瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年05月

2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
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高越山11
阿波 高越山
高越山は、美しい山容から「阿波富士」と呼ばれ、山岳信仰・修験道の霊山でもありました。この山では神仏混淆の下で、寺と神社が一体化した信仰が行われてきました。今回は、中世の高越寺がどんな宗教的場であったのかを見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」です。
 まず研究者は、高越寺の研究史を次のように振り返ります。
田中善隆氏の成果を次のように整理します。
⓵信仰の起点を阿波国麻殖郡に拠点をもった阿波忌部の拓殖神話と関連させて理解すること
②以後、大師信仰、修験道等が展開した
田中善隆氏の研究は高越山を「忌部修験」という山伏集団の拠点と捉えました。これが現在の定説となっています。これに対して研究者は「超歴史的で、史料的な裏付けからみても虚構といわざるを得ない」とばっさりと切り捨てます。
次に、田中省造氏の研究に対しては、次のように評します。
①「史料を読み込んで推論を丁寧に重ねて高越寺の歴史を描いており、貴重」
②しかし、阿波忌部との関係、大師信仰、修験道など、霊場としての性格をとらえるという視点からは「不分明」。
③特に修験道史については、今日の研究状況からすれば疑問がある
さて、研究者の視点は、高越寺には12世紀という古い時期から弘法大師伝承があったのに、どうして四国八十八か所の霊場にならなかったのかという点にあります。
江戸時代前期の四国遍路のガイドブック『四国遍礼霊場記』(元禄2年(1689)は、弘法大師の聖跡巡礼としてまとめられています。その中には、大師による開基と伝えられない霊場や大師堂のない霊場が載せられています。さらに『霊場記』には、札所外の霊場も少数ですが挙げられています。そこには大師の事跡を説くものと、そうでないものとがあり、札所とのはっきりした差別化はみえません。四国遍路の形成のプロセスの中で、大師信仰は必要項目ではなかったようです、何か別の条件のもとでの霊場の取捨選択があったと研究者は考えています。
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖として知られる聖賢による「高野大師御広伝』(元永元年(1118)で、次のように記されています。

阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讚上三州、如在足下。奉造卒塔婆、千今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生,又有御手辿之額、干今相存.

意訳変換しておくと
阿波国の高越山寺は、①弘法大師空海が創建した寺である。空海は法華経をしたためて、この山上の峰に奉納したと伝えられる。頂上からは四方の眺望があり、伊予・讃岐・土佐の三州が足下に望める。卒塔婆を奉納したが今になっても壊れず形が残る。経を埋めた跡は草木が生えず山の額のように見える。

ここには空海が「高越山寺」を建立し、法華経を書写・埋納したと書かれています。弘法大師伝説が地方へ伝わり、四国と東国が修行地として強調されるようになるのは11世紀からとされます。高越寺に大師伝承が現れるのも、そうした時代背景を踏まえてのことなのでしょう。押さえておきたいのは、高越寺の太師伝説はこの史料だけなことです。書き手の聖賢は、阿波に関する情報を得るルートを持っていたことがうかがえます。それが後の聖宝信仰ともからんでくるようです。
弘法大師 高越山
弘法大師(高越山蔵)

また、この段階で高越寺が霊場化していたことが別の史料から確認できます。
高越寺には大般若経(保安三年(1123)が伝来しています。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名があります。天台系の教線がこの地に伸びてきていたことがうかがえます。さらに12世紀のものとされる経塚が発見されていて、常滑焼の甕、銅板製経筒(蓋裏に「秦氏女(渡来系秦氏の子孫?)」との線刻)、法幸経を意図したと思われる白紙経巻八巻などの埋納遺物があります。このような状況と大師伝承は同時進行関係にあったようです。以上から12世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は判断します。以上はが、これまでに高越寺について述べられてきた「研究史」になります。
次に近世の縁起「摩尼珠山高越寺私記」を見ていくことにします。
「私記」にも大師が高越山にやって来たことが記されています。ここからは「空海来訪」伝承は、その後も長く受け継がれてきたことが分かります。でも、どのように定着していたのかということは何も記されていません。ただ、『高野大師御広伝」と「私記」を直線的に結んで推論しているのに過ぎません。

「私記」は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものです。
「私記」自体は失われていますが、幸いなことに『高越寺旧記』という史料に全文が引用されているので、その内容を知ることができます。高越寺は天和2年(1683)、真言宗の大覚寺末寺に編成されます。そのため「私記」は中世から近世への過渡的な段階で書かれたものと言えます。「私記」の構成は、次の通りです。
⓵役行者(役小角)に関する伝承
「天聟天皇御宇、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現 体分身、本地別体千手千限大悲観世音菩薩」、「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」

ここには、役行者による開基が記され、蔵王権現(本地仏 千手観音)の山で、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の一つとされたことが記されます。

②弘法大師に関する伝承
「弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参詣此山」、「権現有感応、彿彿而現」
大師が権現の不現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体の彫刻をしたとされている

③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」と、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされています。

④山上を起点にして宗教施設
A「山上伽藍」については、「権現宮一宇、並拝殿是本社也」、「本堂 宇、本尊千手観青」「弘法大師御影堂」の他に、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮といった末社があった。
B 山上から七町下には不動明王を本尊とする石堂があったこと、八町下には、「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮が配置され、「殺生禁断並下馬所」となっているので、ここが聖俗の結界となっていたこと
C 山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現官があったこと。その他、鳥居の所在について記されていること
以上からは、大師が高越山に現れたと書かれていて、大師堂があったことから、17世紀においても高越寺は、大師信仰の霊場であったことがうかがえます。その意味では12世紀からの弘法大師伝説の霊場の性格を引き継いでいたと云えます。しかし、高越寺で最重視されていたのは、弘法大師大師ではなかったようです。高越山では、役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂に祀られています。ここからは、弘法大師よりも役行者の方に重点はあったあったことが分かります。ここでは、17世紀の高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたことを押さえておきます。

それでは高越寺の修験道の霊場としての起点は、どのあたりにあるのでしょうか?
これまでの研究は高越寺所蔵の聖宝像(南北朝~室町時代)を基準にしてきましたが、これは適切な方法ではないと研究者は指摘します。まず取り上げるべきなのは、役行者と蔵王権現とします。役行者は修験道の開祖と信じられていて、修験通と不即不離のイメージがあります。しかし、このようなイメージが形成されるのは、後世になってからです。その過程を見ておきましょう。

役行者伝説の成立過程

⓵「私衆百因縁集』(正嘉元年(1257)に「山臥道尋源.皆役行者始振舞再起」という記載が現れた13世紀以後のこと
②蔵王権現は悪魔降伏のな怒相の像容で知られていますが、役行者との関係が説かれるのは、11世紀頃の成立とされる「今昔物語集』が古い例
③13世紀後半の『沙石集』(弘安六年(1283)や金峰山秘密伝(延元2年(1337)などから後、役行者による感得諄が説かれるようになったこと
④『沙石集』には、吉野山上で役行者の前に現れた釈迦が弥勒に変じ、最後は蔵王権現の「オ
ソロシゲナル御形ヲ現ジ」たと記されていること
⑤「秘密伝」には、役行者が「金山大峰」で「祈末代相応仏尋濁世降魔尊」ところ、まず「大聖釈尊忽然現前、示護法相」、次いで「千眼大悲尊自然即涌現」、さらに「弥勒大悲尊自然影現」と続き、最後に「従盤石中金剛蔵工青黒窓怒像忽然涌出」と現れたこと。つまり、釈迦、千手観音、弥勒の後に蔵王権現が姿を現したこと
⑥「金峰山創草記」(鎌倉末~室町時代の成立)には、蔵王権現の本地仏を「過去=釈迦・現在=千手・未来=弥勒」と記します。ここからは「秘密伝」に現れた仏書薩が蔵王権現の本地仏として定着したことがうかがえます。

13~14世紀頃は、「修験」は山伏の行とされました。
さらには「顕・密・修験三道」(近江同城寺)や「顕・密・修験之二事」(若狭明通寺)というような表現が各地の寺院関係史料にみられます。四国でも、土佐足摺岬の金剛福寺の史料に「顕蜜兼両宗、長修験之道」と記されています。こうした状況からは「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として認知されるようになっていたことがうかがえます。『私衆百因縁集』で「山臥の行道」とあるのも、「道」として体系化・実体化の過程にある修験道のことと研究者は考えています。こうして役行者は、修験道形成の流れの中で山伏に崇拝されるようになり、蔵王権現と緊密な関係をもつようになります。このような状況の中で、蔵王権現感得諄が現れ、されが高越寺に及んで定着したとしておきます。ここで研究者が注目するのは、「私記」には聖宝の伝承が含まれていることです。

高越寺には南北朝~室町時代のものとされ聖宝像があります。
聖宝像(高越寺)
ここからは、中世後期には聖宝信仰があったと考えらます。聖宝は、空海の弟・真雅の弟子で、醍醐寺を開いた高僧で、真言密教小野流の祖とされます。蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平7年(927)には、金峯山に堂を建て、金剛蔵王菩薩を造立したとされる人物です。13世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専斗藪之根本也」と醍醐寺における山伏の祖としてとらえられるようになります。

聖宝(理源大師)NO3 吉野での山林修行と蛇退治伝説 : 瀬戸の島から
中央が山伏姿の聖宝(理源大師) 右が役行者 (醍醐寺)

