瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2024年12月

 金光院の公式文書で初代院主とされる宥盛は、高野山で学び山岳修験を積んだ真言修験者でもありました。彼は「弘法大師信仰 + 高野念仏聖 + 天狗信仰の修験者」などの各信仰を持っていました。そのためその後の金光院には修験道的な要素が色濃く残ることになります。例えば金毘羅大権現時代には、お札は金光院の護摩堂で修験者が祈祷したものが参拝者に渡されていました。そして、護摩堂には、本尊として不道明王が祀られることになります。不道明王は修験者の守護神ともされ、深い関係にありました。修験の流れを汲む金光院で不動明王が大切にされたのには、こんな背景があるようです。そのため金刀比羅宮には不動明王の絵画がいくつも伝来しています。今回は金刀比羅宮の不動さまの絵画を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)」です。

不動明王にはいくつかのパターン図柄がありますが、まず円心(えんじん)様の不動明王二童子像を見ておきましょう。
円信様式 富豪明王 嵯峨寺

円心は正確には延深(えんじん)という名の絵仏師て、11世紀中頃に活動したとされます。円心様の不動の特徴は、次の二点です。
①海中の岩座に立つ
②剣を持つ右腕は肘を大きく横に張り出し、髪は巻き毛でフサフサと豊かである
それでは次に金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆(室町時代)」を見ておきましょう。
26不動明王
       金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆」

①円心の不動は寸胴で武骨な力強さを見せるのに対して、金刀比羅宮図像は、比較的伸びやかな肢体で華麗な印象を与える。
②金刀比羅宮像の火炎は、緩やかに波打ちながら上方へすらりとした曲線を描き、細く枝分かれした炎の先端は繊細なゆらめきを見せる。
③不動の肉身も青黒い体の要所に照り隈が施され、ぼってりとした筋肉の盛り上がりが感じられる。
④左の衿羯羅(こんがら)童子の顔貌部や肉体は、補筆が多く加えられている
⑤右の制多迦(せいたか)竜子の方は、当初の状態がよく残っていて、肉身を描く線も緩いながらも柔らかな抑揚を示しており、丸みを帯びた童子らしい肉体を巧みに描写している
 それらを勘案してみると、金刀比羅宮像は14世紀の後半の室町時代の者と研究者は判断します。

金刀比羅宮のもうひとつの不動明王(血不動)を見ておきましょう。
「血不動」と呼ばれている不動さまですが、もともとは「黄不動」(黄色は本来金色)を描いたもので、「血不動の通称は、黄不動の転訛」と研究者は指摘します。黄不動は、讃岐出身の智証大師(円珍:814~891)が感得した不動明王像とされ「天台宗延暦寺座主円珍伝」には、次のように記されています。

承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に命じて写させた

智証大師の描かせた原本は園城寺に秘仏として伝えられています。しかし、霊験ある像として広く信仰されたために、下の曼殊院本を筆頭に転写本が案外多く残っているようです。
絹本著色不動明王像(国宝、曼殊院所蔵)。平安時代後期(12世紀)の作で、黄不動の模写像としては最古例[1]。
不動明王像(国宝曼殊院所蔵) 平安時代後期(12世紀) 黄不動の模写像としては最古例

圓城寺像の古い模写である蔓殊院の黄不動さまを研究者は次のように評します。
①肉身は白色に透明な黄色をかけ、腹部は膨らみを表すために暈しをかけている。
②太めの硬質な線で輪郭を適確に描き、その色料は珍しく朱と墨を混ぜている。
③かっと見開いた両眼の瞳には金泥が注され、また渦巻状の髪も金泥を用いている。
④着衣文様は彩色のみで、院政期仏画にしては珍しく截金は使用していない。
⑤園城寺の原本と比べるとプロポーションが洗練されて筋骨隆々の成人体躯となっていたり、岩座が描き加えられている。
それでは金刀比羅宮の「血不動(黄不動)」を見ていくことにします。

21 不動明王(血不動)(伝円珍筆)
    不動明王(血不動)伝円珍筆 室町時代 (金刀比羅宮蔵)

絹の傷みがひどく不動さまの姿はかすかにしか見えません。まるで「闇夜の烏」のようです。まず、上から見てく行くと忿怒の顔が見えて来ます。
「不動の肉身は、肥痩のある墨線で描かれ、筋肉の隆起した遅しい姿は原本の雰囲気をなお伝えている」
「不動の左の足元を見るとわずかに岩座を描く線が残っている」
と研究者は記すのですが、私にはそれもなかなか見えて来ません。
金刀比羅宮の血不動の制作時期については、研究者は次のように判断します。

墨線は平安仏画の鉄線描に見られるような粘った強さはなく、やや走ったような軽さがうかがえる。また装身具の形態描写も崩れがあり、時代的には下っていることを予想させる。諸模本との比較が不可欠だが、室町時代の制作であろうと思われる。

最初にも述べた通り金毘羅大権現の別当寺としての金光院は、真言宗寺院でした。院主は高野山で学んでいます。その中にあって天台宗の円珍が感得した黄不動が伝わるのは一見不思議に思えます。しかし、それは近世の本末制度が固定化して以後のことに縛られた見方で、近世以前には地方の寺院ではいろいろな宗派が入り乱れて宗教活動を行っていたことは以前にお話ししました。諸宗派の垣根は低く、近隣の金倉寺が智証大師誕生所となっているので、その縁によって伝わったのか、あるいは黄不動の信岬は東密にまで広がっていたので、高野山を通じでもたらされたのかも知れません。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

ここからは1655年に金光院内になった護摩堂本尊を、それまでの根津入道作から、伝智証大師作の不動明王に交換したことが記されています。
不動明王3
           不動明王(金刀比羅宮)
それが現在の宝物館の不動像になります。これは木彫作品ですが、護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されるなど、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。この木造不動さまと、「血不動」のどちらが先にやってきたかは分かりませんが、前後した時代であったはずです。
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代

元禄時代の金毘羅大権現境内図 護摩堂は金光院の中にあった
最後に「不動種子 伝覚鍔筆」を見ていくことにします。

24 不動種子 伝覚鍔筆 絹本著色金泥 室町時代
          「不動種子 伝覚鍔筆」(金刀比羅宮)

画面の中央に金泥で不動明王の種子である「カーンマン」が金泥で大きく書かれています。
右側には不動の二側面の化現である衿蜈羅(こんがら)、制多迦(せいたか)二童子が描かれます。
①慈悲を示す小心随順とされる白身の衿務羅は種子に向かって手を合わせ、
②方便としての悪性を示す赤身の制多迦は剣を握り体を背けつつも視線を種子に送る。
向かって左側には、不動明王の象徴とされる倶利伽羅龍(くりからりゅう)のまとわりついた宝剣が描かれます。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on X: "来年2024年の干支は辰。それにちなんで葛飾北斎が描いた龍 の絵をご紹介。不動明王が手にする倶利伽羅剣(くりからけん)にぐるりと巻き付いている龍が、剣先を呑み込もうとしています。倶利伽羅不動と呼ばれます。北斎  ...
           倶利伽羅龍北斎漫画』十三編より

童子の上方には、金泥によって「不動尊」の三字が記されています。このように、画面内には種子、漢字、画像が入り混じり複雑な表現世界を形作っています。
どうして、不動明王を絵画でなくて種子で表現するのでしょうか。
それに対して研究者は次のように答えます。
「漢字によって示される意味の世界が記憶する現実界との連続性や、視覚像の直接的な具体性を超えた種子の観念的絶対性も印象付けられる。変転する色相の世界を超越した尊格生起の根本原因としての種子の意義が巧みに表現されている」

作者については覚鑁(かくばん)の伝承筆者名がありますが、実際の製作年代は室町時代と研究者は判断します。

  金毘羅神は、近世はじめに天狗信仰を持った修験者たちによって生み出された流行神でした。
それが急速に教勢を伸ばします。いくつもできた子院の中で頭角を現すのが金光院です。金光院は神仏混交の金毘羅大権現の別当の坐に就き、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの藩主の特別な保護を受けてお山の大将になっていきます。この間に、他の宗教勢力と権力闘争を繰り返してきたことが史料からもうかがえます。初代金光院主とされる宥盛は、優れた修験者であり、有能な弟子を数多く育てています。同時に彼は、高野山で学んだ高僧でもあり「弘法大師信仰 + 真言密教修験者 + 高野念仏聖」などの性格を併せ持っていたことは以前にお話ししました。ここで押さえたおきたいのは、神仏混淆下の金毘羅大権現の支配権は真言宗を宗旨とする金光院が握っていたことです。そのため数多くの仏像や仏画が金光院に集まってきました。そのうちの仏像については明治の神仏分離の際に、オークションに掛けられ、残ったものは焼却されました。しかし、仏画に関しては、秘匿性が高かったので優良なものは密に残したようです。そのため優れた仏画がいくつも残っているようです。その中で研究者が高く評価するのが「釈迦三尊十六羅漢像」です。優れたものであるにもかかわらず、これまでその存在を世に知られていなかった作品だは評します。
今回はこの伝明兆筆とされる「釈迦三尊十六羅漢像」を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。この仏画は、次のように3幅対の構成です
中幅  釈迦、文殊、普賢を描いた釈迦三尊像
左右幅 羅漢を八尊ずつを描いた羅漢図(右と左が同じ画像になっています)
仏教全体の祖師である釈迦の像や、釈迦の弟子である羅漢の図が描かれ始めるのは平安末期になってからです。その背景には
①仏教の原点回帰運動の風潮に乗って釈迦信仰が高まってきたこと
②日宋貿易による多くの仏画伝来
そんな中で、中世になると釈迦三尊像が盛んに描かれるようになります。金刀比羅宮の釈迦像と羅漢図も中世に流行したスタイルを踏襲しています。三幅対にまとめる手法も中国元代の作や、日本の鎌倉・南北朝時代の作に見られます。しかし、これらの作品は、脇幅が十八羅漢図であるのに対して、金刀比羅宮のものは十六羅漢図です。十八羅漢図の中から、各幅一尊ずつを消去し、各幅八、計十六になっています。 
それでは、金刀比羅宮本のどのような点を研究者は評価するのでしょうか? 
まず、羅漢図の評価を見ておきましょう。
27 釈迦三尊 
   釈迦三尊十六羅漢像 左幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
①十六羅図に変更していることは、先例を逸脱した新しい展開であり、やや時代の進展を予想させると。
②十六羅漢図の人物に見られるやや白みがかった肌色に、朱隈を添える色感は、金処士の「羅漢図」(メトロポリタン美術館)や睦信忠の「涅槃図」(奈良国立博物館)に登場する人物の色感に類似し、南宋本の仏画の感覚を忠実に踏襲しているように思われること。
③衣では、具色を用いた中間色は少なく、和様化の傾向が窺われること。
④火の線描は切れのある筆遣いでよどみなく変転する衣惜を描き出し、この画家が優れた技量の持ち主であったことを窺わせる
⑤肉身は、衣文より細めの線を用いるせいか、時にお手本を引き写したような弱々しさを見せることもあるが、全体的には切れ込むように引き締まった線の中に、緊張感ある肥痩を見せ、宋元人物画の品格を的確に継承している。
⑥水墨による自然景の描写は、たどたどしく、特に松樹の表現は神経質な細線を用いていて、原本となった宋元画の重厚感は描写し得ていない。
⑦このことは、この画家が、水彩画生画よりも著色の仏画を得意とした絵仏師系の人物であることを想像させよう。
⑧全体の構成は、宋元の先例などに比べ緊密感に著しく欠け、画家の主体的な構成意識よりも、各部分をパーツとして写し取ることの方に意識が奪われているを感じさせる。
以上からは、宋や元の仏画をお手本に、緊張しながら写し取っていく絵師の姿がうかがえます。絵画は、模写から始まるとされていたので当然なことかもしれません。
次に中央の釈迦三尊像を研究者は評します。

27 釈迦三尊十六羅漢
 釈迦三尊十六羅漢像 中幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
頭光に火炎の縁取りがないことや、象の足元の蓮盤の数が少ないことを除けば、一蓮寺本の中幅に最も近い。しかし蓮寺本の幽暗な色彩感に比べ、金刀比羅宮本は明快で暖かみのある色彩であり、金彩による装飾も日立っていて、和様化の進展を感じさせる。釈迦の相貌も。一蓮寺本の鈍い目をした厳しいものから、より和らいだものに変化している。この点は、宋元仏画の色感に比較的忠実な十六羅漢図との時代観の相違を感じさせる。これは、この三幅対が異種配合によって出来た可能性をも想像させるが、詳細に観察するとそうした色感の相違は肉身部に限られ、衣の彩色は両者に共通すると言えよう‐
中幅の各尊像の衣文線は、宋元画に比べれば緩さを感じさせる。
軽い打ち込みとともにナイフで布を明りつけたような鋭さを感じさせるものであり、形態の描写にも崩れはなく、ここでも高い技量を認めてよい。釈迦の台座や、菩薩の衣服、獅子や象に施された装飾品などの細々とした細部の描写も破綻しておらず、手本を模写したとはいえそれなりに優れた画家であったと想像できる。獅子や象の文高く伸び上がった姿にもさわやかさがある」
一蓮寺の釈迦三尊十六羅漢像(真ん中)
釈迦三尊十六羅漢像 中幅(一蓮寺)
 確かに、金刀比羅宮本とよく似ています。ここからは両者には、共通する「手本」があったことがうかがえます。
社伝では明兆筆と伝えられるようですが、どうなのでしょう?
 
明兆
 明兆は淡路島に生まれ、淡路の安国寺で臨済宗の高僧だった大道一以 (1292~1370)に禅を学んだと伝えられます。『本朝画史』には、絵ばかり描いて禅の修行を怠ったので師から破門された記します。そのため明兆は自らを「師に捨てられた破れ 草鞋わらじ 」にたとえて「 破草鞋はそうあい 」と号しています。しかし、大道に従って東福寺に入り、寺では高位に就くことも期待されたとされますから、禅の修行を怠って破門されたのではありません。ただ、明兆が出世を拒否し、寺の管理や仏事の道具を整える「 殿司(でんす) 」にとどまり、「 兆殿司 」と呼ばれていたのは事実のようです。殿司職は今の会社でいえば庶務係で、地位や名誉より絵を描き続けることを選択し、「寺院専属の画家」になろうとしたのかもしれません。多くの伽藍を持ち、大きな絵を飾る広々とした空間があった東福寺は、明兆にとって最高の勤務先だったとしておきます。そこで彼は、伝来した宋元の仏画を手本にし、仏事で用いる儀式用の仏画を描き続けます。その代表作が、大徳寺の宋画五百羅洪図を模写した「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)です。

明兆 五百羅漢図2
         明兆「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)
この大作のおかげで後世には「羅漢図といえば明兆」とされるようになります。その意味で、金刀比羅宮本の作者としても相応しい人物です。しかし、研究者は「本図に明兆その人の個性の明確な痕跡を見出すことは難しい。」と指摘します。具体的には、明兆筆「五百羅洪図」のは色面がかなリフラットになっていることと比較して、金刀比羅宮本の羅漢が「より隈取りが強く、羅洪図に関する限り、明兆と共通する感覚は見られない。」と評します。
27  釈迦三尊十六羅漢像 伝明兆筆 右幅
釈迦三尊十六羅漢像 右幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)

 そして、金比羅宮本の製作年代については次のように記します。
①鎌倉時代後半の初期の「釈迦三尊十八羅漢図」に比べると、和様化が進展し、両脇幅では十六羅漢に図像が変化していること
②構図の緊密感にやや欠けること
③中幅における金彩の目立つ明快な色彩感覚などを見られること
以上を勘案すると、明兆と同時代(14世紀後半~15世紀前半)の絵仏師の作と想定します。

 金刀比羅宮には、もうひとつ明兆作と伝わる「楊柳観音像(瀧見観音)室町時代」があります。
28 瀧見観音
「楊柳観音像(瀧見観音) 伝明兆筆 室町時代」
懸崖の下、海中に突き出た岩座に、正面向きに生す白衣観音の姿です。このモチーフは、明兆やその弟子たち、狩野派の画家たちにも受け継がれ、白衣観音として広く流布するようになります。中でも、背景を水墨で描き、観音を著色で描くスタイルは、下図の東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」を代表作として、明兆派による作例が多く残されています。金刀比羅宮本にも、明兆筆の伝承筆者名があります。

明兆 白衣観音
            東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」

東福寺の白衣観音と比べて見ると、大枠としては明兆系の匂いを感じる作品と云えそうです。
しかし、研究者は次のように評します。
①観音像は、明兆画のような抑制を利かせたメリタリーのあるものではなく、のっペーとして流派的特色をあまり見せない保守的なものとなっている
②山水景の表現は、断崖から垂れる草木の筆致は鈍いものの、岩座の鼓法は比較的力強く立体感を描き出し、海波も動感あるものとなっている
③どちらかと言えば水墨技の方に技量があり、著色の仏画はお手本をなぞったような凡庸さを感じさせる。
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」

ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」に比べると、金刀比羅宮本は、明兆につながる室町時代的な雰囲気を感じます。
しかし、明兆やその弟子の赤脚子、霊彩らほどの精彩は放っておらず、製作年代がもう少し降ると研究者は判断します。そして、金刀比羅宮本を描いた絵師については、「狩野派の新様が有力になる直前頃か、もしくはそれ以降であっても狩野派とは接触を持たなかった室町後期の保守的な作家による作品」とします。
 金刀比羅宮に残る「伝明兆筆」とされる作品は、明兆のものではありませんが評価すべきもののようです。また、「伝明兆」とされる作品が多いのも、それだけ明兆の作品が後世からも評価されていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」

33 なよ竹物語 (トップ)絵は3・5
なよ竹物語(詞1 絵3 絵5)
「なよ竹物語」は、物語中で女主人公が読む和歌の文句を取って「くれ竹物語」とも呼ばれます。また後世には「鳴門中将物語」とも呼ばれるようになります。そのあらすじは

鎌倉後期、後嵯峨院の時代、ある年の春二月、花徳門の御壷で行われた蹴鞠を見物に来ていたある少将の妻が、後嵯峨院に見初められる。苦悩の末、妻は院の寵を受け容れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け容れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらす

しかし、「なよ竹物語」では、主人公の少将が、嗚門の中将とあだ名され、妻のおかげで出世できたと椰楡される落ちがついています。「鳴門」は良き若布(わかめ)の産地であり、良き若妻(わかめ)のおかげで好運を得た中将に風刺が加えられています。戦前の軍国主義の時代には、内容的にもあまり良くないと冷遇されていた気配がします。
 この物語は人気を得て広く流布したようです。建長6年(1254)成立の「古今著問集』に挿人されたり、鎌倉時代末から南北朝期の「乳母草子」や二条良基の『おもひのまヽの日記」にその名が見えます。こうして見ると物語としては13世紀に成立していたことになります。絵巻は、現状では九段分の画面に分けています。今回は金刀比羅宮にある「重文・なよ竹物語」を見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。
 金刀比羅宮のなよ竹物語については形式化を指摘する声が強いようです。これに対して研究者は次のように反論します。
33 なよ竹物語  絵1蹴鞠g
        なよ竹物語 第1段(冒頭の蹴鞠場面) 金刀比羅宮蔵

33なよ竹物語 蹴鞠2
 確かに、冒頭、自然景の中での蹴鞠の場面では、堂々たる樹木の表現に比べて、人物たちは小振りでプロポーションも悪く、直線的な衣の線は折り紙を折って貼り付けたような固さと平面性をかもし出している。
 しかしこれが、第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面や、第五段の最勝講の場、第七段の泉殿と思しき殿合で小宰相局が院に手紙の内容を説明する場面など、建築物の内部を舞台とする場面では、定規を用いた屋台引きの直線が作り出す空間の中で、直線を強調した強装束をまとった人物たちは、極めて自然な存在感をかもし出す。全体に本絵巻の作者は、建築物を始め、車輌や率内調度品などの器物の描写に優れ、やや太目の濃墨線で、目に鮮やかにくっきりとそれらの「もの」達の実在感を描き出す。
衣服の紋様表現や襖の装飾なども、神経質な細かさを見せており、直線的な強装束をまとった人物表現や、少々厚手で濃厚な色彩感などと相候って、全体としてグラフィカルな感覚を前面に強く押し出した画風を創出している。


33なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面

      なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間の饗宴場面(金刀比羅宮蔵)

33 なよ竹物語  五段の最勝講の場 
          なよ竹物語 第五段の最勝講の場
33なよ竹物語9
           なよ竹物語 第九段
一方で自然景のみを独立して見た場合、冒頭の蹴鞠の場の樹木表現や、第八段の遣水の表現など、この画家が自然の景物の描写についても決して劣っていなかったことが容易に分かる。院と少将の妻が語らう夜の庭に蛍を飛ばすなど、明けやすい夏の夜の風情を情感景かに盛り上げる叙情的なセンスも宿している。そのことはまた、両家が物語世界を深く理解していたことも示していよう。
33なよ竹物語8
          なよ竹物語 第八段
このように評した上で金刀比羅宮の「なよ竹物語」と「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)を比較して次のように指摘します。
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡  鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵
①人物のプロポーションや、殿上人の衣の縁を太目の色線でくくる表現などが「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)と共通
②第八段の男女の夜の語らいの姿を殿合の中央に開いた戸の奥に見せる手法は「狭衣物語絵」第五段の狭衣中将が女と契りを結ぶ場面と似ている
③「狭衣物語絵」の人物の顔貌が引目鉤鼻の形式性をよく残すのに対して、金刀比羅宮の絵巻の顔はより実人性を強く見せること
④「狭衣物語絵」の霞のくくりがより明確な線を用いていること
⑤ゆったりとした人物配置や空間のバランス感覚は、両者に共通
以上から両者が14世紀前半の近い時代に制作されたものと研究者は判断します。そうすると、なよ竹物語の成立は13世紀前半ですが、金刀比羅宮のものは、それより1世紀後に描かれた者と云うことになります。
さてこの絵巻は、どんな形で金刀比羅宮にやってきたのでしょうか? 
金刀比羅宮の「宝物台帳」は、この絵巻の伝来事情を次のように記します。
「後深草天皇勅納 讃岐阿野郡白峯崇徳天皇旧御廟所准勅封ノ御品ニテ 明治十一年四月十三日愛媛県ヨリ引渡サル」

意訳変換しておくと
「後深草天皇が讃岐阿野郡の白峯崇徳天皇の旧御廟所(頓證寺)に奉納した御品で、明治11年4月13日に愛媛県より(本社に)引渡された。」

ここからはこの絵巻が、白峰寺の崇徳天皇廟頓證寺に准勅封の宝物として大切に伝えられたもが、愛媛県から引き渡されたことが分かります。
それでは、白峰寺から金刀比羅宮に引き渡されたのはどうしてなのでしょうか?
明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。

金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「抜け殻」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮は摂社化して管理下に置こうとします。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。
机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。「金毘羅庶民信仰資料 年表篇」には、これを次のように記します。
阿野郡松山旧頓詮寺堂宇を当宮境外摂社として白峰神社創颯、崇徳天皇を奉祀じ御相殿に待賢門院・大山祇命を本祀する」

この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。

金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として
②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が金刀比羅宮の現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること
こうして、明治になって住職がいなくなった白峰寺は廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。頓證寺にあった宝物は、金刀比羅宮の管理下に移されます。この時に、なよ竹物語などの絵画も、金刀比羅に持ちされられたようです。これに対して白峯寺の復興と財物の返還運動を続けたのが地元の住人達です。

頓證寺返還運動

高屋村・青海村を中心とする地域住民による「頓証寺殿復興運動」が本格化するのは、1896年8月ことです。その後の動きを年表化しておきます
1896年8月 「当白峯寺境内内二有之元頓証寺以テ当寺工御返附下サレ度二付願」を香川県知事に提出。この嘆願書の原案文書が青海村の大庄屋を務めた渡辺家に残っている。
1897年 松山村村長渡辺三吾と代表20名の連署で「頓證寺興復之義二付請願」を香川県知事に提出
1898年9月27日 香川県知事が頓証寺殿復旧について訓令。頓証寺殿は白峯寺に復するとして、地所、建物、什宝等が返還。
1899年2月 宝物返還を記念して一般公開などの行事開催。しかし、この時にすべての什宝が返還されたわけではなかったようです。
1906年6月27日に 白峯寺住職林圭潤や松山村の信徒総代等が「寺属什宝復旧返附願」を香川県知事小野田元煕に提出
これは3年後の1909年の「崇徳天皇七五〇年忌大法会」に向けての「完全返還」を求めての具体的な行動で、未だ返還されていない什宝返還を願い出たものだったようです。
 当初、1878年に白峯寺から金刀比羅官に移された宝物総数は54件、延点数173点でした。
それが1898年に返還されたのは、24件、延点数67点にしか過ぎません。返還されたのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、半分以上のものが返還されないままだったのです。その代表が「なよ竹物語」です。そこで改めて「崇徳天皇七五〇年忌大法会」を期に「完全返還」を求めたのです。しかし、この願いは金刀比羅宮には聞き届けられません。その後も何度か返還の動きがあったようですが返還にはつながりません。
 戦後の返還運動は「崇徳天皇八百年御式年祭(1964年)」後の翌年のことです。
この際は、松山青年団が中心となって1965年9月7日付けで、金刀比羅陵光重宛に「白峯山上崇徳天皇御霊前の宝物返還についてお願い」を提出しています。 これ対し金刀比羅宮は、1898(明治31)年に頓証寺堂宇を白峯寺に引き渡した際に、所属の宝物と仏堂仏式に属する什宅については同時に引き渡したと言う内容の回答を行っています。両者の言い分は次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。こうして、百年以上経ったいまも金刀比羅宮蔵となってます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」
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25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。かつてのこの画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めたことが書かれていたようです。ここからは、もともとは奈良の春日社に伝わっていたものであることが分かります。この弁財天については、以前にその由来を次のようにまとめました。

金毘羅大権現の弁才天信仰

今回はこの絵図についてもう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)」322Pです。
 弁才天の起源はインドの河の神サラスバティーで、土地に豊穣をもたらす女神でした。
後に弁才の神ヴァーチと習合し、弁舌・学問・知識・音楽の女神として信仰されるようになります。日本には奈良時代にやってきて、「金光明最勝王経」を拠り所の経典として像が造られ、礼拝されますが、当時はマイナーな仏だったようです。
それが中世になると変化してきます。「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経(以下:陀羅尼経)」などの弁天五部経が成立すると、弁才天は財福神として広く信仰されるようになり、像も盛んに行われるようになります。そして「弁才天」から「弁財天」へとネーミング変更して、七福神のメンバー入りも果たします。
もともとの弁財天の姿は、次の2つの姿がありました。
A「金光明最勝玉経」 武具を手に取る戦闘神風の姿
B「現図胎蔵受茶霧」 琵琶を抱えた音楽神としての姿
しかし、中世に成立した「陀羅尼経」では、その姿を次のように記します。
①8本の手で、その内2つの手には武具ではなく、財福の象徴である宝珠と鍵を持つこと
②穀物の神である宇賀神を頭上に白蛇の姿で載せること
③宇賀神は老人の顔で、体は蛇体
④眷属として十五童子を伴うこと
この記述通りに、弁財天の周囲には十五童子が集まっていて、頭上には老人顔蛇身の字賀神を載せています。


弁才天2
           頭上に「老顔白蛇」の宇賀神を載せる弁財天

経典の規定と違うのは、手が8本でなく6本なことです。持物は、左手には宝珠、弓、鉾を、右手には鍵、矢、剣を執っています。二本の手が減っているので左手側の輪と、右手側の棒が描かれていません。その代わりに財福を象徴する宝珠と鍵を体の中心に置いて目立たせて、財福神としての存在をアピールしているかのようです。水中の岩に座を設け、そこに豊かな体をゆったりと立たせる姿も如何にも福徳神らしい姿だと研究者は評します。

25弁財天
           弁才天十五童子像(拡大:金刀比羅宮)

 一方、十五童子像の中で、向かって左側に並ぶ童子の中には、笛、笙、竿、琵琶を持っているものがいます。これが弁才天の首楽神としての性格も表わしているようです。

弁才天に宝樹の盛られた鉢を棒げる異国使節団
  宝樹の盛られた鉢を奉納する龍王?(弁才天十五童子像:金刀比羅宮)
 画面下の水中からは異国の姿をした礼拝者が宝樹の盛られた鉢を棒げて弁才天を供養しています。これが龍王とすれば、弁才天の水神、河神としての性格も表現されていることになります。以上からは、弁才天の複合的な性格がよく表されていると研究者は評します。
 研究者が注目するのは、画面上方に円内の五尊が描かれていることです。

