只安展望台(三好市西山)から望む池田市街
新猪ノ鼻トンネルを抜けての原付ツーリングが続きます。池田の町中の旧国道を徘徊中に見つけたのが桂林寺と書かれた道案内です。立ち寄って見ることにします。原付バイクは、こんな時に見廻りの良さを発揮します。
桂林寺の石段と山門
階段を登って境内に入っていくと、鐘楼の向こうに真新しい看板が見えます。
「三好市指定文化財 中村家墓所 平成22年4月27日指定」中村家墓所は、池田町サラダの桂林寺墓所内にあり、約400年前(安土桃山時代~江戸時代)に大西城の城番を務めた中村家三代の墓がある。中村家三代にわたる城番の初代(中村家二代)の中村右近大夫重勝(しげかつ)の墓石を始め、二代目城番(同三代)の中村若狭守可近(よりちか)の五輪塔、三代目(同四代)の中村美作近照(ちかてる)の古い墓石が立つ。周囲には、三代の功績を記す碣(いしぶみ)や碑などの石造物が子孫や中村家に仕えた池田士によって数多く建立されており、これら中村家三代関連の石造物14基を中村家墓所としている。このうち13基が江戸期に建立されたもので、最も古いものが正保元年(1644)に建立された中村若狭守可近の五輪塔で、江戸特有の尖鋭な空輪、軒の反りの極端な火輪などを持つ。半世紀にわたって、大西城と共に形成された池田の城下町がその後の池田町発展の基礎となった歴史を今に伝える貴重な史跡として、平成22年4月に文化財に指定された。三好市教育委員会
以上をまとめておくと
①蜂須賀家の下で大西城番を務めた中村家三代の墓が墓地に並んでいること
②中村家に仕えた「池田士」によって石造物が寄進されていること
③もっとも古いものが正元元(1644)年の初代中村重勝の五輪塔であること
④中村家三代の城番時代に、池田の町の原型が形成されたこと
⑤中村家墓所の墓石や灯篭など石造物14 基が2010年に三好市文化財に指定されたこと。
①が 初代・中村重勝⑦が二代目・中村可近⑫が三代目・中村近照
の墓になるようです。その周囲には、それぞれの功績を記した古い石造文化財が数多く建立されています。それらの墓参りをすることにします。
台座には正保元(1644)年と刻まれているのが分かります。
①の初代中村重勝の五輪塔です。
威風堂々として、同時代に讃岐の弥谷寺などに生駒氏が奉納した五輪塔を思い出させてくれます。別の見方をするとペンシルロケットのようにいまにも飛び立ちそうな感じもします。阿讃山脈の緑と、青い空がバックに従えています。台座には正保元(1644)年と刻まれているのが分かります。
四国平定後の秀吉は、長曽我部元親を土佐一国に封じ込め、他は四国平定に功績のあった武将達を藩主に任命しています。讃岐には生駒、阿波には蜂須賀と故郷尾張以来の功臣が入国してきます。秀吉が彼らに課した課題は、次の九州平定・朝鮮出兵に向けた軍事力(特に水軍・輸送船力)の強化と土佐の長宗我部にに対する防備でした。生駒氏と蜂須賀氏は、旧来から仲がよかったようで、土佐藩防備にたいしては共同して戦線を築こうとしていたことがうかがえます。これが後の朝鮮出兵の際にも両者の協力関係につながっていくようです。
蜂須賀氏は土佐藩に対する防備の一つとして、大西城(池田城)に家臣の牛田一長(牛田又右エ門)を入れて、阿波九城の一つとして改修しています。その後、慶長3(1598)年に海部城から中村重勝を大西城に移します。
中村家三代をついて見ておきましょう。
初代の中村重勝の父は、豊臣政権の「三中老」のひとりである中村一氏の末弟とされる中村重友のようです。
中村重勝は蜂須賀家の家臣として5500石を与えられ、父の重友に代わり海部城に配置されます。重勝は朝鮮出兵に従軍し、関ヶ原の戦いの2年前の慶長3(1598)年に牛田氏に代わり大西(池田)城主となっています。さらに大坂冬の陣では200人を率いて出陣し、2月16日(慶長19年)に本町橋の夜襲戦で戦死します。戦国時代を生き抜いた武将だったようです。彼が大西城の初代になります。彼の墓石が、桂林寺の五輪塔になります。
中村重勝は蜂須賀家の家臣として5500石を与えられ、父の重友に代わり海部城に配置されます。重勝は朝鮮出兵に従軍し、関ヶ原の戦いの2年前の慶長3(1598)年に牛田氏に代わり大西(池田)城主となっています。さらに大坂冬の陣では200人を率いて出陣し、2月16日(慶長19年)に本町橋の夜襲戦で戦死します。戦国時代を生き抜いた武将だったようです。彼が大西城の初代になります。彼の墓石が、桂林寺の五輪塔になります。
その後を継いだのが2代目の中村可近で、父の戦死を受けて2000石加増され7500石で大西城主を継いでいます。寛永15(1638年)の一国一城令で、大西城は廃城となりますが、大西陣屋として形を変えて残ります。
