瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年06月

真宗興正派の研修会でお話ししたことをアップしておきます。

真宗興正派 2024年6月28日講演

讃岐は真宗寺院が多いと云われますが、その比率はどのくらいなのでしょうか。
それを最初に数字で押さえておきます。

四国寺院宗派別数


①最初に讃岐を見ておきましょう。真宗寺院が424 讃岐の寺院数910ケ寺の内、約47%約半分が真宗です。
これは思ったよりも少ない感じ。私の感覚では8割でもおかしくないのですが・・。分布に濃淡がありそうです。この中で約半分が興正派です。興正派の寺は全国は800程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。この背景には、何らかの歴史的な要因があるはずです。


②阿波については、真宗阿波では13%、真言が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。


③伊予ではわずか9%、真言も多いが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護によるようです。


④土佐は全体数がが358と他県に比べると半数以下です。お寺の数が少ないのが特徴です。明治の神仏分離が四国でもっとも過激に進められたのが土佐です。時の土佐藩は寺院廃止・統合政策を強力に進めました。その結果がこの数字です。その中では真言が多いようです。

⑤四国全体では、真宗寺院は700で23% 讃岐以外の各県では、真宗寺院の数は100以下、それが讃岐では400を越えます。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いこと、なかでも興正寺派が多いことが分かります。これはどうしてなのでしょうか。それを説明するために従来使われていた史料が三木の常光寺の縁起です。まず常光寺から見ておきましょう。

常光寺

常光寺
三木町の香川大学の農学部の南の方に常光寺というお寺があります。
この寺は銀杏が有名なようです。本堂前の碑文には、次のような縁起が記されています。 

常光寺縁起1

ここからは次のような事が分かります。


①開基年 1368年 
②開基者 生駒浄泉(泉州の城主の次男)  
③末寺が75 明治維新にも27の末寺 
④本堂が17世紀半ばのもの 



もう少し詳しい史料を見てみましょう。
江戸後半の18世紀になると、各藩では自藩の潜在能力を知るために地誌の出版がおこなわれるようになります。例えば丸亀藩が各村の庄屋に村の歴史と郷土の産物などを調べて提出させています。それに基づいて編纂されたのが西讃府誌です。髙松藩でも、その動きがあったようで各寺院へ由緒や現状などについてのレポート提出を求めています。次の縁起は幕末に髙松藩の求めに応じて、提出したレポートの一部です。

常光寺縁起

縁起を整理すると

常光寺縁起2

浄泉は泉州の城主の子孫でした。この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のことのようです
①開基が古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺であること
③そのため多くの末寺を抱えていたこと。
この史料によって、讃岐への真宗伝播は語られてきました。 このレポートには、常光寺の末寺一覧表が添付されています。それも見ておきましょう。

常光寺末寺リスト1

常光寺末寺リスト その1

所在村名と寺名が示されたいます。最初に出てくるのは高松藩領内の末寺です。ここからは次のようなことが分かります。


①常光寺周辺の三木郡に多い。
②香川郡には少ない(阿波の安楽寺の末寺安養寺との棲み分け現象?)
③阿野郡西分村の善福寺(綾菊の南側)は、鴨村に末寺・正蓮寺などをもっている。
④那珂郡トップに登場するのが円徳寺も、3つの末寺を持っている。

常光寺末寺リスト 円徳寺


円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。

常光寺末寺リスト3 円徳寺 法照寺


ちょうと寄り道します。円徳寺の末寺の佐文の法照寺です。

佐文 法照寺

この寺の前には、金刀比・伊予土佐街道が通っています。かつては、金比羅参りの参拝客が数多くこの前を行き来していました。しかし、もともとここにあった訳ではないようです。丸亀藩に出された屋根の葺き替え申請書には次のように記されています。  
佐文 法照寺2

ここには次のような事が記されています。
①円徳寺の末寺として、生間に開基
②1722年に協議の末・佐文に移転
ここから分かることは18世紀になると村の間で、お寺の誘致合戦が展開されるようになっていることです。その背景には、お寺がないと不便なことがありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向いて頼んでやってきてもらうことになります。そのために村にお寺のない所は、誘致運動を展開するようになります。佐文の法照寺も、とともとは生間にあったのが「誘致運動」で佐文にやってきたようです。その際に、寺だけでなく門徒も一緒についてくることもあったようです。本寺の円徳寺ももともとは、本目にあったと聞いています。お寺さんは、昔からそこに有り続けるモノと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
常光寺文書には離末寺のリストもあります。
かつては常光寺に属していたが、何らかの理由で離末した寺のリストです。


常光寺離末リスト


①2番目のまんのう町高篠の円浄寺は、享保10(1725)
②天領榎井村の玄龍寺は1813年、
③赤丸以後の7ケ寺は、文化十年に一斉に離末
その内の一番最初は、天領榎井村の玄龍寺、そして次の4ケ寺が多度郡、最後の2つが三豊郡の2寺です。その理由は、後で見ることにしてここでは一斉離末があったことを押さえておきます。これを見ると、全盛期には75の末寺をゆうしていたという由緒書きは、本当だったようです。次に視点を変えて末寺分布を見ておきましょう。

