瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年09月

飯野町東二遺跡 赤山川jpg
飯野山西麓を流れる赤山川(場所はさぬき福祉専門学校の下)

  前回は飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡巡りをしました。今回は、この遺跡の条里制地割に沿って掘られた用水路(赤山川)について見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡4
              飯野・東二瓦礫遺跡周辺の10㎝等高線図

この地形図からは次のような事が読み取れます。
飯野・東二瓦礫遺跡は。飯野山西麓と土器川の間に挟まれたエリアに立地する
②土器川右岸に氾濫原と自然堤防が広がり、飯野山の西麓との間に狭い凹地が南北にある。
③そこを赤山川が南北方向に流れている。
④凹地は、遺跡周辺で最も狭くなっている。
⑤遺跡の東北方向が津之郷盆地で、赤山川から山崎池の下を通って分水用水が伸びている。
次に遺跡周辺の地質分類図(第3図)を見ておきましょう。
飯野・東二瓦礫遺跡地形分類図

ここからは、次のような事が見えて来ます。
①土器川の氾濫原と飯野山西麓の間に、条里制跡が見られる
②条里制以前の埋没河川痕跡が幾筋も網目状に見える。
③崖面以東の平地部と比較すると、この遺跡周辺は地表面高が約0,5mほど低い凹地となっている。
④この低地部分は、土器川が蛇行した痕跡で、古代末頃の「完新世段丘」により形成された「氾濫原面」である。
⑤崖面上位の平地面を「段丘1面」とする。
⑥段丘1面と氾濫原面の旧河道は不連続である

 1次調査区(昭和63年度調査、香川県埋蔵文化財調査センター1996)の調査報告書には、次のように記します。
A 段丘1面の旧河道は弥生時代~古墳時代のもので、古代には埋没過程にあったこと
B 氾濫原面の旧河道(SR01)は、14世紀頃に新しく掘られたものであること。
ここからも、段丘1面が形成されたのは古代末期であること、そして14世紀に新しい用水路が造られたことが裏付けられます。

飯野町東二遺跡赤山川
            現在の赤山川(さぬき医療専門学校の下)
飯野山の尾根が張り出して崖になっているところが、最も狭くなっているくびれ部分。その南側を真っ直ぐに流れる赤山川

この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
①延長約3、5kmの土器川の小さな支流の一つ
②氾濫原面の出水が水源で、緩やかに蛇行しながら北に流れ、遺跡の南方で大きく東に屈曲
③その後は、微高地を横断して段丘1面上を北流し、遺跡北方で再び西へ屈曲して、土器川へ合流。
地図を見れば分かるように、赤山川は自然河川としては怪しい不自然な流れをしています。
南で氾濫原面を流れるときには、何度も屈曲していますが、段丘1面上では、条里型地割の方向に沿って直線的です。これは条里制施工の時に、流路が人工的に変えられたことが考えられます。どちらにしても、赤山川は自然の川ではないようです。
 赤山川に合流する小さな支流の水源は、すべてが出水です。土器川伏流水の出水からの水を、人為的に条里型地割に沿って掘られた用水路で水田に供給されていたことになります。つまり、これらの小さなな支流は、人為的に開削された用水路だったと云うのです。それらが赤山川として、凹地の中央を北にながれていたことを押さえておきます。

IMG_6638
               飯野山西麓から土器川に流れ込む赤山川

 もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
飯野・東二瓦礫遺跡周辺土地条件図
飯野・東二瓦礫遺跡周辺の土地条件図


それでは、赤山川の流路変更は、いつだったのでしょうか?
すぐにイメージするのが、条里制施行に用水路も掘られたという「条里制施工時の用水路説」です。しかし、どうもそうではないようです。発掘調査で明らかとなった古代の溝は、深さが0、5m以下で浅いのです。段丘1面上を流れる旧土器川の支流から直接取水し、用水路として利用していたことが考えられます。一方、中世以降になると、残存深0、7m以上と、一定の深さ深度を有する溝が出てきます。これは、古代末頃の河床面の下刻と重なります。
 また、段丘面上には遺跡南部に条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)があります。これは段丘面が形成されたことで放棄・埋没した古代基幹水路であった可能性があります。つまり、古代の用水路は流路bということになります。
 このような大型幹線水路は、飯野山東麓の大束川両岸の川津川西遺跡や東坂元秋常遺跡にもあったことは、以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                飯野山東麓の古代用水路

 その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
 以上をまとめておくと、
①土器川の氾濫原と飯野山に挟まれた飯山町東二にも、古代の条里制施行が行われた。
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた

IMG_6643
赤山川の津之郷方面と土器川の分地点

ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
その対応のために広域的な地域的統合や開発領主と呼ばれる新規指導者層の登場を招くことになったことを押さえておきます。それが新たな中世の主役として名主や武士団たちの登場背景となります。そこに東国からの進んだ灌漑・土木技術をもった西遷御家人たちの姿が見えてくるようです。これは、飯山町の法勲寺あたりの灌漑用水整備で以前にお話ししました。
最後に1970年代の「古代讃岐のため池灌漑説」で、津之郷盆地がどのように記されていたかを見ておきましょう。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。

津之郷盆地の溜め池展開
 津の郷における稲作発展の第1次は、津の郷池(前池ともいう)の設置から始められた。
大束川の周辺では流水はそのまま横井堰から引かれ、また、ため池程の大きさでなく少し掘れば伏流水が湧出する出水などが作られた。2メートルも掘れば清水の得られる井戸も沢山作られ、かめて水を汲みあげる方式などもとられたであろう。第2次展開は、飯の山山麓にある蓮地と長太夫池であろう。柳池というのも一連のものと考えても不合理ではないが、その大きさと構造から考えて第3次展開とした方がよいかも知れない。
 ため池発展の過程を1次、2次、3次という風に抽象的な言葉で表現したのは、稲作が拡大していく順序をいうもので、現在のそれらのため池が現状の規模や大きさで古代からあったという意味ではない。したがって、そこには当然そのため池の前身らしきものがあったか、あり得なければならないという必然性を指摘するものである。そういう意味である。
 
   この説を現在の考古学者の中で支持する人はいません。しかし、津之郷盆地西部の開発のための灌漑用水路は、赤山川から引かれていたことは今見てきた通りです。それは、上の地図上で示したため池展開のルートと一致します。水源をため池とするか、土器川の氾濫面の出水からの灌漑用水とするかの違いであったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
蔵文化財発掘調査報告

参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
IMG_6608

説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

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飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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讃岐の武将達 飯山町法勲寺に地頭としてやってきた関東の御家人は?

  

前回は、9世紀末までに成立していた大師伝の次の2つを比較対照しました。
A「続日本後紀」(空海卒伝)承和2年3月25日条(貞観11年(869)年成立)
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝)      寛平7年(895)成立
その結果、空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことを見ました。今回は、C『遺告二十五ヶ条(御遺告)」(10世紀中頃成立)では、どうなっているのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」です。

御遺告2
遺告二十五ヶ条 巻首(奈良国立博物館)

遺告二十五ヶ条は、従来は次のように考えられてきました。

「空海が、死期を悟って門弟のために遺したとされる遺言。
本品は真言宗全体に関わるさまざまな事柄を二十五箇条にまとめたものである。」

そのためその記述が聖典化され、疑われることなく事実とされ根本史料とされてきました。しかし、他の空海の文章と比べると稚拙で、内容も世俗的なことが付加されていて格調や緊張感に欠けるとされます。そのため十世紀中頃までに、弟子らによってまとめられたものと考えられるようになっています。二十五箇条遺告の最古写本は、金剛寺所蔵の安和二年(969)書写本です。研究者は、これを全文を28段落に分け、その部分が後の「高野空海行状図画」などの絵巻伝記にどのように取り込まれ、神秘化・伝説化されていく経緯を見ていきます。なお末尾数字は同じ趣旨の話がみられる『高野大師行状図面』の巻と場面・標題です。

i遺告二十五ヶ条冒頭部 年少期エピソード
                遺告二十五ヶ条の冒頭部
書き下し文
①夫れ以れば、吾れ昔、生を得て父母の家に在りし時、生年五、六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語ると見き。然りと雖も専ら父母に語らず。況んや他人に語らんや。此の間、父母偏に悲んで、字して貴物(とふともの)と号す。

高野大師行状 (2)
 八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語る(高野空海行状図画(1-2  幼稚遊戯)
②年始めて十二なりき。後に父母の曰く、我が子は是れ、昔仏弟子なる可し。何を以ってか之を知る。夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。然れば則ち、此の子をもたらして、将に仏弟子と作さんとすべし。吾れ若少の耳に聞き歓んで、泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて、彼の内に安置して礼し奉るを事と為しき。 一の1 誕生奇譚

DSC04476真魚誕生
夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。
(弘法大師行状絵詞 一の1 誕生奇譚

高野大師行状 (1)
泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて(高野空海行状図画一の1 誕生奇譚

遺告二十五ヶ条の①の五、六歳のころの逸話と②の十二歳のとき聞いた出生の秘話です。
10世紀末までに成立した大師伝は、次の5つです。
①『続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条  貞観11年(869)年成立
②『増大僧正窄海和上伝記』(覚平御伝)  寛平7年(895)成立
③『遺告二十五ヶ条』(御遺告)  10世紀中頃成立)
④「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝)  10世紀中頃成立)
⑤「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起)  康保5年(968)成立
このうちで御遺告以外は、どれも空海の誕生から亡くなるまでを年代順に記述します。例えば①の「空海卒伝」や②の「寛平御伝」では、15歳でおじの阿刀大足について本格的に学問をはじめ、18歳で大学に入り、程なくして虚空蔵求聞持法と出会い神秘体験をへて、俗世間での出世を断念し仏門に入るという運びです。これは『三教指帰』序文を参考にしながら書かれたことがうかがえます。
  ところが御遺告で冒頭に来るのは、次のようなエピソードです。
A 5,6歳のころに、いつも蓮華に坐して諸仏と語らう夢をみていた
B 11歳のとき、インドの僧が懐に人るのを夢みて懐妊したので、将来、仏弟子としようと考えていたと父母から聞かされ、喜んだ。
C 泥土で作った仏像を草茸きの小屋に安置し礼拝するのが常であった、
これは三教指帰などにはない事績です。遺告二十五ヶ条ではじめて登場します。
ここには空海が生まれながらに僧になることが約束されていたかのような導線として描かれます。
多くの障害を越えて空海(真魚)を平城京の大学に進学させたのは、中央の高級官僚をめざすという一族の期待を背負っていたことだ私は考えています。それを否定するエピソードが冒頭に置かれます。ここに御遺告の空海伝の性格が如実に出ているように思います。ここでは『御遺告』では、空海の生涯全般において神秘化・伝説化が著しく進んでいることを押さえておきます。そして、今までに書かれていなかった新しい空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以下、高野空海行状図画などの絵図を挿入しながら見ていきます。

⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑤然して後、生年十五に及んで人京し、初めて石淵の贈僧正大師(勤操?)に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵(虚空蔵求聞持法)の法呂を受け、心に入れて念持す。‥…一の6 聞持受法
虚空蔵求聞持法 勤操
 初めて石淵の贈僧正大師に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵の法呂を受け(一の6 聞持受法)

⑥後に大学に経遊して、直講味洒浄成(あらさけのきよなり)に従って毛詩・左伝・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問う。博く経史を覧しかども、専ら仏経を好む。一の5  明敏篤学

明敏篤学の事
大学に経遊して博く経史を覧し(一の5  明敏篤学)

⑩或いは土佐室生門(室戸)の崎において、寂暫として心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵の光明照し来たって普薩の成を顕し、仏法の無二を現わす。      一の11  明星入口

明星入口3 室戸 高野空海行状図画
土佐室戸にて明星口に入り、虚空蔵の光明を照(一の11  明星入口)
⑫爰に大師石淵の贈僧正(勤操?)召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除して、沙弥の十戒、七十二の成儀を授け、名を教海と称し、後に改めて如空と称しき 
一の10  出家受戒

空海出家1
和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除(一の10  出家受戒)

⑬此の時仏前に誓願を発して曰く「我れ仏法に従って、常に要を求め尋ぬるに、三乗五乗十二部の経、心神に疑い有って、米だ以って決を為さず。唯だ願くは三世十方の諸仏、我に不二を示したまえ」と心に折感するに、夢に人有りて告げて曰く。「此に経有り、名字は「大毘庸遮那経」と云う。是れ乃が要むる所なり」と。 二の2 久米東塔

⑭即ち随喜して件の経王を尋ね得たり。大日本の国高市の部久米の道場の東塔の下に在り。此に於いて一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞り有りて、憚(ただ)し問う所無し。二‐2 久米東塔

久米寺東塔2 高野空海行状図画
国高市の部 久米の道場の東塔
入唐求法については
⑯彼の海路の間、三千里なり。先例は揚蘇洲に至るて傾無し、とム々、面に此の度般(たび)七百里を増して衡洲(福州)に到る、障多し。

大師入唐渡海2 遣唐使船

此の間、大使越前国の太守正三位藤原朝臣賀能、自手書を作して衡洲の司に呈す。洲司披き看て、即ら此の文を以って已て了んぬ。此の如くすること両三度なり。然りと雌も胎を封じ、人を追って湿沙の上に居ら令む、此の時に、大使述べて云く。切なる愁、之れ今、抑大徳は筆主になり。書を呈せよ、と云々。爰に吾れ書様を作り、大使に替わって彼の洲の長に呈す。開き覧て、咲(えみ)を含んで船を開き、問いを加えて即に長安に奏す。三十九箇目を経て、洲府の力使四人を給へり。且つ資糧を給うて、洲の長好し問うて、借屋十三烟を作りて住せ令む。五十八筒日を経て、存問の勅使等を給う。彼の儀式極り岡し。之を覧る主客、各々涙を流す。

入唐着福州 高野空海行状図画
福州での大師に代わっての代書

次で後、迎客の使を給う。大使に給うには七珍の鞍を以ってす。次々の使等には皆粧る鞍を給う。
入唐入洛3 高野空海行状図画


長安入京の儀式、説き尽す可きこと無し。之を見る者、選池に満てり。此の間、大使賀能大夫達、向に国に帰る。其れ延暦二十四年電時なり。即ち大唐の貞観二十一年に配り。
                               二の5 入唐著岸
⑱少僧、大同二年を以って、我が本国に帰る。此の間、海中にして人々の云はく。日本国の天皇崩じたまへり、と云々。是の言を聞き諌(ただ)して本口の言を尋ぬるに、船の内の人、首尾を論争して都て一定せず。注り繋ひで岸に着く。或る人云いい告げらく。「天皇、某の同時に崩じたまう」者(てへり)。少僧、悲を懐いて素服を給わる。爾従り以降、帝四朝を経て、国家の奉為(おんため)に壇を建て法を修すること五十一度なり。 三の9  著岸上表


⑲神仙苑における雨乞祈祷と善女龍王について
⑲亦神泉苑(しんせんえん)の池の邊にして、御願に法を修して雨を祈るに、霊験其れ明かなること、上殿上従り下四元に至る。此の池に龍王有り、善如龍王と名く。元是れ無熱池の龍上の類なり。慈しみ有つて人の為に害心を至さず。何を以ってか之を知るとならば、御修法の比(ころおい)、人に託して之を示す。即ち真言の奥旨を敬って、池の中従(よ)り形を現す時に悉地成就す。彼の形業を現すこと、宛かも金色の如し。長さ八寸許の蛇なり。此の金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂きに居在するなり。此の現形を見る弟子等は、実恵大徳井びに真済・真雅・真照・堅恵・真暁・真然等なり。諸の弟子は敢えて覧看ること難し、具に事の心を注して内裏に奏聞す。少時の間に、勅使和気真縄、御弊種々の色の物をもって龍王に供奉す。真言道の崇めらるること、爾れ従り弥起れり。若し此の池の龍王他界に移らば、池浅く水減して世薄く人乏しからん。方に此の時に至って、須らく公家に知ら令めずして、私に析願を加うべし。而己。八の1  神泉祈雨

神仙苑4
  神泉祈雨と善女龍王の出現(高野空海行状図画八の1)

㉑大阿閑梨の御相弟子・内供奉十禅師順暁阿閣梨の弟子、玉堂寺の僧珍賀申して云わく「日本の座主、設ひ聖人なりと雖も是れ門徒に非ず、須らく諸教を学ば令むべし。而るを何ぞ密教を授けられんと擬す、と云々。両三般妨げ申す。是に珍賀、夜の夢に降伏せ為れて、暁旦来り至って、少僧を三たび拝して過失を謝して曰く、と云々。‥…3の3  珍賀怨念

守敏降伏2 高野空海行状図画 
高野空海行状図画(三の3  珍賀怨念)
㉒又去じ弘仁七年に、表をもつて紀伊国の南山を請うて、殊に入定の処とんす。一両の草庵を作り、高雄の旧居を去つて、南山に移り入る。厥の峯絶遥にして遠く人気を隔てり。吾れ居住する時に、頻りに明神の衛護在り。常に門人に語らく。我が性、山水に慣れて人事に疎し。亦、是れ浮雲の類なり。年を送って終りを待っこと、此の窟の東たり。……七の2  巡見上表
㉕万事遑無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(高野山)を看る。山の裏の路の辺りに女神有り。名づけて丹生津姫命と言う。是の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝(ふしゅく)に託して曰く、「妾は神道に在って、成福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり 。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国岬命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。冀(こいねが)わくば、永世に献して仰信の情を表す、と云々。如今(いま)、件の地の中に所有開川を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、是れなり。 七の3  丹生託宣

丹生明神
丹生託宣
㉖吾れ、去じ天長九年十一月十二日由り、深く穀味を厭いて、専ら座禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。井びに丼びに末世後生の弟子・門徒等が為に、方に今、諸の弟子等、諦に聴け、諦に聴け。吾が生期、今幾ばくならず、仁等好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾人減せんと擬することは、今年三月二十一の寅の旭なり〕諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ、吾れ即減せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾れ生年六十二、腸四―なり。……九の3  入定留身

入滅2
㉗吾れ初めは思いき 。百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。然れども諸の弟子等を恃んで、急いで永く即世せんと擬するなり。九の3 入定留身

