瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2023年07月

 図書館を覗いて見ると、今年の5月に出されたばかりの八坂寺の調査報告書が入っていました。八坂寺は熊野信仰との関わりが深い寺で、私にとっては興味のある四国霊場のひとつです。早速に借りだして、読んでみました。まずは八坂寺の歴史の概略を読書メモとして載せておきます。テキストは、四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺/愛媛県松山市【四国八十八ヶ所霊場】第47番札所 – Bilde av Yasaka Temple i Matsuyama -  Tripadvisor

熊野山妙見院八坂寺は、松山市浄瑠璃町にある真言宗醍醐派の四国霊場第47番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
この寺の歴史について、地名辞典(平凡社1980)には、次のように記します。
「寺伝では、河野玉興の創建で、右衛門三郎の発心した所、古くは八王子と称したという。残存の堂字は安政四年(1857)の再建で、本尊は坐像で高さ80㎝、面相の引き締まった張り、納衣の深い衣紋に特色をもち、鎌倉時代の作と推定される。なお、境内には、高さ2mの宝医印塔がある。ともに市の文化財」
 
「熊野山」や「八王子」などからは、古くからの熊野行者の活動がうかがえます。
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
本尊阿弥陀如来坐像について「文化財保護委員会1964」は次のように記します。
「鎌倉末乃至南北朝期も早いころの特色の顕者なもので、このころの等身如来像の作例として県下でも出色の作品とおもわれる。今日髪部に群青を塗り、また肉身の漆箔をあらためて、若千像容を損じているが、その大容は造像時のままで、両手先、裳先までよく当初のものを残している。像容も整つて、この頃の作風を代表する作例といい得る」

これを受けて、木造阿弥陀如来坐像は、翌年に愛媛県指定有形文化財に指定、1968年には鎌倉時代の層塔と宝筐印塔が松山市指定有形文化財に指定されています。

中世の史料に記された八坂寺を見ていくことにします。
寺伝では、創建は河野氏と伝えられますが、中世にこの地域を勢力下に置いていたのは河野氏の家臣平岡氏です。平岡氏は、浮穴郡荏原の郷を拠点として、荏原城を築いたとされます。跡荏原城は。中心部の方形郭(南北70m、東西60m)とそれをとりまく土塁、堀からなる中世居館跡です。また、第46番札所の浄瑠璃寺境内には、最後の城主平岡通侍の墓と伝えられる五輪塔があることも、平岡氏が浄瑠璃寺を菩提寺としていたことを裏付けます。一方、八坂寺について中世の記録類は何もないようです。ただ、八坂寺境内には鎌倉時代の宝医印塔や層塔があるので、この時代から寺院があったことは確かのようです。

八坂寺層塔
八坂寺層塔

江戸時代の四国遍路の出版物や地誌には、八坂寺はどのように書かれているのかを見ておきましょう。
最古の遍路記される登禅「四国辺路日記」(1653)には、次のように記されています。
八坂寺 熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラビ王フ故二廿五間ノ長床ニテ在ケルト也っ是モ今ハ小社也。本寺堂ハ本尊阿弥陀ナリ。昔此国二長者在、熊野権現ノ霊験新ナル事ヲ承及ンデ三年ン続テ参詣シタリ。其上トテモノ事二我本国工勧請シ奉度ヨシ祈申ケレバ、尤御移り可参由御咤宣在ケレバ、悦デ則八坂村二宮殿ヲ立テ勧請シ奉シ也。是故二熊野山八坂寺妙見院卜号。院号ハ長者ノ尼公ノ号トカヤ。今ハ是モ衰微シテ寺ニハ妻帯ノ山伏住持セリ。是ヨリ十町斗往テ円満寺卜云真言宗ニー宿ス。十四日、寺ヲ立テ十五町往テ西林寺二至ル。
 
    意訳変換しておくと
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

16世紀半ばの八坂寺の注目ポイントを挙げておくと・・。
①熊野権現を勧請され、昔は熊野三山権現が立ち並んで、25間の長床があったこと
②熊野山八坂寺妙見院と号し、住持は妻帯の山伏であったこと

新宮熊野神社【長床】の大イチョウ: billの悠々Life
新宮熊野神社の長床

真念の『四国邊路道指南』(貞享4年1687)には、八坂寺が次のように記されています。
四十七番八坂寺 平地、ひがしむき。うきあな郡やさか村。正面ハ此寺のちんじゆ也、札所は南。本尊阿弥陀 座長三尺、恵心作。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺迄一里。
意訳変換しておくと
四十七番八坂寺は、平地に東向きに建っている。浮孔郡八坂村。正面は、この寺の鎮守社であり、札所は南にある。本尊は阿弥陀で、座長三尺、恵心作である。。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺まで一里。

正面にある鎮守社は、熊野三社を祀ったものでしょう。しかし、熊野信仰については、何も触れられません。代わって、本尊阿弥陀は恵心作の秘仏とされ、御詠歌が初めて紹介されています。
高野山・高僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)には、境内図とともに次のように記します。
熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村
当寺本尊阿弥陀如来恵心の作也といふ。是を以てこれをおもふに、此寺廃毀する事そのかみにあり。今大師の遺烈きこゆることなし。恵心の僧都は大師の後およそ三百年に及べり。むかしの本尊は鳥有となれるにや。今尚法義おとろへたりときこゆ。古堂清風冷しく僻御蔓草緑なり。
 意訳変換しておくと
山号は熊谷山で妙見院八坂寺 浮穴部八坂村にある。当寺の本尊阿弥陀如来は恵心の作と云う。ここから考えるに、この寺は一度退転したようだ。弘法大師のことが何も伝わっていない。恵心は、弘法大師のおよそ三百年後の人物である。昔の本尊は、どうしたのか? この寺が昔に比べて衰えたと云う。古堂に清風冷しく吹き込み、御蔓草緑なり。

気になるのが山号が「熊谷山」となっていることです。熊野山という山号ではありません。また熊野権現の勧進の話も出てきません。絵図を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍路日記1
高僧寂本の『四国偏礼霊場記』
浄瑠璃寺からやってくると右手の垣根の向こうに本坊があります。橋を渡って、まっすぐに参道を登っていくと迎えてくれるのが高床社殿の①「鎮守」です。ここには熊野三社が祀られていて、その前に25間の長床が建っていたと「四国辺路日記」にはありました。そして、左手に本堂があります。よく見ると、縁側があって三間×三間の入母屋造です。大師堂は、まだ姿を見せていません。

近世初期の2つ記録には、次のようなことが記されていました。
①八坂村の長者であった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の正面に大きな熊野十二社があって、右手に小ぶりな本堂があったこと、
④つまり信仰の中心は熊野権現社であったこと
⑤八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったこと。
また、熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券に近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。
寛政12年(1800)に阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)が遍路記残しています。翌年にこれを書写したとされる『四国遍礼名所図会』には、写実的に描いた鳥厳図が載せれ次のように記します。
四拾七番熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村 西林寺迄―里
本尊ハ阿弥陀仏、恵心の作と云。恵心ハ大師の後凡三百年程也、此義不詳。
花を見て歌よむ人ハ八さかでらさん仏ぜうのゑんとこそ聞
本社熊野権現、御本地仏阿弥陀仏 恵心僧都作、御長三尺坐像 大師堂本社後の山二有、右衛門三郎大師の御鉢を砕きし所ゆえに鉢久保谷といふ,
八坂寺 四国遍礼名所図会1800年
八坂寺 四国遍礼名所図会
挿絵を見ておきましょう。
石段を上った先に山門はなく、垣根で囲ったた平場があって、その中央奥に、入母屋造の鐘楼堂があります。さらに石段を上った石垣上の平場ある瓦葺で宝形の建物が大師堂、その横のひときわ大きな茅葺入母屋造建物が熊野権現社。その間に層塔などの石造物が並びます。熊野権現社を本社とし、本地仏を恵心作の阿弥陀仏とする神仏習合の様子が見えて来ます。
 ここで注意しておきたいのは、本堂がなくなって大師堂となっていることです。これをどう考えればいいのでしょうか。増加する遍路に対応して大師堂が建立されたが、財政的問題で本堂は作られなかったのでしょうか。そうだとすれば、当寺の住持にとっては本堂よりも大師堂の方が優先したことになります。
 またはじめて、右衛間三郎伝説の鉢久保が紹介され、挿絵にも描き込まれています。この伝説が一般に知られるようになるのは、この時期からのようです。新たな観光名所が「創造」されて、参拝客を呼び込む名所となっていくプロセスが見えてきます。

単行本(実用) <<地理・地誌・紀行>> 四国遍路道中雑誌 carnegiecycling.com.au

松浦武四郎の四国遍路紀行文である『四国遍路道中雑誌』(
天保7年(1836)には、次のように記されています。
田道しばし行而八坂村 門前三茶店有。門内茶堂有。丼二しゆろう堂等有。四十七番熊谷山妙見院八坂寺 従四十六番八丁。同郡八坂村。当山開基は弘法大師なれども、一度廃寺となりしを恵心僧都再建し給ひしとかや。本尊恵心の作の阿弥陀如来座像也。御長三尺、恵心僧都は大師入定後三百年なるよし。其こと寺の縁記〔起〕二委敷出たり。境内二 大師堂 并二 鎮守十二社権現との宮等有。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺 さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
しばらく行而門前二茶店有 止宿する二よろし。
       意訳変換しておくと
田んぼ道をしばらくいくと八坂村で、 門前に三軒茶店がある。門内にも茶堂があり、鐘楼堂がある。四十七番熊谷山妙見院八坂寺は、四十六番からは八丁の距離で、同郡八坂村にある。この寺の開基は弘法大師であるが、廃寺となていたのを恵心僧都が再建したと云う。本尊は恵心作の阿弥陀如来座像で、御長三尺。恵心僧都は、大師入定後三百年後の人である。それについては寺の縁記に詳しく述べられている。境内には、大師堂 并に 鎮守十二社権現などの宮がある。。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
門前茶店があり、止宿もできる。

松浦武四郎は、開基を弘法大師、恵心僧都の再建としています。境内の建物については、大師堂、鎮守十二社権現には触れますが、本堂があったとは書いていません。他の史料からも、八坂寺の大師堂は19世紀初頭にはあったことが確認できます。これに対して熊野十二社権現や鎮守は必ず明記されています。神仏習合下の八坂寺の様子がうかがえます。
2013.7.7 石鎚神社先達会符 拝受 | 旅する石鎚信仰者

江戸時代後半の八坂寺の住持は、熊野先達としてよりも 石鎚山参拝の先達として重要な役割を果たすようになっていたようです。この時期の八坂神社の繁栄は、石鎚参拝ネットワークの先達としての立場からもたらされたことが分かってきました。これについては、また別の機会にお話しします。

明治以後の史料に書かれた八坂寺を見ていくことにします。
修験と関係の深く神仏混淆下にあった八坂寺では、明治の神仏分離や修験禁止令によって、大きな打撃を受けたことが推測できます。
「明治12年 寺院明細帳」(『松山市史料集』1985)には、八坂寺について、次のような建物が記されています。
愛媛県管下伊予国下浮穴郡浄瑠璃寺村寺字北浦
高野山金剛峯寺末 真言宗古義宗  八阪(坂)寺
一、本尊 妙見大菩薩
一、由緒 当山現見ハ樹木生茂り有ル所二、北辰妙見大菩薩降臨シマシゝテ、霊験新ナリ旧大(大)守小千伊予守従三位王興公ノ創建也、子時文武天皇勅願所卜勅アリ、四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右エ門三郎初発心ノ旧跡所也、亦大友旧城南ノ傍二阿弥陀ゲナルト字有之所二安置給フ、弥陀仏大師当山ヲ四国第四十七番霊場ニナシ本地仏二移伝ス、筆記有之也、
一、堂宇 長四間九合、横三間五合
一、前拝 長三間三合、横壱間弐合
一、サヤ橋 長壱間三合、横壱間
一、境内 弐百六拾壱坪        官有地
一、境内仏堂 弐宇
本地堂
本尊 阿弥陀如来
由来 不詳
建物 長四間九合、横四間六合
 大師堂
本尊 弘法大師
由来 不詳
建物 弐間四間
前拝 長壱間三合、横壱間
一、信徒 七百人
一、管轄庁迄 三里拾丁
以上

ここからは明治時代前期の八坂寺には本地堂、前拝のある大師堂の2棟があり、山門はなく、サヤ橋が架かっていたことが分かります。熊野鎮守社は神仏分離策で、本地堂となったようです。本尊は妙見大菩薩、本地堂の本尊は阿弥陀如来、大師堂には弘法大師像を安置されます。八坂寺は小千玉興の創建で、八ッ束右エ門三郎発心の旧跡としています。
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明治27年(1894)に官脇通赫の『伊予温故録』(松山向陽社発行)には、次のように記されています。
浄瑠璃寺村字北浦に在り熊谷山妙見院と云ふ。由緒に云ふ。越智玉興の創建にして八束右衛門三郎発心の旧跡なり。四国巡拝四十七番の札所たり。旧跡俗談に云ふ。古へは八王寺と号せし由。鎮守熊野十二社伽藍にて荏原郷は寺領なりしか、其の後焼失して断絶す。後ち又た再興し、修験相続して一世を経るいつの頃よりか八坂寺と改めたりと云ふ。越智王興創建、八束右衛門三郎発心旧跡地、俗談として修験寺院となり、
意訳変換しておくと
(八坂寺は)浄瑠璃寺村の北浦にあってあって、熊谷山妙見院と云う。由緒では、越智玉興の創建で八束右衛門三郎発心の旧跡と伝える。四国巡拝四十七番の札所である。。旧跡俗談には次のように伝える。古くは八王寺と号し、鎮守熊野十二社の伽藍で荏原郷は寺領であったが、その後に焼失して断絶した。再興された後は、修験者が相続して行く内に、いつの頃からか八坂寺と改められたと云う。

ここでは、もともとは熊野十二社が中心で、その別当寺が八王寺と呼ばれた。それが退転して、修験者による再建された後に、八坂寺と名前が変わったと記されていることを押さえておきます。
明治28年(1895)の得能通義による『古蹟遊覧 四國名所誌』には次のように記されています。
  ◎第四十七礼拝場八坂寺
同(浮穴)郡八坂にあり平地堂東向 ○詠歌
花を見て歌よむ人は八坂寺 さんぶつ浄の縁とこそきけ
熊野谷山妙見院と号す。役小角の創建にして散位乎致宿祢玉興、文武元丁酉年建立の伽藍なり。役行者八坂を切開き、道橋を造る道場なりと本尊阿弥陀仏は熊野権現の本地なるが故、弘法大師の安置し給ふに依て大師を中興とす。長元七年八月暴風起り、為に伽藍炎上灰儘す。今の本尊は恵心僧都の作なり。一遍上人自筆の三部経を収め給。奥の院は▲是より百丁高嶽あり。俗に御嶽と唱へ、霊験多き所なり。
  ◎熊野峯
浮穴郡久谷村にあり険祖なる高山にして其頂に三祠あり熊野権現降臨の垂跡なり。右に金剛蔵王権
現左に神饒速日命大小市命を祭れり麓の谷間に窪野あり。一遍上人修行の霊嶽なり。熊山の名称姦に始りぬと伊予旧跡砂に見る此寺昔時は八王寺とも言、此寺より西林寺迄一里其道筋に荏原町村中程ヘ七丁此村に右衛門三郎古跡八塚鉢窪等の遺跡あり。
ここには本尊の弥陀仏は熊野権現の本地仏としています。そしてあらたに、一遍自筆の三部経、奥の院の記事が書き加えられます。近世や近代に、始めて登場する内容は信用性に欠けることは、以前にお話ししました。
明治42(1909年9の『四国霊場名勝記』は、明治期に四国霊場を撮影した一番古い写真集になるようです。

八坂寺 明治
八坂寺 四国霊場名勝記(1909年)

左手前に手水舎、その向こうの石階段を登った正面に茅葺の建物、その左に瓦茸の建物が写っています。それぞれ熊野十二社権現社、大師堂のようです。明治後期の八坂寺境内の様子がわかる貴重な写真です。
大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』の写真を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年
八坂寺の大師堂 大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』
ここには切妻造向軒唐破風瓦葺の大師堂、茅葺十二社権現、瓦葺本堂の並びの写真が載せられています。

昭和11年(1936)の『四国霊場大観』には、八坂寺について次の3枚の捨身を掲載しています。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂(入母屋造瓦葺)
八坂寺文殊院本堂
衛門三郎旧跡文殊院本堂
八坂寺一二社権現
茅葺の十二社権現
最後に「先達経典』(四国八十八ケ所霊場会2006)の八坂寺についての記述を紹介して終わります。
現在、真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は役行者小角。大宝元年(701)御詠歌は、
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
浄瑠璃寺から北へ約1㎞近い八坂寺との間は田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、千三百年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697~707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁六年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942~1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えたが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが立ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約八千躯祀られている。

私が興味を抱いたポイントは
①熊野先達が早くから活動し、熊野十二社を勧進したこと
②その別当寺が八坂寺で、寺の中心は熊野十二社であったこと。
③そのため熊野十二社にくらべると本堂や大師堂は小さかったこと
④17世紀中頃の住持は、妻子持ちの山伏であったこと
⑤18世紀以降は、浄瑠璃寺に代わってこの地域の石鎚山信仰の中心的な役割を担い、先達として活躍する山伏でもあったこと。
⑥それが明治以後の山伏禁止令で、山伏色を消さざる得なくなったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
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弘法大師 善通寺形御影_e0412269_14070061.jpg
善通寺御影 地蔵院

