瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2022年01月

香東川の流域図
西嶋八兵衛による香東川一本化説の説明図

香東川については、次のようなことが通説とされてきました。
①西嶋八兵衛による高松城下の治水のために付け替え工事が行われたこと
②栗林公園は、香東川の旧河道上に築かれた公園であること
③付け替え工事地点に、西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てて工事の安全成就を願った

しかし、このような説に対して近世の讃岐国図などの絵図史料に基づいて批判反論が出されています。それは、絵図資料では江戸時代を通じて、香東川は分流して描かれており、河川の付け替えや一本化工事が行われたことがうかがえないというものです。今回は、西嶋八兵衛による香東川の改修工事が本当に行われたかどうかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

まず、西嶋八兵衛が改修工事を行ったという史料を見ておきましょう。実は正式な文書に、西嶋八兵衛が香東川改修工事を行ったという記録はないようです。
史料とされるのは、近世前期に地元の庄屋の書いた『大野録』で、次のように記されています。
香渡(東)川は寛永の頃まで、大野の郷の西より二股にわかれて、 一筋は一の宮・坂田の郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜の西に入りけり。又一筋は弦打山の西にそふて今のごとし。営村の中洲といへるは、則ち両河の間也。寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりければ、国主生駒公より堤を築きて、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河新開と号す。

意訳変換しておくと
香渡(東)川は寛永の頃までは、大野郷の西で二股に分かれて、東の流れは一の宮・坂田の郷を経て室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜(浜の町)西で海に流れ出していた。西側の流れは、弦打山の西に沿って、今の流れと同じであった。大野の中洲と呼んでいるところは、この両河の間に挟まれた地帯のことを指す。寛永年間中に、自然に西側の河瀬が深くなって、東側は浅くなってしまった。そこで、国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた。そこで、古河新開と号す。

 ここには「国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた」とあります。それが西嶋八兵衛によるものとは、どこにも書かれていないことを押さえておきます。
また記された内容について検討しておくと、香東川の東の流れ(現在の御坊川)が、一宮・坂田を経て室山の東をめぐっているというのは正しいようです。しかし、石清尾山の下を流れ、糸が浜(現在の高松市浜ノ町)の西で海に流れ込んでいたというのは誤りだと研究者は指摘します。香東川の東の一筋は、御坊川で新川と同じような所に流れ込んでいました。ここからは記述に正確性に欠け、二股の香東川の東の一筋を塞ぎ止めて二つに分けたというのも、間違っている可能性があると研究者は推測します。
 また  『大野録』は、次のように記しています。
村翁伝へ申されしは、大むかしの大河は、井原庄竜満山の麓に沿ひ、夫より大野、浅野の境を経、ももなみの郷に流れて、北方海に入りけり。是に依って、今その筋低うして石尚多し。又浅野分の河跡を今尚河原と号す。大野分の河跡を東原といへるは、いまだ畑にひらかぎる先、荒野なればなるべし。又揖取といえる地の名はそのかみの渡し場にて、舟引き居りし処ならん。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を田に開きし時、石をば所々に集めてものらしければ、此の筋今石塚多し.彼の墓土はその石塚をおし平げて則ち葬地になせしぞ。愚案ずるに、右大河ありしは貞観中より昔ならん。
  意訳変換しておくと
 村翁が伝へるところによると、大むかしの香東川は、井原庄竜満山の麓に沿って、大野、浅野の境を経て、ももなみの郷に流れて、北方の海に流れ込んでいた。このため今もそのエリアは、低地で石が多い。また浅野の河跡は、今も河原と呼ばれている。大野の河跡を東原と呼ぶのは、いまだ畑に開くことができず、荒野のままであるからであろう。また楫取という地名は、その上流に渡し場があって、舟引きがいたからではないだろうか。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を水田に開いた時に、土の中から出てきた石を所々に集めた石塚がこの筋には多い。またこの地域の墓地は、その石塚を押し広げて葬地にしたものだろう。愚案ずるに、このような大河があったのは、貞観中より昔のことであろう。

『大野録』は、河原・東原・梶取りなど、かつての「大河」があったと示す地名があり、河原石で築造した石塚(積石塚)が見られることを挙げて、大昔の香東川は、現在よりも東を流れていたと推測します。しかし、これも間違っていると研究者は指摘します。また、推測に基づく記事内容が多いのも気になるところです。
『大野録』の記述内容については、近代になるまで余り触れられることもなく、史料として取り上げられることもなかったようです。西嶋八兵衛についても、生駒藩が取り潰され髙松松平藩になると、忘れ去られた存在で、近代の香川県でも、知る人はほとんどいないような状態だったようです。
そのような中で大正元(1912年に『大禹謨』碑が発見されてから風向きが変わります。
この年の大洪水によって、県道岡本香川線の川部橋の北方約400m地点で香東川の堤防が決潰し、その冬に行われた修理中に人夫が数尺下に埋もれていた『大禹謨』碑を掘り出します。発見当初は、誰かの墓でないかとされ、香東川の川東の英師如来のかたわらに置かれました。それに注目したのが、四番丁小学校の校長で郷土史家でもあった平田三郎氏です。平田氏は昭和20(1945)年の高松大空襲のあとで、大野に疎開していて、この『大禹謨』碑に注目します。そして、大野禄と西嶋八兵衛の治水工事と、この碑を相互に関連するものという説を出します。
香東川 分岐説1
『大禹謨』碑付近が分岐点だったとする説
 これを受けて藤田勝重氏は、碑が発見された地点からあまり遠くない上手の川部橋の南方約500m地点に分流点があったこと、碑は西島八兵衛が香東川の東の一筋をふさいで高松城下を洪水から守る治水事業の完成記念として設置されたものだとしました。
 さらに中原耕夫氏は、香東川の川幅は川東の「柳生」から大野にかけて急激に広くなり、御坊川の水源を「柳生」の大久保出水あたりに求めることができ、古老たちが「柳生」が分流点だと言い伝えていることから、川部橋の南方約2,6㎞の「柳生」が分流点であるとしました。
 こうして、香東川が一本化される前の分岐点論争が始まります。
それと同時に、香東川が一本化されたこと、それを行ったのは西嶋八兵衛であること、その成就記念碑が『大禹謨』碑であることが既成事実化されていきます。
 藤田勝重氏は、『大禹謨』碑の文字を三重県の郷土史家の家村治円郎氏に筆跡鑑定を依頼します。その結果は、「八兵衛の真筆」というものでした。それを受けて、昭和37(1962)年に栗林公園事務所長の藤田勝重氏は、栗林公園が西嶋八兵衛の香東川一本化改修工事の結果、東の河道跡につくられたして『大禹謨』碑を、栗林公国内の商工奨励館の中庭に設置し、元の地にはレプリカを作って設置しました。
栗林公園(大禹謨碑)|フォトダウンロード|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット
栗林公園内に移された『大禹謨』碑

その後、藤田氏は『治水利水の先覚者の西嶋八兵衛と栗林公園』を発行しています。こうして「香東川一本化=西嶋八兵衛の改修工事=『大禹謨』碑はモニュメント」という説は、より強固な説になっていきました。

昭和46(1971)年に出された『香川県の歴史』には、次のように記されています。
 長い戦乱で田地は荒廃し、そのうえ雨が少なく、長大な河川に恵まれない讃岐では、農業生産の増大をはかるためには、溜め池を築造して新田を開発することがきわめて重要な事業であった。この目的をもって寛永五年(1628)、生駒第四代藩主高俊は、伊勢より西島八兵衛を招いた。
八兵衛は土木普請のオ能にすぐれ、そのうえ政治・経済にも通じていたので、早速、領内をくまなく見分し、あらたに溜め池をきずき、修築や増築などにも力をそそいだ。450年もの長い間、荒廃したままであった満濃池を復旧し、三谷池(高松市三谷町)・神内池(高松市山田町)・立満池(香川郡香川町)。小田池(高松市川部町)など、今日、香川県下にある著名な池90余を築造あるいは増築して、讃岐のこうむりやすいひでりに備えたことは大きな功績である。そのほか香東川のつけ替えもおこなったのであった。
 ここには、藤堂高虎が目付として派遣した西島八兵衛が、生駒家に仕えて満濃池を初めとするため池を数多く築造し、香東川などのつけ工事も行ったとされています。
 これに対して「見直し」の動きが近年になって出てきています。
平成五年発行の『香川町誌』は、香東川の改修工事ついて、次のように記します。
「付替え説には、証拠となる確たる記録はない。」
「この説は『大禹謨』碑石の発見と、西嶋八兵衛の讃岐国におけるため池築造を中心とする治水・利水の事績をもとに、組み立てられた説である。
  もしかして、香東川は二つの流れではあっても、東の流れは香東川の氾濫原であって、西島八兵衛による香東川の治水工事は川の付替えではなく、氾濫を防ぐための、東岸堤防の構築を中心とした治水工事であった可能性が考えられる。
ここでは、「香東川の一本化付替説」が『大㝢護』碑石発見と西嶋八兵衛の治水・利水の事績をもとに「こうあって欲しい」という願いをもとに組み立てられた机上の空論であると指摘します。

東京教育大学地理学教室は、報告書の中で次のように記します。   
旧流路は自然堤防となって残り、自然堤防は香川町大野より下流の現香東川の流路に沿うものと、この流路に針交して南北に細長くのびる数列の徴高地で、これは御坊川の流路にあたっており、御坊川は香東川の中流で分流した東の筋である。新岩崎橋南方付近で香東川は近世にも現在も二つに分流して流れていて、『大野録』の記述を信用して、分流点論争をすることは無意味と思える。

ここには香東川は昔も今も分流しており、分流点を論争するのは無意味とまで言い切っています。

これに加えて、絵図資料の分析からも香東川の一本化はなかったという説が出されています。それを見ておきましょう。
江戸時代に幕府の命に応じて作られた、讃岐の国絵図には、以下のようなものがあります。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (17世紀後半  元禄年間作成)
④内閣文庫本   (1838年作成 天保国絵図)

これらの国絵図は、幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。まず④の天保国絵図を見てみます。前回も見たように、グーグルで「讃岐国絵図」で検索し、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、天保国絵図を見てみます。

香東川 天保国絵図1 

天保国絵図 国立文書館デジタルライブラリー版

上の地図からは19世紀になっても、香東川は東西に分岐して流れていたことが分かります。そして、高松城を挟むようにして、海に流れ出しています。そして東の流路は、栗林公園を通過していないことを押さえておきます。次に香東川の分岐点周辺を拡大してみます。
香東川 天保国絵図2 分岐点周辺 
        天保国絵図 香東川分岐点拡大図

分岐点は、②の寺井村と③河(川)辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。ちなみに図中の、赤線は街道で、それを挟む形で描かれている2つの黒丸は一里塚の表示だそうです。

それでは、西嶋八兵衛が一本化工事を行ったといわれる後に、松平藩時代になって幕府に提出された「正保国絵図」に、香東川がどのように記されているのかを見てみましょう。

下図は、17世紀前半の「正保国絵図」の香東川の分岐周辺の写図です。
香東川 正保国絵図1 
この絵図でも東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、
「一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十間 渡リナシ」、
②西側の流れについて
「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ここからは、西嶋八兵衛が灌漑工事を各地で行っていた後も、香東川の流れに変化はなかったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」が、現在の田村神社のようです。
  現在の郷東川と御坊川の分岐点を、下の地図で確認しておきましょう。
香東川 現在の分岐点

現在の香東川は新岩崎橋付近で二股に分かれて、東の流れを御坊川と呼び、西の流れを香東川と呼んでいます。ここからは、近世から現在まで香東川は、中流で二股に分かれて流れていとことが分かります。幕府提出用に作成されたという各時代の讃岐国絵図には、香東川の二つの流れを一本化したという工事の痕跡をみつけることはできないようです。
以上から研究者は次のように指摘します。
①  西島八兵衛は香川町大野で二つに分かれて流れている香東川の東の一筋を塞ぎ止め一本化するという付け替えを行わなかった。
②西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てることもしなかった。
『大禹謨』碑は香東川に堤防を築いた人物が、工事の完成を祝って建立したもので、発見場所から遠くない堤防の上に建てられていたのであった。西嶋八兵衛の利水・治水事業は高松城の安泰をはかるため、東の一筋を寒ぎ止めて西の一筋だけにするという改修工事事を行ったという誤った説を生み出し、更にこの改修工事に伴ってできた東の一筋の廃川敷に栗林公園がつくられたという誤った説を生み出した。
香東川 天保国絵図2河口付近 
天保の讃岐国絵図 現栗林公園付近を流れる川は書かれていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

 

 香川県には、現在以下の3つの「讃岐国絵図」が残されています。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (元禄年間 18世紀初頭前後)
④内閣文庫本 (1838年作成 天保国絵図)
大きさはどれも畳一畳ほどのものです。今回は、これらの国絵図が何の目的で、作られたのかを見ていくことにします。「テキストは羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

グーグルで「讃岐国絵図」を検索して、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、④の天保国絵図を覗いてみます。自由にポイントを選んで拡大できるので、近世の讃岐のことを地図上で確認するには重宝しています。私の愛用サイトのひとつです。

讃岐国絵図 天保版1
   ④讃岐国絵図 内閣文庫本(1838年作成 天保国絵図)

 江戸幕府は、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等を各藩に命じています このうち最後の作成となった天保国絵図は、天保6年(1835)に作成指示が出され、3年後の1838年)に完成しています。その作成方法等について、国立文書館デジタルライブラリーの説明画面には次のように記されています。
縮率・描法等は元禄図と同様で、1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。
讃岐国絵図 天保版2金毘羅周辺
      讃岐国絵図 天保版 (金毘羅周辺拡大図)

 各絵図の一隅には、郡ごとの色分け・石高(こくだか)・村数を列挙した凡例が記され、最後に国絵図の作成に関係した勘定奉行・勘定吟味役・目付の氏名が加えられています。
(以下略)
原図サイズ:455cm×南北301cm。
天下統一を果たした秀吉や家康は、各国の国絵図の提出を大名達に命じます。
秀吉は天正十九年(1591)に、大名から郡ごとの絵地図を提出させて天皇に献上しています。家康は慶長九年(1604)に西日本の大名から郷帳と国絵図を提出指示、家光は寛永十年(1633)に、全国の大名に国絵図を提出させています。しかし、これらの地図に、作図法の統一はなかったようです。
 正保元年(1644)に家光は、再び全国の大名に国絵図を提出させます。この時に作図法について、次のような指示が出されています。
 慶長九年に国絵図奉行の西尾吉次が指示した作図マニュアルには、次のように記されています。
①田郡名を墨書して、一郡ごとの田畑数・分米高・村数を朱書きすること
②村名を俵形に記入し、その外側に村の石高を書きつけること
③国境を入念に描くこと、
④田色絵にして川や道を区別すること
⑤絵図全体が大きくなりすぎないこと
この指示に基づいて、生駒藩でも讃岐の国絵図が制作されたようです。このため正保年間以後に作られた国絵図は、統一性があります。それ以前のものとは、一目見て違いが分かるようです。その後も幕府は元禄・天保に国絵図を提出させています。なお、寛永の国絵図は、急な提出命令だったので慶長国絵図などの今までに書かれていた国絵図を写したものが多かったようです。
さて、幕府に提出された讃岐国絵図の中で、讃岐に残されたコピー版を見ていくことにします。
 丸亀市立資料館には「寛永国絵図」が保管されています。
施設情報:文化施設:資料館 | 香川県 丸亀市
丸亀市立資料館の「讃岐国絵図」

 丸亀市立資料館蔵『讃岐国大絵図』は、金刀比羅宮蔵と記載内容、表現、色遣いまで非常によく似ているので、同系統版と研究者は考えているようです。丸亀市の高木伝太氏が所蔵していたものを、市が買いとったもですが、そこに書かれている内容は、金刀比羅宮蔵のものとほとんど同じのようです。
 寛永国絵図の幕府提出用の原本は、慶長国絵図をテキストにして急いで作成されたもので、両者はほぼ同じものだったようです。異なる点は、寛永国絵図には西島八兵衛がつくった90余りの大の代表的な大池12が描かれていることです。ここからは、寛永国絵図には普請奉行の西島八兵衛が関与・作成したことが推測できます。

次に金刀比羅宮蔵『讃岐国大絵図』を見てみましょう。
この絵図の裏書きには「寛永拾年酉三月日」、「生駒高俊公御寄付写 讃岐国大絵図 寛永拾七辰年」と記されています。
 ここからは、寛永十年(1633)に幕府に提出するために作成された絵図をコピーして、さらにそれを寛永17年(1640年)に再コピーしたものを金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことがうかがえます。製作時期からみて、幕府巡見使派遣の際に作成された寛永国絵図原本のコピー版を、生駒藩取りつぶしの直前の寛永17年(1640)に奉納したようです。領国支配のためには重要な情報が書き込まれた国絵図ですが、出羽国一万石に移封となった生駒家にとって、『讃岐国絵図』は不要のものです。そこで日頃から信仰の厚かった松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に奉納したというストーリが考えられます。
 このように寛永十年(1633)に幕府に提出した原本からは、少なくとも金刀比羅宮蔵版と丸亀市立資料館蔵版2つのコピーが作成されていたことになります。
この両者の関係を研究者は、次のように考えているようです。
①九亀市立資料館本は、原本が作成された寛永十年に写されたもので、書かれた内容は金刀比羅宮本とほぼ同じである。
②1640年に寄贈された金刀比羅宮本の方が丸亀市立資料館本よりも、すっきりと洗練されたものになっている。
③西嶋八兵衛1639年に、伊勢に帰っていて金刀比羅本の作成にかかわっていない。

両者の細部を検討すると、丸亀市立資料館蔵版は、原本完成の直後の寛永十年にコピーされたもので、金刀比羅宮版より原本に近いようです。つまり、2枚の讃岐国絵図は、幕府に提出するために作成されたものの原本をコピーして讃岐国内に残したものと研究者は考えています。

系統の違う高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』を見ておきましょう。
讃岐国絵図|高松市
高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』

 高松市資料館のHP解説には、次のように記されています。    
本絵図は縦79センチメートル、横212センチメートルの法量で、墨書に一部着色し南を上にする構図である。黄色く着色された短冊形の枠には郡名を、着色の無い円形枠には村などの地名を記す。郡境は墨書き、道は朱書きによって表現し、山、川、海は薄墨で着色している。
社寺には墨及び朱書きをし、黄色や薄墨の着色で建造物が表現されている。
高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」、市文化財に/文化財保護審議会が答申 | BUSINESS LIVE

