瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2022年06月

白峯寺 六字名号
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。
 空海と「南無阿弥陀仏」の六字名号の組み合わせは、現代の私たちからすればミスマッチのようにも思えます。しかし、「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっているようです。今回は空海が書いたとされる六寺名号を見ていくことにします。
テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P」です。
六字名号 観自在寺の船板名号
観自在寺蔵の船板名号
まず最初に、観自在寺蔵(愛媛県)の船板名号版木を見ておきましょう。
観自在寺(真言宗)の船板名号で、身光、頭光をバックにして、南無阿弥陀仏が陽刻され、向かって左下に「空海」と御手判があります。伝来はよく分かりませんが、現在でも  病気平癒など霊験あらたかな船板名号として、信仰の対象となっているようです。印刷されたものが、参拝記念として販売されたりもしています。
   「船板名号」という呼び方は耳慣れない言葉です。これについては「空海=海岸寺生誕説」を説く説経『苅萱』「高野巻」に、次のような記事があります。
  空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のこと.
二十七と、申すに、入唐せんとおぼしめし、筑紫の国宇佐八幡にこもり、御神体を拝まんとあれば、十五、六なる美人女人と拝まるる。空海御覧じて、それは愚僧が心を試さんかとて、「ただ御神体」とこそある。重ねて第六天の魔王と拝まるる。「それは魔王の姿なり。ただ御神体」と御意あれば、社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内より六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、船の船泄に彫り付けたまふによって、船板の名号と申すなり。
意訳変換しておくと
空海二十七歳の時に、入唐の安全祈願のために、筑紫の宇佐八幡にこもり、御神体を拝もうとしたところ、十五、六の美人女人が現れた。それを見て空海は「それは私の心を試そうとするものか」と思い、「ただ御神体」と、重ねて第六天の魔王を拝んだ。すると『それは魔王の姿なり。ただ御神体」との御意があり、社壇の内が激しく揺れ、天からは雷電が降り、火炎が立って、その内から六字の名号が現れた。空海は「これこそ御神体よ」として、舟の船杜に「南無阿弥陀」の六字名号を彫り付け出港していった。これが船板の名号の由来である。

ここからは空海が留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。

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弥谷寺の船板名号碑
弥谷寺の山門上の参道にも、船板名号碑が立っているのは、以前にお話ししました。空海筆銘六字名号は、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。別の見方をすると、説経「苅萱』「高野巻」を流布した聖たちの布教勢力下にあったお寺とも云えます。

曳覆五輪塔 
曳覆五輪塔

次に西明寺蔵(京都府)・曳覆曼茶羅版木を見てみます。
「曳覆」とは、死者の身体に曳いたり、覆い被せるもので、人の減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する五輪塔や真言・陀羅尼などが書かれています。死者と供に葬られるので、実物が残っているものはないのですが、それを摺った版木は各地に残っています。

六字名号 曳覆曼荼羅 京都の西明寺 
曳覆曼荼羅 西明寺の六字名号版木
西明寺(真言宗)の版木は南無阿弥陀仏とともに「承和三年二月十五日書之空海」とあります。この年号は、この六字名号を空海が承和元年(834)3月15日に書いたことを示すものです。空海が高野山奥院に入定したのは承和2年です。その前年が承和元年です。この年が選ばれているのは、空海の筆によるものであることを強調する意味があると研究者は指摘します。

次に九州福岡の善導寺(浄土宗)の絹本墨書を見ておきましょう。
善導寺は浄土宗の開祖、法然上人の弟子鎮西派の祖・聖光上人による開山で、九州における浄土宗の重要な寺院です。ここには数多くの六字名号の掛軸が残されています。その中に空海筆六字名号があります。この掛軸には、次のような墨書があります。
俵背貼紙墨書
弘法大師真筆名号 慶長□年之一乱紛失然豊後国之住人羽矢安右衛門入道宗忍不見得重寄進於当寺畢
慶長十二丁未暦卯月吉日二十一世住持伝誉(花押)
空海御真筆也 一国陸(六)十六部 普賢坊快誉上人
永禄六癸亥年六月日
(巻留墨書)
  六字宝号弘法大師真蹟
(箱蓋表墨書)
弘法大師真蹟 弥陀宝号 善導寺什

ここには、この六字名号が空海の真筆であること、それが慶長年間に一時行方が分からなくなったが、豊後の国の入道が見つけて寄進したことなどが書かれています。その顛末を永禄6年(1563)に記したのが六十六部普賢坊快誉上人だと記します。快誉上人については、よく分かりません。が「誉」の係字を持つことから浄上系の僧でしょう。なお善導寺には別に船板名号もあります。
六字名号 天福寺
天福寺の船板名号
最後に香川県 天福寺の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられ、西明寺の版木によく似ています。なお同様のものが高野山不動院にもあるようです。空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあるのことを押さえておきます。
次に研究者は、六字名号と空海との関係を見ていきます。
空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』には、次のように記されています。
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、
意訳変換しておくと
弘法大師は竜華下生の春つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ、本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、弘法大師空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。

六字名号 空海筆
六字名号に書かれた空海のサイン

 また先ほど見た、室町時代末期~江戸時代初期の作と考えられる『苅萱』「高野巻」に書かれた「船板名号」も空海と六字名号との関係を説くものです。説経『苅萱』「高野巻」は、高野聖との関係が濃厚であることは以前にお話ししました。従って、この時期に作られた六字名号には高野聖が関わっていたと研究者は推測します。
 空海筆六字名号が時衆の念仏聖によって生み出された背景には、当時の高野聖たちがほとんどが時衆念仏僧化していたことがあります。
それでは、空海筆六字名号が真言宗だけでなく、浄土宗の寺院にも残されているのはどうしてなのでしょうか。

仏生山法然寺
仏生山法然寺(高松市)
 その謎を解く鍵が高松市の法然寺にあるようです。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。研究者が注目するのは、再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』の中の次の條です。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。
 また『讃岐国名勝図会』の法然寺の項目には、弥勒堂の弥勒菩薩は弘法大師作とあります。さらに宝物の中にも「弘法大師鉄印(南蛮鉄を以て造るの印文、竜虎二字図、次に出す)」とあり、次の図が掲載されています。
弘法大師鉄印 法然寺
弘法大師鉄印 (法然寺)

これは先ほど見てきた観自在寺、天福寺、筑後・善導寺などの六字名号の空海の文字の下に書かれている文様とよく似ています。なお天福寺には先ほど見た六字名号掛軸とは別の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。

(3)一遍の念仏「六字名号」は救いの喜びの挨拶_b0221219_18335975.jpg
一遍と六字名号

これを、どのように考えればいいのでしょうか。
『一遍聖絵』や説経『苅萱』「高野の巻」などからは、空海筆六字名号が時衆の中で生まれ、展開してきたことを押さえました。それが時衆系高野聖などによって、各地に広がりを見せたと研究者は考えています。しかし、江戸時代初期の慶長11年(1606)に幕府の命令で、時衆聖の真言宗への帰入が強制的に実施されます。ただ、このような真言宗への帰入は16世紀からすでに始まっていたようです。高野聖が真言宗へ帰入した時に、空海筆六字名号も真言宗寺院へ持ち込まれたことが考えられます。
 一方、浄土宗寺院についてはよく分かりませんが、時衆の衰退とともに、念仏聖として浄土宗寺院に吸収、包含された時に、持ち込まれた可能性がありますが、これもよく分かりません。今後の検討課題になるようです。
弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体一覧
どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。

六字名号 一遍
 六字名号( 一遍)

 研究者は、念仏僧が、この版木を白峯寺復興のための勧進用として「販売」したのではないかという仮説を出します。
それに関わった人物が「阿閣梨洞林院別名」とします。別名は、慶長9年(1604)に千手院を再興した勧進僧で、修験者でもあった可能性があります。別名が弥谷寺も兼帯していたことが海岸寺の元和6年(1620)の棟札から分かります。これは、白峰寺での勧進活動の成功を受けて、生駒藩が弥谷寺の再興のために命じた人事とも考えられます。江戸時代初期の弥谷寺や海岸寺は念仏信仰が盛んなお寺であったことは以前にお話ししました。
 また、白峯寺版木の不動明王と同じ版木の不動明王が弥谷寺にもあります。このことから江戸時代初期には、白峯寺と弥谷寺が深い関係を持っていたことが裏付けられます。別名によって、二つのお寺は運営管理されていたことが、このような共通性をもたらしたのかもしれません。ただ、この阿閣梨別名については、念仏信仰だけの僧ではなく、多面的な信仰を持ち合わせた真言宗の僧と研究者は考えています。
念仏賦算」と「踊り念仏」に込められた願いのかぎり 「捨てる」という霊性について(10) : 家田足穂のエキサイト・ブログ
一遍の配布札

以上をまとめておくと
①空海自筆とされる南無阿弥陀仏と書かれた六寺名号の版木が四国霊場の観自在寺、石手寺、太山寺に残っている。
②これは「弘法大師伝説 + 阿弥陀念仏信仰」の共存を示すものである。
③これを生み出したのは一遍の時衆念仏僧たちで、それを広げたのは時衆念仏化していた高野聖たちであった。
④戦国時代から近世初期にかけて、高野山では「真言復帰原理主義運動」が高まり、念仏僧が排除されるようになった。
⑤真言宗籍に復帰した念仏僧達は、いままでの阿弥陀信仰の流布スタイルを拠点とする札所寺院でも展開した。
⑥また、大型の版木で六寺名号を摺って、寄進活動などにも活用するようになった。
以上のように、四国辺路の形成に念仏信仰(時衆念仏僧や高野聖)などが関わっていたことが具体的に見えてきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
経筒とは - コトバンク
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
関連記事

現在の四国遍路は、次のような三段階を経て形成されたと研究者は考えるようになっています。
①古代 
熊野行者や聖などの行者による山岳修行の行場開発  (空海の参加)
②中世 
行場に行者堂などの小規模な宗教施設が現れ、それをむすぶ「四国辺路」の形成
③近世 
真念などにより札所が定められ、遍路道が整備され、札所をめぐる「四国遍路」への転進

①の古代の「行場」について、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
阿国大滝嶽に踏り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
(中略)
或るときは金巌に登って雪に遇うて次凛たり。或るときは石峯(石鎚)に跨がって根を絶って轄軒たり。
ここからは阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山で弘法大師が修行したことが分かります。これらの場所には、現在は21番太龍寺、24番最御崎寺、60番横峰寺(石鎚山遥拝所)があり、弘法大師と直接関わる行場であったこと云えます。

DSC04629
土佐室戸崎での空海の修行

 四国霊場の札所の縁起は、ほとんどが空海によって開かれたと伝えます。しかし、空海以前に阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山などでは、すでに行者たちが山岳修行を行っていました。若き空海は、彼らに習ってその中に身を投じたに過ぎません。中世になってやってきた高野聖などが弘法大師伝説を「接ぎ木」していったようです。
   平安時代末期頃になると『今昔物語集』や『梁塵秘抄』には、「四国の辺地」修行を題材にした話が出てきます。
そこに描かれた海辺を巡る修行の道は、現在の四国辺路の原形になるようです。ここには、各行場が海沿いに結ばれてネットワーク化していく姿がイメージできます。それでは、山岳寺院のネットワーク化はどのように進められたのでしょうか。今回は、中世の山岳寺院が「四国辺路」としてつながっていく道筋を見ていくことにします。テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年 141P」です
和歌山・本宮/熊野古道】山伏と歩く熊野古道(大峰奥駈道)・貸切ツアー・小学生よりOK・初心者歓迎 | アクティビティジャパン
熊野街道と行者
鎌倉~室町時代中期には、全国的に熊野信仰が隆盛した時代です。
札所寺院の中には、熊野神社を鎮守とすることが多いようです。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
愛媛県の熊野神社 修験者が勧進したと伝える神社多い

そのため四国辺路の成立・展開には熊野行者が深く関わっていたという「四国辺路=熊野信仰起源説」が早くから出されていました。 しかし、熊野行者がどのように四国辺路に関わっていたのか、それを具体的に示す史料が見つかっていませんでした。つまり弘法大師信仰と熊野行者との関係について、両者をどう繋ぐ具体的史料がなかったということです。

増吽

 そのような中で、両者をつなぐ存在として注目されるようになったのが「増吽僧正」です。
増吽は「熊野信仰 + 真言僧 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経センター所長」など、いくつもの顔を持つ修験系真言僧者であったことは、以前にお話ししました。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽とつながる修験者の活動エリア

 増吽は讃岐大内郡の与田寺や水主神社を本拠とする熊野行者でもありました。例えば、熊野参詣に際しては讃岐から阿讃山脈を越え、吉野川を渡り、南下して牟岐や海部などの阿波南部の港から海路で紀州の田辺や白浜に着き、そこから熊野へ向かっています。四国内に本拠を置く熊野先達は、俗人の信者を引き連れ、熊野に向かいます。この参詣ルートが、後の四国辺路の道につながると研究者は考えています。また、これらのエリアの真言系僧侶(修験者)とは、大般若経の書写活動を通じてつながっていました。

弘法大師 善通寺御影
「善通寺式の弘法大師御影」 
我拝師山での捨身修行伝説に基づいて雲に乗った釈迦が背後に描かれている

 増吽の信仰は多様で、大師信仰も強かったようです。
彼は絵もうまく、彼の作とされる「善通寺式御影」形式の弘法大師の御影が各地に残されています。この御影を通じて弥勒信仰や入定信仰などを弘め、「弘法大師は生きて私たちと供にある」という信仰につながったと研究者は考えています。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)

 四国には、増吽のような信仰の姿を持つ真言宗寺院に属した熊野先達が数多くいたことが次第に分かってきました。彼等によって四国に入定信仰・弥勒信仰を基盤とする弘法大師仰が広げられたようです。そして、真言系熊野先達の寺院間は、大般若経の書写や勧進活動を通じてネットワーク化されていきます。この時期の山岳寺院は孤立していたわけでなく、寺院間の繋がりが形成されていたようです。こうした熊野信仰と弘法大師信仰とのつながりは、室町時代中期までには出来上がっていたようです。しかし、そこに四国辺路の痕跡はまだ見ることはできません。それが見えてくるのは16世紀の室町時代後期になってからです。

医王寺本堂内厨子 文化遺産オンライン
浄土寺本堂の本尊厨子
愛媛県の49番浄土寺本堂の本尊厨子に、次のような落書が残されています。
四国辺路美?
四国中辺路同行五人
えち     のうち
せんの  阿州名東住人
くに   大永七年七月六日
一せう
のちう  書写山泉□□□□□
人ひさ  大永七年七月 吉日
の小四郎
南無大師遍照金剛(守護)
意訳変換しておくと
四国辺路の中辺路ルートを、次の同行五人で巡礼中である
えち     のうち せんの  阿州名東住人 くに 
 大永七年(1527)七月六日

(巡礼メンバー)は「のちう  書写山(姫路の修験寺)の泉□□□□□ 人ひさ」である。
大永七年(1527)七月 吉日   の小四郎
南無大師遍照金剛(弘法大師)の守護が得られますように
ここからは、次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)前後には、浄土寺の本尊厨子が完成していたこと
②そこに「四国辺路」巡礼者の一団が「参拝記念」に、相次いで落書きを残したこと。
③巡礼者の一団のメンバーには、越前や阿波名東の住人、姫路書写山の僧侶などいたこと。彼らが「四国辺路」の中辺路ルートを巡礼していたこと
南無大師遍照金剛とあるので、弘法大師信仰を持っていたこと

閑古鳥旅行社 - 浄土寺本堂、浄土寺多宝塔
浄土寺本堂
さらに翌年には次のような落書きが書き込まれています。
金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四日
金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年五月九日
左恵 同行二人大永八年八月八日
意訳変換しておくと
高野山金剛峯寺の谷上惣職の善空 大永八年五月四日
高野山金剛□□満□□□□□□同行六人  大永八年五月九日
左恵  同行二人         大永八年八月八日
ここからは次のようなことが分かります。
①高野山の僧侶が四国辺路を行っていること
②また2番目の僧侶は「同行六人」とあるので、先達として参加している可能性があること。
 また讃岐国分寺の本尊にも同じ様な落書があって、そこには「南無大師遍照金剛」とともに「南無阿弥陀仏」とも書かれています。
以上からは、次のようなことが分かります。
①室町時代後期(16世紀前期)には「四国辺路」が行われていたこと
②四国辺路には、高野山の僧侶(高野聖)が先達として参加していたこと
②四国辺路を行っていた人たちは、弘法大師信仰と阿弥陀念仏信仰の持ち主だったこと
現在の私たちの感覚からすると「四国遍路」「阿弥陀信仰」は違和感を持つかも知れません。が、当時は高野山の聖集団自体が時宗化して阿弥陀信仰一色に染まっていた時代です。弥谷寺も阿弥陀信仰流布の拠点となっていたことは以前にお話ししました。四国の山岳寺院も、多くが阿弥陀信仰を受入ていたようです。

この頃に四国辺路を行っていた人たちとは、どんな人たちだったのでしょうか?ここで研究者が注目するのが、当時活発な宗教活動をしていた六十六部です。
経筒とは - コトバンク
経筒

16世紀頃に、六十六部が奉納した経筒を見ていくことにします。
この時期の経筒は、全国各地で見つかっています。まんのう町の金剛院(種)からも多くの経筒が発掘されているのは、以前にお話ししました。全国を廻国し、国分寺や一宮に逗留し、お経を書写し、それを経筒に入れて経塚に埋めます。それが終わると次の目的地へ去って行きます。書写するお経によっては、何ヶ月も近く逗留することもあったようです。

陶製経筒外容器(まんのう町金剛寺裏山の経塚出土)

それでは、六十六部は、どんなお経を書写したのでしょうか?
 六十六部の奉納したお経は、釈迦信仰に基づいて『法華経』を奉納すると考えられますが、どうもそうとは限らないようです。残された経筒の銘文には、意外にも弘法大師信仰に基づくものや、念仏信仰に基づものがみられるようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
廻国六十六部
島根県大田市大田南八幡宮出土の経筒には、次のように記されています。
四所明神土州之住侶
(バク)奉納理趣経六十六部本願同意
辺照大師
天文二(1533)年今月日  
ここからは、土佐の四所明神の僧侶が六十六部廻りに訪れた島根県太田市で、『法華経』ではなく、真言宗で重要視される『理趣経』を書写奉納しています。さらに「辺照(遍照)大師」とありますが、これは「南無大師遍照金剛」のことで、弘法大師になります。ここからは六十六部巡礼を行っている「土佐の四所明神の住僧」は、真言僧侶で弘法大師信仰を持っていたことが分かります。
島根県:コレクション しまねの宝もの(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 170号)
大田南八幡宮(島根県太田市)の銅製経筒

さらに別の経筒には、次のように記されています。
□□□□□幸禅定尼逆修為
十羅刹女 高野山住弘賢
奉納大乗一国六十六部
三十番神 天文十五年正月吉日
ここからは、天文15年(1546)に高野山に住している弘賢が廻国六十六部のために奉納したものです。高野山の僧とは記していないので聖かもしれません。当時の高野聖は、ほとんどが阿弥陀信仰と弘法大師信仰を併せ持っていました。
次に念仏信仰について書かれた経筒を見てみましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄土三部経六十六部
子□
祈諸会維天文十八年今月吉
越前の在家入道は天文18年(1549)に「無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経を奉納しています。これは浄土阿弥陀信仰の根本経です。このように六十六部は『法華経』だけでなく密教や浄土教の経典も奉納していることが分かります。

次に宮城県牡鹿郡牡鹿町長渡浜出土の経筒を、見ておきましょう。
十羅刹女 紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部沙門良源行人
三十番神 大永八年人月吉日 白
施主藤原氏貞義
大野宮房
この納経者は、高野山谷上で行人方に属した良源で、彼が六十六部となって日本廻国していたことが分かります。行人とあるので高野聖だったようです。高野山を本拠とする聖たちも六十六部として、廻国していたことが分かります。
2.コラム:経塚と経筒

経筒の奉納方法
 先に見た愛媛県の浄土寺本尊厨子の落書にも「高野山谷上の善空」とありました。彼も六十六部だった可能性があります。つまり高野山の行人が六十六部となり、四国を巡っていたか、あるいは四国辺路の先達となっていたことになります。ここに「四国辺路」と「六十六部」をつなぐ糸が見えてきます。

2公式山3
善通寺の裏山香色山山頂の経塚

今までのところをまとめておきます。
①16世紀前半の高野山は時衆化した高野聖が席巻し、高野山の多くの寺院が南無阿弥陀仏をとなえ念仏化していた。
②浄土寺や国分寺の落書からみて、高野山の行人や高野山を本拠とする六十六部、さらに高野聖が数多く四国に流人していた
③以上から弘法大師信仰と念仏信仰を持った高野聖や廻国の六十六部などによって、四国辺路の原形は形成された。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献      武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P

讃岐の中世石造物については、前回に次のように要約しました。

中世讃岐の石造物変遷
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、
②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し
③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること
④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣し、技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと
⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと
今回は、14世紀後半に白峯寺にもたらされた花崗岩製石造物が、どこで誰によって造られたかを見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です。

花崗岩は、凝灰岩よりも堅いので、加工のためには先進技術が必要でした。花崗岩製石造物の先進地が近江、京、大和にあることは多くの研究者が指摘しています。その背景には、東大寺復興事業の際に、中国から先端技術を持った宋人石工の来日と定着があったようです。その後に、近江、京、大和の石造物文化が瀬戸内海地域に影響を与えるようになります。このような流れの中で、白峰寺周辺の花崗岩石造物も、関西で造られものが持ち込まれたとされてきました。しかし、問題なのは、白峰寺のものと同じ石材で造られた石造物が関西からは出てこないことです。
白峯寺 讃岐石造物分布図
          中世讃岐の石造物分布図

中世の讃岐の花崗岩製石造物が残っているのは、白峯寺を中心に国分寺地域から宇多津にかけてのエリアに限定されることが上図からは分かります。

研究者が注目するのは、それらの石造物の岩質が類似していることです。白色で粒径0,3~0,4mの細粒の長石・石英と0,1mの雲母が見られます。石材が同じと言うことは、生産地が同じだと云うことになります。しかし、この花崗岩の産地は、讃岐にはないようです。そこで考えられるのが他地域から運び込まれたことです。第一候補は関西ですが、関西にもこの岩質の製品はありません。讃岐と同じ材質の花崗岩の採石地は、備中西部の岡山県浅口市と香川県坂出市櫃石島にあります。備中西部は石造物のスタイルや形が讃岐とは大きく違うようです。

白峯寺 櫃石島の磐座
櫃石島の磐座・櫃岩 すぐ上を瀬戸大橋がまたぐ

 最後に残された櫃石島には、島の名前の由来とされる櫃岩が、島の頂きにあります。
古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。この石が花崗岩露頭になるようです。分析の結果、櫃石島の花崗岩が、白峰寺にもたらされた石造物の材質と同じ事が分かりました。
 また、櫃石島には、瀬戸大橋建築の際に発掘調査されて石造物群(がんど遺跡)があります。この石造物群は五輪塔が中心ですが、研究者が注目するのは、かつて五重塔であったといわれる層塔基礎が残されていることです。この層塔基礎について報告書には、幅70㎝、高さ36㎝で側面3面に格狭間があり、作られた時期は鎌倉時代後期のもので、白峯寺十三重塔との類似性を指摘しています。確かに格狭間文様は幅広く肩の張ったモチーフで白峯寺花崗岩製十三重のものと似ています。この層塔基礎は、櫃石島と白峯寺を結ぶ重要な遺物と研究者は考えています。
櫃石島周辺の島嶼部の花崗岩製石造物の分布状態を、研究者は次のように概観しています。
石造物群のある本島、広島、手島、真鍋島には、讃岐の凝灰岩製のものはありますが、花崗岩製の石造物はありません。女木島、豊島は、中世石造物がありますが数も少なく、石材は凝灰岩、石灰岩です。与島は花崗岩製が少数見られますが、岩質が異なります。露頭地の岩質も櫃石島と大きくちがうので「中世段階に与島産は想定し難い」と研究者は考えています。小豆島は花崗岩製のものはありますが、時期が室町時代以降のもので、岩質も異なります。南北朝時代以前のものでは長勝寺に1338年の宝筐印塔がありますが石材は安山岩です。
 以上、露頭地と石造物の岩質、層塔格狭間にみる共通性から讃岐の花崗岩製の多くは櫃石島産のものが使用されている可能性が極めてつよいと研究者は指摘します。

白峯寺 境内の層塔
白峯寺の花崗岩製石造物
それでは櫃石島で花崗岩製石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。
 讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は推測します。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業だとします。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。その一つの動きが、白峰寺への造塔事業です。そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたというのです。その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が、この時期に白峰寺周辺に現れると研究者は考えています。このように関西地域に系統をもつ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺への造塔事業が始まるというのが新たな説です。
ただ、13世紀に始まる白峯寺の造塔事業は、白峰寺だけのことではなかったようです。1240年前後になると、次のような中世最古の紀年銘石造物が広域的に現れてくるようです。
滋賀県水尾神社層塔(1241年)
滋賀県安養寺跡五重塔(1246年)
京都府宝積寺十三重塔(1241年)
京都府金輪寺五重塔(1240年)
奈良県大蔵寺十二重塔(1240年)
岡山県藤戸寺五重塔(1243年)
福岡県坂東寺五重塔(1232年)
熊本県明導寺十二重塔(1230年)
鹿児島県沢家三重塔(1239年)

藤戸寺(ふじとじ)石造五重塔
岡山県藤戸寺五重塔(1243年)

以上を見ると、層塔が多いことに気がつきます。近畿だけでなく岡山や九州の有力寺院でも層塔が建てられ始めたことがわかります。いわば「層塔建立ムーブメント」の始まりです。このような流れの中で、花崗岩生産地の塩飽櫃石島に関西から石工たちが呼び寄せられ、瀬戸内海周辺の寺院に層塔提供のための生産が始まったというシナリオになるようです。白峯寺の層塔もこのような西日本各地の層塔造塔の動きに連動していることを押さえておきます。

それでは、この「櫃石石造物工房」を設立したのは、誰なのでしょうか? 考えられる候補を挙げておきましょう。
①瀬戸内海への進出著しい西大寺律宗のネットワークの寺院へ提供のため
②児島五流修験 
ここでは、これ以上はこの問題については触れずに、先を急ぎます。

櫃石島産の花崗岩製石造物は、白峯寺にどのような順番で設置されたのか?白峰寺の花崗岩製の石造物の初期の作品は、まず崇徳陵周辺に設置されます。
①崇徳陵両サイドには、それぞれ材質の違う火山石製と花崗岩製の五重塔が設置されます。

P1150775
崇徳陵五重塔(花崗岩製)
 この内の花崗岩製の五重塔は、縦長の塔身・軸部、傾斜の強い屋根を持ち、岡山県藤戸寺五重塔(1243年)や滋賀県安養寺跡五重塔(1246年)(写真157)と、よく似ているので、同じ頃の製作と研究者は考えています。また、作風としては近江石工の影響が見られるようです。
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白峯寺頓證寺殿の石灯籠(1267年)
②続いて文永4年(1267)になると、崇徳陵東隣の頓証寺に花崗岩製灯籠が造塔されます。この灯籠は、年紀が入っている最初のものになります。火袋に対して笠部幅の狭いのがこの灯籠の特徴で、大和系石工の影響が見られます。
 前回に、弥谷寺石工たちがこの灯籠を真似て、凝灰岩の天霧石でコピー作品を作った作品が大水上神社(三豊市高瀬町)の灯籠であることを紹介しました。弥谷寺の石工たちにから見ても模倣したくなる作品だったのでしょう。

