瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年02月

麦稈真田の生産開始と普及

前回は香川県の麦稈真田の生産開始と、その後の発展ぶりと上のようにまとめました。その中で⑥の明治末から麦稈真田は衰退したという坂出市史の記述について疑問があるとしました。それを今回は、当時の新聞記事で見ていくことにします。テキストは、神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 」です。ここでは戦前からの新聞記事がアーカイブスでみられ、私がよく御世話になっている所です。「香川県の麦稈真田」で検索すると、以下のような記事が出てきます。まず、第一次世界大戦中の好景気に沸く麦稈真田の様子を見ておきましょう。
麦稈真田3

各種の麦稈真田
大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る

大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県の農業は米麦作が主体で、剰余労力が多いので農家副業が欠かせない。香川県の麦稈真田の製造は明治15(1882)年に大阪の商人原田某氏が小豆郡草壁村に、麦稈購入にやってきて真田の製法を村民に伝えたことに始まるとされる。その後、麦作に適した気候風土もあって、麦稈の光沢が美しく、品質優良と認められ世界に販路を広げた。こうして農家副業として近年は急成長を遂げてきた。中でも大正元(1912)年度は、生産額が237万円に達した。①これは、生産額1位の岡山県に次いで、全国第2位になる。
ところが流行の変化で麻真田帽や紙製帽が欧米の流行の中心となると、麦稈真田の需用は急減退し、市価も低落した。そのため②昨年度(1915年)の香川県の生産額は36万円まで落ち込んだ。しかし、③今春以来再び英米の需用が増えて、初夏以来は注文が頻々と舞い込んでいる。そのため業者は目下の所は麦稈真田の製造に忙殺され需用に追いつかないほどの未曾有の活況を呈している。香川県麦稈真田同業組合の小林氏の話によると、麦稈真田の価格は高騰しており、昨年1反9銭だったのが本年は15銭となっているという。特に合九平22粍巾のものは昨年は一反19銭だったのが本年は43銭と、倍以上に高騰して、需用に追いつかない状況にあるという。
 このような時期には、粗製濫造に走る業者も出てくるので、当局側はそれへの対応に追われている。また香川県は、岡山や広島県に麦稈真田の原料を供給している。昨年は1貫目22銭だったのが、今は34銭で取引されている。香川県にとって将来有望な種類は合三平種である。(中略)
合三平四五の巾で一反の売価22銭に対して、コストは組賃9銭、原料7銭、仕立・雑費2銭を除くと4銭の利益となる。目下香川県の麦稈真田界は黄金時代を謳歌している。九月中に同業組合は証紙検印を行うようにして粗製濫造を防止しようとしている。今年の海外輸出反数は、110万反にのぼる予想がでている。
以上を要約しておくと
①大正元(1912)年度の生産額は237万円で、岡山県に次いで、全国第二位の生産地であること
②大戦勃発と麻真田帽や紙製帽の流行で、1915年は麦稈真田の生産額は36万円まで落ち込んだ
③1916年には需用が回復し、生産高・販売額共に高騰し、讃岐の麦稈真田産業は潤っている

次に、大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞「香川県の副業」の麦稈真田を見ておきましょう。
大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞  香川県の副業
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県では農家の副業して麦稈真田が根付くことによって貧しかった農村は次第に富裕となってきた。中流以下の農家でも貯金が出来る者が少なからず現れている。もともと香川県は空気が乾燥し、土壌が砂質なので麦稈真田の材料となる麦類栽培に適していた。その上に県民が手工に長ずるという特性も重なって発展してきた。①大正元(1916)年度の産額は1072反・生産額は237万円で、本県の生産品の首位を占めるまでになった。
 ところが1917年度になって関東地方で麻真田が作られ海外に輸出されるようになった。麻真田は軽いので婦人帽子に使われ人気が出た。②そのため麦稈真田は婦人用帽子には使われなくなり、男子帽のみの原料となったために需用は低下し、価格も低落した。その結果、1917年の生産高は641反 売上額は115円と、前年度の半分まで落ち込んだ。本年度も麻真田が人気なので、

麦稈真田の回復の見込みはなく、しばらくはこの苦境がつづくことが予想される。(後略)
 以上を要約しておくと
①1916年には、麦稈真田の生産額は香川県の農業生産品の中で首位となった
②1917年度以後、麻真田に押されて生産額が半減し、麦稈真田は不況期に入った。

次の記事は、ベルサイユ講話条約が結ばれた翌年の1920年の大阪朝日新聞のものです。 
「香川県の麦稈真田 頗る好況」大阪朝日新聞 大正9(1920)年1月16日

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
          「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)意訳変換しておくと
香川県下では米作に次ぐ農家の収入源となっているのが麦稈真田である。①第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、②休戦成立以後は次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。③香川県下の紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。
 麦稈真田同業組合調査によると昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。(中略)
統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると④戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているという。
以上を要約しておくと
①第一次大戦中には麦稈真田の輸出は途絶えた
②ベルサイユ講話条約締結後、輸出は再開し価格も急騰している
③そのため香川県の女工たちにの中には、勤めていた工場をやめて麦稈真田を織る者もあらわれている
④麦稈真田の価格は高止まり傾向にあり、業界の将来は明るい。
ここでは第一次大戦時の麦稈真田の輸出急減の要因を「船賃の高騰」と指摘しているのがいままでにない所です。ところが、その4年後には自体は急転しています。
大正13(1924)年5月30日 神戸新聞「輸出麦稈真田類不振」を見ておきましょう。

大正13(1924)年5月30日 神戸新聞 輸出麦稈真田類不振

意訳変換しておくと
輸出用の麦稈真田市場は新稈の出廻りを眼先に控えているのに、亜米利加からの註文も手控え状態で取引は極めて閑散としている。岡山・香川の生産地情報によると備後地方は刈取期の本月下旬に降雨が多かったために、品質は極めて低下しているという。それに加えて、前年も品底気味であったので、本来ならば優良品は相当高値になるはずであるが、今後の天候次第である。香川県地方では、岡山に比べて収穫期が遅いため降雨の被害は少い見込みで、昨年より良好とされる。以上から麦稈原料の市価も大した変化はないと見られる

1920年の好景気は、ここでは見られず市場は閑散としていると報じられています。4年の間になにがあったのでしょうか。いまの私にはよく分かりません。時代を進めていきます。

麦稈真田に適した麦
麦稈真田用の麦

そして大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報の記事です。
見出しは「海外の注文薄で麦稈真田相場依然として安値へ 粗製濫造防止急務」とあります。


大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報)

 意訳変換しておくと

① 麦稈真田の前途については、以前にも報告したように明るい兆しが見られない。同業組合や産地でもさまざまな改善策を講じ、品位向上に努めているが、生産農家が副業であるのがネックとなっていて改善は進んでいないのが現状のようだ。現在は主産地の岡山、広島、香川が盂蘭盆であり、製産品が市場に出廻らず品薄になる時期なので価格上昇が見られる時期である。ところが②海外からの注文薄のため相場は取引数も少なく、安値定着で、同業者は全く閉口している。
 一方相場の安値定着は、生産者に大きな打撃を与えていると思われるかもしれない。けれども副業としている農民たちは、案外のんきな対応ぶりである。(中略)③香川県などでは、麦稈真田を副業そしていた農家の大半が他の副業に転じているようだ。また同業者も対策に相当努力を払っているが、何分にも相場が安いため手の打ちようが無い状態だという。
(中略)
粗製品を売って利益を得ることは得策のように思えるかもしれないが、それは信用を失いて損失を招くことになる。今は輸出業者が団結一致し粗製品の濫造を防止することが必要であろうと同業者は語っていた」        
以上を要約しておくと
①1926年になっても、麦稈真田業界の不況が続いていること
②海外からの注文がなく安値が続き、農家の生産意欲が停滞していること
③香川県では麦稈真田から、叺(かます)などの副業への転進が進んでいること

ここからは1926年段階で、香川の麦稈真田は衰退していたことがうかがえます。そして3年後には世界恐慌が襲ってきます。麦稈真田は、その荒波に飲み込まれていったことが予想されます。
以上から分かることは、以下の通りです
①麦稈真田は日露戦争後には衰退期を迎えていない。
②好況期と不況期を繰り返しながら第一次世界大戦直後に繁栄のピークを迎えていた
③しかし、1920年代後半になると次第に衰退し、世界恐慌でとどめをさされた
ここまで見てきて改めて知ったことは、麦稈真田が輸出商品であったことです。国内だけで使用されていたのかと思っていました。世界的な景気変動や流行によって需用が大きく動き、そのため価格変動も大きかったことが分かります。そして、戦前の香川では、生糸と並ぶ農村の重要な副業であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 
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民具展示館
まんのう町民具展示室(旧仲南北小学校)
 廃校になった旧仲南北小学校は、いろいろな団体が入って活用しています。瀬戸大橋が望める2Fの教室は「民具展示室」となっています。ここには農業や林業、養蚕などに使われた道具約1300点が展示されています。その当番が1ヶ月に一度、輪番で廻ってきます。
  展示されているのは民具が中心なのですが、その中には私には用途が分からないものがいくつもあります。一つずつ調べて、私にとっての闇の部分を減らしています。そんな中で出会ったのが「麦稈真田」です。まず読み方が分かりません。用途も分かりません。今は便利な時代で、グーグル検索するとある程度は見えて来ます。しかし、より詳しく調べようとすると、なかなか適当な文献や史料にたどり着けません。新しく出た坂出市史に、ある程度のことが書かれていたので読書メモとしてアップしておきます。テキストは、「坂出市史 近代編176P 農家の副業と裏作の発達 麦稈真田」です。

麦稈真田と製品
麦稈真田
「麦稈真田」は「ばっかんさなだ」と読むようです。辞書で調べると次のように記されています。

「麦藁(ばっかん)」とは、麦のクキを日に干したもの、つまり麦わらのこと。それをで真田紐のように編んだもの。夏帽子や袋物の材料に用いる。裸麦・大麦の麦稈を最良として、編み方により菱物・平物・角物・細工物などがある。岡山県・香川県などの産。


麦稈真田に適した麦
麦稈の材料に適した麦
麦藁とは、麦のクキを日に干したもので、
真田とは組み紐状のものをさします。戦国時代の武将、真田昌幸が内職で作って売っていたことで有名です。「麦稈 + 真田(紐)=麦わらをひも状に組んだもの」で、これが麦藁帽子などの素材に使われました。組むわらの本数によって次のように呼び方が異なるようです。

麦稈真田2
  左から「七猫しちねこ」「五菱ごびし」「四菱しびし」「三平さんぴら」の麦稈真田
一番右端だけは「経木(きょうぎ)真田」といって、麦わらではなく薄く削ったツゲの木を組んだものだそうです。工業的に大量に生産できるため、麦稈真田の安価な代替品として利用されました。 麦稈真田を作る道具や制作行程については、坂出市郷土資料館に展示してありますので、そちらを御覧下さい。(https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/bunbun007.html 参照)

麦稈真田3
さまざまな麦稈真田
G-46 麦稈真田 野良笠(調節機能付き)
 麦稈真田で作られた麦わら帽子

麦稈真田がどこで作られ始めたかについては、「麦稈真田工業案内」(1905年)に次のように記します。

麦稈真田工業案内 中山悟路
 中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

香川県麦稈真田の沿革
 中山悟路著 麦稈真田工業案内103P 香川県麦稈真田の沿革 
上記を意訳変換しておくと 
麦稈真田の創業については今から23年前の明治15(1882)年、 大阪の原田某氏が大阪より小豆島の草壁に来て麦わらを買いつけた。何に使うかと問うと、加工して海外への輸出商品にするという。そこで試しに2、3人が作り始めた。これが香川県の麦稈真田業の始まりである。
(明治38(1905)年

  初期の状況
  讃岐の地質は、主に花崗岩で構成され、地勢は南から北に傾斜する乾燥地形で麦作に適している。そのため麦稈にも光沢があり、真田の原料として品質がよく他の生産地に勝る。そのため讃岐産の麦稈を求めて商人たちが押し寄せるようになった。しかし、当時は農家は麦稈のままで出荷し、真田に加工して販売する者はほとんどいなかった。また明治31(1897)年頃までは、麦稈真田に従事する戸数は、全県下で200戸あまりに過ぎなかった。
  近来の状況
  明治32(1898)年頃になると、欧米で麦稈真田に対する需用が次第に高まり、販売数が増大するようになった。麦稈真田が利益率の高い副業であることが分かると、前年までは200戸余りだった生産農家が7倍も増加した。明治35(1902)年には、9350戸に至るまでに急増した。

以上を整理しておくと
①麦稈真田が作り始められたのは、1882年の小豆島
②しかし、長らく生産農家数は増えなかった。
③生産農家が急増するのは日清戦争後のことで、県や村が保護支援することで一気に1万戸近くに急増した。
麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島
       麦稈真田製造創業者 中川二助 翁の碑 (小豆島 土庄町小瀬)
小豆島西部の「重ね岩」で有名な小瀬には、麦稈真田製造創業者の碑があります。小豆島では、この中川二助氏が麦稈真田製造のはじまりとされているようです。
1890年代後半に書かれた県への報告書には、小豆島の現状が次のように記されています。

麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島2
      
意訳変換しておくと
麦稈真田の需用は近年ますます増加の一途にある。特に小豆島では、数年前から苗羽村の田の浦産は最上級品と需用が高い。そのためアメリカやイギリス・フランス・香港などからは需用に追いつかず品不足の様相を呈している。この田の浦は、わずか百戸ばかりの小さな集落に過ぎないが、麦稈真田からの収益金は一戸当たり年間1000円を下らないという。もし、農家の副業として麦稈真田が県下全体に普及すれば、小豆島の1/3としても300円が見込まれる。農家の救済方法を考えることは目下の大きな課題である。麦稈真田が、その救済手段となりえるように、将来に備えて検討していくことが必要である。
ここには「麦稗真円は農家の副業として有益な事業であるので県・郡や町村勧業会などで奨励策を行うべきである」と答申しています。これを受けて、県では指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村への巡回指導を行っています。
また、生産奨励策として、次のような方策がとられています。
①尋常小学校の手工科のカリキュラムに「麦得真田組み」を採用
②1898(明治31)年「香川県麦稈同業組合」設立と「麦稈真田販売組合」設立
③両組合は、製品の品質保証を目的に検査制度を設け、規格の統一普及に努めた
④製品に製作者名を押印した県発行の検奄証紙を貼付することによって、生産者責任を明確化
⑤同時に粗製濫造を防ぐことになり、県産麦得真田の名声を高めた。
こうして世紀末から、生産農家増大や規格統一・販路網確立が行政主導で整えられて行きます。さらに日露戦争が勃発すると食糧増産強化のために、県は戦時記念事業として「時局注意事項」を出します。そこには次のような項目が並んでいます。

米作改良、麦作改良、肥料改善、養蚕普及、溜池利用、記念植樹、勤倹貯蓄の普及、
麦得真田の伝習
 
最後に「麦得真田の伝習」が入っています。これを受けて、1904年7月に公設の「麦得真田伝習所」が設置されます。
伝習館で学んだ受講者を地域の指導者に育て、技術普及を展開します。これは、養蚕部門で行われていた手法と同じです。次は「競技会」の各地での開催です。競わせて技術向上を図ろうというねらいです。なかでも滝宮天満宮で夏に行われる競技会は、若い女性たちが日頃の腕を競いあい盛り上がったようです。坂出では西庄村の高照院で、綾北六カ村による競技会(1912年)、坂出公会堂での競技会(1915)などが行われています。
 こうして県や村からの保護され、奨励されることで指導者が育成されていきます。同時に、同業組合の結成や規格の統一など、品質を維持する取組も行われます。そのおかげで香川の一大産業となり、農家の副業として現金収入の柱に成長し、農家の生活向上につながりました。

麦稈真田の生産戸数・産額変遷

麦稈真田の生産戸数・生産額・価格の推移(中山悟路著 麦稈真田工業案内109p)
上表には明治32(1899)年以後の生産戸数・生産高・生産額が示されています。
      明治32年   明治36年
生産戸数  1393戸   15353戸
生産高 124870反 1452227反
生産額  62550円  943947円
ここからは県や郡・村の奨励策によって日露戦争前の5年間で、10倍以上の成長を果たしていることが見えてきます。 
 その後の麦稈真田をとりまく状況は、どう変化したのでしょうか。
坂出市史には、次のように記されています。
①1905年に塩の専売法が施行され、塩の包装が麦稗叺(かます)から稲藁叺に変わった
②その結果、麦稈の需用が減少し、農家は急速に稲藁叺の生産に転換した
③こうして農家の副業の主役は、麦稈真田から叺織りに変わった。
④さらに外国からの安い製品が入るようになると価格競争に押されて、生産意欲は低下
以上のように明治末から大正にかけて、麦稈真田から稲藁かますに主役が交代していったとします。。
しかし、史料を見てみるとそうは云えないようです。例えばネットで調べていると大阪朝日新聞 1920年1月16日(神戸大学新聞記事文庫 真田製造業)には、「香川県の麦稈真田 頗る好況」と題して、次のような記事が載せられています。

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)
((https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100195597/ 

   「翻刻香川県下に於ける副業中の首位を占め年産額に於て讃岐米に次ぐ数字を示せる麦稈真田は戦乱以来輸出杜絶又は船腹払底の為め久しく悲境に陥り居たりしが休戦以来昨年の春頃より漸次順調に立戻り七月以後益好況に赴き価格の騰貴は未曾有の記録を作り単四菱の如き一斑九十銭内外となり従って之が編賃も騰貴し一日少きも一円五十銭多きは三円内外の収入となるより県下紡績、製糸、燐寸等各工場の女工にして熟練せる工場を捨て自宅に於て賃編に従事するより何れの工場も女工の大払底を告げ三割乃至五割の労銀値上げを為すも応募者なき状況なるが麦稈真田同業組合調査に依る昨八年一月以来十一月末迄の産額は二千六百九十三万七千百三十六反価格八百七十五万九千八百九十五円の多額を示し居れるが大正二年以来七箇年間の産額を示せば左の如し(但し八年は十一月迄)

意訳変換しておくと  
香川県下の副業の中で讃岐米生産に次ぐのが麦稈真田である。第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、休戦成立の昨年より次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。県下紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。麦稈真田同業組合調査によと昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。参考までに大正2年以後の7年間の香川県の出荷額は以下の通りである。

大正2(1913)年 6415538反、1153368円
大正3(1914)年 4335724反五、616263円、
大正4(1915)年 3338219反  362952円
大正5(1916)年 5594076反  859919円
大正6(1917)年 6038636反 1045094円
大正7(1918)年 5754223反、1880879円
大正8(1919)年26937136反 8759895円
この統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているというし居れりと(高松)」


  この記事からは次のようなことが分かります。
①第一次世界大戦前になっても、生産数はあまり落ちていなかったこと
②第一次世界大戦中は輸送コストが高騰して、生産数が落ちたこと
⑤それが大戦終結の年には、大幅に回復していること
ちなみに、この後に戦後不況がやってくるので、生産量がどうなったのかわ分かりません。しかし、坂出市史の云うように、日露戦争前後に麦稈真田の生産が急速に落ちたと云うことはなさそうです。
先ほど見た「麦稈真田工業」には、明治の輸出量と額の推移が次のように載せられています。
麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後

中山悟路著 麦稈真田工業案内100P 香川県麦稈真田の輸出額
主要な年の数字だけを抜き出してみます。
①明治20(1887)年 約110万反
②明治29(1896)年 約550万反
③明治33(1900)年 約882万反
県や郡の麦稈真田への政策的な支援・保護が進む中で、輸出量も急速に伸びています。
香川県麦稈真田同業組合 生産数推移
香川県麦稈真田同業組合の生産量・販売額の推移

そして、先ほどの新聞記事にあった輸出数量を見ても、その数字は減少していないことが分かります。
以上をまとめておきます

麦稈真田の生産開始と普及
香川県の麦稈真田の生産開始と発展
上の「日露戦争前後を機に、明治末から麦稈真田は衰退した」という説は、私は疑問を持ちます。麦稈真田は第一次世界大戦後に好景気にわいて、生産農家が増大していることを当時の新聞記事は伝えているのですから・・・
今回はこのあたりまでで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史 近代編176P 農家の副業と裏作の発達 麦稈真田

麦稈真田(ばっかんさなだ)」について書かれた香川県関係史料 ...

