瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2022年02月

香川氏発給文書一覧
香川氏発給文書一覧 帰来秋山氏文書は4通

高瀬町史の編纂過程で、新たな中世文書が見つかっています。それが「帰来秋山家文書」と云われる香川氏が発給した4通の文書です。その内の2通は、永禄6(1563)年のものです。この年は、以前にお話したように、実際に天霧城攻防戦があり、香川氏が退城に至った年と考えられるようになっています。この時の三好軍との「財田合戦」の感状のようです。
 残りの2通は、12年後の天正5年に香川信景が発給した物です。これは、それまでの帰来秋山氏へ従来認められていた土地の安堵と新恩を認めたものです。今回は、この4通の帰来秋山家文書を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 帰来秋山家文書は、四国中央市の秋山実氏が保管していたものです。
 帰来秋山家に伝わる由緒書によると、先祖は甲斐から阿願人道秋山左兵衛が讃岐国三野郡高瀬郷に来住したと伝えていています。これは、秋山惣領家と同じ内容です。どこかで、惣領家から分かれた分家のようです。
 天正5(1577)年2月に香川信景に仕え、信景から知行を与えられたこと、その感状二通を所持していたことが記されています。文書Cの文書中に「数年之牢々」とあり、由緒書と伝来文書の内容が一致します。
 秀吉の四国平定で、長宗我部元親と共に香川氏も土佐に去ると、帰来秋山家は、讃岐から伊予宇摩郡へ移り、後に安芸の福島正則に仕えます。しかし、福島家が取り潰しになると、宇摩郡豊円村へ帰住し、享保14年(1729)に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至ったようです。由緒書に4通の書状を香川氏から賜ったとありますが、それが残された文書のようです。帰来秋山一族が、天正年間に伊予へ移り住んだことは確かなようです。伝来がはっきりした文書で、信頼性も高いこと研究者は判断します。
 それでは、帰来秋山家文書(ABCD)について見ていきましょう。
まずは、財田合戦の感状2通です。
A 香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
 一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
 一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来(秋山)善五郎とのヘ
ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること
永禄6年に天霧城をめぐって大きな合戦があって、香川氏が城を脱出していることが三野文書史料から分かるようになっています。この文書は、一連の天霧城攻防戦の中での戦いを伝える史料になるようです。
B 香川之景・同五郎次郎連書状    (香川氏発給文書一覧NO11)
去十七日於才田(財田)合戦、被疵無比類働忠節之至神妙候、弥共心懸肝要候、謹言、
三月二十日                            五郎次郎(花押)
     之  景 (花押)
帰来善五郎とのヘ
文書Aとほとんど同内容ですが、日付3月20日になっています。3月17日に、またも財田で戦闘があったことが分かります。冬から春にかけて財田方面で戦闘が続き、そこに帰来善五郎が従軍し、軍功を挙げています。

文書Bと同日に、次の文書が三野氏にも出されています。 (香川氏発給文書一覧NO12)
去十七日才田(財田)合戦二無比類□神妙存候、弥其心懸肝要候、恐々謹言、
三月二十日                    五郎次郎(花押)
    之  景 (花押)
三野□□衛門尉殿
進之候
発給が文書Bと同日付けで、「去十七日才(財)田合戦」とあるので、3月17日の財田合戦での三野氏宛の感状のようです。二つの文書を比べて見ると、内容はほとんど同じですが、文書Aの帰来(秋山)善五郎宛は、書止文言が「謹言」、宛名が「とのへ」です。それに対して、文書Bの三野勘左衛門尉宛は「恐々謹吾」「進之」です。これは文書Aの方が、「はるかに見下した形式」だと研究者は指摘します。三野勘左衛門尉は香川氏の重臣です。それに対して、帰来善五郎は家臣的なあつかいだと研究者は指摘します。帰来氏は、秋山氏の分家の立場です。単なる軍団の一員の地位なのです。香川氏の当主から見れば、重臣の三野氏と比べると「格差」が出るのは当然のようです。
 この冬から春の合戦の中で、香川氏は大敗し天霧城からの脱出を余儀なくされます。そして香川信景が当主となり、毛利氏の支援を受けて香川氏は再興されます。

文書C  (香川氏発給文書一覧NO16)は、その香川信景の初見文書にもなるようです。讃岐帰国後の早い時点で出されたと考えられます。
C 香川信景知行宛行状
秋山源太夫事、数年之牢々相屈無緩、別而令辛労候、誠神妙之や無比類候、乃三野郡高瀬之郷之内帰来分同所出羽守知行分、令扶持之候 田畑之目録等有別紙 弥無油断奉公肝要候、此旨可申渡候也、謹言、
天正五 二月十三日                       信 景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
秋山源太夫について、この数年は牢々相屈無緩で、辛労であったが、誠に神妙無比な勤めであった。そこで三野郡高瀬之郷之内の帰来分の出羽守知行分を扶持として与える。具体的な田畑之目録については別紙の通りである。油断なく奉公することが肝要であることを、申し伝えるように、謹言、
天正五 二月十三日                       (香川)信景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
この史料からは次のようなことが分かります。
①天正5年2月付けの12年ぶりに出てくる香川氏発給文書で、香川信景が初めて登場する文書であること
②秋山源太夫の数年来の「牢々相屈無緩、別而令辛労」に報いて、高瀬郷帰来の土地を扶持としてあたえたこと
③直接に秋山源太夫に宛てたものではなく三野菊右衛文尉に、(秋山)源太夫に対して知行を宛行うことを伝えたものであること
④「田畠之目録等有別紙」とあるので、「別紙目録」が添付されていたこと
 香川氏が12年間の亡命を終えて帰還し、その間の「香川氏帰国運動」の功績として、秋山源太夫へ扶持給付が行われたようです。「牢々相屈無緩、別而令辛労」からは、秋山源太夫も、天霧城落城以後は流亡生活を送っていたことがうかがえます。
これを裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2
 6月12日,足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
 8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
 9・17 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川氏の帰国支援に動いていたことがうかがえます。
 
文書Cで給付された土地の「別紙目録」が文書D(香川氏発給文書一覧NO10)になります。
D 香川信景知行日録
一 信景(花押) 御扶持所々目録之事
一所 帰来分同五郎分
   帰来分之内散在之事 後与次郎かヽへ八反田畠
   近藤七郎左衛門尉当知行分四反反田畠
   高瀬常高買徳三反大田畑  出羽方買徳弐反
   真鍋一郎大夫買徳一町半田畑
以上 十拾八貫之内山野ちり地沽脚之知共ニ
一所  ①竹田八反真鍋一郎太夫買徳 是ハ出羽方之内也、最前帰来分江御そへ候て御扶持也
一所 出羽方七拾五貫文之内五拾貫文分七反三崎分
右之内ぬけ申分、水田分江四分一分水山河共ニ三野方へ壱町三反 なかのへの盛国はいとく分
此外②武田八反俊弘名七反半、此分ぬけ申候て、残而五拾貫文分也、又俊弘名七反半真鍋一郎太夫買徳、
但これハ五拾貫文之外也
以上
天正五(1577)年二月十三日         
             秋山帰来源太夫 親安(花押)

 研究者が注目するのは、この文書の末尾に「秋山帰来源太夫」とあるところです。
秋山家文書の中にも「帰来善五郎」は出てきますが、それが何者かは分かりませんでした。この帰来秋山文書の発見によって、帰来善五郎は秋山一族であることが明らかになりました。善五郎が源太夫の先代と推測できます。伊予秋山氏は帰来秋山家の末裔といえるようです。
三野町大見地名1
三野湾海岸線(実線)の中世復元 竹田は現在の大見地区
帰来秋山氏は、どこに館を構えていたのでしょうか。
①②の「竹田」「武田」は、現在の三野町大見の竹田と研究者は考えています。 秋山家文書の泰忠の置文(遺産相続状)には、大見にあった秋山氏惣領家の名田が次のように出てきます。
あるいハ ミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハ なか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハ とくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは 一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハ のふとしミやう (あるいは延利名)
又ハ   もりとしミやう (又は守利名)
又は   たけかねミやう (又は竹包名)、
又ハ   ならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」

多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。このような名田を泰忠から相続した分家のひとつが帰来秋山家なのかもしれません。
秋山氏 大見竹田
帰来秋山氏の拠点があった竹田集落

③の「帰来分」は帰来という地名(竹田の近くの小字名)です。
ここからは帰来秋山氏の居館が、本門寺の東にあたる竹田の帰来周辺にあったことが分かります。そのために帰来秋山氏と呼ばれるようになったのでしょう。ここで、疑問になるのはそれなら秋山惣領家の領地はどこにいってしまったのかということです。それは後に考えるとして先に進みます。

もう一度、史料を見返すと帰来分内の土地は、真鍋一郎へ売却されていたことが分かります。それが全て善五郎へ、宛行われています。もともとは、帰来秋山氏のものを真鍋氏が買徳(買収)していたようです。真鍋氏は、これ以外に秋山家惣領家の源太郎からも多くの土地を買っています。
 どうして秋山氏は所領を手放したのでしょうか?
 以前にお話したように、秋山氏は一族が分裂し、勢力が衰退していったことが残された文書からは分かります。それに対して、多度津を拠点とする守護代香川氏は、瀬戸内海交易の富を背景に戦国大名化の道を着々と歩みます。香川氏の台頭により、三野郡での秋山氏の勢力衰退が見られ、 一族が分裂するなどして所領が押領されていった可能性があると研究者は考えているようです。
 戦国期末期には、秋山一族は経済的には困窮していて、追い詰められていたようです。それだけに合戦で一働きして、失った土地を取り返したいという気持ちが強かったのかもしれません。同時に、秋山氏から「買徳」で土地を集積している真鍋氏の存在が気になります。「秋山氏にかわる国人」と研究者は考えているようです。


讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図 大見はかつては下高瀬郷の一部であった
 帰来秋山文書の発見で分かったことをまとめておきます。
讃岐秋山氏の実質的な祖となる3代目秋山泰忠は、父から下高瀬の守護職を継ぎました。ここからはもともとの秋山氏のテリトリーは、本門寺から大見にいたるエリアであったことがうかがえます。それが次第に熊岡・上高野といった三野湾西方へ所領を拡大していきます。新たに所領とした熊岡・上高野を秋山総領家は所領としていたようです。今までは、下高瀬郷が秋山家の基盤、そこを惣領家が所有し、新たに獲得した地域を一族の分家が管理したと考えられていました。しかし、大見の竹田周辺には帰来秋山氏がいました。庶家の帰来秋山氏は下高瀬郷に居住し、在地の名を取って帰来氏と称していました。もともとは、下高瀬郷域は惣領家の所領でした。分割相続と、その後の惣領家の交代の結果かもしれません。
 
 永禄年間の三好氏の西讃岐侵攻で、秋山氏の立場は大きく変わっていきます。そこには秋山氏が香川氏の家臣団に組み込まれていく姿が見えてきます。その過程を推測すると次のようなストーリーになります。
①永禄6(1563)年の天霧城籠城戦を境にして、秋山氏は没落の一途をたどり 一族も離散し、帰来秋山源太夫も流亡生活へ
②香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命し、之景から信景に家督移動
③香川信景のもとで家臣団が再編成され、その支配下に秋山氏は組み入れられていく。
④毛利氏の備讃瀬戸制海権制圧のための讃岐遠征として戦われた元吉合戦を契機に、毛利氏の支援を受けて、香川氏の帰国が実現
⑤三好勢力の衰退と長宗我部元親の阿波侵入により、香川氏の勢力は急速に整備拡大。
 この時期に先ほど見た帰来秋山家文書CDは、香川信景によって発給され、秋山源太夫に以前の所領が安堵されたようです。香川氏による家臣統制が進む中で、那珂郡や三野・豊田郡の国人勢力は、香川氏に付くか、今まで通り阿波三好氏に付くかの選択を迫られることになります。三好方に付いたと考えられる武将達を挙げて見ます
①長尾氏 西長尾 (まんのう町)
②本目・新目氏  (まんのう町(旧仲南町)
③麻近藤氏 (三豊市 高瀬町麻)
④二宮近藤氏   (三豊市山本町神田) 
これらの国人武将は、三好方に付いていたために土佐勢に攻撃をうけることになります。一方、香川信景は土佐勢の讃岐侵入以前に長宗我部元親と「不戦条約」を結んでいたと私は考えています。そのため香川氏の配下の武将達は、土佐軍の攻撃を受けていません。本山寺や観音寺の本堂が焼かれずに残っているのは、そこが香川方の武将の支配エリアであったためと私は考えています。

  帰来秋山家文書から分かったことをまとめておきます。
①帰来秋山家は、三豊市三野町大見の竹田の小字名「帰来」を拠点としていた秋山氏の一族である。
②香川氏が長宗我部元親とともに土佐に撤退して後に、福島正則に仕えたりした。
③その後18世紀初頭に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至った
④帰来秋山家には、香川氏発給の4つの文書が残っている。
⑤その内の2通は、1563年前後に三好軍と戦われた財田合戦での軍功が記されている。
⑥ここからは、帰来秋山氏が香川氏に従軍し、その家臣団に組織化されていたことがうかがえる。
⑦残りの2通は、12年後の天正年間のもので、亡命先の安芸から帰国した香川信景によって、香川家が再興され、帰来秋山氏に従来の扶持を安堵する内容である。
こうして、帰来秋山家は従来の大見竹田の領地を安堵され、それまでの流亡生活に終止符を打つことになります。そして、香川氏が長宗我部元親と同盟し、讃岐平定戦を行うことになると、その先兵として活躍しています。新たな「新恩」を得たのかどうかは分かりません。
 しかし、それもつかの間のことで秀吉の四国平定で、香川氏は長宗我部元親とともに土佐に退きます。残された秋山家は、どうなったのでしょうか。帰来秋山家については、先ほど述べた通りです。安芸の福島正則に仕官できたのもつかぬ間のことで、後には伊予で帰農して庄屋を務めていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
       「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
守護細川氏の下で讃岐西方守護代を務めた多度津の香川氏については、分からないことがたくさんあるようです。20世紀末までの讃岐の歴史書や市町村史は軍記物の「南海通記」に従って、香川氏のことが記されてきました。しかし、高瀬の秋山文書などの研究を通じて、秋山氏が香川氏の下に被官として組み込まれていく過程が分かるようになりました。同時に、香川氏をめぐる謎にも迫れるようになってきたようです。今回は、秋山家文書から見えてきた香川氏の系譜について見ていくことにします。テキストは、「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

香川氏の来讃について見ておきましょう。
  ①『全讃史』では
香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年の白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとします。以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(長曽我部元親の子)」と記します。この系譜は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の流れだとします。
  ②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれだと云います。
細川氏に仕えた刑部大輔景則が安芸から分かれて多度津の地を得て、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。
  ③『善通寺市史』は、
相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などの史料から、景則は嫡流とは認め難いとします。その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。これが現在では、妥当な線のようです。しかし、家伝などはなく根本史料には欠けます。史料のなさが香川氏を「謎の武士団」としてきたようです。

   以上のように香川氏の系譜については、さまざまな説があり『全讃史』『西讃府志』の系図も異同が多いようです。また史料的には、讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てきます。史料には名前が出てくるのに、系譜に出てこない人物がいます。つまり、史料と系譜が一致しません。史料に出てくる香川氏の祖先が系図には見えないのは、どうしてでしょうか?
 その理由を、研究者は次のように考えているようです。

「現在に伝わる香川氏の系図は、みな後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い」

つまり、香川氏にはどこかで「家系断絶」があったとします。そして、断絶後の香川家の人々は、それ以前の祖先の記憶を失ったと云うのです。それが後世の南海通記などの軍記ものによって、あやふやなまま再生されたものが「流通」するようになったと、研究者は指摘します。
 系譜のあいまいさを押さえた上で、先に進みます。
香川氏は、鎌倉権五郎景政の子孫で、相模国香川荘に住んでいたと伝えられます。香川氏の来讃については、先ほど見たように承久の乱の戦功で所領を賜り安芸と讃岐に同時にやってきたとも、南北朝期に細川頼之に従って来讃したとも全讃史や西讃府志は記しますが、その真偽は史料からは分かりません。
「香川県史」(第二巻通史編中世313P)の香川氏について記されていることを要約しておきます。
①京兆家細川氏に仕える香川氏の先祖として最初に確認できるのは、香河五郎頼景
②香河五郎頼景は明徳3年(1392)8月28日の相国寺慶讃供養の際、細川頼元に随った「郎党二十三騎」の一人に名前がでてくる。
②香河五郎頼景以後、香川氏は讃岐半国(西方)守護代を歴任するようになる。
③讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てくる。
④『建内記』には文安4年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏とともに「管領内随分之輩」であると記す。
①の永徳元(1381)年の香川氏に関する初見文書を見ておきましょう。
寄進 建仁寺水源庵
讃岐国葛原庄内鴨公文職事
右所領者、景義相伝之地也、然依所志之旨候、水代所寄進建仁寺永源庵也、不可有地妨、乃為後日亀鏡寄進状如件、
                          香川彦五郎     平景義 在判
永徳元年七月廿日                       
この文書からは次のようなことが分かります。
A 香川彦五郎景義が、多度郡の葛原荘内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進していること
B 香川彦五郎は「平」景義と、平氏を名乗っていること
C 香川氏が葛原荘公文職を持っていたこと
応永七(1400)年9月、守護細川氏は石清水八幡宮雑掌に本山荘公文職を引き渡す旨の連行状を国元の香川帯刀左衛問尉へ発給しています。ここからは、帯刀左衛門尉が守護代として讃岐にとどまっていたことが分かります。この時期から香川氏は、守護代として西讃岐を統治していたことになります。

 『蔭涼軒日録』は、当時の讃岐の情勢を次のように記します。

「讃岐国十三郡也、大部香川領之、寄子衆亦皆小分限也、雖然興香川能相従者也、七郡者安富領之、国衆大分限者性多、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安宮者性多也」

 ここからは讃岐13郡のうち6郡を香川氏が、残り7郡を安富氏が支配していたことが分かります。讃岐に関しては、香川氏と安富氏による東西分割管轄が、守護細川氏の方針だったようです。

 香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。
香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったことは以前にお話ししました。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳(1445年) 多度津船の入港数


「兵庫北関人松納帳」には、多度津船の兵庫北関への入関状況が記されていますが、その回数は1年間で12回になります。注目すべきは、その内の7艘が国料船が7件、過書船(10艘)が1件で、多度津は香川氏の国料船・過書船専用港として機能しています。国料船は守護細川氏の京都での生活に必要な京上物を輸送する専用の船団でした。それに対して、過書船は「香川殿十艘」と注記があり、10艘に限って無税通行が認められています。

香川氏は過書船の無税通行を「活用」することで、香川氏に関わる物資輸送を無税で行う権利を持ち、大きな利益をあげることができたようです。香川氏は多度津港を拠点とする交易活動を掌握することで、経済基盤を築き、西讃岐一帯を支配するようになります。

香川氏の経済活動を示すものとして、永禄元年(1558)の豊田郡室本の麹商売を、之景が保証した次の史料があります。
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以共筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、乃状如件、
永禄元年六月二日                           之景(花押) 
王子大明神別当多宝坊
「先規之重書並に元景御折紙明鏡上」とあるので、従来の麹商売に関する保証を之景が再度保証したものです。王子大明神を本所とする麹座が、早い時期から室本の港にはあったことが分かります。
同時に、16世紀半ばには香川氏のテリトリーが燧灘の海岸沿いの港にも及んでいたことがうかがえます。

戦国期の当主・香川之景を見ておきましょう。
この人物については分からないことが多い謎の人物です。之景が史料に最初に現れるのは、先ほどの室本への麹販売の特権承認文書で永禄元(1558)年6月1日になります。以下之景に関する文書は14点あります。その下限が永禄8年(1565)の文書です。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

