瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年06月

金光院護摩札 粟島安田屋4
廻船問屋安田屋の金光院護摩札

金光院護摩札 粟島安田屋3
廻船問屋安田屋の一番古い金光院護摩札(寛政7年)
前回は、粟島の廻船問屋安田屋に残された護摩札について、つぎのようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

安田家の護摩札を「尊崇対象」で分類すると次のようになります。
不動明王 61点
普賢菩薩   1点、
地蔵大権現    1点、
日天尊   1点
般若経転読   1点、
大乃御柱・地乃御柱1点
大物主命・崇徳帝 1点
大々神楽   1点
祈祷内容で分類すると次の通りです。
海上安全 50点
船中安全  9点
渡海安全  1点
家内安全  3点
願望成就  1点
諸願成就  2点
所願成就  2点
当病平癒  3点
疱鷹如意  1点
金毘羅新造1点
海の平穏についての祈願が60点で全体の約9割を占めます。「当病平癒」や「疱蒼如意」といった変則的な析願がなけれは、この割合はもっと高いものになります。一番最後の「金毘羅新造」というのは、新造船「金比羅丸」の海上安全・船中息災延命の祈願のようです。新造船の名前も「金比羅丸」です。このあたりが廻船問屋らしいところとしておきます。

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
粟島の廻船問屋の旧家の神棚
 直島のタイ・サワラ網漁の網元であった織田家の110点の祈祷札と比較して見ましょう。
①明治7年から明治末年(1874~1912年)までのものが42件、大正期のものが17件、昭和3年のものが一件。6割以上の祈祷札については祈願年が記載なし。
②祈願内容については、豊漁に関する「漁猟潤澤」「漁業繁榮」「漁業守護」等が117点で全体の6割
③「意願固満」「如意回満」「所願園満」等の諸願成就系統が17点
④「家内安全」「家運長久」等が17点
⑤「海上安全」「船中安全」等が5点、
⑥「武運長久」等が4点
ここからは「海上安全」よりも「大漁満足」に重点を置いた祈願が行われていたことが読み取れます。
安田家が廻船問屋、織田家は網元で立場が異なります。そのため信仰対象は同じでも、祈願内容はちがっています。安田家は海上安穏、漁民は「豊漁」です。同じ海に働く者でも、商いと漁では祈りの内容が違うのが面白い所です。網元の織田家の方が自然条件や運に大きく左右されるので、祈願内容を並列したものが多いと研究者は指摘します。織田家では祈願銘が二つ並立した札もあります。また、織田家の祈祷の時期は正月ではなく、3~4月だけです。これは鯛網開始にあわせて参拝祈願が行われたためのようです。

護摩供養の作法は

それでは安田家や織田池の護摩札は、金毘羅大権現のどこで供養されていたのでしょうか?

元禄期の金毘羅伽藍図


上の元禄期の金毘羅伽藍図を見ると、本社や観音堂(本堂)附近に護摩堂は見えません。よく見ると金光院の境内の中に護摩堂はあります。幕末に書かれた讃岐国名勝図会を見てみましょう。

金光院の護摩堂・阿弥陀堂
金光院の護摩堂と阿弥陀堂
 金光院の黒門から入った所に護摩堂が描かれています。これが護摩札の供養が行われていた所になるようです。金光院の金堂(現旭社)には、金毘羅大権現の権化である丈六の薬師如来坐像が安置されていました。これは現在の善通寺の東塔の薬師像と同規模なものです。薬師如来は菩薩の時に十一の大願を発し、それが現世利益信仰の根本とされます。その権化が不動明王です。
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、次のように記されています。
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)

意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは護摩堂では、連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この不動明王は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、お堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦元年(1655)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。それが現在の宝物館の不動像になります。

不動明王3


金光院護摩堂の不動明王 (金刀比羅宮宝物館蔵)
護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されます。つまり、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。それは、初代高松藩主松平頼重による伽藍整備の一環だったと私は考えています。増える参拝客・護摩木札を求める参拝客の増大に対応して、相応しい不動明王が迎えられたとしておきます。安田家や織田家の金光院護摩札は、この不動明王に祈祷した後に授けられたものになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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護摩とは
金光院護摩札 粟島安田屋3
金毘羅大権現の金光院護摩札(三豊市詫間町粟島の廻船問屋安田屋)

粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札です。海上安全・船中安全・渡海安全の願が掛けられたものです。高さ101.8 cm、上幅196 cm、下幅162 cm、厚さ2.O cm、重量1420gです。内容を見ておきましょう。
右に 「寛政第七(1795)年 象頭山」
中央に 「不動明王を表す梵字(カーン)
その下に 「奉修不動明王護摩供二夜三日船中安全 風波泰静祈依」、
左に 「正月吉良日 金光院」
ここからは次のようなことが分かります。
①1795年の正月吉日に、象頭山金光院の護摩木札であること
②不動明王前で二夜三日の護摩祈祷の後に、授けられたこと
③「船中安全 風波泰静」が祈願されていること
トレスされたものを見ておきましょう。

金光院護摩札 粟島安田屋2

左のものは次のように墨書されています。
右側 「寛政第九年 象頭」
中央 「不動明王を表す梵字奉修不動明王護摩供二夜三日海上安全祈(欠)」
左側 「二月吉良日 金光院」
先ほどのものの2年後のものになります。内容的にはほとんど変わりありません。実はこれだけではありません。同じような木札・神札66枚が安田家には保存されていたようです。

金光院護摩札 粟島安田屋4
粟島廻船問屋安田屋の金毘羅金光院の護摩札

この木札に何が書かれているのか研究者が一覧化したのが下図です。

金光院護摩札 粟島安田屋1
粟島の安田屋の護摩札一覧(一部)

