瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年07月

秀吉の長宗我部元親処遇案

前回は、秀吉の四国出兵が長宗我部元親処遇案が、あいまいな部分を残したまま開始されたことを見ました。また、四国出兵は秀吉が陣頭指揮をしないという初めてのケースでもありました。そのため今までにない指揮系統や戦術が見られます。その辺りのことを阿波方面を中心に今回は見ていくことにします。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。

秀吉の四国侵攻6
四国征伐・羽柴本軍
羽柴軍の進撃ルート
秀吉の四国出兵 阿波戦線

羽柴軍が阿波に上陸したのは6月23日のことです。そして、撫養の土佐泊城に集結します。ここが阿波制圧のスタート地点となります。これも秀吉の事前の指示によるものでした。
 緒戦となったのが木津城攻めでした。この城について「ウキ」は、次のように記します。

秀吉の四国侵攻 阿波木津城
木津城 羽柴軍に8日の籠城で落城
    「永禄年間(1558年 - 1570年)から三好氏の武将篠原自遁が守っていた。1582年(天正10年)の長宗我部元親による阿波侵攻では、十河存保方についたものの、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの織田信長が本能寺の変で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し淡路へ逃走した。
 長宗我部元親領有後は腹心である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる。1585年(天正13年)、羽柴秀吉による四国攻めでは、羽柴秀長の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた。
木津城を秀長と秀次の大軍が囲みます。そして8日後の7月5日には落城します。その後、羽柴軍は二手に分かれますが、そこへ黒田官兵衛など讃岐方面の軍勢も合流し、次のように手分けして攻略します。
A 秀長+宇喜多勢           一宮城
B 秀次+近江衆・仙石秀久・蜂須賀正勝 牛岐城(牟岐)
秀次勢は7月10日には調略によって牛岐城を開城させ、15日には脇城攻めに取り掛かります。こうして羽柴軍は一宮・脇両城を包囲し、7月下旬に長宗我部氏が降伏するまで攻城戦を続けます。

 木津城・一宮城・脇城の攻城戦には共通点があることを、研究者は指摘します。
①木津城「木津ノ城、敵楯籠之条、即座押詰、本城塀際迄仕寄、責破処」
②一宮城「其後一宮取巻、諸口以仕寄押詰、水を相留候条、一途不可有程候」
③脇城
「当脇城へ押詰、山下追破、従翌日仕寄等丈夫二申付候」
「当城も水之手不自由にて迷惑由、従城内闕落申越候、殊懸樋をも切落候間、弥不可有程候」
    意訳変換しておくと
①木津城の攻城戦では、敵の籠城戦対して、即座に押詰め、本城塀ぎわまで仕寄、これを攻め破る
②一宮城では、城を取り囲み、諸口を仕寄って押詰め、水源を遮断し、水が手に入らないようにした。
⑧脇城では押詰て、山下で追い破り、翌日に仕寄を丈夫に設置することを申し付けた
「当城も水之手がなく、飲み水に不自由している様子なので、城内に水をひく懸樋をも切落し、水を断った。
 ここには、共通した戦法として「押詰」「仕寄」と「水断」という言葉が出てきます。
「仕寄」とは、「敵の城を攻撃する際に用いる、竹などを束ねた防具」のことのようです。

仕寄り戦法

「仕寄り」

仕寄せ 真田丸に出てきた
大河ドラマ 真田丸に登場した「仕寄り」作り
 仕寄せは、盾や竹の束で身を守りながら、城を攻めるためのもの簡易な基地です。鉄砲から身を守るためのもので、この小型の基地を移動させて城を攻めたようです。鉄砲が普及した戦国時代後半に出てきた戦い方です。これに加えて、水断ちが行われています。四国出兵はちょうど夏季(現在の8月頃)にあたりました。真夏に、水を断たれることは籠城側にとっては、致命傷となったことが推測できます。

7月18日に戦地の伊藤祐時に、秀吉が宛てた書簡を見ておきましょう。
 去十四日書状十六日於京都到来、披見候、
一、其面取巻丈夫成由、兵吉口上之通、何も聞届尤候事、
一、一宮城如此取巻、既仕寄以下入精、水手相留由候条、少々日限延候共、菟角国々こらしめ、旁以千殺二可然、委細兵吉二申聞候事、[中略]
 意訳変換しておくと
 14日の戦地から書状が、16日に京都に届いた。
一、籠城戦への対応が指示通り首尾良く進んでいるとの報告を受け取った。
一、一宮城のように、兵で取巻き、仕寄で対応し、水断ちすれば、少々日数はかかろうが、阿波国衆をこらしめ、干乾しにすべし。委細は兵吉に伝えている[中略]
ここからは「仕寄」と水断による包囲戦は、秀吉の命令によるものであったことが分かります。秀吉の指示で「押詰(包囲)」「仕寄(接近)」と「水断」が、セットとなって、各攻城戦で展開されていたことを押さえておきます。
 また「国々こらしめ、旁以干殺二仕可然候」とあります。阿波の国衆をこらしめ、干殺しにするよう指示しています。これは見せしめの意図も読み取れます。これに加えて秀吉は、繰り返し前線に次のような指示を出しています。
「手負等無之様二木津城責殺可申候」(7月3日付)
「手負無之様二可申付候事」(7月10日付)
「少々長陣候事者不苦候条、少之手負無之様二」(7月27日付)
ここからは秀吉が「手負等無之様」と、「たとえ長引いたとしても、自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」と求めていたことが分かります。

秀長は7月19日付の伊予戦線の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を次のように報告しています。
9000とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の我が軍に兵糧を絶たれ、城への坑道を掘り水の手を断つ戦法で、7月中旬には開城した。

これに前後して脇・岩倉城も、秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落します。この結果、白地城の長宗我部元親は、東からの秀長・秀次勢、西から川之江まで進撃してきた毛利氏に挟撃される形になります。
『南海治乱記』には、前線から白地城へ戻った谷忠澄が、次のように述べて長宗我部元親に降伏を勧めたと記します。
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。

これに対し『元親記』には、長宗我部元親が言葉が次のように記されています。
縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。
意訳変換しておくと
たとえ、岩倉・一の宮城を奪われようとも、海部城に退却し、合戦すべき手立がある。そうなったら白地城に集結している軍兵や土佐国元の兵力を総動員すれば、一万八千余の兵力になる。それを、信親が大将として率いて野根・甲浦で待ち受け、海部城を支援する。

ここでは元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言います。そして、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っています。
しかし、重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏します。交渉の仲介役を務めたのが蜂須賀正勝です。
 降伏から和睦条件の成立に至る経過を整理しておきます。
①天正13年7月下旬、一宮・脇両城を包囲する羽柴軍に対し、長宗我部方から降伏交渉の打診。
②7月25日、羽柴秀長は一宮城の長宗我部重臣の江村親俊・谷忠澄に、土佐一国安堵と、五日間の「矢留(戦闘停止)」を約束
③同じ頃、秀吉は秀長に宛て、元親の土佐一国のみの安堵と降伏条件を確認し、最終的な判断を秀長らの判断に一任
  そして8月4日までに、長宗我部元親の正式な降伏が了承されます。8月6日に成立した和睦条件の内容は、次の4項目です。
①長宗我部氏に土佐一国のみ安堵
②長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、
③人質の提出
④徳川家康との同盟禁止
これによって、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を失います。ちなみに、秀吉から秀長への指示書にかかれた阿波国の統治方針についての部分を見ておきましょう。

 一、阿波国城々不残蜂須賀小六二可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいの山麓二覚候、去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻二四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在庫の者とも談合、よく候いん所相定、さ様二候ハ、大西脇城かいふ牛木かせてよく候いん哉、小六身二替者可入置候、但善所ハ立置悪所かわり、新儀にも其近所にこしらへ候事、[四~六条目略]

意訳変換しておくと
一、阿波国については、城はすべて蜂須賀小六に渡すこと、小六の居城については、絵図からすれば「いの山(渭山:現徳島城)」山麓が適地と思うが、実際に見ていないのでなんとも云えない。ついては、その方(秀長)が候補地をいくつか選定し、秀吉が四国を見廻りに行き決定しても良い。また小六が適地と考えるところを、秀長や各在庫衆と協議して決定してもよい。大西・脇・海部・牟岐城については、城の現状を維持し、小六が信頼が出来る者を選んで配置すること、ただし、戦略上からして立地条件が不適切な城は、新規に適所に移転して築城すること。

 読み取れる情報を挙げておきます。
①阿波国内の諸城は、残らず蜂須賀家政に渡すこと、
②居城は「いの山(渭山)」を適地とするが、秀長ら在庫衆で談合して定めること、
③大西・脇・海部・牛岐の各城は今まで通り存置し、しかるべき人物を配置すること。

研究者が注目するのは、③で具体的な城郭整備について言及している点です。
渭山に置かれた新城が徳島城で、大西城ほかの4城は近世初期まで阿波の支城体制「阿波九城(一宮・牛岐・仁宇・海部・撫西条・川島・脇・大西)」として活用されていきます。阿波では、戦後処理の初期段階から、秀吉の統治方針が明確にあらわれています。四国出兵で羽柴軍の攻撃対象となった一宮・牛岐・脇の諸城は、「阿波九城」に含まれます。四国侵攻の軍事行動の意図には、領国支配のための拠点となる城郭の掌握があったと研究者は考えています。

 阿波での戦いは、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦でした。
秀吉の指示に基づき、攻めるべき城が 事前に選定され、そこでの採用される戦術まで指定され、自軍兵力の消耗をおさえる慎重な戦術を行うように求められています。さらに、後の蜂須賀氏による領国支配につながる地域の拠点城の掌握まで考えられていたと研究者は評します。

以上をようやく整理しておきます。
①阿波・讃岐への侵攻については、兵力の集結メンバー・日時・場所・ルートについて事前に秀吉が指示を詳しく示している。
②その立案や連絡調整に当たったのが黒田官兵衛や小西行長である。
③阿波戦線は、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦であった。
④木津城・一宮城・脇城に対しては「押詰」→「仕寄」→「水断」という共通した戦法が採られている。
⑤「これは
自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」という秀吉の指示でもあった。
⑥同時に攻城対象の城は、蜂須賀氏による領国支配のための拠点となる城郭でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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長宗我部元親6

長宗我部元親年表

信長による本格的な四国攻めは、本能寺の変で実現しませんでした。長宗我部元親は、ある意味で命拾いしたのかもしれません。

秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

しかし、信長の後を継いだ秀吉は一貫して長宗我部氏に対して対決姿勢で臨みます。これに対して長宗我部元親も「秀吉の敵は味方だ」で、常に秀吉の敵対勢力と手を結んで、秀吉を牽制します。例えば

長宗我部元親の反秀吉政策
①天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは「柴田勝家」「織田信孝」と同盟
②翌年の小牧長久手の戦いでは「徳川家康」「織田信雄」と同盟
③天正12年(1584)に、長宗我部氏と毛利氏との軍事同盟が破綻。その背景には、毛利氏が秀吉と停戦し、同盟関係を結んだことです。対秀吉同盟戦線としての長宗我部・毛利の利害関係が消滅したのです。
④天正13年(1585)には、秀吉によって紀州が攻略され、長宗我部氏の強力な同盟者であった「根来衆」「雑賀衆」が壊滅。
こうして、長宗我部氏は軍事的孤立状態へと追い込まれます。今回は、秀吉の長宗我部元親に対する対応がどのように変化したのか見ていこうと思います。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。 

通説では天正13年(1585)の春に、長宗我部元親が四国統一を果たしたとされてきました。

長宗我部元親の四国平定?

しかし、実際には阿波・讃岐・伊予各地で残存勢力がゲリラ的抵抗活動を続けていたことが近年には明らかになってきました。そのため元親が四国全土を完全制圧したわけではないとする説が提唱されています。そして、秀吉はこれらの反長宗我部抵抗勢力に戦略物資補給などの支援を行っています。つまり、元親が四国を統一したとは言いがたく、軍事的優位に立っていたにすぎないと捉えるのが現実的な解釈だというのです。こういう状態では、長宗我部元親は秀吉と戦うことはできません。
長宗我部側としては、四国制覇どころではなく、秀吉との和睦交渉に全力を尽くすというのが実情だったのかもしれません。以下、史料で「長宗我部 vs 秀吉」外交の足跡をみてみましょう。
1585年の正月17日付けの、蜂須賀正勝と黒田官兵衛の連署による書状では、毛利家臣の井上春忠に対し、以下の旨のようなことを伝えています。(『小早川文書』)
①秀吉=毛利間の婚姻締結のこと
②人質の小早川秀包のこと
③秀吉は3月には紀伊国雑賀を攻めること
④秀吉は夏に四国を攻める予定であること
⑤秀吉は伊予・土佐両国を毛利氏に与えること
⑥元親から色々懇願されているが、秀吉はこれを受け入れないこと。
同じころ、毛利輝元も児玉元良に対して「秀吉が伊予・土佐両国を毛利家に渡すと伝えてきた」と言っています。(『山口県史』)。
 ここからは、長宗我部元親は土佐と伊予2か国の安堵を秀吉に懇願していたようですが、秀吉はこれを受け入れずに、その2か国は毛利に渡すことにしていたことが分かります。こうしてみると、両者の交渉は対等な立場での和睦交渉ではなく、立場の弱い長宗我部側が、より有利な形で降伏条件を求める交渉だったことがうかがえます。
 両者は和平交渉の可能性を探っていました。一旦は長宗我部側の要求を一蹴した秀吉ですが、元親が土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに、以下の2点を申し出たため、秀吉も手を打とうとしたようです。
①嫡男の長宗我部信親を大阪に居住させ、奉公させる。
②信親の他、実子をもう1人人質として提出する。
このような交渉が出兵期限とされていた6月になっても続いたために、出兵は繰り延べられます。しかし、最終的に和平交渉は決裂します。
その背景には毛利氏と長宗我部元親の伊予をめぐる対立がありました。

毛利氏と長宗我部元親の伊予を巡る対立

     瀬戸内から南下する毛利(小早川)氏 宇和島方面から北上する長宗我部氏

毛利氏には伊予と土佐に対する領土的な野心がありました。
本願寺の記録『貝塚御座所日記』には、次のように記されています。

「元親と秀吉の和睦交渉は成立しようとしていたが、毛利氏の望みでそれが断たれた」

『小早川文書』等では、次のように記します。
「秀吉は、伊予国を求める毛利家に配慮し、人質を返却して四国出兵を決意した」

ここからは、毛利氏が強く秀吉に伊予の割譲を求めていることが分かります。
秀吉の長宗我部元親処遇案が、どのように変化していったかを見ておきましょう。

秀吉の長宗我部元親処遇案

天正13(1583)年正月、秀吉は長宗我部氏征伐を打ち出し、夏に四国出兵を行う事を表明。同時に、毛利氏に伊予・土佐両国の領有を約束。
4月 紀伊雜賀根来寺を制圧し、改めて毛利氏に四国出兵の具体的な準備を指示
5月上旬には、6月3日の出兵と決まるが、下旬に6月16日に延期。この背景には、秀吉と長宗我部氏の最後の交渉が続けられていた。
6月中旬までに長宗我部氏は、阿波・讃岐の献上と実子を人質として差し出すことを条件に、土佐一国と伊予領有分の支配を承認され、和睦がほぼ成立していた。これに対して、伊予一国の領有を求める毛利氏(小早川隆景)が難色を示しめす。
そのため秀吉は一転して毛利側の主張を受け入れ、長宗我部氏との交渉は決裂、四国出兵へと進む。最終的な長宗我部氏の処遇案は、全面降伏を前提条件とする土佐一国のみの領有となる。

 平井氏は、秀吉の四国出兵について次のように評価します
「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」
「秀吉にとって四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」
 一方、藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

 長宗我部氏の「宥免」か「成敗」かの判断は、6月時点でも流動的であったようです。
秀吉・長宗我部・毛利の三者間における国分交渉は、次のように「A→B→C」と変化していきます。
A 「長宗我部=成敗、毛利=土佐・伊予領有」
B 「長宗我部=土佐・伊予(領有分)、毛利=伊予(残り分)」
C 「長宗我部=土佐、毛利=伊予」
ここでは、秀吉の長宗我部氏への対応が、わずか半年の間にめまぐるしく変化したことを押さえておきます。
その一方で、長宗我部や毛利など当事者以外に宛てた秀吉書状からは、別の秀吉の意向が見えて来ます
五月の段階で、秀吉は黒田孝高や一柳直末、加藤嘉明、中川秀政などの家臣に対して、長宗我部成敗を命じています。
 出兵開始時に秀吉から中川秀政らに宛てた書簡には、次のように記されています。
「秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候」
 将亦、秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候、申遣候、諸勢渡海候哉、再三如申聞候、物をしミ不仕、一手二令野陣、所々見斗、無越度様二可申付候、其方一左右次第、不移時日、内府可出馬候、成其意、路次中道橋、同泊々要害以下、権兵衛与相談候て、見刷普請可被申付候、路次伝、渡口、城之何と申所二誰を置候哉、委書付可申越候、何も其表様子、切々可有注進候、不可有油断候、謹言
                       秀吉(朱印)
(天正十三年)六月十七日
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
   意訳変換しておくと
秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する。諸勢が瀬戸内海を渡り、四国出兵を行うことになる。ついては、物見などの敵情偵察を怠ったり、戦場候補地を選定してなかったりなどのことがくれぐれもないように申しつける。内府が出馬した際には、路中の道や橋、港などについて、(仙石権兵衛)と相談して、普請して置くように申付ける。また、道順や、上陸地点、城の位置・名前・城主なども調査し報告すること。さらに、その時々の情勢の変化なども、油断せずこまめに注進すること。謹言
(天正十三年) 六月十七日                                秀吉(朱印)
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
ここでは「秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する意向」とあり、長宗我部成敗を前提としています。
ところが出兵時に秀吉が弟の秀長に宛てた史料には、長宗我部元親の処置について次のように記されています。
 尚、土佐一国にて候い長曾我部可指置候、細甚右衛門尉・三郎四郎二申含候、巳上、書状?蜂須賀其方への書中、遂披見候、
一、長曾我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曾我部かたへ進退候分にて、毛利方・小早川方へ安国寺を以令相談、尤之内義二候て、右之通二国宥免与申聞候処、間違候て、安国寺此方へ罷上、伊与国二不給候者、外聞迷惑候由、小早川申由候条、与州国二小早川二遣候、然間、土佐一国にて言申候者可指置候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎二申含、重而差越候条、定而懇可相達候、

一廿五日・廿八日・朔日、追々人数遣、三日二出馬候条、成其意、早々渡海候て、木津城成共何成共、見合取巻儀可申付候、面々人数何も一手二居陣候て、無越一度様二調儀専一候、

一甚右衛門尉・三郎四郎二申含遣候間、其様子聞届、蜂須賀へ相談肝要候、謹言、
(天正十三年) 六月廿日                  秀吉(朱印)
     意訳変換しておくと
 なお土佐一国の長曾我部についての措置については細甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えている。蜂須賀方への書簡を参考にすること

一、長宗我部元親所領の土佐と伊予の配分については、毛利方・小早川方と安国寺惠瓊が協議して決定する。伊予・土佐両国を毛利に与えると漏れ伝わっているのは間違いである。それについては安国寺惠瓊を通じて調整しする。小早川は、与州を小早川に与え、土佐一国については留保するようにとの申し入れがあった。このことについての仔細は尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎に言い含めてあるので、そちらに出向いた際に、聞き置くように。

一 25日・28日・30日に、次々と兵を出発させ、私は3日に出馬予定である。ついては、早々に渡海して、木津城でも、どこの城でもなんなりと、攻城することを申付ける。一手に集結して、攻め立てること。

一 甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えているので、そのことを聞き届けた上で、蜂須賀と相談しながらすすめることが肝要である。謹言
(天正十三年) 6月20廿日              秀吉(朱印)
ここには、国分交渉決裂の経緯を事細かに説明したうえで、次のように繰り返し長宗我部氏への対処の指示をしています。
「土佐一国にて侘言申候者可指置候」、
「土佐一国にて候ハ長曾我部可指置候」
この様子をみると、四国出兵の先陣をつとめた秀長でさえも、出兵時には長宗我部成敗と思っていたのも当然です。
 四国渡海後の7月になると、国分交渉決裂の経緯を本願寺が漏れ知ります。そして、四国出兵の背後事情が世間にも漏れ伝わるようになります。しかし、少なくとも六月の出兵開始までは、秀吉が家臣や外部勢力に長宗我部氏を「宥免」すと伝えた形跡はないと研究者は判断します。あくまで「長宗我部元親=征伐」だったのです。
 これに対しする長宗我部元親の動きを見ておきましょう。
秀吉の四国侵攻6
秀吉の四国出兵時の城郭
元親は羽柴軍の渡海に備えて5月17日には、吉野川沿いの阿波大西、翌日には岩倉に着陣しています。その後は「元親記」などには、阿波西部の白地城に入ったと記されます。この間も長宗我部元親は、水面下で秀吉と国分交渉を継続し和睦の道を探ります。一方で秀吉が出兵準備を進め、長宗我部成敗の方針を表明し続けているので、戦いの備えも必要でした。長宗我部方は、基本方針が分からないまま宙ぶらりんの状態に置かれます。

豊臣秀吉の四国征伐前

四国出兵は阿波・讃岐・伊予の三方面からの進軍になりますが、阿波・讃岐を担当した羽柴軍の構成メンバーについては、記録上で一部錯綜があるようです
ここでは改めて出兵時の羽柴軍の動向について見ておきましょう。
「大日本史料」では、天正13年6月16日条には次のように記されています。

「羽柴秀吉、弟秀長ヲシテ、諸軍ヲ率ヰテ、四国二渡海セシム」

これをみると、6月16日に秀長が諸軍を率いて四国に渡海したように思えます。しかし、続く関連史料(「多聞院日記』天正十三年六月十六日条)には、「四国ハ陳立在之云々、当国衆ハ不立、如何」とあるだけで、出発したとは記されていません。
 天正13年10月に大村由己が記した「天正記」の「四国御発向井北国御動座記」(以下、「四国御発向」と略す)には次のように記されています。


A 秀長は大和・紀伊・和泉の軍勢を率いて淡路洲本に、
B 羽柴秀次は摂津・丹波の軍勢を率いて播磨明石より淡路岩屋に渡海
C その後、淡路南部の福良に一旦集結し、そこから阿波土佐泊に渡った

讃岐方面を担当した宇喜多秀家は備前・美作の軍勢を率いて、蜂須賀正勝家政父子、黒田孝高らと讃岐屋島に上陸したとされます。

 次に、羽柴軍の四国上陸までの過程を見ておきましょう。
秀次の部隊と同じ明石から岩屋に渡った中川秀政は、6月17日前後に淡路に上陸したようです。
史料に「権兵衛(仙石秀久)与相談候て」とあるので、秀吉の指示を受けながら、現地の仙石秀久と対応にあたっています。ここからは、急ピッチで阿波上陸に向けた準備が進められた様子がうかがえます。そして「四国御発向」とあるので、秀長・秀次らの軍勢は福良周辺に集結して、6月23日に阿波に渡海しています。
【史料3】
書状披見候、早々渡海之由尤候、美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候、不可有由断候、謹言、
                                        秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
  意訳変換しておくと
 書状を見た。早々に阿波への渡海が完了したことは幸先がよい。以後は美濃守・孫七郎と相談しながら事を進めること。由断することなかれ候、謹言、
                                秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
この書簡は、阿波への渡海終了を伝えた中川秀政への秀吉の返書です。中川氏は秀吉から個別に命令を受ける立場にありましたが、ここには「美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候」とあるように、渡海をする過程のなかで、秀長秀次を中心とした軍勢に、次第にまとめられていると研究者は指摘します。

 一方、蜂須賀氏も淡路で秀長と協議しています。しかし蜂須賀氏は「四国御発向」では宇喜多秀家の率いる讃岐方面軍の所属となっています。
さらに、「改選仙石家譜」や「森古伝記」には、蜂須賀氏のほか尾藤・仙石らの諸氏も、宇喜多氏と讃岐屋島に上陸したと記します。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 研究者は次のように解釈します
①蜂須賀氏らは備前・美作の軍勢を率いて渡海した
②しかし、宇喜多氏とは別行動で、淡路・阿波方面から讃岐に渡った
③蜂須賀氏・尾藤氏は、長宗我部氏の最終処遇案を詳しく知る立場であった。
④彼らが淡路で秀長に接した後、別働隊として宇喜多氏に合流した
⑤これは、秀吉からの戦略的な情報を現地で共有するという点においても重要だった。
 四国出兵は、豊臣政権による国内統一戦のなかで唯一、秀吉が現地に出馬しなかった戦いです。
史料でみたように、当初は6月25日、28日、7月1日と順次出兵を進め、秀吉自身も7月3日に出馬する予定でした。それが先陣の秀長への配慮などを理由に、最終的に出陣することはありませんでした。四国出兵は、秀吉が陣頭指揮を執るこれまでの秀吉の軍事行動とは異なるものでです。そのため、命令伝達や作戦指示も、多少ギクシャクしたものになったと研究者は考えていここでは四国出兵における羽柴軍は、秀吉の指示を逐一受けながら、秀長・秀次を中心に一定の戦略方針のもとに軍事行動にあたったことを押さえておきます。
  以上を整理しておくと
①長宗我部元親は、信長政権の後継者となった秀吉にも敵対的な行動を取り続けた。
②一方、伊予をめぐって長宗我部は、毛利とも敵対関係に入り、外交的に孤立化した。
③秀吉は長宗我部元親制圧のために四国出兵を実行した。
④最初のその軍事行動の目的は、長宗我部元親の打倒と、伊予・土佐の毛利への配分であった。
⑤これに対して、毛利方は外交交渉で譲歩し、土佐と伊予の南半分の領有という妥協案が生まれた。⑥しかし、これに対して毛利氏の反発があり、秀吉は毛利側の主張を容れた。
⑦こうして開始された四国出兵は、秀吉が陣頭指揮をとらない初めてのケースで、指揮系統や戦略目標の選定などに今までにない動きが見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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 天正10(1582)5月7日に、信長は四国遠征を決定します。このとき、三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えています。
①信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
こうして5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てました。このような中で、信長の意向を讃岐の国衆ヘ伝達する役割を担っていたのが安富氏でした。今回は、信長の四国平定策が頓挫した後の、秀吉と安富氏の関係に焦点を当てて見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

信長に代わって権力を握った秀吉は、畿内情勢が落ち着くと四国平定に乗り出します。
秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。

書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎(行長)二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四日                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎(行長)に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。讃岐のことについては、いずれも弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四日         筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑥最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること

⑥からは、安富氏の人質は「利用価値」が高いと秀吉が考えていた節があります。
それは、安富氏の持つ海運力だったと研究者は考えています。安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたことは以前にお話ししました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたことになります。これは秀吉にとっては、大きな戦略的意味がありました。こうして秀吉は、戦わずして淡路の岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を配下に繰り入れることで、東讃・小豆島の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 秀吉の命で、仙石秀久が河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.
   屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保は逃亡
6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
1585年4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
以上のように秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。ここからは、 讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことが分かります。そして、小豆島・塩飽の領主に任じられていたのが「若き青年海軍将校・小西行長」でした。秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行の小西行長だったことになります。それだけではありません。③には、秀吉から黒田官兵衛への指示書には、小西行長と協議しながら戦略立案せよとありました。
ここでは秀吉は、東讃守護代の安富氏を配下に置くことで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れたことを押さえておきます。。

【史料14】羽柴秀吉書状写「十林証文」        89p
急度申候、乃去廿三日調略之以子細柴田打果候、近日其国ハ可令出馬候条、右之趣味方申江可被申遣候、猶千石(仙石)権兵衛(秀久)尉可申候、恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
急ぎ知らせる。3月23日に柴田勢を打ち払った。ついては、近日中に四国平定を開始するつもりである。このことを味方に急ぎ知らせるように。なお千石(仙石)権兵衛(秀久)には連絡済みである。恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
この書簡は、天正11(1583)3月23日に賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を敗死に追い込んだことを秀吉が安富氏に送ったものです。「右之趣味方申江可被申遣候」と、勝利の知らせを味方に伝達せよとあります。ここからは安富氏は、信長時代に引き続いて四国側の情報喧伝の役割を果たしていたことが分かります。
 ここで研究者が注目するのは、安富氏の宛名にいままでの筑後守がなく「又三郎」となっていることです。ここからは、筑後守は死去するか隠居して、又三郎が安富氏の当主になったことがうかがえます。この頃には前年に中富川の戦いで長宗我部氏に敗れ讃岐に逃れていた十河(三好)存保も羽柴氏に属していました。四国の「味方中」へ連絡することが求められていたのは、存保ではなく安富氏であったことを押さえておきます。

【史料15】羽柴秀吉書状写「改撰仙石家譜」
書状之旨、逐一令披見候、
一、去四日至阿州表讃岐十河(存保)・安富合手、河北不残令放火、則河端城押詰、外構乗崩、首八十余討取被指上、実二安度候、
一、今度於阿州表令忠節面々二対し一札被遣候、忠節神妙二候問可被申聞候、猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
尚以今度高名之もの共、能々書付候而可被参候、来春我々褒美可申付候間、出馬之刻聞届寺木へ申含候、
意訳変換しておくと
書状について拝見し、次のように申し伝える、
一、去る四日から阿波で讃岐十河(存保)・安富と合力して、吉野川河北地方を残らず焼き払い、河端城に押し寄せ、外構を乗崩して、首八十余を討取ったと報告を受けた。これは実に立派な働きである。
一、今度の阿波での軍功に対して、忠節神妙なので一札入れておく。猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
なお、今回の功名について、それぞれの書付を持参すれば、来春以後に褒美を取らせることにする。やってくる日時などを寺木へ提出すること。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①天正11(1583)12月となっても、仙石氏と安富氏・十河存保が羽柴陣営下の一員として、阿波方面で侵入してきた長宗我部元親に対して軍事活動を展開していたこと
②阿波での軍功の褒賞を約束していること
しかし、天正12(1584)6月に、讃岐の十河城が長宗我部元親によって陥落させられます。すると、讃岐における反長宗我部方の活動はあまり見られなくなります。この時期の安富氏が讃岐で活動を続けたのか、それとも落ちのびたのかはよく分かりません。分かっているのは、安富氏が反長宗我部・親秀吉の立場を貫いたということです。これが後の秀吉の「安富氏=忠義の者」という好印象につながったようです。

秀吉の四国平定1

 天正13(1585)になると羽柴秀吉は、それまでの守勢から反撃態勢に出ます。
大軍を動員し、三方から四国に侵入し、またたくまに長宗我部元親の防備ラインを突破していきます。こうして降伏した長宗我部氏の領国は、土佐一国となり、残りの三国は没収されます。
秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に述べていますが、その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)
一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、

  意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)
一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、地侍で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行を確定するように指示している
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと
仙石秀久的軍裝: WTFM 風林火山教科文組織
仙石秀久

こうして安富又三郎は、十河存保とともに仙石秀久の与力に位置付けられることになります。

結果として両氏は、領主の地位を保つことができました。長宗我部元親の侵攻と、その直後の秀吉の四国平定で、讃岐国内は動乱の舞台となり、多くの国人が讃岐からの離国を余儀なくされました。その中で、安富氏と十河氏だけが讃岐では領主として生き残ったことになります。ただし、讃岐一国を代表する地位は仙石秀久です。安富氏は、それまでの讃岐を代表する地位を失うことになります。

戸次川
四国衆の墓場となった戸次川の戦い 仙石・十河の名が見える
翌年、仙石秀久は九州攻めへ出陣しますが、秀久が率いるのは「四国衆」と総称されます。
そして、天正14年(1586)12月の戸次川の戦いで、仙石秀久が島津氏に大敗し、その責任によって改易されます。同時に、十河氏・安富氏も領主として姿を消します。十河存保が戸次川の戦いで戦死したことは知られています。「十河物語」には、安富氏(玄蕃允?)も戦死したと記されています。「十河物語」は作者も成立年代もよく分からない軍記ですが、長宗我部氏の讃岐攻めでは十河氏と安富氏が協働して戦ったことが記されています。こうした状況から一定の事実性を認めてもよいと研究者は評します。ここでは、安富又二郎も戸次川の戦いで死亡し、後継者が不在か幼かったことにより、改易されたとしておきます。

以上を整理しておきます
①信長の四国平定政策を引き継いだ秀吉も、讃岐国衆のまとめ役として安富氏を重視した。
②その後も安富氏は十河氏とともに秀吉側に付いて、長宗我部氏と戦い続け、讃岐を追われた。
③その忠節を認めて秀吉は「四国国分」の中で、仙石秀久の与力として領主の地位を十河氏と共に与えた。
④翌年の九州の戸次川の戦いで安富氏又三郎が戦死し、その地位も失われた。

最後に史料から確認できる安富氏の系図を研究者は次のように考えています。
安富氏系図

安富氏系図
①戦国期の安富氏当主は、元家以来の仮名「又三郎」、受領名「筑後守」を通称として使っている。
②彼らを特定する根本史料はないが、前後の当主は親族関係にある。
③南海通記など軍記ものに出てくる当主名と、一次史料の記述は、ほとんど合わない。
④又三郎や筑後守などの伝統的な通称さえ、南海通記には出てこない。
以上から、安富氏については南海通記の記述からは明らかに出来ない研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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前回は丸亀平野の元吉城攻防戦が、織田信長と毛利氏の備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争の舞台となったことを見ました。阿波三好氏は、そのどちらに加担するかをめぐって混乱状態となります。それを収拾したのが淡路から帰ってきた十河存保でした。彼によって再興された阿波三好家は、足利義昭や毛利氏を中心とする反織田ネットワークに組み込まれます。このため、阿波・讃岐は織田氏や織田氏と結ぶ土佐の長宗我部氏の攻勢に晒されるようになります。この辺りは分かりにくいところなので、最初に信長と長宗我部元親の関係を整理しておきます。

長宗我部元親と明智家の系図
長宗我部元親 石井家文書の意味

元親の正室は美濃の名門土岐一の石谷頼蔵の妹で、頼蔵は明智光秀の重臣です。
土岐家・明智家、光秀と長宗我部家との関係は古く、元親の正室は、土岐の一族である石谷光政の娘でした。さらに、光秀の家臣である斎藤利三の兄、頼辰は石谷光政の嫡男として養子に入っています。
また、光秀と元親の関係は、信長の上洛の前(1568年)からあり、『元親記』には次のように記されています。
長曾我部氏は、信長公とは御上洛前から交流があった。その取り次ぎは明智光秀殿であった

信長の対長宗我部政策の転換
信長の対長宗我部元親政策の転換背景
元親はこの人脈を頼りに織田信長に接近したようです。そして信長に嫡男の弥三郎の烏帽子親になってもらうことに成功します。信長から一字拝領した弥三郎はこれより信親と名乗るようになります。

長宗我部元親と織田信長、豊臣秀吉、明智光秀らの関係をわかりやすく!
長宗我部元親の外交戦略 信長と組んで阿波の三好を攻める

信長という大きな後ろ盾を得た元親は、二方面から阿波に侵攻し、天正7年(1579)に阿波国岩倉城の三好氏を攻め、三好山城守康長の嫡男の三好康俊を降伏させます。
長宗我部元親の阿波侵攻1
『元親記』によると、元親は天正8年(1580)6月に、弟の香宗我部親泰を安土へ送り、信長から四国は元親の手柄次第でいくらでも切り取ってよいという許しを得と南海通記は記します。しかし、先ほど見た石谷家文書からは、これよりも先に、長宗我部元親は信長に接近していたことが分かります。

1579年の四国を巡る勢力諸関係

当時の四国には長宗我部氏への対抗勢力がいくつもありました。伊予国の西園寺公広や河野氏、阿波国の三好康長、讃岐の十河(三好)存保らです。彼らはまずは秀吉に使者を立て、元親の野心を伝え、その脅威を説きます。秀吉の進言によって、信長は「四国=長宗我部元親切り取り自由」容認政策を転換します。つまり、一度は四国を好きに切り取ってよしという許可を与えておきながら、手のひらを返すように三好康長を支援する立場に変わった信長と戦うことを決意したのです。

長宗我部元親の毛利との連携策

このような中で、それまで三好氏に従ってきた安富氏も独自の判断を迫られるようになります。安富氏が織田権力とどのように関係を持ったのかを見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