興正寺派常光寺末寺

常光寺末寺分布図(丸亀平野)



常光寺丸亀平野の末寺をグーグル地図に落としてみました。
黄色ポイントが末寺です。円徳寺が右隅です。その末寺が佐文の法照寺・造田の西福寺・垂水の西の坊です。東から伸びてきた教線ラインが円徳寺にやってきて、丸亀平野に下っていく動きが見えて来ます。
ここからは次のような事がうかがえます。

①②多度津丸亀など海岸線部や都市部にはない。

③三野平野に進出していない。

その理由として対抗勢力の存在が考えられます。三野平野は、中世に秋山氏によって開かれた法華宗の本門寺の強固な信徒集団がいました。また、その背後には、弥谷寺の修験・聖集団がいました。また観音寺には禅宗の寺院がありました。
④髙松藩や丸亀藩の藩を超えて教線がのびています。これは讃岐が2つの藩に分割される以前の生駒藩時代に、この本末関係ができたことを示しています。以上が、末寺リストから分かることです。今回は、このあたりにしておきます。
次回は阿波美馬の安楽寺を見ていくことにします。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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白峯寺 近世建築物群

白峯寺には近世の建築物が15棟あります。この内の9つの建物が2017年7月にまとめて重文指定を受けています。特に、先ほど見た頓証寺の5棟は同時期に高松藩主松平頼重によって建てられています。こうして見ると白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には現状の体裁を整えていたことが分かります。
幕末にペリーがやって来た頃の白峯寺を見ておきましょう。

白峯寺 讃岐国名勝図会
白峯寺(讃岐国名勝図会 1853年)
見ていただくと分かるように主要な建物はほとんど変わっていません。言い換えると、白峯寺は200年以上前の姿をそのまま現在に伝える寺院と云うことになります。これが多くの建物が一括して重文化財に指定される決め手にもなりました。ちなみに、この絵図を書いたのが松岡調です。神仏分離の際に金刀比羅宮の責任者となる人物です。後ほど、詳しく見ることにして、ここでは前に進みます。             
 明治維新とともに出された神仏分離令で、その被害を香川県で最も大きな被害を受けたのが白峯寺です。どのような大嵐が白峯寺を襲ったのかを見ていくことにします。

京都の白峯神社
白峯神社(京都今出川)
まずこの写真から見ていくことにします。白峯神社とあります。
いったいどこにある白峯神社なのでしょうか。これは京都の白峯神社です。堀川通りと今出川通りの交叉点附近の一等地に、もと公家の邸宅跡に新しく作られた神社です。ここに明治初年に、白峰山から崇徳院の御霊は明治天皇の命で移されました。そのためこのような碑が建っています。白峯神社のHPの由来には次のように記されています。

幕末、風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、社殿を現在地に新造し、奉迎鎮座されました。 

つまり、今は崇徳院の御霊は今はここに移されているということになります。どんな経緯で、白峯山からここにみたまが移されたのでしょうか?
 明治元年(1868)3月に新政府は神仏分離令を出します。その影響を最も早く蒙るのが白峯寺です。

白峯寺 神仏分離2

②4月に明治天皇の名によって、白峯寺の崇徳院の御霊を京都へ移すことが発表されます。その背景には幕末の混乱した情勢があったようです。「崇徳上皇の怨霊が社会不安を引き起こしている」という噂や、新政府への反乱分子が崇徳上皇の怨霊を担ぎ上げて蜂起しようとしている噂が拡がります。③こうして8月26日に、天皇の勅使が30隻余りの船団で坂出港にやってきます。勅使団は、高松藩の警護も含めると400人に及ぶ一行でした。白峯寺にやってきて、頓證寺の御真影と愛用の笙を受け取り、それを神輿に移して、翌日に下山します。これに対して、白峯寺は何も出来ません。事前に儀式に参加したい旨を伝えますが許されませんでした。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。
 28日に神輿と勅使一行は高松藩主の御用船「飛龍丸」で、京都にむけて出港します。こうして白峯陵は「もぬけの空」となってしまいます。これは白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。これが白峯寺への最初の一撃でした。

これに追い打ちをかけたのが明治4年(1871)年の上知(あげち)令です。
上知令というのは、寺院が持っていた寺領を収して国有化することです。大寺院にとっては、これは経済基盤を全て失うことになります。これに対して、奈良の興福寺の僧侶達は春日神社の神官に転職していきます。残された伽藍や仏像は、がらくたのように売り払われ、五重塔も売り晴らされる解体寸前になります。このような状況が伝わると、全国の神仏混淆の僧侶達も不安になって、還俗して神官になるものが続出します。このような中で明治6年、白峯寺の住職も、陵墓墓守に転職します。その背景には白峯寺は、檀家を持たない祈祷系寺院で、今後の寺院将来に不安を感じたのでしょう。自分も住職から皇室の墓守へという決断になったのでしょう。この結果、白峯寺は住職がいなくなってしまいます。当時の新政府の方針は、寺院削減でした。無住職・無檀家の寺院はどんどん取り潰していくというものでした。住職がいなくなった白峰寺はこうして廃寺となってしまいます。
 そして明治8年には、当時の白峯陵の管理者は、陵墓周辺に仏教寺院があるのは環境に宜しくないと、白峯寺の建物群を取り払って更地にするように県に求めています。もし、これが認められていれば現在の白峯寺はなかったことになります。

