讃岐は真宗寺院が多いと云われますが、その比率はどのくらいなのでしょうか。
それを最初に数字で押さえておきます。
①最初に讃岐を見ておきましょう。真宗寺院が424 讃岐の寺院数910ケ寺の内、約47%約半分が真宗です。これは思ったよりも少ない感じ。私の感覚では8割でもおかしくないのですが・・。分布に濃淡がありそうです。この中で約半分が興正派です。興正派の寺は全国は800程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。この背景には、何らかの歴史的な要因があるはずです。
②阿波については、真宗阿波では13%、真言が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。
③伊予ではわずか9%、真言も多いが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護によるようです。
④土佐は全体数がが358と他県に比べると半数以下です。お寺の数が少ないのが特徴です。明治の神仏分離が四国でもっとも過激に進められたのが土佐です。時の土佐藩は寺院廃止・統合政策を強力に進めました。その結果がこの数字です。その中では真言が多いようです。
⑤四国全体では、真宗寺院は700で23% 讃岐以外の各県では、真宗寺院の数は100以下、それが讃岐では400を越えます。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いこと、なかでも興正寺派が多いことが分かります。これはどうしてなのでしょうか。それを説明するために従来使われていた史料が三木の常光寺の縁起です。まず常光寺から見ておきましょう。
この寺は銀杏が有名なようです。本堂前の碑文には、次のような縁起が記されています。
ここからは次のような事が分かります。
①開基年 1368年
②開基者 生駒浄泉(泉州の城主の次男)
③末寺が75 明治維新にも27の末寺
④本堂が17世紀半ばのもの
もう少し詳しい史料を見てみましょう。
江戸後半の18世紀になると、各藩では自藩の潜在能力を知るために地誌の出版がおこなわれるようになります。例えば丸亀藩が各村の庄屋に村の歴史と郷土の産物などを調べて提出させています。それに基づいて編纂されたのが西讃府誌です。髙松藩でも、その動きがあったようで各寺院へ由緒や現状などについてのレポート提出を求めています。次の縁起は幕末に髙松藩の求めに応じて、提出したレポートの一部です。
縁起を整理すると
浄泉は泉州の城主の子孫でした。この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のことのようです
①開基が古いことこの史料によって、讃岐への真宗伝播は語られてきました。 このレポートには、常光寺の末寺一覧表が添付されています。それも見ておきましょう。
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺であること
③そのため多くの末寺を抱えていたこと。
所在村名と寺名が示されたいます。最初に出てくるのは高松藩領内の末寺です。ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺周辺の三木郡に多い。
②香川郡には少ない(阿波の安楽寺の末寺安養寺との棲み分け現象?)
③阿野郡西分村の善福寺(綾菊の南側)は、鴨村に末寺・正蓮寺などをもっている。
④那珂郡トップに登場するのが円徳寺も、3つの末寺を持っている。
円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。
ちょうと寄り道します。円徳寺の末寺の佐文の法照寺です。
この寺の前には、金刀比・伊予土佐街道が通っています。かつては、金比羅参りの参拝客が数多くこの前を行き来していました。しかし、もともとここにあった訳ではないようです。丸亀藩に出された屋根の葺き替え申請書には次のように記されています。
ここには次のような事が記されています。
①円徳寺の末寺として、生間に開基
②1722年に協議の末・佐文に移転
ここから分かることは18世紀になると村の間で、お寺の誘致合戦が展開されるようになっていることです。その背景には、お寺がないと不便なことがありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向いて頼んでやってきてもらうことになります。そのために村にお寺のない所は、誘致運動を展開するようになります。佐文の法照寺も、とともとは生間にあったのが「誘致運動」で佐文にやってきたようです。その際に、寺だけでなく門徒も一緒についてくることもあったようです。本寺の円徳寺ももともとは、本目にあったと聞いています。お寺さんは、昔からそこに有り続けるモノと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
常光寺文書には離末寺のリストもあります。
かつては常光寺に属していたが、何らかの理由で離末した寺のリストです。
①2番目のまんのう町高篠の円浄寺は、享保10(1725)
②天領榎井村の玄龍寺は1813年、
③赤丸以後の7ケ寺は、文化十年に一斉に離末
その内の一番最初は、天領榎井村の玄龍寺、そして次の4ケ寺が多度郡、最後の2つが三豊郡の2寺です。その理由は、後で見ることにしてここでは一斉離末があったことを押さえておきます。これを見ると、全盛期には75の末寺をゆうしていたという由緒書きは、本当だったようです。次に視点を変えて末寺分布を見ておきましょう。
常光寺丸亀平野の末寺をグーグル地図に落としてみました。
黄色ポイントが末寺です。円徳寺が右隅です。その末寺が佐文の法照寺・造田の西福寺・垂水の西の坊です。東から伸びてきた教線ラインが円徳寺にやってきて、丸亀平野に下っていく動きが見えて来ます。
ここからは次のような事がうかがえます。
①②多度津丸亀など海岸線部や都市部にはない。
③三野平野に進出していない。
その理由として対抗勢力の存在が考えられます。三野平野は、中世に秋山氏によって開かれた法華宗の本門寺の強固な信徒集団がいました。また、その背後には、弥谷寺の修験・聖集団がいました。また観音寺には禅宗の寺院がありました。
④髙松藩や丸亀藩の藩を超えて教線がのびています。これは讃岐が2つの藩に分割される以前の生駒藩時代に、この本末関係ができたことを示しています。以上が、末寺リストから分かることです。今回は、このあたりにしておきます。
次回は阿波美馬の安楽寺を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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