さらには天台寺門系の史料『山伏帳巻下」(南北朝~室町初期成立か)にも「聖宝醍醐僧正」と記されているので、宗派を越えて崇拝されるようになります。聖宝が信仰対象となるのは、13~14世紀頃のことで、修験道の実体化と並行していることを押さえておきます。高越寺が修験道霊場化という流れの中で、聖宝像も姿を見せるようになるのです。ただし、聖宝は真言宗の高僧で、中世には讃岐出身説がありました。また四国で修行して讃岐に至ったという伝承もあったようです。こうした伝承が、高越寺の聖宝信仰につながっていたと研究者は考えています。そうすると修験道だけでなく、この聖宝像には複合的な背景があったとも考えられます。
聖宝図 高越山
聖宝(高越寺蔵)
 聖宝像の存在を、高越寺と修験道当山派とのかかわりに結びつける見解があります。
これについては、研究者は否定的です。なぜなら醍醐寺三宝院門跡が当山派を統括するイメージが強いようですが、実際に三宝院が修験道組織を掌握するのは近世になってからのことです。三宝院が山伏と結びつくことはあったかもしれませんが、それを当山派に直結させてとらえるのは、正しい認識ではないというのです。さらにいうなら、中世の聖宝信仰は真言宗だけではありません。天台寺門派にも連なった山伏がいたことが明らかとなっています。近年の研究では、讃岐の雲辺寺や大興寺、金蔵寺などの真言と天台を併せもった信仰だったことが明らかとなっています。したがって、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、その修験道=当山派という形ではないことを押さえておきます。こうしてみてくると、修験道の霊場としての性格に遡れるのは、13世紀頃ということになります。
これを裏付ける霊場としての物証が、「私記」の中に出てくる「中江」(中の郷)です。
 摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂
②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」
③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
②からは中ノ郷について、つぎのようなことが分かります。
A「中江」と呼ばれていたこと
B 地蔵権現社が鎮座していたこと
C「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
高越山マップ

 中之郷は表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたり、ここには、近世以降は中善寺があります。

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中之郷のアカガシの根元の中世の石造物
また貞治3年(1364)、応永6・16年(1399・1409)、永享3年(1431)の板碑が残っています。ここからは、この地が中世には聖域化していたことがうかがえます。中世の山岳霊場では「中宮」といわれるところが、聖俗の結界所となっています。この中の郷が「結界」とされたのも高越山山上の聖域化が進んだことを示すものです。裏読みすると14世紀には、山麓と山上が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったことになります。こうした状況は、修験道の霊場としての興隆と重なりあって進んでいたことが考えられます。
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高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)

それでは14世紀頃の高越寺の山岳霊場としてのランクは、どうだったのでしょうか。それがうかがえるのが「義経記』の「弁慶山門(を)出る事」です。これは14世紀に成立したものとされ、弁慶の四国諸国修行が次のように記されています。

明石の浦より船に乗つて、阿波の国に付(き)て、焼山、つるが峰を拝みて、讃岐の志度の道場、伊予の菅生に出(で)て、土佐の幡多まで拝みけり」

ここには、当時の阿波を代表する霊場として焼山寺(徳島県神山町)、つるが峰(鶴林寺:勝浦町)が記されていますが、高越寺は出てきません。高越寺は霊場としては、焼山寺・鶴林寺・志度寺ほどの知名度をもっていなかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」
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「史談会」へのお誘い 以下のような内容で5月の史談会を開きます。
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講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
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 天霧石造物とは、天霧山・弥谷山の石材(天霧石)で製作された石造物のことです。地元では十五丁石とも呼ばれています。弥谷寺を中心とする石造物の時代区分については、以前に次のように紹介しました。
弥谷寺の石造物 天霧産石造物

今回は、1期の鎌倉時代についてより詳しく見ていくことにします。テキストは「松田朝由 鎌倉時代後期の天霧石石造物 四国中世史研究第10号(2009年)」です。
  鎌倉時代中期以前の天霧石石造物について
天霧石石造物の出現は、多度津町海岸寺層塔、善通寺市禅定寺(奥の院)層塔の二例から古代まで遡れるようです。しかし事例が少なく、これらは生産が本格化する前段階と研究者は考えています。それが鎌倉時代に入ると数が増加して、善通寺市犬塚、善通寺利生塔、善通寺市旧持宝院層塔(現在、京都府自沙村荘所在)などが姿を現します。

善通寺 足利尊氏利生塔
善通寺利生塔
善通寺利生塔は足利尊氏の利生塔とされますが、そのスタイルや形から鎌倉時代のものと研究者は指摘します。
香川県善通寺市の持宝院常福寺
旧持宝院十一重塔(現在は京都府自沙村荘所)
この利生塔と似ているのが、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。そして層塔は現在は京都府自沙村荘所に移されていることは以前にお話ししました。
鎌倉時代の石造物の中で研究者が注目するのが犬塚です。

犬塚 善通寺2

笠塔婆の犬塚

犬塚 善通寺
           犬塚 大日如来を表す「バン」という梵字が刻まれている
 犬塚は国立善通寺病院の東北の仙遊寺の近くにあります。徳治2(1307)年の『善通寺伽藍井寺領絵図』の中に描かれているので、13世紀以前のものと推測できます。高さ約2,5mの大きな天霧石で作られた笠塔婆(かさとうば)で、四方仏に大日如来を表す「バン」という梵字が刻まれています。笠塔婆は、塔婆の一種で、角柱状の塔身に屋根(笠)をのせたもので、仏像や梵字、名号などが刻まれ、側面に造立の願主や年号などが刻まれたもので、讃岐では東讃に多い石造物です。その中で年号が確認できるものを挙げてみると次の通りです。
①文永7(1170)年 筒野八面笠塔婆
②弘安6(1283)年・9年(1286)の長尾寺笠塔婆
③永仁3(1295)年 新川の笠塔婆
④応安5(1372)年、永和2(1376)年の西教寺六角笠塔婆
⑤応永8年(1401) 下り松庵の六地蔵笠塔婆
長尾寺笠塔婆
弘安6(1283)年の長尾寺笠塔婆
15世紀以降になると年号銘を確認できないようですが、製品は多く残っていて16世紀頃まで造られていたことが分かります。これに対して、香川西部では単製の笠塔婆はほとんどなく、善通寺の犬塚が唯一のものと研究者は指摘します。犬塚が造られた鎌倉時代中期の天霧石の工房では、その独自性が出来上がっておらず、東讃の石造物のコピーを作ったものと推測します。善通寺利生塔や旧持宝院層塔も同じように、天霧石造物のオリジナリテイーはまだ見えません。また、この時期の流通範囲も、多度津町、善通寺市など天霧山の生産地の周囲に限られていて、広域流通はしていないことを押さえておきます。
 鎌倉時代後期における天霧石石造物について
それが鎌倉時代後期(13C末~14C初頭)になると、様相が変わってきます。年号が記されたものが一挙に増えます。特に1210~20年代に大きく増加します。それらを、五輪塔、宝塔、層塔、宝鐘印塔に分けて見ていくことにします。
この時期の五輪塔としては、次の4つがあります。
A 多度津町高見島五輪塔
B 伝横尾時陰五輪塔
C 善通寺市三帝廟
D 岡山県笠岡市正顔五輪塔
天霧石造物1


墓参用の詣り墓の前にブロック塀で囲われて置かれた高見島五輪塔の左側の四輪塔と複数の石塔の写真
A 高見島五輪塔
  三帝廟写真
C 善通寺市三帝廟の五輪塔
特徴としては、
①地輪は低く、水輪は荘重感があり、きれいな円形にならない。
②火輪は軒が厚く外側にやや傾斜する
③最も特徴的なのは空風輪で、空輪と風輪が分割成形で、一石でつくられないこと
④空風輪を分割成形する地域として愛媛県松山市を中心に展開する凝灰岩(伊予の白石)の五輪塔があり、その時期は鎌倉時代中期からであること。
ここからは、天霧石石造物が伊予の白石の影響を受けたことが推測できます。しかし、その他の属性は異なるので、影響は一部に留まると研究者は考えています。ここで注目しておきたいのは、天霧石の石切場跡である弥谷寺の磨崖五輪塔と次のような共通点があることです。
①真反で外方にやや傾斜する火輪の軒、大きな空風輪が共通すること
②火輪の軒が外方に傾斜する点は香川東部の石造物とも共通すること

この時期の天霧産の宝塔は、次の3つです。
A 丸亀市中津八幡神社
B 多度津町光厳寺
C 善通寺市三帝廟
中津八幡神社 <香川県丸亀市中津町>: 阿吽探訪 狛犬と仁王像
A 丸亀市中津八幡神社の宝塔
特徴は
①塔身を空洞に割り抜き、内部に石仏を安置すること。
②正面には窓を穿つ例が多いこと
③空洞にはしないが、塔身正而を方形に深く彫り窪め、内部に石仏を刻むこと。これは備中東部内陸部の花満岩製宝塔に事例あり。
④首部は塔身と別石で組み合わす例が多いこと。これは対岸の岡山県五流尊龍院宝塔や広島県浄土寺宝塔に事例あり。こうしてみると宝塔は岡山、広島の花崗岩製宝塔との関係がありそうです。
⑤相輪は伏鉢・請花と九輪から上位で分割成形されていること。この類例は他地域にはないようです。天霧石石造物は近世初頭まで分割成形の相輪が見られます。
層塔は天霧山の工房では、盛んに造立された石造物です
層塔は他の石造物に比べると背が高く、シンボル的な性格が強いものです。分布状況をみると、五輪塔、宝塔は丸亀市、多度津町、善通寺市、三豊市など天霧山周辺に集中しています。それに対して、層塔は高松市から観音寺市の香川西部の広域に点在します。また五輪塔、宝塔では周辺地域の石造物との共通点をもちながら、強い在地性が窺えました。これに対して、層塔は石造物の盛んな関西地域の形態をコピーしたものが多く、在地色が薄いようです。

