瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年01月

 阿波国守護の細川氏の拠点としては、勝瑞が有名です。それ以前は秋月に拠点がありました。しかし、「秋月」については守護館跡をはじめ、町場跡や梵光寺跡などの位置が分かっていません。

秋月城4
          秋月城跡 かつては細川氏守護館跡と考えられていた
かつては「秋月城跡」(土成町秋月)を細川氏守護館跡とする説が定説化していました。
ところが発掘調査の結果、秋月城跡からは守護館跡に関連する遺構や遺物が出てきませんでした。その結果、「秋月城跡が守護館跡である可能性なし」との結論に至っているようです。考古学による「通説否定」の上にたって、「秋月」の空間構成を研究者がどのように考えているのかを見ていくことにします。テキストは「福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年」です。

秋月 細川氏拠点2JPG

まず最初に研究者が確認するのは「秋月」の領域は、古代和名抄郷「秋月郷」の「秋月荘」の荘域全体に及んでいたことです。そして、守護館・町場跡・梵光寺跡を次のように比定します。
A【守護館】 山野上城(伝細川隠居城・仏殿城・阿波市市場町大野島王子前)

山の上城跡 細川氏守護所跡候補
山野上城跡 細川氏の守護所候補地
秋月城跡が否定された後、新たな守護館候補として研究者が考えるのが「山野上城跡」です。この城は、阿波市市場町大野島の王子神社の北東200mの一帯にあります。中世山城・居館という視点から次のように評されています。

「南側の平野部に突き出した比高5mほどの土手状地形を利用して築かれたもので、東側には小川、西側には切通しの道路が通っており、これによって区画された東西50mほどの部分が城であったようだ。内部にはわずかな段差があり、3つの区画が想定できるが、後世の改変もあり、旧状がこの通りであったかどうかは分からない。」

という評価であまり特徴があるようには見えません。
しかし、明治初期編纂の「阿波郡風土記」は、細川氏の守護所について次のように記します。

「(秋月城には)射場という処もあり。此処は細川阿波守和氏の住まれし古址なるなり。按ずるに、此所分内小際にして北山に迫れり。大国の府城を営みし址とは見えず。「阿波物語」に秋月を守護所と定めらるとあるは此所にはあらで、山の上村成るべし。」

意訳変換しておくと
「秋月城には射場という所もあり、ここは細川阿波守和氏の拠点古址とされる。しかし、ここは後に山が迫り狭い。大国の府城を置いたところとは思えない。「阿波物語」に秋月を守護所と定めるとあるのは、秋月城ではなくて、山の上村であろう。」

『阿波郡風土記』の編者(近藤忠直・浦上利延)は、「射場(的場)=秋月城跡)」を守護館とするには、あまりにも小さく狭いとして、「山野上村の屋形跡=守護館」説を唱えています。「秋月城」説が発掘調査によって否定されたので、「山野上村の屋形跡」説についても改めて検討する必要が出てきます。研究者がこの説に注目するのは、次の3つの理由からです。
①吉野川の段丘を利用した立地条件
②仏殿庵の所在であること
③仏殿庵には「梵光寺観青御宝前」と彫り込まれた寛文4(1644)年の手水鉢があること
③については、仏殿庵は「梵光寺」にあったと伝えられます。梵光寺は秋月荘や守護所の鎮守社である秋月八幡宮別当院で、「秋月」にとって最も重要な寺院です。その梵光寺を「鬼門鎮護の守り」としているのが山野上村の「屋形跡」です。ここから梵光寺が守護する館こそA守護館の可能性が高いと研究者は判断します。

B【補陀寺〈ふだじ):安国寺〉】(秋月城跡周辺)を見ておきましょう。
日本歴史地名大系 「補陀寺跡」には、次のように記されています。
御嶽(おみたけ)山南麓、秋月城の近くに位置した臨済宗寺院。
南明山安国補陀禅寺・安国補陀寺などと称され、阿波国の安国寺とされたほか(光勝院縁起略)、諸山の寺格も与えられた(扶桑五山記)。近接して光勝(こうしよう)院・宝冠(ほうかん)寺が建立された。光勝院は当寺の後身ともいわれ、のち板野郡萩原(現鳴門市)に移されて同地に現存している。
阿波州安国補陀寺仏殿梁牌(夢窓国師語録拾遺)に「阿波州安国補陀寺仏殿」とみえ、暦応二年(一三三九)八月に足利尊氏が造立し、開山は夢窓疎石とされている。しかし夢窓疎石は招請開山で、実際には細川和氏が秋月府内南明山に建立し、和氏の五男、細川頼之の猶子笑山周を開山としたという。また足利尊氏の保護を受け、同年阿波国の安国寺に指定されたとされる(光勝院縁起略)。ただし「夢窓国師語録」「阿波志」は翌三年の創建と伝える。安国寺とともに建立された利生塔は切幡(きりはた)寺に建てられた(贈僧正宥範発心求法縁)。康永元年(一三四二)夢窓疎石の招聘により大道一以が入寺し(禅林僧伝)、以後、黙翁妙誡・大岳周崇・鉄舟徳済・観中中諦などが住持となったという(「夢窓国師語録」「阿波志」など)。出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について
補陀寺は阿波初代守護和氏が夢窓礎石を開山に招いて創建した禅宗寺院で、和氏の墳寺でした。和氏は尊氏の側近として活躍したことから、創建に際しては尊氏からも寄進が寄せられ、後に阿波安国寺に指定されます。補陀寺は夢窓派の重要寺院として、夢窓派の僧侶が住持として派遣され、四国内では唯一の十刹寺院でした。通説では秋月が勝瑞に移転した時に、光勝院と合併して萩原の地に移転されたとされています。しかし、萩原に移転したのは光勝院のみで、補陀寺は守護所移転後も引き続き戦国期に至るまで、秋月にあって法灯を伝えたと考える研究者もいます。

C  切幡寺に建てられたという「利生塔」を見ておきましょう。
 
切幡寺の安国寺利生塔礎石

足利尊氏は全国66ヶ国へ利生塔を建てます。そのねらいは、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための警察権行使の拠点置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。その利生塔が、阿波安国寺の補陀寺に建立されることになります。その際に供養導師を務めているのが善通寺誕生院の宥範です。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、これは事実ではないようですが、切幡寺や善通寺の利生塔は、全国的に見ても早い時期に建てられていることを押さえておきます。当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。ただ「八幡町史」は、利生塔造立地は現在の切幡寺境内ではなく、字観音の「西堂(りじどう)」と呼ばれる地点とします。
D 【守護創建寺1 梵光寺】(阿波市市場町山野上)を見ておきましょう。
秋月には補陀寺以外にも守護創建の十院がありました。その代表的寺院が梵光寺です。しかし、この寺は今となっては、どこにあったのかも分からなくなっています。そんな中で戦前に「再発見」されたのが「秋月荘八幡宮鐘銘」です。この古鐘銘について 阿波学会研究紀の「市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号」は次のように記します。

昭和13(1928)年頃、松山市弁天町の善勝寺に日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から70・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。(中略)
 この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。 

以上を整理・要約しておくと、
①幕末の1850年前後に、松山市の善勝寺の住職が讃岐で古鐘を手に入れた。
②日中戦争が激化して金属物の供出運動が起こり、古物商の手に落ちた。
③銘文を改めて調べてみると室町時代初期の阿波国市場の八幡神社の古鐘であることが分かった

 銘文は、4区の面にタガネ刻で次のように刻まれています。
 第1区奉鋳造
   ①大阿波国秋月庄八幡宮
   大檀那
    梵光寺  ②守格
    右京大夫 (細川)頼元
    兵部少輔 義之
第2区右奉為
   金輪聖皇天長地久御願
   円満天下奉平国土豊饒
   殊者大檀那御息災安穏
   増長福寿家門繁栄 并
   結縁奉加之衆現当二世
 第3区願望成就乃至鉄囲沙界
   之情非情悉利益平等敬白
    応永二暦乙亥八月十二日
    勧進沙門金対資頼業敬白
   神主 宇佐輔景宗
   大工 伴左衛門正光
 第4区奉再興
   明月山梵光寺住持②比丘尼守久
   神主 沙弥盛宗
   永享七年(1435)乙卯六月廿九日
   願主 内藤元継敬白
  一打鐘声 当願衆生
  脱三界苦 得見菩提
 この史料からは次のようなことが分かります。
①梵光寺が秋月八幡宮の別当寺であったこと
②住職として「守格」「守久」の名前があること。
③「守格」は細川頼春の子で、梵光寺の開山者。「守久」は頼有の子で、「守格」の後継者として梵光寺に入ったこと。
④守久は尼僧であるので、梵光寺は尼寺だったこと。
⑤大檀那京太夫頼元は阿波国守護の細川頼春の三子で頼之の弟。
⑥義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った武将
阿波市場の八幡神社 
              市場の八幡宮

郷土研究発表会紀要第25号は、続けて次のように記します。
              

市場の八幡宮には、寛永17(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とあり、秋月郷の郷社であった。

 鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当で山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。

「観中和尚語録』永徳元(1381)年8月6日条には「秋月捻分八幡霊祠」として出てくるのが八幡神社です。守護所が置かれた秋月荘の鎮守社でした。それが近世になっても郷社として、周辺の村々の信仰の中心となっていることが分かります。

 また市場の八幡神社には、次のような梵光寺の銘文のある手洗鉢が本堂の前に残っています。

梵光寺の銘文のある手洗鉢 
この手洗鉢は砂岩製で、横巾55cm、高32cm、厚36cm。
 正面に
  寛文四(1644)甲辰年
   梵光寺
  観音御宝前
   手洗鉢
  願主  山上村八左衛門
   六月十八日造立
寛文4年(1644)の江戸時代には神仏混淆下にあり、別当寺の梵光寺の社僧達の管理下にあったことが分かります。

D【守護創建寺院2 光勝院については、一般的には次のように云われています。
 南北朝時代の歴応2年に阿波細川家の祖となる細川和氏が居城とした秋月に夢窓疎石上人を勧請開山に南明補陀寺として創建された。和氏の5男で細川頼之の猶子笑山周念上人が開山に迎えられた。その後、足利尊氏、義直兄弟が阿波国安国寺に当て、安國補陀寺と改称し幕府の保護を受ける官寺として諸山の寺格を与えた。
貞治2年に幕府管領細川頼之が父頼春(光勝院殿)の13回忌に普明国師を開山に迎えて安國補陀寺の南に光勝寺を創建し、応安年間に頼之の弟詮春が居城を勝瑞に移すと安國補陀寺と光勝寺を合併し現在地に移転して安國補陀寺光勝院と改称し、室町時代の文明18年に十刹に列した。
光勝院は守護頼之が、亡父頼春の十一回忌に際して創建した禅宗寺院です。通説では秋月のBの補陀寺に隣接して建てられたとされています。しかし、研究者の中には補陀寺境内に建てられた仏堂とする説もあります。これも「寺々注文」に出てくる寺院ですが康暦の政変後に、頼之によって板東郡萩原の地に独立移転されたという説もあります。

秋月 細川氏拠点2JPG

E【菩提寺参道】
かつての「大道」とされる旧川北本道から補陀寺山門まで南北方向には、直線的に延びる道です。守護が書提寺補陀寺参詣のために開いた参詣道とされます。
F【大道】
藩政期の川北本道と重なる「大道」です。山野上城跡の市側の河岸段上直下も吉野川沿いの街道とともに中世の守護所設置時期にはすでにあったと研究者は考えています。
H【町場(含む市庭)
秋月八幡宮の周辺に広がる「八幡町」は、近世初期には「郷町」で町場でした。つまり、蜂須賀氏入国以前に町場が成立していたことになります。その起源は補陀寺などの寺院の門前町が町場化したことが考えられます。さらに、町場の起源は、守護所が置かれていた時期まで辿ることができるようです。以上から近世の郷町「八幡町」を守護所に伴う町場の発展型と研究者は考えています。
なお、周辺には「市の本」(阿波市市場町山野上)、近世初期の「古市付」(現在の阿波市市場町市場・香美)があります。「市の本」は古野川水運(地名「渡」)を核として成立した市庭の発展型と考えられます。
秋月荘は古野川に面していたので、当然川湊があったことが推定できます。
その地点は、その後の吉野川の流路変更で、特定することは難しいようです。敢えて探すとすれば、秋月八幡宮から南に直進した地点や市場町香美渡付近あたりが考えられます。

J【外港 引田港】(香川県東かがわ市)
引田 大内郡 正保国絵図
           引田と周辺地域 正保国絵図
「秋月」から最も近い海港は、讃岐国の引田港などになります。引田港は以前にお話したように、中世においては大坂峠を越えて阿波もヒンターランドとしていて、畿内・瀬戸内方面への拠点港となっていたしまた。また阿讃山地沿いに東進すると、撫養港(鳴門市撫養町)に出て、阿波国南部への航路と接続が可能でした。

以上から研究者は「秋月」の空間構成を次のように考えています。
① 守護所エリアは秋月荘全域。
② 守護所空間は大きく三ケ所
 A 守護役所〈館・被官屋敷等〉空間、B 寺院空間、C 鎮守・町場空間)の空間を核として、有機的に結節。
③ 守護所に付随した町場は秋月八幡宮周辺や古市など吉野川北岸域に成立。
④ これまで守護所とされてきた秋月(旧秋月村)は隣接する切幡(旧切幡村)も寺院空間に含む

こうして見ると、「秋月」は吉野川北岸の街道「大道」沿いの約1㎞の範囲内に「守護役所等」「鎮守社」「町場+市庭」「川湊」などが集中しています。そしてそのエリアから約1㎞北に隔てた山麓部に菩提寺・利生塔を配する寺院空間(奥津城)が配置されています。ある意味で集中性の高い空間構造であったことが見えて来ます。ここからは逆に、細川氏が阿波国守護になった後も国府地域へ進出せずに、引き続いて秋月を守護所としたのはどうしてか?という問題にも答えることができそうです。
 
 阿波国守護細川氏は、和氏・頼春ともに守護職在職当時は阿波国以外での活動に多くの時間を割かざるを得ない状況にありました。
 瀬戸内海・畿内方面への軍事的移動を考えると、その外港は南海道を利用した引田港になります。引田港へは阿讃山脈越えになりますが、大坂峠は低い峠道で古代以来南海道として整備されており、短時間で引田港へ出ることができます。そういう点からすれば、秋月の地は、阿波国府地域よりも瀬戸内海方面への軍事力の移動などにははるかに有利だったと研究者は考えています。
 頼春が観応の擾乱によって京都市中で戦死した後を受けた頼之と、頼之が管領として上洛した後を受けた頼有もまた、阿波一国だけでなく、四国の他国や中国地方の守護などを引き続き兼務していました。そのために「秋月」から守護所を移すことはありませんでした。要するに「秋月」は阿波国守護所であると同時に、瀬戸内海・中国地方での活動などを含めた広域守護細川氏にとっての活動拠点としての適地であったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年
阿波学会研究紀 市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号
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秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 冒頭が神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治伝説
綾氏系図

①香西氏は「綾氏系図」(『続群書類従』第七輯上・武家部)には、鳥羽院政期に讃岐国に知行国主であった中納言藤原家成の子章隆に始まる讃岐藤原氏の子孫と記されます。その氏祖は承久の乱頃の鎌倉御家人香西資村と記します。香西の地名は、平安時代後期の郡郷改編で香川郡が東西に分割されて成立した香西郡のことです。『兵庫北関入船納帳』の文安2年(1445)5月15日条に「香西」と見えるのが初見のようです。同文書の同年9月13日条には「幸西」との表記もあるので、「こ-ざい」と古くから呼ばれていたことが分かります。また、香西の名字は、『実隆公記』紙背文書(続群書類従完成会)の明応6年(1497)10月5日の女房奉書に「かうさいのまた六」(香西又六元長)と見え、地名の香西に因んでいたことが分かります。 香西氏は資村のあと中世を通じて勢力を伸ばし、南北朝期には足利尊氏方に付き、その後讃岐守護となった細川氏との結び付きを強めていきます。
香西氏に関する史料を年代順に並べて見ておきます。
建武2年(1335)11月 細川定禅(顕氏弟)に率いられて、香西郡坂田郷鷺田庄で挙兵 (『太平記』の諸国ノ朝敵蜂起ノ事)
建武4年(1337)足利尊氏方の讃岐守護細川顕氏に従った(西野嘉右衛門氏所蔵文書)

香西氏の成長2


室町期の香西氏は、管領細川京兆家の内衆として在京し、その分国丹波国の守護代や摂津国住吉郡守護代を務めています。(『康冨記』応永19(1412)年6月8日条)。また、讃岐では細川氏所領香西郡坂田郷代官や守護料所三野郡仁尾浦代官、醍醐寺領綾南条郡陶保代官を務めた。
『南海治乱記』『南海通記』等には、香西氏の系譜について次のように記します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏家譜
A 細川勝元より「元」字を与えられた①香西元資は、香川元明・安富盛長・奈良元安とともに「細川ノ四天王」と呼ばれて細川家内で重きをなした。
B ①元資の後、②長子元直とその子元継は丹波篠山城にいて上香西と呼ばれ、
C ③次子元網(元顕)は、讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれた。
D ④香西氏は、在京と在国の一族分業体制を採っていた
しかし、これらの内容は残された史料とはかみ合わないことは以前にお話ししました。南海通記の記述は長老からの聞き書きに頼っているようですが、その時点で香西氏の家譜については、記憶が失われていたようです。ただ室町~戦国時代の香西氏には、次の2系統があったことは史料からもうかがえます。
A 豊前守・豊前入道を名乗る豊前守系統と
B 五郎左(右)衛門尉を名乗る五郎左(右)衛門尉系統
Aは嘉吉年間、讃岐国仁尾浦代官職・春日社領越前国坪江郷政所職を務めた豊前(豊前入道)と、醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保代官職を務めた美濃守とに分かれたようです。応永21年(1414)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に、香西豊前入道常健は、のち丹波国守護代となる香西豊前守元資とともに列席しています。「松山百首和歌」にそれぞれ2首、1首が載せられていることから裏付けられます。香西氏が京兆家細川家の内衆として現れるのは、満元時代の常健が初見となります。
Bの香西氏について年表化しておきます
①嘉吉元年(1441) 仁尾浦神人等言上状に香西豊前とともに香西五郎左(右)衛門が見えるのが初見
②万嘉吉3年6月1日条 里小路時房の『建内記』に、香西五郎右衛門尉之長が京兆家分国摂津国住吉郡守護代であったこと
③文明18年(1486)『蔭凉軒日録』11月27日条 香西五郎左衛門が初めて登場し、細川政元の使者をしばしば務めていること
④長享元年(1487)12月 将軍足利義尚の近江六角氏追討に際して政元の伴衆に加わる政元の内衆の1人として登場
⑤長享3年(1489)8月13日の政元主催の犬追物に香西又六元長とともに射手を務める
⑥文明17年(1485)から永正4年(1507)の間、香西彦二郎長祐が、細川政元邸で開催される2月25日の「細川千句」の執筆役を務めていること。
こうしてみると香西氏は細川京兆家に仕えて、和歌・連歌・犬追物活動に従っていたことが分かります。 

香西氏と
                  勝賀城と佐料城

讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでこの城を拠点とします。

佐料城 高松市 城

佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。 
 香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
夢窓疎石(むそうそせき)という鎌倉時代から室町時代に活躍した枯山水の庭師・作庭家 - 枯山水めぐり

暦応5年(1342)に夢想礎石が阿波国丈六寺釈迦像開眼の導師のために阿波に渡ってきます。入仏の式を終えた後、礎石は讃州七観音霊地の巡礼を望みます。讃州七観音霊地とは「国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺」で、この観音霊場巡りの「中辺路」が、後の「四国遍路」につながると研究者は考えています。
『香西雑記』には、この時のことを次のように記します。

「平賀近山来由景象記」には「常世山其名殊に霊也。・・・往昔神仙の地也と謂いて、其名有といへり。・・・昔麓に常世山宗玄寺と云禅林有て、有時夢想国師の止宿を香西氏奔走せられし旧跡也。・又曰、往昔細川頼之阿国勝浦邑に梵宇を建、丈六の釈尊の像を刻彫し、夢想国師を請して開眼の導師とせられ、当地に 来られ常世山宗玄寺に止宿の時、城主香西氏奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲て喫茶を促。国師此名水を賞して、則泉房記を書れり、香西氏得之て大に悦寵賞せられしとなり」

意訳変換しておくと
「平賀近山来由景象記」には次のように記す。「常世山は、まさに霊山である。・・・往昔は神仙の地とされ、この名がつけたらたと云う。昔はその麓に常世山宗玄寺と禅寺があって、夢想国師が来訪したときに香西氏が宿として提供した旧跡である。また次のようにも記す。その昔、川頼之が阿波の勝浦邑に梵宇を建立し丈六の釈尊像を刻彫し、夢想国師に開眼の導師を依頼した。その際にこの地にやってきて常世山宗玄寺に止宿した。城主香西氏は奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲んで喫茶で接待した。国師はこの名水を賞して、泉房記を香西氏に与えた。香西氏はこれを手にして大に悦んだという」

ここからは香西氏の居城である佐料城近くに常世山があり、そこに宗玄寺という香西氏と関係の深い禅宗寺院があったことが分かります。
礎石はその禅寺に止宿したとあるので、宗玄寺にも旦過寮または仮宿院・接待庵にあたる宿泊施設があったことがうかがえます。中世後期には、国人領主の城館の周辺には重臣の館や迎賓館的禅宗寺院が姿を見せるようになります。そして日常的な居所は山城に移転し、麓の居館 (公務の場)と城下に2分されるようになります。宗玄寺も香西氏の迎賓館的性格を持った禅宗寺院ではなかったかと研究者は推測します。ここからは香西氏が禅宗の学僧との接触を通じて、詩賦の教養を高めたていたことがうかがえます。
室町時代の讃岐では、守護細川氏の保護もあって、臨済宗、特に五山派の受容が広がっていました。
例えば、細川顕氏は父頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺を建立して無德至孝を招いています。細川頼之は夢窓疎石や絶海中津を讃岐に招いています。五山派が守護の保護を受けたのに対して、林下は守護代や国人クラスの地方武士に積極的に取り入り、仁尾に常徳寺を開くなど教線の拡大を図ります。一方、曹洞宗も寛正年中(1460~1466)に細川勝元によって大内郡東山の宝光寺が再興され、讃岐禅門洞家の最初の道場としたといわれています。禅宗の地方展開は、このような地方有力武士と名の知れた禅僧との特別な関係だけではないようです。法系図に名前が残されていない「参学ノ小師」とされる無名の禅僧と、それを庇護した中小の在地武士や土豪層に支えられていた面も大きかったと研究者は指摘します。 
室町~戦国時代の武士にとって戦いの中で生み出された怨霊を鎮魂し、安穏をはかることは欠かせない行為でした。『足利季世記』には、次のように記されています。

「かの法師を陣僧に作り、廻状を書て彼の陣に送りける」

ここからは、陣僧と呼ばれる従軍僧が軍団の中に多数いことが分かります。陣僧とは右筆的性格や使僧的性格だけではないようです。大橋俊雄氏は次のように指摘します。

「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にもあたった『従軍僧』というのが実際の姿に近かったのではないか」

ここからは陣僧には、従軍医的側面もあったことがうかがえます。そのため易学・兵学中心の講義が行われた足利学校の卒業生(軍配者)たちは、軍師として各地の大名に招かれることが多くなり、そのブレーンとなケースも出てきます。
 
阿弥衆 毛坊主・陣僧・同朋衆(桜井哲夫) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 禅僧は、戦闘はしなくても合戦の行程を管理して「頸注文」のような報告書の作成にも関与していました。
南北朝時代から軍忠状には、寺院は祈祷と具体的な合戦における死者手負が列挙されるようになります。室町時代の『蔭凉軒日録』には「分捕頸注文」と呼ばれる戦果報告書群が数多く記載されています。これは合戦の大将に提出する軍忠状の一種で、大将や軍奉行の承認を受けて、後日、恩賞の給付や安堵を受ける際の証拠資料となるものです。
 延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。

「頸五十余、名が判明するもの  十二名、 未詳のもの  四十余り、 死者 三百余人、 安富筑後守元家方の負傷者   安富修理亮・三上与三郎 討死」

同年4月4日付の「頸注文」には、3月29 日巳~午の刻合戦分として「安冨筑後守元家  手勢が討ち取った頸六十七」と記されています。
これらの首見分や死体処理に携わったのも従軍僧侶(陣僧)です。彼らは、戦争のときには、まず先に調伏祈祷行為を行い、南北朝時代には和議の斡旋にも関わり、和議が破れた際には両者の間に立って調整に務めます。戦国時代になると、自ら軍師となったり、陣僧と称して軍陣において敵味方の間を往復周旋して和平交渉を務める者も出てきます。
 一方で、血まみれになり修羅と化した武士達に、心の平安をもたらしたのが従軍を厭わない禅僧たちであったのです。こうして陣僧達は武士の心を摑みます。武士が禅僧を保護するようになるのには、こんな背景があるようです。そういう流れの中で、香西氏も氏寺として禅寺を建立し、迎賓館として整備し、そこに賓客として夢想礎石を迎えたという話になります。

香西氏の和歌や連歌などの文化活動を年表化してみます。
・応永21年(1414)12月8日 讃岐守護細川満元が、法楽和歌会を催して詠んだ百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺(白峰寺)へ奉納。この中に香西常建と香西元資が詠んだ歌が載せられている。
文明17年(1485)2月25日、香西彦二郎長祐は細川政元の「北野社法楽一日千句連歌」に参加、以後永正4年(1507)2月25日まで政元の命により御発句御脇付第三の執筆担当
長享3年(1489)7月3日   細川政国主催の禅昌院詩歌会に飛鳥井雅親・細川政元・五山僧侶らとともに香西又六・牟禮次郎が列座
延徳3年(1491)3月3日    細川政元は馬の買い付けのために香西又六元長や冷泉爲広らを同行して奥州へ出発。その途中の3月11日に、加賀国白江荘で細川政元が道端の桜を見て歌を詠み、それに続いて冷泉爲広・香西元長・鴨井元朝も続けて歌を詠んでいます。ここから細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことがうかがえます。
明応元年(1495)8月11日 香西藤五郎元綱が歌会主催。この歌会には『松下集』の作者である僧の正広も参加。
明応5年(1496)2月22日、香西元資が勧進して東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って連歌会を主催。「神谷神社法楽連歌」1巻を神谷神社に奉納。端書並びに端作には「明應五年二月廿二日」「神谷社法楽」「賦三字中畧連歌」とあり、神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。
香西元資は、細川勝元の家臣で、連衆は、安富元家・同元治など29名です。神谷神社所蔵の鎌倉期古写の『大般若経』600巻のうち、巻591は享徳4年(1455)に宗安、巻593は同じ年に宗林、巻451 は文明13年(1481)に祐慶法師が補写されています。ここからは、宗堅・宗高・宗勝など「宗」の字を持つ人物や、「祐」の字を持つ祐宗らのうち何人かは神谷神社の神官や僧侶ではないかと研究者は推測します。
 また、年代不明ながら身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書に、香西又六元長の連歌会での百韻連歌懐紙の名残りの折に、句上げを掲げて次のように記されています。

「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(7人略)長祐十二、業祐一」

ここからは、香西又六元長を筆頭とし彦六、元秋、孫六元能(孫六元秋、彦六元能か)、4人おいて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、長祐は香西彦二郎長祐の順で座っていたことがうかがえます。

犬追物

犬追物
 管領細川政元と香西孫五郎との親密な関係がうかがえるのが犬追物の頻繁な開催です。
犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです
それが細川政元の時代になると、次のように頻繁に行われるようになります。
1484年3月9日   細川政元邸の犬追物で香西孫五郎・香西又五郎・安富與三左衛門尉らが射手を務める(『萩藩旧記雑録』前編)。
1488年正月20日  細川政元が犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎が参加(『後鑑』)
1489年正月20日  香西又六元長が細川政元の犬追物で射手を務める(小野均氏所蔵文書)。
1489年8月12日  細川政元邸の犬追物に備えて京に香西党300人程が集まり注目を集める。牟禮・鴨井・行吉等は香西一族(『蔭凉軒日録』)
1490年8月13日 細川政元、犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎・安富又三郎・安富與三左衛門尉・安富新兵衛尉・香西五郎左衛門尉・奈良備前守が参加(『犬追物日記』)。
1493年7月7日 細川政元亭の犬馬場で犬追物があり、「天下壮観也。・・・香西又六、牟禮次郎十二騎」と記される(『蔭凉軒日録』)
1493年8月23日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎らが参加し「天下壮観也」 (『蔭凉軒日録』)。
1493年11月16日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎が参加(『犬追物日記』)

1491年に実施されていないのは、先ほど見たように細川政元が香西又六元長や冷泉爲広馬とともに奥州へ馬の買付に出向いていたからと思われます。1492年は吉備での戦争従軍のためのようです。それを除くと、年に1回だったのが2回へと増え、1493年には3回になっています。
蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には次のように記します。

「塗師花田源左衛門尉来る。雑話剋を移す。勧むるに斎をもってす。話、京兆(政元)の件同に及ぶ。来る十三日三手の犬大義なり。二百匹過ぎ一献あり。一献おわりてまた百匹。三十六騎これあり。(中略)また香西党はなはだ多衆なり。相伝えて云く。藤家七千人。自余諸侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

塗師の花田源左衛門尉が依頼品を収めに来て、いつものように讃岐の情勢を話して帰る。話は京兆家の細川政元のことに及んだ。13日の犬追物では、3回に分かれて行われた。1回目が二百匹あまり、2回目が百匹。これを36騎で追った。(中略)
中でも香西衆は数が多い。伝え聞くところによると、讃岐藤家は七千人という。他の侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」


ここからは、細川政元邸の犬追物に備えて讃岐から京に香西党300人程が集まって犬追物がおこなわれたことが分かります。300騎というのは軍事集団で、ある種の示威行動でもあり、人々から注目されています。讃岐では香西氏が属する讃岐藤原氏は7、000人もいて他の侍はこれに及ばず、香西氏は集団からなる党的武士団であるとされています。京都の人々から「天下壮観也」と表されています。香西氏一門の名を誇示する場となっていたがうかがえます。こうして香西又六元長は、政元の寵愛をうけることで、京都の警察力を握り権力中枢に最接近していきます。そして、己の力を過信して永世の錯乱を招くことになると私は考えています。
以上をまとめておくと
①香西氏は細川氏の内衆として、丹波など畿内で守護代をつとめるなどいくもの傍流が存在した。
②その中で、讃岐に拠点を置いた香西氏は勝賀城と佐料城を拠点に、阿野北平野方面まで勢力を伸ばしていた。
③香西氏が建立した宗玄寺は迎賓館的性格を持った禅宗寺院で、禅宗の学僧との接触を通じて、教養を高めようとしていた。
④香西元資は、東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って神谷神社で法楽連歌会を開催し、一族や幕下との連帯強化を図っている。
⑤香西孫五郎は、細川政元の寵愛を受けて一族で犬追物に参加し、最有力の内衆となり、京都の警察権を握った。
⑥それが細川政元の後継者問題への介入につながり、永世の錯乱へ続き墓穴を掘ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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武士に求められた諸要素
 
前回は東讃守護代の安富氏が連歌や和歌などの文化力を政治的に活用していたことを次のようにまとめました。
①細川家主宰の連歌会などの重要なメンバーとなることで政治的な地位を高めたこと
②国元の讃岐でも連歌師を呼んで連歌会を開いて、文化的な伝達役を果たしていたこと
③それが一族や家臣団の意志疎通や団結など政治的にプラスの役割を果たしたこと
④法楽連歌などを神前で開いて、奉納することで有力寺社とのつながりを強めたこと
今回は、猿楽能と田楽がどのようにして讃岐に定着していったのか、その際に細川氏の被官達が果たした役割がなんだたのかを見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

室町幕府の勧進猿楽のモデルは、永享5年(1433)に6代将軍足利義教が音阿弥に命じて京都の糺河原で勧進猿楽を興行したことに始まるようです。

貞秀「東山殿猿楽興行図」
貞秀「東山殿猿楽興行図」 
                 東山殿猿楽興行図
これをモデルにして、文亀 3年(1503)に11代義澄は猿楽興行を定例化します。その背景には、義澄が管領の細川政元との関係修復させ、政元の幕政参加で政治基盤の安定化をはかろうとする政治的意図があったと研究者は指摘します。足利幕府の支持基盤である諸勢力の結束を強めて、幕政運営体制を維持・強化しようとして行った政策の一環として猿楽能興行が取り上げられたというのです。
 合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあったようです。
猿楽興行は、新たな政治的ランク付けを目に見える形で提供する秩序構築の場でもあったのです。これは、郷村における神社の祭礼の宮座の座席位置が、その人のランク付けとして機能していたことと通じるものがあります。
  中世の武士は、自らの実力によって所領保全に努めました。
しかし、室町時代にはそれだけでなく室町殿とのつながりを求め、その支援を得て所領保全を図ろうとする地方武士も多く現れます。中央権力とのつながりを持った地方武士たちの中には、室町殿の邸宅を模した屋敷や文芸を催すための会所を造り、そこで室町殿と同じような儀礼を行うようになります。また、中央・公家文化の担い手を国元に招いて京都と同じことを催すようになります。そのねらいは、地域社会に対して自らが室町殿と直結していることやその文化的な優越性を誇示することでした。それが自らを権威づけ、一族や家臣団の求心力を高めることに気がつくのです。 

 15世紀後半の将軍や管領細川氏の主宰した田楽・猿楽を年表化してみます
1465年正月23日 細川右京大夫勝元亭への御成があり、能が催され(『親元日記』)
1465正月26日  室町殿では諸大名が召されて田楽を拝覧(『大乗院旧記』)
1466正月8日   細川殿・右馬頭・安富勘解由左衛門尉が旧例によって相賀し、猿楽を行って歌舞献賀を行った(『蔭凉軒日録』)
1470年3月23日 細川被官人共が猿楽で相交わり(『大乗院旧記』)
1490年5月5日  細川政元亭で田楽(観世太夫能)
1490年5月12日 京兆第で猿楽が興行(『蔭凉軒日録』) 
このような京都での田楽・猿楽の流行が在京細川家被官を通じて、次のように讃岐にも伝えられます。
1353年3月5日  三野の秋山泰忠は置文で、一族子孫に本門寺御会講を心一つにして勤め、白拍子・猿楽・殿原で懇ろにもてなすよう命じている(秋山家文書)
1460年12月 讃岐守護細川勝元の「讃岐国一宮田村大社壁書之事」において、猿楽・ 白拍子の舞を奉納(田村神社文書)
1480年9月8日 石清尾八幡宮の猿楽(能)面作成(『石清尾八幡宮関係資料』)、
1497年正月 小豆島で利貞名ほか5名が共催して相撲・流鏑馬・放生会・後宴猿楽を実施(赤松家文書) 
こうして見ると15世紀後半には、讃岐でも猿楽や白拍子などが寺社の祭礼などで演じられるようになっていたことが分かります。
田楽という言葉は、田植え行事に関わる芸能の総称で、田楽法師とは法体姿の田楽専門芸能者でした。

第16回日本史講座まとめ③(院政期の文化) : 山武の世界史

中世は「芸能の世紀」といわれ、中でも田楽はその代表的な芸能で、鎌倉末期から室町時代にかけて猿楽を凌駕して人気がありました。それが讃岐にも及んでいたことは残された地名から推測できるようです。中・近世期において流鏑馬・競馬・獅子舞等の寺社芸能に出演の芸人には、禄物が支給され、その財源のために免田が設置されていたことは以前にお話ししました。このうち田楽法師を招く経費に充てられた田のことを田楽田と呼びました。讃岐にも「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っています。この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていたのです。ここからも社寺祭礼行事で芸能が盛んに行われていたことが裏付けられます。

