高松藩の初代藩主松平頼重の弟は、水戸藩の徳川光圀です。長子相続が当たり前の時代に、どうして、兄頼重が水戸藩を継がなかったのかについては、複雑な問題が絡み合っているようです。それを探っている内に、頼重や光圀の父が気になり出しました。今回は水戸藩初代藩主の頼房について見ていくことにします。テキストはテキストは「古田俊純 徳川光圀の世子決定事情 筑波学院大学紀要第8集」です
頼重と光圀の父である水戸藩初代藩主徳川頼房は、1603(慶長八)年8月10日に家康の末男として誕生します。
わずか3歳で常陸下妻10万石を与えれ、6歳で常陸水戸25万石へ加増転封されますが、なにせ幼少ですので、家康のお膝元である駿府で育てられまします。
1610年(慶長15年)7月に父家康の側室於勝(英勝院)の養子になり、翌年に8歳で元服して頼房を名乗りますが、水戸へは赴かず江戸で過ごします。
徳川頼房
頼房は「公資性剛毅ニシテ勇武人二過玉フ」と、武勇の人であったようです。光圀も父の武勇談を「故中納言殿の御事、いろいろ武勇の御物語多し」とあるので、よく語ったようです。武勇の人であった頼房は、若いときには歌舞伎者でした。彼の服装や言動について次のように記します。
「公壮年ノ時、衣服侃刀ミナ異形ヲ好玉ヒ、頗ル行儀度アラス。幕府信吉ヲ召テ、譴責アラントス。」
そのために服装・行動に問題があり、家臣の中山信吉が必死の諫言をしたと伝えられます。江戸時代初めには、時代に遅れて生まれた勇猛な若い武士たちは、歌舞伎者になって憂さを晴らしました。頼房もその一人だったようです。そして、女遊びを覚えます。次の表は、頼房の子女一覧です。頼房には公認された子弟として、男子11人・女子15人、合計26人の子があったことが分かります。この他にも「未公認」の子弟も数多くいたようです。
徳川頼房子女一覧表
26人の子女というのを、どう考えればいいのでしょうか?頼房は、生涯正室を持ちませんでした。頼房の側室は8人までは確認できるようですが、それ以上いたようです。
それでは、どのような女性を側室にしているのでしょうか。
それでは、どのような女性を側室にしているのでしょうか。
表の1の頼重と7の光圀の母は、久昌院谷久子です。彼女は鳥居忠政の家臣だった谷重則の娘で、水戸家に老女として仕えていた母の側にいたので、頼房の寵愛をえたようです。
2の通、3の亀丸、4の万、8の菊、10の頼元、13の頼雄、21の藤の母は、円理院佐々木勝です。彼女は生駒一正の家臣、佐々木政勝の娘です。弟の藤川正盈は『水府系纂』に、「元和六年威公二奉仕ス、時二九歳ナリ。姉円理院卜同居シ、奥方二於テ勤仕ス」と記されています。彼女は1602(慶長七)年生まれですから、1620(元和六)年には19歳でした。頼房の寵愛を受けるようになったので、弟も召抱えられています。彼女は、女中奉公をしていたのを見初められたようです。
5の捨、9の小良、11の頼隆、14の頼泰、16の律、19の重義の母は寿光院藤原氏です。彼女は興正寺権僧正昭玄の娘です。
6の亀の母は野沢喜佐で、出自は扶持取の家臣、野沢常古某の娘で、出産後「七夜ノ中二死ス。十六歳」と『水府系纂』にあります。
12の頼利の母は真了院三木玉で、三木之次の兄で播磨の光善寺住職長然の娘。
15の頼以と17の房時の母は原善院丹波愛。
20の大と24の市の母は真善院大井田七。
25の助の母は高野氏。
18の不利と22の竹と23の梅の母は、「某氏」としか分かりません。
26の松に至っては、「女子」とあるだけ。
水戸藩の家臣の系譜集である『水府系纂』で確認できる側室は、兄弟が召抱えられた谷久子と佐々木勝、藩士の娘であった野沢喜佐と姪であった三木玉の3人だけです。