各村には石高が表示されており、裏面には郡ごとに総石高と田方、畑方のそれぞれ総反畝数が記されている。
そして、絵図の裏(折本の表紙にあたる箇所)には角型と壺型の印章があり、印文は角型が「別所信治」、壺型が「孫四郎」と読める。これらの印章から『寛政重修諸家譜』第8の播磨三木城主別所氏の一族である別所常治(正徳元(1711)年没)が所蔵していたものと考えられる。
同書によれば、常治は最初の名が「信治」、名乗りが「孫四郎」であり、延宝6(1678)年に家督を継ぎ、書院番や使番などを務めた後、長崎奉行に任じられている。これと同じ角型と壺型の印章が、明石市立文化博物館蔵「播磨国絵図」、鳥取市歴史博物館蔵「因幡国絵図」「伯耆国絵図」でも見られることから、この常治が収集したコレクションの一部であったと推察される。

この絵図には、金毘羅寺(松尾寺:現金刀比羅宮)に、三つの建造物が朱で描かれています。
讃岐国絵図 高松市資料館蔵の池内村
高松市歴史資料館 讃岐国絵図

その三つの建造物は観音堂・新金昆羅堂(薬師堂)・多宝塔のようです。
①観音堂は宥雅が元亀二年(1571)前後に建立したものです。長尾氏出身の宥雅は、翌年の元亀四年(1572)に観音堂に登る坂道の北側に金毘羅堂を建立しています。
②新金昆羅堂(薬師堂)は、生駒藩外戚の山下家出身の院主によって元和九年(1623)に建立され、それまでの金毘羅堂は役行者堂に衣替されます。
③多宝塔は延宝元年(1673)に、生駒騒動の後に、初代高松藩主としてやってきた松平頼重が建立寄進したものです。
 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、③の多宝塔が描かれているので、慶長国絵図をテキストにして延宝元年(1673)以降の元禄年間に作成されたことが考えられます。つまり、寛永十年(1633)作成の九亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵のものよりも新しいものになるようです。
 ところがもうひとつ問題があります。
この国絵図には満濃池が書かれていないのです。満濃池は源平合戦の最中に決壊して以後450年間放置され、その跡には「池内村」ができていたと伝えられます。その「池内村」が、この絵図には記さています。西嶋八兵衛が満濃池を改修したのが寛永5(1628)年のことです。
 また、丸亀城が「圓亀古城」となっているのはいいとして、引田城が「城」と記されています。これは慶長20(1615)年の一国一城令以前のことを描いていることになります。
 以上のように高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』からは、次のようなことが読み取れます。
①金毘羅大権現の多宝塔からは、17世紀後半のことが記されていること。
②満濃池跡の「池内村」や引田城からは、17世紀初頭のことが描かれていること
①②の矛盾する内容が、同位置地図に描かれていることになります。これに対して、研究者は次のように考えているようです。
A 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、慶長末期までの詳細な情報を記す原図があったこと
B その原本に基づいて、コレクターの別所常治が亡くなる正徳元年までの間で書写した国絵図である。
 幕府の元に集められ保管されていた各国の慶長国絵図を、元禄気になってコピーしたのかもしれません。どちらにしても、高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、丸亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵の「寛永国絵図」系統のものにはない江戸初期の讃岐の様子が描かれた史料であることになります。そこに書かれている内容は、慶長年間(1596一1615)頃のものが含まれているようです。しかし、製作年代については、元禄年間に作成されたもので、丸亀市立資料館本より40年以上新しいと研究者は考えているようです。そして、高松市歴史資料館本は、慶長国絵図が存在していたことを示す貴重な史料と云うことになるようです。
讃岐国絵図 高松市資料館版新聞報道
高松市歴史資料館蔵の讃岐国絵図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度


        雨瀧山城 山頂主郭部1
雨瀧山城 山頂部主郭部
雨瀧山の頂上にある三角形状の曲輪C1は、近世城郭の本丸にあたる所になります。そのため最大の広さと強固な防禦装置群が構築されているようです。今回は、雨瀧山の主稜線上の防御施設を見ていきます。テキストは、「池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」です。

まず、虎口とされる①の枡形Ca遺構を見ておきましょう。
雨瀧山城 山頂主郭部1拡大図
         雨瀧山城 山頂部主郭部拡大図
曲輪W2・S2方面からの通路は、曲輪C1の南側を回廊の様に通過します。その中央部辺りに、曲輪C1から南へ突出した①に枡形Ca遺構があります。この突出した地形を通過して曲輪C1へ入っていたようです。曲輪W2方面からCa台地へつづく通路には、横並びに三つ横矢ポイントが連続して並びます。同じように曲輪S2方面から①のCa台地につづく通路に対しても、曲輪C1南南東隅に石垣を使用した上下三段構造による大横矢拠点が待ち受けています。これら二方面からの通路に対して、曲輪C1には強固な防衛拠点の備えがあります。さらに突出させた台地地形構築から推測すると、ここが枡形形状の虎口遺構と研究者は考えているようです。
 もうひとつの虎口とされる②の枡形Cb遺構を見ていくことにします。
 曲輪N2方面からの通路の上に、帯状の空間地形Cbが見られます。曲輪N2からこのCbに登り、さらに東に回り込み、第2次大戦時に構築したと言われる監視所跡の切り込み(坂虎口)から、曲輪C1へ入るルートがあったと研究者は考えています。通路構築状況から見ると、通路の中間部にある帯状の空間地形Cbは、曲輪C1の枡形としての機能を果たし、尾根N方面に対する最終防衛拠点であったとことがうかがえます。
③ 曲輪C1大横矢拠点(堡塁か)
この横矢拠点は、S尾根方面から攻め寄せる敵を迎え撃つために、南南夷隅に石垣で上下三段構造の拠点を構築しています。一方、W尾根方面に対応する西隅は、竪堀と横堀を組み合わせた凸構造の構築がされています。最後の決戦場としての曲輪C1を守る防衛構造物と研究者は考えています。
以上から曲輪C1には、同一パターシ化された防衛構造物が配置されていて、縄張りには「ある一定の法則性」があり、かなり高度な築城技術が使用されていたことが分かると研究者は評価します。

本丸からに西尾根に続く曲輪W群を見ていきます。
雨瀧山城 山頂西部拡大図
雨瀧山城 曲輪W群

曲輪W群は、西の寒川方面の尾根からの攻撃を想定しています。曲輪C1防衛のために、曲輪W群にはさまざまな築城技術の使用が見られます。
 まず曲輪W5直下の尾根地形上の斜面に、堀切状の凹地形を削り出しています。さらに凹地形の南北両端の斜面に竪堀を落としています。これらの一連の構築物は、敵による斜面上の回り込み攻撃を阻止します。正面突破の敵勢力に対しても、凹地形の西側土塁と曲輪W5からの上下2段による横矢迎撃で撃退する備えです。またこの凹地形は、西尾根正面に平虎口を開口させ、その左右を土塁で固めた枡形虎回の機能をもあわせ持つ防衛拠点となっています。
  主郭西部の防禦構造物には、北側斜面上の5本の竪堀があります。
①凹地形の北斜面を遮断する竪堀
②曲輪W5北斜面を遮断する竪堀
③曲輪W2北斜面を遮断する竪堀
④曲輪C1北斜面を遮断する竪堀の西4本
で、北斜面上を攻め登る敵を阻止します。
以上の構造は、この城郭の中では最高の技巧性を見せる遺構だと研究者は評価します。

 南尾根の曲輪S群の虎口と通路について、見ていくことにします。
雨瀧山城 山頂南主郭部1拡大図
雨瀧山城 曲輪S群
曲輪S群は、南方の柴谷尾根方向からの攻撃を想定しています。
この方面の攻防ポイントは堀切S10になります。堀切S10を守るために、まず曲輪S8・7・6が防衛拠点と配置されています。堀切S10から上の通路は、次の2つが考えられるようです
①枡形虎口Sbに入り、曲輪S4下の斜面上を北西へ直進、曲輪S3の「登り石垣?」ラインが斜面を下がってくる地点で突き当たり、そこを折り返して曲輪S4へ登るか
②「登り石垣」部分を越えて直接に曲輪S4へ登る通路が見えてくる。この通路を登る。
 この通路方法からすると、小空地S5は上下一体性のある枡形虎口遺構そのものです。上段の空地は下段の枡形空間にたいして、武者隠し的空間として機能します。さらに西尾根の枡形遺構と同じ様に、曲輪S4と併せると、ここにも上下三段構えの立体防禦装置があったと研究者は指摘します。

南方の曲輪S群には、西尾根曲輪W群には、見られなかった土塁構築があります。
曲輪S6は東斜面側の南北に立つ自然の大岩間に、貴重な土塁構築と枡形虎口Scが作られていますので、何か特別な空間のようです。曲輪S7・8では、虎口Sdが敢えて尾根筋を避けて、西側にずらしています。そして、曲輪S7.8を防禦機能上、一対とした空間として配置しています。そのねらいは、東尾根櫓台地区SEを突破し、なだれ込んできた敵を、ここで阻止するための軍事空間のようです。特に曲輪S8の形を回廊状にしているのは、尾根斜面を登ってくる敵兵に対して、迎撃のための砲列を敷く足場にするためだったと研究者は考えています。

最後に雨瀧山城が、いつ、誰によって、どのような目的で造営されたのかを見ておきましょう。
 私は先入観から安富氏が、阿波の三好勢力に対して造営したもので、16世紀初頭には原型的なモノが姿を見せ、それが土佐勢侵攻の脅威が高まる中で整備されたものと思っていました。さてどうなのでしょうか。
『雨滝城発掘調査概要』(1982年)の報告によると、山頂部曲輪群からは、礎石と瓦を使用した建物群が出土しています。瓦が出てくる山城は、讃岐ではあまり聞きません。全国の中世城郭で、礎石建物の出土事例の初見は、次のようになるようです。
①横山城の大永年間1520~天文年間1550年
②観音寺城では天文年間1530~永禄年間1558年
③四国では「土佐では16C後半以降」
 そうすると雨瀧山城に礎石建物が建てられたのは、元亀年間(1569)の寒川氏問題での緊張時か、それ以後と研究者は推測します。
 瓦については、『調査概要』や『織豊期城郭の瓦』(1944)の報告によると、瓦制作技法はコビキA手法や紋様等より、織豊期の系譜を持つ瓦と判定されています。とすると、秀吉のもとで、讃岐制圧部隊として活動した仙石氏や生駒氏による改修・増築などが考えられます。その遺構年代は天正13(1585)年前後と研究者は考えています。とすると、安富氏のものか、仙石氏のものかについての判定は微妙な問題になるようです。

 別の視点から見てみましょう。
雨瀧山城の遺構の中で、特に目立つのは8ヶ所ある枡形空間です。城郭遺跡の中で、枡形の構築年代が古いものを並べると次のようになります
①京都嵐山城  永正4(1507)年  『多聞院日記』香西又六元長」
②京都中尾城  天文18(1549)年 『万松院殿穴太記』将軍足利義晴」
③近江小谷城攻の陣城群 天正元年(1571)(織豊期城郭)」
④讃岐勝賀山城 天正7(1579)年   香西氏」
⑤備前国児山城 天正9(1581)年  『萩藩 閥閲録』(宇喜多与太郎基家の陣城 )
これらの城郭との枡形の比較検討からも、雨瀧山城の遺構は天正期頃のものと推測できます。
上記の城の枡形を雨瀧山城のものと比べて見ましょう。
雨瀧山城 比較

比較からは、京都嵐山城・讃岐勝賀山城・讃岐雨瀧山城の枡形形状が同類型であることが分かっています。
3つの城の枡形の共通点を見ておきましょう。共通点は、堀切内部の空間を土塁等で一部仕切って、切り離した枡形空地を創出して構築した独特の形の枡形であることです。堀切と枡形を併用した形状の事例は限られます。
 さらに三城郭の共通項を探すといずれも築城者が、香西氏と安富氏という細川京兆家の関係者であることです。ここからは「細川系築城技法」とよべる技法があり、それを持った土木築城集団が細川氏周辺にいたことが見えてきます。
 三城郭の構築年代を考えると、天文年間から天正初期という時代は、信長の上洛以前で、細川・三好の勢力が京畿を支配していた頃になります。畿内で用いられていた築城工法を、香西氏や安富氏は讃岐の城の改修や新築に採用したようです。

 天正3年香西元成が堺の新堀に新城を築城したことが『信長公記』には記されています。
この時期に、香西氏は旧地である京都嵐山城も改修した可能性が高いと研究者は考えています。そうすると香西氏の讃岐の新城と築城された勝賀山城の枡形遺構も天正期あたりの構築と云えそうです。
 これは三城郭の年代及び築城系譜も一致することになります。

以上をまとめておきます。
① 雨瀧山城の東西両尾根上に対象にある「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構は、縄張り上で「パターン」を繰り返して使用している。
②畿内などで使用されている防禦施設(枡形)が採用されている。
③全体としても縄張りに「統一性」が見られる。
④雨瀧山城の縄張りは、築城時以前に「縄張図面」があった
⑤この縄張り構想は、細川系築城技法を持つ築城集団によってもたらされた。
そして、頂上の曲輪に建てられた礎石建物は、安富氏か織豊系大名のどちらが建てたものかは微妙な年代だが、建物配置状況や出土した織豊期瓦から織豊系大名によるものと研究者は判断します。具体的には、秀吉の命で天正13(1585)年に仙石氏が讃岐入国後に行った領国経営上の支城網群整備時に築城・改修された城郭群中の一城とします。仙石・生駒期になっても、讃岐の山城は改築・増強され軍事的機能を果たし続けていたのは、最近の勝賀城の発掘からも明らかになっています。
 ここからは、讃岐の中世山城の中には長宗我部元親や信長・秀吉の侵攻で陥落し、そのまま放置されたのではなく、改修・増築が行われ新たな軍事施設としてリメイクされていたことが改めて分かります。西長尾城や聖通寺山などの発掘から分かったことは、土佐軍は、旧来の山城に大幅な手を入れて増強していることです。それが東讃の雨瀧山城にもみえるようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度

雨瀧山 居館跡2
 雨瀧山城 奧宮内居館跡

前々回は、東西尾根上の遺構をみて、雨瀧山城の城郭エリアを確認しました。前回は、居館跡や屋敷地群があった奥宮内エリアの建物群の配置などを見ました。
雨瀧山 居館跡奧宮内3

 居館跡とされる奥宮内を中心に「富田城下町」が形成されと研究者は考えているようです。
しかし、地図や現地を見る限りでは、私には見えてきません。研究者は何を材料にして「城下町復元」を行うのでしょうか。今回は、「城下町富田」の復元過程を見ていくことにします。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。

前回見たように、居館跡は雨瀧山城南側のふもとである奧宮内にあることは、前回にお話しした通りです。
まず、奥宮内を囲む外郭の大堀を次のように想定します。
居館跡東側の「げじょうだに」から「のぶはん」を経て津田川の合流点の「てさき」に走る大溝地形を外堀とします。そして改修した津田川に連結させて、両堀を外郭としたL字ラインの内側に、奥宮内谷居館群とさらに宮内・大船戸両地区を結合させて「戦国期城下町・富田」が形成されていたとします。
 また、城下町の最大の防御網は、東側の大堀遺構と南側の津田川になります。仮想敵勢力が攻め寄せてくるのは、この方向からであったと考えていたことがうかがえます。そうだとすれば、仮想敵勢力は、次のように考えられます。
①城主が安富氏であった時代には、阿波三好勢力や土佐の長宗我部元親
②城主が仙石氏や生駒氏であった時代には、土佐の長宗我部元親
 外郭の大堀に囲まれた城下集落
このエリアには地形を表現した地名には次のようなものがあります。

「ごい」・「みいけ(御池?)」・「いけじり(「池尻)」・「たなか(田中)」・「のぶはん」「げじょうだに(下所谷)」「いずみたに(和谷」・「おおぜつこ(大迫古)」・「てのく」・「西野原」・「うらんたに(裏の谷)」・「すぎのはん」・「しんがい(新開)」等

町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります
「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」等

これらの地名がある場所を下図で確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山城 商家町富田 

 河川港と港町
津田川に沿った付近には、「しもぐら」・「こふや」・「おおふなとじんじゃ」・「しんがい」等の地名が散在します。
「しもぐら」・「こふや」からは、川港倉庫群の存在
「おおふなとじんじゃ」からは、海上運行の祭祀した船頭や、船戸からは港があったことや、河川港とその港湾に働く人々がいたこともうかがえます。津田川を利用した河川交通の運航が行われ、この周辺には川港的機能を果たしていた「施設」があったと研究者は考えているようです。
雨瀧山城 城下町富田2 


富田荘の物産類が集結したのが船戸神社の下の「しもぐら」・「こふや」の川筋でしょう。ここからは富田庄の流通経済活動拠点とし、大船戸地区が考えられます。また宮内地区には、「本家」・「隠居」・「南屋敷」などの雨瀧山城や「守護代所」に関係した行政・統治機関の人々の居住地があったことが推測できます。
 経済活動の中心地としての津田川流域の大舟戸地区、
 政治的中心地としての富田神社周辺の宮内
それぞれ別の機能を持つ両地区を中心にして、「戦国期城下町」富田が出現したいたというのです。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する富田

確かに雨瀧山城の南側の富田エリアを巨視的に見ると、髙松平野の東の端にあたります。髙松平野に侵入しようとする勢力が、ここを拠点に勢力を養った例が古代にもありました。津田湾沿岸に古墳を築いた勢力は、ヤマト朝廷に近く、瀬戸内海南航路を紀伊の勢力と共に確保していたとされます。彼らは津田川を遡り、この富田の地で勢力を養い岩清尾・峰山勢力を圧倒していくようになります。その政治的シンボルが、この地にある富田茶臼山古墳とされます。古代においても、津田川は、津田港と富田を結ぶ基幹ルートであったことが推測できます。
雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。
讃岐富田荘の港は、一般的には鶴箸(鶴羽)浦か津田浦と考えられています。
雨瀧山城 安富氏と海上交易
兵庫北野関入船納帳に出てくる讃岐の17港
  津田湾周辺では鶴箸(羽)が記されている

鶴箸(鶴羽)浦と津田浦は近世にも繁栄していた港です。特に鶴箸には「江田=えだ」の地名を残す港湾遺構もあり、『納帳』にも出てきます。しかし、富田荘との荷物のやりとりには相地峠を越える必要があります。それを避けるために、津田川を利用し富田荘内に川船を接岸する方法が取られていたことが考えられます。とすれば津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があったはずだと研究者は指摘します。富田荘内を貫流する津田川(=富田川)に、「古枝=古江?」や「船井」などの川湊がいくつもあり、それが海岸線の後退に伴い、江戸期の「津田浦」の発展につながったとしておきましょう。

以上をまとめておきます

①雨瀧山城の居館跡は、奧宮内エリアを中心に「舟渡地区(津田川河岸) + 宮内地区(富田神社周辺)」までをエリアとして「城下町・富田」の町割りが行われていた。
②城下町富田の外堀は、「東の大溝遺構 + 南の津田川」であった。
③舟渡地区を中心に定期市が開かれ、川港もあり、ここが経済的な中心地であった。
④城下町富田は津田川を通じて、瀬戸内海東航路に接続していた。
⑤雨瀧山城西尾根筋の先端にある「船井」には、船井大権現と船井薬師があり、往時の繁栄と港湾の痕跡が推定できる。
⑥津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があった?