前回は善通寺の弘法大師御影(善通寺御影)について、以下の点を見てきました。
①善通寺には、入唐に際して空海自身が自分を描いた自画像を母親のために残したとされる絵図が鎌倉以前から伝わっていたこと。
②弘法大師信仰が広まるにつれて、弘法大師御影が信仰対象となったこと。
③そのため空海自らが描いたとされる善通寺御影は、霊力が最もあるものとされ上皇等の関心を惹いたこと。
④土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として有名になったこと
⑤善通寺御影の構図は、右奥に釈迦如来が描かれていることが他の弘法大師御影との相違点であること
⑤釈迦如来が描き込まれた理由は、空海の捨身行 の際に、釈迦如来が現れたことに由来すること

つまり、善通寺御影に釈迦如来が描かれるのは、我拝師山での捨身行の際の釈迦如来出現にあるとされてきたのです。今回は、国宝の中に描かれている「善通寺御影」を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。
「一字一仏法法華経序品」

研究者が注目するのは、善通寺所蔵の国宝「一字一仏法法華経序品」(いちじいちぶつほけきょう じょぼん)の見返し絵です。
  このお経は、経文の一字ずつに対応する形で仏像が描かれています。こんな経典スタイルを「経仏交書経」というそうですが、他に類例がない形式の経巻のようです。

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「一字一仏法法華経序品」

文字は上品な和様の楷書体で書かれています。仏坐像の絵は、朱色で下描きし、彩色した後にその輪郭を墨で描いています。

DSC04135
         「一字一仏法華経序品」

仏は、みな朱色の衣をまとい、白緑の蓮の花上にすわり、背後には白色のまるい光をあらわしています。書風・作風から平安時代中期頃の製作と研究者は考えています。

善通寺市デジタルミュージアム 一字一仏法華経序品 - 善通寺市ホームページ
一字一仏法華経序品と冒頭の見返し絵

その巻頭に描かれているのが「序品見返し絵」です。

紺紙に金銀泥で、影現する釈迦如来と弘法大師を描いたいわゆる「善通寺御影」の一種です。その構図を見ておきましょう。

「一字一仏法法華経序品」レプリカ
「序品見返し絵」(香川県立ミュージアム レプリカ)

①大きな松の木の上に坐っているのが空海で、机上に袈裟、錫杖、法華経などが置かれている。
②その下に池があり、そこに写る自分の姿を空海が描いている。
③背後に五重塔や金堂など善通寺の伽藍がある。
④右上には五岳山中に現れた釈迦如来から光明が放たれている。
  つまり、入唐の際に池に映る自分の姿を自画像に描いて母親に送ったというエピソードを絵画化したもののようです。

善通寺が弘法大師生誕の地を掲げて、大勧進を行った元禄9年(1696)頃に書かれたの『霊仏宝物目録』です。ここには、この経文を弘法大師空海が書写し、仏を母の玉寄姫(たまよりひめ)が描いたと記します。当時は、空海をめぐる家族愛が、大勧進の目玉の出し物であったことは以前にお話ししました。しかし、先ほど見たようにこの経典は、平安時代中期の写経と研究者は考えています。本文に対して冒頭見返の絵は、平安期のものでなく後世に加えられたものです。
この見返り絵について『多度郡屏風浦善通寺之記』は、次のように記します。
 奥之院には瞬目大師并従五位下道長卿御作童形大師の本像を安置す。就中瞬目大師の濫腸を尋に・・(中略)・・・
爰に大師、ある夜庭辺を経行し玉ふ折から、月彩池水に澄て、御姿あざやかにうつりぬれは、かくこそ我姿を絵て、母公にあたへ、告面の孝に替はやと思ひよらせ給う。則遺教経の釈迦如来の遺訓に、我減度之後は、孝を以て成行とすへしと設置し偶頌杯、讃誦して観念ありしに、実に至孝の感応空しからす、五岳の中峰より、本師釈尊影現し玉う。しかりしよりこのかた、いよいよ画像の事を決定し玉ひ、即彼峰に顕れし釈尊の像を、御みつからの姿の上に絵き玉ひて、是をけ母公にあたへ給うへは、まのあたり御対面あるに少しもことならすと、・・・・
  意訳変換しておくと
(善通寺)奥之院には瞬目大師と従五位下(佐伯直)道長卿が作成した童形大師の本像が安置されている。瞬目大師の由来を尋ねると・・・
大師が、ある夜に庭辺を歩いていると、月が池水を照らし、大師の御姿をあざやかに写した。これを見て、自分の姿を絵に描いて、母公に渡して、親孝行に換えようと思った。釈迦如来の遺訓の中に、得度後は、親への孝を務めるために自分の自画像を送り、讃誦したことが伝えられている。これを真似たものであり、実に至孝の為せることである。こうして自画像を描いていると、五岳の中峰から釈迦如来が現れた。そこで、現れた釈尊の姿を、大師は自分の上に描いた。そして、この絵を母公に預けた。

 前回見た道範の「南海流浪記」も、大師が入唐に際に、自らを描いた図を母に預けたと記してありました。両者は、ほぼ同じ内容で、互いに補い合います。ここからは「弘法大師釈迦影現御影」を江戸時代には「弘法人師出釈迦御影」あるいは「出釈迦(しゅっしゃか)大師」と呼んでいたようです。出釈迦寺という寺が近世になって、曼荼羅寺から独立していくのも、このような「出釈迦(しゅっしゃか)大師」の人気の高まりが背景にあったのかもしれません。
 このスタイルの釈迦如来が描き込まれた弘法大師御影は、善通寺を中心に描かれ続けます。
そのため「善通寺御影」とも称されます。ちなみに全国で、善通寺御影スタイルの弘法大師御影が残っているのは27ヶ寺のようです。それは和歌山、京都、大阪、愛媛などに拡がりますが、大部分は香川・岡山です。つまり「備讃瀬戸の北と南側」に局地的に残されていることになります。どうして、このエリアに善通寺御影が分布しているのでしょうか。それは次回に見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」

 高野山霊宝館【展覧会について:大宝蔵展「高野山の名宝」】
          弘法大師坐像(萬日大師像) 金剛峯寺

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。
 高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 文化遺産オンライン
弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている
史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?
高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

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空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

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出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
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 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
関連記事

一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。
テキストは、「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。

大津関寺1
琵琶湖から大津の浜へ(一遍上人絵伝)

DSC03339琵琶湖大津の浜

①最初に出てくるのが①琵琶湖で、小舟が大津の浜に着岸しようとしています。船には市女笠の二人連れに女が乗ってきました。

DSC03341

②その手前には、長い嘴の鵜が描かれているので②鵜飼船のようです。
③その横には製材された材木が積んであります。これも船で運ばれてきて、京都に送られていくのかも知れません。

DSC03340大津

浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。

DSC03345琵琶湖大津 関寺門前179P

④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
大津関寺の卒塔婆
関寺の卒塔婆
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。

DSC03352関寺の卒塔婆
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。
 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
大津関寺の踊り屋
関寺境内の池の中島建てられた踊り屋(一遍上人絵伝)

門を入ると、四角い池(神池)があります。その真ん中に中島が設けられて、踊り屋が作られています。ここで一遍たちが踊り念仏を踊っています。それを周囲の岸から多くの人々が見ています。大津関寺の踊り屋2
関寺の踊り屋

    池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。

大津関寺の踊り屋3
大津の関寺全景

詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。

つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと
②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。
②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。
③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
大坂上野の踊り屋
淀・上野の踊り屋

今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
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上野の踊り屋(一遍上人絵伝)
   踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。

淀・上野の卒塔婆
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。

廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」

ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?

戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 法然上人逆修塔 - 善通寺市ホームページ
法然上人逆修塔(善通寺東院)
 千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。
 ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し
②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
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「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、
②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
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  以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

関連記事

   比叡山焼き討ちや、一向一揆殲滅作戦などから織田信長は「仏法の敵」とされてきました。しかし、これに対しては研究が進むにつれて異論が出されるようになっています。どんな所に光を当てて「信長=仏法の敵」説を越えて行こうとしているのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P」です。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

まず一向一揆についての定説を押さえておきます。
一向一揆は、幕府、守護大名、荘園領主など支配者層が応仁の乱によって弱体化した状況下で、民衆の宗教運動が一揆という形をとって現れたものされてきました。この見解は、次の二つの論拠に支えられています。
①その運動や武装蜂起が浄土真宗門徒を主たる担い手としていること
②一向一揆は、統一政権の担い手として登場した織田信長に弾圧され、解体された
①については、一向一揆の場合は真宗本願寺派という教団に属する武士や「百姓」が武装峰起の担手で、これを本山の本願寺僧侶が指導するというというのがパターンとされます。そのため阿弥陀信仰が団結の核となり、一揆の紐帯となっていたとします。
②については、織田信長によって解体されたとされます。一向一揆の場合は、信長が足利義昭を擁立して入京し、将軍に就任させて間もない元亀元(1570)年、浅井・朝倉など反織田勢力の大名に呼応して蜂起し、信長との断続的な交戦を展開します。そして石山戦争の末に天正8(1580)年、本願寺の本拠地大坂を引き渡して退去するという条件で信長と講和します。これが本願寺の実質的全面降伏で、一向一揆は解体された、というのが従来の説です。しかし、近年の研究は、一向一揆を中世ヨーロッパの異端運動になぞらえたような闘争モデルを下敷きとする従来の宗教一揆像に対して、批判・再検討を加えらっれてきました。
宗教一揆の場合、その原因には次の2つが考えられます
①信仰弾圧に対して信徒が一揆を結び蜂起した護教運動
②教祖の教義に基づく宗教王国を実現しようとした王国建国運動
この宗教運動の結果、起こされるのが宗教一揆と研究者は考えています。例えば島原の乱の場合は後者になります。宗教一揆は、このどちらかを指すのが普通です。しかし、一向一揆の場合は、どちらにもあてはまらないと研究者は指摘します。「一向宗」が戦国大名から「取り締り」を受けたことは事実です。しかし、取り締まりを行った動機は、政治的要因からの本願寺教団への介入か、山伏、下級神官、陰陽師、琵琶法師など呪術的民間宗教者に対する警戒かのいずれかです。宗旨そのものに対する弾圧はなかったと研究者は考えています。別の言い方をすると、真宗の教義そのものが戦国大名に危険視された事例はないということです。
 また一向一揆を②の宗教王国運動とみることもできないとします。本願寺教団の使っていた「仏法領」の語について、かつては「本願寺門徒が現世に実現することをめざした宗教王国」を指すとする研究者もいました。しかし、これに多くの研究者は否定的です。「仏法領」については、今では次のように説明されています。

現世を否定した宗教王国を指すものではなく、現世の秩序と併存する「仏法の領分」を指すものである。世俗法の支配する領域と棲み分けられた信仰活動の領域を指し、具体的には現実の本願寺教団を指す。この世ならぬ宗教王国の理想を現世で実現する意図は、戦国の本願寺教団には見出されていない。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
一向一揆が起きるのは、蓮如登場以後のことです。
それまでは、真言門徒が武装蜂起をした例はありません。最初の例は、応仁の乱の十年程前のことで、延暦寺のお膝元である近江国(滋賀県)で起きます。背景は本願寺の教線が、自分のお膝元に近江に及んでくるのに警戒心をもった延暦寺の衆徒の反発と過剰反応です。延暦寺衆徒は、京都東山にあった大谷本願寺を襲撃・破壊し、近江の門徒にも攻撃を加えます。これが「寛正の法難」です。近江門徒の一部は、金森に集結して衆徒らと戦います。これが最初の一向一揆とされています。つまり、最初の一向一揆は延暦寺の攻撃に対して武装防衛のために立ち上がったものと云うことになります。これまでは延暦寺衆徒による本願寺破却と近江門徒への攻撃は、「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教への弾圧」という流れの中で捕らえられてきました。
しかし、「寛正の法難」からは、従来の説とは矛盾する次のような点があったことが分かります。
①比叡山衆徒から攻撃されたのは本願寺派だけであること。
②真宗高田派については、「本願寺派とは異なる」というその主張を受け入れて攻撃していない。
③仏光寺派は天台宗妙法院の庇護によって山門の政撃を免れている。
④山門衆徒と本願寺との停戦斡旋したのは本願寺を「候人」(保護下の存在)として庇護する大台宗三門跡の一つ青蓮院であったこと。
以上からは、この争いが「顕密仏教の天台宗と鎌倉新仏教の真宗との宗派対立」という見方では、とらえきれいないと研究者は判断します。
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念企画展(第91回企画展)近江堅田 本福寺 | 大津市イベント情報集約サイト

16世紀の近江国堅田の真宗寺院本福寺の記録『本福寺跡書』を見ておきましょう。
『本福寺跡書』によると延暦寺の山門衆徒にとっては、宗旨が問題だったのではなく「礼銭(示談金)」をとることが目的であったと記します。そして最終的には、次のような協約でけりがつけられています。
①蓮如の嫡子順如が本願寺後継住持の地位を放棄し、五男実如を後継者とすること、
②本願寺は延暦寺山門西塔院末として「末寺銭」三十貫を納入すること
ここには宗教的なことは何も出てきません。両者の抗争原因が、宗旨問題ではないことが分かります。実態は、幕府要人の支持を背景に教線を伸ばした本願寺教団と、それに警戒を強めた山門延暦寺との私闘と研究者は判断します。延暦寺の本願寺攻撃は「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教教団の弾圧」というモデルには、当てはまらないことを押さえておきます。そしてこれが最初の一向一揆の登場モデルなのです。


加賀一向一揆は、現地の政治対立に関わる一向一揆でした。
それに対して、幕府の権力争いにからんで一揆が起こった例もあります。将軍家が分裂して将軍候補者二人が並立し、また幕府内最大の勢力細川家もまた分裂して家督争いを繰り返すという政治状況が、16世紀になると続きます。このような中で将軍家や諸大名と密接な関係にあった本願寺は、これに頭を突っ込んでいきます。そして、諸国の門徒に武装蜂起を指令しています。信長との石山合戦も、このような一向一揆の一つのパターンと研究者は考えています。これらを石山合戦型一向一揆としておきます。
その一例が永正3(1506)年の、永正の争乱をめぐる一向一揆です。
これは細川政元後の将軍相続をめぐる抗争で、この中で香西氏などの多くの讃岐国人衆が没落していったことを以前にお話ししました。
本願寺は足利義澄を将軍として擁立する細川政元方に荷担して諸国の門徒に蜂起を命じます。越中、越前、加賀などの本願寺門徒が政元方として戦った他、河内、丹後、能登、美濃、三河などで本願寺門徒の蜂起や足利義澄方の軍勢の侵攻で、大量の戦死者が出ています(『東寺光明講過去帳』)
 これは本願寺門徒による大規模な武装蜂起でしたが、その要因は将軍家内の対立や、幕府有力者間の政治対立への介入です。これも教義や信仰とは無関係です。「仏法」のため以外の動員はしないという原則を、蓮如はもっていました。そのため「本願寺の危機=仏法の危機」という論理を持ち出して、門徒動員を行う必要があったと研究者は考えています。ここでは将軍家や幕府内部の政治抗争に、本願寺教祖が介入し、門徒が動員されたことを押さえておきます。

こうして見ると石山合戦も幕府をめぐる権力闘争の一コマということになります。
その一方の主役が織田信長で、もう一方の主役が前将軍・足利義昭と云うことになります。本願寺が最初に信長に対して峰起したのは元亀元(1570)年のことです。信長に擁立された将軍足利義昭と信長とが畿内を制圧します。一方、信長に追い出された三好三人衆も反政を開始します。これに近江六角氏、越前朝倉氏、近江浅井氏なども続いて蜂起します。本願寺顕如は、三好三人衆を支援する反信長勢力の一員として、諸国門徒を動員します。
どうして、本願寺顕如は信長との戦端を開いたのでしょうか?
 本願寺法主顕如は、門徒に対して信長が本願寺に無埋難題をふっかけ、遂に本願寺を破却するとの宣戦を行ったたために「本願寺防衛」のために戦うと訴えています。しかし、研究者はそうした史実は見当たらないとします。織田信長が本願寺教団に圧迫を加えたことはないというのです。それまでそのような素振りを見せなかった本願寺の突然の蜂起に、信長方は「仰大した」(『細川両家記』)と記します。そもそも顕如は、当初は足利義昭を擁立した信長の人京を歓迎する旨を信長に書き送っています。ここからは、両者の間には公然たる敵対関係はなかったことがうかがえます。
 本願寺が蜂起した時、義昭・信長の軍勢は大坂本願寺近くの野田・福島に籠る三好好三人衆を攻撃中でした。そのため信長側は、本願寺に対しては全く無防備でした。信長と浅井・朝倉両氏との抗争には、近江国の本願寺門徒が浅井軍を加勢しています。また伊勢国長島願証寺が蜂起し、信長の弟織田信興を攻めて自殺させるなど本願寺は、浅井・朝倉方に味方して戦っています。更に元亀3(1571)年後半になり、武田信玄が浅井・朝倉氏と通じ、信長に叛旗を翻し、足利義昭が信玄に呼応するようになります。このような反信長包囲網が完成し、信長が圧倒的不利と見られたときに、本願寺顕如はパワーゲームに参加したことになります。しかし、信玄の病死により武田軍は撤退し、義昭は信長に敗れ京都を去り、信長は浅井・朝倉氏を滅ぼします。同盟軍を失った本願寺は信長に和睦を申し入れます。信長は、この時も了承して天正元(1573)年には、和睦が成立しています。

