瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年02月

財田仲
財田中の入樋
三豊市財田町は、財田上、財田中、財田西に分かれていますが、古くはそれぞれ上の村、中の村、西の村と呼ばれていました。そのうちの財田上の村は多度津領で、さいさい踊が伝わっています。一方、財田中の村は丸亀藩で、弥与苗(やとな)踊・八千歳(やちよ)踊・繰り上げ踊が踊られていました。それ今では、財田中の一集落である入樋に伝承されています。
 弥与苗踊は、「いよいよ苗を与える」踊という意味で名付けられたとされます。それに対して八千歳踊・繰り上げ踊は盆踊で、八千歳踊は祝う心もち、繰り上げ踊は歌や踊のテンポが早くなり次第に興が高まる踊りとされます。この三つをまとめて入樋の盆踊りと呼んでいるようです。 踊りはもともとは、旧七月の旧盆で、今は新盆踊として踊られています。雨乞踊りとして踊られるときには、財田川の上流瀬戸の龍王で踊り、それから雨の宮神社、塔金剛(とうきんこう)の五輪塔の前の3か所で踊ったという。今はエリエールゴルフ場の西側に鎮座する高津神社(王子大権現)の坂の下の入樋公民館の前の広場で踊られています。

財田中入樋の高津神社
高津神社(財田中の入樋)
大正10年頃に大西恭造氏が書いた「弥与苗踊略縁起」を筆写したものには、次のように記されています。

抑当村雨乞の由来を訪ぬるに、人皇第六十一代朱雀天皇の御宇近江の国矢上山と言ふ所に娯蛭ありて人を傷つくる事数多なれ共、之を退治する事叶はす。衆人受ひに沈む事幾年なるを知らず。疑に人職冠藤原鎌足公の後胤俵藤人秀郷なる者、日本無双の英雄にて、龍神より百足退治の詔勅を受け、則ち近江路に到り、瀬多橋より容易く退治給ふ事、沿く人の知る所なり。其時龍神より報恩の為秀郷の望みを叶ふべしとありし時、秀郷日く、吾故郷は、動もすれは早魃多し。人民の飲き聞くに忍びず。願はくは月に六度の雨を降らし給はらば、生涯の本望足に過ぎすとありけれは、龍神願の如く永世の契り諾し給ひけり。其時秀郷は上之村谷道(財田上の村・渓道)の城に有り給ふ。之より財田の私雨と言ふことを世に言はるる事となり、且つ川の名を財田(たからだ)川といふ因縁は此時より始まると申し侍るなり。
其後数代を経て長久四年の春、天下大いに旱りして苗代水なし。其時雨の官に於て有徳の行者、三十七日雨を乞へども、更にその験なし。最早重ねて祈る力なしとて心を苦しむ。折柄其の夜、不思議の霊夢を蒙むり、爾等心を砕きて数日雨を乞ふ志薄からきる事天に通せども、村中衆生の願力薄き故に、雨降り難しと言ふ事を論され、それより時を移さず、村民一同踊を奏し御神意を勇め奉らんと思ひて,則ち踊の手と音頭の文を作りて奏し奉りし時、雨大いに降りて豊作を得たり。苗を与ふると言ふ心を直ちに弥与苗踊と名附けたり。此時都の歌人来り居て、此の不思議の霊験に感じて、
財田や何不足なき満つの秋
と詠みしとなり。其の後も早ありし時踊を奏し奉りて、御利生を蒙むる事皆人の知る所なり。依て略縁起如件 大義
    意訳変換しておくと
そもそも当村の雨乞由来を訪ねると、第六十一代朱雀天皇治政(在位930年10月16日 - 946年5月23日)に近江国矢上山というに娯蛭(大むかで)が現れて、多くの人々に危害を与えた。しかし、退治する者が現れず、人々は長年苦しんでいた。そんな中で藤原鎌足公の子孫で俵藤人秀郷という者が、日本無双の英雄として、龍神より百足(むかで)退治の詔勅を受けて近江路に出向いた。そしてついに瀬多橋で退治したことは、衆人の知るところである。この時に、龍神から報恩褒美として秀郷の望みを何でも適えてやろうと言われた。そこで秀郷は、故郷の讃岐財田は、早魃が多く、人々が苦しんでいます。願わくば、月に六回は雨を降らていただければ、生涯の本望ですと答えた。龍神は、この願いを永世の契りとして聞き入れた。この時に秀郷は、上之村谷道(財田上の村・渓道)の城を居城としていた。そこで、財田に降る雨を「財田の私雨(わたくしあめ)」と、世間では呼ぶようになった。また、川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まると伝えられる。

   その後、数代を経て長久四(1043)年の春、天下は大旱魃となり苗代の水もない日照りとなった。
そこで雨の宮で、験のある行者(修験者)が37日も雨乞祈祷を行った。しかし。それもむなしく雨は降らない。もはや重ねて祈る力ないと人々は心痛した。その夜、不思議な霊夢で龍王は次のように告げた。爾(なんじ)等の雨を乞ふ気持ちは天に通じている。しかし、村中のひとりひとりの願力が薄いために、雨が降らないのだ。」と。そこで、村民一同で神意を勇めようと思い、踊の手と音頭の文を作って、踊りを奉納した。すると雨が大いに降って豊作となった。人々はこの踊りに、「苗を与ふる」という思いで、弥与苗踊と名附けた。この時に村に滞在していた都の歌人は、この不思議な霊験に感じて次の歌を詠んだ。
財田や何不足なき満つの秋
その後も旱魃があれば、踊りを奉納して、御利生を蒙むってきたことは誰もが知っている所である。依て略縁起如件 大義
この縁起が書かれた大正時代後半は、讃岐を大旱魃が襲って、県が雨乞い踊りの復活実施を各市町村に通達しています。そこで明治以来、踊られることのなかった雨乞い踊りが各地で復活したことは以前にお話ししました。それを記録に残そうと、新たに由来・伝承が書かれます。それは、山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りでも見た通りです。そのような「創作背景」を押さえた上で、内容を見ていくことにします。
前半 
俵藤太秀郷の近江のむかで退治伝説 → 龍神からの褒美として財田の私雨(わたくしあめ)
 川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まる
後半
大旱魃の際に、修験者の雨乞祈祷だけでは龍神に届かなかった。そこで村民の心を一つにして神に伝えるために、踊りを奉納したこと。これが弥与苗踊と呼ばれるようになったこと。
ここで私が注目するのは、「修験者の雨乞祈祷だけでは雨は降らなかった。そこで村民一同で雨乞いのために踊った」という箇所です。
近世前半では、雨乞祈願の主役は修験者や高僧でした。農民達は、それを見守るだけでした。農民達が行うのは、雨乞成就のお礼踊りの奉納でした。祈祷自体は験のある修験者の行う事で、ただの百姓が龍神に祈願しても聞き届けられるはずがないというのが、当時の宗教観だったようです。それが近世末になると、修験者の祈祷を助けるために、自分たちも雨乞い踊りを踊るというスタイルがここには出てきます。そして、大正期に書かれた「伝書」には、雨乞いを後押しするために、村人もみんなで踊るという風に変化していきます。

弥与苗踊は雨乞踊りとしても踊りますが、盆踊りとしても踊っていました。


真中に太鼓をすえてその周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されたことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたのです。以下のような動きを押さえておきます。

風流雨乞い踊りの変遷図

弥生苗(やよな)踊りについて、「香川県の文化財」(昭和46六年香川県文化財保護協会刊)には、次のように記されています。

香川の文化財

「雨乞の折には四隅にしめなわを引きめぐらし、
踊り子は、蓑笠姿、手に団扇を持つ。
一曲を三回繰り返して六曲を雨の降るまで踊りつづけた

六曲とは次の歌です。
1 人葉(いりは)
ざんぎぎんざと いりょかいぐち いてとせきどをあらたみょや
2 弥与蘭
にしはじぐれの かやがやの雨 音はせぬかや 降りかかる
3 長生(ちょうせい)
ここはどこぞと たずねてみれは たからだやまのふるさとや 
音に聞えしたからだ山に 雨が降る 神の御利生か雨が降る
4 御元(おもと)
春は花さく 夏は橘 菊は九月の中の頃 鶯が小簸小校に巣をかけて ひよこ育てて 飛んで来る
5 糸巻き(いとまき)
たなばたの 朝ひく糸の 数々を 綾や錦を織りおろす 秋が来たかえ 鹿が鳴く なぜに紅葉か花が咲く
6 すくい
ひさしおどれば 花か散る つまおれがさに 露がする
弥生踊り
           弥生苗(やよな)踊り

1・2・3は雨をねがう内容のものですが、4・5・6は四季の風情を叙して、優雅な趣がしますが、雨には関係がありません。

弥与苗踊が終ると、八千歳踊へと移ります。
八千歳音頭
八千歳踊は、俵藤太物語の音頭があり、 ついで繰り上げ(クッリヤゲ)にうつっていきます。入樋の「繰上げ」金毘羅御利生
この歌詞を見ても、近世後期のもので、雨乞いとは関係ない内容です。 「讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」は、次のように記します。
八千歳踊は、舞の手が入り、腰や手首を微妙に使い、足を組む所作まであり、扇と手拭を派手に使って踊る。繰り上げ踊になると、テンポも早く、振りも複雑に派手になり軽快な踊となる。踊手は激しさに息をはずませることになる。繰り上げ踊の歌詞は、金毘羅御利生、鈴木主水、佐倉宗五郎、八百屋お七、和尚亀松、俊徳丸、お礼政次などのが登場し、いかにも盆踊にふさわしい。これらの口説を歌い続けて宵から夜が更けてしまうまで踊り興ずるのが音の風であったという。

「いかにも盆踊にふさわしい」の評の通り、まさに盆踊りなのです。輸踊であることもそれを裏付けます。この踊りは、雨乞踊と盆踊との関係を考える上に重要なヒントを与えてくれます。つまり、高見島の「なもで踊り」と同じように、「盆踊化した雨乞踊り」と研究者は考えているようです。しかし、私はそれは逆で「盆踊りが雨乞い踊化」したと考えています。
 なもで踊りの歌詞はすべて近世のものですが、弥与苗踊の六曲には、中世のものが含まれていますが、綾子踊や和田の雨乞踊、財田上のさいさい踊などよりは、内容的には新しいものと研究者は考えているようです。
弥与苗・八千歳踊に熟練し、伝承に熱心であった大木義武氏は次のように語っています。
自分が二十歳そこそこの頃に香川県全般に大早魃があり、豊田村の池の尻(観音寺市)から雨乞のため入樋の雨乞踊を踊ってくれと請われた。しかし踊ったとて降るとは限らぬからと一旦は断ったが、たって乞われたので行って踊った。真光院という寺の境内で踊ったが、始めの頃は星が空一面に出ていたのに、踊が進むにつれて、雨が降り出した。境内の松の露だろうと思って踊っていたが、ほんとうに雨が降り出したのであった。踊り終って小学校の校長先生宅で休んでいると雨は本降りになってきたc
手伝が来て大変なご馳走になり帰ってきたが、入樋の踊で雨が降ったという評判が高くなり、踊れば五遍に三遍は必ず降るものだという自信のようなものができた。
 ここにも大正時代の旱魃の際に、各地の雨乞い踊りが復興し、他地域からの奉納依頼があったことが分かります。これが踊り手達の自身や誇りとなり、記録や由緒などを残そうとする動きが出てきます。大正の大旱魃は、讃岐の雨乞い踊りの復興運動(ルネサンス)を引き起こしたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 弥与苗踊・八千歳(やちよ)踊  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

まんのう町山脇
まんのう町山脇
まんのう町の山脇は、JR土讃線の財田駅の東側に拡がる盆地で、ここには念仏踊りが伝えられています。この念仏踊りがどんな系譜のものだったのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」です。

最初に滝宮念仏踊りをめぐる動きについて、次のように押さえておきます。
①江戸時代を通じて滝宮では「滝宮神社(牛頭天王社)+天満宮+龍燈院滝宮寺」が神仏混淆的な宗教センターを形成し、龍燈寺の社僧が管理運営を行ってきた。
②その布教活動として社僧(修験者)が、蘇民将来のお札などを配布するとともに、祖先供養のために念仏踊りを村々に伝えた。
③社僧達は「芸能運搬者」として、念仏踊りを村々に伝えた。
④村々は連合して踊組を組織し、夏越しの供養に風流盆踊りを惣社に奉納するようになった。
⑤その踊りは牛頭天王信仰と菅原道真の天神信仰の中心でもあった滝宮にも奉納されるようになった。
滝宮への奉納を行っていたのは、次のような踊組でした。
A北条組念仏踊り(坂出市)
B滝宮組念仏踊り(綾歌町)
C坂本組念仏踊り(丸亀市)
D七箇村組念仏踊り(琴平町+まんのう町)
E南鴨組念仏踊り(生駒藩騒動後、讃岐の東西分離後には停止)
これらの地域は、滝宮牛頭天王社の信仰エリアであったことになります。
 さて山脇集落に話を戻します。山脇はこのうちのDの七箇村組に所属していたことが資料から分かります。それがどうして、「山脇念仏踊」を踊り出したのでしょうか?

大正時代に書かれた「念仏踊り略縁起」には、次のように記されています。
抑此の念仏踊は日本念佛の元祖法然上人の始め給ひしものなり。上人御年七十五歳の御時、流罪の御身となりて建永二年二月二十六日護岐の国塩飽の地頭駿河権守高階保速の方に御着。それより日を経て善通寺並に金昆羅権現へ御参詣の働り南の方を眺め給へば紫の雲のたなびく所あり。定めて有縁の霊地ならんと即ち宮田の西光寺へ歩を運ばせ給ひ御滞留。寒くとも袂に入れよ西の風弥陀の国より吹くと思へばと御詠ありて日夜衆生に念仏を動め給へ共其の頃一般の人心信仰の念薄く念仏を唱ふるもの砂かりき。然るに不思議なるかな上人念仏御修業の御徳にて岸石に泉を得給ひ、或は庭前の松に夜な夜な明星天下りて影向し給へり。又其の年夏照り打続き草木将に枯死せんとするに至りて上人日く念仏を唱ふれば必ず雨降るべしと。それより南方山脇と云ふ在所へ歩を運び給ひ、丘上に衆人を集め手踊りに念仏を合し盛に踊らしめたるに忽ち雨降りければ、人々生還の思ひをなして喜悦すること一方ならず。それより念仏踊りと称して後生に永く伝へられ、封建の昔は非常なる格式を与へられ遠く滝宮に至りて踊るを例とせられ、史実に残る西七ケ村の念仏踊り乃ち之れなり。
上人の衆人を集め給ひし丘山は山脇より阿波の国東山に超ゆる街道の畔の南に轟瀧眼下に上讃本線さぬき財田駅更に西方は遠く遂灘眺望絶佳の地にて法然上人をまつる廣場通称念仏場乃ちこの由緒
を樽へる踊り磯祥の地なり。時うつり世は変りて明治の文化開けて幾星霜全く村人より忘れられ
んとせしが、大正の末期古老有志相諮りて比の曲緒ある念仏躍を復活し、上人の御徳を偲ぶことを得たり。では謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませぅ。合掌
  意訳変換しておくと
そもそも、この念仏踊は日本念佛の元祖法然上人が始めたものである。上人75歳の時に、讃岐流罪となって、建永2年2月26日に護岐国塩飽の地頭である駿河権守高階保速の方に到着した。その後に、善通寺や金昆羅権現へ参詣した際に、南方を眺めていると紫の雲のたなびく所が見えた。これは有縁の霊地だろうと、宮田の西光寺(法然堂)までやってきて留まった。
その時の御詠が
寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思へば
こうして日夜、衆生に念仏を勧めた。しかし、その頃の人々は信仰の念が薄く、念仏を唱ふるものも少なかった。ところが不思議なことに、上人の念仏修業の徳によって、岸石から泉が湧き、庭前の松に夜な夜な明星が天下りて影向したりした。また、その夏は旱魃で草木が枯れ、作物も育たない有様であった。そこで上人は「念仏を唱えれば必ず雨降るべし」と云い。宮田の南方の山脇まで歩を進め、丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。するとたちまち雨が降り、人々生き返る思いと喜悦した。以後、これを念仏踊りと称して後生に永く伝へることにした。
 江戸時代には、高い格式を与えられ滝宮にも奉納されたと伝えられる。史実に残る西七ケ村の念仏踊りがそれである。
上人が衆人を集めた丘山は、山脇から阿波の国東山に続く街道沿いの岡で、南に轟(とどろき)滝、西には土讃本線さぬき財田駅、さらに遠く燧灘まで見える眺望絶佳の地である。この丘が法然上人をまつる廣場(通称念仏場)であり、この由緒を伝える踊り発祥の地である。時は移り、世は変わってこのことは村人から忘れ去られようとしている。そこで大正の末期、古老有志で相談し、由緒ある念仏踊りを復活し、上人の御徳を偲ぶこととした。謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませう。合掌
以上を要約しておくと
①讃岐に流刑となった法然は紫の雲のたなびくのを見て宮田の法然堂(西光寺)に留まった。
②夏の旱魃に法然は山脇の丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。
③するとたちまち雨が降り、これを念仏踊りと称して後生伝へた。
④これが七箇村念仏踊りの起源で、滝宮へも奉納された格式高い念仏踊りである。
⑤忘れ去られようとしていた念仏踊りを大正末年に復活させ、法然上人を偲ぶことにした。
宮田の法然堂
まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
ここでは山脇念仏踊は、法然上人によって始められたことが強調されています。ちなみに雨乞い踊りの由来に登場する伝播者を振り返っておくと、次のようになります。
A 滝宮念仏踊  菅原道真の雨乞成就に感謝して
B 佐文綾子踊  弘法大師が綾子に伝授
C 山脇念仏踊  法然上人
この「伝書」には、念仏踊りの踊り方や下知役の踊り方などの指南書的な内容になっています。大正末年には、昭和9・14年に匹敵する大旱魃が襲ってきました。そのため県などでも為す術がなくて、市町村に雨乞踊りの復活を通達を出しています。こうして何十年ぶりかに復活した雨乞い踊りを残すための踊り方指南書や、持ち物製作手順や由緒書きなどが新たに書かれます。佐文の尾﨑清甫が最初に綾子踊に関する記録を残すのも大正時代のことでした。ここでは、各地で雨乞い踊復活運動が起こり、新たな記録が残されたことを押さえておきます。

この伝書には「法然が山脇で念仏踊りを始めた。」
「念仏踊りの発祥の地が山脇だ。」、
そして山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊に「発展」したのだとされていました。これを検証しておきます。
まず、七箇村組念仏踊りのメンバーを見ると、「旧仲南町 + 旧満濃町の岸の上・真野・吉野 + 旧天領(五条・榎井・苗田・西山」など、数多くの村々の連合体だったことが次の表からは分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