まず備前の宇喜多直家が、小豆島の領主・須佐美紀伊守に宛てた書状を見ておきましょう。
【史料1】宇喜多直家書状「中野嘉太郎氏旧蔵文書」
先日被対左衛門進、如預御内証下警固雖乗上甲斐々敷儀無之、於千今ハ失手成候、殊急度為御先勢、始羽筑(秀吉)歴々被指下候、大坂之義、大概相澄之条、羽筑申談御注進申上候ハ、可被出 御馬之由、御朱印頂戴、此度中国之儀、相澄可申与存候、此等之趣、雨滝(城=安富氏)へも可頂御伝達候、呉々先日御内証快然之至候、猶左衛門進申入之条、不能審候、恐々謹言、
                          宇泉(宇喜多)  直家(花押)
三月二十四日
      須紀 御宿所
意訳変換しておくと
意訳変換しておくと
先日、左衛門進の働きぶりにを見ましたが、警固や乗馬などかいがいしく勤めている。羽筑(秀吉)の働きで、大坂の石山本願寺については、大方決着がついた。そこで羽筑秀吉から次のような指示が送られてきた。 四国平定について御朱印を頂戴したので、中国平定に片が着き次第、速やかに実行に移す。ついてはこの旨を、雨滝(城=安富氏)へも連絡するように伝達があった。呉々先日御内証快然之至候、なお、左衛門進についての申入については心配無用である。恐々謹言、
                          宇泉(宇喜多)  直家(花押)
三月二十四日
      須紀 御宿所
ここからは、備前の字喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉からの情報を小豆島の領主須佐美紀伊守に伝え、それを「雨滝」への伝達を命じていることが分かります。
 ここからは次のような情報が得られます
①備前の宇喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉に配下に組み入れられていたこと
②宇喜多直家は、小豆島の須佐美紀伊守を配下に置いて、人質を取っていたこと
③須佐美紀伊守に対して、秀吉の伝令を雨滝城の安富氏に伝えるように命じていること。
ここからは次のような命令系統が見えて来ます
信長 → 秀吉 → 備前岡山の宇喜多直家 → 小豆島の須佐美紀伊守 →
→ 雨滝城の安富氏 → 讃岐惣国衆
 ここに登場する 宇喜多直家について押さえておきます。

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①美作守護の赤松氏の被官人の浦上氏が前守護代として自立
②浦上宗景(むねかげ)の下で、有力武将に成長し岡山城(石山城)を拠点に勢力拡大
③これが備前福岡などの東部地域から備前中央部の岡山城下へ経済的中心の移動につながる
④主君の浦上宗景(むねかげ)が織田方に付いたのに対して足利義昭の仲介で毛利氏と和議
⑤織田方に付いた備中松山三村元親を、毛利勢と共に攻め落として所領拡大。
⑥さらに主君浦上宗景の天神山城を攻め、美作、播磨まで兵を進めて制圧
⑦下剋上を成し遂げた宇喜多直家は、備前、美作そして播磨の一部を領有する有力大名へ
⑧ところが羽柴秀吉が中国地方攻略に乗り出してくると、直家は秀吉方へ付き、織田方の先鋒として、攻め寄せる毛利の大軍と再三にわたり激戦を展開
この書簡は、直家が秀吉と密に連絡していることや本願寺との交渉を記しているので、天正8(1580)年のものと研究者は判断します。小豆島の領主・須紀(須佐見)を通じて、「雨滝」との連絡が行われていたことが分かります。ここでは1580年には、安富氏は織田方についていたこと押さえておきます。
秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

上の表からは、長宗我部元親の阿波侵攻に対して、篠原氏や安富氏が人質を秀吉に出して保護を求めていることが分かります。秀吉は黒田官兵衛に命じて、篠原氏の木津城や撫養の土佐泊城に戦略物資を容れています。

土佐泊城
撫養の土佐泊城(緑内部)

【史料10】長宗我部元親書状写「土佐国議簡集」
此度申合旨、宜無相違土佐泊之者共悉被討呆旨、安富方同前可被遂御忠儀者、三木郡共外壱郡於隣国可進之候、無異儀御知行候、恐々謹言、
                      長宮 (長宗我部)元親 (花押)      
      九月十六日
篠弾入 御宿所
意訳変換しておくと
この度の約束について以下が相違ないことを明記しておく。土佐泊を討ち取った場合には、安富方の忠儀として、讃岐三木郡とそれ以外の壱郡を知行地として与えることを約束する。恐々謹言、
                      長宮 (長宗我部)元親 (花押)      
      九月十六日
篠弾入 (篠原実長(弾正忠入道)御宿所
ここからは、長宗我部元親が篠原実長に対し、阿波で最後まで抵抗している撫養の土佐泊城を落としたら、讃岐国の三木郡とその他一部を与えることを約束していたことが分かります。篠原実長は阿波三好家の重臣です。その篠原氏を長宗我部元親が調略ができたのは、阿波三好家の内紛で十河存保が讃岐に逃れていた天正8年(1580)のことと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは実長に求められるのが「安富方同前」の「忠儀」であることです。ここからは安富氏が長宗我部氏の配下として動いていることが分かります。安富氏は織田方に身を投じながらも、織田氏の同盟者である長宗我部氏と連携していたことがうかがえます。

長宗我部元親の書状です。三好康慶が讃岐の安富氏の居館に下向してくることを伝えています。
【史料11】長宗我部元親書状写(部分)「吉田文書」 

一、三好山城守(康慶)近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、

意訳変換しておくと
一、三好山城守(康慶)が近日中に、讃州の安富氏の居館を訪れる予定である。子細については、使者が口頭で説明する。

この文書には天正8(1580)年11月24日付の書状写の一部とされます。 三好康慶が「安富館」(雨滝城)に下向する予定があると記されます。この他にも、阿波の勝瑞が本願寺の残党によって占拠されていることにも触れられています。こうした状況の中で安富氏の天霧城は、信長勢力の四国での重要拠点としての役割を果たしていたと研究者は考えています。これを裏付けるのが次の書簡です。
【史料12】松井友閑書状「志岐家旧蔵文書」
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就共阿・讃之儀、三好山城守(康慶)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時ニ両国不残一着候様ニ可被仰付候、可被得其意之旨、可申届之通、上意候間、其元□□二□[一、尤専用候、猶追々可中候、恐々謹言、
                    宮内卿法印 友感(閑) (花押)
十一月二十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度、淡路平定が完了したので、次の課題となる阿波・讃岐の平定について、三好山城守(康慶)を派遣するので、定められた日時に、定められた兵員数を即時に出兵できるように両国の国衆たちに仰せつけておくように。この申し届けを上意として受け止めた物に対しては、後々に褒美を使わすものである。恐々謹言、
                    宮内卿法印 友感(閑) (花押)
十一月二十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
  送り主の「宮内卿法印友感(閑)」は、信長の側近である松井友閑です。
天正9年(1581)に淡路が羽柴秀吉・池田元助によって平定された後のことで、阿波・讃岐計略について三好康慶が「安富館」(雨滝城)に派遣されること、阿波・讃岐の両国の諸勢が、その指示に従って動くように安富氏に伝えています。この翌年には織田氏は康慶の養子となった信長三男信孝を主将として四国平定を計画します。その計画の初見が、この文書になるようです。
ここに登場する三好山城守(康慶:やすなが)を押さえておきます。

戦国 三好一族 - 探検!日本の歴史
三好康長は阿波三好氏の一門衆で、兄の三好元長が宗家を継ぎ、その子・三好長慶は甥にあたります。畿内で転戦後に、信長の配下となり、阿波に強い地盤を持つ三好一族として影響力を評価され、織田軍の四国攻略の担当に抜擢されます。まず、天正6(1578)年には、淡路の安宅信康に働きかけて自陣に引き込みます。この頃に、三好康長と秀吉は接近しはじめます。秀吉のねらいは、当時交戦中だった毛利氏に対抗するために、三好氏の水軍を味方につけることでした。さらに、康長の子の三好康俊(式部少輔)は長宗我部側にあって、岩倉城主でした。そのため自分の子を織田方へ寝返らせるために、秀吉が送り込んできたようです。その受入口が安富氏の雨瀧城ということになります。天正9(1581年)1月に、康長は雨滝城にやってきて、情報収集や分析を行った後に阿波に入ります。そして長宗我部氏に属していた自分の子の三好康俊を織田側へ寝返らせることに成功します。

信長と長宗我部元親 友好から対立へ


信長の幻の四国平定

 天正10(1582)年2月9日、三好康長に再度「三好山城守、四国へ出陣すべき事」の書状が信長から届きます 。今度は長宗我部元親を討つ四国遠征に先んじて再び阿波に渡たります。5月7日付の信孝宛の朱印状には、次のように記されています。
①信長の三男信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
『宇野主水日記』同年6月1日条には、このとき康長が信孝を養子とする事も内定していたと記されています。こうして、5月1日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日の出港に向けて準備を進めていました。ところが、6月2日に本能寺の変が起きて信長が光秀に殺されてしまいます。そのため信孝の出征は急遽、中止となります。この時、康長は阿波一宮城と夷山城を攻略中でした。6月3日に知らせを受けると、急ぎ兵をまとめて河内に戻り、上洛します。
 ここでは信長による四国平定の立案責任者が三好康慶であったこと、康慶は安富氏の雨滝城を足場にして阿波に入っていることを押さえておきます。安富氏は阿波・讃岐の親織田勢力のまとめ役を果たしていたことになります。
最後に当時の安富氏の居城とされる雨瀧城を見ておきます。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する雨瀧城

 「雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていました。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。
『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています。

雨瀧山城 城下町富田2 

雨瀧山城 商家町富田 
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。つまり、安富氏も瀬戸内海交易の活動メンバーの一員だったのです。
雨瀧城の町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります。

「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・
「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」

これらの地名がある場所を確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山 居館跡奧宮内3
雨滝城 奥宮内居館跡

以上をまとめておきます。
①天正6年(1578)の阿波三好家再興後も安富氏は三好氏に属していた。
②それが1580年頃から羽柴秀吉・宇喜多直家の調略や本願寺が織田氏に屈服したことを受けて織田方として動き始めまる。
③こうした動きは阿波三好家の三好存保(義堅)の指示によるものでなく、安富氏独自の判断によるものであった。
④安富氏は織田方の三好康慶の下向先でもあり、織田氏の意向を讃岐や阿波ヘ伝達する役割を担うなど、信長の四国平定政策の重要な役割を担う一員であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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 三好長治(暴君説は、近世の蜂須賀時代の創作?)
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三好長治について、ウキは次のように記します(要約))
①天文22年(1553年)以降に三好実休の長男として生まれる
②永禄5年(1562年)、父・実休が久米田の戦いで戦死し、家督を相続
③伯父・三好長慶が畿内の支配力を支える重要な役割を期待された。
④幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。
⑤分国法「新加制式」を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛
⑥これらは篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の成果
⑦織田信長の上洛により、三好氏は次第に畿内から追われて阿波国に撤退
⑧元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。
⑨摂津国では、管領細川氏の嫡流・細川昭元を大将に担ぎ除く三好一門の大半を結集して、織田信長との戦いに挑んだ(野田・福島の戦い)。
⑩石山本願寺の加勢や近江国での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。
⑪元亀3年(1572年)には不仲となった篠原長房を、異父兄である守護の細川真之と協力して攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。
⑫強権化した長治に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告
⑬それを受けて十河存保からも長治の暴政について諫言あり。
⑭これを疎んじた長治は兵3000で香川・香西両氏を攻め、両氏の離反を決定的なものとした(「全讃史」)。
⑮天正3年(1575年)、阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要し、猛反発をうける。
⑯このため国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、支配力喪失
⑰国内の混乱は、長宗我部元親による阿波侵攻を誘発し、海部城や大西城などが陥落。
⑱天正4年(1576年)秋、守護・細川真之が本拠の勝瑞を出奔した
⑲長治は真之を討つため、那東郡荒田野へ出陣したが、一宮成相や重臣の伊沢越前守が離反で敗北⑳その後、篠原長秀の居城・今切城に籠もったが一宮勢の攻撃により追われ、
㉑同年12月27日、板東郡別宮浦(吉野川の川口付近)で自害した
㉒辞世の歌は、次の通りです。

三好長治 挽歌

「三好野の 梢の雪と 散る花を 長き春(長治)とは 人のいふらむ」

三好家の最後となった三好長治については、阿波では暴君説が流布されています。しかし、18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長治、さらに長宗我部元親などの評価が貶められていくことは以前にお話ししました。その一例が「三好長治=暴虐説・無能説」と私は考えています。話を本題にもどします。
天正4(1576)12月に、三好長治が阿波守護家の細川真之と阿波国人一宮成相・伊沢頼俊らに襲われて敗死します。この時期の阿波の政治状況を森脇崇文氏は、次のように述べます(要約)

 一宮成相と伊沢頼俊は細川真之とともに三好長治を攻め減ぼした。その後の阿波国主は織田信長と相談して決めようとしていた。織田氏に対する配慮のため、一宮・伊沢は長治横死に乗じて阿波復帰を合てた篠原松満(長房の遺児)の入国を拒否し、真之とも決裂してしまう。
 これに対し、信長との協調に反対する矢野房村(駿河守)らは細川真之、篠原松満、篠原実長らも糾合し、毛利氏と連絡を取り始める。すなわち、巨視的に見ると阿波三好権力は長治の死を契機に、織田氏と結ぼうとする勢力と毛利氏と結ぶ勢力に分裂した。前者に一宮・伊沢が、後者に細川真之、篠原松満、篠原実長、矢野房村が結集する状況にあった。

これを整理すると次のようになります。
阿波三好氏の内部対立
ここでは阿波では、「信長 OR 毛利」の同盟先をめぐる対立渦中にあったことを押さえておきます。
これは三好氏支配下にあった讃岐の支配体制にすぐに影響します。

まず、丸亀平野の中央にある元吉城の城主が毛利氏に寝返ります。
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか? 元吉合戦に参加した毛利方の乃美宗勝の記録には、次のように記されています。

「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、
毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴古館蔵)には次のように記します。

「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

両書ともに元吉城の主は、「阿波の三好遠江守であった、それが毛利方に寝返った」と記されています。
 ここからは三好遠江守は、阿波出身でありながら讃岐の元吉城を知行していたことが分かります。天霧城主の香川氏を追放した後、阿波や讃岐の国人たちに知行割りが行われていたのです。
三好遠江守の寝返りの背景には、阿波における「A 海瑞派(信長派) VS B 反海瑞派(毛利派)の対立があったと私は考えています。こうして翌年1577年7月には丸亀平野中央の元吉城をめぐって、毛利氏と「讃岐惣国衆」が交戦します。経過は以下の通りです。

1 櫛梨城2


元吉合戦の経過

小早川家臣の岡就栄に、元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状を見ておきましょう。
(意訳変換)
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐惣国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村三好安芸守の軍勢合わせて3000ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この時に参戦している讃岐惣国衆のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守も、三好遠江と同じように先国内に所領を盛っていた阿波の国人のようです。彼は、阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことが史料から分かります。
ここで注目しておきたいのは、攻城側の主体が「讃岐惣国衆」で、阿波側は三好安芸守しかいないことです。讃岐勢のメンバーの思惑は、香川氏追放後に得た知行地の死守だったことが推測できます。しかし、どうして阿波三好側は、兵力を差し向けなかったのでしょうか? 当時の三好氏は、信長と同盟関係にあり、毛利氏の瀬戸内海覇権を阻止する立場にあったはずです。前置きが長くなりましたが
今回は、「讃岐惣国衆」の中に名前がある安富氏の動きから、その疑問を探っていこうと思います。
テキストは、「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」

阿波情勢への讃岐の勢力の関与について、「昔阿波物語」には次のように記します。

【史料八】「昔阿波物語』第二   
一、天正五年五月に、伊沢越前(頼俊)、坂西に城を作るとて、坂西の町屋に御座候時、矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など談合して、若も伊沢が、我等を助ける事有間敷候間、伊沢を夜打掛に打ちはたさんと談合して、(略)

庄野久右衛門を頼み、夜半に見てに入る。伊沢殿満足めされ候様に申しなし候によりて、酒もりになり、平に正林も無くゑひつぶれ候所を、久右衛門、伊沢殿御宿を出ると否や、弓六十ちやうにて取かけ申し候。伊沢殿人数は千五百人御座候ひつれ共、夜半の事に候へば、町屋より出る所を射たをし/ヽ仕るに付て、千五百人は役に立たず、町屋の裏々より逃げて、伊沢殿宿計残り候を、火を付けて焼ころし候。一宮(成相)殿は、夜明て其儘、奥野迄御手遣なされ候ひつれ共、角瀬川・住古川水ふかく候に付て、勝瑞町人、河の端に出候て、勝瑞は持ち堅め申し候。(略)

矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃、この衆は勝瑞の町をたよりにして、住吉河切に戦を仕り候に付、讃岐の国東方の安富は、東方半国の大将なり。伊沢越前のをぢなる故に、人数五千人大山へ打上りて、 一宮殿と申合せ候。勝瑞の町は一宮殿計させ敵にして、大事に存じ候に、讃岐の人数を見てきもをつぶし候時、矢野駿河申され候様は、讃岐の者は大さか(大坂峠)を一足もゑさがるまじく候。是はきつかひなく候。 一宮計てきぞと申さる。少もちがはず、讃岐の勢は頓てもどり候。此内に篠原自返(実長)は、淡州の人数引連て、勝瑞へ御入り候。

意訳変換しておくと
一、天正5(1577)5月に、伊沢越前(頼俊)、坂西城の築城工事中に、坂西の町屋で矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など、もしもも伊沢が、我等の味方をしないのなら討ち果たすべしとと談合した、(略)

庄野久右衛門が夜半に見に入ると、伊沢殿は満足し、酒盛りとなった。正体もなく酔い潰れているのを確認すると、久右衛門は外に出て、弓六十帳で矢を宿に打ちかけた。伊沢殿は千五百人の人数を連れていたが、夜半の事なので、廻りの町屋から飛んでくる打ち手が分からず、千五百人の兵は役に立たず、町屋の裏々より逃げ出した。それを、伊沢殿は宿に火を付けて焼殺した。伊沢氏と連携していた一宮(成相)殿は、夜明てから奥野まで兵を進めたが、角瀬川・住古川の水深が深く、また、勝瑞町人が河の端に出て防備したので、勝瑞への侵入は果たせなかった。(略)

反海瑞派の矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃は、勝瑞の町を拠点として、住吉川まで押し出した。この際に、東讃岐守護代の安富は、伊沢越前の叔父であり親族関係にあったので、五千の兵を率いて大坂峠までやってきて、一宮殿と連携する動きを見せた。勝瑞の町は一宮への対応だけでなく、新たに姿を見せた讃岐の兵力を見て肝を潰した。その時、矢野駿河は「讃岐の者どもは、大坂峠を一歩も超えることはない。心配無用。一宮市への防備だけを考えれば良い」と云って不安を払拭した。この言葉は見事に的中し、讃岐勢は大坂峠から引き返した。こうして篠原自返(実長)が、淡路から兵力を連れて、勝瑞へ入城した。

これを要約しておくと次の通りです。
①天正5(1577)5月 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討った。
②伊沢氏と連携関係にあった一宮成相は、これを受けて、勝瑞を舞台に房付らと対峙した。
③そこへ讃岐「東方半国の大将」である安富氏氏が5000人を率いて、一宮成相を加勢する動きを見えた。
④これに対して、矢野房村は安富氏など讃岐勢が撤退すると予見し、その通りになった

ここには、安富氏は伊沢頼俊の(叔父)であったとも記されています。安富氏が三好氏の有力武将と婚姻関係を結んでいたことを押さえておきます。その関係もあって、安富氏は讃岐勢のリーダーとして、伊沢氏の側に立って、阿波の政争に介入する動きを見せたと記されています。

それでは矢野房村が讃岐勢がすぐに撤退すると予見できたのはどうしてでしょうか?
それが先ほど見た元吉合戦とリンクすると研究者は指摘します。
改めて1577年前後の毛利氏や信長の動向を見ておきましょう

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ここからは、当時は石山本願寺の攻防戦が本格化し、毛利方は石山本願寺への兵糧などの戦略物資の輸送ルート確保が最重要課題であったことが分かります。そのために寝返った元吉城を備讃瀬戸南航路の拠点として、改修工事を行い防備を固めます。これは、阿波では親毛利派の反海瑞派の政権奪取後のことなので、三好側の了解も得れると考えたのかもしれません。ところが、阿波国人はこれに納得しても、毛利の讃岐侵入を許せないと考えたのが「讃岐惣国衆」だったのではないでしょうか。その背景には、毛利氏の占領が元西讃守護代の香川氏の帰国復権とリンクしていたからです。1563年の天霧城攻防戦に敗れた香川氏は、安芸に亡命します。香川氏の所領は、この戦いに参加した、阿波・讃岐の国人たちに分配知行されます。香川氏が帰ってくるということは、得た知行地を失うことにつながります。
まさに「一懸命」の戦いが元吉合戦だったと私は考えています。
 しかし、寄せ集めの「讃岐惣国衆」は、戦術的な失敗をいくつもやらかしてしまいます。
①三好側の援軍が少数で、総勢で圧倒できない兵力で元吉城を攻めかかっていること。
②援護に駆けつけた摺臼山の毛利軍の大軍を背後にして、城攻めを開始していること
その結果、「讃岐惣国衆」は敗北します。これが長宗我部元親の讃岐侵攻開始の1年前のことです。これに懲りて、讃岐国人衆は土佐軍への組織的な抵抗をせず、帰順し先兵として活動することになったのではないかとも思えてきます。話が少し脱線しましたが、毛利方にとっては「讃岐惣国衆」の抵抗は「想定外」だったようです。親毛利方の三好配下にあると思っていた讃岐国人たちが攻めてきたのですから。
 
話を、天正5(1577)5月にもどします。 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討ちました。大坂峠までやってきた安富氏が、それ以上は阿波に入ってこなかったのは、元吉城をとりまく状況が切迫し、阿波への介入どころではなかったこと。矢野房村が安富氏の撤退を予見できたのも房村が毛利氏との交渉を担当していたためと研究者は推測します。

  昔阿波物語は三好氏にも仕えた二鬼島道知の著で、道知が体験した元亀以降の戦乱についての信憑性は比較的高いとされるようです。
 安富氏ら「讃岐惣国衆」が伊沢氏らの「勝瑞派」と提携した理由については、研究者は次のように推測します。
①伊沢頼俊の叔父にあたるという安富氏との縁成関係
②安芸亡命中の香川氏復帰を伴う毛利氏の讃岐進出への讃岐国人の抵抗
 11月に毛利氏と「讃岐惣国衆」の羽床氏・長尾氏が和睦すると、「阿・讃平均」と呼ばれる小康状態になります。そして天正6年(1578)には、三好存保が淡路から阿波に入国して阿波三好家が再興されます。そして安富氏ら東讃岐の国人もまた、阿波三好家の傘下に戻ったようです。
   以上を整理しておきます。
①三好長治の敗死によって、阿波三好家は「親信長派」と「親毛利方」に分裂した。
②これに対して、安富氏ら東讃岐の勢力は「讃岐惣国衆」として結集した動きをみせる。
③「讃岐惣国衆」は「親毛利方」と連携して阿波の混乱に軍事介入の意図を見せた
④しかし、毛利氏が讃岐元吉城に進駐すると、讃岐に戻り毛利氏と戦った。
⑤この戦いに「讃岐惣国衆」は敗北し、毛利氏や妥協し、三好氏の下へ帰順することになった

最後に、毛利氏の讃岐経営方針を推測しておきます。

毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号
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2025年総会 白川琢磨講演会

上記の内容で白川琢磨先生の講演会を開催します。興味と時間のある方の参加を歓迎いたします。
日 時  令和7年8月3日(日)総会 13:30  講演会は総会後の14:00を予定
場 所 まんのう町役場3階 大会議室(まんのう町吉野下430番地)


           
 前回は16世紀初頭の永世の錯乱後の安富氏の動きを次のように整理しました。
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた国元の安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まった。

今回は細川晴元失脚後の安富氏について見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」です。
安富氏は、三好長慶が細川晴元を追放したも晴元側についていたようです。しかし、讃岐東部で三好方と反三好方(晴元方)が軍事衝突したことは史料からは確認できません。時間をかけて、安富氏は三好氏の配下に置かれていったようです。
安富氏が反三好を貫き通すことが出来なかったのはどうしてでしょうか?
考えられることは、安富氏との直接的に利害対立していた十河一存と篠原氏の脅威が取り除かれたことです。十河一存は、弘治年間頃に一存の次男が和泉守護代松浦氏の養子となり、一存も和泉の岸和田城を本拠地とするようになります。つまり、脅威であった十河氏の勢力が東讃から消えたのです。
 もう一方の篠原氏について、以前に次のようにお話ししました。
①天霧城攻防戦の攻め手は、三好実休でなく三好氏の重臣篠原長房であったこと。
②時期は1558年ではなく、1563年であったこと(1558年は三好実休は畿内で転戦中)
③つまり、天霧城を攻め西讃岐守護代家香川氏を追放したのは篠原長房であること。
こうして讃岐西部は篠原長房の支配下に置かれるようになります。そして、篠原氏の管轄エリアが西讃エリアに限定され、東讃にその力を及ぼすことがなくなります。篠原氏の脅威もなくなったのです。こうして「一存の畿内転戦 + 篠原氏の西讃岐進出」=「東讃岐における安富氏との競合の一時凍結」という情勢を産み出したと研究者は推測します。これが安富氏が反三好を貫徹しなかった理由というのです。
次に三好氏の下で安富氏が果たした役割がうかがえる史料を見ておきましょう。
浦上宗景書状写「六車家文書」
猶々、当表任存分候ハヽ、向後対御方別而可遂馳走候、近来依無指題目不申入候、貴国静誰之由珍重候、就中当国之義、字喜多(直家)逆心令露顕、去春以来及矛盾候、手前之儀堅日之条毎々得勝利候、可御意安候、然者□々可預御入魂之旨申入候き、此時之条□□ノ覚と云一廉被不留候、□御賢慮所希候様外見合候、而全可遂一左右候、普伝(日門)上人無御等閑候由、委細可為御伝達候、恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
意訳変換しておくと
「浦上宗景書状写 六車家文書」
こちら備前では、抜かりなく対応をすすめており、近頃は大きな問題もありません。貴国讃岐も平穏に治まっており喜ばしいことです。当国については、字喜多(直家)が逆心を露わにして昨年の春以来、小競り合いが続いています。しかし、これについても我が方が優勢であり、心配をおかけするような情勢ではありません。
   もし、「当表」を任せてもらえれば、こちら(浦上氏)からも「馳走」させていただきます。また、私は普伝(日門)上人と懇意にさせていただいています。その旨を取り次いでいただけるようお願いします。恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
これは備前の浦上宗景から安富筑後守に宛てられた書状です。年紀がありませんが宇喜多直家が宗景から離反し、春以来交戦しているという状況から、天正3(1575)年と研究者は判断します。

 浦上宗景は元亀年間に三好氏と同盟関係にあり、その支援を受けていたことが史料から分かります。宗景が「馳走」するとする「御方」は三好氏を指すのでしょう。この史料が「三好=浦上同盟」の延長上に位置することが分かります。そこに安富氏の名前が出てきます。安富氏が浦上氏を三好氏に取り次ぐ役割を果たしています。安富氏が重要なポジションにあったことが裏付けられます。

文書の最後に、宗景は「普伝上人=普伝院日門」と親しいことを三好氏に伝えるように依頼しています。
日門は、三好実休などの阿波三好家が帰依した日班と交流がある僧侶で、堺の講会にも参加しています。ここからは、日門も三好氏と交流があったことが推測できます。三好・浦上間の交渉に日門が登場することは法華宗の流通ネットワークが利用されていたことを示す物です。前回見たように港湾都市宇多津の管理権を握っていたのは安富氏でした。そして、特権を与えていた日蓮宗本妙寺は日班が属する法華宗日隆門流の寺院でした。日隆のネットワークの中に宇多津や安富氏が組み込まれていたことがうかがえます。ここでは、安富氏は三好氏に属しながら、三好氏と同盟する周辺勢力との交渉に関係していたことを押さえておきます。

安富氏と三好氏の関係は、もうひとつの史料で見ておきましょう。

【史料七】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事、肝要候、恐々謹言、
                   彦次郎 (三好) 長治(花押)
十月十七日     
安筑(安富)進之候
この文書も年紀がありませんが「戦国遺文三好氏編」では、天正3年(1575)とします。
三好長治は「篠原上野介・高畠越後知行」の棟別銭がかけられたことについて、こちらからは異議がないので従来通りにするよう安富筑後守に伝えています。筑後守が棟別銭をかけるのを認めたのでしょう。ここに出てくる篠原上野介と高島越後(越後守?)についてはよく分かりません。ただ両人の名字は阿波国人のもので、篠原名字なので、元亀4年(1573)の篠原長房減亡後、篠原氏が讃岐に持っていた権益が安富氏に与えられた可能性があります。どちらにしても、阿波三好家の当主が安富氏に権益を認めている内容です。ここからは両者には主従関係があったことが裏付けられます。

こうして見ると三好長治の時期にも、安富氏は三好氏に従っていたことが分かります。この年・天正元年(1573)には、畿内の三好本宗家が織田氏によって減ぼされます。その結果、2年後には阿波三好家重臣として河内で抵抗していた三好康長(康慶)も織田氏に属服し、その家臣となります。それでもなお安富氏が三好氏に従い続けたことになります。
その理由として、研究者が指摘するのは反三好勢力による香川氏への支援があったことです。
先ほど見たように1563年に天霧城を拠点とする香川氏は、篠原篠原長房によって攻め落とされます。そのため毛利氏を頼って、安芸に亡命中だったようです。その香川氏の讃岐帰国運動を、細川京兆家の当主・信良(晴元の子)は後援し、讃岐国東六郡を宛行っています。信良は実質的な支配力を持っていたわけではないので、この領知宛行は空手形です。しかし、東六郡に勢力を持つ国人たちとっては、香川氏の復帰を後押しする「毛利=細川京兆家=信長」は、仮想敵国と見えます。そのため安富氏ら東讃岐の国人は三好氏に従う以外に選択肢がなかったようです。また以前にお話したように、安富氏は三好氏の重臣・伊沢氏と縁戚関係がありました。こうした関係性が三好氏配下に留まり続けた理由と研究者は考えています。

以上を整理しておきます
①讃岐に侵攻する阿波三好勢力に、当初は安富氏は抵抗したが、最終的には三好氏に属した。
②その背景には、十河一在や篠原長房の脅威がなくなり、安富氏の権益を三好氏が容認したこと。
③三好氏の配下として、畿内や吉備に関わり、利益を得るようになったこと
④その結果、安富氏が三好氏の軍事行動にどう関与したのかはよく分からないが、三好長治が横死するまで三好氏に属し続けた。
⑤香川氏の西讃帰国運動を支援する毛利氏や細川京兆家や信長などは仮想敵国と受け取られた。
⑤そうなると、頼れるのは隣国の三好氏以外に選択肢が無かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号

戦国時代の讃岐ついては、過去の研究の多くは近世に書かれた軍記物に頼ってきました。しかし、南海通記などの信頼性が失われる中で、一次史料による新たな記述が求められるようになっています。そんな中で、西讃守護代の香川氏については秋山文書などの発掘で、その解明が進み新たな実像が見え始めました。今回は、東讃守護代の安富氏を一次資料で追いかている論文を見つけましたので紹介したいと思います。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

永世の錯乱3
永世の錯乱(1507年)


永正4年(1507)に、細川京兆家の当主政元が、家臣の香西氏によって暗殺されます。これを契機に「永世の錯乱」と呼ばれる権力闘争が細川家内部で開始されます。その余波として、阿波の細川氏が讃岐に侵入し、讃岐はいち早く戦国時代に突入することは以前にお話ししました。この動乱の中に安富氏もたたき込まれていきます。
 当時の安富氏の動きを系図化して見ておきましょう。

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安富氏の系図(一次史料によるもの)
ず安富氏の系図をみながら当主たちを追いかけて見ます。
①の安富元家は細川京兆家の筆頭内衆で、東讃岐守護代でもありました。
政元が「天狗道」に執着して政治に関心を失う中で、京兆家を主導することもあったので、その地位は高かったようです。しかし、文亀三年(1503)8月安富元家は内衆の制御を図る細川政元によって失脚させられ、翌年七月末に死去してしまいます。元家の東讃岐守護代の地位は、廃嫡されていた②長男元治(又二郎)が継承します。ところが元治も、永正元年(1504)9月、摂津守護代薬師寺元一の反乱の中で戦死します。その後は、元治の弟と思われる③安富元顕(新兵衛尉)が東讃岐守護代となります。しかし、これも永正4(1507)年に細川政元が暗殺されると、元顕は細川澄之に与して動き、澄之とともに討たれてしまいます。
 次に登場するのが永正6(1509)には高国方として④安富元運(又三郎)が確認できます。元運は世代や仮名から元治の遺児である可能性があると研究者は考えています。細川高国が澄元を畿内から追うと、高国は守護代クラスの被官を重臣とする体制の復古に動きます。そこに起用されるのが⑤安富元成(又三郎、元運と同一人物?))です。こうして、元成によって、守護代家としての安富氏は復活します。ところが国元の讃岐には、阿波から澄元方の影響力が及び、元成の東讃岐守護代は実質を伴わなくなったようです。元成は永正11(1514)までに出奔していまいます。
 高国は大永三(1513)に嫡男植国付きとして安富又二郎を配して、守護代家安富氏の復活を図ります。ところが、植国が大永5(1525)年に亡くなると、又二郎は出家してしまいます。こうして、守護代家安富氏の復権は挫折します。なお、守護代家・安富氏の傍流として安富家綱が高国に近臣として仕えています。そして、高国方に見える安富氏は享禄3年(1530)七月の安宮(安富)家綱の後継者と思しい又次郎の戦死を最後に確認できなくなります。つまり、在京の安富氏は永世の錯乱に飲み込まれて姿を消して行ったようです。

永世の錯乱抗争図3
一方、澄元・晴元方についた安富氏を見ておきましょう。
永世17(1520)、三好之長が細川高国と戦った「等持院の戦い」では、三好方に「安富」の名前が見えます。この安富氏は香川氏と並列されているので、澄元によって東讃岐守護代家に立てられたものと研究者は推測します。
澄九・晴元と高国の京兆家をめぐる争いは、結果として細川家の弱体化を招きます。そのような中で、大永7(1527)、高国から離反した波多野几清・柳本賢治兄弟が晴元と結び、高国を破って京都から追放します。高国はその後は京都を奪還できないまま、享禄4年(1531)に敗死します。このような中で、大永7(1527)年以降に晴元方の安富氏が畿内に出陣したかどうかは分かりません。讃岐在国の安宮氏は、晴元方の安富氏のようです。
なお、安富元家は通称を又二郎、新兵衛尉、筑後守と変化させたいます。
これについて川口成人氏は、この通称を仮名の又二郎は安芸守家のもので、受領名の筑後守は筑後守家のものと推定します。元家の父元綱は安芸守家から筑後守家へ養子に入ったため、元家の通称は安芸守家の仮名から比後守家の受領名へ推移するものとなったとします。そして、元家以降は、又三郎が守護代家の正嫡の仮名として定着していきます。守護代家としての安富氏が分裂しても、元家の通称がその正統性を示すものととされていたようです。
 ここでは、安富元家以降、永世の錯乱で両細川が争う中で、安富氏も在京する高国方と讃岐に在国する澄元・晴元方に分裂していったことを押さえておきます。

在京する安富氏は、高い家格を期待されていました。
しかし、国元の讃岐に影響力を及すことはできなかったようです。そのため軍事動員力が機能せず、その地位は安定しません。やがて、高国やその残党の中から安富氏は姿を消します。細川晴元が優位になるにつれて、安富氏の嫡流は晴元方に一元化されたと研究者は考えています。

安富氏が備讃瀬戸の重要港湾都市の支配権を握っていたことを示す文書を見ておきましょう。

【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相違状如件
享禄二(1529)正月二十六日     元安(花押)
宇多津法花堂

