瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年03月

大原氏と出雲堰.JP2G
出雲井堰灌漑と大原氏居館
 今回は前々回に見た出雲井とその灌漑する大原荘を支配した地頭大原氏の関係を、「中世居館ネットワークの形成」という視点で見ていくことにします。テキストは「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
地頭大原氏は、室町時代には幕府の奉公衆となっています。奉公衆とは、地方の有力な国人領主のことです。大原氏もこの地域の典型的な国人領主であったことが『大原観音寺文書』 からは分かります。
出雲井の灌漑域を分析した下図からは次のような事が読み取れます

出雲井堰灌漑エリア3

i出雲井の中世居館

①烏脇川、野一色川、朝日川などは、段丘面上を臥龍山麓の集落に向けて直線的に流れていく。
②これらは人工的に掘削された水路で、段丘面西端の非水田地帯 (針葉樹林) を乗り越えいる。
③さらにその西側の烏脇・夫馬など臥竜山麓の村落に、出雲井からの用水を供給している

流末の夫馬村では、大原氏居館近くの大原荘総鎮守である岡神社の祭礼に際して寄進が定められています。
姉川 出雲井灌漑 岡神社
大原氏居館近くの大原荘総鎮守である岡神社
それが「井料」とされます。これは用水の管理費的な意味があると研究者は考えています。夫馬村や烏脇村では、居館主導型集村が形成されています。そして集村の核となっている居館は、出雲井からの幹線用水路に面して立地しています。地元では、この居館の居住者を「ようあんろうじん(養安老人)」、そこに住んだ母の姓を「花戸」と伝えています。以上からは、流末の集落は水の支配を通じて、宗教的にも大原氏の総鎮守に編入されたことがうかがえます。

大原氏館より南西にある三島池を見ておきましょう。

出雲井堰灌漑エリア 三島池3
三島池
この池は南側七町ほどを灌漑しますが、地元ではこの池を、大原氏の祖によって築造された人工的な溜池と伝えています。三島池には大原氏館の水堀を経由した出雲井の幹線水路・池下川が流れ込みます。三島池と出雲井は水利システムとして連動しています。地元の言い伝えのように三島池が大原氏の手によって整備されたことが裏付けられます。そして、三島池の水が潤す池下村は居館主導型集村です。 居館の位置は、三島池からの幹線用水路沿いにあり、この水路そのものが水堀だったようです。
次に、これらの村々の居館領主について見ていくことにします。
 『大原観音寺 文書』 には、大原氏庶流や家臣による田畠寄進状や売券が多数含まれています。そこからは居住地や活動年代を知ることができます。文書中に「○○殿 」として表記されている階層が村落レベルの小領主です。その中から大原荘内に居住するものを抜き出したのが第1表です。

大原庄内の村落領主一覧
この表から灌漑用水網に出てくる居館の主人たちと大原氏の関係を研究者は次のように押さえます。
①出雲井流末の夫馬・烏脇・池下の村落に居住していた夫馬氏、烏脇氏、池下氏は、すべて大原氏の庶流
②小田村・野一色村も下線の領主は、大原氏の庶流
③三島池畔には三嶋神社が鎮座し、佐々木秀義や大原氏初代重綱が伊豆三嶋社を勧請したものと伝えられること。
④三嶋池築造の際に、佐々木秀義の乳母比夜叉御前が人柱にたったという伝説があること
⑤竹腰氏、野一色氏も大原氏の一族で、野一色氏は重綱の子秀俊を祖とする早い時期の庶子家
こうしてみると出雲井を支配する国人領主の庶子たちが、出雲井分配システムと連動する形で、灌漑域内の村々に配置されています。庶子達は、惣領家の持つ用水権益の分配にあずかれることで、村落に対して指導的な立場に立つことができたと研究者は指摘します。

『大原観音寺文書』は、12世紀以降の文書がおさめられています。
ここからは、大原氏の庶子家の活動年代は14世紀までさかのぼって確かめられます。そして出雲井流末の村々に庶子が配置されていくのは、やはり村落再編(集村化)の動きが活発化していた時期と重なります。国人領主とその庶子による村落への用水支配が、領主主導型の村落再編成、つまり居館型集村を実現させる基盤となっている事例だと研究者は判断します。ここでは14世紀の庶子家の村落への侵入と、その主導による新しい村立はリンクすることを押さえておきます。
 また、近畿地方の居館主導型集村については、居館領主が14世紀前後に他所から移住してきた伝承が多いようです。それは承久の乱以後の西遷御家人により勧められたことを反映しているのかもしれません。
 惣領家の国人領主が独占する山林・原野の用益を武器として、一族庶子を通じての所領支配を実現する過程が報告されています。
水利支配 についても同じようなことが行われていたのかもしれません。このような動きを、国人領主側 からみれば、次のようになります。 
①用水支配権を武器にして、所領内の村々に庶子を定着させる
②その上で村落支配を深化 し、 所領支配を拡大していく
③このような動きが、「権力の在地性深化」の実態といえる
つまり中世後期の在地領主は、勧農機能をすべて村落に手渡したのではなく、 用水支配権は自らの手中に保持していたことになります。その用水支配権が、中世後期の領主制の根幹となるという考えです。
 橋口定志は中世後期 の関東で「複数の館が用水系を媒介として接続している場合」を指摘します。 
灌漑用水網と居館群
研究者は、出雲井や郷里井など姉川流域の水利システムを紐帯として形成されている居館群のネ ットワーク構造の模式図を上図のように提示します。惣領制的所領拡大を説く小山靖憲以来の「領主型村落」「堀ノ内体制」論は、このような中世後期の婚姻等による擬制的同族系譜の成立と、広域水利システム発達が結びついて形作られたのかもしれません。これは「孤立した武士の舘」という視点からは見えてこないつながりです。これをまんのう町吉野の大堀居館跡で見るとどうなるのでしょうか? それはまた次回に述べるとして、先に進みます。

用水支配を武器にして在地領主が、どのように村落を支配下に置いていったのかを、次のようにまとめておきます。
①中世後期の村落再編には、惣村化とは対照的な領主主導型の集村化事例があること
②それは用水支配を武器に国人領主が、 その庶子を村々に配置して村落支配を強化したこと。
③国人領主の庶子は、その村落名を姓として名乗って、村落指導層となっていること
④これら庶子が「土豪」で、それを「村落共同体=惣村規制内部の存在」と研究者は捉えていること
従来の研究では、「土豪」を惣村内部の代表者とみる見解が一般的です。しかし、用水をめぐる居館と村落の空間構造からは、強力な用水支配に基づいて突出した規模の居住区画を村落内に持っています。これを「共同体規制の枠内の存在」とみるのは無理があると研究者は考えています。「土豪」や「地侍」となどの「中間層」の性格を、どう捉えるかが課題として残ります。
在地領主庶子の村落への侵入については、すべてが成功したわけではありません
 溜池・小湧水など、 いままで通りの村落内での完結的な自給的灌漑で水を確保できる村落では、領主勢力侵入の余地がなかったことになります。このような場合には、強力な村落共同体により惣村が形成されていくものと研究者は考えています。それは典型的な惣村が成立しているのが、多くは漁業・水運、商業などの非農業的生業を持つ地域であったこととも関連することです。
これらの中世の灌漑システムと居館の関係を、丸亀平野でどう考えて行くのかが課題になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

   中世前期の荘園には、次の2つの階層がいたと研究者は考えています。
A 下司・地頭層  = 在地領主 
B 公文層     = 村落領主
それが中世後期の南北朝以後の在地領主制では、次の2つになります。
C 地頭の系譜を引き、在地領主の発展段階とされる「国人領主」
D 村落 レベルの 「土豪」
 従来の研究では、中世後期になると用水開発・支配の主体は、荘園領主や在地領主の手を放れて、村落に下降してくるとされてきました。Bの公文層以下の有力農民が成長するなかで、村落やそれを主導するDの土豪層が用水路や溜池の修築などを行い、地域開発の担い手として台頭してきます。こうして、Aの在地領主やBの国人領主たちはは農業経営から遊離していくというのが、 従来の考え方のようです。

惣村の構造図
惣村の構造

  Q1 惣村はどのような組織か?
①農耕儀礼や共同作業を通じて結びついた名主層を中心に農民たちの地縁的な自治組織を惣村という。
②惣村は、惣百姓が参加した寄合の決定に基づいて自治が行われ、秩序の維持のため警察権を行使する地下検断や、年貢を領主に一括納入する地下請などを通じて、支配者から自立していった。
③惣村の成立の背景には、農業生産力の向上による農民の成長と、戦乱に対する自衛の必要性があった。名主層の中には、守護と主従関係を結んで侍身分を獲得する者(地侍)もいて、これも惣村が支配者から自立する要因となった。
惣村形成背景

中学校の歴史教科書指導書などにも「有力農民に率いられた村落が用水開発の担い手となった」とったと説かれています。これは「惣村」形成へと導くための伏線となっています。そして13世紀後半以降の畿内の惣村は、在地領主から自立し、自治権を持った村落共同体として記されています。
 惣村は「集村」と関連づけて考えられるようです。
集村化とは、それまで散らばっていた屋敷地を一カ所に集めて、集落エリアとと耕作エリアを分離することです。その目的は、土地利用の「高度集約化による村落再編成」だったとされます。その進行時期は、畿内では南北朝の14世紀前後とされます。それでは、この村落再編成のための集村化の原動力は何だったのでしょうか? それは「自立化した農民層の共同体的結合=惣村の規制力」だとされます。その結果、中学校の歴史教科書にも「集村=惣村化」というイメージで提示されています。
 ところがその後の発掘調査で、集村化で形成された集落に接して新たに領主居館も並んで現れる事例が髙松平野などから報告されました。近江国野洲郡からも集村化と新しい領主居館が同一エリアに出現する例が報告されています。これは「盟主層による惣村化」の動きには反するものです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  これに対して研究者は集村 には、「惣村化」の他に「居館化」の2つの方向があったと指摘します。
 それでは、この2つの違いはどこからくるのでしょうか?
それは村落の形成過程の違いからくるものと研究者は考えています。同じ規模の屋敷が並ぶ集村は、百姓たちの共同的結合で形成された惣村を示していると考えることができます。しかし、百姓の屋敷地とは大きな格差がある規模の居館を内部に持つ集落の場合は、居館を核として、集村化が行われたと研究者は考えています。つまり、畿内で14世紀前後に進行した集村化には、次の2つのタイプがあったということです。
A 惣の主導型
B 居館領主主導型
 Aの惣村は、在地領主の支配を排除したものでしょう。これに対して、Bの居館型集村の場合に領主が村落再編(集村化)を主導したことになります。それでは領主が集村化できた原動力は何だったのでしょうか?結論からいえば、それが在地領主の用水支配権だと云うのです。今回もその例を近江の姉川流域の灌漑水路と居館の関係から見ていくことにします。テキストは「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
在地領主が村落再編成に深く関わっている事例として、近江国姉川の郷里井堰を見ていくことにします。ここは前回に見た大原荘の下流域で、臥竜山によって東西に隔てられます。
滋賀県郷里井堰2
郷里井堰と上坂氏舘

まず、上図で上坂氏居館と姉川の灌漑用水の関係について以下を押さえておきます。 
①姉川が平野に流れ出る喉元に「郷里井」と呼ばれる井堰設置
②この灌漑域は344町で、上流の出雲井と並んで姉川筋の二大水利集団を形成
③郷里井は扇型に灌漑エリアが西に拡がり、その範囲は扇状地と一致
④郷里井灌漑エリアには多くの居館型集村があり、扇央部の西上坂村がその中心集落
⑤この西上坂村に国人領主上坂氏の居館跡があり、水堀や土塁などが残っている。
この郷里用水路には上坂氏が、深く関わっているとされます。上坂氏が、いつここに拠点を置いたかについてはよく分かりません。しかし15世紀には京極氏の筆頭家老となって勢力のピークを迎え、戦国期には浅井氏の家臣となっています。扇央部に位置する上坂氏館の水堀には、扇状地上を灌漑してきた郷里井の水が流れ込んでいます。ここからは郷里井からの灌漑システムと扇状地の開発と上坂氏の居館水堀の出現は同時期の工事で連動していたことがうかがえます。このような灌漑用水路と微地形・居館との関係は、前回に見た中世前期の出雲井と大原氏館と段丘下位面開発の構図と同じ手法です。当時の開発プロジェクトの柱となっていたことがうかがえます。
 上坂氏館の年代については、発掘調査がおこなわれていないためよく分からないようです。

上坂氏舘と
               上坂氏居館跡(長浜市東上坂)
しかし、中世後期には上坂氏が郷里井の支配に携わっていたことは確実です。地元では、郷里井は14世紀に上坂氏が開削したものと伝えられています。ただし、郷里井の工事年代年については、その灌漑エリアに10世紀初見の東大寺領「上坂郷」が含まれています。そのため扇状地を開発する用水の原型は東大寺によって、中世前期に開削されていたことも考えられます。そうだとすると、10世紀の東大寺の基本計画の上に、14世紀になって上坂氏による再開発・拡張工事を実施したことになります。

姉川の郷里井と扇状地
          姉川扇状地と郷里井灌漑エリアの関係 
上の図で以下のことを確認しておきます。
①姉川扇状地の上部と郷里井の灌漑エリアは、ほぼ重なること
②郷里井の灌漑エリアは、さらに西側に伸びて二ヶ所張り出した部分があること。
③この張り出しエリアが、北の榎木村南部 と南方の七条村南部。
④両エリアは、もともと扇端部の小規模湧水を利用していたが、郷里井完成後に供給エリアに含まれた。
 つまり、もともとは榎木村や七条村は、湧水のみで狭いエリアの灌漑が行われていたようです。それが郷里井からの灌漑網が整備されて取水量が増大したことを受けて、水田開発が一気に進んだようです。こうしてふたつの村は、井堰灌漑エリアにに取り込まれていきます。よく見ると、この二つの村には、それぞれ居館主導型集村が形成されています。研究者が注目するのは、どちらも郷里井からの幹線用水路が連結される接続点に立地しています。そして集落域内部の居館立地は、用水路の分岐点に当たっています。ここでは居館領主が郷里井灌漑網の結節点を握っていたことを押さえておきます。つまり、上坂氏の周辺郷村の支配拠点として配置されているように見えます。

中世居館と井堰型水源4
居館の水堀を経て下流に用水が提供されている
これら二つの居館主導型集村の中で、 居館遺構がよく残っているのが七条村です。
『農業水利及土地調査書』には、七条村の灌漑には、郷里井 の水 にプラス して小字「養安」にある小湧水が補給水として使われていたと記されています。この小字「養安」は、居館遺構上にある一町四方にあたります。そしてこの湧水は居館の水堀の一部となっています。

滋賀県郷里井堰2
 もう一度、郷里井堰からの灌漑網の地図を見てみます。 
郷里井からの幹線用水路もこの比地条村の居館の水堀に向けて接続されています。地元に残されている慣習には七条村では、村中総出で居館の水堀さらいが行なわれてきました。これを「花戸の井立て」と呼んでいたと伝えられます。「井立て」とは、用水路の修築のことで讃岐で云う「井手さらえ」のことでしょう。つまり、井手(用水路)は居館の主人たちの力で作られ、それで用水が供給されるようになると、百姓たちはその管理・維持に積極的に関わっていく姿が見えてきます。これは、居館主人からすれば、灌漑用水の管理運営を通じて、惣村への影響力や支配力を強めたことになります。言い換えれば、「水の支配を根拠とした居館領主の村落支配」と云えます。そこには、小さな湧水(出水)や溜池などに頼っていた村落が、新たに建設された大規模な井堰灌漑の水利集団に組み込まれていく姿が見えてきます。
中世郷村と用水路
井堰からの水が遠くの村々にも用水路で導かれていく
 これは丸亀平野でも見えた光景だと私は思っています。丸亀平野にも「地域毎の個別の水源=村落内で完結的灌漑システム」段階から、地域を越えた大規模水利集団への参加という段階への移行期があったはずです。ここで大きな力を持つのは、井堰を支配する在地領主(居館主人)です。彼らに背くことは、水の供給を止められることを意味します。水を支配する者が地域を支配するのです。また、上流と下流の水争(水論)が始まります。そのための水利調停も必要になります。その場合も、居館領主が水利調停者としての役割を担うことで、支配力を強めていきます。
灌漑用水網と居館群

用水流末の七条村、榎木村だけでなく居館型集村が用水沿いにあります。井堰から水を引く場合に、「井頭」である国人領主との間に立って水利調停に当たっていたのは、公文などの村落指導層だったでしょう。この場合には、居館領主は、次のように「水の支配」を通じて支配力を強化したことが考えられます。
①国人領主は、旧来の村落領主(名主層)を次第に被官化していったこと
②新たに組み込まれた用水末端の村落では、惣領家の庶子がやってきて新たな村落領主層となっていったこと
③庶子・被官達は、用水権益の分配にあずかれることを武器にして、村落内での指導権を獲得していったこと
用水を掌握していた居館の主人たちは、14世紀前後の村落再編(集村化)の際にも支配力が強く、居館を核とした集住化を主導できたこと。これが居館型集村の形成につながったことを押さえておきます。このような上に立って、まんのう町吉野の大堀居館について、つぎのような仮説を私は考えています。
大堀居館と潅漑施設

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻
関連記事

 鎌倉時代の居館の主人たちが用水支配に積極的に関わっていく姿を見ていくことにします。テキストは  「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
まず研究者が取り上げるのは、滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡です。 

滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡
           滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡(琵琶湖東岸)
宮荘殿屋敷は一辺100m前後の水堀を四周にめぐらした方一町の居館で、水堀の幅は3.0~1.8mです。
滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡2

上図は、明治段階の用水路と水源別灌漑範囲を研究者が復原したものです。堀水は、北之荘集落南の湧水「公野湧」から引かれています。公野湧は、小字「殿屋敷」をはじめその西方あわせて23町を灌漑する北之荘村の用水源となっています。湧水からの水の流れを見ておきましょう。
①公野湧からの水流はすべていったん殿屋敷の水堀に集められます。
②その後に、西方耕地の灌漑に用いられる
③ここからは、公野湧の水を自分の居館に引き込んでいる居館領主が、灌漑用水を握っていたことがうかがえる。
公野湧灌漑エリアには小字「門田」も含まれています。門田は居館領主の直営田とされます。灌漑優先順位の高い位置にあることが分かります。水支配と直営田との関係も見えてきます。
公野湧は愛知川扇状地の扇端部に湧出している出水です。扇央部の開発に比べると、開発難度は低く容易で、早い時期に開発されたことが考えられます。居館遺構の周囲一帯にはN34°Eの神崎郡条里が広がっています。居館の水堀もこの方位に従っています。一町の遺構域はちょうど神崎郡条里の九条五里十六坪に相当します。前回にも述べた通り、居館が条里地割の規制を受けている場合、 居館の領主が条里地割型耕地の開発・施工に深く関わっていたと研究者は考えています。まんのう町吉野の大堀居館跡も丸亀平野の条里制ラインに沿って建てられています。湿原であった吉(葦)野の開発者としてやってきたことがうかがえます。
居館がいつ頃に現れたかは分かりませんが、その下限年代から考えると、公野湧灌漑域の条里地割型耕地の施工は、13世紀には始まっていたと云えそうです。宮荘殿屋敷遺跡のある旧北之庄村は、12世紀に現れる鳥羽院領山前荘の北庄の故地になります。この居館遺構も荘域開発を進めた荘官クラスのものと研究者は推測します。

近江国姉川上流域の山東町にある大原氏館を見ておきましょう。
大原氏居館2

大原氏は、鎌倉時代初頭の近江守護佐々木信綱の長子重綱を祖とする佐々木一族の庶流になります。信綱の四人の息子のうち、三男泰綱が惣領家を継いで六角家となり、四男氏信は京極家を立てて近江国 を二分する勢力となります。一方、長男重綱は妾腹のため不遇で、後にようやく近江大原荘の地頭職に補任されて当地に居住し、以後代々大原氏を称します。大原氏は鎌倉後期には在京人として、室町時代には将軍家の奉公衆となっています。「大原観音寺文書』などの史料から16世紀までここに居住したことが裏付けられます。
さて、大原氏の居館を見ていくことにします。居館は市場中村の「大原判官屋敷跡」に現存します。
土塁・堀などの遺構や、多くの墓石が残っています。『大原観音寺文書』により13世紀から大原氏がこの地で居住していたことや、初代重綱の創建でその法名ともなっている大原氏菩提寺 「長禅寺」の場所が、小字「長善寺」として居館跡に隣接していることが、この付近を当初からの拠点が置かれていたことが裏付けられます。
居館周囲一帯の水田は、 北の姉川を水源とする「出雲井」によって灌漑されています。

大原氏舘跡1 

出雲井は式内社伊吹神社裏で取水します。これは姉川に設置される井堰のうちでも最上流に位置 します。そして流域では、最大の灌漑面積722町をもつ水利集団です。

大原氏と出雲堰

出雲井の取水口
出雲井の取水口
近世文書「大原之郷由来出雲井根元記」には、出雲井の開削について次のように記されています。

宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が大原荘にやってきたときに、家臣の出雲喜兵衛が行った。そのため出雲井と呼ばれるようになった

これが本当かどうかを確かめるために研究者は、出雲井の旧来の灌漑システムを復原し、居館立地と照合して下図を作成します。
大原氏と出雲堰.JP2G
出雲井堰灌漑エリアと大原氏居館

ここから読み取れる情報を挙げると
①出雲井からの用水配布エリアの大部分は、姉川左岸の段丘下位面にある。
②この水の届きにくい高燥面の水田化は、出雲井が開削される以前は開発困難だった
③大原氏館はこの段丘上に位置し、段丘上を潤してきた出雲井の幹線水路が流れ込んでいる。
④以上から、段丘面の灌漑と同時に居館水堀の水源として出雲井の利用が当初から考えられていた
  ここでは大原氏館の堀水は、出雲井なくしては確保できなかったこと、大原氏館築造時には、すでに出雲井は開削 されていたこと、段丘面開発と居館設置が連動し、どちらもが出雲井開削とその掌握を前提としていることなどから、 大原氏が出雲井を直接支配していたことが裏付けられます。
段丘面が、承安四年 (1174)『大原観音寺文書』官宣旨案に初見の蓮華蔵院領大原荘の荘域であることは、先ほど押さえました。このことは以下の言い伝えと整合性があります。
①宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が近江大原荘の地頭職に補任されやってきた
②家臣の出雲喜兵衛に未開発だった段丘面の開発を命じた。
この言い伝えは信憑性がありそうです。出雲井の開削は、大原荘の開発とも、大原氏の居館建設ともリンクしていたことになります。大原荘の立荘の経緯や正確な四至は分かりません。しかし、後世の文書に出てくる故地は、出雲井の灌漑範囲にほぼ一致します。出雲井は大原荘の専用水として、大原荘の開発のために開削された用水で、この出雲井の灌漑可能な範囲を母体に、大原荘の荘域が確定されていったと研究者は考えています。

 出雲井からの用水路を通して段丘面を水田化するという「開発計画」と大原氏の居館設置は、当初から連動して動いていたことを見てきました。しかし、これを実際に行うためには、大原氏が出雲井の用水権利を握っておく必要があります。その障害は越えられるのでしょうか?
 ヒントになるのは13世紀に大原氏は、大原荘の地頭職だったということです。
このことは地頭クラスの荘官として、用水管理権を握っていたことを意味します。ただし、大原氏の場合は承久以降の新補地頭とされます。そのため、大原氏以前の領主によって荘域開発のために開削されていた用水の支配権を受け継いだということが考えられます。このように大原荘の開発は、下司・地頭クラスの在地領主が用水を開削・支配しながら進められたことを押さえておきます。ここにも在地領主層には、開発領主としての性格があったことが見えてきます。
 在地領主制と勧農権について 
 各地の平野部荘園では荘域と灌漑エリア賀が一致する事例が相次いで報告されています。大規模な荘園調査が行われた播磨国斑鳩荘や近江国江部荘でもその荘域が、井堰の灌概範囲に一致します。井堰の設置が平安末期にさかのぼる場合は、荘園開発のために開削されたこと、その灌概エリアが荘園一円化・荘域確定の根拠となっていったと研究者は考えています。「用水の掌握が領域支配確立の基盤の一つであった」ことを押さえておきます。
 これは「中世の灌概用水の管理権・給水権が、領主の中枢的権力を構成する」 とした宝月圭吾、
1)福留照尚らの見解とも重なります。もちろん領主権の中には、徴税・検断など種々の公権が含まれています。用水支配だけを領主制成立の根拠とするわけにはいきません。しかし、荘園下地の治定を実現させるものとして、用水支配が大きな役割を担っていたことになります。
戸田芳実は、次のように述べます(要約)
在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。
中世成立期の居館が河川の水利開発と深い関わりを示しており、 初期在地領主がさかんに用水支配を行う存在であったことをここでは指摘しています。 このような水利開発と用水支配が、「所領」つ まり領域支配の根拠となり、その領主権を構成する一要素 となっていったと研究者は考えています。