弁才天十五童子像の五尊

   向かって右から釈迦、薬師、地蔵、十一面観音、文殊の春日本地仏です。

春日本地仏曼荼羅 
            春日本地仏曼荼羅

これは春日本地仏曼荼羅に描かれる仏達と、顔ぶれが一致します。画面上部の大きな円相には、春日の神々の本来の姿である本地仏が描かれます。その下には、奈良の春日山、御蓋山(みかさやま)、若草山や春日野の風景が描かれます。
 最初に見たように、この絵が入っていた以前の箱書には「春日御祓講本尊」とあったようです。これは本地垂述思想に基づく春日曼荼羅の一種で、春日信仰との関連でとらえられるべきだと研究者は考えています。それはおそらく弁才天が寺院の枠をはみ出し、むしろ宇賀神との習合なども含めて神社での信仰が盛んになり、弁才天社が数多く作られてゆくような状況と関連していたのでしょう。
 
金刀比羅宮の
弁才天十五童子像の制作年代をを押さえておきます。
①絵の中に、河神や音楽神などが描き込まれて古いタイプの「弁才人」の特性も表現されていること
②そこから財福神に特化する前の比較的早い時期のものと推測できること
弁天五部経の成立や弁天信仰の隆盛は室町時代であること。
④以上から、
室町初期頃のもの
「室町時代初期頃に成立し、中世的な弁天信仰に基づく初期形態を示す画像として貴重」と研究者は評します。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現をいつも求めていました。
そのために寺社は繁栄を維持するためには境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅神だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。庶民の信仰欲求に応える対応が常に迫られていたのです。
 金毘羅大権現の別当金光院では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。
毘沙門天は『法華経』
弁才天は「金光明経』
大黒天は『仁王経』
の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったようです。足らないのは、弁財天です。
こうした中で弁才天画像を春日神社から手に入れたのは金光院院主の宥天(在職期間1824~32年)でした。
宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったと研究者は推測します。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて開帳されます。そこに祀られたのが三天講の本尊の一つで春日社から購入した宇賀弁才天画だったというストーリーになります。ここで押さえておきたいのは、仏像や仏画などは、財力のある有力な寺院に集まってくると云うことです。そこに室町時代作の仏像や仏画があっても、その寺の創立がそこまで遡るとは限らないのです。金毘羅大権現には、多くの仏像や仏画が近世に集められたようです。

象頭山と門前町
       金丸座のあたりが金山寺町(讃岐国名勝図会 1854年)

文化十年(1813)には、芝居小屋や茶店が建ち並ぶ金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。

さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天を福徳の仏して、熱心に拝むようになります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」322P
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                金刀比羅宮の名宝(絵画)
金刀比羅宮の名宝(絵画)を見ていて、気になった六字名号があったので紹介しておきます。

阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(金刀比羅宮蔵)  

「南無阿弥陀仏」の六字は、六字名号といわれ、これを唱えると極楽往生ができるとして、浄土教系諸宗派では大切にされてきました。ここでは六字名号が仏のように蓮台に載っています。名号が本尊であることを示しています。六字名号を重視する浄土真宗では、これを「名号本尊」と呼びます。浄土真宗では、宗祖親鸞は六字名号、八字名号、十字名号などを書いていますが、その中でも特に十字名号を重視していたことは以前にお話ししました。その後、室町時代になって真宗教団を大きく発展させた蓮如は、十字名号よりも六字名号を重視するようになります。この名号も、そのような蓮如以後の流れの延長上にあるものと研究者は考えています。
 親鸞はどうして、阿弥陀仏を本尊として祀ることを止めさせたのでしょうか。
それは「従来の浄土教が説く「観仏」「見仏」を仮象として退け、抽象化された文字を使用することで、如来の色相を完全に否定するため」に、目に見える仏でなく名号を用いるようになったとされます。ある意味では「偶像崇拝禁止」的なものだったと私は思っています。ところが、この六字名号は少し変わっています。
阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 (蓮華部と「佛」部の拡大)

よく見ると筆画の中に、仏や礼拝者の姿が描かれています。さらによく見ると、南無阿弥陀仏の小さな文字をつないで蓮台は表現されています。抽象的な「南無阿弥陀仏」の文字には、仏の絵を当てはめ、具象的な蓮台は抽象的文字で表すという手法です。浄土真宗教団には「偶像崇拝禁止」的な「教義の純粋性」を追求するという動きが当時はあったはずです。その方向とはちがうベクトルが働いているように思えます。これをどう考えればいいのでしょうか。もうひとつの疑問は、この制作者が「伝空海筆」と伝わっていることです。空海と南無阿弥陀仏は、ミスマッチのように思えるのですが・・・これをどう考えればいいのでしょうか。
 金刀比羅宮のもうひとつの六字名号を見ておきましょう。
阿弥陀六字名号(蓮華形名号)金刀比羅宮
          23 阿弥陀名号(蓮華形名号)伝高弁筆 江戸時代  321P
こちらも蓮の花の蓮台に南無阿弥陀仏が載っている浄土真宗の名号本尊の形式です。よく見ると南無阿弥陀仏の各文字の筆画は蓮弁によって表現されています。中でも「無」は、蓮の花そのものをイメージさせるものです。
伝承筆者は高弁とされています。
高弁は、明恵上人の名でよく知られている鎌倉時代の僧です。彼は京都栂尾の高山寺を拠点にしながら華厳宗を復興し、貴族層からも広く信仰を集めます。但し、高弁の立場は「旧仏教の改革派」で、戒律の遵守や修行を重視して、他力を説く専修念仏を激しく非難しています。特に法然の死後に出された『選択本願念仏集』に対しては「催邪輸」と「推邪輪荘厳記』を著して激しく批判を加えています。また、高弁は阿弥陀よりも釈迦や弥勒に対する信仰が中心であったようです。そんな彼の名が六字名号の筆者名に付けられているのが不可解と研究者は評します。庶民信仰の雑食性の中で、著名な高僧の一人として明恵房高弁の名が引き出されてきたもので、実制作年代は江戸時代と研究者は考えています。
 
 「空海と南無阿弥陀仏=浄土信仰は、ミスマッチ」と、先ほどは云いましたが、歴史的に見るとそうではない時期があったようです。それを見ておきましょう。
   白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。
白峯寺 六字名号
この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。このように「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっています。
 天福寺(高松市)の版木船板名号を見ておきましょう。

六字名号 天福寺

天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられます。同様のものが高野山不動院にもあるようです。
また天福寺にはこれとは別の六字名号の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。ここでは、空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあることを押さえておきます。浄土真宗のお寺にはないのです。
 空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』は、次のように記します。

日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、

意訳変換しておくと

弘法大師は唐に渡るのを待つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、中国に渡る前の空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。
   どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。そして、近世になって天狗信仰を持つ修験者によって開かれた金毘羅大権現も同じです。

六字名号 空海筆
空海のサインが記された六字名号

金毘羅大権現に空海筆とされる六字名号が残っているのは、当時の象頭山におおくの高野山系の念仏聖がいたことの痕跡としておきます。
同時に、当時の寺院はいろいろな宗派が併存していたようです。それを髙松の仏生山法然寺で見ておきましょう。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』には次のように記されています。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。こういう中で、金毘羅大権現の別当金光院にも空海伝とされる六字名号が伝わるようになった。それを用いて念仏聖達は、布教活動を行っていたとしておきます。
以上をまとめておきます。

空海の六字名号と高野念仏聖

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P
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金刀比羅宮には、象頭山の美しい景観を十二の景勝に分けて描いた「象頭山十二景図」があります。
この制作過程については、以前に次のようにお話ししました。

象頭山十二景の作成手順

④の髙松藩の狩野常真(じょしん)に描かせたのが下の「象頭山十二境図巻」2巻です。
HPTIMAGE

              「象頭山十二境図巻」の雲林洪鐘
これを江戸に送って、江戸の奥絵師が描いたのが次の絵です。
雲林洪鐘 鐘楼・多宝塔
                象頭山十二景図の雲林洪鐘 狩野安信

つまり、江戸の狩野安信と時信の父子は、送られてきた絵図と漢詩を手がかりに、この絵を描いたことになります。金毘羅には出向いていないようです。
まず図巻について、研究者は次のように評します。
全体的に濃彩で、目に鮮やかな松樹・竹林・山肌の緑に、時折描かれる梅花の赤や桜花の白がアクセントを加えている。松樹の葉などは部分に応じて顔料の明度を変じ、筆を綱かく使って細部に至るまで丁寧に描き込まれている。
 掛幅については
  一方の掛幅は色彩が淡く、筆を面的に用いたグラデーションの強弱でもって各モチーフを色付かせている。本々などのモチーフの描写は図巻と比べて簡略化されており、画面の抽象度が高くなっていると言えよう

今回は、狩野安信と時信の 「象頭山十二景」に何が書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334Pです。
金光院院主の有栄が選んだ十二題は次の通りです。
⑦左右桜陣  ⑥後前竹国  ⑪群嶺松雪  ③幽軒梅月
⑫箸洗清漣  ②橋廊複道  ⑧前池躍魚  ⑨雲林洪鐘
⑤五百長市  ⑩裏谷遊鹿  ④石淵新浴  ①万農曲流
その位置を番号で地図上で示すと以下の通りです
象頭山12景 番号入り
象頭山十二景図のデータ

「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通りです。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、賛は林蒼峰の、画は狩野安信
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、賛は林鳳岡の、画は狩野時信
制作者のプロフィールを見ておきます。
漢詩作者の林育峰(1618~68)は林羅山の第二子で春斎と号し、幕府に仕え、寛文3年(1663)に弘文院学七の称号を賜り、父に次いで二代目大学頭に就任しています。林鳳岡(1644~1732)は、その育峰の次男で名を信篤(のぶあつ)といい、整宇とも号します。貞享4年(1687)に弘文院学士となり、のち三代目大学頭となっています。「讃州象頭山十二境」詩巻では、先の十二題のうち前半の六首を林鵞峰(林学士)が、後半の六首を林鳳岡(林整宇)が作っています。
 掛幅を描いた狩野安信(1612~85)は探幽・尚信の弟で、狩野宗家貞信の養子となって狩野家の家督を継いた人物です。中橋狩野家の祖となり、寛文11年(1662)に法眼に叙せられます。掛幅のもう一人の筆者・時信(1642~78)は安信の長男で、父に画を学びます。図巻の筆者である結野常真は安信の門人で、本姓を日比氏、名を宗信といい、法橋に叙せられた三尚松藩初代御用絵師を務め、元禄十年(1697)に没しています。
それでは一枚一枚を見ていきましょう

39 象頭山十二景 左右桜陣(桜の馬場)
             象頭山十二景図「左右桜陣」図

[解説]
大門を入って約二町(約220mの間は、参道の左右に数十株の桜が植わり、桜馬場と称される。そこを指して「左右桜陣」と言う。春には桜が咲き誇ることから、花の名所とされる。画面には大門に続く桜馬場の景観が描かれる。安信筆の掛幅画は、常真筆の図巻からモチーフを中央にとりまとめるようにして画面全体を構成する。掛幅ではまた、画面中央の遠山の背後にさらなる逮山の稜線を薄く引いており、画面の天地が狭いという形態上の制約を持った常真筆の図巻では表現し難かった空間の奥行き=三次元性を追究している。

大門から続く桜の馬場周辺を描いたこの絵から得られる情報を挙げておきます。
①桜の馬場には、石畳も石灯籠などの石造物が何もない。これらが設置されるのは19世紀なってから。
②桜の馬場の右側には、各院の建物が並んでいる。

39 前後竹囲
         象頭山十二景図「後前竹囲」図

象頭山の山裾から郊外にかけて竹林が多く群生する様を指して「後前竹囲」と言う。 本図は象頭山麓の郊外を描いたもの。画面に見える竹林は年々減少していき、現在では本図により往時の景趣が偲ばれるのみである。

39 浦谷遊鹿
         象頭山十二景図「前池躍魚」図
「解説]
魚が遊泳する池を中心に、通用門、中間、玄関、そして表書院と奥書院といった、両書院一帯の景観が描かれている。安信筆の掛幅は、常真の図巻がわずかに示した遠山ブロックを画面上方に拡大して配し、両中空間に奥行きを創出している

39 前池躍魚 十二景
          象頭山十二景図「裏谷遊鹿」図
[解説]
「裏谷」とは現在の裏参道の道中にある千種台(ちぐさのだい)地域を指す。ここはかつて草生地や山畑であり、鹿が多数いた。 しかし、その数は減少の一途を辿り、明治期になると遂に見られなくなったという。画面には紅葉鮮やかな山道に、群れ遊ぶ三頭の鹿と帰路の樵らしき人物が描かれ、牧歌的な画趣を示す。
39 群嶺松雪
         象頭山十二景図「群嶺松雪」図

「群嶺」とは、象頭山の山嘴である八景山、愛宕山、天神山、祖渓、琵琶渓、金山寺山などの諸嶺を指す。画面にはこの諸嶺の裾野に沿って松樹が配され、両者は降り積もる雪により白く色づいている。これが「松雪」。この雪は、図巻では顔料を振りまいて描くことて粒子状の表現となっている。掛幅では顔料を筆で掃いて描くことで面的な表現となっている。掛幅・図巻ともに山と松樹のスケール比がやや現実にそぐわないが、これは詩題のメインモチーフのひとつである松樹を強調する意図によるもの。

39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
      象頭山十二景図 「橋廊複道」図 (鞘橋) 
[解説]

象頭山の麓、市街を南北に貫流する潮川(宮川:金倉川)に架した鞘橋には屋根があり、これを指して「橋廊」と云い、また「複道」と言う。この鞘橋はもともと現在の一之橋の位置(髙松街道)にあったが、明治38年(1905)に御神事場に程遠くない現在地に移築された。また、画面に描かれた橋には橋柱が描かれ、橋梁に湾曲も見られないが、これは明治2年(1869)の改築以前の姿である、この時の改築により橋柱は取り除かれて橋は両岸からの組み出し構造となり、それゆえ湾曲も強くなった。図巻の方が描出の視点を遠くに設定して景観を放射状に広がるように描いているため、掛幅よりも広々とした視覚印象を覚える。図巻では、荷物を手に橋を往来する二人の人物が描かれている。しかし、掛幅の画面に見られる橋上の人物が何をしているのかは、一見した限りでは不明である。わずかに前傾姿勢をとっており、橋を渡って参道へと歩みを進めているようにも、水面を見つめているようにも見える これが賛の「風力推無運、始知不足舟」に対応するならば、彼は物思いに耽るうちに橋を舟になぞらえ、風の吹くままに身を任せている心地なのだろう。しかし、現実には風がいくら吹いても舟は進むことはなく、橋上の自分という現実に立ち戻るのである。
 
この絵図を見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に「大雨洪水、鞘橋流失」し、翌年に「材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る」とあります。ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更されたようです。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
        貞淳3年(1687)に再建された鞘橋 金毘羅大祭行列屏風図
この屏風図には、三連の屋根になっています。このように17世紀の金毘羅大権現の伽藍や境内の姿を描いた絵図はあまりありません。その中で「 象頭山十二景図」は、いろいろな情報を伝えてくれる絵画史料でもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334P
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金毘羅大祭行列図屏風右隻(複製品:香川県立ミュージアム) 

554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

これは元禄時代の金毘羅大権現の大祭の様子を描いた六曲一双の屏風で、宝物館の1Fに展示されています。複製品が髙松の県立ミュージアムにもあって、間近で直接見ることが出来ますし写真撮影もOKです。この屏風については以前に触れましたが、今回は別の視点で見ておこうとおもいます。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313Pです。
「金毘羅祭礼図屏風」について、作成者や作成時期については次のようにように云われています。
①元禄15年(1702)に金毘羅本社の屋根の葺き替えが完成したのを記念して、金光院住職の宥山が高松藩の御抱絵師狩野常慶を通じて表絵師の狩野清信に制作を依頼して出来上がったもの
②制作年代は「元禄屏風」と伝承されていることから、翌元禄2(1703)10月の大祭前までに作られたもの
③描作成者は狩野清信は、図屏風制作に当たって、先行する「象頭山十二景図」を参考モデルにしていること

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
        右隻 新町から金倉川にかかる鞘橋まで(金毘羅大祭行列図屏風) 

 毎年10月10日に行われる金毘羅大権現の例大祭の時、頭人らが社領地の木戸を通り、門前町を行列して山上に参向する様子と、門前町の賑わい振りを描かれています。当時の金毘羅の町並みや風俗などを知る上で貴重な資料です。
右隻には、高松・丸亀方面から来た頭人が鞘橋を渡り、小坂に達するまでの道筋、表町の商店や裏町の芝居興行などの有様
左隻には、大門から桜の馬場を経て、本社に達するまでの子院や諸堂社などの山内の様子
画面には神事の行列だけではなく、行き交う参詣者や軒を並べる商家の様子が細かく描きこまれていて、いろいろな情報が読み取れる「絵画史料」でもあります。
    
木戸前後
          金毘羅寺領 髙松街道入口の木戸(元禄金毘羅祭礼図屏風)
例えばの道筋には、次のようなうどん屋の看板を掲げた店が3軒描かれています。
1うどん

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
新町のうどん屋(元禄金毘羅祭礼図屏風)
これが讃岐でのうどん屋史料第一号です。これよりも早いうどんの史料はありません。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説であることは以前にお話ししました。

 それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
両隻には次のような落款と印があります。
狩野休円清信no

「清信筆」の落款があり、「岩佐」(白文長方印)、「清信」(朱文旧印)捺されています。そのため筆者は、狩野休円清信(1641~1717)とされてきました。清信について辞書で調べると次のように記されています。      
寛永18年に、幕府表絵師・御徒町家の狩野休伯長信の三男として生まれる。名は清信、通称内記。明暦元年に朝鮮通信使来朝の際、朝鮮王国へ贈る屏風を制作し、明暦3年には江戸城本丸御殿の再建に参加。幕府から拝領した木挽町屋敷に住み、南部家から5人扶持を支給された。それにより奥絵師から独立し麻布一本松狩野家を起こし、幕府表絵師のひとつとなった。元禄16年享年77歳で死去。狩野 休円の代表作として、『維摩・龍虎図』『金毘羅祭礼図』『鯉の滝登り(登竜門)図』『蘇東坡・龍図』
狩野博幸氏は、筆者について「狩野休圓清信説」を採って、次のように記します。
「風俗画ということからいえば、浮世絵師の鳥居清信が浮かぶが、画風から彼とは別筆と見るべきである。本図の筆者は狩野休圓清信と考えられる」

狩野 休円、『龍虎図』
                狩野 休円の代表作『龍虎図』
しかし、これに対して、土居次義氏は「狩野休円清信の作品とすると、「岩佐」(白文長方印)の存在は不審」として疑問を投げかけます。加えて研究者は「画風上も必ずしも狩野派風が強くはなく、むしろ素朴さが目立っている」と評し、次のような疑義を述べます。
①広く撒かれた金砂子や画中の人物の衣文に加えられた金泥線などは後補
②金砂子は元々のすやり霞にあわせて自然に見えるように撒かれている部分もあるが、図様との境目において、重なり方に不自然さある。
③人物の衣の金泥線の人り方は不規則かつ粗維で、墨で描いた本来の衣文線とは全く有機的に結びついておらず、明らかに後補
④これら後補の金彩を取り除いた全体の印象としては浮世絵風が混じっている
以上からは、筆者を「狩野休円清信」とすることについては「要検討」とします。ここでは、「狩野休円清信説」が一般的的だが異論として「浮世絵師の鳥居清信説」もあるとしておきます。

次に、この絵が描かれた時期を見ていくことにします。
制作時期は、通説は「元禄末年頃」とされてきました。それは、絵の中に書かれている次の3つの建造物との関係からです。
① 大門前に鼓楼がないこと。鼓楼は宝永7年(1710)の完成ですから、描かれていないと云うことは、鼓楼が姿を見せる前に描かれていたことになります。ここから下限が1710年とされます。

象頭山社頭并大祭行列図屏風  大門内側
右端の大門の下に鼓楼がない。
金毘羅大祭行列図屏風
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代
1704年の金毘羅大権現の伽藍配置 鼓楼が出来るのは1710年

② もうひとつの上限年代を示す建物は、本宮前の四段坂の途中の鳥居です。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
         金毘羅大祭行列図屏風 本社下の四段坂の鳥居
本宮前の急坂は「御前四段坂」と呼ばれています。松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」(1988年)には、元禄12年(1702)の記事として、次のようなことが載せられています。
6.10 本社屋根葺替。
7.20 宥山、権大僧都となる。
8.29 高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.  池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包木鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
この年の一番最後に、寒川郡志度村の金兵南が、四段坂に銅包木鳥居を建立寄付し、別当宥山が金兵衛に感謝の詩を贈ったという記事があります。そして、四段坂を見てみると朱の鳥居がみえます。            
ここからはこの屏風は、元禄15年(1702)以降に描かれたことになります。

③もうひとつの有力情報は、鞘橋です。
鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
               鞘橋(金毘羅大祭行列図屏風)

この屏風では、鞘橋の屋根の形が中央で切り分けられた三棟の形式となっています。
これと延宝頃(1673~81)に描かれた狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋と比べて見ましょう。
39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋
これを見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に次のような記事が見えます。
1686 貞享3 丙寅  7.26大雨洪水、鞘橋流失
10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4 丁卯 9.9大風にて神林の松損木多し。右材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更された可能性があると研究者は考えています。

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          鞘橋周辺の護岸は石垣積
「川筋の石垣も出来る」とあるので、川筋は石垣で固められています。以上から鞘橋の屋根形式の変化からは、屏風が書かれたのは鞘橋再建(1687年)より後のことになります。
 以上から、屏風の制作年代は、次のふたつの時期の間と云うことになります。
①下限は、大門下の鼓楼完成前の宝永7年(1710)
②上限は、鞘橋の屋根が三棟形式で再建された1687年以後
これは、従来云われてきた「元禄末年頃説」を追認することになります。この屏風は通説どおり、元禄末期の制作ということになります。

 最後に、このふすま絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
 それは当時の金光院の宥栄か、髙松藩主の松平頼重のどちらかではなかいと私は思っています。
 まず宥栄について考えると、歴代の金光院の住職は金毘羅プロモーションのために、中央の名のある学者や絵師に詩や絵図の制作を依頼していることは先ほど見たとおりです。
例えば、先ほど見た「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通り江戸の絵師です。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、狩野安信(父)
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、狩野時信(子)
象頭山十二景の作成手順

当時、この下図を書いたのは高松藩お抱え絵師の狩野常真宗信や、その子常慶でした。金光院の宥栄は、宗信を通じて、彼の師である江戸の狩野派宗家中橋家の当主狩野永真安信と子の右京時信に「象頭山十二景図」の「本図」制作を依頼したのは以前にお話ししました。
 宥山が金光院当主となったのはその後の元禄4年(1691)で、その時期には髙松藩初代松平頼重の保護によって、金毘羅境内の諸堂・諸院が新たな装いで生まれ変わった時期です。また『金光院日帳』を宝永五年(1708)から作りはじめるなど、金毘羅の権威高揚に努め、中興の英主と仰がれた人物です。こうして見ると「金毘羅祭礼図屏風」の制作を発注する人物として、宥山は第一候補になります。
 ちなみに狩野家の血筋や姻戚筋の御用絵師家は、相互に交流があり、「寄り合い描き」を行ったり、養子その他の縁組みなどがよく行われていたようです。各家系が互いに提携し合うために、頭取や触頭という肝煎役も設けられています。ここでは、金光院と高松藩との関係や狩野派絵師同士の交流関係があったことを押さえておきます。そうすると、次のような仲介依頼を通じて、制作依頼が行われたことが推測できます。
金光院宥山 → 高松藩の御抱絵師狩野常慶の仲介者 → その師匠筋に当たる狩野派宗家中橋家の当主で狩野永真安信の孫永叔主信 → 表絵師狩野休圓清信

 金光院と狩野家宗家中橋家との関係は、「象頭山十二景図」制作依頼の時にも見られました。また、狩野家宗家中橋家と狩野休圓清信との関係は、狩野永真安信と狩野休圓清信が、明暦元年(1655)と天和2年(1682)の朝鮮国王への贈呈屏風制作時に共同参画した時に始まると研究者は指摘します。『古画備考』には、例年正月五日に御書初めとして狩野探幽とともにお城に召される間柄であったことが記されています。
 しかし、このように見てくると高松藩主が制作依頼し、後に奉納寄進説したということも同時に考えられます。それは松平頼重が描かせたと言われる高松城城下屏風があるからです。

高松城下町1

この屏風図は松平家初代頼重(1622~95)の時代の高松城と城下町を描いた屏風とされます。この屏風を見ていると、松平頼重やその後の藩主が眺めていた屏風ではないかという想像が湧いてきます。
しかし、今のところそれを裏付ける確かな史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313P
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表書院 虎の間
              表書院 「七賢の間」から望む「虎の間」

虎の間は、東西五間・南北三間の30畳で表書院の中では一番大きな部屋でした。東側が鶴の間、西側で七賢の間に接しています。上の写真は、七賢の間から見たもので正面が西側の「水呑の虎」です。ここには、応挙によって描かれた個性のある虎たちがいます。今回は、この虎たちを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」299Pです。まず、虎たちの配置を押さえておきます。
虎の間配置

①東側の大襖(四面、2-A          水呑の虎)
②北側の襖(八面、2-B・2ーC)  八方睨みの虎 寝っ転がりの虎)
③西側の大襖(四面、2‐D)      白虎)
④南側の障子腰貼付(八面、2‐E、2‐F)
西北隅には高く険しい岩、東北隅に岩峰から流れ落ちる白い瀑布と松樹が配置され、西・北・東三面の自然的な繋がりを生み出しています。東側から見ていくことにします。

虎の間 水呑の虎
①東側の大襖(西側四面、2-A      水呑の虎)
虎の間 水呑の虎 円山応挙

後には流れ落ちる瀑布があり、そこから流れてくる水を二頭の虎が飲んでいます。「水呑の虎」とよばれています。しかし、私には左の虎は「猫バス」を思い出してしまいます。次に北側(B)に目を移します。

虎之間 円山応挙「遊虎図」

      ②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」(金刀比羅宮表書院 虎の間)
ここには、「八方睨みの虎」がいます。

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②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」
虎は、鋭い眼光で四方八方から押し寄せる厄災から家を守ってくれるので魔除けとされたり、「1日にして千里を行き千里を返す」という例えから開運上昇の霊獣ともされました。「八方睨みの虎」は、上下左右どこから見ても外敵を睨んでいるように描かれた虎の絵柄で、後世になると魔除けや家内安全の願いを込めて用いられるようになります。この虎がよほど怖ろしかったのか、描かれてから約80年後の1862年に、小僧がこの虎の右目を蝋燭で焼こうとして傷つけられて修復した記録が残っています。しかし、私の目から見ると、なんだか愛くるしい「猫さん」のように見えていまいます。

虎の間北側 寝っ転がりの虎 円山応挙
            ②虎の間・北側の襖(2ーC)
 八方睨みの虎のお隣さんが「丸くなって寝っ転がる虎(私の命名)」です。まだらヒョウのような文様で、目を閉じ眠っています。最後が西側です。

虎之間 円山応挙「遊虎図」2
金刀比羅宮表書院 虎の間の北と西
表書院虎の間西 円山応挙
虎の間 西側

西側には3頭の虎がいますが、その中で目を引くのが白虎(ホワイトタイガー)です。
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表書院虎の間の「白虎」(円山応挙)

しっぽを立てて、威嚇するような姿に見えます。しかし、前足の動きなどがぎこちない感じです。また
実際の虎の瞳は丸いのですが、ここにいる虎たちはネコのように瞳孔が細く描かれています。それも可愛らしい印象になっているようです。
 前回見た鶴の間の鶴たちと比べると「写実性」いう面では各段の開きがあるように思います。18世紀後半になると魚や鳥などをありのままに写実的に精密に描くという機運が画家の中には高まります。その中で鶴を描くのを得意とする画家集団の中で、応挙は成長しました。彼らはバードウオッチングをしっかりとやって、博物的な知識を持った上で鶴を書いています。しかし、その手法は虎には適用できません。なぜなら、虎がいなかったから・・。江戸時代は国内で実物のトラを観察することができず、ネコを参考に描き上げたことをここでは押さえておきます。
虎の画題は、龍とともに霊獣として古くから描かれてきました。
国宝の旅 - 龍虎図(重文) 伝・牧谿筆 @大徳寺 | Facebook
伝牧籍(南宋)の筆「龍虎図」(大徳寺)