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」

 雨瀧山 遺構図全体2
  
雨瀧山城の居館や屋敷地群は、どこにあったのでしょうか。
雨瀧山の南側の奥宮内を最有力候補と研究者は考えています。その居館跡を今回は見ておきましょう。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。
  奥宮内は、富田神社の鎮座する奥まった谷に位置します。
 奥宮が居館跡だったすると、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部に居館を置かずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたことになります。古代にも、交通の大動脈である瀬戸内海の入江である津田湾ではなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳を内陸部平野の富田に築いた古代首長がいました。津田川流域のこの平野は、戦略的な魅力があるのかもしれません。
雨瀧山 居館跡2
雨瀧山城 奧宮内の居館跡
 奥宮内は、東側のげじょう谷の尾根筋と、てのく谷の尾根筋に挟まれた谷筋です。
ここには、宮内谷扇状地が形成されて、その先端に中池が築かれています。中池について、研究者は次のように考えています。もともとは、ここに土塁が築かれて、堀となっていた。それが後世にため池堤防に「転用」された。つまり、中池の堤防は、谷筋防衛のために遮断された大土塁であった云うのです。これを裏付けるように、平成6年のため池改修時の調査では、池の内部底土層の堆積が南北幅が5m程でしかなく、東西に細長い水堀であったことが確認できています。

雨瀧山 居館跡奧宮内1
        雨瀧山城 奧宮内の居館跡(拡大図1)

奥宮内は、南に傾斜した扇状地上の地形の上に屋敷地跡が残ります。
全体は次の3地区に分けられます。
① 西尾根下の小さな谷地形(おおぜっこ)
② 東尾根下の小さな谷間(いずみだに)
③ この小さな谷地形が合流した小扇状地(中池・小池・さくらんぽ)地区
各地区の機能は、次のようになります。
①②のおおぜっこ・いずみだに両地区は、飲料水の確保と畑地として利用していた空間地
③の中池・小池・さくらんぼ地区は、屋敷地や倉庫地
雨瀧山 居館跡奧宮内3

中池に面したL字形平地は、館の「表」として公的機能を持つ守護代所の建物等があったところで、地図上のA・B・Cは領主の表での屋敷部分で、A・Bは領主の奥の居館部分の建物があったところと研究者は推測します。
さらに、屋敷地周辺について、次のように推察します。
・上部のさくらんぼ地区は、厩屋等の建物があったところ
・中池の堤防が西尾根に接するところと、尾根との間に残る小空地が虎口で、城門のあった可能性
・虎口の背後地のⅠA屋敷地に接するところは、枡形機能を果たす空間地
・居館内を警護する家人は、小池の西側と東側尾根先端部の高台曲輪に駐屯
以上のように、ここには居館全域の監視・防衛に最適な地点であったことが想定できます。

 もう一度、「げじょうだに」(=下城谷か?)周辺を見ておきましょう。

雨瀧山 居館跡2

ここには居館地の東側防衛のために、軍事色濃厚な遺構群があります。
① 大堀
城山の稜線より一気に下る「げじょう谷」が、緩傾斜した谷地形あたりの「のぶはん」地区を通過して、さらに宮内地区と森清地区の境「ゴイ」・「ミイケ」・「タナカ」・「スナゴ」・「テサキ」を通り、津田川へ流入する谷間地形が広がります。この南北を貫流する谷筋を、城郭遺構の防衛線の「大堀」と研究者は考えています。
 特に谷地形の西側縁(宮内地区)は、湿地及び泥田地形であったようです。日葡辞書には「sunago=砂、または砂をまきちらしたように」から、このあたりは河川敷のようであったらしく、それが「タナカ」・「ミイケ」の地名からもうかがえます。
②   奥宮内の居館推定地の東側の「のぶはん」とは、何でしょうか?「のぶ」と「はん」に分けて考えると、「のぶ」=伸ぶ・延ぶ=のびる=空間的に長くひろがるとの意味になります。日葡辞書でも「nobu=せいたけがのぶる」で、地形の状況を示す言葉の意味になるようです。稜線より一気に下る「げじょう谷」と、暖傾斜状谷地形の「のぶはん」の谷内部より稜線を見上げると、天空に向かって一直線の「げじょう谷」空間が走り、「空間的に長くひろがる」の言葉の意味どおりの地形となると研究者は考えているようです。
③ 首切り地蔵尾根
「のぶはん」東壁の尾根は、東側面に自然地形を壁面状に加工したようすが見られます。城郭防禦の遮断線としての尾根ラインを構築したようです。中段付近には、堀切と「首切り地蔵」のある曲輪等が二段構築されています。今はこの堀切りは、柴谷峠に抜ける山道が通過していますが、往時も道として使用していたと考えられ、曲輪の存在は堀切道を通過する敵にたいして、防衛拠点としての機能を持つところと研究者は考えているようです。

   以上見てきた通り、奧宮内は、雨瀧山の南の谷の奧に南面して配置されていたと推測されています。
このレイアウトは、津田方面の海上交易よりも南方に広がる内陸盆地に主眼を置いたかのように思えます。これ対して、西讃守護代の香川氏が多度津の現桃陵公園付近に居館を置き、その背後に天霧城を築いています。香西氏も内陸から次第に海際に進出して、勝賀城を築いています。そこには、交易湊を確保して瀬戸内海交易に参加していこうとする意欲がうかがえます。それに対して、海に背を向けて居館を置いた安富氏のねらいはどこにあったのでしょうか。考えられるとすれば、阿波三好氏への備えを主眼として作られた城なのかも知れません。
 また、安富氏は古髙松港(屋島)・志度・引田に加えて小豆島の各港の管理権を握っていた節もあります。そのための経済的な機能を各湊にあり、政治的な居館を津田湊に置く必要がなかったのかもしれません。この辺りが今の私には、よく分からないところです。

    雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。その権利を安富氏は持っていたようです。
 守護細川氏が在京であったために、讃岐の守護代たちも京都に詰めていたことは、以前にお話ししました。雨瀧山城の居館には安富氏の守護代事務所からさまざまな行政的な文書が届けられ、在郷武士たちの管理センターとして機能していました。津田湊を経て、京都と交易路も確保されていたのです。安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていました。
 しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えるようになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして安富氏を配下に繰り入れ、東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小
豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、小豆島は瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。その目の前にあったのが、この城になるようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度
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        雨瀧山城 説明看板
雨瀧山城の主である安富氏については、守護細川氏のもとで東讃の守護代を務めていたことは、以前にお話ししました。文献史料から指摘されているのは、次の二点のようです。
①讃岐守護代家安富氏が讃岐に所領を与えられたこと
②安富氏が寒川郡七郷へ侵攻して雨瀧山・昼寝山押領をしたこと
政治的経過はある程度は分かるのですが、それを雨瀧山城と結びつけて論じたものは、あまりないようです。雨瀧山城を縄張研究の視点から城郭遺構を見直し、築城者までもを探ろうとする論文に出会いましたので紹介します。テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。今回は、雨瀧山城の範囲と遺構を縄張図で見ていきます。雨瀧山 遺構図全体
雨瀧山城全体遺構図

 尾根上に残る遺構は、次の3つに分けられるようです。
1 寒川方面主尾根NW遺構群
2 火山方面主尾根E遺構群
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群
 雨瀧山山塊の背骨ラインを形成する尾根は、東から2の火山遺構群を経て、本丸のある雨瀧山山頂を通って、北西に伸びる寒川尾根遺構群から津田川(富田川)へ落ちていきます。津田川(富田川)へ落ちる尾根裾部付近には、造田の春日神社や「河川港」と見られる「船井」が残っています。
雨瀧山 遺構図全体2

ここからは、古代荘園時代から尾根筋が雨瀧山頂部と河川港などをつなぐ通路として利用していたことがうかがえます。
 中世の雨瀧山城を拠点とした勢力は、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部を本拠地とはせずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたようです。この城の築城者が何者か、また築城の意図がなんであったのかを解く糸口があると研究者は指摘します。交通の大動脈である瀬戸内海の入江でなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳がある内陸部平野を拠点とした意図はなんっだのでしょうか?  それについては、後に考えるとして、まずは遺構を見ながら雨瀧山城の範囲を確定しておきましょう。

まず津田川に落ち込んでいく西方尾根 寒川方面主尾根NW遺構群を見ていくことにします。

雨瀧山城 寒川方面遺構図
雨瀧山城 寒川方面尾根上の遺構群

尾根に取り付いた攻め手を待ち受けているのは、狭い「一本橋(NWー4遺構)」です。尾根上の幅が約3m程の馬背状地形を、両側から空堀構築のように削り取り、その一部(幅約60㎝)を掘り残して、一本橋状(長さ約18m)に加工した痕跡があります。これを「一本橋=いっぽんばし」遺構と呼ぶようです。
   一本橋遺構とは、何なのでしょうか。
尾根上を攻撃してくる敵は、 一人ずつ一列縦隊で侵攻して来るのではなく、数人の集団で押し寄せてきます。一本橋装置は、一人ずつしか渡れません。隊列を崩して一列になる必要があります。そこを飛び道具で狙い撃つというしかけです。この遺構は、単に堀切と一本橋(土橋状)で、敵を遮断するというよりも、ここに敵を招き入れて迎撃することで、打撃を与えることを目的にしていると研究者は指摘します。そのために、橋を長くしているのです。単なる「土橋」ではなくて「一本橋」と呼ぶ由縁のようです。

雨瀧山城 寒川方面遺構図拡大
寒川方面尾根遺構図 拡大版
 空間地形NWー3遺構
一本橋を渡った所の空地(NWー3)は、「一本橋」の附属空間だと研究者は指摘します。この地点は、自然地形上のピーク地点で一本橋よりも、一段高い位置にあります。一本橋を敵兵が乗り越えてきた時には、坂を駆け上ってこの空間に飛び込んで来ます。それをここで待ち構える守備兵が周りから迎撃します。そのための陣地空間です。
ここに一本橋と陣地空間を配置したのは、偶然ではなく縄張り上の工夫と研究者は評価します。一本橋効果をより高めるために工夫された陣地割と云えます。 次のNWー2遺構は、堀切状遺構です。
その下の斜面にあるのが竪堀NWー5・6遺構です。
「馬の背」尾根上の「展望所」の下になります。このふたつの遺構は、NW1遺構方向に向けて、敵が尾根側面へ回り込むのを防ぐ竪堀のようです。竪堀NW5の東側面は、わざわざ土塁状に構築していて、城内側が優位になるように斜面上にしています。軍事的視点からも、ここが竪堀構築位置としては、最良地点だと研究者は評価します。
 堀切NW1遺構 西主尾根防禦の基幹となる堀切です。
 攻城側・城内守備側双方の接近戦が行われる所で、攻防戦の勝敗を左右する所です。守備側にとっては最後の遮断線であり、攻城側にとっても城郭主要部攻撃への拠点(西主尾根)の確保となり、双方ともに譲れない拠点になります。
以上、寒川方面の尾根上の遺構群を見てきましたが、主尾根防禦の構築物群に、「一本橋」・「陣地小空間」・「堀切」・の配列が確認できます。一定の「縄 張り技法」に基づく築城があったことがここからは分かります。
雨瀧山城 火山方面遺構図
            2 火山方面主尾根E遺構群(上図参照)
雨瀧山より火山に続く尾根は長く、何処までが雨瀧山系の尾根なのかよく分かりませんが、一般的にには柴谷峠辺りまでとされます。ただ尾根筋を、火山から雨瀧山へ向かって下っていくと、柴谷トンネルの上辺りの鞍部が、火山尾根の終点とも見えます。
この方面の防衛をどのように考えるか、または防禦物群の構築があったのかが、雨瀧山城の範囲を何処までとするかのポイントになります。
 一本橋(E5)遺構
火山に続く尾根筋がの傾斜地形の途中にも、「一本橋E5」があります。これは寒川方面主尾根にのNW4遺構と同じものです。ただこちらの遺構は、NW4よりもさらに規模が大きく、また弧状に湾曲させた形なので、さらに防禦機能を強化した「一本橋」に仕上がっているようです。この地点は、火山側へ登る傾斜地形上にあり、高低の逆転地で、防衛的には弱点地になります。その弱点を補完するための工夫として、一本橋を直線としないで、湾曲させる事で橋の上を走り抜けにくくして、守備側に射撃チャンスを確保しようとしたものと研究者は指摘します。そして「一本橋」があるこの地点を、雨瀧山城の東方面の城域をしめす遺構とします。ここから東に雨瀧山城は展開していたことになります。

雨瀧山城 火山方面遺構図拡大図
 2 火山方面主尾根E遺構群 拡大図
 空間地形E4遺構も、寒川方面主尾根で見られたNW3の遺構と同じ効果を狙った空間地形のようです。続くE3遺構も、小規模な「一本橋」遺構のようです。
 曲輪E2遺構 ここで城山から東へ続く尾根筋が、火山山系と分けられることになります。雨瀧山系の尾根筋を分ける象徴的なピーク地点とも云えます。頂上面は、曲輪としても十分な空間地形がありますが、現在は高圧線鉄塔が建っていて頂上地形状況はよく分かりません。位置や尾根筋上に孤立するピークの高さから、火山方面主尾根防衛の指揮所的機能を持つ曲輪であったと研究者は考えています。
以上からは、寒川方面の尾根防衛と同じように、こちらも「一本橋」で防衛する縄張り構造が見られ、縄張りに統一性があることがうかがえます。
雨瀧山城 東尾根
雨瀧山 東尾根筋柴谷峠方面遺構図
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群(上図)
富田地区と津田地区を結ぶ柴谷峠道は、今はトンネルで結ばれていますが、かつてはトンネル上に旧道があり、掘割地形となった峠に出ました。中世には、ここには城郭遺構である堀切があったはずです。当時ここは、城山尾根と火山尾根を遮断する大堀切だったと研究者は考えています。
雨瀧山城 津田浦方面尾根
4 津田浦方面泉聖天尾根NE遺構群(上図参照)
雨瀧山稜線SE4の小空地の北壁下から泉聖天が建っている元古墳に向けて伸びる尾根筋の間には、遺構は確認されていないないようです。しかし、元古墳のピークは、縄張りから考えると津田方面の戦闘指揮所としての曲輪があったと研究者は推測します。
① 屋敷地NE1遺構     岡
尾根先端裾部の東方向に下ったところに、通称「岡」と言われる屋敷地があります。この屋敷地周辺は、古代より開けたところで、屋敷地の南東側向かいに呉羽信仰の祭祀場があり、東下の海岸崖にも古墳とされる祭祀遺構が確認されています。この辺り一帯を、御座田と呼ぶので、古代からの集落地があったようです。この地区内で、屋敷地として一枚の広さと方形地形を見せる通称「岡」を特別な場所と見て、雨瀧山城に関連する屋敷地と研究者は考えています。
② 屋敷地NE2遺構  御殿
泉聖天が祀られている祠から東北方向に下ったところに、「御殿」と呼ばれる屋敷地があります。、ここは「岡」の地形と比べても、 一枚の広さや形状が狭く、周辺地形も手狭なので、屋敷地としての研究者の評価は少々劣るようです。
 地元の伝承では、ここに御殿があったとの説が有力なようです。
城門がここより移転して、現に火打山霊芝寺の門として残っているという研究者もいます。(『安富氏居館の謎』筑後正治)
 しかし、現在の寺門が雨瀧山城に関連する遺物かどうかは分かりません。調査結果からは、雨瀧山城の城門であるとする積極的な意見は見当たらないようです。むしろ江戸期に、藩主の別荘(御殿)を領地内の各地に設置していますが、そのひとつという意見の方が有力なようです。
③ 曲輪NE3遺構 ここは往時古代遺跡の前方後円墳でした。
今は、そこに泉聖天が建てられ、遺構調査はできないようです。先に述べたように、ここが戦闘指揮所として適所で、曲輪としての好地のようです。
 以上からは、この尾根筋を遮断する堀切は、構築時期に疑問が残り城郭遺構と判断できないと研究者は考えています。

 雨瀧山城の城郭プランがどの範囲まで及んでいるのかを見ました。
以上の防禦遺構から、雨瀧山城の範囲は、東西両尾根上の「一本橋」までと研究者は判断します。そして、津田方面では等利寺谷及び泉聖天古墳までとします。
 研究者が改めて注目するのは、「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構です。これは「ひとつのパターン」を繰り返して使用しています。現在では、パターン化は当たり前の工法ですが、中世ではそうではなかったようです。中世城郭での縄張りは、その場の地形にあった防禦構築物を、その場その場限りのものとして作っていくのが一般的です。ところが、雨瀧山城では、「あるパターン」の防禦構築物を繰り返して用いられています。また畿内などの他地域で使用されている「同一形状」の防禦施設が採用されています。そして、全体としても縄張りに「統一性」が見られます。
 ここからは、雨瀧山城の縄張りは、その場その場限りの発想ではなく、築城時以前に「縄張図面」があったこと。その構想とは、細川系築城技法を持つ者による縄張りだと研究者は指摘します。しかし、主郭部分には、織豊政権的な要素もあるようです。それは、また後に見ることにします。次回は、この城の主が生活した屋敷跡を見ていきたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度
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DSC08058
土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