灌漑用水網と居館群

 以上を整理しておくと
①中世前期の水利開発と用水支配の多くは下司・地 頭 クラスの在地領主によって行われている
②用水支配を媒介とする勧農権一が、 これらの階層 に所属していた可能性がある
③古代の国衙の勧農機能を、中世成立期に下司クラスの在地領主 に委譲された
④つまり、中世荘園の開発がら在地領主の手によって行われたことを意味する。
⑤在地領主には、開発領主・農業経営者 としての側面があった
⑥同時に、中世荘園制を構造的に支えている領主制の本来的な担い手は、下司クラスの在地領主 であった
大堀居館と潅漑施設
              まんのう町吉野の大堀居館と水利
  このような動きは当然、中世の丸亀平野にも当てはめられる動きです。まんのう町吉野の大堀居館の主人も灌漑設備を整備する中で、遊水地化し低湿地だった吉(葦)野の開発を行うだけでなく、土器川に井堰(横井)を設けることで、居館の水堀に水を引き、そこを分岐点として下流に用水を提供する。その「勧農」を通じて、下流の灌漑エリアを自己の勢力圏に収めていくという統治戦略を展開したという話になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

前回はまんのう町吉野の大堀居館跡について、次のようにまとめました。

大堀居館と潅漑施設

大堀居館5
大堀居館跡の位置
丸亀平野の中世武士の居館跡について、何度か取り上げてきました。しかし、居館跡を広い視野から位置づける視力が私にはありませんので断片的なお話しで終わっていました。そんな中で出会ったのが「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。歴史地理学の立場から中世の居館跡の水堀が灌漑機能をもち、そのことが居館の主人の地域支配力を高めたという話です。何回かに分けて、ここに書かれていることを読書メモ代わりにアップしておきます
①鎌倉期の『沙汰未練書』には次のように記されています。
「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」
「開発領主トハ、根本私領ナリ」 
ここから開発行為こそが、御家人(在地領主)の土地所有権の最大の根拠だとしています。そして、領主による開発と勧農を重視しています。讃岐の場合には、絶えず水の確保が大きな課題となります。水の支配権こそが領主支配の根源になっていました。中世の場合は、武士の居館が灌漑用水支配の拠点になっていたと研究者は考えています。

Aまず「館」と「城」の違いを押さえておきます。
 居住機能と戦闘機能のどちらに比重を置くかがポイントにすると、次の3つに分類できます。
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」
B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」
C その双方の要素を含むものを総称して「城館」
中世は、平常時の居住地としての平野部の居館と、戦闘時の詰城としての山城とがセットになっていたとされています。ここで取り扱うのはAの平時の居住空間としての平野部居館です。

飯山国持居館1
武士の平野部の居館モデル 水堀で囲まれている

中世の平野部居館の特徴の一つは、水堀で囲まれていることです。
空壕や土塁という選択もあったはずですが、水を巡らせたことには、なんらかの意味があったはずです。その理由として考えられるのは
 ①防御機能の強化
 ②低湿地 にお ける排水機能
 ③農業用水への利用
 ④舟運利用 
①の機能は当たり前です。ここでは③の用水支配の関係を見ていくことにします。中世居館は、方形館とも呼ばれるように、水堀で囲まれたその敷地が方形です。 この方形が条里地割に規制されたものが多いことは、丸亀平野の中世居館で以前にお話ししました。方一町の館の場合は、条里地割の坪界線に沿っていて、居館の主人は条里地割型耕地の開発と深く関わっていたと研究者は推測します。

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制 吉野は条里制成功エリア外である。
 条里地割がいつ行われたかについては、丸亀平野の発掘調査からは7世紀末に南海道がひかれ、それに直行する形で条里線ラインが引かれました。しかし、古代に条里制の造成工事が行われたのはごく一部で、大部分が未開発地域として放置されたことも分かっています。開発が進むのは平安時代後期や中世になってからです。土器川や金倉川の氾濫原が開拓されるのは近世になってからだったことは以前にお話ししました。
荘園制内部の在地領主の勢力実態を知るために、居館の規模を見ておきましょう。
家には、そこに住む人の経済力が反映します。居館の規模は、階層差ともとれます。方形区画の規模については、次の2種類があります。
A 方一町のもの
B 半町四方のもの
Aは地頭クラスの居館、Bは村落の公文や土豪層の居館と研究者は考えています。
大山喬平は、荘園的土地所有をめぐる在地での支配階級として、次の二階層があるとします。
C  荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主
D  村落を支配対象とする公文層=村落領主
これは、先に見たA・B]の居館規模の階層差と一致します。一括りに「在地領主」と呼ばれてきた領主にも「荘 園」と「村落」という二重構造 に対応した二種の領主階層があったことがうかがえます。 在地領主と村落領主を、居館規模から分類して、それぞれの役割を考える必要があるようです。

それでは「吉野大堀殿」の居館は、どうなのでしょうか?
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m
②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
ここからは吉野大堀殿の居館は、A・Cの1、5倍で、地頭・下司クラスよりも広いことが分かります。村落規模を超えて大きな力を持っていた「在地領主」であったことがうかがえます。
次に 水利開発の拠点としての中世居館の研究史を整理しておきます。 
A 小山靖憲は、在地領主の勧農機能を説き、「中世前期の居館の堀は農業用水の安定化のためにこそ存在した」と指摘
B 豊田武は「農村の族的支配者としての武士像」を次のように描いた
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。
②そこに「領主型村落」が形成され、
③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
東国をフィール ドとして作り上げられたこの2つの理論は、鎌倉期の西遷御家人の西国での開発に対しても適用され、一時は中世前期の在地領主と開発をめぐる「公式」になります。こうして文献史学の立場から「領主型村落」論が示されます。
 ところがその後に中世居館遺構の発掘調査が進むと、考古学の立場から次のような反論が出てくるようになります。
1987年以降の関東での発掘調査の成果から、橋口定志は次のように述べています。、
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、
②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
この指摘により中世前期居館の水堀の灌漑機能は否定されます。それを根拠とする 「領主型村落」
論は、根底からの再検討を余儀なくされます。これを承けて「領主型村落」と「堀ノ内体制」論を問い直す試みが始まります。
そのような中で海津一朗は、領主的開発の原動力を次のように説明します。 
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する
②そこに市や宿が建てられ町場が形成され
③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる
④それが「領主型村落」の祖型となる。
 ここでは灌漑力ではなく、交通路の関係が重視されるようになります。 特に前期居館の灌漑機能が否定されて以降、 農業経営以外の要因で居館の立地を説明しようとする傾向が強くなります。これは初期武士団を農業経営よりも、むしろ都市的な富の再分配に大きく依存していた存在とみる見方と重なり会います。
 しかし、「水堀をめぐらす居館は14世紀以前には存在しなかった」という結論に対して、近畿を中心とする発掘調査が進むと反論が出るようになります。
近畿でも和気遺跡・長原遺跡などの中世前期にさかのぼる居館水堀の遺構が出てくるようになります。これらの分析から水堀をめぐらせた居館が12世紀後半には、出現していることが分かってきました。
しかし、12世紀の前期の水堀については、次のような意見の対立があります
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」
B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
12世紀の前期居館については、このような対立はありますが、中世後期の居館については、水堀が灌漑機能を持っていたことに異論はないようです。
以上をまとめておくと、領主が開発をリードできたのには、次の2つの根拠があると研究者は考えています。
①居館の用水支配に基づく勧農機能
②都市と直結した経済活力の投入
どちらを重視するかによって、居館領主の性格付けは、大きくちがってくることになります。
  居館と灌漑用水について、研究者は次のようなモデルを提示します。
中世居館と水堀の役割
 
 A. 「水堀=溜池」で、旱魃に備えた堀水が、水田へと給水される場合
 B.「 水堀=用水路」で、居館より下流の水田へ の灌漑用水が流れていた場合
 AもBも、用水を提供していたことには変わりありません。
中世居館と井堰型水源

そこでまず考えるべき点は、その水をどこから引いているのかだと研究者は指摘します。つまり、上流にさかのぼって堀水の水源を押さえるるべきだというのです。居館建設に先だって、堀に水を貯めるためには、水源確保がまず求められたはずです。居館建設に先立ってすでに、湧水や井堰などから導入してくる用水供給のためのシステムがあったはずです。さらに用水を 自らの居館に引き込んでいるので、領主が用水の使用権を握っていたことになります。そうだとすると、 水堀そのものに灌漑機能がなくても、用水路網の末端で水を受 けるだけの場合であっても、 居館の主人は用水の支配権を握っていたことになります。ここでは、水堀は防御機能だけで無く、地域の用水システムと深く関わっていたことを押さえておきます。これと最初に述べた勧農権の問題はリンクします。
これを「吉野大堀居館」の主人にあてはまて考えています。

まんのう町吉野

  まんのう町吉野土地利用図を見ると、大堀居館のまわりは土器川と金倉川の扇状地上部で、いくつもの流れが龍のように暴れ回っていたエリアであることがうかがえます。そのため遊水地化し、低湿地が拡がる開発が遅れた地域であったことは以前にお話ししました。そこに承久の乱以後に西遷御家人がやって来て、大堀居館を構えたという仮説を提示しておきます。

大堀遺跡 まんのう町
大堀居館絵図(江戸時代)
居館の掘には、そこから湧き出す出水が利用されます。それだけでなく土器川に井堰を築造し、導水が始められます。その水は居館の水掘を経由して、下流域に供給されていきます。
そして、灌漑用水の下流域の要所には一族が居館を構え、周辺の開発を行い勢力圏を拡げていくというイメージです。灌漑用水路沿いに一族の居館が設置されていたという事例が近江の姉川水系からは報告されています。そを大堀居館にも当てはめて考えて見ると、大堀居館は土器川からの井堰や吉野の湧き水など取水源を抑える勢力の居館だったことになります。だから先ほど見たように居館規模が大きかったのかもしれません。
灌漑用水網と居館群
灌漑用水路沿いに一族の居館が配置された模式図
大堀居館の下流の居館を見ていくことにします。
琴平 本庄・新庄2

        琴平町の「本庄城(居館)と石川城(居館)の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
小松荘琴平町)には、中世の居館跡とされる本庄居館と新荘(石川居館)があります。
荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、上の地図の右下の部分で琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアと考えられています。

DSC05364
新荘の氏神・春日神社の湧水 ここが石川居館の水源
 一方、新庄は春日神社の湧水を源とする用水の西北で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域とされます。春日神社の北側には、丸尾の醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけると石川居館の水堀跡に至ります。こうして見ると、本庄と新荘は小松荘の出水からの水を用水路で取り入れ、早くから開けた地域だったことがうかがえます。同時に、水源地を氏神として信仰の場としています。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)には「本荘殿」「新荘殿」と記されています。ここからは、中世には本荘と新荘の、それぞれに領主がいたことがうかがえます。

 現在では、旧小松荘(五条・榎井)の水源は出水だけに頼っているわけではありません。
満濃池水掛かり図

吉野の①水戸井堰で取水した②用水路の支線が西に伸びて五条や榎井の水田を潤しています。これは、生駒藩時代に西嶋八兵衛の満濃池築造と灌漑用水路の整備の賜と私は考えてきました。しかし、「居館ネットワークによる灌漑水路整備」の実態を見ていると、満濃池が姿を消していた中世に、吉野の大堀居館から小松荘の本庄や石川の居館に水路網が伸ばされてきていたのでないかという疑問が芽生えてきました。最初は、出水利用の小規模水路であったものを、土器川からの取水によって小松荘まで用水供給エリアを拡げる。そして、南北朝にやってきた長尾氏に、この地位は引き継がれていくことになります。こうして長尾氏は、四条や小松荘など丸亀平野南部の土豪たちを被官化して、勢力を拡大するというシナリオになります。

中世居館跡とされる飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)を見ておきましょう。

飯山国持居館2地図
飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)
北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。法勲寺方面から北流してきた旧河道が飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。その流れを掘にするように居館跡があります。現在の飯山ダイキ店にほぼ合致します。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mで、まんのう町の大堀居館とほぼ同じ規模になります。

大束川旧流路
飯野山北土井遺跡から法勲寺も土器川と大束川に囲まれた低湿地帯

土地利用図を見ると、この当たりもかつては洪水時には土器川が大束川に流れ込み遊水地化し、その中野微高地に早くから人々が定住農耕を始めたエリアです。そのため古代には、南海道が東西に走り、鵜足郡郡衙や古代寺院の法勲寺が建立されるなどの先進地帯だった所です。しかし、洪水によって幾度も押し流されたことが発掘調査からも分かっています。そこに現れたのが坂本郷国持に居館を構えた主人です。この国持の地に居館を選定したのも、西遷御家人であり、彼によって周辺開発が進められたと私は考えています。ここでは国持居館と呼んでおきます。
 国持居館と周辺の灌漑用水の関係を見ておきましょう。
坂本郷国持居館と用水路
ここで研究者が注目したいのが東坂元秋常遺跡の上井用水です。       
     上井用水の源流は、近世に大窪池が姿を見せる前は岡田台地の下の出水にありました。古代においては法勲寺周辺の灌漑用水路として開かれたと考えられます。それが中世になって湿原などの開発が進むにつれて、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、下流の東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。いわゆる郷村連合です。
 各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、郷社連合で祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏踊りに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。しかし、用水路の管理整備を下流の郷村のみで行っていたとするのは、私は疑問を感じます。なぜなら、用水路が国持居館を経由しているからです。この居館の主人は、用水路について大きな影響力を持っていたことは、今までの事例から分かります。部分的な用水路であったものを、水源から川津までひとつに結びつけ、用水路網を整備したのは国持居館の先祖とも考えられます。だとすれば、この用水路周辺には、一族の居館が配されていた可能性があります。」

飯山法勲寺古地名大窪池pg

以前に見た大窪池周辺の古地図に出てくる地名を確認します。
ここには東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、近くには「ぞう堂」という地名も見えます。土豪層の存在が見えて来ます。その背後の丘陵地帯の谷間に大窪池があります。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓したのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。

飯山地頭一覧
上表は、飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。鵜足郡法勲寺を見ると壱岐時重が1250年に、法勲寺庄の地頭となっています。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたことが考えられます。そして、国持居館はその拠点であったと私は考えています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

大堀居館 説明版
大堀居館の説明版(まんのう町吉野)
まんのう町吉野の「長田うどん」の約南200m近くの道路沿いに中世の武士居館跡があります。この居館跡については、江戸時代に書かれた「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」という長い名前がつけられた下の絵図が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されていいます。

大堀 
        大堀居館跡は長田うどんの南側 まんのう町吉野

大堀居館5

大堀居館跡5

大堀居館跡(まんのう町吉野) 廻りが水堀で囲まれている
この絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路・飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木などが見て取れます。さらに註として、次のようなことが書き込まれています。
①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名
②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模
③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。
④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積
⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
大堀居館絵図 拡大図
 大堀居館跡 南側拡大図
調査報告書(2005)には、つぎのようなことが報告されています。(要約)
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。
私が気になるのは、大堀居館跡は吉野にあり、西長尾城主の長尾氏の勢力エリアにあることです。今回は、長尾氏と大堀居館の関係を見ていくことにします。テキストは「大堀城跡調査報告書」です。
まずは、立地する吉野の地理的環境を押さえておきます。 

まんのう町吉野

大堀居館(城)跡は、まんのう町吉野の緩やかな傾斜の扇状地上にあります。土器川は、それまでの山間部を抜けると、まんのう町木ノ崎付近を扇頂として扇状地を形成します。また、大堀居館跡の西300mには、金倉川が蛇行しながら北流します。地図を見ると分かりますが、このふたつの川が最も近接するのが吉野のこの遺跡付近になります。地質的には地下深くまで扇状地堆積による礫層が堆積しています。耕土直下には「瓦礫(がらく)」と呼ばれる砂礫層が見えているところもあります。しかし、遺跡周辺は後背湿地と呼ばれる旧河川の埋没凹地も多くあります。このような窪地は、古代から中世には安定した用水を確保できる田地でした。最先端のカマド住居を持った吉野下秀石遺跡は、吉(葦)野の開発のために入植した渡来系集団と私は考えています。しかし、発掘現場からは礫層が出てくるので、洪水による被害はたびたび被っていたこともうかがえます。
丸亀平野の条里制.2

まんのう町吉野は条里制施行エリアではない

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制跡
古代の開発は部分的に過ぎなかったようで、中世になっても吉野は湿地帶が拡がるところが残っていたようです。そのため上図をみると四条や岸上は条里制施工エリアですが、吉野は施行外になっています。大堀居館の東側に一部痕跡が残るのみです。そこに西遷御家人としてやってきて、治水灌漑を進めて吉野の開発を進めていったのが大堀居館の主人たちではなかったと私は考えています。彼らのことを「吉野大堀殿」と呼ぶことにします。
この吉野大堀殿と長尾氏の関係は、どうだったのでしょうか?
まず長尾氏について根本史料で押さえておきます。「香川県史の年表」に長尾氏が登場するのは以下の4回です。
①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪
④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」 
①については南北朝の動乱期に、白峰合戦で海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として得ます。こうして庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。②からは、丸亀平野南部から金倉寺周辺の中部に向けて勢力を伸ばしていく長尾氏の姿がうかがえます。そして、南北朝期になると緊張関係の高まりの中で、西長尾城を盟主にしてまんのう町の各丘陵に山城が築かれるようになります。南海治乱記によれば、土豪武士層が長尾氏に統括された様子が記されています。西讃守護代の香川氏が天霧城を拠点に、善通寺寺領などを押領し傘下に収めていったように、西長尾城を拠点とする長尾氏も丸亀平野南部を勢力下に置こうとしていたことがうかがえます。
 そのような中で讃岐に戦国時代をもたらすのが香西氏による主君細川高国暗殺に端を発する「永世の錯乱」です。
この結果、讃岐と阿波の細川家は、同門ながら抗争を展開するようになります。そして、三好氏に率いられた阿波勢力が讃岐に侵入し、土豪たちを支配下に置くようになります。その先兵となったのが東讃では、三好長慶の末弟・十河一存で、安富氏や香西氏は三好氏に従うようになります。
 一方丸亀平野で阿波美馬との交易活動が真鈴峠や三頭峠越えに行われていたことは以前にお話ししました。このルート沿いに阿波三好氏が勢力を伸ばしてきます。こうして、長尾氏も三好氏の軍門に降ります。それは長尾氏が三好氏に従軍している次のような記録から分かります。
①備中への三好氏に従っての従軍記録
②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること
③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍
④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
ここでは16世紀初頭の永世の錯乱以後は、長尾氏は阿波三好氏の勢力下に置かれていたこと、そこに土佐の長宗我部元親が侵入してきたことをここでは押さえておきます。

最初に見た発掘調査には、吉野大堀殿の居館については次のように記されていました。
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。
⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
ここからは大堀居館跡の出現期と消滅期が次のように分かります。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後
B消滅期が14世紀後半の南北朝以後
ここから推論すると、Aからは承久の変以後にやってきた西遷御家人の舘と大堀居館が作られたこと。Bからは、南北朝の動乱期の白峯合戦で長尾氏がやって来ることによって、大堀居館の主人は姿を消したことがうかがえます。
以上を整理しておくと
①承久の乱以後に、東国からやってきた西遷御家人が吉野の湿地帶の開発に着手した。
②その拠点として、湿地帶の中に居館を条里制地割に沿う形で建設した。
③当初は掘水は湧水に頼ったが、その後は土器川からの横井(井堰)を建設した。
④この灌漑用水路は、居館を経由して下流の耕地に提供された。
⑤こうして吉野エリア全体の灌漑権を握ることによって吉野大堀殿は支配体制を固め成長した。
⑥しかし、南北朝時代に長尾氏がやってくることになり、吉野大堀氏は次第に勢力を奪われ衰退した。
⑦そして、14世紀後半には居館は姿を消した。
つまり、吉野大堀殿は、長尾氏以前に吉野の灌漑水利を整備し、吉野の開発を担った勢力ということになります。それが南北騒乱の中で姿を消したと私は考えています。その後は、吉野は長尾氏の勢力下に置かれていったとしておきます。

中世居館と井堰型水源

少し結論を急ぎすぎたようです。次回は中世の居館の堀水が、地域の灌漑システム全体の中でどんな役割をになっていたのか。それが居館主人の地域支配にどんな意味を持っていたのかをもう少し詳しく見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大堀城跡調査報告書」2005年
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 前回は文政四(1821)年の大早魃の際に、苗田村の農民達が土器川に作られていた髙松藩の村々の横井を次々と破壊したことを見ました。その動機は「土器川からの取入口の夫婦湧横井の水が涸れたのは、上流にある村々の横井が規定を無視して、横井を厳重に塞き止めたために、水がやってこなくなった」というものでした。そして苗田村の農民数十人が次のような横井を破壊します。
6月10日の夜、
炭所西村の片岡上所横井(常包横井)
大向興免横井
長尾村薬師横井
札の辻横井
6月22日八ツ時(午後2時)に、
炭所西村大向の吉野上村荒川横井
吉野上村大宮横井
 これに対して髙松藩の村では、暴徒の中に天領苗田の農民が数多く混じっているのを見て阻止行動をとらずに見守るだけでした。それは、天領民と争いを起こすと、倉敷代官所での審理・仲裁となり、多くの入費がかかることを恐れたためです。そのため事件後に、苗田村に対して謝罪と、今後の対応について協議するように求め調停作業に入ります。天領苗田村の責任を追及しようとする高松藩領の村々と、夫婦井横井の関立てのルールを自分たちに有利に解決しようとする天領苗田村の主張は、解決点を見出すことができないままで3年目を迎えます。ついには仲介人が投げ出してしまいます。その間も、苗田村と髙松藩の村々の水をめぐる騒動は続きます。髙松藩としても、これをこのまま放置することはできません。ここへきて倉敷代官所への提訴が具体化されます。
 文政六年(1823)4月になって、高松藩で倉敷代官所と内掛合(予備交渉)をしています。その後で、高松藩の村尾浅五郎と、吉野上村の政所岩崎平蔵が、鵜足郡と那珂郡の村役人総代の浄平と、水組総代五人を引き連れて倉敷へ行きます。そして、代官所側と協議して、水組百姓が出訴する人割(訴訟)として取り扱うこととなります。
この時に倉敷代官所に提出された訴状を見ておきましょう。
 恐れながら書付を以て願い上げたてまつり候、松平讃岐守領分、讃州鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村并に那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門申し上げ侯、去る巳年六月二十三日、当御支配所那珂郡苗田村庄屋倅源太 δ郎、同庄屋吉左衛門倅佐太郎、同年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、同村百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名名前相知れず、大勢并に、讃岐守領分同郡東西高篠村、四条村百姓共と一同申し合わせ、徒党を致し罷り越し、村々え引取候井路(井手)及び、炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰利不尽に切り払い候、素より照り続く早魃の時節、右然の浪藉を致され、御田地の耕作相続出来中さず候、勿論右堰(横井)の義は役場え相願い、御普請を受け候ものにて、御村方の進退自由に相成らず、捨て置き難く、其節早速役場へ願い上げ候所、則ち東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に二人召し出され、御純の上入牢仰せつけられ御吟味に付、苗田村の者共狼藉の始末願い上げ奉る可くと存じ奉り罷り在り候所、追々取扱人立ち入り、種々取り計らい候義にて、成尺熟談仕り度く、素より御役所へ御迷惑掛け奉り候段恐れ入り候、是又勘弁仕り居り申し候得共、弥々熟談相調い申さず、苗田村の者共追々我意相募り、連も熟談内済相調い候義、心証更に御座なく候、既に当年の田水にも指し掛り居り、捨て置き候仕り候に付、止むを得ざること願い上げ奉り候間、何卒苗田村の百姓前願人則ち弐拾壱人を召し出して御吟味の上、以来右黙の狼藉仕らざるよう仰せ付けられ下され度存じ奉り候、願い立て恐れながら書付を以て願い上げ奉り候以上
文政六未年五月
松平讃岐守領分
讃州鵜足郡炭所西村水掛百姓総代   小右衛門
長尾村水掛百姓総代 与左衛門
岡田村水掛百姓総代 縄 次   
讃州那珂郡吉野上村水掛百姓総代 十右衛門
右郡村役人総代  伊右衛門
同    浄 平
大草太郎右馬様
  倉敷御役所
    意訳変換しておくと
○ 恐れながら書付で次の事について願い出ます。
松平讃岐守の領分である鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村、ならびに那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門が申し上げます。去る巳年六月二十三日に、那珂郡苗田村の庄屋倅源太 δ郎、庄屋の吉左衛門倅佐太郎、年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名は名前は不明。彼らが、那珂郡東西高篠村、四条村百姓たちと申し合わせ、徒党を組んでやってきました。そして、土器川からの用水取入口の横井や水路(井手)ある炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰を切り払いました。この狼藉の結果、照り続く早魃での時節だったために、田地の耕作ができなくなりました。この件については放置することが出来ず、早速に藩へ届け出ました。その結果、東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に2人が連行され、郷倉に入牢という処罰となりました。
 一方、天領の苗田村の狼藉者の始末(処罰)については、仲介人を立てて、慎重に調査を進めてきました。しかし、苗田村の「我田引水」的対応で協議は不調に終わりました。すでに今年の用水確保にも指し障りが出てきていますので、放置することができません。つきましては、事件に関わった苗田村の百姓21名を召し出して吟味した上で、以後の狼藉を再び起こさないように仰せ付けいただきたい。以上を恐れながら書付で願い上げ奉ります。(以下略)
訴状提出後の5月11日に、長尾村の与左衛門と吉野上村の十左衛門、鵜足・那珂両郡の村役人総代伊右衛門と浄平の四人が、倉敷の戸田屋へやってきます。戸田屋は高松藩領側の定宿で、訴訟などの時には藩側との連絡に当たっていました。そのため訴訟協力人となり、代理人をも勤めていて「郷宿」と呼ばれていたようです。願書は5月12日に差し出されます。その日の午後2時過ぎには、吉野上村の庄屋(政所)岩崎平蔵と、長尾村の庄屋小山喜三右衛門が郷宿に到着します。その夜、旧知の代官所の手代河井冨右衛門を尋ねて協力を依頼します。一方、苗田村は16日に郷宿猶田屋に入っています。
18日から取り調べが行われ浅右衛門と辰蔵が入牢、虎五郎と弥右衛門が手錠宿預かりとなります。
26日には、横井切り崩しの元締役であった又五郎、幾次、佐太郎の二人が入牢を申し付け。
28日には、苗田村の中心人物であった西組庄屋の虎五郎が、猛暑の中での連日の取り調べて体調不良で郷宿で休養中に病死。虎五郎は遺骨となって帰郷。
6月に入って、取扱人(仲裁役)に、備中国都宇郡下庄村の庄屋忠次と、苗田村側が選んだ池御料榎井村の組頭半四郎・治右衛門が選ばれます。これを受けて榎井村の半四郎と治右衛門は、仲裁中は仮年寄の待遇を与えられ、倉敷ヘ渡って、忠次と共に町宿淀屋清助方に逗留します。高松藩側の仲裁人を加えなかったのは、天領に対する遠慮からで、それが当時の慣行になっていたようです。