P1150655


DSC03848白峰寺十三重塔

この東西ふたつの塔については、以前に次のようにお話ししました。
①東塔(左)が弘安元年(1278)櫃石島産の花崗岩で作られたもので、頼朝寄進と伝来
②西塔(右)が元亨4年(1324)天霧山凝灰岩製で、弥谷寺(天霧山)石工によるもの
中央の有力者が櫃石島の石工集団にに発注したものが東塔です。西塔は、それから約40年後に、東塔をコピーしたものを地元の有力者が弥谷寺石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、造立年代の分かる讃岐では貴重な石造物です。天霧の石工集団が畿内の先進石工の技術を真似て凝灰岩製の十三重の塔を作れるまでにレベルアップしていく姿がうかがえます。
 一方で、西塔には次のような天霧石造物の独自性も見られます。
①は笠の一部と塔身、基礎の内部を空洞にしていること
②これは、五輪塔、宝塔など天霧石石造物でも見られる特徴。
③内部空洞化は室町時代以降も行われていて、岡山県西大寺層塔などにも見られ、天霧石石造物に多い特徴であること
④観音寺市神恵院層塔の塔身や多度津町多聞院多宝塔には扉の表現が見られる。
⑤その他、層塔は塔身の銘文、四仏の種子に独自性があるが、形態には在地色はあまり見られない。

次に宝医印塔は、天霧工房では室町時代以降は盛んに作られるようになります。
しかし、南北朝時代以前は他の石造物に比べてるとあまり作られていません。事例として京都府白沙村荘と善通寺市三帝廟になります。京都府白沙山荘宝医印塔については、以前に紹介しましたので省略します。ただ塔身に陽刻の月輪とその上位に縦連子が彫られています。これが室町時代後期以降の天霧石宝掟印塔になります。一方、三帝廟宝僕印塔の塔身には銘文、種子がありません。このような事例は室町時代以降の宝策印塔には見られないもので、「異質な事例」と研究者は評します。
基礎側面の三方には中心飾付格狭間があります。これは宝鐘印塔の他に宝塔、層塔、多宝塔の基礎にも見られる天霧石石造物に特徴的な文様です。このデザインが流行した背景は、木彫資料、建築資料との影響があるのではないかと研究者は推測します。
       
以上を整理しておくと
天霧石石造物は、五輪塔の空風輪は伊予の白石、宝塔塔身は岡山、広島の花崗岩製宝塔、層塔は関西地域の石造物との関わりがあったことが見えて来ます。つまり天霧石石工集団は、周辺の石工集団との交流があったということです。その中で研究者が特に注目するのは畿内の石工集団(中でも大和)との関わりです。
次のような大和の石造物の模倣品が天霧石石造物にあることを先ほど見ました。
A 高松市、坂出市に所在する摩尼輪塔(白峰寺)
B 善通寺市三帝廟
C 白峯寺十三重塔
白峯寺摩尼輪塔
Aの摩尼輪塔は高松市国分寺町新居や坂出市白峯寺にあります。これは正面に「下乗」の刻字がある摩尼輪塔で特徴的な姿をしていて、年号銘は元応2年(1321)と刻まれています。
白峯寺 下乗石(坂出側
白峰寺摩尼輪塔

これら摩尼輪塔の基になった作品として奈良県談山神社の摩尼輪塔があります。月輪状の円盤を正面に付けた笠塔婆であり、他に類例がありません。そのためこの石造物には直接的な関わりがあったと研究者は考えています。談山神社摩尼輪塔には乾元2年(1303)の年号があります。天霧石の白峯寺摩尼輪塔よりも18年古いことになります。ここからは天霧石摩尼輪塔は談山神社摩尼輪塔をコピーしたものという可能性が出てきます。しかし、請花、宝珠を分割成形する手法は天霧石石造物の特徴で、細かな部位は天霧石石工の個性が出ていると研究者は評します。
善通寺三帝廟は後嵯峨、亀山、後宇多の三帝の供養塔で、五輪塔、宝慶印塔、宝塔の三基が並んでいます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 三帝御廟 - 善通寺市
善通寺三帝廟

この三基について研究者は次のように指摘します。
①天霧系石造物にはない反花式基壇が見られ、諸属性も在地品と異なる点が多い
②特に五輪塔水輪は最大幅を中位にとる整った円形で、壷形、筒型の多い天霧石五輪塔とはタイプが異なる。
③整った円形の水輪は、大和の特徴なので、これらも大和石造物のコピーである可能性が強い
④宝掟印塔の笠からも大和との関わりが推測される
⑤しかし、大和の石造物そのものではなく、五輪塔空風輪、宝塔塔身などに天霧石の独自性が見られる
以上から善通寺市三帝廟の石造物も大和石工集団の技術やデザインを学んだ天霧石工集団の手によるものとします。

最後に白峯寺西院の東西二基の十三重塔を見ておきましょう。
この二つの塔については、東塔が弘安元(1278)年の花崗岩製で、大和の石工の手によるものとされます。それと並んで建つ西塔は天霧石製で(元享4(1324)年の銘があります。之については先ほども述べたように先に姿を現した花崗岩製のものを、天霧石工達がコピーして作ったものと研究者は考えています。以上のようには、天霧石工達は、大和の石造物の模倣を通じて技量を高め表現の幅を拡げていったことがうかがえます。改めて確認しておきたいのは、大和の石工がやってきて天霧石を用いて製作したのではなく、天霧石工集団によって製作されたことです。
 モデルになった大和の石造物については、談山神社摩尼輪塔は近くに花崗岩製層塔があり、伊行元の石工銘が残っています。この層塔の造立年は永仁6(1298)年で談山神社摩尼輪塔と年代的に近いものです。ここからは談山神社摩尼輪塔も伊行元によって作られた可能性があります。
 花崗岩製層塔が瀬戸内海各地に広がりを見せるのは1290年代以降のことです。
白峰寺に花崗岩製の十三重塔が姿を見せるのは、弘安元年(1278)年のことなので、それよりも10年以上早いことになります。他に先駆けて登場しているのです。一方で、大和・山城の層塔を見てみると、同じ時期(弘安元年)の層塔には京都府法泉寺十三重塔があり、そこには猪末行の石工銘が記されています。白峯寺の花崗岩製十三塔に大和石工が関わっていることをうかがわせるものに最上段の壇上積基壇を研究者は指摘します。壇上積基壇のある石造物は大和石工が好んで採用したものです。ここから研究者は「白峯寺花崗岩製十三塔は大和石工によって出張製作されたもの」と推察します。
ここでは、天霧石石工が模倣したお手本は、大和の石造物であったことを押さえておきます。
白峯寺石造物の製造元変遷
次に大和の石造物を模倣した天霧石石造物の造立背景を見ておきましょう。
今見てきたように、摩尼輪塔・十三重塔は白峯寺と、三帝廟は大覚寺統善通寺と関わる石造物といえます。 白峯寺は崇徳上皇の墓所であり、中央要人達の信仰を集めるようになっていたことは以前にお話ししました。そうすると、大和の石造物の模倣は天霧石石工の好みではなく、造立依頼者が天皇家をはじめとする中央要人達で、その好みに応えるために大和石造物の模倣が行われた可能性があります。
 香川の畿内色の強い石造物として宇多津町円通寺の五輪塔があります。この五輪塔は花崗岩製で銘文はありませんが形やスタイルから鎌倉時代後期の造立と推測できます。

円通寺五輪塔(宇多津)
宇多津町円通寺の五輪塔
宇多津円通寺五輪塔2

円通寺の花崗岩製五輪塔

 最下段には壇上積基壇があり、白峯寺花崗岩製十三重塔と同じ様に大和石工によって出張製作された可能性があります。円通寺は細川氏の守護所とされてる寺院で、中央との繋がりがうかがえます。
以上を整理してまとめておきます。
①鎌倉時代中期の白峯寺と円通寺は中央と深いつながりがあった
②そこには大和石工が出張製作した花崗岩製の石造物が造立された
③このような香川と大和の石造物・石工の関わりを背景として、14世紀初頭になると地元の天霧石石工は大和石工の製作した石造物を模倣して畿内風の石造物を製作するようになった。

天霧系石造物発展3

天霧系石造物の発展2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由 鎌倉時代後期の天霧石石造物 四国中世史研究第10号(2009年)」
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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観念寺 新居氏3 
観念寺(伊予西条市)     

観念寺には、61通の寄進状・寄進坪付注文、8通の観念寺宛の清却状が残されています。また、寺領注文には、122筆の寺領が書き上げられています。これを整理したのが、次の表です。これらを手がかりにして、観念寺の寺領復元を見ていくことにします。テキストは「川岡 勉   南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006」年です。

観念寺寺領寄進一覧表
観念寺寺領寄進一覧表

寺領注文の冒頭部に出てくるのは①山林です。
これによると、山林はつぎの3つに分類されています
a 寺内山林分
b 樺山前後山林分
c 吉岡界分
この寄進順は、a → b → c となります。
aは「寺内山林分」とあるので観念寺に近接した山林で、尊阿がこれを寄進したのは、正応5年(1292)前後のことのようです。aの四至北限は「庄界」とあります。これは隣接する安楽寿院領吉岡荘との境界部分で、cの吉岡界分に当たります。吉岡荘は、大明神川の上中流域を荘域とする天皇家の荘園で、鎌倉末期には164町5段290歩の田地を有しいたことが史料から分かります。

