瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年03月

 
阿波国府周辺
阿波国府周辺の遺跡

 阿波国府推定地については、鮎食川の扇状地上の大御和神社を中心とする地域と観音寺を中心とする地域の二説がありました。そんな中で養護学校近くの舌洗(したあらい)川の旧河道から多量の木簡が出土しました。そこに書かれた記述内容から、この周辺に国府や国衙があることが明らかになりました。今回は、出てきた木簡から、阿波国府の役割や業務などを見ていくことにします。

阿波国府は名東郡にあり 
和名類聚抄の阿波部分 各郷名も見える
テキストは「森 公章 倭国の政治体制と対外関係 300P 国宰、国司制の成立をめぐる問題  ―徳島県観音寺遺跡出土木簡に接して―」です。
倭国の政治体制と対外関係


まず、比較のために木簡を出土する国府関連遺跡を挙げておきます。
①鹿の子C遺跡出上の漆紙文書(約290点)が出てきた常陸国府
②下野国府跡(2300点強)、
③但馬国府跡関連遺跡(約230点)
④出雲国庁跡(15点)
⑤周防国府跡(約20点)
出てきた木簡の特色としては、国関連の施設であったことを裏付ける内容が含まれています。それは国内の各郡からの文書や物品が届けられていることから分かります。例えば出雲国庁跡出土の「大原評 □磯部 安□」とあって、意宇郡にあった出雲国府に大原評(郡)などからの個人情報が集められています。
阿波国府 観音寺遺跡木簡
徳島県観音寺遺跡出土の木簡

 但馬国府跡関連遺跡の木簡には、次のように記されています。
「・朝来郡/・死逃帳/天長□□(右側面)/□□三年(左側面)」
「・二方郡滴田結解/天長□〔四ヵ〕□」
このような個人情報が各郡からの文書が巻子の形で送られてきています。これらをもとにして個別人身支配の基本となる戸籍が作られたのかもしれません。

わかめ朝貢木簡
観音寺遺跡木簡 わかめが貢納されていた

観音寺遺跡から出土した木簡にも、各郡からの運ばれてきた物資の搬入を示すものがあります。
「麻殖評伎珂宍二升」
「□〔評?〕曲マ里五人」
麻殖評(郡)や板野郡津屋郷、美馬郡奏原郷などからの荷札木簡があります。阿波各郡からの物品が、ここに集められていたことが分かります。

阿波国府木簡 ミニエ うにの朝貢
観音寺遺跡木簡 がぜ(うに)も貢納されていた

 木簡には、次のような人名や年齢を記すものがあります。
井上戸主弓金口□□〔片力〕七」(名方(東)郡井上郷?)
「□子見爾年 五十四」
ここからは井上郷では戸籍が実際に作成され、人名・年齢など個人情報を国府が握っていたことが分かります。男女の名前が書かれていまので、庚午年籍の記述とも整合性があります。国司主導の戸籍作成が行われていたことが裏付けられます。
 次の木簡は、国司の国内巡行が行われていたことが分かるものです。
阿波国府木簡4
aには「□(名ヵ)方」「阿波国道口」などとあり、地域の交通要所などが列挙されています。これらの地点を目印や起点にしながら国司の各郡視察が行われていたようです。
bの「水原里」がどこにあったのかは分かりませんが、田地面積と「得」の記載があります。これは職員令大国条の国守の職掌「田宅」の規定通りに、国内巡行による検田作業が行われていたことを示すものだと調査報告書は記します。

木簡の中での徴税に関するものを見ておきましょう。

阿波国府木簡の記載
            観音寺遺跡木簡
c  波亦五十戸税三百□
  高志五十戸税三百十四束   
  佐味五十戸税三□□
古代の郷は50戸をひとつの目安にして編成されていました。
「高志五十戸税三百十四束」は、高志(郷)の50戸の税が稲束340束であったことを記すものです。報告書では50戸に課された額が310束前後というのはやや少ないとして、国府から何らかの稲を下行した記録としています。

阿波国府木簡 板野国守
            観音寺遺跡木簡

研究者が注目するのが上の木簡です。
「板野」はやや大ぶりの文字で、「国守」との間には、心持ちスペースがありますので、文章的にはここで切れていると研究者は判断します。報告書では「国守」を国司の長官の守(カミ)のこととします。そして某年四月に行われた板野評への部内巡行に際して、国守と従者の小子に対して支給された食米を記録した木簡としています。そうだとすれば、ここでも国守による国内視察が行われ、それに対して給付金が支給されていたことになります。以上のように国府遺跡から出てきた木簡は、観音寺遺跡周辺に国府があったことを裏付けます。

徳島県国府 矢野遺跡 

それでは律令時代の国司は、どのように生まれたのでしょうか。その形成過程を見ておきましょう。

  国司の古訓は「クニノミコトモチ」で、「国宰」と書かれることもありました。大宝令よりも以前の7世紀の国司は、宰や国宰と記され、長官は頭、次官は助と呼ばれていたようです。この「宰」に関しては、『日本書紀』敏達六年五月丁五条に次のように記されています。
「遣大別王与・小黒吉士・宰於百済国・王人奉命為使三韓、自称為宰、言於韓 蓋古之典乎。如今言使也。余皆倣此 大別王未詳所出也。」

『釈日本紀』巻十一・神功紀の「宰」は、これを次のように解説しています。
「私記曰く、師説、今持天皇御言之人也。故称美古止毛知」

ここからは、「宰」が特定の使命を与えられ、地方や外国などに臨時に派遣される使者がもともとの意味だったことが分かります。
以上をまとめておくと
①臨時に任命され、その時々の政治的使命を果すために地方に派遣された使者を「宰」と呼んだこと
②それが地方監督機能が強化されるにつれて、定期的に任命・派遣されるになったこと。
ここでは中央官人が一定期間・一定地域内に常駐して地方支配を統括するようになり、それが国司制の成立につながることを押さえておきます。
 その過程は、次のような段階を経たと研究者は考えています。
①皇極紀の「国司」や孝徳紀の「東国等国司」など、ミコトモチ的色彩の強い使者派遣の段階
②壬申紀に見える常駐的な「国司」を初期国宰と呼ぶこと
③それは白村江役前後の対外的緊張の高まる時期に派遣されたもので、壬申の乱後の国司に比べて、行政権以外に財政・軍事権も有する強大な存在であったこと、
④天武・持統朝頃の行政権のみを付与された存在になったこと
⑤天武朝末年の国司の管轄領域としての令制国の成立
⑥大宝令制による財政・軍事権付与による律令制的国司制の完成
 次に国府の業務内容が見える木簡を見ていくことにします。
下野国府跡木簡(延暦十年頃)には、次のように記します。

「□□□□(依ヵ)国二月十日符買進□□/□(同ヵ) 六月十三日符買進甲料皮」

ここからは甲冑製造用の皮類を購入していることが分かります。これと次の蝦夷三十八年戦争の時に出された『続日本紀』延暦九年間二月庚午(四日)条の記述内容はリンクします。

「勅為征蝦夷、仰下諸国令造革甲三千領 東海道駿河以東、東山道信濃以東、国別有数。限三箇年並令造詑」
同十年二月丙戊(二十六日)条
「仰京畿七道国郡司造甲。共数各有差」
六月己亥(十日)条
鉄甲三千領、仰下諸国、依新様修理。国別有数」
ここには蝦夷遠征の際に、中央政府は各国に甲冑2000領の提出を命じています。その命に答えるために、下野国府は甲冑用の材料を購入しているのです。中央政権の命令通りに動く国司の姿が見えます。こうして国府の仕事はいろいろな分野に及ぶようになり、そのために大量の文書が作成されるようになります。
 例えば周防国府跡の木簡には「鍛冶」と記して人名を記したものがあります。この「鍛冶」は、鉄器生産の現業部署が国府に直轄していることがうかがえます。鉄器の生産・管理も国府の役割であったようです。
 また下野国府跡の木簡には「造瓦倉所」(2165号)、「造厨」(2662号)、「検領藤所」(1213号)など「所」と書かれたものが出てきています。これらも先ほどの鉄製品と同じように国府の管轄下にあったようです。
阿波国府周辺遺跡航空写真2
阿波国府周辺
 国府と郡衙が、同じ場所にあることの意味を研究者は次のように考えています。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあって、国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。これは阿波国府と名方評(郡)家の関係と同じです。
 どうして、国府と郡家がすぐ近くに置かれたのでしょうか? 
それは中央からやってきた国宰が国府所在地の評司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰は、出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。これは8世紀以降同じで、文書逓送や部領に充てられるのは、国府所在郡の郡司の例が多く、郡散事も国府所在郡出身者が多いようです。
 『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあって「養郡」というものがあったことが分かります。「養郡」についてはよく分かりませんが、国司の在地での生活する上で、郡からの食料などの生活物資の提供に頼っていたことが考えられます。観音寺遺跡木簡からも、板野評から国宰への食米支出があったことが分かります。
 また丹波国氷上郡の郡家付属施設の木簡は、国司が氷上郡に巡行した際に病に倒れ、その病状を見るために浄名という人物(郡関係者?)が使者を派遣したことが記されています。国司が病気になったような場合でも、郡司に頼らなければならなかったのです。初期の在地勢力の制約を抜け出して国宰、国司が、どのようにして独自の権力機構を地方に築いていくかが課題となったようです。。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「森 公章 倭国の政治体制と対外関係 300P 国宰、国司制の成立をめぐる問題  ―徳島県観音寺遺跡出土木簡に接して―」

高越寺絵図1
             阿波高越山

阿波の修験道のはじまりは、高越山とされます。高越山修験とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、今までにも触れてきたのですが、今回は「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」をテキストにして見ていくことにします。

徳島の研究6

高越寺の宥尊が記述した「摩尼珠山高越寺私記」の高越寺旧記(1665(寛文五)年には次のように記します。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

これに続く部分を要約しておきます。
①役行者が大和国の吉野蔵王権現と一体分身の聖山として、千手観音として高越山を開いたこと。
②高越山が一国一峰の山として開かれたこと。
③弘法大師が修業し、二個の木像を彫ったこと。
④聖宝僧正が修業したその模様。
⑤本山の伽藍、仏像などの五項目についての記録
②の内容をもう少し詳しく見てみると、

役行者行力勇猛、達人神通、自在権化、故感二権化奇瑞、攀上此峯 択地造壇柴燈、 阿祗備行者、有衆生済度志、廻国毎国開二阿祗禰峯、其数六十六箇所、名之謂一国一峯、摩尼珠山配其云々。

意訳変換しておくと

役行者は行力勇猛で、人と神と仏を行き来し、自在に権化(変身)することができた。そこで権化や奇瑞のためには、霊峰にのぼり、その峯の上に護摩壇を築き柴燈を焚いた。 阿祗備行者は衆生救済の志を持ち、全国を廻国し国ごとに阿祗禰峯を開いた。その数は六十六箇所におよび、これを一国一峯、摩尼珠山と呼ぶ。

江戸時代初めには、高越山は以上のように自らの存在を主張していたようです。ここには阿祗爾行者が全国の名山を修験道の山として開いたことが述べられています。全国「六十六山」を「一国一峰」として開いたともあります。修験道も、全国的にその勢力を伸ばす戦略として、大峰山への人山勧誘を行うと供に、教勢拡大のために地方にも霊山を開いて、手近に登って修業のできる「名山」を開拓していたようです。しかし、いつごろから高越山が修験道の拠点となったかについてはよく分かりません。史料的に追いかけることが出来るのは、もっと後になってからのようです。
高越山の南北朝時代の動きが分かる史料を見ておきましょう。
高越山の麓に高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。その中の最も古いものが、1364(貞治三年)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す(名簿)」ということです。檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していたことが分かります。高越山周辺は修験道の聖地となり、熊野行者などの修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたとしておきます。

高越山文書からは、高越山の修験道が空海・聖宝を崇める真言修験であったことが分かります。
そのため阿波の修験道は、ほとんどが当山派に属して一枚岩の団結があったと思われがちです。しかし、どうもそうではないようです。組張り(霞・檀家区域)の確保・争奪のために、各勢力に分かれて争っていた気配があるようです。

高越山と他の山・神社の争いについて、次のような話があります。

麻植郡川田町から名西郡神山町へ越える山道がある。この間の山の峰々に山の上では見られない吉野川流域の石が散在している。これは神山の上一宮大粟神社の祭神大宜都比売命が夫である伊予の三島神社の祭神大山祗に会うために神鹿に乗って行くのを、高越山の蔵王権現が嫉妬して吉野川の石を投げたからだという。今もその氏子たちは仲が悪く、神山と川田は通婚しないという。

 もう一つは、大滝山と高越山とが、吉野川を挟んで大争闘をした時に、お互に岩の投げ合いをし、両方の山の岩がまったく入れ換わるまで投げ尽してしまったという。

このふたつの説話は、高越山修験道の置かれた状況を物語っていると研究者は深読みします。 この説話からは、阿波一国が単純に当山派に統一されたとは思えません。

南北朝の頃の阿波は、中央の政争の影響をそのまま受けます。
吉野川流域の平野部は、北朝方の管領細川氏の勢力圏です。それに対して剣山を中央にして、東西にのびる山岳地帯には南朝方についた勢力がいました。
一宮城 ちえぞー!城行こまい
小笠原氏の一宮城(神山町・大日寺背後)

そのエリアを見ると東端は一宮城の小笠原氏で、南朝の勢力は鮎喰川をさか上り、川井峠を越えて木屋平に入ります。さらに保賀山峠から一宇に入り、小島峠を越えて祖谷の菅生に至り、祖谷の山岳地帯に広がっていました。
東祖谷山地図2

祖谷の小島峠
祖谷から、さらに中津山、国見山の山脈を越え銅山川沿いに伊予の南朝方へと連らなっていましす。この山岳地帯を往来しながら連絡を取ったのは修験者(山伏)たちだったとされます。彼らは秘密の文書を髪に結い込んで、伊予の西端の三崎半島まで平野に下りることなく、山中を進んでたどり着くことができたと云います。これが修験の修行の道だったのかもしれません。あるいは熊野行者が開いた参拝道だったのかもしれません。四国各地の霊山と行場を結ぶネットワークが、この時代にはあったことを押さえておきます。それをプロの修験者を辿ると「大辺路・中辺路・小辺路」と呼ばれ、近世には「四国辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 どちらにしても、南北朝の政治勢力と阿波の修験道は結びつきます。
これは土佐の長宗我部元親が修験者勢力をブレーンとして身近に置くことにもつながります。そのブレーンの中にいた修験者が、金毘羅大権現の松尾寺を任されることになるのです。話が逸れてしまいました。元に戻ります。
高越山11
吉野川からの高越山

高越山は、山容が美しい山です。
里から見て「おむすび山」に見える山を見上げて、人々は生活し、次第にそれを霊山と崇めるようになるというのが柳田國男の説です。それが素直に、うなづけます。人々が信仰する霊山は、支配者の祈願所にもなります。支配者の信仰を受けるようになると、いろいろな保護と特権を与えらます。南北朝の頃には、中央政権の足利氏や管領細川氏の保護を受けて教勢を拡大させます。これに対して神山の焼山寺の修験道が反抗するようになります。また近世になると新しく開山された剣山修験道が高越山に対立して活動するようになります。この対立は宗派的な対立と云うよりも山岳部と平野部のちがいによる経済的状況の反映だと研究者は指摘します。
 その対立の図式は、高越山と吉野川をはさんで北側の讃岐との境にある大滝山修験道との関係で見ておきましょう。
大滝山は南朝勢力下にあったと云われますが、それを示す証拠はないようです。同じ阿讃山系の城王山には新田氏が拠城を置いて、伊笠山周辺を往来したといわれますが、その南朝勢力が西の大滝山まで及んだとかどうかは分からないと研究者は考えています。大滝山修験者と高越山は宗派的対立よりも、その間に拡がる吉野川流域の霞場(檀那区域)をめぐって対立していたとします。 ここでは、阿波の修験道の勢力構図は、高越山を中心に、それを取りまく諸山の山伏たちの対立として形成されていったことを押さえておきます。 

最初に見た高越寺の寺僧宥尊の「摩尼珠山高越私記」(1665年)には、次のように記されていました。

「役行者=大和国の吉野蔵王権現」一体分身で、
「千手千眼大悲観世菩薩」が本尊

これと忌部氏の祖先神を「本地垂述」させることに、この書のねらいはあったようです。しかし、これスムーズに進まなかったようです。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」には、次のように記されています。(要約)

「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは次のようなことが分かります。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説
②非主流派は、「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏を祖神を地神
「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったとううことが分かります。しかし、こうした争いも蔵王権現優位のうちに定着します。これも山伏修験道の道場としての性格だと研究者は考えています。同時に、忌部伝説を信仰する勢力がこの時期の高野山にはいたことを押さえておきます。

 粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」には次のように記します。
吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。

ここには吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だったとします。まさに高越山の由緒書きは、忌部氏褒賞物語でもあるようです。
ここには忌部信仰をすすめる修験者たちの思惑があったことがうかがえます。この忌部氏の祖を祀るのが、忌部神社であり、高越神社です。高越寺、高越神社ともに高越修験道の寺社として、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっていました。このように従来は、中世の忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされてきました。
 忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心とした小豪族たちでした。彼らは集団、婚姻などによって同族的結合をつよめていきます。その際に、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもつようになります。こうして擬制的血縁関係を育て、結びついていったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いていたと云います。そのうちの一回は、忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。そこで正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。ここからも忌部神社は忌部一族の結束の場としての聖地だったことがうかがえます。
 この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
彼らが残した記録をもとにして、高越山修験集団は語られてきました。私も「高越山は忌部修験道のメッカ」と書いたこともあります。しかし、これについては近年、疑問が投げかけられていることは以前にお話した通りです。
以上をまとめておきます。
①高越山は山容もよく、古代から甘南備山として信仰対象の霊山とされてきた。
②もともと高越山には、忌部一族の祖先神が奉られていた。
③そこへ役行者が吉野の蔵王権現を勧進し、千手観音として高越山を開山した。
④そのため地主神としての忌部氏の祖先神との間には、その後もギクシャクした関係が残った。
④鎌倉時代になると高越山の麓には、熊野詣での先達を行う熊野行者が集住するようになり、修験者の一大勢力が形成されるようになった。
⑤彼らは忌部一族と結びつくことによって勢力を拡大した。
⑥このような高越山修験の拡大は、大瀧山の修験者勢力などとテリトリー(霞)をめぐる対立をもたらした。
⑦これらを宗派対立と捉えるよりも、信徒集団をめぐる対立と捉えた方がいいと研究者は考えている。
⑧南北朝時代の抗争もその範疇である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」
関連記事


