集官符」は案文であるとします。その理由として挙げるのが次の3点です
①まず書写されたのはいつかという問題です。かつて、藤枝晃氏は紙質とその筆跡から、延暦二十四年(805)当時の原文書であるとしました。しかし、その後は平安末期ごろに書写されたものとみています。
②二つ目は、正文であれば自分の署名は自著するはずなので、書き誤ることはありません。ところが「中村蒐集官符」では、「貞嗣」を「貞副」と書き、「朝臣」を傍書しています。正文では考えられない所があります。また、自著であれば、書体が異なっていなければならないのに、すべて一人の筆跡です。さらに、「真魚」の「真」が「魚」の上に重ね書きされている点も正文とはいえないと研究者は考えています。
③三つ目は、正文であれば「太政官印」が捺されているはずです。その痕跡すら見当たりません。このように、「中村蒐集官符」を正文とみなす要素は何一つありません。これは、案文のようです。
第二は、「延暦二十四年官符」に空海の年齢がないことです。
確かに、空海の本貫だけ記されて、年齢がないのは疑わしいといえます。しかし、この文書が備忘のための写し、すなわち案文であるとすれば、この文書を偽文書とみなす決め手とはなりえないと研究者は考えています。
第三は、解文、すなわち下の役所・被官から上申したときの文書がないことです。
確かに、この官符には解文にあたるものはありません。しかし、解文のない大政官符もいくつかあるようです。

第四は、日付の延暦24年9月11日を、どのように理解するかということです。
なぜならこの時は、空海の長安滞在中だからです。それなのに、なぜこの時期に発給されたのかという疑問、あるいは疑いです。「発見」当初は、これが最大の問題で、「偽作」とする根拠とされたようです。
  しかし、その後の研究の中で、この日付は、あまり大きな問題ではないとされるようになります。なぜなら、得度の日から二年以上遅れて度縁が発給された例がほかにもあるからです。
その例とは、最澄の度縁です。最澄は宝亀十一年(778)11月12日、近江国国分寺で得度しています。けれども、度縁が発給されたのは足かけ三年後の延暦二年(781)正月20日でした。これは官吏の事務処理の遅れ、つまり税の徴収に必要な帳簿作成の最終リミットにあわせて事務処理を行なったことによるものだったようです。空海の場合も同様のことが考えられます。この官符の発給の遅れは、私度僧のまま入唐したといった資格にかかわってのことではないこと、ましてや空海の責任でもなかったのです。現在では、事務的な手続き上の問題と考えられるようになっているようです。
以上から中村直勝氏が蒐集された平安末期書写の「延暦二十四年官符」は、信憑性の高い史料であると現在では考えられるようになっているようです。
さらに、その信憑性を高める理由として研究者が挙げるのがつぎの三点です。
第一は、「中村蒐集官符」の伝来の仕方です。この史料は単独で伝来してきました。そのため空海の伝記史料をはじめ、その他にまったく引用されていません。後世にある目的にのために偽作・改竄されていたのであれば、いろいろな所に引用され「活用」されたはずです。偽作とは、そのような目的のためにつくられるものなのですから。ところが「中村蒐集官符」には、そのような痕跡がまったくありません。「中村蒐集官符」は、空海の出家に関わる貴重な文書として、平安時代に書写されたものと研究者は考えています。
第二は正史の卒伝は、信頼できる史料に準拠して記録されたと考えられていることです。
とくに「空海卒伝」の場合、公的史料と個人的な史料の二つが使用されたと考えられます。「空海卒伝」の「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」の箇所は、公的史料が拠りどころとなったとされる所で、その公的史料とはほかでもない「延暦二十四年官符」(今はない原本)であったと研究者は考えています。
第3は、「中村蒐集官符」が書写されたころの空海の生年・没年についてです。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。

 このようにして、「空海卒伝」「中村蒐集官符」から導き出される空海出家は、延暦二十二年の四月七日です。それは「留学の末に連なれり」は単なる謙譲の修辞ではなく、やはり空海は急遽に留学僧に選任されたことを裏付けているようです。これらの史料確認の上で、研究者は次のような説を組み立てていきます。
 第一回目の遣唐使船が難波津を出帆したのが延暦二十二年四月十六日でした。
とすると、「中村蒐集官符」にいう「延暦廿二年四月七日出家入唐す」は、遣唐大使への節刀の儀が終わり、まさに出帆が秒読みに入った時点になります。留学僧として入唐する許可が出されたので、官僧の資格を満たすために、あわただしく出家の儀式をすまされたことがうかがえます。
 1回目の出港の際には、空海は乗船していなかったというのが通説ですが、研究者はそれに対して次のような異論を出します。
 空海は延暦22年(803)4月16日、難波津を進発した第一回目の遣唐使船に乗り込んでいた。最初に選任された留学僧の一人であった。よって、空海の出家得度は延暦22年(803)4月7日であり、留学僧として入唐が許可されたのは得度の9日前であって、官僧の資格を満たすためにあわただしく得度をすませ、4月16日には船上の人となって難波津をあとにした

