かつては「秋月城跡」(土成町秋月)を細川氏守護館跡とする説が定説化していました。
ところが発掘調査の結果、秋月城跡からは守護館跡に関連する遺構や遺物が出てきませんでした。その結果、「秋月城跡が守護館跡である可能性なし」との結論に至っているようです。考古学による「通説否定」の上にたって、「秋月」の空間構成を研究者がどのように考えているのかを見ていくことにします。テキストは「福家清司 「秋月」の空間構成 四国中世史研究17号 2023年」です。
「南側の平野部に突き出した比高5mほどの土手状地形を利用して築かれたもので、東側には小川、西側には切通しの道路が通っており、これによって区画された東西50mほどの部分が城であったようだ。内部にはわずかな段差があり、3つの区画が想定できるが、後世の改変もあり、旧状がこの通りであったかどうかは分からない。」
という評価であまり特徴があるようには見えません。
しかし、明治初期編纂の「阿波郡風土記」は、細川氏の守護所について次のように記します。
「(秋月城には)射場という処もあり。此処は細川阿波守和氏の住まれし古址なるなり。按ずるに、此所分内小際にして北山に迫れり。大国の府城を営みし址とは見えず。「阿波物語」に秋月を守護所と定めらるとあるは此所にはあらで、山の上村成るべし。」
意訳変換しておくと
「秋月城には射場という所もあり、ここは細川阿波守和氏の拠点古址とされる。しかし、ここは後に山が迫り狭い。大国の府城を置いたところとは思えない。「阿波物語」に秋月を守護所と定めるとあるのは、秋月城ではなくて、山の上村であろう。」
①吉野川の段丘を利用した立地条件②仏殿庵の所在であること③仏殿庵には「梵光寺観青御宝前」と彫り込まれた寛文4(1644)年の手水鉢があること
御嶽(おみたけ)山南麓、秋月城の近くに位置した臨済宗寺院。
南明山安国補陀禅寺・安国補陀寺などと称され、阿波国の安国寺とされたほか(光勝院縁起略)、諸山の寺格も与えられた(扶桑五山記)。近接して光勝(こうしよう)院・宝冠(ほうかん)寺が建立された。光勝院は当寺の後身ともいわれ、のち板野郡萩原(現鳴門市)に移されて同地に現存している。阿波州安国補陀寺仏殿梁牌(夢窓国師語録拾遺)に「阿波州安国補陀寺仏殿」とみえ、暦応二年(一三三九)八月に足利尊氏が造立し、開山は夢窓疎石とされている。しかし夢窓疎石は招請開山で、実際には細川和氏が秋月府内南明山に建立し、和氏の五男、細川頼之の猶子笑山周を開山としたという。また足利尊氏の保護を受け、同年阿波国の安国寺に指定されたとされる(光勝院縁起略)。ただし「夢窓国師語録」「阿波志」は翌三年の創建と伝える。安国寺とともに建立された利生塔は切幡(きりはた)寺に建てられた(贈僧正宥範発心求法縁)。康永元年(一三四二)夢窓疎石の招聘により大道一以が入寺し(禅林僧伝)、以後、黙翁妙誡・大岳周崇・鉄舟徳済・観中中諦などが住持となったという(「夢窓国師語録」「阿波志」など)。出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について
足利尊氏は全国66ヶ国へ利生塔を建てます。そのねらいは、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための警察権行使の拠点置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。その利生塔が、阿波安国寺の補陀寺に建立されることになります。その際に供養導師を務めているのが善通寺誕生院の宥範です。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
阿州切幡寺塔婆供養事。此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。
昭和13(1928)年頃、松山市弁天町の善勝寺に日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から70・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。(中略)
この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。
以上を整理・要約しておくと、
①幕末の1850年前後に、松山市の善勝寺の住職が讃岐で古鐘を手に入れた。
②日中戦争が激化して金属物の供出運動が起こり、古物商の手に落ちた。
③銘文を改めて調べてみると室町時代初期の阿波国市場の八幡神社の古鐘であることが分かった
銘文は、4区の面にタガネ刻で次のように刻まれています。
第1区奉鋳造①大阿波国秋月庄八幡宮事大檀那梵光寺 ②守格右京大夫 (細川)頼元兵部少輔 義之
第2区右奉為金輪聖皇天長地久御願円満天下奉平国土豊饒殊者大檀那御息災安穏増長福寿家門繁栄 并結縁奉加之衆現当二世第3区願望成就乃至鉄囲沙界之情非情悉利益平等敬白応永二暦乙亥八月十二日勧進沙門金対資頼業敬白神主 宇佐輔景宗大工 伴左衛門正光第4区奉再興明月山梵光寺住持②比丘尼守久神主 沙弥盛宗永享七年(1435)乙卯六月廿九日願主 内藤元継敬白一打鐘声 当願衆生脱三界苦 得見菩提
①梵光寺が秋月八幡宮の別当寺であったこと②住職として「守格」「守久」の名前があること。③「守格」は細川頼春の子で、梵光寺の開山者。「守久」は頼有の子で、「守格」の後継者として梵光寺に入ったこと。
④守久は尼僧であるので、梵光寺は尼寺だったこと。
⑤大檀那京太夫頼元は阿波国守護の細川頼春の三子で頼之の弟。
⑥義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った武将
市場の八幡宮には、寛永17(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とあり、秋月郷の郷社であった。
鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当で山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。
「観中和尚語録』永徳元(1381)年8月6日条には「秋月捻分八幡霊祠」として出てくるのが八幡神社です。守護所が置かれた秋月荘の鎮守社でした。それが近世になっても郷社として、周辺の村々の信仰の中心となっていることが分かります。
正面に寛文四(1644)甲辰年梵光寺観音御宝前手洗鉢願主 山上村八左衛門六月十八日造立
南北朝時代の歴応2年に阿波細川家の祖となる細川和氏が居城とした秋月に夢窓疎石上人を勧請開山に南明補陀寺として創建された。和氏の5男で細川頼之の猶子笑山周念上人が開山に迎えられた。その後、足利尊氏、義直兄弟が阿波国安国寺に当て、安國補陀寺と改称し幕府の保護を受ける官寺として諸山の寺格を与えた。貞治2年に幕府管領細川頼之が父頼春(光勝院殿)の13回忌に普明国師を開山に迎えて安國補陀寺の南に光勝寺を創建し、応安年間に頼之の弟詮春が居城を勝瑞に移すと安國補陀寺と光勝寺を合併し現在地に移転して安國補陀寺光勝院と改称し、室町時代の文明18年に十刹に列した。
その地点は、その後の吉野川の流路変更で、特定することは難しいようです。敢えて探すとすれば、秋月八幡宮から南に直進した地点や市場町香美渡付近あたりが考えられます。
J【外港 引田港】(香川県東かがわ市)
「秋月」から最も近い海港は、讃岐国の引田港などになります。引田港は以前にお話したように、中世においては大坂峠を越えて阿波もヒンターランドとしていて、畿内・瀬戸内方面への拠点港となっていたしまた。また阿讃山地沿いに東進すると、撫養港(鳴門市撫養町)に出て、阿波国南部への航路と接続が可能でした。
A 守護役所〈館・被官屋敷等〉空間、B 寺院空間、C 鎮守・町場空間)の空間を核として、有機的に結節。
阿波国守護細川氏は、和氏・頼春ともに守護職在職当時は阿波国以外での活動に多くの時間を割かざるを得ない状況にありました。
参考文献
福家清司 「秋月」の空間構成 四国中世史研究17号 2023年
阿波学会研究紀 市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号
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