仲裁についての実質的な話し合いは、提訴から1ヶ月後の6月11日から淀屋で始められます。
仲裁人側からは、次のような要望が出されます。
○ 夫婦井横井の関立場所を決めることから始めたい。

これに対して高松藩側を代表する浄平は、次のように申し立てます。
 この点については、宝暦年中入割の際に御裁許になっていることであるから、これと相違するような内容であれば承知できない、役所との交渉もあるので、まず全般についての仮議定書を見せてほしい。

要は、今までの慣例通りを遵守していただきたい。それを破るような案は認められないということです。こうして、仲裁は出発点から対立します。
翌12日に、仲裁人からの招きで淀屋に出向いた浄平に対して、次の仮議定書提示。
 常包横井以下の横井を苗田村の者が切り崩したことについては、苗田村から高松藩に詫書を入れる。 夫婦井横井掘割関立方については、木水道より烏帽子岩目当に真一文字に掘り割りする。
 岩薬師の川上に流水がある時には、羽間の中井手筋へ分水する、流水がなくなれば烏帽子岩から岩根右へ取り付け、横井を関立てる
夫婦井横井の絵図
夫婦井横井の掘割関立方案

浄平は、即答を避けて仮議定書を郷宿へ持ち帰り、関係者と協議を続けます。
13日に、仮議定書について、浄平は次のように返答。
 夫婦井横井の関立てについては、宝暦五年の仰せ渡され書の通りに決まらなければ、私としては承知できない。井堰(横井)の場所の決定は私の権限外で、郷普請奉行の権限である。
 また仲裁人が現地を知らないでは話しにならない。仲裁人がが現地を見分した上で、仮議定書を再検討してほしい
これに対して仲裁人の返答は次の通りです。
○ 夫婦井横井は論所ではあるが訴状に含まれていない。見分するとすれば常包横井であるが、苗田側から仲裁人が出ているから見分の必要はない。

この反論に関して、両者間で激しい問答が繰り返されます。帰宿した浄平は、郷宿の戸田屋寿助から添書をもらい、代官所手代の橋本新兵衛を尋ねて、現地への実地見分を願い出ます。
翌朝訪れた浄平に対して橋本新兵衛は次のように内意を伝えます。
○ 夫婦岩の所は願書に書かれてないので、見分の場所ではないが、見分しなければ解決しないというのであれば、近く小豆島へ植付見分に渡海するので、そのついでに現地に行って見分しよう。仲裁の決定を日延し、帰村して十分に相談するよう

これを受けて浄平は、仲裁人と苗田村側へ日延べしたい旨を申し入れます。しかし、苗田村には入牢者がいます。解決しなければ出獄することができません。そのため短期での決定を優先して、審議が長引く「現地見分」には同意しません。そこで浄平は、日延べの願いを直接代官所に差し出します。これに対して、橋本新兵衛の配慮で25日までの日延べが認められます。ここで一旦「休廷=水入り」となります。 讃岐へ立ち帰った浄平は、交渉経過を詳細に記述して、覚書として岩崎平蔵と小山喜三右衛門に早々に差し出します。これは2人から藩に届けられます。これらの文書が岩崎家に残っているようです。
6月24日に、四条村庄屋の岩井勝蔵の斡旋で、高松藩領側から吉野上村庄屋岩崎平蔵、長尾村庄屋小山喜三右衛門、那珂郡村役人総代浄平、鵜足郡村役人総代伊右門衛の四人が、仲裁人の榎井村年寄半四郎、同治右衛門と、岩井勝蔵方で話し合いますが、ここでも歩み寄りはありません。長引く入牢に対して、苗田村は 17名の代表者を倉敷代官所に出向かせ、入牢者の釈放を求めます。しかし、事件が解決まで釈放は認められないと、取り上げられません。
6月26日から、倉敷の淀屋方で仲裁の話し合いが再開されます。しかし、いたずらに対立が深まるだけです。しかも橋本新兵衛の小豆島見分も、小豆島の天領が大風や日照りで稲や綿が傷み、植え付け見分ができなくなったので、現地見分も沙汰止みとなります。
こうして交渉は7月2日に決裂します。その後の対応として、代官所では、代官大草太郎右馬が側座した場所へ、伊右衛門と浄平を呼び出します。そして橋本新兵衛から次のようなことが内意として伝えられます。
○ 現地視察をしなければ問題が解決しないという言い分はよくわかる。が、それをあくまで通そうとすると、倉敷代官が直接取り調べるというたいそうなことになる。そうなれば、文政四年六月に問題が起こった時、真光作左衛門が横井を立て直したこと、高松藩が仲裁を依頼した阿野郡南萱原村庄屋の治右衛門が、内済にするために烏帽子岩より五間下手にあった横井を、岩下手弐間半の所に築き直したこと、示談も整い内済になるべき所を、榎井村の半四郎と治右衛門が立ち入って仲裁が不調になったことなども表面に出て、最悪の場合には既得権利を失うことにもなりかねない。
 高松藩の立場を心配しているようであるが、これは倉敷代官所から添翰を送って了解を求めるから、まず仮議定書に調印して仲裁を受け入れるようにしてもらいたい。仮議定書の文面は、正式の議定書に調印するまでに、交渉を続けて改定することもできるから。

このように懇々と説諭されたようです。これを了解した浄平は、7月4日に仮議定書に調印します。
しかし、そのまま引き下がりません。6日に、論所見分方(現地視察)を直接倉敷代官所宛に願い出ると同時に、本議定書に添える絵図面の指し出しを現地視察の後の7月末日まで日延べすることを願い出ます。この2点は、ともに認められます。
 一方、苗田村からは倉敷代官所宛に、横井切り放しの詫書を提出されて、入牢者が釈放されます。苗田村からの詫書と倉敷代官所から高松藩宛の書簡を託された浄平と伊右衛門は、7月7日の午後2時ごろ倉敷を出船し、9日の夕刻7時過ぎに自宅に帰り着いています。

 その後、岩崎平蔵と小山喜三右衛門が、7月13日と16日の二回にわたって倉敷に出向いて議定書の文面を再度確認しています。こうして現地見分が7月18日と19日に行われ、仮議定書に調印しても差し支えがない旨を確認し、羽間の文人菅善次方で昼食を共にします。このような確認作業を経ての「内済議定証文」が交換されたのは、8月に入ってからでした。最後に長文ですが、この時の「内済議定証文」を見ておきましょう。

夫婦井横井の仲裁条件裏書


夫婦井横井の絵図

                鯰岩付近の絵図
こうして次の長文の「内済議定証文」が双方で交換されたのは、8月に入ってからでした。
内済議定証文
讃州髙松御領分包横井切り放し候一件に付、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村、右村々総代浄平・伊右衛門より、苗田村へ相懸り候倉敷御役所へ御訴証申し上げ、御吟味中に御座候所、備中国都宇郡下庄村庄屋忠次、那珂郡三ケ村立会年寄榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助立人、双方ヘ理解申し談じ、右横井切り放し候義は心得違いの段、詫書差し入れるべき所扱人噺請、詫書の義は御役所へ指し上げ候て、訴証方中分これなく納得仕り候、然る上は、右一件出来候訳は、夫婦岩水鯰岩の溜りに落入候用水、木水道へ取り来り候井路筋指し縫れの論中より事起り候義にこれ有り、右に付き今般王書等取り調べの上利解申し談じ双方至至極納得和融内済儀(議)定左の通り
一 夫婦岩用水引方の義は、鯰岩通烏帽子岩より木水道へ一文字に横井掘り割り致す可き事
但し年々掘り割り普請の義は、高松御領より取り計らい申す可く候、若大水にて右掘割埋まり候はば、是亦高松御領より早々修繕申す可く候
一 岩薬師川上より流水これ有る節は、水掛り村役人立ち会い相談の上、中井手筋へ分水致す可く、流水これ無き節は、烏帽子岩より横岩へ取り付け、堰方致す可き事但し川上より流水これ無き節は、鯰岩・横岩、表手通り砂相坪し、洩れ水これ無き様致す可く、砂地故若し洩れ水これ在り候はば真土(粘土)を入れ、洩れ水これ無き様致す可く、尤も尚又烏帽子岩の内手砂地故、洩れ水これ在り候はば、前同様真土を入れ洩れ水これ無き様取り計ろう可く候、尤も両所共御普請の節は水組役人立ち会わせ、高松御領より取り計らい中す可き事
一 烏帽子岩下手凡そ五間掘り割り、横井より中井手の間有形の通にて、手入致し間敷候
一 川内井路筋掘り浚えの事は、指し支えなく高松御領より致すべき事
但し指し掛り掘り浚えこれ在る節は、東高篠村へ掛け合い候て、同村より指し支えこれ無き様、早々取り扱かい申す可き事
一 木水道洩れ水これ在る場所は、用水引元迄指し支えなく、高松御領分より修繕中すべき事
一 用水掛け時の御普請井びに修繕の節は、出来高の上水掛り村々え、東高篠村より通達これ有る可き事、右の条々の通り、今般双方熟談内済和融致し候上は、向後違変致し間敷候、依て儀(議)定証文絵図相添えて、取り替せ中す所件の如し
大草太郎右馬御代官所
那珂郡苗田村東組庄屋 吉左衛門
文政六来年八月
      年寄 弥右衛門
同 十右衛門
百姓代  喜惣太
    苗田村西組庄屋代 佐 市
    年寄  弥源太
                同 熊 蔵
                百姓代  治兵衛

那珂郡東高篠村 庄屋  紋右衛門
組頭  七郎右衛門
百姓代  九右衛門
同西高篠村兼帯四条村庄屋   勝 蔵
西高篠村組頭   利八郎
那珂郡大庄屋代 吉野上村庄屋  平 蔵
同郡組頭四条村    浄 平
鵜足郡大庄屋代
長尾村庄屋  喜三右衛門
同村組頭  伊右衛門
右前書の通り銘々共に立ち入り、双方納得和融熟談の上にて、儀(議)定証文等調い候に付、奥書印形致し置き候以上
備中国都宇郡下庄村庄屋 中心 次
那珂郡三ケ村立会
年寄治右衛門代兼 半四郎
倉敷村戸田屋寿助代兼  猶田屋幸助
右の通り今般高松領分より苗田村に相掛り候一件、和融内済仕り候に付、取り替せ儀(議)定写し井びに絵図面相添え願い上げ候以上
大草太郎右馬様
意訳変換しておくと
  内済議定証文
讃岐髙松領分の包横井の破壊の件について、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村の総代浄平・伊右衛門より、苗田村への提訴があった。この件について倉敷代官所で、備中国都宇郡下庄村庄屋の忠次、那珂郡三ケ村立会年寄の榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助が調停斡旋人となり和解調停作業が進められた。双方ヘの和解工作の結果、横井切り放しについては、苗田村の心得違いであり、詫書を関係村々に差し入れることになった。詫書の内容については双方が納得し、すでに倉敷代官所へ提出している。
 残る課題は、夫婦岩水鯰岩の溜りの用水、木水道へ取入口の位置についてである。これについては双方の言い分を良く聞いた上で以下の通りとりまとめた。
一 夫婦岩用水の取入口については、鯰岩・烏帽子岩から木水道へ一文字に横井掘り割ること。
但し、毎年の掘割普請については、高松領が行うこと。もし台風などの大水で掘割が埋まった場合には、高松領が修繕すること
一 岩薬師の川上からの流水がある場合は、水掛りや村役人が立ち会って相談した上で、中井手筋へ分水すること、もし流水がない時には、烏帽子岩より横岩へ堰方を伸ばすこと。但し。川上より流水がない場合は、鯰岩・横岩附近を、表手で砂をならし、洩れ水がないようにすること。
もし、砂地なので洩れ水がある場合には真土(粘土)を入れて、洩れ水がないようにすること。さらに、烏帽子岩の内手は砂地なので、洩れ水があれば、真土(粘土)を入れて洩れ水がないようにすること。この普請作業の際には、水組役人立ち会わせ、高松御領で行うこと
一 烏帽子岩の下手の約五間を掘り割り、横井より中井手の間は手を入れてはならない。
一 川内と水路筋掘り浚えは、高松御領が行う事
但し、掘り浚えなどを行う場合には、東高篠村へ相談して、同村から差し支えがないことを確認してから作業に取りかかること
一 木水道からの洩れ水がある場所から用水引元までは、高松領分でり修繕すること
一 用水使用中に普請や修繕を行い場合は、下流の水掛かりの村々へ、東高篠村より連絡すること右の条々の通り、双方が内済融致した。その上は、これを破ることなく遵守しなければならない。以上について、定証文絵図相添えて、書面を取り替す。 
こうして夫婦湧横井(井堰)より上流にある横井への破壊活動は、苗田村が関係の髙松藩の村々へ詫び状をいれること。夫婦湧横井(井堰)の運用についてはほぼ「前例通り」となったようです。しかし、この水論を通じて天領苗田村や榎井村と、髙松藩の村々の関係はさらに悪化したようです。水論を「水に流す」ことはできなかったのです。特に、自らの「既得権利」と信じていた特権が代官所で認められなかった天領の村々では、別の「報復」が考えられていきます。そのひとつが那珂郡七箇村組念仏踊からの「脱会」をちらつかせながら運営などに揺さぶりをかけることです。そのことについては以前にお話ししたので、ここでは省略します。
以上をまとめたおくと
①生駒藩時代は讃岐一国で藩を超える水掛かりは讃岐にはなかった。
②生駒藩後に讃岐が東西に分割される際に、西嶋八兵衛が呼び返され、その後に騒動が起こらないように満濃池の水掛かりが再確認された。
③生駒藩以後は那珂郡南部は、髙松藩・丸亀藩・天領池の御領の3つが併存することになった。
④池の御領の天領の各村は満濃池普請の責任者として権威と自負を持つようになった。
⑤その結果、土器川の横井(井堰)についても自分も村に導水される用水路を最優先させる行動を取るようになった。
⑥それが文政4(1821)年の他村の土器川に設置された横井を破壊するという事件につながった。
⑦これに対して髙松藩は、苗田村に詫びを入れさせようと調停工作を進めるがうまくいかない。
⑧そこで、倉敷代官所での仲介・調停工作を進めた。
⑨その結果、苗田村に対して厳しい内容であった。
⑩面子をつぶされた苗田村は、那珂郡七箇村組念仏踊からも脱会の動きをみせるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論」

滝宮へ踊り込んでいた「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表です。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
これを見ると、この踊りは中世の風流踊りで、那珂郡南部のいくつもの集落によって構成されていたことが分かります。そして、讃岐が東西2藩に分割されて以後は、  メンバーの村々の帰属地が次の3つ分かれます。
A 天領の小松荘4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
B 髙松藩の真野・東七ケ村・岸上・吉野・塩入
C 丸亀藩の西七ケ村・佐文

まんのう町エリア 讃岐国絵図2
              讃岐国絵図 寛永十年 
これが踊りの運営を難しくしたようです。Aの天領とBの髙松藩の村々が対立を繰り返し、運営不全に陥り、明治になると自然消滅していくことは以前にお話ししました。私が疑問に思っているのは、天領と髙松藩の村々がどうして、これほどもめるのだろうか? その対立の原因がどこから来ているのかということです。どうもこの時期には、天領の苗田村と髙松藩の村々の間で、激しい水争い(水論)が同時に展開されていたのです。それを今回は見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論」です。

夫婦井横井の文政四年から同六年にかけて起こった水論について
これについては、岩崎平蔵が書き残した「鵜足郡那珂郡大川筋井堰御料苗田村之者共切放し夫婦并横井建方一件文政六未年四月二日より九月二十八日迄備中倉敷御役所江出役内済口掛合御一件控」(以下「文政四年の水論」)という文書があります。これはもともとは、まんのう町岸上の奈良家に伝えられていたものですが、今は飯山町法勲寺の岩崎家に保管されているようです。まず長い表題を意訳しておきます。
 「鵜足郡と那珂郡の間を流れる大川(土器川)筋の井堰を天領苗田村の者たちが切放し、夫婦横井の水を奪おうとした一件について、文政6未年4月2日から9月28日まで備中倉敷代官所で行われた仲裁交渉についての控」

文書は、美濃紙計115枚という分量で、訴状や書簡が多く載せられています。  まず夫婦井(みょうとい)横井から見ていくことにします。 


かか4444

「喜多村俊夫 溜池灌漑地域における用水配分と農村社会」より 
 生駒藩時代に西嶋八兵衛によって満濃池と用水路が整備され、那珂郡南部では田植えのための水は確保できるようになります。しかし、周期的にやって来る旱魃などで水不足が解消されたわけではありません。そのため村々では、旱魃に備えての非常用の水源確保が次の課題となります。そのような中で進められたのが出水(湧水)からの用水の導入です。

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 夫婦井横井は、元禄年間(1688~1704)、那珂郡の大政所高畑権兵衛正勝が構築したと伝えられます。
  水源としたのが土器川右岸の長尾村佐岡東の「夫婦湧出水」です。

ふうふふうふ
夫婦出水 → 夫婦井横井(木水道) → 苗田 → 公文 → 買田池

夫婦出水から用水路を北方へ掘り、佐岡山の麓からさらに西方へ引いて、薬師岩の北で土器川に落とします。そして鯰岩の西の土器川の川底に埋樋を設け、堤防の下に暗渠を作って用水路と連結し、高篠・公文ヘ75%、苗田村へ35%の水を配水します。この横井を「木水道(きすいどう)」と呼んでいたようです。また木水道によって取水された水は、冬の間は公文村を経て、買田池(善通寺市)に貯められていました。つまり、買田池の水源の役割も果たしていたことになります。
 時が経つにつれて天領の苗田村の農民達の中には、この木水道の権利を自分たち天領の農民に与えられた既得権利と思うようになっていきます。そして木水道の土器川川上に埋樋を設けさせないことと、土器川の横井普請で、木水道に不利になるような変更を認めないという立場を押し通すようになります。これは天領の百姓であるという優越感に支えられたものでした。

夫婦井横井の絵図
   夫婦井横井(木水道)の絵図
宝暦五年(1755)に鯰岩の分水点で、分水についての水論が起こります。
その顛末を見ていくことにします。この年は高松藩記にも「夏日照り」と記され、早魃のひどかった年のようです。水不足になった羽間免の安造田(あそだ)新開の農民が、鯰岩の東側に新井手を掘りつけ、横井を新しく設けて水を安造田側に引き込もうとします。これに対して、夫婦井横井から引いていた四条村や高篠村・苗田村の農民が、安造田新開の農民が設けた横井を切り崩して井手を埋めます。すると安造田側は、また井手を掘って横井を築くことが繰り返され、遂に仲裁に持ち込まれます。その時の「仰せ渡され書(仲裁書)」には、次のように記されています。(意訳)
○ 中井手用水は、古絵図にも見えている用水で、郷普請奉行が仕渡しているものであるから、岩薬師という所の上に流水がある時は、中井手用水に水を遣すこと、この水分けをする時には双方の村役人が立ち合って、騒動がないようにすること
○ 水流がなくなって、出水からの水だけになると、三つの村の者が川の中の水路を掘り浚えて木水道へ水を引くことになる。中井手筋水掛りの者が、横井を塞き立てたり、川端を切り開いたりしてはいけない

ここでは中井手用水は川の流水をとる施設で、木水道は夫婦湧出水からの水を採る施設であると認めています。この仰せ渡され書によって、文政四年までの約70年間、この場所での水論は起きませんでした。
小松井出水をめぐる四条村と苗田村の水論 
文化四年(1817)8月に、夫婦井横井の約100m川上の西岸の小松井出水で、新しく「う津め(埋樋)」を設けているという話が、苗田村西組庄屋の川田虎五郎のもとへ伝えられます。早速に西組から又兵衛・吉蔵・由勝、東組から味右衛門・重右衛門を指し向けて調べてみると、「う津め」の工事が行われていました。苗田村は、すぐに工事差し止めを申し入れをします。これに対して四条側は「吉野下村忠右衛門持林の中へ、「う津め」工事を行っているが、下の木水道水組に差し障るようなものではない。」と返答して工事を続行します。苗田村側は、川田虎五郎と守屋吉右衛門の両庄屋の連名で、那珂郡大政所の和泉覚左衛門と真光作左衛門に八月十日付けで抗議文を送って、工事の即時中止を求めます。その末尾には次のように記されています。

「勿論当村百姓共より申出候は、弥々右普請相止め申さざる時は、御役所表江御訴証も致し候段申出候云々」

「御役所表江御訴証も致し候」というのは、「倉敷の代官所へ訴え出る」ということです。これは髙松藩の村々にとっては避けたいところでした。なぜなら髙松藩に訴え出るのなら現地で仲裁交渉ができます。ところが天領の村々に訴えられると、倉敷の代官所へ大勢が出向いて、長期滞在が強いられます。それは費用のかかることです。これは避けたいところです。そのため天領の村々とは、もめ事をを起こしたくないというのが正直な所です。こうして天領の村々は、自分たちが優位にあると思い込み、強引なやり方を重ねるようになります。この時も高松藩が事件の重大化することを恐れて、四条村側を説得して四条村側は普請工事を中止し、苗田村との和解が成立しています(金刀比羅宮文書 小松井出水一件)
 文政四(1821)年の水論     天領苗田の農民達が土器川の横井をいくつも壊した
 この年の夏も大早魃で、ついには夫婦湧出水も枯れてしまします。これについて苗田村の農民は「上流にある横井が規定を無視して、横井を厳重に塞き止めたために、水がやってこなくなった」と考え、直接行動に出ます。苗田村の農民数十人が、6月10日の夜、炭所西村の片岡上所横井(常包横井)、大向興免横井、長尾村薬師横井、札の辻横井の4ヶ所の横井を切り崩します。騒ぎに気づいて集まってきた地元の農民は、暴徒の中に天領の農民が混じっていることに気づいて、あえて争うことなく我慢してこれを見守ります。
 さらに12日後の6月22日昼八ツ時(午後2時)過ぎの白昼に、四条・高篠・苗田の農民数十人が押し寄せて、炭所西村大向の吉野上村荒川横井と、吉野上村大宮横井を切り放します。この時にも暴徒の中に天領苗田の農民が数多く混じっているのを確認します。しかし、地元の農民は、天領民と争いを起こすと、倉敷代官所へ訴えられて多くの入費がかかることを恐れて、あえて争いません。
 こうした中で天領苗田村の農民が大勢押しかけて、夫婦井横井の埋樋や井手筋を、自分たちの手で掘り浚えようとしているという風評が拡がります。那珂郡の大政所の真光作左衛門は、もしそのようなことが起こると、水論の解決がさらに難しくなることを恐れて、郷普請人遣いの佐吉郎に命じ、人夫120名余りを使って烏帽子岩の上手に横井を取り付ける普請を行います。これに対し、苗田側から横井の位置が違っていると、厳しい抗議が起こります。改めて作左衛門が鯰岩の現地見分して、苗田村の異議申出を認めて、木水道の取入口の横井を烏帽子岩の下手へ引き下げることを独断で決定し、二日掛かりで烏帽子岩の下手へ横井を引き下げる普請を行います。しかし高松藩では、溜め池や横井の普請は郷普請奉行の担当普請であって、村々から人夫を出して郷普請人遣いの指図によって普請を行うことが慣例でした。水論に絡む火急の普請ですが、大政所一人が各方面と十分に協議しないで、変更工事を行ったことは越権行為です。これが後日に大きい問題を残すことになります。
これに対しての高松藩の立場は複雑です。慎重な対応を求められます。
木水道から取り入れた水は、75%が高松藩領の東高篠村・西高篠村・公文村に掛かり、残りの35%が池御料苗田村の水掛かりです。木水道から取り入れた冬期の水は、買田池が承水する権利を認められていたことは先ほど見ました。
高松藩では、今回の暴動に加わった四条村の農民の、増蔵・駒吉・政蔵と外三名、東高篠村の農民の半十郎・庄助・新蔵、西高篠村の農民の岩蔵・源二郎。大五郎・竹蔵の計13名に郷倉への入牢を申し付けています。こうして切り崩しに参加した自領の四条や高篠の農民の処罰を行います。その上で、苗田との交渉にいどみます。
 藩政時代の水論は、藩の役人は後ろに下がって、当事者間の交渉に任せるのが常道でした。そのため適当な仲裁人を選んで、事件を解決させる道がとられます。高松藩領側からは、那珂郡の大政所の真光作左衛門と和泉覚左衛門が連名で、池御料榎井村の庄屋石川信蔵・苗田村東組庄屋守屋吉左衛門・苗田村西組庄屋川田虎五郎の二人に宛て、七月二日付けで、次のように文書で申し入れます。

