前回は、秀吉の四国出兵が長宗我部元親処遇案が、あいまいな部分を残したまま開始されたことを見ました。また、四国出兵は秀吉が陣頭指揮をしないという初めてのケースでもありました。そのため今までにない指揮系統や戦術が見られます。その辺りのことを阿波方面を中心に今回は見ていくことにします。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。
「永禄年間(1558年 - 1570年)から三好氏の武将篠原自遁が守っていた。1582年(天正10年)の長宗我部元親による阿波侵攻では、十河存保方についたものの、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの織田信長が本能寺の変で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し淡路へ逃走した。長宗我部元親領有後は腹心である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる。1585年(天正13年)、羽柴秀吉による四国攻めでは、羽柴秀長の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた。
木津城を秀長と秀次の大軍が囲みます。そして8日後の7月5日には落城します。その後、羽柴軍は二手に分かれますが、そこへ黒田官兵衛など讃岐方面の軍勢も合流し、次のように手分けして攻略します。
A 秀長+宇喜多勢 一宮城B 秀次+近江衆・仙石秀久・蜂須賀正勝 牛岐城(牟岐)
秀次勢は7月10日には調略によって牛岐城を開城させ、15日には脇城攻めに取り掛かります。こうして羽柴軍は一宮・脇両城を包囲し、7月下旬に長宗我部氏が降伏するまで攻城戦を続けます。
木津城・一宮城・脇城の攻城戦には共通点があることを、研究者は指摘します。
①木津城「木津ノ城、敵楯籠之条、即座押詰、本城塀際迄仕寄、責破処」②一宮城「其後一宮取巻、諸口以仕寄押詰、水を相留候条、一途不可有程候」③脇城「当脇城へ押詰、山下追破、従翌日仕寄等丈夫二申付候」「当城も水之手不自由にて迷惑由、従城内闕落申越候、殊懸樋をも切落候間、弥不可有程候」
意訳変換しておくと
①木津城の攻城戦では、敵の籠城戦対して、即座に押詰め、本城塀ぎわまで仕寄、これを攻め破る②一宮城では、城を取り囲み、諸口を仕寄って押詰め、水源を遮断し、水が手に入らないようにした。⑧脇城では押詰て、山下で追い破り、翌日に仕寄を丈夫に設置することを申し付けた「当城も水之手がなく、飲み水に不自由している様子なので、城内に水をひく懸樋をも切落し、水を断った。
ここには、共通した戦法として「押詰」「仕寄」と「水断」という言葉が出てきます。
「仕寄」とは、「敵の城を攻撃する際に用いる、竹などを束ねた防具」のことのようです。

「仕寄」とは、「敵の城を攻撃する際に用いる、竹などを束ねた防具」のことのようです。
「仕寄り」

大河ドラマ 真田丸に登場した「仕寄り」作り
仕寄せは、盾や竹の束で身を守りながら、城を攻めるためのもの簡易な基地です。鉄砲から身を守るためのもので、この小型の基地を移動させて城を攻めたようです。鉄砲が普及した戦国時代後半に出てきた戦い方です。これに加えて、水断ちが行われています。四国出兵はちょうど夏季(現在の8月頃)にあたりました。真夏に、水を断たれることは籠城側にとっては、致命傷となったことが推測できます。7月18日に戦地の伊藤祐時に、秀吉が宛てた書簡を見ておきましょう。
去十四日書状十六日於京都到来、披見候、一、其面取巻丈夫成由、兵吉口上之通、何も聞届尤候事、一、一宮城如此取巻、既仕寄以下入精、水手相留由候条、少々日限延候共、菟角国々こらしめ、旁以千殺二可然、委細兵吉二申聞候事、[中略]
意訳変換しておくと
14日の戦地から書状が、16日に京都に届いた。一、籠城戦への対応が指示通り首尾良く進んでいるとの報告を受け取った。一、一宮城のように、兵で取巻き、仕寄で対応し、水断ちすれば、少々日数はかかろうが、阿波国衆をこらしめ、干乾しにすべし。委細は兵吉に伝えている[中略]
ここからは「仕寄」と水断による包囲戦は、秀吉の命令によるものであったことが分かります。秀吉の指示で「押詰(包囲)」「仕寄(接近)」と「水断」が、セットとなって、各攻城戦で展開されていたことを押さえておきます。
また「国々こらしめ、旁以干殺二仕可然候」とあります。阿波の国衆をこらしめ、干殺しにするよう指示しています。これは見せしめの意図も読み取れます。これに加えて秀吉は、繰り返し前線に次のような指示を出しています。
また「国々こらしめ、旁以干殺二仕可然候」とあります。阿波の国衆をこらしめ、干殺しにするよう指示しています。これは見せしめの意図も読み取れます。これに加えて秀吉は、繰り返し前線に次のような指示を出しています。
「手負等無之様二木津城責殺可申候」(7月3日付)「手負無之様二可申付候事」(7月10日付)「少々長陣候事者不苦候条、少之手負無之様二」(7月27日付)
ここからは秀吉が「手負等無之様」と、「たとえ長引いたとしても、自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」と求めていたことが分かります。
秀長は7月19日付の伊予戦線の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を次のように報告しています。
9000とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の我が軍に兵糧を絶たれ、城への坑道を掘り水の手を断つ戦法で、7月中旬には開城した。
これに前後して脇・岩倉城も、秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落します。この結果、白地城の長宗我部元親は、東からの秀長・秀次勢、西から川之江まで進撃してきた毛利氏に挟撃される形になります。
『南海治乱記』には、前線から白地城へ戻った谷忠澄が、次のように述べて長宗我部元親に降伏を勧めたと記します。
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。
これに対し『元親記』には、長宗我部元親が言葉が次のように記されています。
縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。
意訳変換しておくと
たとえ、岩倉・一の宮城を奪われようとも、海部城に退却し、合戦すべき手立がある。そうなったら白地城に集結している軍兵や土佐国元の兵力を総動員すれば、一万八千余の兵力になる。それを、信親が大将として率いて野根・甲浦で待ち受け、海部城を支援する。