 ところが翌年に越前で一向一揆が蜂起します。
一揆側は朝倉氏滅亡時に織田方に寝返り、越前の大名となっていた朝倉氏家臣前波長俊を滅ぼし、越前領国を制圧します。本願寺からは一揆集団支援のために、戦闘指導者が派遣されます。この時に本願寺顕如は、織田信長に対して再度蜂起します。これに対して信長は佐久間信盛、細川藤孝、明智光秀らを大坂方面に派遣して本願寺を攻撃させます。そして自らは軍勢を率いて伊勢国(三重県)長島の一向一揆を包囲し兵糧攻めにします。ここでは信長は長島一揆側の降伏の申出を許しません。殲滅作戦を行い、降参した一揆を欺し討ちにして無差別殺戮を行い、籠城した一揆衆を焼き殺すなど凄惨な殺戮の末に、伊勢長島一向一揆を殲滅します。それにとどまらず一揆の残党を捜索して皆殺しにし、本願寺門徒を同じ真宗高田派に強制改宗させます。これは門徒に対する信仰上の迫害には違いありません。しかし、高田派も真宗です。真宗の教義それ自体を信長が敵視したわけではないことを押さえておきます。進退窮った本願寺は和睦を乞い、信長も「赦免」します。前回に続き、2度目の本願寺の停戦要望に信長は同意しています。
念慶寺縁起(8)元亀騒乱④第1次信長包囲網と一向一揆 | 速水馨のブログ

天正4(1576)年、信長から畿内追放になった足利義昭は備後国鞆に亡命し、反信長包囲網形成に尽力します。

毛利氏の庇護を受けて自分の京都復帰を支援するようにとの書簡を各地の有力戦国大名に送っています。これを受けて越後国(新潟県)の上杉謙信、甲斐国(山梨県)武田勝頼、相模国(神奈川県)北条氏政が毛利氏に呼応し、反信長包囲網が形成されます。本願寺も義昭の呼びかけに応じて信長と三度目の交戦を開始します。諸国門徒も動員され大坂石山本願寺に籠城し、信長軍とあしかけ五年にわたる戦いを繰り広げます。これを「石山合戦」と呼びます。

織田信長の天下布武

天正七(1579)年末、劣勢に立った本願寺顕如に対し、信長が朝廷を動かして天皇から本願寺・信長の和睦が勧告されます。
これを受けて本願寺は寺地を手放して大坂を退去することを代償に、本願寺教団の存続を認めることが協定で約されます。それに対して、顕如の嫡子教如を担いだ抗戦続行派の抵抗もありましたが、結局は信長に屈し、前記協定の線で石山合戦は終息します。

このような石山合戦の経過をみて、気がつくのは交戦開始は、いつも本願寺顕如側にあることです。
元亀元(1570)年の開戦
天正三(1574)年の開戦
天正四(1576)年の開戦
すべて戦いは本願寺側から戦端が開かれています。これに対して信長側から事前に、本願寺教団への弾圧があったことを示す史料はないようです。
これと対照的なのは織田信長の和睦承認や本願寺に対する「赦免」です。
①天正元(1573)年の和睦も劣勢に立った本願寺に対し信長が停戦を承認したもの
②天正三(1575)年の和睦では伊勢長島、越前では徹底した皆殺し作戦をとっていますが本願寺に対しては穏やかな「赦免」
③天正八(1580)年には、わざわざ天皇の権威を持ち出し、本願寺教団の存続を認め、さらには教如を擁立した抗戦続行派の抵抗という事態にも、これを咎めることなく和睦
最後の和睦の際に信長が要求した大坂退去は、戦国大名同士の和平協約の際の「領土の一部割譲」と同じと研究者は評します。ここからは、信長は本願寺と本願寺教団を滅亡させるために戦っていたという説は成り立たないと研究者は判断します。
天正十(1582)年2月、本願寺顕如が拠点としていた紀伊国雑賀で、在地領主同士の紛争が起こります。調停しようとした本願寺が逆に巻き込まれて窮地に立ちます。この時に信長は「門跡(顕如)」の「警固」のために、家臣野々村三十郎を派遣しています。また諸国の本願寺門徒が、顕如のいる紀伊雑賀に参詣する際の通行安全も保障しています。
古書】正徳二年板本 陰徳太平記(全六巻)米原正義 東洋書院 www.thesciencebasement.org
陰徳太平記
 織田信長が本願寺を攻撃したのは、大坂の寺地を重要戦略拠点として獲得したいと信長が望んだためだという説があります。
これは17世紀末に成立した『陰徳太平記』に始めて書かれる見解です。これが世間では定説化されていきします。しかし、信長が大坂の寺地を望んだのなら、天正元年、天正三年の本願寺が劣勢に陥って和睦を乞うた時に、信長は寺地譲与を条件とするはずです。その時点では、石山からの退出は、停戦条件となっていません。信長が大坂の寺地を和睦の代償に要求したのは、天正八年の和睦になってからです。

むごい!戦国時代の壮絶な戦い3選(前編)・長島一向一揆編【ゆっくり解説】 - YouTube
壮絶な戦いにランキングされている長島一向一揆

 織田信長と一向一揆との敵対関係を示すものとして引き合いに出されるのは、伊勢長島一向一揆です。
しかし、近年の戦国史研究が明らかにしてきたことは、大量虐殺は戦国期の大名間の合戦では当たり前の戦術だったことです。例えば伊達政宗が天正十三(1585)年に大内定綱の軍勢が立て籠もる小手森城を攻略した際には城主・親類五百人余りを殺害し、女性、子供はもちろん犬まで無差別に殺傷しています。その結果、大内方の四カ所の城が降参し、他の四カ所は逃亡した、と政宗が戦果を誇っています。(『佐藤文右衛門氏所蔵文書』八月二十七日伊達政宗書状)、これは敵方の殲滅を意図したものではなく、戦術であり、敵方へのアピールだったと研究者は考えています。信長は一向一揆に対して降参の申し出を許したり、非戦闘員の赦免を指示したりしている事例もあります。 一向一揆との戦闘において総て皆殺しや大量殺数を指向してはいないと研究者は評します。
 また信長が無差別殺頷を行うのは、 一向一揆の場合のみならず、大名同士の合戦でもありました。ここでは、無差別殺戮戦術が信長の一向一揆対する唯一の対処法と考えるのは誤っていることを押さえておきます。ちなみに比叡山焼討も山門衆徒が、僧侶として遵守すべき中立を破り、密かに浅井・朝倉に味方したことへの報復です。宗教人や宗教集団であることが理由で行われたものではないと研究者は指摘します。
それならどうして信長が仏教を軽視し、否定的に扱ったという見解が生まれてきたのでしょうか。
確かに、信長が寺院を統制し、宗教団体や宗教勢力にある局面では敵対したこともあります。しかし一方で、仏教者や仏教寺院の特権を承認していた事例も数多くあります。当時の戦国大名は領国内で俗的支配と宗教者や宗教団体の存続との両立をめざしていました。信長の対応もその延長線上で考えるべきだと研究者は指摘します。信長は畿内の寺社領に対して、「守護不入」の特権を認め、寺院の自治を認めている例もあります。信長も、宗教者や宗教団体との共存を目指したいたと研究者は考えています。

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 信長が仏教に対して否定的だったという見解は、イエズス会宣教師の信長像によるところが大きいようです。
イエズス会は信長を自分たちの有力なパトロンとして宣教活動を進めていきます。そして、仏教諸勢力と対立し、キリシタン大名に働きかけて寺社を破壊させ、僧侶を迫害することも行っています。高山右近や小西行長の領土では、そのような動きがあったことを以前にお話ししました。そのため宣教師達は、本国への報告の際には、仏教を「偶像崇拝=迷信」と迫害する信長像のみが正義として強調されます。仏教を保護する信長の一面を伝えることはありませんでした。
   どちらにしても信長の仏教観や宗教政策は、江戸時代の仏教指導者や同時代のイエズス会の宣教師の目を通して記されたもので「色眼鏡」で見られていることを押さえておきます。織田信長が「一向一揆解体を目指して、抑圧的な姿勢で臨んだ」とされる通説には根拠がないと研究者は指摘します。

一向一揆が大名の軍勢と交戦したことも、その反権力性の証などではありません。本願寺が反信長包囲網の一員として参加したために、そのパワーゲームのメンバーとして軍事力を提供する義務が生じていたのです。同盟関係を結ぶと云うことは、義務を負わされると云うことです。政治的勢力となった本願寺顕如が取らざる得なかった外交政策の結果であるとみるほうが合理的です。
 一向一揆を反権力的で、中世ヨーロッパの異端運動とダブらせるような宗教一揆像は、どこから形成されたのでしょうか?
こうした一向一揆像は17世紀になってから歴史書に登場すると研究者は指摘します。つまり近世の創作物です。創作の要因は次の2点です。
①東西両本願寺派の正統性をめぐる論争
②江戸時代に本山が門徒たちに、先祖の篤信の物語として喧伝した石山合戦譚。
前者については、本願寺は江戸時代になって家康の宗教政策で東西両派に分裂します。その分裂要因の一つは、法主顕如とその嫡子教如との対立です。
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天正八(1580)年3月に、信長との講和に顕如とその子教如は同意します。
ところが直後に、教如はこの同意を翻し、大坂本願寺に留まり抗戦続行を諸国門徒に呼びかけます。紀伊国雑賀に退去した父顕如と、大坂に残留して信長への抗戦続行を叫ぶ教如とに教団は分裂します。この対立は、教如が信長に降伏し、顕如に詫びを入れて本願寺教団に復帰したことで収められます。しかし、教如は法主の地位を継ぐことができません。それが後の東木願寺創始につながります。こうして両本願寺が並び立ち、17世紀に東西両派はその正統性をめぐる論争を繰り広げます。
その際に、西本願寺側は教如を非難するために「鷺森(さぎもり)合戦」という事件を捏造します。その物語を見ておきましょう。
  天正十年(1582)6月2日未明の本能寺の変の時に、信長は子の信孝に鷺の森を制圧するよう命じていたという。『陰徳太平記』巻第六十七「紀州鷺森合戦並本願寺表裡分派事」に次のように記述されています。
 天正十年6月3日の早朝、織田勢先鋒の信孝殿の兵が「鷺の森」に押し寄せてきた。この地にとどまる門徒らは、如来の助けや祖師のご恩に報いるために、骨が砕かれ身が裂かれても惜しくはないと思っていた。恐れるものがないので、これが最後だと決心して大砲を構え、さんざん撃ちまくったところ、寄手は、踏ん張ったけれども楯や竹束が打ち壊され、たまらず数十町引き下がった。一息ついて、また敵が押し寄せるかと思っていると、巳の刻のころに寄手は陣を引き払って大坂に退いてしまった。だが、こんなに急に退くとは思わなかったので、後追いすることはしなかった。これほどの勢いで攻め寄せ、先鋒が鉄砲を突き付けておきながら急に引き返したことは、どうにも解せなかったが、後から聞くと、信長公が殺されたとの報告があったために、そうなったとのことだ。
こには教如の違約に遺恨をもった信長が、密かに本願寺を滅ばそうとして軍勢を派遣したという物語です。顕如上人は危機一髪のところを御仏の御加護により助かった、というオチです。これを事実として西本願寺は喧伝し、教如は本願寺教団を危機に陥れた張本人である批判・攻撃します(『本願寺表裏間答』)。
 この物語で研究者が注目するのは、次の二点です。
①本願寺に敵意のなかった信長が教如の違約を恨み本願寺職滅を企てたこと
②信長の怒りには顕如もまた共感を示して教如を非難したとして、教如の違約を批判していること
この物語を捏造した西本願寺側には、違約でもない限り信長が本願寺を敵視するはずがないと認識していたことが前提としてうかがえます。ところが反論する東本願寺も、再反論する西本願寺も、信長はもともと本願寺を敵視し、滅ぼす意図があったとの言説を論争の中で創り出していきます。信徒が求めていたのは、信長と戦う先祖門徒の活躍する英雄譚だったのです。そのために、「明智軍記』『陰徳太平記』など一般読者を対象とする軍記物に「鷺森合戦」が取り入れられるようになります。この過程で、本願寺門徒は言うに及ばず、世間的にも「本願寺に敵対的な信長像」が定着したと研究者は考えています。こうして、本山側が門徒に行う説教にも「信長=仏教破壊者・本願寺の敵」として流布されるようになり、唱導本にこの文脈で石山合戦譚が取り入れられます。こうして「本願寺潰滅を期す信長」という信長像は、東西本願寺の論戦を離れて一人歩きするようになります。両本願寺の門徒集団の中で「石山合戦は、法敵信長と篤信で本山に忠義な門徒との合戦物語」として語り継がれるようになります。
 軍記物に、篤信門徒の武装蜂起として「一向一揆」の言葉が登場するのは、18世紀になってからです。
こうして一向一揆像は、戦後歴史学でも十分な検討なしに受容されていきます。民衆の宗教運動である一向一揆の蜂起と、天下人・織田信長による圧殺という筋書は、こうして通説化します。信長の実像は、近世に伝えられた虚像のむこうにあります。その全貌はなかなか見えてこないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P

  戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは  「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。
②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと
③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。

それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか?               その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗
②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること
②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、
③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。

 大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。

第1515回 長年寺(ちょうねんじ)曹洞宗/ 群馬県高崎市下室田町 | お宮、お寺を散歩しよう
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。
ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。

また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
 遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
 松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
 拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)

  また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。

一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
  ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。

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16世紀に日本で宣教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人フランシスコ・カブラルは、ローマ教国宛ての報告書翰で次のように述べています。(
1571年9月5日付書簡)

「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」

ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。

先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
 また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。

こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
 
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。

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榮山和尚清規

 鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など
②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々
③天照大神
④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格
⑤「王城鎮守諸大明神」
⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
 こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

示現寺(喜多方市)
示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。

白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。

これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと
②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け
③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
 この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との
福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との
山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
 こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
越前龍澤寺
如仲天
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
 彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
 彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
 禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。
葬儀・葬式シリーズ 【5】 授戒会 - 新米和尚の仏教とお寺紹介

 禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。

最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。
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乾坤院
 愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
 また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。

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戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
 イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」
、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」

ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。
②そのためには金に糸目をつけないこと
③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
            「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」

      法然上人絵伝表紙
 
 以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。

鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。 
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
 そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。
②仏の教えを理解する度量・器のこと
③衆生の各人の性格。
④根性は、この機根に由来する言葉
  ④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」

というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。

次に 法然の略伝を見ておきましょう。  
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。

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         選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。
②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと
③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」

法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
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『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。

それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

     意訳変換しておくと

速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。

ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
 法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
二河白道(にがびゃくどう)の図
二河白道図

『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
 口称念仏の先駆けとされる | thisismedia
それまでは口称念仏は、「劣機のための低劣な行」とみなされてきました。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
 法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅう)修・無間(むけん)修・無余(むよ)修です。この三修は、称名の際の内面的なあり方を問題にしています。それに対して、長時修は臨終にいたるまで称名をやめるなというだけです。この長時修重視の姿勢は、法然の教説の中では、評判の悪いとされているようです。近代人のものの見方からすれば、当然かも知れません。例えば、ルター流の信仰義認説の立場に立つなら、機械的に称名を続けるなどというのは、はなはだ非宗教的なことで、内面的な信仰こそが重視されるべきだということになります。近代の法然解釈の多くは、こういう立場を暗黙の前提にします。
 「何でもいいから称名を続ける」ということは、自分が劣っていると深く自覚したものが、阿弥陀仏の本願のみを頼んで、ひたすら称名し続けるということです。これが法然の基本姿勢で、逆にいえば、これ以外はどうでもよいということになります。そう考えると法然が戒律をたもったことや、授戒を行ったことを、専修念仏に反する矛盾・妥協と非難する必要もなくなります。
 称名を行うことが第一義で、戒律の持破もどちらが本人に合っているかということに過ぎないのです。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
 専修念仏というと、他宗や他の行法を否定した面だけが強調されます。しかし、それは一部の弟子たちの行動で、法然とは異なると研究者は考えています。
七箇条起請文』
七箇条制誡

法然教団への弾圧
法然は『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』(1204)の末尾で、「三十年間、平穏に暮らしてきたが、十年前から、無智不善の輩が時々出るようになった」と述べています。ここで三十年前というのは、法然が専修念仏に回心した時点を指しています。法然の言葉を信じる限り、彼の思想が問題視されるようになったのは、むしろ弟子たちの言動によってだと考えていたことが分かります。法然没後、活発な活動を展開する弟子たちの多くは、ここでいう「十年」の間の人間者です。
☆彡「法然上人 芳躅集 全」浄土宗 知恩院 大原問答の顛末 | imviyumbo.gov.co
大原談義
法然の教説をめぐって諸宗の碩学を交えての討論会(大原談義)が行われたとされます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
①専修念仏以外の行業や教学を非難してはいけない(第1~第3条)
②破戒を勧めてはいけない(第4条)
③自分勝手な邪義をとなえてはならない(第5~第7条)
これに対して、弟子たちの中には「法然の言葉には表裏がある」などと称し、制誠に従わない者もいたようです。そのため事態は鎮静化しません。翌元久二年には、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が提出され、興福寺が専修念仏停止を訴えます。本状では、専修念仏者の悪行として次のような九項目を挙げています。

法然
興福寺の専修念仏停止状
①新宗を立つる失(勅許によらず浄土宗を立てたこと)
②新像を図する失(専修念仏者以外の不往生を不す摂取不捨曼茶羅を描いたこと)
③釈尊を軽んずる失(阿弥陀仏以外の諸仏を礼しないこと)
④万善を妨ぐる失(称名以外の諸行を否定すること)
⑤霊神を背く失(神明を礼拝しないこと)
⑥浄土に暗き失(諸行往生を認めないこと)
⑦念仏を誤る失(観念よりも口称を重んじること)
⑧釈衆を損ずる失(破戒・無戒を正当化すること)
⑨国上を乱る失(専修念仏によって八宗が衰徴し王法も衰えること)