しかし、日本に虎はいません。そこで画家達は、上図のような中国から伝わったこの絵をもとに、変形・アレンジを繰り返しながら虎図を描いてきました。その到達点が17世紀半ばに狩野探幽が南禅寺小方丈の虎の間に描いた「水呑の虎」のようです。

ぶらり京都-136 [南禅寺の虎・虎・虎] : 感性の時代屋 Vol.2
       狩野探幽の「水呑の虎」 (南禅寺小方丈虎の間)

応挙も画家として、人気のある虎の画題を避け通ることはできませんから、墨画によるものや彩色を施されたもの、軸、屏風に描かれたものなどいろいろなものを描いています。

円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
                   円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
円山応挙 幻の水呑の虎


「写生画」を目指した応挙にとって、見たこともない「虎」を、実物を見たように描くということは、至難のことだったはずです。
それに応挙は、どのように対応したのでしょうか? それがうかがえる絵図を見ておきましょう。

虎皮写生図(こひしゃせいず)
  応挙筆「虎皮写生図(こひしゃせいず)」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
    150㎝ × 178㎝(貼り切れない後脚と尾は裏側に貼ってある)             
この屏風は、応挙が毛皮を見て描いた写生図です。毛並みや模様を正確に写していることが分かります。虎皮は実物大に描き、貼りきれなかった後足と尾の部分は裏側に貼られているようです。各部の寸法を記した記録や、豹の毛皮の写生、そして復元イメージの小さな虎の絵も添えられています。しかし、先ほど見たように「虎の目は丸い」ということまでは毛皮からは分かりません。猫の観察から「細い眼」で描かれたようです。表書院の虎たちが、どこか猫のように可愛いのはこんな所に要因があったようです。

 しかし、応挙の晩年に描かれた虎たちには別の意図があったと研究者は次のように記します。

それまでの応挙の「水呑の虎」は「渓流に前足を踏み入れ、水を呑む虎の動作を柔軟に動的に表現」している。ところが「虎の間」の「水呑みの虎」は、墨画によるもので「虎の毛並みの表現に集中した静的で平面的な表現である。つまり両者の間には、着色で立体的に描かれた背景と、平面的に描かれた虎という対比的な表現法がとられている。平面的に描かれた虎は、背景の自然物の空間にはなじんでいない。ここでの虎は、自然の中を闊歩する動物としての虎ではなく、霊獣としての意味合いをもって立ち現れているのではないだろうか。 

つまり、表書院の虎たちは平面的で静的にあえて墨で描かれているというのです。その意図は、何なのでしょうか? それは、この部屋の持つ役割や機能と関係があるとします。
以前お話ししたように迎賓館的な表書院の各間の役割は、以下の通りです。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

表書院は、金光院と同格の者を迎える場で、大広間であり、小劇場の舞台としても使用されました。その機能を事前に知っていた応挙が、霊獣としての虎をあえて平面的に用いてたのではないかというのです。

虎の間の東側南端の落款には「天明七年(1787)」とありますので、応挙55歳の夏のものであることが分かります。
この時に、鶴の間の鶴たちも同時に金光院に収められたと研究者は考えています。この年の応挙は、南禅寺塔頭帰雲院、大乗寺山水の間、芭蕉の間も制作しています。生涯の中で、最も多く障壁画を制作した年になるようです。
  応挙は、これらの障壁画を現地の金刀比羅宮で制作したのではなく、大火後に家を失ってアトリエとして利用していた大雲院で制作したようです。完成した絵図は、弟子たちによって運ばれ、障壁画としてはめ込まれます。応挙が金毘羅を訪れた記録はありません。
 
 最後に、完成した虎の間が、実際にはどのように使われていたのかを見ておきましょう。
松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居。
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈。
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える、公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。それらをこの虎たちは見守り続けたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」


前回は18世紀末に、金刀比羅宮表書院のふすま絵リニューアルを円山応挙が担当することになったこと。担当者となった応挙は、それまでの各間の呼称に従って絵を描いたことを見ました。今回は、そのなかで玄関に一番近い鶴の間に、応挙がどんな絵を収めたのかを見ていくことにします。まずもう一度、表書院の間取りを確認しておきます。

表書院平面図2

玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。

表書院間取り3
             表書院の間取りと各部屋の障壁画

最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院鶴の間 1
表書院 鶴の間の配置図
1ーA 稚松双鶴図(ちしょうそうかくず)  東側の壁貼付で床の間三面
1ーB 稚松図(ちしょうず)        障子腰貼付二面  
1ーC  稚松丹頂図 西側の襖四面
1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面
1ーE 芦図(あしず) 南側の障子腰貼付四面
全て円山応挙の障壁画です。ここに描かれている鶴たちを見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)298P」です。

鶴之間 円山応挙「遊鶴図」西側
              鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)

鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。

1-C西側 松に丹頂
             1ーC  稚松丹頂図  西側の襖(金刀比羅宮表書院)

②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。

1-D北側 芦丹頂飛翔
④北側4面(1ーD)の大襖の2枚には、舞い降りてくる丹頂が描かれています。鶴の動きを追ってみると、後ろの鶴は飛翔体制ですが、前の鶴は脚を出していて着地体制に入っています。ここには時間的連続性が感じられます。そのまま私たちの方まで飛んできそうな感じです。大空を飛ぶ躍動感が伝わってきます。
鶴の間北側 芦辺の丹頂
       1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)

⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。

鶴の間東側1-A 稚松双鶴図
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。

1A丸山応挙 表書院鶴の間
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)

見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
①享保18年(1733)丹波国穴太村(京都府亀岡市)の農家出身
②延享 4年(1747)15歳頃、京都の呉服商に奉公し、
   後に玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積む。
③宝暦 9年(1759)27歳頃、「主水(もんど)」の署名で、タンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)制作

円山応挙 双鶴図(仙嶺落款・八雲本陣記念財団蔵)
               円山応挙「双鶴図」(仙嶺(せんれい)」の署名
④明和2年(1765)、30歳頃から「仙嶺」の署名で「双鶴図」(八雲本陣記念財団蔵)制作
⑤応挙が師事した石田幽汀の代表作品は「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)
⑥若き日の応挙は、石田幽汀の下で、鶴の絵の技法などを学ぶ。
応挙の師である石田幽汀の作品を見ておきましょう。

石田幽汀 《群鶴図屏風》

石田幽汀 《群鶴図屏風 応挙の師匠
         石田幽汀 《群鶴図屏風》1757-77 六曲一双屏風 各156.0×362.6cm
ここにはさまざまな姿の鶴が描かれています。種類は、タンチョウ・ナベヅル・マナヅルの他にも、ソデグロツル・アネハヅルまでいます。趣味として野鳥観察を行っていたレベルを越えています。博物学的な興味となんらかの制作事情が重なったことがうかがえます。そして、若き日の応挙は、この石田幽汀一門下にいたのです。鶴への知識が豊富なはずです。それが18世紀の「写生」時代の絵画の世界だったのかもしれません。ここでは、応挙は、鶴の博物学的な師匠から学んだことを押さえておきます。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。

鶴の間には落款がありませんが、その作風から隣の虎の間と同じ天明7年(1787)、応挙55歳の作と研究者は判断します。ところがその翌年に、応挙は京都の大火に被災して焼け出されてしまいます。そのため一時は創作活動が停止します。その困難を克服後の寛政6年(1794)に完成させたのが七間・風水の間の絵になるようです。
ちなみに客殿として使用された表書院には、各間に次のようなランクがあったことは前回お話しました。
表書院の部屋ランク


金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

やってきた人の身分によって通す部屋が違っていたのです。その中で鶴の間は、玄関に一番近く部屋ので、最も格下の部屋とされていました。格下の部屋には、画題として「花鳥図」が描かれるのがお約束だったようです。円山応挙に表書院のふすま絵のオファーが来たときから、それは決まっていたことは前回にお話しした通りです。
幕末から明治にかけては、満濃池にも鶴が越冬のためにやってきたようです。
満濃池遊鶴(1845年)2
      満濃池遊鶴(1845年)に描かれた群舞する鶴
金堂(旭社)の完成を記念して刷られた刷物には、満濃池の上を乱舞して、岸辺に舞い降りた鶴の姿が描かれ「満濃池遊鶴」と題して、鶴が遊ぶ姿を歌った漢詩や和歌が添えられています。ここからは、200年前の丸亀平野には鶴がやって来ていたことが分かります。そして、いま鶴よりも先にコウノトリが帰ってきたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)
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「金刀比羅宮の名宝(絵画)」を手にすることができたので、この本をテキストにして、私の興味があるところだけですが読書メモとしてアップしておきます。まず、表書院について見ていくことにします。

39 浦谷遊鹿
        象頭山十二景図(17世紀末)に描かれた表書院と裏書院

金光院 表書院
        金刀比羅宮表書院(讃岐国名勝図会 1854年)

生駒騒動後に、松平頼重が髙松藩初代城主としてやってくると、金毘羅大権現へ組織的・継続的な支援を次のように行っています。

松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

松平頼重が寄進した主な建築物だけを挙げて見ます。
正保二年(1645)三十番神社の修復
慶安三年(1650)神馬屋の新築
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。表書院が登場するのも、この時期です。
IMG_0028

表書院は、客殿として万治年間(1658~61)に建立されたと伝えられています。

先ほど見たとおり、松平頼重の保護を受けると大名達の代参が増えてきます。その対応のためにもきちんとした客殿が必要になったのでしょう。建設時期については、承応2年(1654)に客殿を建て替えたという文書もあるので、万治2年(1659)の本宮造営完了の頃には姿を見せていたと研究者は考えています。そして、その時から各部屋は「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の呼び名で呼ばれていたことが史料で確認できます。それが百年以上経過した18世紀後半になって、表書院をリニューアルすることになり、各部屋のふすま絵も新たなものにすることになります。その制作を依頼したのが円山応挙だったということのようです。この時期は、大阪湊からの定期便が就航して以後、関東からの参拝客が急速に増加して、金光院の財政が潤い始めた時代です。


表書院
表書院平面図2
                    表書院の間取り
 
円山応挙が表書院の絵画を描くようになった経緯については、金毘羅大権現の御用仏師の田中家の古記録「田中大仏師由緒書」に次のように記されています。

田中家第31代の田中弘教利常が金光院別当(宥存)の意を受けて円山応挙に依頼したこと、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだこと。

当時の金光院別当の宥存については、生家山下家の家譜には次のように記します。
俗名を山下排之進といい、二代前の別当宥山の弟山下忠次良貞常の息として元文四年(1739)10月26日に京都に生まれた。
宝暦5 年(1755)9月21日(17歳)で得度
宝暦11年(1761)2月18日(23歳)で金光院別当として入山し27年間別当職
天明 8年(1787)10月8日(49歳)で亡くなる。
宥在は少年時代を京都で過ごし、絵画を好んだので若冲について学んだと伝わります。
金光院別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるとされます。ここからは表書院の障壁画制作の背景について、次のように考えることができます。
①京画の最新状況に詳しい金光院別当の宥存
②経済的に他に並ぶものがない豪商三井家
③平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙
これらを御用仏師の田中家が結びつけたとしておきます。京から離れた讃岐国でも、京都の仏師達や絵師たちが、善通寺の本尊薬師如来を受注していたことや、高松藩主松平頼重が多くの仏像を京都の仏師に発注していたことは以前にお話ししました。京都の仏師や絵師は、全国を市場にして創作活動を行っていました。金刀比羅宮表書院と円山応挙の関係もその一環としておきます。

金刀比羅宮 表書院4
       表書院 七賢の間から左の山水、右の虎の間を望む
応挙が書いた障壁画には、次のふたつの年期が記されています。
①天明7年(1787)の夏    虎の間・(同時期に鶴の間?)
②寛政甲寅初冬(1794)10月 山水の間・(同時期に七賢の間?)
ここからは2回に分けて制作されたことが分かります。まず、①で鶴の間・虎の間が作られ、評判が良かったので、7年後に②が発注されたという手順が考えられます。応挙が金毘羅へやってきたという記録は残っていないので、絵は京都で書かれ弟子たちが運んできたようです。
 なお、最初の天明7年(1787)10月には、施主であった第十代別当宥存(1727~87)が亡くなっています。もう一つの寛政6年(1794)は、応挙が亡くなる前年に当たります。そういう意味で、この障壁画制作は応挙にとっても集大成となる仕事だったことになります。ちなみに、完成時の別当は第11代宥昌になります。
 表書院は客殿とも呼ばれていて、表向きの用に使われた「迎賓館」的な建物です。
実際にどんなふうに運用されていたのかを見ていくことにします。『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が金光院の客段であったことに触れた後、次のように記します。

「表立ちたる諸儀式並に参拝の結紳諸候等の応接には此客殿を用ゐたるが、二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎之間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々並に役人等の座席に、鶴之間は当時使者之間とも唱へ、諸家より来れる使者の控室に充当したりしなり」

意訳変換しておくと
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここでは、各間の機能を次のように押さえておきます。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

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松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には、「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居.
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈.
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物]
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
虎の間3
虎の間(金刀比羅宮表書院 円山応挙)
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。

鶴の間 西と北側
             表書院 鶴の間(金刀比羅宮)
同じように、鶴の間についても松原氏の年表で見ておきましょう。

①天保8年(1837)4月1日  金堂講元伊予屋半左衛門・多田屋次兵衛、以後御見席鶴之間三畳目とし、町奉行支配に申しつける

ここからは当時建立が決定した金堂(旭社)建設の講元の引受人となった町方の有力者に対して、「御目見えの待遇」で町奉行職が与えられています。それが「鶴の間三畳目」という席次になります。席次的には最も低いランクですが、町奉行支配という形で、金刀比羅宮側の役人に取り立てたことを目に見える形で示したものです。
七賢の間
七賢の間(金刀比羅宮表書院) 
七賢の間については、金光院表役の菅二郎兵衛の手記に次のように記されています。

万延元年(1860)2月の金剛坊二百丘十年忌の御開帳に際して、縁故の深い京の九条家からは訪車が奉納されたが、2月5日に奉納の正使が金毘羅にやってきた。神前への献納物の奉納後、寺中に戻り接待ということになったが、その場所は、本来は七賢の間であるべきところが、何らかの事情により小座敷と呼ばれる場所の2階で行われた

ここからは、七賢の間は公家の代参の正使を迎える場として使われていたことが分かります。
 天保15年(1844)に有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝にやって来て、その後に奥書院の襖絵を描いた岸岱に対する金刀比羅宮側の対応を見ておきましょう
天保15年(1844)2月2日、有栖川宮の御代参として参詣した時には、岸岱は七賢の間に通されています。それが、6月26日に奥書院の襖絵を描き終わった後の饗宴では、最初虎の間に通され、担当役人の挨拶を受けた後、院主の待つ御数寄屋へ移動しています。この時、弟子の行芳、岸光は鶴の間に通され、役人の扶拶のないまま、師の岸岱と一緒に数寄屋へ移動しています。
表書院 虎の間

          七賢の間から望む虎の間(金刀比羅宮表書院)

以上から、表書院の部屋と襖絵について研究者は次のように解釈します。
表書院の部屋ランク

つまり、表書院には2つの階層格差の指標があったのです。
A 奥に行くほど格が高く、入口に近いほど低いという一般常識
B 「鶴(花鳥)→虎(走獣)→賢人→山水」に格が高くなると云う画題ランク

以上を踏まえた上で、表書院の各室は次のように使い分けられていたと研究者は指摘します。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割


このことは先ほど見たように、画家の岸岱が有栖川宮の代参者としてやってきた時には「七賢の間」に通され、画家という芸能者の立場では「虎の間」に通されていることとからも裏付けられます。
表書院は金刀比羅宮の迎賓館で、ランク毎に使用する部屋が決まっていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊藤大輔 金刀比羅宮の名宝(絵画) 
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井関池
                  井関池

  前回は大野原新田開発に、そのシンボルとして井関池が登場するまでを追いかけてみました。完成後の井関池は、次のように決壊と復旧をの繰り返します。
①正保元年(1644年)2月に7ヶ月の突貫工事で井関池完成
②同年8月に堤防決壊
③翌年正保2年(1645)2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊
④慶安元年(1648年)に決壊
こうしてみると数年で3回も決壊しています。工法に問題があったのと、余水吐けの排水能力が不足していたようです。井関池は、柞田川に直接に堤防を築いています。そのために台風時などの大雨洪水になると、東側のうてめだけでは余水が処理しきれなくなり、堤防の決壊を繰り返したようです。その結果、修復費用がかさみ資金不足のために復旧に目途が立たず、入植した百姓達の中には逃げ出すものも出てきます。大野原開発の危機です。
 これに対して平田家は、次のように対応策を打ちだします。
①丸亀藩に対して井関池復興事業を藩普請で行うように求めて同意を取り付けたこと
② 洪水時の流下能力向上のために、うてめ(余水吐け)の拡張工事を行う事
③明暦(1656)年11 月に平田与一左衛門が亡くなった後は、二代目与左衛門源助が本拠を京
から大野原に移して腰を据えて新田開発に取り組む姿勢を見せたこと
こうしてようやく平田家の開墾新田は軌道に乗っていきます。
そのような中で、井関池の改修がどのように行われたのかを、尾池平兵衛覚書で見ていくことにします。テキストは観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書



尾池平兵衛覚え書11~15

「12 東宇手目(うてめ)は地蔵院の寺領を所望せし事」45P
解読文 12
東宇手目(うてめ)ヨリ横井キハ迄生山ヲ堤二仕候分ハ、
地蔵院寺領之内ヲ、山崎様御代二御所望被成、
池堤二被仰付候。
   
ため池の構造物
          ため池の構造物  宇手目(うてめ)=余水吐け

  意訳変換しておくと
東うてめ口から横井の際までは、山を堤として利用している。この山については、もともとは地蔵院寺の寺領であったものを、山崎家にお願いして池堤として利用できるようになった。

大野原開墾古図 1645年(井関池周辺)
         大野原開墾古図(1645年) 井関池周辺の部分図

大野原開墾古図 1645年(部分)
                    上記のトレス図

地図を見ると井関池の東側には、地蔵院(萩原寺)が見えます。中世にはこの寺は非常に大きな寺勢を有した寺でした。現在の井関池の東側までは地蔵院の寺領だったようです。そこで藩主に願いでて払い下げてもらって、堤として利用したと書かれています。その尾根を切通して「うてめ(余水吐け)」を作るというプランだったことが分かります。井関池は西嶋八兵衛が底樋を設置するまで工期が進んでいたとされるので、この堰堤位置を決定したのは西嶋八兵衛の時になるのかも知れません。西嶋八兵衛が築造した満濃池のうてめ(余水吐け)を見ておきましょう。

満濃池遊鶴(1845年)2
           満濃池遊鶴図 池の宮の東につくられた「うてめ」
満濃池のうてめも堅い岩盤を削ってつくられている。
②井関池の「うてめ」拡張工事について、「尾池平兵衛覚書10 井関池東宇手目(うてめ)を十間拡げた事」44Pには次のように記します。
大野原之義井関池ハ川筋ヲ築留申二付、東
宇手目幅四間岩ヲ切貫候故、水大分参候時ハ本
堤切申二付、毎年不作仕及亡所二、最早中間
中も絶々二罷成候。然処ヲ柳生但馬様ヲ頼上、
山崎甲斐守様江御歎ヲ被仰被下二付テ、山崎様
ヨリ高野瀬作右衛門殿と申三百石取フ為奉行、御鉄
胞衆弐百人斗百十日西(東力)宇手目拾間廣被下候。
以上拾四間二候。夫ヨリ以来堤切申義無之候。
意訳変換しておくと

  大野原の井関池は、柞田川の川筋に堤防を築いているために、幅四間の岩を切り貫ぬいたうてめ(余水吐け)では、洪水の時には堤防を乗り越えて水が流れ、決壊した。毎年、不作が続き「中間」中でも資金が足りなくなってきた。そこで、柳生但馬様を通じて、丸亀藩の山崎甲斐守様へ藩の工事としてうてめ拡張工事を行う嘆願し、実現の運びとなった。山崎様から高野瀬作右衛門殿と申三百石の奉行が鉄胞衆200人ばかりを百十日動員して、東のうてめを10間拡げた。こうしてうてめは14間に拡張し、それより以後は堤が切れることはない。

  ここからは、もともとのうてめは幅4間(1,8m×4)しかなかったことが分かります。それが堤防決壊の原因だったようです。拡張工事を行ったのが、丸亀藩の鉄砲衆というのがよく分かりません。火薬による発破作業が行われたのでしょうか? 

現在の井関池の余水吐けを見ておきましょう。

井関池のうてめ

井関池のうてめ.2JPG
        井関池の東うてめ(余水吐け) 固い岩盤を切り通している

余水吐けの下は「柱状節理」で、固い岩盤です。これを切り開いて余水吐としています。満濃池もそうですが、うてめは岩盤の上に作られています。土だとどんなに堅く絞めても、強い流水で表面が削り取られていきます。柱状節理や岩盤の尾根を削って余水吐けを作るというのは、西嶋八兵衛が満濃池で採用しているアイデアです。また、西嶋八兵衛が井関池建設に着工していたとすれば、金倉川と同じように柞田川の大雨時の流入量も想定していたはずです。幅4間の狭い余水吐けで事足りとはしなかったはずです。平田氏は池普請にどのような土木集団を使ったのでしょうか? その集団が未熟だったのでしょうか。このあたりのことが、もうひとつ私には分かりません。
次に「11 井関池東の樋を宮前の樋と申し伝える由来(45p)」を見ておきましょう。
 大野原請所卜成、東宇手ロキハノ堤ノ上弁才天
池宮ヲ立置候処二、戸マテ盗取候二付、今慈雲寺
引小社之ノ中ノ弐間在之力、先年ノ井関二在之社二候。
然故、井関東ノ樋ヲ宮ノ前ノ樋卜今二言博候。
意訳変換しておくと
大野原が平田家の請所となって、東の宇手目(うてめ:余水吐)の堤上に弁才天池宮を勧進した。ところが宮の戸まで盗まれてしまった。今は慈雲寺に二間ほどの小社があるが、これは井関池にあった弁才天社をここに遷したものである。この由来から井関池の東樋を「宮の前の樋」と今でも呼んでいる。

  もういちど大野原開墾古図を拡大して見てみましょう。

大野原古図 井関池拡大
大野原開墾古図 井関池拡大
この図からは尾根を切り通した「うてめ」の西側に「弁才天」が見えます。そこまでが「山」で、ここを起点に堤が築かれたことが分かります。池の安全と保全、そして大野原開発の成就を願って、ここに弁才天が勧進され小社が建立されたようです。それが後に、慈雲寺に遷されますが「宮の前の樋」という名前だけは残ったと伝えます。

東うてめ拡張以前のことについて「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)には、次のように記されています。

尾池平兵衛覚書13新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
               「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
解読文
新樋卜申ハ先年東宇手目四間ニテハ水吐不申
ニ付、彼新樋ノ所ヲ幅八間ノ宇手ロニ仕候。堤ヲ宇手目
ニ仕候ヘテ、中之水ニテ洗流二付、下地へ篠ヲ敷其上ヲ
拾八持位ノ石ヲ敷、又其上ヲ篠ヲ敷其上ヲ真土ニテ
固メ、其上ヲ大石ヲ敷宇手ロニ仕候得共、洪水ニハ
切毎年不作仕候。其時分ハ今ノ小堤西南ノ角フ又
堤二〆、四尺斗之樋ヲ居裏表二鳥居立二仕、宇手目    .
吐申時ハ東小堤へ方へ水不参様二仕、用水ノ時ハ戸ヲ明候。
扱大井手下ノ高ミノキハ二四尺四方ノ臥樋ヲ居、宇手目  一
吐中時ハ戸ヲ指、宇手目水ヲ今ノ大河内殿林中へ落し候。
其臥樋今ノ慈雲寺門ノ橋二掛在之候。
大野原古図 井関池拡大
            大野原開墾古図 井関池拡大図の「うてめ」

意訳変換しておくと
新樋というのは、先年に東うてめ(余水吐)四間だけでは充分に洪水時の排水ができないので、幅八間のうてめを新たに堤に設置したもののことである。堤から流れ落ち流水で下地が掘り下げられるのを防ぐために、下に篠を敷いてその上に10人で持ち上げられるほどの大きな石を強いて、さらにその上に篠をしいてその上に真土で堅め、その上に大石をおいてうてめ(余水吐け)とした。しかし、洪水には耐えることができなかった。その頃は今の小堤の西南のすみに堤を築いて閉めて、四尺ばかりの鳥居型の樋を建てた。東のうてめから水が流れ出しているときには、東の小堤へ方へ水が行かないように閉めて、用水使用時には戸を明けた。大井手の下の高ミノキは四尺四方ノ 竪樋で、うてめが水を吐いているときには戸を指し、うてめ水を大河内殿林側へ排水した。その底樋が今の慈雲寺門の橋となっている。

ここからは、東のうてめの拡張工事の前に、西側に8間の新しい「うてめ(余水吐け)」を堤防上に開いていたことが分かります。先ほども述べましたが、うてめは強い流水で表面が削り取られていきます。そのためにコンクリートなどがない時代には、岩盤を探して築かれていました。そのための工法が詳しく述べられています。それでも洪水時には堪えることが出来なかったようです。土で築いた堤防上に「うてめ」を作ることは、当時の工法では無理だったようです。そこで池の西南隅に別のうてめを作ったようです。以上から井関池では洪水時の排水処理のために次の3つの「うてめ」が作られていたことが分かります。
①東のうてめ(幅4間で岩盤を切り抜いたもの)
②堤防上に「新うてめ」(8間)
③西南のうてめ
④東のうてめの拡張工事(8間)

東うてめの拡張工事後の対応について「14 ツンボ樋の事」は、次のように記します。
尾池平兵衛覚え書14
解読文
右之宇手目数度切不作及亡所二候故、御断申
宇手目ノ替二壱尺五寸四方ノ新樋ヲ居、池へ水参ル
時ハ立樋共二抜置、池二水溜不申様二仕候。然共洪水ニハ
中々吐兼申二付、東宇手目拾間切囁今拾四間ノ宇
手ロニ成候。右之新樋ハ東方ノ石樋潰ツンホ樋ト
名付、少も用水ノタリニ不成候二付、右之新樋ヲ用
水樋二用末候。
意訳変換しておくと
  右の宇手目(うてめ)は、数度に渡って決壊し使用されなくなったので、うてめの替わりに壱尺五寸四方の新樋を設置した。そして大雨の時に池へ水が流れ込む時には、立樋と共に抜いて放流し、池に水が貯まらないように使用した。ところが洪水の時には、なかなか水が吐けなかった。そこで東うてめを10間を新たに切り開いて、併せて14間の「うてめ」とした。そのため新樋は東方の石樋完成によって使われなくなり「ツンホ樋」と呼ばれ、まったく要をなさないものになった。そのため新樋を水樋に使用した。

③の西南のうてめも数度の決壊で使用不能となっています。そこに1尺5寸(50㎝)四方の底樋を埋めて新樋とします。そして大雨時の排水処理に使おうとしたようですがうまくいきません。結局、東うてめの拡張工事が終わると無用のものとなり「ツンボ樋」と呼ばれるようになったようです。
ここからも東うてめ拡張以前に、いろいろな対応工事が行われていたことが分かります。

今回は「尾池平兵衛覚書」の井関池のエピソードから分かることを見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」
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前回は大野原新田の着工までの動きを以下のように見てきました。

大野原新田着工まで


着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間(請負連合)」を形成し、次のように契約を書面にしたためています。
①開発費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと
②目処が立った後で備中屋などの三者は、3人で経費の半分を負担すること
③新田開発の利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ること
 

こうして「中間」たちは中姫村庄屋・四郎右衛門宅に逗留して、新田開発を進めます。そして、つぎのような作業を同時並行で進めていきます。
A 藩の役人や近隣の村役人立会いの下、請所大野原エリアの確定
B 開拓者の募集
C 自分たちの土地・屋敷を整えること
D 郷社の建設
E 井関池の築造
この中でも最重要課題は井関池の築造でした。大野原は、雲辺寺を源流として流れ出す柞田川の扇状地の扇央部にあります。そのため土砂が厚く堆積して、水はけが良く地下水脈が深く、水田には適さない土地です。この地を美田とするためには、大きなため池と用水路が不可欠です。井関池築造について、「尾池平兵衛覚書」にどのように記されているかを見ていくことにします。テキストは「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書


