瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年08月

古い写真を集めて、デジタル化して保存していくという動きが各地で進められています。まんのう町教育委員会でも、今までに保存されていた写真のデジタル化を行っています。その一部を見せてもらいました。今回はその中から、天空のそば畑・島ケ峰の変遷を、残された写真で追いかけて見たいと思います。
そばの花見会inまんのう町島ヶ峰 - Manno まんのう魅力発信ポータルサイト - まんのう町

今年も多くの人が訪れそうな「そばの花見会」。頂上附近にはこんな光景が広がります。

島が峰そば
天空に拡がる島が峰のそば畑(まんのう町)

天空の地 島ヶ峰そば畑 2023/10/1 / ウォーキングの写真39枚目 / 国道に下りてきました | YAMAP / ヤマップ

それでは、そば畑になる以前の島ケ峯はどうだったのでしょうか?

琴南町誌1028Pには、次のように記されています。

この集落の裏山頂上に島ヶ峯と言われる広い平坦地がある。この一帯はもと①川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。明治になりこの地区の農家に分割されたもので、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。昭和十(1935)年ごろ、阿讃自動車株式会社が、ここを②スキー場として売り出そうと宣伝に努めたことがあったが、諸条件が整わず定着するには至らなかった。

ここから読み取れる情報を挙げておくと
①川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり、炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
        
 琴南町では、ここを牧場として畜産振興を図ることを計画し、昭和41年から三か年継続で牧野造成事業を実施し、43㌶を開墾し③牧場を造成した。川奥周辺農家に和牛を導入させ、冬期を除いてここで放牧飼育した。昭和45年ごろは、120頭余の牛が飼育されていた。ところが間もなく牛価の急激な低落により大打撃を受け、ついに昭和47年牧場は閉鎖された。

IMG_6880島が峰放牧場
        放牧場だった島ケ峯(1970年頃) 放された牛が何頭か見える

IMG_6879牛の放牧場
           島ケ峯放牧場の草刈り(写真 まんのう町教育委員会提供)
 
 昭和55年に至り、牧野を再開発してキャベツを作ろうとする周辺地域の人々による共業体がつくられた。それから数年にわたって再開発が行われ、大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、琴南随一の④高冷地集団農場となり、品質のよいキャベツが生産されるようになった。
IMG_6870島が峰キャベツ3
島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

IMG_6871島が峰キャベツ 出荷

IMG_6890島が峰キャベツ3
         島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

④昭和41(1966)年から43㌶を開墾し牧場を造成し、和牛の放牧飼育を開始した
⑤しかし、牛価の急激な低落で昭和47(1972)年に牧場は閉鎖した。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史が見えて来ます。
IMG_6872高山キャベツの出荷
島ケ峯のキャベツ収穫風景
 旧琴南地区に、キャベツがどのようにして根付いていったのかを見ていくことにします。
 琴南にキャベツがもたらされたのは、北海道への開拓農民からでした。葛籠野集落の黒川正行の叔父で、北海道旭川に住んでいた黒川嘉之助から、明治末にキャベツの種子が送られてきたのを栽培したのがはじまりとされます。品種は中生サクセッション系で形体が大きく、美味しそうな大きく伸びた鬼葉を食べてなると、とても苦くて食べられたものではなかったようです。そこで手紙で問い合わせたところ、キャベツは玉を食べるものだと知らされ、大笑いしたしたというエピソードが伝えられます。葛籠野のキャベツになるまでには、苦労の連続だったようです。それが軌道に乗ると、周辺の、名頃・大佐古・勝浦・仲野へと拡大します。

IMG_6885下中熊のキャベツ2 1986年11月以前
中熊
下のキャベツ畑

IMG_6893真鈴のキャベツ 1985年頃
真鈴のキャベツ畑
キャベツ作付面積の急速な博大
琴南キャベツ作付面積の急速な拡大 昭和40年代に急拡大している
キャベツ生産が急速に増えた背景について、琴南町誌570Pは次のように記します。
①唯一の換金作物であったたばこ耕作が衰退化し、代替え農作物が求められていたこと
②キャベツが高冷地栽培のため、夏出しキャベツが生産できて、競争力があったこと。
③キャベツに病虫害も少なく、品質と味がよく、高価に販売できたこと
④たばこに比べると、労働力が少なくてすんだこと。
琴南キャベツの出荷先
琴南キャベツの出荷先(琴南町誌574P)

琴南キャベツの当時の課題を、琴南町誌は次のように指摘します。
高冷地栽培として導入したキャベツのメリットは、平地部の産地が高温のため、病虫害その他により高品質のキャベツが生産できない七月に出荷して、高価に販売できることであった。ところが最近は、全国的に品種改良や病虫害予防の研究が進み、平地部においても、その生産が拡大した。そのため美合地区の栽培は、主として八・九月産のキャベツに切り替えた。しかし、連作の問題と、労働力配分の問題などによって、この時期だけの生産にしぼることができず、中熊などで行っているたばことキヤベツの組合せ栽培という方法がとられている。
ここには信州の嬬恋などの高原キャベツとの産地間競争が激化して、苦戦していることが記されています。こうして1980年代になると、病害発生や生産者の高齢化もあってキャベツ生産は廃れていきす。「農地も荒廃して、8ha程あった畑はすっかり草と木に覆われてしまった」と、関係者は回顧しています。そんな中で2016年、旧琴南町の会社などをリタイアされた数人が、この美しい島ヶ峰を次世代に残そうと一念発起し、手持ちの重機と力作業で少しずつ開墾して、約4ヘクタールの見事なそば畑に生まれ変わらせました。この風景を「次世代に残したい」という想いの中から誕生したのが「島ヶ峰そば」です。
島ヶ峰そば - Manno まんのう魅力発信ポータルサイト - まんのう町

天空のそば畑には、先人たちの歴史が刻まれていました。それを目で見える形で残してくれているのがアーカイブに保存された写真資料だと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町教育委員会 デジタルアーカイブ
琴南町誌1027P 573P
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   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

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大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺廃寺と丸亀平野
空海が中寺で修行したといえるのかどうかを「時代考証」するために、中寺の建物跡や特色を見ています。今回はAゾーンを見ていくことにします。最初に復元図を見ておきます。

「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔
中寺廃寺Aゾーン 仏ゾーンの復元図
ここからは、尾根の斜面を造成して仏堂跡と塔跡が出てきました。まず、塔の方から見ていきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺塔跡
復元された礎石跡です。4つの礎石が、正方形に並んでいます。4つの礎石なので三間 × 三間の正方形の建物だったことが分かります。そして、真ん中にも礎石があります。発掘当時の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺塔跡

真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。

中寺廃寺 心礎
中寺廃寺塔跡の心礎
この心礎の下から出てきたものがこれです。

中寺廃寺 心礎地鎮用2

中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
            中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器
中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。これは地鎮祭用に埋められたものと研究者は判断します。須恵器を詳しく調べると、10世紀前半に綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯で焼かれたことが分かりました。そうするとこの塔が作られたのも10世紀前半ということになります。この時期の十瓶山周辺には、阿野郡の郡司綾氏によって最先端技術を持つ須恵器工房が開かれ、讃岐全域のみならず畿内にも瀬戸内海交易を通じて搬出していたことは以前にお話ししました。
 須恵器の特徴しては、赤みが強いことです。このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの特別の仕上げが必要になると研究者は指摘します。普通の須恵器ではなく、国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。そうすると「国司 → 綾氏 → 十瓶山官営窯 → 国分寺 → 中寺廃寺」という発注・納品ラインが考えられます。ここにも国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたことが裏付けられます。

  次に仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺仏堂(本堂)跡
最初は掘立柱建物で建てられ、後に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。礎石を数えると縦が4つ、横が3つなので、3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)の建物が復元できます。。ここからは10~11世紀の遺物が出土しているので、さきほど見た塔と同じ時期に建てられたことが分かります。また、礎石のない掘立柱式のものは、それ以前の9世紀末からあったことになります。
仏堂の平面図を見ておきましょう。

中寺廃寺 A遺構仏塔2

Aゾーン 平面図
中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
仏堂は塔よりも少し上にありますが、両方とも真南を向います。また、両者共に10世紀前半には姿を見せました。つまり、ひとつの伽藍として作られたようです。この伽藍配置は讃岐国分寺と同じ大官大寺式だと研究者は指摘します。

中寺廃寺 大官大寺式伽藍
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
大官大寺式伽藍配置の寺(右下が讃岐国分寺)
規模は小さいながら伽藍配置の数式からも、大官大寺様式であることが分かるようです。ここからも中寺Aゾーンの伽藍創建については、讃岐国分寺の僧侶や国衙のコントロールが働いていたことがうかがえます。
 私が仏堂(本堂)について、最初に疑問に思ったのは小さすぎることです。
この大きさでは本尊を安置するだけのお堂と同じです。これでは、この中で仏教的な儀式・法会を行う事はできません。しかし、同規模の本堂を持つ山林寺院があるようです。

中寺廃寺と同じ規模の金堂

全国の類例を探すと山林寺院には、この規模の本堂があります。また屋島寺の創建時の本堂である千間堂も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、当時はこれが普通だったようです。Aゾーンの全体復元図を見ておきましょう。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの復元図
この復元図に書き込まれている情報を読み取ります。
①仏堂と本堂は、大官大寺式で10世紀後半に同時に建立されたこと
②地鎮用の壺や甕が国衙直営の工房で造られた特注品なので、国衙の保護を受けていたこと
③本堂が小さかったので、仏教的な儀式はその前の広場で行われていたこと
中寺廃寺への国衙の関与

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間で、菜園と表記されている所です。
発掘以前には、一番広いテラスで仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくることをは期待していたそうです。しかし、出てきたのは直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。調べると、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシ対策などの柵が必要だったことが分かります。中寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っているようです。

それではテーマに立ち返って、空海が中寺で山林修行を行ったと云えるのかどうかを「時代考証」しておきましょう。

中寺廃寺と空海

右の表が前回にも見た建物などの出現期を表にまとめたものです。
①中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末です。
②Bゾーンの広場から発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。
これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年です。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身はこの間に太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この前に中寺を訪れていたことは十分考えられます。
 Aゾーンに仏塔と本堂が姿を現すのが9世紀末です。これと菅原道真が国司とやって来た時期も重なります。道真の指示でAゾーンの塔や本堂などの山林寺院が着工したことも考えられます。この時代考証を背景に、小説を書くならこんな風になります。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説

一族の期待を背負って平城京の大学へ進学した空海であった。しかし、官吏養成のための四書五経や儒教などへの興味は薄れていく。そんな中で、空海の心を捉えたのが仏教であった。当時の仏教は、宗教だけでなく医学や哲学・科学も含めた壮大な世界をもっていた。また、暗記力増進のためにと進められてやってみた虚空蔵求聞持法の修行は強烈な体験であった。自分のこれからの生きる道を考えた空海は19歳にして、大学をやめて、山林修行の道を歩むことを決意する。そのためには故郷の父母や一族に、自分の決意を伝え、理解と支援を得る必要があった。そこで、善通寺に帰ってくる。

 父は母は驚きながらも、空海の決意を受入て支援を約束する。空海はその間も、幼年期に修行した我拝師山に籠もる。そんな中で、大川山に山林修行をおこなう修行者がいることを知る。空海は、善通寺の杣山(そまやま)木材供給地の尾背山から塩入を経て中寺に向かった。そこには大川寺に向かって割拝殿が建てられ、そこから大川山を霊山として修行に励む修験者たちがいた。空海も彼らと共に大川山をめぐる行道を行い、僧坊で寝泊まりした。修行生活の中でで、四国辺路の大龍寺や室戸・石鎚などの情報を手に入れた。そして、旅立ちの準備が整うと下僕たちと供に阿讃の峰峰を東にへと向かった。これが空海の四国辺路への旅立ちであった。
私は四国辺路に旅立つ前に、空海は善通寺に帰ってきたと思っています。それは一族への報告のためと、今後の方針決定のためでもあります。もう一つは経済的な理由です。古代の辺路修行は、何人もの下僕を連れての修行でした。食事の準備などは下僕の仕事でした。室戸の海蝕洞窟の御厨人窟(みくろ)の「みくろ」は、調理スタッフのことだと研究者は指摘します。ここからも、修行者が下僕をつれていたことがうかがえます。修行者は修行だけに集中していたのです。そういう意味では、有力な富裕層の子弟でないと古代の山林修行はできるものではなかったようです。辺路修行には多額の資金や、人的なスタッフをそろえる必要があったことになります。その準備は父親の佐伯直田公の手で準備されたと私は考えています。
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その後の中寺は、平安期は国衙の保護を受け、大川山信仰の中宮寺として存続したようです。しかし、源平合戦の混乱や国衙機能の低下によって、保護者を失った中寺は平安末には退転していきます。それでも霊山である大川山への信仰は途絶えることはなかったようです。中寺に替わってあらたな山林修行者(修験者・修験道者)が登場します。彼らは、ここに権現を祀り、権現信仰の山としてリニューアルしていきます。大川山を取り巻く情勢については次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

  中寺廃寺について、次のような三部構成でお話ししています。今回は、②についてです。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
忘れ去られていた中寺廃寺が再発見されるに至った経緯は、次の通りです。

中寺廃寺発見の経緯

大川山にお寺があったという話は、いろいろな形で伝えられていました。中でも髙松の殿様の国境視察調査のルートを決めるために書かれた絵図の写しが造田村の庄屋西村家に残っていました。

西村家文書 柞野絵図2
造田村柞野谷 西側の江畑道(旧郡境)に「中寺」とある
そこには中寺という地名が書き込まれています。これらを手がかりに、旧琴南町の文化財協会の人達が粘り強い調査活動を行い「再発見」につなげます。これを受けて町による本格的な発掘調査が行われ、古代に遡る山林寺院と評価されます。そして国の史跡に指定され、保存整備が進められてきました。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺跡の展望台から望む「阿讃山脈NO1の絶景」
 江畑口駐車場から2時間ほどで、高圧鉄塔を越え最後の階段を登ると展望台が迎えてくれます。パンフレットには中寺展望台と記されています。ここまでが90分ほどでしょうか。この説明板には「阿讃山脈NO1の展望」と書かれていますが、その通りです。素晴らしい眺望が楽しめます。左手(西北)に見えているのが満濃池です。

中寺廃寺からの展望
中寺廃寺展望台からの眺望
どこが見えているか分かります?
眼下に見えるのが満濃池、その向こうが象頭山。その左手(西)に瀬戸内海に伸びているのが庄内半島、そして紫雲出山です。本島や広島やなど塩飽の島々、そして備讃瀬戸を行き交う船も見えます。このロケーションが霊山にとっては大事なのです。逆から見ると、大川山は丸亀平野だけでなく、塩飽や庄内半島から見えていたということになります。これが聖なる山・霊山の条件です。山林修行者は、修行の折り目毎に山頂で大きな火を燃やしました。それが徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山などの山名として伝わっています。焼山寺の火は、紀伊からも見えたようです。この火が見える範囲がその霊山の信仰エリアとなります。

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺と丸亀平野や瀬戸内海

中寺廃寺 各ゾーン名称

 中寺廃寺の各ゾーンを確認しておきます。ここが展望台です。
①展望台の下がAゾーン
②展望台から北に伸びる尾根の先端がBゾーン  
③谷を挟んだ向こう側河原にCゾーンになります。
④Dゾーンは、この下になります。
大川山からみると以下のようなレイアウトになります。

中寺廃寺  全景
大川山から見た中寺廃寺
注意しておいて欲しいのは、中寺は大川山にあったのではないことです。大川山を見上げる山の頂上附近にあったことを押さえておきます。
なぜ大川山の頂上に作らなかったのでしょうか? それを石鎚山を例に考えて見ます。

石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ロープウェイを降りて成就社の拝殿に入ると、見えてくるのはこの景色です。正面に石鎚山がどーんとあります。思わず手を合わせます。ここからは石鎚山自体が祈りを捧げる信仰対象であったことが体感できます。京都に行ったときにタクシーの運転手さんから教えられたのは、こんなことでした。

「神社ができる前は、山を拝んでいたこと。霊山自体が信仰対象だったこと。それが神社ができると、神を祀った建物に拝むようになったこと。拝む対象が山から、神社の建物に替わってしまったです。けったいなことですわ。

学者の難しい説明よりも、分かりやすかったのでよく憶えています。

横峯山 星ヶ峯遙拝所からの石鎚山
横峯寺の星ヶ峯遙拝所から見る石鎚山
山林修験者が、ここで石鎚山への祈りを朝夕捧げていたことが納得できます。これと同じような空間が中寺にもあります。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山.2JPG

Bゾーンの尾根の上から見えるのは大川山です。大川山(標高1043m)は、丸亀平野から見える山の中では一番高い山です。そして里からはどこから見えます。その姿もポツンと先端が飛び出していてよくわかる山です。讃岐の霊山と呼ぶのにふさわしい山です。柳田國男の民俗学では仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきたとします。そうだとすると、中寺ができる前からは、ここは大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所であったことが考えられます。
ここを発掘調査したときの写真を見ておきましょう。


中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーン 割拝殿跡の発掘現場 正面は大川山

礎石が並んで出てきました。これではよく分からないので平面図に落としたものを見てみます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの遙拝所と僧坊

南に伸びた尾根の先端部のテラスに建物跡と広場、尾根の下に斜面を整地して僧坊跡がでてきました。割拝殿の方を見ておきましょう。礎石が横に6ヶ並んでいるので五間、縦に4ケなので三間の建物です。しかし、同規模の建物が2つ並んで建っているようにも見えます。よく分からない建物でした。そのため、最初に書かれた復元図はこれでした。

割拝殿 最初の復元図

五間×三間の仏堂として復元されました。しかし、礎石の配置から見ると真ん中に通路があるようです。その事例をさがしてみると、このような割拝殿とよばれるタイプの拝殿があります。

割拝殿とは・・

これが割拝殿だとすると本殿が北側にあり、その前に割拝殿であること、その真ん中が通路となって、その前に広場が配置されています。こうして見ると、「本殿ー割拝殿ー広場ー大川山」が一直線に結ばれる祈りの空間だったことになります。まさに遙拝所としてふさわしい空間です。山林修行者達は、朝夕に大川山への祈りを捧げ、大川山への行道を毎日、何度も行っていたことが考えられます。その中に空海もいたというストーリーになります。こうして、Bゾーンは、「祈りのエリア」と名付けられました。

もうひとつ、この割拝殿周辺が出てきたものがあります。

三鈷杵と柵状の破片
三鈷杵と錫杖の破片(中寺廃寺Bゾーン)
これは何だと思いますか? 素材は青銅製です。これを研究者は、密教法具の破片と判断します。①左は最初に見た空海が手にしていた三鈷杵です。右は錫杖です。

飛行三鈷杵との比較
飛行三鈷杵と中寺廃寺出土の三鈷杵

空海の絵伝には 唐からの帰国の際に明州(寧波)から三鈷法を投げる話があります(高野空海行状図画)。「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。それがこれです。これと中寺廃寺のものを比べて見ると、空海以前の古い様式のものであることが分かります。
中寺廃寺 三鈷杵破片3

ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、大川山との行場往復をしながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた山林修行者の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。壊れた仏具の破片を埋めるには、ふさわしい場所です。そんなことをイメージできる雰囲気が、ここにはあります。
割拝殿の下の僧坊を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
僧坊跡(中寺廃寺)
この柱が礎石のあった場所で、柱跡になります。ここからは2つの建物が並んであったことが分かります。礎石は縦が4つ、横が4つですから「三間 × 二間」の建物になります。ここから出てきたものを見ておきましょう。

僧坊 Bゾーン


②は、柱穴に埋められた地鎮用の陶器です。③は威信財で、普通の人々が持てるものではありません。有力な僧侶がここで修行していたことがうかがえます。④からは、ここが山林修行者の僧坊であったことが分かります。同時に、8世紀末の調理具が出てくると言うことは、僧坊がその時期には姿を見せていたこと、山林修行者の活動がこの時期まで遡れることを意味します。 研究者が注目するのは②の多口瓶です。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺 多口瓶

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶

多口瓶(屋島寺・法勲寺)
周辺の遺跡で出土した多口瓶
多口瓶は仏具で、一般人が使うものではなく僧侶が用いるものです。多口瓶が出てきたことで、この建物が僧坊であったことが裏付けられます。この瓶がどこで作られたかを探るために発掘担当者が播磨まで行って、播磨の窯で作られたものと確認しています。あまり類例品のない特注品であることも分かりました。これも普通の人間には手に入らない威信財なのです。つまり、この僧坊で修行を行っていたのは、財力や地位をもった山林修験者であったことになります。中世の山伏の姿をイメージしてはいけいなようです。見方を変えると、中寺は国衙や国分寺の保護・管理を受けたお寺と研究者は考えています。  

以上で、Bゾーンを振り返っておきます。

割拝殿 祈りの場
HPTIMAGE

① Bゾーンは、「本殿→割拝殿→広場」が一直線に配された大川山の遙拝所であった。
② 割拝殿や僧坊は8世紀末には姿を見せていて、中寺で最初に現れた宗教施設であった。
③ 空海が大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
④ 空海が中寺で修行を行った状況証拠にはなる。
⑤ Aゾーンに本堂や塔などの仏教施設が現れる百年前に、Bゾーンは姿を見せていた。

参考文献
中寺廃寺発掘調査報告書NO3 琴南町教育委員会
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まんのう町図書館郷土史講座でお話ししたことをアップしておきます。

中寺廃寺講演会ポスター

弘法大師行状絵詞 真魚伝説

本日の与えられたテーマには「若き空海も修行した(?)中寺廃寺のを探る」ですが、真ん中に(?)がついています。これについては、追々お話しすることにして、
今日は次のような三部構成で進めていこうと思います。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
まず、①若き日の空海がどんな山林修行したかを見ていくことにします。上の絵は弘法大師行状絵詞とよばれるもので、空海亡き後に300年ほど経って書かれた絵伝です。赤い服を着ているのが空海で、幼年期は真魚と呼ばれていました。巻物は右から左へ開かれていきます。時間変遷も右から左へと進んでいきます。
①右端が、蓮の花の円座を敷いた雲の上に乗った空海が仏たちと話しています。
②真ん中では「さあ仏ができたぞ」と、土で仏を作りています。
③左端は、出来上がった仏をお堂に安置して祈っています。
こうして空海は小さい頃から、仏と共にあったことが語られます。

弘法大師 行状四天王執蓋事
空海を守護する四天王(弘法大師行状絵詞)
ある日のことです。真魚(空海)がいつものように仙遊寺あたりに遊びに行こうとしています。仏を守護する天部の四天王が、ボデイーガードとして真魚を護っています。四天王の姿は人々には見えません。

四天王に護られた空海
四天王を従えた真魚に跪く役人
しかし、都からやってきた偉い役人には、その姿が見えます。役人は驚いて馬を下り、地面にひれ伏します。その前を真魚は通り過ぎて行きます。絵伝は、空海の幼年期のことをカリスマ化ししていきます。このような話が、後の空海伝説につながって行きます。そんな中で、善通寺でだけで語られるシーンが出てきます。それを見ていくことにします。

空海の捨身行 我拝師山
我拝師山からの真魚の捨身行
 この絵の舞台は、善通寺五岳の我拝師山です。岩場から真っ逆さまに墜ちているのが真魚です。実は落ちているのではありません。説明文には次のように記されています。

弘法大師は、五岳の我拝師山の崖に立ち、次のように誓願した。吾に生きる意味があるならば、仏よ助け賜えと」と念じて、空中に身を踊らせた。すると釈迦(天女)が現れて真魚を救った。

ここでは釈迦の替わりに天女が現れていますが、もともとは釈迦でした。この言い伝えから、ここは釈迦が現れた所ということで出釈迦と呼ばれ、空海が初めて行を行った場所とされました。後には高野聖でもあった西行も、「空海の行場」に憧れ、ここにやってきて修行したことは以前にお話ししました。つまり、中世は我拝師山は空海修行の地として、山岳修験者に人気があった行場であり霊山だったことを押さえておきます。また、命をかけての最終行を「捨身」行とも云います。 この絵以来、空海は五岳で捨身行の修行をしたと語り継がれてきました。それが現在にもつながっています。現在の出釈迦寺の奥の院の鐘楼を見ておきましょう。

出釈迦寺奥の院と釈迦像

 鐘楼の横に近年姿を見せたのが金色に輝く釈迦像です。これは、先ほどの出釈迦のエピソードを受けてのことでしょう。さらに深読みすると、ここは幼年の空海の修行地であるというアピールしているようにも思えます。もうひとつ、出釈迦が今に語り伝えられているものを見ておきましょう。

ふたつの空海像

空海像です。左が高野山、右が善通寺に伝わるものです。どちらも椅子に座り右手に三鈷杵(さんこしょ)を持っています。これは、仏敵を追い払うと共に、自分の弱い心を打ち砕くとされる神聖な仏具です。後でもういちど出てきます。弘法大師の姿は、ほぼ同じです。違うのは、後ろに釈迦が雲に乗って現れています。これは先ほど見た出釈迦のエピソードに由来するものでしょう。善通寺のセールスポイントは「空海誕生の地」でした。同時に、我拝師山で空海がはじめて修行を行ったことをアピールしているものとも思えます。ここでは中世には、幼い空海が我拝師山で修行したと考えられていたことを押さえておきます。
 最初のテーマにもどりますが、中寺と空海をむすぶものは、山林修行です。
それが我拝師山までは辿れるということです。これを中寺でも行ったとすればいいわけです。次に、空海が若き日に行った山林修行とはどんなものだったのかを次に見ていくことにします。その前に、山林修行者と、修験道・修験者の違いを押さえておきます。

山林修行者から修験道へ

空海以前から山野に入って山林修行していた人達はいました。その目的は超能力を身につけるためと、鉄・銅・水銀などの鉱山資源開発のための山師(最先端テクノ技術)や、医学者としての薬草採集などの実利的な面もありました。彼らは渡来系の人達で当時の先端技術や知識を持っていた人達です。空海によって密教がもたらされると、その影響を受けて組織化が進みます。そして、12世紀になると始祖を役行者、守護神を蔵王権現・不動明王として、ひとつの部門を仏教教団の中で構成するようになります。これが修験道です。義経に仕えた弁慶も僧兵であると同時に修験者でした。讃岐に流された崇徳上皇も都に帰れぬ恨みを、「天狗になってこの恨みはらんさん」といい天狗になります。天狗になるために修行する修験者も出てきます。これを天狗道(信仰)と呼びます。そのメッカが白峰寺や象頭山でした。そこには天狗になるために修行するひとたちが沢山いたことは以前にお話ししました。
 整理しておくと、12世紀より以前に修験道もなく修験者もいなかった、いたのは雑多な山林修験者でした。そこで、中世以後を修験者、修験道、それ以前を山林修行者と分けていつこと。空海は古代の山林修行者のひとりになります。
それでは山林修行者は、どんなところで修行したのでしょうか。

山林修行者が選んだ行場とは


彼らが行場として選んだのは「異界への入口」でした。天界への入口として相応しいのは、石鎚などの切り立った山です。そこには多くの行場があり、山林修行者が集まりました。一方、地界(地下)への入口とされたのが、火口や洞窟・滝や断崖でした。洞窟は、地界に続く入口とされましたがそれだけではありません。修行者にとって雨風を凌ぐ、生活の場が必要です。お堂や寺院が出来るまでは、洞窟が生活の場でした。

空海の伝記には、空海の山林修行について次のように記されています。

空海の山林修行

以上を要約すると次のようになります。
A 山林修行の僧中に飛び込んで行動した。(先行する集団がいたこと)
B 具体的な修行内容は、②岩ごもり ③行道 ④座禅だった。
C 短期間でなく⑤何年も行った
 空海が行った修行2

 空海の行った修行を具体的に押さえておきます。
   ①まず岩籠(いわこ)もりごもりです。洞窟は、魑魅魍魎の現れる異界の入口と考えられていました。そこに一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。それだけで一般の人達から「異人」と思われたかもしれません。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。これが「木食」です。洞窟は、生活空間で、修行者が多くなると庵や寺院(奥の院)に成長して行きます。
 ②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。
どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは当時の僧侶が朝廷や貴族から求められたのは高尚な仏の教えだけでなく、旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことでした。そのためには修行を積んだ「験」が高い僧侶が求められます。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントやアイテムが必要で、それが修行だったということでしょうか。そのために東大寺や地方の国分寺の高級国家公務員である僧侶も机に向かうだけでなく、空海のような山林修行を行うことがもとめられるようになります。そうしないと護摩祈祷しても所願成就とはなりません。僧侶としての栄達の道も歩めません。

空海は、どんな修行をおこなったとされているのでしょうか?
絵伝に出てくる修行シーンを見ていくことにします。

阿波太龍寺 宝剣飛来
阿波の大滝山で虚空蔵求聞持法を唱える空海と飛来する宝剣(弘法大師行状絵詞)
阿波大滝山での空海の修行の成就シーンです。空海が座っている所は、よく見ると崖の上の洞窟です。これが大瀧山の不動霊窟のようです。行場として相応しいところです。空海の前には黒い机が置かれています。その上には真ん中の香炉、左右に六器が置かれています。虚空蔵求聞持法というのは、百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。すると、 雲海が切れて天空が明るなります。そして雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。これが修行によるパワーポイントやアイテムの獲得です。しかし、これで修行が終わったわけではありません。成就すると次の行場に向かいます。絵巻は室戸へとつながっていきます。

室戸 明星 空海
室戸で明星が口に飛び込む
太龍寺からの続く雲海が切れると、岬の絶壁を背にして空海が瞑想しています。前は大海原で逆巻く波濤を押し寄せています。すると、輝く明星が室戸の海に降り注ぎます。その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を体験し、身を以て体感し悟りに近づいていきます。これが山林修行です。
  
金剛頂寺 空海
金剛頂寺で禅定する空海と、そこに現れる魔物たち。
この舞台は金剛頂寺です。壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいます。本堂に空海は座って、修行に励んでいます。上の説明文を読んでおきましょう。
「汝ら

金剛頂寺 生木仏像
魔物退散のために生木に仏を彫る空海
木に仏を彫るというのは、魔除けのために空海が行ったことです。このため後の修験者たちも生木に仏を刻むことを行います。生木地蔵などがあれば、そこが修験者や高野聖の拠点であったことが推測できます。また、この魔類や妖怪たちは、柳田國男の民俗学で仏法以前の「地主神」とされます。このように、もともといた神々を追い払ったり、従えながら仏法が定着する姿を語ったというのです。
ここで注目しておきたいのは、室戸岬で生活していたとは書いていないことです。生活していたのは金剛頂寺で、行場が室戸岬で、そこを往復=行道していたと記します。これを整理して起きます。

金剛頂寺と室戸の行道

位置関係を地図で見ておきます。①こちらが金剛頂寺 こちらが室戸岬。20㎞余り離れています。研究者は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマだったようです。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺(ほつみさきじ)となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。ここでは、禅定や巌籠もりだけでなく、行道もおこなっていたことを押さえておきます。
 以上から、どうして山林寺院がこの時代に姿を見せるようになったかをまとめておきます。

山岳寺院誕生の背景

このようなことを背景に、中寺は国衙によって建立されることになります。ここまでが第1部です。

辺路修行から四国遍路へ

  蛇足になりますが、四国遍路の形成について現在の研究者は次のように考えています。
①小辺路は我拝師山や室戸岬のように1ヶ所での修行
②中辺路は、観音寺から七宝山を越えて我拝師山までとか、丸亀平野の七ケ所詣り・髙松平野の七観音巡礼のように、いくつかの小辺路を結んだもの
③さらに中辺路のブロックをいくつか重ねたものが大辺路
こうして、中世のプロの修験者たちは四国の行場で辺路修行を重ねていました。それが近世になるとアマチュアが、これに参入するようになります。彼らは素人の修験者なので、行場での長期の修行はしません。お札だけを奉納する巡礼に替わります。つまり、修行なしの遍路になります。そうすると、行場のある奥の院を訪れる参拝者は少なくなり、お寺は行場のあった奥の院から里に下りてきてきます。そして里の札所をめぐるスタンプラリーとなります。ここでは中世の辺路修行(=行場めぐり)が、四国遍路のベースにあったことされていることを押さえておきます。 今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2018年6月に、三豊市の真鍋家の「文化四丁卯二月箱浦御番所」と書かれた箱のなから16点の古文書が見つかりました。その中に戦国期の古文書が二通ありました。真鍋氏は秋山氏と共に甲斐から臣従してきた伝承があります。ただ戦国期の真鍋氏については、いつどのような経緯で香川氏の臣下になったのかは分かっていません。 生駒家分限帳には「真鍋某」の名があります。戦国末期の戦乱の中で、主君をうしなった国人の中には、三野氏のように生駒氏に仕えた者が何人かいます。この真鍋氏も同じようにで生駒氏に仕え、生駒氏転封の後には丸亀藩主に仕え庄内半島の「箱浦御番所」の役人として地域に根付いていたようです。それは、明治初期の戸籍簿からも裏付けられようです。
 真鍋家の戦国時代の文書2通は、天霧城主香川氏が河田氏に宛てたものです。
これと同じようなタイプのものが秋山家文書の中にも残されています。今回はこの二つを比較検証することで、当時の香川氏をとりまく情勢を見ていきます。テキストは、  「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。
真鍋家の2通の新出文書は次の通りです。
A 永禄六年九月十三日の香川之景・五郎次郎連署状(折紙)
B 年末詳正月十一日の香川之景書状(折紙)

真鍋家文書 香川之景・五郎次郎連署状(折紙)
真鍋家文書A   永禄六年九月十三日の香川之景・五郎次郎連署状(折紙) 二人の花押が並ぶ
    同名与五郎無別儀
        相届候ハゝ彼本知之
        内真鍋三郎五郎かたヘ
        惜却之田地令扶持
        候此旨於相意得可申候
        恐々謹言
永禄六(年)九月十三日     五郎次郎 (花押)
                                   (香川)之景 (花押)
河田猪右衛門尉とのヘ
ここからは次のようなことが分かります。
⓵香川五郎次郎と之景の連名で出されていること
⓶あて先は河田猪右衛門尉で、河田氏が三野氏と同様に、香川氏の重臣的存在であったこと
③内容は川田氏と与五郎の届け出ている本知行地の内、真鍋三郎五郎へ売却した田地を扶持することを川田氏に命じています。
④「同名与五郎」という宛名の河田と同姓を指しているのかどうか、よくわからない人物。
⑤三野平野に秋山氏や河田氏・真鍋氏の知行地が散在していたこと

真鍋家文書 B 香川之景書状(折紙)
真鍋家文書B 年末詳正月十一日の香川之景書状(折紙)
同名与五郎舎弟
跡目被申付可被作
奉書候忠節之儀
候之条四人真鍋之内
両人之分可扶持候
但河人三郎兵衛尉二令
扶持之内総六郎
依無案内申付候哉
自然於其筋目者
可加異見候柳
不可有別儀候何も
長総折紙候者
令披見可分別候
只今目録以下
無之条先如此候
何も河人二堅令
異見不可有相違候
此旨可申聞候也
謹言
正月十一日              香川 之景(花押)
河田猪右衛門尉殿
  意訳変換しておくと
同名(河田?)与五郎の舎弟に跡目を申しつける奉書を与える。ついては忠節を励むように。
四人の真鍋家の内、両人分を扶持することと
但し河人三郎兵衛尉の扶持については、総六郎に案内なく申し付ける。
これについて異議が出された場合には、長総の折紙を参考にして判断するように
以上について目録に記したようにすべきで、河人に意見して相違無いように申し聞かすこと
以上のような内容の執行を、香川之景が河田伝右衛門尉に命じています。

ここには、真鍋氏や河田氏・河人氏などさまざまな人物が登場してきますが、その立場がどんなものだったのかはよく分かりません。そのため内容もよく分かりません。ぼやっとわかるのは、与五郎の知行地と跡目をめぐる争いが起きたこと、その紛争に香川氏が介入して、このような処置を出したことは分かります。よって、登場人物は香川氏配下の国人衆と研究者は考えています。
  ふたつの文書に共通して登場するのは、同名与五郎・真鍋某・真鍋三郎五郎です。Bの真鍋某は三郎五郎と研究者は推測します。宛名の河田猪右衛門尉は、天霧城代の河田伝右衛門尉の一族でしょう。香川氏の発給文書には、このような役目を担う者としてに河田姓がよく登場します。  発行時期については文書Aは永禄六(1563)年9月で、香川氏が天霧城籠城から退去した後で、香川之景の単独発給です。
  
比較のために秋山文書の永禄四年の文書を見ておきましょう。これは香川之景が秋山良泰に賞として、所領の給付を行ったものです。

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

    意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言
永禄四(1561年)正月十二日             (香川)之景(花押)
秋山兵庫助(良泰)殿
御陣所
秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋三郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。最初に見た真鍋家文書Aにも出てきました。この他にも真鍋氏は、土地を購入していたことが分かる史料があります。香川五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎知行宛の書状にも次のように出てきます

(前略)
於国吉扶持分事
一 三野郡打上之内国ケ分是者五郎分也
一 同郡高瀬之郷帰来分内 真鍋三郎五郎 売徳七反小有坪かくれなく候也
一 同郡高瀬之郷内武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳有坪かくれなく候
右所々帰来(秋山)善五郎二令扶持候、全可知行者也
永禄六(年)六月一日
河田伝右衛門尉殿