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白峯寺十三重塔(東塔・花崗岩製1278年)

 頓証寺灯籠から12年後の弘安元年(1278)に、花崗岩製十三重塔(東塔)が造塔されます。
この塔は基壇に乗る総高は5,9mにもなります。それ以前の白峯寺石造物に比べると、格段の技術的進歩が見られます。
白峯寺十三重塔(東塔)の特徴を確認しておきます。
①金剛界四仏種子を刻む方形の塔身、低い軸部、傾斜の緩やかな屋根が特徴で、これらは大和に類例があること。
②奈良県般若寺・大蔵寺十三重塔はホゾがありませんが、白峯寺十三重塔も解体工事によって同じようにホゾ・ホゾ孔のないことが確認されてこと。
外見からは見えない制作過程まで共通するということは、白峯寺十三重塔が外観だけ大和の石塔を模倣したのではないことを教えてくれます。そこには制作した石工集団が技術的系統でつながっていたことが分かります。また、白峯寺十三重塔は檀上積基壇上にありますが、檀上積基壇は大和の石造物地域圏の特徴とされます。これも先ほど見た櫃石島に残る層塔の基礎と共通する点が多く、白峯寺十三重塔(東塔)が櫃石島産であることを裏付けるものです。

この塔に類似したものを探すと、次のような石造物になるようです。
奈良県般若寺十三重塔(1253年)
京都府天神社十三重塔(1277年)
京都府法泉寺十三重塔(1278年)
奈良市 般若寺十三重石塔 - 愛しきものたち
奈良県般若寺十三重塔(1253年)

これらは大和石工の手によるものとされています。瀬戸内海エリアで大型の十三重塔が登場するのは白峯寺が最初だったようです。

また白峰寺の花崗岩製石造物は、材質は同じでも作品が作られた時期によって作風が違います。
①崇徳陵前の花崗岩製五重塔は近江石工系
②白峯寺一三重塔(東塔)は大和石工系
ここからは、櫃石島の作業所に関西から集められた石工たちが集団でやって来たのではなく、各地域から「一本釣り」的に連れてこられたのではないかという推測ができます。そのために、同じ櫃石島で作られた石造物なのに、いろいろな作風が見られるというのです。このような現象は、他の作業所でも見られるようです。
P1150664
      白峯寺十三重塔(東塔・花崗岩製1278年)
以上をまとめておきます。

櫃石島の石工集団と白峰寺

①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、
②白峯寺十三重塔基礎の格狭間は、大和にはない特徴であることや頓証寺灯籠、白峯寺周辺の薬師院宝塔、国分寺宝塔などには個性的な形態が見られ、関西地域の石工の一時的な出張製作ではないこと
③櫃石島に、関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、島に定着して製作を担当したこと
④白峯寺の層塔は、初期作品は近江色がつよく、次第に大和色が強くなること。
⑤その後は他地域の要素も混じり合って展開していので、櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団だったこと
④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺や児島五流修験のような宗教団体が考えられる。そのため傘下の寺院や関係寺院だけに、作品を提供したのかもしれない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P
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       白峯寺の十三重石塔(手前が西塔)                                 
白峯寺には特徴のある中世石造物が多いのですが、その中で一番目を引くのが国の重文に指定されているふたつの十三重塔です。
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと従来はされてきました。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その急速な「成長」には、どんな背景があったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三塔の東西の塔比較

東西ふたつの十三重石塔が白峯寺に姿を見せた14世紀前半の讃岐の石造物分布図を見ておきましょう。
白峯寺 讃岐石造物分布図

 天霧産と火山産の石造物と、花崗岩製石造物の分布
上図の中世讃岐の石造物分布図からは次のようなことが分かります。
①火山系凝灰岩で造られた石造物が東讃に分布していること
②弥谷寺を拠点とする天霧系凝灰岩製のものが西讃を中心に分布すること
③白峯寺や宇多津周辺には、讃岐には少ない花崗岩製の石塔(層塔)が集中して見られる「限定スポット」であること。
 この現象を研究者は、次のように説明します。
①白峯寺で最初の造塔は、火山石製・国分寺石製であり、そのモデルは京都府安楽寿院石仏と京都府鞍馬寺宝塔に求められること。
②鎌倉時代中期以前については、観音寺市神恵院宝塔や善通寺先師墓宝塔のように天霧系地域圏に火山石製が分布する。つまり、この時期には天霧系は生産開始されていなかった段階。
 以上から研究者は「鎌倉時代中期以前の讃岐は、火山系の世界であった。天霧系は、後になって登場する」と指摘します。

白峯寺 火山石製五輪塔
白峯寺の初期の火山製五輪塔と伝頓證寺宝塔

それでは関西系の石造物は、いつから白峯寺に登場するのでしょうか?
 白峯寺の最初の造塔は、火山系(国分寺石)石工集団が担当しています。火山石系の地元林田(坂出市)の石工集団は、平安時代には活動を開始していていて、白峯寺の初期段階の石造物整備計画の中心を担っていたと研究者は考えています。
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白峯陵前の層塔(花崗岩製)
例えば、崇徳陵前2基の層塔は、それぞれ花崗岩製と火山石製です。
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白峯陵前の層塔(火山系凝灰岩製)
これはふたつの石工集団が、分け合っての共同作業とも云えます。つまり、火山系の後に登場するのが花崗岩製の関西石工のようです。

  このように、もともと白峰寺のあるエリアは火山石の流通エリアであったところです。そこに、関西系の花崗岩製石造物が姿を現すようになります。
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白峰寺十三重石塔(西塔・弥谷寺天霧石製)

そして14世紀になると天霧石製が白峯寺に登場するようになります。天霧石製の最初の層塔が
東塔の西隣に建てられた十三重塔(1324年)と下乗石(1321年)です。十三重塔は、隣の花崗岩製東塔の模倣です。
白峯寺石造物の製造元変遷
白峯寺石造物の製造元変遷

白峯寺 下乗石(坂出側
白峯寺下乗石(坂出側) 天霧石製で弥谷寺の石工によって制作

下乗石は大和の奈良県談山神社下乗石の模倣と研究者は指摘します。
その他の塔
奈良県談山神社下乗石

弥谷寺を拠点とする天霧系石工集団は、関西系の花崗岩製石造物を模倣しながら14世紀には作風を確立し、その上に自らの個性を加えていったようです。それが十三重石塔(西塔)には集約されているようです。
 生産開始が遅れた天霧石製石造物が急速に販路を伸ばし、白峰方面に進出できたのはなぜでしょうか。
その背景には、13世紀後半から始まる瀬戸内海全域での造塔活動の始まりがあったようです。その流れの中で白峯寺でも層塔が数多く建てられるようになります。その技術を持っていた関西系の花崗岩製や天霧製へも発注がもたらされるようになったと研究者は考えています。
讃岐を2分する天霧系、火山系石造物の境界線は、時期によって次のように変化します。
①13・14世紀の鎌倉・南北朝時代は、坂出・宇多津地域
②15・16世紀の室町時代は、高松東部(山田郡と三木郡の境界付近)
ここからは、天霧系が、火山系の市場を奪って、東に拡大していることがうかがえます。つまり15世紀以降になると、天霧石製の発展と火山石製の衰退が見られるのです。
 天霧石製は14世紀までは、讃岐以外のエリアには、製品を提供することはほとんどありませんでした。ところが15世紀以降になると海運ルートを使って四国・瀬戸内海地方の広域に流通圏を拡大するようになります。 その背景には何があったのでしょうか?
  三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ式内社の大水上神社の境内の真ん中に康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠が立っています。

大水上神社 灯籠
大水上(二宮)神社の灯籠(三豊市高瀬町・天霧石製)
幅の狭い笠部は、白峯寺頓証寺の灯籠とよく似ています。しかし、材質は花崗岩ではなく天霧石です。この灯籠は、弥谷寺の石工が頓證寺灯籠を模倣して作成し、地元の式内社の大水上神社に納めたものと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峯寺頓證寺殿の灯籠 大水上神社のものとよく似ている

このように弥谷寺の石工集団は花崗岩製の模倣(=関西石工の模倣)を行います。それは、層塔、宝医印塔、石仏、宝塔など数多くのもので確認されています。これは弥谷寺石工の白峯寺への造塔活動への参加がきっかけでもたらされた「技術移転」とも云えます。

 天霧石製石造物が伊予や安芸などへの瀬戸内海での広域流通が始まるのは、鎌倉時代後期の14世紀紀前後になってからです。
これは白峯寺で塔が作られるようになるのと、瀬戸内海での広域流通の開始が、同じ時期だったことになります。これを「中世讃岐の石造物流通体制の確立」と呼ぶなら、白峯寺の造塔事業がそのきっかけであったことになります。

 白峯寺の麓の坂出市加茂町・神谷町・林田町・江尻町は、五夜ヶ岳の凝灰岩(=国分寺石)で、宝塔、石憧、石仏などが鎌倉・南北朝時代には多く造られていました。ところが、天霧石製の石造物が白峯寺に姿を見せるようになると、同時期に国分寺石製のシェアに進出し始めます。そして、室町時代になると、白峯以東の地域でも多くの天霧石の石造物が流通するようになります。そして、逆に国分寺石製の石工たちも天霧石製に類似した石造物を製作するようになります。

そして14世紀になると白峯寺の石造物のほとんどは、天霧石製のものになります。天霧石製が市場を制覇したようです。
つまり、関西系の花崗岩製から弥谷寺の石工集団に発注が移動したのです。このため関西系花崗岩製石造物は、白峯寺から姿を消します。
 その一方で衰退していくのが火山系です。14世紀までは紀伊、備前、安芸、伊予までも流通エリアにしていた火山石製は、15世紀以降になると阿波以外ではほとんど見られなくなります。生産・流通体制の変化によって流通圏が急激に縮小しています。これは天霧系に市場を奪われていった結果と推測できます。
白峯寺 讃岐石造物分布図

もういちど天霧系と火山系が讃岐の石造物流通圏を2分しているのを見ておきましょう。
そして今度は、その境界線を探してみます。両流通圏の境界付近に白峯寺があります。これは偶然ではないと研究者は考えています。それほど中世讃岐の石造物の流通圏形成に、白峯寺の造塔事業が与えたインパクトは大きかった証拠と捉えています。

ここまでをまとめておきます。
①もともとは火山系凝灰岩の石造物が讃岐全体で優勢であった
②13世紀後半の層塔建立の流行で、白峯寺にも京都の有力者が石造物を寄進することが増え、関西系花崗岩の層塔が造塔されるようになった。
③これに天霧系も参入し、その流通ルートを白峯寺エリアまで拡大した
④新興勢力の天霧系は、関西系の石造物のスタイルや技術をコピーして自分のものとして急成長をとげた。
⑤そして芸予の瀬戸内海西域方面まで市場エリアを拡大し、関西系や火山系を圧倒するようになった。

ここに関西系の花崗岩製石造物が白峰寺や宇多津などの限られたスポットにだけ残されている背景があるようです。さらに、中世の弥谷寺の隆盛は、このような石工集団の活発な活動によっても支えられていたことがうかがえます。修験者集団と石工集団は、密接な関係にあることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P。」

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図に描かれた三重塔
  白峯寺古図には、次の三つの三重塔が描かれています。
①神谷神社の背後の三重塔
②白峯寺本堂西側の三重塔
③白峰寺本堂の東側の「別所」の三重塔
白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺本堂西側の三重塔(白峯寺古図)

前回は②の本堂西側の発掘調査の結果、塔の遺構が出てきて、中世には三重塔がここにはあったことが確認されたことを見てきました。それでは、③の別所の三重塔はどうなのでしょうか。まずは、白峯寺古図で「別所」の部分を拡大して見てみましょう。
白峯寺 別所拡大図

「別所」をみると、白峯寺から根香寺に向かう参道沿いで、中門と大門の間にあります。参道沿いに鳥居が描かれていて、鳥居をくぐると次のような建物が並んでいます。
①正面に梁間3間×桁行2間、桁行3間の入母屋造りの瓦葺建物
②向かって右側には梁間2間×桁行2間の入母屋造りの瓦葺
③建物②と直行するように瓦葺の建物
④向かって左側には瓦葺の三重塔
⑤三重塔の前に鐘楼
鳥居が描かれているので、正面にある建物は、神仏混合の堂舎のようです。しかし、塔や鐘楼もあるので白峯寺の一つの子院の可能性があります。
「別所」を「浄土宗辞典」で調べると、次のように記されています。
本寺の地域とは別に、修行のためなどに存在する場所。別院。隠遁者や修行者が草庵などを構えて住む場所で、特に平安後期以降、念仏者が好んで別所に住した。所属する寺院にあわせて「○〇別所」などとして用いられる。例えば南都寺院では東大寺の別所として、重源が定めたとされる播磨別所や高野の新別所など七箇所が、興福寺には小田原別所がある。また京都比叡山の別所には西塔黒谷や大原の別所が存在した。別所は念仏信仰とかかわりが深く、播磨別所には浄土寺が、小田原別所には浄瑠璃寺が存在し、ともに念仏信仰の場であった。また比叡山の別所である黒谷からは法然が、大原からは良忍がでている。
また別所は、聖(ひじり)と呼ばれる行者たちとも関係が深く、彼らの存在は民間への念仏信仰の普及の一助になったと考えられている。平安後期頃から見られる別所を中心とした様々な念仏信仰の形成は、日本における浄土教の発展を考える上で重要なものである。
  ここからは別所は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となったとあります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰の念仏聖たちの活動拠点」であった可能性があります。
「白峯山古図」に描かれている「別所」は、どこにあったのでしょうか?
研究者は次のような手順で、位置を確定していきます。
①白峯寺古図の細部の情報読取り
②周辺エリアの詳細測量で、かつて子院や堂宇があった可能性のある平坦地の調査と分布図図作成。
③絵図資料と比較しながら平坦地分布図に、かつて存在した子院や堂宇を落とし込んでいく
白峯寺 境内建物変遷表2
白峯寺境内の平坦地分布図

高屋や神谷村方面からの参道にも大門と中門が描かれていたのは前回に見たとおりです。「別所」周辺にも、「大門」と「中門」があります。
白峯寺 別所5
白峯寺古図 別所の中門付近
まず中門を見ると、周辺に白色の五輪塔が11基が群集するように描かれています。この五輪塔群は、現在の白峯寺の歴代住職の墓地とその背後に凝灰岩製の五輪塔が多数建ち並ぶ墓地周辺だと研究者は推測します。
白峯寺近世墓地3
白峯寺歴代住職の墓地
また、中門より手前(西側)には「下乗」と描かれた白色の石造物があります。ここは白峯寺の境内中心部の建物群が途切れる所になります。ここからは、中門は白峯寺の墓地あたりであることが裏付けられます。
白峯寺下乗碑
下乗碑
「大門」について見てみると、「大門」と注記された左下方に「昆沙門嶽」と書かれています。
「昆沙門嶽」は、現在の白峯寺の奥の院です。奥の院毘沙門窟への分岐点に大門はあったことになります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」でもあります。
P1150814
白峯寺奥の院毘沙門窟への分岐点

この推察に基づいて、研究者は「中門」と「大門」の間を踏査します。その結果、10m×10m程度の平坦地や20m×15m程度の平坦地が7か所集中している場所を発見します。平坦地の中には、礎石と考えられる石材の散布する地点を2ヶ所見つけます。この場所をトレンチ調査した結果を、次のように報告しています。要約
白峯寺別所三重塔基壇跡
白峯寺別所の三重塔基壇
 別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。建物規模は2×3間と推定される。

白峯寺 別所拡大図

先ほど見たように「白峯山古図」の「別所」には、左に三重塔、右に入母屋造りの瓦葺建物が描かれていました。これは、発掘調査の結果とぴったりと合います。ここからは以下のことが云えます。
①「白峯山古図」に描かれている建物の存在が発掘調査で証明されたこと、
②出土遺物からこれらの建物は、使用瓦から15世紀前半を中心と時期のものであること
白峯寺 別所仏塔出土物
白峯寺別所 仏塔の出土遺物

ここまでで私に理解できたのは、白峯寺の伽藍は中世においては現在よりも遙かに広かったということです。研究者は、白峰寺の伽藍を上図の3つのエリアに分けて考えているようです。

白峯寺 伽藍3分割エリア図
中世白峯寺の3つの伽藍配置図
A地区 現在の白峯寺境内を中心として、稚児川を挟み平坦地が確認できる地区
B地区 A地区の奥に広がる傾斜の緩やかな地区、別所地区
C地区、B地区の奥の古田地区   現自衛隊の野外施設周辺
今まではA地区だけを、私は白峯寺の伽藍と考えていました。しかし、白峯寺古図が教えてくれたことは、「別所」と呼ばれるB地区があったこと、そこには本堂と同じように三重塔を持った宗教施設があり、そこが修験者や念仏阿弥陀聖の活動拠点であったことです。
「解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)

 また、発掘調査した次の3ヶ所からは、白峯寺古図に書かれていたとおりのものが出てきたことになります。
①本堂西側16世紀の三重塔跡
②本堂東側16世紀の洞林院跡
③別所の三重塔
 ここからは、白峯寺古図に書かれた絵図情報が極めて正確なことが改めて実証されたことになります。絵図上に書かれた大門や中門なども実在した可能性が高くなりました。

最後に地図で別所を確認しておきます。
白峯寺 別所3

本坊から現在の四国の道「根香寺道」をたどって登っていきます。この参道沿いの両側にも平坦地が並び、かつての子院跡があったようです。摩尼輪塔と下乗石の上の窪みが池之宮になります。反対側が白峰寺の墓地で、この辺りに中門があったことになります。
白峯寺 別所周辺地図
白峯寺別所への道

笠塔婆/下乗碑を経て、左に白峯山墓地、右に池之宮跡の凹地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)があり、ここには石仏が見守っています。
白峯寺遍路道 別所分岐点
白峯寺別所へのT字路
石仏背後の平坦地の右奥が別所跡になるようです。しかし、発掘調査後に埋め戻されたようで、仏堂や塔跡などを示すものは何もありません。どの平坦地が塔跡なのかも分かりません。ただこの辺りに、三重塔をともなう寺院があり、行場である毘沙門窟と、五色台の岬先端の海の行場を結ぶ「行道」を繰り返していたのかもしれません。また、後にはここを拠点に高野聖たちが阿弥陀・念仏信仰を里の郷村に布教していたのかも知れません。どちらにしても多くの行者や聖たちのいた別所は、いまは礎石らしい石がぽつんぼつんと散在するのみです。
白峯寺へんろ道石仏
白峯寺別所跡を見守る石仏たち
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平成23年度白峯寺別所の調査 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」

白峯寺には、江戸時代初期に描かれた「白峯山古図」があります。
この古図にについては、白峰寺の本坊洞林院の正当性を主張するために江戸時代になって中世の白峯寺景観を描いたものであることは、以前にお話ししました。しかし、具体的に何が描かれているかについては、詳しくは触れていませんでした。そんな中で「絵解き」をやって欲しいとのリクエストを受けたのでやってみようと思います。テキストは「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図は、縦92㎝、横127㎝の紙本著色で、白峯寺周辺の建物や周辺寺社の名称が注記されます。まずはそこに描かれている範囲を押さえておきます。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図
A 山麓の高屋村にある「崇徳天皇」(現高屋神社)
B 神谷村にある「神谷明神」 背後に三重塔
C 綾川沿いにある「雲井御所」
D 綾川の上流にあり崇徳上皇の御所があったと伝えのある「鼓岡」
E 青海集落の北側の峯の馬頭院(現来峯神社)
   白峯寺を中央にして、白峯寺と崇徳上皇に関係の深い場所が描かれています。ここで気になるのは、Eの馬頭院です。この子院がどうして描き込まれているのかは研究者にとっても疑問のようです。理由がわからなのです。これにはここでは、深入りしないで前に進みます。
 もうひとつの疑問は、山上の伽藍景観です。
本堂の左(西)と、すこし離れた右(東)にふたつの塔が見えます。西の塔は現在の阿弥陀堂の後ろ辺りだと検討がつきますが、東の塔については、いったいどこにあったのか検討もつきません。また、現在は本坊となって境内の入口にある洞林院が、本堂の東側の石垣の上に描かれています。これだけを押さえて、先に進みます。

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部)

それでは、「崇徳天王」(現高屋神社)から参道を古図に従って登っていきます。
高屋村から尾根の稜線上にやや蛇行しながら参詣道が延びて①下乗と記した白い五輪塔石碑があります。これは現在の県道五色台線からの白峯寺への入口広場にある「下乗碑」とは別物のようです。現在のものは五輪塔ではありませんし、江戸時代初期のものではありません。

P1150792
現在の下乗碑(白峰展望台)
 ②の大門が現在の白峰展望台がある所で、「西の坊跡」とされているようです。ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。ここから稚児川の谷間に開けた白峯寺中央部へ下って行きます。中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つの十三重石塔です。

P1150655
白峰寺の十三重石塔(重文)
ふたつの石塔は、次の通りです。

東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿から運ばれたもので頼朝寄進と伝えられています。
西塔が凝灰岩製で、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺で採石された石が使用されています。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、鎌倉時代に建立された讃岐では非常に貴重な石造物です。
  ここには「阿弥陀堂」とあるので、高野聖や念仏聖などの聖集団が阿弥陀信仰を広げる拠点だったことがうかがえます。ここが退転した後に、現在の本堂の西に移ってきたのかもしれません。

さらに進むと、白くしぶきをあげて流れる稚児川が、稚児の瀧となって流れ落ちています。
実際には稚児川は谷間の小川で、大雨が降らないと稚児の瀧が現れることはありません。幻の瀧です。しかし、ここが古代からの山林修行者にとっては、行場であり、聖地でした。白峯寺の源は、この瀧にあったと当時の人たちも認識していたことがうかがえます。瀧を印象づけるために、デフォルメされています。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
 稚児川にはアーチ状の木橋(?)が掛っていています。
橋を渡りると頓證寺の勅額門の前に出ます。ここから階段を登って経蔵、御影堂を経て、本堂の前に出ます。これは現在の参道とは違っています。現在は稚児川を渡る橋は、駐車場前の本坊の前に架かっていて、そこから国の重文に指定された七棟門をくぐって本坊(洞林院)前から境内に入ります。つまり境内への入口(橋)の変更があったようです。

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峯寺 四国遍礼名所図会(1800年)

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の絵図を見てみると、門(七棟門)から護摩堂に突き当たり、左折し、直進すると勅額門に、この勅額門の手前を右折し、石段を真っ直ぐ登って本堂に至ります。その途中の石段には、現在薬師堂があるところに「経蔵」、行者堂に「御影堂」が描かれています。

白峯寺 建物変遷表
白峯寺 境内建物位置変遷表

 上図を見ると、本堂の位置は、近世のどの絵図も現在とかわりないようです。

白峯寺古図 本堂と三重塔

本堂周辺で気になるのは、左側(西)に隣接して建つように描かれている三重塔です。
 調査対象地は背後には「経塚」と呼ばれている二段集成で、円形に構築された石組があります。その前の平坦地には「白峯山古図」では、三重塔が描かれていますが、四国遍礼霊場記(1689)年にはありません。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
四国遍礼霊場記(1689) ここには東西の三重塔は描かれていない。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)にも、三重塔はなく、そこには大師堂が描かれています。そのためここに三重塔があったのか、大師堂があったのかを確認するために調査が行われました。調査結果は次の通りです。(要約)
 トレンチ調査からは、整地土で成形された一辺約11mの基壇状の平坦面が出てきた。ほとんど礎石は残っていないものの礎石抜き取り穴から3×3間(5,4×5,5m)の礎石建物跡があったことが確認できまる。また礎石・礎石抜き取り穴列の内側にも礎石があったこともわかり、総柱建物の可能性がある。出土遺物は、瓦当面に巴文を持つ九瓦、凸面に縄日、凹面に布目を持つ平瓦などの古代末の瓦も出土しているが、ほとんどは近世以降の瓦・陶磁器である。

siramine21):三重塔跡・西外側基壇
三重塔跡周辺  
以上から、3間×3間の建物であったこと、内側にも礎石を持っていることから、塔の可能性が高いと研究者は考えています。そうすると「白峯山古図」に書かれたように、ここには三重塔が建っていたことになります。白峰山古図に書かれていることが正確で、信頼が出来ることになります。この古図が中世のことを伝えている貴重な絵図であると評価は高まりました。
  本堂周辺で今と大きく違うもう一つの点は、本堂東側に描かれ、洞林院と注記された建物です。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺古図に描かれた洞林院

「洞林院」跡も地形測量の結果、南北約72m、東西約17mの長方形の平坦地(約335㎡)と、そこにつながる幅約2mの小路が確認されました。これを「白峯山古図」と比較すると平坦地西側で確認できる高さ約5m前後の石垣や本堂・山王七社との位置関係から「白峯山古図」に描かれている「洞林院」と一致します。また、その東側と西側でも幅5mほどの細長い平坦地が見つかっています。これが洞林院の石垣下に描かれている本堂から洞林院下→下乗石→中門→大門に延びる参道のようです。ここでも確認のためのトレンチ調査が10年ほど前に行われ、報告書には次のように記されています。(要約)
①礎石や柱穴を確認しできたがレンチ調査のため、建物の大きさについては分からない。
②時期については、整地土から焼土・炭とともに16世紀後半の土師器小皿・土師質上鍋、備前焼すり鉢、中国産の輸入白磁などがでてきたので、16世紀後半以降に整地されたこと
③これら土器類とともに、焼土・炭・被熱を受けた壁土が出土していること
④遺構には、礎石と素掘りの柱穴があるので、礎石建物と掘立建物の2棟あったこと
その規模確定や「白峯山古図」に描かれている「洞林院」であると確定する資料は出ていないようですが、その可能性は高いと研究者は考えています。
  ⑤の焼土痕跡は、このエリアが16世紀後半に火災にあい、建物が焼失したことを窺わせるものです。洞林院が戦国末期の兵火を受けたことがうかがえます。中世に大きな力を持つようになった洞林院は、一時的に退転し、近世になって院主別名のもとで復興したとされますが、それを裏付ける内容です。
白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内の子院や堂宇跡
    以上をまとめておきます
①白峯寺古図は、中世白峰寺の景観を江戸時代初期になって描かれた絵図だとされる。
②描かれた内容については、現在の本坊となっている洞林院の由緒や正当性を視覚的に感じさせる内容であり、その視点に立ったデフォルメがされていると研究者は考えている。
③描かれた空間は広く、神谷神社や鼓ヶ丘など、崇徳上皇と関係のある寺社が周辺部には描かれている。
④中央部には白峰寺が描かれているが、高屋神社や神谷神社からの参道には大門・中門が見え、ここからが寺域だとするとかなり広大なエリアになる。
⑤現在の国重文で二基の十三重石塔周辺には、阿弥陀堂や金堂が描かれ、ここにも高野聖などの念仏僧が拠点としてたことがうかがえる。
⑥現在の白峯寺伽藍への入口は、本坊(洞林院)前であるが、この古図では勅額門前に橋がかかって、真っ直ぐに本堂に石段が続いている。江戸時代になって、洞林院が現在地に下りてきた際に参道付け替えられたようだ。
⑦白峯寺古図に本堂西側に描かれた三重塔は、発掘調査の結果、実在が確認された。
⑧本堂東側に描かれた洞林院も発掘調査の結果、16世紀後半の遺物や火災跡が見つかり、ここが洞林院跡である可能性が高くなった。
以上のように白峯寺古図は、江戸時代初期に書かれたものではあるが、中世の白峯寺伽藍をある程度性格に描いた絵図資料であると云える。