   
近世半ばまでの阿波の修験者たちは、高越山を中心に動いていたことを前回は見ました。そのような中で近世半ばになると剣山が開山されます。剣山は高越山に比べて高く、広く、地形も複雑で、行場となるべき所が数多くある修行ゲレンデです。修験道場としては、最適で多くの山伏を一時に多く受け入れることができました。人気の修行地となった剣山は急速に発展して、先進の高越山をしのぐようになります。こうして近世の阿波の山伏修験道は高越山・剣山の二大修験センターを道場として、阿波だけでなく、四国・淡路・備前など近国に剣山講・高越講を組織して発展することになります。今回は剣山開山を進めた木屋平の龍光寺と、祖谷の円福寺について、今まで紹介できなかったことを見ていくことにします。

徳島の研究6
テキストは「  阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P」です。

剣山は、古くから開山された山ではないようです。18世紀によって修験者が活動を始めた山で、剣山と呼ばれるようになったのも開山後のことです。それまでは「太郎笈」「立石山」「篠山」と地元では呼ばれていたようです。それが修験者によって開山されると、それらしき山名の「剣」と呼ばれるようになったことは以前にお話ししました。
 剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
①東側の木屋平村の龍光寺が、富士の池に
②西側の祖谷村菅生の円福寺が見ノ(蓑)越に
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平村の長福院龍光寺

まず龍光寺について見ていくことにします。『阿波志』に次のように記します。
「(木屋)平村谷口名に在り、平安大覚寺に隷す。旧長福寺と称す。大永二年(532)重造する。享保二年(1717) 今の名に改む。其の甚だしくは遠からざるを以って、剣祠を祀る」

意訳変換しておくと

「龍光寺は木屋平村の谷口名にある寺で、京都の大覚寺に属す。旧名は長福寺で、大永二年(532)の建立である。それが享保二年(1717)に、今の名に改められた。この寺では、それほど古くからではないが剣(神社)祠を祀る別当職を務めている。」

龍光寺は、享保二年(1717)までは長福寺と呼ばれていました。
 長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つとされます。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
   龍光寺への寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクします。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」や「篠山」は、どこにでもある平凡な山名です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は軌道に乗ります。
ところが後世の『阿波名勝案内』には、次のように記します。
「弘仁五年(八一四)弘法大師の開基にかかり、利剣山長福寺と号す。伝え言ふ安徳天皇の蒙塵に当り、当寺に行在所を設け以って安全を祈り、平国盛一族中剃染して竜光房と名づけ、寺号をも龍光寺と改む。剣権現の本寺。」
意訳変換しておくと
「弘仁五年(814)に弘法大師が開基し、利剣山長福寺と号する。伝え聞くところに拠ると源平合戦で安徳天皇が当地に落ちのびてきた際には、当寺に行在所を設けた。その際に、平国盛は天皇の安全を祈って、一族が剃髪して竜光房と名乗り、寺号を龍光寺と改めた。剣山権現社(神社)の本寺(別当寺)である。」
 
ここでは平国盛の「平家落人伝説」が付け加えられています。そして、安徳天皇伝説ともリンクさせます。こういう手法は、修験者や山伏の特異とする所です。ここでは、次のような伝説が付け加えられています。
①空海開基で、長福寺と号した。
②平家伝説を取り込み、平国盛が剃髪して竜光房と名乗ったので、寺号も龍光寺と改めたこと。
結果的に、龍光寺への寺名変更が、鎌倉時代まで引き下げられます。
木屋平 富士の池両剣神社
富士の池周辺
  江戸時代の龍光寺の「剣山開発プロジェクト」の目玉として取り組んだのが、富士(藤)の池周辺の施設整備です。

剣山 龍光寺は、弘法大師により密教が開祖された四国八十八カ所の総奥の院

龍光寺は、剣山頂上の法蔵岩直下の剣神社の管理権を持っていました。その北側斜面の石灰岩の岩穴や岩稜が修行場でした。その剣修行のベースキャンプとして建設されたのが八合目の藤の池の「富士(藤)の池本坊」です。ここが山頂の剱祠の祀る剱山本宮になります。こうして多くの参拝信者を集めるようになり、龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
木屋平 宗教的概観
文化9年の木屋平村の権現
龍光寺が別当寺であった剣神社(剣山本宮)を見ておきましょう。
 その「由緒」には、次のように記します。(要約)
「元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人である田口左衛門尉成直は、父の阿波国主紀民部成長と相談して、安徳天皇一行を長門の壇浦より、伊予大三島へ落ちのびさせて、その後伊予と阿波の山路を伝って祖谷山に導き入れた。その後、木屋平村に遷幸したと伝える。
 後世になって、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫は相談して、富士の池を仮の行在所とした。また平家の再興を祈って、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以後はこの山を剣山と称するようになった。
 (中略)仏教の伝来とともに修験道の霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。」
ここに書かれていることを要約すると
①安徳天皇一行は、壇ノ浦から大三島を経て祖谷に落ちのびてきて、最後に木屋平村に遷幸した。
②平家の子孫は、平家の再興を祈って富士(藤)の池を仮の行在所とし、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。
③龍光寺の開祖は行基である。

もともと平家落人伝説と安徳天皇伝説は、祖谷地方に伝えられたものです。それを「安徳天皇が木屋平村に遷幸」として、伝説の本家取りをしています。先ほど見たように、龍光寺が剣山を開山し、権現さまを奉ったのは18世紀になってからです。また富士の池を開発したのは、さらに後のことになります。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年木屋平村の宗教景観
徳島氏方面の平野部から剣山に登るには、木屋平を目指しました。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

昔はもっとあったとようです。西側の拠点円福寺翼下一万人といわれる先達よりもはるかに多くの修験者を、龍光寺は支配下に持っていたことを押さえておきます。

円福寺 祖谷山菅生
円福寺(東祖谷山村菅生)
剣山修験の西の拠点は、東祖谷山村菅生の円福寺でした。
円福寺は菅生氏の氏寺で、この寺も「忌部十八坊」の一つとされます。現在本尊とするのは江戸時代の作といわれる不動明王(剣山大権現)です。しかし、「阿波誌」に「元禄中(1688~1703)繹元梁、重造阿弥陀像を安ず」とあります。ここからは、もともとは本尊は阿弥陀如来であったことが分かります。それがどこかの時点で、修験者の守り仏ともされる不動明王に入れ替えられたようです。それは、この寺に住持した修験者が行ったことと私は考えています。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
円福寺のもともとの本尊 阿弥陀如来像

 木屋平の龍光寺が富士の池に登攀センターを建設したように、円福寺も見ノ(蓑)越に、不動堂を建立します。

剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺
これが現在の「見ノ越の円福寺」のスタートになります。本尊は安徳天皇像を剣山大権現として祀り、両側に弘法大師像と供利迦羅明王像を配します。見ノ越の円福寺は、もともとは菅生の円福寺の不動堂として建立されました。ところが貞光側からの、見ノ越への登山道が整備されると、先達に引き連れられた信者達は、このルートを使って見ノ越の円福寺にやって来るようになります。それまで祖谷経由のルートは、距離が長いので利用者が少なくなります。その結果、参拝者が立ち寄らなくなった本家の菅生・円福寺は衰退していきます。こうして、現在では円福寺と云えば見ノ越の寺を指すようになったようです。
 神仏混淆化で円福寺が別当として管理していたのが剣神社(旧剣権現)です。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。

「口碑に仁和時代へ九世紀末)」の創立。祖谷山開拓の際に、大山祗命を勧進して祖谷山の総鎮守とする。寿永年中(1185)、源平合戦に敗れた平家の一族が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の『深そぎの御毛』と『紅剣』を大山祗命の御社に奉納。以来剣山と呼ばれ、神社も剣神社と称されるようになった。」

現在のHPには、別当寺の西福寺の管理下にあったことは一言も触れられていません。もともとは円福寺の社僧が管理する剣権現だったことを押さえておきます。剣神社の先達(出験者)たちも信者を連れて剣山北面の「鎖の行場」「不動の岩屋」「鶴の舞」「千筋の手水鉢」「引日舞」「蟻の塔渡り」などの行場で修業します。ちなみに剣神社の本社が、御塔石(おとうせき)を御神体とする大剣神社(おおつるぎじんじゃ)になるようです。
伴信友の『残桜記』には、大剣神社のことが次のように記されています。(意訳)

東祖谷山村と菅生の境界になる剣山頂上に鎮座する剣神社のある所は、木屋平村のものとも、また東祖谷山村のものとも云われ諍いが起きる原因となっていた。そこで明治初年頃に、美馬麻植郡の神職が剣神社の祭典に出社した際に、拝殿の中央に線を引き、これを境界とした。そして線の内側にあったものを、それぞれの村が収入した。その後、明治九年に郡界標石が建設され、以来今まで木屋平村のものとされていた山上の剣神社は祖谷山村に属することになった。

ここからは、拝殿の中央に線を引いて境界として、両者が共同管理していた時期があったことが分かります。これを剣神社をめぐる祖谷の円福寺と木屋平の龍光寺の対立とみることも出来ます。しかし、研究者は次のような別の視点を教えてくれます。

 当山派・本山派共に大峰山を聖地として共有している。金峰山は金剛界を、熊野三山は胎蔵界を現わし、その中心である大峰山はこの二つを統一する一乗両部の峰であり、画部不二の曼陀羅の霊地である。そこで両派とも大峰山に結縁することを本願とする。こうした両派の発想と剣山頂上を聖地として共有しようとする阿波修験道の意図と等しい。

龍光寺と円福寺は競い合い、対立を含みながらも、剣山を聖地とする修験者の行場をともに運営していたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P
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稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡の建物配置図
   稲木北遺跡は、図のように掘立柱建物群が、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたことをお話しました。その特徴は以下の通りです。
①大型の掘立柱建物跡8棟の同時並立。
②そのまわりを大型柵列跡が囲んでいること
③建物跡は多度郡条里ラインに沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向の左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤基準線から対象に建物跡が建っている
⑥中央の建物が中核建物で庁舎
⑦柵外には総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土土器の時期幅が、ごく短期間に限られているので、実質の活動期間が短い
以上からは、稲木北遺跡が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的に設計されていることが分かります。「正倉が出たら郡衙と思え」ということばからすると、ほぼ郡衙跡にまちがいないようです。

稲木北遺跡との比較表

稲木北遺跡をとりまく状況について研究者は報告会で、次のように要約しています。

稲木北遺跡2
稲木北遺跡をめぐる状況
  交通路については、かつては南海道がこのあたりを通って、鳥坂峠を越えて三豊に抜けて行くとされていました。しかし、発掘調査から南海道は「飯山高校 → 郡家宝幢寺池 → 善通寺市役所」のラインで大日峠をこえていくと、研究者達は考えるようになっています。しかし、鳥坂峠は古代においても重要な戦略ポイントであったようです。

稲木北遺跡 多度郡条里制
南海道と条里制
稲木北遺跡は多度郡の中央部にあたります。ここを拠点にした豪族としては、因支首氏がいます。この郡衙を建設した第一候補に挙げられる勢力です。
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓申請の結果、和気公が賜姓された記事があります。また、その時の申請資料として作成された「和気氏系図(円珍系図)」が残されています。この系図は、実際には因支首氏系図と呼んでもいい内容です。この系図に載せられた因支首氏を見ていくことにします。
円珍系図 那珂郡
広雄が円珍の俗名です。その父が宅成で、その妻が空海の妹とされます。父の弟が「二男宅麻呂(無児)」で、出家し最澄の弟子となる仁徳です。円珍の祖父が道麻呂になります。ここからは、那珂郡には道麻呂・宅主・秋主の3グループの因支首氏がいたことが分かります。国司が中央に送った「讃岐国司解」で和気氏への改姓が許されたのは、那珂郡では、次の人達です。
道麻呂の親族 8名
道麻呂の弟である宅主の親族 6名
それに子がいないという金布の親族 1名
次に多度郡の因支首氏を見ておきましょう。

円珍系図2


国益の親族 17名
国益の弟である男綱の親族    5名
国益の従父弟である臣足の親族  6名
多度郡にも3つのグループがあります。那珂郡と多度郡をあわせて6グループ43名に賜姓がおよんでいます。

 因支首氏は、金蔵寺を氏寺として創建したとされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。
それを裏付けるような遺跡が金蔵寺周辺から永井・稲木北にかけていくつか発掘されています。因支首氏が那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったことが裏付けられます。
 地元では、空海と円珍の関係が次のようによく語られています。

「円珍の父・宅成は、善通寺の佐伯直氏から空海の妹を娶った、そして生まれのが円珍である。そのため空海と円珍は伯父と甥の関係にある。」(空海の妹=円珍の母説)

確かに、因支首氏と佐伯直氏の間には何重にも結ばれた姻戚関係があったことは確かです。しかし、金倉寺の因首氏が、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったという記事には首を傾げます。金倉寺は那珂郡で、善通寺や稲木は多度郡なのです。行政エリアがちがいます。ここでは因支首氏の中にも、那珂郡の因支首氏と、多度郡の因支首氏があって、円珍もこのふたつをはっきりと分けて考えていたことを押さえておきます。一族ではあるが、その絆がだんだん薄れかけていたのです。
 円珍系図が作られれてから約500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。「稲毛」は因岐首氏の 「因岐」からの転化のようです。ここからは「稲毛」という地名が残っている良田郷が多度郡の因岐首氏の本拠地であったことになります。そうだとすれば、稲木北遺跡は良田郷に属するので、8世紀初頭に因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は、さらに高くなります。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図
         円珍系図 忍尾別(わけ)君
 円珍系図には因支首氏の始祖とされる忍尾別(わけ)君が伊予国からやってきて、因岐首氏の娘と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったと記します。
しかし、忍尾別(わけ)君は伊予和気氏の系譜に、因支首氏の系譜を「接ぎ木」するための創作人物です。実際の始祖は、7世紀に天武政権で活躍した「身」と研究者は考えています。因支首氏は、7世紀半ばの「身」の世代に那珂郡の金倉寺周辺拠点を置いて、そこから多度郡の永井・稲木方面に勢力を伸ばしていったとしておきます。
そして、伊予からやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は推測します。
こうして、因岐首氏によって開発と郡衙などの施設が作られていきます。
稲木北遺跡の周辺遺跡
稲木遺跡周辺の同時代遺跡

稲木北遺跡について研究者は次のように評します。

「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

 ここで私が気になるのが以前にお話した曼荼羅寺です。
曼荼羅寺は、吉原郷を勢力下に置く豪族Xの氏寺として建立されたという説を出しておきました。今までの話から、その豪族Xが多度郡を基盤とする因支首氏ではなかったのかと思えてくるのです。那珂郡と多度郡の因支首氏がそれぞれ独立性を高める中で、それぞれの氏寺を建立するに至ったという話になります。これについては、また別の機会に改めてお話しします。

新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、稲木北の郡衙的施設は作られたという説を紹介しました。
 しかし、この施設には、次のような謎があります。
①使用された期間が非常に短期間で廃棄されていること
②土器などの出土が少く、施設の使用跡があまりないこと
③郡衙跡にしては、硯や文字が書かれた土器などが出てこないこと
ここから、郡衛として機能したかどうかを疑う研究者もいるようです。
  稲木北遺跡の建築物群は、奈良時代になると放棄されています。
その理由は、よく分かりません。多度郡の支配をめぐって佐伯直氏の郡司としての力が強化され、善通寺の郡衙機能の一元化が進んだのかも知れません。

以上をまとめておきます
①稲木北遺跡は多度郡中央部に位置する郡衙的遺跡である。
②この郡衙の建設者としては、多度郡中央部を拠点とした因支首氏が考えられる
③因支首氏は9世紀の円珍系図からも那珂郡や多度郡に一族がいたことが分かる。
④因支首氏は、7世紀半ばにその始祖がやって来て、天智政権で活躍したことが円珍系図には記されている
⑤新興勢力の因支首氏は、金倉方面から永井・稲木方面に勢力を伸ばし、那珂郡と多度郡のふたつに分かれて活動を展開した。
⑥その活動痕跡が、稲木北の郡衙遺跡であり、鳥坂峠の麓の西碑殿遺跡、矢ノ塚遺跡の物資の流通管理のための遺跡群である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年
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4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺(因支首氏の氏寺)
  子供の頃に金倉寺にお参りに行ったときに、次のような話を祖母から聞いたおぼえがあります。

「このお寺は智証大師が建てたんや。大師というのはお坊さんの中で一番偉い人や。大師を一番多く出しているのは讃岐や。その中でも有名なのが弘法大師さんと智証大師や。ほんで、智証大師のお母さんは、弘法大師さんの妹やったんや。善通寺の佐伯さんとこから、金倉寺の因支首(いなぎ:地元では稲木)さんの所へ嫁いできて、うまれたのが智証大師や。つまり弘法大師さんと智証大師は、伯父と甥の関係ということや。善通寺と金倉寺は親戚同士の関係や」
智証大師 金倉寺
智証大師(金倉寺蔵)
   本当に円珍(智証大師)の母は、空海の妹なのでしょうか? 
今回はそれを史料で見ておくことにします。 テキストは「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」です。
  まず佐伯直氏について、押さえておきます。
805(延暦24年)9月11日付の「太政官符」には、次のように記します。