その中で、山脇村に対しても役割や動員人数が割り当てられています。山脇は西七箇村に属しますが、構成メンバーの一員にしか過ぎません。ここからは、山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊りに成長・発展したとは云えないようです。それよりも踊られなくなった七箇念仏踊りを、山脇だけで復活させたと見た方が良さそうです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

   諏訪大明神(真野諏訪神社)に奉納された七箇村組念仏踊

どうして七箇念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか? 
①滝宮牛頭天王社の龍燈寺が廃仏毀釈運動の中で廃寺となり、滝宮念仏踊りの主催者がいなくなった
②七箇念仏踊自体が「天領+丸亀藩+高松藩」領の寄せ集め集団で内紛が絶えなかったこと
以上の理由から七箇念仏踊りは、空中分解してしまいます。そのような中で、西七箇村の最も西で、三豊郡境に接する山脇集落では、自分たちだけで念仏踊りを復活させようとしたのだと研究者は考えています。これは佐文の綾子踊も同じような歩みを辿ります。佐文の場合は、いろいろな騒動を組内で起こし、主要な役割を失っていきます。そのため佐文単独で風流踊系の綾子踊りを導入していたようです。どちらにしても、山脇と佐文という七箇村組の「西方辺境」の二つの集落が、自分たちだけで雨乞踊りを復活させようとしたのです。

龍燈院・滝宮神社
 滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)と天満宮を管理していたのは龍燈院

まんのう町民具館(旧仲南北小学校)の展示室には、山脇念仏踊の鉦がひとつ保存されています。
鉦の縁に「西七ケ村、山脇、香川景親」と彫り込まれています。この鉦の他にも、山脇にはこれと同じ鉦を保管する家が10軒ほどあると聞きます。この鉦からは次のような事が分かります。
①鉦の中側には「池下氏」と墨書があるが、年代がないのでいつのものかは分からない
②鉦の外側に紐をつける耳があり、経の糸を織としてそれに持ち手をつけてある。
③形や大きさは、坂本念仏踊のものと同じもの
なお、七箇念仏踊の「鉦打」は、60人。そのうち山脇が属する西七ケ村には21人が割り当てられています。

以上をまとめておきます
①大正時代に書かれた山脇念仏踊りの由来には、讃岐に流刑となった法然が、旱魃の年に山脇の丘の上に衆人を集めて、念仏踊りを踊らせたと書かれている
②それが山脇念仏踊の始まりで、これが後世に七箇村念仏踊りとして、滝宮へも奉納されるようになったとする。
③しかし、史料的には山脇は七箇念仏踊りの一員に過ぎず、中心的な役割を果たしていたわけではない。
④明治に七箇村組念仏踊が解体した中で、大正期の大旱魃の際に山脇が単独で念仏踊りを復活させたものが現在に継承されていると研究者は考えている。
どちらにしても、明治以後に踊られなくなり、忘れ去られようとしていた讃岐各地の雨乞い踊りが一時的に蘇るのが、大正の大旱魃期でした。県が市町村に、雨乞踊りや祈願の復活実施を指示したのが、そのきっかけです。その結果、多くの村々で雨乞い踊りが復活します。それは山脇や佐文でも同じでした。その際に、きちんとした資料や由来書を残したところが現在にまで継承されているように私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」
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佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


讃岐の雨乞念仏踊りを見ています。今回はまんのう町の大川念仏踊りを見ていくことにします。問題意識としては、この念仏踊りは滝宮念仏踊を簡素化したような感じがするのですが、滝宮への踊り込みはなかったようです。どうして滝宮から呼ばれなかったのかを中心に見ていこうと思います。

大川神社 1
大川権現(神社) 讃岐国名勝図会

 大川念仏踊りは、大川神社(権現)の氏子で組織されています。
大川神社の氏子は、造田村の内田と美合村の川東、中通の三地区にまたがっていました。
大川神社 念仏踊り
大川念仏踊り 大川神社前での奉納
大川念仏踊りは古くは毎年旧暦6月14日に奉納されていました。それ以外にも、日照が続くとすぐに雨乞の念仏踊を行っていたようで、多い年には年に3回も4回も踊った記録があります。そして不思議に踊るごとに御利生の雨が降ったと云います。現在では7月下旬に奉納されています。かつての奉納場所は、以下の通りでした。
①中通八幡神社で八庭
②西桜の龍工神社で八庭
③内田の天川神社で三十三庭
④中通八幡社へ帰って三十三庭
⑤それから中通村の庄屋堀川本家で休み、
⑥夜に大川神社へ登っておこもりをし、翌朝大川神社で二十三庭
⑦近くの山上の龍王祠で三十二庭
⑧下山して勝浦の落合神社で三十三庭
2日間でこれだけ奉納するのはハードワークです。

大川神社 神域図

現在の大川神社 本殿右奥に龍王堂
今は、次のようになっているようです。
①早朝に大川山頂上の大川神社で踊り、
②午後から中通八幡神社、西桜の龍王神社など四か所
もともとは大川神社やその傍の龍王祠に祈る雨乞踊です。その故にかつては晩のうちに大川山へ登り、雨乞の大焚火をして、そこで踊ったようです。

大川神社 龍王社
大川神社(まんのう町)の龍王堂

大川念仏踊は、滝宮系統の念仏踊ですが、滝宮牛頭天王社や天満宮に踊り込みをしていたことはありません。
 奉納していたのは大川権現(神社)です。大川山周辺は、丸亀平野から一望できる霊山で、古代から山岳寺院の中寺廃寺が建立されるなど山岳信仰の霊地でもあったところです。大川権現と呼ばれていたことからも分かるように、修験者(山伏)が社僧として管理する神仏混淆の宗教施設が大川山の頂上にはありました。そして霊山大川山は、修験者たちによって雨乞祈願の霊山とされ、里山の人々の信仰を集めるようになります。

大川神社 本殿東側面
大川神社 旧本殿
由来には、1628(寛永5)年以後の大早魅の時に、生駒藩主の高俊が雨乞のため、大川神社へ鉦鼓38箇(35の普通の鉦と、雌雄二つの親鉦と中踊の持つ鉦と、合せて38箇)を寄進し、念仏踊をはじめさせたとします。以来その日、旧6月14日・15日が奉納日と定めたとされます。

 それを裏付ける鉦が、川東の元庄屋の稲毛家に保管されています。
縦長の木製の箱に収められて、次のように墨書されています。
箱のさしこみの蓋の表に「念佛鐘鼓箱、阿野郡南、川東村」
その裏面に、「念佛鐘鼓拾三挺内、安政五年六月、阿野郡西川東村什物里正稲毛氏」
しかし、今は38箇の鐘は、全部があるわけではないようです。稲毛氏に保存されている鉦には、次のように刻まれています。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、但為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃

    この銘からは、次のようなことが分かります。
①寛永5年に尾池玄蕃が願主となって、雨乞いのため35ヶの鉦を大川権現に寄進したこと
②大川山は当時は権現で修験者(山伏)の管理する神仏混淆の宗教施設であったこと。
③当時の生駒藩の国奉行は、三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛の3人であった。
④願主は尾池玄蕃で、藩主による寄進ではない。
当時の生駒藩を巡る情勢を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 4月より旱魃が例年続きり,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
同年4月 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺宝物の目録作成
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
④大川権現に、雨乞い用の鼓鐘寄進を行ったのは、満濃池の着工の年でもあった。
⑤難局を乗り切った三奉行に対して、藩主生駒高俊の信任は厚かった。
⑥生駒藩の国奉行の3人の配下の尾池玄蕃が大川権現に、鉦35ヶを雨乞いのために寄進した。

この鐘鼓が寄進された時期というのは、生駒藩存続の危機に当たって、三奉行が就任し、藩政を担当する時期だっただったようです。大川権現に「鐘鼓数三十五」を寄進したのも、このような旱魃の中での祈雨を願ってのことだったのでしょう。ただ注意しておきたいのは、由来には鉦は生駒藩主からの寄進とされていますが、銘文を見る限りは、家臣の尾池玄蕃です。
 寄進された鉦の形も大きさも滝宮系統念仏踊のものと同じで、踊りの内容もほぼ同じです。ここからは大川念仏踊りは、古くからの大川神社の雨乞神とは別に、寛永5年に生駒藩の重臣達によって、新たにここに「移植」されたものと研究者は考えているようです。

大川念仏踊りの歌詞
 南無阿弥陀仏は、
「なむあみど―や」
「なっぼんど―や」
「な―む」
「な―むどんでんどん」
「なむあみどんでんどん」
「な―むで」
などという唱号を、それぞれ鉦を打ちながら十数回位ずつ繰り返しながら唱います。その間々に法螺員吹は、法螺員を吹き込む。こうして一庭を終わります。
その芸態は、滝宮系念仏踊と比べると、かなり簡略化されたものになっていると研究者は評します。滝宮系では中踊は大人の役で、子踊りが十人程参加しますが、それは母親に抱かれて幼児が盛装して、踊の場に参加するだけで実際には踊りません。ところが大川念仏踊は、子踊りがないかわりに、中踊りを子供が勤めます。

滝宮念仏踊と大川念仏踊りには、その由来に次のような相違点があります。
①滝宮念仏踊りは、その起源を菅原道真の雨乞祈祷成就に求める
②大川念仏踊は、生駒藩主高俊が鉦を寄進して、大川山(大川神社)に念仏踊を奉納したことに重点が置かれている
踊りそのものは滝宮系念仏踊であるのに、滝宮には踊り込まずに地元の天川神社や大川神社に奉納する形です。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか? 
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
 そういう目で見ると、大川権現は蔵王権現系で、滝宮牛頭天王の修験者とは流派を異にする集団でした。それが生駒藩の寄進を契機に滝宮系の念仏踊りを取り入れても、その踊り込みまでも許す必要はありません。こうして新規導入された大川念仏踊りは、滝宮牛頭天王社に招かれることはなかったのだと私は考えています。

以上をまとめておきます
①大川山は丸亀平野の霊山で、信仰を集める山であった。
②古代には中寺廃寺が国府主導で建立され、讃岐の山岳寺院の拠点として機能した。
③中世には大川権現と呼ばれるようになり、山岳修験の霊地とされ多くの修験者が集まった。
④近世初頭の生駒藩時代に大旱魃が讃岐を襲ったときに、尾池玄蕃は雨乞い用の鉦を大川権現に寄進した。
⑤これは具体的には、滝宮念仏踊りを大川権現に移植させようとする試みでもあった。
⑥こうして大川権現とその周辺の村々では、大川念仏踊りが組織され奉納されるようになった。
⑦しかし、大川権現と滝宮牛頭天王社とは、修験者の宗派がことなり、大川念仏踊りが滝宮に踊り込むことはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 讃岐雨乞踊調査報告書(1979年) 15P 雨乞い踊りの現状」

関連記事

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

 前回は 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」の「念仏踊り」について見ました。今回は「風流小歌踊系」を見ていくことにします。風流小歌踊系の雨乞い踊りは、初期の歌舞伎踊歌を思わせるような小歌が組歌として歌われ、その歌にあわせて踊ります。讃岐に残るものをリストアップすると次のようになります。
綾子踊  まんのう町佐文
弥与苗踊・八千歳踊        財田町入樋   
佐以佐以(さいさい)踊り     財田町石野   
和田雨乞い踊(雨花踊り)     豊浜町和田 
姫浜雨乞い踊 (屋形踊り)    豊浜町姫浜 
田野々雨乞い踊            大野原町田野々
豊後小原木踊              山本町大野 
讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞い踊り分布図
今でも踊られているのは綾子踊、弥与苗踊、さいさい踊、和田雨乞踊、田野々雨乞踊で、その他は踊られなくなっているようです。また小歌踊の分布は、東讃にはほとんどなく讃岐の西部に偏っています。念仏踊が滝宮を中心とする讃岐中央部に集中するのに対して、風流小歌踊は、さらに西の仲多度・三豊地区にかけて分布数が多いことを押さえておきます。この原因として考えられるのは、宗教圏のちがいです。東讃については、与田寺=水主神社の強い信仰圏が中世にはあったことを以前にお話ししました。この影響圏下にあった東讃には、「雨乞い踊り文化」は伝わらなかったのではないかと私は考えていま す。それでは、雨乞い風流踊りを見ていくことにします。綾子踊については、何度も触れていますので省略します。
佐以佐以(さいさい)踊は、財田町石野に伝承する雨乞踊で、次のように伝えられます。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

さいさい踊の起りについてはもう一つの伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

この伝説からは次のようなことがうかがえます。
①財田下に龍光寺という寺があり、龍王を祀っていたこと
②それが川上の戸川の鮎返しの滝付近に移され渓道(谷道)の龍王
と呼ばれるようになったこと
③三豊の詫間から塩商人が入ってきて、猪ノ鼻峠を越えて阿波に塩を運んでいたこと

また、さいさい踊りの歌詞の中には、第六番目に次のような谷道川水踊りというのが出てきます。
谷道の水もひんや 雨降ればにごるひんや 
うき世にすまさに ぬれござさま ござさま
(以下くつべ谷の水もひんや……とつづく)
また、さいさい踊りという歌もあって、次のように歌われます。

あのさいさいは淀川よ よどの水が出て来て 名を流す 水が出て来て名を流す……

雨乞踊の時に簑笠をかぶって踊れと云われていますが、雨を待ちわびて、雨がいつ降っても身も心も準備は出来ていますよと竜神さまに告げているのかも知れません。さいさい踊りが奉納されたのは、渓道(たにみち)神社で、戸川ダムのすぐ上流で、近くには鮎返りの滝があります。
渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道(たにみち)神社
また、佐文や麻は渓道(たにみち)神社の龍王神を勧進して、龍王祠を祀っていたことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りには、さいさい踊りと同じ歌もあるので、両者のつながりが見えて来ます。

財田町にはさいさい踊りの他に、弥与苗(やおなや)踊があります。
弥与苗踊は八千歳踊と共に入樋部落に伝承されています。この縁起には俵藤太秀郷の伝説がついていて、次のように語られています。

昔、俵藤太秀郷は竜神の申しつけで近江の国の比良山にすむ百足を退治しょうとした。その時に秀郷は竜神にむかってわが故郷の讃岐の国の財田は雨が少なくて百姓は早魃に苦しんでいます。もし私がこの百足を退治することが出来たならばどうぞ千魃からわが村を救い給えと祈ってから百足を退治した。竜神はそれ以後、財田には千害が無いようにしてくれた。秀郷は財田の谷道城に長らく居住したが、他村が旱魃続きでも財田だけは降雨に恵まれ、これを財田の私雨(わたくしあめ)とよんでいた。

このような縁起に加えて、今も財田の道の駅がある戸川には俵藤太の墓と伝えるものや、ある家には俵藤太が百足退治に使ったという弓が残っていると云います。弥与苗踊はもともとは、盆踊りとしても踊られていたようです。真中に太鼓をすえて、その周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されていったことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたと研究者は考えています。

豊浜和田雨乞い踊り
和田の雨乞い踊り(観音寺市豊浜町)
豊浜の和田雨乞踊と姫浜雨乞踊を見ておきましょう。
和田と姫浜とは、ともに豊浜町に属していて、田野々は大野原町五郷の山の中にあります。これらの雨乞踊は伝承系統が同じと武田明氏は考えます。和田の雨乞踊の歌詞は、慶長年間に薩摩法師が和田に来てその歌詞を教えたとされます。それを裏付けるように、歌詞は和田も田野々も、「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられます。和田から田野々へ伝わったようです。
和田の道溝集落の壬生が岡の墓地には、薩摩法師の墓があります。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町道溝)
その墓の建立世話人には和田浜、姫浜、和田、田野々の人々の名前が連なっています。法師の信者達だった人達が、供養のために建てたものでしょう。この墓の存在も、雨乞踊の歌が薩摩法師という廻国聖によってもたらされたものであることを裏付けます。しかし、「薩摩法師の伝来説」には、武田明氏は疑問を持っているようです。 
さつま(薩摩)小めろと一夜抱かれて、朝寝して、
おきていのやれ、ぼしゃぼしゃと  
さつま(薩摩)のおどりをひとおどり……
この歌詞には「さつま(薩摩)」が確かに出てきます。これを早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性があるというのです。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。和田、田野々などの歌は、琵琶法師によってもたらされたものとします。芸能運搬者としての琵琶法師ということになります。琵琶法師も広く捉えると遍歴の聖(修験者)になります。
 和田も田野々も、踊るときにはその前の夜が来ると笠揃えをして用意をととのえます。田野々では夜半すぎから部落の中央にそびえる高鈴木の竜王祠まで登ります。夜明けになると踊り始めて、何ケ所かで踊った後に法泉寺で踊り、最後は鎌倉神社で踊ることになっていたようです。

風流小唄系の踊りに詠われている歌詞の内容については、綾子踊りについて詳しく見ました。その中で、次のようにまとめておきました。
①塩飽舟、たまさか、花かご、くずの葉などのように、三豊の小唄系踊りと共通したものがあること
②歌詞は、雨を待ち望むような内容のものはほとんどないこと。
③多いのは恋の歌で、そこに港や船が登場し、まるで瀬戸内海をめぐる「港町ブルース」的な内容であること。
どうして雨乞い踊りの歌なのに、「港町ブルース」的なのでしょうか? それに武田明は次のように答えています。
もともとは雨乞のための歌ではなかったのである。
それが雨乞踊の歌となったのに過ぎないのであった。
私なりに意訳すると「雨乞い風流踊りと分類されてはいるが、もともとは庶民は祖先供養の盆踊唄として歌ってきた。それが雨乞成就のお礼踊りに転用された」ということになります。

最初に見たように雨乞風流小歌踊は、三豊以外にはないようです。
佐文の綾子踊だけが仲多度郡になりますが、佐文は三豊郡との郡境です。これをどう考えればいいのでしょうか。武田明氏は次のように答えます。

このような小歌を伝承し伝播していた者が三豊にいて、それが広く行なわれているうちに雨乞踊として転用されていったのではないかと想像される。そして前述の薩摩法師と伝えているものもそうした伝播者の一人でなかったかと思われる。

  芸能伝達者の琵琶法師によって伝えられた歌と踊りが、先祖供養の盆踊り歌として三豊一円に広がり。それが雨乞踊りに転用されたというのです。卓見だとおもいます。

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滝宮念仏踊りの各組の芸司たち
念仏踊りや綾子踊りでは芸司(ゲイジ・ゲンジ)・下司(ゲジ)が大きな役割を担います。
これについて武田明氏は次のように記します。