入滅3
㉘但し弘仁の帝卑、給うに東寺を以ってす。歓喜に勝えず。秘密の道場と成せり。努力努力(ゆめゆめ)他人をして雑住令むること勿かれ。此れ狭き心に非ず。真を護るの謀なり。圓なりと雖も、妙法、五千の分に非ず。広しと雖も、東寺、異類の地に非ず。何を以ってか之を言うとならば、去じ弘仁十四年正月月十九日に東寺を以って永く少僧に給い預けらる。勅使藤原良房の公卿なり。勅書別に在り。即ち真言密教の庭と為ること、既に謂んぬ。師師相伝して道場と為すべき者なり。門徒に非ぎる者、猥雑す可けんや……七の11 東寺勅給  『伝全集』第一 10~23P

以上の中で⑩と⑱以外の十五項目は、遺告二十五ヶ条にはじめて出てくる話です。しかも、伝説的要素が非常に強いものです。その中でも、
②と①の出生の秘話と神童の逸話迎話、
⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑬と⑭の『大日経』の感得、
㉒と㉕の丹生津比売命からの高野山譲渡説
㉖と㉗の高野山への隠棲
㉘の嵯峨天皇からの東寺給預説
などは、絵伝類の中に取り入れられ後世に大きな影響を与えます。その絵伝類の「根本史料」となったのが遺告二十五ヶ条の空海の事績のようです。遺告二十五ヶ条の事績を元に、絵伝は描かれた。そして、時代が下るにつれて、神格化・伝説化のエピソードは付け加えられ、増えていったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」

空海については、実像像と神格化・伝説化された弘法大師像のふたつの像があるようです。研究者は「弘法大師の神格化・伝説化は、大師の末徒によって「大師伝」が書かれた頃、つまり9世紀末からはじまっていた」と指摘します。それを具体的に見ていくことにします。
平安中期(10世紀末)までに成立していた「大師伝」は、次の5つです。
A「続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条 貞観11年(869)年成立
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝) 寛平7年(895)成立
C『遺告二十五ヶ条』(御遺告) 10世紀中頃成立
D「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝) 10世紀中頃成立
E「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保5年(968)成立
今回はAとBを比較して、大師伝に奇跡譚や伝説化された事績が、どのように追加されていったのかを見ていくことにします。テキストは、武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収です。
まず、Aの『続日本後紀』から見ていきます。
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続日本後記
これは朝廷が作った正史で、根本史料です。この巻第四、承和2年(835)3月庚午(二十五)の条に、大師の略歴が記されています。正史にの略伝を「卒伝」と呼びますが、この「空海卒伝」を、研究者は13項目に分けて次のように要約します。
①法師は、讃岐国多度那の人。俗姓は佐伯直
②15歳にして、おじの阿刀大足について文書を読み習い、
③18歳にして、大学に入った。
④時に一人の沙門から求聞持法を習い、
阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎において、求聞持法を修し、霊験を得た(山谷瞥に応じ、明星
末影す)
⑥これより、彗星、日々新たにおこり、信宿のあいだに「三教指帰」を書いた、
⑦書法においては最もその妙を体得なされ、草聖と称せられた。
⑧31歳で得度し、
⑨延磨23年(804)に入唐留学し、青龍寺恵果和尚から真言を学んだ。帰国後、はじめてわが国に秘密の門を啓き、大日の化を弘めた。
⑩天長元年(824)、少憎都に補せられ、
⑪天長7年(830)、大僧都となった。
⑫みずからの志により、紀伊国金剛峯寺に隠居した。
⑬化去の時、63歳であった。
ここには空海の生涯が事実だけが簡潔に記されています。神秘化・伝説化された事績は、ほとんど見られません。強いて云うなら⑤の「求聞持法によって霊験をえた結果、日々慧解(理解力)がすすみ、2日ほどで『三教指帰』を書き上げた。」という点くらいでしょうか。これも、編者のひとりである春澄普縄の空海に対する思い入れが強かったことによるとしておきます。ちなみに⑪の天長七年に大僧都に昇補したことと、⑬の亡くなったのが63歳であったとするのは、最近の定説とは異なるようです。
 ここで押さえておきたいのは、死後直後に書かれた正史には、空海についての事績は、非常にコンパクトで、神秘化・伝説化されたモノは少ないということです。

次に『贈大僧正空海和上伝記』(寛平御伝)を見ていくことにします。
これは、真言宗内で書かれた一番古い大師伝です。奥書から寛平七年(八九五)三月十日、貞観寺座主の聖宝が撰述したとされてきました。研究者は、これも全文を29に分けて次のように要約します。

①讃岐=多度郡の人で、姓は佐伯氏、後に京の地に移貫した。
②宝亀5年(774)に誕生した。殊に異相があった。
③延暦7年(788)15歳。伊予親王の文学であったおじの阿刀氏について学問をはじめた。
④延暦10年(791)18歳、大学に入り経籍を歴学した。
⑤心中に避世の志あり、沙門について求聞持法を学んだ。ついに学問を出でて山林を経行した。
⑥阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎にて修行に励み、法験の成就をえることができた
⑦播磨国において、旅中、路辺の家に寄宿した。老翁が出できて、飯を鉄鉢に盛って空海に供養し、つぎのように語った。「私は、もと行基書薩の弟手の僧のいまだ出家せざりし時の妻なり。彼の僧、存りし日にこの鉄鉢をもつて、私に授けて曰く、「後代に聖あり。汝が宅に来宿せん。須らくこの鉢を捧げて汝が芳志を陳ぶべし」と。今、来客に謁して、殊に感ずるところがあったので、是をもって供養した」と。

⑧伊豆国桂谷山寺に往き、「大般若経』の「魔事品」を虚空に書写した。六書八体、点画を見た。始めて筆を揮うに、憶様成懸瞼監視(古来、理解不能とされてきた)。そのほか、奇異の事は多くあり、そのすべてをあげ、述べることはできない。
⑨その明年、剃髪出家して沙弥形となった。25歳。
⑩延磨23年(804)4月8日、東大寺戒壇院において具足戒を受けた。31歳
⑪延暦23年6月、命を留学にふくんで、大使藤原葛野麻呂と第一船にのり、咸陽に発赴した。
⑫8月、福州に着岸。10月13日、書を福州の観察使に呈した。
⑬12月下旬、長安城にいたり、宣陽坊の官宅におちついた。
⑭延暦24年2月11日、大師等、帰国の途につく。空海、勅により西明寺永忠僧都の故院に移り住む。
⑮城中を歴て名徳を訪ね、たまたま青龍寺東塔院の恵果和尚に遭いたてまつる。空海、西明寺の志明・談勝法師等五六人と同じく往きて和上にまみえる。
⑯6月上旬、学法潅頂壇に人り胎蔵法を受法する‐
⑰7月上旬、更に金剛界の法を受法する。
⑱8月上旬、伝法阿閣梨位の滞頂を受法する。兼ねて真言の教文・両部曼荼羅・道具・種々の法物等を請う。
⑲12月15日、恵呆和尚入滅する。
⑳大同元年(806)10月22日、招来法文の状を判官高階達成に付して上表する。
㉑弘仁11年(820)11月20日、天皇より、大法師位を授けられる。47歳。
㉒天長年中、旱魃あり。天皇、勅して神泉苑にて雨乞を祈らせるに雨降りたり。その功を賀して少僧都に任ぜられる。
㉓いくばくならずして大僧都に転任する。
㉔和上、奏聞して東寺に真言宗を建て秘密蔵を興す。
㉕承和2年(835)病にかかり、金剛峯寺に隠居する。
㉖承和3年(836)3月21日、卒去する。63歳
㉗仁寿年中(851~54年)、僧正貞済の上奏により、大僧正を贈られる。
㉘和上、智行挺出にして、しばしば異標あり。後葉の末資、委しく開くことあたわず。仍って、しばらく、一端を録して、謹んでもって上聞する。謹言
㉙寛平7(895)年3月10日 貞観寺座主
  (『伝令集』第1  37P~38P
この『寛平御伝』は、空海が卒去してからちょうど60年目に書かれた大師伝です。真言教団で書かれたものとしては最古のものになります。空海卒伝と比べて見て、一目で感じるのは、項目が倍増し、ボリュームも大幅に増えていることです。それだけ新しい事項が付け加えられたことになります。
ここで研究者が注目するのは、以下の3点です。
①に誕生年次を「宝亀五(774)年」と明記すること
㉖に卒去を「承和三年三月二十一日」とすること
㉘に「謹んでもって上聞す」とあって、宇多天皇に提出されたものであることが分かること。    

この大師伝には、伝説的な記述が次のように三ヶ所でてきます。
⑦の播磨の国で、行基菩薩の弟子の出家する前の妻から鉄鉢にご飯をもって差し出される話
⑧の伊豆の桂谷山寺において、虚空に『大般若経』の「魔事品」を書写する話
㉒の天長年中に、京都の神泉苑において、雨乞いの法を修された話
⑧と㉒の話は、簡略な記述で、これが原初的な形です。これが後世になると拡大され、絵伝にも収められるようになります。どちらにしても、この3つのテーマは、「弘法大師行状絵巻」には必ず図絵されてて、伝説化されていきます。

もうひとつ研究者が注目するのは、空海の神秘化・伝説化要素が、最初と最後に配置されることです。
最初は②の「宝亀五年(774)、誕生す。殊に異相あり」です。最後は㉘の「和上、智行挺出にして、しばしば異標あり」です。この「殊に異相あり」「智恵・言動が傑出していて、しばしば異標あり」の「異相・異標」は、すでにこの当時から、誕生とその後の事積に関して、いくつかの神秘的・伝説的なことが語られていたことがうかがえます。
 ここからは空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことが分かります。次回は、遺告二十五ヶ条では、その動きがどのように加速化されるようになったかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収

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弘法大師・丹生・高野大明神像(重文 金剛峯寺蔵)
高野山は、もともとは地主神・丹生津比売命のものであったのを、空海に譲渡したという話があります。この「丹生津比売命の高野山譲渡説」を、今回は見ていくことにします。
高野山譲渡説を要約すると次のようになります。

空海は唐から投げた三鈷杵を探していたとき、 一人の猟師と出会い、ついで山人にみちびかれて高野由にのぼり、その山人からこの地を譲られた。そして、山上に三鈷杵をみつけだし、伽藍を建立するにふさわしいところをえたと大いに喜んだ。

この物語のように、いまも壇上伽藍の御社には丹生・高野両明神が祀られ、御影堂まえに「三鈷の松」があります。そのため、高野山に参詣して、この話を聞くとすんなりと受け止められます。

 丹生明神からの譲渡説を、最初に記すのは『遺告二十五ケ条』で、以下のように記します。

万事連無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(かしこ)を看る。山の裏の路の邊りに女神有り。名づけて丹生津姫命と曰う。其の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝に託して曰く。
 「妾は神道に在って、威福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国韓命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。願わくば、永世に献じて仰信の情を表す」と云々。如今、件の地の中に所有開田を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、足れなり。
   『定本全集』第七  355~356P)

意訳変換しておくと
さまざまな仕事に追われて暇はなかったが、春と秋に必ず一度は高野山を訪れた。高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
 「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
 いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
これが「丹生津姫命の高野山譲渡説」が最初に出てくる史料です。これに「飛行三鈷杵」が合体された形で最初に出てくるのが『金剛峯寺建立修行縁起』になります。
写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
金剛峯寺建立修行縁起

この書は「康保五年(968)戊辰6月14日  仁海僧正作」とありますが、実際に書いたのは、仁海の師・雅真のようです。雅真は高野山の初代検校で、天暦6(952)年6月に、落雷によって焼失した奥院の御廟を復興させた人物でもあります。その際に、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。その背景には、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うための、交換条件だったというのです。その交換条件とは、次の2つです。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること
 
丹生神社本殿た「木造丹生明神坐像

          九度山町丹生神社本殿安置の「木造丹生明神坐像」
それでは、丹生・高野両明神を祀っていた氏族とは、どんな一族だったのでしょうか?
 この点について、触れた史料は何もありません。ただ、それがうかがい知れる史料はあるようです。空海の書簡を集めた『高野雑筆集』巻上に、高野山上の伽藍建設に着手するにあたって、以下の通り紀伊の有力者に援助を依頼した書簡があります。それを見ていくことにします。
①古人言えること有り。胡馬北に向い、越鳥南に栗くうと。西日東に更(かえ)り、東雲西に復る 物的叩、自ら爾(しか)り、人において何ぞ無らん。
②之を先人の説に聞くに、我が遠祖遣馬(佐伯)宿禰は、是れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。
③所以(ゆえ)に尋ね謁(まみ)えんと欲すること久し。然れども左右物の碍げあって志願を遂げず。消息何をかを曰わんや
④今、法に依って修禅の一院を建立せんと思欲う。彼の国高野の原、尤とも教旨に允えり。
⑤故に表を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して符を下したまい詑(おわ)んぬ。
⑥故に表を以って一両の草案を造立せんが為に、しばらく弟子の僧泰範・実恵等を差しつかわして彼の処に発向せしむ。
⑦伏して乞う。仏法を護持せんがために、方円相い済わば幸甚、幸甚。
⑧貧道、来年秋月に必ず参ぜん。披調いまだ間あらず。珍重、珍重。謹んで状す。
(『定本企集』第七 100~101P)
意訳変換しておくと
②先人の説によると、私(空海)の先祖である大遣馬宿禰(佐伯直)は、あなたの国の祖である大名草彦のわかれです
③一度訪ねたいと久しく考えているが、あれこれさまたげがあつて、なかなか志を遂げられず、申し訳なく想っていること、
④いま密教の教えに基づいて修禅の一院(密教道場)を建立したいと考えている。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えている
⑤そのような訳で、上表文をしたため、天皇にに高野山下賜をお願いしたところ、早速に慈悲の心をもって許可の大政官符を下された、
⑥そこでまずは草庵を造立するために、弟子の泰範・実恵を高野に派遣する、
⑦ついては仏法護持のために、僧俗あいともに高野山の開創に助力たまわりたい、
⑧私(空海)は、来年の秋には必ず高野に参りたいと考えている、
この手紙からは、空海の心情や行動がうかがえます。

まず、この手紙がいつ書かれたかを、研究者は押さえていきます。
この手紙には、日付もあて名もありません。そこで、研究者は本文から書かれた上限と下限が次のように推測します。まず、上限については、

「故に人を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して、符を下したまい祀んぬ。」

ここに出てくるの表(上表文)・允許・符などの用語から、「弘仁7年(816)6月19日に提出した上表文と、下賜を維持した紀伊国司宛ての7月8日大政官符を踏まえた上で書かれていることが分かります。以上から、手紙が書かれた上限は、816年の7月頃とします。
 次に下限は、次の文章に注目します。

貧道(空海)、来年秋月に必ず参ぜん。

空海が高野山へはじめて高野山に入ったのは、弘仁9年(818)の冬、11月16日のことです。12月日付の某宛て書状には、次のように記されています。
貧道、黙念せんがんに、去月(11月)十六日此の峯に来住す。山高く雪深くして、人跡一通じ難し。(『定本全集』第七  127P)
ここからは空海が11月16日に高野山に入山したこと、深い雪に遭って苦労されたことが分かります。同時に、有力者への手紙が書かれたのは、勅許後すぐの816年7月から8月にかけてのことだったことが推測できます。

次に、この手紙は誰にあてて出されたものなのかを見ていくことにします。
この問題を解く手がかりは、本文の次の部分にあります。

我が遠祖人遣馬(佐伯)宿禰は、足れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。

ここには「大名草彦」は、空海の佐伯直氏と先祖を同じくすると記します。大名草彦を先祖にもつ氏族の記録は、次の3つがあります。
①『新撰姓氏禄(しんせんせいしろく)』    弘仁6年(815)7月成立
②『紀伊国国造次第』              
③『国造次第』      貞観16年(874)頃成立
研究者がここで注目するのは、どれもが紀伊国造家の紀直氏系譜を記す史料であることです。例えば③『国造次第』を見ておきましょう。
国造次第
 日前(ひのくま)国太神宮、天降しし時、天路根(あめのみちね)従臣として仕え始め、即ち厳かに崇め奉るなり。仍て国造の任を賜る。今、員観―六年甲午歳を以て、本書巳(すでに)に損するに依りて改めて写書す。
国造正六位上広世直
第一 天道根
第二 比古麻 天道根の男
第三 鬼刀爾  
第四 久志多麻 鬼刀爾の男 又名目菅
第五 山成国土記ニ在リ  大名草比古(彦) 久志多麻の男
第六 迂遅比古    大名草比古の男
第七 舟本    迂遅比古の弟
第八 夜郎賀志彦 舟本の男
第九 日本記に在り 等与美々 夜郎賀志彦
旗に久志多麻
(『新接姓氏録の研究』 考証篇第四  216~217P)

五代目に「大名草比古(彦)」の名があります。この「大名草比古」は、紀直氏の実質的な始祖とされます。
それでは「大名草彦」にはじまる紀伊国造家とは、どんな氏族だったのでしょうか。
 紀氏は、現在の和歌山市を拠点にした豪族です。その信仰拠点の紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮です。
日前神宮と國懸神宮
①日前神宮の祭神は、日前大神で天照大神の別名だとされ、神体は日像鏡(ひかたのかがみ)で、思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)(鏡作連の祖)も祭られている。
②國懸神宮は國懸大神を祭り、神体は日矛鏡で、玉祖命(たまのおやのみこと)(玉造部氏の祖)と明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)(神功皇后の祖)が祭られている。この二つの鏡は天照大神の八咫鏡と同じものだとされ、社伝にはこれらの鏡を作ったときの逸話が伝えられている。

この両神宮を奉斎するのが紀伊国造家です。天照大神の鏡と同等を主張しているので、天孫族より古い氏族だったことがうかがえます。紀伊国造家は、天道根命(あめのみちねのみこと)の嫡流を主張します。天道根は『先代旧事本紀』にある饒速日とともに来た32神の一人で、『姓氏録』には火明命の後裔とされます。ちなみに、国造制度が廃止された後に国造が許されたのは出雲と紀伊国造家だけでした。

 両神宮の周りにかつてあった秋月古墳群が国造家の墓所とされます。
紀伊氏の古墳
和歌山市周辺の古代地形復元と紀伊氏の古墳分布図

紀伊氏の残した古墳群について要約しておきます。
①秋月遺跡と、紀の川対岸の鳴滝遺跡・楠見遺跡から出土した土器は韓国、釜山の東を流れる洛東江流域に多数出土する
②池島遺跡は庄内期に吉備型甕が多く出る旧大和川沿いの集落のひとつで、古墳時代には滑石製品を作る玉造りの工房や窯跡も多く残っていて、丹後・出雲との関連がうかがえる。
③紀氏でいちばん大きな集団は600基を数える岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群で、安定して古墳を作り続ける。
④秋月に続く最初の前方後円墳は4世紀後半の花山8号墳で、割竹式木棺・粘土槨の埋葬施設をもち、続く古墳群も九州の柄鏡形である。
⑤紀北には5郡、名草・伊都・那賀・有田・海部があるが、その地名は北部九州に由来するものばかり。


