西嶋八兵衛による香東川一本化説の説明図
香東川については、次のようなことが通説とされてきました。
①西嶋八兵衛による高松城下の治水のために付け替え工事が行われたこと②栗林公園は、香東川の旧河道上に築かれた公園であること③付け替え工事地点に、西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てて工事の安全成就を願った
しかし、このような説に対して近世の讃岐国図などの絵図史料に基づいて批判反論が出されています。それは、絵図資料では江戸時代を通じて、香東川は分流して描かれており、河川の付け替えや一本化工事が行われたことがうかがえないというものです。今回は、西嶋八兵衛による香東川の改修工事が本当に行われたかどうかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報 平成26年度」です。
まず、西嶋八兵衛が改修工事を行ったという史料を見ておきましょう。実は正式な文書に、西嶋八兵衛が香東川改修工事を行ったという記録はないようです。
史料とされるのは、近世前期に地元の庄屋の書いた『大野録』で、次のように記されています。
史料とされるのは、近世前期に地元の庄屋の書いた『大野録』で、次のように記されています。
香渡(東)川は寛永の頃まで、大野の郷の西より二股にわかれて、 一筋は一の宮・坂田の郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜の西に入りけり。又一筋は弦打山の西にそふて今のごとし。営村の中洲といへるは、則ち両河の間也。寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりければ、国主生駒公より堤を築きて、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河新開と号す。
意訳変換しておくと
香渡(東)川は寛永の頃までは、大野郷の西で二股に分かれて、東の流れは一の宮・坂田の郷を経て室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜(浜の町)西で海に流れ出していた。西側の流れは、弦打山の西に沿って、今の流れと同じであった。大野の中洲と呼んでいるところは、この両河の間に挟まれた地帯のことを指す。寛永年間中に、自然に西側の河瀬が深くなって、東側は浅くなってしまった。そこで、国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた。そこで、古河新開と号す。
ここには「国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた」とあります。それが西嶋八兵衛によるものとは、どこにも書かれていないことを押さえておきます。
また記された内容について検討しておくと、香東川の東の流れ(現在の御坊川)が、一宮・坂田を経て室山の東をめぐっているというのは正しいようです。しかし、石清尾山の下を流れ、糸が浜(現在の高松市浜ノ町)の西で海に流れ込んでいたというのは誤りだと研究者は指摘します。香東川の東の一筋は、御坊川で新川と同じような所に流れ込んでいました。ここからは記述に正確性に欠け、二股の香東川の東の一筋を塞ぎ止めて二つに分けたというのも、間違っている可能性があると研究者は推測します。
また 『大野録』は、次のように記しています。
村翁伝へ申されしは、大むかしの大河は、井原庄竜満山の麓に沿ひ、夫より大野、浅野の境を経、ももなみの郷に流れて、北方海に入りけり。是に依って、今その筋低うして石尚多し。又浅野分の河跡を今尚河原と号す。大野分の河跡を東原といへるは、いまだ畑にひらかぎる先、荒野なればなるべし。又揖取といえる地の名はそのかみの渡し場にて、舟引き居りし処ならん。(中略)寛永以来、河跡の荒野を田に開きし時、石をば所々に集めてものらしければ、此の筋今石塚多し.彼の墓土はその石塚をおし平げて則ち葬地になせしぞ。愚案ずるに、右大河ありしは貞観中より昔ならん。
意訳変換しておくと
村翁が伝へるところによると、大むかしの香東川は、井原庄竜満山の麓に沿って、大野、浅野の境を経て、ももなみの郷に流れて、北方の海に流れ込んでいた。このため今もそのエリアは、低地で石が多い。また浅野の河跡は、今も河原と呼ばれている。大野の河跡を東原と呼ぶのは、いまだ畑に開くことができず、荒野のままであるからであろう。また楫取という地名は、その上流に渡し場があって、舟引きがいたからではないだろうか。(中略)寛永以来、河跡の荒野を水田に開いた時に、土の中から出てきた石を所々に集めた石塚がこの筋には多い。またこの地域の墓地は、その石塚を押し広げて葬地にしたものだろう。愚案ずるに、このような大河があったのは、貞観中より昔のことであろう。
『大野録』は、河原・東原・梶取りなど、かつての「大河」があったと示す地名があり、河原石で築造した石塚(積石塚)が見られることを挙げて、大昔の香東川は、現在よりも東を流れていたと推測します。しかし、これも間違っていると研究者は指摘します。また、推測に基づく記事内容が多いのも気になるところです。
