瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2023年09月

     佐文と象頭山
  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

P1250070
芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
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鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。           奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「賞・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町)   「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。

前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと

今回は、その後の史料でどんな点が問題になっているのかを見ていくことにします。

坂出 大藪・林田
阿野郡北条 高屋・青海村

調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
七月十二日
渡辺与兵衛 様
渡辺七郎左衛門 様
尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
  意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。
又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。

滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。

この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、
一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候
渡辺与兵衛
七月十四日
鴨   氏部   林田 西庄  江尻   福江 坂出  御供所
右村々政所中

  意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。

一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。

以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
現代と江戸の時刻の対応表 | - Japaaan
 
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社

ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
 以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
 そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
 ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
 高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
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白峯寺の善女龍王社

19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
 ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊
関連記事

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
関連記事

          
  宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。
②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと
③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。

安政東海地震・安政南海地震(安政元年11月5日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害

安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。

東海地震と南海地震の連携
 東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。
この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
3坂出海岸線 1811年
塩田が出来る前の1811年頃の坂出村
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。

①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
 
意訳変換しておくと
11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。

   ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。

②  五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ 
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也

   意訳変換しておくと
②  五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。
 新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。

製塩 坂出塩田 久米栄左衛門以前
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
以上大破之分
右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
以上小破之分
右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
   意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。
この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。
灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。
以下の4艘は小破であった。
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
大坂の木津川と安治川

④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
 また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク
一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、
森田健助
鎌田多兵衛
本条和太右衛門サマ
渡辺五百之助サマ
右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、
阿河加藤次
十一月十五日
内濱  新濱
屋内  洲賀
新地
       意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
 一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。

④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。

讃岐阿野北郡郡図2 坂出
阿野北郡郡図

⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ
一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ
一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、
十一月十六日出
( 中略 )
  意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。

一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。
一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。
一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、
十一月十六日出( 中略 )

ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
  雨乞いのお礼のために踊られたのが、滝宮(牛頭天王)社に奉納された念仏踊りでした。同じように、神の加護お礼に、神楽が奉納されています。天変地異と神の関係が近かったことがうかがえます。

坂出風景1
坂出
墾田図
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス
評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
     意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。
評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
  大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク
筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
近藤本之進
十一月念三日
坂出村
宮崎善次郎サマ
人々御中
      意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。
筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ
一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク 
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
  意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。
一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル
一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル
一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、
評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、
評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、
又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )

  意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生
一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した
一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。
評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。
25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。
 これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。
評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。
評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
   地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正
か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、
十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
  意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。
24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史
参考文献
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
関連記事

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

 
「金毘羅名勝図会」(1819)に描かれた多度津港を紹介しました。すると、その後に出された「金毘羅参詣名所図会」で、多度津の名勝が紹介されている部分を見たいというリクエストがありましたので、資料としてアップしておきます。なお、金毘羅参詣名所図会の閲覧方法については、以下の方法があります。
① 香川県立図書館デジタルライブラリーで「金毘羅参詣名所図会」と検索すれば、すべてを閲覧できます。
②書物としては、歴史図書社 昭和55年発行  (古本屋価格5000円~)
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
①海岸寺本坊
②白方屏風ヶ浦と海岸寺奥の院
③多度津湊
④道隆寺
それでは、①の海岸寺から、絵図と意訳変換文のみを紹介していきます。 
多度津 海岸寺
海岸寺(金毘羅参詣名所図会)

海岸寺2 金毘羅参詣名所図会
海岸寺本坊
本  坊 奥ノ院の境内とは離れて別に伽藍がある
方丈客殿 庫一長・大師堂などがある。
   海岸寺奥の院 金毘羅参詣名所図会
海岸寺奥の院
海岸寺奥の院
奥 院 弘法大師の幼児尊像で、長二尺あまりの大師誕生の尊像で、大師35歳の時の自作という。
脇 壇 左右に大師の父母の木像が安置されている。
大師堂 本堂のそばにあって、正面が弘法大師の像、左右に薬師・観音を安置。これは天霧城主であった香川山城守の念持仏と云う。
浴巾掛松 大師堂の前にある松で、大師が幼稚の時に浴巾を掛けたまう松と云う。今は枯れて、雨覆いを作りって若木を植えてある。

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雨乞寺蔵 早魃の時に雨乞いを祈念する。霊験あらたなりと云う。
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産湯水(海岸寺奥の院)
産湯水  大師誕生の時に産湯として使った清水。眼病者が、この清水で洗えばすぐに治癒するという。
子育観音 産水の傍にある。
産盥 大師が誕生の時につかった盥だと云う。近頃、ここに納めて参観が禁止されている。五岳山善通寺は誕生院と号し、大師誕生の旧地だと云う。ところが海岸寺も誕生の古跡と主張する。どちらが本当なのか分からない。一説には大師の御父、佐伯善通は多度郡の郡司を領し、今の善通寺で生活していたが、郡港の白方にも別宅を持っていて、弘法大師はそこで生まれたという説もある。
海岸寺や仏母寺は、近世初頭から「弘法大師生誕の地・屏風ヶ浦」
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。

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熊手八幡宮
屏風が浦の多度津街道沿いにある。多度津から十丁程で、乾方になる。
本社  祭神応神天皇
末社  本社の傍らに数多列す。
神興合・鐘楼・随身門  額に弘法大師産の神社とある。
熊手八幡の別当寺が仏母寺でした。

多度津湛甫 33
多度津湊 
   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。
道隆寺 金毘羅参詣名所図会
       桑田(そうでん)山明王院道降寺                      

(本堂裏の道隆塚)前の標石には「道隆親王の塚」とあるが、道隆は親王ではない。道隆寺は四十三代元明天皇の時代に、和気の道隆という人物が創建したと伝えられる。

道隆寺 道隆廟
開祖道隆公(道隆寺)
道隆は景行天皇十二世の末裔で、父は那珂郡木徳の戸主和気淳茂の次男である。かつて道隆の所有する北加茂の土地に、千株の桑を植えた。これが「讃岐国の桑園」と呼ばれるものである。この桑園の中に一丈五尺の大木あった。種々な怪奇現象が起こるので、この木を伐って薬師如来を彫刻させて、小堂を作りて安置した。道隆は、日夜これを拝んだ。そして、神護二丙午年秋七月十五日午之刻、年齢99歳で亡くなった。
 その孫の朝祐が、延暦十二癸来年なって、霊魂のお告げを聞いて、弘法大師に会った際に先祖のことをかたり、例の桑の大木から作った仏を見せて、小像なので、もっと大きな仏像を造って欲しいと大師に請うた。大師は、その先祖供養の篤信に感じ入り、長二尺五寸の薬師如来を造り、今までの桑仏をその仏の胎中に納れ、永世不失の秘仏とした。
 こうして朝祐は深く仏教に帰依し、髪を剃って戒をうけ出家した。そして、家財・財宝を捨てて、住居をお堂として大師が造った木尊を安置して、大師を供養した。そして、境内四町四方を伽藍として堂塔を建立した。先祖道隆の名前を寺号とし道隆寺とした。弘仁末年朝祐人道、大師を請じて結縁灌頂が執行された。遠近の数多くの僧侶や民衆が道隆寺に集まり、市を為すほどであった。この時に寺を十余宇作って、群参した人々を入れた。

道隆寺薬師堂
道隆寺薬師堂(戦前の絵はがき)
 その後、道隆寺は学問寺として仏法繁興の区となり、弘法大師の弟である真雅僧正や、後には聖宝尊師もこの寺の住職を務めた。ところが兵火に罹り、殿堂は悉く焼失し、現在では、昔の繁栄ぶりを想像することもできない。しかし、往古の繁栄ぶりと伝える遺具や什宝は、数多く残されている。それはあまりに多いので、ここでは省略する。

DSC05233多度津賀茂神社
多度津の賀茂神社


祭神  鴨大明神を祭る。
道隆寺寺記には次のように記されている。村上天皇天暦元丁未年春二月、那珂郡真野の池(満濃池)の堤が崩壊することが数度に及んだ。そこで、興憲に詔して、地鎮と鎮守明神の遷宮を執り行わさせた。これが道降寺第七世と云われる。
義経寄附状  義経が屋島島合戦の際に、当社で祈願を受けた。翌年、戦勝祝いとして神納した寄附状である。
大般若経  武蔵坊弁慶が寄進した伝わる。右当社の什宝とし、虫千の砌拝見せしむ。
道隆寺伽藍の図の末尾に)
備中の国より此の寺に来りて、大師の忌に四国遍路の旅人に、飯菜をととのえて施しける供養にあひてはるばると吉備の中山なかなかに 高きめぐみと仰ぐもろ人            未曽志留坊
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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暗夜行路

第一世界大戦の前年の1913(大正2)年2月、志賀直哉は尾道から船で、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。

そのころの直哉は、父親との不仲から尾道で一人住しをしていました。30歳だった彼は、次のように記します。

『二月、長篇の草稿二百枚に達す。気分転換のため琴平、高松、屋島を旅行』

この旅行を基に書かれたのが「暗夜行路」前編の第2の4です。この中で、主人公(時任謙作)は、尾道から船で多度津にやってきます。「暗夜行路」は私小説ではありませんが、小説の主人公の讃岐路は、ほぼ事実に近いと研究者は考えています。今回は、暗夜航路に描かれた多度津を当時の写真や資料で再現してみたいと思います。
瀬戸内商船航路案内.2JPG

まず、暗夜行路に描かれている多度津の部分を見ておきましょう。
「①多度津の波止場には波が打ちつけていた。②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。③丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、③彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
もう其男もついて来なかった。④郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、⑤直ぐ近い停車場へ行った。
 ⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
多度津について触れているのは、これだけです。この記述に基づいて桟橋から駅までの当時の光景(文中番号①~⑦)を、見ていくことにします。
DSC03831
多度津港出帆案内(1955年) 鞆・尾道への定期便もある

①多度津の波止場には波が打ちつけていた。
前回に見たように、明治の多度津は大阪商船の定期船がいくつも寄港していました。多度津は高松をしのぐ「四国の玄関」的な港でした。多度津港にいけば「船はどこにもでている」とまで云われたようです。中世塩飽の廻船の伝統を受け継ぐ港とも云えるかも知れません。
 
 瀬戸内海航路図2
瀬戸内商船の航路図(予讃線・山陽線開通後)
多度津港は尾道や福山・鞆など備後や安芸の港とも、定期船で結ばれていました。当時、尾道で生活していた志賀直哉は、精神的にも落ち込むことが多かったようで、気分転換に多度津行きの定期船に飛び乗ったとしておきましょう。

尾道港
尾道港(昭和初期)
 尾道からの定期船は、どんな船だったのでしょうか?