14点のうち6点が五郎次郎との連署です。文書を並べて、研究者は次のように指摘します。
①永禄6年(1563)から花押が微妙に変化していること、
②同時にこの時期から、五郎次郎との連署がでてくること
永禄8年(1565)を最後に、天正5(1577)に信景の文書が発給されるまで、約12年間は香川氏関係の文書は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 文書の散逸・消滅などの理由だけでは、片付けられない問題があったのではないかと研究者は推測します。この間に香川氏に重大な事件があり、発行できない状況に追い詰められていたのではないかというのです。それが、天霧城の落城であり、毛利氏を頼っての安芸への亡命であったと史料は語り始めています。
  
香川之景の花押一覧を見ておきましょう。
香川氏花押
香川之景の花押
①が香川氏発給文書一覧の4(年未詳之景感状 従来は1558年比定)
②が香川氏発給文書一覧の1(永禄元年の観音寺麹組合文書)
③が香川氏発給文書一覧の2(永禄3(1560)年
④が香川氏発給文書一覧の7(永禄6(1563)年
⑤が香川氏発給文書一覧の16
 研究者は、この時期の之景の花押が「微妙に変化」していること、次のように指摘します。
①と②の香川之景の花押を比較すると、下部の左手の部分が図②は真っすぐのに対して図①は斜め上に撥ねていること。また右の膨みも微妙に異なっていること。その下部の撥ねの部分にも違いが見えること。
図③の花押は同じ秋山文書ですが、図①とほぼ同一に見えます。
③は永禄3(1560)年のもので、同四年の花押も同じです。ここからは図①は永禄元年とするよりも、③と同じ時期のもので永禄3年か4年頃のものと推定したほうがよさそうだと研究者は判断します。

④の永禄6(1563)年になると、少し縦長になり、上部の左へ突き出した部分が尖ったようになっています。永禄7年のものも同じです。この花押の微妙な変化については、之景を取り巻く状況に何らかの変化があったことが推定できると研究者は考えています。

信景の花押(図⑤=文書一覧16)を見てみましょう。
香川氏花押2
信景の花押(図⑤)
之景と信景は別の人物?
今までは、「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされていました。その根拠は『南海通記』で、次のように記します。

「天正四年二識州香川兵部大輔元景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

ここに出てくる元景は、之景の誤りです。ここにも南海通記には誤りがあります。この南海通記の記事が、之景が信景に改名した根拠とされてきました。
しかし、之景と信景の花押は、素人目に見ても大きく違っていることが分かります。花押を見る限りでは、之景と信景は別の人物と研究者は考えています。
次に研究者が注目するのが、永禄六年の史料に現れる五郎次郎です。
之景との連署状が四点残っています。この五郎次郎をどのように考えればいいのでしょうか?五郎次郎は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。その人物が之景と連署しています。
文書一覧23の五郎次郎は、長宗我部元親の次男で信景の養子となった親和です。他の文書に見える五郎次郎とは別人になります。信景の発給文書が天正7(1577)年からであることと関連があると研究者は考えています。

  以上をまとめておきましょう
①香川氏の系譜と史料に登場してくる香川氏当主と考えられる守護代名が一致しない。
②そこからは現在に伝わる香川氏の系図は、後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い。
③香川氏には一時的な断絶があったことが推定できる。
④これと天正6年~11年までの間に、香川氏発給の文書がないことと関係がある。
⑤この期間に、香川氏は阿波の篠原長房によって、天霧城を失い安芸に亡命していた。
⑥従来は「之景と信景」は同一人物とされてきたが、花押を見る限り別人物の可能性が強い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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室町時代の讃岐は、守護細川氏の求めに応じて何度も兵団を畿内に送り込んでいます。細川氏は、讃岐武士を、どのように畿内に動員していたのでしょうか、今回はこれをテーマにしたいと思います。テキストは「国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年」です。
 細川晴元が丸亀平野の武士たちをどのように、畿内へ送り込んでいたのかがうかがえる史料を見ていくことにします。

 香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の一部です。

A
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守元長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク、
B
出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元判
西方関亭中
C
  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二
(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
意訳変換しておくと
A
永正17年(1520)6月10日細川澄元が亡くなり、その子・晴元が継いで、細川讃岐守が後見役、三好筑前守之長入道が補佐役となった(中略)
讃岐国ハ(中略)細川晴元に帰服した。これに対して伊予の河野氏は細川氏の催促に従わなかった。阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将を合せて軍団を編成し、糧食を蓄えて、諸方の味方と連絡を取りながら挙兵について協議した。その書には、次のように記されていた。
B
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で、日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
C
 「この書は、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家に保管されていた
これは、澄元が亡くなって8年後の大永七年(1527)のことで、(中略)細川晴元が、初めて軍を率いて上洛した時のことが記されている。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。その内容は、3段に分けることが出来ます。
 A段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。B段は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
C段には、引用した晴元書状についての説明で、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

この文章で謎だったのがB段文書の宛先「西方関亭中」と山地氏との関係でした。
これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭という語は、「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
つまり、B段については、細川氏が海賊衆の山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。

「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが讃州西方山地右京進、其子左衛門督という者の家に伝わっていたということになるようです。逆に山地氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏

という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

それでは兵は、どのように動員されたのでしょうか
「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の「武部」は、高瀬の秋山文書のなかにも出てくる人物です。武部は賢長とともに阿波にいて、秋山氏の要請を澄元に取り次ぐ地位にいました。つまり、武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人であったことが分かっています。

享禄四年(1532)は、細川晴元と三好元長が、細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川高国の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたようです。
石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったことがうかがえます。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。
琴平の石井氏の動員は、どんな形で行われたのでしょうか。
それがうかがえるのが最初に見た『南海通記』所収の晴元書状です。晴元の書状は、直接に西方関亭中(海賊衆)の山地氏に送られていました。山地氏はこのときに、晴元の直臣だったようです。それを確認しておきましょう。
応仁の前の康正三(1456)年のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を押領した海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路(地)氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理(押領)となっています。なお、小早河少泉と山路(地)は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人が押領していること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
③4氏の本拠地はちがうが、海賊衆という点では共通すること
  そして、最後に「小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々」とあります。山地氏が細川氏の晴元の直臣だったことが確認できます。
 讃岐からの出兵に関しての軍事編成や出陣計画は「猶香川可い申候」とあります。
香川氏と事前の打ち合わせを行いながら、その指示の下に行えということでしょうか。ここからは、この出兵計画の最高責任者は讃岐西方守護代の香川氏だったことがうかがえます。もちろん、香川氏も兵を率いて畿内に出陣したでしょう。その際に使用された港は、多度津港であったことが考えられます。
 「兵庫北関入船納帳」(文安二年(1445)には、香川氏の管理のもとに、多度津から守護細川氏への京上物を輸送する国料船が出ていたのは以前にお話ししました。ここからは、堀江港に替わって桜川河口に多度津港が開かれ、そこに「関」が置かれ、山地氏らの海賊衆が国料船をはじめ多度津港に出入する船の警固に当っていたことは以前にお話ししました。 
 それが16世紀前半になると、多度津港は、阿波細川氏の西讃における海上軍事力として、軍兵の輸送や軍船警固の拠点港になっていたようです。

 西讃守護代の香川氏は、少なくともこの時期に2回の畿内出兵を行っています。県史の年表を見ておきましょう。
1517 永正14 9・18 阿波三好衆の寒川氏,淡路へ乱入
1519 永正16 11・6 細川澄元・三好之長ら,四国の兵を率いて摂津兵庫に到る。東讃の安富氏とともに香川氏も出陣
1520 永正17 3・27 三好之長,上京する(二水記)
      5・3 香川・安富ら,細川高国の陣に降る
      5・5 細川高国,三好之長を京都にて破る
  7 細川澄元,京都での敗戦
を聞き阿波に帰る
      5・11 三好之長父子,京都にて自害
      6・10 細川澄元,阿波において没する
   2年前から東讃の安富氏とともに香川氏も細川澄元・三好之長に従って出陣したが、この年五月、京都等持寺の戦いで細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。

1531 亨禄4 2・21 三好元長,阿波より和泉堺に到る
      6・4 三好元長,細川高国を摂津天王寺に破る
      6・8 細川高国,細川晴元勢に攻められ摂津尼崎で自害

 享禄4年(1531)、細川晴元と三好元長が、大永七年に京都を脱出して以来各地を転々としながら抵抗を続けていた細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年です。この時に先ほど見た、琴平の石井昆沙右らは高国との一連の戦いに多度津から出陣し、その恩賞として晴元から所領を宛行われたと推測できます。

以上の年表から香川氏の畿内への出兵を考えると
一度は永正16年(1519)年で、東讃の安富氏とともに細川澄元・三好之長に従って出陣しています。しかし、翌年に細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。
二度目は大永7年から享禄4(1531)年までの時期です。
享禄4年の天王寺合戦の際には、香川中務丞元景は晴元方の有力武将として、木津川口に陣を敷きます。
 畿内に出陣するためには、瀬戸内海を渡らなければなりません。この時に、多度津から阿波に陸路で向かい、三好軍とともに淡路水軍に守られて渡海するというのは不自然です。多度津から白方の海賊衆の山地氏や、安富氏の管理下にあった塩飽の水軍に警固されながら瀬戸内海を横断したとしておきましょう。
 以上を整理しておくと、
①阿波細川氏は讃岐の国侍への影響力を高め、畿内での軍事行動に動員できる体制を作り上げた。
②丸亀平野南端の小松庄(琴平町)の地侍・石井昆沙右は、細川晴元の命によって畿内に従軍している。
③その方法は、まず讃岐西方守護代・香川氏の命に応じて、多度津に集合
④細川晴元直臣の海賊衆山地氏の輸送船団や軍船に防備されて海路で畿内へ
⑤畿内での働きに対して、阿波細川氏より名田の扶持を下賜されている

 このように地侍級の武士を、有力国人武士の下に組織する軍事編成は寄親・寄子制といい、戦国大名たちの編成法のようです。そして、阿波細川氏の力が弱体化していくと、香川氏は地侍や三野氏・秋山氏などの有力国人武士や、海賊衆の山地氏などを自分の家臣団に組織化し、戦国大名への道を歩んでいくことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年
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塩飽諸島の中で、多度津から猫フェリーで行けるのが高見島と佐柳島です。高見島は古くから人が住んでいたという塩飽七島の一つです。その向こうの佐柳島は高見島からの入植者によって江戸時代になって開かれたとされます。高見島の「餅つき唄」の中にも、次のようなフレーズがあります。
高見・佐柳は 仲のよい島だよ― ソレ
あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ
ソレハ ヨイヨイヨイ
  「あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ」と高見島と佐柳島は、親子・兄弟島と謡われています。今回はこの内の高見島に伝わる民俗について、見ていくことにします。  テキストは「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」です。 
高見島の島名は、 どこからきているのでしょうか?
ひとつは、高見三郎宗治の名からきているという説があるようです。
浜部落の三谷家(屋号カミジョ)の土地からでた五輪の供養塔は、鎌倉~室町時代のもので、児島高徳の墓だと地元では伝えています。この墓には、浜の人々が夏祭りにおまいりしていたと云います。
また別の説では建久年間(12世紀末)に、備前国児島から移住してきた人たちが開いたのが始まりだという伝承もあるようです。
最後の説は、周辺の島の中で一番高く、周りが見渡せる島だから、高見島と呼ぶようになったのだとされています。これが一般的なようです。
 寿永四年(1185)屋島の源平合戦に破れた平家船団が西方に落ち延びていくときに、高見・佐柳島にも立ち寄って水・飲料、燃料のマキを積み込んだという伝承もあるようです。高見島の浜の庄屋・宮崎家は、平家方の宮崎将監の後裔だと自称していたようです。この島が海の民の拠点として、機能していたことはうかがえますが、それ以上は分かりません。
高見島(たかみじま)

 高見島は浦と浜の二つの港があります。
一般的には「○○浦・○○浜」というのが一般的です。ところが高見島の場合は、なぜか単に浦・浜という集落名です。字名では「大久保通・大谷通・古宮通・六社通・田ノ上通・浅谷通・下道通・高須通」というように、○○通に分けられています。
北側の浦集落は、江戸時代前期に大火にあい、現在のところに集落を移したようです。
それ以前は古宮、ナコチ・ハナタ・フロ・キトチ一帯に集落があったようです。大聖寺ももともとはハナタにあり、そこには腰を掛けたりすると腹が痛むという腹くわり石や五輪の塔が残っていたと云います。フロには、古い泉もあって、ここがかつての島の水源で、ここを中心に人々が集まり住み集落が海辺に出来たことがうかがえます。泉の先には「三郎ヨウジ」という地名も残っているようです。
高見島 浦集落3
高見島 浦集落
  瀬戸の島を歩くと、古い集落には共同井戸があります。
雨の少ない瀬戸内海の島々にとっては、井戸は生命の水の提供場所として神聖な場でもあったようです。水は天からのもらいもので「天水」です。後に弘法大師伝説が伝わってくると、泉・井戸も弘法大師に「接ぎ木」されていきます。そして、満濃池とつながっている井戸(宮の井戸)として雨乞いの話になったりしています。高見島の井戸伝説としては、次のような話が伝えられます。
①若水迎えにつかっていたミキャド(御神井戸)の湧き水の杓井戸
②死が近付くとほしがっていたという冷たくて美味しい水の話。
③むかしの浦の里にあったフロの泉
どちらにしても、古代から瀬戸内海を行き来する交易船は、風待ち・潮待ちのための寄航港が必要でした。そこには、美味しい水を提供してくれる井戸があることが必須条件だったようです。立ち寄った船に、これらの井戸も美味しい水を提供していたのでしょう。

高見島 浦集落4
高見島 浦集落
石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は、江戸時代前期の風景(たたずまい)を今も残しています。

高見島 浦集落男はつらいよ
男はつらいよのロケ地となった高見島

 男はつらいよなどのロケ地として使われたわけが分かります。今は、空き家になった家が淋しそうに立ち並んでいます。

高見島 浦集落2
高見島 浦集落

制立場があり、北戸小路。南戸小路・下戸小路があり、集落の中央上に大聖寺がドンと構えています。ここから見える瀬戸内海は最高です。
高見島 大聖寺2
高見島の大聖寺
沖を行く備讃瀬戸行路の大型船、その向こうには丸亀平野の甘南備山である飯野山が望めます。
高見島 大聖寺からの瀬戸内海
大聖寺から望む備讃瀬戸と丸亀平野
高見島と佐柳島の戸数変化を見てみましょう。
江戸時代の塩飽人名衆650名のうち、高見島には77名の人名がいました。ここからも高見島は歴史が古く、廻船の拠点としても機能していたことがうかがえます。高見島の人たちが無住だった佐柳島に入植し、本浦を開いたと云います。さらに佐柳島の北側には福山・真鍋島から渡ってきた人たちが住みつき、また安芸の家船漁師も早くからやってきて、この島を根拠に漁業を続けていました。それが現在の佐柳島の長崎集落です。こうして、佐柳島は漁業の島として成長して行きます。それに対して高見島はどうなのでしょうか?

高見島 戸数・人口


正徳三年(1713)の記録には、高見島の戸数249戸(1449人)、佐柳島144戸とあります。しかし、この時期に塩飽の北前行路の独占体制が崩れて、塩飽廻船業は大きな打撃を受けます。その後は、船大工や宮大工として島外に活躍するする者が増えて、島を去る者が増えた、島の戸数や人口は減少傾向に転じたことは以前にお話ししました。
 高見島も明治には、249戸から195戸へ減少しています。そして、戸数の半数が大工だったことが分かります。漁師は1/6しかいません。瀬戸の島と聞くと、すぐに漁師港を思い浮かべますが、そのイメージでは高見島は捉えきれない島なのです。浦の集落の住人も漁業を生業としていた人たちではないようです。

高見島 ネズミ瓦
高見島の浦集落の漆喰壁の飾り瓦
 男はつらいよのロケ地「琴島」として、高見島と志々島は使われました。外国航路の船長だった父の家に、病気療養で帰ってきてる娘を松坂慶子が演じていました。その家は坂の上にある立派な家でした。この家は漁師達の家ではないのです。漁師の家は海沿いです。ここには、大工や農家などの家が坂沿いにあったようです。

高見島 うさぎ瓦
飾り瓦のうさぎ
 佐柳島と比較すると、高見島はその後は戸数・人口ともに減少していきます。それとは逆に、佐柳島は近世末から漁師の島として、戸数と人口が増えていきます。いったんは人口が急激に増えた佐柳島も高度経済成長がの中で、過疎化の波に飲み込まれていきます。

茶粥(チャガイ)を食べる島
高見島には水田がないので、米が作れませんでした。そんな島の人々が食べていたのが茶粥です。茶粥を作るときには、網目の布袋(茶袋)に茶を入れて炊き、そこへ麦・米や、薩摩芋・ササギ・炒った蚕豆・ユリネ・ハゼ(あられ)・団子等を入れていたそうです。熱いのをフウフウと吹きながら食べるのが、香ばしくあっさりしていて、美味しかったと云います。茶粥について、研究者は次のように記します。
朝飯は、暗がりで炊き、昼飯は11時頃、夕飯は、暗くなる前に食べていた。朝夕、茶粥のときもあったし、オチャヅケと言って間食を食べることもあった。畑仕事には、ヤマイキベントウと言って、麦飯の弁当を持って行ったりしていた。船での昼飯は白米のご飯だった。(御用船方の伝統か)
メシ(昼飯)、午後六時バンメシ(晩飯)・ョイメシという習慣だった。
茶粥を食べる風習は、瀬戸内にみられ、広島県から和歌山・奈良県へとつながっている。
畑作に頼っていた島の人々にとって、乏しい穀物等を入れて、出来る限り味よく、満腹感を味わおうとした、貧しいながら一つの生活の知恵であった。

 この茶粥に使われたのが以前にお話した「仁尾茶」です。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」

土佐の碁石茶

仁尾茶は伊予新宮や四国山脈を越えた土佐の山間部で作られた碁石茶でした。仁尾商人が土佐で買い付けた碁石茶は、瀬戸内海の島々を商圏にしていたようです。
高見島や佐柳島では、畑仕事はすべて婦人の仕事で、肥料、収穫物を頭の上に乗せて山の上の畑まで運び上げていました。
「ソラのヤマ(はたけ)」は、ヒコシロ、マツネなどにありました。そこへ荷物を頭に載せて行き帰りしていたのです。頭上運搬のことを地元では「カベル」と云います。「ワ」を頭にすけたり、ワテヌグイをしてカベッテいました。これは女性だけの運搬方法です。男の場合は肩に担ぐか、「カルイ」で背負ったり、水の運搬はニナイ(担桶)を「オッコ」(天秤棒)で担いで運んでいました。
 女性の頭上運搬は、瀬戸内海の島々や沿岸部では近世まで見られた風俗でした。高松城下図屏風の中にも、頭に水甕を「カベッテ」って、お得意さんまで運ぶ姿が描かれていたのを思い出します。
高松城下図屏風 いただきさん
水桶を頭に乗せて運ぶ女達 高松城下図屏風

両墓制について
両墓制 
佐柳島の長崎集落の両墓制
佐柳島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
1両墓制
佐柳島の長崎集落の埋め墓

 長崎集落の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から人が運び上げた石だそうです。かつての埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
 このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島への入植者を送り出した高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。

高見島 浦集落の両墓1
高見島・浦集落の両墓制

高見島にはそれぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島にやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?  
  この時期に、塩飽から庄内半島のエリアを教線エリアにしていたのが多度津の道隆寺明王院であったことはお話ししました。道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2

