瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2023年01月

  高松藩の初代藩主松平頼重の弟は、水戸藩の徳川光圀です。長子相続が当たり前の時代に、どうして、兄頼重が水戸藩を継がなかったのかについては、複雑な問題が絡み合っているようです。それを探っている内に、頼重や光圀の父が気になり出しました。今回は水戸藩初代藩主の頼房について見ていくことにします。テキストはテキストは「古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集」です
徳川(トクガワ)とは? 意味や使い方 - コトバンク  
 頼重と光圀の父である水戸藩初代藩主徳川頼房は、1603(慶長八)年8月10日に家康の末男として誕生します。
わずか3歳で常陸下妻10万石を与えれ、6歳で常陸水戸25万石へ加増転封されますが、なにせ幼少ですので、家康のお膝元である駿府で育てられまします。
 1610年(慶長15年)7月に父家康の側室於勝(英勝院)の養子になり、翌年に8歳で元服して頼房を名乗りますが、水戸へは赴かず江戸で過ごします。
水戸の藩主たち~徳川頼房~ | 歴史と文化と和の心
徳川頼房
頼房は「公資性剛毅ニシテ勇武人二過玉フ」と、武勇の人であったようです。
光圀も父の武勇談を「故中納言殿の御事、いろいろ武勇の御物語多し」とあるので、よく語ったようです。武勇の人であった頼房は、若いときには歌舞伎者でした。彼の服装や言動について次のように記します。

「公壮年ノ時、衣服侃刀ミナ異形ヲ好玉ヒ、頗ル行儀度アラス。幕府信吉ヲ召テ、譴責アラントス。」

そのために服装・行動に問題があり、家臣の中山信吉が必死の諫言をしたと伝えられます。江戸時代初めには、時代に遅れて生まれた勇猛な若い武士たちは、歌舞伎者になって憂さを晴らしました。頼房もその一人だったようです。そして、女遊びを覚えます。次の表は、頼房の子女一覧です。頼房には公認された子弟として、男子11人・女子15人、合計26人の子があったことが分かります。この他にも「未公認」の子弟も数多くいたようです。

徳川頼房子女一覧表
徳川頼房子女一覧表
26人の子女というのを、どう考えればいいのでしょうか?
頼房は、生涯正室を持ちませんでした。頼房の側室は8人までは確認できるようですが、それ以上いたようです。
 それでは、どのような女性を側室にしているのでしょうか。
表の1の頼重と7の光圀の母は、久昌院谷久子です。彼女は鳥居忠政の家臣だった谷重則の娘で、水戸家に老女として仕えていた母の側にいたので、頼房の寵愛をえたようです。
2の通、3の亀丸、4の万、8の菊、10の頼元、13の頼雄、21の藤の母は、円理院佐々木勝です。彼女は生駒一正の家臣、佐々木政勝の娘です。弟の藤川正盈は『水府系纂』に、「元和六年威公二奉仕ス、時二九歳ナリ。姉円理院卜同居シ、奥方二於テ勤仕ス」と記されています。彼女は1602(慶長七)年生まれですから、1620(元和六)年には19歳でした。頼房の寵愛を受けるようになったので、弟も召抱えられています。彼女は、女中奉公をしていたのを見初められたようです。
5の捨、9の小良、11の頼隆、14の頼泰、16の律、19の重義の母は寿光院藤原氏です。彼女は興正寺権僧正昭玄の娘です。
6の亀の母は野沢喜佐で、出自は扶持取の家臣、野沢常古某の娘で、出産後「七夜ノ中二死ス。十六歳」と『水府系纂』にあります。
12の頼利の母は真了院三木玉で、三木之次の兄で播磨の光善寺住職長然の娘。
15の頼以と17の房時の母は原善院丹波愛。
20の大と24の市の母は真善院大井田七。
25の助の母は高野氏。
18の不利と22の竹と23の梅の母は、「某氏」としか分かりません。
26の松に至っては、「女子」とあるだけ。
水戸藩の家臣の系譜集である『水府系纂』で確認できる側室は、兄弟が召抱えられた谷久子と佐々木勝、藩士の娘であった野沢喜佐と姪であった三木玉の3人だけです。
ここからは、残った四人プラスαの側室たちは、水戸藩士の娘ではなかったと研究者は考えています。竹・梅・松の母親の姓名は分かりません。なぜ名前が伝わらなかった理由は、女子のみ生んだ身分の低い女性だったためだったのでしょう。

徳川頼房―初代水戸藩主の軌跡― - 水戸市立博物館 - 水戸市ホームページ

 大名の子、とくに若君を生んだ側室は厚遇されるのが普通です。
谷氏や藤川氏にみられたように、 一族・兄弟の新規召抱えとなる場合もありました。しかし、藤原氏と丹波氏には、このような形跡が見られません。ここからは、頼房は正規の手続きをへて側室を迎えたのではなく、女中奉公に屋敷に上がっていた女性や、出先で身分の低い女性たちに手を着けていったことが推測できます。そのため「未公認」の子弟も数多くいたようです。
それでは生まれた子女は、どうなったのでしょうか。
 誕生した26人の子女のうち1男3女は早世して、成入したのは男子10人女子12人、合計22人です。男子のうち大名になったのは、頼重(高松12万石)、光圀、頼元(守山2万石)、頼隆(府中2万石)、頼雄(宍戸1万石)です。残りの頼利・頼泰・頼以・房時は光圀が寛文元年(1661)に相続したとき、領内の地三千石をそれぞれに分知しています。
女子のうち大名・公家に嫁したのは、通(松殿道昭室)、亀(家光養女前田光高室)、不利(本多政利室)、大(頼重養女細川網利室)の4人だけです。小良は英勝院の養女となって、鎌倉の英勝寺を相続しています。ほかの7人は家臣に嫁いでいます。これに対して、尾張・紀州の男子はみな大名になり、女子はみな大名・天皇公家に嫁いでいます。これと比べると、見劣りがするようです。男子のうち4人は三千石分知されたといっても、実質上は家臣となっています。 女子も七人が家老級とはいえ、家臣に縁付いています。
幕府も努力はしていますが、頼房がもうけた子供が多すぎたのです。そのためこういう結果となったと研究者は指摘します。そして次のように評します。
  頼房は子供の将来を考えもしないで、水戸徳川家が必要とする家族計画をもたず、つぎからつぎへと多い年には、1年に三人も子供を誕生させた。

頼房は、どうして正室をむかえなかつたのでしょうか。

威公(頼房)御一代御室これなき故は、威公御幼少の時台徳公(秀忠の詮号)の御前にてどれぞの聟にしたしと台徳公仰られけるを、台徳公の御台所御傍におわしまして、あの様なるいたづらな人を、誰か聟にせうぞとありければ、御一代それを御腹立終に御室これなき由。

意訳変換しておくと
水戸の頼房公に正室がいないのは、頼房公が幼少の時に将軍秀忠の御前で、どこかの大名にしたいおっしゃると、傍らにいた御台所が「あんないたづらな人を、誰が婿にしましょうか」とおっしゃた。それを聞いた頼房は立腹して正室をもうけることはなかった。

これはあくまで噂話ですが、当時の大奥での頼房観を伝えているのかも知れません。御三家水戸家の若い当主であった頼房には、将軍家をはじめいろいろな所から縁談が持ち込まれたはずです。いくら歌舞伎者であったとしても、それを拒否し続けることはきわめて難しかったことが推測できます。にもかかわらず、断りとおせたのは、なにか事情があって、将軍はじめ周囲のものも無理強いできなかったのかもしれません。理由は分かりませんが頼房は、正室を迎えて行動の自由を制約されることを嫌い、とくに女性に関して自由奔放に生きる道を選んだことを押さえておきます。
 時代に遅れて生まれた頼房は勝れた武勇の才能を発揮する場をえられず、その憂さを晴らす場さえ奪われていったのかもしれません。頼房はそれを、身近かにいて思うがままになる女性たちに求めるようになります。そこには真実の愛情など望むべくもなかつた、と研究者は指摘します。

1622(元和八)年7月1日に頼房の第一子頼重は誕生します。
頼房19歳の時で歌舞伎者として気ままな生活を送っている頃です。懐妊を知った頼房は、流産を命じます。そのために江戸の三木邸で密に出生したようです。
その事情を高松藩の「家譜」は、次のように記します。

初め谷氏懐李之際、頼房相憚義御坐候て、出生之子養育致間敷との内意にて、(此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由、其後光圀も内々之次か別荘にて谷氏之腹に出生候得共、其節ハ尾・紀ともに男子出生以後に付、追て披露有之候由に御坐候)谷氏を仁兵衛へ預け申候処、仁兵衛義窃に頼房養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相謀り、同人内々之指揮を得候て、出生之後仁兵衛家に養育仕候。然るに江戸表に差置候ては故障之次第も御座候二付、寛永七年庚午六月九歳にて京都へ指登し、滋野井大納言季吉卿ハ仁兵衛内縁御座候二付万事相頼ミ、大納言殿内々之世話にて洛西嵯峨に閑居仕候。

意訳変換しておくと
初め谷氏の懐妊が分かった際に、頼房は尾張・紀伊藩への配慮から、産まれてくる子を養育せず(水子にせよ)と伝えた。(この時には、頼房公の兄尾張義直・紀伊頼宣ともに、まだ男子がなかったので配慮のためであった。その後光圀公も内々に別荘で谷氏が出産したが、この時には、すでに尾・紀ともに男子が出生していたので、追て披露することになった。) こうして谷氏を仁兵衛へ預けた、仁兵衛は秘かに頼房の養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相談し、その内々の指揮を得て、頼重を仁兵衛宅でに養育した。ところが江戸表で「故障之次第」となり、寛永七年六月、頼重9歳の
時に、京都へ移し、仁兵衛は内縁の滋野井大納言季吉卿に相談し、洛西嵯峨に閑居させた。そして、1632(寛永九)年、11歳の時に江戸に帰ったとあります。
始めてて子供が出来ると知ったときの頼房の感情や反応は、どうだったのでしょうか。
20歳で、正室を迎えていなかつた若い頼房に、子供をもうける考えはなかったはずです。子供が出来るという慶びよりも、まずい、どうしようと思い、二人の兄のことが思い浮かんだのではないでしょうか。それが「水子とせよ」という命令になって現れます。
 流産を命じられた家臣の三木は、英勝院の指揮を受けて秘かに出産させ、養育します。ところが「故障(事情)」があって9歳のときに、内縁(季吉は三木の娘の夫)のある滋野井大納言に依頼して、京都に送ったというです。
これは『桃源遺事』の記載とは、次の点が違います。
①頼重を京都に送ったのは2歳のときで、 16歳まで京都にいて「出家」させる予定だったこと
②「家譜」のかっこに入れた細字注がないこと。
「家譜」がこの部分を本文にしないで注記としたのは、確証がもてなかったからでしょう。
「此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由」は、押さえておきます。たしかに当時、尾張・紀伊には子供が誕生していなかったのです。

二番目の子である通は1624(寛永元)年に生まれています。この時点でも尾張と紀伊には子供はありません。尾張義直の最初の子・光友は1625(寛永二)年、紀伊頼宣の最初の子光貞は1626(寛永三)のことです。
 頼重問題がおきて以後、重臣達の諫言や親戚筋も説得して、頼房も納得したようです。それは、寛永四年以降は、毎年二人、三人と子供が生まれていることからもうかがえます。
ところが、光圀の誕生の際には、ふたたび頼房は流産を命じるのです。どうしてなのでしょうか
『桃源遺事』には、次のように記されています。
御母公西山公を御懐胎なされ候節、故有て水になし申様にと頼房公仁兵衛夫婦に仰付られ候所に、仁兵衛私宅にて密に御誕生なし奉り、深く隠し御養育仕候。
意訳変換しておくと

光圀公を御懐胎された時に、故有て水子にするようにと頼房公は仁兵衛夫婦に申しつけた。しかし、仁兵衛は自宅で密に出産させて、秘かに隠して養育した。

理由は「故有て」とだけで具体的なことは記されていません。そして、「密に」水戸の三木邸で誕生し、養育されています。もちろん、頼房に知れると生命の危険があったからでしょう。

どうして頼房は、久昌院谷久子にふたたび水子を命じたのでしょうか。
徳川頼房子女一覧表

表をみると、これ以後彼女は子供を生んでいません。一方、円理院佐々木氏と寿光院藤原氏はその後も出産し続けています。そして、側室の数も増えています。ここからは光圀の出産を機に、久子は頼房の寵愛を失ったことがうかがえます。
それでは、なぜ久子は頼房の寵愛を失ったのでしょうか。
そこにあるのが頼重をめぐる葛藤だと研究者は推測します。
頼重は1630(寛永七)年、9歳のときに京都に送られています。『桃源遺事』では2歳とありますが、水戸の頼重の京都行きと帰還の扱いは、弟の光圀が世子となったことを合理化するために操作されているから、高松藩の記録のほうが信頼できると研究者は考えています。
三木之次の妻武佐は頼房の乳母の姉で、頼房に気に入られていたようです。
 その縁で之次を頼房は「乳母兄」と呼んでいたと『水府系纂』は記しています。これだけ信頼されていた三木夫妻だったからこそ、二人の兄弟を密に誕生させ、養育できたのでしょう。しかし、頼重が9歳のときに京都に送ったということは、夫妻の力では守りきれなくなったようです。頼房は頼重が誕生し、どこかに生きていることを知つて激怒したでしょう。その時期に久子は、光圀を妊娠したのです。
 久子は頼重の安全のため一切語らなったはずです。そうだとすれば、命令にそむいて長男を出産し、その事情を語ろうともしない久子に頼房は怒りを抱き、「出産は認めない!水子にせよ」という態度をとったのでしょう。こうして久子への寵愛は消えていきます。
 頼房は、ふたたび三木夫妻に託して流産を命じます。命じられた三木夫妻は、頼重を探し始めた頼房をみて、今度はより安全な水戸で出産させ、養育したのでしょう。どちらにしても、頼房は正常な家庭をもとうとはしなかつた人物であったと研究者は考えています。

以上をまとめておきます
①高松藩初代藩主の松平頼重の父は、水戸藩祖の徳川頼房である
②頼房は、家康の末の男の子として幼年にして水戸藩を継いだ。
③頼房は、天下泰平の時代に遅れてやって来た武勇人で、歌舞伎者でもあった。
④時代の流れに取り残されるようになった頼房は、「女遊び」にはまり、多くの女性に手を付けた。
⑤公認されている子女だけでも26人で、それを産んだ女性達も多くは身分の高い出身ではなかった。
⑥このような風評は、兄の将軍秀忠や大奥にも及び、評判はよくなかった。
⑦そのような仲で、20歳で最初の子・頼重が産まれることが分かると、水子にして流すことを家臣に命じた。それは、兄の紀伊公や尾張公への世間体を重んじたものだとされる。
⑧これに対して養母於勝(英勝院)は、秘かに養育を命じた。
⑨さらに、それが頼房に知れると京都の天龍寺塔頭に預けた。これが頼重9歳から12歳のことである。
⑩その後、何人かの子供は生まれてくるが、光圀が生まれてきたときには、再度水子にすることを命じている。
⑪この背景には、自分の命を守らずに頼重を養育していた側室への怒りもあった。

つまり、頼重と光圀の兄弟は、父頼重から一度は命を奪われかけた存在であったようです。そして、この時点では水戸藩をどちらが継ぐかについては、決まっていなかったというのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集

高松市御坊町 興正寺別院
高松御坊町にある興正寺別院と勝法寺
 高松市の御坊町という町名は、ここに高松御坊があったことに由来するようです。高松御坊は、現在の興正寺別院にあたります。興正寺別院と勝法寺は並んで建っていて、その前の通りがフェリー通りで、長尾線の向こうには真言の名刹無量寿院があります。このレイアウトを頭に残しながら

高松御坊(興正寺別院)
「讃岐国名勝図会」(1854年)で見てみましょう。
 勝法寺という大きな伽藍を持った寺院の姿が描かれています。これが高松御坊でもありました。この広大な伽藍が戦後の復興と土地整理の際に切り売りされて、現在の御坊町になったようです。通りを挟んで徳法寺・西福寺・と3つの子坊が見えます。その向こうに見える無慮寿院の伽藍の倍以上はある大きな伽藍だったことが分かります。この辺りは江戸時代には寺町と呼ばれ、西方の市役所辺りまで、大きな寺院がいくつも伽藍を並べて、高松城の南の防御ラインでもありました。そのため勝法寺の南側には堀が続いているのが見えます。このような広大な伽藍と、偉容を備えた寺院を誕生させたのは高松藩初代藩主松平頼重です。その裏には頼重の真宗興正派保護政策があったようです。まずは、ここにこのような寺院が現れる経過を見ていくことにします。
興正寺別院歩み

高松興正寺別院の境内の石碑「高松興正寺別院の歩み」の一番最初には次のように刻まれています。
1558年 興正寺第16世証秀上人讃州遊化。

これについて『興正寺付法略系譜』には、次のように記します。
永禄ノ初、今師(証秀)讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

永禄年間(1558~70)のはじめに、興正寺門主の証秀が讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したとあります。この一宇が現在の高松別院のことを指すと伝えられています。また現在の高松別院のHPの寺伝には次のように記されています。

 1558年(永禄元年) 興正寺第十六世 証秀上人が教化活動として讃岐を訪問されたのをきっかけに、当時、東讃を支配下に置いた阿波の三好好賢(三好実休)の庇護を受けて、「楠川の地(現高松市上福岡町)」に高松御坊勝法寺を建立。現在地へは、1614年(慶長19年) 高松藩主 生駒正俊公の寄進により、寺地三千坪で移転。

 証秀は興正派の富田林の地内町建設に大きな役割を果たすと同時に、彼の時代に西国布教を進めています。しかし、実際に讃岐や四国に来たことはないと研究者は考えているようです。証秀が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、これは憶測で、証秀の代に高松御坊(現在の高松別院)が開かれたとまでしか云えません。ここでは現在の興正寺富田林別院や、高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられていることを押さえておきます。

16世紀半ばになると三好氏配下の篠原氏に従って、讃岐国人の香西氏や十河氏が畿内に従軍します。
そして本願寺を訪れ真宗門徒となり、帰国して地元に真宗の菩提寺を建立するようになることは以前にお話ししました。この背後には、三好氏の真宗保護政策があったようです。どちらにしても16世紀半ばには、髙松平野には本願寺や真宗興正寺派の末寺が姿を見せるようになっていたようです。
 文献によって確実に高松御坊(別院)が確認できるのは、天正11年(1583)2月18日の文書です。
三好実休の弟で十河家を継いだ十河存保が、高松御坊の坊主衆に対して出したもので次のように記されています。

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

意訳変換しておくと
 ①野原の潟の寺内を、②池戸の四覚寺原へ引き移し、再興したいという願いについて、それを認める。しかる上は③課役、諸公事などを免除する。仍如件
 
野原郷の潟(港)の寺内町と坊を四覚寺原に再興することを認め、課税などを免除する内容です。池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺になるようです。この時点では讃岐御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。

 野原・高松・屋島復元図
中世の野原の港(現高松市) 背後に無量寿院が見える
 ①の「野原の潟」とは野原の港周辺のことです。
髙松平野で最も栄えていた港であったことが発掘調査から明らかになっています。その背後にあったのが無量寿院です。その周辺に真宗門徒の「寺内町」が形成され、道場ができていたともとれます。同時期の宇多津でも鍋屋町という寺内町が形成され、そこを中心に「鍋屋下道場」が姿を現し、西光寺に成長して行くことは以前にお話ししました。しかし、「可有再興之由」とあるので、移転ではなく「再興」なのです。ここからは高松御坊は、お話としては伝わっていたが、実態はなかったことも考えられます。この時期は、興正寺の中本寺として三木の常光寺が末寺を増やしている時期です。
常光寺と始覚寺と十河氏の拠点である十河城の位置を、地図で見ておきましょう。

常光寺と十河城
三木の始覚寺 常光寺の近くになる
地図で見ると、常光寺や始(四)覚寺は、十河氏の支配エリアの中にあったことがうかがえます。ある意味では、十河氏の保護を受けられるようになって始めて、教勢拡大が展開できるようになっとも考えられます。ちなみに、安楽寺の末寺である安原村の安養寺が教線を拡大していくのも、このエリアです。ここからは次のような仮説が考えられます。
①三好氏は阿波安楽寺に対して、禁制を出して保護するようになった。
②安楽寺は、三好氏の讃岐侵攻と連動する形で真宗興正派の布教を展開した。
③三好氏配下の十河氏や香西氏も真宗寺院を保護し菩提寺とするようになった。
④そのため十河氏や香西氏の支配エリアでは、真宗寺院が姿をみせるようになった。
⑤それが安養寺や常光寺、始覚寺などである。

十河文書出てくる再興を認められた池戸の四覚寺の坊について見ておきましょう。
坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内で、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからは坊の境内地には俗人の家屋もあって、小規模な寺内町をかたち作っていたと推測できます。しかし、四覚寺原での再興がどうなったのかははよく分かりません。また、常光寺との関係も気になるところですが、それを知る史料はありません。

高松野原 中世海岸線
中世の海岸線と御坊川流路
再び御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。
 讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。そのため高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、それにともなって坊も移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。

高松御坊(興正寺別院)2
東寺町に勝法寺が見える 赤は寺院で寺町防衛ラインを形成
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。
それが現在地の高松市御坊町の地です。これは、先ほど見たよう高松城の南の防衛ラインを寺町として構築するという構想の一環です。寺院が東西に並べられて配置されたのです。その配置先が高松御坊の場合には、無量寿院の西側だったということになります。

高松城下図屏風 寺町2
高松城下図屏風
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重が21歳でやってきます。
 松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則の娘です。しかし頼房は、頼重が兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったため、遠慮して葬らせようとした所、頼房の養母英勝院(家康の元側室)の計らいで誕生したといわれます。そのため、頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でした。英勝院が将軍家光に拝謁させ、常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、その後に21歳で讃岐高松12万石の城主となりました。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、的確な情報提供者を幾人ももっていたようです。そして、宗教ブレーンに相談して生まれたのが次のような構想だったのでしょう。
①真宗興正派の讃岐伝道の聖地とされる高松御坊(高松別院)を勝法寺とセットで創建する。
②勝法寺は京都の興正寺直属として、代々の住職は興正寺より迎える。
③その経済基盤として150石を寄進する。
④御坊護持のために3つの子院(徳法寺・西福寺・願船坊)を設置する。
高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺とセットになった高松御坊(興正寺別院)
このような構想の下に、現れたのが高松御坊と勝法寺が一体となった大きな伽藍のようです。ところが「入れ物」はできたのですが、その運用を巡って問題が発生します。それは次のような2点でした。
①勝法寺が奈良から移されたよそ者の寺で、末寺などが持たず政治力もなかった。
②勝法寺は興正寺直属のために、興正寺から僧侶が派遣された。
このため讃岐の末寺との関係がうまく行かずにギクシャクしたようです。そこで、松平頼重が打った手が、頼りになる地元の寺を後見としてつけることです。そのために選ばれたのが次の2つの寺です。
①三木の常光寺 興正寺末の中本寺として数多くの末寺保有
②安原村の安養寺 阿波安楽寺の末寺ではあるが髙松平野への真宗興正派の教線拡大の拠点となり、多くの末寺保有
このふたつの寺については以前に紹介しましたので詳しく述べませんが、讃岐への真宗興正派の教線拡大に大きな役割を果たし、数多くの末寺を持っていました。そして、目に見える形で勝法寺の後見寺が安養寺であることを示すために、安養寺を高松の城下町へ移動させます。その場所は、先ほど讃岐国名勝図会でみた見た通りです。この場所は、寺町防衛ラインの堀の外側になります。これは、寺町が形成された後に、安養寺が移転してきたために外側でないと寺地が確保できなかったようです。こうして、常光寺と安養寺を後見として勝法寺は、京都の興正寺直属寺として機能していくことになります。

松平頼重は、どうしてこれほど興正寺を保護しようとしたのでしょうか。 
一般的には、次のような婚姻関係があったことが背景にあると言われます。
松平頼重の興正寺保護

しかし、これだけではないと研究者は考えています。
松平頼重の寺社政策についての腹の中をのぞいてみましょう

大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしていくことが必要だ。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか? 