その3年後の明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。
金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「もぬけの空」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。
 それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮の摂社として管理下に置こうとします。
これを提言し実行したのが松岡調(みつぐ)だと私は考えています。

松岡調 神仏分離

彼は200石取りの高松藩士の4男として生まれ、才覚を買われて20歳の時に志度神社へ養子に入ります。②若いときには、先ほど見た讃岐国名勝図会の挿絵を担当しています。③そして高松藩の藩校の教授に就任します。④明治維新に神仏分離令が出されると、東讃から高松にかけての担当エリア五郡の「神社取調」の調査を担当しています。この調査は各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんなものが祀られているのかを報告するものでした。そのため各神社の宝物類はすべて頭の中に入れていたようです。その彼が請われて、金刀比羅宮の禰宜職に就任したのです。この調査活動を通じて、彼は頓證寺にどんなお宝があるかも知っていたはずです。その松岡調がさきほどの文書を起草したと私は考えています。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として、②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること

こうして、明治になって白峯寺は住職がいなくなって廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。白峰寺は、このままでは姿を消していきそうになります。
 このような白峯寺の危機に対して立ち上がっていったのが地元の人達でした。

頓證寺返還運動

 白峰寺の麓の松山村などの住人たちは、白峯寺復活のために明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡に提出しています。この時には、当時の国の方針が寺院削減だったので、県は認めません。②しかし、M11年頃になると時流が変化します。明治政府は神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策を許可するようになります。そのような動きの中で、新しい住職を迎えることが許可され、牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、白峰寺に入ります。③橘新住職は、地元の支援者と協議しながら金刀比羅宮への反撃を準備します。その一つが裁判に訴えることでした。明治17年に白峯寺勝利の判決が下るのですが、金刀比羅宮は、これに従いません。
 禰宜の松岡調の抵抗があったようです。ところが日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島で、政府や軍の許可なく神道布教を行ったことが問題になり、松岡調は1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。その翌年に、高屋・青海村の住人達は、頓證寺の返還願いを県に提出しています。それが認められるのが2年後の1898(明治31)年になります。そうすると金刀比羅宮は、祭神である崇徳院をまつる宗教施設がなくなってしまいました。そこで、本社と奥社の間に、新たな神社を建立します。これが現在の、金刀比羅宮の白峯神社です。

金刀比羅宮の白峰寺創建

現在のお札には金刀比羅宮白峯神社と書かれています

しかし、金刀比羅宮は総てを返還したのではないようです。
返還したのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、金刀比羅宮に移された宝物の多くが頓證寺にはもどっていないのです。その代表が奈与竹(なよたけ)物語の絵巻です。
重文なよたけ物語

 なよ竹物語は、鎌倉後期の後嵯峨院の時代に、春の蹴鞠(けまり)を見物に来ていた人妻を、後嵯峨院に見初めます。その人妻は悩んだ末に院の寵(ちょう)を受け入れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け入れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらすというストーリーで、鎌倉時代になってできた物語のひとうのパターンです。白峯寺は、後嵯峨院の勅願所でもあったようで、そのような機縁で、絵巻が伝えられたと研究者は考えています。これは、金刀比羅宮蔵のままです。
 白峯寺の地元の青年団では、戦後も引渡を求めていますが金毘羅山の回答は、次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。
 文化財の保管・展示を考える場合に、国際的な流れとしては、その文化財がもともとあったところに返すのが原則という考え方が国際的な流れとなりつつあります。そのためルーブルや大英博物館に対して、各国からの返還要求が出されています。このような流れの中で、この問題も考える必要があるのではないかと私は思っています。

明治の神仏分離で白峯寺は、次の3つのものを失いました。


白峰寺のダメージ

そして一時的には廃寺となり、残された建物も神域にふさわしくないと取り壊しが建議されたこともありました。それを救ったのが地元の人達でした。その結果、白峯寺には江戸時代の建物が15棟、そのままの姿で残されることになりました。その内の9棟が重文指定、将来の国宝候補となっています。江戸時代の建物がこれだけ一括して残っていること、そしてその伽藍レイアウトがほとんど変わっていないことことは、非常に希有な寺院です。これらは明治の住職や地元の人達の運動によって、後世に伝えられたことに感謝したいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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中世の白峯寺2

前回は、補陀落渡海信仰をもつ山林修験者によって開かれた白峰寺が修験者の拠点として成長していく姿を追いかけました。今回は、そこに崇徳上皇信仰が「接ぎ木」されていくプロセスを見ていくことにします。
崇徳上皇と後鳥羽上皇

崇徳院は「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 
滝川(たきがわ)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

の歌で有名な歌人です。しかし、政治的には不遇な運命を辿ります。弟の後白河上皇の権力争いに敗れて、讃岐に流され、国府のあった府中(坂出市)周辺で流配生活を送ります。寂しさに耐えられず、崇徳院は弟に向けて恩赦の願いを出しますが受けいれられません。そして、亡くなると弟の後白河天皇は、喪にも服せず、葬儀の指示も出していません。兄の崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。過去の人として、意識の外に追いやっていたようにも思えます。
 今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。中央からの指示がないので、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で白峰山に埋葬されたと坂出市史は記します。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なもので「薄葬」であったことを押さえておきます。このような扱いに対して、崇徳上皇はどのように「反撃」したのでしょうか。保元物語には次のように記されています。
天狗になった崇徳上皇

