瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年10月

忌部山2号墳の羨道部
山川町の忌部山2号墳 石室天井が高く積み上げられドーム型天井になっている

前回は麻植郡が阿波忌部氏の本貫地で、ドーム型天井を特徴とする忌部山型石室の古墳が見られること、これを造営したのが古代の忌部氏に繋がる集団であるという説を見ました。今回は、その忌部山型石室のルーツが、どこにあるのかを見ていくことにします。テキストは  「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。
麻植群の忌部山型石室は、美馬郡の段の塚穴型石室からの影響を受けていると研究者は指摘します。
段ノ塚穴型石室は美馬町にある段ノ塚穴古墳(国指定)を盟主とする特異なタイプの横穴式石室です。このタイプの石室は全国的に見ても、非常に珍しいもののようです。段の塚穴古墳に行ってみることにします。
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段の塚穴古墳群の太鼓塚古墳(美馬市坊僧 下が川北街道)
段ノ塚穴には、大鼓塚と棚塚の二つの大きな円墳があります。東側が大鼓塚で、東西37m、南北33m、高さ10mの徳島県最大の円墳です。西隣りの棚塚は、それよりひと回り小さく直径20m、高さ7mの円墳です。

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太鼓塚古墳入口
太鼓塚の石室は、全長13、1m、7、7mの長い羨道を持ち、玄室部4、5m、中央部で高さ4、25mの四国最大級の横穴式石室です。門扉はありますが鍵はないので、自由に入ることができる私にとってはありがたい古墳です。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
石室は結晶片岩を用いた両袖式で、段の塚穴型石室と呼ばれる胴張りの平面プランと持ち送り式に積み上げた天井。1951年(昭和26年)、墳丘西裾から須恵器・土師器・埴輪・馬具などが出土し6世紀後
から7世紀初頭のものとされています。

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太鼓塚古墳羨道と玄門 羨道は入口に向かってバチ形に開く
段の塚穴古墳・太鼓塚の玄門g
                  太鼓塚古墳玄門
 玄室の平面形は、中央部が膨らむ胴張り形で、玄室天井部は天井石7石が階段状に持ち送られることによるドーム状です。
段の塚穴古墳天井部
                 太鼓塚古墳の天井部
副葬品としては鉄製品・須恵器などが出てきていて、その出土品の年代判定から追葬がされているようです。石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」と呼ばれてきたようです。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部
太鼓塚古墳奥壁前の祠
奥壁前には小さな仏が奉られ、今も賽銭が数多くあげられていました。人々の信仰対象として奉られ、現在まで保護されてきたことが分かります。同時に、優れた築造技術を感じます。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部2
太鼓塚古墳玄室から入口方面
確かに太鼓のような膨らみを感じることができる玄室です。なお、玄室内部は暗いので強力な懐中電灯を持参することをお勧めします。入口から出てくると、外に拡がる風景が・・・


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段の塚穴古墳群の前に拡がる美田
目の前には、整備された美田が広がり、その向こうに吉野川が流れ、そして剣山へと伸びていく山脈が続きます。しかし、古代にはこんな風景ではなかったことは以前にお話ししました。古代の吉野川は、今よりも北側を流れ、郡里の寺町の河岸段丘からこのすぐ下まで押し寄せていました。この美田が現れるのは、吉野川の治水が進む近代になってからのようです。

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段の塚穴古墳群の西側の棚塚古墳
 西側にある棚塚を見に行きます。
全長8、5m、羨道部3、7m 玄室部4、5m、幅2m、石室全長:8,6m、高さ2,8m

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棚塚古墳の入口
太鼓塚古墳と構造的には似ていますが異なるのは、次の3点です。
①玄室の平面形は太鼓塚が中央部が膨らむ胴張り形でしたが、棚塚は長方形。
②玄室天井部は天井石5石が階段状に持ち送られることでドーム状にしていること
③玄室奥壁には石棚が付けられていること

段の塚穴古墳 棚塚1
棚塚古墳の奥壁と石棚
棚塚は石室奥壁側に石棚があることから付けられた名前のようです。石棚のある石室は、徳島では段ノ塚穴型石室だけで、七基が確認されています。

段の塚穴古墳 棚塚2
石棚の拡大写真

この太鼓塚と石棚柄の石室は県下で最大級であると同時に、巨石を巧みに積み上げた優れた技法の石室であることです。優れた技術者集団によって、造られたことがうかがえます。2つの古墳共通する特徴を挙げておきます。
①羨道部は入口部が広く、玄室方向に進むに連れて狭まり、玄室部入口の両側に立石が立てられ玄門としている。
②玄室部の平面形は太鼓張りか末広がり
③天井部は忌部山型と同じく玄室入口側と奥壁側から持ち送り、竃窪状とし玄室中央部の天井を最高位としている。
④忌部山型よりも天井部の高さはより高く、石室空間も広く、という意図がうかがえる。
⑤麻植の忌部山型石室と比較すると、段ノ塚穴型石室の構築技術の方がより優れている。
この2つの古墳に代表されるドーム型天井石室を持つ古墳を「段の塚穴型石室」と呼んで分類しています。
段の塚穴型石室をもつ古墳群とと美馬郡にある古墳分布図を見ておきましょう。

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳一覧
美馬郡の段の塚穴型石室古墳の分布図と一覧表
ここからは次のようなが読み取れます。
美馬郡には、段ノ塚穴型石室をもつ古墳が23基あること
段の塚穴型石室をもつ古墳の一番西が大國魂古墳(美馬町城)で、一番東が北岡東古墳(阿波町)
③ 美馬郡の古墳は南岸よりも、北岸に立地するの方が多いこと。北岸優位
④ 段の塚穴型古墳は、山の上の高所立地はあまりなく、北岸の河岸段丘沿いの立地が多いこと
⑤ 敢えて集中地を挙げるなら、郡里と脇町の2つ

一番古いモデル(6世紀中葉)とされる大國魂古墳(美馬市美馬町)を、見ておきましょう。

大國魂古墳kaikoubu 2
大國魂古墳の開口部
この古墳は美馬町・重清西小学校北の大国魂神社の境内にあります。ここも「先祖の墓=信仰対象」として守られてきたのでしょう。この古墳は。段の塚穴型石室の中で、一番西に位置します。開口部は狭いですが、石室内部は完存してます。

段の塚穴古墳棚塚3
                大國魂古墳の玄室から見た開口部

幅2・22m、玄室長2.17m、高さ2.09m。石室全長は4.67m。
床面プランは、やや胴張りですが正方形に近い形式。側壁は下部に砂岩、上部に結晶片岩を用いています。奥壁には石棚がります。

大國魂古墳(美馬市美馬町)
大國魂古墳 奥壁の上部にもうけられた石棚 
石棚の位置が高すぎで、天井との空間が狭すぎるような感じがしますが、ここに何かが奉られていたのでしょう。大國魂古墳の特徴をまとめておきます
①段の塚穴古墳群に比べると石室の規模はやや小さい
②玄室の平面プランは胴張りをしているものの正方形に近い
③石室には、奥壁天井部に接する形で石棚が設置(奥行き30㎝、厚さ8㎝の小振りの石棚)
段の塚穴型石室変遷表
段の塚穴型石室の編年試案

初期の大國魂古墳から終期の段の塚穴古墳群を比較して、研究者は次のように指摘します。
①周忌の最終段階の段ノ塚穴古墳までに、石室は長く、高くという意図が働いている
②構築技術の高まりと同時に被葬者の権力的基盤の高まりがうかがえる。
このような石組技術をもった集団が古代の美馬にいて、独特の石室を作り続けたことになります。

段ノ塚穴型石室分布図
段の塚穴型石室と忌部山型石室の分布図

ついでに、ここで段ノ塚穴型石室と忌部山型石室の共通点も見ておきます。
③共に、石室内部をより広く高くするというベクトルが働いていること
④石室内をドーム状にし、天井を穹窪状に持ち送る「ドーム型天井」を採用していること
どちらが先行するかと言えば、段ノ塚穴型石室の初期モデルと考えられる大國魂古墳(5世紀末~6世紀初期)があるので、段ノ塚穴型石室が先と研究者は考えています。段ノ塚穴型石室が先に登場し、続いて忌部山型石室が続くとことを押さえておきます。

それでは段ノ塚穴型石室のルーツは、どこなのでしょうか?
それは、次の二ヶ所が考えられるようです。
①紀伊水道を隔てた和歌山県紀ノ川南岸下流域沿いに分布する岩瀬千塚型石室
②九州の肥後型石室
岩橋型石室 段の塚穴古墳のルーツ?

岩瀬型石室(和歌山)


肥後型石室
この両者は天井部を高く積み上げる点で共通点があります。段ノ塚穴型石室に見られる石棚を持つ特徴は、岩瀬千塚型に共通します。しかし、天井石を前後から持ち送りドーム状にするという手法は見られません。これは阿波で発展した独特の技法です。
 先ほど見た段ノ塚穴型石室の初期モデルとされる大國魂古墳と肥後型石室を比較すると、玄室プランが正方形であること、石棚がある点などでは共通します。そのため近年では、肥後型石室の影響を受けて、天井部を高くする技法が進化し、長方形の胴張り形がミックスされたとする見方が有力なようです。
  ここまでをまとめておきます
①麻植の忌部氏と美馬の佐伯直氏は、とも阿波に移り住んだということが史料からは読み取れる。
②段ノ塚穴型石室、忌部山型石室ともに、そのルーツを辿っていくと九州地域からの影響を受けて作られた可能性が高い。
③これは工人達の移住により構築技術がもたらされたというよりも、高い統率力を持った豪族が集団で移住・入植し、美馬郡、麻植郡を本拠地として活動したと考えられる。
④こうした勢力が、古墳末期から律令期において、美馬・麻殖で、独特のドーム型石室の終末古墳を造営し、引き続いて古代寺院の建立を手がけることになる。

それでは、美馬エリアに段ノ塚穴型石室を造営したのは、どんな集団だったのでしょうか
古墳末期に、横穴式の巨石墳を造っていたエリアでは、7世紀後半の白鳳時代になると古代寺院が現れることがよくあります。つまり、古代の国造クラスの有力者が、中央の支配者を見習って埋葬方法を古墳から寺院に切り替えたとされます。それが国造から郡司への生き残り戦略でもあったのです。彼らは壬申の乱の天武政権において、郡司として地方権力を握るために、中央政府の打ちだす政策に協力していきます。それが、白村江敗北後の国土防衛のための軍事施設整備であり、南海道などの整備、条里制施行の土木工事でした。同時に、郡司として郡衛やそれに付随した施設を整備していきます。つまり8世紀後半に、南海道などの主要道や郡衙・古代寺院がほぼ同時に姿を見せることになります。そのような場所が、美馬の郡里です。ここには、次のような施設がありました。

郡里廃寺2
             古代の美馬・郡里の政治的モニュメント
A 段の塚穴古墳(古墳末期の巨石墳)
B 郡里廃寺(有力豪族の氏寺)
C 美馬郡の郡衙
D 条里制跡
こうして見ると6世紀末に盟主的性格の強い段の穴塚古墳を作った集団は、白鳳期になると郡里廃寺を造営したことが考えられます。ここからは美馬には国造クラスとして活躍し、その後に美馬郡司にスライドしていく有力豪族がいたことがうかがえます。その豪族とは、誰なのでしょうか? 古代史料に美馬郡で活躍する氏族名はあまりいないようです。その中で、研究者は次の記事に注目します。

『日本三代実録』貞観十二(870)年七月十九日の条に、佐伯直氏が登場します。
「阿波国三好郡少領外従八位上仕直浄宗五人。賜姓 佐伯直。」
             (『日本三代実録』前篇、二七六頁、国史大系、吉川弘文館1924年)
ここには阿波国三好郡の少領である「仕直浄宗」以下の五人に佐伯直の姓が与えられたとあります。佐伯直氏は、讃岐では空海を生んだ善通寺の有力豪族で、次のように考えられていることは以前にお話ししました。
佐伯直氏
佐伯氏は3つの氏族がいて「擬似的血縁共同体」を形成していた
  『三代実録』巻貞観三年(861)11月11日辛巳条には、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたことが記されています。それから9年後に阿波三好郡の「仕直浄宗」以下の五人が佐伯直が下賜され改姓していたことになります。ここからは善通寺の佐伯直氏と阿波美馬の勢力は「佐伯」という同じ姓を持ち、同属意識で結ばれていたことがうかがえます。

奈良時代の平城宮跡二条大路出土の木簡二点にも美馬郡の佐伯直氏が登場します。
A 阿波國美馬郡三野郷戸主佐伯直国分米
B 阿波国美馬郡三野郷  戸主佐伯直国麻呂米五斗
『平城官発掘調査出土木簡概報 二条大路木簡二 24・30P(奈良国立文化財研究所、1991年)
この二つの木簡は荷札木簡で、美馬郡三野郷の戸主佐伯直が税として米を納めたことが記されています。納めた年月は分かりませんが奈良時代の史料であることはまちがいありません。ここからは奈良時代の律令期に美馬郡三野郷に佐伯直氏の集団がいたことが分かります。史料の中に美馬郡域に登場する氏族は、佐伯直氏以外には今のところいないようです。佐伯氏と美馬郡の段ノ塚穴型石室の分布が重なり会う可能性が大きいと研究者は考えています。以上からは次のような説が考えられます。
郡里廃寺 段の塚穴
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
 『郡里町史』(1957)は、阿波国には、文献から確認できる「粟国」と「長国」のほかに、記録には出てこないが「美馬国」とでもいうべき国があったという阿波三国説を提唱しています。この美馬国は②が実態だったと考えられます。

古代の善通寺と美馬の交流関係については、以前に次のようにお話ししました。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
                  郡里(こおざと)廃寺
この古代寺院を建立したのは、先ほど見たように佐伯直氏一族と考えられます。またこの廃寺跡からは、弘安寺廃寺(まんのう町)から出てきた白鳳期の同じ木型(同笵)からつくられた軒丸瓦が見つかっています。郡里廃寺建立に、善通寺の佐伯直氏が協力したことが考えられます。

弘安寺軒丸瓦の同氾
弘安寺(まんのう町)軒丸瓦の同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)
さらに、「美馬王国」と「善通寺王国(善通寺旧練兵場遺跡群)には、次のような関係がありました。
古代美馬王国と善通寺の交流


ここから研究者は、次のような仮説「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

ここでは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説があることを押さえておきます。そうだとすれば、弘安寺(まんのう町)と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 最後に美馬の段の塚穴型型石室を造営した勢力の経済基盤は何だったのかを考えておきます。

大仏造営 辰砂分布図jpg
四国を東西に走る中央構造線の南側は、朱砂(水銀)や銅鉱など鉱物資源の眠るベルト地帯でした。その中でも、徳島の水銀生産の実態が他に先駆けて、明らかになっています。吉野川の南側の山には、鉱物資源を求めて、早くから人々が入り込み水銀を畿内だけでなく各地にもたらしたことが分かっています。そのルートが「美馬 → 善通寺 → 多度津 → 瀬戸内海航路」です。これは、律令時代になってもかわりません。東大寺の大仏鋳造に必要だった水銀と銅鉱の多くは、渡来人の秦氏がもたらしたものとされます。そのために秦氏は、伊予や土佐にやってきて鉱山開発を行っていたことがうかがえます。高越山周辺の銅山でも、秦氏の銘が経筒に残されていることは以前にお話ししました。このように、古代において吉野川の南側は、鉱物資源の生産地として戦略的にも重要地帯であったことがうかがえます。そこに、佐伯氏や忌部氏が入植し、この地を開き、忌部山型石棺や段の塚穴型石棺という独特の古墳を残したというのが私の今の考えです。

 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制形成期に美馬郡司にスライドして、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院郡里廃寺の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった善通寺の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。
⑥中央構造線の南側には鉱物資源ベルト地帯が東西に走り、その開発のために麻植に入植した子孫が忌部氏であり、美馬に入植したのが佐伯氏である
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ
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修験者

古代の阿波忌部氏について、研究者は次のように考えているようです。
①古代の大嘗祭は「太政官→阿波国司→麻植郡司→忌部氏」という律令体制の行政ルートを通じて、麻植郡の忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われた。
②しかし、律令体制が不安定となると、中央の斎部(忌部)氏も衰退し、このルートが機能しなくなった。
③そこで中央の神祗官は、荒妙・由加物の確保のために「阿波忌部」を直接的に配下に置いて掌握するシステムを作り出した。
④そのシステムが、「神祗伯家」→神祗官人(斎部氏か)→「左右長者」→「氏人」である。
⑤中世になると阿波忌部に替わって「氏人」が荒妙の織進や由加物の調進を行うようになった。

「阿波忌部」については、研究者の多くはその本貫地を麻植郡とし、氏神の忌部神社もその周辺にあったと考えていることを前回は見てきました。今回は、考古学者が「阿波忌部」の本貫地に作られた忌部山古墳群を通して、古代の麻植郡をどのように考えているのかを見ていくことにします。
テキストは「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。  

徳島県でも6世紀中葉頃になると、それまでの竪穴式石室に替わって、朝鮮半島から伝わってきた横穴式石室を埋葬施設に持つ円墳が登場してくるようになります。竪穴式石室は基本的に首長一人の埋葬ですが、横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳のほとんどが10m前後の規模の小さな円墳で、家族墓として複数の追葬が行われるようになります。

阿波古墳編年表
上の徳島の古墳変遷図を見ると、吉野川流域の麻植郡については、次のような情報が読み取れます。
①3世紀から5世紀の前方後円墳に代表される首長墓がないこと。
②6世紀代(10期)になって、円墳で横穴式石室をもつ古墳が登場してくること
つまり、麻植郡は4・5世紀代には、古墳が造られていない「古墳空白地帯」なのです。これは強い力をもつ豪族たちがいなかった地域であった地帯とも言えそうです。

麻植郡域に横穴式石室の古墳が築造されるようになるのは6世紀になってからです。
その代表格が下図の2の忌部山古墳群や4の峰八古墳群、5の鳶ケ巣古墳群になるようです。