観念寺寺領分布図
観念寺寺領分布図

bは観念寺の背後の尾根線上にある樺山を西限とする山林です。東限が「尊阿寄進」とされているので、aの西側にあったことが分かります。寄進者の一人は「壇上殿」とあり、延文2(1357)年に「桑村本郡内恒名山地等」を寄進した越智信高のことだと研究者は考えています。この寄進状からは「山地一所」とあり、bのうちで樺河以西の山林が信高により寄進されたことが分かります。もう一人の寄進者である土佐殿は、正平15年(1360)に「桑村本郡内得恒名山野地等」を寄進した人物です。bの樺河以東の部分を寄進した人物のようです。
cについては、北限が吉岡河原、南限が得恒とあります。古岡川(大明神川)以南で、得恒名以北の山林を指すようです。これを寄進した五人のメンバーを見ておきます
①筆頭の壇上殿は、biの寄進主体でもあった越智信高で、延文元年の寄進状にみえる人物
②2人めの土佐殿は、bⅱを寄進した人物ですが、寄進状が残っていないので寄進地がどこだったのかは分かりません。
③4人目の得能越後殿は、正平15年の寄進状を残した越後守通居で、その寄進地は「吉岡庄内山野地事 四至田四段」と記されていて、①の信高の寄進地と同じ四至記載です。
④最後の越智一郎左衛門が、正平16年の寄進状を残した駿河守越智行増です。その寄進状には、次のように述べています。
「観念禅寺々領 山野地事  四至 右件山野等者、為古岡庄領家之間、所本寄進当寺也」

ここからその位置は、吉岡荘領家方に属し、西限はCの西限に一致し、東限は吉岡地頭方であったことが分かります。以上のデータを地図上に落としたのが上図です。 これをみると、観念寺背後の山林が広い範囲にわたって寺領とされたことが分かります。これは以下のように2つに区分できます。
c  吉岡界分が古岡荘内(領家方・地頭方)に含まれる山野地
 a・b得恒名の山林
ここでは観念寺に寄進された山林は国衙領部分(桑村本郡得恒名)を中核にして、吉岡荘との境界を越える部分を飲み込んでいたことを押さえておきます。
次の寄進者別に分類して見て見ましょう。
そうすると、「a寺内山林分」を寄進した尊阿の存在が大きかったことが見えて来ます。続いて、b・C共通の寄進者として名前のみえる壇上殿と土佐殿です。「壇上殿=越智信高」は、AとBに連署する三五名の人々の筆頭に署判している人物です。彼の署判の上部には「盛康方壇上」とか「盛康方新居」という注記がつけられています。ここからは彼が新居盛康の流れであることがうかがえます。
以上から、1340~50年代に氏人・一族の中心的存在であったのは、信高だったと研究者は判断します。
信高は、観念寺の裏山から大明神川北岸にかけての但之上の地に居館を構えていたので「壇上殿」と呼ばれたのでしょう。土佐殿については実名は分かりません。ただ「新居殿」とも呼ばれていることから、新居氏の一員であったことは確かです。このほかの寄進者を見ておきましょう。
①越智行益はA・Bに連署して、署判部分には「越智」という注記があります。ここからは、彼が観念寺からは遠く離れた越智郡に居館をもつ人物だったことが推測できます。
②得能通居については、その姓から観念寺のすぐ南に位置する桑村郡の得能保を本拠地としていたことがうかがえます。得能氏は、河野氏の有力庶家として知られる一族で、中世初頭に新居盛信の女子と河野通信の間に生まれた通俊を始祖としています。得能通居も、河野氏に共通する「通」の字を含む名乗りであることからみて、その流れをくむ人物だったとしておきます。
以上のような人々の寄進によって形成され観念寺の寺領山林は、中世末期まで維持されます。明応7年(1498)の河野道基壁書と元亀3年(1571)の河野牛福禁制で、先規之旨に任せて寺家が進退すべきことが定められています。
続いて寺領の田畑を見ていくことにします。

観念寺寺領寄進一覧表
①山林の記載につづいて、寄進・買得により集積された寺領田畠が書き上げられています。それが上図の②~⑩の部分で、総計122筆、面積は34町2段150歩にのぼります。そのほとんどが1~3段程度の小さな田畑で、広範囲に散らばっていたことが分かります。このうちで寺領の中核となっているのは、②③の部分(桑村本郡内の得恒名の田畠)です。
もともと、新居氏は新居郡新居郷を本拠地として台頭した開発領主でした。
それが承久の乱で河野氏に従って法皇側について負け組となっていまい、新居郡の多くの所領を失います。その対応として、新居郡から桑村本郡へ本拠地を移して勢力回復を目指したことは前回お話ししました。そのため観念寺が創建されたときも、桑村本部内の得恒名田畠を中心に寺領寄進がなされています。尊阿・円心・弥阿をはじめ新居氏の一族が得恒名の寄進者として登場します。ここからも得恒名が彼ら基盤であったことが裏付けられます。
 得恒名田畠地は、桑村本郡だけでなく⑦古田郷・③池田郷・⑩拝志郷などにも分布しています。
得恒名は越智郡から新居郡まで東予一帯に広く分布していて、新居氏の「先祖開発重代相伝之地」として「関東六波羅殿大番以下諸公事等」を勤仕する対象地でした。新居氏が「諸郷散在得恒名」を本領としていたので、その寄進地も桑村本郡を中心に北は拝志郷から南は古川郷・池田郷まで、広い範囲に分布していることをここでは押さえておきます。

④は窪久経・義清・善阿など窪(久保)一族による寄進田畑です。
窪氏の寄進地も桑村本郡に多いようです。しかし、安永名・守貞名・定則名などは、新居氏にはない名田畠の寄進です。観念寺にはこれに対応す久米義清寄進状が残されていて、そこからは久米姓をもつ近隣領主で、観念寺から南東約2㎞地点に「久保」という小字が残っています。近隣には久米氏による寄進田畑が多くあるので「万田里」があることと併せて、この辺りを本拠地とする一族であったと研究者は推測します。
⑤の北条郷内の田地は、寄進地は一筆だけです。残りの五筆はすべて三島地の買得分です。文和2年(1353)の越智通成清却状には、ここは「三島出作田」とされていて、本名主方へ年貢納入義務が付随しています。
以上から、観念寺領を研究者は以下の二つに大別します。
① 桑村本部の得恒名田畠を中核として、桑村本部の恒光名・恒正名田畠、田・池田・拝志郷などに散らばる得恒名田畠、
②それ以外の部分
こうしてみると、観念寺が寄進や売買によって獲得した田畠は、大部分が国衙領です。桑村本郡の近隣には、安楽寿院領吉岡荘・鴨御祖大神宮領吉岡荘・祇園感神院領古田郷などの荘園がありました。しかし、こうした荘園耕地は観念寺の寺領にはなっていません。ここからも新居氏が平安末期から勢力を伸ばしてきた開発領主・在庁官人であったことが裏付けられるようです。

寺領注文が作成された康安2年(1362)の時点では、古岡荘との境界部分で山林や一部の耕地が寄進されたのみです。それ以上の荘園耕地の寺領化は確認できません。それが約40年後の応永13年(1406)の「吉岡庄有光名内田高地」の寄進の前後から荘園耕地の寺領化が進んだようです。南北朝期までは、大部分か国領部分の集積であったことをここでは押さえておきます。

康安2年(1362)の寺領注文からは、40名の人々が観念寺に下地を寄進したことが分かります。
このうち創建・再興に中心的役割を果たした盛氏・尊阿・円心・弥阿による寄進所領が、全体の約30%(10町7段)を占めます。彼らの寄進分は寺領注文の冒頭部に、まとめて書上げられています。ここからも彼らが大檀那として特別に位置づけられていたことが裏付けられます。
 また一方で、この時期になると多数の人々が寄進を行うようになっています。
①このうち寄進面積が大きいのは、窪(久米)義清・兼信・盛高・周庵主・盛家・盛・盛藤・俊兼です。
②特徴的な点としては、盛通・信秀・盛直・詮康が四人の連名で三所(九段)の田畑を寄進していること、
③印侍者諷経田とされた寺領が5カ所(1町7段)あること

しかし、5町前後の大口寄進を行なった尊阿や円心に匹敵するほどの者は現れていません。ここでは、最初に有力者が大口の寄進をして、それに続いて一族が寄進を行うようになったことを押さえておきます。
この寺領注文は中興開山住持・鉄牛継印の手で書き上げられたものです。
この文書から半年後に発給された河野通遠安堵状では、「寺領等事任注文旨」せて安堵するとされています。安堵状の主の通遠は、伊予国守護河野通盛の子息です。ここからこの寺領注文は河野氏からの安堵をうける目的で鉄牛が作成・提出したものと研究者は推察します。
 寺領田畠も、寺領山林の場合と同じ様に、河野氏からの保証をうけながら維持されていきます。
 観念寺文書には、末寺の寄進が一例あります。
応永14(1407)年に、比丘元雲が古田の道興寺と寺領田畠を寄進したものです。道興寺は観念寺の末寺とされたのです。新居氏の氏寺から出発した観念寺が、近隣の在地寺院を本末関係に組み込んでいく始まりです。こうして観念寺は新居氏の氏寺としての性格と、地域社会の宗教的拠点としての性格を併せ持つようになっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

清文堂出版:中世の地域権力と西国社会〈川岡 勉著〉
参考文献
「川岡 勉   南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会(2006年)」