帰来善五郎は、香川氏の家臣である秋山氏の一族で、高瀬郷帰来を拠点としたことからから帰来秋山と称するようになったことは以前にお話ししました。帰来分内の土地は真鍋三郎五郎に売却されていましたが、それが全て秋山善五郎へ宛行われています。これらは真鍋氏が「買徳」によって手にいれたものです。
これらの史料には、真鍋三郎五郎が高瀬郷内で多くの買徳地を持っていたことが分かります。この背景には、高瀬郷はもともとは秋山氏の本貫地でしたが、分割相続で秋山氏本家が衰退、一族の分裂によって所領を手放していき、それを真鍋氏が買徳したと研究者は考えています。真鍋氏も秋山氏と同じ様に高瀬郷内に居住していた国人なのでしょう。 しかし、真鍋氏からすれば「買得」によって手に入れた土地を、他人に宛がわれたことになります。その背後に何があったのかは分かりません。
 真鍋は高瀬郷内で多くの田地を買徳していたことは、先ほど見た通りです。真鍋氏が土地を集積するだけの経済力を、どのようにして持っていたのかはよく分かりません。三野湾の製塩・廻船業などが思い浮かびますが、それを裏付ける史料はありません。

 次に二通の文書の宛名の河田猪右衛門尉を見ておきましょう。
彼は河田伝右衛門尉の一族のようです。猪右衛門尉が香川家でどんな役割を果たしていたかは分かりません。しかし、之景の知行宛行は伝右衛門尉を通じて行われています。ここからは彼は所領に関する役職に就いていたことがうかがえます。
 猪右衛門尉の名が出てくる史料が一点あります。それは秋山藤五郎宛の五郎次郎発給文書です。「委猪右衛門可申渡」と、猪右衛門を用いての通達です。五郎次郎の唯一の単独発給文書であることに研究者は注目します。このような形で、猪右衛門を用いることは、五郎次郎(信景)の直属家臣となっていることだと研究者は指摘します。これも天霧籠城を契機に、領主関係が強化された結果かもしれません。最終的には、猪右衛門は五郎次郎付きの家臣となっています。「香川氏は讃岐で唯一、戦後大名化の道を歩んでいた」とされますが、その兆候がこの辺り見えます。
天霧城を退城した後、之景・五郎次郎両名とも毛利領国内へ退去します。天正五年に元吉合戦に合わせて香川氏は讃岐に帰ってきます。そして信景が登場します。これは五郎次郎が家督を相続して信景と名乗ったものと研究者は判断します。
  
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」」
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前回は、天霧城攻防戦後から長宗我部元親の讃岐侵攻にいたる時期の香川氏の動静について次のように整理しました。
香川氏の安芸亡命

①天霧城攻防戦で敗れた香川氏は、毛利氏の下へ亡命したこと、
②その後12年ぶりに毛利氏の支援で、多度津帰還が実現したこと
③翌年に讃岐に侵攻してきた長宗我部元親と「反三好」で一致し、同盟関係を結んだこと。
④香川氏は長宗我部元親の同盟軍として、東讃制圧に参軍したこと

この中で①の「香川氏=安芸毛利氏への亡命」説について、もう少し詳しく知りたいというリクエストがあったので、今回はその辺りに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。

 最初に香川之景と信景は別の人物であることを押さえておきます。
之景については、従来は信景と同一人物とされてきました。それは南海通記に、次のように記されているためです。

「天正四年二識州香川兵部大輔元(之)景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元(之)景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

意訳変換しておくと

天正四(1576)年に、識州香川兵部大輔元(之)景は、香西伊賀守佳清を使者として、信長の幕下に加わりたいことを願いでた。そこで信長は、香川元(之)景に自分の一字を与えて、信景と称するようになった」

南海通記の「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされてきたことを押さえておきます。

香川氏花押
香川之景の花押の変化

しかし、之景と信景の花押を確認した研究者は、素人目に見ても大きく違っているとし、「花押を見る限りでは、「之景と信景は別の人物」と判断します。続柄からすると、之景と五郎次郎は父子で、「五郎次郎=信景」で、亡命から帰還後に五郎次郎が使ったのが「信景」と研究者は考えています。

次に高瀬町史の年表編(22P)で、天霧城攻防戦の前後の香川氏の動静の概略を押さえておきます。

1558年の天霧城攻防戦前後年表 高瀬町史
高瀬町史年表編22P

①1558年10月に三好軍が天霧城を包囲して、その後の和議成立後に陣を置いていた善通寺が燃え落ちたことが記されています。南海通記は、この時に香川氏は三好氏の軍門に降り、以後は従属下に入ったとします。
②注意しておきたいのは、この時に村上水軍が三好実休側について天霧城攻防戦に参加していることです。
③1560年10月になると、帰順したとされる香川氏と三好氏の戦闘が再開されます。これに対して香川之景は、配下の秋山氏などに知行地配分を行い、裏切り防止・結束強化を図っています。


天霧城攻防戦前後の香川氏 高瀬町史23P
                 高瀬町史年表編23P

④1563年8月 これに対して、三好氏は再度天霧城を攻めます。籠城戦の末に、香川之景とその子・五郎治郎が天霧城を退場します。しかし、その後も論功行賞として知行地を宛がっているのでいるので、三野郡の支配権は保持していたことがうかがえます。それは、12月に、喜来秋山氏が、財田方面から侵入してくる阿波の大西衆と戦っていることからも裏付けられます。
⑤ 1564年2月になると 秋山藤五郎が豊島に脱出しています。これがその後の備中脱出の先遣隊の役割を果たしたのかもしれません。
⑥同年3月には、三好氏の実権を握った篠原長房が豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制をだしています。これは、豊田郡が篠原長房の直接支配下に入ったことを意味します。以後も1565年までは、香川之景の発給文書があるので三野郡で抵抗活動を行っていたことが分かります。しかし、それも8月以後は途絶えます。そして以後12年間の発給文書の空白期間が訪れます。この間が謎の期間になります。

次に、この時期の香川氏の発給文書から、香川氏の動静を見ておきましょう。

香川氏発給文書2
香川之景の単独発給のものについて、研究者は次のように指摘します。
⓵永禄元(1558)年から6年6月までは、香川之景の単独発給であること。
⓶永禄6(1563)年8月から7年5月までは、之景と五郎次郎の連署で発給されていること。
③1563年の天霧城籠城戦以前の之景発給文書は、内容が知行宛行・知行安堵に限定されていること.
④これは、家臣への宛行状で、迫る合戦に対して家臣の団結力を高めるために発行された
⑤例外は永禄8年6月28日付の之景単独発給がある。
  一例として、永禄4(1561)年の戦いでの恩賞として、秋山良泰に所領の給付を行っているものを見ておきましょう。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2


意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言
永禄四(1561年)正月十二日             (香川)之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
これは香川之景の単独発給文書です。末尾の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋二郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。この時期の真鍋氏は、秋山氏から多くの土地を買い取り、急速に成長して行ったことが、その他の史料から分かります。
 この時期に香川之景が秋山氏・帰来秋山氏などに、知行宛を行ったのは三好勢の侵攻に対して、寝返りを防ぐためと身内の陣営を固めるためと研究者は考えています。天霧城周辺で度重なる小競り合いが続きますが、そのたびに之景は感状や知行宛行状を発給して家臣の統制に努める姿が見えてきます。

天霧城攻防図
天霧城攻防戦(想像図)

次に之景・五郎次郎の連署状についてみておきます。
 五郎次郎が史料に登場するのは、永禄6(1563)年のことです。之景と連署したものが6通あります。これらの内容を検討すると
⓵すべて天霧城籠城に関する内容のものであること。
⓶天霧城籠城戦前後から、初めて五郎次郎の名前が登場すること。
そのなかのひとつを見ておきましょう。
今度者無事二御退大慶此事候、然者人数阿また討死之由、忠節之至無比類候、将亦退城之側同心可申処、不相構俄之事候間不及了簡候ツ、我々無等閑様体具三菊可申候条、中々書状不申候、
恐々謹言
八月七日             五次(五郎次郎) (花押)
        (香川) 之景    (花押)
意訳変換しておくと
今度の(天霧山城攻防戦で)無事に脱出できたことは大慶であった。ただ、数多くの討死者を出してている。これは比類ない忠節であった。退城の働きに対して、論功行賞をすべき所であるが、現状ではそれも適わぬことで、簡略な書状だけに留める。中々書状不申候、
恐々謹言
八月七日              五次(五郎次郎) (花押)
(香川之景) (花押)
この書状からは次のような事が分かります。
①天霧城からの無事に脱出できたことを喜んでいる。→ 天霧城陥落が裏付けられる。
②「人数阿また(数多)討死」とあって、激戦であったことがうかがえる。
③天霧籠城・退城には三野・秋山氏など多くの家臣が従ったこと

ここに初めて出てくる五郎次郎の名称は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。将来の之景の後継者の意味を持つと研究者は考えています。つまり、籠城を契機に五郎次郎が香川氏の後継者として登場したことになります。三好氏は永禄5年段階で、二人を父子と認識しています。之景の家督は五郎次郎に継がれていったのです。ここでは天霧城落城を契機に、香川氏が之景から五郎次郎へと後継者継承に向けて動き出ていたことを押さえておきます。
之景と、その子である五郎次郎が連署している背景を考えておきましょう。
 天霧籠城戦は香川氏にとっては滅亡の危機でした。そのために、父子のどちらかが亡くなっても存続していける体制を作りだしていくために、五郎二郎の連名で家臣へ対処していったと研究者は推測します。しかし、知行地の権限は、従来通り領主である之景が握っています。例えば永禄8(1565)年6月に秋山藤五郎へ父兵庫助の所領分を安堵し新恩地を宛行っています。

3 天霧山4
天霧城

天霧城籠城戦に破れて、香川氏はすぐに多度津を去ったのでしょうか?
「永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。(意訳変換文)
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労した功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返却する。併せて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
 永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
       (香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
 進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①冒頭に「天霧籠城之砌」とあり、8月10日以前に天霧城で籠城戦があったこと
②香川五郎次郎から重臣の三野菅左衛門にあてた書状で、以下のことを命じていること
③天霧城籠城戦で論功のあった河田七郎左衛門尉に新恩として本知行地と、杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
ここからは香川氏が天霧城退城後も、知行地の割当を行っていることが分かります。この時点では、三野郡に関しては支配実態を伴っていて、統治権を失っていなかったようです。
 これを裏付けるのが、五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎宛の次の書状です。
尚々、今度之御辛労不及是非候、臆而/ヽ御越有へく候、万面以可申候外不申候、今度之儀無是非次第候、無事其島へ御退、我々茂無難退候事、本日出候、然者御左右不聞候而、千万無心元存もたへ申処孫太夫折紙二申越一段悦入、候雅而/ヽ此方へ可有御越候、万以面可令申候、将又国之儀存分可成行子細多候間可御心安候、両方へも切々働申付候、定而可有其聞候、委猪右衛門可申渡候間不能巨細候、
恐々謹言
二月三日              五郎次郎御判
秋山藤五郎殿
まいる
意訳変換しておくと
   今度の(天霧城落城の)辛労はあまりに大きく、言葉に表し尽くせない。しかし、(秋山氏が)無事に「其島(笠岡神島?)へ退出することができたと聞いて安心している。我々も無事に脱出した。分散した家臣団の再組織を計り、詳細な情報を集め、適切な対応をとっているので安心するように。再起への道を探すためにすでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始している。委細については猪右衛門から口頭で伝える。渡候間不能巨細候、
恐々謹言
二月三日              五郎次郎御判
秋山藤五郎殿
ここからは次のようなことが分かります。
①2月3日に、香川五郎次郎が家臣の秋山藤五郎に宛てた書状であること
②「無事其島へ御退」とあり、秋山氏が天霧城から其島まで落ち延びたこと報告されている
③一方、香川氏は三野郡にとどまり、分散した家臣の再組織を計りながら、豊田郡方面への軍事行動を開始していること
④亡命した家臣団の連絡係として(河田)猪右衛門が行動していること
以上から、香川氏は天霧城退出後も三豊周辺に留まり、ゲリラ的な抵抗運動を行っていたことがうかがえます。
それを裏付けるかのように香川之景は、天霧城退場後も以下の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年6月の秋山藤五郎宛の香川之景の発給文書
③永禄8(1565)年8月には、秋山藤五郎に対して、知行地の安堵、新恩地の給与文書
発給文書が見えなくなるのは、これ以後です。これまでは、文書が発給できる状態であったと考えられるので、香川氏の讃岐脱出は1565年8月以後のことであると研究者は推測します。

これに対して阿波三好側の篠原長房の動きを年表から見ておきましょう。

三好長慶年表3

讃岐・備中方面での活動を追加してみると・・・。
1564(永禄7)年3月  豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制を下す
1567年 6月  鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
    6月  備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569年 6月  鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571年 1月  鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
    5月  備前児島に乱入する.
 寺社に禁制を出すというのは、そのエリアの支配権を握ったということを意味します。ここからは、64年3月には、篠原長房は地蔵院萩原寺のある豊田郡南部を支配エリアに組み込んだこと、そして3年後には、宇多津も直接支配下に置いて、備讃瀬戸対岸の備中に侵攻し、毛利氏と戦っていることが分かります。こうして見ると1564~65年にかけて三野郡も豊田郡も篠原長房の支配下に入ったことがうかがえます。これは、香川氏の発給文書がなくなるのと同時期になります。つまり、この時期に香川氏は三豊から脱出・亡命したと研究者は考えています。
 また上の年表からは、篠原長房が讃岐・備中・畿内の戦場を駆け巡り、獅子奮迅の働きをしていることが分かります。ここでは篠原長房が制圧した西讃を足場にして、備讃瀬戸を渡って備中に侵攻し、毛利勢と戦っていることを押さえておきます。
天霧城を去ったあとの香川氏の痕跡を史料で見ておきましょう。
1567年9月、西讃を制圧した後に篠原長房は阿讃勢を率いて備前児島に侵攻し、毛利氏と戦います。その際に細川藤賢が備中浅口郡の細川通童に亡命中の香川氏への伝達を依頼しています。ここからは香川之景が、この時期に細川通董と密接な関係を持って、備中で活動していたことがうかがえます。
 実はその4年前の1563年6年6月には、香川氏家臣の帰来秋山氏が「神島」に赴いています。香川氏は、何らかの権益を神島に持っていた可能性があります。それが分かる史料を見ておきましょう。
香川之景が秋山家の分家・帰来善五郎へ神島行の論功に対して、知行地を給付しているものです。
今度帰来善五郎至神島相届候、別而令辛労候之条、帰来小三郎跡職悉為新給令扶持候、井於国吉扶持之所々目録二相加袖判候、全可知行者也、弥相届忠節奉公肝要之旨堅可申付候、恐々謹言
永禄六(年)六月一日            (香川)之景(花押)
河田伝有衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の帰来善五郎の神島(備中笠岡)への遠征について、その労に報いるために、帰来小三郎跡職と国吉の扶持を目録通りに、新たに知行地として与える。よって今まで通り忠節奉公に励むように(帰来善五郎)申付けること、恐々謹言
永禄六(1563年)六月一日            之景(花押)
河田伝有衛門尉殿
 ここに出てくる神島は、西讃の対岸にある備中小田郡の神島のことでしょう。

笠岡 神島 青佐山城
笠岡の神島と青佐山城
神島は、かつては笠岡湾の入口にあった島で、神島神社が鎮座し、古くから備讃瀬戸交易の拠点だった所です。対岸の庄内半島や三野湾とも活発な交易を行っていたことがうかがえます。また神島は、細川通董の居城青佐山城に隣接しています。ここからも、香川氏と細川通董は親密な関係にあったことが裏付けられます。この時期から香川之景は島伝いに備中へ渡り、細川通董の側で活動していたと研究者は推測します。

青佐山城 笠岡
 
香川氏が多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことは以前にお話ししました。それが、香川氏を戦国大名に成長させていく経済基盤になりました。例えば、「兵庫北関入船納帳」からは、多度津周辺の浦々の活発な交易活動がうかがえます。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾

 ここで注目したいのは、上表の右端の多度津の問丸です。
通行税無料の過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐、国料船の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたことが分かります。このように戦国時代の多度津は、備讃瀬戸における讃岐側の重要な通称拠点港で、瀬戸内海の各港とつながっていました。特に対岸の備中神島とは、問丸などの関連を通じて、香川氏は何らかの利権を持っていたことが考えられます。そのため三豊脱出後に選んだのが、通称交易を通じて馴染みの深かった笠岡の神島かもしれません。これを裏付ける史料は今のところありません。あくまで仮説です。

神島神社 【笠岡市神島外浦】 | 山陰百貨店―日常を観光する―
神島神社
 天正2年(1574年)段階で織田信長の庇護下にあった細川京兆家の当主・細川信良と、毛利氏の小早川隆景の交渉に香川氏が関わっていた史料があります。これも香川之景が備中にいたこと、小早川隆景の下で活動していたことがを裏付けるものになります。一方で、細川信良は聖通寺城主の奈良氏に対して、三好氏を裏切り、香川氏と協力するように命じる文書も出しています。この時期に、讃岐から備中に、阿讃の兵を引き連れて侵攻していたのは篠原長房でした。篠原長房は天霧城を落城させた憎き相手でもありました。
香川県史の年表には、1571年のこととして次のような記事が載せられています。
6月12日
足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)
8月1日
足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.
9月17日
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)」
ここからは、香川某氏が足利義昭に働きかけて、小早川隆景や毛利氏の支援を受ける外交交渉を行っていたことが見えて来ます。 
このような香川氏の多度津「帰還運動」が実現するのが1577(天正5)年の元吉合戦です。

1 櫛梨城2

元吉合戦の経過

この戦いについては以前にお話したので詳細は省略しますが、この時に香川氏も毛利氏の支援を受けて多度津に帰ってきたようです。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

毛利氏にとって、この戦いの意味は次の3点です。
A 石山本願寺戦争に対して、戦略物資輸送路として備讃瀬戸の南側の脅威をとりのぞく。
B 信長包囲網の一環として、信長の同盟軍である阿波三好氏を討つ。
C その後の西讃経営のために、香川氏を天霧城に帰し、毛利氏の拠点とする。
つまり、反三好・反信長の拠点として香川氏を「育成」していこうとする戦略だったと研究者は考えています。そのため毛利方は、元吉合戦に勝利したにもかかわらず、年末には兵を引いて西讃から撤退していきます。毛利氏に西讃を任されたのが香川氏ということになります。こうして、12年ぶりに天霧城に復帰した香川氏の動きが活発化します。香川氏の発給文書が再び発給され始めるのも、この年からです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」
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    南海治乱記と南海通記   
 讃岐の戦国時代のことは『南海通記』の記述をもとに書かれている市町村史が多いことは今までにもお話ししました。そのため長宗我部元親の讃岐侵攻に際して、西讃守護代である香川氏が救援軍を送らないことに対して、戦前には「郷土防衛戦に際しての裏切り者」というようなレッテルが貼られていた時期もあったようです。今回は「南海通記」が香川信景が戦わずして長宗我部元親に降伏し、その軍門に降ったとすることを、そのまま鵜呑みにしていいのかを検討していきたいと思います。テキストは「橋詰茂 天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉」です。

長宗我部元親の侵攻当時に、香川氏は三好氏に従属していたとされてきました。それは「南海通記」の
天霧城攻防戦の次のような記述を拠り所としていました。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。

ここには、1558年に三好実休が讃岐の惣国衆を引き連れて、天霧城を取り囲み籠城戦の末に香川氏を下し、配下に置いたと記されています。秋山文書の分析などから、次のようなことが分かってきました。
香川氏亡命

