中世讃岐の荘園をいくつか見てきました。荘園史料は相伝が主で、誰からだれに引き継がれたかは分かっても、その他のことはなかなか分からないようです。荘園経営やそこで活躍する人物像、建造物などを具体的にイメージできる史料にはなかなか出会えません。
その中で南北朝時代のころに成立した『庭訓往来』の中には、京都の荘園領主が現地で荘園を運営する荘官に宛てた手紙が載せられています。「庭訓往来』は、字引の性格をもった文例集で、これを手習いすることで奇麗な文字が掛け、手紙も書けるようになるというすぐれものです。そのため読み書きの教科書として江戸時代末まで広く使われました。実際には、ここに書かれているとおりのことを荘官が行っていたわけではありません。しかし、当時の人々が、あるべき荘官の任務をどのように考えていたか、荘園とはどのような場であると思っていたかを知ることはできます。今回は、『庭訓往来』に出てくる荘園の様子を見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治 中世の村 室町時代の村 岩波新書158P」です。
領下が荘官に宛てた手紙を、要約しながら抜き出して見ていきます。
庭訓往来
その中で南北朝時代のころに成立した『庭訓往来』の中には、京都の荘園領主が現地で荘園を運営する荘官に宛てた手紙が載せられています。「庭訓往来』は、字引の性格をもった文例集で、これを手習いすることで奇麗な文字が掛け、手紙も書けるようになるというすぐれものです。そのため読み書きの教科書として江戸時代末まで広く使われました。実際には、ここに書かれているとおりのことを荘官が行っていたわけではありません。しかし、当時の人々が、あるべき荘官の任務をどのように考えていたか、荘園とはどのような場であると思っていたかを知ることはできます。今回は、『庭訓往来』に出てくる荘園の様子を見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治 中世の村 室町時代の村 岩波新書158P」です。
荘官と領家の関係
領下が荘官に宛てた手紙を、要約しながら抜き出して見ていきます。
①早く沙汰人らに命じて、地下日録・取帳以下の文書、済例・納法の注文などを、悉く提出させよ。
「地下日録」「取帳」は土地地台帳の一種で、「済例」「納法」は年貢の納入記録のようです。荘園では、耕地の面積が調査され、年貢の基本額と納税責任者が定められています。そのための調査が正検注になります。この台帳をもとに、天候不順などで百姓から減免要求があれば、実際の作柄を見て、その年の年貢額を決めます(内検注)、そして徴収することが荘官の最大の任務になります。
荘官には、荘園領主から派遣される場合と、現地の有力者が勤める場合の両方があります。いずれにしても荘園に住む人々と領主を結ぶキーパーソンです。現地を代表して、その意向を領主に伝える場面もあれば、領主の意向を現地で執行する場面もあります。

荘官に対して、文中冒頭に出てくる「沙汰人」は、現地人で、村の代表者的人物になります。
荘官と沙汰人は、時には協力し、時には領主の代即人と村の代表者という立場からの駆け引きを行いながら、両者で検注を行います。そして基本台帳を作成したり、毎年の作柄や年貢納入状況を記録したりして、帳飾を作成していました。これは領主と百姓の間で交わされたある種の契約事項で、簡単に変更できるものではなかったようです。百姓は納入の義務を負いますが、領主側も勝手に増徴や追徴することはできませんでした。

惣村のリーダー沙汰人
『庭訓往来』を読み進めて行きましょう。
洪水や早魃にあい用水工事の必要が生じたときには、民の役として堤や井溝を整えさせよ。
荘園の耕地開発は、堤や井満(用水路)の整備が基本になります。洪水や旱魃などに対して、郷村の百姓たちを動員して用水工事を行うのも荘官の役目です。こうしたため池や用水などの潅漑施設の維持管理が、継続して続けられていたことが分かります。
佃・御正作はよい種を選んで百姓に種子を与えよ。鋤や鍬などの農具を貸し与え、梗、襦、早稲、晩稲を作らせよ。畠には土地の様子にあわせて蕎麦・麦。大豆などを植え、桑代を徴収せよ。
「佃・御正作」は領主の直営田で、収穫物のすべてを領主が取得する土地になります。そこには地味の良い場所が選ばれていたようです。また、品種改良の実験場となっていたのではないかと考える研究者もいます。
「鋤や鍬などの農具を貸し与え」るのも、荘官の仕事だったようです。このためには鉄製農具の購入や修理も行わなければなりません。移動する鍛冶屋を定期的に荘園に呼んで、鍛冶仕事を依頼するのも荘官の仕事だったようです。
「梗、襦、早稲、晩稲を作らせよ」ともあります。
いろいろな食用となる果実などを栽培させると同時に、不作に備えて収穫時期のちがう「早稲、晩稲」の栽培奨励をおこなっていたこともうかがえます。また、田だけでなく、畠の産物や桑のような山の木も課税の対象になっていました。漆、栗、蕨なども荘園からの貫納物として、登場するようです。桑代を徴収せよとも指示されています。