次回は、本堂から東に伸びる根香寺道沿いにある「別所」の三重塔について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
   「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」
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白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
P1150681
頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺古図 地名入り
江戸時代になって中世の白峯寺の姿を描いた「白峯山古図」

前回は、中世の白峯寺には行人(行者)たちが拠点とする多数の子院があったことを見てきました。白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次の21の坊があったと記します。
持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

この子院の中で、台頭してくるのが洞林院です。
洞林院が台頭してきたのは、どんな背景があったのでしょうか。
今回はそれを見て行きたいと思います。テキストは、「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰寺古図拡大版(部分)
洞林院が最初に史料に登場するのは『親長卿記』の文明4年(1472)の記事で、次のように記されています。
○六月廿日条
(前略)白峯寺文書紛失、可申請 勅裁之由奏聞、勅許、
○六月十二日条
(前略)白峯寺住僧、洞林院僧都、同中 勅裁、有御不審事子細今日奏聞也、於洞林院分者雖不被成、
白峯寺同事歎之由有仰、之(申ヵ)子細了、
○六月廿三日条
(前略)洞林院中 勅裁事、典白峯寺院領各別之旨中之、然者可被成 勅裁云々、同仰元長令書遣之、
意訳変換しておくと
○六月廿日条 (前略)白峯寺が文書を紛失し、その再発行を申請し、勅裁を得た
○六月十二日条
 白峯寺住僧からの文書再発行申請にについて、洞林院僧都から「この土地には洞林院分寺領が含まれている」との異議があり、その子細が提出された。
○六月廿三日条
(前略)洞林院の申し出を受けて、白峯寺院領と洞林院領とはそれぞれ別に扱われることになった。同仰元長令書遣之、

ここからは次のようなことが分かります。
①当時の洞林院には、僧官を有した「洞林院僧都」がいたこと、
②洞林院には院領があり、これについて「洞林院僧都」が自ら主張するだけの実力をもっていたこと
③洞林院は、15世紀後半の室町時代の白峯寺における有力な子院であったこと
戦国期以降、洞林院は文書にも登場するようになりますが、それらの文書は後世の写しで、慎重に検討しなければならないと坂出市史は指摘します。
例えば白峯寺に古来より大切に伝存してきた古文書の中に「白峯寺崇徳院政所下文」永正11(1515)年があります。
この下文の発給者は、洞林院代の宗円です。彼は洞林院の住持で、白峰寺の院家代表の立場にもありました。後に洞林院は、白峰寺の院号とされ、綾松山洞林院白峯寺と公称されるようになります。下文の内容を要約すると次のようになります。
①白峯寺が永正11(1515)年に崇徳院という院号を使用して、白峰寺の寺僧に少僧都職を与えていること
②具体的には白峯寺のトツプの洞林院代宗円が、同じ白峯寺の僧権律師秀和に少僧都という僧官の職位を与えたこと。
③しかも「国宜承知敢勿違失」と讃岐国中に号令をかけていること。
 ①律令体制下では僧正・僧都・律師などの僧官は、朝廷(玄蕃寮)に任命権がありました。中央政府が任命していたのです。それが鎌倉時代には、売官も行われるなど権威も通俗化していく中で、仏教各宗派の勢力維持・拡張のために各宗派が独自に僧位を任命するようなります。②ここでは洞林院代宗円が、白峯寺の僧権律師秀和に少僧都の僧位を与えています。ここからは、白峰寺よりも洞林院の方が高い立場にあることを伝える内容です。
一方、白峰寺も「白峯寺崇徳院政所」という名で身内の僧侶を少僧都職に任じています。
崇徳院という院号は、あくまで崇徳という天皇一人に追贈された院号であって、崇徳院政所という家政機関が存在したことはありえません。それを重々承知した上で発給したものと研究者は考えています。分かっていてありもしない機関名を名乗っているということです。ここに当時の白峰寺の権勢の強さや高圧ぶりを感じます。こうなると、白峰寺と洞林院の関係は分からなくなります。
 応永19(1413)年の北野社一切経書写に参画した増吽は、当時「讃州崇徳院住僧」と自らの肩書きを記しています。これは崇徳院御影堂のことで、白峰寺全体の住持ではないようです。
 この他にも「白峯寺崇徳院政所下文」は様式や内容からみて疑問が残る文書だと研究者は考えています。後世に洞林院や白峯寺の権威を高めるためにつくられた偽書だと云うのです。この文書の内容は、白峰寺ではなく洞林院が頓證寺の寺務を掌握していたと主張しています。白峰寺よりも洞林院の方が優位な立場にあったという結論に導く意図が見え隠れします。

白峯寺 別所
白峰寺古図 本堂の東側稜線上には多くの子院が描かれている

「建長年中当山勤行役定」(建長年中(1249~56)は、白峯寺の勤行等について後世にまとめたものです。
その末尾に「再興洞林院代 阿閣梨宋有」とあります。「再興洞林院」とあるので、ここからは洞林院が一度退転した後に再興されていたことが分かります。この文書は年紀がないので、洞林院がいつ再興されたかは分かりません。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

讃岐国名勝図会の白峰寺
それを埋めてくれるのが『讃岐国名勝図会』です。この図会の「頓證寺」の項には、宝物の「大鼓筒」の書上げとして、次のように記されています。

大鼓筒(往古鼓楼大鼓と云ふ、筒内銘あり、「讃州白峯寺千手院常什物也、永禄十年丁卯卯月十四日、作岡之坊宗林、書料当寺院主宗政弟子生年丹五歳、再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有、天正八庚辰年三月十八日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

意訳変換しておくと
(頓證寺の宝物に大鼓筒(往古鼓楼大鼓)があり、その筒内には次のような銘がある。
「これは讃岐の白峯寺千手院の宝物である。永禄十(1567)年4月14日、岡之坊宗林が作り、書は当寺の院主宗政の弟子生年が担当した。洞林院を再興した宝積院阿閣梨宋有、天正8(1580)年3月18日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

ここからは、次のようなことが分かります。
①「再興洞林院代 阿閣梨宋有」が宝積院の宋有のことであること
②天正8年(1580)以前には、洞林院が再興されていたこと
以上からは、洞林院は戦国末期において衰退した時期があり、16世紀後半の戦国時代に再興されたことが分かります。洞林院を再興するにあたって、由緒となる史料が作成・整理されたのでしょう。その一つが「白峯寺崇徳院政所下文」ではないかと研究者は考えています。

白峯寺古図 別所拡大図
白峰寺古図 別所拡大図
以上を裏付けるものとして、研究者は次の史料を挙げます。
①戦国期における白峯寺の記録「恒例八講人数帳」が、天正6年を最後に記事が見えなくなること、
②白峯寺の記録「恒例如法経結番帳」も、天正8年を最後に記事が見えなくなること
これは、両記録は天正8年をさほど下らない時期に、洞林院の再興にあわせて作成されたためと研究者は考えています。
③慶長9年(1604)の棟札には、次のように記されていること。

再興千手院一宇並御厨子大願主洞林院大阿閣梨別名尊師」

ここには本堂・千手院の再興願主が洞林院になっています。
白峰寺院主に代わって、洞林院が台頭していたことがうかがえます。これ以降、諸堂棟札の多くに洞林院の名が見えるようになります。寺院運営において洞林院が中心的な役割を担ったことが推察できます。
慶長9年まで姿を消していた千手院の再興を担ったと考えられるのが、棟札にみえる洞林院の「大阿闍梨別名」です。別名について慶長6年4月6日と13日の文書に次のように記されています。
【史料1】生駒一正寄進状32
白峯之為寺領、山林竹木青海村五拾石、一色二進帶可有者也、
慶六 卯月六                  (花押)
別名
〔史料1】は生駒一正が白峯寺へ青海村の50石を寺領として寄進し、山林竹木の進退を認めたことを別名坊に伝えたものです。 花押だけで一正の署名はありません。ここからは、生駒一正の保護を別名が受けていることが分かります。
次からの【史料2】【史料3】【史料4】は、東京大学史料編纂所架蔵の影写本からのもので、これまでに紹介されていなかった史料で、坂出市史が初めて紹介するもののようです。
【史料2】佐藤掃部助書状鮨
已上
白峯寺院主被仰付候上、御知行方同寺物何も如先々御居住在之候、此旨、我等より申入候へとの御詑候、為後日如件、
慶六  卯月六日       佐藤掃部 (花押)                       
  白峯寺院主 別名尊師 尊床下
意訳翻訳しておくと
白峯寺に次のことを仰せつける。すでに寄進した御知行方(寺領)や寺の運営管理権についてもこれまで通り認めるとの沙汰が(生駒一正様より)あったので、私(佐藤掃部助)から連絡する。
【史料2】をみると、末尾宛先に「白峯寺院主別名尊師」とあります。ここからは別名が白峯寺院主であったことが分かります。そして生駒一正は、寺領の寄進と同時に、これまで通り別名を院主として認め、寺領の知行や寺物の管理を行うよう、有力家臣である佐藤掃部助を通じて命じています。
史料3 佐藤掃部助書状34
己上
しろミね山中はやし卜大門卜申内、谷中竹木一切令停止候以来少も伐取候者きゝ立次第可成御成敗候、近日殿様御判可給候へ共、御上洛之事候間、御下向次第御判可給候、猶寺中坊主中以上二可被申候、恐々謹言
慶六 卯月十三日             掃部 (花押)
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
意訳変換しておくと
己上
白峰山中の大門内側の谷中の竹木については、一切の伐採禁止を命じていがこれを守らずに伐採するものがいる。今後は、見つけ次第に成敗する。(生駒一正)殿様が御判断することではあるが、今は、上洛中で不在であるので、帰国次第に判断を仰ぐ次第である。なお白峰の寺中の坊主たちにも以下のことは連絡済みである。、恐々謹言
慶六                佐藤掃部(花押)
卯月十三日                     
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
【史料3】からわかることは
①先ほども出てきた生駒藩の重臣佐藤掃部助が白峯山中の林中の「大門」から内の「谷中」での、竹木の刈り取りの停止を再度確認し、順守することを命じている。
②あて先は周辺の村の有力者4名になっている。
③「(白峰)寺中坊主中以上二可被申候」とあり、白峰寺や洞林院の名前は出てこない。
④寺中坊主中とは、白峰全体の子院を指しているように思えること
この文書が出された背景を推測すると次のようになります。
従来から白峰寺山中や大門の内側に里の村々の人々が入り込んで、木材や下草の伐採や採取を行っていた。それに対して、白峰寺の方から宗教的な聖地であるので禁足地としてほしいという要望が生駒藩に出さた。それを受けて生駒藩は出入禁止令を出すが、村人はそれを守ろうとしない。そこで再度、白峰寺から厳禁令を出してほしい請願があった。それを受けて、禁足地へ入るものは成敗するという厳禁令が村々の指導者に出された。

【史料4】佐藤掃部助書状,35
己上
御寺五拾石之百姓郡役外二何二も一切公事仕間敷候、少も仕候者、其百姓曲事二可仕者也、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
しろミね寺
百姓中
意訳変換しておくと
己上
白峰寺の50石の寺領内の百姓については、郡役以外には一切の公事を負担させないので、百姓の一切の紛争を禁止する、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
白峰寺
百姓中

ここでは、白峯寺領の百姓に特権を与えるとともに、一切の紛争の禁上を命じています。
この他にも、年未詳の文書ながら、宛先を別名とするものが2通あります。この中で研究者が注目するのは[三左馬書状]の宛先が「松之別名様」となっていることです。「松之」とは、元禄8年(1695)の白峯寺末寺荒地書上に出てくる「松之坊」のことのようです。そうだとすると別名は、もともとは松之坊を拠点に活動していた僧侶で、その後に洞林院に移ったことがうかがえます。または、松之坊が、洞林院を継承した子院だった可能性もあります。
 以上のような文書からは、次のようなことが分かります。
①慶長6年に生駒一正が白峯寺の別名に対して寺領の寄進など保護を加えていたこと
②この時期の白峯寺では本堂・千手院の再興といった大きな課題に直面していたこと
③一正の有力家臣・佐藤掃部助が白峯寺院主の洞林院別名とともにその再興を図ろうとしたこと
④洞林院の別名は、院主の正当性を一正に保障されることにより、さらに強固にしたこと
その後の慶長9(1604)年に、佐藤掃部助と洞林院別名の手によって千手院の再興が実現します。このことを記す棟札には周辺地域の人々の名前も見え、多くの人々の勧進奉加があったことがうかがえます。さらに3年後の慶長12年には観音堂造立のため、讃岐11の郡から計53石の勧進を行うことが白峯寺に伝えられています。研究者が注目するのは、この段階で生駒藩の主導による勧進・造営体制へと変化していることです。それが可能となったのは、生駒氏が院主洞林院を直接的に掌握していたことが背景にあると研究者は考えています。そのキーマンが別名だったようです。別名は生駒氏の支援を受けながら地域有力者も巻き込み、白峯寺の観音堂造立の勧進を成功させます。これは民衆に生駒氏をあらたな公権力として、印象づけるには格好のモニュメントにもなります。生駒藩は治世安定を目に見える形で示すために、有力寺社を保護支援して堂宇の再興を行っていました。白峰寺だけではなかったのです。金毘羅大権現も弥谷寺も伽藍整備が行われていました。このような中で白峯寺の観音堂勧進に見せた勧進手腕を見て、生駒藩は別名に弥谷寺を兼帯させたと私は考えています。
 こうして生駒藩からの強い信頼を得て、観音堂(本堂)復興を成し遂げた別名の山内での力は大きくなります。同時に、洞林院は他の子院を圧倒するようになります。洞林院の復興とその後の成長は別名の力に依るところが多いとしておきます。

元禄2年(1689)に、寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図を見てみましょう。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
白峰寺 四国遍礼霊場記(1689年)
上図の左ページの建物配置は、太子堂が現在地に移動した以外には大きな変化はないようです。右ページからは次のようなことが分かります。
①現在の本坊には円福寺があり、洞林院は本堂の東側にあったこと。
②洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったこと


次に江戸時代になって中世の白峯寺境内を描いたとされる「白峰寺古図」を見てみましょう。
白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図
中世の白峰山を描いたというこの絵に描かれるのは洞林院だけです。伽藍の間には数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかに「格差」が付けられています。研究者は次のように述べています。
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵の作成意図には、次のようなねらいがあったと研究者は指摘します。
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
さらに推察を加えるとすれば、そのような主張が必要であった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? 
  洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したことは見えてきたとおりです。その際に、洞林院の由緒を示すための文書や絵図が作成されたようです。白峯寺古図には、復興された洞林院の「由緒」を見る人に視覚的にイメージさせる力があります。制作意図もその辺にありそうです。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:

金毘羅参詣名所図会(1847年)道林寺(洞林院)が白峰寺本坊として現在地に描かれている。その奧には明治まであった子院がいくつか見える

以上をまとめておきます。
①中世に21あった子院の内で、洞林院は15世紀後半には白峰寺に肩を並べる大きな存在となっていた。
②しかし、その後の戦乱の中で洞林院は一時的に退転した
③それが復興されるのが16世紀末のことである。
④洞林院院主別名は、生駒藩の支援を受け白峯寺観音堂(本堂)の再建勧進を行い、藩主の信頼を得た
⑤別名は、弥谷寺の兼帯をまかされ、その復興勧進活動にも関わることなる。
⑥藩主生駒一正の信頼を得た別名の山内での権勢は高まり、同時に洞林院の力も大きくなった。
⑦以後近世は、洞林院を中心に白峯寺は運営されていくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。」
参考文献
  上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会
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P1150700
白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

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白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
P1150702
白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。

白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
 ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと
②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
 中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。

白峯寺古図拡大1
白峯山古図(部分)

聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。

白峯寺 別所
白峰山古図に描かれた別所 
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
 戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。

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白峯寺の「別所」の現在位置
 歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。
讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。

中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
 文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
 このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
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白峯寺行者堂
 白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。

持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」

意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。

ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
 また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。

以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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木屋平村絵図1
木屋平分間村絵図の森遠名エリア

前回は、「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリアを見てみました。そこには中世の木屋平氏が近世には松家氏と名前を変えながらも、森遠名を拓き集落を形成してきたプロセスが見えてきました。今回は、この地図に描かれた修験道関係の「宗教施設」を追っていきたいと思います。この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。この絵図の面白い所は、それだけではありません。村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 これらの①~⑤の「異界への入口」が、「木屋平分間村絵図」には数多く描かれているのです。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを研究者は、次の一覧表にまとめています。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。

描かれた巨石(磐座)の中で名前のつけられたもの挙げてみると次のようになります。
①三ッ木村葛尾名の「畳石(870m)」(美馬郡半平村境付近),
②南開名の「龍ノ口」(穴吹川左岸),
③川井村大北名の「雨行(あまぎょう)山(925m)」の頂直下の「大師ノ岩屋」・「香合ノ谷」・「護摩檀」
④名西郡上分上山村境の「穀敷石(950m)
⑤木屋平村の「谷口カゲ」の「権現休石(410m)」
⑥那賀郡川成村境の「塔ノ石(1,487m)」
⑦美馬郡一宇村境の「ヨビ石(881m)」
⑧剣山修験の行場である「垢離掻川(750m)」北の「鏡石(910m)」
 これは異界への入口でもあり、修験行場の可能性が高いと研究者は考えています。
ここでは③の天行山の大師の岩屋を見ておきましょう。
木屋平 天行山
天行山(大師の岩屋や護摩壇などかつての行場) 
川井トンネルから北西に天行山(925m)があります。
木屋平天行山入口

この山腹の岩場に「大師ノ岩屋」・「護摩檀」・「香合ノ岩」などの行場が描かれています。そして絵図では「雨行大権現」が天行山頂に鎮座しています。現在は「雨行大権現」は、頂上ではなく、「大師ノ岩屋」の上方にあり,地元では「大師庵」と呼ばれているようです。
木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
天行山の大師の岩屋
明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。
「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ此檀ニ護摩ヲ修業シ岩窟ノ悪蛇を除シタリ土人之ヲ大師檀ト称ス」

意訳変換しておくと
「大師檀は、川井村東方の大北の雨(天)行山にある。人が30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。かつて僧空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。そのため地元では大師檀と呼ばれている。

弘法大師伝説と結びつけられていますが、ここが行者たちの行場であったことがうかがえます。
木屋平 天行山の石段
大師の岩屋への石段 「大師一夜建鉄立の石段」
大師の岩屋には「大師一夜建鉄立の石段」と伝わる結晶片岩でできた急な石段が続いています。頂上直下の岩屋に下りていくと岩にへばりつくように大師庵が見えてきます。
木屋平 大師庵
天行山窟大師

「護摩檀」の横には、「大日如来」像が鎮座します。その台座には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。台座に刻まれた集落名と人をみると,世話人の川井村5人をはじめ,三ッ木村4人,大北名3人,管蔵名1人,今丸名13人,市初名(三ッ木村)1人,上分上山村9人,下分上山村3人,不明2人の41人で,近隣の村人の人たちが中心になって建立されたことが分かります。

木屋平 天行山3

 「大日如来」像の横には「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設大施主當山中與開基大法師清海」と刻まれた33体の観世音像が鎮座しています。ここからは、この岩場は「修験の行場 + 周辺の村人の尊崇の対象となった民間信仰」が複合した「宗教施設」と研究者は推測します。これを計画し、勧進したのは修験者だったことが考えられます。かつては、雨行大権現として頂上に祀られていたお堂は、今は窟大師として太子伝説に接ぎ木されて、大師の岩屋に移されているようです。
 このような「行場+民間信仰」の場が木屋平周辺にはいくつも見られます。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
三ツ木村と川井村の「宗教施設」
次に権現を見ていきます。修験者たちは、仏や菩薩が衆生を救うために権(かり)に姿をあらわしたものを「権現」と呼びました。
絵図に権現と記されている所を挙げると次のようになります。
⑨木屋平村と一宇村境の「杖立権現(1,048m)」
⑩三ッ木村と半平村の境の「アザミ権現(1,138m)」
⑪東宮山(1,091m)西斜面の「杖立権現」
⑫川井村と上分上山村境の「雨行大権現」と「富貴権現(970m)」
⑬三ッ木村・川井村境の「城之丸大権現(1,060m)」
⑭岩倉村境の霊場「一ノ森(1,879m)」の「経塚大権現」・「二森大権現」,
⑮剣山山頂(1,955m)にある「宝蔵石権現」
⑯木屋平側の行場にある「古剣大権現(1,720m)」
⑰祖谷山側にある「大篠剣大権現(1,810m)」
⑱丸笹山頂付近の「権現(1,580m)」
⑲川井村麻衣名の「蔵王権現(現麻衣神社,600m)」
木屋平 宗教的概観
木屋平村西部の「宗教施設」
地図で位置を確認すると分かるように、隣村と境をなす聖なる霊山に多く鎮座しているのが分かります。これらの権現を繋ぐと霊山を繋ぐ権現スカイラインが見えてきます。天上の道を、修験者たちは権現を結んで「行道」していたことがうかがえます。「権現」は、剣山修験の霊場や行場に鎮座しているようです。
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
旧龍光寺(木屋平谷口)
 中世以来、木屋平周辺の行場の拠点となっていたのが木屋平村谷口にある龍光寺だったようです。
 龍光寺はもともとは長福寺と呼ばれ、忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山の高越寺の名門としての地位は存続していたようです。
 長福寺(龍光寺)は、木屋平を取り巻く行場の管理権を握っていました。それは剣山の山頂近くにある剣神社の管理権も含んでいました。しかし、近世初頭までの剣山は著名な霊山や行場とは見られていなかったようです。高越山などに比べると霊山としての知名度も低く、プロの修験者が檀那から依頼されて代参する山にも入っていません。
  近世になると長福寺は、それまでは「一の森とか、立石、こざさ権現、太郎ぎゅう」と呼ばれていた山を「剣山」というキラキラネームに換えて、一大霊場として売り出す戦略に出ます。同時に、寺名も長福寺から龍光寺へと変えます。そして、「剣山開発プロジェクト」を勧めていきます。そのために取り組んだのが、受けいれ施設の整備です。それが絵図には、下図のように記されています。

木屋平 富士の池両剣神社
 富士の池坊と両剣前神社
  龍光寺は、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作ります。登山客が頂上の剱祠でご来光を見るためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を藤の池に造営し、寺が別当となります。これは「頂上へのベースーキャンプ」であり、これで頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、山伏たちが先達となって多くの信者たちを引き連れてやって来るようになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
  この結果、藤の池までの穴吹川沿いのルートや剣山周辺行場だけに多くの信者が集中するようになります。それでも、それまで行場として使われていた巨石(磐座)や権現は、修験者たちによって使われ続けたようです。それが19世紀初頭に書かれた村絵図に、巨石(磐座)や権現として描き込まれていると私は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

松家氏のルーツ2:真説!木屋平氏から松家氏へ
旧木屋平村
木屋平(こやだいら)は穴吹川の最上流に位置し、霊山剣山の山岳修行の拠点となった龍光寺のあった所です。
文化9年(1812)に作成された村絵図の写しが旧役場から近年発見されています。この麻植郡木屋平村分間絵図には、剣山周辺の宗教施設や,剣山修験の霊場等が精密に描かれています。また、19世紀初頭の集落の様子も見えてきます。今回はこれを見ていこうと思います。テキストは「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年p.171-182)」です。
木屋平 森遠
対岸から見た森藤(遠)名

中世に森藤城があった森遠(もりとう)名周辺を見てみましょう。
「名」は中世起源の集落のことで、山村集落を示す歴史的な地名です。ほとんどの地域では、もはや使われなくなった「名」が、19世紀初頭には日常的に使われていたことが分かります。

木屋平 森藤2
木屋平森藤名の正八幡神社
森藤名は、剣山に源をもつ穴吹川が西から東に流れ下っていきます。それに沿って整備された国道438号が谷筋を東西に走り抜けています。その剣山に向かって開けた南斜面に、氏神の「正八幡宮」が鎮座します。ここは中世には森藤城があったところです。

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森藤八幡神社の鎮守の森

この神社の北側には、石垣と門や白壁の土蔵と母屋を持つ家が建っています。これが中世からのこの地域の土豪名主で,木屋平一帯を支配した「オヤシキ」と呼ばれた「松家(まつか)家」です。中世山岳武士「木屋平氏」の子孫と云うことになるのでしょう。

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八幡神社鳥居への山道
松家氏=木屋平家も平家落人伝説を持つようです。
美馬市(旧木屋平村)のホームページには、次のように記されています。
これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経・平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。

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木屋平森遠の八幡神社境内と拝殿
森遠周辺は、緩やかな傾斜地や窪地が広がります。
また南向きで日照条件もいい上に、清水が湧く湧水も何カ所かあり、小谷も流れています。入植者なら真っ先に居住する好条件の場所と研究者は考えています。平家伝説をそのまま事実として、研究者が受けいれることはありませんが、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置き、南北朝時代には、小屋平氏がこの土地を支配するようになったことは推測できます。そして室町時代初期になると、それまでの「大浦名」から「木屋平名」に改めて、「コヤ平」の地を「森遠」と呼ぶようになったようです。


木屋平 森遠城
        木屋平氏の森遠城(現正八幡神社)
森遠城は本丸・外櫓・馬場などを含めると約一町五反の広さであったようです。「阿波志」には、次のように記されています。

「八幡祠平村森遠名に在り、俗に言う土御門天皇を祀ると地丘陵にあり、祠中偃月刀及び古冑を蔵す、阿部宗任持つ所」

江戸時代の初期に松家氏は本丸の北東の北櫓跡へ屋敷を移して、城を廃して跡地を整理します。そして万治2年(1659)12月12日に正八幡宮を建立して、松家氏の祖霊を合祀して霊廟とし、本丸跡約6反歩を森遠名の共同管理値としています。そのため現在も境内には空掘・武者走り・古井戸など城内の遺構が完全なままで残っていています。元禄4年(1691)銘の棟札に松家姓の3人・阿部姓の8人・天田姓の1人の人物名があります。
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森遠名の八幡神社 井戸が復元されいてる
約210年前の村絵図に森遠名の中心部が、どのように描かれているのかを見ておきましょう。
木屋平森藤 拡大

確かに村絵図にも正八幡神社周辺は、緩やかな傾斜地で、窪地が広がり、周辺の棚田にくらべると田んぼが広いことがわかります。ここに何枚もの「オゼマチ」があったようです。
 寛文12年の検地帳によると、松家家は、森遠名で8町7反5畝17歩の田本畑を所有しています。
これは名全体の水田面積の約半分になります。所有する水田は、これだけではありません。5ヵ名全体で16町6反6畝5歩を所有しています。これは5ヵ名全体の田畑面積73町2反9歩の23%にあたります。
 また文化6年(1809)には、5ヵ名で下人層56人を配下に入れて使役しています。そのうちの半分にあたる28人は、森藤名で生活しています。「オヤシキ」と呼ばれた屋敷地は1反2畝12歩(372坪)あり、そこで下僕的な生活を送っていたことがうかがえます。まさに中世の名主的な存在であったようです。

木屋平村絵図1
木屋平村分間絵図 森藤名部分
上の絵図には穴吹川に流れ落ちる4筋の谷が森遠名を南北に貫いているのが見えます。中央が一番左が「大島谷」で、谷川の周囲は穴吹川から正八幡神社の辺りまで、魚の鱗を並べたように棚田が描かれています。ここには研究者が数えると約390枚あるようです。棚田の用水は、4つの谷川から導水されていたようです。寛文12年(1672)の検地帳の田総面積は、3町9反5畝10歩です。1筆平均面積は約30坪で小さな田んぼが積み重なった景観が見られたはずです。
木屋平森遠上部