ここでは元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言います。そして、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っています。
しかし、重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏します。交渉の仲介役を務めたのが蜂須賀正勝です。
降伏から和睦条件の成立に至る経過を整理しておきます。
降伏から和睦条件の成立に至る経過を整理しておきます。
①天正13年7月下旬、一宮・脇両城を包囲する羽柴軍に対し、長宗我部方から降伏交渉の打診。②7月25日、羽柴秀長は一宮城の長宗我部重臣の江村親俊・谷忠澄に、土佐一国安堵と、五日間の「矢留(戦闘停止)」を約束③同じ頃、秀吉は秀長に宛て、元親の土佐一国のみの安堵と降伏条件を確認し、最終的な判断を秀長らの判断に一任
そして8月4日までに、長宗我部元親の正式な降伏が了承されます。8月6日に成立した和睦条件の内容は、次の4項目です。
①長宗我部氏に土佐一国のみ安堵②長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、③人質の提出④徳川家康との同盟禁止
これによって、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を失います。ちなみに、秀吉から秀長への指示書にかかれた阿波国の統治方針についての部分を見ておきましょう。
一、阿波国城々不残蜂須賀小六二可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいの山麓二覚候、去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻二四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在庫の者とも談合、よく候いん所相定、さ様二候ハ、大西脇城かいふ牛木かせてよく候いん哉、小六身二替者可入置候、但善所ハ立置悪所かわり、新儀にも其近所にこしらへ候事、[四~六条目略]
意訳変換しておくと
一、阿波国については、城はすべて蜂須賀小六に渡すこと、小六の居城については、絵図からすれば「いの山(渭山:現徳島城)」山麓が適地と思うが、実際に見ていないのでなんとも云えない。ついては、その方(秀長)が候補地をいくつか選定し、秀吉が四国を見廻りに行き決定しても良い。また小六が適地と考えるところを、秀長や各在庫衆と協議して決定してもよい。大西・脇・海部・牟岐城については、城の現状を維持し、小六が信頼が出来る者を選んで配置すること、ただし、戦略上からして立地条件が不適切な城は、新規に適所に移転して築城すること。
読み取れる情報を挙げておきます。
①阿波国内の諸城は、残らず蜂須賀家政に渡すこと、
②居城は「いの山(渭山)」を適地とするが、秀長ら在庫衆で談合して定めること、
③大西・脇・海部・牛岐の各城は今まで通り存置し、しかるべき人物を配置すること。
研究者が注目するのは、③で具体的な城郭整備について言及している点です。
渭山に置かれた新城が徳島城で、大西城ほかの4城は近世初期まで阿波の支城体制「阿波九城(一宮・牛岐・仁宇・海部・撫西条・川島・脇・大西)」として活用されていきます。阿波では、戦後処理の初期段階から、秀吉の統治方針が明確にあらわれています。四国出兵で羽柴軍の攻撃対象となった一宮・牛岐・脇の諸城は、「阿波九城」に含まれます。四国侵攻の軍事行動の意図には、領国支配のための拠点となる城郭の掌握があったと研究者は考えています。
渭山に置かれた新城が徳島城で、大西城ほかの4城は近世初期まで阿波の支城体制「阿波九城(一宮・牛岐・仁宇・海部・撫西条・川島・脇・大西)」として活用されていきます。阿波では、戦後処理の初期段階から、秀吉の統治方針が明確にあらわれています。四国出兵で羽柴軍の攻撃対象となった一宮・牛岐・脇の諸城は、「阿波九城」に含まれます。四国侵攻の軍事行動の意図には、領国支配のための拠点となる城郭の掌握があったと研究者は考えています。
阿波での戦いは、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦でした。
秀吉の指示に基づき、攻めるべき城が 事前に選定され、そこでの採用される戦術まで指定され、自軍兵力の消耗をおさえる慎重な戦術を行うように求められています。さらに、後の蜂須賀氏による領国支配につながる地域の拠点城の掌握まで考えられていたと研究者は評します。
以上をようやく整理しておきます。
①阿波・讃岐への侵攻については、兵力の集結メンバー・日時・場所・ルートについて事前に秀吉が指示を詳しく示している。
②その立案や連絡調整に当たったのが黒田官兵衛や小西行長である。
③阿波戦線は、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦であった。
④木津城・一宮城・脇城に対しては「押詰」→「仕寄」→「水断」という共通した戦法が採られている。
⑤「これは自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」という秀吉の指示でもあった。
⑥同時に攻城対象の城は、蜂須賀氏による領国支配のための拠点となる城郭でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
以上をようやく整理しておきます。
①阿波・讃岐への侵攻については、兵力の集結メンバー・日時・場所・ルートについて事前に秀吉が指示を詳しく示している。
②その立案や連絡調整に当たったのが黒田官兵衛や小西行長である。
③阿波戦線は、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦であった。
④木津城・一宮城・脇城に対しては「押詰」→「仕寄」→「水断」という共通した戦法が採られている。
⑤「これは自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」という秀吉の指示でもあった。
⑥同時に攻城対象の城は、蜂須賀氏による領国支配のための拠点となる城郭でもあった。
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参考文献
「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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