これを見ると祈祷内容はほとんど同じで「船中安全 風波泰静」です。同じものがどうして何枚もあるのでしょうか。また、安田家にどうして、金毘羅大権現の木札が残されているのでしょうか? そんな疑問に答えてくれる論文に出会いましたので紹介しておきます。テキストは「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」です。
不動明王と護摩

 安田家の護摩札等について        

研究者が当主の安田憲司氏から聞き取ったことをまとめると次のようになります。
①護摩札や祈祷札などを、新しく拝受するのは正月と出帆前の6~8月の吉日で年2回
②一年間、船に安置した護摩札は、蔵の天井の梁に挟むようにしていた
④処分に困るが捨ててしまうことはためらわれたので、今に伝えられることになった
ここからは、毎年正月と、廻船が活動を始める6月以後の年2回に、金比羅に参拝し、金光院の護摩札を授かっていたことが分かります。そして、持ち船に安置します。その際に、前年までの古い木札は、倉の天井に保管したこと。そのため毎年、持ち船の数と同じ枚数の護摩札が倉の天井には増えていったようです。

HPTIMAGE

安田家に残っていた76点の護摩札のうち、象頭山金光院のものは次の通りです。
A 縦約百㎝の大木札が47点、
B 約20~70㎝の木札が20点
C 紙製の札や掛け軸等が9点
金光院護摩札 粟島安田屋5


その他に神棚の中には天照大神宮御札、出雲大社御玉串、馬城八幡宮御守等などがありました。これらの配札場所は次の通りです。
金光院 47点
金光院・金毘羅大権現  1点
金毘羅大権現  1点
満嶋山系寺院 13点
地蔵院  1点
住吉大神宮  1点
水天宮  1点
鹿鳥大神宮  1点
石鉄寺(石鎚山)     3点
防州室積寺       1点
こうして見ると、金毘羅大権現の別当金光院関係のものが大部分を占めていたことになります。それ以外にも、瀬戸内海各地の神社のお札があります。これらの札が納められていた神棚を見ておきましょう。
粟島廻船間屋安田屋の神棚jpg

栗島の廻船問屋の神棚は、非常に大きなものです。一例を挙げてみると、
徳重家の神棚は、十一社様式 幅368cm
伊勢屋のものは、九社(神段数) 幅260㎝
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
粟島 旧廻船問屋旧家の神棚(2019年 瀬戸芸会場)

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
上の拡大

ここからは、栗島の海商たちが神棚の大きさや、そこに収める札の種類や数を競ったことがうかがえます。神棚に各地の「海上安全」などのお札を並べて供えることがステイタスシンボルでもあったのかもしれません。

護摩供養の作法は

金比羅金光院以外のお札を見ておきましょう。
まず粟島古利の梵音寺について。

粟島古利の梵音寺

満嶋山梵音寺は、海岸に面した大通りから数百m内陸部に位置する島内有数の寺院です。その歴史は倭寇の時代にまでさかのぼり、平安中期、粟島島民は藤原純友の配下に属し、海賊活動を行っていたと伝えられます。その範囲は、関門海峡を超えて朝鮮、中国、さらに南進し、東南アジアにまで拡がっていたようです。栗島から倭寇が出ていた証拠とされるのが、梵音寺境内の樹齢四百年以上の「竜眼の木」でとおばれる亜熱帯性の「たぶの木」で南方から持ち帰られたされ、香川の保存木となっています。どちらにしても、粟島は古くから「海民」の活躍する拠点だったことがうかがえます。

粟島梵音寺no
粟島の梵音寺のタブノキ

 梵音寺が鎮座するのが下新田地区です。ここは城山に近い所ですが、城山を満嶋山と呼ぶかどうかは分かりません。安田家に残された護摩札からは、満嶋山には梵音寺の他に松寿院、聖寿院があったことが分かります。その他にも史料的には、阿州極楽寺、観音堂などの堂らしきものが三ヶ所ほど確認できるようです。安田家が護摩札を受けた峯堂地蔵院がこの中にあるのかどうかは、よく分かりません。どちらにしても、修験者たちが構える堂や坊などが粟島にはいくつもあったようです。それを支える経済力もあったということになります。

粟島古利の梵音寺no護摩札
粟島の梵音寺・松壽院の護摩札

 安田家のお札の中で研究者が注目するのは、伊予石鉄山前神寺の石鎚講の札です。
粟島廻船間屋安田屋の石鎚山前山寺の護摩札
石鎚信仰といえば、石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)、瓶ヶ森、笹ヶ峰の東側の峰も信仰対象でした。前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降だとされます。前神寺が「先達所」を決定し、村落の指導者層を俗先達に任命し、広域布教のネットワークを形成していきます。それが道後平野や道前平野に定着し、石鎚山参拝登山は村々の若者の通過儀礼的要素も持つようになります。前山寺のお札粟島にあるということは、西讃地域は宇摩郡や越智都、さらには土佐郡などと一つの信仰圏を形成していたことが裏付けられます。このスタイルは、伊勢御師南倉の廻檀地域とよく似ていると研究者は指摘します。
 また木札には防州室積普賢禅寺のものがあります。
 室積は江戸時代に長州藩による港の再開発で室積会所が置かれ、北前船の寄港地として、多くの廻船問屋が軒を並べていた港町です。海商通りについて長州藩は、防長両国を18の行政区両に分け、これを宰判といい、要衝の地に代官所が設置され、それを勘場と呼びました。