これは、裏返すと次のような主張でもあります。
①「中村蒐集官符」は案文ではあるけれども、その記載内容は信頼するに足るものである
②したがって、空海の得度は官符の記載どおり、延暦二十二年(803)四月七日であって、延暦23年4月7日を改竄したとみなす説は成り立たない。
③官符の日付・延暦24年9月11日から、空海が私度のまま入唐したとみなす説も成り立たない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
         武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」


 幕末の開国は、文明開化をもたらしますが、一方でさまざまな感染症も入ってきます。その中でコレラ(虎列拉)はもっとも厄介なものでした。コレラは激しい下痢と嘔吐を引き起こし、脱水症状と高熱で意識不明なって、3日ほどで死にいたる病気で「三日コロリ」とと呼ばれて恐れらました。県下のコレラ患者の発生・死者数が香川県史には下表のようにまとめられています。

明治の感染症1コレラ
明治香川県のコレラ患者数推移

この表らは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した
②その死亡率は6割を超えている
 2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が勝利に終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この年の香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。コレラの罹ると三人に二人は亡くなっていたことになります。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がします。
 細菌学者コッホがコレラ菌を発見したのは1883(明治十六)年のことですから、当時は「予防治療」に打つ手がなかったようです。
どんな対応がとられたのかを見てみましょう。
 患者が発生すると、後追い的「消毒」と、避(隔離)病院への「隔離」策をとるぐらいでした。1879年の流行では、知事も感染し、3月1日から始まっていた琴平山博覧会は6月末までの予定でしたが、コレラのため、6月15日に繰り上げて閉会しています。

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 1887(明治20)年には、県は「伝染病予防規約方法書」を定め次のような指示を出しています。
①飲料水は必ず濾過器を通し、また暴飲暴食をせず、飲食物に気を付けること、
②患者発生の場合は、家族はもちろん、五人組親も直ちに組長へ、組長は戸長役場へ届け出ること、
③伝染病の懸念あるときは、届出の処置と同時に、その家の「交通遮断」(隔離)を行うこと。
 ここからは「水や生ものなどの衛生に気をつけて、早期発見と隔離に努める」というのが方針だったことがうかがえます。日本人の衛生概念の高まりはコレラ対策の中から生まれてきたとも云えそうです。
コレラ病アリ」強権的な衛生行政がもたらした監視社会 専門家「歴史繰り返すな」 | 毎日新聞
  隔離先は「避病院」と呼ばれました。
これはいつもは開院しているわけではなく、感染患者が出ると「隔離」収容するための市町村立の病舎でした。そのため施設も貧弱で、医療施設とは呼べないものもあったようです。
感染病に罹災した上に、家族全員が隔離され、周囲から差別を受けるという二次被害もあったことが当時の新聞からは分かります。
  「ハフキン式予防液」の接種が始まるのは、明治も後半になってからです。1902年(明治35)年には、香川県下では約20万人が予防接種を受けています。それでも患者数は県下で2745人、うち死亡者1784人(死亡率65%)の猛威ぶりです。期待された予防接種もあまり効果はなかったようです。
 戦後になると医療の発達や公共衛生の向上を背景に、感染病を国内から駆逐しいくことに成功します。感染病の面でも「安心安全な国」を築き上げたと思っていました。しかし今、目の前に展開されている光景をみると、それはある意味「幻想」であったようです。わたし達は、新たなウイルスと今後も向き合わなければならないことを教えてくれます。しかし、それは百年前とは同じ条件や環境ではありません。より高い医療・衛生環境を背景に立ち向かって行けます。
 わたしにできることは、対処法をよく知ること、頭を冷やすこと、フェイクニュースを流さないこと、おびえないこと、不安がらないことくらいかなと思っています。
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前回までは円珍(智証大師)を生んだ那珂郡の因支首氏の改姓申請の動きを見てきました。実は、同じ時期に空海の実家である佐伯直氏も改姓申請を行っていました。円珍の母は空海の父田公の妹ともされていて、両家は非常に近い関係にあったようです。今回は因支首氏に先行して行われていた佐伯直氏の改姓運動を見ていこうと思います。テキストは武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の家系や兄弟などを知るうえでの根本史料とされるのが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。
ここには、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら十一名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたときの記録が記されています。公的文書なので、もっとも信頼性のある史料とされています。空海の甥たちは、どのようなことを根拠に佐伯直から佐伯宿禰への改姓を政府に申請したのでしょうか。
「貞観三年記録」の全文を十の段落に分けて、見ていきましょう。

①讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

意訳変換しておくと
①多度郡の佐伯直田公の息子や甥など佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、彼らの男の貞持・貞継・葛野、豊雄、豊守、栗氏ら十一名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職に移されたこと。

