瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年08月


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文綾子踊のルーツを探るために、佐文周辺の雨乞踊を見ていきたいと思います。

讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞踊の分布図
    上図からは次のような事が読み取れます
①東讃・髙松地域には、ほとんど分布していないこと → 大川郡の水主神社の存在(?)
②中讃には滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいた風流念仏踊が、いくつか残っていること
③三豊南部には、風流雨乞踊りが集中して残っていること。そして、三豊北部にはないこと。
④中讃の念仏踊系と、三豊の風流系の雨乞踊り境界上に、佐文綾子踊があること
以上からは、佐文綾子踊の成立には、上記の二のエリアの風流踊が影響を与えていることがうかがえます。これをある研究者は、「佐文綾子踊りは、三豊と中讃の雨乞い踊りのハイブリッド種」だと評します。
 以前にお話したように、佐文は滝宮に踊り込んでいた「七箇念仏踊」を構成する中心的な村でした。それが様々な理由で18世紀末頃から次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞踊を取り入れながら、新たな「混成種」を「創作」したのではないかと私も考えるようになりました。  それを裏付ける「証拠」を見ていくことにします。

豊浜町和田の「さいさい踊り」を見ておきましょう。

さいさい踊り 豊浜JPG
さいさい踊(豊浜町和田)
この躍りで、まず注目したいのは隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。そして、歌詞の内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。これは先ほど見た綾子踊の地唄と同じです。流行(はやり)歌が盆踊に取り込められていく過程が見えます。さいさい踊り以外の三豊に残る風流雨乞踊りも、もともとは盆踊りとしておどられていたと研究者は考えています。

それでは、この踊りを伝えたのは誰なのでしょうか?

さいさい踊り 薩摩法師の墓碑
豊浜町和田の道溝集落の壬申岡墓地にある薩摩法師の墓碑

墓碑には、上のように記されています。ここからは、つぎのような過程が見えてきます。

さいさい踊り 伝来


 佐文の西隣の麻(高瀬町)にも、綾子踊りが踊られていました。その由来を見ておきましょう。
  ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。           
沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。

 ここには、江戸時代の後半になって京都から下ってきた貴族の娘・綾子姫が下女と一緒に、当時の風流踊りを元にして綾子踊りを完成させて、麻に伝えたという伝説が記されています。雨乞踊の創作過程で、当時京都や麻周辺で踊られていた風流踊りが取り込まれた過程が見えていきます。言い方を変えると、風流踊が雨乞踊りに転用されたことになります。こうして見ると、前回見たように「綾子踊に恋歌が多いのは、どうしてか?」の応えも、以下のように考えることができます。

風流踊りから盆踊りへ

こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。



それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。

風流踊りの伝来者

A
 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。


百石踊の伝来委

兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司
は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?

「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。

百石踊り - marble Roadster2

百石踊りの芸司は、黒い僧服姿

 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?

由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。

以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

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綾子踊は、雨乞い踊りとされてきました。それでは、そこで歌われている地唄は、雨乞いに関係ある歌詞なのでしょうか。実は、歌われている内容は、雨乞いとは関係ない恋の歌が多いようです。
綾子踊りには、どんな地唄が歌われているのかを見ていくことにします。 綾子踊りには、12の地唄があります。その中で「綾子踊」と題された歌を見ておきましょう。

綾子踊り地唄 昭和9年
綾子踊地唄(尾﨑清甫文書 1934年版) 

尾﨑清甫が1934(昭和9)年に、残した「綾子踊」の地唄です。
歌詞の上に踊りの動作が書き込まれています。例えば、最初の「恋をして、恋をして」の所には、「この時に、うちわを高く上げて、真っ直ぐに立て捧げ、左右に振る」。「わんわする」で「ここでうちわを逆手に持ち替えて、腰について左に回る」、その後で「小踊入替」とあります。踊りの所作が細かく書き込まれています。一番を、意訳変換しておくと次のようになります。

綾子踊り地唄
綾子踊の1番
「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。「恋をして 恋をして ヤア わんわする。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。それを親は、夏やせだと思っています。「あじ(ぢ)きなや」です。「アヂキナイ」 とは情けないこと 、あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことです。恋やせなのに、夏やせとはあじけない。人の気持ちが分かっていない、情けないというところでしょうか。2番を見ておきましょう。

綾子踊り地唄2
綾子踊の地唄 2番

2番は①我が恋は夕陽の向こうの海の底の沖の石と歌います。これだけでは意味が取れないので、他の類例を見ておきます。備後地方の田植え歌には「沖の石は、引き潮でも海の底にあって濡れたままで乾く間もない」、千載和歌集には「沖の石は姿を現すことのなく、誰にも見えない秘めた恋」とあります。「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。これを参考に次のように意訳しておきます。

「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

綾子踊りの3番を見ておきましょう。
綾子踊り地唄3番

綾子踊り3番は、我が恋を細谷川の丸木橋に例えます。
これだけでは意味が分からないので、また類例を見ておきましょう。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。

次に花籠を見ておくことにします。
綾子踊り 花籠2
              綾子踊地唄 花籠(尾﨑清甫文書 1934年版)
綾子踊り 鳥籠
花籠の意訳

この歌は、閑吟集(16世紀半ば)の一番最後に出てくる歌のようです。
綾子踊り 花籠 閑吟集

ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した歌詞が、地唄として踊られているというのが「無形文化財」だと研究者は考えています。


私の綾子踊りに対する疑問の一つが「雨乞い踊りなのに、どうして恋歌が歌われるのか」でした。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
雨乞いなのに恋の歌

 つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。

どうして綾子踊りに、風流歌が踊られるのか?


綾子踊り 講演会表紙
郷土史講座でお話ししたことをアップしています。
どうして綾子踊は、国指定になり、ユネスコ登録されたのか。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と尾﨑清甫文書
西讃府誌は幕末に丸亀藩が編集したもので、各村の庄屋たちに命じて地誌的な情報をレポートとして提出させたものを藩が編纂したのものです。つまり、当時の佐文村の庄屋のレポートにもとづいて書かれています。その中に綾子踊りのことが次のように取り上げられています。
西讃府誌の綾子踊り

これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府誌の綾子踊り記述

西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
「雨乞踊緒書」というのは、佐文の尾﨑清甫の残した文書です。
尾﨑清甫
尾﨑清甫とその文書箱の裏書き
尾﨑清甫は、代議士でもあった増田穣から未生流家元の座を譲られた華道家でもありました。
尾﨑清甫華道免許状
秋峰(増田穣三)から尾﨑清甫(伝次)の華道免許状

尾﨑清甫 華道作品
未生流・尾﨑清甫の荘厳
今から110年前の大正3(1914)年の大旱魃が起こり、途絶えていた綾子踊が踊られます。それを機に、尾﨑清甫は記録を残しはじめ、昭和14年(1939)に集大成しています。

尾﨑清甫史料
尾﨑清甫文書
その中に、踊りの隊形がどのように記されているのかを見ておきましょう。以下が現在のフォーメーションです。

綾子踊り隊形

①女装した6人の小踊り(小学校下級年)
②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。
③その後に太鼓と榊持(拍子)
④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。
⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
綾子踊り4
綾子踊 小踊りと芸司
ここで押さえておきたいのは、綾子踊りの隊形は円形ではないことです。2つのBOXからなることです。讃岐で踊られる「風流小唄系雨乞い踊」は、先祖供養のための盆踊りが雨乞用に「借用」されたものなので、円形隊形が普通であることは以前にお話ししました。そのため綾子踊りの隊形は「ハイブリッド」だと評する研究者もいます。近世後半になって新たに作り出された可能性があります。
尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
綾子踊り隊列図 尾﨑清甫
尾﨑清甫の綾子踊隊形図
これが西山(にしやま)の山頂直下にあった「りょうもさん(旧三所神社)」に奉納されていたという隊形図です。読み取れることを列挙しておきます
①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
実は、尾﨑清甫は3つの隊形を記しています。それは「村踊り」「郡踊り」「国踊り」です。そして、これは「国踊り」とされます。つまり、踊る場所によって、その規模や編成が変えられたことが伝えたかったようです。しかし、綾子踊が村外に出て踊られたことはありません。この記述には、滝宮牛頭天王社に奉納されていた七箇念仏踊りのイメージが尾﨑清甫の頭の中にあったことがうかがえます。先ほど見た「西讃府誌」には「下知(芸司)1人、小踊6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各1人とありました。これが実際の編成だったのです。つまり、この絵は、頭の中の「当為的願望」と私は考えています。しかし、ここからは、小踊りと芸司の位置など現在にそのままつながる所も多いように見えます。ここでは昔の隊形を、綾子踊りが継承していることを押さえておきます。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊の入庭 棒と薙刀の問答
今回は、綾子踊の隊形についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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今回は、綾子踊りの団扇・花笠・衣装を見て行くことにします。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河の大念仏の大団扇
風流化のひとつに団扇の大型化があることは以前にお話ししました。
綾子踊りも、芸司や拍子の持つ団扇は大型化しています。

P1250507
綾子踊の芸司と拍子の持つ大団扇(中央)と中団扇(左右)
尾﨑清甫は、団扇について次のように記します。

団扇・台笠寸法 大正
綾子踊 芸司と拍子の団扇寸法
意訳変換しておくと
芸司 大団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺7寸5歩(約52㎝)  横 1尺3寸(39㎝) 柄 6寸(18㎝)
 廻りには色紙を貼り、金銀色で日と月を入れて、その下に「水の廻巻」か、上り龍・下り龍を入れるのもよし。
拍子(榊持ち) 中団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺2寸5歩(約38㎝)  横 9寸(27㎝)   柄 6寸(18㎝)
デザインは、大団扇に同じ。
小踊  女扇子
台笠 (省略)
P1250070

団扇には①月と太陽が貼り付けられています。月と太陽は、修験者の信仰のひとつです。この踊りを伝えたのが聖や修験者などであったことがうかがえます。なお、月・日の下に描かれているのが「水の廻巻」のようですが、今の私にはこれが何なのか分かりません。「雲」と伝えられるので、雨をもたらす「巻雲」と考えていますが、よく分かりません。ちなみに、ユネスコ登録を機に新しく大団扇を新調することになりました。大きさは、尾﨑清甫の言い伝えの通りに発注しました。分かることは、出来るだけつないでいこうとしています。

綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊 外踊(がおどり)の団扇と笠

次に、花笠についての記録を見ておきましょう。



綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊の花笠寸法(尾﨑清甫文書)
意訳変換しておくと
芸司・拍子 
  スワタシ(直径) 1尺5寸5歩(鯨尺 約46㎝)
  3色で飾り付けよ、ただし赤色は使用しないこと
小踊花笠
  スワタシ 1尺2寸5歩(約37㎝)
  ただし、ひなりめんにして両側を折る、そして正面は7寸(21㎝)開ける
小踊の花笠は赤い布を垂らして、正面21㎝開けよという指示です。
P1250029
                   綾子踊小踊の花笠
ポジションによって、被る笠がちがうことを押さえておきます。
花笠
綾子踊に使われる花笠や笠
かつては、花笠や笠も手作りでした。しかし、戦後の高度経済成長の中で、これらを作れる人達がいなくなってしまいます。重要無形文化財に指定されて、団扇や花笠も新調されますが、それらは総て京都の職人の手によるものでした。それから約半世紀の年月が経って、痛みが目立つようになっています。修繕を繰り返しながら使用していますが、それも限界に近づいてきています。これらの新調が課題となっています。最後に衣装を見ておきます。

「村雨乞行列略式」の中の衣装と役割を見ておきましょう。

綾子踊り 入庭
佐文賀茂神社への入庭と幟

綾子踊り 村雨乞行列略式
村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
①最初に来るのが「幟一本」で「佐文雨乞踊」と書かれたものです。それを礼服で持ちます。
②「警固十(六)人」とあります。当初は十人と書かれていたものを六人プラスして「増員」しています。これ以外にも「増員」箇所がいくつかあります。その役割は、「五尺棒を一本持って、周囲四隅の場所を確保すること」で、履き物は草鞋ばきです。
③次が「幟四本」で「一文字笠、羽織袴姿で上り雲龍と下り雲龍」を持ちます。
綾子踊り 警固
四隅で結界を作る警固(佐文賀茂神社)