普賢寺・普賢堂(山口県光市室積8丁目)- 日本すきま漫遊記
防州室積普賢禅寺
このような海勝通りに海の守護仏の普賢菩薩の縁起が生まれます。普賢縁起には、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ、室積で漁人が海中から網で引きLげた普賢菩薩に対面したという逸話が残されています。
 海難守護は寄神信仰に基づくものが多いようですが「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた普賢菩薩を祀った普賢禅寺もその1つです。粟島の安田屋の持ち船も防州に寄港した時に、その護摩札を得たのでしょう。海の神様は、金毘羅大権現以外にも各地に祀られていたことが分かります。
粟島の神社の祈祷札を見ておきましょう。

粟島馬越神社のお札

馬城八幡は中新田の砂州沿いの道から少し奥まったところにあります。馬城という地名は粟島が古代に牧場であった名残です。700年、諸国に牧地を定めた際、「託磨牧」とあり、栗島が指定されたようです。「詫間(託馬)」も同じ関連と研究者は考えています。865年の続日本紀(865年条)には「停廃讃岐国三野郡託磨牧」とあるので、この時期まで詫間には官営の牧場があり、粟島はその一部だったことが分かります。また「西讃海陸予答」に次のように記します。

「担馬(詫間)木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

そして寛保3年(1742)に大坂の船宿から寄進された常夜燈が建っています。また、享保16(1731)年の銘のある島居からは島中が氏子であったことが分かります。さらに安田家の約20㎝の「八幡宮御祓船中安全海上無難順風□□」とある神札の内部には祓串が一本入っています。これが馬木八幡のものか、どうかは分かりませんが、海難除けの大麻であったことは確かだと研究者は判断します。
 この他にも栗島には次のように多くの神仕があります。一之宮神社、瀧之宮神社、稲荷大明神三社、妙見宮、栗島神社、弾上神社、荒神、蛭子神社、勝佐備神社、その他にも四社あります。これは、「西讃府志」より多い数になります。それは明治の廃物希釈で神社へと転化した寺院があったためのようです。その他、廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神、粟島伊勢仲宮(通称:お伊勢さん)が有名です。
ここには文化期からの船絵馬が15面本納されています。奉納年代は文化3年(1806年)~慶応3年(1867年)のもので、天保年間(1830~1844年)のものが多いようです。奉納者は地元の伊勢屋庄八をはじめ、大坂や堺、さらには「奥州福山城下」・「奥州函館」と記載されたものもあり、北海道まで見られます。その中には堺の糸荷廻船の舟絵馬もあります。糸荷廻船はオランダから長崎に輸入された中国の生糸・絹織物を江戸に運送するため海路で堺へ運ぶ船です。その船が粟島に寄港していたことを示す史料になります。                         

 安田家は、屋号を安田屋として栗島で廻船業を営んでいました。
安永4年(1775)に亡くなった久大夫が最初の船持ちだったと伝えられます。しかし、史料的に、その活動が辿れるのは享和2年(1802)から天保 12年(1841)になってからのようです。この約40年間に、「金毘羅新造(同名船三艘 初代~三代久太郎、兵助)、稲荷丸(重吉)」の名が確認できるようになります。最初の金毘羅新造は、享和3年(1803)のことで、長崎で店船首の程赤城に依頼して、洋中安全祈願の船名入り神号額を揮毫してもらって、八幡神社に奉納しています。三艘目の金毘羅新造は三代目久太郎が27歳で死去した後、泉州堺の鍋屋船万歳丸で沖船頭をしていた兵助(沖船頭名兵右衛門)が家へ帰り、天保十年に購入したものです。五百石積で兵助が船頭のときは久太郎(四代目)、弟が船頭のときは久治郎とそれぞれ先代の船頭名を襲名しています。
 また、稲荷丸(重吉)は分家のもの、重吉が大坂山城屋惣右衛門の伸占丸(十五人乗)に沖船頭として息子の豊占とともに乗り込み、難風で帆柱が吹き折れ、酒田飛鳥へ漂着した記録も残っています(「鈴木家文書」)。安田屋は箱館(函館)を中心に、青森や長崎へも航行しています。函館の長崎屋(佐藤半兵衛)、大津屋(田中茂占)、青森湊の滝屋(伊東善五郎)の客船ともなっていました。
 表出しは先祖久太夫の一字を取つた「列」(カネキュウ印)、重吉は「列」か「コ」(カネジュウ印)を使用しいます。名前は久太夫以後、久太郎、久兵衛、久平次、久次良、久四良と「久」の字が通字だったようです。これらの情報を「隠岐島島前 津之郷 大山明元間屋船帳」にあてはめると久太夫は、安国家の関係者だと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。
以前に「近世初頭に流行神として登場したときの金比羅神は、海事関係者の信仰を集めていたわけではなく、海の神様とは言えなかった」というお話しをしました。しかし、18世紀後半になると、安田家のような廻船問屋は金毘羅神を深く信仰するようになったことが、残された木札から分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年もまんのう図書館の郷土史講座でお話しすることになりました。テーマは、こちらで決めることは出来ません。リクエストのあったテーマについてお話しするのですが、満濃池へのリクエストは高いようで毎年選ばれます。昨年は近世の満濃池の変遷を話したので、今回は空海の満濃池築造についてということでした。そこで、研究者たちが「空海が造った」と断定的に云わずに。どうして「空海が造ったと云われる満濃池」と表現するのかをお話しすることにしました。その内容とレジメ資料をアップしておきます。


まず満濃町所蔵のこの版画から見ていきます。これは今から約180年ほど前、19世紀半ばに描かれたもので「象頭山八景 満濃池遊鶴(弘化2年(1845)」です。当時は金毘羅さんの金堂(旭社)が完成し、周辺整備が進み石畳や玉垣なども整備され、境内が石造物で白く輝きだす時代です。それが珍しくて全国から参拝客がどっと押し寄せるようになります。そんな中でお土産用に描かれた版画シリーズの一枚です。ここに「満濃池遊鶴」とあります。鶴が遊ぶ姿が描かれています。江戸時代には満濃池周辺には鶴が飛んでいたようです。
 話を進める前に基礎的な用語確認を、この絵で確認しておきます。東(左)から
①護摩壇岩
②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘
③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。
④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
この構造は江戸時代の最初に、西嶋八兵衛が築いたものと基本的には変わっていません。それではここでクイズです。この中で、現在も残っているもの、見ることができるのはどれでしょうか。