忌部山古墳群
麻植の3忌部山古墳群・4峰八古墳群・ 5鳶ヶ巣古墳群

地図を見れば分かるように、山川町忌部の背後の標高200mの山の中にあります。そして、その麓に、山崎忌部神社が鎮座し、その里が山川町忌部になります。「里から見える見える霊山に祖霊は帰っていく。その山や谷が霊山であり、霊域となる。それを奉るために社殿が作られる。」という民俗学者の言葉通りのレイアウトになっています。この里が阿波忌部の本貫地であったことが古墳からもうかがえます。注意しておきたいのは、高越山の麓ではないことです。

200m前後の高い山の上に古墳が作られるのは徳島ではあまり例がありません。徳島県の高所造営の代表的例を挙げると、次の2つです。
①三好郡東みよし町の丹田古墳(全長約25mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室)で標高約220m
②徳島市名東町の八人塚古墳(約全長60mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室?)でや標高130m
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丹田古墳(東みよし町)
山の上に作られた古墳は4世紀代の前期古墳で、尾根の先端部にあって、そこからは平地の集落が見下ろせる位置にあります。つまり首長墓で政治的なモニュメントとして作られています。麻植の忌部山古墳群や峰八古墳群、鳶ケ巣古墳群が高所に造られたのは、前期古墳の首長墓とは性格がちがいますが、家族墓として一族の存在誇示する意図がうかがえます。忌部山古墳群は『和名類緊抄』の郷名「忌部」に、峰八古墳群と鳶ケ巣古墳群は郷名「川嶋」の集落に比定されます。ここには、忌部氏と、隣接した川島にもうひとつの有力者集団がいたことがうかがえます。
忌部山古墳群をもう少し詳しく見ておきましょう。
忌部山古墳群1

            図4 忌部山古墳群の測量図 『忌部山古墳群』(1983年)より

この古墳群は、吉野川市山川町山崎字忌部山123番地の標高約240mにあり、『麻植郡誌』にも載っていて古くから知られた古墳群です。
忌部山2号墳
現在の忌部山2号墳


忌部山2号墳の羨道部2
調査時の忌部山古墳2号墳
1976年から3年間の調査で分かったことは、次の通りです。
①5基とも円墳で、墳丘規模は、直径10m前後、高さ2、5m前後で、墳丘規模に大きな格差はない。
②忌部山の尾根に沿って、最高部244mから1号墳、2号墳、3号墳と北方向へと下る稜線上にある。
③尾根上に並ぶ3基の古墳から、南東側の斜面約20m下に4号墳、さらに北東側に12m隔てて5号墳がある。
④ここからは、忌部山古墳群は、頂上部の1~3号墳グループと4~5墳グループに2つに分類できる
⑤忌部山古墳群は全て横穴式石室で、1号墳だけは横穴式石室に隣接して竪穴式の小石室があり、これは追葬用の埋葬施設。
⑥石室を比較すると、1号墳を最大として、次いで2号墳、3・4・5号墳が一回り小さい。
⑦築造順序は、1号墳→2号墳・3号墳 → 4号墳 → 5号墳で、6世紀半ば前後に前後して造られた。    

各古墳石室の開口方向から推測すると、一番上の1号墳から下っていく墓道と2号墳の墓道が繋がり、3号墳の南側を下って3号墳の墓道と繋がり、4号墳の西側から南側を廻って4号墳の石室前へと繋がり、さらに5号墳の石室開口部へと繋がって里へと下っていく墓道があったと研究者は考えています。


忌部山古墳群の横穴式石室は、大きな特徴を持っていると研究者は指摘します。
徳島県の他エリアの横穴式石室は長方形の石室で、天井部は水平で、全体は箱型の石室です。これが全国標準タイプです。ところが忌部山の古墳は、石室をドーム状に積み上げています。


忌部山2号墳の羨道部
      忌部山2号墳の石室と羨道部 ドーム状に高く積み上げられている

石室の底辺部は、入口から奥壁に至る壁面は緩やかな曲線を描き、側壁と奥壁の接点も角張ることはなく丸みを帯びています。天井部は水平ではなく、玄室入り口部と奥壁側から互いに持ち送りしながら、石室ほぼ中央部が最高部になるよう積み上げています。これが特徴です。全国的に見るとドーム状に築かれた横穴式石室は各地にあるようですが、忌部山型石室のように天井まで持ち送りのドーム状にする例はほとんどないようです。こうしたドーム状石室は、忌部山型石室と呼ばれているようです。

境谷古墳のドーム状石室.2jpg
            境谷古墳(山川町境谷)のドーム状石室

この忌部山型石室が麻殖郡内には18基あります。ここからは麻植郡内では、古墳造営に際して独特の基準があり、それを守ろうとする集団間の絆が強かったことがうかがえます。別の言い方をすれば「麻植郡式の葬送儀礼ルール」があったと言えます。そのような集団のひとつが山川町忌部を拠点とする勢力だったことになります。
 それでは忌部山型石室のルーツはどこなのでしょうか?
そのことを探る上で参考になるのが美馬の段ノ塚穴古墳群のようです。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳の石室 ドーム状に高く積み上げられている

これを探るのは次回にして、以上をまとめておきます。
①山川町山崎は忌部の地名が残り、史料的にも「阿波忌部」の本貫地であったことがうかがえる
②山崎の忌部の里の上には、忌部神社が鎮座し、さらに山の上には忌部山古墳群がある。
③忌部山古墳軍は、里の阿波忌部の家族墓として6世紀中頃に、継続して造られたもので、忌部氏の集団がいたことがうかがえる。
④忌部古墳群には、ドーム状石室という独特の構造が見られ、他エリアとは一線を画する出自や交易活動を行っていたことがうかがえる。
②ドーム状石室という点では、麻植と美馬の勢力は共通点を持ち、麻植の影響を受けて美馬でも造り始められたと研究者は考えている。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」
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端山八十八ヶ所巡礼をしていると「忌部」伝説に、よく出会いました。貞光川流域は、古代忌部氏との関係が深い所という印象を受けました。ところがいろいろな本を読んでいると、古代忌部氏の本貫は麻植郡と考えている研究者が多いことに気がつきました。麻植郡を本願とする忌部氏の氏神である忌部神社がどうして三好郡にあるのでしょうか。そこには、近世と近代の所在地を巡る争論があったようです。それを今回は見ていきたいと思います。テキストは「長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P」です。
講座 麻植を学ぶ(歴史編)」 | アワガミファクトリー オンラインストア │ 阿波和紙の通販

まず忌部氏について押さえておきます。
古語拾遺には「阿波忌部」と麻植の関係を次のように記します。

  天日鷲命の孫は、木綿と麻(を)と織布(あらたへ)多倍)を作っていた。そこで、天富命に日鷲命の係を率いて、土地豊かなところを求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖えた。その末裔は、いまもこの国(阿波)にいて、大嘗奉には木綿・麻布(あらたへ)及種種の物を貢っている。それ故に、郡の名は麻殖(おえ)と呼ばれる。

ここには、阿波忌部が阿波に定着して、穀・麻を播種し、木綿(穀の繊維)、麻の繊維、「あらたえ」といわれる麻布を製作し、これらを大嘗祭の年に貢納したこと、それゆえに阿波忌部の居住する地を麻殖郡と称したことが記されています。ここからは阿波忌部は麻殖郡に拠点を置いていたことがうかがえます。また、承平年間(920年前後成立)の辞書『和名類衆抄』にも、麻殖郡に「忌部郷」があったことが記されています。ここからも麻植が本貫であったことが裏付けられます。

天皇の即位儀礼の大嘗祭に奉仕した阿波忌部の氏神が忌部神社です。
古代の大嘗祭は律令体制下の「太政官→阿波国司→麻植郡司→阿波忌部」という行政ルートを通じて、忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われました。しかし、律令体制が解体すると、このルートは機能しなくなり、忌部氏も衰退します。忌部の後裔を称する人々は中世にもいて、大嘗祭への奉仕も続いたようですが、中世後期には途絶えたようです。やがて大嘗祭自体も行われなくなります。それが復活するのは17世紀後半の東山天皇の即位の時です。
 一方、近世に大嘗祭が復活したときには、阿波忌部は断絶していたので関与できませんでした。
大嘗祭と阿波との関係が「復活」するのは、大正天皇の大嘗祭のときになります。大嘗祭と阿波の関係が途絶えていた江戸時代後半に起きるのが忌部神社所在地論争です。古代の忌部神社の系譜を引く神社がどこにあったのか分からなくなり、考証や論争が繰り拡げられます。

延喜式神名帳阿波
延喜式神名帳の阿波国分

延喜5年(927)成立の『延喜式』神名式(「神名帳」)には、諸国の官社が載せられていて、これを「式内社」「式社」と呼んでいます。
ここに載せられた神社が当時の代表的な神社であったことになります。阿波を見てみると、四十六社五十座の神社が記されています。これらの中には、最有力なのは次の三社です
祈年祭に神祗官か奉幣する官瞥大社として
①麻殖郡の忌部神社
②名方部の天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめ)
③国司が奉幣する国幣大社として板野郡の大麻比古神社(おおあさひこ)
他は国幣小社です。社格からしても忌部神社は古代阿波では代表的な神社であったことが分かります。神名帳によれば、忌部神社は「或いは麻殖神と号し、或いは天日鷲神と号す」と注記されています。ここからも、阿波忌部の祖神である日鷲命を祭神とし、「麻植神」と呼ばれていたことが分かります。忌部神社が忌部郷と考えるのが自然のようです。

延喜式神名帳阿波2
            延喜式神名帳の阿波国美馬郡十二座と麻植郡分
行方知れずとなった忌部神社の所在地考証は、江戸時代後半の18紀以後になると活発化します。
そして所在地をめぐる論争となります。その経緯を見ていくことにします。
文化12年(1815)の藩撰地誌『阿波志』巻七「種穂祠」には、次のように記されています。

「元文中、山崎。貞光両村の祀官、忌部祠を相争ふ。遂に中川式部に命じて此に祀る」

ここには、麻植郡山崎村(吉野川市山川町)と美馬郡貞光村(つるぎ町)の神職の間で相論があって、麻植郡の種穂神社(古野川市山川町)を忌部神社として扱うことになったことが記されています。ここでは、争論となった場所が近代の論争地として再登場することを押さえておきます。以後、忌部神社を名乗る神社が以下のように次々と現れるようになります。
①寛保二年(1742)の『阿波国神社御改帳』には、宮島八幡宮(古野川市川島町所在)、種穂神社が忌部神社を主張
②種穂神社の神主中川家の史料から、嘉永六年(1853)に高越権現が忌部神社を称したこと
③この他にもいくつかの説がでてきますが、ここまでは麻植郡内が候補であったこと
この争論の背景には、国学が知識人の間に広がり古代への関心が高まってきたことと、忌部信仰の興隆・拡大があったようです。

端山忌部神社
端山の忌部神社(つるぎ町)(もともとは東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
そして登場するのが貞光周辺、とくに端山(つるぎ町)の忌部神社をめぐる次のような動きです。
①宝暦4年(1754)に、神職宮内伊織広重が忌部神社の系譜を主張し、神宝を「発見」したことが「美馬郡貞光村忌部神社文書.」(徳島県立図書館編出版)に記される。
②寛政5年(1792)『阿波志』編集のために神職らが集めた旧聞等をまとめた『阿波志編纂資料』には、美馬郡西端山には「忌部御類社と申伝」える「蜂巣五社大明神」や、「忌部大神宮社床と申伝」える「古社跡」があった
④類似する内容が民間地誌『阿陽記』などにもあり、西端山の項に「忌部古社」とその関連伝承・遺跡が記載されるようになる
⑤野口年長『式社略考論』は、端山の忌部神社について「いまだたしかなる拠なければ、せむすべなし。或人忌部神社の永禄四年の棟札を持伝へたれど、これにも社の所在の証なし」
⑤永禄4年(1561)の棟札とは、近代の論争において端山側の論拠となった「天日鷲尊四国一 宮」の棟札と同一物を指すようですが、現存せず。
以上のように18世紀後半から「忌部神社=端山」説を主張する動きがあったことを押さえておきます。これが大きな運動になるのが明治維新後です。
        
明治4年(1871)5月、明治政府は、全国の神社を神宮・官国幣社・府藩県社・郷村社と格付分類することにします。
そして中央の神祗官が直接管轄する官国幣社が指定されます。その一環として忌部神社も国幣中社に指定されます。これは先ほど見た『延喜式』の神名帳に従ったもので、その所在場所が分からないままでの指定でした。そのため、多くの神社が「吾こそは式内社としての古代の忌部神社なり」と名乗りを上げます。こうして近代の所在地論争の幕が開きます。

小杉榲邨 - Wikipedia
国学者小杉饂郁
そこで重要な役割を果たしたのが阿波出身の国学者小杉饂郁(すぎむら)でした。小杉の生涯を見ておきましょう。
天保5年(1824)徳島藩中老西尾氏の家臣であった小杉明信の長男として徳島城下の住吉島に誕生
安政元年(1854)西尾氏に従って江戸に出て、
安政4年(1457)江戸の紀伊藩邸内の古学館に入門して国学を学ぶ。
           幕末期には尊王攘夷を唱えたため、藩により幽閉。明治維新に際して藩士に登用され、以後、学者あるいは学術系行政官とし活躍。
明治2年(1869)藩学である長久館の国学助教に就任
明治7年(1874)教部省に出仕し、後に文部省、東京大学、帝国博物館に勤務。『特撰神名牒』『古事類苑』などの編纂に従事
明治34年(1901)文学博士・
明治43年(1910)永眠(75歳)
大正3年(1913) 小杉編『阿波国徴古雑抄』刊行(『徴古雑抄』のうち、阿波の部の正編仝部及び続編の主要史料を収載)

忌部神社の国幣中社指定の年の明治4年(1871)8月に、小杉は、その所在地調査の報告や意見が出されています。これを見ると候補として挙げられている神社は、次の通りです。
①川田村(吉野川市山川町) 種穂社
②山崎村(山川町)忌部社  王子社
③貞光村(つるぎ町)    忌部社(東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
④宮島村(吉野川市川島町) 八幡宮
⑤西麻殖村(吉野川市鴨島町)中内明神
⑥上浦村(鴨島町      斎明神
⑦牛島村(鴨島町)     大宮

種穂忌部神社
川田村(吉野川市山川町) 種穂社
このような乱立状態を見て、小杉は「忌部神社新設」案によって打開しようという意見書を県に提出しますが採用されません。そのため官祭を開くことができず混乱が生じます。そのため一時は、忌部神社の指定を撤回し、大麻比古神社に変更するという案も浮上したようです。流石にこれには抵抗があり実現しません。

忌部神社 山崎
忌部神社(山川町山崎)
明治6年になると、小杉饂郁は「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」と主張するようになります。
「山崎村ノ神社」とは、②の王子社に祀られていた天日鷲社のことです。そして、翌年2月、教部省に意見書を提出します。この時の小杉の考証根拠は「不可抜ノ証文」で、「三木家文書」のうちの「阿波御衣御殿人契約状」(正慶元年1332)です。この文書は今は写本が残るのみですが、次のようなことが書かれています。(原文は漢文調を読下したもの)
契約
阿波国御衣御殿人子細の事、
右、件の衆は、御代最初の御衣御殿人たるうゑは、相互御殿人中、自然事あらは、是見妨げ聞き妨ぐべからず候、此の上は、衆中にひやう定をかけ、其れ儀有るべき者也、但し十人あらば七、八人の儀につき、五人あらば二人の儀付くべきものなり、但し盗み・強盗・山賊・海賊・夜打おき候ひては、更に相いろうべからず候上は、日入及ぶべからず、そのほかのこと、一座見妨げべかず候、但しこの中にいぎ(異議)をも申、いらん(違乱)がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり、此上は一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也、角て契約件の如し、
正慶死年十一月 日
以下13人の名前
この文書については、研究者は次のように評します。

中世文書としては文面に違和感があるものの、文意は明確であり、在地社会で作成されたものであるがゆえの表現の乱れや写し間違いがあるとするなら、必ずしも否定的にとらえるべきではないと考える。

つまり完全な偽物ではなく、当時の情勢を伝える信用できる内容のものだという評価です。
内容を見ておくと
「御衣御殿人」は通例「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(荒妙御衣)のことで、これを製作する者が「御殿人」です。したがって、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団ということができます。
小杉が注目したのは、次の箇所です。

「一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也」

阿波忌部の子孫と称する人々が寄合を開く「やまさきのいち(山崎の市)」とは、忌部神社の門前市のことで、山崎村に忌部神社があったことになります。この「山崎=忌部神社鎮座」説に対しては、5月に異論が出されます。折目義太郎らが小杉に対し、西端山の忌部神社を認定すべきという意見を申し出ます。しかし、教部省による小杉説の検証が行われた結果、12月には大政大臣三条実美の名において、次のような決定が出されます。
「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社ハ旧忌部神社クルヲ実検候二付自今該社ヲ忌部神社卜称シ祭典被行候」
意訳変換しておくと
「麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲社が旧忌部神社が認められたので、これよりこの社を忌部神社と称して祭典を行うものとする。

これが小杉説に基づく政府決定でした。

これで一件落着のように思われたのですが、問題は終わりませんでした。讃岐国幣中社の田村神社権宮司・細矢庸雄が忌部神社の所在地を西端山とする考証を出して、政府決定に反駁を行い、小杉との論争となります。
さらに、これを支援するように明治10年(1877)になると、西端山を含むつるぎ町貞光一帯から運動が起こり、内務省に願書が提出されます。
その主張の骨子は次の通りです。
「式内忌部神社ノ儀、往古ヨリ阿波国麻殖郡内山吉良名御所平二御鎮座」

これには「忌部郷人民惣代」を称する村雲義直のほか、谷幾三郎、折目栄の連署があり、さらに戸長・副戸長計七名による奥書があります。ここからは個人の意向ではなく、地域有力者の政治運動として展開されたことが分かります。つまり、忌部神社問題が争論から政治問題化したのです。翌年に出された追願書以降は、東京在住の折目栄が「忌部郷惣代」とか「忌部郷諸(庶)民惣代」などと称しているので、彼が運動の中心にいたことがうかがえます。
 忌部神社=端山説の根拠は、次のような「物証」でした
①美馬郡は、もと麻植郡の一部であったとする郡境変更説などが記された『阿陽記』
②その系統の地誌、『麻殖氏系譜』
③永禄年間の「天日鷲尊四国一宮」の棟札
また、小杉が「忌部神社=山崎鎮座」説の根拠とした古文書「波御衣御殿人契約状」を偽文書とする鑑定も出されます。そして考証の結論は、「波御衣御殿人契約状」を偽文書として、「忌部神社=山崎説」を否定するものでした。こうして、明治14年(1881)に西端山御所平が忌部神社所在地と決定されます。
ところが政治問題化した忌部神社の所在地問題は、これでも終結しません。
こうなると学問的考証の手立てはなく、残された選択肢は、かつての小杉の主張であった忌部神社の新設によるしかなくなります。所在地論争は、棚上げされることになります。