   
丸亀平野や髙松平野の高速道路やバイパスの事前発掘調査では、「溝」が数多く出ていることを前回は見ました。「溝」からは、条里制が7世紀末~8世紀初頭に施行されたものであることが分かってきました。今回は、条里制に先立つ弥生時代の「大溝」を見てみることにします。テキストは、「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」です。

弥生時代 林・坊遺跡 灌漑水路
弥生時代前期初頭の灌漑水路網   高松市の林・坊城遺跡の場合

高松市の林・坊城遺跡では、弥生時代前期初頭(板付Ⅰ式併行期)の灌漑水路網が発掘されています。
南西部を流れる幹線的水路の10・11号溝に堰が作られ、小規模な分水路の25号溝が北西の水田エリアに伸びていきます。10・11号溝は、幅約1,5m前後、深さ約0,3~0,5mで、分水点には自然礫を積んで簡易な堰が作られています。取水源は、遺跡南方の旧河道と見られますがよく分かりません。これが、この遺跡でもっとも古い灌漑水路網になるようです。10・11号溝は、水田稲作の開始期のもので、小規模で改修痕跡もなく、短期間で破棄されています。土地地条件の変化などで、耕地が放棄され別の地点に移動しようです。初期の稲作は水田も不安定で、移動を繰り返していたことがうかがえます。
弥生時代 多肥遺跡 灌漑水路
弥生時代中期の灌漑水路網(図2)   高松市の多肥遺跡群

多肥遺跡群(高松市)では、弥生時代中期中葉までに掘られた基幹的な灌漑用水路が出てきています。
そのひとつが日暮松林遺跡(済世会地区)SDl等です。用水路は幅約4,2m・深さ約1mで、上流側の多肥宮尻遺跡SR02では、埋没旧河道の凹地に開削されています。微高地に導水され、日暮松林遺跡では微高地上面を通過して行く大掛かりなものです。その途中に、支線と見られる複数の小溝が分岐しています。加えて、南西方向から延びる別の灌漑水路(日暮松林フィットネスクラブ建設地区SD01ほか)と合流し、広範囲な灌漑水路網を形成します。
 また、開かれた後も浚渫などの維持管理による改修痕跡が確認できるようです。時期的には、弥生時代中期中葉までに開削された後、古墳時代後期まで機能していたと研究者は考えています。
 水田があった所は、溝の流下方向から見て微髙地上面だったと推測できます。調査で確認された総延長は約500mですが、取水源は更にその南側にあり、実際の灌漑水路の延長距離は約2kmはあったと研究者は考えています。
 以上から次のようなことが分かります。
①2㎞上流から灌漑用水による導水で微髙地も水田化が行われていたこと、
②定期的な管理が行われ長期間によって使用されていること
③この時代には稲作農耕が安定化したこと
これは弥生時代早期の用水路が短期間で廃棄されていたのとは対照的です。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡群の灌漑水路網(弥生時代後期)


弥生時代後期の灌漑水路網(図3) としては、坂出市の川津遺跡が挙げられます
 川津二代取遺跡、川津下樋遺跡からは復数の水路網が見つかっています。SD001は①旧河道(SR 101)が取水地で、微髙地にある川津中塚遺跡や下川津遺跡の中を貫通していきます。その間に、SR 1 03、SD57、SD30などの溝と合流し、複数の小溝で分水しながら下川津遺跡の第4微高地西側へ導水されています。最終的には。第3低地帯と呼ばれる凹地上にあった水田へつながっていたようで、総延長は約500mになります。
 途中に支線的な水路と見られる小溝が分岐しているので、下川津遺跡の第3低地帯の水田だけに用水を供給していたのではなく、微高地上面やその縁辺部にあった水田にも灌漑していたようです。遺物の出上状況からは、この用水路が弥生時代後期後半から古墳時代後期に埋没するまでの長期間に渡って機能していたことが分かります。
以上から次のようなことが分かります。
①取水口から2㎞近く離れた水田まで、微髙地を越えて導水されていたこと、
②その間にも小溝を分岐して、用水沿いの水田に供給したこと
③弥生時代中期には、灌漑用水網が丸亀・髙松平野には姿を見せていたこと。
③前回見たように、このような灌漑用水網の技術は技術革新がないまま条里制施行(7世紀末)まで使用されていること
⑤さらに大きな溝(用水路)が掘られる技術革新が行われたのは平安末期であること

ここで問題になるのが取水源です。
多肥遺跡群や川津遺跡群は、灌漑水路は沖積低地上を流れる旧河道を取水源としていたようです。取水限となる旧河道は、そこに作られる井堰の構造等などから川幅数mから20m、深さ1~2m程度の中規模の川が、弥生時代の一般的な取水源とされてきました。しかし、近年の発掘調査からは、より規模の大きい河川からの取水が行われていた可能性がでてきたようです。それを見ておきましょう。
弥生時代 末則遺跡
末則遺跡(綾川町)
末則遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主であったのだろうと私は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図
現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。綾川の「神水」地区の対岸(綾川町羽床上字田中浦)に「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設です。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。
 こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。

中規模河川からの取水に加えて、補助的な水源を活用する事例も見られます。

弥生時代 空港跡地1
空港跡地遺跡群の灌漑用水網 その1

扇状地に立地する空港跡地遺跡群では、弥生時代中期から灌漑水路網が現れます。その中で基幹的灌漑水路と見られるのは、次のふたつです。
①基幹的灌漑水路A 上林遺跡から空港跡地遺跡I地区へ流れ下すSRi01・SRi02
②基幹的灌漑水路B 空港跡地遺跡D地区からE地区へ流下するSDd00・SDe115、SDe138。
微高地にある住居群が散在するH地区からG地区、A地区からG地区へ抜けるSDh016、SDg86、SDg42、SDg17などは、基幹的滞漑水路Aから分岐する支線的な灌漑水路群と考えられます。更に支線的な灌漑水路のSDh016、SDg03には、井戸状に掘開された大型土坑に、通水のための小溝を付設した「出水」と呼ばれる補助的な灌漑施設が複数設けられています。 SDh016、SDg03が流下する地点は微高地上で、水が流れにくい所なので、灌漑水路に補助的な水源を複数組み合わせていると研究者は考えています。

  ここから研究者の見解が私にとっては興味深いものでした。
 これまで灌漑システムの発展については、遺跡立地の変化や遺跡数の増加を材料として、農業生産の拡大や人口増加が起こるという説明がされてきました。これが「治水灌漑を制するものが、天下を制する」説になっていきます。
弥生時代 遺跡数

例えば上のグラフからは、弥生時代後期V頃に遺跡総数が激増していることが見えます。従来は、灌漑整備による生産力増大が社会的発展をもたらし、次の古墳の出現を生み出す原動力となるという説明がされていました。社会経済史を基礎に、社会発展を説く説明です。
 しかし、実線で示された住居数は見ると、あまり増えていません。つまり人口は、それほどの増加はなかったことになります。ここから遺跡総数の増加は、人口の増加をもたらしたものではなく、当時の灌漑水路網の再整備や拡充を反映しているだけであると研究者は捉えます。国家形成の「原材料」は「治水灌漑」だけでは捉えられないというのです。
東洋的専制主義 全体主義権力の比較研究(ウィットフォーゲル) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
灌漑農業と国家権力の発生について、最近の研究史を見ておきましょう。
 ヴィットフォーグルは、灌漑作業の協業化によって、「労働力の組織化」を行うリーダが現れ、社会の階層化が起こり、これが国家形成要因のひとつとなるとしました。ここからは灌漑農業の発展は、統一的な政治権力の形成など社会の階層化につながるとされ、古代の国家形成を捉えるひとつの視点を示しました。分かりやすい説明で取っつきやすいのですが「単線的なモデル」で、融通性がなく地域差の多い日本の古代を説明するには無理があるとされ、現在では否定的な意見が多いようです。
 これに対して近藤義郎氏は、灌漑農業の発展に伴う余剰生産物の発生を通じて、単位集団と生産集団との階級間の衝突が調停者としての首長の出現を求めます。そこから社会の階層化を説明します。
 都出比呂志氏は、耕地開発や水利灌漑に伴う協業の基礎的単位である世帯共同体と、水系単位でそれが結合した農業共同体を想定します。その領域と前期古墳首長墓の分布が重複することから、首長権力の発生の基盤を農業共同体に求めました。
 広瀬和雄氏は、耕地開発や水利権の調整などを素材として、灌漑水田そのものが首長を生み出す構造を持っていたとします。そして、水田稲作を開始した弥生時代の初期の段階から社会の階層化が始まったと考えます。また、首長の統率する領域を、都出氏の農業共同体よりも小規模エリアとします。こうした首長は、自給できない貴重物資の入手や耕地開発を通じて、他の首長とネットワークを形成していくとします。この首長間のネットワークは、弥生後期から古墳前期により「高度化」していきますが、その関係は近畿を中心にして最初から階層的であったことと指摘します。
 大久保徹也氏は、灌漑水路と微地形との関係から、灌漑による協業によって結ばれる共同体のエリアを広瀬と同じく小規模なものとします。そして弥生時代に見られる様々な物資流通に注目し、共同体間の結び付きについて灌漑作業以外に必需物資の生産と流通を重視します。
 押さえておきたいのは、現在の研究者たちは「治水灌漑=国家権力発生」と単純に考えていないことです。国家権力の形成には、それ以外にも、「首長間のネットワーク + 必需物資の流通確保 + α」などの要素も加味する必要がある考えていることです。それでは、弥生時代の灌漑水路網にもう一度帰って、その整備の意味を研究者はどう考えているのかを見ておきましょう。

本当に灌漑水路網は、弥生時代後期になって急激に整備されたのでしょうか。
 弥生時代後期には、基幹的灌漑水路を中心に多くの灌漑水路が開削されたことが発掘調査からは分かっています。しかし、弥生時代後期の基幹的灌漑水路の多くは、新たな地点に開削されるのでなく、埋没などの老朽化が進んだ灌漑水路に近接して見られることが多いようです。つまり、灌漑網の基本的なプランは、弥生時代前期に完成され、弥生時代後期になって基幹的灌漑水路を再整備することや、支線となる小規模な水路が多く作ることで、灌漑域の拡大が行われたと研究者は考えています。
.基幹的灌漑水路と他の生産部門との関係

弥生時代 灌漑用水網と流通関係図

基礎的灌漑水路の多くは、初期遠賀川式上器出現後の弥生時代前期後半期から開削され始めます。
Koji on Twitter:  "石斧をつくる。凝灰岩製一部磨製石斧、伐木用(上)。凝灰岩製打製石斧、戦闘用(中)。黒曜石製一部磨製石斧、試験用(下)。  https://t.co/PdYzYxlitE https://t.co/xVjwgjVA3B https://t.co/3B821Pff5I" /  Twitter

この時期は、鋤・鍬などの木製農具が増加するとともに、片岩製の両刃石斧・片刃石斧・石庖、サヌカイト製打製石包丁の流通が始まります。木製農具は、灌漑水路の開削や水田稲作に不可欠な道具で、両刃石斧・片刃石斧は、木製農具の加工に使用されたようです。また、伐採用の両刃石斧は、水田を開くための伐採など耕地開発にはなくてはなりません。
石斧プロジェクト:沖縄生物俱楽部/旧棟

 多肥松林遺跡群を初めとして基幹的灌漑水路が開削される弥生時代中期中葉には、丘陵やそれに隣接する遺跡群から磨製石斧を多く保有する集落が出てきます。このような集落では、弥生時代前期後半期の環濠集落を中心に、立地を活かして木製品生産に傾斜した生業が行われたと研究者は考えています。
 弥生時代後期は、基幹的濯漑水路や支線的な灌漑水路が多く掘られて、灌漑水路網の再整備と灌漑エリアの拡大が行われた時期です。
この時期は、土器・鉄器・製塩などの物資流通に変化があったと研究者は考えています。
 例えば土器生産では、灌漑水路網で結ばれる2~3㎞程度のエリアで流通する香東川下流域産と呼ばれる特徴的な土器器群が現れます。この香東川下流域産土器は、高松平野の北東部の集落で専門的に生産されたものです。一方、近接する空港跡地遺跡群では、「白色系土器群」と呼ばれる土器群が周辺の集落で流通しています。ここからは、それぞれの土器を生産する拠点を中心に、生産・流通活動が活発化していることうかがえます。
川津遺跡群(坂出市)などの特定の遺跡群で、鍛冶遺構が出てきます。これは川津遺跡群を中心とした大束川流域単位での鉄の生産・流通が開始されたことを示します。製塩では、高松平野の東部丘陵の遺跡群を中心に、生産体制が整備されます。
 一方で木器生産では、後期初頭を境にして木製品が急激に減少します。これは、鉄に取って代わられたのではなく、周辺の丘陵や山間部で集中的な生産が行われ、地域分業が始まったことを示すと研究者は考えています。
 このように弥生時代後期になると、複数の生産部門で特定の集落群を中心に分掌関係が成立したことがうかがえます。それに歩調を合わせる形で、灌漑水路網の整備・拡張が行われています。両者は、無関係ではないようです。灌漑水路網の整備・拡充を契機として、農業生産を支える必需物資の拡大再生産が行われていることを研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①弥生時代後期の分掌化した必需物資の生産と流通は、古墳時代前期前半期まで、基幹的灌漑水路と呼ぶ大溝を中心にした灌漑システムは、古墳時代後期まで維持される。
②その間に古墳築造が開始される。
③これはそれは単に灌漑システムの発展だけでなく、それを契機とした様々な必需物資の生産と流通を巡る分掌化が行われた上での古墳の出現だった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」
 「西末則遺跡  農業試験場移転に伴う埋蔵文化財調査報告 2002年」


丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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十瓶山窯跡支群分布図2
十瓶山窯跡群 C地区が西村遺跡

西村遺跡は、国道32号綾南バイパス工事にともなう発掘調査で、古代から中世の須恵器・瓦窯跡と集落が一緒に出てきました。そのエリアは道路面なので、陶ローソン付近から東の長楽寺辺りまでに細長く広がる遺跡になります。
十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

西村遺跡が、どんな所に立地するのかを見ておきましょう。
 発掘調査によって遺構が確認された範囲は、東西1.1kmになり、遺構も連続しています。遺跡をふたつに分けるかたちで御寺川が東から西へ流れ、北条池の下で綾川と合流します。この谷の北側が、この地区の甘南備的存在である十瓶山から続く南麓斜面になります。谷の南側は、富川との間に挟まれ上面がほぼ平坦な台地(西村台地)が続きます。また谷の両側には御寺川に連なる小さな谷地形がいくつもあります。
 こうしてみると西村遺跡は、地形的には御寺川で西村北地区と山原・川北地区の2つに分けることができます。さらに小規模な谷筋で西村北(西部・中部・東部)に、後者は2群(山原地区・川北地区)に細区分します。西村遺跡は、これらの複合した遺跡群と捉えることができるようです。
各地区の遺構のあった時期を西から順番に、一覧表にしたものが下の表です。
十瓶山 西村遺跡推移標

 この表を見ると、西村北区中部からは西村1~2号窯跡が出土しています。その時期は、11世紀~13半ばまでで、それ以後に窯跡はありません。その東に当たる東部地区からは、窯跡が姿を消した後に建物群が姿を現しています。これをどう考えればいいのでしょうか?
発掘調査を指揮した廣瀬常雄氏は、西村遺跡について次のようにまとめています。
①西村遺跡の性格をよく表しているのは、掘立柱建物と窯跡(西村1~3号窯跡)であり、住居と生産遺構が時代別にあること
②時期的には、窯跡や粘土採掘坑(土坑群)を含めた生産遺構は5期(12世紀後葉)まで、それ以降に居住遺構が認められる。
③建物や溝の方位を規制する地割の存在と近世以前の耕作土の存在から、建物群の形成期には周辺が耕地化されていた。
 ここからは、もともとは西村遺跡は窯業生産地であったが、6期(12世紀末葉)以降は、須恵器生産を終えて周辺一帯の開墾を行い農村へと変貌していったことになります。つまり、窯業地帯から農村への転進が中世初頭に行われたという結論になります。

これに対して、違和感を持ったのが佐藤竜馬氏です。
今回は、西村遺跡を佐藤氏がどう捉えているのかを見ていきたいと思います。テキストは「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」です。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
  上表では12世紀後半に窯跡は消えますが、その後も「土坑群」と「焼土穴」は残っていたことが分かります。土坑穴は、須恵器の原料になる粘土を採集した穴跡で、「焼土穴」も窯の一種と考えられるようになりました。そうすると、西村遺跡では、その後も須恵器生産が続いていたことになります。
 もうひとつは西村遺跡西の特徴的土器とされる「瓦質土器」の存在です。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
 西村遺跡からは、中世前期の焼土坑が19基出土しています。その内訳は、西村北地区西部3基、西村北地区山東部6基、山原地区5基、川北地区5基です。これらが煙管状窯だった可能性が高くなります。
「煙管状窯」とは、どんな窯なのでしょうか
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯
煙管(きせる)状窯
煙管状窯は、円筒形の窯体中位に火格子(ロストル)を設けることで上下に窯室(燃焼部・焼成部)を持つ垂直焔(昇焔)式の窯のようです。須恵器生産地では、燃焼部が窯体手前に袋状に延びたり、焼成部で絞り込まれるものがあります。これは燃焼部内のガス圧を高めて、焔を効率的に焼成部へ吹き上がらせるための工夫と研究者は考えています。

煙管状窯の系譜は、12世紀の東播磨系の窯では穴窯と焼成器種を分担・補完する窯であったことが分かっています。
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが? 