(上をクリックすると香川県立図書館 麦稈真田レファレンスに移動します)



古代讃岐郷名 寒川郡
讃岐寒川郡の郷名

続日本記29巻に次のように記されています。
  神護景雲二2(768)年二月、筑前国怡土城成。讃岐国寒川郡人外正八位下韓鐵師部毘登毛人、韓鍛師部牛養等壱百弐拾七人 賜姓坂本臣

意訳変換しておくと

  神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。

この文書を一体のものとすると、奈良時代の768年に怡土城の完成の論功行賞として、寒川郡の韓鍛冶部の一族127人に坂本姓が朝廷より下賜されたということになります。
  ここに出てくる「韓鍛冶部(からのかぬちべ)とは何なのでしょうか?
  日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように記されています。 
韓鍛冶部は韓土渡来の鍛冶部、すなわち渡来系の新技術を有する鍛冶職集団の称。倭鍛冶部(やまとのかぬちべ)に対する。『古事記』応神段に、手人韓鍛名は卓素(たくそ)なる者を百済から貢上した、とあるのが早い例で、以後数多く渡来したらしく、その分布は大和、近江、丹波、播磨、紀伊、讃岐の諸国に及ぶ。これらのなかには官位を得たり、日本姓に改姓を認められたり、郡の大領(長官)として巨富を蓄えたりする者も現れたから、韓・倭の別もしだいに不分明となった。[黛 弘道]」
ここからは次のようなことが分かります。
①韓鍛冶部は、刃物、鎌・斧、鍬、刀など、金属製造や軍事に係わる渡来系の技術者・軍事(?)集団であったこと
②各地に分散し、一部が讃岐にいたこと
③それが改姓して、渡来人としての素性が分からなくなったこと
韓鍛冶部は律令時代になると、兵部省の造兵司(ツワモノツクリノツカサ)の「雑工戸」と、宮内省鍛冶司(タンヤシ)の「鍛戸(カジヘ)」として二つの省に配置されています。また令外官として諸国に置かれた鋳銭司(ジュセンシ)で銭の鋳造(無文銭・和銅銭等)、あるいは諸寺院の仏像・仏具の鋳造にも携わるようになります。例えば聖武天皇の盧舎那仏造営の際の鋳造技術者として大鋳物師の柿本小玉、高市連真麻呂も韓鍛冶部の出身だったようです。
 5世紀頃に、朝鮮半島からの渡来人によってさまざまなハイテク技術がもたらされます。
その中の鉄製兵器や農工具部門を担当した集団としておきます。
渡来人の技術者集団
渡来人の技術者集団
彼らの他にも漢氏の指揮下に、錦織部・陶部(スエベ)・鞍作部(クラツクリベ)等の品部(シナベ)がいたようです。それが律令国家の下では、品部の中から必要な部分を「律令制の品部」として残し、特に軍事的に重要なものを「雑戸(ゾウコ)」として制度化します。品部、雑戸は共に良民なのですが、雑戸は品部ほどの自由は無く、世襲の技術をもって朝廷に仕え、職種に応じた特殊な姓を付けられ(例:忍海手人、朝妻金作など)、特別な戸籍(雑戸籍)に編入されていました。奈良時代には何回か雑戸の身分からの解放が行われますが、その技能の世襲は強制されています。。
以上の予備知識を持った上で、改めて讃岐寒川の韓鐵師部の一族を見ていくことにします。

  神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。

これに予備知識を加えて読み解くと、次のようになります。
①改姓前は韓鐵師毘登(からかぬちのひと)毛人なので、韓半島からの渡来人で、鍛冶技術者集団として寒川郡に定着していたこと。
②火山産の石棺製造には鉄工具が必要であったが、これに韓鐵師部一族が関わっていた可能性
③768年の筑紫の怡土城の築城に寒川郡の韓鐵師部たち127人が出向いて働き、その功績として坂本姓を得たこと
④讃岐の韓鐵師部がわざわざ筑前まで動員されているので、彼らには特別のハイテク技術があり、その専門性を買われてのこと。具体的には築城に使用する金属工具
⑤リーダーの毘登毛人や牛養などは、正八位下の官位をもっていること。
⑥一族127人が改姓していること。この数は、空海の出身氏族の佐伯直氏や智証の因支首氏と比べると各段に多いこと。つまり大きな勢力を持つ一族であったこと。

どうして韓鐵師部から坂本臣に改姓したのでしょうか?
当時の改姓は申請を受けて、それを朝廷が系譜を調査した上で、相応しいと認められた場合に改姓が許されていたこと以前にお話ししました。坂本臣は武内(建内)宿禰の子である紀角(木角)宿禰から出た紀(木)臣の同族とされます。坂本臣は、和泉国坂本郷を本拠として、讃岐国ともかかわりが深かったようです。また、「新撰姓氏録」和泉国皇別には「建内宿禰男紀角宿繭之後也」とあり、紀辛梶(きのからかじ)臣がいます。呼称からも坂本臣の本拠と鍛冶集団との関係がたどれます。そして、佐伯氏が佐伯宿禰に改姓したように、今後の一族のために有利になるような氏姓を選んだ結果が坂本臣だったとしておきます。
実は、坂本臣に改賜姓した「韓鐵氏毘登毛人」と同一人物らしき者が12年後に別の史料に出てきます。宝亀11年(780)成立の『西大寺私財帳記帳』の「田薗山野図」讃岐国二巻には、次のように記します。
「寒川郡盬(塩)山,白施紅、坂本毛人所献、在内印」

ここには寒川郡の製塩用の燃料伐採の用地である塩山(汐木山)を西大寺に坂本毛人が献じたことが記されています。ここに登場する坂本毛人は、12年前に改姓した韓鐵師部の毘登毛人と同一人物である可能性が高いようです。そうだとすれば坂本氏は、製鉄・鍛冶のための山も持っていたようです。
同時に、ここからは寒川郡では西大寺の管理下で製塩が行われていたことが分かります。製塩には濃縮した海水を煮詰めるために最終工程で大量の薪が必要だったことは以前にお話ししました。そのために廻りの山々は、伐採されはげ山化していきます。薪の確保が生産継続の重要な経営ポイントでした。そのために坂本氏が汐木山を西大寺に献上したのでしょう。西大寺と坂本臣の密接な関係がうかがえます。この製塩場の管理や、奈良西大寺までの輸送も坂本臣が担当していたのかもしれません。
 先ほど見たように神護景雲2年(768年)に改賜姓した一族は、127人にもなります。ここからは坂本氏が讃岐国寒川郡を拠点として、奈良の西大寺に塩山を寄進するなど相当な勢力をもった集団だったことが分かります。韓鐵師部の毘登毛人は。祖先の渡来から長い月日を経て、本来の鍛治を中心とした生き方から、坂本臣へと改姓し、製塩や瀬戸内海交易へと「事業転換」を測ろうとしていたのかも知れません。
「東讃の代表的な国造系豪族は、凡直(おおしのあたい)氏です。
彼らも791(延暦10)年に凡直千継が改称を申請しています。その時の申請書には次のように記します。
凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたい。

この申請が認められ21戸が讃岐公に改姓認可されています。讃岐公氏は中央貴族に転身し、平安時代に明法博士を輩出します。讃岐永直は明法博士となり、836(承和3)年に永成、当世らとともに朝臣姓を賜与されています。讃岐永直は大宝律令の注釈書である『令義解』の編纂にも携わりました。

  このように奈良時代になると、讃岐の豪族達の改姓や本貫地の変更申請が次のように数多く見られます。
791 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
864 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
867 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
867 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)

この背景には、郡衙機能が弱体化し「中間搾取」が少なくなり、郡司などの地方役人の役得が大幅に減ったことが背景にあることは以前にお話ししました。彼らは、別の「収入源」の確保に血眼を挙げていたのです。それと世渡りに有利な氏姓への改姓はリンクするようです。
最後に寒川の渡来人・韓鍛冶部がもたらした鍛冶技術とはどんなものだったのでしょうか。
残念ながらそれが分かる史料も考古学的な遺跡もありません。ただ、仏生山の髙松市立病院の「萩前・一本木遺跡」からは、多くの鉄製品などが出土しています。

髙松市萩前・一本木遺跡2
              萩前・一本木遺跡
ここは琴電の仏生山駅の前で農業試験場ほ場内だったところで、直ぐ北側を南海道が通り、古墳時代後期の首長居館や大集落が展開していたことが分かりました。

古代製鉄技術の発展

萩前・一本木遺跡 鉄製品
萩前・一本木遺跡(仏生山駅南 髙松市立病院)出土の鍛冶製品

高松市萩前・一本木遺跡

  ここからは次のようなことが分かります。
①古代の鉄器の種類の豊富さからは、加工用具として重要な役割を持っていたこと。
②鉄器なしでは、生産できないものがたくさんあったこと
③厚手の鉄塊は、鉄素材として朝鮮半島から持ち込まれ流通していたこと
④鉄器のメンテナンスのために砥石が使われていたこと
⑤鋳造の際に使用した円礫の鉄床石がでてくる
このような製鉄・鍛冶技術によって生み出された鉄製品が、髙松平野の開拓に使用されたのでしょう。

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より
逆に言うと、このようなハイテク技術者集団を配下に持たない勢力は、取り残されたということになります。  韓鐵師部のような渡来人のハイテク技術者集団を招き入れたり、傘下に置くことが地方の有力豪族にとっては死活問題になってきます。以前に製鉄技術と秦氏・ヤマト政権をめぐる動きを次のようにまとめました。

秦氏の渡来と活動
ヤマト政権は製鉄技術者集団である秦氏を配下に置いて、河内湖周辺の開発を行った。
「秦氏= 韓鐵師部」と考える研究者もいます。そういう視点で、仏生山周辺を見ておきましょう。
2 讃岐秦氏1
史料からは、讃岐の各郡にいたことが分かります。特に濃密なのが髙松平野の香川郡です。
香川郡の遺跡を見ておきましょう。
2 讃岐秦氏2
仏生山の南の万塚古墳群や周辺の後期群集墳は秦氏一族のものと研究者は考えています。また、一宮神社(田村神社)も、もともとは秦氏の氏寺だったとされます。そうすると仏生山駅の前の古墳時代後期の居館跡も秦氏のものと考えるのが自然です。秦氏は、ヤマト政権の傘下で、最新の土木技術や農工具で河内湖の開拓を進めたように、髙松平野の開発を進めたことが見えてきます。それと最初に見た寒川郡の韓鍛冶部の一族127人は、同族意識を持っていたとしておきます。
古墳時代の豪族居館
古墳時代後期の豪族居館
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 村上恭通 古墳時代の鍛冶 最新の研究成果から見た髙松の状況 
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 を紹介しました。これらの動きは倭と百済の連携強化の中で進められた「新たな政治的変化」の一環と研究者は捉えます。このような動きは、6世紀前葉の日本列島各地の「首長系譜の変動」という政治変動につながります。同時に集落や手工業集団にも、5世紀後半と異なる動きが見られるようになります。その変化を見ておきましょう。テキストは前回と同じく「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。
 かつては、この時期の須恵器の変化要因を、田辺昭三は次のように記しました。
「群集墳の被葬者層という新しい須恵器の需要者が広範に出現したことに支えられて、須恵器生産は最初の画期を迎えた」[田辺1981:p.48]

しかし、現在の研究成果からは、須恵器の仮器化と群集墳の出現は時期的に一致しないことが分かってきました。そこで研究者が注目するのが韓式系軟質土器との次の関連性です。
①提瓶や短頸壺などの増加する器種が、栄山江流域でも同時期に増加
②杯身・杯蓋の大型化、𤭯の長頸化といった型式変化も両地域で連動
③装飾付器台の増加や角杯の部分的受容といった新羅からの影響が見られる
このような須恵器の器種構成の変化は、手工業生産遺跡の分布変化をもたらします。また、陶邑窯跡群の窯数が減少する一方で、窯詰状態での生産が行われるようになるのも、その変化の一環でしょう。窯分布の変化が示すことは、それまでの須恵器窯が衰退する一方で、兵庫県・金ヶ崎窯など新たな生産地が出現することです。これについて花田勝広氏は、次のように記します。

「5世紀後葉に河内において集中するピークがあり、河内平野を中心に広く工房が散見される。一方、6世紀前半に引き続き、操業を行うものが少なくなり、特定工房(大県遺跡、森遺跡)への再編を予想せしめる」という[花田2002:p.29]。

   つまり、5 世紀後葉の窯業などの手工業生産遺跡は、6世紀に続かずに断絶するというのです。これは窯業だけでなく、鍛冶生産遺跡でも云えるようです。いわば「旧工業地帯」から「新興工業地帯」への再編整備が中央権力によっておこなわれたと研究者は考えています。それは、どのようにして行われたのでしょうか?
集落内部における変化を、大阪府交野市上私部遺跡で見ておきましょう。

上私部遺跡変遷図
この変遷図からは、次のようなことが分かります。
①5世紀前半から6世紀初頭に竪穴式住居で構成されていた集落が(上段)
②6世紀初頭から6世紀中葉には、居住域拡大とともに方形区画にかこまれた大型の掘立柱建物群が出現し(中段)、
③短期間のうちにより計画的な建物配置へと変貌する過程が示されている(下段)。
ここで研究者が指摘するのは重要な変化点は、5世紀後半ではなく、6世紀以降にあるということです。その変化をもたらしたのは継体大王を擁立した政治勢力ということになります。
 初期群集墳の展開過程が見られる猪名川流域も、継体期に古墳築造と集落発展がリンクしているエリアです。
継体天皇と猪名川流域古墳
猪名川流域古墳2
猪名川流域の有力古墳
この表からは次のような事が読み取れます。
①猪名川流域は、古代寺院の分布から5つの小地域が分立していたこと。
②前期古墳分布からは、各小地域がほぼ対等な力関係にあった
③中期になるとその中から豊中台地と猪名野の勢力が他を圧倒するほどに強大になった。
④2つの地域の隆盛が百年ほど続いた後、中期末(五世紀末頃)に勢いは急速に衰えた。
⑤後期になりと、有力な前方後円墳を築くことのできなかった長尾山丘陵や池田エリアに前方後円墳が現れる
ここからは前期終盤と後期終盤に、地域内の力関係が大きく変わっていることが見えてきます。
その中で研究者が注目するのが、次の2つの古墳です。
A ③の中期に桜塚古墳群台頭のきっかけとなった大塚古墳
B 後期に長尾山丘陵エリアで150年ぶりに復活した前方後円墳の勝福寺古墳
Aの大塚古墳は墳形こそ円墳ですが、直径56mの大形のもので、第2主体部の東棺からは、最新式の短甲三領をはじめ多くの武器武具が出土しています。とくに三角板革綴襟付短甲という珍しいタイプの短甲は、藤井寺市野中古墳で出土したものと類似しています。大塚古墳に続く御獅子塚、狐塚、北天平塚、南天平塚などでも甲冑類が副葬されています。これら中期古墳の甲冑は、河内平野に古市古墳群を残した政治勢力によって各地の系列首長に与えられたものとされています。
 そうすると桜塚古墳群は、中期の河内平野の勢力との深い結びつきによって地域内で圧倒的な勢力を持ったことになります。その発展の基盤を築いたのが大塚古墳の被葬者と研究者は考えています。ところが桜塚古墳群の中期末の南天平塚古墳は、墳丘長20m台に縮小します。ここからは、あきらかに勢力が縮小していることが見えて来ます。そして次の代には、猪名川流域の最有力古墳は長尾山丘陵の川西市・勝福寺古墳へと移っていきます。
 勝福寺古墳については、調査報告書『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)に、次のように報告されています。
①六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたもの
②勢いを失っていく豊中台地の桜塚古墳群に対して、6世紀前葉に新たに台頭する猪名川本流沿いの勢力であること。
③それはたんなる地域内の勢力争いというより、倭の中央政権内で展開する激しい主導権争いが波及した結果に他ならないこと。
こうして見ると、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めの2回に渡って大きく動いていることが分かります。重要なことは、地域の政治的主導権の変転が、同じ時期に他の地域でも見られることです。
試しに、讃岐の津田古墳群の変遷図を見ておきましょう。
津田湾 古墳変遷図
ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること 
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
津田古墳群でも②の三期と⑤の富田茶臼山古墳の出現期の2回に渡って大きな「地域変動」があったことが分かります。これは都出比呂志氏が指摘したように、「地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。」ということの讃岐版の現象と捉えることがえきそうです。
 もう一度、猪名川エリアに立ち返って見ると、次のように盟主古墳の変動時期が一致します
①中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期
②後期初頭は継体大王陵とされる今城塚古墳が淀川流域に登場する時期
畿内の河内などの巨大前方後円墳の移動現象については、次の2つの見解があります。
①中央政権の中で政治的主導権を握る勢力の交代を反映したものという説
②政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという説
どちらにしても、巨大前方後円墳の移動に伴って、埋葬施設の構造、副葬品の種類、埴輪のスタイルなども大きく変化します。つまり、中央政権の主導権を握った勢力が、新しいスタイルの墳墓モデルを作りだして、それを各地の連携勢力にいち早く与えることで、中央と地域の政治系列を一新するような動きがあったのではないかと研究者は考えています。
そして古墳だけでなく、集落遺跡からみても、6世紀は千里窯跡群の操業が活性化し、その職人たちの住居とされる掘立柱建物が立ち並ぶようになる時期です。そして、新たに大阪府豊中市新免遺跡や須恵器の生産流通に関与していた本町遺跡などが姿を見せます。その一方で、それまでの5世紀代の集落の多くは衰退します。
 猪名川地域で最後に姿を見せる勝福寺古墳が築造された地域を見ておきましょう。
ここでは同時期に栄根遺跡、加茂遺跡、下加茂遺跡の住居数が増加します。園田大塚山古墳が築造された地域では、若王子遺跡、平田遺跡からは鍛冶関連遺物とともに多量の土器が出土するようになります。以上からは、「渡来系集落遺跡 + 猪名川下流域の鍛冶生産工房 + 勝福寺古墳 = 渡来系技術者集団を傘下に収めて急成長する新興集団の存在」という図式が見えて来ます。その躍進の原動力のひとつが半島からの渡来人集団だということになります。そして、この6世紀の変化は、大阪北部に拠点をおいた継体政権によってもたらされたものとします。さらに広く見ていくと、この背景には倭と百済の関係強化を含めた韓半島各地との関係再編が反映していると研究者は考えています。確かに、この時期は阪南部の古市・百舌鳥古墳群が衰退する時期です。列島中枢における政治変動と対外情勢の変化が、地域社会の遺跡動態とリンクしていたようです。
以上をまとめておきます
①栄山江流域と近畿地域との相互交流を示すものとして、集落遺跡と土器資料がある
②日本列島と韓半島南西部で共有された儀礼用土器が、両地域の交流関係を示す
③儀礼用土器以外にも、韓半島出土須恵器によって双方向的な交流実態が見えてくる
④韓式系軟質土器の系譜は百済・馬韓・加耶西部に求めることができ、畿内では河内湖周辺に最も分布が集中する
⑤韓半島系渡来人集落と手工業生産拠点は密接に関係する
⑥さらにそれらに近接して初期群集墳が築造されている。
⑦近畿地域にみる集落構造の変化は、同時期の栄山江流域においても見られる
⑧5世紀代における百済・栄山江流域との相互交流が、倭人社会にとっては社会資本投資といった戦略へとつながっていった
⑥それが、その後の時代を形作る原動力となった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月
『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)
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かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたとされています。
DNA 日本人=古墳人説
「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになります。
この説によると、先住民の弥生人の2倍以上の渡来人がやってと云うのです。だとすると、従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が集団で続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着してひとつの勢力を形成したことも考えられます。その象徴が、豊前の秦王国です。彼らは、優れた手工業的技術力や航海能力、言語力を活かして、朝鮮半島と日本列島を舞台に活動を展開し成長して行きます。そういう視点で善通寺を見ると、弥生時代の平形銅剣の中心地であった善通寺王国を引き継いで、古墳を造営していくのも渡来人であった可能性が出てきます。それが佐伯直氏につながっていくという話になります。最初から話が支離滅裂になりました。焦点を絞ります。
大量の渡来人がやってきたことを示す「根拠」としては、現在の考古学者達はどんなものを考えているのかということが私の知りたいことです。
そんな中で出会ったのが「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。これをテキストに、古墳時代の渡来人の痕跡をどのように明らかにしているのかを見ていくことにします。

 稲作が始まると、炊飯用の土器(甕形土器)が使用されるようになります。

古代の調理器具

さらに、韓半島から新しい調理用土器や厨房施設であるカマドが、列島にもたらされます。カマドは、3世紀には北部九州を中心に伝来したようですが、邪馬台国の時代から古墳時代前期にかけては、点の存在で全国的な広がりとはなりません。住居内にカマドが造りつけられ、一般化していく時期は4世紀末から5世紀のようです。そして、この時期になると近畿では、カマドと一緒に韓式系軟質土器が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」やカマドは、渡来人の住所を探す上で欠かせないもののようです。

八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
韓式系軟質土器
 
かまど利用の蒸し調理
韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで。使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。同時に食器(土器)が多様化します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器に、よそって住居中央で食べるようになります。そのため個人個人の食器が必要になり、いろいろな食器が作られるようになります。カマドの導入によって食事のスタイルが一変します。

