踏み絵
江戸時代の切支丹弾圧の中でよく語られるものに踏絵があります。踏絵は宗門改めの時などに行われていたようです。それでは、宗門改めはどこで行われていたのでしょうか。村のお寺で行われていたのでしょうか。どうもちがうようです。そのあたりがうやむやだったのですが、新編満濃町誌を眺めていると、具体的な史料で分かりやすく紹介していました。今回は、旧満濃町の村々で行われていた宗門改めについて見ていくことにします。テキストは 切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P」です。島原の乱後に、幕府は次のようなことを各藩に命じて、切支丹宗徒を取締るようになります。
①「宗門改役」の設置②寺請制度によって「宗門人別帳」作成③五人組制度による連帯責任制の実施④村々に制札を立て、訴人賞金制による潜伏切支丹の検索強化⑤鎖国断行
このような中で1711(正徳元)年には讃岐にも次のような訴人札が全国に立てられます。
定きりしたん宗門は 累年の御禁制たり 自然不審なるものこれあらば申出づべし 御褒美としてばてれんの訴人 銀五百枚立ちかへりものの訴人 同断いるまんの訴人 銀三百枚同宿並宗門の訴人 銀百枚右の通り下さるべし たとひ同宿宗門の内といふとも申出る品により銀五百枚下さるべし かくしおき他所よりあらはるゝにおいては其の所の名主並五人組迄一類共に罪科行はるべきもの也正徳元年二月 奉 行
意訳変換しておくと
切支丹は 長年の御禁制である。もし不審なものがいれば申し出る事。御褒美として以下の通り下さる。切支丹の密告 銀五百枚切支丹復帰者の密告 銀五百枚いるまん(宣教師)の密告 銀三百枚同宿並宗門の密告 銀百枚たとえ同宿宗門でも申出た時には、銀五百枚が下される。もし隠していて他所より露見した場合には、名主と五人組まで一類共に罪科を加える。正徳元(1711)年二月 奉 行
高額の報奨金を背景に切支丹密告を高札で強要しています。もし隠していれば、「一類」におよぶとも脅します。
宗門改めの具体的なやり方を見ておきましょう。
①村ごとに決められた宗判寺か、庄屋宅へすべての戸主を呼び出す
②大庄屋・庄屋・檀那寺住職・藩の宗門改役立会の前で、
③戸主が世帯の全家族の名前・年齢・続柄等を届け出て、人別帳に記載して戸主がその名に捺印
④檀那寺はその門徒であることを証明し、庄屋・組頭はこれに連署
⑤宗門改役と大庄屋の立会い連署を添付して、切支丹奉行に提出
これが「 宗門改帳(あらためちょう)」として、戸籍制度に転用されていきます。
いつどこで、宗門改めは行われたのでしょうか?
1821~34年までの旧満濃町エリアにあった村々の宗門改めの行われた場所と期日が満濃町誌262Pに次のようにまとめられています。
①旧満濃町の鵜足郡南部エリアの村々の宗門改めの場所は、栗熊村の専立寺で、それは毎年3月5日であったこと。
②那珂郡の村々は高篠村円浄寺が宗門改めの寺で、毎年3月15日であったこと。
③髙松藩では実施場所や日時が一定しているが、天領池御領の村々では、毎年変化していたこと
④天保3年になると「判形(はんぎょう)休(宗門改休)」という表現があらわれること
①に関しては、専立寺は金毘羅街道に面した小さな岡の上にあるお寺です。鵜足郡南部の炭所東村、炭所西村、長尾村の3村が専立寺に行くためには、扇山、鷹丸山、城山等の峠を越道を越えて栗熊に出るか、打越峠を経て金毘羅高松街道に出て栗熊へ向かったことでしょう。
②の那珂郡南部の判形所は、東高篠村の円浄寺で、毎年3月15日でした。この寺が宗門改めの寺として指定されていたのは、東七箇村・真野村・岸上村・古野上村・吉野下村・四條村・東高篠村・西高篠村・公文村の9村になります。3月15日は、これらの村々の戸長は円成寺に向って歩いたはずです。
③の幕領の池御料は、毎年二月ないし四月に行っていますが、実施日は一定していませんし、場所も五條・榎井・苗田西・苗田東と持ち回っているようです。
④後で見るように、髙松藩は宗門改めについて1828(文政11)年以後は、4年毎に行う旨の通達を出しています。これに基づいた措置のようです。しかし、倉敷代官所管轄の幕領では従来通り、毎年実施しています。切支丹政策について、中央と地方とで温度差がでていたことがうかがえます。
④後で見るように、髙松藩は宗門改めについて1828(文政11)年以後は、4年毎に行う旨の通達を出しています。これに基づいた措置のようです。しかし、倉敷代官所管轄の幕領では従来通り、毎年実施しています。切支丹政策について、中央と地方とで温度差がでていたことがうかがえます。
宗門改めの厳しさは、宗門相互の間にも見られます。
檀寺は人別帳のうち檀那分の名頭(ながしら)に判形をして、「もしこの判形のうちにて切支丹宗徒これ有り候節は如何ように曲事を仰付らるゝとも異存申す間敷く候」と誓っています。このため寺同士もお互いに監視の眼を光らせ、ルール破りに対しては、絶交するという厳しい社会的制裁を加えてた次のような史料が残っています。