徳島市勢見山の忌部神社
 徳島市勢見山の忌部神社

こうして徳島市勢見山に新たな場所が選ばれ、忌部神社を新設して明治20年(1887)に遷座祭が行われます。御所平の神社は忌部神社の摂社となりますが、山崎の神社はその系列からは外されてしまいます。その意味では、端山側の運動は一定の成果を残したと言えそうです。その後、山崎が歴史の表舞台に現れるのは、大正4年(1915)、大正天皇即位の大嘗祭の色服の「復活」の時です。織殿が山崎の忌部神社跡地に設置され、山崎の地も阿波忌部に連なる正統なな忌部神社として復活を遂げます。

忌部神社 徳島
忌部神社(徳島市)
以上をまとめたおくと
①阿波忌部の本貫地は麻殖郡で、そこに氏寺の忌部神社が鎮座していた。
②忌部氏は古代の大嘗祭において、麻などの織物を奉納する職分を持っていた。
③しかし、中世になって大嘗祭が簡略化され、ついには行われなくなるにつれて、阿波忌部も衰退し姿を消した。
④こうして阿波忌部が姿を消すと、氏神である忌部神社もどこにあったのか分からなくなった。
⑤こうした中で江戸時代後期に、国学思想が拡がると忌部神社を名乗る神社がいくつも現れ、争論を展開した。
⑥明治政府は延喜式の神名帳に基づいて、忌部神社を国幣中社に指定したが、所在地が分からなかった。
⑦そこで政府は、小杉饂郁の論証を受けて、麻植郡山崎村の天日鷲社を忌部神社と認めた。
⑧これに対して端山周辺の有志達は、組織的に「忌部神社=端山」説を政府や県に陳情し、政治問題化させた。
⑨その結果、新しく忌部神社を徳島市内に建立し、端山はその摂社とした。

ここには、ひとつの神社がどこにあったかをめぐる争論の問題があったことがわかります。忌部神社が端山にあったということは、周辺住民のアイデンテイテイの根拠になり、地域の一体化を高める動きとなって政治問題化します。このような歴史ムーブメントが端山周辺にはわき起こり、現在でも忌部伝説が語り継がれているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P
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前回は高越山の麓にあった中世の川輪田荘は、かつての吉野川の川中島(輪中)であったので「河輪田」と呼ばれたとこと、その後の吉野川の流路変更で、姿を消したという説を紹介しました。こうして見ると吉野川は、現在の流路に至るまでに何度もの流路変更を行ってきたことが窺えます。それを今回は美馬周辺で見ていくことにします。テキストは「森重幸・川島信夫・金沢浩生   地名「喜来」の考察   郷土研究発表会紀要第28号」です。

原付バイクで吉野川の堤防の上をよく走ります。川面を見ながら、東西に連なる阿讃と四国の山脈(」やまなみ)を見上げてのツーリングは心地よいものです。三頭山などから見ると吉野川は、一直線に東西に伸びているかのように感じますが、地図を見ると中流域では蛇が這うように蛇行して流れているのが分かります。その要因を研究者は次のように指摘します。
A 南からの四国山脈の尾根が伸びてきたところでは、尾根の先を廻って北側に入り込んで蛇行。
B 北側の阿讃山脈の谷川が流れ込んで三角州を形成するところで、南側に蛇行。
これを、美馬周辺の地図で見ていくことにします。

吉野川河道 美馬1
美馬周辺の吉野川
A 南からの尾根の張り出しは④⑤⑥
B 北の讃岐山脈からの流れ込みは
③「河内谷(こうちだに)」(芝生)
②「高瀬谷(こうぜだに)」
①鍋倉谷川
ここからは次のような「情報」が読み取れます。
1 JR江口駅から⑤の尾根あたりまでは、南岸山地の尾根が北に張り出して、圧迫された吉野川が今よりも北に流路を取っていたこと。
2 その流路は、⑦現在の「四国三郎の里」や⑧川北街道(県道12号)附近の「谷口」・「沼田」地区に進入し流域としていたこと。
3 その下流では①鍋倉谷川によって南岸に押された吉野川が「貞光川」によって、再び逆に北に押し上げられていた形跡が見えること。

吉野川美馬 中島
             吉野川の旧河道(三好市三野町 四国三郎の里あたり)
以上をもう少し詳しく見ていくことにします。上の写真は1970年代の航空写真で見た三好市三野町あたりです。こうして見ると、JR江口駅附近から北に流れ込んだ吉野川は現在の材木センターや四国三郎の里あたりの北側を流れ下っていたこと、そして、ここには大きな「川中島」である「清水」や「中島」があったことがうかがえます。それが現在は木材センターや四国三郎の里として整備されているようです。

吉野川三野町中島
                 吉野川の旧河道(半田あたり)
吉野川半田周辺2

また、半田の対岸の「谷口」・「沼田」や、その下流の「宗重(むねしげ)」・「小長谷(おばせ)」の低地帯も旧河道であったようです。1975年に池田ダムが完成するまで、洪水の遊水地帯が必要でした。そのため川幅を広く取って、北側の流れも確保していたようです。その結果、広い遊水池や低湿地が至る所にあったようです。もう少し下流も見ておきましょう。
郡里廃寺2

美馬市郡里の郡里廃寺と段の塚穴古墳

  郡里の寺町や郡里廃寺跡は、段丘の上に乗っています。
寺町の安楽寺の下まで、かつては川船が着岸できた気配がします。そうだとすれば、寺町の寺院は吉野川の河川交通の拠点だったことになります。浄土真宗興正寺派の安楽寺が三好氏の保護を受けて、急速に教線を伸ばしていくのも、吉野川の河川輸送を掌握したからではないかと私は考えています。

P1270859
段の塚穴古墳の下に拡がる美田 洪水時にはこの下まで冠水していた?
 また段の塚穴古墳の真下まで、洪水の時には水が押し寄せてきていたことになります。この下に美田が生まれるのは近代になってからではないのでしょうか。段の塚穴古墳が造られた頃は、葦の茂る湿原だったかもしれません。そうだとすると、被葬者の経済基盤は農業生産ではなかったことになります。「地形復元」をしていると、いろいろな想像が膨らみます。

吉野川 小長谷
                     「小長谷」

  野村谷川が吉野川に合流する「小長谷」の低地帯は、現在も湿田となっています。もともとは、船着場だったという伝承もあります。

吉野川 貞光町飛び地

また、南岸「貞光町太田(おおた)」の飛び地が北岸にあり、今は小山北工場が立っています。以上からは、このあたりも吉野川が南に移動し、新たに生まれた湿原を開拓して生まれた水田と云うことになります。それがいつ頃のことだったのかは、今の私には分かりません。
以上をまとめておきます
①吉野川は南からの尾根の張り出しと、北の阿讃山脈を下ってくる川の形成する三角州に押されて蛇行しながら東に流れていく。
②両者の力関係は南からのベクトルの方が強かったために、今よりも北に押されて流れ下っていた。
③また、池田ダム完成以前は洪水時に供えて遊水池を確保する必要があり、広い低湿地や湿原が各地にあった。
④そこには、分流した吉野川が流れ込み川中島や輪島を形成していた。
⑤それは洪水の度に姿を変えたり、分断されたりして、村々の境界が分断されることもあった。
⑥近世・近代になって治水コントロールが可能になると、湿地は開拓され耕地化されるところも出てきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
森重幸・川島信夫・金沢浩生   地名「喜来」の考察   郷土研究発表会紀要第28号
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前回は、高越山のふもとにあった中世の荘園について見ました。「高越寺荘=河輪田荘」について、「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」は、次のような異論がだされていました。
高越山河輪田荘1
福家清司氏の見解
河輪田荘と高越寺荘が別物であるとすれば、河輪田荘は、どこにあったのでしょうか。
これについても福家清司氏は、講演の中で次のように提示しています。

河輪田荘の名と地名
         河輪田荘本庄年貢未進等注文案(1333年)の地名・人名

ここには「友松」という名主・名田がでてきます。これに研究者が注目します。
友松は現在の山川町村雲や川田のことで、河輪田荘はこのエリアを含んでいたとします。ここは下図のように、現在の吉野川の南岸にあたるところです。

高越山河輪田荘領域


高越山河輪田荘所在地1

次に、「吉野川は岩津から北に向かって流れていた。阿波市林地区に残る川跡湖はその名残」を見ておきましょう。
高越山河輪田荘 川跡湖
            岩津橋上流からの旧吉野川と川跡湖(1964年航空図)

確かに林地区には、川跡湖があり北岸への流れ込みがうかがえます。つまり、この北流する吉野川の南側全体が河輪田荘だった、
「輪田」というのは、「輪中」「川中島」のような地形で、吉野川に囲まれた地形であったと研究者は考えています。これを図示すると次のようになります。

河輪田荘と高越寺荘領域地図
                   河輪田荘と高越寺荘
2つの荘園のエリアを確認しておきます。
A 河輪田荘 川田 + 川中島 + 林 ほたる川の北側 
B 高越山の北側一体で、ほたる川の南側
ここで注目したいのは、ほたる川です。この川は、もともとは川田川の下流域だったようです。

高越山 ほたるかわ
川田川は、今は「瀬詰(せずめ)大橋」の方向に北流していますが、これは1925(大正14年)の河川改修工事によるものです。それ以前は次の通りでした。
①改修以前の川田川は、山川町北島で東流し、「ほたる川」を本流としていた。
②洪水の時には国道に氾濫したり、「前川」「若宮」に流れ込んだり、「瀬詰」方向に北流した。
③そこで約百年前に、北流させ瀬詰大橋附近で吉野川に流れ込む河道変更工事が行われた。
つまり、それまでは川田川は北島付近で流れを変えて東流していたことを押さえておきます。こうしてみると、旧川田川が高越寺荘と川輪田荘の境界だったことが考えられます。

川輪田荘の初見は、永久5年(1117)に再度立荘の際の史料になります。
     民部卿家政所下  阿(河?)輪田庄
可早任庁宣打定四至膀示庄領事
使太政官史生紀為忠
右件四至広博、為国衛有訴、又為庄家、動牢籠出来、働任国司庁宣、在庁人相共行向東西南北肝隠、且任本四至、員縮広博之地、庄家井国衛等、共無後日之訴、定四至、打膀示、永注向後之牢籠、可為御領之状、所仰如件、敢不可違失、故下、永久五年十月十二日
(十一名署判略)
意訳変換しておくと
民部卿家政所下の河輪田庄について
速やかに荘園の区画決定のための四至膀示を庄領に建てさせること
使太政官史生紀 為忠
(先に立荘した河輪田荘については)「四至」が広大で、(境界が不明確であったために)、国衛から訴えが起こされた。そこで関係者が出向いて範囲を縮小するなどの調整を図った結果、「庄家」と国衙の争いがなくなった。そこで改めて東西南北の四至を定め、膀示を打ち、荘領を定める、
ここからは再立荘以前の河輪田荘は、境界が不明確で、その範囲をめぐって国衛との間でトラブルが発生したことが記されています。吉野川の洪水で流路変更し、境界が移動し、紛争の元になったことがうかがえます。
以上をまとめておくと
①高越寺荘と川輪田荘は別物だった
②川輪田荘は、高越寺荘に隣接し、旧吉野川と川田川に囲まれた「川中島」的存在であった
③川輪田荘は、その後の吉野川の流路変更で多くのエリアが川底に沈んだ。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」
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高越山周辺の寺社や行場などを見てきました。今回は麓の旧川田村にあった中世荘園を見ていくことにします。麻植郡の荘園を旧町村別に示したのが次表1です。

阿波麻植群荘園一覧表
ここからは高越山の麓の山川町に次の4つの荘園があったことが分かります。
①高越寺荘
②河輪田荘
③河田荘
④忌部荘
従来は①②③は、同一の荘園とされてきました。それは、約90年前の戦前に出版された本に、次のように記されたからです。
高越寺荘と河輪田荘

ここでは、その名前から「河輪田(かわた)荘 = 高越寺荘(河田荘)」と断定しています。権威ある書籍にこう書かれると、検討されることなく定説化されてきたようです。しかし、21世紀になって、これに異議を唱える説も出てきています。今回は高越寺荘と河輪田荘は別物であるという説を見ていきたいと思います。テキストは「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」です。
まず、最初に登場してくる高越寺荘を見ていくことにします。
高越寺荘の成立時期については、山永仁元年(1292)8月日「高越荘八幡宮御供頭置文案」(「永仁史料」)に「本庄」・「新庄」と記されています。ここからは遅くとも13世紀末には、高越寺本荘・新荘が成立していたことが分かりますが、それ以上詳しいことは分かりません。史料的には『山塊記』応保元年(1161)8月に「尊勝寺末寺阿波国高越寺」とあるのが初見になるようです。

 尊勝寺 平安京郊外の白河殿に付属した堀河天皇の御願寺。六勝寺の一つ。
現在のロームシアター京都(京都会館)の周辺
この時の領家兼子は、前阿波守説方の妻です。夫の説方は12世紀中頃に阿波守在任だった藤原頼佐(説方と改名)のことです。ここから高越寺が尊勝寺の末寺にされた時期と契機について、研究者は次の2説を考えています。
①頼佐が阿波守の時に、高越寺を尊勝寺末寺にした
②頼佐の先祖に藤原為房の時に、高越寺を尊勝寺末寺にした
②の藤原為房は、院の側近として絶大な権力を持っていた中央権力者です。彼は寛治6年(1092)に阿波権守として阿波に配流され、その後に復権を果たします。その為房が御願寺尊勝寺の創建に深く関わって、阿波配流時の機縁によって高越寺を尊勝寺末寺とした筋書きも考えられます。どちらにしても、12世紀半ば頃には、次のような荘園支配システムがあったことになります。
尊勝寺を本家
仲介した藤原為房が領家
高越寺(僧侶)が現地管理者
そして高越寺荘の領有は、次のように推移します
①尊勝寺から平氏へ
②平氏滅亡後は、鎌倉幕府の没収領となって、関東御領に編入
③その後、源頼朝の妹である一条能保の妻
④その娘の西園寺公経妻全子、
⑤その娘九条道家妻倫子から九条道家へと渡り、
⑥道家から九条忠家へと伝領
以上のように高越寺荘は、鎌倉幕府が平家からの没収後に関東御領としたために、承久の乱以前に地頭が置かれた所になります。最初に地頭職が与えられたのは、源頼朝の側近であった中原親能ですが、建久8年(1198)までに小笠原氏に移ります。小笠原氏は承久の乱後に、それまでの守護佐々木氏に代わって阿波国守護となっていますので、そのときに高越寺荘の地頭職も得たようです。こうして、高越寺荘周辺は、鎌倉幕府の阿波支配の要地となっていきます、
 南北朝期になると、細川氏が阿波国に侵攻してきます。
細川氏の阿波侵攻当初の攻撃目標のひとつが麻植郡だったようです。早い段階で高越寺荘周辺は、細川氏に攻略されています。その背景には、麻植郡が鎌倉幕府の関東御領に準ずる土地であったこと、そして当面の敵であった守護小笠原氏の軍事的・経済的基盤であった守護領であったためと研究者は考えています。その後、南北朝末期になって細川氏が分立化するようになるとと、守護領が分割され、阿波は和泉細川氏の家祖となる頼有の所領となります。それが確認できる史料を見ておきましょう。

細川頼有【今上天皇の直系祖先】 | 歴史ディレクトリ
                      細川頼有
細川頼有から頼長(松法師)への所領譲状です。
【史料1】
ゆつり(譲り)状しょしょ(諸処)のしようりやう(所領)の事
一 ぁハ(阿波)あきつき(秋月)の三ふん一ほんりやう(本領)
一 ぁハはんさいのしものしやうのちとうしき(地頭職)おかのかあと
一 ぁハおえのしやう(麻植荘)のりやうけしき(領家職)内 中分平氏両所これハゆいしょあり
一 ぁハ①かうおち(河内)の御しよう(荘)
一 ぁハこうさとの一ふんのちとうしき よこたのひこ六郎あと
一 ぁハはんさいのかみのしやうの内ふちをか
一 ぁハたねのやま(種子山)こくかしき
(讃岐・伊予の所領略)
これハ頼有ちきやうのしよりやうなり、しかるをしそく松ほうし(法師)にことごとく、とらせ候うヘハ、又よのこともいらんわつらいあるましく候、もしさやうのものあらハ、ふけうの人たるへく候、たたしまつほうしか事ハ、大とのへまいらせ候うヘハ、御はからいたるへく候、又そのみのふるまいによるへく候、後日のためにしたゝめおく状くたんのことし、
かきやうくわんねん十一月廿六日    頼有(花押)
①の「かうおちの御しょう」は、「高落御庄」と同じなので「高越御庄」のことと研究者は考えています。この史料に加え、永仁史料には「高落(越)御庄」「高越庄」と、高越寺に荘号が付けられています。高越庄は建長2年(1250)に九条道家から九条忠家に譲渡されたのを最後に、九条家領としては史料から消えています。藤原氏以来の大貴族の荘園経営が解体し、武士達の時代がやってきたようです。高越寺荘は、細川頼有から所領を譲られた頼長(松法師)以後は、和泉細川氏の所領の一つとして伝領されます。それは戦国時代になって細川氏が衰退して、又代官出身の上肥氏が支配するまで続きます。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社(旧高越荘八幡宮) 本殿は山川町で一番古い建築物
山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿平面図 本殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式