 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部へと広域に活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。その中には粟島や高見島も含まれていたようです。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的な存在でした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。その道隆寺ネットワークの中に、高見島や粟島の寺社も含まれていたことになります。
高見島 大聖寺山門
大聖寺(高見島浦集落)
 高見島では埋め墓のことをハカといい、参り墓のことをセキトウバと呼んでいます。
埋葬するとその上にむしろをおき、土をかぶせ、ハカジルシの石と六角塔婆をたて、花を供えます。四十九日の忌日には「四十九院」という1m角ほどの屋根つきの塔婆の家を埋め墓の上に建てます。四十九枚の板には経文が書かれています。
一般庶民が石碑・石塔を建てるようになったのは、江戸時代後期以後だといわれます。それまでは埋葬したところに、簡単に土を盛り、盛り石をして墓標を建てる程度だったようです。

高見島 石仏
高見島の石仏

高見島の浦のロクシには、棄老伝説が残っており、その近くには赤子薮もあったと伝えられます。古くは、死ぬと海へかえすという風習もあったようです。新仏(アラリョウ)ができると、灯ろう船(西方丸・極楽丸)に乗せて灯ろうを流す風習も残っています。

高見島には、浦に大聖寺、浜に善福寺(廃寺)がありました。
高見島 大聖寺3
大聖寺
大聖寺は、弘法大師開基の寺として伝えられています。島には次のような弘法大師伝説が伝わっています。
「片葉の葦」
「西浦のお大師さん」
「ガンの浦の弘法大師の泉」
「浜・板持の大師の井戸」
「釜お大師さん」
これを伝えた高野聖の存在がうかがえます。
  瀬戸内海の港にも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達だったことは以前にお話ししました。死者供養は聖を、庶民が受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺や弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。それらの寺院を拠点とする高野聖たちが、周辺の両墓制に建てられた庵やお堂に住み着き供養を行うようになります。高野の聖は「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 廻国 + 修験者」的な性格を併せ持つ存在でした。彼らが住み着いた庵の一つが、多度津の桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の周辺です。それが現在の摩尼院や多門院に発展していくと多度津町史は記します。(多度津町史912P)。同じように周辺の島の港にも聖たちがやってきて、定着して念仏信仰を広げていったようです。そして近世後半になって最後に弘法大師伝説がもたらされます。

高見島 燈台2
高見島 北端の燈台 向こうが佐柳島
 高野聖たちによってもたらされた念仏阿弥陀信仰の上に、後に弘法大師信仰がもたらされて、島四国八十八ヵ所巡りが近世後半には姿を見せるようになります。瀬戸の島には、今でも島遍路廻りが春に行われている島があります。私も伊吹や粟島・本島などの島遍路廻にお参りしたことがあります。高見島にも島一周の島遍路コースがあり、石仏が祀られています。
高見島 西海岸の石仏

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」

        佐柳島(猫島)への行き方(香川県多度津町) | 旅女 Tabijo 〜義眼のバックパッカー〜            
佐柳島

佐柳島は、今は猫の島として有名になりました。
この島は、塩飽七島には数えられていません。佐柳島に人びとが住みはじめたのは江戸時代になってからのようです。高見島から七つの株をもった人名が移住して開拓をすすめ、その後に他の島からも漁民が移り住み、しだいに集落が形づくられていったようです。このため佐柳島には人名株が7つありますが、塩飽全体の650株からするとわずかな数です。そのため人名制が島の歴史に及ぼした影響は、他の島にくらべると大きなものではなかったと研究者は考えています。

 真鍋島 八幡神社3
佐柳島の八幡神社 
明治初期の統計によると、戸数275のうち、農業3、漁業267、大工3、船乗渡世2となっています。大工や船乗りになって稼ぐ人がほとんどいなかった点に、塩飽七島との違いが見れます。佐柳島は、専ら漁で暮らしをたてる島として、「渡世」してきた島のようです。
 

高見島・佐柳島(17.06.14)
佐柳島
佐柳島本浦の北はずれに八幡宮があります。
本殿は昭和28年の改修、拝殿は昭和48年の新築で、銅板葺の緑の屋根が島の緑と調和しています。住む人が少なくなった集落の中を歩いてきた私には、こんなに立派な拝殿が建っていることを不思議に思えました。

真鍋島 八幡神社4
佐柳島の八幡神社

 拝殿には新築を記念して船を操縦する舵取機が奉納されていました。漁船のものとは思われない立派なモノです。よく見ると「神戸市在住佐柳島有志」と奉納者の名があります。その上の鴨居には、本殿改修寄附者の名を連ねた額が掲げられている。地元の人に混じり、次のように神戸や大阪からの寄附者の名が多くあります。
①神戸市在住 89名
②大阪市在住 35名
③神戸市給水所 40名
④住友神戸支店 16名
⑤神戸市大正運輸 14名
⑥神戸市日本組  9名
⑦大阪市住友 43名
役所や企業ごとに人びとの名前が記されています。神戸・大阪と佐柳島が、どのように結びつくのか私には分からず「疑問のおみやげ」として持ち帰りそのままになっていました。最近、それに応えてくれる書物に出会いました。今回は、佐柳島と神戸の関係を、読書メモ代わりに記しておきます。
真鍋島 八幡神社6
八幡神社(佐柳島)の鳥居と瀬戸内海
拝殿新築したときの世話人が、次のように話されています。
新田清市氏(明治35年生)は、神戸市給水所に定年まで務め、退職後に真鍋島にもどってきた方です。本殿改修寄附者の名を連ねた③神戸市給水所40名の一人になります。
わしらの入った大正のじぶんは、船舶給水所というて、神戸港にやってくる船に給水するのが仕事です。神戸が港町として開かれたのは、 一つには水が良かったためで、神戸の水は赤道を越えてもくさることがない、といわれました。
 神戸港へ入港した船への給水には、突堤に設けられた給水孔をつかっての自家給水と、沖に碇泊したまま水船をたのんで給水するものの二とおりがありました。神戸の良い水を水船でとどけるのが私たちの仕事でした。務めていたのは、ほとんどが佐柳島の人でした。
 船が港に入り繋留すると、何番ブイの船、何トン給水をたのむ、と船舶会社から給水所に連絡がはいります。すると、水船が本船に出むきます。私が入った当時は、木造の水船を曳船がひいて本船に近づき、蒸気でポンプを動かす「ドンキ船」が付き添って給水していました。
水船の大きさは30、50、100トンの三段階で、慣れた者が大きな船に、初心者は小さな船に乗るといった具合でした。乗組員はいずれも一人で、真中に大きな水槽を備え、前後にオモテとトモの二つの部屋がつくられていました。
「給水所に勤めるといっても、戦後しばらくまでは私たちは船住いでした。水船には女をのせてはいけないというきまりがありましたから、女房や子どもたちは島において働いていました。船の中で男手で煮炊きをするという不自由な生活でした」
曳舟には船長・機関長・機関部員・甲板員二名のあわせて五名が乗り組んでいました。みんな給水所につとめる人で、船長と機関長が吏員の職に就き、機関部員と甲板員はやとわれでした。島を出て給水所につとめるときは、だれもが傭人として入りました。水船に乗りたいという人がいると、島出身の先輩が所長にたのみこむという形がほとんどでした。
 傭人として二年つとめると試験をうけて雇員にすすみ、さらに二年後の試験で正式な吏員になる道がひらかれていました。吏員になるとそれまでの日給が月給にかわり、盆・暮れの帰省も心おきなくできて、暮らしむきも安定します。

 八幡宮の拝殿を建替時に、新田さんは島に帰って年金暮らしを送っていたようです。そして、発起人として寄附の呼びかけをすると、神戸や大阪で活躍する多くの佐柳島出身者から巨額の金が集まったようです。水船で働く仲間のなかには、吏員にすすめぬまま年老いてしまった人もいました。彼らからも同じように島へ志が寄せられてきたといいます。ここからは、神戸港の水船は佐柳島出身者によって運営されていたことが分かります。

真鍋島 八幡神社5
八幡神社(佐柳島)の鳥居
佐柳島出身者には、ハシケ(艀)にのって暮らしをたてる人びとも多くいようです。
八幡宮の本殿改修寄附者の額には、住友神戸支店、神戸市大正運輸、神戸市田本組、そして大阪住友と阪神の企業の人びとの名が記されていました。彼らは輸送会社や倉庫会社で働き、ハシケのりとして港湾労働で汗を流した人だちだったようです。ハシケは水船とちがつて、ふつう夫婦でのりこみ、子どもも船の中で育てたようです。また、見習いとしてやとわれた「若い衆」も同乗していました。
 住友運輸のハシケに夫と一緒にのっていたという岩本クニさん(明治42年生)のインタビュー記事には、次のように記されています。
 いまは楽させてもろうてますが、憶えてこのかた働きずめでした。小学校から帰ると、母親が百姓しよる畑のわきで乳飲み児の子守です。母は乳がでなかったので、背中に負うた児がよく泣きよりました。ハラすかしてな。マメをペチャペチャかみくだいては、口元にもっていったものです。日暮れちかくになると母より一足先に家に帰り、ご飯をたいてその児と二人で畑の母を待つ毎日でした。学校をおえると、こんどは岡山の紡績工場づとめです。主人といっしょになったのは20歳のときです。主人は14歳で神戸に出て、ハシケにのっていましたので、私もいっしょに船の中で暮らすようになったのです」

 こわかったのは、何といっても台風のときです。下の娘が三つくらいやったろうか、三十数年前に大嵐にあいました。避難の途中で、曳船のロープがプツンと切れてね。いあわせた船にやっとの思いで肪わせてもろうたが、今度は、その船ともども流されたんよ。二隻とも嵐にやられてしまうと思って、泣き泣きロープをほどいたのですが、 一時はもうダメかと思いました。せめて子どもの命だけはと思うて、トモに寝ていた娘をおこしてだきかかえました。海の中へとびこんだらだれかが助けてくれるのではないかと思うてね。そうこうしよるうちに救助船が近づき、命からがらのりうつったんです。

海が平穏であっても、海上での暮らしはちょっとの油断でたいへんなめにあいます。とくに幼児のいる母親は、たいへんだったようです。
ある夏の晩、ハシケの上で家族そろって夕涼をしていました。スイカを切ろうと下の娘に包丁を取りに行かせたんですが、なかなかもどってこない。上の娘に見に行かすと、あわてて帰ってきよるん。どうしたと聞くと「妹が海に浮いとるん、といいよるの」
 大いそぎで引上げたところ、息があった。水もさほど飲んでいないようで、ほっと胸をなでおろした。
「子どもはえろう元気なもんです。ケロッとした顔しておきあがって「おかあちゃんスイカ」といいよるんです。海の水をのんでまだスイカをほしがるんよ」
戦後間もない頃、配給米をもらいに出かけた夫が夜になってももどってこない。どうもヤミ米を買いに行ったと間違えられて、警察の留置所に拘束されているらしいとのこと。夜中の12時には、荷役の仕事がはいっているので、船を出さないわけにはいけん。曳胎の船長さんに、やんわり曳いてや、いうて私がハシケの船頭になって舵をとりました。上の娘が五つか六つくらいのときやったろうか。眠い目をこすりながらロープの上げ下げを手伝うてくれてね……」
ハシケでは、あるときは女が男の代役をつとめ、子どもまでその仕事を手伝ったようです。
 しかし、働きさえすれば白い米を思うそんぶん口にできることは幸せでした。ハシケを所有する会社からは、男・女・子どもを問わず一日一人五合の白米の配給がありました。それがハシケのりの大きな魅力です。
「年に何度か島に帰ると、少しずつ残しておいた米でおむすびを山のようにこしらえて、隣近所に配ったものでした。ええ土産物だと喜ばれました。ハシケの人はええなあ、と島の人にうらやましがられたものです」
と、戦後間もないころの物質が不足していた時代を岩本さんは回想しています。

ハシケの暮らしは、電気・水道・ガスがありません。そのため石油ランプを灯して明かりとし、煮炊きには、流木をひろったり、造船所で木の切れ端をもらつてきて燃料としました。野菜や日用品は、港に碇泊する船をめあてに巡回してくる「ウロウ船」から買います。ときには船からあがって、ハシケの女たちが連れだって市場に買出しに出かけることもありました。それは、息抜きのひとときで、ささやかな楽しみでした。

 洗濯と給水は、神戸港の突堤で行なっていました。
「水はほんとうは買わにゃいけんけど、私ら佐柳島のもんは、おおかたタダで使わせてもろうていました。 給水所の人が佐柳島の出の人でしたから、給水所のお役人がいくら厳格いうても、そのあたりはおおめにみてもろうていました」
 ある日、突堤で洗濯をしていたら、いつもとちがう人がみまわりにやってきました。そして、なにしよんぞととがめられました。よくみると、里の隣の家の息子です。実家の井戸によくもらい水にきていた家の子なので、子どものころからよく知っていました。そこで、すかさずこう云いました。。
「何いうとるん、あんた、うちの井戸でうぶ湯をつかったやないの」
その人は驚き、私の顔をまじまじと見て、なつかしさのあまり声をあげた。
「クニさんかいなあ。ほうかいなあ。なんぼでもとれや、かまわん、かまわん」

ハシケの船住いも昭和30年代半ばで終わりをつげたようです。
 岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
 そのころから神戸港の浚渫がすすみ、本船が埠頭に横づけされるようになり、コンテナ船なども登場し、荷役作業のあり方が変わっていきます。そして、ハシケや水船は姿を消して行きます。

真鍋島1
八幡神社の前の浜
 佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
 佐柳島は近世になって入植された島なので、塩飽の島々のように船乗りや大工などの職人として、島外に出る伝統がありませんでした。しかし、神戸が近代的な港町として発展していく中で、ハシケヤ水船に関わり、その発展に寄与していたようです。
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
ttps://4travel.jp/travelogue/11285847

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一と歩いた昭和の日本 第五巻
中国・四国2 宮本常一とあるいた昭和の日本5』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
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 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

P1190594
熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
関連記事

  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

仁尾町の賀茂神社 - 三豊市、賀茂神社の写真 - トリップアドバイザー
仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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前回は、守護細川氏の支配下の讃岐で、西方守護代を務める香川氏が在京せずに、讃岐に根付いて在地経営を強めていたこと、それに警戒感を抱いた細川勝元は、1445年に宇多津の港湾管理権を、香川氏から取り上げ東方守護代の安富氏に任せたことを見てきました。
今回は香川氏が、多度津港をどのように管理していたのかを見ていくことにします。
テキストは 「橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」所収です。前回は、香川氏や安富氏が管理運行する「国料船」や、その母港の管理権を「兵庫北関入船納帳」で見ました。「国料船」とは、京都にいる守護細川氏に対して、讃岐から物資を輸送する船に関しては、無税で海関を通過でる権利が与えられていた船のことです。その運行権を、安富・香川氏は持っていました。これは、いろいろと「役得」があり、利益があったことを前回お話しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

 国料船以外に「過書船」が「兵庫北関入船納帳」には出てきます。
「過書」として、これらも無税通行が認められていたようです。過書船については、研究者は次の3つに分類します。
①先管領・管領千石に代表される幕府関係者
②南禅寺などの禅宗寺院の有力寺社
③淀十一艘と美作国北賀茂九郎兵衛なる人物
讃岐に関係のある過書は①で、ここから京へ物資を運ぶ船が過書船とされたようです。
讃岐の過書船として登場する船は以下の15件でです。

讃岐過書船一覧
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐からの過書船一覧表

船籍は、11件を三本松が占め、塩飽・鶴箸(鶴羽)が2件で、この3港で計13件となり、讃岐港の85%以上を占めます。 一方、多度津を船籍地とする「香川殿十艘」が一件あります。過書船に関わっているのは、この4港に絞られるようです。
 先ほど見たように、国料船の母港とするのは「多度津・庵治・方本・宇多津」の4港でした。これに過書船の母港である「三本松・塩飽・鶴箸(鶴羽)」を加えた七港が、管領細川氏と関わる港と云えそうです。こうしてみると、多度津以西には国料船や過書船の母港がなかったことに気づきます。中讃・東讃に集中しています。
少し回り道をして、兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐船の船籍地一覧表を見ておきましょう。
3兵庫北関入船納帳2

この表からは次のようなことが分かります。
①宇多津が47、塩飽37、島(小豆島)・平山(宇多津)の4港合計数が128件、で全体の約半分を越える。
②東讃の引田・三本松・野原・方本(屋島の潟元)・庵治の5港合計数が75件
③東讃に比べると、多度津以西の三豊地区の港からの寄港回数は少ない。
各港から兵庫北関に寄港した讃岐船は何を積んでいたのかを、下表で見ておきます。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表

讃岐船の特徴は、塩輸送に特化した専用船が多いことです。
特に庵治や方本(潟元)には、その傾向が強く見られます。それに対して、①の宇多津や塩飽の船は、塩の占める比率は高いのですがそれだけではないようです。米・麦・豆などの穀類も運んでいます。
 瀬戸内海は古代から海のハイウエーで、塩飽はサービスエリア兼ジャンクションの役割を果たしてきました。備讃瀬戸エリアの人とモノが、一旦は塩飽に運ばれ、そこから畿内行きの船に乗り換えることが行われていました。西讃地方の港からの寄港回数が少ないのは、塩飽を中継しての交易活動が行われていたことがうかがえます。

宇多津地形復元図
 宇多津と平山についても同じような関係が見られると研究者は考えているようです。
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田港や三野港などは兵庫北関入船納帳には登場しないと考えられます。

そういう目で②の東讃の各港を見ると、野原・庵治・潟元を母港とする船は大型船で、塩の専用船です。それに対して三本松や志度は、小型船です。ここからは、東讃エリアは小豆島を通じて、中継交易が行われていたかも知れませんが、同時に小型船が直接に畿内との間を行き来していたことがうかがえます。
 
さて、概略はこれくらいにして、多度津船籍の過書船について見ていくことにします。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津船
多度津船は1年間で12回の入港数があります。その内訳は、国料船が7件、過書船が1件、 一般船が4件の計12件です。一般船の入関日時を見てみると、2月9日・3月11日・4月17日・5月23日と年前半に集中して、それ以後にはありません。前回見たように、香川氏の管理する国料船の宇多津から多度津への母港移動は4月9日でした。
 多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏によって、それまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。過書船の「香川殿十艘」というのは、十艘という船数に限って、無税通過が認められたことを表すようです。

 これが香川氏に何をもたらしたかを見ておきましょう。
2月9日船や3月11日船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。それまでは兵庫北関で、一般船として1貫100文の関税を支払って通過していました。ところが5月以後には国料船や過書船と扱われ、無税通行するようになったことが分かります。
 こうして、香川氏は多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことがうかがえます。この香川氏の経済力が、その後の西讃岐地方一帯を支配し、戦国大名化していく際の経済基盤になったと研究者は考えているようです。

 多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
先ほどの表からは過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐で、国料船時の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 問丸とは何かを「確認」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を持つ運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水主として使っていました。それが水主も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。ところが、問丸が荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていきます。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。
 このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたようです。兵庫港を拠点とする問丸の中には、法華衆の日隆の信徒が数多くいました。彼らは、讃岐の宇多津・多度津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われます。そうして姿をたというのが宇多津の本妙寺であり、観音寺港の西光寺なのでしょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
讃岐船の問丸一覧 道祐は超大物の問丸だった
多度津に拠点を置いた道祐は『入船納帳』に出てくる問丸の中では、卓越した存在だったようです。
上表を見ると道裕は、多度津以外にも塩飽など備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱い、備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域といった広い勢力範囲を持っていたことが史料からわかります。香川氏は道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
  ちなみに、兵庫北関入船納帳に多々津(多度津)はでてきますが、堀江港は出てきません。潟湖の堆積が進む中で堀江港は港湾機能を失ったのかもしれません。それに替わって、15世紀半ばまでには、香川氏は新たな港を居館下を流れる桜川河口に開き、多度津と呼んだとしておきます。
多度津陣屋10
多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

香川氏は輸送船団を、どのように確保したのでしょうか。

海上交易活動に進出するには「海の民」の掌握が古代から必要でした。香川氏は、どのようしにて国料船や過書船などに使用する船やその水夫たちを確保したのでしょうか。これは、村上水軍の中で見たように、海賊衆を丸抱えするのが、一番手っ取り早い方法でした。海賊衆を、配下に置くのです。
 香川氏の配下となった海賊衆として考えられるのが、以前にもお話しした山寺(路)氏です。兵庫北関入船納帳が書かれた頃から約10年後の康正三(1456)のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を荒らす海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理となっています。なお、小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人がもっていること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
東寺領であつた弓削島は、少泉・山路・両村上氏の四人によって押領されていたこと、この4氏の本拠地はちがいますが、海賊衆という点では共通するようです。
 讃岐白方の山路氏については、以前にお話ししました。
白方 古墳分布

 白方は、現在の多度津町白方で、弘田川河口の港があった所で、現在の白方小学校の下辺りまでは、湾が入り込んでいたようです。その地形を活かして、古代においては多度郡の港の役割を果たしていました。そこを根拠とした山路氏は、燧灘を越えて伊予の弓削島まで進出し、その地を押領していたことが分かります。また、山路氏は「細川氏の奉公衆」ともされています。これをどう理解すればいいのでしょうか?