ここには、①崇徳院が「京に返してくれと、長い仏典を自分の血で書写し嘆願したこと ②それが適わないと、大魔王として日本国を滅ぼすと誓い ③生きながら天狗になったことが書かれています。保元物語のこの記述は後世の人達にインパクトを与えて、ここから数多くの物語や作品が生み出されることになります。崇徳院がどんな風に見られていたかを、今に残る史料で見ておきましょう。

崇徳上皇と松山天狗

左が怨霊となって天狗姿で飛び回り、祟りをふります崇徳上皇の姿です。これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。この舞台は白峯寺(松山)です。崇徳上皇と親しかった西行法師が廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。そこでは、崇徳院は多くの天狗達のボスとして描かれています。その下で、天狗達のとりまとめ役が相模坊という天狗頭です。
 謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説、相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がります。そして、天狗になるために修行する修験者も数多く現れます。室町幕府の将軍の中にも天狗道信仰に夢中になって、政務を顧みない人物も現れます。当時の「入道」と称した人々の多くは天狗信仰者でした。
 崇徳上皇に仕えた白峯の相模坊を見ておきましょう。

白峯寺の天狗・相模坊
相模坊

右が頓證寺前の相模坊像です。背中に羽根のある天狗として描かれています。左が現在の頓證寺殿権現堂の白峯大権現のお札です。修験者の守護神不動明王のようです。その前には二人の天狗が描かれています。ここにも天狗道の痕跡が見えます。これを別の表現で云うと、崇徳院が天狗集団のボスとなった、逆に言うと「天狗集団が崇徳上皇をかついだ」ということになります。天狗の中には、白峯寺の子院の主人達もいたはずです。これを別の史料で裏付けておきます。

相模坊・金剛坊 天狗経
            ①天狗経です。
これは今では近世に造られた偽書(偽の経典)とされています。ここには当時の全国の有名な大天狗とその拠点ががリストアップされています。京都の愛宕山の天狗をスタートに鞍馬・熊野・吉野・高野山・石鎚山の名前があります。讃岐では
最初の赤いマークが「黒眷属金毘羅坊 
2番目が「白峯相模坊」
3番目が「象頭山金剛坊」
が挙げられています。ここからは白峯山や象頭山は天狗信仰のメッカで、おおくの行者達が修行のために訪れていたことがうかがえます。金毘羅大権現の天狗の姿を見ておきましょう。

金毘羅大権現天狗説
           金毘羅大権現
大権現とはどんな姿だったのか? 「権現は、変化するもの」です。例えば金毘羅大権現は、高松藩に説明するときなど公的には、「クンピーラ(金毘羅)と称し、天部の仏と称しています。それでは、信者にはどう説明していたのでしょうか?
左図の上に「金毘羅大権現」と書かれています。これが金毘羅大権現の姿なのです。その下には天狗達が描かれています。右側には不道明のような姿で金毘羅大権現は描かれています。そして、その周りを囲むのは天狗達です。下には「別当金光院」とあります。金毘羅大権現社の別当金光院のことです。金光院は、このような掛け軸を、金毘羅行者と呼ばれた修験者たちに配布していたのです。まさに彼らは、天狗になるために修行していたのです。そのボスが白峯寺では崇徳上皇だったことになります。そのためか、幕末になると崇徳上皇の権化が金毘羅大権現だという説が、京都を中心に拡がっていたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際の金刀比羅宮により白峯寺乗っ取りの要因のひとつとされます。ここでは、天狗信仰で、白峰山と象頭山はつながっていたことを押さえておきます。
「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えは、幕末にはかなり広がっていたようです。
ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があります。皇国史観で歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は、近代以後は語られなくなります。

話をもどして、晩年の後白河上皇には不幸が重なります。

崇徳上皇の怨霊を怖れる後鳥羽上皇

これに対して、この禍が崇徳院の怨霊によるものと考えたブレーンたちは、次のような対策(怨霊封じ)を講じます。

崇徳上皇の怨霊慰安

 「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた墓は、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。⑤の結果、建てられるのが頓證寺です。

それでは、崇徳上皇慰霊のために建立された頓證寺というのは、どんな施設だったのでしょうか。
当時の建物は残っていませんが、初代高松藩主松平頼重によって、再建された建築物群が今に残っています。それを見ていくことにします。

P1150681

初の頓證寺の門前に戻ってきました。今度は門をくぐって中に入っていきます。
頓證寺1
頓證寺正面(白峯寺)
門をくぐると正面に頓證寺が見えてきます。背後の森が崇徳陵になります。もう少し近づいてみましょう。
頓證寺2
頓證寺
頓證寺と呼ばれていますがお寺らしく見えません。まるで神社の拝殿のように私には見えます。この建物の面白い所は、拝殿と本殿の関係です。まず、現在の姿を裏側の陵墓の方から見ておきましょう。

