瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2023年12月

祖谷紀行 表紙
菊地武矩の「阿波紀行」
 寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文が残されています。
今回は、今後の史料として「祖谷紀行」を現代文意訳で、アップしておこうと思います。なお「祖谷紀行」は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧可能です。
 18世紀後半と云えば、金比羅船が就航して、その参拝客が急増していく時期です。この時期に、十返舎一九は、東海道膝栗毛を出しています。さらに紀行文ブームの風を受けて、弥次・喜多コンビに金毘羅詣でをさせています。これは「祖谷紀行」が書かれた約10年後のことになります。ここからは18世紀末から19世紀初めは、伊勢参りが大人気となり、その余波が金毘羅参りや、宮島参りとなって「大旅行ブーム」が巻起きる時期にあたるようです。文人で、歌好きの菊地武矩も、祖谷を「阿波の桃源郷」と見た立てて旅立っていきます。

 阿波紀行 1P
        菊地武矩の「祖谷紀行」の書き出し
左ページが祖谷地方について書かれた冒頭部です。これを書起こすと以下のようになります。

祖谷紀行 讃州浪士 菊地武矩
祖谷は阿波の西南の辺にあり、美馬郡に属す。
久保二十郎云、むかしハ三好部なり、蜂須賀蓬寺君の阿州に封せられ給ひしより、美馬郡につくとなり、美馬郡は昔名馬を出せし故に呼しと、
○祖谷を美馬となせしハ、寛文中、光隆君の時なりともいふ。南北遠き所ハ六里、近きハ三里余、東西遠きハ十五、六里、近き所ハ一二、三里、其地いと幽途にして一区中の如く、ほとんどは桃源の趣あり、むかし安徳天皇雲隠れまし、所にて、其御陵又平家の赤旗なんとありときこえけれハ、床しく覚えて行遊の志あり、ここに西湖といふものあり、

意訳変換しておくと
 祖谷は阿波の西南にあたり、美馬郡に属す。久保三十郎が云うには、昔は三好郡であったが、蜂須賀小六が阿波藩主に封じられた時に、美馬郡に属するようになった、美馬郡は、かつては名馬を産したので「美馬」と呼ばれたと。
○祖谷を美馬郡に編入したのは、寛文年間の時とも伝えられる。祖谷は、南北六里、東西は十五里で、幽玄で、桃源境の趣がする。かつて、安徳天皇が落ちのびた所で、その御陵には平家の赤旗もあると聞く。そんなことを聞いていると旅心が湧いてきた。友人に西湖といふ者がいる。
祖谷紀行2P
祖谷紀行2P目

意訳変換しておくと
もとは吉備の中津国の人で、祖谷の地理についてよく知っている。そこで彼が近村にやって来たときに、佛生山の田村惟顕(名敬、称内記)と、出作村の中膊士穀(名秀実、称六郎衛門)と、申し合せて、祖谷への先達を頼んだ。
こうして寛政五年(1792)卯月25日の早朝に、私たち4名は香川郡由佐を出立した。
香川(香東川)に沿って、南に半里ばかり歩いた。(文中の一里は五十丁、一町は五十歩、一歩は六尺) ここには讃岐の名勝として名高い「童洞の渕(井原下村)」がある。断岸の間にあって、青山が左右に起立して、明るい昼間でも仄かにくらく、その水は南から流れ来て、滝として落ちる。それは渦巻く波車のように見える。その中に穴がある。廣さは一丈ばかりで、深さはどれだけあるのか分からない。その中に龍の神が、潜んでいると云われる。旱魃の年には、雨乞い祈願のために、祀られる。
ここまでの要点をまとめておきます
1792年旧暦4月25日に、4人連れ添って祖谷への旅に出た。②香川(=香東川)の「童洞の渕(現在の鮎滝周辺)」は、讃岐の名勝で、龍神の住処で雨乞いの祈願が行われる場所でもあった。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。童洞淵は現在の鮎滝で高松空港の東側です。

相栗峠
鮎滝から相栗峠まで
鮎滝からは奥塩江を経て、相栗峠までを見ておきましょう。
 この渕からより東南へ一里ばかり行くと、関、中徳、椿泊、五名中村を経て、岩部(塩江美術館付近)に至る。また、中徳から右に進むと、西南半里余で、奥野に至る。その間には斧か渕、正兵瀧、虹か瀧などもあり、名勝となっている。これについては、私は別の紀行文で書いたので省略する。その道のりの間には、怪しい山が多くあることで有名で、翡翠も多い。
4344098-34香東川屈曲 岩部八幡
香東川曲水と岩部八幡(讃岐国名勝図会)
 さて岩部には、石壁がある。 高さ二丈余りで、長さ数百歩、好風が吹き抜けていく。その下を香川(香東川)が清くさやけく流れていく。巌の上の跡を見ながら、持参した酒をかたむける。この景色を眺めながら大和歌を詠い、吉歌を詠む。
 すでに時刻は午後2時に近く、西南に100歩も行くと、香川(香東川)に別れを告げ、(美馬・塩江線沿いに)いよいよ国境を目指す。ここからは不動の瀧、塩の井(塩江)鎧岩、簑の瀧などがある。これも別記した通りである。ますます幽玄になり、時折、鶯の声も聞こえる。

4344098-31
塩江の滝(讃岐国名勝図会)
 土穀詩の「深山別有春余興・故使鶯声樹外残・其起承」を思い出す。焼土(やけど)という所を過ると、高い山の上に、趣のある庵が見えて来た。白雲が立つあたりに、どんな人が浮世を厭い離れて暮らしているのだろうか。むかし人の詠んだ「我さへもすたしと思ふ柴の庵に、なかはさしこむ峯の白雲となん」という歌を思い出し、その通りだと納得する。

4344098-33塩江霊泉
塩江霊泉(讃岐国名勝図会)

 内場(内場ダム周辺)という所を過ぎると、山人の炭焼窯があちこちに見えてくる。山はますます深くなり、渓水はその間を流れ、香川(香東川)に合流する。その渓流の響きは、八紘の琴のようにも聞こえる。石壁にうけ桶が架けられた所、巖の列立て、笙の竹が植えられた所など、この間の風景は殊にいい。そうするうちに合栗(相栗峠)に着いた。
相栗峠(あいぐりとうげ)

ここまでのルートを振り返ると、次のようになります。

① 由佐 →鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠

現在の奥塩江経由になります。相栗峠は、龍王山と大瀧山の鞍部にある峠で、美馬と髙松平野を結ぶ重要交通路でした。中世から近世には、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の髙松平野への教線伸張ルートであったことは以前にお話ししました。
 話の中に詩文の引用が登場してきます。筆者にとっての紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。紀行文は、歌を登場させるための「前振り」的な意味もあります。詩文の比重が高かったことを押さえておきます。
相栗峠の由来について、作者は次のように記します。
ここは讃岐と阿波の境になる。この峠には、次のような話が伝わっている。昔、ここに栗の樹があって、阿讃の人達が栗を拾ったので、その名前がついた。そこに大田の與一という人物が四十年前に移ってきた。なお大田村の松本二郎は、その一族と云う。彼が私に語った所によると、安原は山村なので、南北五、六里の鮎瀧・関・中徳・五名・中村・椿泊・岩部・燒土・内場・細井などは、その小地名で、合栗も細井の小字名であろう。細井は、山の麓にあって、大干魃の際にも水が涸れず、大雨にも増水することがない。常に細々と水が流れるので「細井」という地名がついている。
 また細井には鷹匠が鷹を獲る山があり、綱を木の上に架け置いて、その下に伏せて待っていて、鷹がかかれば起出て捕える。しかし、鷹は蹴破って逃げることもある。
 朝に郷里の由佐をでて、阿讃国境の相栗峠まで四里、はるかまでやってきた。
由佐よりトウト渕まて半里、トウト渕から岩部まて一里半、岩部より合栗(相栗)まで二里半になる。はじめて讃岐を出て他国に入る。振り返れば、八重に山々が隔たり、雲霧もわき出ている。故郷の由佐を隔てる山々は、巨竜の背のように、その間に横たわる。
相栗峠について、私が疑問に思うのは関所らしきものが何も書かれていないことです。阿波藩と高松藩の間には、国境に関しての協定があって、重要な峠には関所が置かれ、通過する人とモノを監視していたとされますが、この紀行文にはそのような記録はでてきません。峠は、自由往来できていた気配がします。
相栗峠から貞光までの行程を見ておきましょう。
 相栗峠から東南へ、林を分け谷を周りこんでいくと谷川がある。これが「せえた川(野村川谷?)」で、その川中を辿って一里ほど下りていく。左右は高い山で、右を郡里山といひ、左りを岩角山と云う。草樹が茂る中を、川を歩き、坂を下り、平地を壱里ほど歩くと、芳(吉)野川に出る。この川の源流は土佐國で、そこから阿波国を抜けて海に出る。流域は六、七十里の、南海四州の大河である。大雨が降ると、水かさを増して暴れ川となる。私は、「其はしめ花の雫やよしの川と」という歌のフレーズを思い出したが。それは大和の吉野川のことであったと、気づいて大笑いした。
 船に悼さして吉野川を南に渡ると、人家の多い都会に行き着いた。これを貞光という。養蚕が盛んで、桑をとる姿がそこかしこに見える。その夜は、この里に宿を取った。
①相栗峠からは、「川中を辿り」「川を歩き」とありますので、沢歩
きのように渓流沿いを歩く道だったことがうかがえます。
②平地に出て一里歩いているので郡里まで西行したことが考えられます。
③そして郡里から「船に悼さして吉野川を南に渡」って、貞光に至ったとしておきます。
④貞光周辺は「養蚕が盛んで、桑をとる姿」が見えたことを押さえておきます。

旧暦4月26日の貞光から一宇までのコースを、見ていくことにします。
翌朝26日に、貞光を出発して西南方面の高い山に向かう。その山は岩稜がむき出しで、牙のような岩が足をかむことが何度もあった。汗を押しぬぐって、ようやく峠に出ると、方五間ほどの辻堂があった。里人に聞くと、①新年には周辺の里人達が、酒の肴を持ち寄って、このお堂に集まり、日一日、夜通し、舞歌うという。万葉集にある筑波山の会にも似ている。深山なればこそ、古風の習俗が残っているのかもしれない。その辻堂で、しばし休息した後に、さらに高い山に登っていくと、石仏が迎えてくれた。これが貞光よりの一里塚の石仏だという。
 古老が云うには、日本國には、神代の習俗として、猿田彦の神を巷の神として祭り、その像を刻印した。仏教伝来以後は、それを地蔵に作り替えたが、僻地の國では今も神代ままに、残っている所があると云う。辻堂の宴会が万葉の宴に似ているのを考え合わせると、この石佛も、むかしの猿田彦の神なのかもしれない。
 ここから仰ぎ見ると、高き山が雲や千尋の谷を従えているように見える。さらに、この道を登っていくと、壱里足らずで猿飼という所に至る。山水唐山に似て、その奇態は筆舌に尽くしがたい。

鳴滝 阿波名所図会
鳴滝(阿波名所図会)
 耳を澄ますと、水のとどろく音が聞こえてくる。何かと怪しみながら近づいていくと、大きな瀧が見えて来た。これが鳴瀧である。瀧は六段に分かれ、第一段は雲間より落てその源さえ見えない。第二段は岩稜に従い落ちて、第三段は岩を放れて飛び、四段五段は、巌にぶつかりながら落ちていく、第六段は谷に落ち込んで、その末は見えない。全長は上下約二百四五十尺にも及ぶ。適仙が見たという中国の濾山の瀑布水も、こんなものであったのかと思いやる。雲間から落てくる瀧の白波は、天の川の水がそそぎ落ちるのかとさえ思う。
 天辺の雲が裂けて龍の全貌が見えると、あたりに奇石多く、硯にできるとような石壁が数丈ある。形の変わった奇樹もあり、枝幹も皆よこしまに出たりして、面白い姿をしたものが多い。
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇

①貞光の端山周辺には、各集落毎にお堂があること。
②お堂に集落の人たちが集まり、酒食持参で祖霊の前で祈り・詠い・踊ること。
③祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくること。
④「ソラの集落」として、有名になっている猿飼を通過している
④鳴滝の瀑布を賞賛していること、しかし土釜は登場しない。

眺めを楽しみながら、山の半腹をつたい、谷を廻っていくと一宇という所に着いた。
一宇の人家は五、六軒。その中に南八蔵という郷士の家がある。この家は、祖谷八士と同格で、所領も相当あるという。その家の長さは九間だが、門も納屋もない。讃岐の中農程度の家である。山深い幽谷であるからであろうか。しばらく進むとふちま山がある。山の上に山が重なり。人が冠せたように見えるのが面白い。
さらに進んで松の林で休息をとる。そこで貧ならない山人に出会ったので、どこの人か聞くと、「竹の瀬」の者だと答えた。竹の瀬は、一宇の山里のようである。彼の名を問うと辺路と答えた。それは、世にいふ「辺路(遍路)」なのかと問うと、そうだという。聞くと、彼の父が四國辺路に出て、家を留守している間に生れたので、辺路とい名前がつけられたようだ。辺路とは、阿讃豫土の四国霊場をめぐり、冥福をいのることを云う。
 他にもそんな例はあるのかと問うと、伊勢参宮の留守に生れた男は、参之助・女は「おさん」と名付けられている。また、生れた時に胞衣を担いで、袈裟のやうにして生れた男の子は、袈裟之助、女の子は「おけさ」と名付けられている。また末の子を「残り」、その他に右衛門左衛門判官虎菊丸鳥とい名前もあり、源義明・源義経・浮田中納言秀家・法然上人という名前を持つものものいるという。ここで初めて、私は「辺路」や「遠島」という名前もあるのだと知った。ここで出会った「辺路」を雇って案内者とすることにした。
①当時の一宇には、五・六軒の人家しかなかったこと。近代に川沿いに道が伸びてくるまでは、多くの家はソラの上にあった。
南八蔵の家は、この地方では最有力な郷士であったが、門も納屋もなかった。
③「辺路」と名付けられた男に、案内人を頼んだ。
  ここに出てくる南八蔵の家は、一宇山の庄屋で今はないようです。南家については、弘化四年「南九十九拝領高并居宅相改帳」に、ここに「居宅四間 梁桁行拾五間  萱葺」と記載されています。この建物は明治30年に焼夫したようです。