『大野録』の記述内容については、近代になるまで余り触れられることもなく、史料として取り上げられることもなかったようです。西嶋八兵衛についても、生駒藩が取り潰され髙松松平藩になると、忘れ去られた存在で、近代の香川県でも、知る人はほとんどいないような状態だったようです。
そのような中で大正元(1912年に『大禹謨』碑が発見されてから風向きが変わります。
この年の大洪水によって、県道岡本香川線の川部橋の北方約400m地点で香東川の堤防が決潰し、その冬に行われた修理中に人夫が数尺下に埋もれていた『大禹謨』碑を掘り出します。発見当初は、誰かの墓でないかとされ、香東川の川東の英師如来のかたわらに置かれました。それに注目したのが、四番丁小学校の校長で郷土史家でもあった平田三郎氏です。平田氏は昭和20(1945)年の高松大空襲のあとで、大野に疎開していて、この『大禹謨』碑に注目します。そして、大野禄と西嶋八兵衛の治水工事と、この碑を相互に関連するものという説を出します。
『大禹謨』碑付近が分岐点だったとする説
これを受けて藤田勝重氏は、碑が発見された地点からあまり遠くない上手の川部橋の南方約500m地点に分流点があったこと、碑は西島八兵衛が香東川の東の一筋をふさいで高松城下を洪水から守る治水事業の完成記念として設置されたものだとしました。
さらに中原耕夫氏は、香東川の川幅は川東の「柳生」から大野にかけて急激に広くなり、御坊川の水源を「柳生」の大久保出水あたりに求めることができ、古老たちが「柳生」が分流点だと言い伝えていることから、川部橋の南方約2,6㎞の「柳生」が分流点であるとしました。
こうして、香東川が一本化される前の分岐点論争が始まります。
それと同時に、香東川が一本化されたこと、それを行ったのは西嶋八兵衛であること、その成就記念碑が『大禹謨』碑であることが既成事実化されていきます。
それと同時に、香東川が一本化されたこと、それを行ったのは西嶋八兵衛であること、その成就記念碑が『大禹謨』碑であることが既成事実化されていきます。
藤田勝重氏は、『大禹謨』碑の文字を三重県の郷土史家の家村治円郎氏に筆跡鑑定を依頼します。その結果は、「八兵衛の真筆」というものでした。それを受けて、昭和37(1962)年に栗林公園事務所長の藤田勝重氏は、栗林公園が西嶋八兵衛の香東川一本化改修工事の結果、東の河道跡につくられたして『大禹謨』碑を、栗林公国内の商工奨励館の中庭に設置し、元の地にはレプリカを作って設置しました。
その後、藤田氏は『治水利水の先覚者の西嶋八兵衛と栗林公園』を発行しています。こうして「香東川一本化=西嶋八兵衛の改修工事=『大禹謨』碑はモニュメント」という説は、より強固な説になっていきました。
栗林公園内に移された『大禹謨』碑
その後、藤田氏は『治水利水の先覚者の西嶋八兵衛と栗林公園』を発行しています。こうして「香東川一本化=西嶋八兵衛の改修工事=『大禹謨』碑はモニュメント」という説は、より強固な説になっていきました。
昭和46(1971)年に出された『香川県の歴史』には、次のように記されています。
長い戦乱で田地は荒廃し、そのうえ雨が少なく、長大な河川に恵まれない讃岐では、農業生産の増大をはかるためには、溜め池を築造して新田を開発することがきわめて重要な事業であった。この目的をもって寛永五年(1628)、生駒第四代藩主高俊は、伊勢より西島八兵衛を招いた。八兵衛は土木普請のオ能にすぐれ、そのうえ政治・経済にも通じていたので、早速、領内をくまなく見分し、あらたに溜め池をきずき、修築や増築などにも力をそそいだ。450年もの長い間、荒廃したままであった満濃池を復旧し、三谷池(高松市三谷町)・神内池(高松市山田町)・立満池(香川郡香川町)。小田池(高松市川部町)など、今日、香川県下にある著名な池90余を築造あるいは増築して、讃岐のこうむりやすいひでりに備えたことは大きな功績である。そのほか香東川のつけ替えもおこなったのであった。ここには、藤堂高虎が目付として派遣した西島八兵衛が、生駒家に仕えて満濃池を初めとするため池を数多く築造し、香東川などのつけ工事も行ったとされています。
これに対して「見直し」の動きが近年になって出てきています。
平成五年発行の『香川町誌』は、香東川の改修工事ついて、次のように記します。
「付替え説には、証拠となる確たる記録はない。」「この説は『大禹謨』碑石の発見と、西嶋八兵衛の讃岐国におけるため池築造を中心とする治水・利水の事績をもとに、組み立てられた説である。
もしかして、香東川は二つの流れではあっても、東の流れは香東川の氾濫原であって、西島八兵衛による香東川の治水工事は川の付替えではなく、氾濫を防ぐための、東岸堤防の構築を中心とした治水工事であった可能性が考えられる。
ここでは、「香東川の一本化付替説」が『大㝢護』碑石発見と西嶋八兵衛の治水・利水の事績をもとに「こうあって欲しい」という願いをもとに組み立てられた机上の空論であると指摘します。