警固以外に杖突も6人記されています。

P1250665
             村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
④「杖突(つけつき)六人」で「麻の裃で小昭楮、青竹を持て龍王宮を守護するのが任務」
⑤「棒振(ぼうふり)・薙刀振(なぎなたふり)一人」で「赤かえらで刀頭を飾る。衣装は袴襷(たすき)」です。
⑥「台笠一人」で、「神官仕立」で、神職姿で台笠を持つ」
⑦「唐櫃(からひつ)」で、縦横への御供えを二人で担ぎます。これも神職姿です。
⑧「正面幟二本」で「善女龍王」と書かれた二本の幟を拝殿正面に捧げ。一文字笠を被り、裃姿です。
⑥の「台笠一本」については、台笠の下は神聖な霊域で、悪霊や病魔も及ばないところとされました。普通は左右に2本なのですが、ここでは1本になっていることを押さえておきます。ちなみに前回見た「国踊りの絵図(拡大版)」では、台笠は2本描かれています。また、七箇念仏踊りや滝宮念仏踊りの絵図も2本です。しかし、実際には1本であったことが、ここからは分かります。

綾子踊り 台笠・幟
青い台笠が1本 その周囲に幟が林立

⑧の「善女龍王」は、善女龍王と書かれた幟です。人数は4人で「神官仕立」とあります。先ほどの「上り龍・下り龍」の幟の持手は、羽織袴姿でした。同じ幟でも、持ち手の衣装が違うことを押さえておきます。
綾子踊り 善女龍王幟
               綾子踊 善女龍王の幟(佐文賀茂神社)


P1250666 隊列昭和s4芸司
            村雨乞行列略式 NO3(尾﨑清甫文書 昭和14年)

⑨は「螺吹(かいふき)一人」で、法螺貝吹きのことで、「但し、頭巾山伏仕立、袈裟衣で」とあります。かつては頭巾を被った山伏の袈裟姿だったようです。
⑩が「芸司一人」で「花笠・羽織・袴姿で、大団扇を持って踊る」とあります。
風流踊りを伝えたのは、「芸能伝播者」としての山伏や念仏聖達です。綾子踊りの旅の僧が伝えたとされます。その芸能伝播者が「芸司」にあたります。そのため初期の風流踊の芸司の衣装は黒い僧服姿であったと研究者は指摘します。それが江戸時代になると羽織袴姿になり、さらに二本差しで踊るようになります。ここには芸司を務める者の「上昇志向」が見えてきます。風流踊りは、時と共に衣装や持ち物も変化してきたことを押さえておきます。
⑪が「太鼓二人」が続きます。鳴り物の中では太鼓が、一番格が高いとされます。
⑫最後が「拍子二人」で、「但し、羽織袴仕立で、榊に色紙を短冊にして付ける。6尺5寸以上の榊一本を龍王宮へ供えるために持つ。」とあります。そのため「榊持ち」とも呼ばれていたようです。今は、入庭の時には榊を持って入場しますが、踊るときには回収しています。

P1250667 衣装・役割 その他
         村雨乞行列略式 NO4(尾﨑清甫文書 昭和14年)
⑨「鼓(つづみ)二人」の衣装は「裏衣月の裃に、小脇指し姿で、花笠」とあります。「小脇指」を指していることを押さえておきます。
⑩「鉦(かね)二人」は「麻衣に花笠仕立て」で現在も黒い僧服姿です。

綾子踊り 鉦と大踊
綾子踊の鉦(かね)と大踊 鉦は僧侶姿

⑪「笛吹二人」は「花笠・羽織袴で、草履履き」です。太鼓や鼓に比べると「格下」扱いです。
⑫「小踊六人」は「花笠姿で、緋縮綿の水引を八・九寸垂らす。(後筆追加?)。小姫仕立で赤振袖に上着は晒して麻帯、緋縮綿(ひじりめん)に舞子結」
⑬「地唄八人」は「麻の裃に小服で、青竹の杖を持って、一文字笠を被る」とあります。裃姿でも、その材質によって身分差が示されています。
⑭「大踊(おおおどり)」は、「大姫は女仕立で、赤い振袖で上着は晒して、麻の片擂(かすり)で、水のうずらまき模様りの袖留め。帯は女物で花笠を被る。

綾子踊り4
綾子踊の小踊

  以上からは、衣装や笠については、その役割に身分差があって、細かく「差別化」されていたことが分かります。戦後の綾子踊り復活に関わった人たちは、尾﨑清甫の残した記録を参考にしながら、意図をくみ取って、できるだけ見える形で残してきたのだと思います。
今回は、綾子踊の団扇・花笠・衣装についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


まんのう町図書館の郷土史講座で綾子踊りについて、お話ししました。その時のことを史料と共にアップしておきます。
綾子踊り 図書館郷土史講座

佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。

ユネスコ登録書
ユネスコ無形文化遺産登録書

ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●
convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。

風流とは?
「ふうりゅう」と「ふりゅう」の違いは?

「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。

上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀


 たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、
人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。

やすらい踊りの風流笠
やすらい踊りの風流笠


中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河大念仏の大うちわ

奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。

文化庁の風流踊りのとらえ方

文化庁の「風流踊」のとらえ方は?
華やかな色や人目を引くためためにの衣装や色、持ち物の大型化などが、風流(ふりゅう)化で、「かぶく」と重なり会う部分があるようです。一方、わび・さびとは対局にあったようです。歌舞伎や能・狂言などは舞台の上がり、世襲化・専業化されることで洗練化されていきます。一方、風流踊りは民衆の手に留まり続けした。人々の雨乞いや先祖供養などのいろいろな願いを込めて踊られるものを、一括して「風流踊り」としてユネスコ登録したようです。

雨乞い踊りから風流踊りへ
雨乞い踊から風流踊へ

綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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綾子踊公開公演の中止について
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。


IMG_6568佐文公民館

       佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
IMG_6569佐文公民館

日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)
場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)
日 程  9:00  受付開始
   10:00  公民館前出発 加茂神社への入庭
   10:15  保存会長による由来口上
   10:20  棒・薙刀問答
   10:30  芸司口上 踊り開始
  ①水の踊 ②四国船 ③綾子踊  ④小鼓
 小休止
  ⑤花籠  ⑥鳥籠  ⑦たま坂  ⑧六蝶子(ちょうし)
 小休止                   
  ⑨京絹  ⑩塩飽船  ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
暑さ対策のために、今年は2回の休憩をとって、3回に分けて踊ります。11:40頃 終了予定 その後出演者の記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているともされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「神髄」かもしれません。「中世を感じたい人」や時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。

① 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。(農道駐車となります。)
② 先着100名の方に、以下のうちわかクリアケースを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

P1270160
綾子踊のうちわ(4種類)

香川県ではじめて電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)によって設立された高松電灯でした。
髙松電灯社長 牛窪求馬(うしくぼ もとめ) と副社長・松本千太郎

 髙松電灯について、以前にお話したことをまとめておきます。
①明治28(1895)年2月に設立認可、4月に設立、11月3日に試点灯、同月7日開業開始
②当初資本金は5万円で、後に8万円に増額
③社長は髙松藩家老の息子・牛窪求馬、専務は松本千太郎
④高松市内の内町に本社と火力発電所を設置
⑤汽圧80ポンドのランカシャーボイラー2基と、不凝縮式横置単笛往復機関75馬力2基によって、単相交流2線式50サイクル、1100Vスプリング付回転電機子型50 kWの発電機2台で、高圧1000V、低圧50Vの配電で電灯供給
⑥開業当時、供給戸数は294戸、取付灯数は659灯
⑦高松市内の中心部にある官公庁や会社、商店などが対象で、供給エリアは狭かった。 

設立されたばかりの明治期の四国の電灯会社の営業状況を見ておきましょう。
明治期四国の電気事業経営状況
ここからは次のような事が読み取れます。
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。
②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。
③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
こうして見ると、明治末の段階では、電線延長などの運営経費は増えているのに、契約者数はさほど増えていなかったことが見えてきます。出来たばかりの電灯会社は、急速な成長はなく、厳しい船出で「魅力ある投資先」ではなかったことを押さえておきます。

黎明期の電灯会社
黎明期の電灯(気)会社の状況
髙松電灯設立の動きを受けて、旧丸亀藩でも電灯会社の設立の動きが出てきます。 
中讃では電灯(力)会社の設立申請が、次のふたつから出されます。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体 
②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
①の景山甚右衛門は、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家がの連合です。こちらの方が有利だと思うのですが、国の認可が下りたのは、なぜか②の中讃名望家連合でした。この発起人の中心人物のひとりが増田穣三でした。

大久保諶之丞と彦三郎
大久保諶之丞(右)と弟の彦三郎(左)
当時の会社設立への動きがどんなものだったのかを知る史料は、私の手元にはありません。そこで、約10年前の四国新道建設に向けて地元の意見をとりまとめた大久保諶之丞の動きを参考にしたいと思います。彼が残した日記から、明治17(1884)年11月2日~15日を動きを見てみましょう。この時期は、四国新道のルート決定が行われる頃で、四国新道が通過する地元有力者の意見集約が求められた時期になります。
大久保諶之丞の新道誘致運動
大久保諶之丞の新道誘致をめぐる動き(明治17年11月)

大久保諶之丞が連日のように中讃各地を廻り、有志宅を訪問していること分かります。訪問先を見ると
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)
12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人 
14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)
15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
ここからは、地域の有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。その手順は、
①最初に、琴平の津村・榎井の長谷川佐太郎、多度津の景山甚右衛門に会って、了承をとりつける。
②次に各地区の要人宅を訪ねて協力依頼。
③その結果を報告するために再度、14日に景山甚右衛門・15日に長谷川佐太郎に訪ねている。ここからは、景山甚右衛門と長谷川佐太郎を、担ぎ上げようとしていたことがうかがえます。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で、大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。案内はがきが発送され、集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。
 案内状には、豊田元良の名前がありません。しかし、案内状をもらった人たちは、大久保諶之丞の背後には豊田元良がいることは誰もが分かっていたはずです。事前に、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。そして11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されます。このような形で、四国新道建設の請願運動は進められています。
讃岐鉄道や西讃電灯の設立に向けた動きも、地域の要人の自宅を訪ね歩いて、協力と出資をもとめるという形が取られたようです。
 それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
そして、次のように創立総会で決定され操業に向けて歩み始めます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。
資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓 
募集株数  二、四〇〇株
払込期限  明治31年5月5日
取締役社長 樋口 治実
専務取締役 赤尾 勘大
取 締 役 山地 善吉外三名
監 査 役 山地 健雄 富山民二郎
支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)
明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願
明治31年9月  西讃電灯株式会社創立。
明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
 ところがこれからが大変でした。
 高松電灯は、明治28(1895)年2月に設立認可で、4月に設立、11月3日に試点灯、11月7日開業開始で、設立認可から営業開始まで9ヶ月の短期間でこぎつけています。ところが西讃電灯は、認可から4年が経っても営業開始にたどり着けないありさました。認可から営業開始までできるだけ短期間に行うのが経営者の腕の見せ所です。その期待に応えられない経営者に対して、株主達は不満の声を上げ始めます。
西讃電灯の発起人と役員を見ておきましょう。

増田穣三と電灯会社4
西讃電灯の発起人と役員(村井信之氏作成)
上表からは、次のような事が読み取れます。

①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。

②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である

③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している

④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。

⑤そのために社長が短期間で交代している

⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。

⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。

⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。

営業開始の妨げとなっていたのは、何だったのでしょうか?