ここからは、残った四人プラスαの側室たちは、水戸藩士の娘ではなかったと研究者は考えています。竹・梅・松の母親の姓名は分かりません。なぜ名前が伝わらなかった理由は、女子のみ生んだ身分の低い女性だったためだったのでしょう。
大名の子、とくに若君を生んだ側室は厚遇されるのが普通です。
谷氏や藤川氏にみられたように、 一族・兄弟の新規召抱えとなる場合もありました。しかし、藤原氏と丹波氏には、このような形跡が見られません。ここからは、頼房は正規の手続きをへて側室を迎えたのではなく、女中奉公に屋敷に上がっていた女性や、出先で身分の低い女性たちに手を着けていったことが推測できます。そのため「未公認」の子弟も数多くいたようです。
それでは生まれた子女は、どうなったのでしょうか。
誕生した26人の子女のうち1男3女は早世して、成入したのは男子10人女子12人、合計22人です。男子のうち大名になったのは、頼重(高松12万石)、光圀、頼元(守山2万石)、頼隆(府中2万石)、頼雄(宍戸1万石)です。残りの頼利・頼泰・頼以・房時は光圀が寛文元年(1661)に相続したとき、領内の地三千石をそれぞれに分知しています。
女子のうち大名・公家に嫁したのは、通(松殿道昭室)、亀(家光養女前田光高室)、不利(本多政利室)、大(頼重養女細川網利室)の4人だけです。小良は英勝院の養女となって、鎌倉の英勝寺を相続しています。ほかの7人は家臣に嫁いでいます。これに対して、尾張・紀州の男子はみな大名になり、女子はみな大名・天皇公家に嫁いでいます。これと比べると、見劣りがするようです。男子のうち4人は三千石分知されたといっても、実質上は家臣となっています。 女子も七人が家老級とはいえ、家臣に縁付いています。
幕府も努力はしていますが、頼房がもうけた子供が多すぎたのです。そのためこういう結果となったと研究者は指摘します。そして次のように評します。
頼房は子供の将来を考えもしないで、水戸徳川家が必要とする家族計画をもたず、つぎからつぎへと多い年には、1年に三人も子供を誕生させた。
頼房は、どうして正室をむかえなかつたのでしょうか。
威公(頼房)御一代御室これなき故は、威公御幼少の時台徳公(秀忠の詮号)の御前にてどれぞの聟にしたしと台徳公仰られけるを、台徳公の御台所御傍におわしまして、あの様なるいたづらな人を、誰か聟にせうぞとありければ、御一代それを御腹立終に御室これなき由。
意訳変換しておくと
水戸の頼房公に正室がいないのは、頼房公が幼少の時に将軍秀忠の御前で、どこかの大名にしたいおっしゃると、傍らにいた御台所が「あんないたづらな人を、誰が婿にしましょうか」とおっしゃた。それを聞いた頼房は立腹して正室をもうけることはなかった。
これはあくまで噂話ですが、当時の大奥での頼房観を伝えているのかも知れません。御三家水戸家の若い当主であった頼房には、将軍家をはじめいろいろな所から縁談が持ち込まれたはずです。いくら歌舞伎者であったとしても、それを拒否し続けることはきわめて難しかったことが推測できます。にもかかわらず、断りとおせたのは、なにか事情があって、将軍はじめ周囲のものも無理強いできなかったのかもしれません。理由は分かりませんが頼房は、正室を迎えて行動の自由を制約されることを嫌い、とくに女性に関して自由奔放に生きる道を選んだことを押さえておきます。
時代に遅れて生まれた頼房は勝れた武勇の才能を発揮する場をえられず、その憂さを晴らす場さえ奪われていったのかもしれません。頼房はそれを、身近かにいて思うがままになる女性たちに求めるようになります。そこには真実の愛情など望むべくもなかつた、と研究者は指摘します。
1622(元和八)年7月1日に頼房の第一子頼重は誕生します。
頼房19歳の時で歌舞伎者として気ままな生活を送っている頃です。懐妊を知った頼房は、流産を命じます。そのために江戸の三木邸で密に出生したようです。