満濃池  戦後の嵩上げ工事で残ったのは「護摩壇岩」のみ
1959年の第3次嵩上げ後の満濃池 護摩壇岩だけが残った
戦後の満濃池嵩上げ工事後の現在の姿です。貯水量を増やすために、次のような変更が行われました。
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、
②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。
③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。
④余水吐けは、堤防の下に埋められた
こうして護摩壇岩だけが残されました。

満濃池 護摩壇岩3
満濃池の護摩壇岩

現在の護摩壇岩です。護摩壇岩と向こうに見える取水塔の真ん中当たりに池の宮はありました。その丘は削りとられ池の底に沈みました。それでは、クイズの第2問です。どうして護摩壇岩だけがして残されたのでしょうか。

空海修復の満濃池想像図
空海が修築した満濃池の想定復元図(大林組)

これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。

6 護摩壇岩 空海が護摩祈祷を行った聖地
 
護摩壇岩と碑文です。護摩壇岩は「空海の作った満濃池」を裏付けるモノと私は思っていました。
ところが中央からやってきた研究者の中には「空海が作ったとされる(伝えられる)満濃池」という言い方をするひとがいます。含みを持たせる言い方です。どうして「空海が作ったと言い切らないのですか?」と訪ねると、文献的にそれを証明できる・裏付ける資料がないというのです。これに私は驚きました。空海=満濃池築造説は史料的に裏付けられているものと思っていたからです。今回は、学者たちが空海が満濃池を作ったと言い切らない理由を追いかけて見ようと思います。まず空海が満濃池をつくったという最初の記録を見ていくことにします。

日本紀略の満濃池記述
日本紀略の空海の満濃池修復部分

まず古代の根本史料として六国史があります。これは、日本書紀など国家によって編纂された正史です。この編纂には公文書が用いられていて信頼度が高いとされます。6つあるので六国史と呼ばれます。ちなみに、誰が書いたか分からない古事記は、正史には含まれません。ところで六国史の中に満濃池は出てきません。満濃池が初めて出てくるのは日本略記という史書です。満濃町史や満濃池史など地元の郷土史は、日本紀略の記述を根本史料として「空海=満濃池修築説」を紹介しています。しかし、原典にはあたっていません。日本紀略の原典は上記の通りです。読み下しておきます。

讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。

最後に「許之」とあります。この主語は朝廷です。つまり朝廷が讃岐国司の空海派遣申請を認めたということです。これだけです。分量的には百字あまりにすぎません。内容を確認しておきます。

日本紀略の満濃池記述(要点)
日本紀略に書かれていることは

ここでは国司の空海派遣申請と、それに対する国家の承認だけが簡潔に述べられているだけです。空海が讃岐で何を行ったかについては何も触れていません。堤防の形や、護摩壇岩のことは何も出てこないことを押さえておきます。次に日本紀略の性格に就いてみておくことにします。

日本紀略の性格
日本紀略の史料的性格と評価
紀略はこの書は、①国家が誰かに編纂を命じて作られたものではありません。誰が書いたのかも、正式の書名も分かりません。当然、正史でもありませんし、何の目的で書かれたのかも分かりません。②内容は、それまでに造られている正史からの抜粋と、あらたに追加された項目からなります。空海と満濃池の部分は、新たに追加され項目になります。③成立時期は11世紀末後半から12世紀頃とされます。これは空海が亡くなった後、200年を経た時点で書かれた記録ということにります。同時代史料ではないことを押さえておきます。④評価点としては・・・⑤注意点としては・・・・    
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒書があって箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、古文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると「日本紀略」は満濃池の記述に関しては同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書ということになります。満濃町誌などは、紀略を「準正史的な歴史書」と評価しています。しかし、研究者は「注意して利用すべき歴史書」と考えているようです。両者には、根本史料である日本紀略の評価をめぐって大きなギャップがあることを押さえておきます。

 空海=満濃池修築悦を裏付ける史料として、満濃町史が挙げるのが「讃岐国司解」です。

満濃池別当に空海を申請する讃岐国司解
讃岐国司が空海派遣申請のために作成したとされる解(げ)

冒頭に「讃岐国司申請 官裁事」とあります。「解」とは、地方から中央への「おうかがい(申請)文」のことです。最後に弘仁12年(820)4月と年紀が入っています。ここで注意しておきたいのは、現物では実在しないことです。写しの引用文です。④これが載せられているのは、空海の伝記の一つである「弘法大師行化(ぎょうけ)記」です。つまり、空海伝記の中に引用されたものなのです。それを押させた上で、内容を見ておきましょう。

①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。

満濃池 空海派遣を命じる太政官符
空海を満濃池修復の別当として派遣することを認めた太政官符

太政官符の前半部は紀略の内容とほぼ同じです。つまり、讃岐国司からの解(申請文)がそのまま引用された内容です。後半部には空海を別当として派遣する上での具体的な指示が書かれています。そのため日本紀略よりも分量も多くなっています。また最後の年紀が「弘仁元年」とする誤記があります。それ以上に研究者が問題にするのは太政官符の体裁・スタイルです。この太政官符より15年前に出された空海出家を伝える太政官符と、比較して見ましょう。