これを見ると。専修念仏が当時の社会に与えた影響を網羅的に挙げていることが分かります。 親鸞は、『興福寺奏状』が一つの契機となって、法然の流罪を含む専修念仏弾圧が引き起こされたと解釈しています(『教行信証』)。
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しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、建永2(1207)年10月25日に改元して承元元年になると、法然が流罪に、住蓮・安楽房が死罪に処されるという事態になります。これが「建永または承元の法難」と呼ばれます。
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同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
 親鸞はこの事件について、次のように処罰の不当さを訴えています。(『教行信証』)。
「主上臣下、法に背き義に違し、恋を成し怨を結ぶ」
「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す」
ここからは多分に後鳥羽上皇の感情的な処置だったと親鸞は考えていたことがうかがえます。。
 なお、『歎異抄』の奥書では、安楽・住蓮の他、善綽房西意・性願房が死罪に処され、法然・親鸞以下八名が流罪、そのうち幸西と証空は慈円が身柄を預かり、刑を免れたとしています。しかし、これは他の史料にはみえない記述です。

小松郷生福寺2
流配中の法然(讃岐那珂郡小松郷:まんのう町)

法然は土佐国配流に決定します。

しかし、保護者である九条家の荘園だった讃岐の塩飽本島や、那賀郡小松庄(まんのう町)で逗留している内に、その年の秋には罪を許され、畿内へ戻っています。そして摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した後、建暦元(1211)年に京に戻り、翌年ここで臨終を迎えます。
   今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」
関連記事

    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

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滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

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滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

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滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

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滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


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滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

Amazon.co.jp: 綾子踊 : 綾子踊誌編集委員会: Japanese Books
      祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)

綾子踊のユネスコ登録を前に、まんのう町は「祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史」という報告書を出しています。これはPDFでネットからダウンロードする事も出来るので簡単に手にすることができます。これが綾子踊に関する今の私のテキストになっています。この報告書末に、綾子踊の年表が掲載されています。今回は、これを見ながら綾子踊がどのようにして、再発見され継承されてきたかを見ていくことにします。

中世の雨乞い踊りについては、以前に次のようにまとめました。
①中世の雨乞祈祷は、修験者など呪力ある者のおこなうものであった。
②村人達は、雨乞成就の時に感謝の踊りを、郷社などの捧げた。
これは、滝宮神社に奉納されている坂本念仏踊りの由来にも「菅原道真の雨乞祈願成就への感謝のために踊った」とかかれていることからも裏付けられます。また高松藩は白峰寺に、丸亀藩は善通寺に、多度津藩は弥谷寺に雨乞祈祷を命じていたのです。これらの真言修験者系の寺院は、空海以来の善女龍王神への雨乞いを公的に行ってきました。ここには庶民の出番はありません。中世や近世までは、神に雨乞ができるのは呪力のある修験者などに限られていて、何の力もない庶民が雨乞いを念じても効き目はないというのが一般的な考えだったことを押さえておきます。村人が雨乞祈祷を行ったのではなく、その成就感謝のために踊ていたのが、いつもまにか雨乞い踊りと伝えられるようになっていることが多いようです。
綾子踊年表1
綾子踊年表
  前置きが長くなりましたが、綾子踊年表を見ていくことにします
年表の最初に来るのは、1875年(明治8年)7月6日の次のような記事です。
七月六日より大順をかけ、十三日踊願い戻し 又十五日、十七日より、夫より二度の願立てをなし、二十三日めなり。それより二十七日めなり。又、添願として神官の者より、自願かけ自願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり

意訳変換しておくと
7月6日に大願を掛けて、13日まで綾子踊を踊った。(それでも雨は降らないので)15日、17日に改めて二度の願立てをし直した。それでも雨は降らない。そこでさらに23日、27日に、添願として神官が自願した。自願後の8月3日に綾子踊を踊った所、十分の雨があった。これも踊りのご利益である

ここには次のようなことが記されています
①雨乞成就のために村人自らが綾子踊りを踊っていること
②7月6日に踊りを始めて、1週間連続で踊り続けたこと
③それでも降らないので願をかけ直し、さらに神官(山伏?)も雨乞祈祷した。
④その結果、雨乞い開始から約1ヶ月後に十分な雨が降ったこと
  最後は「踊りのご利益」としています。ここからは村人達が自分たちの力で雨を降らせたという意識をもっていたことがうかがえます。明治初年には、中世や近世の雨乞祈願とは異なる意識変化があったようです。自分たちで綾子踊を踊り、雨を降らせるというのは「近代的発想」とも云えます。しかし、頻繁にやってくる旱魃の度に、綾子踊りは踊られていたことを史料から確認することはできません。
 また、ここで注意しておきたいのは一番古い記録が明治初期のもので、それ以前のもにについては何もないことです。ここから綾子踊が実際に踊られるようになったのは、近世後半になってからだということがうかがえます。。
綾子踊り 善女龍王
善女龍王の幟(綾子踊・佐文賀茂神社)
 次に記録が残っているのは1934(昭和9)年のことです。
1934(昭和9)年7月16日 かんばつにつき加茂神社にて踊る
1939(昭和14)年かんばつにつき8月9日よりけい古
8月17日 加茂神社・龍王祠前で踊る
8月22日 自雨あり
9月 1日 雨あり
9月11日 お礼踊り

ここには、旱魃のために綾子踊りを踊るための次のような手順が記録されています。
 踊り実施決定 → 稽古 → 実施 → 降雨 → お礼踊り

しかし、本当に明治以後から戦前にかけて頻繁に綾子踊が踊られていたかどうかは、史料からは確認できないようです。
綾子踊りが世間から注目されるようになるのは、戦後のことです。それは、地元から動きではなく、外からの視線でした。丸亀藩が幕末に、各村々の庄屋に命じて提出させたレポートについては以前にお話ししました。そのレポートに基づいて、丸亀藩が編纂したのが西讃府志です。
幕末の讃岐 西讃府志のデーターは、庄屋たちが集め報告書として藩に提出したものが使われている : 瀬戸の島から

この時に、佐文村の庄屋は、綾子踊について報告しています。その中に、踊られる歌詞も記されていました。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志の佐文綾子踊についての記述
この歌詞に注目したのが、中央の研究者たちです。ここに収められている歌詞は、中世に成立した閑吟集に起源を持つものがあります。こうして綾子踊りは、中世に起源を持つ風流歌の系譜の上にあるとされるようになります。それを受けて地元でも、記録・復興に向けた動きが出てきます。そして、各地に招かれての次のような公演活動も始まります。

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綾子踊の芸司と子踊り

戦後の復活
1953年12月12日 十郷村文化祭出演(十郷小学校)
     12月13日 香川県公会堂出演(高松市)
1954年8月21日 香川県文化財に指定 綾子踊公開(加茂神社)
1955年3月9日 琴電会社映画撮影 綾子踊公開(加茂神社)
1955年4月2日香川県無形文化財に指定
9月5日  香川県農業祭出演
1960年1月28日 中四国民俗芸能大会出演(岡山市天満屋)
1962年10月30日 仲南村文化祭出演(仲南東小学校)
1966年     4月10日 宮田輝司会 NHKふるさとの歌まつり出演
1968年9月10日 佐文核子踊保存会会則制定
1970年1月21日 第12回香川県芸術祭出演(高松市民会館)
1971年4月11日 国の重要無形民俗文化財として文化庁認定
     8月16日 文化庁選択芸能公開 於加茂神社
1972年8月18日 NHK金曜広場出演(NHK松山放送局)
  8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
 11月19日 第15国香川県芸術祭出演(普通寺西中学校)
公開活動を通じて認知度を高め、「1955年 県無形文化財」に指定されます。しかし、これだけでは佐文住民とっては、あまり「意識変化」はなかったようです。大きなインパクトになったのは、1966年に宮田輝司会の「NHKふるさとの歌まつり」への出演です。NHKの人気番組に出演し、全国放送されたことは佐文住民にとっては、「自慢の種」となりました。認知度もぐーんと高まり、「佐文の誇り:綾子踊り」という意識が芽生え始めたのはこの当たりからです。
そして、71年には、国の重要無形文化財」に指定されます。注目度は高まり、NHKなどが頻繁に取り上げてくれるようになります。

綾子踊年表2
綾子踊年表2
1973年12月1日 仲南町文化祭出演(仲南中学校)
1975年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1976年5月4日 文化庁が重要無形民俗文化財第一回を指定する
        同日 佐文綾子踊が国の重要無形民俗文化財に指定
     6月19日 文化庁より重要無形民俗文化財指定証書交付
     9月 5日 重要無形民俗文化財指定記念事業により綾子踊公開(加茂神社)
76年から三年間、国の補助金を受け、伝承者養成現地公開記録作成事業推進.)
1977年8月14日 重要無形民俗文化財指定の記念碑除幕式と綾子踊公開(加茂神社)
 8月26日 伝承者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1978年9月3日 伝水者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1979年6月10日 香川用水落成記念式典出演(香川町大野小学校)
7月15日 綾子踊を含む佐文誌編集企画
1980年10月25日 中四国民俗芸能大会出演(高知市RKCホール)
1982年9月 5日 綾子踊公開(加茂神社)
1984年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
1986年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1988年7月21日 瀬戸大橋架橋博覧会出演(同博覧会場)
1990年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
    11月24日 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館)

綾子踊の継承にとって大きな意味をもつのが「1976年の国の重要無形民俗文化財指定」です。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①三年間、国の補助金を受け伝承者養成事業を行い、隔年毎の公開公演を佐文賀茂神社で行うこと
②公開記録作成を行うと共に、「佐文誌」編集出版
③全国からの公演依頼に応じて行う公演活動に対する補助金支出
こうして隔年毎に公開公演を行う。そのために事前にメンバーを組織して、踊りの練習を公開1週間前から行うことがルーテイン化します。。回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。また、子踊りには小学生高学年6人が、お踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという形が定着します。かつて、子踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

綾子踊り11
賀茂神社に向かう綾子踊の隊列(まんのう町佐文)

1990年代を見ておきましょう。

1992年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 1日 日韓中3ヶ国合同公演出演(県民ホール)
1994年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
1995年2月16日 NHKイブニング香川出演(佐文集荷場)
5月27日 第3回地域伝統芸能全国フェスティバル出演(サンメッセ香川)
1996年8月25日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 3日 ブレ国民文化祭総合フェスティバル出演(県民ホール)
1997年5月24日 第5回地域伝続芸能全国フェステンバル島根出演(出雲大社)
 8月31日 NHKふるさと伝承録画 賀茂神社
   10月25日 ブレ国民文化祭オーフニングフェスティバル出演(県民ホール)
1998年4月19日 国営讃岐まんのう公演フェスタ出演
 9月20日 仲南町民運動会40回大会出演(仲南中学校)
1999年10月30日 郷上民俗芸能祭出演(三木町文化交流ブラザ)
2000年8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
国指定25周年記念として新潟県柏崎市の綾子舞を招待し、競演
        ※以降、隔年で加茂神社にて公開

この時期は、重要無形文化財指定後に固定化した隔年毎の一般公開が継承されています。同時に、対外的な出演依頼に応えて、各地で公演活動を行っています。

2000年代を見ておきましょう。
2004年10月14日 中四国芸能大会(琴平町金丸座)
2017年11月12日 柏崎古典フェスティバル2017にて綾子舞と共演
2022年11月30日 ユネスコ無形文化遺産に登録
2023年10月 8日 郡上八幡 出演(郡上市総合文化センター)
               11月25日  第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)に出演

これを見ると、対外公演が激減していることが分かります。この背景には何があるのでしょうか?
考えられる事を挙げてみると
呼ぶ側の財政問題 佐文綾子踊は役目が多く、50人近い大所帯での公演になります。これを1泊2日で呼ぶと、交通費や宿泊費だけで100万円をこえる予算が必要になります。民俗芸能よりも経費がかからずに、人が呼べるイヴェント編成を考えるのは担当者としては当然のなりゆきです。

そんな中で、今年になって佐文綾子踊に公演依頼が次のように入っています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ中に大型イヴェントが実施できずに、財源が蓄積されていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が集まっていること。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。
①佐文賀茂鴨神社での隔年毎の公開公演
②対外的なイヴェントへの出演
これは綾子踊の後継者養成にとっては重要な柱なのです。 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館:1990年11月24日)に出演し、青年会館ホールで踊った子踊りのメンバーが、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。それから33年ぶりに日本青年会館で踊ることになりました。彼らが今後の綾子踊りの継承・保存の中核メンバーとなっていくはずです。そのためにも、小・中学生達に大きな舞台に立って踊る経験を積ませたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)
関連記事

昨年の2022年 11月30日付けで 佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、会長が授与式に参加していただいてきたのがこれです。

P1250238
ユネスコ世界無形文化資産 「風流踊」登録書

さび付いた私の頭は、英単語が消え去って判読不明。そこでスマホで写して、アプリに翻訳させると次のように出てきました。
                         
  ユネスコ無形文化遺産
このリストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。
風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。
日本の提案により「風流踊り」のリストへの登録を認証します。私たちは、文化的多様性の重要性の認識を高め、尊重する対話の促進に貢献します。
UNE事務局長    刻印日:2022年11月30日 

冒頭の「convention」には、「①慣習、しきたり②会議、集会③大会参加者、出席者」という3つの意味があります。よく使われるのは②の意味ですが、ここでは③の参加者・構成員の意味のようです。 「heritage」は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、後世に伝えるべき自然環境や、遺跡跡など、文化的、歴史的に受け継がれるものを指しています。例えば、「intangibie cultural heritage」で無形文化遺産という意味になるようです。
     
  そして登録名は「Furyu-odori」です。
その形容詞が「人々の願いや祈りが込められた神事の踊り」となっています。ここで気になるのは、ユネスコの認証状の中には「風流踊」とあるだけで、佐文綾子踊はどこにもありません。

もうひとつは、そのリストが日本政府によって提出された。それを、ユネスコが認めリストに登録したという形式がとられていることです。あくまで承認権者はユネスコなのです。ユネスコ世界遺産事業以後、ユネスコは権威を高めたように思います。遺産の保護活動以外に承認権者の地位を手にしたことが、その背景にはあるのではないかと私は勝手に考えています。
 この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、次の文化庁の書類です。
P1250236
綾子踊 文化庁の認証状
  内容的には、ユネスコ認証状の日本語訳版のようなものです。ただ、ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」が明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
文化庁のユネスコへの「風流踊」提案書には次のように記されていました。
内 容 華やかな、人目を惹く、という「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこ らして、歌や笛、太鼓、鉦(かね)などに合わせて踊る民俗芸能。除災や死者供養、豊作祈願、雨乞いなど、安寧な暮らしを願う人々の祈りが込められている。祭礼や年中行事などの機会に地域の人々が世代を超えて参加する。それぞれの地域の歴史と風土を反映し、多彩な姿で今日まで続く風流踊は、地域の活力の源として大きな役割を果たして いる。

  いくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、別途文化庁がそれを証明するために発行したのがこの証書ということになるようです。

どちらにしても、保存会会長からの指示は、これらに相応しい額を購入して、佐文公民館に掲げよというものです。早速、額選びにとりかかっています。この2つの証書を預かって、最初にしたのは、仏壇に供えることです。

そして、ユネスコ認証状がとどいたことを父に報告しました。父もかつては保存会会長を務めていたことがあります。2年に一度の地元の神社での一般公開や、東京や長岡での公演活動の準備に、尽力していた姿を思い出します。この知らせを歓んでいるはずです。
 今年は講演依頼がいつになく多い年になっています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ開けで、伝統芸能公演ラッシュとなっていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が高いこと。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。そのため公演メンバーが決められ、いろいろな下準備が進められています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

前回は、次のような事をみてきました。
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、穢れも病原体も関係ないという考えが出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
⑤について、律僧が葬送に従事することで、律僧によって独自の「死の文化」が創られていくようになります。それが五輪塔、宝筐印塔などの石塔(墓塔・供養塔)、骨蔵器の登場です。これは葬送儀礼と呼ばれるもにになります。今回は、律宗によって生み出された「葬送儀礼」を見ていくことにします。 テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

伊勢の五輪塔、叡尊の弟子の作か/山形大教授が発見 | 全国ニュース | 四国新聞社
弘正寺五輪塔
最初に、伊勢市楠部の弘正寺跡五輪塔を見ておきましょう。
 楠部五輪塔はこれまで15世紀末のものとされ、廃寺となった律宗寺院「弘正寺」にあったため注目されてこなかったようです。それが2008年に、松尾剛次山形大教授(日本宗教史)の調査で次のような事が分かっています。
①楠部五輪塔が、奈良の西大寺を復興した高僧叡尊(1201-1290年)の弟子が造ったこと。
②鎌倉時代の律宗の五輪塔では最大級であること、
 五輪塔は、墓として律宗僧が建立を始めます。その際に葬られる僧侶の地位が上がるほど、その五輪塔も大きいという相関関係があるようです。奈良の西大寺にには叡尊の五輪塔がありますが、これが最大です。そして、楠部五輪塔の高さは約3,4mで、これと同格です。 五輪塔は弘正寺址に建っていること、五輪塔の形、年代、石の削り方などからみて、叡尊上人のお墓ではないかと考えられます。恐らく弟子が叡尊上人のお墓を建て、分骨したのではないかというのです。