具体的な対応策は?
①東讃では、大水主神社の勢力が大きい。これは長期的には削いでいくほうがいいだろう。そのために、白鳥神社にてこ入れして育てていこう。
②髙松城下では? 生駒藩時代には、祭礼などでも楯突く神社が城下にあったと聞く。岩清尾神社を保護して、ここを高松城下町の氏神として育てて行こう。そして、藩政に協力的な宮司を配そう。
③もっとも潜在的に手強いのは、真言宗のようだ。そこに楔をうちこむために、長尾寺と白峰寺の伽藍整備を行い、天台宗に転宗させよう。さらに智証大師の金倉寺には、特別に目をかけていこう。
④讃岐の真言の中心は善通寺だ。他藩ではあるが我が藩にとっても潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか? 近頃、金毘羅神という流行神を祭るようになって、名を知られるようになった金毘羅大権現の金光院はどうか。ここを保護することで、善通寺が牽制できそうだ。
松平頼重の宗教政策
潜在的な脅威となる寺社(左側)と対応策(右側)
⑤もうひとつは、讃岐に信徒が多い真宗興正派の支援保護だ。興正寺とは、何重にも結ばれた縁戚関係がある。これを軸にして、高松藩に友好的な寺院群を配下に置くことができれば、今後の寺社政策を進める上でも有効になる。そのためにも、京都の興正寺と直接的につながるルートを目に見える形で宗教モニュメントとして創りたい。それは、興正派寺院群の威勢を示すものでなければならない。
このような思惑が松平頼重の胸には秘められていたのではないかと私は考えています。

高松興正寺別院
現在の興正寺高松別院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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讃岐への真宗興正派の教線拡大は、三木の常光寺と阿波の安楽寺によって担われていたことが従来から云われてきました。前回はこれに対して、ふたつの寺の由緒を比較して、次のような点を指摘しました。
①常光寺と安楽寺は、興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって同時期に開かれた寺ではないこと
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったこと
③両寺の開基年代が1368年というのは、時代背景などから考えると早すぎる年代であること。
安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里:吉野川の河岸段丘上にある)

それでは安楽寺の讃岐布教の開始は、いつ頃だったのでしょうか。
16世紀初頭になると阿波では、守護細川氏に代わって三好氏が実権を握る「下克上」が進んで行きます。美馬郡里周辺でも三好氏の勢力が及んできます。そのような中で、大きな危機が安楽寺を襲います。
そのことについて寺史には「火災で郡里を離れ、讃岐財田に転じて宝光寺を建てた」と、そっけなく記すだけです。しかし、火災にあっただけなら再建は、もとの場所に行うのが自然です。どうしてわざわざ阿讃山脈を越えて、讃岐財田までやってきたのでしょうか。

安楽寺讃岐亡命事件

それを解く鍵は、安楽寺文書の中でもっとも古い「三好千熊丸諸役免許状」にあります。
従①興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世申候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言
      三好千熊丸
永正十七年十二月十八日              
郡里 安楽寺
意訳変換しておくと

①興正寺正寺殿からの口添えがあり、②安楽寺の還住を許可する。還住した際には、③諸役を免除する。もし、④違乱するものがあれば、ただちに(私が)が成敗を加える

三好千熊丸(長慶?)から郡里の安楽寺に和えられた書状です。日付は1520年12月ですから、亡命先の讃岐の財田に届けられたことになります。ちなみに、四国における真宗寺院関係の史料では、一番古いものになるようです。これより古いものは見つかっていません。ここからは四国への真宗布教は、本願寺に蓮如が登場した後のことであることがうかがえます。
三好長慶

 三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。

もう少し深く、三好千熊丸諸役免許状を見ておきます。
和解書というのは、騒動原因となった諸要因を取り除くことが主眼になります。ここからは③④が「亡命」の原因であったのかがうかがえます。 
③賦役・課税をめぐる対立
④高越山など真言勢力の圧迫 
親鸞・蓮如が比叡山の僧兵達から攻撃を受けたのと同じようなことが、阿波でも生じていた。これに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な一時退避行動ではなかったと私は考えています。
②の「特権を認めるからもどってこい」というのは、裏返すと安楽寺なしでは困る状態に郡里がなっている。安楽寺の存在の大きさを示しているようです。
もうひとつ注目しておきたいのは、書状の最初に出てくる①の興正寺の果たした役割です。
この時代の興正寺門主は2代目の蓮秀で、蓮如の意を汲んで西国への布教活動を積極的に進めた人物です。彼が三好氏と安楽寺の調停を行っています。ある意味、蓮秀は安楽寺にとっては、危機を救ってくれた救世主とも云えます。これを機に、安楽寺は本願寺から興正寺末へ転じたのではないでしょうか。
     
   財田亡命で安楽寺が得たもの何か?
①危機の中での集団生活で、団結心や宗教的情熱の高揚
②布教活動のノウハウと讃岐の情報・人脈
③寺を挙げての「讃岐偵察活動」でもあった
④興正寺蓮秀の教線拡大に対する強い願い
⑤讃岐への本格的布教活動開始=1520年以後
財田亡命は結果的には、目的意識をはぐくみための合宿活動であり、讃岐布教のための「集団偵察活動」になったようです。その結果、次に進むべき道がみえてきます。
④そこに、働きかけてきたのが興正寺蓮秀です。彼の教線拡大に対する強い願い。それに応えるだけの能力や組織を讃岐財田から帰還後の安楽寺は持っていました。それは、1520年以後のことになります。そして、それは三好氏の讃岐侵攻と重なります。
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「南海通記」で、讃岐への三好氏の侵攻を要約すると次のようになります。
1507年 細川家の派閥抗争で養子澄之による正元暗殺で、細川家の内紛開始。「讃岐守護代香川・安富等は、澄之方として討死」とあり、讃岐守護の澄之方についた香西・香川・安富家の本家は断絶滅亡。以後、讃岐で活躍するのは、これらの分家。一方、阿波では、勝利した細川澄元派を押した三好氏が台頭。
1523年 東讃長尾荘をめぐって寒川氏と守護代安富氏・山田郡十河氏が対立開始。これに乗じて、三好長慶の弟三好義賢(実休)が十河氏と結んで讃岐に進出し、実休の弟一存が十河氏を相続。こうして三好氏は、東讃に拠点を確保。
1543年には、安富・寒川・香西氏も三好氏に服従。16世紀半ば頃には、東讃は三好氏の支配体制下へ組み込まれた。
 そして、三好氏は丸亀平野へ進出開始。雨霧城攻防戦の末に、香川氏を駆逐し、三好氏による讃岐支配体制が完成。讃岐の国人たちは、服従した三好長慶の軍に加わり、畿内を転戦。その時に東讃軍を率いたのは十河氏、西讃軍を率いたのは三好氏の重臣篠原長房。
以上からは次のような事が分かります
①細川氏の内紛によって、阿波では三好長慶が実権を握ったこと。
②三好氏は十河氏などと組んで、16世紀半ばまでには東讃を押さえたこと
③16世紀後半になると丸亀平野に進出し、西長尾城の長尾氏などを配下に組み入れたこと
④そして天霧城の香川氏と攻防を展開したこと
  先ほど見たように「三好千熊丸諸役免許状」によって、三好氏から安楽寺が免税・保護特権を得たのが1520年でした。その時期は、三好氏の讃岐侵攻と重なります。また侵攻ルートと安楽寺の教線伸張ルートも重なります。ここからは、安楽寺の讃岐への布教は三好氏の保護を受けて行われていたことが考えられます。三好氏の勢力下になったエリアに、安楽寺の布教僧侶がやってきて道場を開く。それを三好氏は保護する。そんな光景が見えてきます。

安楽寺末寺17世紀

約百年後の1626年の安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図です。
百年間で、これだけの末寺を増やして行ったことになります。ここからは何が見えてくるでしょうか?
①阿波の末寺は、吉野川沿岸部のみです。吉野川の南側や東の海岸部にはありません。どうしてでしょうか。これは、高越山など代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。
②小豆島や塩飽などの島々、東讃にはほとんどない。
③東讃地域も少ない。大水主神社=与田寺の存在
④高松・丸亀・三野平野に多いようです。
これらの方面への教線拡大には、どんなルートが使われ、どのような寺が拠点となったのでしょうか。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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丸亀市垂水の西教寺さんで、「真宗興正派はどのようにして讃岐に伝えられたのか」でお話しさせていただきました。そのポイントを何回かに分けてアップしておきたいと思います。
 真宗興正派の讃岐での教線拡大については、三木の常光寺と阿波の安楽寺が大きな役割を果たしたことは以前にお話ししました。そのことについて両寺の寺史が、どのように記しているのかを見ておきましょう。
近世の讃岐真宗興正寺派 三木の常光寺の丸亀平野への教宣拡大ルート : 瀬戸の島から
三木の常光寺

三木の常光寺は、幕末に高松藩提出した報告書に次のように述べています。
 『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
   ①仏光寺(興正寺)了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、②応安元年四国之地江渡り、③秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、④浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
これを要約すると次のようになります。
①1368年、佛光寺(興正寺)が、浄泉坊と秀善坊を四国に派遣
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺
③秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺
④讃岐の真宗寺院のほとんどがいずれかの末寺となり、門信徒が帰依
この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のようなことでしょう。
①常光寺の開基が真宗寺院の中では一番古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺で、両寺は興正寺の末寺で同時に開かれた兄弟関係の寺院であること 
③両寺の布教活動によって多くの末寺が開かれたために興正派寺院が多いこと。
そして、添付資料として常光寺の末寺一覧表がついています。その中に、垂水の西教寺や善行寺、西の坊などは記されています。つまり三木の常光寺から讃岐の内陸部を西に進んだ教線ラインが丸亀平野の南部にまで届いていたことが裏付けられます。この史料によって、讃岐への真宗伝播について従来の市町村史など記されてきました。

安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里)

 しかし、常光寺から「同時に開基された興正寺末の兄弟寺」と指名された安楽寺が藩に提出した寺史には、次のように記されています。

 安楽寺寺歴
安楽寺開基について
①先祖は上総守護だったと記されています。それによると、鎌倉幕府内での権力闘争で、北条氏に敗れた。
②そのため親鸞の高弟の下に逃げ込んで、真宗に入信した。
③そして、縁者の阿波守護をたよってやってきた。
④すると、安楽寺を任されたので真宗に改めた。
ここには、寺の開基者は東国から落ちのびてきた千葉氏で、その寺なので山号が千葉山になるようです。また、開基は鎌倉時代にまで遡り、四国で最も古い真宗寺院だという主張になります。先ほど見た常光寺が1368年ですから、それよりも100年近くはやいことになります。
この内容を常光寺由緒と比べておきましょう。
安楽寺と常光寺寺伝比較
常光寺と安楽寺の由緒比較
以上から分かることは次の通りです。
①常光寺文書には、常光寺と安楽寺は興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって開かれたとあるが、これは安楽寺の寺伝との間に食い違いがある。
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったことが考えられる。
③常光寺の開基年代も1368年というのは、僧侶を派遣した仏光寺(後の興正寺)の置かれた時代背景などから考えても、早すぎる年代である。
④四国への真宗教線が伸びてくるのは、蓮如以後で堺などに真宗門徒が現れて以後である。
つまり、讃岐への教線ラインの伸張は、16世紀になってからと研究者は考えているようです。
以上、今回は常光寺と安楽寺は兄弟寺ではなく、安楽寺はもともとは本願寺末として成立していたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
「橋詰茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力
 須藤茂樹 戦国時代の阿波と本願寺 「安楽寺文書」を読み解く
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前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(東西二つの十三重石塔が描かれている)

白峰寺の十三重石塔について以前にお話ししました。十三重石塔は、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えるようになっているようです。

P1150655
白峰寺の十三重石塔

どうして西大寺律宗は、石塔造立を重視したのでしょうか。それを解く鍵は、西大寺中興の祖とされる叡尊にあります。叡尊にとっての多重層塔の意味は何だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

叡尊上人
西大寺中興の祖・叡尊上人
叡尊上人の伝記・作善集には、次の2つがあります。
①『金剛佛子叡尊感身学正記』
②『西大寺勅謚興正菩薩行實年譜』
西大寺叡尊傳記集成[image1]

ここに記された多重層塔の造立勧進の記事を研究者は見ていきます。
「暦仁一(1238)年」八月から九月
①又流記日 四王堂八角塔塞韆講郎佛舎利可爲當殿奪乏旨顯然。故告當寺五師慈心爲彼五師沙汰。以二九月上旬。立八角五重石塔。②郎奉納予所持佛舎利一粒一畢。(中略)
從同月卅日。一寺男女奉爲供養舎利。受持八齋戒。③可爲毎月勤行

ここには次のような事が記されています。
①四王堂の中心として本尊舎利を納めていた木造八角五重塔を八角五重石塔に造りかえた、
②そして叡尊の所持する舎利を一粒納入し、復元した
③四王堂本尊舎利塔再興後は、毎月舎利供養がおこなわれた
ここからは西大寺の八角五重石塔は「当殿本尊」である仏舎利を納入する舎利塔として造られていたことが分かります。
さらに『行実年譜』の暦仁一年十月には、次のように記されています。
廿八日結界西妻而爲弘律之箋醐覺葎師羯摩菩嗜相講翌日始行二四分衆法布晦

十月二十八日に西大寺に覚盛律師をむかえて、弘律の道場としています。再興された八角五重石塔は、単に四王堂本尊の舎利を納める舎利塔としてだけではなく、弘律道場の中心的存在を示すシンボルタワーとしての意味を持つものでした。言いかえれば、舎利塔としてだけではなく、釈迦の仏体そのものを示すものとして考えられていたと研究者は指摘します。
宇治の十三重石塔
宇治の浮島十三重塔
『行実年譜』「弘安九年丙戌」の条に出てくる宇治の浮島十三重塔(1286年)を見ておきましょう。
この塔は叡尊が宇治川の大橋再建の際に建立した日本最大の石造物で、次のような銘があります。
菩薩八十六歳。宇治雨寳山橋并(A)宇治橋修造己成。啓建落成佛事。(中略)
而表五智十三會深義。(B)以造五丈十三層石塔。建之嶋上。
(A)宇治橋修造にさいして、梵網経講読に集まる聴衆の中の漁民が発心して、舟網など殺生具をなげだした。その供養として川中に小島を築き、殺生具を埋めた。
(B)石塔造立に続いて、漁人の発心によって築かれた島上に十三重石塔を造立した。
ここには宇治に建てられた十三重石塔は「五智十三会の深義」を表わすものであったことが記されています。ここからこの石塔は、宇治川の漁業禁止と宇治橋供養のため建立され、塔の下には漁具などが埋められたと伝えられます。
この石塔について『行実年譜』には、次のような願いがこめられていると記されています。
意欲救水陸有情也。所謂河水浮塔影。遠流滄海。魚鼈自結善縁。清風觸支提。廣及山野。鳥獸又冤惡報。其爲利益也。不可測也。印而教漁人。曝布爲活業。又時有龍神。從河而出來。從菩薩親受戒法。歡喜遂去亦不見矣。

意訳変換しておくと
水に映える塔影が広く世界隅々までおよび、人間はもとより生きとし生けるものすべてにわたるもので、漁民も含まれる。さらには竜神にさえも、その功徳をさずけるものである。


そして十三重石塔銘文には、次のように刻まれています

於橋南起石塔十三重於河上奉安佛舎利并數巻之妙曲載在副紙令納衆庶人等與善之名字須下預巨益法界軆性之智形上

ここからは次のようなことが分かります。
①十三重塔の塔内には、金銅製・水晶製五輪塔形舎利塔数個と功徳大なる経典・法花経などを納入されたこと
②併せて舎利を納め「法界軆性之智形」として、釈迦の仏体として造立されたものであること
③「衆庶人等與善之名字」を記した結衆結縁名帳も納入したこと
これは名を連ねた結縁者を極楽に導びこうとするものとされます。
それでは、石塔造立を行なうことで得られる功徳とは何だったのでしょうか
それについてて『覚禅抄』には、次のように記されています。
寳積經云。作石塔人。得七種功徳。一千歳生瑠璃宮殿。壽命長遠。三得那羅延力。四金剛不壊身。五自在身。六得三明六通。七生彌勒四十九重宮夢。

塔の造立者に授けられる功徳が7つ挙げられ、弥勒四十九重宮へ導びかれると説いています。宇治浮島の十三重石塔に納められた名帳に名を連ねた人は、その功徳(勧進)によって、弥勒浄土へ導びかれると説かれたのです。
 
 以上から叡尊上人と十三重石塔には、次のような関係があると研究者は指摘します。
①五智十三会の深義を表わし、仏舎利を納入することで、釈迦の仏体そのものとなっていること
②塔は弘律道場の中心で、その存在が永遠の弘律道場となるには必要であったこと。
③造塔功徳によって、衆生を弥勒浄土への道筋を示すこと
このように十三重石塔は、信者を弥勒浄土へ導くためのシンボルタワーとして不可欠なものだったようです。上田さち子氏は「叡尊の宗教活動は。こうした点でも、融通念仏、時衆、真宗仏光寺派と共通するものが認められる。」と評します。
以上を整理しておきます。
①叡尊は光明真言を、融通念仏的より簡単に功徳が受けられるようにした
②それは貴族や一部の僧侶たちだけのものから光明真言を社会の底辺まで広げることになった。
③その根本思想は、時衆などの阿弥陀如来による往生ではなく、釈迦如来における往生であった。
④十三重石塔銘文中の「釈迦如来、当来導師弥勒如来」が、そのことを物語っている。
 
西大寺律宗は、末寺をどのように増やして行ったのでしょうか?
  1391(明徳二)年の西大寺『諸国末寺帳』には、数多くの寺院が末寺として記されています。しかし、これらの寺は最初から西大寺末寺であったのではないようです。その多くは叡尊と、その死後に弟子たちによって西大寺末寺として組みこまれたものです。
それでは西大寺は、どのようにして末寺を増やして行ったのでしょうか。それと石塔造立とはどんな関係にあったのでしょうか。
叡尊の布教勧化活動を考える際に、研究者が取り上げるのが奈良の般若寺です。
般若寺 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」
般若寺の十三重石塔(宋人石工の伊行末作)

般若寺の十三重石塔と本堂と本尊の出現時期を見てみます。
十三重石塔は、石塔内に仏舎利、経巻が納入されていて、経箱には「建長五(1253)年」の墨書銘が残されています。ここから塔納入時の年代が分かります。

本尊については『感身学正記』に、次のように記されています。

建長七年乙卯 當年春比。課佛子善慶法橋。造始般若寺文殊御首楠木。自七月十七日迄九月十一日。首尾十八日。
1255年の春に、仏師善慶法橋に命じて、般若寺のために文殊菩薩像の首を楠木で作らせた。
奈良般若寺
般若寺本堂と十三重石塔
本堂については、次のように記されています。
弘長元年辛酉二月廿五日。文殊奉渡般若寺。御堂半作之間。構彼厨子。奉安置堂乾角。
1261年 製作開始から六年後に文殊菩薩が般若寺に渡され、本堂に厨子が作られ、そこに安置した。
以上からそれぞれが出現した年は以下の通りになります。
1253年 十三重塔造立
1255年 般若寺本尊の文殊菩薩像製作
1261年 般若寺本堂建立
ここからは十三重石塔は、文殊菩薩像製作開始より2年前、本堂完成より8年前には般若寺境内に造立されていたことになります。何もない伽藍予定地に、まずは十三重石塔が建てられたのです。これは現在の私たち感覚からすると、奇異にも感じます。本尊や本堂が建てられる前に、十三重石塔が建てられているのですから・・・
「伊派の石工」
      南宋からやってきた石工集団・伊派の系譜
 般若寺の十三重石塔を製作したのが伊行末(いのすえゆき)とされます。
伊行末は、明州(淅江省寧波)の出身で、重源が東大寺大仏殿再興工事のために招聘した、陳和卿(ちんなけい)などととともに来朝し、石段、四面回廊、諸堂の垣塌の修復に携わっています。正元二年(1260)7月11日に行末はなくなりますが、その後は嫡男の伊行吉(ゆきよし)をはじめとして、末吉(すえよし)・末行(すえゆき)・行氏(ゆきうじ)・行元(ゆきもと)・行恒(ゆきつね)・行長(ゆきなが)といった石工たちが伊(猪・井)姓を名乗り、伊派石工集団を形成し優れた作品を残しています。伊派石工集団の菩提寺だったのが般若寺でもあるようです。般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
  般若寺の笠塔婆(伊行末の息子・伊行吉が父母のために寄進)