木の国の古代・中世
紀伊の郡名

⑥5世紀になると紀ノ川北岸のグループが隆盛し、鳴滝遺跡には大型倉庫群跡が出現する。これは物資貯蔵施設で、大阪難波の法円坂遺跡と同様施設がある。
⑦5世紀後半の車駕之古址(しゃかのこし)古墳(86㍍)からは朝鮮製金勾玉が、大谷古墳(67㍍)からは阿蘇溶結凝灰岩の組合式家形石棺が出てる。

紀国造家の実像をさぐる 岩橋千塚古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」126)
⑧6世紀代の岩橋千塚では、大日山35号墳(86㍍6世紀前半)以下、数基の大型古墳が続けて作られる。
⑨この岩橋千塚勢力の中心は紀直(きのあたい)氏だった。
⑩紀南には日高・牟婁の二郡があり、有田川から南の沿岸地域には、由良町・美浜町・印南町・吉備町と若狭や瀬戸内の地名が並ぶ。
⑪紀氏は鉄の確保のために、瀬戸内海南ルートを開き、讃岐や伊予にも拠点を開き、洛東江流域との交易を行った。
以上からは、紀伊氏が古墳時代からヤマト政権において、瀬戸内海の海上支配を通じて、朝鮮半島の伽耶諸国との外港・交易の中心にいたことがうかがえます。ギリシャのポリスが地中海に植民活動を展開し、ネアポリスを開いて行ったように、紀伊氏も活発な海上交易活動を展開したことが、残された古墳や地名からもうかがえます。独自に朝鮮半島とのつながりを持っていた紀氏は「我こそが王」という感覚を持っていたかもしれません。それが紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮の由緒に。痕跡として残されているとしておきます。

「大名草彦」を先祖にもつ氏族として丹生祝家(にゅうのほうりけ)もいます。
延暦19年(800)9月16日の日付のある『丹生祝氏文』には、次のように記されています。
始祖は天魂命(あまのむすびのみこと)、次に高御魂命(たかむすびのみこと)の祖、次に血早魂命(中臣の祖)、次に安魂命(やすむすびのみこと)(門部連などの祖)、次に神魂命(紀伊氏の祖)、次に最兄(おほえ)に座す宇遅比古命(うちひこのみこと)の別の①豊耳命(とよみみのみこと)、国主の神(紀伊氏)の女児阿牟田刀自(あむだのとじ)を娶りて生める②児子牟久君(こむくのきみ)が児等、紀伊国伊都郡に伴える侍へる③丹生真人(にうのまひと)の大丹生直丹生祝(あたいにうのほうり)・丹生相見・神奴等の三姓を始め、丹生津比売の大御神(おおみかみ)・高野大明神、及び百余の大御神達の神奴(かむやっこ)と仕へ奉らしめ了へぬ(以下略)
                (『田中車著作集』22 463P)
ここには、次のようなことが書かれています。
①大名草彦の男・宇遅比古命と三代あとの豊耳命の名が出てくること
②豊耳命が伊都那の阿牟田(=奄田)に住んでいた有力家族の女を娶って生れたのが「子牟久君(こむくのきみ)」であること
③子牟久君から丹生祝・丹生相見らがわかれ、それぞれ丹生津比売命・高野明神・百余の大御神たちを祭祀するようになった
これを『国造次第』などを参照しながら、丹生視家の系図を研究者は次のように復元します
丹生祝家系図
丹生祝家復元系図(ゴシックは実在が確実視される人物)

以上をまとめておくと
①「大名草彦」を先祖にもつ氏族に、紀直氏と丹生祝家とがあったこと
②紀直氏と丹生祝家が先祖を同じくすることは、丹生津比売命がいまの社地・天野に鎮座するまでの事跡、および丹生津比売命にたいする祭礼の面からも、跡づけることができる。

丹生神社本殿の木造丹生明神坐像
               木造丹生明神坐像

では、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とのかかわりは、いつ、どんな経緯ではじまったのでしょうか。
まず、丹生津比売命の名が出てくる最古の文献である「播磨国風上記逸文」を見ておきましょう。
息長帯日女命(神功皇后)は、新羅の国を平定しようとして播磨の国に下られたとき、多くの神々に戦勝を析願された。そのとき、イザナギ・イザナミ神の子である爾保都比売斜(にほつひめのみこと)は、国造の石坂比売命(いしざかひめのみこと)に神がかりして、「私をよく祀つてくれるならば、よき験を出して新羅の国を平らげてあげましょう」と教え、よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。白三后は、その赤土を天の逆枠に塗って神舟の艦と舶先にたて、また神舟の裳にも赤上を塗り、御軍の着衣も赤土で染めて出かけたところ、前をさえぎるものなく、無事新羅を平定することができた。帰国後、皇后は爾保都比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(現高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。         (日本古典文学大系2『風土記』482~483P)
要約しておくと
①神功皇后の「三韓征伐」の際に、播磨で戦勝祈願を行った。
②その際に出された「丹生(朱銀)」によって戦勝した。
③そこで神功皇后は、丹生津比売命を紀伊の藤代の峯に祀った。
その祭祀を任されたのが、紀伊氏ということになります。

本地垂迹資料便覧
丹生大明神

ここで注意しておきたいのは、丹生津比売命がもともとは、丹生(朱砂=水銀)の神であったことです。
「風土記』は、和銅6年(713)の元明天皇の詔にもとづいて編纂されたとされるので、この丹生津比売命が紀伊国に祀られるようになった話は、8世紀はじめには出来上がっていたことになります。このことを踏まえた上で研究者は、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とヤマト政権の関係を、次のようにまとめます。
①新羅征討に功績のあった丹生津比売命は、紀直氏(紀伊国造家)に奉ぜらて、紀伊の国名草郡の玉津島に上陸し、国造家によって祭祀されていた。
②その後、紀伊国造家は勢力を拡大するために、伊都郡の有力豪族であった阿牟田(=奄田)と婚姻関係をむすんだ。
③その結果、丹生津比売命はこの婚姻によって出生した丹生祝家によって、丹生都比売神社(かつらぎ町上天野)にも祀られることになり、奄田の丹生酒殿社に遷座した。
④さらに、紀ノ川をさかのぼって大和国の十市・巨勢・宇智部をめぐり、また紀ノ川をくだつて紀伊の国にもどり、那賀・在一有一田・日高郡を遊行し、最後に現在の天野に鎮座した
ここでは、丹生津比売命の祭祀権が、おなじ先祖をもつ紀伊国造家から丹生祝家に移ったことを押さえておきます。それでは最初の疑問に還ります。
「空海が手紙を出し援助を請うた相手」として考えられるのは、次の一族になります。
①紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏
②丹生祝家・丹生氏
地理的にみると、①の紀直氏は高野山から少し遠すぎるようです。それに対して、高野山山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していた②の丹生祝家に援助を請うたとみた方が自然と研究者は考えます。当時の高野山は原生林の山で、たどりつくことさえも難渋をきわめました。その山中に伽藍を建てるというのは、地元の人達からすれば正気の沙汰とは思えなかったかもしれません。道の整備から始まり、工事宿舎の建設、建築資材の運搬・工事、それにたずさわる人たちの食糧確保と運搬など、組織的な取組ができないと前に進まないことばかりです。ヒマラヤ登山に例えると、資材運送のためには現地のシェルパたちの協力なしでは、目的地にも到達できません。空海が第一にとりくんだことは、地元の有力者の協力を取り付けることであったはずです。そうだとすれば、丹生津比売命=丹牛祝家の援助を得るために、空海は当初から細心の注意を払いながら動いたはずです。しかし、空海には援助をとりつける目算があったと研究者は推測します。

瀬戸内海の紀伊氏拠点
瀬戸内海の紀伊氏関係の拠点分布図
それが空海の佐伯直氏と紀直氏の「疑似同族意識」です。
紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、空海の生家である讃岐の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、海上交易を行っていたこと、は以前にお話ししました。そうだとすれば、紀直氏と佐伯直氏は、海上交易ネットワークを通じて交流があった可能性が出てきます。さらに、空海の母の出身氏族である阿刀氏も大和川沿いの河川交易を掌握していた一族ともされます。   こうして見ると「紀伊の紀直氏=讃岐の佐伯直氏=畿内の阿刀氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。こうした事情を知っている空海は、「紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏や丹生祝家・丹生氏」に、「頭を下げれば必ず支援は受けられる」という目算があったのかもしれません。

丹生明神と狩場明神
            重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生津比
売命は、高野山の壇上伽藍にいつから祀られていたのか
この問題を考える際には、次の点を抑えておく必要があります。
A 高野山には空海がやって来る以前から、丹生津比売命を祀る祠があったこと
B その祠を目印として、空海は伽藍整地プランを立てたこと。
Aについては、高野山一帯が、丹生津比売命を祭祀していた丹生氏の狩猟の場であったと従来は云われてきました。しかし、高野山は赤土(朱砂=水銀)の採掘地でもあったことが近年分かっています。思い出して欲しいのは、丹生津比売命が初めて登場する播磨風土記です。そこには、次のように記していました。(要約)
(播磨で)よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。そのおかげで無事新羅を平定することができので、神功皇后は帰国後、丹生津比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。(日本古典文学大系2『風土記』482~483P)

ここではもともとは丹生津比売命は、朱砂(水銀=丹生)の神だったことを再確認したいと思います。なのです。それが採掘地に祀られていても何の不思議もありません。ここから見えてくることは、高野山は水銀採掘地で、それを丹生祝家が管理・採掘していたということです。とすれば、高野山山上は、当時は原始林の未開地ではなくなります。丹生祝家の水銀鉱山が展開する「鉱山都市」であったことになります。里からの生活物資の荷揚げのための道路も整備されていたはずですし、鉱山労働者を伽藍整地の人夫に転用することも容易です。人夫達の飯場を新たに建設する必要もありません。



若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
水銀と丹生神社の関係図


空海が若き日の山林修行中に、高野山山上で見たものは、丹生祝家のもとで稼働する高野山鉱山だったというのが私の仮説です。そのような状況を知った上で、空海は高野山に伽藍を建設しようとします。空海の高野山伽藍建設のひとつの目的は水銀確保にあったという説にもなります。どちらにしても、空海は高野山開山は、丹生氏の物心両面にわたる援助を受けていたことになります。

高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのは、天徳年間(957~61)のことです。
これは天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失したことと関連があると研究者は考えています。高野山の初代検校であった雅真が御廟を復興し、その左に丹生・高野明神を祀ります。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の実際の著者とされているのが雅真です。彼は丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うとともに、次の2つの交換条件を出したと研究者は推測します。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること

この裏には、空海の時代から一世紀以上のあいだ、丹生祝一族から提供された物心両面にわたる援助に酬いるためであったのでしょう。こうして「丹生・高野両明神による高野山譲渡説 + 飛行三鈷杵」が生まれます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武内孝善 弘法大師をめぐる人々―紀氏― 印度學佛教學研究第四十二巻第一号平成五年十二月

         

満濃池パンフレット 図書館郷土史講座JEPG

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、7月は綾子踊りについてお話ししました。10月は近世の絵図に満濃池がどのように描かれているのかを見ていくことにします。興味と時間のある方の来場を歓迎します。なお、会場が狭いので事前予約が必要となります。

満濃池 讃岐国名勝図会
満濃池(讃岐国名勝図会11巻)

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)


ブログ内の満濃池関連文書
https://tono202.livedoor.blog/archives/cat_30002.html
グーグル検索 「満濃池をめぐって」 












 

  
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
関連記事
東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

前回は高野空海行状図画には、高野山開山のことがどのように描かれているのかを見ました。ただ絵伝類について研究者はつぎのように指摘します。

絵伝はその性格上、大師の行状事蹟を史実にもとづいて忠実に描写してゆくことを主眼としているのではなく、大師の偉大なる宗教性を強調し、民衆を教化してめこうとするところに、その目的がある。そのためにこれらの本は、至る所に霊験奇瑞が取り入れられているのが常である。
          「弘法大師 空海全集」第8巻 167P


行状図画などの絵巻物は、中世になって作られたもので、弘法大師伝説や高野山信仰を広めるために高野聖が絵解きのために使用されました。そのため後世に附会されたり、創作された部分が数多くあります。今回は、絵巻の作成の際に参考にした空海が残した文書に高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
まず、「高野山開創」の時期を年表化しておきます。
806(大同元)年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位。
  10月、空海帰国し、大宰府・観世音寺に滞在。
10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
809(大同4)年 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に移動・滞在
 7月 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
 空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。
810(大同5)年 薬子の変で、嵯峨天皇のために鎮護国家のための大祈祷実施
811(弘仁2)年から翌年にかけて乙訓寺の別当を務めた。
812(弘仁3)年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者には最澄もいた。  
12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名
815(弘仁6)年春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼。西国筑紫へも勧進をおこなった。
816(弘仁7)年6月19日、修禅道場として高野山下賜の上表文提出
                             7月8日、嵯峨天皇より高野山下賜の旨勅許を賜る。
817(弘仁8)年 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手
818(弘仁9)年11月、空海自身が高野山に登り翌年まで滞在し伽藍建造プラン作成?
819(弘仁10)年春、七里四方に結界を結び、高野山の伽藍建立に着手。
821(弘仁12)年 満濃池改修を指揮(?)
822(弘仁13)年 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。平城上皇に潅頂を授けた。
823(弘仁14)年正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
824(天長元)年2月、勅により神泉苑で雨乞祈雨法を修した。
         3月 少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)
空海は唐から帰朝した十年後の弘仁7(816)6月19日付に、嵯峨天皇に高野山の下賜を申し出ます。ここから高野山の歴史は始まるとされます。この願いはただちに聞き届けられ、7月8日、天皇は紀伊国司に太政官符を下し、大師の願い通りにするよう命じています。

空海が高野山の下賜を、嵯峨天皇に申し出た理由として、次の3つの説があるようです。
①空海が少年のころ、好んで山林修行をされていたとき、訪れたことがある旧知の山であり、そのころからすでにこの地に着目していたとする説
②十大弟子のひとりである円明の父・良豊田丸(よしのとよたまる)が、空海が伽藍建設にふさわしい土地を探し求めていることを聞き、高野山を進言したとする説。
③弘仁7(816)年4月、伽藍建立の地を探し求めていたとき、大和国宇智郡でひとりの猟師(犬飼)に出逢い、この犬飼に導かれて高野山にいたり、この地を譲られたとする説。

この3つの説の従来の評価は、次の通りです。
①が史料的にもっとも信憑性の高い説
②は史料的には必ずしも信頼できない説
③は伝説の域をでない説
以上を押さえた上で、空海の残した文章で、高野山の開創を見ていくことにします。
まず、 弘仁7年(816)6月19日付の空海の上表文の全文を押さえておきます。

空海上表文 高野山下賜

高野山下賜を願う空海上表文
紀伊の国伊都の郡高野の峰において、人定の所を請け乞わるるの表
A 沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤し、水積るときは魚龍産化す。是の故に嗜闍(ぎじゃ)の峻嶺には能仁(のうにん)の跡休ず。孤岸の奇峰には観世の跡相続ぐ。共の所由を尋ぬるに、地勢自ら爾なり。また台嶺の五寺には禅客肩を比べ、天山の一院には定侶袖を連ること有り。是れ則ち、国の宝、民の梁(はし)なり,
B 伏して推れば、我が朝歴代の皇帝、心を佛法に留めたまへり。金刹銀台櫛のごとく朝野に比び、義を談ずるの龍象、寺ごとに林を成す。法の興隆是において足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客乏しく、幽藪窮巌(ゆうそうきゅうがん)に入定の賓希(まれ)なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せざるが致す所なり。今禅経(密教)の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
C 空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野従り南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地有り。名付けて高野と曰ふ。計るに紀伊の国伊都郡の南に当れり。四面高峯にして人跡路耐えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を刈り夷(たいら)げて、聊か修禅の一院を建立せん。経の中に戒有り。「山河地水は悉く是れ国主の有なり、若し此丘、他の許さざる物を受用すれば、即ち盗罪を犯す」者(てへり)。加以(しかのみなら)ず、法の興廃は悉く人心に繋れり。若しは大、若しは小、敢えて自由ならず。
D 望みみ請うらくは、彼の空地を賜わることを蒙って、早く小願を遂げん。然れば則ち、四時に勤念して以て雨露の施を答したてまつらん。若し天恩允許せば、請う、所司に宣付したまへ。軽しく震展を塵して伏して深く煉越す。沙門空海、誠惇誠恐、謹んで言す。
弘仁七年六月卜九日 沙門空海上表す       (『定本全集』第八 169~171P
意訳変換しておくと
 紀伊の伊都郡高野の峰の下賜を請願書

A 私・空海は次のように聞いている。山が高いと雲集ま り、雨多くして草木を潤す。水が深いと魚龍集まり住 み、繁殖も盛んである。このように峻嶺たる嗜闊堀山に は、釈迦牟尼が出てその教えが継承され、奇峯たる補陀洛山には、観世音菩薩が追従されている。それはつまり高山峻嶺の地勢が、仏道修行者に好適地であるためである。また台嶺の五寺には、禅客が肩を並べて修行し、天山の一院には、優れた僧侶が袖を連ねています。これは、国の宝であり、民の柱です。
B 還りみると、歴代の天皇は佛法を保護し、壮麗なる伽藍や僧坊は櫛のはのごとくに、至るところにたちならび、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(じゅ)をなしています。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾におもえることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定にはいるものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法がいまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものです。いま禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
C 空海、若年のころに好んで山水をわたり歩きました。吉野の山より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること二日ほどのところに、高野と呼ばれている平原の閑寂なる土地がございます。この地は、紀伊の国伊都の郡の南にあたります。四方の峰高く、人跡なく、小道とて絶えてございません。いま、上(かみ)は国家のおんために、下(しも)は多くの修行者のために、この生い茂る原生林を刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立いたしたく存じます。
 経典の中に次のような戒めがあります。「山河地水は、総て国主(天皇)のものである。もし、国守の許さない土地を無断で受用すれば、即ち盗罪である。法の興廃は、人心の盛衰に繋がります。貴賤に関わらず、法を遵守することが大切です。
D 高野の地を下賜され、一刻も早く小願が遂げられること望み願います。そうすれば、昼夜四時につとめて、聖帝の慈恩にむくいたてまつります。もし恩顧をたれてお許したまえば、所司にその旨を宣付したまわらんことを請いたてまつります。軽軽しく聖帝の玉眼をけがし、まことに恐れ多く存じます。沙門空海誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言上いたします。        弘仁7年(816)6月19日 沙門空海表をたてまつる
この文章は空海が嵯峨天皇に宛てた上表文で、根本史料になります。後世の高野空海行状図画などの詞書は、この上表文を読み込んだ上で、これをベースにして書かれています。そして、後世になるほど付加される物語が増えていきます。
上表文の中で、空海が高野山のことを書いているのは、次の点です。
①若い頃に山岳修行で、高野山も修行ゲレンデとしてよく知っていた。
②位置は、古野から南へ一日、そこから西に向って三日の行程でたどりつける
③地理的環境は、まわりを高い峰々にかこまれ、まれにしか人の訪れることのない幽玄閑寂な沢地であること
④紀伊国伊都郡の南に位置していること