白方 弘田川

手持ちの材料を手立てに、海賊衆山路氏の動きを私は次のように考えています。 
①弘田川河口の白方には、小さな前方後円墳がいくつも並び、後には盛土山古墳などの特徴的な方墳も作られている
②白方は善通寺王国と弘田川を通じて結ばれ、その外港として役割を果たしてきた。
③そのため港湾施設が整い、交易活動が活発に行われてきた。
④空海の生家である佐伯氏の発展も、白方を拠点とする瀬戸内海交易活動に乗り出したことにある。
⑤中世になると、白方は海賊衆山路氏の拠点となった。
⑥山路氏は、室町幕府の成立期に細川氏の下で働いたために「細川氏の奉公衆」となった。
⑦しかし、実態は芸予諸島の村上氏と同じで「海の民」が「海賊衆」となった勢力であった。
⑧彼らは海賊衆として、村上衆と連携し、芸予の塩の島弓削島を押領したりすることも行っていた⑨また熊野海賊衆との交流もあり、瀬戸内海を広域的に活動し、交易活動も展開していた。
⑩その先達(パイロット)となったのは、備中児島の新熊野の五流修験者たちであった。
⑪このため児島五流の修験者たちが白方にはやって来て背後の弥谷寺で修行を行うようになった。
⑫さらに、熊野行者たちは白方の熊手八幡の神宮寺を中心に、いくつもの坊を建立し修験者の拠点化としていった。

ここで押さえておきたいのは、香川氏が「細川氏の奉公衆」の海賊衆である白方氏を、配下に取り込んでいったことです。
香川氏は、在京せずに多度津に居残り、在地支配をこつこつと進めていきます。そして、三野氏や秋山氏を家臣団化していったことが、三野・秋山文書からは分かります。同じようにして、白方の山路氏も家臣団化したと研究者は考えているようです。

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弘田川河口より見上げる天霧山
 これは、毛利元就が村上武吉の協力を得て、厳島合戦で勝利したような話と同じようにとらえることができるのかもしれません。どちらにしても、香川氏は海賊山路氏の協力を得て、独自の輸送船団を形成していた可能性はあります。

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熊手八幡神社(多度津町白方)

 こうした輸送船が桜川河口の多度津港に姿を現し、国料船・過書船の名の下に畿内との交易活動を行うようになった。また、守護細川氏からの動員令があった時には、山路氏の船団によって畿内へ兵が迅速に輸送される体制ができていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


 3兵庫北関入船納帳.j5pg
兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
DSC03651
                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波の三好氏のような家臣登場の道にもつながりかねません。細川氏にとっては、宇多津の支配は重要な意味合いを持っていました。東讃岐に拠点を持つ安富氏を宇多津へと移動させたのは、このような思惑があったためだと研究者は考えています。
 
 宇多津を失った香川氏は、どうしたのでしょうか
  これに直接応える史料はないようです。考えられる事を箇条書きするのにとどめます
①堀江港に替わって、新たに桜川河口に新多度津港を開き、香川氏専用の港湾施設とした。
②白方に拠点を置いていた海賊衆山路氏を、配下に入れて輸送力や海上軍備の増強に努めた。
③三野方面へと勢力を伸ばし、三野氏や秋山氏を家臣団化した
④香西氏の代官を務める仁尾浦への介入を強めた。

応仁の乱を契機として、讃岐での細川氏の力は大きく減退し、在地の国人が活発に動きを見せるようになります。
それは守護細川氏の支配下から抜けだし、在地支配を強化していく道だったのでしょう。ところが、その前に阿波三好氏が侵人し、東讃岐の国人たちは従属していきます。
 その中にあって最後まで対抗したのは香川氏でした。香川氏が周辺国人たちを家臣団化し、戦国大名化していく様子がうかがえるのは、以前にお話した通りです。

以上をまとめておきます
①讃岐守護代の安富・香川氏は、関税フリーの国料船の運行権を持っていた。
②国料船の当初船籍は、安富氏が方元(屋島の潟元)、香川氏が宇多津であった
③その港湾管理体制が文安2(1445)年に変更され、宇多津を安富氏が管理するようになった④この背景には、守護細川氏の備讃瀬戸制海権や讃岐国内統治をめぐる思惑があった。
⑤備讃瀬戸に関しては、宇多津・塩飽を安富氏に任せることで制海権確保の布石とした
⑥讃岐統治策面では、台頭する香川氏の勢力拡大を阻止しようとした。
⑦しかし、応仁の乱の混乱で細川氏による讃岐支配体制が弱体化し、東讃は阿波の三好氏の配下に入れられていった。
⑧一方、西讃については西讃守護代の香川氏が戦国大名化し、最後まで「反三好」の旗印を掲げた。
⑨香川氏は、多度津港を拠点として瀬戸内海交易において経済的な富を獲得し、それが戦国大名化のための経済基礎となっていたふしかがある

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力所収
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西長尾城本丸跡2 上空より
西長尾城(城山)上空から望む丸亀平野

西長尾城跡は、レオマワールドの背後の城山(375.2m)にあります。 地元に住みながらも、若い頃の私は「西長尾城=長尾氏の山城」と単純に考えていました。そして、長宗我部元親との戦いで長尾氏が拠点とした山城の遺構が、現在も残っていると思っていたのです。そうではないようです。測量調査などで縄張り図が分かってくると、土佐勢力によって大規模改築が行われ、長尾氏時代の縄張りが分からないほどのリニューアルが行われていることが明らかになってきました。今回は、2004年に、綾歌町によって出されている調査報告書を見ていくことにします。

西長尾城概念図3
丸亀市とまんのう町の境界線の稜線上にある西長尾城

 最初に長尾氏の歴史を振り返っておきます
太平記には、1362(貞治元)年 中院源少将の籠もる西長尾城が、細川頼之に攻められ落城したことが記されています。その6年後に、讃岐守護の細川頼之は、庄内半島の海崎氏に長尾の地を与えます。海崎氏は、長尾の地に入り長尾大隅守を名乗るようになります。以後、西長尾城に山城を築き、丸亀平野への勢力拡大を行っていったようです。しかし、長尾氏がいつここに山城を築いたかなどについてはよく分かっていないようです。
 1579(天正7)年 長尾氏は土佐から侵攻してきた長宗我部氏へ降伏します。
そして西長尾城には、元親の重臣である国吉甚左衛門が西長尾城に入ります。その後、四国平定をめぐって長宗我部元親は信長・秀吉と対立するようになり、それに供えるために、従来の讃岐の山城の防衛強化とリニューアルを行います。それが西長尾城にも見られるようです。
西長尾城概念図
西長尾城 城山から北側と東側へ曲輪群が伸びている

  城山山頂の本丸跡は24×31mの広さがあり、天空に向かって広がる広場のようです。北に広がる丸亀平野と、飯野山の向こうには備讃瀬戸を行く船が見え、見晴台としては最高です。本丸跡の周囲は急峻で、西端には虎口状の凹みがあり、西側には西櫓と呼ばれる9×11m程の曲輪があるようですが、素人目にはよく分かりません。西に続く山道は佐岡へと下って行きますが、この先には曲輪はないようです。
西長尾城縄張り図
西長尾城縄張り図

 縄張り図を見て分かることは、本丸跡から北に伸びる2つの尾根上に曲輪が並んでいることです。測量図で見てみましょう。

長尾城10

 本丸跡から北東(1~10郭)と東北東(11~22郭)に伸びる2本の尾根上に、連郭式に曲輪群が配置されています。その曲輪の間を結んで連絡路があり、東側の尾根先端には、大堀切と竪堀が掘られています。ここには、戦国時代末期の城郭技術がふんだんに取り入れられていること、北からの敵を想定していることなどが分かります。これらは以前に紹介した坂出の聖通寺山城と同じです。

西長尾城詳細測量図西北尾根.2jpg
西長尾城 本丸跡から北東曲輪(1~10郭)
     山頂部の本丸跡から北東方向に伸びる2つの稜線の防御施設をもう少し詳しく見ておきましょう。
①東側の尾根上には連郭式郭列が大小合わせて第1~10郭まで、10段設けられ、最下部は堀切によって断ち切られ、その下には土塁が築かれています。
②東側の郭列については、下から3段目で南東肩に高さ1m、長さ30mの土塁があります。
③西側の尾根上にも同じように連郭式郭列が 12段連なっています。
④西側の郭列 についても、同じように北西端にそれぞれの郭を連結するように土塁が設けられています。 
以上から、北からの攻撃に対する防御と併せて、東西側面からの侵攻に対しても防備ラインが設けられています。
 特徴的な曲輪を、見ておきましょう。
第5郭の北端には大きな枡形虎口が作られていて、枡形入口は両側から土塁が延びています。
第8郭は土塁線より南に張り出し、土塁の裾が通路になっています。この土塁線は尾根に沿て直線に築かれ谷筋への大規模な防御施設になっています。
第9郭の西端には、連続した竪堀が掘られて、防御を固めています。
第10郭で土塁は直角に折れ、折れ部は櫓台状に広くなっています。この西下には第9郭に通じる枡形虎口があり、櫓台はすぐ下の堀切や竪堀と連携し合い、四方に睨みを利かす重要な防御地点を形成しています。堀切は北西へ伸びて竪堀となって、井戸側は大土塁になっています。
西長尾城詳細測量図井戸2004年
西長尾城 井戸郭
東西の両尾根筋の間には、唯―の水源となる谷筋があます。
ここは加工されて平坦地になっています。そして、4基の井戸が設けられているので、水の手郭の役目を果たしていたようです。しかし、これらの井戸は、水深がないので湧水を汲み上げるものではなく雨水等を溜めて利用するものだったようです。

西側の連郭式郭列について、見ておきましょう。
西長尾城詳細測量図西北尾根2004年
西長尾城 西北尾根の連郭式郭列

郭と郭の段差は約2m前後で奥行10m、幅15m前後のものが北東に向かつて連続して設けられています。その中間部分にあたる 5段の郭列の西肩部分は土塁によって連なっています。 また、 この上塁からそれぞれの郭に進入できるように通路状になっていることか ら、 この上塁は城内移動用の通路や各郭への虎口も兼ねていたようです。
この西側の郭列からは、西長尾城の旧城から新城への改築の痕跡が見えてくると研究者は指摘します。
特に第17郭から第19郭 については、下段の郭に面する肩部分が直線状に整形されています。その郭は、それぞれが平行に整えられているので、改築時に当初から計画的に手を加えていたことがうかがえます。
 以上からは、各曲輪を結ぶ通路がよく残り、枡形虎口が多用されているなど戦国末期に大改修が行われていると研究者は指摘します。
長尾城全体詳細測量図H16
西長尾城全体図

西長尾城の、本丸跡の東方の小ピーク(341m)にも、ヤグラと呼ばれる主郭があります。これが長尾氏が降伏後に、長宗我部元親から新城主に任命された国吉甚左衛門が新築した主郭のようです。西長尾城詳細測量図ホウジロウ2pg
国吉城の主郭第28郭 ホウジロウと呼ばれた

ここに「ホウジロウ」という地名が残ります。この「ホウジロウ」ピークは、各尾根への要の位置にあり、麓の長尾氏の居館へ城道がここから伸びています。そのため長尾氏時代より曲輪があった可能性はありますが、それは城山の本丸の附属施設で、規模も小さかったことが考えられます。長宗我部元親支配下の国吉期には、本丸の城郭も大改修された他に、「ホウジロウ」ピークを中心に新たな城郭が新築されています。これを国吉城とよぶ研究者もいます。そうすると、長宗我部元親は「西長尾城 + 国吉城」という構成になっていたことになります。
城山本丸の東に新たに築かれた「国吉城」を見ておきましょう。
西長尾城詳細測量図ホウジロウpg
第28郭(ホウジロウ)が国吉城の主郭

鞍部を利用した堀の西側に南北33m、東西22mの平坦地が作られています。これが第28郭で、「ホウジロウ」と呼ばれていた所です。この東端には、東西5m、南北8m、高さ1,5mの高まりがあります。これは、これまでの縄張り図では、単なる土塁と考えられてきました。しかし、精密測量図の形からは、「櫓台」だと研究者は考えています。この「櫓台」周辺の施設について研究者は次のように記します。
 「櫓台」からは南北に土塁が延びる。北西隅には枡形虎口が開き北側下の腰曲輪に下る。下った地点は小さな枡形状に低くなる。帯曲輪は北縁に折れをつけ、東端は土塁で遮断し西端下の土塁は鞍部北の曲輪まで延びる。この鞍部の東側は破壊されているが西側は土塁が喰い違い虎口となり、南に下ると道下に複雑な竪堀があり、この先の曲輪に達する。鞍部から曲輪へは枡形虎口でつなぎ西の土塁が、この地点で広くなり横矢を掛ける。土塁・喰い違い虎口・両側の一段高い曲輪という構成は大きな枡形ともいえる。
 主郭東下には堀切があり、両側に竪堀を落とす。主郭との切岸は5m以上の高さとなる。この東へは平坦に近い尾根が続き、広い曲輪を連続させる。東端の曲輪は先端を土塁で固め北東隅の枡形虎口より長宗我部氏に特徴的な二重堀切の土橋に下る。
  ここからは、ホウジロウには「櫓台」があり、土佐流の築城技術を駆使した防衛施設が作られていたことが分かります。第28郭エリアは、国吉時代の「新城」であったようです。 このエリアは、長尾氏時代の西長尾城跡とは、全く別の新しい城郭で国吉城跡と呼んだ方がいいようです。
それでは、「国吉城」のエリアはどこまでだったのでしょうか

西長尾城詳細測量図ホウジロウ2pg

 第28郭から城山方面には、北西に向かって2段の第27・26郭を経て鞍部に降りていきます。そこから第25・24・23郭の大小3段の郭へと登っていきます。最上段の第23郭は、先ほど見た櫓台のある第28郭と同じ高さになるようです。ここからは、第23から第25郭は、西側の主郭を防御するためのものではなく、第28郭のヤグラに附属する施設と研究者は考えています。つまり「元吉城」は西側は、第23郭までをも含むと研究者は考えています。
「元吉城」の東側を見てみましょう。
西長尾城詳細測量図ホウジロウ以東尾根pg

第28郭の櫓台の下には堀切が掘られています。切岸は 5m以上の高さがあり、その東のに続く削平地とは一線を画しているようです。第28郭の東の第30郭にも、ヤグラと思わせる形状が残っています。第28郭の櫓台ほどの規模ではありませんが、東先端部に高まりがあるようです。これも櫓台だと研究者は考えています。
西長尾城概念図
 
第28郭(ヤグラ)と第30郭(2重空堀)の間には、いくつもの削平地が残されています。
この削平地は、何のために作られたのでしょうか? 数千の兵を居城させるための陣城的要素が強いと研究者は考えています。南海通記には、長宗我部元親が東讃制圧時には、土佐・伊予・西讃から1万規模の兵を西長尾城に集結させたと記されます。そのまま信じられませんが、大規模な軍隊が駐屯できるスペースが確保できていたことが明らかになってきました。
 以上の施設群を研究者は、次のように評価します
「櫓台」のあった「ホウジロウ」エリアの縄張は、枡形虎口、土塁、喰い違い虎口、櫓台と多くの防御施設があり、土佐独自色も随所に見られ長宗我部氏の新城にふさわしい縄張りである。

 西長尾城は2004年の測量調査によって、「戦国期讃岐で屈指の大規模要害」であることがわかってきました。そして、この城が長宗我部氏の讃岐侵攻や経営拠点としてクローズアップされ、文献的にも再評価をされるようになりました。この軍事施設に近接してあった金毘羅堂の役割をもういちど考える契機にもなりました。

   南海通記の「土州の兵将、讃州を退去の記;巻之十四」には、西長尾城撤退について、次のように記します。
此の西長尾城と云は古より名を得たる名城なれども其地には非ずして元親新城を搆へ、兵衆三千人込る積の城也。今集る兵衆一万人に及ぬれば城狭ふして込るべきやうなし。新城なれば山下の屋もなし、野に居て雨を凌ぐもあり、村邑に入て居るもあり、漸く夜を明しにき。明る日、国吉甚左衛門に会して議すれども此の大軍を養べき粮なし。先づ白地へ飛檄をなして元親の命を受んとする處に元親より飛札来て、西長尾城へ粮運送ならず、伊豫讃岐の旗下の面々は先づ我々の在所へ帰て後日の成行を待玉ふべし、と諄々たる厚志なり。これに由て妻鳥采女は河江に帰り香西伊賀守は香西に帰る。然れども京方の聞への為に城へは入ずして山下の宅に居す。

 漸くして元親去る十九日に上方へ降参あり、阿波讃岐伊豫三ヶ国を指上げられたると聞ければ、香川信景雨霧山の城を去て土州へ引取り、長曽我部右兵衛尉が植田城、国吉甚左衛門尉が西長尾の城も明捨て土州へ引取る。北條郡西の庄の城主、山内源五、鷲山の城主、入交蔵人も城を捨て土州へ還る。昨日は力を竭して人城を奪ひ今日は塵芥に比して城を捨て去る、誠に一睡の夢の如し。 

意訳変換しておくと

この西長尾城は古くからの名城であるが、もともとの地にあったものではなく長宗我部元親が新城を搆へ、兵衆三千人を入れた城である。この期に及んで兵衆一万人が籠城し、もはやこれ以上の兵を入れることはできない。新城なので麓に館もなく、雨を凌ぐことも出来ない兵や、村邑に入って居る者もいた。夜が明けると、国吉甚左衛門に会って協議したが、このような大軍を養う兵粮がないとのことであった。そこで、阿波池田の白地へ急ぎ使者を出して、元親の命令を求めようとした。するとその時に、元親からは次のような指示が届いた。
 西長尾城へ兵粮を送ることはしない。伊豫と讃岐の旗下の面々は、先づ自分の在所へ帰って後日の成行を待つべし」との内容であった。これを受けて、妻鳥采女は河江に帰り、香西伊賀守は香西に帰陣した。しかし、京方の聞への為に、城(勝賀城)へは入ずに、麓の居館に入った。
 そのしばらく後の19日に、元親は秀吉に降参した。そして阿波讃岐伊豫三ヶ国を召し上げられたことが伝わると、香川信景は雨霧山の城を去て土州へ引取り、長曽我部右兵衛尉は植田城、国吉甚左衛門尉は、西長尾の城を放棄して、土州へ引き上げた。北條郡西の庄の城主、山内源五、鷲山の城主、入交蔵人も城を捨て土州へ帰った。
 昨日は力を竭して人城を奪ひ、今日は塵芥に比して城を捨て去る、誠に一睡の夢の如し。 
ここからは南海通記の作者が、国吉城を西長尾城とは別の新城で、場所も異なるところに築城されたいたと認識していたことが分かります。そして、讃岐支配のために平時にも3000の兵が駐屯していたこと、それが秀吉勢の侵攻の前に、戦うことなく放棄されたとが記されています。発掘調査からも、焼け落ちた跡はでていないようです。そして、秀吉から讃岐国守に任じられた仙石氏や生駒氏は、この城に関心を持つことはありませんでした。時と供に埋もれていく道をたどったようです。
西長尾城本丸跡1 上空より善通寺方面
西長尾城本丸上空からの櫛梨城・天霧城・善通寺方面