奈良・春日若宮おん祭での田楽座
奈良・春日若宮おん祭での田楽座

江戸時代後期の高松藩領『東讃郡村免名録』(鎌田共済会郷土博物館蔵)には、山田郡西前田村滝本免の中 に「田楽」の字名が見えます。

宮處八幡宮と田楽と前田氏
宮處八幡宮と前田城

前田地区の「田楽」地名の由来は、前田氏が在地支配の一環として行った宮處八幡宮の祭礼諸行事での田楽奉納にあります。その経費のために田楽田が設けられます。それがやがて「田楽」と省略されたようです。前田氏は讃岐国山田郡内を名字の地とする国人で、宮處八幡宮の参道先には前田氏が築いた前田城跡があります。室町時代には細川京兆家の被官となっていて、応永22年(1415)には管領細川満元の使者として前田某 が見えます。(『兼宣公記』)。
宮處八幡宮と田楽と前田氏2

宮處八幡宮
その頃、京都では勧進田楽・猿楽が盛んに行われていました。
応永29年(1422)には細川満元が、永享5年(1433)には細川持之がそれぞれ将軍が観覧するための桟敷の管理を任されています。前田氏も上・在京して桟敷管理の任に当たり、田楽や猿楽に触れた可能性があります。前田地区の在地領主であった前田氏が、地域の氏神的存在であった宮處八幡宮の祭礼行事を氏寺宝寿寺を通じて主宰することになったのでしょう。それは領域内における前田氏の支配権と祭祀権を確立しようとする政治的なねらいがあったとしておきます。
 
室町時代の放生会には獅子舞と田楽がセットで興行されたようです。
当時の神事渡物は、次の3部門で構成されていました。
①通常神輿・神官・御幣等の神事
②一物・獅子舞・神楽・田楽・猿楽等の芸能集団
③競馬・流鏑馬・相撲等の競技集団
『年中行事絵巻』に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
 「年中行事絵巻」に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
このうち②に属する田楽師の姿は、もともとは水干に指貫姿で綾藺笠を被り、太鼓の伴奏でビンザサラを使って、円陣や相対しながら躍動的でシンメトリックな動きをする踊りだったようです。それが次第に獅子舞や競馬・相撲等と一緒に一連の祭礼行事の一部分となっていきます。そして風流化して、華美な花笠や異形な被り物で顔を隠したり、緩慢な動作で踊りの隊列も変化に富むようになります。宮處八幡宮の祭礼行事も、室町時代に行われていた仏教系の放生会行事が、江戸末期の神仏分離思想の影響で収穫感謝の秋祭りに変わったようです。

   松岡調の『新撰讃岐国風土記』(多和文庫蔵)には、次のように記されています。
「宮処八幡神社の大祭に、氏子地四箇村より当人とて、童子に潔斎させ、白の直衣を着せて御輿の前に立ち行くに、それが前に大なる団扇を指立て、練り行くなり。これ他村にせぬ供奉なり」
意訳変換しておくと
「宮処八幡神社の大祭には、氏子である四箇村より当(頭)人として、童子を潔斎させて、白の直衣を着せて、御輿の前を歩かせて行く。その前に大きな団扇をさしかかて練り歩く。これは他村にはない供奉である」

 これは近世になって現れたものではなく中世の田楽や猿楽の流れを汲む祭礼行事でした。そのため近隣の村社には見られないものだったのでしょう。近くの滝本神社では競馬が行われています。この獅子舞や相撲・競馬等は中世の神事である渡物の名残です。童子にさしかけた蓋は風流の象徴としておきます。
1田楽と能
猿楽と田楽 伴信友写『職人歌合画本』(天保9年)国立国会図書館デジタルコレクション

最後に前田氏について見ておきましょう。
前田氏は讃岐国山田郡内の前田を名字の地とする国人で、室町中期には細川京兆家の被官となっています。史料には次のように登場します。
応永22年(1415)  管領細川満元の使者として広橋兼宣のもとに赴いた「前田某」が細川氏被官としての初見(『兼宣公記』)
文安元年(1444)6月 万里小路時房は伝聞として次のように伝える。
香西の子と前田の子15歳が囲碁の対局中に、13歳の細川九郎(勝元)が香西の子に助言した。それを遺恨に思った前田の子は、一旦退出の後に舞い戻って休息中の勝元に切りかかった。父が四国に在ったため親類に預けられ、一族の沙汰として切腹させられた。
 この時に前田一党に害が及ぶことはなかったようです。(『建内記』)。香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちです。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで主従関係を強固なものにしようとしたこと、武士の教養として囲碁を学んでいたことがうかがえます。 
文安4年(1447)「細川内前田宿所」が火災に遭ったこと((『建内記』)
享徳元年(1452)京兆家犬追物に前田次郎右衛門尉が参加(『犬追物手組日記』)
永正元年(1504)8月4日条 「細川被官前田五郎左衛門」
永正4年(1507)8月朔日条、「讃岐武士の墓場」とされる永世の錯乱で香西元長が討死する際の記事に「又六カ与力ニ讃岐国住人前田弥四郎ト云者」とある。ここからは、元長に代わって彼の具足を着けて前田弥四郎が討死したことが分かります。讃岐国住人の前田弥四郎は、もともとは京兆家被官でしたが、この時点では香川元長の寄子となっていたようです。
前田氏の本拠は、現在の香川大学医学部の北西で、十河氏の拠点は、香川大学の南側で隣接する位置になります。
十河氏の細川氏支配体制へ

前田氏と十河氏の関係はどうだったのでしょうか?
応安 4年(1371)地頭十河千光が蓮華王院領十河郷半済所務職を請け負い
文安 2年(1445)十河氏が安富氏の管理下にあった山田郡の庵治・片本の港の管理権を讃岐守護兼管領の細川勝元から与えられる
こうして十河氏は、15 世紀半ばには山田郡における最も有力な国人領主に成長しています。『南海通記』によれば、前田氏はこの十河氏の支族で、十河存春(景滋)の弟宗存が分家して前田頼母宗存と称して文明年間(1469~87)に前田に本拠を構えたのに始まるとされています。そして、その後に子の前田主殿頭宗春、孫の前田甚之丞宗清と 3代続き、天正11年(1583)に長宗我部軍に滅ぼされたと伝えます。ここではじめて十河氏が前田氏を名乗ったとされています。

十河氏1

しかし、実態は十河氏が前田氏の名跡を継ぐ形をとってこの地区に進出してきたのではないかと研究者は考えています

十河氏の背後に阿波の三好氏がいたように、前田氏の場合も三好氏の讃岐戦略の中に組み込まれていったというのです。研究者は前田氏を、次のように前後期に区別します。 
前期前田氏 十河氏に取って代わるまでの前田氏
後期前田氏 国人領主十河氏が分家し、前田氏の名跡を継ぐ形で前田氏を名乗ってから以後を後期

以上をまとめておきます
①15世紀後半に、室町幕府や猿楽や田楽を公式行事として行うようになった
②猿楽・田楽の興行は幕政運営体制を維持・強化しようとする政策の一環でもあった。
③衆軍の代替わりや合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあった。
④京都での田楽・猿楽の流行は在京細川家被官を通じて、讃岐にも定着された。
⑤それは「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っていることから裏付けられる。
⑥この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていた。
⑦中世に讃岐に伝わった田楽・猿楽は風流化し、獅子舞や競馬・相撲等と一緒に祭礼行事の一部分となって受け継がれていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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武士に求められた諸要素
  
中世後期になると武士の領域権力化には、次のような要素が求められるようになります
①軍事力(ハードパワー)
②文化力(ソフトパワー)
③それを支える経済力
④それらを総合した政治力(外交力を含む)

これらの要素を総合的に備える武士団が生き残り、戦国大名へと成長して行くようです。そのような中で、讃岐で②の文化力が最も高かったのが東讃守護代を務めた安富氏のようです。今回は安富氏のどんな点が評価されているかに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

まずは安富氏の出自と讃岐定住までを押さえておきます。

安富氏2

讃岐安富氏は、下総国の民部太夫照之が祖と伝えます。鎌倉時代の幕府奉行人の中に安富氏が見えるので、下総の安冨氏の一族から室町時代に細川氏の近臣安富氏が起こったようです。室町幕府右筆方奉行人の中に安富行長等幾人かの安富氏一族の名があります。『西讃府志』には、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内3郡18か村を領して、後継のいなかった三木氏に代わって平木城主になったと記します。安富氏が細川氏の被官として史料上にあらわれるのは『相国寺供養記』で、明徳3年(1392)の相国寺落慶法要に際して、細川頼元の「郎党二十三騎」の1人として安冨安芸又三郎盛衡が供奉しています。その後、安富氏は讃岐の守護代に任じられ、応永16年(1409)には安芸入道盛家が又守護代の安富次郎左衛門に施行状を下しています。
 以上から14世紀後半に細川頼之に従って来讃した安富氏が15世紀初頭には東讃守護代のポストを得ていることを押さえておきます。

近年の研究で、安富氏は鎌倉時代に六波羅探題をはじめ関東や鎮西探題でも活躍した奉行人だったことが明らかにされています。
建長2年(1250) 六波羅奉行人には安冨五郎左衛門尉・安冨民部大夫、同3年には安冨民部太夫
建治3年(1277) 関東では安富民部三郎入道(泰嗣・法名行位)が引付奉行人に補任
正和5年(1316) 安富行長、文保元年(1317)には安冨兵庫允が補任。
ここからは、安富氏は吏僚としてのスタートを六波羅奉行人から始め、鎮西探題が発足すると鎮西引付奉行人として活躍したことが見えて来ます。特に正和5年(1316)に六波羅奉行人になった安富行長は、室町幕府にも仕え、足利尊氏の側近として彼の右筆を務めた人物として知られています。 
佐藤進一氏は、室町幕府開創期の六波羅探題と室町幕府との連続面に注目して、六波羅評定衆や同奉行人の多くが室町幕府に再出仕していた事実を明らかにしました。室町幕府は六波羅探題の発展型であるということです。それは西国の政治・社会情勢に明るかった六波羅奉行人・在京人の多くは、そのまま足利高氏に掌握され、開創期の室町幕府の主要構成員となったという事実に基づいています。ここでは、室町幕府の諸機関の多くは、鎌倉的幕府秩序の維持者としての性格をもち、その構成員もまた、それぞれの機関の性格にあった階層の文士・武士によって占められていたことを押さえておきます。
安富氏のように前代奉行人の家の出身と推測される者は次の通りです。
足利直義の執政機関の康永3年(1344)の編成表に、1番の安冨孫三郎、2番の安冨進三郎、
貞和5年(1349)の編成表には、4番に安冨三郎左衛門尉の名があります。 
一方、在京人で六波羅探題下に属していた香川氏は、正嘉元年(1257)の新日吉社小五月会の流鏑馬や乾元2年(1303)の幕府御的始において、それぞれ香川新五郎光景、香川五郎が射手を勤めています。こうして見ると安富氏や香川氏は鎌倉時代には洛中警固を主な任務とした武士(武官)としての系譜を持っていました。これが後の讃岐国守護代としての在地支配の在り方や性格にも少なからず影響を与えたのではないかと研究者は考えています。

 15世紀初頭に、東讃守護代として登場してくるの安富宝蜜・宝城兄弟です。
『顕伝明名録』では「宝蜜=周防守入道」で「宝城兄」としています。亡父の追善和歌の勧進等でも宝蜜が主導していることなどから、宝蜜が宝城の兄であるようです。両人の文化的な活動を年表化して見ていくことにします。
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

①応永21年(1414)4月17日、讃岐守護の道歓細川満元邸で催された「頓証寺法楽千首和歌」

頓證寺法楽続百首和歌
                  頓證寺法楽続百首和歌
前年が崇徳院250 年遠忌に当たっていたので、その慰霊のための法楽の催しだったようです。詠者の中には、道歓、梵燈、重阿、堯孝、正徹等の他に、満元の被官であった安富宝密・安富宝城兄弟が参加しています。このうち安富周防入道宝蜜は、崇徳院御影堂に掲げる額の字の揮毫を、道歓を介して将軍義持に願い出ています。これに対して将軍は、仙洞の御小松院に執奏して「頓証寺」の勅額を賜っています。(白峯寺)院主御坊宛の宝蜜書状には、次のように記します。

「(前略)百首法楽申候、当座卅首共に一貫にあすかゐ殿遊させ候て、また屋形法楽候一日千首も、此筑後殿に進之候、いつれも箱に入て候、此まゝ御奉納あるへく候」

ここからは、後に催された「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」と一緒に、同年12月に「松山法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮寶書84号)として頓証寺(白峰寺)に奉納されたことが分かります。その橋渡し役を果たしたの東讃守護代の安富氏だったことを押さえておきます。

頓證寺法楽続百首和歌3

頓證寺法楽続百首和歌2
頓證寺法楽続百首和歌

「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」(白峯寺蔵)は、飛鳥井宋雅筆と伝えられます。
両者を合わせて1巻として法楽のために頓證寺(白峰寺)奉納されています。この「続百首」の成立は、応永21年(1414)12月8日で、「続三十首」も同じ日に詠まれたようです。「続三十首」の詠者18 名の内、善節1人を除く17名までが「続百首」の作者46名の中に入っているので、おそらく「続百首」の披講を終えた後、その日の出席者のみで「当座三十首」の会がもたれたと研究者は考えています。「当座三十首」の 歌人は、宋雅(飛鳥井雅縁)・雅清(飛鳥井雅世の初名)の飛鳥井家の歌人を筆頭に、道歓(細川満元)・持元・持頼・持之等の細川一族が中心的な位置を占めています。他に(安冨)宝城・(安冨周防入道)宝密・(横越)元久・(秋庭)元継等の細川氏の被官と、正徹・堯孝・梵灯等の歌僧が参加しています。彼らが 細川家の文芸を担った代表的な人物のようです。
②応永22年(1415)9月に成立した「詠法華経品々和歌一巻」(白峯寺蔵)
これは安富宝蜜・宝城兄弟による亡父の追善が目的でした。応永21年4月の「一日千首和歌」、同12月の「法楽百首」「当座三十首」、応永22年9月頃の「詠法華経和歌」の4つすべてに顔を見せているのは、道歓・宝城・之重・宝密・堯孝・正徹・梵灯の7名だけです。彼らは細川道歓の歌壇と深い関係を以ていたことがうかがえます。
 安富宝城は東讃守護代でもあり、連歌を嗜み「北野万句連歌」にも出座するなど、細川歌壇の中で最も文芸を長けた人物の1人だったようです。常建・元資は東寺百合文書に、それぞれ丹波国守護代香西入道・香西豊前守とあり、共に細川京兆家被官の丹波系の香西氏です。之重は、寒川氏のようです。
ここでは15世紀初めには、細川氏参加の讃岐武将の中に連歌を巧みにする者達が登場していたこと、その中でも安富氏は、管領細川家の文化的な中心メンバーであったことを押さえておきます。

安富氏15世紀

 安富氏は東讃の守護代に任じられていましたが、細川氏の身近に仕えるために讃岐を離れ、ほとんど京都に常駐していたことは以前にお話ししました。そのため中央政治においては重要なポストを得て活躍しますが、東讃支配という面では香西・寒川・植田氏などの反抗を受けて戦国大名化を進めることができませんでした。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から

この時期の安富氏の文化的活動を見ていくことにします。
①1454年「細川持之十三年忌引品経和歌」、1458年の「細川満元朝臣三十三回忌品経和歌」に讃岐守護代安富智安が参加。
②1455年 守護代の安富盛保が和爾賀波神社(三木町)に「三十六歌仙扁額」6 枚を奉納
     ここでは社家奉行も兼ねる安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、その庇護を得て毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。
③1460年「讃岐国一宮田村大社壁書之事」は、讃岐守護細川勝元が同社関係者に対し守るべき事項を26箇条にまとめて奉納。安富筑後入道智安、社家奉行安富山城守盛長、同林参河入道宗宜、同安富左京亮盛保を通じて周知。その14条に法楽千句田に関する規定があり、運営資金調達方法も整備されていたことが分かる
④1463年3月27日、「賦何船  連歌百韻」(香川県立ミュージアム蔵)には、讃岐守護細川勝元が亭主となって、守護代安富智安らの細川京兆家被官や歌人として名高い長谷川正広、連歌師専順などの名が連なる。
⑤1464年 安富盛長が興行した「熊野法楽千句」には細川氏やその重臣が多く参加し、彼の政治的地位や経済力を確認できる。勝元(細川)はこの会の主客として参加。
⑥1485年 管領細川宗家(京兆家)を中心に行われた2月25 日の聖廟千句「細川千句」の連衆の中には、讃州座の守護代安富元家が発句を、香西彦二(次)郎長祐が執筆。
⑦1486年 守護代職を安富智安から引き継いだ元家は、自邸で和歌会が開き、「細川道賢十三回忌品経和歌」に参加。 
⑧1496年 香西元資主宰の法楽連歌会には、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちが参加しています。連衆として、宗堅、宗高、(安富)元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、(安富)元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
ここからは15世紀後半になると讃岐でも、法楽連歌が国人衆の手によって開かれるようになっていたことが分かります。こうしてみると安富氏は、細川京兆家被官の中でも早くから和歌や連歌などに通じていた一族であったことが分かります。
その背景や要因を、研究者は次のように挙げます。
①安富氏の出自が鎌倉幕府及び室町幕府の奉行人という文人官僚の系譜を持っていたこと
②安富氏は、単なる武力のみを誇示する家系ではなかったこと
③細川氏の内衆として京都在京期間が長く、王朝古典文化や在京文化人に触れる機会も多かったこと
応永・永享期の北山文化時代は、室町将軍御所で月次の歌会や連歌会が開かれるようになります。
参加者達は歌の出来具合を互いに競争し刺激し合います。そして修練のため各自の邸宅で月次の歌会を催したり、王朝古典の書写に力を入れる者も出てきます。北山文化時代の歌・連歌の詠み手は大名・守護たちでした。それが応仁の乱後の東山文化時代になると、大名・守護に代わって守護代層が登場するようになります。さらに国元の国人層も中央文化を吸収することに努めるようになり、京都からの文化的情報に絶えず気を配るようになります。 その文化的情報の媒介者となったのが応仁の乱などの戦乱を逃れて、各国の国人層等から招かれて地方へ下向した公家・禅僧・連歌師・猿楽師等でした。彼らの活動拠点にしたのが「別所」などを持つ白峰寺ではなかったのかと私は考えています。

    戦乱の続いた中世に武家が熱心に和歌を詠み続けたことを知ったときには、私は何か意外で違和感を持ちました。どうして、武家が連歌や和歌にのめり込んでいったのでしょうか。それは、一門や家臣との結束を図り、また合戦を前に神仏と交流することや、他国との交渉などに和歌や連歌が有効であったからだと研究者は指摘します。

14世紀頃の連歌会の様子
連歌会
 連歌会は多くの人達が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸です。
参加者同士が新たな人間関係を結ぶコミュニテイ形成のツールでもありました。そこでは、連帯感や同じ価値観を共有することを認識・確認し合う場にもなりました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なことともされました。 
 中世は知識情報は偏在していて、京都とか寺社にいる知識人に会いに行かなければ、知識情報を得ることはできませんでした。今風に云うと「インテリジエンス」を得るためには情報伝達者が不可欠でした。情報伝達者としての連歌師は、地方の守護や国人衆の依頼を受けて、京都在住の能筆公家に書写・校合の依頼をしたり、また、人物の紹介や書状・金銭の伝達、寺院寄進・荘園返還の交渉、合戦の和睦交渉までさまざまな情報伝達を行っています。

職人尽歌合」に見る中世の職業・職人・商人《第二》【みんなの知識 ちょっと便利帳】 さん
連歌師

 連歌師は連歌を教授し、連歌会興行を行うために地方に出向く機会が多く、諸国の事情に精通しその土地の事情に詳しい人物もよく知っていました。当時、連歌師は中立の立場で、敵対する勢力の領国でも通行できる特権を持っていたようです。それは、国境まで双方の勢力に護衛されて送られていることからもうかがえます。このように廻国する連歌師は、情報の伝達者であって高いコミュニケーション能力が必要とされ、公家と武家との斡旋役や、地方に来訪した歌人や連歌師等の文化人を接待する文化的接待役も務めました。
こうして見ると安富氏は早くから在京して、貴族や禅僧、歌人や連歌師、在京する他の武士等との交流の中で、京文化を学び、身に付けていたことが分かります。
安富が讃岐に帰讃することは、文化の担い手が京都から讃岐に移動することを意味したのです。例えば細川頼之が一時的に失脚し、宇多津で生活したことは、宇多津が讃岐の政治・軍事の拠点であるにとどまらず、文化活動の中心となったことを意味します。細川氏や安富氏は、上洛在京中に公家衆と交わり和歌会に列席し、連歌師を招いて連歌会を開き、五山禅僧を訪ねて治国の要を聞き、また能を鑑賞し、蹴鞠の会にも姿を見せていまします。また、讃岐にあっては、中央文化人を積極的に呼び文化摂取に努めています。特に応仁の乱以降は、公家は地方の有力武士を頼って地方へ下り、禅僧・連歌師、芸能人もまた地方へ分散します。それが経済と文化の交流を産みだし、中央文化を摂取・吸収して在国に地方文化圏を成立させていったと研究者は考えています。そのような目で、細川氏や安富氏の動きを見る必要があるようです。

応仁の乱後の明応2年(1493)頃に、細川政元政権下で「守護代・国人体制」が成立したとされます。
守護代・国人体制2

実権を握っていた細川政元の下で細川氏有力内衆によって構成された9~10 名からなる評定衆によって政権運営が行われるようになります。安富氏は一時的には、その評定衆の中で筆頭格的地位を占め、その統括を行うようになります。しかし、その地位は絶えず繰り返される内衆間の抗争で不安定なものでした。その結果、細川高国政権成立後には内衆の再編が行われ、安富氏は畿内からその姿を消し、四国に限定されてしまいます。それまでが安富氏の最も輝いた時期になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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前回見たように滝宮氏の初見史料は、次のA・Bのふたつです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
同じ年の文書で、Aが京都の賀茂別雷社領の満濃池跡の池之内の請負契約書で、Bが善通寺誕生院領の萱原領家方代官職の契約書です。同じ滝宮氏が請け負っていますが、請負人の名前がAが「実明」、Bが「実長」です。ここからは二つの滝宮家があったことが分かります。南海通記によると、滝宮氏には2つの流れがあり、居館は次の通りです
Aが本家(実明系)で、松崎跡で滝宮豊後守
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。

香川県中世城館跡詳細分布調査報告 - 古書店 氷川書房


まず、Bの滝宮城跡ですが、これは今は滝宮神社や天満宮の社地となっているようです。

滝宮城
滝宮城

 西側に綾川が入り込む深い谷があり、その上に拡がる広い微高地に立地していたようです。周辺の地形観察等から研究者は次のように指摘します。
①綾南警察署から100m南で幅の広い谷が川から入り込み、またこの東延長上も堀切状となっている。
②この入江は川港の役割も果たしていた可能性がある。
③滝宮天満宮正面の東西の道辺りに空堀があったと伝えられる。
④滝宮神社を中心とした南北200mx東西150mの台状地形を復元できるが、城域とするには広い。
⑤遺構は未確認である。
⑥A地点で行われた試掘調査で、滝宮城跡と同時期とされる柱穴群・土師器・瓦が確認
次に、滝宮城の北方1kmの松崎城(柾木城)跡を見ていくことにします。

松崎城 2滝宮氏

松崎城
松崎城は県道184号線沿いにある松崎バス停付近に築かれていたようです。伝承地を地形復元すると綾川に流れ込む南と北の谷に囲まれた段丘状の解析台地上に立地します。府中湖の低地に突き出た舌状地形になっています。古代の綾氏は、陶に最先端の須恵器工場群を造って、水運を通じて綾川河口から畿内へ運び込んでいたとされます。綾川は重要な交通路でした。その綾川を見下ろす丘にお城は築かれいたことになります。また、川港としても利用されていたことがうかがえます。どちらにしても、戦略的な要衝で城を築くには好適の地です。ただ、西側の谷の付け根には堀切の痕跡はないようです。

松崎城 滝宮氏
松崎城跡周辺 綾川に面した入江の上に立地する
天正年間に松崎城主として『南海通記』などに登場する滝宮豊後守は、実長の後裔とされます。そこには、次のように記されています。

松崎城主の滝宮豊後守安資は、羽床城主羽床伊豆守資載の女を妻にしていた。ところが同じく羽床伊豆守資載の女を妻に迎えていた勝賀城主香西伊賀守佳清が、天正6年(1578年)に、これを離縁した。これに憤激した羽床氏と香西氏の間で争いが始まり、羽床伊豆守の嫡男羽床忠兵衛が軍勢を率いて柾木城を攻めてきた。滝宮豊後守の軍勢が羽床忠兵衛を討ち取ると、伊豆守が大軍を率いて押し寄せてくるのを恐れ、松崎城から香西氏の勝賀城へ逃れた。

 南海通記については、その内容に誤りや作為が多くてそのままは信じることができないと研究者は考えています。しかし、敢えてこれを事実を伝えているとすると、次のような事が読み取れます。
①滝宮氏は、羽床氏と深いつながりがあった
②しかし、羽床氏と香西氏の抗争がはじまると、松崎城主の滝宮豊後守は香西方についた。
③その結果、羽床氏の攻撃を受けて、松崎城を退いて香西氏の勝賀城に身を寄せた。
④一方、滝宮城の滝宮弥十郎は羽床氏に従い、松崎城を攻め勢力を拡大した。
⑤滝宮城の滝宮氏は、その後も羽床氏に従い、長宗我部元親に降伏後は東讃制圧の先兵として活動した。
⑥秀吉の讃岐侵攻後には長宗我部元親に従って土佐に引き上げたとも伝えられるがよく分からない。
 
羽床城縄張り図
羽床城縄張図 滝宮氏の居館と比べると格段の相違

ここには、滝宮氏が香西氏と羽床氏にの抗争に巻き込まれ、一族同士が相争う状態になったと記されています。そういう点からすれば、羽床氏も香西氏も讃岐綾氏の同族の流れを汲む名門武士団です。それが、時の流れの中で相抗争していることになります。
 しかし、この記事が本当かどうかは分かりません。私は疑いの目で見ています。
その根拠は、当時の讃岐が阿波三好氏の氏配下にあったという視点がないからです。前回お話ししたように、当時は阿波三好氏の讃岐支配が進展し、讃岐国人の裁判権を三好氏が握っていました。それをもう一度確認しておきます。「阿波物語」第二は、1570年代のこととして三好氏の有力武将であった「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」が次のように出てきます。

伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

年代的に見てここに出てくる「滝宮豊後殿」は「1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、当時の松崎城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係について次のようなことが分かります。
①滝宮豊後守は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮豊後守と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると滝宮氏は、三好氏の有力家臣伊沢氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。また阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下に編成し軍事動員できる体制にあったことも分かります。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうした中で、三好氏が傘下に置いた羽床氏や香西氏の軍事衝突を許すでしょうか? 
丸亀平野の元吉(櫛梨)城をめぐる合戦について毛利方史料には次のように記します。
天正五(1577)年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、
意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここには、阿波三好氏の指示で讃岐国衆の「長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人程」が元吉城に攻めかかってきたと記されています。羽床氏と香西氏は、三好配下にあって元吉攻めに従軍していたことが裏付けられます。ここからも南海通記の記録は、そのままは受け取ることはできません。

滝宮氏が去った後の滝宮城はどうなったのでしょうか。
それがうかがえるのが幕末の讃岐国名勝図会に載せられた「滝宮八坂神社・龍燈院・天満宮」です。

龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(讃岐国名勝図会)
ふたつの神社に挟まれた龍燈寺が別当寺で、この社僧達がこれらの宗教施設を管理運営いました。神仏混淆下にあって大いに栄えていたことがうかがえます。この繁栄の基盤は中世の滝宮氏の時代に作られ、それが生駒・松平の保護を受けながら、この絵図の時代に至っていたようです。それが明治の神仏分離で龍燈寺が姿を消して行くことになります。

 祇園信仰 - Wikipedia
 最後に江戸時代の人々が、滝宮牛頭天王社や龍燈寺をどのように見ていたのか昔話から探っておきます。
綾川シラガ渕
山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭天王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭天王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④別当寺龍燈院のいわれは、「龍灯石」であること
⑤牛頭天王が現れるみたらが渕は霊地として信仰されていたこと

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社に奉納された牛 牛頭天王信仰の痕跡
以上をまとめておきます
①滝宮氏には、本家分家の2つの流れがあった。
②本家は、松崎城を居館とする滝宮豊後守
③分家は、滝宮城を居城として牛頭天王を奉り、氏寺として龍燈院を建立していた。
④両秋山氏の居館は、古代以来から河川水運として利用されていた綾川沿いに立地する。
⑤周辺の陶は、平安期まで須恵器などの讃岐窯業の中心地で、これらは古代綾氏によって整備された
⑥藤原氏は古代の綾氏が武士団化したものとされるが、その流れを汲むのが滝宮氏や羽床氏だったと推測できる。
⑦南海通記には、天正年間になると両滝宮氏は、香西氏と羽床氏の抗争に巻き込まれ、一族同士が相争うようになったと云うが、それには疑問が残る。
⑧滝宮氏が去った後の滝宮城跡には、牛頭天王社・龍燈院・天満宮が並び立ち、神仏混淆下で牛頭天王(蘇民将来)信仰の拠点となった。
⑨龍燈寺の社僧達は、蘇民将来などのお札を周辺の村々に配布し、牛頭天王信仰を拡げると供に、風流念仏踊り等も村々に伝えた。
⑩牛頭天王社の大祭には、中世の郷単位で構成された踊り手達が「踊り込み」奉納を行った。
⑪それが現在の滝宮念仏踊りの源流である。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札
         龍燈院が配布していたお札 「牛頭天王」とみえる


滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」
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滝宮念仏踊りのシステム

 滝宮念仏踊りの原形は、滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)へ奉納するために周辺の村々の信者達から奉納されていた風流念仏踊りであると私は考えています。その牛頭天王社を庇護下に置いていたのが滝宮氏ないかと思うようになりました。それは滝宮神社が、滝宮氏の居館に隣接してあったとされるからです。ある意味、滝宮牛頭天王社と別当寺龍燈院は、滝宮氏の氏神・氏寺的な性格ではなかったのかという仮説です。その検証のために、滝宮氏に関することをメモ書きとして残しておこうと思います。

滝宮氏は、讃岐武士団最大の讃岐藤原氏の分流とされます。

讃岐藤原氏系図1

古代の綾氏が武士団化したのが讃岐藤原氏で、その初期の棟梁は羽床氏であったとされます。そして羽床氏の傍流が滝宮氏と云うのです。しかし、これも南海通記に軍記的話としては登場しますが、史料的に裏付けされたものではありません。滝宮氏がいつ、どのようにして滝宮に拠点を構えたかについてはよく分かりません。
香川県史の年表で「滝宮氏」を検索すると、登場してくるのは次の5回だけです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
C 1484年10月11日
 瀧宮実家,弟又二郎を南御所の被官とすることで,南御所領阿野郡南条山内徳珍名の代官職を請け負う。ついで,同月20日,65貫文で請け負う(宝鏡寺文書)
D 1490年10月20日 瀧宮実家,南御所領阿野郡南条山西分代官職を100貫文で請け負う(宝鏡寺文書)
E 1491年7月・ 近衛政家,細川被官の求めにより阿野郡瀧宮へ三十六歌仙を書く(後法興院記)

滝宮氏が史料に出てくるのは15世紀後半以後であることを押さえておきます。
①については、「瀧宮新三郎」が荘園主の京都の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書で、次のように記されています。(京都の上賀茂神社の「賀茂別雷神社文書」)
 讃岐国萬濃池公用銭送状送り参らす御料足事 合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬濃池内御公用銭、送り参らすところくだんのごとし。                    
                    瀧宮新三郎
長禄二(1458)年五月三日            賓(実)明(花押)
      賀茂御社
  意訳変換しておくと
讃岐国の萬濃池の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料(手形決済の手数料)を差し引いています。

ここからは次のようなことが分かります。
①この時代には、すでに手形決済が行われていたこと
②手形手数料を差し引いた金額が、滝宮新三郎実名から荘園主の賀茂神社に送付されたこと
③古代末に決壊した満濃池跡地が開発されて荘園となって「池内(いけのうち)」と呼ばれていたこと
④15世紀半ばには、荘園主が亀山上皇から上賀茂神社に変わり、請負者も泰久勝から瀧宮新三郎に変わっていること
Bは、満濃池跡の管理権を得た2ヶ月後の7月10日のもので、次のように記します。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。仍て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 実長(花押)
(善通寺)誕生院
  意訳変換しておくと
長禄二(1458)年から5年間、滝宮豊後守実長が(善通寺誕生院から)萱原領家方代官職をお預かりします。弘法大師の御領で天下御祈格料所の荘園ですので、不法なことがないようにいたします。年貢の納入については、毛の有色(作物の出来具合)に応じて決定いたします。また預かる期間については5年とありますが、不法なことがなければ、期間を超えてお預かりします。仍て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
滝宮豊後守実長が善通寺誕生院の萱原領家方代官職を預かるという内容です。先ほど見た文書は「実明」でしたので、滝宮氏にも複数の勢力があったことがうかがえます。
預り状として一応契約のかたちをとっていますが、次の点に問題があります。
①年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用する
②所領を預かる期間も、不法のことがなければ延長する
これでは実質的な無期限契約で、押領化への道を開くものです。代官職を得て、押領を重ねることで勢力を確実に蓄えていた時期かもしれません。ここでは次の二点を押さえておきます。
Aの1458年の史料からは、滝宮氏の勢力が丸亀平野南部の満濃池跡の池内方面に伸びていたこと。
Bの史料からは、善通寺誕生院が阿野郡萱原に持っていた領家方代官職を実質的に押領してたこと。

 Cの1484年に、登場する瀧宮実家は,Aの「実明」の孫にあたる可能性があります。
阿野郡南条山内徳珍名の代官職を65貫文で請け負っています。着実に周辺の代官職を得て、勢力を拡大しています。

Dの延徳 2年(1490)10 月には瀧宮実家が南御所の料所である南条山西方代官職を請け負っています。
 C・Dについては香川県史の中世編(405P)に、書かれていることを要約すると次のようになります。
1484年に、実家は「南御所」の「料所」である「讃岐国南條山内徳診名」内の年貢公事等納入を請け負っています。 この時、実家の弟の又二郎が南御所の「御被官」となっていました。それを受けて2年後の1490年10月に実家は、「惣荘御代官職」であるということで「南御所」「御料所」「南條山西方政所土居丼びに拾式名」の年貢・公事等の納入を請け負うことにになります。また、これと同年月日付で実家は「南條山西分代官職」も請け負っています。請負条件は詳細です。公用は毎年100貫文の「請切」とあるので、所領経営を完全に任されていたようです。もし公用が果たせない場合は実家が別に知行する「摂津州平野内下司職参分壺」を当てるとあります。さらに「請人(保証人)」をも設定されています。
瀧宮実家が代官職請負契約を結んだ「南御所」は、「尼五山の一」とされる宝鏡寺と並ぶ尼寺です。この寺は、将軍足利義教から所領安堵を受けていました。南條山西分も永享2年(1430)に義教から安堵されています。15世紀後半には将軍足利義政と火野富子との間の女子が南御所に入っていて、父義政が「人事」の時には「親しく相公の病席に侍」しています。その女子も延徳2年(1490)10月10日に死亡し、「光山聖俊尼」と称されています。しかし、南御所の組織は継続していたようです。 南御所が将軍に非常に近い立場にあったからでしょう。その所領は「料所」と称されています。代官職請負契約の内容を見ると、先ほどの善通寺誕生院のものと比べると遙かに厳格です。請負者は「御被官」と称され、「毎年参洛してて御礼を致」し「本公」することが約束させられています。つまり、毎年京都にやってきて挨拶を欠かすなということです。この「御被官」という立場は、将軍の御家人たる「奉公衆」に近いと研究者は評します。そういう意味では、滝宮氏の家格がぐーんと上がったことになります。細川京兆家の本国ともいうべき讃岐国に将軍の縁者である南御所の料所があって、請負者がその被官であることは、細川氏にとって重要であったと研究者は指摘します。同時に、滝宮氏にとっても大きな意味があったはずです。ところが細川政元の下で香西氏が権勢を握るようになると、その代官職を明応2年(1492)に香西仲兵衛尉長秋に取って代わられます。そして滝宮氏は天文11年(1542)頃には、香西氏の幕下となったようです。これについては、後に詳しく見ていくことにします。
Eの『実隆公記』明応5年(1496)7月18日条には、次のように記します。

