今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
関連記事
⓵信仰の起点を阿波国麻殖郡に拠点をもった阿波忌部の拓殖神話と関連させて理解すること②以後、大師信仰、修験道等が展開した
①「史料を読み込んで推論を丁寧に重ねて高越寺の歴史を描いており、貴重」②しかし、阿波忌部との関係、大師信仰、修験道など、霊場としての性格をとらえるという視点からは「不分明」。
③特に修験道史については、今日の研究状況からすれば疑問がある
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讚上三州、如在足下。奉造卒塔婆、千今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生,又有御手辿之額、干今相存.
阿波国の高越山寺は、①弘法大師空海が創建した寺である。空海は法華経をしたためて、この山上の峰に奉納したと伝えられる。頂上からは四方の眺望があり、伊予・讃岐・土佐の三州が足下に望める。卒塔婆を奉納したが今になっても壊れず形が残る。経を埋めた跡は草木が生えず山の額のように見える。
「天聟天皇御宇、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現 体分身、本地別体千手千限大悲観世音菩薩」、「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
「弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参詣此山」、「権現有感応、彿彿而現」
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
A「中江」と呼ばれていたことB 地蔵権現社が鎮座していたことC「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
明石の浦より船に乗つて、阿波の国に付(き)て、焼山、つるが峰を拝みて、讃岐の志度の道場、伊予の菅生に出(で)て、土佐の幡多まで拝みけり」
①文永7(1170)年 筒野八面笠塔婆②弘安6(1283)年・9年(1286)の長尾寺笠塔婆③永仁3(1295)年 新川の笠塔婆④応安5(1372)年、永和2(1376)年の西教寺六角笠塔婆⑤応永8年(1401) 下り松庵の六地蔵笠塔婆
A 多度津町高見島五輪塔B 伝横尾時陰五輪塔C 善通寺市三帝廟D 岡山県笠岡市正顔五輪塔
①地輪は低く、水輪は荘重感があり、きれいな円形にならない。②火輪は軒が厚く外側にやや傾斜する③最も特徴的なのは空風輪で、空輪と風輪が分割成形で、一石でつくられないこと④空風輪を分割成形する地域として愛媛県松山市を中心に展開する凝灰岩(伊予の白石)の五輪塔があり、その時期は鎌倉時代中期からであること。
①真反で外方にやや傾斜する火輪の軒、大きな空風輪が共通すること②火輪の軒が外方に傾斜する点は香川東部の石造物とも共通すること
A 丸亀市中津八幡神社B 多度津町光厳寺C 善通寺市三帝廟
①塔身を空洞に割り抜き、内部に石仏を安置すること。②正面には窓を穿つ例が多いこと③空洞にはしないが、塔身正而を方形に深く彫り窪め、内部に石仏を刻むこと。これは備中東部内陸部の花満岩製宝塔に事例あり。④首部は塔身と別石で組み合わす例が多いこと。これは対岸の岡山県五流尊龍院宝塔や広島県浄土寺宝塔に事例あり。こうしてみると宝塔は岡山、広島の花崗岩製宝塔との関係がありそうです。⑤相輪は伏鉢・請花と九輪から上位で分割成形されていること。この類例は他地域にはないようです。天霧石石造物は近世初頭まで分割成形の相輪が見られます。
①東塔(左)が弘安元年(1278)櫃石島産の花崗岩で作られたもので、頼朝寄進と伝来②西塔(右)が元亨4年(1324)天霧山凝灰岩製で、弥谷寺(天霧山)石工によるもの