韓式系軟質土器 甑
韓式系軟質土器 中央が甑(こしき)
日本列島の古代調理法
布留式式系統の甕

「韓式系軟質土器」は、次のように定義づけられています。
「器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、長胴甕、小型平底鉢、甑、鍋など、日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群」( 田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』大橋信弥・花田勝広編 サンライズ出版) 
韓式系軟質土器の種類には、次のようなものがあります。
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④同じくカマドにかけられた羽釜はがま
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑こしき
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
      全羅道出土須恵器とその影響を受けた須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)

この中で中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

畿内で韓式系軟質土器の分布が濃密なのは,河内湖周辺を中心とする大阪湾岸のようです。
その中の長原遺跡群では、定着型軟質土器(長胴甕,小型平底鉢,甑,鍋)を用いる渡来人集落が現れ、周辺の煮炊器と急速に融合する過程が見えて来ます。また、渡来人がもたらしたものは、土器だけではないことが近年分かってきました。

韓式系軟質土器と河内湖の遺跡
古代河内湖周辺の韓式系軟質土器と定着型平底鉢の出土状況
河内湖周辺の鍛冶集落
古代河内湖周辺の鍛冶遺物と手工業生産工房の分布
上の図は、韓式系軟質土器出土遺跡(左上),定着型平底鉢・長胴甕出土遺跡(右上),鍛冶関連遺物・遺構(左下),主要手工業生産工房(右下)の分布を示したものです。
ここからは、その分布が重なりあうことが見えてきます。
これをどのように考えればいいのでしょうか? 代表的な遺跡を挙げていくと次の通りです。
大阪市から八尾市にまたがる長原遺跡群(長原遺跡,瓜破遺跡,城山遺跡),久宝寺遺跡,大園遺跡,生駒西麓遺跡群(西ノ辻遺跡,鬼虎川遺跡,神並遺跡),蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡群
そして,そこでは鍛冶関係だけではなく,馬飼や玉作,紡織や木工といった各種の手工業生産の痕跡が見えて来ます。これらは韓半島からもたらされた当時のハイテク技術です。その背景には活発な人的交流が幾重にも積み重ねられていたことがうかがえます。ただの交易だけでなく技術や知識の導入も意図していたと研究者は考えています。
5世紀になると、それぞれの業種で次のような「専業的生産拠点」が現れます。
大阪府大県遺跡(鍛冶)
大阪府南部泉北丘陵一帯に広がる陶邑窯跡群(窯業)
奈良県曽我遺跡(玉作)
大阪府奈良井遺跡,蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡(馬飼)
和歌山県西庄遺跡(製塩)
ここからは各種の特定工房が畿内一円に分散し,それぞれの工房が特定の製品を生産する体制が出来上がったことを示します。この背景には、手工業拠点を計画的に配置した政治権力があったことがうかがえます。つまり「領域に対する一定の支配権が確立=国家の出現」を意味すると研究者は考えています。 
 「専業的生産拠点」からさらに進んで,各種製品を生産する「複合工房群(コンビナート)」も現れます。その研究の進展ぶりを振り返って起きます。
①「大和の場合,鍛冶工房集落では他の生産工房と併存する遺跡例が多いが,河内例では単一製品工房であり,大王陵群内に含まれる集落で工房を保有する(和泉を含めて)ことが多い」[堀田1993:pp.155-156]。つまり地域差の確認です。
②その地域差の背景には、渡来人技術者集団の存在があるという仮説発表
③この仮説が奈良県・南郷遺跡群の発掘調査成果から「豪族膝下の複合工房」として認知される
④南郷遺跡群と布留遺跡の比較分析から、鍛冶集団の支配者を前者に葛城氏,後者に物部氏として、各豪族がそれぞれ別個に技術者集団を支配下においたという説。
⑤その上に立って、南郷遺跡群を経営した「カツラギ」氏は渡来人を積極的に活用し、奈良盆地中央部に拠点をおく「ワニ」氏はそうではなかったと,豪族の開発方式に差異があったという推測
⑥これらの成果吸収の上に「大和の工房が王権を支える豪族の家産に組み込まれていたものであったのに対し,河内の工房は王権の工房として再編されたものであった」と,複合工房群と専業的生産拠点の経営主体の違いを対比的にまとめた説
ここでは半島からのハイテク技術を持った渡来者集団を、支配下に組み込んで生産体制を伸ばした勢力が台頭していったと研究者は考えています。

次に渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。  
古墳は立地によって、単独墳と、大小の群をなす古墳群,小規模墳が数十基~数百基群在する群集墳に分類されます。このうちの群集墳は,6世紀以降に爆発的な増加をみることが通説です。この現象については、次の2つの見解がありました。
①古い共同体の分解とともに出現した家父長的首長層の墳墓とみる近藤義郎の議論[近藤1952]
②古墳を身分表示として理解し,家父長的家族層に至るまで身分秩序に組み込まれたと考える西嶋定生説[西嶋1961]
しかし,群在する小規模な古墳は6世紀をさかのぼることが分かり、従来の説では説明できなくなります。そこで白石太一郎は、次のような新説を提起します。

出現契機を共同体を解体することなく,5世紀後半から6紀にかけて生産力の著しい発展を基礎として新しく台頭してきた中小共同体の首長層や有力成員層を,ヤマト政権が直接その支配秩序に組み込もうとしたものである[白石1976]。

一方,和田晴吾は円墳の古式群集墳の出現を古墳時代後期の開始期として、この時期にヤマト政権による有力家長層の直接的な掌握が始まったとします。そして「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握が群集墳形成の1 つの契機となった」と記します。[和田 1992]。
どちらにしても「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。
その中心地とされる河内湖周辺を見ていくことにします。
韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いた勢力が「産業殖産」を次のように展開します。
①5世紀初頭に河内湖南岸の長原遺跡群で開発が始まり
②5世紀中葉に生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)や、上町台地(難波宮下層遺跡)へと広がり、
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)
①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。

                  蔀屋北遺跡

蔀屋北遺跡出土_馬埋納土坑
           蔀屋北遺跡の馬1頭分の全身骨格
③の蔀屋北遺跡からは、馬1頭分の全身骨格、馬具(轡・鞍・鐙)以外にも、飼育に必要であった塩の入った大量の製塩土器も出てきています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが分かります。その他にもこの遺跡からは、
①住居域と倉庫群、水利施設が溝によって区画されて配置されていること
②これは韓国・忠清南道の燕岐・羅城里遺跡と同じ集落構造であること
③鉄滓、鞴羽口、刀装具未成品、鉄鏃、砥石、紡錘車、織機といった各種手工業の痕跡発見
以上から、この遺跡は馬飼を中心としながら、鍛冶、漆工芸、玉生産、木工等といった多種類の手工業生産活動を行っていた渡来集団の拠点であったとされます。また、集落形成期には周溝墓や、大溝から5世紀後半の埴輪が出土しています。ここからは集落の近くには小規模な古墳群あった可能性があります。そして、周溝墓からは韓式系軟質土器が出土しています。

蔀屋北遺跡出土_馬埋納土坑2
               蔀屋北遺跡
周辺遺跡で「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳」が見られる所を研究者は次のように挙げます。
A 生駒西麓遺跡群では、鞴羽口、鉄滓、鍛冶炉壁の検出されているので、鍛冶が行われていたこと
B 神並遺跡に隣接する植附1号墳周溝からは、韓式系軟質土器、鉄滓、馬の上顎骨、製塩土器が出土。この古墳は小規模方墳なので地域統括の首長墓とは云えませんが、この地域の開発に深く携わっていた渡来人リーダと研究者は考えています。
C 難波宮下層からは、法円坂遺跡の5世紀後半代の掘立柱建物群が出てきています。このほかにも鞴羽口やガラス玉鋳型が出土していて、須恵器窯(上町谷1・2号窯)とあわせて考えると、複合的生産が行われていたようです。また初期古墳は。孝徳朝難波遷都にともなって破壊された古墳があったことが分かっています。ここでも複合工房群と初期群集墳がリンクしています。

畿内の初期群集墳分布

奈良県の奈橿原市域について、研究者次のように指摘します。
A 玉製品の生産拠点となった曽我遺跡
B 小型把手付台付鉢や小型器台などの初期須恵器が出土した四条大田中遺跡、
C 阿羅加耶系陶質土器が出土し、多量の製塩土器に加えて木器、鋳造鉄斧、織機具部材、鞴羽口、鉄滓等の手工業生産関連遺物を豊富に出土した新堂遺跡・東坊城遺跡、
D 鍛冶関連遺物を出土した内膳・北八木遺跡
  これらの手工業的な先進技術を持った集落遺跡からは、百済の全羅南道の韓式系軟質土器が出てきます。そして、周辺には小規模な古墳群が築造されているのです。これは河内湖周辺とよく似ていると研究者は指摘します。
須恵器生産の一大拠点である陶邑窯跡群でも、初期群集墳が近くにあります。
陶邑遺跡と周辺古墳

               陶邑窯跡群
研究者は、陶邑の集落展開を次のように捉えます。
①渡来系工人を主体とする大庭寺遺跡の出現段階(TG232期)、
②小阪遺跡への倭系工人の須恵器生産への参画(TK73期)
③伏尾遺跡の出現期に居住・生産・流通をなど計画的集落形成が行われた。
④この計画的集落形成や須恵器生産設備の拡充整備は、ヤマト政権の政策的介入があった
⑤これが5世紀前後にはじまる大規模須恵器生産につながる。
⑥さらに小規模方墳群の築造は中央政権による手工業生産の組織化と結びついていた
これ以外にも「韓半島系土器 + 手工業生産関連遺物 + 小規模古墳群」という関連性が見られる遺跡が畿内には数多く見つかっています。この3点が揃う遺跡は、渡来人の拠点であったとしておきます。

渡来人増加の背景戦乱

今回はここまでとしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」
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松平頼重像
初代髙松藩主 松平頼重
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重がやってきます。21歳の若殿でした。頼重は光圀の兄で、将軍家光の従兄弟に当たります。しかし、事情があって父からは水子とせよと云われたのを側近達が隠して、京都天龍寺の塔頭慈済院に預けます。そこで出家する筈でしたが、将軍家光の従兄弟と云うことで大名に取り立てられ、讃岐高松12万石の城主となります。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、優秀な宗教ブレーンも抱えていました。そんな中でとられたのが次のような寺社政策です。

松平頼重の宗教政策

有力な宗教勢力がある地域には、それに対する対抗勢力を保護して育てようとしています。ここでは、金比羅が松平頼重にとっては粛正対象とはならなかったこと。善通寺牽制のために新興勢力の金毘羅を積極的に保護育成していこうとする意図が一貫してあったことを押さえておきます。

生駒騒動で生駒藩が藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることを命じます。
そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。放置しておくと後世に水利権問題を引き起こす原因になります。そこで幕府は用水分線図を作っています。この絵図は明治維新になって再確認のために書き直された絵図です。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
満濃池水掛村々之図(1870年) 朱が髙松藩 草色が丸亀藩 白が多度津藩
領地が色分けされているので確認しておきます。
①土器川と金倉川は白で示されています。この2つの川は「放水路」の役割で用水路ではありませんでした。②水色が主要な用水路です。③桃色が髙松藩 ④草色が丸亀藩 ⑤白が多度津藩です。丸亀城の南は髙松藩領であったことが改めて分かります。ここで注目してほしいのが赤い部分です。これが金比羅寺領です。その金倉川東岸に置かれたのが満濃池池の領と呼ばれた天領です。満濃池築造から10年足らずで、堤防からの水盛りがひどくなり、修理依頼が幕府に求められます。そこで幕府は満濃池の修理代捻出のための天領をここに起きます。拡大して見ます。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領
天領は、北から五条・榎井・苗田の三ヶ村です。そして、満濃池普請は代々、榎井村の庄屋が取り仕切ることになります。天領の庄屋は一段格が高いとされるようになります。このような中で、松平頼重が行ったのが金毘羅領の朱印地化です。

1648年 幕府の金光院への朱印状

松平頼重の働きかけで、1648年に幕府から下された朱印状です。ここからは金毘羅寺領の合計は330石であったことが改めて確認できます。その内の260石近くは、五条・榎井・苗田など天領に分散していたことが分かります。朱印地化が認められると次に松平頼重は、ばらばらにあった寄進地をひとつにまとめる土地交換作業を行います。これも権益が髙松藩・丸亀藩・天領に関わってくるので誰もがやりたがらない作業ですが、これを若殿様はやりきります。

金毘羅領 延宝の土地交換(1675)
1675年 松平頼重によって行われた金毘羅寺領の土地交換図

その結果、姿を現したのが先ほど見た赤い部分のひとまとまりになった金毘羅寺領330石なのです。金毘羅から見れば、松平頼重さまさまです。金毘羅領の朱印化には、これ以外に政治的な意味がありました。それは金毘羅における金光院の絶対的な地位が確立したことです。言い換えると、金光院主が小領主として、この朱印地を納めることを幕府から認められることになったのです。金光院の横暴を訴えた三十番社の神職は、「君主を訴えた逆賊」として幕府から獄門さらし首の評定を受け、土器川の河川敷で一族が処刑されています。金光院院主に逆らうことは出来なくなったことを世間に知らしめる事件でした。

松平頼重の建物類の寄進を歴史順に並べてみました。
  
松平頼重の寄進

元禄年間の前に、これだけの伽藍が整った宗教施設は讃岐にはなかったと思います。例えば善通寺は、戦国期に金堂も五重塔も焼け落ちて、東院は更地状態で、金堂再建は1700年のことです。金毘羅の隆盛とは対照的です。この中の大門と阿弥陀堂と宝塔(多宝塔)の幕末の姿を讃岐国名勝図会で見ておきましょう。
大門前・普門院・清塚・鼓楼 讃岐国名勝図会

讃岐国名勝図会(1854)の幕末の大門周辺です。大門の前まで民家が並んでいます。門前町に時を告げる鼓楼があり、清少納言の記念碑も建っています。正面が松平頼重寄進の大門になります。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会2
金堂(1845年竣工)と、この時に移転された二天門
金堂(現旭社)下にあった松平頼重が寄進した多宝塔です。高野山の大塔のコピーだとされます。これは神仏分離で姿を消します。金堂は1845年に30年近くを経て完成しました。ここには本尊として金光院の本地仏である薬師如来が安置されていました。そのため薬師堂とも呼ばれていました。神仏分離後は、仏教的なものは取り払われ、旭社と呼ばれ集会施設などにつかわれてきました。
 これが先ほど見た長宗我部元親寄進の二天門です。もともとは金堂の前にあったのですが、金堂建設の時にここに移築されたようです。参道が石段・石畳化され、玉垣・燈籠がならんで描かれています。金毘羅さんの参道石造物化は金堂建設の周辺整備事業として進められます。そして、御影石に囲まれた「白い空間」が19世紀半ばに現れます。それまで玉垣などは主に塗られた木像物だったようです。白い石造物に囲まれた空間は人々には目新しく、新たな参拝客を生む原動力になります。そのような伽藍群の先駆けとして、大門や大塔は登場したのです。

  松平頼重の建築物以外の寄進物一覧を見ておきましょう。
松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金光院への寄進物一覧
一番下の石灯籠は、毎年のように一対が寄進していた時期があります。次のような太刀や兜も寄進されています。
4344104-57松平頼重
         松平頼重寄進太刀(讃岐国名勝図会)
4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
松平頼重寄進兜
以上を整理すると次のようになります。

松平頼重の保護が金毘羅信仰の広がりへ

つまり、庶民信仰の広がりが金毘羅信仰を支えたのではなく、松平頼重の保護で整備された伽藍が、物見高い庶民の参拝をもたらしたと考えた方がよさそうです。

金毘羅発展の原動力は庶民ではなく殿様

さらに遡れば金毘羅信仰の成長は、先ほど見てきたとおり長宗我部元親や、生駒藩の保護が大きな意味を持っていました。その上に松平頼重の保護があり、17世紀後半に基礎が確立したとも云えます。
こうして殿様達の継続的な保護を受けて、金毘羅は成長していきます。
松平頼重の時代に姿を見せた金毘羅門前町を描いたのが「金毘羅大祭図屏風」です。
金毘羅大祭屏風図5
         金毘羅大祭行列屏風図(18世紀初頭)

ここに区切りがあって6隻2曲の屏風図です。
①右から髙松街道がやってきて新町・ 金倉川にかかる鞘橋・内町・札場を経て、大門へと続きます。
②その間に、次のような街道が合流してきます。新町で丸亀街道・鞘橋手前で阿波街道、鞘橋を渡って多度津街道、坂下で伊予街道です。
③街道沿いに家が並んで門前町が形成されていたことが分かります。
④ちなみに新町は、先ほど見たように松平頼重の土地交換であらたに金光院が手に入れたところに開けた町なので新町です。
⑤新町の背後はまだ田んぼが拡がっています。
⑥新町の天領の榎井との境界には木戸があります。
⑦金毘羅門前町の基礎を築いたのは、生駒藩時代に移住した人々でした。その中には全国からやってきて修行し、その後金光院に仕えた人々もいました。その多くは旅館や商店や酒造業を経営して「重立(おもだち)」と呼ばれました。重立が互選し、金光院の承認によって町年寄が決定し、町政を行うシステムが出来上がります。一番右側の部分を拡大して見ましょう。

金毘羅大祭屏風図とうどん屋

①大祭(おとうか)の馬に乗った頭人が木戸をくぐろうとしています。
②ここが金毘羅寺領と榎井村の境です。現在の土讃線の踏切の少し西側になります。
③この木戸のすぐそばに、後に移ってくるのが興泉寺さんです。
④木戸を抜けた所にうどん屋が見えます。当時のうどん屋さんはこのような招牌(しょうはい)を軒下に吊していました。よく見ると招牌が見えます。これが讃岐で確認できる最初のうどん屋さんです。うどんは空海が持ち帰って広めたというのは俗説です。醤油が発明されて今のような食べ方になります。17世紀初頭の元禄時代には、うどん屋さんがあったことを示す「根本史料」です。
⑤ここに石造りの鳥居があります。合流しているのが丸亀街道です。
⑥新町の街並みを見ると屋根は板葺で瓦葺きの屋根はありません。早くから開けた内町は瓦葺きが多いのとは対照的です。構造も入口から入るとすぐ裏に抜けてしまいます。そしてその背後は田んぼが続くのどかな景色です。
 この絵図からは、金毘羅神が登場して百年あまりの元禄時代になると、何もなかった金毘羅は四国一の門前町に成長していたことが分かります。そしてここは、どこの藩にも属さない、天領でもない「朱印地」だったのです。「都市の空気は農奴を自由にする」ということばがありますが、周辺農村からの逃散や、全国からの廻国者・流れ者を受けいれる「自由都市」的な門前町でした。その基礎がこの時代には出来上がっていたことを押さえておきます。

最後に、最初に見た従来の金毘羅大権現の見方について、県史や町史ことひらの見方を対比させておきます。


金毘羅=海の神様・庶民信仰説への疑義

新しい「金毘羅信仰」観

左が20世紀までの金毘羅とすれば、右が21世紀の金毘羅観になっていくのでしょう。その上に、今後の金毘羅の成長・発展はあるのだと私は思っています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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丸亀の西教寺で「金毘羅神の誕生とその後」というテーマでお話しした内容の第4部です。

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今回は生駒家の金光院への特別な保護の影に、於夏という女性の存在があったことを見ていくことにします。
生駒家系図と於夏

長宗我部元親が讃岐から撤退して、土佐一国に封印されるのが1585年です。土佐勢の讃岐支配は7年で終わりを迎えます。新たな支配者として秀吉が送り込んできたのが生駒親正・一正親子です。生駒家の支配は生駒騒動まで約半世紀に及びます。この間に讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世の幕開けを迎えることになります。そういう意味では生駒家というのは讃岐にとっては大きな意味があると思うのですが、余り取り上げられません。
 ちなみに関ヶ原の戦いでは、高松城の父親正は豊臣方へ、丸亀城の一正は家康方について生き残りを図ります。戦後は、徳川方に付いた一正は、居城もそれまでの丸亀城から高松城に移して、正式な藩主になります。その後の正俊が若くして亡くなると、幼君の高俊が藩主となります。高俊の母は、藤堂高虎の幼女でした。つまり高俊は藤堂高虎が祖父になります。そのために高虎が後ろ盾となって生駒藩を護るということになります。そのためにやってきたのが西嶋八兵衛です。西嶋八兵衛は満濃池を作りにやって来たのではないのです。藤堂家の目付としてやってきたのです。話が脇に逸れそうなので元に戻します

生駒藩は、それまでの寺社の既得権利を基本的には認めます。そして、保護を与えて民心を掌握していきます。
その中で生駒藩時代の寄進地が多い寺社ベスト7を挙げると上のようになります。
生駒藩寄進ベスト7

金光院は330石とダントツです。生駒家の菩提寺の3倍です。どうしてこんなに多くの寄進地を得ることが出来たのでしょうか。もうひとつ、生駒家の寄進先が松尾寺ではありません。別当の金光院になっていることを押さえておきます。この時点では、松尾山の主役は、観音信仰の松尾寺から金毘羅信仰の金光院に移っていたことがうかがえます。
 生駒家が金光院に土地を寄進したのは、いつ頃なのかを年表で見ておきましょう。
生駒家の金光院寄進

関ヶ原の戦いで家康方についた一正が藩主となります。一正はその直後に3回寄進しています。その合計は123石です。関ヶ原の戦いで勝ち組に就いて生き残ったことへの戦勝御礼という性格かも知れません。これだけなら他の寺社と比べて突出しているという感じはしません。しかし、一正が亡くなると正俊も幼君の高俊も、金光院への寄進を続けています。しかも、その寄進高が正俊は約150石、高俊は100石と多いことが目を引きます。ここでは、三代で合計330国が金光院に寄進されたことを押さえておきます。なぜ、これだけの石高が金光院に寄進されたのでしょうか。それはそれだけの利用価値・存在価値がある寺院であったがひとつ、それとそこには於夏という女性の存在があったようです。関ヶ原の戦いがあった年に、於夏は一正の子左門を産んでいます。於夏とは何者なのでしょうか?