讃州滝宮丗六人歌仙源公忠朝臣・忠峯・平兼盛・中務四人板也、歌依細川被官人所望染筆了」

ここからは三条西実隆に、細川家(管領細川政元)の被官人から讃州滝宮社に奉納する三十六歌仙扁額に源公忠朝臣・忠峯・平兼盛・中務の四人の歌を書いて欲しいとの依頼があったことが分かります。
扁額は9面36人の板額だったようで、実隆の担当分担は1面4歌仙であったようです。残り8面32人分は他の人物に依頼したようです。これは、康暦年間(1379~80)に細川頼之が再建した滝宮社の社殿に掲げるためのものだったのでしょう。依頼人は「細川被官人」とだけ記します。
この背景を理解するために、東讃守護代を務めていた安富氏の宗教政策を見ておきましょう。
安富氏は、応永21年(1414)に崇徳院御陵に建立された頓證寺への勅額依頼や守護細川満元の法楽連歌の奉納を安富宝蜜と同筑後守(のち筑後入道智安)が取り次いでいます。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。その一環として享徳年間(1452~55)には、社家奉行安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも有力者が訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。
 それを滝宮氏も真似ているようです。滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に掲げる扁額の依頼を京都の三条家に管領細川氏の被官人が依頼しています。この時期の将軍は「天狗になろうとして修験道に夢中だった細川政元」です。政元の厚い信頼を得て、京都の警察権を握っていたのが香西氏でした。それでは扁額を求めた「細川被官人」とは誰なのでしょうか? 
① 讃岐国東方守護代を務めた安富元家
② 同年 2月に神谷神社法楽連歌を奉納した香西元資
③ 滝宮氏自身
 第3は可能性が薄いでしょう。当時の政治情勢からすれば権勢が最も高まっていた②の香西元資の可能性が高いように私には思えます。どちらにしても、この扁額は享徳 4年(1455)に細川氏の社家奉行安富盛保が奉納した和爾賀波神社扁額と同じように中央で制作された作品で、「中央文化における歌仙絵扁額の流行が地方普及の潮流の中で現出」したものと研究者は評します。 細川頼之が再建した滝宮社の社殿の荘厳に相応しいものでした。中世末期には滝宮氏は、滝宮牛頭天皇社を在地支配の拠点としていたことを押さえておきます。同時に、滝宮神社は周辺からも名の知られた存在になっていたことががうかがえます。
 下の縄張図からは、滝宮神社や天満宮は、滝宮城の中に鎮座していることが分かります。
滝宮城
           滝宮神社と天満宮が滝宮城跡
明治の神仏分離までは、滝宮神社と天満宮の間に、別当寺の龍燈寺があって社僧達が牛頭天王を奉っていました。それを伝えるのが下の絵図です。

滝宮念仏踊りと龍王院
滝宮(八坂)神社と龍燈寺と天満宮 讃岐国名勝図会(1853年)

この絵の註には「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは当時の滝宮が京都の八坂神社の分社と称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオ)=蘇民将来=京都の八坂神社
スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが別当寺の龍燈院滝宮寺でした。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。そして、これらの宗教施設の背後には滝宮氏がいたことになります。これは滝宮氏の庇護下にあったことを物語ります。そして、滝宮氏が戦国末期に衰退した後に、その城跡にこれらの宗教施設が建てられた
のかもしれません。
滝宮氏の本家とされる羽床氏は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の嫡流でした。
羽床氏は讃岐在庁官人として在地支配権を拡大する一方で、荘官としても武力を蓄えて武士団化していきます。源平合戦では、早くから源氏皮に加勢して御家人として勢力を拡大しますが、その後の承久の乱では敗者側の上皇方について一時所領を失い衰退します。その後南北朝期になると、羽床政成が幕府方として参陣し、楠木正成を攻めて討ち死にするなど忠功を積んで復活したようです。しかし、そのころまでには、庶家の香西氏に一族の本流の地位を奪われてしまいます。滝宮氏も羽床氏と行動を供にしながら、次第に滝宮を拠点に勢力を拡大したようです。
 それでは滝宮氏と羽床氏・香西氏の関係はどうなっていたのでしょうか?
 南海通記には、三好長慶と敵対した細川晴元を救援するために、天文18年(1549)に香西氏が摂津中島へ出陣したとして、その時の軍編成が記されています。これについて研究者は、「この年、讃岐香西元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた香西氏の陣編成については、事実を伝える物があるのではないかと研究者は考えています。南海治乱記は、香西氏は次のような武将を招集したとは記します。
  我が家臣として
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
  幕下として、
羽床伊豆守、瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
そして、留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
⑦舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等
     以上から、戦国期の香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
A 執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
B 周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた
ここで注目しておきたいのは、滝宮氏は羽床氏と供に「城持ち」で「幕下」というあつかいであることです。この時に羽床氏は香西氏は「押さ」へで遠征軍には含まれていません。16世紀中頃には、羽床氏や滝宮氏は、香西氏の「幕下」として参陣する立場にあったことを押さえておきます。

次に、阿波三好氏の讃岐支配が進展した時期には、どうなったを見ておきましょう。
「阿波物語」第二は、三好氏の有力武将であった伊沢氏が三好長治から離反した理由を次のように記します。
伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮豊後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおち(叔父)なり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、

意訳変換しておくと
伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」は何者なのでしょうか?
年代的に見て1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、滝宮城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係と、当時の情勢について次のようなことが分かります。
①滝宮氏は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮氏と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係を結んでいたことになります。伊沢氏は、婚姻関係を通じて讃岐国人たちとつながりを強め、対吉備方面での外交・軍事活動を進めていたことになります。ここでは阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下にに編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことを押さえておきます。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうして三好氏の讃岐支配が進むにつれて、滝宮氏はそれまでの香西氏から伊沢氏へと重臣を移していったことがうかがえます。
以上、滝宮氏の動きをまとめておきます。
①滝宮氏は、中世の讃岐武士団で最大勢力集団であった讃岐藤原氏に属した。
②讃岐藤原氏の棟梁羽床氏は、源平合戦でいち早く源氏方に加勢し、その結果御家人として論功行賞を得て、これが一族雄飛のきっかけとなった。
③しかし、羽床氏は承久の乱で敗者側の上皇について、棟梁の地位を失い衰退する。
④代わって讃岐藤原氏の棟梁の地位に就いたのは香西氏であった。
⑤その後、羽床氏や滝宮氏は綾川上流の地域で荘園の代官職を得て押領を繰り返し、勢力を拡大していく。
⑥そして香西氏の「幕下」として香西氏を支える立場にあった。
⑦しかし、三好氏によって阿波勢力による讃岐支配が進展すると、阿波伊沢氏と婚姻関係を結ぶなど、香西氏から伊沢氏へと重心を移していた。
⑧長宗我部元親の讃岐侵攻では、羽床氏と供に軍門に降り、その後には土佐軍の先兵として東讃制圧に活動した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」

前回に続いて、神谷神社本殿を支えてきた人々の近世編になります。

神谷神社の香西氏連歌会

15世紀末に香西氏が神谷神社神前で、一族や幕下の羽床・滝宮氏などを集めて団結誇示のために法楽連歌会を開いていたことを前回お話しました。そこからは当時の阿野北平野が香西氏のテリトリーであったことがうかがえるとしました。その連歌会の30年ほど前に行われた本殿改修の棟札(写)が伝えられています。
神谷神社 1460年の棟札
神谷神社寛正元(1460)年の棟札(写)

①一番右側の吉兆の言葉の下に寛正元(1460)年の年紀が見えます。応仁の乱の少し前です。
②建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。③真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは、当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。④その下に来るのが改修総責任者の名前です。「遷宇行者神主松元式部三代孫松元惣左衛門正重」とあるので、総責任者を松本式部の3代後の孫が務めていたことになります。これは三代前から社司が松元氏によって「世襲化」されつつあったことを示しています。以後、神谷神社は近世を通じて松元(本)氏が社司を務めます。
 この棟札で問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。
「河埜氏」は阿刀氏と同族で、物部氏を祖先とするので、このように記されたと近世の史書は記します。阿刀氏は空海の母親の出身氏族です。つまり空海の母親の実家が勧進したということになります。しかし、これには無理があります。阿刀氏は畿内泉州を本貫とする中央貴族であることは以前にお話ししました。讃岐にいた記録はありません。この棟札の裏書については「江戸時代になって弘法大師伝説が広まる中で作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札の記載内容は、信じることができるようです。


神谷神社棟札1540年

神谷神社 天文九(1540)年の棟札

   地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。ここでも松元氏が筆頭者になっています。松元氏は社司であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。そして奉行(勧進責任者)として、蓮歳坊ともう一名の名前が見えます。ここからは、社司以外にも社僧が何人かいて、彼らの勧進活動によって遷宮(葺替え修復)が行われていたことが分かります。

神谷神社江戸時代の棟札

       永禄11(1568)年の棟札は、本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに遷宮(葺き替え)が行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。
以上のように残された棟札からは、次のようなことが読み取れます。
①中世は、荘官や政所などの個人によって、檜皮葺の屋根の葺き替え工事が行われていた
②それは社僧達(勧進聖)たちの勧進活動によっても賄われていたこと
③それが近世になると村人達が氏子となって、改修修理を担うようになっていたこと
④それをまとめ上げていたのが社司の松元氏であった。
それでは社司の松元家をも少し見ていくことにします。

神谷神社 讃岐国名勝図会1

讃岐国名勝図会(1854年 約170年前)に描かれた「神谷神社」周辺です。
①流れ落ちる神谷川 その川に沿って真っ直ぐに続く松並木の参道
②その上に神谷神社があります。(神社と表記されていることを押さえておきます。神社の背後の三重塔はありません。
③別当寺の青竜(立)寺は現在地に移っています。
④青竜寺の前には三好氏の大きな屋敷があります。
さて、右側の神谷神社周辺を拡大して見ておきましょう。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
 
ここで目が引かれるのは、社司松本(元)家の屋敷です。神社の下側に隣接して大きな門構えです。その下に民家が密集しています。この松元家が15世紀の半ばから近代に至るまで、社司を務めたことになります。もうひとつ気がつくには、神社の周りには仏教的性格の建物がなくなっていることです。ここからは神谷明神では、近世の早い時期に松元氏によって「神仏分離」が行われたことがうかがえます。そして、別当寺は現在地に下りていったようです。その経過については、今の私には分かりません。どちらにしても江戸時代の神谷神社の管理権を握っていたのは社司の松元家であったことを押さえておきます。
 私が気になるのは、鳥居は2つ描かれていますが玉垣や狛犬はないことです。玉垣や狛犬などの石造物は、いつ頃奉納されたのでしょうか?

神谷神社 手水 玉垣

手水石(ちょうず)には「天保9(1838)年」と見えます。約190年前のものになります。その奥に見える玉垣は、明治28(1895)年ですから日清戦争の戦勝祝いとして奉納されたようです。

神谷神社 鳥居・狛犬

 二の鳥居は、嘉永2(1849)年で約170年前、狛犬は1864年で、160年前です。

神谷神社 石造物一覧

神谷神社の石造物を年代順に並べたものです。これを見ると、石造物が設置されるようになるのは19世紀になってからだということが分かります。約190年前頃から境内は整備され、現在の原型ができたようです。これは金毘羅さんの整備状況から見てもうなづけることです。金毘羅の参道は、石段と石畳に玉垣、そして燈籠と石造物で埋め尽くされ白く輝くようになり、その姿が一新するのは19世紀前半のことです。その姿を周辺の寺院も真似るようになります。この時期、村人達は隣の村の神社と競い合うように石造物を次々と奉納し、伽藍は整備されていきます。ちなみに本殿や拝殿などの建築物の新築・改修などには、髙松藩の許可が必要でした。髙松藩は新築や増築工事をなかなか認めません。従来通りの改修が認められるだけでした。そのため氏子達は石造物の寄進という方法に自然と進んでいきます。

近世の村社

天保10年4月5日にと神谷村の庄屋・久馬太から髙松藩に願い出た文書です。
神谷神社と市と芝居

ここでは4月6日の神谷明神祭礼で市と芝居興行を行うことを、その前日に神谷村の庄屋が願いでています。その経費は氏子からの持ち寄りで賄い、村入目(公的財源)は使わないと記されています。費用がどこから出されるかを藩は主にチェックしていたようです。また前日に出すのは、藩からの口出しを免れる意図もあったようです。こうしてみると19世紀半ばの神谷明神は、信仰だけでなく人々の娯楽や交流の場としても機能していたことが分かります。市や芝居小屋が建つためには、広い参道や神前の広場が必要です。それらが整備されれば鳥居や手水石・燈籠などが寄進されます。そんな風に幕末の整備は進んだと私は考えています。
神谷神社の中世から近世への担い手の移りかわりをまとめておきます。
①中世は、荘司や政所と脇坊の寄進と僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていた
②それが近世になると、社司松元氏とと「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになった。
③19世紀になると、地域の人達が氏子となって積極的に境内整備を行うようになった
④その背景には、信仰の場としてだけでなく、市や芝居・見世物などのレクレーションの場としても神社が活用されてきたからである。
⑤それが明治以後、神仏分離と国家神道によって信仰の場だけに役割が純化・制限されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

坂出市の文化財保護協会の神谷神社見学会の後で、お話ししたことをアップしておきます。

中世の神谷神社1

白峯寺にある白峰寺古図です。白峰寺の中世の様子を江戸時代になって、洞林院が描かせたものとされています。そのため栄華が誇張されていて、事実を伝えるものではないと思われてきました。その評価大きく変わったのは最近のことです。発掘調査が行われた結果、三重塔が描かれている本堂横と別所跡から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えるようになっています。中世の神谷明神が置かれた環境を、この絵図から情報が読み取りながら見ていきたいと思います。最初に全体的な絵解きをしておきます。神谷神社がどこにあるか分かりますか?。

中世の白峰寺古図

 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと  海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れ落ちる。断崖の上に展開する伽藍が霊山としてデフォルメされています。①まず注目したいのは、白峯山です。ここには権現とあります。修験者たちが開いた霊山が権現と呼ばれます。②ここに別所があります。奥の院への入口あたりです。別所は、修験者や聖・僧兵たちの拠点となったところです。③ここが崇徳上皇陵です。中世には修験者の天狗信仰と結びつきます。④本堂と別所の間に、洞林院があります。それ以外にも多くの子院が描かれています。中世の白峰寺というのは、このような子院の連合体で運営されていました。④注目したいのは三重塔が3つ描かれています。神谷神社にも三重塔が描かれています。比叡山で云えば山上の大伽藍に対して、麓にいくつもの里の宗教施設をもっていました。中世の神谷明神も、白峰寺勢力を取り巻くサテライト寺院のひとつであったことを押さえておきます。見方を変えて云えば、ここに描かれている範囲が白峰寺の宗教的テリトリーであったとも考えられます。
神谷神社を拡大して見ていくことにします。

白峰寺古図の神谷明神
 
ここに「神谷明神」と書かれています。ここからは白峰寺の大門(現在の展望台)に向けて道が伸びています。神谷明神は白峰寺への入口でもあったことが分かります。
神谷の谷にいくつかの建物が描かれています。
①が一番奥の三重塔です。白峰寺の本堂横・別所にも三重塔は描かれていました。その存在が発掘調査で確かめれています。とすれば、ここにも三重塔があった可能性が高いと研究者は考えています。②が本堂でしょうか。しかし、妻入り社殿のようにも見えます。③が僧坊のようです。どちらにしても、ここからは中世には清瀧寺という神宮寺(別当寺)が神谷明神を管理していたという言い伝えが裏付けられます。ここで注目したいのが④の随身門です。これが随身門なら随身様がここにはいたはずです。
宝物庫には鎌倉時代作とされる随身立像があります。それを見ておきましょう。

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宝物庫前の随身像の説明版
神谷神社の随身さん

神谷神社の宝物庫の随身立像です。
 鎌倉時代中期の13世紀の作品とされ、全国でも記銘がある中では二番目に古い随身さんです。それを裏付けるかのように、次のような古風な要素を持ちます。
① 床几に坐る形式の随身像が多いが、立っている。
② 両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。様式化される前のタイプ。
③ かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。
④ これと同じ造りの随身さんが高屋神社にもある。
ここからは、随身さんや仏像などの職人集団が白峰寺の周辺にはいた可能性もうかがえます。また、この随身立像は、先ほどの絵図に描かれていた随身門に納められていたものかもしれません。また鎌倉時代の作とされる木造狛犬1対もあります。こうして見ると本堂が姿を現した13世紀初頭以後に、神谷明神が整備されていったことがうかがえます。この随身様の他にも、別当寺青竜寺の本尊とされる仏さまが伝わっています。

青竜寺本尊 阿弥陀如来立像

現在の青龍(立)の本尊「木造阿弥陀如来立像」(県文化)です。
ヒノキの寄木造、像高99cmで、胸部内側に墨書銘があって、「1270(文永7)年に僧長円が両親の極楽往生を願って造立した」とあります。とすると神谷神社本社が建立されて、約半世紀後の造られた阿弥陀仏になります。「讃岐国名勝図会」には、上図のように記します。これによるともともとは、神谷神社(五社明神)の別当寺清龍寺の本尊であったたものが、中世に寺が退転した後、現在地に下りて青竜寺の本尊として迎えられたようです。中世の別当寺の本尊が阿弥陀如来であったというのは興味深いところです。ここからはこの寺が阿弥陀浄土信仰の拠点として、高野聖などの念仏聖たちがいたことがうかがえます。
神谷神社には、中世の舞楽面が2つ伝えられています。

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神谷神社の舞楽面
神谷神社の舞楽面
 ひとつは抜頭面で、父親をかみ殺した猛獣と格闘し、勝利して喜ぶ様を演じた舞に使用されたものです。もうひとつは還城楽面(げんじょうらく)で、西域の胡人の姿に扮して朱の仮面をつけ、桴(ばち)を持ち、捕らえた蛇を食うさまを模した舞に使われるものです。ちなみに、讃岐で舞踊が奉納されていた記録が残るのは、善通寺と観音寺だけです。これらに比べると、各段に小規模な神谷明神に舞楽面が残されていることをどう考えればいいのでしょうか?
 それを解くヒントは、神谷集落に残る額(楽)屋敷という地名です。楽屋敷は、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。ここからは神谷集落の舞楽集団は、白峯寺の「楽所」として、白峯寺に舞楽を奉納していたことが考えられます。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さが見えて来ます。

神谷神社には、香西氏が「法楽連歌会」を神前で開いて奉納した記録があります。

神谷神社の香西氏連歌会

「神谷神社法楽連歌一巻」(神谷神社蔵)は、明応5年(1496)2月22日に神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。時代は応仁の乱の後の15世紀末で、この時期の香西氏は、管領細川政元の右腕として栄華の絶頂期にあった頃です。香西氏が率いる讃岐武士達が京都の政治動向を左右していたのです。
作者の香西元資は細川勝元の家臣で、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちに勧進して法楽連歌が行われたようです。連衆として、宗堅、宗高、元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
 神谷神社神前で開いた連歌会には、香西氏一族だけでなく、守護代の安富氏や有力武士や社僧・神官など29人が参加しています。明智光秀が本能寺の信長を襲う前にも連歌会を開いて、身内の団結と戦勝を願っています。 法楽連歌は、歌の内容如何にかかわらず、神仏に対する祈願を籠め、参加者の統合を保証するものでした。地縁・血縁等で結ばれた領主の連合=国人一揆は、公方や守護の圧力に対抗するために開かれたりもします。 
室町時代には連歌は武士の必須教養とされるようになります。
複数の者が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸で、コミュニテイ形成のツールでした。円滑な社会秩序の安定には価値観や情報の共有を図ることが不可欠です。連歌会は参加者同士の新たな人間関係を生み出します。連帯感や同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認し合う場でもありました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なこととされました。この連歌会を運営するにはプロの連歌師を京から呼ぶ必要がありますた。在京が長かった香西氏や安富氏に招かれて来讃する連歌師・猿楽師等がいたようです。彼らが逗留し活動拠点になったのが白峰寺だったのかもしれません。

連歌会を行うのは、自分が保護し、伽藍を整備した寺社が選ばれます。そういう意味からすると、神谷神社が香西氏の勢力下にあり、保護を受けていたことがうかがえます。また神谷明神は、讃岐武士団の団結を誓う場として機能していたことになります。それだけの規模設備があったのでしょう。香西氏は、一族や有力国衆を神谷神社の法楽連歌会に結集して、政治的・宗教的な人的ネットワークをより強固なものにしていたことを押さえておきます。

もうひとつ、神谷神社に残る中世的要素を見ておきましょう。鎌倉時代後期の層塔です。
神谷神社の層塔
           神谷神社の層塔と白峰寺十三重石塔
玄武岩ではなく凝灰岩の層塔なので、天霧産と思われます。これも別当寺の青竜寺に寄進されたのものでしょう。白峰寺十三石塔とよく似ています。もともとは十三重の塔だったのかも知れません。層塔を布教拡大のモニュメントとして使ったのが奈良の西大寺です。西大寺は天皇より各国の国分寺の再興を命じられ、瀬戸内海で活発な活動を展開します。讃岐国分寺再興や白峰寺に十三重塔が姿を現すのと同じ時期になります。これは律宗勢力伸張の痕跡とされます。そのような動きの中で、建立されたのがこの層塔ではないかと私は考えています。石造物にも、白峰寺のサテライト的な性格が見られることをここでは押さえておきます。
以上、中世の神谷明神を取り巻く環境をまとめておくと次の通りです。

中世の神谷明神と別当青竜寺

次回は近世の神谷神社について見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P
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坂出市の文化財協会の神谷神社本殿の修理保存見学会に行ってきました。

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最初に宮司の中尾格さんから今回の落雷被災の経過からクラウドファンデイング(CF)に至る経過について、次のようなお話しをうかがいました。
神谷神社 本殿2
          国宝 神谷神社 三間社流造 (1219年の墨書棟木あり)

神谷神社 屋根上部にあった箱棟
神谷神社 落雷した北側(左側)の千木
①2022年9月27日 正午頃に千木に落雷(避雷針なし)。千木を通じて屋根内部で火災発生し、風の影響か東側(右側)に火元が移動。そのため右側の方が激しく焼けている。

神谷神社 火災5

②消火施設は落雷のため機能せず。燃えているのが屋根内側のため放水しても効果なし。御神体を遷した後、檜皮葺屋根をはがして消火活動再開。
③消防士が消火活動を再開し、延焼を屋根部分に限定できた結果、16:30分頃鎮火
④屋根部分だけの被災にとどめることができたために、国宝指定解除にはならず。
④復興費用については、国宝なので国と県の補助金が下りるが、地元負担も1000万円を超える。

神谷神社 クラウドファン

⑤氏子140軒で年金生活者が多い現状では困難。そこで宮司の娘さんの提案でクラウドファンデイングを実施。
神谷神社 クラウドファティーグ

⑥最初は危ぶんでいたが、蓋を開けてみると開始して3ヶ月後には目標額に到達。結局、倍の2000万円が集まった。
神谷神社 工事計画日程
神谷神社本殿 工事計画 2025年夏の完成予定
⑦資金目処を得て、約1年後の2023年10月に工事開始。今年の秋の完成を目指している。
以上のようなお話しでした。
このあと参加者全員がヘルメットを被って工事現場に案内していただき見学しました。

案内していただく前に、神谷神社本殿がどうして国宝に指定されているかを見ておきましょう。

流れ造と神明造り


神社様式で最も古いのは神明造りです。伊勢神宮正殿が原形とされます。その特徴は、本を伏せたような切妻造(きりづまづくり)の屋根、屋根の端に飛び出た板・千木(ちぎ)、棟の上の丸太・鰹木(かつおぎ)などです。
 これに対して、新しく登場してくるのが流造りです。この特徴は、
正面側の屋根を長く伸ばした優美なな曲線美です。これはそれまでの直線的な外観の神明造と見た目に大きく異なる姿です。ここでは、流造りというのは、古代末から中世初頭に新しく登場してきた神社モデルであることを押さえておきます。それでは、代表的な三間社流造りの圓城寺新羅堂と神谷神社を比べてみなす。

神谷神社と圓城寺新羅堂

新羅善神堂(国宝)は、讃岐出身の円珍(智証大師)の創建した寺院です。その守護神が奉られているのが新羅堂で。両者はよく似ていていますが、相違点を挙げると次のような点です。

神谷神社の方が屋根の反りが強い。

②神谷神社は乱積み石垣の基壇の上に載っている。

③神谷神社は、扉口が真ん中だけで、脇間は板壁で閉鎖的である

④新羅堂は屋根がさらにのびて向背が付け加えられている。

以上からは、神谷神社の方がより古いタイプであると研究者は考えています。次に神谷神社の特徴を挙げておきます。

神谷神社の特色

ここからは、「古代様式 + 中世様式 + 仏教様式」が混じり合った建物で「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と研究者は評します。このように古いタイプの流造り社殿であることは、分かっていたのですが、国宝指定の決め手となったのは建築年代がわかる史料が見つかったことです。

神谷神社の墨書銘



 大正時代に行われた大改修の時に
、棟木に建築年代を記した上のような墨書銘が見つかったのです。

それを見てみると、
①まず「正一位
神谷大明神」とかかれています。ここからは中世は神谷神社でなく、神谷明神と呼ばれていたことが分かります。
②「健保(けんぽ)
7年2月10日に始之」とあるので、約800年前の1219年に、着工したことが分かります。建保7年は、その年の内に承久に代わります。後鳥羽上皇が承久の乱を起こす2年前のことです。施主は荘官であった刑部正長(さんみぎょうぶのすくね ながまさ)です。この物については、なにも分かりません。 当時は、古代綾氏が国府の在庁官人から武士団化する時期にあたります。そんな一族なのかも知れませんが手がかりはありません。 

神谷神社 本殿5
神谷神社本殿

 どちらにして、神谷神社本殿が約800年前に建てられた建物で、当時姿を現したばかりの流造り様式の原初的な位置にある建物であることが分かりました。これは、神社様式を考える上で、重要な建物になります。それが国宝に指定された決め手のようです。

神谷神社 落雷被災6


次に再建に向けたこれまでの動きを見ていくことにします。

まず足場が組まれ、覆屋が架けられ、次のような手順で作業は進められてきました。

神谷神社 改修手順
解体手順

P1280472
屋根の解体手順

神谷神社 桧皮葺屋根の解体4
檜皮葺屋根解体

神谷神社 桧皮葺屋根の解体5
檜皮葺の撤去

神谷神社 野垂木解体
野垂木解体 焦げていても仕える木材は出来るだけ残す

神谷神社 化粧裏板解体
化粧板解体

神谷神社 屋根解体終了
小屋組解体

神谷神社 部材検討
下ろした古材の保管と点検

私が興味があったのは、先ほど見た「建保(けんぽ)7年2月10日月始之」の年期の記された棟木です。

神谷神社 棟木墨書.3jpg
墨書銘の記された垂木
下ろされた棟木を見てみると、火災の煙で真っ黒になっています。ライトを当てて見ると・・・

神谷神社 棟木墨書.4jpg

浮かび上がってくる文字が見えるようです。神谷神社 棟木墨書.2jpg

大正時代の大改築の時の写真(右側)と比べて見ると「建保(けんぽ)7年2月10日月始之の最後の3文字だけがかすかに確認できたようです。この棟木も火災で真っ黒になりましたが、強度には問題ないので再建が進む本殿に使われていました。

P1280484

順調に工事は進んでいて、その様子を覆屋の中の2回に上がって身近に見ることができました。
貴重な機会を与えていただいたことに感謝。

神谷神社2
神谷神社本殿
そして本殿が私たちの前に一日も早く姿を見せてくれることを祈念。
今回の被災と復興をめぐる動きを見ながら私が思ったことを最後に記します。
神谷神社の起源は、この奥にある磐座(いわくら)である影向石(ようこうせき)への巨石信仰に始まるのかもしれません。それが阿野北平野の古代豪族綾氏に引き継がれ、ここに神社が創建されたのでしょう。。

P1280447
              神谷神社の磐座 影向石
綾氏は、讃岐で最大の古代豪族として国府の府中誘致などに力を発揮します。そして、他の郡司たちが律令制の解体の中で姿を消して行く中で、国府の在庁官人や武士団化してその統領として勢力を維持します。古代末から中世かけての阿野北平野の情勢を考える際に、綾氏一族を抜きにしては考えられません。800年前に神谷神社本殿を再建した庄司も綾氏につながる一族だったのではないかと私は考えています。そして、綾氏=讃岐藤原氏の一族である香西氏の勢力範囲に置かれるようになります。

神谷神社が受け継がれてきたのは・・・

そのような中で、神谷明神本殿は上図のような人たちによって、改修を重ねてきました。
そして今回の改修再建については、21世紀型の勧進活動=クラウドファンデイングによって実現したようにも思えます。担う人達がバトンタッチされながら、そのスタイルは違うかも知れませんが、この神社の本殿を未来に残したいという願いは同じではないかと思えてきました。中世の勧進聖達がこんな「勧進スタイル」を生み出した人達を驚きながら誉めてくれそうです。もし、崇徳上皇が天狗となって白峰寺から見ていたらこんな風に呟いたのではないでしょうか。
 天狗や雷神は私の配下の者達である。その者達が、この度は手違いで大きな迷惑と苦労をかけたことを詫びる。しかし、儂も越えられない試練は課さない。見事に21世紀型の勧進・結集(けつじゅう)で、困難を乗り越えたのは見事であった。以後も、天狗として天から見守っておるぞ・・・」
崇徳上皇と松山天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考資料
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】01プロローグ 工事内容紹介
https://youtu.be/rELeCq-v08Q
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】02解体作業状況
https://www.youtube.com/watch?v=O0Dxp1jr6-s
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象頭山と愛宕山2

金毘羅大権現(金毘羅神)が登場するのは近世になってからです。天狗信仰の修験者たちによって新しく生み出された流行神(はやりかみ)が金毘羅神です。それがクンピーラの住む山と結びつけられ「象頭山(琴平山)」と呼ばれるようになります。金毘羅大権現が現れる近世以前に、この山を象頭山と呼んだ記録はありません。それ以前は、この山は大麻山と呼ばれ、忌部氏の勢力下にありました。その氏寺が式内社となっている大麻神社です。この神社が鎮座する山なので大麻山です。しかし。近世以後に金毘羅大権現の勢力が大きくなると南側が象頭山と呼称されるようになります。それは、金刀比羅宮のある山の南側が象の頭とされているのもそれを裏付けます。
 金刀比羅宮の鎮座する象頭山から南に伸びる尾根をたどると愛宕山があります。今は忘れられた山となっていますが、神仏分離の金毘羅大権現時代には、この山も金比羅信仰を構成する重要な役割を担っていたようです。今回は、この愛宕山について見ていくことにします。テキストは「羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年」です。
まず、絵図で愛宕山を確認しておきます。
愛宕権現 箸洗池 大祭行列屏風
金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
この図屏風は下図のように「六曲一双」で、10月10日の大祭の様子を描いたものであることは以前にお話ししました。愛宕山が描かれているのは左隻第六扇になります。一番最後で、象頭山の左端に「おまけ」のように描かれています。
554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

霊山として険しい岩稜の山のように描かれていますが、デフォルメされた姿です。拡大して見ておきましょう。
愛宕山と
愛宕権現と箸洗(はしあらい)池
金毘羅全図 一の橋2
金毘羅全図(1840年代後半)

象頭山と愛宕山の鞍部を伊予土佐街道が抜けています。この峠が牛屋口になります。この絵図には、山頂付近に社が見えます。次に金毘羅参詣名所図会の愛宕山を見ておきましょう。

2-17 愛宕山

2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会に描かれた愛宕山(幕末)

天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳変換しておくと
天神社(天満宮:菅原道真)
愛宕町の正面に見える神社である。中央に天満大自在天神(菅原道真)を奉り、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町から見える山である。山上に愛宕山大権現の社がある。この山は、①金毘羅山の守護神が住む山で、魔所とされている。
箸洗池
愛宕山の山中に巨巌があり、そこにある小さな池のことである。この水はどんな早魃でも干上がることはない。10月10日の大祭の御神事の後の食事で使用した箸は、すべて御山に捨てる。それを守護神(天狗)が拾い集めて、この池で洗い、阿波の箸蔵寺に運び去ると言い伝えられている。そのため箸洗池と呼ぶ号す。
ここで注目したいのは、次の2点です
①愛宕山が金毘羅神の守護神の住む山で「魔所」とされていること
②箸が洗われた後に、阿波修験道の拠点である箸蔵寺に持ち去られること
①の「金毘羅神の守護神」とされる愛宕権現とは何者なのでしょうか?
①修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基
②愛宕山は修験道七高山の一つとなり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。
③塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰された。
④それに、阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として、愛宕修験者によって全国に広まった。
⑤愛宕修験でも天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。
こうして修験者の聖地で、天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現も、愛宕信仰を受入たようですももうひとつ見ておきたいのは、愛宕信仰は妙見信仰も混淆していることです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵

愛宕山自体が山城の秦氏の霊山で、妙見信仰(北斗星)を基盤にしていることは押さえておきます。それらを混淆して、愛宕山大権現として象頭山にももたらされたとしておきます。

象頭山天狗 飯綱
象頭山の愛宕明神と飯綱明神 火除けの神として信仰されていたことが分かる

知切光歳著『天狗考』上巻は、愛宕天狗について、次のように記します。

天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)
整理しておくと
①愛宕天狗は両翼をもち白狐に乗り、ダキニ天を祀る。
②全国各地の金毘羅社の中には、烏天狗を祀るところが多い。
ここからは、各地の金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕天狗と結ばれていたことがうかがえます。そして、修行・参拝のために天狗になろうとする修験者たちが金比羅の愛宕山を目指したのでしょう。当然、それを迎え入れる愛宕系の子院があったはずです。それが私は多聞院であったと考えています。
京都愛宕山との交流を示す絵馬や記録も残っていることが、それを裏付けます。

『麒麟がくる』ゆかりの地・愛宕山4 勝軍地蔵と太郎坊天狗に祈りを捧げた明智光秀 - れきたびcafe
愛宕天狗
また、逆に愛宕権現と金毘羅大権現が習合して、各地に奉られていくという現象も起こります。
愛宕神社と金毘羅大権現の関係

愛宕神社と金毘羅大権現2 愛知県
        愛知県 井代星越 愛宕神社の奥社として鎮座する金毘羅大権現
上図の愛知県新庄市の愛宕神社では、奥社(守護神)として金毘羅大権現が奉られています。ここでは愛宕神社が本社で、金毘羅大権現が末社となっていて、主客が逆転していることを押さえておきます。このようなスタイルが各地で見られるようになります。

次に、金比羅の愛宕天狗以外の天狗たちを見ていくことにします。
江戸前期の『天狗経』には、全国で名前が知られた天狗がリストアップされています。これらが天狗信仰の拠点であったことになります。

7 崇徳上皇天狗

讃岐に関係するのは、赤い丸を付けた次の3つの天狗達です。
①黒眷属金毘羅坊(くろけんぞくこんぴらぼう) 
②白峯相模坊  天狗になった崇徳上皇に仕える白峰寺の天狗。
③象頭山金剛坊    
①③が金比羅の天狗ですが、このふたつには次のような役割分担があったと研究者は指摘します。
①黒眷属金毘羅坊 全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗。地方の金比羅社
に奉られる天狗で姿は烏天狗
③象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する山伏姿の天狗で、金毘羅大権現の別当金光院が担当
両者の関係は、③の金剛坊が主人で、①黒眷属金毘羅坊はその家来とされました。

それでは、③の象頭山金剛坊を象頭山に根付かせたのは誰なのでしょうか?
江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻79)には、次のように記します。
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記します。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、薬師十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったとされています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。