尾池平兵衛覚書
尾池平兵衛覚書

「尾池平兵衛覚書(10番)」は、井関池築造について次のように記します。
尾池平兵衛覚書10井関池築造の事

上記を解読すると(「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」(44P)
生駒様御代二、西嶋人兵衛殿と申役人、無隠案
者ノ見立テ井関池ヲ築立、井関村ハ大野原カ
福田原江百姓御出シ、浪指ハ落相、宇手ロハ東ハ
地蔵院山ノタリ西ハ鋳師岡ヲ水吐二〆、大野原
不残田地二〆万石も可在之積、靭ハ杵田邊観音寺
迄ヘモ用水二可遣トノ積ニテ、樋御居(据?)サセ被成候。樋尻
東江向有之候.然処二生駒様御落去以後打
捨在之、山崎様へ願銭持ニテ池二築立候。樋初ハ
弐ケ所在之候。壱ケ所ハ石樋二仕、長三十三間蓋迄
石ニテ仕二付、堤ノ土ニテシメ割、役二不立二付、京極様
御代二成御断申埋申候.猫塚池下掛樋二石樋
有之蓋石壱つハ中間入口門ノ跡石二成候。此コトク
成石樋二候。今ニテも入用二候得ハ堤ノ裏方堀候得ハ何
程も在之候。今ノ東方樋ヨリ七八間西方二候堤前ノ本槙木ノ樋二候。

意訳変換しておくと
生駒様の御代に、西嶋人兵衛殿という役人が、井関池築造に取りかかった。井関村や大野原・福田原へ百姓を動員し作業を始めた。計画では、宇手ロ(うめて:余水吐口)は東の地蔵院山で、堤は西の鋳師岡までくもので、大野原だけでなく、杵田・観音寺へも給水を行う計画であった。しかし、底樋の樋尻を東へ向けて設置したところで、生駒様は御落去となって以後は打捨てられた状態になっていた。そこで、丸亀藩山崎家に対して「銭持(町人請負)」での池の築造計画を願いでた。
 樋は最初は、2ケ所に設置した。1ケ所は石樋で、長さ33間(1間=1,8m)の石造であったが、堤の土の重さに耐えきれずに割れてしまったので、京極様の許可を得て堤防の中に埋めた。そこで猫塚池の下掛樋に石樋蓋石があったが、これは中間入口門の跡石であった。これがコトク成石樋二候。今でも必要であれば、堤の裏方を堀ればでてくるはずである。現在の東方の樋から8間西に堤前のものは本槙木製の樋である。

ここには生駒時代の西嶋八兵衛による築造計画が記されています。
西嶋八兵衛

西嶋八兵衛と治水灌漑工事
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。
     高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
西嶋八兵衛は、慶長元(1596)年遠州浜松に生まれで17歳の時に父が使えていた伊勢津藩主藤堂高虎の小姓になります。藤堂高虎は「城造りの名手」で、若き日の西嶋八兵衛は、近習として天下普請である京都二条城の築城や大阪城の修築に従事して、築城・土木・建築技術を学びます。その後、藤堂家と生駒藩との姻戚関係で、客臣(千石待遇・後には五千石の家老級)として生駒藩に西嶋八兵衛やって来ます。そして、うち続く旱魃で危機的な状態にあった生駒藩救済策として。数々の総合開発計画を進めます。その一環が満濃池などのため池築造であったことは以前にお話ししました。
 ここには西嶋八兵衛が築こうとした井関池の規模を「大野原だけでなく柞田から観音寺までも潤す満濃池にも劣らないほどの大規模なもの」で、東は地蔵院山,西は鋳い物師岡の谷を山の高さで柞田川を堰き止める」計画だったと記します。しかし、底樋の石を設置した段階で、生駒藩が転封となったために放置状態になったようです。
  西嶋八兵衛による井関池築造が挫折した後を受けて、これに乗り出したのが平田与一左衛門と備中屋籐左衛門,三島屋叉左衛門,松屋半兵衛」の近江と大坂の商人連合(仲間)でした。 ここでは、石造の底樋のことが記されています。しかし、石造底樋については数々の問題があったことは、以前に「満濃池の底樋石造化計画」でお話ししました。

次に「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73Pを見ておきましょう。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池
                尾池平兵衛覚書NO69

一、井関池 南請 但生駒様御代二堤形有之
        山崎様御代大野原より願銭持ニテ
        築立ル
寛永弐拾未年二
請所申請候。正徳六申年迄七拾四年二成ル。井関築
立二現銀弐百貫目余入、大阪ョリ銭ヲ積下シ観音寺方
牛車ニテ毎日井関マテ引上ル。牛遣ハ大津方抱参候
久次郎と申者、右之車外今中間明神様御社之
下二納在之候。其時分観音寺る海老済道ハ在之候
得共、在郷道二候ヘハ幅四五尺斗之道ニテ、杵田川方ハ
北岡岸ノ上江登り、善正寺ノキハヲ天王江取付候。牛車
通不申二付御断申上、川原ヨリ天王宮ノ下今ノ道へ、
新規二道幅も井関迄弐間宛仕候.井関池下二町
並二小やヲ立、酒肴餅賣居申。又四国ハ不及申
中国ョリも、讃岐二池ノ堤銭持在之候卜間俸、妻
子召連逗留日用仕候。堤ハ東と西方筑真中ヲ
川水通、此川筋一日二築留申日、前方方燭ヲ成
諸方方大勢集、銭フイカキニ入置握り取二仕候。
毎日ノ銭持ハ土壱荷二銭五歩札壱銭札ヲ持せ、十荷
廿荷と成候時ハ十文札五十文札二替手軽キ様二仕候。
其時二桜ノ小生在之ヲ、今ノ中間へ壱荷二〆銭百文ニ
買四本並植候。老木二成枯(漸今壱本残ル。
意訳変換しておくと
一、井関池   生駒様の御代に堤の形はあったが、山崎様の御代に大野原から願い出て、町人受で資金を拠出して築造した。寛永20年(1643)に、(新田開発)の請所を申請し、正徳6年(1716)まで74年の年月を経て完成した。①井関池築造のために銀二百貫目余りを投入した。②銭は大坂から船便で、観音寺まで送り、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。牛遣いは、大津の時代から平田家に仕えていた久次郎という者にやらせた。その頃の観音寺から井関までは海老済道(阿波道?)があったが、途中までは幅四・五尺ほどの狭い在郷道だった。そこで杵田川から北岡・岸ノ上で上がって、善正寺(川原)から天王宮下を通り、井関まで二間ほどの道を新規につけて運んだ。
  ③井関池の下には多くの小屋が建ち並び町並みを形成するほどであった。そこでは酒や肴・餅などを売る店まで現れた。 ④井関池工事に行けば「銭持普請」(毎日、その日払いで銭を支払ってくれた)で働けることを伝え聞いて四国だけでなく、遠く中国地方からも多くの人足が妻子連れで長逗留の準備をして集まって来た。
堤は東と西より土をつき固めていき、真ん中は山からの川水を通すため開けておき、最後に一気に川筋を築き留めるという工事手順だった。そのため最後の日は前々から周知し、銭を篭に入れて、労賃を握り取るという方法で大勢の人足をかき集めてた。
 ⑤毎日の労賃の支払いは土一荷(モッコに二人一組で、土を入れ運んだ?)に銭5歩札の札を与え、10荷、20荷単位で十文札、50文札に替えて銭と交換した。堰堤が完成したときには、桜の苗を4本買って植えた。それも老木になって枯れていまい、壱本だけ残っている。
ここから得られる情報をまとめておきます。
①井関池は、平田家が銀二百貫目余りを投下する私的な単独事業として行われた。
②銭(資金)は大坂から船便で観音寺まで運ばれ、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。
③労賃支払いは「銭持普請」(毎日現金払い)のために、遠くからも多くの人足が妻子連れでやってきた。
④そのため井関池の下には多くの小屋が建ち、酒や肴・餅などを売る店まで現れた。
⑤毎日の労賃支払方法は、土一荷(モッコ一籠)について銭5歩で、現金払いであった。
ここで押さえておきたいのは、池の築造は近江の豪商平田与一左衛門が丸亀藩に願い出て町人普請として着手されたことです。大野原新田開発は、井関池関係だけでも銀200貫を要しています。工事全体では全体720貫の額に膨れあがったようです。そのため当初の「中間(仲間:商人連合)」の契約では、完成までの費用は平田家単独で支出するが、工期終了時には平田家3/6、他の3家は1/6毎に負担する契約でした。しかし、工事資金が巨額になって支払いに絶えられなくなった3家は「仲間」を脱退していきます。以後の大野原開発事業は、平田家の単独事業として行われていくことは前回お話しした通りです。どちらにしても、井関池が寛永20年8月から翌年2月までのわずか半年間で築かれたこと、その費用は、すべて平田家によって賄われたことを押さえておきます。

こうして出来上がった井関池の規模と構造物について、「尾池平兵衛覚書」は次のように記します。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池の規模と構造物jpg
        「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73P
 堤長弐百拾間(約282m)、根置(堤の底面幅)30間(約55m)、樋長22間(約66m)、
高6間(約11m)、馬踏(堤の上部幅)3間(約5・5m)で、所によって2間半もある。
水溜りは、新樋は四間五尺で、土俵三俵二水溜リテ□
(上の文書はここから始まる)
東の古樋は八寸五分二九寸で、櫓三つでスホンは三穴五寸
新樋は壱尺五寸二壱尺六寸で、櫓三スホン六櫓一ニ二宛
              スホン上ノ穴八寸 宛下ハ六寸
仮樋は八寸四方で、櫓一つで鳥居立一スホンニ穴五寸宛
              此樋自分仕置候
樋尻の小堤は長さ七拾六間
池之内の面積は、十二町壱反
池の樋取り替えは、延宝七未年、仮樋も同年に行った。。
正徳六申迄三十八年六月ヨリ工事を始め、12月21日に成就した。

ここに出てくる「スホン」は樋穴を塞ぐスッポンのことです。満濃池の櫓樋とスッポンを見ておきましょう。

P1240778
  讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図(樋櫓から下にのびているのがスッポン)
  水掛かりについては、次のように記します。
  池の水掛については①大分木(大分岐)水越九尺
  内
壱尺        萩原          田拾六町此高百六拾石
壱尺         中姫          田四拾町此高四百石
            
壱尺   杵田四ケ      田十三町高弐百汁石       黒渕
田五拾九丁                  田拾五町高百五拾石       北岡村
高五百汁石                  田拾壱町高百拾石 大畑ケ
           田拾町高七拾石 山田尻
六尺 大野原  田百拾町高七百七拾石
水掛畝〆弐百弐拾五町 高〆千人百六拾石
右之通ノ水越寸尺ニテ候処、先年方三分古地方七分
大野原申偉、則御公儀上り帳面二も其通仕候。

大野原開墾古図 1645年(部分)
   大野原開墾古図(1645年)トレス図(部分) 黒い部分が井関池の堤防 

 ①の大分木(大分岐)は、井関池本樋の250mほど下流に設けられた最初の分岐のことです。
この大分木について研究者は次のように解説しています。

「大分木を越えていく水が幅にして九尺分あるとすると、その内一尺分を萩原の田へ引くようにする。同様に一尺分は中姫へ、同じく一尺分の水は杵田四カ村(黒渕・北岡。大畑。山田尻)へ、そして大野原へは幅6尺分の水を流すようにする。」

つまり井関池本樋から流れて来た水を、「大分木」で次のように配分します。
3/9は、萩原・中姫・杵田へ、
6/9は、大野原へ
これは開拓に取り掛かる際に丸亀藩と交わした「1/3は古地へ、2/3分は大野原新田へ」という水配分の約束に従っていることが分かります。「大分木」で大野原への用水路に流された水は、さらに約800m南西へ下った所にある「鞘分木」で、小山・下組・上之段へ行く3つの水路に分けられ、大野原の新田を潤します。
観音寺市立中央図書館に「大野原開墾古図」という、和紙を貼り合わせた縦横が5×4mほどの大きな古地図があります。

大野原開墾古図
                  大野原開墾古図
開発が始まって2年目の正保二(1645)年9月に作成されたもので、ここには井関池から伸びる用水路がびっしりと描き込まれています。ここに描かれた用水路は、基本的には現代のものと変わりないと研究者は評します。

大野原古図 17世紀
大野原開墾古図(1645年) 縦横に用水路が整備されている
大野原開墾古図1645年(トレス図)
            大野原開墾古図(トレス図)

  こうして工期7ヶ月の突貫工事で、正保元年(1644年)2月に、大野原新田開発のシンボルとして井関池は姿を見せます。その年の4月には18,6kmの灌漑用水網も出来上がり、126haの開墾用地に62軒の農家が入植しました。ところがその年の8月には堤防が決壊します。工事を急いだ突貫工事であったことや工法に問題があったことが考えられます。翌年の正保2年2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊、さらに慶安元年(1648年)にも決壊するなど、わずか数年で3回も決壊しています。このため平田家と仲間の負担は限度を超え、資金不足のために3回目の復旧は目途が立たず、入植した百姓達の中には、逃げ出すものも出るようになります。このような危機をどう切り抜けたのでしょうか。それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 観音寺市文化財保護協会 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原
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尾池平兵衛覚え書

尾池平兵衛覚書 四国新聞
 
図書館の新刊書コーナで、「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」という冊子を見つけました。手に取ると久保道生氏が「観音寺市古文書研究会」のメンバーとの読み込み活動の成果として「大野原開基380年」に出版されたものです。原本史料の下に印字文が書かれていて、古文書を読むテキストにも最適です。
1大野原地形

  大野原は雲辺寺の五郷から流れ下る柞田川の扇状地で、砂礫の洪積台地で地下水が深く中世までは水田化が進まなかったことは以前にお話ししました。そのため近世初頭までは「大きな野原=おおのはら」のままの状態だったようです。「大野原総合開発事業」が開始されるのは、生駒騒動後に讃岐が2つに分割され、山崎家が丸亀城主としてやって来るのと同時期のことで、寛永20(1643)年のことになります。昨年が380周年になるようです。
 開発の主役は京都の商人・平田与一左衛門で、巨費を投じて新田開発に着手します。そのことを書き留めたのが、平田家の手代・尾池平兵衛です。彼は開墾10年目にの11歳で丸亀から大野原新田にやってきて享保元年(1716)まで60年に渡って、新田開発に関わった人物です。その彼が残した史料を採録し、解説したものがこの書になります。
最初に尾池家について記した部分をまとめておきます。
①尾池平兵衛(1654~1720)の祖父・尾池官兵衛は、生駒家に仕える武士。
②『西讃府志』の「生駒家分限帳」に、生駒将監の組内に、高二百石の尾池官兵衛の名あり。
③生駒騒動(1640)年で、官兵衛は領主について改易地の矢島へ行くが、すぐに丸亀へ帰郷。
④その息子が平兵衛の父・尾池仁左衛門(1666~88)で、「仁左衛門 町年寄相勤申」とあり町年寄を務めていた。
「町年寄」とは、町奉行の下で町の令達・収税を統括役する役割です。町人ですが公儀向の勤めを立場であったことが分かります。ここからは、生駒騒動後の身の振り方として、祖父は主君に従って一旦は改易地にいきますが、すぐに状況を見て帰讃して、武士を捨てたようです。父は山崎藩の下で塩飽町の町年寄りを務めるようになっています。塩飽町の町年寄とあるので、旅籠的なものを営んでいたのではないと思います。それは、京都の平田家が丸亀来訪時の常宿に尾池家をしているからです。
このくらいの予備知識を持って「尾池平兵衛覚書」を最初から読んでいくことにします。

尾池平兵衛覚書
                  尾池平兵衛覚書
01 大野原開墾と仲間のこと
尾池家と大野原新田開発との関わりを、「覚書」は次のように記します。 
尾池平兵衛覚書1
         尾池平兵衛覚書01ー1「大野原開墾と仲間の事」
  平兵衛大野原江被曜申由緒ハ、山崎甲斐守様丸亀御拝知被為成、御居城御取立入札被仰付候。依之京都平田与市左衛門様銀本ニテ、手代木屋庄二郎、大坂備中屋藤左衛門殿、同所米屋九郎兵衛子息半兵衛、同所三嶋屋亦左衛門右四人連ニテ下り、塩飽町同苗仁左衛門宅ヲ借り逗留候。御城入札ハ何茂下り無之内二埒明申二付、折角遠方ヲ下り此分ニテハ難登候。相應之義ハ有之間鋪哉卜仁左衛門へ被尋候。仁左衛門答ハ自是三里西二高瀬村卜申所二余程之入海在之候。是ヲ築立候ハヽ新田二可成と望手も有之候得共、未熟談無之と申候ヘハ、ゐと不案内二候。乍大義同道頼度との義二付、仁左衛門同道彼地一覧被仕、成程新田ニモ可成候得共、連望申上ハ此場所ヨリ廣キ所ハ有之間鋪哉と評判申候処へ、何方トモナク出家壱人被参、各々ハ何国方被参候哉と被申候ヘハ、右之子細申聴候。
意訳変換しておくと
尾池平兵衛が大野原開発に関わるようになった由縁は次の通りである。
①山崎甲斐守様が天草から藩主としてやってきて、丸亀城の改修工事の入札を行うことになった。②入札に参加するために京都の平田与一左衛門様を元締にして、平田家手代の木屋庄三郎、大坂の備中屋藤左衛門、同所米屋九郎兵衛の子の半兵衛、同じく大坂の三島屋亦左衛門の四人が連れ立って丸亀にやって来た。③そして丸亀塩飽町の尾池仁左衛門宅を借りて逗留し、入札への参加を企てたがすでに終わってしまっていた。④そこで四人は『せっかく遠方からやって来たのに、このままでは帰れない。どこか相応の物件はないものか』と仁左衛門に尋ねた。これに対して『ここから三里西へ行ったところに高瀬村という所があります。そこに広い入海(三野湾?)があります。そこに堤を築き立てれば新田になる』と答えます。
 四人は地理に不案内なので仁左衛門に案内を乞い、高瀬村へやって来た。しかし三野湾は確かに新田にはなるが余りにも狭い。もっと広い所は無いものかと、あれこれ話していた。そこへどこからともなく一人のお坊さんがやって来た。そのお坊さんに、どこからやってきた客人か?などと聞かれるままに事の次第を話した。
これらを関連年表の中に落とし込んでおきます。
1628年 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
1641年 幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を、出羽国矢島1万石に移す.
   同年 肥後天草の山崎家治に西讃5万石を与えられ、城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年 ①幕府より丸亀の廃城を修築し居城にすることを許され、入札開始(小規模改修)
   同年 ②入札参加のために平田与一左衛門の手代等が丸亀にやってきたが入札はすでに終了。
      ③その際に宿したのが塩飽町の町役人の尾池家
1643年 ④尾池家の案内で大野原視察し、開発開始。井関池着工
1645年 大野原開墾古図作成。
1663年 二代目平田源助(与左衛門正澄)が京都から大野原へ本拠地移動
1665年 尾池平兵衛が11歳で大野原へやってくる。
私がここで気になったのは、ここでは丸亀城の改修工事の入札のために、京都の平田氏を中心とする大商人の手代達がやってきたとあることです。そうだとすると、山崎藩はお城の普請工事を大商人に請け負いさせていたことになります。
続いて尾池平兵衛覚書を見ていきます。
 
尾池平兵衛覚書2
 尾池平兵衛覚書01ー2「大野原開墾と仲間の事」
彼僧被申ハ、是ヨリ三里西二壱里四方之野原在之候。此場所生駒様御時代二、新田二被仰付トテ谷川ヲ池二築掛在之候。御落去以後、打捨り居申候。今日被参候テ見分可然と申、兎哉角評判申内彼僧行衛不知候。末々二至テ考申ハ、平田家筋ハ法花(華)宗高瀬二法花寺在之候。芳以祖師之御告ニテ可在之と申博候。

 右教ノ□其日中姫村迄参庄屋ヲ尋候ヘハ、四郎右衛門ト申此宅二何茂一宿仕、四郎右衛門案内ニテ及見有、荒給固二書丸亀へ帰宅申、新田ニモ望候ハヽ請所二可被仰付哉と宿仁左衛門ヲ頼、甲斐守様御役人衆へ内窺仕候。其働甲斐様御一家二山崎主馬様卜申テ、此御方ョリ仁左衛門内方ヲ筆娘二被成候由緒と申、仁左衛門町年寄相勤申二付御公儀向勤、亦則右之旨内窺申上候ヘハ、成程請所二願候様二
と被仰二付、
京都へ相達候得ハ重畳ノ義二候、御城普請ハ営分縦利潤在之テも末々難斗候。新田卜申ハ地一期子孫二相博候得ハ、万物二勝タル田地ノコト、随分御公儀向宿仁左衛門ヲ頼願叶次第、瑞左右可申越と申末候。然故新田願書指上ケ、首尾能相叶候新田成就之時ハ、六ツニ〆三ハ与市左衛門様、残三ヲ右二人卜〆取申極。然共始終ノ銀子入目ヲ元利与市左衛門様へ返済無之候テハ、右之配分無之極之書物二候。
意訳変換しておくと
するとお坊さんは次のように云った。①『ここから三里西に、一里四方の野原がある。ここは生駒様の時代に新田にしようと、谷川をせき止め池を築こうとしていたのだが、生駒様御落去で打ち捨てられ今日に至っている』とのことであった。それを聞いてとにかく行ってみようと相談しているうち、ふと気がつくと、お坊さんはいなくなっていた。後々になって思い至ったのは、②『平田家は法華宗であり、高瀬には大きな法華寺院(本門寺)があるので、これは日蓮祖師のお導き違いない』と申し伝えられている。」

 教えの通りにその日のうちに五人は中姫村へ行き、庄屋の四郎右衛門の家に一泊し、翌日には四郎右衛門の案内で原野を視察した。③それを直ぐに「荒絵図」に描き記し、仁左衛門を通じて新田開発願いを藩の役人に提出した。なお仁左衛門の奥方は藩主・山崎甲斐守の一族・山崎主馬の娘を、頼まれて筆娘にした懇ろな関係にあったことや、仁左衛門が町年寄を務めるなど公儀の役目にあったこともプラスに働いたようだ。

 この視察報告を受けた京都の平田与一左衛門は、「大変結構な事である。御城普請は一時の利益に過ぎないが、新田開発は末々まで価値を生む田地を子孫に残す万事に勝る」との快諾の返事を寄した。こうして、新田開発が首尾良く成就した際には、3/6は平田与市左衛門様、残りを備中屋・米屋・三嶋屋で分与すること。但し備中屋・米屋・三嶋屋は平田が立替えた費用の自己負担分を元利合わせて返済した場合のみ、6分の1の配分に関わる権利を有すること約した。但し、最初に平田家が立替えた銀子費用の返済がなければ、これは適用されないという契約内容を文書で交わした。

ここには次のような事が記されています。
①僧侶は生駒藩時代の新田開発候補地として「大野原」を勧めた。
平田家は法華宗なので、法華衆の高瀬本門寺の宗祖日蓮の導きにちがいないとした。
③大野原を新田開発の適地として、山崎藩に申し出ると問題なく認可が下りた。
④着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間」を形成した。
⑤そして開墾にかかる費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと、そこから上がる利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ることが約された。


尾池平兵衛覚書02
 02尾池仁左衛門長男に庄大郎と命名したこと

右之由緒ニ付、仁左衛門子共之内壱人ハ大野原江囃当国之支配ヲモ頼可然と、新田取立前後評判在之候処二、幼少二付大野原へ可預ケ様無之と打捨置候。併讃岐新田鍬初之時分ヨリ宿と言、御公儀然願ハ仁左衛門被致候ヘハ、子共ノ内責テ為由緒名成共付置候得と、与市左衛門様ヨリ手代庄二郎へ被仰越、則仁左衛門惣領男子ヲ庄三郎ョリ庄太郎卜名ヲ付被申候。其時分仁左衛門ヨリ庄二郎然へ頼申手筋ニテ無之候得共、与市左衛門様御名代二庄二郎と従御公儀御證文ニも書載申程ノ庄三郎二候ヘハ、右之首尾二仕候処ニ庄太郎死去申候。右之由緒二付大野原開発ヨリ今二至迄宿卜成候。

意訳変換しておくと
この関係について、尾池仁左衛門の子供の内の一人は平田家へ奉公に出して、後々には大野原新田の経営に当たらせるという話が当初からあった。しかし、仁左衛門の子供はまだ幼少だったので、打ち捨てられて具体的な話は進まなかった。これと併せて、新田開発当初から尾池仁左衛門宅は平田家の定宿となり、讃岐支社の様相を呈し、丸亀藩へとの連絡業務は仁左衛門を通じて行われていて、両者の関係はますます深くなった。そこで京都の平田与一左衛門は、手代の庄三郎に対して「両家の深い付き合いの手始めに、仁左衛門の惣領男子の名付け親になるように」と命じた。(この時(与一左衛門の子・与左衛門(大野原平田家の祖)は、まだ大野原へは来ていなかった)。そこで庄三郎は、自らの「庄」の字を取って仁左衛門の長男に庄太郎と名付けた。こうして将来は庄太郎が大野原へ来るものと皆思っていた。ところが庄太郎が病死してしまった。そこで寛文年間(1661~73)に、庄太郎の代わりに平兵衛が大野原へ来ることになった。

ここからは次のような事が読み取れます。
①当初から尾池仁左衛門の子供の一人を平田家へ奉公にだすことが約されていたこと
②尾池仁左衛門が新田開発について藩とのとの仲介を果し、京都の平田家との関係が深まったこと
③尾池仁左衛門の長男が死去したため、次男の平兵衛(14歳)が大野原に送り込まれたこと

尾池平兵衛覚書03・04

03 尾池平兵衛が大野原に参りたる次第
平兵衛義、家ノ惣領二候得共、庄太郎替リニ大野原開発指越旨、山中親五郎右衛門殿ヲ以平田源助様ヨリ被仰聞何分可任仰と答、則御公儀へも惣領之義二付町年寄ヲ頼御願申上候ヘハ、聞停候処古キ馴染之手筋二候間、勝手次第二仕候得と被仰渡候。

意訳変換しておくと
   平兵衛は、尾池家ノ惣領ではないが、長男の庄太郎に替って大野原開発に関わっていくこととなった。これについては、山中親五郎右衛門殿に対して平田源助様から事前に相談すると、丸亀藩としては、惣領として塩飽町の町年寄を継いで欲しいが、大野原開発に携わるのなら、古い馴染の手筋でもあるので、勝手次第にせよと許可が出た。


NO4 平田与左衛門が源助と改名した次第
平兵衛十一才ノニ月十一日ニ大野原へ罷越申候。其時分ハ源助様ヲ平田与左衛門様と申候へ共、御郡奉行二山路与左衛門様之御名指相申ニ付、源助と御改被成候。

意訳変換しておくと
こうして尾池平兵衛は11才の2月11日に大野原へやってきた。その時分は平田家の源助様は与左衛門と名乗っていた。ところが郡奉行が山路与左衛門様という御名の方になったために、源助と改名した。以後、平田与左衛門は平田源助となった。

尾池平兵衛覚書5・6・7

NO5  平田源助様(与左衛門正澄)と尾池平兵衛が大野原に参る

一、寛文三卯年二源助様ハ京都ヨリ御引越御下り被成候。平兵衛ハ寛文五巳年二参候。

意訳変換しておくと
寛文3年(1663)に平田源助様(与左衛門正澄)は京都から大野原へ移住してきた。平兵衛が大野原へ来たのは、その2年後の寛文5年のことである。

NO6 当時の手代のこと
其時分、手代ニハ山中五郎右衛門殿御公義被勤候。内證手代ハ多右衛門と申仁、夫婦台所賄方勤ル。廣瀬茂右衛門二も内證手代二候得共、五郎右衛門殿指合之砌ハ公用被勤候。
意訳変換しておくと
「その時分、手代は3人いた。一人は、御公儀向きの勤めをする山中五郎右衛門(備中屋藤左衛門の二男)、もう一人は、奥向きの台所賄いなどの仕事をする多右衛門夫婦、も一人は、広瀬茂右衛門で、台所賄い方や財政に関する仕事をしながら時には五郎右衛門が多忙な時には、公儀向きの仕事も助けた。