山下家の於夏と

①於夏は三豊市の財田西の土佐出身の土豪山下家の娘です。長宗我部元親とともにやってきて財田に土着した豪族と私は考えています。
②於夏は藩主の一正に見初められ側室に上がり、左門を生みます。これが関ヶ原の戦いの時です。於夏の兄は、後に出家して宋雲と名乗り、宋雲寺(三豊市山本町)を建立し住職となります。金光院とこの寺は、深く結びつけられるようになります。
③於夏の弟は河内村(三豊市山本町)に分家して富豪となります。この分家の出身者が宥睨です。彼が金光院院主になります。つまり、金光院院主と於夏は山下家の伯母と甥という血縁関係で結ばれていたことになります。そして、於夏は生駒家で次のような最大の閥族を形成します。
生駒家の於夏の閥族

これは生駒藩時代の高松城の重臣達の屋敷配置図です。
ここで於夏の閥族を見ておきます。
③生駒左門 一正とオナツの息子で藩内 5000の石の筆頭家老です。
於夏には娘がいました。左門の妹になります、名前は分かりません。
①その娘が公家に嫁いで身ごもったまま出戻って出産したのが生駒隼人(一正の養子)
②於夏の娘の再婚相手が生駒将監(左門の義弟)
こうして一正なき後の藩政を牛耳るようになるのが、この於夏の閥族になります。その時期に、金光院への100石を越える大型寄進が二度行われています。それは、山下家という伯母と甥という於夏と金光院院主の宥睨の関係が強い影響を及ぼしていたことが考えられます。生駒家の破格の寄進の背景には、山下家の於夏の存在があったとしておきます。どちらにしても金光院は、讃岐の寺社では他を圧倒する330石という寄進地を持っていたことを押さえておきます。これが金光院発展の経済基盤になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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丸亀の西教寺で「金毘羅神の誕生とその後」というテーマでお話しした内容の第3部です。

HPTIMAGE
前回までに金毘羅発展の重要人物として、金毘羅神を布教拡大した金毘羅行者たちと、新しく金毘羅神を創造した宥雅と良昌について見てきました。宥雅によって、松尾山には新しく観音堂と三十番社と金比羅堂が姿を見せました。これらの宗教施設全体を松尾寺と呼びます。
宥雅の松尾寺・金比羅堂建立

新しく出発した松尾寺を襲うのが南海の覇王・長宗我部元親の讃岐侵攻です。
おおおお

讃岐西讃守護代の天霧城・香川氏は、事前に長宗我部元親に通じていたようで抗戦しません。1578年には三豊方面、1579年には長尾氏の西長尾城が降伏します。香川氏の和睦工作に応じて多くの国衆たちは、形ばかりの抵抗で軍門に降り、土佐軍の先兵として働く者が多かったようです。これに対して、宥雅はどのような対応をしたのでしょうか?
宥雅の出自 多聞院日記

この時のことを多聞院日記には、「(宥雅が泉州の堺に落ちのびたこと。その際に、寺宝と記録を持ち去った。だから歴代院主には入れない。」とありました。こうして新築されたばかりで主人のいなくなった松尾寺を、長宗我部元親は無傷で手に入れます。そして、ブレーンとして従軍していた土佐修験集団にあたえます。こうして、金比羅は、土佐修験の集団管理下に置かれることになりました。その後の経緯を年表で押さえておきます。
長宗我部元親と金毘羅

元親は金比羅を管理下に置いた翌年1580年に、四国平定の祈願して矢を奉納しています。そして、その4年後に四国平定が完了すると成就返礼として仁王門を寄進しています。その棟札の写しを見ておきましょう。
金毘羅大権現松尾寺仁王堂棟札 宥厳

①中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
②右に 天下泰平・興隆仏法 大檀那大梵天王(だいぼんてんおう)長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王(たいしゃくてんのう)権大法印宗仁
信長は「天下布武」印で天下への野心と示しました。元親は「天下泰平」と記します。これは天下、或いは四国平定の志を示したものと研究者は考えています。
③その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城に養子として入り、香川氏を継いだ長宗我部元親次男「五郎次郎」の名前も見えます。
④さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
⑤「天正十二甲申年十月九日」という日付は、金刀比羅宮の大祭日の前日が選ばれています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。
⑥「供僧」として地蔵寺・増乗坊・宝蔵坊・榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくるのは、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったのでしょう。そして、支配者としてやって来た土佐の修験者で、その「集団指導体制下」にあったことがうかがえます。
⑦その下には「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」とあり、これらが多度津や宇多津の職人であったことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門は、香川氏から長宗我部元親への「四国平定のお祝い」であったと私は考えています。
注目したいのは裏側の一番最後の行です。そこには次のように記します。(意訳)
「象頭山には瓦にする土は、それまでなかったのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

ここに出てくる宥厳とは何者なのでしょうか?

宥厳支配下の金毘羅

土佐の資料「南路志」には、宥厳(南光院)のことが上記のように記されています。ここからは宥厳は土佐では南光院と呼ばれた修験者で、元親の従軍僧であったこと。そして、金毘羅一山を拝領して宥厳と名前を改めたとが分かります。南光院は四国霊場延光寺の子院です。延光寺は足摺の金剛福寺などを傘下に持つ土佐西部の修験道の拠点でした。元親は、松尾寺はを南光院(宥厳)に与え、土佐修験道集団集団管理下に置かれることになったようです。その意味を考えておきたいと思います。
長宗我部元親はブレーンとして修験者を重用したといわれます。
宥厳による松尾寺から金光院への転換

真言系修験者たちの中には、前回に見た島田寺の良昌のように、高野山で修行と修学を重ね高い知識をもった学僧がいました。彼らは修行や高野詣でのために、四国を往来しています。それは情報交換や外交交渉を行うのにも適任でした。また戦死者をともらうための従軍・医療僧としても重宝です。また、四国平定がおわると占領地の占領政策を策定する必要も出てきます。そのためにも新たな宗教センターが求められます。それが讃岐では松尾寺になります。そこにブレーンとして従軍してきた土佐の修験者たちを集めます。かれらはそれぞれ子房をもちます。そして権力者元親の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。
 こうして見ると、この時点で松尾寺は長尾氏の氏寺的な存在から、四国平定を行った長宗我部元親の宗教施設にレベルアップしたことになります。そして、宥厳たちは、保護と寄進を求めるだけでなく、政策提言するだけの知識や胆力を長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが後に、やってくる生駒氏や松平氏との関係の中で活かされます。こうして金比羅は支配者にとって利用するのに値する宗教センターに成長したのです。それが金毘羅大権現の保護と寄進につながると私は考えています。
こんな長宗我部元親の期待と要求に応えるために、宥厳は次のような「シフト改革」を行います。

宥厳の経営転換

①観音信仰から天狗信仰へ
②中心建物は、観音堂から金毘羅堂へ
③松尾寺から金光院へ
 長宗我部元親から与えられた松尾寺の使命が「四国鎮撫の総本山」であったとするなら、それに宥厳はこのような形で答えようとしたのかもしれません。ある意味、藩主としてやってくる支配者が求めるものを宥厳は知っていたことになります。そのためにも、松尾寺というどこにでもある宗教施設よりも、金毘羅大権現を祀る金比羅堂を前面に押し出した方が支配者には受けいれて貰いやすい判断したのではないでしょうか?松尾寺から金比羅堂へのシフト変更は宥厳の時代に始まったようです。そして、松尾寺住職ではなく、金毘羅大権現の別当金光院として、一山を管理していくという道を選んだとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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讃岐の近世城郭 西長尾城は、長宗我部元親によって讃岐最大規模の山城にリニューアルされていた。


丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話ししたものの2回目です。今回は、金比羅神が誰によって、どんなふうに生み出されたのかを、その時代背景から見ていくことにします。
金毘羅神の誕生

今まで今まで日本にいなかった金比羅神が、どのようにして生まれてきたかを見ていくことにします。それは、言い換えれば誰が金比羅神を創造したのかということです。その根本史料が宝物館に保存されている金比羅堂の棟札です。それを見ていくことにします。

金毘羅堂棟札(1573年)
金毘羅堂棟札(1573年:金刀比羅宮宝物館)
金毘羅で最も古い史料とされているのがこの棟札です。

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を別当金光院住職である宥雅が造営した。日付は1573年11月27日


裏は「金比羅堂を建立し、本尊が鎮座したので、法楽のための儀式を行った。その導師を高野山金剛三昧院の権大僧都法印良昌が勤めた。


 この棟札は、かつては「本社
再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」とされてきました。しかし、近世以前の資料が金比羅にないとすると、これが金比羅についての初見史料になります。この時に金比羅堂は建立されたのです。それでは宥雅とは何者なのでしょうか?

宥雅の出自 多聞院日記

金比羅の民政一般を取り仕切ったのが多聞院です。
その歴代院主が日記を残しています。その日記の中に宥雅は次のように記されています。次の4点が分かります。
①宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった
長尾大隅守高家の甥(弟?)であること
②宥雅は、長宗我部元親の侵入に際して、堺への逃走したこと
③宥雅は、その時に記録や宝物を持ち去ったこと 
④宥雅は、そのため歴代院主に含めない。つまり歴代院主として抹殺された存在だった
これ以外は宥雅については分かりませんでした。ところが
高松の無量寿院に、宥雅が残した「控訴史料」が近年見つかりました。ここでは深くは触れませんが、ここから金比羅神を産み出す際に宥雅の果たした役割が分かるようになりました。宥雅の出自である長尾氏の居館を見ておきましょう。
どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)

西長尾城と麓の居館跡とされる超勝(ちょうしょう)寺と慈泉(じせん)寺
まんのう町長尾から西長尾城(城山)を眺めたところです。この麓が長尾無頭(むとう)で、超勝寺や慈泉寺が、長尾氏の館跡とされています。この辺りには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っているので館跡というのはうなづけます。
長尾氏 居館
長尾氏居館跡
西長尾城(城山)からは丸亀平野が一望できます。晴れていると瀬戸内海も望めます。丸亀平野北部が天霧山の香川氏、南を長尾氏が勢力下にしていたと研究者は考えています。さて、宥雅が善通寺や高野山で学んでいた頃の四国をめぐる情勢を見ていくことにします。

安楽寺末寺17世紀

阿波美馬の安楽寺(真宗興正派)の末寺 吉野川沿いと讃岐に集中

以前にお話したように、1520年に阿波美馬の安楽寺は、讃岐の財田に集団亡命してきました。安楽寺は、その際に三好氏から布教活動の自由などの特権を条件に美馬へ帰国しました。以後、安楽寺は吉野川沿いの船頭達(運輸労働者=わたり衆)を中心に、川港を拠点に道場を展開していきます。そして、三好氏が讃岐への進出を本格化させると、それを追うように教線ラインを讃岐山脈の越えて、髙松平野や丸亀平野へと伸ばしていきます。そして、長尾氏や羽床氏・香西氏も三好氏の配下に入ると、土器川沿いの丸亀平野にも道場が形成されるようになります。

 それに拍車がかかるのが石山合戦のはじまりです。

石山戦争と安楽寺・西光寺
1570年に、石山本願寺と信長の間で合戦が始まります。そうすると支援物資調達のために本山からのオルグ団が阿波や讃岐にも派遣されます。そのためにも道場が組織強化され物資が調達されます。それは、宇多津西光寺による銅や米など運び込みという形で西光寺文書に残っています。西光寺から送り込まれたものは、丸亀平野の各道場から集められたものであったかもしれません。また西光寺以外にも多くの道場が支援を展開したことが考えられます。まさに門徒達にとっては「すべてを戦場へ・石山本願寺へ」という戦時体制を求められたと私は考えています。同時に、それは真宗門徒の信仰心を高揚させます。今までにない真宗門徒による活発な活動が丸亀平野でも見られたはずです。長尾氏出身の宥雅が松尾寺や金比羅堂を建立するのは、これと同時代のことになります。こうした真宗の教線伸張に危機感を抱いたのが真言系の僧侶だったのではないでしょうか。その一人が長尾家の一族・宥雅です。

宥雅は長尾氏の一門として善通寺で出家したようです。それは善通寺中興の祖=宥範の一字を持っていることからも分かります。その後は、高野山でも修学をしたようです。そして、讃岐帰国後に拠点とするのが称名寺でした。

称名寺
善通寺中興の祖・宥範の隠居寺とされる称名寺(現在の金刀比羅宮の神田の上)
 あかね幼稚園から入ると金毘羅宮の神田が開かれています。その上に称名寺はあったようです。14世紀前半に、ここを訪れた高野山の高僧は、浄土阿弥陀信仰を持つ念仏聖が住職を務めていたと記します。今は何もありません。その跡も分かりません。 ここに宥雅が住職としてやって来た時に、すでにこの上に松尾寺を建立する計画を持っていたはずです。その構想を後押ししたのが、金比羅堂の導師を勤めた良昌だと私は思っています。それを年表で見ておきましょう。

宥雅の松尾寺・金比羅堂建立
石山合戦が始まった年に、宥雅は称名寺の院主になっています。そして、真宗門徒の活動が活発化する中で、翌年には松尾寺本堂(観音堂)と三十番社、その2年後に金毘羅堂を次々と建立しています。
その導師が良昌でした。
良昌とは何者なのでしょうか?
金比羅堂導師 良昌

  先ほどの棟札をもう一度見ておきます。導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職良昌です。この寺は高野山の数多くある寺の中でも別格的な存在です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建したお寺で、将軍家の菩提寺となります。

②もうひとつの史料からは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の住職も兼務していたこと、そして、天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。導師を勤めた5年後には亡くなっています。研究者が注目するのは、法勲寺と島田寺の住職だったということです。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、古代綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、法勲寺の流れをくむ寺です。この寺で神櫛王の「悪魚退治伝説」が生まれたとされます。

島田寺と綾氏系図 悪魚退治
綾氏系図 冒頭が神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説とは、綾氏系図(讃岐藤原氏・香西・羽床・滝宮氏)の冒頭を飾るお話しです。

悪魚退治伝説の粗筋
手短に言うと景行天皇の子神櫛王が、五色台沖で暴れ回る悪魚を退治し、その業績が認められて、讃岐最初の国造となった。その子孫が古代綾氏で、中世武士団の讃岐藤原氏は、その末裔であるという伝説です。そのためにこの子孫を名乗る家には、このように冒頭に悪魚退治の話、そのあとに景行天皇に始まる系図を持つ家があります。しかし、紀記に記されるのは景行天皇の子として、神櫛王の名前が出てくるだけです。物語は古代には出てきません。それが登場するのは、中世に綾氏系図が作られた時なのです。つまり、この物語は中世になって羽床氏や香西氏などを顕彰するために、島田寺の住職が創作したものと研究者は考えています。その島田寺の住職を良昌が兼帯していたというのです。もちろん良昌は悪魚退治の話をよく知っていたはずです。当時の法勲寺は退転し、島田寺も荒廃していたようです。島田寺には、行き場をなくしたいくつも仏像が寄せ集められていたようです。
悪魚+クンピーラ=金毘羅神

魚に飲み込まれて腹を割いて出てくる神櫛王(金毘羅参詣名所図会)
宥雅と良昌とは、旧知の間柄であったのではないかとおもいます。二人の間ではこんな話がされていたのではないでしょうか?ここからは私の作ったお話しです。

宥雅

「近頃は南無阿弥陀仏ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺はどんどん信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が建立した松尾寺を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

良昌

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、わが島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」


「なるほど、新しい神を登場させるのですか。


「祟り神である悪魚を、神魚にして、そこにインドの番神を接ぎ木するというのはどうじゃ。まあ、ワニの化身とされるクンピーラあたりがいいかもしれん。それは私にまかせておきなさい」


「強力なパワーを持つ誰も知らない異国の番神を勧進するのですか。それを是非松尾寺の守護神として迎え入れたいと思います。その時には、お堂の落慶法要においでください」


「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」


悪魚を神魚に転換して、そこに異国の番神ワニ神クンピーラを接ぎ木・融合させ、これを金昆羅神として登場させたという説です。この神が祀られた金比羅堂は、現在の本社下の四段坂の登り口にありました。しかし、金比羅神の像が奉られることはなく本地仏して薬師如来が安置されていたことは前回にお話しした通りです。

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会

松尾寺の観音堂下に姿を現した金毘羅堂

金毘羅神は宥雅と良昌の合作ですから、それまでいなかった神です。まさに新たな特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。

 これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きなセールスポイントになります。讃岐にやって来る藩主への売り込みの際の「決め手」になります。ちなみに松尾寺の観音堂の本尊も、このとき島田寺経由でもたらされた法勲寺の仏のひとつではなかったのかと考える研究者もいます。

以上で第2部修了です。ここでは次のことを押さえておきます。
①金毘羅神は近世に現れた流行神である。
②金比羅神の登場した時代には、石山合戦の時代で、真宗興正派が丸亀平野で教線を急速に拡張する時期でもあった。
③そのような中で長尾氏出身の宥雅は、新たな流行神の勧進を行おうとした。
④相談を受けた良昌は、「島田寺の悪魚伝説 + 蛮神クンピーラ = 金毘羅神」を創りだした。
⑤こうして松尾寺の守護神として金比羅神が松尾山に現れることになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献 町史ことひら 近世編
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丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話しをする機会がありました。その時のことを資料も含めてアップしておきます。
 今回は戦国時代末期の1570年ころから、元禄時代末までの約百年間の金毘羅さんのことをお話しさせていただきます。この時期は、金毘羅神が産み出され、成長して行く時期になります。金毘羅さんにかかわったその時々の人々を取り上げて、彼らの直面した課題と、残した業績をみていきたいとおもっています。


松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅松尾寺の観音堂(讃岐国名勝図会)と、本尊の十一面観音


 その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神
三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
金毘羅大権現の拝殿・本社と三十番社(讃岐国名勝図会)
右側の拝殿と本社は、現在とあまり変化がないようです。しかし、もともとはここに先ほどの観音堂があったようです。それがどうして、金比羅神にその座をゆずったかについては、おいおい見ていくことにします。ここでは三十番社を見ておきましょう。経蔵には、多くの経典が納められていました。その中で法華経は、中世には宗派を超えて大切にされたお経で、その守護神たちが三十番神でした。三十の神々が日替わりで順番に経典を護るのです。その建物を三十番社と呼び、三十の神々が安置されていました。神仏混淆信仰のもとでは「神が仏を守る」のが当たり前とされていました。幕末の伽藍配置の全体を押さえておきます。


金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
金毘羅大権現の山上伽藍(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
 もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。

金光院 讃岐国名勝図会2
金光院(讃岐国名勝図会)
 松尾寺の伽藍の管理権を握るのが金光院院主です。
金毘羅さんの歴史を権力闘争という視点で見れば、金光院の支配権確立の歩みという見方も出来ます。表書院には円山応挙の鶴や虎の絵が描かれていることで有名ですが、ここで注目しておきたいのは護摩堂です。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金毘羅の護摩堂と阿弥陀堂 右が護摩堂の本尊不動明王
この護摩堂に安置されていたのが、この不動明王になります。この不動さまの前で、社僧によって護摩が焚かれお札が渡されていました。お札は本社で発行されていたのではなく金光院に権利がありました。ちなみに、この不動さまは、今も宝物館の中にいらっしゃいます。神仏分離の際にも、当事の僧侶達はこの像だけは手放せなかったようです。金比羅宮はもうひとつ気になるのが阿弥陀堂です。真言の寺と阿弥陀堂はミスマッチのような気が、これにも時間があれば後に触れたいと思います。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
金毘羅大祭図屏風(17世紀初頭)
神仏分離以前の金毘羅大権現の伽藍を見てきました。ここでは松尾寺の守護神である金毘羅神を祀る本社、三十番社、観音信仰の観音堂が山上に並び、その下に管理運営を握る金光院やそのたの子院があったことを押さえておきます。
これで、今回お話しの中に出てくる建物の紹介を終わります。さてこれから本番です。


金毘羅信仰についての今までの常識

金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。

しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。

金毘羅中世文書は偽書

かつては上の5つの寄進状が、金毘羅大権現が古代末に遡ることを示すものとされてきました。しかし、現在では、これらは後世の偽書であると香川県史や町史ことひらは判断しています。
 「海の神様=金毘羅大権現」説については、奉納物の史料整理などから次のような事が分かってきました。
「金毘羅神=海の神様」説は、史料からは裏付けられない
こうして見ると、塩飽の人名や船頭達の奉納が始まるのは18世紀になってからです。しかも塩飽の船乗りや船主達の寄進した燈籠は、全体でも20基足らずです。彼らが大坂の住吉神社に寄進している数から比べると比較にならないほど少ないのです。塩飽の船乗り達は、もともとは金毘羅信者ではなかったようです。また芸予諸島でも、厳島神社・石鎚・大三島神社への奉納が中心で、金比羅には19世紀になるまではあまり見られません。また金毘羅側の史料からも、19世紀になるまでは海難防止祈祷などはあまりやっていないことが分かります。流し樽の風趣なども、これが一般化するのは明治になって呉の海軍がやるようになって以後であることを民俗学者が明らかにしています。ここでは金毘羅神はもともとは海とは関係なく、海の神様ではなかったことを押さえておきます。
金毘羅についての研究史のターニングポイントとなったのが「金毘羅庶民信仰資料集」です。
1988年に金比羅の鳥居・燈籠・玉垣・奉納物などが国指定を受けたのを期に作成された資料集です。この刊行の中心となったのが金刀比羅宮の学芸員の松原秀明さんで、長年にわたって金刀比羅宮の史料を収集整理してきた人物です。その松原さんが、第4巻の年表編の序文に次のような文章を書いています。

「金毘羅神


 流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。

天狗経の金毘羅
天狗経(全国の天狗信仰の拠点が挙げられている)

これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか? 