【史料2】安富政保奉書「本妙寺文書」
当寺々中諸課役事、元保任御免除之旨、得其意候者也、乃状如件、
享禄二年七月二日        安富左京進  政保(花押)
宇多津 法花堂
史料1は享禄二年(1529)に、安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役を免除したものです。
研究者が注目するのは諸役免除特権が書下形式で発給されていることです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。安富元保は自分の判断で諸役免除を行っています。宇多津は、この時期には安富氏が管理権を行使していたことがここからは分かります。

DSC08543
              日隆像(宇多津の本妙寺)
 細川晴元の「堺幕府」樹立の背景には、日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れ利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」を構想していたと考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして自己の影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもありました。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったというのです。三好長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。そのサテライト拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。

史料2は、史料1の「元保書下」を受けて発給された奉書です。
ここに登場するのが「安富左京進政保」です。この人物は、長禄4年(1460)に「安富左京亮盛保」が在国の小守護代として確認できるので、政保は盛保の子孫の可能性があります。元保などの在京の安富氏は、畿内の晴元権力の意思決定には関わることができない存在で、在国の「安富左京進  政保」が国元を動かしていたと研究者は考えています。

本門寺の保護者が安富氏から篠原氏に替わったことを示す文書を見ておきましょう。
【史料三】篠原盛家書状「本妙寺文書」
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富吉筑後守(元保)如折紙、拙者其津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
                    篠原雅楽助  盛家(花押)
天文十(1582)年七月十七日     
字多津法花堂鳳風山本妙寺
          多宝坊
宇多津を支配することになった阿波の篠原盛家が「安富古筑後守(元保)」の折紙を先例として、本妙寺の諸役免除特権を認めています。「安富古筑後守」の折紙とは【史料1】のことでしょう。篠原盛家は本妙寺の諸役免除特権を引き続き認めていますが、これは安富氏の先例を継承するものです。「史料2」も書状形式なので公的な権限に基づくものではありません。
 篠原盛家は阿波守護家の被官で三好氏と深いつながりを持っていました。「右京進」や「大和守」を名乗る篠原氏嫡流と盛家の関係はよく分かりません。しかし天文8年(1529)9月には篠原右京進と盛家が阿波守護家細川持隆の使者となって働いています。ここからは、篠原家の嫡流に近い位置にあったことがうかがえます。またこの文書からは、阿波守護家の被官である盛家が宇多津に進出してきたことが分かります。これは、安富氏にとっては宇多津の伝統的な権益を奪われたことを意味します。安富氏の管轄エリアに三好氏と縁深い篠原氏が進出してきたことは、三好氏への警戒意識を抱かせることになったと研究者は推測します。



【史料4】細川晴元書状「服部玄三郎氏所蔵文書」
去月二十七日砥十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知仔細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及是非候、所詮退治事、成下知上者、安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、恐々、
八月十八日    (細川)晴元 (花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
 意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
 宛先人となっている殖田次郎左衛門尉については、よく分かりませんが「山田郡殖田郷」を名字とする国人のようです。
三好長慶と十河氏
三好長慶を支えた弟たち
十河一存は、三好長慶の末弟で讃岐国人十河氏を継いだ人物であることは以前にお話ししました。彼は天文17年(1548)を初見として民部大夫を称するようになります。仮名の孫六郎と書かれてるのでこの文書は、それ以前のものと研究者は判断します。一存が十河城を奪った契機やこの事件がいかにして解決されたかは、史料がないため分かりません。ただ分かるのは、これ以前は十河城は十河一存のものではなかったことです。
一存が十河氏の養子となり相続したという説に疑問符がともります。
【史料4】からは、十河一存の横暴に対して、細川京兆家から命令を受けて対応に当たっているのは安富氏だったことが分かります。
晴元の時代になっても細川京兆家が東讃岐の国人を軍事動員するのは、安富氏が担当していたのです。これは安富氏が東讃岐守護代の地位を細川晴元から認められていたことを裏付ける史料です。その後も十河一存は、細川京兆家のコントロールから離れ、兄の三好長慶側について動くようになります。それを安富氏は次第に制御できなくなります。

細川晴元・三好氏分国図1548年

     【史料5】細川晴元書状写「六事家文書」
為当国調差下十河左介候之処、別而依入魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯考入道(宗轍)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月十二日    (細川)晴元  (花押影)
安富又三郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、その方が懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属したので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。

【史料5】については「香川叢書』や「香川県史」は「摂州表之儀過半属本意」に注目して、大永7(1527)年のこととします。しかし、研究者は次の点に注目して異論をだします。
①波々伯部宗徹、田井長次ともに晴元の奉行人であること。
②波々伯部宗徹(元継)が伯守を称し始めるのは天文17(1548)年8月以降であること
以上から、この文書は晴元が三好長慶に敗れ没落する江口の戦い以降の文書とします。

三好長慶の戦い

ここで十河左介が晴元側について活動していることに研究者は注目します。十河左介は十河一存の一族でしょう。江口の戦い後になっても、十河左介は細川晴元に従う武将として三好方と戦い続けていることになります。さらに、安富氏も江口の戦い後も晴元側について動いていたことが裏付けられます。

江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

そのような中で1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。
そして
長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味すると研究者は判断します。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。これも阿波と讃岐の軍勢が一体化を示す動きです。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていく姿が見えます。
以上をまとめておきます
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まり、しだいに反三好勢力となっていった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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他国からの侵略者について、悪評が残るのは当然のことです。侵略する方は、「天下布武」「四国平定」「大東亜共栄圏建設」などの大義名分を掲げますが、侵略される方からすればそれは受けいれられるものではありません。讃岐でも、江戸時代後半になると長宗我部元親は「悪役」として語られることが多くなります。その背景を以前に次のようにまとめました。
①「長宗我部元親焼き討説」が広がり、「信長=仏敵説」のように語られるようになった、
②江戸時代の僧侶や知識人が「元親=仏敵説」にもとずく記述を重ねるようになった
③「土佐人による讃岐制圧」とが「郷土愛」を刺激し、長宗我部元親への反発心がうみだした。
どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、「元親=悪者説」が多いのです。それは阿波でも同じようです。今回は阿波での「長宗我部元親=悪役」の背景を探って見たいと思います。テキストは「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」です

研究者は長宗我部元親の「悪評」記述を次のように挙げます。
住吉神社/ホームメイト
藍住町の住吉神社

①板野郡住吉村(藍住町)の住吉神社に残る「住吉明神由来書」(1793)年

「住吉明神往古ハ余程之大社二候処 長曽我部兵火二焼失仕候」

 ここには、住吉明神は大社であったが元親軍の兵火で焼失したと伝えています。
②『阿波郡風土記」の香美村の項

「十一社が元親の兵火にあった。八幡祠(寛永元年九月再興(祭神三座 誉田別尊・依姫・神功皇后、門守の神像に焼け損じたる像あり。是は土佐虐乱の兵火にかかりしなりとぞ」

③名東郡上八万村(徳島市上八万町)の宅宮神社や四門寺にも元親軍の侵攻で兵火にあった伝承
④名東郡西須賀村(徳島市西須賀町)の神主冨川石見の書状(1793年付け)

「杉尾山神領所と申す候ハ四国御管領細川家御代々之御間は御室御領之比より相伝仕来り候通無相違乱持隆公之御代後迄社領仕居中趣之所人正年中之騒乱二長曽我部元親名東郡下八万村之内蛭子山楯之城二在陣之間勝浦近郷之在家を不残焼払ハセ候」

意訳変換しておくと
「杉尾山の神領所は四国管領の細川家の所領として騒乱も無く相伝してきた。ところが長曽我部元親の侵攻の際に、名東郡下の八万村の内蛭子山楯之城(夷山城)に布陣した際に勝浦近郷の家々はみな残らず焼払われた。」

ここには夷山城攻撃の際に、その南方にあたる勝浦近郊の家々を長宗我部元親が焼き払ったと伝えています。
⑤「忌部系統写」千日太夫の記述

「此時分乱賊多ク、長曽我部元親ノ神領ヲ押領ス。依テ一門社格身振ヲ失ウ」

吉野川市山川町でも長宗我部元親の侵入で寺社が社領を失い、退転したと記します。

⑦『美馬町史』

この時の長宗我部の兵火によって多くの民家が焼き払われ、由緒ある古寺院もまたその厄にあったと伝えられている。郡里字銀杏木の銀杏庵の周辺にその遺跡を残している郡里廃寺(立光寺とよばれていたともいう)のごときも、七堂を備えた白鳳期の大伽藍であったが、長宗我部の兵火によって焼失したとする伝承がある。『願勝寺歴代系譜』の記述にも長宗我部元親による被害が記されている。しかし真実は見極めがたい。

⑧『城跡記』
勝瑞城が陥落して三好(十河)存保が讃岐に逃亡した後も岩倉城は元親軍を防いでいた。そこで

「元親扱ヲ人テ城ヲ請取、城番トシテ長曽我部掃部頭ヲ置、此時当日神社仏閣迄悉ク焼亡ス、不人ノ至哉」

意訳変換しておくと
「元親は兵を派遣した城を奪い取り、城番として長曽我部掃部頭を配置した。その時に、周辺の神社仏閣はすべて焼き払った。この所業は人にあらず」

⑨『矢野氏覚書』の中富川合戦の記述
「さて土佐の軍勢共在家に火をかけ焼払ひ、勝瑞へ押寄、見性寺に陣を取」

ここでも戦闘に先立ち周辺の家々を焼き払ったとあります。

⑩『池田町史 上巻』
長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これらの伝説がどこまで本当のことなのかは確かめようがありません。ただ、板野地区の長宗我部との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が町営住宅の敷地になるため発掘調査されました。そこからは寛永通宝が出土しました。つまり、この塚は天正年間にまで遡るものではなかったのです。この例でもわかるように、「長宗我部元親=すべて焼き討ち」説が事実ではないようです。
 しかし、この長宗我部氏の寺院放火伝説は、土佐軍の侵人占領が、阿波の人々に大きな衝撃を与えたことは事実です。例えば池田地方は、戦国の世になっても大きな戦いの戦場になることはありませんでした。そこへ土佐兵が大軍でやってきて、何年間も軍事的占領し駐留したのです。白地城は常時3000の兵がいたと言われます。この城を拠点として、伊予や讃岐、吉野川下流へと兵が派遣・帰還などが繰り返され、池田地方はざわめき立ったことでしょう。食糧や物資の徴発、人夫の強制などは、池田地方の人々の負担となり、のしかかってきたはずです。征服者としての異国の土佐兵の常駐は、あっちこっちで問題を起こしたことが推測できます。八年間にわたる占領下の苦しみが土佐兵に対する憎しみとなり、長宗我部放火説へと転化していたのかもしれません。

『小松島市史 上巻』には、四国八十八番札所の恩山寺について、次のように記します。

「立江寺にも恩山寺にも長宗我部侵攻の際に兵火にかかったと言う伝説がある。新居見には長宗我部軍の職を五月職と見違えたために不運にあったことから、今も五月職の吹流しはつけない風習が伝えられている。新居見城の山麓の清浄寺池には焼いていた途中に襲来したために、半焼の魚がいると伝えられたり、更に清浄寺の坊さんが鐘をかぶって清浄池に飛び込み白なまずになつたとか、いろいろの話が伝えられている」。

阿南市桂国寺(長生町会下)の由緒には、次のように記します。
桂國寺庭園 ― 上田宗箇作庭…徳島県阿南市の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
庭園で有名な桂国寺

桂国寺は、応永20(1413)年に周防国鳴滝から阿波にやってきた泰雲寺の全庵一蘭が隠居所として創建したことにはじまる。永禄年間に兵火によって焼失したが、本庄城主安芸守によって再建された。しかし、天正十(1583)年、長宗我部元親の侵攻によって再び焼失した。天正13年、阿波国に入部した蜂須賀家政は、翌14年に丈六寺の描笑春賀に命じて再興させたと伝えられる。近世初期、牛岐城番で家老賀島家の保護を受け、以後賀島氏の菩提所となったという。

その他、阿波国に近接する阿讃山脈北麓に位置する讃岐国の大窪寺などでも元親の侵攻によって焼失したという伝承があります。
これに対して野本氏は次のように記します。

「元親は四国内の宗教諸勢力の力にも目を付け、国境を越えて教線上に点在する寺院を利用した。曹洞宗の場合、阿波の丈六寺を土佐予岳寺の末寺としたり、伊予の古刹龍沢寺を巧みに土佐の末寺元享院(津野領)の影響下に置くといった事例は、宗派別教線の支配という元親の外交戦の一端を垣間見せる。他にも、一向宗・法華宗などで元親の干渉を推察できる史料がある。彼が阿・讃・予の寺社の大半を故意に焼失させたという伝承の何割かは再検討が必要である」

以上のように、長宗我部元親の侵攻伝承の実態を検討しておく必要を述べています。

そういう目で、文久元(1862)年8月の「箸蔵寺旧記聞伝覚書』の「箸蔵寺由来」を見ていくことにします。
箸蔵寺本殿・護摩殿ライブカメラ | 徳島県三好市池田町 | ライブカメラJAPAN FUJIYAMA
一、上之堂与申者昔長曽我部宮内少輔(長宗我部元親)土州より打出大西家落城迄者箸蔵寺此処二有之候。其砌兵火に焼失仕夫より夜々山中に光りを見付、長曽我部一類之者尋来り樹下に霊像あり、見連バ、当山、権現本尊薬師如来諸眷属火中より出残り深く感歎し、是を宿因とし、右霊像を祭りしが凡三十ケ年にも堂寺無之、庵を結び日を送る
(中略)
一、先代蓬庵公巡国是砌、小庵ニ隠者有之候由、聞召、御登山被為遊候節住持申上候其時々之御領―様、是道者権現本尊江御供田被下置来り、殊更御祈祷、所二相成候義与奉申上虎御高之義ハ不被下候得共、山内七十七町七反四畝被為下置御證文御制札御書判被為仰付、御祈祷所並二御取立二相な有之候本社あり(下略)
意訳変換しておくと
一、上の堂と云うのは昔、長宗我部元親が土州から侵入し、大西城が落城するめで箸蔵寺があったところである。兵火で焼失した後に、夜が来ると山中で光りを発するものを見つけた。長曽我部の家臣が捜し訪ねていくと、樹下に霊像があった。見ると、当山箸蔵寺の権現本尊薬師如来が火中から現れていた。これに深く感歎し、宿因とし、この仏像を祀ったが、凡十ケ年にも堂寺は建立できず、庵に安置されていた。
(中略)
一、先代の蜂須賀家の蓬庵公が巡国の際に、仏像が安置されている小庵に隠者がいることを知って、呼び寄せ住持とした。その時に寺領を拝領し、道者権現の本尊御供田とした。さらに祈祷などに優れた効能があったので、山内に七十七町七反四畝の寺領の證文と制札を下さされるように仰せつかった。この祈祷所と取立の証文は本社(箸蔵寺)にある。

ここには、前半部で長宗我部軍の兵火による箸蔵寺の焼失が、そして、後半部に蜂須賀藩による保護復興と寺領寄進が記されています。これは、長宗我部元親と蜂須賀家を意図的に対照的にかき分けていることがうかがえます。これについて、研究者は次のように指摘します。

これには、藩主蜂須賀家の威徳を奉ると共に、蜂須賀氏との関係を強化・維持しようとする地域社会の動向のなかから生み出されたきた侵攻伝承ではないかと思わせる

ちなみに、元親侵攻と同時代を生きた二鬼島道知の『昔阿波物語』などには長宗我部軍による兵火のことは何も書かれていません。
阿波国海部郡への侵攻に関して『元親記』は、次のように記します。

元親卿、其春の異夢を神主左近合申所の任神慮阿波入を思立、早速得利運たりじ併氏神八幡大菩薩之加護なりとて、帰陣の後社参し給ひて、種ゝ神楽を備へ、神社十十二疋社進し被通夜たり。

  意訳変換しておくと
長宗我部元親は、その春の異夢を神主の左近合が語る所の「神慮が阿波侵攻」求めているという言葉を思い出し、早速に神運がめぐってきたと解釈した。これぞ氏神八幡大菩薩の加護だと云って、帰陣した後に氏神に参拝して、様々な神楽を備へ、神社に奉納した。

ここからは元親が八幡大菩薩を信仰し、その加護を深く信じていたことがうかがえます。
「長宗我部氏掟書」にも「一、諸社神事祭礼等、従先年如相定、不可有退転事」とあります。ここからも社寺の祭礼に気を配り、保護に努めていることが分かります。戦国武将は神仏に保護を加え、その加護を求めるのが普通でした。元親も丈六寺など寺社勢力の掌握にも努めています。寺社に対して、無制限に焼き討ちを行った痕跡はありません。
その他、『阿州足利平島伝来記』は次のように記します。

「長曽我部元親、天正五年阿州へ責来ル時、桑野二陣取テ居ケル時、桑野梅谷寺卜云僧二池田長兵衛卜云者ヲ指添、義助方へ尊公御領分ハ、全異儀御座有間布候トテ、細矢卜名付ル駿馬ノ馬土佐紙等ヲ添テ送、同天正十年ノ秋、元親又当国へ打入、勝瑞三好正安ヲ責シ時モ、夷山二在陣、八万村丹光寺卜云出家二西守腎齋卜云法師武者ヲ相添、引廻ヨキ故二名ヲ小鋸卜云ル馬二、土佐布杯ヲ添テ被送ケリ」
意訳変換しておくと
「長曽我部元親が、天正5(1577)年に阿波に侵入したときに、桑野に陣を置いた。その時に、桑野梅谷寺の僧に池田長兵衛を遣って、そちらの寺領については、すべてを今まで通りに認め保護する旨を伝え、「細矢」卜いう駿馬を土佐紙とともに贈った。また天正10(1582)年の秋に、勝瑞の三好正安を攻略するときには、夷山に陣を敷いた。その時も、八万村丹光寺に西守腎齋という云う法師武者を遣って、「小鋸」という馬と、土佐布を奉納している。

ここからは、長宗我部元親が阿波の拠点寺院を選択的に保護していることがうかがえます。
研究者が注目するのは、次の『長元物語』の記述です。

三好殿家老衆大将ニテ、人数六千余打出テ、岩倉ノ城近邊在々、池田・ヒルマ(昼間)其邊焼働シテ

ここには長宗我部軍に攻めたてられた三好方が、岩倉城周辺や池田・昼間の家々を焼き払ったことが記されています。
『昔阿波物語』には次のように記します。

十河(三好)存保の家臣木村新丞なる人物が「城のうちを出て、勝瑞の町を一間も不残焼払ひ候」

ここには海瑞攻防戦に先立って、三好方の武将が勝瑞の人家をすべて焼き払ったことが記されています。
  戦闘前には家々を焼き払うのが常套戦術でした。三好方の放火もあったもことが分かります。

寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺

美馬市美馬町の『願勝寺歴代系譜』二六代快全上人の項には、次のように記します。

「天正年中土州長曽我部元親ノ兵火二罹り一端無住同断ノ地トナリケルヲ快全上人焦心尽カシテ当寺ヲ再興シ、天正十三年大守蜂須賀家政公御入国以来種々古来ノ由緒ヲ申立先規ノ如ク被仰付御墨附迄拝領シ上郡大地ノ一寺トナルハ是快全ノ功労也」

意訳変換しておくと
「天正年間に土佐の長曽我部元親の兵火を蒙り、一時は無住の寺となった。それを快全上人が尽力して再興した。、天正13年に蜂須賀家政が入国した際に、古来からの由緒を申立てて、従来通りの特権などの御墨附を拝領した。これによって上郡の有力寺院となることができた。これは快全上人の功績である。」
 
ここには長宗我部元親の焼き討ちで退転した願勝寺を、快全上人が復興したことが記されています。そして、それを保護・支援したのは、蜂須賀家初代の家政です。

蜂須賀家政 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins)
蜂須賀家初代の家政
この文書は長宗我部侵攻からさほど時間の経過していない文禄三(1594)年の奥書をもつことから、信憑性が高いとされてきました。しかし、この年は蜂須賀家の家老稲田氏から願勝寺が郡中出家取締の役に命じられた年に当たります。蜂須賀家から墨付きを拝領したた願勝寺の立場として、蜂須賀家への「お礼」の思いから書かれた可能性を研究者は指摘します。 さらに『願勝寺歴代系譜』の成立時期については、長谷川賢二氏が式内社忌部神社をめぐる争論に際して、その所在地を美馬郡内とするために明治期にかけて偽作されたものという見解も出されていることは以前にお話ししました。

前々回には、祖谷山衆が長宗我部元親にいち早く帰順し、阿波侵攻の先兵として働いたことを見ました。
ところが後世に書かれた『祖谷山旧記』には、祖谷山衆と長宗我部元親の関係については何も触れられていません。あるのは蜂須賀家との関係だけです。ここにも作者の「取捨選択」が働いていることがうかがえます。このように阿波の寺社の近世後期に書かれた「由緒」の多くは、蜂須賀家を称揚し、阿波藩との関係を維持・強化しようとする意図で書かれたものが多いと研究者は指摘します。ここでは、その意図が長宗我部元親を悪者として貶めることで、蜂須賀家の藩祖を神格化・カリスマ化しようとする意図があったことを押さえておきます。

戦国時代の阿波の支配者三好氏についても、同時代に生きていた人々はその権力を肯定的に捉えていました。
例えば、『朝倉宗滴話記』には次のように記します。
日本に国持人つかひの上手よき手本と可申人は、今川殿義元・甲斐武田殿晴信・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利殿・織田上総介殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事
意訳変換しておくと
統治者として上手な手本としては、今川義元・甲斐武田殿晴信(信玄)・三好修理大夫殿(長慶)・長尾(謙信)殿・安芸毛利殿・織田上総介(信長)殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事

統治上手な武将として、三好長慶が挙がっています。
『信長公記」でも「三好修理大夫(長慶)、天下執権たるに依つて」とあります。三好長慶が幕府の実権を握り、京都を差配していたと記されています。
ところが阿波では、三好長慶も江戸も半ば以降になるとその評価が急落します。
その背景にあるのが、藩主蜂須賀氏の治世に対する何らかの配慮が働くようになったからだと研究者は推測します。その背景として考えられるのが幕府による家康の神格化の広がりです。18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長宗我部元親などの評価が貶められていくのです。その一例が阿波の寺社に対する「長宗我部元親=焼き討ち説」の記述の増加です。こうして、長宗我部元親にはマイナス評価が固定化されていくと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①讃岐や阿波では「長宗我部元親=悪役」説が広く流布している。
②その背景にあるのが、近世後半の寺社由緒に長宗我部元親が焼き討ちしたことである。
③しかし、同時代史料からは長宗我部元親が無分別に無差別的な焼き討ちを行った事実は見られない
④当寺は、戦場の建築物を焼くのはひとつの戦術で、これは三好方も行っている。
⑤「長宗我部元親=悪役」の背景には、近世後半の藩祖神格化がある。
⑥藩祖の神格化・カリスマ化のために、同時代の三好氏や長宗我部元親を悪役化された節がある。
⑦寺社の由緒書きの長宗我部元親や三好氏の記述については、マイナス評価された側面があるので取扱に注意することが必要である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」
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                  長宗我部元親の阿波侵攻1

長宗我部元親は天正5(1577)年には、海部郡や祖谷山を支配下に収め、さらに池田城主の大西覚用の籠絡にも成功します。大西覚用は元親に甥の上野介を入質として差し出しますが、後に元親を離反し三好方につきます。そこで元親は香宗我部親泰に大将を命じて4月末には池田城侵攻を行っています。その時には、人質であった大西上野介が先導役を勤めています。覚用は敗れて讃岐に逃れ、元親は戦後処理として白地城を築き谷忠兵衛に守らせ、上野介には馬路城を与えます。

白地城

白地城 吉野川水運の終点
この白地の地は、「土佐の豊永と云ふ在所より道のほど二里、讃岐堺(境)なり」(『長元物語』)とされ、土佐国から阿波国に入る玄関口にあたり、吉野川水運の終点でもあり、伊予や讃岐への分岐点で交通の要衝地でした。
天正6年には重清城を陥落させ、翌年の天正7(1579)年には岩倉城を攻略して阿波国西半を手中にします。
岩倉城2
岩倉城(脇町)
   岩倉城は、美馬市脇町の田上にあった城で、文永4年(1267年)に守護としてやってきた小笠原長房が居城としていたとされます。戦国時代に入ると三好康俊が城主となり、脇城と連携して、この地方一帯を支配していました。徳島自動車道の建設に伴う発掘調査では、空堀状の溝や犬走状の遺構が出てきています。本丸曲輪は東西約17m・南北約39m、北側に幅約9mの堀切があります。本丸の周辺には、観音坊や丹波ノ坊など六坊と呼ばれる6つの出城が配され、防御を固めています。城跡北側の真楽寺(真言宗大覚寺派)は、岩倉城廃城後に六坊の1つである北ノ坊に建立されています。

天正7(1579)年のこととして『元親記』には、次のように記します。

「大西の下郡へ打出でらるる処、三好も大西の下、重清と云ふ城まで打出で、川越に戦あり。大西上野守・久武内蔵助先陣して川を渡り、三好方の武者、川へ下り入りて、鎗を合す処に、猛勢に追立てられ数人討たるなり。重清の城へも籠らず、下郡さして敗軍す。その儘重清の城を乗取り、この競を以て則ち下郡岩倉表へ発向すべしと、人数を差向けらるる処、岩倉城主式部少輔の老、大嶋丹波と云ふ者御礼に罷出る。是も実子を召しつれ人質に進る。この度にて上郡二郡分相済み、先づ帰陣ありしなり」
 
意訳変換しておくと
「大西城の下郡へ陣を進めていくと、三好方も重清城までやってきて、川越で戦いとなった。大西上野守・久武内蔵助が先陣として川を渡ると、三好方の武者も川へ入り、鎗を合せた。
しかし、猛勢に追立てられ数人討たれると三好方は、重清城を捨てて下郡へ敗走した。そこで、重清城に入城し、この勢いで岩倉城を目指すべし、軍勢を差向けようと準備していた。すると、岩倉城主の式部少輔の老、大嶋丹波と云ものが使者とやってきた。そして実子を人質に差し出した。こうして上郡二郡を占領下に置いて帰陣した」

康俊と脇城の武田信顕は、長宗我部元親に降ります。そして、三好勢を岩倉城に誘き出し、土佐勢とともに、三好方の多くの武将を脇城下で殲滅します。これが岩倉合戦(脇城外の戦い)です。これによって、天正7(1579)年には岩倉城のある美馬郡まで、土佐軍の占領下に置かれます。

徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の拠点だった勝瑞城

勝瑞城は「阿州表之儀、重而被申越候、勝瑞弥堅固之由尤候」と言われていました。
ところが天正10(1582)年の本能寺の変を境に、長宗我部氏の侵攻を受けて、にわかに風雲急を告げます。この時期の三好氏をめぐる動向について、藤田達生氏は次のように述べています。(要約)
⓵天正3年10月に、信長が嫡子信親の烏帽子親となり、以降は明智光秀が取次として信長と元親を結びつける。
⓶ところが瀬戸内海での水軍掌握に努めることになった秀吉が、淡路水軍をつかさどる安宅信康に働きかけるとともに三好氏にも接近する。
③そのため、秀吉は三好康長に阿波旧領の回復の助成を行った。
④天正9年6月、秀吉は信長に対しても元親との関係を見直す四国政策の変更を決定させた。
⑤この直後、元親は伊予の金子氏と軍事同盟を結び、讃岐天霧城で毛利氏とも同盟を結び反信長の姿勢を鮮明にしていく。
⑥天正10年8月に中富河の戦いで長宗我部元親は十河(三好)存保を破り、9月に勝瑞城を陥落
藤田氏が「元親は本能寺の変と連動して軍事行動をおこない、短期間で四国統一を実現しようとした」と評価します。
中富川合戦記3
中富川の合戦
中富川の合戦から勝瑞の陥落、三好氏の讃岐敗走にいたる経緯を『南海通記』は次のように記します。
天正十年八月初に、土州元親二万三千の兵を挙げて、阿州牛岐の城に着陣す。同国勝瑞の城主三好存保は、後援信長公莞じ玉ひて、孤独と成て援けなけれども、責め我が一人の上に受けて、撓む気色もなく、勝瑞に住しける。
  凡二万三千余人の着到にて、親泰が居城牛岐に馳集まり、五日の評定有て、八月十六日に打立ち、其日一の宮・夷山両城の間を押通りて、早淵に至る。城より足軽を出し、鉄砲を打ちかくる。天正十年八月廿八日、中富川の戦に元親勝利を得て、直に勝瑞の城に取かくる。此城は上代より屋形構なれば、方一町にして土居堀一重なり.其内に楼十四、五掻双て、僅に五千余人を以て相守る
  (中略)
勝瑞の城は二万余の大兵を以て昼夜とり囲み、攻戦ふ処、六、七日過ぎて大雨ふり、雷動して山を崩す。世人みな、久しく相続したる屋形を攻崩す故に、天の咎かと恐る。元親は一里引取り、黒田原に陣を居へ、存保は勝瑞の城を明けて、九月十一日の夜、東讃岐へ退去す。元親即ち勝瑞の城を破却せらる。  撫養の内に、本津山城には篠原肥前人道自遁が居城なり。いまだ元親にも服せず、三好にも同心せずして、自立の志あり。其後は信長を後盾にて居たりしが、信長崩じ玉ひて後、元親力を得て、四国に横行する故に、城を明捨て、淡州へ退去す。

  意訳変換しておくと
天正10(1582)年8月初に、長宗我部元親23000の兵力で、阿波の牛岐の城を囲んだ。本能寺の変で同盟関係にあった信長の支援が受けられなくなった勝瑞城主の三好存保は、勝瑞を動こうとしない。  23000余人の軍勢が牛岐に結集し、5日に評定。8月16日に出陣し、一の宮・夷山両城の間を押通って、早淵に至る。両城からは足軽がでてきて、鉄砲を打ちかけてくる。天正10年8月28日、中富川の戦に長宗我部元親は勝利して、ただちに勝瑞城の後略に取りかかる。この城は細川氏や三好氏の屋形であったため、方一町で土居堀に囲まれていた。その中には楼十四が建ち並び、五千余人で護っていた。
  (中略)
  勝瑞城を土佐軍二万余の大兵が昼夜とり囲み、攻戦が行われた。六、七日過ぎて大雨が降り、雷動して山が崩れた。これを世人は、長く続いた屋形を攻崩ことへの天の怒りと噂した。 そこで、元親は一里ほど陣を下げて、黒田原に着陣し、城を明け渡すことを求めた。これに対して、存保は勝瑞城を明けて、9月11日の夜、東讃岐へ退去した。そこで元親は勝瑞城の破却を命じた。
  撫養の本津山城は、篠原肥前人道自遁のが居城であったが、元親にも服せず、三好にも就かずに、自立志向であった。そのため信長を後盾にていたが、信長が亡くなった後は、城を打ち捨てて、淡路に退去した。
中富川合戦記2
紫色が土佐軍の動き(二方面から侵攻) 水色が三好方 

以上を整理しておくと
① 1582年 長宗我部元親軍は牛岐城(富岡城)で作戦会議を開いた。
②8月26日 夷山城・一宮城を経て、勝瑞城を目指し、翌27日全軍を集結させた。
③二手に分け、香宗我部親秦が約3千兵を率いて中富川の南岸へ着陣した。
④これより前に十河存保は一宮、夷山の両城を放棄して、勝瑞城に兵力を集中させていた。
⑤28日長宗我部元親は全軍に出撃命令を下し、先陣の香宗我部親秦隊は北岸へ突入した。
⑥十河存保軍はこれに対して勝瑞城を本陣とし、矢上城を先陣とした。
⑦矢上城大手付近に約2千兵、後陣として約3千兵を配して防塞を築いた。

中富川合戦記 

⑧香宗我部親秦隊が中富川を渡り始め、長宗我部本隊が南東より、香宗我部親秦隊は南西より進み両方から攻め立てた。
⑨元親と和讓を結んでいた一宮城主小笠原成助、桑野城主桑野康明らが6千の兵を率いて中富川へ押し寄せた。
⑩十河軍の激しい反撃にあい、元親軍は一時怯んだが、大軍で数の力で勝瑞城まで追い詰め包囲した。
⑪9月5日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川本流と中富川が氾濫。板野平野一帯が大洪水となり戦略は一時休止。
⑫水が引いた後に、中富川を挟んで戦闘が始まり、勝瑞城の内外でも両軍の入り乱れで乱戦となり多くの死傷者がでた。
⑬三好勢の形成は不利で、矢上城主矢野虎村、赤澤、七条、寒川氏らの多くの戦死者を出した。
⑭勝瑞城の明け渡しを条件に讃岐への退去を十河存保は許された。
⑮両軍の死者数の合計は約1500名、重軽傷数はこれらをはるかに上回った。

  中富川合戦で三好方の戦死した城主一覧

矢上(矢上虎村)、下六条(三好何右衛門)、板東(板東清利)、七条(七条兼仲)、板西(赤沢宗伝)、保崎(馬詰駿河)、西条(西条益太夫)、北原(北原義行)、知恵島(知恵島重綱)、南島(甘利奥右衛門)、乗島(乗島来心)、高畠(高畠時清)、第十(第十拾太夫)、日開(鎌田光義)、徳里(白鳥左近)、下浦西(田村盤右衛門)、鈴江(鈴江友明)、櫛淵(櫛淵国武)、長塩(長塩六之進)、大寺(大寺松太夫)、野本(野本左近)、大代(大代内匠)、佐藤須賀(佐藤長勝)、瀬部(瀬部友光)、高志(高志右近)、讃岐・大内(寒川三河守)、讃岐・宇多津(奈良太郎左衛門)、飯尾(飯尾常重)、中島(片山重長)、角田(角田平右衛門)、湯浅(湯浅豊後守)、福井(芥川宗長)、大潟(四宮光武)、古川(古川友則)、市楽(石河吉行)、中庄(中庄主膳)、新居(堀江国正)、原(原田信綱)、香美(香美馬之進)、吉田(原田小内膳)、姫田(姫田甚左衛門)、由岐(由岐有興)【長宗我部に味方した阿波の城主】牛岐(新開道善)、一宮(一宮成助)、夷山(庄野兼時)、桑野(東条関之兵衛)【その他】木津(篠原自遁)」      

中富川合戦の戦士将兵の墓石集積(愛染院)
中富川合戦の墓石群(愛染院)
この戦死者名を見ると、板野郡の武将に集中していると研究者は指摘します。
その背景には中富川合戦の段階で、長宗我部元親に敵対するのは勝瑞のある板野郡に限られていたことがうかがえます。つまり、阿波国内の他地域の武将の多くは、この時すでに元親の傘下にあったことになります。
中富川合戦後、反元親の十河(三好)存保は9月21日、三好康俊は10月10日にそれぞれの居城である勝瑞城・岩倉城を明け渡して阿波から撤退しています。富岡城主新開道善は9月16日に、一宮城主一宮成助は11月7日に夷山城で虐殺されます。

十河(三好)存保を讃岐に追放して、阿波のほぼ全域を支配下においた元親は、服属した阿波の諸将に所領の宛行を次のように行っています。
今度及検地内参百町進之候、右之外於河北式千貫、申合之旨、不可有相違候、恐々謹言、
天正十一(1583)年二月十九日
                        長宗我部宮内少輔 元親(花押)
                        長宗我部弥三郎  信親(花押)
一宮民部少輔殿
御宿所へ
これは一官民部少輔に「河北式千貫」を宛行ったものです。その他、戦功のあった諸将を以下のように
配したことが『長元物語』に次のように記されています。
阿波一ケ国元親公御仕置ノ事
牛岐城ヘハ、御舎弟香宗我部親泰入城有テ、阿波一ケ国諸侍物頭二仰付ラルゝ
一ノ宮ヘハ先手物頭ノ江村孫左衛門入城ニテ、組与力此所ニヲイテ知行給ル
岩倉ノ城ヘハ、長宗我部掃部頭入城組与力此所ニテ知行給ル
海部ノ城ハ、香宗我部親泰根城
吉田ノ城ヘハ、北村間斎入城ス
宍喰ノ城ヘハ、野中三郎左衛門人城ス
二ウ殿、東条殿、其降参ノ国侍、歴々ノ城持、前々持来ル知行無相違仰付ラレ、年頭歳末ノ御礼有之事
主要な城主を挙げておくと次のようになります
牟岐城に香曽我部親泰
一宮城に江村孫左衛門
岩倉城に長宗我部掃部頭
古田城に北村問斎
宍喰城に野中三郎左衛門
この書状は天正11年のものとされ、長宗我部元親が阿波国内をほぼ制圧して以後のものです。
元親が阿波一国を征服たのかどうかについては、研究者の意見の分かれる所のようです。
例えば次のような秀吉の書状があります。
八木弐百石、あわとさとまり(阿波国土佐泊)の篠原甚五
はりましかまつにて可相渡者也、
天正十弐
十月十六日     秀吉(花押)
弥ひやうヘ
もりしまのかみかたへ、
この秀吉の書状が示すように天正12年10月の段階で、秀吉は阿波国土佐泊城に籠もる篠原甚五・森志摩守村春に支援を行っています。こうした動きは天正九年の頃から始まっています。