高野山4


ここで疑問に思うのは、どうして都から逮くはなれた不便な山中に、伽藍を建立しようとしたのかという点です。高野山開創の目的を、空海はDに「一つの小願を成し遂げるため」として、次のように記します。

私のお願いしたいことは、彼の空地(高野の地)を賜りまして、上は国家鎮護を祈念するための道場としての、下は多くの仏道修行者が修行するための道場としての、小さな修禅の密教の寺を建立して、早く小願を成し遂げたいことであります。



空海小願を発す。

 それでは「高野山開創」の小願を、空海は、いつ・どこで立てたのでしょうか?
それが分かるのは、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙です。主殿寮とは、天皇の行幸の際の乗物・笠・雨笠など一切の設営管理を担当する役所であり、布勢海はそこの次官でした。その手紙の全文を見ておきましょう。

A 此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。

B 貧道、少年の日、修渉の次に、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原有り。名づけて高野と曰う、計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高山にして人亦遙に絶えたり。彼の地、修禅の院を置くに宜し。今思わく、本誓を遂げんが為に、聊か一の草堂を造って、禅法を学習する弟子等をして、法に依って修行せしめん。但恐るるは、山河土地は国主の有なり。もし天許を蒙らずんば、本戒に違犯せんことを。伏して乞う。斯の望みを以聞して、彼の空地を賜うことを蒙らん。若し天恩允許せば、一の官符を紀伊国司に賜わらんことを欲す。
委曲は表中に在り。謹んで状を奉る。不具。沙門空海状す。
布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P
意訳変換しておくと

A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。次第に温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

B 私・空海は、若いときに山林修行を行いました。その際に、吉野山から南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原があることを知りました。この地は高野と呼ばれています。行政的には紀伊国伊都郡の南で、四方が高山で人跡絶えた処です。この地が、修禅の院(寺院)を置くに相応しいと考えています。今考えていることは、本願を遂げるために、小さな草堂を造って、禅法(密教)を学習する弟子等を育て、法に依って修行させたいと思います。しかし、私が恐れるのは、我が国の山河土地は、すべて国主たる天皇のものです。もし、天皇の許しを得ずして無断で、寺院を建立したとなれば、それは国法に違犯することになります。そこで、私の望みを以聞(天皇に伝えて)、彼の空地(高野山)を賜うことを取り計らって欲しいのです。もし、それが許されるのなら、官符を紀伊国司に下していただきたい。詳しくは別添の上表文に書いています。謹んで状を奉る。不具。
沙門空海状す。布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P

この手紙には、日付がありません。しかし、後半部は、先ほど見た上表文と同じ内容の文章があります。ここからは、高野山の下賜を願い出るに当たって、天皇側近の布勢海に、側面からの助力を依頼した私信と研究者は考えています。空海には、天皇側近中にも多くの支援信者たちがいたようです。
 このなか、船上で立てられた「小願」とは、Aの次の箇所です。

もし無事に帰国できたなら、諸々の天神地祇の成光を増益し、鎮護国家と人々の幸福を祈らんがために密教寺院を建て、密教の教えにもとづいた修禅観法を行いたい。願はくは善神われを護りたまい、早く本国に達せしめよ。

その結果、神々の加護をうけて無事帰国することができたのです。帰国後、月日はまたたく間に過ぎ去り、12年が過ぎ去ろうとしています。このときの小願をそのまま放置しておけば、神々をだますことになるので、一日も早く、神々との約束を成し遂げたいと、布勢海に切なる願いを伝えたのでしょう。
こうして、7月8日付で紀伊国司にあてて出された太政官符が以下の内容です。

紀伊国国司への太政官符 高野山
紀伊国司に下された太政官符 空海への下賜が命じられている

それでは、どうして高野山が選ばれたのでしょうか? 
その理由を空海は、上表文の中に次のように記しています。

今、禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宣し。

この時点では、空海は自らの教説を「密教」とは呼んでいません。「密教」という用語が登場する以前の段階です。ここでは「禅経」としています。禅経とは、『大日経』『企剛頂経』をはじめとする密教経論のことのようです。そうすると、密教経論には、密教の修行にもつともふさわしい場所が具体的に記されていることになります。それを確認しておきましょう。
金剛知の口訳『金剛頂喩伽中略出念誦経』巻 には、次のように記します。

諸山は花果を具するもの、清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所、或は寺内に在し、或は阿蘭若、或は山泉の間に於て、或は寂静廻虎、浄洗浴庭、諸難を離るる処、諸の音声を離る処,或いは、意所楽の処、彼に於いて応に念涌すべし。     (『大正蔵経』十八 224P(中段)

最後に「彼に於いて応に念謡すべし」とあり、次のような場所が密教修行には相応しい場所とされています。
①「諸山は花果を具するもの」とは、花が咲き、実を付ける木々が数多くある山
②「清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所」とは、清らかな水が湧き流れていて、そこに足を運ぶと、おのずからこころが楽しくなるような池・沼・川
③「阿蘭若」は争いのないところで、具体的には寺のこと
④「諸難を離るる庭」とは、毒蛇とか毒虫などによって修行が妨げられない所、
⑤「諸の音声を離る処」とは、耳障りな音声・ざわざわした雑踏の音がしないないところ
以上からは、高野山が修禅の道場の建立地として選ばれた理由は、「修禅観法(密教の修行)の地としてもっともふさわしいのは、深山幽谷の平地である」と説く金剛知の『略出念誦経』などの密教経典の教説に従ったと研究者は考えています。

別の視点から見ると、当時のわが国の仏教界に対する批判の裏返しでもあったようです。
上表文の前半部には、次のような部分がありました。

インドの霊鷲山の峻嶺にはお釈迦さまが垂迹されるという奇瑞が次つぎにおこり、補陀洛山には観音善薩応現の霊跡が相ついであらわれている。その理由をたずねると、高山峻嶺の地勢の故であるという。また唐では、五台山・天台山といった山岳に寺院が建てられ、そこには禅観を修する者が多く、それらの修禅者は国の宝、民の梁(国人々の大きな文え)となっている、

これらの霊山に高野山が地に優るとも劣らない霊的にすぐれた聖地であることを主張します。

その一方で、わが国に目を転じてみると、歴代の天皇は仏教を崇拝し、壮麗な寺院が数多く建て、そこには高徳の僧がたくさんいる。仏法の興隆ということからすれば、これでに充分だが、残念なことは、高山峻嶺に人って禅観(密教)を修する人が極めて少ない。それは、修禅観法を説く経典が伝わつておらず、また修禅にふさわしい場所もないからである。

と、わが国の現状を批判します。この批判の背後には、天台・律・三論・法相の諸宗に対する密教の優位性と、正統な密教を請来してきたという空海の自負がうかがえます。
以上をまとめておきます。
①高野山は、帰朝の際に嵐にあって漂流する船上で、無事帰国を願って密教寺院建立の小願を立てた。
②その建立目的は、一つには鎮護国家と人々の幸福で平安な生活を祈念するための道場として
③もう一つの目的としては、諸々の修行者の修禅の道場とするためであった。
④小願達成のために帰国から十年経った時点で、天皇側近で空海シンパの高官を通じて、嵯峨天皇に上表文を提出した。
⑤密教寺院の立地条件としては、金剛知が説くように高山・霊山が第一条件とされ、その結果、空海が若い頃の修行ゲレンデでもあった高野山が選ばれた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


さんこしょを投げる3
第3巻‐第8場面 投椰三鈷(高野空海行状図画 トーハク模写版)
前回に見た明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。港の先に立った空海は懐から三鈷杵を取りだし、「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に三鈷杵を投げます。画面は、三鈷杵が空海の手を離れる瞬間です。
 このとき投げた三鈷杵を、空海は後に高野山上で発見します。それが高野山に伽藍が建てられることになるという話につながります。今回は、高野空海行状図画で、高野山開創がどのように描かれているのかを見ていくことにします。
高野上表1
高野山の巡見上表(高野空海行状図画詞書)

高野尋入2 高野空海行状図画
             第七巻‐第1場面 高野尋入(高野空海行状図画)

空海が唐から帰朝して約十年の年月が流れた弘仁7(817)年4月のことです。高野空海行状図画の詞書には次のように記されています。大和国字智郡を通りかかった空海は、ひとりの猟師に呼びとめられます。
「いずれの聖人か。どこに行かれる」
「密教を広めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じ、唐から投げた三鈷杵を探し求めている」と、空海は答えます。
「われは南山の犬飼です。その場所を知っている。お教えしよう」
といい、道案内のため、連れていた2匹の黒犬を走らせた。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2
高野空海行状図画(愛媛県博物館)

この話をのせる最古の史料は、康保5(968)年頃に成立した『金剛峯寺建立修行縁起』です。
そこには、次のように記されています。
①空海から「禅定に相応しい霊地を知らないか」と声をかけられた猟師は、「私は南山の犬飼です。私が所有する山地がびったりです。もし和尚が住んでくださるならば助成いたしましょう」と応えたこと
②猟師がつれていたのが白黒2匹の犬であること
①からは、南山の犬飼は、高野山の地主神であったことが分かります。それが高野空海行状図画では、ただの犬飼になっています。その重要度が、低下していることが分かります。

画面は、空海が猟師が出会ったところです。犬がいぶかって吠えたてますが、空海はやさしく犬を見ています。
高野山巡見上表1 高野空海行状図画親王院版
高野山巡見・上表 高野空海行状図画(親王院本)

詞書は、猟師の身なりを、次のように記します。

其の色深くして長八尺計也。袖ちいさき青き衣をきたり。骨たかく筋太くして勇壮の形なり。弓箭を身に帯して、大小二黒白の犬を随えたり。

意訳変換しておくと
身の丈は八尺あまり、肌は赤銅色で筋骨たくましく勇壮な姿で、青衣を着、弓と箭をたずさえて、黒と白の犬を連れていた。

やはり、もともとは白黒の2頭の犬だったことを押さえておきます。それが黒い犬に代わっていきます。
高野尋入4 高野空海行状図画
第七巻‐第2場面 巡見上表(高野空海行状図画:トーハク模写版)
紀ノ川のほとりで犬と再会した空海は、犬に導かれながら南山をめざして登ります。すると平原の広い沢、いまの高野山に至ります。まさに伽藍を建立するにふさわしい聖地と考えた空海は、弘仁7年(816)6月、この地を下賜されるよう嵯峨天皇に上表します。ただちに勅許が下り、伽藍の建設に着手します。画面は、犬に導かれながら南山に踏み入っっていく空海の姿です。


丹生明神
第七巻‐第3場面 丹生託宣(高野空海行状図画:トーハク模写版)
この場面は、天野に祀られる丹生大明神社の前で析念をこらし、高野の地を譲るとの託宣をきかれる空
海。
遺告二十五ヶ条には、このことについて、次のように記されています。(意訳)
高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
こうして大師は、高野山の地を山王から譲渡された。また、さきに出逢った猟師は高野明神であった、という。


高野山地主神 高野空海行状図画
高野山の地主神と丹生大明神社

空海は、高野山に伽藍を建てるのは、ひとつの「小願」を成しとげるためであると云います。

小願とは唐からの帰り、嵐の船上で立てられた次の祈願です。

「もし無事に帰国できたならば、日本の神々の威力をますために、ひとつの寺を建てて祈りたい。なにとぞご加護を」と

そして弘仁七年(816)7月、嵯峨天皇から高野の地を賜わつた大師は、ただちに弟子の実恵・泰範を派
遣し、伽藍建設にとりかかります。その際に、丹生明神を祀つていた天野の人たちに援助を請います。空海がやって来たのは整地が整った10月です。そして、結界の法を修し、伽藍配置をきめていきます。空海の構想した伽藍配置は、次の通りです。
①中央線上に、南から講堂(いまの金堂)と僧房をおき
②僧房をはさんで東に『大日経』の世界を象徴する大塔
③西に『金剛頂経』の世界を象徴する西搭
これは空海独自の密教理論にもとづくものでした。この基本計画に従って整地作業が始まります。

三鈷宝剣
「三鈷・宝剣」 高野空海行状図画詞書

さんこしょう発見2
              第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画)

工事を見守っていた空海が頭上を見上げると、一本の松にかかつている三鈷を発見します。それは唐の明州(寧波)から投げた三鈷杵が燦然と輝いていたのです。これをみた大師は、この地が密教相応の地であることを確信し、歓喜します。
 この場面に続いて、原生林が切り払われ、原野が整地されていく様子が描かれます。

高野山建設2
     第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画) 空海の前の石に置かれた宝剣

 伽藍の作業を行っていると、長さ一尺、広さ一寸人分の宝剣が出てきます。
左手の空海の前に、その剣が置かれています。(クリックすると拡大します)。ここからこの地はお釈迦さまが、かつて伽藍を建てたところであったことを確信したと記します。
    高野山の開創にまつわる「三鈷の松」の伝説では、三鈷杵がかかっていたのは松の木とされ、その松を 「三鈷の松」と称してきました。これはいまも御影堂の前にあるようです。しかし、三鈷杵を投げたことを記す最古の史料『金剛峯寺建立修行縁起』では、具体的にその木が何だったのかは記していません。ただ単に「三鈷杵は一本の樹にはさまっていた」と記します。それでは、いつ、どんな理由で、松の木になったのでしょうか? これについて、次回に述べるとして絵巻を開いていきます。

大塔建設
第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
朱の大塔の前には満開の桜が描かれています。一遍上人絵伝に描かれた伽藍は、桜が満開だったのを思い出します。

高野空海行状図画の詞書には、次のように記します。
①南天鉄搭を模した高さ十六丈(約48m)の大塔には、一丈四尺の四仏を安置
②三間四面の講堂(現金堂)には丈六の阿しゅく仏、八尺三寸の四菩薩を安置
③三鈷杵のかかっていた松のところに御影堂を建設

画面には、南北朝期以降のこの親王院本『行状図面』が作成された当時の壇上伽藍の建物がすべて画かれているようです。
高野山伽藍 高野空海行状図画親王寺蔵
               大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
これを拡大して右から見ていくと

高野山伽藍右 高野空海行状図画
大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
東搭 → 蓮華乗院(現大会堂)→  愛染堂→ 大搭 → 鐘楼 → 中央に金堂 → その奥に潅頂堂 → 三鈷の松と御影堂
手前に 六角経蔵 → 奥に准提堂 → 孔雀堂 → 西塔、

高野山大塔 高野空海行状図画

左端に 鳥居 → 山王院 → 御社
研究者がここで注目するのは、御影堂の前の三人の僧と、孔雀堂の前の三人の参拝者です。
高野山伽藍の整備された威容と、そこに参拝する人達というのは、何を狙って書かれたモチーフなのでしょうか。これを見た人達は、高野山参拝を願うようになったはずです。
 各地にやって来た高野聖達が、この高野空海行状図画を信者達に見せながら、空海の偉大な生涯と、ありがたい功徳を説き、高野山への参詣を勧めたことが考えれます。ここでは、高野空海行状図画が、弘法大師伝説流布と高野山参拝を勧誘するための絵解きに使われたことを押さえておきます。そうだとすれば高野聖たちは、ひとひとりがこのような絵伝を持っていたことになります。それが弘法大師伝説拡大と高野山参拝の大きな原動力になったことが推測できます。

伽藍建設1
         第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)

伽藍建設2
          第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
今回は高野空海行状図画に描かれた高野山開山をみてきました。次回は、空海の残した文書の中に、高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
DSC03176
一遍上人絵伝の高野山大塔
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   武内孝善 弘法大師 伝承と史実

弘法大師行状絵詞や高野空海行状図画に描かれた空海の入唐求法を見ています。今回は、長期留学を中止して、タイミング良くやって来た遣唐使船に便乗して帰国することになった場面を見ていくことにします。絵図は「トーハク」の江戸時代の模写版の高野空海行状図画です。

さんこしょを投げる1
高野空海行状図画(トーハク蔵模写版) 大師投三鈷事 明州(寧波)から三鈷杵を投げる

さんこしょを投げる2
高野空海行状図画 第二巻‐第8場面  明州(寧波)の港

この場面は、明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。この場面を見ていると、どこかで見た構図であることに気がつきます。

入唐福州着3
往路の福州の港(高野空海行状図画)
往路に到着した福州の港や建物がコピーされ、その周りの人物だけが書き換えられています。こんな「使い回し」が、この版にはいくつかあります。近世の絵師らしい「省力化」が行われています。

さんこしょを投げる3
            大師投三鈷事 明州(寧波)から三鈷杵を投げる
港の先に立った空海は、おもむろに懐から、三鈷杵(さんこしょ)を取り出します。
そして「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に向かって投げます。描かれているのは、空海の手の先から三鈷杵が離れる瞬間です。左上には、雲に乗った三鈷杵が光を放ちながら東国に飛んでいきます。
 さて、寧波で投げた三鈷杵は、どこに飛来したのでしょうか。

さんこしょう発見2
            高野山の松の枝にある三鈷杵を発見する空海
高野空海行状図画には、高野山上の松の枝にある三鈷杵を空海が発見する場面があります。つまり、高野山こそが「密教を広めるにふさわしい所」と啓示され、そこに伽藍が建てられることになります。高野山は、神からの啓示が空海に示された「約束の地」であったことを語る伏線となります。この飛行鈷の話も、後世に創作された伝説と研究者は考えています。