ここに登場する空海の弟や甥たちを系図化したものが下図です。
1佐伯家家系
佐伯宿禰の姓を賜わった九名の名があげられています。このなかで他の史料でその実在が裏付けられるのは、空海の弟の鈴伎麻呂と甥の書博士・豊雄のふたりだけのようです。
鈴伎麻呂に付いては、『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月甲申二十二日)条に、 次のように記されています。
詔(みことの)りして曰(のたま)はく、天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと勅(おほみこと)大命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る.巡察使の検(けむ)して奏し賜へる国々の郡司等の中に、其の仕へ奉(まつ)れる状(さま)の随(したがう)に勤み誉しみなも、冠位上(あげ)賜ひ治め賜はくと。勅(おほみこと〉天皇(むめら)が大命(おほみこと)を衆(もろちろ)間き食(たま)へと宣(の)る。正六位上高向史公守、美努宿輌清貞、外正六位上久米舎人虎取、賀祐巨真柴、佐伯直鈴伎麿、久米直雄口麿に外従五位下を授く。

この史料は、天長二年(835)8月丁卯(27日)に任命され、同年十二月丁巳(十九日)各国に派遣された巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司の中から褒賞すべき者ものに外従五位下を授けたときの記録です。このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に佐伯直鈴伎麿がいます。
   松原弘宣氏は、これについて次のように記します。
この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえる。

 ここからは、この記録に出てくる佐伯直鈴伎麿は空海の弟と同一人物とし、多度郡の郡司(大領)を務めていたとします。

ここからは、空海に兄弟がいたことが分かります。
一番下の弟・真雅は、当時は天皇の護持僧侶を務めていました。真雅と空海の間には親子ほどの年の開きがあります。そのため異母兄弟だったことが考えられます。
 段落②です
②是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。

意訳変換しておくと

②この改姓・改居は、空海の甥に当たる書博士・豊雄の申し出をうけた大伴氏本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏した。

 伴(大伴)善男は、貞観三年(861)8月19日に、左京の人で散位外従五位下伴大田宿爾常雄が伴宿爾の姓を賜わったときにも、上奏の労をとっています。その時も、家記と照合して偽りなきことを証明し、勅許を得ています。その時の記録に記された善男の官位「正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫」は、この当時のものに間違いないようです。ここからは、善男が、伴(大伴)氏の当主として、各方面からの申請に便宜をはかっていたことが裏付けられます。この記述には問題がなく信頼性があるようです。
3段目です
③『書博士正六位下佐伯直豊雄の款に云はく。「先祖大伴健日連公、景行天皇の御世に、倭武命に随いて東国を平定す。功勲世を蓋い、讃岐国を賜わりて以て私宅と為す。

意訳変換しておくと

③書博士の佐伯直豊雄は申請書に次のように記している。先祖の大伴健日連は、景行天皇のときに倭武命にしたがって東国を平定し、その功勲によって讃岐国を賜わり私宅としたこと。

前半の「大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したこと」については、『日本書紀』景行天皇四〇年七月戊成(十六日)条に、次のように記されています。
天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(みことおほ)せたまひて、日本武尊に従はじむ。そして同年の条に甲斐の国の酒折宮(さかわれのみや)において、報部(ゆけひのとものを)を以て大伴連の遠祖武日に賜う。

 ここからは、大伴武日連は日本武尊の東国平定に従軍し、甲斐の国で兵士を賜わったと伝えられています。しかし、これを讃岐の佐伯直豊雄が「先祖の大伴健日連」とするのは「問題あり!」です。これは大伴氏の先祖の武勇伝であって、佐伯直の物語ではありません。この辺りに佐伯直の系譜を、大伴氏の系譜に「接ぎ木」しようとする意図が見えてきます。


4段目です
④健日連公の子、健持大連公の子、室屋大連公の第一男、御物宿爾の胤、倭胡連公は允恭天皇の御世に、始めて讃岐国造に任ぜらる。

意訳変換しておくと
④その家系は、健日連から健持大連、室屋大連、その長男の御物宿爾、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連が允恭天皇のとき讃岐国造に任ぜられた。
1佐伯氏
『伴氏系図』
「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれている
道長の父が田公になっている

佐伯家の家系を具体的に記したところです。健日連から倭胡連にいたる系譜の「健日連― 健持大連 ― 室屋大連 ― 御物宿爾」
の四代は、古代の系譜に関してはある程度信頼できるとみなされている『伴氏系図』『古屋家家譜』とも符合します。健日から御物にいたる四代は、ほぼ信じてよいと研究者は考えています。
5段目です
⑤倭胡連公は、是れ豊男等の別祖なり。孝徳天皇の御世に、国造の号は永く停止に従う。

意訳変換しておくと
倭胡連は豊男らの別祖であること、また孝徳天皇のときに国造の号は停止されたこと。

  前半の倭胡連は豊雄らの別祖であるというのは、きわめてミステリックな記述と研究者は指摘します。なぜなら、みずからの直接の先祖名を記さないで、わざわざ「別祖」と記しているからです。逆に、ここに「貞観三年記録」のからくりを解く鍵がかくされていると研究者は考えているようです。これついては、また別の機会にします。
  後半の孝徳天皇のときに国造の号が停止されたことは、史実とみなしてよいとします。
『日本書紀』巻二十五、大化二年(六四六)正月甲子(一日)条から、国造の号は大化の改新に際して廃止され、新たにおかれた郡司に優先的に任命された、と考えられているからです。それまでは、国造を務めていた名家であるという主張です。