芸司は踊りの中でもっとも主役で、滝宮念仏踊では梅鉢の定紋入りの陣羽織を着て錦の袴を穿いた盛装で出て来る。芸司にはその踊り組の中でも最も練達した壮年の男子が務める。芸司は日月を画いた大団扇をひらめかしてゆう躍して、踊り場の中を踊る。それは如何にもわれ一人で踊っているかの様子である。他の踊り手が動きが少ないのに反してこれは異彩を放っている。土地によっては芸司は全体の踊りを指導するというが指導というが、自からが主演者であることを示しているようにも思える。或いは芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えているのではないかとも思われる。

 ここで私が注目するのは「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」という部分です。各念仏踊りの由来は、菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになったと伝えます。しかし、年表を見ればすぐ分かるように、念仏踊りが踊られるようになるのは中世になってからです。菅原道真の時代には念仏踊りはありません。菅原道真伝説は、後世に接ぎ木されたものです。また念仏踊りの起源を法然としますが、これも伝説だと研究者は考えています。45年前に「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」と指摘できる眼力の確かさを感じます。

以前に兵庫県三田市の駒宇佐八幡神社の百石踊の芸司(新発意役)について以前に、次のようにまとめておきました。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
百石踊の芸司 服装は黒染めの僧衣
①衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰までからげ上げる。
②月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。
③踊りが始まる直前に口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊る。
百石踊りの新発意役(芸司)は、実在する人物がいたとされます。それは文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都です。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したことは以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。研究者は注目するのは、次の芸司の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、以下のものを好んで使用したとされます。
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
彼らは人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。民俗芸能にみられる芸司は、本願となって祈祷を行った修験者や聖の姿と研究者は考えています。
 しかし、時代の推移とともに芸司の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る所は少なくなったようです。芸司の服装についても変化しているようです。滝宮念仏踊りで出会った地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

以上からは芸司の服装には次のような変化があったことがうかがえます。
①古いタイプの百石踊の「芸司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で、庄屋の格式衣装
③現在の滝宮念仏踊りの芸司は、陣羽織
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、今は金ぴかの陣羽織に変化してきています。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっているようです。

P1250412
滝宮念仏踊りの芸司の陣羽織姿
滝宮念仏踊の中で子供が参加するのを子踊りとよんでいます。
いつ踊りだすのかとみていると、最後まで踊ることなく腰掛けています。どうして踊らないのでしょうか? 武田明氏は次のように記します。
子踊りは菩薩を象徴すると言って、入庭(いりは)の際には芸司の後に立つ。すなわち社前の正面で芸司についで重要な位置である。しかし、いよいよ踊りが始まると、社殿に向って右側の床几に腰を下して踊りのすむまでは動かない。その子供達は紋付き袴の盛装でまだ幼児であるために近親のものがつきそっている。子踊りの名称はありながら踊らない。その上、滝宮念仏踊では子踊りの子供は大人によって肩車をされて入庭するのが古くからの慣習であった。これはおそらくはその子供を神聖なものとして考えて踊りの庭に入るまでは土を踏ませないことにしていたのである。古い信仰の残片がここに伝承されていることを私達は知ることが出来る。滝宮を中心とする地方で肩車のことを方言でナッパイドウと言うが、この行事が早くからこの地方にはあったことを示している。

ただ南鴨念仏踊だけで子踊りが芸司の指図に従って踊っていて、それが特色であるように言われているが、私はかって南鴨念仏踊の保持者であり復興者であった故山地国道氏に聞いたことがある。どうして南鴨だけが子踊りが踊るのですかと言うと、山地氏はいやあれは人数が少ないとさびしいので、ああ言う風にしましたと私に語るのであった。その言葉を信じるとどうも復興した折に、ああ言う風に構成したように思われる。
 善通寺市の吉原念仏踊というのは南鴨の念仏踊の復活以前の型をそのまま移したというが、ここの子踊りは子供は踊らず、ただ団扇で足元だけをナムアミドウの掛声に合せて軽く打つ程度の所作しかしなかった。すなわち踊ることなどはしないという。それを以て見ても南鴨念仏踊の子踊りの所作が古型そのままであると考えることは出来ないのである。

子踊りに所作がなく、踊りの庭に滝宮の例のように肩車をして入って来る。また滝宮ではこれを菩薩の化身と見るということは子踊りの子供自体を考える上において極めて貴重な資料である。おそらく子踊りは神霊の依座と考えていたのである。すなわち子踊りの子供に踊りの最中に神霊の依るのを見て、雨があるかどうかを見ていたのである。子踊りは念仏踊りにおいて古くはそのように重要な意味を持つていたのである。

武田明氏は民俗学者らしく小踊りが踊らない理由を「神霊の依座」として神聖視されていたからとします。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
しかし、七箇村念仏踊りを描いた諏訪大明神念仏踊図(まんのう町諏訪神社)を見ると8人の子踊りは、芸司と共に踊っているように見えます。また、七箇念仏踊りを継承したと思われる佐文の綾子踊りでは、主役は子踊りです。武田氏の説には検討の余地がありそうです。

綾子踊り4
佐文綾子踊りの子踊り

坂出の北条念仏踊には大打物と称する抜刀隊がいます。
その人数は当初は24人で、後には40人に増やされたといいます。どうしてこんな大人数が必要だったのでしょうか。
これについては武田明氏は、次のような「伝説」を紹介しています。

正保年間の念仏踊りの折に七箇村念仏踊は滝官へ奉納のために出掛けて行った。ところが洪水のために滝宮川を渡ることが出来ないでいた。昼時分までも水が引かないので待っていたが、 一方北条念仏踊はその年は七箇組の次番であったのだが待ち切れずに北条組はさきに入庭しようとした。すると、これを見た七箇組の朝倉権之守は急いで河を渡り北条組のさきに入場しようとした事を抗議して子踊り二人を斬るという事件が起った。それから後、警固のために抜刀隊が生れた。

 この話をそのまま信じることはできませんが、武田明氏が注目するのは抜刀隊(大打ち物)の服装と踊りです。頭をしゃぐまにして鉢巻をしめ袴を着て、白足袋で草鞋を履いています。右手には団扇を持ち、左手には太刀を持ちます。そして踊り方は、派手で目立ちます。ここからは抜刀隊(大打ち物)は事件後に新たに警固のために生まれたものではなく、何か「別の芸能」が付加されたものか、もとは滝宮念仏踊とは異なる踊りがあったと武田明は指摘します。
 北条念仏踊には他の念仏踊に見ないもう一つの異なる踊りがあるようです。
それはあとおどり(屁かざみ)と言って、芸司のあとにつづいてゆく者が、おどけた所作をして踊るものです。こうして見ると北条念仏踊は、滝宮念仏踊の一つですが、多少系統を異にすると武田明は指摘します。
 綾子踊り入庭 法螺・小踊り
佐文綾子踊り 山伏姿の法螺貝吹き
法螺貝吹きについては、武田明は次のように記します。
入庭の時には先頭に立って法螺貝を吹きながら行くのである。また、念仏踊りによっては踊りはじめの時に吹くところもある。鉦、筒、鼓ち太鼓などと違って少し場違いな感じがしするものである。法螺貝吹きは念仏踊が修験の影響をうけていることを音持しているのかも知れない。(中略)
 また、念仏踊りでも悪魔降伏のために薙刀を使ってから踊りはじめるのだが、綾子踊では薙刀使いが棒使いが踊りの庭の中央て問答を言い交わす。これはやはり山伏修験がこの踊りに参加していたことを物語るものであろうか。
綾子踊り 棒と薙刀
    薙刀と棒振りの問答と演舞(綾子踊り)
このように滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りと山伏修験との関わりについて、45年前に暗示しています。
これについては、宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」が参考になります。
はなとりおどり・正木の花とり踊り
            はなとり踊り
「はなとり踊り」にも、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に修験者がやっていました。
 はなとり踊りの休憩中には希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。ここからは、はなとり踊が修験者による宗教行事であることが分かります。行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは修験者たちだったことが分かります。里人の不安や願いに応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは修験者たちだったのです。それを民俗学者たちは「芸能伝播者」と呼んでいるようです。

滝宮念仏踊には願成就(ガンジョナリ)という役柄があります。
南鴨念仏踊などでは、この役柄の人が「ガンジョナリヤ」と大声で呼ばわってから踊りが始まります。「雨乞い祈願で、雨が振ってきた。諸願成就したぞ」と大声で叫んでいるようです。そうだとすれば、念仏踊りは雨が降ったための御礼の踊りであったことを示していることになります。
「私雨(わたくしあめ)」ということばが、財田の谷道神社や佐文の綾子踊りの由来には出てきます。 
どんな意味合いで使われているのでしょうか。武田明氏は次のように記します。
旱魃の時に雨が降らなければ村の田畑は枯死する。そこで雨乞い祈願には、その村落共同体のすべての者が力を結集してあたった。雨が降ればその村のみに降ったものとして財田や佐文では「私雨(わたくしあめ)」と呼んだ。この言葉の中には、自分の村だけに降ったという誇りがかくされている。夏の夕立は局地的なもので、これも「私雨(わたくしあめ)」とも呼んでいた。

雨乞い踊りの組織と規模について武田明は、次のように記します。

村に人口がふえてくるにつれて起りはささやかな雨乞踊だったものが次第に大きい規模になっていったことも容易に想像出来る。大きくなっても重要な役割の者はふやすことは難しい。それは芸司(げんじ)のように世襲になっているものもあるし、法螺貝吹きなどのように山伏などの手によらねばならぬものもあった。しかし、外まわりに円陣を作って鉦を鳴らすとか、警固の役の人数はそれ相当に増やすことは出来た。そうすると、分家によって家が増えたり、新しく村入りして来た者があったとしても誰もが参加することが出来た。こうして、もとは少人数であったものが次第に大がかりなものになって来たことが想像される。

 雨乞念仏踊は共同祈願であったためにその村落の結束は非常に強固であった。殊に滝宮へ出向いてゆく踊り組は他の村の踊り組に対して古くは非常な関心を持っていた。そこで争わないように踊りの順番までがはっきりと定められていた。それを破ったというので七箇村組が北条組との間に争いを起したのであった。しかしこのような事件はこれほど大きい事件にならなくても、これに類似した事件は再三起っていたことが記録の上では明らかである。これはどういう事であろうか。やはり踊り組の結束というか、要するに村落共同体の一つの重要な仕事であるだけに他村に対して排他的とは言わないまでも異常な関心を持っていたからであろう。

滝宮への踊り込みを行っていた念仏踊りの各組については、その後の研究で次のようなことが分かっています。
①念仏踊りは、中世に遡るものでもともとは各郷の惣村神社の夏祭りに奉納された先祖供養の盆踊りであった。
②その構成メンバーは宮座制で、惣村を構成する各村毎に役割と人数が配分されていた。
③滝宮への踊り込みの前には、各村々の村社を約1ヶ月かけて巡回して、最後に惣社に奉納された後に滝宮へ踊り込んだ。
④各組は郷を代表するものとしてプライドが高く、争いがつきもので、その度に新たなルールが作られた。
⑤「惣村制+宮座制」で、これをおどることが各村々での存在意味を高まることにつながった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

    以前から探していた冊子を手にすることが出来ました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

今から約45年前に刊行された「讃岐の雨乞い踊」調査報告書です。この巻頭の「雨乞踊りの分布とその特色」は武田明氏によるものです。当時の武田氏が、県下の雨乞い踊りについてどのように考えていたのかがうかがえます。今回はその中から念仏踊りについて見ていくことにします。テキストは「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
最初に武田明氏は、雨乞踊を次の二つに分けます。

① 念仏踊 
南無阿弥陀仏の称号を唱えながら踊るもので、それが訛ってナッパイドウ、ナモデ、ナムアミドウヤなどと唱和しながら踊っているもの

②風流小歌踊 
小歌と思われる歌詞を歌いながらそれにあわせて踊る

そして讃岐に残る念仏踊として、以下を挙げます。
北村組  滝宮北、滝宮萱原、羽床上 羽床 西分 山田 千疋 
七箇組  神野、古野、七箇 十郷 象郷
坂本組  坂本 川西  法勲寺  川津  飯野
北条組    松山 加茂  林田  西庄 金山 坂出
南鴨組  南鴨
吉原組  吉原
美合組  美合
これを地図に落としたものが次の分布図になります。

讃岐雨乞い踊り分布図

ここからは次のようなことが分かります。
①綾歌・仲多度の中讃地方に伝承されている踊りが多いこと
②西部の三豊郡や東部の大川郡や高松地方には念仏踊りは伝承されていないこと。
③特に綾歌郡の綾南町滝宮を中心としたエリアが分布密度が高い。
北村組、七箇村組、坂本組、北条組もかつては滝宮神社と滝宮天満宮に奉納され、「滝宮念仏踊」と総称されていました。しかし、この滝宮念仏踊の組は、現在では踊られなくなった組があったり、滝宮への奉納をしなくなった組もあります。現在、滝宮への奉納を行っているのは、次の通りです。
1組 西分 牛川 羽床上(綾歌郡旧綾上町)
2組 山田上 山田下  (綾歌郡旧綾上町)
3組 羽床下 小野 北村(綾歌郡旧綾南町)
4組 千疋  萱原 北村(綾歌郡旧綾南町)(北村組は二回奉納)
滝宮念仏踊り 御神酒
    滝宮天満宮に奉納された12組の御神酒(西分奴組を含む)

もともとはまんのう町の七箇村組や、坂出の北条組などからも奉納されていましたが、幕末から明治頃には途絶えたようです。また、高松藩以前の生駒藩時代には、多度津の南鴨組や吉原組も滝宮に奉納していたことは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 この分布図を見て武田明氏は「滝宮を中心とした地方に念仏踊の分布が著しいのはどう言う理由からであろうか。」と問いかけます。
その答えとして用意されているのが次の2点です。
①滝宮神社に対する雨乞いの信仰が強力であったこと
②菅原道真の城山の神に祈雨したという伝説にもとづくもの
①については、龍神を祀る山や渕が、一字の祠堂になった例を挙げます。そしてその中にはおかみ〈澪神)を祭礼とするものが多く、非常に古い信仰の姿をとどめていることを指摘します。万葉集巻二の中の出てくる「おかみ」です。
わが里のおかみに言ひて降らしめし
雪のくだけしそこに散りけむ
そして次のように述べます。

このような祈雨の神としての信仰の中心地が讃岐にはいくつかあった。その中でも綾川流域の滝宮の信仰は、もっとも強大であったのである。もともとこの地には北山龍灯院綾川寺という寺があった。そしてこの寺は綾川の深渕に沿うて建っていたのである。この測は古くは蛇渕と言い、龍神が接んでいると信じられていた。また傍に一本の大木があって、龍神がその木に来って龍灯を点ずると言われていた。すなわち非常に強力な龍神信仰を伴なっていたわけである。

滝宮神社・龍燈院
  滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
そして龍灯院綾川寺に伝わる次のような伝説を紹介します。
綾川寺の僧空澄は道真公の帰依僧であった。
菅公が太宰の権師として筑前に向い流されて行く途中で船は風波の難にあって、現在の下笠居の牛鼻浦に寄港した。それを聞くと、空澄は取るものもとりあえず牛鼻浦に行き、遠くへ流されて行く菅公に逢った。菅公は空澄に衣を脱いで与へまた自画像と書写された心経とを与えた。やがて、菅公は筑紫に下向したが、筑紫で死去するや空澄はこれらの遺品を祀って滝宮天満宮を建立したという。綾川寺の傍には、占くからの滝宮神社があるので、滝宮神社と天満宮の三社は何れも南面して並んでいる。
そして、滝宮念仏踊をまず奉納するのは滝宮神社であり、 ついで天満宮に奉納するのである。すなわち滝宮を中心とした念仏踊群がよく発達しているのは龍神の信仰と菅公祈雨の伝説かひろく並び行われた為であると考えられる。

  以上を「意訳要約」しておきます。
①綾川屈折地の羽床のしらが渕から滝宮にかけては、古代からの霊地で信仰の中心地であった。
②そこに中世になって龍灯院綾川寺が建立され、滝宮神社の別当寺となって神仏混淆が進んだ
③龍灯院綾川寺は菅原道真伝説を接ぎ木して、滝宮天満宮の別当職も務めた。
④こうして龍燈院による滝宮神社と天満宮の管理・運営体制が中世に形作られた
ここで押さえておきたいのは、滝宮神社がかつては「滝宮牛頭天王社」と呼ばれていたことです。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院滝宮寺と滝宮(牛頭)神社(讃岐国名勝図会 拡大)

牛頭天王信仰は、京都の八坂神社や姫路の神社がよく知られています。

そこでは修験者たちが各国を廻国して、自分たちの信仰テリトリーで「蘇民将来のお札」や「豊作祈願」「牛馬の安全」などのお札を配布していたことは以前にお話ししました。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
   牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札
中世の龍燈寺と滝宮牛頭天王社の修験者や聖達も、同じように周囲の信仰エリアの信者達にお札を配布する一方で、日常的な接触を持つようになったことが考えられます。中世は西方浄土での極楽浄土を願う念仏が大流行した時代です。その中で、最初に最も多くの信者達を獲得したのは時衆の踊り念仏でした。その結果、いろいろな宗派がこれを真似るようになり、一次は高野山でも時衆の念仏聖が一山を乗っ取るほどの勢いを見せたことは以前にお話ししました。讃岐でもこのような動きが広がります。その拠点の一つとなったのが龍燈院滝宮寺であったのではないかと私は考えています。高野山の真言宗のお寺がどうして「南無阿弥陀仏」を唱えるのかと、最初は私も疑問に思いました。しかし、先ほど見たように高野山自体が時衆の念仏聖達に占領されていた時代です。また近世の四国辺路の遍路達も般若心経ではなく「南無阿弥陀仏」を唱えていたことも分かってきています。龍燈寺の修験者や聖達も教線拡大のために踊り念仏を広めたのではないでしょうか。修験者や聖達は、宗教だけでなく「芸能媒介者」でもあったことは以前にお話ししました。こうして滝宮牛頭天王社の信仰圏には、踊り念仏が定着していきます。そして夏の大祭には、信者達が大挙して踊り組を送り込んでくるようになります。それが先ほど見た坂本組や七箇組・北条組などの踊組になるのです。