    空海を唐から連れ帰ったのは判官・高階遠成の船でした。
遠成が乗っていった船と出港時期については、次の二つの説があります。
①第四船として出発し、漂流の後に遅れて入唐したとする説(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
この2つの説について、研究者は次のように指摘します。
高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であった。
①遠成を乗せた第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」ということになります。

空海を乗せた船の博多到着と、その後の経過を詞書は次のように記します。
①806(大同元)年10月に帰朝した空海は、持ち帰った経論・道具などを『御請来目録』にまとめ、高階遠成に託して朝廷に上程したこと
②上京の勅許が下るまで空海を観上音寺に住まわせること。
③翌年に、空海が京洛に入ることが許されたこと
しかし、トーハク版模写の高野空海行状図画には、この部分を描いた絵図場面はありません。そこで親王院版の絵図を見ていくことにします。

博多帰朝
高野空海行状図画 親王院版3-9 著岸上表

場面は、九州・博多津に帰り着いた判官高階速成と空海です。
 古代・中世には石垣の港湾施設はなく、津は砂浜でした。そのため本船は沖に停泊し、渡し船で上陸・乗船を行っていたことは以前にお話ししました。また、砂浜には、倉庫などの付帯施設もなく、ただ砂浜があるだけでした。石垣があり、本船が着岸できる中国の福州や寧波とは描き分けられています。しかし、この行状図の遣唐使船は、今までに出てきた遣唐使船に比べるとあまりに小さく貧弱に描かれています。船の屋根も茅葺きで粗末です。左の渡船と比べても、あまり大きさが変わりません。本当にこれが遣唐使船なのか疑問が湧きます。

博多帰朝.2JPG

②上陸した遣唐使たちが左方面に歩んでいきます。中央の2人の僧姿の先頭は空海でしょう。では、空海に従う黒染めの僧は誰なのでしょうか。 橘逸勢がいっしょに帰国しましたが、僧は空海一人でした。後世の史料に空海に同行して入唐したとされるようになる佐伯直家の甥の知泉だろうと、研究者は推測します。
③その左手の3つの小屋と、その後の塀で仕切られた一角は、何の建物なのでしょうか。よく分かりません。こうしてみると、「著岸上表」と題された博多上陸については、詞書と絵が一致していないことが改めて分かります。この不一致は、どこからきているのでしょうか?
そのヒントは、「御招来目録」にあります。この最後を、空海は次のように閉めています。
  空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。ここには「空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。」と、自らが記しています。国法を破って、1年半あまりで帰国したのです。そのため「敵前逃亡者」と罰せられる可能性も覚悟していたはずです。
そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて記され、その重要性や招来意図の説明まで記されています。それは、必死の作業だったはずです。
 提出した「招来目録」や密教招来の意味が、宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったはずです。最澄の「援護射撃」がなければ、博多での滞在は、もっと長くなっていたかもしれません。九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。以上をまとめておくと
①空海は20年の長期留学僧として、長安に滞在した
②しかし、2年足らずで帰国することを選んだ。
③これは国法を破るもので処罰対象となるものであった。
④そこで空海は、自分の留学生成果を朝廷に示すために「御招来目録」を提出した。
⑤このような事情があったために、高野空海行状図画などは「空海=無断帰国」部分について、恵果の指示や遺言に基づくものだったという話を創作挿入した。
⑥一方、査問審査中の九州滞在については、そのあたりの事情をぼかした記述とした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

遺道相伝1 高野空海行状図画
遺具相伝(高野空海行状図画)

高野空海行状図画や弘法大師行状絵詞で、空海の入唐求法がどのように描かれているのかを追いかけています。

遺道相伝2 高野空海行状図画
       高野空海行状図画    第二巻‐第5場面 道具相伝  

この場面は、正統な密教を受け継いだしるしとして、袈裟が恵果和尚から空海に渡されようとしている「遺具相伝」の場面です。

袈裟をもつのが恵果和尚、手を差出して受け取ろうとしているのが空海です。         
この袈裟が御請来目録に、恵果から相伝したとして記される健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)です。健陀とは袈裟の色調を、穀糸は綴織技法を示すとされます。仏教では、捨てられたぼろぎれを集め縫いつないだ生地で作られた袈裟を最上とし、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼びます。この袈裟も、さまざまな色や形の小さな裂を縫い留めた糞掃衣のように見えますが、実際には綴織に縫い糸を表現する絵緯糸(えぬきいと)を加え、糞掃衣を模した織物であると研究者は指摘します。この袈裟は、今も東寺に保管されているようです。それを見ておきましょう。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)
原形をとどめない健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)

傷みが激しくその原形を留めていないようです。というのも、空海が天皇の五体安穏と五穀豊穣を祈念する始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)には、導師を勤める阿闍梨がこの袈裟を着るしきたりだったからです。そういう意味では、この袈裟は真言宗においては、別格の位置を占める袈裟だったことになります。そのため長年の使用で、原型も留めないほどに痛んでいます。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)復刻
                  健陀穀子袈裟 復刻版

 2023年10月の真言宗立教開宗1200年慶讃大法会の開催に向けて、東寺ではこの袈裟を復刻したようです。それが上記の復刻版になります。紫色や赤などのもっと派手な色使いのモノと思っていたのですがシックです。

招来目録冒頭1
空海の御招来目録
空海の朝廷への帰国報告書である『御招来目録』については、恵果から正式に法を伝授したしるし(印信)として、以下のものを受け継いだと記します。
①仏舎利八十粒(金色の舎利一粒)
②白檀を刻す仏・菩薩・金剛などの像
③白緋大曼荼羅尊四百四十七巻
④白諜金剛界三昧耶曼荼羅尊 百二十巻
⑤五宝三昧味耶金剛       一口
⑥金鋼鉢子一具         二口
⑦牙床子         一口
白螺貝        一口
   これらは金剛智・不空・恵果と相伝されてきたもの8種です。①の仏含利と⑧の白螺貝は東寺に、②は金剛峯寺に、いまも伝存するようです。

白螺貝はシャンクガイ
 白螺貝はシャンクガイのことで、インドでは古くから聖貝として珍重され、メディテーションツールや楽器としても使用されてきました。その中でも左巻きのシャンクガイは特に貴重とされており、宝貝中の宝貝として尊ばれきたようです。
一方、恵果和尚自身が使用していたものは、次の5つです。
⑨健陀穀子袈裟          一領
⑩碧瑠璃供養碗   二口
⑪琥珀供養碗     一口
⑫白瑠璃供養碗   一口
⑬紺瑠璃箸     一具
このうちで、いまも伝存するのは先ほど見た⑨健陀穀子袈裟だけのようです。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。

恵果和尚入滅1
恵果御入滅

恵果和尚入滅2.jpg 高野空海行状図画
第3巻‐第6場面 恵果入滅 
恵果和尚の人寂場面です。永貞9(805)12月15日のことで、行年61歳でした。
空海の「恵果碑文」(『性霊集』巻3)には、次のように記します。

「金剛界大日如来の智拳印をむすび、右脇を下にして円寂なされた」

しかし、この絵では、智拳印ではなく、外縛(げばく)印となっていると研究者は指摘します。それはともあれ、まん中に恵果和尚、その周りを弟子が取り囲む構図は、お釈迦さまの混槃図にの構図と同じです。その後の鎌倉新宗教の祖師たちの入滅場面も、同じような構図が多いようです。その原形になったともいえるのかもしれません。

恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』には、恵果の遺言が次のように記されています。
 師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。(それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。
 それは和尚が亡くなる日の夜のことである。死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。
「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。
 このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
 孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。
長々と引用しましたが、この文章の中で伝えたいことは、恵果の次の遺命でしょう。

「あなたには、私の持っているものをすべて伝えた。だから、一日も早く日本に帰りなさい。そうして、この教えをもって天皇にお仕えし、日本国の鎮護を、また人々の幸せを折りなさい」

このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない

20年という長期留学僧の年期にこだわらず、早期帰国を恵果も進めた。師の言葉には従わざるえないということです。ここからは短期で帰国することに、強い葛藤があったことがうかがえます。

恵果の蘇り 高野空海行状図画
                第3巻‐第7場面 恵果影現(ようげん)   
恵果和尚が人寂した夜、空海は一人で道場で冥想していると、その場に恵果が現れたという場面です。このとき恵果は、次のように空海に語ったとされます。

あなたと私のえにしは極めて深く、師資(しし)(師と弟子)の関係も一度や二度だけのものではない。このたびは、あなたが西行して私から法を受けられた。つぎは、私が東国に生れ、あなたの弟子となろう」

この夜の出来事が空海をして、留学を打ち切り帰国する決意を固めさせたとされます。国家の定めた留学期間を、個人の判断で短縮することは、許されることではありません。敢えてそれを破ろうとするからには、それだけの動機と理由が必要になります。そのひとつとして「恵果影現」が織り込まれているようです。

 空海は、翌年正月十七日の埋葬の儀の時に、弟子を代表して「恵果碑文」(正式には,「大唐神都青龍寺故三朝の師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」)を書きます。そこには恵果和尚の人柄を次のように記します。
「…縦使(たとひ)財帛軫(しん)を接し,田園頃(けい)を比(なら)ぶるも,
受くる有りて貯ふること無く,資生を屑(いさぎよ)しとせず。
或いは大曼荼羅(まんだら)を建て,或いは僧伽藍処(そうがらんしょ)を修す。
貧を済(すく)ふには財を以てし,愚を導くには法を以てす。
財を積まざるを以て心と為し,法を恡(を)しまざるを以て性と為す。
故に,若しくは尊,若しくは卑,虚(むな)しく往きて実(み)ちて帰り,
近き自(よ)り遠き自り,光を尋ねて集会(しゅうえ)するを得たり。」
(「遍照発揮性霊集・巻第2」『弘法大師・空海全集・第6巻』筑摩書房所収)
意訳変換しておくと
「(恵果和尚は)…たとえ,数多(あまた)の財宝・田園などを寄進(寄附)されても,
受け取るだけで貯えようとせず,財産作りをいさぎよしとしなかった。
(寄進を受けた財産については)あるいは大曼荼羅の制作費にあて,あるいは,寺院の建設費にあてられた。貧しい方には,惜しみなく財貨を与え,愚民を導くには,仏法を説かれた。財貨を貯蓄しないことを方針とし,仏法の教授に力をおしまないことをモットーとした。それ故に,尊貴な者も卑賤の者も,空虚な身で(恵果和尚のもとへ)出かけて満ち足りて返り,遠近から多くの人々が,光を求めて集まる結果となった。」
恵果のポリシーや生き方がよくうかがえます。このような生き方からも空海は、多くのことを学んだはずです。こうして一連の仏事をおえます。
このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
今回は、ここまでにしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
武内孝善/弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く

参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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浄厳和尚伝記史料集 | 霊城, 上田 |本 | 通販 | Amazon


戦国時代に戦禍に遭って衰退していた善通寺は、近世になって復興への歩みをはじめます。その際に、おおきな事件として、それまでの法脈を換えたことです。その立役者が浄厳であることは、以前にお話ししました。今回は、彼が善女龍王の勧進と雨乞信仰ももたらしたことを見ていくことにします。
浄厳がもたらしたもののもうひとつが、雨乞祈祷と善如(女)龍王の勧進です。

2善女龍王4
高野山の善如(女)龍王  高野山は男神

「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、浄厳が善通寺に招かれて経典広義を行った時に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を、浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王のようです。

5善通寺
善通寺の善女龍王社(善通寺東院) 

それを裏付けるのが、本堂の西側にある善女龍王の小さな社です。この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡で、調査報告書には、

「貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札」

が出てきたことが報告されています。最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。これは浄厳によって善女龍王信仰による雨乞祈祷の方法がもたらされたという記録を裏付けるものです。逆に言うと、それまで讃岐には真言密教系の公的な雨乞修法は行われていなかったことになります。

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められた約80件の雨乞文書が残されています。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。

5善女龍王4jpg
京都神仙苑の雨乞お札
浄厳評伝の中には、高松藩主松平頼重関係が次のように記されていました。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述する。

松平頼重と浄厳の関係について見ておきましょう。
 浄厳が善通寺を訪れたことを聞いた頼重(隠居名:源英公)は、彼を高松城下へ招請します。そして、翌年1679年正月に謁見、以後、頼重は源英公は息女であった清凍院讃誉智相大姉とともに連日聴聞したようです。頼重は、2月には浄厳のために石清尾八幡宮内に現証庵を建立し住まわせます。また、4月には、浄厳が老母見舞のために河内に帰省するに際には、高松藩の御用船を誂えて送迎しています。その信奉のようすは『行状記」に詳しく記されています。ここからは、  頼重が浄厳に深く帰依していたことがうかがえます。ちなみに頼重は、年少期には京都の門跡寺院に預けられて「小僧」生活を長く送っています。そのため宗教的な素養も深く、興味関心も強かったようです。
頼重の再招聘に応じて浄厳は、延宝八年(1680)3月に再び高松にやってきます。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
 凶事とされていた彗星の出現を予測していた浄厳は、浄厳は、白河上皇の永保元年(1081)に大江匡房が金門鳥敏法厳修を奏上した際に、ただひとり安祥寺の厳覚律師だけが知っていて五大虚空蔵法を修された故事を頼重に語ります。これを聞いて頼重は、髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に従って同法を伝授させます。そして、五大虚空蔵尊像十幡を十ヶ寺に寄付し、正月・五月・九月に五大虚空蔵求富貴法を修行させるように命じます。これは以後、毎年の恒例となっていきます。そして、浄厳は河内の延命寺で金門鳥年法を七日間修し、それが彗星到来にともなう凶事を事なきことに済ませたとされます。こうして浄厳の讃岐での名声は、彗星到来を機にますます高まります。翌天和二年(1682)には、頼重62歳の厄除祈祷を行っています。
彗星到来の凶事を防ぐために「髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に命じて五大虚空蔵法を伝授し、尊像十幡を十ヶ寺に寄進した」とあります。
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵菩薩

それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
秀吉の命で生駒氏が領主として入部した際に、讃岐領内十五の祈祷寺が決められていました。生駒騒動後には、讃岐は髙松藩と丸亀藩に分けられますが、「東讃十ヶ寺・西讃五ヶ寺」と呼ばれているので、高松藩領内では通称「十ケ寺」として東讃十ケ寺がこれを引き継いだようです。その「十ヶ寺」を挙げておきます。

阿弥陀院・地蔵院・白峯寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院

この筆頭は髙松城下町の石清尾八幡官別当寺であった阿弥陀院で、寺領高200石余、白峯寺がこれに次いで120石です。このほか、大般若会や雨乞い祈祷も、これら十ヶ寺の所役であったことは、以前にお話ししました。特に大般若経は阿弥陀院と白峯寺が月替りに参城して転読したようです。

白峯寺 五大虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩像(白峯寺)

 白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。

白峰寺の善女(如)龍王
白峯寺の善女龍王
 白峰寺の善如(女)龍王像(第105図・第106図)も雨乞祈祷の本尊として、浄厳の先例に拠って調えられたと研究者は考えています。確かに絵は男神の善如龍王で、女神の善女龍王ではありません。真言系雨乞修法の本尊は、男神像像の善如龍王から、女神の善女龍王に「進化」しますが、それが醍醐寺の宗教的戦略にあることは、以前にお話ししました。ここでは、善通寺や白峯寺などの雨乞本尊が男神の善如龍王で、高野山からの「直輸入」版であることを押さえておきます。これも、讃岐に善如龍王をもたらしたのが浄厳であることを裏付ける材料のひとつになります。

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白峯寺の善女龍王社

その後の浄厳の活躍ぶりを『行状記』は次のように記します。
浄厳の効験により、「天下の護持僧」として元禄四年(1691)に五代将軍綱吉から江戸湯島に霊雲寺を賜り天下の析願所となった
このように、讃岐に新安祥寺流の法脈が広がるのは、浄厳が頼重からその護持僧としての信任を得ていたことが大きく影響していることが分かります。髙松藩の浄厳保護と、善通寺の浄厳の安祥寺流への切り替えは同時進行で進んでいたことを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」
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弘法大師行状絵詞の詞書 遣唐使帰国後の空海の動静
空海は、遣唐大使の一行が長安を離れた帰国の道に着いた後、805(永貞元)年2月11日、西市の東南の角にあった西明寺の永忠(ようちゅう)和尚の故院に移り住みます。そして、本格的な留学生活に入ります。空海が最初に学んだことは、密教の伝授・潅頂を受けるために欠かせない梵語の習得だったと研究者は考えています。その先生は礼泉寺の北インド出身の般若三蔵とインド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵でした。

DSC04587青竜寺での恵果と空海
長安・青龍寺での恵果和尚と空海の出会い(弘法大師行状絵詞)

空海が恵果和尚を訪ねたのは、同じ年の5月末のころのようです。
『御請来目録』には、西明寺の志明・談勝ら数人とともに、青龍寺東搭院に恵果和尚を訪ねたところ、初対面の空海に対して、次のように話したと記します。
我、先より汝が来らんことを知りて、相待つこと久し,今日相見ること大だ好し、人だ好し。報命尽きなんと欲するに、付法に人なし。必ず須く速かに香化を辯じて、潅頂に入るべし、と                       「定本空海全集』一  35P
意訳変換しておくと
①あなたが私のところを訪ねてくる日を、首を長くして待っていた。
②今日、会うことが出来て、とても嬉しく思う。
③私の寿命は、もはや尽きようとしているが、正式に法を授ける人がえられず、心配していた
④いま、あなたと出逢い、付法の人であることを知った。すみやかに潅頂に入りなさい。
こうして空海への潅頂受法が次のように進みます。
6月上旬に入悲胎蔵生
7月上句に金剛界
8月上旬に伝法阿閣梨位
こうしてインド直伝の正当な密教を空海は受法し、「遍照金剛」の湛頂名を授かります。この潅頂名は、6月・7月の2度の潅頂の時に敷曼荼羅の上に花を投げたところ(投花得仏)、二度とも中尊・大日如来の上に花がおらたことによるとされます。これを見て恵果は、「不可思議なり、不可思議なり」と、感嘆の声を発せられたと伝えられます。

潅頂1 高野空海行状図画
空海の潅頂 (高野空海行状図画)

空海の入唐の中で最も重要な成果とされる潅頂受法の場面です。

空海潅頂 青竜寺 高野空海行状図画
空海潅頂(高野空海行状図画) 天蓋の下に描かれるのは空海のみ



高野空海行状図画 潅頂2
青瀧寺での空海潅頂受法(高野空海行状図画)
天蓋をさしかけられ、粛々と湛頂道場にむかう恵果(けいか)和尚。その和尚に付きしたがう空海、
時代が下ると2人になる?