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。多度津桟橋に停泊する二艘の客船が写されています。前側の船をよく見ると「をのみち丸」と船名が見えます。こんな船で、志賀直哉は多度津にやってきたようです。

 多度津の波止場は、日露戦争後に改修されたばかりでした。
天保時代に作られた多度津湛甫の外側に外港を造って、そこに桟橋を延ばして、大型船も横付けできるようになっていました。平面図と写真で、当時の多度津港を見ておきましょう。
1911年多度津港
明治末に改修された多度津 旧湛甫の外側に外港を設け桟橋設置

暗夜行路には「②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。」と記します。

1911年多度津港 新港工事
外港の工事中写真 旧湛甫には和船が数多く停泊している

 旅客船が汽船化するのは明治初期ですが、瀬戸内海では小型貨物船は大正になっても和船が根強く活躍していたことは以前にお話ししました。第一次大戦前年になっても、多度津港には和船が数多く停泊していたことが裏付けられます。

1920年 多度津港
多度津港(1920年頃 東浜の埋立地に家が建っている)
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。
暗夜行路③「丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。」

多度津外港の桟橋2
多度津外港の浮き桟橋 引き潮時には、堤防には急な坂となる
浮き桟橋から一文字堤防への坂を登って、東突堤の付け根から東浜の桜川沿いの道を急ぎ足であるいて、郵便局までやってきます。

多度津港 グーグル
現在の旧桟橋と旧多度津駅周辺

郵便局は商工会議所の隣に、現在地もあります。このあたりは、ずらりと旅館が軒を並べて客を引いていたようです。
多度津在郷風土記
「在郷風土記 鎌田茂市著」には、次のように記します。
 大玄関には、何々講中御指定宿などと書いた大きい金看板が何枚も吊してあり、入口には長さ2m・胴回り3mにも及ぶ大提灯がつるされ、それに、筆太く、「阿ハ亀」「なさひや」など宿屋名が書かれてあった。
 団体客などの時は莚をしいて道の方まで下駄や、ぞうりを並べてあるのを見たことがある。夕やみのせまって来る頃になると、大阪商船の赤帽が、哀調を帯びた声で「大阪・神戸、行きますエー」と言い乍ら、町筋を歩いたものである。
 また、こんな話を古老から聞いたことがある。多度津の旅館全部ではないだろうが、泊り客に、この出帆案内のふれ込みが来てから、急いで熱々の料理を出す。客は心せくのと、何しろ熱々の料理で手がつけられないので、食べずに出てしまう。後は丸もうけとなる仕組みだとか。ウソかほんとかは知らない。
 主人公は、並ぶ旅館街で郵便局の窓から顔を出していた閑そうな局員に道を尋ねています。どんな道順を教えたのかが私には気になる所です。郵便局から少し北に進むと、高松信用金庫の支店が建っています。ここには、多度津で最も名の知れた料亭旅館「花菱(びし)がありました。

花びし2
多度津駅前の「旅館回送業花菱(はなびし)

多度津に船でやって来た上客は、この旅館を利用したようです。花菱の向こうに見える2階建ての洋館が初代の多度津駅です。花菱と多度津駅の間は、どうなっていたのでしょうか?

花びし 桜川側裏口
多度津の旅館・花菱の裏側 桜川に渡船が係留されている
多度津駅側から見た花菱です。宿の前には立派な木造船(渡船)が舫われています。駅前の一等地に建つ旅館だったことがうかがえます。

多度津駅 渡船
初代多度津駅前の桜川と日露戦争出征兵士を載せた渡船(明治37年 

渡船には、兵士達がびっしりと座って乗船しています。外港ができる以前は、大型船は着岸できなかったので、多度津駅についた11師団の兵士達は、ここで渡船に乗り換えて、沖に停泊する輸送船に乗り移ったようです。「一太郎やーい」に登場する兵士達も、こんな渡船に乗って、戦場に向かったのかも知れません。

明治の多度津地図
1889年 開業当時の多度津駅周辺地図(外港はない)

 志賀直哉は、花菱の前を通って、金毘羅橋(こんぴらばし)を渡って多度津駅にやってきたようです。当時の多度津駅を見ておきましょう。
DSC00296多度津駅
初代多度津駅
初代の多度津駅は、1889年5月に琴平ー丸亀路線の開業時に建てられた洋風2階建ての建物でした。
初代多度津駅平面図
初代多度津駅平面図(右1階・左2階)
1階が駅、2階は讃岐鉄道の本社として利用されます。

P1240958初代多度津駅

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅復元模型(多度津町立資料館)
ここから丸亀・琴平に向けて列車が出発していきました。そして、ある意味では終着駅でもありました。
多度津駅 明治の
明治22年地図 多度津が終着駅 予讃線はまだない

P1240910 初代多度津駅

DSC00303多度津駅構内 明治30年
初代多度津駅のホーム
 志賀直哉が多度津にやって来たのは、大正2年(1913)2月でした。
この年の12月には、初代多度津駅は観音寺までの開通に伴い現在地に移転します。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。初代度津駅は浜多度津駅と改称され、その後に敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の町民会館(サクラート)となっています。

暗夜行路の多度津駅の部分を、もう一度見ておきましょう。
⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」

⑥からは1Fの待合室には、ストーブが盛んに燃やされていたことが分かります。「⑦普通より少し小さい汽車」というのは、讃岐鉄道の客車は「マッチ箱」と呼ばれたように、小さかったこと、機関車も、ドイツでは構内作業用に使われていた小形車が輸入されたことは以前にお話ししました。それが、国有化後も使用されていたようです。

讃岐鉄道の貴賓車
        讃岐鉄道の貴賓車
暗夜行路に登場する多度津は、尾道から金毘羅に参詣にするための乗り換え港と駅しか出てきません。しかし、そこに登場する施設は、日本が明治維新後の近代化の中で到達したひとつの位置を示しているようにも思えました。

JR多度津工場
初代多度津跡のJR多度津工場

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ちらし寿司さんHP
https://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/
https://tkamada.web.fc2.com/
大変参考になりました。
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DSC03831

約70年前(1955年)の多度津港の「出帆御案内」の時刻表です。
ここには、関西汽船と尼崎汽船の行先と出帆時刻・船名が次のように掲げられています。
①志々島・粟島  つばめ丸
②六島(備後)  光栄丸
③笠岡          三洋丸
④福山 大徳丸
⑤鞆・尾道 大長丸
⑦大阪・神戸   明石丸
⑧神戸・大阪   あかね丸
尼崎汽船は3便で
⑨笠岡      きよしま丸
⑩福山 はつしま丸
⑪瀬戸田 やまと丸(随時運航)

1955年の多度津港は、東は神戸・大阪、西は福山・鞆・尾道・瀬戸田まで航路が延びて、定期船が通っていたことが分かります。現在の三原港(広島県)や今治港(愛媛)のように、いくつも航路で瀬戸の港と結ばれていた時代があったようです。そんな時代の多度津港を今回は見ていくことにします。テキストは「多度津町誌629P  明治から大正の海運」です。
 まず幕末から明治にかけての瀬戸内海海運の動きを見ていくことにします。
 徳川幕府は、寛永12年(1625)以来、海外渡航用の大型船の建造を禁止していました。しかし幕末の相次ぐ外国船の来航に刺激されて、嘉永6年(1853)9月、大船建造の禁令を解きます。そして、各藩に対して大型船建造を奨励するとともに、外国より汽船を購入することを奨励するようになります。毛利藩が若い高杉晋作に上海へ艦船購入に行かせるのも、坂本竜馬が汽船を手に入れて、「海援隊」を組織するのも、こんな時代の背景があるようです。
 その結果、明治元年(1868)には、洋式船舶の保有数は次のようになっていました。
幕府44艘、各藩94艘、合計138艘、 1万7000トン余り

 明治維新政府にとっても商船隊の整備充実は重要政策でした。そこで、次のような措置をとります。
明治2年(1869)10月、太政官布告で個人の西洋型船舶の製造・所有を許可
明治3年(1870)1月 商船規則を公布して西洋型船舶所有者に対して特別保護を付与
1870年 築地波止場前を行く汽船
        築地波止場前を行く汽船(1870年)

このような汽船促進策の結果、明治4年3月までには、大阪だけで外国人から購入した船舶は16隻に達します。買入主は、徳島藩、広島藩、熊本藩、高知藩などの7藩、民間では大阪商人や阿波商人、土佐佐藩士岩崎弥太郎の九十九商会など数名です。これらの船は、各藩と大阪の間を往復して米穀その他の国産物を運ぶようになります。

瀬戸内海航路の汽船 1871年
瀬戸内海航路の汽船(1871年) 
こうして、大阪を起点として、各藩主導で次のような定期航路が開かれます。
大阪~徳島間
大阪~和歌山間
大阪~岡山間
大阪~多度津間
大阪~長崎間
旧高松藩主松平家も、讃岐~大阪間に金比羅丸を就航させています。
金刀比羅丸は、慶応4年ごろに高松藩が大阪藩邸の田中庄八郎に命じて神戸港で建造し、玉吉丸と命名した貨客船です。暗車(スクリュー)推進の蒸気船で、2本マストのスクーナー型で帆装し、40馬力でした。それが明治4年の廃藩置県で、香川県に引き継がれ、旧藩主の松平頼聡他2名に払い下げられます。それを金刀比羅丸と改称し、取り扱い方を田中庄八に委嘱し、大阪~神戸~高松~多度津間の航海を始めたようです。

品川沖の東京丸(三菱商船)1874年
1874年 品川沖の東京丸(三菱商会)