しばらく行くと、「猿もどり」という巖が出てきた。
「猫もどり」、「大もどり」とも呼ばれるという。「ヲササヘ」(?)とい地名の所である。幅二三尺長七八丈、高三四丈で、藤羅がまとわりついて千尋の谷に落ちている。さらに数百歩で大きな巖の洞がある。その祠の中には二十人ほどは入れる。伝説によると、その祠の中に、大蛇が住んでいて、往来の人や禽獣を飲み込んでいたという。
 さらに進むと雌雄という所に着いた。
「こめう」は、民家十四、五軒で、山の山腹にある。ここまで来て、日は西に傾き、みんなは空腹のため動けなくなった。
一宇 西福寺2
最(西)福寺

ここにある最福寺の住職と西湖は知人であった。そこで、寺を訪ねて一宿を請うた。しかし、住職が言うには、ここには地米がなく、栗やひえだけの暮らしで、賓客をもてなすことができないので、受けいれられないと断られた。西湖が再度、懇願し許諾を得た。私たちが堂に上ると、住職や先僧などがもてなしてくれた。その先僧は西讃の人で、故郷の人に逢ふような心地がすると云って、時が経つのも忘れて談話をした。住僧は、人を遠くまで遣って米を求め、碗豆を塩煮し出してくれた。私たちは大に悦び、争うように食べた。その美味しさは八珍にも劣らない。先ほどまでの空腹を思えば、はじめやって来たときに、梵鐘が遠くに聞こえるように思い、次の詩を思い出した。
日暮行々虎深上、逢看蘭若椅高岡、応是遠公留錫杖、仙詔偏入紫雲長、諸子各詩ありこと長けれ
  貞光より雌雄までは、凡そ五里と云うが、道は山谷瞼岨で、平地の十余里に当たるだろう。    

一宇 西福寺
一宇から西光寺、そして小島峠へ

一宇から明谷の最(西)福寺寺までの行程は次の通りです。
一宇 → ふちま山 → 猿もどり → 雌雄 → 最(西)福寺

しかし、今の私には出てくる地名が現在のどこを指すのか分かりません。ご存じの方がいれば教えて下さい。どちらにしても、最福寺までやってきて、なんとか宿とすることができたようです。この寺の先僧が西讃出身と名告ったというのも気になる所です。四国霊場の本山寺は、その信仰圏に伊予や土佐・阿波のソラの集落を入れていたことは以前にお話ししました。本山寺と関係する馬頭観音の真言修験的な僧侶でなかったのかと私には思えてくるのです。
今回は「祖谷紀行」で、讃岐由佐から一宇まで、2日間の行程を追ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
菊地武矩 祖谷紀行 国立公文書館のデジタルアーカイブ
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木地師5
木地師(ろくろ師)
    木地師(きじし)のことが、東祖谷山村誌に載せられていました。これを今回は読書ノート代わりにアップします。まずは、木地師についてのアウトラインを「ウキ」で押さえておきます。
①木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人で、ろくろ師とも呼ばれた。
②伝説では近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)に隠遁した惟喬親王が、手遊びに綱引ろくろを考案し、周辺の杣人に木工技術を伝授し、日本各地に伝わったと言う。
③惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称する人たちは「朱雀天皇の綸旨」の写しを持って、全国の山々に入り込み、7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を主張した。
④綸旨や由緒書の多くは、江戸時代の近江筒井神社の宮司・大岩助左衛門重綱の偽作であるが、木地師が各地に定住する場合に有利に働いた
⑤木地師は良質な材木を求めて20〜30年単位で、山中を転々と移動しながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
⑥中には移動生活をやめ集落を作り、焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
木地師と近江の筒井神社
筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)と木地師
江戸時代に入ると木地師達は、次のどちらかの神社の氏子に登録されていきます
A 惟喬親王の霊社を祀った神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)
B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて、寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その寄進の「勧進帳」が両社には数多く残されています。これを見ると幕末には、木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたことが分かります。

祖谷山に木地師がいたことをしめす一番古い史料を見ておきましょう。
 阿波国田井庄中西郷之内轆轤師得銭、取前御方参上、者当知行不可有相違候状如件
康暦二(1343)年十二月十五日
阿波守 花押
国藤治部亮殿
意訳変換しておくと
阿波国田井庄中西郷の内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)を、御方に与える。よって当知行について相違なきことを記す。如件
①康暦二(1343)年十二月十五日
②阿波守(細川頼之)花押
③国藤治部亮殿

①年号は康暦(こうりゃく)2年で、1380年にあたります。南北朝時代の末期です。
②花押の上には阿波守とあります。当時の阿波守は細川頼之になります。
③宛先の国藤治部亮は、徳善治部の子になるようです。

③の国藤治部亮の父・得善治部は、河内国出身で楠木正成の臣下と称します。南朝のため軍勢を募る目的で阿波にやってきて、西祖谷山に定住し、その開墾地を得銭と名付けます。のちに徳善と改め、徳善氏を名のります。吉野南朝方として活動しますが、康暦二年(1380)に細川頼之の阿波制圧に対して降伏して、安堵状を得たようです。この時に安堵された領地が「阿波国田井庄中西郷内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)」ということになります。ここからは、南北朝時代に木地師達が祖谷山の徳善に定住していたことがうかがえます。これが最も古い木地屋に関する記録になるようです。ちなみに、この前年は「康暦の政変」で、室町幕府管領の細川頼之が失脚し、讃岐の宇多津に「帰国」した年になります。細川頼之は帰国後に、阿波への南朝残党軍の攻略を進めたとしておきます。
 東祖谷山村誌は、さらに次のような推測をします。
  徳善氏が南朝動乱期において、木地師たちを保護したのではないか。それは、木地師たちの持つ「職業的機動性」と「全国的なネットワーク」を活用し、熊野行者と同じように、南朝の機動部隊として飛耳張目して諜報伝令の役にあたったと研究者は推測します。木地師達は徳善氏の保護を受けて、周辺へと入植していきます。ここでは南北朝時代に、現在の徳善に「ろくろ師」の集落があったことを押さえておきます。
徳善を起点に木地師は、次のように活動エリアを拡げていきます。

祖谷村徳善
木地師の最初の入植地? 大歩危駅周辺の徳善・榎・西岡
①榎を中心として、吉野川対岸の山城町の六呂木・下名
②榎から北東の吾橋・徳善・西岡と分裂・発展しながら、東北に移動
西岡から東に伸びる尾根づたいに祖谷川に出て、今久保・中尾・閑定の山地に小屋を構え、さらに上流へと移動していきます。彼らの活動が、記録で確認できるのは18世紀になってからです。
木を求めて移動する木地師
木地師の転居
近江筒井八幡宮の「氏子駈帳原簿第十一号」には、氏子駈巡国人が、阿波の「いや谷・一宇山・みふち(深渕)」に、享保二十(1735)年9月に入山したことが記されています。これが「氏子駈」としては、一番古い史料になるようです。そこに記されている「氏子寄進リスト」を見ておきましょう。

元文2(1737年)の寄進リスト
美馬郡一宇山と三好郡祖谷谷の木地師の寄進リスト

元文2(1737年)の深淵山中木屋で、「氏子駈」に対しての寄進リスト
中木屋と木屋平のリスト
   ここからは、深淵・木屋平・美馬郡一宇山・三好郡祖谷山に、これだけの木地師達がいたことが分かります。
ひとりの木地師は「初尾+氏子+きしん(寄進)」の3点セットとなっています。「初尾」は、 神仏に供える金銭や米です。平安時代中期ごろから「初穂」を「はつを」と発音するようになり、中世以降は「初尾」と書くようになります。氏子は「氏子料」・きしんは「寄進料」・えぼしは「烏帽子料」でしょう。
 ここからは、18世紀前半になると伊勢講の御師のように、 近江筒井八幡宮の氏子駈巡国人が祖谷山周辺にもやってきて、木地屋たちから「氏子料集金」を行ったことが分かります。それから百年後の天保3年にも、氏子駈巡国人はやってきて次のような寄進リストを残しています。一番右に「同国美馬郡葛生(葛尾?)山木地師」と見えます。
天保3年9月(1832)筒井公文所氏子駈帳22号簿冊所収3(名頃)
1832年 名頃の木地師の寄進リスト
  
 祖谷山の木地師たちは、どんな生活を送っていたのでしょうか

木地屋の家 歴第60図 祖谷山絵巻
                        木地屋の家  祖谷山絵巻
画題 祖谷山当丸絶頂望菅生名諸山年表秘録に曰く、文政11年9月卯上刻公(蜂須賀斉昌)祖谷山御見分御出。同27日未中刻御帰城。
 |
19世紀前半に、藩主の祖谷山巡回に従った絵師の渡辺広輝(ひろてる)が残した「祖谷山絵巻(17面)」の中には、木地師の家と題された一枚があります。題目は「木地挽小屋全図」で、遠景の註に「土佐境」とあります。この絵図からは次のようなことが読み取れます。

A ①土佐境の祖谷山山中に3軒の木地師の小屋が並んで建っている。
B ②一番右の小屋からは煙が上がり、その前に②干し物が干されている。また周りにはろくろで削った④木屑が盛り上げられている。
C 小屋の周辺には、③のような切株が数多く見えて、材料のために周辺の森が切り倒されている。
D 右から二番目の小屋には、面に⑤木材が数多く立て掛けられていている。乾燥して材料とする木材だろうか?
E 水桶と樋が見えるので、⑥水場が確保できていることが分かる

木地師の家 祖谷山絵巻(拡大)
祖谷山の木地師の家(拡大)
水場などが確保できて、居住環境が良ければ、木々が倒された森は、焼き畑として利用されて、定住していく木地師たちもいたようです。
  この絵に描かれた木地師の家も、主屋・作業小屋・乾燥小屋など、作業用途に応じて建てられていた気配がします。そうだとすると、ここにいるのは一家族だけになります。

御出仏山・明谷山・中野山
御出仏山・明神山方面(祖谷山絵巻)
弘化四年(1847)2月、医師陳々斉の随筆・診療日録『俗話集』には、当時の木地小屋のことが次のように記します。
「はるかの谷間より同じくヲヲイと答えるにぞ嬉しくも、さては是なん木地屋の家居より答えるならんと思ひつつ、行けども行けども時ならぬ霧がくれにして、行先き一向さだかならねども折々人の声も聞へける程に、間ものふ心ざす方へ無恙(つつがなく)当(到か)着して、うろ/ヽ見廻し
見れば、二間半四方程の小屋二軒あり、いづれも桜や槙などの皮にて屋根を葺き、ぐるりの囲いも同じく、殊に滝の端に細長き木にて椰をあみたるうへゝ、彼木の皮をしき、其上へむしろ様の物を並べてある也。さて西方が亀吉とかいふ木地師也。東方は鶴太といふて、則ち此も疱瘡を病居るな
り。いかさま八畳敷程もあるらん、坐の真中に大なるいろりをあけてあり。すさましき措木をくべて、中々暖かなる事なり。肝心の二便場(便所)をととへば、此所は一向、作付植物などいたさぬゅへ、不浄は無用の事故、彼(かの)小屋外の棚端より居捨て給へときけば、おかしくも又恐ろしく、
いかさまと、こはごわ覗けば、誠に波風荒き海原に小船をつけし心地して、几そ二十四五間もあるべき滝下を望めば、中々、二便の気もなくならん」
意訳変換しておくと
「はるかの谷間からヲヲイと答えてくれることが嬉しく、これが木地屋の家からの返答だろうと思いつつ足を運ぶ。しかし。行けども行けども、霧が深く、行先は一向に見えてこない。折々、人の声が聞へてくるので、その声を頼りに、こちらだと思う方へ向かっていくと、なんとか到着した。うろうろと見廻して見れば、二間半四方程の小屋が二軒ある。どちらも桜や槙などの樹皮で屋根を葺いている。周りの囲いは、滝の端に細長き木で棚を編んで、木の皮をしき、その上へむしろのような物を並べてある。二軒の内の西方が亀吉という木地師で、東方は鶴太といい、疱瘡を患っている。中に入ると、八畳敷ほどの広さの坐の真中に、大きな囲炉裏が開けてあります。そこに多くのほだ木がくべられていて、暖かい。
 便場(便所)はどこかと問うと、ここでは一切、作物を作らないので、不浄は無用のことで、この小屋外の棚端からしたらよかろうとのこと。おかしくも恐ろしく、家のそばの滝をこわごわと覗き込んでみると、波風の荒い海原に小船を着けるような心地して、およそ25間も下の滝壺が見えてくる。これを見て、便気もなくなってしまった。」
木地師小屋6

ここからは次のようなことが分かります。
二間半四方の小屋が二軒あって、木地師と疱瘡患者が生活していた
②小屋は樹皮の皮で屋根が葺かれている。
③大きな囲炉裏があって、ほだ木が大量にくべられてる。
④家は滝のすぐ近くに建っていたこと。

モシホ坂・菅生・塔の丸から 
小島峠から菅生・久保方面(祖谷山絵巻)
大正11年(1922)折口信夫は木地屋のたたずまいを、次のように詠んでいます。(『折口信夫全集』第廿六巻 中公文庫版)
   高く来て、音なき霧のうごき見つ
木むらにひびく、われのしはぶき
篇深き山澤遠き見おろしに
頼静音して、家ちひさくあり
澤なかの木地屋の家にゆくわれの
ひそけき歩みは 誰知らめやも
有瀬 宵の岳 祖谷山絵巻
有瀬(祖谷山絵巻)