阿波土佐泊城
秀吉からの支援を受けて、長宗我部元親に抵抗を続けた土佐泊城

土佐泊城
撫養港の入口に位置する土佐泊城

同年10月の黒田官兵衛宛ての秀吉書状には、次のように記されています。

木津・土佐泊兵糧之事、申付相渡候、右両城玉葉事、先度書付候分、是又申付候」

ここからは秀吉が三好勢を支える木津や土佐泊の篠原・森両氏への兵糧支援を、この時期にも黒田官兵衛に命じていたことが分かります。そのため長宗我部元親の土佐泊城攻略は、讃岐虎丸城とともに困難をきわめます。ここからは元親は、阿波や讃岐の完全攻略には成功していないと研究者は考えています。
 従来の通説では次の通りでした。

「小牧・長久手の戦いの最中であった天正11(1583)年6月に長宗我部氏が十河勢力を掃討したことで阿波と讃岐を掌中におさめた。」

これに対して津野氏は次のように疑問を呈します。

「実際には秀吉の支援をうける十河勢力が讃岐虎九・阿波土佐泊を拠点に抵抗しており、それは長宗我部氏が同盟者金子氏に加勢を要請するほどの攻勢をとりさえした」

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏の見解を再度挙げておきます。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

以上をまとめておくと
①元親は、土佐から他国への軍事行動について、地理的に困難が伴うことを熟知していた。
②そのため土佐軍による単独の軍事的侵攻を極力抑えていた節がある。
③その方策として、日和佐氏と同盟関係を結んだり、豊楽寺を通して祖谷山衆を傘下に組み込んだりしている。
④侵攻に至るまでに充分な事前の工作と準備を行っている。
⑤このような情報収集や外交交渉を行ったのが長宗我部元親に仕える修験者ブレーンたちであった。

長宗我部元親の讃岐侵攻については以前にお話ししましたので、今回は阿波国西部への侵攻について見ていくことにします。その際のポイントは、
①阿波西部(祖谷地方)を、どのようにして配下に置いたか。
②その支配管理システムとして機能したのは、どんな組織なのか
③祖谷山衆は、長宗我部元親の配下でどのような役割を担ったのか
テキストは、「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究」です
中世後半の祖谷山地域の構成メンバー36名は次の通りでした。

祖谷山三十六名
祖谷山36名
東祖谷山12名
菅生・久保・西山・落合・奥井・栗枝渡・下瀬・大枝・阿佐・釣井・今井・小祖谷
西祖谷山24名
閑定・竜末・名地・有瀬・峯・鍛冶屋西・中屋・平・榎・徳善・西岡・後山・尾井内
・戸谷・田野内・田窪・大窪,地平・片山・久及・中尾・友行
元親は、これらの祖谷山衆を配下に組み込み、先陣とするかたちで阿波国内への侵攻を進めていきます。それを示す史料として研究者が取り上げるのが高知県大豊町の旧豊永郷の豊楽寺(ぶらくじ)の史料です。
豊楽寺薬師堂/ホームメイト
豊楽寺薬師堂(国宝:四国最古の建造物)

豊楽寺についてウキは次のように記します。
 豊楽寺は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は大田山。大田山大願院豊楽寺と号する。本尊は薬師如来。別名は柴折薬師。薬師堂は国宝に指定されている。
  薬師堂は12世紀頃(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)建立の四国最古の建造物。内陣に如来像3体を安置。1574年に長曾我部元親が、1637年に山内忠義が修理し、1637年の修理で前面中央に1間の向拝が追加された
 豊楽寺は724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求足身心安」より名付けたとされる。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/豊楽寺))
豊楽寺薬師堂
豊楽寺薬師堂

この寺は、行基創建の伝承を持っていますが、初見史料は仁平元(1151)年の「豊楽寺薬師如来像胎内銘」になります。
また熊野信仰との神仏混淆が強く見られる寺でもあります。土佐への熊野信仰の流布は、吉野川支流の銅山川沿いの伊予新宮の熊野神社や、この豊楽寺が拠点になったことは以前にお話ししました。これらの寺は、熊野行者や廻国の聖や修験者の活動拠点となっていました。ある意味では。熊野詣での道筋を修験者が土佐軍を先導したという見方もできます。長宗我部元親のブレーンとなっていた土佐の修験者たちも、この寺を拠点として阿波や讃岐の情報収集センターとして活用していたと私は考えています。
豊楽寺には、天文24(1555)年の豊楽寺鐘勧進帳の写しが残されています。ここには小笠原・豊永一族など阿波小笠原氏の一族の名があります。その他にも、西山氏・森氏など阿波国関係者の人名が見えます。 さらに、天正5年に再興された豊楽寺に残された2通の「大田山豊楽寺御堂修造奉加帳」には、次のような人名が見えます。

中世讃岐の仁尾 仁尾浦商人の営業圈は土佐まで伸びていた : 瀬戸の島から
「大田山豊楽寺御堂修造奉加帳」
この中には「仁尾 塩田又市郎」も見えます。
仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったことをしめします。彼が讃岐の西讃地方への侵入の際には手引きを行った可能性もあります。

 本題の祖谷山衆にもどります。ここには、次のような祖谷山衆の名前も見えます。

「西山三郎左衛門」「有瀬有京進」「峯将監」「尾井内孫九良」「今井孫一」
「奥井孫吉郎」「阿佐出羽守」「平孫四良」「徳善河内守」「後山孫二郎」
「大窪右近」「大枝大炊介」「西雅楽介」

ここには祖谷の各名の有力者の人物名が並んでいます。吉野川上流部に当たる阿波国西部と土佐国北部の国境をはさんで 、2つの地域的連合が豊楽寺を核にして形成されていたことが分かります。彼らの宗教的紐帯になっていた豊楽寺を、長宗我部氏が押さたということは、祖谷山衆も天正年間の初期にはすでに掌握していたことがうかがえます。
市村高男氏は、これについて次のように述べます。

  長宗我部氏が阿波から讃岐への進出を目指し、土佐から阿波への北の玄関口に当たる豊永郷へ、制圧した本山氏の一族・旧臣と、服属した阿波の祖谷山山中の在地武士たちとを結集させ、いつでも出撃できる態勢を整えさせるとともに、豊永郷の押さえに当たらせていたことを示すものであろう。

祖谷山衆が長宗我部元親の配下に置かれたことを裏付ける史料を見ておきましょう。
『祖谷山旧記』には、長宗我部元親から次のような具体的な軍事行動が求められていたことが記されています。
さたミつ(貞光)口ヘ被打出(進出)候由、御心遣不及是非、万若殿請合を以、山分けんこの御機遣尤専用候、連々入魂じるしたるへし、猶自是可申、謹言
                                    長宮(長宗我部)元艘(元親) 判
すけをい殿
く ほ 殿
西   殿
ここには、「すけをい」「くほ(久保)」「西」の祖谷山衆に対して、祖谷山中から吉野川平野へ抜けるための要衝であった「さたミつ(貞光)口」へ打ち出る(侵攻)ことを求めています。曽根氏は、この史料を天正6(1572)年頃のものと推定します。ここからも祖谷山衆の一部が長宗我部氏の配下となっていたことを示します。
  天正8(1574)年のものと推定される長宗我部元親から木屋平越前守宛の書状を見ておきましょう。
今春慶事珍重々々、去冬岩倉伝二預音状候両国武略付而此表在陣候処、今度於岩倉被及 戦彼表へ暦々無比類手柄共候、定而して可有其聞候条、具不及申候、弥相談下郡表可及行評儀候条、相応之御馳走可為此節候、当表居陣候間、互切々可申通候、恐々謹言
正月二日          長宮(長宗我部)元親(花押)
木越御返報
意訳変換しておくと
今春慶事珍重々々、冬の岩倉伝二からの武略・陣そろえにについて報告を受けた。この度の岩倉城攻防戦において、大きな手柄を挙げたと聞いている。云うまでもないが、論功行賞については評議を行った上で、相応の褒美を与えるつもりである。今は陣中なので、抜かりなく供えるように申しつける。恐々謹言
正月二日          長宮(長宗我部)元親(花押)
木越御返報
ここには天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防が記されています。その戦いの際の木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞したものです。木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことが分かります。
 天正5年に三好長治が自刃し、翌年十河(三好)存保が勝瑞に入ります。この時の情勢を『三好家成立之事』は、次のように記します。

「山方ハ去年ノ秋ヨリ(一宮)成助二雖順、里々ハ何レモ(十河)存保治メ給ケル」

ここからは、この時点で一宮城主の一宮成助は、「山方」を支配下に置いていたことが分かります。
次に三好方が一宮城の攻撃を企てたときに元親が一宮成助を救援するために木屋平氏らを動員した書状を見ておきましょう。
態音間本望候、誠今度一宮詰口之儀、可追払諸卒着向候処、後巻不持付敵敗北無是非候、殊御一類中御籠城所々即時被得勝利珍重候、向後弥御馳走可為肝要候、猶従是可申候条、不能子細候、恐々謹言
九月十日      長宮元親(花押)
木上
木越人    御返報
木上は木屋平上野介、木越入は木屋平越前守人道のことです。元親は両者に対して一宮城に籠城して戦ったことに対する軍忠を賞しています。その他にも、木屋平氏に対しては三好勢の侵攻に対して動員をかけている書状もあります。以上からも山間土豪層は、天正年間、元親の傘下として活動していると研究者は判断します。

長宗我部元親の阿波侵攻1
長宗我部元親の阿波侵攻図
『祖谷山旧記』にも以下のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここには長宗我部氏の配下として活動した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。ここからも祖谷山間部土豪が長宗我部元親の配下にあったことを裏付けます。

天正13(1585)年に長宗我部元親が撤退して、蜂須賀氏が入部してきた時に、山間土豪の大規模な一揆が勃発します。
これに対して従来は「阿波の山間土豪は豊臣勢と長宗我部勢の対抗の日和を見ていた状況で、傍観の態であった」とされてきました。しかし、傍観していたわけではなく、積極的に長宗我部氏に与しようとしために豊臣系大名である蜂須賀氏の入部に対して山間土豪による一揆が勃発したと考えるべきだと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①長宗我部元親は西阿波への侵入に際して、祖谷山衆を配下に置いた
②それは、地域の宗教的中核寺院である豊楽寺の史料からも分かる。
③祖谷山衆は長宗我部元親の阿波侵攻の戦陣として活動し、四国各地に知行地を得た。

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

                 
前回は、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」に出てくる犬塚の地名由来について見ました。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この荒唐無稽な話は、「山伏による創作話」と思っていたのですが、そうとも云えないようです。
実は、高清左衛門の大蛇退治と同じような話が、もうひとつ伝わっています。
それが「畑恒信の大蛇退治」を記した犬塚の碑文です。これを見ておきましょう。(要約)

内田の犬塚
右が犬塚(1786年建立)、左が畑恒信の碑(1918年建立)
犬之塚在松字岡哉属鵜足郡内田村博者曰 永禄中畑氏之先有恒信避土乱入讃州畜犬従焉道過杵尾谷飢而億有大蛇襲後畜犬狂走吼其主弗已叱之益甚恒信怒挺剣斬其首首飛蛇喉蛇即逃去恒信大驚射蛇不及遂跡血抵蛇所殯諸猪之野後世因名其虎曰蛇壇其射蛇不及曰無念谷方言謂憤曰無念於是恒信深痛畜犬之非命埋其屍為建其塚云恒信有裔孫曰畑八造義直居香川太田焉謂余曰昔者吾遠祖時義仕新田将軍建勲延元之間時有若犬獅子出入敵城伺其虚実至恒信亦有若畜犬遂免大蛇之難畑氏世有異犬蕨功可勝道哉今将碑之子請銘之銘曰く
繋犬邪人邪 人而不淑 謂之何哉
繁人邪犬邪 犬而如斯 余莫以為犬也
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書
意訳変換しておくと
犬の塚は、松字岡にあり、鵜足郡内田村に属する。ここには、次のような話が伝わっている。永禄(1558~70)中、畑氏の祖先に恒信という者がいたが、阿波の兵乱を避けて犬を連れて讃州にやってきた。杵尾谷を過ぎ、餓えと疲れで座り込んでいると、大蛇が後から近づいてきた。それに気がつかずにいると、犬が吼えた。制止すると、ますます吠えたてるので、恒信は怒って剣を抜いて犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇の喉元に食らいついた。驚いた蛇は逃げた。恒信は大いに驚いて、蛇を射る間もなかった。そこで蛇が残した血を辿って行くと、猪の野(柞野?)に至った。
 後世になって、この地のことを「蛇壇」と呼ぶようになった。また蛇を射ることができなかったので、「無念谷」とも呼んだ。ここに恒信は、犬の非命を痛んで、その屍とを埋め、塚を建てたと云ふ。恒信には、香川の太田に子孫があって畑八造義直と云う。
 彼が私に次のように語った。「昔、我が遠祖の時義は、新田将軍に仕へて勲をたてた。延元(1336~1340)の間、大獅子の若のように敵城に出入して偵察活動を行っていた。恒信も獅子若のように犬を連れて、大蛇の難を免れた。畑氏には代々、異犬がおり功績を挙げてきた。今まさにこれを碑に刻むことにする。銘して曰く、
アアヽ・犬なるか人なるか、
人にして淑(ヨ)からざる、
之を何とか謂はん。
繋人なるか犬なるか、
犬にして斯(カク)の如し。
余以て犬と為すなきなりと。
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書

ここからは次のような情報が読み取れます。
①大蛇退治をし、松字岡の塚に犬塚を建てたのは、阿波出身の畑恒信であったこと。
②つまり大蛇退治の主人公を畑恒信とすること
③天明六(1786)年恒信の子孫畑義直が、内田字天川の地に移し「犬の塚」を建てたこと
④物語は大蛇退治だけで終わっており、主人公が内田で撃ち殺されたこと=「村民による畑恒信虐殺事件」には触れていないこと
⑤碑文を書いた菊地武周夫(武矩)は高松藩の儒臣で、「祖谷紀行」などを残すなど名文家であったこと
つまり、この犬塚は畑池の祖先顕彰碑として1786年に建てられたものであることを押さえておきます。
まんのう町内田集落
内田の④畑恒信の碑と犬の塚
それから約130年後の大正7(1918)年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立しします。それを見ておきましょう。
畑恒信碑(造田字天川)
畑恒信阿波美馬人其先曰時能本出武蔵属南朝廃名顕世有畜犬甚書能偵敵状以是夜襲必勝事見史籍永禄中恒信避乱入讃岐亦有畜犬従焉至杵尾憩而睡篤大蛇所襲犬暴吠其主驚害怒叱益吠不己恒信斬其首首飛触蛇蛇骸走恒信始悟犬吠之為己也乃追射蛇於猪尾斃之時飢渇甚入民家求食衆以其状異謂篤狂也乃乱打之遂致死既而知其賓歎曰彼能殺蛇除此方害豊可不徳之哉彼畜犬又能護主亦云忠臭乃両葬之墓在内田内田人年修法会迄今三百六十年也明治初又祠恒信予天河祠芳其裔徒香川大田自第三世至第十一世世称畑八造第七世八造詳直義者千天明六年為犬建碑菊池高洲銘之第十三世曰吉次今戸主也為戸主則年往掃内田墓蓋家例云吉次以為犬雖有碑而先徳未顕乃来余乞銘余謂恒信事蹟半在犬碑半在日碑其裔又能念蕨祖良可嘉癸乃
為叙其事而銘之銘日
縄其祖武 克紹遺徳 据大入讃
使剣去國 時乎命乎 免大蛇口
命乎時乎 死野人手 野人悔過
弔之慰之 一時相尼 千載追思
大正七年一月 二等學正 赤松景福撰井書
意訳変換しておくと
畑恒信は、阿波美馬の人であり、その祖先を時能と云う。もともとは武蔵出身であったが、阿波にやって来て南朝に属して、その名が知られるようになる。その飼犬は非常に賢く、敵情偵察などにすぐれた情報を提供し、それに基づいて夜襲すると必勝であったことが史書に見える。
 永禄(1558~1570)中、恒信は乱を避けて讃岐に入った。犬もこれに従った。柞尾(柞野)に入って、座り込んで寝ていたところ、大蛇が近づいてきた。犬が吠えて危険を知らせようとするが、危険に気がつかずに犬を制止しようとする。それでも犬は吠え立てるので、怒りにまかせて恒信其は犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇に触れた。大蛇は驚いて逃げた。恒信は、犬が危険を知らせるために吠えていたことを知った。大蛇を追って、猪尾(柞野)で射て倒した。その安堵感で空腹を覚えた畑恒信は、民家に入りて食事を求めた。これを見た村人たちは、その異様な姿を見て怪しみ、これを乱打して撃ち殺した。しかし、事実を知って次のように嘆いた。
 畑恒信は蛇を殺して、その害を除いてくれた。まさに我々にとっては徳ある恩人である。彼の犬も、主を護った忠犬である。こうして、村人たちは主人とその犬を葬った。その墓は内田にある。内田の人達は、今に至るまで360年間、毎年法会をして供養している。そして明治の初めに、改めて恒信を天河(川)祠のそばに祀った。
 畑氏の子孫は、香川の大田に移った。第三世より第十一世に至るまで、代々にわたって畑八造と称した。第七世の八造(諱:直義)が、天明6(1786)年に、犬の為に碑を建て、菊池高洲之が文章を書いた。第十三世は吉次で、今の戸主である。戸主とは毎年、内田にやってきてその墓を清掃する。これが家訓だという。吉次は、犬の碑はあるが、私たち先祖の徳はいまだに顕彰されていない。そこで、顕彰碑の建立を思い立ち、私に銘を書くことを依頼した。私が思うに、恒信の事蹟は、半ばは犬の碑に書かれていて、その半ばは人々の伝承として伝えられている。彼の子孫は、祖先のことをよく供養し念じている。これはまことに喜ばしいことである。このことを述べて顕彰碑の銘文としたい。
銘に曰く、
其の祖の武を誉め
よく遺徳を継ぐ
犬を携べて讃(讃岐)に入り
剣によって国を去る。
時なるか命なるか
大蛇の口を免∧マヌカ∨れ
命なるか時なるか
野人の手に死す
野人過を悔い
之を弔ひ之を慰む。
一時の相尼するも
千載追思せん
翡犬之塚碑(造田字天川)
 大蛇退治のストーリーは、ほぼ同じなのですが、主人公がちがいます。こちらの主人公は畑氏の先祖だとします。そして、犬の顕彰碑はあるのに先祖の顕彰碑がないので、1918年になって改めて顕彰碑を建立したと、その建立動機が記されています。また、犬塚にはなかった「村民による畑恒信虐殺事件」が記されています。こうして、天川集落の人々は現在も畑恒信の碑や犬の塚に毎月一日に参って花や線香を供えています。また12月1日には、神官をまねきお祭りが行われていたとします。これで大蛇退治の主人公と、そのふたつの碑文については「捜査終了」のように思えました。
 しかし、問題はここからです。

 前回見たように「堀川碧星 美合村」に載せられている大蛇退治の話の主人公は「甲瀬(高清)左衛門」と書かれていました。
畑氏ではないのです。つまり、同じようなストーリーですが、主人公が異なる話が2つあるということになります。そこで研究者は、高清村(半田町)の左衛門の子孫であるという篠原家を訪ねます。そして、そこに保存されたいた古文書に出会います。それが宝暦12(1762)年に、阿波藩からの御尋ねにより、藩に提出した「高清左衛門家筋先祖書」(控え)です。これは、高清左衛門から六代後の九左衛門の書いたものになります。その大要を見ておきましょう。
  御尋二附乍恐申上覚(大意)               琴南町誌 1070P
一、私の先祖は麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休と申す者で、もともと細川家に仕えていましたが、後に三好長慶様に随うようになりました。畿内においてたびたび軍功をたてたので、摂州豊島部を下され、嫡子右京進をその地に居らせて、道久は上桜に居り、のちに入道して篠原紫雲と名乗るようになりました。私家の家祖高清左衛門は、この紫雲の次男で、篠原左衛門と言い、上桜に父と同居していました。しかし、上桜城が長宗我部元親の侵攻で落城すると、諸国を流浪し、のち川島に帰り居住するようになります。そのような中、天正13(1585)年に脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられ、狩のお供や狩場のご用を勤めるようになりました。
一、宗心様が半田山へ御狩をなされた折、お供をして、鹿・猪等多数射止めてご覧に入れました。その褒美として刀を下された上に、半田山の内高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付を下され、以後名を高清左衛門と改めるようおおせつけられました。

ここまでを要約しておくと
①大川山で大蛇を退治した高清左衛門の先祖は、麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休だった。
②篠原道久の次男が、家祖高清(篠原)左衛門で、長宗我部元親の侵攻後に諸国を流浪した。
③後に川島に帰り、脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられた。
④半田山での御狩の褒美として、半田山の高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付をもらった。

次の一項は、キーポイントなので原文のまま掲げます。
一、高清左衛門儀 讃州宇多郡山中江殺生罷越天間川(天川)与申所一宿仕居申所 同村内田之郷侍大勢フ相擁シ不時こ口論仕掛候こ附 無拠合人之者共数十人切殺シ候 而則其所二而自殺仕候 其後相祟り 其上讃州之御殿様江 夢中二高清左衛門自殺之次第奉告候二附 御上ョリ一社御建立被為仰八幡之神号フ御贈り被レ為レ遣成居申候御事。天間川氏神二被レ為二仰附一今以御普譜罷
意訳変換しておくと
一、高清左衛門が讃岐国宇多郡の山中に入っていたところ、天間川(あまがわ:天川)で一宿していたところ、内田郷の侍大勢と口論になり、よんどころなく数十人を切殺して、その場で自殺し相果てました。その後、高清左衛門の祟りが内田郷へ下るようになりました。その上に讃州の殿様(生駒正親?)の夢中に高清左衛門の自殺の次第が出てきました。そこでお上から一社を御建立し、八幡の神号をいただき天川の氏神とするべしと仰せ附つかり、御普譜が行われました。

一、高清の居住地にも左衛門の霊を祀り高清明神と称するようになりました。なお讃州天川神社へは年に一度は参詣するよう神誼が私共先祖にあり、今もって毎年お参りしています。

一、高清左衛門は、手飼の犬を連れて阿讃山脈に入っていました。天川で左衛門が死んだとき、その犬が左衛門の足の親指をかみ切り、これを半田山へ持ち帰り、家族共の前にこれを置き涙を流したので、家人は左衛門の身に変事のあったことを知りました。そこで、犬に案内させ讃岐へ参ったところ、既に御役人の検分も終わり、事は一通り済んでいたのでそのまま帰ってきました。この時の犬は天川で自分から食を断って死にました。この犬の情をあわれみ犬の墓が、天川の地に建てられ今も残っています。また犬が持ち帰った左衛間の指は、鈴に入れな居宅の向かいの所に埋め「すずみどの」と呼び習わしています。供養に使ったものと思われる経石のようなものが多数もり掛けていること。(以下中略)
半田山高清名五人組 九左衛門
宝暦十弐(1762)年二月七日
大谷次二郎様
(裏書)
高清左衛門より六代目 九左衛門代書之
高清左衛門家筋先祖書
宝暦十二十年二月七日御尋仕候押書
以上が高清左衛門の伝説にかかわる文書として半田町の篠原家に残されていました。この文書は阿野藩の問い合わせに対して答えた準公文書にあたるものです。その意味では信頼性が高いと考えられます。こうしてみると高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)に実在した人物と推察できます。そして彼が内田で、喧嘩に巻き込まれ自決した事件があったことがうかがえます。それを裏付けるように、上内田字天川の檜が丘には、高清左衛門とその奥さんの墓といわれる五輪塔が二基祀られています。その横に七人侍の墓という自然石の墓もあります。
 こうしてみると「高清左衛門の大蛇退治 犬塚伝説」は、まったくのフィクションではなかった可能性が出てきます。事実である「高清左衛門の喧嘩・自決」に、大蛇退治が「接ぎ木」された話として捉えることができます。そして、この伝説が語られるようになったのは、17世紀になってからのことだったのでしょう。物語が生まれるまでの経緯を年表化してみます。
①阿波高清村(半田村)の高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)の実在の人物であること。
②生駒藩時代に、讃岐領内に入って狩猟中に、地元の人間と騒動を起こし自害したこと。
③高清左衛門の怨霊は、祟り神となって禍をもたらしたので、神として祀られることになった。
④この史実に、山伏たちが尾ひれを付けて「大蛇退治」伝説を創作し、これが広まったこと
⑤1762年になって阿波藩は、その確認のために高清家に経緯の報告書提出を命じたこと。
⑥1786年に犬塚が畑氏によって建立され、主人公が「高清左衛門」から「畑恒信」に書き換えられたこと
⑦1918年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立し、畑氏の顕彰碑としたこと

こうして、大蛇退治伝説は「高清左衛門」から「畑恒信」に株取りされて、後世に語り継がれていくことになったと私は考えています。

なおこの「犬塚」というのは、形を少しづつ変えながら周辺の土地で語り継がれてきたようです。そのため各地に「犬塚」が残っています。例えば「高清左衛門」の半田町では次のように語られています。
   
高清左衛門と犬の墓(郷土研究発表会紀要第38号 半田町の伝説)
戦国の世、上桜城主篠原紫雲の一族に高清左衛門という部将がいた。臂力共に人に優れ、武芸特に砲術をよくした。上桜城落城により、一族は散りぢりに落ちのびた。高清左衛門は愛犬を連れて、半田山の高清谷へ身を潜ませ難をのがれた。その後時勢を待って、狩りをして暮らしていた。ある日、3匹の愛犬を連れて重清から真鈴を越え、阿讃国境に近い雨川(天川)の辺りで深山に入り野宿をした。その夜、1匹の犬がしきりに吠えたて安眠できない、制してもきかない、狂犬になったのかと1刀のもとに首を落とした。ところがその首は大蛇の鎌首に食いついた。左衛門は大蛇めがけて鉄砲を撃ち込むが大蛇は逃げていった。翌日山を下って、雨川に愛犬を埋め石を立て供養した。これが犬の墓として残っている。その晩、左衛門は庄屋で泊めて貰おうと立ち寄ると、お婆さんが1人いろりにあたっている。それはお婆さんを呑んで化けている大蛇だったので射殺した。これを見た村人は、庄屋の隠居を殺したと向かってきた。いくら化けた大蛇であることをいっても信じてくれず、多勢に無勢、左衛門は殺されてしまった。
 主をなくした愛犬は、左衛門の親指をかみ切って帰ってきた。これを見た妻は、主人の異変を直感し犬について雨川へ来た。村人は左衛門が大蛇を退治してくれたことを知ったが遅かった。妻に深く詫び、犬の墓も丁寧に祀った。妻は高清に帰ると、夫の親指を鈴の実として封じ、向かいの丘に祠を建て祀った。それが現存する鈴実さんの祠である。なお、高清左衛門の犬の墓というのが一宇村にもあり、香川県にも同じような伝説があるそうである。   (白川隆市さん・黒川浅市さん談)」((https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/38/3821.html

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
堀川碧星 甲瀬(高清)左衛門の話 美合村収録
大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P


 以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。

西村家文書 柞野絵図2
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)

中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。

甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
 
  若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。

意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。

もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。

ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。
②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある
③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある
④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。
⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。
⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。

 左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。

 石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。

ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた
②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。
③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。
④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。
⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
 二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
 留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。


こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。

以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



中寺廃寺講演会ポスター

まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。8月は中寺廃寺についてお話しします。
日時 8月24日(日)10:30~12:00
場所 まんのう町図書館会議室
興味と時間のある方の参加を歓迎します。なお会場が狭いので事前予約をお願いします。
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コウノトリが営巣して子育てをするようになったまんのう町造田と内田は、私の原付バイクの散歩コースの一つです。また、阿波へのフィルドワークに向かうときには、内田側の旧道を原付バイクで走ります。ここを走っていて気づくのは、河川跡らしきものが見えてくるのです。これは一体何だろうと思っていると、疑問に答えてくれる文章に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」です。

造田 天川神社周辺2
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)
造田とは、江戸時代から昭和31(1956)年までの村名です。
造田盆地の土器川を挟んで東が造田、西が内田になります。地名の由来は、次の2つの説があるようです
A 土器川の洪水によってできた氾濫原に田んぼを造ったので造田
B「サウダ」は遊水地を開拓して作った沢田(湿田)のことで、沢の田から起こった名だという説
文政9(1826)年の造田村については  西村文書には次のように記します。
石高、897石余り
戸数 219(石居 153、掘立66)
人数 922(男495、女424)
職業別人数は、本百姓198 半百姓64 お林守1、刀指1、僧侶2、社人1、山伏3、鍛冶1、猟師1、馬医1、神社7、寺2、庵2、牛57頭、馬4頭
神社は、天川神社と梶洲神社があり、『三代実録』に記載のある古い社です。
外に天神社・久真奴神社などがあるが、山の神社・水除社などの小祠も多い。
寺院は、浄土真宗長光寺・称名寺・真言宗吉田寺があります。
造田は、阿波街道が村を南北に貫通していて、鵜足郡南部の村村の中心的な位置を占めていたことが分かります。

 
造田盆地を貫流する土器川は、氾濫を繰り返してきました。
そのため造田盆地の中央の低地部は、十世紀ごろまでは川の左右に大きな氾濫原(遊水地)があって、ほとんど開拓されていなかったと研究者は考えています。

造田 天川神社周辺

造田地区の地形をみると、天川神社の南で山が両方から迫ってきます。下流では不動さんのところで山が川に迫り、川幅が一番狭くなっています。また、造田と内田は、土器川を挟んで、低地部(下所)と台地部(上所)に分かれている河岸段丘を形成します。この下所と上所の境に1~6mの高さの段丘崖があります。この段丘下を旧土器川が流れていた根拠を次のように挙げます。

造田の土器川氾濫原
造田と内田の土器川氾濫図(琴南町史1057P)

①新井手堰から上内田の石原を通り、段丘崖に沿って下に流れている用水が昔の大束川の河床に沿って流れていること。
②内田の西側の段丘崖は、中内田から下内田のあたりは一面の竹藪だったようで、それが「高藪」という地名として残っていること
③現在の清神原(せいじんばら)の下から小川堰あたりで氾濫水が流れ込み、川になり小川と名付けていること。
④旧県道沿いに堤防を築いてこの水を防いだことが、川原の石を積み重ねただけの幼稚な堤防からうかがえること。
⑤内田下所の田を調べてみると、かつての川の跡を示すかのように、高岸に沿って、一番低い田が、奥から下へ、段々に続いていること。
⑥この田に沿って用水が通っていること。
⑦清神原あたりから一段低い田がずっと字小川まで続いていること。

これらの河川の氾濫原の開拓は、徐々に進められてきたのでしょうが、度々の洪水でその都度水田は流されています。
 開拓の面影を残すものとして、内田下所の所々に今でも石塚が残っています。これは旧土器川の川原を開拓した時に出てきた川石を積み重ねたもので、新しく開かれた開墾地などにはよく見られます。この塚を線で結ぶラインが旧土器川の流路であった研究者は指摘します。
 いつごろから治水に成功して水田を開いたかはよく分かりません。

四国観光スポットblog - 2009年07月
天川神社
伝説によると酒部黒麿が、八世紀ごろ天川付近を開拓し、天川神社の宮田を開いたといわれています。しかし、これをそのまま信じるわけにはいきません。本格的な下所の開拓が始まったのは、江戸期の生駒藩の時代になってからと考えるのが妥当な所です。しかし、治水技術が未熟で、開墾しても洪水の度ごとに、堤防や井堰が決壊して、田畑が荒らされます。それを何年もかかって、元に戻すということが繰り返されたようです。
それは次のような記録から裏付けられます
寛保四年の巡道帳から、元禄・宝永・正徳ごろになると開発田が多くなること
文化二年の巡道帳には、延享・寛政・享和などの時代に「林ニナル」とか、「砂入ル」などの記入があること。
このような中で、卓越した治水技術を盛っていた吉野の大庄屋岩崎平蔵が高松藩の郷普請方小頭に取り立てられます。岩崎平蔵は、藩命によって寛政10(1798)年から11年と、文化9(1812)年から十年にかけての天川大岩切抜普請に取り組みます。一本杉の天川横井の水乗りを良くし、横井から下流300mまでの河床に突出していた大岩を切り開きます。これによって、うなぎ渕付近の岩床が高いために、洪水のたびに水が大岩に乗り上げ、両岸に川水が氾濫していたのを防ぐことに成功します。しかし、これも恒久的なものではありませんでした。時間を経て、岩石や土砂が堆積して川床が再び高くなり、川水が氾濫するようになります。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

江戸末期から明治初期にかけて、この復興のために内田の百姓たちは女子供まで動員しました。「難所普請」と呼んだそうです。これが旧県道治いに三本松から農協裏あたりにかけて、残っている石垣跡です。
造田側では明治20(1887)年ごろになって、やっと本格的な土木工事が行われて、川に突出したような水はねの石塁(直径10m)三か所と、川岸の堤防300mが完成します。この工事の落成を祝って三番雙が演じられたと伝えられます。この堤防を森本堤防といい、現在もその当時の一部が残っています。
 大正元(1912)年の大洪水を、この堤防は水を防ぎますが、下流300mの堤防のない所が決壊して木の下の高岸までおし流されます。その後、大正5(1917)年、県補助の災害防止事業により、土器川両岸の堤防工事が行われます。さらに昭和になってからも、補強工事が行われ、戦後も砂防堰などが建設され、造田住民の長い水との戦いの歴史は幕を閉じ、現在の姿となります。

以上みてきたように造田地区は、古くから土器川の氾濫により、長い間苦しめられてきました。
洪水で、開田した田畑が一夜にして河原になることが度々ありました。治水技術の進んでいなかった当時は人の力ではどうすることも出来なかったのかもしれません。そんな時には、人々は神仏に加護を求めます。人々は、堤防が切れないように祠を建てて水除の神を祀り、水難から除られるよう祈りmした。これが水除社(みずよけしゃ)です。

造田の水除神
水除社
天川の忍石神社(天川バス停の下)は、社伝によると延宝4(1676)年に、内田集落の水害を防ぐために水除さんとして祀ったとあります。祭神は、天忍雲根命(飲料水の神様)・水波女命(あまき水、清き水の神様)・佐太毘古命(猿田彦神)の三神です。これだけではありません。嘉永6(1853)年の大水の時に勧進した水除社が、門屋の稲毛宅の前(造田字大西561番地)にあります。もとは50mぐらい西の高岸の上にあったのをここに移したそうです。水害のあと、ここに高岸を築いて、ここからは水が入らないように神に祈って建てたものと伝えられます。石の小祠が祀ってあって、「嘉永六丑年三月吉日 世話人 平田了吉」外16人の名前がきざまれています。
 平田水車のすぐ東(造田字山下1224番地)にも水除社があります。大正元(1912)年の大水の時も、このすぐ下まで水がきて、平田水車も半分ぐらい流されます。この小祠の中に、古い棟札があり、「明治十五年四月二十七日 奉再造大神官祠」と書かれています。これも再造ですから、もっと古い時代から祀られていたはずです。
 下内田字為久の水除堤防の上にも石造の祠があり、古くから水除さんと呼ばれています。ここは昔からよく堤防が切れたところのようで、今は頑丈な堤防が築かれています。
 隅田宅の裏(造田字小川1547番地)にも石造の水除社があります。ここも土器川の水が増水するたびに、水びたしになっていたところです。
これらの水除社の祭神は天照大神です。天照大神は水の神として別名は、「あまざかるむかつひめ
の命」とも言われているところから水防の神として祀ったとされます。
 こうしてみると造田地区には、残っているものだけで水除社が五社もあります。この外に流水の分配をつかさどる神として、水分社(祭神天之水分神、国之水分神)が三社があります。ここからは造田地区の人々が洪水に悩まされ、加護を神々に祈る姿が見えてきます。昔の人々は、これらの神々に祈りを込め、土器川の氾濫を防ごうと考えたのでしょう。