空海 太政官符2
空海延暦24年の太政官符
ここからは次のような事が分かります。
①空海の俗名は、真魚
②本貫は、多度郡方(弘)田郷の戸主佐伯直道長の戸口
③空海が延暦22年4月9日に出家していること
これに対して『三代実録』貞観三年十一月十一日辛巳条には、次のように記します。
「讃岐国多度郡人故佐伯直田公……而田公是僧正父也」

ここには「田公是僧正父也」とあって、空海の父を佐伯直田公と記します。ふたつの史料の内容は、次の通りです。
①太政官符は空海(真魚)の戸主=佐伯直道長
②『三代実録』では空海の父 =佐伯直田公
つまり、空海の戸主と父が違っていることになります。今では、古代の大家族制では何十人もがひとつの戸籍に登録されていて、戸主がかならずしも、当人の父でなかったことが分かっています。それが古代には当たり前のことでした。しかし、戸主権が強くなった後世の僧侶には「戸主と父とは同一人物でなければならない」とする強迫観念が強かったようです。空海の父は道長でなければならないと考えるようになります。
空海系図 伴氏系図
伴氏系図

その結果、『伴氏系図』のように空海の父を道長とし、田公を祖父とする系図が偽作されるようになります。そして円珍と空海の続柄を、次のように記します。
 
空海系図 伴氏系図2

この系図では、次のように記されています。
田公は空海の祖父
道長が父
空海の妹が円珍の母
空海は円珍の伯父
これは先ほど見た太政官符と三代実録の記述内容の矛盾に、整合性を持たせようとする苦肉の策です。
こうした空海と円珍の続柄が生れたのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』に由来するようです。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の妹」とは記されていないことです。「空海の姪」です。しかし、ここで『伴氏系図』の作者は、2つの意図的誤訳を行います。
①Bの主語は、円珍の母であるのに、Bの主語を円珍とした
②そしてBの「姪」を「甥」に置き換えた
当時は「姪」には「甥」の意味もあったようでが、私には意図的な誤訳と思えます。こうして生まれたのが「円珍の母=空海の姪」=「円珍=空海の甥」です。この説が本当なのかどうかを追いかけて見ることにします。
研究者は空海の門弟で、同族の佐伯直氏であった道雄(どうゆう)に注目します。

空海系図 松原弘宣氏は、佐伯氏の系図

道雄とは何者なのでしょうか? 道雄は上の松原氏の系図では、佐伯直道長直系の本家出身とされています。先ほども見たように、佐伯直道長の戸籍の本流ということになります。ちなみに空海の父・田公は、傍流だったことは以前にお話ししました。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 承和十四年拝律師 嘉祥三年転権少僧都 会病卒。初道雄有意造寺。未得其地 夢見山城国乙訓郡木上山形勝称情。即尋所夢山 奏上営造。公家頗助工匠之費 有一十院 名海印寺 伝華厳教 置二年分度者二人¨至今不絶。

意訳変換しておくと
権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。また閣梨空海から真言教を受けた。承和十四年に律師を拝し 嘉祥三年には権少僧都に転じ、病卒した。初め道雄は意造寺で修行したが、その地では得るものがなく迷っていると、夢の中に山城国乙訓郡木上山がふさわしいとのお告げがあり、夢山に寺院を建立することにした。公家たちの厚い寄進を受けて十院がならぶ名海印寺建立された。伝華厳教 二年分度者二人を置く、至今不絶。(以下略)

ここには道雄の本貫は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海に師事したことが分かります。また、円珍と道雄との関係にも何も触れていません。ちなみに「和尚慈勝に師事して唯識論を受け」とありますが、和尚慈勝は多度郡の因支首氏出身の僧侶であったようです。この人物については、また別の機会に触れたいと思います。
道雄については朝日歴史人物辞典には、次のように記されています。

平安前期の真言宗の僧。空海十大弟子のひとり。空海と同じ讃岐多度郡の佐伯氏出身。法相宗を修めたのち,東大寺華厳を学び日本華厳の第7祖となる。次いで空海に師事して密教灌頂を受け,山城乙訓郡(京都府乙訓郡大山崎町)に海印寺を建立して華厳と真言の宣揚を図った。嘉祥3(850)年,道雄,実慧の業績を讃えて出身氏族の佐伯氏に宿禰の姓が与えられた。最終僧位は権少僧都。道雄の動向は真言密教と華厳,空海と東大寺の密接な関係,および空海の属した佐伯一族の結束を最もよく象徴する。弟子に基海,道義など。<参考文献>守山聖真編『文化史上より見たる弘法大師伝』

以上から道隆についてまとめておくと、次のようになります。
①讃岐佐伯直道長の戸籍の本家に属し
②空海に師事した、空海十大弟子のひとり
③京都山崎に海印寺を建立開祖

これに対して「弘法大師弟子譜」の城州海印寺初祖贈僧正道雄伝には、次のように記されています。

僧正。名道雄。姓佐伯宿禰。讃州多度郡人。或曰 円珍之伯父

意訳変換しておくと
道雄の姓は佐伯宿禰で、本貫は讃州多度郡である。一説に円珍の伯父という説もある。

「或日」として、「道雄=円珍の伯父」説を伝えています。「弘法大師弟子譜」は後世のものですが、「或曰」としてのなんらかの伝えがあったのかもしれません。ここでは「道雄=円珍伯父説」があることを押さえておきます。
次に、田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』を見ておきましょう。
空海系図 正道雄伝

この系図にしたがえば、「円珍の母は空海の姪」になります。そうすると、空海は円珍の従祖父ということになります。空海は、774(宝亀五年)の生まれで、円珍は814(弘仁五年)の誕生です。ふたりの間には40年の年代差があります。これは空海が円珍の従祖父であったことと矛盾しません。
 これに先ほど見た「道雄=円珍伯父説」を加味すると、「円珍の母は道雄の妹」であったことにもなります。
つまり、円珍の母の母親(円珍の外祖母)は、空海と同族の佐伯直氏の一員と結婚し、道雄と円珍の母をもうけたことになります。これを「円珍の母=道雄の妹説」とします。同時に道雄と空海も、強い姻戚関係で結ばれていたことになります。
「円珍の母=道雄の妹説」を、裏付けるような円珍の行動を見ておきましょう。円珍は『行歴抄』に、次のように記します。(意訳)
①851(嘉祥四年)4月15日、唐に渡る前に前に円珍が平安京を発って、道雄の海印寺に立ち寄ったこと
②858(天安二年)12月26日、唐から帰国した際に、平安京に入る前に、海印寺を訪れ、故和尚(道雄)の墓を礼拝し、その夜は海印寺に宿泊したこと
 海印寺 寂照院墓地(京都府長岡京市)の概要・価格・アクセス|京都の霊園.com|【無料】資料請求
海印寺(長岡京市)
海印寺は、道雄が長岡京市に創建した寺です。円珍が入唐前に、この寺に立ち寄ったのは、道雄に出発の挨拶をするためだったのでしょう。その日は、851(嘉祥四年)4月15日と記されているので、それから2カ月も経たない851(仁寿元年)6月8日に、道雄は亡くなっています。以上から、円珍が入唐を前にして海印寺を訪れたのは、道雄の病気見舞も兼ねていたようです。そして円珍が唐から帰国して平安京に入る前に、海印寺に墓参りしています。これは墓前への帰国報告だったのでしょう。この行動は、道雄が円珍の伯父であったことが理由だと研究者は推測します。
1空海系図2

 ここからは、円珍・道雄・空海は、それぞれ讃岐因支首氏や、佐伯直本家、分家に属しながらも、強い血縁関係で結ばれていたことが分かります。空海の初期集団は、このような佐伯直氏や近縁者出身者を中心に組織されていたことが見えてきます。
 最後に「円珍の母=空海の妹」は、本当なのでしょうか?
これについては、残された資料からはいろいろな説が出てくるが、確定的なことは云えないとしておきます。
以上をまとめておきます。
①円珍伝には「円珍の母=空海の姪」と記されている。
②これを伴氏系図は「円珍=空海の姪(甥)」と意図的誤訳した。
③佐伯直氏の本家筋の道雄については「道雄=円珍の伯父」が残されている。
④「佐伯直系図」には「円珍の母=道雄の妹」が記されている。
⑤ ③と④からは、円珍の母は空海の姪であり、「空海=円珍の従祖父説」が生まれる。
空海系図 守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』
守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』の空海系図
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智証大師伝の研究(佐伯有清) / 金沢書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 
「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」

以前に円珍系図のことを紹介したのですが、「むつかしすぎてわからん もうすこしわかりやすく」という「クレーム」をいただきましたので「平易版」を挙げておきます。

伝来系図の2重構造性
 
系図を作ろうとすれば、まず最初に行う事は、自分の先祖を出来るだけ古くまでたどる。こうして出来上がるのが「現実の系図」です。個人的探究心の追求が目的なら、これで満足することができます。しかし、系図作成の目的が「あの家と同族であることを証明したい」「清和源氏の出身であることを誇示したい」などである場合はそうはいきません。そのために用いられるのが、いくつかの系図を「接ぎ木」していくという手法です。これを「伝来系図の多重構造」と研究者は呼んでいるようです。中世になると、高野聖たちの中には、連歌師や芸能者も出てきますが、彼らは寺院や武士から頼まれると、寺の由来や系図を滞在費代わりに書残したとも言われます。系図や文書の「偽造プロ」が、この時代からいたようです。
 系図として国宝になっているのが「讃岐和気氏系図」です。
私は和気氏系図と云ってもピンと来ませんでした。円珍系図と云われて、ああ智証大師の家の系図かと気づく始末です。しかし、円珍の家は因支首(いなぎ:稲木)氏のほうが讃岐では知られています。これは空海の家が佐伯直氏に改姓したように、因支首氏もその後に和気氏に改姓しているのです。その理由は、和気氏の方が中央政界では通りがいいし、一族に将来が有利に働くと見てのことです。9世紀頃の地方貴族は、律令体制が解体期を迎えて、郡司などの実入りも悪くなり、将来に希望が持てなくなっています。そのために改姓して、すこしでも有利に一族を導きたいという切なる願いがあったとしておきます。
 それでは因支首氏の実在した人物をたどれるまでたどると最後にたどりついたのは、どんな人物だったのでしょうか?

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板

それは円珍系図に「子小乙上身」と記された人物「身」のようです。
その註には「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは、身は難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。もうひとつの情報は「小乙上」が手がかりになるようです。これは7世紀後半の一時期だけに使用された位階です。「小乙上」という位階を持っているので、この人物が大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物であることが分かります。身は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられ、因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。この身が実際の因支首氏の始祖のようです。
 しかし、これでは系図作成の目的は果たせません。因支首氏がもともとは伊予の和気氏あったことを、示さなくてはならないのです。
そこで、系図作成者が登場させるのが「忍尾」です。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、系図制作者は忍尾を始祖としていていたことが分かります。忍尾という人物は、円珍系図にも以下のように出てきます。
    
円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」
意訳変換しておくと
この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った
 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったと云うのです。だから、もともとは我々は和気氏であるという主張になります。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。綾氏系図にも用いられたやり方です。
円珍系図  忍尾と身


つまり、讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれているのです。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の系図(所伝)によってこの部分は作られた疑いがあると研究者は指摘します。ちなみに、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちになるようです。

以上を整理しておくと
①因岐首系図で事実上の始祖は、身で天智政権で活躍した人物
②伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作し、登場させたのが忍尾別君
③忍尾別君は「別君」という位階がついている。これが用いられたのは5世紀後半から6世紀。
④忍尾から身との間には約百年の開きがあり、その間が三世代で結ばれている
⑤この系図について和気氏系図は失われているので、事実かどうかは分からない。
⑥それに対して、讃岐の因支首氏系図については、信用がおける。
つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえそうです。
  伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えています。
それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の実際の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


善通寺宝物館蔵の「一円保絵図」(1307年)には、曼荼羅寺が描かれています。
一円保絵図 5
善通寺一円保絵図(1307年)

ここに描かれているのが東寺の善通寺の一円保(寺領)です。善通寺を中心に、北東は四国学院、南は「子供とおとなの病院」あたりまでを含みます。よく見ると、西側の吉原郷には曼荼羅寺周辺や鳥坂あたりにまでに飛び地があること、曼荼羅寺は我拝師山の麓に描かれ、その寺の周辺には集落が形成されていることなどが見て取れます。

善通寺一円保の位置
一円保絵図の曼荼羅寺周辺部分
曼荼羅寺周辺を拡大してみると、次のような事が見えてきます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
一円保絵図の曼荼羅寺周辺(拡大)

①まんたら(曼荼羅)寺周辺にも条里制地割が見え、30軒近くの集落を形成していること
②曼荼羅寺周辺には、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」「小森」「畠五丁」と註があること。
③火山周辺には、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」と註があること
④一番西側(右)の「よしわらかしら(吉原頭)」が、現在の鳥坂峠の手前辺りであること。

①②の曼荼羅寺周辺については、ここが「小森」と呼ばれ、「畠五丁」ほどの耕地が開かれ、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」の領地であったことがうかがえます。
③火山の麓にも集落があって、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」という宗教施設とがあり、「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」であったようです。
④の「よしわらかしら(吉原頭)」にも集落がありますが、このエリアの条里制地割の方向が他と違っていることを押さえておきます。
なお、我拝師山周辺に山林修行者の宗教施設らしきものは見当たりません。それはこの一円保絵図が水争いの控訴史料として描かれたためで、それ以外の要素は排除したためと研究者は考えています。

一円保絵図 曼荼羅寺6

善通寺一円保を地図上に置いた資料
  ここで私が注目したいのは、④の「よしわらかしら(吉原頭)」の条里制ラインがズレていることですです。
曼荼羅寺周辺も多度郡の条里制地割ラインとは、異なっていることが見て取れます。この条里制地割のズレについて見ていくことにします。資料とするのは次のふたつです。
A「讃岐善通曼荼羅寺寺領注進状」(1145(久安元)年(1145)
B「善通寺一円保絵図」(1307(徳治2)年
Aには多度郡条里地割の坪付呼称が記され、さらに曼荼羅寺の坪ごとの土地利用状況が記されています。この2つの資料を元に曼荼羅寺周辺の小区画条里坪付けを研究者が復元したのが下図です。

上側が多度郡条里プランで、下が曼荼羅寺寺領になります。
多度郡条里制と曼荼羅寺

ここからは次のようなことが分かります。

①曼荼羅寺周辺の地割(下側)と、一円保絵図の多度郡条里プラン(上側)がズレていること
②曼荼羅寺周辺の地割が東西の坪幅が狭まく描かれていること。
ここからは、先ほど見たように吉原頭以外の曼荼羅寺周辺でも、多度郡条里プランとのズレがあることが分かります。つまり吉原郷には、独自に引かれた条里プランがあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 具体的には曼荼羅寺周辺の地割が、いつ頃、どんな経緯で引かれたのかということです。それを考えるために、7世紀後半に讃岐で行われた大規模公共事業をみておきます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加していくことがヤマト政権に認められ、郡司などへの登用条件となりました。地方の有力豪族達は、ある意味で中央政府の進める大土木行事の協力度合いで、政権への忠誠心が試されたのです。これは秀吉や家康の天下普請に似ているかもしれません。讃岐では、次のような有力豪族が郡司の座を獲得します。
①阿野郡の綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城や陶に須恵器生産地帯をつくり、都に提供すること実績を強調。
②三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯で生産した瓦を、藤原京に大量に提供し、技術力をアピール
③多度郡の佐伯氏は、従来の国造の地位を土台に、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示す。
 この時代の地方の土木工事は、郡司や地方有力者が担いました。そうすると多度郡条里制の施行工事も、周辺の有力豪族の手によって行われたはずです。多度郡南部の善通寺周辺を担当したのは佐伯氏でしょう。そして、我拝師山北側の吉原郷を担当したのがX氏としておきます。X氏は、前回述べたように古墳時代には、青龍古墳や巨石墳の大塚池古墳を築いた系譜につながる一族が考えられます。

一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図を取り巻く郷
私は曼荼羅寺とその周辺条里制の関係について、次のように推測しています。
①7世紀末の多度郡条里制地割ラインが引かれて、その工事を周辺の有力者が担当する。
②その際に、工事が容易な地帯が優先され、河川敷や台地は除外された。
③除外された台地部分に曼荼羅寺周辺のエリアも含まれていた。
④その後、吉原郷のX氏は氏寺である曼荼羅寺を建立した。
⑤さらに寺域周辺の台地の耕地開発すすめ、そこに独自の条里制地割を行った。

平地で造成がしやすいエリアから条里制地割工事は始められ、中世になっても丸亀平野では達成比率は60%程度だったということは以前にお話ししました。一挙に、条里制地割工事は行われたわけではないのです。台地状で工事が困難な曼荼羅寺周辺は開発が遅れたとことが考えられます。ちなみに曼荼羅寺周辺の南北方向の「小区画異方位地割」の範囲は、現状の水田化に適さない傾斜地の広がりとも一致するようです。
 我拝師山のふもとの吉原郷の台地に現れた曼荼羅寺のその後を姿を見ておきましょう。 
11世紀半ばの曼荼羅寺の退転ぶりを、勧進聖善芳は次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺に滞在しました。ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
ここからはそれ以前に「五間四面の瓦葺の講堂・多宝塔・別堂」などの伽藍が揃った寺院があったことが分かります。その退転ぶりを見て善芳は涙を流し、何とかならぬものかと自問します。そこで善芳は国司に勧進協力を申し入れ、その協力をとりつけ用材寄進を得ます。その資金を持って安芸国に渡って、材木を買付けて、講堂一宇の改修造建立を果たしたと記します。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動です。
以上を仮説も含めてまとめておくと
①善通寺エリアの佐伯氏とは別に、吉原郷には有力豪族X氏がいた。
②X氏の氏寺が古代寺院の曼荼羅寺である。
③律令体制の解体と共に、郡司クラスの地方豪族は衰退し、曼荼羅寺も退転した。
④退転していた曼荼羅寺を、11世紀後半に復興したのが遍歴の勧進聖たちであった。
⑤その後の曼荼羅寺は、悪党からの押領から逃れるために東寺の末寺となった。
⑥東寺は、善通寺と曼荼羅寺を一体化して末寺(荘園)として管理したので、「善通・曼荼羅両寺」よ呼ばれるようになった。