 この頃に、多度津では宮崎平治郎が汽船取り扱い業を開業します。そして凌波丸(木製、81屯)を購入して、大阪から岡山・高松を経て多度津に寄港し、更に鞆・尾道にまで航路を延ばしていました。その2、3年後には、大阪の川口屋清右衛門、神戸の安藤嘉左衛門と田中庄八の3人は共同して三港社を創立し、大阪の宗像市郎所有の太陽丸(木製、67トン)と飛燕丸で阪神・多度津間を定期航海を行うようになります。
 ここでは、明治初期には旧藩の所有船が民間に払い下げられて、大坂航路に投入され、瀬戸内海の各港と畿内を結ぶ航路が開けたことを押さえておきます。

横浜発の汽船 三菱商会
1875年 横浜発の汽船(三菱商会)
瀬戸内海を行き交う蒸気汽船が急増したのは、明治10年(1877)の西南の役前後からでした。
この内乱は、兵員や他の物資の輸送で海運業界に異常な好景気をもたらします。そして、次のような船会社が設立されます。
岡山の偕行会社
広島の広凌会社
丸亀の玉藻会社
淡路の淡路汽船
和歌山の明光会社、共立会社
徳島の太陽会社
この時期に新たに就航した汽船は110余隻、船主も70余名に達します。この機運の中で多度津港にも、寄港する汽船の数が急増します。明治14年ごろの大阪港からの定期船の出船状況を、まとめたものが多度津町史632Pに載せられています。

1881年 大阪発出船の寄港地一覧1
1981年 大阪出港の汽船の寄港地一覧表
ここからは次のようなことが分かります。
①大坂航路に就航していた汽船のほとんどが、多度津に寄港後に西に向かっている。
②岡山・高松よりもはるかに多度津に寄港する船の方が多かった。
③多度津には、毎日3便程度の瀬戸内海航路の汽船が寄港している
   山陽鉄道が広島まで伸びるのは、日清戦争の直前でした。
明治10年代には、瀬戸内海沿岸は鉄道で結ばれていなかったので汽船が主役でした。その中で多度津は「四国の玄関」として多くの汽船が寄港していたこと押さえておきます。
明治十年代の多度津港について『明治前期産業発達史資料』第3集 開拓使篇西南諸港報告書(明治14年)は、次のように記します。
多度津港
愛媛県下讃岐国多度郡多度津港ハ海底粘上ニシテ船舶外而水入ノ垢フ焚除スルニ使ニシテ毎年春2月ヨリ8月ニ至ルマデノ間タデ船ノ停泊スルモノ最多ク謂ハユル日本船ノドツクトモ称スベキ港ナリ又小汽船は毎月2百餘隻ノ出入アリ又冬節西風烈シキ時ハ小船ハ甚困難ノ処アリ港中深浅等ハ別紙略図ニ詳ナリ
戸数本年1月1日ノ調査千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人 北海道ヨリハ鯡〆粕昆布数ノ子ノ類フ輸入シ昆布数ノ子ハ本国丸亀多度津琴平等2転売ス鯡〆粕ハ本国那珂多度三野豊田部等へ転売ス。
 物産問屋3拾9軒 問屋ハ輸入ノ物品フ預り仲買ヲシテ売捌カシムルノ習慣ナリ。 定繋出入ノ船舶3百石以下5拾5艘アリ 北海道渡航3百石以上2艘アリ(中略)
地方著名産物1ケ年輸出ノ概略ハ砂糖凡8万4千5百斤 代価凡5万7千7百5拾式円5拾銭。綿凡式万目 代価凡1万円ニシテ砂糖ハ北海道又ハ大阪へ売捌 綿ハ北海道又西海道へ輸出ス
近傍農家肥料ハ近来鯡〆粕ノ類多ク地味2適セシヤ之フ用フレバ土質追々膏艘(こうゆ)ニ変シ作物生立宜ク随テ収獲多シ

  意訳変換しておくと
多度津港
愛媛県(当時は香川県はなかった)多度郡の多度津港は、海底が粘土で船に入った垢を焚除するために、毎年春2月から8月まで、「タデ船」のために停泊する船が数多い。そのため「日本船のドック」とも呼ばれる港である。小汽船の入港数は、毎月200隻前後である。ただ、冬の北西季節風が強い時には、小船の停泊は厳しい。港の深度などは別紙略図の通りである。
 多度津の本年1月1日調査によると、戸数千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人
 北海道からは、鯡・〆粕・昆布・数ノ子などが運び込まれ、この内の昆布・数ノ子は、丸亀・多度津・琴平などに転売し、鯡〆粕は、那珂多度郡や三野豊田郡など周辺の農村に転売する。物産問屋は39軒 問屋は、搬入された物品を預り、仲買をして売捌くことが生業となっている。
  出入する船舶で、3百石以上の船が55艘、北海道に渡航する300以上が2艘ある(中略)
特産品としては、砂糖が約84500斤 代価凡57752円、綿約2万目 代価凡1万円。砂糖は北海道か大阪へ、綿は北海道や西海道へ販売する。近来、周辺の農家は、肥料として鯡・〆粕を多く使用するようになったので、地味は肥えて作物の生育に適した土壌となっている。
ここからは次のようなことが分かります。
①船のタデや垢抜きのために、多度津港に寄港する船が多く、「和船のドック」とも呼ばれている。以前に金毘羅参詣名所図会の多度津港の絵図には、船タデの絵が載せられていることを紹介しました。明治になっても、多度津港は「和船のドック」機能を継続して維持していたことが分かります。
②北海道からの数の子や昆布、鯡〆粕が北前船で依然として運び込まれていること
③それを後背地の農村や、都市部の金毘羅・丸亀などに転売する問屋業が盛んであること
④特産品として、砂糖や綿が積み出されていること

西南戦争を契機に、旅客船の数が急速に増えたことを先ほど見ました。
1993年 三菱と共同運輸の競争
1883年 三菱と共同運輸の競争を描いた風刺画
 汽船や航路の急速な増加は、運賃値下げ競争や無理なスピード競争での客の奪い合いを引き起こします。そのため海運業界には不当競争や紛争が絶えず、各船主の経営難は次第に深刻化していきます。
この打開策として打ちだされたのが「企業合同による汽船会社統合案」です。
 明治17年5月1日、住友家の総代理人広瀬宰平を社長として、50名の船主から提供された92隻の汽船を所有する大阪商船会社が設立されます。この日、伊万里行き「豊浦丸」、細島行き「佐伯丸」、広島行き「太勢丸」、尾道行き「盛行丸」、坂越行き「兵庫丸」の木造汽船5隻が大阪を出港します。
大阪商船
         大阪商船会社のトレードマーク
その船の煙突には、大阪商船会社のトレードマークとなる「大」の白字のマークが書き込まれていました。
 大阪商船の開業当時の航路は、大阪から瀬戸内海沿岸を経て山陽・四国・九州や和歌山への18航路でした。

大阪商船-瀬戸内海附近-航路図
大阪商船の航路
このうち香川県の寄港地は小豆島・高松・丸亀・多度津の4港です。その中でも多度津港は9本線と1支線の船が寄港しています。高松・丸亀・小豆島が2本線の船だけの寄港だったのに比べると、多度津港の重要性が分かります。この時期まで、多度津は幕末以来の「四国の玄関港」の地位を保ち続けています。

希少 美品 大正9年頃(1920年) 今無き海運会社 大阪商船株式会社監修 世界の公園『瀬戸内海地図』和楽路屋発行 16折り航路図  横120cm|PayPayフリマ
大阪商船航路図(大正8年)讃岐の寄港
 旅客輸送の船は、明治20年前後からはほとんどが汽船時代に入ります。
しかし、貨物輸送では、明治後期まで帆船が数多く活躍していたことは、以前にお話ししました。明治になっても、江戸時代から続く北前船(帆船)が日本海沿岸や北海道との交易に従事し、多度津港にも出入りしていたのです。
 たとえば北陸出身の大阪の回船問屋西村忠兵衛の船は、明治5年2月25日、大阪から北海道へ北前交易に出港します。出港時の積荷は、以下の通りです
酒4斗入り160挺。2斗入り55挺
木綿6箱
他に予約の注文品瀬戸物16箱・杉箸2箱
2月28日兵庫津(神戸)着 3月1日出帆
3月3日 多度津着 
多度津で積荷の酒4斗入りを102挺売り、塩4斗8升入り1800俵と白砂糖15挺を買って積み入れ、8日出帆
ところが3月21日長州福浦を出港後間もなく悪天候のため座礁、遭難。(西村通男著「海商3代」)
ここからは、明治に半ばになっても和船での北前交易は行われており、多度津に立ち寄って、塩や砂糖を手に入れていることが分かります。ところが、日本海に出る前に座礁しています。伝統的な大和型帆船は、西洋型船のような水密甲板がなく、海難に対して弱かったようです。そのため政府は、西洋型船の採用を奨励します。その結果、明治十年代には西洋型帆船が導入されるようになりますが、大和型帆船は、伝統的な航海技術と建造コストが安かったので、しぶとく生き残っていきます。そこで政府は、明治18年からの大和型500石以上の船の製造禁止を通達します。禁止前年の明治17年には、肋骨構造などで西洋型の長所を採用しながら外見は大和型のような「合の子船」とよばれる帆船が数多く造られたようです。大正初めまで、和船は貨物輸送のために活躍し、多度津港にも入港していたことを押さえておきます。ここでは明治になってすぐに帆船が姿を消したわけではないこと、
  明治20(1887)年ごろより資本主義的飛躍が始まると、海運業も大いに活気を呈するようになります。
京極藩士冨井泰蔵の日記「富井泰蔵覚帳」には、次のように記されています。
「今暁、船笛(フルイト)高く狼吠の如き、筑後川、木曽川、錦川丸の出港なり。本日三度振りなり。近村の者皆驚く」

