瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年04月

第八回 史談会 増田穣三と景山甚右衛門

今回のお話しは、讃岐の電力会社の創設過程と、それが四国水力発電会社として成長して行くまでの話になります。近代産業としての発電事業を根付かせる苦労を、増田穣三は背負います。それを水力発電の導入によって発展させていくのが多度津の景山甚右衛門です。ふたりの動きについてのお話しが聞けます。興味と時間のある方を歓迎します。
場所が吉野公民館に変更になっています。注意してください。
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  前回は備後南部の芦田川流域について、以下のような点を見てきました。
備後南部に終末古墳が集中した理由3

 備後南部の芦田川流域と同じような動きが見られるのが播磨西部の揖保川中流域(兵庫県たつの市)です。この地域にも終末期古墳と古代寺院が密集しています。今回は播磨西部を見ていくことにします。テキストは前回に続いて、「広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月」です。
まず、揖保川流域の遺跡を見ておきます。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

このエリアでは、揖保川が南北に貫通していて、古代から上流域との船による人とモノの動きが活発に行われていた地域のようです。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から広域道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことが分かります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。
 「揖保郡」には古代寺院が11カ寺も建立されています。
地図に番号を入れた古代寺院を見ておきましょう。
①中井廃寺には柄穴式の心礎と石製露盤が残され、素弁蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦が出土。付近には、ロストル式瓦窯あり。
②小神廃寺からは素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式軒丸瓦と、それにともなう重弧文軒平瓦や出柄式の礎石などが出土。
③中垣内廃寺では柄穴式の塔心礎。
④小大丸中谷廃寺では南北75mの寺域が確認され、単弁十弁蓮華文軒丸瓦が出土
奥村廃寺 揖保川流域
奥村廃寺

⑤奥村廃寺は双塔式の伽藍配置をとった約150m四方の寺域をもち、柄穴式の塔心礎のほか有稜線弁文八弁軒丸瓦、川原寺式軒丸瓦、重弧文軒平瓦・偏行唐草文軒平瓦などが出土
⑤越部廃寺では珠文帯をもった複弁蓮華文六弁軒九瓦や重弧文軒平瓦を確認。
⑥栗栖廃寺でも珠文帯複弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土。
⑦香山廃寺では重弧文軒平瓦が出土

Photos at 下太田廃寺跡 - 2 visitors
下太田廃寺
⑧下太田廃寺では南北130mの寺域に、四天王寺式伽藍配置が推定。素弁蓮華文軒丸瓦、複弁八弁蓮華文軒丸瓦、忍冬文軒平瓦、重弧文軒平瓦などが出土
⑨金剛山廃寺では柄穴式の塔心礎がみつかっていて、川原寺式軒丸瓦と重弧文軒平瓦が出土
⑩以上に加えて、布勢駅家が確認。

播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
 11ヶ寺の立地を、見ておきましょう。(地図上の番号と一致)
A「山陽道」に沿って東方から①中井廃寺、②小神廃寺、③垣内廃寺、④小犬丸廃寺
B「美作道」に沿って南方から⑤奥村廃寺、⑥越部廃寺、⑦栗栖廃寺
C 東方に⑧香山廃寺、瀬戸内海に近い地区に⑨下太田廃寺や⑩金剛山廃寺
寺と官道の関係を考えると、寺が造られた後に山陽道や美作道が出来たわけではありません。沿線沿いに古代寺院が造られたと考えるのが自然です。AやBからは、古代寺院建立期の7世紀半ばには「山陽道」や「美作道」が完成していたことがうかがえます。ここでも律令体制以前に官道の原型はできていたことが裏付けられます。
 沿線沿いの寺院や五重塔は、銀黒色に輝く軒瓦や白壁や朱塗りのほどこされた柱などカラフルな七堂伽藍として、行き交う人々の目を引いたはずです。それは、かつての前方後円墳に替わるランドマークタワーの役割も果たしたのでしょう。
律令制下の揖保郡には、12里が設置されますが、そこに古代寺院が11カ寺も建立されていたことになります。
 終末期巨石墳を造営した一族が、7世紀後半には氏寺を建立するようになります。そういう視点で見ると、古代揖保郡では寺院を建立した檀越氏族のほうが、終末期古墳を築造した首長よりも多いと研究者は指摘します。つまり7世紀後半になって、この地域では首長が新たに増えているのです。
 古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が、律令期の播磨国揖保郡に「集住」していたことを物語ります。その背景としては、最初に述べたように揖保郡は、揖保川の伝統的な水運と、「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