十三重石塔建立の意義とは、何なのでしょうか?
『覚禅抄』の「造塔巻」建塔萬處事には、次のように記されています。
諸經要集三云。僣祗律云。初起僣伽藍時。先觀度地。將作塔 處不得在南。不得在西。應得在東。應在北。

ここには伽藍を建てる時には、まず塔造立から始めることとされています。般若寺中興も、まずは宋人石工の伊行末によって十三重石塔が造立されたようです。
1267(文永四)年に、般若寺は僧138人の読経の中で整然と開眼供養が行なわれ、再興されます。その様子が次のように記されています。
抑當寺者。去弘長年中。奉安讒尊像以來、雖不經幾年序。自然兩三輩施主出來。造添佛殿僧坊鐘樓食堂等。殆可謂複本願之昔。數宇之造營不求自成。是偏大聖文殊善巧房便與。願主上人良恵无想之意樂計會之所致也。

このように往古の姿に復興させた後、次のように管理されます。
印爲西大寺之末寺。可令管領一之由。上人競望之間。遣同法比丘信空一令住。

ここからは般若寺が西大寺末寺に置かれ、叡尊の弟子信空が責任者として管理したことが分かります。

西大寺の叡尊による般若寺復興事業の手法を整理しておきます
①叡尊と伊派石工により、十三重石塔が造立され、弘律道場とされた。
②その後に文殊菩薩像を造立し、その礎を築いた
③復興が終ると、大量の僧を動員して大イヴェントを開催して、西大寺の勢力の大きさを示し、末寺に組みこんだ
④さらに弟子信空を送り込み、 西大寺末寺の固定化をはかった。
④弟子信空は、叡尊亡き後に西大寺第二代長老となる人物である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六

香川の石切場分布図
讃岐の中世石切場
讃岐には中世には、凝灰岩の石切場が各地区に分散してあり、それぞれが石造物を生産していたことがこの分布図からは分かります。この中で有力なのは、東讃の火山と、西讃の弥谷寺・天霧山でした。
  讃岐の中世石造物については、以前に次のように要約しました。
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、
②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し
③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること
④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣して技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと
⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと
天霧・火山石造物分布図
天霧系・火山系・花崗岩製石造物の分布図
 
上の鎌倉・南北朝時代の分布図からは、天霧系と火山系の石造物が讃岐を東西に分ける形で市場占有していたことが分かります。その中で、五色台の白峰寺周辺には、櫃石島で作られた花崗岩系の石造物が集中しています。この背景については、以前に次のようにまとめました。
①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、
②白峯寺十三重塔(東塔)などの層塔は、櫃石島に関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、製作を担当したこと
④櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団で、その後も定着し活動を続けたこと。
④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺が第1候補として考えられる。そのため傘下の寺院だけに、作品を提供した。そのひとつが白峰寺であった。
  このようにしてみると、中世の讃岐の石造物制作の中心は、天霧山・火山・櫃石島の3つで、その中に豊島石は、含まれていなかったことが分かります。それでは、豊島系石工達の活動は、いつからなのでしょうか?県内で年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらの五輪塔には、火輪に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は判断します。豊島石工の活動開始は15世紀半ば頃のようです。しかも、その製品の供給先は高松周辺に限られた狭いエリアでした。それが17世紀前半になると、一気に讃岐一円に市場を広げ、天霧石の石造物を駆逐していくようになります。その原動力になっていくのが17世紀になって登場する「豊島型五輪塔」です。これについては、前回にお話ししたので詳しくは述べませんが、要約すると次のようになります。
①豊島型五輪塔は、今までになく大型化したものが突然に現れること
②それはそれまでの豊島で作られてきた五輪塔の系譜上にはないこと、
③それは天霧系五輪塔を模したものを、生駒氏に依頼されて作成したために出現した

豊島型五輪塔の編年表と各時期の分布図を照らし合わせながら見ていきます。
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期(17世紀)
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ(17世紀後半)
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程(18世紀)
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、(18世紀後半)

豊島型五輪塔の分布的特徴を見ていくことにします。
豊島型五輪塔分布図
豊島型五輪塔Ⅰ期分布図
1期の分布を図を見て分かることは次の通りです。
①西は琴平町、東は白鳥町にかけて広域的に分布する
②東讃に集中し、三豊地域や丸亀平野には少ない
Ⅰ期に豊島型五輪塔が香川県西部に広がらなかったのは,どうしてなのでしょうか?
それは西讃にはライバルの石工達がいたからだと研究者は指摘します。天霧石を使う「碑殿型五輪塔」を制作する石工集団です。戦国末の戦乱で西讃守護代の香川氏が滅亡した際に、弥谷寺の石工達も四散したようです。近世になって、生駒氏が藩主としてやってきて、弥谷寺を菩提寺として保護するようになると、新たに天霧山東山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新たな石切場を開かせたようです。そして、生駒氏の求めに応じて石造物を提供するようになります。その代表作品が弥谷寺の生駒氏の巨大な五輪塔です。こうして香川県西部では、天霧石を使った近世五輪塔が今でも、多度津町、善通寺市、琴平町、豊中町などに数多く分布しています。これらの石材は、天霧山東麓の善通寺市碑殿か、高瀬町の七宝山の石材が使われたと研究者は指摘します。
碑殿型五輪塔も紀年銘がないものが多くて造立年がよく分かりません。そのため年代確認が難しいのでが、次の点から17世紀の作品と研究者は推測します。

碑殿型五輪塔
          碑殿型五輪塔(天霧石)
①火輪の形態から弥谷寺にある17世紀初頭の生駒親正墓の系統上にあること
②この頃に多く現れるソロバン玉形をした水輪の形
つまり、17世紀初頭には、碑殿型五輪塔が西讃地方の五輪塔市場を押さえていたために、競合関係にあった豊島型五輪塔は西讃への「市場参入」が阻まれたという説です。豊島型五輪塔が西讃市場に入っていくのは、碑殿五輪塔が衰退した後のⅡ期以後になります。

生駒親正夫妻墓所 | 香川県 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
弘憲寺生駒親正の墓
 火輪の形態からは碑殿型五輪塔の系譜は、弘憲寺生駒親正の墓が想定されます。
生駒親正の墓 | あー民のブログ

一方、豊島型五輪塔は志度寺生駒親正墓が想定できます。両者ともに生駒家関係の五輪塔になります。ここにも豊島五輪塔の出現には、生駒氏の関与がうかがえます。
豊島型五輪塔系譜
豊島五輪塔の系譜

豊島型五輪塔のⅡ期の分布図を見ておきましょう。

豊島型五輪塔分布図3
①分布の中心は東讃にあるが、高松地区や三豊地区にも拡大。
②一方で、Ⅰ期に比べると造立数は大幅に減少。
②丸亀平野には、見られない。
特に高松市の姥ケ池墓地では、Ⅱ期になると造立数は激減し、Ⅲ期にはなくなってしまいます。 この衰退背景には、何が考えられるのでしょうか?

近世の墓標
近世墓標の型式

それは花崗岩製の墓標の登場です。
姥ケ池墓地の墓標では、花崗岩製墓標は1640年代から確認され、60年代年代になると数を増します。そして、元禄期の1690年代には一般的に普及するようになります。こうして、18世紀には石材は、ほとんど花崗岩が用いられるようになり、豊島石の墓標は1割程度になります。つまり、この時期に五輪塔から墓標へ、豊島石から花崗岩へと主役が交代したのです。高松市法然寺の松平家墓所には多くの近世五輪塔がありますが、これらは全て花崗岩だと報告されています。
 18世紀のⅢ期の終わりになると豊島五輪塔は、豊島の外には提供されることはなくなります。
   島外に提供された最後の製品とされるのが、長尾町の極楽寺歴代住職墓地と寒川町蓮井家墓地に10基ほどの豊島製五輪塔です。一方でこの墓地には、花崗岩製の墓石も多く立っています。ここにも豊島製五輪塔から花崗岩製の墓石への転換がみえます。
 極楽寺歴代住職墓では、44世宗栄の墓は豊島型五輪塔です。しかし、49世堅確(1737年没)以後の墓は花崗岩製の五輪塔に替わっています。ここからは、豊島型五輪塔が使われたのは18世紀前半までで、それから後は花崗岩製の五輪塔になったことがうかがえます。
 蓮井家墓地を見ておきましょう。
蓮井家は1568年に土佐から讃岐に移り、寒川町の現在地に住んで、江戸時代には大庄屋を務めていた大富農です。蓮井家墓地は11基の豊島型五輪塔があります。家系図と照らし合わせると初代元綱(1603没)から4代家重(1711年没)までは、それぞれの墓標は見つからないようです。墓標があるのは、5代章長(1732)年没、6代孝勝(1768年没)の墓からで、これには砂岩製の宝筐印塔が使われています。7代孝澄(1816年没)以降は砂岩製の墓標になります。ここからは、墓石の見つからない初代から4代までは豊島型五輪塔が用いられた可能性があると研究者は考えています。
 蓮井家墓地の墓石変遷は、極楽寺住職墓と同じように次のようになります。
16世紀前半までは豊島型五輪塔
18世紀中頃からは砂岩製の宝筐印塔
19世紀からは砂岩製の墓標
 長尾町と寒川町のふたつの墓地からは18世紀前半に豊島型五輪塔から花崗岩か砂岩の墓石への変化があったことが分かります。そして18世紀中頃以降は、花崗岩よりも安価な砂岩の普及によって、豊島型五輪塔の販路は絶たれるようです。 そしてⅣ期になると、島外からの注文がなくなった豊島型五輪塔は、豊島内にだけのために作られます。しかし、豊島の石工達は五輪塔や燈籠の製作からは手を引きますが、その他の新製品を開発して販路を確保していきます。

豊島の加工場左
「日本山海名産名物図会」に紹介されている豊島の作業場
 その様子が「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の作業場の姿なのです。ここでは「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」の石造物が作られています。そして燈籠③は一基だけです。五輪塔や燈籠生産から日常生活関連の石造物生産に営業方針を切り替えて生き残っていたのです。
以上をまとめておきます
①中世の墓石として、畿内は花崗岩製、阿波や土佐は板碑や自然石塔婆が用いられたが、讃岐では墓石として凝灰岩の五輪塔が主に用いられた。
②特に東讃の火山石と西讃の天霧石製が代表的な五輪塔であった
③その中で、生駒氏の保護を受けた天霧石の石切場が新たに牛額寺奥の院に開かれ活動を開始した
④そこでは生駒氏の求めに応じて巨大化したものが作成されるようになった。
⑤高松に作られた生駒氏関係の五輪塔を任された豊島系石工たちは天霧山の五輪塔を参考に、大型の五輪塔を造り出すようになった。これが豊島型五輪塔である。
⑥豊島型五輪塔の最盛期は17世紀で、この時期は墓標の出現期と重なり、墓制史において重要な画期であること
⑦17世紀中頃から五輪塔に替わって墓標が登場するが、それは花崗岩を用いたものだった。讃岐で最初の墓石は、花崗岩製だった。
こうしてみると、豊島型五輪塔とは中世以来の凝灰岩を用いた讃岐の伝統の中で、最終期に登場したものと云えるようです。凝灰岩の使用を中世的様相、花崗岩の使用を近世的と色分けするなら、中世的様相の最終場面での登場ということになります。

最後に墓制史として墓域(墓地)との関わりを見ておきましょう。
①豊島型五輪塔は、多くが墓地の中に建っている。
②中世五輪塔は、今では墓地機能を失った所に残されていることが多い。
これをどう考えればいいのでしょうか
高松市の神内家墓地では、中世段階の墓域と近世以降の墓域では場所が違います。豊島型五輪塔は、近世以降の墓域の中に建てられています。さらに二川・龍満家の墓地では豊島型五輪塔を中心にして、次世代の近世墓標が形成されています。ここからは豊島型五輪塔が近世墓地の形成の出発点の役割を果たしていると研究者は指摘します。そういう意味では、豊島型五輪塔は中世的性格と、近世的性格を併せて持つ過渡期の五輪塔とも云えます。
 そして、中世五輪塔とくらべるとはるかに大きく大型化します。その背景には五輪塔が個人や集団のシンボルとして受け止める墓への観念の変化があったようです。さらに、刻銘が重視される墓標の出現に向かうことになります。現在の墓標が登場する前の最後の五輪塔の形が東讃岐では、豊島型五輪塔だったとしておきます
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
    松田朝由 豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年
     東かがわ市歴史探究ホームページ     香川県の中世石造物の石材

15・16世紀には、瀬戸内海に多くの石造物を供給していた弥谷寺石工たちは、17世紀になると急速に衰退していきます。その背景には、軟らかい凝灰岩から硬い花崗岩への石材変化があったことを以前にお話ししました。もうひとつの原因は、ライバルとしての豊島の石工集団の成長があったようです。今回は、豊島石工たちがどのように成長し、弥谷寺石工達から市場を奪っていったのかを見ていくことにします。テキストは「松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」です。

豊島の加工場左
豊島の石工作業場(日本山海名産名物図会)
前回は「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の石切場と石造物について見ました。豊島石製品として「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」とありました。さまざまな石造物が制作されているのですが、燈籠や五輪塔については触れられていませんし、挿絵にも燈籠③が一基描かれているだけでした。この図会が出版された18世紀末になると、豊島でも五輪塔の生産は、終わっていたようです。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。

豊島型五輪塔2
豊島型五輪塔

豊島型五輪塔の特徴を、研究者は次のように指摘します
①備讃瀬戸を跨いで香川、岡山の両県に分布する
②中世五輪塔と比較すると、他よりも大型である
③宝医印塔の馬耳状突起に似た突起をもつ特異な火輪が特徴である
②風輪と空輪が別石で構成される
④少数ではあるが正面に方形状の孔を穿った地輪がある、
⑤地輪の下に台石をおく
⑥塔内部が彫られて空洞になっている

具体的な検討は省略し、形態変遷から明らかとなった点だけを挙げます。
豊島型五輪塔編年図
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、
それではⅠ期の「豊島の五輪塔の最盛期」とは、いつ頃なのでしょうか。
豊島型五輪塔が、出現した時期をまずは押さえます。造立年代が推定される豊島産の石造物は24例で、高松以東が14例、高松から西が10例になるようです。各世紀毎に見ると次の通りです。
15世紀段階では、高松以東では豊島石が2例、豊島石以外が4例で、豊島石が多いとはいえない。この時代の石材の多くは「白粉石」と呼ばれる火山の凝灰岩で、スタイルも豊島型五輪塔独特の要素はまだ見られず、その萌芽らしきものだけです。
16世紀 3例中の2例が豊島石。形態は地蔵と板碑。
17世紀初頭 生駒家当主の墓は超大型五輪塔でつくられるが、石材は豊島石ではなく、天霧石が使われている。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
15世紀 豊島石石造物は見つかっていない。
16世紀 6例あるも、豊島石ではなく在地の凝灰岩。
17世紀初頭 在地の凝灰岩使用

次に豊島石の搬出開始時期について見ていくことにします。
香川県内において年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらは五輪塔に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は推測します。ここからは、豊島型五輪塔が作られるようになる約150年前から豊島石の搬出は、行われていたことが分かります。
つまり、豊島石工集団の活動は15世紀中頃までは遡れることになります。
五輪塔 火輪変化
火輪のそりの変化による年代判定
それでは、中世後半段階に豊島石石造物は、県内でどの程度拡がっていたのでしょうか。
高松市中山町の原荒神五輪塔群
高松市香西の善光寺五輪塔群
芝山五輪塔群
宇佐神社五輪塔群で数基
屋島寺や下田井町、木太町など
ここからはその流通エリアは高松市内に限られることがうかがえます。木田郡から東は火山石など凝灰石を用いた石造物が多く、豊島石はほとんどありません。また、高松市から西にも、豊島石はみられず、天霧石など凝灰岩がほとんどです。
 かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
  ここでは、次のことを押さえておきます。
  ①中世後半段階において豊島石は高松市を中心とした局地的な分布であり、それ以外の地域への供給はなかったこと。
  ②高松市内においても、弥谷・天霧山からの凝灰岩が多数派で、豊島石は少数派であったこと。
豊島石は高松地域のみで使用されていたようです。

白峯寺 讃岐石造物分布図
天霧系・火山系石造物の分布図(中世前期に豊島石は存在しない)

次に生駒3代当主と豊島型五輪塔との関わりを見ていくことにします。
 高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
法泉寺生駒氏廟
この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。
龍松山 法泉寺 : ひとりごと
        生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
まず2代目一正の五輪塔から見ていきます。
彼はは1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。

讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
生駒家二代生駒一正(左)と三代・生駒正俊の五輪塔(右)
火輪は豊島型五輪塔の形態で、空輪、風輪もその特徴を示します。ところが空輪や水輪のスタイルは、豊島型五輪塔とはちがう要素です。同じ水輪スタイルとしては、仁尾町金光寺にある細川頼弘墓を研究者は挙げます。細川頼弘は1579年に亡くなっているので、一正の五輪塔の水輪の特徴は、16世紀の時代的な特徴とも考えられます。
 このように一正の五輪塔は、全体的には豊島型五輪塔と云ってもいい属性を持っています。ところが問題は、石材が豊島石ではないのです。この石材は、天霧山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新しく開かれた石切場から切り出されたものであることが分かっています。これをどう考えればいいのでしょうか?

次に隣の生駒正俊(1621年没) の五輪塔を見ておきましょう。
 火輪は、一正五輪塔と同じ豊島型五輪塔のスタイルです。空輪、風輪も豊島型五輪塔の属性をもちます。全体的に、一正の五輪塔よりも、より豊島型五輪塔の特徴を備えているようです。しかし、この正俊塔も石材は豊島石ではなく、碑殿町の天霧石が使われています。
このように宝泉寺生駒廟のふたつの五輪塔は、豊島型五輪塔Ⅰ期古段階に位置付けることができます。しかし、台石がないことと、石材が豊島石でないという問題点があります。
 生駒家当主の墓のスタイル変遷から見ると、次の系譜の先に豊島型五輪塔が姿を見せると研究者は考えているようです。

①志度寺の生駒親正墓→ ②法泉寺の生駒一正供養塔 → 
③法泉寺の生駒正俊供養塔

これら生駒家の五輪塔は、今見てきたように形は豊島型ですが、石材はすべて天霧山からの採石です。

研究者が注目するのは、四国霊場弥谷寺(三豊市三野町)にある2代生駒一正の五輪塔です。
生駒一正五輪塔 弥谷寺
生駒一正五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺は、生駒一正によって菩提寺とされ再興された寺院です。そして天霧石の採石場が境内にありました。弥谷寺と、生駒家には深い関わりがあったのです。
弥谷山と天霧山の関係については、以前に次のようにまとめました。    
①弥谷寺は、西讃岐守護代だった香川氏の菩提寺で、その五輪塔創立のために採石場があり、石工集団がいた。
②弥谷寺境内には、凝灰岩の露頭や転石に刻まれた磨崖五輪塔が多数あること
③弥谷山産の天霧石五輪塔は、県内を越えて瀬戸内海全域に供給されたこと
④長宗我部元親の讃岐占領、その後の秀吉の四国平定で、香川氏が没落して弥谷寺も一時的に衰退したこと
⑤讃岐藩主となった生駒氏の菩提寺として、弥谷寺は復興したこと。そこに、超大型の五輪塔が藩主墓碑として造立されたこと。
⑥その際に弥谷寺採石場に替わって、天霧山東側の牛額寺奥の院に新たに採石場がつくられたこと
こうして天霧山周辺には、弥谷寺境内と、牛額寺奥の院というふたつの採石場ができます。
弥谷寺磨崖五輪塔と、牛額寺奥の院の磨崖五輪塔を比べると、次のような相違点が見られます。
①火輪の軒隅が突出している
②空輪が大型化している
③水輪が扁平化している
特に①②は近世的変化点で、違いの要因は時期差であると研究者は考えます。つまり、磨崖五輪塔は「弥谷山(弥谷寺) → 天霧山(牛角寺)」への変遷が推測できます。ここからも、牛額寺奥の院が新たに拓かれた採石場であることが裏付けられます。
 どうして、時期差が現れたのでしょうか           
 採石活動の拠点が、弥谷山から天霧山へ移ったと研究者は考えています。中世には採石は、弥谷山でも天霧山でも行われていたようです。しかし、最初に採石が行われるようになったのは、弥谷山でした。それは、磨崖五輪塔が弥谷寺本堂周辺に集中していることから推測できます。弥谷山には、天霧城主で西讃守護代とされる香川家の歴代墓が今も残っています。弥谷寺は香川氏の菩提寺でもありました。ここからは、香川氏など有力者に提供する五輪塔製作のために、周辺で採石が行われていたことが考えられます。それが次第に販路を広げていくことになります。一方、天霧山は天霧山がある山で、城郭的性格が強く採石場としては弥谷山よりも規模は小さかったと研究者は考えます。
 こうした中、16世紀後葉の阿波三好氏の来襲によって、香川氏は一時的に天霧城退場を余儀なくされています。この時に、菩提寺の弥谷寺も荒廃したようです。戦国末期の混乱と、保護者である香川氏をなくして弥谷寺は荒廃します。それを再興したのが生駒家二代目の一正で、「剣御山弥谷寺略縁起」には、次のように記されています。

『武将生駒氏、当国を鎮ずる時、当時の廃絶ぶりを見て悲願しに勝ず、四隣の山峰を界て、当寺の進退とし玉ひ、住侶別名再興の願を企てより以来、吾先師に至て中興暫成といへども、住古に及ぶ事能はず』(香川叢書第一)