頓證寺の背後
頓證寺と本殿
陵墓方面から①が拝殿です。②が崇徳院の御影を祀っていた本殿です。ここに崇徳院の御影が祀られていましたが、今はありません。普通は、拝殿と本殿だけですが、ここには拝殿のうしろに仏式のお堂が2つあります。ここには何が祭られていたのでしょうか。③は本地堂(十一面観音堂) とも呼ばれています。ここに、先ほど見た十一面観音がありました。建築形式も仏堂スタイルです。権現堂は、先ほど見た天狗達の大ボスである相模坊が祀られていました。これを幕末の絵図で確認しておきます。

頓證寺 金毘羅参詣名所図会
崇徳上皇陵と頓證寺
 一番右側が拝殿です。そこから3本の渡り廊下が延びています。その先の右が観音堂 真ん中が 本殿 左が権現堂です。これは白峯寺の歴史が集約されてレイアウトされていると研究者は考えています。
①観音堂は、熊野行者達のもたらした観音信仰と山林修行
②本殿には崇徳院の御影
③権現堂は天狗の親玉相模坊
まさに、これは白峯寺の歴史です。それらが混淆した形を示しているように私には思えます。それでは、このレイアウトを考えたのはだれでしょうか、それはこの建物群の寄進者である松平頼重ということになります。

鎌倉時代の白峯寺がどのように、見られていたのかを資料で押さえておきます。
牟礼の洲崎寺には南海流浪記という鎌倉時代の讃岐のことを記した資料があります。これを書いたのは、道範という高野山の高僧です。当時の高野山での党派争いの責任を取らされて讃岐に流されて、8年ほど善通寺で生活しています。その時の様子を記録に残しています。ここには8年ぶりに帰国を許された際に、白峯寺に立ち寄ったことが記されています。そして次のように記します。

南海流浪記の白峯寺

 ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代には「崇徳上皇廟所としての白峯寺」という認識が人々の間に拡がっていたことが裏付けられます。  
崇徳上皇信仰が混淆してきた中世の白峯寺の性格をまとめておきます。
中世の白峯寺の姿

①もともとは熊野行者たちによって開かれた補陀落=観音信仰の霊地    ②そこに崇徳院の御霊が置かれ、中央の有力者の信仰を得るようになった。
③お堂や寺領が寄進され経済基盤が整えられた
④多くの子院を擁し、そこに念仏聖や熊野行者達が活動拠点とした。

今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史
  「羽床正明  崇徳上皇御廟とことひら53 H10年」
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金刀比羅宮を訴えた白峯寺

本日いただいたテーマは、大変重いもので私にこれに応える力量はありません。テーマの周辺部を彷徨することになるのを初めにお断りしておきます。さて、このテーマの舞台となるのが、白峯寺の頓證寺(とんしょうじ)殿です。門の奥に見えるのが頓證寺です。その奥に崇徳上皇の陵墓があります。ここでは、白峯寺の中には、頓證寺という別の寺があったことを押さえておきます。

白峯寺 謎解き

本日のテーマに迫るための「戦略チャート 第1」です。このテーマの謎解きのために、つぎのようなステップを踏んでいきたいと思います。 
①どうして、もともと白峯寺にあったお宝が、今は金刀比羅宮にあるのか。→ 明治の神仏分離の混乱期に 
②どうして白峯寺に沢山の宝物があったのか →
 崇徳上皇をともらう寺院として、天皇など有力者の信仰を集め、寄進物があつまってきたということです。
③どうして、崇徳上皇は白峯山に葬られたのか
 白峯山が山林修行者の霊山であり行場であったからでしょう。
④中世の白峯寺とはどんな寺院だったのでしょうか。
そこで、④→③→②→①のプロセスで見ていくことにします。

白峯寺古図3

まず見ていただくのが白峯寺古図です。これは中世の白峯寺の姿を近世になって描かせたものとされます。右下から見ていくと
① 綾川 ② 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと ③ふもとに高屋明神と紺谷明神が描かれています。このエリアまで白峯寺の勢力の及んでいたと主張しているようです。④海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れおち、断崖の上に展開する伽藍 ⑤崇徳上皇陵 本堂 いくつもの子院 三重塔 白峰山には権現とあります。
 書かれている内容については、洞林院が近世になって中世の栄華を誇張したものとされていました。だから事実を描いたものとは思われていませんでした。その評価大きく変わったのは最近のことです。そのきっかけとなったのは、四国遍路のユネスコ登録のために、各霊場での発掘発掘です。白峯寺でも発掘調査が行われた結果、この絵図に書かれている本堂横と別所から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えています。それを裏付ける資料を見ておきましょう。

白峯寺子房跡

白峯寺の測量調査も行われました。白峯寺境内の実測図 
①駐車場の ②本坊 ③崇徳上皇陵 ④頓證寺 ⑤本堂 
注目して欲しいのは、白い更地部分です。本堂の東側と川沿いにいくつものにならんでいます。これが中世の子院跡だというのです。ここからも中世には21の子院があったという文献史料が裏付けられます。もう少し詳しく白峯寺古図を見ておきましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 拡大 本堂周辺
①白峰山には「権現」とあります。「権現=修験者によって開かれた山」です。ここからはこの地が修験者にとって聖地であり、行場であったことが分かります。