①は笠の一部と塔身、基礎の内部を空洞にしていること②これは、五輪塔、宝塔など天霧石石造物でも見られる特徴。③内部空洞化は室町時代以降も行われていて、岡山県西大寺層塔などにも見られ、天霧石石造物に多い特徴であること④観音寺市神恵院層塔の塔身や多度津町多聞院多宝塔には扉の表現が見られる。⑤その他、層塔は塔身の銘文、四仏の種子に独自性があるが、形態には在地色はあまり見られない。
A 高松市、坂出市に所在する摩尼輪塔(白峰寺)B 善通寺市三帝廟C 白峯寺十三重塔
①天霧系石造物にはない反花式基壇が見られ、諸属性も在地品と異なる点が多い②特に五輪塔水輪は最大幅を中位にとる整った円形で、壷形、筒型の多い天霧石五輪塔とはタイプが異なる。③整った円形の水輪は、大和の特徴なので、これらも大和石造物のコピーである可能性が強い④宝掟印塔の笠からも大和との関わりが推測される⑤しかし、大和の石造物そのものではなく、五輪塔空風輪、宝塔塔身などに天霧石の独自性が見られる
①鎌倉時代中期の白峯寺と円通寺は中央と深いつながりがあった②そこには大和石工が出張製作した花崗岩製の石造物が造立された③このような香川と大和の石造物・石工の関わりを背景として、14世紀初頭になると地元の天霧石石工は大和石工の製作した石造物を模倣して畿内風の石造物を製作するようになった。
a 寺内山林分b 樺山前後山林分c 吉岡界分
「観念禅寺々領 山野地事 四至 右件山野等者、為古岡庄領家之間、所本寄進当寺也」
c 吉岡界分が古岡荘内(領家方・地頭方)に含まれる山野地a・b得恒名の山林
① 桑村本部の得恒名田畠を中核として、桑村本部の恒光名・恒正名田畠、田・池田・拝志郷などに散らばる得恒名田畠、②それ以外の部分
A.康永3(1344)年9月9日 越智信高以下35名連署寄進B.康永3(1344)年11月5日 越智兼信以下3名連署置文C.貞和3(1347)年9月9H 越智信高以ド35名連署師壇文D.貞和4(1348)年12月15日 鉄牛継印置文E.康安2(1362)年4月8日 観念寺々領注文
盛氏後家尊阿正応五年二月晦日当寺寄進状云、右寄進願者、故散位越智宿祢盛氏、依為御興行之寺、為奉訪彼後菩提、所令興行不断念仏三味者也、然者氏人時衆相共致忠勤之思、至千未来際、無退転可令勤行者也、若背此旨、珈於寺内山林并田畠等、寄事於左右、於致違乱煩之不信之輩者、氏人相共同心合力、可令停止彼悪行者也云々、
盛氏の後家である尊阿による正応五年二月晦日の当寺への寄進状には次のように記されている。この寄進発願者は、故越智宿祢盛氏であり、この寺の設立者でもある。よってこの寺を菩提寺として、不断念仏三味行うものとする。一族・氏人は時衆を信仰し忠勤し、未来来迎まで退転することなく勤行するべし。もし、これに背いて寺内の山林や田畠などを侵そうとする不信の輩がいれば、氏人・一族が心を一つにして共同で、悪行者を排除すべし。
「新居弥三郎盛康之族後家弥阿同息男盛清等、且為奉祈 天長地久之御願、ユ為本訪先祖代々之菩提、専改禅院為氏寺、重寄進田畠等所奉寄附鉄牛和尚也」
「新居弥三郎盛康の一族である後家弥阿と息子の盛清などが、観念時を再興し天長地久の祈願所とと先祖代々の菩提として禅院に改宗し氏寺として、田畠を鉄牛和尚に寄進した」
伊予国御家人新居三郎五郎入道円心相伝知行分諸郷散在得恒名并各別相伝田畠等内観念寺寄進」
「為沙弥円心先祖開発重代相伝之地、関東六波羅殿大番以下諸公事等令勤仕」
①「円心坊=新居盛康」説をとる岩本裕氏②「円心坊=子息盛清」説をとる店本裕志氏
「当寺繁晶是氏入繁昌、当寺衰微是氏人衰微也」
「当寺(観念寺)の繁栄は、新居氏一族の繁栄であり、当寺の衰微は新居氏の衰微である」
(当寺は)「大檀那氏人并一族等永任寄付契約之旨、可被致護持者也」
5月2日(金)19:00 佐文公民館出発22:30 ホテル到着予定(淡路SA以後はノンストップ)5月3日(土)8:30~ 着付け(ホテル内の会場)11:00 ホテル出発13:30 EXPOメッセにて公演(30分)15:00 万博会場出発16:00 夕食(ホテル内)5月4日(日)8:30 ホテル発 会場到着後は自由行動11:30 パソナ館15:30 万博会場出発20:00 佐文帰着
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した