 ここに出てくる筑後川丸(鋼製、694屯)、木曽川丸(鋼製、685屯)、錦川丸(木製、310トン)は、大阪商船の定期船です。そのトン数を見ると、700屯クラスの定期船で、明治初めから比べると、4倍に大型化し、木製から鋼製に変わっています。
 明治27年の大阪商船航路乗客運賃表によると、大阪ー多度津間の運賃は、次の通りです。
下等が95銭
中等が1円
上等は1円5銭
別室上等は2円
明治30年10月発行の「大日本繁昌記懐中便覧」には、当時の多度津の様子を次のように記されています。

多度津ハ(中略)、港内深ク,テ汽船停泊ノ順ル要津ナレバ水陸運輸ノ使ナルコー県下第1トナス。亦夕金刀比羅官ニ詣ズル旅客輩ニ上陸スベキ至艇ノ地ナレバ汽船′出入頻はなシテ常ニ煤煙空ヲ蔽ヒ汽笛埠頭ニ響キ実ニ繁栄の一要港卜云フベラ」

意訳変換しておくと
多度津は、港内の水深が深く、汽船の停泊に適した拠点港なので、水陸運輸の使用者は県下第1の港である。また金刀比羅宮へ参拝する旅客にとっては、上陸に適した港なので汽船出入は多く、常に汽船のあげる煤煙が空をおおい、汽笛が埠頭に響く。これも繁栄の証というべきである。

この他にも、香川県下の汽船問屋・和船問屋の数は、高松に8軒、坂出に1軒、小豆島に11軒、丸亀4軒で、多度津は25軒だったことも記されています。

山陽鉄道全線開通
山陽鉄道全線海開通
明治24年に山陽鉄道の姫路・岡山間が開通し、更に同34年には下関まで延長開通します。 
 それまで西日本の乗客輸送の主役だった旅客船は、これを契機に次第に鉄道にとって代わられていきます。それを年表化してみると
1895(明治28)年  山陽鉄道と讃岐鉄道の接続のために、大阪商船は玉島・多度津間に定期航路開設
1896(明治29)年 善通寺に第11師団が設置。2月に丸亀~高松間が延長開通。
1902年 大阪商船が岡山・高松間にも航路開設
1903年 岡山・高松航路を山陽汽船会社が引き継ぎ、玉藻丸を就航。同時に尾道・多度津間にも連絡船児島丸を就航。
1906年 鉄道国有化で航路も国鉄へ移管。
      尾道・多度津鉄道連絡船は東豫汽船が運航。
1910年 宇野線開通によって宇野・高松間に宇高鉄道連絡航路が開設

ここからは大阪商船が鉄道網整備にそなえて、鉄道連絡船を各航路に就航させ、それが最終的には国鉄に移管されていったことが分かります。
高松港築港(明治36年)
高松築港旅客待合所(明治36年頃)
このような動きを、事前に捕らえて着々と未來への投資を行っていたのが高松市です。
高松は、日露戦争前後から、大正時代にかけて数次にわたり港の改修、整備に努めます。その結果、出入港船が増加し、宇高鉄道連絡船による岡山経由の旅宮も呼び込むことに成功します。こうして金毘羅参拝客も、岡山から宇野線と宇高連絡船を利用して高松に入ってくるようになります。
高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)
明治43年 宇高航路の初航海で入港する玉藻丸

高松・多度津港の入港船舶数の推移からは、次のようなことが分かります。
多度津・高松港 入港船舶数推移

①高松港入港の船舶数は、大正時代になって約7倍に急増している
②それに対して、多度津港の入港船舶数は、減少傾向にある。
③乗船人数は明治14年には、高松と多度津はほぼ同じであったのが、大正14年には、高松は6倍に増加している。
④貨物取扱量も、大正14には高松は多度津の約8倍になっている。

四国でも鉄道網は、着々と伸びていきます。
昭和2年に、予讃線が松山まで開通
昭和10年 高徳線は徳島まで、予讃線は伊予大洲まで
      土讃線は高知須崎まで開通.
      宇高連絡航路には貨車航送船が就航。
こうして整備された鉄道は、旅客船から常客を奪って行きます。これに対して、大阪商船は瀬戸内海から遠洋航路に経営の重点を移していき、内海航路の譲渡や整理を行います。しかし、そんな中でも有望な航路には新設や、新造船投入を行っています。
昭和3年12月新設された瀬戸内海航路のひとつが、大阪・多度津線です。
大信丸 (1309トン)と大智丸(1280トン)の大型姉妹船が投入されます。この両船は昭和14年に、日中戦争の激化で中国方面に転用されるまで多度津港と大阪を結んでいました。
 昭和10年ごろの多度津港への寄港状況は、次のように記されています。
大阪商船                                          
①大阪・多度津線
(大阪・神戸・高松・坂出・多度津)に、大信丸と大智丸の2隻で毎日1航海。
②大阪・山陽線
 大阪・神戸・坂手・高松・多度津・柄・尾道・糸崎。忠海・竹原・広・音戸・呉。広島・岩国。柳井・室津・三田尻・宇部・関門に、早輌丸・音戸丸・三原丸のディーゼル客船の第1便と、尼崎汽船の協定船による第2便があり、それぞれ毎月十数回航海。
③大阪と大分線
大阪・神戸・高松・多度津・今治・三津浜・長浜・佐賀関・別府が毎日1便寄港.

瀬戸内海航路図2
瀬戸内商の船航路図

この他に、瀬戸内商船が多度津・尾道鉄道連絡船を毎日4便運航していました。 しかし、花形航路である別府航路の豪華客船は高松に寄港しましたが、多度津港には寄港しません。また、昭和初期から整備に努めてきた丸亀・坂出の両港が、物流拠点として産業港に発展していきます。その結果、多度津港の相対的な地盤沈下は続きます。
 最初に見た多度津港の「出帆御案内」の航路も、戦前のこの時期の
航路を引き継いだもののようです。

1920年 多度津港
1920年の絵はがき(多度津港)

 日中戦争が長期化し、戦時体制が強化されるにつれて船舶・燃料不足から各定期航路も減便されます。
その一方で、旅客、貨物量は減少せず、食糧や軍需物資の荷動きは、むしろ増加します。特に、大平洋戦争開戦前の昭和15年度は、港湾の利用度が飛躍的に増加し、乗降客が56万を突破し、入港船舶は2万5000余隻と戦前の最高を記録しています。これは善通寺師団の外港としての多度津港が、出征将兵や軍需物資の輸送に最大限に利用されたためと研究者は指摘します。

瀬戸内商船航路案内.2JPG

 戦時下の昭和17年2月になると、燃料油不足と効率的な物資輸送確保のために、海運界は国家管下に置かれるようになります。内海航路でも「国策」として、船会社や航路の統合整理が強力に進められます。その結果、大阪商船を主体に摂陽商船・阿波国共同汽船・宇和島運輸・土佐商船・尼崎汽船・住友鉱業の7社の共同出資により関西汽船株式会社が設立されます。

Kansailine


こうして尾道・多度津鉄道連絡航路を運行してきた瀬戸内商船も、関西汽船に委託されます。そして、昭和20年6月に多度津―笠岡以西の瀬戸内海西部を運航する旅客船業者7社が統合されて「瀬戸内海汽船株式会社」が設立されます。尾道、多度津鉄道連絡船は、この会社によって運航されるようになります。

 戦争末期になると瀬戸内海に多数投下された機雷のため、定期航路は休航同然の状態となります。
その上、土佐沖の米軍空母から飛び立ったグラマンが襲来し、航行する船や漁船にまで機銃掃射を加えてきます。こうして関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日以降は運航休止となります。多度津港を出入りするのは、高見~佐柳~栗島などの周辺の島々をつなぐ船だけで、それも機雷と空襲の危険をおかして運航です。ちなみに、この年には乗降客は7万9000余名、入港船舶は5000余隻に激減しています。しかもこの入港船舶のほとんどは軍用船や空襲避難のために入港した船で、定期船はわずか524隻です。それも周辺の島通いの小型船だけでした。関西汽船などの大型定期船はすべて休航し、港はさびれたままで8月15日の敗戦を迎えたようです。

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
多度津港(1920年の絵はがき) 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌629P  明治から大正の海運」

 今回は湛甫完成後の多度津の繁栄ぶりを見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」です。
 北前船航路図

①北前船は春2月ごろ、大坂で諸雑貨・砂糖・清酒などを買い積み出港
②瀬戸内海の港々を巡りながら、塩荷などを買い込みながら下関に集結。
③冬の最後の季節風を利用して、日本海沿岸の諸港に寄港し、荷の積み下ろし(売買)をしながら北海道へ向かう。
④北海道で海産物を買積み、8月上旬ごろに北海道を出発して夏の南東風の季節風をはらんで一気に下関まで帆走
⑤手に入れた商品を、どの港で売るかを状況判断をしながら、荷を神戸・大坂方面へ持ち帰る。
このように北前船は、荷の輸送とともに商いをも兼ねた船でした。

鰊漁粕焚き
鯡(にしん)粕焚き

北前船で特に利益があったのは、北海道の鯡〆粕・昆布でした。
北前船の活躍が活発化したのを受けて、丸亀藩や多度津藩は新しい湛甫築造をおこなったことになります。多度津湛甫の完成は、天保9年(1838)年のことです
19世紀半ばになると、 讃岐三白といわれた砂糖・綿・塩なども北前船の取扱商品になっていきます。
讃岐三白を求めて多度津の港に寄港する舟も増えます。丸亀や多度津の湛甫構築も、金毘羅参拝客の誘致以外に、商品経済の受入口として港湾整備するというねらいが廻船問屋たちにはあったことを押さえておきます。
  多度津の回船問屋かつまや(森家)に残る史料を見ておきましょう。
「清鳳扇」と題する海路図は、まず見開きに「針筋早見略」があって津軽半島から北海道の松前半島への次のような針路が説明されています。
本州北端の津軽半島、小泊港より鯵ケ沢、男鹿半島、飛島、栗島、佐渡沢崎、能登塩津、平(舶)倉島、七ツ島、福浦、隠岐、三保ケ関、 笠浦、 宇竜三崎、 湯津、 浜田、津島