この城からは戦国末期に丸亀平野を囲むようにしてあった次の城郭が見えます
①櫛梨城
②天霧城
③聖通寺山城
このうち②は、長宗我部元親の同盟者である香川氏の居城です。
①や③については、長宗我部元親時代に大改修がされていたことを以前にお話ししました。つまり、これらの城は、北からの侵攻が想定される秀吉に対して「丸亀平野防衛ライン」を構築していたことになります。この防衛ラインの中に金毘羅神は祀られ、讃岐平定の新たな鎮守社として長宗我部元親に保護されていたと私は考えています。長尾城が、讃岐における土佐の最重要軍事拠点であったように、その近くに新たな流行神を向かえて、創建された金毘羅神は、四国鎮守の惣社としての機能と役割を担わすことを長宗我部元親は構想していたと私は考えています。
西長尾城本丸跡1 金毘羅方面g
西長尾城本丸上空からのぞむ象頭山金毘羅宮方面

以上をまとめておくと
①庄内半島の海崎氏は、長尾に領地を得てやってきて長尾氏を名乗るようになった。
②長尾の館の背後の山に、山城を築いたがそれは小規模なものであった。
③長尾氏は土佐から侵入してきた長宗我部元親に降伏した
③讃岐を平定した長宗我部元親は、次第に織豊政権との対立が顕在化した。
④それに対応するために、かつての讃岐の山城を大型化・新鋭化してリニューアルさせた。
⑤その中でも西長尾城は、「戦国期讃岐で屈指の大規模要害」とされる城郭に姿を変えた。
⑥秀吉軍の侵攻を受けて、讃岐の長宗我部・香川同盟軍は戦わずして土佐に引き上げ、西長尾城は放棄された

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
西長尾城報告書

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 土佐中村の一条氏は、対明勘合貿易に参加していたのか? : 瀬戸の島から

応仁の乱が始まった翌年(1468)年9月に、前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、一条氏は、中村と上方の間を堺港を利用して何度も船で往復しています。
文明11(1479)年に、京都の一条家の造営用木材が、土佐中村から堺商人によって取引されて、運ばれるようになります。このころから堺商人と土佐一条家の関係が始まったようです。堺商人と土佐の一条家の間には、これ以後も頻繁に材木の取引が行われています。

畿内と関係の深い一条家は、堺を支配する細川氏との関わりも深かったようです。『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。
「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

意訳変換しておくと
細川氏への献上品を乗せた四国船が、紀州海賊に襲われ献上品が奪われた。畠山氏の命にも関わらず、紀伊水道は通行不能状態である。

 ここからは、土佐中村と堺を結ぶ太平洋ルートがあったこと、それが紀州海賊によって脅かされていることがうかがえます。この交易ルートを通じて、土佐への布教を展開していたのが本願寺でした。

 天文年間の本願寺法主は証如でした。
四国真宗伝播 本願寺第十世證如(しょうにょ)
本願寺第十世 證如(しょうにょ)

證如の時代の本願寺は、教団内部で対立が激化した時期でした。証如は、これを抑えて法主の指導力強化に努めます。そのような中で享禄5(1532)年6月に舞い込んだのが、細川晴元からの河内国に滞陣中の阿波・三好元長(法華宗)に対する襲撃依頼です。これに応えて証如は門徒を動員し、三好元長を和泉国まで追い立てて敗死させています。ところが、これを見て一向一揆勢の戦闘力を恐れた細川晴元は、本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結びます。そして、本願寺の本拠地であった山科本願寺を、焼き討ちにします。

四国真宗伝播 本願寺第十世證如本願寺 釋證如 方便法身尊形)
天文三年 本願寺 釋證如 方便法身尊形

 山科本願寺を追われた証如は、大坂御坊へ拠点を移して大坂本願寺とし、新たな教団の本拠地とします。その後は晴元の養女を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めます。また、山科本願寺の戦いを教訓として、各地の一向一揆に対しても自制的な動きをもとめるようになります。こうして、加賀一向一揆に対しても調停という形で門徒集団への介入を深めます。そのような中で、土佐の一条氏への接近を図っていきます。

大系真宗史料 文書記録編8 天文日記 1の通販/真宗史料刊行会/証如光教 - 紙の本:honto本の通販ストア
 天文日記

證如が残したのが「天文日記」です。

これは證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなる10日前まで書き続けた19年間の日記です。
『天文日記』の天文6(1537)年正月27日条に、次のように記されています。
今朝従土佐一条殿尊致来候 堺商人持而来之

ここからは、中村の一条氏が堺の商人に連れられて、初めて大坂本願寺に證如を訪ねていることが分かります。土佐中村の一条家と堺商人の関係に、本願寺が関わるようになっていたようです。

四国真宗伝播 土佐一条家の貿易船
土佐一条氏の貿易船建造計画

 以前にお話ししたように、一条氏は明との交易に参入するために渡唐船建造を開始し、その用材確保のために、天文五(1536)年4から、土佐国幡多郡から木材を切り出しはじめます。しかし、一条氏に大型船の建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラートであった板原次郎左衛門は、最初はこの依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。
 こうしたやりとりの末に、天文6年(1537)年3月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったのかもしれません。同時に、土佐への教線拡大という思惑もあったはずです。
 中村での組み立てが終了すると、船は艤装のために紀州に廻航されます。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如は堺まで出向き密かに見物しています。こうして、一条氏は、本願寺の鐙如の支援と堺の技術協力で貿易船を建造しています。
 ここに登場する板原次郎左衛門は、堺衆で本願寺の門徒です。
本願寺の要請を請けて、堺商人と一条氏との仲介を行っています。また本願寺と一条氏との間を取り次いだのは、本願寺・斎相伴衆の堺・慈光寺の円教でした。本願寺の力なしでは、この大型船建造計画は進まなかったことが分かります。さらに、中村で組み立てられた船は、艤装のために紀州に廻航されています。ここでも、紀伊門徒の「海の民」が艤装にあたったのでしょう。
  以上からは、土佐一条氏と堺・本願寺・紀伊門徒とが大船建造を巡って複雑に絡み合って動いていることが見えてきます。同時に、一条氏と本願寺が強い結び付きをもっていたことからは、逆に本願寺の教線が堺・紀伊を通じて土佐中村方面に伸びていたことが推察できます。一条氏の渡唐船の建造は、堺衆との繋がりだけでなく、真宗本願寺の土佐への教線拡大との関わりで捉えておく必要がありそうです。

「天文日記」には、次のようにも記されています。
 土佐国より勧進之物千疋、又田布五十端来、此内五百疋ハ真宗寺下より

ここに寺院名が記されていないので、土佐のどこにあったお寺なのかも分かりませんが、天文年間に土佐に真宗寺院があったことは分かります。堺を通じて太平洋ルートによって真宗が伝播したことが、ここからはうかがえます。これは瀬戸内海側と比べると半世紀遅いことになります。
 以上から土佐への本願寺の教線ラインは、一条氏の手引きで堺商人を通じて大平洋を渡ったこと、そこに紀伊門徒の関わりもあったと研究者は考えています。そこには堺商人のしたたかな商業活動のやりかた見え隠れします。同時に、本願寺による太平洋ルート上の港への教線拡大の活動も含まれていたようです。
 中世の土佐の港津は、古代の『土佐日記』に出てくる「浦戸・大湊・奈波・羽根・奈良志津・室津」などの港にプラスして、「兵庫北関入船納帳」に出てくる「甲浦・先浜・奈半利・前浜・安田」も含まれるでしょう。これらは、東土佐の港ですが、西土佐エリアでは「洲崎・久礼・佐賀・中村下田」などを挙げることができます。堺の港から訪れた坊主は、これらの港に立ち寄って布教したとするのは自然なことです。前回見た阿波の那賀川河口の今津浦のように、土佐や瀬戸内海への中継港にも真宗寺院が姿を現し、真宗門徒の水運関係者の拠点として機能するようになっていました。

それでは、次に受入側の土佐一条氏の方を見ておくことにします。
研究者が注目するのは、弘治3年(1557)卯月29日付の「康政」の次の書状です。
一向衆之事其身惟一人之儀、可有御免之旨候也、乃如件、
弘治二年卯月二十九日            康政(花押)
渡部主税助殿
ここからは「康政」が「一向宗」を保護していたことがうかがえます。花押のある康政については、姓も分からない謎の人物です。この時期の一条氏は兼定が当主でしたが、わずか6歳で家督を継いだため、この康政が後見役となり、兼定に代わって執政を取り仕切っていたようです。一説には、康政は兼定の叔父で刑部卿と称したとされます。中村の真蔵院に入って宗覚と号し、それまで天台宗であった寺を真宗に改めたとも伝えられます。
この寺が『南路志』に出てくる西宝寺のようで、次のように記されています。
「開基之儀、康政卿渡辺主税二仰而一向宗建立、弘治二年康政卿宗旨御免之御書頂戴」

意訳変換しておくと
(西宝寺の)開基については、康政卿が渡辺主税に命じて一向宗寺院を建立した。それは弘治二(1556)年のことで、
康政卿より宗旨替えの届け出を頂戴している。

ここからは、16世紀半ばに中村に真宗寺院があり、一条家の保護を受けていたことが分かります。すでに天文年間には、貿易船建造などを通じて、一条氏が本願寺と深いつながりを持っていたことは見てきた通りです。この時期には一条家の実権を握る康政が、本願寺の布教活動を支援していたことがうかがえます。
 西宝寺のある与津浦は中村の外港でもありました。ここへも堺からいろいろな商品と供に、真宗門徒たちが来港し、西宝寺を交易センターとして交易活動を行っていたようです。
戦国時代の群像』72(全192回)一条 兼定(1543~1585)戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名 | 古今相論 川村一彦

中村の一条氏は、長宗我部元親によって滅ぼされます。

一条氏が保護していた真宗門徒たちはどうなったのでしょうか。
 土佐ではこの時期に、海岸線の港周辺に道場が建てるようになった段階で、まだ多くは寺院として創建されていなかったと研究者は考えています。庇護者としての一条氏を失い、エネルギーを失った真宗は、以後は教線を拡大することはなかったようです。

長宗我部時代の土佐での真宗の状況を示す史料はありません。
そんな中で研究者が注目するのが「長宗我部地検帳』です。
長宗我部地検帳 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
長宗我部検地帳

この「地検帳」に出てくる寺院で寺号のあるものを抜き出すと真宗寺院は、全く見当たりません。ただ、次のような道場はあるようです。
フクシマ先年桑名助左衛門先祖通海寺へ寄進卜有テ
今迄通海寺知行之由候乍去勘左衛円を給分二不人就右可為御公領興
一所拾六代 中屋敷 真宗道場
「一所拾六代 中屋敷 真宗道場有」と文末に記されています。検地が行われた天正16(1588)年に、フクシマに真宗道場があったことが確認できます。
 『南路志』には、次のように記します。
「寺地ハ手結浦福島(=フクシマ)と申所ニ有之、天正地検帳の拾六代真宗道場床と記載御座候」

と記されています。以上から「フクシマ=福島真宗道場」は手結浦福島にあったことが分かります。手結浦は、現在の香南市夜須町手結で、太平洋に面した港町です。このフクシマ道場が、後の真行寺になるようです。現在の真行寺は、近世になって作られた手結内港を見下ろす位置にあり、この港の管理センターの役割をしていたことがうかがえます。他に寺院はないようなので、この港の関係者の多くを門徒にしていたことがうかがえます。
四国真宗伝播 土佐手結 真行寺
手結内港にある真行寺

ここからは土佐の港々には、真宗の道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。この分布状況を地図に落としたものが図2になります。
四国真宗伝播 土佐天正16(1588)年に、真宗道場
土佐における真宗寺院・道場の分布図(1588年時点)
  この分布図からは、真宗の寺や道場が太平洋沿岸の港を中心に、海岸線からあまり内陸に入っていない地域に集中していることが分かります。
この他にも吾川郡長浜村の地検帳には「道場ヤシキ浦戸」が出てきます。
「南路志」では真宗寺の欄に次のように記します。
「永正年中 浦戸道場坂之麓二建立仕」

阿波郡里の安楽寺過去帳に土佐の末寺八か寺の内の一つとして浦戸には真宗寺の名があります。浦戸道場が真宗寺(現高知市南御座)に成長したようです。また吾川郡弘岡下ノ村にも「真宗ヤシキホリケ」とあります。これは教秀寺のようです。
このように時代は少し下りますが、道場がいくつか建設されていたことが分かります。土佐に真宗が遅れながらも伝播し、拠点となる道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。

土佐で再び真宗の教線が伸び始めるのは、長宗我部氏が土佐を去った後です。
「木仏之留」によれば、堺真宗寺の末寺である幡多郡広瀬村の明厳寺は、慶長11(1606)年に、了専の願いにより准如から木仏下付が行われています。つまり、一人前の真宗寺院として独り立ちしたということです。

四国真宗伝播 土佐正念寺
正念寺(高岡郡宇佐村)

和泉堺の善教寺の末寺である高岡郡宇佐村にある正念寺は、慶長16(1611)年に、本願寺准如から木像の木仏に裏書きを下付されています。「地検帳」に宇佐村に道場のことが記されているので、これが正念寺と推測できます。正念寺は、阿波郡里の安楽寺の末寺帳にも記されています。天正年間に道場として建設されていたものが、慶長年間になって寺院として格上げされています。創建は堺との関わりのなかで、堺の国教寺の末寺であったものが、やがて教線を阿波から伸ばしてきた安楽寺に配下に入れられたようです。
阿弥陀如来立像浄土真宗本願寺派御本尊|お仏壇せんばはまや 兵庫県姫路市の仏壇・仏具・寺院仏具専門店。金仏壇・銘木唐木仏壇・家具調・小型仏壇など。
本願寺より下付された木仏

 慶長10年以降、四国各地で木仏の下付が頻繁に行われています。
その背景には、慶長6(1601)の本願寺の東西分裂があるようです。本寺の分裂という危機的な状況の中で、西本願寺は組織強化策の一環とし木仏下付をおこなうようになります。木仏下付には、西本願寺を支持する門末寺院への褒賞的意味合いがあったようです。 木仏は寺院・道場の最重要物件です。それが本寺である西本願寺から下付され、道場へ安置されるということは、当時の法主である教如への忠誠と強固な支持を誓うことになります。それまでは、木仏下付の例はあまりありませんでした。それが、本願寺の東西分裂後に顕著化するのは、教団の組織強化に有効だったためと研究者は考えています。
 この頃から道場から寺院へ「脱皮」成長していく所が多いようです。
土佐では寛永18年(1641)に、数多くの寺に「木仏下付」が行われています。この年を契機として、土佐真宗寺院の整備がはかられたことがうかがえます。これらの寺院は、天正年間までに道場として姿を見せていたもので、道場記載の地と、木仏下付された寺院の所在地がほぼ一致することからも、それが裏付けられるようです。


四国真宗伝播 土佐天正16(1588)年に、真宗道場

早くから開かれていた道場・寺院は、先ほどの分布図で見たように海岸線に近い位置にありました。
 明厳寺・正念寺などは、堺の寺院の末寺なので、大平洋ルートを利用して堺からもたらされと研究者は考えています。土佐では、四国山脈の山並みを越えての移動よりも、太平洋を利用しての移動の方が便利だったはずです。それを活用したのが紀伊門徒や、堺門徒など海洋航海者であったのでしょう。彼らを媒介者として、土佐には真宗教線ラインがのびてきたとしておきましょう。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...
土佐分国図

以上をまとめておきます
①土佐への真宗伝播は、中村に亡命した一条家の保護を受けてはじまった。
②中村一条家は、木材取引などを通じて堺商人と結びついていた。
③堺に真宗が伝播し、真宗門徒が堺商人の中にも数多く現れるようになる。
④本願寺は、紀伊水道を通じて阿波へ、また太平洋のルートを利用して土佐への教線を伸ばした。
⑤当時一条家が建造中であった中国との大型貿易船は、堺の真宗門徒の造船技術者によって建造されていた。
⑥この大型船建造への支援を堺の技術者に命じたのは、石山本願寺の證如であった。
⑦この背後には、土佐一条家領内での本願寺の布教活動への支援協力があった。
⑧「渡り」と呼ばれる海の民の門徒化が進み、海岸部に道場や寺院が建設され、水連・商業活動に従事する者たちを門徒に組み込んでいった。
⑨真宗を保護した一条氏が長宗我部元親に滅ぼされると後ろ盾を失い、真宗門徒の組織化は十分に進まなかった。
そして、長宗我部元親が減んだあと、土佐では急速に真宗が広がっていきます。
戦国期に組織化されていなかった真宗教団は、長宗我部元親亡き後の近世になって組織化されていくようです。その背後に何があったかについては、また別の機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年


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  丸亀平野は浄土真宗王国とも云われ、多くの人たちが真宗信者です。持ち回りで開かれる隣組の「寄り合い(月の常会)」でも、最近まで会の最後には正信偈があげられて、お開きとなっていました。親戚の葬儀や法要も真宗僧侶によって進められていきます。そんな地域に住んでいるので、四国全体も浄土真宗が支配的なエリアと思っていました。でも、そうではないようです。浄土真宗の信者が圧倒的に多いのは、讃岐だけのようです。どうして、讃岐に浄土真宗のお寺が多いのでしょうか。下表は、現在の四国の宗派別の寺院数を示したものです。
四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国の宗派別寺院数一覧

ここから分かることを挙げておきます
①弘法大師信仰の強い四国では、真言宗寺院が全体の約1/3を占めていること。
②真言宗は四国四県でまんべんなく寺院数が多く、讃岐以外の三県ではトップを占めること
③特に阿波では、真言寺院の比率は、70%近くに達する「真言王国」であること
④真言宗に次いで多いのは真宗で、讃岐の真宗率は50%に近い。
⑤伊予で臨済・曹洞宗などの禅宗が約4割に達する。これは河野氏などのの保護があったため
⑥土佐の寺院数が少ないのは、明治維新の廃仏毀釈影響によるもの

④で指摘したとおり、讃岐の浄土宗率は46,6%にもなります。どうして讃岐だけ真宗の比率が高いのでしょうか。逆の見方をすると③の阿波や⑤の伊予では、先行する禅宗や真言勢力が強かったために、後からやって来た真宗は入り込めなかったことが予測できます。果たしてどうなのでしょうか。讃岐への真宗布教が成功した背景と、阿波や伊予で真宗が拡大できなかった理由に視点を置いて、真宗の四国への教線拡大が、どのように行われたのかを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。
まずは、伊予の真宗寺院について見ていくことにします。
伊予には真宗伝播に関する史料がほとんどないようです。その中でも
古い創建由来を持つ真宗寺院は、芸予諸島に多いようです。四国真宗伝播 川尻の光明寺
光明寺(呉市川尻) もともとは伊予の中島にあった禅寺