①1558年に三好実休は畿内に転戦中で、三好勢力が讃岐に侵攻する余裕はなかった。
②天霧城を包囲したのは、三好氏の重臣篠原長房で、年代は1563年のことであった。
③香川氏は三好氏の軍門に降ったのではなく、天霧城を追われた後も抵抗を続け、最終的には安芸毛利を頼って落ちのびていった。
④香川氏は、将軍足利義昭の支持を取り付け、毛利傘下で、讃岐への帰讃運動を展開した。
⑤それが実現するのが1577年の元吉合戦の際のことであった。
⑥香川氏は、毛利家の支援を受けて反三好勢力として讃岐に帰ってきた。

「香川氏=安芸毛利亡命説」を裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2 6月12日
足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)
8・1 
足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請。なお、三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
9・17 
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川某の帰国支援に動いていたことが分かります。これが事実とすると長宗我部元親の讃岐侵攻時には、香川氏は安芸亡命から16年ぶりに帰還したばかりだったことになります。香川氏とともに帰国し、旧領を得た配下の武将達は領地経営が未整備なままであったことが推測できます。つまり、長宗我部元親軍と戦える情勢ではなかったと私は考えています。それを見透かして、元親は和平交渉を持ちかけてきたのでしょう。香川氏の対外戦略の基本方針は一貫して「反三好」です。それも毛利側についた理由のひとつかもしれません。そして今、三好勢力を駆逐しようとしてる土佐軍は「敵の敵は味方だ」という戦略からすると、手を結ぶべき相手になります。
 「南海通記」以後に編纂された歴史書には、次のような香川氏への批判が出てきます。
「三好配下に従属しながら土佐軍の讃岐侵攻を見過ごした。」
「讃岐国衆が「郷土防衛戦」を戦っているのを見殺しにした。」
これは香西成資の「歴史を倫理」として捉える見方の延長で、事実からは遠く離れたものだと私は考えています。

長宗我部元親の讃岐侵攻を見ておきましょう。

長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻
1575年 土佐国内の統一達成
1576年 阿波三好郡へ侵入し、白地城攻略
1577年 元吉合戦で、毛利軍に三好配下の讃岐惣国衆が敗北 → 香川氏の天霧城復帰
1578年夏 讃岐侵攻開始。讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略
小説家なら想像を膨らませて、こんなストーリが描けます。
元親は、藤目城を西讃攻略の拠点として情報収集と外交活動を展開します。それを担当したのが、元親のブレーンとして身近に仕えていた土佐修験者たちのグループでした。彼らは熊野業者の参拝ルートなどを通じて、四国の情勢を集める諜報活動も行っていました。天霧城の麓にある弥谷寺は中世以来、修験者や聖の拠点でした。弥谷寺を通じて、香川氏と連絡・密議を重ねます。この結果、土佐軍の侵攻以前に、長宗我部元親と香川信景は「不戦同盟」は結ばれていました。その論功行賞として、修験者グループに与えられたのが金比羅松尾寺です。松尾寺は、長尾家出身の住職である宥雅が堺に亡命し、無住となりました。それが土佐の修験者宥厳にあたえられたのです。金比羅松尾寺は金毘羅大権現として、讃岐平定の象徴寺社に作り替えられていきます。
話が逸れてしまいました、元に戻します。
 長宗我部元親によって三豊に打ち込まれた布石・藤目城に対して、阿波の三好存保は聖通寺城主・奈良勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆は、三好氏の指令で動いていました。讃岐を舞台にして、阿波三好氏と土佐の長宗我部氏が戦っていたことを押さえておきます。
 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして、冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。

DSC06256本篠城(財田)
本篠城縄張図

これに対して多度津天霧城の香川信景は援軍を派遣しません。
一般的には、次のように言われてきました。

藤目城攻めの際に、香川信景が動かなかったために、元親は信景の舎弟観音寺景全の家老である香川備前守へ使者を遣わし、信景に和親の申し出をした。信景はこの申し出を受け入れ、香川山城守・河田七郎兵衛・同弥太郎・三野菊右衛門の四人の家老を二人ずつ土佐へと赴かした。そして信景も岡豊城へ出仕して元親に拝謁した。こうして信景は元親の支配下に入り、以後西讃岐は長宗我部氏により統治される

 この従来は定説とされてきたことを、研究者は再検討していきます。『南海通記』の内容は『元親記』と、ほぼ同じ内容です。香西成資は『元親記』を参考資料にして『南海通記』を書いたので、これは当然のことです。そこで、研究者は『元親記』を再検討します。

元親記・目録」  清良の庵(きよよしのいおり)
元親記 太閤エ降参以後の目録

香川信景が同盟締結後に岡豊城へ赴いた際の様子を『元親記』は次のように記します。

元親卿の馳走自余に越えたり。振舞も式正の膳部なり。乱舞、座敷能などあり。五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り坂迎あり」

意訳変換しておくと

元親卿の供応ぶりは盛大であった。その振舞も正式な対応で、乱舞(風流踊?)、座敷能などもあった。五日間、岡豊城に滞在して香川信景は讃岐に帰った。その際に国境まで見送り、茶屋を立て送迎した。

ここから見えてくるのは、服従者への対応ぶりではなく、「盛大な供応」で大切にもてなしていることです。これは次男親和を婿入りさせることにより、香川氏との同盟関係を作り上げるための演出と見られます。

子孫が語る大坂の陣(4)再起のためなら命も乞う「牢人大名」長宗我部盛親 - 産経ニュース さん

この歓待に対する香川信景からの礼状にたいして、長宗我部元親は次のような書状を返しています。
去十四日御礼、昨日十一日に到来、委細令披閲本望候、両度之御状共皆以相届、及御報候き、殊御使者十八日に帰路候之条愚存之趣、一々申達候了、誠年来申談筋目候之間、此節者猶互弥可申合候、御存分在之始末等、得其意候、重畳為可遂入魂、自是も祇今令申候、何篇於御分別者、可為祝着候、委悉用口上候間、不能多老候、恐々謹言
卯月十二日                        元親(花押)
香中(香川信景)御返報
意訳変換しておくと
去る14日の御礼についての使者が、昨日11日に到着しました。委細については書状で拝見しました。御使者が18日に讃岐に帰る際に、私の意向はひとつひとつ口頭で申し伝えました。両者で折衝してきた事項について、この機会に細かいところまで煮詰めて合意に至ったこと、それに対する誠意ある対応について、重ね重ね入魂の極みです。この度の判断について祝着に感じます。詳しくは、使者に口頭で伝えてあります。不能多老候、恐々謹言
卯月十二日                    元親(花押)
香中(香川信景)御返報
この史料は信景が元親の歓待に対して、礼の使者を元親へ遣わしたことに対する返書です。ここでは、元親が信景に対して同盟者として丁重な対応をしていることを押さえておきます。

『長元物語』には、西讃平定後の元親の「仕置き」について次のように記します。
「香川殿領分は、元親公御子息五郎次郎殿養子に御備りゆへ、 一族衆城持、何れも知行等、前体の如く下さるるなり」
「観音寺を初めとし、その外、国持降参の衆は、知行前に替らず下され、年頭歳暮の式礼これある事」
意訳変換しておくと
「香川殿の領分は、元親の次男五郎次郎殿を養子に入れて相続させ、一族や国衆・城持衆なども今まで通りの知行地を保障すした。」
「(元親に降伏した)観音寺を初め、国持の衆についても、従来の知行地を認める。その代わりに年頭歳暮の式礼を欠かさないこと」
ここからは次のようなことが分かります。
①香川氏や一族衆の所領は以前のまま安堵されたこと。
②長宗我部元親の次男・親和が香川家の婿に入り、五郎次郎を称したこと
③早期に降伏した国衆についても、従来の知行地が認められていること
②の「五郎次郎」は、香川氏の家督相続者が代々名乗った名称で、行く行くは、香川家の当主して西讃を統治していこうとする意向の表れと研究者は考えています。
以前にもお話ししたように、讃岐では長宗我部元親は悪役です。讃岐の近世以前の神社は元親によって焼き払われたと、近世後の編纂物は記します。しかし、観音寺や本山寺、金毘羅松尾寺などは焼き討ちされていません。懐柔によって長宗我部元親の味方に付いたエリアの神社は被害を受けていないことは以前にお話ししました。
『元親記』には、次のような史料が載せられています。
猶以去廿四日財田よりの御書も相届申候
去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候
一 隣国面々儀、悉色立儀相申趣香中始証人等被相渡、其外之模様条々無残方相聞申候、
是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者可有如何候哉、家中(香川信景)者心底可被難揃と申事候 (中略)
一 牛岐返事此刻調略事候、成相申談相越候 (中略)
十二月四日
            香左(香宗我部親泰)         親泰(花押)
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田よりの御書も届いた。また26日の御書が昨日三日に到着し、次のような内容が確認された。
一 隣国の情勢について、重要な情報については香中(香川信景)などにも情報を伝え、共有化している。困難な問題は、十河城攻撃の件で、今までの抵抗ぶりからして、家中(香川信景)も困難な闘いになることを覚悟している (中略)
一 阿波牟岐城については、調略よって落城したことが伝えられた(中略)
         香左(香宗我部) 親泰(花押)
十二月四日        
桑名殿ヘ
ここからは次のような事が分かります。
①発信者の香左親泰は香宗我部親泰
②年未詳だが阿波牛岐を攻略したことが記されているので天正7年の12月と推定。
③「財田より御書」は、財田城からの報告が香宗我部親泰に定期的にもたらされていたこと。
④「香中」は香川信景のことで、彼が十河存保の居城である十河城攻撃に一役かっていること

『長元物語』の別の記事では次のように記します。

「財田の城は中内藤左衛門、おなじくその子源兵衛父子共に、組与力御付け入部の事」

ここからは、財田城は長宗我部氏の西讃後略の拠点として機能していたことがうかがえます。ここに集められた情報が長宗我部元親の元へ伝えられる仕組みができあがっていたことがうかがえます。

DSC05414羽床城
羽床城縄張図
信景が元親との同盟を成立させ、三豊地方を制圧した後に、元親は中讃の羽床攻めを行います。
元親は中讃エリアでは力攻めでなく、懐柔策をとります。次の文章は、長宗我部元親が羽床伊豆守の一族である木村又兵衛に和議の仲介を求めたものです。
就長尾和談、当国弓矢有増候、然(羽床)伊豆守踏両城栗熊表令出張妨路次之間、
早速可用斧村之処、同者貴殿以一家之好被入和候者尤目出度候、如何依心底明日可令出陣、
委細八郎左衛門可申候、謹言
長宮
十一月二日             
長宮(長宗我部)元親(花押)
木又二(木村又兵衛)
御宿所
意訳変換しておくと
長尾氏は、讃岐に弓取りの名人は数多くあれども、羽床伊豆守の武勇はよく知られていると云う。ついては栗熊方面への進軍を妨害するようなことがあれば、早速に武力で取り除く。貴殿は羽床氏と一族であると聞く。ついては一族のために一肌脱いで、和睦交渉にあたられんことを心底から望む。明日には出陣予定である。委細については、八郎左衛門に伝えてあるので協議すること、謹言
長宮(長宗我部元親)元親(花押)
十一月二日             
             
木又二 (木村又兵衛)
 御宿所
この結果、羽床氏は元親に降伏します。それを見て、周辺の国人も戦わずして次々と降伏します。中でも長尾大隅守の降伏で得た領域は、元親にとっては東讃攻めに重要な拠点を手に入れたことになります。丸亀平野を南からにらむ要衝の西長尾山に新城を築城します。そこに国吉甚左衛門を置き、中讃の拠点とします。『長元物語』では、甚左衛門を「讃州一ヵ国の惣物頭」と称しています。地図で見ると分かるように、西長尾城は、東讃や中讃へ出兵する際に、阿波白地と結ぶ絶好の地です。阿讃山脈を大軍が越えるため二双越や真鈴越、樫休場、猪ノ鼻越の峠道の整備も行われたはずです。

長尾城全体詳細測量図H16
長宗我部元親によって一新された西長尾城
 ちなみに西長尾城の調査報告書には、この城には土佐式の遺構が随所に見られることが報告されています。そして長宗我部元親によって土佐式に拡張リニューアル化され、一新していることを以前にお話ししました。ある意味では、「土佐様式で作られた新城」と考えた方がよさそうです。讃岐支配の戦略的拠点は新「西長尾城」で、宗教的な拠点が象頭山の松尾寺だったと私は考えています。
 天正十年六月に、西衆と称される東伊予と西讃の軍勢が東讃制圧のための各武将の集結地点となったのも西長尾城です。
 その西衆の総大将が元親次男の香川親和で、その後見役を香川信景が務めるという陣編成です。三豊は三野氏や秋山氏など香川氏の家臣たちが多かった所です。香川信景の人望なくして西讃を統治することができなかったのでしょう。

讃岐戦国史年表3 1580年代
長宗我部元親の東讃制圧

 香川氏が宿年の敵であった阿波三好氏を讃岐から駆逐するためにとるべき戦略が「東西から挟み撃ち戦略」でした。西讃では反三好勢力の急先鋒である香川氏が先陣を勤めます。東讃からは、阿波平定後の長宗我部元親の本隊が阿讃山脈を越えて進撃してきます。めざすは三好氏の東讃の拠点・十河城です。

DSC05358十川城
十河城縄張図
しかし、十河城は守りが堅固で一気には攻め落とせませんでした。元親は、冬が来る前に一時土佐へと帰国します。兵力温存のために無理強いはしないというのが元親の基本的方針です。翌11年元親は再び讃岐へ侵入し、十河城を囲みます。この戦いには、香川信景も西衆を率いて参戦しています。この時にめざましい軍功を挙げたのが秋山氏です。
信景だけでなく元親からも感状が発給されています。この時の秋山文書の中の感状を見ておきましょう。
去十三日敵動之由、従寒川殿御注進昨夕到来候、各以御心遣、城中無異儀、殊敵数多被討捕之由、御勝利尤珍重候、天霧へも申入候、定而可被相加御人数、御普請等芳、猶以無油断可被入御心事肝要候、先任早便令懸候、恐々謹言
十月十八日
石田御当番衆中
御陣所
長宮(長宗我部)元親御判
意訳変換しておくと
13日の敵の情勢については寒川殿からの注進が昨夕に届けられた。各自の働きについて、数多くの敵兵を討捕え、勝利をえたことは珍重である。この勝利を天霧(香川信景)へも伝えた。また占領地については守備兵を増やし、防御施設を増築するなど、無油なきように用心することが肝要である。先任早便令懸候、恐々謹言
十月十八日
石田御当番衆中
御陣所
長宮(長宗我部)元親御判
ここからは次のようなことが分かります。
①「寒川氏から注進」とあるので、十河氏の支配下にあった寒川氏が、この時には元親に服属していたこと
②由佐・寒川氏などの東讃の有力国人は、戦わずしていち早く元親に服属し、先兵として活躍していること
③「御勝利尤珍重候、天霧(香川信景)へも申入候」とあり、信景に逐一戦勝の報告をしていること
④西衆の指揮権は信景の権限下にあったこと
西讃は元親の支配下に入ったとされてきましたが、実質的には香川信景による統治が依然と変わらぬ形で行われていたことがうかがえます。
それを裏付ける資料を見ておきましょう。
これは土佐から婿入りした香川親和の付き人である吉松右兵衛へ三豊の所領を給付したものです。「坪付」とあるので、地域の土地を調査していることが分かります。
① 六町  吉松右兵へ給
同坪付
麻  佐俣  ヤタマセ(?) 原村  大の 十七ヶ所
はかた(羽方) 神田 黒嶋
西また(西股) 長せ(長瀬)
合三町五代
天正九八月十八日
② 同坪付  吉松右兵衛給
一 四十壱ヶ所   中ノ村・上ノ村・多ノ原村 財田
天正十年三月吉日   印
③ 吉松右兵衛給
同打加坪付
一 六ヶ所  財田  麻 岩瀬村
以上六反珊五代
天正十年    ―
五月十八日防抑 ‥
①には、麻・佐股・羽方・神田・長瀬などの地名が見えます。これは高瀬町や神田町の地名で、大水上神社の旧領地になります。かつては近藤氏の所領だった所です。
②は「中ノ村・上ノ村・多ノ原村 財田」とあり、財田川上流の財田町の地名です。
③は、「六ヶ所  財田  麻 岩瀬村」とあり、①②に隣接する地域で、これの旧近藤氏の知行地です。
これらの地域が、土佐から香川氏の婿としてやってきた親和(元親次男)に付けられた家臣・吉松右兵の知行地として割譲されています。それが合計六町(㌶)になります。吉松以外にも土佐から多くの長宗我部氏の家臣が移住してきたはずです。彼らにも知行地が支給されたでしょう。高瀬の仏厳寺は土佐から移住してきた高木一族の創建と伝えられます。

日枝神社 高瀬町
          日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている
また土佐神社が鎮座していることは以前にお話ししました。ここからは、土佐から移住した人々は、その後も三豊に留まり、寺社が創建され、元親の家臣たちの信仰を集めたことが考えられます。三豊には、生駒家になって急速に、開墾地を増やす郷士層が数多く見られます。彼らは長宗我部元親とともにやってきて、そのまま根付いた人々ではないかと私は考えています。

以上を整理しておきます。
①1565年に三好氏重臣の篠原長房によって天霧城は陥落し、香川氏は安芸毛利氏の元に亡命した。
②元将軍足利義昭は、信長包囲陣形成の一環として、香川氏の多度津帰還支援を毛利氏に働きかけた。
③毛利氏は、石山本願寺への戦略物資輸送確保のために備讃瀬戸の南側の丸亀平野の元吉城を押さえた。
④これに対して三好氏は、讃岐惣国衆に命じてこれを攻めさせた。香川氏の帰還は、自分たちの獲得した既得権利を失うことになるので、讃岐惣国衆は結集して元吉城を攻めたが敗れた
⑤元吉合戦と同時並行で、香川氏の多度津帰還が実現し、香川氏の領地も回復した。
⑥帰国した香川氏は、旧領地に旧家臣団を配備して体制を整えようとした。
⑦元吉合戦の翌年に讃岐侵攻を開始した長宗我部元親は、このような讃岐情勢を見て、香川氏の凋落工作を行った。
⑧香川氏は「反三好」を基本外交方針としており、三好勢力を讃岐から駆逐するために長宗我部元親と手を結ぶことにした。
⑨長宗我部元親は香川信景を同盟者としてあつかい、次男を後継者として香川氏に送り込んだ。
⑩こうして、香川氏は旧来の領地を保証され、東讃制圧の先兵として働くことになった。
⑪一方、領地内では新たに土佐からの入植者を受けいれると共に、土佐からの家臣たちに知行地も与えている。
⑫土佐軍が去った後、生駒時代になっても土佐からの入植者は三豊に定住した。それが土佐神社として今も残っている。
⑬南海通記は「香川氏は長宗我部元親の軍門に降り、西讃はその支配下に置かれた」と記す。しかし、三豊は香川氏が支配権を握り、その武将達の軍事的編成権も持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂 天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉
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 三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯

中世になると、中央の忌部氏も阿波の忌部氏も姿を消してしまいます。そのため荒妙貢納は、忌部氏以外の人達が担当していたようです。そして、忌部神社がどこにあったかさえも分からなくなります。それが「復活」させたのが三木氏ということになります。それでは、三木氏はどのようにして忌部氏を復活させたのでしょうか。今回は、阿波における「近世の忌部集団」復活のプロセスを見ていくことにします。テキストは、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。

高越山の麓にある麻植郡川田村は、近世から近代にかけて阿波における和紙生産の中心地でした。
『川田邑名跡志」の「川田渓」項には次のように記します。

「川田村二尺長紙を漉キ侍ル事ハ享保五年(1720)子トヤ、弥五右衛門卜云者始テ漉シト也、今ハ数件繁昌シテ阿波尺長ト云国産トハナリ侍り」

意訳変換しておくと
 川田村では二尺の長紙の紙漉きが享保五年(1720)から始まったという。弥五右衛門と云う者が始めて、今は数軒が従事し繁昌している。阿波尺長というブランド品にまで成長した。

ここには川田村が18世紀前期から先進的な和紙生産地になっていたこと、川田村高尾家は弥五右衛門の流れをくむ紙漉人の中心的な家であったことが記されています。

種補忌部神社のある種穂山
種穂(忌部)神社のある種補(たねぼ)山
『川田邑名跡志』巻一 種穂忌部社の由緒書きには次のように記します。
「当社古事伝来 神代昔天日鷲命ヨリ始メテ今ノ神主中川氏、麻穀ヲ製シテ祓清メ年毎二禁庭二献シ奉ル事也、神祇伯白川殿御役所江指上来り候…」、
巻六川井山項に「麻絹名…三木氏荒妙ノ宣旨下ル書アルヲ以考二、昔忌部姓大嘗会ノ年ニアタリ荒
妙ヲ織り進セラルゝノ地ナルヘシ」
意訳変換しておくと
「当社は古事の伝えによると、神代の昔に天日鷲命が始祖で、今の神主である中川氏まで、麻穀をつくって祓清め、年毎に禁庭に奉納してきた。そして京の神祇伯白川殿にも献上してきた。(中略)三木氏に荒妙の奉納を行うように宣旨が下っていることから、忌部氏が大嘗会の年には荒妙を織り、奉納してきたのは、この川田の地に違いない。
この由緒書には高越山鎮座天日鷲(忌部)神を「紙祖」として信仰し、「忌部の頭官衣笠宇内」の末裔であると主張します。ここからは忌部神信仰が川田村の紙漉人集団の中で復活していったことがうかがえます。この背景には、荒妙と紙漉きの類似性があると研究者は推測します。同時に、忌部神の信仰集団は、排他的特権をもつ講組織に組織化されていたようです。『川田邑名跡志』が書かれたのは1780年代ですが、その頃には種野山の忌部氏人が白川家(神祇伯)を通して荒妙を貢進していたという伝承が語られるようになったことを押さえておきます。
 川田村の背後に位置する種野山も18世紀中・後期には和紙生産地として発展していきます。
三ツ木村庄屋を本家の三木家に代わって庄屋職を引き継いだ分家の天田元助(武之丞=三木家の分家)のことが寛政2年(1790)「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、次のように記されています。
尤中村山三ツ木村之義ハ、専紙漉を以助成二仕、女迄モ漉覚へ、家ニ人方紙漉不仕者モ無御座程に、川井之義モ紙漉出候得とも、格植付方義茂少、不出精之姿二付相行着候処、三ツ木之義ハ、庄屋天田元助勝手も相応二仕候者二而、元入銀貸付モ仕、余格之紙ハ相調、紙方二仕候者二而、紙方江指出候故、漉人モ多出来仕、川井之義右様之義モ相調不申、其卜不調法二而、女等ハ右業得仕不中、…木屋平村之義ハ奥山分に御座候得共、土地場広、諸作も生宜故、右仕合相応二相当候者モ相見江候処、是又春冬農業之透ニハ、□紙専漉出、御年貢二上納仕其余ニハ漉不申、

  意訳変換しておくと
中村山の三ツ木村については、紙漉を助成し、女も紙漉きを修得し、家に紙漉をしない者がいないほどにまでなっている。川井村については紙漉を行っているが、植付面積が少なく、出荷量も少ない。それに対して、三ツ木村は、庄屋の天田元助が熱心に指導し、元入銀の貸付も行っている。そのため品質もよく、紙方(紙専売役所)にも評判が高い。そのため販路も開け、紙漉職人も増えた。川井村については、三ツ木村のような状況は見られず、生産も不調で、女たちも紙漉きには参加していない。 … 
木屋平村については、奥山分で土地も広く紙以外の産業が盛んなために、三ツ木村のような紙産業の隆盛は見られない。また冬には雪が積もり春冬は農業ができない。そのため紙漉きは専ら、年貢用で、商品として生産する者はいない。
ここからは次のようなことが分かります。
①18世紀末には三ツ木村が紙産業の中心地となっていたこと
②その背景には、庄屋の天田元助の経営戦略の巧みさがあったこと
③三ツ木村の紙が藩の紙役人に評価されて、大坂でも販路を確保していたこと
 以上からは、天田元助は、和紙生産において三ツ木村を大きく発展させた人物で、藩からも高く評価されていたことが分かります。
 19世紀になると本家の三木恒太(武之丞の子)の子息・多十郎も三ツ木村の余紙(尺長紙)を扱う「余紙調人」を名乗るようになります。近縁に大阪の紙問屋がいるので、種野山奥地における和紙の生産・販売に関して三木家が中心に集団がつくられていたようです。それは川田の紙漉人集団が高越山に結びついていたのと同様に、三木家集団は種穂忌部社と結びつくようになります。

種穂忌部神社
種穂(忌部)神社

明治3年(1870)5月に三木家当主貞太郎(多十郎の子息)は次のように記します。

「私 自往古御衣御殿人与申、歴代天皇太嘗会之御時荒妙之御衣調進罷候、右は天日鷲神社神孫にて官位等蒙御勅許大嘗会之側者、上京仕御用相勤来申候処、中古以来御儀式被□□側より荒妙御衣調進在事、今に中絶罷居申候、御綸旨並太政官符及御下文等数通処持仕居申候、…前□奉申□□□上代御衣御殿人卜被仰付御座候得者、今般御一新二付而者、何卒私共往古之通御衣御殿人二御復古被仰付被為下候者、以後且麻宇且荒妙調進」
  意訳変換しておくと
 私は往古より「御衣御殿人」として、歴代天皇の太嘗会の際には、荒妙の御衣を奉納してきました。これは天日鷲神社の(忌部神)の神孫で官位もいただき、大嘗会の時には、上京し御用を勤めて参りました。しかし、中世以来この御儀式が途絶え、荒妙御衣の奉納も行われなくなっていました。我が家には御綸旨や太政官符・御下文など数通も保存しています。つきましては、古来のしきたり通り御衣御の奉納を申し付けいただけるように願います。今般は王政復古で古来のやり方を取り戻そうとしている御一新の時です。何卒、私共に往古の通りに御衣を貢納することを申しつけ下さい。

ここでは三木家は、古来から忌部神孫として荒妙貢進をおこなってきたが、新政府が引き続きその称号を認めれば今後も麻を献上したいという請願をおこなっています。ここで研究者が注目するのが最初に出てくる「御衣御殿人」です。これは何を指すのでしょうか?
 京の「白川家門人帳」をみると、伯家に入門し許免状を受ける者として、神官以外に百姓・番匠・柚職・木地師・紙漉などがいます。なかでも阿波と摂津では神元講・榊講など集団での入門が多いようです。例えば阿波の場合には、天保3年(1832)5月に「徳嶋神元講発願中手先世話人十二人」として、佐古・矢上・高原・瀬部・六条など城下町と近郊の村の者の名があがっています。この講が何を目的に結成されているのかはよく分かりません。しかし、商人・職人の集団であることは確かなようです。ここからは御衣御殿人集団も三ツ木村の紙漉人と販売に従事する商人で構成され、種穂社のもとに組織されている講集団と研究者は判断します。明治2・3年は神仏分離政策のもとで神社政策が一新されていく時期です。この時期にそれまでの講集団による種穂社を通じての白川伯家への麻・格貢進も終止符がうたれ、新たな対応策が求められるようになります。それが「麻・苧(格)」を直接に天皇家に献上することだったと研究者は考えています。
三木家文書の中の御衣御殿人関係の文書群をまとめたものです。
三木家文書 荒妙御衣奉仕関係文書

この文書群を研究者は、2から22までの上8通と46・47の下2通に分類します。
これらの文書には形式上、次のような問題点があると、研究者は指摘します。
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」
2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわない。
5について差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがある。
11については、下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっていないこと。書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないもので、これも偽書とします。
20の2通の文書はについて、院宣案という端裏書をもっていますが「院宣」の文言はありません。また誰かの令旨や奉書にしても、名前がないのでだれがどこから発したのかも分かりません。さらに、20と21は、筆跡が似ています。
21について、「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、22は「勅使の署名に疑問がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とします。
この六通について、研究者たちは内容についても次のように問題点を指摘します。   
2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとあります。
5・11で四郎男や氏人黒女は御殿人に属する左方長者らが所役をかけるのは不当とします。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。

以上からこの文書群が次の2つを伝えるために作られた偽書であると研究者は指摘します。
A 三木氏が率いる御殿人集団を忌部氏の子孫で古い伝統をもつ集団だとするため
B 13世紀後半から都の忌部長者によって、阿波の忌部氏集団は自立性を保証される特権を持っていたこと

  46の「契約書」を見ておきましょう。これは鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。(意訳))
阿波国御衣御殿人子細事
右の件について衆者が、御代最初御衣殿人(みぞみあらかんど)とされる以上は、御殿人の間で事が起これば、妨害するのではなく、衆中の評定で物事を決めること。例えば、十人の時には、7、8人の賛成で、五人の時には、三人の賛成で決定すること。ただし、盗み、強盗、山賊、海賊、夜討などを起こした際には、互いにかばうことをしてはならない。その他のことについては、相互扶助を旨とすべし。違乱を申すものがあればらは、衆中が集まって評議すること。ついては、一年に2度寄り合いをして評定協議を行うこと。その会合の日時と場所は、2月23日のやまさき(山崎)のいち(市)、9月23日の定期市とする。契約については件の如し
正慶元年(1332)十一月 日
正慶元年(1332)十一月 日
 中橋西信(略押) 北野宗光(略押) 高如安行
 高河原藤次郎大夫 名高河惣五郎大夫 今鞍進十
 藤三郎(略押) 治野法橋(花押) 田方兵衛入道
 赤松藤二郎太夫  永谷吉守  大坂半六
 三木氏村(花押)
 「御衣御殿人」は「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(「荒妙(麁服)御衣」)のことで、これを製作する者が「御殿人」ということになります。ここからは、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団と従来はされてきました。しかし、「御衣御殿人」は、近世の紙漉きの生産・販売メンバーの講組織であったことは、先ほど見たとおりです。「御衣御殿人」という言葉は、中世で使われていたかどうか分かりません。
麁服4

13人の連署者のなかに高河原藤次郎大夫と大坂平六がいます。
高河原は吉野川沿いの名東郡の村、大坂は大阪のことでしょう。近世の御殿人集団は、紙漉に従事する者のほかに販売に従事する者をふくんでいました。そのためメンバーの住む場所も、三木村以外に広がっていました。そのメンバーが南北朝期の文書の中に持ち込まれています。つまりこの連署者集団は近世の御殿入集団のメンバー名を、中世の文書の中に挿入していると研究者は考えています。
 さらに内容を見ておきましょう。47の正慶契約状では、集団は毎年二月と九月の二度山崎で市がひらかれるときに寄合を開き評定をおこなうとしています。従来は、南北朝期に忌部一族としての御殿人が山崎の天日鷲神社にあつまり会合を開いていたことをしめすとされてきました。そして、それを取り仕切ったのが高越山の社僧たちで、これによって忌部氏集団は団結を確認していたとされてきました。しかし、よく読むと契約状には山崎に市が立つ日に開かれるとしか書いていません。

P1280383
                                               山崎の忌部神社
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 山崎神社のある山崎村西久保は山間部種野山への入口であるとともに吉野川の船着場にも近い交通の要衝の地です。麻植郡の紙は、紙請取人肝煎の種野山村庄屋明石直衛門の検査を受けることになっていました。近世末にはその紙役所が西久保に置かれており、その役所は20世紀後半まで種野山村旧庄屋私有の家として残っていたようです。
 以上から、契約状にしめされる会合は天日鷲神社とはかかわりなく、西久保の市や紙役所にかかわっての三ツ木村和紙の生産・販売をめぐる会合を反映していたことがうかがえます。つまり、二通の契約状は、近世の紙漉きの講集団の活動を中世の荒妙貢納にまで起源を遡らせようとしたものと研究者は判断します。

三木家文書を、研究者は次の3種類に分類します。 
A 三木家への感状類
B 荒妙御衣奉仕関係文書、
C 種野山関係文書
Aは三木家は種野山の在地領主であったことをしめすために後世に作成された偽書であること。
Bは荒妙貢進にかかわる太政官符など中世からの伝来文書と、阿波で荒妙貢進をおこなう三木氏を中心とする「御殿人」集団にかかわる偽書の混成となっていること。
Cについて在地種野山にかかわる伝来文書が大きな部分しめる。その中に近世に作成された偽書や伝来文書に手直しがされている文書が含まれる。
このうちの伝来文書は、種野山の三木・柏原名という惣村にかかわる中世惣村文書として伝えられてきたものです。天田(三木)家は、この惣村文書群に新規文書の追加や文書の手直しをして文書群の令面的な組みかえをおこなったことになります。その全体が以下の表にしめされた中世三木家文書ということになります。.
三木家文書一覧
最後に再編された中世三木家文書が作られる過程について、まとめておきます。
①峰須賀氏の入部時には天田姓を名乗っていた三木家は、一ツ木村庄屋として存続する
②18世紀中期に三木本家は庄屋役を解任され、分家の天田家が後継者となる
③天田家の元助・惣助・武之丞種野山奥地を新興の和紙生産地として発展さた。
④麻植・美馬郡域で忌部神の「再発見」が人々の歴史意識に大きなうねりを起こした。
⑤庄屋・神官・上層農民層は「地域と家の発見」という動きの中で、系譜造りや由緒書きがが行われるようになった
⑥天田家ももともとあった中世の伝来文書をもとに、新たに偽書を作成した。
⑦その目的は、三木一族が忌部氏の子孫で由緒ある家であることをしめすためであった。
⑧偽書が作られたのは1750~70年代にかけてのことであった。
⑨偽書は、三木家の先祖は南北朝期から戦国期に至る七代にわたる南朝方の在地領主であったことを示すためのものでもあったされた
⑩そのため偽書には、祖谷山高取名主と同じく南朝年号文書を利用された。
再編された中世三木家文書のもう一つの特質は、三木氏を中心に御殿人集団がつくられていたことを強調することです。その背景をまとめておくと
①18世紀になると三ツ木村は天田家を中心に、和紙生産が盛んになり講組織ができた。
②彼らは川田村種穂社の下に「御衣御殿人」として講集団に組織された。
③そして「御殿人集団」は南北朝期にさかのぼる伝統をもち、都の忌部長者の庇護下に荒妙貢進をおこなった集団であると主張するようになった。
④その証拠資料として、新たに偽書が作られた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)
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阿波やまんのう町のソラの集落を原付ツーリングする中で、いろいろな疑問が湧いてきました。そのひとつが、ソラの集落がどのようにして形成されてきたかです。山間集落の歴史的形成についての研究史の紹介を見つけたので読書メモ代わりにアップしておきます。

古代における山間部への人口移動についての仮説1
  ①日本列島の農耕的利用は水田ばかりでなく、焼畑農耕としても使用され、海岸から始まって山地に及んだ。
  ②狩猟採集時代の住民が山地に棲んでいるうちに焼畑耕作をはじめたのではなく、海岸低地の人びとが農耕生活に入り、
  ③その結果人口が増加して不足した耕地を山中に求めていった。
  ここからは、縄文人たちが稲作を学んで山地に拡大していったのではないこと、稲作民達が低地から山地へと進出する中で、「畑作文化」を山地へと拡がっていったと考えられていることが分かります。つまり、縄文人に連なる人達は、農耕には手を出していないことを押さえておきます。 
 山民が国家組織の中に、どのように位置づけられたかについては、柳田國男の指摘した次の二つがターニングポイントされてきました。
A 古代国家の形成
B 近世初期の一揆
  Aの古代の記紀などに山民の存在を読みとろうとする試みは、喜田貞吉や柳田國男の「山人」に始まります。この視角を戦後改めて再生させた高取正男は、記紀や法令から次の2つの山民を「再発見」します。
高取正男著作集 全5巻揃(高取正男) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

①「言語容貌」が他国と異なる飛騨工
② 朝廷に奉仕する部民とされつつも神域での狩猟が禁じられた吉野(大和)の国樔(くず)
彼らを「古代の山民」として位置づけました。 ②について日本書紀(全現代語訳『日本書紀』宇治谷剛孟・著/講談社学術文庫)は、次のように記します。
 十九年冬十月一日、吉野宮においでになった。国樔(くず)人が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んでいうのに、 「橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した御神酒を、おいしく召し上がれ、わが父よ。」
歌が終わると、半ば開いた口を、掌で叩いて仰いで笑った。いま国樔の人が土地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風である。国樔は人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。またかえるを煮て上等の食物としており、名づけて毛瀰(もみ)という。その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにいる。峯高く谷深く道は険しい。このため京に遠くはないが、もとより訪れることが稀であった。けれどもこれ以降はしばしばやってきて、土地の物を奉った。その産物は栗・茸・鮎のたぐいである。
 ここからは国樔人の生活スタイルが、狩猟・採集で、縄文人的だったことがうかがえます。そして国樔人が、征服者としての応神天皇を手厚く迎えたことになっています。国樔人が屈したのか、それとも和解したのか、どちらにしてもも、先住民のご馳走を食べています。
 さらに後に、今度は壬申の乱で挙兵した大海人皇子がここにやってきます。国樔人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまいます。そして、一夜酒や腹赤魚(うぐい)を提供して、歌舞を踊ります。これを見た皇子は「国樔の翁よ」と呼びます。そのためこの舞は「翁舞」と呼ばれるようになります。それが、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る浄見原神社で奉納される「国栖奏」の由緒です。その時の神前には、今も山菓(くり)・醴酒(一夜酒)・腹赤の魚(ウグイ)・土毛(根芹)・毛(赤蛙)などの珍味が供えられます。


国樔人などの山民は、「異種族民」として早くに朝廷の統治下に入り、公民として国家に編成されます。
同時に彼らは、狩猟採集の生業を維持し続けたとします。そして、次のように結論づけます。