白峯寺 別所5
白峰寺古図拡大 別所
②三重塔が見える所には「別所」とあります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」がある所です。現在の白峯寺の奥の院である毘沙門窟への分岐点で、ここに大門があったことになります。別所は、中世に全国を遍歴する修験者や聖などが拠点とした宗教施設です。ここからも数多くの山林修行者が白峯山にはいたことがうかがえます。

次に、中世の白峯寺の性格がうかがえる建物を見ておきましょう。
白峯寺は、中世末期に一時的に荒廃したのを、江戸時代になって初代高松藩主の松平頼重の保護を受けて再建が進められました。藩主の肝いりで建てられた頓證寺などは、当時の藩のお抱え宮大工が腕を振るって建てたものもので、いい仕事をしています。それが認められて、数年前に9棟が一括で重文に指定されました。そのなかで、中世の白峯寺を物語る建物を見ておきます。

白峯寺 阿弥陀堂
白峯寺阿弥陀堂
①本堂北側にある阿弥陀堂です。
宝形造りの小さな建物です。中には阿弥陀三尊、その後ろの壁に高さ16cmの木造阿弥陀如来像が千体並べられているので「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世には真言宗の高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていた時期があります。その時期には白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことが、この建物からはうかがえます。「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと研究者は考えています。

白峯寺行者堂

本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ行者堂です。
これも重文指定です。現在は閻魔などの十王が祀られています。
しかし、この建物は「行者堂」という名前からも分かるとおり、もともとは役行者を奉ったものです。役行者は、修験道の創始者とされ、修験者たちの信仰対象でもありました。修験者が活動した拠点には、その守護神である不動明王とともに、役行者がよく奉られています。これも、白峯寺が修験者の霊山であったことをしめしています。
今まで見てきた白峯寺の性格をまとめておきます。

中世の白峯寺の性格

次に白峯寺縁起で、本尊の由来を見ておきましょう。

白峯寺本尊由来2

 ここには次のようなことが記されています。
①五色台の海浜は、祈念・修行(行道)の修験者の行場であった。
②補陀落山から霊木が流れてきたこと。
③その霊木から千手観音を掘って、4つの寺に安置したこと。
④4つの寺院とは、根来寺・吉永寺(廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峯寺
この4つのお寺の本尊は同じ霊木が掘りだされものだというのです。共通の信仰理念をもつ宗教集団であったことがうかがえます。それでは、その本尊にお参りさせていただきます。

国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
①国分寺の観音さまです。讃岐で一番大きな観音さまで約5mのいわゆる「丈六」の千手観音立像で、平安時代後期の作とされます。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。奈良の長谷寺の観音さまと似ていると私は思っています。
②次が白峯寺の観音さまです。崇徳上皇の本地仏とされ、頓證寺の観音堂(本地堂)に安置されていました。③次は根来寺です。天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火で本尊が焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたと伝えられています。吉水寺も同じ霊木から掘りだされた観音さまが安置されたと縁起には書かれていました。
こうしてみると確かに3つの観音さまは、共通点があります。そして五色台周辺の四国霊場は、みな観音さまが本尊で観音信仰で結ばれていたことになります。ところがこれだけでは終わりません。四国霊場の屋島寺を見ておきましょう。

屋島・志度寺の本尊観音
屋島寺と志度寺の本尊
屋島寺も千手観音です。この観音さまは、平安時代前期のものとされ、県内でもとくに優れた平安彫刻とされています。
次の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。そして、志度寺の本尊も千手観音です。この観音さまの由来を、志度寺縁起7巻には次のように記します。

近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、・・・・24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音や まします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。

霊木が志度の浜にたどり着いた場面です。

志度寺縁起
志度寺縁起 霊木の漂着と本堂建立
流れ着いた霊木が観音さまに生まれ変わっている場面です。観音の登場を機に本堂が建立されています。寺の目の前が海で、背後には入江があります。砂州上に建立されたことが分かります。本尊は補陀落観音だと云っていることを押さえておきます。

最後に志度寺の末寺だったとも伝えられる長尾寺を見ておきましょう。近世の初めの澄禅の四国辺路日記には、次のように記します。

四国辺路日記 髙松観音霊場

こうしてみると、現在の坂出・高松地区の四国霊場は、中世には千手観音信仰で結ばれていたことになります。別の言い方をすると、観音信仰を持つ宗教者たちによって開かれ、その後もネットワークでこれらの7つの霊場は結ばれていたということです。それでは、これらの寺を開いたのは、どんな宗教者達なのでしょうか。それを解く鍵は、今見てきた千手観音さまにあります。
 千手観音信仰のメッカが熊野の那智の浜の補陀落山寺です。

補陀落渡海信仰と千手観音.2JPG

 ①補陀落信仰とは観音信仰のひとつです。②観音菩薩の住む浄土が補陀落山で、それは南の海の彼方にあるとされました。③これが日本に伝わると、熊野が「補陀落ー観音信仰」のメッカとなり、そこで熊野信仰と混淆します。こうして熊野行者達によって、各地に伝えられます。そして、足摺岬などで修行し、補陀落渡海するという行者が数多くあらわれます。それでは、補陀落信仰のメッカだった熊野の補陀落山寺のその本尊を見ておきましょう。