 松家家から上には、段畑(本畑)が広がります。
これは約590枚あるようです。切畑・山畑を除く本畑総面積は12町8反20歩で,1筆平均面積は約65坪になります。棚田の一枚当たりの面積の倍になります。そんなことを知った上で、もう一度絵図を見ると、確かに下部の棚田の方が密度が濃く、上部の畑は密度が低く見えてきます。
 現在の正八幡社に拠点を構えた松家家の先祖が、まずは居館の上部を焼畑などで開墾しながら本畑化し、その後に用水路を整備しながら下部に棚田を開いていったことが推測できます。そして、松家家は中世には、武士団化していったのでしょう。

木屋平森遠上部

最後に森遠の祭祀空間を見ておきましょう。
まず森藤名の西側から見てみます。正八幡社の西にある成願寺には享保6年(1721)の棟札が残ります。この寺が松家家が大旦那で、その菩提寺であったのでしょう。成願寺の東隣には「観音堂」,「チン守」が見えます。
木屋平森遠名 成願寺
成願寺(木屋平森遠)
木屋平の昔話」には、この寺のことが次のように記されています。
成願寺の庵主、南与利蔵の話によると、成願寺の無縁仏のある草地には、沢山の五輪塔の頭部がある。二〜三十個はあるという話だが、それは五輪塔の空、風輪にあたる重さ五〜六粁のものである。昔、五輪塔の宝塔部分だけをすえて墓とする、略式の方法ではなかったかという説もある。それでは、どんな事件でここに沢山の墓があるのだろう。森遠城は百米上方にある。山岳武士として活躍した南北の朝時代に、三ッ木の三木重村らと共に出征して、他郷の地で戦死した木屋平家の勇士達の首塚なのか?。
あるいは蜂須賀入国の砌。これに反抗した木屋平上野介の家来達の墓だろうか?。南北朝の末期の、森遠合戦で討ち死にした木屋平家の勇士達なのか?。今はこれらを裏付けるすべもない。
 絵図中央部には、先ほど見たように中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡に鎮座する「正八幡宮」「地神」 が描かれています。この地区は村民から「オヤシキ」とか「オモリ(お森)」と呼ばれていて、森遠名の中核的な場所であったようです。

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 さらに東部を見るともうひとつの「八幡宮」があります。
「山神」は「谷口名」境と集落北西部の山中の「中内」に2社あります。また家屋内の火所に祀られ火伏せの神と、修験道の崇拝対象とされる「三宝荒神」も2社描かれています。
三宝荒神 | 垂迹部 | 仏像画像集
三宝荒神

 このように,正八幡宮・八幡宮・地神・成願寺・チン守・山神・三宝荒神等が集落中心部に配置されている空間構造であることを押さえておきます。
木屋平 森遠航空写真 
木屋平森遠名の航空写真(1994年)
1994年撮影の空中写真(写真2)と比較して、その景観変化を研究者は、次のように指摘します。
①棚田の消滅,確かに穴吹川から積み上げるように並んでいた棚田群は姿を消しています。
②穴吹川沿いの成願寺周辺,上部の三宝荒神付近,集落上部の絵図では田であった小谷沿い一帯の林地化現象が進んだ。
③本畑はゆず園化現象がみられ,幼木のゆず園が圧倒的多いことから,1994年頃がゆず園化のピークであったこと
④正八幡宮の東に4棟の鶏舎が姿を現したこと,
⑤過疎化による集落空間の縮小化現象がみえる。
木屋平森遠の風景 剣山の眺めと柚子 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」
ゆず畑のひろがる森遠名

中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡は、今は正八幡宮となっています。村絵図は約210年前の木屋平の姿を今に伝えてくれます。同時に、戦後の高度経済成長の中でのソラの集落の変貌も教えてくれます。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年

 丸亀藩は幕末に西讃府誌を作成してくれたので、江戸時代の村の様子がだいたいつかめます。そこには村内の家数や耕地面積、石高、産業などを書き上げれていて、現在の自治体の市勢要覧などの役割を果たしてくれます。しかし、西讃府誌は残しても、各村々の絵図は残しませんでした。
阿波岩脇村(羽ノ浦町)
阿波藩岩脇村(羽ノ浦町)の村絵図
阿波藩は、ひとつひとつの村々の様子を描いた村絵図を残しているのを見ると羨ましくなります。見ているだけでうきうきします。 村絵図があると近世の村を身近に感じることができます。そこで、今回は近江国甲賀郡の水口宿(水口城下、現滋賀県)に近い酒人村の絵図を見ていくことにします。テキストは「水本邦彦 村 百姓たちの近世 岩波新書」です。

近江 酒人村 グーグル
滋賀県甲賀郡酒人 

旧酒人村は、琵琶湖に東流する野洲川と旧東海道に挟まれた田園地帯の中にありました。東に東海道の宿場街水口があり、西を野洲川が琵琶湖に向かって流れ下って行きます。

酒人村 村絵図
酒人村の村絵図
上図は天保年間に、水口藩に提出された洒人村の絵図です。
当時の酒人村は、家数百軒余、人口370人ほどの村で、平野部にあって稲作農業を主な生業とするごく普通の村でした。村の中央を二本の河川が合流しながら北流します(図の右が北)。南東部からの流れが横田川(野洲川(a)で、これに南西部から流れ込む(b)柚川(そまがわ)が合流します。村域は手前東側の集落・耕地エリアと、川向うには山のエリアに広がっています。
明細帳には、村の山は次のように記されています。
「東西四町余。南北十一町余(約43㌶)松林」
「東西二五〇間・南北一〇〇間(約826アール) 草刈り場」

ここからは、この山はほとんどが松林だったことが分かります。ただし、絵図には村山の峰付近2カ所に注記があり、村々立合い(入会)の草刈り場があると次のように記します。
南西部の注(c) この奧、三雲村、妙感寺村、宇田村、植村、洒人村、泉村、右六カ村村々立合い(入会)の草刈り場
西部の注記(d) この辺 三雲村、酒人村、泉村、立合い草刈り場

(c)は東西10町。南北12町(約119㌶)、
(d)は東西30町余。南北20町余(約595㌶)の広さです。
ここからは西部の山間部は、前面が松林の村山で、その奥に刈敷のための入会地である柴山や草山が続いていたことになります。入会地の広さは東西30町(3,3㎞)とありますから現在のゴルフ場を越えて続いていたことになります。刈敷山として、新芽や草が刈られた入会地は、讃岐の里山でも荒れ果てて裸山になっていたことを以前にお話ししました。ここでも明治初年の記録には、奥山の一部は「禿結して山骨をさらす」あります。はげ山化して荒れた状態になっていたことが分かります。(『甲賀郡志 上』)。ここでは、酒人村も刈敷のための広大な草刈り場を持っていたが、裸山になっていたことを押さえておきます。

山の麓付近をみると、 3カ所に「山神」(e1~3)があります。
①北部のf「泉村山境」近くのe1
②南部のg「岩坂村境」近くのe3
fとgは、村境を示す目印でもあると研究者は指摘します。山を守り、山仕事の村民を守護する山神は女神で、近畿地方では杉か松か檜を御神体にすることが多いようです。正月にはこの木の前で、男手により山神祭りが催されます。
 考古学的な面から見ると、村山一帯は、6・7世紀築造の円墳が200基も集中する群集墳で、古代人の埋葬地だったようです。弯薩天井という朝鮮半島様式の横穴式石室の構造からして、被葬者は渡来系の人々だろうとされます。(『甲賀市史5』)。この地が古代にやってきた渡来人によって最初に開かれたことがうかがえるようです。早くから開けた地帯であったことが分かります。
 山裾を南北にh「伊賀海道筋」が走っています。
南にたどれば柚川に沿って伊賀国(三重県)へ、北上するとすぐ先で東海道に合流します。伊賀街道は、明治の史料には道幅二間(約2,6m)とあります。この付近の東海道は三間五尺(約5,2m)だったので、伊賀街道はその半分の道幅だったことになります。
天台宗園養寺は滋賀県湖南市を中心に家族葬や納骨のご相談を承っております
園養寺(おんようじ)
 街道に近い山中には、i園養寺があります。
この寺は延暦年中(782~806)、伝教大師(最澄)開基と伝えられ、牛馬の守護寺としても知られ、広範囲からの信仰を集める寺です。当時は本堂と庫裏は葛屋(草葺屋根)で、瓦葺きの撞鐘堂と薬医門があったようです。横田川には、橋はなくて園養寺付近から歩いて渡り、水量の多い冬から春には「竹橋」を掛ける、と明細帳には記します。

酒人村 園養寺からの野洲川
園養寺から望む野洲川

 川東の河原にはj土手が描かれています。
この図ではわかりにくいのですが、別の村絵図で確認すると、耕地と集落を水害から守る水防施設(川除け)で、河原側に人石と蛇籠を並べ、その内側に堤防を築いて松や竹を植えていたようです。
   明細帳には、次のように記されています。
川除け普請‐少々の義は毎年百姓ども自普請つかまつり候。大破の節は御地頭様より竹木代、人足扶持米とも、往占より頂戴つかまつり候。

意訳変換しておくと
川普請については、少々の工事は毎年百姓たちが自費で行う。大きく破損した場合には地頭(藩主)から土木材料費や人夫賃が支給される。

ここからは、小規模普請は自普請、大規模な治水灌漑工事については、藩主が行っていたことが分かります。中世の地頭たちは、自分の領地だけにしか関心はなく、自領を越えた治水灌漑工事を行う事はありませんでした。そのため平安末期に決壊した満濃池は近世初頭まで放置されたまんまでした。近世領主は、広域の水利土木事業を行うようになります。「水を制する者が、国を制する」、つまり支配の正当性を生み出しすことに自覚的になります。ここでも広域行政担当になる野洲川普請は、藩主によって行われたいたようです。

堤防の南側には、K「田地」l「畠」がひろがります。
そして中央部にm「村人家」のエリアがあります。
東部のn「植村田地境」o「宇田村田地境」からいくつかの水路が流れ込みます。
酒人村 用水路

東部の植村からの流れは、川上の水口美濃部村で横田川から取水された綾井用水(二の井)です。東南部の宇田村方面からは、野上井用水と前田川水が流入します。洒人村の水田の2/3が綾井用水によって、1/3が宇田付からの用水で賄われていたことになります。いずれの水路も、おおもとの横田川取入口には、藩によって伏せ樋(水口と埋設管)が作られていて、この修復にも藩から普請銀が下付されたていました。しかし、この用水をめぐっては、争論が川上の植村や宇田村と何度も繰り返されています。
田地の2ケ所に祀られた「野神(のがみ)(pl、p2)」に、研究者は注目します。
「野神」は、野良仕事(農作業)や作物の実りの神で、牛や馬を守る神でもありました。祭りは田植えの頃や収穫の秋に、御神体の石仏や自然石の前で行われます。
集落のなかを歩いてみよう。今度は別の村絵図です。

酒人村 村絵図2
酒人村の村絵図2
集落は竹藪・塚・水路などで囲われていて、全体が一つの砦のようになっています。
戦国時代、甲賀郡一帯は地元の侍衆が支配し、彼らの居館や城があちこちにありました。酒人村は百姓の村でしたが、砦のような集落のたたずまいは、日々臨戦態勢にあった戦国時代の名残りを受け継いでいるようです。集落には百姓たちのたくさんの人家が立ち並んで描かれています。
明細帳から家数や人口など関係記事を列挙してみると次のようになります。
・家数101軒。
・人口378人、男 183人、女191人、・僧4人
・大工四軒。大鋸(おが)(製材業者・木挽き)一人.
・牛46疋、馬一疋。
・農業のほかに、男は藁筵織り、日用(日一雇い)稼ぎ、または 本挽きに罷り出る。
・女は賃仕事として苧(からむし:麻糸)を績む。木綿も着用ほど紡ぐ。
家数100軒ほどで人口300人台という規模は、この地域の平野部の村としてはやや大きめの規模になるようです。
比較のために周辺の村の様子も見ておきましょう。
・泉村 153軒、797人。大工1、木挽き9、桶屋1 、鉄砲打ち1、猟師4、馬20、牛38
・氏河原(宇治河原)村 108軒、500人余。大工2、木挽き28。牛63。
・東内貴村 43軒、209人。木挽き4。牛18。
・北内貴村 60軒、376人。木挽き14、牛馬喰(ばくろう)1、牛医1 ,牛25
ここからは、どの村にも大工や木挽きがいたことが分かります。甲賀地方では古くから「甲賀の杣(そま)」と呼れ、材木供給地だったようです。そのため木材関係者が多いようです。彼らは、今は京都の大工頭中井家の大工組に編成され、京都の天皇の御所などの普請にも駆り出される腕利き職人集団になっているようです。彼ら職人ですが、農業民と同様に村の構成員であり、百姓数のなかに入っています。泉村の桶屋や猟師、北内貴村の牛馬喰や牛医もおなじ百姓に分類されます。
近世社会で「百姓」という場合、二種類の意味合いがあったと研究者は考えています。
A 村に暮らし生活する住人(宗門人別改帳、家数人数改帳などに登録されている)を指す場合、
B 農耕に従事する者を指す場合
この明細帳では、「泉村百姓屋敷152軒」という時の「百姓」は、村に住む住人の意味になります。このなかには大工も桶屋も含まれることになります。これに対して、同じ明細帳で「猟師四人、これは百姓つかまつり候あいだの峠(稼ぎ)に川の猟つかまつり候」などと記されています。この場合の「百姓」は、Bの農作業ないしは農業従事者を指しているようです。
Aが住居がどこにあるかで区分し、「村方(在方)」の住人を指し、「町方(町人地)住人=町人」「武家方(武家町)住人=武士」などに対応する概念とすれば、Bは職種によって分類「士農工商」の「農」に相当するものと研究者は考えています。
この関係を研究者は次のように図示し、百姓を定義します。
酒人村 百姓の定義

職種・技能と居住域のワンセツト形態を特色とする近世社会では、「百姓=村の住人=農業従事者」であることを原則とします。しかし、村によっては「百姓」のなかに商工業や林業漁業従事者を含んでいたことになります。村の住人で、農業従事者が狭義の「百姓」と押さえておきます。

酒人村の百姓家については、母屋(おもや:居宅)と付属の建物の規模がわかる略図が残っています。
それは、安永五年(1776)に発生した火事で、被災した家々の報告書が残っていたためです。
ここからは住人の住宅が次の二つに区分できるようです。
①居宅に加えて物置、土蔵等の付属建物を持つグループ
②母屋だけのグループ
①のなかでも一番大きい居宅は16・5坪(約55㎡)になります。この規模だと間取りは、牛部屋付きの土間と座敷四部屋からなる造りだったと推測できます。この家はほかに物置、上蔵、さらには別棟の座敷まで備えています。それもそのはずで、この当主は村の庄屋を勤めていた家柄です。ムラの中でももっとも上位の家柄だったようです。

その一方で、下層グループは母屋だけです。
間口三間の場合、間取りはせいぜい土間ブラス2部屋程度になります。間口・奥行1間と記された家は、上層百姓家の物置にも及びません。この二軒の持ち主がいずれも「後家」であります。母屋のみのグループは、上層百姓に従属的な位置にあったと研究者は推測します。村の内部は、平均化された階層ではなく、そこにはかなりの格差のあったと研究者は考えています。
集落内には牛46頭と馬1頭が飼われていました。
家数で割ると二軒に1頭に近い割合になります。牛馬は田畑の工作や物資の運搬だけでなく、厩肥をつくるためにも欠かせません。賑やかな牛馬の鳴き声、厩屋の奥いは、村の世界を構成する大切なな要素です。
立ち並ぶ百姓家の間に寺、郷蔵、高札場などが描かれています。
酒人村 持寶寺
持宝寺

寺は集落中央北部にq持宝寺、南部にr無量寺があります。いずれも本堂は草葺きです。qの持宝寺は天台律宗で村人の檀那寺になります。本尊の如意輪観音坐像(鎌合時代・重文)のほかに善光寺式の阿弥陀如来を安置するので、酒人善光寺とも呼ばれ、近隣の人たちの信仰を集めていたようです。
 無量寺は川向かいの園養寺の末寺で、長保年中(999~1004年)恵心僧都(源信)開基という由緒を持ちますが、明細帳作成当時は、住職はいないと記されています。無住だったようです。
郷蔵(倉庫)は、北東と北西の隅に建てられています(S1、S2)。

郷倉
郷倉(かすみがうら市)
年貢米や備荒用の穀物、祭礼具などの保管庫として使われていたようです。明細帳で規模のわかる北東側の郷蔵(S1)は、間口四間、奥行二間の葛葺き犀根で、横に三間×一間の作業小屋(計り屋)が付属しています。どうして、村に郷蔵が二つあるのでしょうか。それは、当時の村が水口藩と旗本内藤氏の二領主に分有される相給村だったためのようです。そのために、領主ごとの蔵があったようです。
寺や郷蔵と並んで高札場(t1、t‐2)も2つあります。
高札
高札場

ここには幕府の命じた法度(法令)が板に墨書され掲示されていました。忠孝を奨める札、徒党禁止札など、一品札の種類はいくつかありますが、どこでも中心は「バテレンを見つけた者には褒美を与える」と記したキリスト教禁止の高札です。秀吉に始まるキリシタン禁令は、徳川政権においても「国是」として継承されます。洒人村の場合もこの高札が掲げられていたと推測されます。なお高札場が2ケ所あるのは、郷蔵と同じ理由です。
西の郷蔵の横に村氏神の山王権現のu小祠が見えます。
明細帳によれば、この宮は「当村中ばかりの氏神」で、八間×四間の境内にある三尺(約90㎝)×三尺I寸(約106㎝)の「こけら茸き」の社です。4月の2回目の申の日に神事が行われ、村民が参詣します。
ふつう、近世村では氏神は一村だけのものでしたが、洒人村の場合はこの村氏神のほかに、他村と共同の氏神社が2ケ所あったようです。1つは植村・泉村と共同で祀る国中大明神(植村に鎮座)です。
その外縁にもうひとつ、北脇村以下10ケ村という広域で祀る若宮八幡宮(北脇村に鎮座)がありました。こうした氏神信仰圏の重層性は、当村がかつては伊勢神宮領だった柏木御厨のなかの洒人郷の一集落だったことに由来するようです。柏木御厨全体の氏神が若宮八幡宮で、酒人郷限りの氏神が国中人明神ということになります。この絵図からは外れて見えませんが、村内の東方および北方には国中大明神の分社が1つあり、東方の社は牛頭天王社、北方の社は十禅師社と呼ばれていたようです。
最後に、墓地です。
洒人村では、集落の外縁にニカ所あります(V1、V2)。「基所」と書いて「ムショ」と読むようです。ここでは初めから「無所」と記されています。村民が死去すると、遺体はこの墓地に葬られました。
 民俗調査によれば、この辺りでは、昔は葬式は夜に行われたと報告されています。出棺を知らせる寺の鐘が鳴り、松明を先頭に白装束の野辺送りの行列が棺を担いで基地に向かう姿がかつては見られたようです。
以上、近江の酒人村の村絵図を見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「水本邦彦 村 百姓たちの近世 岩波新書」です。


四国霊場弥谷寺における中世の念仏聖たちの活動を以前に見ましたが、その中で高野聖たちの果たした役割がよく分からないとの指摘を受けました。そこで、五来重「高野聖」の読書メモ的な要約を載せておきたいと思います。テキストは、五来重『増補 高野聖』と「愛媛県史 四国遍路の普及」です。
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弘法大師信仰を地方に広げていくのに活躍したのが高野聖(こうやひじり)たちです。彼らの果たした役割を、明らかにしたのが五来重の「高野聖」です。この本の中で聖の起源を次のように記します。

「原始宗教者の『日知り』から名づけられたもの」で、『ひじり』は原始的な宗教者一般の名称であった

 聖の中は、呪力を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行を行います。これが聖の山林への隠遁性と苦修練行の苦行性につながります。
 原始宗教では、死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えられていたようです。これを生前に果たしておこうという考え、彼らは巡礼を行います。そのために、聖の特性として回遊(廻国)性が加わります。
 こうして隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるようになります。これは民衆からすれば、聖は呪術性のある特別な存在をおもわれるようになります。
その他に、聖には次のような特性があると指摘します。
①妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性
②集団をなして作善をする集団性
③寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性
④勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性
 こうして、聖たちは、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくるようになります。高野聖もこのなかのひとつの集団になるようです。
 聖は、古代から存在していたことを、谷口廣之氏は次のように述べています
「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。」

 「現在では四国霊場は空海弘法大師によって開かれた」というのが当たり前に云われています。しかし、歴史家たちはそうは考えていないようです。空海以前から聖(修験者・行者)たちは霊山で修行を行っていて、その集団の中に若き日の空海も身を投じたという見方をします。また、空海以後も四国の地を遊行した聖たちは、蔵王信仰・熊野信仰・観音信仰・阿弥陀信仰・時衆信仰などそれぞれの信仰に基づいた修行をしていたようで、弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけでありませんでした。
阿波の板碑
高野

聖たちの中で、高野聖が登場するのは、平安中期以降のことだとされます。

もともと高野山では、信仰心のある隠遁者が集まり、出家せずに聖として半僧半俗の生活をしていた者がいたようです。そのような中で、正暦5年(994年)に高野山は大火に見舞われます。その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が、聖を勧進集団に組織したのが高野聖の始まりとされるようです。
 その後は、次のような集団が、高野聖として活発な活動を展開します。
①教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)などの真言念仏集団による小田原聖・往生院谷聖
②中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)
③禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖
④時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団
 高野聖の主な活動は、勧進でした。
 古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園をもち、これが経済基盤となっていました。しかし、平安中期になって律令体制が崩壊すると、荘園からの収入が思うように得られなくなります。寺院経営には、伽藍や法会の維持、僧供料など多くの資金が必要です。それが得れなくなった多くの古代寺院は退転していきました。生き残っていくためには、新たな収入源を確保する必要に迫られます。その一つの方法が、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の確保です。こうして全国に散らばった聖は、布教とともに勧進にかかわりるようになります。
 例えば讃岐の霊場弥谷寺に先ず根付いたのが阿弥陀信仰であり、その後の伽藍配置には時衆念仏信仰の影響が見られることは、以前にお話ししました。これも高野聖の一流派である②の五室聖や④の千手谷聖の活動が背景にあったことがうかがえます。彼らは里の郷村への阿弥陀念仏信仰を流布しながら、先祖供養のために「イヤダニ詣り」を勧めたのです。それが現在の弥谷寺に、磨崖五輪塔や地蔵形墓標として残ります。同時に、信者を高野山の勧進活動へと導いていきます。高野山には、高野聖が全国から勧進して集まった資金が流れ込むことになります。
西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
関東・平泉に勧進のために下る西行 西行も高野聖であった
 高野聖は、「高野山が日本の先祖供養の中心地」であることを、説話説教によって信者に広げます。
そして高野山への納骨参詣を誘引します。各地を回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運ぶようになります。さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供するようになります。このように高野聖は、高野山での役割は、宗教よりも生活を担うことで、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等にを担当します。こうして、高野聖は、高野山の台所を支える階級となっていきます。別の見方をすると、高野山という仏教教団の上部構造は学問僧たちでした。しかし、それを支えた下部構造は、学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を果たした高野聖たちであったと云えそうです。
勧進とは - コトバンク
勧進集団

 高野山奥の院への杉木立の参道に建ち並ぶ戦国武将や大名達の墓は、ある意味では高野聖の活動の証と云えるのかも知れません。高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などは、高野聖の勧進によって支えられていたのです。
君は勧進上人を知っているか?|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
勧進や高野山詣りを担当する高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものでした。そのために彼らは、足まめに担当諸国を廻国し、人集めのために唱導や芸能も行いました。次第に庶民に迎合して、世俗化する傾向が生まれるのも自然の成り行きです。高野聖の世俗化した姿は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」と後ろ指を指されていたことが分かります。高野聖は、人々から俗悪な下僧と卑しられるようになっていったのです。
高野聖とは - コトバンク
高野聖
 やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密まではたらくようになり、本来の姿を大きく逸脱していくようになります。高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながり、中世末期には世間の指弾を受けるようになり、堕落した高野聖は消滅していきます。

やまだくんのせかい: 江戸門付
聖たちのその後

高野山内部での「真言原理主義運動」が高野聖を追い出した
真言密教として出発した高野山でしたが、中世には浄土往生と念仏信仰のメッカとなっていました。鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、念仏信仰の中心拠点となっていて、それを高野聖たちが担って全国に拡散したのです。ところが室町時代になると、「真言復帰の原理主義」運動が起き、その巻き返しが着々と進んでいきます。室町時代半ばの15世紀末ごろからは、自発的に高野聖の中には「真言帰人」を行う者も現れるようになります。そして江戸時代になると慶長11年(1606年)年に将軍の命として、全ての高野聖は時宗を改めて真言宗に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命じられます。これが高野聖の歴史に終止符をうつことになります。
画像をクリックすると、拡大する。 第一巻 52 【前へ : 目次 : 次へ】 願人 - 【願人坊主  がんにんぼうず】は、江戸時代に存在した大道芸人の一種。穢多・非人に連なる賎民であるが、形式上は寺社奉行の管轄下にあったので、町奉行は扱いにくかった  ...
願人

高野聖の弘法大師信仰流布に果たした役割を研究はどのように捉えているのかを見ておきましょう。
 五来重氏は、高野聖の役割について次のように述べています。

 高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。これらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者であった。実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法 大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という疑問を解くことはできない。
   
ここには高野聖が「宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者」で、その性格は「庶民の精神構造」に起因するとします。だから「弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて信仰」され、弘法大師一尊化への道が開かれると考えているようです。
日本遊行宗教論(真野俊和 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 また真野俊和氏は、次のように述べます。
さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではなばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっきりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。

ここでは研究者は、次の2点を指摘します。
①高野聖の活動を通して四国霊場の弘法大師一尊化という風潮が形成されたこと、
②中世高野聖によって大師信仰が普及し、それを通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及したこと
伝承の碑―遍路という宗教 (URL選書) | 谷口 広之 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

 谷口廣之氏は、次のように述べています。
現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。

ここでは、次のことが指摘されています。
①高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたこと
②弘法大師信仰と遍照一尊化一色へ四国霊場を染め上げていったのは、高野聖の活動なしには考えられないこと
 以上を整理すると、次のようになります。
①高野聖の宗教宗派にこだわらない布教活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたこと
③高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の弘法大師一尊化の風潮が強められていったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献
       五来重『増補 高野聖』
「愛媛県史 四国遍路の普及」

明治38年四国八十八ヶ所納経帳(讃岐国詳細) | 古今御朱印研究室
根香寺納経帳(明治38年)
根香寺の歴史を見てきましたが、もうひとつ踏み込んだ説明が欲しいなあと思っていると、報告書の最後に「考察」部がありました。ここに私が疑問に思うことに対する「回答」がいくつかありましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 香川県教育委員会2012年版127P」です。

 根香寺の開創は、縁起にどのように書かれているのか
根香寺の縁起としては『根香寺略縁起』(1)と『青峰山根香寺記』(2)があります。前者は住職俊海が著したもので、俊海の住職期間が享保17年(1732)~寛保元年(1741)なので、その頃に書かれたようです。後者は延享3年(1746)に次の住職である受潤が著したもので、開基円珍の事跡を物語風に延べ、寺歴も詳細に記されています。このふたつの縁起が近接して書かれた背景には、直前の大火があったようです。この時の大火でほとんどを消失いた根香寺は再建と同時に、失われた縁起などの再作成が課題となったのでしょう。それに二人の住職は、それぞれの立場で応えようとしたようです。
ふたつの縁起で、根香寺開創の事情を簡単に見ておきます。

