瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年05月

 国道377号の佐文交差点の西側から象頭山と西山の鞍部に旧道が伸びている。これがかつての旧伊予土佐街道だ。坂を登り詰めた所が牛屋口峠で、バブルの時代に坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」と記されている。

牛屋口の坂本竜馬像
牛屋口(まんのう町佐文)の坂本竜馬と燈籠群

ここは土佐・伊予方面からの参拝者が金毘羅大権現に参拝する際の西の人口で、かつては茶店なども軒を連ねていたという。今も同じ大きさの数十基の燈籠が並んでいる。この燈籠群は、いつ、だれが寄進したのだろうか? ひとつひとつの燈籠には、寄進した人たちの職域名・地域名・講名・年代・世話人などが刻まれていて、いろいろな情報を読み取ることができる。

1 燈籠の奉納者は、どこの人たちか?

牛屋口の燈籠3
牛屋口の土佐燈籠 
燈籠の正面に刻まれた金比羅講の地名から土佐の人たちの寄進であることが分かる。最も多いのは柏栄連で、これは和紙の産地として名高い伊野町の講名で12基寄進している。中には高知市内の歓楽街にあった花山講のように、「皆登楼」「松亀楼」などの名前があり、遊郭の主人達によって奉納されたものもある。

牛屋口の燈籠4
同年と奉納年が刻まれた燈籠

2 燈籠はいつ頃、奉納されたのか?
刻まれた年代は、 一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年で4年の間に69基が奉納されている。年に20基ほどののハイベースで建ち並んでいったようだ。
なぜ、明治初年に短期に集中して寄進されたのか? 
 それは幕末から維新への土佐藩の躍進を背景にしているのではないかと識者は言う。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとったのは土佐藩であり、幕府の親藩であった松山藩や高松藩とは政治的立場が逆転した。この前後から伊予土佐街道の燈籠・道標は、それまでの伊予からのものに替わって土佐から奉納されるものが増える。その象徴的モニュメントが牛屋口の並び燈籠なのだ。
牛屋口の並び燈籠
牛屋口の土佐燈籠群

改めてこの前に立つと維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。土佐が四国を動かす」という意気込みと、金昆羅さんに対する信仰のあかしを私たちに語りかけてくるように思える。
まんのう町報ふるさと探訪2018年6月分
参考史料

 まんのう町出身の戦前の衆議院議員増田穣三(じようぞう)の華道師匠の顕彰碑が宮田の西光寺(法然堂)にあると聞いて行ってみた。

増田穣三法然堂碑文.J2PG
園田翁顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)

碑文は、本堂の正面に忘れられたかのようにあった。そこには園田氏実(法号 丹波法橋、流号 如松斉(によしようさい)の業績が次のように刻まれている。(意訳要約)
「幕末から明治にかけて、丹波からやってきた如松斉が縁あって法然堂の住職務めた。堂塔修繕などに功績を残したが、明治になり時代が変わると隠居し、生間の豊島家の持庵に移り活花三昧の生活を送り未生(みしよう)流師範を名乗った。自庵で教授するばかりか各地に招かれて出張指導し、広く仲多度南部から阿波にかけて門弟は六百余名を数えるほどにもなった。」
未生流は陰陽五行説・老荘思想・仏教を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りをめざすもので、明治という新しい時代にマッチした活花として受け入れられたという。この流派を、最初にこの地に持ち込んだのが如松斉であり、多くの問弟を抱える華道集団に成長していた。如松斉は、明治16年に76歳で死去する。没後7回忌に当たる明治22年に、彼の高弟達が法然堂境内に、この顕彰碑を建てた。