補陀落渡海信仰と千手観音

これが補陀落山寺の本尊です。
以上の補陀落・観音信仰の讃岐での広がりを跡づけておきます。
①熊野水軍の瀬戸内海進出とともに、船の安全を願う祈祷師として、瀬戸内海に進出 各地に霊山を開山・行場を開きます。
②その拠点になったのが、児島の新熊野(五流修験)です。児島を拠点に、小豆島や讃岐方面に布教エリアを拡げていきます。
③熊野行者達は、背中の背負子の中に千手観音さまを入れています。そして新しく行場や権現を開き。お堂を建立するとそこには背負ってきた観音さまを本尊としたと伝えられます。
④それが高松周辺の7つの観音霊場に成長し、七観音巡りがおこなわれていたことが見えて来ます。
こうしてみると、白峯寺や志度寺は孤立していたわけではないようです。「補陀落=観音信仰」のネットワークで結ばれていたことになります。それが後世になって高野聖達が「阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」をもたらします。そして、近世はじめには四国霊場札所へと変身・成長していくと研究者は考えています。
七つの行場で山林修行者は、どんな修業をおこなっていたのでしょうか? 
山林修行者の修行

①修業の「静」が禅定なら、「動」は「廻行・行道」です。神聖なる岩、神聖なる建物、神木の周りを一日中、何十ぺんも回ります。円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いています。「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになったようです。江戸時代には、ここで百日「行道」することが正式の行とされていました。
②行道と木食は併行して行われます。③そのためそのまま死んでいくこともあります。これが入定です。④そして修業が成就したとおもったらいよいよ観音浄土の補陀落めざして漕ぎ出していきます。これが補陀落渡海です。この痕跡が五色台や屋島の先端や志度寺には見られます。五色台の海の行場を見ておきましょう。

五色台 大崎の鼻

ここは五色台の先端の大崎の鼻から見える光景です。目の前に、大槌・小槌の瀬戸が広がります。補陀落渡海をめざす行者達の行場に相応しい所です。ここから見えるのが大槌と小槌島で、この間の瀬戸は古代から知られた場所でした。大槌・小槌は海底世界への入口だというのです。以前にお話しした神櫛王の悪魚退治伝説の舞台もここでした。瀬戸の船乗り達にとっては、ランドマークタワーで名所だったようです。そこに突き出たようにのびるのが大崎の鼻。中世の人々で知らないものはない。ここと白峰山の稚児の瀧を往復するのが小辺路だったのかもしれません。そこに全国から多くの廻国行者や聖達が集まってくる。その一大拠点が白峯山の別院であり、多くの子院であったということになります。これをまとめておくと、古代から中世の白峰寺は、次のような性格を持った霊山だったことになります。

中世の白峯寺2

こういう霊山だったから崇徳院は、白峯山に葬られたとしておきます。ここまでが今日の第一ステップです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音   四国へんろの歴史15P」
「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」
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借耕牛 美合落合橋の欄干
落合橋の借耕牛(まんのう町美合)
最初に見た美合の落合橋の欄干です。向こうに見えているのが谷川うどんになります。この橋は、勝浦からの道と三頭峠からの道の合流点に架かっていて、借耕牛の往来した道とされます。その橋に、さきほどの阿讃君レリーフやこの切絵風デザインが施されています。これを計画・実行した設計者に私は尊敬と感謝の念を抱きます。それでは、どうして借耕牛が讃岐にやってくるようになったのでしょうか。次に、このことについて見ておきましょう。

西讃府誌 牛馬普及率
仲多度・三豊郡の牛馬普及率(西讃府史による)

まず仲多度郡では、牛はどのくらい普及していたのかを見ておきましょう。幕末に丸亀藩が編集した西讃府史には、各村の農家戸数・水田面積・牛や馬の数が、各村ごとに記されています。これを数字化したのが上表です。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。
②多度郡はもっと低くて、38,8%。
③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。
④三豊全体の平均値は約40%。
讃岐には「五反農家」という言葉がありますが、仲多度郡の一戸辺りの耕地面積を見ると4反未満です。ここからは零細農家が多く、牛や馬を飼うことはできなかったことが考えられます。牛のいない家が、代掻きの時に牛が欲しいと思うのは当然でしょう。牛のレンタル需要があったとしておきます。
 次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
阿波池田の東側に井川町があります。井川スキー場のあるところです。そのスキー場の奥にあるのが腕山放牧場です。

借耕牛 腕山放牧場

阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。

借耕牛 井内谷村の牛馬保有数
井内谷村の牛馬所有数の推移
この表は井内谷村の牛馬・農家数牛馬所有数を年代毎にしめしてたものです。井内谷村(旧井川町・現在の三好市)は、先ほど見た腕山牧場の下にあるソラに近い集落です。左が年代推移です。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。