近世阿波の漆器工業は、美馬郡半田村の敷地屋を中心に展開していきます。
宮本常一編の作品一覧・新刊・発売日順 - 読書メーター

竹内久雄が史料提供し、また自らも執筆した『うるし風土記 阿波半田』を見ておきましょう。享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。

一、三分  初尾  半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」
『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)

ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に享保の終り(1725年)には、半田地方に各地の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたと研究者は考えています。
 それから約20年後の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、31歳で半田村油免に漆器の店を開きます。その後、七人の兄弟と力を合わせて、家業は軌道に乗せます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいたと云います。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりがうかがえます。初代利兵衛は、天明元年に54歳で亡くなると、その子の亀五郎が15歳で稼業を継ぎます。敷地屋の略系を示すと、次頁のようになる。 
敷地屋の略系
  半田の敷地屋略系
    祖谷の木地師たちは、各峠を越えて半田の敷地屋に白木地を納入するようになります。敷地屋による白木地の独占体制ができあがっていきます。半田の漆器工業は、藩の財源増収策の一環として保護され、販路を拡げていきます。2代目亀五郎が41歳の時には、苗字帯刀、大久保姓を許されます。文化8年(1811)には、塗物裁判所を開設し、翌年には亀五郎の長男善右衛門が、漆樹植付裁判役に就いています。
 嘉永3年(1850)、4四代熊太は、江戸への市場拡大を計ります。藍商の志摩利右衛門の力を借りて、藩の御用船による製品の輸送を始め、江戸の霊岸島に支店を置いて、藩の倉庫を使用して営業を行うようになります。
半田敷地屋の漆器全国販路
半田の敷地屋の全国販路(1851年)

こうして4代目の時代には、全国40ヶ所にまで販売網を拡げます。
これは急速な白木地の需要増大を招きます。祖谷山周辺の木地師に大量の注文が舞い込むようになります。半田漆器や木地師の繁栄のピークは、この時期だったようです。

半田 敷地屋

 半田漆器は幕末に一時衰退しますが、明治半ばになって敷地屋の努力で復活します。明治20年の仕入れ帳には、木地挽150戸・塗師40戸・磨師100戸・蒔絵師30戸・指物大工60戸を参加に従え、年間販売高13,8万円とあります。

半田敷地屋2

半田町史には、次のように記されています。

「木地を一字から木地屋の人々が持ってきて、半田の逢坂の一部落は、その塗師の集落であった。それらは、木地と塗料を敷地屋から受取り、家族が仕上加工した。塗るだけではなし、全部半田でするようになった。白木地で庸や箱を作る一種の家具大工と、塗るだけのものが分業し、あるいは両者を兼ねるものに分れ、三者合せて、大正十四年四月の調べでは、専業百戸、副業二〇戸位い」

東祖谷山村落合の木地屋、小椋竹松(1882~1965年)は、1950年4月(69歳)の時に、次のように語っています。

「私の一日の生産 
「からすばち」のときは三〇個、「菓子ぼん」は、二〇〇個、吸物搬で静付で一五〇個ぐらい。背負うときは、小さい「菓子ぼん」なら四〇〇個、もみすくいなら五〇個を背中に負い、落合峠を越え、加茂山峠を経て、半田町の木内に達し、問屋の大久保へ製品を差出した」
「これらの加工品は、すべて米麦と代えていたが、日露戦争の直後、菓子ぼん五寸三分のもので、間屋渡しが一枚五厘であった」

以前に、落合峠は「塩の道」で祖谷村消費する讃岐の塩が運ばれたことをお話しました。しかし、木地師から見ると、名頃や落合の木地師達が作った白木地が半田に向けて運ばれた道でもあったようです。「木地師の道」とも呼べそうです。

敷地屋五代の弁太郎と長男の利美は、相次いで亡くなります。
そこで分家の亀吉の子甚吉が、本家の後継となりますが、漆器工業の前途を見限って、大正15年に廃業します。こうして職人は四散し、半田漆器は衰退します。ここでは半田の漆器工業は、享保から大正末まで、祖谷の木地屋たちから、二百余年にわたって、白木地の提供を受けていたことを押さえておきます。

漆・柿渋と木工 宮本常一とあるいた昭和の日本23』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

半田漆器を、姫田道子氏がレポートしたものが「宮本常一と歩いた昭和の日本23」に載せられています。それを最後に紹介しておきます。
 ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることができません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。
 また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。
東祖谷山地図2
    東祖谷山の落合峠と小島峠(東祖谷山村誌)

<木地の道>
 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。
 「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」
 と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
半田敷地屋の生産関係

半田敷地屋の生産関係図(東祖谷村誌)

 東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。

 半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。
竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりを持った最後の木地師ではないかと思われます。
東祖谷村の小倉姓一覧
東祖谷村の小椋姓一覧(木地師は小椋を名告った)

木地師の山
木地師の山(岳人)
以上をまとめておきます
①祖谷山の木地師は、吉野川沿いの徳善や榎・西岡に入植した
②南北朝末期の徳善氏の記録に「轆轤師得徳」と地名が出てくることが、それを裏づける。
③以後、切り尽くせば、さらに奥地に良質な木を求めて、祖谷側上流へと移動していく。
④実際の、木地師としての活動がうかがえる史料は「氏子駈帳」で、18世紀の前半に祖谷山村周辺での活動が見えてくる。
⑤19世紀には藩主お抱え絵師が残した「祖谷山絵巻」に、土佐国境附近での木地師小屋が描かれていて、活動の一端がうかがえる。
⑥祖谷山周辺の木地師は、半田の敷地屋に材料を下ろすようになり、安定的な生産活動が始まる。
⑦しかし、近代化の中で漆器の先行きに不安を感じた敷地屋は、今から約百年前の1926年に稼業を畳んだ。こうして、祖谷山村周辺の木地師たちも製品の卸先を失い、衰退していくことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23

            東祖谷の峠一覧
旧東祖谷村の峠一覧
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」 阿波学会紀要 第53号より引用
前回は中世の祖谷地方の峠と交通路を、次のようにまとめました。
①南北朝時代には祖谷地方の峠を越えてつながる山岳道が割拠する「山岳武士」たちを結んでいたこと、
②そして、南朝吉野側の情報・指令を伝えたのが熊野行者に代表される修験者や聖達であったこと
③このような山岳道と道路・通信網があったからこそ、紀伊・阿波・伊予の南朝方は半世紀にわたる抵抗活動がおこなえたこと
こうして、中世の峠や交通路は近世にも引き継がれて行くことになります。今回は近世の祖谷の峠と交通路を最初に見ていきたいと思います。そして、それが近代に道路整備が行われることによって、どう変化したかを押さえたいと思います。テキストは「福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷」です。

東祖谷の峠とお堂2

 私には祖谷地方は、剣山西北方面の山脈に囲まれたすりばちのように見えます。ここに入っていくには、どこかで摺鉢のふちを越えるために峠を越えなければなりません。祖谷地方に入るための峠を見ておきましょう。まずは落合峠からです。

2018.8.14 落合峠から落禿と前烏帽子 * 徳島県三好市東祖谷 - Do you climb?
落 合 峠(1520m) 
   三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合
安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。

 「加茂山三庄と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。

  昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っています。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換したようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
  阿波西部の三好郡は、古くから讃岐から運び込まれる塩を使っていました。
塩の踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。ここでは、讃岐の塩の道を次のように。押さえておきます。

丸亀・坂出の塩田 → 塩入(まんのう町) → 東山峠・ → 昼間 → 貞光・辻の塩問屋史→ 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム尻) → 落合峠 → 名頃

   落合峠地蔵
落合峠の地蔵尊(大歩危橋東詰めの墓地に移転
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰  阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7は、落合峠の石造物のことについて次のように記します。

深渕,桟敷峠を経て加茂に通じる落合峠は,落合集落から峠までの道に,地蔵尊4基,大師像と不動明王各1基の石造物があった。現在3基の地蔵尊が残っているが,大歩危橋東詰めの墓地に移転された「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊(図2)は,「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれている。これは道標を兼ねたもので,200年前は落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことを示す貴重な資料である。峠道は県道開通によって廃道となり,石造物も半数が移転された。

  ここでは落合峠が「里谷峠」と呼ばれていて、祖谷への「塩の道」であったことを押さえておきます。

風呂塔-石堂山 稜線歩き
風呂塔から石堂山は、修験者の行道でもあった
私が気になるのは、桟敷峠から落合峠に至るルートの東の山々です
ここには修験者の霊山とされた石堂山があります。そして、多くの信者達が「聖地巡礼」をおこなっていた山であることは、以前にお話ししました。落合峠越えのルートは、修験者が行道に使っていた「風呂塔~石堂山」の行道ルートと併行して伸びています。この両者は、何らかの関係があったのではないかと思えてきます。熊野行者が熊野参拝のために、山岳連絡道を大切に守ってきたことは知られています。そして修験者たちも祖谷と周辺をつなぐ峠道を管理・保護する役割を果たしていたのではないかという「仮説」が湧いてきます。

次に井川町からの水口峠です。
水の口峠地図
井川から水の口峠へのルート
桟敷峠の西の「水ノロ峠」は、西祖谷の「小祖谷」の人々が利用した道筋でした。
辻 → 井内 → 地福寺 → 水ノ口峠(1116m) → 小祖谷 → 寒峰峠 → 東祖谷大枝

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍を負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

  小祖谷というのは、聞き慣れない地名ですが、松尾ダムの下流になるエリアです。小祖谷に運び込まれた塩は、ここで仕分けされて祖谷各地に運ばれました。「東祖谷にいも1升と弁当で、煙草をと取りに行った(輸送した)」と話していますので、小祖谷は物資の集積拠点の機能を果たしていたことが分かります。

四国百名山 阿波の石堂山に山伏たちの痕跡を探す : 瀬戸の島から
地福寺

 井内の地福寺から水の口峠には2つの道がありました。
一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていくルートです。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、このルートを通じて交流があったようです。
 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、讃岐からの米や塩が運び込まれたり、祖谷の煙草の搬出路として重要な道で、多くの人々が行き来したようです。この峠のすぐ下には豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)までは、凍り豆腐の製造場があったようで、知行の老人は次のように懐古しています。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」

水の口峠 新聞記事jpg


 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。

寒峰峠.2JPG
寒峰峠から大枝・奥の井へ(「阿波の峠歩きより」)
水の口峠からは、寒峰(かんぽう)峠を経て東祖谷の大枝への道もありました。 
平国盛の後裔と云う阿佐名の阿佐家系図には、元暦2年に讃岐屋島の壇ノ浦の闘いで敗れた後に、次のように記します。

「井川の庄から水ノロ峠を城え寒峰の嶮を打越えて大枝の窟で越年した」

ここからは、「井川 → 水ノ口峠 → 寒峰(かんぽう) → 大枝」というルートが古くから使われていたことがうかがえます。

     寒峰峠(1495m)は、寒峰の南西約400mにある峠です。
『峠の石造民俗』には、昔は大師堂が建っていたとありますが、今はありません。草付きの広場と囲炉裏の石組二基が残っているだけです。水の口峠とこの峠が井川町の辻と東祖谷山村の大枝を結んでいました。そして、栃ノ瀬を経て土佐へと抜ける交通路でした。
大師堂にあった手水鉢が、お堂を管理していた奥の井の谷家に残っています。楕円の青石製で、正面に「奉水」と刻まれ、辻や大枝の地名が刻まれているので、この街道の出発地と終点の有力者達が寄進したものでしょう。険しい峠道を往来した人々が、手水鉢で手を浄め、旅の無事を析っていた姿が見えて来ます。

まーくつうの登山アルバム 寒峰 登山
福寿草の里 寒峰
 峠から寒峰頂上へは、わずかの距離です。ミヤマクマザサにおおわれた寒峰の山頂からは、剣山、三嶺、天狗塚、牛の背、矢筈山等の360度の大パノラマが楽しめます。今は福寿草の里として、登山者に大人気の山となり、花と展望と伝説に人気コースとなっています。

東祖谷の東北方面には、見の越(1,403m)と小島(おじま)峠(1,380m)があります。

剣・丸笹・見ノ越
見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

「見の越」は、近世に剣山参拝拠点として修験者たちによって開かれたことは以前にお話ししました。現在では、登山ケーブルがあり、剣山登山の表玄関になっています。ここを東に越えると麻植郡木屋平に出ます。見ノ越は、もっとも古く開かれた峠で、古くから多くの人々に使われていたと研究者は考えています。ちなみに、見ノ越に円福寺が開かれ、剣への参拝拠点になるのは近世後半になってからです。

剣山(1955m) ・見ノ越駐車場より | Bodhisvaha
剣山見ノ越の円福寺

小島峠
小島峠(「阿波の峠歩きより」)

小島峠を利用したのは菅生・名頃の人々たちでした。
落合よりも東の人々は、小島峠で半田・貞光地方と結ばれていました。菅生から池田へは約60㎞ですが、貞光へは28㎞で、距離的に半分以下の上に、峠が低くて雪も少ないようです。そのため日常的に児島峠が使われたようです。

文政八年に祖谷に人った阿波藩士太田章三郎信上の『祖谷山日記』には、次のように記します。
「小島峠にいたる。 一宇山といえる所のさかひ也。」

ここからは、この峠が近世には祖谷に入る主要路であったことがうかがえます。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」にも、「郡里・吉野川を渡つて、一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」の道順で廻ったことが記されています。祖谷へは、小島峠が使われています。

