今回は、今後の史料として「祖谷紀行」を現代文意訳で、アップしておこうと思います。なお「祖谷紀行」は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧可能です。
祖谷紀行 讃州浪士 菊地武矩
祖谷は阿波の西南の辺にあり、美馬郡に属す。
久保二十郎云、むかしハ三好部なり、蜂須賀蓬寺君の阿州に封せられ給ひしより、美馬郡につくとなり、美馬郡は昔名馬を出せし故に呼しと、
○祖谷を美馬となせしハ、寛文中、光隆君の時なりともいふ。南北遠き所ハ六里、近きハ三里余、東西遠きハ十五、六里、近き所ハ一二、三里、其地いと幽途にして一区中の如く、ほとんどは桃源の趣あり、むかし安徳天皇雲隠れまし、所にて、其御陵又平家の赤旗なんとありときこえけれハ、床しく覚えて行遊の志あり、ここに西湖といふものあり、
意訳変換しておくと
祖谷は阿波の西南にあたり、美馬郡に属す。久保三十郎が云うには、昔は三好郡であったが、蜂須賀小六が阿波藩主に封じられた時に、美馬郡に属するようになった、美馬郡は、かつては名馬を産したので「美馬」と呼ばれたと。○祖谷を美馬郡に編入したのは、寛文年間の時とも伝えられる。祖谷は、南北六里、東西は十五里で、幽玄で、桃源境の趣がする。かつて、安徳天皇が落ちのびた所で、その御陵には平家の赤旗もあると聞く。そんなことを聞いていると旅心が湧いてきた。友人に西湖といふ者がいる。
意訳変換しておくと
もとは吉備の中津国の人で、祖谷の地理についてよく知っている。そこで彼が近村にやって来たときに、佛生山の田村惟顕(名敬、称内記)と、出作村の中膊士穀(名秀実、称六郎衛門)と、申し合せて、祖谷への先達を頼んだ。こうして寛政五年(1792)卯月25日の早朝に、私たち4名は香川郡由佐を出立した。香川(香東川)に沿って、南に半里ばかり歩いた。(文中の一里は五十丁、一町は五十歩、一歩は六尺) ここには讃岐の名勝として名高い「童洞の渕(井原下村)」がある。断岸の間にあって、青山が左右に起立して、明るい昼間でも仄かにくらく、その水は南から流れ来て、滝として落ちる。それは渦巻く波車のように見える。その中に穴がある。廣さは一丈ばかりで、深さはどれだけあるのか分からない。その中に龍の神が、潜んでいると云われる。旱魃の年には、雨乞い祈願のために、祀られる。
①1792年旧暦4月25日に、4人連れ添って祖谷への旅に出た。②香川(=香東川)の「童洞の渕(現在の鮎滝周辺)」は、讃岐の名勝で、龍神の住処で雨乞いの祈願が行われる場所でもあった。
この渕からより東南へ一里ばかり行くと、関、中徳、椿泊、五名中村を経て、岩部(塩江美術館付近)に至る。また、中徳から右に進むと、西南半里余で、奥野に至る。その間には斧か渕、正兵瀧、虹か瀧などもあり、名勝となっている。これについては、私は別の紀行文で書いたので省略する。その道のりの間には、怪しい山が多くあることで有名で、翡翠も多い。香東川曲水と岩部八幡(讃岐国名勝図会)さて岩部には、石壁がある。 高さ二丈余りで、長さ数百歩、好風が吹き抜けていく。その下を香川(香東川)が清くさやけく流れていく。巌の上の跡を見ながら、持参した酒をかたむける。この景色を眺めながら大和歌を詠い、吉歌を詠む。すでに時刻は午後2時に近く、西南に100歩も行くと、香川(香東川)に別れを告げ、(美馬・塩江線沿いに)いよいよ国境を目指す。ここからは不動の瀧、塩の井(塩江)鎧岩、簑の瀧などがある。これも別記した通りである。ますます幽玄になり、時折、鶯の声も聞こえる。土穀詩の「深山別有春余興・故使鶯声樹外残・其起承」を思い出す。焼土(やけど)という所を過ると、高い山の上に、趣のある庵が見えて来た。白雲が立つあたりに、どんな人が浮世を厭い離れて暮らしているのだろうか。むかし人の詠んだ「我さへもすたしと思ふ柴の庵に、なかはさしこむ峯の白雲となん」という歌を思い出し、その通りだと納得する。塩江霊泉(讃岐国名勝図会)
内場(内場ダム周辺)という所を過ぎると、山人の炭焼窯があちこちに見えてくる。山はますます深くなり、渓水はその間を流れ、香川(香東川)に合流する。その渓流の響きは、八紘の琴のようにも聞こえる。石壁にうけ桶が架けられた所、巖の列立て、笙の竹が植えられた所など、この間の風景は殊にいい。そうするうちに合栗(相栗峠)に着いた。
ここまでのルートを振り返ると、次のようになります。
① 由佐 →鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠
現在の奥塩江経由になります。相栗峠は、龍王山と大瀧山の鞍部にある峠で、美馬と髙松平野を結ぶ重要交通路でした。中世から近世には、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の髙松平野への教線伸張ルートであったことは以前にお話ししました。
話の中に詩文の引用が登場してきます。筆者にとっての紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。紀行文は、歌を登場させるための「前振り」的な意味もあります。詩文の比重が高かったことを押さえておきます。
相栗峠の由来について、作者は次のように記します。
ここは讃岐と阿波の境になる。この峠には、次のような話が伝わっている。昔、ここに栗の樹があって、阿讃の人達が栗を拾ったので、その名前がついた。そこに大田の與一という人物が四十年前に移ってきた。なお大田村の松本二郎は、その一族と云う。彼が私に語った所によると、安原は山村なので、南北五、六里の鮎瀧・関・中徳・五名・中村・椿泊・岩部・燒土・内場・細井などは、その小地名で、合栗も細井の小字名であろう。細井は、山の麓にあって、大干魃の際にも水が涸れず、大雨にも増水することがない。常に細々と水が流れるので「細井」という地名がついている。
また細井には鷹匠が鷹を獲る山があり、綱を木の上に架け置いて、その下に伏せて待っていて、鷹がかかれば起出て捕える。しかし、鷹は蹴破って逃げることもある。朝に郷里の由佐をでて、阿讃国境の相栗峠まで四里、はるかまでやってきた。由佐よりトウト渕まて半里、トウト渕から岩部まて一里半、岩部より合栗(相栗)まで二里半になる。はじめて讃岐を出て他国に入る。振り返れば、八重に山々が隔たり、雲霧もわき出ている。故郷の由佐を隔てる山々は、巨竜の背のように、その間に横たわる。
相栗峠から貞光までの行程を見ておきましょう。
相栗峠から東南へ、林を分け谷を周りこんでいくと谷川がある。これが「せえた川(野村川谷?)」で、その川中を辿って一里ほど下りていく。左右は高い山で、右を郡里山といひ、左りを岩角山と云う。草樹が茂る中を、川を歩き、坂を下り、平地を壱里ほど歩くと、芳(吉)野川に出る。この川の源流は土佐國で、そこから阿波国を抜けて海に出る。流域は六、七十里の、南海四州の大河である。大雨が降ると、水かさを増して暴れ川となる。私は、「其はしめ花の雫やよしの川と」という歌のフレーズを思い出したが。それは大和の吉野川のことであったと、気づいて大笑いした。船に悼さして吉野川を南に渡ると、人家の多い都会に行き着いた。これを貞光という。養蚕が盛んで、桑をとる姿がそこかしこに見える。その夜は、この里に宿を取った。
きのように渓流沿いを歩く道だったことがうかがえます。
②平地に出て一里歩いているので郡里まで西行したことが考えられます。
③そして郡里から「船に悼さして吉野川を南に渡」って、貞光に至ったとしておきます。
④貞光周辺は「養蚕が盛んで、桑をとる姿」が見えたことを押さえておきます。
翌朝26日に、貞光を出発して西南方面の高い山に向かう。その山は岩稜がむき出しで、牙のような岩が足をかむことが何度もあった。汗を押しぬぐって、ようやく峠に出ると、方五間ほどの辻堂があった。里人に聞くと、①新年には周辺の里人達が、酒の肴を持ち寄って、このお堂に集まり、日一日、夜通し、舞歌うという。万葉集にある筑波山の会にも似ている。深山なればこそ、古風の習俗が残っているのかもしれない。その辻堂で、しばし休息した後に、さらに高い山に登っていくと、石仏が迎えてくれた。これが貞光よりの一里塚の石仏だという。古老が云うには、日本國には、神代の習俗として、猿田彦の神を巷の神として祭り、その像を刻印した。仏教伝来以後は、それを地蔵に作り替えたが、僻地の國では今も神代ままに、残っている所があると云う。辻堂の宴会が万葉の宴に似ているのを考え合わせると、この石佛も、むかしの猿田彦の神なのかもしれない。耳を澄ますと、水のとどろく音が聞こえてくる。何かと怪しみながら近づいていくと、大きな瀧が見えて来た。これが鳴瀧である。瀧は六段に分かれ、第一段は雲間より落てその源さえ見えない。第二段は岩稜に従い落ちて、第三段は岩を放れて飛び、四段五段は、巌にぶつかりながら落ちていく、第六段は谷に落ち込んで、その末は見えない。全長は上下約二百四五十尺にも及ぶ。適仙が見たという中国の濾山の瀑布水も、こんなものであったのかと思いやる。雲間から落てくる瀧の白波は、天の川の水がそそぎ落ちるのかとさえ思う。天辺の雲が裂けて龍の全貌が見えると、あたりに奇石多く、硯にできるとような石壁が数丈ある。形の変わった奇樹もあり、枝幹も皆よこしまに出たりして、面白い姿をしたものが多い。
①貞光の端山周辺には、各集落毎にお堂があること。