6段目です

⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。

意訳変換しておくと

豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の両大師の功績による。しかし、空海の一族であるわれわれ田公一門は、まだ改居・改姓を賜っていない。

第六段の前半は、豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっていることです。
真持の正史に残る記述を並べると次のようになります。
承和四年(837)十月癸丑(23日)左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月己西(7日)正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年(846)七月己西(十日)従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月丁未(十六日)従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月十四日乙未 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす
同五年(863)二月十日癸卯 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和の介とす。

ここからは確かに、真持は承和四年(837)に長人らと佐伯宿禰の姓を賜わっていることが分かります。また「左京の人」とあるので、これ以前に左京に移貫していたことも分かります。同時に改姓認可されている長人の経歴をみると、前年の承和三年(836)十月己酉(十二日)条に、次のように記されています。

讃岐国の人散位佐伯直真継、同姓長人ら二姻、本居をあらためて左京六条二坊に貫附す。

真持もこのときに長人と一緒に左京に本貫が移されたようです。ちなみに、生活はすでに京で送っていた可能性が高いようです。
  正雄の経歴も正史に出てくるものを見ておきましょう。
嘉祥三年(850)七月乙酉(十日)讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月七日甲申 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
ここからは、正雄は真持よりも13年遅れて宿爾の姓を賜い、左京に移貫していることが分かります。以上から申請書の通り、本家筋の真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
  
第6段の後半は、真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるとする点です。
実恵の経歴については、この時代の信頼できる史料はないようです。道雄には、『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月己西(八日)条に、次のような卒伝があります。
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

道雄の誕生地は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海の下で真言宗を学んだことが分かります。実恵、道雄については、古来より讃岐の佐伯氏出身とされていて、信頼性はあるようです。

 実恵は承和十四年(847)十一月十三日に亡くなっていますので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居をサポートすることはできません。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっています。正雄の改姓については、支援サポートすることはできる立場にあったようです。
 とすると、真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)のことなので、こちらには東寺長者であった実恵の尽力があったと考えられます。ここからは研究者は次のように考えているようです。
A 実恵は真持一門に近い出自
B 道雄は正雄一門に近い出身
どちらにしても、佐伯道長を戸長とする佐伯一族には、いくつかの家族がいて、本家筋はすでに改姓や本貫地の移動に成功していたことが分かります。この項目は信頼できるようです。

7段目です
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。

意訳変換しておくと
⑦実恵・道雄の二人は、空海の弟子であり、田公は大僧正空海の父である。

前半の実恵・道雄が空海の弟子であったことは、間違いないので省略します。後半の「田公は空海の父」とするのは、この「貞観三年記録」だけです。

8段目です
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。

意訳変換しておくと

⑧空海の弟の大僧都真雅は、東寺長者となっているが、本家筋の実恵・道雄一門に比べると、我々田公一門への扱いは低い。

 真雅が田公一門の出身であることは、彼の卒伝からも明らかです。『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、

僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)

とあって、次のことが分かります。
①もとは佐伯直で讃岐国多度郡に住んでいたこと、
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと
また、真雅は貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となったばかりでした。この時を待っていたかのように、改姓申請はその翌年に行われています。
 後半の「実恵・道雄一門に比べるとその高下は明らかである」というのは、実恵・道雄一門の佐伯氏の人たちが、すでに佐伯宿爾への改姓と京職への移貫をなしとげていることを指しているようです。この段落も疑わしい点はないようです。

9段目です
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。

意訳変換しておくと

③空海の甥・豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえみて悲歎することが少なくない。なにとぞ本家の正雄等の例にならって、田公一門にも宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

書博士・豊雄については、この「貞観三年記録」にしか出てきません。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたとしておきましょう。
「往時をかえりみるに悲歎することが少なくない」というのは、空海の活躍に想いを馳せてのことなのでしょうか。この言葉には、当時の田公一門の人たちの想いが込められていると研究者は考えているようです。
最後の10段目です
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらずと。之を従す。

意訳変換しておくと
以上の款状の内容について、伴善男らが大伴氏の「家記」と照合した結果、系譜上に偽はなかった。よってこの申請を許可する。

  この記録は、大きく分けると次のように二段落に分けることができるようです。
A 前半の①と②は、佐伯宿禰の姓を賜わった鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続柄と、この申請について伴宿爾善男(大伴氏)が関わったこと
B 後半の③から⑩には、書博士豊雄が作成した款状、 つまり官位などを望むときに提出した願書と善男がその内容を大伴氏の「家記」と照合したこと
 「貞観三年記録」の記事の信憑性について、段落ごとに研究者は検討しています。一つ一つの記事は、大伴氏が伝えてきた伝承などにもとづくものがあったとはいえ、ほぼ信頼していいようです。

しかし、研究者にとって疑問残ることもあるようです。
第一は、佐伯連の始祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、すっぽり欠落していることです。
1佐伯氏
大伴氏系図