以上をまとめておくと
①まんのう町(旧琴南町)造田地区は、盆地の中を土器川が貫通していく。
②そのため洪水時には、土器川は暴れ川となって盆地を何本もの水流となって駆け下った。
③生駒藩になって土器川沿いの氾濫原の開発が進められ、造田も開発田が増えた。
④しかし、襲い来る洪水が開発した水田を押し流し、再び川原や遊水地とすること繰り返された。
⑤人々は土器川沿いに水除社をいくつも建立し、水害からの加護を願った。
⑥土器川の治水コントロールが可能になるのは、近代になってからのことだった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」

香川における松平家への歴史的な仕え方 - Genspark

第8代髙松藩主・頼儀の後継者に指名された水戸藩の頼恕は、文政元年(1818)年には、讃岐に入国し、参勤交代を務めていましす。しかし、正式に9代藩主となったのは文政4年5月からです。彼のことは、ウキには次のように記されています。

在職は22年。家老木村通明(亘、黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。

 治政開始16年後の天保5(1834)年2月9日、鵜足郡の宇足津村で百姓騒動が起こり、続いて2月15日には金昆羅領民が、那珂郡の四条村に乱入する騒動が起こります。この騒動は数日で鎮定しますが、このことを憂えた頼恕は、不穏な情勢があると伝えられていた髙松藩西郡の巡視を行う事にします。当時、高松藩は財政が窮乏し、諸事節約中でした。そこで、巡視経費を減額させようとした頼恕は、「鷹狩り」と同じ規模・スタイルで巡視を行うことにして、「お鷹野」と称したようです。この「お鷹野=阿讃国境巡視」について今回は見ていくことにします。テキストは「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」です。

19世紀なって造田村の庄屋を務めるようになったのが西村家です。
造田村庄屋西村家系図 琴南町誌240P
造田村庄屋西村家の系図


西村家は旧姓は森で、戦国末期に来村して帰農したようです。天正16年に、西村吉右衛門が村切りを願い出た文書(「そうだの米もり帳」)の中に、西村家系図に出てくる安左衛門が出てきます。幕末になって西村忠右衛門の代に、檜山植林経営の功労者として名字帯刀を許され、蔵組頭を務めるようになります。経営的には造田紙の元請として国産品の増産に功績を残し、御貸免経営にも成功します。彼が西村家勃興の基礎を築いた人物になるようです。忠右衛門の跡を継いだのが西村市太夫になります。藩の永引地の興し返し地調査などに従事し、傑出した庄屋として知られた人物だったようです。そのため造田村庄屋だけでなく勝浦村庄屋後見役、炭所東村庄屋後見役、中通村兼帯庄屋を務め大庄屋並の待遇を与えられるようになります。また、市太夫は、青年時代に炭所西村の桃陽宗匠に師事し、「桃郷」と号して俳句を学び、俳句集や神社の俳諾献額などにその名が残っています。市太夫の文才は庄屋文書の上にもあらわれ、目次欄を設けて整理された庄屋日帳や、郡の引纏方として担当した、天保9(1838)年の幕府巡見使の関係記録などの記録にも、その学識の豊かさがうかがえます。

造田村の庄屋西村市太夫が、郷会所の元〆から飛脚と同道して出頭するよう命ぜられるのが天保6(1835)年正月14日のことでした。
「殿様の大川宮(神社)御参詣、御鷹野を遊され、御境見(国境視察)をなさること」についての打合せでした。高松へ出頭して、詳細な命令を受けた市大夫は、翌15日、鵜足郡上法村の大庄屋十河亀太郎宅で開かれた郡寄合に出席し、大庄屋などと協議を行って帰宅します。この「鷹狩り巡視」の期日は2月末と知らされます。これから約二か月間、市太夫は準備のための多忙な日々を送ることになります。準備のスタートは予定順路の決定と距離確認から始められます。国境巡視について、絵図を添えて造田村分のコースは次の通りと報告しています。

「那珂郡境笹ヶ多尾から、犬の塚を通り、炭所西境三つ頭まで、長さ千弐百問」

西村家文書 柞野絵図2
西村市太夫が提出した造田村柞野谷周辺 (中寺が記入されている)

これが造田村の領域エリア分でした。
この年は雪の多い年で、大川寺周辺は三尺(約1m)超す雪に覆われていて、事前調査に手間取ります。阿讃の国境の道を、馬を牽き、数々の道具を持った多人数が通行できるかどうか、現地調査が繰り返されます。各村から集められた人足が、山方役所の手代の指図を受けて、大川神社から笹ケ多尾まで、御林の木を伐り枝を払い、長さ約700間の新道を開きます。笹ヶ多尾から三つ頭までの古道約1100間の修繕も行われています。
 一方で、塩入村からの通路についても調査が進められます。最初は、人足の引継場所になるのは、塩入村(那珂郡)と造田村(阿野郡)の郡境尾根にある「中寺」が予定されていました。しかし、尾根上は土地が狭く、殿様の近くで継ぎ立てを行って混雑することを恐れた市太夫は、笹ケ多尾に適地のあるのを見つけ、大庄屋を通じて塩入村に了解を求め了承を次のように得ています。

西村市太夫の大庄屋への返答(意訳)
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

 大庄屋からは殿様にお話申し上げる資料として、巡回コース上の名所・古跡を調査して、地図を添えて差し出すように命ぜられています。市大夫は、犬の墓と中寺堂所について次のように報告しています。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。詳しいも伝承はないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここに出てくる中寺が中寺廃寺のあった所です。ということは、西村市太夫は中寺がどこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
以下の文書のやりとりについては、前々回に見ましたので今回は省略します。
一方、里の村方でも、道普請が必要になります。
次の四つの端が掛け替えられます。
入尾川橋(長さ七間、道幅二間)、
西川井手橋(長さ二間半、道幅一間)
同所下谷橋(長さ六間、 道幅一間半)
佐次郎前橋(長さ三間半、道幅一間)
同時に、この四つの橋を結ぶ道もまた修繕されます。

御巡視の日が近づくにつれて、郷会所や山方役所の手代はもちろん、郡奉行・代官・郷普請奉行・寺社方の下見が続いて、庄屋や組頭は、その応接にも忙殺されます。
当日、笹ヶ多尾へ荷物などを運び上げる人足が、次のように村々へ割りあてられます。
人足数 263人
造田村 112人 (西村 69人 東村 46人)
長尾村  45人
炭所西村 38人
岡田上村 125人
岡田西村  25人
岡田東村   8人
人足には草軽と草履約300足が配布しています。

  頼恕の一行は、七か村で二班に分かれ、
本隊は木の崎から炭所西村、造田村、中通村を経て勝浦村へ
頼恕の班は、塩入村へ
そのため造田の天川が昼所とされます。一行約180人の昼所となったのは天川の大道筋で、菩左衛門、九郎右衛門、弥九次郎の三軒でした。
 行程の中で西村市太夫が最も気をつかったのは、笹ヶ多尾の御芦立所(休憩所)の設営でした。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
大川山から笹ケ多尾の阿讃主稜線につけられた新道
塩入村の最後の休憩所である御林守の伊平の家から、笹ケ多尾までは中寺経由で雪中一里の行程です。
多葉粉盆、縁取り、筵、火鉢等の御道具立てはもちろん、湯茶わかし、仮雪隠の準備までしています。そして興炭10俵を運び上げて、釜三本を炭火でわかします。
 阿波からも、人足を出して道普請を手伝いたい、当日は村役人が百姓を引き連れて御挨拶申し上げたい旨の申し出がありました。しかし、代官の旨を受けた市太夫は、お鷹野であるからと、丁寧に書状で辞退しています。

頼恕の動きを見ていくことにします。
2月
26日 高松出駕、阿野郡北坂出町の宮崎次兵衛方で宿泊
27日 鵜足郡川原村宮井伝左衛門宅にて小休、岡田村木村甚三郎宅にて御昼所
    那珂郡吉野上付又蔵宅にて小休、七か村鈴木柳悦宅にて宿泊。

中寺廃寺 アクセス

こうして2月28日に、小隊編成で塩入からの「御境目見分」が行われています 
好天気に恵まれた頼恕は、一部の藩士を従えて柳悦宅を出発し塩入村に入ります。元庄屋小亀弥三郎宅にて小休、御林守の伊平宅にて足下を整えた後に、現在の鉄塔尾根沿いに残雪の残る東谷尾根をたどって「中寺」経由で笹ヶ多尾へ九ツ時分(正午)に到着します。笹ヶ多尾には、畳二枚が西村市太夫によって用意され、藩士が持参した毛所を広げられます。殿様は、弁当を食べ、遠鑑(とおかがみ:望遠鏡)で四方を遠望して時を過ごします。西村市太夫は「御機嫌よく御立にて、有り難き仕合にて御座候」と書き残しています。
 笹ヶ多尾から阿讃国境の峯伝いに進み、その途中で阿州の庄屋などの挨拶を受けます。これに対応しているのも西村市大夫です。

大川神社 1
大川宮(神社)に到着すると、神官の宮川美素登の案内で、入谷主水が代拝し、終わって頼恕も拝殿に上がって拝礼します。
大川神社 本殿東側面
大川神社本殿(改築以前)
「増補三代物語」には大川山のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也
意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
参拝を終えた頼恕の一行は、大川宮から峯通りを進み、白ぇ峯(?)で軽い食事をとり、勝浦村本村の庄屋佐野佐平宅に向かいます。

2月28日の勝浦村庄屋佐野宅での宿泊については、記録が残っていないのでよく分かりません。ここでは、村役人などを含めると約200人の宿泊だったので、庄屋宅だけでなく、近くの長善寺や村役人宅なども宿舎とし使われたのでしょう。布団などの夜具は、造田や中通などから運び上げられたようです。「西村文書」に中に、次のような領収書と書付けが残っています。
領収書 「四布(よの)布団一枚五分、三布(みの)布団一枚三分」
2月25日付の書付け
「御人数増につき、 畳拾五枚、風呂一本を送った」
29日は勝浦の庄屋佐野家を出発した頼恕の一行は、川東村渕野の円勝寺を昼所としています。
勝浦村の佐野宅から円勝寺までは、難所であったので、中通村一疋、造田村四疋、炭所東村二疋、炭
所西村三疋、長尾村四疋、計十四疋の馬と馬方が加勢に出ています。

円勝寺 琴南淵野 殿様の昼食場
明治初年の円勝寺
円勝寺は、当時は浄土真宗興正寺派の寺院で、部屋割図を見ると、広い立派な客殿と庫裡があり、本堂も広く、設備がよく整っていたことが分かります。それでも藩主一行を迎えるには不十分だったようです。そのために境内に仮小屋を建て、近くの組頭庄左衛門宅など六軒を利用して、 一行の昼所に充てています。
 この準備を、取り仕切ったのが状継弥右衛門(稲毛家)で、彼もその記録を美濃紙44枚に及ぶ「殿様御鷹野合御小昼所円勝寺記録」として残しています(稲毛家文書)。そこには、一行のメンバーが次のように記されています。
一、御本亭(客殿)
御用達入谷主水。御用人古川市左衛門。同高崎清兵衛。御小姓斎藤尽左衛門外八名。御櫛番弐人。奥医師二人。奥横目二人。御庖丁人六人。賄人三人。末の者二人。小間使十四人。御肴量一人。八百屋一人。計四十五名。
一、円勝寺本堂
贅日山下新兵衛組十七人。御医師と足軽十一人。御茶道北村慶順組十三人。御内所方市原太郎組八人。御駕籠頭一人 .計五十人。
一、円勝寺仮小屋
御駕籠の者十人。小道具の者三人。御野合小使三人。助小使五人。御手回り御中間十一人。御荷物才領中間五人。計三十七名。
一、組頭庄左衛門宅
奥医師杉原養軒。同安達良長。外六名。計八名。
一、百姓伊四郎宅
惣領組中と御中間計十七人。
一、百姓伝次郎宅
御鷹方吉原男也外二十七人。計二十八名。
一、百姓次郎蔵宅
小歩行中間計十四人。
一、百姓佐十郎宅
御家来衆計二十人。
一、百姓伝次郎宅
郡奉行外七名。計八名。
(総計二百二十七名)
これを見ると一行の総数は227名であったことが分かります。当時は、高松藩の財政が最も窮乏していた時で、経費節約のために領内巡視を「御鷹野」と称して行う事になったと最初に記しました。しかし、参加メンバー数を見る限りでは、「少数による巡視」にはほど遠いものであったことがうかがえます。ある意味では「動く御殿」でもあったのです。
 円勝寺で軽い昼食をとった後の行動については、次のように記されています。
焼尾笠松 御芦立所で小休し、永覚寺にて御昼所、羽床上村逢坂庫大方にて御泊り。
翌日、畑田村富野佐右衛門宅にて小休し、香川郡円座村遠藤和左衛門宅にて御小休、御帰城遊され候

西村市太夫は、二月朔日に御鷹野記録の筆をおいています。
同年三月八日、川東村の状継弥右衛門は、兼帯庄屋川西勇蔵の名で、阿野郡南の大庄屋宛に、郷普請人足遣済の届書を次のように提出しています。
川東村
一人足五百二十一人 御小昼所一件遣済辻
一馬 四疋(此人足十二人)右同断
〆 五百三十三人
一人足百六人 指掛三ケ所川東村分遣済辻
一人足七百六十五人五分 御通行筋道作人足遣済辻三口
〆千四百四人五歩
右の通に御座候以上
未三月八日            兼帯庄屋 川西勇蔵
奥村宇右衛門様
水原先三郎様
これを見ると川東村もまた多くの人足を出動させて、大きい負担を蒙ったことが分かります。私は、この「御境目見分」は殿様の鷹狩りで、春になってから少人数で行われたと思っていました。しかし、それは違っていました。
厳寒2月の1mもの大雪の中、どうして「御境目見分」を行わなければならなかったのでしょうか?
考えられる説を挙げておきます
A 阿波藩に対する警戒・示威行動であった
B 遊惰に流れた藩士の士気を鼓舞するためであった
以上をまとめておくと
①第9代髙松藩主は、領内西部の不穏な空気を押さえるために「藩主巡回」を行う事にした。
②しかし、財政難のためにそれまでの正規なものではなく「鷹狩り」と称した簡略版で実施予定した
③巡視コースのハイライトは、大川山周辺の阿讃国境の巡視であった。
④そのための準備のために巡視コースの村々は、さまざまな準備と負担を担わされた。
⑤造田村庄屋であった西村家の文書から「鷹狩巡見」の様子を知ることが出来る。
⑥雪の残る2月末に、国境尾根の巡視活動を行った意図はなんであったのかよく分からない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」
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借耕牛 歴史の見方
借耕牛 まんのう町明神の出合橋
以前に借耕牛のことについてお話ししました。それに対して「牛の貸手と借手側の動きについて、もう少し詳しく知りたい」というリクエストがありましたので、そこに重点をおいて見ていくことにします。テキストは「借耕牛 琴南町誌595P」です。

借耕牛 峠道
借耕牛の越えた阿讃の峠と集積地

借耕牛 搬入ルート
借耕牛の越えたルート図

借耕牛は、どのような仕組みで明神に集められたのでしょうか?
それがうかがえる史料が昭和30(1955)年頃に、旧琴南町中通の博労・岩崎春市が得意先の借手の農家に出した次の葉書です。

借耕牛 貸し出し農家への依頼文

昭和三十年代 仲介業者から借手農家への葉書(琴南町誌)
拝啓 時下好季節となりました貴家御一同様益々御清祥奉ます
陳れば例年通りに御引立を蒙ります。耕作牛件に付一般に連絡がおくれて居りますが相変ず追出し御用明下さる事と思ひますので追出期日は秋は十一月一日より夏は六月一日より尚仕り牛は早く来ても都合のよいのが居ります。又賃金(レンタル料)も安く勉強して使用出来ると思いますれば近所誘合せて御出下され。尚小生一度御相談に参上ます積りですが若し行かず共入用事時に連絡が出来れば好都合と存じます
先は取り急ぎ御依頼中止ます           ´   敬 具
昭和  年   月   日      ..
香川県仲多度郡琴南町中通小学校前
家畜商并耕作牛仲介業             岩崎春市
これが琴南町中通の仲介業者が、讃岐の借り手側に送った案内葉書になります。「追出期日」というのが阿波から牛がやってくる日時です。それに合わせて、借手の農民に出された案内状です。気になるのは、「場所」が明記されていないことです。どこで借耕牛の「市(セリ)」は行われていたのでしょうか?。また、「借耕牛」という言葉は出てきません。「耕作牛」が正式の名称だったようです。

今度は阿波側の貸し出し農家から仲介業者(博労:ばくろ)への依頼状です。

借耕牛 貸し出し農家からの依頼文
貸出農家から仲介業者への依頼の葉書(岩崎春市提供)
内容を確認しておきます。
若葉香る良き季節となりました。家族の皆様はご健勝にてお過ごしのことと推察申し上げます。本年度も耕牛を追出す予定と致していますが、期日は何時頃が良いか御一報お願い申し上げます。牛は昨年も世話になった牛で、六歳になっています。先方を選んでいただければ幸いかと思います。先ずは取り急ぎ、右御依頼申し上げます。
早々
これが阿波の貸し出し農家からの仲介依頼葉書です。要点を挙げておくと次の通りです。
①今年も牛を「追い出す(レンタル)」する用意があること
②牛は六歳で、昨年もレンタルしたもの
③レンタル先の確保の依頼
④牛を追い出す日時の確認
などが記されています。
以上からは、借耕牛の仲介を世話したのは、博労(ばくろ)と呼ばれる仲介業者だったことが分かります。6月の田植え時期が近づくと、借方の讃岐の農家は地元の仲介業者に借耕牛の斡旋を依頼します。依頼を受けた仲介業者は、阿波の貸方の家畜商や農家に、日時、場所を指定して牛を連れてくるように依頼します。この通知を受けた貸方の家畜商が阿波のソラの農家を巡って、「今年は米に行くんか、行かんのか」と聞いて牛を集めたようです。

池田町史下巻924Pには、次のような「馬喰(ばくろう)」の回想が載せられています。
借耕牛の世話料は、牛の貸し賃の約一割だった。借耕牛の市は、夏と秋の二回あるが、その一期の値段が戦後では、六千円から一万円くらいだった。問屋と交渉したり、向うの馬喰(ばくろ)と交渉したり、個人同志の貸借りの仲介もあった。
個人の世話をするのに、よう讃岐へ自転車持って行って、丸亀まで送ってもらって、自分は汽車で行って、向うの農家を回る。二晩泊って、西へずうっと回って観音寺まで来て得意先の注文を聞いてくる。そして日を決めて、財田の戸川で両方が会うことになる。戸川の道路のはしに、牛をずらっと並べて交渉するんじゃ。
借りる側は、仕事がようけできんの、足元が悪いの言うて牛の苦情を言う。それに阿波から戸川まで遠い所をやあやあ言うて追うて行くきん、弱っとるわ。讃岐の人は戸川から追うていなないかん。牛がもの喰わな仕事にならんぞ、陽に弱いぞと苦情を言う。そこで、ばくろうが、借り手と貸し手と相談したながら、ばっぱっと決めていくんですわ。多いときには、一期に百二十頭ぐらい世話した。

夏と秋の二回あるんじゃが、秋は日にち(レンタル期間)がちょっと長い。秋に弱る(困る)のは残る(借りてが決まらない)ができるんじゃ。秋は、一日を争うて仕付け(麦)せんでも良いので、安い牛がおれへんかと思うとるかも知れん。戸川で四晩ぐらい泊ったこともある。預った牛じゃきん、貸り手を見つけないかんし、牛には、一日に三べん飼料(はご)やらないかん。向うの百姓は牛のこと知らんきに馬喰つれてくるのもあるが、牛を借りたら使わな損というので、牛はやせるのが普通じゃ。

 馬喰の仕事を長いことしてきたんで、得意先じゃった漆川、昼間、足代などの農家はみな顔なじみになった。ことに、山分の人は、上げ荷というて、全部牛で荷を上げよったし、農耕にも使っていたんで、牛が多かったし、付き合いが深かった。

ここからは次のような事が分かります。
①池田のばくろうが丸亀から観音寺まで、自転車で廻って借り手の注文聞いていること
②期日を決めて、財田戸川に借り手と貸し手が集まってセリを開いていたこと
③その仲介をばくろがおこない、多いときにはシーズンに120頭もあつかっていたこと。
以上を図式化すると次のようになります。

借耕牛取引図4
今見てきた琴南や箸蔵の博労たちの活動は、④や⑤のタイプになるようです。

借耕牛の取引システムについて、整理しておきます。
①農繁期が近づくと讃岐の借方農家は、 地元業者(ばくろ)に借牛の斡旋を依頼しる。
②依頼を受けた地元業者は、懇意な口元業者か貸方の業者、あるいは個々の農家に日時、場所を指定して依頼する
③依頼通知を受けた阿波の地元業者はその頭数を集めるためにソラの農家をたずね 「今年も頼みますよ!」と声をかけて歩く。
④仲介業者達は、双方の話が合致すれば、取引の日時と場所をそれぞれの農家に連絡する。
⑤取引当日は、阿波の貸方農家は牛をひいて指定場所までつれいき、借方農家もその場所まで引取りにくる。
⑥そして双方農家と仲介業者が立ち合って, レンタル料を決める。
⑦その際に業者は借り方農家の希望をあらかじめ聞いておいて、その希望に合いそうな牛を斡旋する。
⑧ある意味では「予約制」で、需給にパランスがとれているので、レンタル料は安定している。
⑨取引が成立すると、返却予定日をきめて引渡す。
⑩その時契約書をとり交わすかどうかは、その仲介業者と借方農家の信用度によって決定する。

このような博労(ばくろ)による信用取引が成立するまでには、次のような推移がありました。
明治時代は、ほとんど契約書を取り交わしていました。それが借耕牛慣習が安定化した大正末から昭和初年になると信用取引に変化します。ところが昭和16年以後の戦時下の統制経済の元では、農協が介入し一括して取扱うようになります。そのため仲介業者は閉め出されてしまいました。しかし、この方法では次のような問題点がありました。
①仲介業務を担当することになった村や農協の職員は、牛の良否、能力の判定技術がないこと
②そのため牛の能力に応じた代償額が出せずに公正を欠くようになったこと
③借手側農家の責任感が薄くなり、牛の酷使や過労などが続出して阿波農家が貸出を嫌がるようになったこと
④終戦直後の混乱の中では、牛を酷使するだけでなく、なかには屠殺して肉として売り払ってしまう者まで出てくるようになった。
⑤その結果、借耕牛の流通頭数は激減し、レンタル料は高騰し借り手側農家は困窮した。
⑥こうして敗戦を境として借耕牛システムは終息するかに見えた時期もあった。

そうしたなかで終戦の混乱から世相が安定すると、借耕牛を復活させたのが仲介業者(ばくろ)たちでした。彼らの努力と信用で借耕牛が復活したのです。昭和33年の調査では100%信用取引となっています。これは地元の業者が、各農家の事情をよく捉えていて、農家の信頼を得ているからだと研究者は指摘します。
取引の成立した牛は、讃岐側の農家にひかれて里に下りていきます。
農作業中の全責任は、仲介業者がもつことになっていました。そこで事故疾病などに際しては借方農家から仲介業者へ、 業者は持主に連絡してその処置を協議のうえ補償方法を決定しています。 また農作業が予定日以前に終るような場合には、連絡して日時を早めたり、遅れる場合の連絡なども、すべて仲介業者(ばくろ)が責任をもって行っています。

借耕牛9

 返却日になると、借方農家は牛の弁当 (飼料として普通麦2~3升を煮物にしたもの)を背負わせて、決められた日時に、その場所まで返しに来ます。これを「追い上げ」と云っています。追上げられた牛は双方の業者が立合って、事故の有無をしらべた後で持主に返還されます。その後、代金決済をして取引は終了します。こうしてみると借耕牛システムは、仲介業者(ばくろ)抜きでは成り立たないものであったことが見えて来ます。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

借耕牛が美合の明神にやってくるまでの光景を見ておきましょう。
①隣人など三・四人が連れ立って、阿讃の峠道を越えて明神に「牛を追い出す」
②明神に着くのは午後3時~5時ごろ
③その夜は明神の宿で泊まり、翌日に取引をする。
④仲介人(ばくろ)が、自分に頼まれた牛を借手に紹介し、値段を交渉して、双方が合意すれば契約成立
⑤レンタル料は米一石(俵2俵:120㎏)前後だが、牛の大小・強弱・鍬の仕込み具合、耕作反別などによって差がついた。
⑥成立すれば契約書を取り交わして、牛は借手人の手に渡される。
⑦追い上げ(牛を返すこと)の場合はこの反対で、牛の背に報酬の米を背負って阿波へ帰っていった。
借耕牛 美合落合橋の欄干
俵2俵を背負って阿波へ帰る借耕牛 阿波では、米を持って帰るので「米牛」と呼ばれた

貸し出す側の阿波の農家は、前日に牛に十分な飼料を与え休養させます。そして、一番鶏が鳴くと同時に追い出します。常着の仕事着に股引をはき、尻をからげて手ぬぐいで頬被りをして出発です。牛の背には弁当と牛の糧(麦を煮たもの)や草履をつけます。

借耕牛 岩部

昭和10(1935)年、セリの前日に明神のある宿の宿泊者名簿に記された出身村名一覧表です。
美合口宿帳1935年 借耕牛
これを見ると、夏は美馬郡の一宇村や八千代村の宿泊者が多かったことが分かります。このふたつの村は、貞光側の最奥部のソラの集落です。山の上には、広い放牧場があって牛を飼うには適していました。供給地と移動ルート、セリなどについては、以前にお話したので、ここでは省略します。
 最後に見ておきたいのが、次の町村別貸出頭数表です。


借耕牛 貸し出側町村名一覧

ここからは、徳島県のソラの集落から借耕牛がやってきていたことが見えて来ます。注意しておきたいのは、香川県内の美合村(旧琴南町)や安原上西村(旧塩江)からも借耕牛はやってきてことが分かります。美合村の昭和10(1935)年夏の飼育頭数は650頭で、そのうち貸出数が450頭に達しています。これは阿波のどの村よりも多いレンタル数です。最後の雌雄島というのは、髙松沖の女木・男木島のことです。ここでは、讃岐にも牛を提供する村々があったことを押さえておきます。

借耕牛の起源についての従来の説は、次のようなものです。
阿波から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子」と呼んだ。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きにくることを米の借り出し稼ぎと称していた。また、天保(1830~44)のころは、讃岐には砂糖キビを締める多くの人夫(締子)と牛が必要で、主として阿波の三好・美馬両郡から締子と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りする牛のことを「借耕牛」というようになった。(中略)
徳島県は米が少なく、報酬に米が得られることは大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
借耕牛 起源

髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。

阿波の国境に近い旧美合の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを放置することはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業の自由」を認められていなかった時代には、藩を超えての借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
 
文政九(1826)年の人口調によると、各村の牛の保有数と本百姓の牛保有率は以下の通りです。
      村の牛保有数  本百姓の牛保有率
勝浦村  97頭 54%
中通村      105頭  108%
造田村   57頭   29%
この表を見ると勝浦村や中通村は、阿波のソラの集落と地理的条件が似ていて、山間部に放牧地を確保して多くの牛を飼育していたことがうかがえます。しかし、平野が拡がる造田村では、牛を飼育する条件に恵まれず、牛耕ができたのは、一部の百姓に限られていて、大部分の百姓は備中鍬を使って人力で深く耕し、耕作を続けていたことがうかがえます。
  水田の面積が広がり、それだけ水利の便が悪くなると、水持ちをよくして収量を増すために、牛耕に頼ることが多くなります。造田村や下郷の村々では、牛の飼育の条件が悪く、請作に転落した小百姓は、牛を飼育する余裕がありません。牛を飼育していなかった小百姓が、農繁期だけ、中通や勝浦の山間部から牛を借りて耕作するようになります。こうして借耕牛は、高松領内の山分と里分の百姓間で、まず始められたと研究者は指摘します。
 それが借耕牛の需要が多くなると、国境を越えて阿波からの耕牛の導入が始まります。しかし、これは、江戸時代には経済活動の自由が保障されておらず、米の阿波藩への流出を髙松藩は規制していました。この体制下では、阿波牛を耕牛として導入することは難しかったはずです。高松藩では、耕牛の藩内での自給自足を目標にして、牛の飼育を奨励し、潰牛を取り締まり、盗れ牛や放れ牛については、領民同様に、五代官連署の御触れを出して調査を命じ、領内各地に牛の墓も立てられていました。つまり、牛の管理が厳しく行われていたことは以前にお話ししました。こうした中で、天保年間(1830~44)になると阿波からの借耕牛が行われた形跡が見えるようになります。
「稲毛文書」の中に 川東村の忠右衛門と阿波の重清村の藤太との間で結ばれた借耕牛の契約書が二枚残されています。 その内の契約書のうち、阿波の藤太の差し出した契約書を見ておきましょう。

借耕牛 江戸時代の契約書
    覚
一 米 二斗二升也
一 丸札 二匁也
右は此元持牛貸し賃米并追越賃共来る十月十日切、請取に罷越可レ申候為レ其手形如レ件
                          阿州重清村 沼田  藤太
天保十一年六月七日
讃州川東村      忠右衛門殿
意訳変換しておくと
米2斗2升と丸札2匁は、牛貸の賃米と追越賃(輸送費)で十月十日までに、支払いを終えること
 
二枚とも墨で斜線が引かれています。これは何を意味するのでしょうか。髙松藩が認めていない借耕牛の契約書を無効と見せるためのものと研究者は推測します。この契約書の下部に、次のような書き入れがあります
此牛借賃
十月十日藤太罷越、夫々相渡候事にし銀弐匁指支に付米二升、銀弐分相添指引相済候事

意訳変換しておくと

十月十日に沼田藤太がやってきて、米と丸札2匁の契約に基づいて、銀弐匁につき米二升、銀弐分を支払った。

ここからは、一頭の借耕牛が、6月7日に藤太に追われて阿讃の峠を越え、夏と秋の農繁期を働き通したこと、10月10日に米二斗二升を背に載せて、藤太に追われて阿波に帰っていったことが分かります。この牛が、川東村の忠右衛門の家だけで働いたのか、丸亀平野の里分へ又貸しされて酷使されたかは分かりません。
    藩政期の借耕牛に関する文書は、ほとんどありません。ここからは、借耕牛の制度は高松藩によって公認されたものではなかったこと。そのため、借耕牛が盛んに行われるようになるのは、明治維新以後のことと私は考えています。
 阿波からの牛のレンタルは認められませんが、同じ藩内なら話は別です。美合村や安原・男木・女木島は、牛の飼育に適しています。そのため里の農家に牛をレンタルすると云うことが江戸時代の後半には始まったようです。それが明治以後に「経済活動の自由」が認められると同時に、借耕牛需用の増大に伴って、県境を越えて多くの牛がやって来るようになったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛 琴南町誌595P 355P
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から望む中寺廃寺と、その向こうの丸亀平野

江戸時代末に高松藩主が鷹狩のために中寺廃寺跡付近を訪れたことが造田村庄屋の西村文書に記されています。ここからは鷹狩り準備のために、地元の庄屋が藩の役人と、どんなやりとりをしながら進めたのかが分かります。鷹狩りルートは、次の通りです。

①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山

このルートには、大川山や中寺廃寺の周辺も含まれていています。今回は、造田村(旧琴南町)の庄屋文書『西村家文書』の鷹狩り記事に出てくる中寺廃寺を見ていくことにします。テキストは「まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年」です。
 鷹狩り記事が出てくるのは、天保6(1835)2月の冬のことです。2月末に行われることになった鷹狩りのために造田村庄屋と鵜足郡の大庄屋・髙松藩の間でやりとりされた文書の控えが西村家に残されています。この中に次のようなルート図が添えられています。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」

造田村庄屋の西村市大夫が大庄屋に提出した鷹狩の際の道筋を示した絵図(控)です。
左(東)に、大川山に鎮座する大川社が描かれ、そこから西(右)に向かって阿讃山脈の主稜線が伸びています。右端が「笹ケ多尾(たお)」です。「タオ」は「垰」で「田尾・多尾」とも表記されます。
 「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
 もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。

中寺廃寺 周辺の地名2
塩入から中寺を経て大川山まで
①右下隅が大川山です。
②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」
③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、
④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境
⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
殿様の鷹狩りコースは、この逆で塩入から出発して大川山まででした。

B『西村家文書』文化2(1805)年丑2月「絵図(まんのう町造田杵野谷付近)」

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」
③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
中寺廃寺 アクセス


次に『西村家文書』天保6年「日帳」を見ていくことにします。
 文章A~Dは、造田村庄屋が大庄屋らに古道の詳細について書き送ったものです。    
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月三日     西村市大夫
宮井清上様
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上
二月三日        西村市大夫
宮井清上様
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。
B 日付は上と同日です。内容が詳細になっていて、宛先が藩の役人になっています。 (意訳のみ)

一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

C 翌日2月4日のものです
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日      西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
  意訳変換しておくと  
C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。
一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。
二月四日     西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。

D 今までに送った情報の修正です
一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り
       宮井清上様
       十河亀五郎様
尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日
意訳変換(簡略版)しておくと

D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。

E 殿様の通行のために、柞野の新御林の中に道を敷設したいとの要望書です。その際、支障となる木の伐採が必要な場所が多くあるとしています。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上
´二月四日    庄屋 西村市大夫
安富弥右衛円様
森 人右術円様
尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
 
F 今回の鷹狩りルート中に名所・旧跡は無いか? 笹が田尾の絵図とともに報告せよ。
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候
一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上
 二月五日     十河亀五郎
       宮井清七
西村市太夫様
意訳変換しておくと
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
 この絵図提出指示で、作成されたのが最初に笹ケ多尾周辺の絵図なのでしょう。また、ルート上の名所のリストアップも指示されています。鷹狩りだけでなく、様々な気配りがされていることがうかがえます。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上
二月五日       森 太右衛円
       安富弥右衛門
西村市大夫 様
意訳変換しておくと
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
御林の伐採については、各部局と事前連絡をとって置かなければなりません。そのために現地の状況を熟知した者を出頭させよとの通知です。これに基づいて、御林が伐採され、新道が設置されたのでしょう。
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、
一 犬の墓
一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候
右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上
二月六日        西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。
I 上の報告に対する大庄屋の返書です
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上
二月六日       十河亀五郎
       宮井清七
西村市大夫様
意訳変換しておくと

殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上

大庄屋は造田村庄屋に、名所・古跡に関しての詳しい説明を求めています。仕事がていねいです。

J 上記に対する西村市大夫の返書です。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと

一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上

ここからは、中寺の所在地までの距離を把握しています。ということは、どこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。

K 再度、中寺に対する大庄屋からの問い合わせです(意訳のみ)
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上
九月六日       十河亀五郎
西村市大夫様
尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
L 上記に対する返答書です。(意訳変換しておくと
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様

  笹ケ多尾は、先ほどの絵図で見たとおり、旧琴南町・旧仲南町・徳島県旧三野町の3町が接する付近になります。また、中寺が那珂郡と阿野郡の境界線上近くにあり、強いて言うなれば阿野郡の造田村に属すと返答しています。これは、発掘後に姿を現した中寺廃寺の伽藍レイアウトに矛盾しません。

以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①中寺は江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②しかし、名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えとられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」尾根ルートは、かつての那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
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前回までは、古代の山林寺院として中寺廃寺(まんのう町)を見てきました。讃岐には、もうひとつ古代の山林寺院跡が発掘されています。それが屋島寺の前身とされる千間堂跡です。今回は、この千間堂跡を見ていくことにします。