意訳変換しておくと

『生駒氏が当国を支配することになった時、当寺の廃絶ぶりを見て復興を決意して、周囲の山峰の境を決めて、当寺の寺領を定めた。僧侶たちも再興の願の元に一致協力し、先師の時代に中興は、あらかた成った。しかし、かつての隆盛ぶりには及ばない』

  ここからは、生駒一正による再興が行われ、それまでの弥谷寺の景観が一新されたことがうかがえます。信仰の場として弥谷寺の伽藍再整備が進む中で、境内にあった採石場の天霧山東麓への移転が行われたと研究者は考えているようです。逆に言うとそれまでは、弥谷寺境内の中で採石や五輪塔への加工作業が行われていたことになります。 
 その石造物製品は、お参りにきた信者の求めに応じて、彼らの住む地域に「発送」されたかもしれません。また、弥谷寺には多くの高野聖たちや修験者が布教活動の拠点としていました。彼らによって、石造物建立が行われる場合には、弥谷山の採石場に注文が入ったことも考えられます。突っ込んだ言い方をすると、弥谷寺が採石場を管理していたということになります。石工たちも、その経営下にあったとしておきます。
それが近世になって生駒氏による再興の折に、信仰と生産活動の分離が行われ、採石場は天霧山東南麓の碑殿町に移されたという説になります。
七仏薬師堂 吉原 弥谷寺 金毘羅参詣名所図会
吉原大池から望む天霧山(金毘羅参詣名所図会)
これらの材質が天霧山南斜面の牛額寺の奥の院(善通寺市碑殿町)で採石されていることが分かっています。
碑殿町の石材は、地元で「十五丁石」と呼ばれていて、丸亀市本島宮本家墓や善通寺歴代住職墓に使用されていること、それに加えて、超大型五輪塔はすべてが碑殿産(十五丁石)が用いられていることが分かっています。ここからは、中世末に姿を現す超大型の五輪塔が墓観念や姿形からして、豊島型五輪塔と深く関係していると研究者は考えているようです。
 そして超大型五輪塔の出現背景には、藩主生駒家が深く関わっているとする裏付けは次の通りです。
生駒親正夫妻墓、生駒一正供養塔など、超大型五輪塔10基のうちの4基が生駒家のものです。超大型五輪塔ではありませんが高松市法泉寺の生駒廟に安置されている生駒家二代正俊の五輪塔は、スタイルは豊島型五輪塔です。
 ここには、生駒家の関わりがうかがえます。このような生駒家の五輪塔から影響を受けて、登場するのが豊島五輪塔だと研究者は考えています。それは豊島型五輪塔の祖型いうべき要素が、弥谷寺の五輪塔には見られるからです。例として挙げるのが、弥谷寺の磨崖五輪塔には地輪に方形状の孔が穿たれたものがあります。この孔からは、遺骨が確認されています。ここからは五輪塔が納骨施設として使用されていたことがうかがえます。弥谷寺の納骨孔が、豊島型五輪塔の地輪にもある方形状の孔に系譜的につながると研究者は考えています。

以上のように「超大型五輪塔 + 生駒家歴代当主墓」が最初に姿を現す弥谷寺や天霧山の石切場には、豊島型五輪塔の祖形を見ることができます。これらの要素は、中世豊島石の五輪塔にはありません。以上を図示化すると以下のようになります。

豊島型五輪塔系譜
豊島型五輪塔の系譜

豊島型五輪塔の成立背景を、まとめておきます。
①中世豊島石の五輪塔系譜の上に、生駒氏が弥谷寺で作らせた大型五輪塔のインパクがあった
②それを受けて豊島型五輪塔が高松地区で姿を現す
③その際に豊島の石工集団に対して、生駒藩が何らかの「介入・保護」があった
④県内の石切場の終焉と豊島型五輪塔の広域搬出は、時期が一致する。
③④については、「生駒氏という新しい領主による社会秩序形成を目的とした政治的側面」があったと研究者は指摘します。具体的には、生駒氏が政治的にも豊島の石工集団を保護下において、生産流通に特権を与えたということです。
豊島型五輪塔が出現するのは、案外遅くて17世紀初頭になるようです。そして、急速に天霧石の五輪塔を駆逐し、市場を占有していきます。こうして天霧山の石造物は忘れ去られ、近代にはそれが豊島産と誤解されるようになっていきます。

以上をまとめておくと
①14・5世紀には、弥谷寺石工達が瀬戸内海各地に石造物を提供するなど活発な生産活動を行っていた
②その背後には、西讃守護代としての香川氏の保護があった。
③16世紀末の長宗我部元親の侵攻と、秀吉の四国平定の戦乱の中で香川氏は滅亡し、弥谷寺も衰退する
④それを救ったのが生駒氏で、弥谷寺を菩提寺としてそこに超大型の五輪塔を造立する。
⑤生駒氏は天霧山東麓の牛額寺奥の院に新たに採石場を設けて、高松に天霧石を供給させる。
⑥その際に、加工を命じられたのが豊島石工で、天霧石を使った豊島型五輪塔が高松に登場する。⑦それまで高松地区にだけに石造物を提供するだけだった豊島石工集団は、生駒氏の保護育成を受けて、天霧石石造物を駆逐する形で、瀬戸内海への流通エリアを拡大していく。
⑧しかし、それも長くは続かずに花崗岩産の石造物へと好みが変化すると、豊島石工達は豊島石の特長を活かして、石カマドや、石筒、火鉢などの製品開発を行うようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」
関連記事

     前回は瀬戸内海をめぐる石切場や石工集団について見ました。その中で最後に見た讃岐豊島石(土庄町)については、「日本山海名産名物図会」(寛政11年(1799)刊行)に2枚の挿絵入りで紹介されています。
豊島の石切場3
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」
一枚は左側が、洞内から石を切り出している姿が描かれています。右側は切り出された石に丸い穴を開けているように見えます。今回は、豊島石の記事を見ていきたいと思います。テキストは「国立国会図書館デジタルコレクション」の 豊島の細工場『日本山海名産図会』です。
まず、説明文を読んでみます。
  大坂より五十里、讃刕小豆島の邉にて、廻環三里の島山なり。「家の浦」・「かろうと村」・「こう村」の三村あり。「家の浦」は、家數三百軒斗り、「かろうと村」・「こう村」は、各百七、八十軒ばかり、中にも、「かろうと」より出づる物は、少し硬くして、鳥井・土居にこれを以つて造製す。さて、此の山は、他山にことかはりて、山の表より、打ち切り、堀り取るには、あらず。唯、山に穴して、金山の坑塲(敷口?))に似たり。洞口を開きて、奧深く堀り入り、敷口を縱橫に切り拔き、十町(約1㎞91m)、二十町の道をなす。採工、松明を照らしぬれば、穴中、眞黒にして 石共、土とも、分かちがたく、採工も、常の人色とは異なり。かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
 故に、皮を除けて、堀り入る事、しかり。中にも、「家の浦」には、敷穴、七つ有り。されども、一山を越えて歸る所なれば、器物の大抵を、山中に製して、擔ひ出だせり。水筒、水走、火爐(くはろ)、にて、格別、大いなる物は、なし。「がう村」は漁村なれども、石も「かろうと」の南より、堀り出だす。石工は山下に群居す。ただし、讃刕の山は、悉く、この石のみにて、弥谷・善通寺、「大師の岩窟」も、この石にて造れり。

豊島の石切場
豊島(小豆島土庄町の石切場)
意訳変換しておくと
大坂から五十里の讃岐小豆島の辺りにある周囲三里(12㎞)の島が豊島である。集落は家浦・唐櫃(かろうと)」・甲生(こう)村」の三村がある。その内、家の浦は、戸数三百軒ほどで、その他二村は、各180軒程である。

豊島観光 豊島石採掘場
          豊島石採掘場入口
唐櫃産の石材は、少し硬く鳥居や土居(建物土台)に使われる。豊島の石切場が他と違うのは、山の表面から切り出す露天掘りではなく、金山と同じように「敷口(坑道入口)」から、奧深くに堀り入ってり、十町(約1、1㎞)、二十町の坑道が伸びている。そのため採石のためには、松明を照らすので、洞内は眞黒で、石か土か見分けもつかず、石切工も真っ黒で、普通の人とは顔色が違う。
  「讃岐豊島石」と題された挿絵を見ながら確認していきます。
豊島の石切場左
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」(拡大図)

石切場は坑道の奥深くにあるとされています。坑道内部が真っ暗なので3ヶ所で。松明が燃やされて作業が行われています。
④の石工は、げんのを振り上げて石材に食い込んだのみに振り下ろし、石を割っています
⑤の男は、天井附近の切り出せそうな石材をチェックしているのでしょうか。それを⑥⑪の男が見ています。
⑦の男は、小さなげんのを持ち、⑧の男は棒のようなもので測っているのでしょうか、よく分かりません。
⑨⑩の男達は、のみを持ち切り出した正方形の大きな石に丸い穴を開けているようです。
右側も松明が灯されたそばで②③の男達が四角い石材に穴を開けています。
この絵を見て疑問に思うのは、
A どうして暗い坑道の中で石造物制作作業が行われているのか?
B ここで造られている石造物⑨⑩は、何なのか?

そして、次の説明文が、今の私にはよく読み取れません
かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
意訳変換しておくと
 こうして、坑道を堀り入って切り出すが、もともと豊島石は側面が硬い。それを「ねぶ川」(根府川石(安山岩)と称して出荷している。この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。

先ほど見た②③や⑨⑩の石工たちが、四角い石に穴を開けていることと関連がありそうですが、よく分かりません。分からないまま意訳変換を進めます。
 家浦には7つの石切場(敷穴)がある。しかし、途中に峠があるのでそれを越えて運び出さなければならない。そのため製品の大部分は、山中で制作して、それを擔(にな)って運び出している。水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)、火爐(くはろ:小型のかまど)などの生産が主で、大型のものはない。

もう一枚の「豊島細工所」と題された挿絵を見ながら説明文を「解読」していきます。

豊島の加工場2
        豊島細工所「日本山海名産名物図会」

①⑦は石切場から切石が背負われたり、担がれたりして細工所(作業所)まで下ろされています。説明文の「大抵を、山中に製して、擔(にな)ひ出だせり。」の通りです。

豊島の加工場左
豊島細工所(拡大図)「日本山海名産名物図会」
②は、運搬されてきた切石のストック分が積み上げられているようです。
③は燈籠ですが、描かれている数はひとつだけです。
④が、石切場でも粗加工されていたものの完成版のようです。この用途が分かりません。
⑤は④よりも大きくい四角形の石造物です。これが水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)でしょうか。
⑥は、開放型の水筒(水道管や土管)でしょうか。
⑨は臼のようにもおもえますが、石工が中に膝下まで入って削っています。臼だったら、こんなに深く彫る必要はありません。長さが短いですが、土管のように見えます。大名屋敷のような遊水式庭園では、「水筒」やジョイントの器具が使われているようです。

豊島加工場拡大図

⑩は、臼にしては小さいようです。これが説明文に出てくる「火爐(くはろ)=火鉢」かも知れません。
⑪は手水石のようにも見えます。
⑫の石工が造っているのが、先ほど見た④⑪の「火爐(くはろ)」の製造工程のようでが、よく分かりません。

後日に「国立国会図書館デジタルコレクション」の「日本山海名所図絵」を眺めていると、こんなものを見つけました。

豊島産カマド

縁台の上に載せられた小型のカマドに、釜が載せられています。手前には、貯まった灰に火箸が突き刺しています。薪ではなく火鉢のように炭を使っていたようです。大坂辺りでは、こんなカマドが使われていたことが分かります。
 さらに、グーグルで「豊島石 + 竈」で検索してみると出てきたのが次の写真です。
豊島産カマド2
豊島石のかまど(瀬戸内民俗資料館)
瀬戸内民俗資料館の展示物で「豊島石のかまど」という説明文がつけられています。どうやら「日本山海名所図絵」の「豊島細工所」に描かれているのは、このコンパクトかまどに間違いないようです。

 豊島産カマド3

豊島石の五輪塔とか燈籠は、この時期には花崗岩製のものに押されて市場を奪われています。それに代わって、生産し始めたのが円形に掘り抜きやすい特徴を活かして、水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり)、火爐(くはろ:小型のかまど)、火鉢などだったのではないでしょうか。
 さきほど分からないままにしておいた 「この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。」という意訳もそう考えると間違ってはなかったようです。
  もうひとつの豊島石の作品として面白いのがこれです。
豊島に行くとよく見かけるものですが、石でできたかまくらみたいに見えます。この中には、仏様やお地蔵さんがいらっしゃいます。地蔵さんの「円形祠」です。これが火鉢やカマドの先なのか、円形祠が先なのかは、よく分かりません。どちらにしても同じ、技術・手法です。軟らかくて加工しやすい豊島石だからこその作品です。

豊島産

こちらは、徳島城にある豊島石の「防火用水槽」です。
豊島産防火用水(徳島城)」

正面には立派な家紋らしきものがあります。特注品だったのでしょう。豊島石は、石と石の間が粗く、浸透しやすいく水に弱いとされていました。防火水槽には向かないはずですが、よく見ると内側は白くモルタルが塗られているようです。
最後の部分を意訳しておきます
甲生村は漁村であるが、唐櫃の南に石切場がある。ここでは石工たちは、石切場の山下に群居している。讃岐の山は石材はこの石だけで、弥谷や善通寺の「大師の岩窟」も、豊島産石材で造られている。

  ここで注目しておきたいのが、讃岐には豊島石以外に石材はないとしていることです。弥谷寺や善通寺の岩窟や石造物も豊島産であるというのです。弥谷寺周辺には中世以来、天霧石で五輪塔などの石造物が数多く生産され、15世紀には瀬戸内海一円で流通していたことは以前にお話ししました。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
         天霧石産の五輪塔分布図
18世紀末になると、かつての弥谷寺周辺で活動した石工達や、石切場のことは忘れ去られていたようです。また、この記事内容を根拠にして、中世から近世の石造物は豊島石で造られたものとされてきた時代があります。それが天霧石であったことが分かったのは、近年になってからです。その「誤謬」の情報源が、ここにあるようです。
豊島石の産地
豊島石の産地
以上をまとめておくと
①18世紀末に書かれた「日本山海名産図会」からは、当時の豊島石の石切場が坑内の中にあったこと
②石の内部を繰り出し、円形に加工する石造物(火鉢・石筒、かまど)などが生産されていたこと
③18世紀末には、讃岐では製造物生産地としては豊島が最も有名で、天霧石や火山石は忘れ去られた存在となっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島の細工場『日本山海名産図会』「国立国会図書館デジタルコレクション」 

  弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧山石造物の分布図
讃岐の中世石造物の産地として、天霧石材を使用して多くの石造物を生産した弥谷寺の石工達のことを追いかけています。その発展と衰退過程は以前にお話しした通りです。そして、凝灰岩から花崗岩への転換についても見ました。今回は瀬戸内海の花崗岩石材を中心とした生産地めぐりをおこなってみたいと思います。テキストは「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

石船石棺|高松市
石船石棺(高松市国分寺町「鷲山石」産)

 石材には、軟らかい凝灰岩・砂岩・石灰岩と硬い花崗岩があり、中世後期までは加工が容易な凝灰岩の利用が盛んでした。例えば凝灰岩は、古墳時代の竪穴石槨や、石棺に使用されています。高松市国分寺町「鷲山石」やさぬき市「火山石」、兵庫県の「竜山石」は、畿内の古墳に船で運ばれています。
 飛鳥時代になって寺院が建立さるようになると、基礎の礎石や地覆石に石を利用しました。飛鳥では石舞台古墳のような巨石による横穴式古墳がつくられ、陸路の巨石の運搬には木製の修羅(しゅら=そり)が使われています。
古墳時代のそり出土、石材を運搬か 木更津で国内2例目:朝日新聞デジタル

奈良時代は唐の影響で石塔や石仏などがつくら始めます。
しかし、凝灰岩は風化しやすいためにあまり残っていないようです。平安時代になると、凝灰岩の岩肌に磨崖仏が彫られるようになります。瀬戸内地方では大分県臼杵市、国東半島の岩屋、元町、熊野磨崖仏があります。
対峙すると見えてくる新境地?大分・国東半島の磨崖仏巡礼 | 大分県 | トラベルjp 旅行ガイド
国東半島の熊野磨崖仏

 鎌倉時代に東大寺造営のためにやってきた南宋の石工集団によって、石造技術が進歩して、花崗岩の加工が可能になります。そうすると、硬くて風化しにくく、岩肌が美しい花崗岩で石塔や石仏が作られるようになります。
南大門 由縁 歴史 東大寺 南大門:鎌倉時代(1185–1333)に東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建(1199)。入宋経験のある重源によってもたらされたこの建築様式は大仏様(天竺様)と呼ばれました。  | 奈良 京都 散策サイト
東大寺獅子像(南宋石工による作品)

安土桃山時代になると安土城のような大きな石垣が作られ、滋賀県の穴太衆など石積技術が格段に進歩します。
その集大成となるのが徳川家による大阪城再建です。この石材切り出しや加工のために多くの石工達が、小豆島や塩飽などの瀬戸の島々に集められます。こうして技術交流などが進み、築城のために発達した石積技術は、その後は瀬戸内地方では塩田や耕地干拓、港湾や波止、石橋、石風呂など、いろいろな面に「平和利用」されるようになります。
岡山城下を守った巨大遺構~百間川「一の荒手(いちのあらて)」の現地公開を行いました~ - 教育委員会 フォトギャラリー -  岡山県ホームページ(教育政策課)
岡山市百間川の「一の手あらい」
  例えば、讃岐で満濃池再築や治水・灌漑工事を行った西嶋八兵衛は、築城の名人と呼ばれた藤堂高虎に仕えていた若者でした。彼は、高虎の名で二条城や大坂城の天下普請にも参加して、土木・建設技術や工人組織法を身につけたいました。生駒藩の危機に際して、藤堂藩からレンタルされた西嶋八兵衛は、藤堂高虎の指示を受けて、ため池築城などを行っていきます。それは大阪城などの天下普請に参加して得た土木技術を身につけていたからこそ可能であったことは、以前にお話ししました。

瀬戸内海の石材産地を東から順に見ていくことにします。
大阪府では、和歌山県境の和泉山脈付近から採掘した軟質の和泉砂岩が有名でした。
和泉の石工
摂州の石工職人(『和泉名所図会』(1796年)
『和泉名所図会』(1796年)には、次のように記されています。

「和泉石ハ其性細密にして物を造るに自在也 鳥取荘箱作(泉南郡岬町)に石匠多し」

そしてその作業場が描かれ、松の木陰の小屋周辺で、和泉石を使って燈籠や狛犬・臼・墓石を作る石工たちがいきいきと描かれています。

国玉神社 (大阪府泉南郡岬町深日) - 神社巡遊録
        国玉神社の狛犬(岬町)
精緻な狛犬の細工は難しく、優れた石工が多かった大阪府泉南郡岬町の加工場だと研究者は考えています。岬町は海沿いで海上輸送に便利で、瀬戸内地方の近世の狛犬の多くは、砂岩製で岬町から運ばれたものが多いようです。和泉砂岩の石造物は内陸の京都や奈良にも淀川の水運を利用して運ばれました。その中には、庭園の沓脱石や橋石などもあります。
 石工達が自立して仕事場を形成するのは、江戸時代後期になってからのようです。
江戸時代中頃まで、石工は大工などの下働きをする地位に甘んじていました。例えば江戸幕府が開かれた頃は、城の石垣など土木工事が石工の主な仕事でした。そして江戸城・大阪城や京都の大規模寺社などの仕事が一段落すると石工達は失業するものが増えます。帰国する家族持ちは別として、多くは周辺で生きていく道を探るしかありません。そこで、周辺の石切場を探しては、石の仕事を始めることになります。そのような中で、町民階級が経済力を高めると、石造物需要が増えます。その需要に応じた商品を作り出していくことになります。その中の売れ筋が、墓石(墓標)でした。当時は、墓石や、石仏を彫ったり、道祖神などを彫るなどの仕事が爆発的に増えていたのです。
 中でも腕の立つ石工は、燈籠などの神社に奉納されるミヤモノ(宮物)を作るようになります。
世の中が豊かになるにつれて、寺社や裕福な町民などからの注文は増え、仕事には困らなくなります。こうして江戸時代後期になると、多くの石像物が作られるようになります。かつては誰でもが墓標を作れるものではありませんでした。その規制が緩やかになると富裕になった商人層が墓標を建てるようになります。武士の石造墓標文化が町民にも流行り始めたのです。
 可愛らしい石仏が庶民にも買うことの出来る値段で普及するようになります。これはモータリゼーションの普及と同じように、ある意味では「石造物の大衆化」が進んだとも云えます。こうしてステロタイプ化した石造物が大量生産物されるようになります。その一方で、錦絵の美人画に影響を受けたような優しい観音様の石仏が生まれてきます。そして、あか抜けた洒落た観音様が好まれるようにもなります。江戸や上方の近郊の村々には、素朴な石仏より、歌舞伎などの影響を受けたあか抜けした石仏が多い、江戸から離れるほど素朴になって行くと云われるのも、「石造物の大衆化」の流れの中での現象と研究者は考えているようです。
しかし、石工の労働は厳しく辛いものでした。
硬い石を鑿を叩き、その粉塵を吸い込み胸を患うものが多かったようです。そのため石工の子供も、長男は別の仕事に就かせ、2男・3男を継がせて家の存続を図ったと云われます。
少し脇道にそれたので、もとにもどって石場廻りをつづけます。

神戸市東灘区の御影(みかげ)から運びだされた花崗岩は、鎌倉時代から高級石材として知られていました。
御影石の採石場(『日本山海名産図会』
 御影石の採石場(『日本山海名産図会』より)
  武庫御影石は、『日本山海名産図会』には
「摂州武庫、菟原の二郡の山中より出せり」、

『摂州名所図会』には、次のように記されています。
「武庫の山中より多く石を切出し・・・牛車のちからをもって日々運ぶこと多し」
「京師、大坂及び畿内の石橋、伽藍の礎石、あるいは鳥居、燈籠、手水鉢・・・」