第二は、大伴氏の系図には、空海の父・田公が「少領」と尻付きに記されていることです。ところが「貞観三年記録」の田公には、官位は記されていません。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。
凡そ郡司には、性識清廉(しょうしきせいれん)にして、時の務(つとめ)に堪えたらむ者(ひと)を取りて、大領(だいりょう)、少領と為よ。強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に工(たくみ)ならむ者(ひと)を、主政(しゅしょう)、主帳(しゅちょう)と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。〈其れ大領、少領、才用(ざいよう)同じくは、先ず国造(こくぞう)を取れ。)

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領(郡司)であったとすれば、必ず位階を持っていたはずです。しかし、「貞観三年記録」の田公には、位階が記されていません。史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料です。そのため「貞観三年記録」にしたがって、空海の父・田公は無位無官であった、と研究者はみなします。
以上をまとめておくと、次のようになります。
①田公一門の直接の先祖をあげないで、「別祖である」とわざわざ断ってまで中央の名門であった佐伯連(宿禰)に接ぐこと、
②佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から田公までの間が、すっぽり欠落していること、
③「貞観三年記録」の倭胡連公までと田公の世代とは、直接繋がらないこと
④倭胡連公のところで系譜が接がれていること
これらの背景について、研究者は次のように考えています。
この改姓申請書は、空海の弟真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、佐伯直氏が空海一門であることを背景に、中央への進出を企て申請されたものであること。 つまり「佐伯直氏の改姓・本貫移動 申請計画」なのです。それを有利に進めるために、武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労を依頼します。さらに、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借用します。それに田公以下の世代を「接ぎ木」したのが「貞観三年記録」の佐伯系譜だったようです。
 そのために大伴氏の系図にみられるように、讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断ってまで記し、そこに「接ぎ木」しています。
 讃岐国・佐伯直氏のひと続きの家系のように記されていた系譜は、じつは倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿禰氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものだったと研究者は指摘します。
「是れ豊雄らの別祖なり」以下の歯切れの悪い文章が、この辺の事情を雄弁に物語っているようです。それでは、別の視点から「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、信頼できる部分はどこなのでしょうか。
 それは、田公以下の十一名の世代だけは、空海の近親者として信じてよい、と研究者は考えているようです。空海には、郡司として活躍する弟がいたり、中央の書博士になっている甥もいたのです。
 また、『御広伝』『大伴系図』などにみられた伊能から男足にいたる四代の人たち、「伊能直――大人直―根波都―男足―田公」の系譜も、ある程度信頼できるようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
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伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつに分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。そんな視点で、今回は『円珍系図』を見ていきたいと思います。  テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

この系図は次の三つを「接ぎ木」して、つなぎ合わせたものと研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり伊予別公系図です。
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
 最初に円珍系図(和気氏系図)の全てを載せておきます。
円珍系図冒頭部
円珍系図冒頭部2
円珍系図5
円珍系図6 忍尾
円珍系図 7 忍尾と身の間
円珍系図8 身
円珍系図9 身のあと
円珍系図3

  円珍系図は、始祖を景行天皇の皇子である武国凝別皇子に求めていたことを前回は見ました。
それでは、現実的祖先であるCの讃岐・因支首氏の始祖は誰にしているのでしょうか。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、忍尾を始祖としていたことが分かります。
円珍系図6 忍尾

忍尾は円珍系図にも出てきます。忍尾の注記には、次のように記されています。

「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」

意訳変換しておくと

この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った

 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったということのようです。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。
讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれていると研究者は指摘します。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の所伝によって系図を作った疑いがあると指摘します。
 和迩乃別命を「一」と注記し、以下、左側の行の人名に「二」、「三」、右側の行の人名に「四」、「五」、「六」と円珍自身が番号をつけています。円珍系図が作られた頃には、その順はあいまいになっていたようです。というのは、世代順を示す番号の打ち方に不自然さがあるからだと研究者は指摘します。この部分の系図自体が、世代関係の体裁を示していません。この背景として考えられる事は、前回お話しした「系図作成マニュアルのその2」のノウハウです。つまり、自分の祖先を記録や記憶で辿れるところまでたどったら、あとは別の有力な系図に「接ぎ木」という手法です。
それが今は伝わっていない『伊予別(和気)公系図』かもしれません。接ぎ木された系図には、その伊予の和気公の重要な情報が隠されていると研究者は指摘します。

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系図の伊予和気氏の部分統合版

忍尾以前の系図には、武国凝別皇子の子・水別命から始まって、神子別命、その弟の黒彦別命の代までは「別命」となっています。ところが、倭子乃別君やその弟の加祢古乃別君の兄弟以下の人名は、すべて「別君」を称しています。ここからは「別」から「君」への推移のあったことがみえてきます。地方豪族が「別」から「君」や「臣」「直」へと称号を変えたことは、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に、次のようにあることによって証明されたようです。

「其児名二己加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半二比。其児名加差披余。其児名乎獲居臣(直)

「別」から「君」への称号変化が、いつごろ行われたのでしょうか。
「別」が付いている大王を系図で見ておきましょう。
円珍系図 大王系図の別(ワケ)


「別」という称号は、上の系図のように応神から顕宗までの大王につけられています。応神の時代は、4世紀の後半で、顕宗は、5世紀の終わりごろです。そうすると、大王や皇族が「別」(和気)を称していたのはその頃だったことになります。
 熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した大刀には、次の銘文があります。
「□因下獲囲□図歯大王世」
 