曼荼羅寺の古代変遷

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は曼荼羅寺が、11世紀後半に廻国の山林修験者たちの勧進活動によって復興・中興されたことを見てきました。その中で勧進聖達が「大師聖霊の御助成人」という自覚と指命をもって勧進活動に取り組んでいる姿が見えてきました。これは別の言い方をすると、「弘法大師信仰をもった勧進僧達による寺院復興」ということになります。それは現在の四国霊場に「弘法大師信仰」が接ぎ木される先例として捉えることができます。そんな思惑で、弘法大師の伝記『行状集記』に載せられている四国の3つの寺、讃岐の善通寺・曼荼羅寺と阿波の太龍寺、土佐室戸の金剛頂寺の11世紀の状況を見ていくことにします。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」です。
この3つの寺に共通することとして、次の2点が指摘できます。
①弘法大師の建立という縁起をもっていること
②東寺の末寺であったこと
まず土佐室戸の金剛頂寺です。
室戸は、空海の口の中に光が飛び込んで来たことで有名な行場です。三教指帰にも空海は記しているので初期修行地としては文句のつけようがない場所です。この室戸岬の西側の行当岬に、空海によって建立されたのが金剛頂寺であることは以前にお話ししました。

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      金剛定(頂)寺に現れた魔物を退治する空海

その金剛定寺も11世紀になると、地方豪族の圧迫を受けるようになります。1070(延久二)年に、土佐国奈半庄の庄司が寺領を押領します。それを東寺に訴え出た解案には、次のように記されています。
右、謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、 智弘和尚真言法界練行之砌天人遊之処、 明星来影之嶺也、因茲戴大師手造立薬師仏像安二置件嶺(中略)
是以始自国至迂庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠也、乃任各施本意、備以件地利、備仏聖燈油充堂舎修理 中略……、漸経数百歳也、而世及末代 ……、修理山川田畠等被押妨領  、茲往僧等、以去永承六年十二月十三日相副本公験注子細旨、訴申本寺随本寺奏聞 公家去天喜元年二月十三日停二止他妨
意訳変換しておくと
 謹しんで旧記を見ると、当寺は修行中の弘法大師が明星のもとで初めて悟りを開いた地とされている。智弘和尚も真言法界の修行の祭には天人が遊んだともされる明星来影の聖地であるとされる。それにちなんで、弘法大師の手造りの薬師如来像を安置された。(中略)
当寺は土佐ばかりでなく、広く全国の人々からも、仏法霊験の地として知れ渡っている。各所から山川田畠が寄進され、人々の願いを受けて、伽藍を整備し、聖たちは燈油を備え、堂舎の修理を行ってきた。 中略
それが数百年の長きに渡って守られ、末代まで続けられ……、(ところが)修理のための寺領田畠が押領された。そこで住僧たちは相談して、永承六(1051)年十二月十三日に、子細を東寺へ伝え、公験を差し出した。詳しくはここに述べた通りである。本寺の願いを聞き届けられるよう願い上げる。 公家去天喜元年二月十三日停止他妨
ここからは次のようなことが分かります。
①最初の縁起伝説は、東寺長者の書いた『行状集記』とほぼ同じ内容であること。(これが旧記のこと?)
②智弘和尚の伝説からは、金剛頂寺が修行場(別院)のような寺院であったこと
③そのため廻国の修行者がやってきて、室戸岬との行道修行の拠点施設となっていたこと
④金剛頂寺の寺領は、さまざまな人々から寄進された小規模な田畠の集まりであったこと。
⑥金剛頂寺が、庄司からの圧迫を防ぐために、東寺に寺地の公験を差出したのは、1051(永承六)年のこと

公験とは?

全体としては、「空海の初期修行地」という特性をバックに、東寺に向かって「何とかしてくれ」という感じが伝わっています。
①からは、これを書いた金剛頂寺の僧侶は、東寺長者の書いた『行状集記』を呼んでいることが裏付けられます。①②からは、室戸という有名な修行地をもつ金剛頂寺には、全国から山林修行者がやってきていたこと。しかし、寺領は狭くて経済基盤が弱かったことが④からはうかがえます。『行状集記』の金剛頂寺の伝説には、有力な信者がいないために、沖を往来する船舶にたいして「乞食行」が公認されていたという話が載せられていて、経済基盤の弱さを裏付けます。⑥の公験を差し出すと云うことは「末寺化=荘園化」を意味します。
ところが金剛頂寺では、これ以後は寺領が着実に増えていきます。その背景には、当時四国でもさかんになってきた弘法大師信仰が追い風となったと研究者は考えています。それが寺領・寺勢の発展をもたらしたというのです。それは後で見ることにして・・・。
4大龍寺16
太龍寺
次に、阿波国太龍寺を見ておきましょう。
1103(康和五)年8月16日の太龍寺の所領注進には、次のように記されています。
抑当山起、弘法大師之初行霊山也、……、於東寺別院既以数百歳、敢無他妨哉、 兼又勤仕本寺役耳、

意訳変換しておくと
そもそも当寺は、弘法大師の初修行地の霊山で・・東寺の別院として数百年の年月を経ている

大瀧寺も『行状集記』の「弘法大師之初行霊山也」以下の記述を、縁起に「引用」しています。この寺ももともとは、行場にやってきた山林修験者たちが宿泊する「草庵」から出発して、寺に発展してきたようです。
大瀧寺は、阿波国那賀郡加茂村の山の中にあります。
寺の周辺を寺域として、広い山域を占有していたことようで、注進文書では寺域内の荒野開発の承認を求めています。そして開発地を含む寺領の免租(本寺役のみの勤任)を、本寺の東寺にたいして要請しています。ここでも、それまでの庵や坊から寺に脱皮していくときに、東寺に頼っています。

 前回見た讃岐の曼荼羅寺と、今見てきた阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の3つの寺は、「空海の初期修行地」とされ、そこに庵や坊が誕生していきます。そのためもともとの寺の規模は小さく、寺領も寺の周りを開墾した田畑と、わずかな寄進だけでした。それが寺領拡大していくのは、11世紀後半になってからで、その際に東寺の末寺となることを選んでいます。末寺になるというのは、経済的な視点で見ると本寺の荘園になるとも云えます。そして、本寺の東寺に対して、なにがしらの本務を担うことになります。
           
東寺宝蔵焼亡日記
          東寺宝蔵焼亡日記(右から6行目に「讃岐国善通寺公験」)

東寺百合文書の中に『東寺宝蔵焼亡日記』があります。

この中の北宝蔵納置焼失物等という項に「諸国末寺公験丼荘々公験等」があります。これは長保2(1000)年の火災で焼けた東寺宝蔵の寺宝目録です。これによると11月25日夜、東寺の北郷から火の手が上がり南北両宝蔵が類焼します。南宝蔵に納められていた灌頂会の道具類は取り出されて焼失を免れましたが、北宝蔵の仏具類のほか文書類が焼失しました。焼失した文書の中に讃岐国善通寺などの「諸国末寺公験并庄庄公験等」があったようです。
ここからは次のようなことが分かります。
①平安時代の東寺は、重要な道具類や文書・記録類は宝蔵に保管されていたこと
②讃岐国善通寺が東寺に公験を提出していたこと。
③阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の公験はないこと。
つまり、善通寺はこの時点で東寺の末寺になっていたことが、太龍寺と金剛頂寺は末寺ではなかったことになります。両寺は縁起などには古くから東寺の末寺・別院であることを自称していました。しかし、本山東寺には、その記録がないということです。これは公験を預けるような本末関係にまでには、なってなかったことになります。金剛頂寺や大瀧寺が、東寺への本末関係を自ら積極的にのぞむようになるのは、11世紀後半になってからのようです。その背景として、弘法大師信仰の地方への拡大・浸透があったと研究者は考えています。
「寺領や寺勢の拡大のためには、人々の間に拡がってきた弘法大師信仰を利用するのが得策だ。そのためには、真言宗の総本山の東寺の末寺となった方が何かとやりやすい」と考えるようになってからだとしておきます。その際に、本末関係の縁結び役を果たしたのが弘法大師関連の伝説だったというのです。そのような視点で曼荼羅寺の場合を見ていくことにします。
曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。


これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。
 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、さきほど見たように公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったことが考えられます。
 
 曼茶羅寺はもともとは、吉原郷を拠点とする豪族の氏寺だったと私は考えています。その根拠を以下の図で簡単に述べておきます。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

上の青銅器の出土の集中から旧練兵場遺跡がその中心で、ここに善通寺王国があったと研究者は考えています。しかし、その周辺を見ると善通寺とは別の勢力が我拝師山の麓の吉原エリアにはいたことがうかがえます。
青龍古墳1
青龍古墳(吉原エリアの豪族の古墳)

さらに、古墳時代になっても吉原エリアの豪族は、青龍古墳を築いて、一時的には善通寺エリアの勢力を圧倒する勢いを見せます。古墳時代後期になって、善通寺勢力は横穴式古墳の前方後円墳・王墓山や菊塚を築きますが、吉原エリアでも巨石墳の大塚池古墳を築造する力を保持しています。この勢力が律令国家になっても郡司に準ずる地方豪族として勢力を保持し続けた可能性はあります。そうすれば自分の氏寺を吉原に築いたことは充分に考えられると思います。その豪族が氏寺として建立したのが「曼荼羅寺」の最初の形ではなかったのかという説です。「原曼荼羅寺=吉原氏の氏寺説」としておきます。

青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷
 弥生・古墳時代を通じて、吉原エリアは、善通寺勢力とは別の勢力がいたこと、その勢力が氏寺として建立したのが曼荼羅寺の原型という説になります。律令体制の解体と共に、吉原を基盤とする豪族が没落すると、その氏寺も退転します。地方の豪族の氏寺の歩む道です。しかし、曼荼羅寺が違っていたのは、背後に我拝師山を盟主とする霊山(修行地)を、持っていたことです。これは弘法大師信仰の高まりととともに、空海幼年期の行場とされ、山林修行者にとっては聖地とされていきます。ある意味では、先ほど見た土佐国金剛定(頂)寺、阿波国大瀧(龍)寺と同じように廻国の聖達から見られたのかも知れません。
 曼荼羅寺は、前回見たように11世紀後半には退転していました。それを復興させたのは廻国の山林修行者だったことはお話ししました。そういう意味では11世紀半ばというのは、曼荼羅寺にとっては、地方豪族の氏寺から山林修行者の拠点への転換期だったと云えるのかもしれません。以上をまとめておくと
        
曼荼羅寺の古代変遷

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」
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行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

曼荼羅寺 第三巻所収画像000007
曼荼羅寺(金毘羅参詣名所図会 1847年)

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。曼荼羅寺のことが史料に出てくるのは11世紀以降に書かれた空海の伝記の中です。まず、それから見ていくことにします。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。
同年成立の「弘法人師御伝」
「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

ここでは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたと記されています。また11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。

  1118(元永元)年の「高野大師御広伝」

「讃岐国、建立善通寺曼荼羅寺両寺、止住練行、尤聖亦多、有塩峯」「善通曼荼羅両寺白檀薬師如来像、(中略)。手所操庁斧也」

意訳変換しておくと

「空海は、議岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺を建立した。ここには行場(塩峰)があり、集まってくる聖も多い。空海はそこに留まり修行を行った。善通・曼荼羅両寺の本尊は白檀薬師如来像で、  これは空海が自ら手斧で掘ったものである。」

1234(文暦元)年の『弘伝略頒抄』

讃岐国善通寺・曼荼羅寺、此両寺、先祖氏寺、又曼荼羅寺、善通寺、大師建」

これらを見ると時代を経るに従って、記述量が増えていくことが見て取れます。後世の人の思惑で、いろいろなことが付け加えられていきます。それが後の弘法大師伝説へとつながっていくようです。研究者が注目するのは、これらの記録の中に出てくる「善通・曼荼羅寺両寺」という表記です。ふたつの寺が合わせてひとつのように取り上げられています。「空海ゆかりの寺院」というだけではない理由があるようです。この過程では、同時に曼荼羅寺の再建・中興が進んでいたようです。それを見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号」、H15」です。

一円保絵図の旧練兵場遺跡
善通寺一円保図
先ほど見たように、もともと善通寺と曼荼羅寺はべつべつの寺でした。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
西岡虎之助氏は「土地荘園化の過程における国免地の性能」のむすびで曼荼羅寺について次のように記します。

「東寺派遣の別当の文献上の初見は、延久四年(1072)」
「両寺所司の同じく文献上の所見は天永三年(1112)である」
「少なくも永久年間(1113~18)ごろには、両寺は組織的結合体をなすにいたった」

以上を補足してまとめておくと
① 初期における東寺の支配形態は、個別的で、両寺が単独にそれぞれ東寺に属していた。
② 12世紀前半に「東寺の一所領(荘園化)」になりつつあった。
③「次期」においては、東寺の住僧が別当として派遣され、 東寺が両寺の寺務を握るようになった。
④その結果、両寺は組織的に一体化したものとして捉えられるようになった。
こうして「善通・曼荼羅羅両寺」と東寺文書は表記するようになったとします。ここでは12世紀初めに、善通寺と曼荼羅寺が東寺によって末寺化(荘園化)されたことを押さえておきます。そのため末寺化過程の文書が東寺に数多く残ることになったようです。

東寺百合文書
東寺百合文書

 私にとっと興味があるのは、この時期に行われた曼荼羅寺の再建活動です。それがどのように進められたかに焦点を絞って見ていくことにします。

曼荼羅寺文書
東寺百合文書の中の曼荼羅寺関係文書一覧
曼荼羅寺再建は、だれが、どのような方法で行ったのか?
その鍵を解く人物が「善芳」です。東寺の百合文書の中には、1062(康平5)年4月から1069年まで20点余りの文書の中に善芳が登場します。「善芳」とは何者なのでしょうか?
文書の中の自称は「曼荼羅寺住僧善芳」「曼荼羅寺修理僧善芳」「修行僧善芳」などと名乗っています。一方、国衙(留守所)では、彼のことを「寺修理上人」「修理上人」「企修造聖人」と呼んでいます。
   善芳の「敬白」の文書(番号18)は、次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」、
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺伽藍に滞在しました。
ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部が破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
この退転ぶりに、善芳は「毎奉拝雨露難留落涙、毎思不安心肝」(参拝毎に涙を流し、何とかならぬものか)」と自問します。そこで善芳は国司に「勁進(勧進)」して、その協力をとりつけ「奉加八木(用材寄進)」を得て、「罷渡安芸日、交易材木(安芸国に渡って、材木を買付)」て、「講堂一宇」の改修造建立を果たします。それだけにとどまらず、さらに「大師御初修施坂寺三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」を行っています。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動ということになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①善芳が各地を遍歴する廻国の修験僧であったこと。
②善芳が五岳・我拝師山の行場修行のために、曼荼羅寺周辺に滞在していたこと
③古代に建立された曼荼羅寺が荒廃しているのを見て復興再建を勧進活動で行ったこと
④そのために讃岐国司を説得して建設に必要な用材費の寄進を受けたこと
⑤安芸国に赴いて、用材や大工確保を行ったこと
⑥さらにのために、「大師御初修施坂寺」に「三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」も行ったこと。
 つまり11世紀に退転していた曼荼羅寺の復興活動を行ったのは善芳ということになります。それだけでなく我拝師山の行場近くの施坂寺にお堂と如意堂を建立したとします。施坂寺は、現在の出釈迦寺あたりとされているようですが、私にはよく分かりません
 彼は、廻国の山林修行僧だったことを押さえておきます。正式の僧侶ではないのです。
一円保絵図 中央部
善通寺一円保絵図(拡大) 我拝師山ふもとに曼荼羅寺が見える

この他にも、次のような修験者や聖がいたことが記されています。

件寺家辺尤縁聖人建奇宿住給、‥…、為宿住諸僧等 御依故不候、 住不給事、……、 大師聖霊之御助成人并仏弟子……
 
意訳変換しておくと

曼荼羅寺の近辺には無縁聖人(勧進聖)たちが仮の住まいを建てて生活しています。宿住の諸僧は、着るものも、住む所にもこだわらず、……、 ただただ、弘法大師の聖霊地の建設のために活動した仏弟子であります。

ここからも曼荼羅寺の勧進活動が「大師聖霊の御助成人」といわれるような廻国の山林修行僧たちによって担われていたことが裏付けられます。そして彼らを結びつけ、まとめあげた力(きずな)が、弘法大師信仰だったと研究者は考えているようです。彼らは先ほど見たように、国衙や東寺からは「修理聖人」と呼ばれる下級僧侶や聖・修験者たちでした。
 以上からは全国廻国の修験者たちが、各地の霊山にやってきて修行を行いながら、退転してた寺院を復興していく姿が見えてきます。同時に、彼らの精神的原動力のひとつが「弘法大師聖霊の御助成人」という自覚と誇りだったようです。 
 この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
弘法大師信仰と勧進聖

 彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
修復財源として寺周辺の田畠の開発も始め、寺領の拡大をもたらします。これに対して東寺は、復興活動を支援するのではなく、新たな田地へからの富の確保を優先します。善芳は東寺の「本寺優先策」に抵抗して、文書による請願行動を始めます。善芳のたたかいは、1062(康平二)年にはじまり1069年の修理終了によって終わったかにみえます。ところが、東寺は善通寺別当に延奥を派遣します。新たにやってきた別当は、善通寺だけでなく曼荼羅寺からの収奪をおこなうようになります。こうして今度は善通寺をもまきこんだ紛争状態へと突入していうことになります。東寺に残る善芳の文書は、この闘いの記録だとも云えるようです。この辺りは、また別の機会にお話しします。
善芳の次に登場してくる善範です。
善範も善芳とともに、曼荼羅寺の勧進活動に参加していた僧侶のようです。1071(延久二・四)年の文書の差出人として、善範が初めて登場します。番号31文書には、次のように自分のことを記します。
右、善範為仏法修行、自生所鎮西出家入道シテ年来之間、五畿七道之間、交山林跡 而以先年之比 讃州至来、有事縁 大師之御建立道場参詣、大師入滅之後、雖経多歳 依無修理破壊、動為風雨仏像朽損、乃修行留自始康平元年乍勧進天……