前回は承久の乱後に、新居氏が拠点を新居郡から桑村郡に移し、勢力回復を図ったこと。その際に、観念寺が氏寺として、一族の団結機能を果たすようになったことを見てきました。今回は、新居氏についの「研究史」を見ていくことにします。
  平安後期の新居氏の根本史料となるのが『与州新居系図』です。
系図というのは、家柄を誇示するための虚構や仮託が多く、歴史の史料としては、信頼が置けないものが多いとされます。しかし、この系図は、成立事情や成立時期がはっきりしていて歴史的価値のきわめて高いと研究者は評します。作者は、越智郡高橋郷に生まれ、鎌倉時代に東大寺の高僧となった凝然です。彼が故郷の伊予に帰った際に、自分の一族の系譜を諸種の資料にもとづいてまとめたものといわれ、正応年間(1288~92)ころの成立とされています。その成立年代の古さから『海部氏系図』・『和気(円珍)系図』と並んで日本三大系図とされるようです。紙背の消息の筆跡についても、その芸術的価値が高いと評価されています。昭和7(1932)年に伊曽乃神社に奉納。昭和27(1952)年3月29日重要文化財に指定。

予州新居氏系図.JPG2
予州新居氏系図(西条市伊曽乃神社)
 今は、西条市伊曽乃神社が所蔵し、重要文化財にも指定されていて、宝物館にレプリカが展示されています。凝然が系図を書いたのは、凝然自身が新居一族の小千氏(小市国造とは別)の流れだったからだったようです。
予州新居氏系図.JPG4

            凝然が属する新居一族の小千氏部分

越智郡高橋郷の出身だからか、隣接する別宮(べっく)氏の系図も併せて詳細に記されています。しかし、河野氏の系図は書かれていません。

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         予州新居氏系図冒頭部 
『新居系図』の人名のうちから、その本拠が分かる者について、その姓のみをひろって図示したものです。(愛媛県史)
新居氏系図
                予州新居氏系図
①右上部分 家祖とされている為世に経世・宗忠・為永・季成の四子があり、第四子の季成流が一族発展の中心となる。
②四男季成には国成・頼成・為成・吉成の四子があり、そのうち吉成流のみは大きく発展することはなかったが、
③残りの三流は、それぞれ伊予国内の各地に所領を拡大し、武士団を成立させていった
④真ん中最上部の国成流は、初期には越智を名乗る者が何人かあり、ついで高市を名乗る者が多くなる。
⑤ここからは、越智郡内の高市郷(今治市)を拠点として発展していったことがうかがえる。
⑥後になると、高市氏のなかから近江・御谷・吾河を名乗る者や、石井・井門・浅生を名乗る者が出てくる
⑦ここからは高市氏の中に伊予郡や浮穴郡へ進出していった者がいたことがうかがえる。
⑧頼成流は、大部分の者が越智を名乗っていて、他地域への進出がほとんどみられず、越智郡内での支配強化をめざした。
⑨最も大きな発展をとげたのが為成流で、新居氏を名乗って新居郡に本拠にした。
⑩新居郡から、周布・桑村・吉田等周敷・桑村両郡(現在の周桑郡・東予市)に進出していった者、拝志・高橋・英多等越智・野間両郡へ進出していった者のふたつの流れがある
このような様子を地図の上に図示したのが下図です。

新居氏勢力分布図


伊予新居氏分布図3

以上を整理しておくと
①新居氏は、平安末から鎌倉初期にかけて、越智郡を中心にして、西は浮穴郡から伊予郡、東は周敷・桑村両郡から新居郡にまで支配を拡大していった
②同時に、新居氏は国衙在庁への進出も精力的に行った。

続いて、新居氏についての今までの研究史を押さえておきます。

A 田中稔氏は、河野氏を中心とした伊予国の御家人を分析し次のように述べています。
①平安時代末期の伊予国では新居氏が越智郡以東に勢力範囲を持っていた
②これは風早郡以西に勢力を持つ河野氏と対立関係にあった。
B  これを発展させた山内譲氏は、次のように述べます。
①新居氏や別宮氏は、越智氏の伝統的な勢力を背景として成長してきた新興武士団である。
②系図の分析から新居氏の勢力範囲は越智郡以東と道後平野南部である。
③これは越智郡から伊予郡を勢力範囲とする河野氏と対峙する関係にあり、有力在庁として競合しただけでなく、在地支配をめぐっても競合関係にあった
④系図中の国流(高市氏)の盛義に「清盛烏帽子子」とあることなどから、平氏と新居氏は提携関係にあった。
⑤治承寿永の内乱に際し、河野氏は自らの勢力伸張のため、新居氏とその背後の平氏打倒を目指して挙兵した
C これに対して久葉は、次のように述べます。
①「新居系図」で新居氏の祖とされる国成流 (高市氏)は中央への積極的な進出が見られ、平氏と密接なつながりを持っていた
②一方、為成流(新居氏)は、中央への進出があまり見られない。
③惣領盛信の女が河野通信の室となっている為成流を分けてとらえるべきだ。
④平氏方として河野氏と対立関係にあったのは国成流であり、為成流はむしろ河野氏と同盟関係にあっえます。
⑤新居郡新居郷を本拠としたとみられる新居氏の居館を現在の新居浜市久保田町付近に比定
⑥新居氏が鎌倉時代に「先祖開発重代相伝之地」と主張する「諸郷散在得恒名」の分布と新居系図からうかがわれる為成流の分布が重なることから、得恒名が為成流の根本所領であった

D 川岡勉氏は、次のように述べています。
①10世紀前後に国衙内への組織化が進んだ郡司豪族層の越智氏は、本宗家が次第に在地から遊離していった
②その一方で、「新居系図」によると一族庶流は本拠とする郷名を名字化し、積極的に郷を基盤とする方向に向かった
③国成流(高市氏)・頼成流((小千氏)・為成流(新居氏)の嫡流が代々大夫を称すること
④一族分化の激しい為成流の庶流の中心となる者が大夫を称し、「兄部」に任じられていること
⑤ここから彼らは国街の各「所」の兄部として国務を担うようになったこと
⑥新居氏全体が平氏の家人化したとする山内氏の説、国成流(高市氏)は平氏の家人化したが、為成流(新居氏)は河野氏と行動を共にしたとする久葉の説に対し、為成流も、嫡流盛信の「盛」が清盛の偏諱を受けた可能性があること、治承寿永の内乱後に兄部を称する者がいなくなることからして、基本的には平氏の側に立ったとする見方を示した。

「新居系図」以降の新居氏について
勢力を伸ばした為成流新居氏も、承久の乱に際しては河野氏とともに京方として戦います。その結果、多くの所領を失ったようです。南北朝期に確認できる為成流新居氏の所領は、周敷・桑村・越智の三郡に限られるようになります。そのため本拠としていた新居郡新居郷を失って桑村郡に移り、観念寺を一族の氏寺として、ここを中心に勢力の維持・再建を図ったと研究者は考えています。
「新居系図」以降、鎌倉時代末期から室町時代にかけての為成流新居氏の動向は、観念寺に残された古文書からうかがうことができます。南北朝期、国府を有する越智郡は南朝方の勢力が強く、 東部の宇摩・新居両郡は阿讃に勢力を持つ足利一門の細川氏の影響力が強くなります。この結果、新居氏の勢力の中心であった桑村周辺には、東西からの勢力の圧迫を受けて次第に衰退していきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 愛媛県史



丸亀市飯山町の法勲寺は、古代綾氏の氏寺と伝えられます。綾氏が中世に武士団化すると、その氏寺となるのが法勲寺の跡を継いだ島田寺です。島田寺は、綾氏の流れを汲む讃岐藤原氏の氏寺とされます。しかし、中世武士団の氏寺というのがどのように生まれてくるのかが私には、よく分かりません。具体的なイメージがつかめないのです。そのような中でで出会ったのが「川岡勉  南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006年」です。ここには伊予新居氏と、その氏寺である観念寺がどのように姿を現したのが描かれています。今回は、これを見ていくことにします。

観念寺 新居氏2 
新居氏の氏寺・観念寺(西条市壬生川)
西条市の観念寺は、中世伊予の代表的な武士団である新居氏の氏寺として知られます。
  この寺は、新居一族によって建立されたといわれ、本堂、山門、石垣、宝筺印塔などが市指定文化財となっています。特に“呑海楼”といわれる重層の入母屋造りの山門は、竜宮門のような風格があり、「観念寺の門を見ずして結構言うな」と言われるほどの名建築とされるようです。

観念寺 新居氏3 
観念寺
研究者が注目するのは102通の古文書(県指定文化財)です。これは寺院所蔵の中世文書としては伊予では最も多い数になります。その内容は寺領の寄進状が大部分で、時代的には南北朝期に集中しています。
この寺を創建した新居氏は、古代の越智郡の郡司越智氏の系譜を引く一族とされます。

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予州新居系図

予州新居系図

『与州新居系図』には、笛為成の子息成俊について「新居大夫 兄部」と記されいます。平安末期に新居郡新居郷を中心に台頭してきた開発領主で、伊予国衙では有力な在庁官人でもあったようです。

新居氏系図
                   予州新居系図


 もともと新居氏の本拠地は、新居郡でした。しかし、承久3年(1221)の承久の乱では、新居氏は河野氏に従って平家側について負け組になってしまいます。このときに河野氏は、多くの所領を没収されますが、新居氏も東予一帯の所領をかなり失ったようです。こうした中で、それまでの新居郡から桑村郡に本拠地を移し一族の再興を計ろうとします。その一族の氏寺として建立されたのが観念寺です。その動きを観念寺に残された文書で見ていくことにします。