空海入唐 太政官符
延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)
この内容は、遣唐使として入唐することになった空海が正式に出家して国家公務員となったので、課税を停止せよと命じたものです。一部虫食いで読み取れませんが補足しながら読んでいくと
①冒頭に「大政官符 治部省」とあって、補足すると「留学僧空海」と読めます。
②その下に空海について記され、「讃岐國多度郡方田郷方田郷」とあります。ここからは空海の本籍が多度郡方田郷だったことが分かります。方田は「弘田郷」の誤りとされていました。しかし、平城京からは「方田郷」と記された木簡が2本出てきました。実際に存在した郷であったかもしれません。どこであったかはよく分かりません。
③空海の属した戸主は「戸主正六位上佐伯直道長」とあります。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、佐伯直道長です。彼の官位は正6位上という地方では相当高い官位です。どのようにして手に入れたのか興味あるところです。多度郡の郡長を務めるには充分な官位です。佐伯家では多度郡では有力な家であったことが裏付けられます。ちなみに、道長は空海の父ではありません。空海の父は田公です。道長が空海の祖父だった可能性はあります。当時の戸籍は大家族制で、祖父から叔父たちの子ども達(従兄弟)まで百人近くの名前が並ぶ戸籍もあります。空海も、道長の戸籍の一人として「真魚」と記帳されています。
④次からが本題の用件です。延暦22年4月7日「出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここからは空海は留学直前まで得度(出家)していなかった。正式の僧侶ではなかったことが分かります。
以上を、先ほど見た満濃池別当状を命じるものと比べるとどうでしょうか。官府は「何々を命じる」とコンパクトな物です。国司の解を引用し、説明を長々とするものではありません。そういう意味からも満濃池別当状は異例なスタイルです。太政官符の写しとしてはふさわしくないと研究者は考えているようです。
      また空海死後直後の9・10世紀に成立した伝記には満濃池は出てきません。
死後2百年後を経た11世紀に書かれた伝記は4つあります。その中で満濃池が出てくるのは「弘法大師行化記(ぎょうけき)」だけです。その他の伝記には出てきません。ここからは紀略の記述を参考にして「行化記」の作者が、讃岐国司解と太政官符の写しを新たに作成して載せた可能性が出てきます。

空海=満濃池修復説の根拠とされる史料に今昔物語があります。

今昔物語 満濃池の龍
今昔物語 満濃池の龍の冒頭文
この中に「満濃池の龍」が載せられています。その冒頭は、この文章から始まります。そこには、空海との関係が次のように記されています。
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」

空海について触れられているのは、これだけなのです。空海が別当として派遣されたことなども書かれていませんし、護摩壇岩やアーチ型堤防などについては何も触れていません。
空海が朝廷の命で雨乞祈祷をして雨を降らせた話があります。その時に祈るのが善女龍王です。善女龍王は、雨を降らせる神として後世には信仰されるようになります。綾子踊りでも善女龍王の幟を立てて踊ります。
綾子踊りの善女龍王
綾子踊の善女龍王
ちなみに善女龍王は普段は小さな蛇の姿をしています。満濃池の龍も、堤で子蛇の姿で寝ているところを、天狗の化けたトンビにさらわれて、琵琶湖周辺の天狗の住処の洞穴に連れ去られてしまいます。龍の弱点は、水がないと龍には変身できない所です。かっぱと同じです。そこに京から僧侶もさらわれてきます。この僧侶が竹の水筒をもっていて、水を得た子蛇は龍に変身し、天狗を懲らしめて、僧侶を寺に送り届けて満濃池に帰って来るというお話しです。

今まで見てきた3つの史料の成立した年代を見ておきましょう。

満濃池記載史料の成立年代
 満濃池と空海の関係を述べた史料の成立年代

11世紀になると、空海は死んではいない。入定しただけで身は現世にとどまっているという「入定留身信仰」説が説かれるようになります。これは今も空海は、この世に留まり衆生を見守り、導こうとしているということになります。これが近世になると「同行二人」いつも空海さんと一緒に ということになっていきます。佐文の綾子踊りでも由緒書きには、「ある旅の僧侶が綾に雨乞踊りを伝授した。踊れば雨が振った。村人は歓喜した。いつの間にか僧侶はいなくなっていた。その僧侶が弘法大師であったと村人はささやきあった。と記します。つまり、いろいろな行事や功績などが空海に接ぎ木されていくようになのです。そんな流れの中で登場してくるのが空海ー満濃池修復説といえそうです。
 満濃町史は、国司解や太政官符を見て紀略がかかれたという立場です。しかし、それは成立年代からすると無理があるようです。紀略の記事を見て、太政官符が創作されたということも考えられます。 こうして弘法大師伝記には、いろいろな話が付け加えられていくのです。そして92種類の伝記が確認されています。
次にいろいろな話が付け加えられていく過程を、満濃池史の今昔物語の記述で見ておきましょう。