そこへ11歳の平兵衛がやって来ます。最初は見習いでしたが次第にめきめきと力を発揮し、やがて公儀向きの重要な仕事を任されるようになります。

  07 平田源助 吉田浄庵老の娘と結婚のこと
  先源助様之奥さま、嵯峨吉田浄庵老申御仁之御娘子、弐十四才二て寛文六午年四月二御下リ御婚礼。今之源助様御惣領奥様ハ、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿御親類先。角蔵与市殿ハニ子宛出生。以上廿四人在之由。十七人目ノ孫子ヲ吉田浄庵老御内室二被成候。其御内室様二も当地へ御下り二年御滞留、御名ハ寿清さまト申候。
  意訳変換しておくと
先の平田源助様の奥さまは、嵯峨吉田浄庵老と申す御仁の御娘子で、寛文六年(1666年4月2に大野原にお輿入れになった。今の源助様の惣領の奥様は、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿の親類から輿入れた方で、角蔵与市殿は子沢山で、24人に子どもが居たがその17人目ノ孫子が吉田浄庵老御内室になられた。その御内室様も当地へ御下りになり2年滞留された。名前は御名ハ寿清さまと申す。

尾池平兵衛覚書8JPG

NO8 仲間解散し、大野原を平田家が片づけることになった次第
 寛文之頃、先年之大野原請所中間(仲間)備中屋藤左衛門、米屋九郎兵衛、前方与市左衛門 取替申銀子指引も被致候。大野原も如何様各々評判被致候様二と催促申候ヘハ、右両人取替銀之返弁撫と申ハ不寄存候。然上ハ大野原ハ与左衛門殿へ片付候間、向後可為御進退と大野原不残与左衛門様へ片付候故、寛文頃方百姓方諸事之證文二平田与左衛門同市右衛門と為仕候。三嶋屋亦左衛門ハ、先年大野原ヲ欠落九州へ参候様二風間仕候。市右衛門様京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ御商賣二御下リ
 意訳変換しておくと
  寛文年間頃に、大野原開発の「中間(仲間)=開発組合」であった備中屋藤左衛門・米屋九郎兵衛・前方与市左衛門に対して、平田家が立て替えている費用の納期期限が近づいているので、支払いの用意があるかどうかの意向確認を行った。これに対して三者は、支払いは行わないとの返事であった。こうして三者が「仲間」から手を引いたので、今後の大野原開発は平田与左衛門殿が単独で行うことになった。寛文年間頃には百姓方諸事の證文には平田与左衛門と市右衛門の名前が見える。三嶋屋亦左衛門は、先年に大野原を欠落して九州へ云ったと風の噂に聞いた。市右衛門様
京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ商売のために下った。

「大野原総合開発事業」は平田家・備中屋・米屋・前方の四者が「中間(仲間)=商人連合体」を形成してスタートしました。その初期費用は、平田家が単独で支払うという内容でした。ちなみにこの事業に平田家がつぎ込んだが負担した費用は、借銀だけで約二百貫目に達します。最初の契約では、平田家が立替えた諸費用の半分を、備中屋たち3者が後に支払うことになっていました。
これについて『西讃府志』(667~668P)には、次のように記します。

「明暦三年十二月に至リテ、彼ノ三人ノ者与一左衛門ヨリ借レル銀、七百二十一貫ロニナレリ、是二於テ終二償フコトヲ得ズ、開地悉ク与一左衛門二譲り、翌ル年ヨリ与一左衛門ノ子与左衛門一人ノ引請トナリシカバ、与左衛門京師ヨリ家ヲ挙テ移り来り、遂二其功ヲトゲテ、世々此地ノ引受トナレリ」

意訳変換しておくと
「明暦三年(1657)12月になって、「仲間=開発組合」の借入銀は、721貫に達した。ここに至って、三者は借入金の1/6を支払うことができずに開発地の総てを平田与一左衛門に譲渡することになった。そうして翌年には与一左衛門の子である与左衛門が引請者として京都から一家で大野原にやってきた。こうして大野原は平田家の単独引受地となった。

ここから開墾開始から14年後の明暦3(1657)年には、「仲間三者」が手を引いて、大野原は平田一人の請所となり、仲間は解散してしまったことが分かります。

11歳で大野原へやって来た平兵衛(幼名:文四郎)の果たした役割は大きいと研究者は評します。
そのことについて「NO40 平兵衛功労のこと」で、自分の労苦を次のように記します。
14歳で年貢の請払という仕事の手伝いを始めた。17歳で元服し「平兵衛」を名乗るようになってからは、山中五郎右衛門の補佐をしながら丸亀勘定方との交渉役を勤めるようになった。平田家手代の中心であった五郎右衛門が亡くなると、もう一人の手代である広瀬茂右衛門とともに、大野原開発の全ての仕事を担うようになった。
 開発が軌道に乗るのは、延宝時代になってからで、大方の田畑が姿を見せ、新しく来た百姓たちも居付きはじめた。その頃、藩による検地が行われたが、私(平兵衛)はずっと一人で検地役人の相手を勤めた。そのうえ夜になると測量した野帳の間数や畝数、坪数を改めて清書し、検算した。それを私一人で行った。当時は19歳だった」
「今、考えてみるに、14歳から年貢方の請払いで大庄屋所の寄合に出席したり、知行新田の興賃の取り引きや稲の作付に関することの交渉をやってきた。17歳からは御公儀向きの仕事にのみ従事するようになった。私は相手が年長の旦那方であっても、何とか百姓たちが大野原に居付いてくれるように、一人で交渉し話し合ってきた。今になっては、我ながらよく勤めたものだと思っている」

若くして重要な仕事を任され、大人たちに交じって夢中で勤めを果し、一定の成果をあげてきたという平兵衛の自負が強く感じられると研究者は評します。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」

京都の養蚕(こかい)神社は、太秦の木島坐天照御魂神社の中にある境内社です。しかし、今では本社よりも有名になっているような気もします。この地は山城秦氏の本拠地で、秦氏は「ウズマサ」とも呼ばれました。古代の秦氏と太秦(うずまさ)関係を、まず見ておきましょう。
『日本書紀』雄略天皇十五年条には、秦酒公について次のように記されています。

秦酒公
秦酒公

詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公乃りて百八十種勝を領率ゐて、庸調(ちからつき)の絹練を奉献りて、朝庭(みかど)充積む。因りて姓を賜ひて㝢豆麻佐(うずまさ)と曰く。一に云はく、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、皆満て積める貌なり。

意訳変換しておくと
朝廷は詔して秦の民を集めて、秦酒公に授けた。以後秦酒公は百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて、庸調(ちからつき)の絹を奉献して、朝庭(みかど)に奉納した。そこで㝢豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った。一説には、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、絹が積み重ねられた様を伝えるとも云う。

ここからは、秦酒公が絹を貢納して「㝢豆麻佐(うずまさ)=太秦」とい姓を賜ったことが記されています。
その翌年の『日本書紀』の雄略紀16年7月条には、次のように記されています。

詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。

  ここには葛野に桑を植え、秦の民を入植させて、庸調として絹を貢納させたとあります。肥沃な深草エリアに比べると、葛野の地は標高も高く水利も悪い所です。当然、葛野の開発は深草よりも遅れたはずです。秦氏の各集団を動員して開拓させても、水田となしうる地は少なく、多くは畦地(陸田)だったことが予想できます。そこで秦氏が養蚕にとりくんだとしておきます。
『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)は、太秦公宿爾のことが次のように記されています。

太秦公宿爾(うずまさのきすくね) 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝く。男、融通王(一説は弓月王)、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・畠等の物を献りき。大鷺鵜天皇の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔して曰く。秦王の献れる糸・綿・絹品(きぬ)朕服用るに、柔軟にして、温暖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多(はた)と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を委積(うちつ)みて岳如(やまな)せり。天皇、嘉(め)でたまひ、号を賜ひて㝢都万佐(うずまさ)と曰ふ。
 
意訳変換しておくと
太秦公宿爾(うずまさのきすくね)は、中国の秦始皇帝の三世孫で、孝武王の系譜につながる。功満王は、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝した。融通王(一説は弓月王)は、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を引いて帰化した。その際に、金・銀・玉・絹等の物を貢納した。大鷺鵜天皇の御世に、127県の秦氏を、諸郡に分ち置いて、蚕を養い、絹を織る体制を作った。その貢納品について天皇は「秦王の納める糸・綿・絹品(きぬ)を服用してみると、柔軟で、暖いことは肌のようだ」と誉めた。そこで波多(はた)の姓を授けた。次に登呂志公や秦公酒は、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を朝廷に山のように積んで奉納した。天皇はこれを歓んで、㝢都万佐(うずまさ:太秦)という号を与えた。

ここには次のようなことが読み取れます
①秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされていたこと
②一時にやって来たのではなく、集団を引き連れて何波にも分かれて渡来してきたこと
③引率者は○○王と称され、金・銀・玉・絹等をヤマト政権の大王にプレゼントしていること
④ヤマト政権下の管理下に入り、糸・綿・絹品(きぬ)を貢納したこと
⑤それに対して㝢都万佐(うずまさ:太秦)の姓が与えられたこと

秦氏の渡来と活動

『新撰姓氏録』(山城国諸蕃)には、秦忌寸について次のように記されています。
秦忌寸 太秦公宿祓と同じき祖、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒(秦酒公)、大泊瀬稚武天皇臨囃の御世に、奏して称す。普洞上の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子、部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めじめたまひ、秦の民九十二部、 一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
  意訳変換しておくと
秦忌寸(いみき)は、太秦公宿祓と同じき祖先で、秦始皇帝の末裔である。(中略)
普洞王の息子の秦公酒は、秦の民が分散して諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いていた。そこで、大泊瀬稚武(おおはつせわかため)天皇に、次のように申し立てた。普洞王の時に、秦の民は総て分散させられて、今ではかつての十に一にも過ぎない数となってしまった。つきては、勅使を派遣して、検索して招集していただきたい。天皇はこれに応えて、使(つかい)、小子(ちいさこ)、部雷(べいかづち)を全国に派遣して、大隅や阿多の隼人等にも命じて、探索活動を行った。その結果、秦の民九十二部1867。人を見つけ出し、秦公酒に引き渡した。
 酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った
ここでは太秦公宿禰と同祖で、秦公酒の後裔、また摂津・河内国諸番に秦忌寸と同祖で弓月王の後裔であり、養蚕・絹織に秦氏が関係していたことが記されています。

さらに時代を下った『二代実録』仁和三年(887)7月17日条には、従五位下時原宿爾春風が朝臣姓を賜わった記事に、春風が次のように語ったことが次のように記されています。

自分は秦始皇帝の11世孫功満王の子孫で、功満王が帰化入朝のとき「珍宝蚕種等」を献じ奉った。

祖先が「蚕種」に関係したことを挙げています。子孫からしても秦氏と養蚕は切り離せないと思っていたことがうかがえます。

技術集団としての秦氏

『三国史記』新羅本紀には、始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕を奨めたと記します。
養蚕神社の祭祀者である秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人ですから新羅系とされます。『三国史記』の知証麻立14年(503)十月条には、古くは斯麿・新羅と称していた国号を、この年に「新羅」に定めたと記します。そして「新」は「徳業が日々に新たになる」、「羅」は「四方を網羅する」の意とします。しかし、その前から国号を、「シロ・シラ」といっていたので、新羅国は「白国」でした。
 6世紀になると秦氏の族長的な人物として活躍するのが、秦河勝(はたかわかつ)です。

秦川勝
            秦川勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
彼は、聖徳太子の側近として活躍する人物で、新羅使の導者を3回動めています。『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。
3つの半跏首位像 広隆寺・ソウル

大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教です。しかし、秦氏はそれ以前から弥勤信仰を重視する新羅の仏教を受けいれていた節が見られます。秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像です。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系で、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立しています。
『広隆寺来由記』には、白髪の天神が広隆寺守護のため新羅から飛来たと記します。こうしてみると「養蚕 ー 新羅 ー 秦氏」は一本の糸で結ばれています。「天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している」と研究者は考えています。天之日矛は新羅国の皇子です。

古墳時代の養蚕地域

この遺跡分布図は弥生から古墳時代前期の秦氏渡来前の養蚕・絹織地の分布を示しています。
 この遺跡分布図と天之日矛伝承地は、ほぼ重なります。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏の渡来時期のスタートは五世紀前後とされます。天之日矛伝承は垂仁紀のこととして記されています。そこから天之日矛伝承は秦氏渡来以前の新羅・加羅の渡来伝承とされます。そうすると、秦氏も先住渡来人エリアで、養蚕・絹織に従事したことが考えられます。そういう視点からすると分布図からは次のような事が読み取れます。
①北九州や日本海側の出雲・越前に多く、瀬戸内海側にはない。
②新羅系渡来人によって、日本海を通じて古代の養蚕は列島にもたらされた。
③その主役は新羅・秦氏で、それが新羅神社の白神信仰、白山神社の白山信仰につながる

どうして養蚕神社は木島坐天照御魂神社の境内社なのでしょうか?
それは、木島坐天照御魂神社の白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからだと研究者は考えています。
『三国遺事』が伝える新羅の延鳥郎・細鳥女伝説は、つぎのようなものです。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。

養蚕には桑の木が欠かせません。中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と呼びました。『礼記』にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」と記します。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑のこの由来からくるようです。
太陽の中に三本足の鳥がいるという伝承は、古くから中国にあり、新羅の延鳥郎・細鳥女も、日神祭祀にかかわる名のようです。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書きます。

以上をまとめておきます。
①渡来系の秦氏は深草にまず定着し、その後に太秦周辺の開発を進めた。
②水利の悪い太秦地区には、桑が植えられ先端テクノの養蚕地帯が秦氏によって形成された
③秦氏は多くの絹を朝廷に提供することで、官位を得た。
④また、そこに新羅系の白日信仰(日読み)の木島坐天照御魂神社や養蚕神社を建立した。
⑤養蚕や白日神信仰については「新羅 → 日本海 → 出雲 → 越前」という流れがうかがえる。
⑥仏教伝来期には、天皇家や蘇我氏に先行して氏寺を建立していた痕跡もうかがる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 綾氏の研究325P 養蚕(こかい)神社 秦氏と養蚕と白神信仰

木島坐天照御魂神社さんへ行ってきました | 京都市工務店 京町家工房
                   木島坐天照御魂神社

京都の木島坐天照御魂神社は、明治の神仏分離前までは秦氏の氏寺・広隆寺境内の最東端に鎮座してました。広隆寺と引き離されてからは、境内社の蚕養神社の方が有名になってしまって「蚕の社」と呼ばれることの方が多いようです。『延喜式』神名帳には、山城国葛野郡の条に「木島坐天照御魂神社」と記されています。天照御魂神社と称する寺院は、『延喜式』神名帳には、この神社以外には次の3つがあります。
大和国城上郡の他田坐天照御魂神社
大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社
摂津国島下郡の新屋坐天照御魂神社
この三社は、尾張氏と物部氏系氏族が祭祀していました。尾張氏は火明命、物部氏は饒速日命を祖としますが、『旧事本紀』(天孫本紀)は、両氏の始祖を一緒にして、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」
と記します。両氏の始祖を「天照国照彦」といっているのは、「天火明」「櫛玉饒速日」の両神を、「天照御魂神」とみていたからと研究者は考えています。それでは尾張氏・物部氏がという有力氏族が祭祀氏族だった天照御魂神を、渡来系の秦氏がどうして祀っていたのでしょうか? 
その謎を解くのが、わが国唯一とされる「三柱鳥居」だと研究者は考えています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

「三柱鳥居」は「三面鳥居」「三角鳥居」とも呼ばれますが、現在のものは享保年間(1716~36)に修復されたもののようです。この鳥居については、明治末に景教(キリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡で、これを祀る秦氏はユダヤの末裔という説が出されて、世間の話題となったようです。

西安碑林博物馆
          大秦(ローマ帝国)景教流行中国碑(長安碑林博物館)
この説を出したのは東京高等師範学校の教授佐伯好郎で、「太秦(萬豆麻佐)を論ず」という論文で次のように記します。

①唐の建中2年(782)に建てられた「大秦景教流行中国碑」が長安の太秦寺にあること
②三柱鳥居が太秦の地にあること
③三角を二つ重ねた印がユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること
④太秦にある大酒神社は元は「大辟神社」だが、「辟」は「聞」で、ダビデは「大開」と書かれること
以上から、木島坐天照御魂神社や大酒神社を祭祀する秦氏(太秦忌寸)は、遠くユダヤの地から東海の島国に流れ来たイスラエルの遺民だとしました。そして、秦氏に関する雄略紀の記事から、景教がわが国に入った時期を5世紀後半としました。しかし、景教が中国に入ったのは随唐帝国成立後のことで、正式に認められたのが638年のこですから佐伯説は成立しません。また「太秦」表記は、『続日本紀』の天平14年(742)8月5日条の、秦下島麻呂が「太秦公」姓を賜わったというのが初見です。したがって、「太秦」表記を根拠に景教説を立てるのも無理です。三柱鳥居についてこうした突飛もないような説が出るのは、他に類例のない鳥居だからでしょう。
この三柱鳥居は、何を遥拝するために建てられたのでしょうか?
それは冬至と夏至の朝日・夕日を遥拝するためで、その方位を示すための鳥居であると研究者は考えています。三柱鳥居と秦氏と関係の深い山の方位を図で見てみましょう。ここからは次のような事が読み取れます。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

①冬至の朝日は稲荷大社のある稲荷山から昇るが、この山は秦氏の聖地。
②夏至の朝日は比叡山系の主峯四明岳から昇るが、比叡(日枝)山の神も秦氏の信仰する山
③冬至に夕日が落ちる愛宕山は、白山開山の秦泰澄が開山したといわれている秦氏の山岳信仰の山
④夏至には夕陽が落ちる松尾山の日埼峯は秦氏が祀る松尾大社の聖地。
こうしてみると、冬至の朝日、夏至の夕日が、昇り落ちる山の麓にそれぞれ秦氏が奉斎する稲荷神社・松尾大社があり、その方向に、三柱を結ぶ正三角形の頂点が向いています。三柱を結ぶ正三角形の頂点のうち二点は、稲荷と松尾の三社を指し示します。もう一点は双ヶ丘です。

白日神は日読み神

研究者が注目するのは、双ヶ丘の三つの丘の古墳群です。
一番高い北側の一ノ丘(標高116m)からニノ丘・三ノ丘と低くなっていきます。一ノ丘の頂上には古墳が1基、 一ノ丘とニノ丘の鞍部に5基、三ノ丘周辺に13基あります。この内の一ノ丘頂上古墳は、秦氏の首長墓である太秦の蛇塚古墳の石室に次ぐ大規模石室を持ちます。

京都双ケ岡1号墳 秦氏の首長墓

日本歴史地名大系『京都市の地名』の「双ヶ丘古墳群」の項で1号墳について次のように記します。

「他の古墳に比べて墳丘や石室の規模が圧倒的に大きくしかも丘頂部に築造されているところからみて、嵯峨野一帯に点在する首長墓の系譜に連なるものであろう。築造の年代は、蛇塚古墳に続いて七世紀前半頃と推定される」

「一ノ丘とニノ丘の間に点在する古墳及び三ノ丘一帯の古墳は、いずれも径10mないし20mの円墳で、いわゆる古墳後期の群集墳である。(中略) 双ヶ丘古墳群は、その所在地からみて秦氏との関連が考えられ、墓域は若千離れているが、嵯峨野丘陵一帯の群集墳とも深いかかわりをもっているとみてよいだろう」

ここからは、双ヶ丘は嵯峨野一帯の秦氏の祖霊の眠る聖地で、三柱鳥居の正三角形の頂点は、それぞれ秦氏の聖地を指し示している記します。太陽が昇る方位だけでなく、沈む方位や祖霊の眠る墓所の方位を示していることは、この地も死と再生の祈りの地だったと云えそうです。その再生祈願の神が天照御魂神と研究者は考えています。

尾張氏や物部氏が祭祀する天照御魂神を、なぜ、渡来氏族の秦氏が祀るのでしょうか?
それは朝鮮でも同じ信仰があったからと研究者は推測します。白日神の信仰が朝鮮にあることは、『三国遺事』(1206~89)の日・月祭祀の延鳥郎・細鳥女伝承から推測できます。

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三国遺事には祭天儀礼をおこなった場所を「迎日県」と記します。迎日県は現在の慶尚北道迎日郡と浦項市に比定されているようです。向日と迎日の違いはありますが、迎日郡には白日峯があります。向日神社の冬至日の出方位に朝日山があるように、白日峯の冬至日の出方位(迎日県九竜浦邑長吉里)には迎日祭祀の山石があります。
白日神 韓国
                    九竜浦邑(慶州の真東)

この岩は「わかめ岩」と呼ばれ、 この地方の名産の海藻の採れるところだったようです。
『三国遺事』は、この地の延鳥郎・細鳥女伝説を次のように伝えます。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。
□「虎のしっぽの先」から海の向こうの日本を望みました! | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!
     「虎尾串(ホミゴッ)」の海を臨む公園にある「延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)」の像
延鳥郎は海藻を採りに行き、岩に乗って日本へ渡ったと『三国遺事』は記します。岩に乗る延鳥郎とは、海上の岩から昇る朝日の説話化でしょう。白日峯の冬至日の出方位にある雹岩は、太陽の岩なのでしょう。この岩礁地帯は現在も聖域になっているようです。以上からは、迎日祭祀が朝鮮でおこなわれていたことが分かります。
以上をまとめておくと
新羅の迎日県の白日峯にあたるのは、三柱鳥居の地からの迎日の稲荷山、比叡山系の四明岳
木島坐天照御魂神社の鎮座地は、白日神祭祀の聖地、祭場で、そこに三柱鳥居が建つ
ここでは秦氏が祀る天照御魂神社の三柱鳥居は、朝鮮の迎日祭祀の白日神の信仰と、稲荷大社にみられる祖霊信仰がミックスした信仰のシンボルとされていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究312P 木島坐天照御魂神社 ~三柱鳥居の謎と秦氏~



前回は「志呂志神社(近江日高島郡)の祭神は、賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神と同一神」という説を見てきました。今回は、白鬚(髪)神社(滋賀郡小松村大字鵜川)が比良明神と同一祭神を祀っているのではなかという説を見ていきます。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

白鬚神社 琵琶湖 秦氏
            白鬚(髪)神社と鳥居

白鬚神社は、比良山系の北端の断崖が琵琶湖の西岸にせまる高島町鵜川の明神崎の突端に鎮座します。湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号線をはさんで社殿が建ちます。「白鬚さん」「明神さん」の名で広く親しまれ、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれているようです。「白家(髪)」という社名は、弘安2年(1280)前後に書かれた「比良荘堺相論絵図」が初見のようです。

比良荘堺相論絵図 白鬚神社
             比良荘堺相論絵図 (白カミ明神と表記されている)
それ以前は白鬚神社は「比良宮」と呼ばれていたことが次の史料からは分かります。
①平安時代中期の文献を編集した『天満宮託宣記』に「比良宮」
②『最鎮記文』(貞元2年(977)には、「近江国高嶋郡比良郷」
③『三代実録』貞観7年(865)正月十八日条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」
④社伝にも「天武天皇の御代に比良明神と称した」とあること
⑤保延6年(1140)の『七大寺巡礼私記』古老伝の引用に、比良明神が老翁として現れたとあること。
⑤に描かれた老翁のイメージが、白髪神になるようです。古代は比良明神と呼ばれていたのが、中世になって白鬚神社と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

白髪神社 なるこ参り

白髪神社の秋の大祭(9月5日・6日)には、「なる子まいり」という神事が行われます。
数え年で2歳の子どもに神様から名前を授かるのです。子ども連れでお参りし、本名とは別に神様からいただいた名前で3日間その子を呼ぶと、無事に一生幸福の御守護があるといわれています。かつては、北は福井、南は京阪神方面から多くの人が「なる子まいり」に参詣していました。「なる子」は「成る子」です。産屋を「シラ」ということからみても、白(比良)神を祀る白髪神社にふさわしい祭です。
古事記には、この「なる子まいり」の伝承が次のように記されています。

建内宿禰が品陀和気命(応神天皇)を連れて、近江・若狭を経て越前の角鹿に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中に伊奢沙和気大神(気比大神)が現れ、神の名を名乗るようにいわれ、名を易えた。

ここでは気比大神と太子が互いに名を交換したとありますが、そうではなくて、太子が気比大神の神名に名を改めたのであり、「なる子まいり」の名替えと同じだと研究者は考えています。白神信仰には「死と再生」観念がテーマとしてありますが、ここではそれが「変身」という形で改名伝承に示されています。
ホムタワケは近江・若狭を巡幸したあと角鹿に仮宮を建てて住んだとあります。仮宮は霜月神楽の「白山」です。死装束をして「白山」に入り、籠りが終わって「白山」から出た人を「神の子」としました。品陀和気命が、仮宮に籠っているときに見た夢の啓示で、気比大神の神名(イササワケ)に改名します。これは白山儀礼と同じ死と再生の儀礼です。「なる子まいり」で別名を名乗ることによって健康に成育し幸福な生涯をおくれるのは、神の子として生まれかわるからです。「成る子」の「成る」は再生の「ナル」と研究者は考えています。このような再生の生命力が、「白神」の霊力であり、神威なのでしょう。
沖縄では、産屋を「シラ」と呼びます。

産屋(そら知らなんだ ふるさと丹後-71-)

白山としての仮宮は、神の子として再生するための産屋と考えられます。日本書紀にも、産屋を海辺に作って鵜の羽で葺いた記事が出てきます。白髪神社があるのは「鵜川」で、鵜の羽で葺いた産屋を川辺に建てたことによる地名と研究者は推測します。そう考えれば、白神が鵜川に鎮座することや、「なる子まいり」の意味が見えて来ます。
  敦賀半島の西北端の敦賀市白木浦の式内社の白城神社の産屋を見ておきましょう。

白城神社[敦賀市白木・式内社]: 神なび

この神社は、かつては鵜羽明神と呼ばれたようです。「鵜羽」は「鵜川」よりもはっきりと産屋の存在を示します。白木では、お産のたびに産屋を焼いて建て直したようです。
  谷川健一は、この習俗を記・紀の火中出生諄に結びつけ、次のように記します。
  どうして産屋に砂を敷くか?それは砂や上の上にワラをおけば、床板の隙間から風が人りこむというような寒い日にあわなくてもすむということがある。その上、砂は地熱をもつ。こうした実際の効用のほかにもう一つの意味がウブスナにはかくされていると私はおもう。
 常宮(白木と同じ敦賀半島にある地名、気比神宮の摂社常宮神社がある)で、次のような話を聞いた。海のなぎさのそばに産屋をたて、砂を床にして子どもを産むのを、まるで海亀のようだと地元の人びとは話しあったという。海亀は季節をさだめて海の彼方からやってき、砂に穴を掘って卵を産みつけ、その卵を地熱によって孵化させる。この海亀を連想したということは、もともとなぎさの近くで産屋をたてて子どもを産むという行為が、海亀や鮫などわだつみを本つ国とする海の動物たちの産卵にあやかったのではないかという類推へと私をみちびく。(中略)
 事実、白木や丹生の定置網には海亀がたまに入ることがあるという。また、この地域では、「砂の上で生まれたので亀の子と一緒」といわれているという。
研究者はこの記述と『日本書紀』の垂仁天皇34年3月2日条の、次の三尾君の始祖伝承を重ね合わせます。
天皇が山城国に行幸したとき、綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいることを聞き、矛を執って祈いをして、「必ずその美人に会いたいので、道の途中で瑞兆が現れてほしい」というと、行宮に至るころに大亀が河の中から出てきた。その亀を大皇が矛で刺したところ、たちまち亀が白石に化したので、天皇は側近の者に、「このものによって推しはかると、かならず霊験があるだろう」といった。そして、後宮に召された綺戸辺は、三尾君の始祖の磐衝別命を生んだという。

 大亀が河にいるはずはないから、もともとは海浜の伝承だったのかもしれません。亀が白石になったというのは、亀が海辺に卵を残していたのでしょう。それが亀が矛で刺されて白石に化したという変身・転生説話になったようです。ここにも白神信仰のモチーフである「死と再生」が見られます。

大原の産屋

これは、次の垂仁紀の二年条の大加羅国の王子都怒我阿羅斯等の白石の話と共通します。

ツヌガアラシトが国にいたとき、ある村で自分の牛が行方不明になった。調べてみると、殺されて食われてしまったことがわかったので、その代償に、村で祀っている神がほしいといった。そこで村人は白石を献じた。やがてこの白石が美しい乙女になったので、妻にしたが、いつしかいなくなってしまった。行方をきくと、日本に行ったというので、追って日本へ来たという(この白石は豊国国前郡と難波の比売許曽社の神だとある)。