「国土のいたるところの山間部には、かつて吉野の国栖と同様の狩猟採集種族があり、平野部の定着農耕民と長期にわたって併存した」

この高取の研究は、次の2つの新視点を提供しました。
C 古代における「縄文の系譜」の再発見
D 古代国家の体系に山民が包み込まれたとする視野

日本神話の構造 オンデマンド版
これを受けて、大林太良は、神武東征伝説に出てくる山民の協力、山守部(山部)の設定を山民の制度化と解釈します。また佐々木高明は、風土記のなかに「非稲作的な山地民の文化的伝統」をもつ土着の先住民を見いだし、次のように指摘します。
E 土着先住民は5世紀以前には討伐や封じ込めの対象となっていたこと
F 律令国家形成以後も畿内周辺の山地にも「山民文化の伝統」をもつ人々が存在したこと
 ヤマト政権に敵対的な行動をとった蝦夷・隼人・土蜘蛛は、記録に残っています。しかし、山民の反乱・反抗の記録はほとんどありません。これは、「山民」をヤマト政権が政治的従属化に置いていたからと研究者は推測します。
 
 律令国家の崩壊期から中世にかけて、「山野」をめぐる支配の動きが大きく変化します。
ここでの「山野」は、山地というよりも未開墾の台地や丘陵、山麓を広く含むもので、そのなかには山間・山岳地帯も含まれていました。「山野」の利用・占有は古代からありましたが、都城や大寺造営のための「杣(材木提供)」を除けば、古代国家はあまり興味をしめさなかったと従来はされてきました。
 確かに律令国家は、法的には山野を「公私共利」として諸階層の自由な利用を許します。ところがそれが「律令制支配の盲点」となって、貴族・権門・社寺による私的領有の急速な進展を招きます。そのため「山野」の掌握が政治的な課題となり、荘園公領制が整えられた古代末期~中世成立期になると法的に裏付けられるようになります。
それを網野善彦は、次のように2つに整理します。
G 律令期の「公私共利」の系譜を引きつつ「山」・「杣」・「野」などが公領や御廚として支配される形態。そこでは在家などを通じて、非農業的生産物の貢納が行われます。
H「杣」などの森林エリアや、開発対象地が囲い込まれたて、山野を含んだ四至を決めて立券・領有される形態。これは11 世紀には「領域型荘園」として一般化します。。
そのような所領の内では、山野利用が量的・質的に拡大し、人口が増えて惣村が姿を見せるようになります。言い換えれば山地にも「安定的な生業の場」が確保されて、村落が姿を現すということです。

このような変化は、中世の山地にどんな影響をもたらしたのでしょうか。
近江・伊賀の杣や近江国葛川や丹波国山国荘の所領をみるかぎりでは、都市に近接した山地のみが支配の対象となったかのようにみえます。しかし西日本については、荘園・公領が山地の奥深くにも成立するようになります。いわば「山地所領」ともいうべきものが姿を見せるようになります。
 紀伊山地の吉野金峯山寺や高野山金剛峰寺の所領をめぐる相論には、狩猟を行う「山民」・「山賊」が登場します。四国山地の阿波国種野山や土佐国大忍荘槇山も、急峻な山地に中世所領が成立していたことが史料から確かめられます。
阿波や土佐のソラの所領では、何を生業としていたのでしょうか?
それは、貢租の内容からうかがえます。まずは、木材資源を目的とした「杣」が挙げられます。これに続いて次のようなモノを納めています。
A 大忍荘では、焼畑への課税と葛粉や「未煎」のような山野の採集物
B 種野山では、白米・麦・粟・大豆・桑と絹・皮革・材木・「鳥莵」・「葛ノセン」
C 近江葛川では田畠だけでなく、狩猟・漁撈、伐採林業、製炭、焼畑、紺灰製造、漁船の製作
このように山地の所領では、いろいろな生業があり、貢租の内容もそれに応じたものとなっていたことがうかがえます。山間・山麓の荘園が栃・栗・胡桃といった果実や山菜を年貢とすることは珍しいことではありません。ここからは、採集や栽培が山地に特有の生業ではなかったこと、そのような産物が要求されるケースは特別なものではなかったこと。つまり、大消費地(朝廷・貴族・寺社)の需用があったので、山地における所領が必要とされたと研究者は考えています。これは、京の神社が神事に使用する塩や海産物を確保するために、神領を生徒内海沿岸などに設置したのと重なり会うのかもしれません。
土佐の大忍荘槇山では、荘内の山地空間が名に分割され、それぞれの名が広大な面積を保持していました。

大忍荘領域

大忍荘領域3
大忍荘槇山の名
大忍荘槇山では奥地の辺境・後進地域の名ほど規模が大きいようです。山地所領では、生業維持のためには広い山林空間が必要になります。つまり、縄張りテリトリーを確保しないと生活ができないのです。居住単位が面積の上で広くなるのは当然のことです。しかし、中世山村の景観や生業の空間的配置を復原しようとすると、記録に残るのは家屋や耕地だけで、その背後の山林空間は空白で、よく分からないことだらけです
 山地に荘園・公領が、どのように出現したかについては、次の二説があります。
A 先住者の開発地を、横取り・取り込み
B 無人の山林空間の開発を行った

これについて黒田日出男の「中世的山地開発」論を要約すると次の通りです。
①中世開発の特徴は荒野や畠地の開発、畠作の増大で、麦畠・片畠が水田の定田・荒田に匹敵すること
②中世的山地開発の場としての黒山、山地・荒野四至内の領掌権を握ることの意義
③神人・悪僧らが跋扈した東大寺領黒田庄では、春日社神人・興福寺寄人らが活動していた
④民衆活動の田遊び・田楽と山村開発と関連づけ、歌謡を農耕技術史料としてとりあげる。
無人の「黒山」を切りはらい、開発し、所領とする行為が「世間常習」であったとします。そして、「黒山」の黒色はタブー、聖性、境界性、未開発の象徴とします。山林寺院の設立や、山地資源の確保のための開発が進んだのは、山地所領が制度化された古代末期~中世前期だと研究者は考えています。
 しかし、一方で律令制の確立以前に古代国家に組織化された山民や、古代の山野への人口移動があったとするならば、荘園公領制の山地への拡大以前から、山地居住者がいたことになります。
丸山幸彦は、7~8世紀の山村への人口流入を次のように指摘します。



祖谷山舊記・忌部神・予章記考 ― 四国の近世社会からみた中世・古代 ― | 丸山幸彦 |本 | 通販 | Amazon
①「水田の世界」の百姓が貢租から逃れるために郡郷制のしかれていない「山の世界」に流入
②8~9世紀の近畿・九州・四国では律令国家の支配が「山の世界」にも浸透する
③律令国家の確立が山地への人口移動を招き、それを追うような形で国家の支配が山地に浸透した。
これを受けて考古学の能登健氏は、群馬県北西部の標高 1100 mにある熊倉遺跡(9世紀)について、次のように記します。
「古代国家の支配を逃げて、国家の支配の外側に作り上げた畠作山村」

群馬県熊蔵遺跡

以上からは、古代国家の統制エリアに含まれていなかった山地地域が、古代末期になると「隠田摘発」のような形で荘園公領に取り込まれていったことが見えて来ます。
  
書評】蝦夷が武士の成立に与えた影響とは?桃崎有一朗『武士の起源を解きあかす』 - 明晰夢工房

古代・中世国家と山村・山民を結びつける視点として、「武士の起源=狩猟者」説があります。

日本領主制成立史の研究 戸田芳実 岩波書店 初版◆日本史 古代 中世 奈良 平安 鎌倉 律令 摂関政治 院政 幕府 荘園 武士

戸田芳実は、9世紀の大宰府が豊後国南西部から弓馬にすぐれた「騎猟之児」を騎兵として召集していることを明らかにしました。「騎猟之児」は、馬による狩猟や牧畜、さまざまな採取活動を行い、その貢納や交易によって中央と結びついた特殊な山村住民とします。そして「狩猟者・殺害者=武士の起源」という見方から、狩猟に優れた山民が古代の軍制のなかに取り込まれたルートを示しました。

続日本後紀』には「弓馬の戦闘は、夷獠の生習にして、平民の十、その一に敵する能わず」と書かれています。武士のたしなみである「弓馬の術」は、「蝦夷一人=ヤマトの兵士十人」に匹敵すると云うのです。それは「弓馬の術」が「夷獠の生習」で、普段の狩猟生活で弓術を身につけるためと説明します。蝦夷は馬飼も生業としていたので、弓術と馬術の両方を身につけられる状況にありました。ヤマトの兵士の「有閑弓騎」とは違い、生業そのものが戦い方に結びついている、という点では、蝦夷の在り方は遊牧騎馬民族にも通じるものがあります。同時に、そのような人々が蝦夷だけでなく、九州や四国の山岳地帯の奥地にはいたという説になります。

 五味文彦は武士が「狩猟民 → 農耕民(開発領主)→ 都市民」と性格を変容させていったとします。 この議論は、民俗学が強調してきた「山民の武士的気質」論とつながります。柳田國男は「正直・潔癖・剛気・片意地・執着・負けぎらい・復讐心」を、山民の気質としました、また千葉徳爾は、山民の独立自尊の気風や戦闘的な気質のなかに、武士的なものを見いだします。その気質は単純に狩猟という生業からくるものとしません。逆に、天性や能力を持った狩猟者や武士的性格をもった人々が、山地へ「移住」することを選択した結果とします。

熊谷家伝記 4冊1函入り(熊谷直遐 編 ; 市村咸人 校訂) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

山民の武士化や武士による山地開発が行われたとすると、山村集落は彼らによって開かれたことになります。
その典型例が、奥三河~南信濃の『熊谷家伝記』の落人による開郷伝承や、四国山地に近世にまで残った名主(名本)が支配する村落構造です。そこでは、武士の山地への入植開発が、「親方(御館)=被官」関係という社会構造を産み出したとされてきました。

近世祖谷山の土居制度

祖谷村の土居体制
これが南北朝期や戦国期に、武士的な活動の拠点となり、戦国大名の被官を経済的に支える地盤となったというのです。それが阿波では祖谷山地方で行われたとされてきました。祖谷山の山岳部氏たちが土佐軍の阿波侵攻の際には、土佐の豊楽寺で長宗我部元親への忠臣を誓い、その先兵として働いていることは以前にお話ししました。武士的な活動を行った階層が、山村社会の支配権を握っていたことが分かります。
 しかし、武士の起源を、全て開発領主に結びつけることは、問題が残ります。それは近江の朽木氏のように外来の地頭から実質的な領主へと成長した場合もあります。また、村落内の特定の家が成長を遂げた例もあるからです。

四国山地の名主(名本)支配について、大忍荘槇山では南北朝に整理・再編されたことが指摘されています
これは、祖谷山の山岳武士たちも同じです。平家の落人伝説では、先住者の居宅を襲って、彼らを追放し、そこに自分たちが住み着いたことが記されています。これは源平合戦だけのことでないことを示唆します。特定の名主家が中世を一貫して維持されたというわけではなく、変遷しながら近世初期にいたったと研究者は考えています。祖谷山は、近世まで続いた名主支配の起源が中世的所領の名残だとされます。
 「山民=武士的性格」説に関係するのが、近世初期の北山(大和・紀伊)・椎葉(肥後)・祖谷山(阿波)の一揆をめぐる評価です。
この一揆は、柳田國男によって初めて着目され、宮本常一・千葉徳爾・福田アジオへと継承されました。その論点を研究者は次のように整理します。
①3つの一揆は、土豪のみならず一般の村民も参加した地域全体の反抗である
②既得権益に固執した土豪層の一揆として理解されるべきではない。
③幕府・藩側の弾圧的対応の背景には、領主支配を受け容れない無主の地を石高制に取り込むこと、武士的気質をもった山村の軍事的な脅威を抹消する二点を重視した。
④広く見ると山村に残された非稲作的社会の文化的独自性を維持する側と、それを否定する側との対決であった
祖谷山百姓一揆年表1
 
以上からは、自立的な中世山村像と幕藩体制の支配によって疲弊する近世山村像というふたつの側面が見えて来ます。別の見方をすれば次のようになります。
①山岳武士の力が強い中世の山地を、一気に無主の地とすることはできない。
②一方で中世の無領主状態を近世においても継続しようとした山村領主がいた
この状況を、どう理解するかということになります。
上原兼善は、日向の近世山村が転封された大名の「領主的支配秩序の枠をこえていた」とします。新たにやってきた藩主の支配体制を、山岳武士を受けいれられなかった点はあったかもしれません。阿波藩の初代蜂須賀小六は、充分な視察調査を行って情報をあつめ、そのことをいち早く察して、懐柔策と弾圧策を取り混ぜる政策に転換したのでしょう。
 幕藩側の「山村弾圧」の背景には、「豊臣平和令」論との関わりがあったと研究者は指摘します。
村落における一揆・喧嘩を含め一切の私戦を禁止する「平和令」は、徳川幕府にも継承されます。山村における内紛や一揆は、これに刃向かうものです。
     近世の各藩の山村政策について
 近世はじめの幕府・藩は、木材資源確保のために積極的な林業経営を行います。その結果、近世中期になると山はハゲ山になり、保全政策に転換を余儀なくされます。その代表的なものが「一国一円御林山」とされた飛騨と木曽です。
  その展開は山村の側からみれば、二面的な性格をもっていたと研究者は考えています。
一つには、食糧の給付をともなう木年貢制度が、林業開発の遅れていた地方を積極的に開発していく手段として実施されたことです。そのために、材木販売のひきかえに食糧移入や商品の流入が起きて「林業先進地」が現れます。
これに対して山村の側では、給付される米や余剰材の販売で利益を上げる者も現れ、木年貢廃止に対して賛成する立場と、反対する立場に分裂します。例えば、北山(大和)ではこの制度継続を「御救」のためとして一貫して継続を求め続けています。
 しかし、近世中期に木年貢は廃止されていきます。また藩有林の「御林」では留山・停止木、焼畑の制限などが制限されるようになります。そのなかで、山村民の側は、選択を求められるようになります。
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筒井迪夫は、近世領主の山林管理には、次の二つの面があったと指摘します。
A 杉・檜などの特定用材・特用樹に対する排他占有的利用
B 雑木・下草利用を村民に解放した
Bの側面については、「一国一円御林」とされた飛騨においてさえ、生業が林業一本に収斂することはありませんでした。さまざまな山地利用が引き続いて行われています。興味深い例として、御林を実質的には入会地と同様に個人に「割山」した事例や、政策とは無関係に植林を進め林業地帯として成長した遠江北部の事例などが挙げられます。
   しかし村民による林野利用は、用木の規制に正面からかかわるだけに、「領主 VS 村落」という対立構造になりがちでした。その点から見た林政史学の研究が多く発表されています。中でも焼畑は、焼畑跡地への植林という形をとります。用木の伐採および延焼という点だけでなく、常畠化政策や治山政策上の規制など、藩の制限が数多くありました。尾張藩木曽山では、切畑や山稼ぎを制限された山村民側が、愁訴嘆願を行う一方、「報復」としての山火事を起こし、藩の政策を切畑・留山利用の緩和へと転換させた事件が起きています。焼畑は、規制対象というよりも近世中期以降の焼畑検地の対象ともなります。
 関東西部の山村では、山村の生業に対して幕府の次のような介入が行われています。
①御林経営にかかわるもの
②管理責任を村方に負わせた御巣鷹山設定
③炭焼き製炭の請負
 近世山村にとっては、幕府や藩の政策が村の命運を左右することがあったことがうかがえます。

   以上から、民俗学と歴史学では、山村形成史のアプローチの仕方が異なることを押さえておきます。
①民俗学・民族学からは「山村史」が、古代と近世初期の国家による山民・山村の包摂や圧迫という側面からとらえられてきたこと
②それに対して歴史学の側は、中世・近世における領主による山地・山村の支配のあり方に関心を注いできたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 「みつき(三ツ木村)・柏原名主百姓中」宛に出されている「欠年九月二日蜂須賀小六感状」という文書が三木家文書の中にあります。
この文書については、次のように評価されてきました。
①近世初期には蜂須賀小六から三ツ木・柏原の名主・百姓に渡された感状で
②惣村連合としての種野山を構成する惣村の三ツ木柏原名にあてて、天正13年(1585)蜂須賀氏の阿波入部に際して抵抗する勢力の鎮静化の功績を賞したもので
③惣村の惣有文書として位置づけられる。
ここからは、三木家文書の中には、近世初頭の惣村文書があったことが裏付けられます。それが近世半ばになって、多くの偽書が作成されて、その中に紛れ込まされたことになります。それでは、偽書がどんなどんな背景下で、何を目的に作られたのか、それを行った人物は誰なのかを今回は見ていくことにします。テキストは「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。
まず近世に三木家が置かれた状況を、押さえておきます。
天和元年(1681)「乍恐申奉訴訟之事」には、次のように記されています。
「御入国之側、在々為御仕置黒部兵蔵様・久代市兵衛様御廻り被成候節、近村之百姓共右御両人様へしたかい不申候処二私祖父天田兵衛丞。同長左衛門罷出、彼者共しつめ、三つ木村迄御供仕、(中略)
  如先年之刀指申様二被為仰付、井名字之義も御赦免被為成被為下候ハヽ難有可奉存候」
  意訳変換しておくと
(三ツ木村庄屋長左衛門は、先祖の天田兵衛丞が蜂須賀氏の入部の時に挙げた功名について、次のように申し出た。代官の黒部兵蔵様・久代市兵衛様の見廻りの際に、近村の百姓たちが両人様に従わず抵抗しようとしたときに、私の祖父天田兵衛丞と長左衛門は罷り出て、百姓たちを鎮め、三つ木村迄御供仕、…」
という勲功をたてたが、近年無姓になり勲功に見合った待遇をうけていません。ついては、帯刀と天田の姓を名乗ることをお許し願いたい。
代官として黒部・久代の名前が出てくるので、この訴状は最初に見た「天正13年9月の蜂須賀小六の感状」を前提にして書かれているようです。ここからは17世紀末の三木家の置かれた状況として次のような事が分かります。
①戦国末期に三ツ木柏原名にいた三木家の先祖は、三木ではなく天田を名乗っていたこと、
②17世紀後半には無姓であった子孫は、天田姓を名乗ることを申請したこと
③延享4年(1747)に、三ツ木村庄屋長左衛間が庄屋を罷免され、そのあとを分家の元助が引き継ぎ以後惣吉・武之丞と三ツ木村庄屋をつとめたこと。
③については、村内で土地取引に絡む不正事件が起こり、監督責任を問われた三木(天田)家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除,藩主御目見等)を失ったことが他の文書から分かります。その結果、天田(三木)家は経済的にも打撃を受け、またその後に当主の他界・嫡男の早世などが重なり、困難な状況に追い込まれたようです。こうした苦境から三木家を立て直すために、本家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ分家の天田家から恒太を跡取り養子として迎え,庄屋・天田武之丞を後見人としたます。
三ツ木村庄屋を本家に代わって引き継いだ分家の天田家の成長を見ておきましょう。
  阿波では宝永3年(1706)に和紙は藩の専売になります。その中で三ツ木村は和紙生産の模範的な生産地に成長して行きます。寛政2年(1790)「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、麻植郡山分のうち川井・三ツ木・木屋平などの村々の和紙生産について次のように記します。