この峠に行くには、貞光より国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号をひたすら登っていきます。
黒笠山が見えてくるようになると、現在の小島峠に着きます。この峠は1981年に県道菅生伊良原線の開通で出来た「新」小島峠です。ここにも地蔵尊が祭られていますが、その裏の山道を西へ登って行くと、20分ほどで旧峠に着きます。ここにも小さなお堂があります。中には天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれ,氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。円福寺は、先ほど見た見ノ越の剣参拝登山をになっていた修験者の寺でもありました。峠の管理などに、修験者の姿が見え隠れします。
小島峠の地蔵
旧小島峠の地蔵尊
 研究者がもうひとつ注目するのは、地蔵尊は右手に錫杖を持つ姿が普通です。しかし、この像は右手に大師が持つ五鈷杵を握っていることです。珍しい地蔵尊です。この地蔵尊にはお参りに来る人があるようで、お酒やお菓子、花などが供えられています。
 お堂横のスギの古本は、風格があります。この峠を行き交った人達を見守っていたのかもしれません。静かに耳を傾ければ、いろいろな話をしてくれそうな気にもなります。
   お堂の前には広場になっていています。峠に着いた人々が腰を下し、ひと息入れた場所だったのでしょう。お堂の脇から、黒笠山への縦走路が伸びています。峠から黒笠山山頂まで4時間ほどです。かつては、修験者の霊山であった石堂山をめぐる修験者の行道ルートであったことは以前にお話ししました。
 新小島峠が開通した時に、コンクリートの新しいお堂と造ったそうです。そして、旧峠のお地蔵さんを下す予定でした。ところが旧峠のお地蔵さんが、新しい峠に下りにるのはどうしても嫌だと言うので、話し合った結果、新しい地蔵尊を下に造ることになったようです。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2

 新小島峠では、毎年6月第4日曜日に、 一宇、東祖谷両村の地元の人々により、地蔵祭りが行われ柴灯護摩が焚かれます。いつもは訪れる人の少ない峠が、大勢の人で賑い、カラオケと歌声が響き、手作りの料理が振舞われ、新・旧のお地蔵さんの前にも沢山のお供物がまつられます。
 
祖谷街道 開通後 百年。1920年(大正9年)開通 - 趣深山のJimdoページ
祖谷街道
東祖谷山に「輸送革命」をもたらしたのが、大正9(1920)年に完成した祖谷街道でした。

約百年前のことになります。祖谷川の「白地の渡し」から久保までの51kmを巾3mの「大道」が完成したのです。これが祖谷川沿いに村内を東西に走る幹線道路の役割を果たすようになります。バスとトラックが輸送の主役になり、輸送量も増えます。そして、峠道を越える人やモノは激減します。人ともモノの動きが一変したのです。これは大正3年の徳島ー池田間の鉄道開通や、大正9年の讃岐土佐間を往復する自動車の新設とリンクして、祖谷に「輸送革命」をもたらしたのです。
 この道路建設は、祖谷川沿いの電源開発計画を呼び込む起爆剤ともなります。若林には大正9(1920)年7月発電所建設が始まります。そして、大正12年から380kWの電力が讃岐に向けて送電されるようになります。大正14年には、下瀬に煙草収納所が設けられ、煙草栽培が広がり、農村の換金作物となり「貨幣流通市場」の中に入っていきますた。
明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。

徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。

これが祖谷街道が伸びてくると、大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞もその日の午後には読めるようになります。
 昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。

明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。
これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
 祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
これとともに祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります
 戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると、
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫
祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は「脇町」中心の美宮郡から、三好郡の池田へと比重を移し、昭和25年1月1日をもって、美馬郡から三好郡へと編入するのです。そして、平成の合併では三好市の一部となりました。
ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
阿波の峠歩き : ふるさとの峠50選
参考文献
  福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷
徳島民俗学会 民俗班 橘 禎男・坂本 憲一「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」    阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
阿波の峠を歩く会 阿波の峠歩き 平成13年
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                   東祖谷の峠とお堂2
阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」より引用 
旧東祖谷村の峠
阿波の剣山西方に拡がる祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきました。今回は中世の祖谷地方が、どんなルートで外界とつながっていたか見ていこうと思います。それは、熊野修験者たちの活動ルートとおもわれるからです。

Yahoo!オークション - 鴨c113 東祖谷山村誌 昭和53年 徳島県 新芳社
テキストは「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」です。

阿波の剣山の東南に拡がる祖谷地方には、平家の落人伝説が残っています。まずは、源平の屋島合戦に敗れた平國盛は、どんなルートを使って祖谷渓に落ちのびたかを見ていくことにします。
平家伝説 | 祖谷の温泉|いやしの温泉郷
平国盛は清盛の甥にあたる
手東愛次郎は「阿波史」で、次のように記します。

寿永二年讃州八島(屋島)の軍破れしかば門脇宰相平國盛兵百人計り語ひて(安徳))皇を供奉す、同國志度の浦に走り遂に大内郡水主村に移り、数日あって阿州大山を打越え十二月晦日祖谷の谷に到り大枝の荘巖の内にて越年し云々。

意訳変換しておくと
寿永二(1183)年讃岐屋島の壇ノ浦の戦いで敗れた平氏の門脇宰相平國盛は兵百人ばかりで(安徳)天皇を供奉し、志度浦に逃れ、そこから大内郡水主村に移り、数日後には大坂峠を越えて、阿波に入り、12月晦日に祖谷に到り、大枝で越年した。

「阿州大山(大坂峠)を打越え 十二月晦日祖谷の谷に到り」とあります。古代の南海道は、阿波と讃岐を往復するのには大坂越が使われていました。阿波に上陸した源義経も、屋島侵攻時には、この峠を越えています。
 「平國盛兵百人計り語ひて(安徳)天皇を供奉」
とありますが兵百人が軍団姿のままで落ちのびたとは思えません。東讃は、すでに義経配下に入った武士団の支配下です。「勧進帳」に描かれた弁慶・義経一行のように修験者姿にでも変装しておちのびたのかもしれません。平國盛は阿波に入ると、吉野川を東に遡ります。

水の口峠 新聞記事jpg
井ノ内ー水の口峠の祖谷古道の復活記事
研究者は、以下のような祖谷への4つのルートを挙げます。
①三好郡井川町辻から、井ノ内谷を南に越え、水の口峠を経て、寒峰を横切って東祖谷山大枝へ
②吉野川上流の三名方面から、国見山を経て後山へ
③池田から漆川(しつかわ)を経て、中津山を越えて田ノ内へ
④三好郡三加茂から桟敷峠を越えて、深渕・落合峠を越えて落合へ
これらが当時の吉野川方流域からの祖谷地方への交通路と考えられます。④の落合峠越は後世の人々が、生活必需品として讃岐の塩と山の物産を交換した「塩の道」であったことは以前にお話ししました。

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文化十二(1815)年の「阿波志」は、「祖谷に到る経路几そ五」と祖谷への5つのルートを挙げています。
①小島(おじま)峠
②水ノ口峠
③栗ヶ峰経由
④榎の渡しから吉野川を横切って下名に出るもの
⑤有瀬(あるせ)から土佐への街道ヘ出るもの
これらのコースを見るとどれも、必ず千mを越える峠を越えなければなりません。それが永い間、秘境として古い文化を今に伝えることができた要因のひとつかもしれません。

源平合戦から約50年後の元弘二年(1332)、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が土佐に流されます。
翌年に鎌倉が新田義貞によって陥落したので京に召還されます。これを知らずに、皇妃唐歌姫(からうたひめ)は親王を慕って追いかけ、西祖谷山を経て土佐に入ります。そして親王が京に帰られたことを聞き、京に戻ろうとしますが、帰途に西祖谷山の吾橋で亡くなったという物語があります。ここからは土佐への往還は、古代の紀貫之が京への帰還時に使った阿波沖を伝っての海路とともに、吉野川東側の山路のルートがあったことがうかがえます。
 このとき皇妃唐歌姫の土佐ルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
讃州引田より大山(大麻峠)を越え、吉野川に沿ひ、三好郡松尾村の山峯より中津山に登り、峯伝いに西祖谷の田の内名に下り、一宇名を経て更に吾橋名の南山を越え、有瀬名に出て土佐の杖立山に入る。

ルートを確認すると次のようになります。
讃岐引田港 → 大麻峠 → 松尾村 → 中津山 → 西祖谷田の内 → 一宇 → 吾橋の南山 → 有瀬 → 土佐杖立山」

吉野川沿いの道ではなく、人家のない峰を伝って、いくつもの峠を越えて土佐をめざしています。この辺りの吉野川は大歩危・小歩危に代表されように切り立った断崖が続きます。そのため川沿いのルートは開けていなかったようです。吉野川の東側の山峰の稜線を歩いて渡っていく「縦走」形式だったことがうかがえます。それが時代の進むにつれて、山腹を横切るトラバース道や、河の断崖などを開撃して道が通じるようになります。ここでは、古代・中世は、山嶺の尾根を使っていたのが、時代がたつと山腹の利用や川沿いルートが登場するようになることを押さえておきます。
 これらの山岳道を開いたのは、熊野行者のような人達だったのかもしれません。熊野詣でに檀那達を先達していた熊野行者達の存在が浮かんできます。山岳交通路が大いに利用されるようになるのが、南北朝の時代です。山岳武士達は、この交通路通じて情報連絡を取り合うようになります。
2018.12.2 中津山~マドの天狗へ * 徳島県池田町山風呂より - Do you climb?
祖谷の中津山(松尾川と祖谷川に挟まれた山)

祖谷と土佐を結ぶルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
祖谷の中津山を越え、土佐に入らんと心ざし、中津峯へ登り玉ふ、昔は中津の峯ばいに往末せしとて、今に古道と言ふ其形ち残れり。

ここからは、中津山の山腹八合目に祖谷から土佐への古い古道があったことが分かります。私が気になるのは、これらの「土佐古道」が阿波エリアでは吉野川を渡っている気配がないのです。これは、中世においては、吉野川沿いの道が整備されていなかったので、その東の中津山や国見山を越えて行くしかなかったことが考えられます。


古い時代には東祖谷山から土佐に出るには、これとは別に「と越」と「躄(いざり)峠」が使われていました。
躄り峠
天狗峠(躄峠)
四国で最も高位置にある躄峠は、現在は天狗峠と地図には表記されています。「躄(イザリ)峠」という表記は、峠名は適切でないとして、国土地理院は平成11年発行の地図から「天狗峠」に変更しました。私の持っている地図は、もちろん躄峠と書かれています。古い山中間は今でも、昔の名前で呼んでいます。この峠は、生活道よりも煙草や焼酎の闇ル-トとして,地元の人々の記憶に残っているようです。
天狗峠の地蔵
天狗(躄)峠の地蔵尊
 この峠には「奉納地蔵」と刻まれた無年紀の地蔵尊が京柱峠の方角に向いて立つとされます。一揆の首謀者の一人である円之助を供養するために立てられたと地元ではされているようですが、残念ながら私は、この地蔵には記憶がありません。
 躄峠からは稜線沿いに西に進むと矢筈峠を越えて、上板山へと続きます。上板山は、いざなぎ流物部修験の拠点であったことは以前にお話ししました。物部と祖谷は、通婚圏内で、いろいろな交流が行われていたことがうかがえます。さらに物部川を下れば、土佐へつながります。

 後には、新居屋(にいや)から小川・樫尾を通って、京柱峠を越えて大豊へ出る道が利用されるようになります。
これが現在のR439(酷道よさく)の原型になる交通路です。吉野川の支流・南小川を京橋峠の源流部から下って行くと、大歩危小歩危から延びてきた吉野川本流と交わるところが、大豊や豊永です。そこには熊野行者の拠点として機能していた定福寺や、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺などがあります。これらの熊野信仰の拠点の寺社は、戦国時代に土佐の長宗我部元親が西阿波に侵攻するときには、その手助けを務め、保護を受けていることは以前にお話ししました。
 ちなみに戦後直後の京柱峠・谷道峠・蹙峠について徳島大学の教授だった福井好行氏は「東祖谷山村に於ける交通路の變遷」で次のように記します。

(これらの高知とを結ぶ峠は)荒廃し,僅かに闇商入が「ドブロク」を仕入れ、煙草を出す闇道となり、比較的低い京柱峠も仙人が通る位のものとなつた。

ここでは祖谷地方は、中世には躄峠や京橋峠を通じて、土佐と通じていて、熊野詣での修験者たちが利用する交通路であったこと、それを長宗我部元親は利用し、阿波・讃岐への侵攻を行ったこと。戦後には、これらの峠は人が利用することもなく荒れ果てていたことを押さえておきます。

東祖谷山の久保名・菅生名の人々が、最も利用したのは次の2ルートでした。
A 小島(おじま)峠から貞光へ出る11里の道
B 見ノ越峠 名頃ヘ出て、現在の剣山への登山基地となっている見の越を越えて麻植郡木屋平に向う道
この二つの道は南北朝時代の阿波山岳武士の連絡路でもあったようです。特にAの小島峠経由は、平坦地が広く開け、人々も多く住み、生産物も多くて物産の交換も盛んに行われます。人々の往来が多く、最も利用度が高かったのもこの峠のようです。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」には、その道順が次のように記されています。
「郡里・吉野川を渡つて一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」

ここからは菊池武矩も、小島峠経由で祖谷の菅生に入ったことが分かります。
小島峠
祖谷の小島峠

源平合戦後の四国には、それぞれ守護が任命されます。
阿波では承久の乱後に、小笠原長清が阿波国の守護となります。小笠原氏は三好郡池田を拠点にして、後には「三好」氏を名乗り、土着して阿波一国を支配するようになります。三好氏は、南北朝の争いのときには南朝に味方して戦い、阿波山岳武士の一方の旗頭として戦います。しかし、足利方の細川頼之が四国探題として阿波に来ると、これに従うようになります。その後は、戦国時代の終りごろまで阿波・淡路を実質的に支配することになります。
  細川氏は守護といっても完全に支配したのは讃岐だけだったようです。
阿波では三好氏(小笠原氏)が自由に切り廻していたようです。そういう中で祖谷山は、深い山々に閉ざされたエリアで三好氏(前小笠原氏)の命なども及ばなかったようです。