この「図歯大王」は雄略天皇であるとされます。ここからは雄略天皇の時代のころから、ヤマトの王は「別」を捨てて、「大王」と称しはじめたことが分かります。
 「大王」は、「君」のうえに位置する超越的な権力をあらわしている称号です。つまり、この時期にヤマト政権が強大化して、それまでの吉備等との連合政権から突出して強大な権力を手中におさめつつあった時期だとされます。
①ヤマトの王は、「別」から「大王」へと、その称号を変えていった
②地方の豪族が、「別」から「君」へと称号を変えていった
これは、ほぼ同時進行ですすんだようです。つまり、この系図上で別を名前に付けている人物は 4世紀の後半の後半の人物だと研究者は考えています。
 ところが「別」には、もうひとつ隠された意味があるようです。
「別」は「ワケ」で「和気」なのです。
「別」から「君」へと称号改姓が進む中で、伊予国の別(和気)氏や、備前国の別氏のように、古い称号の「別」を氏の名「和気」としてのこした氏族もあったようです。ここでは、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちであることを押さえておきます。

Cの讃岐の因支首氏の系図の実在上の最も古い人物は誰なのでしょうか

円珍系図8 身

  それは系図の「子小乙上身」の「身」だと研究者は考えています。
その下の註に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは身が難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。身は7世紀後半の白村江から壬申の乱の天智帳で活躍した人物で、因支首氏では最も業績を上げた人で、始祖的な人物だったようです。
 しかし、系図が制作された9世紀後半は、二百年近く前の人で、それよりも前の人物については辿れなかったようです。つまり、身が
当寺の因支首氏系図では、たどれる最古の人物だったことになります。しかし、それでは伊予和気氏との関係を主張することができません。そこで求められるのが「現実的系譜を辿れるところまでたどって、そのあとは他家の系図や伝説的系譜に接ぎ木する」という手法です。実質的な始祖身と伊予の和気氏をつなぐものとして登場させたのが「忍尾別君」です。
 忍尾別君は「讃岐国司解」の中では、「忍尾五世孫、少初位上身苗裔」とあります。因支首氏が直接の祖先とした「架空の人物」です。

つまり、忍尾は伊予の国から讃岐にやってきて、因岐首の女を娶ったという人物です。忍尾の子が母の姓に従って因支首の姓を名乗ったという「創作・伝承」がつくられたと研究者は考えています。しかし、先ほど見たように忍尾別君は「別君」とあるので、5世紀後半から6世紀の人物です。
 一方の「身」については、 「小乙上身」とあり、その下に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。
「身」は「小乙上」という位階から7世紀後半の人物であることは先ほど見たとおりです。彼は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられたと系図には記されています。
因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。
①  忍尾別君は5世紀末から6世紀の人物で、伊予からやってきた和気氏
② 身は7世紀後半の人物で、天智朝で活躍した人物
そして忍尾から身までは三世代で結ばれています。
  実際はこのような所伝は、因岐首から和気公へ改姓のためのこじつけだったのかもしれないと研究者は考えているようです。そして、伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことです。それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  系図Cの因支首氏系図については、讃岐因支氏に関した部分で、信用がおけると研究者は考えています。

 活動年代が分かる人物をもう一度『円珍系図』で比較してみましょう。
伊予の和気公の系図部分で「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、評造や小山上の称号を持つので大化の改新後の人物であることは、先ほど見たとおりです。同時に「身」も孝徳朝(645年- 654年)の人物とされるので、両者は同時代の人物です。
ところが、「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、はるか前の世代の人物として系図に登場します。これをどう考えればいいのでしょうか?
 このような矛盾は、『和気系図』の作製者が、伊予の和気氏系図と、自己の因岐首系図をつなぐ上で、年代操作の失敗したため研究者は考えています。
両系図をつなぐ上で、この部分を省略して、因支首氏の身以前の世代の人々も省略して、和気氏系図の評造の称号をもつ宮手古別君や意伊古乃別君と、Cの部分で孝徳朝の人物とされる身を同世代の人とすればよかったのかもしれません。しかし。身以前の世代の人々は、因岐首氏の遠祖とされていた人々だったのでしょう。円珍系図』の作製者は、これらの人々を省略することに、ためらいがあったようです。そして、そのまま記したのでしょう。
  以上から円珍系図は、伊予の和気氏系図と讃岐の因支首氏系図を「接ぎ木」した際に、世代にずれができてしまいました。しかし、これを別々のものとして考えれば、Bは伊予別公系図として、Cは讃岐因岐首系図として、それぞれ正当な伝えをもつ立派な系図ともいえると研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
和気氏系図 円珍 稲木氏
      円珍の和気氏系図制作のねらいと問題点

①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

佐伯有清氏は、Bの伊予別公系図(和気氏)について次のように結論づけます。
  和気公氏たちが、いずれも景行天皇を始祖とするのは、もちろん歴史的事実であったとは考えられない。和気公氏の祖先は、古くから伊予地域において「別」を称号として勢力をふるっていた地方豪族であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