「藩が郷普請で維持している横井を、数か所にわたって、しかも白昼に切り崩したのは、理不尽な暴挙である。厳重に取り調べてほしい。」

当寺の天領・池御料側では、榎井村の庄屋石川信蔵が池御料全体の代表者でした。
しかし、今回の事件には榎井村の者は関わっていません。そこで苗田村東組の庄屋守屋吉左衛門と、苗田村西組の庄屋川田虎五郎が連名で、次の三点を強調した返書を、8月4日付けで返答します。

○ 佐岡夫婦井横井の川上にある常包横井は、石だけで関(築)立てる慣行であったのに、近年になって石関の上に筵や菰をかけ土砂を持ちこみ、手丈夫に関立て少しの洩水もなくなった、常包横井にならって川下の横井も同様に関立てるようになったので、佐岡夫婦湧出水の水が出なくなった、横井を切り崩したのはそのためである。

○ 木水道(埋樋)とその井路筋(用水路)の掘り浚えの普請は、高松藩側で行ってきた普請であるが、近年になって修繕してくれないので、苗田村へ水が届かなくなった。

○ 鯰岩の際の岩(烏帽子岩)の下手に横井を関立て、木水道へ水を引く慣行であったのに、近年になってこの横井を烏帽子岩の上手に関立てるようになったので、木水道に水がかからなくなった、6月26日に改めて岩の上手へ関立てたので、7月2日に異議を中し立てると、岩の下手に関立てた。この七、8日の間に大切な水を失った。このようなことがないようにしてほしい。

高松藩は吉野上村の政所で、横井の切り崩しの被害者である岩崎平蔵に下問します。藩の普請方の小頭役を兼務していた普請の専門家でもあった平蔵は、次のように答申します。
○ 常包横井は石関立というが、石だけで水を引くことはできない。常包横井のある場所は川幅が至って狭く、 一面岩滑の上に関立てるので、下敷はしだ(羊歯)であって、その上に川筋にある砂に川筋にある砂を持ちこんで石で関立ててあるが、延や菰は一切使用していない。この横井の普請は炭所西村・長尾村・吉野上村の村役人が立ち合って、究め(規約)の通りに運用している。大向興免、薬師横井、札の辻横井も石を使っているが、延や菰は使用しないので、洩れ水がないように塞きとめることはできない。6月10日の夜、これらの横井に水が充分にあったということは虚偽で、ほとんど水はなかった。
○ 大向荒川横井と大宮荒川横井は、ともに吉野上村が水掛かりの横井で、二つとも川幅の広い所に設けてある。そのため川幅一ぱいに関立てることはできない。水流に応じて流れこみの石や砂の上に横井を関立てて筵や菰をかけ、川筋の土砂を持ち掛けて仕立ててある。横井の下手30間(約55m)ほどの所に漏れ水が湧き出ている。常包横井以下の横井が関立方を改めたので、夫婦湧出水の水が出なくなったというのは、池御料(天領苗田)側の強弁である。

○ 近年になって、木水道や井路筋の普請をなおざりにしたというのは、池御料側の詭弁である。享和年中(1801~4)以来、用水路の掘り浚えは隔年毎に行っている。池御料関係の用水路426間(約775m)についても、人夫313人を使って、さらえと刃金(粘土)入れ普請を行っている。

○ 鯰岩際の横井の立場所については、特定の規約はない。川中の流れの様子により、適当な場所を選んで関立ててきた。池御料側が横井の仕置を下げるように主張するのは、現在の川の流れからみると、下げる方が有利であるからで「木水道の取り入れ日から烏帽子岩にかけて」というのが原則であると思う。

こうして次の仲裁人が選ばれて仲裁が進められることになります
高松藩では、阿野郡南の萱原村の政所治右衛門
池御料側は、榎井村仮年寄の半四郎と治右衛門
なお、那珂郡の大政所真光作左衛門については、先に郷普請奉行の指揮を仰がず、関係者と協議しないで二度の普請を行った責任を問われて、「慎み」を仰せつけられます。そして、この交渉には参加させていません。

ここで最初のテーマ「那珂郡七箇村念仏踊りが内部分裂して行ったのはどうしてか?」に、立ち返ります。
以前に那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。

那珂郡七箇村念仏踊りと水論


①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒騒動の後、讃岐が東西に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと⑤19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
⑥ところが天領苗田村との水論が、念仏踊りの運営にも障害となり、村々の求心力が失われたこと
ちなみに、那珂郡七箇村組念仏踊の1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。
「那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋」
つまり、岩崎平蔵は那珂郡七箇村組念仏踊の総責任者であると同時に、髙松藩側の水論の代表者的人物でもあったのです。そのため天領側はいろいろと難題をもちかけては、念仏踊りからの脱退をほのめかすようになります。求心力を失った踊り組の運営が困難に陥ったことは以前にお話ししました。
その対立の背景には、同時進行で進んでいた水があったことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論 
参考文献

 大戦末期に国策として実施された松根脂の採取運動について前回は次のようにまとめました。

松根油採集運動1

1944年の秋から冬にかけて進められた松根油の採集運動は、多くの人々を動員して国民運動として展開されます。しかし、松根を掘りだしても乾留用の釜不足などの不手際が重なり、当初の目標生産量には達しなかったようです。

兵士の記憶(昭和18年)▷撃ちてし止まむ | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

しかし、時のスローガンは「撃ちてし止めむ」です。現状報告を受けた上で、「撤退」はできません。それは責任問題になります。現場がどうであれ、中央から出される指示は「前進」です
政府は1945(昭和20)年3月16日、「松根油等拡充増産対策措置要綱」を閣議決定します。
前年の「緊急」措置要綱を「拡充」と変えグレードアップした内容になっています。
第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす
第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂
第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす
一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと
二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること
三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること
五、精製工場の急速整備を図ること
備考
二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
第1条は、まさに「撃ちてし止めむ」で「(松根油生産の)拡充増産体制を早急に強行しろ!」ということです。そして第2条では、生産目標を倍以上に引き上げています。その目標達成の達成のための具体策としてあげられているのが、次の3点です
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、
②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など
③配備が遅れている乾留釜の設置
②には国民学校卒業生とありますが、旧琴南町の国民学校の生徒だった人は後に、次のように語っています。
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。

ここで注目しておきたいのは、備考二にあるように3月からは「松脂」も液体燃料用に活用されるようになったことです。松脂は、松の幹に傷を付けて染み出す樹液のことです。

松根油1

こうして大本営がいきあたらりばったりで立案した「机上の空論」がマスコミを通じて、国民に「大本営発表」として伝えられ、官制運動が組織されていきます。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」
簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」
特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ
村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
松脂採集 4
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』 松脂を採集する母親
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』は、赤ん坊をおんぶした母が松の木から松脂を採る姿を載せて、次のように記します。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
サァ皆んで採らう素敵な航空燃料これで飛ぶゾ 友軍機も一本でも多く採れ今にもの見よ米鬼ども、天与の航空油資源は訪れる勝機にぐんぐん溜る一方、割当採集の指定を受けた各町村では森林組合を中心として各地松林の活用を取り定めて目標突破を期しているが(中略)

松脂採集 毎日新聞


 松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。

松脂採集3
松油(ヤニ)採取 育児と採取が出来ることを強調した写真

もういちど確認しておきます。マツから油をとる2つの方法が政府から示されたことになります。
①マツを伐倒して根を乾留する方法
②樹皮から松ヤニを採取する方法
②の方法を、国民学校の生徒として参加した人は、次のように語っています。
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」

もともとは「松根油」(しょうこんゆ)の採集には、伐採して約10年以上が経過し、琥珀のように変質した松の根が使われていたようです。しかし、松の古株が掘り尽くされると、松のほかに杉、檜など常緑樹の古株、さらには生木を伐採した上での採掘も行われるようになります。そして、生木から松脂の採取がはじまります。そして山の中のマツだけでなく、防風林・公園のまつまでおよぶことになります。
戦争を伝える松

  戦争を伝える松
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」                           上田市教育委員会

松脂採集跡4
松脂採集のための傷を残しながら生き続ける松(上田市下之郷東山)

松脂採集7

金沢の兼六園の古松にも松脂採集跡がのこされているものがあるようです。

□松の傷(かなざわ百万石ねっと>特別名勝 兼六園>平成の庭・梅林・金城霊沢)

金沢兼六園の「松の傷」
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。

兼六園の古松からも脂
松脂採取の傷跡の残る松(兼六園)

松脂 金沢兼六園2
兼六園の松から松脂を採取する女学生たち
兼六園の松からも松脂が採集されています。国家危急の折に「一億総玉砕」に掲げる中で、兼六園の松であろうとも協力するのは当然と考えられ、時の指導者達がOKを出したのでしょう。「総動員体制完遂」という国策遂行のためのイメージ戦略だったのかもしれません。ここでは兼六園の松からも採取されていることを押さえておきます。同時に日光街道などの街道沿いの松なども採取対象になったことが新聞には記されています。
先ほど見た秋田魁新聞には、松に傷をつけても「松は死にはしない」とありました。しかし、樹皮を剥がされ傷つけられた松は、大きなダメージを受けて枯れた木も多かったようです。それが前回見たようにまんのう町(旧琴南)の山の中に、傷跡を残しながら立ち枯れ姿となっているのです。

松脂採集8
松脂採集跡を残す立ち枯れの松幹
松脂採集5

松から脂をとるために大量の木が切られるようになるのは1944年秋以降のことです。
実は、その前年からは「軍需造船供木運動」がはじまり、各地の巨木が伐採供出されていました。
日本の輸送船が南洋で次々沈められたのに対応して、急ぎ木造船を増産するために大量の木が伐られたのです。1943年2月に「軍需造船供木運動」は始まります。これも山の木だけ出なく屋敷林や社寺境内林、並木や防風林まで目をつけられます。そして、半年足らずの間に、全国から百万本以上の巨木が「出征」します。この巨木の「供出」「出征」の際にも、美談や「熱誠」を演出して競争心をあおる官製「国民運動」が興され、新聞がこれをこぞってとりあげます。大政翼賛会による下からの官民運動の進め方は、次のような手順です。
①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、
②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
ある意味では、松根油や松脂の採集運動は、「軍需造船供木運動」の「二番煎じ」だったようです。そのために姿を消した巨樹たちも多かったのです。一方で、国策に抗い巨樹を守り抜こうとした人達もいたのです。

応召される松並木 岡山県
『写真週報』第270号(1943年5月5日)岡山県の津山市二宮松原の並木伐採の様子
タイトル 応召する三百歳の杉並木
右上 松並木遠景
左上 市長による斧入
伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」
金子恭三  「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)   
信州戦争資料センター(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)
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まんのう町の町報「ふるさと探訪 アカマツに残る先人の営みの足跡」という記事が載せられていました。
ふるさと探訪原稿 松油採集

ここには、敗戦直前にガソリンなどの代替燃料として松の幹から燃料油を採取して利用しようとしたこと、それとは別にアカマツの幹に傷を付けて油を集めた跡も残っていることが報告されていす。このことについて、以前から興味を持っていたので、今の段階で集めた情報をメモとしてアップしておきます。まずは根から油を集める「松根油」についてです。テキストは、信州戦争資料センターの記事です。(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)。ここには、次のようなポスターが紹介されています。

松根油1

タイトルは「埋もれた戦力・松油掘出せ」「松根油 緊急増産」とあって、切り倒された松の根を母親と子供が掘りだしています。「銃後を支える婦人と少国民」の雰囲気がよく出ています。ここからは太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から翌年にかけて、松の根を掘り出し、その脂分で「油」にする作業が行われていたことが分かります。
「陸軍燃料廠ー太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」(光人社・石井正紀著)には、次のようなことが記されています。(要約)
光人社NF文庫<br /> 陸軍燃料廠―太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い (新装版)

1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報で「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という情報が届いた。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」として、国内年間消費量の1/3ほどの採油が可能と報告した。その計画に陸軍、農商省、内務省が乗っかり、10月20日には最高戦争指導会議で承認された。

この決定に基づいて、担当相となった農商省が10月23日の次官会議で「松根油等緊急増産措置要綱」をまとめて、各府県知事を通じて松根油の生産活動が始められます。その運動を進めるために全国に配布されたのがこのポスターのようです。
松根油等緊急増産措置要綱
「松根油等緊急増産措置要綱」の第一条・方針には次のように記します。

「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」

意訳変換しておくと
皇国決戦の最終段階に対応するために、山野に放置されている松根を動員する。そして乾留方法で松根油の飛躍的増産を図る。現在は非常に重要な局面にあり、ことは緊急を要する。ついては、皇国の農山漁民の底力を最高度に結集発揚し、本事業の完遂を図り、皇国戦力の充実増強に寄与すべし。
第二条・措置
「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」
 
いつものように音頭を取るのは、大本営ですが実施方法は「地方長官=知事」の責任制です。現場には、農会などを通じて実行させることになります。結果に、大本営は責任をとりません。

 松根油の作り方は、次のような工程でした。
①松の立ち枯れた古木(樹齢50年以上)をさがしてし、松株を掘る。
②伐根のノルマは 1 日 150~250kg
③掘り出された松の根は、貯木場に蓄えられた後、小割材にしてカマス袋に入れ、乾溜缶(100 貫釜)に運ぶ。
④釜の内部には中カゴがあり、この中にあらかじめ割砕した松根原料を詰める。
⑤粘土と石灰を練り合わせたものを、釜と蓋の間に塗り込み密閉し、火を焚いた。
⑥出てきた蒸気を冷却し、液体化した油分である「粗油」を改宗する
⑦これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、
⑧軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする
 この工程案に基づいて、1944年冬から、松の根を掘りだす作業に動員が始められます。当寺の新聞には、割当目標を達成の記事が載せられて、互いに村々を競い合わせています。

松根油増産戦
            昭和19年12月28日 松根油増産戦 各地の情報

当事者は当寺のことを、次のように回顧します。

とに角この仕事に動員された人々は、ここでも滅私奉公を強要され、腹をすかしながら馴れぬ手に血豆を作り、死に物狂いで松根の掘り起しに従事した。先ず在来の松脂集めには、国民学校の生徒や、都市から農山村に疎開している婦人達が充当された。松根株集めには、鉄道の枕木、鉱山の杭木用に伐採されて全国の山野に放置されている推定八十億株の松の古株を第一目標にした。これが無くなれば次々に立木を伐採し、枝も葉も根も接触分解法や乾溜法の原料にすることになった。

こうして松根はほりだされます。ところが③の乾留釜がありません。釜が据えられても今度は生産した粗油を入れるドラム缶が届かない、ドラム缶を入手しても、輸送ができないといった八方塞がりに陥ります。春頃には、山積みされた松根があっちこっちでみられるようになります。

 『石見町誌』には、「モデル地区」となった矢上と中野に松根油の製油工場が建ったようです。
そして、海軍予備学生の生徒が動員されて松根掘りが始まります。笠森惣一氏の回顧録には、次のように記されています。

旧石見町では中野茅場にまず松根油抽出工場が建ち、抽出釜6基を配置。田植えが済むと松根堀りに駆り出され、中野の松根油は検査の結果、島根県下最優秀油に選ばれ、軍部も目をつけるようになった。山口の徳山から技術者を呼び寄せ、工場は矢上にも建てられ、抽出釜は中野7基、井原7基、矢上6基を設置してフル回転。海軍省からは矢の催促と慰問、激励を受けた。そこで、村民あげての松根堀りになった為に、20基そこそこの釜では対応し切れず、根っこをそのまま大田や松江の工場へ運ぶほどだった。そのおかげで、島根県の松根油は海軍大臣より感謝状を贈られた。

この時の鉄釜を、邑南町中野(石見地区)にある西隆寺の梵鐘は、その釜を現在でも使用しているようです。ちなみに松根油採集に使用された 乾溜炉跡や釜など遺物は全国に余り残っていないようです。全国各地に点在している可能性のある松根油製造関連の遺物の確認が必要だと研究者は指摘します。
       
松根油の窯
邑南町中野(石見地区)の西隆寺の梵鐘は、松根油の竃の再利用

 戦時中の国民向けの宣伝には、次のような、スローガンが並んでいます。
「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」
「掘って蒸して送れ」
「全村あげて松根赤たすき」
これは別に視点から見れば、数十年かけて育ったマツ 1 本で、18 秒しか飛行機は飛べなかったことを意味します。もともとエネルギー資源としては効率や持続性・再生産性に欠けるものだったのです。そんため敗戦後は、松根油は近海の漁船の燃料に使用されたのみで、その役を終えたと研究者は報告しています。

松根油2

松根油の実用性についても見ておきましょう。

松根油は牛白色の粘着性液体です。そのため時間の経過とともに粘着成分ができて、燃料フィルターを詰まらせ、燃料噴射状態が悪くなりました。その打開策として、エンジン始動時には通常燃料を使って、エンジンが暖まってから松根重油(ガソリン含有量 20~30%)に切り替える方法を用いています。松根油航空揮発油を燃料として使用されたのは、テスト飛行のみで戦闘には使われていなようです。
 1945年になると本土の空襲が本格化、戦力の弱化、資材と技術の不足からほとんど活用されることはありませんでした。松根油製造は、国家総動員体制のひとつの目玉と国家あげて生産体制が組まれました。しかし、それは一貫した見通しがなく、機上の空論を現場に求めたものでした。

齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」には、次のように記されています
大戦末期の松根油の採集・増産活動は、松林の広域伐採を招き、これが敗戦後の山地荒廃を招いたとする説がある。しかし、実際にどれほどの松の木が伐採され、山地荒廃にどれほどの影響を与えたかは資料的に残っていない。文献資料を通じて、松根油生産の実態を可能な限り詳細に明らかにすることを目的とした。

と述べた上で、次のように整理要約しています。
①松根油生産は第二次世界大戦以前から生産が行われていたが、その生産は大戦末期に極限に達した。
②松根油を生産する地域には偏りがあったが、大戦末期になるに従い、全国的に生産されるようになった。
③過剰な松根油生産が山地荒廃につながる危険性が認識されながら、大戦末期には過剰な生産ノルマが設定された可能性が高い。
④松根掘り取り過程に関しては、概ね生産ノルマが達成された。
⑤松根油生産が山地荒廃に与えた影響を検討するためには、対象地区を限った上で調査を行う必要がある。
 ちなみに、松根油政策に遅れて、本土決戦戦略の一環として進められるのが各県での飛行場建設です。香川県でも髙松(旧林田飛行場)・飯野山南・三豊平野に飛行場建設が旧制中学校の学徒動員で進められます。飛行機がないのに、燃料や飛行場を造っても意味が無いように現在の我々は思います。しかし、大本営が考えていたのは、何もしないで国民を放置しておくことに恐怖を感じていたようです。「小人閑居して不善を為す」の言葉通りに、放って置いたら不安に駆られて何をし出すか分からない。米軍機は「反乱の扇動」を行っている。それに対応するためにも、政府の下に国民を動員し続けることが必要と考えていた節があります。これは戦術や戦略ではなく、「愚民政策」だった云えるのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」
金子恭三  「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)
金子貞二  「明宝村史 通史編下巻」pp.492-495
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金倉寺縁起

前回までは金倉寺縁起上巻を見てきました。そこには、日本武尊・讃留礼王から綾氏・酒部氏・和気氏をへて、智証大師に至るまでの事績と金倉寺の前身寺院の伝が記されていました。今回は、中巻の前半部の円珍誕生から出家までを見ていくことにします。テキストは「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」です。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生

 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO1)
意訳変換しておくと
当寺の初祖智證大師は、原田戸主長の和氣宅成の次男である。母は佐伯氏で、弘田郷領の出身で、弘法大師の姪である。嵯峨天皇の弘仁四年夏、母の夢の中で、日輪赫変が口に飛び入ってくるのを見て、授かった子である。そして翌年3月25日誕生した。生まれるときには、天中から声が聞こえ、南無大通智勝佛が唱えられ、眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆のようで、肉髪に似ていた。
 宅成公は、この姿を見て奇相と思い、廣雄と名付けた。二歳の時に麻田に遊び入ると廻りが光明を発して光り輝いた。隣の里の人々までもが驚嘆した。三歳の春二月には、弘法大師が円珍を見て、その母に「あの子は非凡である」と告げたという。これを軽々しく捨て置く事はできない言葉である。
ある日には童子八人が天から下りてきて、円珍と遊んだ。円珍は幼くして老成の趣があった。見識のある者は異才と思った。五歳の時、訶利帝母が現れ、次のように告げた。汝は三光の中の明星となれ。あなたは天子の精で、虚空菩薩の権化(生まれ代わり)である。私はあなたと多くの契りを交わそう。あなたは将来、佛法を興すことになる人物である。私は、あなたの庇護者となろう。七歳の時には、雲衣童子が現れて次のように云った。私は文殊大士の指示で、あなたが生まれる前から見守り、保護してきたと。八歳の時には、父が云うには。内典の中に、過去や因果を記した経典があると聞く。願わくば吾をして、習わしめんと
ここには智証大師の母が弘法大師の姪とされています。
これが最初に登場するのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』です。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の」とは記されていないことです。「空海の姪」です。
空海系図 正道雄伝
田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』
しかし、後世になると「円珍の母=空海の」説となり、「円珍=空海の甥」説が生まれることは以前にお話ししました。どちらにしても、佐伯直氏にもいろいろな流れがあったようですが、田公の家系と和気氏(因支首氏)が婚姻関係にあり、ごく近い関係にあったことを金倉寺側は世間に伝えたかったようです。ある意味、弘法大師と善通寺を金倉寺は意識しています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍像(金倉寺蔵)
 また生まれた時の姿を「眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆」と記します。円珍のトレードマークであった「卵頭」は生まれつきだったようです。そして円珍の守護神として訶利帝母が登場します。これも別の機会にお話しすることにして、先を急ぎます。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生2

讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO2)
父親の願いを聞いて、驚くべきことにすぐに付箋をつけた。
九歳の時に、師祖である伝教大師が亡くなられた。十歳の時、毛詩・論語。漢書・文選等を学び、多くの書物も読破し身につけた。十四歳の時、叔父の仁徳法師に従って上洛した。十五歳で叡山に登り、事座主義真和尚を師とした。和尚は円珍を見るなり、その器量を見抜き、心を尽くして善導した。そこで學んだのは、法華・金光明経などや天台宗章琉、などで、ほとんどを網羅したものであった。
淳和天皇の天長九年、円珍十九歳で年分試を奉じ、三月十五日断髪、四月八日受戒し沙爾となった。その名は円珍。文字の意味は遠崖。この月二十一日に都を出て、二十八日に讃岐原田郷の自在王堂に還ってきた。留まること五ケ月で、深山山林原野の山林修行に入り、伽藍を造営し、仏像を彫った。。
こうして道隆寺、宝幢寺、金剛寺、城山寺、白峰寺、根香寺、古水寺、鷲峰寺、千光寺などの伽藍を造営した。(注記)古記に曰わく、讃岐の智証大師開基の寺は17寺に及ぶと) 八月一日に讃岐を離れ、五日に入京。七日に叡山に帰った。
14歳の時に、叔父の仁徳法師に連れられて比叡山に赴いたとされています。仁徳については、円珍系図に以下のように記されています。
円珍系図冒頭部
円珍系図 左の一番下の「広雄=円珍」 その上の「宅成=円珍の父」「宅丸=仁徳=円珍の叔父」
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)に、次のように記されています。

沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄

意訳変換しておくと
 
沙弥円珍は十九歳、讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成の戸籍 広雄

ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

4344103-26円珍
円珍 「讃岐国名勝図会」 国会図書館デジタルアーカイブ

    貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)に「智証大師」の号を得ています。
 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったとされます。しかし、これは円珍の法灯を継ぐ天台寺門派の聖護院が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者たちが、円珍を「始祖」として、信仰対象にしていたことがうかがえます。それが後に天台系密教修験者たちの祖とされ、白峯寺や根来寺の開基にも関わったされるようになったと研究者は考えています。ある意味では、醍醐寺の開祖聖宝が真言系修験者たちから開祖とされ、いろいろな伝説が生まれてくるのと似ています。
 円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったと研究者は考えています。
 にもかかわらず円珍創建・中興とされる寺院が数多くあります。例えば「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場します。この縁起には、次のように記されます。

貞観二年(860)、円珍が五色台の山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられた。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺?)、白峯寺の四ヶ寺に納めた。

この縁起には、根来寺や白峰寺・国分寺の本尊の千手観音は円珍の自作とされています。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたことがうかがえます。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていたり、他にも、天台大師像、智証大師(円珍)像、山王曼荼羅図が伝えられていることが報告されています。また、根香寺には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。
    根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。八十七番札所の長尾寺も、松平頼重によって天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。
智弁大師(円珍) 根来寺
根来寺の智証大師像(松平頼重寄進)

智弁大師 円珍 金倉寺
金倉寺の智弁大師像(松平頼重寄進)

長尾寺 円珍坐像
              長尾寺の智弁大師像 (松平頼重寄進)

円珍信仰・伝説の背後には、聖護院の本山派修験者たちの存在が透けて見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」
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前回は18世紀前半に了春によって書かれた金倉寺縁起の上巻を、次のようにまとめておきました。