前後しますが揖保川流域の終末期古墳についても見ておきましょう。 
岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力の抑制を目的として体制強化策がとられていたようです。

中浜久喜氏は次のように記します。
「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」

そして7世紀になると、終末期古墳と古代寺院が集中します。
揖保川流域の古墳編年

前方後円墳が造られなくなった後に、終末古墳としてこのエリアに最初に登場するのが1期の那波野古墳です。

那波野古墳 揖保川流域
①巨大な畿内型横穴式石室をもつ直径20mの円墳
②玄室側壁の腰石ふうの基底石、奥壁2段、玄室側壁3段、玄門部1段、羨道側壁2段に巨石を積む
那波野古墳 揖保川流域.2JPG
那波野古墳の石室

墳形はわかりませんが、前回見た備後南部地域に最初に登場する二子塚古墳とよく似た形のようです。やはり、畿内勢力から派遣された首長墓と研究者は推測します。

那波野古墳と同時期に築造されているのが方墳のはっちょう塚7号墳です。
工人のこだわりが伝わるようやくたどり着いた石室!一辺25mの方墳。はっちょう塚7号墳■(たつの市)(兵庫県)(後期)Hacchouuzka No.7  Tumulus,Hyogo Pref.

①一辺26mの方墳で、横穴式石室は両袖式で低いが前壁もあって畿内型タイプ
②玄室側壁は巨石を3段積む[松本・加藤・中村・中浜・義則1992]
以上の2つの古墳が1期に属し、突然のように現れる終末古墳群のスタートとなります。
この2つに続く終末期古墳を石室編年で見ておきましょう。

揖保川流域の古墳編年.3JPG
揖保川中流域の横穴石室の編年

備後南部地域とは違って、揖保川中流域では畿内型横穴式石室が続かないようです。
①2期の上伊勢古墳は羨道がないのでよく分かりませんが、玄室側壁、奥壁はおそらく2段積
②浄安寺古墳の横穴式石室は左片袖式で、奥壁と玄室側壁は巨石一石で構成され、玄門立柱石を立てる。前壁はなく、天井は平坦。
③山田3号墳も左片袖式で小型で、浄安寺古墳とほぼおなじ構造
④宇原2号墳長は羽子板状プランの無袖式で、奥壁は1石、側壁は1~2段積み、天井は平坦で前壁をつくらない
⑤長尾薬師塚古墳は東辺約20mの方墳で、前面の東南側はかなり下方まで地形が直線的に整形。部分的に加工された壁材の間には粘土が詰められ、奥壁は2石2段、側壁は3~5段積みで、長さ304mの石室のほぼ中央には仕切り石が据えられる。閉塞のための板石もある
⑥塩野六角古墳は六角墳で、小さな自然石を積む。  型式平行とみられる須恵器が検出。

播磨地域の横穴式石室について、中浜久喜氏は次のように記します。
①6世紀後半ごろには右片袖式、左片袖式、両袖式の畿内型横穴式石室が併存し、巨石を用いた横穴式石室はあまりない。
②そうしたなかで登場する那波野古墳は、畿内型の巨石墳である。
③7世紀中ごろには個性的な左片袖式、無袖式の横穴式石室、さらには変形版の「横口式石榔」など、多彩な横穴式石室がつくられる。
④そこには、横穴式石室の形式を統一しようという意志は見受けられず、横穴式石室をとおしての「われわれ意識」を表現しようとする意図は弱い。
⑤白毛9号墳・白毛13号墳、若狭野古墳などは、畿内方の横口式石槨をモデルにしたような変形的横穴式石室である。
横口式石槨