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ
電灯会社営業開始の遅れの要因
明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  には、問題点として上のようなことが挙げられています。第1には、設立資金が期限までにおもうように集まらなかったことです。そのために発注されていた発電機の納入ができず、再発注に時間が取られます。発注先が確定し、設計図が送られてくるまでは発電所にも本格的な着工はできません。また、電柱を発注しても、それを建てるための土地買収や登記までプロセスが考えられていなかったようです。
 設立当初の社長や経営者達は、他県の人物で香川県にはやって来なかった人もいるようです。技術者たちも頻繁に交代しています。責任ある経営が行えていなかったということでしょう。つまりは、素人集団による設立準備作業だったようです。そのため創業開始は、延べ延べになり、株主達の不満の声は、出資を募った増田穣三に向けられます。増田穣三は、当時は七箇村村長と県会議員を兼ねる立場でした。株主達からは「あんたが責任を持ってやれ」という声が沸き上がります。このような声に押されて、増田穣三が第4代社長に就任し開業を目指すことになります。これが明治35(1902)年8月のことでした。
このような事情を 「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」(明治37年刊行)は、次のように記します。

  入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや

 意訳変換しておくと
  電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。

増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
 増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、
②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電
③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
この時に金倉寺に増田穣三によって建設された本社と発電所を見ておきましょう。
高松発電所に続いて香川で2番目に建設された金倉寺火力発電所は、金蔵寺駅北側の東隣に隣接して建設されたようです。明治40(1907)年頃の様子が、次のように記されています。
金倉寺発電所(讃岐電気)
金倉寺発電所(西讃電灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。

 この記録と絵からは、次のような発電行程が推定できます。

金倉寺発電所2
金倉寺発電所の発電行程

讃岐電気本社・発電所2
讃岐電灯の本社
どうして多度津や丸亀でなく金蔵寺に発電所を建設したのでしょうか?それは石炭と水の確保にあったようです。

金倉寺発電所立地条件
金倉寺火力発電所の立地条件

石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
 火力発電は、石炭で水を熱して蒸気力でタービンを廻します。そのため良質の水(軟水)が大量に必要となります。金倉寺周辺は、旧金倉川の河床跡がいくつもあり、地下水は豊富です。金倉寺駅の西1㎞には、以前にお話しした永井の出水があります。金倉寺駅周辺も、掘れば良質な湧き水が得られるとを、人々は知っていました。

文中の「夕方になると煙突から黒い煙が出る」というのは、当時の電力供給は電灯だけで、動力用はありません。そのため社名も「高松電灯」や「西讃電灯」でした。夕方になって暗くなると石炭を燃やして、送電していたのです。つまり、明るい昼間には操業していなかったのです。一般家庭での電気料金は月1円40銭ですの、現在に換算すると数万円にもなったようです。そのため庶民にはほ程遠く、電気需要が伸びませんでした。そのため架線延長などの設備投資を行っても契約戸数は増えず、経営は苦しく赤字が累積していくことになります。
設立当初の収支決算は次の通りです。

電灯会社の収支決算 開業年

 収入が支出の三倍を超える大赤字です。
これに対して増田穣三の経営方針は「未来のためへの積極的投資」でした。
 日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が発注されます。これに対して、増田穣三は「お国のために」と採算度外視で短期間で完成させ、善通寺方面への送電を開始します。さらに翌年の明治38(1905)年には琴平への送電開始し、電力供給不足になると150㌗発電機を増設し、210㌗体制にするなど設備投資を積極的に行います。
明治の石炭価格水表
明治の石炭価格推移
 しかし、待っていたのは日露戦争後の石炭価格の高騰で、これが火力発電所の操業を圧迫するようになります。さらにこれに追い打ちをかけたのが日露戦争後の恐慌に続く慢性的な不況でした。会社の営業成績は思うように伸びず、設立以来一度も配当金が出せないままで赤字総額は8万円を越えます。
 ここに来て「未来のための積極投資」を掲げて損益額を増大させる増田穣三の経営方針に対する危機感と不安が株主たちから高まり、退陣要求へとつながります。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
電灯会社の経営戦略をめぐる対立

こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
増田穣三の責任の取り方

そして、2ヶ月後には七箇村村長を辞任し、次の県議会選挙には出馬しませんでした。私は、これは増田穣三なりの責任の取り方であったのではないかと思います。
 「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。    
    電灯会社設立に向けて、投資を呼びかけたのは増田穣三です。「資本減少」という荒治療は、出資者である名望家の増田穣三に対する信用を大きく傷つける結果となります。穣三自身も責任を痛感していたはずです。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないかと私は考えています。これが政界からの引退のようにも思えるのですが、5年後には衆議院議員に出馬し当選します。ちなみに、景山甚右衛門はこの時に地盤を三土忠三に譲って代議士を引退します。そして四国水力発電所の三繩発電所の建設に邁進していくことになります。
増田穣三・景山甚右衛門比較年表 後半

増田穣三と景山甚右衛門の年譜(村井信之氏作成)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
関連記事

増田穣三と電灯会社設立の関係年表
1894 明治27年 増田穣三が七箇村助役就任(36歳)→M30年まで
1895 明治28年 近藤秀太郎や増田穣三らによって電灯会社設立計画が進む。
1897 明治30年 西讃電灯会社(資本金12万円)設立 → 開業に手間取る
1899 明治32年 3・7 増田穣三が県会議員に初当選(41歳)
 4月26日 増田穣三が七箇村長に就任(41歳)→M39年まで7年
1900 明治33年10月21日 経営刷新のため臨時株主総会において、役員の総改選
1901 明治34年8月 増田穣三が讃岐電気株式会社の第4代社長に就任 
1902 明治35年7月30日 讃岐電気株式会社が電灯営業を開始(設立から6年目)
11師団設立等で電力需要は増加するも設備投資の増大等で経営は火の車。設立以来10年間無配。
   
1903 明治36 増田一良 黒川橋の東に八重山銀行設立。出資金5000円
1904  明治37年7月 増田穣三が株主総会で決算報告。野心的な拡張路線で大幅欠損
   9月 讃岐電気が善通寺市への送電開始。翌38年8月には琴平町にも送電開始。
1905 明治38年  日露戦争後の不況拡大
   8月 讃岐電気が琴平への送電開始
      電力供給不足のため150㌗発電機増設。新設備投資が経営を圧迫
  11月1日 県会議長に増田穣三選任(~M40年9月)(43歳)
1906 明治39年1月 増田穣三が讃岐電気社長を辞任
   3月 増田穣三 七箇村村長退任    
1907  9月25日 第3回県会議員選挙に増田穣三は出馬せず 
   10月7日 臨時県議会開催 蓮井藤吉新議長就任  増田穣三県会議長退任
    9月 讃岐電気軌道株式会社設立。発起人に、増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
1912(明治45・大正1年)5月 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 景山甚右衛門は、選挙地盤を三土忠造に譲って政界引退


DSC00800景山甚右衛門
景山甚右衛門
多度津の景山甚右衛門が「鉄道・銀行・電力」などの近代産業に、どのように参入していったのかに興味があります。各地方には「○○の渋沢栄一」と称される人物が現れ、近代産業を地域に根付かせていきます。「香川県の渋沢栄一」といえば、多度津の景山甚右衛門になるようです。彼は、次のような基幹産業の設立者です。
鉄道  讃岐鉄道 → JR四国
電力  四国水力発電株式会社(四水) → 四国電力
銀行  多度津銀行
明治の「企業者」は、銀行の設立者であり、鉄道の発起・創設者でもあることが多いようですが、景山甚右衛門もこの例に当てはまります。今回は景山甚右衛門以前の、水力発電開発について見ていくことにします。テキストは「近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展  
 四国電力事業史319P」です。

明治の電気(電灯)事業は、火力発電による電灯への電力供給事業としてスタートします。
電気エネルギー(明治15年)▷銀座の電燈の初点燈 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives
銀座のアーク灯(明治15年)
初めて電灯がともされたのは明治11(1879)年、虎ノ門の工部大学校でのエアトン教授によるアーク灯の点灯です。エアトン教授の指導を受けた藤岡市助が中心となって、大倉喜八郎や渋沢栄一、矢島作郎らの協力を得て電力会社の創立準備が始まったのは明治15年です。同年11月には、宣伝のため銀座で2000燭光のアーク灯をつけて都民を驚かせます。しかし、実際に操業が始まるのは4年後の明治19年で、翌年に本格的な電灯供給という手順になります。東京での動きに刺激を受けて、北海道から九州まで全国にわたって、30社を超える電灯会社の設立が10年間で行われます。
明治30年代初め頃の電灯会社の経営規模と経営状況を見ておきましょう。
明治30年代初め頃の電灯会社の経営規模

この上表からは、次のようなことが読み取れます。
①明治30年代には、事業数で41社、払込資本金の総額で550万円に達し、供給戸数は約3万戸、取付灯数は約14万灯を数えている。
②電力供給戸数と取付灯数の10年間の伸び率は、戸数約360倍、灯数で100倍に達している。

もう少し詳しい状況を表2-2で見ておきましょう。
全国電灯会社状況(明治29年)

③ここからは、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6社が全国の取付灯数のうちの約75%を占めていたことが分かります。そういう意味では、明治20年代は、地方への電灯事業はまだまだだったようです。
上表の下から8番目に高松電灯の名前が見えます。
高松電灯は明治28年11月3日に、試験点灯を行っています。これが香川の電気の夜明けになるようです。初代社長の牛窪求馬(うしくぼもとめ)は、高松藩の家老職の生まれで、「ハイカラだんな」と呼ばれたような人でした。高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着たと言われる人物です。
 求馬は明治26年、数え年31歳の時に、発起人となって電気事業の創設を志して資金集めに東奔西走します。しかし、思ったように資本は集まらず頓挫寸前になります。ここで救世主となったのが、旧藩主の松平家の殿様でした。こうして資本金5万円で、明治28年に高松電灯は発足します。本社事務所と石炭火力発電所を市内寿町(現在の四国電力本店の西で日本銀行高松支店のあたり)におき、50㌗発電機2台でスタート。当初の送電エリアは狭く、丸亀町、兵庫町、片原町という高松市の中心部だけで、電灯を取りつけたのは294戸、灯数は657灯でした。
電灯には半夜灯と終夜灯があり、半夜灯は日没から午後10時まで、終夜灯は朝までついていました。一ヶ月の点灯料(電気料金)は、10燭光(10W程度)の半夜灯で90銭、終夜灯は1円26銭でした。当時の公務員の初任給が10円程度の時代ですから非常に高い料金だったことになります。
 当然、お客さんは、商家や官庁などがほとんどで、その上、人びとは「エリキに触れると死んでしまう」などといってこわがったので、なかなか普及しなかったようです。
 電灯会社設立当初は、発電所から近いエリアの市街地に電灯を灯すことが業務で、その対象は公官庁や高所得者層でした。
そのため小規模で建設費が安い火力発電所を都市周辺に設置することが一般的でした。これに対して、当時の水力発電は、送電技術が未発達で近距離送電しかできません。水力発電が行える所は河川流域上部に限られますが、そこは高い料金の照明用電灯要家の数も少なく、事業としては成り立ちません。
都市近郊に最初の水力発電事業として完成したのが、京都市の蹴上発電所です。
日本初の事業用水力発電所を見に行こう! 関電・蹴上発電所が見学会 - 電気新聞ウェブサイト
京都市の蹴上発電所
この電力開発は、もともとは琵琶湖の水を利用し、疏水によって京都への水運の便、水車動力による工場建設、上下水道、農業用水等の総合的な開発計画の一環でした。ところが工事の途中で、アメリカの水力発電の例を参考にして、水車による水力利用計画を発電に変えることになります。その結果、工事計画を一部変更して水力発電計画を加え、明治24年には送電を開始します。

京都市の蹴上発電所2
               蹴上発電所

最初は、120馬力のペルトン式水車2基で、エジソン型90馬力2基の発電機を稼動して、直流550Vの発電を行い、2 km以内の地域に動力用に供給します。翌年の明治25年末には、交流式1000V90馬力の発電機の増設によって、遠距離送電も可能となります。そこで、京都電灯への卸売供給を始めるとともに、2年後には一般電灯供給も行うようになります。
我が国における本格的な水力発電所建設は、日清戦争後の明治30年代に入ってからのようです。
その理由は、
①送電距離の延長という技術問題が解決したこと
②日清戦争後の石炭価格の上昇で電カコストが高騰し、水力発電への転換が求められたこと
②の石炭価格の上昇を、表2-3で見ておきましょう。
明治の石炭価格水表
この表からは明治24年から31年までの7年間に石炭価格は約2倍になっていることが分かります。このような発電コストの上昇は、火力発電事業の経営状態を大きく圧迫します。表2-4の燃料費の占める割合を見ると
①横浜共同電灯 24%から49%へ
②名古屋電灯  12%から44%へ
と、約4年の間に2~4倍に増大し、燃料(石炭)費が半分近くに達して利益率が挙がりません。そういう中で、全国の電灯会社の経営者が注目したのが、先にも見た京都の蹴上水力発電所です。これが目指すべきモデルケースになっていきます。しかし、人口密度の高い都市の近くに、水力発電所を建設するのは無理だったことは先ほど見たとおりです。
その壁を最初に乗り越えたのが、渋沢栄一を会長として明治30年に設立された広島水力電気です。

広島県広発電所
広発電所
広島水力電気は、広島市と我が国最大の海軍基地のある呉の両市に営業エリアを持っていました。そこで呉の近くの黒瀬川の滝を電源として、広発電所を建設して、発電した電力は変圧器によって11、000Vに電圧を上げ、送電線路で呉市経由で広島までの送電を開始します。この11、000Vの高圧送電線は、わが国では初めてのもので、これが以後の電気事業のモデルになっていきます。この成功を支えたのは藤岡市功などの技術者たちで、すべて外国製の優れた発電設備を輸入しています。
 日露戦争後の明治30年代後半になると、産業資本の確立期を迎えてた産業界は、安くて豊富な新しい動力源を求めるようになります。
すでに先進国では、工業原動力は蒸気力から電力へ移っていました。しかし、火力発電では低価格で電力を供給することは困難でした。そのため、コストの安い水力発電にる電力供給が求められるようになります。 
 わが国の水力発電開発の先陣は、東京電灯による桂川水系開発です。
桂川の電力開発
日露戦争の戦時景気による経済の拡大は、電力需要を増大させます。いままでの火力発電では賄いきれない需要が生まれます。それまでの電灯照明中心から、工場原動力に対する需要への転換が急速に進み、昼夜間を通じて電力供給が求められるようになります。そこで東京電力は、当初予定した千住火力発電所の規模を半減し、山梨県桂川水系の駒橋発電所から15000㌗を55000Vの高圧で83㎞隔てた東京へ送電することに成功します。
明治40年(1907)12月20日に運転開始した駒橋発電所(15,000KW)から東京の早稲田変電所までの約80Kmを高圧送電した「55KV駒橋線(2回線)」です。これが大都市圏への初の送電線となります。