意訳変換しておくと
私(善範)は仏法修行者で、生まれの鎮西で出家し、長く五畿七道の山林を廻国して修行を積んできました。先年に讃岐にやって来て縁あって、弘法大師建立の道場である曼荼羅寺を参詣しました。ところが大師入滅後、多くの年月を経て、修理されることなく放置されていたために、建物は壊れ、風雨で仏像も破損する状態を眼の辺りにした。そこで修行中ではりますがこの地に留まり。康平元年より勧進にとりかかりました

さらに番号31文書には、つぎのような箇所があります。
難修理勤念之不怠、末法当時邪見盛也、乃難動進知識 起道心人希有也、因之自去延久元年於曼荼羅寺井同大師御前跡大窪御寺両所各一千日法花講演勤行、本懐不嫌人之貴賤、又不論道俗、只曼荼羅寺仁致修治之志輸入可令御座給料祈持也、此間今年夏程祥房同法申云、仁和寺松本御童為件御寺修遺、令下向給由云 仰天臥地、歓喜悦身尤限、

  意訳変換しておくと

怠りなく修理復興に努めていますが、末法思想流行の中で邪教が人々の中に広がり、資金は集まらず修理は滞っています。道心を知る人達は稀です。そこで打開策として、延久元年から曼荼羅寺と大師御前跡の大窪御寺の両所で、一千日法花講を開いています。貴賤や道俗を問わず、広く人々に呼びかけ、曼荼羅寺の修復のための資金をもとめるものです。今年も開催準備をしていたところ、仁和寺の松本御童がやって来られることになりました。それを聞いて、仰天し地に伏し、歓喜に溢れています。

ここからは次のようなことが分かります。
①末法思想が広がり阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が讃岐の人々の心をとらえていたこと
②そのために勧進活動が思うように進まず、修復作業も停滞していたこと
③勧進方針として道俗・貴賤の差別なく、いろいろな層の人達に勧進を呼びかけるために一千日法花講を開催するようになったこと
④それを聞きつけて仁和寺の高僧が支援のためにやってきてくれることになったこと
一千日法花講に参加し結縁した人々には、大師信仰によって約束された現世利益とともに、寺で行なう法華講の功徳をもたらすとされました。実はこのような動きは、土佐国の金剛頂寺の、阿波国の大瀧寺など大師行道所を起源とする寺院も同時進行で勧進活動による復興再建が行われていたことが分かってきました。これも弘法大師信仰の広がりという追風を受けての地方寺院の勧進活動だったと研究者は考えているようです。
曼荼羅寺
曼荼羅寺周辺遺跡図
ここで私に分からないのが「大窪御寺」です。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
 ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。

出釈迦寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の我拝師山の霊場


 以上をまとめておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」の一つであった
②10世紀中頃に諸国廻国の聖(修験僧)であった善芳は、退転した曼荼羅寺の復興を始める。
③善芳は弘法大師信仰を中心に勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功した。
④このような勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤その勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと指命であった。
こう考えると弘法大師信仰が高野聖などで地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支えていたことになります。その讃岐における先例が11世紀の曼荼羅寺の復興運動であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号 平成15年

    2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
象頭山御本社(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅大権現の歴史を見ていくための資料として私が参考にしているのが金毘羅参詣名所図会です。すでに丸亀港から金毘羅門前までは見てきましたので、今回は仁王門から本堂までの部分を意訳して載せておくことにします。興味のある方は、御覧下さい。

金毘羅参詣名所図会 仁王門
金毘羅参詣名所図会図 絵図68 二王門 坊中 桜並樹 
上の左図内の挿入文章には、次のように記されています。

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。
   花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長
右Pの仁王門以下を意訳変換しておぃます。


  二王門  一の坂を上った所にあって、金剛神の両尊(仁王)を安置する。この門にかかる象頭山の額は、竹内二品親王の御筆である。
桜馬場  二王門をくぐると、左右に桜の並木が連なる。晩春の頃は花爛慢として、見事な美観である。金毘羅十二景の内の「左右の桜陣」とされている。この桜並木の間には、数多くの石灯籠や石の鳥居がある。

直光院 万福院 尊勝院 神護院
 4つの院房が桜の並木の右にある。並木の左後ろは竹藪である。
別業(べつぎょう)  
 坂を上って左の方にあるのが別業で、本坊金光院の別荘である。これも金毘羅十二景のひとつで「幽軒梅月(ゆうげんの梅月)」と題されている。

2


金毘羅参詣名所図会.jpg 金光院
      象頭山松尾寺金光院(金毘羅参詣名所図会)
これも意訳変換しておくと
象頭山松尾寺金光院  
古儀真言宗、勅願所、社領三百余石。
本坊 御影堂 護摩堂  その他に院内に諸堂があるが、参詣は許されず立入禁止である
御守護贖(まもりふだ)所 方丈の大門を入ると正面に大玄関があり、その右方にある。ここで御守護(お札)を受けることができる。護摩御修法を願う人は、ここに申し込めば修法を受けることができる。
神馬堂 本坊の反対側の左側にあり、高松藩初代藩主の松平頼重公の寄進建立である。神馬の姿は木馬黒毛の色で、高さは通例通りである。

茶堂 神馬堂の側にあり、常接待で参拝客を迎え、憩いの場となっている。
黒門表書院口 石段を上りって右の方にあり、これが本坊表口である。この内の池が十二景の「前池躍魚(ぜんちのよくぎょ)」である
     「前池躍魚」                       林春斉
同隊泳テ其楽  自無香餌投  焼岩縦往所  活溌□洋也

2-17 愛宕山
愛宕山(金毘羅参詣名所図会)

愛宕山遥拝所 道の左に愛宕山遥拝所があり、そこから向こうの山の上に愛宕権現が見える。
多宝塔  石段を少し登ると右の方にあり、五智如来を安置している。
二天門・多宝塔 金毘羅参詣名所図会
金堂竣工直前の金堂前広場(金毘羅参詣名所図会1847年)
この部分を見て気づくことを挙げておきます。
①金堂(現旭社)がほぼ完成していること。
②二天門(現賢木門)の位置が移されたこと。
③多宝塔から広場下の坂は、石段の階段がまだできていないこと。
④金堂前も石畳化されておらず、整備途上であること。

萬燈籠 金毘羅参詣名所図会

萬燈堂 多宝塔のそばにあり、本尊大日如来を安置する。常灯明である。
大鰐口  萬燈堂の縁にあって、径が約四尺余、厚さ二尺余、重すぎて掛けることができない。宝暦(1756)五乙亥年二月吉日、阿州木食義清と記す。阿波の木食(修験者)の寄進である。
古帳庵之碑  万灯堂の前にあり、天保十四年癸卯春正月建立されたもので、次のように記す
のしめ着たみやまの色やはつ霞 折もよしころも更して象頭山  江戸小網町 古帳庵
同裏 
天の川くるりくるりとながれけり あたまからかぶる利益や寒の水      古帳女

このあたりからの展望はよくて、十二景の「群嶺松雪(ぐんれいのしょうせつ)」と題される。
     群嶺松雪                林春斉
尋常青蓋傾ヶ 項刻玉竜横  棲鶴失其色  満山白髪生
同     幽軒梅月  是は前に記せし別業の事なり。
起指一斉光開 座看疎影回 高同低同一色 知否有香来


2-18 二天門

意訳変換しておくと
   二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した。
鐘楼  二天門をくぐった内側の右側にある。先藩主・生駒家の寄進である。十二景の「雲林の洪鐘」と題されている。
十二景之内 雲林洪鐘
 近似万事轟  遠如小設有鳴  風伝朝手晩  雲樹亦含声
四段坂・本地堂 金毘羅大権現
金毘羅大権現 四段坂の本地堂(金毘羅参詣名所図会) 
本地堂 金毘羅参詣名所図会

 意訳変換しておくと
本地堂 鐘楼から少し歩くと石の鳥居があり、その正面が本地堂である。本尊 不動明王。
石階(きざはし) 本社正面の階段の両側には石灯籠が数多く建ち並ぶ。
行者堂  石段中間の右方にあり、役(行者)優婆塞神変大菩薩を安置する。
大行司祠 当山の守護神であと同時に、毘沙門天、摩利支天の相殿の社でもある。
金銅鳥居 石段の中間、右方にあり、役行者堂の正面になる。
御本社  東向き、麓より九丁、山の半腹にあり。
金毘羅参詣名所図会 本堂
象頭山本社(金毘羅参詣名所図会)
 〔図70〕二王門内より御本社の宝前へかけ国守をはじめ、諸侯方よりの御寄付の灯籠彩し。紫銅あり、石あり、いずれも御家紋の金色あたりに輝き、良工しばしば手を尽せり。
切て上る髪の毛も見ゆ象頭山繋かるゝ如くつとふ参詣      絵馬丸
夕くれや烏こほるゝ象頭山

金毘羅大権現 本社 拝殿
金毘羅大権現 拝殿(金毘羅参詣名所図会)
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。

金毘羅本社よりの展望
本社からの展望(金毘羅参詣名所図会)

左の方に番所があり、開帳を願う人は、ここに申し出れば内陣より金幣が出され頂かせらる。本開帳料は、銀十二匁半、半開帳は六匁。
本社 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の本社周辺(讃岐国名勝図会 1854年)

三十番神社  本社の左方の石段の上にある。前に拝殿があり、本社の内陣にも近いので、このあたりでは不遜な行為は慎むこと。
経蔵  拝殿に並んであり、高松藩主松平頼重公の御寄付による大明板の一切経が収められている。釈迦、文珠、普賢、十六羅漢、十大弟子并に博大士(ふだいし)、普成、普建などを安置している。
紫銅碑(からかねのひ) 経蔵の傍にあって、上に「宝蔵一覧之紀」とある。下に細文の銘があるが略する。寛文壬寅二月日記之とあり、後に詳しく述べる。
観音堂  経蔵より石段を少し下りた右方にある。堂内には、絵馬が数多く掛っている。宿願のために参籠する者も、本社に籠ることは許されていないので、この観音堂にて通夜をすることになる。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)

金毘羅参詣名所図会 金毘羅観音堂2
金毘羅観音堂周辺(金毘羅参詣名所図会) 
本尊 正観世音菩薩 弘法人師真作
前立 十一面観世音菩薩 古作也。左右三十三体の尊像あり。
狩野占法眼元信 馬の画本額 堂内北の脇格子の内にあり。
土佐守藤原光信 祇園会の図奉額 同所に並ぶ。
後堂(うしろどう)
金剛坊尊師・宥盛の霊像を安置する。像は長三尺寸計り、兜中篠繋(ときんすずかけ)で、山伏の姿で岩に腰をかけた所を写し取ったものと云ふ。この金剛坊というの約は300年前、当山の院主であった宥盛僧正という僧のことである。権化奇瑞で死後、金毘羅大権現のの守護神となった。その像は初めは、本尊の脇に並べて安置していた。ところが、崇りが多くて衆徒が恐れるようになった。そこで尊霊に伺うと「我は当山を守護するので山の方に向けよ」と云ったので、今のように後堂に移した。
 先年250年遠忌に当たって、法式修行のついでにご開帳で参拝人に尊像を拝せた所、三日の間、開扉するとたちまち晴天かき曇って激しく雷雨となり、閉帳すると直ちに、また白日晴天にもどったという。

絵馬堂  
観音堂南の脇にあり、難風の危船漂流の図、天狗の面などの額、本願成就の本袖が数多く架かっている。その傍に奉納の紫銅の馬もある。

金毘羅金堂 金毘羅参詣名所図会

阿弥陀堂 絵馬堂の傍にあり、千体仏が安置されている。これも高松藩の松平頼重公の寄進である。
孔雀明王堂 阿弥陀堂に並び、仏母人孔雀明王を安置する。
籠所(こもりしょ) 孔雀堂の傍にある。参籠のために訪れた参拝人は、ここで通夜する。
神輿堂  観音堂の前にある。
観音坂  石段である。荒神社 坂の傍にあり。
蓮池  観音堂の南にあり、御神事の箸をこの池に捨るという。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現金堂(讃岐国名勝図会)
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作。

以下には金毘羅大祭が続きますが、これはまたの機会にします。
ここまで見てきて、気づいたり思ったりしたことを挙げておきます。
①近世の象頭山は神仏混淆の霊山で、金毘羅大権現と観音堂が並んで山上にはあった。
②山上の宗教施設に仕えていたのは神官ではなく社僧で、金光院主が封建的小領主でお山の大将であった。
③お札も金光院の護摩堂で社僧が祈祷したものが出されていた。
④金光院初代院主・宥盛は、神として観音堂背後に奉られていた。
⑤本地堂や役行者をまつるお堂などもあり、修験道の痕跡がうかがえる。
⑥金毘羅参詣名所図会(1847年)出版のために、暁鐘成が大坂から取材のためにやって来た頃は、金堂の落成間際で周辺整備が行われ、石垣・石畳・玉垣が寄進され、白く輝く「石の伽藍空間」が生まれつつあった時代でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅参詣名所図会(暁鐘成 著 草薙金四郎 校訂) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献  
金毘羅参詣名所図会 歴史図書社
香川県立図書館デジタルライブラリー 金毘羅参詣名所図会
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/digitallibrary/konpira/komonjo/detail/DK00080.html
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四国遍路形成史の問題として「大辺路、中辺路・小辺路」があります。熊野参拝道と同じように四国辺路にも、大・中・小の辺路ルートがあったことが指摘され、これが四国遍路につながって行くのではないかと研究者は考えているようです。今回は、この3つの辺路ルートについての研究史を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」です。

江戸時代の四国遍路を読む | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon

 大辺路・中辺路・小辺路の存在を最初に指摘したのは、近藤喜博です。
伊予の浄土寺の本堂厨子には、
室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線撮影)
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国中辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることが分かります。このような「四国中辺路」と書かれた落書きが、讃岐の国分寺や土佐一之宮からも見つかっています。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。

四国遍路(近藤喜博 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
古きはしらず、上に示した室町時代の四国遍路資料に、四国中遍路なるものが見えてていたことである。即ち
四国辺路(大永年間) 讃岐・国分寺楽書
四国辺路(永世年間)  同上
四国遍路(慶安年間)  伊予円明寺納札
とあるのがそれである。時期の多少の不同はあるにしても、この中遍路とは、霊場八十八ケ所のほぼ半分の札所を巡拝することを指すのであるのか。それとも四国の中央部を横断するミチの存在を指したものなのか、熊野路には、大辺路に対して中辺路が存在していたことに考慮してくると、海辺迂回の道に対して中辺路といった、ある短距離コースの存在が思われぬでもない。四国海辺を廻る大廻りの道は困難を伴う関係から、比較的近い道として中辺路が通じたのではなかったろうか。

ここでは土佐から伊予松山に貫ける道を示し、このルートが中辺路としてふさわしいとします。近藤氏は熊野に大辺路、中辺路があるように、四国にも、次のふたつの大・中辺路があったとします。
①足摺岬を大きく廻るコースを大辺路
②土佐の中央部から伊予・松山に至るコースを中辺路
①が足摺大回りルートで、②はショートカット・コースになるとしておきます。

Amazon.co.jp: 四国遍路: 歴史とこころ : 宮崎 忍勝: 本
宮崎忍勝『四国遍路』(朱鷺書房1985年)

宮崎忍勝氏は『四国遍路』(25P)で、49番札所の伊予・浄土寺の本堂厨子の墨書落書に書かれた「中辺路」について、次のように記します。

この「四国中邊路」とあるのは、ほかの落書にも「四国中」とあるので、四国の「中邊路(なかへじ)」ということではなく、四国中にある全体の邊路(へじ)を意味する。四国遍路の起源はこのように、四国の山岳、海辺に点在する辺地すなわち霊験所にとどまって、文字通り言語に絶す厳しい修行をしながら、また次の辺路(修行地)に移ってゆく、この辺路修行の辺路がいつのまにか「へんろ」と読まれるようになり、近世に入ると「遍路」と文字まで変わってしまったのである。

ここでは「四国中 邊路」と解釈し、邊路(へじ)とは、ルートでなく四国の修行地や霊地の場所のこととします。熊野路の「大辺路」、「中辺路」のような道ではなく、四国全体の辺路(修行地)が中辺路だというのです。
土佐民俗 第36号(1981) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
土佐民俗36号(土佐民俗学会)

高木啓夫は『土佐民俗』46号 1987年)に「南無弘法大師縁起―弘法人師とその呪術・その1」を発表し、その中で大遍路・中遍路・小遍路について、次のように解釈します。
①南無弘法大師縁起に、高野山参詣を33回することが四国遍路一度に相当するとの記載があること
②ここから小遍路とは高野山三十三度のこと
③「逆打ち七度が大遍路」
つまり遍路の回数によって大遍路・小遍路を分類したのです。しかし、中遍路については何も触れられていません。その後「土佐民俗」49号 1987年)の「大遍路・中遍路・小遍路考」で、次のように記されています。

「遍路一度仕タル輩ハ、タトエ十悪五ジャクの罪アルトモ、高野ノ山工三十三度参リタルニ当タルモノナリ」
の記述によって、高野山へ三十三度参詣した者を、四国遍路一度に相当するとして「小遍路」と称する。次に順打ちの道順での四国遍路二十一回するまでを「中遍路」と称する。次に、この中遍路三十一回を成就した上で、逆打ち七度の四国遍路をなした者、或はなそうとして巡礼している者を「大遍路」と称する。