和気氏と讃留霊王伝説

今回は円珍によって金蔵寺の伽藍が整備されるまでを見ていくことにします。上巻後半部の綾姓第十一世・原田戸主長者の和氣道善(円珍の祖父?)からです。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の那珂郡金倉郷と多度郡葛原郷は隣同士 金倉郷の南が木(喜)徳郷

鶏足山金倉寺縁起6
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五(774)年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善公自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。
平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成に云うには中冬の初めに私は逝く。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じながら端坐して逝った。112歳であった。  
ここには原田戸主長者の道善(円珍の祖父?)が自在王堂を建立したこと、そして円珍の父・宅成が登場してきます。これを円珍の残した「円珍系図」で確認しておきましょう。
円珍系図 那珂郡
円珍系譜 円珍は広雄、その父は宅成、叔父が宅麻呂(仁徳)、祖父が道麻呂と記されている。
この系図には、和気道善という人物はでてきません。でてくるの「因支首道麻呂」です。円珍より前の祖先は因支首氏を名乗っていたことは以前にお話ししました。それを円珍の時代に改姓申請したのです。和気氏を名乗るのは、改姓以後のことです。そのことについて縁起は何も触れません。近世の金倉寺には。因支首氏や和気氏に関する根本史料がなかったことがうかがえます。

金倉寺縁起上巻 和気の道隆
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
道善公の弟が和氣道隆である。
道隆は天平年中に、堀江に移り周辺に千株の桑を植えた。このため人々は桑園公と呼んだ。勝賃元年六月に、その桑樹の上で発光するものを見つけた。道隆公は妖怪かと驚いて弓矢でこれを射た。手応えを感じて樹下に確かめに行くと、そこには道隆の乳母が倒れていた。道隆公はこれを見て大いに悲しんだ。そして、桑の木を切って、冥福を祈りながら薬師如来の小像を彫った。小像が完成すると、乳母は生き返った。そして矢傷も見えなかった。これを見た者は、手を打って喜んだ。これ以後は、道隆公は世俗を離れ、一心に仏道に励み怠ることがなかった。延暦24年7月15日、道隆公は五輪塔婆を建立し、爾勒定で逝った。時に99歳であった。
天長9年、智證大師が、道隆公の旧跡に伽藍を造営した。
 薬師如来像を自らの手で彫り、その胎内に道隆公の小像を入れ安置した。また道隆公の累代の菩提寺として妙見尊を奉り守護神とした。これを道隆公にちなんで道隆寺と号した。世間ではこれを桑多寺とも呼んだ。
 延應元年8月10日、道隆の子孫で道隆寺住職の朝祐は、金倉寺講衆から法華八講を学び修めた。それ以来金倉寺學頭一の学僧が招かれ、法事を執り行うしきたりとなった。
  ここでは、道隆寺建立の縁起が語られます。
まず、道隆寺を建立したのは、自在王堂(後の金蔵寺)を建立した道善の弟・道隆だとします。つまり、道隆寺も和気氏の一族の氏寺だったというのです。たしかに、和気氏に改姓する前の因支首氏の一族は、那珂郡よりも多度郡に多かったことが「円珍系図」からはうかがえます。古代の因支首氏が那珂・多度郡一帯に分布していたのは頷けます。しかし、系図には道善の弟は「宅麻呂」と記されています。彼は出家し、後に仁徳を名乗る人物です。このあたりも円珍系図と齟齬をきたします。
 その後、道隆の居館跡に円珍が伽藍を整備したとしるします。そのため道隆寺は金倉寺の末寺的存在であり、金倉時から法華八講を学んでいて、金倉寺の方が格上である事を暗に主張しています。どちらにしても近世の金倉寺では、道隆寺も同じ和気氏の氏寺であり、関係が深かったと認識されていたことを押さえておきます。次に出てくるのが善茂の娘と、道善の息子宅成です。

金倉寺縁起上巻 和気宅成
意訳変換しておくと
善茂の娘の珠妙尼は、性格が柔和で、俗事に染まらない気質を持っていた。幼年の時に、髪を落として尼僧となった。一生、勘行精進し、法華経万部を誦読し、一千部を写経した。和銅5年2月15日、父兄が先に逝き、追うように年若若く33歳で逝った。
綾姓第十二世は、原田戸主長者の和氣宅成(円珍の父)である。
寛容で思慮深い性格であった。京師に遊学し、四書五経などを学び、仏教にも接した。長く仏教を信仰してきた家として、なにか世間に役立つことをしたいと考えた宅成は、弘仁年間の初めに、父道善が建立した自在王堂を官寺とし、国衙から租税を支給されることを願うようになった。このことについて、何度か国衙に願いでたが許されなかった。
 そこで仁壽元年に、息子の円珍の護持を受けて願い出た。時の国衙役人は、円珍が天皇や公家たちから頼りとされ、深く帰依されていることを知っていた。そこで解状を書いて朝廷に奏上した。この年11月に下された庁宣には、次のように記されていた。讚岐國原田郷道善寺に下す。

善茂の娘の後に、道善の息子宅成(円珍父)が登場してきます。そして、道善が建立した自在王堂(道善寺)の官寺化を、円珍の力を借りながら進めたことが記されます。そして、その認可状を次のように紹介します。
金倉寺縁起上巻 和気宅成 道善寺
意訳変換しておくと
  寺領三十二町を自在王堂如意輪精舎(道善寺)に下す。この地は、善茂が開墾した地であり、伽藍は道善の建立したものである。大聖金輸如意尊は、出家した善甲が彫刻し、自在王としたものである。その聖胎の中には妙見珠が収められている。尊像も佛閣も、皇法護持の秘佛であり、國家繁栄の霊場である。よって解状の趣旨を受けて燈明料として国家の保護を与える。ついては、士利を募って、僧侶の衣食に充てよ。なお、すべての雑税を皆免する。ついては円珍を護持長吏として、皇祖長久、四海泰平を祈念させよ。これは是宅が望んでいた遺志に報いることでもある。齊衡2年2月14日、沐浴し着替え、弥陀念仏を唱えながら宅成は逝った。壽98歳であった。
 伝えるところでは、智證大師は、唐越州の開元寺に留学中に、不動尊と訂利帝母が現れて、汝の父の死期が近い。我ら二尊が力を貸すので、今生の別れを告げてこいと。こうして二尊によって讚州原田郷宅成のもとに送り届けられ、最後の別れを遂げることができた。齊衡2年2月1日、大唐大中九年の事という。
ここには、道善が建立した自在王堂(道善寺)が円珍の威光で官寺化されたことが記されています。和気氏が、仏教に帰依して以来の到達点が誇らしげに記され、寺領と共に免税特権などが与えられたことが記されています。しかし、金倉寺が官寺化されたことはありません。
 次に登場するのが、道善の次男で、宅成の弟である仁徳です。

金倉寺縁起上巻 仁徳
意訳変換しておくと
金林寺の初祖仁徳は、和氣道善の次男である。
仁徳は、英俊で幼年時から仏教に興味を持っていた。道善公は、これを見て仁徳を叡山の伝教大師に託した。延暦年中に断髪・出家した。弘仁13年に伝教大師が入滅した後は、讃岐の木徳金林寺に帰り伝道活動を行った。これにより天台宗を海南(四国)に伝えた。貞槻元年に入滅。
綾姓第十三世は、原田長者の和氣善甑である。
仁孝で、先志をよく継いだ。天安2年秋に、智證大師が当留学から帰国すると、この道善
寺で一時生活した。甕公はこの地に移り住むことを望み、智証大師のために規模拡張工事を行い、貞観3年に造営完了した。多くの僧達が参加して、智証大師の下で落慶法要が営まれた。
 こうして、「(国分寺の)鷲峯(寺)台の嶺の秋月、鵜足山頭の壇場、蘭陀青龍寺の春華、道善寺賓房の薫堂」と並び称せられ、日夜香燈の光焔が絶えることがなく、菩提の気風が満ち満ち、朝暮の鐘の音が殷賑に響き、煩悩を感じることもなかった。道善寺の盛んなことかくの如し。
金林寺の仁徳を、もういちど円珍系図を見ておきましょう。

円珍系図 那珂郡

確かに仁徳(因支首宅麻呂)は、宅成の弟で、広雄(円珍)の叔父になります。円珍が空海の高野山ではなく、比叡山に行ったのも仁徳の導きによるとされます。しかし、ここで注意しておきたいのは、円珍系図で多度郡と那珂郡の因支首氏を挙げていることです。それを見ると、円珍や仁徳も那珂郡に戸籍があったことが分かります。ところが金林寺は多度郡の木徳に、創建された寺院なのです。この当たりは仁徳が讃岐に天台宗をもたらした人物として評価するために、金林寺という寺が作り出された気配がします。
最後に登場するのが、綾姓第十三世で原田長者の和氣善甑」です。
「円珍系図」からすれば、円珍の弟福雄に当たるようですが、縁起はその事には何も触れません。ただ、智証が唐から帰国した際に、道善寺を整備したのは円珍ではなく、善甑だと記します。
以上から18世紀前半の了春が金倉寺縁起の中で伝えたかったことを挙げておきます。
①和気氏の祖先は、悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏と祖先は同じである。
②綾氏→黒部氏→和気氏と改姓しながら、妙見神の信託で居住地を換えながら鵜足郡から綾郡へ進出してきた
③早くから仏教に帰依し、木徳に金林寺を建立以後も転居先に寺院を建立してきた
④それが円珍の祖父道善が建立した自在王堂(金倉寺)や、弟道隆の建立した道隆寺であった。
⑤円珍の父宅成は、自在王堂を官寺化し、寺領や免税特権を得た。
⑥金林寺の仁徳は、最澄の比叡山で学び、讃岐に初めて天台宗をもたらした。
⑦唐から帰国した円珍によって自在王堂は伽藍が整備され、金倉寺とよばれるようになった

しかし、これらを円珍系譜などで検証すると齟齬が多く、事実と認められることは少ない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



金倉寺調査報告書を読んでいると、近世の「金倉寺縁起」に円珍の祖先が悪魚退治伝説の讃留霊王の子孫として記されていることを知りました。讃留霊王伝説が丸亀平野にどのように拡がって行くのかについて興味があります。そこで今回は、「讃岐国鶏足山金倉寺縁起」を見ていくことにします。

金倉寺縁起
 金倉寺の縁起でもっとも知られているのは「讃岐国鶏足山金倉寺縁起(上中下3巻)です。
これは『香川叢書』第一(1939年)に収録されているので、今回はこれをテキストとします。まず「金倉寺縁起」の成立契機について押さえておきます。下巻本文に「享保十九(1734)年の今」とあります。また末尾の奥書に、次のように記されています。
金倉寺縁起下巻奥書 

讃岐国鶏足山金倉寺縁起 下巻奥書

「現住権大僧都了春、博く旧典を取り、且その訣漏を補い、精選するところなり」

ここからは享保19年(1734)に、金倉寺五世の了春によって作られたことが分かります。それを寛保2年(1742)に本山三井寺の長吏祐常が上中下3巻を浄書したものが現在のもので、各巻の内容は次の通りです。
上巻は日本武尊・讃留礼王から智証大師舎兄原田長者和気善瓢までの代々の綾氏(酒部氏、和気氏)の事績と金倉寺前身寺院のこと
中巻は智証大師の前半生のことで、誕生から入唐を経て帰国後の天安2年(858)に道善寺(金倉寺前身)を拡大改営するところまで
下巻は前半が貞観元年(859)からの智証大師の後半生の伝で、後半には智証大師入寂後、康済律師によって大師祖像が祀られ、延長6年(928)に勅に依り金倉寺と名を改めて以後、建武・天文の兵乱による退転・真言宗への改宗を経たこと。寛永19年(1642)に松平頼重により再興され、慶安4年(1651)に天台宗に改宗され聖護院門跡末寺になるまで
今回見ていくのは、上巻の始祖神櫛王から和気氏にいたる部分です。
これに先立つ金倉寺の縁起は、次のようなものしかありません。
元禄2年(1689)寂本 『四国偏礼霊場記』
元禄13年(1700)「覚」「金倉寺由来及び什宝書上げ」
これらは内容は簡略で不充分なものと研究者は評します。つまり、この縁起が18世紀前半に書かれるまでは、金倉寺の寺史、寺伝はほとんど整えられていなかったことになります。「了春が広く旧典を収集し、その訣漏を補って、精選」したのが「金倉寺縁起」になるようです。享保19年以前に、了春は「讃岐国那珂郡鶏足山金倉寺来由」を髙松藩に提出しています。髙松藩に求められて提出したこの「由来レポート」が契機となって「鶏足山金倉寺縁起縁」につながっていったと研究者は推測します。「予習」は、このくらいにして実際に読んでいくことにします。

鶏足山金倉寺縁起1

讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO1
意訳変換しておくと
前略
讚岐國那珂郡の鶏足山金倉寺は、護法善神の出現する名跡であり、智証大師生誕の霊場でもある。その源を察するに、十二代景行天皇の第二皇子である小碓命(ヤマトタケル)は、魁偉で、身長一丈(=10尺=3mあまり)で、有智に長けて、力は鼎を持ち上げるほどであった。若い頃に父の天皇の命で、何度も東西の逆徒を討ち、内海を平定した。そこで日本武尊と呼ばれた。武尊には十四人の男子と一女がいた。長男が稲依別王、次男が足仲彦箪(仲哀天皇)、

上記の記述を紀記で確認しておきます。紀記には、神櫛王は景行天皇の子で、日本武尊(倭建命:ヤマトタケル)の弟と記されます。髙松市牟礼町には宮内庁が管理する神櫛王の陵墓があります。「神櫛王の悪魚退治」として世間では知られています。ところが、金倉寺縁起に出てくるのは神櫛王ではないのです。ヤマトタケルの4男武卵王(たけかいこう)が悪魚を退治したと記します。


神櫛王系図

神櫛王の紀記記述

紀記に登場するのは神櫛王のみです。しかも、神櫛王が悪魚退治を行ったことにはどこにも触れていません。悪魚退治伝説が登場するのは中世になってからであることを、ここでは押さえておきます。


鶏足山金倉寺縁起2
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO2
意訳変換しておくと
    三男が稚武王、四男が武卵王(たけかいこう)で、これが綾氏に始祖になる讚留霊王のことである。讃留霊王は、人に穏やかに接しながらも謀りごとに長けていた上に勇敢でもあった。
 成務天皇の時に西海に大魚が現れ大いに暴れ、民は苦しんだ。そこで天皇は武卵王に、これを討つように命じた。武卵王は熊襲の士を率いて力の限りを尽くして戦い、ついに大魚を讚州の海中で倒した。天皇はこの功績を讃え、武卵王を讚州の地に留めた。そのため自からを讃岐の国名にちなんで讚留霊公と称するようになった。また霊公の胸には「阿野(綾)」という二文字があったので阿野という姓を賜った。そして阿野の地で居住した。霊公には三男一女の子がいた。神功皇后40年9月15日に、125歳で亡くなった。
聖武天皇帝年中に、高僧の行基が、霊公旧跡に法動寺を建立した。さらに延暦13年、法動寺を鵜足郡井上郷に移して、弘法大師が薬師如来と十二神将、四大天王像を自ら造って安置した。又五佛像・三屠賓塔も安置した。
 この伝説が現れるのは中世になってからです。古代の讃岐綾氏の武士団化した讃岐藤原氏(羽床・香西氏)などが自分たちの系図の巻頭に登場させたのが悪魚退治伝説であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説 綾氏系図
                綾氏系図(明治の模造品)

悪魚退治伝説のシナリオを簡略化し、ポイント化すると次のようになります。
悪魚退治伝説の粗筋

面白おかしく語られたのは、②のアクション場面です。しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が「讃岐国造の始祖」で、綾(阿野)氏と称したという所です。羽床氏や香西氏にとって祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったことを押さえておきます。そのために、近世になると「讃留霊王の舘は、ここにあった」と、尾ひれのついた話が付け加えられていくことになります。
 もうひとつ押さえておかなければならないことがあります。悪魚退治伝説の主人公が髙松と丸亀では異なることです。これはどうしてでしょうか?

1櫛梨神社3233
悪魚退治伝説の宥範縁起と綾氏系図の内容比較表 
神櫛王とたけかいこう

髙松方面では神櫛王が主人公で、宮内庁の管轄する陵墓が牟礼にあることは以前にお話ししました。それに対して、丸亀方面では武卵王(諱を讃留霊王)とします。

讃留霊王神社説明版

こちらは飯山町の法勲寺にある岡が陵墓とされ神社が建立されています。宥範縁起を通じて広まった髙松地域は神櫛王を、綾氏系図は「霊公」としていることによるのかもしれません。もうひとつは、髙松藩が牟礼の墓地を神櫛王陵墓に選定し、明治になってこれを宮内庁も追認します。そうすると、それまで神櫛王の陵墓だと主張していた所は名のれなくなり、讃留霊王陵墓を名のる所も出てきたようです。脇道に逸れましたので、元に戻ります。
 その後、讃留霊王の供養のために行基が福江(坂出)に法勲寺を建立します。それを後に、弘法大師が井上郷(飯山町)に移して、法勲寺は大伽藍へと成長していきます。この由来を書いたのが、羽床氏や香西氏の氏寺とされた法勲寺の僧侶でした。

鶏足山金倉寺縁起3
               讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO3
意訳変換しておくと
(法勲寺造営の際には)讃岐國内の僧侶達は鐵筆で五部大乗典を陶瓦に彫り、霊公の墳墓を覆った。九月十五日には法華八講を唱え、霊公に捧げる。この功徳によって長らく凶事は起こらず平穏であった。このような平安を人々は法勲寺のお陰であるとした。桓武帝はこれを聞いて、勅して法勲寺を官寺として、官戸五百戸を寄進した。
綾姓第二世は、綾鵜足と云う。周辺の開拓・開墾に努めたので、天皇は国造の称号を与えた。応神天皇の時には、拠点をここに移して、その地を鵜足郡と人々は呼ぶようになった。
綾姓第三世は綾隈玉で、巨富を有するようになり、仁徳天皇8年に三井上郷に移った。
綾姓第四世は綾真玉で、允恭天王26年に108歳で亡くなった。
綾姓第五世、綾益甲である。允恭天皇27年7月7日の夜夢で、益甲が艮維涌泉で、その水底をのぞき見ると輝く玉が見えた。すると「この玉、取るべし」という声が聞こえてきた。目が覚めた後で、すぐにこの泉を探すと、その珠玉が見つかった。その大きさは五寸ほどで、星影を映し、螢のように瞬いた。そこで宝殿に安置し厚く敬った。それからは、霊験が次々と現れ、凶事は何事も起こらなかった。これを妙見尊と呼ぶようになった。

悪魚退治伝説は法勲寺縁起でもあるので、法勲寺のことにも多くが割かれています。法勲寺は古代末には退転し、その流れを汲む近隣の島田寺に吸収されたようです。以後、古代綾氏の子孫の業績が語られています。なお注目しておきたいのは「妙見尊(神)」が何度も現れていることです。この縁起を書いた了春が修験道の「妙見」信仰を持っていたことがうかがえます。近世半ばの金倉寺では、妙見信仰が強かったようです。

鶏足山金倉寺縁起4
          讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO4
意訳変換しておくと
雄略天皇の時には 甕の麦酒を天皇に献上し、天皇から賞賛され、酒部黒麻呂長者という称号をいただいた。それは献上した酒が黒色だったからである。第5世は仁賢天皇九年八月十日に、105歳で亡くなった。
綾姓第六世は、酒部鵜隈。
綾姓第七世、那珂畝首領酒部成善。
宣化天皇三年正月朔日夜に、妙見尊が成善小女に託して曰く、我宮を那珂郡の吉野郷に移せば吉兆ありと。そこで吉野郷に移住したところ開墾が大いに進み、天皇は那珂畝首領の称号を下賜された。
達天皇九年正月十五日に、103歳で亡くなった。
綾姓第八世は酒部善満長者という。

丸亀平野南部の文書を見ていると「酒部黒麻呂」と、その子孫がよく出てきます。どんな由縁があるのかと思っていると、讃留霊王の子孫として近世になって作り出された家系のようです。ここからは近世になると、讃留霊王の系譜が讃岐藤原氏だけでなくさまざまに付加されて、綾郡から鵜足郡、そして那珂郡へと伸びていくことが記されています。

鶏足山金倉寺縁起5
           讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO5
意訳変換しておくと
 綾姓第九世は郡家戸主の酒部善里である。
舒明天皇9年正月18日、妙見尊が再び信託を下し、原田東郷に移るべしと。これより以後は人々は、この地を郡家郷と呼ぶようになった。ここは郡主の居館のあったところである。ここで善里は沙門に仏教の教えの深きことを聞き、信仰するようになった。そこで小さな仏像を彫って常に髪の中入れるようにした。そして往生の志を持つようになったという。白鳳三年正月十一日に、奄爾は99歳で亡くなった。
 綾姓第十世は木徳戸主 和氣善茂と云う。
慈仁に深く、常に貧困者には施しをした。二男一女があり、白鳳14年正月朔日、妙見尊が、その娘に信託して曰わく、急いで原田西郷に移るべし。そこで原田西郷にすぐに移り住み、この地の経営に励み、日ならずして開墾の成果を収めた。そこで、原田西郷に寺院を建立し、自ら薬師如来立像を彫って安置した。その堂前後左右に杷木十二株を植えて瑠璃世界七賓行樹を表現した。朱雀元年五月には、疫病が流行し、死者が数多く出た。善茂はこれを憐れんで薬師如来仏に祈った。すると、堂前の枇杷の実が熟し、たちまち金鈴となった。善茂がこれを病者に食べさせると、一人として死者は出なかった。そこでこの枇杷の実を天皇に貢納した。
ここで綾氏(酒部氏)が土器川を東に越えて、那珂郡の原田東郷(郡家)に進出したと記します。そして、舒明天皇の時代に仏教を信仰する祖先がいたとします。そして、またも妙見神のお告げで原田西に移り住み、そこに初めての寺院を建立します。これが初めて和気姓を名乗る善茂です。

鶏足山金倉寺縁起6
      讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO6
意訳変換しておくと
郷からその効能が伝えられると、天皇はかつてないほど悦び宣命を下して云うには、木の実は甘美で、人の氣力を高める効能がある。褒美に主領の地位を与えよと。こうして和氣善茂は木に縁があると、人々は木徳公と呼ぶようになった。そして、この地は木徳郷と称された。この年八月、木徳公の創建した寺院は金林寺と称され、荘田十二頃が寄進され官寺となった。 こうして宣命で讚岐國木徳金林寺は、和氣善茂が創建した寺院で、医王善逝應化の梵刹となった。天平十三年十二月十日、善茂は病もなく東方に向かって逝った。異香が室に満ち連日に渡って香った。
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、仏の三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成が云うには中冬の初めに私は去る。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じて端坐して逝った。112歳であった。
以上をまとめておきます。
①和気氏の系図は「讃留霊王 → 綾氏 → 酒部氏 → 和気氏」と変遷する。
②和気氏のルーツは悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏から別れた系譜とする
③綾氏・黒部氏・和気氏の間に、妙見神の信託で居住地を何カ所も換えた記されること
④その間に、阿野郡から鵜足郡を開発開墾し、那珂郡に進出し金倉寺周辺に定着した。
⑤そして、木徳に初めて氏寺である金林寺を建立した。
⑥続いて、和気道善が原田中郷に、自在王堂を建立した。
ここからは金倉寺縁起の作者が和気氏の系図を、綾氏に接ぎ木したことが分かります。その結果、和気氏は綾氏の分派だが共通の祖先である讃留霊王の子孫であるとの認識が広まるようになったようです。丸亀平野南部では、和気氏の子孫を名乗る有力者が多かったようで、自らを讃留霊王の子孫とする系図が現れるようになります。いうなれば讃留霊王信仰が近世後半から明治にかけて拡がるのです。そして、なんでもかんでも和気氏や酒部氏を通じて、讃留霊王に結びつけられている風潮が強くなるのです。まんのう町の矢原家関係の文書を見ていても、それを感じます。その背景のひとつが、18世紀前半に成立した金倉寺縁起にあるようです。

なお、「和気氏=讃留霊王の子孫」説は、現在では否定されています。
その根拠となるのは近江の圓城寺に残されていた「円珍系譜」です。今はこれは国宝となっていますが、そこには次のようなことが記されています。

和気氏系図 円珍 稲木氏

①和気氏はもともとは因支首氏と名乗っていた。その拠点は現在の善通寺市稲木(因支首)であった。
②しかし、因支首氏は奈良時代に和気氏への改姓申請を朝廷に提出し認められている。
③その理由は、因支首氏はもともとは伊予にいたときには和気氏を名乗っていたからとある。
ここからは和気氏が伊予からやってきた氏族であったことが分かります。綾氏とはつながらないのです。また円珍周辺の系図を見ると次の通りです。円珍系譜で、因支首氏で一番古くまで辿れるのは「身」です。
円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系譜
円珍系図  忍尾と身
これを見ると分かるとおり、円珍が残した「円珍系図」と、了春の「金倉寺縁起」の人名は合致しません。ここからは了春は、「円珍系図」を見ずに、この間の人名を「創作」していることがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「讃岐国鶏足山金倉寺縁起 『香川叢書』第一(1939年)
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金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺

金倉寺に残された古文書で、主に近世の金倉寺について見ていくことにします。テキストは「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
金倉寺は寺伝では、和銅7年(714)和気道善(当時は因支首氏)が如意輪堂を建立し、道善寺と称したことに始まるとされます。
円珍系図1
円珍系図 円珍=広雄 その父が宅成 祖父が道麻呂)