                  鶴川横断地点の鉄塔
この鉄塔は、アメリカからの輸入品です。どの鉄塔もパネル割が同一で、鉄塔高も同じなので、同一仕様のものを22基輸入したものと研究者は指摘します。アメリカ西海岸のカリフォルニア州では、木柱線路の中の長径間箇所用に、この鉄塔を量産していて、それをそのまま輸入して使用したようです。

 この長距離送電の成功を確信した各地の電気事業者や起業者は、積極的に電力消費地の遠隔地域での発電所建設に取り組み始めます。これが、後の大規模水力発電開発へとつながります。
明治の大規模水力発電所一覧
明治期から大正期の大規模数力発一覧一覧
こうして水力発電量は急速に増加し、大正元年には23、3万kWと総発電能力の半分を占めるようになります。高圧送電は7万Vに達し、送電距離も100 kmを超えるようになります。これらの技術革新を受けて、四水も吉野川上流での水力発電事業に乗り出して行くことになります。今回はここまです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319

      
中世以降になると、包丁諸流が奥義を書き伝えた料理伝書を残すようになります。伝書は料理の式法を伝えるもので、その読者は一部の料理専門家など少数の人々でした。また、伝書にはいろいろな故事引用が多く、神話、神道、陰陽道、儒教、仏教などによって権威付けがなされていることがその特徴とされます。その中で、魚介類の格付け(ランキング表)が登場してきます。
 鎌倉時代の『厨事類記 第□』(1295年)には「生物 鯉 鯛 鮭 鱒 雉子 成止鮭絆供幅雉為佳例。」とあり、鯛と鯉が並んでランクされています。また「徒然卓』(第118段)では、鯉が次のように記されています。

「鯉ばかりこそ、御前にても切らるヽものなれば、やんごとなき魚なり」

ここには鯉が「やんごとなき魚」として特別の魚とされ、14世紀初頭の魚ランキングでは、最上位の魚として位置づけられていたことが分かります。それでは室町期の流派相伝書に、鯉がどのように記されているのかを見ていくことにします。
① 『四條流庖丁書』(推定1489)年 
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る
「一美物上下之事。上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但定リテ雉定事也。河ノ物ヲ中二致タレ下モ、鯉二上ラスル魚ナシ 乍去鯨ハ鯉ヨリモ先二出シテモ不苦。其外ハ鯉ヲ上テ可置也。」

意訳変換しておくと
「美物のランキングについては、「上」は海の物、「中」は河ノ物、「下」は山ノ物とする。但し、鯉は「河ノ物」ではあるが、これより上位の魚はない。但し、鯨は鯉よりも先にだしても問題はない。要は鯉を最上に置くことである。」


「一美物ヲ存テ可出事 可参次第ハビブツノ位ニヨリティ出也。魚ナラバ、鯉ヲ一番二可出り其後鯛ナ下可出。海ノモノナラバ、 一番二鯨可出也。」

意訳変換しておくと
「美物を出す順番は、そのランキングに従うこと。魚ならば、鯉を一番に出す。その後に鯛などを出すべきである。海のものならば、一番に鯨を出すべし。」
「物一別料理申ハ鯉卜心得タラムガ尤可然也。里魚ヨリ料理ハ始リタル也。蒲鉾ナ下ニモ鯉ニテ存タルコソ、本説可成也。可秘々々トム云々」
 
意訳変換しておくと
特別な料理といえば、鯉料理と心得るべし。里魚から料理は始めること。蒲鉾などにも鯉を使うことが本道である。

以上は、鯉優位が明文化された初見文書のようです。
「料理卜申スハ鯉卜心得タラムガ」「里魚(鯉)ヨリ料理ハ始リタル也」などからは、鯉が最上位にランキングされていたことが分かります。また「ビブツ(美物)ノ位」とあるので、格付けの存在も明らかです。
素材に手を触れずに調理する「大草流包丁式」 - YouTube
 大草流包丁式の鯉さばき

 ①『大草殿より相伝之聞古』(推定1535~73)
「一式三献肴之事 本は鯉たるべし 鯉のなき時は名吉たるべし。右のふたつなき時は、鯛もよく候」

意訳変換しておくと
「一式三献の肴について、もともとは鯉であるべきだ。鯉が手に入らないときに名吉(なよし:ボラの幼魚)にすること。このふたつがない時には、鯛でもよい。

一式三献とは出陣の時、打ちあわび、勝ち栗、昆布の三品を肴に酒を三度づつ飲みほす儀式のことで、これを『三献の儀(さんこんのぎ)』と呼びました。以後は三献が武士の出陣・婚礼・式典・接待宴席などで重要な儀式となります。そこでは使われる魚のランキングは「鯉 → ボラの幼魚 → 鯛」の順になっています。
 
②「大草家料理吉」推定(1573~1643年)
「式鯉二切刀曲四十四在之。式草鯉三十八。行鯉ニ三十四刀也.(下略)」

  ③ 『庖丁聞吉』推定1540~1610)
「出門に用る魚、鯛、鯉、鮒、鮑、かつほ、数の子、雉子(きじ)、鶴、雁の類を第一とす。」
「一、三鳥と言は、鶴、雉子、雁を云也 此作法にて餘鳥をも切る也」
「一、五魚と言は、鯛、鯉、鱸、王餘魚(カレイ)をいふ 此作法にて餘の魚をも切る也。」
ここでは、鯉は五魚並列に位置づけられています。以上からも室町から江戸時代初期までは、魚介類の最上級は鯉であったことが分かります。
古文書 鶴庖丁之大事-魚の部・鳥の包丁の事 絵入1枚モノ 明治頃 : 古書 古群洞 kogundou60@me.com  検索窓は右側中央にあります。検索文字列は左詰めで検索して下さい。(文字列の初めに空白があると検索出来ません)
鶴のさばき方
次に 近世の料理伝書の鯉のランキングを見ていくことにします。
  ①『庖丁故実之書 乾坤巻』成立年不明、伝授年嘉永五年(1852)
「河魚にも鯉を第一之本とセリ」
「水神を祭可申時、鯉・鱸(すずき)・鯛、何れにても祭り可申事同然可成哉、(中略)、鯉の事欺、尤本成べし、鯛・鱸にてハ不可然、但鱸之事は河鱸にてハ苦しからすや、海鱸にてハ不可然(下略)」
「但分て鳥と云へきハ雉子之事なるべし」
意訳変換しておくと
「河魚ではあるが鯉を第一とすること。」
「水神を祭る時に、鯉・鱸(すずき)・鯛のどれにでもかまわないと言う者もいるが、(中略)、鯉を使うこと、鯛・鱸は相応しくない。但し、鱸は河鱸は可だが、海鱸は不可である(下略)」
「但し、鳥と云へば雉子と心得ること」

  ② 『職掌包丁刀註解』、伝授年嘉水五年(1852年)
「包丁手数職掌目録 右三十六数は表也 (中略) 右之外三拾六手之鯉数を合て目録ヲ定、表裏の品ヲ定て習之也」
「一夫包丁は鯉を以テ源トス、(中略)、凡四條家職掌庖丁ハ鯉を第一トス、雑魚雑鳥さまざまに、猶他流に作意して切形手数難有卜、皆是後人の作意ニよつてなすもの也、然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、是又従古包丁有し事上、(下略)」
「一夫包丁ハ鯉ヲ源トス、鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也(下略)」
「鯛 一延喜式二此魚を平魚卜云、国土平安の心ヲ取捨日本各々祝儀二も第一賞翫二用之也」
  意訳変換しておくと
「包丁手数職掌目録 これは36六数を表とする (中略) この外に36手の鯉数を合せて目録を定めています。表裏の品を定めてこれを習う」
「包丁は、鯉が源である。(中略)、四條家の職掌庖丁は、鯉を第一とする。雑魚雑鳥がさまざまに、他流では用いられ、形や技量が生まれてきたが、これは皆後世の作意である。しかし、鱸・真那鰹(なまがつお)・鯛・雉子・鶴・雁は格別の賞翫である。これは伝統ある包丁の道でもある。
(下略)」
「包丁は鯉が源である、鯉の鱗は、長龍門を登った徳のある魚である(下略)」
「鯛については、延喜式でこの魚を平魚と呼んで、国土平安の心を持ち、日本のさまざまな祝儀でも第一の賞翫として用いられる。

  これらの伝書は嘉永4年から6年にかけて、飯尾宇八郎より甲斐芳介へ伝授されたものです。この中で「職掌庖丁刀註解』は、何度も鯉を「第一の魚」としています。鯉を第一としつつ「然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、」と鯛なども同列に置きます。さらに、鯛を「祝儀二も第一賞翫二用之也」と祝儀の魚と位置づけるようになります。つまり、鯉の絶対的な優位性は見られなくなり、鯛に並ばれている感じがします。

④ 『料理切方秘伝抄」万治二年(1659)以前成立・四条家由部流の秘伝書     
「一鯛十枚 鮒十枚(喉・唯)何ぞ名魚はこんの字を人て書物也」
「二 唯鯉 一二つ鯉は四条家の秘伝也」
この書も、鯉の鱗の数を切り方の秘伝の数になぞった「三十六之鯉の秘伝」と記されていて、鯉優位を示します。 『料理切方秘伝抄」については、研究者は次のように評します。

「本書は、専門家の包丁人ばかりでなく、公家、武家また裕福な町人、上級文化人の間で読まれたのであろうか、その(端本)流布状態は、当初筆者が考えていた以上に広範囲に及んでいた」

ここからは、中世においては一部特定の人々のものであった伝書が広く流布されていたことを指摘します。

鳥魚料理指南
鳥魚料理指南
⑤『割烹調味抄』亨和2年(1803)以降成立。
ここには250種の料理の製法が載せられていますが、鯉の優位を説く記述はありません。その要因として、「伝書の内容の改変」があったことを研究者は指摘します。
この他にも、近世後半になると次のように鯉に対する否定的な評価が増えてきます。加賀藩四條家薗部流の料理人舟本家の近世成立の「料理無言抄」(享保14年(1729)
「鯉の鮨賞翫ならず。認むべからず」「鯉鮪賞翫ならず。」