十瓶山 西村 煙管状窯
煙管状窯

ところが、具体的な窯詰め方法を考えると、そうとも云えないようです。煙管状窯では空間利用が非常に効率的に行われていたようです。近・現代の垂直焔構造の窯では焼成部内に隙間なく製品を積み上げて、最上段を壁体よりもさらに上に盛り上げています。木野・伏見・市坂(京都府)、有爾(二重県)、御厩(香川県)などで、 このような窯詰方法が行われているようです。
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯

田中一廣氏の報告書は、次のように述べています。
「土器を並べて行き5段から6段程積みあげる。各々の土器は窯の中心において底面を合わせる様にして土器をきっちり詰め込む」

土師器皿を7000枚前後詰め込むことができたと報告されています。 研究者は、十瓶山窯の平均的規模の穴窯(焼成部長5.5m、幅1.3m)で試算しています。重ねられた1単位の個体数を平均15個程度ですので、床面に245単位を並べることができたとしても3675個が窯詰めができるだけです。これを焼土坑18の窯詰め量と比較すると、3倍程度にしかなりません。標準的な穴窯の焼成部床面積は7,15㎡です。焼土坑18の床面積はわずかに0,5㎡にしか過ぎません。面積比は14:1になります。しかし、窯詰め比率は3:1なのです。これは煙管状窯が焼成部内の空間をフルに活用できるのに対して、穴窯には「製品を積む高さにも限界が」あり、「窯体容積の割には生産力の低い窯であことに起因する」ことを研究者は指摘します。
 さらに、煙管状窯は容積が小さい上に垂直焔構造のために、害窯よりも燃料効率がよく、温度調節も簡単で、焼成時間も短時間化できたようです。燃料消費量の節約ばかりだけでなく、年間使用回数によっては、穴窯で焼くよりもコストがかからず利便性が高かったことが考えられます。ここからは煙管状窯を「小型」な窯とだけという視点では捉えられないと研究者は指摘します。
 西村遺跡の主生産品である須恵器椀などは低火度還元焔焼成品なので、煙管状窯で焼成する方があらゆる点で効率的だったと考えられます。
 焼土坑は、煙管状窯の基底部との共通点が多いようです。そのため削平された地上(半地上)式の煙管状窯と見倣してよいと研究者は考えます。
これらの焼土坑(煙管状窯)では、何が焼かれていたのでしょうか。
出土遺物で最も多いのは碗のようです。煙管状窯の操業期の12世紀後葉~13世紀後葉には、同じような形態・技法をもつ椀の多くは瓦質焼成です。ここから煙管状窯では、軟質焼成の須恵器椀が生産されていたことがうかがえます。

粘土採掘坑群 
 土坑群は、調査区内で8箇所で見つかっています。その立地は、谷筋に向う傾斜面の縁辺で地山が粘土層の地点です。土坑群が粘土採掘跡であったことの理由について、研究者は次のような点を挙げます。
①地形・地質に左右された立地
②形状・規模に規則性がないこと
③土器が出土した遺構が少なく、出土状況が多様であること
④掘削のために使われた道具が出土した事例があること
⑤窯業生産地に隣接し、操業時期的にも同時代であること
以上の理由から土坑群の多くは、粘上を採掘した跡とします。川北地区の土坑群8からは、多くの遺物が出てきました。これは、隣接する焼土坑18・19から焼土・土器の廃棄が行われたためで、粘土採掘坑が廃棄土坑に転用されたためと研究者は考えているようです。
遺構レイアウトを、山原地区で見ておきましょう。

十瓶山 西村遺跡 山原地区
西村遺跡山原地区の遺構配置

山原地区は、時期幅によって、次の4群に整理されています
①土坑群の掘削された11世紀中葉~13世紀中葉
②西村3号窯跡の操業期である12世紀前葉
③掘立柱建物・溝・墳墓・焼土坑のみられる12世紀末葉~13世紀前葉
④多量の遺物を含んだ廃棄土坑のみられる13世紀中葉
土坑群は継続期間が長く、③の遺構とは同時並行期間があります。出土した遺物は11世紀中葉~12世紀前葉で、建物・溝を破壊した土坑がないようです。ここからは土坑群の大半は③の遺構群の時期よりも前に掘られたもので、③の時期にも掘削が続きますが、次第に低調になったと研究者は考えているようです。以上から12世紀末葉~13世紀前葉の遺構とされています。

建物群は、建物34(J群)、建物35~37(k群)、建物38(i群)、建物39・40(m群)の4グループに分けられます。
建物の主軸は、真北方向を意識しているようで、周囲の地割とほぼ平行になります。建物の規模は15~25㎡前後のものが多く、西村北地区東部の建物群よりも小規模です。ただし建物群の全体が窺えるのは、中央にあるK群(35~37)だけです。K群には廂や床束などの構造的な差異はありませんが床面積45mの建物(建物37)があります。中型建物1棟と20m前後以下の小型建物2棟(35・36)と3つの建物で1セットです。建物の周囲に、雨落ち溝的な小溝が掘られています。建物群には時期差があるようで、K群が13世紀前葉、m群が12世紀末葉~13世紀初とされています。
 一方、研究者が注目するのは墳墓です。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
 
 焼土坑は建物40の中から、5基出ています。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
このうち焼土坑10・12~14が煙管状窯とされています。焼士坑11は焼土(窯壁)や失敗品の廃棄土坑とされています。削平されていて、遺物はほとんど出土していませんが焼土坑10の周囲の遺構や包含層の遺物は13世紀前葉のものです。また焼土坑11からは12世紀末葉~13世紀初頭の須恵器椀が出土しているので、隣接する焼土坑12~14も同じ13世紀初頭前後を研究者は考えています。
 m群の煙管状窯は、同時期のものとされる建物40溝と13と関連性がうかがえるがある位置関係にあります。建物40と窯が同時にあったとすると、窯の覆い屋的な施設になる可能性があります。
 この他、御寺川の谷斜面に面した土坑5では、13世紀中葉の須恵器椀などが大量に破棄されていました。ここではヘラとみられる竹製工具も出土しています。こうした廃棄土坑があったことは、k群やm群の建物群が廃絶した後にも、付近で土器生産が行われていた可能性があると研究者は考えています。

  以上のように各地区を検討した後に、西村遺跡について研究者は次のようにまとめています。
①西村遺跡では、12世紀中葉~13世紀後葉の間の期間、地上式の煙管状窯b類が各地区に複数あった。ここでは、軟質焼成の須恵器椀・捏鉢、恵器壷や叩き成形の鍋が焼成されていた。
②建物群が初めて姿を見せるのは、川北地区(N群)で11世紀後葉のこと。他地区では12中葉以降に始まり、13世紀後葉になると衰退し、14世紀前葉をもって廃絶する。
③西村北地区東部では建物跡が重っているので、比較的長期間建て替えながら存在した。
④床面積25m以上の大きな建物1棟と、20㎡以下の小型建物1~2棟が同時併存したこと。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。

以上から、中世前期の西村遺跡は12世紀中葉以降、急速に遺構群の形成が始まり、13世紀後葉には次第に廃絶に向うことが分かります。その操業単位については、建物群の構成や屋敷墓から見えるようにを自立した家族単位で行われていたと研究者は考えているようです。この時期の遺構は各単位(建物群)が煙管状窯を、いくつか持ち、原料となる粘土採掘場を共有で使うという姿が描けます。西村遺跡では「居住遺構」と「生産遺構」が不可分な関係を持ちながら消長した」と、研究者は記します。以上からは、13世紀中葉~14世紀前葉の西村遺跡は、軟質焼成の須恵器を中心にとした土器生産集団の活動の場であったと結論づけます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」




       十瓶山 綾奧下池南遺跡
   

  前回は十瓶山窯跡の瓦窯跡めぐりに必要な地図と予備知識を見ておきました。今回は、十瓶山窯跡群についての研究史的なものに出会いましたので紹介したいと思います。テキストは 「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」です。この報告書には、西村遺跡を中心に十瓶山窯群についての概説や研究史的なものがコンパクトにまとめられて、私にはありがたい資料です。この報告書にもとづいて、十瓶山窯跡群を見ていきたいと思います。
十瓶山窯跡分布図5

 最初に、この窯跡群の呼称についてですが十瓶山(陶)窯跡群の両方が使われています。どちらの呼称を用いても問題ないのでしょうが「陶(スエ)」という地名は、堺市の陶窯跡など各地にあります。そのため、地域名をつけないと混同します。そこで森浩一氏は「その地域の中心的存在で、また窯業を象徴する十瓶山の名を採る」として、「十瓶山窯跡群」と呼んでいます。以後は、これに従いたいと思います。それでは見ていきます。
 1967(昭和42)に、府中湖造成の際に水没窯跡4基と関連窯跡2基の発掘調査が行われます。同じ年に同志社大学が十瓶山北麓窯跡の発掘調査を行っています。

十瓶山 北麓窯
十瓶山窯跡群 北麓遺跡出土の十瓶山式甕
この窯跡の調査理由として森浩一氏は次のように述べています。

「全国的にも特徴がつよくあらわれている平安時代後期と推定される甕形土器を主に生産している窯を発掘することにした」

そして森氏は出土した特徴的な広口長胴平底甕を「十瓶山式甕」と命名して、11~13世紀のものとし、十瓶山窯跡群について、次のような点を指摘します。
①十瓶山窯跡群が綾川の水運によって讃岐国府と結び付けられていたこと、その経営に国府が関与していたこと
②平安時代後期の「十瓶山式甕」が甕専業の窯で大量生産されていること。
③「十瓶山式甕」が徳島県花園窯跡でも生産されていることを紹介し、「十瓶山の工人が、ある期間この地で生産に従事していたのではないかと考えられる」と指摘した。
④瓦窯が須恵器窯とは別個にあることに注目して、讃岐国内の諸寺院からの需要や、平安京内への搬出がこのような生産体制を必要としたことも示唆した。
十瓶山  西村遺跡出土の大型甕
大型の十瓶山式甕

渡部明夫氏も森氏の視点を継承し、次のような点を指摘しました。
「一郡一窯」体制であった讃岐岐国の須恵器生産が、8世紀前半頃に十瓶山窯跡群の独占体制に急激に置き換わっていくことを、国衛権力が十瓶山窯跡群を管轄するようになったことから説明します。そして打越窯跡の開窯には、当初坂出平野の地域権力(綾氏)が介在し、国府が設置されると打越窯が国衛機構に組み込まれたと考えました。
 国衛機構下では、新たに登場した国府や国分寺・国分尼寺などでの大量需要が生まれ「陶窯跡群の国衛に対する依存は強まり、国衙による陶窯跡群の掌握も容易になされるように」なったこと、さらに各地の旧首長の地域権力が微弱になったことで各地の窯が廃絶し、十瓶山窯跡群の製品が讃岐全域 に流通することになったとします。
 また『延喜式』の規定にも触れ、貢納須恵器が十瓶山窯跡群で生産されていた可能性を指摘し、国衙の意志が十瓶山で生産に反映されやすいという状況があったことを指摘します。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土2

さらに平安時代の須恵器生産については、「そこには革新的な面よりむしろ、伝統的・停滞的な面が強いように思われる」と判断します。
その理由として次のような点を挙げます。
①製作段階においてロクロ水挽き技法や底部糸切り技法が最後 まで導入されずに「伝統的な技法」による生産が続いたこと
②窯体構造 に大きな改良の痕跡がみられないこと
など「技術革新」が行われていないことを指摘します。そして12世紀になると、生産が急速に衰退するという変遷観が示されます。こうして次のように結論づけます。

「備前焼のように須恵器の中から中世陶器を生み出し、新たな生産を発展させた形跡はみられない」

これに対して、渡部氏は大型品と小型品を焼く窯が分離した平安時代中・後期の様相 を指摘 し、「 そこに分業的な生産の萌芽を認めることができるか もしれない」との+評価もしています。
十瓶山西村遺跡山原地区出土

 1975(昭和50)年頃になると国道32号綾南バイパス建設のための事前調査や周辺の宅地開発などで発掘調査数とエリアが拡大するようになります。

十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

国道32号バイパス工事にともない昭和1980年前後に行われた西村遺跡の発掘調査では、中世前期を中心 とした掘立柱建物群や粘土採掘坑、融着品を含む廃棄土坑などが窯跡とともに出てきました。この結果、中世前期の十瓶山窯跡群の土器生産について、新たに多くのことが分かるようになりました。特に西村1号窯跡では、瓦と須恵器が一緒に出てきて、須恵器の実年代をめぐって多くの議論が交わされました。

須恵器 打越窯跡地図
十瓶山窯跡群のスタート地点となる打越窯跡

 その2年後の1982年 に発掘された打越窯跡では、窯自体は発掘されませんでしたが、灰原から7世紀中葉~末葉の須恵器が多量に出土しました。この結果、十瓶山窯跡群における操業開始期がここまで遡ることと、打越窯跡が十瓶山窯跡群のスタートとなることが分かりました。
 さらに1983(昭和58)年 と1994(平成5)年 に行われたすべっと窯跡群の発掘調査では、9世紀後葉~10世紀前葉の須恵器窯が大量に集中して出てきました。そこでは大型品の壷や甕を中心に焼く窯 と、小型の杯・皿を焼成するロストル式窯が並んで造られ、器種に応じて使い分けられていたことが分かってきました。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土4
すべっと4号窯跡出土

次に十瓶山窯の須恵器編年が、どのように作られたのかを見ておきましょう。
1965年頃に、四国の古代窯業生産をまとめた六車恵一氏の依拠資料の多くは、断片的な採集品に基づくものでした。そのため須恵器の編年を体系的に示せるものではありませんでした。そんな中で、田辺昭三氏による讃岐の須恵器の編年が開始されます。
 1968(昭和43)年、府中湖造成に伴う窯跡の発掘調査によって、初めて奈良・平安時代の須恵器の変遷について、報告書では次のような「見通し」が出されます。
①庄屋原2号窯跡 と池宮神社南窯跡の資料を比較すると、形態が比較的似ている。
②丸底に近い底部をもつ無高台杯が庄屋原3号窯跡には少ないこと
③庄屋原3号窯跡に比べて池宮神社南窯跡の杯蓋天井部のツマミの方が高く突出し、天井部も段状に屈曲するなど、古式のスタイルを留めること
以上から庄屋原窯跡と、池宮神社南窯跡を比較すると、「スタイルは一致するが、器形の組み合せや細部については必ずしも形式的特徴を同じくするとは云い難い」 として、鉄鉢形の類例から庄屋原3号窯跡を大阪府陶邑窯跡群のMT21型式、岡山のさざらし奥池式に併行する時期に比定します。
 また池宮神社南窯跡や庄屋原3号窯跡の後に続くものとして、「高台が全く退化してしまったか、又は高台が付 けられても形式的になり貧弱なものでしかない」一群を指摘します。これがすべっと1号窯跡・ 田村神社東窯跡・ 明神谷窯跡のもので、直線的に立ち上がる体部・口縁部をもつ椀の存在、杯・蓋の消滅、叩き目を施した平底の瓶が現れることが特徴とします。そして、平安中期の菊花双鳥文鏡を伴出した金剛院経塚(まんのう町)から、体部の直線的な片口鉢が出土していることから、これらの一群を平安時代前期のものとします。そして、岡山の鐘鋳場窯跡と併行する時期とと考えます。
 この編年案については、いろいろな問題がありましたが、岡山や近畿の編年を念頭に置きながら設定された相対的な前後関係については、その後の編年作業の基礎になったと評価されています。

水没窯跡の調査報告書の奈良・平安時代前期の変遷案 と、森氏らによる平安後期~鎌倉時代の変遷案を受けて、新規の窯跡採集資料も交えながら初めて開窯期から終焉 (廃窯)期までの変遷を提示 したのが渡部明夫氏です。

十瓶山窯跡編年表
十瓶山窯跡編年対照表

渡部氏は 1980(昭和55)年に、十瓶山窯跡群の須恵器を9時期 に分けて第10表のように示しました。

器種構成によって大まかな前後関係を決めて、そのうえで奈良・ 平安時代前期のものは杯・皿の形態・技法で、平安時代後期のものは甕の口縁端部形態や椀の形態によって細別するという手法がとられています。
 平安時代後期の須恵器の実年代については、西村1号窯跡で鳥羽南殿のものと同文瓦が須恵器と同時に出てきたした調査例を参考にして、西村1号窯跡を11世紀末前後とします。そしてかめ焼谷3号窯跡のものは、口縁端部にシャープさがなく、より後出的な要素をもつとして、「12世紀でもあまり下らないであろう」 と推定します。こうした一連の作業によって渡部氏は、十瓶窯跡群全体の推移を描くことに成功します。
十瓶山西村遺跡西村北地区 

 同じ頃に西村遺跡の調査を担当した廣瀬常雄氏は、この遺跡から大量に出てくる古代末~中世前期の土器編年を試みます。
これらの土器は、高台の付いた椀を中心としていましたが、同じ形態・技法でありなが ら焼成は不安定で、土師質・瓦質・ 須恵質と多様な様相を見せます。廣瀬氏 はその中でも「良好なカワラ質の土器」を「瓦質土器」と名付けて、土師器・黒色土器 とともに図10表のようなの編年表を示します。

十瓶山窯跡編年表
 廣瀬氏の編年作成の手法を見てみると、次のように遺構を3つに区分します。
土師器・黒色土器が出てくるる遺構 (遺構A)、
土師器・黒色土器・瓦質土器が出てくる遺構 (遺構 B)、
土師器・瓦質土器 を出土する遺構 (遺構 C)
そして椀以外の共伴内容を示 してA~ Cの3時期に大別できることを示します。その上で型式による細別を行っています。このようにして設定された1~9期の編年表で、西村1号窯跡灰原出土の黒色土器椀は3期に相当します。
①ここから3期を11世紀末頃
②4期は西村1号窯跡例よりも新しい須恵器甕があるので、12世紀前半
③6期の資料が出てきた溝から出土した輸入磁器から、6期を12世紀末葉~13世紀初頭。

以上の相対的な型式幅から1期は10世紀には遡らず、9期は14世紀には大きく入り込まないと想定します。この編年表によると、瓦質土器は3期に出現したことになります。このように廣瀬編年は、出土土器の一括性を考慮しながら設定されたものです。また型式的にも径
高指数がほぼスムーズな変化を示すので、ほぼ妥当なものであると評価されるようになります。