今昔物語の原文と「満濃池史」の比較

先ほど見たように今昔物語が空海と満濃池の関係に触れているのは、一行でした。それが満濃池史の「今昔物語」には、次のようになっています。

満濃池の龍神 今昔物語に付け加えられた部分


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満濃池史の「今昔物語」
ここには①讃岐国司・清原夏野の嵯峨天皇への直訴的申請 ②路真人浜継(みちのまびと)の来讃。③空海の派遣申請などがいろいろなことが記されています。しかし。これらはもともとの今昔物語には書かれていないことです。日本紀略や「行化記」などに書かれていることが今昔物語に接ぎ木されています。伝説とは、このようにして後世にいろいろな物語が付け加えられて膨れあがっていきます。地域の歴史を書く場合には、地元の歴史について知ってほしい、そして誇りを持って欲しいという思いが強く働きます。私もそうです。そのためサービス精神が旺盛になりすぎて、史料検討が甘くなり、いろいろなことを盛り込んでしまうことが往々にしてあります。そういう意味では、厳密に云うと、これは今昔物語ではありません。いろいろな情報が付加された「今昔物語増補版」ともいえるものです。
 ここまでを整理しておくと、12世紀前後に成立した3つの書物に、空海と満濃池の関係が書かれるようになったこと。しかし、その内容は、空海の派遣経緯が中心でした。空海がこの地にやってき何をしたかについては、何も記されていませんでした。それでは最初に見た護摩壇岩やアーチ型堤防などの話はいつ頃から語られ始めたのでしょうか。これは近世に書かれた矢原家文書の中に出てくるものです。
満濃池池守 矢原家について
これは幕末の讃岐国名勝図会に描かれている矢原家です。おおきな屋敷と二本の松の木が印象的です。カリンの木は見えませんが、大きな財力をもっていたことが屋敷からはうかがえます。この場所は、満濃池の下のほたるみ公園の西側で「矢原邸の森」として保存されています。矢原家について簡単に触れておきます。①真野を拠点とする豪族とされますが ②史料からは中世以前のことについてはよく分かりません。③文書的に確実にたどれるのは生駒藩時代以後です。④西嶋八兵衛が満濃池を再興するときに、用地を寄進したことで、池の守職に任じられたこと ⑤しかし、満濃池修復費用に充てるために池の御領とよばれる天領が設置されます。天領が置かれると代官もがの指揮下におかれて、既得権利を失ったこと⑥そのため池の守職を無念にも辞任したこと。
このように池の守として満濃池に関わった矢原家には、満濃池についての文書が多く残されたようです。その一部を見ておきましょう。


矢原家々記の空海による満濃池築造
矢原家々記の空海来訪場面

 古代のことが昨日のように物語り風に語られています。こんな話を矢原家では代々語り伝えてきていたのかもしれません。この内容をそのまま史実とすることはできませんが書いた人の意図はうかがえます。
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること 
②矢原家の伝統と格式の高さ 
③その象徴としてのかりん 
これらは空海の来訪を記すと同時に、作成目的の中に「矢原家顕彰」というねらいがあったことを押さえておきます。矢原邸跡に香川県が設置した説明版には「空海が矢原正久の屋敷に逗留した際、記念にお手植えされたとされるカリンがある。」と記されています。矢原家々記を書いた人物の意図が、現在に生きていることになります。

矢原家文書の空海伝説 アーチ堤防


我々が満濃池の特徴としてよく聞く話は、近世になって書かれた矢原家文書の中にあることを押さえておきます。これらを受けて満濃池町史は、次のように記されています。

満濃町史の伝える空海の満濃池修復

①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の
神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。

①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。

②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。


この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。

空海関与を伝えない満濃池後碑文
満濃池後碑文(まんのういけのちのいしぶみ)
以下も意訳変換しておくと

三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない


ここには、空海の満濃池修復後の約20年後に決壊した満濃池を国司の弘宗王が修復したことが記されています。その内容を見ると動員数など具体的で、日本紀略の記述に比べると、よりリアルな印象を受けます。弘宗王とは何者なのでしょうか?

 満濃池修復を行った讃岐国司弘宗王
満濃池を修復した弘宗王

弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守
弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。


空海と弘宗王の相互関係の年表

「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。

それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。


満濃池後碑文に空海が出てこない理由は

日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。


空海満濃池築造説への疑問

考古学的な疑問点は次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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弘法大師が「入定」後に、多くの伝記が書かれます。いったい伝記は、いくつあるのだろうかと思っていたら『弘法大師伝全集』に、93種あると記してありました。弘法大師の伝記は、代々の真言僧や蓮華谷聖の手によって何度も増補改制されてきました。さらにそれが高野聖たちによって人々に口伝えに伝えられ拡がって行きます。そして、「弘法清水」とか「再栗」や「三度柿」などの、水と救荒食物の救済者としての大師のイメージが定着していきます。 私が興味があるのは、これらの伝記類に善通寺がどのように記されているかです。そのことについて触れている論文に出会いましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2」です。
一円保絵図 曼荼羅寺3

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。それが同年成立の「弘法大師御伝」には次のように記されています。

「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

意訳変換しておくと
「讚岐国の善通寺と曼茶羅寺の両寺について、善通寺は空海の先祖である佐伯直氏の氏寺で、曼荼羅寺は大師が建立したものである

ここではじめて善通寺と曼荼羅寺が登場します。注意しておきたいのは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたのみ記されています。ここからは11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。これが時代を経るに従って、いろいろなことが追加されて、分量が増えていきます。

以下、大師伝記の中の善通寺に関連する記事を年代順に見ていくことにします。

弘法大師伝の善通寺 高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立
弘法大師伝記の善通寺・曼荼羅寺部分の抜粋

  (1)高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立(上の右端部分)
 
  唐より帰朝後に、仏像を大師自ら造った。また先祖菩提のために善通寺を建立し、その額を書いた。そして、善通寺と曼荼羅寺の両寺に留まり、修行を行った。そのため周辺には多くの聖地がある。この寺の山に塩峰がある。地元では、大師が七宝を埋めた山と伝えられる。これが後世に「七宝」から「塩」に転じてしまった。ここには行道(修行路)の跡が残っている。そこには草木が生えずに、海際に巨石がある。その石は落ちそうで落ちず、念願石と呼ばれている。また、人々が伝えるところによると、弘法大師の遺法が滅したときに、この石も墜ちるとも云う。

