今回のお話しは、讃岐の電力会社の創設過程と、それが四国水力発電会社として成長して行くまでの話になります。近代産業としての発電事業を根付かせる苦労を、増田穣三は背負います。それを水力発電の導入によって発展させていくのが多度津の景山甚右衛門です。ふたりの動きについてのお話しが聞けます。興味と時間のある方を歓迎します。
場所が吉野公民館に変更になっています。注意してください。
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A「山陽道」に沿って東方から①中井廃寺、②小神廃寺、③垣内廃寺、④小犬丸廃寺B「美作道」に沿って南方から⑤奥村廃寺、⑥越部廃寺、⑦栗栖廃寺C 東方に⑧香山廃寺、瀬戸内海に近い地区に⑨下太田廃寺や⑩金剛山廃寺
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」
①巨大な畿内型横穴式石室をもつ直径20mの円墳②玄室側壁の腰石ふうの基底石、奥壁2段、玄室側壁3段、玄門部1段、羨道側壁2段に巨石を積む
①一辺26mの方墳で、横穴式石室は両袖式で低いが前壁もあって畿内型タイプ②玄室側壁は巨石を3段積む[松本・加藤・中村・中浜・義則1992]
①6世紀後半ごろには右片袖式、左片袖式、両袖式の畿内型横穴式石室が併存し、巨石を用いた横穴式石室はあまりない。②そうしたなかで登場する那波野古墳は、畿内型の巨石墳である。③7世紀中ごろには個性的な左片袖式、無袖式の横穴式石室、さらには変形版の「横口式石榔」など、多彩な横穴式石室がつくられる。④そこには、横穴式石室の形式を統一しようという意志は見受けられず、横穴式石室をとおしての「われわれ意識」を表現しようとする意図は弱い。⑤白毛9号墳・白毛13号墳、若狭野古墳などは、畿内方の横口式石槨をモデルにしたような変形的横穴式石室である。
「赤穂・揖保の両郡域のみに分布している。」「最も後出の若狭野古墳は7世紀の第3四半期ごろ」
①6世紀後半ごろから7世紀初めごろにかけての群集墳とくらべると、墳丘も横穴式石室も小さいし、副葬品もきわめて少ない。②京都府の音戸山古墳群、旭山古墳群、醍醐古墳群、あるいは大阪府田辺古墳群など、ほぼ同時期のものと比較しても基数が多い。③3~4世代におよぶので、単純計算でも30~40ほどの造墓主体が共同墓域を利用していたことになる。④古墳造営が7世紀なので、この地域の中間層だけが自発的に共同墓域をかまえ、そこで造墓活動をしたとは考えにくい。
②後円部の石室は両袖式で、玄室と羨道は入り口側に向かって広がり、天井部は高くなる。③羨門から前方にかけて9、8mほどの長さのハ字形の墓道がつく。④奥壁は縦長巨石の1段積み、玄室側壁は左4段、右3段、羨道側壁は3段積み、羨門付近は4段積みで、玄門部には立柱石を据え、前壁は2段積み二子塚古墳副葬品⑥金銅製双龍環頭大刀柄頭、鉄製大刀、金銅製鍔、鉄矛、石突、鉄鏃、刀子、馬具(鐙、杏葉、磯金具)、陶邑TK209型式の須恵器、土師器、鉄釘
①在地首長が畿内勢力と密接な関係をもつことで強力になった②畿内から送り込まれた勢力が、この地域に意図的に配置された
①奥壁は巨大な鏡石の上部に横長の石材を1段積む。②側壁は2段積みで、天井部は平坦二塚古墳出土の馬具類④杏葉は「双龍あるいは双鳳を文様の基調とし、朝鮮文化の影響を受けたもの」
①奥壁は1石1段積み、玄室側壁は基底部に巨石を3石据え、その上部に横長の石材を積む。②羨道側壁も同様の構造ですが、1石のところもある。③玄室天井部はやや玄門部に向かって下がり、前壁は低い。④出土品は分かりません。
①花崗岩の切石を積んだ横穴式石室は、奥壁は1石の鏡石、玄室側壁は基底部の巨石に横長の石材を積む。②玄門部は立柱石が内側に突出し、その上部に相石がのる。③玄室の天井石は1石で、その南方に伸びた丘陵尾根に、ほぼ同時期とみられる6基の小型横穴式石室が付属
①横穴式石室の奥壁は1石②側壁は玄室も羨道も基底部の巨石に横長の石材を1段積み。③玄門部の立柱石は内側に突出し、その上部に一段下がった相石が載せられる。④滑石製管玉、須恵器などが出土していて、「古墳時代終末期(7世紀前半)頃」
①巨石を積んだ横穴式石室は、玄室の奥壁、領1壁、玄門立柱石は1石②玄室のほぼ中央には仕切り石が置かれ、その位置は側壁の2石に対応③羨道側壁は玄門部側は1段だが、羨門側は2段積み。
①7世紀初めに前方後円墳で、両袖式の巨石墳の二子塚古墳の出現する。②その後は7世紀後半まで、有力古墳がいくつも造られている。③3期には、タイプの違う大型石室を持つ古墳が、同時進行でいくつも造営されている。
「在地首長の権力を温存しただけでなく、吉備勢力の分断を狙って、これを積極的にバックアップした」「備後南部の首長層は、備後北部を従属させるにいたった」「南部の塩と北部の鉄」の「商品交換」が「南部の首長のリーダーシップのもとに行われ」「両地域はここにいたってはじめて緊密に結びついた。そして「備後」という一つの自己完結的な政治的地域が成立した。この時期に近畿政権が吉備分断のため、あえて「備後」の地域をまず切り離しにかかった背景もここにあった。」[西川1985]。
「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。
これらの説に共通するのは、6世紀までは自立していた「吉備」が、7世紀になって畿内勢力に分割・解体されるという道筋です。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として終末古墳を読みとっています。「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」[脇坂2005]。
「畿内政権から直接派遣された高級官人・軍人(渡来系を含む)もしくは地域首長一族から大和朝廷に出仕し、高い評価を得て出自の故地に埋葬された人物の可能性が高い」[内田2009]。
「地方の横口式石槨は畿内でも官僚として活躍した地方首長層の墳墓に採用されていた可能性が大きい」「白石2009」
壱岐島は外交と防衛の前線宗像は出発港京都平野はその兵姑基地
古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。