 しかし瓦質土器の系譜については、謎のままです。
瓦質土器は須恵器生産との関連があると考えられてきましたが、具体的には「どのような流れの中で生まれてくるものなのかが明確 にできなかった」と述べています。
 それは、西村1号窯跡に続くかめ焼谷 3号窯跡の年代が、「12世紀でもあまり下らない」とされ、瓦質土器生産が盛んになる頃には須恵器生産が衰退していたと理解されていたことと関連があるようです。
こうした実年代観に対して、異論が出されるようになります。
大山真充氏 は昭和60(1985)年に再検討を行い、それまでと異なった年代観を提示します。
大山氏が先ず指摘したのは、平安後期須恵器の実年代の重要な定点であった西村1号窯跡の瓦は、鳥羽南殿出土瓦とは同時代のものではないという点で、次のように述べます。
「1号窯出土瓦は鳥羽南殿出土瓦とは同文とはみなすことはできず、このため、年代推定についてもこれを白紙に戻して考えなければならないだろう」

 代わりに大山氏が示したのが、讃岐国分寺(昭和59年度調査のSDI最下層から西村産とみられる黒色土器椀 (4期)と 和泉型瓦器椀 (尾上編年II-2期 )が同時に出土したことです。そして4期を12世紀中葉と修正します。
 その後、高速道路やバイパスに伴う大規模発掘が進むと、県内各地で中世集落の調査事例が激増します。その結果、西村9期の瓦質椀と十瓶山窯跡で作られた須恵器甕が共伴する報告が増えます。こうして、13世紀代には両者が併存関係にあったことが分かってきます。 
 この上に立って荻野繁春氏は、西村遺跡出土の瓦質捏鉢や壷などを甕同様に中世須恵器系陶器として位置付けて次のような序列を示します。
西村 2号窯跡→西村 1号窯跡→赤瀬山 2号窯跡→かめ焼谷 3号窯跡・西村遺跡山原地区N14-SK03→ 西村遺跡山原地区S5-SK01

 こうなると次には、十瓶山窯跡群の終焉期の実年代 と、「瓦質土器」の関わりを整理し直す必要が生れます。
これに応えたのが片桐氏と佐藤氏で、新たな編年案を提示します。
まず片桐氏は、讃岐の中世土器を概観する中で、西村産の瓦質土器とされてきた椀・杯・小皿を須恵器の範疇で捉え直します。続いて瓦質捏鉢も須恵器とし、形態的な変化から細かく分けます。さらに、平安前期から鎌倉時代の須恵器を消費地の資料も援用しながら13小期 に細分します。
 この際に平安時代前期の標識窯にすべっと2号窯跡やかめ焼谷1号窯跡を、また平安時代後期初頭の西村2号窯跡に先行する標識窯として団子出窯跡を想定して渡部氏の変遷観をより細分します。これらの考察を通じて、甕以外の捏鉢・壺・椀などの器種が12世紀後葉に須恵質から瓦質へ変化することを指摘します。こうして須恵器と西村産瓦質土器との系譜関係に新たな解釈を示しました。

十瓶山須恵器編年
同じ頃に佐藤氏は、十瓶山窯跡群の須恵器編年案を提示します。
編年にあたって佐藤氏は、まず器種構成上の変化から第 I~ Ⅳ期の設定を行います。その上で各時期に特徴的で普遍的な器種によって細分化し、次のように指摘します。
①第Ⅱ期に蓋杯の法量分化がはっきりとあらわれないこと
②第Ⅲ期の器種構成に輸入磁器を模倣しようとする指向が薄いこと
③第Ⅳ期への転換が器種構成の大きな断絶を伴うが、一方で捏鉢・甕に形態的な連続性も認められること
 そして、また片桐氏の指摘と同じようにⅣ段階 (12世紀中葉~後葉)に軟質製品が多くなることを西村産瓦質土器でも明らかにします。
十瓶山  西村1・2号窯跡出土

 一方、羽床正明氏は文献史学的立場から平安時代後期の十瓶山窯跡群の生産体制を考察します。
 羽床氏は平安京の鳥羽南殿から出土した讃岐系瓦が、讃岐国守高階泰仲の成功行為によって生産されたことを認めながらも、実際の瓦生産への関与は伝統的な郡司層で在庁官人でもあった綾氏によって行なわれた点をより重視し、次のように述べています。
「鳥羽南殿の造営に際して、讃岐国遥任国司高階泰仲は京にあって、任国の在庁官人に瓦を焼くよう国司庁宣を下し、その意を受けて在庁官人である綾氏が陶の須恵器 (瓦 )生産者を率いて、瓦生産に当たった」

 また別稿では、鎌倉・室町時代の史料にみえる「陶保」の設定目的を11世紀に燃料供給源である山林の保護するためのものとして、須恵器・瓦生産のために国衛が設定したものとします。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土5

渡部氏は、平安時代の須恵器生産に停滞的な面を強調し、中世須恵器生産への転換を否定的に捉えました。それに対して地元の片桐孝浩氏と佐藤氏は、中世生産地への転換を積極的に捉える立場をとります。
片桐氏は、11世紀第2四半期 に大宰府周辺地域との技術的な交流の結果、「底部押し出し技法」による椀が出現すること。同時期に西村遺跡への須恵器・土師器工人が集住することによって生産組織の再編が行なわれたとします。
 佐藤氏は、時期別の窯跡分布状況から十瓶山窯跡群の生産構造について次のよう点を指摘します
①綾川に面した庄屋原窯跡群 (A一 b支群)では、8世紀前葉~10世紀前葉に継続的に窯場が操業していたこと
②十瓶山北東麓のすべっと窯跡群 (C一 e支群)では、9世紀後葉~10世紀前葉に響窯とロストル式窯による器種別の生産が行なわれたこと
③12世紀後半の西村遺跡の本格的な集落 (窯場)形成と、14世紀のかめ焼谷203号窯跡への甕生産の集約化によって、器種別分業を支える固定的な窯場経営が定着したこと
そして、③の動きを中世的な生産への転換と捉えます。

最後に十瓶山窯跡群の窯について、見ておきましょう。
十瓶山 窯跡群の断面図
十瓶山窯跡群の断面図

研究者は次のような特徴を指摘します。
①燃焼部から煙道部に至る窯体基底線が直線的であり、窯体幅に急激な変化が認められない。
②床面平均傾斜が25°前後のものが大部分で、10°前後の緩い床面傾斜いタイプの窯はない。
②規模は全長 7m前後、幅1、5m前後のものが多い。
④半地下式のものが大半であり、地上・半地上式のものはほとんど見つかっていない。
⑤窯は8世紀に採用された構造を改良することなく、終焉期を迎えている

12世紀後半以降の各地の中世須恵器生産地では、穴窯の床面傾斜が次第に緩くなる傾向があるようです。
十瓶山 窯跡群の断面図

 また分焔柱を設けたり(亀山窯)、障焔壁を備えたり(亀山窯・東播系諸窯)するなど、東海地方の姿器系陶器窯との技術交流の成果から窯体構造の改良が見られます。こうした動きと比較すると十瓶山窯の焼成技術の固定・保守的で「技術革新」が見られないようです。新たな改良点を上げるとすれば、「馬の爪」状の焼き台が12世紀に採用されているだけです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」

  ザックを背負って、地図とコンパスを持って山の中を若い頃に歩いていました。そのため地形図を持って、知らない土地を歩くのが今でも好きです。古墳や山城・古代廃寺めぐりは血が騒ぎます。最近、はまってるのが窯跡めぐりです。そのためには、詳細な地図を手に入れる必要があります。しかし。これがなかなか難しいのです。そんな中で見つけたのが陶(十瓶山)瓦窯跡群の詳細地図が入っている文章です。この地図で「フィールドワーク」(ぶらぶら歩き?)をするための自分用の資料を作成しましたのでアップしておきます。テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」です。

綾歌郡綾川町陶の十瓶山から府中湖周辺にかけては、陶(十瓶山)窯跡群と呼ばれる須恵器と瓦を生産した窯が集中的に分布します。古代から一大生産地を形成していたことは、『延喜式』主計寮式に、陶器(須恵器)が讃岐の調として記載されていることからも分かります。今回は、瓦窯に絞っての紹介になります。

十瓶山窯跡支群分布図1
陶(十瓶山)瓦窯跡分布図

 陶(十瓶山)窯跡群の範囲は、上図に示したように府中湖南部、北条池、十瓶山周辺になります。ただし、現在の地形は府中湖建設やため池設置、水田の基盤整備によって大きく改変されています。そのため、現地中に埋まってしまったものや湖岸にあるものがほとんどになています。しかし、もともとは、綾川に向かって開く谷状の地形に造られ、まわりには窯を造るのに適当な緩斜面があったようです。水運などの利用なども考えると、このような地形を巧みに利用して瓦窯が造営されたことが推察できます。それでは、確認できる瓦窯跡を地図で見ていくことにします。なお、窯跡名称の番号は、須恵器窯も含めたナンバリングのため、文章中に表記されず欠番のようになっているのは須恵器窯になるようです。

【下野原支群】第1図-1、

十瓶山 下野原支群
下野原支群

下野原支群は、府中湖の高速道の南側の東岸に位置します。
下野原1・2号窯跡(2図の1・2)が、深井池の北側から綾川に向かって開く谷の入口の北側緩斜面に立地します。陶(十瓶山)窯跡群の初期瓦窯とされる一群になるようです。この対岸には、須恵器の初期窯跡である打越窯跡があります。須恵器も瓦も、この辺りが陶窯跡群全体のスタート地点になるようです。
 下野原1・2号窯では窯壁片、須恵器、瓦片がまばらに分布しています。分布状態から焚口を南に向けてた穴窯が東西に並んで操業されていたと研究者は考えているようです。窯の構造は分かりませんが、須恵器や瓦片が5~10m範囲に散布していたようです。2基ともに軒瓦は出土していませんが、打越窯跡のものと考えられる須恵器と格子目の叩きをもつ平瓦が出土しています。
 下野6号窯(2図の4)は、普段は府中湖の中に水没しています。
水が引いた時に、窯の天井部が落ち込んだ状態で出現します。瓦片が採取でき、窯体の破片に混じって丸瓦も採集できたようです。下野原7号窯(2図の3)は府中湖の満水時の水位付近に、窯壁が散乱した状態で確認できるようです。かつては、瓦片も採集できたと云います。
 以上から、この支群は庄屋原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の初期の瓦窯とされています。
十瓶山 地下式穴窯

【内間支群】第1図-2、
府中湖に突き出た半島には、中世の庄屋原城址があります。
府中湖がなかった築城当時は、低地に突き出た丘陵という凄みのある要害の地であったのでしょう。丘陵の付け根を幅10m、深さ3。5mの堀切で遮断し、内部に8つの曲輪があることが報告されています。綾川の河川交易路を見守る要地に位置する中世城郭跡です。ここで古代の地形復元をしておきます。明治の地形図を、いつものように「今昔マップ」で見ておきましょう。
十瓶山 庄屋原1
明治の地形図に旧支流を水色で書き入れた地図
ここからは、庄屋原城址のある半島の東側には、水色で示した一本の支流が流れ込んでいた痕跡が見えてきます。この支流が綾川と合流する地点に、堤防を築いて造られたのが現在のカシヤキ池です。この支流跡沿いに田村うどん方面に、いくつかの瓦窯跡が並んでいます。まずは内間支群です。この支群は、次の2つの群からなります。

十瓶山 内間支群
①府中湖の庄屋原城址がある半島の東側の湖岸に立地する3基(10~12号)(5・6・7)
②カシヤキ池の南西部側の谷の5基(8~12号)。
②については、カシヤキ池の堤防がない時には、十瓶山北西麓から府中湖(旧綾川)に向かって開く深い谷の入口部で、川船が直下まで入ってくることができたようです。
①の群の3基周辺からは灰原が確認でき、北に焚き口を向けた窯が3基並んでいたようです。どの窯のものかは分かりませんが、次のような瓦が確認されています。
A 八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 高松市如意輪寺周辺で出土している八葉単弁蓮幸文軒丸瓦
C 丸山5号窯付近の瓦溜まり(SX01)
D 東かがわ市白鳥廃寺
E 京都市平安京左京二条二坊からも出土している八葉複千蓮華文軒丸瓦
F 外区に唐草文を施す均整唐草文軒平瓦
Fの軒平瓦は丸山5号窯付近の瓦溜り(SX01)、綾川町観音台廃寺・坂出市鴨廃寺などからも出てくる瓦
 ここからは、この瓦群で焼かれた瓦が京都や白鳥、府中周辺に運ばれたことが分かります。

②群のカシヤキ池周辺は、今は耕地整理の造成で谷が埋められ水田となり、当時の地形は分かりません。第3図のようにカシヤキ池に合流する小さな谷があり、その西側斜面に窯が造られたようです。1・8号窯はロストル式平窯であったことを研究者が確認していようです。2・13・9号窯では、焼上が確認されています。瓦の散布が確認されているのは1・9号窯ですが、その他にも8号からは行基式丸瓦、9号窯で均整膚草文軒平瓦が採集されています。

十瓶山 ロストル2

丸山支群(第1図-3・4)
十瓶山 丸山支群西

丸山支群は、カシヤキ池から伸びる綾川旧支流の上流にあたり、位置的には内間瓦窯の東側になります。グーグルマップと図4を重ねると、「ミルコム南 香川中央センター」が立地する場所を支流が流れていて、ここまでは船が入っていたことがうかがえます。その北側の斜面部に、6基(1・13・5~8号:第4図)、さらに県道を越えて田村うどんの前にあるミニストップの裏側の斜面に5基(4・9~12第5図)あり、合計11基になります。これは、陶(十瓶山)窯跡の支群の中で最も多いまとまりになるようです。県道西側の3・5・7・8号窯については、発掘調査が行われていて次のようなことが分かります。

十瓶山 丸山支群と高揚院同笵
      丸山窯跡の瓦と高陽院出土瓦は同笵関係

  丸山窯跡から出土した均整唐草文軒平瓦(TMY-203b 型式)は、高陽院出土瓦と比較すると同じ位置に大きな笵傷(はんきず・上写真の右の赤い矢印部分)があることがわかります。これによって、丸山瓦窯支群で作られた瓦が京都に運ばれていたことが証明できます。写真左の唐草文八葉複弁蓮華文軒丸瓦(TMY-102 型式)も同笵の可能性が高く、両者がセットで京都に運ばれたことが分かります。
 さらに、11世紀中葉に造られ高陽院と左京五条三坊十五町の貴族邸宅で使われた瓦も、丸山窯跡と西の浦窯跡で生産されたものです。平安京への提供が終わった後は、このタイプの瓦は白鳥廃寺・下司(げし)廃寺に供給されています。これは国衙工人の出張生産によるものと研究者は考えています。
十瓶山 丸山支群東

 一方、東側のミニストップ裏の丸山支群(2)については、発掘調査が行われていないのでよく分かりませんが、1998年頃の擁壁工事の際に、焼土が出てきて、窯の存在が確認されています。そのうち4号窯からは巴文軒平九が出土しているようです。

十瓶山 丸山・ますえ
丸山支群とますえ畑支群の位置関係

【ますえ畑支群】第1図-5、
十瓶山 ますえ畑支群

 ますえ畑支群は北条池から伸びて来た支流沿いに位置します。
支流跡沿いには、渇池や東谷池などいくつものため池が密集します。その中の今はなくなった濁池というため池の南側の堤防の下に立地する窯跡群で、7基(1~7号窯)が確認されています。

鳩山窯跡群
半地下式有状式窯
このうち1号窯は県指定史跡となって、次のような事が分かっています。
①半地下式有状式窯で、燃焼室、焼成室、分焔孔、隔壁などが残っていること
②焼成室は2条の状があり、長大
③床面は傾斜した構造で、登窯のような形態
④出土瓦は六葉重弁蓮華文軒丸瓦、宝相幸唐草文軒平瓦が出土し、後者は六波羅蜜寺からも出ている。
1号窯の構造について「須恵器生産技術との融合によってはじめて実現されたもの」で「大量生産」を可能にした窯と研究者は考えています。
十瓶山 ロストル3
 瓦専専用のロストル式平窯 

1号窯以外の窯跡については、次のように述べています。
①3・4号窯については、水路崖面を調査した際に焼土が確認されている
②5号窯については、1970年代前半に焼土や瓦が出土している
③7号窯については、1970年頃の農地の造成時に窯の存在が確認されている。
④3・4号窯からは丸山支群で出土している均整唐草文平瓦が出土している。
【庄屋原支群】第1図-6、
十瓶山 庄屋原2
庄屋原支群分布図

もう一度、府中湖畔に還ります。庄屋原城址のある半島から南に東岸斜面を進むと庄屋原窯跡群があります。南から4基(1~4号窯)の窯跡が並び、北側のやや離れたところに1基(5号)の窯跡が位置します。このうちの2・4号窯)が瓦窯でになり、湖岸崩壊防止工事に伴う試掘調査が行われていて、次のような事が分かっています。

①2号窯は燃焼部とみられる窯体が見つかり、4号窯は燃焼部、焼成部、煙道部などが確認された。
②4号窯の窯体は2回以上の補修を受けていて、第1次窯は全長5m、幅約1,44mで、第2次窯では全長約7m、幅約1.3mに増設されていること
③この支群からは須恵器片と凸面に格子目叩きがある瓦片がでてきていて、下野原支群のものとよく似ているので、下野原支群に続く時期の瓦窯の可能性が高い
④須恵器から操業時期は2号窯が8世紀前半、4号窯が9世紀前半以降
以上の点から、この支群は、この遺跡の半島を越えた下野原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の最初期の瓦窯支群と研究者は考えています。

【小坂池支群】第1図一ア、
十瓶山 小坂池支群
小坂池支群 分布図

小坂池支群は、池の底にある窯跡群です。小坂池は、北条池に向かって伸びる谷に位置し、その北側斜面に窯が開かれていました。池の改修工事に伴う事前の試掘工事が2007年に行われ、3基の窯跡が確認され、次のような事が分かっています。
①焼成室のみの確認で、構造は平窯(ロストル)であること。
② 20cm前後の状が1号は2条、2・3号はは3条ある形態
③窯の配置は1・2号が対になり、空間地をはさんで3号窯があるという配置スタイル
 11世紀前葉に小坂池支群で焼かれた瓦は、平安京の宮中内裏・豊楽(ぶらく)院・朝堂院と東寺・仁和寺などの中央政府に関わる施設から出土します。仁和寺の治安二(1022)年に竣工した観音堂に使われたようです。宮中の瓦は長元7(1034)年の暴風雨被害の修理の時に使用されたものと研究者は考えています。焼成瓦を笵に転用した陰面瓦が出てきているので、京への提供後には地元寺院へ転用供給された可能性があるようです。東寺に提供された瓦は、三野郡の妙音寺・道音寺にも供給されています。国衙工人が出向いての出張生産が行われたと研究者は考えています。
【北条池支群】第1図-8、