律宗五輪塔
弘正寺跡五輪塔(叡尊の五輪塔)

 研究者が注目するのは、五輪塔の「水輪」の球体部分です。加工技術の特徴が、叡尊の弟子が造った極楽寺(神奈川県鎌倉市)の五輪塔などと一致します。そこから制作時期を、鎌倉時代後期から末期の制作と推察します。形から見ると、重厚感のある感じ、全体のバランスからみて鎌倉の忍性五輪塔によく似ています。
律宗五輪塔.2
弘正寺五輪塔
弘正寺五輪塔は、花崗岩製で、高さ3,4mもある巨大五輪塔です。伊勢弘正寺は、現在は廃寺ですが、叡尊が開山し、弘安3(1280)年に律寺として建立(再興?)された寺で、伊勢地方の筆頭寺院でした。この五輪塔は、大きさが、西大寺奥の院の叡尊塔と一致します。

巨大五輪塔!西大寺奥の院に眠る叡尊上人/毎日新聞「やまと百寺参り」第25回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

 叡尊教団では、その高さは僧侶の身分に比例するとされていたので、弘正寺五輪塔は叡尊の分骨塔かもしれないと研究者は判断します。五輪塔は、五つの石を積んだ墓塔、あるいは供養塔です。下から方形の地輪・球形の水輪・三角の火輪・半球形の風輪・団形の空輪からなります。平安後期に密教系の塔として現れ、後に宗派を超えて流行するようになります。
 五輪塔は、特に律僧によって数多く制作されました。
 2mを超える巨大五輪塔は、全国で70ほどありますが、ほとんどが叡尊教団の律僧の手によるもので、その寺の開山者の墓所である場合が多いようです。用いられている石材はそれまでは軟らかくて加工しやすい砂岩製が多かったのですが、律僧の五輪塔は硬い花崗岩や安山岩製です。堅い岩石を加工する新技術を持った中国からの石工集団を配下に組織して、般若寺十三重石塔をはじめ新しい石造物を創り出していったことは以前にお話ししました。
般若寺(はんにゃじ)十三重石塔
般若寺十三重石塔

古墳や古代寺院の登場と同じように、新たな宗教的なモニュメントは、新たな宗教ムーブメントの上に姿を現します。当時の人達にとっては、目に見える形で現れた大きな石造物は畏敬の念を抱く対象だったようです。五色台の白峰寺・十三重石塔も、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えていることは以前にお話ししました。
白峰寺 十三重塔 第五巻所収画像000010
白峯寺石造十三重塔

五輪塔が墓所な時には、地輪の下に骨蔵器に入った火葬骨があります。
額安寺五輪塔(鎌倉墓)|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)
額安寺の忍性五輪塔
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について、見ておきましょう。
忍性(にんしょう)は、建保5年(127)に大和国城下郡屏風里(奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くなった母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済に惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話には、慈悲深く意志の強い人柄がうかがえます。後半生は拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社会事業を展開しす。人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈しています。
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について「ふるさと大和郡山 歴史事典」には、次のように記されています。
   昭和34年3月23日重要文化財(建造物)。
額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは俗に「鎌倉墓」とも言われている。指定な受けた8基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでいる。東端および南から4番目のものに、永仁5年(1297)の銘があり、他のものも無銘ではあるが、このころ造立されたものと思われる。
昭和57年の解体修理の際行われた地下調査によって、南端の忍性墓のみが建立当初の位置を保っていることが判明している。また、忍性墓の骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となった。
額安寺(がくあんじ)五輪塔群(1)
忍性塔(額安寺)

 この忍性塔は塔高276㎝ある巨大五輪塔です。忍性は、嘉元元(1303)年に死去し、叡尊教団の鎌倉における拠点・極楽寺で火葬されます。そして、忍性の骨は分骨され、極楽寺(塔高308㎝)と竹林寺(大和郡山市、塔は破壊)にも五輪塔が立てられ金銅製の骨蔵器に入って納骨されています。こうして、骨蔵器という新たな葬儀用具が登場します。これは叡尊教団の「死の文化」創造の遺品と研究者は評します。
忍性骨臓器
額安寺の忍性骨蔵器

水輪に穴を開けて、水輪にも骨蔵器が納入される場合もあります。

西方院(唐招提寺 子院) そして今週のNHK歴史秘話ヒストリア | タクヤNote
唐招提寺西方院の證玄塔

唐招提寺西方院の證玄塔は、塔高が238㎝もある巨大五輪塔です。昭和44(1969)年6月の修理の際に、地輪の下から次のような金銅製の骨蔵器が出てきました。
律宗の骨臓器(証玄塔水輪)
唐招提寺西方院の證玄塔から出てきた骨臓器

図8のように水輪部に穴が開けられ、図9のような追葬された骨蔵器も出ています。ここからは律宗では、高僧の墓所として五輪塔を立て、骨臓器を埋葬していたことが分かります。

研究者が注目するのは、西方院が地域住民の墓所の中核となっていることです。
律僧たちが境内墓地や地域の惣墓を生み出し、その周辺に地域の有力者達が墓石を立て始めるのです。そして墓域を管理するのは律宗僧でした。ここからは、律宗僧侶の五輪塔が核となって、地域の墓所へつながっていく道が見えて来ます。
以上をまとめておきます
①葬送に関わるようになった律宗僧は、五輪塔を葬儀モニュメントとして建てるようになる
②最初は、開祖や高弟のもので大きさと功徳は相関関係にあるとされた。
③分骨された五輪塔が各地に姿を現し、以後門弟達は、その周辺に自分の五輪塔を建てた。
④五輪塔の石材は、それまでは堅くて加工が難しかった安山岩や花崗岩であった。
⑤それを可能にしたのは東大寺再興のために中国から呼ばれた石工集団であった。
⑥彼らは律宗の求めに応じて、石造十三重塔などを各地の末寺に建立した。
⑦それは瀬戸内海に伸びゆく律宗西大寺の教勢拡大のモニュメントでもあった。
⑧その一例が、五色台・白峰寺の十三重塔(東塔)である。
⑨この時期、讃岐国分寺の再興を行ったのも律宗西大寺の僧侶であった。
⑩高瀬の謎の石塔とされる威徳院勝造寺層塔(八百比丘尼塔)も、このような文脈の中で考える必要がある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

今では日本の仏教は「葬式仏教」とまで云われ、僧侶が葬儀に関わるのは当たり前とされています。しかし、古代では僧侶が葬儀に関わることは、タブーだったようです。そういう意味では、中世になって律僧が葬送に従事するというのは、「大革新」だったようです。その転換が、どのようにして進んだのかを、今回は見ていくことにします。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

古代・中世の興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺などの官僧たちは、「穢れ忌避」が求められていたので、葬儀にはアンタッチャブルでした。穢れには、死穢(しえ)、産穢(さんえ)などがありました。死穢というのは、死体に触れたり、死体と同座したりすることにより起こる穢れです。それに触れる(=触穢)と30日間は、謹慎生活を送る必要がありました。というのも、触穢れは伝染すると考えられていたのです。そのため他人に伝染させないために、穢れが消える期間、謹慎生活を送らねばならなかったようです。

 穢れ忌避については『延喜式』に穢れ規定が神事従事に関わるものとして載せられています。
ここからは本来は、神事従事の規定だったことが分かります。ところが十世紀以後、神仏習合が進むと、寺院にも鎮守の神社が併設されるようになり、官僧たちも神前読経に従事するようになります。その結果、官僧も穢れ忌避が義務化されるになったようです。つまり、僧侶は死体に近づけない、触れないということになります。

今昔物語集 | 書物で見る日本古典文学史 | 国文学研究資料館

『今昔物語集』巻13第20話は、次のように記します。

比叡山東塔の広清という僧が京に下り、 一条の北辺の堂で病死します。その死体は「弟子ありて、近き辺に棄て置かれ」ます。その「墓所」からは毎晩『法華経』を諦す声がした。弟子はこれを聞いて、遺骸を山の中の清いところに移しますが、そこでも声が聞こえた。

この物語からは、比叡山で学んだ僧で、弟子がいる立場の者でも、きちんとした葬送もなされず、死体が「近き辺に棄て置かれ」たというのです。この扱いが特別だったのではないようです。
『今昔物語集』巻28第17話には、次のような話が収められています。
藤原道長の御読経を勤めた奈良興福寺の僧が、毒キノコを食べて死んだ。哀れに思った藤原道長から葬料を賜って、立派な葬式をしてもらった。それを聞いた藤原道長の御読経僧の一人で、東大寺の某は、次のように嘆いた
「恥をみなくてすんだのはうらやましいことだが、自分などが死んだら大路に捨てられてしまうだろう」。
栄華を極めた藤原道長に連なる興福寺や東大寺の僧でも、有力僧でなければ、仲間に葬送をしてもらえず、道に棄てられる恐れは十分あったことがうかがえます。
どうして、お寺のお坊さんが亡くなった師匠や同僚を丁寧に埋葬しないのでしょうか?
その背景にあったのは、葬送費用の問題だけではなく、官僧たちが死穢を避けるために死体に近づけなかったことがあります。死体に近づくというのは死穢で「30日間の謹慎生活」だったことは最初に見ました。悪くすると官僧(高級国家公務員)としての地位を失うことにもなります。供来をしたくてもできない体制下に置かれていたようです。これだけ見ると古代における僧侶というのは、先端の思想・知識・技術者集団であったが、庶民とはほど遠い存在だったことが分かります。彼らは庶民の平安や冥福を祈る存在ではなかったことを押さえておきます。
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それが中世になると、葬送を願う庶民に対して、死穢を憚りつつ、慈悲のために葬送に従事する僧侶の話が出てくるようになります。
鎌倉前期成立の鴨長明『発心集』巻4第10話には、次のような話があります。
ある偉い僧侶が日吉神社に百日参拝の願を掛けたが、80日目の参拝の途中に、亡くなった母親の葬送ができずに泣いている独り身の女性に出会った。あわれに思って葬送をしてやった後で、穢れねをはばかりつつ日吉神社を参拝したところ、日吉神が現れて僧の慈悲をほめて、参拝を認めた。

ここには、葬式を望む人、慈悲のために穢れを憚らず葬式を行う僧侶、さらには慈悲のために穢れ忌避のタブーを犯す僧侶がいたことが分かります。それを日吉神も誉めています。こうして、死者をともらい、冥福を祈る僧侶が現れてきます。
この際に官僧であったかどうかは重要でした。
というのも、官僧たちには、死穢などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは最初にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な違いを生むことになります。

伊勢岩田の円明寺(廃寺、津市岩田)の覚乗の話を見ておきましょう。
覚乗は伊勢弘正寺(伊勢市楠部)で受けた伊勢神官の神のお告げによって円明寺に住むことになります。ある日、彼は、神を尊ぶあまり、御神体を見たくて、円明寺から伊勢神官へ百日間参拝する誓いをたてます。ところが、結願の日になって、斎官の料地を通り過ぎた時に旅人の死者に出会ってしまいます。覚乗は、死者の関係者から引導をたのまれ、葬送の導師をつとめます。その後、宮川の畔に到着したところ、一老翁が出てきて、「あなたは今、葬送を行ったではないですか。死穢に汚染されているのに、神官に参拝しようとするのは、どういうことですか」といった。それに対して、覚乗は次のように答えたという。
「清浄の戒は汚染しないのです。それなのに、末世に相応して、いったん円明寺に帰れというのですか」。
その問答が終らないうちに、白衣の童子が、どこからともなく現れて歌を詠み、「これからは円明寺から来るものは穢れないものとする」と言って影のように消えた
「三宝院旧記14」『大日本史料』6ー24、868P
 先ほども見たとおり官僧は、葬送に関与したものは、神事などに携わるためには三十日間謹慎する必要がありました。ところが律僧の場合は、「清浄の戒は汚染なし」という論理により、死穢を恐れずに、厳しい禁忌を求める伊勢神官にすら参詣したというのです。
 「清浄の戒は汚染なし」、これを言い換えれば、我らは日々厳しく戒律を護持しており、それがバリアーとなってさまざまの穢れから守られているのだ、ということになります。この主張こそが死穢を乗り越える論理になります。この一老翁と覚乗との問答には、厳しい戒律を守り続けていた律僧たちが、葬送従事とのはざまで、戒律を守ることをどのように考えていたかを示しています。彼らは、律僧として厳格な戒律を守った生活を行っていました。戒律を守ることは、社会的な救済活動を阻害するどころか、戒律が穢れから守ってくれているんだと考えていたことが分かります。この史料では、そうした主張を伊勢神官の神も認めたことになっています。

この物語の持つ意味をもう少し別の視点で見ておきましょう。
ここでは神は「円明寺から来るもの=叡尊教団の僧侶集団」を、穢れていないと認めています。別の言葉で言うと叡尊教団の律僧たち全体が、「清浄の戒は汚染なし」とされたのです。これは穢れのタブーから解き放たれたことを意味します。
 説話などに、この話の類型が出てきますが、逆に見ると神仏習合の時代においては、僧侶が葬送に従事しながら、死穢の謹慎期間を守らずに神社に参詣することはタブーだったことを現しています。
「清浄の戒は汚染なし」という論理が、葬送などの穢れに関わる活動を律宗僧が行うことを可能したことを押さえておきます。これは、穢れの恐れがある活動に、律僧たちが教団として従事していく扉を開いたのです。

 叡尊教団の律僧たちは、斎戒衆という組織をつくります。
そして、斎戒衆に葬送、非人救済といった穢れに関わる実務を専門に扱わせるようになります。この斎戒衆というのは、俗人でありながらも、斎戒を護持する人びとであり、俗人と律僧との境界人でした。律僧たちが、関与しにくい活動、例えば戒律で禁止されているお金に関することなどに従事します。こうした組織を作ったことにも、官僧が穢れに触れるとして忌避した葬送活動に、組織として取り組もうとした律僧たちの決意を見ることが出来ます。

以上を整理して起きます
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、私たちには穢れも病原体も関係ないという流儀が出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

        
前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのもにも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修験者としての修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。
那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。
実方院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院跡 - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
実方院跡(現在は那智大社の宿泊所)

実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでも那智山の経営維持は皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切っります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順にまとめたのが表1です。
熊野大社文書1
熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)
この一覧表からは次のようなことが分かります。
①最初の檀那売券発行は弘安3年(1280)で、鎌倉時代の終わりの13世紀末以前から、讃岐でも熊野詣でが行われていたこと。
②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀には、継続して発行が行われていること。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ないこと。特に三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた武士集団です。有力な武士団を東讃では旦那に持っていたことが分かります。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、熊野信仰の流布の拠点となっていました。東讃から次第に西に拡がったということがうかがえます。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったとされます。その中には熊野先達を務めるものもいたようです。
⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が毎年のように出されています。さきほど見た文書です。
  最初の霞(エリア)は、「中郡スエ王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)には、「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」を抵当に入れて借金したようです。            
 以上からは、勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持っていたことは以前にお話ししました。この時代に姿を見せる真言宗の寺院の多くは、彼らによって建立されたと研究者は考えているようです。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが
次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは、髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと地区ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。そういう意味では、善通寺市内の熊野神社は熊野行者の活動モニュメントでもあり、善通寺が全国の行場の聖地として認知されていたことの証拠のようにも思えてきます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
佐伯氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして、11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、王子権現・熊野神社として記されるものが、数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。その中で早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)とされます。次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)には、熊野から勧請され長徳寺の鎮守となっています。その後、鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、およそ69社もの熊野関係の神社があったようです。
伊予では、古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社です。
ここの神輿鏡銘には、貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘があります。鎌倉時代初期には勧請されていたことが分かります。この神社から銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ラインを伸ばしていったことが考えられます。新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、立ち寄られた聖地であったようです。

阿波の場合は南部の那賀郡と古野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐はどうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。
 先ほど挙げた讃岐の熊野系神社43社のうち確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いように見えます。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。こうして見ると熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)による場合があることになります。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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 江戸時代の高松御坊と塩屋御坊は、つぎのような関係にありました。     
①高松御坊(高松藩)は、興正寺末の勝法寺が管理
②塩屋御坊(丸亀藩)は、西本願寺直轄で本山の輪番寺が管理
西本願寺と興正寺の間には、本末関係にありながら根深い対立があったことは以前にお話ししました。西本願寺は興正寺を自派の末寺と考えていたのに対して、興正寺は自ら本山と称していました。このような両者の対立は、明暦元年(1655)4月には、幕府によって興正寺19世准秀が越後へ流罪となるような事態も生みました。それでも興正寺は、別派を立てる運動をやめません。そのため興正寺別院の高松御坊(勝法寺)も、西本願寺に素直に従おうとはしなかったようです。高松御坊にすれば、三好実休以来の伝統があり、最近出来たばかりの丸亀の塩屋別院とは歴史も格もちがうという自負心もありました。それを高松藩が応援します。

高松藩藩祖の松平頼重は、興正寺との間に次のような姻戚関係がありました。
①興正寺18世准尊の娘良子が父頼房の側室に上がっていたこと、
②自分の娘万姫が20世良尊円超の養女となり、三男で21世を継いだ寂眠の室となったこと
このため興正寺や勝法寺を保護し、西本願寺との争いでも興正寺方に強く肩入れします。高松御坊からすれば、西本願寺のもとで新たに設置された丸亀藩の塩屋御坊は、自派に対しての切り崩し拠点のように見えたのかも知れません。そのため対抗的な姿勢を示します。それを高松藩も支援するという空気が生まれていきます。そのギクシャクした関係を見ておきましょう。