智証大師像 圓城寺
国宝 円珍像(圓城寺)

智弁大師 円珍 金倉寺
円珍像(金倉寺蔵)
智証大師 金倉寺
円珍(金倉寺蔵)
 円珍は、高野山には行かずに、比叡山で出家します。そのうち入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、5年後に帰朝します。父・和気宅成の奏上によって、先祖の和気道善が建てた自在王堂の敷地32町歩を賜って、道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。そうすると「金倉寺=道善寺」で、円珍の生前にはあったことになります。ただ、以前にもお話ししたように奈良時代に遡る古代瓦は少量で、大きな伽藍があったとは研究者は考えていません。お堂的な規模の小さな寺院だったようです。道善の子宅成の代には官寺となったとされますが、金倉寺が官寺になったことはありません。また、道善や善通・善光など人名が寺名となるのは中世的で、勧進の中心人物の名前がつけられるようになって以後のことです。

徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂己下数字梵閣令回録」とされます。
(「年末詳金蔵寺衆徒等目安案」『新編香川叢書』史料篇二、1981年)、多度津の道隆寺が再興されたころに、金倉寺は焼け落ちたようです。それが復興するのは、前回お話ししたように南北朝後の細川頼之の時代です。善通寺中興の祖と言われる宥範と同時期に金倉寺も復興を遂げて、次のような威容を見せるようになります。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あるので、数多くの別所や坊・末寺が周辺にはあって、夥しい勧進僧や念仏聖を擁していたことがうかがえます。彼らの勧進で中世の金倉寺は復興し、維持されていたとも考えられます。
 その後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。その後、「天正三(1575)年亥乙焼失」とあって、「焼失」の原因は記されていません。香西成資『南海通記』には、天正3年(1575)には、西讃守護代の香川信景と那珂郡の金倉城主金倉顕忠が戦い、顕忠が敗死し金倉城は落城したと伝えられます。その際に兵火に巻き込まれたという説もあります。どちらにしても戦国時代末期の天正年間には、善通寺と同じく金倉寺の伽藍は姿を消していたことを押さえておきます。
 戦国時代末期の天正年間の讃岐の支配者は、次のように変遷します。
阿波三好氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤一成 → 生駒親正父子 
この時代の金倉寺についてはよく分かりません。ただ慶長12年(1607)8月8日付の讃岐国金蔵寺本尊開帳供養願文が多度津の道隆寺に残されています(「道隆寺文書」、『新編香川叢書』史料篇)ここからは、この時代の金倉寺が真言宗であったこと、道隆寺と関係があったことが分かります。

松平頼重3

松平頼重
松平頼重の宗教政策

生駒家騒動の後に讃岐は分割され、その後に髙松初代藩主としてやってくるのが松平頼重です。

彼は独自の宗教観を持っていて、一貫した宗教政策を行います。その中の一つが、讃岐の真言宗への対抗勢力として天台宗の寺院を育成することでした。そのために、根来寺・長尾寺と共に金倉寺は、天台宗に改宗され、堂宇の再興、寺領の寄進、什物の寄進が行われます。その時の伽藍規模は、「弐町四方」です。このように現在の伽藍の基礎が整えられていくのは、松平頼重以後であることを押さえておきます。
善通寺の近世の復興が「弘法大師生誕の地」をアピールする江戸での「ご開帳」が大きな原動力となったことは以前にお話ししました。その動きに学んで金倉寺でも「智証大師円珍の生誕地」を前面に出していこうとする動きが始まります。

圓城寺 円珍生誕大法会
圓城寺の智証大師生誕法会

金倉寺の古文書で智証大師の年忌が最初に登場するのは、元文5年(1740)の850年忌の時です。
その前の元禄3年(1690)の800年忌については、「於御下屋敷厳重之御法会御執行被遊候」とあるので、藩主松平家の下屋敷で行われたようで、金倉寺での法会執行はなかったことが分かります。

智証大師八百五十年忌御法会之記事 金蔵寺
智弁大師850年忌御法会之記事(元文5年)
  金蔵寺は850年忌の法会執行に先立って、その8年前に高松藩に対して次のように願いでています。

「唯今之通二伽藍大破致居申候而者御法事難相勤」いとして、「伽藍造立之上、右御法会修行申度」いので、その資財として「人別奉加両年分御免被下候様」

意訳変換しておくと
「現在、伽藍が大破しており(智証大師850年忌の)法会が勤められないような有様です。伽藍を造立した上で、御法会を行いたいと思います。つきましたは、その資財集めに「人別奉加(寄進活動)を2年間行う事を許可してください」

当時は寺社の寄進活動にも藩の許可が必要でした。髙松藩では半年間だけ奉加を認めています。しかし、これでは資財が不足すると判断したようで、「伽藍造立」を止めて「修復」へ変更しています。そして、元文3(1738)年正月に村方に対して合力米を、その翌年3月には檀那中に対して奉加銀の奉納を申し入れています。しかし、これらは思うように集まらなかったようです。実際に諸堂の修繕に着手できたのは、法会の半年前の元文5年3月になってからでした。
この時の法会は、本門寿院(克軍寺)・鶴林寺・根香寺など高松藩領の天台寺院を招請して9月27日に始まり、29日に結願しています。その前後には「操・物真似井小見物」や「定日十日芝居興行」が催され、境内は参詣人で溢れていたようです。これが成功体験となって、50周年毎の年忌法会に計画的に取り組むようになります。そして人別奉加・勧化・開帳などの活動を通じて、資財蓄積にも努めます。集まった資材を檀家へ貸し付け、その利潤をもって明和年間の本堂建立に充てています。
その後、年忌法会は50年毎に次のように執り行われています。

金倉寺 智弁大師900回忌
智弁大師900年忌御法会之記事(天明7年)
天明7年(1787)に900回忌
天保11年(1840)に950回忌
明治23年(1890)に1000年忌
法会の奉加帳には、高松藩士をはじめ、檀家、村人など多くの名が記されています。50年毎の回忌が、多くの人々の助力によって開催され、「智証大師誕生之地」として金倉寺の名が知られるようになっていったことが分かります。
金倉寺 智弁大師1000回忌

智弁大師千年忌御法会之記事(明治23年(1890) 版木広告) 
 近世の金倉寺のことがうかがえる江戸時代の古文書の「覚」を見ておきましょう。
「覚」は元禄8年11月16日の年記銘があり、寺社役所へ宛てに作成された文書控のようです。ここには「金倉寺末寺」として那珂郡木徳村金輪寺・三条村村宝幢寺・金蔵寺村観音寺・同村護摩寺・同村財林坊の5院が出てきます。そして前回見たような中世の子院や塔頭は出てきません。中世の塔頭は、戦国時代の永正年間(1504年~1521年)に退転したと伝えられ、「再興無之」と記します。
 また次のようにも記します。
「金倉寺村・原田村等二寺跡数多御座候得共、百姓屋敷又者田畑二罷成、尤寺号も俄に知不申」

意訳変換しておくと
ここにはかつては、金倉寺村や原田村に、末寺や塔頭などが数多くあった。しかし、それも今では百姓の屋敷や田畑となっている。寺号も知ることができない

ここからは中世の子院や坊については、江戸時代前期になると名も分からなくなっていたことが分かります。

江戸時代に金倉寺は、どんな宗教活動をしていたのでしょうか?
それがうかがえるのが「享保十九刀十月十九日 寺社方へ指出候寺由緒」との端裏書を持つ「讃岐国那珂郡鶏足山金倉寺来由」です。ここには金倉寺では、円珍の会式は命日の10月29日には行わないとしています。その理由については次のように記します。
「往古之時毎歳九月之祖師諱日ニ、従三井寺衆徒十日宛下向二而法事執行有之」
ここには9月の祥月命日に園城寺から僧が金倉寺にやってきてして法要を行った故事によるとされています。また、現在でも9月27日から29日までを会式とし、併せて「鎮守新羅・山王・訂利帝祭礼も同断二執行」するとします。その日には「姓子并二諸人参詣群集」するほど人々がやってきたようです。
金倉寺 讃岐国名勝図会
江戸時代末期の金倉寺 上が金毘羅参詣名所図会 下が讃岐国名勝図会(1853年)

江戸時代末期になると「法栄講」という講が作られています。
講元は金倉寺で、人数は30名、掛票は100日、円珍の命日である10月29日に参会して園取りを行うと定められています。(「曇祖大師祥]法栄講帖」)。具体的な活動内容はよく分からないようですが、明治6年(1873)までは続いていたようです。
この他に、次のような講がありました。
①鎮社六含講(「□鎮社六會講寄進」)
②長栄講」(「明治長栄講元掛金并二朱分請取通」)
③五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講
④「利帝母講」(版木14)
金倉寺 五穀成就牛馬堅固
      金倉寺 「五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講」の表紙と版木
しかし、これらの講の内容については詳しくは分かりません。
記録からは、高松藩主や藩士らのために宗教活動を行っていたことが分かります。
例えば「金倉寺第三世」の最勝院了尊が、松平頼重の「御近習、殊御祈蒔僧」として近侍しています。了尊は尊龍へ金倉寺住持を譲ったのち、「御下屋敷之部屋二相詰罷在」ったとと記します。髙松の下屋敷で、祈祷などを行っていたようです。松平頼重は隠居後も、下屋敷のお堂には、不道明王と京都の仏師に造らせた四天王を安置して、プライベートにも祈念していたことが以前にお話ししました。了尊は、近侍僧として仕えていたようです。
頼重は、延三元年(1673)頃に金倉寺をはじめとする以下の10ケ寺へ愛染明王像と五大虚空蔵図を寄進し、五穀成就を祈蒔させています。
「領内壱郡一箇所、大内郡虚空蔵院、寒川郡志度寺、三木郡八栗寺、山田郡屋島寺、香川東阿弥陀院、香川西地蔵院、阿野南国分寺、阿野北白峯寺、鵜足郡聖通寺、那珂郡金倉寺、右真言。天台十箇寺二、使寄附本尊愛染明王并五大虚空蔵之図像、祈願毎年五穀成就焉」(「続讃岐国大日記」『香川叢書』第二、1941年)

金倉寺 愛染明王 松平頼重寄進
           愛染明王坐像(金倉寺蔵 松平頼重寄進)
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像(松平頼重寄進)
ここからは、金倉寺は那珂郡の祈願寺として位置付けられていることが分かります。この他、毎年正月・5・9月の祈祷壽と配札、藩主や藩士の夫人が懐胎した際の安産祈願、雨乞い祈祷、長日祈祷などを行っています。
金倉寺と周辺村落をつなぐ行事として農具市の開催があります。
宝暦7年(1757)12月、那珂郡村々の政所は、次のような口上を大政所へ提出しています。

当郡百姓共農具、毎歳三月廿一日善通寺会式二而調来申候所、時節遅ク百姓共木綿作仕付ニ指支迷惑仕候、依之金倉寺境内明年より毎歳三月二日・三日農具市企申度奉存候、右善通寺他領之義二御座候間、何卒御領内二而農具市出来仕候得者、売買之百姓共万々勝手之儀も御座候、其上早ク相調候二付、手廻克罷成候義二御坐候間、右願之通宜被仰上相済候様被仰付可被下候、已上               (1-24-6「目次 宝暦七丁丑年二月」)

意訳変換しておくと
那珂郡の百姓たちは毎年3月21日に、農具を丸亀藩領の善通寺の会式で調達しています。しかし、3月では作付け時期には遅れがちで百姓たちの木綿作り支障をきたしています。そこで金倉寺境内で来年から毎歳3月2日・3日に農具市が開催できるようになれば、百姓たちにとっては大変助かります。善通寺は丸亀藩で他領の地です。何卒、領内で農具市が開催でき、しかも今までよりも早く農具を調達できます。この件についてご検討いただけるようにお願い致します、已上           

この願出は翌8年正月に聞き届けられています。金倉寺では開催にあたって藩の寺社奉行に次のように願いでています。
「初発之儀人出も難計間、境内賑合市成就之ため、前々之通芝居等興行申度」

意訳変換しておくと
「農具市は初めての開催なので、どれだけの人がやってきてくれるか心配です。つきましたは、集客のために境内で市や芝居などの興行を許可していただきたい。

これに対して、寺社奉行の鵜殿長左衛門の回答は次の通りです。
「善通寺市を此方引移シ申事、彼院へ対シ候而も寺より何角取計候而芝居等願申事不宜」

意訳変換しておくと

「善通寺の農具市を金倉寺へ引移して行う事を許可した経緯を考えよ。善通寺への配慮を金倉寺も行うこと。また芝居開催などは認めない」

と、今まで市を催していた善通寺への体裁もあるとして認めていません。しかし、3月3日に市が立つと「小見世物・浄瑠璃稽古なと有之、賑合申事」と記されています。許可されなかったはずの見世物や浄瑠璃などは開催されていたことが分かります。農具市は翌宝暦9年にも行われています。ところが安永8年(1779)に、徳川家基(10代将軍徳川家治長男)売御による服忌のため、当年は市を立てないとの記事の後は、しばらく記録から消えます。
金倉寺では文政元(1818)年に「何卒市立候様取立申度」と再び農具市の再開を願い出て許されています。
檀家からは再興を祝して、幕・手水鉢・鳥居などが寄進されています(「農具市寄進誌」)。また、開催に伴って「市再興初年之義二付、賑合無之候而者人出無之候二付市場芝居申遣シ候事」とあるので、芝居興行も認められたようです。市は3月15日早朝より始まり、芝居の他に「のそき」「ちよんかれ」「手つま取」「江戸ぶんごまふ」「小見世物」「薬売・易者」「楊弓」などの「芸者・見せ物」が出ています。
金倉寺 訶利帝母堂2
金倉寺 訶利帝母堂
金倉寺 かりていぼ1

             金倉寺の訶利帝母
翌16日は晴天に恵まれ、その上に訶利帝母堂で大般若転読が行われたため、「別而大群衆、境内已来未曽有之市立(大群衆がやってきて境内は立場の亡いような市の賑わい)」というの大盛況でした。ここからは、農具市は農村の人々にとっては、農具購入という目的もさることながら、芝居や見世物などが農繁期前の楽しみとなっていたことが分かります。農員市は昭和の終わり頃まで断続的に行われ、春の風物詩となっていたようです。

広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
金倉寺 仁王門
以上をまとめておきます
①金倉寺は寺伝では、和気道善が如意輪堂を建立し、氏寺として道善寺と称したことに始まると伝えられるが古代のことはよく分からない。
②徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂」焼け落ちた。
③南北朝後に細川頼之の保護と、廻国の修験者や念仏聖の勧進活動で金倉寺は復興した。
④永世の錯乱後の讃岐動乱の中で、天霧城主の香川氏や西長尾城主の長尾氏の押領・侵犯を受け寺領を失い、僧坊や別所は姿を消した。
⑤天正年間の兵火で金倉寺は退転し、その後の近世にいたる経緯はよく分からない。
⑥初代高松城主の松平頼重が「円珍生誕の寺」を由縁に、天台宗の拠点寺として復興させた。
⑦その後の金蔵寺は、50年毎の円珍法会の執行に伽藍整備や行事を行うようになった。
⑧それが各種の講主催や農具市の開催で、これらの活動を通じて周辺商人や村々の農民までの信仰を集めるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」
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多度津の郷 葛原・金蔵寺
葛原庄と金倉庄は隣同士
多度郡の葛原郷が京都の賀茂神社に寄進されるのは11世紀前半でした。それから約200年後の建仁3(1203)年に、金倉郷も近江の園城寺に寄進されます。
その経緯については、善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」から次のようなことが分かります。
①讃岐國の国領地の金倉郷が、智証大師円珍ゆかりの地という由縁で園城寺(三井寺)に寄進されたこと
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること
建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。ここからは後鳥羽上皇の圓城寺保護という意向があったことがうかがえます。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。ところが約130年後の建武3年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉上庄」とだけあります。金倉庄は、上下のふたつに分割され、下荘は他の手に渡ったようです。そして金倉上庄だけが残ったようです。それでは、金倉庄を園城寺は、どのように管理運営していたのでしょうか
圓城寺は、金倉上荘に公文を任命して管理させています。金倉寺文書には次のような文書があります。
「讃岐國金倉上庄公文職事
沙弥成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
  意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙弥成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきた功績を認めて、子々孫々に至りまで公文職を命じる。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
ここからは次のようなことが分かります。
①弘安3(1280)年10月に、先祖の功績によって成真に子孫代々にまで金倉上荘公文の地位を継承することを保証していること
②沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺と関係があったこと
③沙弥成真というのは、出家していても武士で「沙弥=入道」であったこと

それでは圓城寺の荘園である金倉庄と金倉寺は、どんな関係だったのでしょうか?
金蔵寺の衆徒(僧侶)たちが以下のことを訴えます。(意訳)
当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 
当寺は、智證大師誕生の地で(中略) 金倉寺周辺の武士たちは承久の変の際に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されてやって来て、多くの土地を没収しました。この間、衆徒たちは反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、やってきた地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
  この文書は徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころのものです。
こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」には、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活したことが記されています。南北朝時代の動乱も治まった頃に、金倉寺の復興もようやく軌道にのったようです。
 研究者が注目するのは、「目安」の中に金倉庄の取り分について「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注があることです。
それまで地頭の持っていた得分・権利を荘園領主園城寺が2/3、金倉寺が1/3で分けあったことになります。これを裏付けるのが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中にも、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」とあることです。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じです。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の1/3ではなく、荘園全体の1/3だと研究者は判断します。
 そうだとすると金倉寺が金倉上荘の1/3を領していたことになります。これは大きな財政的基盤を得たことになります。これが退転していた金倉寺の復興につながったのかもしれません。時期的には四国の南北朝の混乱を収拾した細川頼之が、寺社の保護を通じて、讃岐の政治的安定化を行っていた時期になります。同時期に善通寺も宥範によって再興が進められた時期と重なります。

 復興を遂げた14世紀後半頃の金倉寺について、次のように記します。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あります。金倉寺の周辺には数多くの別所(廻国勧進僧の拠点)や僧坊・末寺があったことがうかがえます。そこには夥しい聖や修験者がいたはずです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
中世の金倉寺が世のその後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、細川高国が香西氏に暗殺される永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。
それでは、この時期の金倉寺の運営は、どのように行われていたのでしょうか?
 金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院(後の大宝院)のようです。
 室町時代ころの法憧院の寺領について史料を見ておきましょう。
法幢院之講田壱段少  大坪
拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺                   法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  意訳変換しておくと
法幢院の講田壱段少について  大坪
(良(吉)田郷石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が)納入する知行年貞米を毎年五石、十ケ年に渡って(渋谷殿)に納めることを契約する。もし、違約するようなことがあれば大坪助左衛門の屋敷と太郎兵衛屋敷の一段小を抵当に入れて、永代知行(譲渡)する。乃為己後支證状如件。
                金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  これは明応四年(1495)12月に、金倉寺の法瞳院の賃仁が書いた借金(米)証文です。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①金倉寺には、法瞳院という塔頭があったこと。
②法瞳院は、良田郷の石川に講田(領地)を持っていたこと
③石川には「大坪助左衛門屋敷」と「太郎兵衛屋敷」という名田があったこと。
 
この法憧院の証文中にある「石川方」については、稲木地区の東部小学校の東側に石川という地名が残っています。
良田郷石川

良(吉)田郷に残る「石田」の地名(東部小学校の東側)
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は考えています。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとは名田「石川方」の農民の住居があったところかもしれません。文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返っています。ここでは法憧院という塔頭が寺領を持っていたことを押さえておきます。

善通寺寺領 鎌倉時代
鎌倉時代の善通寺領

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。
法憧院々領之事一町九段小 
①供僧二町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也 護摩供慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也 己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日 一乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
意訳変換しておくと
法憧院の院領二町九段小について
供僧管理下の土地は二町三段大で、これは風呂もとにあり、学頭田である。②護摩供養田は慶林房の抵当となっている三段六十歩、支具田は三百歩一段、ヨヒツキニンシ三段六十歩、上岡屋敷の二段、指坪の一段 以上合計で 五町四反余が法憧院の院領である。
永正六年(1509)8月  
一乗坊の先師良允馬の永代菩提寄進分 護摩供養 慶林坊三段半この内初二段半は六斗代支供田、ハ四斗五升也、岡之屋敷の二段中は屋根から南は大、東側の屋根の外に小ある。中屋根より北は一反合二反である

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院には、学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大あること
②の「護摩供養(田) 慶林坊」は、護摩供養の費用に充てられる供田は慶林房の手に渡っている
③渋谷に質入れされている講田があること、(先ほど見た抵当分)
④これらを併せると法憧院は、5町4段あまりの院領を持っていたこと
⑤現在は人手に渡っている護摩供田をのぞく一町九段あまりが所有地であること
  ここからは金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、「学頭田2町3段」があることで、それが裏付けられます。しかし、その所有権は金倉寺にあるのではなく、塔頭の法憧院領となっていることを押さえておきます。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。
 それでは法憧院領はどこにあったのでしょうか? それは先ほど見たように良田郷石川方周辺にあったと研究者は考えています。ここはもともとは、金倉寺領良田郷の一部でした。つまり金倉寺領を、僧坊の院主たちが分割してばらばらして所有していたことになります。その院主の中には○○入道や○○沙門を名乗る俗人がいたということになります。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保っていたと研究者は考えています。
 比較のために当時の善通寺の様子を見ておきましょう。
四国をまとめ上げた細川頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となり、上洛することになります。讃岐を離れる1ケ月前に、次のような「善通寺興行条々」(9ヶ条)を出しています。(意訳変換)
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
② 寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。
⑤ 今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。 
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦ 境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生、山林竹木を勝手に伐り取ることは先例通り禁止する
⑨ 徴税などのために守護使はこれまで通り寺領に入らせない。
多くの禁止事項が定められていますが。視座を逆転して見ると、これらの行為が当時は実態として行われていたことになります。実態があるから禁止されたのです。そういう目で各項目を見ておきます。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿=常住」していたことがうかがえます。これらを入道化した棟梁が率いていたのかもしれません。②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化した者がいたこと。⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたこと。
 以上からは、南北時代の善通寺には○○沙門や○○入道を名乗る俗人武士が軍事集団率いて武装化したまま常駐し、乗馬訓練を日常的に行う姿が見えてきます。西欧の教会史的に言うと「俗人による教会(寺院)支配」が行われていたということになります。これに対して「神のモノ(教会)は神(教皇)の手に、カエサル(皇帝)のモノはカエサルに!」という聖俗分離の主帳が現れるようになります。
 世俗化した善通寺に対して細川頼之が求めたことは、ある意味では「聖俗分離」であったようです。①②⑦は、○○入道の軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという立場表明にもとれます。③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
 ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護の細川氏は、それを改め善通寺を「非武装化」しようとしていたということです。善通寺で進行中のことは、周囲の金倉寺や道隆寺でも起こっていたと考えるのが自然です。
  14世紀の中頃に、金倉寺は小松荘(琴平町)に地頭職を得ています。
寺院が地頭職を得るというのは不思議な気もします。しかし、僧坊の院主の中には、武装化した○○入道もいたとすれば、地頭職も充分に務められたことになります。
金倉寺文書の「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、地方の武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進も、そのような動きに沿うものかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。

金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       (香川?)元景(花押)
三嶋入道殿

これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者の元景です。
  元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の(香川)三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋入道のようです。西讃守護代の元景は、金倉寺の要望を無視して、従来どおりの段銭徴収を命じています。その指示を受けた又代官の三島入道は、金倉寺から段銭を徴収したのでしょう。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、戦国大名化していく天霧城の香川氏や、西長尾城主の長尾氏の押領を受け、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。こうして、善通寺や金倉寺の僧坊の経済基盤となっていた寺領は失われ、退転していくことになります。讃岐の寺社は「長宗我部元親の侵攻で焼き討ちされ退転」と寺伝に記すところが多いのですが、それ以前に戦国大名化していく香川氏によって、寺領を奪われ退転に向かっていたと私は考えています。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P
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  前回は金倉寺の北方にある道隆寺と賀茂神社の中世について次のようにまとめておきました。

中世道隆寺の歴史
 
 さらにこれを要約するなら賀茂神社と道隆寺は神仏混淆下では一体となって、鴨エリアの宗教センターと交易センターの役割を担っていたということです。その結果、「海に開けた寺社」として塩飽や庄内半島に至るエリアまでの数多くの寺社を末寺に組み込んでいたということになります。それでは内陸部の金倉寺はどうだったのでしょうか。今回は中世の金倉寺を見ていくことにします。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の多度郡葛原郷と那珂郡金蔵(かなくら)郷は隣同士の関係 