「式正膳部集解』、安永5年(1776)成立
「小川たゝきの事 鯉は賞翫なるを以饗応にかくべからず」

御料理調進方』、慶応3年(1866)以前成立)
「塩鯉。江戸にては年頭の進物にする。其外一切賞翫ならず」

以上からは鯉料理に対する否定的な見方が拡がっていたことがうかがえます。
中世に鯉が優位であったというのは本当なのでしょうか?
 将軍御成の献立から供応の場における鯉と鯛の立場を研究者は比較します。
永禄4年(1561)、将軍足利義輝三好亭御成の献立「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」の鯉と鯛の使用状況は、鯉の「こい 三膳」の一回だけに対し、鯛は「をき鯛・式三献」「鯛・二献」「たい・二膳」「たいの子・一七献」の四回です。献立には焼物、和交、鮨など調理法だけの記載もあって、全容は分かりません。
 永禄11年(1568)将軍足利義明朝倉亭御成の献立「朝倉亭御成記」でも、鯉は「鯉・三献」「汁鯉・二膳」の二回ですが、鯛は「汁鯛・四膳」「鯛の子・九献」「赤鯛・九献」の三回となっています。ここからは、使用頻度は鯛の方が頻度が高く、鯉の優位性は見られません。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)、茶の湯隆盛のなかで催された『神離宗湛日記献立 上下』の会席での鯉と鯛を比較します。
 使用回数をみると、鯛が64回に対して、鯉はわずか7回です。太閤はじめ諸大名、利体その他歴々たる茶人が名を連ねる茶事は、会席としては同時代の最高の水準と考えられます。このなかで鯉が生物料理だけに用いられ、煮物や焼物には使用されていません。つまり、安土・桃山時代にの上層会席では、鯛が鯉を圧倒するようになっていたと言えそうです。
 この背景には「魚のランキング」よりも、「調理の適正」が魚類選択の基準になっていたことがうかがえます。あるいは魚の格付けそのものが考慮されていない可能性があります。
つぎに、上層間の美物贈答を見ておきましょう。
1430年の足利義教から貞成親王への美物贈答(五回)の魚介類には、鯛4回(25尾と2懸)、鰹(8喉)、以下、鱈、鰆、鱒、鰯、いるか、大蟹、海老、鮑、牡蛎、ばい、栄蝶、海月などです。この中で鯛と鯉を比較すると、鯛がやや多くなっています。
 文明5年(1483)、伊勢貞陸から足利義政への献上品の魚介類では、鯛25回(103尾と2折、干鯛2折)、鯉5国(11喉と2折)、以下、蛸(7回)、鰐(6回)、鳥賊(6日)、海月(4回)、鱸(3回)などが頻度が多い魚です。
この中でも鯛は、回数、数量ともに突出しています。鯛は京都の地理的条件から入手困難だったとよく言われますが、上層階層には地方から毎月多くの鯛が献上されていたことが分かります。
 「山科家の日記から見た15世紀の魚介類の供給・消費」には、
「山科家礼記」などの5つの史料に出てくるの魚類消費の調査報告書です。
そこには、淡水魚介類と海水魚介類の比較を次のように報告しています。
「教言卿記」は淡水魚介類のべ30件、海水魚介類59件
「山科家礼記』は淡水魚介類のべ194件、海水魚介類492件、
「言同国卿記」は淡水魚介類のベ132件、海水魚介類174件
これを見ると、海水魚介類の消費量の方が淡水魚介類に比べて多いようです。また、鯉と鯛の件数比較では、
「教言卿記」は、鯉6件、鯛25件
「山科家礼記」は、鯉43件、鯛155件
「言国卿記」は、鯉19件、鯛84件
で、どれも鯛が鯉を凌駕しています。鯛は全ての魚介類のなかで最も多く出てきます。ちなみに淡水魚だけに限って多い順に並べてみると
「山科家礼記」では、鮎64件、鮒58件、鯉43件
「言国卿記」では、鮎68件、鮒30件、鯉19件
ここでは鯉は淡水魚三種のなかの下位になっています。
これについて研究者は、次のように指摘します。

「中世社会においては魚介類は儀礼的、視党的な要素の強い宮中の行事食や包丁道の対象としても用いられており、これらの記述からは中世後期において魚介類相互間に人々が設定した一種の秩序意識、鯉を頂点とする秩序意識をも看取することができる」

「(しかし)山科家の日記類のなかには、こうした秩序意識の理解に直接資する記事は少なく、包丁書などで述べられる事柄と交差する点が見いだし難い」

「それぞれの魚介類の記事件数のみを物差しにすれば、鯉よりむしろ鯛の方が贈答されることが多く、重視されているように思われる」

「贈答や貫納の場面では鯛の需要が他の魚種を引き離し食物儀礼の秩序とは異なる構図がみえて興味深い,」

「ここからは「儀礼魚」としての役割が鯉から鯛へと重心移動しつつあった15世紀の現実世界を魚類記録は映し出してくれる」

つまり、従来の説では料理伝書の記述に基づいて「中世における鯉優位」が言われてきましたが、これは伝書、儀礼の場の中だけのことで、一般的な食生活の傾向とは乖離があったということになります。

以上、中世、近世の料理伝書の魚類の格付けをまとめておきます。
①中世の料理伝書には鯉優位のランキングが示されていること
②しかし、これは上層の供応、贈答などの実際の場には反映しておらず伝書の中に留まること
③伝書における中世の鯉優位は近世にも引き継がれるが、出版された伝書が改変が推定される伝書には、中世と異なる鯉への否定的な評価が見られること

それでは中世の鯉優位は、どのように形作られたのでしょうか
通説には伝書の権威付けとして引用されるのが次の中国の故事です。
「龍門(前略)此之龍は出門・津門・龍門とて三段の龍也、(中略)三月三日に魚此龍の下ニ集り登り得て、桃花の水を呑ば龍に化すと云う事あり」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也、毎鱗黒之点有之、鱗数片面三拾六枚有、依之衣共鱗数三拾六手の数ヲ定メ給ふ卜言ふなり」(『職掌包丁刀注解』)
 
意訳変換しておくと
「(黄河の)龍門(前略)の滝は、出門・津門・龍門の三段に流れ落ちる。(中略)三月三日に魚たちは、この滝の下に集まって、この滝を登り得た魚だけが、桃花の水を呑んで龍に変身すると伝えられる。」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉は龍門の滝を昇進した有徳の魚である。鱗ごとに黒い点があり、鱗数は片面で36枚ある。そのため包丁人は伝書に鱗数と同じ36手の数を定めている。(『職掌包丁刀注解』)

 ここからも「鯉の優位」を説く中世の伝書は、包丁家などに伝わる儀礼的な場面を想定して、鯉を「出世魚=吉兆魚」としていたことが推察できます。「徒然草」の「鯉ばかりこそ、御前にても明らるゝものなれば、やんごとなき魚なり」というのは、包丁人たちによって形成された評価と研究者は考えています。
今日はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」

 江戸時代後半になって婚礼宴会で使用頻度が高くなるのが烏賊(いか)、低くなるのが蛸(たこ)のようです。どうして、烏賊と蛸に「格差」が生じるようになったのでしょうか? 今回は、この疑問を追いかけることにします。テキストは、「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

烏賊と蛸は、近世の料理書などにもよく出てくる魚介類です。
料理物語 - Pasania - パセミヤ

最古の料理専門書とされる『料理物語』にも次のように料理法が記されます。
「たこは 桜いり するがに なます かまぼこ 此外色々 同いひだこ すいもの 同くもだこ さかな」

「烏賊は うのはな なます さしみ なます かまぼこ に(煮)物 青あへ 其外いろいろ」

『古今料理集』にも、烏賊、蛸のいろいろな調理法が紹介されていますが、どれも「賞翫(良い物を珍重し、もてはやすこと。物の美を愛し味わうこと。物の味をほめて味わうこと)」の食品とされています。
 『四季料理献立』には烏賊、蛸の格付けがなされ、ともに「上の中也」で「前頭(まえがしら)」に位置づけられます。
 このように近世料理書では、烏賊と蛸とは他の魚介類とは異なる形状などの類似性から、よく並記されることが多いようです。
 近世の讃岐の婚礼に出された蛸は、次のように6例があります
「いた子せんきり(汁)」
「とふ(豆腐)二手長たこ(大平)」などの汁物や煮物、
「ひかん飯たこからし(辛子)あへ(丼)」
「いかかたこかのあい物(丼)」などの和物
「けづりたこ(指身)」
「たこのすし(皿)」
ここからは蛸は、酒肴の部の料理として出されていたことが分かります。ところが明治以後になると「たこ 小くわい(大平)」「ほせたこ(指身)」の2例だけになってしまいます。
  これに対して烏賊は近世には、次の2例だけでした。
「いかかたこかのあい物(丼)」
「あられいか(壷)」
それが蛸とは対照的に明治以後になると、次のように21例に激増しています。
烏賊の木の芽和え - 作ってみました。「きょうの料理」
いかの木の芽和え
「きのめ和へいか(丼)」
「いかの青和へ (皿)」「小いか、ゆりねごまあへ (丼)」などの和物九例
「いかのつけ焼(丼)」「やきいか(硯蓋)」などの焼物、
「まきいか(さしみ)」「生いか、青のし玉子、針うど(丼)」などの刺身
「塩烹、巻いか、竹の子(丼)」「いか、かんぴよう、しいたけ(坪)」などの煮物
イカの鳴門巻き。大葉&海苔で簡単居酒屋おつまみ。 by akkeyさん | レシピブログ - 料理ブログのレシピ満載!
まきいか
ここからは烏賊には、多彩な調理法があったことが分かります。
加えて烏賊の特徴としては「巻、松笠、鹿の子、紅烏賊」など切り方、彩色などによる細工の多彩さが挙げられます。烏賊の細工の適性、装飾性は、蛸ではできまでん。これが両者を分けるポイントになったようです。
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烏賊の松笠焼 
落語食堂】烏賊鹿の子焼き 2012/4/24掲載|00<メディア登場料理>|食のコラム&レシピ|辻調グループ 総合情報サイト
烏賊の鹿の子

明治以後の婚礼供応は、料理人の台頭などもあって、農村部でもプロ化が進みます。
そうなるとプロの料理人は、味だけでなく技巧、見栄えも追求するようになります。こうして讃岐の婚礼献立にも「花こち、花海老、花蕪、松風くわい、紅百合根」などの烏賊料理が登場します。これは前回見たような色とりどりで、さまざまな形をした細工蒲鉾の急速な普及と重なります。
このような傾向が、細工、彩色が容易な烏賊に追い風となります。さらに、調理法が簡便なこと、種類が多くほぼ通年使用可能なことなども増加理由として挙げられます。
 もともと烏賊のランクは、蛸と同じように「上の中」でした。
幕末以降に、江戸庶民間で盛んとなる「魚島料理仕方角力番附」、「日用倹約料理仕方角力番附」などの料理番付にも「いかきのめあい」「たこさくら煮」「すたこ」などの料理が前頭(まえがしら)の番付にあるので、格付けは中位だったことが分かります。婚礼献立では、鯛を主役にして上位の魚を使われてきました。

感動の柔らかさ♡蛸の桜煮
蛸のさくら煮
しかし、明治以降には烏賊が急速に増加していきます。この背景には、何があったのでしょうか?
 第一に考えられるのは、烏賊という素材が、料理人の技巧性、装飾性などの技術が生かせる食材だったことです。それが婚礼献立の装飾化という流れに、ピッタリとはまったようです。第2は、明治以後の婚礼供応の階層分化の進行が、価格の安い烏賊を選択する要因となったことです。例えば今から百年前の大正13(1924)年の佐野家の婚礼では「吉辰献立、三日目、道具入、むかへなど七献立中」で、烏賊料理は次のように出されています。
「いかあへもの」
「あへもの いか木の芽(道具入、二十五人)」
「あいもの(八十人位)」
「いか附焼」「内ノ分 四十人分 いか」
いかの湯引きときゅうりの和え物】2人分 | 味の兵四郎(ひょうしろう)公式通販サイト
烏賊の和え物
これを見ると烏賊料理のオンパレードです。
 佐野家の5月19日~26日までの購入記録では合計で、「いか 三〇七杯、もんご 六十四杯」とあり、多量の烏賊が購入されています。ここからは、近代婚礼では烏賊が多量に使用されるようになったことが分かります。烏賊一杯は、12,5銭~16,3銭、もんご一杯は80銭前後で購入していて、鯛などに比べると遙かに安価だったようです。

以上をまとめておきます。
①近世前半の料理書、烏賊と蛸はともに「前頭」で「上の中也」のにランクされていた。
②ところが明治以後の讃岐の婚礼では、烏賊が蛸を圧倒するようになる。
③その背景にはプロの料理人が腕が発揮できる烏賊を好んで使用するようになったこと
④烏賊が調理法が簡便なこと、種類が多くほぼ通年使用可能なこと
⑤こうして大正時代になると、見栄えの良い烏賊料理が数多く婚礼には出されるようになった。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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瀬戸内海を前に見る讃岐では、魚介類の加工・貯蔵技術が発達してきました。なかでも水産練製品は、塩蔵、干物などとはちがう完成度の高い製品として珍重されるようになります。江戸期には、各地に趣向を凝らした名産蒲鉾が造られるようになります。今回は讃岐の慶事供応に登場する水産練製品を見ていくことにします。テキストは
       秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

練り製品(ねりせいひん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
水産練製品

讃岐の水産練製品の古い事例としては、明和年間(1764年から1772年)の高松藩主の茶会記「穆公御茶事記 全」に、次のような練製品が登場します。
「崩し(くずし)、摘入(つみれ)、真薯(しんじょ)、半弁、王子半弁、蒲鉾、竹輪」

えび真薯
同時期の漆原家の婚礼供応では「巻はんへん、肉餅」の2種が用いられています。その後、文化年間の婚礼では「巻半弁、茶巾玉子、青はしまき、大竃鉾、白焼かまほこ、舟焼」が記されます。ここからは讃岐の水産練製品は、明和年間の18世紀後半頃に登場し、次第に婚礼儀礼などを通じて普及したと研究者は考えています。
幕末の青海村大庄屋・渡辺家の史料には、代官供応、氏神祭礼など計9回の供応献立に、次のような水産練製品が出てきます。