それを1646年に継承したのが三代目の中村近照です。
しかし、近照は、明暦2年(1656)10月に「不心得」の廉で職禄を召上げられたので、中村氏による池田の支配は、三代で終わります。
それを1646年に継承したのが三代目の中村近照です。
しかし、近照は、明暦2年(1656)10月に「不心得」の廉で職禄を召上げられたので、中村氏による池田の支配は、三代で終わります。
桂林寺山門
もう一度の桂林寺について、見ておきましょう。
桂林寺に残された文書は、この寺の由来について次のように記します。
―前略―仍拙者家来中村右近(重勝)去16日夜於大坂仙波表致討死候。彼者為追善貴山ニ燈炉挑申度候。為其領銀子一貫200目遣之候。時宣可然様ニ頼入計候恐惺謹言12月19日 蜂須賀阿波守至鎮 花押高野山光明院御同宿中
意訳変換しておくと
拙者の家来である中村右近(重勝)は12月16日夜に、大坂仙波表で討死した。彼の追善のために貴山に灯籠を寄進して供来するとこを申しつける。そのために銀子一貫200目を遣わす。時宣可然様ニ頼入計候恐惺謹言
ここからは、討ち死にした3日後に、蜂須賀家の藩主が高野山の光明院に追悼のための灯籠を寄進していることが分かります。そして、次に池田に菩提寺として桂林寺を建立したようです。桂林寺境内墓地には中村右近(重勝)の墓の前に、その功績を記した碑があります。
桂林寺由緒を史料で見ておきましょう。
一 該寺儀ハ往古ヨリ御巡見役御通行ノ節、御休泊被仰付来候。其節蜂須賀家ヨリ御修覆万端被仰付候。寺領高15石2斗4合5勺。一 寺中居屋敷3段9畝高3石9斗 四方竹木共 承応3年9月23日蜂須賀家ヨリ僧玄宥首座江賜ル
意訳変換しておくと
桂林寺については往古から藩の巡見役が見廻りの際に、休息・宿泊した場所である。その際には蜂須賀家より、修復などが申しつけられた。寺領高15石2斗4合5勺。一 寺中の屋敷地は3段9畝高3石9斗で、四方竹木。承応3(1654)年9月23日蜂須賀家より、僧玄宥に賜ったものである。
もうひとつの史料です
覚
覚
当寺之儀往古御建立被仰付其後御巡検役御宿ヲモ被仰付来候儀ニ御座候処、去天明8(注・1788)申年冬ノ頃御通行御座候節御繕被仰付御宿仕候以来、最早多年ニ相成候事故追々破壊ニ相及ビ―中略―本〆中又ハ御作事方ニテモ尚又御修覆之儀申出候様致可申哉イマダ表立候御沙汰モ無之儀指越申出候段モ恐入候ヘドモ己ムヲ得ザル事申出置候間重々トモ宜シク御含置可被下候 以上
意訳変換しておくと
史料4 覚桂林寺ついては、(中村家の菩提寺として)建立され、その後は巡検役の宿としても使用されてきた経緯があります。天明8(1788)年の冬の巡回の際には、宿泊所として使用するために修繕を仰付かり、藩の資金で修復されました。それ以来、長年にわたって修繕がされていないので、いろいろなところが破損している状態です。・・中略―修覆についてお願いしてきましたが、未だに何の沙汰もありません。誠に恐れ入ることではあるが、やむなく再度申出しますの宜敷お取りはからい下さるようお願い致します。以上
二つの史料からは、次のようなことが分かります。、
①桂林寺が藩の手で建立され、巡検使の休息所や宿泊所に使われたこと。
②その都度、藩費によって修覆が行われたこと。
③藩の保護によって建立され維持管理された寺院の宿命として、他に檀家がなく、藩よりの出費がなければ、たちまち経営難におちいること
④幕末には伽藍が痛み、藩への修繕依頼を重ねていたこと。
以上を整理しておきます。
①三好郡の政治的・軍事的な拠点は、戦国時代には白地城であった。
②それが長宗我部元親の土佐撤退後に、池田の旧大西城を修復・整備し、土佐への防備とした。
③その城主として関ヶ原の戦いの2年前に蜂須賀藩が任命したのが中村重勝であった。
④重勝が池田・中村家の初代となるが、彼は大坂冬の陣で戦死する。
⑤これを悼んだ蜂須賀家当主は、池田に桂林寺を建立し菩提寺とした。
⑥そのため桂林寺には、中村家三代の墓が並んでいて、それが三好市の文化財に登録されている
⑦大西(池田)城は、一国一城令で廃城となるが、陣屋として規模を縮小しながら存続した。
⑧中村家三代目は「不心得」の廉で職禄を召上げられたので、中村氏による池田の支配は、三代で終わった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田士について 阿波郷土研究発表会紀要第26号
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