ここでの解釈を要約しておくと、次のようになります。
①小遍路とは高野山へ33度の参詣
②中遍路は順打ち21度の四国遍路
③大遍路は中遍路21度と逆打ち7度
つまり高野山の参詣と逆打ちを関連づけて、遍路する場所と回数に重点をおいた説で、単に四国の札所だけを巡るものでなく、高野山も含めて考えるべきだとしました。

遊行と巡礼 (角川選書 192) | 五来 重 |本 | 通販 | Amazon

 五来重氏は『遊行と巡礼』(角川書店、1989年、119P)で、室戸岬の周辺を例に挙げて次のように記します。

辺路修行というのは、海岸にこのような巌があれば、これに抱きつくようにして旋遍行道したもので、これが小行道である。これに対して(室戸岬の)東寺と西寺の間を廻ることは中行道になろう。そしてこのような海岸の巌や、海の見える山上の巌を行道しながら、四国全体を廻ることが大行道で、これが四国辺路修行の四国遍路であったと、私は考えている。

つまり辺路修行の規模(距離)の長短が基準で、小辺路はひとつの行場、中辺路がいくつかの行場をめぐるもの、そして四国全体を廻る大行道の辺地修行が四国遍路とします。

四国遍路とはなにか」頼富本宏 [角川選書] - KADOKAWA

頼富本宏『四国遍路とはなにか」(角川学芸出版、1990)は、「四国中辺路」について次のように記します

遍路者を規定する言葉として、多くは「四国中辺路」や「四州中辺路」などという表現が用いられる。この場合の「中辺路」とは熊野参詣にみられる「大辺路」「中辺路」「小辺路」とは異なり、むしろ「四国の中(の道場)を辺路する」という意味であろう。なわち複数霊場を順に打つシステムとして、先に完成した四国観音順礼が四国の遍路の複数化に貢献したと考えられる。なおこの場合の「辺路」は「辺地」を修行する当初の辺路修行とは相違して「順礼」と同義とみなしてよい。

ここでは四国中辺路とは「四国中の霊場を辺路する」の意味で、四国全体を巡る「四国中、辺路」ということになります。
 

   
     四国遍路と世界の巡礼 最新研究にふれる八十八話 上 / 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター/編 : 9784860373207 : 京都  大垣書店オンライン - 通販 - Yahoo!ショッピング                     

21世紀になって四国霊場のユネスコ登録を見据えて、霊場の調査研究が急速に進められ、各県から報告書が何冊も出され、研究成果が飛躍的に向上しました。その成果を背景に、あらたな説が出されるようになります。その代表的な報告書が「四国八十八ケ所霊場成立試論―大辺路・中辺路・小辺路の考察を中心として」 愛媛大学 四国辺路と世界の巡礼」研究会編」です。その論旨を見ていくことにします。
①霊場に残された墨書落書について、従来から論争のあった「四国、中辺路」か「四国中、辺路」について、「四国、中辺路」と結論づけます。
②中辺路は八十八ケ寺巡り、大辺路は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものとします。
③小辺路についてはよく分からないが、阿波一国参り、十ケ所参り、五ケ所参りなどの地域限定版の遍路があったことの可能性を指摘します。
ここでは小辺路とは、小地域を巡る規模の小さな辺路という考えが示されます。そして16世紀前半期の墨書落書きの「中辺路」の関係について、次のように指摘します。
①室町時代の落書きに見る「中辺路」は八十八ケ所成立前夜のこと
②大師信仰を背景に、霊場を巡る「辺路」が誕生したこと
③それはアマチュアの在家信者も行える「辺路(中辺路)」であったこと
④それに対してプロ修行者の「辺地修行」は「大辺路」であったこと
これは「室町時代後期=八十八ケ所成立説」になります。
 四国遍路の八十八 の札所の成立時期については、従来は次の3つがありました。
①室町時代前期説
②近世初期説
③正徳年間(1711-1716)以降説、
①については高知県土佐郡本川村越裏門地蔵堂の鰐口の裏側には「大旦那村所八十八ヶ所文明三(1471年)天右志願者時三月一日」とあります。

鰐口の図解
裏門地蔵堂の鰐口
ここから室町時代の 1471 年(文明 3)以前に、八十八カ所が成立していたとされてきました。しかし、この鰐口については、近年の詳細な調査によって「八十八カ所」と読めないことが明らかにされています。①説は成立しないようです。
③は、1689 年(元禄 2)刊行の『四国遍礼霊場記』には 94 の霊場が載せられていることです。その一方で、正徳年間以降の各種霊場案内記には、霊場の数は88 になっています。そのため札所の数が88 になるのは正徳年間以降であろうとする説です。しかし、この説も近年の研究によって『四国遍礼霊場記』には名所や霊験地も載せられ、それらを除外すると霊場数は88 となることが明らかにされていて、③説も成り立ち難いと研究者は考えているようです。そうなると、最も有力な説は②の「近世初期説」になります。
 そのような中で先ほど見た「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史は「室町時代後期=八十八ケ所成立説」をとります。この点は、一度置いておいて研究史をもう少し見ておくことにします。

寺内浩は「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』第五号、四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和2年、17P)で、 次のような批判を行っています。
「中辺路」は八十八ケ所巡り、「大辺路」は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものであって、むしろ奥深い山へ踏み込むことが多かった」として、「小辺路」はのちに各地で何ケ所参りと呼ばれるようになる地域的な巡礼としている。このうち、大辺路・中辺路については基本的に支持できるが、小辺路については賛成できない。同じ辺路なのに大辺路・中辺路は四国を巡り歩くが、小辺路だけ特定の地域しか巡らないとするのは疑問である。
 (中略)大辺路と中辺路の違いが、訪れる聖地・霊験地の数にあるならば、小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべきであろう。
ここでは「小辺路が特定の地域しか巡らないとするのは疑問」「小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべき」と指摘します。
 その上で小島博巳氏は、六十六部の本納経所の阿波・太竜寺、土佐・竹林寺、伊予・大宝寺、讃岐・善通寺を結ぶ行程のようなものが小辺路ではないかとの説を提示します。

これらの先行研究史の検討の上に、武田和昭は次のような見解を述べます。
①「大辺路・中辺路・小辺路」がみられるのは、1688(元禄元)年刊行の『御伝記』が初出であること。そして『御伝記』は『根本縁起』(慶長頃制作)を元にして制作されたもの。
②『根本縁起』には「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあり、大・中・小辺路は見られない。「大辺路・中辺路・小辺路」の文言は『御伝記』の作者やその周辺の人達の造語と考えられる。
③胡光氏の「中辺路は八十八ケ所、大辺路はそれを上回る規模の大きなもの、小辺路は小地域の辺路」の解釈は、澄禅、真念、『御伝記』などの史料から裏付けれる
④小辺路については1730(享保十五)年写本の『弘法大師御停記』に「大遍路七度、中遍路二十一度、小辺路と申して七ケ所の納る」とあり、小辺路について「七ケ所辺路」と記していることからも、胡氏の説が裏付けられる。
⑤しかし、室町後期の墨書は「四国辺路」と「四国中辺路」に分けられ、大辺路、小辺路はみられない。
⑥「四国中辺路」は、『根本縁起』に「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあるので、辺路よりも中辺路の方が距離や規模が大きい
⑦『御伝記』の「大辺路・中辺路・小辺路」の「中辺路」と室町後期の墨書「中辺路」とは成立過程が異質。
以上から八十八ケ所の成立を室町時代後期に遡らせることは、現段階での辺路資料からは難しいと武田和昭は考えているようです。
以上、「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史を通じて、四国遍路の成立時期を探ってみました。その結果、現在では四国遍路の成立については2つの説があることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
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 中世後半になると新しい社会秩序形成の動きが出てきます。そのひとつが農村における「惣型秩序の形成」だと研究者は考えているようです。南北時代以後になると、いままでの支配者であった荘園領領主や国司の権力や権威が地に落ちます。それに代わって土地に居ついた地頭や下司・郷司などが、そのまま国人に成長して、地域の支配者になっていこうとします。しかし、それは一筋縄でいくものではなかったようです。守護も、村の中に自分の勢力を植えつけるため、自分の子飼いの家来を現地に駐留させます。新しく成長した国人も、力を蓄えれば、その隣の荘園に侵入してゆくというような動きを見せます。まさにひとつの荘園をめぐって、いくつも武力集団が抗争一歩手間の緊張関係をつくりだしていたのです。ヤクザ映画の「仁義亡き戦い」の世界のように私には思えます。そういう意味では当時の農村は、非常に不安な状況にあったことを押さえておきます。

宮座構成員の資格
惣村構成員の資格

 そんな社会で生きていくために村人たちは、自分たちで生活を守るしかありません。隣村との農業用水や入会地などをめぐる争いもあります。また、よそからの侵人者や、年貞を何度もとろうとする領主たちに対しても、不当なものは拒否する態勢をつくらなければ生きていけません。        
自検断(じけんだん)と地徳政                          
そこで村の秩序を守るために、自分たち自身で警察行為を行うようになります。犯罪人逮捕や、その裁判まで村で行うようになります。これを検断といいます。農民が自分たちで検断権(裁判権)を行使するのです。検断権は、中世では荘園・公領ごとに地頭が持っていました。鎌倉時代以降では重大犯罪の検断権は守護がもち、それ以外は地頭がもっていました。そのような支配者の権限を、農民たちが自分たちで行使するようになってきたわけです。それを自検断と呼んだようです。
徳政も自分たちでやるようになります。
当時の農民は守護の臨時賦課などいろいろな負担に苦しめられていました。貨幣が使われる世の中になると、借金がたまりがちです。そういうときに徳政一揆を起こして負債の帳消しを要求したわけです。しかし、これを幕府に要求しても解決できるような力は、幕府にはもうありません。室町幕府の権限は、山城と摂津、河内、近江にしか及ばない状況です。そうなると、もともとは公権力のやるべき徳政令を自分たちでやり出します。それを地徳政(じとくせい)と呼びます。この「地」は「地下」という意味です。地徳政とは、自分たちの生活エリアだけで、私的な徳政を自分たちでやることです。ここには村の生活秩序を共同体として自治的にきめてゆくという姿勢が強く見えます。

徳政一揆の背景2
徳政一揆の背景

 また村の共同利用になっている山野の利用秩序、山の木を切るとか、あるいは肥料用の下草刈りに入る、いわゆる入会山を保護するために、いつ山の口開けや口止めをやるかというようなことから始まって、次のようなことも惣村内での取り決められるようになります。
①かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか
②祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
③盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、
④荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか
⑤周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、
惣村の構造図
       惣村の構成・運営・機能について
①惣村は名主層や小農民によって構成され、おとな・沙汰人などが指導者
②祭祀集団の宮座が結合の中心で、その運営は寄合の決定に従って行われた。
③惣掟を定めたり、入会地の管理にあたるなどした。
④地下検断(裁判権)の治安維持や地下請けなど年貢納入をも担う地縁的自治組織
⑤結合は連歌や能、一向宗の浸透を促す
⑥年貢減免を要求する強訴・逃散や土一揆など土民が支配勢力に抵抗する基盤としても機能
惣村の掟を伊勢の国の小倭郷(おやまごう)で見ていくことにします。
1493(明応3)年の9月15日付で、小倭郷の百姓たち321人が署名誓約しています。小倭郷には幾つもの村がありましたが、当時の村は一村が数軒から大きくても20軒ぐらいの小さなものでした。それが集まって小倭郷321人になったようです。一戸前の百姓は、ひとり残らず署名したようです。

伊勢成願寺
小倭郷の成願寺(津市白山町)
その誓約書が小倭郷の成願寺に残っています
 農民などが申し合わせをするときは、神に誓った文書を神社に納めました。ここでは天台真盛宗の成願寺が倭郷の開発に大きな役割を果たしたので、村人の信仰の中心になっていて、そこに納められたようです。「成願寺文書」には、惣掟や小倭一揆関係の史料が県有形文化財に指定されています。ここでは、その一部を見ていくことにします。
第一条 田畑山林などの境界をごまかして、他人の土地を取ったり、自分の土地だと言って、他人の作物を刈り取ってしまうというようなことは絶対に許されない。
第二条 大道を損じ、「むめ上(埋め土)」を自分の私有地で使ってしまうのはいけない。つまり公共の道路の土を取って自分のところので使うのはいけないということです。
第三条と四条では、盗人、悪党の禁止(一種の腕力的行為禁止)
第五条 「当たり質」を取ることの禁正。
  「当たり質」というのは、抵当品(質草)のようです。今では抵当品は債務者のものしか対象にはなりません。ところが当時は、当人の債権物が取れない場合は、その人と同じ村人のものなら誰のものでも取ってもよいとされていたようです。これを郷質(ごうじち)とか所質(ところじち)とか呼んでいました。つまり本人が属している集団の者は、みんな同一責任を負わなければならないという考え方です。ここからは当時の人達は、郷や村などの共同体に所属していれば、その共同体全体が連帯の責任を負わなければならないと考えていたことが分かります。そうだとすると共同体から独立した個人というものはあり得なかったことになります。同じ村の人なら別の人のものでもいいという話が、当然として行なわれていたことを押さえておきます。日本人の連帯責任の取り方をめぐる問題の起源は、この辺りまで遡れそうです。 しかし、それでは困るので、今後は次のようにしようと決めています。
「本主か、然るべき在所の人のものだけ収れ」、
意訳すると「本人かその郷の者ならいいけれど、もっと広く隣村、隣村まで拡げられてはかなわないから、限定しておく」ということになるのでしょうか。そういうことを、すべて自分たちで取り決めて、村人321人全部で盟約しています。
この盟約を守っていく組織として、地侍クラスの人々四十数人が、別に盟約を結んでいます。
これを衆中(しゅうちゅう)と呼んだようです。小倭郷では、そのメンバーは、地侍クラス、村の重立ちの人々だけです。そして、次のような事を申し合わせています。
①公事出来(しゅったい:紛争が起こった場合)に身内の者だからといって決して身びいきなどはしない。
②公平にひいきや偏頗なく衆中としてきちんと裁判する
③衆中の間に不心得の者がでてきた場合には、仲間からから迫放する
ここからは、倭郷の惣村全体の盟約とは別に、それを遵守させていくために地侍グループだけで誓約を行なっています。こうして百姓たち321人全員暑名の誓約文書と、同時に指導グループの申し合わせ文書の両方が小倭郷の成願寺には残されました。
こうして小倭郷で何か紛争が起こったときには、指導グループの衆中の人々が調停者になります。例えば次のような調停案が出されています
①飢饉などで、負債に苦しむ人が出てくると、これこれの条件・範囲で地徳政をやろうということを自分たちで決定している。そのイニシアチブをとっているのは、地侍クラスの指導グループです。
②犯罪などのときに検断(調査・裁判)
③徳政実施に際しての調整

③については、金を貸しているほうは徳政に当然反対します。そこで個別に交渉して、自分は幾ら払うから、自分の債権は認めてくれ、つまり徳政はそれで免除してくれ、といった取引をやっています。
 こうした紛争の調停を「異見(いけん)」と呼んだようです。これが仲裁意見です。
例えば地徳政の場合には、次のように進められています。
①徳政調停者が「異見(原案)」を出す。
②債権者は債権を認めてもらうかわりに、銭を十貫文出す。
③債務者のほうも、十貫文もらったのだから、今後はふたたびこの郷で地徳政が実施されても、もうこの件については債務破棄を要求しませんという誓約書を出させる。
このような手打ちのことを「徳政落居(らつきょ)」と呼んでいます。その証文が落居状で、成願寺に残っています。
こんな形で村人たちが自分たちで経済問題や紛争、土地争い、障害事件など、民事的な紛争から刑事的な紛争まで解決しています。これが行えるためには、村人全員の合意が必要です。その郷村全体で申し合わせた規約が「惣掟(そうおきて)」です。惣というのはすべてという意味ですから、村の全体にかかわるおきてという意味になります。
 惣掟を持ったような村人集団を「惣」の衆中などと呼ぶようになります。惣掟にもとづいて、村人たちは紛争を自分たちで解決するという問題題解決の仕方がひろまります。ここで見た「惣」は、伊勢の小倭郷の一郷321人程度の範囲でした。ところが、もっと広い地域で自検断をやったり、地徳政をやったりする「広域の自治的な結合」も生まれていたようです。それを次回は見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法  

 滝宮念仏踊りが滝宮牛頭天王社(滝宮神社)に、 各郡の惣村で構成された踊り組によって奉納されていたことを以前にお話ししました。しかし、私には惣村の形成や、その指導者となった名主などの出現に至る経過が、いまひとつ曖昧でした。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

そんな中で出会ったのが永原慶三氏の「中世動乱期に生きる」という本です。この本は講演をベースにしている講演集なので、分かりやすい表現や内容になっていて、素人の私にとってはありがたい本です。永原氏が20世紀末の時点で、中世後半から戦国時代にいたる世界を、どのように描いていたのか、その到達点を知るには最適です。今回は、中世の惣と名主・地侍の出現過程部分について、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは   「永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法」です。    

これについて大まかなアウトラインを、永原氏は次のように記します。

「富が次第に地方に残されるようになって」きて、「日本の経済社会の全体的仕組みが、求心的で中央集中的な傾向から地方分権的な方向に、次第に性格を変えていった。……そういう動きと連動して守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしてくる」(158P)。そうしたなかで、惣村・郡中惣・惣国といつた「惣型秩序」が形成される。