この中で⑤については、播磨地域の横口式石槨20基を挙げて次のように記します。
「赤穂・揖保の両郡域のみに分布している。」
「最も後出の若狭野古墳は7世紀の第3四半期ごろ」
ここからは、赤穂・揖保の両郡の首長達が畿内中枢部と交渉があり、それが横口式石槨の採用と形で現れていると研究者は考えています。

もう一度揖保川流域の終末期古墳群を見てみましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

揖保川中流域には、群集墳が多いこと分かります。
その中で研究者が注目するのが西脇古墳群です。

姫路市所在 西脇古墳群 -山陽自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告15-(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所編) /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この古墳群は、揖保川の東側で山陽道と美作道の分岐点付近に位置します。その数も百を超えるようです。この古墳が造られ始める頃には、畿内では群集墳は終わっていました。その特長を研究者は次のように記します。
①6世紀後半ごろから7世紀初めごろにかけての群集墳とくらべると、墳丘も横穴式石室も小さいし、副葬品もきわめて少ない。
②京都府の音戸山古墳群、旭山古墳群、醍醐古墳群、あるいは大阪府田辺古墳群など、ほぼ同時期のものと比較しても基数が多い。
③3~4世代におよぶので、単純計算でも30~40ほどの造墓主体が共同墓域を利用していたことになる。
④古墳造営が7世紀なので、この地域の中間層だけが自発的に共同墓域をかまえ、そこで造墓活動をしたとは考えにくい。
終末期古墳や古代寺院の密集度からしても、この地域に「特定の役割」を担わされた集団がいたと研究者は考えています。特定の役割とは何なのでしょうか? 郡家の交通機能に関わる役割を担っていたことが考えられますが、よく分かりません。南北に流れる川の水上輸送と、東西の官道が交わる地点は「戦略要衝」として、有力者が派遣された。同時に、戦略要所地の管理運営のために、渡来系などの中小氏族も移住させられた。彼らは、周辺に群集墳を築いたとしておきます。  
 なお讃岐から播磨に移された氏族の記録がいろいろな史料に出てきます。それも戦略的要衝建設のための讃岐からの移動という点で見ることができるのかもしれません。それはまた別の機会に。

終末古墳集中の背景

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月


6世紀末頃になると前方後円墳や群集墳も造られなくなります。

終末古墳とは

しかし、ごく一部の限られた支配者たちは、方形や円形、まれに八角形の墳丘をもつ古墳を築いています。7世紀になっても造られた古墳を終末期古墳と呼んでいます。 私は終末古墳は、高松塚古墳やキトラ古墳のように飛鳥周辺に造られた皇族や権力中枢部のものと思っていました。しかし、そうではないようです。地方にも終末古墳はあるのです。しかし、分布に偏りがあって、どこにでもあるというものではないようです。讃岐の大野原の3つの巨石墳や坂出市府中の新宮古墳も終末古墳になります。
 その中で旧山陽道沿いには、終末古墳が密集する地域がいくつかあるようです。今回はその中の備後南部の芦田川中流域(福山市)の終末古墳を見ていくことにします。テキストは広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月です。
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

福山市の芦田川河口には草戸千軒遺跡があり、中世の港町として繁栄していました。
芦田川は、中国地方の上流部を結ぶ交通路として古代から人とモノが行き交っていたようです。その芦田川が大きく西に流れを変える辺りに、備後の国府や国分寺が造られます。このあたりが古代の備後の中心地となるようです。

史跡備後国府跡保存活用計画

しかし、このエリアには6世紀までは有力な首長はいなかったようです。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が造られ、そして国衙や国分寺が現れます。そのプロセスを見ておきましょう。

備後南部の大型古墳
備後の終末古墳
広島県福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。
それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然現れる終末古墳が二子塚古墳(上地図4)です。