その事情を高松藩の「家譜」は、次のように記します。
初め谷氏懐李之際、頼房相憚義御坐候て、出生之子養育致間敷との内意にて、(此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由、其後光圀も内々之次か別荘にて谷氏之腹に出生候得共、其節ハ尾・紀ともに男子出生以後に付、追て披露有之候由に御坐候)谷氏を仁兵衛へ預け申候処、仁兵衛義窃に頼房養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相謀り、同人内々之指揮を得候て、出生之後仁兵衛家に養育仕候。然るに江戸表に差置候ては故障之次第も御座候二付、寛永七年庚午六月九歳にて京都へ指登し、滋野井大納言季吉卿ハ仁兵衛内縁御座候二付万事相頼ミ、大納言殿内々之世話にて洛西嵯峨に閑居仕候。
意訳変換しておくと
初め谷氏の懐妊が分かった際に、頼房は尾張・紀伊藩への配慮から、産まれてくる子を養育せず(水子にせよ)と伝えた。(この時には、頼房公の兄尾張義直・紀伊頼宣ともに、まだ男子がなかったので配慮のためであった。その後光圀公も内々に別荘で谷氏が出産したが、この時には、すでに尾・紀ともに男子が出生していたので、追て披露することになった。) こうして谷氏を仁兵衛へ預けた、仁兵衛は秘かに頼房の養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相談し、その内々の指揮を得て、頼重を仁兵衛宅でに養育した。ところが江戸表で「故障之次第」となり、寛永七年六月、頼重9歳の時に、京都へ移し、仁兵衛は内縁の滋野井大納言季吉卿に相談し、洛西嵯峨に閑居させた。そして、1632(寛永九)年、11歳の時に江戸に帰ったとあります。
始めてて子供が出来ると知ったときの頼房の感情や反応は、どうだったのでしょうか。
20歳で、正室を迎えていなかつた若い頼房に、子供をもうける考えはなかったはずです。子供が出来るという慶びよりも、まずい、どうしようと思い、二人の兄のことが思い浮かんだのではないでしょうか。それが「水子とせよ」という命令になって現れます。
流産を命じられた家臣の三木は、英勝院の指揮を受けて秘かに出産させ、養育します。ところが「故障(事情)」があって9歳のときに、内縁(季吉は三木の娘の夫)のある滋野井大納言に依頼して、京都に送ったというです。
これは『桃源遺事』の記載とは、次の点が違います。
これは『桃源遺事』の記載とは、次の点が違います。
①頼重を京都に送ったのは2歳のときで、 16歳まで京都にいて「出家」させる予定だったこと②「家譜」のかっこに入れた細字注がないこと。
「家譜」がこの部分を本文にしないで注記としたのは、確証がもてなかったからでしょう。
「此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由」は、押さえておきます。たしかに当時、尾張・紀伊には子供が誕生していなかったのです。
二番目の子である通は1624(寛永元)年に生まれています。この時点でも尾張と紀伊には子供はありません。尾張義直の最初の子・光友は1625(寛永二)年、紀伊頼宣の最初の子光貞は1626(寛永三)のことです。
頼重問題がおきて以後、重臣達の諫言や親戚筋も説得して、頼房も納得したようです。それは、寛永四年以降は、毎年二人、三人と子供が生まれていることからもうかがえます。
ところが、光圀の誕生の際には、ふたたび頼房は流産を命じるのです。どうしてなのでしょうか
『桃源遺事』には、次のように記されています。
御母公西山公を御懐胎なされ候節、故有て水になし申様にと頼房公仁兵衛夫婦に仰付られ候所に、仁兵衛私宅にて密に御誕生なし奉り、深く隠し御養育仕候。