根香寺 青峰山根香寺縁起
『青峰山根香寺略縁起』:

当山は円珍が初めて結界した地で、円珍が七体千手のうち千眼千手の像を安置し、さらに山内鎮護のために不動明王を彫り、安置した

『青峰山根香寺記』:

根香寺 青峰山根香寺記
根香寺は円珍の創立で、中国から帰国し、讃岐国原田村の自在王堂に円珍が数か月逗留した際、しばしば山野をめぐり、訪れた青峰において老翁(山の主である市瀬明神)と遊遁し、この老翁から「当地が観音応化の地で三谷があり、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置せよ」と告げられた。
 そこで円珍は香木で造った千手千眼の観音像を当山に安置し、また不動明王像も自作し安置した。神が現れた地には祠を立て、鎮守として祀った
どちらも「根香寺=円珍単独開創説」をとります。
円珍は金倉寺が誕生地で、母は空海の佐伯家から嫁いできていた伝えられます。唐から帰国後の円珍が讃岐に滞在する時間はあったのでしょうか。『讃岐国鶏足山金倉寺縁起』には、天安2年(858)9月、円珍が大宰府から平安京に向かう途中で、金倉寺の前身である道善寺に逗留したと伝えます。しかし、これを事実とみるのは難しいと研究者は考えています。ただし、3年後の貞観3年(861)、円珍が道善寺の新堂合の落慶斎会に招かれたとの寺伝があるようです。 この頃、円珍が故郷に帰省していた可能性はあると考える研究者もいるようです。 
 寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』にも根香寺が「貞観年中智証大師の造立」とあり、貞観年間(859~877)に円珍が根香寺を開創したとという認識があったことがうかがえます。しかし、円珍による根香寺開創を史料的に裏づけることは難しく、伝承の域を出ないと研究者は考えています。

P1120199根来寺 千手観音
根香寺本尊の千手観音
『根香寺略縁起』は、本尊千手観音の「複数同木説」を採ります。
これに対して後から書かれた『青峰山根香寺記』は、円珍と老翁(市瀬明神)の出会いに重点が置かれます。このちがいは、どこからきているのでしょうか?このことを考えるうえで参考となるのが、前札所の第81番札所白峰寺の『白峯寺縁起』(1406年)だと研究者は指摘します。『白峯寺縁起』には、次のように記されています。

空海が五色台に地を定め、貞観2年に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

ここにからは『根香寺略縁起』は、円珍が同木から複数の仏像をつくったとする「複数同木説」を採っています。これは『白峯寺縁起』と共通していて、 このような見方が早くからあったことがうかがえます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図 右下に円珍と明神の出会い

 これに対して『青峰山根香寺記』は、複数同木説を採りません。
しかし、円珍と老翁の出会いをスタートにする点では『白峯寺縁起』と似ています。『青峰山根香寺記』は、老翁を地主市瀬明神として登場させることによって独自性を出そうとしているようにも見えます。ここからは『青峰山根香寺記』が作成された時期の根香寺が、独自な縁起を必要としていたことがうかがわせると研究者は指摘します。
以上のように、古代の根香寺について具体的に明らかにできることは少ないのですが『根香寺略縁起』と『青峰山根香寺記』は『白峯寺縁起』との類似性が認められること、そして前者は複数同木説を採用し、『白峯寺縁起』にみえる伝承を受け継いでいることを押さえておきます。

次に、山岳寺院としての根香寺を見ていくことにします
『白峯寺縁起』のなかに十体の仏像を造立し、このうち4体の千手観音を、白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置したとありました。ここに出てくる根来寺以外の3つの寺院を整理しておきます。
白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
吉水寺は近世に無住となったが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
白牛寺は、白牛山と号する国分寺のことで、「五色台」のすぐ南の平地にあること。

古代の根香寺は、白峯寺・吉水寺と同じように「五色台」の山岳寺院の一つとで、山林修行の行場であったと研究者は考えています。
僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することでした。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。
 それが讃岐では、まんのう町の大川山の山中に姿を現した中寺廃寺になつようです。
中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺復元図(まんのう町)
ここにはお堂や塔も造られ、高級品の陶器や古代の独古なども出土しています。設立には、国衙が関わっていると報告書は記します。
 同じような視点で国分寺を見てみましょう。
『白峯寺縁起』には、白牛寺(国分寺)の名が、「五色台」の山林寺院と並んであげられていました。これは、平地部の国分寺が五色台の山岳寺院とセットとなっていたことを示すと研究者は推測します。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路ルートと山林寺院
 例えば、三豊の七宝山は観音寺から曼荼羅寺までの「中辺路」ルートの修行コースで、そこに観音寺や本山寺などの拠点があったことは以前にお話ししました。善通寺の五岳も曼荼羅寺から弥谷寺への「中辺路」ルートであった可能性があります。同じように国分寺の背後の五色台にも、「中辺路ルート」があり、その行場の近くに根香寺は姿を見せたと私は考えています。

根香寺の山林寺院としての古代創建説を裏付ける文献史料はありませんが、次のような状況証拠はあるようです。
①根香寺に近い勝賀山北東麓に位置する勝賀廃寺は、白鳳期に創建された寺院跡とされます。根香寺が勝賀廃寺と同じ頃に草創された可能性はあります。
②根香寺の本堂裏の「根香寺経塚」の存在です。ここからは浄土教が広まり、仏縁を結んで救済されようとした人々がいたことが分かります。あるいは青峯山が修験の行場としての性格をもっていたのかもしれません。経典を写経し、周辺行場で修行し、それが終わると次の聖地に廻国していく修験者の姿が見えてきます。

四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する僧侶などの「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力なようです。中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。「辺路修行を」宗教民俗学者の五来重は、行場をめぐる「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
ここから海を望む「四国遍路」誕生を発想しました。例えば例として示すのが室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていたようです。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。

どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこを拠点にして、弥谷寺のように周辺の里に布教活動を行う高野聖のような行者も現れます。当然、そこには浄土=阿弥陀信仰が入ってきて、阿弥陀仏も祀られることになります。それが七宝山や五岳、五色台では、同時進行で進んでいたと私は考えています。
以上から古代の根香寺については、「五色台」の山岳寺院の一つとして「中辺路」ルートの拠点寺となっていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 教育委員会2012年版127P」
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五色台 | 香川県高松市の税理士 べねふぃっと税理士のブログ

「五色台」には白峰山(336.9m)、青峰(449.3m)、黄ノ蜂(174.9m)、紅峰(245m)、黒峰(375m)などが建ち並んでひとつの山塊となっています。根香寺は、その中の青峰(標高449.3m)の東斜面の標高350m地点に位置し、北東方向には瀬戸内海に浮かぶ女木島、男木島、豊島、小豆島などの島々を望むことができます。青峰の東に勝賀山(364.lm)、南側には五色台で一番高い大平山(478.9m)が連なります。青峰の北側には、黄ノ峰、紅峰、串ノ山に挟まれた生島湾があり、現在は県営野球場となっていますが、江戸時代は塩田が広がっていたようです。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図(江戸時代後半)  
今回は根香寺の伽藍変遷を、江戸時代の絵図で追いかけて見ようと思います。テキストは「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」です。
 
  まず研究者は、地形図で根香寺境内の置かれた位置を確認します。
根香寺は青峰の東側斜面、標高350mに位置しています。
根香寺 周辺地形
根香寺周辺地形


地形図で根香寺周辺の丘陵(尾根)筋を見てみましょう。
青峰の北側からは北方向に延びる丘陵A
北西方向に延びる丘陵B
東方向に延びる丘陵C
青峰の南に位置する山塊からは、つぎの2つの丘陵が伸びています。
北方向に延びる丘陵D
東方向に延びる丘陵E
これを見ると根香寺は、青峰と青堪北側から延びる丘陵B、丘陵Cと、青峰の南に位置する山塊から延びる丘陵Dに挟まれていることが分かります。ちょうど仁王門は、丘陵Dの先端付近に建っているようです。
 今度は谷筋を見ておきましょう。
青峰北側から延びる丘陵Bと丘陵Cとに挟まれた谷筋A、また青峰と丘陵Dに谷筋Bがあります。谷筋Aの奥側には、谷頭池の役割を果たす根香池があります。また谷筋Bは、東から仁王門と境内の間を縫って入り組むようになっています。仁王門の建つ平坦地の東側は、谷筋Bが急峻で深く、 しかも広くなっています。 谷筋Bの最奥部にも、谷頭池があり以前は水田もあったようです。仁王門の建つ平坦部と本堂、大師堂などの諸堂が建つ部分との間の一段低くなった部分が谷筋Bになります。つまり、根香寺の境内は谷部Bを挟んで、仁王門の建つ平坦地と諸堂が建ちならぶ平坦地で形成されていることになるようです。
現香寺周辺の地形について記述したものに、根香寺所蔵の『青峰山根香寺略縁起』があります。
この縁起は根香寺の住職俊海が記したものなので、18世紀前半のものと考えられます。「青峰山根香寺略縁起』には、その地形について次のように記します。
「其往古は南ハ後夜谷、中ハ蓮花谷、北ハ毘沙門谷とて山上三流にわかれて」、
「楼門ハ後夜谷の東南に聳へ、護世堂ハ北嶺に?たり、笠井郷の平賀に大門と称し伝ふるハ当山の惣門の跡なるのミ、蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」
意訳変換しておくと
「昔は南は後夜谷、真ん中は蓮花谷、北は北は毘沙門谷と、山上は三流(3つのエリア)に分かれていた」、
「楼門は後夜谷の東南にあり、護世堂は北嶺にあり、笠井郷の平賀に大門と呼ばれる根香寺の惣門跡があった。蓮華谷の尾根続きは天神馬場と呼ばれていた」
ここからは江戸時代の根香寺は「後夜谷」「蓮華谷」「毘沙門谷」、の3つのエリアに分かれ、「北嶺」「天神馬場」と呼ばれていた場所があったことが分かります。
根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺略縁起を絵図化した根香寺古図(左部)

これを研究者は次のような手順で確定していきます
①「天神馬場」は、昔からの言い伝えで、根香池の南東部の丘陵Cであること
②縁起に「蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」と、天神馬場に続く谷が丘陵Cの南側にある「谷部B=蓮華谷」
③「南ハ後夜谷、中ハ蓮華谷、北ハ毘沙門谷」とあるので、北側にある谷部Aが「毘沙門谷」
④南側の谷部Bの急峻な部分が「後夜谷」、
⑤谷部Bの奥側で、仁王門と諸堂の立ち並ぶ平坦との間にある谷部が「蓮華谷」
根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図の伽藍部拡大

諸堂の配置変遷を、江戸時代に描かれた絵図で見ていきます。
比較する絵図は次の通りです
A 寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))
B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
C『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))
D『讃岐国名勝図会』(嘉永6年(1853)


A寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に描かれた堂宇は次の通りです
根香寺 四国辺路日記 
四国遍礼霊場記の根香寺
①中央に「観音」と書かれた本堂
②本堂に向かって右に「智證(証)堂」
③智証堂の前に鐘楼
④本坊千眼院には、中央に本堂、その向かって右に建物、左に桁行の長い建物
⑤白峰寺からの遍路道から延びる参道はには、石段あり
⑥階段際やその周囲には柵

B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
根香寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼名所図会の根香寺
左下に白峯寺からの遍路道が伸びて来ます。しかし、境内入口に門はありません。その代わりに、門の礎石と考えられる「○」がいくつか書き込まれています。数えてみると「○」は12あります。どうやらこれが2間×3間の門跡だと研究者は推測します。門跡の左右には、藁葺の建物が2棟あります。門からの参道は、周囲の樹木の描かれ方から一旦下って、さらに階段を上っていくと諸堂がある平坦地に着きます。正面には、
瓦葺で屋根が宝形造のやや大ぶりの建物
左右に瓦葺で宝形造のやや小ぶりの建物
手前右に鐘楼
茅葺の建物、小さい社
左側に建物が2棟あります。
左側奥の建物はかなり大きく、「庫裡」のようです。
「根来(香)寺」図の説明文には、「大師堂 本堂の側にあり、智証大師堂」と書かれているので、「大師堂」と「智証大師堂」を意識してかき分けていることが分かります。どうやら本堂の左右の堂が智証大師堂と弘法大師堂であったようです。

『金昆羅参詣名所図会』(1847年)では
根香寺 四国遍礼名所図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺

仁王門が復活しています。仁王門の手前左側に茅葺の建物があり、縁側で休む参拝者か、遍路が描かれています。これが茶屋のようです。「仁王門」を入ると一段低くなり、もう一度石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地になります。石段途中の右側平坦地には建物がありますが、これが説明文にある「茶堂」のようです。石段を上る平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「不動堂」が並びます。どれも宝形造で、「本堂」と「不動堂」がやや大ぶりの建物で、大師堂はやや小ぶりの建物です。ここでは智証大師堂が消えていることを押さえておきます。「大師堂」手前には「鐘楼」があり、「不動堂」左手前には「本坊」がひときわ大きく描かれ、繁栄ぶりがつたわってきます。本堂のある平坦地も含め、平坦地の縁部は石垣であったことも分かります。

次に『讃岐国名勝図会』では、
根香寺 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の根香寺

本尊千手観世音を安置する「本堂」「護摩堂」「祖師堂」「鎮守社」「茶堂」「地蔵堂」があると書かれているだけで、これら建物についての記述はありません。描かれた絵図を見ると、「白ミ子(白峰)道」から仁王門前の平坦地となり、仁王門に向かって左側と手前に建物があります。これは、金昆羅参詣名所図会にも描かれていたので、茶屋でしょう。「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地に着きます。石段途中の右側平坦地にある建物に「茶堂」と書かれています。その平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「五大ソン(五大堂)」がびます。不動堂が四天名王と併せて五大尊になったので名前が変わっています。全て宝形造で、「本堂」がやや大ぶりの建物で、「五大ソン」、「大師堂」はやや小ぶりの建物に描かれています。「大師堂」の手前には「鐘楼」があり、「五大ソン」左手前には「書院」などの建物があります。「鎮守社」は「井びに境内にあり」、「地蔵堂」は「坂中にあり」とあります。
以上が江戸時代に描かれた絵図に書かれた建物配置状況でした。

次に、現在の根香寺の伽藍配置を見ておきます。

根香寺 伽藍配置
現在の根香寺伽藍配置図
かく堂宇のたつ境内の4つの平坦地について押さえておきます。
①「仁王門」のある平坦地
②「仁王門」から一段低くなった平坦地
③2段に分かれた石段途中の平坦地
④石段を上った「大師堂」「五大堂」などの平坦地
これらの平坦地は現在と変わりありません。平坦地の縁辺には石垣が築かれているのも江戸時代と同じです。また、本堂の位置は変わっていますが、それ以外の「五大堂」「大師堂」などの建造物は、そのままの位置にあります。宝形造という建物構造も江戸時代のままのようです。
根香寺 緒堂変遷表
根香寺建築物変遷表
現在の建築物を見ておきましょう
まず「仁王門」前にあった茶屋はなくなって、今は駐車場になっています。根香寺住職からの聞き取りでは、「仁王門」前には、昭和25年頃まで茶屋があり、その西側に遍路宿が昭和33年頃まであったことが報告されています。
讃岐五景にも選ばれています【第八十二番札所 根香寺】牛鬼伝説の寺 | 88OHENRO + シコクタビ
根香寺王門仁王門
「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると「大師堂」と「五大堂」のある平坦地となります。石段途中の平坦地にあった茶堂も今はありません。代わって西側に「水かけ地蔵」、東側に「牛頭観音像」、「役行者像」があります。
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役行者像(根香寺) 修験者の行場であったことを伝える
 石段の上の平坦地に、「大師堂」と「五大堂」が横に並び、「大師堂」手前に「鐘楼」、三大堂」左には「庫裡」、「客殿」などの建物があります。また、「大師堂」の東側には「龍官地蔵尊」、「延命地蔵尊」があります。「大師堂」と「五大堂」の中央から更に石段を上ると、一段高くなった平坦地に回廊を持つ本堂と回廊途中に阿弥陀堂があります。
根香寺 紅葉が美しい四国八十八ヶ所第82番札所 初詣 高松市 - あははライフ
根香寺本堂
本堂について
名勝図会等では、本堂を中心にして向かって左手に五大堂(五大尊・不動堂)、右手に大師堂の三堂が並ぶレイアウトでした。それが昭和45年(1970)の30年毎の本尊千手観音の開帳の際に、旧本堂の上の敷地を造成し、木造の回廊を巡らせて、本堂をその中央上部に移築しました。さらに背面に収蔵庫を建設して、そこに本尊の千手観音を安置するようになったようです。解体修理の際には柱の根継ぎや床廻り、天丼廻り、軒廻り等の板材が取り替えられているようです。

根香寺 本堂平面図
根香寺本堂平面図

各部材は良質な檜材が多く、背面にも同様の暮股を組むなど、全体の様式にも手抜きがないと専門家は評価します。木鼻の繰り型や蛙股の形状も17世紀の作であるとします。しかし、向拝については、差し肘木や海老虹梁、手挟み、向拝頭貫、木鼻、暮股などは、宝暦4年(1754)の修覆後のもののようです。
大師堂については、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』や嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』を見ると、三方に縁が組まれており、前面には向拝もありませでした。しかし、現在は大きく姿を変えているようです。これを研究者は次のように指摘します。
近代の修理で柱をはじめ相当量の取替が行われており、前面の増築改造を含め建物の改変もあり、旧来の形式が失われたものと思われる。建立年代については、肘木の形状や虹梁文様から、本堂向拝や山門と同時期と考えられる。また大師像休座には「寛政十戊午年」(1798)ほかの陰刻銘があるという。

「五大堂」や「大師堂」は、近世以降に位置の変化はありませんが、本堂は、背後の一段高くなった部分に移転していること。しかし、新たに本堂を建てたものではなく、解体修理して、位置を変えただけであることを押さえておきます。
根香寺 五大堂平面図
根香寺大師堂平面図
以上をまとめておきます
①「本堂」「大師堂」「五大堂」「鐘楼」「仁王門」は、「本堂」が昭和41年に解体修理して移動している以外は、動いていない。
②「本堂」「大師堂」などの宝形造のスタイルも変わっていない。
③「大師堂」は、当初は「智証堂」で智証大師像を安置するものであったのが、江戸時代後期(1800年以降)には、弘法大師像を安置する大師堂に変化した
 根香寺は青峰の東斜面に位置し、谷部B(蓮華谷)を挟んで立地し、そこに建てられている堂宇は江戸時代前半からほとんど変化なく現在に受け継がれているようです

〔参考文献】
   「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」
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根香寺第五巻所収画像000018
根香寺
根香寺は、五色台東部の青峰山頂の東側にある天台宗寺院で、山号は青峰山、院号は千手院で、千手観音を本尊とします。山の枯木の根が香ったことから「根香寺」と名付けられたこと、智証大師円珍は、この霊木から本尊を彫ったことが伝えられます。また香気が遠く流れて川の水がかぐわしかったので、「香川」が郡名になったとも云われます。この寺には怪物「牛鬼」の伝説がつたわっていて、弓の名人が牛鬼を退治し、その2本の角を納めた寺としても有名です。

参拝レポート/第八十二番札所 根香寺|四国おへんろ.net ハチハチ編集部
根香寺

 この寺について記した古代の文献史料はないようです。

ただ根香寺が保管する考古資料には7世紀の遺物があるので、境内周辺地から出土したものであるとすれば、根香寺は古代の山岳系の寺院にルーツをもつ可能性もでてくるようです。
 根香寺の手前の第81番札所白峯寺の『白峯寺縁起』(応永13年(1406)には、根香寺の成立に関わることが次のように記されています。
白峯寺は、空海が地を定め、貞観2年(860)に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、 4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

 白峯寺は「五色台」の西方の白峰山上にある山岳寺院です。
吉水寺は近世に無住となりますが、白峯寺と根香寺の間にあった山岳寺院です。白牛寺は、国分寺とされています。ここからは根香寺はこれらの寺と結ばれた「五色台」の山岳寺院だったこと、そして山林修行の場として修験者たちが集まってくる行場のひとつであったことがうかがえます。そういう目で見ると、三豊の五剣山や善通寺の五岳が修験者の「中辺路」ルートで、各行場を結ぶ拠点として観音寺や本山寺、あるいは弥谷寺や曼荼羅寺、善通寺があったように、五色台のこれらの4つの山林寺院も「中辺路」ルートで結ばれていたとも考えられます。そこへ熊野行者や高野聖たちの廻国修験者が修行のために海からやって来るようになります。彼らが行場にお堂を構え、山林寺院へと成長して行ったというストーリーが描けます。根香寺の成立については、空海と円珍(智証大師)という讃岐のふたりの大師が関わっていたことになります。
   今回は、根香寺の創建を初めとする歴史について見ていこうと思います。テキストは「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」です。         
円珍の根香寺創建関与説については、次のふたつの説があるようです。
A空海が草創し、後に円珍が再興した「空海創建=円珍中興」説
B円珍のみを開基とする「円珍単独開基」説
Aの「空海創建=円珍中興説」は、讃岐最初の地誌とされる『玉藻集』(延宝5年(1677)に、次のように記されています。

「この地は弘法大師開き給ひて、千手現音を作り、一堂を作り安置し、後智証大師遊息し、台密兼備の寺となり」

この説をとるのが次の史料です
①遍路案内記の『四国偏礼霊場記』
②明和5年(1768)の序文がある『三代物語』
③弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』

智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐図(金倉寺)
一方、Bの「円珍単独開基説」は、延享3年(1746)に作成された根香寺の縁起『青峰山根香寺記』で次のように記されています。

「(根香寺)開基は円珍で、青峰を訪れた円珍が老翁に導かれ、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置したのが当寺の始まりで、「中比」は専ら「密乗」を修し、寛文4年(1664)に天台宗に復した」

 この円珍単独開基説は江戸時代前期までさかのぼり、寛文9年に各郡の大政所が提出した『御料分中宮由来・司寺々由来』には根香寺が「貞観年中(859~877)智証大師の造立」されたと記されます。ここで研究者が注目するのは、これに続く次の記述です。

「往古は天台宗、中古は真言、只今は天台に帰服」

ここからは、古代・中世の根香寺には真言・天台両勢力が並存し、 しだいに真言宗が優位を占めていったことがうかがえます。それは、寺院を拠点とした修験者の勢力関係を背景としたものだったのかもしれません。そして、真言系修験者が優位を占めるようになったことがA空海単独開基説を生む背景となったと研究者は考えています。

長尾寺 円珍坐像
円珍坐像(長尾寺)

 正平12年(1357)の「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、根香寺の花蔵院と根香寺が「両大師聖跡」と記されています。
つまり、次のふたつの聖跡があったことが分かります。
花蔵院が弘法大師空海の聖跡
根香寺が智証大師円珍の聖跡
ここからは根香寺の開基を「両大師」とする説も中世からあったことがうかがえます。
根香寺 伽藍配置
根香寺境内伽藍図

中世の根香寺については分からないことが多いようです。
根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査からは、2基の塚跡が並んで出てきました。これらは12世紀後半のものとされ、墳墓と供養塚と研究者は考えているようです。ここに眠っているが地域の有力者だったとすると、鎌倉時代初期の根香寺の保護者の墓とも考えられます。
寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』には、次のように記されています。
「往古は七堂伽藍をもち、寺中九十九坊を数えた」

近世の縁起『根香寺略縁起』には、次のように記します。
「往古は南の後夜谷、中の蓮華谷、北の毘沙門谷の三谷に分けられ、後夜谷の東南に楼門、北峰に護世堂がそれぞれあった」

 延享3年(1746)の縁起『青峰山根香寺記』には、具体的な子院名として、千手院・道蓮房。円覚房・如法房・燈明房・薬師房があげられています。ここからは、中世の根香寺では千手院を中心として、山内にいくつかの子院があったことが考えられます。
 このうち薬師房は、現在根香寺の末寺である薬師寺(高松市鬼無町是竹)のようで、近代には根香寺の隠居所となっていました。中世の根香寺には真言・天台両勢力があったことは、先に見たとおりですが、真言系・天台系など複数の子院が並存していた可能性もあります。
 さらに『根香寺略縁起』・『青峰山根香寺記』では「当寺東北の平賀の大門は、当山の惣門の跡」と記します。寺域が広大で、中古までは千石千貫の寺産があったと主張しています。また『青峰山根香寺記』では寺領として、香川郡河辺郷(高松市川部町)を挙げます。河辺郷は香東川をややさかのぼったところにあり、根香寺とは距離があります。根香寺が散在する寺領をもっていたのかもしれませんが、詳しいことは分かりません。
 近世の寺社縁起の作成動機の一つは、「寺領」の確保でした。
そのために「往古は広大な寺領や境内を持ち、大きな伽藍を擁していた」とするのが縁起作成の作法です。そのためこれらの記述を、研究者がそのまま鵜呑みにすることはありません。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師像(根香寺本堂)
「根香寺」の名称の初見資料は、智証大師像(根香寺本堂)の底銘に記されていました。ここに元徳3年(1331)の年紀があることが近年の調査で分かっています。
根香寺 智証大師底書
「智証大師像」の底銘 鎌倉時代の年号が見えます。内容は以下の通り 
    讃州 根香寺
   奉造之 智澄大師御影一林
   大願主 阿闇梨道忍
   佛 師 上野法橋政覚
   彩 色 大輔法橋隆心
   元徳三年 八月十八日

この智証大師像は、阿閣梨道忍が根香寺に奉献したものです。智証とゆかりの寺とされていたから智証大師像を奉納したのでしょう。ここからも根香寺が円珍と関わりがあった寺院とする考えが鎌倉時代末期にあったことが裏付けられます。

根香寺 不動明王立像(根香寺五大堂安置)
        不動明王立像(根香寺五大堂安置)

五大明王像の中の不動明王立像(根香寺五大堂安置)は像内墨書があり、弘安9年(1286)に造立されたことも近年の調査で分かっています。伝来仏として後世に、他の寺から運び込まれた可能性もありますが、年代の分かる貴重な資料です。
 南北朝時代の根香寺については、先ほど見た正平12年(1357)に「女大施主」が両界曼荼羅を根香寺に寄進し、供養が行われたことを示す史料があります。寄進者の「女大施主」はよく分からない人物ですが、有力者の在家信者なのでしょう。ここからは、根香寺が周辺地域の人々の信仰を集めていたことがうかがえます。
 古代寺院は、有力豪族の氏寺として創建されました。
そのため古代寺院は地域の古代豪族が衰退し、姿を消すと保護者を失い、寺院も退転していきます。中世寺院が存続していくためには、地域の有力者の支持と支援が必要でした。そのための手法が修験道の呪いや護符配布であり、祖先供養であったようです。
 「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、当山には花蔵院と根香寺のふたつの院房があると記します。
花蔵院は発光地大士が建立し、「五大念怒霊像」の効験はすでに年を経ているとします。それに対して、根香寺は智証大師円珍が草創し、「千手慈悲之尊容」の利益は日々新なものだと記します。そして「両大師聖跡」を並べているとします。この発光地大士とは弘法大師空海のことをさしているようです。弘法大師の効験は古くて効かない、円珍の方が効力があると云っているのです。その上で「両大師聖跡」を並べています。ここからも花蔵院の開基が弘法大師空海、根香寺の開基が智証大師円珍と考えていたことが分かります。花蔵院については他に関連記事がなく、根香寺との関係もよく分からないようですが、南北朝時代は両者を中心に一山が形成されていたようです。
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北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)
室町時代の根香寺の動向を伝える史料も少ないようです。
数少ない一つが、応永19年(1412)に書写された北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)です。
この一切経は、北野天満天神法楽のため東讃岐の虚空蔵院(与田寺)覚蔵坊増範が願主となり、諸国の僧俗200人あまりの助力を得て北野経王堂で勧進書写されたものです。そこには多くの讃岐の僧侶とともに「讃州香西郡根香寺住呂(侶)長宗」の名が見えます。ここからは根香寺の僧が、増範の書写事業に参加していたことが分かります。
また、寛正3年(1462)7月、将軍足利義政に対して、根香寺勧進帳への御判について披露があります。
これは讃岐守護細川持賢が望み申したためとされます。根香寺には、天人が藉糸(蓮の繊維からとる糸)で織ったと伝える奇異の浄土曼荼羅が所蔵され、 これを義政にも見せています。当初、勧進帳に御判を与えることについては、先例がないとして認められなかったようです。それが細川持賢の申し出で、御判が与えられることになったと伝えられます。8月に浄土曼荼羅は持賢から義政へ献上され、翌4年4月に義政から太刀と馬が下されることとなり、持賢がその礼を述べています。
 このように根香寺が勧進を実施しようとして、それを守護細川氏で支えています。つまり守護の細川家の保護を受ける寺になっていたようです。