多度津・堀江・道隆寺・金蔵
葛原郷の北鴨と南鴨 その東が金倉郷
  前回に、葛原郷が京都の賀茂神社の荘園となったことをお話しました。葛原の東が金倉郷になります。
それがさらに分かれて、 中世には、上金倉(上流側)と下金倉に分かれます。さらに近代には次のように分かれていきます。
A 下金倉(中津)=上金倉村   + 金蔵寺村
B 上金倉    =丸亀市金倉町 + 善通寺金蔵寺町
 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条です。地図で見ると、この部分が多度郡の一条に突き出た形になっています。現在は金倉川は六条の東を流れていますが、条里制工事当初はその西側を流れていて那珂郡と多度郡の郡界であったことは以前にお話ししました。 ここでは金倉郷は現在の中津あたりまでが、その範囲に含まれていたことを押さえておきます。つまり、海に面したエリアが含まれていたということです。
  金倉寺は、内陸部にあって海からは隔たっているので海上交易とは関係のない寺院だと私は思っていました。ところが戦国前期頃に、金蔵寺が中讃地区の港町に次のような寄進依頼文書を出しています。
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
意訳変換しておくと
諸港へ 金倉寺の修造費用の寄進依頼  金蔵寺より
当寺は(大嵐で)大破したので修理が必要です。ついていは先例の通り寄進に協力していただければ幸いである。恐々謹言、なお先例の寄進額は以下の通りです。
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
ここでは金倉寺が大嵐で大破した際に、宇多津・多度津・堀江にそれぞれに先例に従って修造費負担を求めています。ここからは、金倉寺がこれらの港湾都市の住人の信仰対象となっていたことがうかがえます。ちなみに応永六年(1399)には、宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。こうしてみると金倉寺も中讃の港に信仰圏を持っていたことがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。ヒントになるのは、三豊平野の真ん中の本山寺の性格です。この寺の本尊は、牛頭天王で馬借たちなどの運輸労働者の信仰を集めた仏です。本山寺は仁尾や詫間・観音寺などの港の後背地で、その商業エリアは阿讃山脈を越えて阿波や土佐まで伸びていたことは以前にお話ししました。同じように、多度津・堀江・宇多津などの港への物資の集積地点の役割を、金倉寺は果たしていたのではないかと私は想像しています。金倉寺の背後の綾川沿いには、牛頭天王を祀る滝宮牛頭天王社(滝宮神社と、その別当寺の龍燈院が活発な布教活動を展開していたことは、以前にお話ししました。これらの動きと重なり会います。
 そういう目で金倉寺周辺の交通路を見てみましょう。
①堀江と金倉寺を結ぶのが、河川交通路としての金倉川
②もうひとつが堀江の道隆寺から加茂神社・葛原を経由して、金倉寺に至る遍路道(現町道)
③この遍路道が金倉寺の前を東西に通る中世の南海道に繋がる。
④金倉川沿いに金比羅への参拝道
こうして見ると金倉寺周辺は、丸亀平野の交通の要衝であり、人とモノと情報の集積地点だったことが分かります。本山寺がそうであったように、金倉寺も沿岸部の港へ後背地機能を果たしていたとしておきます。道隆寺、加茂神社、金倉寺は孤立したものではなく、ネットワークでで結びつけられていたと私は考えています。しかし、それを確かめる史料はありません。ちなみにこの史料で金倉寺が求めている寄付請求金額は、この時代の3つの港湾都市の規模や経済力を物語っているのかもしれません。
  もうひとつ金倉寺の信仰圏の広がりがうかがえる史料を見ておきましょう。
塩飽本島の正覚寺の大般若経です。
  写経は山野での修行と同じで、修験者たちは功徳として積極的に取り組みました。中でも大般若経は600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し奉納したのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます。例えば、東讃の大水主社や与田寺は、増吽を中心に多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことをお話ししました。

大般若経 正覚院第1巻奥書
上の巻第一には「文和四(1355)年十月十一日 始之」とあります。この巻から書写が開始されたようです。巻第572・573には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。
本島の正覚寺の大般若経で、金倉寺周辺で写経者と寺院が分かるものは次の通りです。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 (宇多津) 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 (宇多津) 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 (宇多津) 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮    (宇多津)      沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中(羽床) 
同郷大野村住(不明) 金剛佛子宥伎
⑦巻第五百七十二・五百七十三 讃岐國仲郡金倉庄 金蔵寺南大門大賓坊 信勢
当時、細川氏の政所が置かれた宇多津の僧侶が4名、その背後の羽床羽床郷の西迎寺坊中、同郷大野村住の僧侶の名前があります。第493・588を写経した金剛佛子宥海と、第571巻写経の金剛仏子宥蜜には「金剛」がつくので真言系密教僧(修験者)であり、名前に「宥」の一字がありますので同じ法脈関係にあったことがうかがえます。
 注目したいのは⑦の「金蔵寺南大門大賓(宝)坊 信勢」です。
大宝坊は金倉寺の塔頭のひとつで、
応永17年3月の金蔵寺文書に見える「大宝院」のようです。「願主」とあるので、金蔵寺の大賓坊信勢が発願者の第一候補だと研究者は考えています。信勢の呼びかけに応じて、多くの僧侶や修験者・聖たちが参加しています。それは宇多津から羽床にかけて、信勢のシンパがいたことになります。
  金倉寺が写経事業の中心であったことは、次のような変遷からも分かります。
①文和4年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻完成
②那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納
③約130年後の延徳三年(1491)に、道隆寺の僧が願主となって、大般若経全巻を折り畳み、巻物から旋風葉にスタイル変更
④永享7年(1435)に破損巻を、那珂郡杵原宝光寺(退転)の慶宥が写経補充
⑤慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶

大般若経 正覚院 下金倉
本島の正覚寺の大般若経 表紙見返し 
表紙見返しには次のように記されています。
「讃岐国金倉下村 惣蔵社御経 延徳三年(1491)六月二十二日」
ここからは金倉寺の呼びかけで写経された大般若経が保管されたのは、下金倉村の惣蔵社(宮)であったことが分かります。金倉下村は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社も今はありません。この神社は、金倉寺の末社であったようです。
 近年の各地の大般若経調査で明らかになったことは、明治の神仏分離以前は、大般若経は寺院ではなく、村社級の神社に保管されていたことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、金倉寺の発願によって写経された大般若経書写が、その末社の惣蔵社に奉納されたのも頷けます。こうして見ると、金倉寺の直接の信仰圏は下金倉村のあたりまで伸びていたことが分かります。
 それを補強するのが、北鴨・南鴨は葛原郷で多度郡、下金倉や上金倉は那珂郡に属していたことです。この郡境を境に、「道隆寺=賀茂神社」と「金倉寺=惣蔵社」は棲み分けていたことが考えられます。それが道隆寺の勢力が強くなって、金倉川以東にも伸びてきて、惣蔵社も勢力下におくようになります。惣蔵社は賀茂神社に吸収・合祀されます。その結果、惣蔵社の大般若経は不用となり、本島にもたらされたというストーリーが考えられます。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
正覚寺大般若経 第六百巻(延徳三年(1491)の奥書)    
ここには次のように記されています。

「讃州多度郡於道隆寺 宝積院 奉折如件

ここからは全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。これもある意味では、大事業なので「再興」とみなされ発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。
  道隆寺文書には永正8年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳3(1491)年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。

     以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金倉寺が願主となり、大般若経600巻が写経された。
②写経された大般若経は、金倉寺末社の那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納された。
③15世後半には、道隆寺が強勢になり金倉川東岸に進出し、下金倉の惣蔵社を末社化した。
④道隆寺院主は願主となって、惣蔵社の大般若経を「折り本」化した。
⑤その後、道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(宮)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

 金倉寺や道隆寺は中世には「談義所」「学問寺」として機能していたとされます。
多くの経典が写経されて収集され、それを求めて多くの廻国僧侶がやってきていたことが残された聖教類からも分かります。同時に大般若経の写経センターとしても機能していたことがうかがえます。これは、増吽の与田寺や水主神社と同じです。そして、その周辺には廻国の僧侶達が沢山いたようです。中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていました。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院のようです。次回は、この法憧院について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年
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 前回は弥生時代から、古墳時代・律令時代までの金倉寺周辺を、善通寺エリアとの比較で以下のようにまとめました。
古代の金倉寺エリア

今回は金倉寺の中世について見る前に、比較対照として多度津の加茂神社と道隆寺を見ておくことにします。多度津の北鴨・南鴨は京都の鴨神社の荘園になったことが次の史料から分かります。1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が京都の賀茂神社(上下)に次の荘園(御厨・供祭所)を寄進しています。
①賀茂社 
摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社 
長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘

この時に寄進された各「御厨」・「供祭所」の位置を見ると、瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していることが分かります。そのひとつが讃岐国葛原荘(多度津)で、現在の北鴨・南鴨一帯の60町余りの土地になります。
金倉 鴨
            明治39年 道隆寺周辺 国土地理院地図
葛原荘の「御厨」・「供祭所」化には、どんなねらいがあり、それがどんなことをもたらしたのかを見ていくことにします。
その際に先例として参考になるのは仁尾です。仁尾津のスタートは、白河上皇が京都賀茂社へ仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進したことに始まります。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、海産物の神饌を調進する場所のことで、転じて領地(荘園)も意味するようになります。そこに特権を得た漁撈者や製塩者などが「神人」として入り込み排他的な権利を持つようになります。
 神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、③神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、④国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。
 上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では⑤漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)
神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」
「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
  意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)がおよぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である
西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。こうして彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。
 以上を参考にして、「御厨」・「供祭所」化された葛原荘(多度津)で起こったことを推測すると次の通りです。
①葛原荘(多度津)が京都の加茂神社の荘園となり、分社が勧進された。
②同時に御厨として、海産物の神饌貢納のために「神人」が堀江に定着するようになった。
③堀江の神人達は、排他的操業権や水上交易の交易を握り、瀬戸内海交易の拠点とした。
④その結果、多度郡の港は弘田川河口の白方から金倉川河口附近の堀江へと移った
⑤葛原荘は、賀茂神社の勧進によって北鴨・南鴨と呼ばれるようになった。
⑥京都の鴨神社の荘園となった葛原荘の堀江は、丸亀平野の拠点港として機能するようになった。
南鴨の賀茂神社の境内からは、鎌倉時代の巴文軒丸瓦や、開元通費や北宋~元銭等を含む6000枚弱の埋蔵銭が出土しています。これも瀬戸内海を通じた大陸との交易を通じて得たものと私は考えています。
 また賀茂神社には、寛喜3~4年(1231~32)に書写された大般若経が伝えられています。中世に大般若経をもつ神社は、地域の郷社的な存在です。それを裏付けるのが、南鴨念仏踊りの編成組織です。滝宮(牛頭天王)神社に踊り込むために、善通寺方面の村々までを組織していたことは以前にお話ししました。先ほど見たウキには「②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、③神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。」が思い出されます。同時にこの神社が牛頭信仰の拠点であり、修験者を通じて滝宮神社と深いつながりがあったことを押さえておきます。
  南鴨組滝宮念仏道具割
 多度津の南鴨念仏踊りの道具割 左が参加する村落名 善通寺と多度津一円が含まれている。

加茂神社の神宮寺的な役割を果たしていたのが道隆寺です。神仏混淆の中世には両者は、一体化して運営されていました。それは先ほど見たように、大般若波羅蜜多経が賀茂神社に保管されていたことからも裏付けられます。
 「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には14世紀初頭の発願状があって、寺の由来を次のように記しています。
①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して本西と名乗ったこと。
②那珂郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと
③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
ここからは衰退していた道隆寺を、鴨庄の地頭・堀江殿が「入道」し、本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などを建立し伽藍整備を行ったとします。堀江殿は「道隆寺中興の祖」で、「入道」して修験者でもあったようです。これが道隆寺の実質的な建立かも知れません。時は元寇撃退の後で、幕府の論功行賞策として地方でも寺院建立が奨励されていた時代です。国宝になっている本山寺が姿を見せるのと同時期になります。
道隆寺 復元地形

道隆寺 堀越津地図
堀江付近の地形復元図 道隆寺まで湾入する潟があった

地形復元すると堀江には湾入する入江があって、その湾に面して道隆寺は堀江殿によって建てられたことが分かります。
道隆寺 堀越津地図2
道隆寺の南、本坊の西が「堀江殿の入道屋敷」跡とされる。
この入江に、堀江殿が道隆寺を建立したねらいは次の通りです。
①堀江港の管理センター的な役割を担わさせること
②交易活動を通じて、塩飽諸島や庄内半島にいたるまでの寺社を末寺化していくこと
それを担ったのは熊野行者や児島の五流修験などの真言系修験者だったようです。この結果、これらの寺社の開眼供養などには道隆寺明王院主を導師として招かれる一方で、道隆寺の法会にも結集しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されます。『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧 集会ス」

ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしていたことが分かります。堀江港をおさえた道隆寺は、海運を通じて宗教活動を展開し、広域な信仰圈を形成していたこと押さえておきます。まさに「海に開かれた寺」に成長していったのです。
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のようなことを指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく
②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる
③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
 つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
 道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。
与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。三豊平野の本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったことになります。以上を次のように整理して起きます。

中世道隆寺の歴史

   道隆寺は談義所となり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。そして金倉寺も談義所でした。そうすると多度津・金蔵寺・善通寺は、大宗教ゾーンを形成していたことになります。次回は、そのような中での金倉寺の中世の動きを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」
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  ユネスコ登録に向けて四国霊場の調査が進んでいます。その19冊目として、金倉寺の調査報告書が図書館に並んでいたので読書メモ代わりにアップしておきます。調査報告書の一番最初の「立地と歴史」の部分を読むのは、私にとっては楽しみです。それは近年の周辺の発掘調査で分かったことが簡略、かつ的確に専門家の目で記されているからです。調査書を読んだときには気づかなかったことが、その後に出された調査報告書の「立地と歴史」で気づいたり、理解できたりすることがあります。金蔵寺周辺は、高速道路や国道11号バイパスなどで線上に大規模な発掘調査が進められ、多くの遺跡が発掘され新しい発見が続いた所です。その知見が、どのように整理されているのか楽しみです。テキストは「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
 研究者は、まず金倉寺周辺の条里型地割に注目します。
周辺の稲木北遺跡や永井北遺跡などでは条里制溝などが確認されています。そこからはこの地域で条里制工事が始まったのは7世紀末~8世紀初頭と研究者は考えています。丸亀平野に南海道が伸びてくるのもこの時期です。この南海道を基準に条里制工事が始められ、南海道沿いに郡衙や古代寺院が姿を見せるようになります。
丸亀平野条里制5
丸亀平野の条里制 金倉川沿いには空白地帯が拡がる
ところが上図のように善通寺から金倉寺、さらに多度津にかけての金倉川の周囲には、条里地割に大きな乱れが見られます。拡大して「土地条件図」で見てみると

金倉寺周辺の土地復元
金倉寺周辺の金倉川の旧河道跡
ここからは次のような情報が読み取れます。
①東側から北側一帯にかけて、旧金倉川の氾濫原であったことを示す地割の乱れが広がっている
②金倉寺西側の土讃線沿いには、旧河道を利用した上池、中池、千代池が連なる。
③これらの池沿いに北流する旧河道の地割の乱れは幅200~300mほどと大きい。
④金倉寺の南約800m付近にある金蔵寺下所遺跡では、弥生時代や奈良時代の旧河道が検出されている。
丸亀平野の条里制3

以上から「地形復元」してみると、金倉寺は東側の金倉川と西側の旧河道に挟まれた細長く紡錘状に伸びる微高地上に立地していたことが分かります。そして中世には西側の旧河道は埋没し、近世には金倉川の固定化が図られ、周辺の氾濫原は耕地化が進んだと研究者は考えています。多度津の葛原に小早川氏に仕えていた小谷氏がやってきて入植し、開拓したのもこの西側の旧金倉川跡だったようです。そして、水田開発が終わると、小谷家は水不足備えて千代池などを築造していきます。そういう意味では、古代の金倉寺は、金倉川の氾濫原の中の遊水地と化した大湿原地の中に位置していたと云えそうです。

善通寺遺跡分布図
善通寺市遺跡分布図(高速道路やバイパス沿いに発掘調査が進んだ)
次に金倉寺の古代の歴史的環境について見ていくことにします。
金倉寺の東方面には、弥生時代には中の池遺跡、龍川五条遺跡、五条遺跡などの環濠集落がありました。
丸亀平野の環濠集落
丸亀平野の環濠集落(想像図)
なかでも龍川五条遺跡は二重に環濠をめぐらした集落で、内側に竪穴建物と掘立柱建物の居住域があり、環濠の外に周溝墓や木棺墓の墓域や水田が拡がります。五条遺跡は龍川五条遺跡の北方300mに隣接し、ここにも二条の大溝跡がありました。この遺跡は龍川五条遺跡からの集落移転で成立したと研究者は考えています。それが中期なると、なぜか環濠集落は姿を消してしまいます。そして丸亀平野の中央部を避けて善通寺周辺の丘陵裾部に小規模な集落が点在するようになります。その核となるのが旧練兵場遺跡群です。ここには前期から始まって、古墳時代初頭まで長期間に渡って安定的な集落が続きます。
旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡は、「オトナと子どもの病院 + 農事試験場」で45万㎡と広大です。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

さらに弥生時代後期前半になると平形銅剣の中心として瀬戸内沿岸地域から多くの土器が搬入されています。終末期には大陸との交易を示す青銅鏡が出てきますし、集落内で鉄製品や朱の生産も行われていたことが分かっています。
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
善通寺の旧練兵場遺跡群と周辺の弥生時代の遺跡分布
まさに讃岐最大の拠点集落であり、中国史書の「分かれて百余国をなす」のひとつである「善通寺王国」とも考えられます。丸亀平野だけでなく、備讃瀬戸における人とモノの集まる拠点として大きな引力を持っていたと云えます。そしてこの王国は、古墳時代から律令時代へと安定的に継続していきます。この子孫が後に氏寺としての善通寺を建立し、空海を輩出する佐伯直氏につながる可能性が高いと研究者は考えています。
次に善通寺周辺の古墳について見ておきましょう。
青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷図
善通寺エリアの古墳が集中するのは、五岳や大麻山周辺で、弘田川流域勢力によって築造されたもののようです。中でも大麻山の山頂直下に前期前半に築かれた野田院古墳(後円部が積石塚)から、後期の王墓山古墳や菊塚古墳、終末期の大塚池古墳など、首長墓クラスの古墳が継続的かつ安定的に築かれます。これは、讃岐の他エリアの不安定さと対照的です。善通寺エリアの首長がヤマト政権との良好な関係を維持しつづけたことがうかがえますが、その要因がどこにあったのかはよく分かりません。一方、金倉寺周辺の勢力が築いた古墳というのは、見当たりません。
古墳時代中期になると旧練兵場遺跡では竪穴建物が少数ですが現れ、後期には飛躍的に増加し、大規模な集落が営まれるようになります。
旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡群 古墳時代末期から古代へ 南海道が伸びてきて郡衙や古代寺院が姿を見せる。
中心は農事試験場跡の東部ですが、サテライトとして南東約l㎞の四国学院大学構内遺跡でも多数の竪穴建物が並ぶ集落が現れます。このような集落の成長の上に、佐伯直氏の氏寺とされる仲村廃寺跡(伝導寺跡)が居住区のすぐ南に白鳳時代には姿を見せます。しかし、この寺は条里制に沿っていません。条里制施行よりも前に建立されたことがうかがえます。
善通寺エリアでは、南海道に沿う位置に「官衛的建物」が見つかっています。
生野本町遺跡 
生野本町遺跡(旧善通寺西高校グランド) 整然と並ぶ郡衙的な建物配置
それが四国学院大学の南側の生野本町遺跡です。稲木北遺跡と同じような建物配置が見つかっています。この遺跡に近接した生野南口遺跡からは8世紀前葉~中葉の床面積が40㎡を超える庇付大型建物跡が確認されています。これも郡衙の付属建物のようです。あと高床式の倉庫が出れば郡衙に間違いないということになります。ちなみに、同時期の飯野山南の岸の上遺跡からは、高床式倉庫が何棟も出てきて、鵜足郡の郡衙と研究者は考えています。東から伸びてくる南海道沿いに郡衙や居館、氏寺を建てることが、ヤマト政権に認められる「政治的行為」であると当時に、住民への威信をしめすステイタスシンボルでもあったようです。そのために、いままでの旧練兵場遺跡から南海道沿いの四国学院方面に、その居館を移動させ、多度津郡衙を建設したとも考えられます。
 一方、金倉寺周辺はどうでしょうか? 
金倉寺の西約1 kmの稲木北遺跡からも郡衙的な建物群が見つかっています。8世紀前葉の大型掘立柱建物跡8棟と、それらを区画、囲続する柵列跡です。

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡 郡衙的な建物配置が見られる
真ん中に広場的空間を中心に品字形の建物配置がとられています。加えて大型建物を中心に対称的に建物が配置され、しかも柱筋や棟通りなどがきちんと一致しています。研究者はこれを「官衛的建物配置」と考えています。
稲木北遺跡 多度郡条里制
多度郡の2つの郡衙的建物 
A 稲木北遺跡(金蔵寺エリア)B 生野本町遺跡(善通寺エリア)

稲木北遺跡2

金蔵寺の南の下所遺跡では7世紀末~8世紀初頭、 8世紀前葉~中葉の掘立柱建物群が出てきています。
その配列は 8棟前後の建物が緩やかに直列、並列、直交する建物配置をとります。その上に、この遺跡の特徴は、金倉川の河道跡から人形、馬形、船形、刀形、斎串などの木製祭祀具が多量に出土したことです。
金倉寺下所遺跡 木製品
金倉寺下所遺跡 木製品2

金倉寺下所遺跡出土の木製祭祀具(金蔵寺下所遺跡調査報告書より)
ここからは、公的な河川祭祀がこの場所で執り行われことが分かります。今見てきた稲木北遺跡、稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡は、約1㎞四方の範囲に収まります。そうすると多度郡衛や公的な河川祭祀を執り行う官衛や地元豪族の地域支配の拠点となる郷家といった公的性格を持つ官衛が集中するエリアだったことになります。これも郡衙など官衛的施設の一部でしょう。こうしてみると、奈良時代には、官衛的な施設が善通寺と金蔵寺の2つのエリアにあったことになります。そして、金蔵寺エリアに金倉寺は現れます。
金倉寺の創建について見ておきましょう。
『日本三大実録』には、多度郡人因支首純雄らが貞観8年(866)に改姓要求を願い出て、和気公が下賜姓されたとあります。「鶏足山金倉寺縁起」には、仁寿元年(851)に円珍の父和気宅成が、その父が建立した自在王堂を官寺とすることを奏上しています。ここからは金倉寺の創建に、和気公が深く関与したことがうかがえます。また現地名の「稲木(いなぎ)」は、「因岐(いなぎ)首」の改称のようで、和気公(因岐首氏)が金倉寺周辺にいたことが裏付けられます。このことを強調して従来は、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因岐首氏(和気公氏)の本拠地という視点で説明されてきました。しかし、多度津郡司(大領)である佐伯直氏と、官位を持たない地元の中小豪族の因岐首氏では階級差も、勢力も大きく違っていたと研究者は指摘します。
1空海系図2
空海の弟や甥たち(佐伯直氏)は、地方豪族としては非常に高い官位を持つ。
円珍系図 那珂郡
円珍の因支首氏の那珂郡の系図 円珍の因支首氏には官位を持つ者はいない。
古墳時代の首長クラスの古墳分布を見ると、善通寺と金倉寺では大差があったことは見てきた通りです。金倉寺周辺では、首長墓らしきものは見つかっていません。
 両者の氏寺とされる善通寺と金倉寺を見ていくことにします。
 佐伯直氏が最初に建立したとされる仲村廃寺からは、原型に近い川原寺系軒丸瓦が出土します。その後に建立した善通寺は、方二町で白鳳期から平安期にかけての時代を超えた多彩な軒瓦が出土しています。ここからは佐伯氏が中央との良好な関係を保ちつつ、白鳳期に氏寺を創建し、それを奈良時代、平安時代にかけて継続的に維持していたことがうかがえます。それに比べて、古代の金倉寺のことはよく分かりません。採集されている瓦片は、次のとおりです。
A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 平安時代前期に属する軒平瓦
C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。
ここからは、金倉寺が奈良時代まで遡り、寺域の大きな移動はなかったことはうかがえます。しかし、問題なのは、奈良時代の瓦の出土量は極めて少なく、平安時代になって出土量が増加することです。ここからは奈良時代には、お堂程度の小規模な施設が設けられ、平安時代になって寺院整備がすすんだことがうかがえます。なお、軒平瓦には仲村廃寺や善通寺との同氾関係のものがあるので、佐伯直氏の援助を受けながら、因支首氏が金倉寺を建立したということは考えられます。ここでは、奈良時代に因支首氏の氏寺として建立された時の金倉寺は、善通寺に比べると遙かに規模が小さかったこと、それは当時の佐伯直氏と因支首氏の力関係によることを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
①金倉寺周辺は、金倉川の旧河道が幾筋にもわかれて北流し、広い氾濫原で遊水地化した湿原地帯が拡がっていた。
②律令時代になると東から南海道が伸びてきて、それに直行する形で条里制工事が始まる。
③金倉寺周辺は、金倉川の氾濫原であったために対象外となり、空白地帯となっている。
④しかし、金倉寺周辺の氾濫原の微高地には、郡衙・官衛・豪族居館らしき建築物が集中する
⑤一方、善通寺エリアにも、郡衙や古代寺院が佐伯直氏によって建設される。
⑥そういう意味では、善通寺と金倉寺エリアは多度郡のふたつの政治的な中心地だったとも云える。
⑦しかし、古代寺院の規模などからすると、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因支首氏の間には、政治的・財政的に大きな開きがあったことが見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会
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四条・吉野の開発
まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎) 

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
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まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

  
    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長尾の町代遺跡と古墳群

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

善通寺大墓山古墳の馬具2
大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
HPTIMAGE

丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長炭の土器川右岸の古墳群(まんのう町HP まんのうマップ)

それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
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   前回は1920年代の麦稈真田を取り巻く状況について、次のように整理しておきました。
①第一次世界大戦前後の麦稈真田の輸出額は、神戸港ではベスト10に入っていた
②工場で作られた品質の良い麻真田の出現で、麦稈真田は安値低迷に苦しんでいる
③麦稈真田は農家の副業のために、品質向上などへの取り組みが弱く競争力に劣る
④このような状況が麦稈真田の未来を危うくしている。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押されてる様子がうかがえます。このような状況を専門家や当事者たちは、どのように考えていたのでしょうか。それがうかがえる新聞記事がありましたので見ていくことにします。

麦稈真田貿易趨勢 1918年神戸新聞

大正7(1918年5月12日 神戸新聞 麦稈真田貿易趨勢
    神戸大学新聞記事文庫 デジタルアーカイブ 麦稈製造業第1巻 
意訳変換しておくと
麦稈真田が海外輸出商品としての地位を得るようになって二十年余りが経過した。(中略)
麦稈・経木真田の現況は、第一次世界大戦勃発以前に既に憂うべき数字を示していた。その上に戦乱の影響で、さらなる苦境に立たされた。これについては、世界大戦という未曾有な混乱が原因で、内地生産だけを原因とすることはできない部分もある。しかし、この機会にこそ自ら省みて挽回と発展の策を講じ、力を尽して本業の将来を繁栄へと導かなければならない。麦稈真田産業が今日の発展を為し得た要因を挙げると、次のようになる。
①先覚者の研究苦心に負う所が多い
②製造方法が手仕事で、我が邦人天賦の技巧に適し、初期投資が少ない
③原料の麦稈を最安価に自給できたこと
④広く山間僻村で生産が行われ、安価な労働力が豊富にあったこと
この記事は簡単な取材や「関係者談」ではなく、現場へ調査や各種報告を分析した上で書かれた内容となっています。第一次世界大戦前後における麦稈真田業界の抱える問題が的確に指摘されています。どんな問題意識を持って、この記事が書かれたのか考えながら見ていくことにします。
世界には、低価格の支那真田、技術精巧な伊太利(イタリア)、仏蘭西(フランス)、瑞西(スペイン)製品などの強敵が控えている。日本の麦稈真田産業の発展は、販路の拡張、技術向上、製品改良などにかかっている。今回の調査で得た研究資料の概要を述べたい。
麦稈真田の生産組織を一言で云うならば「農村における婦女の副業」である。
この麦稈真田産業は工場生産ではなく、農家の副業として製造されてきた。そのため原料は、農家自身が栽培する麦稈を利用し、各農家が随時随所で簡単に加工した。それが農家の副業としては最適な産業であったと云える。従事者の年齢は、12歳以上20歳未満の少年・少女が成人以上に当動力として利用せれている。生産に割かれる時間は、児童の遊戯時間、老人の座談、閑居に空費する時間、家婦の不生産的消費時間なども活用できる。さらには広島県呉市や福岡県八幡市では、各種職工の家族の授産事業としても運営されたり、岡山、香川では小漁村の救済事業として行われているところもある。まさに勤労の美風、風教の改善などにも好影響を及ぼしている。
要点を整理すると、次のような麦稈真田の特徴と利点が指摘されています。
①麦稈真田生産は「農村における婦女の副業」として成り立っていること
②副業として、未成年・婦女子・老人が数多く従事していること。
③農家経営を助けると共に、勤労の美風観を育てることにも役立っていること
このような利点に対して、農家の副業ゆえの問題点を以下のように指摘します。
 麦稈真田生産は、初期設備投資がほとんどいらず小資本で起業できる点が工場生産とは異なるところである。しかし将来のことを考えると、製品改良、技術向上、原料精選などに努めるとともに、消費者に好まれる製品を作り、購買心を刺激しないと麦稈真田の発達はないと云える。業者もその点を分かっていて、多品種化や品質向上などに努めているが、それが欧米人の趣味嗜好にマッチしていないことがある。さらに問題なのは、生産に従事する者の多くは、麦稈真田が国際的な貿易商品であることを理解していないことことである。そのため市場が好況になってよく売れれば粗製乱造に走り、不況で生産が落ち込めば、生産を放り投げてしまう。このため次のような弊害が放置されていることが各県からは報告されている。
①製造後、短尺(「尺切のこと」)が混じっている(製品チェックの不備)
②組流れを、そのまま製造している
③幅員が不揃いなもの
④乾燥が不充分なために腐蝕を招くもの
⑤生産組合の規定である八列九重の仕立方を省略して短尺を図るもの
⑥引延ばすもの
⑦汚損したものを出荷するもの
⑧穴が空いているものを出荷するもの
⑨不良原料を使用したために、製品に欠点がでること、
これらの弊害の原因は次の2点に起因する。
A 生産者が故意に不正し、利を得ようとするものと、
B 生産者の技術拙劣から来るもの
この弊害を更に助長するのが、流通ルートの欠陥である。この改善のためには、まず生産者に対する適切な技術指導と、買い取り方法の改善が求められる。次に生産組合による自主的な取締活動が求められる。指導・取締については、とりあえずは農商務省令の発布の条項に従って行えば良い。
ここでは農家の生産従事者の生産者としてのプロ意識の欠如と、それが製品にどのように悪影響を及ぼしているかが具体的に指摘されています。
以上のような悪癖の改善運動のために、次のような実践例が報告されます
麦稈原料の採取や加工方法は、直接に製品に影響を及ぼす問題である。例えば、麦稈の採取、加工について香川・岡山県は、生産組合の活発に活動して改良に勤めている。また天候や風土によって、刈取時期、野晒方法、撰別、号別などが適当でないために生ずる欠点や弊害も多い。原料の麦稈を自分で栽培せずに、他地域から買い入れている福岡県、広島県の一部、山口県などでは、製造家が粗悪原料の使用を余儀なくされているとの報告もある。
 原料生産地には、改良改善に充分な注意が求められる。特に経木の場合は原料加工、晒白などが採取地の山村で、経験に頼って行われている状態なので、薬液の定量を誤って腐蝕を招く例もあった。原料採取に従う者に対して製造方法を指導し、指示された基準・手順で生産するようなシステムを強制的にも形作っていくことは製品改良の上で必要なことである。 真田の網製は誰にでも簡単に習得できる。そのため未熟者の製造したものが市場に出回ることも多い。常に技術の向上を図り、訓練する必要がある。
ここでは先進的な活動例として香川県のことが紹介されています。これについては次のようなものでした。
 明治31(1898)年に「香川県麦稈業組合」や「麦稗真田販売組合」設立し、生産品の品質保証のために検査制度を設け、規格の統一普及に努めます。具体的には製品に生産作者名を押印した県発行の検印証紙を貼付します。これによって生産者責任を明確にすると共に、粗製濫造を防ぐというものでした。これが香川県産の麦得真田の名声を高めたとされます。こうして、問屋などから大量注文が入るようになり、組合による生産割当が容易になると同時に、仲買人や問屋に対する窓口一本化され、価格交渉が有利にはこべるようになりました。生産技術の安定と向上と共に、流通ルートの改善にも取り組み、それが農民の利益にもつながると高く評価しています。それを全国的に普及していくべきだという提言です。
「精神開発」の必要
真田製造は手指による手工品なので、作る人の人格や観念が知らず知らずのうちに、製品に反映する。例えば中流農家で作られた麦稈真田は、下層農家に比べると入念に作られたものが多いように思える。これは従事者の価値観や世界観の現れであろう。現場の生産者に対して、麦稈真田が国際商品であり、我が國の主要輸出品たることを知らしめなければならない。製品の良否はひいては、我が国の国力の伸長にも関わることを自覚させることが求められている。以上については、なかなか実行するのが難しいものもあるが、既に実行されて効果を上げている例として次のような活動がある
麦稈青刈の奨励
品評会の開設
同業組合に於ける毎反検査の講評
特技者の表彰
協議会の開催
技術講習会
巡回指導員の設置
府県試験場でのその地方に適当な品種や加工法の研究指導
 府県市町村だけでなく、同業組合と連携を図りながら進めていくことが要点である。
麦稈真田の品質向上のためには、生産者のプロ意識が必要として、そのために香川県などで行われている生産組合の行事活動が紹介されています。香川県では次のような技術指導体制が組織されていました
①明治25年、指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村を巡回指導
②明治37年、「麦得真田伝習所」を設置し、技術普及と地域の指導者を育成
③尋常小学校の手工科の教程(カリキュラム)に「麦得真田組み」を採用させ、児童への啓発展開
④真田組の技術向上のために競技会の各地での開催。
⑤滝宮天満宮の夏の競技会は、県下一円から若い女性たちが集まり日頃の腕を競いあった。それが行事化・イヴェント化して、麦稈真田の普及定着につながった
⑥これを受けて各村々でも行政と生産組合が連携して競技会開催
これを逆手にとってみると、この香川県の取組は先進的で、全国的にはそこまで達していなかったということになります。
売買組織の改善
真田の買い取りについては、生産農家が景気動向や市況のことについて疎いことが多い。これに乗じて中間仲買人の暗躍で生産農家は不利益な取引を余儀なくされ、それが農家の生産意欲を失わせている例もある。また、商況が良好な時には、仲買人は品質を問わずに先を争って均一価格で買い求める。ここにも真田の改良、向上を阻害する要因がある。生産農家の保護、製品の改良は、麦稈真田産業の発展のための避けて通れない問題である。この流通ルートには農家や輸出港での売買などに多くの仲間業者が入り込んで複雑化している。これを簡略化することが価格安価や取引の安全につながる。このような流通ルートの改善については、香川県同業組合や岡山県の一部において、先進的な取組が紹介されている。また、共同販売や輸出港で売買市場の開設などについては神戸、横浜において試験実施が行われている。注目したい試みであるが、その経営は不振で軌道に乗っていないのが残念である。

価格の調節施設
麦稈真田は流行や景気変動の影響を受けやすく、価格変動が大きい商品である。そのことが普及拡大の障害となっていると言われる。これについての防止策としては、一時期に集中する註文を、分散して受けるようすれば、価格変動幅を緩和できるという意見もある。しかし、生産農家にとっての最大の不安は、農家に対して融資をおこなう金融機関が身近にないことである。農家が利用できる金融制度や機関がまず求められている。次いで、価格調節の行える集団を将来的には考えるべきである。

海外輸出状況

麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後
麦稈真田の反別・生産額の推移表

麦稈真田が始めて海外に輸出せれたのは明治7年のことである。以来、明治25(1892)年までは統計調査がないので詳しくは分からない。日清戦争勃発時の明治26年には輸出額は37万円に過ぎず、その発展も遅々たつものであった。ところがその5年後の明治30年には、318万円に達している。10倍の驚くべき急成長ぶりである。それ以後は、輸出数量は以下のように増加している。
明治37(1904)年 1300万反  輸出額  516万円
大正元 (1912)年   2400万反、 輸出額 1680万円
この大正元年がピークで、翌年には減退し、大正3(1914)年の第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落した。こうして戦争景気で他産業が好景気に沸く中で、麦稈真田の問屋や仲買業者中は破産や操業停止に追い込まれるところが続出し、惨澹たる悲境に陥った。大正5(1916)年になると、景気は回復傾向に転じ、昨年大正6年には好況の波に乗ったかのように見えるが、これはかつての隆盛には遠く及ばない。対一次大戦勃発前後の麦稈真田の輸出状況をもう少し詳しく見ておくと次のようになる。
大正2年以前の3年間の平均輸出額  1602万円
大正3(1914)年  1435万円
大正4(1915)年    1413万円
大正5(1916)年 1631万円
これを見ると大戦開始から3年間の平均は1522万円で戦前平均額に比較すると約80万円の減少にすぎません。数字的には「第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落」という状況は見えてきません。このあたりが今の私にはよく分からないところです。

大戦前の麦稈真田の輸出が好調だったことは間違いありません。その輸出先を新聞は次のように記します。
戦乱勃発前の真田の輸出先は、次の通りである
第1位が英国で、次いで北米・仏蘭西、独逸、伊太利、濠洲、比律賓などが主要な輸出先である。戦乱の結果、輸出額の減少と共に輸出先にも大きな変化が現れた。麦稈真田は北米、英国、仏蘭西、比律賓諸島、濠洲、伊太利、支那の順序に其他十九ケ国に輸出。経木真田は英国、北米、仏蘭西、比律賓など十ケ国、麻真田は北米、英吉利、仏蘭西、濠洲、加奈陀など19ケ国に輸出されている。戦前三ケ年と前時中の平均輸出額品種別推移を見ると
                戦前の輸出額
A 麦稈真田   492万円
B 経木真田   211万円
C 麻真田    866万円
大戦の始まった大正3(1914)年以降、戦乱の影響や流行の変化を受けて麦稈真田や経木真田は衰退傾向を見せ始めます。それに対して麻真田が急速に輸出額を伸ばしています。真田の集散は関東では横浜港、関西では神戸港之が集散市場である。また集散製品にも横浜港は麻真田、神戸港は麦稈、経木真田という棲み分け現象がみられる。麦稈真田総輸出額の9割以上、経木真田の8割以上は神戸港からの輸出で、半ば独占状態となっている。これに対して麻真田は横浜港から輸出されるものがほとんどで、神戸港からの輸出は2割程度である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大正7(1918年5月12日 神戸新聞 麦稈真田貿易趨勢
    神戸大学新聞記事文庫 デジタルアーカイブ 麦稈製造業第1巻
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100105325/?lang=0&mode=0&opkey=R174080246918440&idx=14&chk_schema=20000&codeno=&fc_val=&chk_st=0&check=00000000000000000000 )

麦稈真田沿革史2

前回は麦稈真田の盛衰史を上のようにまとめました。今回は麦稈真田の生産を農家がどう受けいれたのか、また輸出商品としての麦稈真田がどのように生産・加工されていたのかを見ていくことにします。

麦稈真田の種類2

麦稈真田デザイン

さまざまな麦稈真田デザイン これを材料に帽子などが作られた
麦稈真田の生産を県や郡が農家に勧める上で、根拠となった専門家の説明を見ておきましょう。


麦稈真田工業案内 中山悟路
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

麦稈真田工業案内 中山悟路 家族経営の長所
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
    麦稈真田生産の利益は、独特の製法で作られる物なので家族経営でおこなうのが一番利益を上げられる。中でも農家が自分の家で栽培した麦で作れば 利益は大きいものになる。例えば一反当たり50貫の麦稈材料が確保できる。5反の田んぼで裏作に麦を作れば、
麦稈真田工業案内  家族経営の長所

中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
50貫×5反=250貫で、これを材料吟味して4割の歩留まりとすれば、約100貫の材料をえることができる。この麦藁材料を用いて平均的な麦稈真田を組むと1貫で7反が作れるので、106貫×7反=742反の真田が作れることになる。平均的出荷額は「1反=30銭」なので、その収入は「742反×30銭=約221円」となる。材料である麦を買うことなく、職人を雇わず家内工業で行えば、これがすべて家族の丸儲けとなる。
 しかし、材料を他から買い入れ、職人を雇い入れたりすれば、このような高利益は上がらない。 1/3程度の利益しか上がらないだろう。まさに麦稈真田生産は農家の余暇を使って営める副業であり、しかも高利益が上げられる。何人も速やかに起業すべきである。

ここでは麦稈真田を家族経営で行う事の有利さが述べられています。零細な5反農家が二毛作で麦を作り、それを材料に真田を編めば、200円を超える利益が上がるとされています。今から百年前の大正末期の物価を見ておきましょう。
①大卒サラリーマンの初任給(月給)は、50~60円
②職業婦人の平均月給はタイピストが40円
③電話交換手が35円
④事務員が30円
副業としての麦稈真田は、零細な農家には「美味しい話」だったようです。
大きな機械が必要ないので初期投資がほとんどかかりません。そのために香川県では、日清戦争後に急速に普及したことは前回お話ししたとおりです。私は、香川県で作られた麦稈真田は、国内の麦藁帽子などに供給されていたのかと思っていました。しかし、麦稈真田の生産高が急速に伸びたのは海外に輸出されていたからでした。国内提供分よりも、はるかに欧米への輸出用が多かったのです。そして日本から輸出された麦稈真田は、アメリカや欧米で帽子に加工されていたのです。帽子のスタイルなどは、伝統文化や流行に左右されるものなので、消費国で作成されます。次に、第一次世界大戦中に輸出商品としての麦稈真田の未来図を論じた新聞記事を見ておきましょう。

麦稈真田2
麦稈真田

大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )
意訳変換しておくと
  「輸出復興時代来る 某当業者談(上)
数日前の貴紙社説欄に麦稈真田の輸出振興策として漂白輸出を開始すべきだと述べていたことに大に我意を得た思いがする。輸出用の麦稈真田は、発展への今が大きな分岐路になっている。そのために発奮努力して日本麦稈の真価を世界に周知させる時である。①麦稈真田の世界市場での競争者は瑞西(スペイン)と伊太利(イタリア)である。瑞西の麦稈は、日本のものと似て細小である。それに対して伊太利のものは麦稈に穂先だけで組むトスカンと包被部分をも用いた二種がある。②日本麦稈と競合する中国の麦稈の産地は、山東、河南、安徽から揚子江北岸までの間のエリアである。ここの麦稈は伊太利トスカンとは違って、繊緯が強靭にして量目も重く欠点が多いので主に労働者用帽子の原料として使用されている。そのため価格も伊太利トスカンや日本麦稈に比べると低廉である。日本麦稈と同じように、一度欧洲に輸出せられた後に漂白染色して、中米南米方面に輸出されている。これは日本麦稈のライバルではない。
 ③日本麦稈は瀬戸内海の両岸の岡山・香川を主産地とする。繊緯は緻密で軟かく、そのうえ光沢に富み、軽いことを特色として、紳士用の夏帽子や婦人用の四季帽子に使用せられいる。帽子原料としての麦稈に求められる二大要件は、軽いこと、被って気持ちいいことであるが、色彩光沢に富み染上が美しいのは、日本麦稈だけである。この点では、ライバルである瑞西麦稈も伊太利麦稈も我國の麦稈には及ばない。④この真価が次第に世界の製帽家に認識せられるようになって、麦稈輸出が再び復興してきたとと思う。

要約しておくと
①第一次世界大戦直前の1914年1月の記事である
麦稈真田の世界市場でのライバルは、スペインとイタリアであったこと。
③中国の麦稈は品質面で日本麦稈のライバルとはいえない。
④日本麦稈は岡山・香川を主産地として軟かく、光沢に富み、軽いので、紳士用夏帽子や婦人用帽子に用いられている。
⑤この品質が欧米で認められて日本からの輸出が伸びている
ここからは世界の麦稈真田の主要生産地は、スペイン・イタリア・中国・日本で、その中でも品質が優れていると認められた日本製が急速に占有率を伸ばしていきます。
記事の後半「東洋麦稈合同を作れ 某当業者談(下)」を見ておきましょう。
日本の麦稈真田の次の課題は、新たなる飛躍策である。ところが日本麦稈の主産地である岡山・香川の瀬戸内海両岸の地は、⑥麻真田が市場に参入して人気を集めるようになると、生産意欲が萎縮しているように思える。ここには麦稈栽培を専業にする者はいない。そのため生産高が上がらず、品質も降下気味である。これを放置すれば、今後の輸出振興に大きな障害となりかねない。岡山・香川、山口などの主産地はもちろんのこと、⑦その他の各府県に対しても麦稈栽培を奨励し、同時に検査所の権限を拡張し、品質の均一化を計り、輸出振興策を今のうちから行うべきである。
 一方、対岸の支那麦稈は粗悪で改良の余地がある。そこで日本は、技術者や指導者を派遣して播種耕作や乾燥技術などの技術援助を提案する。それが実現すれば、中国でも今まで以上の優良品を生産できるようになり、生産額も増加する。そうなれば我が國のみならず東洋麦稈の改良と産額の増加の実現につながる。これは世界の新需要につながる道となる。日本が率先して漂白輸出の道を開くためには、⑧今は一度欧洲へ運ばれている支那麦稈を隣国の日本で漂白して、日本経由で南米諸国へ輸出することになる。日本は日本麦稈と支那麦稈を双手に握って東洋のルートン、リヨン、もしくはフローレンスへの道を目指すべきである。
 近頃、支那の孫中山(孫文)氏が、やってきて盛に東亜同盟を説きつつある。私の立場からすれば、そのためには先ず実業界において「麦稈トラスト」を組織し、東洋麦稈の商権を伊仏英の手中より奪い、日華両国の支配下に置くことを主張したい。日本と中国の麦稈合同は、日本による漂白輸出の開始を意味する。そうなれば東洋麦稈は数年ならずしてイタリアの麦稈を凌駕するであろう。
要約しておくと
⑥麻麦稈が出現し流行になると、麦稈真田が市場を奪われ、香川の農家の生産意欲が低下していること
⑦打開策の一つとして中国への技術指導を通じて、支那麦稈を日本経由で欧米に売り込むことを提案
⑧日本と中国が「麦稈同盟」を結ぶことがイタリア麦稈の市場占有率を切り崩すことにつながる

ここに出てくる麻真田について見ておきましょう。
  夏帽子の原料である麻真田がイギリスから日本に輸入されたのは日露戦争の始まる前年のことです。明治36(1903)年に、イタリアで製作された「十三打ち麻真田」が、ロンドンから日本へ輸入されます。それが国内で生産されるようになるのは、明治41(1908)年のことです。横浜の上流合資会社が工業化に成功し、豊橋などを拠点にゆっくりと成長して行きます。麻真田はフィリピン産のアパカ植物の葉幹を繊維化したもので、絹のような光沢と耐水性、耐摩擦性に富んでいることから婦人用帽子などに使われました。当初は麦稈真田の影に隠れた存在でしたが、電力使用が普及すると、編織機が手動式から電動式に改良されます。工場生産で、能率が上がり、品質も改善され急速に成長し、第一次世界大戦後には、麦稈真田を圧倒するようになります。

麻真田織機
麻真田織機(豊橋市 石川繊維資料館) 
       次に今から約百年前の神戸又新日報を見ておきましょう。
見出しには「輸出真田の革命的改善機運」とあるので、生産過程などに大きな改善がありそうなことを記事にしているように思えます。早速読んでみます。

麦稈真田の革命的改善機運」

神戸又新日報(大正15年8月12日)(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )

神戸港の麦稈真田の輸出額は、年々その額を増加し重要物産中でも十指に数えられるまでに至った。近頃は不景気によって打撃は受けているものの、世間ではなお前途は楽観視され、通商発展は有望とされているように見える。しかし、昨今の麦稈真田の安値に市況は一段と沈静し、同業者は悲観の態である。下半期の業績もきびしい状況が予想せられている。これについて当事者の情況分析をを綜合すると、原料安に伴って麦稈帽なども三分の一の市価に落ち込んでいるという。値段が安ければ需要が増える、従って製品の販路は増えるというのが世間の見方だが、近頃の傾向はこれと正反対であるという。安値の藁帽子などは、中流以下の階級者に需要が多く、富裕層は麻真田とか品質のよいものが歓迎されていて、麦稈帽の人気は下落しているという。これは麦稈真田の同業者にとっては聞き捨てならないことである。

 このような状況を打開するために香川県などの生産組合は、製品改良に努め、各地で講習会を開催するとか、技術員を駐在させて麦稈製品の品質改善に努めている。しかし、その効果はあまり現れていない。その要因は、麦稈生産者の多くが農家の副業者であるからだ。技術者が改良を奨励しても、それに応えずに普通の編み上げを続け、何等の改良を加えない農家も多いという。この点を考慮して伊賀上野では、細目の編方を奨励し成果を上げ、非常な好評を博し需用を伸ばしている。改良すれば改良する程、それが副業であろうと本業であろうと、それだけ収入を増加することができる。ところが農家の副業では、技術者の指導を馬耳東風と吹き流し、昔から仕来りの編方を踏襲してなんの改良を加えない。そして、一反25銭の編賃を得て満足しているのである。改良した編方をすれば収入は倍額になるのに、農民たちはそんな手間のかかる仕事は真平御免だと言わぬばかりに一向に改良をしようとしない。こんな様なので、生産組合も今は持て余し気味である。今の状態では麦稈帽の将来は危うい。当業者もこのことに気づいて、大改良を加え品位の向上はもちろん、加工にも十分の注意すべく計画中であという。
麦稈真田に比べて有望視されているのが麻真田である。麻真田は大工業家の手によって生産されているので、品質改良や生産工程の効率化などが着実に進められている。そういう点からすると、現在の麦稈帽は技術も品質も、麻真田に対して優った点を見出す事が出来きない。このままでも労働者の被る麦藁帽子などにも麻真田に奪われて行く可能性がある。今の内に、麦稈真田は改良すべきであるとの意見が昂まって来た」
ポイントを上げておくと
麦稈真田の輸出額は、神戸港のベスト10に入っていた
①麦稈真田業界は、安値低迷に苦しんでいる
②その原因の一つが麻真田の出現である
③麦稈真田が農家の副業で、品質向上などへの取り組みが弱いのに対して、麻真田はて大工業家によって生産されているので、改良・改善に積極的に取り組んいる。
④このような差が麦稈真田の未来を危うくし、麻真田の未来を明るくしている。
記事の題名は「輸出真田の革命的改善機運」でしたが、書かれている内容は麦稈真田の危機的内容で、これらを行わない限り未来は見えてこないというものです。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押され、市場を失っていく様子がうかがえます。香川県の農家が盛んに麦稈真田を作っていたのは、日清戦争後から大恐慌の始まる約20年間だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ
神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 デジタルアーカイブ
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