碑文裏には、建立発起人の名前が数多く刻まれている。

増田穣三法然堂碑文
    園田翁顕彰碑の発起人たち 先頭は増田(秋峰)穣三
その筆頭に、増田穣三(秋峰)の名がある。後の衆議院議員で、銅像が塩入駅前に立っている人物だ。しかし、この碑文建立時には26歳の若者である。それがなぜ筆頭に?
 死を目前にして起き上がれない如松斉は、腹の上に花台を置いて、臨終の際まで穣三に指導を行い皆伝を許可したという。晩年の如松斉の穣三に対する思い入れが伝わってくる。経験豊富な兄弟子や高弟は、何人もいたと思われるが、彼が後継者に選ばれる。若き穣三の中に多くの門下生をまとめ上げ指導していく寛容力や人間的魅力があると、如松斉は見抜いたからではないか。その後、穣三は師匠の名を冠した「如松流2代目家元」を名乗る。この顕彰碑は、増田穣三の後継者継承を示すと同時に「流派独立宣言碑」とも読み取れる。
 穣三が家元として伝えた「如松流」の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
旧伊予街道の旧街道沿いにある尾崎家の玄関には、3代にわたる華道の看板が掲げられている。そこには「如松流」の文字が黒々と書き込まれていた。 一番古いものが穣三の高弟で如松流3代目と目されていた尾﨑清甫(博次)のものである。

尾﨑清甫華道免許状
尾﨑清甫の免許状 秋峰の名前が見える
尾﨑清甫は手書きの「立華覚書き」を残している。孫に当たる尾崎クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。如松斉により上方からもたらされた活花が、増田穣三やその高弟・尾﨑清甫の三代を経てまんのうの地に根付いて行った痕跡を見る思いがした。

  P1250693
尾﨑家に残る花伝書と雨乞踊諸書類の箱
 なお、尾﨑清甫は綾子踊り文書を書残した人物でもある。

増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ

(2017年12月分原稿)
参考文献 仲南町史 尾崎家に残る諸資料
関連記事


 「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」とある人から言われて快晴の秋空の下、原付バイクを江畑の登山口めざして走らせました。グーグルマップで「江畑道駐車場」と検索すると出てくる駐車場が中寺廃寺への登山口になります。

中寺廃寺 江畑登山口HPT
中寺廃寺 江畑登山口

すぐに尾根にとりつきます。しばらくは急勾配が続きますが、この道はもともとは江畑から大川山への参拝道でもあり、徳島側の大平集落を経て阿波との交易路でもあった道です。さらに旧満濃町と仲南町の町境でもあった旧街道で、歴史を経た道は歩きやすい、しっかりとした道でハイキングにはもってこいです。しかも、迷い込み易い分岐には標識がつけられているので安心して歩けます。

中寺廃寺 江畑道
江畑道と柞木道の合流点
 傾きが緩やかになると標高700㍍付近です。気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れ、さらに進むと左手から柞野(くにぎの)道との合流点と出会います。最後の階段を登ると展望台です。ここからの展望は素晴らしい。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 
説明板に「讃岐山脈随一の展望台」と書かれています。確かに180度以上のワイドな展望が広がります。象頭山を枕に満濃池がゆったりと横たわる姿。その彼方には荘内半島や燧灘に浮かぶ伊吹島。そして丸亀平野には神がなびく山である飯野山。1時間弱の山道を頑張って登ってきたことへの天からのご褒美かもしれません。

中寺廃寺からの満濃池
中寺廃寺展望台からの満濃池
 東屋で、この絶景を独り占めしながら昼食。その後は中寺廃寺跡の散策です。この辺りは、「中寺」という地名が残り大川七坊といわれる寺院が山中にあったと伝えられてきました。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、長らく幻の寺院だったのです。それが発掘調査の結果、展望台の周辺から仏堂、僧坊、塔などの遺構が出てきました。現在では「仏・祈り・願」の3つのゾーンを遊歩道で結び、山上の文化公園として整備されています。

中寺廃寺跡地図1
 中寺廃寺は3つのゾーンに分かれている
まずは「祈り」ゾーンへと向かいましょう。
ここには割拝殿と小規模な僧の住居跡があったようです。

中寺廃寺からの大川神社
割拝殿跡から見上げる大川権現(大川山)
僧侶達は、ここに寝起きして聖なる大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたのでしょう。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中では重なってきました。