金刀比羅宮奥社の天狗信仰痕跡

その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。 

金刀比羅宮奥社の天狗岩の天狗面

金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?

安藤広重の天狗面を背負った金毘羅行者
安藤広重の「沼津宿」に描かれた金毘羅行者

安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。

金刀比羅宮に奉納された天狗面

金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?


金毘羅大権現と天狗への願掛け文

具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと

金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。


願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。

それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。


Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(金光院)
そのヒントになるのが上の掛軸です。一番下に「別当金光院」とあります。金光院が発行したもののようです。正面が金比羅大権現です。その両脇が羽団扇を持った大天狗です。その他大勢が小天狗達です。金比羅の天狗集団は、こんなイメージで捉えられていたようです。この仲間入りをするためにプロの修験者たちは金比羅にやってきて、奥社や葵の滝などで修行を重ねます。そして多くの験を積めば、各地に金毘羅行者として天狗面を背負って布教活動を行いました。天狗信仰をもつ修験者たちによって、初期の金比羅信仰は拡がったと研究者は考えています。
それでは、金毘羅大権現はどんな姿をしていたのでしょうか?

金毘羅大権現は2つの姿で説明されていた
金比羅神は公式バージョンはクンピーラ、実際には天狗

 江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。

讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。 


金光院の公式見解は次のようなものでした。

「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」

しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
 

天狗信仰から生まれた「崇徳上皇=金毘羅大権現」説

 ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。

ここまでは以下のことを押さえておきます。

新しい「金毘羅信仰」観

①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと

④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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  前回は金毘羅商人の油屋・釘屋太兵衛が経営拡大のために、周辺の村々に進出して水車経営に参入しようとした動きを見ました。今回は、金融的な進出を見ていくことにします。江戸時代後半になると金毘羅商人たちは、周辺の田地を手に入れるようになります。金毘羅は寺領で、髙松藩からすれば他領に当たります。他領の者が土地を所有するというのは、近世の検地の原則に背くものです。どうして、金毘羅商人たちが髙松藩の土地を手に入れることができるようになったのでしょうか? これを髙松藩の土地政策へ変遷の中で見ていくことにします。  テキストは「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」です。
琴南町誌(琴南町誌編集委員会 編) / 讃州堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 金毘羅商人が、金融面で郷村に進出するのは、凶作などで年貢が納められずに困っている農民達に、資金を貸し付けるというパターンです。
実際には、借りる側は蔵組頭や庄屋が借り手となって、質入れの形式をとります。その際に、抵当物件として田畑の畝高や石高、自分林の運上銀高を手形に書き入れ、米盛帳(有畝と徳米を記入したもの)を添付しました。これが返済できないと抵当は貸し手の金毘羅商人渡ることになります。そういう意味では「金融面での進出=入作進出」ということになります。しかし、このような百姓への貸し付けが本格化するのは19世紀になってからでした。
それまでは、幕府は寛永20(1643)年2月に田畑の永代売買を禁止していました。
その背景には次のようなねらいがありました。
①凶作などで自作農が田畑を売却して、貧農に転落するのを防止すること
②抵当地の勝手な売買で、領主の領知権と年貢の収納権が侵されることを防止すること
この時点では、質流れによる田畑所有権の移転は認められませんでした。そのため田畑を担保にして百姓に資金を貸すと云うことは大手を振っては行われなかったようです。
  幕府が田畑の永代売買禁止を転換するのは元禄7(1694)年でした。
幕府は質入れの年季を10年に限り、質入れ証文を取り交わしている土地については質流れを許します。つまり、質流れによる田畑の所持権移転を認めるようになったのです。続いて、寛保2(1742)年に制定された「公事方御定書」には、次のように規定されます。
①百姓所持の田畑を質入れし、質流れによって所持権が移転することが法的にも認める
②不在地主が小作地から小作料をとることも公認され保障される
こうして百姓の所持する田畑は、質入れ、質流れの場合は所有権が移転できることになります。その2年後には「田地永代売買禁止令」の違反罰則が、軽微なものに改正されて、実質的に撤回されます。こうなると生産性の高い耕地は有利な投資先と見られ、都市部の富裕層からの融資対象になります。
これを受けて高松藩も、田畑所有権の移転を認めるようになりますが、それには厳しい制限を設けていました。
具体的には、田畑や百姓自分林の質入れ手形に、村役人全員の連署を求めています。時には大政所の奥書きも要求して、田畑や自分林の質流れによる譲渡を押さえる政策をとってきました。
それが転換されるのが文化2(1805)年です。
  高松藩は、財政改革のために年貢の増収を優先させ、田畑が誰の所有であるかは後回しにするような政策をとります。それに伴って新しい順道帳を村々に交付しています。その中には、百姓の田畑所持権が移転した場合の順道帳の取り扱い方についても指示しています。その様式を見ると、売券のそれまでの常用文言であった「年貢上納不罷成」の言葉が、「我等勝手筋有之」に変わっています。これは「年貢が納められられないので土地を手放す」から「勝手都合」で田畑を売買することを容認していることがうかがえます。
文化9(1812)年の勝浦村庄屋日帳(「牛田文書」)に出てくる「永代田地譲渡手形の事」の様式を見ておきましょう。
「右は我等勝手筋有之候に付、此度右畝高の分銀何貫目請取、永代譲渡候間云々」
「田地売主何右衛門」
などと書くことことを指示しています。 ここから「高松藩の田畑譲渡が公認」されたことが分かります。以後、生産性の高い田畑は商人の有望な投資対象となって、田畑や山林の売買が盛んに行われるようになります。次表は、川東村の文化5年から天保10(1839)年までの30年間の「田畑山林永代譲渡手形留」(「稲毛家文書」)を研究者が整理したものです。

「西村文書」享保3年から文化8年までの、通の田畑山林の売買と質入れの証文

川東村の「田畑山林永代譲渡手形留」
この表からは、琴南町の最奥部の川東村でも、多くの田畑の売買が行われていたことが分かります。川東村は畑地が多く、零細な田畑を持つ小百姓が多い所です。この表からは、厳しい自然条件の下で、零細な田畑を耕作し、重税に堪えながら生き続けてきた百姓が、天災や、飢饉や、悪病の蔓延によって、次第に田畑を手放した苦しみが書き綴られていると研究者は評します。

このように田畑が金毘羅商人などに渡り、急速に入作が増加します。
文政4(1821)年の「鵜足郡山分村村調(西村家文書)よると、その比率は次の通りです。
A 炭所西村村高760石余りのうち、入作は86石2斗  (11%)
B 長尾村村高1029石余りのうち、入作は74石6斗6升(7%)
Bの長尾村の入作の内訳は、次の通りです。
①高松入作  5石4斗6升4合
②金毘羅入作  1石2斗8升2合
③他村入作 13石3斗5升2合
④他郡入作 40石4斗3升5合
⑤池御料榎井村入作 14石1斗3升
これをみると金毘羅・池御料・高松からの入作が見られます。①の高松からの入作については、鵜足郡の大庄屋を務めた長尾の久米家が、高松に移っていたので、その持高のようです。⑤の榎井村からの入作は、榎井東の長谷川佐太郎(二代目)のものです。

西村家の「炭所東村田地山林譲渡並質物証文留」(西村家文書)からは次のような事が分かります。
①金毘羅新町の絹屋善兵衛は二件の質受けと二件の貸銀を行い、その質流れで田畑譲渡を受けた。
②善兵衛は、造田村や川東村でも活発な金融活動を行って、多くの田地を手に入れている。
③池御料榎井村の長谷川佐太郎(二代目)和信も、田畑や山林を抵当物件として、5件の質受けを行っている
これらの質請け(借金)は、年貢を納める12月に借りて、翌年の10月に収穫米によって支払われることになっています。その利率は月一歩三厘~一歩五厘と割高で、数年間不作が続けば、田畑や山林を譲渡しなければならなくなります。
 年貢の納入は個人が行うものでなく村が請け負っていたことは以前にお話ししました。そのため百姓が用意できない未進分は蔵組頭が立て替えたり、藩の御金蔵からの拝借銀によって賄れました。それができない時は、町人から借銀して急場を凌ぐことになります。それが返せないとどうなるのかを見ておきましょう。
鵜足郡造田村造田免(現琴南町造田)の滝五郎は、天保9(1838)年に蔵組頭に選ばれます。
ところが彼は、3年後に病気のため急死してしまいます。この時期は大塩平八郎の乱が起きたように、百姓の生活が最も苦しかった時期で、年貢の未納が多かったようです。そこで滝五郎は、天保11(1840)年7月に、榎井村の長谷川佐太郎から金30両を借り入れます。ところが滝五郎が急死します。そこで長谷川佐太郎は、造田村の庄屋西村市太夫に借金の肩替わりを要求します。市太夫は、天保12年10月に新しく借用手形を入れ、元金30両、利息月1歩3三厘、天保13年5月に元金返済を約束して、今までの14ケ月分の利子を支払っています。そして、市太夫は約束通り、支払期日までに藩からの拝借銀で元金と利子を支払っています。ちなみに、ここに登場する西村市太夫は、金毘羅商人の釘屋太兵衛の義弟で、二人で水車経営などの商業活動を活発に行っていたことは前回にお話ししました。
ここに出てくる榎井村の長谷川佐太郎の持高を見ておきましょう。
天保8年(1837)8月29日付けで、造田村庄屋の西村市太夫から鵜足郡の大庄屋に報告された文書には、造田村への他領民の入作について次のように記します。
一 高拾九石七斗九升七合   造田免にて榎井村長谷川佐太郎持高
一 高壱石四斗弐升九合    内田免にて同人(長谷川佐太郎)持高
 〆弐拾壱石弐斗弐升六合
一 高壱石三斗七升四合    金毘羅領 利左衛門持高
造田村の村高は、891石3斗8升6合です。長谷川佐太郎(二代目)の入作高は、造田と内田で併せて10石あまりだったことが分かります。これは造田村では庄屋の西村市太夫、蔵組頭の久保太郎左衛門に次ぐ3番目の地主になります。このように金毘羅周辺の村々の田地は、担保として有力商人たちの手元に集まっていきます。
高松藩では、弘化2年(1845)7月に、この「緩和政策」を転換します。
次のような通達を出して、他領者の入作と他領者への入質を禁止します(稲毛文書)
郡々大庄屋
只今迄、御領分ぇ他領者入作為仕候義在之、 別て西郡にては数多有之様相間、 古来より何となく右様成行候義、 可有之候得共、元来他領者入作不苦と申義は、御国法に有之間敷道理に候条、弥向後不二相成候間、左様相心得、村役人共ぇ申渡、端々迄不洩様相触せ可レ申候。
(中略)
他領者ぇ、田地質物に指入候義、 向後無用に為仕可申候。尤是迄指入有之候分は、 追て至限月候へば詑度請返せ可申候。自然至限月候ても返済難相成、日地引渡せ可申、至期候はば、村役人共より世話仕り、如何様仕候ても、領分にて売捌無滞指引為致可申候。
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
これまで髙松藩領へ他領(金毘羅領)から入作することが、(金毘羅に近い)藩西郡では数多く見られた。 これは慣行となっているが、もともとは他領者が入作することは、国法に照らしてみればあってはならないことである。そこで今後は、これを認めないので心得置くように。これを村役人たちに申渡し、端々の者まで漏れることなく触れ廻ること。
(中略)
他領者へ、田地を質入れすことについても、 今後は認めない。すでに質入れしている田畑については、返済期限が来たときに担保解消をおこなうこと。期限が来ても返済ができない場合は、引き延ばし、村役人の世話を受けても返済すること。いかなる事があっても、領内における担保物権の所有権の移動は認めない。
各郡の大庄屋に対して、今後は他領民(金毘羅領・天領)の請作を禁止し、現在の他領民の耕作地を至急請け返すよう命じています。さらに8月23日付けで、入質している田地が質流れになる時は、村役人がどのようにしてでも、その土地を領内の者が所持するようにせよと命じています。その文中には「たとえ金光院への質物たりとも例外でない」という一文が見えます。これは金毘羅金光院の力を背景とした金毘羅商人の融資事業と、その結果として土地集積が急速に進んだことを物語っていると研究者は判断します。そのために先ほど見た長谷川佐太郎の造田や内田の入作地は、庄屋の西村市太夫が買い戻しています。その代銀3貫500目は、年利1割3歩、期間5ケ年の借用手形に改められています。
しかし、通達だけで実態を変えることはできません。
嘉永2(1849)年十月には、高松藩は、文化9(1812)年以来、田畑譲渡手形の中で使用していた、「田畑売主何右衛門」という字句を、「田畑譲渡主何右衛門」と改めるよう厳命しています。さらに大庄屋の裏判を押すこと入作請返しの借銀を励行させて、他領入作を抑えようとしますが、これも効果がありません。
 こうして一般の田畑売買もますます盛んになって、悪質な土地売買業者が横行するようになります。そこで元治元(1864)年、高松藩は回文を出して、土地仲人者の横行徘徊を取り締まるよう求めています。つまり、手の打ちようがなくなっていたのです。「高松藩の土地政策は、他領者入作によって、その一角が崩壊した」と研究者は評します。こうして幕末にかけて、金毘羅商人たちは、周辺への金融進出(高利貸し)を通じて、田畑の集積を重ね不在地主化していくことになるようです。
以上を、まとめておきます。
①幕府は寛永20(1643)年2月に、田畑の永代売買を禁止していた。
②しかし、凶作が連続すると土地を担保にして資金を借りることは日常的に行われていた。
③そこで、金は借りても担保の土地が質流れしないように、各藩はいろいろな制約を出していた。
④髙松藩では19世紀になると「規制緩和」して、田畑を担保物件とすることを認めるようになった。
⑤これを受けて、金毘羅商人たちは有利な投資先として、田畑を担保とする高利貸しを積極的におこなうようになった。
⑥その結果、周辺の村々の田畑が質流れして、金毘羅商人の手に渡るようになった。
⑦この現状の危うさを認識した髙松藩は、1845年に金毘羅商人への田畑の所有権移動を禁じる政策転換を行った。
⑧しかし、現実を帰ることは出来ず商人の土地集積は止まらなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」
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19世紀になると金毘羅商人の周辺の村々への進出が活発化していきます。そのようすを油屋の釘屋太兵衛の活動で見ていくことにします。テキストは「ことひら町史 近世332P 金毘羅商人の在郷進出」です。
金毘羅門前町の基礎を築いたのは、生駒藩時代に移住した人々でした。
彼らの中には、金光院に仕えて、その重職となった人々もありました。その多くは旅館や商店や酒造業を経営して「重立(おもだち)」と呼ばれました。重立が互選し、金光院の承認によって町年寄が決定し、町政を行うシステムが出来上がります。
元禄年間(1688~1703)以降になると、宗門改めについても抜け道が設けられて、周辺から金毘羅へ移住・流入する人々も増えて、商売を行う人々も増加します。そうなると金毘羅を拠点にした経済活動が活発化して、商圏エリアも拡大していきます。 こうして商人の中には、多額の金銭を蓄積する者も出てきて、その中には金光院に献納したり、大権現の社寺普請に協力して、実力を認められるようになる者も現れます。
そんな商人の一人が釘屋です。
釘屋は、阿野郡南の東分村(綾川町)から元文年間(1736~40)に金毘羅へ移住した油商人で屋号が「油屋」で、代々太兵衛と称します。二代目太兵衛は金光院に対し、次のように定期的に冥加銀を納めています。

金毘羅御用商人釘屋太兵衛の寄付記録
天明2年(1782)に銀300目
天明3年(1783)に銀200目
天明5年(1785)に鞘橋の修繕に銀600目
文政12年(1829)12月、三代目太兵衛は金光院の御買込御役所に対し、銀10貫日を献上し、先祖から油の御買い上げについて礼を述べて、引き続いての御用をお願いしています。こうした貢納を重ねた結果、金光院院主に年頭御挨拶に出ることを許されるようになります。天保9年(1838)正月の金光院院主に年頭挨拶できる御用聞きのメンバーは次の通りでした。

金毘羅御用聞商人
 御用聞き 多田屋治兵衛・山灰屋保次・伊予屋愛蔵・屋恒蔵・山屋直之進
 新御用聞き 釘屋太兵衛・金尾屋直七・鶴田屋唯助・福田屋津右衛門・玉屋半蔵・行蔵院
釘屋太兵衛(三代目)の名前が、「新御用聞」のメンバーの一人として入っています。こうして見ると釘屋は東分村から金毘羅にやってきて三代百年で、押しも押されぬ金毘羅商人にのし上がっていったことが見えて来ます。釘屋太兵衛の本業は油屋です。
そのため、いつ頃からか金毘羅に近い那珂郡買田村(まんのう町買田)に水車を持っていました。
この水車は、綿実の油絞り用に利用されていたようです。当事の金毘羅領に供給される油は次の3種類でした
①菜種の年間手作手絞高(年間生産量)は、約20石(菜種油は藩の数量制限あり)
②大坂から買い入れる27石の種子油
③それ以外の油は、買田の水車で綿実から絞った白油
これらの3つからの供給先からの油と蟷燭が金毘羅の不夜城を支えていました。その最大の供給元が釘屋太兵衛だったということになります。

綿実2
     綿実(綿花から綿繰りをして取り出した種)
③の綿実について、もう少し詳しく見ておきます。
実綿(みわた)から綿繰りをして取り出した種〔綿実:めんじつ〕は、搾油器を使って油をしぼり出しました。これが灯し油(とぼしあぶら)として利用されたのです。綿実油(白油)は、菜種油(水油)とともに代表的な灯し油でした。絞り油屋には、圧搾前に臼で綿実や菜種を搗く作業を人力や水車でおこないました。
井手の水車 「拾遺都名所図会」
            綿実を搾る水車 「拾遺都名所図会」(国立国会図書館蔵)
京都の綴喜郡井手村(現在の井手町)には、水流を生かして水車を使用している光景が「拾遺都名所図会」に描かれています。当事の綿実の買い取り価格は、銀30匁ほどだったようです。綿花栽培がさかんになった地域では、糸にする繰綿だけではなく、種(綿実)も地域の絞り油屋に売却し、灯し油などに利用されていたのです。この時代の「讃岐の三白」は、綿花でした。讃岐でも綿実や菜種のしぼりカスの油粕(あぶらかす)は、農作物の肥料として使われていました。綿花が、副産物もふくめて無駄なく循環する形で利用されていたのです。ここでは糸繰り行程で出てきた綿実からは、照明用の白油が、水車小屋で搾り取られていたことを押さえておきます。