川田八幡神社は、永仁史料には「高越庄八幡宮」と記されています。

その宮座関係史料である永仁史料には、次のような名前が出てきます。

「徳光・末光・守延・光国・正宗・利弘・時武・石国・依国・行安・時宗・宗安・為吉・宗友・友守・久友・助友・成行・貞友・助安」

これらの名前は「名」の名称と研究者は考えています。そうだとすると、高越寺荘は多くの名によって構成されていたことになります。また永仁史料は、本荘と新荘の別があったものの、重要な行事である八幡宮の祭礼については合同で行っていたようです。川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、荘園の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社ということになります。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社であったとも考えられます。
 最初に見た麻植郡の荘園一覧表には、細川氏の所領として高越寺荘以外にも、麻植荘と種野山があります。
麻植郡全体が細川氏の勢力下にあったと研究者は考えています。これらの所領は和泉細川氏の家領として、阿波守護家が統治に当たっていました。その統治拠点として設置されたのが「和泉屋形(泉館・井上城)」と呼ばれている館で、ここに年貢などは集まられ、運び出されていたことが考えられます。和泉細川氏は麻植郡内の所領支配は代官を派遣して支配していましが、よく麻植郡にやってきたりして、禅宗寺院を創建するなど家領経営には熱心であったようです。ここでは室町幕府の時代の麻植郡は、細川氏の支配下に置かれ、その拠点として井上城があったことを押さえておきます。

井上城跡2
井上城跡
井上城跡
井上城の説明版
高越寺荘に続いて現れるのが河輪田荘です。

これを「かわわた」「かわた」と読み、江戸時代には川田村(後に東西川田村)、川田山と呼ばれていた地域の荘園とされてきたことは、最初に見た通りです。
「河輪田荘=高越寺荘」説
従来の河輪田荘についての説明

河輪田荘の初見史料「史料3」を見ておきましょう。
【史料3】
民部卿家政所下  阿(河?)輪田庄
可早任庁宣打定四至膀示庄領事
使太政官史生紀為忠
右件四至広博、為国衛有訴、又為庄家、動牢籠出来、働任国司庁宣、在庁人相共行向東西南北肝隠、且任本四至、員縮広博之地、庄家井国衛等、共無後日之訴、定四至、打膀示、永注向後之牢籠、可為御領之状、所仰如件、敢不可違失、故下、永久五年十月十二日
(十一名署判略)
意訳変換しておくと
民部卿家政所下の河輪田庄について
速やかに荘園の区画決定のための四至膀示を庄領に建てさせること
使太政官史生紀 為忠
(先に立荘した河輪田荘については)「四至」が広大で、(境界が不明確であったために)、国衛から訴えが起こされた。そこで関係者が出向いて範囲を縮小するなどの調整を図った結果、「庄家」と国衙の争いがなくなった。そこで改めて東西南北の四至を定め、膀示を打ち、荘領を定める、
ここからは河輪田荘は、これ以前に立荘されたものの、その範囲をめぐって国衛との間でトラブルが発生し、改めて協議・調整を行って永久5年(1117)に再度立荘されたことが分かります。河輪田荘の立荘時の本家は、民部卿藤原宗通でした。
その後の河輪田荘の変遷を見ておきましょう。
①治承4年(1180)5月11日「皇嘉門院惣処分状」によって、皇嘉門院から猶子の藤原良通に譲渡。皇嘉門院は藤原宗通の孫で、母宗子は民部卿宗通の娘、摂政藤原忠通の室でした。
②藤原良通が21歳で死去し、その家領等は良通の室に継承
③さらにその後は、良通の父である九条兼実へ継承
④元久元年(1204)、兼実から孫道家へと継承
その後も河輪田荘は九条家領として伝領された後に、応永19年(1412)は光明照院領となっています。光明照院については、二条兼基が光明照院と呼ばれたことから、兼基の墓所として営まれた仏堂・寺院です。つまり二条家の菩提寺です。二条兼基は九条道家の次男二条良実の孫ですから、河輪田荘を祖父・父から受け継いだのでしょう。以上が河輪田荘の本家職の伝領経路になります。
です。
河輪田荘と高越寺荘の伝承比較
              高越寺荘と河輪田荘の伝領比較NO1
河輪田荘と高越寺荘の伝承比較2
             高越寺荘と河輪田荘の伝領比較NO2

ここまで見て気づくことは河輪田荘と先ほど見た高越寺荘とは、その成立経緯も領主もまったく異なることです。また、同じ山川町川田に二つの荘園が同時並立していたことになります。これについては、従来は次のように説明されていました。

河輪田荘と高越寺荘 田中省造説
田中省造説 河輪田荘と高越寺荘の同時並立説 
河輪田荘と高越寺荘 田中省造説イメージ
同時並立説のイメージ
これに対して「河輪田荘=高越寺荘」ではなく、両者は別物と考える研究者が根拠とするのが川田八幡神社(高越庄八幡宮)の永仁史料です。ここには、その宮座の名主42名の席順が記されています。

高越寺荘の名と地名

これと現在に残る地名を比較したのが上表です。赤が地名として残っている名です。名は徴税単位でもあり、人名から地名へと、名主の名前が地名として残ります。高越寺荘の名の約半分が現在に残っていることが分かります。これは、高越寺荘が川田村であったことを裏付ける強力な証拠になります。 一方、河輪田の場合はどうでしょうか?
元弘3年(1333)12月日「河輪田日本荘年貢未進等注文案」には、河輪田本荘内の名として、「久末・久次・光末・友松・末吉・行助・行貞・貞恒・重弘・美作」が挙がっています。しかし、これらの名は現在の山川町川田にはない地名です。

河輪田荘の名と地名

つまり、河輪田荘は川田地区とは関係のない場所にあったということが推測できます。
3つ目の河田荘については見ておきましょう。
河田荘は、応永20年(1413)6月15日「室町幕府御教書」に、「建仁寺永源庵領阿波国河田公文職三分一」として初めて出てきます。先の2つの荘園から300年ほど後になることを押さえておきます。
「河田公文職三分一」は、応永24四年史料に永源庵領の一所として見える「阿波国高越寺御庄公文職三分一」に対応するものです。ここからは「高越寺御庄」と同じ意味で「河田」が使われてていたことが分かります。『永源庵師壇紀年録』の宝徳二年(1450)の記録には、はっきりと「河田荘」と記されています。ここからは高越寺荘と同じ意味で河田荘が用いられたことが裏付けられます。これについては、高越寺荘の荘園管理の中枢機関が「河田」にあったので「河田公文職」呼ばれるようになったと研究者は考えています。それが転じて、高越寺荘が河田荘と呼ばれるようになったと云うのです。
 これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 
河田荘と高越寺荘の同一性

上の明応4(1495)の「細川元有寄進状」には、「河田荘の中にある高越別当職の任命権と参銭(寺院への参拝料)の徴収権を認めています。下の史料も「高越参銭」とあります。ここからも河田荘に高越山はあったこと、そしてかつて高越寺荘と呼んでいたのを、この時期になると「河田荘」と呼ぶようになったことが分かります。

最後に忌部荘を見ておきましょう。
忌部荘は江戸時代の編纂物である『応仁武鑑』に「忌部庄三百町」と見えるのが唯一の記録のようです。古代の麻植部には「忌部郷」があり、それは現在の山川町忌部あたりが比定されてきました。古代の「忌部郷」が荘園があったとされるのですが、そのことを示す史料は今のところありません。「忌部荘という荘園が実在していたのかどうかも含めて不明とせざるを得ない。」と研究者は指摘します。
 沖野氏は忌部荘について、次のように述べています。

「種野山国衛。川島保・高越寺荘及び美馬郡の穴吹荘・八田荘を含んだ広域荘園で、これはもともと忌部神社の社領であったものが、そのまま忌部荘と総称して持賢の私領としたものであるまいか。その理由は次の通り。
美馬郡の穴吹荘・八田荘はこれを麻植領といって、忌部神社の宮司麻植氏の私領として伝領していたことは天文二十一年の三好康長感状に明らか。周辺はすべて皇室領であるから、忌部神社の社領は早くから皇室領に移されていて、忌部神社の宮司の私領のみが美馬郡の穴吹荘・八田荘として伝領せられたと考えられよう。」

「麻植や美馬などを含む広域荘園があり、それが忌部神社の社領であった」というのは、研究者からすれば「今日の荘園研究に照らすと納得し難いもの」と評します。高越山は忌部修験の中心地で、忌部氏の拠点でもあったと云われてきました。しかし、現在の荘園研究の成果の上では、忌部氏の活動は見えてこないようです。ただ山崎の忌部神社周辺に痕跡が残るのみです。
以上を整理しておきます。
①高越山の麓の山川町には①高越寺荘 ②河輪田荘 ③河田荘 ④忌部荘の4つの荘園があった。
②この内の①と③は同一で、①の高越寺荘が室町時代に細川氏支配下に置かれた頃から「河田荘」と呼ばれるようになった。
③その背景には、麻植郡全体が細川氏の所領となり、その拠点が河田にあったためと研究者は推測する。
④一方、②の河輪田荘は成立・伝領・地名などの面から見ても、他所にあった別の荘園である。
それでは河輪田荘は、どこにあったのでしょうか。そのヒントは名前にあると研究者は指摘します。
「輪田」というのは、「輪中」「川中島」のような地形で、吉野川に囲まれた地形であったとします。

河輪田荘と高越寺荘領域地図
              河輪田荘の推定地 吉野川の「川中島」?

これについてはまた別の機会に・・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」

高越寺は、他にはないような雰囲気を感じ取らせてくれる伽藍です。修行の山で、修験者の拠点だったという感じが強くします。そして、豪壮で力強い山門の前に立った時の印象と、山門をくぐってその前に拡がる伽藍のイメージが大きく違います。それは、入口の木造山門と、伽藍中心に立つ近代的な本堂の落差なのでしょうか。
 
高越山山門4
高越寺の山門

 高越寺は、戦前の昭和14(1939)年1月の大火で、ほとんどの建造物が焼失したようです。
残ったのは、本堂と離れていた山門・鐘楼・お水舎の三棟だけでした。それ以外の建物は焼け落ち、戦後になって建てられたものなのです。つまり、伽藍の入口附近は、それまでの古い建物で、それから内側の建物は、戦後に新築されたものなのです。それがさきほどの私がいだくイメージを作り出しているのかもしれません。今回は、高越寺の建築物群を、調査書を片手に見てまわることにします。テキストは、「阿部 保夫 高越山の姿  阿波学界紀要2012年です。

高越寺は、明治の神仏分離以前には「高越権現」と称していますたが、近代になってからは「金剛蔵王尊」を本尊とする真言宗の寺となりました。そして、山門が明治38年、鐘楼が明治42年、手水舎も同時期に建立されます。この3つが明治末の建築物であることを押さえておきます。
それでは、戦前の火災を免れた山門から見ていくことにします。報告書には次のように記されています。

高越山山門平面図
高越寺の山門・鐘楼・手水舎の平面図
高越山の山門
本堂から40m程東方向に位置し、三間一戸二階二重門で両脇に彩色された仁王像を安置する。下の重は、柱脚部は礎石に礎盤を載せ、柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、飛貫、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。虹梁、籠彫木鼻、十二支の中備彫刻、彫刻板支輪などで飾る。上の重は、切目縁に擬宝珠高欄を回らし、円柱(粽)を切目長押、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。開閉装置は桟唐戸、火灯窓を設け、組物は二手先とし、尾垂木、詰組で繋ぎ、中備彫刻で飾る。軒は、放射線状に二軒繁扇垂木で大きく張出す。妻飾は虹梁に大瓶束笈形付で、破風の拝みに飛龍の懸魚を付ける。多彩な彫刻と、礎盤、粽柱、厚台輪、木鼻、板支輪、火灯窓などの禅宗様式が色濃い建物である。

高越寺山門6
高越山山門
中ノ郷から真っ直ぐに伸びる石段を登っていくと、上から圧倒するように迎えてくれるのがこの山門です。徳島県の五大重層門の一つとされているようです。

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入母屋造、銅板葺、三間一戸の二重門で軸部は総欅です。
高越山山門の重層

重層な二重軒に繁を扇に打ち、斗拱は出組二手先となっています(写真13)。
高越山山門の
壁の中央に板扉を入れて左右には、和様と禅宗様が混交する火燈窓(写真14)があり、擬宝珠高欄を廻らしています。全体に「和様と禅宗様が混交」し、「それがよく融合し,堂々とした風格と威厳に満ちた格調高い建築」と研究者は評します。

高越山山門の十二氏彫刻

見所は彫刻です。特に虹梁の木鼻や、初層の軒下の欄間にの十二支(写真15)に研究者が注目します。これを掘った彫師は、美馬郡脇町拝原の名工三宅石舟斎(九世)で、彼の代表作とされるようです。建築年代は先ほど見たように、明治末期のものになります。
高越寺山門の仁王
      高越寺山門の仁王さま 老朽化で立っていられなくなったようです。
建物全体に痛みが目立ち始めています。これを次の時代に残していく智恵が求められています。
次に、山門の隣の鐘楼を見ておきましょう。

高越山鐘楼3

桁行一間、梁間一間、一重、柱脚部は礎石に礎盤を載せる。柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、頭貫、厚台輪で固め、虹梁、籠彫木鼻などで飾る。軒は二軒繁垂木で、屋根形状は入母屋造の銅板葺である。山門と同様に、多様な彫刻が近代的な建物である。
高越山鐘楼9
高越山鐘楼
桁行と梁間が等しい四本柱で、入母屋造,銅板葺二重軒,繁内転びの円柱が礎盤に建っており、腰貫と頭貫の間に虹梁を廻らしている。斗拱は出組二手先で詰組となっており、材は総欅である。基壇は花崗岩で精巧な仕上げとなっており、正面には階段が設けられている。軒の出が大きく気品があり、妻飾りなどが何とも言えない重厚さを感じさせる(写真16)。また,精巧で入念な蟇股、木鼻の彫刻が美しい(写真17)。

高越山鐘楼の彫刻
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           高越山鐘楼の彫刻 三宅石舟斎(九世)作

この鐘楼も昭和の大火から免れたもので、山門と相前後する明治末期に同じ大工・彫師によって建てられたものと研究者は考えています。
④御水舎は規模は、規模は小さいのですが同じ時期に建てられたものです。
高越山手水舎
切妻造、銅版葺、一重軒、繁、四本の円柱が内転びに立ち,頭貫と台輪を廻らして斗拱で桁を支えている。すっきりとした美しさの建物で,要所に配する彫物が素晴らしく,建物にも調和している(写真18)。中でも、妻の笈形、四面の蟇股が注目される(写真19)。

高越山手水舎彫刻

そう言われてみれば、彫刻がたくさん彫られています。この建物は山門や鐘楼と共に、明治初めに建てられ、昭和の大火を焼け残った三棟の一つになります。最初に述べたように、入口周辺の3つの建物は、豪壮感あるもので明治末に同一の大工・彫師の手によるものだったことを押さえておきます。
さて、敗戦後すぐに建立された高越寺本堂を見ていくことにします。
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高越寺本堂
本堂は、昭和24(1949)年に戦後混乱期に再建されたものです。一見すると本堂には見えず、神社のようにも思えます。この建物は、あまり例のない様式で、本殿に前殿を接合し、さらに前殿に向拝を付けたスタイルで権現造りのように見えます。

高越寺本堂
高越山本堂
その権現造りの正面は、入母屋造平入の拝殿の中央に千鳥破風と軒唐破風が付けらています。唐破風は大きく堂々と力強く感じます。同時に、きらびやかな装飾も施されています。まさに、戦後直後という解放感の中で、建築家が蓄積してきた想像力を爆発させたもののように私は感じます。ある意味では「変わった形式の本堂」で「自己主張する建物」と私には見えます。

高越寺本堂内部
        高越寺本堂内部 大提灯にはいまも「高越大権現」と書かれている

本堂に祀られているのは次の通りです。
 本尊 金剛蔵王尊(高越大権現)      
 脇仏 千手観音 + 役行者 
ここからは「金剛蔵王尊=蔵王権現 千手観音=熊野補陀洛信仰 役行者=修験道」の各信仰の形がうかがえます。
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高越大権現の御真言
本殿入り口の扁額は木彫で、15代藩主蜂須賀茂昭の直筆とされます。(写真9)
高越山文書の中には、蜂須賀家政・第3代藩主蜂須賀光隆・第5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり)や家老の蜂須賀山城(池田内膳)からの書簡をつなぎ合わせた巻子もあるので、早い時期から蜂須賀家とのつながりを持ち、保護を受けていたことがうかがえます。

高越寺本堂の扁額
大虹梁の上には形のよい蟇股が配され,向拝の兔の毛通しをはじめ、獅子口、箕甲の線など均整が保たれている。大虹梁の木鼻や蟇股、懸魚などの彫刻が豪華であり、見事な龍の彫刻が左右の柱に刻まれている(写真10)。これらの彫刻は美馬郡(現美馬市)脇町拝原、十世彫師、三宅石舟斎の大作であるが、彫師としては十世をもって終末しているので、石舟斎最後の作品となった。

高越山本道の彫刻

              高越寺本堂向拝部の三宅石舟斎(十世)の龍
錫杖塔は、昭和49(1974)年に完成したものです。
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この伽藍の中で、他を圧倒する存在です。鉄筋コンクリート石張仕上げで、大きな錫杖が天を指します。その下の塔身は八面で、そこに守り本尊八尊が刻まれていて、塔を廻って巡拝できます。多宝塔でなく、こんな塔を建てた所にも独創性や自己主張を感じます。私が高越寺と聞いて最初に思う浮かべるのは、この塔です。この塔と、山門のコントラストが強烈な印象として残るのかも知れません。

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善通寺の錫杖

心経塔は、信者の納経を納める塔で、錫杖塔の翌年(1975年)に完成したものです。

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高越寺 心経塔
宝篋印塔をイメージした塔に宝剣がたっています。

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             修行中の空海に飛んでくる宝剣(弘法大師行状絵詞)
これは弘法大師行状絵詞の中に描かれた宝剣をイメージさせます。錫杖や宝剣というのは、弘法大師伝説の重要なアイテムです。ここには、弘法大師伝説をより強く打ちだしていこうとする高越寺の布教戦略だったと私は考えています。