惣村の小百姓台頭背景
     小農民の台頭をもたらした農業生産力の革新

惣村形成背景
惣村の出現背景

まず、守護や国人は省略して。地侍がどのように現れてきたのかを
見ていくことにします。
戦国時代の身分構成/ホームメイト
地侍は、もともと荘園の地頭級の役人ではありません。
つまり侍ではなかったということです。有力な農民出身の名主は、もともとの身分からいえば百姓です。律令時に百姓と呼ばれた人達が両極分解して、上層部が名主と呼ばれるようになったとしておきます。
名主層の台頭の背景は、何なのでしょうか? 
荘園の年貢は、領主に対してひとりひとりの百姓が納めるものです。しかし、これは集めるのが面倒なので、荘園領主は百姓の要求を受け入れて有力百姓に請け負わせるようにします。これを百姓請けとか地下請けと呼びます。このように年貢の取りまとめや納人の請負をやる有力百姓が名主クラスでした。
 村の耕地を維持していくためには、湛漑用水を確保しなければならないし、山野の利用を秩序だてて行なわなければならないなど、いろいろなことがあります。そういうことの中心になって村を切り盛りしていく役割を有力な名主たちが果たすようになります。他方で、名主層の中には国人や守護と被官関係を結ぶものも出てきます。被官関係というのは主従関係ですから身分的には、いままで百姓だった者が、侍になるということです。そのため地侍は、ふたつの性格を持つことになります。
地侍に2つの側面
地侍の持つ2つの性格
百姓出身とはいえ、地侍となると、やはり名字を名乗るようになります。
名主クラスはもともと姓をもっていたので、名前も漢字二字が多いようです。そういうような人を「侍名字(さむらいみょじ)」ともいいます。そんな人々が次第に農村の中に現れるようになります。これは鎌倉時代には見られなかったことです。この人たちは、村で生活していました。そのため百姓と似たりよったりの生活をしていす。そして地侍は村の耕地や水利施設の管理、年貢徴収などををやるので実力を持っています。国人や守護はうまくこの人々を把握すれば、自分の支配が安定します。しかし、この人々に背かれるとうまくいかなくなります。そういう意味では、地侍層の動きが大名たちの支配の安定、不安定を左右するカギであったと研究者は指摘します。ここでは室町時代から戦国時代にかけては、地侍が時代を動かす重要な役割、時代を社会のどのほうから動かしていく大きな役割を持っていることを押さえておきます。


惣村の構造図
               惣村の構造

 教科書は、惣村の力量の高まりの象徴として土一揆について次のように記します。
「徳政を求めて京都の町になだれ込んで、室町幕府に徳政令の発令を要求し、京都の町にあった土倉酒屋を攻撃し直接借金棒引き、借金証文の返済を求める」

 これだけ読むと農民の動きは、京都を中心にしてその周辺地域にだけあったように思えます。しかし、戦国時代になると地方でも農民闘争が活発におこっていることが分かってきました。京都の土倉ほど大きな規模ではありませんが、地方にも「倉本」が出現します。港町の問丸が倉本を兼業する場合もあります。倉庫業者や金融業者は、「有徳人(うとくにん:富裕層)」の代表です。そういう層に対し、農民が借金棒引きを要求していますし、荘園領主に対しては年貢や賦役の減免を要求して立ち上がっています
惣村の年貢軽減交渉
惣村の年貢軽減交渉
 守護が大名化すると、それまでなかった新しい課税(守護役)を求めるようになります。
その中には、人夫役もあれば段銭という課税もあります。これに対して百姓たちは、それもまけてくれという形で、守護に対する抵抗運動を見せるようになります。その中には、守護方の武力が領内に入つてくるのをやめて欲しい、出ていつてくれというような、政治的な動きも出てきます。
 応仁の乱のころからは一向一揆も起こってきます。
有名なものは加賀の一向一揆で守護の富樫(とがし)氏を殺したのはよく知られています。それだけではなく、近畿地方から信長の本拠である近江・美濃、尾張・伊勢、あるいは播磨のほうにかけ広く一向一揆が起こります。一向一揆は土地の領主には年貞を出さない、本願寺に出すというような動きをとりますが、実際は農民闘争という性質が強いと研究者は考えています。                   
どうして15世紀に新しい社会層が登場してきたのでしょうか。
その要因の一つとして、研究者がとりあげるのが経済問題です。
中世後期の経済社会を次のように簡略化してとらえます。
①従来は地方で生み出された富は年貢として都に集められ、貴族たちが消費しするという律令時代以来のシステムが機能していた
②そのため地方に残る富は乏しく、地頭の分け前程度が残るだけだった。
④地頭も質素な家に住んで、耕地開発に務めるが、まだまだ生活レベルは低く、自給自足的な生活を送っていた
⑤ところが15世紀初めの義満の時代の頃になると、富が地方に残されるようになってくる
 これは別の表現だと「年貢が地方から中央へ送られなくなる」ということになります。
同時に、地方経済の台頭の背景には、地方市場の発達があると研究者は指摘します。

室町にかけての商業・貨幣流通
室町時代の商業活動の発展

例えば農民の中でいろんな農作物を加工して売るような活動が盛んになります。
農民の副業としての農産物の加工業の誕生です。例えば大和あたりの農村地帯では、素麺がさかんに作られるようになります。麦をひいて加工したもので、今でも三輪素麺として有名です。それから油、特に灯油です。これは当時としては非常に重要な商品だったようです。京都から大阪に行く途中の山崎に離宮八幡という神社があります。石清水八幡の離れ宮です。その離官八幡に身分的に所属してこれに仕える神人が、荏胡麻油を絞って京都に売る特権を独占的に手に入れます。座組織をつくって原料買付・絞油を行ない、京都への油の供給はここが一手に掌握します。
 室町時代になると油の需要が高まり、大阪の周辺から播磨とか美濃・近江など至るところで油を絞って、それを商品として売る動きが盛んになります。
そのために離宮八幡の伝統的な座の権利、例えば原料の買人れ、油しぼり、そして商品の販売権などは新しく起こってきた各地の絞油業者、あるいは油の販売業者たちと各地で対立を起こすようになります。そういうことを見ても、絞油業が近畿周辺の農村に、広く展開するようになったことが裏付けられます。

室町時代の特産品
           室町時代の特産品

 地場産業として伝わっている、瀬戸物・美濃紙・越前紙などは、室町時代になって発展したものです。
こうして農村にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
 さらに市場や貨幣との接触が始まると、人々のものの考え方も合理的になっていきます。それが不作のときには年貢の減免というような領主に対する要求を、大胆におし出す動きにつながります。さらには領主が必要な時々にかけてくる夫役なども、銭で済ませることを認めさせます。このように中世の経済的成長で財力を得た富裕層があらたな指導権を握るようになり、農村全体に経済的・社会的な活気が見られるようになったことを押さえておきます。

鎌倉室町の貨幣流通策
鎌倉・室町時代の貨幣流通

 農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが特定の農村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、列島の経済社会の仕組みが、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていたのです。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。
以上をまとめておきます。
①律令国家以来の地方から京都への一方的収奪のいきずまり
②農村加工品や定期市など地方経済の形成
③地方経済の成長とともに、守護・国人・地侍の新しい社会層の台頭
④農村における惣村の形成。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法

 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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塩飽諸島の本島については何回も取り上げてきましたが、その周辺の島々についてはあまり触れていません。坂出市市史(近世上29P)を見ていると、瀬戸大橋沿いの坂出市に含まれる塩飽の島々が載せられていました。これをテキストにして、見ていくことにします。

櫃石・与島の製塩遺跡

 まず、塩飽諸島の一番北にある櫃石島です。
この島の頂上附近には、島の名前の由来とされる櫃岩があります。古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。

櫃石 
櫃石島の磐座 櫃岩 (瀬戸大橋の真下)

瀬戸内海の島々に最初に定住したのは、製塩技術を持った「海民」たちでした。彼らが櫃石島周辺の島々の海岸で、製塩を始めます。櫃石島の大浦浜は、弥生時代の代表的な製塩遺跡です。

大浦浜遺跡
大浦浜遺跡(櫃石島)

瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。

製塩土器
製塩土器
これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。櫃石島には専業化した専門集団がいて、製塩拠点を構えていたことがうかがえます。この時期が
備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期で、その影響が塩飽諸島の南部や坂出の海岸部にも伝播してきます。これについては、坂出市史古代編が詳しく述べていますので省略します。
製塩土器分布 古墳時代前期
古墳時代前期の製塩土器出土遺跡の分布

 これらの製塩技術が渡来系の秦氏によって担われていたと考える研究者がいます
技能集団としての秦氏

備讃瀬戸の製塩と秦氏について、加藤謙吉著『秦氏とその民』は、次のように記します。


西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から9世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。
 
秦氏分布図
秦氏の分布図(瀬戸内海では吉備と讃岐に多い)

秦氏は製塩技術をもって島嶼部にまず定着して、その後に海岸部から内陸部に展開するという形をとることが多いようです。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏一覧表
古代讃岐にも秦氏の痕跡が多く見られます。そのなかでも高松の田村神社を氏神とした秦氏は、香川郡の開発に大きな痕跡を残しています。また、阿野北平野や坂出方面へ塩田を拡大しつつ、岡上がりしていく様子がうかがえます。

坂出市の製塩遺跡分布図
坂出の製塩遺跡
どちらにしても、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族が、弥生時代には島嶼部に定着したことを押さえておきます。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り

 「海民」は、造船と操船技術に優れた技術を持ち、瀬戸内海や朝鮮半島南部とも活発な交易を行っていたことは、女木島の丸山古墳に葬られた半島製の金のネックレスをつけた人物からも推測できます。海民たちは、漁業と廻船業で生計を立て、古代から備讃瀬戸周辺を支配下に置きました。そして、時には東シナ海を越えて大陸方面にまで遠征していたこともあるようです。

大宰府に配流される菅公の乗る13世紀前期の準構造船(『北野天神緑起絵巻(承久本)』より) ©東京大学駒場図書館
太宰府流罪の菅原道真を載せた船(北野天満宮絵巻)
 島の名前の由来とされる櫃岩には、この下に藤原純友が各地の国府を襲って奪った財宝が隠されているという伝説が残されています。
そうすると櫃石島の「海民」たちも純友の組織する海賊(海の武士団)の編成下に入り、讃岐国府を襲ったのかも知れません。どちらにしても海の武士団として組織されるようになった海民たちは、中世になると備讃瀬戸に入ってくる船舶から通行料(関銭)をとるようになります。そのため海賊とも呼ばれました。
 しかし、一方では航海術に優れ「塩飽衆」と呼ばれて海上輸送にその力を発揮、塩飽は備讃瀬戸ハイウエーのサービスエリア兼ジャンクションとして機能するようになります。瀬戸内海を行き来する人とモノが行き交い、乗り継ぎ地点としても機能します。塩飽を拠点とする廻船業に、活躍する船乗り達がいろいろな史料に登場します。

中世の船 一遍上人絵図
一遍上人絵伝に出てくる中世の船

 こうして戦国時代になると、瀬戸内海に進出してきた信長・秀吉・家康などの中央権力は、塩飽衆のすぐれた航海技術や運送技術を、その配下に入れようとします。それがうかがえるのが塩飽勤番所に残された信長・秀吉・家康の朱印状です。これについては以前にお話ししました。櫃石島に話をもどします。

P1150655
白峯寺の東西の十三重石塔(向こう側が櫃石島の花崗岩製)

中世の櫃石島の触れておきたいのは、この島が当時最先端の石造物製造センターであったことです。
最初に見たように櫃石島の磐座の櫃石は花崗岩露頭でした。その花崗岩で作られているのが、白峰寺の十三重石塔などの石造物と研究者は指摘します。それでは櫃石島で石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。

 DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺の十三重石塔 左が花崗岩製で櫃石島製

 讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、白峰寺などの特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は考えています。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業です。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。

白峯寺 讃岐石造物分布図

★が櫃石島系の花崗岩石造物の分布(白峰寺と宇多津のみに分布)
 そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたと云うのです。

櫃石島の石工集団と白峰寺

その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が櫃石島で作られ、白峰寺周辺に設置されたと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
頓證寺殿の燈籠(花崗岩製で櫃石島製作)
ここでは、関西から新たな技術を持つ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺に石造物を提供するようになったことを押さえておきます。櫃石島は、中世には最新技術をもった石工集団の島でもあったことを押さえておきます。

芸予諸島を拠点とした村上水軍が、その地盤を奪われ陸上がりしたり、周防大島の一部に封じ込まれたりして、海での活躍の場をなくしていったのは以前にお話ししました。それに比べると、塩飽衆は戦国時代以来の廻船業を続けていける環境と特権を得ました。それが「人名制」ということになるのでしょう。

江戸時代の櫃石島は、6人の人名(旧加子)がいて、庄屋の孫左衛門(高二石六斗、庄屋給分一石一斗)が治めていました。年末詳の「新開畑高之儀二付返答」(塩飽勤番所所蔵)には次のように記されています。
「櫃石嶋新開畠九反四畝は宮本伝右衛門代々所持仕り罷かり有り候、此儀櫃石嶋百姓得心の上二にて私先祖開作仕り則ち下作人の者共より定麦二石七斗年々私方へ納所仕り来り候処、紛れ御座なく候」

意訳変換しておくと
「櫃石嶋の新開畠九反四畝は、宮本伝右衛門が代々所有する土地で、このことは櫃石嶋の百姓も承知しており、私たち先祖開作の際に、下作人の者たちから麦二石七斗を毎年私方へめることになっていたことに間違い有りません。

ここからは櫃石島が、宮本伝右衛門によって開かれ、その影響下にあったことが分かります。
 櫃石島の島の規模は、次のように記されています。
島回り一里五町(約4,6㎞)・東西五町半(約600m)・南北五町(500m)、
在所(住居部分)長三六間(約65m) 横21間(約38m)
島はほとんどが山地で、集落(在所)は島の東南部分にありました。
近世の櫃石島の人口・戸数・船数などを史料でみておきましょう。
1676(延宝四)幕府巡見の記録には、次のように記します。

田畑高合四拾六石工升五合、家数合三十九軒、人数合百九十二人
、舟数五艘」 (竹橋余筆別集)

1713(正徳三)年の「塩飽島諸訳手鑑」には
家数五七件、水主役十人、人数三百人、船数十九艘)

これを見ると約40年の間に、戸数や人口が大幅に増えていることが分かります。その背景には船数の5艘から19艘の大幅増加がうかがえます。これを別の史料で見ておきましょう。

江戸時代前半には、櫃石島も廻船業務に携わっていたようです。
1685(貞享二)年「船二而他国参り申し候者願書ひかへ帳」「他国行願留帳」には、次のような記事があります。
一 塩飽ひついし九左衛門舟、出羽国へ参り申す二付き加子参り申し候願さし上、八、九月比罷的帰り判消し申すべく候
丑二月三口        吹上 仁左衛門
                                八月十一日ニ罷り帰り中し候、
意訳変換しておくと
一 塩飽の櫃石九左衛門の舟が出羽国へ航海予定のために、加子(水夫)として参加する旨の届け出があった。八、九月頃には帰国予定とのことである。
丑二月三口        吹上  仁左衛門
                 8月11日に帰国したとの報告があった。

この文書は内容は、櫃石島の廻船に吹上村の水夫が乗船し、出羽国酒田へ行く願書です。
同じような内容のものが、1689(元禄二)だけで6件あります。乗り組んだ船の内訳は、九左衛門の船が3件、三右衛門船が2件、七左衛門船が1件、孫七船が1件です。ここからは最低でも櫃石島から4隻の船が日本海に出港していたことが分かります。
どうして、櫃石島の船に備中吹上村の水夫が乗りこんでいたのでしょうか?
河村瑞賢~西廻り航路を開拓したプロジェクトリーダー~:酒田市公式ウェブサイト

1673(寛文十二)年の河村瑞賢による西廻り航路整備によって大阪・江戸と酒田が航路が開かれます。
この際に河村瑞賢は幕府に次のように進言しています。

「北連の海路は鴛遠、潮汐の険悪はまた東海一帯の比にあらず、船艘すべから北海の風潮に習慣せる者を雇い募るべし、讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜等の処の船艘のごときは皆充用すべし、塩飽の船艘は特に完堅にして精好、他州に視るべきにあらず、その駕使郷民主た淳朴にして偽らず、よろしく特に多くを取るべし」(新井白石「奥羽海運記」)

意訳変換しておくと
「北前航路は迂遠で、潮汐の厳しさは東海の海とは比べようもない。使用する船は、総て北海の風潮に熟練した者を雇い入れること。具体的には讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜などの船艘を充てるべきである。特に塩飽の船は丈夫で精密な作りで、他州の追随をゆるさない。その上、郷民たちも淳朴で偽りをしなし。よって(塩飽の船や水夫を)を特に多く採用すること」(新井白石「奥羽海運記」)

この建議にもとづいて、年貢米輸送の役目を主に命じられたのが塩飽の船乗りたち(塩飽衆)でした。こうして塩飽衆は、幕府年貢米(城米)の独占的輸送権を得ます。幕府からの指名を受けて塩飽船の需要は急増します。そのため船数の需要が多すぎて、水夫(加子)不足という事態が起きます。そこで塩飽船の船頭達は、周辺の下津井・味野・吹上、田ノ浦などの村々の港に、「水夫募集」を行ったようです。こうして塩飽船には、多くの備中の水夫達が乗りこむことになります。
櫃石島船への吹上村などからの乗船記録は、次の通りです。
1690(元禄 三)年  9件
1694(元禄 七)年  4件
1699(元禄十二)年 2件
1700(元禄十三)年 3件
1701(元禄十四)年  1件
1702(元禄十五)年  なし
これらの船の行き先は出羽国酒田や、越中や能代でした。ただ、この期間の出航数をみると次第に減少しています。この背景には、元禄年間(1688~1704)から正徳年間(1711~16)にかけて、塩飽廻船の海難が増加と、幕府の政策転換があったようです。この時期に、塩飽側は幕府に次のように訴えています。

「西国北国筋より江戸江相廻候御城米船積之儀、残らず塩飽船仰せ付けさせられ船相続仕り候処に近年は御米石高の内少分仰せ下させられ候、之れに依り塩飽の船持共過半明船に罷かり成り困窮に及び船相続罷かり成らぎる次第に減り嶋中の者至極迷惑仕り候」(塩飽勤番所所蔵文書)