天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月

意訳変換しておくと
天狗道沙門の金剛坊像は、当山中興の権大僧都法印宥盛の姿である。慶長11年10拾月如意月

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を極め、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
金毘羅大権現の天狗信仰を視覚化した絵図を見ておきましょう。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現 別当金光院発行の金毘羅大権現と天狗達
一番下に「別当金光院」と書かれています。金光院が配布していた掛軸のようです。
①一番上の不動明王のように見えるのが金毘羅大権現
②その下の両脇で団扇を持っているのが金剛院で大天狗姿
③その下が多くが黒眷属金毘羅坊で、団扇を持たず羽根のある烏天狗姿
ここからは金比羅の修験者たちは、自分たちは金毘羅大権現に仕える天狗達と認識していたことがうかがえます。近世はじめに流行神として登場した金毘羅神を生み出したのは、このような天狗信仰をもった修験者たちであったと研究者は考えています。
そして、この2つの天狗達に後から仲間入りをするのが最初に見た愛宕山太郎坊になります。
この天狗信仰と金比羅信仰のつながりを、模式化したのが次の表です。

金毘羅の天狗信仰

江戸時代前期 もともとは「①黒眷属金毘羅坊と③象頭山金剛坊」に「愛宕山太郎坊」が追加    
江戸時代後期 ④「象頭山趣海坊」+⑤「安井金毘羅宮」の浸透
④「象頭山趣海坊」とは崇徳上皇の家来です。京都では安井金毘羅宮を中心に、崇徳上皇=金毘羅大権現とする説が普及し、滝沢馬琴も『金毘羅大権現利生略記』の中で崇徳上皇=金毘羅大権現とする説を採用しています。
文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集の中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、終に天狗となったものだと語ったと記されています。
こうして見てくると、江戸時代の金光院などの社僧の僧侶は、根強い天狗信仰をもっていたことがうかがえます。そのような中で、愛宕信仰を持つ影響力の強い修験者がやってきて、金比羅に愛宕大権現を開山し、「金毘羅神」の守護者を名乗るようになったとしておきます。

最後に愛宕大名神の現在の姿を見ておくことにします。
琴平愛宕山ルート図

象頭山と愛宕山の鞍部の牛屋口から尾根づたいの整備された道を辿ります。この当たりは、昔は松茸がよく生えていた所で、戦前までは入札していたことが記録に残っています。

愛宕山;石柱:八景山遺蹟。

まず最初のピークに八景山遺構の石碑が立っています。昭和16年(1941)に建てられたものです。次のピークが愛宕山になります。

愛宕山山頂6
愛宕山山頂
山頂には
愛宕山遺蹟の石柱があります。頂上は、整地されていて広く、神社の拝殿などがあったことがうかがえます。

愛宕権現 琴平町
          愛宕山山頂の愛宕社の祠(琴平町)
そこには、いまは石の祠だけが鎮座しています。山頂にあった愛宕大権現の御神体は神仏分離後はふもとの天満宮に下ろされ、天満さま(菅原道真神社)と合祀されているようです。そちらに行って見ます。
愛宕神社・菅原神社の鳥居
金比羅芝居の金丸座の裏からの車道を300mほど行くと、菅原神社の登山口です。鳥居と石碑が迎えてくれまます。

菅原神社・愛宕神社

入口の石碑は菅原神社と愛宕神社がならんで刻まれています。もともとは、愛宕権現のテリトリーに天神信仰の高まりの中で天満宮が勧進されたのでしょう。それが愛宕権現と並んで奉られていたことは、最初に見た金毘羅参詣名所図会に書かれていました。長い階段を登っていくと本殿が見えて来ます。

菅原・愛宕神社
菅原神社・愛宕神社

中央が菅原社、右側が竈神社、左側が愛宕社です。今の主役は菅原道真です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年
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播磨の大避神社

瀬戸内海の赤穂市坂越の大避神社は秦河勝(かわかつ)を祀る神社です。そして、この神社の周辺や千種川流域には多くの大避神社が鎮座しています。どうしてこれだけの濃密な分布が見られるのでしょうか? それは古代以来の秦氏の活動の痕跡だと研究者は考えています。今回は、大避神社の歴史と秦氏との関係を見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」です。
まず祭神として奉られている秦河勝を押さえておきます

秦川勝
 秦河勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
秦河勝は飛鳥時代に聖徳太子の最高のブレーンとして朝廷の財務担当責任者として活躍した人物です。彼は新羅使の導者を3回務め、『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。推古21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。その広隆寺と一体で管理されたのが山城国の大酒神社で、山城秦氏の本拠地太秦(うずまさ)の拠点となります。
次に赤穂坂越の大避神社を見ておきましょう。
京都の大酒神社と同じように、秦河勝を氏神として祭ったのが赤穂市坂越(さこし)の「大避大明神」(大避神社)です。神明帳には「元名大辟」と書く「オオサケ神」を「大荒大明神」と記します。周辺には、大酒神社と酒の字をあてる神社もありますが酒の神ではないようです。坂越の大避神社と同じ性格で境の意の「辟」が「酒」になったのであり境界神としての神社名を持つ塞の神、道祖神的な意味をもっていると研究者は考えています。
③『播磨鏡』(宝暦12年(1762)成立)は、大避神社の社伝を引用し、次のように記します。

秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖酒公を祀り、社名を「大荒(さけ)」「大酒」と称したが、治暦4年(1068)に「大避」に改めた。また、山背大兄王と親しかった河勝が蘇我入鹿の嫉みを受け、ひそかにこの地に難を「避けた」ので、「大避」に改めた

この社名由来は、秦河勝を祀る山城の神社の「大酒」をもともとの表記と思い込み、「大避」と書く理由を述べています。しかし、神名帳の大酒神社の注記からは「酒」よりも「辟」「避」の方が古い表記であることが分かります。
播磨の大避神社と山城国の大洒神社は、同じ秦河勝を祭神にし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏です。しかし、同じ秦氏の氏神と云っても、次のような違いは見られます。
①山城の大洒神社は広隆寺の境内社で桂宮院(太子堂)の守護神、鎮守の性格
②播磨の大避神社は、猿楽との関わりが強い
どうして、播磨の大避神社は猿楽との関係が深いのでしょうか。
世阿弥は『風姿花伝』で、次のように記します。

(申(猿)楽の祖は秦河勝で)、彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。
意訳変換しておくと
申(猿)楽の祖は秦河勝で、この河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子(聖徳太子)に仕えた。猿楽の芸を子孫に伝え、その継承跡を留めないようにと、摂津国難波の浦から、うつほ舟に乗って、風にまかせて瀬戸内海を西に漕ぎ出し、播磨の国坂越の浦に着いた。浦人が舟を上げみると、かたちが人間に変わっていた。そして諸人に奇瑞をもたらしたので、神と崇められて、国は豊かになった。

金春禅竹は『明宿集』で『風姿花伝』と同じような記述をして、更に次のように記します。
坂越ノ浦二崇メ、宮造リス。次二、同国山ノ里二移シタテマツリ、宮造リヲ、タタシクシテ、西浦道フ守り給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。
  意訳変換しておくと
(秦河勝は)坂越の浦に社殿を建立し、次二、同国の山里に移って、宮を正式に建立した。そして、西浦道を守ったので、人々は、猿楽ノ宮とも、宿神とも、この宮を読んで崇拝した。

ここには、秦河勝が建立した神社を「猿楽ノ宮」と呼び、祭神の秦河勝を「宿神」と記します。
大避神社を「猿楽ノ宮」と呼ぶのは、秦河勝を猿楽の祖とみるからでしょう。この猿楽の徒の神「宿神」について、禅竹は『明宿集』で、次のように記します。

「翁ヲ宿神卜申タテマツル」「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」

『風姿花伝』は次のように記します。

秦河勝が猿楽の祖といわれるのは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたからだ。そのとき太子は「六十六番の面」を作って河勝に与えたが、そのなかの一面(鬼面)だけが円満井座に伝えられて重宝になった

初めて一般公開される「蘭陵王の面」など大避神社の宝物
  秦河勝の作とも伝わる「蘭陵王」面(大避神社)
ここでは中世以後に「秦河勝=猿楽の祖」とされ、大酒神社が「猿楽の宮」と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

次に播磨国の大避神社(赤穂市坂越)周辺に秦氏がいたことを史料で押さえておきます。
①延暦12 年(793)4 月 19 日付の播磨国坂越・神戸両郷解(げ)には天平勝宝 5 年(753)頃、この地に秦大炬(おおこ)なる人物がいたこと
②「三代実録」の貞観6 年(864)8 月 17 日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麿が外従五位下になったこと。
③赤穂郡の大領が秦造であったということが「続日本紀」にある。大領は郡の長官でもとの国造クラスで、有力な豪族が郡の大領に任ぜられるのが律令制の慣例でした。その大領が秦造になります。
④「平安遺文」の11 世紀後半の東寺文書の中に、赤穂郡の大領秦為辰(はたためとき)が土地の開発領主として開墾していること
⑤長和4 年(1015)11 月の国符に記された赤穂郡有年(うね)荘の文書に寄人41人の連名があり、その中に秦姓を名乗る者が 12人いること
以上から、秦河勝を氏神として祭った大避神社が鎮座する赤穂郡は秦氏の勢力範囲であったこと史料からも裏付けられます。
 赤穂周辺の秦河勝を祭神とする大避神社の分祀は30社あまりあるようですが、その分布は、千種川流域の赤穂郡を中心として佐用郡・揖保郡にまで、秦河勝の伝承が伝えられています。ある研究者は、「旧時、赤穂郡内の神社の1/3は秦河勝を奉祀した大避社であった」と記します。

播磨坂越の大避神社 播磨名所縦覧

坂越の大避神社
坂越周辺の地で祀られる大避神社と秦氏の関係について太田亮は、次のように記します。
「播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と称するも、其の発生に関して徴証乏しく、果して然りしや否や証なき能はず。赤穂郡は古代秦氏の繁栄せし地なり。
貞観六年八月紀に『播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麻呂、借りに外従五位下に叙す』と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏、系を雲上家に架して村上源氏と称せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり。秦氏の奉斎にかかる」。
『角川日本地名大辞典兵庫県』は、「氏神は大酒神社」と書き、「地名の由来は、秦酒公を祀る大酒神社にちなむと思われる。高瀬舟に従事した人たちの信仰」と記します。
現在の祭神は天照大神・春日大神・大避大神ですが、本来の祭神大避大神は先ほど見た『風姿花伝』『明宿集』には「秦河勝」と明記されていました。大避神社を氏神とする上月町大酒の人たちは、かつて「高瀬舟に従事した人々」とされていますが、彼らは渡守です。白山開基の泰澄は、渡守の秦氏だから、秦氏奉斎の大避神社を氏神とする大酒の人たちも、秦氏及び秦氏と結びつく人たちです。

大避神社2

 もう少し周辺の大避神社を見ておきましょう。
千種川中流の上郡町の金出地(かなじ)は、明治22年まで金出地村でした。
延享4年(1747)に書かれた『播州赤穂郡志』には「金出地八幡宮総山月大避明神」と書かれています。そして、八幡宮の祭神を大避神と記します。金出地の地名について『角川日本地名大辞典・兵庫県』は次のように記します。
山中に溶滓が散在する所」があるから「銅あるいは砂鉄を産出したと伝えられることによるものか

大避神を祀る岩木・金出地以外にも、上郡町旭日には旭山(旭日)鉱山があり、金・銀の採掘をおこなっていました。このように、上郡町は金・銀・銅や砂鉄が産出地でした。岩木・金出地以外に上郡町には大避神社が、大枝新・竹万・休治にもあるので合計5社になります。これは金属の採鉱と精錬にたずさわった人たちが、大避神社を祀っていたからと研究者は考えています。
千種川上流の上月町には、大酒の大酒(避))社以外に、久埼(旧久崎村)、西大畠(旧西庄村)に大避神社が鎮座します。

大酒神社 播磨上郡町

この町は、千種川・佐用川の流域にあり、金属資源にめぐまれていました。千種川上流の千種町も有名な千種鉄・千種鋼の産地です。鉱山と水運という秦氏の職能分野です。

技術集団としての秦氏

中世の赤松氏の菩提寺・法雲寺の境内には赤松円心・則祐・満祐等の五輪等が残されています。上郡町の中心から国道375号線を千種川に沿って北上すると左側に広い沖積地に鎮守の森が見えきます。それが上郡町大枝新の酒神社です。

大酒神社2 播磨上郡町

境内には巨木が何本も生えていて歴史を感じる神社です。

大酒神社3 播磨上郡町
 旧赤松村の岩木にも大避神社があります。
播磨岩木の大避神社
旧岩木村の大避神社
この岩木は「慶長播磨絵図」に載せられている岩木鍛冶屋村を含む旧岩木村です。岩木には良質の銅鉱山の峯尾山がありました。そこに鎮座する大避神社は鍛冶鋳物・採鉱にかかわる人たちが祀っていたのでしょう。岩木鍛冶屋村は鍛冶村とも呼ばれていたようですが、それよりも昔は鍛冶千軒ともいわれていたようです。
千種の鉄山も、中世には秦氏出自ではないかといわれる赤松氏の支配下にありました。
上月町には西新宿の八幡神社も、秦河勝と誉田別命(応神天皇)を祭神にしています。誉田別命は宇佐八幡宮の祭神ですが、上月町早瀬の白山神社の祭神も誉田別命です。白山神社も宇佐八幡宮も秦氏が祭祀する神社です。上月町で、大避神社の祭神秦河勝が八幡神社でも祀られ、八幡神社の祭神が白山神社で祀られているのは、秦氏系氏族との関係なくしては考えられません。

技術集団としての秦氏

相生市にもかつては大避神社が三社あったと伝えられます。

『角川日本地名大辞典・兵庫県』は、相生市北部から南部にかけて、「近世まで六社あった」と書いています。相生市は赤穂郡に属し、平安時代から中世にかけての八野郷・矢野荘が相生市全域とほぼ重なります。
『三代実録』の貞観六年(864)8月条に、赤穂郡大領の秦造内麻呂が従五位下に叙せられたという記事があります。『峰相記』は三濃山には、秦内麻呂が観音寺を建立したとあります。現在は元三濃山求福教寺といわれ、境内に観音堂と大避神社があります。

元三濃山求福教寺2

元三濃山求福教寺
元三濃山求福教寺の観音堂
 秦河勝が大蛇を退治したという似た伝説を伝える相生市若狭野町下上井にも、大避神社があります。この下上井の大避神社を「土田宮」というのは、土地の人たちが河勝を上段座を設けて供応したという伝説からきているようです。
大避神社を氏神とする若狭野町下土井は、鎌倉時代から中世に活躍した寺田氏の本拠地です。
ここには中世矢野荘の鎮守社としてたびたび登場する大避神社が鎮座します。ここにも秦河勝の末裔の秦為辰の子孫と称する家があります。秦為辰は、11世紀に、相生市とその周辺を開発した人物で、国行の大塚と赤穂郡司を兼ねていた人物です。
①為辰の子孫で牛窓荘司であった寺田太郎人道法念は、坂越の大避宮別当神主祝師職
②法念は弘安四年(1281)に山陽海路の警固に動員されており、坂越浦の水軍の長
③法念の子範兼は正和三年(1313)に、長男の範長に大避宮別当神主祝師職を譲っている
④秦氏の末裔の寺田氏によって世襲されていたこと。
以上からは、秦氏の末裔が中世になっても「金属精錬+海野の民としての水運・水軍」などとして活躍していたことが分かります。
大避宮のある坂越の属す赤穂市には、木津・西有年(うね)・中山にも、大避神社があり、木津にも秦河勝の末裔と称する家があります。

大避神社 木津
赤穂市木津の大避神社
木津の地名は、その名前の通り古代に千種川河口で、材木の集散地であったことによるとされます。『角川日本地名大辞典 兵庫県』は次のように記します。

「七世紀中頃、秦河勝に随従した匠(大工)たちが住みついたため、字名に大工山、通称地名に大工村・手能(手斧)村がある。(中略)通称大工村の住人大多数が領内外の寺社建築に携わる」

 この地の秦の民は、上寸大工、宮大工だったようです。

赤穂市西有年にも大避神社があります。
西有年 大避神社
西有年の大避神社
この有年の地も千種川に沿いにあって、有年谷回は江戸時代に高瀬舟による運漕業の拠点でした。上月町大酒の大避神社が、高瀬舟に従事していた人たちが祀っていたことからみて、有年谷回の人たちも、西有年の大避神社を奉斎していたでのでしょう。有年にも、秦河勝の末裔と称する家があります。

以上述べたように、坂越の大避神社を取り巻く状況について整理要約しておきます
①鎌倉時代には、大避神社の別当神主祝師職であった秦河勝の末裔の寺田氏は、「海の民」の末裔として水軍の長として坂越浦・那波浦を本拠に、瀬戸内海の海運を握っていた。
②その時には、大避神社は海運の神だった
③千種川を上下する高瀬舟に従事する秦氏も、それぞれの居住地に海軍の神としての大避神社を祀った
④千種川とその支流で採鉱・鍛冶などにかかわる秦氏や、寺社造営にかかわる秦氏も、大避神社を信仰していた。
⑤これらは猿楽・海運・水運・採鉱・鍛冶・寺社造営などに、秦氏がかかわっていたからである。
⑦大避神社を奉斎する播磨の秦氏は、赤穂郡が本拠地として、周辺に勢力を拡大した。

最後に、広峯神社と秦氏の関係を見ておきましょう。
 飾磨郡の枚野里の新羅訓村のいわれは次のように記します。

「新羅訓と号くる所以は、音、新羅の国の人、来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く。山の名も同じ」

「しら」「ひら」は同義ですから「ヒラノ」も「白野」です。「シラクニ」は、今は「白国」と書かれますが(姫路市白国)、「山の名も同じ」といわれる山は、広峯山のことだと研究者は考えています。「広」は「シラ → ヒラ → ヒロ」と転じます。白国(新羅訓)山が白峯山になり、更に広峯山になったことが考えられます。現在ここには広峯神社があります。
廣峯神社 | 観光スポット | ひめのみち
                 広峯神社
この神社はかつては、西方の白幣山にあり、天禄3年〈972に遷座したと伝えられます。秦氏系の赤松氏が城をかまえた白旗山と同じに、白神信仰による名が白幣山と研究者は考えています。幣・旗を神が依代にして降臨することは、山頂の上社(広峯神社)に対する下社が、広峯山の山麓にある式内社の白国神社になります。
白國神社(しらくにじんじゃ、姫路市) : 古代史探訪


同郡の賀野里は「幣丘」と『風土記』には記します。たぶん「幣丘」も「白幣丘」の意なのでしょう。「カヤ」は「伽耶」で、加羅の意ですが、加羅・新羅から渡来して来た秦氏系を中心とする人たちが、飾磨郡には住んでいたことを、この地名は示していると研究者は考えています。

以上見てきたように、赤穂郡を中心に大避神社は佐用郡・揖保郡に分布しますが、いずれも秦氏の伝承があります。一方、飾磨郡の秦氏は広峯(白国)山の信仰が主体で、この秦氏は秦巨智氏と研究者は考えています。どちらにしても大避神社が広く分布するのは、古代における秦氏の活動の痕跡であるとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」
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金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

1979(昭和54)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。指定を記念して金刀比羅宮から調査報告書三巻と「年表編」が刊行されました。この年表を手にしたときに驚いたのは、近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。

 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。

「金毘羅庶民信仰資料集」の「年表篇」を作るように言われてお引受けしたのは「第一巻」が出版された昭和57頃であった。それ以後,暇ごとに手近な資料から「年表」の材料になると思われる事柄をカードに書取って,それがかなりの分量になり,時間的にもこれ以上遅らせなくなったところで,年月順に並べて書き写したのがこの年表である。 
それでは松原秀明氏による年表の18世紀半ばまでの部分をアップしておきます。

1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か)、矢一手を額仕立として奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親、松尾寺(のちの金毘羅)仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久、松尾寺に制札を下す。
10.19仙石秀久、金毘羅へ当物成十石を寄進。仙石秀久、源信国作太刀一振を献納。
1586 天正14 2.13仙石秀久、金毘羅へ三十石寄進。
8.24仙石秀久、榎井村六条の内を以て、三十石寄進。
1587 天正15 1.24生駒親正、松尾村にて高二十石を献ず。
1588 天正16 7.18生駒一正、榎井村にて二十五石寄進。
1589 天正17 2.21生駒一正、小松村にて五石寄進。
1594 文禄3   8.10宥盛、松尾寺再興のため勧進帖を撰す。
1596 慶長1   3.5別当大僧都宥厳、観音堂に鰐口奉納。 7.上旬宥盛「破禅抄」書写。         
1597 慶長2   4.14宥盛「色葉経」書写。 5.下旬宥盛「南台門僧正空海記」書写。
1598 慶長3   8.1榎井村久右ヱ門より田地寄進。 
9.8大井八幡宮遷宮、導師善通寺誕生院尊翁、金光院宥厳・宥盛奉仕。
1600 慶長5   12.13生駒一正、院内にて三十一石寄進。
下川家初代帥坊、紀州下川村より移る。宥厳没、宥盛入院。
1601 慶長6   3.5生駒一正、諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめる。
28生駒一正、金毘羅へ四十二石五斗寄進。
4.11生駒一正、三十番神社を改築。摩利支天堂・毘沙門天堂創祀。
1603 慶長8   「金毘羅山神事頭人名簿」書き始められる。
1604 慶長9   1.宥盛、禁戒文を撰す。護摩堂創祀、本尊不動明王造像(雪津入道作)。
1605 慶長10 1.土佐出身の片岡民部、宥盛の弟子となり、多聞天の像をもらって多聞院を名乗る。
宥盛、先師宥厳菩提のため、自ら如意輪観音を彫む。
1606 慶長11   3.宥盛高野山浄菩提院を兼任。 
  10.宥盛、自らの木像を彫み台座に「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛」と彫込む。
1607 慶長12   4.2生駒一正、生駒将監名にて、那珂郡高篠村にて三十石寄進。
生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて十石寄進。 
5.先の松尾寺住職宥雅、宥盛を生駒家へ訴える
6.宥盛、宥雅の訴えに答えて目安を撰す。 
9.6生駒一正、寺高諸役免許のことなど安堵する。 
9.21生駒一正、浅井喜八郎名にて、買田村にて十石寄進。
10.20生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて五石寄進。
1609 慶長14   9.6生駒一正、先規により、城山称名寺山を献じ、寺領諸役免除を安堵。
1610 慶長15   8.7生駒一正、浅井右京名にて、金毘羅へ出入する米の道切手を遣わす。
1611 慶長16   薩摩国島津義弘より紺紙金泥金剛不空三摩耶経二軸を献納。
1613 慶長18   1.6宥盛没。宥睨入院、実家山下家が、この頃豊田郡河内村から金毘羅へ移住。
14生駒正俊、城山称名寺山を従来の如く献じ、寺領諸役を免除する。
16生駒家より作事用木を寄進する。また寺領並びに称名寺分高八十石の諸役を免除
1614 慶長19   8.生駒家家老香川与三兵ヱより五条村にて初穂米寄進。
多聞院宥哩、土佐へ退去。金剛坊創祀。
   ※慶長年間 観音堂改築。
1615 元和1   長修理頭、金光明最勝王経十巻を献ず。
1616 元和2  木村家、寒川郡鶴羽村から移住。荒川家、鵜足郡栗熊村から移住。
1617 元和3   2.21生駒正俊寄付の鐘できる。
1618 元和4   3.10生駒正俊、先規により院内廻り七十三石五斗、苗田村五十石、木徳村二十三石五斗ばかりにて、百四十七石寄進。
閏3.10生駒正俊、金地着色三十六歌仙扁額三十六面寄進。
1620 元和6   9.生駒正俊、鐘楼堂建立寄進。
10.6生駒正俊、会式につき、八日より十一日まで米出入の儀に異議なき旨を申達す。
1621 元和7  5.18宥睨、法印となる。
11.28生駒高俊、五条村にて百石寄進。都合神領二百四十七石となる。
また、寺高諸役免除のことなど保証する。
1622 元和8   8.15生駒家よりの寄進、三百三十石となる。
1623 元和9   金毘羅本社でき、古堂は行者堂に引直す。
東元和年間、宥盛の弟子寛快、普門院を再興。
1624 寛永1   観音堂改築、宥睨、装飾のため擬宝珠を作らせる。
金倉川に鞘橋が架かる(元和七年とも)。
1626 寛永3   宥睨、多聞院宥哩に帰山の書状を遣わす。
1627 寛永4   9.10生駒円智院より頭屋米十石寄進。
1628 寛永5   菅納家、備前金川村より移住。竹川家、三野郡財田中ノ村より移住。
1629 寛永6   6.宥睨の付弟宥儀、高野山にて「金剛界念誦次第」(遍智院本)書写。
1631 寛永8   多聞院片岡家、土佐国より再度移住。A宥睨の付弟宥儀没。
1633 寛永10   12.荒川家より一ノ鳥居建立寄進。
小国小兵ヱ移住。付添って、備前岡山生れの塩屋惣四郎も移住。
1634 寛永11   1.岩手宗也、独吟和漢連句を奉納。
1635 寛永12   6.宥典、高野山にて「智袋」を求む。
1637 寛永14   11.2宥睨、京都嵯峨大覚寺宮御令旨により上人位となる。
1638 寛永15   11.里村玄陳、自筆「詠歌体」一冊奉納。A大覚寺宮尊性法親王参詣。
1639 寛永16   生駒高俊、頭屋米四十石寄進。
1640 寛永17   生駒高俊、讃岐国大絵図一舗を奉納。生駒家改易。
受城使として尼崎城主青山大蔵小輔参詣。
1642 寛永19   1.10別当宥睨、里村玄陳等を招き連歌を興行。
5.松平頼重、高松に入城 天領池領(五条村・榎井村・苗田村)設置。
1643 寛永20   丸井小助(虎屋惣右ヱ門:虎丸旅館)、豊田郡丸井村より移る。
   高松藩船奉行渡辺大和、玄海灘にて霊験を蒙る。
   ※寛永年中、荒川九郎兵ヱ、初めて町年寄役申付けらる。中村家、京都より移住。
1644 正保1   大井八幡宮改築。                                  
1645 正保2   1.6宥睨参府、将軍家光に御目見。
5.幕府寺社奉行宛、社領三百三十石に御朱印頂きたき旨願い出る。 
11.3宥睨没、五十一歳。 12.宥典入院。
] 寺中役人等より先代同様疎意なき旨の連判状をとる。
高松城主松平頼重、三十番神社を改築。大行司堂改築。
1646 正保3   1.21宥典、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 2.宥典、将軍に謁す。 
11.25普門院・菅孫左ヱ門・木村猪右ヱ門等、三十番神社社人松太夫・権太夫の儀につき神文を差出す。
12.伊福院追放。宥典、再度参府。
1647 正保4 10.松平頼重より、寺社奉行安藤右京進・松平出雲守に金毘羅へ朱印状下されたき旨願出
 ※正保年間 尾崎家初代八兵ヱ召出される。
1648 慶安1   1.6宥典、将軍家光に謁す。 
2.24将軍家光、金毘羅権現社領、那珂郡五条村内百三十四石八斗余、榎井村内四十八石一斗余、苗田村内五十石、本徳村内二十三石五斗、社中七十三石五斗、都合三百三十石を先規に任せ寄付し、山林竹木諸役等免除の旨の朱印状を授く。
3.17初めて朱印状を頂戴す。 8.26松平頼重、参詣一宿。
松平頼重、三十六歌仙扁額奉納。従来の参詣道を変更して大略今日の如く改める。
1648 慶安2   1.松平頼重から用材の寄進を得て大門上棟。 
6.21三十番神社社人松太夫・権太夫のことで出入あり、この日、山下・菅納・木村などの諸家の取扱にて落着。
1650 慶安3  12.松平頼重、登山参龍して和歌を詠ず。
松平頼重、阿弥陀仏千体を寄進、これを阿弥陀堂に合祀し、以後この堂を千体仏堂という。
松平頼重神馬並びに飼葉料として毎年米三十石寄進。
1651 慶安4   8.松平頼重寄進の木馬舎上棟。仁王門を廃して中門とする。大門改築竣工。
新たに仁王像を作り、これを大門に安置。のち大門を仁王門と呼ぶ。
松平頼重、神馬舎に木馬を寄進、飼葉料は従来のままとする。
  ※慶安年間 京都仏師田中家二十五代弘教宗範、御内陣の獅子高麗彫刻。
1653 承応2   10.12京都智積院の学僧澄禅、四国順拝の途次参詣し、真光院に宿る。
12.17社領に宿かしのこと、博突停止のことなど触達す。
1654 承応3   10.里村玄陳等、石燈箭一対奉納、榎井長兵ヱ長好取持。
松平頼重より、二品良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の額奉納、「象頭山」を仁王門に掲げる。
1655 明暦1   1.松平頼重、明本一切経奉納。 10.丸亀福島橋西畔に金毘羅屋敷普請成就。
12.20高松の金毘羅屋敷の地所を買取る。
従来の雪津入道作護摩堂本尊を廃し、伝智誼大師作不動尊像にかえる。
1656 明暦2   5.10松平頼重、自筆の「讃州路象頭山縁起」を奉納。
  池領の者、丸亀領佐文村へ入込み、入割になったのを調停に入る。
1657 明暦3   3.町方へ吉利支丹宗門のこと、旅人宿のことを申渡し請書を取る。
1659 万治2   4.10御本社下遷宮。 6.13京都大徳寺の天祐紹呆参詣。 8.28御本社上遷宮。
9.13善通寺内十善坊・常林坊、境内に潜入のところを見咎められ詫状を書く。
観音堂を御本社脇より下向坂方面に移転改築。
金剛坊を御本社前脇より観音堂脇に奉遷し、間もなく観音堂後堂に移転。
小松庄内の寄進にて、鐘楼のもとに鳥居建立。御祈祷参箭所移築。
1660 万治3   10.10松平頼重、一切経蔵を建立寄進。
本地堂創祀。中門に京都仏師田中家二十五代弘教宗範彫刻の持国・多聞の二天を安置、以後中門を二天門と称す。
丸亀城主京極高和、江戸三田の藩邸に金毘羅権現勧請。大阪の金毘羅屋敷造営。
 ※万治年間 日比常真「象頭山十二景図」を描く。
この頃、塗師五兵ヱ(のち役人河野家)備前岡山より移る。
1661 寛文1   3.15松平頼重、千体仏堂を改築。
1662 寛文2   3.高松大本寺日誓、経蔵一覧の碑文を撰す。
1665 寛文5   4.吉利支丹宗門の儀に付、念書を取る。 
7.11将軍家綱、社領の朱印状を授く。 9.28松平頼重参詣、願文を奉る。
1666 寛文6   7.1社領内へ博突停止などの触を出す。宥典隠居。宥栄入院。
1667 寛文7   1.15宥栄、将軍家綱に謁す。 
2.宥栄、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 
9.28宥栄、神野大明神本尊鎮座法楽理趣三昧導師を勤める。
1668 寛文8   1.10松平頼重、石燈箭両基献納。
10.10僧一死、慶安元年四月房州平群天神山で拾得した不動尊を奉納。
多度郡生野村出生の大工棟梁平八(西屋、川添姓)、当所高藪町に移住。
1669 寛文9   1.10松平頼重、石燈龍両基献納。 11.15古田古畑たばこ作りのことで触達す。
1673 延宝元  11.10松平頼重、金毘羅大権現神供領、千体仏堂領並びに神馬領高五十石、
また金光院内王祠供料十石を寄進。
安房勝山城主酒井忠朝より古語二幅が献ぜらる。 
  2.19松平頼重隠居、嗣子頼常が継ぐ。
  5.3松平頼重、石燈販献納。12.松平頼重、多宝塔を建立寄進。
1674 延宝2  18.10池領の者たち、社領内で理不尽に池を掘る、高松藩より竹井西庵、郡代・大庄屋召連れ検使に来て調査の結果、社領に間違いないことを確認、松平頼重の命として、以後このようなことのなきよう申付らる。
1675  延宝3  11.吉野屋長治郎外八名、土佐光信筆「源氏物語図」額奉納。
閏4.瓦師久兵ヱ、備前岡山より移住。6.16社領と池領と地替え済み。
11.19右の件、公辺より裏書下さる。。25宥典没、五十九歳。
1676   延宝4  伊予国宇摩郡川之江より伊予屋市兵ヱ移住。
  多度郡中村出生の張物師大津屋権六郎移住。
1677   延宝5  9.10有馬玄蕃頭頼利室清涼院(松平頼重娘)、六歌仙扁額奉納。
護摩堂改築、旧護摩堂を移転改築して釈迦堂創祀。
1678  延宝6   5.14宥栄、先師宥典菩提のため阿弥陀堂廊下造築、奉行松寿院典醒。
のちの江戸湯島霊雲寺開山の浄厳参詣。
1679  延宝7  孔雀明王像を造る。また護摩堂の諸仏四大明王・十二天・八大童子像を造る。
丸亀藩主京極高豊、江戸三田の金毘羅祠を、虎の門の新邸へ遷座。
1680 延宝8  宥栄、将軍綱吉に謁す。
 ※延宝年間 狩野安信・時信筆「象頭山十二景図」なる。
1682 天和2   9.25俳人岡西惟中参詣、木村寸木邸に宿る。翌日、金光院に遊ぶ。
1683 天和3   宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ(三代)。
 ※天和年間 三井道安金毘羅小坂に住居。
1684 貞亨1   9.26宥栄、満濃池池宮大明神の本尊鎮座法楽導師を勤める、願主矢原政勝。
1685 貞享2   6.11将軍綱吉、社領の朱印状を授く、
俳人大淀三千風、金光院にて「不二の詞」を撰すo
         12.18古酒八分、新酒六分、豆腐十二文と値を決める。座頭への施物は軽く、日用賃一日一人七分と触達す。
この頃、谷川も町並みになる。
1686 貞享3   7.26大雨洪水、鞘橋流失。 10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4   9.9大風にて神林の松損木多し。材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
 ※貞享年間の頃 役人牧野家・高木家・東條家・医師安藤家、召し出さる。
1688 元禄1   3.28社領内、鉄砲所持の分書出す。金毘羅十日講銀にて頭屋米百石買上げる。
宥弁真念の「四国辺路道指南」刊す。
1689 元禄2   4.博突・遊女停止のこと申渡し、請書を取る。
9.11松寿院典醒を以て社領内鉄砲を高松矢倉へ納める。 9.社領内総鉄砲数七十挺。
11.高松より、境内にて殺生禁止、また山林竹本伐るべからざる旨の制札を二枚下さる。
小書院普請。寂本撰の「四国遍礼霊場記」刊。
1690 元禄3   「日本行脚文集」刊、大淀三千風撰。
1691 元禄4   7.11宥栄隠居、宥山入院。 11.宥山参府。 12.宥山、江戸にて霊雲寺浄厳と往来あり。
1692 元禄5   1.15宥山、将軍綱吉に謁す。
1693 元禄6   1.15宥栄没、六十四歳。
1694 元禄7   3.石槌山前神寺金毘羅堂に燈龍建立。 6.上旬御本社葦替。
7.9日向国細島の六兵ヱ・伜三之丞、佐田の沖にて霊験を蒙り難船を免れる。宥山その事を書誌す。
10.宿貨し・遊女・博突停止のことなど触達す。
予州宇摩郡天満村寺尾氏春、苗田村にて石燈龍奉納。
唐国雷音博「讃州象頭山十二境詩」撰す。
1695 元禄8   4.松平頼重没。 8.15六角越前守広治、願文を捧ぐ。
9.宥山の求により、高野山義剛、「覚禅抄」に朱点を付ける(元禄十一年まで)。
九月吉日、本地堂棟札、奉行坂上庄兵ヱ、大工吉田久右ヱ門。
町方升屋三平と三野郡上高野村百姓助九郎との田地に関わる訴訟、升屋三平非分となる。
1696 元禄9  2.5宥山、権律師になる。 3.予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥、銅燈龍献納。
坂上羨鳥撰「簾」刊。
1697 元禄10   1.10浄厳、「金毘羅神勘文」を撰す。熊谷立閑「讃州象頭山十二境詩」撰す。
家内並に家来を召連れた浪人小河弥三郎、江戸へ出向き、以後社領住居の浪人はなく、浪人帳も廃す。
         町方にて喧嘩をし、相手を突殺した鍛冶伝右ヱ門、高松へ頼み斬罪申付らる。
1698 元禄11   大井八幡宮神門再興。宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ。「あしろ笠評リ、僧露泉編。
1699 元禄12   1.14松平頼豊参詣し、剣一振・黄金十両など奉納。4.10宥山、権少僧都となる。
観音堂開帳。観音の御影新刻さる。この頃、雲外車竺外「象頭山十二景詩」を撰す。
1700 元禄13   「金毘羅会計」、木村寸木編。
1701 元禄14   3.高野山通玄の法華経講鐘あり、町方へ聴聞衆への応待心得を触達す。 
5.松平頼豊、神供領・千体仏堂領並に神馬領高五十石安堵。
1702 元禄15   6.10本社屋根葺替。 7.20宥山、権大僧都となる。
8.29高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包本鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
1703 元禄16   3.3子供芝居寺へ上る。座本権左ヱ門・太夫本嵐勘四郎、お目見。 
3.池領榎井村の遊女を残らず追払った旨、札之前町組頭より届出あり。
4.11下屋敷にて宗門改。
  ※元禄年中 余島屋茂右ヱ門(のち吉右ヱ門)当地へ移住。
元禄末年 岩佐清信に「象頭山祭礼図屏風」を描かせる。
1704 宝永1  真光院引直し造作。
6.8姫路城主本多忠国より鶴奉納、豊島松翁立合にて、神前にて放す。
10.5大芝居・竹田代り浄瑠璃芝居の桟敷のこと申付る。
1705 宝永2   春。松平頼重二男靭負、東海道赤坂駅にて怪猫の難を免る。
5.2宥山、京都仁和寺宮御令旨により法印となる。
5.坂上羨鳥、手水鉢献納。 11.8宥山、多聞院に赴く。
1706 宝永3 3.9新町にて、阿州白地の長右ヱ門、白狸を見せ物にする。
3.20宥山、菅納三郎兵ヱ方へ出向く。
12.山奉行はじめてでき、河野助左ヱ門に申付ける。
町人布屋源四郎、金倉寺領三十石のうち十七石七斗買取る。
長崎浦上の無凡山神宮寺に金毘羅権現勧請。
1707 宝永4   2.19広谷庵上棟。 3
.26酒奉行呼あげ、上酒一匁八分・中酒一匁五分・下酒一匁二分を、高松なみに上酒一匁六分・中酒一匁三分・下酒一匁に値下申付る。
4.10役人小川又兵ヱ方にて不動講あり。
1708 宝永5   7.宥山後嗣宥曼、江戸湯島霊雲寺において「真言事」書写。
8.宥山、仁和寺院家自性院兼帯。
9.10高松城主松平頼豊より太刀一振献納。
9.24宥山の実父山下道移寄進の広谷庵地蔵菩薩供養。
10.7寺にて芝居。西山の片岡家、召出される。
1709 宝永6   1.23将軍家宣、庖癒につき、高松より平癒祈祷の依頼あり。
3.26酒運上御免。 4.17宥山出府に付、高松にて五十挺立船拝借のこと整う。 5.10宥山、権僧正となる。 6.1宥山、拝天顔。。14宥山の後嗣宥曼没。
7.1宥山、将軍家宣に謁す。
8.豊後の俳人来拙、木村寸本を訪う。
9.1当役所内、当番の者袴着用申渡す。
10.1芝居の者お目見。別宗祖縁外「和象頭山十二景詩」を撰す。
1710 宝永7   6.1太鼓堂上棟、宥山、普門院にて見物。参詣人多し。
7.11巡見使、宮崎七郎右ヱ門外社領通過。
10.15菅納源左ヱ門・近藤九郎左ヱ門・片岡松蔵三人に日帳を記すよう申付る。
        11.18町方木村平十郎外寒気見舞に登山。
城州伏見鍛冶職忠右ヱ門を当処へ呼下しお目見。
  ※宝永年間 銅華表建立。宝永初年、金川屋小次郎、備中成羽より移住。
宝永末年、三野郡財田中ノ村より渡辺家召出され移住。
1711 正徳1   1.12丸亀妙法寺看坊参詣、札守を受ける。
3.土州山御用木元締大橋屋源助外、太鼓堂造立料として小判百十両寄進。 4.29木村新右ヱ門、上方より帰り挨拶に登山。
6.6木村平十郎外、御留主見廻に登山。 10.3多聞院へ不動尊を下さる。 11.16高松より為替米代金の請求あり、町方へその段申渡す。
25予州松山の浄熊と中す座頭、中之庄坂上半兵ヱより大野原村平田源次へ頼み、源次より山下弥右ヱ門へ頼み、宥山、中之間にて三味線を弾かせる。
1712 正徳2   3.1多度津藩主京極壱岐守高澄より石燈龍寄進。。
2智貞(宥山実母)死去に付、近国の座頭集り取り遣りあり。
4.3多聞院尚範死去、四代目慶範家督。
12金川屋小次郎に菓子の御用申付る。 6.5引田屋(荒川)安太夫に閉門申付 
7.10智貞様追善のため町方べ接待。23豆腐値段申付る。念仏踊、御成門の外にて躍る。
8.14大井宮造営に付、白銀五十枚寄進。17大井宮へ材木二本寄進。
9.28大井宮普請に付、行器五荷、酒二斗遣わす。10.1神輿出来る。
12.7小川又兵ヱ・矢部惣右ヱ門へ社領境目調べるよう申付る。
1713 正徳3   2.3高松城より能の案内あり。5宥山、高松へ出向く。
25池領と社領との境を決めようと那珂郡高篠村庄屋千葉弥三郎より申出あり。 
4.22堺目見分のため高松役人・池領代官所役人到着。 
5.2大坂泉屋(住友)吉右ヱ門より、小守を遣わした御礼物が届く。
13引田屋安太夫の件で、多聞院高松へ出向く。28宥山、将軍家継に謁す。
6.29池領御巡見役人登山。7.2那珂郡大庄屋より雨乞願出る。
10智貞様追善のため、坂下にて接待、広谷坊主に世話申付る。
9.17五三昧庵主死去、それに付、後役真言道心の隨な者をおくよう申付る。
広谷坊主・五三昧庵主とも普門院弟子の振合。
23伊予屋半左ヱ門、片原町の家屋敷売払う。 10.8神馬屋に盗人入る。
12、7日より十二日まで夥しい人出、前代未聞。
12.18五条村五郎左ヱ門登山、大井宮遷宮成し下されたく願出る。
1714 正徳4   1.11堺目見分に付、高松領庄屋たちと当山役人が出会う。
15菅納三郎兵ヱ婿米屋文三郎、御目見、宥山より下され物あり。
20鍛冶忠右ヱ門、大工同様扶持下さる。
2.23高松買津屋作左ヱ門、初めてお目見え差上げ物あり。
3.4内町引田屋安太夫家屋敷、同族大黒屋助次郎に売渡す。
3.18宥山実父山下盛貞没、七十八歳。
4.22松平頼豊より、盛貞死去の悔状まいる。
5.7境目のこと埓明き、塚を築く。 6.20庚申待無用に申付る。
28前屋敷にて宗門判。
7.10満濃村庄屋登山、那珂郡中より五穀成就の祈祷願入る。
8.10高松金毘羅屋敷普請、宥山お忍びにて見分に出向く。
8.26池領代官高谷太兵ヱ、榎井村へ到着、それより登山参詣。
9.10寒川郡長尾村の西善寺初めて参り、宥山に挨拶、以後お出入りを願う。
13予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥より唐金塔寄進。
25池領と社領の境目絵図でき、見分。
         11.1伊勢御師来田監物大夫直参に付、旅宿へ音物を遣わす。
22馬屋より出火、長屋奉行吉田庄右ヱ門に閉門申付る。
12.26草履取平二郎に庭木作りを命ずる。延宝三年度の「社領境目絵図」を改訂。
1715 正徳5   1.21京都政所様より絵馬奉納。 3.25金山寺町火事、類焼家数釜処二十六軒。
4.28木村寸木没、六十九歳。
6.21菅納市右ヱ門柳陰第七男宥英、江戸深川永代寺に入院。
塩飽牛島丸尾家の船頭たち、釣燈龍一対奉納。
7.23七ケ村念仏踊、当山にて例年三庭のところ、今年は五庭踊る。
8.21池領代官高谷太兵ヱ、榎井村到着。24予州代官平岡彦兵ヱ、参詣止宿。
坂上羨鳥、鋳塔献納。 9.20四条村・五条村より大井宮遷宮のこと願出る。 10.27大井遷宮の場所見分。 11.2宥山、大井宮遷宮に出向く。
高野山より職人町人御金蔵にて金請取のことにつき公儀触の廻状来り、差戻す。
1716 享保1   1.10多度津藩主京極高澄、大般若経六百巻を寄付、表題箱書は大通寺南谷。
12高野山より金銀通用のことで廻状あり、差戻す。
2.町の座頭豊都、官位につき白銀五枚遣わす。広谷の禅門、墓守御免。
3.池領巡見衆到着。 9.京極壱岐守より大般若寄進。太田備中守
今回は、このあたりまでとしておきます。
以上から松原秀明氏は次のように指摘します。
①創世記の金毘羅信仰において、大きな役割を果たしているのは金光院の修験者たちであること
②霊山象頭山にあった宗教勢力の権力闘争を勝ち抜いたのが金光院で、宥盛の力が大きい。
③「庶民信仰の金毘羅さん」と言われるが、その初期においては、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの保護寄進で、経済基盤や伽藍整備が行われた。
④特に生駒藩による330石の寺領寄進と、髙松藩の松平頼重による朱印地化や伽藍整備が行われたことが大きい。
⑤これが西国大名からの代参や寄進を呼び、それが庶民参拝につながっていくという過程が見える。
⑥つまり「最初に庶民信仰ありき:でなく、藩主の保護 → 各大名の代参の活発化 → 庶民信仰という道筋であること
次に「海の神様・金毘羅さん」についてです。
18世紀初頭までの年表には、海や船に関することはほとんど出てきませんとよく言われます。このことについて松原秀明氏は、次のように記します。
これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
   金毘羅大権現は海の神であるという信仰は、多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅大権現の年表 松原秀明