備後二子塚古墳2
二子塚古墳
①墳丘の長さ68mの前方後円墳で、後円部と前方部に横穴式石室が各1基

備後二子山塚古墳石室

②後円部の石室は両袖式で、玄室と羨道は入り口側に向かって広がり、天井部は高くなる。
③羨門から前方にかけて9、8mほどの長さのハ字形の墓道がつく。
④奥壁は縦長巨石の1段積み、玄室側壁は左4段、右3段、羨道側壁は3段積み、羨門付近は4段積みで、玄門部には立柱石を据え、前壁は2段積み
⑤玄室前半部に竜山石製の組合わせ式石棺、その北側に鉄釘接合木棺が置かれていた。

備後二子塚古墳副葬品
二子塚古墳副葬品
⑥金銅製双龍環頭大刀柄頭、鉄製大刀、金銅製鍔、鉄矛、石突、鉄鏃、刀子、馬具(鐙、杏葉、磯金具)、陶邑TK209型式の須恵器、土師器、鉄釘

この古墳は7世紀初めの前方後円墳で、竜山石製家形石棺を安置した巨大な横穴式石室をもちます。また、金鋼製双龍環頭大刀など豊富な副葬品が埋葬されていました。
二子塚古墳の双龍柄頭の分布図
 二子塚古墳を造営した首長とは何者なのでしょうか。
これについては、次のふたつ説が考えられるようです。
①在地首長が畿内勢力と密接な関係をもつことで強力になった
②畿内から送り込まれた勢力が、この地域に意図的に配置された

大型の家形石棺は、近隣のも浪形石ではなく、わざわざ播磨から竜山石を運んできています。また双龍環頭大刀が副葬されています。ここからは「大和政権の強力なバックアップを受けた国造クラスの首長が最も可能性が高い」との②説が有力のようです。

二塚古墳は南東に開口する花崗岩積みの巨石墳ですが、玄室の一部しか残っていません。

備後 二塚古墳
二塚古墳の石室と出土品
①奥壁は巨大な鏡石の上部に横長の石材を1段積む。
②側壁は2段積みで、天井部は平坦
③銅鏡、耳環、ガラス小玉、鈴釧、鉄矛、鉄製石突、鉄鏃、馬具(杏葉、雲珠、餃具、鞍橋覆輪金具類、、刀子、須恵器、本片、鉄釘などが出土

二塚古墳 出土品2
二塚古墳出土の馬具類
④杏葉は「双龍あるいは双鳳を文様の基調とし、朝鮮文化の影響を受けたもの」

備後南部の終末古墳編年

備後南部の終末古墳の石室編年
3期に分類される大迫古墳は両袖式横穴式石室で
①奥壁は1石1段積み、玄室側壁は基底部に巨石を3石据え、その上部に横長の石材を積む。
②羨道側壁も同様の構造ですが、1石のところもある。
③玄室天井部はやや玄門部に向かって下がり、前壁は低い。
④出土品は分かりません。
4期のヤブロ古墳は袖も前壁もない無袖式横穴式石室です。奥壁、側壁ともに1段積みで、各4石の巨石で築かれています。

大佐山白塚古墳は標高188mの大佐山の頂上に築かれた一辺12mの方墳です。
備後 大麻山白塚古墳 八角形石室
ただ列石をめぐらせる多角形墳の可能性もあるようです。
①花崗岩の切石を積んだ横穴式石室は、奥壁は1石の鏡石、玄室側壁は基底部の巨石に横長の石材を積む。
②玄門部は立柱石が内側に突出し、その上部に相石がのる。
③玄室の天井石は1石で、その南方に伸びた丘陵尾根に、ほぼ同時期とみられる6基の小型横穴式石室が付属
狼塚2号墳は直径約12mの円墳です。
備後 狼塚第2号古墳石室
①横穴式石室の奥壁は1石
②側壁は玄室も羨道も基底部の巨石に横長の石材を1段積み。
③玄門部の立柱石は内側に突出し、その上部に一段下がった相石が載せられる。
④滑石製管玉、須恵器などが出土していて、「古墳時代終末期(7世紀前半)頃」
大坊古墳は一辺13mほどの方墳で
備後 大坊古墳
大坊古墳の石室
①巨石を積んだ横穴式石室は、玄室の奥壁、領1壁、玄門立柱石は1石
②玄室のほぼ中央には仕切り石が置かれ、その位置は側壁の2石に対応
③羨道側壁は玄門部側は1段だが、羨門側は2段積み。
すべてを挙げることはできないので、このあたりにしてもう一度終末古墳群の石室編年表を見ておきましょう。