「摘入(つみれ)、小川崩し、すり崩し、しんじょう、半弁、結半弁、大半弁、角半弁、茶巾、小茶巾、箸巻、市鉾、角蒲鉾、小板、船焼、大竹輪、合麹」

摘入/抓入(つみれ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
摘入(つみれ)
また、嘉永5年(1852)から安政3年(1856)の浦巡検使への供応(4回)には、次のようなものが出されています。
上分には「摘入、しん上、半弁、分鋼半弁、角半弁、竹輪、蒲鉾、鮒焼王子」
下分へは「摘入、半弁、竹輪、蒲鉾」
ここからも幕末には水産練製品が大庄屋などの上層農民に定着していたことが見えてきます。
以下明治以後の讃岐の庄屋で使われている水産練製品を挙げておきます。
①漆原家の婚礼(明治11年)では、以下の12種類の水産練製品
「進上、白子進上、炙十半弁、小判型半弁、茶巾、蒲鉾、舟焼、青炙斗玉子、養老王子、ぜんまい崩し、生嶋崩し、柏崩し」

②中讃の本村家の婚礼儀礼(明治期)には、多量の水産練製品
「生崩し十五杯、白玉九十九個、半弁(丸半弁)四一本、蒲鉾(蒲鉾圧文板)一六七枚、茶巾 十五枚、箸巻(青箸巻)六七本、生嶋崩し十八枚、藤半弁一七枚、相中蒲鉾八枚、花筏四〇枚、合麹二十枚」

ここでは、いろいろな形に成形、彩色した細工蒲鉾類が数多く使われるようになっていることが分かります。
  ③本付家史料は婚礼だけでなく、厄祝、名付、軍隊入営、上棟、新年会、農談会などの供応にも水産練製品が使われています。
  ④明治期に開かれた13回の供応には、次のような水産練製品が使われています
  「摘入、しんじょう、王子しんじょう、安平、半弁、小半弁、雪輪(半弁)、小板、白板、蒲鉾、肉餅、合麹」
 
⑤火事見舞(明治4年)には酒、菓子などの食品・日用品とともに、「竹輪、蒲鉾、紅白板、小板、箱浦鉾」が贈られています。
  以上からは明治期になると、水産練製品が上層農民の婚礼儀礼に使用され、それが庶民へと広がりをみせていたことがうかがえます
  さらに時代が下がると、天ぷら(すり身を平らに調え油で揚げた製品)、安ぺい、篠巻などの製品が増えます。これらの品々は、それまでの儀礼など晴(ハレ)食へとは違って、庶民が日常的に食べるものです。庶民の食生活にも普及する新たなタイプの水産練製品の登場といえます。これが水産練製品の需要の裾野をさらに広げることになります。
  讃岐の水産練製品は、どのように作られていたのでしょうか?
成形方法、加熱方法などから研究者は次のように分類します。
・①蒲鉾(かまぼこ)類
・②細工物、細工蒲鉾類)
・③半弁(はんべん)類
・④竹輪(ちくわ)類
・⑤真薯(しんじょ)類
・⑥舟焼(ふなやき)類                        ・
・⑦天ぷら類
・⑧その他
  それぞれを見ていくことにします。
①の蒲鉾は水産練製品の原型とされます。
その起源は永久3年(1115)に、関白右大臣藤原忠実の祝宴で亀足で飾った蒲鉾の絵が最古とされます。また、「宗五人双紙」(1518年)には「一 かまぼこハなまず本也 蒲のほ(穂)をにせたる物なり」とあり、「蒲のほ(穂)に似せて作られたと、その曲来が記されています。製法は『大草殿より相博之聞書』(16世紀半ば)に次のように記します。
「うを(魚)を能すりてすりたる時、いり塩に水を少しくわへ、一ツにすり合、板に付る也。(中略) あふり(炙り)ようは板の上に方よりすこしあふり、能酒に鰹をけつり(削り)、煮ひたし候て、魚の上になんへん(何遍)も付あふる也`」

ここからは、蒲鉾の初期の加熱方法は焼加であったことが分かります。
同時期の茶会記などには、次のように記されています。
一カマボコ 二切ホトニ切 ソレヲ三ツニ切タマリ 懸テケシ打チテ温也
一ヘキ足付三ツカマホコ キソク赤白(文禄三年九月二五日昼)
ここからは、いろいろに料理された蒲鉾が出てくるようになっていることが分かります。蒲鉾は、魚肉をすり潰したもので、初期には竹などに塗りつけた蒲の穂型でした。それが次第に板につけた板付蒲鉾に姿を変えていきます。このような板付蒲鉾を讃岐の史料では「板、小板、白板」と呼んでいます。また、肉餅に似ていることから「肉餅」の呼称もあったようです。
  蒲鉾は大小によって「小板三文半、五文蒲鉾、蒲鉾六文板」などのランクに分けられ、上分には六文板、五文板を、下分には三文板など客の階層に応じて出されていたようです。

細工かまぼこ 華ごよみ
細工蒲鉾類
細工物・細工蒲鉾類は、その形を色とりどりに飾って、デザインしたもので、その成形法にはいろいろな技法があったようです。
その製法は経験と熟練による高度な技術が必要な「ハイテク蒲鉾」でした。例えば、
値段はいくらでもいい』裏千家家元夫人の願いでできた、1枚450円の幻の高級笹かまぼこ「秘造り平目」数量限定・期間限定で発売。 | 株式会社  阿部蒲鉾店のプレスリリース
「鹿の子崩し」
⓵蒲鉾の表面にヘラで一つ一つ鹿の子模様を掘り起こした「鹿の子崩し」(ヘラ細工)
②すり身を薄焼卵や黄色の奥斗(すり身を薄く伸ばして蒸したもの)で包んだ「茶巾」「巾着」
③扇面に三菱松、鶴亀、寿などの祝儀の模様を描いた「末広」
④彩色したすり身を組み立て切り口に菊水の文様を写した「菊水崩し」
⑤二色のすり身を巻き切り口に渦巻模様を作る「花筏」「源氏巻崩し」
AR-A15<毎月数量限定>川畑かまぼこ店のうず巻き蒲鉾、ごぼうセット(5種・合計1.8kg)【AR-A15】 - 宮崎県串間市|ふるさとチョイス -  ふるさと納税サイト

⑥すり身と簾盤を合わせた合麹、麹巻
以上のように多彩な製品群が登場し、贈答品としては欠かせないものになっていきます。

【レシピ②】はんぺんフライ

半弁は明和年間に、蒲鉾とともに登場する代表的な水産練製品の一種です。

しかし、その名称と実態がよくわからないようです。史料には濁音符、半濁音符がないので、半弁は「はんペん、はんべん、はべん」とも読め、名称が特定できません。 讃岐の半弁は関東一円に流通するすり身に山芋、でん粉などを加え気泡により独特の軽い食感を持つ「はんぺん」とはまったくちがう製品であることは間違いないようです。
  近世料理書も半弁を特定する記述はわずかで、具体的な加熱、成形方法などもよくわかりません。讃岐のはんぺんは、すり身を巻き賽で巻き締め茄でた製品の総称であり、また、蒲鉾とともに水産練製品の代名詞的に用いられるなど、加賀藩の「はべん」とよく似ているようです。
  半弁は讃岐の近世から近代の史料では、蒲鉾とともに最もよく登場する水産練製品です。しかし、現在では讃岐では、ほとんど見ることができなくなっています。  
讃岐の半弁製法について研究者は聞き取り調査を行って、次のように報告しています。
⓵すり身を整えて巻き簀で巻いて大釜で茄でる
②茄であがった半弁を巻き簀から離れやすくするため巻き簀一面にたっぷりの塩を塗り、巻き締めた後で水洗いして茄でる
③茄で時間は半弁の大きさで異なるが、約70分から100分。
④茄で上がりの判別は叩いて音で聞き分けるが、実際には茄でる前の半弁に松葉(雄松)を刺し、半弁内の松葉が変色するのを目安とする
⑤この手法は生地の内部温度の上昇による松葉の変色を利用したもので、松葉が内部温度計の役割となっていて職人の知恵である。
⑥半弁の重さは製品により異なるが、約二〇〇匁から四〇〇匁(1125g~1500g)⑦巻き簀巾は一定なので、重量の増減により、半弁の直径がちがって、大半弁、並半弁、小半弁など大小が生じる。
水産練製品群は、茄でる、焼く、蒸す、揚げるなどの多様な加熱方法に加え、成形方法、特に細工蒲鉾にみられる複雑な形状、模様は職人の技術に支えられていました。近世の水産練製品が頂点を極めた完成期といわれる所以です。

水産練製品は最初は料理人が手作りしていましたが、そのうちに魚屋などが兼業で作るようになります。
青海村の渡辺家出入りの「多葉粉犀」は高松藩御用達の魚屋ですが、明治13年の渡辺家婚礼には鯛、幅などの魚介類とともに蒲鉾、半弁、茶巾などの水産練製品を大量に納人しています。また、渡辺家の「家政年中行司記」には次のように記されています。
「年暮 煙卓屋二くずし物買物之覚丸半排壱本 箱王子半分 小板三枚 竹わ五拾 半弁三本 小板三枚」(万延元年・1860)
「節季買物 上半弁二本 並雪輪同三本 小板五枚 船焼王子壱枚 竹輪三十本」(慶応四年・1868)
文久四年(1864)には来客に備えて「煙草屋ニ船焼小板等の崩物等誂在之候」と記されています。ここからは渡辺家では正月、祭礼などの折々に煙草屋から「崩し物購人」が行われていたことがわかります。ここからは、魚介類と水産練製品が煙草屋や魚屋の兼業によって作られていたようです。

明治29年婚礼の「生魚久寿し物控 明治十九年旧四月吉日」の水産練製品および価格一覧表を見てみましょう(表2―9).

婚礼用水産練製品一覧表 明治29年

この表からは次のようなことが読み取れます。
⓵客の階層は当日上分・人足、以下五階層に区分される
②4月12日当日は本客の上分と人足用で、半弁は「九半弁50銭・下半弁30銭」、蒲鉾も「茶引かまぼこ25銭・下かまぼこ 15銭」と階層の上下によって価格が違う。
③人足には合麹、箸巻(青色)、天ぷらなど比較的安価な製品が使われている
④4月16日の上分の客には、丸半弁、上丸半弁、蒲鉾ともに本客に準ずる価格帯のものが出されている。
⑤以下、源氏巻、合などの細工市鉾類も本客と同等の規格品が用いられている
⑥16日・17日の下作分と手伝人、内々の者などには、半弁、板(蒲鉾)、合麹、箸巻など比較的安価なものが出されていて、客の階層によって製品格差があった
明治になると、水産練製品は上分用だけでなく、下分用の下半弁、下蒲鉾なども製品化されて客の階層に対応する商品ラインナップが進んだことが分かります。
明治32年の婚礼で出された水産練製品全10品について、使用量と価格を一覧化したものを見ておきましょう。
婚礼用水産練製品一覧表 明治32年
この表から分かることを挙げておきます。
⓵種類や使用量・価格などの格差は、階層により異なること
②箸巻(青色)の価格は上位から1本「12銭・10銭・4銭」、半弁は「70銭・60銭」 など、水産練製品の価格ラインナップが細分化していること。
③これら製品格差は本客、友人などの前二立と手伝人、人足の後二献立間で明確であること
④さらに製品格差だけでなく、一人当たりの分量の概数にも差別化が行われていること
そういう意味では、水産練製品は「格差の可視化」のためには有効な機能を持っていたことになります。
 前回は、うどんが讃岐の庄屋層の仏事には欠かせないメニューとして出されるようになったこと、それが明治になると庶民に普及していくことを見ました。蒲鉾などの練り物も、婚礼の祝い物などとして姿を現し、幕末には供応食としてなくてはならないものになります。それが明治には、庶民にまで及ぶようになるという動きが見えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 今の私には、生姜はうどん、山葵(わさび)は刺身やそば・素麺の薬味という意識があります。それでは江戸時代はどうだったのでしょうか。今回は、議岐の婚礼に使用された生姜と山葵を見ていくことにします。
ショウガ栽培&育て方!初心者もプランターでOK、病害虫に強い|カゴメ株式会社
生姜
生姜は江戸時代の讃岐では階層を越えて、よく使われた薬味のようです。
それに対して山葵は、近世にはまったく使わた記録がありません。それが明治になって急速に使用頻度が高くなり、大正・昭和になると使用頻度が低くなります、また身分階層による使用頻度も大きくちがうようです。
山葵」とは何のこと?「やまあおい」ではありません【脳トレ漢字86】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
山葵
 例えば、丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)には、生姜は出てきますが山葵は出てきません。両者の間には、普及面での落差が見えます。山葵は九亀藩領内巡視の献上品として、大根、蕪(かぶら)などとともに献上されています。ここからは山葵は、一部の上層の人々が使っていたことがうかがえます。山葵は生姜に比べると、使用階層に格差があると同時に、普及が遅れていたことを押さえておきます。
生姜と山葵は、鮪、刺身などの生物料理に「辛味」「けん」として次のように添えられました
  [近世後半]
生盛(辛子酢、針生姜)
刺身(辛子酢)・刺身(辛子酢、けん生姜)
漆原家(文化年間) 差身(辛子酢) 刺身(辛子酢)
*大喜多家(天保年間) 筏盛(刺身) (煎酒、蓼酢)
  [明治時代]
・皿(けん生姜)  皿(生姜)
・刺身(辛子酢、山葵醤油)
・生盛(辛子酢、山葵将油)
。刺身(辛子、山葵将油)
・刺身(辛子酢) 刺身(生姜醤油)、 刺身(山葵)
 大正・昭和時代
・刺身(辛子酢)・刺身
・刺身(生姜醤油)・刺身(山葵)・刺身(山葵)
からし酢味噌
辛子酢味噌
以上からは次のようなことが読み取れます
①刺身などの調味は、江戸時代後半には酢系統の辛子酢が主で、生姜は針生姜などのけんとして使われていたこと、
②「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていること
③生姜は明治になって皿、瞼などにけんとしての使用されるとともに「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵は明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始める。
⑤刺身の調味は、近世では辛子酢などの酢系統が主であったが、近代になると山葵醤油、生姜醤油などの将油系統の調味が加わった。
⑥近代の山葵の増加と、生姜の用途の変化(けんから生姜醤油などの辛味)には、醤油の普及が背景にある。
⑦江戸時代後半では、山葵の使用事例は2例だけで、生姜や辛子などの酢系統が主であった。
⑧明治になると、刺身に酢、醤油両系統の2種類の異なる調味が添えられるようになった。
⑨讃岐でも武士階級などの供応には「両酢、いり酒、辛子酢」が使われるようになった。
ポカポカ生姜の醤油漬け
生姜の醤油漬け
近世から近代にかけての刺身の調味の変化について、西讃の山本町河内の大喜多家の史料を見ておきましょう。
山本町「ちょうさ祭り」Ⅰ | まほろばの島詩
大喜多家(三豊市山本町河内)
幕末の大喜多家の武士階級への供応には、刺身に辛子酢をはじめ煎酒、三杯酢、蓼酢、山葵酢、辛子酢味噌、辛子味噌、山葵醤油などの多彩な調味が使われています。それが時代と共にどう変化するのかを見ておきましょう。
①明治中期の冠婚葬祭祭には、煎酒、辛子酢、三杯酢などの酢系統の調味
②明治39年以降になると、生姜醤油、山葵醤油の醤油系統が主流となり酢系統と拮抗
③昭和期には山葵醤油が席捲
こうして、現在の刺身に山葵醤油のマッチングが定着したようです。
室町期の「四条流庖丁書」には、次のように記されています。
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る