享保19(1734)年に、教法寺の住職が追放され、西本願寺の別院となったことは以前にお話ししました。
その際に、西本願寺は、御坊御請の御礼に高松に戒忍寺住職を派遣しています。彼は、高松藩へのあいさつを終わると、6月8日には高松勝法寺(高松御坊)へ出向いて塩屋御坊のことをよろしくおねがいしますと挨拶を済ませています。それ以前の6月5日付で、西本願寺からも高松の勝法寺へ次のような挨拶状が送られています。
一筆中さしめ候……然らば其の国丸亀領塩屋村教法寺儀、四年以来御本山え願い置かれ候処、今度、御領主え仰せ入れられ御許容の上 御坊に 仰せ付られ候間、万端御坊輪呑示し合さるべく候、触等の儀は在来の通りに候間、その意を得らるべく侯、不宣
六月五日                三人
高松 勝法寺
追啓 法中え 仰せ渡されの御使僧として戒忍寺御差下候間、左様心得らるべく候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上奉り候……讃岐国丸亀領塩屋村教法寺について、先年以来、本山に対して別院化の願いがあった。そこで、丸亀藩主に願いでたところ許可が下りたので、正式に塩屋別院(御坊)とすることが認められ。ついては、万事について塩屋別院と協議しすること。なお、触頭等については従来の通りに行われるように、取り計らうように依頼する。不宣
六月五日            三人
高松 勝法寺
追伸 法中への仰せ渡しの使僧として戒忍寺を派遣して、以上のようなことを伝えたと、心得えていただきたい。以上

しかし、その後の経過を見ると、西本願寺が期待したようには、勝法寺と御坊輪番寺との関係はうまくいかなかったようです。
讃岐の真宗興正派の寺からは、丸亀藩の塩屋別院は西本願寺の讃岐への教勢拡大の拠点として設置された寺院で、自分たちの勢力圏に打ち込まれた布石とみられていたような気配がします。そのため塩屋御坊の活動については、非協力的な態度で臨みます。例えば塩屋御坊ができて4年後の元文2年(1737)には、次のような事件が起きています。
本願寺から御影が届きました | 浄泉寺
祖師(親鸞)御影
この年5月、塩屋別院に祖師御影が下付され、6月21日から28日まで開帳が行われることになります。そこで、開帳セレモニーへの参加を、讃岐の真宗寺院に呼びかけるために、塩屋別院の当時の輪番寺・弘願寺は「御遷座の節、法中・門中参詣の義」の触れ(通知)を出します。
 これに対して、丸亀城下の正玄寺(西本願寺末)から異議が出されます。それは高松藩の触頭寺は、高松御坊(勝法寺)であるので、その触れ(通知・指図)がなくては参詣できないと断ってきたのです。困った弘願寺は、西本願寺に経過報告するとともに、対処方を相談しています。これに対して西本願寺は、次のように答えています。

……是迄も御触・連署差し下し候節は、惣法中の触は正(勝)法寺え向け添状遣し正法寺より相触れ候、其御坊えは格別に別紙を以て御触の趣申し遣し候事に候、此度の儀も共の元より正法寺え向け連署相渡され正法寺より相触させ候えば、初発より御定の通りに相違致さずと中ものに候、其の元より直に触れられ候故、其の御坊の触下の様にも成るべきかと正法寺よりもこばみ候ものと推察せしめ候……

  意訳変換しておくと
 これまでも本山からの御触・連署を差し下す時には、真宗寺院の触頭寺である高松の正(勝)法寺へ送付し、それを正法寺から讃岐の各真宗寺院へと相触(連絡)するという方法をとってきた。これについては、以前に別紙で「触等の儀は在来(従来)の通り」と高松御坊(勝法寺)に伝えている。
 この度の件については、勝法寺へ連署を渡たし、勝法寺から相触(連絡)させれば、問題は起きなかったはずである。それが勝法寺を通さずに、丸亀別院(輪番寺弘願寺)から直接に、各寺委員への連絡通知をだしたことが、勝法寺の機嫌を損ねたのだろうと推察する…。
ここからは高松領、九亀領ともに真宗寺院への触れは高松の勝法寺から触れるのが筋道だと西本願寺でも承知していたことが分かります。それを守らなかった輪番の弘願寺に落ち度があるとも云わんばかりの内容です。これが慣例なのかもしれませんが、丸亀藩における連絡網としては、機能不全です。丸亀御坊が丸亀藩の真宗寺院に触れを出す場合にも、その都度高松御坊に依頼して出さなくてはならないということになります。これは、不便ですし、何より屈辱的です。

塩屋別院3
塩屋御坊(讃岐国名勝図会) 現在の本堂は安永4年のもの
安永4年(1775)の丸亀御坊の本堂上棟の時のことです。
30年余りの工期の末に、立派な本堂が完成します。その御書請待(セレモニーへの参加依頼書)が、藩主には西本願寺門主からの御書が、丸亀藩家老ヘは本山坊官からの連署が下されます。これに対して、興正寺末の金倉円龍寺と津森光善寺は「先例に従わないもの」と不承知の意思表明をします。そこで、丸亀御坊の当時の輪番寺だった善行寺は、丸亀藩の寺社役・安達覚左衛間、安藤貞右衛門、明石六太夫へ掛け合って、寺社役名で、門主の御書を受け取るように領内の末寺へ申し渡します。これは「特別措置」なのでお礼として、西本願寺は門跡から丸亀藩主に薫物と肴、家老と寺社役へは本山からそれぞれ羽二重と肴、加賀絹と肴が贈られています。「お手数をおかけしました」というお礼とお詫びの意味が込められていたのでしょう。
 しかし、西本願寺のこのような動きに対して、興正寺も黙っていません。
使僧桃源寺を丸亀に派遣して、これを先例としないように立ち働いたようです。その結果、翌(1777)年になって興正寺末の寺々からは不承知の旨が藩に対して出されます。藩では、それをも聞き入れて御書聴写猶予の触れを出しています。この当たりには、丸亀藩の高松藩に対する配慮ぶりがうかがえるように見えます。
 これに対して西本願寺はからは、次のような不満の書状が丸亀藩に送られてきます。
「……塩屋村掛所再建労に付き、御領中の末寺・門徒ども弥増しに法義相続候様に相示され候儀にて、 一国中におよひ候儀にて御座無く候故、寺法に差間と申す筋にては御座無く候……」

意訳変換しておくと

「……塩屋村掛所(御坊)の本堂再建の落慶法要について、御領中の末寺・門徒に対して法義に基づいて、通達連絡を行おうとしました。これについては讃岐一国のことではなく、丸亀藩内だけに関わることです。(どうして高松の勝法寺を通す必要があるのでしょうか。) 寺法を乱すものだという批判は、的外れです。」

しかし、丸亀藩の意向を変えることはできません。
このように京都の本山同士の争いが続いている間は、興正寺末の勝法寺やその他の諸院と塩屋御坊との関係は、決して円滑な者ではなく、ぎくしゃくとした関係だったようです。

以上をまとめておくと
①塩屋別院(御坊)は、もともとは赤穂からやって来た製塩集団を門徒たち建立した西本願寺を本寺とする寺だった。
②それが18世紀前半に、住職と門徒集団の争いで住職が追放され、西本願寺直属の御坊となっり、本山の僧侶が輪番で管理運営するようになった。
③しかし、讃岐の真宗寺院の触頭寺・勝法寺(高松御坊)からすると、宗派も異なり自分のテリトリーを犯す存在と写ったのか、反目が絶えなかった。
④こうして西本願寺別院としての塩屋御坊は、多数派の真宗興正派寺院からは冷たい眼で見られた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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安楽寺文書
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)
 真宗の四国への教線拡大を考える際の一番古い史料は、永正十七年(1520)の三好千熊丸(元長または 長慶)が安楽寺に対して、亡命先の讃岐財田から特権と安全を保証するから帰ってくるようにと伝えた召還状(免許状)です。これが真宗が四国に根付いていたことをしめすもっとも古い確実な史料のようです。
Amazon.com: 大系真宗史料―文書記録編〈8〉天文日記1: 9784831850676: Books

その次は「天文日記」になります。これは本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた日記です。『天文日記』に出てくる四国の寺院名は、讃岐高松の福善寺だけです。ここには16世紀前半には、讃岐高松の福善寺が本願寺の当番に出仕していたこと、その保護者が香西氏であったことが書かれています。
その他に讃岐の有力な真宗寺院としては、どんな寺院があったのでしょうか?
幻の京都大仏】方広寺2021年京の冬の旅 特別拝観の内容と御朱印 | 京都に10年住んでみた
秀吉が建立した京都方広寺の大仏殿
天正14(1586)年、秀吉は当時焼失していた奈良の大仏に代わる大仏を京都東山山麓に建立することにします。高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営し、これを安置する壮大な大仏殿を、文禄4(1595)年頃に完成させます。大仏殿の境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260m,東西210mの規模でした。モニュメント建設の大好きな秀吉は、この落慶法要のために宗派を超えた全国の僧侶を招集します。浄土真宗の本山である本願寺にも、声がかかります。そこで本願寺は各地域の中本寺に招集通知を送ります。それが阿波安楽寺に残されています。大仏殿落慶法要参加のための本願寺廻状で、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。

阿波国安楽寺
讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊

阿波では、真宗寺院のほとんどが安楽寺の末寺だったので、参加招集は本寺の安楽寺だけです。以下は讃岐の真宗寺院です。これらの寺が、各地域の中心的存在だったことが推測できます。ただ、常光寺(三木)や安養寺などの拠点寺院の名前がありません。安養寺は安楽寺門下ために除外されたのかもしれません。しかし、常光寺がない理由はよくわかりません。また、「正西坊、□坊」などは、寺号を持たない坊名のままです。
 この七か寺中について「讃岐国福成寺文書」には、次のように記されています。
当寺之儀者、往古より占跡二而、御目見ハ勝法寺次下に而、年頭御礼申上候処、近年、高松安養寺・宇多津西光寺、御堀近二仰付候以来、其次下座席仕候

意訳変換しておくと
当寺(福成寺)については、古くから古跡で、御目見順位は勝法寺(高松御坊)の次で、年頭御礼申上の席次は、近年は高松安養寺・宇多津西光寺に次いで、御堀に近いところが割り当てられています。

ここからは江戸時代には、讃岐国高松領内の真宗寺院の序列は、勝法寺(高松御坊)・安養寺(高松)・西光寺(宇多津)・福成寺という順になっていたことが分かります。先ほど見た安養寺文書の廻状に、福成寺・西光寺の寺名があります。ここからも廻状宛名の寺は、中世末期までに成立していた四国の代表的有力寺院であったことが裏付けられます。今回は、これらの寺の創建事情などを見ていくことにします。テキストは、千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」です。

千葉乗隆著作集 全5巻(法蔵館) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

まず宇多津の西光寺です。この寺の創建について「西光寺縁起」には、次のように記します。
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。

意訳変換しておくと
天文八年十一月、向専法師が、本尊の奇特を感じて西光寺を創建した。向専の父は進藤山城守で其手長兵衛尉宣絞という。子細あって、大谷の本願寺で、発心出家し、本願寺十代証知の弟子となり、法名向専を賜った。

ここには、天文年間に大和国の進藤宣政が本願寺証如の下で出家し、宇多津に渡り、西光寺を創始したと伝えます。これを裏付ける史料は次の通りです。
①『天文日記』の天文20年(1551)3月13日の条に「進藤山城守今日辰刻死去之由、後聞之」とあり、西光寺の開基専念の父進藤山城守は本願寺証如と関係があったことが分かる。
②西光寺には向専法師が下賜されたという証如の花押のある『御文章』が保存されている
③永禄十年(1567)6月に、三好氏の重臣で阿讃両国の実力者篠原右京進より発せられた制札が現存している。
以上から、「西光寺縁起」に伝える同寺の天文年間の創立は間違いないと研究者は判断します。
③の西光寺に下された篠原右京進の制札を見ておきましょう。
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
西光寺ではなく「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」とあります。鍋屋というのは地名です。その付近に最初に「念仏道場」が開かれたようです。それが元亀2年(1571)に篠原右京進の子、篠原大和守長重からの制札には、「宇足津西光寺道場」となっています。この間に寺号を得て、西光寺と称するようになったようです。

宇多津 讃岐国名勝図会2
宇多津の真宗寺院・西光寺(讃岐国名勝図会 幕末)
 中世の宇多津は、兵庫北関入船納帳に記録が残るように讃岐の中で通関船が最も多い港湾都市でした。そのため「都市化」が進み、海運業者・船乗や製塩従事者・漁民などのに従事する人々が数多く生活していました。特に、海運業に関わる門徒比率が高かったようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちでした。

6宇多津2135
中世の宇多津復元図 
西光寺は大束川沿いの「船着場」あたりに姿を現す。
 西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。それが「鍋屋道場」の名前になったと推測できます。どちらにしても手工業に従事する人々が、住んでいた中に道場が開かれたようです。それが宇多津の山の上に並ぶ旧仏教の寺院との違いでもあります。
東本願寺末寺 高松藩内一覧
17世紀末の高松藩の東本願寺末寺一覧
つぎに高松の福善寺について見ておきましょう。
福善寺という名前については、余り聞き覚えがありません。 上の一覧表を見ると、福善寺は7つの末寺を持つ東本願寺の有力末寺だったことが分かります。そして、この寺は最初に紹介したように讃岐の寺院としては唯一「天文日記」に登場します。天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
「就当番之儀、讃岐国福善寺、以上洛之次、今一番計勤之、非向後儀、樽持参

ここには「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあり、福善寺が本願寺へ樽を当番として持参していたことが記されています。本願寺の末寺となっていたのです。これが根本史料で讃岐での真宗寺院の存在を証明できる初見となるようです。
 この寺の創立事情について『讃州府志』には、次のように記されています。
昔、甲州小比賀村二在り、大永年中、沙門正了、当国二来り坂田郷二一宇建立(今福喜寺屋敷卜云)文禄三年、生駒近矩、寺ヲ束浜二移ス、後、寛永十六年九月、寺ヲ今ノ地二移ス、末寺六箇所西讃二在り、円重寺、安楽寺、同寺中二在リ

意訳変換しておくと
福善寺は、もともとは甲州の小比賀村にあった。それを大永年中に沙門正了が、讃岐にやってきて坂田郷に一宇を建立した。今は福喜寺屋敷と呼ばれている。文禄三年、生駒近矩が、この寺を東浜に移した。その後、寛永16年9月に、現在地にやってきた。末寺六箇寺ほど西讃にある。また円重寺、安楽寺が、同寺中にある。

ここにはこの寺の創建は、大永年中(1521~28)に、甲斐からやってきた僧侶によって開かれたとされています。

高松寺町 福善寺
高松寺町の真宗寺院・福善寺(讃岐国名勝図会)

それでは、福善寺のパトロンは誰だったのでしょうか?
天文日記の同年7月22日は、次のような記事があります。
「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」

ここには、讃岐の香西神五郎が始めて本願寺を訪れたとあります。香西一族の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。つまり、16世紀中頃には、讃岐の武士団の中に真宗に改宗する武士集団が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者も出てきたことが分かります。
三好長慶政権を支える弟たち
天下人の三好長慶を支える弟たち
どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?
 当時、讃岐は阿波三好氏の支配下にありました。そして、三好長慶は「天下人」として畿内を制圧しています。長慶を支えるために、本国である阿波から武士団が動員され送り込まれます。これに、三好一族の十河氏も加わります。十河氏に従うようになった香西氏も、従軍して畿内に駐屯するようになります。三好氏の拠点としたのは堺です。堺には本願寺や興正寺の拠点寺院がありました。こうして三好氏や篠原氏に従軍していく中で、本願寺に連れて行かれ、そこで真宗に改宗する讃岐武士団が出てきたと推測できます。

西本願寺末寺(仲郡)
願成寺は丸亀平野の農村部にある。

丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれたとされます。
周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。しかし、史料がなくて、今のところ皆目見当がつきません。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。



福成寺は天正末年(1590)に、幡多惣左衛門正家によって栗熊村に創立されたと伝えられます。
この寺も丸亀市垂水町の願誓寺とおなじで、丸亀平野の農村地帯にあります。眼下に水橋池が広がり、その向こうに讃岐山脈に続く山脈が伸びています。境内には寒桜が植えられていて、それを楽しみに訪ねる人も増えているようです。丸亀平野の終わりになる岡の上に伽藍が築かれています。農民の間にも、真宗の教線が伸びてきたことがうかがえます。しかし、その成立過程についてはよくわかりません。

 福成寺
   
以上、廻状宛名の讃岐国六か寺のうち四か寺についてみてきました。残りの正西坊と坊名不明の二か寺については、どこにあったのか分かりません。
ただ、正西坊については、伊予松山の浄念寺ではないかと研究者は考えています。
浄念寺はもともとは三河国岡崎にあった長福院と称する真言宗の寺でした。それが長享年間(1487―89)に、蓮如に帰依して真宗に転じます。そして永禄年間(1558~70)の二代願正のときに、伊予道後に来て道場を開きます。天正14(1586)年、3代正西のときに、本願寺から木仏下付を受けています。讃岐国では所在不明の正西坊は、この伊予国道後の正西坊だと研究者は推測します。その後、慶長年間に松山に移建したといわれています。
以上をまとめておくと
①真宗教団は四国東部の阿波・讃岐両国、とくに讃岐でその教線を伸ばした。
②その背景としては、臨済・曹洞の両教団が阿波、伊予ではすでにその教圏を確立していて、入り込む隙がなかったこと
③それに対して讃岐や土佐はは鎌倉仏教の浸透が遅く未開拓地であったこと。
④それが真宗教団の教線伸張の方向を讃岐・土佐佐方面に向けさせたこと
⑤四国における真宗教団の最初の橋頭堡は、阿波国郡里(美馬)の真宗興正派の安楽寺だったこと
⑤安楽寺は三好氏の保護を受けて、讃岐に教線を伸ばし有力な末寺を建てて、道場を増やしたこと⑦それが安楽寺の讃岐進出の原動力となったこと。
⑧讃岐には、三好氏や篠原氏に従軍して出向いた堺で、真宗に改宗し、菩提寺を建てるものも出てきたこと
⑨宇多津の西光寺のように、海上交易センターとして海運業者などの門徒によって建立される寺も現れたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」
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流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
DSC08543
宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
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千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