新居氏勢力分布図
新居氏の勢力分布図
「縁起」には、延応2年(1240)、新居盛氏が親父玉氏13回忌にあたり当寺を創建したと伝えます。観念寺の最も古い古文書は元応2年(1321)の状で、創建時期について触れた史料はありません。しかし、研究者は後年に作成されたA~Eの史料を手がかりにして、創建年代を次のように割り出します。
A.康永3(1344)年9月9日          越智信高以下35名連署寄進
B.康永3(1344)年11月5日          越智兼信以下3名連署置文
C.貞和3(1347)年9月9H          越智信高以ド35名連署師壇文
D.貞和4(1348)年12月15日        鉄牛継印置文
E.康安2(1362)年4月8日 観念寺々領注文
Aには「夫本寺者、新居大夫盛氏建立之氏寺也」と記され、Cには「当寺則是新居大夫盛氏文永年中初建立之寺也」とあります。盛氏が創建したという点は「縁起」と同じです。しかし、その年代には30年前後のズレがあります。史料的価値から、文永年中(1264~75)説を研究者はとります。
 尊阿の寄進状自体はありませんが、Cには次のように引用されています。

盛氏後家尊阿正応五年二月晦日当寺寄進状云、右寄進願者、故散位越智宿祢盛氏、依為御興行之寺、為奉訪彼後菩提、所令興行不断念仏三味者也、然者氏人時衆相共致忠勤之思、至千未来際、無退転可令勤行者也、若背此旨、珈於寺内山林并田畠等、寄事於左右、於致違乱煩之不信之輩者、氏人相共同心合力、可令停止彼悪行者也云々、

意訳変換しておくと

盛氏の後家である尊阿による正応五年二月晦日の当寺への寄進状には次のように記されている。この寄進発願者は、故越智宿祢盛氏であり、この寺の設立者でもある。よってこの寺を菩提寺として、不断念仏三味行うものとする。一族・氏人は時衆を信仰し忠勤し、未来来迎まで退転することなく勤行するべし。もし、これに背いて寺内の山林や田畠などを侵そうとする不信の輩がいれば、氏人・一族が心を一つにして共同で、悪行者を排除すべし。

ここからは、次のようなことが分かります。
①観念寺が盛氏の「御興行之寺」で、念仏三昧の時衆の寺として創建されたこと
②つまり盛氏生前から寺院としての体裁をある程度供えていたこと
③しかし、寺領は三段の仏供田だけで「盛氏の個人的寺院」という性格が強かったこと
④これに対して、妻の尊阿が、盛氏亡き後に多大の所領を寄進したこと
⑤当時の観念寺は時衆で、一族も時衆の信徒であったこと
⑥観念寺が氏寺として一族の団結の場となることへの期待があったこと

④について、正応5(1292)年3月に、後家の尊阿は観念寺に山林と田畑の追加寄進を行っています。その目的は、夫盛氏の菩提を訪うために不断念仏三味を興行することにあります。 Aにも「尊阿勺本訪彼後菩提、雖被興行不断念仏道場」と記されています。ここでは不断念仏道場(時宗道場)の興行で、氏人・時衆による勤行が申し伝えられていいます。これが、氏寺成立のスタートになると研究者は考えています。
 後年に、一族は「任尊阿遺属之旨、為奉訪累祖代々尊霊」として師檀契約を結んでいます。こうして観念寺は、「尊阿遺属之旨」として氏寺の性格を帯びるようになります。とはいえ、尊阿寄進の時点では、あくまで盛氏の菩提を訪うことが目的で、一族を結集させる力はなかったようです。そのためこの後に堂舎は維持されず、法会は行われなくなり、観念寺は次第に退転していきます。
復興の手が加えられるようになるのは、尊阿寄進から40年あまりを経た元弘年中(1321~24)のことです。Aに次のように記されています。

「新居弥三郎盛康之族後家弥阿同息男盛清等、且為奉祈 天長地久之御願、ユ為本訪先祖代々之菩提、専改禅院為氏寺、重寄進田畠等所奉寄附鉄牛和尚也」

意訳変換しておくと
「新居弥三郎盛康の一族である後家弥阿と息子の盛清などが、観念時を再興し天長地久の祈願所とと先祖代々の菩提として禅院に改宗し氏寺として、田畠を鉄牛和尚に寄進した」

ここからは次のようなことが分かります。
①大檀那として観念寺再興を発願したのが新居盛康の後家弥阿と子息盛清であったこと
②麻康の死後、後家弥阿と子息盛清は、この寺を時宗から禅宗に改宗したこと
③そして、臨済宗聖一派の鉄牛継印に田畠の寄附を行ったこと

①の新居盛康の後家弥阿と子息盛清が康盛氏や尊阿と、どのようにつながる人物であるかはよく分かりませんが、鎌倉末期の新居氏の家督相続者であることは間違いないようです。③の鉄牛は、新居氏の発願を受けて、このあと長期間にわたって当寺の再興に励みます。
 観念寺には、この頃の寄進状が数多く残されています。その中でとくに重要なのが、延元2年(1337)12月の沙弥円心寄進状だと研究者は指摘します。ここで円心は、「当寺者円心之先祖建立氏寺也」とします。その上で、まとめて8ケ所(合計面積は三町三段)の田畠の寄進を行なっています。これらは、観念寺燈油田や僧食のほかに、祖父定阿と父親の智阿の追善供養にあてることとされています。
 またこの時に作成された目録には次のように記されています。

伊予国御家人新居三郎五郎入道円心相伝知行分諸郷散在得恒名并各別相伝田畠等内観念寺寄進」

得恒名田出については
「為沙弥円心先祖開発重代相伝之地、関東六波羅殿大番以下諸公事等令勤仕」

このとき、円心は重い病を患っていたようです。そのため観念寺への寄進と同時に、五名の甥や養女・養子に対して所領の配分を申しわたしています。そして円心はまもなく死去したことが、翌年に作成された次の寄進状から分かります。

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建武5年6月2日 ミあミたふ寄進状 (愛媛県史638)
    この寄進状は、前年に円心房の手で寄進された下地が不足していたため、円心の遺言をうけた「ミあミたふ」という女性が、重ねて観念寺に寄進を行なったものです。彼女は新居盛康の後家と記されています。ここからは、「ミあミたふ」は大檀那弥阿その人と研究者は判断します。
 Eの「観念寺々領注文」の冒頭部、得恒名田畠の寄進を書き上げた所には、根本檀那麻氏寄進田、尊阿寄進田畠につづいて、円心寄進田畑六筆、弥阿寄進田畑三筆が列挙されています。しかも、得恒名以外の田畑を加えると、円心の寄進は計十筆(四町八段)、弥阿の寄進は計五筆(六段)となります。これは両者で寺領全体の15%強を占めます。盛氏・尊阿・円心・弥阿の寄進田畠を合計すれば、寺領の約30%になります。当寺の再興にあたつて、円心と弥阿の果たした役割が大きなものであつたことが分かります。
それでは「円心房」とは誰なのでしょうか?
これについては、次のふたつに説があるようです。
①「円心坊=新居盛康」説をとる岩本裕氏
②「円心坊=子息盛清」説をとる店本裕志氏
これに対して最近の研究成果から新居氏の氏寺の開創・再興にあたって、後家の果たした役割を重視する見解が示されています。近年の研究では、中世前期の後家の力の大きさが注目されるようになっています。後家の多くは再婚することなく、亡夫の菩提をともらいました。そして、後家は次の家長となる予定の子息を補佐し、時には自分が家長代行として、家の継承をはかろうとします。北条政子がひとつの姿です。
 その一方で、所領の管領権限は家督継承者の盛清の手にあったはずです。寺の経済的基盤を支えていく上では、盛清が決定権を握っていたと研究者は考えています。そう考えると「御家人」と自称して数多くの所領寄進を行なった円心房は、盛清と同一人物と研究者は考えています。子息盛清(円心)とともに観念寺再興を発願し、夫盛康に先立たれて以後も彼の遺吾を踏まえて当寺への寄進をつづけたとしておきます。

観念寺4
観念寺
観念寺の禅宗への改宗と、鉄牛継印の活動について
観念寺はもともとは、時宗道場として設立されたことは先ほど見たとおりです。円心の祖父定阿、親父智阿、母弥阿などは、時宗に多い阿号を称しています。ところが、元弘年中の再興を機会に、時宗から禅宗(臨済宗)への改宗が行われています。そして、鉄牛継印に田畠の寄進が行なわれます。鉄牛は、東福寺を開いた円爾(聖一国師)派に属した禅僧です。彼は、弥阿・盛清から田畑の寄進をうけて、観念寺の中興開山住持として活発な活動を展開します。具体的には、「十方檀那」に働きかけて数多くの寄進・買得田畑を獲得し、新仏殿・僧堂・庫司・方丈・衆寮・山門・惣門など次々に造営していきます。こうした活動は、氏人・一族の支持を集めるようになり、やがて康永・貞和年間にA~C寄進状・置文・師檀契約状の作成に結びついていきます。Cに連署した35名の氏人・一族は、先祖代々の霊魂をともらうために各々三段の田畑を寄進し、毎月先亡之忌日に読経・斎僧の孝養を行う事を申し合わせています。そして次のように記されています。
「当寺繁晶是氏入繁昌、当寺衰微是氏人衰微也」
意訳変換しておくと
「当寺(観念寺)の繁栄は、新居氏一族の繁栄であり、当寺の衰微は新居氏の衰微である」