「一サシ味之事。 鯉ハワサビズ(酢)。鯛ハ生姜ズ。備ナラバ蓼ズ フカハミ(實)カラシノス。エイモミカラシノス。王余魚ハヌタズ.」

ここには、鯉は山葵酢、鯛は生姜酢と、それぞれの魚に適した辛味が書かれています。このような多様な味の系統が明治期まで引き継がれていたことがうかがえます。ちなみに、大正3年には粉山葵(こなわさび)の製造が始まります。それ以降の「刺身に山葵、山葵将油」の画一化が加速したと研究者は考えています。

常温】粉わさび 銀印 S-5 350G (金印物産株式会社/わさび)
粉わさび
 なお、婚礼に使用される食品の価格記録では、「山葵大上々五本 三十銭、 生姜・十銭、辛子・八銭」とあります。分量の記載が不揃いですが、明治初期には山葵は高価で非日常的な食品であったことがうかがえます。庶民的でなかったということになります。

以上をまとめておきます。
①讃岐では江戸時代は、薬味としては生姜が日常的で、山葵は上層階層が使用するものであった。
②刺身などの調味は、生姜は針生姜などのけんと「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていた。
③生姜は明治になって「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵も明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始めた。
⑤こうして刺身を醤油で食べるようになると、山葵が刺身の薬味の主流となった。
⑥また、うどんには生姜、そばや素麺には山葵という棲み分けが成立した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったことがうかがえます。


次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋渡辺家の屋敷(坂出市青梅)

前回は坂出の青海村の大庄屋渡辺家の概略を見ました。今回は、渡辺家の幕末から明治に行われた葬儀に関する史料を見ていくことにします。ペリーがやって来た頃に、渡辺家では次の①から③ような大きな葬儀が連続して行われています。
①「宝林院」(渡辺五百之助妻) 嘉永六年(1953)11月13日没  享年54オ
②「欣浄院」(渡辺槇之助妻) 安政2年(1855)11月 2日没(11月3日葬儀)」享年25才
③「松橋院」(渡辺五百之助) 安政3年(1856) 8月 2日没(8月3日葬儀) 享年62才
④「松雲院」(渡辺槇之助)  明治4年(1871) 5月17日没(5月16日葬儀)」享年44才

まず③の「松橋院」五百之助について、押さえておきます。
1795(寛政7年)生、1856年(安政3)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
   ④の「松雲院」渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871(明治4)年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中に大庄屋代役就任
1856(安政3)年 父の死後大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
まず③の松橋院(渡辺五百之助)の葬儀を見ていくことにします。
この葬儀は、子の槙之助(28歳)によって行われています。五百之助は、以前から病気療養中で、槙之助が大庄屋代役や砂糖方をすでに勤める立場で、西渡辺家代表として葬儀万般を取りしきることになります。
人の死に際して最初に行われることは「告知儀礼」だと研究者は指摘します。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。

郡奉行(竹内興四郎)
郷会所(赤田健助・草薙又之丞)
砂糖方(安部半三郎・田中菊之助)
同役(本条勇七)
一類(青木嘉兵衛・山崎喜左衛門・小村龍三郎・松浦善有衛門・綾田七右衛円)

案内状の文面は、以下の通りです。
郡奉行中江忌引
一筆啓上仕候、然者親五百之助義久々相煩罷在候処養生二不叶相、昨夜九ツ時以前死去仕候、忌中二罷在候問此段御届申し上候、右申上度如斯二御座候以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
意訳変換しておくと
郡奉行への忌引連絡
一筆啓上仕ります。我父の五百之助について病気患い、久しく養生しておりましたが回復適わず、昨夜九ツ時前に死去しました。忌中にあることを連絡致します。以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
また、同役、親族にも「尚々野辺送之義ハ 明後三日四ツ時仕候 間左様御承知可被下候以上」のように、葬儀時刻なども案内されています。
 これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
①旦那寺行 ②塩屋行 大ばい行 ③専念寺行〆   (下)藤吉  次作
④坂出 八百物いろいろ〆              忠兵術 龍蔵
高松行 久蔵 弥衛蔵 亀蔵
西拓寺行 清立寺 蓮光上寸 徳清寺〆       三代蔵 恭助
正蓮キ案内行〆                  卯三太
林田和平方行                  卯之助 佐太郎
高屋行                      熊蔵
横津行                      関蔵 乙古 伊太郎
この表の左が行き先ですで、右側が連絡係の人足名です。
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
 葬儀の終わるまで葬儀は、喪家の手を離れ、互助組織(葬式組)が担当します。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。

①向(下、東、西)組  ②上組  ③大藪南数賀(須賀)組  
④大藪中数賀組 ⑤大藪谷組  ⑥鉱 ⑦北山組  ⑧中村組

この中で、渡辺家が属する免場は①の向組でした。
明治4年(1871)5月17日の松雲院葬儀には、次のように記録されています。
五月二十四日之分
免場東西不残朝飯後より
外二折蔵義者早朝より
好兵衛倅与助 半之助 網次
同二十五日之分朝早天より
一 免場東西組不残    勘六 辰次郎 作蔵  (北山)虎蔵・清助・久馬蔵・権蔵 (大屋冨船頭)市助
(惣社)和三郎家内 好兵衛倅半之助  同晰・与助 
  (惣社)網次
二十六日
三拾壱軒 免場不残 おてつ おぬい おいと おしげ おとみ おげん 長太郎 
給仕子供
    兼三郎 (北山)三之丞以下省略(五十七名)
ここには、次のようなことが記録されています。
①24日から26日日までの3日間、向組の免場は東西の組が総出で「朝飯後、朝早天」から葬儀を手伝っていること
②それだけでは賄いきれないので、近隣の免場からも手伝いが出されること。
③なかでも、葬儀当日の26日には青海村の北山組、上組、中村組、大藪組、鎗組など全ての免場や林田村(惣社・惣社濱)などからも女、子供(給仕)までが参加していること
ここからは次のようなことが分かります。
A 渡辺家の属する①向組が中心となって運営する
B しかし、葬儀の規模が大きいので、他の組からの多数の応援を受けて行われている。
C これは葬儀が個の家の宗教的行事の側面だけでなく、社会的儀礼であることを裏付けている
渡辺家葬儀は地域をあげての行事であったことを押さえておきます。 
 ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。

大名の葬儀1
大名の葬列
次に向組免場の葬送役割について、見ていくことにします。
葬儀当日には葬送、野辺送りが行われていますが、その関係史料が次のように残されています。
安政三年(1856)松橋院「御葬式之節役割人別帳」(表1ー10)
明治四年(1871)松雲院「野送御行列順次役付人別」(表1ー3)
野辺送り3
葬列

渡辺家 向組免場の葬送役割

①葬列の順序・役割・人数の総数は39人
②一番左が役割、次が衣装です
それぞれの役割に応じて、服装は次のように決められています。
上下(肩衣、袴の一対)、
袴・白かたぎぬ(袖なしの胴着)
かんばん(背に紋所な下を染め出した短い上着)
袴、純袴(がんこ、自練衣の袴)、
かつぎ(かずき。衣被・頭からかぶる帷子)
これらの装束に成儀を正して列に加わります。

野辺送りの道具 多摩市
野辺送りの道具

葬列には導師をはじめ数ヵ寺の僧侶が加わり、位牌は一類の者が持ちます。葬列の後尾の跡押、宝林院の時には当主の槙之助、松雲院では親族の藤本助一郎(後、久本亮平と改名)です。親族は女、男と分けて列の後部に続き、その後に一般の会葬者が続き、長い葬列になります。
 行列のメンバーは、青海村の向(上、西)組、大蔵(須賀)組、錠組、北山組、中村組、上組の各組と林田村の人々で構成されています。
 次に布施(葬儀費用)について見ていくことにします。
庄屋の葬儀について、研究者は次のように指摘します。

「庄摩、大庄屋など農村部の上層の家における冠婚非祭の儀礼は自家の権勢を地域社会に誇示する側面を有するが、他面、華美や浪費により家を傾けることを戒めており、この双方への配慮、平衡感覚の中で行われた」

庄屋たちが気を配ったのは「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスだったようです。それでは渡辺家では、どんな風にバランスが取られていたのでしょうか。
宝林院、欣浄院、松橋院、松雲院の時の布施内容を一覧化したのが次の表です。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

この表から見えてくるとを挙げておきます。
①渡辺家当主の松橋院、松雲院と、その妻女である宝林院、欣浄院では、大きな格差があること。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
大葬式(祖父母、父母、本妻)
小葬式(兄弟、子供、伯父伯母)
渡辺家の格式でも、次のような格差があります。
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
また、「天保集成』には次のように記します。

「衆僧十僧より厚執行致間敷、施物も分限に応、寄付致」

ここには参加する僧侶は10人を越えないこと、葬儀が華美にならないように規定されています。 渡辺家でも葬儀に参列する僧の人数は旧例を踏襲しながら、故人の生前の功績なども考慮して、増加する事もあったようです。
 例えば妻女は、一カ寺かニカ寺だけですが、当主であった松橋院、松欣院の時には八カ寺が参列しています。葬儀の際に檀那寺以外から僧侶を迎える慣習が、近世後半に全国的に拡がったっていたことがここからはうかがえます。
これら僧侶への布施を、松橋院(安政3年1856)の事例で見ていくことにします。(表1ー11)。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

一人の僧侶に、各数名の弟子、若党、中間などがついて、伴僧などを含めると総勢97人にもおよびます。これらの僧侶に対して、布施が支払われます。布施の金額は檀那寺の「金壱一両 銀七拾三匁 五分九厘」が上限です。その他の伴僧はほぼ同格で僧侶、弟子その他を含めて各63匁八分~75匁の布施です。なお、中間は僧侶の駕籠廻4人の他、曲録、草履、笠、雨具、打物、箱、両掛などの諸道共を持つ係です。檀那寺以外の伴僧では弟子、若党、中間ともに人数は少なくなっていて、布施の額も減少します。これらの布施については「右品々家来二為持、 十七後八月十三槙之助篤礼提出候事」とあるので、槇之助自らが寺に敬意をはらい自ら持参したことが分かります。