松原秀明は年表後記に次のように記します。

「資料集」三巻三冊は,奉納者の心がこもり,物としても立派な献納品を取扱うことで,自然と内容にも重みが伝わってきているが,この「年表篇」はそれに相応しいもとは言えそうにない。大事なことで見落したものも多く,資料の読み違いからくる誤も多いことと思われる。
しかし「年表篇」の仕事をさせて貰ったことで「勉強になって有難かった」という気持も強い。
 ここで,「やや明瞭になった」と思われる事を箇条書にしてみる。それが「資料集」とともに,このF年表篇」を読まれる方々の参考として少しでも役立てば幸いである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原秀明 金毘羅庶民信仰資料集 年表篇 
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鎌田勝太郎略歴1

   前回は、坂出の醤油屋の長男として生まれた鎌田勝太郎が福沢諭吉と出会って、企業家・教育者として育って行く道筋を大まかに概観しました。今回は、醤油屋の息子から塩田経営者へ、そして銀行家など、産業人へと成長し、さらに政治家へとスッテプアップして行く姿を見ていくことにします。テキストは「 西尾林太郎   貴族院多額納税者議員鎌田勝太郎 一貴族院改革を中心に一  」です。

 結婚した翌年(1882年)に鎌田勝太郎に転機が訪れます。
それは岡山の塩田王・野崎武吉郎との出会いでした。
明治維新後の鎌田家では、旧髙松藩の坂出塩田の一部を譲り受けて製塩業に乗り出していました。それまでの醤油業から製塩業という異業種への進出になります。そんな中で同業者が経営不振に陥り、岡山県児島の「塩田王野崎家」に7400円という多額の負債を負い、その債務の履行が困難になります。そこで、救済を同業者の鎌田家に求めてきたのです。

野崎邸
             岡山県児島の塩田王 野崎家

 7400円は明治15年の野崎家総収入のほぼ1/5にあたる大金です。野崎はその返済を求めて裁判所に提訴しています。これに対して鎌田勝太郎は債権者に代わって再建案を作成し、返済の暫時の猶予を野崎に申し出ます。この時の交渉相手が野崎家当主の武吉郎でした。この交渉を通じて、野崎武吉郎は、勝太郎の熱意と能力を認め、その申し出に応じるのです。こうして鎌田勝太郎は、これを機に自らも資金を拠出して塩生産会社を設立し、坂出の塩業復興に乗り出すことになります。 これが鎌田勝太郎の製塩業への本格的な進出となるようです。同時に、18歳の若い当主が同業者たちからリーダーとして認められることにもつながります。このきっかけをもたらしたのが野崎ということになります。 終生、勝太郎は野崎武吉郎を師と仰いだと伝記類には記されています。
その野崎武吉郎を見ておきましょう。

野崎武吉郎 児島の塩田王
                 野崎武吉郎

  武吉郎は、岡山県児島の野崎家に1848年8月31日に生まれていますので、鎌田勝太郎よりも16歳年上になります。父が早逝したため17歳で家督を相続している境遇が勝太郎によく似ています。家督相続の翌年1866年には、岡山藩の借上金8500を上納したうえに、総額2万両余を藩に提供しています。それだけの財力があった家なのでしょう。そのためか明治維新後に岡山県が成立すると、1877年(明治10年)まで勧業掛、勧農掛を務めています。

野崎武吉郎 児島の塩田王2

 野崎家の財政基盤は、塩田経営(161㌶)にありました。塩田主として、野崎武吉郎は塩田減反政策である「休浜法」推進の立場に立ち、各地の塩浜集会に備前浜の代表として出席する一方で、次のような要求を政府に働きかけます。
1875年(明治8年)政府に対して清国塩況視察員派遣
1876年(明治9年)以降、塩田保護を請願
1884年(明治17年)十州塩田同業会を発足させ、岡山県支会を野崎家に設置
1885年 農商務省の通達により十州塩田組合両備支部設置
1887年(明治20年)十州塩田組合本部長に就任。
また、耕地に関しては明治10年代のインフレ・デフレ期に田畑を集積し、明治22年にはそれまでの倍以上の422㌶を所有する大地主に成長します。塩田経営では、当作歩方制を、耕地経営には請切小作制を取り入れ、近代的な改革を意欲的に進めていきます。このような動きは、鎌田勝太郎の参考になったはずです。
 そして1890(明治23年)には、岡山県多額納税者として貴族院議員に互選されます。以後は、大日本塩業協会、大日本塩業同志会の創立・運営に関与し、塩業調査会委員を務め、日露戦争後の1905(明治38年)の「塩専売」の実現に尽力します。このような歩みに連携したのが鎌田勝太郎になるようです。

塩田主である野崎家や鎌田家が当時直面していた問題を見ていくことにします。
 明治10年代の瀬戸内海沿岸では、塩は生産過剰で価格下落が続いていて、どこの塩田主も困っていました。
このような中で勝太郎は、児島の野崎武吉郎と連携しながら塩の販路拡大に努めると供に、塩産業者の生活安定を目指して坂出塩産合資会社を設立します。こうした活動は、勝太郎を地域の政治指導者にも押し上げて行くことにもなります。明治22(1889)年1月、愛媛県から独立して、最初の香川県会議員選挙が実施されることになります。これに勝太郎は、押されて出馬し初招集された香川県の県会議員となります。そして3年後には、25年には県議会議長の座に就き、以後重要な役職を次のようにいくつも兼務するようになります。                        
明治26年(1893)6月、株式会社坂出銀行取取に就任、宇多津塩田株式会社社長        
明治27年(1894)6月、讃岐鉄道株式会社取締役に就任。9月、衆議院議員に当選) 
明治29年(1896)5月、讃岐紡績株式会社々長就任 、7月 髙松銀行取締役に就任    
明治31年(1898)1月 讃岐農工銀行取締役に就任、5月讃岐貯蓄銀行監査役
明治33年(1900)7月、塩産合資会社顧問。
これらの企業活動を行う上で中央政治の動向を摑んだり、政府に働きかけていくことの重要性を野崎から教えられたようです。野崎は明治23(1890)年の岡山県多額納税者議員選挙に当選し貴族院議員となっていました。そして大隈重信の改進党に近い立場で、塩業産業の利益代表者として政治的活動を行っていました。そんな中で勝太郎に対して、「君も代議士として中央で活躍すべきだ、私の右腕として助けて欲しい」などと口説かれたのではないかと私は想像しています。
 これを受けて日清戦争の始まった1894年の衆議院選挙に勝太郎は出馬します。
 この時の出馬に至る「密約」が資料に次のように残されています。香川第3区は、改進党の勢力が強く議席を独占していました。この選挙区には、綾井武夫と都崎秀太郎をリーダーとする2つのグループがあり、それぞれのリーダーを選挙のたびに交互に改進党の候補者とする約束があったようです。そこで、鎌田勝太郎は都崎グループの支援を受けて出馬・当選しました。ところが、それは1期だけで次の選挙では出馬せずに綾井武夫グループに譲るという内容です。これが、後の鎌田勝太郎の衆議院から貴族院への転換につながります。
 野崎武吉郎は、衆議院議員になったばかりの鎌田勝太郎と大日本塩業同盟会をその年の11月15日に結成します。
 塩の生産量や価格は「十州同盟」という瀬戸内海沿岸の播磨を始めとする十州の塩田主の代表が年に2回(春秋)に集まって、決めていました。塩カルテルによる価格操作で塩の価格下落を防いでいたのです。それが明治23(1890)年に政府の方針でなくなると、価格競争による生産過剰と塩価下落が製塩業者を襲います。その打開策として野崎が考えたのが清国への塩の輸出です。「中国に、日本の塩が売れれば、過剰対策はいっぺんに解決する」という目論見だったようです。
 日清戦争が始まると「大日本塩業同盟会」は、貴衆両院に塩の対清輸出の請願書を提出し受理されます。さらに戦後の明治28年3月になると、鎌田勝太郎は「清国二向ヒ食塩輸出ノ意見」と題し、13ページにわたって持論を論じたパンフレットを作成して各方面に配布しています。そこには次のように記されています。
「我国ノ食塩ヲ清国二輸出セントスルノ拳ハ積年当業者ノ苦心経営スル所ニシテ」(中略)末尾で「我国今日二於テ予メ戦後ノ貿易二留意シ…〔中略〕…彼ノ清国ヲシテ塩禁制ヲ解カシメ以テ我食塩ノ輸入ヲ図ルカ如キハ其ノ急務中ノ最モ急務ナルモノトス」
意訳変換しておくと
「我国の食塩を清国に輸出することは、長年の塩業関係者の念願である」
末尾で「日清戦争の終結という時点で、戦後の我が国の貿易については…〔中略〕…清国に塩の輸入規制を解除させて、我が国の食塩の輸入を実現させることは、最も急務なことである。

 実はこれに先だって日清戦争中の1894年12月5日付で、野崎、鎌田をはじめ岡山、香川、広島、山口、愛媛、兵庫、徳島7県の塩産業者10名の連名で「日清新条約ノ締結二当タリ我ガ食塩二限リ清国二輸入ノ条歎ヲ加ヘラレン事」という要望書がを内閣に出されています。この誓願内容は鎌田のパンプレットと同一です。以上からは、次のことが分かります。
①清国への塩輸出をめぐる運動の中心に鎌田勝太郎がいたこと
②鎌田勝太郎が大日本塩業同盟会の団体利益の代表として、野崎らとともに活動していたこと
このような動きを受け、政府は日清戦争後に調査のため農商務省の技官を遼東半島に派遣します。
ところが調査の結果、遼東半島とその周辺の塩は安くて品質良好であることが分かります。野崎や勝太郎の目論見は外れたのです。
このことを知った野崎と鎌田は連名で、その年の9月、「政府ノ遼東塩業調査二依テ更二意見ヲ述ブ」というパンフレットを作成し次のように主張します。

 中国への塩の輸出は山東半島産の塩の価格競争力が強くて、輸出には望みがないことが分かった。そこで自分たち塩田主は塩質の改善や生産費の削減を図りつつ、インド、豪州、欧米などの「塩況」を調査して輸出の道を講ずるべきである」

 ちなみに日清戦争後の明治29年の東京市場における塩の価格は、1石(101kg)につき以下の通りでした。
赤穂塩 1円59銭
輸入塩   85銭
つまり国内産の塩は国際競争力がなかったのです。「欧米などの塩価格を調査して輸出の道を講ずるべき」とは書かれていますが、日本産の塩を外国に輸出するということは実現性がありませんでした。逆に、欧米州の岩塩や清国の天日干塩などの輸入塩が、国内業者にとっては大きな脅威になってきます。
このことに気づいた鎌田勝太郎が次に考えたのが、「塩専売化による製塩業者の利益保全」です。
 政府も「専売化」このことを検討していました。1898(明治31)年に大石正巳農商務相は、塩業調査会の会合の席上で塩の専売制導入について触れています。しかし、この時点では野崎や一部の塩生産者と大半の塩問屋などの流通業者は「塩専売」には反対だったようです。これを積極的に勧めていくのが鎌田勝太郎になるようです。
 そんな中で、明治29(1896)年に、鎌田勝太郎は衆議院議員を辞任します。
これは先ほど述べたように、香川三区の改進党には「契約証」があったからです。その「契約証」には「二年間の議員後、議員を他派に譲る」と明記されているが研究によって明らかとなっています。次の衆議院選挙には鎌田勝太郎は立候補できない立場だったのです。そこで「病気」と称して辞表を提出したのです。そして、次期の明治30年の貴族院選挙に鞍替えして出馬します。そして6月10日の選挙では、15票中10票を集めて当選します。当時の貴族院について見ておきましょう。

 貴族院議員は、次のような4つの選出母胎から互選された議員によって構成されていました。
①成年皇族、25歳以上の公爵及び侯爵の家柄で構成された華族の5ランクのうち、上位2ランク)
②25歳以上の伯爵、子爵、男爵の中から互選で選ばれた者
③30歳以上の国家功労者または学識者の中から特に天皇に選ばれた者
④30歳以上の高額直接国税納税者から互選され、天皇により任命された者
この中の④の各府県から選出されるされる多額納税者議員は、各県の名士であり、地方「貴族」ともいうべき名誉ある地位にありましました。 そのため、互選資格を有する者の間で、交代につとめることが多かったようです。約束にもとづいて任期途中で辞職し、次々に交代した例が数多く見られます。青森県や愛媛県などでは交代の約束をめぐって紛争になっています。そのような紛争を招かないためにも、その地位を独占せずに後継者にゆずるというのが「美徳」とされました。そのため在任期間一期7年間を勤め上げる者は少なく、任期途中で「病気辞任」する例が数多く見られます。全国的に見て再選は珍しく、3選は極めて稀です。その中で鎌田勝太郎は4選されています。これは貴族院政治史で鎌田勝太郎だけのようです。勝太郎が貴族議員を長く務められたのはどうしてなのでしょうか?。それは香川県政界において、鎌田勝太郎が確固たる地位にあり続けたことを示していると研究者は評します。。
 また貴族院の中心は、①②③の華族議員や勅選議員が中心でした。④の多額納税者議員が政治的主導権を握ることはありませんでした。ある意味では、政治的には影の薄い存在だったのです。このためマスコミや華族議員・勅選議員たちの中には、多額納税者議員たちのことを「長者議員」と呼んで蔑視・椰楡するものもいたようです。
 
鎌田勝太郎肖像
                       鎌田勝太郎
 それでは鎌田勝太郎の多額納税者議員として、どんな動きを見せたのでしょうか?
当選後の当初の鎌田勝太郎は、野崎武吉郎とともに改進党一進歩党系の「懇話会」に所属し、谷干城や曽我祐準らと行動を共にしています。懇話会は近衛篤麿や二条基弘らの三曜会とならんで貴族院において反藩閥政府の旗幟を鮮明にしていたグループです。鎌田がこの会派を選んだのは、師と仰ぐも言うべき野崎武吉郎の誘いがあったと研究者は考えています。野崎は、野崎家理事である田辺為三郎(大東汽船社長、衆議院議員)、野崎家東京別邸執事・手島知徳(野崎の親戚)の3名と一体となって近衛と面談をしたり建策したりしていることが、近衛の日記から分かります。このような野崎の政治運動の一翼を鎌田勝太郎も担うことになったようです。
鎌田勝太郎の名前が知られるようになるのは、第13議会(明治31年12月召集)の貴族院での地租増徴反対の演説からです。
この時の山県内閣の重要法案は地租増徴案(地価修正法律案)でした、これは日清戦争後の国際情勢を踏まえ、引き続き軍拡と近代産業の育成のための増税を国民に求めるものです。この法案は衆議院を通って、貴族院に送られてきます。同案は予算委員会で可決された後、12月27日の貴族院本会議に提出されます。貴族院の大勢は地租増徴に賛成でした。ところが鎌田勝太郎は次のように激しく政府を批判する演説をします。
①5ヵ年で3500万円の増収、6年目からは地価修正により375万円の減税などということではたして財政基盤を強固にすることができるのか? 
②この増税案の衆議院通過にあたり政府は「種種なる卑劣な手段を用いた」、
③重大なこの案件の衆議院での採決が無記名投票で行われたのはおかしい
 この鎌田勝太郎の衆議院批判に対し勅選議員の三浦安が取り消すよう要求して、一時議場は騒然となります。結局、同案は218対55の多数で成立します。しかし、時の政権に向かって、堂々と反対演説を行ったことで、鎌田勝太郎の名は知られるようになります。そして伊藤博文に誘われて政友会のメンバーとして活動するようになります。ここでは、鎌田勝太郎は、貴族院においても野崎武吉郎と行動を共にしていたこと、そして次第に頭角を現す存在になっていたことを押さえておきます。

鎌田勝太郎が発議者となって提出・成立した「植物病理研究所設置に関する建議案」を見ておきましょう。
この建議案は、農産物の病害虫について農事試験場に研究所を設置し、病害虫駆除の方法を研究することを求めたものでした。その背景には、鎌田が帝国大学での就学を経済的に支援した堀正太郎の助力があったことが残された書簡からは分かります。建議案は貴族院で採決された後、政府でも採用決定され、農商務省の農事試験場に病理部が設けられます。そして、初代病理部長には堀正太郎が採用されています。ここからは、鎌田勝太郎がひとつの法案を提出・成立させ、人事面にまで政治力を行使できる存在になっていたことがうかがえます。

鎌田勝太郎の貴族院での主な演説や活動歴を挙げておきます
①植物病理研究所設置
②田畑地価修正案につき反対討論
③軍備の充実と財政の確立
④鉄道敷設の継続工事は地方開発上不可欠である
⑤貴族院制度の改正
第16議会召集の明治34(1901)年12月直後に鎌田は政友会に入党します。
政友会

そして鈴木伝五郎(前貴族院多額納税者議員)を会長とする政友会香川県支部を立ち上げ、その筆頭幹事となります。それにしても、どうして鎌田勝太郎は政友会に入ったのでしょうか?
彼の伝記『淡翁鎌田勝太郎』は、次のように記します。

15議会の折、地租増徴に反対する鎌田に対し伊藤首相の幕僚・金子堅太郎が接近し、金子は鎌田を伊藤に引き合わせた。そして明治34年3月28日伊藤は鎌田を大磯の別邸に招き夕食を共にした。「伊藤侯ヲ大磯二訪フ。晩餐ヲ饗応サレ数時欺談ス」とその日の日記にある。この時伊藤から「君も政友会に入らぬか」と勧誘され、感激して入党を決意した。

 しかし、これは事実ではないと研究者は指摘します。もっと以前から政友会入りを伊東から勧誘され、入党を決意していたことが次の鎌田から近衛への書簡から分かります。
陳ば春畝公の新政党愈発表相成候趣、右に対する御高慮は如何に御座候哉。未だ発表早々に付き当県内有志の意向も充分相分かり兼候へ共陰に同情を表し居候者、元進歩派に属するものにも有之、且他より勧誘を受け居候ものも有之、小生へも勧誘有之候。此際小生等親友両三輩の態度甚だ大切に付き、篤と閣下のご意見拝承致度候条、乍御面倒内々御洩らし被下度願上候。小生も来月二十日頃には出京可仕候に付き、其れ以前続々相談秘密に可有之と被存候に付、秘密に閣下のご意見御伺申上候。決して親友にも漏洩は致さず候条、御申聞被成下度願上候。 勿々頓首。
     八月二十六日         鎌田勝太郎
  霞山公侍史(近衛)
意訳変換しておくと
 私(鎌田勝太郎)は、伊藤博文公の新政党結成について、近衛公がどのようにお考えなのかをお聞かせいただきたい。このことについては発表されておらず当香川県内有志の意向も充分相分かりませんが、陰より支援を表明する者、元進歩派に属する者には勧誘を受けている者もいます。小生へも勧誘がありました。この際、小生や親友両三輩の態度を決めるに当たって、近衛公のご意見をおうかがいしたいとおもいます。つきましては御面倒ですが内々にお洩らし下さいますよう願い上げてます。なお、小生も来月二十日頃には上京しますので、それ以前に相談は秘密裏におこなわれるでしょうから、閣下のご意見を伺っていただけないでしょうか。このことは決して親友にも漏らしません。 条、御申聞被成下度願上候。 勿々頓首。
   八月二十六日                 鎌田勝太郎
  霞山公侍史

 この手紙からは、伊藤が結成した政友会に対して、香川県の改進党・進歩党・憲政本党員の一部も関心を示し、鎌田自身も同調の関心があったことが分かります。これに対し近衛は8月29日に「これに加入するの不得策なる事」と、鎌田に返信しています。その後、鎌田は朝日倶楽部「月報」発行の準備を倶楽部の会務を何事もないかのように続けています。ところが12月22日に近衛に面会し同倶楽部脱会の旨を伝えると、その日の内に、書簡で政友会入会を申し入れています。ここからは鎌田の政友会入りは1900(明治33)年12月下旬には、実質的に決定されていたと研究者は判断します。明治1901(明治34)年3月28日の伊藤との会食は、その結果でしかなかったことになります。
 後年「明治の元勲であり、時の総理の伊藤公に特別に招かれた勝太郎はよほど得意であった見え、よくその会談のことを話していた」と評伝には書かれています。この夕食の席上、彼の持論である塩専売制も話題になったのかもしれません。
 鎌田勝太郎はそれから2週間後、近衛を始めかつての同志たちを招待し、歓談しています。
評伝には「鎌田は不得止して政友会に投ぜんとしたるも、旧政友には疎んぜられ、新政友には親しまれず、甚だ窮境にありとの繰言を述」べたとあります。これに対し近衛は「何故に公然政友会に投ぜざるやを詰り、如此曖昧なる対度こそ新旧の友人に疎んぜらるる所以なりと告げ」と鎌田を説諭しています。
 鎌田勝太郎は野崎の下で塩田主の利益代表者として政治的に動いてきたことは、これまでに見た通りです。
 鎌田勝太郎が推進した「塩専売」に向かって政府が動き始めるのを後押ししたのは日露戦争の勃発でした。「戦費調達という財政上の観点 + 国内塩業の保護」という両観点から政府は専売制を導入することを決定します。これが明治38(1905)年1月のことです。塩業協会幹事でもあった手島知徳は、塩専売法成立直後に、鎌田勝太郎に手紙を送り、次の様にその労をねぎらっています。

「第一の問題たる塩専売法は意外にスルスルと安産、御同喜此事に御座候。全く大兄の御計画に基き候事トテ感謝二不勝候」

以上を整理・要約しておきます。
①明治維新以後、鎌田家は醤油醸造業から製塩業へと経営拡大を行っていた
②そのような中で経営危機に陥った同業者救済の過程で、児島の野崎武吉郎と懇意になった。
③野崎武吉郎は瀬戸内海の塩田主の利益代表として、貴族院議員として活動していた。
④野崎の勧めもあって鎌田勝太郎は衆議院議員、後には貴族院議員に転じて、製塩業主の利益確保ために活動した。
⑤そして、日露戦争を契機に「塩専売制」の実現を果たすなど、次第に政治力を増した。
⑥そのため4期28年の長きに渡って貴族院議員を務めることができた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  西尾林太郎   貴族院多額納税者議員鎌田勝太郎 一貴族院改革を中心に一

公益財団法人 鎌田共済会 郷土博物館 | ワクサポかがわ

   なかなか行けなかった坂出の鎌田博物館に行ってきました。小さな古い博物館という先入観があったのですが、そこに展示されているものは想像以上に見応えがありました。

鎌田博物館 内間銅鐸
       内間銅鐸(鎌田博物館)
まず、香川県出土の銅鐸のコレクションは充実しています。銅鐸に興味のある方は、お勧めです。また「塩の町坂出」の基礎を作った久米通賢に関する史料や工具もいいです。ワクワクする時間を送らせていただきました。さらに刊行物なども充実していて、長い時間をかけて整備されてきた歴史を感じる郷土の博物館でした。
鎌田勝太郎肖像.2JPG

博物館の正面に立っているのが鎌田勝太郎です。鎌田勝太郎については興味があったのですが、基本となる史料や書物に会えないでいました。そこで出会ったのがこの本です。鎌田勝太郎に関する文書目録と基本的な文書が収録され、研究者による詳細な解説もついています。この本の読書メモを載せておきます。
2024 春

鎌田勝太郎は、明治維新まであと4年という幕末の1864年(文久四)年1月22日に生まれています。私は、明治に活躍した人物が、明治維新を何歳で迎えているかに興味を持っています。鎌田勝太郎は、4歳で迎えたことになります。ちなみに多度津の景山甚右衛門は1855年生で14歳です。鎌田勝太郎は景山甚右衛門の約10歳年下と言うことになります。両者は一回り年が離れていることを押さえておきます。

鎌田勝太郎略歴1

勝太郎が生まれたのは坂出村の醸造業だった旧家・鎌田家です。

鎌田家本家の祖父(醤油屋の主人)の宇平太は、子がなかったので、その弟・大三郎の長女・勇子を養女として迎え、その婿に羽床村(現綾川町)の庄屋・宮武才助の五男茂平を迎えまします。つまり、夫婦養子が跡を継いだことになります。その間に生まれたのが勝太郎ということになります。
 ちなみに父の生家の宮武家は、反骨のジャーナリスト・宮武外骨の生家でもあります。外骨と勝太郎は、従兄弟同士(?)で、生まれも近く幼なじみであったようです。しかし、鎌田家では宮武外骨のことを毛嫌いしていたようです。これについては、面白い話があるのですがここでは素通りして、元に返ります。
 ところが宮武家から迎えた父茂平が慶応元年に22歳の若さで亡くなります。
 茂平の病没後、勇子は、三原正平を夫として迎え再婚し、祖父宇平太と共に鎌田家を支えます。祖父宇平太は家業の醤油の販路拡張には、ことのほか熱心だったようです。例えば鎌田家と墨書された傘をいつも店頭に用意して顧客に無料で貸して、傘が戻って来なくてもだまっていたとか、昼食時に醤油を買いに来た客には昼食の用意までしてサービスに努めたと伝えられます。目先の利益を追求するだけでなく、長い目で商売を考えていた商売人の感覚が見えてきます。
 鎌田家の稼業である醤油醸造を少し見ておきましょう。
 坂出では、塩の生産地で、その搬出のために港が整備されていました。その結果、塩を運んだ帰りに荷に九州などから麦が運び込まれます。ここからは「塩 + 麦」=醤油 という図式が成立します。これは小豆島の図式とよく似ています。明治20年頃までに坂出で創業するようになった醤油屋や商店を見ておきましょう。
鎌田醤油  坂出村、寛政元(1789)年11月、鎌田宇平太創業 鎌田勝太郎が家業を継いで、明治35年に鎌田商会と改称
堺屋醤油 坂出付、文政2(1819)年 鎌田醤油が屋号を堺屋として操業した 清酒・食酢醸造
筒井商店清水屋  西庄村、明和年間(1767~72)創業 トコロテン製造・販売。
中川商店  林田村、慶応元(1865)年設立 酒類卸売り。
高須商会 坂出村、明治2年創業。砂糖・小麦粉販売.
野口呉服商店 坂出村(港町)、明治初年。
荒井醤油醸造場 府中村、明治初年.
坂出製氷株式会社 坂出村、明治2年6月、製氷業.
濱田屋呉服店 坂出村、明治10年.
前川商店 江尻村、明治20年創業.味噌・醤油製造.
筒井蒟蒻製造所  坂出村 明治20年創業. コンニヤク製造販売.
六醤油醸造店 坂出村、明治20年9月、醤油業.
林田塩産株式会社 林田村、明治21年4月、製塩業
掘田鉄工所 坂出村、文政12年4月、窯業用機械業
 ここからは江戸時代半ばから醤油醸造など食品製造業が始まり、明治になるとさらに増えていること分かります。その中心にあったのが鎌田家だったようです。このような同業者組合を後の鎌田勝太郎はまとめていくことになります。