祖谷地方の有力者は、どのように勢力を固めたのでしょうか?
そのヒントは、隠居制度にあると研究者は考えています。隠居というのは長子に嫁をもらうと、老人が別に家を建てて別居するものです。親は長男に嫁をもらうと跡を譲り、自分は二・三男をひきいて他所へ入植し、新しく開墾して、二男のために耕地を作る。二男を独立させ、その生活を安定させやがて老いて死んでゆく、そのため死場所はたいてい末子の家でした。これを隠居分家といっています。後には開墾できる場所が少くなって、老人は隠居するだけで、二男・三男を率いて開墾することはなくなりますが、祖谷山地方ではこのようにして、新しい「村」は生まれたようです。

 東祖谷の菅生(すげおい)・久保・西山・落合・奥ノ井・栗枝渡・大枝・阿佐・釣井(つるい)・今井・小祖谷の十二名は、小さいながら村落共同体を形成していました。そこには各名と同じ姓をもつ中心的な家がありました。今になっては、地名が先だったのか、氏名が土地につけられたのか、あるいは、最初の開発者と、後の名主が血統の上でつながっているのかどうかも分かりません。

これらの中世の名主は、山岳武士として南朝に就きました。
そして、次のように平家の落人伝説と絡み合って伝えられるようになります。
①阿佐氏は平敦盛の次男國盛が屋島から逃れて此処に来て住みついたという系図をもち、大小二つのの赤旗を伝えている
②久保氏も國盛の子孫と名のるので、阿佐氏の分家
③西山氏は俵藤太の子孫、
④奥ノ井も俵氏が名主、
⑤菅生氏は新羅二郎の子孫
「山岳武士」という言葉が最初に出てくるのは、明治44年の手東愛次郎の「阿波史」145Pで次のように記されています。(意訳)

足利尊氏に従った細川氏の頼春は、諸所で戦ったが延元元年に兄の和氏と共に、阿波に下って阿波の国衆を従えた。しかし。美馬・三好の山岳武士たちの中には、なかなか従わない者がいて抵抗と続けた。延元四年に新田義助が伊予にやってきて活動を始めると、これに呼応して阿波の山岳武士たちの動きも活発化した。しかし、義助が急病で亡くなってからは、細川頼春は体制を整えて反攻に移り、山岳武士のリーダー的な存在であった池田の大西氏を調略し、更に兵を西に進めて伊予に入り、伊予軍を大いに破った。こうして、阿波の山岳武士の勢いも衰へてしまった。

   これが以後の郷土研究書の定番フレーズになって、「山岳武士」という言葉が一人歩きするようになります。しかし、このストーリー由来は、史料的には裏付けられておらず、よく分かりません。つまり、裏付けのない「物語」なのです。

南北朝期の阿波武士の動向について「阿府志」巻17は、次のように記します。 
初めて細川律師定騨、讃州に攻め来るについて阿波國板東・板西などは細川に来従せり、大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の末までも後醍醐天皇御方也、時に頼春初めて阿波郡秋月の縣立の家にありて国政を行ふ、従うもあり不従もあり、不従は攻めけり、

意訳変換しておくと
細川律師定騨(頼春)が讃州に侵攻し、さらに阿波國板東・板西を勢力下におさめた。大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の後醍醐天皇方であった。そこで頼春は、阿波郡秋月に拠点をおいて国政を行ふ。従うもいたが、従わない者もいて、従わないものに対しては、攻めた。

「従うもあり不従もあり、不従は攻めけり」とあるので、細川氏の阿波国経営が決して容易に実現したものではないことがうかがえます。また「阿波史」には、反細川氏の「山岳武士」として、次のような勢力が登場します。
①三好郡池田の大西城を根拠に、守護小笠原義盛
②祖谷山には源平両氏の残党
③麻植郡木屋平村の木屋平氏
④三好郡佐馬地村白地には大西氏
⑤名東郡一宮城には小笠原宮内大輔
⑥麻植郡一宇には、「木地屋」よ呼ばれ、轆轤(ろくろ))使って漆器の材料を作った部族(木地師)
⑦木屋平の三木氏は、阿波忌部の系統で祖神天日鷲命の神裔とされます。
⑧東西祖谷山には、菅生左兵衛尉・渡辺宮内丞で、菅生家は池田の小笠原の一族で、祖谷山におけるリーダー的な役割を果たしたとされます。
正平年間阿波の南朝の中心人物は、小笠原頼清でした。頼清は父義盛が興國元(1340)年、細川方に従ったことが不満で、 一族より離れて南朝吉野方に従って、田井庄を拠点としていました。田井庄は山城谷にあって阿波と伊予南軍の重要な連絡点で、やがて吉野から九州へ至る連絡ポイントの役割も果たすようになります。
 阿波の南朝方と熊野吉野との連絡を担当したのが、熊野の修験者達でした。彼らの拠点として機能したの次のような熊野系の寺社だったということは以前にお話ししました。
 高越山 → 伊予新宮の熊野神社 → 伊予の三角寺
                 → 土佐の豊楽寺
伊予方面への熊野信仰の伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(四国霊場六十五番札所)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達は、新宮の熊野社を拠点に川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた

 南朝方が吉野の山奥を拠点として、57年間も存続できたのはどうしてでしょうか?
その要因のひとつが、淡路、阿波、伊予、土佐の熊野行者を勢力下においたことだと研究者は考えています。
正平11年の栗野三位中将の袖判のある綸旨には、次のように記します
灘目椿泊は那賀、海部の境也、海深くして舟繋りよし、何風にも能泊也、椿水崎(蒲田岬)は海部の内也、紀州白井の水崎へ十里也(南海治乱記)

意訳変換しておくと
阿波の椿泊は、那賀、海部郡の境にあたる。港は海深く、船が多く停泊できる上に、どんな方向からの風が吹いていても入港可能でである。向こう岸の蒲田岬は海部郡になる。ここからは紀州白井の水崎へは十里ほどである(南海治乱記)

 淡路の沼島は、阿波小笠原一族の小笠原刑部、小笠原美濃守が、紀伊吉野と四国を結ぶ海上輸送の拠点としていたことはよく知られています。阿波側の海上拠点だったのが、ここに登場する蒲生田岬の椿泊です。椿泊の湾外の野々島、加島(舞子島)には防備のため広大堅固な城があったようです。阿波小松島も阿波水軍の重要な根拠地でした。阿波東部の宮方総帥・一宮成宗は、この椿泊水軍と小松島水軍を味方とした事で、紀伊を後背地として持久戦に堪えれたと研究者は考えています。また、椿泊に上陸した熊野行者たちは、吉野方の諜報・連絡要員として、阿波の山岳ルートを使って伊予に向かいます。
「史料綜覧」巻六751Pの南朝・正平22年(1367) 北朝貞治六年十二月十七日の条には、
征西府、阿波人菅生大炊助ノ忠節ヲ賞ス

とあり、阿波の菅生大炊助が瀬戸内海にまで進出して活躍しことが記されています。これも阿波、淡路や熊野の水軍の力が背後にあったからこそでしょう。
  以前に見たように、熊野水軍の船団は熊野行者を水先案内人として、瀬戸内海を行き来していました。熊野行者達は、そのような瀬戸内海交易活動や対外貿易を通じる中で、拠点地を開いて行きます。それが吉備児島の五流修験(新熊野修験)であり、芸予諸島の大三島神社の社僧集団でした。このようなネットワークの一部として、阿波の山岳武士達も活動を行っていたと私は考えています。

豊永の小笠原氏は、先祖が阿波の小笠原氏と同族の甲斐源氏出身の小笠原氏であるとします。
それが、地名にちなんて豊永と姓をかえます。豊永小笠原氏が下土居城の麓にたてた居館の趾に、氏神松尾神社が鎮座します。ここで豊永小笠原氏が、阿波の小笠原氏を始め山岳武士と共にその防備を固めたと東祖谷山村史は記します。豊永氏が南朝吉野方の背後を押さえていたので、国境を接した祖谷山でも阿波山岳武士が三十有余年の間、勢力を保持できたというのです。同時に、ここには熊野信仰の拠点施設の豊楽寺があったことは以前にお話ししました。
以上をまとめておきます。
①祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきた。
②それは、周囲の高い山々に囲まれたすり鉢状の地形に起因する。
③それが有利に働いたのが南北朝時代で、祖谷地方の国侍たちは南朝吉野方に与して、半世紀あまり抵抗を続けた。
④それが可能だったのは、西阿波の山岳地帯を結ぶ峠越えの交通路であった。
⑤これは熊野行者たちが熊野詣でのためにも使用した山岳道で、拠点には熊野神社などが勧進され、サービスを提供していた。
⑥南朝吉野方は、熊野神社系の修験者を味方にして、彼らによって情報・命令を伝え、一体的な軍事行動を取ろうとした。
⑦こうして南朝吉野方は、紀伊・淡路・阿波・伊予・九州を結ぶ山岳連絡網(道)を形成するようになり、そこを熊野行者達が活発に生きするようになった。
⑧このようにして結びつけられた土豪集を、近代になって阿波では「山岳武士」とよび、皇国史観の中で神聖化されるようになった。
⑨南海治乱記などでは「山岳武士=修験道的僧兵」と捉えている節もある。祖谷の土豪勢力と修験道が切っても切り離せない関係にあったことがうかがえる。
⑩近世の土佐の長宗我部元親がブレーン(書紀・連絡)集団として、修験者たちを厚遇していたことにつながる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」
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       幕末の農民4
幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋

農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿

西川津町の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
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  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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飯山国持居館2地図
    飯山町の飯山北土居遺跡 旧河道に囲まれた居館跡
以前に丸亀市の飯野山南麓の中世武士の居館跡を紹介しました。その時に、この辺りに戦時中に飛行場が建設されたことを知りました。しかし、その実態については分からないままでした。最近、飯山町史(485P)をながめていると、その飛行場のことが出ていましたので、読書ノート代わりに載せておきます。

 1945年春のアメリカ軍が沖縄への上陸作戦を開始する前後の4月末のことです。
坂本村役場の職員が坂出で開かれ た事務打合会に出席した際に、会が終わっても居残るようにと伝えられます。そして、軍関係者より次のような内司を受けます。

「近々貴村に軍の機密施設を造るから、取り急ぎ牛馬車用荷車を80台準備するように」

 追いかけるようにして五月中旬になると、航空総軍司令部から陸軍飯野山飛行場建設命令が下ります。こうして施設部隊帥500部隊長の命により、坂本村隣保館(元坂本村公民館)に帥500部隊丸亀工事隊本部が設置され、5月18日には工事に着工します。その際に、西坂元字国持・山の越・西沖・大字川原字上居の4地区に対して、次のような命令が下されます。

「この地域内にある水田は、麦(未熟)を刈り取り、指示された家屋は全部こわして立ち退くこと」

飛行場予定地の水田の麦を青田刈りして、家屋を壊して立ち退けというのです。以後、昼夜を問わない突貫工事が始まります。
飯野山飛行場は、どこに建設されたのでしょうか
 飯山町史には、次のように記されています。

現在の県道18号線(善通寺‐府中)沿いに、東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞、幅は約100m規模。西の山根東地区では、北側ににごり池があるので、これを避けてその南側にあった。その面積は、約21町6反歩余りにもなる。

この記述に基づいて研究者は次のような位置を考えているようです。

飯山飛行場2
飯野山飛行場の位置
(東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞)
作業手順について、飯山町史は次のように記します。
①まず地域内の全水田の麦の刈り取り(穂は未熟)を行い、立ち退き家屋の解体作業ならびにその用材および瓦の取り片付け、移転先ヘの運搬
②地域内の小川や水路には、飯野山と土器川河岸から切り取った松の丸太を持ち帰り、これを小川や溝に渡してその上に上を敷きつめ、飛行場の原型づくり。
③平坦化した地面に飯野山の山土や、周辺の水田から掘り取った土を積み重ねて敷きつめる。当時の上運搬は「もっこ」をかつぎ、「じょうれん」で運ぶ。人力だけが頼りのたいへんな作業であった。
④土器川から砂や小石を運び、これを拡散して固め、地面を水平固定化。
⑤ 完成した所から敵機の来襲に備え、擬装工作作業として松・かし・くぬぎ等の雑木の小枝を等間隔に挿し木。
以上からは、飛行場建設のために水路が埋められ、田んぼに土器川から運ばれた石が敷き詰められたことが分かります。それは「もっこ」による人力作戦で行われています。ちなみに戦後に行われた水田復元の際には、これらの石が農民達によって取り除かなければなりませんでした。
飯野山飛行場建設のために動員されたのは、どんな人達だったのでしょうか。
①5月19日、陸軍施設部隊一個大隊約500人が到着。
②5月20日、学生勤労奉仕隊到着。
高松中学校291人
三豊中学校153人
坂出工業学校203人
尽誠中学校202人
丸亀中学169人
飯山農業学校300人 
合計1318人を動員。
ここからは、未だ動員されていなかった高松・中讃・三豊の旧制中学の学生達が動員されたことが分かります。高松や三豊の遠方の学生達は付近の学校・公民館・民家等に宿泊し作業に当たったようです。

③5月21日から稜歌・仲多度郡内の一般勤労奉仕隊員約100人を動員。
①②③の合計は「500人 + 1318人 + 100人=約2000人足らず」になります。

6月1日付けで坂本村長協正と役場吏員近藤政義に、次のような辞令が交付されます。

飯山飛行場
飯野山飛行場の工事隊事務嘱託状(飯山町史)
坂 本 村     近藤政義
航空総軍丸亀工事隊事務を嘱託す
昭和二十年六月一日
航空総軍丸亀工事隊本部隊長
陸軍嘱託 横山幹太
⑤6月中旬、三豊郡・仲多度部・綾歌郡内の牛馬車用奉仕隊約80台を動員して土砂運搬および飛行場の権地作業にあたる。
⑥7月中旬、航空隊幹部が現地視察に来て、工事遅延を見て、軍刀を抜かんばかりに激怒して帰る。
以上からは、7、8月の真夏の炎天下に、中学生達の学徒を動員して突貫工事で行われたことが分かります。しかし、完成前に終戦を迎えます。
 飯野山飛行場の施設内訳を見ておきましょう。
1、滑走路総面積 21町六反歩
2、附属施設
格納庫一棟 東坂元三の池、滝房吉所有田
格納庫一棟   西坂元高柳、松永博俊所有田
兵舎一棟    東坂元秋常、高木真一所有田
調理室浴場 東坂元秋常、新池所有山林内
3、家屋の立ち退きを命ぜられた者
(土居)鶴岡森次、平日常三郎、平田利八、平田金八、山口善平、平田平太郎、泉久大、抜井嘉平大、平田イトヱ、沢井一、本条直次、宮井宗義、平田トワ、抜井勝義
 (山の越)東原昌彦
(国持) 金丸弘、村山ワキ、       以上17戸
以上の17戸が家屋を解体され、立ち退かされたことが分かります。
その後、戦後の食糧生産増産運動の中で、滑走路や関連施設などの合計25町歩余は、農家が田畑に復旧します。また、取り壊された家屋は、家族や地区人達の手伝で再建され、1948(昭和23)年末ごろまでには復旧したようです。