戦国時代の根香寺も同時代史料はありません。
江戸時代の『根香寺略縁起』には元弘・建武擾乱に衰微し、天正前後の兵乱に破壊されたと記します。元弘・建武の頃に被害をうけたのかは確認できませんが、天正13年(1585)3月20日に焼失したことが『三代物語』や『讃岐国名勝図会』も記されています。天正年間(1573~92)の衰退は、諸史料に書かれ一致します。長宗我部元親の侵攻によるものなのか、それ以前の阿波三好によつものなのかは分かりませんが、断続的にこの時期は戦乱が続きますので、根香寺もこの時期に兵火にかかった可能性はあります。
 『青峰山根香寺記』では永正(1504~21)以来、南海賊が大蜂起したもあります。海からの海賊たちの襲来を記録するの讃岐の史料ではこれだけのようです。しかし、『三代物語』には、この海賊襲来も「永正以来」でなく「天正年間」となっています。
 天正年間の火災によって本尊・諸仏像などをことごとく焼失したとするのは『三代物語』や『金毘羅参拝名所図会』で、再興の際に、吉水寺から霊仏・霊宝を移して旧観に復したと記します。他方、「青峰山根香寺記』や『讃岐国名勝図会』では本尊千手観音像・不動明王像・毘沙門天像は焼け残ったと記します。
13.03.17 勝賀城【香西氏の居城】その1 | ぬるま湯に浸かった状態
香西氏の勝賀場

根香寺は、有力な戦国武将である香西氏の居城・勝賀城ともほど近い位置にあります。

この香西氏と天正の火災にまつわる伝承も残されています。『三代物語』や『南海通記』(23)には、天正13年5月10日、香西氏が西長尾城に赴く際、勝賀城にあった香西家の証文・家宝等を根香寺の仏殿に入れて去り、それを盗賊が奪おうとして仏殿に火をかけ、香西家累代の証文はもちろん本尊霊宝も焼失したと記します。
讃岐82番札所,根香寺本堂の写真素材 [FYI04863798] | ストックフォトのamanaimages PLUS
 
 根香寺本堂裏(北西方向)には、凝灰岩製の地蔵菩薩坐像があり、次のように記されています。

「弘治丙□二年宗春 禅門  □日」

ここからは、この地蔵さんが弘治2年(1556)に宗春によって寄進されたことが分かります。『讃岐国名勝図会』に、次のように記されている地蔵と同じもののようです。
古墳三基
本堂後の山にあり、土人、はらいたみの地蔵といふ、
一基は弘治二年禅門宗春とあり

宗春がどんな人物なのかは分かりませんが、年紀が入った資料として貴重です。
 根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査では、12世紀後半の2基の塚跡が並んで出てきたことは、先述したとおりです。ここには15世紀後半から16世紀の五輪塔が設置されています。この時期の根香寺では、石仏や石塔を用いた宗教活動が行われていたことがうかがえます。これらは以前に見た弥谷寺で、石造物の寄進がおこなされていたこととつながるものを感じます。弥谷寺に隣接する天霧城を居城とする香川氏が五輪塔を造立し続けているのと重なります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正 
天正15年(1587)、生駒親正は、豊臣秀吉から讚岐国15万石を与えられて国守として入部します。
これが讃岐の戦国時代の終了で、近世の始まりになると研究者は考えています。根香寺の復興が始まるのもこの時期で、生駒親正の子である一正は、慶長年間(1596~1615)に根香寺の堂字を再建して良田を寄進したと伝えられます。寺領高は18石余です。生駒一正のもとで、根香寺も以前に見た弥谷寺も復興の道を歩み始めます。これは、阿波や土佐に比べると、復興のスタートが早かったようです。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重
 寛永17年(1640)の生駒騒動によって生駒高俊が讚岐を没収された後、東讃岐12万石を与えられたのが松平氏です。
高松藩初代の松平頼重は、いくつかの宗教戦略をもっていました。そのひとつが真言王国の讃岐に天台宗の寺院を復活させるという政策です。いざという時に真言勢力へのくさびとしての役割を期待していたのかも知れません。その代表寺院が根香寺と長尾寺になります。長尾寺については以前にお話ししたので省略します。
 根香寺に対しては承応2年(1653)に本堂を再興し、天台宗に改宗させて聖護院門跡の末寺としています。そして根香寺の境内整備を進めます。延宝年間(1673~81)、頼重は住持龍海に命じて新たに金堂・護摩堂・祖師堂及び僧房・眠蔵・資具をつくらせています。さらに延宝4年(1676)には、千手観音堂の再建を行い、寺領加増を行い30石にしています。その上に頼重は、大師袈裟や什物等の修理も行って、四大明王像を造像して、不動明王像とあわせて五大尊としたと伝えられてきました。しかし、近年の解体修理で四大明王は頼重の隠居屋敷のプライベートな祈念堂に安置されたもので、彼の死後に根来寺に移されたことが分かっています。

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松平頼重が京の仏師に作らせた四大明王(根香寺)

 頼重は、正月・5月・9月に国家鎮護のために五大尊護摩法を修するように命じたとされます。研究者が注目するのは、この祈祷が「殿様御安全之御祈祷」として、以後も継続して行われたことです。こうして根香寺は、高松藩における有力な祈祷寺院に位置づけられていきます。

P1120199根来寺 千手観音
千手観音(根香寺)

 根香寺では、髙松藩によって命じられた五大尊護摩法が年に3回行われたほかにも、33年に1度、本尊千手観音が開帳されます。こうして根香寺は松平藩の保護を受けながら、庶民の信仰も集めるようになります。これは頼重が金毘羅大権現を保護し、境内整備を重ねて、庶民を引き寄せ、庶民化していくのと同じやり方です。
 承応2年に澄禅が記した『四国遍路日記』には、長尾寺を参詣した際の記事として次のように記します。

「当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺。根香寺。志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

 ここからは、根香寺が高松周辺の七観音の一つとして庶民にも崇敬されていたことが分かります。このように高松藩主をはじめ、庶民の信仰を集めた根香寺でしたが、享保3年(1718)に罹災し、護摩堂・客殿・玄関・眠蔵・庫裏を焼失します。
その際に縁起や山図なども失ったと云います。その後の根香寺では、堂宇再建が大きな課題となります。焼失から約20年後の元文2年(1737)の正月18日から9月17日まで、住持俊海は高松の蓮花寺で本尊千手観音の出開帳を実施しています。これは復興資金の調達を目的としたものと考えられます。その時のことが次のように記します。
「当寺観音堂護摩堂其外及大破難捨置御座候、然共自カニ而者修覆茂難仕候」

意訳変換しておくと
「当寺の観音堂や護摩堂など其外の堂宇も大破しているが、捨置れたままである。しかし、自カで修復することは困難である

ここからは大火から20年経っても復興途上にあったことが分かります。根香寺復興は順調には進まなかったようです。

当時の住持俊海は、寺の縁起『根香寺略縁起』も著しています。その時期はよく分かりません。が、俊海の住職期間は享保17年~寛保元年(1741)ですので、この期間のことと思われます。おそらく享保3年の火災で縁起が失われたので、新たな縁起作成をおこなったと研究者は推測します。
髙松での出開帳から3年後の元文5年は、智証大師850回忌に当たります。この年には、智証大師の誕生地である金倉寺でも法会が行われ、根香寺も参加しています。同年に実施された智証大師像の修復も、智証大師850回忌の関連行事として行われたことが考えられます。さらに云えば先の出開帳や縁起作成なども、この回忌にあわせて住持俊海が取り組んでいた一連の記念行事だった可能性を研究者は指摘します。
  俊海から代替わりした住持受潤は、延享3年(1746)に、新たな縁起作成と寺内整備に着手します。
こうして出来上がるのが同年5月に完成した『青峰山根香寺記』です。この縁起は、円珍と地主神の市瀬明神が出会って、根香寺が草創されたというストーリー性をもった縁起で、それまでの『根香寺略縁起』とはひと味違うものに仕上がっています。復興資金の勧進活動のためには、人々の関心をひく物語性のある縁起が求められていたのかも知れません。このあたりは善通寺本堂の勧進活動に見習ったようにも思えます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図

 一方、同年8月には五代藩主松平頼恭と住持受潤のもとで、鎮守社(「山王新羅護法三所」)が建造されます。
寛延4年(1751)には、大政所を願主として二王尊像がつくられますが、この費用は郡中からの寄附25両、先住の良遍と笠居村小政所からの寄附10両でまかなわれています。根香寺が地域の有力者の支援を受ける寺に成長していたことが分かります。これは、以前に見た弥谷寺でも同じことでした。多度津藩の祈祷所となることで、弥谷寺は地域の大庄屋や庄屋、村役人などのイヴェント集会所となり、彼らの支援を受けるようになり、いつしか菩提寺的な役割を引き受けるようになります。そして、祖先供養の墓標を弥谷寺に建てるようになります。それは、地域の有力者が弥谷寺の保護・支援者となるプロセスでもありました。地域有力者の支援を受けるようになるための前提には、藩のお墨付きが必要だったようです。

根香寺 緒堂変遷表
根香寺境内緒堂変遷表

 宝暦4年(1754)には五大尊堂と智証大師堂が再建され、千手観音堂の修復も行われています。
恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50
五大尊堂の明王たち(根香寺)
諸堂の修飾は頼恭が領内の人別銭によってつくらせたと云います。このように頼恭の保護のもとで寺内整備が大きな進展をみせたようです。
 その後は、同8年に、住持玄詮のもとで本尊千手観音宝前の「石雁」が造営されます。「石雁」が何をさすのか分からないようですが、大型の石造構造物と推測され、この造営はかなりの大規模事業で、郡内の多くの人々の協力があったようです。こうして、根香寺は地域の人々の寺として、人々の流す汗で整備が行われていくようになります。
以後のイヴェントや行事を見ておくことにします。
明和4年(1767)2月1日から4月28日まで、30年毎の本尊千手観音の開帳が行われます。この時には、領分へ仏飩袋を配り、それによって得られた寄銀で建物・屋根等の修復も行われています。寛政8年(1796)には、住持玄章のもとで、五大尊堂・智証大師堂の修復が行われます。諸堂の修飾については、松平頼起が領内の人別銭で造らせたと伝えられます。頼起は同4年に没しているので、生前に諸堂の修復が命じられていたことになります。

 近代の根香寺
江戸時代に興隆した讃岐寺院の多くは、明治初年の廃仏毀釈の動きの中で寺領没収など経済的な打撃をうけることになります。特に白峰寺の被害は大きかったことは以前にお話ししました。根香寺も、その例にもれなかったようですが、史料的にはまだよく分からないようです。
近代根香寺の興隆に努めた人物として『下笠居村史』に紹介されているのが青峯良覚です。
良覚は明治33年に薬師寺から転住し、昭和19年に総本山塔頭光浄院へ転住するまで約40年近く根香寺住職をつとめています。その間の業績は以下の通りです。
大正14年(1925)に、当山中興開山にあたる龍海の200回忌を記念して水かけ地蔵を安置
昭和6年(1931)に「当山開基一千百年」を記念して役行者立像を安置
昭和19年(1944)に総本山園城寺執事長兼会計部長、
昭和23年に園城寺宗管長を歴任
昭和29年に帰住
『下笠居村史』によれば、戦後の農地改革や国営開墾などがあった混乱期に根香寺復興に努力したのもこの良覚であったといいます。彼を中心として近代の根香寺は維持されたと評価しています。
戦後の根香寺において、研究者が注目するのが本尊千手観音像と、安置場所である本堂をめぐる動きです。
昭和30年(1955)に、本尊千手観音像が重要文化財に指定されます。加えて昭和41年からは本堂の解体修理が行われ、4年後の45年に改修を終えます。この本堂の改修は、本尊千手観音像の30年毎の開帳にあわせたもので、一段上の敷地を造成して回廊を巡らせ、その敷地中央上部に本堂を移築するという大規模なものになりました。それが現在の伽藍配置につながることになります。また大師堂の改修も行われ、同じく昭和45年に本堂とともに改修を終えます。本堂安置の本尊千手観音像の開帳は、平成15年(2003)に実施されています。

最後に根香寺と遍路の関係について見ておきましょう。
根香寺に遍路関係資料が出てくるのは、江戸時代中期になってからのようです。宝暦12年(1762)9月の棟札があり、ここには常接待堂と茶料田4反余が寄付されたことが記されています。勧進者は根香寺住持玄詮、施主は香西村の吉田屋嘉平衛です。天保4年(1833)の『青峰山根香寺由緒等書上控』には「茶接待所」と記されています。弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』には、「茶堂(石階の半途にあり)」と記されます。ここからは宝暦12年以来、継続して根香寺の接待堂で遍路接待が行われていたことがうかがえます。

根香寺 讃岐国名勝図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺 仁王門前に茶屋・境内中程に茶堂

 19世紀になると大坂からの金毘羅詣客が急増します。
金毘羅信仰の隆盛を背景に、金比羅金光院は境内整備を進めます。それが西日本一の大建築物「金堂(現旭社)」の建立です。計画から約30年間の工事期間を経て、19世紀半ばに金堂は姿を見せ始めます。金堂整備と同時に進められたのが石段や玉垣・石畳の整備です。これらは周辺の参拝客の寄進で行われます。このやり方は周辺寺院でも取り入れられていきます。
文政13年(1830)につくられた根香寺の玉垣にも、寄進した多くの人々の名が刻まれています。
その中には、根香寺周辺地域の人々はもとより、志度・小豆島・倉敷・大坂などの海を越えた遠方の支援によって玉垣が造立されたことが分かります。研究者が注目するのは、この玉垣の造立に次のような接待講も参加していることです。
「香西釣西本町摂待講中」
「木沢村摂待講中」
「生島摂待講中」
これらの遍路接待を行う講集団が先頭に立って玉垣を造立したようです。香西、木沢、生島は根香寺周辺の村です。それぞれの地域において講を組織した人々が、根香寺のために遍路接待に奉仕していたことが分かります。
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根香寺への遍路道
第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺までの遍路道は、今でもその雰囲気が良く残っています。
しかし、江戸時代には遍路を悩ませる難所として知られていたようです。『金毘羅参詣名所図会』には、次のように記します。
「白峯寺と根香寺をつなく道は、50余町にわたって山道で、南に位置する新居村を除けば他に人家がなく、足弱の遍路はここに悩むことが少なくない」

 実際に、根香寺の墓地には遍路墓もあって、行き倒れた遍路者も少なくなかったようです。そこで天保9年、この区間の間に笠居村香西郷などの「信心同士の輩」が吉水茶堂や草屋を建てて往き暮れた者を泊めたと云います。これも根香寺の遍路への接待のひとつでしょう。
 『青峰山根香寺由緒等書上控』には「休所」の記載があります。
この「休所」は参詣人や遍路を対象として申方向・丑方向・亥方向にそれぞれあったもので、次のように記します。
「右ハ山上之義殊人家遠ニ而参詣人井四国辺路等休息所無之、大二難渋仕候間、前々ヨリ有来申候所及破壊二、当時取除置御座候

かつては参詣人や遍路のためにあったようですが、天保4年以前に壊れて取り除かれたようです。
この他には、根香寺境内に天保9年の接待講碑があります。
「永代寒中摂待」とあるので、高松や香西の講員が永代にわたって冬期に接待をおこなうことを宣言したものです。供養導師は西光寺の法印良諦で、香西に所在する真言宗寺院の西光寺が関わっています。先に見た吉水茶堂の完成と同じ年にあたるので、この時期には香西の人々がさかんに接待の活動をおこなっていたことがうかがえます。

  以上をまとめておくと
①根香寺創建については、「空海創建=円珍(智証大師)中興」説と「円珍単独創建説」にふたつがある。
②根来寺は五色台という行場に形成された山林寺院のひとつであり、白峰寺や国分寺と「中辺路」ルートで結ばれていた。
③そこには熊野行者や高野聖、時衆念仏聖など廻国の修験者たちが滞在し、活動の拠点となっていた。
④そのため宗教的には熊野信仰 + 浄土=阿弥陀信仰 + 時衆念仏信仰 + 弘法大師信仰などが混じり合う混沌とした世界を形成していた。
⑤中世末から近世初頭にかけては、高野聖たちによって高野山信仰や弘法大師信仰が強くなり、根香寺は真言化を強めた。 
⑥それに対して髙松藩初代藩所の松平頼重は、政策的な理由から根香寺を真言宗から天台宗に改宗させ、保護化した。
⑦天台改宗後に作られた縁起には「円珍単独創建説」が強く打ち出されるようになった。
⑧髙松藩の祈祷寺として整備され、保護を受けるようになった根香寺は、地域の有力視の支持を受けるようになり、庶民の支持も集めるようになった。
⑨四国遍路が活発化する江戸後半期になると、周辺の民衆は根香寺のサポーターとして遍路接待を活発に行うようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」
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女体山
大窪寺から女体山への四国の道をたどると奥の院
「四国遍礼霊場記」(寂本 1689年)には、大窪寺の奥の院のことが次のように記されています。
(前略) 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。

D『四国遍礼名所図会』(1800)には、次のように記されています。
奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀後半には、本堂から18町(約2㎞)登った岩屋に奥の院があり、阿弥陀と観音が安置されていたこと
②弘法大師虚空蔵求聞持法修行地とされ、井戸があったこと。
③それから約110年後の18世紀末には、訪れる人もなく荒れ果てていたこと。

大窪寺 奥の院
大窪寺奥の院
 大窪寺境内から四国の道に導かれて約2 kmほど登ると奥の院に着きます。お堂とは思えないような建物が岩壁を背負って建っています。現在の奥の院の建物は、屋根はトタン葺き、内部は十畳ほどの畳敷の奥に岩窟があり、堂は岩窟に取り付くように建てられています。両側の壁はコンクリートブロックで岩窟と連結されています。

大窪寺奥の院 内側
大窪寺奥の院の内側
畳敷の奥の岩窟は、三段になっていて、上段に1体、中段に3体、下段に2体、全部で6体に石仏たちが安置されています。前面には祭壇が設けられ、かつては行が行われていたことがうかがえます。この6体の石仏について、研究者が調査報告しています。今回は、この報告を見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」です。

奥の院の堂内に安置された石仏たちを見ていきましょう。
大窪寺奥の院 石仏配置
大窪寺奥の院の石仏
(1)阿弥陀如来坐像 砂岩製  高さ38.5cm、幅29cm、奥行25.5cm
一番上に上に安置されているのが阿弥陀如来坐像のようです。研究者は次のように指摘します。

大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座と一石で製作されており、背面は蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。
脚部前面の一部が欠失しており、蓮華座の一部も欠損しているが、欠損部は石仏横に置かれている。印は定印を結び、肉醤が小さく、髪際中央部のラインが上方に切れ込んでいる。また、白眉、三道を表現している。
 (2)十―面観世音菩薩坐像 砂岩製  高さ37cm、幅29cm、奥行25.5cm

大窪寺奥の院 十一面観世音
中段左側の十一面観世音菩薩坐像
研究者の指摘は次の通りです。
阿弥陀如来と同じく、丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座も阿弥陀如来坐像と同じく、一石で製作されており、背面には蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。左手は、水瓶を持たず、直接蓮華を持っており、右手は掌を正面に向けた思惟印を結んでいる。蓮華の花部は三弁の簡易な形態を示してる。頭部は、上下三段に突起があり、上段に3つ、中段に2つ、下段に5つの合計10個認められ、正面の顔面を含めて十一面を表現している。体の特徴としては、首から肘にかけて傾斜して広がり、両肘部が胴部の最大幅となる。三道、条吊、腎釧、腕釧、右足を表現している。

(3)弘法大師坐像 砂岩製  高さ37.5cm、幅29.5cm、奥行き25.5cm
大窪寺奥の院 弘法大師
ふたつの弘法大師像

中段右側に安置されている小さい弘法大師坐像(3)です。阿弥陀如来と同じように、丸彫仏で背面の表現は見られませんが、背面には刺突状の工具痕が見えるようです。左手には数珠、右手には金剛杵を持っていて、弘法大師坐像のお決まりのポーズです。よく見ると、金剛杵を斜めに持っています。
(4)弘法大師坐像 砂岩製 高さ57.5cm、幅40cm、奥行き30.5cm
中段の真ん中に置かれた大きい弘法大師坐像(4)です。丸彫仏で、背面には法衣を表現しています。左手には数珠、右手には金剛杵を持つ、弘法大師坐像の一般型です。3の小さな弘法大師坐像とちがうのは、金剛杵を水平気味に持っていることだと研究者は指摘します。
(5)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ37cm、幅20.5cm、奥行10.5cm

大窪寺奥の院 地蔵菩薩
下段の左側に安置されている地蔵菩薩立像(5)で、舟形光背型を背負っています。
これについては研究者は次のように指摘します。
簡略化された蓮華座が特徴的で、地蔵菩薩を半肉彫で表現している。目と口は線刻で簡易的に表現されている。両手は突線で簡易的に表現されており、腹前で合掌している。衣文の装は斜め方向の線刻で表現されている。像の周囲には刺突状の工具痕が残るが、光背形の縁辺部は幅1.5cm~2 cmで工具痕は認められない。

「突線で表現された両手、簡易で特徴的な蓮華座、正面の像の周囲に残る刺突状の工具痕」という特徴から、研究者は16世紀末~17世紀前半の特徴が見えるといいます。線刻による小さな目、口の表現などは、高知県に多く、讃岐では見つかっていないタイプだと云います。
 この石仏が作られた16世紀末~17世紀前半は、讃岐では生駒氏によって戦国の争乱に終止符が打たれて、生駒氏の保護を受けた弥谷寺などでは復興が始まる時期になります。以前お話しした弥谷寺では、採掘された天霧石で、大きな五輪塔が造られ、生駒氏の墓標として髙松の菩提寺などに運び出されています。ここからは大窪寺が、生駒氏の保護を受けられずに、独自の信仰集団を背後に持っていたことをうかがえます。大窪寺には独特の舟形光背型石仏が持ち込まれていることになります。


(6)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ49cm、幅28cm、奥行き16cm
大窪寺奥の院 地蔵菩薩6


下段右側に安置されている地蔵菩薩立像(6)になります。形は左側と同じで舟形光背型ですが、直線的な立ち上がりで、角部の屈曲のが五角形です。半肉彫の地蔵菩薩を掘りだしたスペースは光背幅の1/3程度です。このタイプのものは19世紀ごろの特徴だと研究者は指摘します。下の蓮華座は、近世の丸彫石仏や近世五輪塔の蓮華座に共通する精級なものです。蓮華座下の突出部のスペースが広く、稜線によって3面に仕上げている点も特徴的なようです。

この地蔵菩薩には、次のような文字が掘られています。
右側「嘉永庚戊戊夏日 為先祖代々諸霊菩提」
左側「岩屋再営 施主 柿谷 澤女」
突出部正面に「幻主 慈心代」
ここからは、この石仏を寄進したのは、柿谷に住む澤女で、岩屋再営とあることから奥の院の堂宇の再建を行い、先祖供養のために嘉永3年(1850)に造立したことが分かります。「幻主」が何かしら気になる表現です。「奥の院の仮庵主である慈心代」という意味と研究者は考えているようです。慈心は、「大窪寺記録」には、第27代住持として記載がある人物ですが、位牌はなく、いつ亡くなったかなどは分かりません。位牌がない場合に考えられるのは、転院や退院した住持かもしれないということです。また、柿谷は地名のようですが、周辺にはない地名です。四国内で探すと、阿波国に柿谷という地名があるようですが、よく分かりません。
 どちらにしても、幕末に奥の院の堂宇が大窪寺の住職の手で行われ、その成就モニュメントしてこの地蔵菩薩が寄進されたようです。

大窪寺奥の院の石仏2
大窪寺奥の院の石仏

以上から奥の院堂内の石仏について、研究者は次のように考えているようです。
①阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は法量がほぼ同じであること
②阿弥陀如来坐像(1)と十一面観世音書薩坐像(2)の蓮華座が類似すること
③3基ともに背面を省略することなどのの共通点がみられること
以上から、この3体の石仏は、同時期に作られたものと考えます。そして製作時期については、近世のものであるとします。中世のものではないというのです。
 私は元禄2年(1689)『四国偏礼霊場記』に、「奥院あり岩窟なり、・…本尊阿弥陀・観音也」と記されているので、これが奥の院にある現在の阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)を指しているものと思っていました。そして中世に製作されたものと思っていたのですが、研究者は、「(現)石仏を指している可能性はあるが、時期の特定が難しいため、現時点で断定はできない。」と慎重な判断をします。
④ふたつある大小の弘法大師坐像(3)(4)は、法量・形態・特徴が異なるので製作時期がちがう。製作時期の先後関係も現時点では判然としないと、これも慎重です。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像(5)は、16世紀後半~17世紀前半の特徴があり、似たような様式の者が高知県には多くあるようですが、香川県内では見られない珍しいタイプになるようです。これは、大窪寺の信者や属した寺社ネットワークを考える際に興味深い材料となります。
以上の材料をどのように判断すればいいのでしょうか?