行灯と灯明皿
   行灯(あんどん)・灯明皿(とうみょうざら)
行灯は、部屋の明かりを灯す道具で、外側に和紙が張られています。内側には燃料の油を入れる灯明皿をおきます。菜種・綿実・魚などからしぼった油をこの皿に注ぎ、藺草(いぐさ)などから作った芯に火をつけて明かりを灯しました。
水車2

19世紀になると地主や町人が資本を出して、村々で水車を経営するようになります。
ここで当事の水車の設置状況を、琴南町誌380Pの「町人資本の浸透」で見ておくことにします
水車で米を揚き、粉を挽いて利益を上げることが、いつごろから始められたかはよく分かりません。。文政6(1823)年6月に、中通村(まんのう町)の水車持の八郎兵衛と、西村八郎右衛門が連記署名して、造田村の兼帯庄屋小山喜三右衛門と村役人に対して、一札を入れています。(「西村文書」) その内容は、4月から7月まで、5月から8月までの間は、決して水車を回さないことを確約したものです。水田の灌漑中は、水車を回すことはできませんでした。そのための確約書です。
文政11(1828)年12月に、高松藩が無届の水車取締りを大庄屋に命じています。その文書の中に次のように記します。

水車多く候節は、男子夜仕事も致さず風俗の害に相成候由相聞候間、 一通りにては取次申間敷候

意訳変換しておくと
「水車が稼働する期間は、男子が夜仕事せず水車小屋に集まり、風俗の害ににもなっていると聞く。そのために設置状況を調査し報告するように」

水車小屋2


天保5(1834)年の高松藩の水車改めに対しては、造田村は、新開免に次右衛門の経営する水車があって、挽臼二丁、唐臼四丁の規模であることを報告しています。川東村では、本村と明神に水車があるが、無届けであって、休止状況であると報告しています。ここでは水車設置とその運用については、藩の認可が必要であったことを押さえておきます。
天保10(1839)年の水車改めの時に、郷会所手代秋元理右衛門は、次の2ヶ所で無届けの水車があったことを報告しています。
①川東村矢渡橋の水車で、枌所東村の直次郎が資本を出し、挽臼一丁と唐臼四丁
②明神の水車は粉所西村の鶴松の出資で、挽日二丁と唐臼六丁
この水車を請け負って経営していた百姓名や、歩銀の額は記されていません。
以上からは19世紀になると、土器川沿いには水車が姿を見せるようになっていたこと、それを髙松藩は規制対象として設置を制限していたことを押さえておきます。

ここで登場してくるのが造田村庄屋の西村市太夫です。
西村市太夫の姉なおは、金毘羅の油屋の釘屋太兵衛の妻でした。西村家文書の中には、釘屋太兵衛から義弟・西村市太夫に宛てた連絡文120通や、なおが実弟の市太夫に宛た友愛の情のこもった手紙40通などが残っていて、互いに連絡を取り合い情報交換しながら商業活動を展開していた様子が見えてきます。両者の水車経営を見ておきましょう。

天保6(1835)年6月、金毘羅新町の油屋釘屋太兵衛(三野屋多兵衛)は、義弟の西村市大夫の尽力で鵜足郡東二村(丸亀市飯野町)で水車一軸を買い受けます。
そして、高松藩の水車棟梁であった袋屋市五郎の周旋で、水車株も手に入れます。この水車は、菜種や綿実から油を絞るもので、運用には藩から御用水車の指定を受ける必要がありました。そこで、釘屋太兵衛から資金提供を受けた市大夫は各方面に次のような働きかけをしています。
大庄屋に銀10匁、郡奉行、代官、郷会所元締めに銀四匁、銀二匁か酒二升。秋の松茸一籠、冬の山いも一貫目、猪肉一梱包(代六匁)、ふし(歯を染めるのに使用)一箱
「東二村水車買付に付諸事覚書(西村文書)]

など、金品を贈って運動したことが詳細に記載されています。運動の結果、 東二村の水車は御用水車として認められます。
 先ほど見たように釘屋太兵衛は「油屋」の屋号を持つ金毘羅の油商人です。
上方や予州から油を仕入れて金毘羅で販売していましたが、買田以外にも水車を手に入れ、綿実から油を絞り、生産活動にも進出し経営拡大を図ろうとしたようです。藩の御用水車認可は下りましたが、油屋の水車経営には問題が多かったようです。まず原材料である綿実がなかなか確保できません。その背景には当事の幕府の菜種油政策がありました。天明年間(1781~89)以来、幕府は江戸で消費する莱種油を確保するために、高松藩に対して領内から毎年5000石の菜種を大坂へ積み出すことを命じ、髙松領内での菜種絞りを抑制させていました。つまり、江戸に送るために菜種油が恒常的に不足しており、そのため代用品として綿実から油を絞っていたのです。その結果、綿実も不足気味でした。
 そんな中で天保13(1843)年正月、東二村の水車の綿実を運んでいた馬子2人が、得意先の百姓から菜種を宇足津の問屋へ届けることを頼まれて、上積みしていたのを発見されます。これを役人は油屋の釘屋太兵衛が、菜種を売買して油絞りをやっているのではないかと疑います。この結果、水車の油絞りは差し止められます。西村市太夫と釘屋太兵衛は、たびたび高松へ呼び出されて取り調べを受けますが、疑いはなかなか晴れませんでした。そんな中で、その年の年末11月2日、水車が火災で消失してしまいます。油絞りの差し止めは、その直後の12月7七日に解除になりましたが、これを契機に、西村市太夫と釘屋太兵衛は、東二村の水車を高松の水車棟梁の袋屋市五郎の子久蔵に譲り渡し、水車経営から撤退しています。

それ以前の天保十(1839)年には、西村市太夫は炭所西村間藤(まとう)の水車を買い取っています。
この水車の規模は、挽臼二丁、唐臼四丁で、小麦粉を挽き、米を揚くものであったことが「西村文書」に記されています。展示入れた後は、月一両の歩銀で、弥右衛門、政吉、弥七に引き続いて運用を請け負わせています。その会計関係の帳簿も残されていますが、経営がうまくいかずに天保14(1843)年8月に亀蔵に売却しています。これも金毘羅新町の義兄である油屋釘屋太兵衛と連動したうごきかもしれません。このように釘屋太兵衛は、造田村の義弟で庄屋西村市太夫と協力して、米と綿実の買い付けを行う以外にも、金融活動も手広く行っています。

東二村の水車を売却した翌年の天保15(1844)年6月15日に、釘屋太兵衛は隠居しています。
68歳でした。その後は、子の精之助が家督を継いで御用聴を命じられます。精之助は金毘羅の高藪に支店を持ち、大麻山の葵ケ谷に別荘を構え、商売も繁昌します。しかし、その後の油類の価格暴騰と品不足に対応を誤り破産します。安政5年(1858)5月に、金光院の特別の配慮で銀10貫目を月利5歩10か年済で拝借して、商売の立て直しを図りますが、失敗が続きます。
 文久2年(1862)6月、精之助は、融通会所へ差し入れてあった拝借銀の抵当物を、無断で持ち出して売却したことが発覚します。その結果、家は欠所、精之助は御領分追放となり悴の忠太郎(13歳)と娘の美春(10歳)、まき(8歳)は、社領内で生活することを許されますが、釘屋一族のその後の消息は分かりません。
 釘屋太兵衛のような金毘羅商人の郷村進出を「藩政の基盤を徐々に蚕食して、その減亡を早めた」と研究者は評します。
しかし、視点を変えてみると彼らの商業活動の大きな制約となっていたのが髙松藩の様々な「規制」でした。この時代に「経済活の自由」は保障されていません。もし、自由な活動が保障されていれば、西村市太夫と釘屋太兵衛の水車小屋経営はもっとスムーズに発展した可能性があります。明治維新による「経済活動の自由」の前に、このような動きがあったからこそ、村の近代化は順調に進んだのではないかと私は考えています。
   金毘羅商人の釘屋太兵衛の商業活動をまとめておきます
①釘屋家はもともとは綾川上流の東分村の油売商人だった。
②それが18世紀前半に金毘羅に移り住み、本業の油生産・販売を手がけるようになった
③18世紀後半には、定期的な献金活動を重ねる中で、金毘羅金光院の御用を務めるようになった④そして三代目釘屋太兵衛の時には、御用商人のメンバー入りを果たし、周辺農村に進出する。
⑤釘屋は買田に水車経営権の特権をもち、そこで生産した綿花油を金毘羅に供給していた。
⑥また、義弟の造田庄屋の情報提供や協力を受けて髙松藩へも政治的な働きかけを積極的に行っていた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「ことひら町史 近世332P 金毘羅商人の在郷進出」
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稲毛家文書は阿野郡南川東村(まんのう町川東)の庄屋役をつとめた稲毛家に伝えられた文書です。
その中に髙松藩が各庄屋に廻した次のような文書に出会いました。
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。
但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 建築料
一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年二月               元〆
大庄屋宛
  意訳変換しておくと
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。
 そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 (住居)建築費
一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年(1839)2月               元締め
大庄屋宛
ここからは次のようなことが分かります。
①天保10(1839)年2月に髙松藩から各大庄屋に出された文書であること
②内容は金毘羅領や天領に隣接する岸上村・七ケ村・吉野村では、耕作放棄地が出て対応に困っていたこと
③そこで奨励金付で、この三村への移住者募集を大庄屋を通じて、庄屋たちに伝えたこと
 平たく言うと、奨励金付で天領に隣接村への移住者の募集を行っていたことになります。
最初にこれを見たときには、私は次のような疑問を持ちました。江戸時代は人口過剰状態で、慢性的な土地不足ではなかったのか、それがどうして藩が入植者を募集するのか? また、その地が「辺境地」でなくて、どうして天領周辺の地なのかということです。

満濃池 讃岐国絵図

移住奨励地となっている「岸上村、七ケ村、吉野上村」の位置を確認しておきます。岸の上村は、金倉川左岸で丘陵地帯です。七ケ村は旧仲南町の一部にあたるエリアです。吉野上村は土器川左岸ですが、ここでは満濃池の奥の五毛のことを云っているのかもしれません。

満濃池水掛かり図
満濃池用水分水表 朱が髙松藩・黄色が天領・赤が金毘羅領・草色が丸亀藩
この3ケ村には「特殊事情」があったと研究者は考えています。
ヒントは3ケ村が上図の黄色の池御料(天領の五条・榎井・苗田)や赤の金毘羅領に隣接していていたことです。そのため19世紀になると、周辺地から天領や金比羅町に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、耕す者がいなくなって末耕作地が多くなる状態が起きたというのです。その窮余の策として、高松藩は百姓移住奨励策を実施したようです。
 建家料銀三百目(21万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。ここで押さえておきたいのは、周辺の村々から金毘羅領や天領への人口流出がおきていたということです。
 金毘羅領や天領は、丸亀藩や髙松藩の行政権や警察権が及ばないところです。
そして、代官所は海を越えた倉敷にあります。その結果、よく言えば幕府の目も届きにくく自由な空気がありました。悪く言えば、無法地帯化の傾向もありました。そんな風土の中から尊皇の志士を匿う日柳燕石なども現れます。尊皇の志士を匿ったのが無法者の博徒の親分というのが、いかにも金毘羅らしいと私には思えます。「中世西洋の都市は、農奴を自由にする」と云われましたが、金毘羅も自由都市として、様々な人々を受入続けていた気配を感じます。これを史料的にもう少し裏付けていこうと思います。
  近世の寺社参りは参拝と精進落としがセットでした。
伊勢も金毘羅もお参りの後には、盛大に精進落としをやっていることは以前にお話ししました。その舞台となったのが、金山寺町です。
金山寺夜景の図 客引き
「金山寺町夜景之図」(讃岐国名勝図会) 遊女による客引きが描かれている

この町の夜の賑わいは「讃岐国名勝図絵」に「金山寺町夜景之図」として描かれています。この絵からは、内町の南一帯につながる歓楽街として金山寺町が栄えたことがよく分かります。一方で、金山寺町には外から流入して借家くらしをしていた人達がいたようです。

幕末の金毘羅門前町略図
           19世紀の金毘羅門前町 金山寺町は芝居小屋周辺
内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
内町の裏通りが金山寺町 そこに芝居小屋が見える (讃岐国名勝図会)

「多聞院日記(正徳5(1715)五来年之部)」には、次のように記されています。
十月三日
金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日
一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
意訳変換しておくと
十月三日
一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた

ここでは、火事跡に小屋掛けして住んでいた借家人さつと家主のトラブルが記されています。さつは、「親子3人暮らし」のようです。若い頃に遊女か奉公人として務め、その後は金山寺町で借家暮らしをしていたと想像しておきます。もう少し詳しく金山寺町の住人達のことを知ることができる情報源があります。それはこの町の宗旨人別帳です。それを一覧表化したものが「町史ことひら 近世156P 金山寺町の人々」に載せられています。
金毘羅金山寺町借家人数と宗派別
金毘羅金山寺町の宗派別借家人数

上の表は明治2年(1869)の「金山寺町借家人別宗門御改下帳」より借家人の竃(かまど=世帯)数と人数を示したものです。ここからは、次のような情報が読み取れます。
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと
②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと
③男性よりも女性が多いこと
④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
上の④の「金山寺町の住人の4割は借家暮らし」+②「借家数59に対し、檀那寺40」という情報からは、借家人の多くが他所から移り住んできた人達であったのではないかという推測ができます。つまり、金毘羅への人口流入性が高かったことがうかがえます。

  下表は、人別帳に記載された金山寺町全体の職業構成を示したものです。

金毘羅金山寺町職業構成

一番上に「商人 78人」と記されていますが、その具体的商売は分かりません。この中に茶屋(37軒)なども含まれていたはずです。上段の商人欄をみると、紺屋・按摩・米屋・麦屋・豆腐屋と食料品を中心に生活用品を扱う商人がいます。その中には、商人日雇い7人がいることを押さえておきます。
 職人欄を見ると、諸職人手伝11名を初め、大工8名の外、樽屋・髪結・佐宮・油氏などのさまざまな職人がいます。そして、ここにも「日雇16人」とあります。商人欄の「日雇7人」と合わせると23人(約17%)が「日雇生活者」であったことになります。ここからは、周囲の村々から流れ込んできた人々が、日雇いなどで日銭を稼ぎながら、借家人として金山寺町で生活している姿が見えてきます。この時期は、金毘羅大権現の金堂(旭社)の工事が進んでいて、好景気に沸く時期だったようです。「大工職人8・左官2人」なども、全国を渡り歩く職人だったかもしれません。
また、天保5(1835)年3月23日の「多聞院日記」には、次のように記します。

「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
 
意訳変換しておくと
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」

  ここからは筑後久留米の医師が金毘羅にやってきて長逗留して治療活動を始めて、遊女と馴染みになり、問題を起こしたので追放したことが記されています。職人や廻国の修験者以外にも、医師などもやってきています。流亡者となったものにとっては、「自由都市 金毘羅」は入り込みやすい所だったとしておきます。

次表は、宗旨人別帳に記載された金山寺町の一家の家族数を示したものです。

金毘羅金山寺町家族人数別軒数

ここからは次のような情報が読み取れます。
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。
②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順
③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
①からは、家族数が少ない核家族的な構成で、町場の特徴が現れています。ここにも外部からの流入者が一人暮らしや、夫婦となって二人暮らしで生活していたことがうかがえます。
19世紀前半の天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。

金山寺町火災図 天保9年3
19世紀初めの金山寺町 芝居小屋や富くじ小屋周辺図 細長い長屋も見える ●は茶屋

この芝居小屋は富くじの開札場も兼ね備えていました。「茶屋 + 富くじ + 芝居」といった三大遊所が揃った金山寺町は、ますます賑わうようになります。かつて市が開かれたときに小屋掛けされていた野原には、家並みが建ち並び歓楽街へと成長して行ったのです。こうした中で、金光院当局は次のように「遊女への寛大化政策」へと舵をとります。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可
天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
これが周辺の村々との葛藤を引き起こすことになります。
天保5(1834)8月14日の「多聞院日記」は次のように記します。
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」

意訳変換しておくと

「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
 
このように近隣の村や延宝からやってきた者が、金毘羅の酌取女とのトラブルに巻き込まれるケースも少なくなかったようでです。

金毘羅遊女の変遷

天保13年(1842)には天領三ヶ村を中心とした騒動が、多聞院日記に次のように記されています。
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、

  その時に長谷川喜平次は金毘羅町方手代にむかって次のように云っています。

「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」

意訳変換しておくと

「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。

「御料所一統之所、精々被押可申心得」というところに長谷川喜平次など近隣村々の上層部の本音が見えてきます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換して、騒動は決着をみています。
注目しておきたいのは、この騒動が周辺農民からの「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多い」という村人の現状認識から起きていることです。「金毘羅の金堂新築 + 周辺の石造物設置 + 讃岐精糖の隆盛」は幕末のバブル経済につながっていく動きを加速させます。そのような中で、金毘羅は歓楽の町としても周辺からの人々を呼び寄せる引力を強めます。その結果、周辺部の村々だけでなく人口流入が加速化したことが考えられます。それが髙松藩の岸の上・七ヶ村への移住者募集につながっているとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  尾池薫陵が京都遊学で学んだものは何だったのでしょうか? 今回は、このテーマを「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」をテキストにして見ていくことにします。
薫陵が京都遊学で学んだものを知る手がかりは、彼が残した医学書の写本です。僧侶が経典を写経することが修行のひとつであったように、当時の医学生は、自分の学ぶ医書を書写していました。そのため薫陵がのこした医学書の写本をみれば、彼が興味を持っていた医学分野見えてきます。それらを並べて見ると次のようになります。
①師の後藤一『一隅』・艮山医学の要点をまとめたもので、「医原(養庵先生遺教)」「艾炙」「泉浴」「肉養」「薬療」
②宝暦7年(1757)、加藤暢庵録の後藤艮山の遺著を筆写
5月18日に『師説筆記』136条
10月10日に『病因考』2巻
10月16日に『(先生手定)薬能』『薬能附録』の筆写終了
 ここからは、薫陵が修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学で、古方系処方と灸治を併用した独特な古方医学であったことがうかがえます。
18世紀の医学界の動きを、研究者は次のように考えています。
①京都など西国の医家の多くは、古方派の医学理論と処方学を基盤にしていた。
②それを基盤に、それぞれ専門科目の医術を付け加えていた
③新たに付け加えられて専門科目とは、1800年頃には荻野元凱の腹診術、華岡流外科、池田流治痘術などで、
④1830年頃になると賀川流産科術、小石元俊らの蘭方であった。
⑤古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
⑥こうした学び方が、「漢蘭折衷」と言われる医学の普通に見られるスタイルであった
そのような医学界の動きの中で、讃岐の尾池家はどのような対応をしていたのでしょうか?
それも残された資料からうかがうことができるようです。結論から言うと「漢方から漢蘭折衷へ」の移行が見えてくると研究者は指摘します。
尾池家の場合は、次のような傾向があります。
①医業を創始した立誠が京都で後藤艮山に学んでいること。
②その後継者たちが長く後藤艮山流をベースにした医学・医療を行ていたこと。
③尾池薫陵の養子となった桐陽が後藤艮山の外孫であるともされ、京都の古方派諸家と長年にわたって結びつきが深かったこと。
こうした中で従来の後世方医学に代わって新たに古方医学がどのように京都の医学界で台頭してきたのか、それが瀬戸内地域にどのように伝播していったかを知る貴重な史料だと研究者は考えています。