大師長安滞在2
空海の潅頂(弘法大師行状絵詞)
ほら貝・繞(にょう)・銅鑼(どら)などをもって先導する色衆の僧達。向かう先は、青龍寺東塔院の潅頂道場です。
潅頂頂道場について、恵果和尚の直弟子のひとり呉殷の撰『恵呆阿間梨行状』は、次のように記します。
湛頂殿の内、浮屠(ふと)の塔の下、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び一々の尊曼荼羅を図絵す。衆聖粛然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧き容(かたち)に還る。一たび視、一たび礼するもの、罪を消し福を積む。(『定本全集』第一。111P)

意訳変換しておくと
湛頂殿の内や、浮屠(ふと:卒塔婆)の塔の下、内外の壁面には、すきまなく曼荼羅・諸仏・諸尊が画かれていている。それはあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった。ひとたび、この世界を見たものは罪が消え、福を積む

しかし、潅頂道場は描かれてはいません。

密教ではお経とかテキスト、教科書のようなものだけで勉強しても本質は伝わらないということを重視します。
師から弟子へ教えを受け継ぐ際に行われる儀式が灌頂です。灌頂の「灌」というのは、水を注ぐという意味。頂というのは頭の頂です。師が水をたたえたコップだとします。そのなかに入っている水は密教という教え。それを弟子に受け継ぐときには師匠のコップから弟子のコップに注いで、こぼれないように移すというイメージです。ですから人から人に伝わらないと正式な教えは伝わらないということになります。まさに口伝なのです。

 密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視します。こうして師から弟子に教えが受けつがれると血脈(法脈)という系図のようなものが出来上がっていきます。その原型がここに描かれていることになります。真言密教の僧侶が潅頂を受けるときに、思い描いたイメージはここにあるようです。

潅頂式典の後は、青竜寺の食堂での宴が開かれます。詞書には、次のように記します。
「この日、五百の僧、齊をもうけ、遍く四衆を供養したまいし」

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青竜寺の食堂右側

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青竜寺の食堂左 五百人の僧が参加した空海潅頂の宴(弘法大師行状絵詞)

私が気になるのは、「この潅頂の宴の経費は。どこから捻出されたか?」ということです。空海の自腹なのでしょうか、恵果の好意なのでしょうか。普通は灌腸を受けた者が、お礼に設ける席なので空海だと思うのですが、空海にそれだけの経済力があったのでしょうか。この当たりは、また別の機会にお話しします。

一方で、空海への潅頂については、批判や異議を唱えるものもいたようです。

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珍賀怨念(弘法大師行状絵詞)

弘法大師行状絵詞には、恵果和尚の兄弟弟子に順暁(じゅんぎょう)阿閣梨がいて、その弟子に上堂寺の珍賀という僧侶がいました。珍賀は、恵果和尚がいとも簡単に空海に密教を授けようとすることを再三非難して、中止を求めたことが次のように記されています。

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恵果和尚に諫言する珍賀(弘法大師行状絵詞)

門徒でない空海に、どうして密教を伝授なさるのか、このことについては、私は納得ができません。ただちに中止していただきたい。


ところが詞書には、ある夜の夢の中に四天王が現れ、妨害をする珍賀を責め立てたと記します。それがこの場面になります。
弟子のそねみ
「珍賀怨念」 夢の中で四天王が珍賀を責め立てる(高野空海行状図画)
「何とぞおゆるしを」と叫ぶ珍賀の声が聞こえてきそうです。非をさとった珍賀は、翌朝に空海を訪ね、非礼を心から詫びます。それが次のシーンです。

珍賀・守敏
 空海に非を詫びる珍賀
密教僧が守るべき戒である「三味耶戒」では、法を惜しんではならないと厳しく戒めています。また、密教では夢が重要視されました。ちなみに、珍賀の師とされる順暁阿間梨は越州(紹興)で、最澄に「三部三味耶の灌頂」を授けた密教の阿閣梨でもあるようですが、その経歴はよく分かならないようです。 以上からは、空海に対して短期間で潅頂が進められたことについて、周囲からは不満や批判的な声も挙がっていたことがうかがえます。
次の場面は、興福寺の僧守敏の護法(仏法を守護する鬼神)が、恵果和尚からの受法を盗み聞きしているところです。
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            弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
空海が恵果和尚より胎蔵界の教えを授かっています。赤い経机の上に香炉と仏具を置いて、経典を開きながら教えを授けるのが恵果、その前の香色の僧衣を纏うのが空海。この絵には、壁の外側からのぞき込み鬼神が描かれています。これが興福寺の守敏が長安まで遣わした「護法」だと云うのです。空海は、これを知りながら胎蔵法潅頂のときは見逃してやります。しかし、金剛界法のときは結界を張って近づかせなかったと詞書には記します。

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空海によって張られた結界 弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
赤い炎が建物の周りをめぐり、結界となって鬼神を追い払っています。ちなみに興福寺の守敏は、八巻の第1段「神泉析雨」第2段の「守敏降伏」にも、雨乞祈祷に登場してきます。空海とたびたび呪術争いを演していて、真言僧侶達からは「敵役」と目されていたようですが、その経歴などについてはよく分からないようです。ここからも、空海の潅頂を巡っては、いろいろな波風が立っていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

史談会案内 白川琢磨氏講演会 比較宗教学 2024年9月

9月の史談会は、白川先生の「比較宗教学」です。白川先生は、福岡大学で英彦山など九州の霊場のフィルドワークワークを数多くこなしてこられた方です。退官後、郷里讃岐にお帰りなり、地元の山林修行者や修験者などの痕跡を辿っておられます。その中から見えて来たことを、「学問」の遡上にあげて語っていただけるようです。私も大変楽しみにしています。時間と興味のある方の来訪を歓迎します。なお、場所が、新しくできた四条公民館になっています。場所は四条小学校の前です。

虚空書字 「高野大師行状図画」 巻第二 
虚空書字(高野空海行状図画)
前回お話しした「五筆和尚」の次に出てくるのが「虚空書字」です。「五筆和尚」として名声を高めた空海に対して、文殊菩薩が腕試しを挑んでくるという設定です。今回は、このお話ししについて見ていくことにします。

虚空書字 「高野大師行状図画」3
「虚空書字」 赤い服を着た文殊菩薩の化身と空海が虚空に文字を書いている(高野空海行状図画)

書の腕前を丈殊善薩の化身である五弊童子と競い合う場面です。赤い服を着た童子が文殊菩薩の化身です。場所は長安城中の川のほとり。そこで童子から、「あなたが五筆和尚ですか。虚空に字を書いでいただけませんか」と声をかけられます。空海が気安く書くと、童子も書きます。すると二人の書いた文字が、いつまでも虚空に浮んでいたという話です。

虚空書字 「高野大師行状図画」4
「虚空書字」 流れる水に「龍」と書く
次に 童子は「流れる水の上にも書いてください」とも云います。空海が書い文字は、形が乱れることなく流れていきます。続いて童子は「龍」の字を書きます。その時に、わざと最後の点を打ちません。「なぜ」と問うと「あなたがどうぞ」と応じます。そこで、空海が点を打つと、「龍」の姿になって、たちまち昇天します。童子は、五台山の文殊杵薩の化身であった、というオチがつきます。
 文殊菩薩の化身である童子が龍を描き、最後に眼に点を入れると本物の龍なる、「画龍点晴」のお話です。これが描かれているのが「虚空書字」です。

虚空書字2
流水書字と龍
「虚空書字」に出てくる文殊菩薩は、学問の仏さまとして受験期には随分ともてはやされる仏さまです。これが書にも通じるとされたいたようです。しかし、どうして、文殊菩薩を登場させるのでしょうか。その疑問は一端おいておくことにして、空海は、長安の高級官僚などの文人や僧侶と、交流を持つようになります。それが垣間見える史料を見ておきます。
M1817●江戸和本●性霊集 遍照発揮性霊集 明治初年 3冊本★ゆうパック着払い
空海の漢詩文集『性霊集』の序文には、泉州(福建省)の別駕(次官)でもあった馬惚(ばそう)から空海に贈られた次のような漢詩が載せられています。
何乃出里来  何ぞ乃高里より来たれる、
可非衡其才  其のオを行うに非るべし
増学助玄機  増すます学んで玄機を助けよ、
土人如子稀  上人すら子が如きは稀なり`
  意訳変換しておくと
あなたは、いかなる理由があつて万里の波涛を越えて唐まで来られたのですか。
その文才を唐の人たちにひけらかすために来られたのではないでしょう
(おそらく、あなたは真の仏法を求めて来られたのでしょうから)
ますます学ばれて、真実の御忠を磨かれんこヒを折ります
唐においてすら、あなたのような天才は稀れであり、ほとんど見当らないのですから

真済の序文には、空海が恵果和尚の高弟の惟上(いじょう)に送った「離合詩」を馬惚(ばそう)が見て、空海のオ能に驚き怪しんで贈ってきた詩とあります。漢詩としては、相手を褒めそやす内容だけで広がりがなく凡庸なもののように私には思えます。しかし、ここには「秘密=遊び心」が隠されていると研究者は指摘します。それが「離合詩」という詩作方法です。
「離合詩」を辞書で調べると以下のようにあります。

詩の奇数句において、最初の字の「篇」と「旁」を切り離す。切り離したいずれかを複数句の一字目に用い、それぞれで残った「篇」と「旁」を組み合わせて文字(伏字)を作る、高度な言葉遊びの一種。

これだけでは、分からないので具体的に、空海に贈られた「離合詩」を例にして見ておきましょう。
①一行目の第一文字「何」を、「イ」と「可」にわけ、このうちの「可」を二行目の第一文字に使う。そこで「イ」が残る‐
②三行目の第一文字「増」を「土」と「曽」にわけ、このうちの「土」を四行目の第一文字に使う。
ここでは「曽」が残る‐
③残つた「イ」と「曽」をあわせると、「僧」の字ができる。これで「僧=空海」
これは高度な文人達の言葉遊びです。内容的なことよりも、この形式が重視されます。そのため臆面もなく相手を褒めそやすこともできたのです。空海は、ことばには鋭い感党を持っていたので、遊び心も手伝つて、長安で出会った離合詩を作って、こころやすかった性上に送ったようです。出来映えが良かったので、それが文人達の間を回り回って、泉州(福建省)次官の馬惚にまで伝わり、この「離合詩」が空海の元に贈られてきたようです。

ちなみに、空海が惟上に送った「離合詩」は、次のようなものでした。    
登危人難行  石坂危くして人行き難し、  (「登」の原文は「石+登」表記
石瞼獣無昇  石瞼にして獣昇ること無し¨
燭晴迷前後  燭暗うして前後するに迷う、
蜀人不得燈  蜀人燈を得ず
意訳変換しておくと
あなた(惟上)の故郷である剣南に行くには、危険な石段があって行くことは困難を極め、
険峻な岩山があって獣すら登れない
燈火も暗くて、進むことも退くこともできず迷ってしまう。
蜀の人すら登破するための燈を手に入れていない。

ここにも先ほど見たの「離合詩」の「お約束」は、守られています。この詩の内容を超意訳しておくと

あなたの故郷である剣南への道は、仏道修行のようなものです。私(空海)万里の波涛を越えてやってきて、余す所なく密教を学ぶことができ、これから生きていく上での燈火なるものも、すでに手に人れました。ところで、あなたは長く学んでおられますが、何か燎火となるものは得られましたか。仏法を故郷に伝えるにはきわめて困難がともないますが、法燈を伝えるために、ともに努力しましよう。

「日本から来た若造が、生意気なことを。本物の「離合詩」を見せてやる。」と、空海の「離合詩」への挑戦を、唐の文化人に対する挑発と捉える人達もいたはずです。そんな人の中には、「一度、試してみてやれ」「鼻をへし折ってくれるわ」と空海に近づいてきた人物も少なくなかったと研究者は推測します。そうだとすると、馬惚(ばそう)が空海に贈った「離合詩」には、相手を褒めそやしながら、「本物の出来映えを見せてやる」という意図もあったのかもしれません。このように、空海に対して、書や漢詩などで「お手並み拝見」という徴発は、いたることろで起きた可能性があります。

虚空書字32
虚空書字と画竜点睛
「空海は、どうして文殊菩薩と「虚空書字」を行ったのか争ったのか」という最初の疑問の答えもこの当たりにありそうです。
①長安で異芸・異才の人と評されるように空海に対して、文人達の中には挑発し、腕試しを迫るものも現れた。
②そのエピソードのひとつが「虚空書字」であった。
③しかし、ただの人と競い合うのでは話題性に乏しいために、伝記作者は「文殊菩薩との筆比べ」に変換・創作した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く85P 虚空書字の伝承をめぐって

空海の「五筆和尚」のエピソードを、ご存じでしょうか? 私は、高野空海行状図画を見るまでは知りませんでした。まずは、その詞から見ておきましょう。高野空海行状図画は、何種類もの版があります。ここでは読みやすいものを示します。

五筆和尚 文字

意訳変換しておくと
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。
 空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
要約しておくと
①長安宮中に、晋王朝の書聖王羲之が書を書いた壁があった。
②しかし、時代を経て壁が破損した際に、崩れ落ちてしまった。
③修理後の白壁には、お恐れ多いと、命じられても誰も筆をとろうとしなかった。
④そこで、空海に白羽の矢がたち、揮毫が命じられた
⑤空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた
⑥残りの余白に、盥に入れた墨をそそぎかけたところ、自然に「樹」の字となった

このエピソードが高野空海行状図画には、次のように描かれています。


五筆和尚 右
高野空海行状図画 第二巻‐第7場面 五筆勅号
A 空海が口と両手両足に5本の筆を持って、同時に五行の書を書こうとしているところ。
B その右側の白壁に盥で注いだ墨が「樹」になる
五筆和尚 弘法大師行状絵詞2
五筆和尚(弘法大師行状絵詞)

口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。

五筆和尚 左
皇帝から「菩提子の念珠」を送られる空海
上画面は、帰国の挨拶に空海が皇帝を訪れた時に、別れを惜しんで「菩提子の念珠」を送ったとされる場面です。その念珠が東寺には今も伝わっているようです。ここにも、後世の弘法大師伝説の語り部によって、いろいろな話が盛り込まれていく過程が垣間見えます。

唐皇帝から送られた菩提実念珠
            唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)

五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。

空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
 実は、「五筆和尚」という言葉が、50年後の福州の記録に現れます。

智弁大師(円珍) 根来寺
それは天台宗の円珍が残したものです。円珍は853(仁寿3)年8月21日に、福州の開元寺にやってきて「両宗を弘伝せんことを請う官案」(草庵本第一)に、次のようなエピソードを残しています。

(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。

意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。

空海ゆかりの開元寺を訪ねる』福州(中国)の旅行記・ブログ by Weiwojingさん【フォートラベル】
                      福州の開明寺
 どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?

それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆
8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着
10月3日  福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。
10月      福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。
11月3日  大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』(10世紀半ば成立)には、この間のできごととして、次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

この経過については、遣唐大使・藤原葛野麻呂は朝廷への帰国報告書には、何も記していないことは以前にお話ししました。しかし、空海が大使に替わって手紙を書いたという次の草案2通は、『性霊集』巻第5に、載せられています。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書
B 福州の観察使に請うて人京する幣
特にAは、空海の文章のなか、名文中の名文といわれるものです。文章だけでなく、書も見事なものだったのでしょう。それが当時、福州では文人達の間では評判になったと研究者は推測します。それが、さきの忠湛の話から、福州の開元寺の寺主憎恵潅(えかん)の「五筆和尚、在りや無しや」という円珍への問いにつながると云うのです。
 確かに先に漂着した赤岸鎮では、船に閉じ込められ外部との接触を禁じられていたようですが、福州では、遣唐使であることを認められてからは、外部との交流は自由であったようです。空海は、中国語を自由に話せたようなので、「何でも見てやろう」の精神で、暇を惜しんで、現地の僧たちとの交流の場を持たれていたという話に、発展させる研究者もいます。しかし、通訳や交渉人としての役割が高まればたかまるほど、空海の役割は高くなり、大使の側を離れることは許されなかったと私は考えています。ひとりで、使節団の一員が自由に、福州の街を歩き回るなどは、当地の役人の立場からすればあってはならない行為だった筈です。

福州市内観光 1 空海縁の地 開元寺』福州(中国)の旅行記・ブログ by 福の海さん【フォートラベル】
福州の開明寺の空海像 後ろに「空海入唐之地」

 円珍の因支首氏(後の和気氏)で、本籍地は讃岐で、その母は空海の姉ともされます。
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。

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福州の人々(弘法大師行状絵詞)

五筆和尚の話は、平安時代に成立した空海伝には、どのように記されているのでしょうか?