要点を挙げておくと
①善通寺と曼荼羅寺は空海が建立したこと
②塩峰=七宝山で辺路修行ルートがあったこと
③そのルート上に念願石があること
ここで気になる点を挙げておきます。
・「弘法人師御伝」(1089成立)に比べると分量が大幅に増えていること
・善通寺と曼荼羅寺の一体性を強調していること。曼荼羅寺への気配りがあったことがうかがえる
・七宝山をめぐる辺路行道ルートがあったこと。五岳山については何も触れられていないこと
・七宝山の行道ルートには海にも面していて、「念願岩」があったこと。

以前にお話しした10世紀末から11世紀の曼荼羅寺をとりまく状況を振り返っておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」となっていた
②10世紀中頃に廻国聖・善芳が、退転した曼荼羅寺の復興開始。
③善芳は弘法大師信仰を中心にして勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功。
④勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと使命であった。
 ここからは弘法大師信仰が高野聖などによって地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支える時代が始まっていたことが分かります。その先例が廻国聖・善芳による曼荼羅寺の復興運動でした。その成果が、高野山にもたらされ伝記の中に曼荼羅寺が善通寺と併記して登場するようになったことが考えられます。同時に彼らは、観音寺から七宝山を経て我拝師山に至る中辺路行道ルートを開いたのかもしれません。

弘法大師信仰と勧進聖

曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。

これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったようです。つまり、中央の支配管理を受けるようになり、東寺から派遣された僧侶達がやってくるようになります。それを追いかけるように、廻国の高野聖たちがやってきて活動を始めます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
善通寺一円保絵図に描かれた曼荼羅寺と我拝師山


2 弘法大師行化記(1219年)
善通寺額事 (高野大師行状図画)
                善通寺額事 (高野大師行状図画)

弘法大師は先祖のために讃岐に善通寺を建立した。その山門に大師自筆の額を掲げた。その額には聖霊が宿っていた。陰陽師の安倍晴明が縁あって讃岐に下向した。暗くなったので識神に松明を持たせて進んだ。ところが善通寺あたりで松明が消えて、寺を通過してしまった。このことについて安倍晴明が疑問に思うと、識神が云うには「弘法大師の額がこの寺には掛けられています。それを四天王が守護しています。そのために四天王が安部清明様の霊力を怖れて路を変えたのでしょうと

弘法大師行化記は、空海を満濃池修復の別当に任命することを申請した讃岐国司解と、それを中央政府が許可した太政官符の写しを載せている伝記です。そして、もうひとつ新しいエピソードを載せます。それがこの「善通寺額事」です。そこに登場するのは空海の筆による額と安倍晴明です。

ここに記された「善通寺額事」について見ていくことにします。
弘法大師の筆による「額」は四天王が守護したりして、額に精霊が宿っているという奇瑞が、大師伝記の名筆説話伝説に述べられています。それが「五筆勅号」「虚空書字」「大内書額」のエピソードです。
中でも「大内書額」は掲額説話として、最も有名なモノです。俗に「(弘法大師)筆」といわれるもので、次のような有名な説話です。

勅命によって応天門に掲額する字を書き・・・額うち付けて後見たまひければ、応の字の上の円点かき落されける程に、筆をなげあげて点をうたれけり         「大師行状記」巻五)

その他にも宮中の門に関わる説話としては「皇嘉門額」などという似たような伝承もあります。伝記に採用されなくとも、之に類する話は全国にあったことがうかがえます。善通寺掲額説話もその一つでしょう。冷静に考えてみると、掲額は門に掲げられます。そのため百年も経てば、風雨にさらされてぼろぼろになるのが普通です。平安前期の大師真筆が風雨にさらされて中世まで何百年もそのまま残っている方が不思議です。また、弘法大師が書いたものでなくても掲げられた額が、筆ぶりが達者であれば、大師筆と化してしまったものも、少なくかったはずです。弘法伝説の拡がりを考えれば、高野聖たちはそれらを「大師真筆」と語るのは当然のことだったでしょう。この動きに、中近世の書道家家元制度の喧々たる連中たちは、「地元の誇り・光栄」として乗っかっていきます。
 善通寺は大師生誕の地とされたので大師にまつわる伝承には事欠きません。
産湯の水や幼年時代の砂遊び(童雅奇異)などのストーリが創作可能でした。それが伝記には取り上げられていきます。その他にも多くの伝承が語り継がれていたはずです。善通寺のエピソードを伝記作家(僧)が求める中で空海の名筆にちなんだ掲額説話が、後に加えられていくのは自然のなりゆきです。ただ、善通寺掲額説話は筆伝説(大内書額)とちがって、中世期になって登場する話です。それはこの話が『高野大師行状図画』に語られながら、もう一つの中世期の大師伝記代表作品である『弘法大師行状記』には載せられていないことからもうかがえます。93もある大師伝記の中で、枝葉を生やし数を増してきた多くの奇瑞譚の末端が善通寺掲額説話であると研究者は指摘します。その登場過程は次のような流れが考えられます。
①生誕の地の善通寺で「弘法大師名筆」に影響されて語られ始めた「善通寺額事」
②それを流布し、高野山に伝えた高野聖たち
③高野聖たちから聞き取ったエピソードを伝記の中に載せた伝記作家(僧)
善通寺は多度郡司であった佐伯直氏の氏寺として建立された地方小寺院でした。
氏寺であるがために、佐伯直氏一族が平安京に本貫を移し、中央貴族化したり、高野山の管理者になって去って行くとパトロンを失い退転していきます。それは平安時代中期以後の古代瓦が出てこないことからもうかがえます。中世を前に善通寺は、衰退していたのです。そのような中で弘法大師伝説が流布され、弘法大師信仰が広がり始めます。そして「弘法大師生誕の地」と中央貴族の信仰を集めるようになります。大師が有名化するとともに信仰が拡がり参詣者も増えるのに連れて、大師にまつわる伝説も数が増えていきます。大師が善通寺を建立したという伝承など生まれてくるのは、自然な流れです。これが大師伝説を語る時衆系念仏聖たちの流れを汲む中世高野聖によって採録され、そのネットワークを通じて、高野山の真言僧などにもたらされます。
 善通寺掲額説話は先ほども見たように、初期の『弘法大師伝』には出てきません。また93あるというわれる大師説話の中で、重要な地位を占めていません。そして今は、あまり語られないエピソードになっています。私も知りませんでした。それはどうしてなのかは、別の機会に考えるとして、先を急ぎます。
3 弘法大師略欽抄 1234年
 