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 ここで注意しておきたいのは、もともとはこれらの踊りは「雨乞い踊り」ではなかったことです。
奈良などの風流踊りの由来には「雨乞成就」のための踊りと記されています。坂本組の由緒書きにも「菅原道真公による雨乞祈願成就へのお礼踊り」のためと記されています。さらに七箇踊りでは「大旱魃で忙しいので念仏踊りは今年は中止する」という年もありました。近世には念仏踊りを踊っている人達には、これが雨乞いのために踊っているという意識はなかったことがうかがえます。
 近世の人々は「竜神に雨乞いを祈願できるのは、修行を積んだ験の高い高僧や修験者」と考えていたようです。何の験もない自分たちが踊って、雨を振らせることなどお恐れ多いことと考えていたはずです。自分たちの力で雨を振らせようとするようになるのは近代以後のことです。農民達は念仏踊りを、祖先供養のために踊っていたと私は考えています。
多度郡 明治22年
南鴨組のメンバーの村々

武田明氏は多度津の南鴨念仏踊についてついて次のように記します。
この組もかっては滝宮へ踊りを奉納していたと言い、今では滝宮念仏踊群の中には人っていないがやはり菅公祈雨の伝説を持っている。すなわち仁和四年(888)の大千魃の折に菅公は城山の神に雨を祈るとともに北鴨道隆寺の理源大師を頼み牛頭天王社に祈祷を命じられたという。すると滞然として雨が降り百姓は菅公の前に集って狂喜乱舞した。これが南鴨念仏踊の起りであると言う。やがて道真公は鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請したが、理源大師を先達として多数の山伏がこの勧誘の行列には加わったという。そしてその折にも踊りの奉納があったと請うが、このような伝承はやはり念仏踊の中には修験の影響があったことを意味している。現に南鴨念仏踊においてはまず貝吹きが法螺の員を山伏の行装で吹くし、また滝宮念仏踊においても員吹きは重要な役割を背負っていることからも明らかである。なお、南鴨念仏踊は現在は南鴨の加茂神社の境内で行なっているが、加茂神社は別雷神を祭神とし、別雷神は降雨をもたらす神として信仰されていたからである。

以上を要約すると
①菅原道真は城山での雨乞い祈祷の際に、多度津道隆寺の理源大師に牛頭天王社への祈祷を命じた
②雨乞い祈願が成就して、狂喜乱舞し踊ったのが南鴨念仏踊りの起源である。
③菅原道真はそのお礼に、鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請した。
④その際には理源大師を先達として多数の山伏が、この勧誘の行列には加わった
⑤以上から念仏踊りには、念仏系修験者や聖達が大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
 
 多度津の南鴨念仏踊が滝宮への踊り込みを行っていたことは史料からも確認できます。それが近世初頭には、中止されます。それはどうしてなのでしょうか?
 生駒藩では龍燈院への保護政策として、各地からの踊り込みを奨励するような動きがあったことは以前にお話ししました。
ところが生駒藩転封以後に讃岐は東西に分割されます。高松藩の初代藩主としてやって来た松平頼重は独自の宗教政策を持っていました。彼は、龍燈寺保護と賑わい創出のために、念仏踊りの踊り込みを許可します。しかし、丸亀藩領となった多度津の南鴨からの踊り込みは、他国領土であるという理由で許さなかったようです。それ以外の4つの組からは「雨乞成就のお礼踊り」という
「大義名分」付で許可されたのです。

善通寺の吉原組の念仏踊について、武田明は次のように記します。

ここにもまた管公城山の神に雨を祈った伝説を付加していて、ここではその干魃の折に吉原の村人が火上山の中腹にある龍王の祠に鉦や太鼓を持ち出して踊ったのがその起りであるという。しかし、ここでは古老の伝えるところによると、古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まったものだと言っている。永らく廃絶していたが今では復興されて現在に至っている。

南鴨組滝宮念仏道具割
 南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
南鴨の念仏組の史料には、構成メンバーの村々の名前と役割分担が記してあります。この中に吉原組もあります。ここからは吉原組も、南鴨組の一員であったことが分かります。先ほど見たように、南鴨や吉原村が丸亀藩に属することになって、滝宮への踊り込みが出来なくなります。そのため南鴨組を構成する村々では、村単独で踊りを残そうとしていたことがうかがえます。そういう意味では「古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まった」という認識は誤っていません。

まんのう町美合中通の念仏踊(大川念仏踊り)は、どの念仏踊よりも素朴だと武田明氏は評します。
香川県琴南町(現まんのう町) 大川念仏踊り 東雲写真館

 この踊りは大川山の頂上で踊り祈雨を祈願してから山を下って中通の八幡宮で踊り、最後には土器川上流の龍神渕の傍で踊って踊り納めることになっている。この踊りも一時は滝宮まで行っていたというがそれは詳かでない。
武田明氏が注目するのは、多度津町高見島のナモデ踊りです。

高見島なもで踊り
多度津町高見島のナモデ踊り

踊り自体が今まで紹介した念仏踊とは、異なっているというのです。
踊りの唱和の中に
ナモデ(テンテレツクテン)ナモデ‥‥
などという言葉があるので、一応は念仏踊の中に入れられているようです。もともと、この踊りは旧盆(旧7月13、14日)に行われていたものです。高見島には浦と浜との二つの集落があって、その集落の中間にある海浜まで来て二つの集落の者が踊っていたようです。まず踊りのはじめに
鹿島の神のかなめ石
と歌い、それからは中央の者が太鼓を打って踊り円陣を作った周囲の者がナモデナモデと囃し立てます。ここで武田明氏が注目するのはせんだんの本の枝を持った者が先頭に立って参加することです。せんだんの木は、盆に訪れて来る精霊のための依代なのかもしれないと武田氏は、次のように推測します。

遠い常陸の国の鹿島の信仰に見える鹿島送りの行事、或いはその年の作物の豊凶や一年間のうらないを告げていた鹿島の言ぶれなどが背景にあってこのような歌詞が海を越えて伝わり、やがてはそれが念仏踊と習合したと云うのです。何れにしても、高見島のナモデ踊りは讃岐の各地に見る念仏踊とは異種のものだ。

 最後に武田明氏は次のような文で閉めます。
ナモデ踊り以外の念仏踊はそのほとんどが法然上人との間に何らかのつながりがあったことを伝えている。滝宮念仏踊では建久四年に法然上人が讃岐に配流された時に念仏修行を里人に説きこの踊りを振りつけしたと伝えている。はたしてそういう事があったかどうかは考察しなければならないが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら踊る念仏踊が法然上人の念仏修行に結びついてこうした伝説となったものであろう。

これに対して、讃岐叢書民俗編の筆者は、讃岐の念仏踊りの起源は法然上人ではない。それは時衆の一遍の踊り念仏をルーツとするものだという立場に立っています。私も後者を支持します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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 前回は戦後の満濃池土地改良区が財政危機から抜け出して行く筋道を押さえました。今回は土器川右岸(綾歌側)の土地改良区がどのように、用水確保を図ったのかを見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

土器川と象頭山1916年香川県写真師組合
土器川と象頭山(1916年 まんのう町長尾)

土器川は流路延長42㎞で、香川県唯一の一級河川ですが、河川勾配が急なため降雨は洪水となって瞬時に海に流れ出てしまいます。そして扇状地地形で水はけもいいので、まんのう町の祓川橋よりも下流では、まるで枯川のようです。
飯野山と土器川
土器川と飯野山(大正時代)
しかし、これはその上流の「札ノ辻井堰(まんのう町長尾)」から丸亀市岡田の打越池に、大量の用水を取水しているためでもあります。近世になって開かれた綾歌郡の岡田地域は、まんのう町炭所の山の中に亀越池を築造し、その水を土器川に落とし、札ノ辻井堰から岡田に導水するという「離れ業的土木工事」を成功させます。これは土器川の水利権を右岸側(綾歌側)が持っていたからこそできたことです。左岸の満濃池側は、土器川には水利権を持っていなかったことは以前にお話ししたとおりです。

土器川右岸の水利計画2
「亀越池→土器川→札の辻井堰→打ち越池」 
土器川は綾歌の用水路の一部だった 
 第3次嵩上げ事業の際に満濃池側は、貯水量確保のために綾歌側に土器川からの導水を認めさせる必要に迫られます。そのための代替え条件として綾川側に提示されたの、戦前の長炭の土器川ダム(塩野貯水池)の築造でした。それが戦後は水没農家の立ち退き問題で頓挫すると、備中地池と仁池の2つの新しい池の築造などの代替え案を提示します。こうして綾歌側は、土器川の天川からの満濃池への導水に合意するのです。今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして右岸(綾歌側)のために策定されたのが「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」 (1953年)です。この計画によると

満濃池右岸水系
①「札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新築
②あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池、仁池につながっている幹線水路を整備
③さらには飯野地区までの灌漑のために飯野幹線水路を整備
 しかし、大川頭首工の新設と幹線水路の改修だけでは綾歌地区2200㌶の灌漑は、賄いきれません。必要な用水量確保のために、考えられたのが次の二つです
④亀越池のかさ上げ
⑤備中地池と仁池の2つの新しい池の築造
備中地池竣工記念碑
備中地池竣工記念碑 1962(昭和37)年

この右岸地区の用水計画を行うために作られたのが、「亀越池土地改良区 + 飯野土地改良区 + 羽間土地改良区」など8つの土地改良区の連合体で構成された香川県右岸土地改良区連合(以下連合)のようです。
 土器川右岸用水改良事業は、次のように順調に進んでいきます。
1954(昭和29)年度 打越池幹線水路改修、
1956(昭和31)年度 仁池幹線水路改修
1957(昭和32)年度 小津森池幹線水路改修
1959(昭和34)年度 大川頭首工建設
1962(昭和37)年度 備中地池新設
1963(昭和38年)度 飯野幹線水路改修
一方、亀越池の嵩上げ工事は、用地買収が難航して着工できない状況が続きます。そんな中で昭和38年度末に連合の事業は全面ストップしていまいます。
亀越池
亀越池
  順調に進んでいた工事がどうしてストップしたのでしょうか?
土器川右岸用水改良事業の資金は、国・県が75%、地元25%の負担率でした。地元負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれることになります。定款によれば、賦課金のうち備中地池や大川頭首工など水源地事業は、全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し、水路事業は事業費20%を全土地改良区で負担、残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールになっています。そのため幹線水路の改修工事の場合、当幹線水路の土地改良区が賦課金を負担できないと、工事は進められなくなります。
 そうした中で、1955(昭和30)年に飯野村が丸亀市に合併されると、飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るようになります。さらに1960(昭和35)年には羽間土地改良区が連合を脱退することを決め、以降賦課金を納入しなくなります。こうして連合全体の財政が悪化し、ついに事業そのものを続けることが出来なくなります。
 そうした中で農林漁業金融公庫に対する償還金が支払えずに未払い分がふくれ上がっていきます。
対応策として連合は1965(昭和40)年12月、降賦課金を納入しない飯野、羽間の両土地改良区連合と丸亀市に対し訴訟を起こします。これに対して、高松地方裁判所は裁判による決着をさけ、県当局に調整を依頼します。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納、羽間土地改良区の賦課金未納は法律違反です。しかし、羽間土地改良区側には次のような言い分もありました。
①大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇したこと
②羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること
 また、丸亀市も次のように主張します。

「これまで飯野村が助成してきた飯野土地改良区の賦課金は、合併以降は丸亀市が代わって助成する約束になっていると、飯野村はいうけれど、市当局の認識はそのような合意は明文上成立していない。それに事業受益地の末端にある飯野地区では、亀越池のかさ上げが実現していない現状では、幹線水路を改修しても、事業の用水増強効果はほとんど期待できない。」

さまざまな事情を考慮した結果、裁判所は和解による解決の途を奨めます。
和解は1973(昭和48)年8月になってようやく成立します。この間、連合は両土地改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方で、1966(昭和41)年3月には、総会において事業の打切りを決定します。そして亀越池かさ上げに代わる水源に、香川用水を宛てることにします。土地買収が必要な亀越池かさ上げでは1立方メートル当たりの水価 220円に対し香川用水では60円ですむ計算が出されています。香川用水の方が1/3以下も安いのです。こうして香川用水に頼って、自前による用水確保(亀越池嵩上げ)を放棄することになります。これは賢明な決定だったようです。この年には、香川用水建設規成会が設立されます。翌年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も間近という背景がありました。
   前回もお話ししたように土地改良区の財政悪化問題は、綾歌や満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①戦前に策定された満濃池第3次嵩上げ事業は、戦時下の食糧生産増強という国策を受けて、土器川両岸の改良計画であった。
②しかし、戦後の計画では目玉となる「土器川ダム」が頓挫し、土器川から満濃池への導水については、右岸(綾歌)側の強い反発を受けるようになった。
③そこで県は新たな貯水量確保手段として「備中地池・仁池の新築 + 亀越池嵩上げ」を提案し、綾歌側の合意を取り付けた。
④こうして土器川右岸(綾歌側)は、独自の計画案で整備計画が進められるようになった。
⑤しかし、一部の土地改良区からの賦課金未納入や脱退が起こり、整備計画は途中中止に追い込まれた。
⑥この背景には、計画中の香川用水を利用する方が経済的に有利だという計算もあった。
⑦こうして綾歌地区は亀越池の嵩上げ工事に着手することなく、香川用水の切り替えを行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」

戦前の1939(昭和14)年に始まった満濃池第3次嵩上げ事業が完成したのは、1959(昭和34)年3月のことでした。天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。しかし、これを歓んでばかりはいられない状況に、満濃池土地改良区にはありました。それは忍び寄る財政破綻の危惧です。今回は戦後の満濃池土地改良区の財政問題について見ていくことにします。テキストは「満濃池史220P 財政不振とその再建」です。
1893(明治26)年 満濃池普通水利組合を設立
1951(昭和26)年 土地改良法公布・施行により、水利組合から衣替えして、満濃池土地改良区が発足。
 戦後になって土地改良区に組織は変わりますが、その運営には次のような問題があったと満濃池史は指摘します。

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①農地改革で生まれた自作農が無責任な言動を繰り返したこと。例えば水を貰う権利は主張するが、水利費の負担には応じようとしない。「水利費は従来どおり元の地主が払ったらよい」と言い放つ声がまかり通った。
②満濃池嵩上げ事業の負担についても「この工事は昔の地主が相談して始めたものだから新しい所有者や耕作者には責任はない。しかもまだ嵩上げ工事は終わらず貯水が増えた訳でもないのに、負担金を取るとは何事だ」
こうした意見が総会などで主流を占め、満濃池土地改良区の財政の悪化を招く要因のひとつになったと指摘します。
  それでは県は満濃池土地改良区の財政問題をどのように見ていたのでしょうか?
  1963(昭和38)年2月26日に、財政再建のために香川県知事が農林漁業金融公庫総裁宛に提出した「満濃池土地改良区財政再建についての県の意見」を見ていくことにします。
農林漁業金融公庫総裁 清井 正殿
香川県知事 金子 正則
「満濃池土地改良区の賦課金の増徴が困難である理由」の説明
1 満濃池が置かれている特殊な事情
  (1) 改良区内部の利害は必ずしも一致しない。
満濃池改良区は、形式的には単一の土地改良区であるが、内部構成を見た場合そう簡単ではない。たとえば他府県で見られるように、大河川に設けられた一つの頭首上によって取水された用水が、幹線→支線→分水路を通じて灌漑されるというような単純な用水系統ではない。即ち満濃池改良区の場合、その実態は多数の土地改良区の連合といっても差し支えない。そして現実には内部組合ごとに必ずしも利害が一致せず、勢い最小公約的な運営を行うほかない状況である。したがって、改良区運営の難易は、改良区の規模の大小にそのまま比例することとなり、この点からも満濃池改良区の運営の困難性が示されている。   
満濃池土地改良区の実態は「多数の土地改良区の連合」で「運営の困難性」が指摘され、「改良区内部の利害は必ずしも一致しない。」とされテーマがうたれています。それを以下のように細かく説明しています。
  (2) 多数の内部組合が存在し、その利害が一致しない。
満濃池土地改良区の地区内には、105団体(うち土地改良区30、その他の申合水利団体75)があること。これらの団体は、それぞれ時前の用水源をもち、複雑な水利慣行の下に活動していこと。そのため例えば、第3次嵩上げ事業に対しても、上流地域と下流地域では次のような対立点があった。
上流地域の主張
立地的にも、用水慣行上も現在の貯水量で十分であるから、増築の必要はない。
下流地域が、増築を要望するのであれば同意はするが、負担金は負担しない。
増築工事は、危険である。その危険負担は当然下流地域で考えるべきである。
下流地域の主張
上流地域は下流地域の犠牲において用水を賄っていたものであり、用水は不足している。
上流地域は過去数百年来下流地域の犠牲の上に、用水を使用してきたものであり、むしろ上流地域こそ負担すべきである。
・むしろ防災となる。
こうした利害の対立は、すべてについていえることで、全地区を通じて納得を得るような賦課基準を決めることはできなかった。そこで上流地域に対しては、今日まで受けた利益の代償として、下流地域に対しては、将来における配水量の確保、配水施設(特に用水路)の完備、用水管理の適正を条件として、なんとか均一賦課に踏みきった。この変更を提案すれば、収拾困難となる。
(4)嵩上げ工事計画における計画受益面積と、実際負担面積に食い違いについて。
満濃池嵩上げ工事は、戦前の1940(昭和15)年に着手して、約20年の歳月を経て、1959(昭和34)年に完成します。当初計画では、その受益面積4600㌶(従来3300㌶)で、新規加入面積(1300㌶ール)と想定していました。ところが思っていた以上に、新規加入地区が増えません。その背景には
①大戦による中断などがあり工事が長期化したこと
②用水路の不備を理由に加入をためらつていた区域も、戦後の嵩上げ工事完了後は用水が潤沢になり(上流側の余水の流入、地下水の増加など)、加入の必要がなくなった
③農地改革の結果、新たに水利費の負担を担うことになった自作農に、水利費支払いの概念がなかった。
④満濃池土地改良区の賦課金が、農民達にとっては割高で、その上今後どのように増額されるかわからない。
 この結果、新規加入したのは300㌶だけと結果に終わります。新規加入地区の負担金収入の伸び悩みは、財政収入の悪化をもたらします。
当時の土地改良区は、組合員から徴収する賦課金で運営されていました。しかし、賦課金の滞納が多く、徴収率は50%を割ります。そのため借金をするより手がなく、各農協からの借入れで何とか凌ぐというありさまです。さらに借金の利息の支払いのために再び借金をするという悪循環が続き、負債は雪だるま式に増えていきます。