  奥の院には、現在は6つの石仏が安置されていることになります。
大窪寺奥の院 石仏配置

 その配置をもう一度確認しておきます。私が注目したいのは、一番上段に安置されているのが①阿弥陀如来だと云うことです。そして、その下に十一面観音と弘法大師像2体、一番下に地蔵菩薩という配置になります。これと同じような石仏のレイアウトが、以前紹介した弥谷寺の獅子の岩屋にあったことを思い出します。
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が彫りだされています。
P1150148
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏レイアウト

壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 その手前に、弘法大師・母玉依御前・父佐伯田公、その前に大型の弘法大師像があります。ここにも弘法大師像は大小2つありました。
P1150157
        弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏
側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。しかし、ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、研究者は大日如来ではなく地蔵菩薩と考えるようになっています。つまり、弥谷寺の獅子の岩屋の仏たちは「阿弥陀如来+弘法大師2体+弘法大師の父母、+地蔵菩薩」という構成メンバーになります。これは大窪寺奥の院の仏たちとメンバーも配置よく似ています。
 ここからは、大窪寺においても次のような宗教的な変遷があったことが推測できます。
①念仏聖や高野聖たちによる浄土=阿弥陀信仰
②志度寺・長尾寺など同じ観音信仰
③近世になっての弘法大師信仰
江戸時代になって、本山=末寺関係が強化されることによって、大窪寺も高野山の影響を強く受け、その管理下に入っていくようになります。同時に、四国霊場の札所としての地位が確立するにつれて、次第に①阿弥陀信仰は払拭されていきます。しかし、伽藍から遠く離れた奥の院では、阿弥陀仏が一番上に祀られ、礼拝されていたと私は考えています。幕末になって、大窪寺の住職が奥の院を修復し、地蔵菩薩を新たに安置する時にも、最上段の阿弥陀仏の位置を動かすことはなかったのでしょう。
冒頭でD『四国遍礼名所図会』(1800)には、「奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。」と記されていること紹介しました。しかし、大窪寺の住職が奥の院を改修し、新たに地蔵菩薩を寄進しているとすれば、奥の院は大窪寺のルーツとして忘れられていたわけではなかったことになります。

以上をまとめておくと
①大窪寺奥の院には、弘法大師が虚空蔵求聞持法の修行を行ったという伝説がある。
②奥の院には、現在6体の石仏が安置されている。
③この6体の中で、阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は、同時代のもので中世に遡ることはない。
④ふたつある大小の弘法大師坐像も先後をつけることは出来ないが近世のものである。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像2体のうちの(5)は、16世紀後半~17世紀前半のもので、土佐タイプに似ていて、讃岐では珍しいものである。
以上から奥の院には、時代順に 阿弥陀・地蔵信仰 → 観音信仰 → 弘法大師信仰のモニュメントとして、これらの石仏が安置されたと私は考えています。
88番 大窪寺 奥の院 胎蔵峯寺 全景 御影 御朱印 案内八丁とある) 案内 登り 案内 休憩所から下を見る 内部 脇の地蔵尊 脇の地蔵尊  四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ1 四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ2 タイトルに戻る 遍路の目次に戻る 四国八 ...
大窪寺奥の院胎蔵峰寺の本尊は、阿弥陀如来

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」

  大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷図
前回は、大窪寺の江戸時代の伽藍変遷を残された絵図から見てきました。その結果、本堂の位置は動いていないけれども、阿弥陀堂や大師堂などその他の建造物は江戸時代前半と、後半では移動していることが分かりました。今回は、現存する大窪寺の堂宇を見ていくことにします。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置図
テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」です。
大窪寺 本堂上空図
大窪寺の本堂と多宝塔(奥殿)

まずは 本堂・中堂・奥殿です
大窪寺の本堂は、正面に立って見ると分からないのですが上から見ると変わったレイアウトをしていることが分かります。本堂の後に奥殿(多宝塔形式)があり、中殿が二つの建物を繋いでいます。つまり三段構えになっている念入りな本堂です。この配置は前回に見た江戸時代の絵図には出てきませんので古いものではなく、明治33年(1900)の火災後に姿を見せた建物のようです。飛鳥様式が残るとされる本尊の薬師如来が座っているのは、奥の多宝塔です。

4大窪寺薬師正面
飛鳥様式の残る薬師如来坐像(大窪寺)

このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
   多宝塔の薬師如来坐像を礼拝するのは、中堂からになります。本堂と中堂が礼堂的な役目をし、後方の奥殿(多宝塔)が内陣的な役目を果たしていることになります。
大窪寺 本堂平面図
大窪寺本堂・中堂・奥殿(多宝塔)の平面図
本堂をもう少し詳しく見ておきましょう
本堂は、奥殿の礼堂としての機能を持ち、正面二間を土足で礼拝部、奥三間を法要時の着座作法の外陣として使用されていたようです。そのため内部には本尊がないようです。本堂と奥殿とを繋ぐ中殿は、本堂背面の中央間に合わせて桁行三間を接続、中央に法要具足を配置して、奥堂本尊を礼拝することになります。
本堂・中堂・奥殿は、明治33年(1900)に本堂が焼失した後に新築されたものです。
前回見たように江戸時代に書かれた『四国偏礼霊場記』(承応2年,1689)、『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年1854)には、本堂しか描かれてなかったのは見てきた通りです。ただ、次のように記されていました。
「四国遍路日記」(承応2年,1653)に
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。
『四国偏礼霊場記』に
多宝塔去寛文の初めまでありしかど倒れたり。
これらの記事から明治の再建新築の際に、多宝塔の再建が計画され、参拝や法要時の利便を考えて本堂と一体の拡張新築となったと研究者は考えているようです。
 本堂の構造について、研究者は次のように指摘します。
本堂は向拝から正面二間分の外礼堂までは、軸部・組物に伝統的な様式を採用しているが、後方三間では中堂も含めて、柱が直接桁を受けて組物を省略、奥堂平面では正面は三間とする。側面は四間、内部四天柱内須弥壇を置かず後方にずらし、周囲に畳敷きを採用、当初から軒下張り出し部を作り位牌壇を設けるなど、内部の構成は本堂としての機能が優先している。また上層組物は三手先組みにするなど、本来の様式から少し違うものに変更されている箇所が見られる。近代化を図るなかでの伝統建築の保全。活用の一形態を示しており、今後の一指針となり得るものである。

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大窪寺 旧太子堂(現納経所)

旧大師堂は、昭和になって境内西側に新たに現在の大師堂が建設されたので、納経所に改められたようです。
『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年,1854)に描かれている大師堂と同じ位置にあります。
明治33年の大火で、大窪寺は本堂以外にもほとんどの堂宇を失ったようです。旧太子堂も、その後に再建されたものです。
研究者は大師堂について次のように指摘します。
背面軒下に仏壇、来迎柱が半丸柱、内部頭貫の省略と、近世から近代への変化が見られる。納経所に改装された際には各部補修や改変があったようである。内部後方の間仕切りや、外部サッシヘの変更、床組みの改修等が行われているが、その他軸部。組物・天丼や背面仏壇廻りは明治再建のものであろう。


大窪寺阿弥陀堂

阿弥陀堂も本堂・旧大師堂と同じように明治33年(1900)に焼失し、再建されたもののようです。
『四国遍礼名所図会』では建物は描かれていますが、本文中では「護摩堂、本堂に並ぶ」とあって、阿弥陀堂が出てきません。のちの『讃岐国名勝図会』では、再び「アミダ堂」となっています。高野山での念仏聖の追放と阿弥陀信仰弾圧が地方にも影響をもたらしていたのでしょうか。何かしらの「勢力争い」の気配はしますが、よく分かりません。
大窪寺 阿弥陀堂
大窪寺阿弥陀堂(調査報告書より)
研究者は次のように指摘します。
建物は、向拝に組物を組み、母屋正面中央間内法に虹梁を入れて諸折桟唐戸で装飾性を高めてはいるが、母屋柱上は側桁を直接受け、内部天丼も悼縁天丼など、比較的簡素な建物である。柱の大面取や建具、向拝廻り垂木の扱いなど、大師堂より近世の様式が窺われる建物である。
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大窪寺二天門

二天門は明治の大火から唯一免れた建物のようです。
大窪寺  讃岐国名勝図解
『讃岐国名勝図会』(1854年)
『四国遍礼名所図会』(1800年)に描かれている楼門と同じように見えます。『讃岐国名勝図会』には二王門の表記があります。絵図資料からは、この建物が『四国遍礼名所図会』(1800年)が書かれる以前に建てられたいたことを示します。
研究者は、次のような時代的特徴を指摘し、建立年代を示します。
①上部側廻りが吹き放し
②中央柱間貫に吊り環状の金具があり
③正面中央間柱内側に撞木吊り金具状のものが残る。
④正面腰貫が入れられてない
以上から、寺伝にいう明和4年(1767)には二天門が建立され、梵鐘が吊られた可能性もあるとします。しかし、細部の様式からは18世紀の中期建立は想定しにくく、どちらかというと19世紀になって建てられたといってもでもおかしくない建物だと考えているようです。
現在の二天門の上層には外部柱間装置の痕跡が見られません。それは、当初から梵鐘を吊ることを想定して建立されているからです。すでにそれまであった門に仮に鐘を釣り込んで、後に新たに建造された可能性もあると指摘します。
大窪寺 二天門
大窪寺二天門
二天門の組物については、次のように述べています。
下層組物は側廻り柱上に大斗を置いて、四周縁葛を受ける絵様肘木を乗せている。正背面中央間頭貫下正面には「龍」、背面には「獅子」の持ち送りが入る。その他中央仕切り上の虹梁中央に暮股を入れ、正背面中央間の頭貫上に天丼桁を受ける斗を置くのみである。上層柱上は平三斗組み、実肘木で、側桁を受けている。両妻は化粧母屋桁下、前包み水切り上に三斗組み、実肘木を組み、化粧母屋と同高に虹梁、中央は大瓶束のみとして棟木を受ける。

第88番大窪寺(おおくぼじ)

かつて女体山には年に2回はテントとシュラフをザックに担いで、長尾側から登っていました。山頂の東屋で「野宿」したことも何度かあります。この山が修験者たちの行場であったことは、山を歩いているとうすうすは感じるようになってきました。しかし、私の中では、それと麓の大窪寺がなかなかつながらなかったのです。
 整備された四国の道を通って南側の大窪寺に下りていくと、見事なもみじの紅葉が迎えてくれたことを思い出します。しかし、その伽藍は威風堂々として、若い頃の私は違和感を覚えたものです。その原因がこの寺の堂宇が二天門を除いて、ほとんどが近代になって作られたものであることに気づいたのは最近のことです。明治の大火で大窪寺は、ほとんどを失っているのです。その後の再建計画と復興への動きを知りたくなりました。しかし、手元にはその史料はありません。・・・

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」

  医王山大窪寺絵図
大窪寺絵図

 大窪寺の創建とその歴史については、よく分からないようです
『大窪寺縁起』には奈良時代の養老元年(717年)に行基の開創であり、平安時代になり、弘仁六年(815)に弘法大師が現在の地に再興したとされます。「行基創建=空海中興というのは、由来が分からないと云うことや」と私の師匠は教えてくれました。根本史料となる古代・中世の史料はないようです。
 弘法大師の弟子である真済が跡を継ぐと、寺域は百町四方、寺坊は百宇を数え、外門は寒川郡奥山村・石田村、阿波国阿波郡大影村、美馬郡五所野村にあったと、広大な寺域を保有していたと近世の史料は記しますが、これも信じるに足りません。現在の寺域や旧寺域とされる場所からは、中世の古瓦が出土していますが、古代にさかのぼるものはないようです。冒頭に示した「大窪寺絵図」も、これが実際の大窪寺を描いたものとは研究者は考えていません。
 しかし、以前に紹介したように香川県歴史博物館が行った総合調査では、次のことが分かっています。
①本尊の薬師如来坐像が飛鳥・天平様式で、平安時代前期のものであること
②弘法大師伝来とされる鉄錫杖が平安時代初期のものであること
ここからは大窪寺の創建が平安時代初期にまで遡れるの可能性は出てきたようです。しかし、本尊や聖遺物などは後世の「伝来品」である可能性もあるので、確定ではありません。弥谷寺・白峰寺などに比べると中世の史料が決定的に少ないのです。
4大窪寺薬師正面
薬師如来坐像(大窪寺本尊)

今回は、江戸時代に大窪寺を訪れた巡礼者が記録した4つの史料に大窪寺が、どんな風に記されているのかを見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会」です。
近世になると、四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、大窪寺に関する記述が出てきます。その代表的なものが以下の4つです。
A『四国辺路日記』 (澄禅 承応二年:1653)
B『四国辺路道指南』 (真念 貞享四年:1687)
C『四国偏礼霊場記」 (寂本 元禄二年:1689)
D『四国遍礼名所図会』 (寛政十二年  :1800)  
Aから順番に見ていくことにします。   
四国辺路日記 : 瀬戸の島から
  
A『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来 堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同大師五筆ノ旧訳ノ仁王経在り、紺紙金泥也。扱、此寺ニー宿ス。中ノ刻ヨリ雨降ル。十三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリくテー里斗往テ長野卜云所二至ル、愛迄讃岐ノ分也。次ニ尾隠云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリー里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切畑(ママ)迄五里也。以上讃州一国十三ヶ所ノ札成就事。

  意訳変換しておくと
大窪寺の本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが半ば破損している。この寺も昔は七堂伽藍が備わり、十二の坊があったが、今は午縁所で本坊だけで住職はいない。また、弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経があり、紺紙に金泥で書かれている。
 この寺に一泊した。申ノ刻(三時頃)から雨になった。十三日に、寺を出発して谷河沿いに下って行ったが山中は細道で谷底なので、闇夜で道に迷ってしまった。ようやく一里ほど下って長野という所についた。ここまでが讃岐分で、次の尾隠からは阿波分になる。ここからー里程行くと関所がある、また一里行くと山中を抜けて開た所に出た。切畑(ママ)迄五里である。以上讃州一国十三ヶ所ノ札所詣りを成就した。
ここからは境内については、次のようなことが分かります。
①本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが破損状態
②昔は七堂伽藍、12坊があったが、今は本坊だけで住職はいない。
③弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経
①②の境内についての記述は、昔は七堂伽藍を誇っていたが今は本堂だけで、境内の西側に塔があるが、損壊していることが記されているだけです。 近世初頭の大窪寺は、まだ荒れていたことが分かります。生駒氏の援助を受けた讃岐の霊場が、復興の道を歩み出していた中で、大窪寺は遅れをとっていたのかもしれません。ただ、寺に宿泊したとありますので、阿波・土佐ののように「退転」という状態ではなかったようです。
四国お遍路|結願後のお礼参りとは?

澄禅の『四国辺路日記』の大窪寺の記述は、私たちの感覚からすると違和感があります。
それは、大窪寺が結願ではなく、阿波の切幡寺に向けて遍路を続ける姿が記されているからです。澄禅は、十七番の井戸寺から始めて、吉野川右岸の札所をめぐり、阿波から土佐、伊予、讃岐と現在とほぼ同じ順でめぐっています。そして、大窪寺から山を越えて阿波の吉野川左岸の十番から一番に通打ちして、一番霊山寺を結願としています。『四国辺路日記』では、霊山寺が結願寺となっています。
 また、現在のように阿波一番霊山寺を打ち始めとする者も、大窪寺で結願しても、そこがゴールとは考えられていなかったようです。阿波と讃岐の国境の山を越えて、十番の切幡寺から一番の霊山寺まで戻って帰るべきものとされていたようです。一番から十番まではすでに参拝しているのですが、もういっぺん大窪寺から逆打ちをして帰っています。つまり一番切幡寺から始めて、切幡寺で終わるべきものだとされていたようです。このように大窪寺が結願寺であるという認識は、この当時にはなかったことが分かります。それでは、いつごろから大窪寺が結願寺とされるようになったのでしょうか。それについては、また別の機会に・・・
四國遍禮道指南 全訳注 (講談社学術文庫) | 眞念, 稲田 道彦 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

B『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
八十八番大窪寺 山地、堂南むき。寒川郡。本尊薬師 坐三尺、大師御作。
なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
これより阿州きりはた寺まで五里。
○ながの村、これまで壱里さぬき分。
○大かけ村、これより阿州分。
○犬のはか村○ひかひだに村、番所、切手あらたむ。大くぼじ(より)これまで山路、谷川あまたあり。是よりきりはたじまで壱里。
意訳変換しておくと
八十八番大窪寺は山中にあり、本堂は南むき。寒川郡。本尊は薬師坐像で三尺、大師御作と伝えられる。
ご詠歌は なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
この寺から阿州切幡寺まで5里。○長野村ま2里で、そこまでが讃岐分。○大かけ村からは阿州分。○犬のはか村○ひかひだに村に番所があって、切手(手形)が点検される。大窪寺からここまでは山路で、谷川越が数多くある。ここから切幡寺までは壱里。
ここにも本堂だけしか出てきません。その他の建造物には、何も触れていません。澄禅の「辺路日記」から約30年ほど経っていますが、大窪寺の復興は、まだ進んでいなかったようにうかがえます。しかし、2年後の寂本の記録を見ると、そうとも云えないのです。

四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳) | 護, 村上, 寂本 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

C「四国遍礼霊場記」(寂本 元禄二年:1689)
    医王山大窪寺遍照光院
此寺は行基菩薩ひらき玉ふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給ヘリ。本尊は薬師如来座像長参尺に大師作り玉ふ、阿弥陀堂はもと如法堂也、是は寒川の郡幹藤原元正の立る所也。鎮守権現丼弁才天祠あり。大師堂、国のかみ吉家公建立し、民戸をわけて付られしとなりっ鐘楼鐘長四尺五寸、是も吉家の寄進なり。多宝塔去寛文の初までありしかど朴れたり。むかしは寺中四十二宇門拾を接へたりと、皆旧墟有。奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のぼる、本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独古をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。又大師いき木を率都婆にあそばされ、文字もあざやかにありしを、五十年以前、野火こゝに入て、いまは本かれぬるとなり。本堂より五町東に弁才天有。此寺むかし隆なりし時、四方の門遠く相隔れり、東西南北数十町とかや、今に其しるしありと也。
 
意訳変換しておくと
  この寺は行基菩薩の開山とされる。その後、弘法大師が中興して密教布教の道場となった。
本尊は薬師如来座像で、参尺あり、弘法大師作と云う。阿弥陀堂は、もともとは如法堂だったもので、これは寒川郡の郡幹藤原元正の建立した建物である。鎮守権現弁才天祠がある。大師堂は、国守吉家公が建立し、民戸を併せて寄進した。鐘楼の鐘は長四尺五寸、これも吉家の寄進である。多宝塔は寛文初め頃まではあったが、今は倒壊して失われた。むかしは寺中に四十二の堂舎があったというが、皆旧墟となっている。
 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。大師は、生木を率都婆にして、文字を残した。これもあざやかに残っていたが、50年前に山火事で、この木も枯れてしまった。本堂から五町ほど東に弁才天がある。この寺が、かつて隆盛を誇った時には、四方の門は、遠く離れたところにあって、伽藍は東西南北数十町もあったという。今もその痕跡が残っている。
ここからは次のようなことが分かります。
①阿弥陀堂はもと如法堂だった。
②境内の東に鎮守権現と弁才天が祀られている
③国守吉家公寄進の大師堂と鐘楼がある。
④寛文期までは多宝塔があったが今は壊れている
⑤境内から十八町上ったところに奥院があり、弘法大師が虚空蔵求聞持法行った跡である

ここには、国守吉家の寄進を受けて大師堂や鐘楼などが整備されたと記されています。しかし、国司古家や寒川郡の郡司藤座元正については、どういう人物なのか、よくわからないようです。東西南北に数十町を隔てて山門跡があるとか、多宝塔も寛文年間(1661~73年)まではあった、寺中四十二坊があったとも云いますがそれを裏付ける史料はないようです。冒頭の絵図をもとに、かつての隆盛ぶりがかたられていた気配がします。
大窪寺奥の院までは四国の道が整備されている

ここで始めて奥の院のことが出てきます。
 弘法大師が虚空蔵求聞持法を修行したと記します。弘法大師が阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行したことは史料的にも裏付けられます。大学をドロップアウト(或いは卒業)した空海が善通寺に帰省し、そこから阿波の大滝嶽や室戸岬に行くには、大窪寺を通ったことは考えられます。その時には熊野行者たちによって、修行ゲレンデとなっていた女体山周辺で、若き空海も修行した可能性はあるかもしれません。大窪寺の発祥は、行者が奥の院を聞いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本尊を下ろしてきて本堂を建てたということでしょうか。

大窪寺奥の院胎蔵峰寺 | kagawa1000seeのブログ
大窪寺奥の院 

奥の院については、岩壁を背にして、一間と二間の内陣に三間四方の外陣が張り出しています。中には、多くの石仏があります。内陣には、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。

大窪寺 奥の院の石仏
大窪寺奥の院の石仏

 奥の院は発祥地になりますので、奥の院の本尊阿弥陀が下におりだとすれは、阿弥陀堂がこの寺の根本になります。弥谷寺でもお話ししましたが、中世の高野山は全山が時衆の念仏僧侶に席巻されたような時代がありました。そのため高野聖たちは、浄土=阿弥陀信仰を各地で広めていきます。弥谷寺でも初期に造られた磨崖仏は阿弥陀三尊像でした。ここでも高野山系の念仏聖の痕跡が見えてきます。
 歴史のある寺院は、時代や社会変化や宗教的な流行に応じて本尊を換えていきます。行場を開いたのは熊野行者、その後にやって来た高野聖たちが念仏と阿弥陀信仰と弘法大師信仰を持ち込みます。弥谷寺の本坊は遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。その後、いろいろな坊の修験者たちやお堂が分離併合されて、現在の伽藍配置になったと研究者は考えています。 ここで押さえておきたいことは、奥の院の本尊は阿弥陀如来であったこと。それが下ろされて阿弥陀堂が建立されていることです。
 たどり着いた結願寺|お遍路オンライン:四国八十八ヶ所のガイド&体験記
本堂背後に見える岩場に奥の院はあります。

 奥の院には「逼割禅定」の行場と洞窟があります。
寺の後ろに聳える女体山と矢筈山は、洞窟が多いところです。大きな岩窟がお寺の背後の峰に見えていて、行場としては絶好の山です。女体山の東部には虎丸山を中心に三山行道の行場があります。虎丸山は標高373mで高くはありませんが瀬戸内海が見渡せる景色のいいところです。その麓に、水主神社の奥の院があります。ここも熊野行者たちによって開かれた霊山で、別当寺としての与田寺の修験者たちの拠点でした。増吽は、ここを拠点にして写経センターを運営し、広域的な勧進活動や熊野詣でを行っていたことは以前にお話ししました。増吽を中心とする、修験ネットワークは備中や阿波にも伸びていて、讃岐では白峰寺や仁尾での勧進活動を行っています。中世の大窪寺は、そのような与田寺のネットワークの中にあったのではないかと私は考えています。
 増吽には「①熊野詣での先達 + ②書経センターの所長 + ③勧進僧 + ④ 弘法大師信仰」などの多面的な面がありました。増吽や廻国の高野聖などによって、弘法大師信仰がもたらされ、奥の院に空海修行の伝承が生まれるのは自然な流れです。

「四国偏礼霊場記」には、奥の院について「大師(空海)いき木(生木)を卒都婆にあそばされ」とあります。
卒塔婆は、もともとは生木を立てたようです。現在でも、生木塔婆あるいは二股塔婆といって、枝の出たものや皮のついた生木をもって塔婆にする場合もあります。これは、神道からすると、神の依代として神簸を立てたのが変形したものです。そういうまつり方をしていたことがここからは分かります。また、生木に仏を彫り込むのも修験者たちのやり方です。それを空海が行ったと記します。
大窪寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の大窪寺挿絵

寂本による「四国偏礼霊場記」の本文中には、本堂とともに、阿弥陀堂(元は如法堂)、鎮守・弁才天、大師堂、鐘楼、多宝塔などが出てきます。挿図からは次のようなことが分かります。
①本堂(薬師)は現在の位置にあるが、大師堂や弁才天は本堂の東側に、阿弥陀堂は本堂の西側に描かれていること。
②現在の本坊の位置に遍照光院と記されていること
③阿弥陀堂の西側に「塔跡」と記されていること。これが寛文の初めごろまであったと本文中に書かれている多宝塔跡のことか?
④現在は本堂の東側にある阿弥陀堂が、西側にあったこと
⑤この絵図では鎮守・弁才天は、境内には描かれていないこと。

D『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)        
八十八番医王山遍照院大窪寺 切幡寺へ五里霊山寺へ
当山は行基菩薩の開山とされ、その後に弘法大師が復興してと言われる。
詠歌、南無薬師しょびやうなかれと願ひつゝまいれる人ハあふくぼのてら
本堂の本尊は薬師如来座像で二尺、大師のお手製である。護摩堂は本堂に並んであり、大師堂は本堂の前にある。奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
谷川が数多くある。五名村に一宿。
十六日 雨天の中を出立。長野村の分岐を右に行くと切幡寺、左が讃岐の白鳥道になる、山坂、仁井の山村の分岐は左が本道であるが、大雨の時は右を選んで、川沿いに行くこと、谷川、新川村の分岐から白鳥へ十六丁。馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、塩屋川、と歩いて引田町で一宿。
閏四月十七日 日和がよい中を出発。引田町の浜辺を通って行くと、一里沖にふたつ並ぶ通念島が見える。小川を渡り、馬宿村の浜辺を通過する。坂本村から大坂峠への坂に懸る、途中の不動尊坂中に滝がある。讃岐・阿波の国境に峠がある。阿波板野郡、大師堂にも峠がある。峠より徳島城・麻植郡など南方一円の展望が開ける。大坂村に番所がある。切手(通行手形)が改められる。大寺村に荷物を置いて霊山寺え行って、再びここまで帰って来る。

ここからは次のようなことが分かります。
①本堂に並んで、今まで阿弥陀堂があったところが護摩堂になっていること。これは一時的なことで、幕末には現在と同じ阿弥陀堂にもどっています。
②本堂の前に大師堂があること。
②奥院は、ほとんど人が通らず荒れていること。
江戸時代の後半になると、修験者の活動も衰えて奥の院は、訪れる行者もいなくなっていたのがうかがえます。
大窪寺 四国遍礼名所図会
大窪寺 四国遍礼名所図会(1800年)

「四国遍礼名所図会」には、遍路道から階段を上った二天門を抜け、さらに階段を上がったところの奥側に本堂とその東側に並ぶ護摩堂、前面に位置する大師堂が描かれています。また、本堂の西側には、一段上がった石垣の上にあるのが鐘楼のようです。大師堂と護摩堂は屋根の形から見て茅葺か藁葺に見えます。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後に讃岐国名勝図会(1854年)の大窪寺を見ておきましょう


大窪寺  讃岐国名勝図解

護摩堂が再び阿弥陀堂に還っています。それ以外には四国遍礼名所図会と変化はないようです。

大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷表

大窪寺の伽藍配置の変遷についてまとめておきます。
①本堂は、移動はしていない
②しかし「四国偏礼霊場記」に描かれた17世紀中葉ごろの伽藍と「四国遍礼名所図会」に描かれた18世紀末ごろの伽藍配置は、相当異なっていて、境内で堂字の移動があったことががうかがる。
③大師堂は、本堂の東側にあったものが西側へ移動している
④阿弥陀堂も本堂の西側にあったものが、護摩堂と名前を変えて本堂東側に移動している
⑤ただし、建物自体が移動しているものか、名称・機能のみが移動したのかは分からない。
 以上のように江戸時代前期と後期にの間に、伽藍配置に変動があるようですが、寺域については大きく変化はないようです。現在の大師堂が寺域の西側に新設されたこと以外は、近世後期の境内のレイアウトが現在まで受け継がれていると研究者は考えています。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会
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東北日本には「弘法とサケ」話型の伝説が広く伝わっています。
サケ漁の行われていた地域では、「弘法とサケ」の伝説が語られていたようです。この伝説には、自然界を法力で支配する者として漂泊の宗教者が登場します。たとえば、新潟県岩船郡山北町では、昔、カンテツボウズ(寺をもたない放浪の僧)が村を訪れ、人々は坊さんには生臭物は御法度であるということを知っていたにもかかわらず、サケを椿の葉に包んで強引に背負わせます。坊さんは怒って「ここには二度とサケを上らせない、椿を生えさせない」と呪文を唱えます。それ以来、サケが上らないし椿も生えない、という伝説が語られるようになります。

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千葉県香取郡山田町山倉でも、空海が東国巡錫の途次、この地の疫病流行に人々が苦しむのをみて哀れみ、龍宮より生贄としてサケを供します。それから初卯祭には、サケが贄魚とされるようになったとする伝説が伝えられています。ここからは、修験者がサケ漁に深く関わっていたこと、また修験者が特別な呪力を持っていたことが見えてきます。
サケと宗教者の繋がりを示す弘法伝説を、今回は見ていくことにします。テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」です。