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                    高越寺護摩堂
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、当時の宗教施設について、次のように記されています。
①「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
②「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
③「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
④「若一王子宮」         → 熊野信仰
⑤「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
⑥「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
これと現在の信仰物を対比させてみましょう。
 本堂
 本尊  金剛蔵王尊(高越大権現) → ①     
 脇仏  千手観音         → ② 
     役行者          → ①
 大師堂 弘法大師         → ③
こうして見ると、④⑤⑥が姿を消しているようです。④⑤は、熊野信仰と伊勢信仰で神仏分離の時に姿を消したのかも知れません。しかし、⑥の「愛宕権現宮」の痕跡がなくなっているのはどうしてなのでしょうか? 
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

「愛宕妙見信仰」や虚空蔵信仰は、渡来人で鉱物資源開発や鍛冶などの技術集団であった秦氏が信仰した信仰です。それが高越山からは消えたことになります。
 高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについては、現在ではいろいろな疑問点が出されています。
それは根拠となる史料がないのです。「高越山=忌部氏聖地」が「あたりまえ」とされていて、それが前提としていろいろなことが語られてきました。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、十八坊の相互関係(山伏結合としての実態)なども、史料から明らかにされていないことは以前にお話ししました。
高越寺の一番古いとされる縁起「摩尼珠山高越私記」(1665年)の構成を、研究者は次のようにまとめます。
A 役行者(役小角)に関する伝承
①「天智天皇の御宇、役行者開基」
②「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③「役行者が(中略)権現の奇瑞を感じ、この峰(高越山)によじ上る」
ここには高越山が役行者による開基で、蔵王権現(本地仏 千手観音)を本尊とする山で、役行者が全国に六十六ヶ所定めた「一国一峰」の一つであること記される。
B 弘法大師に関する伝承
④「弘仁天皇の御宇、密祖弘法大師、秘法修行の願望有り此の山に参詣す」
⑤「権現感応有りて、彷彿として現る」と、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体を彫刻したこと
C 聖宝に関する伝承
⑥「醍醐天皇の御宇、聖宝僧正、意願有り此の山に登る」と、聖宝がやってきて一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったこと。
これと先ほど見た宗教施設群を併せて考えると、次のようなことが分かります。
①17世紀後半の高越山は、山岳宗教の霊山としての施設群を有していたこと
②「役行者開基」で、「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③弘法大師信仰が根付いて、大師堂があり、大師信仰の霊場でもあったこと
しかし、この時点で高越寺で最重視されていたのは、弘法大師信仰ではなく、開基者の役行者や蔵王権現、そしてその本地仏である千手観音でした。それはこれらが本尊として本堂に祀られていたことから分かります。ここでは17世紀後半の高越山では、弘法大師信仰よりも、蔵王権現信仰の方が優勢であったことを押さえておきます。別の見方をすると、高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたと言えそうです。これが高越寺が四国霊場の札所にならなかった要因の一つと研究者は考えています。
 このようななかで本尊の蔵王権現に、忌部氏の祖先神を「本地垂述」させようとした動きが出てきます。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」に、次のように記されています。(要約)

「(高越山には)古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは信仰対象や由来を巡って、次の二つの勢力の対立があったことです。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説であったこと
②非主流派は「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏の祖神を地神と主帳
ここからは近世の高越山では「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったこと、て忌部修験と呼ばれる勢力が、蔵王権現に忌部氏伝説を「接木」しようとしている痕跡がうかがえます。

近世の氏粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」は次のように記します。

吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに(忌部氏の)早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。
この中で作者が伝えたいのは次の2点でしょう。
①吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、
②その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だった。
高越山の蔵王権現と忌部氏が、この物語で結びつけられていきます。しかし、このような由来を史料や現地の痕跡からは裏付けられないのは今まで見てきた通りです。
忌部氏の祖を祀るものが川田にはありません。それは山崎の忌部神社です。
ここでは、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっています。そして、忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされます。しかし、中世の高越山やその山下の川田には、忌部氏の痕跡はありませんでした。忌部氏の信仰していた神々も出てきません。これをどう考えたらいいのでしょうか? 誰もいない高越寺の伽藍に座り込んで、答えの出ない謎を考えていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「阿部 保夫 高越山の姿  阿波学界紀要2012年
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今回はいよいよ高越山山頂の高越寺を目指します。前回の中ノ郷徘徊を終えて、県道248号にもどって舟窪つつじ園へのつづら折れの道を登っていきます。標高差800mあまりの山道を原付バイクはあえきあえぎ登っていきます。がんばれがんばれと応援しながらの山道走行です。途中の「天狗の湧水」で水分補給のために小休止。
 高越山から奥野井山にかけては、修験者の痕跡が色濃く残るところです。権現と名付けられた山々が続き、母衣暮露の滝などの行場も各地に残ります。このあたりが阿波修験道の中心であったというのがうなづけます。

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舟窪ツツジ園からの稜線上の峰峰には「権現」が開かれています。今では、修験者の修行エリアであったことをしめす「道しるべ」でもあります。この林道をたどっていくと迎えてくれるのが・・
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立石峠
 立石峠です。ここには大きな石が立てられています。これが立石峠の謂われのようです。これも自然石と云うよりも修験者達が目印のため、行の一環として行ったとも言われます。東側の木々が刈り払われ、展望がきくようになっています。ここからの展望は素晴らしい。お気に入りのテーブルでおやつです。
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立石峠から高越寺の駐車場まではわずかです。
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高越山駐車場
広い駐車場には誰もいません。ここで足ごしらえをして、高越寺までは約20分程の登山道を歩き出します。
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まず、大きな山門が迎えてくれます。
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巨岩の下には、石仏や祠が安置されています。ここも行場だったようです。

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「やくしだけ」の行場と薬師如来
ここにも断崖の下に石仏が安置されています。説明版には次のように記されています。

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高越山の「やくしだけ」説明版
ここには薬師如来と十二神将が祀られていることが記されています。
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高越山の行場「やくしだけ」の薬師如来
合掌していつものように念じて、廻りを見回しますが十二神将は見当たりません。少し下がってもう一度見上げると・・
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高越山の行場「やくしだけ」の薬師如来と十二神将と鎖
瀧(断崖)の上に向かって、鎖が伸びています。その上に十二神将の一人が見えて来ました。この瀧が「やくしだけ」と呼ばれる行場のようです。

高越山 薬師鎖場
行場「やくしだけ」の鎖場
この鎖場に沿って十二神将は鎮座します。まさに行者たちの行を見守っているのです。そして鎖場のゴールに待ち受けているのが・・・
高越山行場薬師岳の最上部の不動明王
          高越山の行場「やくしだけ」の鎖場最上部の不動明王
鎖場の一番上には、行者達の守護神・不動明王が見守ります。このような行場が高越山の廻りにはいくつもあったようです。一つの行場を終えると、次の行場に向かい、行場を行道しながら修験者たちは
「修行(験を積む)」し、天狗になろうとしたのかも知れません。
 また、真言密教には金剛界と胎蔵界という二つの曼荼羅世界があるとされました。それは行場にも当てはまります。私は、高越山が金剛界で、奥野々山が胎蔵界であったのではと想像しています。そんなことを考えながら平坦なトラバース道の参道を歩いて行きます。歩きながら考えるというのも楽しいものです。
高越山地蔵菩薩

そして最後に登場したのが・・ 
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高越山参道の地蔵尊
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されています。中世の中ノ郷の宗教施設は、地蔵信仰であったようです。その影響がここにも現れているのかななどと、想像を膨らませます。
この地蔵尊を越えると、向こうに高越寺の鐘楼が見えて来ました。
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                        高越寺

高越寺山門5
高越寺山門
里(山下)の川田からの登山道は、この山門の正面につながります。駐車場からの道は、車社会になってからの裏参道です。そのため山門に横から入ることになります。山門を入ると迎えてくれる光景は・・
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                      高越寺
高越寺ワールドです。次回は。その建物群めぐりを行いたいと思います。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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高越山マップ
                   高越山と中ノ郷への登山コース
「高越山徘徊NO3」は、中腹の中ノ郷を訪ねてみます。まず、中ノ郷の予習をしておきます。
①中世の山岳霊場では、里と山上を結ぶ中間地点に「中宮」が置かれ「聖俗の結界」とされる。
②「中江(中の郷)は、高越寺表参道の登山口である川田と山上のほぼ中間地点に位置する。
③そのため中ノ郷も、聖(山上)と俗(里)の境に置かれた「中宮」だった
④中ノ郷には、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残る
⑤ここからは、中世には修験者たちによって聖域化されていたことが分かる。
⑥別の見方をすると、14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったと言える
⑦近世以降に姿を見せるのが、中善寺である。
 このくらいの予備知識を持って、原付バイクで県道248号線を駆け上がっていきます。川沿いに走って行くと、徒歩で尾根沿いの鉄塔線沿いのぼっていく登山口があり、続いて車道の分岐が現れました。
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県道258号から中ノ郷への分岐点
ここから尾根沿いのつづら折れの長い坂道(約11㎞)を登っていきます。

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高度を上げると楠根地集落の家々とススキがおいでおいでしながら迎えてくれます。楠根地の氏神様は白人神社でした。白人神社は、鉱山開発集団だった秦氏一族の信仰する神々を祀る神社のひとつです。
1南予地方秦氏関係神社表
           南伊予の鉱山跡に鎮座する神社と秦氏の相関関係図

同時に、高越山周辺には銅鉱山が開かれ、秦氏がその開発に関わっていた可能性があることは前回お話ししました。ここに白人(白山)神社があるのは、その説を補強するものかもしれません。

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      楠根地集落からの吉野川方面 鉄塔沿いに登山路が中ノ郷へ伸びている
15年近く乗っている原付バイクは、スロットルを一杯に廻しても15㎞以上のスピードはでません。喘ぎながら登っていく相棒にいたわりの気持ちも感じられる年頃に私もなりました。尾根を越えて中ノ郷への下りになるとダートになります。そして、道路の右側に石碑が出てきました。

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行場「のぞき岩」の入口
ここがのぞき岩の入口のようです。整備された藪の中の道をおりていくと、すぐに空間が開けました。

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高越山中ノ郷の「のぞき岩」
岩のむこうはスパッと切れています。近づいて見ると、4本の鉄柱が立っています。これが鉄の梯子です。際まで云って下を見ると、梯子が2つ下まで続いています。行者達は、ここから「捨身行」を行い、この梯子で下に下りていったようです。

高越山覗き岩
高越山中ノ郷の「のぞき岩」の梯子

中世の修験者たちは天狗になるために修行していましたが、天狗の住む天界や地界への入口と考えていたのが次のような場所です。
天上や地下の整地への入口は

このような場所を求めて、高越山周辺をさまよい歩き、相応しい場所を行場として開いて行きます。人気のある行場には、各地から修験者たちが訪れ、お堂や小さな寺院が姿を見せるようになります。この覗岩は上表だと④になるのでしょうか。そして、ここには開けた場所と水場が確保できます。そして、里と山上の中間地点である「中宮」としてふさわしい場所です。中ノ郷が「聖俗の結界」とされた背景を、この岩の上に座ってこんな風に考えていました。
 覗岩からほんの少しでふいご温泉からの登山道と合流し、さらにいくと川田からの表参道と合流します。ここに高越山をバックにして鳥居が建っています。
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              高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)
この鳥居が今は「聖俗の結界」になるのかもしれません。鳥居の横には萬代池が水をたたえています。
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                 高越山中ノ郷の萬代池
そして谷からの霊水が引き込まれています。この池で参拝者はコリトリ(禊ぎ)を行ったのかもしれません。ここにもいくつかの子房があり、参拝者達の宿坊の機能を果たしていたことが考えられます。

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池の周辺を散策していると、こんな看板を見つけました。アカガシの巨木があるようです。行って見ます。
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高越山中ノ郷のアカガシ
森の主のように枝を伸ばしています。まさに神が宿る神木に相応しい姿です。前には立石が、根元には板碑が置かれています。異界への入口のひとつが巨木や大きな石であったことは、先ほど見たとおりです。人々の信仰を集めてきたのでしょう。根元を見ると・・・

高越山中ノ郷の板碑
中ノ郷のアカガシの根元の板碑
そこには板碑が2枚置かれてきました。いつかは木の幹に包まれていくのかも知れません。このアカガシの周辺からは5基の板碑が出てきています。それを見ておきましょう。
高越山中ノ郷 中善寺版碑

中善寺の板碑(アカガシ周辺)
これらの板碑の概評を調査報告書から引用しておきます。
3-1:
長さ95.0cm,幅35.2cm,厚さ5.6cmを測る五輪塔線刻・五大種子板碑である。「為登大徳哲進仏  果 永享三庚戌十月二日」の銘文が認められるが,碑面に対して大きな文字で彫られており,板碑がつくられた当初のものとは考えにくい。なお,永享三年は西暦1431年である。
3-2:
長さ60.0cm,幅26.0cm,厚さ3.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。三尊といっても,キリークが大きく彫られ,アンバランスである。
3-3:
長さ51.0cm,幅26.5cm,厚さ5.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑で,「為観阿 應永十六年十一月」の銘文をもつ。下半部が欠落しており,銘文も途中までしかない。應永十六年は1409年である。
3-4:
長さ31.7cm,幅26.8cm,厚さ2.5cmを測る大日種子板碑である。バンの梵字が彫られた山川町唯一の板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑であるが,下半部を欠く。

3-5:
長さ47.5cm,幅17.5cm,厚さ3.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑である

この5つの板碑の特徴として研究者は次のような点を指摘します。
①中禅寺の標高570mという高地の神木の廻りに5基まとまってあること。
②この中に大日種子(バン)が見られること。
梵字-バン(大日如来) - 石の音ブログ

                     大日種子(バン)
阿波型板碑のなかで、大日種子が刻まれているのは全体の約2割程度と少数派です。中禅(善)寺の板碑周辺には、穴吹町の拝村戸白人神社や仕出原尾下氏ミカン畑のなかにバンの種子板碑があるようです。中禅寺の紀年銘板碑と、時期的に近いものを挙げると次の通りです。
神山町阿川字松尾の1390年
阿川字宮分の1411年
土成町高尾の1400年
上板町聖天堂裏の1398年
大日如来は真言の根本仏です。そういう意味では、大日種子(バン)は真言宗との深い関連を示す種子です。それが高越山周辺や、その中宮とされる中ノ郷にあることについて研究者は次のように記します。
この寺への登山道に造立された板碑群は、高越寺へ入り込んだ真言教団との関連を抜きにしては考えられない。

「真言教団」と記しますが、中世の修験者たちは真言や天台という宗派はあまり気にしていなかったようです。修験者にとっては大切なのは実践・行道なのです。しかし、高野山や醍醐寺系の修験者たちが入り込み、彼らによって弘法大師伝説などが持ち込まれたことは考えられます。
 最後になりました中善寺にお参りします。

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高越山中ノ郷中善寺
建物前に建って感じたことは、すべてが近代風で古いものがなにもありません。戦後になって新しくできたお寺のような風情です。帰って調べて見ると、四国電力の電柱立て替えでそれまでの中禅寺がなくなり、現在地に「中前寺」として新築されたもののようです。その廻りには桜が植えられていて、花見の季節にはいい所だろうと思いました。
 高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂
②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」
③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
②からは中ノ郷について、つぎのようなことが分かります。
A「中江」と呼ばれていたこと
B 地蔵権現社が鎮座していたこと
C「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
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中ノ郷の萬代池と手洗い
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
吉野川市山川町の板碑 阿波学会紀要 第58号(pp.131-144) 2012.7 131 
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前回は、山川町の高越山登山口の川田庄を散策して、修験者の痕跡を追いかけました。今回は川田川を遡って、中腹の中ノ郷を目指します。川田川沿いの県道248号を登っていくと、ふいご温泉の看板が眼に入りました。
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高越大橋西側のふいご温泉の看板
「温泉」の名に釣られて、のこのこと下りていきます。そそり立つ岩壁の横に温泉があります。
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                     ふいご温泉
中ノ郷を探った後は、高越山の奥の院まで探索予定なので温泉に入ることはできません。誘惑を振り払って、やってきた道を引き返していると、こんな説明版がありました。

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鞴(ふいご)橋と紅簾片岩の説明版
ここには次のようなことが書かれています。
①ここから100mほど上流の左岸に、名越銅山があった
②明治には、良質の班銅鉱を産出し、それを対岸で製錬するためにめに吊り橋を架けた。
③製錬は、人力の鞴(ふいご)で行われたので、この橋を鞴橋と呼んだ。
④また対岸には飯場もあり、鉱夫たちは鞴橋を渡って出勤した。
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鞴(ふいご)橋
ふいご温泉には、銅山があったのです。そのために立派な吊り橋があり、その跡が絶壁の上の芝生のキャンプ場として活用されています。

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鉱山跡にあるキャンプ場
銅鉱山がここにはあったようです。帰ってきて調べて見ると高越山周辺には、銅鉱山が次の3ヶ所あったようです。
高越山周辺の鉱山跡
高越山周辺の銅山跡
①高越鉱山跡本坑口
②久宗坑口(川田エリア)
③川田山坑口(ふいご温泉)
高越山ふいご温泉周辺の鉱山

これらの鉱山からは含銅硫化鉄鉱などを採掘していたようです。

2密教山相ライン
四国の鉱山と山岳寺院の相関関係図
以前に、四国の中央構造線沿いは「鉱物資源ライン」であったこと、鉱山のあった所には有力な山岳寺院があり、修験者たちの拠点となっていたことをお話ししました。簡単に言うと、「霊山に鉱山あり、そして修験者の拠点であった」という相関図が描けることになります。それでは、この相関関係は高越山にも当てはまるのでしょうか。この関係を説明するには、次のようなキーワードを結びつけて行く必要があります。
秦氏 鉱山開発 修験者 愛宕妙見信仰 虚空蔵信仰

まず技術集団としての秦氏集団を押さえておきます。
技術集団としての秦氏

 鉱山開発を担った秦氏集団が信仰したのが、愛宕妙見(北斗七星)信仰であり、虚空蔵菩薩信仰です。その信仰の中心には修験者たちがいました。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」と表現します。
   空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、空海が室戸岬で虚空蔵求聞持法を修法していた時、口の中に入ってきたというものと同じものでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは関係がありそうです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵


ここまでをまとめておくと次のようになります。
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神(明星)である
③彼らは妙見=北極星と考え、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われる。
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになった。
こうして見ると四国の霊山には、鉱山が多い理由が分かるような気もしてきます。それ媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかという説です。
大仏造営 辰砂分布図jpg

 伊予の辰砂(水銀)採掘に、秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。
伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣された
②小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  内容は、愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓である秦氏を名乗ってきたが、父方の姓(大山安部)へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。ここからは、伊予で秦氏が水銀採掘に従事し、中央政府から派遣された小鎌に協力し、婚姻関係を結んでいたことが分かります。

 松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。

「伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

南伊予の秦氏と神社を一覧化したのが次の表です。

1南予地方秦氏関係神社表
              南伊予の秦氏関連神社と周辺鉱山の産出品

以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘などの鉱山開発を行っていたと言えそうです。こうした動きは、阿波にもあったと私は考えています。阿波も伊予に続く「鉱山ベルト地帯」で、銅鉱や辰砂(水銀)がありました。そこに秦氏が入ってきて、彼らの信仰である妙見信仰や虚空蔵信仰を勧進したという説になります。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。

その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれたさまざまな技術を持った工人集団がいました。彼らの中で鉱山開発や鍛冶などに携わった集団が信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。これらは定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、八幡神・稲荷神・白山神なども秦氏の信仰ですが、これらは周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  それでは、高越山に秦氏や愛宕妙見信仰の痕跡はあるのでしょうか?