 土地改良区も徴収率の向上に向けて1960(昭和30)年度からは、強制徴収に踏み切り、徴収率を80%まで上げます。
徴収率向上の成功の鍵は、満濃池第三次嵩上げの竣工にあったようです。嵩上げ工事の前と後では、農家の意識が変わったと云います。それまでは「水は来ないのに負担金だけは取られる」という怒りと反発がありましたが、嵩上げ工事と金倉川沿岸用水改良事業で、実際に水が自分たちの田に入り始めたことが、賦課金に対する認識を変化させ、徴収率は向上します。
 しかし、これも遅過ぎたようです。
1961(昭和36)年度末の農林漁業金融公庫からの借入金は、2,17億円に達していました。この借入金の内訳は
①県営事業の毎年度の地元負担金(25%)
②その内の約80%が長期低利(五年据置、20年元利均等年払、利率6,5%)の国の制度金融による借入金
③不良債務である一時借入金が1,16億円。これも一時借人金とは名ばかりで、実質上は借り替えを続け、長期借入金化したもの。
④以上の借入金合計額は、2,33億円で、利息だけでも年間2700万円余
 こうして満濃池土地改良区は、金融機関からも見放され財政破綻の危機に瀕します。
 日常業務はもとより、金倉川沿岸用水改良事業もこれ以上は継続できない情況に追い込まれてしまいます。そのため1960(昭和35)頃の満濃池土地改良区の職員8名の給与も未払いが続き、事務所に電話もなく、事務連絡などにも自転車で走り回っていたと職員は回顧しています。
満濃池土地改良区報1963年 宮武理事長
満濃池土地改良区報 宮武理事長挨拶 1963年

 財政再建策のために1961(昭和36)年に、宮武理事長が上京して、事情を当時の大平外務大臣に窮状を訴えます。
大平氏は伊藤農林次官に内容調査を依頼し、農務省の検査官が調査に訪れ、専門委員会が設置されます。そして次のような再建策が出されます。
① 再建の最大の障害である一時借入金を利率の低い一括長期債(農林漁業金融公庫資金)に借り替えする。
② 既借入れの長期債の約定償還について、六年間の中間据置し、その間に借り替えた資金を償還する。
③ 満濃池土地改良区の賦課金を増徴すると共に、徴収体制を強化してその完全徴収を図る。
④ 県の指導体制を強化し、非補助土地改良事業等の実施は極力圧縮指導する。必要不可欠の事業については単独県費補助事業として優先採択し、土地改良区財政を援助する。
この案が農林公庫や農林中央金庫等の地元金融機関の特別措置によって受け入れられることによって、財政再建は動き始めます。また当時は高度経済成長期のまっただ中で、兼業農家の農外収入が増えて、組合員の経済状態が向上していたという背景もあります。そのため賦課金も完全徴収ができるようになり、財務計画案通りの運営ができるようになります。
満濃池土地改良区報
満濃池土地改良区報 1964年 
以後、満濃池土地改良区は大平代議士の集票マシンとして機能していくようになる。

 こうして1967(昭和42)年度には短期債借り替え分の償還を完済し、その後には長期債も償還を終わらせ、財政健全化を達成します。そして1975(昭和50)年2月23日には、全国土地改良事業団体連合会会長より優秀土地改良区として金賞を授与されるまでになります。満濃池土地改良区は危機を乗り切ったのです。

満濃池土地改良区新事務所
2017年完成の満濃池土地改良区の新事務所

 土地改良区の財政悪化問題は、満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。
ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「満濃池史220P 財政不振とその再建」

戦後の満濃池第3次嵩上げ事業の「かなめ」となったのは、大川頭首工と天川頭首工でした。
前回まで見てきた堤防嵩上げや取水塔工事は、あくまで土木工事次元の問題で、技術的には大きな問題があった訳ではありません。最大の障害は、水利権のない土器川からどのようにして、満濃池に水を引くかということでした。これは、土器川の水利権をもつ右岸(綾歌側)と、交渉を通じて打開の道を探るしかない極めて政治的な課題でもありました。満濃池側が、どのようにしてこの課題に対応したのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

これまでの土器川から満濃池への導水計画の経緯を振り返っておきます。
①戦前の第3次嵩上げ事業は、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸(綾歌側)への用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものであった。
②内容の柱は「土器川ダム(塩尾の貯水池)」を築造して、土器川右岸への用水供給をすると同時に、その代償に満濃池の導水を綾歌側が認める内容であった。
③つまり、綾川側の水源確保の代償として、土器川への導水を認めるという政治的な妥協の上に成立した内容だった。
③しかし、戦後の計画では、多くの水没家屋を出すことになる「土器川ダム」計画は頓挫し、天川神社付近から満濃池に導水する「天川導水路計画」に変更された。
④これは綾歌側からすれば、上流で土器川のを満濃池にとられて、その見返りは何もないということを意味した。
⑤そのため綾歌側は「天川導水路計画」に反対の声を挙げたが、満濃池側では、1950年2月に綾歌側の合意をえないまま天川導水路工事を「見切り発車」させた。
⑥これに対して綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、農林省に対し天川導水路工事の即時中止を陳情した。
⑦中央にまで飛び火した情勢の収拾のために県は、綾歌側の要求に応える形で、「備中地池、仁池新池の二つのため池の新設 +  亀越池嵩上げ」土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保を綾歌側に提案。
⑧この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側は了承します。そして翌年には、今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
満濃池右岸水系
土器川右岸(綾歌側)の水系
つまり、県は備中地池や新池などの新池築造で綾歌側の水源確保に答えようとしたのです。こうして、満濃池側と綾歌側は歩み寄りのテーブルにつくことができる条件が整ったかのように思えました。

札の辻井堰.辻3JPG

そのような中で発生したのが長尾の札ノ辻井堰で起こった水争いでした。
その経過を見ていくことにします。満濃池第3次嵩上の堰堤工事が完成に近づく中、1955(昭和30)年は大旱魃に襲われます。水不足になると頻発するのが「水争い(水論)」です。

札の辻5
札の辻バス停(まんのう町長尾)  左が土器川、石碑は「大川神社」
長尾の札の辻井堰でも水争が起きます。長尾はかつては鵜足郡に属していて、ここには高松藩の札場がありました。今でも、バス停名は「札の辻」で、すぐそばに「大川神社」の大きな石碑が建っています。この地が雨乞い祈祷の場でもあったことがうかがえます。また、ここには土器川から岡田・綾歌方面への最大の取水口が開かれていました。それが札の辻井堰です。ここから取り入れられた土器川の水は、長尾を経て打越池へ送られ、綾歌各方面のため池に配分されます。つまり、綾川用水網の取り入れ口として最重要ポイントであった所です。
  ちなみに「岡田」は、その名の通り台地状地形で近世まで開発が遅れた地域でした。そこに水田開発が進められるようになるのは近世になってからのようです。谷間の一番上に、「谷頭池」を築くことで水田化が進められます。そして水田化が進むと水不足になり、ため池を築くと云うことを繰り返して、「岡田」は開発されていきます。そして「ため池飽和状態」になると、満濃の山の中に亀越池を築きます。そこから土器川に用水を流し、札ノ辻井堰で長尾側に取り入れ打越池に入れることが行われるようになります。つまり江戸時代から土器川自体が亀越池の用水路として利用されてきたのです。
8月15日付けの四国新聞は、辻の札での水争いの様子を「土器川を挟んで水げんか 約百名が座込み」という見だして次のように報じています。
「(8月)13日午後一時頃、綾歌郡長炭村長尾部落(耕地面積四十五町歩)が、土器川の取入れ口、札の辻井堰を同川全体に作り、川の水を同部落に引き入れようとした。このため対岸の吉野地区野津郷、宮東、宮西部落(耕地面積四十五町歩)では、従来二分されていた土器川の水を全然こちらへ流さないようにするのはもってのほかだと長尾側が作った井堰を直ちに切って落としたため、川をはさんで両部落の農民が対立、それぞれ約五十名ずつが同日午後七時ごろからクワ、ツノレハシを持って川をはさんで座り込み、不穏な形勢を示した」

札の辻井堰
現在の大川頭首工と札の辻井堰
 札の辻井堰直下の左岸(吉野側)には興免、荒川の出水があって、これらの出水の水は吉野地区に入ります。札の辻井堰は、これまで土器川の右岸堤防から川の中央部まで築き、そして長尾地区は右岸寄りの水を、吉野地区はその下流で左岸寄りの水を取るならわしでした。しかし、1954(昭和29)年の台風で河床の状況が変わり、翌年の夏の土器川は川水が左岸寄りにしか流れなくなったので、長尾地区は札の辻井堰を川幅一杯に築く措置をとったようです。これでは下流の吉野側の興免・荒川の出水に水が落ちなくなります。そこで、吉野村の農民達が井堰を切り落としたようです。こうして両地区がにらみ合う中で、昼間は警官が井堰の堤上に座り込み、夜間はパトカーの照明灯が明々と現場を照らすというものものしい警戒が続きます。
 ところが19日になって事態はさらに悪化します。
この日の午前中に、亀越池のユルが抜かれ、この池水を確保しようと長尾側がふたたび堰を川幅一杯に築いたのです。亀越池の水は、一度土器川に落としてから札の辻井堰まで導き、ここから綾歌側に取り込むシステムになっていることは以前にお話ししました。「亀越池の水の取り込み」を名目に、長尾側はふたたび川幅一杯に堰を築いたようです。しかし、吉野側の農民たちからすれば、堰を築く口実をつくるために亀越池のユルを抜いたと受取り、敵対感情に油を注ぐことになります。
8月20日の「四国新聞」は、その模様を次のように伝えています。

「香川県仲多度郡満濃町吉野と綾歌郡長炭村長尾との土器川をはさんでの水争いは十九日正午に至り長炭村農民百五十名が吉野川の水取り入口をせき止めたので、吉野川|は直ちに五十余名をかり集め、同三時半ごろこれを切断、険悪な空気をかもし出している。事態を重視した琴平署では県本部、綾南所の応援を求め武装警官一個小隊三十余名を現地に派遣、警戒に当たっているが、さらに同五時ごろ長炭側農民約百名が吉野川の水をせき止めたためますます険悪となている。…土器川をはさんで対立している農民の数は刻々増えており、一触即発の危機をはらんで夜に入った」
 
両者は川を挟んで十日間も向かい合い、21日の降雨によって「水入り」となって解かれます。しかし、問題はそのまま持ち越されます。
 亀越池は長尾地区だけでなく綾歌全体の水源でもありました。右岸の土地改良区連合の合意なしに岡田村は亀越池のユルを抜くことはできません。19日のユル抜きは、右岸全体の了承のもとに行われたはずです。
 一方、左岸の吉野地区は、満濃池掛かりです。札の辻井堰をめぐる吉野村の用水問題は、満濃池土地改良区の問題でもありました。これは当然、吉野地区と長尾地区の水利紛争にとどまず、左岸・満濃池と右岸・綾歌全体にかかわることで、裁判にまで発展します。
綾歌側は高松地裁丸亀支部に農事調停を申し立てますが、調停は難航し進みません。
この間に県では、1956(昭和31)年6月に県営土器川綾歌用水改良事業の一環として「札の辻井堰」の上流側に新たに「大川(だいせん)頭首工」を建設する案で両者の合意を取り付けます。
大川頭首工
大川(だいせん)頭首工
そして1958(昭和33)年3月4日に、水利紛争の農事調停がととのって協定が締結されます。
どのような協定内容だったのかを見ておきましょう。正式の名称は「香川県土器川右岸用水改良事業中『札の辻(大川)頭首工』に関する協定書」です。
①第3項「札の辻(大川頭首工)によって取水した水は、左右両岸の直接掛り面積に按分し、右岸側 75%、左岸側 25%の割合により分水するものとする」

ここには分水割合は、「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」と記されています。協定書の「覚書」に「大川頭首工改修前の分水の比は左右両岸対等であった」とあります。これまでの分水慣行からすれば、これは満濃側の大きな譲歩です。

大川頭首工2
大川(だいせん)頭首工を従流からのぞむ(ライブカメラ)

②第5項 「連合から要請があれば、満濃池土地改良区は救援水として満濃池の水5万立方メートルを右岸に送らなければならない。」

札の辻井堰

この協定に従って、満濃池の水路のうち土器川寄りの水路に連結させて土器川を経て右岸に出る分水路が新たに建設されます。満濃池からの救援水はこの分水路をとおして右岸に送られることになります。実際に、綾歌側に対して満濃池側が「救援」する体制が整えられたことになります。これも満濃池側の大きな譲歩です。
どうして満濃側は分水割合で譲歩し、さらに救援水を右岸に送ることに同意したのでしょうか?
その理由は、満濃池の水利権を土器川に新規に設定することを綾歌側に認めさせるための譲歩であったと研究者は指摘します。その見返りとして、天川頭首工の着工同意を得るというシナリオです。満濃池側は当初は「合意なき天川取水路の建設開始」など、綾歌側を刺激するような既成事実の積み重ねを行ってきました。しかし、最終段階になって綾川側の利害をくみ取った上で、大幅な譲歩をしたということになります。これに綾歌側も妥協したという結果となります。これを「巧妙な交渉術」と云うのかもしれません。
1959(昭和34)年8月30日に、大川頭首工が竣工します。
大川頭首工の分水装置には亀越池や新しく1960(昭和35)年に完成した備中地池の水が放流されたときは、これを綾歌側だけに分水するようにいように「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」の分水比率をかえる特殊な仕組みが組み込まれているそうです。 土器川でもっとも近代的な取水施設として建設された大川頭首エには、その構造に古い用水慣行が刻印されていると研究者は指摘します。
 また、大川頭首工をめぐる協定の当事者は、長尾村と吉野村ではありません。一方が満濃池土地改良区、もう一方が土器川右岸土地改良区連合になっています。この大川頭首工の建設をめぐって両者は、大きく歩み寄りテーブルについて協議を行うようになったのです。これが天川頭首工の協定書の成立に向けて大きなはずみとなります。
天川頭首工周辺の水利状況
天川頭首工
天川頭首工について、土器川土地改良区連合と満濃池土地改良区の聞で協定が結ばれたのも、1958(昭和33)年3月です。
 先ほど見た大川頭首工と天川頭首工は、ほぼ同時に協定書が結ばれいます。ここからは両協定が天秤にかけられながら同時進行で協議されていたことが分かります。この協定では満濃側は天川からは土器川の余剰水だけの取水を認められています。協定書第2条には次のように記されています。
「乙(満濃池土地改良区)は「天川頭首工地点」に於ける土器川流量が毎秒2,5立方m以上に達したときに取水する」

これに従って天川頭首工の構造も、土器川の流量が毎秒2,5立方mを超えたとき、その超えた分だけが導水するようになっています。

天川導水口 格子部分を通過した水が満濃池へ
 天川頭首工口 格子部分を越えた部分が満濃池へ導水される

 この「毎秒2、5立方メートル」という基準は、何に基づいているのでしょうか?
それはこれだけの水量が確保できれば、綾川側の水田はすべて灌漑できる水量であり、これ以上の水は瀬戸内海に流れ出てしまう水だという認識に基づく数字のようです。満濃池側が獲得したのは、このような右岸側には必要のない「無用の水」ということになります。しかし、表現上はそうであっても、既得水利でがんじがらめに縛られていた土器川から、導水できたという成果は大きな意味があります。満濃池側が、土器川へあらたに参入するとなれば、こういう形でしか参入するほかに途はなかったのかもしれません。「落とし所」をよく分かっていた交渉術と云えるのかも知れません。右岸、左岸の直接交渉なら、おそらく満濃池の新規参入はなかったと研究者は考えています。そこには県営事業として満濃池用水改良事業を推進させなければならない立場の県当局が、何度も綾歌側と交渉を重ねた結果、成立した協定書とも云えます。県の仲介なしでは、綾歌側が妥協することもなかったはずです。

天川導水口 2
 土器川の横一文字にた幅25mの天川頭首工が完成は、1959(昭和34)年3月のことでした。
天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。戦前の土器川沿岸用水改良事業開始からかぞえれば、18の歳月を要した大事業でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史189P 天川導水路計画 

満濃池 満水面の推移
嵩上げ工事による満水面積推移(満濃池名勝調査報告書104P)
 戦後の満濃池第三次嵩上げは、6mにおよぶものでした。そのため上図のグラフのように満水面は、それまでにくらべると約1,4倍拡がることになります。つまり、今まで以上に周辺の土地や集落が新たに水没することになるということを意味しました。この影響を最も受けることになるのが「五毛」と呼ばれている池南部の地域でした。

満濃池 五毛地図1
満濃池の五毛
五毛には、神野合股、上所、片山、三反地、長谷、岡等の小集落併せて戸数40戸がありましたが、その内の30戸、10haの水田、1 haの畑、 22 haの山林などが水没し、神社やお寺も移さなければならなくなります。

P1260807
五毛拡大図 赤は水没家屋
五毛水没地
 明治39年 右現在の五毛

 しかし、用地買収補償については、次のような経緯が問題を複雑化していました。
第一は、これ以上奥地への移住が難しい点です。
これまでの満濃池の嵩上げで、奥地へ奥地へと移転した経緯があるのです。その上、今回の嵩上げは今までになく規模が大きく、これ以上の奥地への移住はできないという事情がありました。

五毛の水没前民家2
水没前の五毛の藁葺き民家(かりん会館展示室)
第2は、満濃池の嵩上げ工事は、戦前の1940(昭和15)年に着手していました。
その時に買収補償の交渉も始められ、戦中の1943(昭和18)年度までに約30%の土地買収を終えていたことです。それが大戦のために工事が中断され、一部の土地買収が行われただけで、家屋移転の補償などは、調査さえされず放置されていまいました。つまり、戦後の買収補償交渉再開まで約十年間の空白期間が生まれていたのです。この間に「敗戦 → 民主化 → 農地解放」と大きな変動がありました。そうすると、戦中に土地のほとんど買収が終わっていた者、全然買収をしていない者、または、 一部の上地のみの買収をされた者など、個々に条件が異なってきます。これが交渉を難しくしたようです。
五毛の水没前民家1
          水没前の五毛の藁葺き民家
 中断されていた嵩上げ工事が再開するのは1947(昭和22)年のことでした。しかし、水没地の用地買収補償交渉は、予算的措置がつかずに取りかかることができないまま放置されます。五毛の住民は、堤防工事の建設機械の騒音を耳にしながら、自分たちの行末を不安に思いながら見守るしか術がありません。県がようやく買収補償交渉の前提となるべき水没物件の調査を実施したのは、1951(昭和26)年になってからです。対岸で進む巨大な新堰堤工事を見てきた五毛の人達は、水没地エリアを知り、買収や立ち退きについての交渉の早期開始を希望する声が出てきます。そして、1953(昭和28)年度末には約30%の住民が移転に向けて動き出す意向を示します。
五毛の渡船

 こうして1954(昭和29)年度になると、国からの用地買収の予算認証を得て本格的な交渉が始まります。交渉方式は先に述べたように個々に条件が異なり、団体交渉が難しいので個人交渉方式がとられたようです。交渉は、満濃池土地改良区内に「交渉委員会」を設け、この委員と県事業所が当たります。