ここからは切り出された石材が牛車で、湊まで運ばれ、石橋や伽藍礎石、鳥居、燈籠、手水鉢として船で京都や大阪に石材として運び出されていたことが分かります。
六甲山の花崗岩がどうして、「御影石」と呼ばれるようになったのでしょうか?
それは、石の積出港が現在の神戸市東灘区の御影だったからのようです。今でも御影石町、石屋川など石にまつわる地名が残っています。

中国地方の花崗岩の石材地を見ておきましょう。
日本有数の銘石「北木石」の歴史を尋ねて(岡山県笠岡諸島北木島) | 地球の歩き方
笠岡市北木島
笠岡市北木島には、日本有数の大規模丁場があり、日本銀行本店本館にも使用
福山市赤坂 赤坂石の小規模な丁場が点在
呉市倉橋島 国会議事堂などの大型建築や軌道石に使用
柳井市   目が細かく、墓石や土木材に利用
周南市黒髪島の徳山石(花崗岩) 大坂城築城のために開かれた丁場

四国の丁場を見ておきましょう。

高松市庵治の庵治石は日本最高級の良質花崗岩とされています。讃岐では、小豆島や塩飽の島々にも花崗岩の丁場が多くみられます。これらの多くは、大坂城築城のときに大量の石が切り出されて、船で運ばれたこと、そのために各藩は、何百人もが生活する石切職人小屋を建てたことなどは以前にお話ししました。大阪城の築造が終わった後も、周辺の島々にそのまま定住した職人がいたようです。

豊島の石切場
豊島の石切場跡

小豆郡土庄町の豊島の豊島石(凝灰岩)については、

『日本山海名産図会』に、採石場の丁場と加工場の2景が紹介されています。
豊島の石切場2
豊島の豊島石『日本山海名産図会』

豊島石の丁場は、大嶽山腹から坑道を採石しながら内部に堀りすすみ、大きな空洞が描かれています。説明文には、豊島石は、水に弱いが火には強い特徴をいかして、煮炊きに使う電や七輪、松の根株を燃やして明かりに利用した火でばちなどをつくっていることが記されています。なお、豊島石は苔がつきやすいため、造園材として名園の後楽園や桂離官でも利用されています。
豊島の加工場
豊島石の加工場(日本山海名産図会)
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」
関連記事

幕府巡見使を髙松藩の村々の庄屋たちがどのように準備して迎え入れたのかを、以前に見ました。今回は宇多津を中心とする鵜足郡の庄屋たちの受入準備を、まんのう町(旧琴南町)に残された庄屋文書(西村文書)から見ていくことにします。テキストは「大林英雄 巡見使の来讃 琴南町誌225P」です。

琴南町誌 細川氏 南北朝 奈良氏 香川氏 三好氏 三好実休 仲多度郡 羽床氏 長宗我部元親 琴南町史 四国地方 讃岐武士白峯合戦香川県の歴史  の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版
琴南町誌
最後の巡見使となった1838(天保九)年の巡見使の行程を見ておきましょう。
4月5日に大坂を出帆
4月19日に豊前に着き、豊前と豊後を巡見、
閏4月12日に伊予へ入り、土佐・阿波を巡見
6月上旬に讃岐に入り、讃岐を巡見して大坂に帰る
7月に江戸に帰り帰着報告 その後下旬に報告書提出
全行程86日間の長旅でした。
巡見使3名一行の内訳は、次の通りです。
知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
巡見使構成表天保
天保の巡見使構成表

以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計一四人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。
巡見使来讃を藩から告げられた鵜足郡の大庄屋は、次の2名を責任者として指名しています。
会計担当 西川津村の庄屋高木左右衛門
引纏役  造田村の庄屋西村市大夫
二人は、大庄屋の十河亀五郎の指示で、前回の寛政年間の御巡見来讃の時に引纏役を勤めた東分村の庄右衛門を尋ねて、その記憶と残されていた記録をもとにして、準備に取り掛かっています。
引纏役の仕事は、次の通りです。
①巡見使の通路を中心にして、道路の整備計画作成
②巡見使の通る岡田西・小川・西坂元・東二・東分・宇足津の六村を中心に、鵜足郡の状況を調査し、通路から見える山や名所、神社仏閣について説明書作成
③藩の政治や民情について、予想される巡見使からの質問に対する想定問答集を大庄屋や藩と協議して作成
④御案内、宿舎係、警備係などの村役人の任務分担表の作成
⑤先行する伊予と阿波で、巡見使の動静調査
①道路整備表 + ②鵜足郡現況説明書 + ③想定問答書 + 村役人任務分担表 + 巡見使の動静調査」と微に入り細にいった仕事内容があったことが分かります。会計については、巡見使がやって来る約2ヶ月前の4月20日に開かれた聖通寺での郡寄合で、村々の分担額が決められています。最終的に造田村の分担は、次のとおりでした。
普請用明俵 679俵(郡全体で6200俵)。
人足 205人
御借上品
布団 32枚(四布(よぬ)20枚、三布12枚)。
蚊帳 5張 水風呂 3本 菓子盆 2
燭台 4台 硯箱 4。浴衣 3枚。
御買上品
木枕 40 炭 40俵
薪 244束。
679俵の空俵は、土を入れて土嚢を作って、岡田西の大川へ板橋を架けることと、宇足津までの街道修理、宇足津の港の一部修理が計画されています。

各村の庄屋と組頭に、巡見使案内の諸役を分担します。
これと同じような分担表を、那珂郡の岸上村(まんのう町)の庄屋奈良亮助も書き残していたことは以前に紹介しました。

巡見使役割分担表1
       那珂郡の諸役分担表の一部(奈良家文書)

 庄屋たちの説明がまちまちになるのを防ぐために、備忘録や想定問答集が作られて庄屋たちには渡されていました。
しかし、実際には夜間の案内であったり、案内の距離が短かったために、巡見使から案文を示され、文書で答えを求められることが多かったことが報告されています。巡見使にしてみれば、江戸に帰ってからの報告書作成のことを考えると文書で預かった方が便利でもあったのでしょう。
作成された鵜足郡の想定問答集は、35項目が挙げています。その内の七か条を見ておきましょう。(御巡見御案内書抜帳「西村文書)

一 畑方、秋夏両度麦納申候。尤銀納勝手次第、其年相庭にて銀納仕候事。但し、田方に作候麦は、百姓作徳に相成候事。

  畑作については、盆前納と十月納で夏成を2度に分けて麦で納めています。納税方法は銀納も可です。但し、水田裏作の麦栽培については、百姓作徳で年貢はかかりません。

一 塩浜近年相増候ケ所も有レ之候。尚又堤切損じ、 築立諸入目等は、塩口銀にて仕候事。塩国銀というは、塩壱俵に付銀三分ずつ納申候。壱俵の升目四斗八升入申候。毎年出来塩多少により、国銀規定無二御座候。
  
 塩田が近頃は増えていますが、堤が切れて修繕が必要な場合に備えて、塩口銀を納めています。塩口銀というのは、塩壱俵について銀三分を納めることです。壱俵の升目は四斗八升入です。毎年の塩生産量により決まるので、口銀額は定まっていません。

一 田地売買作徳米の歩を以て、売買致候。

 田地売買については作徳米の多い少ないによって田地の価格を決め、売買を認めています。
一 検地竿は、六尺三寸のもの用い候。

 高松藩では、寛文検地以後も、六尺三寸の検地竿で実施しています。
一 御家中御成物、先年は三つ四つ御渡し候由、当時は一つ七歩位と承居中候事。

    家中成物(家臣の俸禄米を一定額徴収)については、以前は知行百石について30~40石を渡していましたが。今は一七石程度になっています。
一 御用銀の儀、御勝手向御指支、其上御上京等芳以御入用多候につき、身上相応少々宛御用銀被  二仰付一候。尤無高の者ぇは被仰付無之候事。

  御用銀については、藩の財政支援のために殿様が将軍名代として京都の朝廷に参内するときなどの費用負担として、相応額を納めています。しかし、無高の貧しい者には免除するなど配慮しています。

一 甘藷作の義、当国は用水不自由にて、日畑共少々植付候得共、近頃員数減等被二仰付「全作付柳の義、尚又売捌は多分大坂表え積登候事。

 砂糖生産に必要なさとうきび栽培については、讃岐は水不足が深刻なために、田畑にさとうきびを少々植付けています。しかし、近頃は幕府の削減令もあり、植え付け面積を削減しています。また販売先はほとんどが大坂に積み出しています。

   事前調査で今回の天保の巡見使の巡見テーマが「各藩の特産品とその専売制の調査」と予想していたようです。そのため髙松藩の特産品である塩田と砂糖についての答え方には、特別に苦心を払っていたことがうかがえます。

巡見使の事前動静調査のために、土器村の庄屋代理林利左衛門が、4月末から5月にかけて、伊予の西条方面に出かけて調査しています。その報告書には、伊予各藩のもてなしについて次のように記されています。
①各藩が巡見使のお供の者に金子を贈っていることと、その具体的な額
②巡見使の行列の模様
③三枝様の一行はあの品(金?)を御好みの由
④片桐様御一向は御六ケ敷由
⑤平岩様は温厚にて、御家来向も慎深き由
引纏役の西村市太夫は、旧知の阿波脇町の庄屋平尾平兵衛から書状で阿波の準備状況などを教えてもらっています。
その上で巡見使が脇町に入った6月14日から16日まで三日間は、猪の尻の淡路稲田家の家臣森兵衛方に自ら出向いて「情報収集」を行っています。その方法は、当地の村役人に28か条の質問要項を示すもので、細かい点についてまで回答を得ています。この行動力と入念さには、頭が下がります。庄屋たちのやる事には、綿密で抜かりがありません。
報告書の中の中には、巡見使の従者がひき起こした問題についても、報告されています。
〇阿州南方にて、まんじゅう屋へはいり、段々喰荒し候につき、御郡代には内分にて、村方より十両程、相い手伝遣候由、全体踏荒候哉と被存候。

 意訳変換しておくと
〇阿波の南方では、まんじゅう屋へはいりこみ、無銭で喰荒した事件が起きた。これについては、郡代には内密にして、村方より十両程を、相手方に支払ったという。全体に粗暴である。


○寛政の度、脇町にて御家来より、「当町に磨屋(とぎや)は無之哉」と御尋に付、有之趣返答仕候所、手引致様に申すに付、遊女屋の心得無之、真の磨屋へ手引致候所、「ケ様の所へ連れ越候段不届、手打に致す」と苦り入、漸々、断り致し、銀談にて相済候段、此節の噺に御座侯。

意訳変換しておくと

○前回の寛政年間の折には、脇町で巡見使の家来から「当町に磨屋(遊郭)はないのか」と尋ねられたのに対して、「あります」と答えたところ、「連れて行け」と云われたので、遊女屋については知らないので、本当の磨屋へ連れて行ったところ「こんなところへ連れてきて不届である、手打に致す」ともめて、散々断りしたあげく、銀談(お金)で済ませたとのこと。

江戸では、無頼漢扱いを受けていた渡り仲間が、人足不足のために急に召し出されてお供に加えられた者もいたようです。彼らの行動は横暴・横柄だったようで、巡見一行に対する領民の目は、冷たく、厳しかったことがうかがえます。市大夫も土佐の例をひいて、お供の者が宿舎で酒の振る舞いを受け、婦女子に絡んだことのあったこと、そのため各地で、巡見使の滞在中は婦女子の外出を自粛させている藩があることを述べて、高松藩でも同様の措置をとるように求めています。
 料理については、一汁三菜のほか、うどんやそばを加え、所望があれば酒を供してもよいと述べ、個人的な好みとしては、靭負様が脂濃い物が嫌いで、鮎の筒切の煮付のお平を召し上がらなかったことなども書いています。全く、至れり尽くせりの報告です。武士ではここまでは、気が回らないのではないかとも思います。
 西村市太夫は郷会所元〆に、口頭で次の二点を申し入れています。

土州では、人足が一文字の菅笠、襦祥と下帯を赤色にそろえ、赤手拭で繰り出し、見物人も多く、賑々しく道中したので、巡見使一行に喜ばれたこと。それに対して、阿州では人足の服装もまちまちであって、見物人も制限したので少なく、行列も寂しかった。これについては、巡見使一行が不満であったことを報告して、次のように提案します。「讃岐では、人足の服装を決め、見物人の取締制限を緩めてはいかがか」

もう一つは、大庄屋や庄屋の服装についてです。
髙松藩が大庄屋・庄屋に出した通知書の中に、服装については次のように指示されていました。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。(中略) 案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。

これに対して西村市太夫は、次のように訴えています
「巡見使の相手をする村役人は、すべて百姓並で、名字も名乗らず、脇指一本で勤めるというのは高松藩だけです。他国では名字帯力を許されているものは、両刀を帯し、名字を名乗って勤めています。巡見使のことは生涯に一度あるかないかの機会であるから、高松藩でも、許されている身分に相当した服装で御相手をすべきではないでしょうか。このことについては、大庄屋などにも相当不満があります」

    巡見使接待については、生涯に一度あるかないかの機会でもあるので、二本差しを認めて欲しいと云うのです。これを見ていると、大庄屋たちは巡見使受入の機会を「ハレの場」と捉え、大名行列に参加する一員になるような気持ちで、晴れがましく思っていたようにも思えてきます。行進やパレードは祭化されていくのが近世のならいです。西村市太夫のめざす方向も、派手目の衣装に人足の衣装も揃えて、見物人を増やして、そこを大名行列のようにパレードする姿を思い描いていたのかもしれません。そこに自分も二本差しで参加できれば本望ということでしょうか。しかし、両方の願いとも髙松藩が取り上げることはなかったようです。そして、幕府の巡見使派遣は、天保のものが最後となりました。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
幕府巡見使 那珂郡から鵜足郡へ
6月18日に、巡見使一行は丸亀領に入ります。
その日のうちに苗田村からの飛脚使は、20日に予定されている岡田西での引継ぎは、夜になると思われるから、提灯の準備をするようにという連絡が大庄屋に届けられています。市太夫は人足に指示して、明松約600を用意し、岡田西村、小川村、西坂元村、東二村、東分村、宇足津村の六か村から、人足約300人を招集して、弓張提灯百張と三十目掛の蝋燭も準備しています。

巡視使讃岐視察ルート
巡見使の讃岐での巡見スケジュールと宿泊所

 前日の6月19日の夕方に村役人と人足は、岡田西村に集まり、四、五軒の民家を借りて分宿しています。
そして翌日、土器川の川原に集まって最後の打合せしてから、それぞれの持場で待機します。巡見使一行が、那珂郡の村役人と人足に案内されて、垂水から川原に着いたのは、予想通り暗くなってからでした。引継ぎは、等火と明松の明かりの中で行わます。大庄屋の十河亀太郎と、引纏役の西村市大夫と高木庄右衛門が出迎え、挨拶します。村役人が、駕籠や馬や徒歩の侍衆に付き添って御案内に立ちつのを、人足が明松で遠くから道を照らします。村役人は提灯で足元を確かめながら、行列は次々に宇足津へ向かって出発します。具足櫃と行李に茶弁当、両掛や合羽籠などの荷物は、仲間や小者などの厳しい注文を受けながら、人足が一歩一歩と、暗やみの中を宇足津まで運びます。

宇多津街道5
垂水からの宇多津街道
 村役人と人足が加わった、400人に近い一行は、三隊に分かれて、法式どおりの行列を組んで、2里20町余りの宇多津街道を進んで行きます。途中、西坂本村で休憩、湯茶と餅のもてなしを受けています。この日に備えて、領内の鉄砲はすべて庄屋宅に集められ、沿線一帯は、厳しく警戒されていました。

宇多津街道4
宇多津街道

 宇足津には、出迎える側の高松藩の御奉行・郡奉行・代官・船手奉行・作事奉行が宿泊しており、丸亀藩と塩飽の役人も宿泊していました。そのため宿も、数多い寺も、商人の家も、みな宿舎に充てられていす。不寝番が立ち、万一の火事に備えて百人の火消し人足が待機していました。この火消し人足の指揮をとったのは、造田村の組頭丹平と沢蔵でした。

宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津

 翌日21日は、塩飽に向かう日です。
巡見使の宿から船場までの「御往来共揚下見計人」(交通整理役?)は、造田村の庄屋代理太郎左衛門が務めています。その夜を塩飽で送った巡見使一行は、高松藩の船手に守られて塩飽諸島を巡見し、22日夕方には、再び宇足津に帰着して一泊します。
23日朝、宇足津を出発して阿野郡北に向かう巡見使一行を、郡境の田尾坂まで見送り、四日間にわたった、鵜足郡の巡見使への奉仕は終わりました。
巡見使受入にかかった費用は、藩から出されるのかと思っていましたが、そうではないようです。全額を各村が分割して負担しています。
造田村の巡見使受入負担金


造田村の負担銀は、総額5貫181匁8分5厘(イ・ロ・ハ・ニ)になります。これを決算すると、十石高につき8匁8分8厘の負担になります。高一石を一反歩あたりにすると約3000円になるようです。金一両(75000円)=銀六〇匁のレートで計算すると、銀一匁は約1250円になります。一反歩について、3000円強の負担となります。これらの計算が簡単にできないと、当時の庄屋は勤まりません。大棚の商家には、駄目な若旦那が出てきますが、庄屋には出てこないのはこういう役目がこなせる人間を育成したからでしょう。当時の算額など学んでいたのも、多くは庄屋層の若者だったことは以前にお話ししました。

 すべての業務を整理し終わってから西村市太夫と高木庄右衛門は、大庄屋両人に対して、次回に向けた改善点を次のように報告しています。(御巡見御案内総人数引纏取扱の様子理現記一西村文書)
御取扱の場所等動方心得の事(要約)
①遠見(斥候)を、苗田・金毘羅・榎井・四条と、二人ずつ四組出しておくこと。
②郡境案内の庄屋を三人ほど増員すること。
③予備の人足を50人、川原へ待機させておくこと。
④明松の数を、今回の600挺から200挺ほど増すこと。
⑤大蝋燭、中蝋燭200挺位用意すること。
⑥縢火・松小割を30束増すこと。
⑦質問されたことについては、想定問答集に基づいて答えたが、今後は、案内人の器量次第で答えることが多くなると思われること。
⑦夜番に立った百姓や村役人は、翌日の勤務を免じること。疲労のため失敗すると、大変である。
高松藩でも、巡見使がどのようなことを尋ねたか、それに対して村役人がどう答えたかは、大きな関心があることでした。案内の村役人全員から報告を求めたようです。市太夫の代役を務めた西村安太郎が、8月8日付で、大庄屋に報告した報告書の控えが残っています(西村文書)
口上
一私儀、六月十日御巡見の砌、岡田西村郡境より、三枝平左衛門様御案内仕、宇足津村御宿広助方迄罷越候所、御道筋岡田西村にて、是より御茶場迄道筋何程有之哉と御尋に付、 是より壱里計御座候と申上候。尚又御茶場より宇足津村迄何程有之哉と御尋に付、壱里廿丁計御座候と申上候。
一 二十一日御宿より塩飽島へ御渡海の節、御船場迄、御案内仕候。
一 二十二日塩飽島より御帰りの節、御船場より御宿広助方迄、御案内仕候。
一 二十三日阿野郡北郡境迄、御案内仕申候。
右の通御案内仕中候。外に何の御尋も無御座候。右の段申止度如斯に御座候以上。
八月五日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

意訳変換しておくと
6月20日の巡見の際には、岡田西村郡境から、三枝平左衛門様を案内そて、宇足津村の宿である広助方まで参りましたが、その道筋の岡田西村で「ここから茶場までの距離はどのくらいか」と尋ねられました。これに対して「ここからは一里ほどです」とお答えしました。また茶場より宇足津村までは、どのくらいかと尋ねられましたので、「一里二十丁ばかりですとお答えしました。
21日は、宿から塩飽島へ渡海の時に、船場まで案内しました。
22日は、塩飽からの帰りの時に、船場より宿の広助方まで案内しました。
23日は、阿野北郡の境まで、案内しました。
これらの案内中には、何のお尋ねもありませんでした。以上を報告します。
8月5日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

大庄屋は、案内係を務めた全員の質問・応答内容を提出させてチェックしていたことがうかがえます。
高松藩の江戸屋敷でも、次後の政治的工作を怠らなかったようです。琴南町の長善寺の襖の裏張の中からは、約20枚の高松藩江戸屋敷日記が発見されています。その中には次のように記されています。
七月二十九日
一 御講釈御定日の事
一 平岩七之助様 片桐靭負様 三枝平左衛門様の御方御巡見御帰府に付、為御歓御使者御中小姓分                              堀 葉輔
右相勤候。
ここからは、髙松藩江戸屋敷から帰着した巡見使3名に慰労のための使者を遣わしていることが分かります。化政時代の後を受けて、「世は金なり」と賄賂が横行していた天保年間の御時勢です。財政窮迫の高松藩でも、この御使者は「手土産」持参だったことが推測できます。巡見使の将軍に対する報告書の提出締切日は、8月21日でした。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  石造物とは、地蔵さんなど、石で造られた仏・塔・仏像・橙籠・鳥居・狛犬・磨崖仏などを含めて「石造物」と呼んでいるようです。中世の讃岐西部で活発な活動を行っていたのが弥谷寺の石工達でした。彼らの活動については、研究者は次のように時代区分しています。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の中世墓地に五輪塔造立
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内への石仏・宝筐印塔・五輪塔などの活発な造立
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の搬入と弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が活発に造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
以上から分かる事は次の通りです。
①弥谷寺での石造物生産活動はI~Ⅳ期
②Ⅱ期は、保護者であった天霧城城主の香川氏の退城で終わりを迎える。
③生産活動が再開されるのは、1587年に生駒氏がやって来て新たな保護者となって以後のこと
④生駒氏は弥谷寺を保護し、伽藍復興が進むようになり、境内にも石造物が造営されるようになる。
⑤Ⅲ期の代表作が、1601年の香川氏の宝筐印塔4基、1610年以後の生駒一正の巨大五輪塔
⑥再開時に、善通寺市牛額寺薬師堂付近に新たな採石場が開かれた。
⑦しかし、競争相手として豊島産石造物が市場を占有するようになり、かつてのように瀬戸内海エリアに供給されることはなかった。
⑧Ⅳ期(17世紀後半)には外部産石造物が搬入されるようになり、弥谷寺での石造物生産活動は衰退・終焉
⑨Ⅳ~Ⅵ期になると、寺檀制度確立に伴い弥谷寺周辺の人々によって境内に墓標造立開始
⑩Ⅵ期の衰退期の背景は、村々の共同墓地に墓標が建てられるようになったから