美人と白石と求婚のモチーフは、どちらの話にも共通しています。たぶん、白石が美人になった話が変型して、三尾君の始祖伝承になったと研究者は考えています。両者の内容を要約すると
①亀が白石になって、白石が美女に変じる転生・変身説話で、白石は卵のイメージ
②三尾君は越前・加賀・能登ともかかわり、ツヌガアラシトは越前・敦賀にかかわること
③越前の気比浦にアラシトは着いたとあること
④気比神宮の摂社の角鹿神社は、ツヌガアラシトを祀っていること
白日神に関わる白石伝承が日本海側の越前から近江に拡がっていたことがうかがえます。

こうして見てくるとホムタワケ(応神天皇)の改名伝承は、白髪神社の「なる子まいり」と重なります。
「なる子まいり」の神事は、転生・変身の「シラ」神事です。改名が健康・招福を約束するように、亀が白石に変ずるのも祥瑞です。これらの伝承が「白」のつく神社にあります。ここには朝鮮半島からの渡来人にかかわっていることになります。加羅・新羅の卵生伝承と亀旨峯降臨神話と、亀が白石に変じた話は、日本海を越えてもたらされた神話だと研究者は考えています。

鵜羽明神と呼ばれる白城神社の祭神について、『特選神名牒』は次のように記します。

「白城は新羅とて新羅の神なるべし。新撰姓氏録に、新良貴。彦波激武鵬鵜草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王之祖也、とみえ、神社頚録に今鵜羽明神と称すとあるを思ふに、新羅の天日矛の後裔此国に留り、其遠祖鵜葺不合尊又は稲飯命を白城神と祭れるならん、地名の白城も新羅人の住ゐより起れる名なるべし」

意訳変換しておくと
白城は新羅で、新羅の神であろう。新撰姓氏録に、「新良貴は新羅の国王で、稲飯命は新羅国王の祖先である」と書かれている。神社頚録には鵜羽明神とあるを見ると、新羅の天日矛の子孫がこの国に留って、遠祖である鵜葺不合尊や稲飯命を白城神として祀ったのではなかろうか。地名の白城も新羅人が住んでいたことに由来するのであろう。

『大日本史』には次のように記します。
「今在・白木浦・称白木明神又鵜羽明神、蓋祀二新良貴氏祖稲飯命ことあり

稲飯命
稲飯命について、紀記は次のように記します。
『日本書紀』は、「剣を抜きて海に入りて、鋤持神となる」
『古事記』は、「批の国として、海原に入り坐しき」

『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従いますが熊野に進んで行くときに暴風に遭います。「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとします。「鋤持神」については、『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」が登場します。これらは鰐(わに)の別称とされます。『古事記』の神話では、山幸彦は海神宮から葦原中国に送ってくれたワニに小刀をつけて帰したと記します。ここからは「さい」とは刀剣を指し、鰐の歯の鋭い様に由来すると研究者は考えています。『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(クレイノウマサヒ)」などが登場するので、朝鮮半島から伝来した利剣を表すともされます。また『新撰姓氏録』は、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝があります。
『古事記』には稲飯命の事績は何も書かれて折らず、稲飯命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されています。
 高句麗の建国神話で、建国の祖・高朱蒙が次のように尋ねます

「私は天孫(太陽の子)で河伯の外孫である。今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚やが浮かんで橋を作り、朱蒙らは川を渡ることができた

この高句麗の建国神話と、山幸彦の話は重なりあうところがあります。

それでは「批の国」は、どこなのでしょうか。

『古事記』は須佐之男命についても、「批の国根の堅州国」へ行ったと記します。『日本書紀』は「根国」と書き一書の四に、「新羅に天降り、五十猛命と船で出雲へ来た」と記します。ここからは、根国を新羅とみていることが分かります。日本海沿岸の人々にとって、批(はは)の国・根の国は日本海の彼方にあり、その地が新羅と考えられていたようです。そのような中で、秦氏は朝鮮半島の神々をこの国に伝え、信仰し、さまざまな神社を建立したことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髪神社~白神信仰と秦氏~」


『古事記』の大年神神統譜には、兄弟神として白日神・韓神・曽宮理神・聖神が記されています。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘

大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神
  この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。今回は、この五兄弟の中の白日神について見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

西日長男は、白日神と志呂志神の関係について、次のように記します。

式神名帳に所載の近江日高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今、鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が「志呂志」に転訛したものではなかろうか。
 即ち、志呂志神社の祭神は、日吉三宮(今の大宮)の祭神大山昨神や賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神で、そのために日吉三宮と呼ばれたのではあるまいか。そうして、この志呂志神社は滋賀郡小松村大字鵜川に鎮座の白髭神社、即ち、かの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して『比良神」が『夷神』で蕃神の意であろうことは殆ど疑いを納れないであろう。

西田長男のいう「蕃神」は、「新撰姓氏録』が渡来系氏族を「諸蕃」としたことをうけた表現です。
  秦氏らによって信仰された渡来系の神々ということになります。ここでは、「白日が志呂志に転じた」という説を押さえておきます。
志呂志(しろし)神社境内にあった古墳を見ておきましょう。

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志呂志神社の森
高島市南部の鴨川とその北を流れる八田川が合流する南側の小さな森に志呂志神社は鎮座します。
かつての境内の中にあったのが高島市唯一の前方後円墳とされる鴨稲荷山古墳です。明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴式石室から擬灰岩製家形石棺が発見され、石棺から遺物が出土しました。更に大正12年、梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、金鋼製冠、双魚侃、沓などの金、金鋼製の装飾品が出土します。
注目したいのは、副葬品が「朝鮮半島直輸入」的なものが多いことです。

伽耶の新羅風イヤリング. 陝川玉田M4号墳jpg
伽耶の新羅風イヤリング(陝川玉田M4号墳)

鴨稲荷山古墳出土の耳飾り

冠(復元品)

                      沓(復元品)
①冠と耳飾りは、新羅の王都慶州の金冠塚の出土品
②沓も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類
③水品切子玉、玉髄製切子玉、琥珀製切子玉、内行花文鏡、双竜環頭大刀、鹿角製大刀、鹿角製刀子などのうちで、環頭大刀、鹿角製刀子は朝鮮半島に類似品あり。
④棺外からは馬具と須恵器が出土
京国大学による鴨稲荷山古墳の発掘調査書(1922年(大正11年)7月)は、次のように記します。
被葬者の性別は
「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」
「(副葬品については)日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」
出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとします。
「(被葬者の出自については)此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」
と、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っています。
そして「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘します。

被葬者についてはよく分からないようです。『日本書紀』継体天皇即位前条には、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたと記します。継体天皇の在位は6世紀前半とされ、三尾氏からは2人の妃が嫁いでいます。そのため被葬者としては三尾氏の首長とする説があります。しかし、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」と否定的な意見もあるようです。いろいろな候補者はありますが、本命はいないようです。
 この古墳が鴨稲荷山古墳と呼ばれていたことを見ておきましょう。
志呂志神社はの地名は「高島町大字鴨」で、その名の通りかつての鴨村です。
鴨というのは、上賀茂(賀茂別雷)神社の社領だったからで、上賀茂神社の祭祀に秦氏や秦氏奉斎の松尾大社社司が関わっていました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

また、稲荷山古墳というのも古墳上に稲荷神社が勧進され祀られていたからです。古墳の上に稲荷神社が祀られるのは、伏見大社の修験者たちが「お塚信仰」を拡げ、稲荷神社を古墳に勧進したからだったことは以前にお話ししました。以上のような状況証拠を重ねると、稲荷社や志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀だったことがうかがえます。この古墳の被葬者を、秦氏は自分たちの祖先として信仰していた可能性があります。

  最初に見た「白日神=志呂志神」説を、見ていくことにします。

蚕の社ー木嶋坐天照御魂神社

木島坐天照御魂神社(木島神社)の中にある向日神社は白日神を祭り、秦(秦物集氏)が信仰していたことは以前に次のようにお話ししました。

①向日神社は、朝日山から昇る冬至の朝日、日の岡から昇る夏至の朝日の遥拝地
②朝鮮の慶尚北道迎日郡の白日峯が海岸の雹岩から昇る冬至の朝日の遥拝地

これに対して、志呂志神社から見た冬至日の出方位は、竜ヶ岳山頂(1100m)、夏至日の出方位は、見月山山頂(1234m)になります。志呂志神社も向日神と関係があるようです。
向日神について南方熊楠は、次のように記します。
「万葉集に家や地所を詠むとて、日に向ふとか日に背くとか言うたのが屡ば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及せば、尤も注意を要した筈だ。又日景の方向と増減を見て季節時日を知る事、今も田舎にに少なからぬ。随って察すれば頒暦など夢にも行れぬ世には、此点に注意して宮や塚を立て、其影を観て略時節を知た処も本邦に有ただろう。されば向日神は日の方向から家相地相と暦日を察するを司った神と愚考す」
意訳変換しておくと
「万葉集で家や地所について詠んだ歌には、「日に向ふ」とか「日に背く」という表現がある。日当りは、農耕や木地には大きな影響をもたらすばかりか、様々な点で未熟な時代だった古代には、生活や健康にも大きな影響をもたらし、そのことには注意を払ったはずだ。日の出・日の入りの方向と増減を見て季節や時日を知ることは、今でも田舎ではよく用いられている。とすれば暦の配布などがない時代には宮や塚を立て、その影を観て時節を知たこともあったろう。そうだとすれば向日神は、日の方向から家相地相と暦日を察することを司った神と私は考える」

そして次のようにも記します。(意訳要約)
  オリエンテーションとは、日の出の方向を基準として方位や暦目(空間と時間)をきめること。「方位」という言葉はラテン語の「昇る」からきている。ストーンヘンジについては、中軸線が夏至の日の出線になり、その他の石の組合せによって日と月の出入りが観測できるので、古代の天文観測所とする説がある。また、神殿の集会所とする説もある。

冬至や夏至の「観測」を、わが国では「日読み」といったようです。
「日読み」は重要な「マツリゴト」でもありました。「日」という漢字には「コヨミ(暦)」の意味もあります。『左氏伝』に「天子有・日官、諸候有二日御」とあり、その注に、「日官・日御は暦数を典じる者」とあります。向日神社が「日読み」の神社であることは、冬至・夏至日の出方向に朝日山・日の岡があることからも推測できます。もうひとつは白日神の兄弟神に聖神がいることです。柳田国男は、「聖は「日知り」だと云います。そうだとすれば、「日読み」と「日知り」の神が兄弟神なのは当然です。
秦氏が信仰する木島坐天照御魂神社も、白日神社です。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

この神社にある三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」と研究者は考えています。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

志呂志神社、向日神社、木島坐天照御魂神社は、かつては川のそばにあったようです。

ここにも朝鮮神話と結びつく要素があります。新羅の白日峯の夏至日の出遥拝線上の基点に悶川があります。朝鮮語の「アル」は日本語の「アレ(生れ)」です。この川のほとりに新羅の始祖王赫居世が降臨します。「赫」は太陽光輝の「白日」のことで、アグ沼のほとりで日光に感精した女の話が『古事記』の新羅国王子天之日矛説話に載せられています。このアグ沼も悶川と同じです。三品彰英は、経井を「みあれの泉」「日の泉」とします。  川・沼・井(泉)などのそばで日女(ひるめ)が日光(白日)を受けて日の御子(神の子)を生むのは、日の御女が「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の人だからと研究者は推測します。
以上をまとめておきます。

白日神は日読み神

①大年神神統譜に出てくる兄弟神「白日神・韓神・曽宮理神・聖神」は、渡来系の神々である。
②『白日神』=「志呂志」=「白髪神」である。
③白日神を祀る近江高島町鴨の志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀が行われていた
④冬至や夏至の「観測」は「日読み」で、白日神は日読みの神で、聖(日知り)神でもあった。 
⑤「日読み」は重要な「マツリゴト」で、「日」という漢字には「コヨミ」の意味もあった。
⑥ 木島坐天照御魂神社の三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」で、この神社も白日神が祀られていた。
⑦『古事記』の「新羅国王子天之日矛説話」からは、これらの神々が朝鮮半島の神々であったことがうかがえる。
⑧川・沼・井(泉)などのそばで日女が日の御子(神の子)を生むのは、「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の「先端技術知識者」であったから。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~

史談会2024年12月 白川琢磨No4

白川琢磨先生の4回目のお話しになります。いよいよ讃岐の身近な例を題材に「神仏分離」のお話しが聞けそうです。興味と時間のある方の来訪を歓迎します。なお、当日会場で今回のテキスト的な書物である以下の書籍を販売します。興味と資力のある方はお買い求め下さい。4620円です。おつりの要らないようにお願いします。
顕密のハビトゥス―神仏習合の宗教人類学的研究


福井県立歴史博物館│泰澄展

白山開山者とされる泰澄については、信頼できる基本的な史料が少なく架空の人物であるという説もあるようです。そのような中で白山神社のHPには、泰澄のことが次のように記されています。
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。
霊亀2年(716)、泰澄は夢で虚空から現われた女神に「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。
白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。
ここには泰澄が秦氏出身であることは、何も触れられいません。『泰澄和尚伝記』には、泰澄は俗姓が三神氏で、越前国麻生津の三神安角の2男とあります。母は伊野氏で白玉の水精を取って懐中に入る夢を見て懐妊し、天武天皇11年(682)6月11日に誕生したと記します。

泰澄和尚伝記』大谷寺本(越知山大谷寺所蔵)
泰澄和尚伝記

次に「泰澄=秦氏出身」説を、別の史料で追いかけます。『白山大鏡』(鎌倉時代成立?)は、泰澄について次のように記します。
越前国足羽南郡阿佐宇津渡守 為泰角於父生古志路行者秦泰澄大徳

意訳変換しておくと

泰澄の父は越前国足羽南郡阿佐宇津の渡守で泰角於である。 古志路行者の秦泰澄大徳

ここからは泰澄の父が阿佐宇津(麻生津)の渡守(津守)で、泰澄にも秦の姓が付けられています。
麻生津とは福井市浅水町付近とされ、その南に泰澄寺(福井市三十八社町)が現存し、生誕の地とされているようです。

泰澄寺
                      
麻生津が文献に登場するのは『和名類聚抄』で、「丹生郡朝津郷訓阿佐布豆」、『延喜式』巻第28の兵部省では「朝津 駅馬 伝馬各五疋」と記します。津という表記と周囲に浅水川があるので河川交通の要所で、北陸道の朝津駅の付近から陸上交通の拠点であったことが分かります。日本海交易の受口として、朝鮮半島などからもさまざまな人とモノが行き交う所であったことがうかがえます。天台宗僧の光宗の著した『渓嵐拾葉集』(正和3年(1314)成立)にも「越州浅津船渡子」と記します。泰澄の父が船守であったという伝承も、麻生津という地域性から来るものなのでしょう。同時に、秦氏は瀬戸内海でも海運業に携わるものが多かったことは以前にお話ししました。日本海交易を通じて、広いネットワークをもっていたことが考えられます。

技術集団としての秦氏

泰澄の生誕地とされる麻生津の地には、今市岩畑遺跡(福井市今市町)があります。
発掘調査により奈良時代の遺構・遺物が数多く発見され、仏教色の強い遺物も含まれていました。研究者が注目するのは「大徳」と記された墨書土器です。これは8世紀のもので、越前町の佐々生窯跡の丹生窯産とされています。大いなる「徳」とすれば、泰澄は「越の大徳」とも称されていました。泰澄の生まれた伝承地で、この土器が出てきたことに意味があります。

『元亨釈書』(巻十五、方応の部)には、泰澄の母伊野は「白玉」が懐に入るのを夢に見て泰澄を身ごもったと記します。
これは朝鮮半島の神話にもよく出てくるパターンだと研究者は指摘します。加羅の皇子・角鹿阿羅斯等(つぬがあらしひと)の妻はもともと白石で、新羅の王子天日矛の妻は赤玉でした。白玉を懐中にして妊娠した伊野は、白石・赤玉から美女になったヒメコソ神と共通します。加羅・新羅の始祖王の卵生伝承の卵が、白玉になったとあります。「白玉伝説」を持つ泰澄が秦氏出身であることがますます深まります。
継体天皇の考察④(越前の豪族)|古代史勉強家(小嶋浩毅)

それでは、当時の足羽郡に秦氏はいたのでしょうか? 
天平神護1年(766)10月の『越前日司解』に、次の氏名が見えます。
足羽郷 秦文鷹秦荒海・秦文、
家郷 秦前田麿、前多鷹(前田麿の子)・秦安倍、
利刈郷 秦井出月魔
伊濃郷 秦八千麻呂
こうしてみると、足羽郡には秦氏一族がいたことが分かります。泰澄が秦角於の子であってもおかしくないようです。
渡来集団 秦氏とは?

泰澄は丹生郡の越知峯に籠って修行したとされます。今度は丹生郡を見ておきましょう。
『越前国司解』には、丹生郡人として泰嶋圭、丹生郡弥太郷に秦得麿の名があります。泰澄の父といわれる茶角於は、阿佐宇津の渡守(津守)ですが、敦賀郡の津守郷には秦下子公麿がいます。『日本古代人名辞典』(第5巻)は、8世紀の越前の秦氏として、秦16人、秦人部2人をあげています。この地域には秦氏の一族が勢力を持っていたことが分かります。

越前の八坂神社
八坂神社
越前の八坂神社・泰澄の道

越知山の麓に鎮座するのが八坂神社です。ここには泰澄伝承はありませんが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとされます。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺があります。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像のようです。

越知神社|おすすめの観光スポット|【公式】福井県 観光/旅行サイト | ふくいドットコム
 
 泰澄の最初の修行地とされる越知山の山頂からは近年、奈良時代の須恵器が採取されているようです。丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のものなので、誰かが奈良時代に持ってあがったのでしょう。それを残した人物が泰澄かどうかはわかりませんが、奈良時代には越知山周辺では山林修行者が活動していたことが分かります。

最初に見たHPには「白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治した」とありました。京都での活躍ぶりを見ておきましょう。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

京都の木島坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は木嶋神社(このしまじんじゃ)」や「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれ、古くから祈雨の神として信仰された神社です。境内には珍しい三柱鳥居があることで知られています。この神社の愛宕山は、秦氏の山岳信仰の聖山です。愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中に役小角と雲遍上人(泰澄)が愛宕山に登り、山嶺を開き、朝日峯に神社を造立したのにはじまると記します。ここに出てくる「予云遍上人」は泰澄のことで、愛宕山も「白山」とも呼ばれます。ここからは山城国の泰氏の本拠地の「白山(愛宕山)」の開山も泰澄とされています。「泰澄=秦氏出身」はますます強まります。
今度は、白山の三つの山(御前峰。大己貴岳・別山)を見ておきましょう。
御前峰に白山妙理大菩薩が鎮座したために、それまでの御前峰の地主神は別山に移ったという伝承があります。これについて、水谷慶一は次のように記します。

「『白山』を現今の朝鮮語の発音でよめば「ペッサン」の声になるが、これが案外、『別山』の名称の起りではなかろうか。朝鮮語では濁音と半濁音の区別がないので、ペッサンはベツサンでもいい。

ここからは次のようなストーリーが考えられます。
①古墳時代に、白山は「ペッサン」と呼ばれた
②奈良時代に仏教が入るとベッサン(白山)神が最高峰の御前峰を仏教系の白山妙理大菩薩に明け渡して鎮座の場所を移した。
③その際に、名称も共に移動して、『別山』と称するようになった
④『泰澄和尚伝』が別山を「小白山」と書いていることがそれを裏付けらる。

朝鮮には、儒教式祭祀以外に、巫女が主催する別神クッ・都堂クッといわれる部落祭があります。
クッは、儒教の祭に対してシャーマニズム、巫式の祭で、古い型とされます。このクッを、江原道・慶尚道などの日本海側の地域で、特に「別神クッ」「別神祭」と呼んでいるようです。この地域は「狛」とされた地で、日本海を通じて、加賀白山につながります。「別山=白山」とすれば、「別神=白神」となります。
別神祭は、3年か5年ないし10年など周年ごとに営まれる盛大な祭で、この祭には仮面劇がおこなわれます。別神祭の仮面劇には、「死と再生」の場面が含まれていると研究者は指摘します。こうしてみてくると、白山信仰も死と再生の信仰なので、両者がつながります。
 白山の別山を小白山と呼ぶのは、大(太)白山に対しての表現です。
朝鮮の太白山祠について、『東国興地勝覧』(巻四十四。三防祠廟)は、次のように記します。

「太白山祠 在山頂 俗称天王堂」、「春秋祀之」

『虚白堂集』(巻11)には、太白山祠の神は4月8日に村の城陛(部落の聖域)に降臨し、村に留まって村人から旗施鼓笛の盛大な迎接を受け、5月5日に山祠に戻ると記します。4月8日に山の神が里に降りる例は、日本各地にも見られます。ただ、日本の山の神が山へ戻るのは秋です。その点が朝鮮半島とは異なるようです。ただ、太白山神は、普通の山の神ではなく、恐ろしい神のようです。「鬼涯」(『成宗実録』巻236)には次のように記します。

「吉凶立応 前有太守死者数人 皆曰 白頭翁為祟 人心尤畏忌 或曰 夢見白頭者 皆死」(『林下筆記』巻十六)

意訳変換しておくと

「この山の祟りで太守が数人亡くなった。そこで皆が云うには白頭山の祟りであると。人々はこれを非常に怖れた。また、白頭山の夢を見た者は皆死すると」

ここからは太白山神が鬼神・白頭翁と化して崇る神であったことが分かります。これは白山神が陰神、崇神といわれるのと共通しています。このような朝鮮半島の祭祀・信仰は、日本列島と無関係ではありません。

朝鮮半島から日本に入って来た信仰のひとつに韓神(カラカミ)信仰があります。
浅香年木は「韓神からのかみ)信仰」の越前への広がりについて、次のように述べています。
韓神信仰と申しますのは『日本書紀』の皇極天皇元年(642)条に、「村々の祝(ほふり)の教えのままに、或いは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る」という表現で登場する信仰です。(中略)
 この韓神信仰で、注目したいのは分布の特異性にあります。厳しい抑圧の対象とされておりました韓神信仰は、もとより広い範囲に定着していたはずでありますが、延暦十年(791)の禁令が出されている地域は、伊勢・尾張・近江・美濃・紀伊若狭・越前の七カ国、だいたいお分かりと思いますが、紀伊半島から、中部地方の西側を廻って、越前までです。いまの石川県の辺りまでの範囲に相当しますが、この七カ国を対象に特に禁制が強化されております。さらに10年後の延暦20年(801)には、 この七カ国のなかでも、特に北陸道のみに限定して、国家権力が厳しい弾圧令を試みております。ここからは北陸道の、特にこの越前国やその周辺地域において、韓神信仰が広く信仰されていたというふうに理解されるのであります」
ここからは、次のような事が読み取れます。
①韓神信仰は祭礼で、牛馬を殺して神に捧げるものがあり、日本ではたびたび禁止とされていたこと
②延暦十年(791年)の禁令では、伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、若狭、越前の7か国を対象に、特に禁制が強化されていること
③その10年後の延暦二十年(801年)には北陸道のみに限定して厳しい禁制が行われていること
④以上から北陸には根強い韓神信仰があったこと

「日本霊異記」にも、8世紀の中頃、摂津国の金持が、年ごとに一頭の牛を殺して韓神の祭に用いたとことが記されています。このような「殺牛用祭韓神」に対する禁令に、越前の人々が応じなかったことも、白山信仰と韓神信仰が無関係でないことがうかがえます。
どうして、牛を殺していたのでしょうか?
『東国興地勝覧』の太白山祠の春と秋の祭の「繋牛於神坐前、狼狽不顧而走」を、『林下筆記』(巻16)は、「山下人殺食 無災謂之退牛」と記します。ここからは、もともとは牛を殺して食べていたのが禁じられたため、「繋牛於神坐前、……而走」となったようです。これは「山下人殺食……」に続いて次のように記されていることからもうかがえます。

「官荷聞之 定監考曰納於官邑人厭牛会 有山僧沖学 焚其祠 妖祠乃亡 因無献牛之事 監考亦廃」

これを金烈圭は「殺食無災」について、「食べても災がない」と読み下し、これは「たんなる食肉ではない。呪術的食肉である」として、次のように推察します。
生の牛肉を食べることによって、神に接することができると信じた事例があることから、呪術的食肉の傍証が成り立つ。牛を食べるということは、牛が象徴する生成力を所有するようになることを意味する。虎肉を食べて山にはいれば、獣や鬼神を防ぐことができるという俗信も、呪術的食肉から由来したものである。食牛は、2つの意味をもっている。
 第一は、祠神に捧げられたために、祠神の力が加わった牛であるという考えである。この意味からすると、その牛は祠神と同一である。その牛肉を食べるのは、少なくともその祠神の力を分与してもらうことを意味する。
 第二にこの祠神は、白頭翁として象徴される恐ろしい山神である。その山神の患は、虎患であると思われる。山神に捧げられても無事な牛は、その山神に勝った牛である。したがって、その牛肉を食べることは、山神に勝つ力を所有するという意味になる。どちらの食牛の意味をとっても、呪術的食肉は、 マナ(Mana)の所有を意味している。

「牛を殺して韓神を祭るのに用いる」という『日本霊異記』の記事を、牛を生け贄とし捧げたとみる説があります。しかし、もともとは「殺食(食牛)」のためで、越前の「殺牛」も「殺食」だった研究者は判断します。この「殺食」が行われる場所は、「鬼涯」と呼ばれる太白山祠の「山下」でした。「祠神」とは、「鬼涯」の白山神のことです。こうして見ると、「殺食」が越前で盛んにおこなわれたのは、そこが白山の山下であったことが考えられます。金烈圭は「牛食」を死と再生の「生成力象徴」の儀礼とみます。白山信仰の儀礼も死と再生の儀礼ですから、両者の信仰の本質は同じです。韓神信仰と白山信仰はつながります。
もうひとつ秦氏の神々を見ておきましょう。
伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘で、大年神(おおとしのかみ)と結婚して
次の5神を生みます。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘
大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神

大国御魂神(おおくにみたまのかみ)
韓神(からのかみ)
曾富理神(そほりのかみ)
白日神(しらひのかみ)
聖神(ひじりのかみ)
この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。
 「韓神」の名を持つ神としては、『延喜式』神名帳の「宮内省に坐す神三座」に「薗神社」と共に「韓神社二座」が記されています。
園韓神社 - 園韓神社の概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書
平安京の韓神社二座
この神社は『江家次第』『古事談』『塵袋』『年中行事秘抄』などに、平安京以前から鎮座していたことが記されています。この神社を内裏建設の際に、別の場所に遷座させようとしたところ託宣があって、帝王の守護として留まって宮内省に鎮座したと伝わります。そして、その鎮座する大内裏は、もと秦河勝の邸宅跡の地であるというのです。ここからも、これらの神は秦氏の地主神としての性格を持つと考えられます。
秦氏の渡来と活動

秦氏は、渡来系の技術者集団として何波にも分かれて列島にやってきました。それをヤマト政権や各地の勢力は、迎え入れて勢力下に入植させていきます。そこには、人とモノだけでなく信仰ももたらされました。それが八幡・稲荷・白山信仰として定着していきます。そのような延長線上に、秦氏出身の泰澄も登場します。それが白山開山につながると私は考えています。
 もうひとつ私が気になるのが、泰澄と空海の活動がよく似ていることです。どちらも秦氏の支援を受けて布教活動を展開している点など類似点が数多く見られます。それがどうしてなのかは、今の私には分かりません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「大和岩雄 秦氏の研究356P 白山神社~朝鮮の白山信仰と秦氏~」

秦氏の研究 正・続(2冊揃い)(大和岩雄) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


稲荷大社と秦氏
前々回に、全国の古墳の上に稲荷神社が数多く鎮座することの背景を、次のように見てきました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

つまり、稲荷山の「お塚(古墳)信仰=穀物信仰」が修験者や聖によって、全国の古墳に勧進されたという説になります。
 子どもの頃にはいなり寿司が大好きでした。お稲荷さんと云えば狐です。今回は、稲荷神社と白狐のつながりを追いかけてみようと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
霊狐塚】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
豊川稲荷
「狐塚」の古墳と狐塚の関係について、柳田国男は次のように記します。
「村の大字又は小字の地名となって残って居るもので、今日は其名の塚があるかないか未定なものまで合すれば、北は奥州の端から南は九州の末までに少くも三四百の狐塚といふ地名がある」
「塚の上に稲荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古墳には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現実に狐塚を発掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてある」
 また、稲荷と狐塚の関係については、次のように記します。