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   高越山山頂の弘法大師像 ここからは「秦氏女」との線刻銘がある経筒が出てきた。
秦氏に関しては、弘法大師像の立つ高越山山頂の経塚がありました。ここから出てきた経筒は、12世紀のものとされ、常滑焼の龜、鋼板製経筒で蓋裏に「秦氏女」との線刻銘があり、白紙経巻八巻などの埋納遺物も出てきています。ここからは、高越山信仰の信者として、秦氏がこの周辺にいたことが分かります。
愛宕妙見信仰にはついては、高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、「山上伽藍」について次のような宗教施設があったと記します。
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰   → 虚空蔵菩薩信仰 → 虚空蔵山
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居

ここからは山上には、愛宕権現社があり、麓の「一江(川田)には、虚空蔵権現社が鎮座していたことが分かります。以上から高越山にも「秦氏=愛宕妙見信仰=虚空蔵信仰=鉱山開発」という関係が見えます。高越山は甘南備山の姿をした山、行場のある山としてだけでなく、もうひとつ鉱山資源を産出する山として、秦氏が定住し、そこに愛宕妙見信仰や虚空蔵菩薩信仰が根付いた山と言えそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究 
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好天の日が続いたので「山のてっぺんで私も考えたシリーズ」の再開です。今回は阿波の高越山の頂上に立って、いろいろと考えるという魂胆です。阿讃山脈を三頭トンネルを越えて原付バイクでちんたらとやってきたは、山川町前川の川田八幡神社です。

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                    川田八幡神社(山川町)
このあたりは高越山から伸びてきた尾根が川田川に消えていくあたりになります。中世の河輪田庄(河田庄:江戸時代の川田村)と高越寺庄にあたります。庄域はよく分からないようでが、中世後期には和泉上守護細川氏の所領となっていて、上守護家の拠点であった泉屋形とされる井上城跡もあります。高越山の山の上のお寺にお参りする前に、里に残る高越山の修験者たちの痕跡を探そうとやってきました。

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まずは川田八幡神社に参拝し、「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。
この神社は、高越山から伸びてきた尾根の上にあり、50段の石段を登ります。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社本殿
川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、高越寺荘の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社です。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社とする説もあります。少し長くなりますが調査報告書を引用しておきます。

本殿は、三間社流造銅板葺きで、花崗岩の基き壇に建ち、身舎部分は亀腹と地覆延石を回す。円柱(上粽)を地覆長押、切目長押、内法長押で固め、柱頭部は頭貫木鼻(拳)と台輪木鼻が載る。組物は平三斗とし、彩色された中備彫刻を填める。軒は二軒繁垂木とする。妻飾は虹梁の上に笈形付の太瓶束を立て、太瓶束中央部に彩色された鳳凰の彫刻で飾り、その様式から後補されたものと考えられる。内部は、仏教の影響を受け二室に区切られている。奥は一段上げて床を張り、板戸を填める。手前の天井を格天井で仕上げる。

 向拝は、角柱を虹梁形頭貫で固め、獅子の木鼻が付く。身舎と繋海老虹梁で繋ぎ、柱頭部の組物は出三斗とする。柱間には中備彫刻を填める。虹梁形頭貫と繋海老虹梁の絵様の彫りは浅く、形状は簡素であり、下面には錫杖彫を施し、神仏習合の名残が見られる。軒は二軒繁垂木である。縁は四方切目縁とし、擬宝珠高欄を回す。腰は束つか立貫を通す。階は木口階段5級で浜床を張り、随神像を安置する。

山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿の平面図

川田八幡神社本殿2 山川町

棟札は9枚残されていて、最も古いものが「建久8年(1197)上棟」の鎌倉時代初期のものです。しかし、元和3年(1617)以前の5枚は、筆跡がよく似ており、元和3年に書き写された可能性があると研究者は指摘します。つまり、この棟札をそのまま信じることは出来ないようです。
本堂の建築年代については、虹梁の絵様や錫杖彫、棟札の再興の記述から、享保16年(1731)とします。これ以後の棟札には、上葺、葺替上棟とあるので、屋根の修理がそれ以後に数度行われていることが分かります。幾度かの改修を経ながら地域の人達が400年以上、守り継いできた建物になります。しかし、この神社からは忌部氏の痕跡は窺えません。
 中世の修験者は、天狗になるために修行していたことは以前にお話ししました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(別当金光院発行)

それは讃岐の金毘羅大権現や白峰寺の天狗達と同じです。修験者の山は、天狗の住む山でもあり、そこにはいろいろな天狗伝説が生まれます。ここでも高越山の行場を渡り歩く修験者が数多くいて、中腹の中ノ郷や麓の川田に拠点を設けていました。彼らの経済基盤は、お札の配布や、先達としての高越山参拝にありました。その拠点が、弘田八幡神社周辺と云うことになります。それでは、高越山信仰の痕跡を探して、弘田の里を歩いて見ます。

 弘田八幡神社の参道の鳥居の横に、立派な花崗岩の門柱が建っています。

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       高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社) 側面に「高越山」とある
寄進文から明治38(1905)年7月に北海道の山田正太郎氏が寄進したものであることが分かります。ここには側面に「高越山」と掘られています。ここが高越山への入口起点になるようです。

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               高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社)
ここからは高越山へのスタートは、弘田八幡神社であると当時の人達は認識していたことがうかがえます。ここから伸びる道を進んでいくと、分岐点に「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑が建っています。
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             「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑
この地域でも幕末から明治にかけて庚申信仰が、盛んに信仰されていたことがうかがえます。ちなみに、庚申信仰へ人々を組織したのも修験者(山伏)であったことは以前にお話ししました。庚申碑を見ていると、田んぼの向こうにも板碑が見えます。さっそく行って見ます。こんな時に原付バイクは便利です。

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大坊の板碑
説明文を読んでおきます。
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「14世紀後半のもので、「追善供養」のために作られたもので「これだけの板碑は、天下広しといえどもないと言われるほどの名品」と書かれています。14世紀後半には、追善供養を行う僧侶(修験者集団)がいたことになります。刈り取りの終わった田んぼの彼岸花を眺めながら棚田の中の道を進んでいくと、鳥居が坂の上に見えてきました。
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高越山への鳥居
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                    高越山への鳥居
鳥居に下を谷から取水した用水路が等高線に沿って流れていきます。この用水路によって、棚田に水が引き込まれています。用水路の完成と棚田開発はリンクしていたはずです。それを担ったのが向こうに大きな屋根が見える明王院のような気がしてきます。後で明王院には立ち寄ることにして、この鳥居をくぐって登っていきます。
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高越山登山口(山川町)の鳥居から
ふりかえると鳥居の向こうには、こんな光景が広がっていました。弘田の里、そしてはるかに吉野川や北岸が見てきます。そして、ここが観音堂になります。

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高越寺(里の観音堂)
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観音堂の弘法大師像と不動明王像
観音堂にお参りして、中をのぞかせて貰うと右に弘法大師像、左に不動明王が祀られています。中央にある閉じられた厨子の中に、本尊の観音さまがいらっしゃるのでしょう。ここからは、これらをもたらした次のような修験者・聖達の痕跡がうかがえます。
観音菩薩  → 補陀洛観音信  → 熊野信仰の熊野行者
弘法大師像 → 弘法大師信仰  → 高野聖
不動明王  → 修験者の守護神 → 役行者と蔵王権現信仰

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高越山への登山口の観音堂の黒松

道の向こう側に新しく植樹された黒松の下に小さな碑が置かれています。そこには次のように記されています。
高越寺コク屋の観音堂は表参道の出発点、昔から多くの先達や一般信者が信仰の祈りを持ち、厳しい山道を遠路徒歩で往来していた。観音堂の前には、先達や信者を迎えに飛来した高越寺の御天狗様等が羽を休めたと伝わる黒松(樹齢約千年)があり、観音堂より山頂へ、帰路へと見守り道案内したと伝わる。

要点をまとめておくと
①観音堂の前の道が高越寺への表参道であった。
②参拝者や先達を迎えに、高越山から天狗が下りてきて、見守り道案内をした。
この松は高越山から飛んできた天狗達が羽根をやすめた所だったというのです。天狗信仰が語り伝えられています。こんな話に出会うとホクホクしてきます。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
             金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

 権現と天狗達の関係を考えていると、「どちらからですか?」と奥さんから声をかけられました。
お話しをしていると、ここが高越寺の住職の里の住居であることが分かりました。確かに、グーグルマップで「高越山高越寺」を検索すると、ここが出てきます。奥さんの話によると、いろいろな祭礼や行事が、ここでも行われていたようです。例えば観音堂から少し上がった丘では、奉納相撲が行われていて、阿波だけでなく、淡路や讃岐からの参拝者も多かったと云います。また、集団参拝の信者達は先達に率いられて、中ノ郷や山頂などでの行場巡りをしながら「修行」し、2、3泊して下りてきたとも云います。ただ、山頂に登って参拝するだけでなく、行場での修行も行われていたようです。それは、剣山の集団参拝と同じです。ここでは観音院が高越寺の里寺であり、高越山への参拝のスタート地点となっていたことを押さえておきます。そうだとすれば、木屋平の龍光寺と同じように、やってくる信者たちの世話をする宿坊なども里にはあったことが考えられます。
 さて、もうひとつ気になる寺院があります。下の鳥居の向こうに見えた明王院です。

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明王院(山川町川田)四国三十六不動霊場第9番の札所
  この寺の本尊は不動明王で「川田不動」とも呼ばれ、四国三十六不動霊場第9番の札所になっています。修験者の守護神・不動明王を本尊としていることを押さえておきます。縁起には、次のように記されています。
「空海が四国巡錫の折、高越山に立ち寄り開基。1571年(天正2年)要全大徳師を中興の祖とし伽藍を整備し、大聖不動明王法を修して不動明王と毘沙門天を勧請」

とします。 阿波郡村誌には「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とあります。戦国時代に、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建された寺院のようです。

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                明王院(山川町川田)
明王院は井上城の城主であった土肥氏が菩提樹として建立し、保護した寺院のようです。
井上城跡2
井上城跡

この寺の近くに井上城がありました。そこには今は、「土肥右衛門尉源昌秀」と「土肥紀伊守源朝臣庸吉」の墓が建っています。説明版を見ておきます。

井上城跡
井上城跡説明版(山川町井上)

ここには次のようなことが記されています。
①ここに初めて城を築いたのは細川常有で1451年のことで、川田城と称した。
②その後、永禄年間に土肥氏が城主となり井上城と改めた。
③高越山を背負って、この城の下に城下町が形成されていた。

細川元常の時に土肥綱真が功績によりこの地に移ってきて、16世紀半ばの戦国時代に城主になったようです。「阿波志資料書」には次のように記します。

「土肥因幡守源綱真初与七と称し、父秀行と共に讃岐国神崎城に居住し、後の天文年間中川田井上城に移居した云々。」

 ここからも土肥氏が天文年間(1532~1555年)に、讃岐神崎城から川田井上城に移ってきて新たな城主となったことが記されています。土肥氏の知行についてはよく分かりませんが、川田・川田山・拝村などを所領として、相当な勢力があったと研究者は考えています。また金山小路、小川小路などの名が残っているので、城下町形成が行われていた痕跡もあります。
 先ほど見たように明王院は、「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とありました。
要仙も高越山で修行を積んだ修験者であったのでしょう。その要仙を土居氏が保護し、菩提樹として、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建したのが明王院と私は考えています。しかし、時は戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻で、時代は大きく動きます。綱真には房実、康信、秀実の三子がありましたが、新右衛門秀実は、天正7年(1579)脇城で長曽我部軍と戦い戦死します。そして3年後には長曽我部元親が阿波を統一して、井上城も落城します。しかし、明王院は長宗我部元親の保護を受けて存続します。ここまでで押さえておきたいのは、この周辺に忌部氏の痕跡はないと云うことです。

   今度は。高越山を史料で押さえておきます。南北朝時代のもので、高越寺の霊場化がうかがえる3つの史料があります。
1つ目は、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が出てきます。天台系密教の教線が高越山におよんでいたことがうかがえます。
2つ目は経塚です。12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。秦氏がこの周辺にいたことがうかがえます。
3つ目は、最初に見た「大坊の板碑」です。これは14世紀後半のもので「追善供養」のために作られたものでした。
以上からは12世紀頃には高越山が修験者によって霊場化していたこと、そして祖先供養なども行っていたことがうかがえます。

次に古い史料は「川田良蔵院文書」の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」(1364(貞治三年)です。「檀那を譲り渡す(名簿売買)」という熊野檀那株の売買契約書で、当時の修験者たちがよくおこなっていたことです。川田良蔵院というのは、高越寺の子院のひとつだったようです。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓・川田には何人もの修験者がいたこと。
②高越山の里の修験者は、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していた「熊野行者」がいたこと
③高越山周辺は、熊野行者以外にも修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたこと
次に細川常有の「若王子再興棟札」(寛正3年(1462)の写し(寛政2年(1790)を見ておきましょう。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が高越山に鎮座していたことが分かります。熊野信仰も引き続いて信仰されて、熊野詣での拠点だったようです。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたことになります。
この文書には「下の房」が出てきます。下之坊のある「河田(川田)」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)と研究者は考えています。天明8年(1788)の地誌『川田邑名跡志』には次のように記されています。

下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」

意訳変換しておくと
「下之坊とは地名である。嘉暦・永和の頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、近国の修験者たちが当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の拠点住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

これは後世の記録ですが、次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊の修験者たちが高越山で先達を務めたこと
また「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の際には退去したが、その後近世になって良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。ここには川田の里は、山伏寺がいくつもあって高越山信仰の拠点となっていたことを押さえておきます。 
 高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、当時の住職宥尊によるもので、山内の宗教施設を次のように記します。
「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
②山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
③山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
ここからは戦国時代の戦乱期を経て、17世紀になっても高越寺は引き続いて修験者による山岳信仰の霊場であったことが分かります。さらに、麓は「一江」と呼ばれていたこと、そこには「虚空蔵権現宮と鳥居」があったことを押さえておきます。「虚空蔵権現宮と鳥居」がどこにあったかは、今の私には分かりません。川田八幡神社としたいのですが、それを裏付ける史料がありません。以上を見る限り、従来言われていた「高越山=忌部修験の拠点」という説を裏付けるものは何もありません。
 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳3年(1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応4年(1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」と出てきます。ここからは高越寺には、別当が置かれていたことが分かります。しかし、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。

以上、川田の里を徘徊して考えたことをまとめておきます。
①高越山は古くからの霊山で、山林修行者が行場として活動していた。
②12世紀頃には山上にいくつも宗教施設が姿を現し、修験者の活動拠点となった。
③14世紀になると、麓の川田庄には熊野先達を行う熊野行者などの修験者が住み着くようになった
④修験者・聖達は、高越山のお札配布や祖先供養なども行い高野山巡礼の先達も務めた。
⑤また戦乱で吉野山巡礼ができなくなると、近国の修験者が高越山で修行を行うようになり、その先達を務めるようにもなった。
⑥こうして、川田には修験者の拠点(山伏寺)がいくつも現れるようになった。
⑦戦国時代には土肥氏が井上城の城主としてやってきて、修験者を保護し明王院を菩提寺として建立した。
⑧長宗我部元親の侵攻で土肥氏は去ったが、明王院は保護を受け存続した。
⑨高越山の宗教施設は、近世になっても存続し、多くの信者の信仰を集め、川田は登山入口として栄えた。
⑩明治の神仏分離も、大権現信仰は大きな影響を受けることなく存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店
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碗貸塚古墳石室2 大野原古墳群

碗貸塚古墳 石室実測図

大野原古墳群の石室タイプは、九州中北部から西部瀬戸内に拡がっている複室構造石室に由来するというのが定説です。
それでは「複室構造の横穴式石室」とは、なんなのでしょうか、それを最初に押さえておきます。

副室化石室

                複室構造の横穴式石室
①5世紀代に北・中九州で採用された横穴式石室は、腰石の使用や石室が大型化する。
②6世紀前半になると、肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。
③初期の複室構造ものは、はっきりした区画は見られず、閉塞(へいそく)石や天井石を一段高くするなどして区分化している。
④その後、側壁に柱石を立てるようになると、前室としての区画がはっきりと見えてくる
⑤筑前・豊前・豊後などの北東九州では少し遅れてれ、6世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
 6世紀中頃の横穴式石室の単室から複室化への変化の背景を、研究者は次のように記します。

514年の百済への四県割譲や、562年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、ヤマト政権が半島政策の放棄した結果、動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』1979年)。

このような複式構造の石室を大野原古墳群は採用してます。そして複式石室導入以後、次のような改変を進めます。
①使用石材の大型化志向
②羨道の相対的な長大化
③羨道と玄室一体化
石室形態の変化から大野原古墳群諸古墳と母神山錐子塚古墳の築造順を、研究者は次のように考えています。
  ①母神山錐子塚古墳 → ②椀貸塚古墳 → ③岩倉塚古墳 → ④平塚古墳 →⑤角塚古墳