讃岐への借耕牛が本格化するのは、明治後半になってからのようです。その背景を考えたいと思います。

借耕牛 増加の背景

阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。

借耕牛登場の背景

①阿波のソラの集落には広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。それに対して、讃岐は近世になると刈敷や燃料薪などの入会権の設定されて、それまでの牧場が消えていくことは以前にお話ししました。そのため牛や馬にたべさせる飼料が手に入りません。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。

まんのう町の峠 阿波国図

これは阿波藩が幕府に提出するために作成した阿波国図です。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川  ②大滝山  ③大川山  ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。

真鈴峠

⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
 
5借耕牛 峠別移動数jpg

左側が讃岐の受入集落名(峠名)です。
①昭和5~10年には、夏秋合わせて8250頭の牛がレンタルされています。②多い順は、1美合 2岩部 3猪ノ鼻(戸川・道の駅)  4 清水口 5 塩入 となります。
②ここからは美合と塩入を合わせると3000頭を越える牛がまんのう町にやってきていたことになります。借耕牛の1/3は、まんのう町に入ってきていたことを押さえておきます。
③右段を見てください。それが戦後の昭和33年には、約1/3に激減しています。この理由は時間があれば考えることにします。

次に、牛たちが阿波のどこからやってきたかを見ておきましょう。

借耕牛の阿波供給地

この図は1935(昭和10年)の牛の供給源と、讃岐のレンタル先を示したものです。編目エリアは100頭以上、斜線エリアは50~100頭の牛を送り出したり、受けいれたりしている村々です。ここからは次のような事が分かります。
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
③借耕牛の通過は、岩部(塩江)→髙松平野  美合→坂出・丸亀  塩入・山脇・猪ノ鼻 → 丸亀・三豊 
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
 もうひとつ注目しておきたいのは髙松沖の女木島からも借耕牛は送り出されていたようです。 
借耕牛 男木島.2JPG

石垣でかこまれた坂道を牛が歩いています。ここは女木島のとなりの男木島です。この島は、古くから島全体が牧場とされてきました。島ですから放し飼いができます。また坂が多く、放し飼いの牛は坂を登り降りし、足腰が丈夫で強く、しかも人なつっこくて、よく云うことを聞くので農耕牛としては借り手に人気があったようです。

借耕牛 女木島

こちらは女木島の牛です。髙松から借耕牛が帰ってきた所です。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。

借耕牛 起源

ひとつは江戸後期説です。これはサトウキビを石臼で絞るために、大型の阿波の牛がやってきたというものです。ここで注意しておきたいのは、田畑を耕すためにやってきたのではないことです。その数も僅かなものです。もうひとつは、明治以後説です。
「藍栽培不振 + 葉煙草栽培の拡大」にともない牛の飼育数は減りませんが、役牛としての働き場はなくなります。そこに目を付けたのが讃岐の博労(ばくろ)たちです。

「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」

と委任を取り付け、讃岐の借り主との間を取り持ったのではないかと私は考えています。明治は、移動の自由、営業の自由が認められ、県境を牛がレンタルのために越えることも何ら問題はありません。
髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。

走人協定 髙松藩

例えば「讃岐男に阿波女」という諺が残っています。確かに、旧仲南の財田川沿いの集落には、阿波から牛の背中に乗って、嫁いできたという女性が昭和の時代には、数多くいました。しかし、江戸時代には高松藩は、藩を超えた男女の結婚は、上の「走人協定」で許していません。琴南町誌には、密に阿波の女性と結婚してたカップルが藩の手によって引き離されて、女性が阿波に追放される話がいくつか残されています。
借耕牛の増加には、次のような背景があった私は考えています。
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと
②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
うして借耕牛は讃岐に来なくなったのか?

借耕牛 45


戦後の高度経済成長前の1960年代(昭和30年代後半)になると、田んぼの主役交代します。

借耕牛と耕耘機

耕耘機の登場です。こうして牛は水田からは姿を消していきます。
トラックに乗る借耕牛

1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。

最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
峠でつながっていた阿讃の里

①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
 瀬戸内海の港や島々は、海を通じて人とモノと文化が行き来しました。それに対して、美合や塩入は阿讃交流の拠点でさまざまなものが行き交う拠点であったのです。そのような視点が今は忘れ去られています。阿讃の峠越えの文化交流をもう一度、見直す必要えがあると私は考えています。そのひとつのきっかけを与えてくれたのが借耕牛でした。最後に、参考文献を紹介しておきます。

借耕牛探訪記
借耕牛の研究

借耕牛講演会
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借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

 借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
           もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。
 中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

借耕牛探訪記

借耕牛の研究

綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
IMG_0016
鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
IMG_0021
絵の提供は石井輝夫氏です。

関連記事

下記の通り、借耕牛についてお話しすることになりました。小学生達も参加するようなので、できるだけ分かりやすく、そして楽しく話したいと思います。借耕牛に、興味のある方で、時間の余裕のあるかたの参加を歓迎します。

借耕牛講演会ポスター
借耕牛 落合橋

借耕牛7

借耕牛 美合落合橋の欄干

借耕牛登場の背景

借耕牛 12

借耕牛のせり

借耕牛借用書2

借耕牛8

借耕牛の阿波供給地

借耕牛3
借耕牛 通過峠

借耕牛取引図3

借耕牛見送り 美合

借耕牛5

借耕牛6

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