満濃池 五毛水没物件概要
満濃池水没物件一覧表
 こうして1955(昭和30)年2月から担当官が五毛に出向いて交渉が始まります
この際に早期調印者には、その後に他の住民との調印で調印額以上の単価が出た場合は、その線まで増額する旨を約束します。これによって調印に応じる住民が現れ始めます。1957(昭和32)年になると、移転反対の強硬派が「水没対策委員会」を結成し、団体交渉を要求しますが、県はこれに応じません。その結果、1958(昭和33)年には、用地買収は原則、つぎのような条件で終了します。
①水田・畑の買収価格は、 10aあたり水田18万円・畑12万円
②生活補償費として、大人3、6万円 、子供はその半額
③協力感謝料という名目で、1戸当たり10万円の補償金
満濃池水没物件買収補償単価

  五毛での用地買収に当たった小比賀勝美氏は、満濃池史210Pに次のように回顧しています。
交渉の知識も経験の何一つなかった青二才の私が、平穏にそのすべてを終えることができた影には、交渉以来私と一心同体になって励ましとご指導をいただいた、今は亡き、満濃池土地改良区の徳田忠夫主任技師の公私にわたってのご協力があったればこそと、感謝の気持ちいっぱいである。

(中略)視野の広い先見の明をもった人で、信念の人でもあった。奉仕の精神に富み、水没交渉の過程では私によく「怒ったらいかんぜ」と戒めもしてくれた気概の人であった。また、水没交渉は、殆どが夜間で、夜ともなれば2人で泥棒のように夜の商売、自転車で五毛集落へ出向いたが、徳田さんは忍耐強い、飾り気のない人であり、私にはおおいに徳としなければならないものを兼ねそえた信頼の厚い人であったし、水没者や用地提供者からも信頼され、さらに土地改良区においても信頼を得ていたから、若い私にとっては、強い味方であったとつくづく思う。
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干ばつの時に現れる民家跡
 こうした現場の職員の誠意ある取組の中で、五毛の人達の多くは生まれ故郷を離れたのです。そして多くの屋敷が、満濃池の下に沈んだのです。
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水没による移転協力者の氏名一覧
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史194P 満濃池の嵩上げ 嵩上げ堤防工事、本格化

満濃池堤防断面図一覧
満濃池嵩上げ工事一覧表
満濃池嵩上げ事業一覧表
戦後の嵩上げ工事では、それまでの貯水量の約2倍にあたる1540万立方メートルが求められました。そのため従来の堰堤では耐えきれないので、いままの堤防を前側に抱き込むようにして本堤がその後方に築かれることになります。新堤は旧堤よりも6m高く、堤高は32m、堤長は155mの規模です。
長谷川佐太郎 平面図
1870年 長谷川佐太郎再築の満濃池

満濃池 1959年版.jpg2
      第3次嵩上げ事業で姿を現した現在の堰堤
旧堤の外側に、旧堤に重なるように新堤の天巾を20mも幅広くとったのは、恒例のユル抜きのときに、例年堤防上に出店や屋台が立ちならんで見物客が多数寄り集うことを配慮したからだとされます。

満濃池池の宮
堤防上にあった池の宮(神野神社)
この結果、旧堰堤上にあった池の宮(神野神社)は水没することになり、現在地に移されることになります。

満濃池 現状図

一方、空海伝説の伝わる②の「護摩壇石」は、水没を免れそのままの位置(現在地)に島として残されます。池の宮と、護摩壇岩の標高差は5m足らずです。この対照的な扱いの背景には何があったのでしょうか? 施工計画者の中に「空海=護摩壇岩は沈めずに残す」という意図があったように私には思えます。こうして両者は次のような対照的な道を辿ることになります。
①護摩壇岩は、湖面の中の島として存続
②池の宮の岡は、削りとって平面化し湖底化
満濃池水利組合では、作業人夫の割当表を作って、5反歩に1人の割合で15の旧村に割当てます。
 しかし、当初は事務所も池下の電気もない小屋で、所長を含めて3人の体制だったようで、戦後の混乱期でもあり、「資金 + 機械 + 技術者 + 人夫」など何もかもが不足していました。その上に労働運動の高揚期で、その余波が堤防の工事現場にも及んできて、「満濃池労働組合」が結成されます。特にはげしかったのが1948・49 年頃のようで、満濃池史186pには当時のことについて、次のように記します。
敗戦によって人心は荒廃し、現場労務者の素質は悪く、仲間同士の喧嘩沙汰も絶えず、作業中に怪我でもすれば、大したことがなくても過大な災害補償を要求し、何日も公休をとるような始末だった。昭和22(1947)年9月に結成された満濃池労働組合は、賃金値上げ、労働協約の締結、有給休暇の要求、経営協議会の提唱、慰安行事の実施など、次々と要求を掲げ、労働攻勢を続け、それによる作業能率の低下は今日では想像できないものであった。
また別の職員は次のように回顧しています
「県営事務所」の看板と並んで「満濃池労働組合」の看板が懸けられ、事務所内には組合専従者の机が設けられていた。最盛期には男子1名、女子1名が常勤して組合事務を処理するとことが約1年以上続いた。曰く「労働協約の締結」、曰く「有給休暇の要求」、曰く「経営協議会の提案」と、いとまのない労働攻勢で、所長室に組合幹部の姿が見えぬ日はないと云った状態だった」
昭和34年刊行 「まんのう 満濃池工事竣工記念号」
 組合問題に苦慮した県当局がとった対策は、工事の大半を満濃池普通水利組合(後の満濃池土地改良区)と請負契約することです。
1949(昭和24)年になると、県は一切の工事を、「地元請負」と称して「満濃池土地改良区」に請け負わせることとし、労務者170人のうち百人を解雇します。そして「満濃池土地改良区」に、県から請け負った工事を、建設業者に下請けさせる体制を作り出します。こうして県は、労務問題に直接関わらない体制を作ります。そして人員削減への対応として、当時としては珍しかったベルトコンベアを導入し、一番労働力を要していた盛土運搬の能率化を図ります。これが成功の要因だったと関係者は回顧します。

1950年代になると工事は、昼夜三交代になり本格化していきます。
この年の2月15日には、工事中の満濃池堤防を天皇が行幸して、工事状況を視察しています。この時は新堤は、まだ旧堤よりもはるかに下にあって、現場はまるで広場のような写真が残っています。

満濃池第3次嵩上げ事業 2
       満濃池堰堤工事現場 1951年
西側の山からベルトコンベアで運ばれてきた土を、ブルドーザーがならしている。これらの「新兵器」は米軍払い下げ。

満濃池第3次嵩上げ事業 1
満濃池嵩上げ工事1951年
3人1組のリヤカーで埋め立て地まで運び、それをローラで固めている。まるでグランド整備のように見える。ここが堰堤になっていく。

こうして、2年間で7万立方メートルを超える盛土が積まれていき、堰堤がみるみると高くなっていきます。1952年7月には、嵩上げ新堤姿が見えてくるようになります。
 満濃池1951年本堤
1951年11月29日の満濃池堰堤
(堤防越に見える樹木の推移に注目)
1952年満濃池
       1952年7月17日 満濃池堰堤の進捗状況
1953年満濃池堤防
1953年2月2日 満濃池堰堤の進捗状況

1952(昭和27)年3月28日の四国新聞には、次のように報じられています
工事は高松市玉藻建設が土砂運搬を請け負い、延長190mの大型コンベアで一日200立方メートルもの土砂を運ぶという大がかりなもので、水漏れを懸念してコンクリートは全然使わず、このため付近の小山六か所は変形するほどにつぶされ、毎朝午前四時頃から寒風にさらされ、野鳥の不気味な声を聞きながら総燭光5000ワットの投光器の光りの中で最後の仕上げを急いでいる」

  こうして1950(昭和25)年以後に本格化した堤防工事は、1953(昭和28)年に最後の仕上げに入ります。
盛上約18000立方メートル + 前法石張り3270平方メートル」を終えて、堰堤6mの嵩上げ工事が完了します。その際に、旧堤の弘法人師ゆかりの護摩壇は、その姿を残す形で石張りがおこなわれたようです。
P1240743 レンガ取水塔 1914年
大正時代の赤取水塔取水塔

堤防工事が終わると、最後に残されたのが新取水塔の建設です。
大正時代に作られた赤レンガの取水塔は、満濃池のシンボルタワーとして人々に親しまれてきました。しかし、堰堤が6m嵩上げされるために、水面も当然6m高くなり、水没していまします。そのため新しい取水塔を建設する必要が出てきます。
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旧取水塔と新取水塔(かりん会館展示室)

 取水塔の工事は、1955(昭和30)年度に実施されました。
取水塔は湖底の一番低い所にあります。そのため工事のためには、池を干し上げる必要があります。かつての底樋工事のように、秋から冬に行って、水をためる期間を出来るだけ長くとり、6月のユル抜きの時には満水で迎えるというのが「流儀」でした。たまたま1955(昭和30)年が大旱魃だった干ばつに見舞われ、秋には満濃池にはわずか50万屯の水が残っているだけです。その池水が吐き出され、池底が見えて来たのは10月半ばだったようです。
 新しい取水塔は、旧取水塔の立っている基盤が悪いために、その位置を堤防中心寄りに移し、旧堤防の先を掘削して設置されることになります。塔自体の計画原案は東京教育大学の松田教授に依頼し、細部は現地に合わせて県営事業所が設計しています。

満濃池取水塔
満濃池の新取水塔設計図

 貯水開始が12月20日と決められたので、2か月間で基礎部分を完成させ、それ以後は日増しに高まる池の貯水位と競争しながら、塔を高くしていくという工法です。
11月1日、旧取水塔の取り壊しが始まります。
取り壊しは、塔体の最下部を大本を伐採するように、ちきり形の切り込みを入れて、最後はダイナマイトを用いて、掘削しておいた池底に横倒しにするという工法です。こうして旧取水塔は、1955(昭和55)年11月15日午前11時、巨体を池底に横たえます。
満濃池 旧取水塔の取り壊し
倒れる瞬間の旧取水塔(1955年11月15日)
新取水塔の工事を監督した県担当者、横山伝治氏の記録が「満濃池史」に次のように収録されています。

取水塔の仮締め切りは普通するように土俵で行った。基礎岩盤の掘削が終わるとともに土俵を積み始め、二重ないし四重に高さモメートル程積み上げ、第一回のプレパクトコンクリートを打った。これは岩盤掘削の形どおりに型枠も使わず打ち込むわけで、このとき我々は、これなら大丈夫と安心するとともに、少しなめてかかる結果となった。

満濃池 新取水塔
湖底に姿を現した新取水塔
第二回日の打設も基礎部分で、これも苦もなく終わった。ただ気温が昼間でも三度、四度と下がり、とくに夜間には零下四~五度も珍しくなく、凍害を心配したが、まず失敗はなかった。次の第三回目は、打ち上げた基礎の上に塔体型枠を立てプレパクトコンクリートを打ち込む初めての作業でした。これはとくにモルタル乳の流出を防ぐため、型枠は相欠ぎ状として、幅五センチメートルの布を、その継ぎ手に厳重にパテで貼った。何しろ相手はドロドロのモルタル、型枠の僅かな隙問からでも漏れるのは当然のことで、用心に用心を重ねて施行した。これも成績は良かった。これなら大文夫と誰しも安堵した。
ところが、次は大きな失敗をした。そのときは、二日前の雨で高さ三メートルの締切り土俵の天端まで、おおよそ七〇センチメートルに水位が迫っていた。しかし、この程度の雨なら計算上まだまだ大丈夫であり、模様を見た上で、明朝でも土俵を嵩上げすればよいと楽観していた。しかし、その夜の増水は格別で、あっという間に土俵を押し流し、型枠越しに塔体内に溢水し始めた。一月十九日の夕方のことである。下手をすると、再び貯水を全部排除して、基礎だけを残してやり直しを覚悟しなければならない。県営事業所の所長以下一同顔色を失ったのも当然と言える。早速、雨の中を応急措置に走り回り、ともかくどうにか食い止めたのは二十日も真夜中のことだった。後で調べてみると、やはり予定外のことだった。今回の雨ではおおよそ二〇センチメートルの増水となるのが関の山であるはずが、貯水を心配した満濃池土地改良区が、折角の雨を無駄にしてしまうのはと、財田川からの取り入れを始めていたのであった。
満濃池土地改良区としては、六月二十日の間抜きまでには何とか貯水を増やし、組合員に迷惑をかけないようにしたいという、水に対する執念が、このような予想外の事態に直面する結果を招いたが、県の寝食を忘れた適切な対応で、これを乗り切ることができた。
満濃池 新取水塔2
完成間近の新取水塔
 新しい取水塔は、色々なデザインの中から近代的なものを選び、塗装の色も専門家を現地に招き、周囲の山と水にふさわしい純白色が採用されます。その結果、軽量感のある洒落たものに仕上がったと評判だったようです。取水塔建設費は、おおよそ三千万円でした

以上をまとめておくと
①戦前に開始された満濃池第3次嵩上げ工事は、戦争のために中断されていた。
②戦後の食料増産運動の一環として、戦後直後に再開されるが戦後混乱期の物不足の中で、工事は遅々として進まなかった。
③また戦後の労働運動の影響を受けて、労働問題が深刻化して現場の混乱に拍車をかけた。
④嵩上げ工事が本格化するのは1950年代に入ってからで、機械化が進む中で軌道にのり、1953年に完成した。
⑤こうして貯水量は従来よりも倍増したが、池の宮などは池に沈み、護摩壇岩だけが残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史194P 満濃池の嵩上げ 嵩上げ堤防工事、本格化 
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敗戦後の国民を襲ったのは食糧不足です。そのため政府は、食糧確保と増産に優先的に取り組みます。そして緊急開拓と土地改良が大々的におし進められます。そのような流れの中で、戦争で中断していた満濃池嵩上げ工事が敗戦の翌年1946年9月には再開されます。

再開に当たって戦前の計画は大きく変更されることになります。
まず、前回にお話しした「土器川ダム(塩野池貯水池)」の廃止です。このダムの建設目的は、次の2点でした。
①土器川綾歌の岡田地区などへの農業用水の配水、
②満濃池への取入口

土器川貯水池計画
炭所の常包橋上流に予定されていた土器川ダム
建設予定地は、現在のまんのう町炭所西の常包橋上流で、土器川本流を高さ24m、長さ153mのコンクリート堰堤で締切り、貯水量310万トンの貯水池を築造するものでした。塩田、平野の両集落の百戸あまりの人達は水没のため強制立ち退きが予定されていました。軍部は満州への集団入植を考えていたとも言われます。これは、戦時下の緊急増産の旗印があったから進めることができたことで、戦後になってこれを進めば猛烈な反対が予想されます。「水没予定地の人達の同意を得るのは無理、他の方法を検討すべし」ということになります。こうして土器川から満濃池の導水計画は、根本的に練り直されることになります。
満濃池天川導水路
土器川からの天川導水路と満濃池
 それに代わって提出されたのが「天川導水計画」です。
天川導水計画は、琴南町造田地区(天川神社前)に取水堰を設け、延長約4、7㎞の導水路によって、満濃池に導水する計画です。しかし、満濃池は土器川に関しては水利権を持っていません。そこで財田川と同じように、冬場の時期に限っての導水を求めます。その代償として県が打ちだした対応策が次の二点です。
①満濃池の嵩上げを、さらに1m高くして7mとする。これによって貯水量を150万屯増やして、綾歌側の用水に充てる。
②この満濃池の水を綾歌綾歌側に送水するために、土器川を越え綾歌側(満濃町長尾)に達する「土器川新分水路」を新設する
以上の変更案を、1949(昭和24)年8月に国に申請します。

天川導水口 2
現在の天川導水口

しかし、「天川導水路計画」が公になると、綾歌側から次のような強い反対の声が挙がります。
①「土器川の水は綾歌側のものである」
もともと土器川の水は、大部分が旧長炭村「札の辻堰」から綾歌へ取り入れられ、打越池、羽間池、小津森池、仁池、大窪池などのため池に送られてきた。さらに土器川の中に作られた十数か所の集水暗渠からの取水で、坂出、宇多津、土器の海岸近くまでも灌漑してきた。つまり土器川の水は、綾歌のもので、満濃池は土器川になんの水利権もない。土器川の水は、洪水までも自分たちのもので、それを侵すものは既得水利権を侵害するものであり、黙っておれない。

②県と満濃池水利組合の強引なやり方は、前例を無視した強引なやり方である。

県は綾歌側の水源となる「土器川ダム」計画を、事前の説明もなく一方的に中止した。にもかかわず、それに替わる綾川への水源計画を立てることもしない。その上に、こともあろうか綾歌が水利権を持つ土器川の上流の天川から満濃池への水を取り込もうとしている。これは水泥棒だ。黙っておれない。

 これに対して県は、次のように説明します。
「天川からの導水計画は、綾歌側の既得水利権を侵害してまで満濃池に導水しようというものではない。あくまでも洪水時の余水を取り入れようとするものである」

しかし、県側に最初のボタンのつけ間違いがあるので、入口でつまづいて話は進みません。
 これにたいして満濃池側では、1950年2月に綾歌側に対して天川導水路工事に着手を正式に申し入れます。
しかし、同意を得ることはできません。そこで綾歌側の同意なきまま「たとえ天川導水路が完成しても、綾歌側との話し合いがつかない限り、通水はしない」と、一方的な通告をした上で、天川導水路新設の工事実施に踏み切ります。これは「同意なき見切り発車」です。高圧的なやり方です。綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、代表を東京に送り直接農林省に対し、天川導水路工事の即時中止を、次のように陳情します。
一 綾歌の同意を得ずに強引に天川導水路工事に着工した。
一 県は、約束に反して塩野池貯水池廃上に替わる水源開発に着手しない。
中央にまで飛び火した情勢を受けて県は、収拾のために綾歌側の要求に応える形で次のような具体案を示します。
満濃池右岸水系
①備中地池、仁池新池の二つのため池の新設
②亀越池嵩上げと仁池導水路(札の辻井堰から仁池まで)の改修による用水改良計画
③以上で土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保する
この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側の了承を得ます。さらに国も、これを「県営土器川綾歌用水改良事業」として採択します。そして、翌年には、土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして、両者の歩み寄りが始まります。しかし、天川導水の合意までには「 札の辻井堰の水利紛争」というもう一波乱を経なければなりませんでした。