それと日本海を南下する針路が示されています。この海路図は、安政五年(1858)のもので、かつまやの盛徳丸が使っていたものです。また、次のような21反帆の千石船仁政丸の往来手形もあります。
 反帆船仁政丸、沖船頭森徳三郎、水夫十人、右は私方持船で乗組一統は宗旨万端改め済みで相違ありません。津々の関所はつつがなくお通しドさい。
元治元年六月 大阪 綿屋平兵衛
これらの北前船は、松前島(北海道)の海産物を多度津に運び、その見返り品として洒、衣料、雑貨の輸送にあたっていたことが分かります。森家には「松前落御家中家名並列席の記」や「箱館港出船許可書」などが保存されています。ここからは、廻船問屋森家の船が北前船として、幕末に蝦夷との交易を行っていたことが分かります。

多度津廻船船の積み荷と水揚げ場
船の積み荷と水揚げ場、積み入れ場などを記載した資料

石州浜田港(島根県浜田市)回船問屋但馬屋の「諸国御客船帳」には、次のように記されています。
幕末から明治に初期にかけて、記載されている讃岐廻船は307艘。その内、多度津の船は8艘。東讃では三本松や津田浦の船が多く、西讃では栗島や浜村浦の船が多く寄港。浜田での讃岐船の売買積荷商品は、
①揚げ荷(売却商品)は 讃岐特産物の「大白・大蜜・焚込」の砂糖と塩、それに繰綿が若千
②積荷商品(買上商品)は、塩鯖・鯖・平子干鰯・扱芋・鉄・半紙などの石見の特産物


多度津 廻船問屋塩田屋土蔵
「塩田家(煙草屋)」の土蔵
北前船で財を成した廻船問屋としては、多度津七福神のひとつである「塩田家(煙草屋)」が有名です。塩田家には北前船の積み荷を集積するために使用した土蔵が今でも残されています。

魚肥料

江戸末期になると、綿花などの栽培に、農家は大量の魚肥(金肥)を使うようになります。
最初は、瀬戸内海の千鰯が中心でしたが、北前船の出入りで、羽鰊・鯡〆粕などが手に入るようになると、魚肥の需要はさらに高まります。多度津には干鰯問屋が軒を並べ、倉庫が甍を競うようになり、丸亀港をしのぐようになります。こうして多度津の問屋はヒンターランドの多度郡や那珂郡の庄屋や富農と取引を活発に行い繁盛します。

江戸時代後期の多度津の様子について、柚木学「讃岐の廻船と船持ちたち」(多度津文化財16号 1973年)は、次のように記します。
「廻船問屋には、かつまやを始め米尾七右衛門・蛭子辱伊兵衛・竹景平兵衛などがあり、またよろず問屋・千鰯問屋中には、油屋佐右衛門・松尾屋清蔵・島屋係兵衛・煙草屋仙治・柳屋次郎七・茶屋儀兵衛・浜蔵屋四郎兵衛・尾道屋豊蔵・伏見屋一場太郎・同山屋武兵衛・松島躍惣兵衛・大黒膵調兵衛など七十余軒」

 また多度津町誌270Pには、角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋にあった多度津問屋中のメンバーを、次のように挙げています。
油屋佐右衛門・中屋佐七・松嶋屋惣兵衛・煙草屋仙治・戎屋祖右衛門・嶋屋徳次郎・尾道屋豊蔵・湊屋義之助・木屋槌蔵・舛屋仙古・柴屋文右衛門・神原治郎七(柳屋)・金屋源蔵・工屋榮五郎・阿波屋甚七・海老屋与助・油屋平蔵・松尾屋久兵衛・竹屋清兵衛・北屋辰適蔵・伊予屋五右衛門・古手屋佐平・柳屋常次郎・入江屋喜平・茶屋儀兵衛・伊予屋伴蔵・尾道屋彦太郎・茶屋七右衛門・三井屋弁次郎・中屋民蔵。備前屋伝五郎・菊屋治郎兵衛・嶋屋治助・工屋伝右衛門・伏見有屋吉蔵・松尾屋清蔵・輌屋半蔵・麦屋芳蔵。大津屋善治郎・松崎屋排治・唐津屋長兵衛・井筒屋和平・舛屋久右衛門・木屋万蔵・播磨屋和古。塩飽屋弥平・岡山屋武兵衛・出雲屋長兵衛・伏見屋嘉太郎・播磨屋岩右衛門・中村屋紋蔵。塩飽屋岩吉・松島屋新七・竹嶋屋槌蔵

多度津 本町
多度津の町割り

角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋に70軒余りの問屋が立ち並ぶようになります。こうして多度津の街並みは、金毘羅街道沿いに南へと伸びていきます。

多度津の街並み
多度津本通りの街並み

これらの多度津の問屋中(仲間)の名前は、当時造られたのモニュメントにも残されています。
 弘化二(1845)年に落成した金刀比羅宮の旭社(当時金堂)の建立寄進帳に、多度津魚方中(926匁)と並んで「金二十一両寄進多度津問屋中」と名を連ねています。慶応二年(1866)藩主主京極高琢寄進の石灯籠一対の裏手石垣を奉納しています。

04多度津七福神


北前船の活躍した時代は、江戸時代後半から明治中期まででした。
明治に入ると西洋型帆船、明治中期以後になると汽船が参入するようになります。しかし、北前船を駆逐したのは鉄道でした。鉄道の全国整備が進むにつれて、北前船は姿を消して行きます。しかし、海運で蓄積した富を、鉄道や水力・銀行設立などの近代化に投資していくことによって、多度津は近代化の先頭に立つのです。
今回は、ここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」
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金毘羅参詣名所図会
暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)

以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。  テキストは「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。

 『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。

今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
  意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
 現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」
②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
金毘羅参詣名所図会 「浪華川口出帆之図」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。

金毘羅参詣名所図会 第1巻目次
金毘羅参詣名所図会第1巻目次

目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
金毘羅参詣名所図会 第1巻分布地図
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。

虫開の瀬戸 金毘羅参詣名所図会第1巻
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻以後の巻ごとの名所色分けは、次の通りです。
金毘羅参詣名所図会 名勝分布地図
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺
3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺
4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津
5巻 緑  坂出 → 白峰  → 高松
6巻 青  屋島

2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 
3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。

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仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。
 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
 最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
岩瀬尾八幡 讃岐国名勝図会
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。

屋島山南麓、古高松、吉岡寺、鞍懸松img35
屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)

『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。

「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」

意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」

 しかし、続編が出版されることはありませんでした。
 各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
金毘羅参詣名所図会 名所属性
金毘羅参詣名所図会の名所属性別分類表
A 最も多いのは③「堂塔伽藍 196ヶ所」、その次が②「神社仏閣 90ヶ所」で、寺社関係の名所が多い
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
 上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
 
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
金毘羅参詣名所図会 名所構図

ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと
②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡
③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている
④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
img000038小下津井
下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻

また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
鰆網 20111115_054301812
鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。

このような図絵の上部には和歌が添えられています。

筆の山 第三巻所収画像000010
善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)

名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
 その萌芽が「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」だと谷崎友紀氏は指摘します。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)

 鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。

以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。

この「金毘羅参詣名所図会」の公刊の数年後に出版されるのが「讃岐国名勝図会」になります。

讃岐国名勝図会表紙

讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。同時に尾池玄蕃が彼の管理エリアである丸亀平野について、七箇村(まんのう町)や南鴨組のことについて熟知している様子がうかがえます。彼が「能吏」であったことが分かります。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ
 
まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」

 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

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風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
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ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

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綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」

 京都大学蔵の来田文書(天文14年1545)には、丸亀平野の熊野行者の残した次のような「道者職売券」があります。

「右の①御道者、②代々知行候と雖も、急用有るに依りて米弐百石、③堺伊勢屋四郎衛門に永代替え渡し申す処、実正明白也」

意訳変換しておくと
「右の御道者(熊野行者)は、②代々にわたって以下の知行(かすみ)を所有してきたが、急用に物入りとなったので米二百石で、堺伊勢屋四郎衛門に永代に渡って売り渡すことになった。実正明白也」

①「右の御道者」とは、熊野三山に所属する山伏で熊野道者(行者)のことです。

熊野牛王(クマノゴオウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
熊野牛王(護王ごおう)
熊野道者は熊野信仰護符の熊野牛王(護王ごおう)を配って全国を廻国していました。熊野行者の行動範囲や信者組織は「なわばり化」して、財産となり売買の対象にもなっていたことは以前にお話ししました。それは「知行」とか「かすみ」と呼ばれるようになります。熊野行者たちも、時代が下ると熊野を離れ有力者を中心に元締めのような組織が形成されるようになります。この史料で登場するのが③「堺の伊勢屋四郎衛門」です。
この売買証文は②「代々知行候と雖も、急用有るに依りて米式百石」とあるので、自分の「かすみ」を「米2百石」で「永代替え渡し(売買)したことが分かります。
それでは、売り買いの対象となった「かすみ」はどこなのでしょうか?この文書のはじめに、次のような地名が出てきます。
一、岡田里一円
一、しもとい(?)の一円
一、吉野里一円から、 池の内(満濃池跡の村)
……大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺、三井之上、碑殿と続いて
一 山しなのしよう里(山階、庄)一円。 
一、見井(三井)の里一円。……此の外、里数の附け落ち候へども我等知行の分は永々御知行有るべく候」
出てくる「かすみ(なわばり」を示しておくと、
①鵜足郡の岡田(丸亀市綾歌町)
②那珂郡の吉野・池の内(まんのう町)
③多度郡の大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺(善通寺)
④三井の上、碑殿・山階、庄、三井一円(多度津町)
  残念ながら 「しもとい(?)」は私には分かりません。教えて頂けるとありがたいです。(コメント欄で、次のようにおしえていただきました。

しもとい ですが、鵜足郡土居村ではないでしょうか。市井では「しもどい」とも言われていたと西讃府志にあるそうです(コトバンク出展)

ここからは、阿野郡土居町→ 鵜足郡岡田 → まんのう→善通寺→多度津と、この熊野行者が丸亀平野一円の信者の家を一軒一軒門付けしていたことがうかがえます。ここで気になるのが、以前にお話しした牛頭権現のお札を配っていた滝宮牛頭天王(滝宮神社)へ念仏踊りを奉納していたエリア(坂本周辺・綾北條・綾南條・那珂郡七箇と重ならないことです。熊野行者と滝宮牛頭天王の社僧たちは、テリトリーを「棲み分け」ていたのかもしれません。