安芸国川尻の光明寺は明応五年(1496)に禅宗から真宗に転宗した寺です。その前身は伊予国中島にあった西光寺と伝えられます。芸予諸島の島々を転々とし、天正元年(1573)年に安芸川尻に移ってきます。伊予中島で禅宗から真宗に転じた際に、檀家も真宗に改宗したと云います。中島では光明寺(西光寺)が移転したあとは、お寺がなくなりますが、信徒たちは教団を組織して信仰を守ったようです。
 この時期の安芸国では、仏護寺を中心として教線を拡大していきます。仏護寺が天台宗から真宗へ改宗した時期は、光明寺の改宗した時期とほぼ同じ頃になります。ここから15世紀末頃が、真宗が瀬戸内海を通じて芸予諸島一帯へと、その教線を伸ばしてきた時期だと研究者は考えています。
安芸竹原の長善寺について

四国真宗伝播 安芸長善寺と
竹原の長善寺と大三島

 芸予諸島で一番大きな大三島は、安芸から真宗が伝わってきたようです。「藤原氏旧記」によると、祖先の忠左衛門は竹原の長善寺の門徒でした。それが大永7(1527)年に大三島へ移住し、島に真宗を広めたと伝えられます。
四国真宗伝播 長善寺進者往生極楽 退者尤問地獄
長善寺の黄旗組
長善寺には石山戦争の時に、使用されたと言われる「進者往生極楽 退者尤問地獄」と記された黄旗組の旗が残されています。忠左衛門は同志を募り、兵糧を大坂へ運び込んでいます。彼は、石山にとどまって戦いますが、同志18名とともに戦死します。長善寺に、その戦死者の法名軸か残されています。その中に「三島五郎太夫、三島左近」といった名前があります。彼の「三島」という名から大三島出身者と考えられます。他の者も大三島かその周辺の出身者だったのでしょう。ここからは、石山戦争時代には、竹原の長善寺の末寺や坊が芸予諸島にいくつできて、そこから動員された真宗門徒がいたことが分かります。しかし、村上海賊衆に真宗は門徒を広げては行けなかったようです。村上武吉も、周防大島の真言宗の寺院に葬られています。
大三島の真宗寺院で、寺号を下付されたのが古いのは次のふたつです。
①宮浦の教善寺 寛文11(1673)年
②井口の真行寺  延宝6(1678)年
 寺院としての創建は、江戸時代前半まで下るようですが、それまでに道場として存在していたようです。道場などの整備や組織化が行われたのは、石山戦争が契機となったと研究者は考えています。石山戦争を戦う中で、本願寺からのオルグ団がやってきて、芸予諸島での門徒の組織化が行われ、道場や庵が集落に設けられたと云うのです。大三島の各地に、現在も道場・寺中・説教所の痕跡が見られることは、このことを裏づけます。伊予では安芸から芸予諸島の島々を伝って、真宗伝播の第一波が波が、15世紀末にやってきます。そして、16世紀後半の石山戦争中に、第2派が押し寄せてきたようです。

次に伊予本土の方を見ていくことにします。
伊予本土で創建が古いとされる真宗寺院は、次の通りです。
①東予市の長敬寺 弘安6(1283)年創建、再興後三世西念の代に本願寺覚如から寺号を賜ってて真宗に転宗。
②明勝寺は 天文15(1546)年に、真言宗でから転宗し、円龍寺と改称
③新居浜の明教寺は元亀年間に、佐々木光清によって開創
④松山の浄蓮寺は、享禄4年(1531)河野通直が道後に創建
⑤定秀寺 永禄元(1558)に、風早郡中西村に鹿島城主河野通定が開き、開山はその子通秀。
⑤の定秀寺については、通定は蓮如に帰衣し直筆名号を賜わり、子通秀は石山戦争に参加して籠城し、その功績により顕如から父子の名を一字ずつとり定秀寺という名を賜ったと伝えられます。しかし、鹿島城主河野通定なる人物は存在しない人物で、寺伝は信憑性にやや欠けるようです。
①は別にして、その他は16世紀半ばの創建を伝える寺院が多いようです。しかし、浄土真宗の場合は、道場として創建された時と、それが本願寺から正式に認められた時期には、時間的なズレがあるのが普通です。正式に寺として認められるには本願寺からの「木仏下付」を受ける必要がありました。
 慶長年間に入ると、道後の浄蓮寺・長福寺、越智郡今治の常高寺、松山の正明寺に木仏下付されています。これらの寺も、早い時期に下付になるので、それまでに道場として門徒を抱え、活動していたことが推測できます。しかし、それ以後の真宗の教線拡大は見られません。
伊予では瀬戸内海交易を通じて、禅宗が早い時期に伝わり、禅宗寺院が次のように交易港を中心に展開していたことは以前にお話ししました。
①臨済宗 東伊予から中伊予地区にかけては越智・河野氏の保護
②曹洞宗 中・南伊予地区には魚成氏の保護
東伊予と海上交易活動においては一体化していた讃岐の観音寺港でも、禅宗のお寺が町衆によっていくつも建立されていたことは以前にお話ししました。禅宗勢力の強い伊予では、新興の真宗のすき入る余地はなかったようです。

瀬戸内海を越えて第一波の真宗伝播を芸予諸島や安芸にもたらしたのは、どんな勢力だったのでしょうか
 中世の瀬戸内海をめぐる熊野海賊衆(水軍)と、熊野行者の活動について、以前に次のようにお話ししました。
①紀伊熊野海賊(水軍)が瀬戸内海に進出し、海上交易活動を展開していていたこと
②その交易活動と一体化して「備中児島の五流修験=新熊野」の布教活動があったこと
③熊野行者の芸予諸島での拠点が大三島神社で、別当職を熊野系の修験僧侶が握っていたこと。
④大三島と堺や紀伊との間には、熊野海賊衆や村上海賊衆による「定期船」が就航し、活発な人とモノのやりとりが行われていたこと。
以上からは中世以来、芸予諸島と堺や紀伊は、熊野水軍によって深く結びつけられていたことがうかがえます。その交易相手の堺や紀伊に、真宗勢力が広まり、貿易相手として真宗門徒が登場してくるようになります。こうして、瀬戸内海に真宗寺院の僧侶たちが進出し、て布教活動を行うようになります。芸予の海上運輸従事者を中心に真宗門徒は広がって行きます。それを、史料的に研究者は追いかけていきます。
瀬戸内海への真宗布教のひとつの拠点を、阿波東部の港町に求めます。
四国真宗伝播 阿波信行寺

 阿波那賀郡の信行寺は、那賀川河口の北側に位置し、紀伊水道を挟んで紀伊の有田や御坊と向き合います。この海を越えて、中世には紀伊との交流が活発に行われ、紀伊武将が阿波にやってきて、定住し竹林寺などに寄進物を納めています。

四国真宗伝播 阿波信行寺2
阿波国那賀郡今津浦信行寺 

 信行寺の寺伝には、開基は浅野蔵人信時で、寛成年間に京都で蓮如に帰衣して西願と称し、文明13(1481)年に那賀郡今津浦に一字を創建、北の坊と称したと伝えられます。永正年間に二代目の西善が実如より寺号を賜り、慈船寺と改めたとします。また亨禄年間には、今津浦には、もうひとつ照円寺も建立されてます。この寺は信行寺が北の坊と呼ばれたのに対して、南の坊と呼ばれるようになります。こうして、今津浦には、北の坊と南の坊の二つの寺院が現れます。これは、本願寺の教線が紀伊に伸びて、さらに紀伊水道を渡って阿波の那賀川河口付近に伸びてきたことを示します。「紀伊→阿波ルート」としておきます。

四国真宗伝播 阿波信行寺3

この両寺院が建立された今津浦は、那賀川の河口に位置し、中世には平島と呼ばれた阿波の代表的な港の一つでした。

阿波の木材などの積み出し港として重要な地位を占めていました。熊野行者たちや修験者たちのネットワークが張り巡らされて、真言宗の強いエリアでした。そこに、本願寺によって真宗布教センターのくさびが打ち込まれたことになります。
 北の坊と南の坊の二つの寺院の門徒は、今津浦の特性から考えても海上輸送に関わる人々が多かったことが考えられます。彼らは「渡り」と呼ばれました。「渡り」によって、阿波東部から鳴門海峡を経て瀬戸内海沿岸地域へと本願寺の教線は拡大したと研究者は考えています。これらの紀伊や阿波の「渡り」の中に、真宗門徒が拡がり、讃岐の宇多津や伊予の芸予諸島にやってきて、それを追いかけるように布教のための僧侶も派遣されます。おなじように堺に本願寺の末寺が建立されることで、堺の海上ネットワークを通じた布教活動も行われるようになります。それが15世紀末頃ということになるようです。

 興味深いのは、東瀬戸内海エリアの小豆島や塩飽諸島には、浄土真宗のお寺はほとんどありません。
私の知る限り、近世になって赤穂から小豆島にやってきた製塩集団が呼び寄せた真宗寺院がひとつあるだけです。本願寺は、このエリアには拠点寺院を設けることができなかったようです。この背景には、旧勢力である真言寺院(山伏寺)の活発な活動があったためだと私は考えています。具体的には、児島五流修験者に連なる勢力だと推測しています。
真宗門徒が確保できた拠点港は、讃岐では宇多津でした。
ここに西光寺を創建します。この寺のことは以前にお話ししましたので省略します。西光寺を経て芸予諸島や安芸方面に布教先を伸ばしていきます。そして、その結果は先ほど見たとおりでした。芸予諸島や伊予本土の港町周辺には勢力拠点を開くことが出来ましたが、それは、あくまで点の存在です。点から面への拡大には至りませんでした。その背景を考えておきます。
①芸予諸島や今治周辺では、大三島神社の別当職をにぎる真言宗勢力が強かったこと
②松山周辺では、河野氏など領主僧が禅宗を信仰しており、真宗を保護することはなかったこと
③南予は、旧来から土佐と一体化した修験道集団が根強く、真宗進出の余地はなかったこと
こうしてみると、真宗の伊予布教活動は進出が「遅かった」と云えそうです。旧来の修験道と結びついた真言勢力の根強さと、先行する禅宗の板挟みにあって、芸予諸島やその周辺部の海岸線沿いにしか信者を獲得することができなかったようです。

以上をまとめておくと
①浄土真宗が堺や紀伊にまで広がって行くと、海上交易ルート沿いに真宗信者が増えていった。
②そのひとつの拠点が阿波今津港で、真宗門徒化した「渡り(海上交易従事者)」が瀬戸内海や土佐方面の交易活動に従事するようになる。
③「渡り」の交易相手の中にも、布教活動を受けて真宗門徒化するものが出てくる。
④讃岐で本願寺の拠点となったのが宇多津の西光寺である。
⑤15世紀末には、安芸や芸予諸島にも真宗門徒によって、各港に道場が開設される。
⑥16世紀後半の石山戦争では、石山本願寺防衛のために各道場の強化・組織化が図られた。
⑦それが石山戦争での安芸門徒の支援・活躍につながっていく。
⑧しかし、伊予での真宗勢力の拡大は、地域に根付いた修験道系真言寺院や、領主たちの保護した禅宗の壁を越えることができなかった。
  それが最初の表で見たように、伊予の真宗寺院の比率9,2%に現れているようです

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

DSC03290
天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
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金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
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金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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日枝神社 高瀬町
日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている

三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。

今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。

それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。

日吉神社 土佐神社
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」

というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、
善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社 土佐神社合祀
       日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
 例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
 いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
 その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
 その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
 毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主の詫間弾正、
④高瀬・麻城の近藤氏
⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
 一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

大水上神社 神田城
二宮近藤氏の居城・神田城
 一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?

大水上神社 神田城2

『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。

「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

  これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、
「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
五月には
「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
  先ほど見た昔話には、次のように記されていました。

「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」

 しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
 そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
土佐神社 高瀬町日枝神社と合祀
        日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

 土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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   佐文5
        高瀬町の上栂 金刀比羅宮のある象頭山の裏側にあたる                
高瀬町の上栂には、次のような雨乞いおどりの話が伝わっています。
江戸時代の話です。東山天皇の御代に、京都に七条実秀という人がおりました。七条実秀(さねひで)の綾子姫は、小さいころから美しくかしこい女性でした。ところが、あるとき、どんなことがあったのかわかりませんが、おしかりを受けて、讃岐の国へ送られることになりました。当時、女の人の一人旅はなにかと不自由がありましたから、姫のお世話をするために沖船という人が付きそってきました。
瀬戸内海を渡る途中、船があらしにあいました。綾子姫は、船の中で
お助けください、金刀比羅様。無事に港へ着きますように。たくさんの人が乗っています。
お助けください、金刀比羅様
と、一心においのりをしました。
金刀比羅様は海の神さまです。船は無事に港へ着くことができました。綾子姫はたいへん感謝して、金刀比羅宮へ行き、ていねいにお礼参りをしました。
その後、綾子姫は、金刀比羅様の近くに住みたいと思い、象頭山の西側の上栂の土地に家を定めました。沖船さんは少し坂を下った所にある東善の集落に住むことになりました。

綾子姫と沖船さんがこの地に住むようになってから何年かたちました。
ある年、たいへんな日照りがありました。何日も何日も雨がふらず、カラカラにかわいて、田んぼに入れる水がなくなり、農家の人たちはたいへん困りました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした。この様子に心をいためられた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。
なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。
あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」

   わかりました。やってみます」

沖船さんは家に帰るとすぐ、紙とふでを出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました
綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。

準備ができた日、綾子姫と沖船さんは、農家の人たちに伝えました。

あすの朝早く、村の空き地へ集まってください。雨を降らせるおいのりをするのです

次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。家の人たちも、雨が降ることをいのりながら、いっしょにおどりました
すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
その後、綾子姫も沖船さんも、つつましく過ごして、 一生を終えたたいうことです。

 ふたりのことは年月とともにだんだん忘れられていきました。
このときの雨乞いの歌とおどりも、行われることがなくなりました。
ふたりのことが忘れられかけたあるとき、東善の人びとは沖船さんをしたって沖船神社を建てました。昔は東善にありましたが、今は麻部神社の中へ移されています。綾子姫のことも忘れないようにと、石に刻まれて、上栂の墓所に建てられています。

 この昔話には、高瀬町の上栂で「綾子踊り」が踊られたことが伝えられています。
① 時代は東山天皇の時代(1675年10月21日 - 1710年1月16日)で、17世紀後半の元禄年間にあたります。
② 綾子踊りを伝えたのは、七条実秀(さねひで)の娘・綾子姫ということになっています。七条家は藤原北家水無瀬流の公家で、江戸時代の石高は200石です。
③ 綾子姫が讃岐に流刑になり、船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われたとされます。金毘羅信仰が海難救助と結びつくのは19世紀になってからですから、この話の成立もこのあたりのことだったのでしょう。
④ 旱魃が続いたときに「農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした」とあります。
 ④からは、すでにいろいろな雨乞祈願がされていたことがうかがえます。
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          善通寺東院境内の善女龍王社 
高瀬地方で「雨乞いのために神に祈ること」は、高瀬町の威徳院や地蔵寺で行われていた「善女龍王信仰」が考えられます。山で火を焚くことは、山伏たちの祈祷でしょう。それでも効き目がなかったので、綾子姫は「京の雨乞い踊り」の上栂への導入を思い立つのです。
その制作過程を、次のように記しています。
 
 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が導入されたことがうかがえます。さてそれでは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。

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        なむて踊りの絵馬(奈良県高取町 小島神社)

これについては奈良で踊られた「なむて踊り」を紹介したときに、お話ししました。ここでは、百姓たちが雨を降らせるために踊ったのではなく、雨を降らせた神様へのお礼のために踊っていました。言うなれば「雨乞い踊り」ではなく「雨乞い成就感謝」のための踊りだったのです。
 雨乞いは山伏や寺院の僧侶など、特別な霊力をつけた人が行うものです。当時の人たちにとって、霊力のない普通の百姓が雨を降らせるなどというのは、恐れ多い考えでした。滝宮念仏踊りの由来にも、「菅原道真が祈願して雨が降ったので、そのお礼に百姓たちが念仏踊りを踊った」と記されています。ここからも雨乞いのために踊られたという「綾子踊り」は、江戸時代の終わりになって登場したものであることがうかがえます。
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佐文の綾子踊り

 綾子姫が踊った踊りも、当時の畿内で踊られていた雨乞い成就のりを踊りをアレンジしたもののようです。それでは、畿内の百姓たちは雨乞い成就の時には、どんな踊りを踊っていたのでしょうか。それが当時の盆踊りなどで踊られていた風流踊りと研究者は考えています。 佐文に伝わる綾子踊りの歌詞を見ても、雨乞いを祈るようなフレーズはどこにもありません。そこにあるのは、当時の百姓たちの間で歌われ、踊られていた風流踊りなのです。

 以上から分かることは、
①綾子踊りの起源は18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

以前に紹介したように高瀬町史には、大水上神社(二宮神社)に「エシマ踊り」という風流系の雨乞い踊りが伝わっていたことが記されています。これが上栂の綾子踊りの原型ではないかと私は推測します。しかし、上栂には綾子踊りを伝えるのは昔話だけで、史料も痕跡も何もありません。
 佐文の綾子踊りが国指定の無形文化財に指定されるのに刺激されて建てられた碑文があるだけです。この碑文の前に立って、いろいろなことを考えています。

  地元に愛される「灸まんうどん」/琴平パークホテル (2020年リニューアル)のブログ - 宿泊予約は<じゃらん>
灸まんうどん(琴平)
私が愛用するうどん屋さんのひとつに琴平の灸まんうどんがあります。半世紀近く味の替わらないうどん屋さんで、ここではもっぱら「ゆだめ」を注文します。昔から変わらない店内の奥の壁に大きな額が掛けられています。
算額 金刀比羅宮(久万うどん)
灸まんうどんの算額   
文政10年(1827)10月 金比羅宮奉納の復元版

 何が書かれているのかは、素人にはさっぱり分かりません。算学の額であることは、額の下の説明版を読めば分かるのですが、それがどんな意味を持つのかまでは、考えたことがありませんでした。

算額 本山寺 万延元年(1860)仲秋
   豊中町本山寺の算額(復刻版)万延元年(1860)仲秋 

 江戸時代後期の満濃池の改修工事や水門のトンネル工事などを見てみると、それを行っているのは庄屋たちです。彼らが土木技術を身について難事業を起こっています。そして、そのためには測量から計算・数式関係に通じていることが求められるようになっていました。志のある庄屋の若きリーダーたちは、算学を学んでいるのです。
彼らがのこした「記念モニュメント」が「算額」だと云えそうです。

算額 名部戸天満宮 天保15年(1844)9月 託間町立民族資料館蔵
 賀茂神社(仁尾町)天保15年(1844)9月  62×150cm

 ということで、算額には何が書かれているのか、何を目的に作られたのか、誰が残したかについて見ていくことにします。テキストは「直井武久  丸亀藩の算学士と算額  香川県文化財協会会報  平成7年度」です。

算額 文政10年(1827)10月金比羅宮
金比羅宮    文政10年(1827)10月奉納(復刻版) 

灸まんうどんに掲げられている算額は、もともとは金刀比羅宮に奉納されたもののリメイク版のようです。算額は、神社に絵馬を掲げるように、数学の難問とその解法を図を添えて掲げてあります。江戸中期以降になって、和算を学ぶ者が増えるにつれて、自分の能力や研究成果の発表などのひとつの方法として、絵馬としての算学が登場してくるようです。絵馬の一種が算額と押さえておきます。