大川山 中寺廃寺割拝殿
割拝殿と小規模な僧の住居跡

 松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かいます。
ここには、仏堂と塔があったようです。遺構保護のため、埋め戻して元の礎石によく似た石で礎石の位置が示されています。その礎石に腰掛けて、千年前のこの山中に建っていた塔をイメージしようとしました。がなかなか想像できません。どちらにしても、この寺は平安期においては讃岐においては、有力な山岳寺院でした。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔
 最後に訪れたのが避難所兼お手洗い。なんとバイオトイレです。まんのう町では、初お目見えではないでしょうか。紅葉の季節、落葉の絨毯を踏みしめての中寺廃寺参拝は如何ですか?
まんのう町報2018年12月原稿分
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

(詳細版)




 江戸時代初期のまんのう町には、吉野・四条から現在の象郷小学校に向けて四条川という川が流れていたようです。「全讃史」には、四条川のことが次のように記されています。

「四条川は那珂郡にあり、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。」

  また丸亀市史も次のように記します。
「照井川と合流した四条川は、現在の吉井橋に至り
①水戸大横井より北流を続け吉野下、林、川滝、鱈池を過ぎ、さらに、
旧満濃町役場前から四条・天皇を経て上田井の高篠大分岐に至り、ここから支流は田井に東流し、田井からは郡界に沿って北流し土器町聖池に至る。一方、本流はここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、
象郷小学校から上櫛梨の④木の井橋の南へと流れる」
四条川2
旧四条川の流路
金倉川 国土地理院
高篠付近の金倉川と旧四条川
近世初期にあった四条川が消えたのは、なぜでしょう?
 江戸時代初め満濃池再築に向けて動き始めた西島八兵衛の課題のひとつが丸亀平野の隅々まで水を供給するための用水路の整備でした。池が出来ても用水路がなければ水田に水は来ません。しかし、問題がありました。それが四条川の存在です。この複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難です。
 そこで、西島八兵衛が行ったのが四条川のルート変更です。
満濃池水戸(みと)

流れを変えるポイントは吉野の吉井橋の少し上流の水戸大横井でした。ここで北上してきた流れを、西に流し現在の金倉川の流れを「放水路」に変えます。そして、この地点で水量調整を行い四条川を、直線化して用水路へ「変身」させます。新たに西に流されるようになった川は、買田川と合流させ琴平・神事場の石淵にぶつけて真っ直ぐに北上させます。この川が金倉川と呼ばれるようになります。

金倉川旧流路 吉野 
吉野周辺 四条川と金倉川の旧流路跡(国土地理院 土地利用図)

金倉川旧流路 神野
琴平町五条周辺の旧金倉川流路跡

そのため金倉川は、次のような人工河川の特徴を持つと言われています。
①吉野橋の上流と下流では川底の深さがちがう。新たに河道となった下流は浅い。
②琴平より北は河床が高く天井川で、東西からほとんど支流が流れ込まない。
③金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川なら、境界となることが多い。
④河口の州が、万象園付近だけで極端に小さく、川の歴史の浅いことを示している。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺市木徳町付近の金倉川と旧四条川
 以上が丸亀市史の「金倉川=人工河川」説の「根拠」です。
西島八兵衛は、満濃池再築前に事前工事として四条川の流れを換えて、金倉川に付け替え・改修を行った」というのです。しかし、これを裏付ける史料はありません。満濃池再築と共に四条川は水路に変身し、新しく金倉川が生まれたというのはあくまで仮説です。しかし、私にとっては魅力的な説です。

中又北遺跡 多度郡条里制と旧金倉川
金倉川の時代ごとの流域路
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 四条川と金倉川 新編丸亀市史

   
尾瀬神社地図
財田川上流にある尾瀬神社

財田川は塩入(まんのう町)の奥に源流があり、野口ダムを流れ落ちた所で大きく流れを西に変えます。ここがまんのう町久保(窪)です。財田川が河川争奪で、ここから上流の流れを金倉川から奪ったとされる地点です。この西側にあるのが尾瀬(おのせ)山です。