 このように遊行者は、熊野道者だけではありませんでした。
A 高野山の護摩の灰を持った高野聖(弥谷寺拠点)
B 念仏札を渡す時衆(宇多津の郷照寺拠点)
C 伊勢神官の御師
D 牛頭天王のお札を配る社僧(滝宮神社(滝宮の牛頭天王拠点)拠点
E 金昆羅道者  (近世以降の金毘羅大権現)
などへと、さまざまに姿を変えながら讃岐の里に現れます。
 振り返れば古代の仏教は、鎮護国家仏教で国家や貴族を対象としたもので、庶民は対象外でした。古代の国分寺や有力者の氏寺は、庶民の現世利益や祖先供養には見向きもしませんでした。官寺や大寺の手から見棄てられた庶民達に救いの手を差し伸べたのは、廻国の遊行者だったことは以前にお話ししました。つまり、中世の庶民は、廻国遊行者によって始めて仏教と出会ったことになります。

この証文が出された天文14年(1545)という時代は、戦国時代のまっただ中です。戦乱の中で熊野詣が困難になって、熊野行者達の経済基盤が崩されていたとされます。熊野行者の丸亀平野での活動が停滞していく中で、次なる遊行者が登場してきます。彼らの活動を、多度津で見ていくことにします。テキストは「多度津町史914P 村の寺」です。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

多度津葛原の浄蓮寺の由緒を、多度津町史は次のように記します。

葛原下所に一人の行者がどこからかやってきた。村外れの高園と言う少し高みに小さな家を建て、村の死人の世話をし墓守りをして、いつしか村人となった。鉢破れという地名はこれと関係があるかもしれない。その人は一代で終わった。人々はそのような者を待ち望むようになっていた。後、村の有力者の身寄りの者と称するものが、その家に寄食して、お念仏の教えを広め始めた。そしてみんなの合力を得て庵を建てた。それが葛原の浄蓮寺の起源で、その人は播州の赤松円心の子孫の田中可貞である。

ここからは次のようなことが分かります。
①行者が葛原下所に定着し、死人供養と墓守を行うようになった
②その後、有力者の家に寄宿した行人が念仏信仰を広めた
③村人が合力して建てた庵が浄蓮寺の起源である。
④葛原には念仏阿弥陀信仰の信者がいたこと。これが賀茂神社の念仏踊りにつながること。
  お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺・弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここからは、念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてきます。多度津の聖達の拠点であった道隆寺を見ておきます。 
多度津 堀江 明治22年
堀江周辺 明治22年

道隆寺のあった堀江の中世の地形復元を見ておきましょう。
「讃陽綱目」は、次のように記します。

地蔵鼻堀江村浜にあり。ここ山もなく岳もなく只平砂磯なるに海中に出張る事夥し。東は乃生(のお)岬、西は箱の岬を見通す。弘法大師作地蔵尊を安置す。芳々以って名高しと。されば砂磯の突出甚だ長かりしならんも自然の風波に浚はれて遂に其の跡を失ふに至り、地蔵尊は避して八幡神社境内南東隅にあり。牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現存し参詣者多し。

意訳変換しておくと
地蔵鼻の堀江村に浜がある。ここには山もなく岳もなく、砂浜が平磯となって海に突きだしている。ここからは、東の乃生(のお)岬、西の箱の岬(庄内半島)が見通せる。そして、弘法大師自作の地蔵尊が安置されていて、信仰を集めている。しかし、風波に洗われて、地蔵尊が埋まってしまうこともあった。そこで、地蔵尊を近くの(弘浜)八幡神社境内の南東隅に移した。これは、牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現在でも参詣者が多い。。

堀江港復元図2
          道隆寺と堀江湊の中世復元図
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江は海に突き出した浜(砂州)の上にあった。
②砂州の戦端に、弘法大師自作の地蔵尊が立っていた
③近くには弘浜八幡神社があった。

①の砂洲は桜川河口から東に伸びていたもので、川を流れてきた土砂が、潮流の関係で堆積してできたものと研究者は考えています。どちらにしても地形復元すると、道隆寺のすぐ北側までは海が入り込んできていたことが分かります。ここでは古代の堀江の海岸は、桜川河口から東に伸びる砂丘のような岬と、そこから一文字堤防のように東に伸びる砂州の間に、切れ目があり、背後に潟湖をあったようです。
また、高野山の高僧が讃岐流刑中に著した「南海流浪記」宝治2年(1248)の記に、善通寺の「瞬目大師御影」の模写のために京都から派遣された仏師の到着を次のように記します。

「仏師四月五日出京、九日堀江津に下着す」

仏師は4月5日に京都を出発して、海路で讃岐に向かい9日に、堀江港に到着しています。ここから13世紀半ばの多度郡の港は、堀江だったことがうかがえます。古代の多度郡の湊は、弘田川河口の白方湾でした。それが堆積作用で使用できなくなった中世になると多度郡の湊として機能するようになるのが堀江です。その堀江湊の管理センターが道隆寺です。
以前に中世の道隆寺について次のようにお話ししました。
①中世の堀江湊は、地頭の堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」の交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑧西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
⑨道隆寺には、廻国行者や聖達がの拠点として、塩飽から庄内半島にかけての寺社を末寺化した。
こうして道隆寺を拠点とする高野山の念仏聖達は周辺の村々への「布教活動」を行うようになります。
 堀江の墓地について、多度津町史は次のように記します。

堀江と観音院
堀江の弘浜八幡宮と観音院の間にある墓地(観音堂)
堀江集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。(中略)
在郷風土記 多度津
堀江の観音堂
堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏は(かつては)すぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。(弘浜八幡)宮と墓と寺(観音院)と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。 
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江集落の墓地が海際の砂州に作られ、そこに観音堂が建てられたこと
②それが後には、現在の観音院に発展していったこと
③神仏混淆時代には、神社も鎮霊施設として墓地周辺にあったこと
ここでは先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスを押さえておきます。

堀江の墓域と観音院の関係と同じような形が見えるのが、多度津の摩尼院や多聞院です。多度津町史は次のように指摘します(要約)。
①桜川の川口近くの両側は須賀(洲家)という昔の洲で、中世の死体の捨て場であった。
②念仏信仰の普及と共に、そこが「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになった。
③桜川の北側(現JR多度津工場)あたりにには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」。
④極楽橋の南の袂に観音堂、その観音堂から発展したのが摩尼院や多門院。
明治の多度津地図
多度津陣屋は、墓地の上に築かれた
 ちなみに摩尼院の本尊は、地蔵の石仏のようです。石仏が本尊と云うこと自体が、先祖供養の民間信仰から生まれた「庶民の寺」から発展したお寺だと多度津町史は指摘します。
  ここでは、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であることを押さえておきます。
摩尼院
摩尼院(多度津)
 最後に、道隆寺を拠点とした念仏聖達の活動をまとめておきます。
⑩高野山系の念仏聖達は、道隆寺を拠点に周辺の村々に阿弥陀信仰を拡げ信者を獲得するようになった。
⑪念仏聖の中には、村々の埋葬や祖先供養を行いながら庵を開き定着するものも表れた。
⑫その活動拠点が、多度津の観音院・摩尼院・多門院、そして葛原の浄蓮寺である。
⑬念仏聖は、高野山では時宗化しており、讃岐でも踊り念仏を通じて阿弥陀信仰を拡げるという手法を用いた。
⑭そのため多度津周辺では、踊り念仏が盆踊りなどで踊られるようになった。
⑮それが伝わっているのが賀茂神社の念仏踊りである。

多度津で南鴨念仏踊り/子どもたちが恵みの雨祈る | BUSINESS LIVE
加茂念仏踊り

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者
  の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。

(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町史914P 村の寺」
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仙人窟は、『一遍聖絵』にも描かれていて、修験者たちが岩籠もりや祈りの場としていた行場のひとつと考えられてきました。しかし、実際にここが調査対象になったことはありませんでした。ユネスコ登録に向けた霊場調査で、この窟も発掘調査の手が入ったようです。その報告書を見ていくことにします。テキストは、「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺発掘調査の成果(仙人窟:58P)2022年3月 愛媛県教育委員会」です
まず澄禅の四国遍礼霊場記に「仙人窟」がどのように書かれているか見ておきましょう。

岩屋寺 仙人窟と仙人堂
 
①不動堂(現本堂)の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。②鉦鼓を持っている阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。③阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、④飛来の仏と呼ばれている。近くに⑤仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。

ここからは、次のようなことが分かります。
①不動堂(本堂)の岩窟には銅製仏像が安置されていること
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
ここで確認しておきたいのは、現在の仙人堂と仙人窟は別の窟であることです。
岩屋寺 仙人窟と仙人堂2
岩屋寺 仙人堂と仙人窟

仙人窟の位置を最初に確認します。

①金剛界峰から南面して、阿弥陀堂に並んで開口
②本堂からの比高は約4m、奥行は最大で約2,9m、幅約4、3m、高さは約2、1m。
③岩壁沿いに細い行道が10mほど続いていて、通路のようになっている
岩屋寺 仙人窟への行道跡
岩屋寺仙人窟への行道

金剛界峰の裾部からは、かつての山林修行者の行道が一部残っているようです。この山全体が「小辺路」で行場だったことは以前にお話ししました。そのような行道の中のひとつの窟が仙人窟のようです。

発掘調査の結果、仙人窟からは次のような遺物が出てきています。

岩屋寺 仙人窟の遺物2
1 8世紀の須恵器の壺蓋
2・3 中世後期(15~16世紀代)の土師器質の皿
4 鹿角製の竿(完形品) 
5 大量のこけら経・笹塔婆
岩屋寺 仙人窟の遺物
岩屋寺仙人窟からの出土品

これらの遺物から何が分かるのか、順番に見ていくことにします。
遺物1は、須恵器の壺蓋です。
上図の黒い部分で全体の4分の1ほどが出ています。つまみ部分がありません。これについて研究者は次のように記します。