こうして観念寺と新居氏一族は一体のものとされていきます。Eの寺領注文には、多数の散在所領が書き上げられています。それまでの寺領の中核は、今まで見てきたように尊阿・円心(盛清)・弥阿からの寄進所領でした。それに加えて数多くの氏人・一族も寄進行為を行うようになったことが分かります。鉄牛は、Dの置文の中で、次のように述べています。

(当寺は)「大檀那氏人并一族等永任寄付契約之旨、可被致護持者也」

弥阿と盛清が大檀那として再興を発願して十年あまりで、観念寺は大檀那だけでなく多くの氏人・一族を巻き込むほどに信仰者の範囲を拡大させ、共通の精神的紐帯として位置づけられるようになったのです。また信仰内容も、「居盛盛氏の菩提を訪う段階から、氏人・一族の先祖代々の霊を訪うという方向へ拡大しています。こうして正応年間に尊阿によって氏寺化された観念寺は、元弘年間の弥阿・盛清の発願を経て、康永・貞和年間に名実とも・氏寺としてのあり方を黎備・確立させたと研究者は判断します。それだけの手腕を鉄牛は持っていたというこでしょう。

これと同じような動きが丸亀平野の飯野山の南麓の法勲寺周辺で起こっていたのではないかと私は考えています。
その動きを挙げておくと次のようになります。
①古代綾氏の大束川沿いの開発と古代寺院法勲寺の建立
②中世綾氏の国衙の在庁官人への転進と武士集団化
③綾氏から讃岐藤原氏への脱皮と、法勲寺再興(=島田寺へ移行)と氏寺化
④讃岐藤原氏一族(羽床・香西・滝宮氏など)の源平合戦での源氏支援と御家人化
⑤島田寺が讃岐藤原氏の氏寺化と団結の拠点へ
⑥島田寺住職による讃岐藤原氏の系図と、その文頭を飾る神櫛王の悪魚退治伝説の創作
⑦讃岐藤原氏の分裂抗争
しかし、法勲寺や島田寺には綾氏の氏寺であったことを示す文書はありません。そういう意味では、三豊市三野町の本門寺と秋山氏の関係の方が比較ができそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 川岡 勉   南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006年
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EXPOメッセ WASSE (西口ゲート近く)
大阪・関西万博の「EXPOメッセ WASSE」で香川県のブースが4月30日から5月3日まで置かれました。
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香川県ブース「せとのかけはし号」 ⑤の後部がステージ
「せとのかけはし号」という船の形をした会場内では、香川県の市町村が、伝統工芸や文化などの魅力を発信しています。その最終日に、綾子踊が、まんのう町を代表して出演することになりました。その参加報告をアップしておきます。日程は次の通り二泊三日でした。
 5月2日(金)
  19:00 佐文公民館出発
22:30 ホテル到着予定(淡路SA以後はノンストップ)
 5月3日(土) 
    8:30~ 着付け(ホテル内の会場)
11:00 ホテル出発
13:30 EXPOメッセにて公演(30分)
15:00 万博会場出発
16:00  夕食(ホテル内)
 5月4日(日)
 8:30 ホテル発 会場到着後は自由行動 
11:30   パソナ館 
  15:30    万博会場出発
  20:00  佐文帰着
 参加者39名     
今回の万博参加は、お呼ばれしたのではなく、どちらかというと「押しかけていった」といえる参加形態でした。そのためいろいろな「課題障害」に出会うことになりました。例えば、県外にお呼ばれして踊る場合は、立派なホールや会館が会場で、バスをすぐ近くまで寄せて、荷物の積み下ろしができます。また、着替え場所や控え室も確保されています。つまり、「演技者」としてリスペクトされて、それなりの待遇で遇していただけることが多いのです。しかし、万博はそうはいきません。道ばたや広場で踊るる「大道芸人」と立場は同じです。着替え場所も控え室もありません。

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ホテルで着替え中の小踊り
そこでホテルから着物に着替えて、小道具・大道具を持ってのバス移動となりました。しかも着替え終わって踊り始めるのは、約5時間後です。帯に締め付けられた小踊りの子ども達は、それだけで苦しそうです。
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観光バス駐車場から西ゲート入口までは、徒歩20分
 さらに貸切バス駐車場から西口ゲートまでの移動距離の長さに苦しめられます。観光バスの駐車場は、シャトルバスの駐車場の外側に配置されているので、駐車場をぐるりと廻って行かなければなりません。

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花笠を持って西側ゲートまで駐車場より移動開始
時間にして20分、1㎞は歩かなければなりませんでした。控え室がないのでないので荷物を少なくしたいので、草鞋ばきの人もいて、指の間に縄目が食い込んで痛そうです。

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西側ゲート万国旗の前を草履履きで会場目指してもくもくとあるく会長
踊り終わって還る時には、脚を引きずるような人もでてきました。高齢者の出演者に今回の思い出を聞くと「バスとEXPOメッセとの間の歩いての移動」という声が返ってきました。大きな組織やイベントは現場の判断での「融通」などを働かすことが出来ないので、現場ではいろいろな小さな問題が起こります。「出演者にやさしくない万博」と愚痴り会いながらスタッフ専用ゲートを目指します。
 到着して会場を下見します。この日も試食コーナーでは讃岐うどんの試食コーナーが開かれていて、多くの人で香川県ブースは賑わっていました。その後ろのコーナがステージとなります。教室の半分もない広さであることを確認して、立ち位置などを決めていきます。

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香川県ブース平面図


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渋滞を危惧して早く出発していましたが、それもなかったので1時間以上の待機時間です。着物に草履では、会場散策も出来ないのでリングの下のベンチで待ちます。

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出番前の待ち時間にも笑顔が溢れます

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芸司の大団扇 今回は会場が狭くて思う存分に振れなかったと残念がっていました。
13:30 隊列を組んで、露払いを先頭にしての入庭(いりは)です。ステージで隊列を整えます。

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最初に保存会長が口上(由来)を読み上げます。そして、大きな団扇をもった芸司のかけ声と共に地唄が歌われ、踊りが始まります。バックの壁には佐文の賀茂神社の光景が映し出されます。温かい演出に感謝。狭い会場ですが多くの人が見守っていただきました。まんのう町長や議長も応援に駆けつけてくれました。

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 中世の風流踊りには鳴り物として三味線がありません。笛や太鼓・鉦だけの単調な響きで、踊りのうごきも華やかさや雅さはありません。しかし、これがもともとの風流踊りの原型だと研究者は指摘します。この単調さの中に中世の響きがあると私は考えています。

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後ろのスクリーンには、佐文の賀茂神社が映し出されていました。

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踊りが終わるとインタヴューを受けて、そのでステージで記念写真を撮りました。そのあとは、再び歩いてバス駐車場を目指します。

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バスへの帰路
帰り道に、警備員や誘導員の方々が「お疲れ様でした」と声をかけてくれました。それがなぜか心に沁みました。結局、この日は万博見物はできませんでした。
 それでは可愛そうだというので、翌日に見学日を一日とっていただけました。しかし、連休後半の初日で予約がとれたのはパソナ館のみ。あとは、前日とは大違いで長蛇の行列でした。私はリングの上をゆっくると一周してみました。上から眺める景色は最高です。西には六甲の山脈と、その麓の神戸の街並みが見えます。南には明石海峡から伸びる淡路島。南には大阪湾が大きく開けます。東には金毘羅船なども目印とした天保山が見えます。この海が古代以来果たしてきた役割が、頭の中で走馬灯のように走り抜けて行きます。この日は五月晴れですが、海風が強く波頭が白く見え「兎跳ぶ海」の風情で、リング上を歩いていると肌寒く感じるほどでした。
 リングの内側は、各パビリオンでひしめき合っています。1970年の時のパビリオンと比べると個性がないように思えます。あの時代は「大きいことはいいことだ」という言葉に象徴されるように、「より高く、より早く、より遠く」にがパビリオンにも求められていたようで、資金の惜しまず高く大きな異彩の建物が林立していました。しかし、今回はリングが中世都市の城壁で、その内側の建物はリングよりも高いものはありません。高さ制限があるような感じです。形も資金節減が前面に出て枠組みをハリボテで囲んだようなものが多く、個性的なものも少ないように私には思えます。有名な建設家が競いあうという雰囲気はないように見えます。それでも私にとってはリングからながめるだけでも充分面白い物でした。2㎞というリングの上を90分ほどかけて歩くと、私はエネルギー切れです。並んで見学しようとする意欲は湧いてきません。私と同じ世代の出演者たちもも同じで、2時間前には集合場所に返ってきて、バスの駐車場へ向かいました。冷房の効いたバスで待つ方が楽のようです。集合場所でみんなが帰って来るのを待ちながら「マンウオッチング」をしていました。確かに、高齢者の姿は少ないようです。観光バスで団体で移動することの多い老人会とかは、移動のことを考えると躊躇すると思います。高齢者にはやさしくない会場なのかも知れません。  
 いろいろと書いてきましたが、万博で踊らせていただく機会を頂いたことに感謝します。ありがとうございました。
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次の公演予定は11月の文化の日に、サンポート小ホールです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
なお使用写真は参加者から提供していただいたものです。

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中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」で綾子踊りと尾﨑清甫を紹介したもの
https://www.youtube.com/watch?v=2jnnJV3pfE0