尤中村山三ツ木村之義ハ、専紙漉を以助成二仕、女迄モ漉覚へ、家ニ人方紙漉不仕者モ無御座程に、川井之義モ紙漉出候得とも、格植付方義茂少、不出精之姿二付相行着候処、三ツ木之義ハ、庄屋天田元助勝手も相応二仕候者二而、元入銀貸付モ仕、余格之紙ハ相調、紙方二仕候者二而、紙方江指出候故、漉人モ多出来仕、川井之義右様之義モ相調不申、其卜不調法二而、女等ハ右業得仕不中、…木屋平村之義ハ奥山分に御座候得共、土地場広、諸作も生宜故、右仕合相応二相当候者モ相見江候処、是又春冬農業之透ニハ、□紙専漉出、御年貢二上納仕其余ニハ漉不申、

  意訳変換しておくと
中村山の三ツ木村については、紙漉を助成し、女も紙漉きを修得し、家に紙漉をしない者がいないほどにまでなっている。川井村については紙漉を行っているが、植付面積が少なく、出荷量も少ない。それに対して、三ツ木村は、庄屋の天田元助が熱心に指導し、元入銀の貸付も行っている。そのため品質もよく、紙方(紙専売役所)にも評判が高い。そのため販路も開け、紙漉職人も増えた。川井村については、三ツ木村のような状況は見られず、生産も不調で、女たちも紙漉きには参加していない。 … 
木屋平村については、奥山分で土地も広く紙以外の産業が盛んなために、三ツ木村のような紙産業の隆盛は見られない。また冬には雪が積もり春冬は農業ができない。そのため紙漉きは専ら、年貢用で、商品として生産する者はいない。
ここからは次のようなことが分かります。
①18世紀末には三ツ木村が紙産業の中心地となっていたこと
②その背景には、庄屋の天田元助の経営戦略の巧みさがあったこと
③三ツ木村の紙が藩の紙役人に評価されて、大坂でも販路を確保していたこと
 以上からは、天田元助は、和紙生産において三ツ木村を大きく発展させた人物で、経済的指導者であったことが高く評価されています。ちなみにこの天田元助については分家が天田を名乗るのは二代目の惣助からであること、さらに三代目武之水は基助ともいわれていることから、初代の元助ではなく三代目の武之丞基助だと研究者は考えています。三ツ木村は分家三代のもとで和紙生産地として大きく発展をとげ、三代目の武之丞の代には藩役人の注目をも引くようになっていたことを押さえておきます。

藩の信頼を得るようになった天田武之丞は、寛政10年(1798)に「麻殖郡三ツ木村百姓恒太家筋由緒書」を藩に提出します。
一、伊左衛門元祖家筋之儀、忌部佐兵衛尉重村と申、元弘・建武之兵乱之節より宮方エ与力仕、軍忠有之、地領種野山之内三ツ木村近郷領知仕、正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、元祖より弐代目三木太郎左衛門尉より官途仕、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖之領知相続仕、代々忠切有之候ニ付、綸旨・宣旨被為 下置候、
其後御国御先祖蓬庵様御入国被為 遊候以来、御順国為 御代黒部兵蔵様・久代市兵衛様上山迄御越被成候所、仁宇・大粟之百姓共御両人様エ御随不申、非議之働有之趣ニ付、曾祖父三木兵衛尉倅長左衛門義、小家之者共、又は三ツ木・柏原之百姓共召連、上山村エ走向、非議之族共相鎮、御両人様之御供申、兵衛之宅エ御越被成、夫より川田村迄御見送り申上、西川田村住友五郎右衛門先祖之儀も家筋之者ニ御座候ニ付、彼方ニ而御一宿被成、翌日舟ニ而 御城下迄御見廻り申上候処、段々骨折之段、 御耳ニ相達可申旨被 仰聞、在宿仕候処、御先代様より右様之御書翰被為 仰附候、其節兵衛尉倅長左衛門被為 召出、蓬庵様エ御目見被為 仰附、御意被 仰出候は、先祖より子細有之家筋ニ候得は、自然御陣等之節は、御用可被召出候、依之先祖身居苗字・大小御赦免被為 下置、猶又小家拾八人無役ニ被 仰附、并庄屋役義も相勤可申様被為仰出候、(後略)
  意訳変換しておくと

一、私共の三木家の伊左衛門の家筋の元祖は、忌部佐兵衛尉重村である。元弘・建武の南北朝の兵乱の時には南朝方に仕え、軍忠があり、地領として種野山之内三ツ木村の近郷を領地とした。正平年間から在名三ツ木村から三木佐兵衛尉重村と三木姓を名のるようになった。2代目三木太郎左衛門尉より官途に仕え、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖の領地を相続した。代々の忠切を認められ、天皇からの綸旨・宣旨もいただいている。
 その後、阿波藩藩祖の蜂須賀小六様が御入国し藩主となられた。国の視察廻遊の際に、代官黒部兵蔵様・久代市兵衛様が三ツ木村に立ち寄られた。その時に、仁宇・大粟の百姓たちが御両人様に従わず、抵抗の構えを見せた。それを見て、曾祖父の三木兵衛尉の倅・長左衛門は、三ツ木・柏原の百姓を引き連れて、上山村へ向かった。そして抵抗する百姓たちを鎮め、御両人様を、兵衛の家にお連れし、川田村まで見送った。西川田村の住友五郎右衛門の先祖も、私共の家筋の者なので、そこに一宿し、翌日に舟で徳島城下まで見送った。(後略)

さらに寛政9年(1797)11月には「麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附」を藩に提出します。
この中で零落している三木本家の復興を目指し、自分の子息恒太を養子として送りこんだこと、同時に、三木本家は由緒ある家柄であるので無姓になっているのをあらため、三木姓を名乗ることを認めてほしいと願いでています。武之丞が書いた由緒書と、百年前に庄屋長左衛門が書いている訴状とを比較して見ると、先祖が功績があったとして無姓からの脱却を求めていることでは共通しています。しかし、注意しておきたいのは次のような相違点があることです。
①復活を求めている先祖の姓は天田ではなく三木になっていること。
②家の由緒について、蜂須賀氏入部時点の先祖の功績ににとどまらず、中世にさかのぼる由緒をも強調していること
②について恒太由緒書は、中世にさかのぼる先祖について次のように記します。

一、御綸旨之儀、文応元年・永仁六年・文保二年・延慶二年・嘉暦二年・正慶元年・暦応元年・康永四年・観応二年・応安六年・至徳三年・寛正四年・正平七年方二十二年迄四ヶ度‥永正九年之御綸旨、先祖之者江被下給、数通唯今二捧伝へ居申候、…先祖之儀者、忌部子孫之由二而、忌部宗時入道同佐兵衛尉重村と申候.其後地名ヲ以、三木衛門尉・同左衛門。同九郎兵衛・同帯刀・同太郎左衛門。同左京之進迄七代相続、右之者其後迄、種野山之内領地二而罷在候、…

意訳変換しておくと
一、(各天皇からの)綸旨については、文応元年・永仁六年・文保二年・延慶二年・嘉暦二年・正慶元年・暦応元年・康永四年・観応二年・応安六年・至徳三年・寛正四年・正平七年から22年まで四度‥
永正9年の綸旨は、私の先祖の者が受け、その数通が今も伝えられています。
…私共の先祖については、忌部氏の子孫で、忌部宗時入道・同佐兵衛尉重村と申します。その後は三ツ木村の地名から、三木姓を名乗り、衛門尉・同左衛門。同九郎兵衛・同帯刀・同太郎左衛門。同左京之進まで七代相続しました。これがその後に、種野山の内領地にやってきました。
ここでは、前半では先祖は天皇からの綸旨を給わっているとし、その目録を提示しています。これを  整理したのが表六です。
ゆうっkまkmんう゛ぁkんう゛ぁlkなs

 上表の27・29・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書です。これに対して脇田氏は次のように指摘します。
「この四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要する」

さらに福家氏は、この四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて19通の同種類の南朝年号をもつ御教書(本書)が阿波山間部にもあること、それらが近世になって作成された文書であることを明らかにします。つまり、これらも近世の偽書ということになります。
 32の「後村上天皇論旨」については、研究者は次のように指摘します。

綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はない。百歩譲って、南朝の場合は軍隊動員上ありえたかもしれないとしても、その場合にも相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが普通。三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわない。

48の「後村上天皇論旨」もかって三木家に所蔵されていた綸旨ですが、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまります。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書と研究者は判断します。とすると自分たちの先祖が中世に遡ることを裏付けるために偽書が作られたことになります。
そして後半では、綸旨を与えられている先祖は忌部の子孫であり、南北朝期の忌部重村と鎌倉後期の宗時を結びつけそれを忌部を名乗る初代とし、二代目以降は地名をとって三木を名乗り戦国期に至る七代にわたり種野山内を本拠として続いていたとします。
それを整理したのが表七です。
三木家文書 中世三木家当主一覧
ここに登場する歴代は重村をのぞきすべて後世作成の偽書に基づいてつくられた系譜です。そして、近世初頭には「天田」姓を名乗っていたことは先ほど見たとおりです。

ここで研究者が注目するのは、最初に見た百年前の庄屋長左衛門の訴状とのちがいです。
百年前には蜂須賀小六感状が自分たちの由緒の「根本史料」でした。しかし、これでは無姓からの回復はできませんでした。そこで持ち出したのが中世に遡る「忌部氏子孫の三木氏」という大義名分でした。 これを援用するために持ち出したのが次の編纂物です
①天明8年(1788)の序文を持つ地元の麻植郡で作られた『川田邑名跡志』
②天明2年(1782)の序文をもち徳島城下町で作られている『阿府志』
ここには再編された中世三木家文書が引用されています。これに加えて、新たに作られた偽書で再編された中世三木家文書群と三木家由緒が用意されます。これらを整えたのは、庄屋天田家三代のもとでのことと研究者は考えています。1790年代の武之丞作成由緒書も、それらの偽書を裏付け史料として書かれています。ここでは、天田家本家(三木家)由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠として用意されたものであることを押さえておきます。

新たに作られた「再編中世三木家文書」と三木家由緒は、どんな特質をもつのでしょうか?
①南朝関係・武家関係の三木家への感状を新たに作成したこと
②それにもとづいて蜂須賀氏入部以前の三木(天田)家の先祖は種野山三木名を拠点にしていた在地領主であったことを強調していること
この背景には、次のような動きがありました。
A 1740年代に、美馬郡を中心とした阿波国地誌『阿陽記』が編集された
B 1744年に、祖谷山政所喜多源内が祖谷山と喜多家の歴史を記した延享本『祖谷山蕉記』を編纂
C 1759年に、祖谷山の高取名主八家が自らの家の歴史(由緒)を集成した宝暦本『祖谷山奮記』作成
こうして見ると、18世紀半ばに「地域の歴史」ブームが訪れ、各地域の歴史書が編纂されたことが分かります。ある意味で、これは郷土史ブームの到来を招きます。例えばCの宝暦本では、祖谷山高取名主八家のうち阿佐家と久保家(阿佐家分家)の先祖は平氏の落人間脇中納言国盛の子孫で、有瀬家は阿波守護小笠原氏のもとでの領主であったと記します。そして残りの喜多・小野寺・菅生・西山・徳善諸家の先祖は、南北朝時代に活動する在地領主だとします。それを裏づけるために新たに偽書として作られたのが南北朝年号文書です。これらの文書の背後には、高取名上を中核とした名主(惣村を基盤にする在地小領主)連合による祖谷山支配こそが祖谷山の本来の姿であるという歴史意識がありました。「望ましい姿(当為願望)」を裏づけるために、新たに偽書が作られる時代がやってきたのです。

 近世半ばになると各村には、古文書・古文献だけでなく棟札・鰐口・石仏・供養塔等の金石文をも調査・学習し、それらに基づく由緒書作成を通じて自前の村落史像を作りあげる村人がいたことが各地から報告されています。その結果、つぎのようなことがもたらされたと研究者は指摘します。
村の歴史を書くことによって村役人層は組織化された村落を時間的にも空間的にも把握することになった」。
「それまで文字で示されることがなかった村の歴史が文字によって明確化され,記憶されることになった」
「地域の歴史が作成者の人文学的教養によって位置づけられるようになった」
ここでは、文字に置き換えられた歴史が,従来の口頭で伝承される「歴史」を塗り替え,外部の価値観に影響されていく時代がやってきたことを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
三木家文書 三木家の近世


①1585年に蜂須賀小六の入部の際に、抵抗する山岳武士の中で天田(三木)氏は、鎮圧側に加担し、感状を得た。
②1681年に、藩へ天田氏の姓を名乗ることを申請するも不認可。ここからは、三木氏がそれまでは、姓をもっていなかったか、何らかの処罰で姓を失ったことがうかがえる。
③1747年 庄屋の地位を罷免され、替わって分家(天田家)が庄屋継承。本家は衰退化
④ この時期から郷土史ブームが沸き起こり、編纂物が出版。背後に偽書の作成流行
⑤1790年 天田家は和紙生産のパイオニアとして経済的発展。
⑥1798年 天田家は本家を三木姓として復興することを藩に申請
ここからは、③から⑥の間に、三木家文書の中に偽書が紛れ込まされたことが見えて来ます。

Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

 延喜式内社をめぐる争論などでは、自分の住む所にある神社を有利にするための偽文書作成が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されてきたと研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」
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阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係


 三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
         三木家文書への偽書混入

以前に「明治の忌部大社所在説をめぐる争論に大きな影響を与えた三木家文書には近世に作られた偽書がまぎれこんでいた」という文章をアップしました。これに対して、どのように偽書が作られたのか具体的に説明した欲しいというリクエストがありました。そこで今回は、三木文書の中の偽書がどんな方法で作られたのが「偽書作成手法」を見ていくことにします。テキストは「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。
戦前の皇国史観のもとでは、天皇とそれに尽くした忠臣を描くことが歴史叙述の大きな役割でした。
そのため南北朝時代の郷土史では、楠木正成に代表されるように誰が南朝方についた忠臣で、どんな活躍をしたのかが歴史探究の課題となります。そして、阿波の麻植郡種野山や美馬郡祖谷山などでは、次の史料と由緒が大きな影響力を持っていました。
A 種野山の三木文書 
 古代以来、忌部氏の子孫である種野山の住人が大嘗会に際して荒妙貢進をおこなってきたこと
B 種野山や祖谷山の南朝年号がある中世文書
 ここから阿波の山岳武士は、南朝方について活動していたことが分かる
 これらは戦後になっても市町村史などの郷土史を書く際には「根本史料」とされ、これに基づいて阿波の中世史は書かれてきました。そのため次のような歪みが見られるようになったと研究者は指摘します。
C 南北朝期の歴史を南朝方在地領主の活動としてのみとりあげること
D 忌部神信仰が古代から近世まで切れ目なく続くものとしてとりあげられること
今回取り上げるのは種野山とよばれていた麻植郡山間部の三ツ木村(三木村)の三木家に中世文書として伝わる三木家文書です。この文書群は近年まで、文献学的な考証や、その真偽が検討がされないまま「中世文書=根本史料」としてあつかわれてきました。まず、三木家文書への疑問の眼がどのように生まれだしてきたのかを「研究史」として見ておきましょう。

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三木家

①1982年 福尾猛市郎氏が写真と対照させながら三木家全文書の釈文作成
この過程で数点の文書について様式からみて偽作文書の可能性があることを指摘。文書そのものへの批判的検討が必要とします。
②1989年に脇田晴子氏は、この文書群を下記の3群に分類します。
A 種野山の在地関係の文書
B 大嘗会荒妙の御衣奉仕関係の文書
C 支配層からの感状類  イ南朝関係  口細川氏などの武家関係
その上で、「疑問文書」が少なからずあることを指摘します。脇田氏の分析で、三木文書の特質・構成や、偽書がどのように位置づけられているのかが分かるようになります。
③2000年に、福家清司氏は阿波種野山・祖谷山・土佐大忍庄の南朝年号文書について比較検討し、次のような事を明らかにします。
A 為仲奉書など奉書関係は近世に作成された偽書であること、
B 三木家文書中にも為仲奉書など近世に作られた南朝年号文書(偽書)があること
これらの指摘を踏まえた上で。研究者は次のような検証の必要性を唱えます。
①どの部分が中世からの伝来文書であり、どの部分が近世作成の偽書であるのか
②三木家はいつ頃、どのような背景下で伝来文書に後世作成文書をつけ加えたのか
③またその目的は何だったのか
まず、中世三木家文書49通の一覧表を押さえておきます。
三木家文書一覧

三木家への感状類を見ていくことにします。感状文書は南朝関係と武家関係の2つに分類できます。このうち南朝関係を整理したのが上の表二になります。この内で、後世の偽書と研究者が考えているものを挙げていきます。
27・29・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書です。これに対して脇田氏は次のように指摘します。
「この四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要する」

さらに福家氏は、この四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて19通の同種類の南朝年号をもつ御教書(本書)が阿波山間部にもあること、それらが近世になって作成された文書であることを明らかにします。つまり、これらも近世の偽書ということになります。
32の「後村上天皇論旨」については、次のように指摘します。

綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はない。百歩譲って、南朝の場合は軍隊動員上ありえたかもしれないとしても、その場合にも相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが普通。三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわない。

48の「後村上天皇論旨」もかって三木家に所蔵されていた綸旨ですが、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまります。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書と研究者は判断します。

武家関係の感状を整理したのが表三です。 .
三木家文書 武家関係

この内の35・39・40については、どれも花押がありますが本物とは思われないと研究者は指摘します。具体的に
35については末尾の「右馬頭」の署名の直下に花押がなく、少し位置がずれていること。
39・40については「官途」が唐突にでてくる点
26は冒頭が「宛行 種野山国衛分三木内在家弐家之事」としながら結びは「所補任之状如件」となっていて、整合性がなくおかしな文書であること
36は「依時之忠、可知行」という知行宛行状としてはあいまいな表現で、正当な伝来文書とできないこと。
そうすると感状類については、武家関係もすべて後世の偽書ということになります。
 次に荒妙御衣奉仕関係文書群については、研究者は次のように2つに分類します。
A 阿波国司に荒妙貢進をおこなうことを命じた文書群
B 荒妙貢進をおこなう御衣御殿人集団についての文書群
これを整理したのが下の表4です。

三木家文書 麁服関係

これについての各研究者の意見は次の通りです。
①福尾氏は24以外は問題はなし。
②脇田氏も全体が文面に難点はなく正文の写しとします。
③福尾氏は「日宣案に二人を連署叙任するのは異例」と疑問投げかけます
④これに対して脇田氏は連署で叙任される例もあり正当な文書とします。
そうすると荒妙貢納の文書群は全体として中世からの伝来文書群で「本物」とみてよいことになります。
次に「御衣御殿人」関係文書を見ていくことにします。

三木家文書 荒妙御衣奉仕関係文書

各研究者の評価は以下の通りです。
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」
2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわない。
5について差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがあるとします。
11については、下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっていないこと。書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないもので、これも偽書とします。