野辺送り2

さらに、松橋院の葬儀では故渡辺五百之助の生前の功績によって、刀剣料(刀脇指料)として「銀六拾目」を新例として設けています。また寺方についてもこれまでの最高である六カ寺にさらにニカ寺追加して八ヶ寺として、布施も増額するなど特別の計らいをしています。
 それが明治4年の松雲院の葬儀では、特例とされた刀脇指料(一百八拾:金札礼三両)、参列寺数ともにほぼ同数で、前例が踏襲されています。さらに檀那寺へ贈与品に御馬代(一同百八拾:金札.三両)、鑓箱代(同三拾目)が追加されています。こうしてみると布施の「特例」が通例化し、「新例」となっていくプロセスが見えて来ます。
 ここで研究者が注目するのは、同格の松橋院と明治になっての松雲院の布施総額が僅か20年あまりで3倍に高騰していることです。これは幕末から明治にかけての貨幣価値の変動によるものと研究者は指摘します。

野辺送り
 
 野辺送りをイメージすると、檀那寺、伴僧の僧侶は中間のかつぐ駕籠に乗って、仏具を持つ多くの人々を従えて、美々しい行列を仕立て進んで行きます。それは死者を弔いその冥福を祈るとともに、家の格式また権勢を地域社会に誇小する行進(パレード)でもあったようです。
また、布施についても僧侶には銀10匁から15匁、家来には2匁の他に菓子一折、味琳酒一陶などが贈られています。これも幕末の松橋院の六五匁から、明治の松雲院は132匁と約2倍になっています。ここでも物価高騰の影響がみられます。
  以上をまとめておきます
①幕末の青海村の大庄屋渡辺家では、4つの葬儀が営まれていた。
②その葬儀運営のために、村の免場(同行)のほぼ全家庭が参加し、それでも手が足りない部分には周辺からも手助けが行われた。
③ここからは、葬儀が家の宗教的行事だけでなく、社会的儀礼であったことが分かる。
④江戸時代の庄屋の葬儀は、「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスの上に立っていた。そのためにいろいろな自己規制を加えて、華美浪費を避けようとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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  以前に 坂出市史に掲載されている青海村の大庄屋・渡辺家のことを紹介しました。
御用日記 渡辺家文書
大庄屋渡辺家の御用日記

その時は、当主達の残した「御用日記」を中心に、当時の大庄屋の日常業務などが中心にお話ししました。今回は別の視点で、渡辺家と阿野北の青海村について見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世から近代における儀礼と供応食の構造 ━讃岐地域の庄屋文書の分析を通して━

渡辺家は、讃岐国阿野郡北青海付(坂出市青海町)の大庄屋でした。
まず、青海村の属していた阿野郡北を見ておきます。
阿野北は、青海村をはじめ木沢、乃生、高屋、神谷、鴨、氏部、林旧、西庄、江尻、福江、坂出、御供所の村々を構成員としました。

坂出 阿野郡北絵図
阿野北の各村々 下が瀬戸内海

阿野郡北の各村々の石高推移は、以下の通りです。
阿野郡(北條郡)村々石高
         阿野郡(北條郡)村々石高
この石高推移表からは、次のようなことが分かります。
①江戸末期の阿野那北13カ村の村高は、9500石前後であること
②石高の一番多いのは林田村の2157石、最低は御供所村の63石、青海村は563石で9番目になること。
③林田など綾川流域の村々は、17世紀中頃からの干拓工事の推進で、石高が増加していること。
④それに対して、青海・高屋・神谷などは、石高に変化がなく、減少している村もあること。
④については、米から甘藷・木綿などの換金作物への転換が進んだようです。
明治8年の戸数・人口・反別面積です。
坂出市 明治8年の戸数・人口・反別面積
阿野郡の戸数・人口・反別 明治8(1876)年

この表を見ていて、反別面積の大きい林田や坂出の戸数・人口が多いのは分かります。しかし、青海村は耕地面積が少ないのに、戸数・人口は多いのです。この背景には、このエリアが準農村地帯ではなく、塩や砂糖などの当時の重要産業の拠点地域であったことがあるようです。
青海村の産業を見ておきましょう。青海村の産業の第一は糖業でした。

坂出 阿野郡北甘藷植付畝数

上右表からは、阿野郡北の文政7年(1824)の甘藷の植付畝数は157町、その内、青海村は7、3町です。また同時期の阿野郡北の砂糖車株数(上左表)の推移を見ると、10年間で約20%も増加しています。同時期の高松藩の甘藷の作付面積は天保5年(1814)1814)が1120町で、以後も増加傾向を示します。この時期が糖業の発展期でバブル的な好景気にあったことがうかがえます。この時期の製糖業は高松藩の経済を支えていたのです。

塩の積み出し 坂出塩田
塩を積み出す船
砂糖の出荷先は、大阪・岡山、西大寺、兵庫、岸和田、笠岡、尾道、輌、広島、下関、太刀洗、三津浜(伊予)な下の瀬戸内海沿岸諸港の全域におよんでいます。砂糖や塩の積出港として、周辺の港には各地からの船が出入りしていたことがうかがえます。商業・運輸産業も育っていたようです。

 坂出は塩業生産の中心地でもありました。

坂出の塩田
坂出の塩田開発一覧
この地域の塩田の始まりは、延宝8年(1680)の高屋村の高屋塩田創築とされます。操業規模は亨保13年(1728)の「高屋浜検地帳」では「上浜 三町四反壱畝六歩、中浜 二町九反八畝五歩、下浜 壱町三反武畝六歩、畝合七町七反壱畝式拾歩」、それが30年後の宝暦8年(1758)の「高屋村塩浜順道帳」では「畝合拾町八反四畝式拾七歩、うち古浜七町七反壱畝式拾七歩、新浜三町壱反一畝歩」と倍増しています。
坂出塩田 釜屋
坂出塩田の釜屋・蔵蔵
 亨保の検地以降に新浜を増設し、操業釜数は安政2年(1855)には、少なくとも4軒以上の釜屋による塩作りが行われていたことが分かります。亨保13年の高屋浜は塩浜面積に対し浜数は100、これを49人の農民が経営し、経営面積は一戸当たり一反五畝歩の小規模で、農業との兼業が行われていたようです。青海村でも高屋浜で持ち浜四カ所を所持する浜主や、貧農層の者は、浜子などの塩百姓として過酷な塩田労働に従事していました。

製塩 坂出塩田完成図2
坂出塩田
 阿野北一帯は、藩主導の次のような塩田開発を進めます。
文政10年(1827)江尻・御供所に「塩ハマ 新開地 文政亥卜年築成」、
文政12年(1829)、東江尻村から西御供所まで131、7町の新開地
その内、塩田と付属地は115、6町、釜数75に達します。ここに多くの労働者の受け皿が生まれることになります。

入浜塩田 坂出1940年
坂出の入浜塩田 1940年
以上、阿野北の青海村の農村状況をまとめておきます
①水田面積は狭く、畑作の割合が多い。
②近世初頭にやって来た渡辺家によって青海村は開拓進んだため、渡辺家の占有面積が多く、小農民が多く小作率が高い。
③19世紀になって、砂糖や塩生産が急速に増加し、労働力の雇用先が生まれ、耕地は少ないが人口は増えた。

次の阿野郡北の村政組織を見ておきましょう。
農村支配構造 坂出市

郡奉行の下代官職がいて、代官の下の元〆手代が郷村の事務を握っていました。各村々には庄屋1名、各郡には大庄屋が2名ずついました。庄屋以下には組頭(数名)、五人組合頭(―数人)を配し、村政の調整役には長百姓(百姓代)が当たりました。その他、塩庄屋・塩組頭・山守な下の役職がありそれぞれの部門を担当します。庄屋の任命については、藩の許可が必要でしたが、実際には代々世襲されるのが通例だったようです。政所(庄屋)の役割については、「日用定法 政所年行司」に月毎の仕事内容が詳述されているとを以前にお話ししました。 
庄屋の仕事 記帳

渡辺家の残された文書の多くは、藩からの指示を受けて大庄屋の渡辺家で書写されたり、記帳されて各庄屋に出されたものがほとんどです。定式化されて、月別に庄屋の役割も列挙されています。二名の大庄屋が東西に分かれ隔月毎に月番、非番で交代で勤務にあったことが分かります。

青海村の大庄屋・渡辺家について、見ていくことにします。

渡辺家系図1
渡辺家系図
渡辺家は系図によれば大和中納吾秀俊に仕え、生駒藩時代の文禄3年(1593)に讃岐国にやってきたされます。那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、
①万治2年(1659)に初代の嘉兵衛の代に青海村に定住。
②二代善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)に就任
③三代繁八は父の跡を継いだが早世したため、善次郎が再度政所就任
④繁八の弟與平次の3男藤住郎義燭を養子として家を継がせた。
⑤その子五郎左衛門義彬が1788(天明8)年12月阿野北郡大政所(大庄屋)に就役
⑥七郎左衛門寛が1818(文化15)年から大政所役を勤め、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられた。
⑦寛の弟良左衛門孟は東渡辺家の同姓嘉左衛門義信の家を継ぎ、養父の職を継いで政所となった。
寛の子五百之助詔は1820(文政3)年、高松藩に召出されて与力(100石)となり、次のような業績を残しています。
寛政7年(1795)生、安政3年(1856)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任

渡辺家系図2

   渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中の大庄屋代役
1856(安政3)年 大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
  渡辺渡(作太郎)
1855(安政2)年生、山田郡六条村の大場古太郎の長男
1871(明治4)年 17才で渡辺家養子となる
讃岐国第43区副戸長(明治6年)
愛媛県阿野郡青海村戸長(明治12年)
愛媛県阿野郡県会議員(明治15年)
阿野都青海高屋村連合会議員(明治18・20年)
愛媛県議会議員(明治21年)・香川県議会議員(明治37年)などを歴任
明治23年(1890) 松山村の初代名誉村長就任 
渡は経常の才に優れ精業、塩業、製紙、船舶、鉄道、銀行、紡績など各会社の設立しています。また、神仏分離で廃寺となった白峰寺の復興、さらに金刀比羅宮の管轄となった「頓証寺」の返還運動にも力を尽くし、この功績により同境内には顕彰碑が建立されています。

渡辺家の宗派は、浄土真宗です。
常福寺 丸亀市田村町


菩提寺は、もともとは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。先述したように渡辺家は、那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやって来るまでの檀那寺が常福寺だったようです。しかし、明治8年(1885)に加茂村の正蓮寺(常教院)に菩提寺を移しています。墓所は青海村向の水照寺(松山院、無檀家寺)に現存します。

 丸亀市田村町の常福寺には、次のような渡部家の寄進が記録されています。
一、御本前五具足・下陣中天丼・白地菊桐七条  施主 渡辺五郎左衛門
一、御前大卓   施主 渡辺嘉左衛門(五郎左術門女婿)
― 薬医門     文化2年(1805)施主 渡辺七郎左衛門(人目凡四貰目)
一、石灯籠一対   天保5年(1834)施主 渡辺七郎左衛門(代六八0目)
一、大石水盤    天保六年(1835)施主 渡辺五百之助   代十両
一 飾堂地形一式  施主 渡辺八郎右衛門(七郎左衛門改称)
   同 五百之助  地形石20両
   同 良左衛門  10両諸入目
ここからは渡辺家の常福寺に対する深い帰依がうかがえます。

渡辺家平面図
渡辺家平面図(昭和18年頃)
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
渡辺家の屋敷
江戸時代の渡辺家の土地所有を見ておきましょう。

青海村渡辺家の石高
渡辺家の所有耕地面積とその分布
この表からは、渡辺家の土地所有が青海村以外にも、高屋村、神谷村、林田村な下他村におよび、総〆石数は 285石にのぼることが分かります。青海村の石高が550石ほどなので、その半分は渡辺家の土地であったことになります。
 渡辺家「小作人名」から免場(組)、村別に小作人数をまとめたのが次の表です。
渡辺家の小作人数

ここからは次のようなことが分かります。
①青海村々内の免場(組)小作人は158人(実数は173人)
②他村その他は17人(同21人)
明治4(1871)年の青海村戸数は319人です。青海村の半数以上が渡辺家小作人であったことになります。
 渡辺家では、明治以降になり渡辺渡の代になると、次のような近代産業を興したり、資本参加していきます。
糖業「讃岐糖業大会社」
塩業「大蕨製塩株式会社」
製紙「讃紙株式含社」
船舶「共同運輸会社」
鉄道「讃岐鉄道株式合社」
銀行「株式会社高松銀行」
紡績「讃岐紡績会社」
このような事業の設立・運営などによって資本蓄積を行います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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