飛行場建設部隊の宿舎となった法勲寺国民学校には、この時の記録が残されていますので、長くなりますが紹介しておきます。
陸軍飯野山飛行場の設置について、昭和20年5月航空総軍丸亀工事隊長から、当時の平尾安徳村長に次のように言い渡された。

「近く空第五百七十一部隊五百名を飛行場施設のため貴村へ派遣するので、国民学校等を宿舎として借りたいから五月末までに準備するように」

村長は、学校長・職員と打合せて、児童疎開計画をたて、疎開先の交渉にあたり六月一日、以下のように決定した。
一年生二組 島田寺
二年生二組 原川十三堂
高等科二組 長郷庵
三年生二組 校内での教室移動
六月一日 飛行場予定地で起工式を行い、村長が出席。
六月三日 夜緊急常会長会を開催し、「国民学校を宿舎にするので、蚊帳・釜等借りたいから協力をお願いする」と連絡。
六月四日 空第五百七十一部隊先発隊が来村し、学校内を見てまわり、下のように決定。
講堂と八教室を宿舎と医務室。
理科室を炊事場
倉庫を物資収納庫
授産場を本部と隊長室
駐在所を主計室と下士官集会場(当時巡査は単身赴任で役場二階へ移る)
裁縫室を将校集会場。
役場の倉庫の一部に仮営倉。
八坂神社の神事場を物干場。
六月五日 役場職員と兵隊が手分けして、釜・炊事用具・蚊帳の借入のため村内巡回。
郡町村長会で依頼した蚊帳が、周辺の八か村から次のように届いた。
美合村 4  造田村 12  長炭村 4  宇多津町 4  坂本村  4  羽床上村  4  川津村 4 法勲寺村 蚊帳 18  釜10 炊事用生屯 1 庖丁5 杓子1 その他の用具は学校のものを使用する。

風呂は村内の大工を雇って、ドラムカン五ケを大足川の土手(牛のつめきり場)にすえ、蓋や流しなどを作った。兵士達はこれを「列車風呂」と呼んでいた。上法岡の池へ水浴に行くことを交渉して決める。風呂が出来るまで、西の山・中の坪の家庭の風呂を利用した。ドラムカンの風呂沸しは、学校の上学年の児童が奉仕する日もあった。
水は逆川の水を利用した。飲料水は学校の井戸水では足らないので、西の山の新居久市(現恵)宅から、管を引いて補給した。
将校用宿舎は村内で、吉馴秀雄(現秀則)宅外四戸間借する。
午后になって、軍隊用物資がトラックで、運ばれて来た。
六月六日 松木場隊五百人が来村し、各々宿舎についた。
松木場隊長が学校内で挨拶の時、当時青年学校の教練教師をしていた川井の吉本晴一と逢い、吉本が初年兵の時の教官であった隊長と十年振りの出会となり、それが縁で村長と協議の上、隊の物資(炊事用)購入の交渉係として雇うこととなり、兵二人とその任にあたった。
下士官以下は、特別幹部候補生と志願兵が多く、九州出身者が大半であった。
翌日の六月七日から兵は飛行場へ作業に行く。朝食後に運動場に集り、軍歌を歌いながら持ち場に行進していった。戦時下とはいえ静かな農村が急に軍人の村と化していった。朝は起床ラッパに起こされ、軍靴の音高く軍歌の声を朝夕に聞き、村人達は遥か戦場の父を、夫を我が子を偲び、涙あらたなものがあったと思われる。
暑さの中一日の重労働に空腹を我慢して(飯盒八分目位入ったのが二人分の昼食)の毎日で、日を重ねるにつれて元気がなく足も重かったようであった。
六月十六日 隊と役場合同で、餅揚きをして二個づつ渡す。
  十七日 将校達幹部を招き、村会議員と役場職員で歓迎会を開き、日頃の労をねぎらった。
二十三日 一宮村青年団が慰間に見え、講堂で演劇・歌を発表し隊から飛入りもあって、賑かな夕であった。
七月十八日 松木場隊長司令部付となり、松山市へ転属、
 二十三日 宇佐見隊長着任したが、二十九日兵ともに屋島へ転属した。
  三十日 松原隊となり、高知部隊から召集兵と思われる年輩の者ばかりが来村した。
隊はかわっても、連日の作業は変りなく続き終戦の日を迎えた。飛行場の完成も見ず、行くべき道も見当らず、ただ果然としながら、校舎の整備を終えて故郷へ帰って行った。転属した兵達も、今一度学校へと立寄り、「一言も兵を責め給はぬに生きて帰る不甲斐なさよ」と語って、父母のいる九州へ帰っていった。

当時、坂本国民学校(現飯山北小学校)の3年生だった鶴岡俊彦氏(後の食糧庁長官)は、後に次のように回想しています。

学校の運動場はいも畑に変わり、狭くなった。岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶を縛り付け松根湯を採るような時代であった。
県内勤労奉仕の生徒に学校を明け渡すため、私たちは村内の神社やお寺に分散して授業を受ける事とされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓まで滑走路となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊される事となった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻き状に残っている。
夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊学校(現栗熊小学校)の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引っ越し予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。
 当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に「放送はおかしい、負けるはずがない」「俺たちが居る。降参はしない」と声高に話すのが頼もしく見えた。午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組みを残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。

ここからは飛行場内の最後の家屋取り壊しが終戦の8月15日であったことが分かります。そうしてみると空港は、まだ更地化が終了していない部分もあって、完成までにはほど遠かったことがうかがえます。

  軍は、この時期に各県毎いくつもの飛行場建設を命じています。
香川県で有名なのは林田飛行場(旧高松空港)や詫間海軍航空隊ですが、ほかにも端岡飛行場や屋島飛行場、観音寺柞田(くにた)飛行場が同時に建設されていました。

柞田飛行場
柞田飛行場(観音寺市)の絵本
「本土防衛・制空権奪還」というかけ声は勇ましいものがあります。しかし、飛行機も燃料も、飛行機を造る資材もないのに、軍部はどうして飛行場建設を命じたのでしょうか。軍部には「打ちてし止まぬ・一億総層玉砕」しかありません。そのためにも、空爆で都市が焼け野原になろうとも戦い抜く国民の戦意維持が必要でした。
 「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。軍部からすると一方的に空爆を受けたままで放置していたのでは、国民の戦意は消失する。米軍は、都市爆撃によって国民の戦意を失わせ、日本国内での戦争反対運動が起きるのを期待している。それを防ぐためには、戦意維持のために、なんらかの行動を起こさなければならない。今できることは何か? と考えた場合に、できるこては限られています。原材料が届かない戦略的工場はすでに操業停止状態です。また「戦略工場」には女子学徒たちが動員されていました。そんななかで考え出されたのが、未だ動員していない地方の中学生達を動員しての「本土防衛に備えての飛行場建設」だったようです。戦略的に考え出されたものではないのです。「戦意を失わせないために、モニュメント建設(飛行場)に動員しての戦意維持」という「いきあたりばったり戦略」が飛行場建設であり、そこへの旧制中学たちの動員だったと研究者は指摘します。以上をまとめておきます
①終戦直後に、飯野山南麓に軍部の命令で突如、飛行場建設が始まったこと
②そのために地元の人達の家が壊され、農地が接収されたこと
③そこに軍人達がやってきて小学校に寝泊まりし、多くの中学生が動員されたこと、
④それを地元の人達が支えたこと、
⑤しかし、飛行場建設は未完のままで、一機の飛行機も飛び立つことはなかったこと
⑥当時の日本には、飛行場が出来ても飛ばせる飛行機も、燃料も、パイロットもいなかったこと
⑦空港建設は戦意を維持するための、モニュメント建設でもあり、戦術的な意味はなかったこと
⑧戦後の食料増産運動の中で、飛行場は農地に戻され、撤去された農地も早期に復元したこと
⑨飛行場が現れたのは、昭和20年のわずかばかりの期間の「幻の飛行場」であったこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。
③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ
④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた
⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された
⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。

しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院)

宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。
 細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間  
一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、
二月廿七日          頼春 (花押)
③善通寺 僧都御房(宥範)

②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。

細川頼春の墓
細川頼春(1299~1352)の墓の説明版には、次のように記します。

南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。


 
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
 しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。

宥範と利生塔の関係を示す年表を見ておきます。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
 同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)

 年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
 最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
 もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
 以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
 細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。

細川頼之(ほそかわよりゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
           細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
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善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P





 土讃線が財田駅まで伸びて、まんのう町に汽車が走り始めて今年は百年目になることを以前にお話ししました。電灯が仲南に灯ったのも百年目になります。今回は、その経過を追いかけてみます。
 1904年の日露戦争開戦前に多度津に火力発電所が作られ、11師団のある善通寺や琴平までは電線が伸び電灯が灯るようになります。しかし、それから南のエリアに電線が伸びてくるのは20年後のことになります。第1次世界大戦の「戦争景気」で電力需要は、うなぎ登りに伸びます。この追風を受けて電力会社は、水力発電所の開発と送電網整備を進めます。多度津に拠点を置く四国水力電気(四水)も、吉野川沿いに水力発電所を建設し、高圧鉄塔で讃岐へ電力を引いてくることに成功します。その結果、電力が過剰状態になります。
 ところが四水の営業認可エリアは、琴電の線路の北側までとされていたので、それより南には電柱を建てることができません。そこで四水から電力を買い入れ、地元に供給しようとする人たちが現れます。四水も「余剰電力」が売れるのなら渡りに船です。こうして両者の思惑が一致し、小さな電気事業者がいくつも生まれることになります。
 1921年4月に仲南・財田への電力供給のために設立されたのが塩入水力会社です。
社名だけ見ると、塩入に水力発電所を建設したかの印象を受けますが、そうではありません。全電力を四水から「購入」する目論見でした。この事業を興したのが、春日の増田一良です。

増田穣三評伝 2 まんのう町春日と増田家について : 瀬戸の島から
増田一良 旧七箇村村長 県議

彼は七箇村村長を経て県会議員を務めた人物で、諸事情に精通していました。また、従兄弟には国会議員を引退した増田穣三もいました。穣三は、四水と名前を変える前の電力会社の社長を務めていたこともあります。塩入駅前に銅像が建っている人物です。

増田穣三4
増田穣三(左は銅像)
二人の経験と政治力からすれば、四水と交渉したり、電線網を整備したりすることは決して難しい話ではなかったでしょう。
設立された塩入水力電気株式会社は、多度津に本店を置き、買田に配電所を設けて電力供給を始めます。
それが1923年4月のことでした。今年がちょうど百年前になります。営業エリアは、七箇・十郷・財田・河内(旧山本町)の4ケ村で、電灯数は約千戸でした。 ほとんどの家が電球1個(1ヵ月80銭)の契約で、点灯時間は日没時から日の出までの夜間のみです。ひとつしか電灯はないので、コードを長くして家中に引張り廻します。婚礼や法事など、ひとつで足りないときには、臨時灯をつけてもらいました。中には、二股ソケットで電灯を余分につけたり、契約よりも大きい電球をつけるなどの「盗電」をする者もあったようです。そのため電力会社は、年に何回か、不意うちの盗電検査を夜間に行っています。
 当時は、電気製品がありません。電気は単に照明用だけなので、夜間だけの利用でした。敗戦後にモーターが普及するようになると、財田缶詰会社などの要請で、昼夜の配電がはじまります。それは、昭和21年5月のことでした。汽車が走り、電球が灯り目に見える形で「近代」が姿を見せ始めるのは今から百年前頃になるようです。





塩入駅前の増田穣三像


DSC02989
神野神社 満濃池堰堤の背後の岡に鎮座
満濃池の堰堤の背後の岡に、神野神社が鎮座します。この神社の古い小さな鳥居からは眼下に広がる満濃池と、その向こうに大川山が仰ぎ見えます。私の大好きな場所のひとつです。

DSC02983
神野神社からの満濃池と大川山
 この神野神社は延喜式の式内神社の論社(候補が複数あり、争論があること)でもあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴 象頭山八景(1845年)

この神社は、上の絵図のように戦後までは満濃池の堰堤の西側にありました。江戸時代には「池の宮」、明治当初は「満濃池神」と呼ばれてきたことが残された資料からは分かります。神野神社と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようです。どうして、神野神社と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、式内社をめぐる争論が関わっていたようです。

P1160049 神野神社と鳥居
神野神社の説明版
 神野神社について満濃町誌964Pには、次のように記されています。
①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。
 ④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
 ⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。
⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。
⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。
⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、
⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。
⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。
⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。
社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。
神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
以上から読み取れることを要約しておくと次の通りです。
神野神社の創建については、次の3説が紹介されています。
①伊予からの移住者が伊予の神野郡にちなんで神野と呼び、神野神社を建立した
②神櫛王の子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社
③満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社

①の「神野」という地名については、古代の郷名には登場しないこと
②神櫛王伝説は、綾氏顕彰のために中世になって創作されたもので古代にまで遡らないこと。
以上から③の民俗学的な説がもっとも相応しいものように私には思えます。