備後南部の終末古墳編年

上の石室編年表から読み取れることを挙げておきます。
①7世紀初めに前方後円墳で、両袖式の巨石墳の二子塚古墳の出現する。
②その後は7世紀後半まで、有力古墳がいくつも造られている。
③3期には、タイプの違う大型石室を持つ古墳が、同時進行でいくつも造営されている。
備後南部の終末古墳編年2
備後南部の終末古墳の築造時期
 同時進行で築造されているこれを研究者は、次のように分析します。
3~4期に石槨は2基づつ造られていることから、新たなタイプの石室を採用した首長墓がやってきたこと。それが7世紀前半ごろには2系譜、7世紀中ごろには3系譜と、時期がたつにつれ首長系譜が増えていることです。
 また、研究者が注目するのは、A型、B型、横口式石槨の3タイプの横穴式石室は、互いに排他的ではなく、同時代に共存・並立していることです。しかも古墳築造のための構造・技法などが共通し、畿内的色彩がつよいようです。これはひとつの石工集団が、あっちこっちのスタイルの違う首長墓を同時並行で造っていた可能性が高いということです。
備後南部に終末古墳が集中した理由2


備後南部の後期古墳と古代寺院
備後南部の終末古墳と古代寺院 (A~G)が古代寺院
そして7世紀後半になると、古代寺院が6カ寺も創建され、さらに8世紀には国分寺も現れます。古代寺院は氏寺なので、建立した6人の壇越氏族がいたことになります。言い換えると、6人の有力首長がこの狭い地域に共存していたことになります。 このエリアに終末古墳が集中している背景を、研究者達は次のように考えています。
西川宏氏は、次のように記します。
「在地首長の権力を温存しただけでなく、吉備勢力の分断を狙って、これを積極的にバックアップした」
「備後南部の首長層は、備後北部を従属させるにいたった」
「南部の塩と北部の鉄」の「商品交換」が「南部の首長のリーダーシップのもとに行われ」
「両地域はここにいたってはじめて緊密に結びついた。そして「備後」という一つの自己完結的な政治的地域が成立した。この時期に近畿政権が吉備分断のため、あえて「備後」の地域をまず切り離しにかかった背景もここにあった。」[西川1985]。
桑原隆博氏は「北部の小型・分散化と南部の一極集中化の背景」について、次のように記します。
「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。
「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」[脇坂2005]。
これらの説に共通するのは、6世紀までは自立していた「吉備」が、7世紀になって畿内勢力に分割・解体されるという道筋です。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として終末古墳を読みとっています。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

 以上を研究者は考古資料で、次のように裏付けようとします。
まず、横穴式石室B型は、近隣では安芸東部などにもみられるタイプです。ここからは安芸東部から移動してきた首長もいたことが考えられます。同時に、横口式石槨は畿内的な墓制とされるので、畿内からやってきた有力首長もいた可能性があります。

横口式石槨
横口式石槨

内田実氏は、次のように記します。
「畿内政権から直接派遣された高級官人・軍人(渡来系を含む)もしくは地域首長一族から大和朝廷に出仕し、高い評価を得て出自の故地に埋葬された人物の可能性が高い」[内田2009]。

 白石太一郎氏は、次のように記します。
「地方の横口式石槨は畿内でも官僚として活躍した地方首長層の墳墓に採用されていた可能性が大きい」「白石2009」

 7世紀前半にした4人もの首長は、もともといた在地の首長に加えて、畿内や山陽西部からやってきた首長や中間層っがやってきたて「集住」したと研究者は考えているようです。