以上をまとめておくと
①戦後の食料増産の一環として、満濃池の第3次嵩上げ事業が再開された。
②しかし、戦前の「土器川ダム」建設によって満濃池に導水するという案は、大量の強制立ち退きと移住を前提としたもので、戦後の情勢の中では実施は困難となる。
③替わって、県は造田の天川神社前からの導水計画を出すが、事前説明や根回し不足などから綾歌側の強い反発を受ける。
④県は「土器川ダム」に替わる干害対策を立案し、新たなため池整備などを行うことで綾歌側の理解を得ようとした。
⑤こうして綾歌側も軟化し、1960年に「天川導水計画」の協定書が結ばれる。
以上を見て、現在の我々の高見から「教訓」を学ぶとすれば、県の対応に「上意下達」が目立つという点です。前々回の第二次嵩上げ工事の際の財田川流域の水利組合の対応の際にも述べましたが、事前説明もなければ、各水利組合への個別説明、ましてや根回しもありません。戦前の「土器川ダム」計画廃棄と新たな「天川導水計画」も一方的です。これは綾歌側の水利組合の怒りに油を注ぐようなものです。対応案も「後出しジャンケン」で、最初から示せたらもう少し結果は異なっていたかもしれません。どちらにしても、戦前と変わらない県と満濃池水利組合の対応ぶりを感じます。
 「事前説明+個別説明」などが県の対応に見られようになるのは、五毛地区の水没農家の立ち退きをめぐってのようです。それはまた別の機会に見ていくことします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  満濃池史185P 第3次嵩上げ事業 敗戦と事業の再開
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満濃池の近代になってから次の2つの嵩上げ事業が行われてきたことを見てきました。
①1905(明治28)年 第一次嵩上げ事業
②1930(昭和 5)年 第二次嵩上げ事業
満濃池嵩上げ工事一覧表
満濃池嵩上げ工事比較一覧
上記の2つの工事で満濃池は、約3割近く貯水量を増やし、総貯水量は780万屯になりました。これで満濃池掛かりは旱魃から逃れられると多くの人達は安堵したようです。しかし、1934(昭和9)年、1939(昭和14)年と、連続して「想定外的の未曾有の旱魃」が西日本を襲います。これについては以前にお話ししましたのでそちらを御覧下さい。
昭和14年の旱魃新聞記事
昭和14年の旱魃を伝える香川新報

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簡単に昭和14(1939)年の県の対応を見ておきましょう。
7月23日 香川県知事が滝宮天満宮で雨乞い祈祷実施
8月 2日 県下市町村長に対し、12日間一斉に雨乞い祈祷を行うように県が通達
9月 7日 県下各小学校に児童が日の出と日没前に土瓶水を稲にやって枯死を防ぐよう通達
知事も神頼みと雨乞い祈祷などしか打つ手がありません。小学生まで動員して、用水確保に努めています。しかし、苦労は報われません。全く米の獲れない田んぼが続出し、収穫があっても、全耕地の約半分が平均収穫の半分以下の大減収になります。
 この年の干ばつは、満濃池の水掛かりにも襲いかかってきます。
8月初めには「証文水」の水位まで下がり、残り水は僅かで一合水になってしまいます。ほとんど底を見せることのない満濃池も、8月21日になると昭和9年に続いて再び池底を見せます。そのため用水の最下流にあたる丸亀市や、多度津の白方村の収穫は皆無で、郡家・四箇村辺りも8割以上の大減収と記録されています。

その年の9月に、満濃池の池の宮(神野神社)で、満濃池水利組合の幹部らと県の耕地課の課長らの間で会談がもたれます。目の前の満濃池は、池底2、3尺だけの残水状況でした。組合の幹部らは干あがった池底を指差して、県の役人につぎのように訴えます。

「9年前の昭和5年に満濃池の堤防を5尺かさ上げして、貯水量は2割増しになりました。しかし、それでも足りなかった。再度かさ上げして、さらに池水をふやしたい。ついてはあらたに土器川から取水するつもりです。ご協力を願いたい」

こうして水利組合では、3度目の満濃池嵩上げを決議し、国や県に早期実現を訴えていきます。政治家達も「農業用水の確保」が至急の政治課題であることを改めて痛感し、国に働きかけます。その結果、農林省は1940(昭和15)年1月、係官を現地に派遣し、調査・設計に当たらせ、1941(昭和16)年度から工事に着手することが決まります。
この計画の特徴は、戦時体制下の食料増産とも結びついたもので、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸の岡田などの綾歌郡へも用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものでした。
 計画は、次の2つの柱で構成されていました。
①「土器川貯水池(ダム)」築造と土器川右岸への用水供給
②「満濃池の嵩上げ」工事で、大幅な貯水量アップ
②の嵩上げ計画では、堤防を6m嵩上げして貯水量を倍増させようとする画期的なものでした。また、水掛かり区域(水利エリア)も、旧白方村、四箇村、吉原村、川西村、豊原村の区域を加え、4600㌶に拡大しようというものです。しかし、この計画には問題点がありました。それは前回の第2次嵩上げ事業と同じく、満濃池を大きくしても、満水にできるかどうかです。1930年の第2次嵩上げ工事の時には、財田川から冬場に限っての導水ということでなんとかクリアしました。第3次の場合は、土器川からの導水案が出されます。
①の「土器川貯水池(ダム)」は、満濃池への導水のためと、土器川右岸(綾歌郡岡田側)水田2050㌶の用水源とするという二つの目的を併せもつものでした。

土器川貯水池計画
土器川ダム予定地は堰堤が常包橋上流附近

「土器川貯水池(ダム)」の建設予定地は、まんのう町炭所西の常包橋上流で、土器川本流を高さ24m、長さ153mのコンクリート堰堤で締切り、貯水量310万トンの貯水池を築造するものでした。水没地予定地の塩田、平野の両集落名の二字を合わせ塩野池貯水池(以下は土器川ダム)と計画書には命名されています。  
 こうして1941年4月、土器川ダムの築造と、満濃池の第3次嵩上げ工事が着工します。
まず土器川ダムの建設される常磐から満濃池への導水隧道工事が下流の満濃池側から始められます。同時に満濃池の嵩上げ工事についても盛土・余水吐放水路、付替道路等の工事が始まります。このまま進めば、ダム水没予定地の平野・塩田集落の集団立ち退きもスケジュールに入ってきたかもしれません。ところがその年の12月に、真珠湾攻撃が行われ日米開戦となります。それでも工事は続行されたようですが、次第に資材や労力が日増しに欠乏するようになります。国は1944年7月に「決戦非常措置」の名のもとに、戦争に直接関係のない公共事業の中止を命じます。このため土器川沿岸用水改良事業の工事も、全て中断されます。この間に進んだ工事は、次のような僅かなものにすぎなかったようです。
①導水隧道延長約200mの開削
②堤防盛土、3000㎥
③樋管、余水吐放水路・取付道路工事の一部を施行
ちなみに、このときに計画された塩野貯水池について「満濃池史184P」には「特集 まぼろしの土器川ダム」として、次のように紹介されています。
戦時中、土器川の本流をせき止めて巨大ダムを造る計画があった。建設予定地点は、まんのう町常包橋上流で、湖底に沈む長炭村や造田村(琴南町)の一部は、ごっそり満州に移民させようというものである。今から考えるとずいぶん乱暴な計画だが、戦時下の有無を言わさぬ「国家総動員法」のもとでは、泣き寝入りするほかなかったのかもしれない。この計画は「土器川沿岸用水改良事業」と名付けられ、土器川をはさんで丸亀平野一帯の用水を確保しようという、壮大なものであった。 満濃池は直接流域が狭いため、せっかく大きくしても水の貯まりが悪い。そこで近くを流れる土器川の本流を締め切って、高さ24m・貯水量310万屯のコンクリートダムを築造し、その貯水をトンネルで満濃池に導水しようというものである。
満濃池の高上げ工事は、昭和15年に着工されたが、その翌年に大平洋戦争に突入した。ダムと満濃池を結ぶトンネルも両側から掘り進められましたが、戦局は次第に悪化し、セメントや鉄筋などの建設資材や、労力も極度に不足してきた。そのうち昭和19年には「決戦非常措置要項」が発令され、不急の工事はすべて中止せよとのお達しである。
満濃池の工事も中止に追い込まれ、やがて敗戦を迎えた。こうして湖底に消え去る運命にあった村は、危うく満州移民から逃れることが出来た。満濃池の嵩上げ工事は戦後間もなく再開されたが、ダム建設計画は大きく変更される。すなわち土器川上流の天川(琴南町)に取入関を設け、ここから、直接トンネルを抜いて満濃池に取水することとなった。このため戦時中の土器川ダム計画は「まぼろしの計画」として消え去り、今では当時の事情を知る古老も少なくなってしまった。
(平井忠志)
また戦前に掘られた「①導水隧道延長約200mの開削」部分は、今も残っているようです。
満濃池 塩野池(土器川ダム)隧道
塩野池(土器川ダム)から満濃池への隧道の一部(かりん会館)

以上をまとめておきます
①明治以後の2回の嵩上げ事業によって、満濃池の貯水量は3割近く増加し、旱魃への対応も整ったと思っていた。
②ところが昭和9・14年の旱魃は想定外のもので、社会不安にさえなった。
③そこで第3次の嵩上げ工事が昭和16年から行われることになった。
④この事業の目玉は土器川からの導水で、そのために「土器川ダム」が計画された。
⑤しかし、第3次事業は着工後の12月に太平洋戦争に突入し、ほとんど工事進展を見ないまま終わった。
⑥そのため土器川ダムの湖底に沈む予定であった集落も、集団移転を免れた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史176P 第3次嵩上げ工事と土器川流域取水

 

前回は1907(明治29)年に満濃池の第一次嵩上げ工事が行われたことを見ました。しかし、この工事は、堤防を三尺(91㎝)の嵩上げしただけで、大幅な貯水量の増加をもたらすものではありませんんでした。そのため旱魃は大正に入ってからも、ほぼ3年おきに襲ってきます。特に1924(大正13)年の被害は『満濃池史要』によると満濃池掛かりで120㌶に及び、米の減収量は11322石にも達します。こうした中で再度の嵩上げの要望が高まります。今回は昭和の第二次嵩上げ事業について見ていくことにします。テキストは、「満濃池史143P」です。 
この時の嵩上げ事業の推進力となったのが1923(大正12)年に食糧局長通達として出された「用排水幹線改良事業補助要項」です。
これは受益面積500㌶以上の灌漑事業については、国が事業費の1/3を補助するというものです。それまでは全額を地元負担で行っていたことを考えると画期的なことです。この時期になって、ようやく日本も農業からの一方的な収奪から、農業への社会資本の投下という転換点ともなったようです。これを受けて、満濃池普通水利組合は、県と協議にしながら次のような「県営満濃池用排水改良事業」案を策定します。
① 堤防を1,52m嵩上げし、貯水量150万噸を増加させ、総貯水量を780万屯とする。
② 財田川の上流(現野口ダム)から導水トンネル(400m)で、満濃池に導水する。
③ 用水路整備として、丸亀幹線水路約5㎞を改修する。

①の堤防嵩上げで、貯水量の2割アップを目指します。これについては技術上の問題もありませんでした。問題は②の「財田川からの導水」です。これは財田川流域に水利権を持つ水利組合からの激しい反発を受けることになります。どのような経緯をたどったのか見ておきましょう。
それまで満濃池の嵩上げ工事が進まなかった原因の一つが、堤防を高くして貯水量を増やしても、水が集められない可能性があったことです。
満濃池は金倉川をせき止めて作られていますが、金倉川からの流量では、冬場の降雨が少ない年には満水に出来ないと専門家から指摘されていたようです。そこで県が考えたのは、財田川を仲多度郡七箇村(現まんのう町野口ダム附近)でせき止め、冬場(非灌漑期)の余水を満濃池に導水するというものでした。しかし、これは水利権がからむ非常にデリケートな問題です。財田川流域の水利組合との利害得失が複雑にからみ、交渉は難航します。

満濃池から塩入2
満濃池と財田川の関係 (幕末期)

県の当初計画は、塩人横井(別名、春日横井)と、これに接続する春日水路を改修して取水し、途中から分岐してトンネルで満濃池に導水するというものでした。県から施設共用の申出を受けた塩入横井は、取水する時期が異なるうえ、県が従来の取水施設を改良してくれることもあって、渡りに船と無条件で賛成します。

財田川と満濃池

財田川と満濃池の関係

 ところが、その下流の本目の新目の水利組合が反発します。
本目と新目は、もともと「本免」と「新免」で中世に開発領主達によって開かれたエリアで、本目城や新目城があったと伝えられています。財田川に簡単な横井を作って、川沿いの氾濫原を開発し水田化していったことがうかがえます。昭和の初めには、この地域には財田川に14ケ所の横井と、5か所の集水暗渠が作られて130㌶の水田に用水を供給していました。そこに上流で満濃池への分流の話が伝わってきます。
 昭和の讃岐の農民達は大正期の小作争議を経て、組織化され成長していました。それまでのお上の云うことを黙って聞くことはありません。もの云う農民達に成長していた本目と新目の農民達は、何の相談もないまま進められる分水計画に、農民達は激しく反発し、136名が連署して、「灌漑用水水利保護ノ義二付キ願」(1927(昭和2)年5月25日付)を県に提出します。
灌漑用水水利保護ノ義二付願」本目と新目の136人が、満濃池分水に対して知事宛てに提出した陳述書(昭和二年五月二十五日付)
灌漑用水水利保護ノ義二付キ願

さらに翌年の6月6日には、水利代表者連名で、「満濃池補水工事二関スル陳情書」を知事に提出して強硬に反対します。その論旨は、次のようなものでした。

満濃池取入口の変更反対の陳情書

「満濃池補水工事二関スル陳情書
①冬場の余水に限ると云うが、頭越しに上流から収水するというのは水利権を無視するものだ
②取水の横井や導水路については、今ある塩入横井とその水路を利用しないこと。
③その下流に満濃池専用の横井と導水路を新設すること
④取入水門の監視人は七箇村本目の住人を充てること
ここからは本目・新目の農民が、今ある塩入横井との共用を認めると、監視の目が届かなくなり、灌漑期の用水を夏場にも満濃池に取水されることを恐れていたことがうかがえます。
   財田川から満濃池への導水
財田川から満濃池への分水・導水
P1260814

本目・新目の反対に対して、県は仕方なく計画を次のように変更します。
塩入横井の下流180m地点に満濃池専用の横井と導水路を新設し、春日水路の下を立体交差のトンネルで抜いて取水することにしたのです。これに反発したのが塩入横井(春日横井)の農民達です。「満濃池疎水口開削工事設計変更二関スル請願」(昭和2年10月7日付)を知事宛てに提出します。これには塩人横井掛かりである七箇村春日、小池地域の農家119名が連署して、次のように記されます。

…我等二一言ノ通告モナク変更サレ、高圧的態度二出デラルルハ誠二遺憾二堪ヘズ。元ヨリ官憲ノ都合ニヨリ設計ヲ変更サルルハ、我等ノ関知スル所ニアラズトイエドモ、従来ノ関係上、 一言予告位ハアリテ然ルベキモノト思考スル次第二之有り候」
 
意訳変換しておくと
…我々に一言の協議や通告もないまま計画を変更し、高圧的態度に出ることいては誠に遺憾で堪ヘられない。これについては、官憲の都合による設計変更で、我々の関知する所ではないけれども、これまでの経緯上から、 一言の予告くらいはあってしかるべしと思う」

ここには県の違約を責めると共に、元の計画に返すよう訴え、県の「信義なき行為」を厳しく追及しています。さらに計画変更が不都合な理由として、次のような点を挙げています。
①下流に新設横井が出来ると、洪水のとき川の水位が上昇し、川沿いにある春日水路の側壁が洗われ崩壊する危険が大きいこと。
②新設の横井から取入れる満濃池導水路は、春日水路ヨリ低い位置を並行して走るため、春日水路の用水が満濃池導水路に漏水するおそれがあること。
③ 満濃池導水路が春日水路と立体交差し、トンネルで下をくぐる計画となっているが、春日用水がトンネル内に漏水する。

そして「最初の設計通り、今ある塩入横井を利用し。新たな堰を築造すること取りやめていただけるように切望する」と記されています。
 
県は塩入横井と何度も交渉を重ね、春日水路の崩壊対策と漏水対策に万全を期すことを約束し、塩入横井と「財田川分水二関スル協定書」を正式に結んだのは、昭和3年9月18日でした。そこには次のような項目が記されています。
財田川分水二関スル協定書
財田川ヨリ満濃池分水工事施エニ関シ香川県知事卜財田川関係七箇村卜満濃池普通水利組合トノ間二於テ左記事項ヲ協定ス
①新設横堰ヲ作ル為春日井手、川添堤防ヲ隧道口ヨリ長拾五間練積石垣トナシ完全ヲ期スル事
②取人口管理者ハ七箇村長二委嘱スル事
③新設横堰付近ノ田地及堤防ニシテ洪水の際横堰設置ノタメ損害ヲ受ケタル時ハ工事完成後ハ満濃池普通水利組合二於テ相当修繕ヲ為ス事
④新設工事ハ春日井手水利総代立会ノ上施行スル事
⑤将来第弐項ノ管理二要スル費用ハエ事完成後満濃池普通水利組合は七筒村長卜協議ノ上毎年度ノ支出額ヲ定ムル事
⑥隧道人日付近ノ春日井手底ハ「コンクリート」張リトシテ漏水ナカラシムル事
⑦分水工事事中及将来二於テ本協定二関スル水利及土地使用二付七箇村ハ異議ナキ事
但シ隧道修繕等ノ為新二工事ヲ施エスル際二於ケル土地使用ノ補償ハ七箇村卜協議ノ上之ヲ定ム
⑧本協定二基キ七箇村ハ工事施行者ヨリ金四千円ノ支払ヲ受クルモノトス
⑨本協定成立ヲ證スル為本書三通ヲ作成シ関係者連署ノ上各一通ヲ領置スルモノトス

昭和三年九月廿八日
仲多度郡七箇村長                           近石伝四郎
満濃池普通水利組合管理者          斎藤 助昇
香川県知事                              元田 敏夫
   意訳変換しておくと
①新設の横堰を築堤に当たっては春日井手、川添堤防を隧道口から長さ15間に渡って石垣を積んで万全を期すこと
②取人口の管理者は七箇村長に委嘱すること
③新設横堰付近の田地や堤防が洪水で損害を受けた場合には、満濃池水利組合が修繕を行うこと
④新設工事中は春日井手の水利総代が立会の上で施行すること
⑤取入口の管理費用は、満濃池普通水利組合と七筒村長が協議した上で毎年度支出額を決定すること
⑥隧道人口付近の春日井手底は「コンクリート」張りとして、漏水がないようにすること
⑦分水工事中や招来について、本協定に関する水利・土地使用について七箇村は異議を申し立てないこと。ただし、隧道修繕などの新工事を行う場合には土地使用の補償は七箇村と協議すること。
⑧本協定に従って、七箇村は工事施行者から金四千円の支払を受けること
⑨本協定成立の証明のために本書三通を作成し、関係者連署の上各一通を補完すること

県と満濃池水利組合は、満濃池取入口についての七箇村との交渉と併行して、財田川沿いの関係町村長とも協議を進めます。そして昭和2年6月に次のような合意を取り付けます。
① 満濃池への財田川からの取り入れは、毎年灌漑期終了後、翌年4月末までとする。
②財田川沿岸町村が用水を必要とする場合は、この期間をさらに制限できる。
しかし、これは関係村長との合意です。このような動きを知った財田川沿岸の水利団体は、次のように反発し長老達を突き上げます。

水利権に関する重大問題を、直接利害関係のある我々水利組合を差し置いて、町村長だけで決める権限はない。大事な水利権が侵害されようとしているのに、黙っていていいのか!