いろいろな食用となる果実などを栽培させると同時に、不作に備えて収穫時期のちがう「早稲、晩稲」の栽培奨励をおこなっていたこともうかがえます。また、田だけでなく、畠の産物や桑のような山の木も課税の対象になっていました。漆、栗、蕨なども荘園からの貫納物として、登場するようです。桑代を徴収せよとも指示されています。

長者の家(『粉河寺縁起』)
『庭訓往来』は、荘園の政所については、次のように記しています。
御館の作りは特別の工事は必要ない。四方に大堀を構え、その内に築地を用意せよ。南向きには笠懸の馬場、東向きには蹴鞠の坪を設けよ。客殿に続いて持仏常を立てよ。……その傍らには蔵・文庫を構えよ。
冒頭に出てくる「御館」とは、荘園の現地を治めるための役所である政所のことです。荘園領主から派遣された代官が現地で政務を執り行う役所です。これは荘官の私宅も兼ねていました。そのため役所といっても、建築的には一般的な農家と変わりない建物であったようです。13世紀中頃、丹波雀部荘では新任の代官が大型の政所を造ろうとして住民に反対されています。

ここには地頭方の百姓の一人である谷内の屋敷が描かれています。右側(北側)に主殿、左側(南側)に客殿があります。右側の客殿が地頭方の政所として使用されていたようです。この客殿の周りだけ堀があり、右側の主殿には堀がありません。この堀の遺構が現在も残っているようです。
これを見ると『庭訓往来』に書かれたとおり、堀と塀に囲まれた空間に客殿、蔵が設けられています。政所には、一定の防御性と文書・帳簿などの保管庫が必要だったことがうかがえます。また「笠懸の馬場」と「蹴鞠の坪」を用意するように記されています。ここからは政所が荘官の属する武士の文化と、荘園領主の属する公家の文化の混じり合う場であったことを象徴的に示しているようです。


備中国新見庄の政所図面(東寺百合文書)
上図は15世紀半ばの備中国新見庄にあった京都の東寺の政所図面です。ここには地頭方の百姓の一人である谷内の屋敷が描かれています。右側(北側)に主殿、左側(南側)に客殿があります。右側の客殿が地頭方の政所として使用されていたようです。この客殿の周りだけ堀があり、右側の主殿には堀がありません。この堀の遺構が現在も残っているようです。
これを見ると『庭訓往来』に書かれたとおり、堀と塀に囲まれた空間に客殿、蔵が設けられています。政所には、一定の防御性と文書・帳簿などの保管庫が必要だったことがうかがえます。また「笠懸の馬場」と「蹴鞠の坪」を用意するように記されています。ここからは政所が荘官の属する武士の文化と、荘園領主の属する公家の文化の混じり合う場であったことを象徴的に示しているようです。

荘園の政所
政所は支配の拠点であり、百姓たちの納める年貢の集められる場でもあり、同時に裁判の場でもありました。播磨西部に斑鳩嶋庄という法隆寺の荘園があります。この荘園の政所で行われていた諸事を書きとめた記録が残されています。それを見ると、荘園内で起こった盗み、殺人、喧嘩などの刑事事件が政所で裁かれ、犯人に対する処罰が行われていたことが分かります。処罰や犯人逮捕にあたっては中間、下部などと呼ばれる役職の人々が執行にあたっています。彼らは、地元の住人の中から「職員」として登用された人たちのようです。

斑鳩嶋庄
政所は支配のための場だけでなく、交流・社交の場でもありました。正月には沙汰人や殿原と呼ばれる荘園内の有力者たちが、政所に新年の挨拶に訪れています。また節供や暮れなどには、彼らを招待して食事が振る舞われていました。領主と領民の融和の場としても機能していたようです。政所は、役場であり、警察・裁判所であり、地域の交流施設でもあったことになります。いろいろな機能をもった拠点が政所と云えそうです。


政所の中には、どんな備品があったのでしょうか。
東寺・新見庄の史料には、政所の図とともに備品を書き上げた史料が残されています。そこには、書類や塁、硯などの文具や食器類はもとより、蔵の鍵、流鏑馬用の衣装、馬の爪切り、鍋・釜・臼などの調理道具などが備え付けられていたことが記されています。また椀六十、黒椀五十、折敷十九、畳二十枚などともあるので、政所には多数の人々が集い、会食も行われる場だったことも分かります。米一石、麦八斗、大豆一石、味噌五斗などの食糧も備蓄されています。また『庭訓往来』『式条(御成敗式目)』『字尽』などの書物も、ちゃんと備えられていることになっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「榎原雅治 中世の村 室町時代の村 岩波新書158P」
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