尾ノ背寺跡
尾背寺跡

この山には中世には「尾背寺」と呼ばれた山林修行の寺院がありました。修験者や聖達の「写経センター」的な役割を果たしていたことを前回はお話ししました。今回は、その後の近世・近代の尾瀬山のことを見ていくことにします。
 戦後時代の争乱や、金毘羅大権現・金光院の勢力増大の圧迫を受けて、周辺の山林寺院は衰退したようです。尾背寺も近世初頭には退転します。
「善通寺誌」には、
「善通寺、尊烏有印、宇多深町、聖遠寺と尾の背寺を兼務云々」
「朝倉記」には
「文禄のころ(1592~96)尾の背寺寺僧、三野郡勝間村、寺教院へ隠退せり」
ここからは次のようなことが分かります。
②神社の別当を尾背寺の僧侶(修験者)が務めていたこと
③尾瀬神社は神仏混淆で、社僧の管理下に置かれていたこと

 伝えるところでは、拝殿の塗板には次のように記れていたといいます。
A 文禄元年壬辰四月八日、本殿改築、願主・七ケ村氏子中・大工、七弥、
B 慶長十七年壬子年八月九日、一丈四方の拝殿建立、小池・春日・本目、惣氏子中
C 慶長年間に、朝倉生水義景(朝倉家中興の祖)が神官(修験者?)に就任。
ここからは次のような事が分かります。
①文禄・慶長の生駒藩時代に、戦乱で荒廃した尾背寺跡に、本殿改築と拝殿建立が行われ「尾瀬神社」が姿を現した。
②それを勧進したのが朝倉義景で、麓の小池・春日・本目など七箇村住人を氏子として組織した。
③尾背寺から尾瀬神社へ宗教施設が変化した。
その後、元禄年間に山頂の神社を、現在地に遷宮し南向に建立。それがいつのころか本殿の向きが東向に建て替えられた。
しかし、これらを裏付けるものはありません。事実だとすれば、生駒氏の時代になって、退転した尾背寺が神社として、再建されたことになりますが、この辺りのことはよく分かりません。

 改修記録で残されているのは、幕末の次の2点です。
D 安政三年(1856)増田伝左衛門が多治川の山を払い下げられたときに、6m~4mの遙拝殿を、西星谷に建立」

E 慶応三年(1867)に、本社の拝殿が老朽したので、遙拝傳を本社に移し拝殿として建て替えた。
  ここに登場する増田伝左衛門というのは、春日出身の国会議員・増田穣三の一族のようです。増田家には、名前に伝四郎・伝次郎・伝吾などの名前が付けられています。増田家が春日・塩入の奥の山林の払い下げを受けて、山林地主となっていたことがうかがえます。その増田家の寄進で、幕末に、遙拝殿が建立され、それが11年後に本社横に移築されて、拝殿とされています。尾瀬神社の実際の起源は、このあたりであった可能性もあります。

尾瀬神社4
尾瀬神社拝殿

尾瀬神社が人々の信仰を集めるようになるのは幕末になってからのようです。それは、雨乞の神としてリニューアルされたからです。
18世紀に善女龍王が善通寺などに勧進され、丸亀藩の雨乞祈祷寺に指名されます。すると、庶民の間でも、雨乞い祈祷ブームが起き、さまざまな雨乞いが実施されるようになります。
例えば、大川山(まんのう町)では雨乞講形成が次のように進みます。
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②頂上には修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤修験者たちは雨乞講を組織し、里の百姓達を組織化した。
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧明治の神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進し「ミニ大川神社」を建立した。
⑨それを主導したのは水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。
大川神社は、土器川源流にちかくにあり、その流域の人々を組織していきます。一方、金倉川流域の人々を組織したのが、尾瀬神社の修験者たちだったようです。尾瀬神社にも分社の勧請もあって、明治27年9月には、丸亀市原田町黒島下所に分社が建立されています。