塩屋別院3
丸亀の塩屋御坊(讃岐国名勝図会)

 丸亀市の塩屋町には、塩屋別院(御坊)という大きな伽藍をもつ真宗寺院があります。讃岐の真宗寺院の中では飛び抜けて大きい伽藍で気になる存在です。今は西本願寺の四国教区の教務所として、四国の末寺292ケ寺を束ねる役割を果たしているようです。今回は、この寺の創建と江戸時代の運用について見ていくことにします。テキストは、「堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年」 です。
丸亀の塩屋別院の位置 昔の地形図より
丸亀塩田のすぐそばに創建された教法寺(戦前の地図)

この寺は、もともとは教法寺として創建されました。

創建したのは、元和元年(1615)、播州赤穂からやってきた二十数人の製塩集団です。彼らは赤穂でいたときにすでに本願寺の門徒になっていました。塩屋村へ移り、塩浜を開いたときにすぐに念仏道場をひらきます。寛永20年(1643)12月には、本山の西本願寺から木仏・寺号を許され、教法寺と号するようになります。この寺は讃岐の農村部の真宗興正派の寺とは、その創建経過が異なります。塩職人を中心とする門徒集団(講)の発言権が強く、住職との間がギクシャクとした関係にあったようです。
 そんな中で享保16年(1731)正月、三代目住職知観が死去すると、その家族と門徒との間に争いが表面化します。これに対して丸亀藩は、本山・西本願寺の指示を仰ぐように命じます。本山の裁きは、寺を本山へ召し上げるというものでした。こうして住職は追放され、本山の御堂衆の明円寺が当分の間、管理することになります。明円寺は本山門主の留守番役です。

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塩屋御坊(山門)
 3年後の享保19(1734)年に、教法寺は本山の別院として塩屋御坊と呼ばれることになります。いわば本山の直轄管理寺院となったのです。ここまでを整理しておくと、塩屋御坊は当初は赤穂からやってきた製塩集団の念仏道場として開かれたものが、18世紀前半に西本願寺の別院になったという経緯があるようです。こうして別院にふさわしい寺格や伽藍が次のように整備されていくことになります。
享保18(1733)年 西本願寺一四代寂如の御絵下付
享保19(1734)年 教法寺を本山西本願寺の別院化
元文2年(1737)5月 等身の御影御絵が下付。
    (1738)年 御門と築地を建立、京都へ注文してあった釣鐘到着
寛保元年(1741) 台所完成
延享3年(1746) 勘定所完成
同 4年(1747) 二尊絵像の下付
寛延2年(1749)  本堂着工
安永四年(1775) 上棟式挙行
 現在の本堂は、18世紀半ばに着工し、完成までに30年近くの年月を要したようです。こうして塩屋別院には立派な伽藍が整備され「本院建築物の広大壮麗なる点は、郡内(仲郡)寺院中の第一位にあり」と仲多度郡史に記されるほどになります。

DSC05919
讃岐国名勝図会に載せられた塩屋御坊に着色したもの
ちなみに、これらの整備事業には多額の資金が必要です。例えば西本願寺の御影・真影の下付相場は、次のような金額でした。

西本願寺宝物の下付相場

その都度、本寺にはこれだけの奉納金が納められ、謝金以外にも式典などにも多額の資金が必要でした。これだけの資金を準備できる讃岐の真宗寺院は稀だったはずです。塩屋御坊は財政基盤が裕福だったことになります。その財政基盤はなんだったのでしょうか? それはまた後ほど考えることにして、次に進んで行きます。

DSC05908
塩屋御坊(山門から望む本堂)
 塩屋御坊は、先に見たとおり創建過程からして配下とか与力のない一本立ちの寺でした。そのため塩屋御坊講中の力が強く、輪番となった寺々と対立し、良好な関係が築けなかったようです。塩屋御坊のことを、輪番となった唯念寺は、天保12年(1841)正月3日付の手紙で、次のように本山へ報告しています。
……塩屋御坊所儀は御配下并に与力とてもこれ無く一本立の場所の上、時々輪番心配より国内にて講中・世話方と申す者相引立て、繁昌いたし候様に相成行き候に付ては、却て同坊講中共不機嫌に相成り中し候、夫と申すは、御坊勘定所の賄方、外へ相知れ候儀をば大にきらひ候所より和熟致さず候間、増々御坊所えは立入り申さず候様に相成り行き候に付き、塩屋村切りの御坊所に相成り居り申し候……
 
意訳変換しておくと
……塩屋御坊については、配下や与力などがない一本立の寺である。立地条件がいいので、輪番になった寺は讃岐国内から講中・世話方を引立てて、その才覚によって繁昌するようになった。これにたいしては同坊講中の中には、不機嫌な連中もいる。と云うのは、御坊の勘定所の賄方について、外部に知られることを嫌い、避けようとして融和が進まない。そのため外からの門徒が御坊へ立入ることがなくなり、塩屋村だけの御坊所になっている始末だ。

ここからは塩屋御坊が閉鎖的で、外部の講中に対して開かれた存在となっておらず、「塩屋村だけの御坊所」になっていると指摘しています。塩屋御坊は教宣センターとしての機能を果たしていなかったようです。

天保12(1841)年2月に、本山からの巡寺慈眼寺が提出した書簡を見ておきましょう。
一、塩屋御坊所之処在来御直門徒限二而万事御取持申上来候処、近来追々我意之振舞有之、輪番所賄向二不限、御作法向迄も差構候様相成、門徒気辺二不随候ハ交代等申立、且又御坊諸上納之処、御坊内御人少二而、賄向多分入不申、残何貫目と申程ハ村方門徒之処有二相成、且又於領方而も、塩運上之処御坊所有之候故、差寛めニ相成、是又村方之益二相成、格別外御坊とたかい
御殿之御恩を蒙居候。其弁もなく私欲かちに御座候ニ付、丸亀城下講中并高松同行も次第二不綺合二相成候処、当番所唯念寺殿、先般被  仰付候丸亀勘定元方講中を再取立勘定等為致候二就而者、御門御普請之運相成、町同行者勿論、東讃同行も追々帰状いたし、御繁昌二も及懸候処、村方直門徒以前之如く私欲難相成、且御上納金を以、是迄通り恣二酒食二取費候儀難相成候二付、当番番所并元〆講中世話方等相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候
  意訳変換しておくと
一、塩屋御坊の門徒について報告しておきます。この門徒達は、近頃ますます勝手な振舞が目立つようにようになっています。輪番所の賄向に限らず、御作法についても前例を無視することが多く、門徒たちの中には当番寺が従わないのなら、本寺へ交代を申立るべしと言い出す者も現れています。 又御坊が収めるべき上納物も、御坊内の用人が少くなり、賄向もかつてほどは入り用でないはずなのに、残何貫目と村方門徒の云うとおりに差配されています。さらに塩屋町は、塩運上所を御坊が所有しています。それも村方の利益となります。御坊は、格別に高い御殿(西本願寺住職)の御恩を受けています。ところがそれに応えることなく、私欲に走っているように見えます。そのため丸亀城下の講中や高松同行も、丸亀別院の講中のやり方について批判的なものが増えています。
 当番所の唯念寺殿は、先日次のように申しつけました。丸亀勘定元方講中を再取立てて勘定などの取り扱わせる。御門普請について、町同行はもちろん、東讃同行門徒にも寄進を募り、繁昌に見合うだけの寄進を行うなど、村方門徒も以前のように私欲なく、上納金を酒食に使うなどのことがないように、当番番所や元〆講中世話方が相嫌、当輪番与不和合相企候基二御座候

ここには丸亀御坊の講中は、御恩をわきまえずわがままばかりしているという評価が周りからでていることが報告されています。
DSC05907丸亀別院
塩屋御坊(別院)の山門と背後の本堂
これに対して、2ヶ月後の4月に塩屋御坊の講中は、本山からの使者石田小右衛門に口上書を差し出して、次のように反論しています。
一、塩屋村惣道場教法寺智観、自庵之企二付享保十六亥暦より三四ケ年之間村中騒動仕候而御領法御厄介二相成、
終二者
御本山依御慈悲二教法寺寺跡御取上御坊二被為仰候。其難有さの余り、大造之御堂御再建莫大之御借財二および、村中たばこを止め、正月の餅を不揚、心魂を砕しき御修覆相調申候処、去ル文化之頃、輪番最覚寺悪逆を企、大騒動二及、夫より暫く輪番中絶仕、留守居同様二相成居候処、講中共色々心痛仕漸々以前之通輪番被下候様相成申候処、又々唯念寺義最覚寺同様講中不和二相成、御坊廃亡仕候次第、誠二村中之老若男女児女童二至る道悲歎之涙にむせひ、此上は
御本山様へ愁訴歎願仕候あ外無御座与、村中一統決談仕罷在候
意訳変換しておくと
一、塩屋村の惣道場・教法寺の住職智観は、享保16(1731)年から村の講中と対立して、ついには騒動を起こして領法によって追放されました。そして、御本山の御慈悲で教法寺の寺跡は没収し、本山直属の御坊となりました。この措置に歓んだ門徒達は、御堂再建のために莫大な借金をして、そのために村中の門徒はたばこを止め、正月の餅を絶ち、心魂を砕いて修覆に身も心も捧げました。
 ところが文化年間(19世紀初頭)に、輪番寺の最覚寺が悪逆を企て、大騒動を引き起こしてしまいました。そのため輪番は中絶し、留守寺同様の有様になってしまいました。私たち講中はいろいろと心痛し、以前のような輪番制が復活するように申し入れてきました。ところが輪番制を務めることになった唯念寺が最覚寺と同じ様に講中と不和になってしまい、終には御坊は廃亡ということになりました。これについて村中門徒の老若男女児女童に至るまで悲歎の涙にむせんでいます。この上は御本山様へ愁訴歎願するしかないと、村中一統で決議してお願いする処断です。
ここには次のようなことが記されています。
①享保年間に、講中が住職と争い、住職が追放されて、寺は本山に取りあげられ別院となった。
②歓んだ講中は、西本願寺門主の御恩にこたえるために、伽藍整備にとりくんだ。そのため大きな借財ができたので、煙草も止め、正月のモチもつかない様であった。
このような塩屋門徒(講中)と、輪番各寺の両者の言い分には大きな開きがあるようです。
DSC05923
塩屋御坊本堂
 どちらにしても、丸亀御坊というのは丸亀藩における布教拠点となるべき寺院です。それが製塩集団の門徒と当番寺の間で諍いが続き、西本願寺の厄介な荷物になっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 堀家守彦 丸亀市寺院名鑑  1995年

  前回に続いて龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)を見ていくことにします。この書は西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったものです。41冊の内の6冊には、裏に「長御殿(ながごてん)」とあります。これは、西本願寺の中枢部、今で言えば総務部に当たる部署になるようです。「長御殿」の六冊は、上下三段に分かれていて、上段には本寺から末寺へ、下段には末寺から本山へ出した書簡が収められています。そしてその内容は、長御殿の配下の財務、庶務、講、免物など、それぞれの係の記録を整理したもので、「留役所」のものも、ある事件に関連した幾つかの書簡を一か所に集めるという風になっています。いまでいう項目毎にフォルダで整理するスタイルです。その中の嘉永4、5年ごろの書簡の中に、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」をめぐる問題が記されています。今回は、それを見ていくことにします。テキストは 「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」です。

讃岐国名勝図会表紙
 「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)
 嘉永4、5(1851)年ごろと云えば、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」が出版される3年前になります。この「図会」の出版経緯については以前にお話ししましたので、ここでは省略します。父の残した資料や原稿を整理しながら、松岡調による挿絵も次々と仕上がり、この頃は原稿が出来上がってきます。そのため印刷に向けた動きが始まります。当時は、讃岐にはこのような書物を出版できる版元はなかったようで、京都の池田鳳卿に出版を頼んでいます。版下の確認・打合せののために、監水もよく上京していたようです。

4343285-02
  「讃岐国名勝図会 前編第1巻巻頭」(国立公文書館版)
そんな中で、池田鳳卿宅に出入りする西本願寺の用人藤田大学が「讃岐国名勝図会」の版下に目にとめます。中を見ると、記事の中に西本願寺の意に沿わない所があることに気がつきます。そこで上司に報告するとともに、自分の意見を讃岐の梶原藍水に書き送ります。その部分を要約すると、次のように記されています。
①「興正寺末 常光寺」とあるのを「本願寺御門跡御末寺」または「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」とすること
②一向宗という呼び名は讃岐ではよく通じる称号かもしれないが、それを「浄上真宗」と改めること
などを版元の池田を通じて梶原藍水と掛け合っています。
西本願寺と興正寺
京都の西本願寺と興正寺
前回にもお話ししたように、興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのような立場からすると「興正寺末 常光寺」という記述は認めがたいことになります。譲っても「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」でなければならないという立場です。これを書き換えるなら、西本願寺による「一括大量購入」もありうるという話が持ちかけられたようです。今で云うなら出版に関する宗門の介入で、言論の自由に関わる問題になります。しかし、当時は本寺がこのような書物の内容に口出しするのは当たり前だったようです。
 これを聞きつけた東本願寺からは、宗号のことは二の次にしても、東西本願寺を同格に書くのならよいが、西が東より尊いという書き方になれば大きい問題になるとの申入れが入ります。さらに興正寺からは「今のままでよいではないか。それなら興正寺末の四千の寺へ一部ずつ買わせるようにする」と言ってきます。

4343290-32高松寺町
高松城下の寺町その1(讃岐国名勝図会)

 各寺からの申し入れを受けた藍水は、高松藩主や重役から言付けられたことで、自分の考えで書きかえは出来ないと初めは突っぱねます。しかし、西本願寺が末寺への配布のために「一括大量購入」という条件を見せると、書き直しに応じる姿勢を見せます。結局、その後の話し合いがうまくいかずに、記事は改めたものの、本は買ってもらえない結果になってしまったようです。

4343290-33
       高松城下の寺町その2(讃岐国名勝図会)
以上の経緯からは、次のような事がうかがえます。
①東西本願寺や興正寺の僧侶たちは、寺格や本末関係のささいなことまで気にとめていたこと。
②京都の大寺院は「○○国図会」などを大量購入し、全国の末寺に配布していたこと。つまりこの手の書籍のお得意さんは、京都の大寺院であったこと。
③幕末の讃岐では、大型の書籍を大量に印刷できる版元はおらず、京都の版元に依頼していたこと
④そのため書籍出版の打合せなどのために、知識人が京都を訪れ、相互の情報交換が活発に行われていたこと。これが幕末の各国ごとの図会出版の流れを生んだこと。

「讃岐国名勝図会」巻五の末尾
  讃岐国名勝図会 後編や続編の広告が載せられているが未完
 ちなみに讃岐國名勝図会は、前編7巻(大内郡から香川郡まで)だけが1854年に出版されます。その後も梶原藍水は、後編の出版に向けて準備を進め、原稿は出来上がっていきます。しかし、これが出版されることはありませんでした。原稿のまま明治を迎え、彼の死後に受け継いだ息子は、明治政府に原稿を献本しています。それが鎌田博物館に保存されていることは、以前にお話ししました。

4344097-05
讃岐国名勝図会後編の推薦文 安政4年となっている

 どうして原稿が出来上がっていたのに出版できなかったのか。
ひとつ推測できるのは資金難です。前編を出版し、その売上金を資金に後編を出版しようとしていたと思われますが、それが回収できなかったことが推測できます。大量購入先と思っていた西本願寺との交渉が行き詰まったことは先に述べました。それなら興正寺が買ってくれたのでしょうか、これもよくわかりません。讃岐国名勝図会は、各資料を参考にした考証的な性格で、挿絵も松岡調による緻密なもので後世の評価は高いものがあります。しかし、採算的ベーズには乗らなかったのかもしれません。それが、前編だけの出版に終わった原因としておきましょう。

4344097-09岩瀬尾八幡
高松の岩瀬尾八幡

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明    資料紹介「讃岐國諸記」について    香川の歴史2号 1982年」
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讃岐の真宗寺院には東西本願寺の末寺は少なくて、興正寺の末寺が多いことは以前にお話ししました。これは高松藩の興正寺保護政策の成果という面もあります。高松藩がどうして興正寺を保護したかについては、藩祖松平頼重との次のような特別な関係がありました。
①頼重の娘万姫が興正寺へ養女にゆき、
②興正寺の子供超秀は頼重の猶子として1ヶ月、高松城内にいて、仏光寺の間跡となったこと
このような姻戚関係があったために頼重は、高松の興正寺別院(高松御坊)を保護し、御坊川のあたりの寺領を今里村に地替えし、百五十石の朱印地を与えています。高松御坊の代僧となったのが勝法寺です。この寺はもともとは大和国吉野にあった寺で、それが讃岐に移り、三好実休から寺領をもらって、生駒家の時に城下の現在地に移った寺です。それを頼重は高松御坊を修造し、勝法寺を北隣へ移して御坊を守らせることにしたことは以前にお話ししました。