大堀居館と木ノ崎新池の流路
まんのう町吉野上 木ノ崎から大堀居館へのかつての土器川の流路跡(まんのう町HP
 以前にまんのう町の吉野の中世居館跡とされる大堀遺跡を紹介しました。この居館の外堀には出水があり、そこから下流に供給される灌漑用水が、この居館の主人の地域支配の根源だったのではないかという説をお話ししました。その際に、水源は出水だけでなく上流からの流れ込みもあるような感じがしました。そこで確認のためにいつものように原付バイクで、フィールドワークに行ってきました。
 丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地です。阿讃の山々の谷間を縫うように流れ下った土器川が、まんのう町吉野の木崎(きのさき)で丸亀平野に解き放たれます。そのため吉野は、洪水時には土器川と金倉川の遊水池化し葦(吉)野と呼ばれていたことは以前にお話ししました。それは吉野が古代の条里制施行エリア外になっていることからもうかがえます。
 中世になると吉野には大堀居館跡が現れます。

中世居館と井堰型水源

大堀の居館の主人が居館外堀に水を引き込む用水路を整備し、その下流域の灌漑権を握っていたという説を以前にお話ししました。湿地帯だった吉野開発は、この時期に始まったと私は考えています。さらに秀吉の命で近世領主としてやってきた生駒氏は、新田開発を推奨します。その結果、土器川や金倉川の湿地帶や氾濫原で今まで耕地化されていなかった荒地の新田開発が急速に進められます。それは水不足を招きます。そのため溜池の築造や灌漑用水路の整備も進められます。新田開発と溜池築造は、セットになっていることを押さえておきます。西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、灌漑用水網の整備が行われたはずです。

 まんのう町吉野
吉野は土器川扇状地で地下水脈が何本も流れている(国土地理院の土地利用図)
この地図からは次のような事が読み取れます。
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。
②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。
③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
③の流路が最初に示した地図上の青斜線ルートになります。このあたりは大規模な農地改善事業(耕地整理)が行われていないので、ルート沿いは凹地がはっきりと見られかつて流路跡がたどれます。流路跡沿いに原付バイクを走らせていると、吉野のセレモニー会館当たりで一直線に続く石組み跡に出会いました。水田沿いに並ぶので、田んぼの石垣かと思いました。しかし、どうもその機能を果たしていません。これはいったいなんだろうかと、私の抱える謎のひとつになっていました。
  そんな中で図書館で出会ったのが「芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年」です。ここには、木ノ崎新池という溜池があったことが書かれています。江戸時代の溜池跡を絵図で見ていくことにします。
那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図
              「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」(奈良家文書)
この絵図は「那珂郡吉野上邑木之崎新池」と題されていて、吉岸上村(まんのう町岸上)の庄屋役を勤めた奈良家文書の中に含まれているようです。奈良家文書については、以前にお話ししましたが、当時の当主がいろいろな七箇念仏踊りなどの記録を丹念に記録しています。その中の絵図で、あたらしい池の建設予定図のようです。絵図内には新池建設予定の場所や、周辺の寺院・百姓家・山地の様子が特徴的に描かれています。大きさは縦93、5cm、横58、8cmで、細かい字で注釈が何カ所かに書き込まれています。まず絵図上部の木ノ崎から見ていくことにします。

木之崎新池絵図2
木ノ崎周辺拡大部分(那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図)
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている
②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる
③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。
④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。
⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
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新池跡付近から見た木ノ崎の須佐神社
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近づいて見た須佐神社(土器川扇状地の扇頂に鎮座する)
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南側から望むと鳥居のかなたに象頭山
木ノ崎は土器川扇状地の扇頂部にあり、谷間をくぐり抜けてきた土器川が平野に解き放たれる所でもありました。また、阿波・金毘羅街道が通過するとともに、土器川の渡川地点でもあり、ここには木戸も設けられ通行料が徴収されたいたようです。大庄屋の岩崎平蔵の屋敷もこの近くにあり、彼の顕彰碑が須佐神社の入口の岡の上にはあります。

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岩崎平蔵顕彰碑(吉野上木ノ崎須佐神社)
次に須佐神社から200mほど西に位置する新池の部分を見ていくことにします。

木ノ崎新池5

絵図からは次のような情報が読み取れます。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池
②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。
③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ため池予定地の水田には「指上地(差しあげ地)」と書き込まれています。

木之崎新池絵図3

予定地の水田には「上田壱反六畝三歩」などと、水田の等級と広さが記されています。その中に「指上地(差しあげ地)」と記されているものがあります。これが私有の田畑を藩に差し出し、その地に池を築こうとしていたものだと研究者は指摘します。  この「築造予定図」からは池は、六枚の水田を立てに並べた細長い形だったことが分かります。それは先ほど見たように、土器川の分流のひとつが開発新田化されていたからでしょう。開発されていた水田がため池に転用されることになります。そのために、旧流路に沿った形で細長くなったとしておきます。
⑤の場所には、「朱引新池西本堤」とあるので、ここにえん堤があったとことが分かります。この北側に見ることができる上留め状の場所が、かつて西の堤の痕跡と伝えられているようです。
 堤の左側には、「揺」の文字が見えます。
「揺(ゆる)」は、ため池の樋管のことで、ここから下流へ水が落とされます。「揺」付近には「朱引新池西本堤」や「朱引新池揺尻井手」と書かれていので、池の水が下流域にある水掛りの田畑へ配水されたことがうかがえます。
 堤の右側(西側)「此所台目(うてめ)」とあります。「うてめ」は増水の際に、池を護るためにオーバーフローさせる「余水吐」のことです。

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木ノ崎新池の堤とユル・うてめ

こうしてみると、私有の田畑を「指上地(差しあげ地)」として藩に上納し、新たに「木ノ崎新池」が築造されたと云えそうです。しかし、今はここには池はありません。

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          木ノ崎新池の位置(まんのう町HP 遺跡マップ)
今は、この池跡を横切る道ができて、そこにはセレモニー会館と広い駐車場があります。現在の姿を見ておきましょう。
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南泉寺から望む木ノ崎新池跡 青い屋根の倉庫が堤があった所

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堤とユルがあった所
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池の尻側からのながめ 左手遙かに象頭山

 いまは、池跡は再び水田に戻っています。田植えの準備をしていた老人は次のように話してくれました。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。

 このあたりが土器川の扇状地であることが改めて裏付けられます。
それでは、この池はいつまであったのでしょうか? こんな時に便利なのが戦前と現在の地形図が比較しながら見える「今昔マップ」です。これで日露戦争後の明治39年(1906)に作られた二万分之一測量図「琴平」を見てみます。

木之崎新池絵図4
吉野木ノ崎(明治39年 国土地理院地図)には、木ノ崎新池はない
この地図には、池はありません。山際まで水田が続いています。こうして見ると、幕末に新造された池は、明治末には姿を消したことになります。             
 研究者は、次のような現地での聞き取り調査の報告を行っています。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。
②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。
③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。
④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた
⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地で、その扇頂にあたるのが吉野木ノ崎です。そのためこのあたりは礫岩層で、水はけがよく地下に浸透してしたことは先ほど見たとおりです。ため池の立地条件としては相応しくなかったようです。水田化された後も、水不足が深刻で、背後の山にはいくつもの谷頭池が作られています。また、戦前には「線香水」がよく行われていたエリアでもあったようです。
最後に「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」が書かれた背景を見ておきましょう。
最初に述べた通り、この絵図は那珂郡岸上村の庄屋役を勤めた奈良家文書の中にあります。奈良家の歴代の当主たちは記録をよく残しています。しかし、残された記録の過半数は、一家の縁者であり江戸時代後半、吉野上村庄屋役や那珂郡大庄れた岩崎平蔵(1768~1840)によるものとされているようです。その中に寛政十年(1798)に、詳細測量を行った上で描いた「満濃池絵図」という絵図資料があります。ここには作成者として岩崎平蔵の名が自署があります。この絵図と「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」を比べて見ると、絵図内に描かれている百姓家や、周辺に描かれている円畑の描き方や、文字の筆跡が、両者はよく似ていると研究者は指摘します。つまり同一人物の手によるもので、それはは、岩崎平蔵により描かれたと研究者は判断します。

以上をまとめておきます。
①まんのう町吉野の木ノ崎は、丸亀扇状地の扇頂部に位置し、礫岩が多く水持ちが悪い
②ここに19世紀前半に木ノ崎新池が岩崎平蔵によって築造された
③しかし、水持ちが悪くてため池としての機能が果たせずに短期間で廃絶され姿を消した。
④その跡は、再び水田に戻され、近年はセレモニーホールが建てられている。
⑤地元の人達もここに池があったことを知る人は少ないが、絵図がそのことを伝えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記
木ノ崎新池については、当時の満濃池の決壊と、その復旧ができない状況への対応策だったようです。
嘉永六(1853)の満濃池修築では底樋を初めて石材化する工事が行われました。ところが翌年6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日に、満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。これに対して、多度津藩や丸亀藩が早期修復に消極的で、満濃池は明治維新になるまで決壊したまま放置されます。つまり、満濃池は幕末14年間は姿を消していました。そのため、髙松藩は周辺の池を修築拡大したり、干ばつに備える方針をとります。例えば、この時に回収されたのが善通寺市買田池です。そのような中で、吉野村の木崎に新池が築かれることになったようです。(『満濃池記』)
 つまり、木ノ崎新池は満濃池がなくなったことへの対応策として作られた新池ということになります。もともと木ノ崎新池は三角州の礫地上に作られた池で水持ちが悪かったことは先ほど見たとおりです。そのため明治維新に長谷川佐太郎によって満濃池が再築されると、その「有効性」が薄れて、もとの田んぼに返されたようです。(2025/05/31記)



参考文献
芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年
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