871(明治4)年に、祖父、宇平太が53歳でこの世を去ります。
この時に勝太郎は8歳で、坂出小学校に入学します。この校舎は、後添えの義父・正平が校舎を寄付したと伝えられ、当時の校長は三土幸太郎(梅堂:三土忠三の養父)でした。梅堂は経学者として有名で学徳兼備の人でした。勝太郎は、ここで約5年間、梅堂の薫陶を受けます。

学問のすゝめ」のススメ。 | 東和工業株式会社

 そんな時に少年勝太郎が目にしたのが刊行が始められた福沢諭吉の「学問ノスヽメ」でした。
その初編第1Pに掲げられていたのが『天は人の上に大をつくらず人の下に人をつくらず』の名文句です。この出合いが、大きな刺激となって勝太郎の東京遊学につながったと評伝は記します。
  1878(明治11)年、勝太郎は15歳で上京して福沢諭吉の門下生となります。
当時は旧制中学も大学も整備されていない時代です。大庄屋や大商人の息子は、「東京遊学」が流行でした。1年くらい東京で生活して、漢詩や華道などの素養を身につけるのがよく行われていました。先ほど見た鎌田勝太郎の実父の実家である宮武家の長男(外骨)も東京遊学をしています。そこで手に入れた三輪自転車をお土産に持って帰り髙松の町で走らせたことを、宮武外骨は後に記しています。お坊ちゃんの「見分拡げ」的なものがあったのです。しかし、鎌田勝太郎は、福沢の門下生となることで多くのものを学んだようです。それが、新しい時代にふさわしい政治家、実業家、教育家としての基礎知識となっていったと研究者は考えています。ここでは東京遊学で、「明治の先駆者」としての精神が培われたとしておきます。
 東京遊学の期限はあらかじめ1年とされていたのでしょう。その期間が終わると義父の正平の隠居に伴い、若くして家督を相続することとなります。福沢諭吉の下にいたのは、わずか1年のことになるようです。
 そんな中で鎌田勝太郎が福沢諭吉の教えを受けて実行に移すのが北海道視察旅行です。
それは1880(明治13)年5月の頃です。この時期の北海道は最も過ごしやすい季節で、「鎌田勝太郎伝』には次のように記されています。
「桃李梅桜共に花咲くと云う大自然の楽園」
「同行者は福江村出身の安井勇平氏(鎌田勝太郎より20才の年長)であった」
「東京から帆船に乗じ、房総半島を回り、金華山を過ぎ、陸奥の東海岸を経て函館に着いた。」
「函館から札幌を目指し」したが道路は「開拓使の手によって整備されていた」
「翁と安井氏の二人は乗馬で行くこととして馬で旅行を続けた
札幌について、「数日間研究調査を遂げた後、再び馬の背に揺られながら函館に帰り、さらに海路東京に着いた」
   当時の北海道は開拓使の手により開拓が進められ、農作物では、麦、かばちや、じやがいも、とうもろこし、各種疏菜が栽培されるようになります。りんご栽培に成功し、ビール・ワインの製造も進みます。漁業では江戸時代からの場所請負制を廃止して、自由営業へ転換し海産物の取り扱い方法の改善や缶詰工場の建設も進みます。このように開拓使主導で建設された工場は、40余になります。それらは、製材、鋳造、煉瓦、製紙、馬具、家具、製粉、各種飲料、味噌、醤油、肝油、缶詰、燻製、製糸、魚粕製造、製塩などの各分野に及びました。この視察の中で、開発の進む北海道とその資源・穀物の豊富さを目の当たりにします。
その成果が「快航丸による四国と北海道との運輸交易事業を行う」事業展開にことにつながります。
快航丸は排水量300トン・2000石の積載能力を持った三本帆柱の帆船で、塩飽出身の乗組員で固められていました。積荷は、坂出で塩を積んで北海道の函館に向かい、帰路には鰊粕等の肥料を積んで坂出に帰るもので、積荷自体は江戸時代の北前船と変わっていません。しかし、航路は坂出から瀬戸内海を東に、鳴門海峡を過ぎて紀州灘を横切」り、「遠州灘を越え、紀伊沖から房総灘を過ぎ、金華山沖に出て」「津軽海峡には行って函館に到着」というコースをとっています。これは江戸時代の日本海を舞台とする北前船とは違うコースです。ここでは北海道視察旅行が、四国と北海道の運輸事業を展開するきっかけとなったことを押さえておきます。鎌田勝太郎には、行動力とチャレンジ精神があったようです。
北海道から帰った翌年には、岡山県浅口郡の大庄屋中原家の芳枝を妻に迎えます。
この時、勝太郎は17歳です。明治維新を若くして迎えた有能な若者は、先行者から道を譲られることがままあります。それまでのやり方が通じないと見た年寄りたちが早く引退し、その後を若者にまかせるというパターンです。若くして鎌田家の当主となり、妻を娶った勝太郎は塩業や醤油醸造業・水運など地場産業の発展に尽くしていきます。
その活躍ぶりを年表化すると次のようになります
①千葉県銚子の醤油醸造業を視察して、醤油醸造の改善をはかる
②1883(明治16)年、製塩事業では、塩産合資会社を設立し社長に就任
③1890(明治23)年 宇多津塩田株式会社を創設
④1893(明治26)年 株式会社坂出銀行を設立し頭取就任
⑤1896(明治29)年 讃岐紡績株式会社を設立し社長就任
この他にも、讃岐信託株式会社社長、鎌田産業株式会社社長、坂出舎密株式会社及び宇多津化学工業株式会社社長などの多数の会社の社長や取締役として経営に当たっています。そして、1928(昭和3)年には、香川県商工連合会長に就いています。
坂出駅 3つの駅
1935年坂出駅周辺地図 坂出駅は鎌田家のすぐ側に誘致されたことがうかがえます。

教育・育英事業では、1886(明治19)年に香川県の中等教育機関として、私学済々学館を創立しています。
1876(明治9)年に、愛媛県に合併されて、香川県はなくなります。そのため各県1校設置とされた旧制中学校は、香川県には出来ませんでした。讃岐の中学校空白状態をなんとか埋めようとしたのが、坂出での私立中等学校設立です。鎌田勝太郎らの坂出有志を中心に資金を集め、1886(明治19)年5月に塩釜神社境内の中の塩業者集会所に済々学館が設置されます。館長に就任した鎌田勝太郎は、済々学館閉館に際して述べた「開館の辞」において、当時のことを次のように述べています。
「小生はつとに当地方学事の振起せずして、もとより中等以上の教育を施すべき場所なきを憂い、 一の私立学校を起して中等の教育を施さんと思い、当地の人に対し時々学校新設のことを語りしことあり。明治十九年の春、勧業諮問会のため松山に出張せり時に、濱田企太郎氏、手紙を送り来りて学校創設のことを促せる。依りて当時の県知事、関新平氏に就きて私学建設のことを謀る。関氏大によろこび直に東京の諸学士に紹介せられたれば、小生は間もなく東京に上り、二三の学士と相談して教師を招き学則を定め、同年五月を以て済々学館を元の塩会所に開きたり」(閉館の辞一意訳)
鎌田勝太郎は、7年後に香川県立高松中学校が開校によってして済々学館が閉校するまで、館長として携わっています。済々学館については、また別の機会にお話ししたいと思います。
1901(明治34)年から2年間は香川県教育会会長もを務め、その後は長きに渡って香川県育英会理事長として育英事業を推進しています。また社会教育事業の展開のため、財団法人鎌田共済会を設立しています。その目的は、学資金貸与、学校・青年団などに研究助成金、奨励金などを贈与することにありました。その「理念」は、鎌田博物館に今も次の掲示されています。

「百年の大計は人を樹うるに在りの信念は須央も息まず」

共済会は各種育英資金を提供するとともに、坂出において各種講演会を実施するなどの社会教育事業を今も続けています。
 さらに、日清戦争、日露戦争を経て日本が大陸に進出していくと、拓殖開発事業も展開します。
朝鮮実業株式会社、朝鮮拓殖株式会社、朝鮮興業株式会社、満洲興業株式会社、満洲殖産株式会社の社長や重役として経営に関わるようになります。  以上見てきたように「利益追求」だけでなく、教育や人材育成・生涯教育へと広い視野を持った人物だったことが分かります。次回は、政治家としての鎌田勝太郎を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

鎌田勝太郎肖像
  
鎌田勝太郎略歴(明治末まで)
万治元年(1864)1月22日 阿野郡坂出村に、父茂平・母勇子の長男として生まれる
明治 4年(1871)坂出校学校に入学
明治 9年(1876)高松の3野盤渓塾などに学ぶ                                        
明治11年(1878)東京に遊学し福沢諭吉に学ぶ(14歳)                              
明治12年(1879)父の隠居で家督を継ぐ。    (15歳)                              
明治13年(1880)北海道視察旅行
明治14年(1881)岡山県浅日郡の大庄屋中原家の方枝を妻に迎える。(17歳)
明治16年(1883)2月、塩産合資会社社長に就任                                      
明治19年(1886)5月、私学済々学館を創立、館長に就任(22歳)                    
明治22年(1889)1月、香川県会議員に当選。4月、讃岐糖業会社取締役就任(24歳). 
明治23年(1890)3月、坂出町会議員に当選 .7月、宇多津塩田株式会社社長           
明治25年(1892)2月、香川県会議長就任                                            
明治26年(1893)6月、株式会社坂出銀行取取に就任.                                 
明治27年(1894)6月、讃岐鉄道株式会社取締役に就任c9月、衆議院議員に当選(30歳). 
明治28年(1895)2月、真宗信徒生命保険株式会社取締役に就任 3月坂出町会議員に当選
明治29年(1896)2月、株式会社京都起業銀行取締役に就任 
5月、讃岐紡績株式会社々長就任 ・7月 髙松銀行取締役に就任。          
        6月10日 衆議院副議長島田二郎宛、「病気」を理由とする辞表を提出
明治30年(1897)6月 貴族院多額納税者議員互選で当選                            
明治31年(1898)1月 讃岐農工銀行取締役に就任 5月讃岐貯蓄銀行監査役
明治33年(1900)7月 塩産合資会社顧問。 12月 真宗本願寺派護持会財団監事       
明治34年(1901)  香川県教育会長
明治36年(1903)2月、香川県育英会理事長に就任.                                   
明治37年(1904)6月、貴族院多額納税者議員互選て当選。
10月10日、病気を理由に貴族院議員辞職 12月25日、香川県多額納税者議員補欠選挙当選
明治38年(1905)2月、香川県教育会名誉会員 3月、坂出町会議員に当選。
           8月、朝鮮実業株式会社取締役、日本赤十字社香川支部商議員を嘱託。
          12月.鎌田産業株式会社々長に就任.    
明治39(1906)年4月、勲4等に叙し旭日小綬章を下賜。8月、朝鮮勧業株式会社相談役
          11月、朝鮮拓殖株式会行取締役会長に就任,                             
明治40年(1907)3月、満洲興業株式会社監査役に就任、8月、東京醤油株式会社監査役
明治41年(1908)3月  朝鮮興業株式会社取締役                                      
明治44年(1911)3月 四国水力電気株式会社監査役 坂出町会議員に当選
           6月、貴族院多額納税者議員互選で当選

参考文献 小林和幸 貴族院議員鎌田勝太郎とその資料
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第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は最後に乗り入れてきた琴平急行電鉄(コトキュウ)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック

琴平に乗り入れていた4つの鉄道

琴平急行電鉄は、1930年4月に金刀比羅宮へ乗り入れます。琴平参詣路線としては4番目の最後の乗り入れになります。起点になる坂出は、丸亀と並んで本州と四国をつなぐ重要な港町で、金刀比羅宮へ参拝客増加から充分に採算がとれると見込んだようです。しかし、髙松や丸亀・多度津と比べると、参拝客の利用は各段に劣りました。その上に、坂出には先行するライバル会社として、琴平参宮電鉄(路面電車)と、鉄道省(後の国鉄)予讃本線支線(現・四国土讃線)があり、それぞれの駅は下図のように隣接していました。
坂出駅 3つの駅

1935(昭和10)年の坂出駅周辺 ①鉄道省 ②琴平参拝鉄道 ③琴平急行
さらに琴平電鉄(琴電)が、宇高連絡船の発着する高松市から琴平まで路線を先に延ばしています。そこに後から割り込んでいくという構図になります。これは当時の人口からしてしても過当競争です。その上沿線は、農村地帯を結ぶ「人口希薄地帯」です。営業は当初から不振が続きます。
 琴平急行電鉄の強みは、その名が示すとおり、何と言ってもそのスピードでした。

坂出発琴平 3つの路線図
会社名   略称     路線距離 所要時間  運行間隔
琴平急行  コトキュウ   15.7km  41分  25分
琴参電鉄  コトサン    20.6km  70分  15分
国鉄(省営)ショウエイ   22.3km  50分  16往復
琴平参宮電鉄(琴参)が坂出・丸亀から善通寺を経由し琴平まで70分かかるのに比べると、琴平急行電車は琴平まで一直線で41分で結びました。それは新型の大型車両で、スピードが出せたからです。
琴平急行電鉄デ1形電車
            琴平急行電鉄デ1形電車
電車は日本車輌製造で作られた制御電動車の新型車両が6両導入されました。そのため乗り心地もよくスピードもだせたようです。ちなみに社名の「急行」は、路面電車の琴平参宮電鉄や汽車の土讃線に比べて速いという意味でで、実際には全列車が各駅停車だったようです。

琴平急行 路線図
                琴平急行電鉄のパンフレット
このパンフレットの真ん中には、丸亀平野のシンボルである讃岐富士(飯野山)が描かれています。そして、左側に赤く坂出と、右側に象頭山金毘羅さんがあり、両者をコトキュウ(琴急)が一直線に結ぶ様子がデフォルメされて描かれています。「坂出からは、コトキュウが琴平に一番早い!」を売り物にした広報戦略は、先行する省線(鉄道省)やコトサンに危機感を抱いたようです。

琴参2
丸亀・多度津からの金毘羅参拝の利便性をアピールする琴参

電車るーと香川
コトキュウの路線を包囲するかのような琴参・琴電連合(?)
琴電のCM
琴電のパンフレット 髙松から琴平への「ちかみち」鉄道をアピールしている


坂出駅と琴平急行鉄道駅
     隣接する坂出駅(鉄道省)と琴平急行電鉄
 それに拍車を掛けたのが、先ほど見たように3社の坂出駅が隣接していたことです。金毘羅参拝客は、坂出の3つ駅の前で、乗る電車を選びます。その際に、早くて快適で時間は半分で安いとなれば、琴平急行が選ばれるのが当然になります。そのため各社間の競争は熾烈なものとなりました。特にコトサンとコトキュウの競争は激しかったようです。タオルや石鹸などの景品付乗車券や映画入場券付乗車券なども販売され、両社で競い合います。

琴平急行 乗車券2
    琴平急行の切符     「女学校前」は現在の坂出商業高校

琴平急行電鉄駅名
     琴平急行電鉄の駅 (数字は坂出駅からの距離数)

琴平急行電鉄にはスピードという武器がありましたが、それは坂出・琴平間を直線に結んでいたからです。しかし、それは一方では沿線観光不足という弱点にもなります。また沿線が坂出・琴平間の農村部ということは、通勤客などの固定客不足ということを意味しました。そこで会社は、次のような沿線の観光資源開発に尽力します。
①讃岐富士と呼ばれる飯野山
②1922年に陸軍特別演習の時に、皇太子(後の昭和天皇)の御野立台となった与北村の買田池周辺
③1932年8月7日に、坂出小歌の盆踊りを飯野余興所で3年連続で開催
琴平急行 飯野山
       コトキュウの讃岐富士登山案内 
このように人を集めるためのイベントを行って乗客確保に努めています。コトキュウはコトサンと競いながら、沿線開発やさまざまなイベントを開催しますが、営業的には苦しかったようです。

コトキュウ開業の2年後には日中戦争が勃発します。
戦時体制が色濃くなった1938年8月には、国は鉄道・バス会社の整理統合の促進をはかるため陸上交通事業調整法を施行します。4つの鉄道が乗り入れ鉄道過密状態にあった丸亀平野は、「交通事業調整委員会」での審議した結果、適用地域に指定されます。その結果、鉄道会社の統合が国策によって進められます。1943年11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合され、高松琴電気鉄道が誕生します。そして、コトキュウは1944年1月に営業を休止します。
それでは「日本車輌製造」で作られた6両の車両は、どこにいったのでしょうか?

琴平急行電鉄デ1形電車2
 女学校前駅から川津駅に向かって走る琴急(現在の坂出商業高校付近でバックは笠山)
琴平急行鉄道路線1
①コトキュウ坂出駅→②女学院(坂出商業)→③川津駅(鎌田池西)→津之郷駅の線路が見える 

坂出市史には「全施設を撤去し、日本占領下にあった南方のセレベスに送るために営業を停止した。」とあります。しかし、これは誤りのようです。14年しか使用されていなかった車両の第二の働き先は海外ではなく国内でした。沿線に多くの軍需関連施設を抱えて、輸送力増強が急務であった名古屋鉄道(名鉄)へ、全6両が譲渡されます。書類上は1944年3月7日付認可で譲渡されたこととなっていますが、名鉄側に残る記録では前年の6月購入とあるようです。ここからはコトキュウは1944年1月以前に営業休止になっていた可能性があります。考えて見れば1944年というのは、南洋航路が途絶え、敗戦が明らかとなっていた時代です。そこに鉄道を移築するということは考えられない話かもしれません。
琴平急行 琴平駅

琴平急行電車(コトキュウ)の琴平駅 (現琴平郵便局)
琴平急行
「急行電車のりば」の看板が屋上に掲げられている
開業時の1930年にコトキュウに導入された電車6両は、終戦末期に名古屋鉄道で第二の人生を送ることになります。ウキで「 琴平急行電鉄デ1形電車」を検索すると、次のように記されていました。

 譲渡後のデ1形1 - 3・5・7・8は、名鉄においてはモ180形の形式称号およびモ181 - モ186の記号番号が付与された。導入に際してはパンタグラフを名鉄における標準機種であった東洋電機製造PT-7へ換装した程度の小改造に留められ、当時架線電圧が直流600 V規格であった尾西線において運用を開始した。当時の尾西線は、尾西線を敷設・運営した尾西鉄道発注のモ100形(初代)など高経年の木造車によって運行されており、小型車ながら比較的経年の浅い半鋼製車体を備える本形式は琴平急行電鉄にちなんだ「こんぴらさん」の愛称で呼称され、利用者や現場から歓迎されたという。また戦中戦後の混乱期においては、構造の単純な直接制御仕様の本形式は間接制御仕様の他形式と比較して故障が少なく、尾西線の輸送力維持に貢献した。

「琴平急行電鉄にちなんだ「こんぴらさん」の愛称」で呼ばれていたという所を見て、なにかホッとしたような気になりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史通史 近代篇
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「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
       遺告二十五条 巻頭部
「御遺告」は、承和三年(835)2月15日の日付があり、空海が亡くなる直前に書かれたとされてきました。しかし、今では10世紀半ばのものとされています。この中に「入定留身」信仰について、どのように触れられているのかを見ていくことにします。

「遺告二十五ヶ条」巻末に空海・実恵
遺告二十五条 巻尾部

遺告二十五条第1条「成立の由を示す縁起第一」には、次のように記されています。

   吾れ、去(いん)じ天長九年(832)十一月十二日より、(A)深く穀を厭(いと)いて、専ら坐禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。并びに末世後生の弟子・門徒等が為なり。方(まさ)に今、諸の弟子等、諦(あきらか)に聴け。諦に聴け。(B)吾生期、今幾ばくならず。仁等(なんじたち)好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾れ入減せんと擬することは、今年三月廿一日の寅の刻なり。諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ。吾れ即滅せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾生年六十二、

②吾れ初めは思いき. 一百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。(C)然れども諸の弟子等を侍んで、忽(いそい)で永く即世せんと擬するなり。

A・B・Cは、「入定」のことを指す表現とも受けとれます。とくに(B)の「吾れ人滅せんと擬することは」は、「人滅に似せる、人滅をまねる」ともとれます。しかし、「人定」ということば自体は、まだ出てきません。また、自分の入滅日を「三月二十一日」と予告しています。これも今までになかった記述です。
次に、「御遺告」の第十七条を見ておきましょう。
夫れ以(おもんみ)れば東寺の座主大阿閣梨耶は、吾が末世後生の弟子なり。吾が滅度の以後、弟子数千萬あらん間の長者なり。門徒数千萬なりと雖も、併(しかし)ながらわ吾が後生の弟子なり。、租師の吾が顔を見ざると雖も、心有らん者は必ず吾が名号を開いて恩徳の由を知れ。
(D)是れ吾れ白屍の上に、更に人の労を欲するにあらず、密教の寿命を譲り継いで龍華三庭に開かしむべき謀(はかりごと)なり。
(E)吾れ閉眼の後に、必す方に兜率陀天(としつたてん)に往生して、弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後に、必ず慈尊と御供に下生して吾が先跡を問うべし。亦且(またかつ)うは、未だ下らざるの間は、微雲の菅より見て、信否を察すべし。是の時に勤め有んものは祐を得んの不信の者は不幸ならん。努力努力、後に疎(おろそ)かに為すこと勿れ。

意訳変換しておくと
 私(空海)が目を閉じた後に、以後の弟子が数千万いようとも、門徒が数千万いようとも、それらはすべて私の後生の弟子達である。祖師や、私の顔を見ることがなくても心ある人はかならず私の名号を聞いて恩徳のわけを知るべきである。このことは私が世を去ったことに、さらに人びとのいたわりをのぞんでいるわけではない。(D)ただ密教の生命を護りつないで、弥勒菩薩が下生し、三度の説法を開かせるためのはかりごとからである。
(E)私の亡き後には、かならず兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前にはべるであろう。
五十六億七千万年後には、かならず弥勒菩薩とともに下生し私が歩んだ道をたずねるであろう。
ここで研究者が注目するのは、次の二点です。
(D)の弥勒片薩の浄土である兜率天への往生と
(E)②弥勒菩薩ががこの世に下生されるとき、ともに下生せん」の部分
これは『御遺告』で初めて登場する文章です。しかし、ここには空海を「お釈迦さまの入涅槃から弥勒菩薩の出生にいたる「無仏中間(ちゅうげん)」のあいだの菩薩」とみなす考えは、まだ見られません。
 『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたことは以前にお話ししました。
今までに書かれていなかった新しい記述が加えられ、新たな空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以上からここでは『御選告』の特色として、次の点を押さえておきます。
①第1は「入定」が暗に隠されているふしがみられること
②第2は、兜率天往牛と弥勒善薩との下生説がみられること
③ 第3は、『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたこと

『空海僧都伝』

『御遺告』と、ほぼ同じ時代に成立したのが『空海僧都伝』です。

その最後の部分を、六段に分けて見ていくことにします。
 A 大師、天長九年(832)十二月十二日、深く世味を厭いて、常に坐禅を務む。弟子進んで曰く、「老いる者は唯飲食す。此れに非ざれば亦隠眠す。今已に然らず。何事か之れ有らん」と。報えて曰く「命には涯り有りの強いて留まるべからず。唯、尽きなん期を待つのみ。若(も)し、時の至るを知らば、先に在って山に入らん」と。
意訳変換しておくと
A 大師は、天長9年(832)十二月十二日に、深く世情を避けて、常に坐禅をするようになった。弟子が「老いる者はただ飲食のみか、そうでなければ眠るかである。ところが大師は、ちがう。どうしてなのか」と訊ねた。これに大師は、次のように答えた。「命には限りがあり、いつまでもこの世に留まることはできない。唯、尽きない時をまつだけである。もし、自分の死期を知れば、先に高野山に入ろうと思う」と。


B 承和元年五月晦日、諸の弟子等を召して語らく、「生期(吾生イ)、今幾くならず。汝等、好く住して仏法を慎み守れ。我、永く山に帰らん」と。

C 九月初めに、自ら葬処を定む。
D 二年正月より以来、水漿(すいしょう)を却絶す。或る人、之を諫めて曰く、「此の身、腐ち易し。更に奥きをもって養いと為すべし」と。天厨前(てんちゅうさき)に列ね、甘露日に進む。止みね、止みね。人間の味を用いざれ、と.
E 三月二十一日後夜に至って、右脇にして滅を唄う。諸弟子等一二の者、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺教に依りて東の峯に斂(おさ)め奉る。生年六十二、夏臓四十一

F 其の間、勅使、手づから諸の惟異(かいい)を詔る。弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

意訳変換しておくと
B 承和九年(832)五月晦日に、弟子等を召して次のように語った。「私の命はもう長くない。汝等は、仏法を慎み守れ。私は、高野山に帰る」と。

C 九月初めには、自らの墓所を決めた。
D 835年正月から、水漿(=水や塩)を絶った。これを諫めた人に対して、「この身、は腐ちやすい。更に躰の奥から清めなければならない」と云った。滋養のあるものを並べ、食べていただこうとするが「止めなさい。人間の味を使うな」と云うばかりであった.
E 3月21日夜半になって、右脇を下にして最期を迎えた。諸弟子は、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺言通りに東の峯に斂(おさ)めた。生年六十二、出家して四十一年

F この間のことを、勅使は「手づから諸の惟異(かいい)を詔る」(意味不明) 弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

この中には次の4つの注目点があると研究者は指摘します。
①Aは832年に、最期のときを悟ったならば、高野山に入ろうと弟子たちに語ったこと。ここからは、空海が自分の死に場所は高野山だと、生前から弟子たちに語っていたことが記されます。
②C・Dは承和元年(834)年9月はじめに埋葬場所を決めいたこと。翌年正月からは水と塩気のあるものを絶ったこと。つまり、空海は最期に向けて「断食=木食(ミイラ化)」を行っていたこと。これが後の真言修験者の「木食修行」につながっていくようです。
③Eからは3月21日の深夜に、右脇を下にして最期を迎えたこと、そして遺言によって「東の峯に斂めた」とあります。従来は「東の峯=奥の院」とされてきました。本当にそう考えていいのでしょうか。また「斂」は「おさめる」で、「死者のなきがらをおさめる」意と解されていたことがうかがえます。そうだとすると「入定」とは少しかけ離れたことばと研究者は指摘します
④Fの「勅使、手づから諸の惟異を詔(つげ)る」と意味不明部分があること。文脈からすると、葬儀のあいだのできごとをさしているようですが、よく分かりません。

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

G 雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保五年(968)成立 
この評伝は、草創期の高野山を考えるうえでの根本史料のひとつになります。そして、ここではじ
めて「入定」ということばが4ヶ所で使われます。長文になりますが見ていくことにします。
A 大師、諸の弟子等に告げて曰く。「吾れ、却世の思いあり。明年三月の中なり。金剛峯寺を以て真然大徳に付す。件の寺の創造、未だ終わらず。但し、件の大徳、自力未だ厚からず。実恵大徳、功を加うべし、と云々。吾れ、初めは思いき、一百歳の間、世に住して密教を流布し、蒼生を吸引せんと、然リと雖も、禅師等、恃(たの)む所の至篤(しとく)なり。吾が願、又足んぬ。仁等(なんじら)、まさに知るべし。吾れ、命を万波の中に忘れ、法を千里の外に尋ぬ。僅かに伝うる所の道教之を護持して、国家を安鎮し、万民を撫育(ぶいく)すべし。」と云々。
意訳変換しておくと
A 大師は、弟子等に次のように告げた。①「私の死期は明年3月半ばである。②ついては金剛峯寺は真然大徳に任せる。寺の造営は、まだ終わっていない。しかし、真然の力はまだまだ弱い。実恵大徳がこれを助けよ。」
「私は、百歳になるまで、長生きして密教を流布し、蒼生を吸引せんと、初めは考えていた。しかし、それも適わぬものであると知った。私の願いは達せられないことを、なんじらは知るべし。私は、命を幾万もの波の中に投げだし、法をもとめて千里の道を長安に訊ねた。③そこから持ち帰った教えを護持して、国家を安鎮し、万民を撫育すべし。」と云々。
以上の部分を整理・要約すると
①死期の預言
②金剛峯寺の後継者を真然(空海の弟)に指名し、それを東寺長者の実恵が助けよ
③教団の団結と教え
B 承和二年三月十五日、又いわく。「(ア)吾れ、人定に擬するは来る二十一日寅の刻なり。自今以後、人の食を用いず。仁等、悲泣すること莫れ。又、素服を着ること勿れ。
 吾れ(イ)入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。五十六億余の後、慈尊下生の時、必ず須く随従して吾が旧跡を見るべし。此の峯、等閑にすること勿れ。顕には、丹生山王の所領、官持大神を勧請して、嘱託する所なり。
 冥には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置する所なり。跡を見て必ず其の体成を知り、音を聞いて則ち彼の慈唄を弁ずる者なり。吾が末世の資、千万ならん。親(まのあ)たり、吾が顔を知らずと雖も、一門の長者を見、及び此の峯に寄宿せん者は、必ず吾が意を察すべし。吾が法、陵遅せんと擬する刻は、吾れ必ず絡徒禅侶の中に交わって、此の法を興さん。我執の甚しきにあらず。法を弘むる計なるのみ。
意訳変換しておくと
B 承和二年(835)三月十五日には、次のように言われた。④私が「人定に擬する」のは3月15日寅の刻である。今からは何も食べず断食に入るが、なんじらは悲泣するな。又、喪服も着るな。
 ⑤私が入定したら知足天に行って慈尊の御前に仕える。五十六億余年の後、慈尊が下生する時、必ず一緒に現れて、高野山に帰ってくる。その時までこの峯を守り抜け。⑥表では、丹生山王の所領、官持(高野)大神を勧請して、守護神としている。裏には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置した。その姿を見て必ず体成を知り、音を聞いて慈唄を弁ずるであろう。
 ⑦私に続く者達は末世まで続き、千万人にもなろう。その中には、私の顔を知らないものも出てこようが、一門の長者を見、高野山に寄宿する者は、必ず私の意が分かるはずである。私の教えを陵遅せんと擬する刻は、私は必ず禅侶の中に交わって、この法を興すであろう。我執の甚しきにあらず。教えを弘めることを考え実践するのみである。
この部分を整理・要約すると
④入滅日の予告と断食(木食)開始
⑤入定後の行き先と対処法
⑥高野山の守護神である丹生明神と官持(高野)大神の勧請(初見)
⑦高野山を護る弟子たちへの教えと願い
C 則ち承和二年乙卯三月二十一日、寅の時、結珈朕坐して大日の定印を結び、奄然として(ウ)人定したまう。兼日十日四時に行法したまう。其の間、御弟子等、共に弥勒の宝号を唱う。唯、目を閉じ言語無きを以て(エ)人定とす。自余は生身の如し。時に生年六十二、夏臓四十 。
意訳変換しておくと
C 承和二年(835)3月21日寅の刻、(大師は)結珈朕坐して大日の定印を結び、(ウ)人定した。その後、兼日(けんじつ)十日四時に行法した。その間、弟子たちは弥勒の宝号を唱えた。ただ目を閉じ話さないことを以て(エ)人定とする。それ以外は生身のようである。この時大師齢六十二、出家して四十一年目 。
基本的な内容と論の進め方は、先行する「遺告二十五条」と同じなので、これを下敷きにかかれたものであることがうかがえます。
読んで気がつくのは、「入定」ということばが次のように4回出てくることです。
ア、吾れ、入定に擬するは来る二十一日寅の刻刻なり。
イ、吾れ入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。
ウ、寅の時、結珈欧座して大日の定印を結び、奄然として入定したまう。
エ、唯、目を閉じ言語無きを以つて入定とす。自余は生身の如し。

これを分類すると、アは「入定に擬する」で、「入定のまねをする」ととれます。それに対して、イ・ウ・エでは「入定の間」「入定したまう」「入定とす」とあって、まさに「入定」です。また(エ)では、「入定」の定義が次のように示されています。

唯、目を閉じ言語無きを以って入定とす。自余は生身の如し。

ここからは、入定とはただ目を閉じ、ことばを発しないだけでって、それ以外は生きているときと同じ「生身の如し」とします。

奥院への埋葬の次第については、次のように記されています。

⑧然りと雖も世人の如く、喪送(そうそう)したてまつらず。厳然として安置す。則ち、世法に准じて七々の御忌に及ぶ。御弟子等、併せ以て拝見したてまつるに、顔色衰えず髪髪更に長ず。之に因って剃除を加え、衣裳を整え、石壇を畳んで、例(つね)に人の出入すべき許りとす。其の上に石匠に仰せて五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を人れ、其の上に更に亦宝塔を建立し、仏舎利を安置す。其の事、 一向に真然僧正の営む所なり。

意訳変換しておくと
⑧(空海は亡くなったが)、世人のような葬儀は行わなかった。ただ厳然と安置した。それは、世法に准じて七日ごとの忌日を務めた。弟子たちが、空海の姿を拝見すると、顔色は変わらず、髪は伸びていた。そこで剃髪し、衣裳を整え、石壇を畳んで、つねに人が出入し世話できるようにした。その上に石工に依頼して五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を入れて、その上に更にまた宝塔を建立し、仏舎利を安置した。これを行ったのは、真然僧正である。

葬儀を筒条書きにすると、次の通りです。
1、通常の葬送儀礼は行わず、厳然と安置した。
2、常の習いに准じて、七日七日の忌日は勤めた。
3、弟子らが拝見すると、この間も大師の顔の色はおとろえず、頭髪・あご髪はのびていた。
4、そこで、髪・鬚を剃り、衣を整え、人の出入りできる空間を残して石壇を組み、
5、その上に、石工に命じて五輪塔を安置し、梵本・陀維尼を入れ、さらにその上に、宝搭を建て
仏合利を安置した。
6、これらはすべて、真然僧正が執り行った。

これらの記述を読んで、次のような疑問が湧いてきます。
①石壇を組んだ場所はどこか
②梵本・陀羅尼を入れたのはどこか
③仏舎利を安置したのはどこか
これらについては示されていません、また、これらをすべて真然が執り行ったとする点と、①で金剛峯寺の責任者に真然を指名したという話については、研究者は疑問を持ちます。

このように『修行縁起』には、はじめて登場する話が数多く載せられています。
別の見方をすると、に遺告二十五条や『空海僧都伝』と、この雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』とのとのあいだには、大きな相違・発展があるということです。分量自体が大幅に増えていることからも分かります。9世紀には一行であった空海の最期についての記述が11世紀になると大幅に増えていることをどう考えればいいのでしょうか。
 これについて、考証学は「偉人の伝記が時代を経て分量が増えるのは、後世の附会によるもの」とします。新たな証拠書類が出てきたわけではなく、附会する必要が出てきて後世の人物が、有りもしないことをあったこととして書き加えていくことは、世界中の宗教団体に残された史料からも分かります。11世紀に「入定」を附会する必要性が高野山側には生まれていたとしておきます。その背景については、また別の機会に・・。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善 「弘法大師」の誕生 137P
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奥の院御廟が確認できるのは12世紀以後

前回は空海が「入定」したとされる高野山奥の院の御廟が、いつごろから存在したのかを見ました。今回は「入定」という言葉がいつ頃から史料に登場してくるのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」です。

まず空海の跡を継いだ、実恵の書簡を見ていくことにします。

1 空海系図52jpg
          佐伯直 空海系図 実恵は佐伯直の本家筋にあたる

実恵は空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあたり、幼い頃から顔見知りだったかもしれません。空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた頃から傍らに仕えていて「空海第一の弟子」とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)、実恵32歳の時になります。晩年の空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
 この実恵の書状は、空海入滅の翌年に、長安の恵果和尚の墓前に報告するために書かれたもので空海の最期を次のように記します。
A 承和三年(836)5月5日付 青龍寺宛て実恵等書状