意訳変換しておくと
光圀公を御懐胎された時に、故有て水子にするようにと頼房公は仁兵衛夫婦に申しつけた。しかし、仁兵衛は自宅で密に出産させて、秘かに隠して養育した。
理由は「故有て」とだけで具体的なことは記されていません。そして、「密に」水戸の三木邸で誕生し、養育されています。もちろん、頼房に知れると生命の危険があったからでしょう。
表をみると、これ以後彼女は子供を生んでいません。一方、円理院佐々木氏と寿光院藤原氏はその後も出産し続けています。そして、側室の数も増えています。ここからは光圀の出産を機に、久子は頼房の寵愛を失ったことがうかがえます。
それでは、なぜ久子は頼房の寵愛を失ったのでしょうか。
そこにあるのが頼重をめぐる葛藤だと研究者は推測します。
頼重は1630(寛永七)年、9歳のときに京都に送られています。『桃源遺事』では2歳とありますが、水戸の頼重の京都行きと帰還の扱いは、弟の光圀が世子となったことを合理化するために操作されているから、高松藩の記録のほうが信頼できると研究者は考えています。
三木之次の妻武佐は頼房の乳母の姉で、頼房に気に入られていたようです。
その縁で之次を頼房は「乳母兄」と呼んでいたと『水府系纂』は記しています。これだけ信頼されていた三木夫妻だったからこそ、二人の兄弟を密に誕生させ、養育できたのでしょう。しかし、頼重が9歳のときに京都に送ったということは、夫妻の力では守りきれなくなったようです。頼房は頼重が誕生し、どこかに生きていることを知つて激怒したでしょう。その時期に久子は、光圀を妊娠したのです。
久子は頼重の安全のため一切語らなったはずです。そうだとすれば、命令にそむいて長男を出産し、その事情を語ろうともしない久子に頼房は怒りを抱き、「出産は認めない!水子にせよ」という態度をとったのでしょう。こうして久子への寵愛は消えていきます。
頼房は、ふたたび三木夫妻に託して流産を命じます。命じられた三木夫妻は、頼重を探し始めた頼房をみて、今度はより安全な水戸で出産させ、養育したのでしょう。どちらにしても、頼房は正常な家庭をもとうとはしなかつた人物であったと研究者は考えています。
以上をまとめておきます
①高松藩初代藩主の松平頼重の父は、水戸藩祖の徳川頼房である
②頼房は、家康の末の男の子として幼年にして水戸藩を継いだ。
③頼房は、天下泰平の時代に遅れてやって来た武勇人で、歌舞伎者でもあった。
④時代の流れに取り残されるようになった頼房は、「女遊び」にはまり、多くの女性に手を付けた。
⑤公認されている子女だけでも26人で、それを産んだ女性達も多くは身分の高い出身ではなかった。
⑥このような風評は、兄の将軍秀忠や大奥にも及び、評判はよくなかった。
⑦そのような仲で、20歳で最初の子・頼重が産まれることが分かると、水子にして流すことを家臣に命じた。それは、兄の紀伊公や尾張公への世間体を重んじたものだとされる。
⑧これに対して養母於勝(英勝院)は、秘かに養育を命じた。
⑨さらに、それが頼房に知れると京都の天龍寺塔頭に預けた。これが頼重9歳から12歳のことである。
⑩その後、何人かの子供は生まれてくるが、光圀が生まれてきたときには、再度水子にすることを命じている。
⑪この背景には、自分の命を守らずに頼重を養育していた側室への怒りもあった。
つまり、頼重と光圀の兄弟は、父頼重から一度は命を奪われかけた存在であったようです。そして、この時点では水戸藩をどちらが継ぐかについては、決まっていなかったというのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
古田俊純 徳川光圀の世子決定事情 筑波学院大学紀要第8集