屋島寺 北嶺地図
屋島北嶺にある千間堂跡

屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
 先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)
其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
  意訳変換しておくと
 屋島寺の開基は鑑真和上である。①鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)
その後、②退転していたのを弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。
ここに書かれていることを要約しておくと
①屋島寺の開基は鑑眞で、日本で最初の律宗寺院を屋島北嶺に建立した
②退転して屋島寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を本尊として安置した
ここには、屋島寺は勧進和尚が屋島北嶺に建立した寺院で、それを空海が南嶺に移したと記されています。つまり、屋島寺のスタートは北嶺にあったというのです。そして、北嶺には「千間堂」という地名が残り、ここに本堂が建立されたとされてきました。しかし、千間堂についての詳しいことはよく分かっていませんでした。近年になって、千間堂跡が発掘されて調査報告書が出されています。発掘から分かったこと、新たに生まれた謎について見ていくことにします。

千間堂周辺の発掘調査からは、次のような土壇をもつ礎石建物跡が出てきました。

屋島寺千間堂跡1
屋島北嶺 千間堂跡
①2間×3間の南面する東西建物で土壇を持つ
②周辺部には目立った遺構がないこと
③土壇中からは多口瓶が3点出土したこと
北嶺から出てきた建物が2間×3間の規模でした。この規模は、古代の大寺院では鐘楼や経蔵規模の建物か付属雑舎程度です。しかし、周辺調査からは、これ以上の規模の建物跡はでてきませんでした。この規模のものが、本当に本堂だったのかという疑問が湧いてきます。その際に参考になるのが前回お話しした山林寺院・中寺廃寺(まんのう町)の仏堂跡です。
まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔(復元想像図)

中寺廃寺 A遺構仏塔2

中寺廃寺の仏堂跡と塔跡(仏堂は三間×二間 塔は三間×三間)
中寺の仏堂跡も本尊を安置すれば、空間がなくなる「お堂」的な存在でした。また下図のように、この規模の建物を本堂とする山林寺院は、他にもあります。
中寺廃寺と同じ規模の金堂

初期の山林寺院の仏堂としては、この規模のものが普通だったようです。この建物が千間堂の仏堂と研究者は考えています。寺伝をそのまま信用するならば、ここに普賢菩薩が安置されていたことになります。
 調査前には、金堂や僧房・塔などの大規模な伽藍跡が出てくるのではないかという期待もあったようです。しかし、それは期待外れに終わって、出てきたのは建物遺構は2棟だけでした。ここからは、北嶺千間堂の伽藍配置は、土壇をもつ礎石建物跡(千間堂)を中心に、小規模な掘立柱の建物遺構が点在する伽藍配置だったと研究者は判断します。それが当時の地方の山林寺院の姿であったとしておきます。

 千間堂跡の土壇からは、須恵器多口瓶が3点出土しています。

屋島寺千間堂跡 多口瓶2
屋島寺千間堂跡出土の多口瓶

 多口瓶は仏具とされるので、この建物が寺跡であることが裏付けられます。全体像が復元できたのは3点です。径の大きさからすると、綾歌郡飯山町法勲寺から出てきた多口瓶の大きさと似ていると研究者は指摘します。屋島寺の周辺から出てきた多口瓶は次の通りです。ちなみに、中寺廃寺では西播磨産の多口瓶が出てきていることは以前にお話ししました。

屋島寺千間堂跡 多口瓶

屋島寺周辺の多口瓶
この中で法勲寺(香川県綾歌郡飯山町)のものと共有点が多いと研究者は次のように指摘します。その特徴をまとめておくと
① 古代豪族綾氏の氏寺:法勲寺跡の大窪谷川の南側護岸から出土
② 白鳳期~室町時代の瓦に混じって出土したもので、注口部から胴部上半の破片。
③ 胎土に砂粒を多く含み、内面には接合痕があること
④ 突帯の接合方法も上部は撫でられているが、下部は接合痕が認められること
⑤ 以上から、千間堂のものと同じ工人・窯跡産のものである可能性が極めて高い。
それでは、千間堂跡と法勲寺跡から出土した多口瓶は、どこで作られたのでしょうか

以前にお話したように、十瓶山窯跡群は綾氏によって作られた最新鋭の窯業地帯で、そこには国衙が管理する官営工場もありました。研究者は、陶の官営工場でこの多口瓶は焼成されたと推察します。しかし、十瓶山窯跡群からは、多口瓶は出てきていません。特殊な器種であることから生産数が限られ、窯場に残らなかったとしておきます。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺の多口瓶出土状況
多口瓶は何のために、どのような役割のために用いられたのでしょうか?
それを知る手がかりを見ていくことにします。
①倉吉市大御堂廃寺では講堂基壇から多口瓶が出土していますが、ひとつの多口瓶の破片が周辺に広がっていたこと
②姫路市播磨国分寺から出土した多口瓶も金堂の再堆積土から破片で出土していること。
以上から基壇を造る際に、地鎮として仏具である多口瓶を破砕し、基壇造成土に埋め込んだことが推測できます。
③明日香村の川原寺の塔の場合は、無文銀銭と金銅円板が版築土中から発見されていること。
④西大寺東塔では、基壇完成までに銭播地鎮が少なくとも三回にわたって行われたこと
以上からは、作壇の際には、仏具である多口瓶を破砕し、土壇に破片を埋納する地鎮を行いながら、作壇作業が行われたことがうかがえます。

屋島寺縁起には、鑑真が日本にやってきた754年前後に北嶺千間堂は創建されたとされていました。しかし、8世紀にまで遡れる遺物は、千間堂跡からは出てきませんでした。北嶺で遺物が出てくるのは9世紀になってからです。そして出土量は10~ 11世紀にかけて多くなります。この時期は、中寺廃寺と比べると、開始は少し遅れますが、ほぼ活動時期が重なることを押さえておきます。

 多口瓶や本尊について研究者が注目するのは次の点です。
①平底をもつ多口瓶の製作年代は10世紀前半
②他の2つは、寺に伝世していたものを10世紀の前半に土壇をもつ礎石建物を構築するために破砕したもの
③北嶺に「本堂(千間堂)」が建てられた時期に先行して本尊の千手観音坐像が制作
④寺の記録には空海自らが彫り千光院に安置したとあるが、空海時代のものではない。
⑤屋島寺は鑑真が北嶺に開基した時の本尊は普賢菩薩だった。
⑥それは1391年(明徳21年)の西大寺末寺帳に「屋島普賢寺」という寺名が見え、寺名は普賢菩薩に由来するとある。
北嶺で出土する遺物が11世紀代を境に減少します。一方、南嶺ではこの時期から遺物が増加します。ここからは、11世紀末から12世紀初頭には寺が南嶺に移ったと研究者は判断します。この移動の大きな原因を報告書は次のように記します。

この頃から四国霊場八十八箇所巡りが始まったことにより、参拝に不便な北嶺(修験の場)から、平野に近い南嶺(世俗化)に移した結果である。

これには次のような異議が出されます。プロの修験者による辺路修行からアマチュア信者による四国遍路へと、姿を変えるのは近世になってからです。変遷理由を四国霊場の成立に求めるには無理があるように私には思えます。
どちらにしても南嶺に移って以後、寺域は急速に拡張されていきます。それは次のような史料で裏付けられます。
①梵鐘に記載された銘文から1223年((貞応二年)讃岐国住人蓮阿弥陀仏の勧進によって梵鐘鋳造
②血の池とは一連の池であったと想定される貯水池推定地の調査で、堆積土の中から炭・焼土とともに多くの瓦が出土
③第6層からは焼土・炭や火を受けた木材などが多く出土する
④ここからは、この時期(13世紀の中頃)に、寺の一部が焼失し、その廃品・廃材を血の池の南に投棄した
⑤その後、本堂は鎌倉時代末頃に再建された。

また寺名については、次のような変化が見られます。
A 明徳21年 (1391年)の西大寺末寺帳には「屋島普賢寺
B 永享 8年 (1436年)の 「西大寺坊坊寄宿諸末寺帳」には「讃岐國屋嶋寺
この末寺帳の記述からは、次のような事が分かります。
①屋島寺が、14世紀末には西大寺真言律宗の寺になっていたこと
②Aでは寺名が本尊に由来する普賢寺 それまでの本尊は普賢菩薩
③Aから50年ののBでは、屋嶋寺に変化
かつては、屋島寺は奈良西大寺の律宗集団の影響下に置かれていたことが裏付けられます。それが屋島寺縁起の中に「鑑眞が、日本で最初の律宗寺院を屋島北嶺に建立」と記される背景のようです。

P1120107 屋島寺 千手観音
屋島寺本尊の十一面観音

 ここで西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立や再興が進められます。このような中で西大寺律宗の叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷から諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道の浄土寺を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19ケ寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで押さえておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、屋島寺普賢寺から屋島寺への寺名変更や、普賢菩薩から千手観音への本尊変更もこの時期と重なります。つまり、寺名や本尊変更には、末寺化した西大寺の布教方針があったと私は考えています。
 これとリンクするのが以前にお話した「髙松七観音ルート」の形成です。高松周辺の次の四国霊場の七ヶ寺は観音様を本尊としています。
国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺

この「髙松七観音巡礼」を進めた宗教勢力があったはずです。それも西大寺律宗の布教活動が背後にあるのではないかという仮説につながります
 屋島寺が西大寺律宗の末寺となった15世紀初めには、土塀を北側につくり寺域を拡張していることが調査で分かっています。寺勢の拡張が見られます。しかし、その後のことよく分かりませんが、永世の錯乱後に讃岐が他国に先駆けて戦国時代に突入した大永4年(1524年)に屋島寺の梵鐘が金倉寺に一時的に移されています。この頃には屋島寺が退転して力を失っていたことが推測できます。

 江戸時代になると龍厳の勧進に始まり、歴代の藩主の加護を受け、屋島寺は急速に復興します。
屋島寺の末寺は、四天門前にあった南泉寺の他、一乗坊・善賢院・宝積坊・霊厳坊・比之坊・元久坊・東景坊・長崎坊の八坊が山上や近くにあったようです。ここからは、屋島寺が弥谷寺や白峰寺と同じく、廻国の修験者や聖たちの共同運営に拠っていたことがうかがえます。しかし、これらも江戸時代の中期までに退転します。
 これを中寺廃寺と比較すると、中寺廃寺は古代から中世への移行期に退転し、姿を消して行きました。それに対して屋島寺は、西大寺律宗の西国への強勢拡大の拠点として、南嶺に復興され存続する道が開けたということにしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
屋島北嶺 千間堂跡発掘調査報告書
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中寺廃寺は次の表のように、8世紀末に起源を持つ古代の山林寺院です。

HPTIMAGE

中寺廃寺の3つのゾーンの建物出現期
最初に開かれたのはBゾーンで、そこには下の復元図のように霊山である大川山に祈りを捧げる信仰施設としての割拝殿と生活拠点としての僧坊があったことを前回お話しました。

「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿と僧坊跡復元図


今回はAゾーンを見ていきたいと思います。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。

中寺廃寺  全景

Bゾーンは大川山を正面に見る尾根上に開かれています。Aゾーンは「中寺谷」の最上部にあります。
Aゾーンの3つの建築物を確認しておきます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)

中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
①仏堂跡   三間×二間 (桁行6,7m×梁間4m)
②塔跡    三間×三間の塔跡
③大炊屋(おおいや)跡 仏堂跡・塔跡の下段
これらは、Bゾーンの割拝殿(仏堂)や僧坊に比べると、半世紀以上遅れて9世紀の半ばの同時期に姿を現しているようです。
まず仏堂跡から見ていきます。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 仏堂跡 礎石が出てきた
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らす。
②広さは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0mの東西棟)
③最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられたこと
③遺構からは10~11世紀の遺物が出土
④仏堂は塔と共に真南を向いて建てられ、仏堂の南には広場が造成
⑤仏堂と塔の位置関係は讃岐国分寺の伽藍配置と相似で大官大寺式
中寺廃寺 A遺構仏塔2
           中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔

 仏堂は3間×2間と小規模ですが真南を向いて、正面に礼拝・法会用の広場が造成されています。ここに本尊が安置されたのでしょう。讃岐の山林寺院は「髙松七観音」のように、千手観音など観音像が多いので、観音さまが本尊だったのかもしれませんが、史料がないので分かりません。

続いて塔跡を見ていくことにします。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺
Aゾーン 塔跡
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した基壇状の平坦地に建てられている。
②広さは3間×3間
③塔中央の心礎石の下から10世紀前半の土師器壺5個杯1個が出土
④壺5個は赤く、陶の十甕山窯で特注品として焼かれたもの
③④については、中央に長胴甕を、その周囲に赤く焼かれた10世紀前半の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
中寺廃寺 Aゾーン 塔跡須恵器G
中寺廃寺Aゾーン 塔跡から出てきた甕と壺(地鎮祭用?)
これは地鎮祭の祭礼用に用いられた特別な甕と坪と研究者は考えています。壺が作られたのは綾川町の十瓶山(陶)の官営工場のようです。当時の陶には、讃岐国衙が管理する官営工場があり、綾川を通じて、讃岐だけでなく、畿内にも提供されていたことは以前にお話ししました。赤みが強いのが印象的ですが、このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後に酸素を大量に供給して赤色に仕上げる行程が必要になると研究者は指摘します。どうやら、この壺は国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。ここでは地鎮祭の壺が国衙によって準備されていること、見方を変えると中寺廃寺は国衙の影響下に置かれていたことを押さえておきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺Aゾーン 塔跡(整備後)
以上で、仏堂跡とその正面の広場、そして塔跡の位置が分かりました。研究者は、これだけの情報で中寺廃寺の伽藍配置が、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であると推察します。仏堂と塔の配置だけで、伽藍形式を、どうして推察出来るのでしょうか? 

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔(復元図)
まず、私が疑問に思ったのは中寺廃寺の仏堂が、3間×2間という小さいものであることです。研究者は、これを次の古代の山林寺院の仏堂と比較します。
中寺廃寺と同じ規模の金堂
               海竜王寺西金堂と海住山寺文殊堂

①奈良市海王寺西金堂(8世紀) 桁行8.87m、 梁間5.96m(下図上)
②京都府加茂町海住山寺文殊堂(鎌倉時代)桁行7.28m、 梁間4.25m(下図下)
③崇福寺跡南尾根の小金堂跡(7世紀後半)桁行8.1m、 梁間5.4m
④高松市屋島北嶺の千間堂(屋島寺前身寺院) (10世紀前半) 桁行6.7m、梁間4.5m
ここからは古代の山林寺院の金堂は、中寺廃寺の仏堂より少し大きい規模であったことが分かります。
屋島の千間堂跡礎石建物と、中寺廃寺の仏堂は桁行長が同じです。
屋島寺は、寺伝では唐僧鑑真が都に向かう途中に立ち寄り、一宇を建立し普賢菩薩を安置したのがはじまりとされます。初期の寺域は、千間堂の地名が残る北嶺芝生広場です。屋島寺の前身である千間堂跡については、長らくその実体がよく分かりませんでした。2009年度の調査で芝生広場北側の森の中で基壇をもつ礎石建物跡が確認されました。基壇は東西に長く高さ40㎝、基壇上には10個の礎石が確認されました。礎石の位置から東西3間、南北2間の建物とされます。基壇内部からは須恵器の多口瓶(たこうへい)が破片で出てきました。
屋島の千間堂跡礎石建物の多口瓶(たこうへい)
多口瓶は仏具なので、寺跡であることが裏付けられ、ここが寺伝にある千間堂跡の一部であることがわかりました。建物の性格としては仏像を安置するための仏堂とされます。これ以外の建物跡は周辺からは見つかっていないので「北嶺千間堂跡の伽藍配置は仏堂を中心に小規模な建物が点在していた」と調査報告書は記します。(高松市教委2003年) 
 中寺廃寺の仏堂も、これが金堂でここに本尊が安置されていたと研究者は判断します。しかし、3間×2間の仏堂では狭すぎて、その中での法会はできません。そこで仏堂の南に広場を設けます。これによって、中心金堂としての機能を果たすことができたと研究者は考えています。
 そうすると、仏堂(金堂)と広場、それに塔跡と併せて、Aゾーンは讃岐国分僧寺と同じ大官大寺式伽藍配置となると研究者は考えます。まず、大官大寺式伽藍を押さえておきます。
①中門・金堂間の回廊内東に寄せて塔を置く大官大寺式は、文武朝(697 - 707年)に藤原京内で造営した大官大寺(藤原京大安寺)に初めて採用
②天平13年(741)の国分寺造営の詔を受けて、南海道や西海道の西日本国分僧寺の多くが採用した伽藍配置であること。
 次のような大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺を比較してみます。を行います。
 
中寺廃寺 大官大寺式伽藍

大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺の比較

金堂・塔規模は、平地伽藍の大官大寺や各地の国分寺は、数倍の大きさを持ちます。それは、国家が威信をかけて造営した官寺だから当然かもしれません。堂塔規模は、平地に立地した大寺伽藍が山林寺院例を圧倒します。しかし、H/L×100値に注目すると、中寺廃寺の134は、大官大寺の106と美濃・紀伊・讃岐国分僧寺の158 ・ 168 ・ 208の中間値で、平地寺院の大官大寺式伽藍配置の範躊の中にあります。
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
讃岐国分寺など大官大寺式伽藍配置の寺 

例えば観音寺の中心堂宇は、南に庇を広くのばし、仏堂前面に外陣的な礼拝空間を確保しています。これがあれば、金堂前に露天広場は必要としません。この構造が平安時代以降は一般的な構造になり、古代的な金堂建築を駆逐します。つまり、「中寺廃寺Aゾーンで、仏堂前面に盛土で広場を確保しているのは、古代平地寺院の伝統を色濃く踏襲しているため」と研究者は指摘します。 その仏堂が3間×2間と小規模で、本尊を安置する必要最小限の空間しか確保していないのも、讃岐国分僧寺に習って堂前の法会を重視した結果とします。そういう意味では、中寺廃寺は讃岐国分寺の影響を強く受けているのかもしれません。ここでは、Aゾーン全体を見ると、大官大寺伽藍を志向して仏堂・塔が計画的に造営された中枢伽藍であったことを押さえておきます。
 発掘で、第三テラス(平坦地)に塔跡、第二テラスに仏堂跡が発見され、大官大寺式伽藍であることが推測できるようになると、その上の第一テラスが注目を集めるようになります。

中寺廃寺 エリア分類
 
 第1テラスは、中心伽藍となる仏堂と塔の背後の空間に当たります。もしかしたら講堂などがあるのではという期待もあったようです。

中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 菜園
中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 建物跡は出てこなかった

しかし、ボーリング調査では礎石は見つかりません。またトレンチを入れても、まとまりのない小規模で密に並ぶ掘立柱列が出てきただけでした。つまり建物はなかったようです。それでは、ここには何があったのでしょうか。僧侶達の菜園だと研究者は考えています。
 例えば四国霊場の山林寺院には、伽藍近くの平場を利用して、疏菜・穀物・堅果などを栽培している光景に出会います。寺の周囲で穀物などを栽培する姿は、古代寺院でも行われていたはずです。
天平宝字5年(761)の班田の結果を受けて製作された「額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館蔵)を研究者は提示します。
額田寺伽藍並条里図 寺院の周りの寺領

この絵図を見ると額田氏の氏寺(額田寺)の周囲には、公田や個人宅地と入り組みながら、「寺畠」「寺田」「寺栗林」「額寺楊原」「寺岡」などの寺領が広がっています。これから類推すると、山林寺院の平場(テラス)には、蕎麦畑や疏菜、畑、栗などの堅果類の栽培林があったことがうかがえます。そうすると、中寺廃寺Aゾーン第1テラスから出てきた柱列は畑の区画施設ということになります。
中学校で習った兼好法師の徒然草には、山里での暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子の木の周囲に設けた柵を見てに興ざめしたことが記されていました。[『徒然草』上巻第11段]。ここからは昔から山間の畑ではイノシシ対策などの柵木などは必要だったことがうかがえます。中寺廃寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っているようです。また、麓の江畑集落には、中寺廃寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。
最後に、大炊屋を見ておきましょう。

仏ゾーン 大炊屋跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 大炊屋
①掘立柱建物で、山側を切り崩して谷側へ盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らされている
②規模は正面3間(約5.6m)×奥行き2間(約3.6m)で約20㎡。
③建物跡からは土師器杯・椀、須恵器杯などの食器類や煮炊き用の土師器長胴甕が出土
④竈跡と思われる遺構も出てきたので調理を行った大炊屋跡
⑤近畿産黒色土器や西播磨産須恵器が出土し、遠方との交流を物語る。
⑥建造時期は10世紀前後で、塔跡・仏堂跡と同時期の造営
 この建物からは、食器や調理具が出土しています。床面から竃の痕跡も確認できたので、大炊屋跡(供物の調理施設)と研究者は判断します。なお、Aゾーンから僧坊は出てきていません。僧坊があるのはBゾーンだけです。Aゾーンは、公的な仏教儀式の場で、僧侶達の日常生活の場はBゾーンであったようです。
以上を整理しておきます。
①中寺廃寺廃寺Aゾーンは、9世紀半ばに整備された山林寺院の伽藍跡である。
②主要施設は、仏堂(本堂)、広場、塔で、大官大寺式伽藍を志向していた。
③仏堂は小さいが、その前の広場を使って公式行事や儀式は行われていた。
④Aゾーンは、仏教的な公的儀式が行われるハレの場でもあった。
⑤塔の心礎下からは、国衙が陶の官営陶器工場で焼かせた特注制の赤い壺が地鎮祭祭具として埋められていた。
⑥ここからは、中寺廃寺が讃岐国分寺や国衙の影響下のあったことがうかがえる。
⑦稜線上のテラス1には講堂はなく、菜園として利用されていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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中寺廃寺 3つのゾーン2


中寺廃寺は、次の3つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
3つのゾーンの前後関係を年表で押さえておきます。

HPTIMAGE

この年表からはABCの3つのゾーンに、いつ頃、どんな建物が現れたかが分かります。
最初に建物が建造されるのはBゾーンで、そこに仏堂(割拝殿)・僧坊が姿を現します。その時期は8世紀末のことです。これは、前回お話ししたように空海が大学をドロップアウトして、虚空蔵求聞持法修得のために山林修行を始める頃と重なります。今回はB(祈り)ゾーンについて見ていくことにします。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーンの割拝殿の発掘現場 大川山が正面に望める

Bゾーンからは、次のような建築物跡が出てきました
割拝殿(仏堂跡?)   尾根上
僧房跡数棟           下の2つのテラス
中寺廃寺B祈りゾーン 平面図 
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿跡と僧坊
尾根先端を造成して造られた割拝殿から見ておきましょう。
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)
②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物
③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降
④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
     
 盛土中から10世紀後半の遺物が出土しているので、それ以降に建てられたことになります。最初はこの建物は「仏像を安置した修弥壇の基礎の石を確認したので仏堂」とされていたようです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺Bゾーン 仏堂説にもとづく復元図(南側に広場)

しかし、堂内の須弥壇礎石は側柱礎石と大きさがあまり変わりません。そのため3間×2間の同じ大きさの東西棟が並んで建つ双堂建物ではないかという意見が出されます。双堂建築は、東大寺法華堂など雑密的な仏像を本尊とする古代建築に多く使われています。山林寺院の施設として、ふさわしい建築構造です。
 しかし、次のような点を考慮して、現在では双堂建築ではなく、5間×3間の南北棟説(割拝殿)とされています。 
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。  
②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。
③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。
⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる
⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通
⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。          
「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡

 以上から、この建物は5間×3間で、その前の広場を通して、真っ正面に大川山を臨んでいたとします。この広場で、朝夕に霊峰大川山への祈りが捧げられていたことが考えられます。このことからB地区は山岳信仰と関係が深いので、「祈り」のエリアと名付けられました。

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 山林寺院を考える際に、避けて通れないのが「山岳信仰」との関係です。
仏教伝来以前から、列島では山を神とあがめていたとされます。山は信仰対象だったのです。 山林修行や山林斗藪の拠点となった山林寺院は、インド起源です。しかし、一方で列島固有の山岳信仰が仏教と融合しながら変形されてきました。以前にお話ししたように、高野山金剛と狩場明神・丹生津姫神社の関係や、比叡山延暦寺と日吉大社の関係など、山林寺院が土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られ、寺と神社が深い関係にありました。ここでは大川山と中寺廃寺がどんな関係だったのかが問われます。
 霊山の山頂には、いろいろな神々が祀られ、祭礼施設があります。しかし、山頂に山林寺院が造られることはありません。霊峰・霊山信仰を持つ寺院も、その中腹や麓近く、あるいは霊峰を望む景勝地に造られるのが普通です。それは、石鎚山と前神寺や横峰寺の関係を見れば分かります。霊山の峰々が修行の舞台となったとしても、山林寺院はその拠点なので、生活困難な山頂に建てる必要はないのです。ここでは、中寺廃寺は霊峰大川山信仰の拠点として造られた、そのためBゾーンの割拝殿は、大川山を向いて建てられ、その前の広場で祈りが捧げられたことを押さえておきます。

 それを裏付けるのが、流土の中から8世紀後半~12世紀までの長期の土師器・黒色土器・須恵器類が出土していることです。割拝殿の造営年代は、基壇築成土中の遺物から10世紀後半のものとされます。しかし、尾根端の地盤は不安定で、いくつかの礎石も滑べり落ちていました。ここからは割拝殿は、それ以前から何度も建て替えて、発掘されたものが10世紀後半のものになると研究者は考えています。
  
 次に、割拝殿下のテラスの掘立柱住居跡5棟を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
中寺廃寺Bゾーンの僧坊跡
①三間(6,2)m×二間(3m)
②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶
③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土
④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)
⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている
⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
以上からこれらの掘立柱建物跡は、僧房跡と研究者は判断します。
僧坊は掘立柱建物で数回建て替えています。また埋土からは須恵器・土師器・黒色土器の日常食器類(8世紀後半~12世紀)が多量に出土しているので、僧侶が生活していた僧坊跡と推測できます。ちなみに、Aゾーンからは僧坊跡は発見されていません。Bゾーンから僧坊が出てくることについて、山岳信仰に基づく場として、B地区がまず開発されたからと研究者は考えています。以上からB地区は、割拝殿と僧房がある生活と修行の場であり、中寺廃寺の出現の先駆けとなったエリアであったことを押さえておきます。

この中で研究者が注目するのは、僧房跡から出土した西播磨産の須恵器多口瓶です。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
須恵器多口瓶の出土状況(Bゾーン 僧坊跡)

発掘当時のことを担当者は次のように記しています。

「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)

その後、復元すると次のような姿になりました。

中寺廃寺跡の多口瓶

中寺廃寺 多口瓶

 多口瓶は奈良・平安時代の寺院遺跡から多く出土しています。中には平城京薬師寺跡例のような奈良三彩の製品もある仏具です。ちなみに、香川県では高松市千間堂跡の礎石建物跡から、須恵器多口瓶が体出土していますが、こちらは地元の綾川町の陶(十瓶山)甕窯跡群で造られた物です。


屋島寺千間堂跡 多口瓶

讃岐周辺で出土している多口瓶 屋島寺前身の千間堂からも出土

これに対して中寺廃寺のものは、研究者の調査活動の結果、西播磨の窯で造られたことが分かりました。中寺廃寺は、わざわざ仏具である多口瓶を、西播磨から取り寄せたことがうかがえます。
 もうひとつ注目される土器破片が越州窯系青磁碗です。
 僧房跡を取り巻く溝から出土した中国浙江省越州窯産の青磁碗は、艮質の土を用いた精製品と研究者は評します。形状から9世紀後半から11世紀中葉までのもののようです。これは非常に高価なもので、国府・郡衙などの国の関係施設や、大規模な港などの遺跡から出てくるもののようです。非常に貴重な中国製青磁を所有していた中寺廃寺の財政基盤がうかがえます。ここでは、②③の遺物は海を越えて持ち込まれたもので、大変貴重な品です。中寺は、このような品を取り寄せることのできる力を持っていたことを押さえておきます。
 最後に、前回お話ししたように雑密の古式三鈷杵・錫杖頭の破片です。 

中寺廃寺 三鈷杵破片2

Bゾーンの僧房跡付近から出土した三鈷杵と錫杖頭は、空海らが伝えた密教より古い特徴を持ちます。古密教(雑密)の修法に使われていたものが、荒行の中で壊れ捨てられたことが考えられます。これも初現期の中寺廃寺が、古密教の拠点であったことを裏付ける材料になります。

以上をまとめておきます。
①霊山大川山への山岳信仰の拠点として、中寺廃寺のBゾーンは現れた。
②そこには、他に先駆けて8世紀末に割拝殿や僧坊が姿を見せる。
③割拝殿は、正面(東)を大川山に向け、その前の広場が祈りの空間となっていた。
④割拝殿の下には、僧坊が並び、長期間にわたって建て替えられ、活動拠点となっていた。
⑤僧坊跡からは、仏具として西播磨産の多口瓶や、中国の越州窯系青磁碗が出土している。
⑥これらは当時としては貴重品で、それを手に入れるだけの財力やネットワークを中寺廃寺がもっていたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
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中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
関連記事

水口祭護符2
全国で行われている水口祭 それぞれの護符(お札)の形がある
私の家もかつては農家で、米を作っていました。そのため家の前の田んぼが苗代で、苗をとっていたことを覚えています。その苗代の一角にお札が竹に挟んで指してあり、その横には花が添えられていました。「何のためのもの?」と訊ねると「苗代の神様で、苗の生長を護ってくれるもの」と教えられた覚えがあります。苗代の水口に護符や花を立てる習俗を「水口祭」と呼んでいます。

水口祭の護符1
水口祭りの護符(熊本の阿蘇神社)

ところで丸亀平野の水口祭については、ある特徴があります。その事に触れた調査報告に出会ったので紹介しておきます。テキストは「織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符   民具集積22 2021年」です。
民具集積1
民具集積(四国民具研究会)
丸亀平野の水口祭の初見は「西讃府志」安政五年、巻第二「焼米」の項で、次のように記します。

「本稲神ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立蒔餘リクル靭ヲ煎リタキテ供フ、是ヲ焼米ト云う、ソノ余りハ親しき家二贈りナドモスルニ又此日正月ニ飾リタル門松ヲ蓄ヘ置テ山テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」

意訳変換しておくと
「この稲神を迎えるときに、水口祭を行う。苗代の水口に保食神の璽(護符)を立てて、余った籾を煎って供える、これを焼米と云う、その余りは、親しい家に贈ったりする。またこの日は、保管してあった正月に飾った松で雑炊を煮る家もある」

ここで研究者が注目するのは、「水口祭」という儀礼の名称と「保食神」という神名が挙げられていることです。ここからは、幕末の安政年間に丸亀平野で水口祭が行われ、保食神の護行を立てたことが分かります。
讃岐の水口祀の護符
水口祭の護符 
  右が丸亀市垂水町(垂水神社配布)で使用された「マツノミサン」と呼ばれる護符です。護符には「保食神」と書かれて、中にはオンマツとメンマツの葉が入れてあります。松の葉を稲にみたてて、よく育つようにとの願いが込められているとされます。左が高松市仏生山町(滕神社配布)の「ゴオウサン」と呼ばれる護符です。護符の中には、白米のほか滕神社の祭神である「稚日女命」の神札も入れられています。このように護符には、いろいろな形や文字が書かれたものがあります。ここで研究者が注目するのは「保食神」と書かれたお札の分布エリアが丸亀平野に限定されることです。
保食神(うけもちのかみ)について、ウキは次のように記します。

日本神話に登場するである。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。次のような記述内容から、女神と考えられる。天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。


先ほど見た西讃府志の編者の一人、秋山椎恭は櫛梨村(琴平町)の在住とされ、この地区の習俗を反映させて「保食神」を登場させたことが考えられます。そこで研究者は、次のような課題を持って周辺調査を行います。
A 櫛梨村周辺に「西讃府志」の「焼米」の習俗が今も行われているかどうか
B 「保食神」の護符が、どの範囲で分布しているのか
そして、まんのう町・琴平町・善通寺市・丸亀市で各農家を訪ねて現在の水口祭の様子を調査報告します。
ここではまんのう町真野の水口祭と「保食神」護符の事例報告を見ていくことにします。
まんのう町真野池下のO家は、満濃池の北約1kmにあり、玄関には神札を貼る厨子があります。家のそばの苗代には、南から満濃池の水を流す水路が通っています。水路が「コンクリ畔」になったのは昭和43(1968年)頃と云います。以下、次のような話を聞き取っています。
苗箱には赤土・肥料・前年の籾摺りで焼いた粗般を入れる。種籾は一週間前に水に浸し、毎日水を換え、1日日前に水から出す。そして5月11日早朝、苗箱定位置に置く。播種の作業が終わると、次のような手順で水口祭の用意を進めます。
①2枚の小皿に洗米、塩を盛ってプラスチック容器に載せる
②ガラス瓶の御神酒も用意する
③メンダケ(女竹)を節三節(30㎝)ほどに切って、上部を割る
④年末に、班ごとに係が回って集金と護符の配布を済ませておく
⑤配布される護符のうち、天照皇太神(神宮大麻)は伊勢伸宮、氏神の神野神社、水口護符の一任は神野神社宮を兼務する諏訪神社宮司が発行する。
⑥神棚から「保食神御守五穀成就」の水口護符「マツノミヤサン」を下ろす(写真37)
水口祭 神棚に供えられていた護符
⑦雨に濡れないようにバランで包んで竹に挟んで輪ゴムで外れないよう止める)
⑦容器に入った洗米、塩と御神酒、竹・葉蘭に秋んだ護符を苗代の水口へ持って行く
⑧容器に御神酒を入れ、護符を土に刺して、その前に洗米、塩、御神酒を供える
⑨花を護符の奥に飾り、30四方くらいの平たい石をお供えの下に敷く
⑨水口の下側を堰き止めて水口へ水を誘導する
⑩水が溝に沿って苗代全体に潅水したことを見届けて、水口に向かって二拝二拍手一拝。
水口祭の護符 まんのう町諏訪神社1
諏訪神社発行の水口祭護符 剣先型

水口祭の護符 まんのう町諏訪神社2

            諏訪神社発行の水口祭護符(実測図)
ここで用いられている諏訪神社発行の剣先形の紙札(護符)を見ておきましょう。
中央に「保食神御守」、右に「五穀」。左に「成就」と黒スタンプが押してあります。研究者は諏訪神社の朝倉修一宮司からの次のような聞き取り報告をしています。
①写真56の護符は高さ19,8㎝
②松業二葉が二本四枚、稲穂二本粗籾十三粒が入る
③護符は無料
④12月初め、神宮大麻(有料千円)とともに総代を通じて配布
⑤氏予約120名で、諏訪神社の氏子真野・吉井・山下・下所の四名の代表に配る
⑥神野神社の氏子の池下は3月に配るという.
『西讃府志』の編者の一人である秋山椎恭が那珂郡櫛梨村の人です。彼は地元で行われている水口祭を「保食神」の護符を祀る習俗として、記録したと研究者は推測します。そして、「上櫛梨の護符には「保食神」の字があり、自分の住む地区の習俗を紹介した」と記します。

水口祭の護符 護符形状分布図

上図は丸亀平野周辺の護符の形の分布図です。▲が「剣先形保食神」護符の分布エリアです。点線が丸亀藩と髙松藩の境になります。ここから次のようなことが分かります。
①「剣先形保食神」の護符は、丸亀藩と高松藩領の境界線を扶む地域に集中分布する。強いて云えば旧髙松藩に多く丸亀藩には少ない。
②これは、満濃池を水源とする金倉川水系と土器川水系に挟まれたエリアと重なる
③土器川より離れた九亀市綾歌町の神名は「保食神」ではなく、「祈年祭」である
④鳥坂峠大日峠麻坂峠など大麻山より西の三豊市のものは「産土大神」「大歳大神」の神名で、保食神」護符は三豊地区では使用されていない。
明治45年刊『勝間村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春、稲種ヲ下ストキ水口祭リトテ、苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ、蒔キ余レル籾ヲ煎リ、臼ニテハカキテ供フ、共余リハ親シキ家二贈リナドスルモアリ」

大正4年刊「比地 二村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春稲種ヲドス時水口祭トテ苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ潰籾ヲ煎リテハタキ籾殻ヲ去り之レヲ供ス其ノ余リハ家人打チ集ヒ祝食ス」