其の後、和尚(空海)、地を南山に卜して伽藍を置き、終馬の庭とす。共の名を金剛峰寺と曰く。上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火減す。行年六二。

ここには簡潔に「新尽き火減す」とあり、新が燃えつきるがごとく、静かな最期を高野山の金剛峯寺で迎えたことが記されるのみです。「入定留身」については何も触れられませんし、どこに埋葬されたかも記されていません。

B 『続日本後紀」の空海卒伝 貞観11年(870)成立
870年に成立した正史の『続日本後紀』の巻第四の承和三年(835)3月庚午(25日)条の「空海卒伝」は次のように記します。
禅関僻左(へきさ)にして、凶聞、晩(おそ)く伝ふ。使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず自ら終焉の志あり。紀伊国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
ここで注目されるのは「荼毘を相助くることあたわず」と「荼毘」ということばがあることです。
ここから歴史学者は「入滅火葬説」をとなえ、真言宗内からは「入定留身:説が唱えられていることは前回お話した通りです。しかし、この史料からも空海は「化去」し、「禅居に終る」とあって、入定については何も触れられていません。しかし、通常とは違うことばで、空海の最期を記録している点に研究者は注目します。

C 聖宝撰「贈大僧正空海和上伝記」(略称:寛平御伝)  寛平7年(895)成立
これは真言宗内で書かれたもっとも占い大師伝になるようです。撰者は、かつては空海の弟の真雅とされてきましたが、今では醍醐寺開山の聖宝(理源大師)とする説が有力です。ここには、次のように簡潔に記します。
承和二年(834)、病に罹り金剛峯寺に隠居す。三年三月二十一日卒去す。

ここからは空海は病を患っていたことが分かります。
   空海の病気については、『性霊集』補闘抄の「大僧都空海、疾(やまい)に嬰りて上表して職を辞する奏状」に次のように記します。
天長八年(831)庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、831年5月の末に「悪瘡」が体にできて直る見込みがなく、「吉相」を見せることができず死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して自由の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡について「大師御行状集記」では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノのようです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。
「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」からは、空海は自分の意志で高野山に隠居したことが分かります。「卒去」は人の死をあらわす一般的表現です。空海が亡くなって三代あとの時代には、その最期が単に「卒去」と記されています。「卒去」からは「特別待遇」ではなく一般的なニュアンスしか伝わってきません。

D 伝寛平法皇作「諡号を賜らんことを請う表」延喜18年(918)8月11日
寛平法皇が醍醐天皇に空海への大師号下賜を依頼したときのものとみなされてきたもので、次のように記します。
承和二年(834)、病に嬰りて高野の峯に隠肝す。金剛峯寺という是れなり。同三年二月二十一日、和尚卒去す。

この文章については以前にも見た通り、全文が先ほど見たCの『寛平御伝』を下敷きに書かれています。この部分もほぼ丸写しです。寛平法皇(宇田天皇)は、この当時は出家して真言宗教団の中心的存在であったようです。それが「寛平御伝」を下敷きにして、「卒去す」とだけ記していることになります。このこと自体が、この時にはまだ入定信仰について何も知らなかったことを物語ると研究者は考えています。
 添田隆昭師は『大師はいまだおわしますか』(46P)で、次のように記します。

どこにも入定留身したとは書いていない。大師に対する熱烈な思慕を持ち、後世、入定留身説話の主人公となる観賢僧正も、寛平法皇も、まだこの時代には、人定留身というアイデアは生まれなかったと考えられている。

   以上から空海に大師号が下賜される以前の10世紀初めまでは、真言宗内においては、空海の最期を特別視する風潮はまだなかったことが分かります。それが変化し出すのは、大師号下賜以後に書かれた伝記類からのようです。

私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
この悪瘡について「癖瘡(ようそう)」=「悪性の皮膚病説」があることは先に述べた通りです。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。

「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ

また高野山自体が丹生(水銀・朱砂)などの鉱物生産地で鉱山地帯であった可能性があるようです。
そのため空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとする研究者もいます。その根拠としては、次のような点を挙げます。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
     重文 弘法大師・丹生・高野明神像 右下が丹生明神
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が丹生(水銀)や銅を産出する地質であったこと
人定信仰や即身成仏信仰の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は、その上に生まれたものだと云うのです。つまり、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたという説です。
丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

 松田壽男も次のように記します。

空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

例えば空海が若い頃に書いた「三教指帰」の中には、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。
白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

意訳変換しておくと
「白金・黄金は水銀と金である。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されている。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬である。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(=天)に昇る。
ここからは空海が道教の仙人思想と水銀と金の役割を、早くから知識としては知っていたことが分かります。
須恵器「はそう」考

内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないか。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったか。

「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」
  空海は、当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していた節があるというのです。話が大きく逸れたようです。今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高野山丹生明神社
   高野山奥の院の御廟に並んで鎮座する高野・丹生明神社

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」

弘法大師入定留身の形成過程

前回は、上記のように空海への大師号下賜がきっかけとなって、入定留身信仰が形成される過程を「高野空海行状図画」で見てきました。入定留身説が初めて語られるようになるのは、11世紀初頭のようです。それと、観賢の御廟開扉の話をからめて語られるようになるのは、約80年後の11世紀の後半以降だとされます。今回は、「入定留身」について、史料はどのように記しているのかを見ていくことにします。
まず最初に「空海の最期はどうであったか」を史料で押さえておきます。
大正から昭和にかけての歴史学者の喜田貞吉は「空海=火葬説」を出しますが、真言宗内からの猛反論を受けます。以後、この問題に正面から答えようという動きはなかったようです。21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える研究者が現れます。これが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」です。これをテキストにして見ていくことにします。

弘法大師伝承と史実: 絵伝を読み解く
伝記などに書かれているように、空海は自分の意志で入定したのでしょうか?
これについて研究者は「NO」の立場です。その根拠を見ておきましょう。空海の最期について、もっとも信憑性が高い史料は空海の最期をみとった実恵(じちえ)をはじめとする弟子達の手紙です。

実恵 
         実恵(観心寺)
実恵は空海の筆頭弟子で、高野山開創を手がけた高弟で、東寺の長者(管長)を務めた人物です。実恵の手紙は、空海入滅の翌年の承和3年(836)5月5日付で、その師・恵果和尚の墓前に報告するために、長安の青竜寺に送った書状です。この手紙は、承和の遣唐使の一員として入唐することになった真済と留学僧真然に託して、青竜寺に届けるために書かれたものです。
実恵の青竜寺に宛てた手紙のなかで、空海の最期を記したところを見ておきましょう。
【史料1】承和3年(836)5月5日付実恵等書状(『弘法大師全集」・第五輯、391P~)
①その後、和尚、地を南山に卜して一つの伽藍を置き、終焉の処とす。その名を金剛峯寺と曰う。②今上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。③二年の季春、薪尽き火滅す。④行年六十二。
⑤鳴呼哀しいかな。南山白に変じ、雲樹悲しみを含む。⑥一人傷悼し、弔使馳驚(りぶ)す。⑦四輩鳴咽して父母を哭するが如し。鳴呼哀しいかな。⑧実恵等、心は火を呑むに同じく、眼沸泉の如し。死減すること能わず、房を終焉の地に守る。
研究者は次のように現代訳します。
①空海は南山・高野山の地を卜定して一つの伽藍を建てられ、そこを終焉の地となされた。その名を金剛峯寺といった。②今上、つまり仁明天皇の承和元年(834)をもって高野山に隠居なされた。③同二年の季春(二月)に、薪が燃え尽き、火の勢いがだんだんと弱くなるように最期を迎えられた。④このとき62歳でした。⑤空海の滅を哀しんで、南山の樹々は一度に白くなり、雲も樹々も悲しみを表しました。⑥天皇は深く哀悼なされ、速やかに弔使を遣わされた。⑦また、 一般の人たちも鳴咽して、父母の死を悼むがごとくであった。⑧残された実恵等の弟子は、心は火を呑むように苦しく、眼からは泉のように哀しみの沸が流れた。⑨殉死することもままならず、師の開かれた房舎を末永く守ることにした。

ここには、空海の最期に立会った弟子の真情がストレートに現れていると研究者は評します。
ここで研究者が注目するのは、この文章の内容が空海が書いた「恵果和尚の碑文(大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨耶恵果和上之碑 日本國學法弟子 苾蒭空海撰文并書)」を参考にしていることです。
「恵果和尚の碑文」とは、長安で空海が恵果の弟子を代表して碑文を起草したものです。
全文が空海の韓詩文集である「遍照発揮性霊集」に収録されています。そこには、恵果の最期と埋葬のようすが次のように記されています。

遂に乃ち永貞元年に在る極寒の月満を以って、住世六十、僧夏四十にして、法印を結んで摂念し、人間に示すに、①薪の尽くるを以ってす

嵯呼痛いかな、日を建寅の十七に簡(えら)んで、塚を城郎の九泉に卜す。腸を断つて玉を埋め、肝を爛して②芝を焼く。泉扉永く閉じぬ。天に想うれども及ばず。茶蓼鳴咽(とりょうおえつ)して③火を呑んで滅えず。(傍線筆者)

これを「性霊集講義侃(107P)」は、次のように現代訳しています。

断腸の思いをしながら尊体を埋め、肝を焼爛せらるる思いをしながら之を焼き奉る。ああかくて永遠に貴泉に旅立たれてしまった。天に訴え叫けべども今は詮かたなし。

 ①「薪の尽くるを以ってす」と ②「之を焼き奉る」からは、恵果和尚が火葬されたのを空海は見ていたことになります。碑文を書いた空海は、師である恵果和尚の最期や葬送儀式に立ち会っていたはずです。そうすると、自分の最期を迎えるとき、師・恵果和尚の葬儀を思い返したことでしょう。

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         恵果崩御(高野空海行状図画)
また、実恵らの手紙の文章に対応する空海の「碑文」のことばをあげると(前が実恵らの手紙、後が空海の「碑文」)
③「薪尽き火滅す」     → 「人間に示すに、薪の尽くるを以てす」
⑤「雲樹悲しみを含む」→ 「天雲鯵々として悲しみの色を現わし、松風厖々として哀しなの声を含めり」
⑧「心は、火を呑むに同じく」→「荼蓼(とりょう)鳴咽して火を呑んで滅えず」
この対応関係からは、空海の最期を恵果和尚に重ね合わせて書かれたことがうかがえます。ここからは実恵が報告文を書く際に、空海の文章を何度も読んでいたことが見えて来ます。実恵らの書状には、「薪尽き火滅す」とあるだけで、具体的な葬送儀礼は伸べられていませんが、状況証拠からして、空海は火葬されたと研究者は考えています。なお「南山白に変じ、雲樹悲しなを含む」は、お釈迦さまが涅槃に人られたとき、沙羅双樹の葉が瞬時に白くなってしまったことを下敷きにしているようです

次に正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月21日の記録を見ておきましょう。

承和2年3月丙寅(21日)、大僧都伝燈大法師位空海紀伊国の禅居に終る

ここでは「禅居に終る」と記すだけです。これに対して、3月25日には、後太上天皇(淳和天皇)をはじめとする人たちの対応のようすが次のように詳しく記されています。

庚午(25日)、勅して内舎人(うどねり)一人を遣わして法師の喪を弔し、併せて喪料を施す。後太上天皇(淳和天皇)の弔書有りて曰く、真言の洪匠、密教の宗師。。邦家、其の護持に憑り、動植、共の掃念を荷ふ。あに図らんや。御慈いまだ逼(せま)らず。無常速に侵さんとは。仁舟悼を廃し、弱喪帰を失ふ。ああ哀しいかな。A禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。これを言いて恨みとす。帳恨何ぞ巳(やみ)なん。付にして旧窟を思うこと、悲涼料べし。今は通かに単書を寄せて之を弔す。著録の弟子、入室の桑門、棲愴(せいそう)奈何、兼ねて以つて旨を達す、と。  (『国史大系』第二巻 38P)

ここで研究者が注目するのが、Aの文章です。

禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。

周辺部を意訳変換しておくと

「大師のお住まいは僻左で、ずいぶん遠い山のなかであるから、その訃報が届くのが遅かった。そのため、使者を派遣して荼毘をお助けすることができなかったことは、痛恨の極みである

荼毘を相助くる」の「茶毘」をどう理解すればいいのでしょうか?
一般的には「茶毘にふす」といった形で使われ、火葬のことをさすことばです。これを「茶毘」は、「火葬ではなく、単に葬儀をさすことばである」とする説もありますが、すなおに読めば「火葬」とするのが自然と研究者は判断します。
我が国における火葬の初見記録は、『続日本紀』巻  文武四年(700)三月己未(十日)条の道昭の卒伝で次のように記します。
道昭和尚物化(みまか)りぬ。縄床に端座して、気息有ること無し。時にし七十有二。弟子ら、遺(のこ)せる教を奉けて、栗原(あわはら)に火葬せり。天下の火葬、此より始まれり。

ここには「栗原に火葬せり」と出てきます。考古学的には、それ以前の火葬の例も報告されているので、奈良時代にはある程度普及していたとされます。したがって、空海が火葬にされたことは充分に考えられます。しかし、ここでも研究者は断定はしません。それはこの後太上天皇の弔書が、いつの時点で書かれたかがよく分からないからです。天皇が正確な報告を開かないで書いたとすれば、推測で「茶毘」と記したとも考えられるからです。

ここまでを整理・要約しておきます。
①真言教団では入定留身信仰から「空海=火葬説」はタブーとされてきた。
②空海は入唐時に師の恵果の葬儀に参列し、その追悼文に「薪の尽くるを以ってす」②「之を焼き奉る」と書いている
③ここからは、恵果和尚が火葬されたことが分かる。
④空海入滅を長安の青竜寺に報告するために、実恵は留学僧に文書を渡した。
⑤その空海入滅報告書には、空海入定については何も触れられていない。
⑥空海の葬儀について、正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月25日の条には、「荼毘を相助くる」という言葉が出てくる
⑦これは「荼毘=火葬」と考えるのが自然であると研究者は判断する。
以上から、根本史料からは「空海火葬説」が優位であるします。また、空海入滅直後の記録には、生きながらにして成仏したということを裏付ける記述は見えないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」
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大師は高野山の奥の院に生身をとどめ、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世にあらわれでられるまでの間、すっとわれわれを見守り救済しつづけているという信仰があります。これを「弘法大師の入定留身」と呼ぶようです。この信仰が生まれる契機となったのは、大師への大師号下賜だったとされてきました。それは次のような話です。

  空海は、承和2年(835)年3月21日に入滅した。その86年後の延喜21年(921)年10月27日に、「弘法大師」の諡号が峨醐天皇から下賜されることになった。その報告のため、奥の院に参詣した観賢は、人定留身されている空海の姿を拝見し、その髪を剃り、醍醐天皇から賜わつた御衣を着せて差し上げた。

 26御衣替
奥の院に参詣した観賢が、人定留身の空海と出会う場面

今回はこの「入定留身」伝説を、高野空海行状図画で見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房192P」です。

今生での別れのときが近いことを悟った空海は、承和元年(834)5月、弟子たちを集めます。
そして「僧団のあるべき姿と日々の仏道修行のあり方を、また高野山を真然に付嘱すること」を遺言したとされます。その場面が「門徒雅訓」です。

第九巻‐第2場面 門徒雅訓 高野空海行状図画


門徒雅訓 江戸時代の天保5年(1834)に模写
           門徒雅訓 高野空海行状図画(トーハク模写版)

 この絵図版は、狩野〈晴川院〉養信ほかが、天保5年(1834)に模写したもで、トーハク所蔵でデジタルアーカイブからも見ることができます。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたもののようです。
 中央の椅子にすわりこちらにむかってっているのが空海です。そして弟子たちがその廻りに座っています。しかし、空海の顔が見えませんし、弟子たちは七人しか描かれていません。

門徒雅訓 高野空海行状図画 親王本
    門徒雅訓 高野空海行状図画(親王版) 十大弟子に遺言する空海
一方、こちらは十大弟子とされる「真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・智泉・忠延」が、空海ののまわりを取り囲んでいます。今の私にはこの絵の中に、誰がどこに描かれているのかは分かりません。悪しからず。
 空海が高野山を開いた当時は、奈良の「南都六宗」の力が巨大で、生まれたばかりの真言宗は弱小の新興勢力でしかありません。そのために空海はブレーンを集めるのに苦労したようです。そこで頼ったの「血縁と地縁」です。実恵は空海の佐伯直本家出身、真雅は空海の弟、智泉と真然は甥、とされます。空海と同じ讃岐の出身者の割合が高いのです。初期の真言集団が、讃岐出身者で固められていたことをここでは押さえておきます。
 祖師に仕える十人の弟子の絵は、何を表しているのでしょうか?
 
これを深読みすると、当時の真言宗の階層性社会が見えてくると研究者は考えています。別の視点から見ると、高野山の伽藍の堂宇は彼らによって造営されたものです。人物は高野山の伽藍を象徴しているとします。僧侶の肖像画は、教団と伽藍を示す暗喩でもあると云うのです。
 また地蔵院流道教方の歴代僧侶画像には「真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁海・成尊・義範・勝覚・定海・元海・実運・勝賢・成賢・道教」が描かれています。密教では師から弟子へと教えを引き継ぐ儀式を灌頂といい、頭の上(頂)から水を注(灌)ぐように、師の知識や経験、記憶は弟子へと受け継がれていきます。その際には、教えを受け継いできた歴代僧名を記した系譜「血脈(けちみゃく)」が与えられます。そういう意味では、この歴代僧侶画像は「血脈を絵画化」したものと研究者は考えています。
 歴代先師の肖像は、僧侶が受け継いだ教義の道程を示すものであり、僧侶自身が歴史の連続体の中にあることを実感させる道具の役割を果たします。
いわば肖像は、過去から現在へと連なる時間の流れを視覚化するものなのです。並んだ歴代肖像画を見上げる僧侶達は、自分がとどの祖から派生し、どの血脈に賊するかがすぐに分かります。十人の弟子たちが描かれていると云うことは、そんなことも意味するようです。とすれば、トーハク版の法が十人をしっかりと描いていません。原画は、それに無頓着な時代に描かれたことが考えられます。
 またこの十大弟子に、後に孫弟子で「高野山二世」となった真然(しんぜん)と、平安中・後期に高野山の再興に尽くした祈親上人(定誉)の2人が追加され、十二人になります。十二人ですが「釈迦の十大弟子」になぞらえ、人数が増えてもそのままの呼称で呼ばれているようです。

入定留身1 高野空海行状図画
             入定留身

空海は、承和2年(835)3月15日、改めて弟子たちに遺言します。
これが「遺告(ゆいごう)二十五条」とされてきて権威ある文書とされてきました。しかし、近年では空海がみずから書いたものではないとする説が有力のようです。それは別にして、このこの「遺告二十五条」には、この時に空海は次のように云ったと記されています。

私は来る三月二十一日の寅刻(午前4時)に入定し、その後は必ず兜卒天(とそつてん)の弥勒菩薩のもとに行き、お前たちの信仰を見守っていよう。一心に修行するがよい。五十六億年あまりのち、弥勒菩薩とともに、必ずこの世に下生するから、と,(『定本全集』七 356P)

ここからは空海が亡くなったのは、承和2年(835)年3月21日の寅の刻であることが分かります。空海は胎蔵・大日如来の法界定印をむすび最期を迎えます。御歳63歳、具足戒ををうけてから31年目のことになります。
 この時のことを、高野空海行状図画は三場面で描いています。
右は、諸弟子に見守らて最期を迎えられたところです。真ん中にすわる空海となみだをぬぐう十人の弟子たち、
入定留身 高野空海行状図画親王本
 入定留身(高野空海行状図画 親王院本)
中央は、大塔のよこを黒い棺に人れられて運ばれている場面です。目指すのは左の奥の院です。
一説には次のように記します。
「弟子たちは、埋葬後も生前と同じように仕え、49日目に、鬚をそり、衣服をととのえて、住まわれていた住房(現御影堂)から奥の院に移した。後に石室を造り、陀維尼と仏舎利をおさめ、五輪塔をたてた」

ここでは、空海は黒い布が架かられた御簾で運ばれています。
左の奥の院には、一番奥に宝形造りの御廟と灯籠堂が、御廟の右に丹生・高野明神社が描かれています。この奥の院の風景は、平安末から鎌倉時代にかけてのものであり、当時のものではないことを研究者は指摘します。

入定留身 高野空海行状図画 生身の空海
       入定留身(高野空海行状図画模写)
江戸時代末の模写を見てみると、空海はまさに生き身の姿で担がれています。「入定留身」をより印象づける姿です。
入定留身 奥の院 高野空海行状図画
入定留身 奥の院への道には卒塔婆が並ぶ
時衆の開祖一遍も高野山にやってきています。それが  「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれています。そこに描かれた奥の院を見ておきましょう。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院

             「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた奥の院
①参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。
②その途中に右から左に小川が流れ、そこにに橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。これが今の「中橋」になるようです。
③中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きます。
④その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。
⑤周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。
⑥廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。
この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。

空海への大師号下賜


    921年の観賢の2度目の上奏に対して、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜したことが次の史料で裏付けられます。(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

  このあたりのことを高野山のHPには次のように記します。
10月27日、勅使の平維助卿一行が高野山に登嶺し、厳かに宣命を読み上げられました。その後、東寺の住職、観賢僧正は下賜伝達のため、弟子の淳祐を伴い、高野山へ。入定後初めて御廟の扉を押し開けたところ、そこには深い霧が立ちこめ、お大師さまの御姿を拝することが叶いませんでした。僧正は自らの不徳を嘆き、一心に祈られました。すると霧が晴れ、そこには天皇から聞かされていたとおりのお大師さまの御姿がありました。しかし、淳祐にはどうしてもその姿を拝することが叶いません。そこで僧正は淳祐の手を取り、お大師さまのお膝にそっと導かれます。その膝は温かく、淳祐の手には御香の良い香りが残りました。
 二人は準備しておいた剃刀ていとうでお大師さまの髪や髭を整えると、新しい御衣にお召し替えいただき、大師号下賜の報告を申し上げました。そしていよいよ観賢僧正と淳祐が御廟を退座し、御廟橋の袂たもとで後を振り返ると、そこにはお大師さまのお姿がありました。僧正は御礼を申し上げると、お大師さまは「汝なんじ一人を送るにあらず、ここへ訪ね来たるものは、誰一人漏らさず」と仰せられました。淳祐の手の香りは生涯消えず、持つ経典に同じ香りが移ったといわれております。

贈大師号 高野空海行状図画
          贈大師号 右が空海との対面場面 左が剃髪場面
右の場面は、大師号が下賜されたことを伝えるために、高野山に登った東寺長官の観賢と弟子淳佑(しゅんにゅう)が、奥の院の廟竃を開き、禅定の姿をした空海と対面した所です。
26御衣替
 高野山HPの空海との対面場面 

大師号下賜 親王院本九- 院納院本
贈大師号 高野空海行状図画(親王院本)
親王院本を見ると空海の頭には、長く伸びた髪が描かれています。この時に、姿を見たのは観賢だけで弟子淳佑は見ることはできなかったと記します。そこで観賢は、その姿を分からせるために空海の膝に触れさせようと、手を取って導いています。

大師号下賜 高野空海行状図画親王院本 剃髪

左の場面は、のびるにまかせていた空海の髪を観賢が剃っているシーンです。御髪を剃った観賢は、次のように詠います
たかの山 むすぶ庵に袖くらて 苔の下にぞ有明の月

空海が登場する霊夢を見た醍醐天皇自らが贈られた檜皮色の御衣を着せて、もとのように石室を閉じた、とします。この故事にもとづき、今も高野山では衣服を取り替える儀式が行われているようです。この「お衣替」の儀式は、 甦り、再生の儀式でもあると研究者は指摘します。こうして「空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめておられる」という「人定留身信仰」が生まれます。そして11世紀はじめになると、高野山の性格は「修行の山から信仰の山へ」と大きく変わっていくのです。空海はいまも、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」との大誓願のもと、われわれを見守りつづけてくださっているというのが高野山の立場のようです。
 研究者が注目するのは、画面に五輪塔が描かれていることです。しかし五輪搭があらわれるのは平安中期以後で、このような大型のものは、奈良西大寺の律宗の布教戦略に絡んで出現します。10世紀前半には五輪塔は早すぎるというのです。
以上を整理・要約すると
①空海は入滅後は、高野山奥の院の霊廟に入定した。
②それから86年後に空海に大師号が下賜された。
③それを知らせに高野山に赴いた東寺の観賢は、霊廟をあけると空海が髪を伸ばして座っている姿に出会った
④そこで髪を剃り、天皇より下賜された服を着せ、霊廟を閉めた。
⑤こうして空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめているという「人定留身信仰」が生まれた。
⑥この信仰は高野聖などによって各地に伝えられ、弘法大師伝説と高野山を使者供養の信仰の山として
全国に流布することになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」
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前回は空海への大師号下賜について、次のように見てきました。

空海への大師号下賜

ここで注目したいのが④⑤です。④で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、⑤で下賜されたのは「弘法大師」だったのです。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更したのでしょうか。今回は、このことについて見ていくことにします。テキストは、武内孝善「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰
 
「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。
その代表的な説は、賢宝の『久米流記』所収の「無畏三蔵懸記」で次のように記します。

のちの世に、必ず法を弘め衆生を利益する菩薩があらわれ、この秘密の教えを世界中に広めるであろう、と。正に、これは空海にぴつたりです。あたかも割符のようある。

つまり、「無畏三蔵懸記」に依拠したものである、とします。しかし、この賢宝説について研究者は、
「久米流記」の成立は鎌倉時代のもので、大師号下賜より後の時代の書物であると、次のように指摘します。
①「国書総目録」によると、「久米寺流記』の1番古い写本は、元亨3年(1323)書写の高野山大学蔵本であること。
②『久米寺流記」の活字本(「続群書類従」第27輯下所収)には、ここに引用した一文がないこと
③『国書総目録』には、「無畏三蔵懸記』は載っていないこと。
以上から、賢宝説を認めることは出来ないと研究者は判断します。

それでは「弘法大師」という大師号は、どもに出典があるのでしょうか?
それは空海の著作の中から取られたものと考えた研究者は、『定本弘法大師全集』で「弘法」を検索します。弘法大師の著書の中で「弘法」という言葉が出てくるのは次の3つのようです。
①「弘法利人(りにん)    三ヶ所
  「広付法伝」「恵果和尚」の項
  「龍猛阿闍梨」の項
  「十二月十日付けの藤原三守あて書状)
②「弘法利人之至願」   一ヶ所(弘仁六年(815)4月の「勧縁疏」)
③「弘法利生」      一ヶ所(弘仁12年(821)11月の藤原冬嗣・三守あて書状)

「弘法利人」とは、「法=密教の教えを弘めて、人びとを利益し救済すること」、
「弘法利生」とは、「法=密教の教えを弘めて、生きとし生けるものすべてを利益し救済すること」

の意味のようです。この言葉がどんな場面に使われているかを見ておきましょう。
①の「弘法利人」は、『広付法伝』「恵果和尚」の項に引用されている呉慇(ごいん)纂「恵果阿閣梨行状』に出てきます。それは恵果和尚の人となりを記した一節で、次のように記します。

人間空海③ 「入唐」恵果和尚から密教継承 帰国後、天皇2人に灌頂 静慈圓がみた 人間空海|文化・芸能|徳島ニュース|徳島新聞デジタル
     恵果(右)と空海(左)
【史料12】『広付法伝』『定本弘法大師全集』第一、111P)

大師は唯心を仏事に一(もっぱら)にして意を持生に留めず。受くる所の錫施(しゃくせ)は一銭をも貯えず。即ち曼茶羅を建立して弘法利人を願い、灌頂堂の内、浮屠(ふと)塔の下、内外の壁の上に悉く金剛界及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖厳然として華蔵(けぞう)の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜(きよう)して密厳の旧容に還れり。一たび視一たび礼するもの、罪を消し福を積む。 

  〔現代語訳〕
大いなる師・恵果和尚のみこころは、つねに仏さまに関することだけであつて、いのちをいかに永らえるかなどは眼中になかつた。すなわち、施入された財貨などは一銭たりとも蓄えることはなさらなかった。もつぱらの願いは、いかにすれば法を弘めひとびとを救うことができるかであって、曼茶羅の図絵を精力的になされました。たとえば、濯頂堂の中は、仏塔の下といい、内外の壁といい、金胎の両部曼茶羅とたくさんの別尊曼茶羅がすきまなく画かれていました。そこは大日如来の密厳浄土そのものであって、光り輝く仏さまの満ち満ちた世界が厳然とあらわれていました。その注頂堂をひとたび見、ひとたび礼拝するだけで、これまでの罪をすべて消し去り、さとりへの功徳がえられるのでした。
ここには、恵果和尚が何を願い、いかなる日々を送られていたかが描かれています。それを一言で言うのなら「弘法利人=いかにすれは法を弘めひとひとを救うことかできるか」ということになります。
帰国したあと、空海は困難なことに出会ったとき、指針としたのが恵果和尚の人となりであり、恵果和尚のことばであったとされます。こう考えると、空海の後半生は、「弘法利人」の精神をいかに具現化するの日々とも云えます。

つぎは、「弘法利人之至願」を見ておきましょう。
このことばは、弘仁6年(815)4月の『勧縁疏』に出てきます。

泉涌寺勧縁疏〈俊芿筆(蠟牋)/承久元年十月日〉 文化遺産オンライン
                 勧縁疏
『勧縁疏』は、空海帰朝後9年目に、空海が密教をわが国に広め定着させる運動を本格的にはじめた巻頭に書いた文章で、次のように記します。

「わが国に密教を弘めることを誓って帰国し多年をへたけれども、その教えはまだ広く流布していない。それは密教の経論が少ないからである。そこで、顕教にあらゆる点で勝るこの密教に結縁していただき、密教経論三十五巻を書写してほしい」

と有縁のひとびとにお願いし、秘密法門=密教経論の流布を図っています。この「勧縁疏」は、短いものですが、密教の特色が簡潔に記されているので、空海の思想の成立ちを考える上で、よく引用・利用されています。その中で「弘法利人之至願」という表現は、『勧縁疏』の最後の「願意」をのべたところに次のように出てきます。
【史料13】『勧縁疏』(『定本弘法大師全集』第八、 176P)

庶(こうねが)わくは、無垢の限を刮(ほがら)かにして三密の源を照らし、有執(うしゅう)の縛を断じて五智の観に遊ばしめん。今、弘法利人の至願に任(た)えず。敢えて有縁の衆力を憑(よ)り煩わす。不宣、謹んで疏(もう)す。

  〔現代語訳〕
わたくしの願いは、人びとをして、けがれなき清きまなこをかっと見ひらいて、密教の真髄である三密喩伽の根源を見きわめ、煩悩にしばられた心を断ちきつて、大日如来のさとりの世界たる五智の観想を味わっていただきたいことであります。いま、この最勝最妙なる密教の教えを弘め人びとを救いたい、ただそのことだけを願って、特にこ縁のある方々に密教経論の書写への助力をお願いする次第であります。意を尽しませんが、心からお願い中しあげます。

研究者は「今、弘法利人の至願に任えず」を、「いま、この最勝最妙なる密教の教えを弘め人びとを救いたい、ただそのことだけを願って」と解釈します。ここで空海は、初めて大々的に密教宣布を表明しています。その中で「最新の仏教=密教」を弘めることによって、日々苦しんでいる人たちに何とか手を差しのべたい、お救いしたい」と宣言しています。これはさきほどみた恵果和尚の弘法利人と共通する精神が読みとれます。以上から、わが国への密教の宣布を誓われた最初のことばが「弘法利人の至願」であり、この「弘法利人」をつづめて「弘法」とし、空海への大師号「弘法大師」としたと研究者は判断します。
それでは、この「弘法」を空海の著書から抜き出していきた人物はだれなのでしょうか。
空海への大師号下賜に、中心的な役割を果たしたのは次の3人でした。

①二度上表した観賢 「本覚大師」の下賜を願う
②禅譲後に真言宗僧侶として見識を高めていた寛平法皇(宇多天皇)
③大師号を下賜された醍醐天皇

①の観賢は、最初に見た通り具体的に「本覚大師」という名前を挙げて下賜を願いでています。そして彼は、申請時には第2代醍醐寺座主、第4代金剛峯寺座主を兼務する立場です。彼の申請をはねつけて別の大師号にするという僧侶は、③の醍醐天皇周辺の真言宗のお抱え僧侶の中にはいないはずです。そうだとすれば、②の寛平法皇が自然と浮かび上がってきます。

 寛平法皇

寛平法皇の譲位後の真言僧侶としての活動を年表化して見ておきます。
①寛平9年(897)7月2日、30歳で醍醐天皇に譲位
②昌泰2年(899)10月24日、仁和寺で益信を戒師として落飾し、空理、または金剛覚と称す
③同年11月24日東大寺戒壇院にて具足成を受け
④延喜元年(901)12月13日、東寺灌頂院において、益信を大阿開梨として伝法灌頂を受法
⑤延喜18年5月には、東寺濯頂院において法三宮真寂親王はじめ六名に、伝法灌頂
⑥同年8月には嵯峨大覚寺で寛空はじめ七名に、伝法灌頂
ここからは、延喜21(921)年の時点で寛平法皇が「すでに真言密教に精通され」ていたことが裏付けられます。真言宗と空海への知識と理解の上で、寛平法皇が「本覚大師」を退けて「弘法」案を出したと研究者は推測します。
以上を整理・要約しておきます。
①921年年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた。
②その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
③「弘法」という言葉は、空海の著作の中には「弘法利人」「弘法利生」などが出てくる。
④これは空海の師匠である恵果和尚の人となりに触れたもので、空海のその後の生き方に大きな影響をもたらした言葉でもある。
⑤申請された「本覚大師」に換えて「弘法大師」下賜案の影の人物としては、真言僧侶として研鑽に努めていた寛平法皇の存在が見え隠れする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武内孝善「弘法大師」の誕生 「弘法大師」の誕生と入定留身信仰 春秋社」

空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、伝わっています。
その内の「①延喜18(918)年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」については、寛平法皇(宇多天皇)が上表したとされるものですが、後世の偽書的な要素が強いことを前回は見てきました。今回は、空海への大師号下賜の決め手となった観賢の上奏文を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

残されている
観賢の上奏文は、次の3通です。

②延喜18(918)年10月16日 観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。
③同 21(921)年10月 2日 観賢、重ねて空海に諡号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
④同年        10月 5日 観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す。
④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、観賢僧正による2回(②③)の上奏をへて、下賜されたことになります。
空海に大師号が下賜されたとき、中心的な役割を果たしたのは誰か。
研究者は次の3人の名を挙げます。
①二度上表した観賢
②偽作ではあるが上奏文の残る寛平法皇(宇多天皇)
③大師号を下賜された醍醐天皇
①の観賢僧正について見ておきましょう。
854年 空海と同郷の讃岐・鶴尾(旧鷺田村)の豪族伴氏(秦氏?)の家に生まれる。
8歳の時に巡錫中の聖宝(理源大師)が掠うように連れ帰った。
18歳の時に、真雅(空海の弟)について出家・受戒し、聖宝より三論・真言密教の教学を学ぶ
895年(寛平7年) 灌頂(41歳)
900年(昌泰3年) 仁和寺別当となり、般若寺を再興し、その後は弘福寺別当・権律師となる。
909年には第9代東寺長者となり
919年に第2代醍醐寺座主、そして第4代金剛峯寺座主を歴任し
923年(延長元年)には権僧正に任じられた。
以上から、観賢が讃岐出身で理源大師の直弟子であったこと、理源大師の後、醍醐寺の第二代座主についた人物であること、修験者的要素を持つ人物であったことなどを押さえておきます。


観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。
中央が聖宝(理源大師)・右が役行者・左が
観賢 (醍醐寺)
観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。聖宝尊師の没後、醍醐寺の第一世の座主となった。
                    観賢
最初に上奏された918年から921年に下賜されるまでの間、醍醐天皇・寛平法皇・観賢の3名を結びつけたのが『三十帖策子』の回収作業だったと研究者は指摘します。