財田川沿いの水利組合の動きが気になった県は、県警察部にその動静を探らせています。その時に提出された観音寺警察署の報告書には、次のように記されています。

「観音寺町長ハ本月十五日、満濃池分水二関スル協定ノタメ、観音寺町役場二関係村長ヲ集合セシメ種々協議ノ結果、 一ノ谷、常盤両村長ハ別紙協定書ノ内容不備ナリトテ、賛意ヲ表セズ調印ヲナサザリシガ、コレガ協定状況ヲ知リタル本山、一ノ谷、常盤、財田大野及ビ観音寺町水利組合ハ、直接関係者タル水利総代二協議セズ調印シタルハ不当ナリトテ、左記改正事項ヲ記載セル陳情書ヲ本県知事二提出スベク、目下下調印中二候条、報告二及ビ候ナリ」(昭和3年7月23日付)
 
意訳変換しておくと
「観音寺町長は7月15日、満濃池分水に関する協定のために、観音寺町役場に関係村長を招集し、協議を行った。その結果、一ノ谷、常盤両村長は別紙協定書の内容は不備であるとして賛成せず調印もしなかった。また、協定状況を知っている本山、一ノ谷、常盤、財田大野と観音寺町水利組合は、直接の利害関係者である水利総代に協議せずに調印したことは不当であるとして、左記の改正事項を記載する陳情書を県知事に提出するために、目下協議中である。報告二及ビ候ナリ」(昭和三年七月二十三日付)

三豊の関係水利組合の中でも、県のやり方には従えないという動きが強かったことがうかがえます。この背景には、各水利組合に中で「物言う農民」達の存在が高まっていたことがあるようです。三豊では「不穏な情勢」が起きていたのです。

満濃池史151Pにはこのあたりの事情を「特集 しぶしぶの知事決裁」というエピソードとして載せています。これを引用しておきます。
県の場合、重要条件の決裁は先ず課員が起案し、次に係長、課長補佐、課長、部長、副知事の順で持ち上げる。最後に知事がハンコを押して決定する。昔は気に入らない条件を不承不承決裁するとき、わざとハンコを逆さまに押す上司もあった。
1927(昭和2)年、財田川の流水を満濃池に分水する問題が紛糾し、財田川沿岸の町村がこぞって反対していた頃のことである。この問題が解決しないと、県が計画した満濃池の第二次嵩上げ工事は、中止に追い込まれえう。そこで県は三豊の関係町村長を説得するため、四月六日に現地視察会を開催することとし、観音寺町長ほか九か村長に案内状を送付した。おそらく視察のあと、琴平あたりの料亭で花見を兼ねて一席設け、 一挙に分水問題を解決しようとしたのかもしれない。これに反発した町村長が申合わせて、説明会の前々日になって県内務部長あて「公務の都合上、出席出来ない」と通知してきた。 そこで県は仕方なく内務部長名で、視察延期の電報を打ったものとみえる。
「マンノウイケ  ジッチシサツノケン  エンキス」
(満濃池 実地視察の件 延期ス)
電文の起案書には、農林課長と内務部長の決裁印が押されているが、知事のハンコはない。知事の決裁欄には筆の軸尻に印肉をつけて、にじり付けたように赤丸が押してあるある。  
 今と違って当時の知事は、政府から任命された誇り高き内務省の官選知事である。県営事業の成否をかけた県の視察会を町村長にボイコットされた知事の無念さは、推して知るべし。
「お前たち、 一体何をやっていたんだ」
あらかじめ町村長に根回しも出来なかった部下の不手際に、知事は苦りきって筆の尻でしぶしぶ決裁したのではなかろうか。(平井忠志)
「マンノウイヶ デッチシサツノケン エンキス」


ここからも従来の上からの一方的な通達で運営しきれなくなった水利組合の動きがうかがえます。
ここにきてやっと県と満濃池水利組合は、財田川沿岸の31の水利組合のひつつひとつの説得を始めます。この結果、昭和3年10月21日に、やっと次のような内容で合意に至ります。
満濃池分水二関スル協定書(意訳)
財田川から満濃池への分水工事について、香川県知事と財田川下流利害関係町村と満濃池水利組合との間に、次のような事項を協定する。
① 財田川から満濃池へ分譲する用水は非灌漑時期則の11月1日から翌年4月20日までの期間の余水に限る。下流の利害関係町村で将来の耕地整理などで用水不足が起こった場合には、協議の上で取水期間を短くすることもある。但し、協議がまとまらない時には香川県知事が裁定する。
②満濃池水源取人口は七箇村春日横井から下流距離約百間ノ付近に新たな堰新設すること
 ただし、取入口や堰の新設・修繕の設計の際には、下流利害関係町村と協議を行うこと
③取人口水門には2個の錠前を設置し、鍵は常務委員が保管するものとする。
④取入水路は満濃池専用のものを新設すること。
 ただし、非灌漑時期でも下流の必要上の流量を流さないような設備を作ることはできない。
⑤春日横井からの用水は、どんな方法でも満濃池に取入ることはできない。
⑥ 取入口水門について委員四名を置く。七箇村字本目と十郷村から各1名、三豊郡下流町村から2名を選出し、委員互選で上常務委員2名を置く。常務委員は取入口水門やその他水利の状況を常に監視するものとする
⑦ 取入口水門の開閉は下流関係町村の水利実況を見た上で、前項委員立会の上で行う。
⑧ 取入口の営造物の管理については、満濃池水利組合が七筒村長に委嘱するが、七箇村長は水門の開閉やその他水利に関しては関係しないものとする。
⑨ 工事が竣功した際には、この協定の要項を記録した碑石を取入口にに建設して、永久にこれを表示して写真に残し、協定書と共に各利害関係町村で保管するものとする。
⑩ この協定に基づいて財田川下流域の利害関係者は水利保償として事施行者から金3150円の支払いを受けるものとする。
⑪ この保償金の管理・処理方法は、別に定める
以上、本協定の成立を証明するため本書14通を作成し、関係者連署上で各自1通を保管するものとする
昭和3年10月21日
三豊郡財田村長                  字野 嘉雄   
仝 財田大野村長                山川 正仲   
仝 本山村長                    関   一旦   
仝 桑山村長                    田淵箭太郎  
仝 神田村長                    近藤 明一   
仝 一ノ谷村長                  高橋長太郎  
仝 常盤村長                    安藤 家隆   
全 高室村長                    近藤 正直   
仝 観音寺町長                  宮本秋四郎  
仲多度郡十郷村字新目水利惣代   松園清太郎  
仝郡 七箇村字本目水利惣代    山下 友八   
仝郡 仝村 字久保水利惣代       田中 宮太   
三豊郡観音寺町水利土工惣代  宮本秋四郎  
仝郡 高室村大字高屋水利委員 井元 調吉   
仝郡 高室村大字高屋土工担理人  松原藤治郎  
仝郡 高室村大字高屋水利委員  五味 □重   
仝郡 常盤村大字植田水利惣代  長船 信吉   
仝郡 仝村大字村黒水利惣代      岡田 定吉   
仝郡 仝村大字流岡水利惣代  小西柚五郎  
仝郡 一ノ谷村大字吉岡        中野四万人  
仝郡  仝村大字吉岡水利惣代   中野喜四郎
全郡  仝村大字本大水利惣代    荻田 長治 
仝郡  仝村大字中田井水利惣代   大西小三郎
仝郡  仝村大字古川水利惣代   磯野安太郎
仝郡  桑山村大字岡本水利惣代   矢野芳太郎
仝郡  桑山村大字岡本水利惣代   矢野      
仝郡  本山村大字寺家水利惣代   円井甚五郎
仝郡  本山村大字寺家水利惣代   金九 弥八 
仝郡  仝村大字本大ド所水利惣代 藤田 直占 
仝郡  仝村大字本人四足水利惣代 岩本 直節 
仝郡  財田大野村大字大野上     河野長太郎
仝郡  財田大野村大宇大野上     高橋 八治 
仝郡  財田大野村大字大野L      □□小三郎
仝郡  仝村大字大野下ニ丁目水利惣代 田渕調太郎
仝郡  企村大字大野下円行水利惣代  森末庄三郎
仝郡  仝村大字大野西西光寺用水惣代  吉□ □□ 
仝郡  全村大字向                  森 多二郎 
仝郡  仝村大字財円西             伊藤弥太郎
仝郡  全村大字財田西             高木□□□
仝郡  全村人字財田西水利惣代   片木 正巳 
仝郡 神田村水利惣代                  細川 徳治  
仝郡 神田村                          細川唯五郎 
満濃池普通水利組合管理者  地方事務官 斎藤 助昇  
香川県知事                            元田 敏夫  

以上、観音寺町長ほか8ケ村の村長、33の水利惣代と、満濃池水利組合、香川県知事の間で調印されています。この調印当事者の数からみても、これらから同意をとりつけることが困難であったことがうかがえます。

協定書の⑨には「取入口に分水協定碑を建立」することが明記されています。

満濃池分水に関する協定碑
満濃池分水二関スル協定碑文(まんのう町一本松)

これに従って財田川の満濃池取入口(まんのう町一本松)に、「満濃池分水に関する協定書」の石碑が建てられます。内容は協定内容の①②③の三項だけを鋼板に刻んで石碑に埋め込んであります。4項以下は省略されているようです、この石碑はもともとは、取入口上の旧県道脇にあっようです。しかし、1967(昭和42)年に野口ダムが建設され、湖底に沈むことになったために新県道脇に移設されました。
 ちなみに財田川分水地点のすぐ下流に、野ロダムが出来ることになり、満濃池取人堰と導水トンネルの人口も、ダムの底に水没することになります。そこで以後は満濃池への取水操作は、「野ロダム管理事務所」(香川県)が実施することとなり、現在に至っています。

以上、昭和初期の満濃池の第二次嵩上げ事業に伴う財田川からの導水に至る経過をまとめておきます。
①大正末期に大型の灌漑事業に対しては、国が1/3の補助を行うことになり、それを受けて満濃池でも第二次嵩上げ事業が具体化した。
②しかし、金倉川だけからの集水では満水できないことが危惧され、財田川からの分水が計画された。
③そこで、冬期の用水を財田川の現野口ダムから隧道で満濃池に導水する計画が立案された。
④しかし、事前協議のないまま事業を進め、計画が行き詰まると「朝令暮改」の県の進め方に対して、地元農民の反発の声は高まり、水利組合の長老たちにも制御できない状況が生まれた。
⑤大正時代の小作争議を経た農民達は成長し、上意下達のそれまでのやり方に「異議あり!」という声を上げ、県の対応ぶりが問題として、水利組合や村長達を突き上げた。
⑥遅かれながら県も、三豊の水利組合などに個別に交渉を進め、何とか合意にとりつけ、財田川上流からの満濃池への用水設置工事は進められた。
⑦協定書に基づいて、石碑が作られ満濃池への用水取水口に建立された。いまは石碑は野口ダム建設のために、県道脇に移築されている。
こうして満濃池は、金倉川だけでなく財田川からの導水という手法によって、貯水量を確保することが出来るようになった。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
長谷川佐太郎 平面図
長谷川佐太郎によって再築された明治3年の満濃池
長谷川佐太郎による明治維新の満濃池再築後の課題について、以前に次のように整理しておきました。
①底樋を隧道化し、半永久的なものとした。しかし、 竪樋やユルは木製のままで定期的な交換が必要であった
②あくまで再築であり、嵩上げのは行われず貯水量は増えず、慢性的な水不足は続いた。
③用水末端エリアの多度津藩などは、水掛かりから脱退・離脱した
明治期の満濃池の最大の課題は、貯水量の増加と竪樋の改良でした。
今回は明治の第一次嵩上げ事業と、大正のレンガ取水塔について見ていくことにします。テキストは「満濃池史134P」です。幕末に決壊した満濃池は、多度津藩などが脱退したので、受益面積は35%も減りました。これで池掛り全体に水を供給できるようになったのかと思います。ところが水不足は、変わらなかったようです。これを逆に見ると多度津などの脱退地域には、以前から十分な配水が出来ていなかったことを裏付けるものとも云えます。
  次に讃岐を襲った干ばつを年表化したものをみてみましょう。
讃岐旱魃年表 近世
讃岐旱魃年表 近代
           讃岐への旱魃来襲年表

 上記の年表を見ると讃岐には明治初年から27年間に、9回もの旱魃が襲っています。これは3年に1度の割合になります。この時期の旱魃の多発化の背景には、次のような2つの新たな要因があると研究者は指摘します。
①新田開発による水田面積の増加
②サトウキビなどの商品作物栽培から水稲への作付転換増加 → 水不足
ちなみに香川県の水稲作付面積は
1889(明治22)年 31100㌶
1906(明治38)年 37500㌶
で約6400㌶増加しています。水に乏しい讃岐では、江戸時代後期に水稲に代えて節水作物の棉、砂糖きびを奨励しました。それが幕末から明治になると輸人製品に押されて価格が低迷し、サトウキビなどの大部分が水稲に転換していきます。サトウキビと綿花の作付け面積は、次のように激減します。
サトウキビ 
1865(慶応元)年 3800㌶ → 1910(明治42)年 600㌶
綿花
1889(明治22)年 2500㌶ → 1906(明治38)年 100㌶
減った分は稲作に転換されます。これにあらたな水田開発などが加わり、農業用水の年を追って逼迫します。日清戦争が勃発した1894(明治27)年には大旱魃を受けます。そして、1904年・05年にも連続して旱魃に見舞われます。旱魃になると激増するのが水争いで、社会不安まで拡がります。このような現状を治政者たちも放置できなくなり、日露戦争が終わった1906(明治38)年に満濃池の第一次嵩上げ事業」が着工します。
この事業についての要点を整理すると次の通りです。
①授業主体は「満濃池普通水利組合(明治25年設立」
②堤防を三尺(91㎝)嵩上げして、水深を2尺8寸4分(86㎝)深くし、貯水量を83万屯増加
③総貯水量は約660万屯、満水面積は、94、3㌶となった。
④堤防西端にあった余水吐を、堤防東瑞の移設し、トンネルを穿って放水路とした。
⑤旧余水吐は、弘法大師修築の遺跡「お手斧岩」として保存
⑥灌漑面積は約3861町
⑦工事費用は16761円で、明治39年1月完成
  しかし、②を見ると分かるとおり、堤防の嵩上げは1mに達せず、貯水量の増加は1割少々に留まりました。これは水需要に十分に答えられるものではありません。農民達が求めていたのは、大幅量増加だったのです。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
レンガ造りの満濃池の取水塔
 貯水量が大きく変わらない中で、大正時代になって大きく変わったのは取水塔の出現です。

軒原庄蔵の底樋隧道

幕末に決壊した満濃池は明治3年に再築されます。このときの従来との変化点は木造底樋に換わって、池の宮の岩山をトンネルで抜いて石穴底樋としたことです。しかし、 竪樋や取水櫓などは今まで通り木造でした。このため30年近く経つと木造部分が腐食し、明治31年には竪樋の取り替えを行っています。それから20年も経たない1914(大正3)年になると、再び竪樋交換が論議にあがります。
 この時の満濃池普通水利組合の管理者であったのが仲多度郡長の乾貢です。
彼は前任地の愛知県の人鹿池の取水塔方式の採用を提案します。議員達も現地視察のうえで新方式の検討を開始します。しかし、これに反対する組合員もいました。取水塔にした場合、今までの水利慣行が損なわれると危惧する人達です。具体的には江戸時代からの慣行である「樋外五十石」(樋外地域の常水の特権)と「証文水」(上流地域の用水独占使用の特権)の権利を失うエリアの人達です。
 そこで「配水塔方式になっても、旧来の水利慣行はこれを尊重し存続させる」ことを、組合議事録に明記することで反対議員を説得し、配水塔建設は議決されます。工事は1914(大正3)年9月起工、総工費18921円で、その年の11月に完成します。全高19,7m 円筒形の基底部径7,3m 上部径4,6mで、「仲多度郡史」(1918年刊行)には、次のように絶賛します。
「自然岩を基底とし、コンクリートと花崗岩を布置してその基礎を造り、煉瓦を重畳し鉄板をもって屋根とす。その構築円筒形にして……(中略)……

P1240742 レンガ取水塔

内部の中央部に直立する鉄管(径三十インチ)あり。石穴の一端に接続す。吸入鉄管(径二十四インチ)は総て七箇あり。上下適当の位置に配置して中央の立管に接続す。しかして各吸入鉄管に制水弁を備え、上部の屋内に設けたる『スタンドポスト』と称する小機によりて開閉を自由ならしむ。その機能の軽快及び放水の調節等、実に完備というべし」

P1240743 レンガ取水塔 1914年
 こうして満濃池に現れた円塔形で、赤れんがを積み上げ、三角錐の屋根をつけた姿は、ため池王国香川が全国に誇るモダンな景観として、人々に親しまれるようになります。

大正時代のユル抜き 池の宮


赤レンガ取水塔完成以前のユル抜き 池の宮の前
昔の満濃池の「ゆる抜き」は二十数人の男が取水櫓に上がり、長さ二間の桧丸太棒八本を梃子にして、「エーヤ、エーヤ」の掛け声で筆木を抜き上げていました。そんな勇壮な景観に大勢の見物人が集まり、歓声を上げたようです。取水塔の完成によって、そんな姿も昔の語り草となってしまいます。

満濃池と真野神社1916年香川県写真師組合
赤レンガ取水塔

 この取水塔は湖面から就きだした赤い屋根が印象的で、絵はがきなどにも取り上げられ、新たな観光資源になっていきます。こうして、「明治維新の底樋の隧道化 + 大正期の赤レンガ取水塔」の実現で、木造底樋や 竪樋・ゆるなどは姿を消します。300年間にわたって続けられてきた掛け替え工事から解放されることになったのです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献 「満濃池史134P」
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かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

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