これだけ見ると、勝間や比地二村などでは、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられたように思えます。しかし、その内容は先ほど見た西讃府志の記述内容のコピーです。よって、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられた根拠とはできないと研究者は判断します。
九亀・善通寺・琴平市街地の山北八幡や、善通寺、金刀比羅宮発行の護符も「保食神」とは記していないことを押さえておきます。
次にこの護符を、どう呼んだかの呼称の問題です。

水口祭の護符 呼称分布図
上の呼称分布図を見ると、「マットメサン」「マツノミヤサン」系統の方名も金蔵川、土器川水系に分布します。そして土器川以東や象頭山西側にも分布地があります。「マツ」は「松」であり、「ミ」は「実」と研究者は推測します。マツトメサンが濁って「マツドメサン」になったり、促音になって「マットメサシ」となることはよくあります。ナ行の「ノ」がタ行の「卜」になることもあります。「マツノミヤサン」の呼称があるため、「ミ」が、「宮」と混同されたものか、んは「宮」であったのかは、よく分かりません。
金刀比羅宮の「マツナエ」=「松伎」の事例や三豊市日枝神社の松枝の枝の間に護符を入れる事例(トンマツ)は、田の神の依代しての松枝を水口に建てたものです。これは「保食神」護符の中に松葉を入れる例につながるものです。広く「マツ」を冠す護符呼称が分布していることも押さえておきます。
  さて以上から何が見えてくるのでしょうか
現在は、水口護符は各神社が配布しています。それでは、神仏分離以前には誰が配布していたのでしょうか? 
考えられるのは護符の呼称や形状が共通であることは、一元的な配布元があったということです。その候補として考えられるのが滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺です。龍燈寺と水口護符の関係について、私は次のような仮説を考えています。

龍燈院・滝宮神社
龍燈院は滝宮牛頭天王社の別当であった。

滝宮念仏踊りの変遷

①龍燈院は滝宮氏や羽床氏など讃岐藤原氏の保護を受けて成長した。
②龍燈院は午頭天皇信仰の丸亀平野における中心で、多くの社僧(修験者・山伏)を抱えて、その護符を周辺の村々に配布し、「初穂料」を集めるシステムを作り上げていた。
③龍燈院の者僧たちは、芸能伝達者として一遍の念仏踊りを「風流踊り」として各村々に伝えた。
④生駒藩では西嶋八兵衛の補佐役を務めた尾池玄蕃は、念仏踊りの滝宮牛頭天王社への奉納を進めた。
⑤髙松藩松平頼重は、江戸幕府の規制をくぐって「風流踊り」ではなく「雨乞踊り」として再開させた。
⑥周辺各村々からの滝宮への念仏踊り奉納は、午頭天皇信仰を媒介として、水口祭の護符などで結ばれていた。
 そして水口護符の配布者が龍燈院の社僧(山伏)であった。そのため丸亀平野の髙松藩側には「「剣先形保食神」の分布エリアとなっている。と結びつけたいのですが、この間にはまだまだ実証しなければならないことが多いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 以前に庄内半島の栗島に、20軒を超える廻船問屋が軒を並べていたこと、その中の安田屋には、金毘羅大権現の護摩札をはじめ多くのお札が残されていることを、次のようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

 今回は「アミヤ(網屋)」の神棚と御祓箱を見ていくことにします。
テキストは 「織野智子     伊勢御師の御祓箱―粟島旧廻船問屋「網屋」に伝わる伊勢信仰道具 民具集積NO19号(2017年)」です。「アミヤ(網屋)」についての予備知識は、以下の通りです。
A「アミヤ」は、安永7年(1778)の文書に網屋三右衛門が出てくるのが初見。
B 徳茂姓で、他に3軒あって「ジュウエ」・「スケゴ」・「モトョムサン」があった
C 徳重姓の「アミジ」、「カンジュ」の屋号の家は徳茂家の親戚
栗島の廻船問屋の神棚が大きいことは、以前にも紹介しましたが、瀬戸芸会場となっていた旧廻船問屋の神棚を見ておきましょう。

粟島 廻船問屋
粟島の旧廻船問屋旧宅
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
座敷の上の神棚

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場

①県指定の船絵馬がある伊勢神社を管理する伊勢屋は、九社(神殿数)で幅360㎝、
②徳重家の神棚は十一社で幅360㎝
③「網屋」徳茂家の神棚は、屋根の中央を高くした屋根違いの十三社様式で、幅300㎝
「粟島の神棚(瀬戸内海歴史民俗資料館)」
 「粟島の十三社の神棚 (徳茂キクノ資料:瀬戸内海歴史民俗資料館)

見てまず感じるのは大きくて、横に長いということです。ここに収められているものを確認しておきます。
1 神棚 屋根は中央を高くした屋根違いの十三社様式、神殿も十三。
2 軸 「天照皇大神、八幡大神、春日大神」軸
3 御祓箱 「多賀神社 青龍山般若院 壽命延御守」
4 護摩札 「安政三年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
5 護摩札 「安政五年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
6 護摩札 「金峯山櫻本坊奉修 大峯山上護摩供養祈□」木札
7 御祓箱 「正一位兼道大明神」
8 御祓箱 (紙札等入)
9 玉串 (出雲教大神玉串)
10 護摩札「出雲教大神海上安全守護」木札
11 御師小箱「太神官御師南倉」
12 紙札 「住吉大神宮」
13 紙札 「住吉大神宮神楽」
14 紙札 「住吉大神宮御璽」
15 紙札 「住吉大神宮御祈祷御守」
16 紙札 「水天宮御守」
17 紙札 「厳島神社御守護」
18 小祠 「金毘羅宮御守」
19 小厨子(角箱に御幣・鏡・五銭)
20 「八天杓□□始御前祓」入箱「八天杓□□始御前祓」
21 小祠
22 小祠
23 恵比須(陶製)
24 大黒(陶製)
25 厨子(妙見山本尊厨子)
26 妙見山曼荼羅(板に貼り付けられた紙曼荼羅「摂州能勢郡野□妙見山 □衆生故無量神力 南無妙法蓮華経」)
27 御祓箱(御師祈祷封箱「揚舩御祈祷」)
28 御祓箱(祈祷封箱「伊勢永代五千度御祓」)
『収蔵資料目録7』香川県立ミュージアム
廻船問屋が信仰し、お札などをもらっている寺社が多いことに驚きます。解説には次のように記します。
「豪華さを競った結果なのか、廻船という性格から各地の御神体を納めるために大きくなったと理解すべきか」

私が気になるのは、この徳茂家の神棚には金毘羅大権現のものは、18の「御守」しかありません。以前に見た「安田家」に比べると対照的です。家によって、海の神様として信仰する神仏が異なっていたのでしょうか? 廻船問屋たちが金毘羅大権現一色の信仰ではなかったことを押さえておきます。

ここで研究者が注目するのが「御祓箱」です。御祓箱とは何なのでしょうか?
 
伊勢のお札と御祓箱
一番左の箱が「お祓い箱」で、中に一万度の祓いをしたお札が入っているようです。これについて喜多村庭『嬉遊笑覧』巻之七(文政十三年1830)には次のように記します。

「伊勢の御師が人のもとに送る御祓一万度といふ事、仏家の千部万部の読経にならひ、又年の暮に僧徒が檀家へ巻数を贈ることにならへり。」

意訳変換しておくと
「伊勢御師が人もと(檀那)に送る「御祓一万度」というのは、仏教僧侶の千部万部の読経に習って、年の暮に御師使者が檀家へ巻数を贈ることである。

御祓箱.jpg

伊勢御師の御祓箱(山東京伝の『新造図彙』にある図)


現在の伊勢大社の神宮(御祓)大麻

御祓大麻を『広辞苑』で調べると次のように記します。
御祓 災厄を除くために、神社などで行う神事。また、そのお札。はらえ。
大麻 伊勢神宮および諸社から授与するお札。

『日本国語大辞典』には
御祓 特に伊勢神宮で八度置神事(やつらおきじんじ)の祓をして毎年全国の崇敬者に配った大麻やお札。おはらいぐし。

平凡社東洋文庫『東都歳事記』にある朝倉治彦氏の註には、次のように記します。
太麻 お祓の札。必ずしも伊勢神宮授与のみをいうわけではないが、伊勢のが著名であった。
大麻は、御師が旦那へくばるもので、神宮とは関係なかった。箱祓と剣先祓との二種がある。
伊勢暦は、六折金扉暦、金扉など各種があるが、大抵は上紺、並紺であった。

「大麻=お札」のようです。しかし、幕末の時点では「御祓」と「大麻」は別物であったと次のように考える研究者もいます。
「大麻」は御札、「御祓」は祓えに使った串を紙に包んだもの(剣先祓)
又は箱へ入れたもの(箱祓)、
伊勢大麻(お札)と御祓箱と伊勢御師の関係を、補足・整理しておくと次のようになります。
「御祓箱」というのは、もともとはお祓いの験や神官からいただいた薬種や暦などを入れる箱のことでした。この御祓箱を、もってきたのは伊勢御師です。彼らは諸国の道者(檀那)の家を一軒ずつ訪問し、お札やお土産を配布し、初穂料を集め、伊勢家のお参りを勧誘しました。そういう意味では、御師は下級神職であり、旅行斡旋業を副業としていた者とも云えます。御師は伊勢神宮の内官と外宮に居住エリアを形成して、宇治に190、山田に480ほどいたようです。
 伊勢御師から御祓大麻などを受取り、初穂料を納めるのが信者(道者:旦那:檀家)です。御師にとって、道者が布教地盤となり、その名簿リストも売買対象となりました。讃岐では高松周辺や、三豊・那珂・多度郡の道者名簿リストが残っていることは以前にお話ししました。

粟島の「アミヤ(網屋)」に残されていた御祓箱を見ていくことにします。
粟島 「一万度御祓大麻」御祓箱

 粟島のアミヤ(徳茂家)の「一万度御祓大麻」御祓箱
内箱(真ん中)と外箱(右)について、次のように記します。
①上書中央に「一万度御祓大麻」、その左行に「揚松御祈祷」、下に「御師 南倉」の墨書
ここに記された「揚船御祈祷」については、次のような説があります。
A 船たでなどのメンテナンスのために船揚げをしたときの特定の析祷
B 「船下ろし」に対して「揚船」だとしたら、廃船して解体する際の析祷
どちらにしても史料がないのでよく分かりません。
左端は「祓串」といって御師が使用した祈祷の道具です。幅1cm弱、長さ20㎝ほどの板状のもの数十本が一括りにされています。棒の先には紙垂や麻苧がつけられたものを大麻(大幣)と云いますが、それが小型化したものとされます。大麻と同じように、罪や械れを祓う神聖なものとして扱われてきました。この祓串を納めた箱が「御祓箱」で、「御祓大麻」や「お祓いさん」と呼ばれました。ありがたい御祓箱ですが、新年がくると新しいものと取り替えられます。そこで「祓い」を「払い」(邪魔・不要なものを取り除く)にかけて「お払い箱」の別称でと呼ばれるようになります。そして今では「お祓い箱」といえば、「用済み」の意味で用いられるようになっています。

 もうひとつ御祓箱はあります。これには「五千度御祓大麻」とあり、内箱と外箱からなります。
粟島 「一万度御祓大麻」御祓箱内側
外箱(写真3)はヒノキで、本体と蓋からからなります。表面には「伊勢永代 五千度御祓」、裏面に「此器 安政三(1856年)卯星三月下旬調之」と記されています。内箱(写真2)は紙で封印され、上書きに「五千度御祓大麻 御(以下破れ)」とあります。中には細い祓串が五本(写真4)あります。「五千度」「一万度」というのは祈祷の回数のことだと研究者は指摘します。祈祷は、より多く行えば行うほど霊験が増すと信じられていたようです。

粟島 厨子に入る御祓箱

 埼玉県の伊勢殿神社に、御師が御祓大麻を祈願した机があります。
折り畳み式 八足台 八足案(木印) 高さ1尺1寸6分×巾1.8尺 高さ35cm×巾55cm 八脚案 折りたたみ式 祖霊舎 神徒壇 お供え用の机 日本製
八足案

「八足案」といい、「嘉永五」(1852)の墨書銘があります。八脚の机は組み立て式で、小箱に収納でき持ち運びができます。机上に紙幣と管麻を挟んだ八針串を立て、その前に銭切箱という96枚に切った小片の紙を入れた箱を置きます。板面下の左右に張られた紐には板きれが通され、一定回数拝むとその板きれを移動させ、祈祷の回数をカウントとするしくみです。最下段の脚には八本の祓串が立てられています。こうして、祈祷の数を数えていたようです。

 御師南倉とは何者?
御祓箱が粟島の廻船問屋「アミヤ(網屋)」にあるということは、伊勢御師の南倉太夫が栗島に来ていていたことを裏付ける史料になります。

粟島 伊勢御師南倉

御札箱に入った上の紙製小箱 にも「太神宮 御師南倉」の墨書があります。前々回に見た『白米家文書』からは次のようなことが分かります。
A 天文20(1551)年に、南倉太夫は相模国の道者をある商人に売り渡した
B その後、寛永9年(1642)に、その商人から白米大夫が道者名簿を買い受けた。 
 粟島にやってきていた南倉氏を見ていくことにします。
①南倉氏の旧名は足代氏
②足代氏は、北氏などとともに異姓家(権禰宜の家)の都市地下人で山田三方の重要なメンバー
③足代氏は正遷宮の資金を提供したことで、異例の渡会姓まで獲得
④南倉太夫の檀那の拠点は近江国で、蒲生・甲賀・愛知郡・神崎郡の一部
さらに『愛媛県史』「学問・宗教編」には、明治初年の「伊予廻壇伊勢御師一覧」が載せられていて、そこからは足代式部大夫が、「越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、温泉郡、宇和郡」に檀那を持っていたことが分かります。こうして見ると、足代氏は伊予宇摩郡に連なる西讃地方に檀那たちを持っていたことが考えられます。

  以上をまとめておきます
①粟島には廻船問屋が20軒ほどあり、廻船が寄港する交易港であった。
②粟島の廻船問屋は、競うように神棚を大きくし、そこに多くの神社を祀り、お札を集めた。
③その中に、伊勢御師南倉大夫の残した御祓箱がある。
④ここからは、南倉大夫が粟島の廻船問屋の面々と檀那として、お札配布を行い、初穂料を集めていたことが分かる。
⑤南倉大夫は、伊予にも多くの檀那たちを確保していたことが檀那リストからは分かる。
⑥伊予に続く三豊・多度・那珂郡も、南倉大夫のテリトリーであったことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「織野智子     伊勢御師の御祓箱―粟島旧廻船問屋「網屋」に伝わる伊勢信仰道具 民具集積NO19号(2017年)
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  前回は庄内八浦を、ひとつの集団として丸亀藩は捉えていたことを見ました。その中で、幕末には粟島には何軒もの廻船問屋が姿をみせ、対岸の箱浦にも勝間屋(森家)が松前藩と活発な交易活動を行って、富を集積していたことを押さえました。今回は、志々島の「伊勢屋(上田家)」を見ていくことにします。
粟島】香川県の隠れた名観光地!釣りスポットだけじゃない | ARINKO LOG

角川の日本地名大辞典からは、志々島について次のような情報が得られます。
①詫間郷に属す庄内村が幕末に、志々島を含め大浜浦・生里浦・箱,南・積浦・栗島・香田浦・家浦の諸村に分村された。
②村高は、旧領_59石余
③耕地は畑17町8反余。屋敷3反余、
④戸数133・人口673(男329・女334)
⑤漁舟50
⑥泉は水之浦泉
⑦神社は八幡神社・大山祗大明神・十握明神ほか祠6
⑧寺院は利益院(山崎藩時代に京都大覚寺の末寺として創建)
⑨魚業の島として栄え、寛政11年には荘内浦・粟島でナマコ120斤が中国に輸出(詫間町誌)
ここからは幕末には、この狭い島に673人も住んでいて、漁場と廻船に従事していたことが分かります。ただ、廻船に使われた持ち船などは記録には出てきません。

『瀬戸内海 志々島の話』には、伊勢屋(上田家)のことが次のように記されています。(要約)
「志々のいせやか、いせやの志々か」と唄われた。その屋号の由来は、伊勢の大夫の定宿となっていたために「伊勢屋」と呼ばれた。以下の当主が船持ち、船問屋や志々島の組頭として活動した。
享和期頃  上田善八
文政期     勘蔵
嘉永期     森蔵
志々島の廻船問屋の活動を裏付けるのが八幡神社の拝殿内に貼付されている木札で、次のようなことが分かります。
①「奉納随神寄付」(文政12(1829)年)に、大坂雑魚場(雑喉場)の天満屋、尼埼西町の網屋からの寄付奉納が、志々島の花屋、新屋などが引請世話人となって行われた。
②「明神丸」「幸丸」など廻船の船持ちの名前、伊勢屋勘蔵の名前、島の若連中の名前も見え、志々島の廻船問屋が大阪方面とつながっていたこと
①からは、志々島の魚が大阪雑魚場に届けられていたこと、その取引を通じて大阪の網屋とも親密な関係にあったこと、②からは志々島にも廻船問屋が何軒かあり、持ち船も持っていたことが分かります。

伊勢屋の「御客船御祝儀帳」から志々島に来港した廻船を一覧表にしたのが下表です。
志々島廻船来港数一覧
志々島に到着した廻船は、世話料として伊勢屋に「御祝儀」を届けています。それを年次別化すると一番多かったのが嘉永5(1852)の33艘です。幕末から明治にかけての30年間で239艘がやってきています。
 廻船を船籍地別に見ると、摂津の「灘目浦」地区の各湊が98で最も多く、日向・播磨・肥後・伊予などと続きます。こうしてみると瀬戸内海を東西に航行する各地の船が志々島に立ち寄っています。その中には、「因州御手船」「伯州御手船」などもあり、各藩の海上交通の拠点ともなっていたことが分かります。
 また、停泊するのは一泊だけではなく、次のような表現も見えます

「三日、四日逗留」、「死人御座候二付世話料二被下」

来島の「祝儀」の中に葬儀料が含まれています。航行中に亡くなった乗組員の葬儀まで世話しています。

ここで研究者が注目するのは、「たて草代(船を爛でる経費)」や、修理等に使用する「輪木」代金を支払っていることです。
船タデでについては、多度津と櫃石島にタデ場があったことは以前にお話ししました。

多度津港の船タデ場
多度津湛甫に見える船タデと、その背後の造船所(讃岐国名勝図会)
多度津港 船タデ場拡大図
多度津湛甫のタデ場と造船所の拡大図(讃岐国名勝図会)
大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。その背後では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。
 タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。つまり、木造船のメンテナンスに不可欠なタデ場が志々島にはあったことが、廻船を呼び込む要因のひとつだったのです。

本島の塩飽勤番所に残された文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録(坂出市史より引用)です。
与島船タデ場 利用船一覧
ここからは、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かります。
これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。そてして、船タデ経費として次のような項目が請求されています。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用
つまり、船タデには周辺の島々から大量の茅が燃料として持ち込まれていたこと、それを集積運搬する専業船乗りたちもいたことが史料からは分かります。備讃瀬戸には、次の3港にタデ場あったようです。
塩飽の与島
多度津(金毘羅大権現参拝の拠点)
庄内八浦の志々島
志々島にも周囲の島々から船タデ用の茅が大量に運ばれていたはずです。
春に大阪を出た廻船の船頭は、瀬戸内海を出て日本海に入る前にどこかの港で船タデを行って、船底を綺麗にして、船の最高の能力が出せるように準備います。廻船がタデ場のある港にやってくるのは、レースの前に必ずコックピットで整備を行うレーシングカーと同じようなものであったのかもしれません。しかし、志々島のタデ場がどこにあったかは、分からないようです。

志々島は広い漁場を持ち、漁業でも活気を呈していました。
「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島(志々島)漁事を業とし船待を専とす。水有回船掛りよし。爛(タデ)場所を好み競て寄る。」

ここからは、志々島は、漁業の他に廻船稼ぎが盛んであること、さらに諸国の廻船が立ち寄ることができやすい場所であること、その吸引力のひとつが、廻船航行に不可欠な「爛場(船たで場)」があったことだと指摘します。
 
「庄内八浦」の漁業について、藩の生魚運上徹底の周知文書から研究者が作成したのが次の表です。
庄内八浦 船方運上者

 この史料は、元文元年(1736)10月27日、庄内組大庄屋辻佐右衛門(大浜浦庄屋)に、丸亀藩の代官水野理右衛門・福田定右衛門が奉行衆からの生魚運上徹底を伝えたものです。その後、11月7日、大庄屋が浦方へ読み聞かせを行い、それに対して組内の漁人・生船持・組頭が連判しています。ここからは網方運上を納める漁人が62人、生船を持って運搬している者が8人いたことが分かります。研究者が注目するのは、運上銀の吟味を「問屋藤六」(魚問屋)が行っていることです。浦での魚問屋の占める重要性を研究者は指摘します。

『瀬戸内海 志々島の話』は、志々島の漁業について次のように記します。(要約)

①明治初年までは広範な漁場を一手にして、島は鯛シバリ網の本拠地となり、近在から多くの出稼ぎ者も集まって「金のなる島」と称された。当時この島だけで7~8統のシバリ網元があり、ひとつ80人程度の人手を要するので、この漁だけで五~六百人の人員を必要としたのである。

 また、明治2年の文書(原史料は不明)には次のように記します。

「当嶋(志々島)は漸く高五拾九石九斗六升余之処、家数百五拾軒、人数七百五拾余人相住、迪茂農業一派にては渡世成り難く、旧来漁業専一に相稼ぎ、上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代にお為て四季共繰網、蝶網、打瀬小職に至る迄何等子細屯御坐無く相稼ぎ、御加子、役の者勿論御菜代米物諸運上向滞り無く上納仕り」

意訳変換しておくと
志々島は石高60石足らずで、家数は150軒、750人あまりが住む、農業だけでは渡世できないので、古くから漁業に進出し、東は真島上より、西は香田浦和田門磯辺までを網代としての権利を持って、四季に渡って、繰網、蝶網、打瀬小職までの漁獲方法を駆使して操業しています。加子(水夫)役の者はもちろん、菜代米などの運上も滞りなく上納している」
ここからは次のようなことが分かります。
①石高が少ないが家数や人口は多く、多くは漁業や廻船の乗組員として生計を立てていること
②操業区域として、土器川河口の真島から香田浦かけての広域的な漁業権が藩により与えられており、特に鰭や鯛の宝庫であった
③島の漁業が「繰網、蝶網、打瀬網、小職」であったこと
 この漁場獲得については、江戸時代末期に、丸亀藩の財政逼迫の際に、志々島の「伊勢屋」に借り入れの申し込みがあったときに、「伊勢屋」当主は「藩へお金をお貸しすることはできません。御用金として上納させていただきます」と多額の金子を献納した。その報償としての意味合いがあると伝えられています。

次に、魚運上を記録した249件を分析して、志々島の漁業の特色を研究者は次のように記します。
①漁獲された魚種、それらの搬送方法と搬送先が分かる
②漁獲高は、大蛸・鯛・飯蛸の順
③搬送は地船が多くを占め、対岸の備前や遠く淡路などへも送られていること
④その半分を占める「魚種不明」のものは、地船が51件と最も多く、東瀬戸内海各地に搬送
 以上からは、志々島の漁業は単に讃岐一円に留まることなく、東瀬戸内海という広い範囲に流通していたことが分かります。それは、遠隔地からの出買よりも、地船の活動で可能となったと言えます。その地船の動きは、志々島や庄内浦の役所が把握していたのは、先ほど見たとおりです。こうして見ると、「庄内八浦」というまとまりの中で、各浦の漁業が展開していたことが改めて分かります。
  以上をまとめておくと
①志々島は、特権的な広域魚漁場をもって、多くの網元が操業していた
②大型網による操業は、多くの人手を必要としたため志々島に多くの漁師が集住するようになった
③同時に、西隣の粟島の廻船問屋と同じように大坂商人たちとつながり、交易活動を展開した。
④志々島が諸国の廻船を惹きつける吸引力となったのが、粟島湾の良港と志々島のタデ場であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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近世初頭の生駒藩の時代には、庄内半島の浦々は「庄内八浦」としてひとつに捉えられていたようです。
 
庄内半島 寛永絵図
庄内八浦(天保国図)

 庄内組を構成する村は、大浜浦・積浦・生里浦・箱浦・香田浦・家浦の六浦と粟島・志々島の二島をあわせたもので、「庄内八浦」とも呼ばれていました。それが幕末(天保期)に分村されます。つまり、庄内組は、もともとは庄内浦としてひとまとまりの「浦」社会だったと研究者は考えています。これは次のように裏付けられます。
①「寛永国絵図」に「庄内浦」とあり、各浦が描かれ全体で「高六三八石」と記されている
②寛永17年(1640)の生駒領高覚帳では「庄内中」としてほぼ同高とされている。

以上からは、「庄内八浦」は「庄内浦」や「庄内中」として、ひとまとまりに捉えられていたようです。
その上で「西讃海陸予答」・「西讃府誌」は、の各浦の特徴を次のように記します。(要約)
①大浜浦は、最も人家が多く漁業が年中盛んで鯛の網代場がある。庄内浦の産土神船越八幡宮が鎮座
②生里浦は、浦の土地が狭く漁業を業とする。そのため、他の浦との衝突をも生む。
③箱浦は、鰯(いわし)漁の網代があり、網元がいる
④積浦には、鯛の網代場があり、漁業が盛んであり、爛(たで)場がある。
⑤香田浦は、番匠(大工)など諸職人がいて、「船手之役(水主役)も多い。そして芸州能地の家船の定住地である
⑥家浦は、燧灘に面しているので仁保(仁尾)村との関係が強い
⑦粟島は、廻運が盛んで、摂津大坂の大船が立ち寄り、各国と交易する廻船問屋が何軒もあること
⑧志々島は、漁事と廻運か盛んで、鮪や蝶が名産で、タデ場もあること

⑦には粟島について、大坂や松前藩の大船が寄港し、廻船問屋が何軒もあると記します。これは前回に紹介しました。しかし、ここには粟島だけでなく⑧の志々島にも船問屋があったことが記されています。粟島以外の交易活動を行っていた浦々を今回は見ていくことにします。

 享保年間の「諸国廻船入船帳」には、入港してきた船について入津年月日・船頭名・船名などが記されています
諸国御客船帳


客船帳
浜田市外ノ浦の旧廻船問屋(米屋)の客船帳
この記録は、船番所というた公的な機関が残したものですが、それがやがて商人が行うようになり、さらに船宿に業務が移っていきます。そして、業務の細分化・複雑化が進むと船問屋が出現するようになります。こうして船問屋が入港船を整理し、今後の経営資料とするために、入津年月日順ではなく国別・地域別に編集し直します。「諸国客船帳」と呼ばれるものです。ここで注意しておきたいのは、これに一旦記載されると船主は勝手に船問屋を変えることはできませんでした。そのため船問屋の方は、船主を大切にしていたようです。
 庄内半島の浦々には、「御客船」として全国の船がやって来ていました。
以前に大崎下島の御手洗でお話したように、廻船が立ち寄るのは、その港に船乗りたちを引き寄せる吸引力があっためです。庄内半島の浦々にはどんな吸引力があったのでしょうか。また、どんな船問屋がいたのでしょうか。浦島太郎伝説の伝えられる箱浦を見ていくことにします。

HPTIMAGE
箱浦の浦島太郎墓碑の由来

まずは角川の「日本地名大辞」で箱浦を調べると次のような情報を得ることができます。
①箱浦の地名由来は箱崎八幡官が鎮座したことにちなむと(西讃府志)
②近代になって浦島伝説が流布されようになり、玉手箱の箱によるという伝えができた。
③馬神塚は畑を荒らす八幡官の神馬を殺した農夫が心乱して狂死し、その後も村内に崇が多く出たので、村人が神馬の骨を埋めて供養した塚である。
④近世の箱浦は詫間郷に属し、庄内村が幕末期に大浜浦・生里浦・積浦・栗島・志々島・香田浦・家浦の諸村に分村して成立。丸亀京極藩荘内組に属す。
⑤村高  102石余
⑥戸数 121(うち加古(水夫)50)
⑦人口 570(男284・女286)
⑧舟   70石1・55石1・50石1・35石1・30石9・15石29
⑨牛  60 
⑩泉は山田泉・石丸泉・新田泉・辻之内泉・平石泉
⑪神社は仲哀天皇・応神天皇をまつる箱崎八幡宮,総社大明神ほか祠7
⑫寺院は地蔵菩薩を本尊とする香蔵寺ほか堂2
⑬丸亀藩の番所が置かれ役人1名が駐在
  箱浦には、守(森)屋という廻船問屋がありました。森家に残された文書目録を見ておきましょう。

讃岐国三野郡箱浦勝間屋森家文書目録 <歴史収蔵資料目録 7>
讃岐国三野郡箱浦勝間屋森家文書目録目次
  船問屋 (一)
一、松前伊豆守領大坂蔵屋敷関係   〔取締役 森歓兵衛〕 〔大森・高橋一件〕
ニ、廻  船
三、航  海  〔長者丸〕〔晴雨録〕
四、経  営  〔圓亀米社〕〔借用金〕
五、役向書状  〔森飲兵衛宛書状〕〔森徳三郎宛書状〕〔森茂平治宛書状〕
 船問屋(二)
一、回  漕  〔肥料〕〔水揚〕〔荷物運賃仕出簿〕〔右近権左衛門船〕 ○森仙吉関係 〔中村三之亟船〕
〔広海二三郎船〕 〔客船ひかえ〕
ニ、経  営 〔煙草〕 〇全国煙草元賣捌人協会、○丸亀煙草元賣合名会社、○多度津支店、○阿州證券
   〔塩〕  ○塩賣買 林田塩田 与島製塩 仁尾塩田
   〔諸取引〕〔證文〕〔日賀恵〕〔金銭出入〕〔差引簿〕〔電信扣〕
三、諸会社   〔丸亀米会舎〕〔三栄組・讃栄社〕〔讃豊合資会社〕〔明治商船合資会社〕〔林兼船舶部〕〔実業会〕・・・・ 六〇 網  元 一、鯛 網  〔縛網〕〔網子〕 
  ○契約勘定 〔造船〕〔作業〕〔網仕込〕〔水揚〕 ○水揚 ○仕切
  〔金銭出入〕 ○諸通帳 ○地子取立
二、朝鮮出漁
三、諸猟漁 〔算用〕〔水揚〕〔賣買〕〔萬覚帳〕
四、漁業組合 〔三豊郡漁業共同会〕〔三崎漁業会〕
五、書  状 〔友八宛書状〕 〔森役太宛書状〕           
以下略

この目次からも分かるように、森家は越前国河野浦の大廻船問屋として有名な右近家と取引をしていた船問屋である一方、網元でもありました。
繁栄したこと。文書からは森家の当主が当主の活動を行っていたことが読み取れます。
①茂平治 → ②善蔵 → ③歓兵衛→ ④徳三郎 → ⑤庄太郎 → ⑥役太

船問屋としての始まりは、文化・文政期頃まで遡ります。天保5(1834)から2年間は、当主の③歓兵衛は北海道松前に住んでいたようです。そして松前藩から直々に「藩の大坂蔵屋敷の取締役になってくれ。」というような話が、丸亀藩を通じてあったようです。病身でもあったので断っていますが、「とにかく是非にというので参加した」というように史料には載せられています。遠く離れた讃岐の商人を、藩の取締役に取立てられるとするのですから松前藩のリクルート戦略も大胆です。
 ②善蔵の時代の弘化2年(1845)には赤間関にも出店して、扇子・大麦・酒・鯛・干鰯・昆布・瀬戸物などを取引しています。さらに明治2年(1869)には多度津にも支店を出しています。
研究者が注目するのは、松前藩御手船の長者丸の動きです。この船は松前藩の御座船で、参勤交代の時には、上に屋形を乗せて江戸に走り、荷物を運ぶ時には屋形を外して廻船の仕事をしています。この船が讃岐にも来港しているのです。北海道とのつながりだけでなく、大坂・下関・兵庫・堺など瀬戸内海各地との取引を行っています。

下の表は、箱浦にやってきた船籍別船数です。ここからは次のようなことが分かります。
箱浦の入港船船籍
①大阪と松前船籍の船が同数(27隻)で、飛び抜けて多く、両者で約半数をしめる。
②粟島・仁尾・積・詫間など近隣の港からの入港が13を数える。
③又十柏屋が14隻あるが、よくわからない。
こうして見ると全体で102隻、その内の半分は大阪周辺と松前船籍であったことになります。ひと船入ると、周辺の村々が潤うとされた時代です。102艘もの廻船が出入りした箱浦の繁栄ぶりと、それを差配した船問屋森家にもたらされた富はいかばかりのものだったでしょうか。ここからは粟島ばかりでなく、その対岸の箱浦にも多くの廻船がやってきていたこと、そこには勝間屋(森家)という廻船問屋があり、多くの富を集積していたことが分かります。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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海岸線が「陸封化」された西讃の海で、自然海岸が残っているのが庄内半島です。ここを原付ツーリングするのが私の楽しみの一つでもあります。この半島を走っていて、それぞれの浦が私には魅力的に思えます。それが歴史的な背景から来ているのではないかと以前から思っていました。そこで改めて庄内半島の浦々のことを見ていくことにします。
まずは粟島の廻船業から船問屋への転進ぶり見ていくことにします。
 享保期になると塩飽廻船が衰退化していくことは以前にお話ししました。それと入れ替わるように、台頭してくるのが粟島の廻船業者です。彼らは、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、最初の最盛期を迎えます。さらに、天明~文化期になると、他国船との競争が激化してくる中で、粟島廻船は野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎えます。この時期に、「資本蓄積」が行われ、廻船の操業ソフトを身につけていきます。それを史料で見ておきましょう。

A 安永五年(1776)の越後の沼垂湊(ぬったりみなと)における越後新発田藩(しばた)の大坂回米船の史料からは、粟島廻船の回送が19艘、丹後湊宮(京都府久美浜町)が18艘で、塩飽広島5艘、摂津大坂4艘、讃岐浜村(高松市庵治町)3艘

B 浜田外ノ浦の客船帳からは、粟島の船問屋・船持には、舛屋・竹崎屋・高島屋・木曽屋・大屋・大和屋・麦屋・岡田屋・浜屋などがあり、小豆や米を売り、干鰯・銅・材木を買い込んだこと

C 隠岐の島前の浦郷の問屋には、粟島の潟地区の伊勢神社奉納船絵馬に粟島の「伊勢屋庄八 末福丸」(20反帆、1400石積)の入港が記録されていること

D 浜田の中村家の客船帳によると、粟島の大和屋福市丸、木曽屋住吉丸なども記録されている。


このような中で、金毘羅大権現の多度津街道の起点である高藪町に、鳥居が姿を現します。

3 高藪町の鳥居
粟島廻船仲間の寄進の鳥居 現在は高灯籠公園

そこには次のような字が見えます。
「天明二(1782)年」「奉寄進 願主粟嶋廻船中」「取次 徳重徳兵衛」

ここからは、粟島の廻船仲間が庄屋の徳重氏の取次で金毘羅大権現へ奉納したことが分かります。場所は、もともとは、多度津街道の起点(ホテル紅梅亭の東側川沿い)に建てられたものです。今は高灯籠に移されています。これに続いて、各街道の起点に鳥居が姿を見せるようになります。その先駆けとなったのが粟島廻船中の鳥居です。以前に見た粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札も寛政7(1795)年のものが一番古いものでした。鳥居の寄進前後から粟島の廻船問屋の金毘羅詣では始まると私は考えています。

この他にも粟島廻船の全国展開を示す石造物として、寛政元年(1789)に粟島の廻船仲間が、海上安全信仰の神社として大阪の住吉神社に常夜燈を寄進しています。その銘には「讃州粟島廻船中」ではなく、単に「粟島廻船中」と記されています。塩飽廻船と同じように国名がなくても全国に通用するという自負心が現れているように思えてきます。

 しかし、文政期になると、日本海の北前船を中心とする他国船との競争に敗れ、幕末期には粟島船籍の廻船もいなくなります。西讃府志には、五百石を超える船は2艘しか記録されていません。しかし、「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島水有家居多尤豊に見ゆ。島人多く摂坂の大船にと乗して、北国西国に揖取す。」
意訳変換しておくと
「粟島は海に囲まれた島であるが家も多く、人々の生活も豊なように見える。島人の多くは畿内のの大船の乗組員として、北国や西国に出向く。」