東京教育大学地理学教室は、報告書の中で次のように記します。
旧流路は自然堤防となって残り、自然堤防は香川町大野より下流の現香東川の流路に沿うものと、この流路に針交して南北に細長くのびる数列の徴高地で、これは御坊川の流路にあたっており、御坊川は香東川の中流で分流した東の筋である。新岩崎橋南方付近で香東川は近世にも現在も二つに分流して流れていて、『大野録』の記述を信用して、分流点論争をすることは無意味と思える。
ここには香東川は昔も今も分流しており、分流点を論争するのは無意味とまで言い切っています。
これに加えて、絵図資料の分析からも香東川の一本化はなかったという説が出されています。それを見ておきましょう。
これに加えて、絵図資料の分析からも香東川の一本化はなかったという説が出されています。それを見ておきましょう。
江戸時代に幕府の命に応じて作られた、讃岐の国絵図には、以下のようなものがあります。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)②金刀比羅宮本 (1640年作成)③高松市歴史資料館本 (17世紀後半 元禄年間作成)④内閣文庫本 (1838年作成 天保国絵図)
これらの国絵図は、幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。まず④の天保国絵図を見てみます。前回も見たように、グーグルで「讃岐国絵図」で検索し、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、天保国絵図を見てみます。
上の地図からは19世紀になっても、香東川は東西に分岐して流れていたことが分かります。そして、高松城を挟むようにして、海に流れ出しています。そして東の流路は、栗林公園を通過していないことを押さえておきます。次に香東川の分岐点周辺を拡大してみます。
天保国絵図 国立文書館デジタルライブラリー版
上の地図からは19世紀になっても、香東川は東西に分岐して流れていたことが分かります。そして、高松城を挟むようにして、海に流れ出しています。そして東の流路は、栗林公園を通過していないことを押さえておきます。次に香東川の分岐点周辺を拡大してみます。
分岐点は、②の寺井村と③河(川)辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。ちなみに図中の、赤線は街道で、それを挟む形で描かれている2つの黒丸は一里塚の表示だそうです。
それでは、西嶋八兵衛が一本化工事を行ったといわれる後に、松平藩時代になって幕府に提出された「正保国絵図」に、香東川がどのように記されているのかを見てみましょう。
下図は、17世紀前半の「正保国絵図」の香東川の分岐周辺の写図です。
この絵図でも東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、「一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十間 渡リナシ」、②西側の流れについて「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ここからは、西嶋八兵衛が灌漑工事を各地で行っていた後も、香東川の流れに変化はなかったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」が、現在の田村神社のようです。
現在の郷東川と御坊川の分岐点を、下の地図で確認しておきましょう。
現在の香東川は新岩崎橋付近で二股に分かれて、東の流れを御坊川と呼び、西の流れを香東川と呼んでいます。ここからは、近世から現在まで香東川は、中流で二股に分かれて流れていとことが分かります。幕府提出用に作成されたという各時代の讃岐国絵図には、香東川の二つの流れを一本化したという工事の痕跡をみつけることはできないようです。
以上から研究者は次のように指摘します。
① 西島八兵衛は香川町大野で二つに分かれて流れている香東川の東の一筋を塞ぎ止め一本化するという付け替えを行わなかった。②西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てることもしなかった。
『大禹謨』碑は香東川に堤防を築いた人物が、工事の完成を祝って建立したもので、発見場所から遠くない堤防の上に建てられていたのであった。西嶋八兵衛の利水・治水事業は高松城の安泰をはかるため、東の一筋を寒ぎ止めて西の一筋だけにするという改修工事事を行ったという誤った説を生み出し、更にこの改修工事に伴ってできた東の一筋の廃川敷に栗林公園がつくられたという誤った説を生み出した。
天保の讃岐国絵図 現栗林公園付近を流れる川は書かれていない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報 平成26年度」
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)