では、なぜ首長達がこのエリアに「集住」したのでしょうか。

山陽道と終末古墳の重なり
終末古墳群と古代山陽道
その要因として研究者は、次のように山陽道との関連をあげます。
  「山陽道」の整備が7世紀初めごろから開始されたというのです。それに加えて、芦田川の水上交通と山陽道がクロスする場所に戦略的な要衝が置かれ、そこが「もの_|と人の集積・分散のセンターとしての役割を負わされた」とします。いいかえれば、山陽道と芦田川との結節点を、ヤマト政権が政治拠点化するため、在地首長を政治的にテコ入れしたり、中央から有力首長を派遣したりしたというのです。
 おなじような地域が、北部九州に3カ所あると研究者は指摘します。それが壱岐島、宗像地域、豊前地域の京都平野です。この3ヶ所でも、6世紀紀の有数の前方後円墳とともに、巨石墳をはじめとした終末期古墳や、多数の群集墳や横穴墓が造られています。それは次のような役割を担っていたと研究者は考えています。
壱岐島は外交と防衛の前線
宗像は出発港
京都平野はその兵姑基地
中央政権が関与した時期や仕方はちがいますが、複数首長が派遣され集住によって政治センターが形成されたのは共通しています。
以上をまとめておきます。

終末古墳集中の背景

以上からは、律令体制以前の7世紀初めには、山陽道の原型は出来上がっていたことになります。この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道(原型)に沿って造られたということになります。そうだとすれば納得できることがいろいろと出てきます。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、ヤマト政権によって派遣された首長達が築いたものということになります。
これについて大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 これは備後南部で起きていたヤマト王権の動きとリンクすることも考えられます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2
讃岐国府(坂出市府中)と終末期古墳群

長くなりましたので、それはまたの機会にすることにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
広瀬和雄  終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月
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尾背寺跡

  昔から気になる廃寺があります。本目の尾背寺です。

尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

この寺の「発掘調査書」を要約すると、次のようになります。

①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で
②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺
③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地
④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
などから寺域はかなり広く、多くの山岳修行者たちが拠点とする寺院だったようです。讃岐で作られたものではない土器や高価な白磁なども出ててくるので、廻国の修験者や聖の流入もあったようです。

尾背寺 白磁四耳壷
白磁四耳壺(尾背寺出土)

 高野山の高僧道範が讃岐流刑中に著した『南海流浪記』(1248)には、次のように記されています。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記の尾背寺の部分

「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」

ここからはこの寺が善通寺の「森林管理センター」であると同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。本尊は善通寺と同じ薬師如来です。薬師如来は熊野行者の信仰する仏でもありました。13世紀半の尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

  近年、尾野寺のことが萩原寺(大野原町)に残る文書に書かれているのが明らかになりました。
尾背寺文書
萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法
例えば萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法は、文保元年(1317)に尾背寺下坊で書写されたと記されています。それが萩原寺の聖教として保管されていました。ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。
②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
こうして見ると尾背寺は山の中に孤立していたわけでなかったようです。大川山の中寺廃寺や炭所の金剛院とも結びついた山岳寺院ネットワークを構成していたことが考えられます。そして、これらの寺は阿波との交易の中継基地的な役割も果たしていたと私は考えています。

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大久保諶之丞と景山甚右衛門
注意 いつもと会場が違っています。グーグルで確認してください。
旧吉野小学校の前の公民館です。

史談会の御案内です。
前回に続いて伊東悟氏による大久保諶之丞についてのお話しです。大久保諶之丞は、「多度津七福人のドン」と言われる景山甚右衛門との書簡を数多く残しています。今回は二人の交わした書簡に焦点を絞ってのお話しです。そこには従来の四国新道や讃岐鉄道建設をめぐって語られてこなかった内容も聞けるかも知れません。興味と時間のある方の来場を歓迎します。

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