 この頃の京都医学界では新思潮が勃興していたようです。
そのため薫陵は、5年間で学んだ成果にすぐに満足できなくなります。遊学を終えて帰郷した翌年の宝暦9年(1759)7月に、薫陵は京都に再遊しています。この時の京都滞在は30日程度でしたが、その成果を大野原に戻ってから立誠門の先輩である備中総社の赤木簡に宛てて次のような長文の書簡にしたためています。
②尾池薫陵書簡―宝暦9年(1759)10月12日、赤木要蔵宛―(赤木制二氏所蔵)
赤木要蔵様   常
(前略)
御聞及被下候通、小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京仕、古方家先生方へ相見、疑問仕候而得鴻益、大悦御察可被下候。山脇・吉益・松原三家とも豪傑ノ先生ニ而、各所長御座候。傷風寒治療、山脇ハ承気湯類ニ長シ、松原ハ真附・四逆・附子湯ニ長シ候様ニ相見へ申候。何分、三家中ニ而ハ山脇先生術ニ長シ申候様ニ相見へ申候。専ラ艮山先生称シ、古方ノ今日ニ弘リ候も全ク後藤先生輙被レ藉レ口申候。依之、小生義束脩之力也ト、動仕入門仕候。京都ニも三十日斗留滞仕候。晝夜とも山脇家へ相通イ、其暇ニ吉益・松原へ相通、論説とも承申候。扨々面白敷義ニ御座候。傷寒論讀方とも違イ申候義とも御座候。見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難行ハ、術ノコトニ御座候。(後略)
    意訳変換しておくと
お聞きおよびの通り、小生には大望があます。ついては、私は初秋に上京し、古方医学の先生方をお訪ねして、かねより疑問に思っていたところを問い、それに親しく答えていただきました。山脇・吉益・松原三家とも豪傑の方々で、それぞれに長所をお持ちです。傷風寒の治療に関しても、山脇先生は承気湯類に詳しく、松原先生は真附・四逆・附子湯に長じているように思えました。その三家中では山脇先生に一日の長があるように見えます。山脇先生は後藤艮山先生を尊師として仰ぎ、古方医学の今日の隆盛も後藤先生のお陰手であると云います。これを聞いて、小生もその下で学びたいと思い入門いたしました。
 京都には三十日ばかり滞在しました。昼夜なく山脇家へ通い、その間にも吉益・松原先生方も訪ね、お話しをうかがうことができました。その話の内容は、私にとっては興味深いものでした。傷寒論の読み方(解釈)もそれぞれが異なります。
冒頭の「小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京」という言葉が、薫陵の強い修学意欲を伝えています。
この上京に時には薫陵は、山脇東洋(1706~62)・吉益東洞(1702~73)・松原一閑斎(1689~1765)らの古方派諸名医を歴訪して各人の医説の吸収に努めています。そして東洋・東洞・一閑斎をいずれ劣らぬ豪傑と評価して、各人について論評します。とりわけ山脇東洋が医術に長じ、また艮山流の古方医学に最も忠実である点に敬服して、7月18日に正式に入門します。一か月間、昼夜とも山脇塾に通学し、あいまに東洞と一閑斎にも音信を通じています。『傷寒論』の読み方にも三者三様の相違があることなどに強く興味を惹かれています。この書簡からは薫陵の興奮に満ちた修学状況が伝わってきます。
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山脇東洋

                  山脇東洋の『蔵志』
     この時に師事した山脇東洋は、禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行った人物で、その記録「親試実験」として公表します。彼は日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評され、古方派の五大家(後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞、松原一閑斎)のひとりに挙げられています。薫陵が京都に滞在したこの秋には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な両著が刊行されます。東洋の刑屍解剖による日本初の観臓は、薫陵が初めて京都遊学した同年同月の宝暦4年(1754)閏2月のことになります。その興奮が京都の医学界に拡がっていた中に薫陵はいたことになります。

 帰郷後の薫陵は、古方医学に基づく医術の実践に格闘しています。それを次のように記します。

「見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難キハレ 行ハ術ノコトニ御座候」
「宋後之書一向読ミ不申候様ニと受レ教ヲ申候。然とも先入為レ主候而、後世方用度所存萌シ出テコマリ申候。宋後之書ナキ世トアキラメ、古方書ノミニテ済シ申度コトニ御座候」

意訳変換しておくと
「見識については諸先生の力で見立てができても、帰郷に見立てに応じた治療方法をどうおこなうのかが難しいのです」
「中国の宋以後の医学書を読んで、教えを受けたことを伝えています。しかし、先の教えと、後世の教えに矛盾が出てきて困っています。宋以後の書はないものとしてして、古方書の教えだけを伝えるようになりました。」
   薫陵は大野原では塾生を抱える立場でした。そのために治療だけでなく、門人に医学を教えなければなりません。「教えることは学ぶこと」で、自分も講義用のノートなどを作っておく必要があったかもしれません。そのような中で、何を教え、何を教えないかの取捨選択に悩んでいたことがうかがえます。ここからは古方医学の斬新さと薫陵が置かれていた模索状態をよく伝えています。
 山脇塾では「吐方」という新しい治療法も学んでいましたが、副作用が強くなかなか実行できなかったようです。書簡の追伸に述べられている処方と生薬に関する記述も、薫陵が吸収に努めた新知識の多さを示していると研究者は評します。
 こうした薫陵の研鑚はすぐに近隣の評判となり、この年から薫陵への入門者が増加します。それを次のように記します。
当夏より隣村及ヒ金毘羅より門人両生石川林之介、三木市太郎投塾、御存之通ノ矮屋、恰如有舟中、紛々罷在候。依之小屋相構申候而、屋敷北ノ方へ結構仕候。二間四間余。大方成就仕候。自今以後、御渡海も被成候ハヽ、御投宿被成候ニも可然ヤトハ御噂申事ニ御座候。当秋より門前観音堂ニ而三 八ノ夜、論語開講仕候処、近隣風靡、聴衆も大勢有之、悦申候。何トソ打續ケかしと所祈御座候。傷寒論も不絶讀申候而、此間より金匱要畧讀申候。上京之節、後藤・香川両家へも相尋申候。両家とも無異事、後藤家繁昌之體ニ相見へ、門生も七人投塾罷在候。香川家も不相替候。
 
意訳変換しておくと
この夏から隣村や金毘羅から門人の石川林之介、三木市太郎が塾生となり、通ってくるようになりました。わが家はご存じの通り、小さな家などで手狭で、まるで舟中にいるがような狭さです。そこで、屋敷の北方へ二間四間の離れを増築しました。今後は、わが家に投宿したときには、お使いいただきたいと思います。
 この秋から門前観音堂で、3日と8日の夜に、論語の購読を開講しました。それが近隣の噂となり、多くの人々がやって来るようになり喜んでいます。これが続いていくことを願っています。傷寒論も何度も読み返し、行間からさまざまなことを学んでいます。上京の節には、後藤・香川両家へも伺いました。両家とも繁昌のようすで、門生も七人抱えています。香川家も変わりありません。

ここからは、塾生を迎えて塾舎を新築していたことが分かります。
また門前の観音堂を会場にして3・8日の夜に『論語』の講義を始めたところ、近郷近在から聴衆が詰めかけます。医者が在村知識人として、社会教育的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 記録からは薫陵への入門者は、宝暦9年から明和6年(1759~69)までの間に26人を数えるようです。また明和6~8年(1769~71)には、備中惣社の赤木家7代の浚が大野原に遊学しています。その時に浚が筆写した本に、尾池立誠『傷寒論聴書』、尾池薫陵『経穴摘要』、香川修庵『一本堂行餘医言』等が残っていて、尾池塾における基本的な修学内容がうかがえます。
 薫陵の研鑚の原動力のひとつに、隣村の和田浜の合田求吾の存在があったようです。
 合田求吾(1723~73)は和田浜(観音寺豊浜町)で代々医を業とする家に生れます。
30才のころ京都に遊学し、さらに数年後江戸へ出ます。その際に、参勤交代で長崎から江戸に出て来たオランダ商館長に随行する商館医から和蘭の医療について話を聞く機会を得ます。その話の中に長崎の大通詞で蘭書が解読出来るばかりでなく、医療の経験ももっている吉雄耕牛が彼の家でオランダの医療について講釈してくれることを聞き知ります。これを聞いて、長崎への遊学を決意したようです。
  一旦讃岐に帰った求吾は宝暦12年(1762)になって長崎遊学を実行に移します。そして吉雄耕牛の家塾で毎日時間を決めて、内科を中心にオランダ医療について原書からの和訳を聞きとり、その内容を筆録する日課を続けます。それを二ヶ月半ほどの滞在中に、五冊の冊子にまとめてその第一冊の題目を「紅毛医言」とします。
紅毛医言 合田強

合田 強(通称:求吾  「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図
合田 強(通称:求吾 ) 「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図

 それまでオランダの医療は、外科ばかりと思われていたようです。そんな中で内科も秀でていることを伝えたことは、重要なことでした。しかし、残念ながらこの冊子は幕末に至るまで刊行されることはありませんでした。求吾の周囲、周辺で読まれるだけだったようです。
 オランダ内科の詳細が知られるようになったのは津山藩医の宇田川玄随(1755~94)の「西説内科撰要」(寛政五:1799年刊)以後のことなので、この「紅毛医言」が草稿として纒められたのは、その30年前のことになります。そして昭和初期に呉秀三氏よって、はじめて陽の目を見るようになったようです。合田家に所蔵されていた「紅毛医言」は、今は新設された香川県立歴史博物館(高松市)に寄託保管されているようです。

 「紅毛医言」が著された同時期に、尾池薫陵も古方医学の立場から新著『素霊正語』を著しています。薫陵は、その序文を合田求吾に求めています。求吾は長崎からの帰郷後、名医としてその名が人々の間に知られようになり、遠くからも病人が訪れるようになります。また、自身の知識を伝えようと大勢の弟子も受け入れています。
豊浜墓地公園の合田求吾の墓碑銘には次のように記されています。

和田浜(観音寺市豊浜町)の畏友合田求吾(1723~73)
合田求吾(1723~73)の墓碑(豊浜墓地公園)

「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」

このような合田求吾の姿を追いかけたのが、薫陵だったのかもしれません。ふたりの遊学状況と講学内容(共通点と相違点)からは、互いに切磋琢磨する姿が見えてきます。薫陵編の『諸家文集』には、求吾が諸家から送られた尺牘を多数収録しています。ここからも、両者の交流の深さと薫陵の求吾への関心の高さがうかがえます。
以上をまとめておきます。
①18世紀半ばの京都では、各派は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学ぶ「漢蘭折衷」だった。
②薫陵が5年間の京都遊学で修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学だった
は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
③薫陵が遊学を終えた頃には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な医書が刊行された。
④大野原に帰郷しても豊浜の合田求吾に刺激されて、薫陵の探究心や向上心は衰えなかった。
⑤門下生を受けいれる一方で、地域では論語購読を行うなど社会教育にも貢献した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」

 江戸時代に讃岐三豊で医業を営んだ尾池家は、丸亀藩医となった尾池薫陵やその養嗣子で漢詩人として知られた尾池桐陽などを輩出しています。また独自の尾池流針灸術の一派を形成したことでも知られています。その縁戚の中澤家(香川県三豊市詫間)には、尾池家の蔵書や文書が数多く残されているようです。今回は、その史料を見ていくことにします。テキストは「町泉寿郎(二松学舎大学 文学部)  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)」です。
                                                                                        
  まず『尾池氏系譜』を「年表化」して、尾池家の歴史を見ておくことにします。
①室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変(1565)に没したとき、懐妊中であった烏丸大納言の女が讃岐に難を逃れ、誕生した義輝の遺子義辰は讃岐の土豪尾池氏に身を寄せ、尾池姓を名乗ったところから始まる。
②尾池氏は讃岐領主となった生駒氏に仕えたが、1640年に生駒騒動により生駒氏は城地没収。
③その時に義辰とその子息たちは浪人となり各地に離散。義辰(通称玄蕃:別号道鑑)は88歳(1566~1653)で没した。
④義辰の子孫は、官兵衛義安(法号意安)→ 仁左衛門(1616~88、法号覚窓休意)→森重(1655~1739) → 久米田久馬衛門、法号遊方思誠)と継承
⑤森重の代に、大野原(現観音寺市大野原)に住みついた。
森重の子が医業を興した立誠(1704~71)で、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学び、加藤暢庵・足立栄庵らと並ぶ艮山門の高弟に数えられた
⑦立誠は、讃岐に帰郷して大野原に開業する傍ら、艮山流古方医学を講じ、讃岐だけにとどまらず瀬戸内各地から遊学する者が多く訪れた。
⑧立誠は四男四女をもうけたが、長男・二男が早く亡くなったため、門人谷口氏を養子とし、二女楚美を娶わせた。
⑨立誠の著書には『医方志『耻斎暇録』『恭庵先生口授』『恭庵先生雑記』等がある。
⑩大野原の菩提寺慈雲寺にある墓碑は、大坂の儒者三宅春楼(艮山と交流のあった三宅石庵の男で
懐徳堂の教授)が撰文
⑪薫陵(1733~84)は、祖父を谷口正忠、父は正直で、16歳(1748)で立誠に入門。
⑫才能を見込まれて21歳(1753)で尾池家の養子となり、京都に5年間遊学(1754~59)し、尾池家を継承。
⑭帰讃後は、邸内に医学塾寿世館を営み、学びに来る者が多かった。
⑮49歳(1781)で丸亀藩主京極高中から侍医として召し出され、丸亀城下に移った。
⑯薫陵の著書に『経穴摘要』『古今医変』『素霊正語(素霊八十一難正語)』『試考方』『古今要方』『痘疹証治考』『脚気論』『医方便蒙』『薫陵方録』『薫陵雑記』『薫陵子』『大原雑記』等がある。
⑰丸亀の菩提寺宗泉寺にある薫陵の墓碑は後藤敏(別号慕庵、艮山の二男椿庵の庶子)の撰文
⑱薫陵が丸亀城下に別家を建てたのち、大野原の尾池家は立誠の三男義永(1747~1810)が継承した。
⑲義永の後、義質(?~1837、号思誠) → 平助泰治(?~1863) → 平太郎泰良(1838~94)と代々医業を継承。
⑳義雄(1879~1941、ジャーナリスト、青島新聞主幹)は、義質の長兄允は尾藤二洲に学んで儒者となり、江戸で講学した。
㉑薫陵が立てた丸亀藩医尾池家は、その門人村岡済美(1765~1834)が薫陵の二女を娶って継承した。
㉒済美の父は丸亀藩士村岡宗四郎景福で、母は村岡藤兵衛勅清の長女で、『尾池氏系譜』に済美を後藤艮山の孫とする。ここからは宗四郎景福は、艮山の血縁者とも推定される。
㉓済美は大坂の中井竹山や京都の皆川淇園に学び、菅茶山・頼山陽・篠崎小竹らとも詩文の交流があった。著書に『桐陽詩鈔』等がある。
㉔済美の長男静処(1787~1850)は、丸亀藩医を継承し『傷寒論講義』『静処方函』『治痘筆記』等の医書を残しています。
㉕静処の弟松湾(1790~1867)は、菅茶山に学び、父桐陽の文才を継いで詩文によって知られた。編著書に『梅隠詩稿』『梅隠舎畳韻詩稿』『蠧餘吟巻』『松湾漁唱』『穀似集(巻1桐陽著、巻2静処著、巻3松湾著)』『晩翠社詩稿』、(京極高朗著)『琴峰詩集』等がある。松

最初の①には、室町幕府の将軍義輝の遺子義辰が讃岐の尾池家の姓を名乗ったとあります。
この話は、どこかで聞いたことがあります。以前にお話しした生駒藩重臣の尾池玄蕃の生い立ちについて、「三百藩家臣人名事典 第七巻」には次のように記します。

永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。

この話と一緒です。ここからは、尾池玄蕃につながる系譜を持っていたことが分かります。後で見る史料にも次のように記します。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。
一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
ここでは、尾池家では尾池玄蕃と祖先を同じくするとされていたことを押さえておきます。その後、生駒家にリクルートしますが、生駒騒動で禄を失い一家離散となったようです。その子孫が三豊の大野原に定住するようになるのが⑤⑥にあるように、17世紀後半のことです。大野原の開発が進められていた時期になります。そして、立誠(1704~71)の時に医師として開業します。立誠は、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学んだ後に、讃岐に帰郷して大野原に開業したようです。艮山流古方医学を講じ、他国からの遊学者も数多く受けいれています。その後、⑪⑫にあるように薫陵が谷口家から尾池家の養子となったのは宝暦3年(1753)、21歳の時です。
その経過を白井要の『讃岐医師名鑑』(1938 刊)は次のように記します。

尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。

養子として尾池家を嗣ぐことになった薫陵は京都遊学します。その際のことを『筆記』と題された日記に次のように記します。
①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)
一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)
一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足

  ここまでを意訳変換しておくと
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)
一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。
10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。
11日 岡山で一宿。
12日 三ツ石で一宿。
13日 姫路に一宿。
14日 明石ニ一宿。
15日 西宮一宿
16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。
19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。
27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。
28日 平田氏が江戸へ出発。
私が興味があるのは、瀬戸内海を行き交う船の便で、それを当時の人々がどのように利用していたかです。
尾池家の養子となった9か月後、宝暦4年(1754)閏2月9日に薫陵は京都遊学に出発します。その際の経路が記されているので見ておきましょう。伊予街道を東に向かい金毘羅宮に祈願し、丸亀から乗船しています。船で下津井に渡り、岡山、三石、姫路、明石、西宮で宿泊しながら、16日に大坂に達し、19日に淀川を上る川船で京都に到着しています。どこにも寄り道せずに、一直線に京都を目指しています。京都まで10日の旅程です。ここで注意しておきたいのは、丸亀=大阪の金比羅船の直行便を利用していないことです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々
大坂と丸亀の船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していたことは以前にお話ししました。金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。そのため冬期は丸亀ー下津井ルートが選ばれたようです。海路ではなく陸路・山陽道を利用していることを押さえておきます。
京都到着後、すぐの2月27日に香川修庵に入門しています。
そして、艮山の子孫が運営する中立売室町の後藤塾に寄宿したようです。艮山の四子のうち医者として名前が知られていたのは、二男椿庵(1697~1738、名省、字身之、通称仲介)と四男一(名督、通称季介・左一郎)でした。このうち椿庵はすでに亡くなっていたので、薫陵が師事したのは一でした。薫陵が後藤一のもとでの修学したことを、薫陵は「在京之日、後藤一先生賜焉」と記します。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。
一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。
一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。
一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。
拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。
一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。
一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。
一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。
一亥正月十  紫宸殿拝見
一同十七日  舞御覧拝見
一同廿三日  知恩院方丈拝見
一二月五日  今熊野霊山へ見物
一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。
同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。
十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。
一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
意訳変換しておくと
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。
一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。
一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。
一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。
一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。
一9月25日、南禅寺の方丈拝見。
一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。
  宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見
一同 17日 舞御覧拝見
一同 23日 知恩院方丈拝見
一2月 5日 今熊野霊山へ見物
一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。
同  14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。
   24日 御帰宅、同25葬送。
一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。

 後藤塾での生活が始まって1ヶ月も経たない3月11日に薫陵は病気になります。
一時はかなり重病で、心配した後藤家の家人が国元に手紙を出すほどだったようです。4月末には、病状回復しますが、静養のためか一旦帰郷して再起を期すことになったようです。6月28日に京都を発し7月5日に帰郷しています。この時の経路については何も記しません。最速で、京都・三豊間が一週間前後で往来できたようです。讃岐で2週間ほど静養し、7月18日に、今度は和田浜より乗船し明石に上陸して、23日大坂到着。28日に京都に戻っています。この時期には、和田浜と大阪を結ぶ廻船が頻繁にあったことは以前にお話ししました。
 体調の回復した薫陵は、毎月京都とその近郊の名所見物に出かけるなど、遊学生活を十分に楽しんでいます。そんな中で師事した香川修庵が、宝暦5年(1755)2月7日に播磨国姫路での病気療養に出かけ、逝去します。73歳のことでした。翌日、薫陵は同門の熊谷良次とともに丹波亀山まで師の遺体を出迎え、修庵の遺体と共に京都に戻り、25日に葬儀が営まれます。結局、師を失った修庵への従学期間は、1年に満たずして終わってしまいます。
 3月には尾池の養母が急病という連絡が入り、14日に一旦帰郷します。国元の岐阜から一旦帰国するように義父から命じられたのかも知れません。しかし、4ヶ月の滞在で、7月には3度目の上京を果たしています。その時の上京のようすを見ておきましょう。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。
十四日朝、大坂へ着。
十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。
十八日八幡へ寄、同日晩方京着。
七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷
見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
同廿八日、嵯峨へ先生墓参。
八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨
八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。
同十三日、嵯峨墓参。
同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。
廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。
廿七日、石山遊行而返ル
八月廿二日、要門様御上京。
九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。
同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、
直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。
十月四日、歌中山清眼寺へ行。
同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺
南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢
候。
十月十五日、義空師關東へ下向。
同十九日、菊御能拝見。
同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。
同廿六日、御入内。
同廿八日、御上使御着。
十二月四日、御参内。
同七日、 兵馬子帰郷。
同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。
二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。
四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。
戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音
寺浮田氏へ着、滞留。
同九日、丸亀より乗船、帰郷
意訳変換しておくと
 7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。
翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。
  14日朝、大坂着。
  17日に大坂出立、渚で一宿。
  18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。
7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
  28日、嵯峨へ香川先生の墓参。
8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨
8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。
  13日、嵯峨墓参。(香川先生)
  24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)
  26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。
  27日、石山遊行。
8月22日、要門様御上京。
 9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。
  27日、義空師が上京。
  29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。
10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。
   6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。
10月15日、義空師關東へ下向。
   19日、菊御能拝見。
   21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。
   26日、御入内。
   28日、御上使御着。
12月 4日、御参内。
    7日、兵馬子が帰郷。
    8日、御上使御發足。
  宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。
  2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。
 4月19日、入湯(温泉治療)に出立。
 6月19日、温泉治療から帰宅。
戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。
    9日、丸亀より乗船、帰郷
 ①には、7月6日に三豊を出発して、津田の松原を眺めて白鳥神社に参拝し、同門の香川家門人宅に泊まったと記します。門人が各地に散在していて、その家を訪ねて宿としています。幕末の志士たちが各地の尊皇の有力者を訪ね歩いて、情報交換や人脈作りを行ったように、医者達も「全国漫遊の医学修行」的なことをやっています。小豆島の高名な医者のもとには、全国から医者がやってきて何日も泊まり込んでいます。それを接待するのも「名医」の条件だったようです。江戸時代の医者は「旅する医者」で、名医と云われるほど各地を漫遊していることを押さえておきます。そして、彼らは漢文などの素養が深い知識人でもあり、詩人でもありました。訪れたところで、漢詩などが残しています。若き日の薫陵も「旅する医者」のひとりであったようです。