意訳変換しておくと
「西国や北国筋から江戸への城米船の運行について、かつては総て塩飽船を指名されていました。ところが近年は運送米石高の内の一部だけの指名となりました。そのため塩飽船の半分は荷物のないまま運行することになり、困窮に陥り、操業が続けられなくなって、塩飽の者たちは、大変迷惑しています」(塩飽勤番所所蔵文書)

 塩飽の年寄り達は「塩飽廻船の城米船独占復活」を幕府に訴えています。しかし、「規制緩和」で「競争入札」し塩飽の独占体制を許さないというのが当時の幕府の方針ですから、受けいれられることはありません。こうして、18世紀になると、独占的な立場が崩れた塩飽廻船の苦境が始まることになります。
そんな中で、櫃石島のひとたちは、どんな道をたどったのでしょうか?
 それが、それまでは人名達が手を出さなかった漁業のようです。高松城下町での魚の需要が増加すると、坂出沖の金手などの漁場へ出て行くようになります。また、廻船製造技術を活かした船大工としての活動も活発化しいきます。それはまた別の機会に。

以上、櫃石島についてまとめておきます。
①弥生時代後期には、「海民」が櫃石島の大浦遺跡などに定着し、大規模な製塩をおこなっていた。
②中世になると海民たちは造船と操船に優れた技術を持ち、備讃瀬戸の通航権をにぎり海賊(海の武士)として活動を始めるようになった。
③また盤石「櫃石」は花崗岩で、畿内から送り込まれた石工集団が白峯寺の層塔などの石造物製作をこの島で行った。
④櫃石島の廻船業は近世になっても続き、幕府の城米船として活動する船が元禄時代には数隻以上いたことが記録から分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      江戸時代初期の櫃石島  坂出市市史(近世上29P)
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 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。



    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や配電が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

 1585(天正13年)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいました。そして四国の大名を一括して認識していたとも云われます。そのため四国衆は、秀吉の助言や指示を仰ぎながら国造りや、城下町形成を行ったことが考えられます。今回は、その中で阿波の蜂須賀家の徳島城下町形成を見ていくことにします。
Amazon.co.jp: 近世城下絵図の景観分析・GIS分析 : 平井 松午: 本
テキストは「徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較63P」です。
1585(天正13)年の秀吉による四国平定後に阿波に入ってきたのが蜂須賀家政です。
特別展 蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮 ―二五万石の礎【図録】(徳島市立徳島城博物館:編) / パノラマ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
蜂須賀の3代
彼は最初は鮎喰川中流の山城一宮城に入りますが、羽柴秀吉の指示で古野川河口南岸のデルタに新たな拠点に定めます。その背景としては、次のような事が考えられます。
①徳島が吉野川流域の「北ケ」と勝浦川・那賀川・海部川流域の「南方」の結節点であったこと
②畿内や瀬戸内経済圏に近く、海上交通に利便であったこと
そして吉野川デルタの城山(標高61.7m)に、徳島城を築き、翌年14年には、次の布令をだしています。

「去年から徳島御城下市中町割被仰付町屋敷望之者於有之ハ申出二任相応二地面可被下旨」
(「阿淡年表秘録」徳島県史編さん委員会編1964頁)

意訳変換しておくと
「去年から徳島の城下市中で町割を実施している。ついては屋敷を所望する者については、申し出れば相応な地面(土地)を下される。
 
ここからは城郭建設の一方で、積極的に町人の移住を奨励していることが分かります。こうして城下町建設は急速に進みます。蜂須賀家によって進められた徳島城下町は、全国的にみても早い時期に成立した近世城下町の一つのようです。
蜂須賀氏に少し遅れて讃岐に入ってきたのが生駒氏です。生駒氏も讃岐のどこに拠点を置くかについて、「引田 → 宇多津 → (丸亀) →高松」と変遷しています。高松への城下町設置についても秀吉からの助言と指示があったことが考えられます。

桃山時代に行われた徳島城下町プランの特徴を、研究者は次のように指摘します。
①古野川の分流である新町川・寺島川・助任(すけとう)川・福島川な下の網状河川を濠堀として利用した「島普講」
②従来の渭山城と寺島城のふたつの城を取り込んで築城し、「渭津」と呼ばれた地を「徳島」と改称。
③城郭のある徳島地区と大手筋(通町)にあたる内町・寺島地区を中心に、出来島・福島・常三島・藤五郎島の6島と前川・助任・寺町・新町の各地区を徐々に整備。(図4-1)c
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図
       御山下画図(徳島城下町の一番古い城下町図)
例えば、この時に整備された「寺島」地名の由来は、『阿波志 二巻』(国会図書館蔵)の次の記述からきているとされます。

「旧観多因名天正中移之街」

  ここに最初から寺社が建ち並んでいたのかと云えば、そうではないようです。もともと渭津には、中世には社寺はほとんどなかったようです。それでは、どこから移転させたのでしょうか。
中世徳島の政治的中心は、細川・三好氏の拠点があった勝瑞城館周辺でした。
そのためその周辺には、27ケ寺もの寺院がありました。その内の6ヵ寺を寺島に、8ヶ寺を徳島城下の寺町、2ケ寺を層山山麓に蜂須賀氏は移しています。寺院を城下町の一箇所に集め「寺町」を形成し、軍事的・政治的要地とするという手法は、当時の城下町形成のほとつの手法でした。

 御山下画図をもう一度みてみましょう。
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図

これを見ると、徳島地区の城郭東隣3区画 + 徳島城側の寺島地区3区画 + 「ちき連(地切)」と呼ばれた籠島地区2区画は、「侍町」と記されています。寺島地区にはこの他にも、「侍町」「町や」、「城山」や、城山西隣に隣接した瓢箪島(一部は明屋敷、のちの花畠)や、出来島・常三島・前川に「侍屋敷」、助任や、福島川治いにも「町家」が見えます。新町川対岸の新町地区にも道路割から町割があったことが分かります。
 ここでは秀吉時代に姿を見せた徳島城下町は、徳島・寺島・出来島を中心とした小規模な城下町で、次第に町割が拡充整備されていったことを押さえておきます。

 徳島と寺島に架かる徳島橋(寺島橋)については、『阿波志 二巻』に、次のように記されています。
「紙屋街 坊三有、旧名寺島街、国初徳島橋跨此後移橋迂通街、官命許嵩(販売)紙他街不得」
「徳島橋 在左詐樵(物見櫓):門外、跨寺島川、旧在鼓楼下、跨紙量街後移迂此」
御山下画図
御山下画図の徳島橋

ここからは城下町建設当時の徳島橋は、寺島街(町)と呼ばれた紙屋町に通していたこと、それが後に約100m南に移され、通町につなげたとことが分かります。通町は、徳島城下町の大手筋にあたりますが、仮に城下町建設当初は紙屋町が大手筋とすれば、徳鳥橋移設前の城下町構造は寛永前期(1630年頃)までとは多少異なっていたと研究者は考えているようです。
 徳島城下町は豊臣期プランでは、天守を仰ぐタテ町型の城下町建設が進んだと従来はされてきました。
しかし、紙屋町・通町のいずれからも城山山上の本丸や東ニノ丸の天守を見ることはできません。ただ北方道と紙屋町通りが合流する三叉路地点からは、徳鳥城南西隅に設けられた物見櫓が正面に見えただけになると研究者は指摘します。

徳島城下町がヴァージョンアップするのは、1615(元和元)年の大坂の陣以後のことです。
大阪の陣の功績で、蜂須賀家は淡路一国七万石が加増されます。これを契機に徳島城の大幅改造が行われます。その一環として徳島城の拡幅や、徳島橋の架け替えが行われたようです。しかし、徳鳥城下町の町割自体には大きな変化は見当たりません。
 一方、大坂夏の陣が終わると―国一城令が出されますが、当時の蜂須賀家の阿波国統治の基本スタイルにすぐには変化はなかったようです。蜂須賀藩では、人部以来、手を焼いた祖谷山一揆や丹生谷一揆の領内鎮撫への反省・対応から、9つの支城をそれぞれ城番家老が担当するという分権的支配体制(「阿波九城」体制)がとられていました。

阿波九城a.jpg
阿波九城体制

そこで新たに領地となった淡路国にも、山良成山城に城番として大西城(池田城)の城番を務めた牛田一長入道宗樹が宛てられています。阿波九城の一宮城や川島城などは、元和元年ころまでには廃城となっていたようですが、支城すべての破却が完了するのは、島原の乱後の1638(寛永15)年頃になります。
 しかし、徳島城下町の都市改造は、これよりも早く1630年代(寛永期以降)には着手していたようです。それが分かるのが「(忠英様御代)御山下画図」で、これには次のような懸紙が付されています。
徳島城の建物・石垣の修復願い
徳島城下(御山下)周辺の佐古村に「町屋二被成所」
福島東部の地先に「御船置所」
富田渡場に「橋二被成所」
ここからは、この絵図が徳鳥城修復や城下町再編のために幕府に提出した計画図の控えであることが分かります。ちなみに富田橋の建設申請は何度も幕府に提出されますが認められず、架橋されたのは明治になってからです。
「御山下画図」には「島普請」の様子が、次のように描かれています。
①徳鳥・寺島・出来島・編島・住吉島・福島・前川地区に侍屋敷が配置されていること
②内町・新町・助任町・福島町の町人地の家並みが描かれていること
③内町には尾張・竜野出身の蜂須賀家譜代の特権商人が集められていること
④新町川を挟んだ対岸に地元商人が集つまる新町が形成されたこと
⑤新町と眉山の間に寺町が設けられていること
⑥城下町縁辺に配置されることが多い足軽町が見当たらないこと

⑥については、当時はまだ有力家臣による城番制で、各支城ごとに約300人の家臣団が分散配置されていたためと研究者は考えています。しかし、村方の佐古村や富田浦には生け垣で囲われた中上級武士の家屋が多く描かれています。すでに廃城となった一宮城や川島城にいた中下級家臣が、城下周辺に住むようになったことがうかがえます。これらの家屋は伊予街道・土佐街道沿いに建ち並び、家並みも後世の町割につながる形状です。この図が作られた頃には、徳島城下町の改造計画が始まっていたのです。
 この図には、次のような施設も描かれています
①常三島の南東部(現・徳島大学理工学部付近)に移転することになる安宅船置所(古安宅)や住吉島の加子(水主)屋敷
②城下町の北側には蜂須賀家菩提寺の福衆寺(慶長6年に徳島城内より移転、寛永13年に興源寺に改称)や江西寺、
③城下東側に慈光寺(慶長11年に名束郡人万村より福島に移転)。蓮花寺(寛永8年に住吉島に移転ヵ)、
④城下南方の勢見(せいみ)には1616(元和2)年に勝浦郡大谷村より移転し徳島城下の守護仏とされた観音寺
また、この図には描かれていませんが城下西の佐古村には1602(慶長7)年に大安寺が創建されています。これらの四囲の寺院は、城下町防衛の軍事的観点から配置されたと研究者は考えています。関ヶ原の戦い以後も、蜂須賀家が引き続き城下町整備に務めていたことがうかがえます。

以上、初期の徳鳥城下町は吉野川デルタの島々の上に形成されたために、同時期に建設された近江八幡・岡山・広島・高松の城下町のように方格状の町割や足軽町の形成などは見られません。そういう意味では、町割ブランは明確ではなかったと云えます。町割りプランが明確化するのは、徳川政権下の慶長期以降だったことを押さえておきます。
 徳島城下町が大きく再編するのは、1630年代末になってからです。
その背景には、1638(寛永15)年までに阿波九城(支城)の破却が進んだことが挙げられます。そして1640年代になると川口番所や境目(国境)番所や阿波五街道などのインフラ整備が進みます。こうして阿波九城に居住していた家臣団が徳島城下へ集住することになります。その対応策としてとられたのが佐古村や富田浦を新たに城下に組み入れ、武士団の居住地として整備することです。そこには伊予街道や土佐街道のインフラ整備と連動して、新たな都市プランが採用され、足軽屋敷や中下級藩士の屋敷、町屋など長方形街区の町割が整備され姿を見せるようになります。こうして「御山下」と称する徳島城下町の縄張りがほぼ確立します。
 洲本城下町の建設や徳島城下町の再編を主導したのは非城番家老の長谷川越前でした。蜂須賀家では、幕府指導の下にこうしたインフラ整備を実行していく中で、各城番家老による分権的支配体制から藩主直仕置体制への政治改革が同時に進んだと研究者は考えています。

  あたらしく城下に編入され佐古・富田の町割プランを見ていくことにします。
阿州御城下絵図 1641年
阿州御城下絵図(1641年)

徳島城下町 西富山の屋敷割図
新たに城下に編入された西富田の「屋敷割之絵図」(1641(寛永18)年:国文学研究資料館蔵)です。土佐街道が中央を貫いています。これについて、研究者は次のように分析します。

徳島城下町 富山の屋敷割図
富田地区の屋敷割図

①東富田地区は中下級家臣の拝領屋敷や有力家臣の下屋敷が多くを占めている
②新町川南岸沿いに長方形街区が2列幣然と区画され、東西幅はおおむね75間を基準とした
③一方で長方形街区の南側に立地する下屋敷の規模は大きく、町割は不規則区画を示している|。
徳島城下町 東富田の屋敷割り(1641年)
東富田地区の屋敷割り(1641年)
徳島城下町 左古の屋敷割図
佐古の屋敷割図
佐古は東西に伊予街道が貫きます。
④佐古橋で新町に通じる佐古地区では、4間幅の伊予街道北側に東西55間(約100m)×南北15間(約27m)の町屋敷ブロックが9丁にわたって整然と配置されている。

徳島城下町 左古の屋敷割図拡大
佐古一丁目の拡大図
⑤伊予街道と平行して北側に東西方向に伸びる4間道の両側と3間道の南側に、東西55間×南北15間の街区ブロック3列が9丁連続し、
⑥それぞれの街区ブロックには間口を道路側に向けた11戸の鉄砲組屋敷が短冊状に配置
⑦鉄砲組屋敷ブロックの北側には、3間道を挟んで御台所衆・御長柄の組屋敷や中級高取屋敷が不規則に配置

寛永末期の徳島藩士は3374人を数え、その内訳は高取482人、無足444人に対し、無格奉公人が2448人で約736%を占めています。阿波九城が破棄されると、その中下級藩士を徳島城下に集住させることになります。このために徳島城下町の大改造が行われたことを押さえておきます。
(正保元)年12月に、幕府は国絵図・郷帳と合わせて城絵図(城下絵図)の提出を各本に求めます。

正保国絵図 徳島3
正保国絵図 徳島城下

「阿淡年表秘録」正保3年の項には、次のように記されています。
今年 御両国絵図 且御城下之図郷村帳御家中分限帳依台命仰御指出」

この時に幕府に提出された正保城絵図(上図)が国立公文書館に所蔵されていて、控図も残っています。そこには「阿波国徳島城之絵図 正保三丙戊11月朔  松平阿波守」と奥付に記されています。
この絵図で研究者が注目するのは、「(忠英様御代)御山下画図」では、村方表記になっていた佐古・西富田・東富田の侍屋敷地が「御山下」に編人されていることです。
正保国絵図 徳島.左古拡大JPG
坂本の侍屋敷と伊予街道

西富田の足軽町は、徳島城|下の守護を祈願した観音寺や金刀比羅神社がある勢見岩ノ鼻まで拡大されています。1616(元和2)年の観音寺や全刀比羅神社の移転は、こうした城下町再編計画の一環だった可能性があります。福島地先には計画通り安宅船置所が設置され、その西側に「船頭町」も描かれています。船置き場移転の結果、常三島の古安宅付近は、「侍屋敷」になっています。また、阿波五街道に指定された讃岐本道・伊予本道・土佐本道・淡路本道の4街道は、徳島城鷲の門を起点に朱筋で示されています。
 正保城絵図は城地・石垣に関する情報のほかにも、城下の町割と侍屋敷、足軽町、町家、寺町な下の土地利用を記載することが幕府によって求められていました。これに従って「阿波徳島城之絵図」では次のような施設が描かれています。
城地に屋敷や馬屋・蔵屋敷
安宅に船頭町
西富田に餌指町・鷹師町
寺町周辺や城下四隅に置かれた「寺」
ここでは寛永後期~正保期にかけての都市大改造によって、徳島城下町の縄張りが確立されたこと、正保城絵図である「阿波国徳島城之絵図」は、そうした徳島城下町の再編計画の完成を示す城下絵図であることを押さえておきます。
明治初期の徳島城下町

以上をまとめておくと
①秀吉から阿波国主に封じられた蜂須賀家は、その指示に基づいて吉野川デルタ地帯に城下町を築いた。
②初期の城下町はデルタ上の島々の上に築かれたもので、寺町・町人などの居住区は整備されたが侍屋敷の数は少なかった。
③これは当時の蜂須賀藩が「九支城体制」で、多くの家臣団が支城に居住していたことによる。
④それが変化していくのは、淡路加増や一国一城が貫徹し支城が廃棄されるようになってからのことである。
⑤多くの家臣を徳島城下町に居住させるために、計画的な家臣団住宅整備プランが実施され、侍屋敷が整備された。
⑥これらは五街道や藩船置場(港)などの社会的なインフラ整備と一括して実施された。
⑦こうして1640年代には、徳島城下町はヴァージョンアップした。

こうしてみると高松城の変遷と重なる点が見えて来ます。高松城は、16世紀末に生駒氏によって、海に開かれた城郭として整備されます。しかし、城下町に家臣団は住んでいなかったことは以前にお話ししました。それは生駒藩が棒給制をとらずに、領地制を維持したために家臣団が自分の所領に舘を構えて、生活していたからでした。それが変化するのは、高松藩成立後です。生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重は、再検地を行い棒給制へ移行させ、家臣団の高松城下町での居住を勧めます。こうして高松城下町でも家臣団受入のために、侍屋敷の整備が求められると同時に、急速な人口増が起きます。その結果、南の寺町を越えて市街地は拡大することになります。高松と徳島で、城下町が整備されていくのは1640年代のことのようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較
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山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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