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
      ①968(康保5)年 雅真の『金剛峯寺建立修行縁起』(金剛峯寺縁起)
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。  (『伝全集』第一 51~52P)
② 1002(長保4)年 清寿の『弘法空海伝』63P
 大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)
又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
③1111(天永2年)に没した大江拒房の『本朝神仙伝』
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。                      
空海御行状集記
          ④ 1089(覚治2)年成立の経範投『空海御行状集記』
神筆の条第七十三
或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。   (『同73P頁)
⑤1113(永久年間(1113~18)成立の兼意撰『弘法空海御伝』
御筆精一正
唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
⑥1118(元永元)年の聖賢の『高野空海御広伝』
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。

これらの記録を比較すると、次のようなことが分かります。
A 最初に書かれた①の『金剛峯寺建立修行縁起』を参考にして、以下は書かれていること
B ②③は簡略で、文章自体が短い。
C 内容的には、ほぼ同じで付け加えられたものはない。
D ①⑤は、皇帝から「菩提実の念珠」を賜ったとある。
以上から「五筆和尚」の話は、10世紀半ばすぎに、東寺に伝来していた唐の皇帝から賜わつたという「菩提実の念珠」の伝来を伝説化するために、それ以後に創作されたモノと研究者は推測します。つまり、五筆和尚の荒唐無稽のお話しは、最後の「菩提実の念珠」の伝来を語ることにあったと云うのです。そう考えると、「念珠」に触れているのは、①と⑤のみです。東寺に関係のない人達にとっては、重要度は低いので省略されて、お話しとして面白い「五筆和尚」の方が話の主役になったようです。  
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
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赤岸鎮から福州・杭州へ
延暦の遣唐使団の経路 福建省赤岸鎮に漂着後の

 福州から長安までの延暦の遣唐使団がたどったルートが、絵図にどのように描かれているのかを見ていくことにします。根本史料となる『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を、まずは押さえておきます。

十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと

新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

空海の入唐求法の足取り

ここから分かる延暦の遣唐使船(第1船)の長安への行程を時系列に並べておきます。
804(延暦23)年
7月 6日  肥前国(長崎県)田浦を出港
8月 1日  福建省赤岸鎮に漂着
10月3日  省都福州に回送、福建監察使による長安への報告
11月3日  福州を遣唐使団(23人)出発 福州→杭州→開封→洛陽→長安
12月21日 長安郊外の万年県長楽駅への到着
福州に上陸したのが10月3日、福州出発までがちょうど1ヶ月です。福州と長安の公的連絡は往復1ヶ月足らずだったことがうかがえます。しかし、遣唐使一行は、長安まで49日かかっています。年末年始の宮中での皇帝と外国使節団との謁見には間に合わせたいと、急ぐ旅立ったようです。
まず、弘法大師行状絵詞には、福州出発の様子が描かれているので、それを見ていくことにします。

  長安からの使者がやってきて出迎えの挨拶を行っている場面です。

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長安からの出迎えの使者を待つ遣唐使団(弘法大師行状絵詞)
服装を整えて、大使と副詞以下の従者が座して待ちます。空海だけが、一番前に立っています。巻物を左に開いていくと見えてくるのが・・・

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長安からきた使節団

「われこそは皇帝の命を受けて、長安からまいった使者です。お急ぎ、御案内申す」
とでも云っているのでしょう。ここでも気になるのは空海の立ち位置です。空海だけが立ち姿で、その他は、日本側も唐側も坐位です。自然と、この場で一番偉いのは空海のように見えます。外交現場で通訳がこんな立ち位置にいることは、現在でもありません。出しゃばりすぎといわれます。この絵巻が「弘法大師=カリスマ化」、あるいは「弘法大師伝説の拡大」を、目的書かれていることがうかがえます。
                   
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                       長安からの迎えの従者達(弘法大師行状絵詞)
従者達は、異国の遣唐使たちを興味深そうに見守ります。その左側では、隊列が準備されています。
まず左側に見えてるのが牛車の引棒のようです。

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長安からの迎えの牛車(弘法大師行状絵詞)
  赤い唐庇の屋根の牛車は、迎えの勅使用です。牛使いが牛を牛車につなごうとしていますが、嫌がっているようです。これは、古代日本では見慣れた風景ですが、中国の唐代の時代考証では「アウト」で論外です。なぜなら、中国では貴人が牛車に乗るということはありません。乗るのは馬車です。これも「日本の常識」に基づいて描かれた誤りと研究者は指摘します。

 絵巻をさらに開いていくと・・・大使達が騎乗する馬が準備されています。
 
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大使・副使・空海などに準備された飾り付けられた駿馬たち(弘法大師行状絵詞) 

詞には次のように記されています。

七珍の鞍を帯て、大使並びに大師を迎える。次々の使者、共に皆、飾れる鞍を賜う

飾り立てられた馬が使者達にも用意されたようです。こうして隊列は整えられて行きます。いよいよ出発です。今度は、高野空海行状図画の福州出立図を見ておきましょう。

福州出発 高野空海行状図画
               高野空海行状図画 福州出立図

一番前を行くのが、長安からやって来た迎えの使者 真ん中の黒い武人姿が大使、その後に台笠を差し掛けられているのが空海のようです。川(海?)沿いの街道を進む姿を、多くの人々が見守っています。ここからは福州を騎馬で出発したことになります。しかし、これについては、研究者の中には次のような異論が出されています。

中国の交通路は「南船北馬」と言われるように、黄河から南の主要輸送路は運河である。そのため唐の時代に、福州から杭州へも陸路をとることはまずありえない。途中、山がけわしく、 大きく迂回しなければならず、遠廻りになる。杭州からは大運河を利用したはず。

「福州 → 南平 → 杭州 → 大運河 → 洛陽 → 長安」という運河ルートが選ばれたと研究者は考えています。しかし鎌倉時代の日本の絵師にとって、運河を船で行く遣唐使団の姿は、思いも浮かばず、絵にも描けなかったかもしれません。イメージできるのは、騎馬軍団の隊列行進姿だったのでしょう。

map
                   延暦の遣唐使団の長安への道(福州から長安まで 空海ロード)
次に描かれるのは長安を間近にした遣唐使団の騎馬隊列です。
洛陽から再び陸路を取り、函谷関を越えると陝西盆地に入って行きます。その隊列姿を見ておきましょう。最初に高野空海行状図画を見ておきます。

空海の長安入場
長安入洛(高野空海行状図画)
①上右図が迎客使の到着を待つ空海と大使です。威儀を整えて、少し緊張しているようにも思えます。
②続く下図は左側の先導する迎客使の趙忠の後に、飾り付けた鞍の馬に乗って大使と空海が続きます。
③入京パレードの威儀を、絵伝は「その厳儀、ことばによしがたし,観るもの、路頭になちみちて市をなす」と記します。
④背筋をビンと仲ばした馬上の大使が印象的です。

次に、弘法大師行状絵詞の方の長安入洛を見ておきましょう。

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長安を目指す遣唐使一行 白馬の空海(弘法大師行状絵詞)
  長安を目指す遣唐使の一行が描かれています。最初に登場するのは美しく飾り立てられた白馬に跨がる空海です。その姿が珍しいのか、多くの住人達が見物に集まっています。しかし、この絵図にも「時代考証的」には、次のような問題点があるようです。
①空海に従う歩行の3人の僧侶の存在。長安への入京を許されたのは、限られた人間だけでした。空海さえも当初は、メンバーに入っていませんでした。それが、ここには3人の僧侶が従者のように描かれています。空海の存在を、高めようとする意図が見られます。

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          長安を目指す遣唐使一行 大使と副使(弘法大師行状絵詞)
空海の前を行くのが大使と副使です。ここが長い行列の真ん中当たりになります。その姿を見ると黒い武士の装束です。この絵図が描かれたのが鎌倉時代のことなので、当時の武士の騎馬隊列に似せられて描かれているようです。時代考証的には、平安貴族達が武士姿になることはありません。

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                     先頭の勅使(弘法大師行状絵詞)
  騎乗隊の先頭は勅使です。後から台笠が差し掛けられています。長安が近づいてきたようです。

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長安の宮廷門(弘法大師行状絵詞)
  勅使の帰還を知って、宮門が開かれます。ここは長安の宮廷門で、甲冑を身につけた武官達が鉾を押し立てて、勅使の到着を待ちます。
 以上、弘法大師行状絵詞に描かれた福州から長安までの行程を見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献






大師入唐渡海 遣唐使船

東シナ海を行く遣唐使船(高野空海行状図画)

大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
建建省赤岸鎮)に漂着します。

空海・最澄の入唐渡海ルート
空海と最澄の漂着先
空海入唐地 赤岸鎮
空海入唐之地 赤岸(1998年建立)

正史である『日本後紀』に載せられた大使藤原葛野麻呂の報告書を、まず見ておきましょう。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。


  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。
「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。

唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
 
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」

 
遣唐使 赤岸鎮から福州


一行は、長渓県赤岸鎮での上陸を許されず、観察使のいる福州に向かうことになります。
2ヶ月後の10月3日に、福建省の省都の福州にたどり着きます。福州は、河口から30㎞ほど遡った所にある大都市です。遣唐使船は、その沖にイカリを下ろしたはずです。当時の規則では、外国船は岸壁に着船し、直接に入国することは禁じられています。

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           小舟に乗り換えての福州上陸(弘法大師行状絵詞)

大使藤原葛野麻呂の報告書には、福州でのことが次のように記されています。

十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

ここからは次のようなことが分かります。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと

ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』には、この間のできごととして次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

  「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」

とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。

「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」

文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
この場面を描いた高野空海行状図画の福州上陸図を見ておきましょう。

福州漂着代筆 高野空海行状図画
福州での役人とのやりとりと、空海代筆(高野空海行状図画)
①は遣唐使船が岸壁に着岸しています。「沖合停泊」という「時代考証」が無視されています。その姿は大風や波浪で、船上施設が吹き飛ばされて、何ひとつ残っていないあばら舟姿です。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
③は、大使みずからが書簡をかいて提出しますが、役人は読み終えると放り出して取り合ってくれないところ。
④万策つきた大使からの依頼で、空海が長官に宛てて書をしたためているところ。
⑤空海がしたためる手もとを見ているのが、福州監察使の閻済美。
⑥中央は、空海の文章と書の力によって、やっと日本からの正式の遣唐使であることが認められ、仮岸の中に通されて、安堵している大使と空海

同じ場面を、弘法大師行状絵詞で見ておきましょう。

福州着岸 代筆. 弘法大師行状絵詞JPG
             福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)

港に船着き場はなく、沖合に投錨し小舟で浜にこぎ寄せるスタイルで描かれています。
大使が長官への書簡をしたためているところ
役人が福州長官に見せると、一瞥して「見難い」と書簡が捨てられたところ。これが3度繰り返されます。

福州上陸2
            福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
大使の依頼を受けて空海が「代筆」します。
⑤ その書簡を読んだ福州長官は、書の主を「文人」認め、態度を一変させます。

この時に空海が代筆したのが「大使のために福州の観察使に与うる書」です。
   「賀能(藤原葛野麻呂の別名)啓す」からはじまるこの文章を要約しておきます。

①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか

 論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
   空海は讃岐から平城京にのぼった時に、母の弟・阿刀大足に儒学知識や漢文については、教え込まれたとされます。親王の家庭教師を務めた阿刀大足によって磨かれた素養があったと研究者は考えています。この書を見た長官の閻済美は篤きます。科挙試験を経て、文章でもって出世するのが中国の高級官僚たちですが、これだけの文章をかけるだけの者はいないと思ったと従来の書は評します。この書によって、中国側の対応は一変します。「海賊船」との疑いを捨て、日本からの遣唐使船と再認識し、相応しい仮宿舎を提供します。同時に空海の評価が高まったとされるエピソードです。

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福州に建てられた仮宿舎(高野空海行状図画)

赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。

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大使達を迎える福州長官(弘法大師行状絵詞)
その向かいに福州長官(監察使)が座し、その前を着替えの衣装や食事が運ばれて行きます。正面に座るのが空海です。まるで、空海に謁見する臣下のような構図です。空海がカリスマ化される要素がふんだんに盛り込まれています。
       
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遣唐使仮屋周辺の福州の人々

日本からの遣唐使がやって来たというので、物見高い人々が集まってきます。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
ところが発表された長安入京組名簿の中に、空海の名前がありません。長安に行けないと、入唐求法の意味がなくなります。そこで空海は、長安行きの一行に、自分も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出します。

入京嘆願書1

「福州の観察使に請うて入京する啓」
福州の観察使に請うて入京する啓

 「日本留学の沙門空海、敬す」という文で始まるこの文章を、要約すると次のようになります。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯
②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い
③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
空海は、福州で次の2つの文章を作っています。
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」
B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
この2通は『性霊集』巻5に収録されています。前者を以下に全文載せておきます。

「大使のために福州の観察使に与うる書」
                        
「大使のために福州の観察使に与うる書」NO1

「大使のために福州の観察使に与うる書」2
「大使のために福州の観察使に与うる書」3

「大使のために福州の観察使に与うる書」5

「大使のために福州の観察使に与うる書」6

ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」

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親王院本『高野空海行状図画』と「弘法大師行状絵詞」を見ながら、空海の人唐求法の足跡を追って行きます。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」です。
入唐の旅は、「久米東塔」から始まります。
絵伝は、右から左へと巻物を開いてきますので、時間の経過も右から左と描かれています。また、同じ画面の中に、違う時間帯のことが並んで描かれたりもします。同じ人物が何人も、同じ場面に登場してきたら、そこには時が流れ、場面が転換しています。

久米東塔
          高野空海行状図画 第2巻第2場面  久米東塔 
この場面は、空海の入唐求法の動機・目的を語る重要場面だと研究者は指摘します。
①空海が建物のなかで、十方三世の諸仏に「我に不二の教えを示したまえ」と祈請しています。
②場所については、ある史料は20歳のとき得度をうけた和泉国の槇尾山寺(施福寺)とし、別の史料では、東大寺人仏殿と記します。
③夢で「あなたが求める大法は『大日経』なり。久米の東搭にあり」と告げられたところです。三筋の光が左上方の仏さまから空海に向かって一直線に差し込みます。

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弘法大師行状絵詞 久米寺

④空海は、久米寺を訪ね、東塔の場所を尋ねているところです。

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⑤東塔の心柱から「大日経」上巻を探し出し、無心に読んでいるところです。しかし、熟読したけれども、十分に理解できずに、多くの疑問が残ります。疑問に答えてくれる人もいません。そこで海を渡り、入唐することを決意したと記されています。

ここからは、空海は人唐前に、『大日経』を目にしていたことが分かります。
ところで『大日経』は久米寺にしかなかったのかというと、そうではなかったと研究者は指摘します。
なぜなら、奈良時代に平城京の書写所で、以下のように大日経が書写されているからです。

1大日経写経一覧 正倉院
大日経写本一覧表(正倉院文書)
正倉院文書によると、一切経の一部として14回書写された記録が残っています。つまり、当時の奈良の主要な寺院には大日経は所蔵されたというのです。特に東大寺には4部の一切経が書写叢書され、その内の一部七巻が今も所蔵されているようです。

 それでは空海の入唐動機はなんだったのでしょうか?
最初に見た『三教指帰』序文三教の中には、次のように記されていました

谷響きを情しまず、明星水影す。

これは若き日の空海が四国での求聞持法修行の時に体感した神秘体験です。それがどんな世界であるかを探求することが求法の道へとつながっていたと研究者は考えています。それが長安への道につながり、青竜寺で「密教なる世界」であることを知ります。その結果が、恵果和尚と出逢いであり、和尚の持っていた密教世界を余すところなく受法し、わが国に持ち帰えります。そういう意味では、空海と密教との出逢いは、四国での虚空蔵求聞持法の修練だったことになります。

求法入唐 宇佐八幡宮での渡海祈願
            高野空海行状図画 第2章 第3場面 渡海祈願 宇佐八幡にて
この場面は、豊後国(大分県)の宇佐八幡宮で、空海が『般若心経』百巻を書写し、渡海の無事を祈っている所です。左手の建物の簾から顔をのぞかせているのが八幡神とされます。
八幡神と空海の間には、次のような関係が指摘されます。
①八幡神は、高雄・神護寺に鎮守として勧請されている
②八幡神は、東寺にも勧請され、平安初期の神像が伝来している。
③空海と八幡神が互いに姿を写しあったとの話が、『行状図画』に収録されている(外五巻第1段‐八幡約諾)
④長岡京の乙訓寺の本尊「合体大師像」は、椅子にすわる姿形は空海で、顔は八幡神である。
お大師様ゆかりの乙訓寺 - 大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

乙訓寺の本尊「合体大師像」(日本無双八幡大菩薩弘法合体大師)
空海が入唐渡海に際して、渡海の無事を祈ったのは高野空海行状図画では、宇佐八幡だけです。宇佐八幡は、もともとは朝鮮の秦氏の氏神様です。空海と秦氏の関係が、ここからはうかがえます。ちなみに、絵伝で空海の宇佐八幡参拝のことが書かれると、後世には「うちも渡海前に空海が訪れた」という由緒をもつお寺さんが数多く出てくるようになります。高野空海行状図画などの絵図が、弘法大師伝説の形成に大きな影響力を持っていたことがうかがえます。

空海の入唐渡海の根本史料は、大使の藤原葛野麻呂の報告書です。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。生きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 高野空海行状図画の詞には、次のように記されています。


DSC04544入唐勅命

意訳変換しておくと
桓武天皇御代の延暦23(804)年5月12日(新暦7月6日)、大師御年31歳にて留学の勅命を受けて入唐することになった。このときの遣唐大使は藤原葛野麻呂で、肥前国松浦から出港した。


遣唐使船出港
  高野空海行状図画  第二巻‐第4場面 遣唐使船の出港(肥前国田浦)

遣唐使船が肥前国(長崎県)田浦を出港する所です。
中央の僧が空海、その右上が大使の藤原葛野麻呂です。当時の遣唐使船は帆柱2本で、約150屯ほどの平底の船として復元されています。1隻に150人ほど乗船しました、その内の約半数は水夫でした。帆は、竹で伽んだ網代帆が使用されていたとされてきましたが、近年になって最澄の記録から布製の帆が使われたことが分かっています。(東野治之説)
 無名の留学僧が大使の次席に描かれているのは、私には違和感があります。

 派遣された遣唐使の総数は600人前後で、4隻に分かれて乗船しました。
そのため別名「四(よつ)の船」とも呼ばれたようです。第1船には、大使と空海、第2船には副使と最澄が乗っていました。この時の遣唐使メンバーで、史料的に参加していたことが確認できるメンバーは、次の通りです。
延暦の遣唐使確定メンバー
              延暦の遣唐使確定メンバー
出港以後の経過を時系列化すると次のようになります。
 804年7/6 遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7   第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬   第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10   第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
  鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1   第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15   最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
出港して翌日の夜には、「火信を絶つ」とあるので、遣唐使船は離ればなれになったようです。そして、福建省の赤岸鎮に約1ヶ月後に「漂着」しています。その間のことを、空海は「大使 のための箔州の観察使に与うるの書」の中で、大使賀能(藤原葛野麻呂)に代わっての次のように記します。

入唐渡海 海難部分

「大使のために福州の観察使に与うる書」3
         遣唐使船の漂流について(大使のために福州の観察使に与うる書)

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龍の巻き起こす波浪に洗われる遣唐使船 舳先で悪霊退散を祈祷する空海(弘法大師行状絵詞)

かつてのシルクロードを行き交う隊商隊が、旅の安全のために祈祷僧侶を連れ立ったと云います。無事に、目的のオアシスに到着すれば多額の寄進が行われたととも伝えられます。シルクロード沿いの石窟には、交易で利益を上げた人々が寄進した仏像や請願図で埋め尽くされています。こうして、シルクロード沿いの西域諸国に仏教が伝わってきます。その先達となったのは、キャラバン隊の祈祷師でした。この絵を見ていると、空海に求められた役割の一端が見えてきます。