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
大野原古墳の比較表


最後に登場するのが讃岐最大の方墳で、最後に造られた巨石墳である角塚になります。角塚は、その石室様式が「角塚型石室」と呼ばれ、瀬戸内海や土佐・紀伊などへも広がりを見せていることは前回お話ししました。
角塚式石室をもつ古墳分布図
                  角塚型石棺をもつ古墳分布

今回は「角塚型石室」について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」です。        
大野原古墳群と母神山錐子塚古墳は、断絶したものではなく継続したものと研究者は考えています。
ここでは4つの古墳の連続性と変化点を、挙げておきます。
①母神山錐子塚古墳と椀貸塚は、玄室の前方に羨道とは区別される明確な一区画を設ける。これが複室構造石室における前室に相当する。
②平塚古墳、角塚古墳ではこれがなくなり、前室区画と羨道の一体化する。
③平塚古墳では羨道前面の天井石架構にその痕跡がうかがわれ、前室区画の解消=羨道との一体化の過程を指し示すものがある。
①については、母神山錐子塚古墳の段階で後室相当区画(玄室)や前方区画(玄室)は長大化しています。
1大野原古墳 比較図
母神山錐子塚古墳と大野原古墳群の石室変遷図
その後は前室区画は、羨道と一体化してなくなってしまいます。複室構造石室では前後室の仕切り構造は、前後壁面より突き出すように左右に立柱石を据え、その上部に前後から一段低く石を横架します。これが母神山・鑵子塚古墳、椀貸塚古墳では、はっきりと見えます。そして前方区画(前室)と羨道の間にも同じような構造になっているようです。さらに平塚古墳・角塚古墳では、この部分の上部構造の変容がはっきりと現れています。
 こうして見ると、大野原に3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
角塚型石室のモデルである角塚古墳を見ておきましょう。
角塚古墳 石室実測図
角塚古墳 石室実測図
①玄室(後室)長約4,5m、玄室幅約2、6m、床面積は12㎡弱、三室長幅比は1,8
②玄室(奥室)平面形は、長幅比がやや減じるが4つの古墳の間で、大きな開きはない。
③もともとの複室構造の後室形態と比較すると、玄室長が同幅の約2倍の長大な平面形。
平塚古墳 石室
平塚古墳 石室実測図
平塚古墳と角塚古墳を比較すると、前室区画と羨道が一体化し長大化が進んでいることが分かります。
①平塚は長約5,9mで玄室長と同程度で、角塚は約7mと玄室長よりも長い。
②羨道幅は、平塚が玄室幅の77%、角塚が92%
③玄室に匹敵するほどに前室と一体化した羨道が発達する。
④平塚古墳では羨道最前方の天井石を一段低く架構し、この形は羨道と一体化した前室部区画の痕跡
 平塚古墳は、玄門上の横架石材が両側立柱のサイズにそぐわないまでに巨大化します。

平塚古墳 石室.玄門部の支え石
平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」右側

平塚古墳 石室.玄門部の支え石 左
              平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」左側

その荷重を支えるために、玄室の両側壁第二段を内方に突き出すように組んでいます。これと立柱石で巨大な横架石材を支える構造です。また横架石材は一枚の巨石で玄門上部に架橋し、これに直接玄室天井石が載っています。こうして見ると、椀貸塚古墳までの典型的な楯石構造は、平塚では採用されていません。
 さらに角塚古墳になると、両側立柱上部の石材は、前後の天井石とほとんど同じ大きさで整えられています。平塚古墳石室に見えた羨道天井石との段差はなくなり、玄室天井石との間もわずか10 cm程度の痕跡的な段差がかろうじて見られるだけです。
 次に研究者は、各古墳の玄室(後室)壁面の石積状態と使用石材サイズについて次のように整理します。 角塚は石室規模は小型化しますが、そこに組まれている石は大形化します。その特徴を見ておきましょう。
角塚古墳 立面図
角塚古墳 石室立面図
①玄室奥壁と左側壁は一枚の巨石で構成
②右側壁も大形材一段で構成し、不足分に別材を足す。
③奥壁材は最大幅2,5m以上、高さ2、3m以上の一枚巨石
④右側壁には幅3,4m高さ2,4mの石材。左奥壁に据えた玄室長に達する幅4,5m高さ2m以上の石材が最も大きい。
⑤玄室架構材は2,3m×2,88m以上、1,7m×2,7m以上。
⑥羨道部壁面は左右とも二段構成で右側壁下段に長2,5m、左側壁下段に3,5m以上の大形材を使用
 角塚石室の使用石材サイズと石積みを押さえた上で、それまでの石室変遷を見ておきます。
まず母神山錐子塚古墳と椀貸塚古墳には近似点が多いと研究者は次のように指摘します。

碗貸塚古墳石室 大野原古墳群
碗貸塚古墳の石室立面図

平塚古墳 石室立面図
平塚古墳の石室立面図 

①石室規模の飛躍的に大きくなっているのに、椀貸塚古墳では用材サイズには変化がみられない
②用材大形化は、椀貸塚古墳と平塚古墳の間にで起こっている。
研究者が注目するのは、平塚古墳の巨大な玄室天井石と左側壁第二段の巨大な石材です。大形材の使用という点では、巨石だけで玄室を組んでいる角塚古墳がぬきんでます。しかし、平塚古墳にも角塚に負けないだけの巨石が一部には使用されています。角塚古墳の石室は、母神山錐子塚以来の系統変化の終点に位置づけられます。ここでは、その角塚古墳石室と平塚古墳石室とでは形態・構造面ではよく似ているのですが、大形石材の利用能力には格差があったことを押さえておきます。
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。
これは盟主古墳の移動で、三豊地方の母神山(柞田川北エリア)から大野原(南エリア)へ「政権移動」があったことがうかがえます。

1碗貸塚古墳2
大野原椀貸塚は、柞田川の両側を勢力下に置く三豊平野はじめての「統一政権の誕生」を記念するモニュメントとして築かれたとも言えます。それは百年前の5世紀後半に、各地の豪族統合のシンボルとして各平野最大の前方後円墳が築かれたのと同じ意味を持つものだったのかもしれません。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示するには充分なモニュメントで政治的意味が読み取れます。
以上を整理してまとめておきます
①柞田川の北エリアでは、6世紀前半に母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が築造される。
②6世紀後半になると円墳で横穴式の錐子塚古墳が、それに続く
③7世紀前半に中位・下位クラス墳群である千尋神社支群、黒島林支群、上母神支群が形成される。
④北エリアの豪族連合長の豪族のほとんどが、母神山を墓域としていることから、この山が霊山だったことがうかがえる。
⑤6世紀末に、大野原に椀貸塚、7世紀はじめには平塚、7世紀半ばに角塚が築造される。
⑥大野原3墳を中心にして、7世紀前半には古墳小群が柞田川の流れに沿うように作られるようになる⑦これらの中小勢力によって、柞田川周辺の開発が進められた
⑧大野原では大野原3墳と、対になるように観音堂古墳、町役場古墳、若宮(石砂)古墳がかつてはあったが、江戸初期の新田開発によって失われてた。
⑨大野原3墳は、これらの墳墓群と墓域を共用していた
以上から、6世紀末に観音寺エリアの墓域が、母神山から大野原に移ったことを押さえておきます。つまり、大野原墳墓群の組織化は始祖の統一、同族関係の確立と捉えることができると研究者は指摘します。言い換えれば、6世紀末に三豊平野の豪族の族的統合が行われたこと、その政治的なモニュメントの役割を果たしたの大野原3墳ということになります。これは三豊平野の内部の動きです。それ以外に、外部の力もこの動きを推進したと研究者は考えています。
それは次のようなヤマト政権内部での抗争との関連です。
①朝鮮半島経営に大きな力を持つ葛城氏
②葛城氏の下で、瀬戸内海南ルートの交通路を押さえた紀伊氏
③瀬戸内海南ルートを押さえるために紀伊氏が勢力下に置いた拠点
④そのひとつが母神山古墳群勢力 
⑥葛城氏・物部氏の没落後に台頭する蘇我氏
⑦蘇我氏の支持を取り付けて、台頭する大野原勢力
⑧大野原への盟主古墳の移動と3世代に渡る碗貸塚古墳→平塚→角塚の造営
⑨角塚は、讃岐最大の方墳であり、讃岐最後の巨石墳であること
以上からヤマト政権内部の蘇我氏の政権獲得と、大野原古墳群の出現はリンクしているという説になります。そういえば蘇我氏は、巨石墳の方墳が好きでした。いわばヤマト政権の「勝ち馬」に載った勢力が、地域の盟主にのぼりつめることができたことになります。
 前回お話ししたように角塚の石室モデル(角塚型石室)が瀬戸内海各地や土佐・紀伊にも拡大していること、讃岐の巨石墳のモデルになったのが大野原古墳群であったことなどが、それを裏付けることになります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大野原古墳の比較一覧表
                 大野原古墳群の比較一覧表
参考文献
「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」
関連記事






大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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白川琢磨氏 神祇信仰~神仏習合~神仏分離園技進行


白川琢磨先生に連続四回の比較宗教社会学のシリーズ講義をお願いしています。今回は、その2回目になります。仲多度や三豊の神仏習合から神仏分離に至る動きが聞けそうです。興味と時間のある方の参加をお待ちします。なお、会場が吉野公民館に変更になっていますのでご注意ください。
白川先生の著書です。
顕密のハビトゥス 神仏習合の宗教人類学的研究


英彦山の宗教民俗と文化資源


大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

猛暑もやっとおさまり、山の上には涼しさが戻ってきたようなので「山のてっぺんで私も考えた」シリーズを再開しようと思います。これは気になる山のてっぺんに行って、その山を取り巻く歴史について、知ったかぶりの少ない知識を並べて、ああでもない、こうでもないと考え、「新説」を紡ぎ出すというとんでもない試みです。興味と閑のある方は、お立ち寄りください。前回は、阿波木屋平の天行山と修験者の関係を見ました。今回は、土佐の奥神賀山にある奥神賀神社を遡上にあげます。

P1270661
奥神賀神社
この神社が気になるのは、そのロケーションです。神賀山は、土佐矢筈山からのびる笹の主稜線が美しい山で、広い笹野原の中に、ポツンと鳥居と神が宿る神聖な磐境があります。この光景が、なんとも微笑ましくもあり、私の想像力を刺激します。というわけで、今回も国道32号を原付バイクで南下して、池田・大歩危経由で国道439号に入り、大豊町の西峯までやってきました。

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                     大豊町西峯
豊永の西峯集落の最後の民家を過ぎると、稜線上の豊永峠までの約10㎞の林道です。舗装された林道で油断していると・・

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小桧曽林道の起点 ここから2㎞はダート
峠まで残り4㎞附近が小桧曽林道起点で、ダートの始まり。原付スクターとダートは相性が悪い。苦戦しながらもスクターを進めていくと、

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豊永峠手前の上り坂
峠手前2㎞あたりで再度舗装道路に行き当たりました。ここからは快調にアクセルを廻して、豊永峠に到着です。
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ススキ一面の豊永峠
峠ではススキが風に吹かれておいでおいでと迎えてくれました。ここから南に拡がる展望は素晴らしい。めざす奥神賀神社は、この後方の稜線上にあります。わずかな稜線歩きを楽しみます。

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豊永峠
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                      奥神賀神社
峠から道草歩きで20分足らずで鳥居が見えて来ました。

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奥神賀神社 (神が降臨する甘南備岩が御神体)
無事やってこれたことに感謝して参拝。そして、笹に腰を下ろして遅いおにぎりを食べます。そして、寝そべりながら考えます。どうして、ここに鳥居が建てられたのでしょうか?。この神聖な石の廻りでどんな神事や、祭礼が行われていたのでしょうか。それを知る「手がかり1」を見ておきましょう。

  四国霊場39番の延光寺(宿毛市)は、かつては修験道当山派の拠点でした。

四国霊場延光寺 貝の森 宿毛
延光寺(宿毛市)の東南の貝の森
この寺の4㎞ほど東南に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀り、修験者の修行の山でり、日照りの時には雨乞のために、里人が登って祈念していたようです。この貝の森については、次のような話が伝えられます。

 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こした。それがきっかけで、貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と、近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡者が出た。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなった。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、その頂上では多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は、中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと

宿毛の貝の森山は、伊予と土佐の境に近く、その信仰主権をめぐって、修験者たちや在地の豪族たちを巻き込んだ対立が起きていたようです。
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そういう目で、神賀山を見るとこの山も草原の中にポツンとあるこの奇岩は、神が宿る御神体には相応しく、自然と手をあわせたくなります。ここが霊山として修験座達の信仰されていたのは納得できます。同時に、この山も次のような二つの修験者たちの境界線に立つ山です。
①北側 豊永の定福寺   (霊山は梶ケ森)
②南側 物部のいざなぎ流 (霊山は高板山)
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定福寺山門
①の定福寺については、以前にお話ししたように「熊野 → 伊予新宮村の熊野神社 → 大豊の豊楽寺 →  定福寺」の系譜上つらなる熊野行者によって開かれた山岳寺院と研究者は考えています。

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定福寺の本堂の横に鎮座する熊野神社

定福寺の本堂の横には、今も熊野神社が鎮座していることが、それを裏付けます。そして、その行場が梶(加持)が森になります。梶が森と神賀山は、ひとつながりの山域です。定福寺を拠点とする修験者たは、この山までテリトリーを伸ばしていたはずです。
一方、南側は物部の谷です。そして、ここは物部修験いざなぎ流の拠点でした。その霊山は、高板山で、神賀山の三つの峰を連ねて目の前にそびえています。つまり、神賀山は物部修験と、熊野修験のテリトリーの境界線上の霊山だったのです。しかし、そこでは対立・抗争だけが行われていたようではないようです。第2の手がかりを見ておきましょう。
幡多郡の四万十川上流の旧大正町奥地の佐川山を見ておきましょう。
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵のふたつの地蔵さまが鎮座します。旧3月24日は、この山の周囲の大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山しました。見所は喧嘩でした。土佐と伊予の人々が口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作柄がよくなるといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てて、豊作を祈願しました。
このような「鎮めの地蔵(喧嘩地蔵)」として、地蔵が鎮座していた山を挙げると次の通りです。
①西土佐村藤ノ川の堂ヶ森
②東の大正町杓子峠
③西の佐川山
④南の宿毛市篠山
⑤北の高森山
⑥中央の堂ヶ森
また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは、周囲の集落の信仰対象となっていること、相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 この史料を読んで私は、神賀山でも、武闘から「口げんか」や「相撲」に姿を変えながら、物部と豊永の人達の交流が行われていたのではないかと思うようになりました。

最後に、窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰を見ておきましょう。

御在所の森 高知県
                      御在所の峰

 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。役小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は、修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
 別の見方をすると、テリトリーの境の霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとっては争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。
 もちろん山伏の背後には、地元の武士団の意向もあったはずです。それは寺蔵が建立される以前には、地域間の抗争があったこと、それを鎮めるために「山頂での相撲や喧嘩」など山伏たちによって行われるようになったと考えることができそうです。そして、私には奥神賀神社のご神体である奇岩は、寺蔵のようにも見えて来ます。
そういう目で、奥神賀神社の廻りで行われていたことを、想像も交えながらまとめておきます。
①奥加賀山は、北の豊永と南の物部の境界に位置する山で、両者の対立抗争の山でもあった。
②そこで、北の豊永・定常寺(熊野修験)と南の物部いざなぎ修験の修験者たちは、奥神賀山の笹の原にある奇岩の廻りで、両者が集まるイヴェントを年に1回開くようになった。
③それは武闘抗争に替わる口げんかや相撲であった。
④こうして、豊永と物部は対立を含みながらも、交流が続けられる関係が作られた。

そんなことを考えながら笹の原に寝っ転がりながら、ススキの向こうに見える高板山を眺めていました。
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物部修験いざなぎ派の霊山高板山
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事





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              川井峠
今回やって来たのは、木屋平の川井峠です。穴吹川を原付バイクで遡ること2時間余り。穴吹川沿いの国道は、ススキの穂が秋風に揺られて、おいでおいでと招いてくれるし、遅くなった彼岸花も花道のように迎えてくれます。たどり着いた川井峠には、大きな鳥居が建っていますが、これが「天行山窟大師」への入口になります。この窟大師にお参りして、修験者の活動を考えるというのが今回の課題です。さて、どうなりますか。

まず、「天行山窟大師」のことを「事前学習」しておきます。

木屋平村絵図1
「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリア
以前、紹介したように江戸時代の「木屋平分間村絵図」には、いろいろな情報が書き込まれています。例えば、神社や寺院ばかりでなく小祠・お堂など以外にも、村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。そういう意味では木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が色濃く漂うエリアだったことがうかがえます。その中に「天行山窟大師」は、次のように描かれています。

木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
           天(雨)行大権現と大師の岩屋付近(木屋平分間村絵図)
この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①三ツ木村と川井村の境界となる山頂には、雨(天)行大権現が祀られていた
②南側の石段の上に「香合(川井)ノ岩」があった。
③その西側に「護摩壇」と「大師の岩屋」があった。
この山は「権現」が祀られているので、修験者たちによって開かれた信仰の山であったようです。もともとは「雨(天)行山」とあるので、ここで雨乞祈祷などが行われていのかもしれません。それが明治以後になって今風に「天行山」と改名されたのではないかと私は想像しています。

明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。

 大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ 巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク 少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ 此檀ニ護摩ヲ修業シ 岩窟ノ悪蛇を除シタリ 土人之ヲ大師檀ト称ス

ここに書かれていることを箇条書きにすると・・。
①大師檀は、川井村東方の大北の「雨(天)行山」にある。
②30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。
③かつて空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。
④そのため地元では大師檀と呼ばれている。
ここからは、天行山の岩屋は修験者たちの修行の場であり、護摩がここで焚かれていた。それが後に弘法大師が接ぎ木され、大師壇とされるようになったことがうかがえます。どちらにしても、天行山が修験者の霊山で、周辺に修行場であったようです。事前学習は、このあたりにして実際に行って見ることにします。
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                   川井峠の「天行山窟大師」への鳥居