十瓶山 西浦支群
北条池支群

北条池支群は北条池の堰堤の内側に並んで位置します。
台地南端部の斜面を利用した窯跡群です。北条池は、綾川に流れ込む支流をせき止めて造られたため池です。その支流の右岸(南側)に、全部で7基(1~7号窯)がありますが、調査が行われていないので詳しいことは分かりません。そのうち1号窯については、半地下式有平窯(ロストル)であることが分かっています。窯壁片や焼成が見つかっているので、1号窯と同じような構造の瓦窯だと研究者は考えているようです。2号窯の下からは、西村支群からも見つかっている八葉複弁蓮華文軒丸瓦が採集されています。

【西ノ浦支群】第1図-10、
十瓶山 西浦支群南
西ノ浦支群

西ノ浦支群は、北条池支群の対岸にあり、台地北端部を利用した窯跡群で、次のような事が分かっています。
①4基の窯跡が確認され、そのうちの2号窯は平窯(ロストル)であること
②1号窯は焼土、4号窯は焼上や灰原が確認されている
③4号窯以外では、瓦の散布がある。
④1号窯からは四葉素弁軒丸瓦が出土していた、同一文様のものが高松市屋島寺からも出ている
⑤瓦については、 八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出ていて、同じものが内間支群や綾歌郡綾川町龍燈院で、坂出市鴨廃寺、丸亀市法勲寺、平安京左京五条三坊十五五町などで出土している。

【西村支群】第1図-12
十瓶山 西村支群

西村支群は、国道32号線綾南バイハス工事の際に、西村遺跡の発掘調査時に発見された窯跡群です。1・2号窯は御寺川へと向かって北に開く谷の東側斜面に、3号窯は御寺川によって形成された谷の北東側の斜面に立地していて、両者はかなり離れています。
ローソンそばの1・2号窯ついては、次のような事が分かっています。
①1号窯からは八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦が出ている。
②前者は、讃岐国内では、北条池2号窯ド、坂出市開法寺跡、高松市如意輪寺周辺からも出土しているほか、平安京の鳥羽南殿にも供給されている。
③後者は陶窯跡群の内間支群、善通寺市曼茶羅寺、丸亀市本島八幡神社、高松市如意輪寺周辺からも出土している。その他にも、平安京では鳥羽南殿、平安宮真言院、平安宮朝堂院に供給されている。
④2号窯では平瓦が出土している。
⑤灰原と一緒に出てきた須恵器から1号窯が11世紀末、2号窯が11世紀中頃と考えられる。
⑥1・2号窯周辺からは、窯の生産活動によって埋没した溝から巴文軒平瓦が出土している。
⑦ますえ畑と同文の宝相幸唐草文軒平瓦も出土している。
これに対して長楽寺北の3号窯は、焼成室、燃焼室が残っています。
燃焼室は3条のロストルをもつタイプで、多くの平瓦が出土しています。近接する廃棄上坑からは巴文軒平瓦が出土しています。

以上をまとめておきます
①陶(十瓶山)瓦窯跡群は、いくつかの支群に分かれています。その立地は旧綾川か、その支流の河岸斜面にあり、河川運送が行われていたことがうかがえる。
②陶窯跡群の瓦生産については、
前期として、府中湖南東部周辺に位置する下野原支群、庄屋原支群
後期として、府中湖の旧支流沿いに立地する支群に分けられる
③前期支群は、穴窯で、後期支群は新しいタイプの平窯(ロストル)という区分ができる。
④操業時期は、前期が白鳳~奈良良時代、後期が平安後期以降と設定されている。
⑤後期の瓦窯群で造られた瓦は、平安京の宮殿や寺院にも提供されている。

たとえば12世紀前半頃に、建設された鳥羽離宮には、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われていることが分かってきました。
鳥羽離宮は白河上皇の院殿です。南殿は讃岐国守高階泰仲が「成功」という位階買収の制度を使って応徳三(1086)年に造営した最初の寝殿です。発掘調査では多数の讃岐系瓦が出土しました。生産地は丸山窯跡・内間(うちま)窯跡・北条池窯跡といった瓦専用窯だけでなく工人集団の工房兼居宅と考えられる西村遺跡でも出土します。周辺の開法寺跡・鴨廃寺・綾川寺・曼荼羅寺にも瓦を供給しています。讃岐国分寺の塔頭とされる如意輪寺に附属する窯跡では、工人の出張生産が行われたと研究者は考えています。
12世紀になると、院殿附属の御願寺鳥羽離宮金剛心院・平安宮南面大垣・宇治平等院・法住寺殿蓮華王院・六波羅蜜寺などの建物にも、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われています。この需要に応えるために、内間窯・丸山窯・ますえ畑窯では多数の窯が同時にフル操業するようになります。この時期が、陶(十瓶山)瓦窯群の最盛期のようです。
   このように奈良時代以後、陶(十瓶山)窯群地帯は、綾氏の保護を受け、準国営工場的な性格を持ち瓦と須恵器生産の中心地に成長して行くことになります。その工人たちの生活拠点が西村遺跡だと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」
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須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
 7世紀後半は、三野・高瀬窯で生産された須恵器が讃岐全体の遺跡から出てくる時期であることは、前回に見たとおりです。「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していた時期でもありました。7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へという流れだったのです。
 ところが、奈良時代になると三野・高瀬窯群の優位は崩れ、綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。今回は、それがどのように進んだのかを見ていきたいと思います。  テキストは  「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」です。 

 7世紀前半は讃岐の須恵器窯跡群と大型横穴式石室墳の分布は、郡域単位でセットになっていること、ここからは古墳の築造者である首長層が、須恵器の生産・流通面で関与していたと研究者は考えていることを、前回にお話ししました。その例を十瓶山窯群と神懸神社古墳との関係で見ておきましょう。
須恵器 打越窯跡地図

神懸神社古墳は、坂出平野南方の綾川沿いの山間部にある古墳です。古墳の周辺は急斜面の丘陵が迫っていて、平地部は蛇行して北流する綾川が形成した狭い氾濫原(現府中湖)だけです。このような耕地に乏しい地域に、弥生時代の集落の痕跡はありませんし、この古墳以外に遺跡はありません。四国横断道建設の予備調査(府中地区)でも、遺構・遺物があまりない地域であることが分かっています。
神懸神社(坂出市)

 ということは神懸神社古墳は、耕地開発が困難な小地域に、突如として現れた古墳と云えるようです。しかも、出土した須恵器や石室構造(無袖式)からは、新規古墳の造営が激減する7世紀中葉(T K 217型式相当)になって造られたことが分かります。つまり終末期の古墳です。7世紀中葉というのは、白村江敗北の危機意識の中で、城山や屋島に朝鮮式山城が造営されている時期です。そして、大量の亡命渡来人が讃岐にもやってきた頃になります。神懸神社古墳の背景には、特異な事情があると研究者は推測します。
研究者が注目するのが、同時期に開窯する打越窯跡です。
打越窯跡は、この古墳の南西1㎞の西岸にあった須恵器生産窯です。この窯跡を発見したのは、綾川町陶在住の日詰寅市氏で、窯跡周辺の丘陵がミカン畑に開墾された1968(昭和43)年頃のことでした。分布調査で、平安時代の須恵器窯跡を確認し、十瓶山窯跡群が綾川沿いに坂出市まで広がっていたことを明らかにしました。採集された資料を、十瓶山窯跡群の踏査・研究を続けられてきた田村久雄氏が見て、十瓶山窯跡群における最古の須恵器窯跡であることが明らかにされます。
 その後、研究者が杯・無蓋高杯・甕・壺脚部の実測図を検討して、7世紀前半~中頃のものと位置づけます。つまり、打越遺跡は、十瓶山を中心に分布する十瓶山窯須恵器窯の中でもっとも古い窯跡であるとされたのです。こうして、陶窯跡群の成立過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡という認識が研究者のあいだにはあったようです。しかし、打越窯跡自体は開墾のため消滅したと考えられていました。
 そのような中で1981(昭和56)年になって、打越窯跡のある谷部が埋め立てて造成されることになり緊急調査が行われました。発掘調査の第5トレンチの斜面上部には、灰と黒色土を含む暗赤褐色の焼土が約10㎝の厚さに堆積していました。また、良好な灰原が残っていて、大量の須恵器が出てきたのです。出土した遺物は、コンテナ約220箱にのぼりますが、すべてが須恵器のようです。報告書は、遺物を上層ごとに分けることが困難なために、時代区分を行わずに器種で分け、次に形態によって分けて掲載されています。

須恵器 打越窯跡出土須恵器2
打越窯跡出土の須恵器分類図
 打越窯跡から出てきた須恵器はTK48型式相当期のもので、先ほど見た神懸神社古墳の副葬品として埋葬されていたことが分かってきました。神懸神社古墳には初葬から追葬時期まで、打越窯跡からの須恵器が使われています。見逃せないのは室内から窯壁片が出ていることです。両遺跡の距離からみて、偶然混入する可能性は低いでしょう。何かの意図(遺品?)をもって石室内に運び込まれたと研究者は考えています。
須恵器 打越窯跡出土須恵器
          打越窯跡出土の須恵器
 打越窯跡で焼かれた須恵器(7世紀)をみると、器壁の薄さや自然釉の厚さなどから、整形、焼成技術面で高い技術がうかがえるようです。讃岐では最も優れたに工人集団が、ここにいたと研究者は考えています。どのようにして先進技術をもった工人たちが、ここにやってくることになったのでしょうか。それは、後で考えることにして先に進みます。
 以上から、この古墳に眠る人たちは打越窯跡の操業に関わった人たちであった可能性が高いと研究者は考えます。
彼らは窯を所有し、原料(粘土・薪)を調達し、工房を含めた窯場を維持・管理する「窯元」的立場の階層です。想像を膨らませるなら、彼らは時期的に見て白村江敗戦後にやってきた亡命技術者集団であったかもしれません。ヤマト政権が彼らを受けいれ、阿野北平野の大型石室墳の築造主体(在地首長層=綾氏?)に「下賜」したというストーリーが描けそうです。それを小説風に、描いてみましょう。
 綾氏は、最先端の須恵器生産技術をもった技術者集団を手に入れ、その窯を開く場所を探させます。立地条件として、挙げられのは次のような点です。
①綾川沿いの川船での輸送ができるエリアで
②須恵器生産に適した粘土層を捜し
③周辺が未開発で照葉樹林の原野が広がり、燃料(薪)を大量を入手できる所
④綾氏の支配エリアである阿野郡の郡内
その結果、白羽の矢が立てられたの打越窯跡ということになります。
 こうして、7世紀後半に打越窯で須恵器生産は開始されます。ここで作られた須恵器は、綾川水運を通じて、綾氏の拠点である阿野北平野や福江・川津などに提供されるようになります。しかし、当時の讃岐の須恵器市場をリードしていたのは三豊の辻窯群と三野・高瀬窯群であったことは、前回見たとおりです。この時点では、打越窯では他郡への移出が行えるほどの生産規模ではなかったようです。

須恵器 府中湖
府中ダムを見晴らす位置にある神懸神社
 窯を開設したリーダーが亡くなると、下流の見晴らしのいい場所に造営されたのが神懸神社古墳です。
その副葬品は、打越窯で焼かれた須恵器が使われます。また、遺品として打越窯の壁の一部が埋葬されます。それは、打越窯を開いたリーダーへのリスペクトと感謝の気持ちを表したものだったのでしょう。打越窯での生産は、その後も継続して行われます。そして、一族が亡くなる度に追葬が行われ、その時代の須恵器が埋葬されました。
  そうするうちに、打越窯跡周辺の原野を切り尽くし、燃料(薪)入手が困難になってきます。窯の移動の時期がやってきます。周辺を探す中で、見つけたのが十瓶山周辺の良質で豊富な粘土層でした。彼らは打越窯から十瓶周辺へ生産拠点を移します。こうして十瓶山窯群の本格的な操業が開始されていきます。
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
讃岐の須恵器生産窯(7世紀)

 7世紀後半には、讃岐では大規模な須恵器生産窯の開設が進みます。那珂郡の奧部の満濃池東岸窯跡や香南の大坪窯跡群のように、原料不足のためか平野部の奧の丘陵地帯に開かれる窯が多くなるのが特徴です。こうして発展の一途をたどるかにみえた讃岐の須恵器窯群です。
 ところが、8世紀になると一転してほとんどの窯が一斉に操業停止状態になります。そんな中で、陶窯跡群だけが生産活動を続け、讃岐の市場を独占していきます。各窯群を見ておく、庄岸原窯跡・池宮神社南窯跡・北条池1号窯跡などをはじめとして、北条池周辺に8世紀代の窯跡が集中し、盛んな窯業活動を展開します。
 須恵器生産窯の多くが奈良時代になると閉じられるのは、どうしてでしょうか?
その原因のひとつは、7世紀中頃に群集墳築造が終わり、副葬品としての須恵器需要がなくなったことが考えられます。もうひとつは、この現象の背景には、もっと大きな変化があったと研究者は考えています。それは、律令支配の完成です。各地で須恵器生産を管理していた地域首長たちは、律令体制下では各郡の郡司となっていきます。郡司はあくまで国衙に直属する地方官にすぎません。古墳時代の地域支配者(首長)としての権力は制限されます。また、律令時代にすべての土地公有化され、燃料となる樹木の伐採を配下にいる須恵器工人に独占させ続けることができない場合もでてきたかもしれません。原料である粘土と、燃料である薪の入手が困難になり、生産活動に大きな支障が出てきたことが考えられます。
 これに対して陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群でした。
 陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不使なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆わた原野で、豊富な燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。

 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得したのではないかと研究者は考えています。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。

 先ほど見たように陶窯跡群の中で最も古い窯跡は、打越窯でした。当時は、この窯で作られた須恵器が、器壁の薄さや自然釉の厚さ、整形、焼成技術などの面から見て技術的に最も高かい製品でした。それを作り出せる工人集団が存在したことになります。そして、そういう工人集団を「誘致」できたのが綾氏だったことになります。それは三野郡の丸部氏が藤原京の宮殿瓦を焼くための最新鋭瓦工場である宗吉窯群を誘致できた政治力と似通ったものだったと私は考えています。
 讃岐では最も優れたに工人集団がここにいたという事実からは、「綾氏 → 国衙 → 中央政府」という政治的なつながりが見えてきます。つまり奈良時代になると、最新技術やノウハウが国家を通じて陶窯群に独占的に注ぎ込まれたとしておきましょう。こうして陶窯跡群は、讃岐一国の需要を独占する大窯業地帯へと成長して行きます。

10世紀前半の『延喜式』には、讃岐国は備前国・美濃国など八国と共に、調として須恵器を貢納すべき事が記されています。
10世紀には、讃岐国で須恵器生産を行っていたのは陶窯跡群しかないのは、先に見てきたとおりです。陶で生産された須恵器が綾川を川船で下って、河口の林田港で海船に積み替えられて畿内に運ばれていたことになります。それは、7世紀末の藤原京の宮殿造営のための瓦が三野郡の宗吉産から海上輸送されたいことを考えれば、何も不思議なことではありません。陶窯跡群の須恵器が中央に貢納されるようになった時期や経緯は分かりません。その背景には、讃岐の須恵器生産を独占していた陶窯跡群の存在があったと研究者は考えています。官営的なとして陶窯跡群の窯業活動が国衛によって管理・掌握されていたことが、国衙にとっては都合が良かったのでしょう。
 讃岐国が貢納した須恵器は、18種類3151個になります。これだけの多種類のものを造り分ける技術を持った職人がいたことになります。7世紀後半に讃岐全体に須恵器を提供していた三野・高瀬窯群に、陶窯群が取って代わってしまったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
 「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」 
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前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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 須恵器 編年写真
須恵器編年
 讃岐で最初に須恵器生産が行われたのは、どこなのか?  須恵器窯が、どのようにして讃岐全体に広がっていったのか。また、須恵器生産のシステムは、どんなものであったのかなどを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」と「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」です。

須恵器 土師器

  五世紀前半頃に朝鮮半島南部から伝えられた須恵器生産は、それまで弥生土器や土師器とは全く系譜を異にする土器です。土師器が赤褐色、軟質であるのに対し、須恵器は青灰色・硬質です。これは土師器が野焼きによって酸化炎焼成されるのに対して、須恵器は穴窯と呼ばれる長大な構築窯で高温に還元炎焼成されるためです。この窯は、それまではわが国にはなかったもので、須恵器生産のために初めて構築窯が使われるようになります。
陶邑窯跡群 堺市
陶邑古窯址群(堺市)
この窯を使って大規模な須恵器生産工業地帯が作られるのが大阪南部に広がる陶邑古窯址群です。
ここは堺市の泉北ニュータウンの造成の際に発見された遺跡で、泉北丘陵一帯で焼かれた須恵器が各地に運び出されていたようです。朝鮮半島からの渡来人を、この地に定住させ官営窯工場地帯として整備します。平安時代までの約500年間で1000基近く者数の窯が次々とと築かれていき、日本最大の須恵器生産地に成長して行きます。これらの窯跡群は、『日本書紀』に「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられています。地方では、初期の須恵器窯跡が発見されることが少なかったために、陶邑古窯址群が独占的に須恵器を全国に供給したと考えられていたときもありました。しかし、福岡県や宮城県からも五世紀の須恵器窯跡が発見されるようになり、大坂の陶邑古窯址群とは系譜を異にする須恵器もあることが分かってきました。

須恵器 編年表3
須恵器編年図
香川県での初期の須恵器窯跡の発見
 そんな中で香川県でも、1975年に香川医科大学の建設に伴い権八原(ごんぱちばら)古墳群が調査され、大量の古式須恵器が出てきました。また1981年には、豊中比地大の宮山の果樹園工事で古式須恵器や窯壁が出土し、はじめて5世紀の窯跡が確認されました。
さらに、1983には高松の三谷三郎池西岸窯跡が発掘調査され、次のようなことが分かりました。
①焼成面は長さ5m 幅2,15m    幅広で傾斜の緩やかな床面
②床面の中央には二個の柱穴が縦に並んでおり、これは窯体の大井を築く時の支え柱の柱穴
③窯体の下方には灰原も検出されたが、薄くて須恵器片を少量しか出上しなかったことから、窯の操業は短期間であった
④甕・壷・高杯・器台や杯などの小破片が出土
須恵器 宮山1号窯跡2
三豊市豊中町の宮山一号窯跡