東京古典会>出品目録:三十帖策子
                 三十帖策子

『三十帖策子』とは、在唐中の空海が経典・儀軌など150部を筆録した枡形の小冊子です。
東寺経蔵に秘蔵されていたものを、真然が持ち出し、弟子の寿長・無空へと伝えました。無空が山城圍提寺で亡くなったあと、『策子』はその弟子たちが分散所持していました。空海の根本法文が散逸していることを藤原忠平が醍醐天皇に奏上します。それを受けて天皇はその回収を観賢に命じます。すべてを回収できなかった観賢は、920年2月、寛平法皇の力をかりてすべてを回収して目録を作成し、天覧します。
天覧の場には、天皇だけでなく寛平法皇も臨席されていたでしょう。『策子』を目にした人達は、空海の入唐の労苦を偲ぶとともに、その大いなる恩恵を語ったなかで、大師号のことが話題に登ったという物語を研究者は考えています。
 この『三十帖策子』改修作業と並行して、919年10月、観賢は空海への大師号の下賜を上表していたことになります。この時は、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかったとされます。そして、『三十帖策子』が改修され東寺に秘蔵された後の920年10月の2度目の上表に応えて勅書が下されます。「三十帖策子」の回収と天覧が、大師号の下賜に大きな役割を果たしたことになります。
観賢僧正による1回目「延喜18年(918)10月16日付」の上奏文を見ておきましょう。
『追懐文藻』『弘法大師全集』第五輯、410P)
観賢(式部少輔大江千古、観賢に代りて文を作る)
諡号を真所根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に追贈せられんことを請うの事
       右、空海、
ア 智慧鏡を懸け、戒定珠(たま)を護る。法水の方流を酌み、禅門の偉器為(いきた)り。
イ 爰に命を魏欠(ぎけつ)に衛んで、週に聡明を渉り、道を唐家に問って、遂に玄妙を窮む。如末秘密の旨、伝印相承し、恵果甚深の詞、写瓶して漏らさず。
ウ 其の帰日に臨んで請来の法文、都慮二百十六部四百六十一巻、皆な足れ護国の城郭、済世の舟柑たる者なり。
エ 閣梨、其の道至って優れ、其の徳弥広し。
オ 公私共に帰依の意を寄せ、紺素争って欽仰の誠を凝らす。
カ 況んや復、門徒業を受くる者、肩を比べて相い連なれり。弟子風に染む者、跡を継いで絶えず
キ 其の大阿閣梨為ること、世を歴ると雖も知るべし。
ク 只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し
ケ 茲に因って真言を習うの侶、卓書を学ぶの流、其の称揚に当つて、動もすれば忌講に触れん。
コ 方に今、当時の恩朽株に被り、仁枯骨を霧すこと、既に千年の運に遇う。何ぞ万代の名を埋めん。
サ 望み請うらくは、殊に天の恩裁を蒙り、将に諡号を追賜せられんことを。懇切の至りに任えず。仍って事の状を録して、謹んで処分を請う。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
乃ち允許の天気を蒙ると雖も、米だ施行の明詔有らず。
〔現代語訳〕
諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位の空海に追贈せられんことをお願いする事
右、空海は、
ア 智慧をよりどころとして掲げ、戒定慧の三学を宝珠のように護って、仏法の最高の教えである密教を学び、禅定門の偉人な師となられました。
イ ここに朝廷から命をうけ、留学僧として大海をわたり、仏道を唐の長安に求め、ついに奥深い教えを余すところなく体得されました。正統なる如来秘密の教えを誤りなく相承し、恵果和尚の甚深なる教えを一滴たりとも漏らすことなく伝えられました。
ウ その帰朝に際してわが国に請来した法文は、全部で二百十六部四百六十一巻に及びます。これらはみな国を護る城に等しい教えであり、世の人びとを彼岸に渡す舟であります。
エ 大阿閣梨たる空海が求めえた教えはこの上なく優れ、またその徳は広大無辺であります。
オ 天子様をはじめ多くのひとが親しく帰依し、僧も俗人もきそって欽仰の誠をささげました。
カ その法を受け一門に人ったものは数多くあり、今に相続いています。空海の教えを慕い信奉するものも跡を絶たず、しっかり受け継がれています。
ク これまではただ、贈位を下賜されただけでありまして、いまだ諡号の栄誉には預かっておりません。
ケ よってここに真言密教を習っている僧侶、また草書を学んでいる文人が、空海を称揚するあまり、どうかすると天子様のお怒りにふれないかと恐れています。
コ 今まさにご恩を賜りますならば、その仁徳によって生命がよみがえり、まぎれもなくその誉れは千年におよび、万代にもその名は伝わるでありましょう。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号を追賜せられんことであります。本心からの真のお願いでございます。そのため、お願いにいたった経維を記しまして、謹んでご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
〇かくて允許するとのご意向をこうむったけれども、実際に詔勅を下されるまでにいたらなかった。

この上奏文で、研究者が注目するの次の2点です。
第1は、巻首に、「式部少輔であった大江千古、観賢に代りて文を作る」とあります。ここからはこの上奏文が、観賢から依頼を受けて、式部少輔大江千古(ちふる)が代作したものであることが分かります。千古は、「本朝秀才のはじめ」といわれた大江音人の子で、従四位上式部少輔で、兄が三十六歌仙のひとり大江千里です。千古は学問の家、学者の家系に生まれ育った名文家であったようです。

第2の注目点は、上表文の最後に、「乃ち允許の天気を家ると雖、未だ施行の明詔有らず」です。「允許する」との朝廷の内意はあったけれども、具体的な勅許の沙汰はなかつたと、最後に註記します。
この「未だ施行の明詔有らず」をうけて、3年後の921年10月2日、再度の上奏がおこなわれることになります。
【史料8】『迫懐文藻』(『弘法大師令集」第5、410P)
観賢(大学の頭三善文江(みよしふみえ)、観賢に代りて文を作る)
 重ねて処分を被り、諡号を真言根本阿間梨贈大僧正法印大和尚位空海に追賜せられんことを請う事
右、空海、
ア 戒行倶に足りて、人天皆な敬う。虚鳥の翅自ら軽く、水鮫の眼溺れず。
イ 昔王言を聖朝に奉りて、遠く仏語を震旦に求め、葦を萬里の外に浮べ、 三密を寸心の中に請う。
ウ 是に於いて波を踏んで津を問い、岸に帰って道を伝う。
エ 二百十六部、之を習う者は、不空の前に対するが如く、四百六十一巻、之を受くる者は、自ら如来の室に入る。
オ 世を済い物を済う、其の務め深し。惑を断じ機を断ず、其の情至れり
カ 故に前年、誠を抽んでて 諡号を賜わらんことを請う。而るに卑聴、猶隔てあり。懇志披かず。
キ 空く机檀を改め、多く冷焼を過ぎん。阿闍梨深く定水の心を凝らし、兼ねて臨池の妙を究む
ク 締素皆な脩頼を成し、倭漢推して借模と為す。
ケ  夫れ以みれば、諡は其れ功を顕わし、徳を施すの称、古を引き後を誠めるの法なり゛
コ  若し斯の人をして其の名を埋め令めなば、則ち美玉山巌の下に潜み、黄金沙石の中に免れ不るなり。
サ  望み請うらくは、殊に天裁を蒙り、本覚大師と号し、将に溢号を追贈せ被れんことをことを。猥りに軽毛の心に任せ、偏に逆鱗の畏れ忘る。仍って事の様を注して重ねて重ねて処分を請う
延喜二十一年十月二日                          権大僧都法眼和尚位観賢上表す
〔現代語訳〕
重ねてご聖断をたまわりまして、諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位・空海に追賜せられますことをお願いする事
        右、空海は、
ア 戒律を守り徳行を十分に備えた方であって、人間界だけでなく天上界からも敬慕されています。大鳥の翅といえども軽く、水中にすむ龍は決して溺れることはございません。
イ かつて天子の勅命により、仏の真実のことばをはるか唐に求めて、小舟をもって万里の波濤をわたり、心から三密の教えを請い求められました。
ウ このように大海を越えて教えをもとめ、帰り来たって真実の道を伝えられました。
エ その請来された仏典は二百十六部、これを学習するものは、あたかも不空三蔵の面前にいるかと想い、四百六十一巻の経巻によって受法するものは、おのずと大日如来の曼茶羅世界に入っていきました。
オ 世の悩み苦しむ人びとに救いの手を差しのべ、また生きとし生けるものすべてを救わんとなさる、その活動は極めて意義深いことです。
カ それゆえ、先年、真心を尽して、読号を賜わりたき旨をお願いいたしました。しかるに、浅はかなお願いであったのか、朝廷とのあいだに開きがあり、真心からのお願いにもかかわらず受け入れられませんでした。
キ 世の無常にめざめて大学をやめ(役人となる道を)改めてから、幾星霜が過ぎたでありましょう。阿閣梨はひたすら深き禅定に心を集中なさり、一方で書の妙境を究められました。
ク 僧も俗人もみな心から信頼をよせ、わが国でも唐でもすすんで手本としています。
ケ よくよく考えてなると、諡号はその人の功績を顕彰し、功徳をたたえる呼称であって、先の性の人を引きたて後の世の人びとの誡めとする法であります。
コ もし空海の名を(いま顕彰しないで)埋没させるならば、それは美玉を山の巌のもとに隠し、責金を沙石のなかに埋めるに等しきことであります。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号「本覚大師」を追贈せられんことであります。思慮もなく安易な心に任せてのお願いではございますが、(真心からのお願いでありますから)天子様のお怒りをかうなどと言うことを忘れるほどでございます。そのため、お願いにいたった経緯を記しまして、重ねてご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜二十一年十月二日         権大僧都法眼和尚位観賢上表す

この上奏文で研究者が注目するのは、サの部分です。
殊に天裁を蒙り、本覚大師とし、将に諡号を追贈せ被れんことを。

ここでは観賢は空海に「本覚大師」の諡号をたまわりたいと、具体的な名前を挙げてお願いしていることです。「本覚思想」は、空海が最終的にたどりついた密教世界のこととされます。したがって、観賢としては、「本覚大師」こそが、空海にもっともふさわしい諡号とと考えていたことが分かります。

観賢僧正の2度目の上奏に対して、その25日後に、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜します。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と日う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

    もう1つの根本史料が、延喜21年10月27日付の「勅書」です。
この「勅書」の本文は、あまり紹介されていないようです。そこで研究者は、この「勅書」を読み下し、現代語訳しているので見ていくことにします。
【史料10】『迫懐文藻』(『弘法大師全集』第五、412P    
 琴絃己絶、遺青更清、
 蘭叢雖凋、余芳猶播。
故贈大僧正法印大和尚位空海
 消疲煩悩、
 地却晰貪
 全三十七品之修行、
 断九十六種之邪見。
既而
 仏日西没、渡冥海而仰余輝、
 市法水東流、通陵谷而導清浪,
 受密語者、多満山林、
 習真趣者、自成淵叢。
況太上法皇
 既味其道、
 宙迫憶其人。
 誠雖浮天之波涛、
 前何忘積石之源本。
宜加崇訪之典、諡号弘法大師
       延喜二十一年十月十七日  勅使 少納言平惟扶
〔読み下し文〕
勅す
 琴絃已に絶えて、遺音(いいん)更に清く、
 蘭叢凋めりと雖も、余芳猶お播(ほどこ)す。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
 煩悩を消疲し、
 驕貪を地却す。
 三十七品の修行を全し、
 九十六種の邪見を断つ。
既にして
 仏日西に没し、冥海を渡って余輝を仰ぎ、
 法水東に流れ、陵谷に通じて清波を導く
 密語を受くる者、多く山林に満ち、
 真趣を習う者、自ら淵叢を成す。
況や太上法皇、
 既に其の道を味わい、
 宙追って其の人を憶う。
 誠に浮人の波涛と雖も、
 何ぞ積石の源本を忘れんら
宜しく崇訪の典を加へ、諡して弘法大師と号すべし。
延喜十1年十月十七日   勅使

〔現代語訳〕
天皇のおことばを伝えます。
少納言平惟扶
琴のいとが切れてしまったように、すでに身まかられたけれども、その名声は清く高く、
蘭がしぼんでしまったように、生命は天地にかえったけれども、残された教えは今なお広まる。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
煩悩を消し去り、
おごりとむさぼりとを脱却し、
三十七種の涅槃にいたる修行を先令におさめられ、
九十六種の外道の説く邪見を断ちきられた。
すでに、
釈尊は西方のインドにて洋槃に入られ(たけれども)、大海を渡ってその遺風を仰ぎ受け、
これにより仏法は東国に伝えられ、あらゆる山野の凡夫を導くこととなった。
密教を受法する者多く山林に満ち、
真言の教えを習う者これまた多く群がる。
まして太上法皇は、
 すでに真言密教に精通され、
 宙空海への想いしきりであられる。
 じつに大空にうかぶ大波であっても、
 どうして石積みの本源を忘れることがあろうか。
よってここに、常しく崇め尊ぶよりどころとして、諡号弘法大師を贈る
延喜二十一 年十月二日  勅使 少納言平惟扶

この「勅書」で、研究者が注目するのは、諡号に弘法大師が贈られていることです。
先ほど見たように延喜21年10月2日付で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、下賜されたのは「弘法大師」です。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更されたのでしょうか。誰が何を根拠に「弘法大師」と命名したのかが分かりません。 この「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。それは次回にするとして、今回はここまでです。
以上を整理・要約しておきます。
919年10月、観賢は1回目の空海への大師号の下賜を上表したが、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかった。
②920年の
『三十帖策子』の回収作業と天覧を通じて、醍醐天皇・寛平法皇・観賢は同士的な結びつきを深めた。
③921年
年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた
④その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」

大師号の下賜についてみておきました。その中で、最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であったこと、空海はそれより55年遅い921年に贈られたことを押さえました。つまり、空海は、最澄に比べると諡号下賜が半世紀以上遅れています。これは、当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」と研究者は評します。今回は、当時の真言宗が空海の諡号追善実現のために、どのような動きをしたのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰

空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、それに応えて下賜されたときの勅書が1通伝存しています。
①延喜18(918)年8月11日  
 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。
②同 18(918)年10月16日 
 観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。
③同 21(921)年10月2日  
 観賢、重ねて空海に読号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
④同   (921)年10月5日  
 観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す
⑤同 21(921)年10月27日 
 贈大僧正空海、「弘法大師」の諡号を賜う
この内の④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、寛平法皇による1回(①)と、観賢僧正による2回(②③)の計3回にわたる上奏をへて、下賜されたことになります。
まず①の寛平法皇の上奏文について、見ていくことにします。

   寛平法皇(宇多天皇)即位 887年9月17日 - 897年8月4日

寛平法皇とは宇多天皇のことです。
宇多天皇の即位当初の政治基盤は弱く、執政の藤原基経に依存するものでした。そのための基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢し、基盤を強化していきます。そして、遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などの改革を次々と進めます。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機ともなりました。30歳で譲位した後は、真言僧侶となり経典研究なども行う文化人でもあったようです。
 寛平法皇の譲位後を年表化しておくと、次の通りです。
①寛平9年(897)7月2日、30歳で醍醐天皇に譲位
②昌泰2年(899)10月24日、仁和寺で益信を戒師として落飾し、空理、または金剛覚と称す
③同年11月24日東大寺戒壇院にて具足成を受け
④延喜元年(901)12月13日、東寺灌頂院において、益信を大阿開梨として伝法灌頂を受法
⑤延喜18年5月には、東寺濯頂院において法三宮真寂親王はじめ六名に、伝法灌頂
⑥同年8月には嵯峨大覚寺で寛空はじめ七名に、伝法灌頂
以上からは、延喜21年の時点で、寛平法皇が「すでに真言密教に精通され」ていたことが裏付けられます。

①の「延喜18(918)年8月11日  寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」は、退位後の寛平法皇自らが空海への諡号下賜を上表した文書ということになります。その上表文を見ていくことにします。
上段が寛平法阜撰とみなされてきた「請賜諡号表」、下段が『寛平御伝』の本文です。
上奏文全体の構成は、次の通りです。
前半には、寛平7年(895)3月10日の奥書をもつ貞観寺座主(じざす)撰『贈大僧正空海和上伝記』(『寛平御伝」)の令文引用
後半には、諡号を下賜せられんことを懇請する文章

寛平法皇の空海諡号下賜上表文1

寛平法皇の空海諡号下賜上表文2
寛平法皇の空海諡号下賜上表文3

寛平法皇の空海諡号下賜上表文3


上奏文の現代語訳を見ていくことにします。
ア、わが国における密教仏教の根源は、南岳の師すなわち空海にはじまります。
イ、空海の法流を受法したものは、誰ひとり、空海の旧跡を仰ぎ讃えないものはありません。
ウ、空海がわが国に請来した経論類は、総計二百十六部四百六十一巻にのぼります。
工、真言宗が確立し法を相承する僧も多く輩出するにおよんで、朝廷は真言宗を鎮護国家の中心におかれました。
オ、秘密の教えが弘通し業行も定まったことから、この法流をもって仏道修行の究極である悉地成就のはたらきが増しています。
力、現今、人々は(あまり)変わつていないけれども仏道は盛んとなり、人は滅び去る(運命である)けれども、その名は新たに(讃嘆される)でありましょう。
キ、仏法では、死後にその人の事績を崇め尊ぶことを行なつてきました。
ク、王法では、死者を讃える規範を廃されたのでありましょうか、いえそんなことはないはずでございます。
ケ、そこでお願いいたしたきことは、諡号を南岳の師(空海)に賜わりますとともに、この秘密の教えを官廷内にも盛んにせんことであります。誠心誠意のお願いであります。
コ、謹んで事の成り行きを記録いたしまして、恐れながら、お願い中しあげる次第でございますり何とぞご高意を賜わりますように。
譲位後は、真言宗の僧侶となり潅頂を行う立場にまでなった法皇が、空海への諡号下賜を願って書いたものということになります。しかし、  これを寛平法皇の真撰としてよいかについては、意見の分かれるところのようです。
まず、この上奏文は寛平法皇の真撰であり、大師号の下賜に大いに力があったとみなす説を見ておきましょう。
  蓮生観善師『大師伝』では、寛平法皇を諡号下賜の発議者とみなして、次のように述べています。
その事を第1番に発言されたのは宇多天皇様でありました。大師号を空海和尚に追贈して頂きたいと云う事を、初めて願出でられたのは、字多天皇様であります。宇多天皇は大師のお徳を慕い、出家して真言の灌頂を受け、御名を空理と称せられ、京都仁和寺を御建立遊ばされた御方であります。宇多天皇は御出家後、寛平法皇と申し上げて居りましたが、延喜十八年八月十一日に、醍醐天皇に対し、真言の根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に諡号を追贈せられんことを請うの表を奉られました。その表文の中に、
 朝家以て鎮護息災の要と為し、紺流以て出世悉地の用と為す。当今民旧り、道盛んに、人亡びて名新なり。仏法猶尋崇の道を貴ぶ。王法何んぞ迫餅の典を廃し玉はん。望み請ふ諡号を南岳に贈り、秘教を北間に興さんことを。今ま懇款(こんかん)の至りに任へず。謹で事状を注し、上表以聞す。
と仰せられ、空海大和尚にどうぞ大師号を贈って頂きたいと御奏請あらせられたのであります。(中略) 
此の問題につきての発議者は寛平法皇にて、寛平法皇は醍醐天皇の御父上であり、醍醐天皇と寛平法阜とは御親子の間柄であらせらるヽと共に、(中略)
故に此の問題につきても書面の奏請は表面の事にて、内部にては御親子親しく御相談の上の事に違いないと信じます。(673~5P)

ここには最初の上奏が寛平法皇によって行なわれたことを微塵も疑っていないこと分かります。
これに対して、守山聖真『文化史伝』は、「寛平法皇の上奏」疑問説に立ち、次のように述べています。
この諡号奏請の歴史を見るに、伝教大師(最澄)は遷化後44年にして貞観8年7月13日に諡号宣下があり、慈覚大師(円仁)も同日の宣下であるから、これは入滅後僅かに3年目である。こうした方面から見ると、我が大師の諡号宣下のあったのは、入定後87年目であるから、相当に長い年月を経過して居る。大師に最初に諡号宣下を奏品したのは、寛平法皇であるとせられている。それは「諡号雑記」並びに「続年譜」にその表文があるからである。『続年譜』は、『諡号雑記』から採ったものであろう。①観賢また同年10月15日に上表奏請していることを『諡号雑記』に記して居り、「正伝」付録には後者を採録しているが載せては居ない。之はその確実性を疑ったものであろう。
 事実これは文章も粗雑にして、記事も相違して居る個所もあり、②荘重である可き法皇の上表文としては、余りに重みが欠けて居るばかりでなく、③全く貞願寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』と同様のものであることである。寛平法皇でないとしても、表請文としてはその体をなして居ない。若しこれを以って、法皇の表請文とすれば、それは法皇を誤まるものではなかろうか。(中略)
 要するに偽作者があって、寛平法皇の如き至尊が大師の為めに諡号を奏請したとして、大師伝に光彩を添えんと試みたものであろう。(885~7P)
守山氏が寛平法皇の上奏文を疑わしいとみなす根拠は次の4点です。
① 『総号雑記』と『続弘法大師年譜』は、法皇の上奏文を収録するが、天保4年に高演が撰述した『弘法大師正伝』は収載していないから疑わしい
② 文章が粗雑な上に誤記もあり、寛平法皇の上奏文としては、荘重さに欠ける。
③ 文章の大部分が「寛平御伝」と同じで引き写しである。
④ 表請文としての体をなしていない。
これらをうけて「若しこれを以って、法皇の表請文とすれば、それは法皇を誤まるものではなかろうか」「大師伝に光彩を添えようとして偽作されたものであろう」と結論づけます。

 寛平法皇はきわめて賢明な天皇であり、漢詩文にもよく通じた文章家だったと研究者は評します。従って、もし法皇が上奏文を書いたとすれば、空海の事績を記すのに『寛平御伝』をほぼそっくり引き写すようなことはしないはずだと云うのです。法皇の教養は、漢文で書かれた日記『寛平御記』や醍醐天皇
に与えられた『寛平御遺誠』をみれば、一目瞭然と指摘します。
実は、真言教団はこれ以前にも空海への諡号追善について、動いたことがありました。
①天安元年(857)10月21日、真済(しんぜい)の上表によって、空海に大僧正位が追贈されています。この時の真済の上表文を見ておきましょう。
  【史料4】『高野大師御広伝』(『弘法大師伝全集』第1、270P)
沙門真済言す
臣一善を得ては則ち必ず其の君に献ず。子一善を得ては則ち必ず其の父に輸(おく)る。真済の先師空海禅師は、去る延暦の末年、遠く大唐に入り秘法を学得す。大風樹を抜くの災、樹雨陵に襲るの異、詔を奉り結念すれば期に応じて消滅す。上国の真言、此より始めて興り、聖邦の濯頂此より方(まさ)に行わる。真済等毎(つね)に思う。先師の功人にして賞少なく、節屈して名下れりと。
伏して惟れば、皇帝陛下、大いに天工に代わり世範を成立し、能く道中を得て品物を亭育す。
 伏して乞う、真済所帯の僧正を譲って、禅師の発魂に贈らんことを賜許したまえ。然れば則ち、陛下忽ちに聖沢九泉を潤すの人恵を顕わし、人天必ず礼骸報主の深志を尽さん。今懇誠迫慕の心に任えず。謹んで本人以聞す。
 伏して願わくば鴻慈微誠を照察せよ。真済誠慢誠恐、謹言。
天安元年十月十七日      沙円僧正伝灯大法師位上表す

文徳天皇は、この真済の上表に応えて、10月22日に空海に僧正位を追贈します。
こののときの記録が正史の1つ『日本文徳天皇実録』天安元年(857)10月22日の条に次のように宣命書きで記されています。
【史料5】『文徳天皇実録』九(『国史大系』第4巻、 103~4P)
法師等に詔して曰く。天皇が詔旨と、法師等に向さへと。勅命を白(まうさく)、増正真済大法師上表以為、
故大僧都空海大法師は、真済が師なり。昔延暦年中、海を渡りて法を求む。三密の教門此より発揮す。諸宗の中、功二と無し。願う所は、僧正の号を以て、将に先師に譲らんとす、者(てへり)。
師資其の志既に切なるを知ると雖も、朕が情に在っては、未だ許容布らず。仍て今先師をば、大僧正の官を贈賜ひ治賜ふ。真済大法師をば、如旧(もとのごと)く、僧正の官に任賜事を。白(まを)さへと詔勅叩を白す。            (傍線筆者)

ここからは、真済はみずからが賜わつた「僧正位」を師に譲りたいと願いでたのに対して、文徳天皇は師の空海には「大僧正位」を贈り、真済の「僧正位」はそのままとする、と応答したことが分かります。ここからは天安元年(857)10月22日、空海が「大僧正位」を賜わったことが確認できます。
「贈位」のいま1つは、その7年後の貞観6年(864)2月27日、空海に法印大和上(尚)位が追贈されたことです。      55P
これは『日本三代実録』貞観六年二月二十七日の条に次のように記されています。
 『日本一代実録』八(『国史大系』第4巻、 134P)

十七日癸丑、贈大僧正伝灯大法師位空海、延暦寺座主伝灯大法師位最澄に、並びに法印大和上位を贈る。

ここからは、最澄とともに空海に法印大和上位を贈られたことが分かります。この「法印大和上位」は、その年の2月16日に、新たに制定された僧位の1つでした。「法印大和尚位」の僧階は僧綱に任ぜられる高僧と凡僧とのあいだに格差をもうけるために新設されたものでした。この僧制をさかのぼらせて、貞観6年(864)2月27日、最高位の法印大和上位が空海と最澄にも適用され追贈されています。ちなみに、空海は生前に大僧都に任ぜられていますが、最澄が僧綱に任ぜられた形跡はないようです。空海がこの法印大和上位を追贈されたのは、貞観六年(864)2月のことです。よって、その後の57年間、空海への諡号下賜はありません。このことを「只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し」と訴え、読号の追贈を願ったことになります。それに対して最澄には、2年後の貞観8年、伝教大師の諡号が下賜されています。これを真言教団が黙って見ていることは出来なかったはずです。

以上をまとめておきます
①我が国で最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であった。
②空海はそれより55年遅い921年に贈られた。
③ここには当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」があった。
④遅れた真言教団は、何度も空海への諡号下賜を朝廷に働きか掛けたが実現しなかった。
⑤そこで退位後に真言僧となり、真言宗に理解の深かった寛平法皇を通じて朝廷工作をおこなうという案が実行に移された。
⑥それが後世には、寛平法皇自身が上表書を書いたという話が加味され、その文書が偽作された。
どちらにしても、この時期の真言教団にとって空海への大師号下賜は、最重要用課題であったことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」

 921年に大師号が下賜されてから、約1100年あまりの年月が過ぎました。空海の大師号が「弘法大師」ですから、「空海=弘法大師」で同一人物なはずです。しかし、人格的には、両者を別人としてあつかった方がいいと研究者は考えているようです。どうしてなのでしょうか?
空海は、宝亀5年(774)に誕生して、承和2年(835)に入寂します。その間、62年間、真言宗の開祖となった仏教界はもとより、詩文、書、芸術、教育、社会事業、土木技術などの諸分野で大活躍した実在の人物です。一方、弘法大師とは、人寂のあと86年目に、生前の功績を讃えて醍醐天阜から贈られた最高の称号です。信仰や説話・伝承の世界で、いかなる願いも叶え、生死の苦しみや困難に出迎ったとき、必ず手を差しのべて救ってくれるスーパーマンのような存在として語られる人物です。つまり、弘法大師の名で語られる人物は、必ずしも実在した空海その人ではないということになります。
 それでは、弘法大師を主人公として語られる物語には、空海は存在しないのでしょか?
空海ほど伝記の多い人物はいないとされます。特に、空海が開眼してから時代が降るにしたがって、伝記には荒府無稽とも思われる物語が加えられ、超人・弘法大師として語られるようになります。それは弘法大師伝説として、ひとつの研究分野にもなるほどです。

弘法大師伝説集 1~3巻(斎藤昭俊 編著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 たとえば、弘法大師は唐から帰国するに先立って、明州の浜で「密教を広めるにふさわしいところがあれば教えたまえ」と祈念して、持っていた三鈷杵をわが国に向けて投げ上げます。それを帰国後に、高野山の松の樹上に発見し、この地に伽藍を建立することになった話などが、その典型的なものです。
 それらの奇蹟諄を想像力たくましく絵画で表わしたのが、『弘法大師行状絵詞』『高野大師行状図画』といった絵巻物であることは以前にお話ししました。そこには、われわれ常人を超えた能力を持った人物として描かれています。しかし、その裏には宗教的な真理、歴史的な真実が隠されていると研究者は次のように述べます。

 絵巻物をひもとく楽しみのひとつは、それら背後に隠された歴史的な真実、宗教的な真理を探索することにある。一見して、実在した空海とは無関係と想われる物語も、冷静に読みすすめると、空海の事績が核となり肉付けされていることが多い。すなわち、弘法大師として語られる荒唐無稽とも思われる不思議な「弘法大師」物語からも、真実の空海を読みとり、日々の生活に役立つ教訓を読みとることができる。

弘法大師伝説の中に実在した空海が隠されている。注意深く読み取れば、それが見えてくるということでしょうか。この時に注意すべきことを、次のように記します。

空海と弘法大師とを混同すべきではない。このふたつの名前は厳然と峻別しておくことをお勧めしたい。歴史的事実が信仰を否定するものでも、フィクションが事実をゆがめるものでもないからだ。ただひとついえることは、歴史的に実在した空海だけを追っかけても真実の空海像にはたどり着けないということだ。いい換えると、真実の空海を知るには超人的な能力、奇蹟諄をもって語られる弘法大師伝説が不可欠である」

空海と弘法大師を「別人」と捉えながらも、弘法大師伝説を読み解いていく地道な作業が必要なようです。そこで、今回は空海が弘法大師になっていく過程を史料で辿っておきたいと思います。テキストは「武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。
「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

まず空海が弘法大師と呼ばれるようになった経緯を見ていくことにします。
『日本紀略』延喜21年10月27日条に次のように記されています。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)
己卯。勅す。故贈大僧正空海に諡して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。
〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈人僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とされました。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現いたしました。 そこで、諡号下賜する勅出を少納言惟扶に持たせ、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣いたしました。

ここからは、醍醐天皇が空海死後86年目の延喜21年(921)10月27日に、「弘法大師」の諡号を下賜したことが分かります。
それでは大師号とは何なのでしょうか? 『国史大辞典』(第8巻、751P)には、次のように記されています。   
①梵語シャーストリの漢訳。偉大なる師、大導師の意で、はじめは釈迦大師というように仏の尊称として用いられた。
②後世、中国では高徳の僧に対する敬称となり、智顎の智者大師(または天台大師)、菩提達磨の達磨大師、慧思の南岳大師、曇鸞の曇鸞大師、善導の善導大師、吉蔵の嘉祥大師、窺基の慈恩大師、法蔵の賢首大師、澄観の清涼大師などがある。これらは私的な敬称である。
③唐の宣宗が大中2年(848)に廬山慧遠(ろざんえおん)に辮覚(べんかく)大師の号を贈ったのが諡号のはじめといえよう。
④わが国では原則的に諡号として用いられ、最初は貞観8年(866)に最澄に贈った伝教大師と円仁に贈った慈覚大師とであり、その他、代表的なものに空海の弘法大師、親鸞の見真大師、道元の承陽人師、日蓮の立正大師などがある。
ここには大師号はもともとは大師号は私的なモノだったとあります。そして皇帝から下賜される形の大師号は9世紀半ばからです。これは、最初に最澄や円仁に諡号が送られた時期とほぼ同時になります。諡号は案外新しいものであることを、ここでは押さえておきます。

次に大師号を下賜された24人のメンバーを見ておきましょう。 
大師一覧表
大師一覧表2


この一覧表を見て気がつくことを挙げておきます。
①最初に下賜されたのは天台宗の天台宗の最澄・円仁であったこと、
②空海への大師号の下賜は、それに遅れること55年目であったこと
③大師号を贈られた僧は24名いるけれども、その大部分は江戸時代以降に下賜されている

大師号下賜 時代別
④平安時代に大師号を下賜されたのは最澄・円仁・空海・円珍の4名だけ、
⑤鎌倉時代は益信1人だけ
⑥江戸時代が7名、
⑦残り12名は明治時代以降の下賜であること。
⑧真言宗に属する先師は、空海を筆頭に道興大師(実恵)・法光大師(真雅・空海弟)、本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師((覚錢)・月輪大師(俊高)の7名
⑨法然のように一人で8回も下賜された例もあること。
ここで押さえておきたいのは最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」であることです。空海にこの大師号が贈られたのは、最澄らより55年遅い921年のことになります。空海は、最澄に比べると半世紀以上遅れています。

私にとって予想外であったのは、明治になって諡号されている人達が半分以上になることです。これはどうしてなのでしょうか?明治になると各宗派から諡号下賜申請が次々と出され、申請運動が高まります。
そこで、明治12(1879)年4月、道元へ諡号考証にあたって次のような「大師号国師号賜与内規」が定められます。

 一 大師号を賜与するは宗名公称の各宗宗祖に限るべし
 一 国師号は各宗の祖若くは其第二世以下其宗の中祖とも称すべくして特別徳望あるもの又は旧来各分派の名実ありし其派祖及び二世以下と雖も前後に諡号の勘例ある者に限るべし
 一 大師国師を論ぜず古来加号の例規ありし者は猶期年に至り上請の上 特旨を以て加号の御詮議あるべし
 一 生前死後に論なく特旨を以て大師国師号等を賜与せらるるは固より定例規格の外とす

朱書きの注意書きには、次のように記されています
第1項の大師号については当時、大師号がなかった道元、隠元、日蓮、一遍を想定。
第2項の国師号の派祖については、栄西、蘭渓道隆のみであり、二世以下の場合も授翁宗弼は例外的に漏れていたのであって、滅多にない例と記している。また真宗、日蓮宗の諸派は「近世の分派」であるから派祖であっても「諡号に及ばず」とあります。
第1項は、法然、無学祖元、宗峰妙超、夢窓疎石、関山慧玄、隠元を挙げていますが、必ず加号するものとの契約があるわけではないとします。

それから4年後の明治16年10月6日に、次のように改定され内規となります。

大師号国師号賜与内規 表紙

大師号圀師号賜与内規制定ノ件1
             大師号国師号賜与内規(朱が運用基準)

第一条 大師号を賜与するは左の六項に限るべし(大師号下賜の6条件)
一 一宗の開祖
二 一宗の中教旨に差異ありて別に一派を開き布教隆盛なるものの派祖
三 天皇の御崇敬を得て一大寺を開基し特別の由緒及び功徳ある者

大師号圀師号賜与内規制定ノ件2

四 一宗の第二世以下と雖も宗風を拡張し中興とも称すべき功徳ありて開祖に比肩すべき者
五 皇子にして学徳顕著なる者
六 天皇の戒師にして特別の功徳ある者
第二条 国師号を賜与するは左の七項に限るべし
 一 一宗一派の開祖
 二 一宗一派第二世以下と雖も特別功徳ある者
 三 勅願に依て一寺を創立し由緒功徳ある者
 四 一派を中興せし者
 五 皇子をして学徳ある者
 六 天皇の戒師たりし者
 七 学徳優長にして各宗同く景仰する者

大師号圀師号賜与内規制定ノ件3

第三条 大師号国師号は死後之を賜はるものとす
第四条 大師国師を論ぜず年期加号の例は自今之を廃止す
こうして見ると、明治になるまで親鸞や道元には大師号はなかったことが分かります。それが浄土真宗の明治政府への協力ぶりと働きかけで親鸞と蓮如が大師号を得ると、各宗派も自らの開祖に諡号を求めて政府への働きかけを強めます。それが近代以後に、大師号を送られた僧侶が数多く現れる背景のようです。
大師号下賜 近代以後

当初の「着陸予定地」が大きく狂ってしましましたが、今回はこの当たりで終わりにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

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