しだれ桜の向こうに立つ鳥居を越えて参道は続いています。

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                「天行山窟大師」への登山道
猪除けの柵を越えると、手入れされた檜林が続きます。その中を整備された平坦で高低差の少ない歩きやすいトラバース道が続きます。途中、林道途中からの参拝道と合流しますが、このあたりが中間地点になります。
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               林道途中からの参拝道との合流点
運搬車が入ってこれそうな道です。尾根沿いに突き上げてくるのこのルートがもともとの参拝道で、川井峠からのトラバース道は、後に作られたようです。そういえば、峠の鳥居も古いものではなく近年のものでした。
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                    参道途中の磐岩
窟大師への荷物運搬用に整備された道を行くと、修験者が歓びそうな奇岩が現れてきます。窟大師が近づいてきたようです。いつのまにか周囲も檜の人工林から、大きな松が混成する自然林へと替わっていました。
そして、現れたのが絵図にあった
「香合(川井)ノ岩」です。

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                    香合(川井)ノ岩の石段

ここには次のような句碑があります。
立山に各段築く八町坂
大師一夜に設けしたり

木屋平 天行山の石段
その下に続く「弘法大師一夜建立伝説」の石段です。
この石段が、谷沿いに伸びていることからも、今歩いてきたトラバース道は近年のものであることが分かります。

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香合(川井)ノ岩
修験道にとって山は、天上や地下にある聖地への入口=関門と考えられていました。聖界と、自分たちが生活する俗界である里の境界が「お山」というイメージです。聖界に行くためには「入口=関門」を
通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。

①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口

そうすると、
香合(川井)ノ岩は②、大師窟は⑤ということになるのでしょうか
石段上の石碑を見ておきましょう。

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金剛大師と刻まれた石碑
側面の年期は、明治18年2月と読めます。石造物は、近代になって設置されたもののようです。「金剛大師」とあるので、弘法大師信仰をもった集団によって造られたことが分かります。台座に刻まれた集落名と人をみると,次のようになります。
世話人の川井村5人
三ッ木村4人
大北名3人
管蔵名1人
今丸名13人
市初名(三ッ木村)1人
上分上山村9人
下分上山村3人
不明2人
全体で41人
ここからは、この金剛大師像が,近隣の村人の人たちが中心になって、明治になって建立されたことが分かります。

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参拝道は、まだ奥へと続いています。断崖の際を通る道は、人の手で削られた痕跡があります。岩を越えて行くと見えて来たのが・・

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石垣が積み上げられ、その上に建物が建っています。これが「護摩壇」のあった所のようです。その上からオーバーハングした岩がのしかかっています。護摩を焚く場所としては最適です。

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                 大師の窟(天行山窟大師)

先ほど見たように「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ 巌窟アリ三拾人ヲ容ル」とある窟を塞ぐように建っているのがこの建物です。

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残念ながら鍵がかかっていて、中の窟を見ることはできません。ここまで、導いてくれたことに感謝して合掌。「導き給え 授け給え、教え給え」

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                   大師堂周辺の三十三観音石仏群

 大師堂の北側斜面には、いくつもの石仏が置かれています。その中の祠に入った仏を見てみました。

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                  天行山窟大師の大日如来
 台座に「大日如来」と刻まれています。側面には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。

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       天行山窟大師の「大日如来」像の横の石碑は、次のように記します。

「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設 大施主當山中與開基大法師清海

ここからは周辺に鎮座する33体の観世音像は、大正15年12月に天行山窟大師を「中興」した清海によって建立されたことが分かります。気がつくのは、それまでの「雨行山」でなく「天行山」と記されています。ここからも明治以後に改名されたことがうかがえます。
 今まで見てきた石造物を時代順に並べてみると、次のようになります。
①明治9年3月吉日 祠の中の大日如来像
②明治18年2月  香合(川井)ノ岩の下の金剛大師像
③大正15年12月 
中興の祖・清海による33観音像

こうしてみると
天行山窟大師には、明治以前の石造物はないようです。現在のような姿になったのは、中興の祖清海が現れた大正時代の終わりだったことになります。そういえば、最初に見た「木屋平分間村絵図」にも、「香合(川井)ノ岩」・「護摩壇」・「大師の岩屋」とは記されていますが、建物らしきモノはなにも描かれていません。近代以後に、この行場は周辺から信仰を集めるようになったことがうかがえます。それをどう考え、説明できるのでしょうか。

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大師堂の横には、小さな広場がベンチが置いてあります。そこに腰掛けて、少ない情報を並べて、回らなくなった頭で考えた結果を記しておきます。
①剣山の開山は江戸時代になってからのことで、それ以前に木屋平に修験者の姿は見えない。
②この地に修験者が現れるのは、龍光寺によって剣山が開山されて以後のことである。
③この結果、剣山はあらたな霊山として、阿波各地から信者が参拝登山に訪れる聖地となった。
④こうして先達に連れられた信者達がベースキャンプとなる龍光寺のある木屋平にやってくるようになった。
⑤その受入の宿坊や先達を勤めるための修験者も木屋平周辺に大勢やって来て定着するようになる。
⑥修験者たちは、毎日仰ぎ見る村境の霊山や自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現を聖地として信仰対象にした。
⑦それが
「木屋平分間村絵図」に描かれた「民間信仰と修験の山の複合した景観」である。
木屋平 富士の池両剣神社
剣山修行の中心 両剣前神社と富士池坊(木屋平分間村絵図)建物が描かれている

それでは、天行
山窟大師と龍光寺の剣山開山とは、どのような関係があったのでしょうか?

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                伝説「東宮山の幻の岩屋」
穴吹川沿いをを遡る国道の分岐点で見つけた看板です。ここには冒頭に、次のように記します。
高越山と剣山脈をつなぐ唯一の山脈東宮山は幾多の伝説を秘めた山である。山頂近くに檜の瀧と呼ばれる高さ百数十mの断崖絶壁があり、人は簡単には近づけない岩穴があり、幻の岩屋と呼ばれていた。

番外:天行山、謎の石窟 - ぐーたら気延日記(重箱の隅)

東宮山と天行山

「高越山と剣山脈をつなぐ唯一の山」が東宮山なのです。高越山の麓の山川やその周辺の信者集団は、東宮山ー天行山を経て木屋平に入っていたことがうかがえます。このルートは、高越山からの修験者たちの修行の道であったかもしれません。そして天行山は修験者の修行の場であり、霊山にもなり、次第の里人の信仰を集めるようになります。それが「木屋平分間村絵図」に描かれた天行山窟大師の姿かも知れません。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年の木屋平村の宗教景観 雨(天)行山大権現も見える

では、どうして明治になって石造が安置され、大師堂などの建物が姿を見せるようになったのでしょうか。

 明治の神仏分離令によって、全国的には修験の急速な衰退が始まります。ところが、剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺や円福寺は、中央の混乱を好機としてとらえて、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、先達や信者の歓心を買い、新客の獲得につなげます。つまり、剣山信仰は明治を境により隆盛をみるようになるのです。それが木屋平周辺の霊場の発展にもつながります。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

龍光寺は支配下に数多くの子院と修験者たちを抱えていたいたようです。
そのような環境の中で、天行山窟大師でも伽藍が整備され、石造物があらたに安置されたのではないかと私は考えています。
以上、天行山のベンチで考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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              天(雨)行山頂上の三角点 
もともとここに雨行山大権現の祠があったと私は考えています。


参考文献
 「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

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今回は、髙松平野と丸亀平野の「中世村落」の居館について見ていきます。テキストは、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」です。
まず、比較のために旧髙松空港(林田飛行場)跡の中世村落の変遷について、要約しておきます。
①古代集落は、11世紀前半で断絶して中世には継続しない。
②11世紀後半のことは不明で、12世紀になると、小規模な「無区画型建物群」が現れる。
③13世紀になると大型建物を中心とした「区画型建物群(居館)」が出現する
④これは「集落域の中央に突如、居館が出現した」とも言え、「12世紀代を通じて行われた中世的な再開発の一つの到達点である」
⑤ところが、中世前半の居館は長く続かず、13世紀後半になると、ほぼ全ての集落が廃絶・移転してしまう。
①と⑤に集落の断絶期があるようです。これをどう捉えればいいのでしょうか?。この時期に「大きな画期」があったことを押さえておきます。そして、14世紀から15世紀になると空港跡地遺跡では、次のような変化があったことを指摘します。
⑥「区画施設(小溝ないし柵列)により明瞭に区画された屋敷地が、居館の近くに東西1町半、南北1町の範囲内にブロック状に凝集する形態」へと変化する。
⑦「中心となる居館と、付随する居館との格差は明瞭に指摘でき、村落(集洛群)を構成する上位階層の居住域」である。
⑧居館に居住する「小地域の領主…を求心力とした地域開発や生産・流通の再編が、このような村落景観として現出した」=「集落凝集化」

ここで研究者が注目するのは、居館に区画(溝)があるかどうかで次のように分類します。
A 無区画型建物群 1棟~数棟の中・小規模建物群で構成され、1~2世代程度継続した後は短期に廃絶している。周囲に溝等による区画施設がない
B 区画型建物群 多数の柱穴が密集して複数棟の建物が同時並存し、1世紀程度の比較的長く継続して建て替えられ、周囲に溝などの区画施設を伴う。
居館の周囲を溝で区画されたことに、どんな意味があるのでしょうか?
Bの区画型建物群の出現と同じ時期に、区画内部に土葬墓(屋敷墓)が造られるようになるからです。死者の埋葬地を屋敷内に作ることを「屋敷墓」と言います。中世の屋敷墓について、勝田至氏(京都大学)は、次のように記します。
 死者の埋葬地をある家の屋敷内またはその近くの自家所有地に作る慣行を「屋敷墓」と定義する。この慣行の中心的起源は中世前期にある。そこでは屋敷墓に葬られる死者はその地を開発した先祖に限られることが多く、屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされた。この慣行の成立要因として、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが複合していたと考えられる。屋敷墓はその信仰表象のみが独立した屋敷神として、現代の民俗にも広い分布をみせている。


13世紀・鎌倉時代の大阪市の居館と屋敷墓を見ておきましょう。
鎌倉時代の野間遺跡からは、屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が副葬されていました。副葬品からは、中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、領主クラスの人物とも想像できます。
中世の居宅と屋敷墓 大阪の野間遺跡
野間遺跡(大阪市)の居館跡と屋敷墓 

屋敷跡からは、8棟の建物跡が見つかりました。そのうちの1棟には、建物に使われていた木の柱が何本も残っていて、中にはカヤの木でできた直径40cm、高さ1mもある柱もありました。それほど大きな屋敷跡ではありませんが、しかし柱は太く、掘立柱の下にも礎石を組んでいます。また、この屋敷跡からは、羽子板や漆塗りの椀、絵の描かれた箱が見つかり、京都の文化の影響を強く受けていた様子がうかがえます。大きな柱の建物、そしてたくさんの出土品は、この屋敷の主の力の大きさを物語っています。

 屋敷墓の起源は中世前期にあり、屋敷墓に葬られる死者は、その地を開発した先祖で、神として祀られることが多いようです。
屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされるようになります。そして、屋敷墓の継承者が「家」を継承していくことになります。これは、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが融合したものと研究者は考えています。こうして屋敷墓は、屋敷神として姿を変えながら現代にも受け継がれています。

屋敷墓の成立について橘田正徳氏は、次のように記します。

①前期屋敷墓の被葬者である「百姓層」が、「「屋敷」の中に墓を作り、祖先(「屋敷」創設者)祭祀を行うことによって、「屋敷」相続の正当性つまり「屋敷」所有の強化を」図ろうとしたこと

中世以降に血縁関係による墓地の形成が進む背景として、水藤真氏は次のように記します。

「子の持つ権利の淵源が親にあれば、子はその権利継承の正当性を主張するに際して、親からの保証・正当な権利相続がなければならない。そして、その親を祀っているという実態、これも親からの権利の継承を主張する根拠となった」
家の財産(家産)の確立こそが、「家の墓」を生む母体であった」

 無区画型建物群は短期間で廃絶しますが、区画型建物群は、複数世代にわたり継承されています。これは屋敷墓が屋敷相続を正当化する根拠となり、そこを長く拠点とするようになったようです。その地が替えの効かない意味のある場所になったことになります。別の言い方をすると、屋敷が家産として認識され始めたというのです。つまり、建物群の四隅を溝で区画することは、土地や建物が父子間に相続されるべき家産として認識され、それを具体的に外部に向けて主張し、その権利が及ぶ範囲を数値化して、目に見える形で示したのが溝であるとします。そうだとするとこの屋敷墓の被葬者は「名主層」や「名主百姓身分」ということになります。区画型建物群の成立は、名主層の出現とリンクするのです。彼らは周辺開発を進める原動力となります。それが、大規模用水道の出現にもつながって行くという話になります。そういう視点で改めて、飯野山周辺の中世居館を見ていくことにします。

飯野山周辺の中世居館
             飯野山周辺の区画型建物群の例

中世飯野・東二瓦礫遺跡の中世遺構変遷について整理しておきます。
①飯野・東二瓦礫遺跡に建物群が出現するのは、12世紀前半のこと
②それは3棟の掘立柱建物で、柱穴数が少ないので、多くの建物があったとは思えないこと
③短期間で廃絶したと考えられる建物群は、どれもが条里型地割に沿って建てられている。
④ここからは、遺跡周辺において地割の造成が新たに行われたこと。
⑤12世紀後半~13世紀初頭には、一度建物がなくなる。
⑥その断絶期間を経て、建物群D・Eが13世紀中頃に再度現れる。
⑦続いて建物群Bが、13世紀後半に成立。
⑧それは等質的な内容の建物群が、2世代程度の短期間で場所を移して相次いで建設。
こうした状況が大きく変わるのが、建物群Aの登場です。
建物群Aでは、20㎡強四方と小規模ですが、区画施設があり、4棟以上の建物が長期にわたって建て替えられ継続します。密集性と継続性という面から見ると、それまでの建物群Bの段階とは明らかに異なります。しかし、出土遺物についてみると、中国製磁器類のほか、備前や亀山、東播系といった瀬戸内海沿岸からの搬人品が少し出土しているだけです。そういう点では、無区画型建物群であるBと格差はないようです。ここでは、建物群が区画施設を伴って出現することと、同時期に大規模灌漑網が再整備が行われたことを押さえておきます。
研究者が注目するのは、川西北・原遺跡の2基の中世墳墓遺構の火葬塚です。
幅約1,1m~1、8m、深さ約0,1~0,5mの周溝で区画された辺5,2mと6、1mの陸橋を伴う2基の方形区画で、火葬塚とされます。ST01は12世紀前半、ST02は13世紀前葉の築造とされ、ST01は12世紀後半以降にも継続使用された可能性があるようです。つまり、12世紀前半から13世紀前葉まで、火葬された人々が遺跡周辺に生活していたことになります。そこからは、安定して地域経営に従事した有力階層がいたことをうかがわせます。長期に安定して火葬墓を営むことができた階層の拠点住居として、飯野・東二瓦礫遺跡の有力者を研究者は想定します。続いて大束川流域の居館を見ていくことにします。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                 大束川流域の中世集落と用水路
川津川西遺跡は鵜足郡川津郷の大束川西岸に位置します。
①建物の東辺が、大束川の完新世段丘崖によって画される区画型建物群。
②区画規模は、南北約100m、東両約50mとかなり広く、区画内部はさらに中・小の区画溝により数ブロックに細分されている。
③西約90mの所に、無区画型建物群が一時期並存。
④区画型建物群は、14世紀前葉から15世紀初頭にかけて使用され、内部には主屋とみられる床面積約50㎡の大型建物がある。
⑤出土遺物には、碗・皿などの輸入磁器類や、備前・東播・亀山の貯蔵・調理器類、瀬戸天目碗や畿内産の瓦器羽釜など、隣接地域や遠隔地からもたらされた搬入資料も少量ながら出土。
この居館の主人は、区画型建築物に住んでいます。名主から領主への成長過程にいたことが考えられます。 
川津六反地遺跡
①旧鵜足郡川津郷の大束川東岸の段丘面上に位置。
②西辺を条里溝、東辺を溝によって区画された東西長約と㎡の区画型建物群
③区画溝から、13世紀後半~13世紀前の遺物が出土
④各区画には、主屋とみられる建物があって、等質的で相対的に独立していた。
⑤区画溝を挟んで、東西に2つ区画型建物群が連接していた
⑥西側には、無区画型建物群が並存。
こうした複数の区画型建物群が連なって一つの建物群を構成するものを、「連接区画型建物群」と呼んでいるようです。これに対して、飯野・東二瓦礫遺跡や川津川西遺跡は、中・小の溝などによる区画はありますが、各区画間に等質性や独立性は認めらません。このように外周区画溝内部が一つの単位としてかんがえられるものと「単独区画型建物群」とします。
東坂元秋常遺跡も、飯野山南東麓の旧鵜足郡坂本郷の大束川両岸の段丘面上にあります。
①中世建物群は、飯野山より南東に張り出した低丘陵部に建設。
②南北長約100㎡の区画型建物群で
③区画内部は飯野山から下る小規模な谷地形により、3小区画に細分される「連接区画型建物群」④区画内部の構造は、13世紀後半~14世紀前半の使用。
④出土遺物は、備前や亀山、東播系の隣接地の搬入資料以外に、少量だが楠葉型瓦器碗や瀬戸・美濃の瓶子・天目碗、常滑焼、中国産磁器類が出土

下川津遺跡も、鵜足郡川津郷の大束川西岸の段丘面上に位置します。

.下川津遺跡
下川津遺跡の大型建物配置図

①四辺を区画溝で囲続し、南西隅が陸橋状を呈して区画内部への通路とする
②南辺区両溝は旧地形に大きく制約され矩形とならず、東西約50m、南北35~65mの単独区画型建物群
③建物群の時期は15世紀後半~16世紀前葉で、飯野山周辺では最も遅い区画型建物群。
15世紀後半と云えば、応仁の乱後に政権を握った細川氏が勢力を増し、その配下で讃岐四天王とよばれた讃岐武士団が京都で、羽振りをきかせていた時代です。その時期の領主層の舘が、ここにはあったことになります。
ここで研究者が注目するのは、東坂元秋常遺跡の上井用水です。  
上井用水は、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。それが各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏おとりに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会
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