「多くの他の塚と同じ様に、狐神といふ一種の神を祭る為に設けたる祭壇である。狐神は恐らくは今日の稲荷の前身である」

歌川広重の狐
                歌川広重 大晦日の狐火

 このように柳田国男は、「狐神=田の神」で、狐塚は「もともとは田の神の祭場だった」とします。その理由として、山の神が早春に里に降りて田の神となり、秋の収穫後に山に入るのと、山の狐が里に現れることとの共通性を挙げます。その際に、狐が山(田)の神の神使となった理由については次のように記します。
「以前は狐が今よりもずっと多か々 つたこと、彼の挙動にはやや他獣と変つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃富せず、却って立上って一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての関係から、季節によって頻りに人里に去来することなどを例挙してもよい」

稲荷の神が山(田)の神だから、狐が稲荷社の神使になったとします。以上のように、柳田は、山の神が田の神となって里に現れるのと、狐が里に現れることの共通性を指摘します。

  柳田國男説
  「狐神=田の神の使者」 → 「狐塚=田の神の祭場」 → 「狐が稲荷神社の神使」説

稲荷大社 狐神

しかし、これに研究者は異論を唱えます。この二つは時期がちがうと云うのです。

古代人の種へのイメージ

山の神が里に現れるのは種まきから収穫まです。その間は里にいて田の神になります。ところが、狐が里に現れるのは、田の神が山に帰った後です。だから、狐が山から里に現れるからと云って、単純に田の神と重ねることはできないと云うのです。里人が狐を見るのは、草木の枯れ伏した後で、白鳥が飛来してくる時期です。とすれば、里人は白鳥と同じイメージで狐を見ていたことになります。

常滑郷土文化会つちのこ, 写真集 つたえたい常滑

狐塚の「狐」に冬、「塚」に死のイメージがあることと、稲荷山の「山の峯」に塚(古墳)と白鳥伝説が重なることは前回お話しました。また、穀霊として登場する鳥が「白」鳥であるように、稲荷神の化身は「白」狐です。「白」には、古代人は死と再生のふたつのイメージを持っていました。そして白狐は「白=再生」「狐=塚・死」のイメージです。そんなことが背景にあって、白狐が稲荷大社の神の化身になったと研究者は考えています。白狐は白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊饒(福)を約束するものであったことを押さえておきます。

Syusei252b
寒施行(狐施行・野施行・穴施行)シーボルト、文政九年に大阪訪問。
狐の餌が無い寒中、狐が棲む神社・森・藪などに赤飯・餅・油揚げ・野菜天婦羅などを置いて歩く。  稲荷の狐への感謝と・豊作祈願を祈った。

京阪地方の行事に、狐の「寒施行(狐施行)」があります。
旧正月前後の夜、小豆飯とか油揚を、狐のいそうな所に置いてくるのです。また、京都・兵庫から福井・鳥取にかけての農村には、旧正月の年越しの晩に「狐狩り」の行事があります。「狩り」という言葉から、狐の害を防ぐために狩り立てるのだという説もありますが、「寒施行」と同じで「もともとはは年のはじめに、狐からめでたい祝言を聴こうとした一つの儀式」で「福をもたらす狐を招き入れようとする行事」と研究者は考えています。この行事は小正月の行事で、時期的には「寒施行」と同じ時期です。白鳥が豊饒(福)をもたらす冬の鳥であったように、狐も福をもたらす冬の動物として登場しているのです。それが稲荷信仰と、どこかで結びついったようです。ちなみに、秦氏を祀るその他の神社には狐神信仰がありません。狐神信仰があるのは、伏見稲荷大社だけです。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏には、狐だけでなく狼伝承もあります。
『日本書紀』の欽明天皇即位前紀は次のように記します。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父(はたのおおつち)といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寝驚(みゆめさ)めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、析喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。乃ら告げて日はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、一無し。
但し臣、伊勢に向りて、商償して来還るとき、山に二つの狼の相同ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰く、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰く、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へじめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
意訳変換しておくと
天皇が幼いときに、夢にある人が出てきて次のように云った。「天皇が、秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば大きな益をもたらし、必ず天下を治めるようになるでしょう」と告げた。夢から覚めて、使者を各地に派遣して、秦大津父を探させたたところ、山背国の紀郡の深草里にいた。姓字も、夢に出てきたとおりであった。天皇はまさに正夢であったと喜んだ。そこで「汝、何事か吉兆があったか」と問うた。それに秦大津父は、次のように答えた。「臣が伊勢で、商償して帰って来るときに、山の中にで二匹の狼が血まみれになって争っている場面に遭遇しました。そこで、馬から下りて口手を洗ひ浄めて、『汝は貴い神にして、荒行を楽しんでるよようだが、もし猟士がやってきたら速やかに捕らえられてられてしまうだろう。」と告げた。2匹の狼は、それを聞いて闘うことを止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗った。そして、去って行く際に、私たち2匹は命をかけてあなたに尽くす」と云った。これを聞いた天皇は、「必ずその報の通りになるであろう」と云って、近習の一人に招き入れた。その結果、大きな饒富を天皇にもたらした。

ここに登場する2匹の狼について西田長男は、次のように解釈します。
「汝は是貴き神」と云っているので、狼は「神そのものとして考へられていた」とし、秦大津父が「馬より下りて」、狼の「口手を洗ひ漱ぎ」、狼に「祈請みて」言っていることは、「神に就いての作法を語るものに外ならない」と指摘します。そして、「オオカミ」は「大神」だとも云います。
千葉徳爾は、次のように記します。

「日本書紀では狼を大口の真神と呼んだ。(中略) わが国の肉食の猛獣としては人里に現れることの多いものだったから、人間の側からは畏怖すべき存在であった。大口は姿を形容したもの、真神とはその威力をたたえた言葉で、これが縮まって大神、オオカミとなったとみられる」

そうだとするとこの話は、秦大津父が狼を助けて「大きに饒富」したのは、神(オオカミ)を助けたため、神から福と富をさずかった話ということになります。柳田国男も、「秦の大津父の出世諄以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」と述べています。「狼=大神」とすれば、秦大津父に福をもたらした狼は、伏見稲荷大社にとっては「貴き神」の代表で、祀るべき神にだったはずです。
それがどこかで狼から狐に変ったようです。どうしてなのでしょうか?
西田長男は、秦大津父が助けた狼について次のように記します。

「稲荷社の替属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。若しくは狐と狼とは同類に考えられていたのではあるまいか」

柳田国男は、狐塚で狼を供養する例をあげていますが、古代には狐と狼は同類とみられていたようです。
塚(墓)で狐や狼を供養するのも、死と再生の儀礼です。これについて柳田國男は、狼や狐に小豆飯などを供える「初衣祝」は、「産育の際に食物を求めて里を荒らしにくることをおそれて、人間の誕生と同じ祝いをし、狼や狐の害を防ごうとしたのだろう」と推測しています。しかし、これには次のような反論があります。
伴信友は『験の杉』で、秦大津父の狼の話について次のように書いています。

名神大社:大川神社(舞鶴市大川)
丹後の大川神社 オオカミを使者としてまつる

今丹後国加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載られたり。狼を使者としたまふと云ひ伝へては縦淵..其わたりの山々に狼多く棲り。さらに人の害をなす事なし。諸国の山かたづきたる処にて、猪鹿の多く出て用穀を害ふ時、かの神に申て日数を限りて、狼を貸したまはらむ事を祈請ば、狼すみやかに其郷の山に来入り居りて、猪鹿を逐ひ治むとぞ。又武蔵国秩父郡三峯神社あり。其山に狼いと多し。これも其神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又其護符を賜はりてある人は、其身狭害に遭ふ事なく、又盗賊の難なしといへり。

  意訳変換しておくと
丹後国の加佐郡に大川大明神の社がある。この神社は延喜式に載せられている古社である。狼を神の使者としていたと云ひ伝へていて、周辺の山々に狼多く棲んでいる。しかも、人の害をなす事はない。諸国の山で、猪鹿が出没して被害をもたらすときには、この神社の神に依頼して日数を限って、狼のレンタルと願えば、狼はすみやかに依頼のあった山に入って、猪鹿を退治するという。
また武蔵国秩父郡に三峯神社がある。この山にも狼が多く棲んでいる。ここでも神に祈請すれば、狼がやってきて猪鹿を対峙する。またその護符を賜わった人は、災害が遭う事がなく、盗賊の難もないとされる。
ここでは、狼が神の使者として害獣退治の役割を担っていたことが書かれています。秩父の三峯神社では、狼に小豆飯(赤飯)をあげるのを、「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と表現するそうです。武蔵の狼信仰は、三峯神社を拠点として各地にひろがっています。

三峯神社 関東屈指のパワースポットで氣守、御朱印を頂く(埼玉県秩父市) | うつ病に悩むあなたのための、関東神社仏閣オンラインツアー
三峯神社のオオカミ

「初衣祝」も「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と同じ行事と研究者は考えています。
これは「寒(狐)施行」「狐狩り」が、狐の害を防ぐことでなく、狐から福をさずかる行事であるように、狼や狐の出産(多産)にあやかった豊饒予祝の行事と云うのです。狼や狐は、山に住む冬の動物というだけでなく、巣穴で子を沢山生みます。そのことも、死(穴こもり)と再生(多産)のイメージにつながります。塚や墓を狐塚といい、そこで狼を供養するのと、狼や狐に小豆飯を供える「初衣祝」「産見舞」の儀礼は一連の死と再生儀礼と研究者は考えています。
 多産な動物は狼・狐以外にもいますが、特に狼・狐が選ばれているのは、山の神の化身とみられていたからでしょう。山の神は、秋の終わりに山へ戻り、春の始めに再び山から里に降りて田の神になるといわれています。狼や狐の寒施行や産見舞は、山の神が里に降りる前の時期におこなわれることからみて、春の予祝行事としての冬(殖ゆ)祭と研究者は考えています。
 白鳥が冬の鳥であるように、狼も狐も冬の動物です。
その点では、狼を助けて「大きに饒富を致」した秦大津父の話は、秦伊侶具が「梢梁を積みて富み裕ひき」の白鳥伝説と同じ、秦氏にとっては大切な話であったはずです。だから、「オオカミ=狐」と姿を変えて伝わったとしておきます。稲荷の狐は「白狐」です。中国では、白狐は吉、黒狐は凶とされました。
『土佐郷土民俗諄』や『南路志』の土佐民話に「白毛の古狼」があります。
狼が鍛冶屋の姥に化けて出てきますが、この民話は「産の杉」という古木のそばで旅の女が子供を生んだ話から始まっています。「白」には死と再生(誕生)のイメージがあります。稲荷大社の創始伝承に登場する白鳥の「白」も、白狼・白狐の「白」と関係がありそうです。冬の鳥である白鳥や白鶴に穂落し伝承があるのも、「白」に死と再生のイメージがあるからだと研究者は考えています。「稲の産屋」を「シラ」と呼ぶのも、「白」のイメージにつながるようです。

三峰神社オオカミ
三峯神社の山犬(オオカミ)
三峰神社の狛犬でなくオオカミ
             三峰神社のオオカミ型の狛犬
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大嶽神社(西多摩郡檜原村白倉)の社伝には、日本武尊と山犬伝承があります。
『日本書紀』の景行天皇四十年条に載る日本武尊の東征伝承に、次のように記します。

山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異(あやし)びたまひて、 一筒蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。

意訳変換しておくと
(信濃に入った日本武尊が、信濃坂を越して美濃に出るときのこと)山の神が、王を苦しめようとして、白き鹿に化身して王の前に立った。日本武尊は怪しんで、 一筒蒜(ひる)を白き鹿に放った。それは鹿の眼に当たり殺した。ところが王は、道を失って、山からの出口が分からなくなってしまった。そこへ白き狼がやってきて、王を導き助けた。

ここに登場する「白き狗」は山犬(狼)のことです。この話が秩父と奥多摩の神社の社伝になっています。        
1987年9月23日の朝日新聞には、西多摩郡檜原村の旧家に「魔よけ」にしていた狼の頭骨があったと報じています。景行紀の日本武尊伝承の「鹿」や「狗」も「白き」鹿・狗です。『古事記』では、この伝承は相模国の足柄山での話になっていますが、やはり「白き鹿」が登場します。山村・農村の人々にとって狼が、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれることと共通します。白鹿・白狗・白猪が登場する記・紀のヤマトタケル物語では、墓に葬られたヤマトタケルは白鳥になって墓からぬけ出し、墓(白鳥陵)に入り、更に墓から天に飛び去っています。これは白鳥の死と再生の循環を示す物語テーマです。  
 伏見大社と白狐(イナリさま)の関係にも、こんなテーマが背後にあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
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伏見稲荷大社について|歴史や概要を詳しく解説
伏見大社(1897年)

伏見稲荷大社の創建を、『山城国風土記』逸文は、次のように記します。

   風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

意訳変換しておくと

風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を矢の的としたところ、餅は白鳥に姿を変えて飛び立ち、この山に降りた。そして山に稲が成ったのでこれを「稲荷(イナリ)という社名とした。(稲が自分の土地に実らなくなったことを)子孫は悔いて、社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

ここには次のような事が記されています。
①イナリ大社は、秦中家忌寸を祖先神とする秦氏の氏神であったこと
②秦氏がこの地に入って稲作農耕で豊かになったこと
③ところが稲で作った餅を矢の的にしたところ、餅は白鳥に化身して山に帰った。
④子孫は、これを悔いて山の木を抜いて家に持ち帰って植えて毎年祀った

「其の苗裔」とは、伊侶具の子孫の「秦中家忌寸等」のことです。「先の過」(伊侶具が餅を的にした行いのこと)を悔いて、神社の木を家に植えて根づくか枯れるかの祈いをおこなったというのです。ここに登場する「白鳥」については、穀霊の白鳥に穂落し神のモチーフがあると研究者は指摘します。そして、稲荷山の3つの峰の古墳祭祀(お塚信仰)と白鳥伝承は、結びついていると云うのです。

伏見稲荷大社創建伝説
伏見稲荷大社創建説話と白鳥伝説

 また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。

まず穂落し神説話を見ておきましょう。これは穀物起源伝承でもあるようです。

ウカノミタマ(宇迦之御魂神)の姿と伝承|ご利益・神社紹介
                 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
ウカノミタマ

『古事記』は、スサノヲが出雲で「大気都比売神」に食物を乞うたシーンを次のように記します。
大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、機汚くして奉るとおもほして、その大宣津比売の神を殺しきたまひき。故、殺さえましし神の身に生れる物は、
頭に蚕生り。
二つの目に稲種生り。
二つの耳に粟生り。
鼻に小豆生り。
陰に麦生り。
尻に大豆生りき。
故、ここに神産巣日御祖の命、これを取らしめて、種と成したまひき。
『日本書紀』は、月夜見尊が保食神を殺した死体から、穀物・牛馬・蚕が化生した話を載せています。
  こうして見ると「穀物起源説話=死体化生伝承」でもあることが納得できる気がしてきますす。
なぜ穀物起源説話に、神や人間の祖先の死体から穀物などが発生したとする死体化生の神話が登場するのでしょうか? それについて研究者は次のように説明します。
①「種」には「死」が内包するとされていた。
②「種」は、春、土にまかれて「芽」となり、夏に成育・生長し、秋に「実」となり、刈りとられて再び「種」となる。
③土から離れることは死を意味し、死と再生の循環があった。
④「種」の保管場所が「倉」でなので、「種」は「倉稲魂」という神名を与えられた
⑤「倉」にある期間は、種は土から離れた「死」の状態で、この時期が「冬」になる。
⑥「死ー冬―種」は、古代人にとって一連の同義語で、「倉稲魂」も同じ意味になる。
⑦  折口信夫は「冬」は「殖ゆ」だと云う。
このように古代人の死のイメージは、私たちが考える「科学的思考」による終末としての死ではないようです。再生のための死が冬ですから、冬に飛来する白鳥は穀霊のシンボルとなります。穀物が死体から化生するのも、死・冬のイメージからきます。ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからです。穀物の死体化生と同じように、白鳥は誕生もイメージします。「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」なのです。 「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」のイメージが重なっているからです。
そこに穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰が結びつきます。『山城国風土記』逸文に、次のように記します。
南鳥部の里、鳥部を称ふは、秦公伊侶具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
意訳変換しておくと
南鳥部(トリベ)の里を、鳥部と呼ぶのは、秦公伊侶具が矢を放った的の餅が、白鳥に化身して飛び去って、やってきたのがこの森だったので鳥部と云う。

稲荷山の白鳥は鳥部の森へ飛んでいます。現在の鳥部は鳥部北麓の清水寺西南、大谷本廟の墓地の周辺だけを指しますが、もともとはもっと広い範囲だったようです。顕昭の『拾遺抄註』に、次のように記します。
「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ、ソノスソフバ鳥辺野トイフ。無常所ナリ」

鳥辺山=阿弥陀峰で、古代は北・西・南麓の扇状地一帯を指していたようです。そしてそこは「無常所ナリ」とあるので葬地だったことが分かります。
 稲荷山・鳥部のどちらの伝承も、登場人物は秦伊侶具です。葬地としての二つのアジールは、秦氏の勢力下にあったことがうかがえます。鳥部に秦氏がいたことは、天平15年(743)正月7日の『正倉院文書』に、愛宕郡鳥部郷人として「秦三田次」の名があることからも裏付けられます。この地には、鳥部古墳群・梅谷古墳・総山古墳がありますが、どれも後期古墳です。こうした古墳があることから、平安遷都以前からの葬地だったことがうかがえます。こうしてみると白鳥伝承は葬地としての稲荷山と鳥部から生まれたことがうかがえます。

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稲荷社創始の白鳥伝説には、次のように記されていました。

「白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊爾奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」

稲荷山の峯に稲が実ったのです。稲荷山の峯には古墳があります。こうして稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になります。稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神と当時の里人達が考えていたからと研究者は推測します。ここからは、稲荷山のお塚信仰が穀神信仰から生まれたことがうかがえます。

記・紀は、ヤマトタケルは死んで白鳥になったと記します。
冬に飛来する白鳥は、死霊の化身です。「餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて」とあったように、弓で射られた餅が白鳥になったというのは、白鳥を死霊と見立てていると研究者は指摘します。
豊後国風土記 肥前国風土記 / 沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房
『豊後国風土記』速見郡田野の条には、次のように記します。

百姓が餅を的にして射つたところ、餅が白鳥に化して南へ飛び去った後、「百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたり」

これは稲荷山の白鳥伝承と重なり会います。ところが「豊後国風土記」は「豊国(豊前+豊後)」の起源説話には、白鳥が北から飛米して餅となり、しばらくして、数千株の里芋に化して「花と葉が冬も栄え」たので、朝廷に報告したら天皇が「豊国」と命名したと記します。
『豊後国風土記』の白鳥となって飛び去り、また白鳥が飛び来ることは、滅(死)と豊(生)をあらわ
すと研究者は指摘します。「山城国風土記」の射られた餅が白鳥になったのは、死であり、その白鳥が稲荷山の峯に飛来したのは、生です。それは、死からのよみがえりの再生です。この死と再生を一緒にした話が、『山城国風土記』の伝承と研究者は考えています。鳥部へ白鳥が飛んで行ったというのも、この場所が葬地だったからです。葬地は再生の場所でもありました。
そう考えると、稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰ということになります。『山城国風土記」の白鳥伝説が、秦伊侶具の「稲梁を積みて富み裕ひき」という話になっているのも、そのことを示しています。稲荷のお塚信仰と白鳥伝承は別個のものと、従来はされてきたようです。しかし、以上のような立場に立つと、稲荷大社の二月の初午祭も、冬(死)から春(再生)への、死と再生の祭りと研究者は考えています。
 なんか分かったような、わからないような展開になりました。民俗学的な話は、どうも私には苦手です。しかし、伏見稲荷大社の白狐伝説を理解する上では、避けては通れない道のようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

空海と秦氏の関係を追いかけていると出会ったのがこの本です。

秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究 / 大和岩雄 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

秦氏の渡来と活動


この本の中にある秦氏の神社と神々の中に伏見稲荷大社のことが書かれてありました。興味深かったので、読書メモ代わりに載せておきます。

花洛名勝図会 高瀬川から伏見稲荷への参道
     『花洛名勝図会』高瀬川から伏見稲荷までの参詣道。初午のにぎわい。
伏見稲荷大社の創建は、『山城国風土記』逸文に、次のように記します。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠つ祖、伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき、乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白い鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊繭奈利生(いねなりお)ひき。遂に社の名と為しき。

意訳変換しておくと
伊奈利(いなり)は、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠祖で、伊侶具(いろぐ)秦公が稲梁(いね)を積んで富み栄え、餅を的としたところ、白鳥に化身して、飛び翔って山の峯にとまった。これを伊繭奈利生(いねなりお)と呼び、社の名となった。

ここからは、「稲 → 餅 → 白鳥 → 稲荷山」と穀物信仰と、秦氏の祖先信仰がミックスされていることがうかがえます。

伏見稲荷大社の創建を見ておきましょう。
『二十二社註式』や『神名帳考証』『諸社根元記』は、稲荷社の創祀を和銅四年(711)とします。
『年中行事秘抄』は、神祗官の『天暦勘文』(10世紀中頃)を引用して次のように記します。
  但彼社爾宜祝等申状云、此神、和銅年中、始顕在伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等、(中略) 即彼秦氏人等、為爾宜祝、供仕春秋祭等・。
意訳変換しておくと
  彼社爾宜祝等には、この神は和銅年中に始めて伊奈利山三箇峯に現れ、これを秦氏の祖先が祭ったと記す。(中略) そこで、 秦氏一族は、春秋に祭礼を行う。

 ここにも、稲荷社の創祀は和銅年間とされています。しかし、この「創祀」は秦氏が社殿を建てて「伊奈利(イナリ)社」として祀った時期のことで、それよりも古くから稲荷山の神が信仰されていたことになります。


  研究者が注目するのは、稲荷山には、一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯、荒神峯の山頂に、それぞれ古墳があったことです。『史料・京都の歴史・考古編』は、次のように記します。

伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
稲荷山古墳群 丘陵斜面 稲荷神社境内 円墳 三基 半壊 横穴式石室 後期
稲荷山一ノ峯古墳 山頂 円墳 全壊 前期
稲荷山ニノ峯古墳 山頂 前方後円墳の可能性あり 半壊 前期
稲荷山三ノ峯古墳 山頂 墳形不明 半壊 竪穴式石室 二神三獣鏡 碧玉白玉 変形四獣鏡片出土 前期
稲荷山の峯には、三基の前期古墳がある。それぞれ継続的に築造されたと考えられ、稲荷山古墳を形成する深草一帯の首長墓である。

『日本の古代遺跡・京都1』は、次のように記します。

「一ノ峰、ニノ峰、荒神峰の頂上『お塚』のあるところが古墳である。『お塚」で古墳は変形されているが、ニノ峰古墳は全長約七〇メートルの前方後円墳、他の三基は直径五〇メートルの大型円墳とみられる。古く鏡、玉類が出土しており、継起的にきずかれた前期古墳とおもわれる。西麓にあった番神山古墳はこれらにつづく首長墓とみられているが、全長五〇メートルの前方後円墳という以外いっさい不明のまま消滅した」

こうして見てくると稲荷山の山頂の3つの古墳は、「秦氏の始祖の墳墓」のように思えてきます。確かに秦氏の稲荷信仰を、稲荷山に対する秦氏の祖霊信仰とする説もあります。しかし、そうではないと研究者は指摘します。
 秦氏が大和の葛城から深草に移住し、更に葛野(嵯峨野)へ入植するのは5世紀後半のことのようです。井上満郎氏は次のように記します。
「嵯峨野の古墳が五世紀末・六世紀初ということは、葬られている人間が生きていたのは五世紀後半ということにならぎるをえない。すなわち、嵯峨野一帯の開発、つまりは秦氏の定着はこのときということになる」
 稲荷山山頂に前期古墳が築かれるのは4世紀後半のことですから、秦氏がやってくる前にあったことになります。秦氏以前の氏族の墓ということになります。

伏見稲荷山周辺の古墳群
伏見稲荷山周辺の古墳群(山頂が前期、山麓が後期古墳群)

ただし、
①西麓の番神山古墳は5世紀末で、
②稲荷山山麓には円墳の山伏塚古墳、谷口古墳、
③深草砥粉山町の丘陵尾根上には、砥粉山古墳群と呼ばれる円墳3基
これらは後期古墳なので、秦氏の墓とできそうです。
 つまり、同じ稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別の氏族で、稲荷山山頂の古墳は秦氏
の移住前の首長の墓であることを押さえておきます。
①秦氏以前の氏族は稲荷山山頂の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀
②こうした地元民の祖霊の山の信仰に、秦氏の信仰が接ぎ木され
③現在の稲荷山の信仰へ
という流れを押さえておきます。

『枕草子』の「うらやましげなるもの」の段に、稲荷山参拝が次のように記されています。
稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しさを念じ登るに、いささかの苦しげもなく、遅れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし
意訳変換しておくと
思い立って稲荷山に参拝した。中の御社への苦しい登りを念じながら登ると、いささかの苦しみもなく登れた。私が遅れるだろうと想っていた者どもの先に立って詣でることができた。いとめでたし

ここからは、清少納言がニノ峯の中社に詣でていることが分かります。一ノ峯は上社、三ノ峯は下社で、二ノ峰が中社ですが、その他に詣でたことは記されていません。どうしてでしょうか?
 伴信友は『験の杉』で、中社が本社だと書いています。「中の御社」のニノ峯古墳だけが前方後円墳で、他は円墳であることも、稲荷山信仰の原像が「先祖崇拝」であったことがうかがえます。


 全国遺跡地図には「稲荷」のつく古墳名が総計189基が載せられています。
「稲荷」とつくのは、古墳に稲荷社を祀ったためですが、「稲荷」の名のつかない古墳にも稲荷社が祭られているところがあります。例えば、『岡山県埋蔵文化財台帳』には、岡山市高松に竜王山古墳群(十一基)があり、山麓に最上稲荷神社があります。また、茨城県石岡市の山崎古墳、結城市の繁昌塚古墳、滋賀県栗東町の宇和宮神社境内の古墳、京都市右京区太秦の天塚古墳、西京区大枝東長町の福西古墳群、京都府天田郡夜久野町の枡塚古墳にも、稲荷社が祀られているようです。
これは、伏見稲荷山「お塚信仰」と結びついているようです。
上田正昭は、お塚の「塚」の由来について、次のように記します。

「ニノ峰より傍製の二神三獣鏡や変形四獣鏡が出上しており、四世紀の後半頃にはすでにその地域が聖なる墓域とされていたことをたしかめることができる」

ここからは、お塚信仰は、この山頂の古墳祭祀にさかのぼることがうかがえます。

16世紀前半に作られたとされる「稲荷山山頂図」には、山頂に上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚などの名が見えます。
上ノ塚は一ノ峯古墳、
中ノ塚はニノ峯古墳  倉稲魂神を主神 佐田彦命
下ノ塚はノ峯古墳
荒神塚は荒神塚古墳
「お塚」は現在、稲荷山に約一万基も立てられていますが、不規則にあるのではなく、 一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯の山頂を中心に、それぞれ円陣をえがき、ストーンサークル状に配されています。お塚に詣でることを「お山する」というようです。稲荷山山頂に登ることは、「お塚(古墳)」を拝することでした。この「山の峯」に「社」を作ったと、『山城国風土記』逸文は記します。
当社の社殿は、三つの峰にあったようで『雍州府志』には次のように記します。

山頂有三壇、古稲荷三社在斯所、弘法大師移今地、毎年正月五日、社家登山上拝三壇始依為鎮座之処也。

意訳変換しておくと

山頂には三壇あり、古くは稲荷三社はここにあった。それを弘法大師が今の地に移した。毎年正月五日に社家が山上に登り、三壇に拝する。これが最初の鎮座場所である。

ここからは、山頂の三壇(古墳)が信仰対象であったこと、弘法大師が登場してくるので真言密教の社僧の管理下に置かれたことが分かります。こうして平安時代になると稲荷信仰は真言密教と習合して、修験者や聖などによって各地に広められていくことになります。ここまでをまとめておきます。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?
                全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景