算額 岩清尾神社文化3年(1806)正月
      高松市岩清尾八幡宮の算額 文化3年(1806)3月奉納
香川県に残された算額の制作目的を、研究者は次のように分類しています。
① 問題と解答を広く周知する。
②難問を解き得た自己及び自己の流派、師匠らの能力の誇示
③ 難問の解き得たのは神仏の加護によるものとの感謝の念の表現
④ 神仏の加護によって、今後さらに学力の向上と難問解決の成功を祈念
⑤ 門弟の修学奨励のため
⑥ 問題の解法について、他流派より優位であることの顕示
算額は全国に400枚以上残されているようですが、香川県内にあるのものは、復元も含めて次の通りです。
     奉掲年月       奉掲場所      奉掲者
1、天保十五年(1844)9月 詫間町名部戸    佐保山本立外五人
2、天保十五年(1844)九月 仁尾 加茂神社    佐保山本立外五人
3、安政五年(1858)9月 善通寺木熊野神社  乾景一外十一人
4、万延元年(1860)仲秋   豊中町本山寺    詫間流本田民部信行
5、万延元年(1860)仲秋 豊中町本山寺    詫間流仮名丸上紹介義延
6、明治11年(1878)3月 善通寺皇美屋神社  保信外九人
7、明治33年(1900)2月 丸亀今津天満宮    芥規(芥田正規)
8、文化3年(1806)3月 高松市岩清尾八幡宮 山本利助一武
9、文政10年(1827)10月 金比羅宮      松山寿平輸美

そのなかで 3の木熊野神社の一番大きな算額を見ておきましょう。
善通寺市の中村町にある木熊野神社は、熊野信仰を伝える熊野行者たちの拠点であった神社で、熊野からもたらされたというナギの木が社叢となっていて、県の天然記念物に指定されています。この神社には、善通寺市指定の有形文化財の算額が拝殿に掲げられています。この算額は、横4,2m縦1mの桧材で作られた飛び抜けて大型の算額です。何が書かれているのかを見ておきましょう。
算額 木熊野神社 善通寺市
木熊野神社算額 善通寺中村町 4,2m×1m

まず最初に、関孝和算聖を称え、我々の研究も関先生のお蔭であり、その御礼としてこの額を捧げると感謝の言葉が記されます。続いて、12問の問題が図とともに出題されてます。
算額 木熊野神社2 善通寺市
木熊野神社算額の各問題 上に図が示され下に問題と解法が書かれている

第2問を見てみましょう。
算額 木熊野神社3 問題2 善通寺市

問題を出題している12名は、丸亀藩の和算塾の門人たちです。
その師匠であった岩谷光煕の家は、丸亀城の南の十番丁にあり、代々京極家に仕え、数理方面を得意とした家柄だったようです。江戸時代末期には、寺社方公事方物書として微禄を食んでいました。江戸留学で、和算を学んだ光煕の下には、和算を学びに来る若い門人がふえていったようです。この算額には、第一問を師匠である岩谷光煕が出題し、以下を門人たちが撰者となっています
出題者たちを挙げると次のようになります。
第二問 米谷基至 
丸亀藩士で180俵持 原惣左衛門の四男で、原隼人と称して、早くから光熙の塾に通う。天保11年に印可の免許を得て算学士と称します。まもなく米谷三男治(十四俵三人)の養子となり、名が米谷基至となります。
第二問 松原正遊
第四間 三崎信潤 善通寺下吉田村・石神神社の東の住人。地主
第五問 金関正包
第六間 高嶋義侃
第七間 高木建義
第八問 松本宣知  善通寺中村西下所の住人。地主
第九間 嶋田武員  岩谷光熙の妻知余の弟で光熙の高弟
第十問 乾 景一  善通寺中村の地主
第十一問 小山一慶  善通寺中村の人で木熊野神社の西に居住
第十二問 巌渓光胆 
この算額の願主は、第十問の撰者でもある乾景一です。
彼は、木熊野神社が鎮座する善通寺中村の住人で大地主でもあり、俳句・画・書にも造詣が深い文化人だったようです。和算塾の塾主である岩谷光熙が必要とする図絵は、乾景一が描いています。号は画声。この巨大な算額奉納のために、経費の負担や、神社総代・神主などとの折衝など、もろもろの世話に当ったのが乾景一なのでしょう。彼も、若い頃から丸亀城下町の岩谷光煕の和算塾に通っていたようです。

算額 丸亀市天満神社2
天満天神社の算額 
次に丸亀市の塩屋別院の前にある天満天神社拝殿の算額を見ておきましょう。上の写真を書き起こしたものが下図です。
 算額 丸亀市天満神社1

最初に「算法雑題五問」とあり、「東洋天元演段式算筆解」と「西洋代数幾何筆算解」の両方の解法が書かれています。これに続いて五問があります。上段に図、中段に和算による間・答・解があり、下段に現代数学による解があります。末尾に「 明治33(1900)年10月吉辰日 芥規謹解」とあります。19世紀の最後の年に奉納された算額と云うことになります。この頃には、和算は西洋数学にとって替わられていたはずです。それが、どうしてこの時期になって算額が奉納されたのでしょうか。
この算額には奉納の由来が次のように記されているようです。(本田益夫氏の写しと訳)
この問題を解いた芥規なる者は、嘉永元年(1848)2月塩屋村(現丸亀市)生れの芥田正規である。幼より算数の学に長じ、独学で教員となり郷校に務めた。のち亀池・柳泉・六郷尋常小学校に転じ、約40余年の教職の後、大正3年(1914)8月1日、67歳で病没。
正規は毎朝柱時計を携え登校し、生徒に時を厳守させ、下校の際は携帯して帰った。当時柱時計は村内に2個しか無かったという。また当時の学校日誌によれば、正規は記事の後に歌を記していることが多い。その一例
明治32年2月10日(金) 晴
(当直記事の後)陰暦元旦ニ
あふき見れは 今とし越ゆる 山の端に 朝日かけさす 御代のあけぼの
没後 正規を慕う村民は多く、昭和十年の夏、城坤小学校校庭の一隅に「芥田先生頌徳碑」が建立された。
  ここには和算を極めた几帳面で、生徒に慕われた教師像が見えてきます。彼を慕う教え子は多く、その中の一人の「納主 瑞煙堂」が世話人となって、芥田正規の生家の近くの天満宮に奉納したようです。
この算額は、和算の技量を誇ると云うよりも、和算を身につけていた恩師を慕う気持ちが込められているようにも思います。

  以上をまとめておくと
①幕末の丸亀藩には、丸亀藩の岩谷光煕が開いていた和算塾には多くの門人たちが学んでいた。
②彼らは和算能力を、会計処理や測量、土木などの各方面で活かしていたが身分的には、地主や下級武士が多かった。
③和算グループのリーダーたちは、世間へのアピールや能力向上を祈願して、算額を神社に奉納した。
④算額が奉納された神社周辺には、和算グループの有力メンバーの存在が見られる。
彼らのような実務的な技術者の存在が、土木測量技術の進歩を生み、幕末の満濃池の改築や樋のトンネル化など、いままではできなかった難工事を可能にしたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「直井武久  丸亀藩の算学士と算額  香川県文化財協会会報  平成7年度」
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   長尾荘 古代長尾郷
 寒川郡長尾郷
前回に長尾荘について、次のような変遷を経ていることを見ました
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。
14世紀半ばに長尾荘の支配権を握った醍醐寺三宝院は、どのように管理運営を行ったのでしょうか。
今回は、三宝院の長尾荘の支配管理方法を見ていくことにします。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。
世界遺産 京都 醍醐寺:三宝院のご案内
醍醐寺三宝院 かつては修験道当山派の本山でもあった

三宝院には、長尾荘についての史料が残っていて、讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくるようです。史料をもとに、長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況

三宝院の長尾荘史料上の初見は、上図のように観応三(1352)年4月13日付の長尾右衛門尉保守の請文です。ここには、長尾右衛門尉保守が長尾荘の所務を年貢三百貫文で請負ったことが記されています。その内容は、年貢三百貫文を、4月中に50貫文、6月中に30貫文、9月中に50貫文、12月中に170貫文を、分割して納めるというもので、不法憚怠の時は所務を召放たれても文句は言わないことを記されています。長尾右衛門尉保守が、どんな人物なのかは分かりません。しかし、寒川郡長尾郷の長尾をとって姓としているので、土着の豪族であることは想像できます。
 ここからは、三宝院は、南北朝後に支配権を握った長尾荘を、長尾氏を名乗る土着豪族を代官に任命して年貢などの所務を請負わせていたことが分かります。僧侶などを長尾荘に派遣して直接に管理運営を行うと云う方法はとられていません。三宝院支配当初から所務請負制による支配が行われていたことを押さえておきます。
請負代官名の欄を見ると、3種類の層に分類できそうです。
①長尾右衛門尉保守や石河入道浄志、寒川常文のような武士
②緯副寺呂緯や相国寺周興のような寺僧
③沙汰人百姓等という地下人たち
それぞれの階層をもう少し詳しく見ておきましょう
①の長尾右衛門尉保守は土着豪族、石河入通浄志は守護代官、寒川常文は長尾荘の地頭
②の呂緯や周興は、京都にある寺の僧で、利財にたけた荘園管理を専門とするような寺僧
請負代官の任期をみてみると、その任期は短く、ひんばんに交代が行なわれています。
たとえば応永二(1396)年から応水八(1401)年までの6年間に、毎年かわりばんこに6人の代官が務めています。石河入道浄志などはわずか2カ月で交代しています。

どうして短期間に、代官が次々と交替しているのでしょうか?
研究者は、次のように考えているようです。
石河入道浄志2ケ月で交代させられているのは、沙汰人百姓等か請負った年貢額の方が銭に換算すると、石川人道が請負った二百貫文より多かったためのようです。三宝院は、より多くの請負額を提示するものがあれば、簡単に代官を交代させていたことになります。
 ところが石河入道浄志に替わった沙汰人百姓等も、その年のうちに堅円法眼に交代しています。堅円法眼も翌年には相国寺の僧昌緯に交代します。沙汰人百姓等、堅円法眼の交代の理由は、よく分かりません。ただ応永三(1396)年の年貢の教用状がからは、年貢未進により交代させられたと研究者は推測します。
 昌緯は応永四(1397)年と翌年の代官をつとめて交代。昌緯の改替理由もやはり年貢未進。未進の理由は、昌緯の注進状によると、地頭や沙汰人、百姓等の抵抗により下地が掠め取られて年貢の徴収が不可能であると記されています。
 そこで次は、300貫文で請負うと申し出た地頭寒川氏に交代
寒川氏は応永6(1398)年から3年代官を務めて相国寺の僧周興味に交代、寒川氏交代の理由は、寒川氏が年貢三百貫が高すぎるので250貫目にまけろと要求してきたためのようです。以上から、ひんぱんな代官交代の理由には、代官の年貢未納入があったことが分かります。

 年貢未納入の背景にあったものは何なのでしょうか?
①代官自身による押領
②地下百姓等の領主支配に対する抵抗
を研究者は指摘します。領主三宝院は何とか年貢を確保しようと、ひんばんに代官を交代させます。しかし、長尾荘をめぐる現地の動きに対応しきれていないようです。困ったあげくに、管理を委ねたのが地元の実力者である地頭の寒川氏ということになるようです。
 地頭寒川氏は昌緯の注進状によれば、それまでも沙汰人や百姓等と結託して、代官や領主三宝院に抵抗しているその張本人でもあります。領主の三宝院は、地頭寒川氏を代官に任じることの危険性を分かっていながらも、寒川氏の力にたよるより他に道がなかったようです。そして、応永八(1401)年以後の史料は、1410年までありません。これについては、後に述べることにします。
 応永17(1410)年、再び寒川氏が260貫文で請負って、永享12(1440)年、寒川氏の要求で、260貫文からが210貫文に引き下げられています。
この時に領主の三宝院は、寒川氏に次のように申し入れています
「雖然今度別而被申子細候間、自当年詠二年五拾貫分被閣候、働弐価拾貫候、(中略)
年々莫大未進候、百四十貫外被閣候、然而向当年請口五十貫被減少候、労以如御所存被中成候、自当年自今以後事相構不可有御無沙汰候」
ここには、次のようなことが記されています。
①寒川氏が年々多額の年貢未納入続けていること
②にもかかわらず、その未進分の帳消しにし、
③その上で寒川氏の要求をきき入れて50貫文引き下げていること
ここからは、寒川氏に頼らなければ長尾荘の支配ができなくなっていることが分かります。三宝院には、これ以後の長尾荘に関する文書は残っていません。長尾荘がこの頃から実質的に、寒川氏の支配下に入ってしまい、三宝院の支配は及ばなくなってしまったことを示すようです。
長尾庄をめぐる守護や地頭、農民たちの動きをもう少し詳しく見ていくことにします。
  応永四(1397)年に請負代官に補任された相国寺の僧昌緯は、荘園請負人のプロであったようです。彼が三宝院に提出した注進状には、当時の長尾庄をめぐる様子が記されています。契約した年貢が納められない理由として、注進状は次のような問題を挙げています。
地頭・沙汰人らが73町余りの土地を「除田地」として、年貢納入を拒否している。除田とする根拠は、地頭・公文・田所・下司などの「給田」「土居」「山新田」「折紙免」などである。しかも地頭土居内の百姓までもが、守護役に勤仕するといって領家方に従わず、領家方の主だった百姓26人のうちの三分の一は、地頭に従えばよいといって公事を勤めようとしない。領家方の百姓は年貢を半分ばかりだけ納入して、他は免除されたと云って納めようとはしない。さらに年貢・公事は本屋敷の分のみ納入して、他は新屋敷の分と号して納めようとしない。
 さらに守護代官と地頭は、領家方進上の山野などを他領の寺へ勝手に寄進してしまっている。この結果、下地・年貢・公事が地頭や沙汰人にかすめ取られて、領地支配が行えず、年貢も決められた額を送付できないない状況になっている
ここからは、地頭とぐるになって、除田地と称して年貢・公事の負担を拒んでいる荘官や、領家方に従おうとしない百姓たちの姿が見えてきます。地頭の煽動と強制の結果、そのような行動をとったとしても、百姓の中には、三宝院に対する反荘園領主的気運が高まっていたことが分かります。
昼寝山(香川県さぬき市)
寒川氏の居城 昼寝城の説明板

そして登場してくる地頭の寒川氏のことを、見ておきましょう。
寒川氏は、もともとは寒川郡の郡司をしていた土着の豪族で、それが武士団化したようです。細川氏が讃岐守護としてやってきてからは、その有力被官として寒川郡の前山の昼寝城に本城をかまえて、寒川・大内二郡と小豆島を支配していました。長尾荘 昼寝城
寒川氏の昼寝城と長尾荘
 寒川氏の惣領家は、細川氏に従って畿内各地を転戦し、京と本国讃岐の間を行き来していたようです。
先ほどの表の中に、応永年間(1410)年頃に長尾荘の地頭としてその名がみえる寒川出羽守常文・寒川几光は、惣領家の寒川氏です。 同じころに山城国上久世荘で公文職を舞板氏と競っていた人物と同一人物のようです。山城の上久世荘で常文は、管領に就任した細川満元の支持を受けて、一時期ではありますが公文職を手にしています。長尾荘での寒川氏の領主化への動きも、守護細川氏の暗黙の了解のもとに行われたと研究者は推察します。
 在地の地頭の周辺荘園への侵略・押領は、守護の支持の上でおこなわれていたことが、ここからはうかがえます。これでは、京都にいて何の強制力ももたない醍醐寺三宝院は、手のうちようがないのは当然です。ここでは、細川氏の讃岐被官の有力者たちが讃岐以外の地でも、守護代や公文職などを得て活躍していたことも押さえておきます。

 百姓たちの反領主的な動きは、百姓の権利意識の高揚が背景にあったと研究者は考えています。
その抵抗運動のひとつを見ておきましょう。
 研究者が注目するのは、相国寺の僧・昌緯が長尾庄の代官に補任される前年の応永3(1396)年のことです。この年に、一年だけですが「沙汰人百姓等による地下請」がおこなわれています。この地下請は、さきに300貫文で請け負った守護代官石河入道をわずか二ヵ月後に退けて、沙汰人百姓等が年貢米400石、夏麦62石、代替銭25貫文で請け負ったものです。
 さらに昌緯が注進状で地頭や沙汰人等が年貢をかすめとっていると訴えた2ヵ月後に、百姓の代表の宗定と康定の二人は、はるばると上洛して三宝院に直訴しています。そして、百姓の未進分は、34石のみで、その他は昌緯が押領していると訴えているのです。昌緯の言い分が正しいのか、百姓等の言い分が正しいのかは分かりません。しかし、地下請が一年だけで終わり、百姓等の代表が上洛した後に、三宝院は、次のような記録を残しています。
  去年去々年、相国寺緯副寺雖講中之、百姓逃散等之間、御年貢備進有名無実欺

意訳変換しておくと
去年・去々年と、相国寺の僧・昌緯の報告によると、百姓たちが逃散し、年貢が納められず支配が有名無実になっている。

ここからは昌緯の報告のように、百姓の側は逃散などの抵抗を通じて、三宝院の荘園支配に対して揺さぶりをかけていたことがうかがえます。沙汰人百姓等の動きの背景には、村落の共同組織の成長と闘争力の形成があったと研究者は指摘します。

このような状況の中で、寒川氏による地頭請が成立するようです。
 三宝院は最後の手段として、祈るような気持ちで寒川氏に長尾の支配を託したのかもしれません。しかし、寒川氏の荘園侵略は止むことがなかったようです。 ついに三宝院は「公田中分」に踏み切ります。この「公田中分」については、よく分かりませんが結果的には、三宝院は、長尾荘の半分を失っても残り半分の年貢を確実に手にしたいと考えたようです。
しかし、どんな事情によるものか分かりませんが、応永16(1409)年に、「公田中分」は停止され、もとのように三宝院の一円支配にもどされます。そして、再び寒川氏が請負代官として登場するのです。三宝院は「年々莫大未進」と記した文書を最後に、永享12(1440)年以降、長尾荘に関する文書を残していません。これは三宝院領長尾荘の実質的に崩壊を示すものと研究者は推察します。
 このような動きは、長尾寺にも波及してきたはずです。
それまでの保護者を失い、寒川氏の保護を受けることができなかった長尾寺の運命は過酷なものであったはずです。阿波三好勢や長宗我部氏の侵入以前に、長尾寺は衰退期を迎えていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①室町初期の長尾荘では、寒川氏が職権を利用して醍醐寺三宝院の長尾荘を押領した
②寒川氏は、周辺荘園を横領することで地頭から在地領主への道を歩んでいた。
③また百姓たちは惣結合を強めて、年貢未進や減免闘争、請負代官の拒否や排除・逃散などの抵抗行動を激化させていた。
④このような長尾荘の動きに、領主三宝院はもはや対応できなくなっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

     長尾荘 古代長尾郷
寒川郡長尾郷周辺
 長尾荘は、寒川郡長尾郷を荘域とする荘園です。まずは、長尾・造田の立荘文書から見ていきましょう。
『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事
   東は限る、石田並に神崎郷等の堺
南は限る、阿波の堺
西は限る 井戸郷の堺
北は限る 志度庄の堺
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の指示通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、「寒河郡内長尾・造太(造田)両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となります。造田は、同じ時に最勝四天王院領となったので、いわば双子の荘園と言えそうです。

長尾荘は平安時代後期に皇室領荘園になり、南北朝期以降は醍醐寺宝院の支配下に入ります。三宝院には、長尾荘についての比較的豊富な史料が残っていて、支配の様子や讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくる荘園のようです。今回は、長尾荘について、その成立から三宝院の寺領になるまでを、追いかけて見ようと思います。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