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書) | 菅 豊 |本 | 通販 | Amazon
それでは、研究者が挙げる弘法大師伝説を読んでいきましょう。
事例1 青森県青森市
青森市の真ん中を流れる堤川は、上流で駒込川と荒川が合流するのである。むかしその駒込川には、サケがたくさん上って来た。たまたま弘法人師がここを通りかかったところ、村人がおおぜいでサケを取っていた。これを見て大師が、その魚を恵んでくれと頼んだところ、村人は川辺に生えていたアシを折り、それにサケを通して与えた。ところが、大師はこの川辺のアシにつまずいて倒れ、しかもアシの茎で片目をつぶしてしまった。そこで大師は大いに怒って、これからはこの川にアシも生えるな、サケも上るな、といった。そのことがあってから、荒川にはサケが上るにもかかわらず、駒込川には全く来なくなり、また川辺にアシも生えないようになった。                    

マス/鱒/ます - 語源由来辞典

事例3 山形県新庄市
むかし、むかし。泉田川じゃあ、せん(昔)には、うんと鮭のよが上る川でしたど。この村のちょっと先の村の人だ、すこだま(多量に)鮭のよば獲ってなおす。ほらほらど、魚、余るほど網さかげでな、いだれば、ほごさ、穢ったこん穢たね色の衣ば着たほえどこ(乞食)みでだ坊主が、切れだ草軽履いで来たもんだど。見れば見るほど良くなし衣ですけど。ほれば村の人だ(達)、本当にはえどこだど思ってしまいあんしたど。
「ほら、坊主。鮭のよば背負えや。ほれっ―」
「いらねごです。欲しぐありゃへん」
て、いらねていうなば、面白がつてですべ。ほれ、坊主の背中さ上げ上げしたなですと。そしてその鮭のよばな、あ葦さ包んで葛の蔓で背負わせだなですと。
「村の衆、ほんげいらねていったなば背負わせなだごんたら、この泉田川さ、鮭のよも来ねたていいべ。今度からこの泉田川さ水が来ねようにしてけっさげな。ええが。あ葦も葛の蔓もみながら無ぐすっさげてな。ええが、忘んねでいろよな」
汚れた衣着たこん穢だね様態の坊主がな、こういうど。村の人だ、
「なにい、このほえど野郎。なにぬがすどごだ。鮭のよもあ章も、葛の蔓も、こんげあるもの無ぐするえが、この鮭のよばあくへっさげて(与えるから)にし(汝)の背中さ、くっつげで行がしやれ」
ほの穢ねて穢ね衣の坊さんは、構んめが構んめだもんだし、衣の上から鮭のよば背負わらつてなおす。ヒタッ、ヒタッと、まだ(また)出掛げあんしたど。ヒタッ、ヒタッと歩きながら、
「来年からはこの川、絶対に水ば通さんね。この村には水通さねで、底通しするさげてな。あぶでね(勿体ない)ごどした鮭のよも、あ葦も葛の蔓も絶対に生やさねさげてな。覚えでろ」
て、言い捨てて行ってしまったど。村の人だ、
「何ば言う、このほえど坊主。さっさどけづがれ(行ってしまえ)。早ぐ行がしやれ」
と言つていだれば、本当に次の年からビダッ、と、水が上つてしまっだどは。ほして、あ章も葛の蔓もな、去年まであんげに(あんなに)蔓延ってグルン、グルン、と、絡まがったりして生えったものが、何も無ぐなってな。何ひとつ無ぐなってしまったなであんしたど。村の人だ、もう困ってなおす。
「あんげこん穢たね坊さんだげんども、あのお方こそ弘法様に違いねべちゃ。まず、まず、大変なごどしてしまったもんだはあ」
て、話し合ったなですと。                   
三陸水産資源盛衰史│25号 舟運気分(モード):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

以上の話には、旅の僧が呪術でサケがやって来るのを封じ込んでしまったことが記されています。
旅の僧は、「大成徳神」、「阿羅羅仙人」などのように、在地の祭神として語られる場合もあります。しかし、多くは弘法大師とされています。旅僧の意に反したために、呪文を唱えたりする呪法によってサケの遡上が停止されます。
その呪法のひとつとして、「石」が出てくる話を見ておきましょう。

  事例4 岩手県宮古市津軽石 234P
当村何百年以前の事に御座候や。北より南へ通る行人一人参り候て、最早、日暮れにも罷り成り候間一宿下さる可シと、無心仕り候得ば、亭主易き事に御座候え共、貴僧へ上げ申す物御座無く候。行人申すには、そなた衆、給べ申す物下され候て一宿給う可く候。支度は入り申さず候。左様ならば私共給べ候もの上げ申す可く候間、御一宿成さるべくと、とめ申候。朝に成り、行人申すには、紙包み一つ進上致し候、行く行くは村のちょうほうに相成る可くと相渡し、南の方へ参られ候。右紙包み仏だんへ上げ置き、行人出達後、夫婦いだして見申し候えば、石を包み置き申し候。是は何に成る筈、「めのこかて」を洗いながし、うしろの川へなげこみ申し候。然らば、一両年過ぎて、鮭斗らずも登り申し候、後は、村中朝々大勢参り取り申し候、老名共寄り合い、是は、ふしぎの仏神のおさずけと申す物に御座候。稲荷山にて湯釜を立て、いのり申す所に、たくせんに、宿くれ申す行人申すには「我を誰と心得候哉。我は大師に御座候。津軽方面廻り申す所に、津軽には宿もくれず、ことごとく「悪口」いたし、依って津軽石川より石一つ持参、当村の者へくれ申し候。夫れ故、鮭のぼり申すべし」と、たくせんに御座候。
 老名共「扱て扱て有難き仕合わせ、左様ならば村中老名共相談の上、此の度より津軽石」と、申しなしに御座候由、其の前、村名相知れ申さず候。何百年以前の事に御座候や、いいつたえにて、年号は知れ申さず候。                           (宮古市教育委員会市史編纂室 1981)

この弘法伝説は、大師が人々の歓待に報いるためにサケを授けたとする話です。
その呪法に石が用いられています。石は、サケを遡上させる霊的に特別な力をもっていることが描かれています。「弘法とサケ」の伝説が、特殊な石と関係して伝えられることは、東北や中部日本の日本海側に広がっていて特別な例ではないようです。石がどんな風に用いられているのかを見ていきます。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

事例5 青森県青森市             
青森市の駒込川に、むかし大水が出て橋もなく、通行人が難儀したので、人夫が出て川渡しをした。ところがある日のこと、その日に限って川魚がたくさん群れて、人夫たちは夢中になって魚を捕っていた。そこへみすぼらしい破れ衣を着たひとりの旅僧がやって来て、川を渡してくれと頼んだ。すると人夫は、このかごに入れてある魚を担いでくれれば、渡してやろうといった。旅僧は仏に仕える身だから、殺生に手を貸すわけにはいかぬと断ると、それでは川を渡してやれぬという。
仕方なく旅僧は、魚のはいったかごを背負い、人夫に背負われて川を渡った。しかし立ち去りぎわにタモトかし小石を三つ取り出して川に投げ、「七代七流れ、この川に魚を上らせない」といった。それから駒込川に魚が上らぬようになったといわれる。           (森山 一九七六¨九六―九七)

       事例6 岩手県下閉伊郡岩泉町
下名目利のセンゴカケ渕は、毎朝サケが千尾も二千尾も掛ったといわれる渕である。また2㎞ほど下流の間の大滝では約200年位前に、もっこで三背おいずつもとれたという。
 この豊漁にわく朝、どこから来たか見すぼらしい旅僧が一尾所望していたのに、村人たちは知らん顔をしていた。旅僧は川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めたら、そこに大滝(門の滝)ができ、ここから上流にはサケがのぼらなくなった。旅僧は弘法大師であった。

事例7 岩手県下閉伊郡田野畑村
明戸の浜から、唐松沢の入り、いくさ沢まで鮭が上って、明戸村富貴の時があった。行脚して来られた弘法大師を怪しい売僧といって追払ったので、大師は、この因業な人達を教化するために、唐松沢の入口にあった「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げられた。石はそのまま行方知れず飛んでいってしまった。そして大師はそこについて来た卯ツ木のつえをさして行かれた。それから、さしも上った鮭がさっぱり上らなくなってしまった。大師が投げた「恵美須石」は南の津軽石に落ちて、それかい津軽石の鮭川は栄え出して今につづいている。

上の3つの事例では、石は次のように使われていました。
①小石を三つ取り出して川に投げ
②川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めた
③「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げ

19 鮭文化とともにある、村上の暮らし | 003 かくも美しき里山の年寄りたち 佐藤秀明 Hideaki Sato | 日本列島 知恵プロジェクト

登場するのは弘法大師ばかりではありません。
事例8 岩手県? 此庭(陸中愧儡坂)
 谷川に村の長が魚梁瀬を掛けて毎年鮭を捕つて居た。或時一人のクグツ即ち此辺でモリコ又はイタコと呼ぶ婦人が通つたのを、村長等無体に却かしてかの鮭を負はせた。クグツは困労に堪えず人に怨んで死んだ。其時の呪詛の為に鮭は此より上へ登らなくなった。箱石は即ち卸して置いたクグツの箱の化したものである故に四角な形をして居る。

ここでは、弘法大師の代わりに、この地域で活躍する巫女やモリコ、イタコが登場します。
また六部や乞食坊主として描かれる場合もあるようです。「弘法とサケ」話型の伝説の主人公には、弘法大師に限らず漂泊する宗教者たちが選ばれているようです。行脚する宗教者の石の呪法は、石を川に投げ込む、しまい込む方法があるようですが、石に「真言」の文字を記すという呪法もあるようです。
以上のように、サケの遡上について、「石」が大きな力をもっているとする信仰があったことがうかがえます。ここから研究者は次のような仮説を設定します。
①「サケ→弘法→石」という繋がりから、サケにまつわる石の信仰を、弘法・六部・乞食坊主・イタコ等たちが儀礼化し、儀式として行っていたのではないか
②そのような信仰・口承文芸を、漂泊する宗教者が、流布・伝播してきたのではないか

まず①の仮説を考えてみましょう。
サケを誘引する石の伝承は、元修験の神主らによって儀礼化されています。その行為は弘法伝説などの説明体系によって裏づけられています。伝説の世界は、単なる空想ではなく、現実の世界で実際に行われていたことが書かれています。つまり登場する人物(宗教者)は、実在していたと研究者は考えています。
 伝説には弘法大師が石を川に投げ込む、あるいは川から石を拾うという場面が描かれています。
ところが、実際の津軽石のサケ儀礼には、宗教者が石を投げ込むような場面はないようです。しかし、民俗事象を細かく検討すると、宗教者が石を投げ込むことによって魚を寄せるという呪法は、いくつかの地域にあるようです。
たとえば、新潟県荒川中流にある岩船郡荒川町貝附では、10月末のサケ漁が始まる前、荒川から握れる程度の大きさの石を10個ほど拾ってきて、ホウイン(法印)に梵字を書いてもらうという民俗があったようです。ホリイシと呼ばれる文字の書かれたこの石は、川に均等に投げ込まれます。上流の岩船郡関川村湯沢ではサケが捕れなくなると、サケ漁をしている場所の川底でこぶし大の石を拾い、ホウインのところへ持て行きます。これをホウインに拝んでもらい、もち帰り川に投げ入れると、とたんにサケが捕れるようになったと伝えられます。
 サケではなくハタハタを捕るための儀礼ですが、秋田県男鹿の光飯寺には、10月1日浦々の漁師たちが小石をもってきて、これに一つずつ光明真言を一字書き、法楽加持します。それを漁師はもって帰り自分の漁場へ投げ入れたと伝えられます。
 このように、魚を寄せ集めるために石を用いる呪法を、宗教者が使っていたようです。
こうしてみると、弘法伝説に登場する宗教者の行為は、空想上の絵空事ではなく、実際の宗教者が現実に行っていたことだったことがうかがえます。そうだとすると、この弘法伝説が生まれた背景には、サケの漁撈活動に宗教者が関わっていたことがあったことになります。
次に、このような弘法伝説を漂泊の宗教者が伝播した、という仮説を研究者は裏付けます。
弘法伝説の拡がりについての研究は、その背景に聖や巡礼の聖地巡拝の全国的流行があったとします。とくに弘法大師を祖師とあおぎ、高野山に本拠を置く旅僧の高野聖たちが、全国を行脚、流浪するうちに広めていったとするのが一般的です。研究者は、その上に東北地方の弘法伝説には、大師信仰の基底にオオイゴ=タイシ(太子)信仰が横たわっていることを指摘します。大師信仰流布以前に「タイシ信仰」があったというのです。「弘法大師の名のもとに統一、遵奉して行った者の姿と、そこでの意志を確実に垣間みるような思いがする」と、弘法伝説を広げた宗教者集団のいたとを指摘します。
 
 研究者は、近世になっても「弘法様」と呼ばれる六部、巡礼者が活躍していたことを報告しています。
「弘法様」には、弘法伝説に登場する弘法大師のように、実際に恩を受けた家に突然と笈や奉納帳を置いていったり、呪いを教えていくなど特徴的な宗教活動を行っていました。この「弘法様」との交流の中で、さまざまな弘法大師伝説が生まれ、広げられていったことです。
そrを研究者は以下の三つのタイプに分類します。
①「弘法様」との関わりの経験諄として話者自身が登場する弘法伝説
②「弘法様」は実際に様々な呪法をもち、駆使していたらしいが、それを実際に目のあたりにした話者が観察者として生み出した「世間話」としての弘法伝説
③「弘法様」自体が伝えていった弘法伝説
このうちの②は弘法伝説の形成の場面で、③は、伝播、伝達の場面になります。

 宮城県石巻市生まれの松川法信は、現代の「弘法様」と呼ばれた人物です。
彼は一陸沿岸では青森県八戸地方から宮城県の牡鹿半島まで、日本海側では、秋田県山本郡八森町を北限に、南は山形県最上部の真室川町まで15年間にわたって修業に歩いていたようです。
そして行く先々で、弘法伝説の形成、伝播に一役も二役もかっています。それだけでなく新たな祭祀も創り出しています。
もちろん、現代の漂泊する宗教者松川法信が、中陛の高野聖や、近世の廻国聖へと結びつけることはできません。しかしかつては、このような廻国の主教者が様々な文物、情報を交流させる媒介者として活躍していたのです。綾子踊りにつながる風流踊りや、滝宮念仏踊りにつながる時衆念仏踊り、あるいは秋祭りの獅子舞なども、彼らを仲介者とすることによって広められたと研究者は考えています。
「弘法とサケ」伝説に、現実の宗教者の儀礼的な動作が反映された可能性があること、この伝説には、その話自身を流布させる宗教者の姿も投影されていることを押さえておきます。
 「弘法とサケ」伝説には、想像上の宗教者の活動を語ったものではなく、漂泊する宗教者が、石を用いてサケの遡上に関する呪法を執り行い、石の信仰の形成に大きくかかわったこと、それが修験系統の宗教者たちであったいうことです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」

        河合曾良の「生業」は何だったか(3)―修験者(山伏)としての可能性は – 不易流行の世界 ―柳キジの放浪記―
修験道の祖 役行者

修験者はさまざまな呪的な技能、技術を身につけていました。
修験者の持つ修法類は、符呪を始めとして諸尊法、供養法、加持など多岐にわたります。しかし、分類すると治病、除災に関するものが圧倒的に多いようです。ここからは、修験を受け入れる側の人々は、病気や怪我などの健康問題の解決を第一に求めていたことがうかがえます。修験側もそれに答えるように、「験」を積み呪的技能、技術に創意と工夫をこらしてきたのでしょう。修験の行う符呪や呪文・神歌・真言の唱言、加持祈蒔のよううなマジカルな方法だけでなく、施楽=薬物的治療の道も開拓していたようです。そういう意味では、修験者は薬学、医学的知識をもって病気治しに従事していたと云えそうです。今回は修験者と製薬との関係を見ておきたいと思います。テキストは「菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」です。
研究者は、修験者の病気治しを日本の医療史、薬学史の側面からの位置づけます。
その中で古代の禅師、中世の高野聖など修験道につながる民間宗教者が、製薬・医療知識を持っていたこと、さらにその経済活動として製薬などの医療行為を行っていたことに注目します。例えば「狩猟者と修験との同一性」という視点からは、狩猟者が捕らえた獲物から薬を作る姿が見えてきます。そして、修験道系の宗教者が狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に病人に与えています。これは「呪医」と狩猟者兼修験者が重なる姿です。

北多摩薬剤師会 おくすり博物館 ジェネリック(GE)篇(その8)
熊の肝臓は高級漢方でした

日本の伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、修験者にたどりつくようです。
それを全国的に北から南へと見ていくことにします。
  東北地方では
①葉山修験の影響下にあった山形県上山市の葉山神社はすべての病気を治すといわれた。永禄年中(16世紀中期)の悪疫流行の際には、修験者がこの山の薬草によって、人々の命を救ったと伝えられます。
②出羽三山奥の院・湯殿山の霊湯の湯垢を天日で乾かして固めたものは、万病の薬になるとされ、山伏たちが霞場に配って歩いていました。
③出羽三山修験、とくに羽黒修験が携帯する霊石「お羽黒石」は、中国古代道教で重宝された神仙薬「㝢餘糧」「太一㝢餘糧」でした。ここからは羽黒修験が製薬などの技術もっていたことがうかがえます。

禹余糧 - TCM Herbs - TCM Wiki
㝢餘糧
  関東地方では、埼玉県秩父地方の三峰山で「神教丹」が販売されていました。現在でも三峰神社では、次のような漢方が販売されているようです。
胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。陀羅尼助には、医薬品でもあるオウバク(黄柏:キハダ)が含まれていいます。エンメイソウ(延命草:シソ科ヒキオコシ)は、行き倒れにあった人を引き起すくらい苦くて、起死回生の妙薬とされます。また、日本三大民間薬と言われるセンブリ(当薬)も陀羅尼助に入れられ薬草です。千回振っても、お湯で振り出しても苦さが取れないことから、この名がつけられたといいます。その他には、ゲンノショウコ(現の証拠:フウロソウ科ゲンノショウコの全草)もあります。これら薬草に共通するのはいずれも「非常に苦い」ようです。「良薬は口に苦し」といわれる由縁かも知れません。そして効能が胃腸薬に関するものであることです。どちらにしても、我が国では消化器疾患に有効な薬草が好んで使われているようです。三峰山は、霊山で行場であると同時に、これらの薬草の宝庫でもあったようです。今でもオウバク(黄柏:キハダ)
が数多くみられるようです。

百草とは? | 長野県木曽 御嶽山の麓で胃腸薬「御岳百草丸」を製造販売している長野県製薬の公式サイトです
キハダ(オウバク) 

北陸地方では、富山県の製薬・売薬が「富山の薬売り」として有名です。
冨山の製薬も、そのルーツは修験者にあるようです。越中には立山を中心とする修験者の売薬活動があり、「立山権現夢告の薬」が立山詣でのお土産として信仰を介して広がります。現在、数多くみられる富山売薬由緒書は、立山修験を背景とした修験の唱道文の名残と研究者は考えています。
Amazon.co.jp - イラストでつづる 富山売薬の歴史 | 鎌田元一 |本 | 通販

富山県西部の砺波平野の里山伏は、農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。
符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていたようです。次のような薬が里山伏系の寺社で販売されています。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
富山県/富山県の有形民俗文化財

野尻村法厳寺の薬は神仏分離後に真宗等覚寺に伝授されます。また同村の五香屋の「野尻五香内補散」のルーツも修験に求められるようです。このような製薬・売薬ばかりでなく、修験は医業にも携わっていたようです。例えば川合家(旧円長寺)は医者となり、また上野村養福寺上田家は19世紀初頭、第六代勝竜院順教の頃から開業医となっています。

1855年(安政2)の「石動山諸事録」には、石動山修験の売薬について次のように記されています。
一、旦那廻り与云相廻中寺有之、壱軒米壱升宛貰、三月等祭礼ニハ寺江行賄二預ル、宿料不出、又薬二而も売候得ハ、壱ケ寺拾両も入、越中杯ハ弐拾両斗も受納之寺有之事
一、石動山より売出候薬ハ、五香湯壱服四十文・万金丹壱粒弐文・反魂丹壱粒壱文・五霊散眼薬二而(後略)
(多田正史家文書、鹿島町史編纂専門委員会 1986年)
意訳変換しておくと
一、得意先の旦那廻に出かける修験は、定まった寺に宿泊した。一軒から米一升をもらい受け、三月の祭礼の時には寺で賄いを受けるが、宿料は無料であった。また薬も販売し、ひとつの寺で十両も売れた。越中では二十両も売れた寺もあった。
一、石動山修験者が売出している薬は、五香湯一服40文・万金丹一粒2文・反魂丹一粒一文・五霊散眼薬である(後略)

ここからは、「旦那回り」に出る修験は、 一軒一升のコメを貫い受け、祭礼時には無料で宿泊歓待を受けています。それだけでなく、旦那廻りのついでに売薬活動を行っています。その稼ぎも、10両から20両というのですから高額です。この現金収入は、定着化した里修験にとっては重要な収入源になったでしょう。製薬・売薬が、修験の生活を支えていたことがうかがえます。
富山の売薬にまつわる歴史伝承、反魂丹(腹痛薬)、先用後利(配置家庭薬)、おまけ(土産、進物)、とは(2010.4.14): 歴史散歩とサイエンスの話題
冨山の薬売り(修験者の痕跡がうかがえます。)

明治の神仏分離以降も、製薬・売薬の技法は受け継がれ、石動山修験宝池院の末裔である宝池家では「加減四除湯」「和中散」「退仙散」などの秘伝薬が伝えられていたようです。二蔵坊の後裔である広田家には、1882年(明治15)「紫胡枯橘湯」「清肺湯」「加味三柳湯」など多くの薬の製法、成分、効能書「医要方一覧記」が残されています。
池田屋安兵衛商店でレトロな漢方を買ってきた!in 富山 – Wakutra

 先ほどの文書中に出てくる「反魂丹」は、石動山修験の売薬の中でも「富山の薬売り」を代表する薬だったようです。「富山の薬売り」に立山修験のほか、石動山修験が何らかの関わりをもっていたことがうかがえます。
北陸の修験といえば白山修験ですが、冨山の売薬との関係は、よく分からないようです。ただ白山修験の山伏である越前馬場平泉寺の杉本坊も、丸薬を売り歩いていたようです。その他の白山の修験者たちも製薬、売薬に携わっていた可能性が高いと研究者は考えているようです。
富山の薬屋さん (北陸旅#3) - 気ままに

次に近畿地方をみてみましょう。
伊勢野間家の「野間の万金丹」は、朝熊麻護摩堂明王院に起源するため「明間院万金丹」とも呼ばれていました。やはり修験系統の製薬、売薬です。この「万金丹」の名は、「石動山諸事録」にもでてきます。修験の間で、さまざまな技術、知識の交流があったことがうかがえます。
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 「万金丹」は、滋賀県甲賀郡甲南町下磯尾の小山家でも伝来されています。これはこの地の飯道山修験が朝熊岳護摩堂明王院の勧進請負をやっていることから、修験間で製法の伝授があったと研究者は推測します。
 近世の甲賀地方は製薬、売葉の盛んな地域で、近江商人の売薬は富山の売薬とともに、全国に広がっていました。
「神教はら薬」や「赤玉神教九」「筒井根源丹」という家伝薬は、いずれも神威に関わっていました。その中の「神教はる葉」は、多賀不動院の坊人が多賀大社の布教で諸国巡札した時に持参した土産物とされます。それを後に坊人が甲賀(甲南町周辺)に移り住んで甲賀山伏となって宣伝したものだと伝わります。小山家には、「万金丹」とともにこの「神教はら薬」が伝えられています。
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近畿地方の修験と薬を考えるなかで、「陀羅尼助」は大きな意味を持つようです。
「陀羅尼助」は、吉野大峰山に伝わるもので、大峰開祖の役小角が吉祥卓寺で作り始めたとされます。これは、修験道の祖が製薬に関わっていたことになります。この薬は、胃腸薬でのみ薬ですが、打撲傷や眼病などの外用にも使われ、まさに万能薬としての名声を得ていたようです。後には、大峰山以外の高野山や当麻寺などでも製造されるようになります。
最後に九州です。
福岡県の英彦山修験が万病の薬として「不老円」を処方して、檀家詣りの際には持ち歩いていたようです。
豊刕求菩提山修験文化攷(重松敏美編) / 氷川書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

また福岡県の求菩提山修験が製薬、および治療に関わり、「神仙不老丹」や「木香丸」などの薬を販売していたことは有名です。
求菩提山修験の修法については『豊務求菩提山修験文化政』に詳しく報告されています。そのなかには「医薬秘事、秘伝」として次の薬の調合書、医学書が収載されています
①「求菩提出秘伝」
②「望月三英、丹羽正伯伝」
③「求菩提山薬秘伝之施」
④「灸」
ここからは、求菩提山修験が製薬に関わっていたことが分かります。
②「望月三英、丹羽正伯伝」の中には、幕府の触書をそのまま書写されています。ここからは修験者たちが様々な知識を吸収し、それを活かそうとしていたことが次のように記されています。

もっと知りたい福岡修験道と薬 ~求菩提山の事例を中心に~ - アクロス福岡

例えば3種の医学書には、それぞれ32例(求書提出秘伝)、20例(「望月三英、丹羽正伯伝」、21例(「求菩提山薬秘伝之施」)、合計73例の薬の調合、治療法が記載されています。そのなかに、薬の加工過程で行われる「黒焼き」と呼ばれる方法が記されています。
 例えば「求菩提山秘伝」では、「雷火のやけどに奇薬」として次のように記されています。
「鮒を、まるながら火にくべ黒焼にして、飯のソクイにおし交てやけどの処につけ ふたに紙を張りおくべし」

ここからは、フナを黒焼きにしてやけど薬として用いていたことが分かります。
「求菩提山秘伝」には、31例中8例、「望月三英、丹羽正伯伝」には20例中2例、「求菩提出薬秘伝之施」には31例中3例の黒焼きの加工法がでてきます。この黒焼きという技法は、皇漢医学や庶民が行なっていた民間医療にもみられるので、修験独自の加工法とはいえませんが、修験製薬の重要な技法の一つであったことは間違いないようです。
  とらや製薬(株):和歌山県製薬協会
  修験と製薬活動のかかわりについて見てきました。
修験者たちは農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動に、深く関わっていました。その関わりを深める中で、里修験として村社会への定着化がが行われたようです。そのプロセスを示すと次のようになります。
①スタートは宗教的な権威を背景にして、自分たちの得意とする儀礼や信仰といった観念世界から村社会に接近。
②修験者が持っていた実用、実利的な技能、技術を提供することで「役に立つ人間」と村人から認識されるようになる
③農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動のリーダーとなり、指導的な地位を確立
宗教的な指導者であるばかりでなく、現実生活に役に立つ知識・技能を持っていたことが大きな力となったと研究者は考えているようです。
役に立つ技術の一つが製薬、売薬の技術でした。
医者、薬剤師としての姿は、修験者が人々の生活のなかに浸透していく上で有効に働きます。その他にも修験者には、次のような側面を持つことが明らかとされています。
①芸能や口承文芸の形成、伝播に関わった遊芸者としての姿
②市に結びつく商人としての姿
③鉱山を開く山師としての姿
 中世から修験者は、このような経済活動と関わっていて、さまざまな技術や知識を持っていたようです。それが里修験化の過程で、在地の技術、知識、本草学、皇漢医学など、その時代の先端の知識、情報を吸収することで、その技術を再編成し、適応の幅を広げていったと研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」

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