こうしてたどりついた福建省で遣唐使たちを待ち受けていたのは、過酷な仕打ちでした。それをどう乗り越えていったのでしょうか。それはまた次回に・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」
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   空海が法を求めて唐に渡り、長安青龍寺の恵果和尚からインド直伝の新しい仏教・密教を受法されてから1300以上の年月が経ちました。当時の東シナ海を越えて唐に渡と云うことは、生死をかけた旅で、生きて帰れる保証は何もありません。空海が唐に渡った前年の803(延暦22)年4月16日に難波津を出帆した四隻の遣唐使船は、出港して5日目の21日に、瀬戸内海で暴雨疾風のために破船しています。このときには、明経請添生の大学助教(すけのはかせ)・豊村家長は、波間に消えたと伝えられています。
 空海はそのような危険性を承知の上で、どうして生命を賭してまで遣唐使船に乗ろうとしたのでしょうか?  今回は空海の入唐求法について、従来から疑問とされている点を見ていくことにします。テキストは、「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」です。

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舳先で悪霊退散を祈祷する空海
空海の入唐求法についての問題点を、研究者は次のように挙げます。
①入唐の動機・目的はなにか。
②誰の推挙によって入唐できたのかt
③いかなる資格で入唐したのか、
④入唐中に最澄との面識はあったか。
⑤長安における止住先(受入先)はどこであったか。
⑥わが国に持ち帰えった経典・マンダラ・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国時に乗船した高階達成(たかしなとおなり)の船は、どんな役目で唐にやってきた船なのか。
⑧入唐の成果はなにか。空海は入唐してなにをわが国にもたらしたか。

  これらの綱目について、先行研究を簡単に見ておきましょう。
①入唐の動機・目的はなにかについては、次の4点が挙げられます。
A『大日経』の疑義をただすため
B 密教受法のため
C 灌腸授法のため
D 密教の師をもとめて
若き頃に、大滝山や室戸岬で行った求聞持法の修行で体感した神秘体験の世界が、いかなる世界なのかを自分なりに納得したいという探求の延長線上にあったと研究者は指摘します。

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室戸岬での修行(弘法大師行状絵詞)

②誰の推挙によって入唐できたのか
 空海は入唐直前までは、私度僧であったことが近年の研究からは明らかにされています。有力な寺院に属していない空海が留学僧に選ばれるためには、強力な推薦者がいたはずであるという推測に基づく問いです。その候補者としては、従来から次の2人が挙げられています。
A 母方の叔父である阿刀大足が侍講(家庭教師)をしていた伊予親王
B 入唐前の師とみなされてきた勤操(ごんぞう)大徳
しかし、史料的にも状況証拠的にも納得できる説明はされていないようです。

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叔父の阿刀大足から儒学を教わる真魚(空海)(弘法大師行状絵詞)

③どんな資格で、空海は入唐したのか
これについては、空海は「私費の留学僧」の立場だったという説があります。しかし、遣唐使の派遣は国の成信をかけた国家の一大事業です。それに一個人として参加することができるとは考えられないというのが研究者の立場のようです。
 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。ここからも空海が長期留学生であったことが裏付けられます。

④入唐中に最澄との面識はあったのか
天台宗を開いた最澄と空海が、同じ遣唐使団にいたことはよく知られています。しかし、乗船した船は違います。
空海 遣唐大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)とともに第1船
最澄 副使の石川道添(みちます)とともに第2船
乗船した船は違いますし、その後の経路も空海は福州から上陸して、長安で密教を学修します。一方の最澄は明州から上陸して、天台山に向かい、円・密・禅・戒の四つの教えを学んでいます。したがって、二人が唐で出逢うことはありませんでした。その後の二人の史料からも、入唐時に出逢った記録は見当たりません。当時の最澄は、天皇の保護を受けて、唐の仏教の教えの総てを買付に行く超有名なバイヤーのような存在です。一方の空海は、得度したばかりの無銘の僧です。最澄は、空海のことを鼻にもかけなかったでしょうし、その存在にすら知らなかったと私は考えています。
⑤長安での空海の受け入れ先は、どこでだったのか。
これについては、空海は入唐前から、止住先をきめ約諾をえていたという説があります。それは、現在のインターネットやSNSなどの発達している時代の人達の見方です。日宋貿易が盛んに行われ、禅宗僧侶が多数、入唐していた時代でも、なかなか中国の情勢を知ることはできませんでした。長安の情勢を知り、連絡し合うことができる状態ではありません。

⑥わが国に持ち帰られた経典・マングラ・密教法具などの経費の出所はどこか。

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空海の持ち帰る絵図や曼荼羅を書写する絵師(弘法大師行状絵詞)

空海は多量の経典を書写させ、密教法具を新しく職人に作らせています。これには多額の資金が必要だったはずです。最澄と違って、長期留学生の空海には、そのような資金はなかったはずです。それをどう調達したかは、私にも興味のあるところです。

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持ち帰る法具を作る技術者(左)や経典を書写する僧侶

 従来は、讃岐の佐伯直氏は、斜陽の一族で経済的には豊かでない一族とされてきました。そうだとすれば『御請来目録』に記された膨大な請来品の経費をどうしたのか。誰かの援助なしには考えがたいとする説が出されます。そして、推薦者のとしても名前があがった伊予親王や勤操が、出資者として取り沙汰されてきました。これに対して、研究者は次のような点を指摘します。
A 請来品の多くは、師の恵果和尚からの贈与とみなされること
B 空海の生家・佐伯直氏も瀬戸内海貿易などで経済力を持っていた一族であったこと。
C 母方の阿刀大足も、淀川水系交易などで同等の経済力を持っていたこと
Bについては、空海の父親・田公は無官位ですが、空海の弟や甥たちは、地方役人にしては高い官位を得ています。これは官位を金で買うことで得たものと考えれます。それだけの経済力が、空海の生家・佐伯直氏にはあったと研究者は考えています。
⑦空海を乗せて還った高階達成の船は、どんな役割を持った船だったのか
高木紳元説 新たに即位した順宗へ祝意を表するために派遣された船
武内孝善説 一時的に行方不明になった延暦の遣唐使船の第四船
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空海の乗った遣唐使船(弘法大師行状絵詞)
⑧空海の成果はなにか。入唐してなにをわが国にもたらしたか。
仏教に関しては、最新の仏教、すなわら密教を体系的に持ち帰ったこと、なかでも不空訳の密教経典を最初に持ち帰ったこと
以上8点です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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1 空海系図52jpg
ふたつの佐伯直氏の家系 

  以前に空海を生み出した讃岐の佐伯直氏一族には、次のふたつの流れがあることを見ました。
①父田公 真魚(空海)・真雅系            分家?
②父道長(?)実恵・道雄(空海の弟子)系        惣領家?

①の空海と弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏についてはいくつかの史料があります。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、40年前に本籍地を讃岐から京に移していたことは以前にお話ししました。こうして見ると、讃岐国における佐伯直氏の本家筋に当たるのは、実忠・道雄系であったようです。

もうひとつ例を挙げておくと、空海の父・田公が無官位であることです。
官位がなければ官職に就くことは出来ません。つまり、田公が多度郡郡長であったことはあり得なくなります。当時の多度郡の郡長は、実恵・道雄系の佐伯直氏出身者であったことが推測できます。一方、空海の弟たちは地方役人としては高い官位を持っています。父が無官位で、その子達が官位を持っていると云うことは、この世代に田公の家は急速に力をつけてきたことを示します。
今回は、実恵・道雄系のその後を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏」です。
「続日本後紀』『日本三代実録』などの正史に出てくる実恵・道雄系に属する人物は次の4人です。
佐伯宿価真持
    長人
    真継
    正雄
彼らの事績を研究者は、次のように年表化します。
836(承和3)年11月3日 讃岐国の人、散位佐伯直真継、同姓長人等の二姻、本居を改め、左京六條二坊に貫附す。
837年10月23日 左京の人、従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持等、姓佐伯宿禰を賜う。
838年3月28日  正六位上佐伯直長人に従五位下を授く
846年正月七日    正六位上佐伯宿禰真持に従五位下を授く
846年7月10日   従五位下佐伯宿禰真持を遠江介とす.
850年7月10日   讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿禰を賜い、 左京職に隷く.
853(仁寿3)年正月16日  従五位下佐伯宿禰真持を山城介とす。
860(貞観2)年2月14日  防葛野河使・散位従五位下佐伯宿禰真持を玄蕃頭とす。
863年2月10日   従五位下守玄蕃頭佐伯宿禰真持を大和介とす。
866年正月7日    外従五位下大膳大進佐伯宿禰正雄に従五位下を授く。
870年11月13日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰真継、新羅の国牒を本進す。即ち「大字少弐従五位下藤原朝臣元利麻呂は、新羅の国王と謀を通し、国家を害はむとす」と告ぐ。真継の身を禁めて、検非辻使に付せき。
870年11月26日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰貞継に防援を差し加へて、太宰府に下しき。
この年表からは、それぞれの人物について次のようなことが分かります。
①例えば、佐伯宿禰真持は以下のように、官位を上げ、役職を歴任しています
・承和3(836)年11月に、真継・長人らとともに本籍地を左京六條二坊に移したこと
・その翌年には正月に正八位上で、長人らと宿禰の姓を賜ったこと
・その後官位を上げて、遠江介、山城介、防葛野河使、玄蕃頭、大和介を歴任している。
こうしてみてくると、真持、長人、真継の3人は、同じ時期に佐伯直から宿禰に改姓し、本拠地を京都に遷しています。ここからは、この3人が兄弟などきわめて近い親族関係にあったことがうかがえます。これに比べて、正雄は13年後に、改姓・本籍地の移転が実現しています。ここからは、同じ実恵・道雄系でも、正雄は3人とは系統を異にしていたのかもしれません。
最後に、空海・真雅系と実忠・道雄系を比較しておきます。
①改姓・京都への本貫地の移動が実恵、道雄系の方が40年ほど早い
②その後の位階も、中央官人ポストも、実恵、道雄系の方が勝っている。
ここからも、実恵・道雄系が佐伯氏の本流で、空海の父田公は、その傍流に当たっていたことが裏付けられます。この事実を空海の甥たちは、どんな風に思っていたのでしょうか?
    改姓申請書の貞観三年(861)の記事の後半部には、次のように記されています。
①同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
②大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」

④善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。

意訳変換しておくと
①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄(惣領家)は、すでに本貫(本籍地)を京兆(京都)に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の功績による所が大きい。しかし、田公の一門の(我々は)改居・改姓を許されていない。実恵・道雄の二人は、空海の弟子である。 一方、田公は空海の父である。

②田公一門の大僧都真雅(空海の弟)は、今や東寺長者となり、(我々も真雅からの)加護を受けて居るが、実恵・道雄一門の扱いに比べると、及ぼないことは明らかである。

③一門の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、(伯父・空海の)往時をかえりみると、(われわれの現在の境遇に)悲歎することが少なくない。なにとぞ(惣領家の)正雄等の例に習って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

④以上の申請状の内容については、(佐伯直一族の本家に当たる)伴善男らが「家記(系譜)」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。


 空海の甥たちの思いを私流に超意訳すると、次のようになります。
 本家の真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場にすぎない。なのに空海を出した私たちの家には未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅(空海の弟)は、東寺長者となった。しかし、我々は実恵・道雄一門に比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
ここからも佐伯直氏には、ふたつの系譜があったことが裏付けられます。
そうだとすれば、善通寺周辺には、ふたつの拠点、ふたつの舘、ふたつの氏寺があっても不思議ではありません。そういう視点で見ると次のような事が見えてきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺の旧練兵場遺跡群の周辺

①仲村廃寺と善通寺が並立するように建立されたのは、ふたつの佐伯直氏がそれぞれに氏寺を建立したから
②多度郡の郡長は、惣領家の実恵・道雄の一門から出されており、空海の父・田公は郡長ではなかった。
③それぞれの拠点として、惣領家は南海道・郡衙に近い所に建てられた、田公の舘は、「方田郷」にあった。
④国の史跡に登録された有岡古墳群には、横穴式石室を持つ末期の前方後円墳が2つあります。それが大墓山古墳と菊塚古墳で、連続して築かれたことが報告書には記されています。これも、ふたつの勢力下に善通寺王国があったことをしめすものかも知れません。
 
どちらにしても、佐伯一族が早くから中央を志向していたことだけは間違いないようです。
それが、空海を排出し、その後に、実恵・道雄・真雅・智泉・真然、そして外戚の因支首(和気)氏の中から円珍・守籠など、多くの僧を輩出する背景だとしておきます。しかし、これらの高僧がその出身地である讃岐とどんな交渉をもっていたのかは、よく分かりません。例えば、空海が満濃池を修復したという話も、それに佐伯氏がどう関わったかなどはなどは、日本紀略などには何も触れていません。弘法大師伝説が拡がる近世史料には、尾ひれのついた話がいくつも現れますが・・・

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佐伯直氏祖廟(善通寺市香色山)背後は我拝師山

ここでは、次の事を押さえておきます。
①地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったこと
②佐伯直一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったこと
③空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   
武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏
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空海の本籍地については、延暦24年(805)年9月11日付けの大政官符が根本史料とされます。

空海 太政官符2
空海の太政官符        
そこには、次のように記されています。

  留学僧空海 俗名讃岐国多度部方田郷、戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚

ここからは次のようなことが分かります。
①空海の本籍地が讃岐国多度郡万田郷(かたたのごう)であること
②正六位上の佐伯直道長が戸籍の筆頭者=戸主で、道長を戸主とする戸籍の一員(戸口)であったこと
③空海の幼名が真魚であること
ここで問題となるのが本籍地の郷名・方田郷です。この郷名は、全国の郷名を集成した「和名類家抄」にないからです。
讃岐の郷名
讃岐の古代郡と郷名(和名類家抄)多度郡に方田郡は見えない

そのため従来は弘田郷については、次のように云われてきました。

「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。
                              平凡社「日本歴史地名大系」

太政官符に「方田郷」とあるのに「弘田郷」と読み替えているのは、次のような理由です。

方田郷は「和名類来抄」の弘田郷の誤りで、「方」は「弘」の異体字を省略した形=省文であり、方田郷=弘田郷である。方田郷=弘田郷なので、空海の生誕地は善通寺付近である。

こうして空海の誕生地は、弘田郷であるとされ疑われることはありませんでした。しかし、方田郷は弘田郷の誤りではなく、方出郷という郷が実在したことを示す木簡が平成になって発見されています。それを見ていくことにします。
讃岐古代郡郷地図 弘田郷
讃岐古代の郷分布図

善通寺寺領 良田・弘田・生野郷
中世の弘田郷

弘田町
現在の善通寺市弘田町

.1つは、平成14年に明日香村の石神遺跡の7世紀後半の木簡群のなかから発見されたもので、次のように墨書されています。

方田郷

「多土評難田」        → 多度郡かたた
裏  「海マ刀良佐匹マ足奈」    → 「海部刀良」と「佐伯部足奈」
「多土評」は多度郡の古い表記で、「難」は『万東集』で「かた」と読んでいるので「難田」は「かたた」と読めます。そうすると表は「讃岐国多度部方田郷」ということになります。裏の「マ」は「部」の略字で、「佐匹」は「佐伯」でしょう。つまり、ここには「海部刀良」と「佐伯部足奈」二人の人名が記されていることになります。そして、表の地名は二人の出身地になります。

もう一つは、平成15年度に発掘された木簡で、これも七世紀後半のものです。

表  □岐国多度評

「評」は「郡」の古い表記なので、これも「讃岐国多度郡方田郷」と記されていたようです。この二つの木簡からは、方田郷が実在したことが裏付けられます。今までの「弘田郷=方田郷」説は、大きく揺らぎます。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺の遺跡

そうすると方田郷は、いったいどこにあったのでしょうか。
ヒントになるのは、普通寺伽藍の西北の地は、現在でも「かたた」と呼ばれていることです。
方田郷2

善通寺市史第1巻には「方田横井」碑が載せられていて、「方田」という地名が存在したことを指名しています。そうだとすると、律令時代の佐伯一族は、善通寺伽藍の周辺に生活していたことになります。
 古墳時代の前方後円墳の大墓山や菊塚古墳の首長達は、旧練兵場遺跡に拠点を持ち、7世紀後半なるとに最初の氏寺として仲村廃寺(伝導寺)を建立したとされます。それが律令時代になって、南海道が善通寺を貫き、条里制が整えられると、それに合わせた方向で新しい氏寺の善通寺を建立します。その時に、住居も旧練兵場遺跡群から善通寺西方の「方田郷」に移したというシナリオになります。

古代善通寺地図
         佐伯氏の氏寺 善通寺と仲村廃寺(黄色が旧練兵場遺跡群)

 しかし、これには反論が出てくるはずです。なぜなら南海道は現在の市役所と四国学院図書館を東西に結ぶ位置に東西に真っ直ぐ伸びて建設されています。そして、多度郡の郡衙跡とされるのは生野町南遺跡(旧善通寺西高校グランド)です。佐伯氏は多度郡郡長であったとされます。南海道や郡衙・条里制工事は佐伯氏の手で進められて行ったはずです。郡長は、官道に面して郡長や自分の舘・氏寺を建てます。そういう眼からするとを郡衙や南海道と少し離れているような気がします。

生野本町遺跡 
生野本町遺跡 多度郡衙跡の候補地


 ちなみに現在の誕生院は、その名の通り空海の誕生地とされ、伝説ではここで空海は生まれたとされます。この問題を解くヒントは、空海が生まれた頃の善通寺付近には、次のふたつの佐伯直氏が住んでいたことです。
1空海系図2

①田公 真魚(空海)・真雅系
②空海の弟子・実恵・道雄系
①の空海とその弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、空海の甥にあたる鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。歴史の中に消えていきます。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏については、その後の正史の中にも登場します。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、本籍地を讃岐から京に移していたことが分かります。ここからは、佐伯直氏の本家筋に当たるのは、記録の残り方からも実忠・道雄系であったと研究者は考えています。どちらにしても空海の時代には、佐伯直氏には、2つの流れがあったことになります。そうすれば、それぞれが善通寺周辺に拠点を持っていたとしても問題はありません。次回は、ふたつの佐伯氏を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏

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