           
江戸時代後期になって西讃府史などが編集されるようになると、このデーター集めや村の歴史調査のために庄屋層が動員されたことは以前にお話ししました。そのため丸亀藩では「歴史ブーム」が起きて、寺社仏閣についての歴史や、自分の家についての由緒や歴史を探ろうとする動きが高まります。その中で、数多く作られたのが由緒書きであり系図です。こうして出来上がった寺院の由緒には、次のようなパターンが多いようです。
①行基・空海・法然などによって開祖され一時衰退していたのを
②中世に○○が復興した。故に○○が当寺の中興の祖である
③ところが土佐の長宗我部元親の侵攻で、寺の由緒を伝える寺宝や由来も焼失した。
④江戸時代になって○○によって復興され、いまに至る

全国廻国の高野聖や連歌師の中には、寺の由緒書きを書くのを副職にしていたような人物もいたようで、頼まれればいくつも書いたようです。そのためよく似たパターンになったのかもしれません。
 この由緒作成マニュアルで、依頼した寺院が揃えるのは④以後の資料だけです。これは寺の過去帳を見れば分かります。②は他のお寺の系図や由緒をコピーして挿入することも行われます。そして、①の権威のある高僧に結びつけていきます。つまり、いくつかの歴史の「接ぎ木」が行われているのです。これが、寺院の由来作成方法のひとつのパターンのようです。
 この方法が円珍系図にも見られると研究者は考えているようです。今回は、円珍系図が誰を始祖にしているのか、どのように接がれているのかを見てみることにします。テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
                     円珍系図(和気家系図)

『円珍系図』は、次の三つの部分から出来ていると研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり讃岐にやってくる前の系図 
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
まず、冒頭に出てくるのはCの讃岐因支首氏の系図です。
円珍系図冒頭部
円珍系図の最初の部分です。

階段状に組まれて上から「一」~「五」までの番号が打たれています。これが各世代を表します。一番下が最も若い世代になります、左側下に「広雄」と見えます。これが円珍の俗名です。ここからは円珍には「福雄」という弟がいたことが分かります。父が「四」の「宅成」で、妻は空海の伯母であったとされます。宅成は空海の父である田公と同時代の人物であったことになります。宅成は田公の義理の弟ということになるようです。宅成の弟が宅丸(宅麻呂)で、円珍を比叡山に導いた僧侶仁徳であったことは前回にお話しした通りです。
「三」の道万(道麻呂)が円珍の祖父になります。

  一方「身」から右側に伸びた系譜は何を表すのでしょうか?
  これも貞観九年(867)の「讃岐国司解」の改姓該当者一覧を基にして作られた因支首氏系図と比較してみましょう。

円珍系図2

多度郡の因支首氏一族

ここからは「三」の「国益」は、多度郡の因支首氏だったことが分かります。「円珍系図」には、那珂郡の道万(道麻呂)と同じく国益一人しか名前が挙げられていませんが、「讃岐国司解」を見ると、改姓認可された人たちは、それ以外にも「男綱」「臣足」などの一族がいたことが分かります。
 多度郡や那珂郡の因支首一族は、「身」を自分たちの直接の先祖だと認識していたようです。これが讃岐の多度・那珂郡にいた因支首氏系図の原型で、「身」に伊予の和気氏系図に「接ぎ木」することが系図作成のひとつのポイントになります。

次にでてくるのがAの天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家と因支首氏の関係です。

円珍系図冒頭部2
円珍系図 天皇系図部分

和気公氏の系図には、円珍の自筆書き入れがあります。 上の横書きされた「裏書」の部分です。円珍が何を書いているのか見ておきましょう。これを見ると因支首氏が大王系譜で始祖としたのは、景行天皇の子ども達の世代であったことが分かります。景行天皇には男17の皇子達がいます。その中から誰を選んだのでしょうか。それが分かるのが次の部分です。

円珍系図5
円珍系図  景行天皇の皇子の部分

ここには景行天皇の17人の皇子の名前が並びます。
大碓皇子の名前の上に、「一」と番号をふり、以下「二」、「三」、「四」と「十七」まで、それぞれの皇子の名前の上に番号がつけられています。讃岐に馴染みの深い神櫛皇子が「十」番目、武国凝別皇子が「十二」番目の皇子であることを示しています。これは、円珍が書き入れたようです。
  この中から因支首氏の先祖とされたのは武国凝別皇子でした。
どうして、神櫛王ではないのでしょうか。それは、因支首氏が伊予の和気公の子孫であることを証明するための系図作成だからです。そのためには讃岐と関係の深い神櫛王ではなく、伊予に関係の深い武国凝別皇子である必要があります。別の視点から見ると、伊予の和気公の系図が武国凝別皇子を始祖としていたのでしょう。
 申請に当たって円珍は、武国凝別皇子が景行天皇の何番目の皇子であるかについて、資料を収集し、研究していた痕跡が裏書きからはわかるようです。それを見るためにもう一度、先ほどの円珍系図の景行天皇の部分の「裏書」の部分に返ります。
円珍系図冒頭部2
円珍は右側の裏書に次のように記します。
伊予別公系図。武国王子為第七 以神櫛王子為第十一 
天皇系図 以二神櫛為第九 以武国凝別為第十一
日本紀 以神櫛為第十 武国凝王子為第十二
意訳変換しておくと
①『伊予別公系図』によると武国王子は7番目 神櫛王子は11番目
②『天皇系図』によると、神櫛王は9番目、 武国凝別は11番目
③『日本書紀』によると、神櫛王は第10番目、武国凝王子は第12番目