外面の3分の1より上は回転ヘラ削りにより器面が整えられ、天井部付近はケズリ後ナデが施されている。外部外而3分の1よリ下と内面は回転ナデによって調整される。口縁部径は復元で14。3㎝、高さは残存部で4。5㎝を測る。天井部から体部にかけての屈曲は鈍角で緩やかで、口縁端部はやや尖り気味におさまり、接地面はわずかに平坦面を有する。内外面ともに浅黄橙色を呈し、胎土は混和剤が少なく、精良である。時期は8世紀代に属するものと考えられる。 

2・3は土師質土器の皿です。
造りは精良で、全体に歪みがない。復元口縁部径は13。2㎝、底径は5。8㎝、器高は3。2㎝で小型。内外ともに横ナデによって器面が整えられ、底部は回転糸切り痕が明瞭に残る。時期は、松山平野の土器との比較から中世後期(15~16世紀代)のもの

4は鹿角製竿(さお)の完形品です。
全長16。3㎝、最大幅1。95㎝、最大厚0。6㎝で、上端と下端が薄く、中ほどが厚くなっています。全体が良く磨かれて丁寧に仕上げられています。時期の特定は難しく、同時に出土した土器年代から古代~中世と幅を持たせています。

遺物1はⅣ層1面、 2はⅢ層、3は表面採集、4はⅣ層からの出土になるようです。このほか、Ⅲ層からは大量のこけら経と笹塔婆が出土しています。これを次に見ておきましょう。

岩屋寺 こけら経出土状態
岩屋寺のこけら経出土状態
仙人窟からはこけら経・笹塔婆2421点が出ています。その内訳は、次の通りです
①経典を書写したこけら経が505点
②六字名号などを書いた笹塔婆415点
③内容不明等の墨書などの断簡1501点
④残存状況は、完全系60点、頭部407点、下部57点、断片1897点
岩屋寺こけら経1
岩屋寺出土のこけら経

こけら経・笹塔婆については元興寺極楽坊から発見されたものが有名です。
「水野正好先生の古稀をお祝いする会2003年8月2日発行】15頁の「経木・経石発掘」には、次のように記します。
 (-前略-)『大乗院寺社雑事記』には、こうした柿経書写の様子をこと細かく「春菊丸の追善のために柿経5670本つくり供養。うち5550本は文明9年5月14日の誕生日から当年(明応元年)7月25日死去の日まで、春菊丸がこの世にあった日数の柿経、120本は当年3月25日より死去の日まで、病に臥せた120日間分。柿経に書写した経は法華経は8巻・・・地蔵本願経3巻、阿弥陀経・・・。柿経は曽木200枚余、6切に5本ずつとる」と書きのこしてくれている。
死者の追善供養としての柿経の写経であり、在世の日数に病
臥の日数を加えて法華経以下の経を写しているのである。
敦賀市のこけら経: 一乗学アカデミー
こけら板墨書  妙法蓮華經  富森冬永奉納  一束(箍外れの3枚を含む)
・時代 室町時代1498年(明応七年十一月十一日)銘
・直径 約21.5㎝(こけら板1枚の長さ約26.3㎝ 幅 約1.6㎝ 厚さ 約0.03㎝)
・説明 薄く剥(は)いだヒノキの板約2,000枚に墨で1行17字の妙法蓮華經を書写したもの。重ねて、巻末を中心にして円筒形に巻き込み、上・下を竹の箍(たが)で締めつけているが、下の箍は現在は銅線で補修されている。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。

元興寺極楽堂の天井裏に、はかつて柿経を納めたカマスがあったようです。

岩屋寺の仙人窟から出てきた笹塔婆を見ておきましょう
世良田諏訪下遺跡出土の笹塔婆等 附 出土土器一括 - 太田市ホームページ(文化財課)
笹塔婆は仏の名前や短い仏教の文言を書いて供養やまじないに用いた木簡です。岩屋寺出土の笹塔婆には
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
岩屋寺のこけら経・笹塔婆は、
いつころ奉納されたものなのでしょうか?

岩屋寺 こけら経分類
岩屋寺 こけら経編年表

上の分類・編年表に岩屋寺こけら経・笹塔婆の分類を照会すると、「松浦・原旧分類」のIa類とⅦa類に対応するので、15世紀後半~16紀頃のものと研究者は判断します。また、それを補強するものとして、岩屋寺のこけら経や笹塔婆の多くが片面写経であること、字体が近世まで下らないことがあります。
以上からは中世後期のこの岩窟では、士師質土器皿を持ち込んで、宗教的行為や柿経・笹塔婆の奉納などに活発に岩窟を利用していたことがうかがえます。
それでは、8世紀代の須恵器が仙人窟に持ち込まれていることを、どう考えればいいのでしょうか?
岩屋寺は、長く第41番札所大賓寺の奥之院とされてきました。そのため岩屋寺の縁起は、ほとんどが江戸時代以降のものです。最も古いものは鎌倉時代に描かれた『一遍聖絵』の詞書になります。そこには、空海以前には、地主神として仙人が生活していたとと、次のように記します。

「仙人は又土佐国の女人なり、観音の効験をあふきてこの巌窟にこもり…(中略)・…又四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十二所の霊嘱あり。斗藪の行者霊験をいのる砌なり」

 ここからは岩屋寺が創建される以前より、土佐国出身の女性の仙人が修行を行う霊地であったと伝わっていたようです。こういう伝えが残されていることは、岩屋寺周辺の岩窟では、行者らの修行が岩屋寺創建より前から行われていたことがうかがえます。
 また、この岩窟は生活するには不便な場所です。床面は水平ではなく、斜めに傾いています。その上、開口部以外は天井は低く、狭いので日常的な生活の場には適さない空間です。しかも水場からは遠く離れています。以上から、今回出土した須恵器は、日常的生活用ではなく、岩窟内での宗教的行為のために持ち込まれたものと研究者は考えています。
ここから出土した8世紀の須恵器の器種は壺の蓋です。
形から見て頸の短い短頸壺とセットとなる蓋で、その用途は日常生活の貯蔵容器として用いられる他に、この時期には蔵骨器として用いられていたと研究者は指摘します。その用例は愛媛県でも何例かあるようです。
岩屋寺 松山市の骨蔵器

上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
最後に、鹿角製竿について見ておきましょう。
先ほど見たように、中世後期の仙人窟では、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われていたことが想定できます。しかし、その際に鹿角製竿がどのように使われていたのかというのは、よく分かりません。他でもこけら経と竿、土師質土器と竿を用いた祭祀行為の例はないようです。廻らなくなった頭を叩いて無理矢理に出してみると「行者などの人々の出入りが比較的多かったので、修行などの際に鹿角製竿を落とした」くらいしかおもいつきません。しかし、仙人修行の地である神聖な霊窟に落とし物をしてそのままにする修験者がいるでしょうか。しかも、これは完形品で、廃棄されたとも考えられません。
 一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます

以上から、仙人窟で行われてきた宗教儀式を年代順に追ってみるると次のようになります。
①奈良時代8世紀に、死霊の赴く山として骨蔵器に骨が納められ埋葬された
②空海以前には、土佐出身の仙人が住み、観音信仰の霊地や行場とされていた。
③そこに熊野行者が入り込み、大那智社・一の王子・二の王子などを勧進した
④その後、高野聖がやってきて阿弥陀信仰をもたらし、祖先供養の霊地にした。
⑤高野聖は、高野山の守護神である丹生社や高野社を勧進するとともに、弘法大師信仰を拡げた。
⑥同時に祖先供養のために、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われた
⑦戦国時代16世紀の岩屋寺は、山林修行者の行場であると同時に、高野聖(念仏聖)たちによって里人の祖先供養の霊場の性格を強め、人々の信仰を集めた
⑧高野聖の活躍による弘法大師信仰の高まりを背景に、建立されたのが大師堂である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「発掘調査の成果(仙人窟) 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺(58P) 2022年3月 愛媛県教育委員会」
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 前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。

岩屋寺
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。
『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。 
  岩屋寺 四国遍礼名所図会右
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年右上
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)

 さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
 本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
 一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。

岩屋寺 仙人堂と不動堂
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂

中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、
大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。
仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作
大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
 虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。
 仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左
         岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左下
        岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
 2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年左上

左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
岩屋寺 白山権現行場入口
 看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)

本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
岩屋寺 3
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる

 ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
岩屋寺 二の王子跡推定地
 二の王子社と大那智社跡推定地
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
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    買田岡下遺跡と弘安寺
買田岡下遺跡(R32号満濃バイパスとR377号の交叉点東側)
国道32号のバイパス工事の際に、買田の西村ジョイの南側から古代から近世まで続く村落遺跡が出てきています。これが買田岡下遺跡です。今回は、この遺跡を見ていくことにします。
テキストは「買田岡下遺跡調査報告書 2004年」です。

買田岡下遺跡 写真
買田岡下遺跡
 まず、その位置を確認しておきます。国道32号線と国道377号線の交差する買田交叉点の東側、西村ジョイの南側のバイパス下なります。現場に立って見ると、南側の恵光寺のある尾根から緩斜面が拡がります。北側は、金倉川が蛇行しながら東西に流れ、金毘羅山の丘陵(石淵)にあたって、北側に流れを変えます。

買田岡下遺跡の周辺遺跡について、調査報告書は次のように記します。
「背後の丘陵上には古墳時代中・後期の小古墳群の存在が知られるがその実態は詳らかではない。また白鳳期創建の弘安寺(廃寺)は 金倉川を挟んで約1,3km北方に位置する。律令制下、那珂郡真野郷は金倉川湾曲部以南の南岸部分一帯に比定され、買田地区はその西部に位置する。以東の地区とは標高120m前後の買田峠の丘陵によって隔てられており、鎌倉期には園城寺領買田庄が成立する。」