金毘羅航海図 加太撫養1
「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」
 白鳥神社参拝後は、引田港からの便船に乗ったことが考えられますが、はっきりとは書かれていません。引田港は古代・中世から鳴門海峡の潮待ち港として、戦略的にも重要な拠点でした。秀吉に讃岐を任された生駒親正が最初に城下町を築いたのも引田でした。引田と紀伊や大坂方面は、海路で結ばれていました。その船便を利用したことが考えられます。

『筆記』は、その後も宝暦6年(1756)2月頃まで、京都周辺の名所見物の記事が続きます。
しかし、その後は遊学生活にも慣れたのか記事そのものが少なくなります。そして宝暦8年(1758)2月帰郷したようです。ここで気になるのが「9日、丸亀より乗船、帰郷」とあるこです。その前に、丸亀には帰ってきて「滞留」しています。そうだとすると丸亀から船に乗って、庄内半島めぐりで三豊に帰ってきたことになります。急いでなければ、財布にゆとりのある人は金毘羅街道を歩かずに、船で丸亀と三豊を行き来していたことがうかがえます。
こうして尾池薫陵は、3度の帰郷を挟んで足掛け5年に及ぶ京都遊学を終えることになります。そういえば尾池家で医業を興した立誠の京都遊学も五年間でした。義父との間に、遊学期間についても話し合われていたのかもしれまん。それでは、薫陵が京都遊学で学んだものは、なんだったのでしょうか? それはまたの機会に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 町泉寿郎  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考―讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)
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津田古墳群周辺図1
津田古墳群
今回見ていくのは岩崎山4号墳です。この古墳は、前方部を東側の平野側に向けます。北に龍王山古墳、南東にうのべ山古墳、けぼ山古墳、一つ山古墳のある鵜部半島、南西には今は消滅した奥3号墳に囲まれた位置にあります。周辺古墳との関係を押さえておきます。
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群変遷表
岩崎4号墳は羽山エリア勢力が最後に造った前方後円墳で、富田茶臼山以前には最も大きいものになるようです。また築造時期は、鶴羽エリアのけぼ古墳と同時代か、少し先行する時期の古墳になるようです。そして、次の時代には富田茶臼山へと一気にジャンプアップしていきます。

津田古墳群変遷3

先行する前方後円墳と、富田茶臼山古墳への橋渡し的な役割が見られるのが岩崎山4号墳や前回見たけぼ山古墳になるようです。今回は岩崎山4号墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

岩崎山古墳群 津田古墳群

岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。

岩崎山4号墳4

まず、岩崎山4号墳の先行研究を見ておきましょう。
岩崎山4号墳は文化6年(1809)に発見され、刳抜型石棺と人骨、鏡、壺、勾玉が確認されています。当時の状況は文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』に記されています。それによると、出土した遺物は村人が恐れて再び埋められたこと、その中で鏡は埋めもどされずに髙松藩の役人が持ち帰ったことを記します。
 明治30年(1897)頃に、松岡調が著した『新撰讃岐国風土記』には、次のように記します。
①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること
②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと
③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること
④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
明治6年の発掘について、大正5年(1916)に長町彰氏は発掘に携わった古老に聞き取りを実施しています。その中に、49個体の方形埴輪列は底のない甕形であったと述べています。
昭和2年(1927)に岩崎山1号墳が発見された時に、4号墳も発掘されます。
出土した人骨、管玉22、小工30、車輪石1、石釧2、貝釧3、埴輪片、朱は昭和5年(1930)『史蹟名勝天然記念物報告書 第5冊』に記載され、現在遺物は東京国立博物館に移管。
昭和26年調査報告書には、この時他に鍬形石1、石釧3、硬玉製丁字頭勾玉1、管玉7~8があったが海中に捨てたと記す。
昭和4年(1929)は、墳丘南側で円筒埴輪列を確認。発掘された埴輪は坂出市鎌田共済会郷土博物館に保管。
昭和26年(1951)、京都大学梅原末治氏による学術調査が実施。
ここで初めて墳丘規模、埋葬施設、刳抜型石棺石棺の様子が明らかになります。遺物は棺内に残っていませんでした。しかし、石室の上からもともとは棺内にあったと思われる勾玉2、管王、小玉、石釧2が見つかります。また、棺外から鏡や鉄製品が出てきます。この時の遺物は、さぬき市歴史民俗資料館に保存されています。
平成12年(2000)2月、後円部南西部に携帯無線基地局の建設が予定され、試掘確認調査実施。しかし、古墳関連の遺構は出てこなかったようです。現在、このときの試掘箇所には畑が造成されています。ここからは墳丘傾斜面と葺石が確認され、墳丘の一部が畑によって破壊されていたことが分かっています。
岩崎山4号墳 円筒埴輪 津田古墳群
         岩崎山4号墳の円筒埴輪

トレンチ調査では崩落した葺石に混じって多量の埴輪片が出てきました。
その多くが円筒埴輪片です。円筒埴輪が墳丘を囲続していたと研究者は考えています。形象埴輪はこれまでの採集遺物や今回の調査において小片が確認されています。墳頂部には形象埴輪が並んでいたことが考えられます。葺石に混ざって、古代末期の土師器皿が数点見つかっています。これは古墳が後世に宗教儀式の場として再利用・改変させられていたことを推測させます。

津田古墳群円筒埴輪の変遷
津田古墳群の円筒埴輪変遷

岩崎山4号分の墳形の特徴は

岩崎山4号墳7
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形
②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ
③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる
④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲
⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。
⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。

埋葬施設
①後円頂部は埋葬施設の凝灰岩製天丼石2枚を縦に重ね、その上に祠を安置
②赤山古墳、けぼ山古墳に見られるような小礫の墳頂部への散布はない。
③4枚の天丼石のほぼ中間に位置し、埋葬施設は墳丘の中心に位置する

津田湾岩崎山4号墳石棺
         岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
副葬品で保管されているものは、次の通りです。
昭和2年 (1927)の出土品は東京国立博物館保管、
管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

津田湾岩崎山4号墳石棺3
     昭和26年(1951)の出土品(さぬき市歴史民俗資料館)
以上を整理要約しておきます。
岩崎山4号墳は全長61、8mで、津田古墳群の中では最も規模の大きい古墳になります。また、以下の点が畿内的な特徴だと研究者は指摘します。
①埋葬施設が南北方向を向いていること
②多量の副葬品が見られること
さらに次のような特徴を指摘します。
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。
④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。
⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。
⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。
⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。
⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと
⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと

以上から築造年代については⑧の大量に出てきた円筒埴輪の情報から次のように推察します。
①口縁部の突帯から外反して55㎝ほどで突端に至る埴輪は、快天山古墳円筒埴輪がある。
②快天山古墳円筒埴輪と比較すると、岩崎山4号墳の方が若干古い。
③津田古墳群内では龍王古墳・けぼ山古墳の円筒埴輪よりは古い。
④赤山古墳埴輪とは類似点が多く、同時代。
以上から次のような築造順を研究者は考えています。
岩崎山4号墳 ⇒龍王山古墳・けぼ山古墳
葺石、埴輪の形態からは讃岐色の強い在地性よりも、畿内色が強くなっていることが分かります。
  岩崎山4号墳は先行研究では、「畿内から派遣された瀬戸内海南航路の拠点防衛の首長墓」とされてきました。その説と矛盾はせず、それを裏付けられ結果となっているようです。

   津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」

    
津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
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津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

以前に「岩崎山第4号古墳発掘調査報告書2002年 津田町教育委員会」にもとづく津田古墳群の性格について読書メモをアップしておきました。それから約10年後に「津田古墳群調査報告書」が出されています。これは周辺の古墳群をほぼ網羅的に調査したもので、その中で見つかった新たな発見がいくつも紹介されています。津田古墳群の見方がどのように変化したのかに焦点を当てながら見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
東讃地区の古墳編年表
讃岐東部の古墳変遷表
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群の変遷表
前回に示されていた古墳編年表です。ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
なお鶴羽エリアの築造順は、次の通りです 

うのべ山(鵜部)古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳(円墳) → けぼ山古墳


一つ山古墳が円墳ですが首長墓として認められるようになっていることを押さえておきます。それでは今回の調査で新たに明らかになったことを見ていくことにします。まず第1は、1期に先立つ初期モデルがうのべ(鵜部)山古墳とされたことです。
津田古墳群首長墓一覧
津田古墳群の首長墓一覧

最初に津田古墳群の総体的な変遷を見ておきましょう。

津田古墳群周辺図1
津田古墳群
①臨海域では、初期モデルとして「うのべ山古墳」が出現
②少し時期をおいて「赤山古墳 → 岩崎山4号墳 → けぼ山古墳」と築造が続く。
③円墳の「一つ山古墳、龍王山古墳」も前方後円墳の後円部直径に匹敵することから首長墓の一つ
④「野牛古墳、泉聖天古墳、岩崎山2・5・6号墳、吉見弁天山古墳、中峠古墳」は小規模古墳で、階層的に首長墓の1ランク下の位置付け。
⑤臨海エリアでは、中期初頭(4期)の岩崎山1号墳を最後に古墳が築造されなくなる。
⑥それ以降は古墳時代後期の宮奥古墳だけで、臨海域の古墳は築造時期が古墳前期に集中する。
内陸エリアの前期古墳を見ておきましょう。、
①川東古墳、古枝古墳、奥3・13・14号墳が前期の前方後円墳。
②その中には、奥2号墳のように円墳が含まれる。
③川東古墳は相地峠と津田川の支流土井川に比較的近い場所に、古枝古墳は津田川沿い、奥3・13・14号墳は津田川から雨滝山を山越えする連絡路沿いに立地し、臨海域と内陸域を結ぶ要衝に立地する。
④内陸エリアでも、前期後半になると前方後円墳が造られなくなる。
⑤そして登場するのが中期初頭の四国最大規模の前方後円墳・富田茶臼山古墳。
⑥富田茶臼山古墳の後には、前方後円墳そのものが姿を消し、大井七つ塚古墳群や石田神社古墳群のような群集円墳が造られるようになる。

この背景を研究者は次のように解釈します。
①弥生時代後期から古墳を造り続けた雨滝山西部から南部にかけての地域は、前期中頃には前方後円墳が築造できなくなったこと。
②中期になると北西の寺尾山(寺尾古墳群)や南束の大井地区(大井七つ塚古墳群、落合古墳群)へと指導権が移行したこと
③後期になると横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳が出現するが、この時期に再び雨滝山に古墳が確認されるようになる(奥15号墳)
④この段階の古墳の分布として、平砕古墳群、一の瀬古墳群、八剣古墳群、柴谷古墳群と各地に群集墳が展開
津田古墳群 うのべ山・けぼ
鵜部半島の古墳群

うなべ山古墳 津田古墳群
うのべ山古墳
それでは、津田古墳群で最初に登場するうのべ山古墳を見ておきましょう。
うのべ山古墳のは、今は鵜部半島の付け根辺りに位置しますが、地形復元すると古代にはこの半島は島であったようです。その島に初期の古墳が3つ連続して造られています。うのべ山古墳からは、広口壺が出てきます。これが弥生時代からのものなので、うのべ山古墳は出現期古墳に位置付けられることになります。また、類似した広口壺はさぬき市丸井古墳、稲荷山古墳等に見られ、香川県の独特の広口壼でもあるようです。
うのべ古墳 津田湾古墳群の初期モデル

報告書は、うのべ古墳の特徴を次のように指摘します。
①広口壺の出土から築造年代は、古墳時前期初頭の出現期古墳であること
②香川県内でも最古級の古墳であり、津田古墳群の中で最初に築造された古墳
③墳丘が積石塚であり、讃岐の在地性が強い
④前方後円墳の墳形が四国北東部の古墳に多い讃岐型前方後円墳であること
⑤後円部から前方部中央を取り巻く外周段丘を有すること、
⑥全長37mは四国北東部の多く前方後円墳と、ほぼ同規模であること、
⑦弥生時代以来の伝統を受け継いだ広口壺を供献していること
これらの特徴から、この古墳が四国北東部の在地型古墳として造られていると研究者は判断します。ここでは、後の津田古墳群が畿内色が強まる中で、最初に造られたうのべ山古墳は讃岐色の強い古墳であったことを押さえておきます。

一方、うのべ山古墳の特殊性を研究者は次のように指摘します。
⑧標高9mという島の海辺に築造されていること
⑨積石塚としてのうのべ山古墳は海辺に立地し、安山岩の入手が困難だったために、海浜部を中心として様々な石材を使用している。
⑩海に隣接する低地への築造に海と密接に関わる津田古墳群の特徴が見て取れる。
赤山古墳1号石棺 津田碗古墳群

次に登場する赤山古墳を見ておきましょう。
赤山古墳は臨海エリアの津田町鶴羽から、富田の内陸エリアに抜ける相地峠の登口の道沿にあります。ここの道は近世には「馬道」と呼ばれており、物資輸送等に使用された古道でもあようです。現在この道は赤山古墳を取り囲むようにして津田湾へと下っていきます。この道が古墳時代にまで遡るかどうかは分かりませんが、赤山古墳は津田湾から富田方面への入口に当たる地点に築造された可能性が高いと研究者は考えています。
 赤山古墳は火山の北東の谷地に突出した標高23mの尾根上です。墳丘からは北に津田湾を一望でき、北東にはけぼ山古墳、うのべ山古墳、一つ山古墳のある鵜部山を望むことができます。墳形は前方部を南側(山側)に向けた前方後円墳です。過去の記録には全長50mとありますが、現在は後円部の一部を残すのみとなっているようです。ここには2基の刳抜式石棺が露出しています。
 赤山古墳が発見されたのは安政2年(1855)頃で開墾中の出来事です。
明治時代中期頃の松岡調氏の「新撰讃岐国風土記」は、次のように記します。

赤山古墳石棺 津田碗古墳群
赤山古墳の2つの石棺

石棺が発見され、そばから勾玉、壺、高杯等の土器が多数出土したとされます。石棺は3基が発見された。1基は凝灰岩の蓋石をもつ石槽の中から、2基は石棺単独で埋められていた、石棺発見後は祟りを恐れて元のように埋め、桜と火山にあった白羽明神を遷し祀った。

 大内空谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』(大正11年(1922)は、次のように記します。
1922年当時すでに畑などの開墾が行われ墳形が変形して、円墳と判断。
古墳の周囲の田畑からは採集された土器片については、「弥生式に祝部を混じ偶に刷毛目のあるものもあり祝部には内部に渦文の付せられたる土器把手も落ちて居る」
大内氏が紹介した3年後の10月10日に盗掘に遭います。
赤山古墳石棺2 津田碗古墳群
赤山古墳の石棺(津田古墳群)
盗掘翌年の大正15年(1926)の『大川郡誌」は次のように記します。
「前方後円墳で、開墾によって形状が大きく変化しているが瓢箪形をしている」
「前年の盗掘については、石棺(1号石棺)は孔を穿って盗掘され、石棺の中に遺物は残されていなかったが付近から管玉、ガラス玉12個を採集した。盗掘孔に緑青の破片が落ちていたことから銅製品があった可能性がある。小型の石棺(2号石棺)は蓋を開けて盗掘され、残された遺物として頭骸骨の破片、歯「(門歯4本、大歯1本、自歯2枚)、管玉11個、ガラス玉93個」があった」
報告書(2013年)の赤山古墳のまとめを要約しておきます。
①赤山古墳は全長45~51mの前方後円墳であること
②円筒埴輪は岩崎山4号墳円筒埴輪に極めて似ていて、同じ埴輪製作集団が作った可能性が高い
③岩崎山4号墳円筒埴輪のやや新しい特徴を備えた橙色弄統の円筒埴輪が赤山古墳円筒埴輪には見られない
④突帯がわずかに高いこと、形象埴輪を伴わないことから、やや赤山古墳円筒埴輪が時期的に先行する
⑤到抜式石棺からは1号石棺⇒2号石棺の時期的遺構が想定できる
⑥2号石棺は、一つ山古墳出土の刳抜式石棺に類似する。
⑦以上から、赤山古墳⇒一つ山古墳の築造順になる
⑧岩崎山4号墳の刳抜式石棺とは、形態差が大きく同じ系譜上にはない
⑨平面形が角の明瞭な長方形を呈する岩崎山4号刳抜型石棺に対して、一の山古墳刳抜式石棺は隅丸方形で、赤山古墳⇒岩崎山4号墳の順になる。
このように考えると津田湾の臨海域でうのべ山古墳の次が赤山古墳となり、その間に若干の時期差があるようです。

津田古墳群の刳抜型石棺の比較について

赤山古墳1号石棺2 津田碗古墳群
 赤山古墳1号石棺
津田湾古墳群の石棺編年表1
          火山石石棺の比較
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳石棺
津田湾の刳抜型石棺については、渡部明夫氏によって編年表が示されています。それを要約整理しておきます。
①火山石石棺群の特徴は棺蓋は横断面が半円形を基本とし、両端部上面を直線的に斜めに切っていること
②棺身は小口面が垂直であること
③形態変化としては、棺蓋両端部上面を斜めに切った部分の傾斜角度が大きくなり、前後幅が狭くなっていくこと
④その点に忠告すると注目すると、赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒鶴山丸山石棺 → けぼ山石棺
⑤棺蓋長側面の下部が平坦而を持たないものから内傾する平坦面、垂直な平坦面へと変化して、平坦面が強調され、幅広の凸帯になっていくこと
⑥その点に注目すると赤山1号石棺 ⇒ 赤山2号石棺 ⇒ 一つ山石棺 ⇒ 鶴山丸山石棺
⑦刳り込みの隅が曲線に仕上げられ稜をもたないものから鈍い稜線が目立つようになり、明確な稜線を持つようになること
⑧その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒一つ山石桔⇒ 岩崎山石棺・けぼ山石棺。大代石棺
⑨刳り込みの中央部を両端よりも深くするものから平坦な底面への展開
⑩その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒ 一つ山石棺⇒ 岩崎山石棺・鶴山丸山石棺・けぼ山石棺
以上、各属性の変遷から刳抜型石棺の出現順を研究者は次のように判断します。

赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒岩崎山石棺

津田碗古墳群 埴輪編年表2

さらに土器・埴輸・割抜式石棺編年を加味した編年的位置づけを次のように述べています。  160P
墳丘形態・墳丘構造、埋葬施設、副葬品の編年的位置づけから、土器・埴輪・刳抜型石棺だけではよく分からなかった奥3号墳、古枝古墳、岩崎山1号墳の位置付けが見えて来ます。
①奥3号墳と古枝古墳は墳丘スタイルから古墳時代前期前半の川東古墳と同時期、
②岩崎山1号墳は副葬品から津田古墳群では最も新しい古墳時代中期初頭に位置付けられる
③奥13号墳は十分な資料がなく、時期的な位置づけが困難であるが、低い前方部、墳丘主軸に斜交する竪穴式石室からは奥14号墳に近い時期の可能性が強い。

津田碗古墳群編年表1
津田古墳群の編年表
 以上より、報告書は 津田古墳群の前期前半の編年を次のように記します。
①前期前半のものとしては、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、奥3号墳、奥14号墳。
②これを二つに分類すると、前半にうのべ山古墳、奥14号墳、後半に川東古墳、古枝古墳、奥3号墳
③奥14号墳は壷形土器からはうのべ山古墳より後に見えるが、墳形からはうのべ山古墳に近い時期を想定
④後半の3古墳の前後関係としては、副葬品から奥3号墳 ⇒ 古枝古墳
⑤この時期は墳形、葺石構造、壷形土器、東西の埋葬方位等に讃岐的特徴が認められる。
⑥墳丘全長はうのべ山古墳(37m)、川東古墳(37m)、古枝古墳(34m)、奥3号墳(37m)、奥14号墳(30m)で格差はない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 21013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集
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