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             吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』


今は山麓の稲荷社拝殿から山頂にかけての参拝路には、約二万といわれる朱塗の鳥居が立ち並びます。現在の「お山巡り」も、中世の一ノ塚、ニノ塚、三ノ塚、荒神塚の「お塚巡り」を継承しているようです
以上をまとめておきます
①稲荷山周辺には、有力氏族がいて古墳時代初期に二ノ峰に首長墓である前方後円墳が築いた。
②その後は盟主分と円墳がそれぞれの山頂に継続的に築かれ、祖先神を祭る霊山となった。
③先住氏族に替わって5世紀後半に入植した秦氏も稲荷山に古墳を築き、引き続いて信仰対象とした。
④奈良時代以後も、稲荷山周辺は死霊をまつる霊山として信仰の対象となった
⑤稲荷山参拝は「お塚(古墳)」を拝する「お塚めぐり=お山巡り」という形で受け継がれた。
⑥古代末から稲荷大社では、弘法大師信仰が高まり真言密教系の社僧が管理運営するようになった。
⑦すると、廻国の修験者や高野の聖達によって、「お塚信仰」が全国に展開し、古墳に稲荷神社が勧進されるようになった。

今回、私が興味深かったのは、山の上に造られた古墳が祖先崇拝のシンボルとして、後の人達に受け継がれて、その山が信仰対象として霊山化していく過程やそれが全国展開していく道筋が辿れることです。これを丸亀平野に落とし込んでみると、大麻山の山頂近くに姿を見せる野田院古墳が思い浮かんできます。この古墳が祖先崇拝の対象となり、麓に大麻神社が鎮座し、霊山化し、そこに山林修験者が入ってくる。そして彼らが「大麻山 → 五岳 → 七宝山 → 観音寺」をつないで修行し「中辺路」を形成していくというストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

 讃岐国府跡を流れる綾川上流の、羽床盆地は古墳の密集地で、大規模な古墳群を形成しています。
しかし、時期・内容がよく分からないものが多く、私には空白地帯となっていました。その中で手がかりとなる資料に出会えましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
まずは編年表にしたがって出現順に古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳分布図JPG

最初に羽床盆地の古墳を5つにグループ化します。
A 北部        快天塚古墳 浦山12号墳
B 北西部 
C 中央北部
D 中央南部
E 東部
その編年表が以下になります。
羽床盆地の古墳編年2
羽床盆地の古墳編年表
羽床盆地の古墳編年

羽床盆地の古墳編年表(拡大版)
古墳編年表2

Ⅰ期 羽床盆地で最も古いのは、盆地北部の快天山古墳です。

快天塚古墳6
快天塚古墳5


                     快天塚古墳
この古墳については何度も取り上げたので副葬品などは省略します。研究者は注目するのは3基の刳抜式石棺です。
快天塚古墳石棺
快天塚古墳の3つの石棺

これらは国分寺町鷲ノ山の石材で造られたもので、1号・2号石棺は割竹形木棺を忠実に模した初期モデルで、全国で最も古い刳抜式石棺とされます。古墳の立地場所は、羽床盆地から丸亀平野へ出口にあたる丘陵上で、鵜足郡との境になります。阿野郡と鵜足郡に跨いで勢力をもっていた首長墓のようです。快天塚の被葬者達は、刳抜式石棺を最も早く使用しているので、その生産地の国分寺町鷲ノ山の石工集団を支配下に置いていたようです。また、刳抜式石棺が製作されるようになると国分寺町では有力古墳が造られなくなります。ここからは、快天山古墳の被葬者は国分寺町域までも勢力に置いていたと研究者は推測します。
 しかし、快天塚古墳の被葬者に続く首長達は、その勢力をその後は維持できません。ヤマト政権は鷲の山の石棺製造集団を引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じています。つまり、ヤマト勢力によって快天塚の後継者達は押し込められたようです。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったと研究者は考えています。
快天塚古墳に続く盟主的な古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳4
羽床盆地の古墳
よっちゃんの文明論 | SSブログ

北流してきた綾川が大きく東方向に流れを変えるポイントが「白髪(しらが)渕」です。この左岸(北側)の丘陵を浦山(うらやま)、対岸の突き出す地形を津頭(つがしら)と呼びます。
Ⅱ期 浦山12号墳は、快天塚と同時期の古墳で、綾川の北の「A 北部」に位置します。
直径10m前後の円墳で、割竹形木棺を粘土で覆い、墳丘構築のため丘陵部を切断した溝状部には、墳丘側、丘陵側双方に貼石しています。さらに平野側には墳丘を挟むようにハ字形の列石を配し、配石のない中央を通路として使用しています。古墳時代前期を特色づける割竹形木棺をもつ一方で、弥生時代の墳丘墓の特徴を色濃く残した古墳で、Ⅱ期のものと研究者は判断します。その隣の浦山11号古墳は組合式木棺を粘土被覆していることと、刀子・斧・鎌が出土しているのでⅡ期~Ⅲ期に比定されます。

善通寺・丸亀の古墳編年表

Ⅲ期 快天山古墳に続く大型古墳(盟主墳)は「A 北部」に位置する津頭東古墳です。
①径35mの円墳、葺石・埴輪あり。
②多葬墓で、竪穴式石槨4基と粘土槨2基があり、
③1号石槨は、板状安山岩を小口積みした竪穴式石槨
④内行花文鏡、鉄剣2、太刀1、鉄斧2、(ヤリガンナ)1、鉄鏃を出土

 津頭東古墳から400mほど下流にあるのが「A 北部」の津頭西古墳(蛇塚)です。
①径7mの円墳
②竪穴式石槨から、画紋帯環状乳四神四獣鏡(径14.8cm)、三環鈴、銀製垂飾り付き耳飾りの残穴、衝角付き冑、眉庇付き冑、横矧板鋲留式短甲3、頸甲1、小札括り、金銅製鏡残片、鉄矛2、直刀、直弧文付き鹿角製刀装具、槍身2、石突きの残穴、鉄鏃残片、鉄斧、須恵器(高杯3、蓋杯2)などと、副葬品が豊富
③5世紀後半の築造。
羽床津頭西古墳 津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」
             津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」

副葬品の多さと優秀さからみて、Ⅲ期の津頭東古墳に続く首長の古墳と研究者は考えています。

羽床盆地の古墳分布図JPG
羽床盆地の古墳群
綾川をさかのぼって上流へ向かうと「C 中央北部」に、8~10基の円墳で構成される「末則古墳群」あります。その盟主墳が「末則(すえのり)1号墳」です。ここも末則湧水の下に、弥生時代から拓かれた谷田があります。谷田と背後の山林を経済的基盤とした勢力の築いた古墳群のようです。

末則古墳 羽床古墳群
①径約25mの円墳で、葺石と埴輪が2重にめぐり、
②円筒・朝顔形埴輪、石製獣形品(猪か馬)、須恵器片が採集。
③埋葬部は、隅丸長方形の土壙のなかに竪穴式石槨があり、石材は川原石で、最上段には板石
④鉄刀(90.5cm)、鉄剣(62.5cm)、鉄鏃10を出土

末則古墳の出現は、これまで羽床盆地の「A 北部」に築造されていた有力古墳(盟主墳)が、はじめて盆地中央部でも築造されたことに意義があると研究者は考えています。しかし、この古墳は墳丘規模だけ見ると「A 北部」の有力古墳と同規模ですが、副葬品を見ると「鉄刀1・鉄剣1・鉄鏃10」だけで、短甲や馬具などが出てきません。副葬品の「貧弱」さは、「A 北部地区」との経済的・政治的格差を示すものと研究者は評します。5世紀後半の時点では、中央部は「発展途上地域」だったとしておきます。
末則古墳の被葬者が拠点としたしたのが末則遺跡です。
この遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主だったのでしょう。
末則古墳 羽床古墳群.2jpg

現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。そこには水神も祭られていて、聖なる場所でもあったことがうかがえます。神水鼻の対岸(羽床上字田中浦)には「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設でした。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。
Ⅳ期 浦山11号・12号墳の北側の丘陵上に立地する白梅古墳
①直径10m前後の円墳で、2基の箱式石棺の双方から鉄刀を出土
②時期を半田する遺物が出土していないが、須恵器や馬具が出ていないのでⅣ期までに編年
V期(5世紀後半)の羽床盆地の特徴は
①大型古墳が姿を消し、直径20m前後の中規模古墳が小地域ごとに成立
②そこに古式群集墳が多く築造され、古墳築造が急激に拡大する。

その他の有力古墳としては、滝宮小学校に隣接する岡の御堂1号・2号墳があります

岡の御堂古墳 羽床盆地
岡の御堂1号・2号墳の説明版

羽床盆地のⅤ期(中期古墳)の代表的な例として「岡の御堂古墳群」を見ておきましょう。
滝宮小学校の移転新築のために1976年に発掘調査され、2、3号墳はなくなりました。埋葬施設が移築保存された1号墳を見ておきましょう。
①径13mの円墳で、幅2,5mの周濠で葺石、円筒・朝顔形埴輪出土
②埋葬部は川原石と板石による箱式石棺が東頭位にあった
③盗掘を受けていたが、鉄刀(長さ107.5cm)、鉄剣3、鉄矛1、鉄鏃25以上、横矧板鋲留式短甲1、轡1、鮫具1、帯金具9以上、鉄鎌1、鋤先2、鉄斧2、刀子2、須恵器・土師器多数を出土。
④5世紀後半の築造。
中期古墳には、武具と鉄製武具が多いことに気がつきます。「武具・馬具」は、鉄を得るために朝鮮半島南部にヤマト連合政権が足がかりを確保しようとして苦労していた時代の特徴とされます。

横矧板鋲留式短甲2

横矧板鋲留式短甲

この時期の短甲は、ヤマト政権が一括大量生産して地方に分与していたものもあります。ここからは以前は次のような説が一般的でした。

高句麗の南下政策に対応するために、国内の豪族が動員され、その功績として威信財としての短甲や馬具が支給された。

しかし、近年の研究からは短甲は「倭系甲冑」として日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもおよんでいたことが分かっています。

韓半島出土の倭系甲冑
朝鮮半島出土の倭系甲冑分布図
倭と伽耶の鎧比較
伽耶と京都宇治二子山の甲冑比較


倭と伽耶のかぶと
左が倭の甲冑、右が伽耶の甲冑
倭と伽耶の武器比較2
左が倭 右が伽耶
ここからは、半島の渡来有力者を列島に招き入れて、各地に「入植」させたということも考えられます。そうだとすれば、羽床盆地の開発者は渡来人であったということになります。

 私が気になるのは、津頭西(蛇塚)古墳から出てきている「銀製垂飾り付き耳飾りの残穴」です。
この時代に、百済の「特産品」である耳飾りが「海の民(倭人)」によって列島にもたらされています。


女木島丸山古墳5

伽耶のイヤリング
朝鮮半島の百済のネックレス

そのひとつが女木島の丸山古墳から出土していることを以前にお話ししました。
女木島丸山古墳4
5世紀の東アジアの海洋交易

内陸部の羽床盆地から百済やヤマト政権で造られた威信財が出てくること、被葬者がそれをどのようにして手に入れたのか考えると、いろいろな想像が浮かんできます。
倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルもあったようです。そして、女木島の丸山古墳の被葬者と羽床盆地のリーダー達は、ネットワークで結ばれていたことになります。ヤマト政権以外にもいろいろな交流チャンネルがあったことを押さえておきます。

5世紀後半の羽床盆地で古墳築造が爆発的に増加するのは、どうしてなのでしょうか?
その背景は、このエリアが馬の飼育に適していたからだと研究者は考えています。羽床盆地東部の綾川町陶には洪積台地が広がっていて、水の便が悪く、大規模な灌漑施設がなかった時代には水田耕作が難しかったようです。そのため古墳時代には森林や森林破壊後の草地が広がる地域だったと研究者は考えています。そのため、5世紀後半頃の羽床盆地では、馬の飼育が盛んに行われるようになります。このエリアから馬具や甲冑をもった有力古墳や古式群集墳を盛んに築造したのも渡来系集団の存在が考えられます。そうした中で、蛇塚古墳は羽床盆地で最も力をもった首長の墓で、岡の御堂1号・2号墳は地域的首長を支える有力構成員であったと研究者は考えています。

 この時期の羽床盆地で形成された群集墳を挙げて見ます。
A 盆地北部に浦山古墳群(3号・4号墳の2基)・滝宮万4古墳群(4基)
B 盆地北西部の羽床に中尾古墳群(5基)
A 盆地北部の三石古墳群(3基)・白石北古墳群(3基)
B 盆地北西部(羽床)の浄覚寺山古墳群(4基)
C 盆地中央部の北側では末則古墳群(7基)
E 盆地奥部の川北1号墳は竪穴式石室をもつことから、この時期に築造された可能性が高い
Ⅵ期 横穴式石室の導入期
綾川流域では河口の雄山に最初の横穴石室を持った古墳が築かれます。それは九州の竪穴系横口式石室の影響を受けて羨道をもたない小規模な横穴式石室です。それに対して、羽床盆地の横穴式石室導入期の本法寺西古墳浦山5号墳は横長の玄室に狭い羨道です。これは両者が異なった地域から影響を受けて横穴式石室を導入したと研究者は考えています。つまり、この時期までは阿野北平野と羽床盆地の勢力は別系統に属していたということになります。

  研究者が注目するのは、羽床盆地のⅥ期の古墳が小規模で、有力古墳が見当たらないことです。
 羽床盆地のⅦ期の特徴を見ておきましょう。
①横穴式石室の築造は羽床盆地全体に広がるが、大型横穴式石室は出現しない
②これまで古墳築造の中心であった盆地北部では古墳築造が減少する。
③それに代わって、古墳築造活発地が盆地北西部の羽床地域に移動する。
 羽床勢力は、平芝2号墳、奥谷1号墳、膳貸1号・2号墳などの横穴式石室をもつ小型古墳を造り続けます。これらの群集墳はいずれも後期群集墳で、羽床地区全体ではこの時期に20基をこす古墳が築造されたと研究者は考えています。
 これに対して、盆地北部では浦山10号墳、小野内聞1号~3号古墳・岡田井古墳群などが築造されていますが十数基程度です。盆地中央部の南側(綾上町牛川・西分)では、梶羽1号・2号墳・小川古墳の3基で横穴式石室が確認されています。また、盆地中央部北側の末則古墳群の近くにある菊楽古墳も横穴式石室をもち、Ⅶ期に属するものとされます。そして、羽床盆地では7世紀前半以後には羽床盆地では古墳は造営されなくなっていきます。そして、終末期の巨石墳や、それに続く古代寺院も建立されません。羽床盆地の勢力は群集墳は造られ続けるが、それをまとめ上げる盟主がいなかったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
善通寺・丸亀の古墳編年表

快天塚古墳をスタートとする羽床盆地の勢力推移を整理しておきます

羽床盆地の古墳と綾氏

①盆地北部に快天山古墳(Ⅱ期)→津頭東古墳(Ⅲ・Ⅳ期)→蛇塚古墳(V期)と続く盟主墳の系譜がある。
②中心は盆地北部で、4世紀から5世紀後半には、このエリアの集団が主導的地位を握っていた
③北部集団は、快天塚の被葬者の頃(4世紀中頃)には羽床盆地ばかりでなく、国分寺町域も支配領域に含めていた。
④Ⅴ期(5世紀後半頃)になると、盆地北西部の羽床に浄覚寺山古墳群・中尾古墳群が、盆地中央部の北側に末則古墳群が築造され、古墳築造が拡大し、盆地奥部にも古墳が築造され周辺開発が進んだ。kこの背景には馬の飼育が関係することが考えられる。
⑤Ⅶ期には盆地の各所で横穴式石室の群集墳が築造されるようになった
⑥北部勢力は、その後に大型横穴式石室を築造できずに、6世紀末頃に弱体化した。
⑦代わってⅦ期に主導権を握るようになるのが、北西部の羽床地区の集団である。
⑧羽床の群集墳は密集したものではなく、比較的広い範囲に5基前後のグループが散在したものである
⑨羽床盆地全体に大型横穴式石室の築造がないことと併せて考えると6世紀末頃の羽床盆地では地域権力の集約が行われなかった
⑩その結果、綾川下流の阿野北平野を拠点とする勢力(綾氏)の勢力下に入れられた。

⑩の「地域首長の墳墓とみられる大型横穴式石室の不在」 + ⑨の「坂出地域と比べると、後期群集墳の分布がやや散漫」=阿野北平野南部(坂出市府中周辺)に比べて権力集中が進まず、劣勢の立場で、阿野北平野の勢力(綾氏?)に飲み込まれて行ったと研究者は考えています。

 6世紀末になると、羽床盆地では地域権力が衰退します。そこに進出してくるのが綾氏です。
綾氏は、農業、漁業、製塩に加え、羽床盆地の馬も掌握し、舟だけでなく、馬を用いた交通、軍事を背景に勢力を築いていきます。さらに、陶に豊かな粘土層があるのに気がつくと、そこに中央政権の支持を取り付けて最先端の窯業技術を持つ渡来集団を入植させて須恵器の工業地帯を作り上げます。こうして奈良時代になると綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。つまり、十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。そのプランナーは綾氏だったことになります。陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群であったことを押さえておきます。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
奈良時代以前の讃岐の須恵器の市場分布図(十瓶山窯独占化以前)
 
陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。
これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不便なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆われた原野で、燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。
 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得します。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。
 こうして綾氏によって整備された「坂出府中=陶・滝宮」という綾川水運ルートに乗って、後には国司となった菅原道真が滝宮に現れると私は考えています。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
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坂出 条里制と古墳
坂出市阿野北平野の古墳群と古代寺院
研究者は古墳群について、つぎのような見方を持っています
①古墳群は、血縁や擬制的血縁関係で結ばれていた集団によってまとまって作られた
②そのため古墳群の規模、内容、変遷等は、その氏族集団の性格や盛衰を映し出している
③そうだとすれば、古墳群のあり方から氏族を復元することができる
この考えに従って、阿野北平野周辺の古墳群と阿野郡の古代氏族を探って行くことにします。テキストは「「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」」です。

讃岐綾氏の活動

阿野北平野南部の大型横穴式石室と綾氏との関係について、最初に指摘したのは羽床正明氏で次のように記します。
山田郡司牒に「大領外正八位上綾公人足」の名があることに注目し、次のように推論します。
①8世紀後半に綾氏が山田郡の郡司になっているのは、大宝3(703)年3月の「有才堪郡司。若雷徊有三等已上親者。聴任比郡」に基づくものである。
②綾氏が比郡(隣郡)の郡司に任じられた背景として、新宮古墳・穴薬師(綾織塚)古墳・醍醐古墳群などの大型横穴式石室の存在から6世紀後半から7世にかけて綾氏が阿野郡で活発に活動していたことが想定できる
③そうしたことを踏まえて、綾氏が孝徳朝立郡(評)以来の譜代を獲得したこと。
続いて松原弘宣氏には、山田郡司牒、『日本霊異記』などの文献や古墳から次のように記します。
①綾公氏は阿野・香河・山田3郡にわたる有力地方豪族である。
②阿野郡で6世紀末に大型横穴式石室が突然築造されるようになるのは、6世紀後半以降にこの地域の有力氏族・綾氏が台頭してきたため
③新宮古墳→開法寺、綾織塚(穴薬師)古墳→鴨部廃寺、醍醐古墳一醍醐廃寺と大型横穴式石室と古代寺院が連続的関係をもって分布していること
④巨石古墳と古代寺院の連続性は、綾氏が阿野北平野を引き続いて勢力圏に置いていたから生まれた
⑤山田郡高松・宮所郷地域にある大型横穴式石室は山田郡大領綾公氏の祖先の墓ではないか
 両氏は、山田郡の綾氏については見解が異なるりますが、次の点では一致します。
A 律令時代の阿野郡が綾氏の根拠地であったこと
B 6世紀末頃~7世紀前半頃の大型横穴式石室が綾氏によって築造された
 
坂出阿野北平野の古墳分布図1

坂出
市阿野北平野の古墳分布図
古代綾氏と阿野北平野の古墳・古代寺院


上表のA・B・Cの三つの集団は、7世紀中頃以降になると古墳築造を停止して、氏寺を建立するようになります。
A 平野南西端部集団 7世紀中頃に開法寺
B 南西部部集団   7世紀末頃に醍醐廃寺
C 南東端部集団   7世紀後半に鴨廃寺

阿野郡では坂出平野南部に立地するこれら三つの寺院以外に、古代寺院は見つかっていません。この3つの勢力以外に、寺院を建立することのできる有力集団はいなかったことを示しています。ところが文献には、7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しか確認できません。これについては、次の2つのことが考えられます。
①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが、その中の一つの氏族の名が偶然に文献に残った
 ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 これについては、以前にお話ししたように、②の説が従来は支持されてきました。その理由は、
A 三つの集団がそれぞれが建立した開法寺、醍開醐廃寺、鴨廃寺の瓦は、綾南町陶窯跡群で一括生産されたものが運び込まれていること
B 三つの集団は、約3km四方の狭い地域に近接して墓域を営んでいること
以上から三集団は、近接して居住し、日常的に交流が密接に行われ、婚姻関係を通じて、綾氏として一つの氏族「擬似的血縁集団」にまとまったとされます。そして6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地、国分寺地域へも勢力を拡大し、その領域が律令時代に阿野郡になったとします。
  これらを、研究者は次のようにまとめます。
   以上のように考えれば、綾氏は坂出平野南西端部に古墳を築造した集団を中心として、平野南端 に三つの古墳群を築造した集団からなり、古墳時代初期まで系譜をたどることができる。さらに、平野東南端部の方形周溝墓は、弥生時代後期まで系譜が遡る可能性も示唆している。従って、綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく、この地域で成長した氏族であることがわかる。
これを「古代綾氏=弥生時代以来の在地的集団」説としておきます。これに対して、異論が近年出されるようになりました。瀬戸内海の対岸の播磨や備後での終末古墳と古代寺院の連続性について、最近の説を見ておきましょう。
  まず備後国府が姿を見せる過程を見ておきましょう。
史跡備後国府跡保存活用計画
備後国府と国分寺の所在地
 福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。このエリアには6世紀までは有力な首長はいませんでした。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、いくつもの終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が密集して建立されます。そして国衙や国分寺が「誘致」されます。それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然のように現れるのが終末古墳の二子塚古墳です。

備後南部の大型古墳
備後国府跡周辺の終末期古墳

   このような変動を桑原隆博氏は、次のような政治的変動が背景にあったとします。

「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。

「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」

 6世紀までは自立していた「吉備」が、畿内勢力に分割・解体されたこと。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として、有力者が何人も備後に派遣され、そこに終末古墳を競うように造営したことになります。「芦田川による南北の水運 + 東西の山陽道 = 戦略的要衝」に何人もの有力者が派遣され、最終的には備後国府が設置されたとしておきます。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

播磨の揖保郡の場合を見ておきましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
播磨揖保郡・揖保川中流 終末古墳と古代寺院の密集地
揖保郡エリアでは、揖保川が南北に流れ下って、古代から船による人とモノの動きが活発に行われていた地域です。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から古代官道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことになります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。吉備王国の解体後、播磨と備後で「包囲」するという戦略もうかがえます。
 律令下の揖保郡には、古代寺院が11カ寺も建立されます。
古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が「集住」していたことを物語ります。その背景としては、揖保川の伝統的な水運と「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力を挟み込んで抑制する体制強化策がとられたとします。

以上、見てきたように吉備王国の解体とヤマト政権の直接支配への対応として、東の播磨と西の備後に、畿内の有力者が何人も送り込まれ、狭い地域に「集住」することになります。彼らは、狭いエリアで生活するので、日常的な交流が密になっていきます。そのため巨石墳造営などについては、同じ技術者集団によっておこなれることにもなるし、古代寺院の瓦も共通の瓦窯を建設して共同提供するようになります。
終末古墳集中の背景

中浜久喜氏は次のように記します。

「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」
 
    この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道に沿って造られています。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、同じような性格を持つ古墳と考えられます。
この説が実際に阿野北平野の巨石墳に適応できるのかを見ておきましょう。

古墳編年 西讃

坂出 条里制と古墳


坂出市の古墳編年表1
坂出市の古墳編年表
古墳編年表2

A 平野南西部では、次のような系譜が見られます  
 小規模な積石塚(城山東麓古墳)→ 夫婦塚(Ⅲ期~Ⅳ期)→ 龍王宮1号・2号石棺(Ⅳ期) → 西福寺石棺群(Ⅳ期?)と箱式石棺の小規模古墳を造り続けます。それがV期になると王塚古墳という大型古墳を突然のように築造します。そして、中断期を挟んで、Ⅶ期の醍醐3号墳から皿期の醍醐7号墳まで大型横穴式石室が集中的に築造されるようになります。

B 平野東南端部では、
弥生時代後期の方形周溝墓 → 蓮光寺山古墳(Ⅱ期~Ⅲ期)→ 杉尾神社南古墳・杉尾神社南尾根石棺・杉尾古墳・サギノクチ石棺・松尾神社東石棺(Ⅲ期~Ⅳ期)、中断を挟んで、Ⅶ期になるとはじめて大型古墳を築造し、大型横穴式石室の穴薬師古墳が姿を現し、以後は多くの横穴式石室墳が築造されます。以上の三つの地域では、中断期を挟んで6世紀末頃に共通して大型横穴式石室を築造するようになります。

 平野南西部端部では、ここは後に讃岐国府が誘致されるエリアです。 このエリアの古墳変遷を見ておきましょう。

坂出市阿野北平野 新宮古墳周辺
Ⅰ期 前方後円墳の白砂古墳 → Ⅲ期 タイバイ山古墳 → Ⅳ期 弘法寺古墳 
→ Ⅴ期 鼓ヶ岡古墳 → Ⅶ期 新宮古墳・新宮東古墳

このエリアには大型古墳が継続して造り続けられています。3世紀末頃から6世紀末頃にかけて、ここに強力な地域権力をもつ集団が存在したことがうかがえます。しかし、V期とⅦ期の間には中断期があるようです。大型巨石墳の造営が再開されるのが6世紀末から7世紀初めです。これは蘇我氏が物部氏とのヤマト政権内部の権力闘争に勝利した時期にあたります。そして、先ほど見た吉備王国の分割・直営化のために、播磨や備後に有力者が派遣され「集住」状況が作られた時期と重なります。対吉備分割策の包囲網の一環として、備讃瀬戸の対岸である阿野北平野に有力者が集められたという説になります。そして、彼らが白村江の敗北後の軍事緊張の中で、城山に朝鮮式山城を築き、戦略交通路として南海道整備を行い、そこに国府を誘致したというストーリーです。
 ちなみに綾氏は、もともとは「東漢(あや)」だと研究者は考えています。
東漢(あや)氏は渡来系で、播磨風土記にはよく登場します。そこには、讃岐との関係のある話よく出てきます。それは、讃岐の綾(阿野)氏と播磨の東漢氏の結びつきを示すものかも知れません。こうしてみると、綾氏が弥生時代以来の在地性集団という説は怪しくなります。
  もうひとつ別の視点からの阿野北平野への有力氏族の集住説を見ておきましょう。
大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
 大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 
  要点をまとめておくと
①伊予東部と結びついた大野原古墳群の勢力拡大
②それに対抗するために、旧来の讃岐各勢力が「豪族連合」を結成して、阿野北平野に集住
③それが阿野北平野への城山城造営や国府誘致の動きにつながる

ここでは、讃岐内の有力氏族の連合と集住という説ですが、阿野北平野の巨石墳が外部から「移住」してきた勢力によって短期間に造営されたとされています。やって来たものが何者かは別にしても「集住」があったという点では共通する認識です。

 かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたことが明らかにされています。
DNA 日本人=古墳人説
     「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになる
この説によると、大量の渡来人がやってきたのは弥生時代よりも、古墳時代の方がはるかに多いようです。その数は、それまで列島に住んでいた弥生人の数を超えるものであったとされます。だとすると、 従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着したことが考えられます。善通寺の場合にも、弥生時代の「善通寺王国」は一旦は中絶しています。その後に、古墳時代になって「復興」します。この復興の担い手は、渡来集団であった可能性があります。それが、優れた技術力や公開能力、言語力を活かして、東アジアを舞台に活動を展開し成長して行く。それが佐伯氏ではないのかというイメージにたどり着きます。そのような環境の中で生まれたから真魚は空海へと成長できたのではないかと思うのです。
最後は別の地点に離着陸していましました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」

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