②お堂に集落の人たちが集まり、酒食持参で祖霊の前で祈り・詠い・踊ること。
③祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくること。
④「ソラの集落」として、有名になっている猿飼を通過している
④鳴滝の瀑布を賞賛していること、しかし土釜は登場しない。
眺めを楽しみながら、山の半腹をつたい、谷を廻っていくと一宇という所に着いた。
一宇の人家は五、六軒。その中に南八蔵という郷士の家がある。この家は、祖谷八士と同格で、所領も相当あるという。その家の長さは九間だが、門も納屋もない。讃岐の中農程度の家である。山深い幽谷であるからであろうか。しばらく進むとふちま山がある。山の上に山が重なり。人が冠せたように見えるのが面白い。さらに進んで松の林で休息をとる。そこで貧ならない山人に出会ったので、どこの人か聞くと、「竹の瀬」の者だと答えた。竹の瀬は、一宇の山里のようである。彼の名を問うと辺路と答えた。それは、世にいふ「辺路(遍路)」なのかと問うと、そうだという。聞くと、彼の父が四國辺路に出て、家を留守している間に生れたので、辺路とい名前がつけられたようだ。辺路とは、阿讃豫土の四国霊場をめぐり、冥福をいのることを云う。他にもそんな例はあるのかと問うと、伊勢参宮の留守に生れた男は、参之助・女は「おさん」と名付けられている。また、生れた時に胞衣を担いで、袈裟のやうにして生れた男の子は、袈裟之助、女の子は「おけさ」と名付けられている。また末の子を「残り」、その他に右衛門左衛門判官虎菊丸鳥とい名前もあり、源義明・源義経・浮田中納言秀家・法然上人という名前を持つものものいるという。ここで初めて、私は「辺路」や「遠島」という名前もあるのだと知った。ここで出会った「辺路」を雇って案内者とすることにした。
②南八蔵の家は、この地方では最有力な郷士であったが、門も納屋もなかった。
③「辺路」と名付けられた男に、案内人を頼んだ。
ここに出てくる南八蔵の家は、一宇山の庄屋で今はないようです。南家については、弘化四年「南九十九拝領高并居宅相改帳」に、ここに「居宅四間 梁桁行拾五間 萱葺」と記載されています。この建物は明治30年に焼夫したようです。
しばらく行くと、「猿もどり」という巖が出てきた。
「猫もどり」、「大もどり」とも呼ばれるという。「ヲササヘ」(?)とい地名の所である。幅二三尺長七八丈、高三四丈で、藤羅がまとわりついて千尋の谷に落ちている。さらに数百歩で大きな巖の洞がある。その祠の中には二十人ほどは入れる。伝説によると、その祠の中に、大蛇が住んでいて、往来の人や禽獣を飲み込んでいたという。さらに進むと雌雄という所に着いた。「こめう」は、民家十四、五軒で、山の山腹にある。ここまで来て、日は西に傾き、みんなは空腹のため動けなくなった。最(西)福寺
ここにある最福寺の住職と西湖は知人であった。そこで、寺を訪ねて一宿を請うた。しかし、住職が言うには、ここには地米がなく、栗やひえだけの暮らしで、賓客をもてなすことができないので、受けいれられないと断られた。西湖が再度、懇願し許諾を得た。私たちが堂に上ると、住職や先僧などがもてなしてくれた。その先僧は西讃の人で、故郷の人に逢ふような心地がすると云って、時が経つのも忘れて談話をした。住僧は、人を遠くまで遣って米を求め、碗豆を塩煮し出してくれた。私たちは大に悦び、争うように食べた。その美味しさは八珍にも劣らない。先ほどまでの空腹を思えば、はじめやって来たときに、梵鐘が遠くに聞こえるように思い、次の詩を思い出した。日暮行々虎深上、逢看蘭若椅高岡、応是遠公留錫杖、仙詔偏入紫雲長、諸子各詩ありこと長けれ貞光より雌雄までは、凡そ五里と云うが、道は山谷瞼岨で、平地の十余里に当たるだろう。
一宇 → ふちま山 → 猿もどり → 雌雄 → 最(西)福寺
しかし、今の私には出てくる地名が現在のどこを指すのか分かりません。ご存じの方がいれば教えて下さい。どちらにしても、最福寺までやってきて、なんとか宿とすることができたようです。この寺の先僧が西讃出身と名告ったというのも気になる所です。四国霊場の本山寺は、その信仰圏に伊予や土佐・阿波のソラの集落を入れていたことは以前にお話ししました。本山寺と関係する馬頭観音の真言修験的な僧侶でなかったのかと私には思えてくるのです。
今回は「祖谷紀行」で、讃岐由佐から一宇まで、2日間の行程を追ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
菊地武矩 祖谷紀行 国立公文書館のデジタルアーカイブ
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