以上で弥谷寺の石工達の活動状況は分かるのですが、これが瀬戸内海エリアの石造物造営の動きと、どう関連していたのかは掴みきれません。今回は視野を広くとって、瀬戸内海全体の石工達の活動を、大まかに押さえておこうとおもいます。テキストは「市村高男 瀬戸内の石造物と石工    瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

畿内では12世紀から中世の層塔の先駆けになるものが造られ始めます。明日香村の於美阿志神社の層塔や葛城市営麻の当麻北墓五輪塔などは、その代表的な事例です。
於美阿志(おみあし)神社 十三重石塔
 於美阿志神社層塔(奈良県明日香村)

讃岐にも12世紀後半とされる凝灰岩製の石塔があります。

海女の墓 中世初期の宝塔(志度寺、
 海女の墓と伝えられる中世初発期の宝塔(志度寺)
その1つが志度寺の「海女の墓」と伝えられる石塔で、京都の藤原氏による寄進とも云われますが、詳しい事は分かりません。いずれにせよ、中世石塔を生み出す動きは、畿内が牽引役となって進んで讃岐にももたらされるようになったとと研究者は考えています。

そのような中で、今までにない新しいタイプの石造物が12世紀末に奈良・東大寺に現れます。
東大寺の南大門の主役は金剛力士像ですが、その裏側(北側)に背中合わせの形で安置されているのが石造獅子像一対あります。

石造獅子像(東大寺 重文)
大仏殿方向の向かって前脚をピンと伸ばした獅子が陣取っています。石獅子は雄と雌の2体で、両方とも口を開いた獅子像です。

獅子台座

獅子の姿や、台座の文様、天女・蓮華・牡丹なども唐風です。それもそのはずで、この獅子像は、中国人石工の手によって作られた事が分かっています。
 どんな経緯で南宋の石工集団が東大寺にやってきたのでしょうか?
 東大寺の再建責任者・重源は宋の文化に詳しく、大仏殿再建にも宋風を取り入れます。そのために伽藍再建の総合プランナーとして招いたのが南宋の陳和卿(ちんなけい)でした。彼は自分の技術者集団を率いて来日します。その中の石工集団の責任者が伊行末(いぎょうまつ)と彼の石工集団でした。
「東大寺造立供養記」には、次のように記されています。
中門獅々。堂内石脇士。同四天像。宋人字六郎等四人造之。若日本国石難造。遣価直於大唐所買来也。運賃雑用等凡三千余石也。

「建久7(1196)年に宋人・字六郎など4人が、中門の石獅子、堂内石脇士、四天王石などを造る。石像は日本の石では造り難いので、中国で買い求めて日本に運んだ。輸送費は雑費を含めて3000石であった。」

彼らの本来の仕事は、大仏殿の石段造営でしたが、その工事終了後に大仏殿を守護する中門に、この狛犬像を奉納したようです。
般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
般若寺(奈良市)境内の「笠塔婆」

東大寺の北にある般若寺(奈良市)境内の「笠塔婆」に、伊行末の息子・伊行吉が次のような銘文を残しています。
父 伊行末 文応元(1260)年 没

般若寺の寺伝にも、伊行吉が父伊行末の没後の一周忌に、この卒塔婆を奉納したと記されています。ちなみに、これに並ぶようにもう1本あるのは、母親の延命長寿を祈願して造立されたものです。
 ここからは伊行吉は、南宋に帰らずに日本に残ったことが分かります。
「伊派の石工」
南宋石工集団伊派の系譜

彼は従う中国人の石工集団をまとめ上げ、「伊派」と呼ばれる中国の先端技術を持つ石工集団の基礎を作りあげます。彼らは数々の技術革新をもたらしますが、そのひとつが花崗岩を石材とした新しいタイプの石塔類を次々と世に送り出したことです。
12世紀末に東大寺南大門の石獅子をつくったのは、中国からやって来た石工たちでした。
彼らの中には、作業終了後に帰国した者もいましたが、畿内に定着した者もいました。
奈良市 般若寺十三重石塔 - 愛しきものたち
般若寺の十三重石塔
伊行末の作品は数多く知られ、般若寺の十三重石塔などもその内の一つです。その他にも、宇陀市大蔵寺の十三重石塔や大野寺の弥勒摩崖仏なども残しています。さらに東大寺境内にも伊行末の作品を見ることができます。石獅子のみならず、法華堂(三月堂)の古びた石燈籠も伊行末の作と伝わります。石工たちの代表者が伊行末という人の子孫だったので、「伊派の石工」と呼ばれています。
 彼らは、それまでの日本では使われなかった硬質の花崗岩を加工する技術を持っていました。その技術で、13世紀後半以降には、たくさんの石塔・石仏・燈籠などをつくります。その作品が西大寺律宗の瀬戸内進出とともに拡がっていきます。その伝播経路を追ってみましょう。

山陽地域では、兵庫県六甲山麓周辺、広島県尾道、山口県下関、四国では愛媛県今治などに、花崗岩を石材とした石造物をつくる石工集団がいたようで、花崗岩製の石造物製造の中心となりました。特に尾道にはたくさんの石工が集まっていたようで、対岸の今治とともに、瀬戸内沿岸第一の石造物製造の拠点となっていました。研究者が指摘するのは、瀬戸内地域の石塔類は、畿内の石塔造りの影響を強く受けながらも、それぞれの地域の嗜好に合わせて独自性を生み出していたことです。
浄土寺の越智式宝筐印塔(広島県尾
尾道・浄土寺の越智式宝筐印塔
その例が、越智式と呼ばれる独自な形をした宝筐印塔です。これは尾道を中心に、安芸島嶼部に今でも数多く見られます。浄土寺も西大寺の安芸における布教拠点のひとつでした。

山陽側で花崗岩製の石造物が数多く作られるようになっても、四国では今まで通りの凝灰岩が使われています。
特に、讃岐では一貫して地元産の凝灰岩を使って石塔類をつくり続けます。その中心は、西讃では天霧山の天霧石、東讃ではさぬき市の火山で切り出される火山石を使って、五輪粁宝塔・層塔などがつくられていました。今でも13~14世紀前半に讃岐の火山石で作られた石塔が、徳島県北半に数多く残されています。これは讃岐からの移入品になります。伊予松山市を中心とする地域でも、伊予の白石と呼ばれる凝灰岩を石材とした石塔類がつくられていました。こうした凝灰岩製の石塔群は、畿内から伝えられた花崗岩とはちがう技術系統で、それぞれの地域色を強く持っていると研究者は評します。

  讃岐の中世石造物の代表作品と云えば 「白峯寺の東西ふたつの十三重石塔」(重要文化財、鎌倉時代後期) になるようです。
P1150655
白峰寺の東西の十三重塔 

この二つの塔は、同時に奉納されたものではありません。東塔は畿内から持ち込まれたものです。そして西塔は東塔を模倣して、讃岐で天霧山の石材と使って造られたものだということが分かってきました。これを製作したのが弥谷寺の石工かどうかは分かりません。石材だけが運ばれた可能性もあります。しかし、弥谷寺の石工たちは畿内で作られた東塔を見上げながら、いつか自分たちの手で、このような見事な塔を作りたいと願い、腕も磨いていたことは考えられます。

瀬戸内海をめぐる石造物とその石材地について、研究者は次のように概観しています。
近畿から四国・九州を貫く中央構造線の南側に三波川変成帯があります。そこには結品片岩の岩帯があり、中世から様々に利用されてきました。徳島県の吉野川・鮎喰川流域では、13世紀後半から板状にはがれる石の性格を利用し、板碑が盛んに造立されました。愛媛県では伊子の自石や花崗岩が採取できたため、結晶片岩を石塔・石仏などに使う文化は発展しませんでした。江戸期以降、住居の囲い石積みや寺社の石垣として利用されるにすぎません。
6. 県指定有形文化財(考古資料)
 市楽の板碑(徳島県徳島市)

大分県でも阿蘇の溶結凝灰岩が採れるため、石塔には使われませんでした。長崎県の大村湾沿岸地域では、13世紀後半からこの石材で五輪塔・宝筐印塔がつくられ、板碑をつくる文化は発展しませんでした。同じ石材でも地域ごとに使われ方に違いがあったのです。

 高知県のように中世初期には石造物があまり見られない地域もあります。14世紀初頭になって六甲花崗岩(御影石)製の五輪塔が幡多郡を中心に運び込まれると、六甲山麓から瀬戸内海を西回り宇和海経由で石塔類が搬入されるようになり、西日本一の御影石製石塔類の集中地域となりました。徳島県南部も15世紀になると多数の御影石製石塔が瀬戸内海を東回りで運び込まれ、島根県西部にも瀬戸内海・玄界灘を経て運び込まれていました,
土佐の石造物・棟札: 加久見氏五輪塔(土佐清水市)
       加久見の御影石製石塔群(高知県土佐清水市)

15世紀になると、花崗岩製の石塔が瀬戸内地域で広く見られるようになります。そのような中でも、讃岐では相変わらず地元産の凝灰岩で石塔がつくられ続けます。天霧石の石塔生産は発展し、岡山・広島・兵庫県南部から徳島県西北部・愛媛県全域にまで販路を拡大していきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
天霧石の石造物分布図

それまで石造物を地元で生産していなかった高知県でも、地元産の砂岩を利用し、花崗岩製石塔のコピーを造り始め、しだいに独自な形を生み出していきます。愛媛県でも花崗岩製石塔の進出の一方、砂岩製の石造物が登場し、徐々に地域色を持つものをつくるようになります。このような石造物の広域流通が、瀬戸内海沿岸地域で広く見られるようになるのがこの時代の特徴です。
  この時代は花崗岩製のブランド品の搬人と同時に、地域での石造物生産が本格化し、地域色のある製品が各地で生産されるようになったと研究者は指摘します。

この時代のもうひとつの特徴は、一石五輪塔と呼ばれる小型の五輪塔が現れ、16世紀から爆発的に増加することです。
古童 - 一石 五輪塔 | 古美術品専門サイト fufufufu.com

一石五輪塔とは50㎝前後の一石で造られた小型の五輪塔です。15世紀になると町や村に仏教が浸透するようになった結果、需要が増大し、石工たちが工房で大量生産を開始するようになったようです。
この現象は、庶民上層部も一石五輪塔を墓塔や供養塔として使うようになったことが背景にあります。これを研究者は「仏教の地域への定着に対応した石塔類の大衆化」と評します。
 一石五輪塔の登場は、庶民が死者を手厚く葬り、供養するようになったことを示します。
それが17世紀になると、石塔全体が墓塔・墓碑として性格を変化させ、17世紀後半になると船形の塔が増加し、立方体の基礎の上に竿と呼ばれる塔身を乗せた墓石も急増します。これらの需要増大に対応して、石工達も大量生産体制を整えたことを意味します。
そして、使用される石材も変化します。
この時期には、城郭石垣の建設による採石・加工技術が一気に進化した時代です。小豆島や塩飽などにも石垣用の安山岩の切り出しや加工のために多くの石工達が各藩に集められて、キャンプ生活を送っていたことは以前にお話ししました。大阪城完成で石垣用石材の需要がなくなった後の彼らの行く末を考え見ると、自分の持っている石工技術の転用を計ったことが推察できます。こうして、硬質で持ちがよい花崗岩を多用した墓石や燈籠・鳥居などさまざまな石造物を需要に応じて生産するようになります。
 こうしたなかでも瀬戸内地域の石工の中心は、引き続き尾道でした。尾道には多くの石工がいて、石造物製作の中心地として各地に石造物を提供していました。
  かたくなに天霧山凝灰岩で石塔を造り続けていた弥谷寺の石工達も、花崗岩製石造物という時代の波に飲み込まれていきます。
生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後の17世紀後半になると、弥谷寺境内には、地元産の石造物が見られなくなります。そして、外から搬入した石造物が姿を見せるようになります。
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山崎氏墓所の五輪塔3基(弥谷寺本堂西側)
外から運び込まれた初期のものは、本堂西の山崎氏墓所の3つの五輪塔です。これらは17世紀中頃の花崗岩製で、天霧石で造られたものではありません。外から運び込まれたことになります。そこで使用されている石材を見ておきましょう。
山崎氏墓所の3つの五輪塔の石材は、
①左右の塔が兵庫県御影石製で
②中央の山崎志摩守俊家のものだけが非御影石の花崗岩製
これまでの支配者たちである香川氏一族や生駒一正の五輪塔などは天霧石製で、弥谷寺の石工集団によって造られていました。それが外部から持ち込まれた花崗岩製五輪塔が使われてるようになります。その背景には、花崗岩製墓標の流行があったようです。新たに丸亀藩主となった山崎氏は、地元の天霧石を使う弥谷寺の石工たちに発注せずに、花崗岩製の五輪塔を外部に注文していたことになります。天霧石製の石造物は、時代遅れになっていたのです。
こうして17世紀半ば以後には、弥谷寺や牛額寺の採石場は閉鎖され、石工達の姿は消えます。そして、墓石は庶民に至るまで花崗岩製になっていきます。

以上をまとめおくと
①阿弥陀信仰の聖地であった中世の弥谷寺境内には、磨崖五輪塔を供養のために彫る石工集団がいた。
②西遷御家人の香川氏が弥谷寺を菩提寺にしたため数多くの五輪塔が造立された。
③白峰寺子院に、崇徳上皇供養のために中央から寄進された十三重塔(東塔)を真似て、弥谷寺石工は天霧石で西塔を造立するなど、技術力を高めた。
④生産体制が整った弥谷寺石工集団は、大量生産を行い瀬戸内海エリアに提供・流通させた。
⑤一方、東大寺再建の際にやってきた南宋の石工集団「伊派」は、花崗岩を使用し、デザイン面でも大きな技術革新を行った。
⑥「伊派」は西大寺律宗と組む事によって、瀬戸内海沿岸の寺院に多くの石造物を造立した。
⑦しかし、この時点では地域の石工集団の地元に定着した市場確保を崩すことはできず、ブランド品の「伊派」の花崗岩石造物と、地方石工集団の凝灰岩産石造物の並立状態が続いた。
⑧それが大きく変化するのは、大規模城郭整備が終了し、花崗岩加工の出来る石工達の大量失業と、新たな藩主たちの登場がある。
⑨大阪城に石垣用の安山岩を切り出していた石工達は、新たに石造物造立に参入する。
⑩こうして従来の凝灰岩産の石造物を作っていた弥谷寺石工集団は姿を消す

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男 瀬戸内の石造物と石工    瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会市村高男編『中世の御影石と流通』高志書院、2009年
山川均『中世石造物の研究一石工・民衆・聖』日本史史料研究会、2008年

 
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昭和の嫁入り風景
讃岐では、昔の婚礼は嫁ぎ先の家で、親類や近所を招いた宴会が夕方から夜明けまで続きました。婿の母親が花嫁を仏壇に招いておがませ、納戸で夫婦盃をとりかわします。その後、納戸から座敷に移動すると押しぬきずしなどがでて、宴会のトリにメンカケ(鯛めん)がでました。
鯛そうめん 愛媛県 | うちの郷土料理:農林水産省
鯛めん(鯛+そうめん)
鯛めんのタイは、その家の家格をしめすともされて、大きいほどよろこばれました。鯛めんは鉄鍋に調味料をいれ、ハランを敷いて、タイをのせて20~30分煮ます。大皿にゆでたそうめんを盛り、煮たタイをのせます。しっぼく台に鯛めんをのせて伊勢音頭を歌いながら座敷の中央に運びました。そこで船歌をうたい、そうめんとタイをほぐしてもりあわせ参列者に配りました。
めでたい時こそ豪快に!うどんの上に鯛を乗せた『鯛麺』がウマい理由とは。(オリーブオイルをひとまわしニュース)
讃岐の鯛めん(鯛 + うどん)

 瀬戸内海の沿岸部や島嶼でも鯛めんは、婚礼にかかせないものだったようです。鯛めんには、「タイの大きさが家格をしす」ともされ、家の体面がかかっていたようです。鯛めんは婚礼のほかにも、祭りや新築祝など慶びの会食には欠かせないものでした。鯛が人々に食べられ、それが祝魚となったのは、いつ頃からなのでしょうか。今回は、讃岐と鯛の関係を追ってみたいと思います。テキストは「印南敏秀    祝事と鯛文化  瀬戸内全誌のための素描212P 瀬戸内海全誌準備委員会」です

2 日本列島では、いつ頃からタイを食べてきたのでしょうか。
青森市の三内丸山遺跡からは約50種の魚介類の骨が見つかっています。その中にはタイの骨もあります。ここからは漁具も出てきていて、タイを網漁、釣漁、モリ漁などでいろいろな方法で獲っていたことが分かります。縄文時代からタイは、食べられていたようです。

 弥生時代になると稲作中心になったためでしょうか魚食は、減少するようですが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『古今集』、『延喜式』などには、タイがよく登場するので、タイは食べ続けられていたようです。例えば『延喜式』には、朝廷に11か国からタイが貢納されるとして、三河、伊勢、志摩の伊勢湾、和泉、紀伊、讃岐の瀬戸内海、若狭、丹後の若狭湾、筑前、筑後、肥後の九州西北部が挙げられています。ここで押さえておきたいのは、和泉だけが鮮魚で、他は都から遠いため加工品で、瀬戸内の紀伊と讃岐は背開きの塩干しが貢納されていることです。
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鯛の背開き
 讃岐の貢納品である「背開きの塩干し」は、だれがどこで作ったのでしょうか?
農民には魚は獲れませんし、加工もできません。塩を作り、船を操船し、魚を獲って加工するといのは「海民」たちに相応しい仕事です。備讃瀬戸の塩飽などの島々には、古代から住み着いた海民たちが塩を作りながら、それを各地に運び、交換する交易活動を行っていたことがうかがえます。貢納した以外の加工品は、交易品として流通したかも知れません。
仁尾の蔦島
仁尾沖の蔦島 手前が父母が浜
   仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。
そして、海民たちが京都賀茂神社の神事に必要なお供え物を貢納するために神人(じにん)として奉仕するようになります。その中に、燧灘で獲れた魚介類があり、タイもふくまれていたはずです。仁尾の神人たちは、次第に賀茂神社の持つ権威や「特権」を背景に、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地・港町として発展していくことになります。仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
 つまり、魚介類の貢納が彼らの発展のスタートだったのです。そして、仁尾や塩飽などは海民(あま)の拠点であったこと、それが交易拠点に成長して行くことを押さえておきます。

  仏教思想を受けいれるようになった貴族達は肉食を避けて、儀礼食として魚介類を好むようになります。
はじめは中国の影響をうけてコイなどの淡水魚の利用が多かったようですが、それがしだいに海水魚に代わります。 
  『万葉集』には、柿本人麻呂が明石の漁の様子を次のように詠んでいます。
 あらたへの 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 
 白水郎(あま)とか見らむ 旅行く吾を     
              (『万葉集』巻三 252)

藤江の浦で鱸(すずき)を釣る土地の漁師と人は見るであろうか。官命によって船旅をしているこの私であるのに。〕

726(神亀3)10月10日、聖武天皇の印南野行幸に従ってきた山部赤人は次のように詠みます。
 印南野の 邑美(おうみ)の原の 荒栲(あらたえ)の 
藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船騒き  
塩焼くと 人ぞ多(さは)にある (『万葉集』巻六 938部分)

 印南野の邑美の原の藤井(藤江)の浦に鮪(=まぐろ)を釣ろうとして海人の船が入り乱れ、塩を焼こうとして人がいっぱい浜に集まっている。

ここからは、明石の藤江の沖では、すずきやまぐを釣る漁師の船が数多く出漁していたことがうかがえます。同時に、塩が焼かれているので製塩も行われていたことがうかがえます。明石も海民(あま)の拠点だったようです。
   以後の明石を呼んだ歌も見ておきましょう。鎌倉時代には、
 しまかけて おきのつり舟 かすむなり あかしのうらの 春のあけぼの 慈円 『捨玉集』882
 
夕なぎの ふぢ江の浦の 入海に すゞきつるてふ 
あまのをとめ子 衣笠内大臣(藤原家良) 『夫木和歌抄』巻27
 
あかしがた うらぢはれ行く あさなぎに 霧に漕ぎいる あまのつり舟 後鳥羽院 建保2年(1214) 『玉葉和歌集』739
 
 あかしがた 波ぢはるかに なるまゝに 人こそ見えね 
 あまのつり舟 順徳院 建保4年(1216)『玉葉和歌集』2088

 ここからは古代から中世にかけての明石では、「海人(あま)の釣舟」(海民たちの漁船)が出て、魚を捕り続けていた事が分かります。これは、瀬戸内海の島々や沿岸部にいた海民に共通する姿だったのでしょう。

これらの魚介類の中で、人々が別格とランク付けする魚が出てきます。
それがタイでした。タイは、日本周辺に13種類がいて、クロダイなどの黒いタイとマダイなどの赤いタイにわかれます。祝魚として喜ばれたのが、肌の赤色くて、形も美しいマダイです。
真鯛分布図

マダイは暖かい海を好み、北海道南部から本州、四国、九州にまで広く生息しています。マダイは味が淡自で癖がなく、生・焼く・煮るなどのいろいろな調理にもあいました。また身が筋肉質で腐りにくく、変質しにくく、ひと塩すると保存性も増します。こうして、マダイは祝魚の王様として、日本人に最も愛される海水魚になっていきます。
真鯛の産卵場所
マダイの産卵場所
マダイは春に水温があがると、水深100~200mの越冬場から産卵のために浅場へと回遊してきます。
瀬戸内海には、東の紀伊水道と西の豊後水道から産卵のためにやってきます。産卵が活発に行われるのは、水温が15~17°前後のときで、これは瀬戸内海では5月初めの八十八夜頃にあたるようです。産卵期を迎えたマダイは、産卵にそなえて脂がのり、味もよく、赤味もまして色鮮やかになります。桜の開花期にあたるので「桜鯛」、産卵のために群れて島のように見えたので「魚島鯛」とも呼ばれました。