讃岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺は、弘法大師空海の先祖菩提の氏寺である。また曼荼羅寺は大師が建立したもので、両方の寺にその住居跡がある。

ここでも善通寺と曼荼羅寺の一体性が語られます。そして、曼荼羅寺をフォローするかのように、曼荼羅寺にも弘法大師の住居跡があると補足します。そこには、下表のように12世紀になると曼荼羅寺が東寺の荘園となり、善通寺と一体化して経営されていたことが背景にあるようです。

曼荼羅寺の古代変遷

4弘法大師伝要文抄 1251年

善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、弘法大師が唐からの帰国の際に嵐に出会って遭難しそうになった際に、その嵐が収まることを祈り、一難を避けた際の成就御礼として、自ら造ったものである。

ここに初めて、嵐退散のために空海が手造りした白檀の薬師如来像が登場します。これが今の私にはよく分かりません。なお、現在の善通寺金堂の本尊は丈六の薬師如来坐像で、江戸時代前期のものです。 

5 高野大師住処記 1303年

   善通寺は讃岐国にあり、空海の先祖の氏寺である。曼荼羅寺も大師が建立した寺である。両寺に大師が修行した住居が残っている。

6 弘法大師行状要集 1374年
伝記によると、善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、大師が唐からの帰国の際に大嵐に際に風波の収まることを祈願して、自ら造ったものである。言い伝えによると、伝教大師は入唐の際に、風波の禍を避けるために鎮西で薬師如来を造って奉納したと伝わる。弘法大師と伝教大師の両大師が帰国後に、無事帰国を感謝して薬師如来を造った。その意を察すべし。

7高野大師行化雑集(1630年?) 
 善通寺・曼荼羅寺の白檀の薬師如来は、入唐の際の嵐の際に、無事を祈って大師自らが造ったものである。讃岐多度郡の吉原中郷に善通寺を建立する。また中郷は大師が御桑梓の地でもある。また大師は吉原郷に曼荼羅寺を建立した。この寺の南には五岳山がある。第一峰は高識山、第二峰が五筆山、第三峰が我拝師山で、この山の麓に寺がある。寺号は出釈迦寺である。善通寺と曼荼羅寺、并に中郷・吉原は一続きのエリアである。第四峰が火上山、第五峰が獅子山で、この五山の浦を屏風ヶ浦と称する。 
以上を見た上で気づくことを挙げておきます。
A (1)高野大師御広伝(元永元(1118年成立)では、弘法大師が帰朝後に「手ヅカラ数(多)ノ仏像ヲ造った」とある記事は、その約百年後の(4)弘法大師伝要文抄(1251年)では、「善通曼荼羅両寺の薬師如来像、唐ヲ欲スルノ時、風波(安全)祈ル為ニ、手ヅカラ斤斧ヲ操リ彫った」となり、分量が増えています。
B (6)の弘法大師行状要集(1374年)では、伝教大師が登場して真言天台両密教の宗祖が並んで渡海安全を祈ったことに変化します。
C 七宝山が辺路修行の場であり、念願石の伝説が語られていたのが、(7)高野大師行化雑集(1630年)では、七宝山は消えて、替わって五岳山が聖地とされるようになります。これには、五岳山を取り巻く状況の変化があったことは以前にお話ししました。

曼荼羅寺
幕末の曼荼羅寺(讃岐国名勝図会)
 こうしてみると、もともとは平凡な説話だったものが、誇張化し奇瑞化されていく過程が見えてきます。善通寺と曼荼羅寺の両方に「大師御住房アリ」と記されるようになるのも、これも善通寺が大師の生誕地であって、生誕地ならばその帰るべき住居があったのは当然という考えから、後世に追補されたものしょう。
弘法大師伝記の善通寺記述の分類
弘法大師伝記に登場する善通寺関連記事のモチーフ分類 下段番号は登場する伝記 
以上見てきたように、善通寺の関連説話で一番古いのが元永元年(1118)年成立の(1)高野大師御広伝(下)です。しかし、これは12世紀初頭の成立なので、大師伝記中の説話の中では、新しい部類のものにになります。そして、近世以降のものは、それまでの伝記の写しで内容が重なっています。逆に言うと新しいことは付け加えられていません。例えば12などは『高野大師行状図画』の「善通寺額事」とほぼ同じ内容です。以上のように大師伝記伝説の中に出てくる善通寺関連説話は、12世紀以後に付け加えられた「新しい弘法大師エピソード」であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2
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松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅大権現松尾寺の観音堂と本尊(讃岐国名勝図会)
日時 6月28日(土) 17:00
場所 まんのう町四条公民会
資料代 200円

内容は、まず金毘羅さんの次の「通説」について検討します。
金毘羅信仰についての今までの常識

これに対して、ことひら町史などはどのように記しているのかを見ていきます。金毘羅神は古代に遡るものではなく、近世初頭に登場した流行神であること、それを創り出したのは近世の高野山系の修験者たちだったことなど、今までの通説を伏するものになります。
今回は私が講師をつとめます。興味と時間のある方の参加を歓迎します。

悪魚+クンピーラ=金毘羅神
「金毘羅神=神櫛王の悪魚(神魚) + 蕃神クンピラーラ」説

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