まんのう町条里制と遺跡

買田岡下遺跡周辺遺跡(赤は条里制跡)
以上を要約整理すると
①東の買田峠にはかつては、数多くの群集墳があり、岸の上の椿谷には中型の横穴石室を持つ古墳
②南の永生病院の西側には中世山城の丸山城跡
③北側や東側の平野部に白鳳期創建の弘安寺(廃寺)
④丸亀平野の条里区画の南端部の外側に位置する、
以上からは、買田岡下遺跡の周辺には
古墳時代の群集墳
→ 古墳後期の中型横穴式石室 
→ 白鳳期創建の弘安寺 
→ 那珂郡条里制の最南端
などが継続して、作られてきたことが分かります。ここからは、丸亀平野の南端エリアの開発を進めた古代有力者の存在が垣間見えると私は考えてきました。弘安寺の白鳳時代の瓦は、善通寺の影響を受けながら作られ、その同笵鏡が讃岐山脈を越えた阿波郡里(美馬市)の古代寺院から見つかっていることは以前にお話ししました。ここからは、古代から塩などの交易を通じて古代から阿波三好地域との活発な交流が行われていたことがうかがえます。そのような拠点集落が買田岡下遺跡であったのではないかという期待が私にはありました。

さて、発掘の結果何が出てきたのでしょうか。
買田岡下遺跡からは、古代・中世・近世の3つの時代の柱穴がたくさん出てきました。掘立柱建物跡は、下図のよう3つのエリアで見つかっていますが、それぞれ建てられた時代が次のように異なります。

買田岡下遺跡 区域

Ⅰ区中央は中世
Ⅱ区西南は古代
Ⅵ区は近世
 ここからは古代以来、集落が形成され続けてきたことが分かります。そして、古代と中世では、その存立基盤が次のように異なるとします。
古代 金倉川沿いのエリアを生産基盤として、阿波との交易拠点。
中世 恵光寺方面の南に延びる谷を開発し、谷田開発進めた勢力の拠点


買田岡下遺跡の注目点は、古代の大型の掘立柱建物の柱穴が大量に出てきたことです。
買田岡下遺跡 SB20 庇付
Ⅱ区南の大型の掘立柱建物 SB20とSB21

真っ直ぐに並ぶ柱穴を見たときには、「倉庫群」と思いました。「古代倉庫群=郡衙跡」とされています。そうだとすると、ここに那珂郡南部の郡衙跡的な施設があったことになります。さてどうなのでしょうか。

買田岡下遺跡SB20
Ⅱ区南のSB20を見ていくことにします。

買田岡下遺跡 SB20
SB20の平面図(南から)
この平面図からは次のようなことが分かります。
①梁間2間 (6.4m)× 桁行 5間(8,4m)
②柱穴平面は、径約0,4~0,7mの 円形か隅丸方形
③下側3列目の小さな柱穴は庇用。
④建物内部から須恵器杯蓋のつまみ、 土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)が出土
研究者は床面積が40㎡以上の古代の建物を「大型建築物」と呼んで「特殊用途」的建物と考えています。その基準からすれば床面積が約54㎡あるので、特殊用途の建築物です。しかし、よく見ると、3列の柱穴は小さいことです。これが庇用の柱穴だったようです。南側に庇があったことになります。倉庫ではなく有力者の居館だったと研究者は考えています。Ⅱ区を拡大して見ます。

買田岡下遺跡 古代部分拡大図
買田岡下遺跡Ⅱ区南 (左から SB20・SB21・SB25)
 3つの大型建物が並列して並んでいます。この中で廂や床束があるのが一番左のSB20で、これが主屋のようです。これを中心に2棟の副屋が配置されます。つまり、買田岡下遺跡には、9世紀半ばに廂付大型建物が3棟並んで建っていて、これは有力者の居館であったと研究者は判断します。

買田岡下遺跡 大型建物が並列する遺跡の類例
前田東・汲仏遺跡との比較
これと同じように、廂付の大型建物が「L」字に配置されているのが前田東・汲仏遺跡で、時代的には10世紀中頃のものとされます。これらは、丘陵の裾部にあったので地形的な制約があって真っ直ぐには配置されなかったためL字上になっているようです。
 研究者が注目するのは、建物の間に広場的空間があるかどうかです
中国の古代王朝の王宮などには、宮殿に南面して広場があり、ここが儀式やイヴェントの会場となる政治的空間でした。これが日本の藤原京や平城京にも取り入れられ、それが讃岐の国府にも見られます。そして、善通寺の稻木北遺跡には広場的空間を持つので、多度郡の郡衙候補を研究者は考えているようです。つまり、政治的空間である郡衛などには、南面して広場があるのです。
稻木北遺跡(8世紀前葉)

 買田岡下遺跡には、それがありません。あるのは居住に適した庇付大型建物です。そのため古代の郡衛などの政庁的建物ではなかったと研究者は判断します。私の期待は、見事に外れました。しかし、SB20からは、土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)がで出土しています。ここからは、空海が満濃池再築に帰省したときには、ここには集落拠点が姿を現していたことが考えられます。
広場を持たず、大型建物が並列する遺跡の類例を見ておきましょう。
買田岡下遺跡 古代大型建物配置

前田東・中村遺跡と汲仏遺跡(10世紀前葉)
③真っ直ぐではなく方位がやや振れた廂付大型建物が3棟並ぶのが買田岡下遺跡(9 世紀中葉~9世紀後葉)
④廂付を含む大型建物が「L」字にレイアウトされているのが前田東・中村遺跡・汲仏遺跡になる。
そして③④の発展系になるのが、


⑤東山田遺跡(10c 中葉~ 11 世紀前葉)
⑥下川津遺跡(11 世紀前葉)
⑦西村遺跡10c末葉~11c)
この段階になると、主屋と副屋の関係がはっきり見えてくるようです。

 このタイプが発展して、中世方形館へ成長して行くと研究者は考えています。
古代城郭教室(Ⅴ) 中世城館はどのように誕生したのか?] - 城びと
中世方形舘

このタイプの特徴は、「主屋と幅屋の明確化」でした。讃岐の中世前半期の方形館の特徴は、溝により囲まれた空間の中央の主屋、その周囲に複数の副屋が配置されることです。ここからは、両者の間に系統性が見られます。
改めて、買田岡下遺跡の発展系を整理して起きます。
①買田岡下遺跡の建物配置は、廂付き・床束を備えた1棟の大型建物(SB20)に並んで、副屋と見られる小型建物(SB21・SB25)がある。
②その発展系の西村遺跡などは、大型建物の近くに1棟の副屋がある。買田岡下遺跡との共通性は、廂付きの大型建物に床束をもつこと、大型建物が集落経営者の居住であること。
③西村遺跡(11 世紀末~ 12 世紀前半)は、溝で囲まれた空間の中に主屋と複数の副屋が配置されている
④空港跡地遺跡1は、溝区画内部に中央の主屋を中心に副屋が整然と配置されている。
以上からは、11 世紀中頃から集落断絶期を経て、③の西村遺跡には2棟あったの大型建物が 1棟のみに絞りこまれ、溝の内側に数棟の小型建物が集約されるようになったことが分かります。このような流れの中で、中世前半期に方形館が姿を見せると研究者は考えています。そこでは、買田岡下遺跡のSB20のような床束をもつ大型建物が中世方形館の主屋に多く採用されることになります。ここでは、買田岡下遺跡の10世紀の建物群は、古代後半に出現し、中世前半の方形館(武士の舘)に繋がるタイプであることを押さえておきます。

中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~ | 武将の道

つまり、買田岡下遺跡については、
①7世紀の白鳳時代からこの地を拠点にしていた古代の有力者の系譜につながる勢力
②あらたに買田の地域開発を進め中世の開発型名主につながるような新勢力の拠点の両面をもっていて①から②へ脱皮していった勢力であったことが推測できます。また、この遺跡のすぐ上には、江戸時代に庄屋を務めた永原家があります。永原家は、中世には買田丸山城の城主で、近世に帰農したと伝えられます。そうだとすれば、古代から中世、そして近世の永原家につながる系譜とも云えます。
 もっと大きな目で見れば、最初に見たように「古墳時代の群集墳 → 古墳後期の中型横穴式石室 → 白鳳期創建の弘安寺 → 那珂郡条里制の最南端」に追加して「買田地区の中世開発者(永原家の祖先)」という系譜が描けるのかも知れません。しかし、これはあくまで「想像」の世界です。どちらにしても、買田岡下遺跡は、古代の郡衛的施設ではないが、中世につながる有力者の拠点集落であったとは云えるようです。
 私がもうひとつ気になるのは、この遺跡が真野郷西部にあって、条里区画外であることです。
条里制 丸亀平野南部

上の条里制遺構図をみても赤い条里制跡は、買田岡下遺跡には及んでいません。これはここが古代の郷の中心部ではないことを示します。そういう目で、真野・吉野方面を見ると、四条方面から岸の上方面へと条里制は伸びています。丸亀平野の条里制のスタートは、7世紀末頃にスタートしたことが発掘調査から分かっています。そして、それを担ったのが国造クラスの豪族達で、彼らがその論功行賞で郡司へと成長して行くと研究者は考えています。そうだとすれば、このエリアにも条里制工事を進めた豪族がいたはずです。それが古墳時代に、買田峠に群集墳を造り、岸の上の椿谷に横穴式古墳を造営し、白鳳期になると四条地区に氏寺として弘安寺を建立したと私は考えています。しかし、その氏族の拠点としては、買田岡下遺跡は相応しくないように思えます。
以上、買田岡下遺跡について、まとめておきます。
①この遺跡は、古代には真野郷西部の条里区画外にあること。郷の中心部ではない。
②真野・吉野郷の中心は、弘安寺のあった四条地区にあったと考えられる。
③にもかかわらず買田岡下遺跡からは、帯金具や緑釉や、瓦片が多数出土しているので、この遺跡は特別な役割を持った拠点だった。
④その性格として、香川~阿波~高知のルート上にあるという立地を最大限に評価すべきと研究者は考えていること。
⑤建物配置から、郡衛の様な政治拠点ではなく、古代有力者の屋敷群であったと研究者は考えている。
⑥古代の屋敷群を継承するような形で、中世・近世の建物群が続いてあった。
⑦この遺跡のすぐ南には、丸山城城主が帰農した永原氏の家が現存すること。
⑤古代と中世では、この集落は全く別の意図で成立したことが集落であったこと。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
買田岡下遺跡調査報告書 2004年
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佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
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