こうして明治になると尾瀬神社の雨乞講が各地に作られて、経済的な基盤が確立して、神社の建物も整備されます。尾瀬信仰の範囲は、西讃一円と徳島県三好郡にも及んだようです。ある意味では、阿波と讃岐の交流の場ともなっていたのです。
尾瀬神社絵図
 明治17年ごろの尾瀬神社大祭日を描いた木版刷絵図

この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①「讃岐国那珂郡尾瀬神社式日」と題され、多くの参拝者で境内が賑わっていること
②本殿・拝殿・大門などが整い、水分社などの摂社がいくつも祀られていたこと
③御盥には柵が設けられ、聖地とされていたこと
④土俵がもうけられ尾瀬相撲が奉納されていたこと。

尾瀬神社 神泉
尾瀬神社 神泉(旧御盥)
尾瀬神社神泉 

この他にも、明治13年9月に「尾瀬神社」と墨筆した掛け軸発行。
明治21年には尾瀬講の木札発行。祭礼もそれまでは、秋一回であったのが、春秋二回行われることになります。祭礼行事としては、
春日、小池、本目の各集落から獅子舞いの奉納
麓の参道登山口の財田川河原では、農具市、植木市開催
などもあり、人々で賑わいます。こうした隆盛は、大正時代から昭和の初めまで続きます。このような隆盛をもたらしたのは、どんな「宗教勢力」だったのでしょうか?
これは讃岐と阿波を結ぶ修験者だったと私は考えています。
①山伏集団の拠点であった箸蔵寺(三好市)の隆盛
②剣山修験集団の円福寺修験者集団
などの動きと連動していたようです。それは、またの機会にするとして・・

隆盛なさまを見せていた尾瀬神社が衰退していくのは、どうしてなのでしょうか。
①雨乞踊りや、行事が「迷信」とされ、行われなくなるのが「合理主義」が農村にも浸透してくる大正・昭和です。
②財田駅から三好に、猪ノ鼻トンネルを抜けて列車が走り始めるのが昭和初めです。
雨乞信仰を支えた尾瀬講が解体し、農民達の組織的な動員力が衰えていきます。同時に、阿讃を結ぶ交易路の要衝にあった尾瀬神社は、鉄道の開通で辺境に「転落」していきます。こうして雨乞祈祷の聖地は、「聖戦」の名の下に進められる日中戦争の泥沼の中で、顧みられなくなり背景に消えていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事



中讃TV 歴史のみ方

中讃ケーブルTVに「歴史のみ方」という番組があります。10分ほどの短いものですが、よく練られた構成だなと思って見ていると、出演依頼がありました。綾踊りの踊りではなく、残された記録について焦点をあてることにして、引き受けることになりました。事前に渡されていた質問と、私が準備していた「回答」をアップしておきます。

尾﨑清甫2
尾﨑清甫と綾子踊りの文書の木箱

Q1尾﨑清甫の残した記録について

DSC02150
綾子踊り関係の尾﨑清甫文書
 ここにあるのは尾﨑清甫が書残した綾子踊りの記録です。これらは3つの時期に書かれたことが年紀から分かります。一番古いのが110年前の1914年(大正3)、そして90年前の1934(昭和9年)、1939年(昭和14)年に書かれています。面白いのは、書かれた年に共に厳しい旱魃に襲われて、綾子踊りが踊られた年にあたります。綾子踊りを踊った年にこれらの記録は書かれています。

Q2 どのような記録が書かれていますか?

綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来由来

最初にの大正9年に①綾子踊由来記などが書かれ、次に1934年に②踊りの構成メンバーや立ち位置(隊列図)などが書かれています。そして最後に1939年に、それらがまとめられ、花笠や団扇の色や寸法などの記録が追加されています。
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊りの各役割ごとの花笠寸法
ちなみにいまもこの寸法や色指定に従って、花笠や団扇・衣装は作られています。

Q3 記録の情報源は、何だったのですか?