ここには 粟島が北前船による北海道と大坂を結ぶ海上ラインの重要な寄港地となり繁栄し、豊かな生活を送る者が多かったこと、そのため廻船を失った粟島の船主たちは、問屋・仲買人に転業し、粟島寄港の北前船と交易を続けます。また大坂や函館などの廻船に水主・沖船頭として雇われるようになり、多額の金銭を粟島にもたらします。それは、明治になって鉄道網が全国に伸びていくまでは続きました。
幕末に成立した「西讃府志」には、粟島のことが次のように記されています。

「村高174石余。村の広さは東西一里一町、南北二〇町、回り百五十町、丸亀から海路四里、東は志々鳥まで五十町、西は積浦まで三十町、波戸長さ四十間、加子六十戸、耕地四十四町三反余り。(内畑三十九町余、屋敷 町一反余).戸数三百、人口千三百、舟五百石二、二十石二十八、一挺舟五、牛五十。泉は船隠井、島は阿島(周り十九町)、尾元島(周り十町)、神社は粟島大明神、馬木八幡宮 他祠十、寺院真言宗梵音寺

幕末には、五百石船は粟島には2艘しかなく、20石船が28艘です。粟島は塩飽水軍の流れを汲むようで、秀吉による朝鮮出兵・文禄・慶長の役にも水夫として従軍していますし、島原の乱にも塩飽・小豆島の水夫とともに参加しています。そして、「人名」が住む島でした。そのためか江戸初期以降、水夫の多くは海運業に従事し、北前船で北海道へ塩を運び、箱館に出張所を置いています。粟鳥伊勢神宮には航海の安全を祈って、多くの船絵馬が奉納されています。
 さらに文政十年(1837)には島四国八十八ヶ所の石仏が開眼され、大坂達船中が一船一基の本納を行っています。幕末の文久3年(1863)には、幕命で箱館奉行所の水野正太人が軍艦で航海術・運用術の訓練のために樺太・シベリア海の北洋航海を行いますが、その際に栗島出身の中村長松・紅屋清兵衛・枡屋徳太夫の三名が乗船しています。その詳細な記録が「黒竜江誌」として残されています。
 粟島の特色は先祖が塩飽衆であることから、漁師よりも加子が多かったことです。

粟島1
スクリューのように島が連結した粟島 隣が志々島
また、粟島の地形はスクリューのように島が連結し、南面の海は島や半島に囲まれていて風の影響をあまり受けません。 明治14年に開拓使が作成した『西南諸港報告書』には、次のように記されています。(意訳)

「愛媛県下讃岐国三野郡粟島港ハ面積凡半方里島ノ周囲四里、船舶碇泊ニ便ニシテ、風潮二関セス、帆フ張リテ自在二出入スヘシ」
意訳変換しておくと
「愛媛県下(当時は香川県は愛媛に併合中)讃岐国三野郡の粟島港は面積半方里で、島の周囲は四里(16㎞)、船舶の停泊に便利で、風や潮流に関係なく、帆を張って自由に出入りができる」

ここには粟島港は、西風・東風もあまり受けないので、自由に出帆でき「船舶碇泊」に適していたことが記されています。そのため陸上から詫間に集められた物資は須田港から渡舟に荷物を積みかえて、栗島に運び、さらにそれを廻船に積せるというシステムが生まれます。また、栗島だけでなく、東隣の志々島も潮の干満の差が大きく、千潮時には船底の修理や虫食いを駆除する「船たで」の適地で、その作業所があって多くの船が利用するために入港していたようです。こうしてみると粟島は、詫間の須田港や志々島などと併せて、瀬戸内海交易の廻船の集結センターとして機能していたことがうかがえます。
 粟島で船泊り(港)と呼ばれるところは、本浦の入江と、馬城(うまき:長浜側)でした。
島内の廻船は本浦、外来船は、馬城に停泊するという棲み分けが行われていたようです。ただし、波止場は、天保年間でも長さ40間(約72m)と記録されているので、接岸施設はなく沖掛りの廻船が多かったようです。馬城(木)地区については、「西讃海陸予答」に次のように記されています。

「馬木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

ここからは粟島廻船が活動していた享保期よりも多くの廻船が来港して賑わっていたことが分かります。その背景には、船乗りたちから評価が高かった港であったことが挙げられます。
馬城海岸の波打ち際には、「享保16(1731)年銘の馬城八幡神社の鳥居が建っています。
粟島馬城神社の鳥居
粟島の馬城八幡神社の鳥居

これは、粟島では最も古い寄進石造物です。この寄進者は「島中」つまり粟島の氏子一同でした。ところが、11年後の寛保二年(1742)2月になって、粟島神社の常夜燈寄進者の中に初めて「舷頭中」および「大坂 讃岐屋勘介」、(馬城)八幡神社の常夜燈寄進者の中に「大坂 讃岐屋勘四良」の名前が出てきます。ここに登場する「讃岐屋勘介」と「讃岐屋勘四良」は同一人物で、大坂新大黒町の船宿で、粟島と積浦廻船の定宿でした。そのためお得意さんの粟島の神社に寄進したのでしょう。粟島の神社へ、船頭仲間や大坂の船宿からの常夜燈寄進が1740年代という早い時期に始まったことに研究者が注目します。その背景には、馬城にあった湊が「近国第一の湊」で、多くの廻船の寄港地であったことも背景にあるようです。
 明治初期の栗島の取扱品目を見ておきましょう。
①積出し品の最大商品は、煙草が5割、塩が約4割
②塩を坂出から、煙草を阿波・伊予国、茶を阿波・土佐から輸入し、北海道に転輸する拠点として機能
③北海道からの物産は大部分が鯡〆粕(にしんしめかす)で、他に数の子などが栗島港に入り、小型船に積み替えられ、三野・豊田郡や岡山へ転販
昆布ロードがもたらした明治維新と食文化│54号 和船が運んだ文化:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

当時、四百石積以上の北海道へ向かう船は約五百隻いたとされます。大坂で必要な貨物を買積して、各地に寄港しながら北海道へ向かいました。粟島港には毎年2月から4月までと9月から11月までの春秋2回、やってきます。春の滞在期間は前年に大坂で売買契約を結んだ貨物を購入するためで、秋季の滞在は北海道から廻送してきた産物について価格を偵察し、阿波や岡山に向けて売り出すためです。
 北海道産物の千鰯などは米・綿・甘庶の肥料で、これがないと綿花の生産量は増えませんで。そのため綿花栽培地の大坂などで大量に購入されるようになります。そのための在地の肥料問屋が登場するのもこの頃です。
 粟島には、かつての船問屋の屋敷跡が豪壮な石垣とともに残っています。かつては、そこに通じる道には石が敷き詰められていたようです。これは、北前船で帰島した水主が、正月前後に船持や船問屋のために敷き詰めたものと伝えられています。
以上を整理しておきます
①粟島は塩飽水軍に属し、人名の支配する島として自治権を獲得した。
②塩飽廻船が享保年間に衰退していくのに入れ替わるように、粟島廻船が台頭する。
③粟島廻船は、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、
④天明~文化期になると、野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎える。
⑤この時期に「資本蓄積」と廻船問屋のノウハウを身につけて、廻船業から廻船問屋へと転進する。
⑥その背景には「西国一と称された粟島港」の存在がある。
⑦こうして18世紀後半には、金毘羅大権現への鳥居寄進などその繁栄の痕跡を各地に残している
⑧明治になっても繁栄は続くが、鉄道網の整備とともに北前船の活動が衰え、粟島にも廻船が立ち寄らなくなって衰退していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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伊勢御師が天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部を見ています。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡の道者(檀那)氏名が一覧表で記されています。前回は、丸亀の中府→金倉→多度津→白方→山階と廻って、つぎのようにまとめました。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。
②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。
③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる
④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。
⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。
今回は、この続きを追いかけて行くことにします。テキストは前回に続いて、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。

伊勢御師 四国日記讃岐分8 金倉寺・小松・岸上・帆山

      「伊勢御師檀那帳 四国之日記」 金倉寺・琴平・まんのう町岸の上・帆山

「こんさうし(金倉寺)の内 おやこ三人家あり)」とあって、次に出てくるのは「小松の分」です。「小松の分」とは、小松郷(荘)のことで、現在の琴平町にあたります。つまり、善通寺エリアがすっぽりと抜け落ちています。これは、どうしてなのでしょうか? 善通寺エリアは熊野系の神社が多く、熊野行者の拠点であった気配があります。そのために伊勢御師が入り込めなかったということは考えられます。三豊でも秋山氏の菩提寺として建立された三野の本門寺周辺、あるいは中世に念仏聖たちの活動が活発だった弥谷寺には、道者たちはいませんでした。また阿波修験者の讃岐への進出拠点であった財田も空白地帯でした。ここには当時の宗教勢力の色分けが背景にあったとしておきます。

「小松の分」の道者は「長右衛門・太郎左衛門・同勘九郎」の3人のみで、彼らに姓はありません。
ここは九条家の荘園として、本庄・新荘が開かれた所です。 榎井の氏神とされる春日神社の社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿造営に関わった人達として次のような人々の名前が出てきます。
寛元2年(1244)新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)石川将監が社殿を造営
ここからは、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者が、国人土豪層として戦国期に活動していたことが、残された感状などからも裏付けられます。しかし、彼らは伊勢御師とは、関わりをもっていなかったようで、リストに彼らの名前はありません。彼らは、三十番社を中心に、独自の祭礼と信仰を持っていたことは以前にお話ししました。
 続いて「きし(岸)の上」には「かな(金)丸殿おや子三人いえ(家)あり」とあります。

満濃池 讃岐国絵図
                金倉川の南(上)側に「岸上」と見える

岸の上は真野郷に属し、小松荘に隣接するエリアです。この地区の中世のことはほとんど分かりません。ただ光明寺というお寺があったことが、金毘羅大権現の多門院の『古老伝旧記』に記されています。また、高野山の明王院の住職を勤めた2人は、「岸上出身」と「歴代先師録」に紹介されています。明王院は高野山の不動明王信仰の中心的な存在です。そこには多くの真言密教の修験者たちが全国から集まってきていました。 岸上の光明寺も修験者の活動拠点のひとつであったと私は考えています。増吽が拠点として東さぬき市の与田寺のように、光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していた可能性があります。だからこそ、高野山で活躍できる優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。                          
岸の上の次には「てかこの分一えん(円)」とでてきます。
 巡回順番から見ると「岸上 → てかこ → ほそ(帆の)山 → 福良見 → 春日 → 長尾」と続くので、「真野」かもしれません。道者人名には「次郎右衛門・次郎五郎殿・助兵衛殿 此外あまたあり」とあり、他の集落が家数が明記されていないのに、ここだけ「いえかず(家数)二十斗(ばかり)」とあります。この周辺の中心地域だったようです。しかし、真野が「てかこ」と呼ばれていたという見分はありません。お分かりになる方がいれば教えていただきたいと思います。

  次に出てくるのが「ほそ山(帆山)」です。
ここからは、中世は帆山は「ほそ山」と呼ばれていたことがうかがえます。六郎左衛門に続いて、同じく六郎を冠する人名が並びます。そして彼らを「大きなる人也」(下の史料)と評します。これを、どう捉えればいいのでしょうか。帆山の「六郎集団」が経済的に大きな力を持っていた集団というのでしょうか。それなら、その経済基盤は何にあったのでしょうか。あるいは伊勢信仰心が強く、奉納額が多く、お札やお土産などを、多く渡した人達なのでしょうか。 以前に紹介した冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」には、伊勢御師が奉納額に従って、渡す札の大きさやお土産を選んでいたことが記されていました。渡すべき「伊勢お札」の大きさを示している可能性もあります。これも今の私にはよく分かりません
伊勢御師 四国日記讃岐分8 福良見・長尾
                   まんのう町福良見・長尾

続いて、帆山の東に隣接する「ふくあミ(福良見)」です。
ここには4人の道者が記されています。筆頭の「大谷川弥助」は、姓を持っています。そして、下段には福良見分の中に「かすか(春日)太郎五郎殿」の名が見えます。ここで気になるのが春日の奥の塩入や、財田川上流域の本目や新目は「かすみ(テリトリー)」には含まれていなかったようです。また、吉野も出てきません。
最後が「なこう(長尾)の内」のさう田(造田)殿おやこ(父子)です。
この表記を、どう理解すればいいのでしょうか
A 長尾エリア内に属する造田殿親子 
B 長尾エリアに転住してきている造田殿親子
16世紀初頭の細川政元暗殺に端を発する混乱は、細川氏内部の抗争を引き起こし、阿波の細川氏が讃岐に侵入して来る発端となります。その後、細川氏の配下の三好氏によって多くの讃岐武将は、その配下となります。丸亀平野南部の長尾氏もそうです。そのような中で天霧城の香川氏だけは、三好氏に帰属することを拒み続けます。そのため16世紀半ばには、丸亀平野では、天霧城の香川氏と西長尾城の長尾氏の間で軍事緊張が高まり、小競り合いが続きます。それは秋山文書などからもよみとれることを高瀬町史は指摘しています。この伊勢御師の檀那リストが作成されたのは、1551年のことです。まさに、このような軍事緊張の走る頃のものです。そこには、香川氏と長尾氏の対立関係が影を落としているように見えます。具体的には、三豊・那珂・多度郡に人名が挙がる檀那たちは、香川氏の勢力圏に多いような気がします。特に那珂・多度郡です。
 どちらにしても、この時期には長尾から吉野にかけては、西長尾城主の長尾氏の勢力範囲にあったとされています。長尾氏自体も阿波の三好氏の配下に入って、天霧城の香川氏と対立抗争を繰り返していました。そのため長尾氏の配下の国人たちも山城を築いて、防備を固めていた時期です。そういうの中で、土器川の東岸にはこの伊勢御師は道者を確保することはできなかったことがうかがえます。
  以上見てきた伊勢御師の檀那リストは、当時の実在した人々の名前と、その居住区が記されている一級資料です。今後の郷土の歴史を考える上で大きな意味があります。発見してくださった研究者に感謝します。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」


追記   
横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきていたことが琴南町誌に記されています。
横畑は伊勢信仰が強く、訪れる伊勢太夫のために「伊勢家(おいせやはん)と呼ばれる宿舎がありました。その大きさは、二間+三間の平屋で、お伊勢さんが祀られていました。伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動をしました。そして伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになります。
 伊勢太夫の中でも来田監物は、横畑との関係が深かったようで、農業用水や飲用水に困っている人々のために水源を開いています。「伊勢太夫が呼んだ泉」と言われるものが今も二か所残っているようです。
伊勢御師による檀家巡りについて琴南町誌363Pに、次のように記されています。
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしている。その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
長谷坂 佐野甚平 (一宿)
半坂 佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)
下福家 古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)
谷田 牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)
所村 与平次 新谷村 牛田藤七 
猪の鼻 磯平 
渕野 次郎蔵 
樫原 梅之助、藤八 
明神 古川嘉太郎 中熊八百蔵 
中熊 源次郎 
川奥 西岡忠太郎 (一宿)
美角 七兵衛
 横畑  拾右衛門 (一宿)
堀田 林兵衛
前の川 御世話人
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。

横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えられていました。文政以後は、来田監物の代理として佐伯佐十郎が村々を廻ったようで、宇足津の村松屋(都屋)伊兵衛が連絡所になっていました。集められた高松藩や丸亀藩の藩札は、ここで金に両替されて伊勢に持ち帰ったようです。


  前回は、天文20年(1551)の「讃岐国檀那帳(白米家文書」の三豊郡に記されているかすみのエリアと人名・寺院を見て、次のようにまとめました。
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、三豊一帯に及ぶが、財田や三野・詫間などには道者(檀那は)いないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
  今回は、多度・那珂郡の道者(檀那)たちを見ていくことにします。テキストは「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。

  「別紙別筆 四国之日記さぬき(讃岐)之分」とあります。
伊勢御師 四国日記讃岐分1 中府
「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 中府・津森・今津
前回見たリストとは、別の時期に手に入れたリストになるようです。最初に「中ふん(中府)一えん かがミ(各務)殿」とあります。「中ふん」は、丸亀の中府のことでしょう。ここには「其外人数あまたあり いえかす(家数)三十」と記されています。中府には、各務家を中心に多くの伊勢お札を配布する家があたこと、その戸数は30軒ほどであったことが分かります。
 続いて出てくる「つのもり(津森)分一えん(円)には、しきふ(式部)殿が筆頭にあげられ、「ちん蔵坊」という坊名がでてきます。ここには念仏信仰の修験者(聖)がいのかもしれません。前回見たように、四国霊場大興寺の各坊主たちがそうであったように、伊勢御師からのお札を配布して、初穂料などを集めていたことがうかがえます。なお津森の家数は、20戸です。次が「ひろなか(広長)(広水)」で、現在の津森・今津になるようです。筆頭は山崎五郎太郎殿で、家数30ばかり、とあります。
伊勢御師 四国日記讃岐分2 今津・金蔵
            「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 今津・金蔵
「いまつ(今津)の分一円」には、「かいふく寺」「みつかう坊」と寺院名が出てきます。これが今津のどこにあったのかは分かりません。今津の戸数は三十数軒とあります。 続いて「かなくら(下金蔵)上かなくら(金蔵)のふん一円」と、金倉川河口の金蔵が出てきます。筆頭に記されている多だの(多田)甚兵衛殿については、香川氏の氏寺である多度津の道隆寺の「道隆寺温故記」の中に周辺地域の国人たちが地を寄進している寄進状に名前が出てくると研究者は指摘します。その中に、次のように記されています。
天文6年(1537) 卯月二日に「多田兵衛尉頼貞、田地壱段、当西山善右衛門尉寄付給」
同20年10月晦日「於堀江殿領地田地五段、多田弾正忠、弘田右兵衛尉」
 ここに見える頼貞・弾正忠と甚兵衛が同一人物ではないようですが、一族ではあるようです。また、約20年後の永禄三年(1560)秋山家文書に多田又次郎宛ての香川之景の書状があります。内容は知行分に割り当てられた人夫について多田又次郎親子の負担分は諸事情によって免除することとなっています。ここからは、多田氏がいずれも香川氏の家臣であり、甚兵衛も家臣の一人であったことが分かります。上下金蔵の家数は「60軒あまり」とあるので、周辺の集落よりも規模が大きかったことが分かります。
金倉 鴨

  てんまん(天満) → 南かも(鴨) → かつらわら(葛原)と並んでいます。

伊勢御師 四国日記讃岐分3 天満 葛原

           「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 天満・南鴨・葛原

葛原の筆頭に「か川しゆり(香川修理)殿が登場してきます。

香川氏は相模国の出身で鎌倉権五郎景政の子孫が来讃して香川姓を名乗ったことは以前にお話ししました。来讃時期については諸説あって、よく分かりませんが、居城を多度津に置き、要を天霧城に置いたことは一致します。そして、14世紀末頃には讃岐守護細川氏の被官となり、やがて西讃岐の守護代に成長し、天霧城を拠点として勢力を伸張させていきます。室町期の香川氏については系図と資料に出てくる人名が一致しません。そのため人物も確定することが難しいことは以前にお話ししました。なお、葛原に住んでいた香川修理の名は、史料の中にも、系図にもでてきません。
 ただ、嘉吉の乱の時に仁尾浦では香川修理亮から兵船徴発の催促がありました。それが浦代官の香西豊前により拘引されるという事件がおこります(賀茂神社文書)。この時の香川修理亮は守護代として登場しますが、実名は分かりません。また細川家文書の中に年未詳の香川通川書状がありますが、宛名に修理亮の名があります。ここでも修理亮がいたことは分かりますが、これ以外に修理もしく修理亮の名は出てきません。時代的にも一世紀も隔たっていて、同一人物ではありません。次の「同う兵衛」「同四郎二郎」も香川一族のようです。香川氏の一族が、葛原を拠点として周辺に勢力を伸ばしていたことがうかがえます。
伊勢御師 四国日記讃岐分5 多度津
           「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 葛原・多度津
葛原には「しふ屋(渋谷)殿」が出てきます
先ほど見た多田甚兵衛と同じように、「道隆寺温故記』に渋谷氏は、次のように出てきます。
永正一四年(1517)10月9日「渋谷又三郎実家、寄進不断灯明田」
大永三年(1523)2月9日「渋谷右京亮重村、田地四段寄付当明王院」
香川氏の菩提寺である道隆寺への寄進を行っています。実家・重村は渋谷氏の一族のようです。
渋谷殿も香川氏の家臣団のひとりです。香川氏の家臣団が、道隆寺を宗教的な紐帯の核として、つながっていたことがうかがえます。海に伸びた道隆寺の教線ラインを支援したのは、このような香川氏の家臣団であったことがうかがえます。

 「たとつ(多度津)」の筆頭に出てくるのが「西谷殿様」です
これは西谷藤兵衛のことのようです。藤兵衛はもともとは豊中町にあった岡本城主でした。それが戦国大名化する香川氏の重臣の一人になっていきます。天文8年(1539)6月、守護代香川元景から藤兵衛尉へ出された書下(本門寺文書)には、香川和景の跡を継いだ元景が秋山奉忠の置文や細川勝元の定書・和景の書下に示した旨に相違なきよう命じたものです。三野の秋山家の氏寺である法華教の本門寺を媒介として、領域支配を図るため西谷藤兵衛を活用したことがうかがえます。
 なお、多度津の多聞院(真言宗醍醐寺派)には、藤兵衛の肖像画が残されています。

西谷藤兵衛 多度津多聞院
西谷藤兵衛画

この賛に弘治三年(1557)の年紀があります。画像が多度津に残されていることから、藤兵衛は多度津に屋敷を構え、香川氏に仕えていたいたこと、多聞院を多度津の氏寺としたことがうかがえます。そのため西谷殿様と称されたと研究者は考えています。
 この服装について、研究者は次のように評します。
大紋直垂(だいもんひたたれ)に烏帽子(えぼし)という室町時代の礼装ではなく、室町時代後期から戦国時代に広まった肩衣(かたぎぬ)を着、頭部に何もつけない露頂(ろちょう)で描かれる。年代が分かる肩衣袴姿の肖像画としては最初期の作品であり、服飾の歴史を探るうえでも貴重。


この肖像画は、多度津町の多聞院に次の夫人の肖像画とともに伝来しました。

西谷藤兵衛の妻 多度津多聞院

西谷藤兵衛夫人像(多聞院蔵)

  前後に屏風をめぐらせて座し、小袖を着て打掛(うちかけ)を腰巻きにした礼装で描かれます。戦国時代の女性の様子がうかがえる貴重な肖像画です。

このほか多度津には「そうめんや(素麺屋)真吾殿」「かち(鍛冶)吉五郎殿」「かち(鍛冶)又五郎」も伊勢道者のメンバーとして名を連ねています。
伊勢御師 四国日記讃岐分6 多度津
       「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 多度津・白方

以前に見た長宗我部元親の金毘羅大権現の二天門寄進は、同盟者となっていた香川氏が中心になって奉納しています。そこには、大工や瓦職人など多度津の職人の名前がありました。香川氏の城下町で港町だった多度津には、いろいろな職種の商人や技術者たちが住んでいたことが分かります。
また多度津の末尾には「三百斗の所にて、内被官一円」とあります。ここからは多度津が城下町として、家臣団が居住する一方で、都市的な機能を持ち的な賑わいを見せていたことがうかがえます。

 「善福寺」は、明王院道隆寺の末寺で、宝塔山多聞院のことだと研究者は指摘します。多聞院は、香川氏の帰依した寺で、香川信景の末子・西谷藤兵衛寄進の石塔や肖像画二幅を伝承する(『西讃府誌』)ことは先ほど見たとおりです。「明ちょう寺」というのは、よく分かりません。

白方 → 山階 → 原田と進みます。
伊勢御師 四国日記讃岐分7 白方・山階
 「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 白方・山階・原田伊勢御師 四国日記讃岐分8 金倉寺・小松・岸上・帆山


「こんそうしの内 おやこ三人家あり」とあるは、鶏足山宝幢院金蔵寺のことです。智証大師円珍の生誕地と伝え、和気氏(旧因支首)の居館があった所とされます。この時期は、いくつもの子坊の連合で維持されていたようです。その中に伊勢御師からお札を預り、配布する僧侶(聖)がいたようです。
 えとさかや(酒屋)殿とあり、酒造業をいとなむ者が、金倉寺周辺にはいたことが分かります。このあたりは金倉川の地下水が豊富で、今でも金陵の酒蔵は、この近くにあります。
次の「小松の分」は、小松荘で現在の琴平町、きしのうえ(岸上)はまんのう町になりますので、次回にします。
 ここまでをまとめておきます。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。
②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。
③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる
④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。
⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」

 伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア
伊勢御師
 以前に冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」を紹介しました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成されたものが、約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。その内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと
 その後、三重県史編纂過程で発見されたのが伊勢御師の白米家に伝わる三豊や多度・那珂郡の檀那名簿です。その文書が白米家に伝来するにいたった経緯を見ておきましょう。
 寛永十六年己卯五月讃岐国旦所(檀那名簿)、福井勘右衛門より代黄金九枚二買得、取置有之證文如左永代沽渡申御道者之事在所者、讃岐国我等持分一円、村数家数ハ賦日記相添進之候、右之御道者、我等雖数代持来候、依有急用、黄金九枚二永代沽渡申候処実正明白也、右賦日記之外二他国他所二御入候衆も不依上下、一人なり共御家付次第二其方御知行可有候、則本文書相添進之候、此御道者二借物少も無御座候、若以来六ヶ敷義出来候ハ我等罷出相済可申候、縦天下大法之政徳行候共、堅申合候間、至子々孫々不可違乱者也、仍為後日沽券證文如件
寬永十六己卯年五月吉日 福井勘右衛門書判
互すあい(仲介人) 加兵衛
       仁右衛門
白米弥兵衛尉殿
超意訳変換しておくと
寛永16年(1639)5月、福井勘右衛門が、数代持ち来った讃岐国の道者一覧を「本文書」を添えて黄金9枚で白米弥兵衛尉へ売り渡した。このときの売買の対象となったのは「讃岐国我等持分一円」で、その「村数家数」を記した「賦日記」が白米弥兵衛尉に渡さた。

「賦日記」とは、伊勢御師が諸国の道者(旦那)に伊勢の大麻やそのほかを配り、初穂銭等を受け取るときの記録です。いわば「道者台帳」になります。今回は、伊勢御師白米家から発見された「讃岐国檀那一覧」の三豊分を見ていきます。テキストは、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。
 この文書に、天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐・相模両国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部です。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡・鵜足郡の道「かすみ(テリトリー)」が次のように記されています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺冒頭部
伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)NO1
 
最初に「讃岐国山本郷一円」とでてきます。山本郷にお札配布の拠点があったのかもしれませんが、よく分かりません。範囲は、山本郷周辺だけでなく、ほぼ三豊全域に及んでいます。記されている里名を見ていくことにします。①山本郷一円の最初に記されるのは、上河内(山本町河内)、常本・中村・辻・原などです。

伊勢御師の讃岐檀那リスト3
讃岐国山本郷一円の伊勢道者(檀那)とその分布エリア

続いて、中田井・池の尻、小松尾・西光寺、仁尾、などが続きます。財田や三野など、空白地帯もあります。ここには讃岐国豊田郡山本郷とその周辺、一部は山本郷を出身地とする人々で旦那となっている人々の名前が記されています。彼らは御師と、毎年音信する国人たちであったこと、国人らが、周辺の里や村のとりまとめ役をしていたと研究者は考えています。研究者は注目するのは、その中に混じって「寺家 こまつを(小松尾)」が出てくることです。これは、四国霊場の小松尾山不動光院大興寺のことです。後にその子坊が出てきます。これは後に触れることにして、先を急ぎます

2 「いんた(隠田 → 一ノ谷)」は、「香西氏の紀伊・続木殿の知行」
3 あわい(粟井)の里は、四良兵衛殿子孫の知行。その在所は曽根越州殿
  ここから多度郡に飛びます。
4 あまぎり(天霧)城のふもとの中村は、九郎右衛門殿の子孫の知行で、在所は余所。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
      伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる奈良氏・高井氏・細川氏

奈良氏の部分を意訳変換しておくと

 讃岐のなら(奈良)殿は、檀那であるが近年は音信がない。奈良氏の先祖(本家)は、昔からの檀那で、田宅の奈良殿とは今も音信がとれて檀那であるが、京の奈良殿(摂津守護代系統の一族)とは音信不通になっている。

   この「なら殿(奈良殿)」の第一候補が、坂出の聖通寺山城の奈良氏です。奈良氏は武蔵国の鎌倉御家人で、南北朝期に細川氏の被官となり、讃岐にやって来ます。管領細川氏の摂津守護代を務めるなど有力家臣でした。讃岐では鵜足郡宇多津に所領を得て、応仁の乱の時期には、元安が細川勝元の元で、香川元明・香西元資・安富盛長とともに細川京兆家の四天王と称されます。「南海通記』では宇多津聖通寺山に居城を築き、那珂・鶏足二郡を領し、長尾・新目・本目・山脇氏などを配下に置いたと記されています。そうだとすれば、ここに出てくる奈良殿は元安の子元信かその子元政に当たると研究者は考えています。奈良氏は、守護代香川氏の勢力が戦国大名への道を歩むようになると、次第にその勢力を弱めていきます。この日記が書かれた1551年段階では、畿内の奈良氏とは音信不通になっていたようです。どちらにしても、奈良氏は長く伊勢御師の檀那であったことが分かります。

 続いて登場するのが高井入道殿です
讃岐国人で豊後入道と称する出家武人であったようです。「西讃府志」には、山本町辻に高井下総守信昌が高井城主としていたことが記されています。下総守信昌は天正年中長宗我部元親の讃岐攻めにより戦死し、高井城は落城します。墓は大辻にあったと記しますが、この下総守の一族のようです。下総守の父親の可能性もあると研究者は考えています。
以下続きますが、この檀那一覧表は別の機会に追いかけるとして、ここからは、この檀那名簿が

その下に「にほ(仁尾)の 進上細河(川)土佐守殿」とあります。
「全讃史』の仁保城の項目に次のように記されています。
「仁尾浦にあり。今の覚院の地これなり。細河(川)土佐守頼弘、これに居りき」

この仁尾城主の細川頼弘が第一候補ですが、彼はその後は文献には現れません。頼弘は天正六年(1578)長宗我部元親の讃岐侵攻の際、仁尾城に立て籠もって抗戦、ついに落城したとされます。時は3月3日、これ以後落城の日を忘れないように、仁尾では桃の節句をしない風習がありました。ここで見る土佐守が天正年間の頼弘であるかどうかは、はっきりとしません。現在、仁尾の金光寺に細川土佐守頼弘と称す人物の墓がありますが、「西讃府志」には次のように記します。

「金光寺に細川土佐守の墓あり、此のいかなる人か詳ならず、・・・武家平林に源頼義の一族に讃岐守賴弘言う人見ゆなれど永禄十年丁卯十月三日薨ずとあれば此の人にはあらず」

西讃府志は、死亡日時からこの墓が土佐守頼弘とするのはおかしいと判断しています。しかし、仁尾に細川土佐守がいたことは確かなようです。長宗我部元親侵攻時の仁尾城の主人は細川土佐守の可能性が高くなります。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 大平氏
        伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる大平氏

最初に「大平三河守殿国人」の名前があります。
この人物は「西讃府志』の大平氏系図の国祐の三代前に国匡(参(三)河守)と記されています。

大水上神社 近藤氏系図
麻の近藤氏の系譜(近藤氏と大平氏は一族)

その後国敏・国雅・国祐と続きます。国祐は和田村の獅子ヶ鼻城(和田城)の城主で、香川氏の家臣として活躍しています。「大平氏系図」によれば、大平氏は藤原秀郷の五男千常の子孫と言われ、千常の子は近藤氏を名乗るようになります。七代目の国平は正治元年(1199)讃岐守護に任じられ、国平の子国から大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を給付されたとします。その後、国有の時に三野郡大野村を拝領し讃岐に土着したようです。その四代後がこの国匡になります。
 一方、別の史料では、永禄5年(1562)に国祐は、長宗我部元親に攻められ香川氏を頼って讃岐へ来て、多度郡中村に居住し、のち和田村を領したとも伝えます。しかしこの内容よりも前記のほうが妥当性があると研究者は考えています。ここでは「西讃府志」に見える国匡としておきます。しかし、一族の麻や神田の近藤氏は出てきません。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 詫間氏
     伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる詫間氏
たくま将監殿とあります
 監天文九年(1540)の「浪打八幡宮遷宮奉加」に「詫間将監三貫文」と出てきます。他に詫間姓の者が多数出てきますが、五百文から二貫文の奉納です。それに対して、詫間新次郎の五貫文に次いで多く奉納している人物です。詫間一族の中でも有力者であったことがうかがえます。
 詫間氏は、藤原氏三井家を祖とし、14世紀に讃岐へ配流されます。三井信行は詫間城主の海崎大隅守元高から三野郡に所領を賜って、海崎氏が西長尾城(まんのう町)に本拠を移すと、詫間城番となり、詫間氏を称するようになります。以後、詫間地域を領有していました。「西讃府志」では詫間城主は詫間弾正とあります。その後、山地氏が入り、荒神城へ移り城主となりますが、天正6年(1578)長宗我部元親の攻撃を受け、敗北して滅亡したとされます。「奉加帳」に弾正の名はないので、弾正の父がそれに準ずる人物と研究者は考えています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
       伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる西光寺と大興寺

  上段には、中田井→宗安→池の尻に続いて、西光寺が出てきます。「西光寺」は、今は辻地区の字名となっていますが、もともとは三豊中学校運動場北の畑が「西光寺屋敷」と呼ばれていたと『新修山本町誌』は記します。財田川の左岸に建立された寺院だったようです。

下段後半には、國(柞)田、鋳物師原、原野、しうらく(十楽寺)と続いて、小松尾の坊名が並びます。「新坊」「せしやう(殺生?)坊」「同中ノ坊」「同さいりん(西林)坊」「同とうりん(東輪)坊」です。これらは先ほど見た大興寺(小松尾寺)の坊だったようです。
 大興寺蔵「寺格昇格進之序』には次のように記します。

「下坊三六坊ありし霊剰にして猶寺名伝え有り、東林坊・蓮花坊・三味坊・大円坊等之れなり」

この外、新坊、中之坊があり、これらは大興寺山内に近接してあったようです。太興寺の坊の数は、九坊が確認できることになります。 さらに「寺格昇格進之序」や大興寺蔵「小松尾山不動光院大興寺遺跡略記」(寛文11年以降成立)などには、大興寺には真言系24坊、天台系12計の計36坊があったと記されています。大興寺周辺に地名伝承として残るものと大野の須賀神社に伝来した「大埜村両社記』(貞享五(1688年成立)は、次のような宗教施設があったと記します。
大興寺付近に、 東連坊・普門院、辻東側の十輪寺
大野には 八幡下の円坊、天皇下の円結び知坊・廻向坊・安楽坊・地蔵坊と西之村の智蔵坊
これらが「三十六坊」とされていた宗教施設と研究者は考えています。

6大興寺周辺の字切地図 
四国霊場大興寺周辺の坊跡

 さらに、「いん田」が「隠田」で、それが訛って「一の谷」になったとすれば、大興寺に接続したエリアになります。そうすると、そこにあった行識坊も三十六坊のひとつに数えられます。以前に見た「太興寺調査報告書」にも触れていましたが、この周辺には坊が集中していたようです。ここからも、大興寺が修験者などの山林修行者の拠点であったことが裏付けられます。
 髙松周辺の御師のお札配布活動でも、無量寿寺の各坊の僧侶達が檀那として名前が挙がっていました。彼ら伊勢信仰のお札配布の拠点になっていました。三豊でも大興寺(小松尾寺)の各坊の修験者(聖)の中には、伊勢講の先達となっていた者達がいたのかもしれません。

   末尾に「此衆へ毎年御状を以て音信申し候」とあります。
毎年、ここに出てくる三豊の檀那と伊勢御師が連絡を取り合って、伊勢お札の配布を行っていたことが分かります。また冒頭に「四国の日記讃岐の分」とあります。ここからもこれらの文書が「賦日記」であることが裏付けられます。ません。なお、證文に見える「すあい」とは口入と同じ、仲介者のことだそうです。

以上をまとめておくと
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、財田や三野・詫間などには及ばないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」

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