一方、豊中町の宮山一号窯跡には、以上の器種のほか、蓋または鉢や紡錘車なども含まれています。両窯跡の出土品とも、甕の内面の叩き痕を消したり、杯の立上りが高いことなどから古式須恵器とされます。さらに出土品の中には、定型化以前の須恵器を含むことから、両窯跡ともわが国で須恵器生産を開始して間もない頃に操業が始まった窯と研究者は考えています。つまり、渡来系の工人たちによって窯が開かれ、生産が行われていたようです。
須恵器 編年式
須恵器編年表
   須恵器の製作においては窯を造るほかにも、高温に耐える淡水性粘土の使用や、 ロクロによる造形など、それまでの土師器生産に比べるとはるかに高度な窯業技術と専門技術者やスタッフが必要でした。製鉄技術と同じように、技術者スタッフを集団で誘致し、定着させないと須恵器生産はできなかたのです。そこで各地の首長は、ヤマト政権の大王から、ある者は、朝鮮半島と直接関係を持つ九州の豪族たちの連携で、工人集団を招き入れたようです。

讃岐の初期の須恵器窯を順番に並べると、次のようになります。
①もっとも古い初期須恵器であるT G 232段階を生産した髙松の三谷三郎池西岸窯跡(4世紀末)
②T K 206~208式を焼いた豊中町の宮山1号窯跡(5世紀半ば)
③T K10型式相当期の多度津・黒藤窯跡(5世紀前半)
 ①②の窯跡の生産をめぐる経緯や工人の問題などは分かりません。あえて推測するなら①は秦氏、②は三野郡の丸部氏の基盤になります。②は、その後に展開する三野窯跡や三豊南部の辻窯跡群につながって行く先駆的なものとも考えられます。いずれにせよ、①②の両窯跡で讃岐の須恵器生産が開始されます。それが5世紀半以前であったことを押さえておきます。
須恵器 TK10
須恵器TK10~TK43が出土した窯跡分布
豊中の宮山1号窯跡や高松の三谷三郎池西岸窯跡から讃岐の須恵器生産は、5世紀前半には始まっています。これは全国的にも早い方になります。しかし、両者とも単独の窯で大きな窯跡群ではありません。しかも三谷三郎池西岸窯跡では、床面に残った灰原は薄く、数回しか焼成が行われなかったことからみると、この時期の須恵器生産はきわめて小規模で、不安定な操業体制だったことがうかがえます。6世紀前半から中頃の須恵器窯跡は、現在のところ多度津の黒藤窯跡しかありません。つまり、先行的な3つの窯跡以外で、後に続く窯はすぐには現れなかったようです。
須恵器 TK217
須恵器TK217が出土した窯跡分布

讃岐の須恵器生産の規模が拡大するのは、6世紀末から7世紀前半頃にかけてです。
この時期に操業を開始した窯跡を西からみておきましょう。
①山本の辻窯跡群
②高瀬の瓦谷窯跡・末窯跡群
③三野の三野窯跡群
④丸亀の青野山窯跡群
⑤綾南の陶窯跡群
⑥高松の公渕窯跡群
⑦三木の小谷窯跡
⑧志度の末窯跡群
ここからは窯跡が、ほぼ讃岐全域に拡大していることが分かります。
このような拡大の背景には、6世紀末から7世紀前半に急激な須恵器需要の拡大があったことが考えられます。その背景を坂出下川津遺跡や高漱の大門遺跡から見ておきましょう。
これらの遺跡発掘からは、作りつけのカマドを持つ竪穴住居が急速に普及したことが分かります。
竪穴(たてあな)住居にカマドや貯蔵穴が登場(古墳時代)|三島市
かまどを持つ縦穴式住居
このような住居は、この時期に台頭した新しい農民層の住居とされます。彼らのなかの有力者は、横穴式石室を持つ群集墳を築造し、死後そこに葬られるようになります。つまり6世紀末頃という時代は、新しく台頭してきた農民層が日用土器として須恵器を使うようになり、一方では爆発的に増えた横穴式石室への副葬土器とも須恵器が使われた時代であったようです。これが須恵器生産の拡大をもたらしたと研究者は考えています。

古代讃岐の郡域2
讃岐の各郡分布

 しかし、この時期の須恵器生産や流通は、工人たちが管理していたのではないようです。それは、地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と窯跡群が、セットで分布していることからうかがえます。西からそのセットを押さえておきます。
①辻窯跡群と観音寺の鑵子塚古墳(苅田郡)
②青野山窯跡群と青野山7号墳(鵜足郡)
③陶窯跡郡と坂出新宮古墳・綾織塚古墳・酬酬古墳群(阿野郡)
④公淵窯跡群と高松の山下古墳・久本古墳・小山古墳(山田郡)
⑤末窯跡群と寒川の中尾古墳(寒川郡)
 ここからは須恵器生産地の成立には、地域首長が関わっていると研究者は考えています。
須恵器 青野山

例えば②青ノ山エリアを見てみましょう。ここには6世紀後半から7世紀初頭の古墳群があります。1979年に、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際に、近くの青ノ山南麓の墓地公園入り口付近の事現場で窯跡が発見されました。焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備されました。全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降の窯跡でした。この窯跡は、青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されています。が、この窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないので、この他にも周辺に窯跡があった可能性があります。青野山周辺は「土器」という地名が残るので、土器作りが盛んな地域だったことが推測できます。

須恵器 青野山3
青野山1号窯跡

 ここでひとつの物語を考えて見ます。青野山から宇多津の角山にかけての入江周辺に拠点とした首長は、青野山周辺に良質の粘土が出てくることを知ります。そして粘土採掘地を確保した上で技術者集団を「誘致」して窯を開いたという話になります。これは、後の氏寺建立の際の瓦窯開設の際にも見られるやり方です。どちらにしても、渡来技術者集団が自由に、原料産出地を探して窯を開き、自由に商品を流通させたとは研究者は考えていないようです。窯開設から、生産・製品流通まで、地域首長の支配下にあったとします。
須恵器 窯

 当時は貨幣経済社会ではありませんでした。そのため須恵器を商品として生産し販売して生計をたてることは出来なかったようです。そのため須恵器生産工人たちは、自給自足で農業を営みながら、支配者に隷属してその保護のもとに須恵器生産を行ない、大部分の製品を貢納していたのではないかと研究者は考えています。
寒川の中尾古墳からは、異常に大きな高杯が出てきました。これは地域首長の死に際して、工人たちに特別に作らせたものでしょう。ここに地域首長と須恵器工人の関係が象徴的に現れていると研究者は指摘します。
 こうした状況が変化するのは、T K43型式~T K 209型式が姿を見せ始める6世紀後半頃になります。この時期になると、次のようないくつかの生産地が並立するようになります。

須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
7世紀の讃岐の窯跡分布図
④丸亀平野北東部の青ノ山1・2号窯跡
⑤丸亀平野北西部の黒藤窯跡
⑥三豊平野北部の瓦谷遺跡
⑦三豊平野南部の奥蓮花1・2号窯跡、高額窯跡、小松尾寺2号窯跡
⑦の三豊平野南部の辻窯跡群の急速な増加傾向が目につきます。
以上をまとめた起きます。

讃岐須恵器窯の分布

①朝鮮半島から渡来集団によってもたらされた須恵器生産は、いち早く讃岐にももたらされた。
②それは三豊豊中と、山田郡三郎池周辺であった。そこには、技術者集団をいち早く受けいれることの出来た有職者がいたことがうかがえる。
③豊中は丸部氏、山田郡は秦氏が考えられる。
④その後、しばらくは新たに窯が開かれることはなかったが、6世紀末に窯は讃岐全体に拡大分布するようになり、窯の数も増える。
⑤その背景には、有力農民層の台頭があり、彼らが須恵器を日用品として使用し始めたことや、群集墳の副葬品として大量消費したことが考えられる。
⑥こうして、巨大横穴式石室があるエリアには、須恵器窯がセットで存在するという景色が見えるようになる。
⑦これは律令時代になると「一郡一窯」と云われる状況を作り出す。
⑧その中でも、三豊の2つの生産活動は、他のエリアを凌駕するものがあった。
次回は、7世紀初頭段階において、三豊の窯後群がどうして他地域を圧倒していたのかを、見ていきたいと思います。
参考文献
「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」
「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」

    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

 今回は石山戦争を契機として、織田政権が瀬戸内海の制海権掌握にどう取り組んだのか。同時に信長が四国への勢力伸張を、どのように図ろうとしたのかについて、見ておきます。テキストは 橋詰 茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年でです。
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鳥取城を攻撃していた秀吉は、黒田孝高(官兵衛)に淡路攻略を命じます。 
天正九年(1581)10月23日、秀吉は、岩屋の与一左衛門に対して次のような朱印状を与えています。
淡州岩屋舟五十七艘之事、此方分国中灘目廻船往来儀、不可有別候、猶浅野弥兵衛尉可申候也、
天正九年十月廿三日                            筑前守秀吉(花押)
淡州岩屋舟五十七艘之分、筑前守殿御分国中灘目廻船之儀、不可有御別之旨、被出御判候詑並に与一左衛門舟、諸公事御免許候也、
天正九年十月吉日                     浅野弥兵衛尉長吉(花押)
上の文書が、秀吉が浅野弥兵衛尉長吉に対して、岩屋の船57艘について秀吉分国内の沿岸への回船と往来の自由を認めること命じたものです。下の文書は、それを受けて、浅野弥兵衛尉長吉が与一左衛門の船には諸公事を免除することを伝えています。秀吉分国とは、播磨国沿岸から播磨灘一帯と淡路周辺を含むエリアと研究者は推測します。

 特権を与えられた与一左衛門は石井与次兵衛の一族で、岩屋の船団の統率者です。石井氏は、代々明石に居住していて、与次兵衛は明石沿岸の海賊衆の一人で、秀吉の中国攻略の早い時期からつながりを持ち、この時期には秀吉の配下にありました。与次兵衛の一族である岩屋のボス・与一左衛門を味方につけるために特権を与えたようです。
 秀吉は、自らの水軍を編成するために、与次兵衛を配下に抱え込んだのでしょう。
与次兵衛は、それに応えて明石を拠点として、明石海峡を掌握するために工作活動を行っていました。その成果が、対岸の岩屋の与一左衛門を秀吉陣営に引き込むという成果となって現れたことを示す史料です。与次兵衛はその後も、秀吉の水軍の中核部隊の指揮官の一人として活躍しています。こうして明石海峡の両岸を押さえた秀吉は、この水路の制海権を確実なものにしていきます。この戦略的な成果の上には、毛利水軍は手の出しようがなくなります。本願寺支援ルート回復が、不可能になったと毛利や本願寺に思わせるものでした。
麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

 秀吉は11月中旬、淡路に渡って山良城を攻めて安宅貴康を降し、ついで岩屋城を陥落させて淡路全体を制圧します。
そして、淡路の支配を仙石秀久に、岩屋城を生駒親正に守備を命じています。仙石氏と生駒氏は、讃岐にとっては馴染みの武将です。後の四国遠征の主力として讃岐に進撃し、その軍功から讃岐国守となります。讃岐にやって来る前には、淡路の城持ちであったのです。
四国営業所 (四国方面軍)|織田NOBU株式会社

 こうして秀吉は、四国へとつながる淡路を手に入れます。
次の目標は四国です。淡路を拠点として四国への進出を図ろうとします。この時点で、秀吉は明石・岩屋・淡路を結ぶルートを掌握したことになります。さらに、播磨灘を越えて四国方面に出て行こうとすれば、海上ルートとして重要になるのが、播磨の室津 ー 小豆島 ー 讃岐引田を結ぶラインです。このルートを確保できれば、東瀬戸内海の制海権を掌握したことになると秀吉は考えていたはずです。それは、後に話すように安富氏を支配下におくことによって実現しました。それでは、このエリアの管理・運用を誰に任せるかです。播磨灘周辺をめぐる年表を見てみましょう。
天正 8年(1580)頃 小西行長が父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 小西隆佐・行長が秀吉より播磨室津を所領として与えられる
天正10年(1582)6月本能寺の変で、信長に代わって羽柴秀吉が権力掌握
天正10年(1582) 行長が小豆島の領主となる
天正11年(1583) 行長が舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 行長が紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 行長が四国制圧の後方支援
 播磨灘から備讃瀬戸に至る東瀬戸内海の「海の提督」に任命されたのが若き小西行長でした。
小豆島を手に入れた秀吉は、堺商人出身の小西隆佐とその息子行長に統治を任せ、播磨の室津と併せて、東瀬戸内海支配の拠点としたのです。
近年辛労共候、乃兵糧取二はや小西弥九郎(行長)差返候間、早々室津へ追懸、弥九郎二相談、兵糧請取、舟二つミて早々可帰候、不可由断候也、
卯月十一日                                            秀吉 (花押)
この文書には宛名がありませんが、文中に出てくる小西弥九郎は行長のことです。ここからは、小西行長が兵糧に関しての輸送船を管理・運行していたこと、それを父隆佐が堺から後方支援していたことが分かります。天正九年の岩屋をめぐる抗争の時に出された文書のようですが、小西行長は、室津を拠点に播磨灘で活動していたことが裏付けられます。
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秀吉が播磨・備後での攻略を進めている間に、毛利撤退後の讃岐に侵攻してくるのが長宗我部元親です。
毛利と長宗我部の間には、「不戦協定」があった気配がします。長宗我部元親は、毛利が元吉合戦後に讃岐から撤退するのを見計らうタイミングで、阿波三好から讃岐山脈を越えて侵攻してきます。その後の讃岐をめぐる土佐軍の軍事行動と、秀吉の対応ぶりを年表で見ておきましょう

1578(天正6) 長宗我部元親の讃岐侵攻開始,藤目城・財田城落城  11・16  信長の水軍が毛利水軍を破る(第2次木津川海戦)
1579 4・-  羽床氏,長宗我部元親に降伏する(南海通記)
        香川信景,長宗我部元親と和し,婚姻関係を結ぶ
1580 天正8  長宗我部元親,西長尾山に城を築き,国吉甚左衛門尉を城主とする(南海通記)
   3・5  石山本願寺顕如,織田信長と和し、紀伊雑賀に退却〔石山合戦終わる〕
1582 4・-  塩飽・能島・来島が,秀吉に人質を出し,城を明け渡す 
   9・21 十河存保,阿波国勝瑞城の戦いに敗れ,虎丸城に退く 9・-  仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
   10・-  阿波から長宗我部元親軍到着し,十河城一帯を焼き払う(南海通記)
   5・7  羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する
   6・2  明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1583 天正4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う(仙石家譜)
   4・21  秀吉,柴田勝家の兵を破る「賤ヶ岳の戦〕
1584 6・11  長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16  秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年4・26  仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
   7・25  秀吉と長宗我部元親との和議が成立。土佐軍退却
   7・-  仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.

  年表を見ると、1578(天正6)年に、長宗我部元親が阿讃山脈を越えて、讃岐への侵入を開始しています。その侵攻ルートは、現在の三豊地方から始まり、丸亀平野を経て東讃へと向かいます。阿波三好氏に敵対的な動きを見せていた西讃守護代の天霧城主・香川氏は、戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。そして、元親の次男を養子として迎え後継者にします。こうして香川氏は元親と姻戚関係を結び同盟軍として、以後の長宗我部元親の讃岐平定に協力していくことになります。
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 一方、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていたようです。しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
  秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。
書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿
意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。彼表行之儀、何も弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

ここからは次のようなことが分かります。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑤最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること
讃岐の歴史

 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。

それが何であったのかを研究者は次のように指摘します。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたと研究者は推測します。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を保護し、配下に繰り入れることで東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
死闘 天正の陣
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。
天正10(1582)年に、小豆島の領主に秀吉から任じられていたのは、小西行長でした。翌年には行長は、舟奉行に任命され塩飽も領有します。つまり、秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行として小西行長であったことになります。それだけでは、ありません。さきほど見たように、行長は前線の黒田官兵衛と協議しながら戦略立案を行っていました。行長を四国平定のための影の功績者と秀吉は、評価したのでしょう。そして九州平定後は、加藤清正と同じ石高で九州の大名に若くして抜擢し、朝鮮出兵の立案計画を任せることになることは以前にお話ししました。
讃岐の歴史
  私は、小西行長の拠点となった室津・小豆島・塩飽は、毛利に対する港湾基地とばかり考えてきました。
しかし、秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、まさに瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。

以上をまとめておくと
①信長と本能寺の石山戦争の一環として、本願寺支援ルートをめぐって瀬戸内海制海権をめぐる抗争が展開された。
②信長は、第2次木津川海戦で新兵器の鉄張巨大船で木津川河口の制海権を確保した。
③以後は、明石海峡の岩屋をめぐる攻防戦が続いたが秀吉は、岩屋の廻船実力者に特権を与えることで味方に付け、明石海峡の制海権を確実なものとした。
④同時に黒田官兵衛は淡路を攻略し、四国への道を開いた。
⑤秀吉配下の黒田官兵衛のもとには、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けた阿讃の国人たちが保護を求めてやってきた。
⑥秀吉は、東讃守護代の安富氏を保護することで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れた。
⑦秀吉は堺商人出身の小西行長に室津・小豆島・塩飽を領有させ「海の司令官」として、四国・中国・九州制圧の後方支援部隊して運用させた。
⑧長宗我部元親に対する秀吉の讃岐侵攻部隊は小豆島を戦略拠点としてして派遣されており、その輸送には小西行長の輸送船団が関わったことが考えられる。
このように秀吉の讃岐侵攻に小豆島は後方支援の戦略基地として重要な役割を果たしていたことが分かります。そして、小豆島から讃岐に海上輸送をうけ持ったのが小西行長と私は考えています。そうすると小豆島は北岸の屋形崎だけでなく、南岸の内海湾にも「戦略基地」が置かれていたことがうかがえます。それが、以前にお話しした小西行長による小豆島のキリスト布教とも関わってくるし、高山右近の小豆島潜伏にもつながるようです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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