④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
⑤「神野神社」が古代の式内社であった
⑥中世の「神野神社」は。矢原氏によって守られてきた。
⑦江戸時代になって生駒藩の西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された。
⑧堰堤改修に合わせて池の宮も改修が行われてきた。
⑨1953年の昭和の大改修で、現在地に移された
⑩明治の再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門や榎井村庄屋長谷川佐太郎などが合祀された

以上をみると、満濃町史に書かれた神野神社の由来は、別の見方をすれば矢原家の顕彰記でもあることが分かります。
④⑤⑥では、満濃池築造以前から矢原氏がいたこと、古代から矢原氏などの信仰を受けて神野神社が姿を現し、式内社となっていたとされます。
ダムの書誌あれこれ(17)~香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)~ 2ページ - ダム便覧
満濃池史22Pは、空海と矢原氏の関係を次のように記します。

空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
 
 ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池下の矢原家住宅と諏訪明神(讃岐国名勝図会)
矢原氏は、近世の満濃池池守の地位を追われた立場でもあります。そのため満濃池の管理権を歴代の祖先が握っていたことを正当化しようとする動きがいろいろな所に見え隠れします。そのことについて話していると今日の主題から離れて行きますので、また別の機会にして本題に帰ります。
まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 寛永年間(1624~45年)
池の宮が最初に登場するのは、上の絵図です。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
池の宮3
            満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
 ③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。

金毘羅山名勝図会2[文化年間(1804 - 1818)
満濃池 (金毘羅山名所図会 文化年間1804~19)
この書は、大坂の国文学者石津亮澄、挿絵は琴平苗田に住んでいた奈良出身の画家大原東野によるものです。『日本紀略』や『今昔物語集』を引用し、歴史的由緒付けをした上で広大な水面に映る周囲の木々や山並み、堰堤での春の行楽の様子を「山水勝地風色の名池」と記します。上図はその挿絵です。東の護摩壇岩と西側の池の宮の間に堰堤が築かれ、その真ん中にユルが姿を見せています。その背後には、池面と背後の山容が一体的に描かれます。添えられた藤井高尚の和歌には、次のように詠われています。

 「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
 金毘羅名所図会 池の宮
満濃池池の宮拡大 (金毘羅山名所図会)
池の宮の部分を拡大して見ると、堤防から伸びた階段の沿いに燈籠や鳥居があります。その後に拝殿と本殿が見えます。こうして見ると、
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。


満濃池遊鶴(1845年)2
象頭山八景 満濃池遊鶴(1845年)
この時期の金毘羅大権現は、金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石畳や玉垣などが急速に整備され、面目を一新する時期でした。それにあわせて金光院は、新たな新名所をプロデュースしていきます。この木版画も金堂入仏記念の8セットの1枚として描かれたものです。 これを請け負っているのは、前年に奥書院の襖絵を描いた京都の画家岸岱とその弟子たちです。ここには、堤の右側に池の宮、その右側には余水吐から勢いよく流れ落ちる水流が描かれています。満濃池の周りの山並みを写実的に描く一方、池の対岸もきちんと描き、池の大きさが表現されています。後の満濃池描写のお手本となります。ちなみに、次の弘化4年(1847)年、大坂の暁鐘成の金毘羅参詣名所図会は、挿絵作家を連れてきていますが、挿絵については上の「象頭山八景 満濃池遊鶴」の写しです。本物の出来が良かったことの証明かも知れません。 
img000027満農池 金毘羅参詣名所図会
 金毘羅参詣名所図会 弘化4年(1847)
この絵からは、やはり鳥居や本堂は堰堤に向いているように見えます。そして地元の出版人によって出されるのが「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)です。

満濃池(讃岐国名勝図会)
満濃池「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)
梶原藍渠とその子藍水による地誌で、1854年に前編5巻7冊が刊行されますが、後は刊行されることなく草稿本だけが伝わることは以前にお話ししました。俯瞰視点がより高くなり、満濃池の広さが強調された構図となっています。これを書いたのは、若き日の松岡調です。彼は明治には讃岐の神仏分離の中心人物として活躍し、その後は金刀比羅宮の禰宜となる人物です。
 次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池普請図(嘉永年間 1848~54)
この時の普請は、底樋を石材化して半永久化しようとするものでした。しかし、工法ミスと地震から翌年に決壊して、以後明治になるまで満濃池は姿を消すことになります。右の池の宮の部分を拡大して見ます。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(池の宮) - コピー
満濃池普請図 池の宮拡大部分 嘉永年間
ここにも燈籠や鳥居、そして拝殿などが見えます。同じ高さに池御領の小屋が建てられています。この後、堤防は決壊しますが
  次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
軒原庄蔵の底樋隧道
満濃池 明治の底樋トンネル化図案
底樋石造化計画が失敗に帰した後を受けて、明治に満濃池再築を試みた長谷川佐太郎が採用したのが「底樋トンネル化案」でした。それまでの余水吐の下が一枚岩の岩盤であることに気づいて、ここにトンネルを掘って底樋とすることにします。その絵に描かれている池の宮です。
長谷川佐太郎 平面図
明治の満濃池 長谷川佐太郎によって底樋が西に移動した
ここでは、それまで堰堤中央にあった底樋やユルが、池の宮の西側に移動してきたことを押さえておきます。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。

ユル抜きと池の宮3 堰堤方面から
大正時代の満濃池ユル抜き
堰堤の西側に拝殿と本殿がつながれた建物があります。あれが池の宮ようです。堰堤には、ユル抜きのために集まった人達がたくさんいて、大賑わいです。

池の宮2
大正時代の満濃池のユル抜き風景
角度を変えて、池の宮の上の岡から移した写真のようです。左側が堰堤で、その右側に池の宮の建物と森が見えるようです。拝殿が堤防に併行方向に建っているように見えます。手前下で見物している人達は笠を指しているので雨が降っているのでしょうか。そのしたに流れがあるようにも見えますが、余水吐は移動して、ここにはないはずなのです。最後の一枚です。

大正時代のユル抜き 池の宮
大正時代の満濃池のユル抜き風景と池の宮
手前の一番ユルに若衆がふんどし姿で上がっています。長い檜の棒で、ユルを開けようとしています。それを白い官兵達が取り囲んで、その周りに多くの人達が見守っています。背後の入母屋の建物が池の宮の拝殿だったようです。明治以後、1914年に赤レンガの取水塔が出来るまでは、こうして池の宮前でユル抜きが行われていたようです。取水塔ができてユルは姿を消しますが、池の宮は堰堤の上にあったのです。それが現在地に移されるのは、戦後のことです。そして、池の宮の後は、削り取られ更地化されて、湖面の下に沈んでいったのです。以上をまとめておきます。
①中世の満濃池は決壊し、池跡には池之内村が現れていた。
②堤防跡に、その水神として祀られていたのが「池の宮」である。
③西嶋八兵衛による再築後は、満濃池の祭神として人々の信仰をあつめた
④池の宮は、堤防改築期に定期的に改修されるようになった。
⑤池の宮では滝宮念仏踊り七箇村組の踊りが、滝宮への踊り込みの前に奉納されていた。
⑥明治になると「神野神社」とされ、式内社の論社となった。
⑦大正時代にレンガ製の取水塔ができるまでは、満濃池のユル抜きは池の宮前の一番ユルで行われていた。
⑧戦後の堤防嵩上げ工事で、池の宮の鎮座していた丘は削り取られ更地化されて湖面に沈んだ。
⑨池の宮は神野神社として現在地に移転し、本殿などが新築された。

今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会
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地元の研究者を招いて、小さな講演会兼学習会を2ヶ月に一度開いています。今回のテーマは「讃岐鉄道と明治の近代化」です。講師の松井さんは、社会人として香川大学の大学院に入られて、このテーマについて研究を重ねて論文を出された方です。濃いお話が聞けるはずです。会場はまんのう中学校に隣接する建物です。興味があり、時間的に都合の付く方の参加を歓迎します。

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琴平と高松の人達を案内して、満濃池を「散策学習」することになりました。そのために説明に使う絵図をアップしておきたいと思います。これらの絵図をスマホで見ながら、説明等を行いたいという目論見です。まず、ため池の基本的な施設を確認しておきます。

ため池の施設
ため池の施設
蓄えた水は、③ユル→② 竪樋→③底樋→④樋門を通じて用水路に流されます。また、満水時のオーバーフローから堤防を守るための「うてめ(余水吐け)」が設けられています。

 底樋1
              仁池の底樋

現在のため池に使われている底樋です。コンクリート製なので水が漏れることもありませんし、耐久性もあります。しかい、江戸時代はこれが木製でした。満濃池の底樋や 竪樋の設計図が残されています。

満濃池底樋と 竪樋

文政3年の満濃池の設計図です。底樋にV字型に 竪樋がつながれて、堰堤沿いに上に伸びています。その 竪樋の上に5つのユルが乗っています。別の図を見てみましょう。

P1240778

       讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図
同じ構造ですが、
底樋には木箱のような樋が使われていたことが分かります。そして堤防の傾斜にそって 竪樋がV字型に伸ばされ、丸い穴が見えます。その穴の上にユルからのびた「スッポン(筆の木)」と呼ばれる大きな詮がぶら下がっています。これで穴を塞ぐというしくみです。底樋や竪樋は、当時の最先端技術でハイテクの塊だったようです。畿内から招いた宮大工達が設計図を書いて、設置に携わりました。


満濃池樋模式図
満濃池の底樋と竪樋・ユルの模式図

この模型がかりん会館にはあります。

満濃池 底樋・ 竪樋模型
満濃池の底樋と竪樋・ユル(かりん会館)
水が少なくなっていくと、上から順番にユルが抜かれていきます。満濃池のユルは、どれくらいの大きさがあったのでしょうか
 大正時代のユル抜きシーンの写真が残されています。

大正時代のユル抜き 池の宮
取水塔が出来る以前のユル抜きシーン 後が池の宮

 この写真でまず押さえておきたいのは、ユルの背後に池の宮(現神野神社)の拝殿があることです。池の宮の前に、ユルがあったことを押さえておきます。ユルに何人もの男達が上がってユルを抜こうとしています。赤や青のふんどし姿の若者達が 竪樋に長い檜の棒を差し込んで、「満濃のユル抜き どっとせーい」の安堵に合わせて、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、てこの原理で「スッポン(筆木:詮)」を抜き上げたようです。それを多くの人たちが見守っています。
 ユルがなくなったのはいつなのでしょうか?

P1240742
満濃池の取水塔(1914年)
 取水塔ができるのが大正3年(1914)で、今から約110年前です。それまでは木製ユルが使われていました。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
満濃池の赤レンガ取水塔

 次に満濃池の歴史を見ていくことにします。
満濃池は空海が築いたとされます。それを描いた絵図を見てみましょう。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海の満濃池改修の想定画(大林組)

 大手ゼネコンの大林組の技術者たちが描がいたものです

A 空海が①岩の上で護摩祈祷していますこの岩は後には、「護摩壇岩」と呼ばれることになります。

B アーチ状に伸ばされてきた堤防が、真ん中でつながれ、③底樋が埋められています工事も最終局面にさしかかっています。

C 池の内側には ④竪樋と5つのユルが出来上がっています。

D 池の中の⑤採土場からは多くの人間が土を運んでいます。E 堤防は3人一組で突き、叩き固められています。

堤防の両側は完成し、その真ん中に底樋が設置されています。 竪樋やユルも完成し、すでに埋められているようです。
 日本略記によると空海が満濃池修復を行ったのは弘仁(こうにん)2年821年の7月とされます。
約1200年前のことです。ところが
、空海が再築した満濃池も、平安末期には決壊して姿を消してしまいます。そして、池のあった跡は「再開発」され、開墾され畑や田んぼが造られ、「池之内村」が出来ていたようです。ここでは、中世の間、約450年間は満濃池は存在しなかったことを押さえておきます。
 17世紀初頭に、その様子を描いたのが次の絵図です。

まんのう町 決壊後の満濃池

 満濃池跡 堰堤はなく、内側には村が出来ている

A ①金倉川には、大小の石がゴロゴロと転がります。

B 金倉川をはさんで左側が④「護摩壇岩」、右側が②「池の宮神社」

C ③が「うてめ(余水吐)」跡で、川のように描かれています。

D 堤防の内側には、家や水田が見える。これが⑤「池之内村」。ここからは、池の跡には村が出来ていたことが分かります。

ここに満濃池を再築したのが西嶋八兵衛です。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛の主君は、伊賀藩の藤堂高虎です。当時は、西嶋八兵衛は生駒藩に重臣として出向(レンタル)を主君から命じられていました。このような中で、讃岐では日照りが続いて逃散が頻発します。お家存続の危機です。これに対して、藤堂高虎は農民たちの不満や不安をおさめるためにも、積極的な治水灌漑・ため池工事を進めることを西嶋八兵衛に命じます。こうして、西嶋八兵衛のもとで讃岐各地で同時進行的に灌漑工事が進められることになります。彼の満濃池平面図を見ておきましょう。

西嶋八兵衛の平面図2

西嶋八兵衛の築造図

①護摩壇岩(標高143㍍)と西側の池之宮(140㍍)の丘をアーチ型の堰堤で結んでいる。

②底樋が118m、竪樋41m 堤防の長さは約82m

③その西側に余水吐きがある。

こうして西嶋八兵衛によって、満濃池は江戸時代初期に450年ぶりに姿を見せたのです。彼の業績は大きいと私は思っていますが、その評価はもうひとつです。江戸時代は忘れ去れた存在になっていたようで、そのため正当な評価はされていなかったことが背景にあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴(まんのう町教育委員会)
こうして西嶋八兵衛によって、阿讃山脈の山麓に巨大な池が姿を現します。これは文人達にも好んでとり上げられるようになり、あらたな「観光名所」へと成長して行きます。そして池の俯瞰図が描かれ、その背後に詩文が添えられたものが数多く発行されるようになります。