 桜鯛
桜鯛

福山市の瀬戸内海に注ぐ芦田川河口の中洲に、中世の港町・草戸千軒町遺跡が埋まっていました。
中洲のごみ溜からはタイ、カサゴ、ウマヅラハキなどの大量の魚の骨が見つかっています。その中で一番多く出てくるのがタイの頭部のようです。大きなタイは体長1mをこえています。中世の港町の人達が、魚を大量に消費していたことが分かります。これらの鯛も、鞆の沖でとれたものが運ばれてきていたのでしょう。庶民が大量に消費すると同時に、武家社会でもタイは儀礼用として重視されるようになります。
真鯛 - マダイ - | Fのかがやき

 古代は貴族社会では、鯉が最上級の魚だったことは先ほど述べました。しかし。江戸時代になるとその評価は逆転して「鯛は大位、鯉は小位」と云われるようになります。

鯛百珍料理秘密箱
鯛百珍料理秘密箱
 『鯛百珍料理秘密箱』のように鯛専門の料理書まで刊行されています。江戸幕府がひらかれると魚の需要が高まり、江戸の魚を確保するため関東全域から運ばれるようになります。魚が痛みににくい冬は、駿河湾や富山湾らも運ばれました。
                                 イケフネ(活魚運搬船)
江戸時代のイケブネ(活魚運搬船)
江戸初期には瀬戸内海で獲れたタイも、イケフネ(活魚運搬船)で活きたまま江戸に運ばれたこともあったようです。幕府は大坂に10人の担当者をおいて、塩飽諸島の与島に生貴場をつくっています。しかし、イケフネで運ぶ途中で死ぬタイが多く、江戸まで十分な量のタイは送れませんでした。
 また海難事故も頻発に起きます。岡山県笠岡市の真鍋島は3~5月にかけてタイ網魚が盛んでした。延宝年間(1673~81年)に真鍋島のイケフネが、漁の最初と最後に江戸までタイ運んで高収入をえました。ところが1681(延宝9)年にイケフネが熊野灘で遭難して、5艘が行方不明、4艘が破損してしまいます。そのため江戸送りは取りやめになったようです。

イケフネ(活魚運搬船)2
イケブネ(活魚運搬船)
 江戸は無理でも、大坂までは充分に運べるようになります。
イケブネと呼ばれる生き魚専用の運搬船が開発されていたようです。船底に穴を開けて、海上ではそこに海水を環流させながら魚を運んできます。淀川に近づくと栓をして川水の進入を防ぎます。そうして船の上で一匹ずつ絞めて、血抜きをしながら雑喉場(魚市場)に入っていったようです。このイケブネがいたために、家船漁師達は、何日も海の上で操業できるようになります。家船漁師が一本釣りで釣った鯛を、船上で仕入れて大坂に運ぶ業者も現れます。網で獲るよりも、一本釣りで釣った魚の方が商品価値は高かったようです。


 昭和初期のタイの料理法を見ておきましょう。
『日本の食生活全集』(農山漁村文化協会)は、大正末から昭和初期ごろの各県ごとの食事を以下のように聞き取りしてまとめています。
鯛料理別県数
タイの調理と食事の記録は西日本に多く、他の魚と比べて大きな違いは大半が祝事などの儀礼行事に出された点です。日本の三大鯛の兵庫県明石・徳島県鳴門・和歌山県大地で、鯛料理が少ないのは、大坂・京都などの都市部に売られたからでしょう。漁民達にとって鯛は、食べるものではなく売る魚だったようです。
 タイの調理法は焼魚が一番多く、すし、刺身、煮付け、汁物、鯛めんと続いています。
鯛めんはそうめん業が盛んな瀬戸内地方の調理法で、婚礼の席になくてはならないものだったことは、最初に見たとおりです。「めで(タイ)」と、夫婦が仲むつまじく「細く長く(そうめん)」人生がおくれる願いをこめています。
鯛の浜焼」 | 有限会社山家鮮魚

タイの調理法の中に、塩田と結びついた浜焼きがあります。
三豊市の詫間塩田では、塩田経営者が浜子に命じて贈答用に浜焼きをつくらせていたそうです。浜子は昔の浜焼きを次のように述べています。
①鉄の平釜で海水を煮ると約110°Cで結晶はじる。
②結晶しはじめた塩を板囲いの中にいれて、内臓をとったタイをコモで包んで置く。
③その上から塩をのせて1時間おくと浜焼きができる
浜焼きのタイは、ほのかに甘みがあり、締まった身は淡白だと云います。塩味はほとんど感じず、ワサビ醤油や酢の物につけるとおいしいそうです。鯛の獲れる「魚島」の時期でも、浜焼きは浜子の日給以上したようです。そのため浜子が浜焼きのタイを食べることはなかったと述懐しています。
瀬戸内の伝統「鯛の濱焼き」を未来へ繋ぐ「おさかな工房まるせん」@志度: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
浜焼き鯛
  近世から祝い事になくてはならなくなったマダイは高級魚としての地位を確立します。明治になると農民達も、鯛を縁起物として珍重したために魚価は高値安定で高級魚の代表とされてきたようです。そのために、いろいろな料理法も生まれています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

    
最初に前回にお話しした幕府の巡見使について、簡単に「復習」しておきます。
江戸幕府は将軍の代替わりごとに巡見使を派遣して民情の監察を行いました。各藩の寺社数、町数、切支丹の改め、飢人の手当、孝行人、荒地、番所、船数、名産、鉱物、古城址、酒造人数、牢屋敷等々を聴取して領主の施政を把握し、帰還後は幕政に反映するべく将軍に報告しています。
 監察は全国を8つの地域に分け、それぞれ3人1組で一斉に行われました。巡見使は千石から数千石取りの幕臣が任命さるのが通常で、1名につき数名の直属の部下と十数名の近習者、および十名を越える足軽や供回りが随行したので、30名ほどの人数になりました。それが、3名の巡見使では百人ほどの一団となり、迎える側の準備も大変でした。

 受け入れ側は事前の情報収集に努め、傷んだ道路や橋梁を修築し、必要な人足と馬匹、水夫と船舶などを揃えました。巡見使の昼休憩と宿泊には、城下や藩の施設(藩主のための御茶屋)が利用されましたが、農山の村々をまわるときは座敷のある上層の農民や商人の家か、寺院があてられました。休泊所となった民家には、藩の費用で門や湯殿、雪隠が増設され、道路の清掃やさまざまな物資の手配などに追われたようです。その中心となって対応したのは、各郡の大庄屋たちだったようです。今回は、大庄屋の対応ぶりを残された史料から見ていくことにします。
テキストは、  「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

1789(寛政元)年5月には、巡見使池田政次郎・諏訪七左衛門・細井隼人がやってきます。
この巡見使の受入準備のために髙松藩は、事前に「国上書」を各巡見使用人宛に提出して「内々のお尋ね」をしています。その「御尋口上書」は50ケ条にもなります。どんな質問が行われていたのか、その一部を見ておきましょう。
一、讃成へはいつ頃御廻可被遊候哉
一、政次郎様御夜具御浴夜等用意仕候に及申間敷候哉御問合仕候
一、御供に御越被咸候御用人方御姓名承知仕度候事
一、御朱印人足の外何沿人程用意可申付候哉
一、御伝馬の外に何疋程用意可申付侯哉
一、御長持何棹程御座候哉
一、御三方様御休泊之内為伺御機嫌夜者等差出候儀是迄通可仕候哉本伺候
一、御三方様御名札是迄は御宿前に御名札長竹二鋏芝切建来り候家格も御座候余り仰山にも可営侯に付此度は御名札御休泊御宿門へ召置候様可仕侯哉御問合仕候
一、御二方御料理え義一汁一末に限り可申旨先達而被仰渡
本長候乍只一茉と申候而は奈り御不自由にも可被咸御座
侯に付′―、重箱何そ瑕集類え口"指上可然ヒロ在所役人共より私共存寄斗にて申童候も力何に村御内々御問合仕侯
一、 一茉に限り候へば平日不被召上候御品には御内々無御腹蔵御言付可被下候本頼候
意訳変換しておくと
一、讃岐へは、いつ頃巡回予定なのか
一、池田政次郎様の夜具や御浴夜などの用意のために、注意事項をうかがいたい
一、お供の御用人方の姓名が分かれば教えて欲しい
一、御朱印人足の他に、それくらいの人足を用意すればいいのか
一、御伝馬の他に、何頭ほどに馬を用意すればいいのか
一、長持は何棹程でやってくるのか御座候哉
一、御三方の休泊で夜伽などは差出した方がいいのか
一、御三方の名札は御宿前に名札を長竹に挟んで立てかけるが、家格のこともあって、この度は名札を休泊宿門へ置くようにしたいが如何か
一、御三方の料理について、一汁一菜に限るとされているが、これではあまりに質素すぎると思われるので、重箱などを加えてもよろしいか
一、 一菜に限るというなら内々にお出しするのはかまわないか

これに対し、巡見使の各御用人より一項一項に付いてこまごまと回答が寄せられています。事前の打ち合わせが髙松藩と、巡検使の用人の間で事前に行われていた事を押さえておきます。

江戸の巡見使用人からの情報を得て、高松藩では次のような指示を大庄屋を通じて、各村々の庄屋に回覧しています。
御巡見御越に付 大小庄屋別段心得
一、御宿近辺にて大破に及ぶ家々は自分より軽く取繕ひ申すべく候
一、御道筋の大制札矢来など破損の分は造作仰付られ候
尤も小破の方は郡方より取計仕L小制札場の分は村方より取繕致し申すべく候
一、御通行筋茶場水呑場郡々にて数か所相建候間見積をもって其の処へ取建仰付られ追て代銀可被ド候
一、御道筋の仮橋土橋掛渡の義幅壱間半に造立て右入用の材木等は最寄の御林にて御伐渡持運人足は七里持積り又は湯所見合積りを以て人足立遣し追て扶持被下候
一、御巡見御衆中御領分御滞留の内別けて火の元入念にいたすべく 御道筋家々戸障子常体に仕置御通の筋は土間にて下座仕るべく候 物蔭よりのぞき申す義仕る間敷惣て無礼無之様仕るべく併て無用の者外より御道筋に馳集候義堅く無用に候
一、御巡見御用に罷出候下々に至るまで惣て相慎み喧嘩口論仕候はゞ理非を構はず双方とも詑度曲事中付くべく候
勘忍成り難き趣意これあり候はゞ其段村役人共へ届置追而裁判致し遣はすべく候
一、御巡見御衆中当御領御逗留中猪鹿成鉄砲打ち申す間敷相渡し申すべく候
一、雨天にて御旅宿の前通行の節下駄足駄履き申す間敷候
一、御案内の村役人共御案内先に代り合いの節御性格等申遣りよく呑込み置きて代り合い申すべく候
一、御巡見御用に罷出候人足馬士等生れつき不具なるもの道心坊主惣髪者子供並に病後にて月代のびたる者指出す間敷候
一、相応の単物にても着用し御仕差出申すべく襦袢又は細帯等にて差出申間敷候 笠は平笠かぶらせ申すべく編笠並手拭にてほうかむりなど致候義相成中さず候
一、寛政の度政所と唱うるところ近年庄屋の名目に相改り居り申すに付自然相尋られ候へば文政六来年より庄屋と唱う様相成居候へども如何なる訳合にや存じ奉らず候段相答へ申すべく候
有の通り村々洩れぎる様中渡さるべく候

意訳変換しておくと

一、御宿附近で大破して見苦しい家々は、自分で軽く修繕しておくこと
一、道筋の制札や矢来などで破損しているものは修繕する事。小破の場合は、郡方より修理し、小制札場については村方で修繕する事
一、通行筋の茶場や水呑場については、郡々で数か所設置する事。後日、見積りに基づいて、代銀を藩が支払う。
一、道筋の仮橋や土橋などについては壱間半の幅を確保する事。これに必要な材木等は最寄の御林で伐採し、運人足は七里持積りか場所見合積りで人足費用を計算しすること。追って支払う。
一、巡見衆の領分滞在中については、火の元に注意し、道筋の家々の戸障子で破れたものは張り直すこと。通の筋の家では、土間に下座して見送る事。物蔭からのぞき見るような無礼な事はしてはならない。併て無用の者が御道筋で集まることは禁止する。
一、巡見御用衆が郡外に出るまでは、互いに相慎んで喧嘩口論などは起こさないように申しつける。
  勘忍できないことがあれば、その都度村役人へ届け出て判断を仰ぐ事。
一、巡見衆中が滞在中は、猪鹿などを鉄砲で打ことを禁止する。
一、雨天に御旅宿の前を通行する際の、下駄足駄履は禁止する。
一、案内の村役人は交代時には、巡見使の性格などを申し送り、よく呑込んで交代する事。
一、巡見御用の人足や馬は、生れつき不具なるものや、道心坊主惣髪者子供や病後にて月代のびた者などは選ばない事
一、衣類については、相応しい単物を着用すること。襦袢や細帯の着用は禁止。笠は平笠を被ること。編笠や手拭ほうかむりなどはしないこと
一、寛政年間までは「政所」と呼んでいたのを、近年に「庄屋」と名称変更したことについて、どうしてかと尋ねられたときには、「文政六年より庄屋と呼ぶようになりましたが、その理由は存じません」と答える事。
以上を村々に洩れなく伝える事。

  「髙松藩 → 大庄屋 → 庄屋 → 村民」という伝達ルートを通じて、下々までこららのことが伝えられていたことが分かります。巡検を受ける藩にとっては、一大事だったことがあります。
 満濃池で植樹祭があった時に、時の天皇を迎える時の通達を思い出します。そこにも、「2階から見てはいけない、服装は適切な服装で、沿道の家は植木などの刈り込みも行うこと」など、細かい指導・指示が行政から自治会を通じて下りてきました。ある意味では、江戸時代の巡見使を迎える準備対応ぶりの昭和版の焼き直しかもしれません。この通達がルーツにあるのかも知れないと思えたりもします。

今度は大庄屋や庄屋に出された「御巡見御越に付大小庄屋別段心得」(満濃町誌253P)を見ておく事にします。
一、惣て御案内の仕方は郡境より同境までと相心得申すべく候 郡境へ罷出相待候節諸掛場所家居これなき処は相応の小屋掛にても致し出張村役人の散らぎる様相集め置き申すべく候
一、大庄屋は羽織袴半股立に草履を履き、草履取桃灯持召連れ郡境にて御待請御先御用人ら参候まで草履取桃灯持ども召連居申し右御用人間近に相成候はゞ右家来を先に遣置き尤も俄雨又は夜に入る節は夫々用向等辯じられる様申付置は勿論の事に候
御案内の庄屋は羽織小脇指に高股立 組頭は羽織ばかり無刀にて罷出候義と相心得いづれも草履にて候
尚右大庄屋中より先方駕籠脇へ挨拶済の上夫々役割御案内に相掛り申すべく候 尤も前々は却て御案内駕籠先へ立候義もこれあり候 既に寛政の度は御駕籠脇へ引添御案内致候指図これあり候義もこれあり是等の義は臨機応変の事に候
一、御先御用人御出の節太庄屋中出迎御駕籠脇にて
〈私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候〉と申述べ御用人中より指図通り御案内仕るべき事
一、御朱印箱の義は甚だ御大切の御品にて御案内の者は勿論持人までも別けて気を付け有御箱取扱の節上問等へ指置候義は素より御旅宿にても上げ下げ等の節油断なく取扱申すべき事
一、御道中夜に人る節は御印付高張六張並八歩高付御桃灯三拾張差越候義と相心得申すべき事
一、御通筋家続のところは表軒下へ掛行燈にて燈さすべき事
一、御道筋廉末これ無き様手前に洒掃致し置候上は御通りの節俄に帯目入る義は却てごみ立ちよからず候間願くは水を打ち置く様致度き事
一、御道中夜に入る節庄屋与頭等御案内の者自分自分の定紋付桃灯燈し申すべき事
一、御案内合羽の義大小庄屋は青いろ与頭は赤合羽着用の事
一、大小庄屋組頭郡境にて他郡へ相渡候節先に相立居申す御案内の者少し先へ踏込み御巡見御衆中並用人迄も御通行順御性格等を他郡御案内の者へ申伝ふ事
六月十七日
意訳変換しておくと
一、案内の仕方は、郡境より郡境までと心得よ。郡境で出向いて待つ時に、近くに家などがない場合は仮小屋を建てて、出張村役人らがバラバラにならないように一箇所に集まるようにしておくこと。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。郡境で待請・先御用人などがやってくるまで草履取桃灯持を同伴して待機する事。御用人が間近に近づいてきたらその家来を先に立てて、その後に従う事。もっとも雨や夜になって暗い場合は、それぞれの対応を講じる事。案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。
 なお大庄屋は巡見使の乗る駕籠の脇で挨拶を済ませた上でそれぞれの役割案内に掛ること。以前には 案内駕籠先へ立って先導したこともあったようだが、寛政の巡検以後は駕籠脇へ従い案内するようにとの指示があったのでこれに従う。場所・時間によっては先導する必要もあるので臨機応変に対応する事
一、先達御用人が引継ぎ場所にやってきた時の大庄屋の駕籠脇での出迎え挨拶については次の通り
「私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候。御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候」と申し述べてから、用人の指図を受けて案内すること。
一、朱印箱については大切な品なので、案内の者はもちろんのこと、持人も特別な注意を払う事。朱印箱の取扱については、取り運びや旅宿での上げ下げについても油断なく行う事
一、道中で夜になった場合には、印付高張六張と八歩高付御桃灯三拾の提灯を捧げかける事
一、通筋の家には、表軒下へ掛行燈を燈させる事
一、道筋については、清潔さを保つために事前に清掃し、通過直前には帯目を入れ、水を打っておく事
一、道中で夜になった場合は、庄屋や与頭などの案内人は自分自分の定紋付桃灯を燈す事
一、案内合羽については、大小庄屋は青いろ、与頭は赤合羽を着用する事
一、大小庄屋組頭は郡境で他郡へ引き継ぐ時に、次の案内の者に巡見衆や用人などの性格などを次の案内者へ申し送る事
六月十七日
  この史料を読んでいて気づくのは、ここには受入側の髙松藩の武士達は一人も登場しないという事です。
私は、髙松藩の藩士達が全面に出て案内から接待まで仕切ったのかと思っていました。しかし、主役は、郡毎の大庄屋や庄屋などの村役人組織であったことが分かります。藩役人は、服装や対応の方法を書面で指示しますが、それを実際に行うのは、大庄屋や庄屋たちだったのです。これだけのことをやってのける行動力が大庄屋の下には組織されていたことに驚かされます。
 指示内容の中には、お下げ銀を出して見苦しい民家の修繕をしたり、道路に砂利を敷いたり、沿道に茶店を設けるなどして、藩の民政が行き届いて、百姓たちの生活が豊かであるように装ったことがうかがえます。
 出迎えに当たっての服装なども細かく指示されています。大庄屋は羽織袴を着用し、村方三役も規定の正装で郡境まで出迎え、宿泊には宿詰をつけて万事遺漏のないように配慮されています。

最後の巡見になる1838(天保9)年の時には、那珂郡の村役人達にどんな役割が割り当てられたのかが分かる史料が残っています。
各行事をきちんと記録していた岸上村庄屋奈良亮助が書き留めたものが満濃町誌に紹介されています。天保九戌午六月御巡見一件役割とあって、那珂郡の村役人の役割分担表であることが分かります。
巡見使役割分担表1

讃岐那珂郡の天保九戌午六月御巡見一件役割 その1

最初に平岩七之助様とあるので、3人の巡見使のうちの主査の担当係とその村名・役職が列挙されています。その役割の内で「案内」「籠付」は各村の村役人。「荷物下才領(人足)」「合印持」は百姓層に割り当てられています。人足も単独の村が出すのではなく、いくつかの村からのメンバーで編成されています。この後に残り2人の巡見使付の役割分担表が続きますが省略します。

巡見使 讃岐那珂郡ルート
讃岐那珂郡の巡見使ルート

那珂郡の巡検ルートは、丸亀を出発して、往路は金毘羅街道を金毘羅まで下って満濃池まで足を伸ばし、復路は宇多津街道を上って宇多津までであったことは前回お話しました。

巡見使役割分担表2
        天保九戌午六月御巡見一件役割 その2
この役割分担表には「公文村茶場・餅屋」とあるので、金毘羅街道沿いの休息所は公文に設けられたことが分かります。その担当者名が記されています。面白いのは、「茶運子供」とあって、給仕をおこなうのが「百姓達の倅」であったことです。
 また、宇多津への復路には「東高篠村水置場」とありますので、高篠にも休息所が設けられたようです。この他、郡家にも水置場が設置され、それぞれ担当者が割り当てられています。

巡見使想定問答書(島根県)

これは鳥取県智頭町の大庄屋が作成していた「想定問答集」です
巡見使から質問があったとき、案内などをした大庄屋、庄屋などの村方の役人が無難な返答をするためにつくられたようです。大庄屋たちがが考えた想定質問「銀札は円滑に流通しているか、勝手向き(財政のやり繰り)はうまく行っているか」などを藩に問い合わせたものに対して、藩が朱書きで模範答案を書いて送り返しています。まさにお役所仕事の入念さが、この時代から見られることにびっくりもしました。今と変わりないなあという風に思えてきます。
 このような準備が入念に行われるようになったため、江戸時代後期になると、幕府巡検は形式的になり儀礼化したともいわれます。しかし、幕府が全国支配の威光を体感せしめるための重要な役割を担っていたことに変わりはありません。このような支配システムを運用する事で、下々の「お上」意識が江戸時代に形成され、それが明治の地方行政にも形を変えながら活かされていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」

