国道377号の佐文交差点の西側から象頭山と西山の鞍部に旧道が伸びている。これがかつての旧伊予土佐街道だ。坂を登り詰めた所が牛屋口峠で、バブルの時代に坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」と記されている。
牛屋口(まんのう町佐文)の坂本竜馬と燈籠群
ここは土佐・伊予方面からの参拝者が金毘羅大権現に参拝する際の西の人口で、かつては茶店なども軒を連ねていたという。今も同じ大きさの数十基の燈籠が並んでいる。この燈籠群は、いつ、だれが寄進したのだろうか? ひとつひとつの燈籠には、寄進した人たちの職域名・地域名・講名・年代・世話人などが刻まれていて、いろいろな情報を読み取ることができる。
1 燈籠の奉納者は、どこの人たちか?
牛屋口の土佐燈籠
燈籠の正面に刻まれた金比羅講の地名から土佐の人たちの寄進であることが分かる。最も多いのは柏栄連で、これは和紙の産地として名高い伊野町の講名で12基寄進している。中には高知市内の歓楽街にあった花山講のように、「皆登楼」「松亀楼」などの名前があり、遊郭の主人達によって奉納されたものもある。同年と奉納年が刻まれた燈籠
2 燈籠はいつ頃、奉納されたのか?
刻まれた年代は、 一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年で4年の間に69基が奉納されている。年に20基ほどののハイベースで建ち並んでいったようだ。
なぜ、明治初年に短期に集中して寄進されたのか?
それは幕末から維新への土佐藩の躍進を背景にしているのではないかと識者は言う。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとったのは土佐藩であり、幕府の親藩であった松山藩や高松藩とは政治的立場が逆転した。この前後から伊予土佐街道の燈籠・道標は、それまでの伊予からのものに替わって土佐から奉納されるものが増える。その象徴的モニュメントが牛屋口の並び燈籠なのだ。
改めてこの前に立つと維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。土佐が四国を動かす」という意気込みと、金昆羅さんに対する信仰のあかしを私たちに語りかけてくるように思える。
まんのう町報ふるさと探訪2018年6月分なぜ、明治初年に短期に集中して寄進されたのか?
それは幕末から維新への土佐藩の躍進を背景にしているのではないかと識者は言う。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとったのは土佐藩であり、幕府の親藩であった松山藩や高松藩とは政治的立場が逆転した。この前後から伊予土佐街道の燈籠・道標は、それまでの伊予からのものに替わって土佐から奉納されるものが増える。その象徴的モニュメントが牛屋口の並び燈籠なのだ。
牛屋口の土佐燈籠群
改めてこの前に立つと維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。土佐が四国を動かす」という意気込みと、金昆羅さんに対する信仰のあかしを私たちに語りかけてくるように思える。
参考史料