当時の底樋や竪樋は木製でした。そのため定期的な改修取り替え工事が必要でした。

満濃池改修一覧表
満濃池改修工事一覧表 21回の工事が行われている

底樋を取り替えるためには、堰堤を一番底まで掘り下げる必要があります。そのためには多大の人力が必要になります。満濃池普請には、讃岐全土から人足が動員されました。
その普請作業の様子を見ておきましょう。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池
御普請絵図
この時の嘉永年間(1848~54)の改修工事は、底樋石造化プランを実行に移す画期的なものでした。そのため工事の模様が数多く残されています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(護摩壇岩) - コピー
満濃池
池普請 高松藩と丸亀藩の監視小屋

①護摩壇岩側には、「丸」と「高」の文字が掲げられた高松藩・丸亀藩の監督官の詰所

②軒下に吊されているのが「時太鼓」。朝、この太鼓が鳴り響くと、周辺のお寺などに分宿した農民たちが、蟻のように堤防目指して集まってきて仕事に取りかかった。
③小屋の前で座って談笑しているのが、農民達を引率してきた庄屋たち。藩を超えた話題や情報交換、人脈造りなどががここでは行われていた。
④四国新道を築いた財田の大久保諶之丞も、明治の再築工事に参加し、最新の土木技術などに触れた。同時に、長谷川佐太郎の生き様から学ぶことも多かった。それが、後に彼を四国新道建設に向かわせる力になっていく。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー
底樋に使う石材が轆轤でひかれています

下では石を引いたり、整地する人足の姿が見えます。彼らは藩を超えて讃岐各地から動員された農民達で、7日間程度で働いて交替しました。手当なしの無給で、手弁当で周辺のお寺や神社などの野宿したようです。自分の水掛かりでもないのに、なんでここまえやってきた他人さまの池普請をやらないかんのかという不満もありました。そんな気持ちを表したのが「いこか まんしょか まんのう池普請」でというザレ歌です。
現場を見ると、底樋の石材化のために四角く加工された石柱が何本も運び込まれています。牛にひかせたもの、修羅にのせたものをろくろを回して引っ張りあげる人夫達。川のこちら側では、天下の大工事をみるために旦那達がきれいどころを従えて、満濃池の普請見物にやって来ているようです。

満濃池決壊拡大図 - コピー
満濃池の中を一筋に流れる金倉川と「切堤防」
ところがこの時の底樋石材化プランには、工法ミスと大地震が加わり、翌年夏に堰堤が決壊してしまいます。そして、その後明治になるまで、決壊したまま放置されるのです。上の絵図は、空池となった満濃池跡を金倉川流れている姿です。
IMG_0010満濃池決壊と管製図
満濃池堰堤決壊部分、下が修理後の姿
満濃池が再築されるのは、幕末の混乱を終えて明治になってからです。
再建の中心として活躍したのは榎井の庄屋・長谷川佐太郎でした。
彼は「底樋石材化」に代わって、「底樋隧道石穴化」プランで挑みます。それは、うてめ(余水吐け)部分が固い岩盤であることを確認して、ここに隧道を通して底樋とするというものです。成功すれば、底樋のメンテナンスから解放されます。

軒原庄蔵の底樋隧道
明治の満濃池底樋隧道化案
この経緯については、以前にお話ししたので省略します。完成した長谷川佐太郎の平面図を見ておきましょう。

長谷川佐太郎 平面図
満濃池 明治の長谷川佐太郎の満濃池平面図

①旧余水吐き附近の岩盤に穴を開けて底樋を通した

②そして竪樋やユルも堤防真ん中から、この位置に移した。

③そのため一番ユルは、池の宮前に姿を見せるようになった。

④余水吐きは、現在と同じ東側に開かれた

大正時代になると、先ほど見た取水塔が池の中に姿を見せます。

P1240743
満濃池
取水塔(1914年)

約90年前に姿を見せた取水塔です。この取水塔によって、 竪樋やユルも底樋に続いて姿を消すことになります。引退した後のユルの一部がかりん会館にありますから御覧下さい。


P1260786
ユルの先に付けられていたスッポン(筆木)
実際に見てみると、その大きさに驚かされます。また下の 竪樋は厚い一枚板が使用されています。ここからごうごうと、水が底樋を通じて流れ出ていました。
 江戸時代と現在の満濃池の堰堤を断面図で比べて見ます。

満濃池堤防断面図一覧
満濃池堰堤の断面図比較

戦後1959年になると、貯水量の大幅増が求まれるようになります。そのために行われたのが堰堤を6m高くし、横幅も拡げ貯水量を増やす工事でした。断面図で比較しておきましょう

①が西嶋八兵衛 ②が昭和の大改修 が1959年の改修です。現在の堰堤が北(右)に移動して、高くなっています。この結果、池之宮(標高140m)は水の中に、沈むことになります。それよりも高い護摩壇岩(標高143m)は、今も頭だけ残しています。これも空海信仰からくるリスペクトだったのかもしれません。

満濃池 1959年版.jpg2
959年改修の満濃池平面図

①護摩壇岩は小さな島として、頭だけは残した。

池の宮は水没(標高140m)し、現在地に移転し、神野神社と呼ばれるようになった。

③堰堤の位置は、護摩壇岩の後に移され、堤防の長さも81㍍から155㍍へ約倍になった。

そして堰堤のアーチの方向が南東向きから南西向きに変わりました。この結果、堰堤に立つって讃岐山脈方面を見ると正面に大川山が見えるようになった。
最後に、明治初年に満濃池が再建される際に書かれた分水図を見ておきます。

満濃池分水網 明治

満濃池水掛村々之図(1830年)

これを見ると満濃池の分水システムが見えて来ます。
満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は「水路」ではなかったようです。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。そして、水掛かりの天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。

③私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時代が長くありました。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされたピンク領土を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。

④丸亀平野全体へ用水路網が整備されていますが、丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部に位置し、水不足が深刻であったことがうかがえます。

まんのう町・琴平町周辺を拡大して見ましょう。

満濃池分水網 明治拡大図


①満濃池から流れ出た水は、③の地点で分水されてます流れを変えられました。ここに設けられたのが水戸大横井です。現在の吉野橋の西側です。パン屋さんのカレンの裏になります。

②ここでは、コントロールできるだけの水量を取り込んで④四条公文方面に南流させます。一方、必要量以上の水量は金倉川に放水します。そのため夏場は、ほとんどの水が④方向に流され、金倉川は涸川状態となります。④方面に流された水は、五条や榎井・苗田の天領方面に、いくつもの小さな水路で分水されます。この絵図から分かるのは、この辺りの小さな水路は満濃池幹線から西に水がながされていることです。

③さらに④の高篠のコンビニの前で分水地点でされます。④南流するルートは公文を経て垂水・郡家・田村・津森・丸亀方面へ水を供給していきます。

⑤一方、④で北西に伸びる用水路は天領の苗田を経て、⑤で再び金倉川に落とされます。そして、⑥でふたたび善通寺方面に導水されます。
 当たり前のことですが用水路が整備されないと、水はきません。西嶋八兵衛の活動は、満濃池築造だけに目がいきがちですが、同時に用水路整備も併行して行われていたはずです。

西嶋八兵衛の満濃池と用水路

西嶋八兵衛の取り組んだ課題は?

 中世までの土器川や金倉川・四条川は幾筋もの流れを持つ暴れ川でした。これは、下の地図からもうかがえます。それをコントロールして、一本化しないと用水路は引けないのです。

満濃池用水路 水戸
国土地理院地形図 土地利用図に描かれた水戸周辺の河川跡
そのための方法が、それまで土器川と併流していた四条川を③の水戸大横井で西側へ流すための放水路としての「金倉川」の整備です。そして、それまでの四条川をコントロールして、「満濃池用水路化」したと私は考えています。「消えた四条川、造られた金倉川」については、新編丸亀市史の中でも取り上げられています。
さらに推測するなら、空海もこれと同じ課題に直面したはずです。
つまり、用水路の問題です。空海の時代には、大型用水路は以前にお話ししたように丸亀平野からは出てきていません。出てきてくるのは、幾筋もに分かれて流れる土器川、金倉川です。また、条里制も川の周囲は放置されたままで空白地帯です。土器川をコントロールして、満濃池からの水を何キロにもわたって流すという水利技術はなかったと研究者は考えるようになっています。そうすると空海が満濃池をつくっても丸亀平野全体には、供給できなかったことになります。空海が改修した満濃池は、近世に西嶋八兵衛が再築したものに比べると、はるかに小さかったのではないかと私は考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 満濃池史 満濃池土地改良区50周年記念誌
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満濃池堰堤図2
満濃池堰堤周辺図
 前回は、説明だけで歩かないまま終わってしまいました。昨日・今日と実際に、琴平や高松の人達と歩いてきたので、その報告記を載せておきます。スタートは堰堤の東端の①余水吐け(うてめ)です。

満濃池余水吐け
満濃池余水吐け 満水時にオーバフローする
満濃池に御案内すると、「今はどのくらい水が溜まっている状態なのですか?」とよく聞かれます。この余水吐けを水が越えていれば満水状態と云うことになります。それでは、ここから流れ出た水は、どこにいくのでしょうか?それをたどって見ることにします。

 満濃池 高松藩執政松崎渋右衛門の辞世の歌
明治の満濃池再築の功労者・松崎渋右衛門の辞世の歌 
余水吐けの後に神野神社への階段があります。その東側に、松崎渋右衛門の歌碑があり、その横に散策路の入口があります。この散策路に入っていきます。      

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堤防から下に続く散策路

標高差30mほどで堰堤から金倉川まで下りてきました。
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満濃池堤防下の遊歩道
堤防の下まで下りてきました。正面に満濃池の堰堤が見えます。


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        下から見る満濃池の堰堤
正面が堰堤です。現在の堰堤は、1959年の嵩上げ工事で、6m高くなり、32mの高さがあります。見上げるような感じです。

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満濃池余水吐の排水口
ここで左手を見上げると、岩盤があり、その上に穴が空いています。これが先ほど見た余水吐きの出口になります。満水で余水吐きを越えた時には、次のような光景が見られるようです。
満濃池余水吐きからの落水
余水吐け出口からの落水(満濃池のまぼろしの瀧?)
この光景は、満濃池が満水になって大雨が降った後でないと見れません。そのため年間で十数回程度で「幻の瀧」とも云われています。興味のある方は、チャンスをみて見に来て下さい。

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      満濃池余水吐からの落水(2024年6月28日)
梅雨の大雨続きで、迫力ある「満濃池のまぼろしの滝」でした。


満濃池 現状図
満濃池堰堤周辺の構造物位置
位置を確認しておくと、③の余水吐きから神野神社の下に掘られたトンネルと経て、この岩場を金倉川に向かって流れ落ちていることになります。さて、正面の堰堤に視線をもどしてみます。


P1260722

 石垣が積み上げられ、穴が空いている部分があります。これが満濃池の⑤樋門です。用水塔から取り込まれた水は、ここから流れ出てくることになります。

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6月13日の満濃池のゆる抜き
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満濃池の樋門
ここで質問 江戸時代の樋門は、堰堤のど真ん中にありました。それが、どうして右端に移されたのでしょうか?
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
江戸時代最後となった嘉永年間の工事も、底樋は堰堤の真ん中に据えられています。しかし、現在の満濃池の樋門は西側にあります。

満濃池 1959年版.jpg2
1959年の嵩上げ工事後の満濃池
 それは明治の再建工事の際に、岩盤にトンネルを掘って底樋とする「底樋トンネル化」が採用されたからです。そのため固い岩盤がある現在のルートが選ばれます。上図のように、取水塔と樋門はトンネルで一直線に結ばれるようになります。樋門が西側にやってきたのは、明治の「底樋トンネル化」プランの結果のようです。

P1260730
満濃池樋門(ひもん)と登録有形文化財プレート
樋門の説明文を拡大してみます。
満濃池樋門2
満濃池底樋の登録文化財認定の説明文
ここからは、次のようなことが分かります。
①満濃池の底樋管は、軒原庄蔵によって掘られた。
②全長197mで、取水塔と樋門が底樋隧道で結ばれている
③抗口には列柱レリーフなどの装飾が施されている
①の軒原庄蔵の掘った「底樋隧道」とは、どんなものだったのでしょうか?
軒原庄蔵の底樋隧道
       満濃池 軒原(のきはら)庄蔵の掘った「底樋石穴」
岩盤に底樋用の石穴を開ける工事は、寒川郡富田村の庄屋、軒原庄蔵が起用されます。彼は寒川の弥勒池の石穴を貫穿工事に成功した実績を持っていました。上図を見ると木製底樋に竪樋がV字型に伸ばされ、その上にユルが5つ組まれています。一番上のユルが一番ユルです。それは、「池の宮」の前に位置しています。また底樋トンネルも「池の宮」の地下を通っていることが分かります。
 取水塔が出来る前のユル抜きの写真を見てみましょう。
池の宮の前の一番ユル
       満濃池のユル抜き 取水塔ができる前
①ユルの上に多くの人足が上がって、ユルを抜こうとしている。それを見守る見物人
②背後の建物が池の宮、白い制服姿が官兵・軍人(?) 池の宮の前にユルがあったことが分かる。
③この後、大正14年に取水塔ができて、木製のユルは姿を消した。
満濃池堤防断面図一覧
現在の堰堤(1959年)は、6m嵩上げされている
前回に戦後の改修でも、堤防が嵩上げされたことをお話ししました。その嵩上げ中の写真を見ておきましょう。

満濃池1951年本堤
昭和26(1951)年の満濃池堤防

1952年満濃池
昭和27(1952)年の満濃池堤防
1953年満濃池堤防
昭和28(1953)年の満濃池堤防
堤防が年々嵩上げされていたことが分かります。同時に、堰堤工事のために周辺の山から土が切り出されていたようです。

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昭和
26(1951)年 満濃池の工事現場

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蛍の里公園からの満濃池堰堤
今回は満濃池堰堤の下側を散策してみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史

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