     江戸時代の寛永年代に始まった巡見使制度のことを研究者は次のように評します。
将軍の全国統治権に基づき、諸大名の行政を査察する権限の行使

初代家康は1615(元和元)年11月、諸国に監使を派遣しています。巡見使としては家光が1632(寛永十)年に五畿七道へ派遣したのが初めのようです。その後、将軍の代替りごとに派遣されるのが例となります。巡見使は3人セットでした。一人では各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあります。そのため幕府上級旗本三人を一組セットとして各地方に派遣しました。

巡見使は主席が2000石、以下1000石位までの上級旗本から任命され、その巡見使には各々家老、取次役、右筆等30名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていました。そのため3人が引き連れてくる一行は百人程度の大人数になります。
 巡見使に任命された旗本や御家人は、時代が下がるのにつれて、定められた家臣や従者を常備している者が少なくなります。そのため命令を受けると、大急ぎで日入稼業者を通じて従者を雇い、十分な訓練もできないままで出発することになります。しかも、巡見使の旅は、数か月に及ぶ長い行程であったので、出来の良くないにわか従者などは旅先でトラブルを起こす事も多かったようです。



古絵図・貴重書ギャラリー
巡視者の質問に対する事前問答集

 巡見使の来訪は受入側の藩にとっては一大事です。何日もかけて藩を隅々まで見られたのでは、藩の内情がすべて明らかになってしまいます。事実を隠蔽していることが分かった場合は、命取りになってしまう場合もあります。従って質問に対する答弁まで考えて、「事前問答集」を作成すなどするとともに、眼に触れて欲しくないところは巡見をさせず、御馳走攻めにしておくことにも心掛けるようになります。
PayPayフリマ|小栗上野介 〈主戦派〉 vs勝海舟 〈恭順派〉 幕府サイドから見た幕末/島添芳実

「諸大名の行政を査察」するためにやてきた幕府の巡見使を、髙松藩はどのようにして迎えていたのでしょうか。
これについては、当事者である村々の庄屋が残した史料が、各所に残っているようです。それらの史料で、巡見使受入マニュアルがどのように整備されていたのかを見ていくことにします。テキストは「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

最初に幕府が巡見使に与えていた心得「巡見使の守るべき条々」を見ておきましょう。
一、今度国廻りの刻 御咸光を以て何事によらず公仕る間敷く候 勿論召連れ候下々まで堅く申付くべき事
一、召連れの下々喧嘩口論仕るにおいては 双方これを誅罰すべし 荷担せしむる者共は本人同前たるべき事
付けたり 所の者の申事仕るにおいては その領主並に代官らに相談の上理非をわかち有様に申付くべき事
一、竹木一切代採べからず
付けたり 押買狼藉すべからざる事
一、駄賃宕賃定めのごとく急度これを相渡すべし 代物これを出さざれば人馬使ふべからぎる事
右この旨を相守るべきもの也
    寛永十年 二月六日
意訳変換しておくと
一、この度の諸国巡検については、何事についても幕府の咸光を後ろ盾に、威張り散らすようなことのないように、召連れていく従者にも言い含めておくこと。
一、従者と現地の人足たちとの喧嘩口論が起きた場合には、喧嘩両成敗で双方を誅罰すること。喧嘩に荷担したものたちも本人同様である。
一 現地の者からの直訴があった時には。領主や代官らに相談した上で理非を極めた上で措置する事。
一、従者達の竹木代採は一切認めない。押買狼藉も許さない。
一、駄賃などの運送費や宿泊費は、決められた額をきちんと支払う事。代金を支払わなければ人馬使ふことは許さない。
右このし口を相キるべきもの也
寛永十(1632)年 二月六日
幕府としては、巡見使の横暴を許さないことを示す文面になっています。しかし、実際に行われているので禁止令が出るのです。「禁止令は、その行為が行われていたと思え」は、歴史学のイロハです。従者と現地の人足などとの喧嘩や、直訴についてのトンチンカンな対応ぶり、竹や木材の勝手な伐採、駄賃や運送費の不払いなどが、初期の時期からあったことがうかがえます。
 しかし、幕府としては巡見使派遣に際しては、将軍の成光をもって横暴に流れたりしないように指導していたことは分かります。例えば将軍吉宗などは巡見使に大きな期待を持っていた節があります。実際、御料(幕府の直轄地)を巡視した報告書をもとに、不正な代官を処分したり、機構の見直しを行ったりもしています。しかし、各藩の情勢を観察する諸国巡見使の報告については、幕政を進める上で参考となる情報が含まれていても、領主権の尊重という建前もあるので、藩政にまで立ち入ることは難しかったようです。
 享保以降も、将軍の代替わりごとに巡見使の派遣は続けられます。
しかし、次第に形式化して単に将軍の威光を知らしめる為だけのものになっていきます。そして、安政の頃になると、巡見使を受け入れる各藩から、出費が多い事を理由に派遣延期の願が出されるようになります。幕府もこれを認めざるを得なくなり、天保の巡見使派遣を最後に、巡見使の派遣は取りやめになります。
 

讃岐にやってきた巡見使のうち、史料によって確かめられるのは次の通りです。

巡視使来讃一覧表
歴代巡視使一覧

2回目の巡見使派遣は1667(寛文七)年でした。この時には、前回に出てきた問題を踏まえて、更に更にこまごまとした条目を定めて巡見使に守らせようとしています。また、受入側の諸大名には、巡見使を迎える際には、質素にするように命じています。そして、調査質問事項として次のような項目が追加されています。
一、公領私領各所の市井村里政蹟の可否をたづね 天主教停禁の事常に起りなくかするや否や並に盗賊捜索の様その土人に尋ね問うべし
一、何事によらず近年抽税を出さしむるにより その地諸物の価時貴し 人々難困するや また公の政法と変りたる事あるや
一、諸物を事処より買置て ひとりその利をむさばる者あるや 金銀米銭の時価を問うべし
一、許状一切受瑕るべからず 高札の写しを立てざる地はこの後これを立てしむべし もし年経て文字見えわかざるは改めてせしむべし
意訳変換しておくと
①、幕府領や大名領各所の町や村の様子を調査し、切支丹禁止以後に適切な措置がとられているかどうか、盗賊捜索状況などについて、現地住民に尋ね問うこと。
②、近年の間接税課税によって、物価急騰で人々が困っているという。幕府の政策と現地の政策で異なるろころがあるのか調査すること
③一、「買い占め・売り惜しみ」などによって利益を上げている者がいないか、現地の金銀米銭の時価を調べること
④、直訴状はなどは一切受取ってならない。 幕府の命令などを掲げる高札がきちんと建てられているかどうか、しかるべき所に高札が建てられてない場合には指導すること。もし年経て文字が見えにくくなっている場合には、新しくさせること。
①の背景には、1661年に幕府は寺請制度によって「宗門人別帳」を作成することを各藩に命じていたことがあるようです。そして1671年には全国で宗門改めが行われるようになります。そのための「地ならし政策」を推し進めている最中だったので、巡見使視察を通じて各藩に整備に向けた圧力かけたようです。
②③については、物価急騰への対応調査のようです。
④については、巡見使に対しての直訴が多かったのでしょう。それを受け取ればいろいろな問題を幕府が抱え込むことになります。それは各藩で対応解決すべきことなので、幕府は以後はこれを押し通すようになるようです。


受入側の地方の代官や領主に対しては、次のように通達しています。
一、このたび諸国式況令ぜらるヽといへども地図城図制することあるべからず
一、人馬戸口査校に及ばず 御朱印券の外に用ふる人馬は定制の直銭をとり 渋滞なく出すべし
一、 いずれの地に至るとも 使介脚力贈童一切上むべし
嚮導者なくてかなはざる地はその事告げやるべし
一、道路清掃すべからず 但し有り来りの道路橋梁往還の便よからぬ所は修むべし
一、投宿の駅舎造営すべからず 新に茶亭を設くることあるべからず
一、巡視のともがら投者の駅々にて 米豆その郷価をもって売るべし その他の諸物もこれに同じかるべし
一、各駅の旅舎筵席を新にすべからず 古きを用ふることも苦しからず 浴室厠かねて設け置かざる所はいかにも軽く造るべし 盤嗽 栗炊の具古くとも苦しからず もし設けざるは軽く特へ置くべし
一、旅宿とすべき家一村に三戸なきは寺院またほ別村にても苦しからず
  意訳変換しておくと
①今回の巡見使受入について、新たに国地図や城図を作成する必要はない。
②人馬の戸口調査を行う必要もない。御朱印券の外に使用する人馬については決められた額を支払うこと。
③巡検視察地がどんな場所であろうとも、巡検者に補助人をつける必要はない。もし嚮導者がなくては行けないところがあれば、その旨を事前に申し出る事。
④道路は清掃する必要はない。但し、橋梁など往還の便がよくないところは修理しておく事
⑤宿泊所や駅舎などを新たに造営する必要はない。 新しく茶亭を設置する事のないように。
⑥巡視従者が米豆を買い求める場合には、現地時価で売ること。その他の諸物も同様である。
⑦各駅の旅舎の新設は認めない。今まで通りの古い施設で充分である。浴室や厠がない場合は、最低限度の施設にすること。
⑧宿泊すべき家が一村に三戸用意できない場合は、別村に分宿も可である。
ここからは、ここに書かれているような事が前回にはあった事がうかがえます。同時に、藩の出費を抑え、沿道の人々に迷惑をかけないよう幕府中枢部の幕臣達が心を用いていることも分かります。

巡見使一行は、どれくらいの人数を引き連れてやってきたのでしょうか?
1838(天保九)年にやってきた巡見使の場合は次の通りです。

巡見使構成表天保

知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計14人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。召連人数は、髙松藩に連絡しています。

 巡見使は幕府の御朱印や具足一両のように権威を示すものや、実務で必要な多くの荷物を運びながら移動しました。巡察を受ける側でも用意した多数の道具を各村の休泊所へ持ち送りました。そのため御朱印台、塗り三宝、熨斗、硯など、さまざまな道具が人足によって運ばれた事が残された一覧表から分かります。
 そのため各郡の大庄屋に対して、次のような「人足依頼状」が出されています。これが各村の庄屋たちに回覧され、それを書き留めた写したものがまんのう町岸上の奈良家に、次のように残っています。


巡視使要求人足数 平岩
巡見使平岩七之助が必要とした人夫・馬の一覧表
これは平岩七之助の用心から出された必要人足分一覧です。要求された合計数は人足34人 馬13頭です。朱印人足・馬が規定された人数で、賃人足・馬というのは、賃金を支払って雇うものという意味のようです。受入側の大庄屋は、これに基づいて他の二人の巡視役分についても庄屋と協議しながら員数配分を行う事になります。つまり、全部で120人程度の人夫が必要だったことがここからは分かります。
 巡見使は三組に分かれて、一日交代で先導隊を交代し、それぞれ具足櫃(甲冑入)、行李を携行し、槍を立てて進むという作法どおりの行列を組んで行動しています。約百人の一行が、120人の人足に荷物を持たせ、120人の世話役を務める村役人の説明を受けながら、数棟の騎馬役に守護されながら御朱印を奉じて進むという賑々しい行列です。大名行列的なイメージです。しかも、遊行の旅でなく、駕籠の中から周囲の山河を視察し、見物人の状況から民情を判断し、村役人との質疑応答によって資料を集め、江戸に帰ると詳細な報告書を提出しなければならなかったようです。

巡見使は讃岐を、どんなルートで視察したのでしょうか?
 五畿内と四国に派遣された巡見使は、讃岐が最後の巡見先で伊予から西讃に入って、東讃から抜けて行くというルートがとられています。先ほど見た奈良家文書には、1838(天保九)年の讃岐順路と宿泊地が次のように記されています。

巡視使讃岐視察ルート
1838(天保九)年の巡見使の讃岐順路と宿泊地
6月18日  伊予から讃岐に入り、豊田郡を巡見して観音寺村で泊、
  19日  三野郡を巡見して那珂部丸亀城下に泊り
  20日  那珂郡を巡見して宇多津村に泊り、
    21日  塩飽本島泊
    22日  鵜足郡宇多津
以後、阿野郡、香川郡、小豆郡を巡見して6月末日には大川郡に入ります。そして、讃岐巡視が終わると江戸への帰路につきます。江戸帰還後の7月26日に登城拝謁、8月20日に改めて将軍に各藩の情況を報告し、お尋ねに答えるのが常例だったようです。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
巡見使の那珂郡巡視ルート
 丸亀平野での視察ルートをもう少し詳しく見ておきましょう。
 那珂郡の巡見について、前日の丸亀に泊まった一行は、往路は金昆羅・丸亀街道を北から南に上がり郡家、与北、公文、高篠、苗田を経て金毘羅に入ります。その里程は3里19丁と記します。そして満濃池まで足を伸ばしています。満濃池のために幕領と池の御領が置かれた意義と、満濃池の活用状況を目にしておく必要があると考えていたのかも知れません。満濃池から宇多津への往路は、金毘羅から高篠を経て、宇多津街道を北に進んでいます。その里程は3里23丁とあります。これは、髙松藩の那珂郡や阿野郡の村々の宇多津にある米蔵への年貢米輸送ルートでもあったことは、前回お話しした通りです。

今回はこの辺りまでにします。以上をまとめておくと
①江戸幕府は将軍代替わり毎に、巡視使団を全国に派遣し、民情視察などを行い報告させた。
②その規模は巡視使1人に従者30程度で、3人の従者合計で約100人規模になった。
③受入側は、各藩の大庄屋や庄屋たちが対応し、求められた人馬の提供・配置を行った。
巡見使と各藩役人との接触は、入国と出国の時の奉行・郡奉行・代官の挨拶だけでした。道筋での説明、宿舎の接待等は、すべて大庄屋を中心とした各郡の村役人に任されていました。藩の役人は、問題の起こった時に備えて、待機するだけだったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P


  近世になって検地が行われ各村々の石高が決まると、その石高に応じて年貢が徴収されるようになります。年貢は米俵で収められました。それでは、各村々からどのようして年貢俵は、藩に納められたのでしょうか。その動きを今回は、高松藩統治下の旧満濃町10ヶ村でみていくことにします。テキストは「髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P」です。
髙松藩には次のような5ケ所に米蔵がありました。
髙松藩米蔵一覧
髙松藩の5つの米蔵
その中で高松城内の米蔵に次ぐ規模が宇多津米蔵だったようです。

どれくらいの俵が宇多津には、集まってきたのでしょうか?
1684(貞享元)年の「高松藩郡村高辻帳」には、字多津の米蔵に納まる年貢米のことを次のように記します。
①鵜足・那珂郡など48ケ村の村高合計20335石、
②その石高の免四つ(免一つは石高一石に対し年貢米一斗)を年貢米とすると12134石
③俵数にすると30335俵
ここからは3万を超える俵が、毎年11月末までに後背地の村々から宇多津の米倉に運び込まれていた事になります。鵜足郡と那珂郡に属する旧満濃町の旧十か村の納入先も、宇多津の米蔵でした。十ヶ村のを数字化したのが次の表です。

旧満濃町10ヶ村石高・年貢一覧
十か村の村高・俵数などの内訳を表にすると、上のようになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①満濃町旧十か村の総石高は5695石
②四割が年貢とすると2278石
③俵数にすると約5695俵
④石高が一番大きい村は、吉野村 次が長尾村
五十三次大津 牛車
五十三次大津(歌川広重)に描かれた米俵を運ぶ牛車
これらの俵は、どのようにして宇多津まで運ばれたのでしょうか?
私は最初は、各農家の責任でそれぞれに運んだと思っていました。しかし、そうではないようです。一旦、各村に割り当てられた年貢米は、庄屋の庭先や後には、郷倉に運び込まれて、計量し俵詰めされたようです。それから何回かに分けて、庄屋や村役人の付き添いの下で荷車や牛車で宇多津に運び出されたようです。

宇多津までの輸送ルートは、どの道が使われたのでしょうか
蔵米運搬ルート
旧満濃町の村々からの年貢米輸送ルート
基本的には宇多津・金毘羅街道が使われたようです。
宇多津街道5
右が土器川沿いの宇多津街道

吉野村など土器川左岸の村々から宇多津へは、
①東高篠村上田井の三差路に出で、ここから右に土器川沿いの道をたどって北へ進む。
②垂水村荒井の茶堂前前から土器川を渡り、石ころ道を斜めに東に向かい対岸の岡田西村の成願寺堤に上る。
③ここから土器川右岸を北に向かい、川原の一里塚、樋の日の大川社、飯野山の西を通り、連尺高津街道を横切って丸戸に出て宇多津へ入る。

宇多津街道4
宇多津街道
土器川右岸の村々からの年貢を積んだ車は
①片岡から天神、町代、大原を経て打越番所を通過し、
②追分けで道を左にとり打越池沿いの道へ進み栗熊金昆羅街道を横切って岡田上の赤坂に出る、
③赤坂から西山の東側の道を通って平塚を過ぎ川井に出て宇多津街道に合流し、以下は同じです。
髙松藩米蔵碑
宇多津の髙松藩米蔵跡(現町役場北附近)
 宇多津の米蔵は、町役場の北側にありました。

こめっせ宇多津
こめ(米)っせ宇多津
その一部が「こめっせ宇多津」として、残されながら活用されています。
宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津(讃岐国名勝図会)
もともとこの辺りは古絵図を見ると、大束川河口の船場に近く、周りを雑木林に囲まれた広い敷地で、そこに藁葺の蔵が三棟あり、ほかに蔵番屋敷があったことが分かります。拡大して見ましょう。

宇多津米蔵
宇多津の米蔵(御蔵)
蔵番屋敷は、藩役人の部屋・年貢米検査所・蔵番の部屋などに仕切られていました。年貢が運び込まれるときには、藩の蔵役人が出張してきて、村々の庄屋や組頭と一緒にお蔵米の収納を監督したようです。その期間は納入関係者が民家に宿泊したので、周辺は賑わったと云います。
 高松藩の宇多津米蔵は、先ほど見たように東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に比べると、他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。17世紀にここに米蔵が置かれると、現在の地割が整備され周囲に建物が増えていったようです。
宇多津のお蔵番はいろいろな引き継ぎ事項があったので、多くは世襲だったようです。
  年貢米は、どのようにして検査されたのでしょうか

年貢取り立て図
年貢取立図

村が納入した俵の中から二俵か三俵を選んで、庄屋や組頭の村役が立ちあいの上で桝取が量ります。枡取は、その中から五合また一升を抜いて役得とするのが公認されていたようです。
一斗枡[四角]|交易|解説・民具100選|展示室|関ケ原町歴史民俗学習館
トカキ棒での計測
桝ごとにトカキを使って五粒の米がこぼれれぱOKだったようです。桝取りは、村全体に大きく影響する責任者でしたから、前日には神社にお参りして身を清め、無難を祈りました。

年貢納入図

貢米検査のときにこぼれ落ちた差米は、検査役人の役得となります。また収納の時の落散米は、下代蔵役の役得です。これは「塵も積もれば・・・」方式で、一藩での合計が数千石にも達することもあったようです。結果として大きな額になります。「おいしい役職」なので、蔵役人の交代や人選には譲渡銀がつきものだったようです。百姓達の怨嗟が集まるのもこの時です。
年貢取り立て図2

村の年貢が皆納されると、それまでに数回に分けて納めた仮受領証と引換に美濃巻紙にしたためた一通の「御年貢皆済目録」が交付されました。皆済目録には、その村の村高・本途物成・小物成・口米・御伝馬入用・水車運上・六尺給米・御蔵前入用・夫食拝借返納等の納入高や引高が列記されます。そして最後に次のように記されています。

「右は去辰御年貢米高掛物共他言面の通皆済に付、手形引上一紙目録相渡上は 重て何様の手形差虫候とも可為反き者也

その上に、年号と代官の署名・捺印をして、庄屋・組頭・百姓代あてに下付されました。
大坂蔵屋敷

  納められた年貢米は、大坂の藩の蔵屋敷に船で運び込まれて、大坂商人によって流通ルートに乗せられていく事になります。

   最後に村の米が集められた郷倉について、見ておきましょう。
郷倉は、一村に一か所ずつありました。これは年貢米の一時収納所でもあり、また軽犯罪人の留置場でもありました。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。旧満濃町旧十か村の郷倉のうちで、記録や古地名によって、その位置が分かっているのは次の通りです。
吉野上村郷倉 大堀一二七八番地
岸上村郷倉  下西村七九五番地
真野村郷倉    西下所一二七四番地
四條村郷倉    大橋七六0番地の二
公文村郷倉      蔵井一九六番地の二
東高篠村郷倉 仲分下一三二0番地
吉野下村郷倉 吉野下村六0四番地
これらの郷倉の規模や、明治以後の転用先についてはよく分かりません。
ただ吉野上村の郷倉については吉野小学校沿革史に次のように記されています。

  明治七年本村字大坂一二七八番地の建物は旧幕時代の郷倉合にして、その敷地八畝四歩、建家は北より西に由り規矩の形になれり。西の一軒は東に向ひ、瓦葺にして桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付けり。その北に壁を接して瓦葺の一室あり。・桁行三間、梁間二間にして東北に縁つけり。その次を雪隠とせり。北の一棟は草屋にして市に向ひ、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付けり。西の二棟を修繕しスて校本口にえて、北の一棟を本村政務を取扱う戸長役場とせり。時に世は益々開明し、教育の進歩気理に向ひたるを以て生徒迫々増かし、従来の校舎にては大いに教室狭除を告ぐるに至れり。明治八年四月、西棟の市に於て三間継ぎえを弥縫(一時的な間に合わせ)せり。其の当時、庭内の東南隅に東向の二階一棟新築せり。これは本村交番所なり。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付けり。     (以下略)

吉野上村郷倉平面図
吉野上村郷倉平面図

意訳変換しておくと
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
時に世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
    (以下略)
ここからは次のようなことが分かります。
①現在の長田うどんの南側に吉野の郷倉があった。
②郷倉は明治になって、一部が役場、残りが小学校として使用されるようになった。
③生徒数が増えた明治8年には、校舎を増築して教室を増やした。
④同時に、新たに交番を建設した。
郷倉
山形県の郷倉
幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。
高松藩や丸亀藩でも一斉に、郷倉が設置されたはずです。それが、明治になって戸長役場に利用されたり、増設して小学校、あるいは交番になるなど、村の中心機能を果たす建物に転用されていた事がうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P
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