高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺と高松御坊(讃岐国名勝図会)

 興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。
しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのため西本願寺と興正寺とのあいだでは、諍いが何度もあり、指導者同士も反目し合っていたようです。そんな中で、興正寺直営の勝法寺は、高松藩における西本願寺の触頭を務めていました。
 西本願寺と興正寺の関係がギクシャクしているので、勝法寺は西本願寺の云うとおりには動かず、西本願寺は取扱に苦慮します。そんな一コマが見えてくる史料が西本願寺に残されています。それが龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)です。これは、西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったもので、金毘羅宮の学芸員であった松原秀明氏が紹介しています。
この中に、天保12年(1841)11月、高松の勝法寺との関係改善のために使僧慈眼寺が高松に派遣されます。西本願寺に残された報告書がには、次のように記されています。

高松勝法寺殿是迄丸々 興門様味方、役寺講中ハ勿論之事二御座候、依之 御殿之庭悪軽二取成仕、尤 興殿役人よりも少々二而も 御本殿御取持之振候得者、相嫌ひ候様子二御座候。然ル処、此度拙寺罷越候之処、始者殊之外諸方悪敷取附嶋も無之段之儀二候。夫より段々御殿之御趣意を申話し候処、実二心底より改心二相成、巳来者急度御取持可申上与役寺両寺二いたる迄心底相改り申候。実二御高徳之顕与奉存候。右触頭さへ改り候ハゝ追々相開ヶ可中与奉存、たとへ此度巡寺は出来不申候とも触頭さへ右之心中二相成候ハゝ、國ハ追々と相開ケ可申儀二御座候。(下略)
 
意訳変換しておくと
高松勝法寺殿はこれまでは、興門様(興正寺)の味方で、役寺講中は勿論のこと、西本願寺に対しを軽視し悪し様に取り扱っていると思っていた。しかし、勝法寺は西本願寺に対してばかりでなく、興正寺役人にたいしても嫌悪感を持っていることが分かった。それは今回、私が実際に高松の勝法寺を訪問したところ、こちらに対する悪印象や態度を示さなかったことからもうかがえる。実際に会って膝を突き合わせ、西本願寺の御殿の御趣意を伝えた所、心底より改心した様子であった。そして、急ぎ与役寺の両寺を呼んで話をした所、これも心底から態度を変えると約束した。これはまさに西本願寺御殿の高徳のいたすところである。触頭寺である勝法寺の態度さえ改まれば、追々に道は開けてくる。たとへ今回は、高松藩内の寺々を巡寺出来なくとも、触頭寺を味方につけることができたので、讃岐については追々と相開けていくことが期待できる。(下略)

西本願寺に対して悪し様であった高松藩触頭寺の勝法寺の態度が、直接に出向いて話し合った結果、関係が改善される兆しが見えてきたことを使者は、西本願寺に報告しています。ところがそれは見込み違いだったようです。6年後の弘化4年(1847)には、触頭勝法寺への通達は、すべて興正寺の添書がないと讃岐の国内には通用しないと高松藩は言い出します。これは西本願寺が讃岐に出す通達について、興正寺の認可が必要だということです。興正寺を自分の末寺としか認めない西本願寺としては、認めがたい事態です。通達の許可を末寺の興正寺に求めなければならないのですから。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
このような状況打開のために、西本願寺は動き出します。高松藩の家老・本村駄老が上京する時を捕らえて、次のような文書を出しています。
(前略) 右様御領方二於て御寺法用道之趣意御聞取無之候ハ而者難相成義哉、此段及御尋問申度、右者全新規之義二而、御寺法差支之次第二候得者、何卒先規仕来之通ニ而相済候様致度、興正寺御関迄も当本山御木寺之事故、前以御用向之御趣意柄申達候義ハ難相成筋二御座候。新規之義彼是御寺法差支二付、於其御領方、是非趣意柄御承知被成度義二御座候ハゝ、拙者共とも其度毎御家司中亦者寺社役中迄申入候義ハ格別、前件之次第二而者、何共差支候二付、貴様造□急度拙者共ども及内談候間、右辺之所御汲取、御領方之御振合預御聞繕度、尤拙者共両人掛り之義二付不得止事及御内談候事(下略)

  意訳変換しておくと
(前略)高松藩領内での今回の通達は、西本願寺の意向を聞取ることなく実施されたもので寺法に差し障りが生じ、大きな問題となっている。今回の通達は、まったく新規のことで、寺法に差支えがありますので、何卒、先規に従って興正寺の添書がなくても当本山(西本願寺)通達が出せるように、前々のように改めていただきたい。新規のやり方だと、当寺にとっては大きな差支がある。代案として高松藩領内の末寺への通達や連絡について、私どもはその度に毎回、高松藩の役人か、寺社役人へ申入れを行うことを提案する。この代案を受けて、以前通りの取扱としていただきたい。繰り返しになるが新規方法は、差支がある。このことについて、高松藩と拙者方で協議したい。以上を汲取っていただき、高松藩領内における西本願寺からの通達について聞き届け頂き、改善いただきたい。そのためにも拙者との内談の場を設けて欲しい(下略)

 ここからは西本願寺の担当者の悲鳴のような要請が聞こえてきます。通達のたびごとに、西本願寺から藩の役人、また寺社方へお断りするから、興正寺の添書をもらうことは勘弁して欲しい、そのためにも内談の場を設けて欲しいという内容です。しかし、家老の黙老は、本願寺からの内談要望が伝わってくると、京都見物にかこつけて留守を使い、容易に会おうとはしません。黙老自身が興正寺内の牧家の親類であるうえに、高松勝法寺へは二女が嫁いでいるという婚姻関係をもっていました。つまり、高松藩の家老は、興正寺や勝法寺の身内でもあったのです。初代藩主の松平頼重が幾重もの婚姻関係を興正寺と結んでいたことは以前にお話ししました。それを受けて、以後の高松藩の重臣達の中には、興正寺と婚姻関係を持つ者が多く、幾重にもそのネットワークは結ばれていたのです。高松藩には「興正寺応援団」が広く広まっていたようです。
西本願寺と興正寺
西本願寺と興正寺の伽藍 隣り合ってある
 興正寺は本寺である西本願寺に反発し、「独立」を目指しますが、幕府は「本寺からの勝手な独立は認めない」という原則を貫きます。このため江戸時代に興正寺の独立が適うことはありませんでした。それが実現するのは、明治になってからです。興正寺は全国の末寺を引き連れて「独立」しようとします。これに対して西本願寺は、引き留め運動を展開します。こうして、興正寺末寺は、興正寺に着いていくか、興正寺末寺を離れて西本願寺につくかの選択を迫られることになります。興正寺末寺の多かった讃岐は、この渦中に巻き込まれていきます。ここで大きな影響力を持ったのが、旧藩主の松平氏だったようです。高松藩と興正寺の親密な関係から、讃岐の興正寺末寺に対して、興正寺に残るようにと影響力を行使します。そのため高松藩では、全国から比べると興正寺末寺に残った寺の比率が高いようです。興正寺の独立を陰で支えた高松藩ということになるのかもしれません。

興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺
御領分中寺々由来 17世紀後半 安楽寺末を除く)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

尊光寺木仏下付
尊光寺(まんのう町炭所)の木仏尊像御免書

西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。
『木仏之留』とは、本願寺が末寺に木仏などを下付したことの控えのために『御影様之留』という記録に、その裏書を書き写したものです。17世紀末成立の「高松藩御領分中寺々由来書」に出てくる真宗寺院で、西本願寺の「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など次の22ヶ寺のようです。
「木仏下付=寺号付与」はセットでしたので、本山側の記録に記録があるということは、その寺の寺号獲得時期が確認できる根本史料ということになります。西本願寺の「木仏之留」に記された讃岐真宗寺院21ヶ寺(明源寺を除く)を「寺々由来書」の配列通りに並べて、その下に「木仏之留」の記事を注記したのが次の表5になります。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩真宗寺院の木仏下付一覧表
ここからは、どんなことが見えてくるのでしょうか。まず気づくのは、寛永18(1641)年8月に木仏の授与を受けている寺が多いことです。寛永18年組と呼び、そのメンバーを見ていくことにします。

興正寺の中本寺・常光寺(三木町)の末寺である常満寺・常善寺・蓮光寺が「寛永18年」組です。

木仏下付 常光寺末寺
常光寺末寺の木仏下付寺院一覧
日付を見ると8月中頃に、2・3日の違いで「木仏下付=寺号承認」されています。これらの寺の「興正寺には孫末、常光寺には直末」という関係は、「寺々由来書」ができる延宝初(1673)年になっても変わりなく続いています。
 一方、福住寺・信光寺・西徳寺も寛永18年8月組です。
これらの寺は、木仏下付のあった寛永18年8月当時は常光寺の直末でした。それが「寺々由来書」が成立した17世紀後半には専光寺の末寺となっています。常光寺に対しては、直末でなく孫末ということです。この期間に、常光寺と三ヶ寺の間に専光寺が介在するようになったようです。
同じようなことが常光寺末の徳法寺にも観られます。
この寺の木仏下付も寛永18年8月です。その時に西本願寺では「興正寺直末」と記録しています。それが延宝初年までには、常光寺末寺の覚善寺の末になっています。この背景には何があったのでしょうか? 例えば、政治的な介入が考えられます。以前に「常光寺記録」には、松平頼重が常光寺から末寺を取り上げようとしたことが次のように記されていることを見ました。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺も持つ有力な寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

 松平頼重は常光寺から専光寺をとりあげて、自分の養子が門主となった京都の仏光寺の末寺としようとします。このように当時は、藩主などの政治的な思惑で本末関係が変更されることもあったようです。


安養寺末寺の木仏下付
安養寺末の養専寺と専福寺
安養寺末の養専寺と専福寺も木仏下付は寛永18年8月組です。
安養寺は安楽寺の末寺で、塩江から髙松平野に掛けての安楽寺の教線ライン伸張の拠点寺院だった寺院です。そのため末寺も多い有力寺院で、高松御坊を支えるために伽藍がその南に移されたことは以前にお話ししました。ここには「安楽寺下安養寺下」とあり、安養寺が阿州安楽寺下であったことが記されています。
「常光寺記録」には、安養寺のことが次のように記されています。
「殿様御通之節阿州安楽寺義途中二而無礼仕蒙御咎ヲ以来御国江出勤無用被抑付候右二付安楽寺(高松)御坊江出勤指支御座候故香川郡川内原村二罷在候安楽寺末寺安養寺,安楽寺代僧二御坊江指出申候」

  意訳変換しておくと
お殿様に対して阿州安楽寺は、無礼なことがあった。それを咎められて以後は、安楽寺は讃岐への出入りを禁止された。そのため安楽寺は(高松)御坊へ出向くことができなくなり、香川郡川内原村にある安楽寺末寺の安養寺を、安楽寺代僧として高松御坊へ出仕させた。

ここからも松平頼重治世のはじめには、中本寺の安楽寺に代わって安養寺が、高松御坊を支えるてらとなったことが記されています。安養寺の寺伝もそれを裏付けるものになっていることは以前にお話ししました。

尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末の木仏下付寺院

阿州安楽寺の末寺で、寛永18(1641)年8月組は慈光寺(岡田)・長善寺(勝浦)です。
西長尾城周辺の岡田や羽床には、長尾氏を祖とする系図をもつ真宗寺院が多いようです。その中でも、慈光寺(綾歌町岡田)・長善寺(まんのう町勝浦)が木仏を下付された時期がはやいようです。さらにそれよりも30年早い慶長19(1614)年8月に木仏を受けているのが尊光寺(まんのう町炭所)になります。尊光寺の由緒書きを見ると「興正寺下鵜足郡尊光寺」で、慈光寺・長善寺は「興正寺門徒安楽寺下」です。ここからは、当時の尊光寺が興正寺直末であったことがうかがえます。それがいつのころにか、阿波の安楽寺の末寺になったことになります。それは、いつからなのでしょうか。
  慶長12(1607)年に木仏を下付された安楽寺末の安養寺も、その頃は「興正寺下香東郡安原庄河内原村安養寺」とあります。ここからも慶長年代は、尊光寺と同じように興正寺の直末だったようです。それが寛永末(1644)年には「興正寺門徒安楽寺下安養寺」と記されるようになります。そして延宝初(1673)年には、また興正寺の直末と記されるようになります。ここからは17世紀前半の慶長から寛永にかけては、本末関係も坊号・寺号と同じように改変が頻繁に行われていたことがうかがえます。この背景には、何が考えられるのでしょうか。末寺と興正寺、中本寺・安楽寺との力関係や住職との関係で左右したのでしょうか。この当たりはよくわかりません。それが「寺々由来書」の成立時期の17世紀末は、固定化していくようです。
  以上をまとめておくと、
①讃岐の真宗寺院の「木仏下付=寺号付与」の時期は、本願寺の東西分裂後がほとんどである。
②特に木仏下付が集中するのが寛永18(1641)年8月である。
③寛永18年下付の寺々で、尊光寺や安養寺など下付の時には興正寺直末とされている。
④しかし、その後は中本寺の安楽寺末寺とされた寺もある。
⑤以上から17世紀中は、本末関係や寺名なども大きな変化があり、流動的であったことがうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
ます。

阿野郡の郷
鵜足郡坂本郷(現丸亀市飯山町+綾歌町+垂水町周辺)
寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村 乗正坊
C 南条郡羽床村  乗円坊
D 南条郡羽床村  弐刀
E 北条郡坂出村  源用坊
F 宇足郡岡田村  了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村  源勝坊
これらの各坊が寺号を得て、その後になんという寺になったのかを探ってみることにします。
「由来書」には郡名だけで村名がないので、特定しにくいようです。それに対して、前回に紹介した鎌田共済会図書館所蔵の「國中諸寺拍」には村名まで書かれています。その内の那珂郡垂水村には、真宗寺院が五ヶ寺あって他宗の寺はありません。そのうち西坊については「常光寺末那珂郡円徳寺末西之坊」で、「Gの仲郡たるミ(垂水)村西坊」であることが分かります。

常光寺末寺 円徳寺
垂水の西坊をめぐる本末関係

それでは垂水村のもうひとつの「A明雲坊」は、どうでしょうか?
現在の垂水には、願誓寺・善行寺・西教寺(下表60)・浄楽寺があります。

真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の高松藩内の末寺(高松藩御領分中寺々由来書)
このうち三木郡常光寺末の善行寺(上表59)は「僧明誓の開基」とあります。明誓と明雪は音が近いので、明誓坊が明雪坊なのではないかと想像できる程度です。明誓坊が善行寺になったかどうかの確証にはなりません。あとはよくわからないとしておきます。

岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
現在、上の航空図のように岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。
尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末寺の木仏付与時期

坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。
つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。
ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
E 北条郡坂出村の源用坊については、
「國中諸寺拍」には坂出村には教専寺が記されているだけです。それが「由来記」には教善寺、「本末帳」は教専寺になっています。この寺は寛永年中の開基で、「讃岐国名勝図会」では玄諦の草創と記します。玄諦のころには源用坊と呼ばれ、それが教善寺 → 教専寺と変化したことが推測できます。

長尾氏 居館
慈泉寺と超勝寺は長尾氏の居館跡と伝えられる
現在のまんのう町長尾には、西長尾城主の館跡とされる慈泉寺と超勝寺があります。17世紀末の「由来書」と幕末の「讃岐国名勝図会」ともに、次のように記します。
①慈泉寺は大永年中(1521~28)に僧祐善の開基、
②超正(勝)寺は永正年中(1509~31)僧玄了の開基
玄と源が同音だから玄了は源勝坊であったことが想像はできます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、長尾村には慈泉寺と超勝寺があり、共に阿州安楽寺末と記されています。 ここからは源勝坊が寺号を得て超勝寺になったことが推測できます。もしそうなら超勝寺が寺号を得たのは、17世紀半ば以降のことになりますが木仏付与の書類は残っていません。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺末寺(17世紀末の御領分中寺々由来)

寛永21(1644)年の「坂本郷吉利支丹御改帳」に出てくる真宗の九坊を観てきました。
しかし、確かなことは何も分からないと研究者は考えているようです。ただ生駒騒動後に成立した高松藩や丸亀編では、この頃は真宗道場の寺院化がすすむなかで坊号・寺名の改変が頻繁に行われていたこと、そして、寺号を得て坊から寺へと成長して行くのも、この時期が多かったことはうかがえます。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩の真宗寺院に木仏付与された時期一覧
また、坂本郷で行われた宗門改めに寺号をもつ14ヶ寺と同じように、寺号を持たない各坊も参加してたことが分かります。本願寺からは寺号を許されない坊でも、高松藩は寺として認め、宗務に参加させていたようです。寛文・延宝期になっても、そのことに変わりがなかったことは「本末帳」に貼付された次の記事からも分かります。
寛文元年丑ノ壬八月吉□
山田郡林之郷吉利支丹御改出家帳
人数三人内    弐人男 壱人女 了遊 印
一 了遊    歳五拾五 
一 くりもり  年五十三
一 男子小大郎 歳十九
右之了遊家内男女共拙僧旦那二御座候以上
山田部十川村
真宗 高木坊 印
高木坊は「由来書」では安養寺末山田郡光清寺となり、「文明年中高木坊与申僧」の開基だと書かれています。寛文元年にも寺号はなく高木坊のままですが、宗門改を行っていることが分かります。ここに記された了遊も「一くりもり」という女と一緒に生活し、妻帯していて「拙僧旦那二御座候」とあるので高木坊の檀家であることを保証しています。高木坊が宗門改めに加わっていたことが分かります。

今回はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」

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