取替一札之事榎井村 浄願院苗田村 長法寺右両寺は此度丸亀御領分宗門人別改の儀に付以来檀家の改方行届き申さず迷惑仕り候に付其御領内一統の寺院より先達て御歌出差上候段年々拙寺共に於ても且家人名並年々増減等の儀も相分ち難きを其侭判形仕候儀は御上様に対し御中訳も御座なく恐入候に付御料所寺院其の段丸亀御役場に歌出申候衆評一統のところ右両寺は別心の趣別けて去年の秋大判形の節宗門手代衆より当領一統の寺院より宗門の儀に付願の趣これ有り候 御他領の寺院方御指支これなきや相尋候節右浄順院の儀別心これなき趣返答に及び置きながら此度の別心其の意を得ず候 尤も宗門御改の儀は毎歳御大切に仰出され候を其侭捨置く心底にて同心仕らず候段は前書に申す如く甚だ恐多き儀にけ候間拙寺ども一統右両寺には内外とも絶交致し候条右の趣丸亀宗門御改役所にも通申置以後此の事談相済候迄は壱か寺にても和順仕り中さぎる旨堅く取替す一札件の如し文政七年壬八月光賢寺 印真楽寺 印玄龍寺 印興泉寺 印西福寺殿
意訳変換しておくと
取替一札の件について榎井村 浄願院苗田村 長法寺上記の両寺は、この度の丸亀領内の宗門人別改の際に、檀家改方に不備があり私たちの寺は迷惑を蒙りました。従来から丸亀藩領内の寺院では、宗門改めの前に必要書類を提出することになっています。それは家人名と年々の家族数の増減を把握しないと、適切な宗門改めが行えないためです。今回も領内寺院に対して、丸亀御役場に必要書類を提出するように衆評一統していました。ところが両寺は、これを守らずに・・・・(中略)もっとも宗門御改については、毎年行われる重要な作業ですので放置するということは、恐れ多い事でもともと考えていません。しかし、両寺に対しては絶交することを、丸亀宗門御改役所にも伝えています。今後はこのことを了承済みとして扱っていただくように申し上げます。文政七年壬八月光賢寺 印真楽寺 印玄龍寺 印興泉寺 印西福寺殿
「宗門改帳」には牢人帳・僧侶神主山伏帳・医者帳・百姓間人(もうと)帳などがありました。特別な職業に従事するものには、別帳を作成して把握していたことが分かります。そういう意味でも「宗門改帳」を見ると、村々の人国の動き・家族の異動・村内における身分関係などが分かります。まさに、現在の戸籍台帳以上に様々な情報が書き込まれています。そのため統治所極めて貴重な史料であったのです。
これは明治5年の「壬申戸籍」ができるまで村々の戸籍の機能をも果たしました。庄屋が年々の人口を郡会所へ報告した人数合せは、これをもとにしてはじきだしたようです。切支丹宗門改めも先ほど見たように19世紀半ばになると、だんだん省力化されます。それは、髙松藩が出した次の資料にも見られます
郡々大庄屋共宗門改帳の義去る亥年(文政十一年)より四年目に相改候様仰出され候得ども軒別人数出入等は是迄通り村役人共へ申渡し毎春厳重に相改め例年指出来り候五人組帳に中二か年は旦那寺の印形共其寺共手元にて見届郷会所へ指出可申候三月宗門改の義右の通り申来り候間例年の通故円浄寺判形見届可中候 併し当年は無用に相成る可き意味もこれ有り候に付寺院罷出候義如何に候哉若罷出申さず候へば指支相成候間何様村々門徒より旦寺へ通達致候様御取計これ有る可く候其為飛脚を以て申入候也三月 那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵同 田中喜兵衛東高篠村へ中入れ本文の趣円浄寺ヘ早々通達これ有る可く候
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ宗門改帳の件について、文政11年から4年毎に実施することになった。しかし、家毎の軒別人数増減等はこれまで通り村役人へ通達して、毎春毎に改訂したものを作成すること。五人組帳には、中2か年は旦那寺の印形を見届けて郷会所へ提出すること三月宗門改の件について上記の通り通達があった。例年の通り円浄寺の判形を確認することが指示されている。ただし、当年は不用になる事もある。寺院に出向くかどうかについては、もし出向く必要がある場合は、村々の門徒から檀那寺に対して、どのような通達・連絡で門徒に知らせるのか飛脚で問い合わせるようにすること。三月 那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵同 田中喜兵衛東高篠村へ申入れ本文の趣円浄寺ヘ早々通達これ有る可く候
ここからは高松藩は文政11年から4年目毎の実施に「簡略化」し、実施しない年は、軒別人数の異動のみを従来通り、軍会所に報告するようになったことが分かります。
上段が藩からの通達分で、下段がそれを受けて大庄屋が各村の庄屋への具体的な指示を書き込んだものです。これを受けた各庄屋は、素早く書写して、本書文を待っている飛脚や、使いに次の庄屋宅まで持たせたようです。これらの写しが大庄屋や庄屋の家には大切に保存されていました。
以上をまとめておくと
①髙松藩では、各郡のエリア毎に宗門改めを行う寺を決めていて、実施日時も毎年同じであった。
②各村々の戸主は、指定された日時に決められた寺に出かけて宗門改めを受けた。
③19世紀になると髙松藩では4年に1回の実施に「省力化」している。
④寺院は戸籍作成の役割も担い、行政機関の末端を支える役割を果たしていた
⑤宗門改めが行われる寺は、多くの人々を迎える寺であり寺格も高かった。
しかし、疑問は残ります。周辺村々から数多くの戸主がやってきて、それをどのような順番で「宗門改め」を行ったのでしょうか。各宗派の寺院から提出された人別帳に基づいておこなったのか、早く到着した順番なのか? 村ごとに、およその受付時間を指定していたのか、具体的な運営方法には、まだまだ謎が残ります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P