ここには円珍が『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本紀』などを調べて、神櫛王と武国凝王子が何番目の皇子として記されているかが列記されています。つまり、円珍はこれらの資料を収集し、比較研究していたことが分かります。景行天皇の皇子と皇女の名前を、『古事記』以下の史書と和気公氏(円珍系図)と比較させてみると、次のようになるようです。
円珍系図4

  この表からは、円珍が最終的に依拠したのは『日本書紀』景行天皇条の系譜記事であることが分かります。つまり、この系図の天皇系譜に関する部分は、独自なものがない、日本書紀のコピーであると研究者は考えているようです。この系図の価値は、この部分以外のところにあるようです。

 円珍はそれ以外にも、讃岐の豪族たちの改姓申請に関する資料も手に入れていたようです。
和気公氏の系図の「皇子合廿四柱。男十七女七」という記載の左横に、横書きで「神櫛皇子為第十郎 与讃朝臣解文合也」と円珍が書き込みを入れています。これは
「神櫛王は10番目の皇子だと、讃岐朝臣の解文には書かれている」

ということでしょう。

「讃岐朝臣」とは、いったい何者なのでしょうか?
貞観六年(864)8月に、讃岐寒川郡から京に本貫を移していた讃岐朝臣高作らが和気朝臣の氏姓を賜わりたいと申請した際の解文です。因支首氏の申請の2年前になります。讃岐朝臣氏は、その20年ほど前の承和三年(836)2月に、朝臣の姓をすでに賜わっています。その時の記事が「続日本後期」承和3年3月条に次のように記されています。
外従五位下大判事明法博士讃岐公永直。右少史兼明法博士同姓永成等合廿八因。改公賜朝臣 永直是識岐国寒川郡人。今与山田郡人外従七位上同姓全雄等二姻 改二本居貫二附右京三条二坊 永直等遠祖。景行天皇第十皇子神櫛命也。

  意訳変換しておくと
外従五位下の大判事明法博士である讃岐公永直。その他、少史兼明法博士で同姓の永成等合計廿八名に朝臣と改姓することを認める。永直は讃岐国寒川郡の人で、山田郡人外の従七位上同姓の全雄等などの縁者に、本貫を右京三条二坊に改めることを認める。永直等の先祖は、景行天皇第皇子神櫛命である。

 ここには、はっきりと「永直等遠祖。景行天皇第皇子神櫛命也」とあり神櫛王が10番目の皇子であることが記されています。讃岐公が讃岐朝臣となり、さらに讃岐朝臣氏が和気朝臣の氏姓を申請した際の「讃岐朝臣解文」にも、遠祖は景行天皇の第十皇子の神櫛命であると述べられていたことになります。これを円珍は、見ていたことになります。
智証大師像 圓城寺
 円珍坐像
では、他の一族である「讃岐朝臣解文」を、円珍はどのようにして見ることができたのでしょうか
 それは、太政官の左大史・刑部造真鯨(刑大史)を通じて、写しを手に入れたと研究者は推測します。刑部造真鯨は、円珍も多度郡の因支首氏の姻戚でした。円珍が唐から帰国し、入京する直前に洛北の上出雲寺で円珍を出迎えたり、円珍の公験を表装したりするなど、円珍とは、きわめて親近な間柄にあったようです。真鯨は民部省をも管轄する左弁官局の左大史という職掌柄から、保管されていた文書を写せる立場にあったと研究者は推測します。 円珍自筆の「裏書」を見ると、円珍はこの他にも『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本書紀』などを参照していたことは先に触れた通りです。

ここからは円珍が貞観八年(866)の因支首氏の改姓申請に、強い関心を持ち、系図の最終確認に関わっていたことが分かります。

最後に、伊予の和気公が始祖としていた武国凝別皇子を見ておきましょう。
 武国凝別命は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族の先祖で応神天皇や息長君の先祖にあたる人物と研究者は考えているようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君や讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。  
   
    以上をまとめておくと
①因支首氏は、改姓申請の証拠書類として自らが伊予の和気公につながる系譜を作成した。
②その際に、始祖としたのは伊予始祖の武国凝命皇子であった。
③その際に問題になったのは、武国凝命皇子が景行天皇の何番目の皇子になるかであった。
④この解決のために、円珍は親戚の懇意な官僚に依頼して政府の書類の写しを手に入れていた。
⑤そして、最終的には日本書紀に基づいて12番目の皇子と書き入れて提出した。

円珍自身も一族の改姓申請に関心を持ち、深く関わっていたことがうかがえます。同時に、当時の改姓申請には、ここまでの緻密さが求められるようになっていたことも分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。最後まで
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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