西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と綾子踊文書
 地唄の歌詞と薙刀問答については、丸亀藩が幕末に編集した西讃府誌に載せられています。その他の由来などについては、古書を写したり、古老からの話とされています。

Q4 一番古く踊られた記録は、いつですか?
 綾子踊り控え記録では、約210年前の1814(文化11)が一番古い記録になります。その後は、幕末の日照りの年に2回ほど踊られたと記されています。この頃に編集された西讃府誌に綾子踊りのことが記されているので、それまでには踊られるようになっていたことは確かです。
Q5 意外と踊られていないのはどうしてっですか?
雨乞い踊りなので、旱魃に成らないと踊られません。昔は総勢で200人近い人数で踊られたとされます。準備も大変な踊りです。そのため、それまでに祈祷などのいろいろな雨乞いを行って、それでも雨が降らないときに最後の手段として綾子踊りは踊られたようです。毎年、祭礼に踊られる踊りではなかったのです。

Q6 この絵はなんですか
綾子踊り 奉納図佐文誌3
綾子踊り隊形図

綾子踊りの隊形図になります。この絵は、龍王山の山腹に祀られていた「ゴリョウさん」あるいは「リョウモ」さんで、綾子踊りが踊られています。「ゴリョウさん」は「善女龍王」のことで、空海が雨乞いの際に祈った龍王とされています。姿は「龍やへび」の姿で現れます。そのため背景の曲がりくねった松は蛇松と書かれています。そこに龍王社が祀られ、その前で、子踊りや芸司を中心に大勢の踊り手達が踊っています。注意して欲しいのは、その周りを警固の棒持ち達が結界を作って、その外側に多くの人達が取り囲んでいる様子が描かれていることです。基本的には、この隊形や人数を今も受け継いでいます。
1934年)大干魃に付之を写す


Q7 尾﨑清甫が記録を残したのはどうしてか
 
1934年 大干魃付写之 尾﨑清甫
    1934(昭和9)年に綾子踊りが踊られた経緯

彼の文書の一節には次のように記されています。

 「明治以来、世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、綾子踊りを踊ることにも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは今、記録に残しておかないと忘れ去られてしまう危機感があったことがうかがえます。

Q8 1934年に、すでに危機感を持っていたのはどうして?
近代化が進んで昭和になると着物から洋服に着るものが替わりました。同じように迷信的なモノは顧みられなくなり、合理的な見方をする人達が田舎でも増えます。人の心も変わっていったのです。そうすると雨乞いして雨が降ると思う人もだんだん少なくなります。佐文でも旱魃がやってきても、みんながまとまっておどることはできなくなります。このままでは、綾子踊りが消えてしまうと云う危機感があったようです。
綾子踊行列略式(村踊り)

Q 9 尾﨑清甫が記録を残そうとおもったのは?
1934(昭和9)年と、その五年後の1939年の大旱魃の時には、知事が各町村に伝わる雨乞い行事を行うように通達しています。これに従って、佐文村でも新しく団扇や花笠などが整えられ、綾子踊りが踊られます。その結果、雨が降ったようです。その成就祝いとして、村民一同で綾子踊りが踊られます。この時の感動が尾﨑清甫に、記録を残させる原動力になったのではないかと私は思っています。彼は記録を残す理由として、次のような点を記しています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
     綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

病魔に冒される中で、危機感を持って記録を残そうとした尾﨑清甫の願いが伝わってきます。

以上のようなやりとりを想定していたのですが、取材当日は支離滅裂になってしまいました。それをプロデューサーがどうまとめてくれるのか不安と期待で見守っています。放送は6月中の土日に流されるようです。
追伸
中讃ケーブルの歴史番組「歴史のみ方」で綾子踊りを紹介しました。6月中の日曜日に放送されてています。以下のYouTubeからも御覧になれます。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。https://youtu.be/2jnnJV3pfE0

関連記事

このページのトップヘ