醍醐寺三宝院の支配に入る以前の長尾荘について、見ておきましょう。三宝院支配以前の長尾荘について記した文書は、次の二通だけのようです。
①長尾荘の初見文書でもある正応元(1288)年8月3日付の関東御教書
②喜元4(1306)年6月12日付の昭慶門院御領日録案

①の関東御教書では、前武蔵守(北条宣時)と相模守(北条貞時)が、越後守(北条兼時)と越後右近大夫将監(北条盛房)両名に、「二位家法華堂領讃岐同長尾庄」を下知状を守りよろしく沙汰するようにと申しつけたものです。この文書により、長尾荘か鎌倉後期の正応年間(1288)年頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領であったことが分かります。
②の昭慶円院御領同録案からは、長尾荘が興善院の所領であり、長尾庄を含む17ケ庄は「別当惟方卿以下寄付」によるものであることが分かります。興善院は鳥羽天皇の御願寺である安楽寿寺の末寺で、民部卿藤原顕頼の建立寄進になります。荘園寄進者の「別当惟方卿」は藤原惟方のことで、藤原顕頼の息子で、12世紀中頃の人物のようです。したがって、長尾荘は寄進者はよく分かりませんが、平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末になっても興善院領として伝領されていたことが分かります。
以上の二つの文書からは、
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末期に至っても皇室に伝領されていること
②一方で、鎌倉後期には二位家法華堂の所領ともなっていたこと
そして南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として醍醐寺三宝院の支配を受けることになるようです。どうして鎌倉の法華寺の所領を、京都の醍醐寺三宝院が管理するようになったかについては、後ほど見ることにします。ここでは、文書には「二位家法華堂領」長尾荘として記載されてること。正確には「鎌倉二位家・右大臣家両法華堂領」長尾荘になること。つまり、長尾荘は二位家と北条政子と右大臣家(源実朝)のそれぞれの法華堂の共通した所領だったことを押さえておきます。長尾荘は、北条政子を供養するための法華堂の寺領だった時もあるようです。そして、幕府はこれを保護するように命じています。

では北条政子や源実朝の法華堂はいつ、どこに建立されたのでしょうか。
実朝の法華堂について、吾妻鏡に承久三(1221)年2月27日条に、次のように記します。
「今朝、於法華堂、修故右大臣第二年追善、二品沙汰也」

ここからは、政子が実朝の3年目の追善供養を法華堂で行ったことが分かります。
政子の法華堂については、吾妻鏡の嘉禄二(1226)年4月4日条に、次のように記されています。
②「如法経御奉納、右人将家、右府将軍、二品、三ケ之法華堂各一部也」

ここからは四代将軍頼経が頼朝、実朝、政子のそれぞれの法華堂に、如法経を奉納したことが分かります。
 実朝は承久九(1219)年、拝賀の儀を行った際、甥の公暁に殺され、その遺体は勝長寿院の境内に葬られます。一方、政子は嘉禄元(1225)年に亡くなりますが、その一周忌は同じ勝長寿院で行われているのでので、やはり政子も勝長寿院の境内に葬られたと研究者は考えています。

長尾荘 源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡
源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡 

   勝長寿院は頼朝が父義朝の恩に報いるために鎌倉の地に建立した寺で、義朝の首が葬られており、義朝の基所となった寺でもありました。そして、のちには実朝、政子も葬られ、源氏の菩提寺となった寺です。
   以上から実朝の法華堂は遅くとも承久三年(1221)までに、政子の法華寺は嘉禄二(1226)までに、それぞれの墓所のある勝長寿院の境内に建立されたと研究者は考えています。
廃寺となった幻の寺(勝長寿院)(Ⅱ) | 鎌倉の石塔・周辺の風景

平安末頃に興善院に寄進された長尾荘が、鎌倉の勝長寿院の境内に建立された法華堂の所領となったのは、どんな事情があったのでしょうか。
それを解くために、興善院の所領がどのように伝領されていったかを見ておきましょう。
①鳥羽上皇より女八条院に譲られ、鳥羽上皇没後は後白河天皇の管領下に入った。
②八条院から後鳥羽天皇女春華門院へ、
③次いで順徳天皇に伝わり後鳥羽上皇が管領
④承久の乱で一時幕府に没収されたが、すぐに後高倉院に返還
⑤その後、その女安嘉門院の所領となり
⑥亀山上皇女昭慶門院の所領となって亀山上皇の管領に帰し、
⑦南北朝期まで大覚寺統の所領として伝領
なかなか出入りがあって複雑ですが、基本的に長尾庄は皇室領で皇室関係者の所領になっていたことが分かります。その中で注目したいのは④の承久の乱で幕府に没収されていることです。この時に、長尾荘は実朝の法華堂に寄進されたことが分かります。幕府はある一定の権利を留保した上で皇室に長尾荘を返還したと研究者は考えています。
以上を要約すると次のようになります
①長尾荘は平安末期頃に、興善寺に寄進されて皇室領荘園となった
②しかし承久の乱で幕府に没収された。
③幕府によりその「領家職」が右大臣家法華堂に寄進され、上位の所有権である「本家職」が再び皇室に返還された
  ここに本家を皇室(興善院)、領家を右大臣家法華堂(のちには二位家。右大臣家両法華堂)とする長尾荘が成立し、南北朝期になるようです。
南北朝期に入ると、興善院領を含む大覚寺統の所領は、後醍醐天皇の建武の新政の失敗により室町幕府に没収されてしまい、多くの荘園は散逸してしまいます。しかし、長尾荘は二位家・右大臣家法華堂領として醍醐寺三宝院の管領下に入って存続します。その背景には、ある人物の存在があったようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊
三宝院門跡の賢俊
長尾荘が三宝院の管領下に入ったのは、三宝院門跡の賢俊が貞和三(1347)年に鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたためのようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊2
賢俊の年譜 左側が賢俊の年齢、右側が尊氏の年齢

賢俊は、建武三年(1336)二月に尊氏が九州に敗走する途中に、「勅使」として北朝の光厳上皇の院宣をもたらしたした僧侶です。これによって、尊氏は「朝敵」となることを免れます。当時の尊氏は、後醍醐天皇への叛旗を正当化するために北朝の承認を欲しがっていました。その証しとなる院宣の到来は、尊氏の政治・軍事上の立場に重要な転機をもたらします。 
 その功績を認められて賢俊は醍醐寺座主に補任され、寺内の有力院家を「管領」(管理支配)するようになり、寺内を統括する立場を強めていきました。寺外においても真言宗の長官である東寺長者、足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮や篠村八幡宮の別当にも任じられ、尊氏の御持僧として、尊氏や武家護持のために積極的に祈祷を行っています。また尊氏の信頼も厚く幕政にも関与し、多くの荘園を与えられて権勢を誇った僧侶でした。その三宝院門跡の賢俊が、鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたようです。
醍醐寺:三宝院 唐門 - いこまいけ高岡
醍醐寺三宝院

そのため法華堂の寺領である長尾荘は、幕府に没収されることなく、醍醐寺三宝院の支配下に入れられたようです。こうして、三宝院による長尾寺支配が14世紀の半ばからはじまるようです。その支配方法については、次回に見ていくことにします。
以上をまとめておくと
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。

長尾荘の支配拠点のひとつとして機能するようになるのが長尾寺ではないかと私は考えています。
歴代の長尾寺縁起は、以前にお話ししたように①から②へ変化していきます。
①中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
②近世になると「聖徳太子・空海開基」説
その背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。どちらにしても、この寺の縁起ははっきりしないのです。
長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図

  ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実です。さらに付近には南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたことは押さえておきます。
 長尾寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書
長尾寺経幢 (きょうどう)(弘安六年銘)

経幢は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
1長尾寺 石造物
             長尾寺経幢 

そして、正応元(1288)年8月3日付の関東御教書からは、長尾荘がこの頃に、
二位家(北条政子の法華堂)の所領となっていたこと見ておきました。つまり、経幢が寄進されたのは長尾荘が鎌倉の法華堂寺領となっていた時期に当たります。
 建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。
 さらに「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記」には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)
             長尾寺経幢

 これを建立したのは地元の武士団の棟梁とも考えられます。
そうだとすれば寄進者は、長尾荘が北条政子をともらう法華堂の寺領であることを知った上で、この地域の信仰センターとして機能していた長尾寺に建立したのではないかと私は推測します。長尾寺は、長尾荘支配のための拠点センターに変身していったのではないかと私は思うのです。
 長尾寺の境内や墓地には、五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているようです。そこからは、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献

    平安時代末期の11世紀中期以降になると、郡・郷のほかに保・名・村・別符その他の称号でよばれる「別名」という所領が姿を見せるようになります。つまり、郡郷体制から「別名」体制に移行していくのです。この動きは、11世紀半ばの国制改革によるもので、一斉に全国に設置されたのでなくて、国政改革以後に漸次、設置されたとされていったようです。
それでは、讃岐には、どんな「別名」が設置されたのでしょうか?
讃岐の「別名」を探すには、嘉元四(1306)年の「昭慶門院御領目録案」がいい史料になるようです。
讃岐国
飯田郷  宝珠丸 氷上郷 重方新左衛門督局
円座保  京極準后     石田郷 定氏卿 
大田郷  廊御方    山田郷 廊御方
粟隅郷  東脱上人  林田郷 按察局
一宮   良寛法印秀国  郡家郷 前左衛門督親氏卿
良野郷  行種    陶 保 季氏
法勲寺  多宝院寺用毎年万疋、為行盛法印沙汰、任供僧
三木井上郷 冷泉三位人道
生野郷 重清朝臣    田中郷 同
「坂田勅旨行清入道、万五千疋、但万疋領状」
梶取名 親行    良野新           
万乃池 泰久勝    新居新          
大麻社 頼俊朝臣    高岡郷 行邦
野原郷 覚守    乃生 行長朝臣
高瀬郷 源中納言有房 垂水郷 如来寿院科所如願上人知行
ここに出てくる地名を見ると、それまでの律令体制下の郷以外に、それまではなかったあらたな地名(別名)が出てきます。それが「円座保  陶保 梶取名 良野新名 新居新名 乃生浦 万乃池」などです。これらの別名の成立背景を、推察すると次のようになります。
乃生浦は海辺にあって、塩や魚海などを年貢として納める「別名」
梶取名は、梶取(輸送船の船長)や船首など水運関係者の集住地
良野新名・新居新名は、本村に対して新たに拓かれた名
万乃池(満濃池)は、源平合戦中に決壊した池跡に、新たに拓かれた土地
それでは、円座保・陶保とは、何なのでしょうか。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。

11世紀になると「別名」支配形態の一つとして「保」が設けられるようになります。
保の成立事情について、研究者は次のように考えているようです。
①竹内理二氏、
保の中には在地領主を公権力に結集するため、国衙による積極的な創出の意図がみられる
②橋本義彦氏、
大炊寮の便補保が年料春米制とつながりをもちつつ、殿上熟食米料所として諸国に設定されていった
③網野義彦氏、
内蔵寮が御服月料国に対する所課を、国によって保を立てて徴収している。そのほか内膳保・主殿保など、官司の名を付した保は各地に存在している
 以上からは、は保の中には、国衛や中央官司によって設定されたものがあること分かります。

讃岐の国では、陶保・円座保・善通寺・曼荼羅寺領一円保・土器保・原保・金倉保などがありました。この中で、善通寺・曼荼羅寺領一円保については、以前にお話したように古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。そして、保延4年(1138)に讃岐国司藤原経高が国司の権限で、一円保が作られます。それでは、陶保と円座保は、どのようにして成立したのでしょうか


十瓶山窯跡支群分布図1
十瓶山(陶)窯跡分布図

陶保の成立から考えてみることにします。
陶保がおかれた一帯は、現在の綾川町の十瓶山周辺で奈良時代から平安時代にかけて、須恵器や瓦を焼く窯がたくさん操業していたことは、以前にお話ししました。
平安時代に成立した『延喜式』の主計式によると、讃岐国からは次のような多くの種類の須恵が、調として中央へ送ることが義務づけられていたことが分かります。
「陶盆十二口、水盆十二口、盆口、壺十二合、大瓶六口、有柄大瓶十二口、有柄中瓶八十五口、有柄小瓶三十口、鉢六十口、碗四十口、麻笥盤四十口、大盤十二口、大高盤十二口、椀下盤四十口、椀三百四十口、壺杯百口、大宮杯三百二十口、小箇杯二千口」

これらの「調」としての須恵器は、坂出の国衙から指示を受けた郡長の綾氏が、支配下の窯主に命じて作らせて、綾川の水運を使って河口の林田港に運び、そこから大型船で畿内に京に納められていたことが考えられます。
須恵器 編年表3
十瓶山窯群の須恵器編年表
 十瓶山(陶)地区での須恵器生産のピークは平安中期だったようですが、11世紀末までは、甕・壷・鉢・碗・杯・盤などの、いろいろな器種の須恵器の生産が行なわれいたことが発掘調査から分かっています。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
それまでのいろいろな種類の須恵器を生産していたのが、甕だけの単純生産に変わります。その他の機種は、土師器や瓦器に置き換えられていったことが発掘調査から分かっています。その中でもカメ焼谷の地名が残っている窯跡群は、その名の通り甕単一生産窯跡だったようです。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土3

 十瓶山(陶)窯群が綾氏が管理する「国衙発注の須恵器生産地」という性格を持っていたことは以前にお話ししました。陶保は平安京への須恵器を生産するための「準官営工場」として国衙直結の「別名」になっていた研究者は考えています。
そのよう中で窯業の存続問題となってくるのが燃料確保です。
「三代実録』貞観元年4月21日条には、次のように記されています。
河内和泉両国相争焼陶伐薪之山。依朝使左衛門少尉紀今影等勘定。為和泉国之地。

  意訳変換しておくと
河内と和泉の両国は焼須恵器を焼くための薪を刈る薪山をめぐって対立した。そこで朝廷は、朝使左衛門少尉紀今影等に調査・裁定をさせて、和泉国のものとした。

ここからは、貞観年間(859―876)の頃から、須恵器を焼く燃料を生産する山をめぐっての争いがあったことが分かります。
十瓶山窯跡支群分布図2

このような薪燃料に関する争いは、須恵器の生産だけでなく、塩の生産にもからんでいました。
筑紫の肥君は、奈良時代の頃から、観世音寺と結んで広大な塩山(製塩のための燃料を生産する山)を所有していました。讃岐の坂本氏も奈良時代に西大寺と結託して、寒川郡鴨郷(鴨部郷)に250町の塩山をもっています。薪山をめぐる争いを防ぐために、薪山が独占化されていたことが分かります。塩生産において燃料を生産する山(汐木山)なくしては、塩は生産できなかったのです。
 瓦や須恵器、そして製塩のために周辺の里山は伐採されて丸裸にされていきます。そのために、燃料の薪山を追いかけて、須恵器窯は移動していたことは、三野郡の窯群で以前にお話ししました。
古代から「環境破壊」は起きていたのです。
 内陸部で後背地をもつ十瓶山窯工場地帯は、薪山には恵まれていたようですが、この時期になると周辺の山や丘陵地帯の森林を切り尽くしたようです。窯群を管理する綾氏の課題は、須恵器を焼くための燃料をどう確保するのか、もっと具体的には薪を切り出す山の確保が緊急課題となります。

古代の山野林沢は「雑令』国内条に、次のように記されています。
山川薮沢之利、公私共之。

ここからはもともとは、「山川は公有地」とされていたことが分かります。しかし、燃料確保のためには、山林の独占化が必要となってきたのです。陶地区では、須恵器の調貢が命じられていました。そのために国府は、綾氏の要請を受けて窯群周辺の薪山を「排他的独占地帯」として設定していたと研究者は考えています。
それが11世紀半ばになって地方行政組織が変革されると、陶地区一帯は保という国衛に直結した行政組織に改変されたと研究者は推察します。陶地区では、11世紀後半になっても須恵器の生産は盛んでした。その生産のための燃料を提供する山に、保護(独占化)が加えられたとしておきましょう。
それが実現した背景には、綾氏の存在ががあったからでしょう。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
ところが12世紀になると、先ほど見たように須恵器の生産の縮小し、窯業は衰退していきます。その中で窯業関係者は、保内部の開発・開墾を進め百姓化していったというのがひとつのストーリーのようです。
『鎌倉遺文』国司庁宣7578には、建長八年(1256)に萱原荘が祇園社に寄進された際の国司庁の四至傍示の中に、陶の地名が出てきます。ここからは陶保の中でも荘園化が進行していたことがうかがえます。
 最初に見た「昭慶門院御領目録案」嘉元四(1306)年には、「陶保 季氏」と記されていました。つまり季氏の荘園と記されているので、14世紀初頭には水田化が進み、一部には土師器や瓦生産をおこなう戸もあったようですが、多くは農民に転じていたようです。あるいは春から秋には農業を、冬の間に土師器を焼くような兼業的な季節生産スタイルが行われていたのかも知れません。

以上をまとめておくと
①陶保は、本来は須恵器や瓦生産の燃料となる薪の確保などを目的に保護され保とされた。
②しかし、13世紀頃から窯業が衰退化すると、内部での開墾が進み、荘園としての性格を強めていった。
須恵器 編年写真
十瓶山窯群の須恵器

次に、円座保の成立について、見ていくことにします。
もう一度「昭慶門院御領目録案」を見てみると、円座保は「京極准后定氏卿知行」と記されています。ここからは、京極准后の所領となっていたことが分かります。京極准后とは、平棟子(後嵯峨天皇典待、鎌倉将軍宗尊親母)だったようです。
菅円座制作記 すげ円座(制作中)
菅円座
円座保では、讃岐特産の菅円座がつくられていたようです。
『延喜式』の交易雑物の中に、「菅円座四十枚」とあります。
藤原経長の日記である『古続記』文永8(1271)年正月十一日条に、次のように記されています。
円座は讃岐国よりこれを進むる。件の保は准后御知行の間、兼ねて女房に申すと云々。

「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。

円座・円坐とは - コトバンク
 円座作り
円座が、国に直結する保に指定された背景は、何だったのでしょうか?
それは陶保と同じように、特産品の円座生産を円滑にしようとの意図が働いていたと研究者は考えています。円座は敷物として都で暮らす人々の必需品でした。その生産を保護する目的があったと云うのです。
菅円座制作記
讃岐の円座

このように、陶保と円座保では、須恵器と円座といった生産品のちがいはあつても、その生産をスムーズに行なわせようという国衙の意図がありました。それが「保」という国衙に直結した行政組織に編入された理由だと研究者は考えています。

研究者は「保」を次の三種類に分類します。
①荘園領主のため設定された便補の保
②領主としての在庁宮人が荘園領主と争う過程で成立した保
③神社の保、神人の村落を基礎に成立した保
円座・陶保は①になるようです。中央官庁が財源確保のために諸国に設定した保とよく似ています。中央官庁の命を受けた国司(在庁官人)が①の便補の保として設定したものと研究者は考えています。

以上、陶保と円座保についてまとめておきます。
①陶保と円座保は、それぞれ須恵器と菅円座の生産地として、繁栄していた。
②都における須恵器や菅円座の需要は大きく国衙にも利益とされたので、国衙の保護が与えられるようになった。
③11世紀半ばになって、「別名」体制が生み出された時に、陶保と円座保は国衙によって、保という国衛に直結した行政組織とされた。
④それは「別名」のうちの一つであった
⑤この両保が保とされた直接の原因は、その生産品の生産を円滑にするためであった。
⑥保に指定された陶や円座には、その内部に農地として開墾可能な荒地があった。それを窯業従事者たちが開墾し、農業を始る。
⑦その結果、14世紀には『昭慶門院御領目録案」には荘園として記されることになった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
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