三木家文書 偽文書

21について、福尾氏は「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、22は「勅使の署名に疑問がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とします。
この六通について、研究者たちは内容についても次のように指摘します。   
2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとあります。
5・11で四郎男や氏人黒女は御殿人に属する左方長者らが所役をかけるのは不当とします。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。

20の2通の文書はについて、院宣案という端裏書をもっていますが「院宣」の文言はありません。また誰かの令旨や奉書にしても、名前がないのでだれがどこから発したのかも分かりません。さらに、20と21は、筆跡が似ています。
46と47は、13名の御殿人が連署署名している南北朝期の契約状として著名なものです。
しかし、これは原文書ではありません。近代の写しです。検討してみると、連署者13名の中心となっているのは三木氏村のようです。その名前は文政10年(1837)三木恒大作成の南北朝期から恒太に至る三木家代々を記した『三木氏累祖連綿記』に南北朝期の先祖の一人「三木右近允氏村」としてあらわれるのが初出です。連綿記の三木氏代々のうち中世の部分は表二・表三として整理した後世作成文書を編集しなおして作られています。氏村もこの際に、新たに付け加えられた名前です。これは氏村以外の他の人名もそうです。以上から、この二通の契約状も後世の偽書と研究者は判断します。

 種野山関係文書は、中世種野山にかかわる文書群で20通におよぶものです。
15の冒頭は「麻殖山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」と記します。これについて脇田氏は条々の内容からみて種野山全体が訴えたものとみるのが妥当で、冒頭は「麻殖山番頭百姓等訴申条々」とあるべきものとする。また次の末尾にも問題があると指摘します。15の最大の問題は、代官沙弥の花押だと研究者は指摘します。この花押は16の三木名番頭職補任状の御代官願仏の花押と同じなのです。その上16については下文の場合「下  宛名」となるべき所が「下 三木名番頭職事」となっています。宛名がなく不自然です。具体的には15の冒頭・末尾には作為が加えられており、また16は後世の偽書と研究者は判断します。
41の末尾は、次のように記されています。
…大略注進如件
嘉暦二年三月八日       
沙弥弥意(在起請)
忌部行正(在起請)
忌部吉久(在起請)
但此事者、貞和三年亥歳五月四日政所ョリ……
この文書には種野山全体の在家員数などを書かれていて、15とともに中世種野山の中心的史料です。ところが末尾の三名の署名の位置に不自然さがあります。三名の署名は年月の行とつぎの「但此事…」と記された行との間の余白に押し込められて書かれています。しかも、字体も不揃いです。これは、作成は嘉暦年間の文書ですが、三名の署名は後世に書き加えたためと研究者は推測します。つまり本文は本物、3人の氏名については加筆ということになります。
28・31について、31は友近の譲状で末尾はつぎのようになっています。
正平廿二年二月十二日
九郎兵衛のゆつりしやう
友近(花押)
これも末尾の宛所が不自然だと研究者は指摘します。それは「正平片二年二月十二日」と「九郎兵衛のゆつりしやう」の二行が不自然なのです。後者の「九郎兵衛」は本文と関係がなく、前者の年月日とともに余白に押し込む形で記入されています。同様なことは28にも云えます。28は「とう内」の麦借用状で在地文書ですが末尾の「正平八年十二(月脱)十一日癸巳年とう内(略押)」については、墨の色が本文と違います。字の配置からみても余白部分へ、後世に書き加えられたものと研究者は考えています。そうすると、31・28は本来の文書に正平年号が後世になって書きこまれたと研究者は判断します。
4・6・7の三通は、どれもいづれも下文の形式です。そうだとすると、「下  宛名」となるべきです。ところがすべてに宛名がありません。これでは下文の意味をなしません。
1と4は、正意宛行状案です。1については、出された状況が分からず疑問ありとします。
これら四通に登場する安村(4・6・7)と正意(1・4)について、安村はニロの5に忌部安村として登場する人物です。正意も安村と一緒に登場するので、1・4・6・7の四通も後世に作成された偽書と研究者は判断します。
34では、義興が植渕帯刀尉盛村に名東庄一四条郷領家職を譲るとしています。しかし、名東庄一四条郷はあったかどうか分からない郷名です。さらに「盛村」は表二33「為仲奉南朝感状」の宛先として出てくる三木帯刀丞と同一人物のようです。三木家への感状類と一組になるものとして後世に作成された偽書と研究者は判断します。
 このように中世の者とされてきた三木家文書には、近世になってあらたに書かれた偽書や、年号や名前を後世に加筆したものが数多く含まれていると研究者は指摘します。それでは、何の目的で偽書が書かれたのでしょうか? それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)
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武田明2
武田明とその著書(多度津資料館展示)

前回は武田明が柳田國男に出会うまでを次のようにまとめました。
①武田明は「多度津七福神」と称された多度津の産業資本家の次男として生まれたこと
②旧制多度津中学から慶応大学に進み折口信夫の下で国文学を学んだこと
③その後、柳田國男の木曜会のメンバーとして各地の調査活動を行い、研究者としての技量やネットワークを形成したこと
④大学院卒業は東京で研究者としての道を歩もうとしたが、兄の出征で讃岐に帰ることになった。

1938(昭和13)年3月、武田明は慶応大学大学院を修了します。そして、地元多度津に帰ってきて、高松高等女学校の教員になります。武田にとつては木曜会や民話伝承の会に後ろ髪を引かれながらの帰郷でだったかもしれません。しかし、それが讃岐民俗研究会の発足につながっていきます。今回は、柳田国男が開いた民俗学が、讃岐で武田明によってどのように根を下ろしていくのかを追いかけてみることにします。テキストは 「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
 1930 年前後は,柳田國男が産み出した民俗学が民間伝承の会を中心に,全国の郷土研究の団体が組織化されていった時期のようです。
  その一つの例として北九州・小倉で活動した小倉郷土会を見ておきましょう。 この会について重信幸彦氏は、次のように述べます。「知の実践のかたちとローカリティ 『人文学報』第118号  2021年 11 月」(京都大学人文科学研究所)」(要約)
①この会は,小倉の耳鼻科医・曽田共助をパトロンとして,サロンのように開放されたその自宅を拠点に活動していた。
②1935年から各地の郷土研究の運動をオルグし始めた柳田國男と民間伝承の会とも深い関わりを持つようになる。
③この小倉郷土会を柳田國男の側から見ると,あたかも民俗学の九州支店の一つになったように見えるかもしれない。
④しかし,そのローカルな運動のありようを見ると,小倉郷土会の同人達にとって民俗学は,文学、文献史学,考古学などとともに,あくまでも実践の選択肢の一つに過ぎなかった。
⑤同人達は,民俗学に関心を寄せるとともに,しばしば短詩型文学・小説等の実作に関わり,また考古学に関心を寄せた。
⑥そして雑誌『豊前』を発行し,そこを一つの場として小倉に関わる近世資料を翻刻共有し,同人同士の座談記録により互いの関心を登録し,また小倉の幕末維新から明治期の記憶をたどる「古老」たちの声を記録した。
⑦それらは当時の柳田の民俗学の範疇には入らない,しかし小倉郷土会には欠かせない活動実践であった。
ここで注意しておかなければならないのは、「柳田國男の民俗学の全国展開」という視点ばかりで見ると、見落としてしまうものが出てくるということです。この時代の地方には地域には根ざした歴史や考古学・文学などにわたる運動の広がりがありました。そこに柳田たちの運動が着地し、同調者を増やしていったという風に見る視点が必要だと研究者は指摘します。
 旧制中学校など地元で中等教育を受け,場合によっては上京して大学まで出て故郷に戻ってくる若者が出てきます。彼らは文字を自在に操る力を身につけた者たちで、仕事を持ちながらも運動を続けていく気力と能力を持っていました。彼らの関心は多種多様で、領域横断的です。そのため地域に分散する知的な人々を結びつけるための一つの方法として、「中央」の人や組織を,自分たちのローカルな運動の資源として使うことも多々ありました。こんな視点に立って研究者は、武田明と讃岐民俗研究会を見ていきます。

  兄の友人・和気周一を、民俗学へ勧誘
 武田が讃岐に帰ってくる2年前の『民間伝承』第10号に、「三宅周一」の入会が記されています。三宅周一は、後に和気周一として讃岐民俗研究会や香川民俗学会の中心人物の一人として活躍する人物です。彼は、多度津生まれで武田明のお兄さんの同級生で、寺の息子でした。そのため、多度津の名望家同士のぼっちゃん同士で、早くからの知り合いでした。和気の入会については、武田明が和気周一に、民間伝承の会(民俗学)の話をして、それに興味を持った和気が入会したと研究者は推測します。入会後、和気は1937(昭和12)年2月の『民間伝承』に丸亀市中津の末子相続について初投稿しています。これに対して、編集部は次のようなコメントを載せています。

「讃岐に末子相続のあることは初めて知りました。今日学会で色々の意味から重要視されて居る問題です。充分御調査の上具体的な詳細な発表をされることを熱望して居ます(編集部)」

 雑誌『民間伝承』への投稿に、編集部からの返信を受ける例は少なかったようです。ここにも武田明の存在が背後にうかがえると研究者は考えています。

    須藤功「宮本常一 人間の生涯は発見の歴史であるべし』(ミネルヴァ書房、2022年P279~P281)には、日本観光文化研究所への各地域の協力者が引用されています。その中で四国と岡山県の人名を挙げると次のように記します。
香川県 市原輝士 武田明 和気周一 眞鍋稔
徳島県 多田傳三
高知県 坂本正夫 橋詰延寿 釣井龍宏
愛媛県 森正史 山口常助 村上節太郎
岡山県 角田直一 土井卓二 三浦秀宥 佐藤米司
香川県の協力者は4名です。その中に武田明と和気周一の名前があります。ここからは、二人は早くから宮本常一とも協力関係にあったことが分かります。
1936(昭和11)年11月には、塩田茂が民間伝承の会に入会します。
塩田は、『讃岐民俗』第2号で「恵比寿まはしの歌」を投稿しています。これも、武田明の働きかけがあったようです。さらに、後に讃岐民俗研究会の世話人となる川野正雄は、民間伝承の会に入会していませんが、柳田國男から紹介で知り合ったようです。
1938(昭和13年12月『民間伝承』4巻3号では、「民俗語彙の収集を」と題した会員だよりに、武田明は近況を次のように記します。

「当地の三宅(和気)周一君と連絡の上、九月から仲多度、三豊両郡の民俗語彙を採集致して居ります。高松高女では国漢作文を受持ってゐますので、鈴木棠三君の川越高女の例にならひ昔話の採集をやらせて見度いと思ひます。(多度津 武田明)」

 ここからは次のようなことが分かります。
①帰郷した武田明が、9月から和気とともに民俗語彙の採集を始める予定であること。
②川越高等女学校の鈴木棠三の実践例を参考にして、高松高等女学校の生徒に昔話の採集を行わせる構想があること
 川越高等女学校の鈴木棠三が生徒に昔話の採集を行わせていたことを、木曜会での報告で武田明は知っていたようです。女学生に昔話の採集を行わせるという方式は、丸亀女学校でも行われました。この結果、多くの女性民話採集者が生まれていくことになります。これが讃岐民俗研究会の財産のひとつになっていきます。

同じ号には、香川から「石川知夫」が入会したことが記されています。
石川知夫は、讃岐民俗研究会の世話人をしていた石川和夫の誤植のようです。石川和夫は、「讃岐民俗』第一号で、讃岐民俗研究会発足に関して、次のような文章を投稿しています。

「去る十一月初以来度々武田明君から、座談的に民俗学の話を聴いた。君は中学時代からこの方面に趣味を持たれていたさうだがとても熱心である。そしてただ君自身が熱心であるだけでなく、周囲の人達をその中に溶け込ませるだけの高い熱度を有する。常には無口な君も、談一度び民俗学に及ぶやなかなかの雄弁家である。」

ここからも武田明が帰郷し、讃岐民俗研究会を発足させよううという呼び掛け、座談会に石川が賛同し、民間伝承の会にも参加していく筋道がうかがえます。

研究者は、消印が1938(昭和13)年11月19日付けの武田明が柳田國男に宛てた葉書への柳田の返信(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)を紹介します。そこには
以下のように書かれています。

「會を御作り被成候よし悦ばしき御たよりと存じ候 今月一ぱいなら何か書いて差し上げられさうに候 雑誌及含の名ハやはり多くの人の気分でおつけ被成る候がよろしく候 木曜會の人に相談してもよいが會ハ二十七日には又よいのが見つかるとはきまらず候」

意訳変換しておくと
 (讃岐民俗研究会)を発足させるという嬉しい便りをいただきました。今月中なら私も何か書いて寄稿できます。 雑誌の名前は、多くの人の意見を聞きながらつけるのいいでしょう。木曜会の人達に相談してもいいのですが、27日までに良い名前が見つかるがどうかは分かりません。

ここからは次のようなことが分かります。
①武田明が讃岐民俗研究会の発足に向けて雑誌や会の名前等について、柳田國男に相談をしたこと。
②柳田は、それを悦び、寄稿を申し出ていること
③雑誌名決定については、自分たちで考えるようにと、遠回しに遠慮していること
④柳田は、東京の木曜会のメンバーもこのことを伝えていること。
そして、柳田は創刊号に「ぢんだら沼記事」を寄せています。それはこの葉書の返事に応えたものと研究者は考えています。

1939(昭和14)年1月『民間伝承』四巻四号の会員だよりには、讃岐民俗研究会発足に向けた報告が次のように記されています。

「○讃岐にも研究団体を 今度当地方民間停承会員が中心となりまして民俗研究並びに採集の団体を作る事になりました。既に二回程集合しました。 一年間に四回「民間伝承」と同型式の会報を発行致し、大に県下の同士に呼びかける事となりました。創刊号の原稿は十一月締切りとして着々と準備は進行して居りますが木曜会の諸氏初め広く皆さんの御助力を仰ぎます」

ここからは香川の「民間博承会員が中心」なり、研究会を設立することになったことが分かります。柳田國男の民間伝承の会は、讃岐にも種がまかれ拠点が芽吹き始めたことになります。 この中に創刊号の原稿〆切が1938(昭和13)年11月とあるので、それ以前に、発足会合は行われていたはずです。
こうして、1938(昭和13)年12月25日に『讃岐民俗』第1号が発刊されます。
巻頭を飾るのは柳田國男の「ぢんだら沼記事」です。ここで柳田は、相模の沼にまつわる伝説について述べています。一見すると讃岐民俗研究会となんの関連があるのかは分かりませんが、読み進めていくと、相模の沼にまつわる小さな伝説にからめて次のように記します。

「他の人のまだ心付かぬ文化現象に手分けをして観察の歩を進め、末には巨人の尻餅や地団駄といふような埋没した古い信仰の痕跡までが、一目に見渡されるやうにしてもらひたい」

これは『民間伝承』第一号掲載の「小さい問題の登録」において柳田が述べた「日本民俗学上の諸問題の登録を、この小さな月間物の一つの事業としたい」という文章と、共通する趣旨だと研究者は評します。
 次に来るのが武田明の「民間伝承の話」です。要約しておくと

民間伝承の學、即ち民俗学は生活解説の学問として吾が常民の伝承を其の封象としてきた」
「その特徴は実地見間による資料の比較研究にある」
そのため比較研究にあたっては「より綜合的な全罷的な意固のもと」
「お互いが連絡をとって無駄な採集の重複」をしないようにしたい

ここからは、採集資料のデータベース化、そして研究者間のネットワーク構築を構想した柳田と同じ構想が語られています。
 もう少しエッセンスだけを紹介しておくと
「此学問には吾々郷上人の誰もが豊かな希望を持って参加することが出来る」
「採集は郷土人でなければ理解出来ぬ採集とされてゐる。即ち吾々の採集が最も期待され得る採集だと云ってよからう」
こうして、郷土人としての会員の採集を呼び掛けます。現在の香川民俗学会の大きな特徴でもある「郷土人による民俗学」という姿勢は、ここから生まれていると研究者は評します。
その後に、次のような報告が載せられています。
山村調査で五郷(観音寺市大野原町)を訪れた瀬川清子による「昔話のない村」
栗山雉子彦(武田のペンネーム?による「阿波祖谷山諄」
編集部による「禁忌習俗語彙採集標目」
また会員通信として、次のような文章が載せられています。
石川和夫の「幼き日の思ひ出」
佐柳太郎(これも武田のペンネーム?)の「市埃」
三宅周一の「ユゼキ」
入江道夫の「南無阿弥陀仏の弾」
『讃岐民俗』に掲載されている「本會小規」には次のように記されています。

①会の名前は「讃岐民俗研究会」で、目的は「讃岐を中心とする民間博承の組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡をはかること」
②會報「讃岐民俗」を年四回発行し、会員に無料配布すること、年額は六十銭
③本會世話人は、石川和夫(三豊)、監田忠太郎(仲多度)、三宅周一(多度津)、川野正雄(小豆)、青井常太郎(高松)、多田勇(高松)、九山匡右(大川)、武田明(多度津)
そして「編集後記」には、「目下予定では会員は是非一村に一人以上と望んでゐます」と記されています。
 民間伝承の会の目的と方針については、上記①に「組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること」とあり、一郡一人の会員を目指しています。『讃岐民俗』第一号の紙面構成も『民間伝承』に類似しています。ここから武田明は「民間伝承の会」の讃岐版として、讃岐民俗研究会を考えていたと研究者は推測します。「讃岐民俗』第一号は、発行後すぐに柳田に送られたようです。
翌年1939(昭和14年)1月14日の消印付けの柳田から葉書が、武田の元に残されていました。
讃岐民俗初号先拝見 先つお祝申上げ 之の昔話記述ハ非常な進況となり候 此調子で話しを集出し肝要と存候 誤植及送りかなのまちまちなるハ体裁わるく侯 ■■学問にて多度津を御選任可候 然バ、防長文化、島根民俗、因伯民談、高志路なと交換を求められるやう御すゝめ申候  諸君にもよろしく御伝え 謹言
一月吉日」
  意訳変換しておくと
讃岐民俗の初号を拝見しました。まずはお祝申上げます。この中に掲載されている昔話からは貴会の活発な活動がうかがえます。この調子で昔話を採集することが肝要です。なお誌面の誤植や送りかなの不統一は体裁が悪いです。あなたが学問拠点を多度津に選んだのであれば、防長(山口)文化、島根民俗、因伯(鳥取)民談、高志路なとの会誌交換を行い交流を図って行くことをお勧めします。諸君にもよろしく御伝えください。 謹言
一月吉日」
この中で柳田は、武田の昔話収集への励ましと、会誌体裁統一のへの指摘を行っています。さらに、当時活動を行っていた地方民俗学会である防長文化研究会、島根民俗学会、鳥取郷土会、高志路会と会報を交換し、情報交換や交流を行う事を求めています。東京の民間伝承の会を中心としたネットワークだけでなく、横のつながりを持つことを奨めています。
讃岐での研究会の発足と『讃岐民俗』発刊は、東京の民間伝承の会でも取り上げられています。
昭和14年3月『民間伝承』4巻6号には、橋浦泰雄によって「讃岐民俗」の各論文の紹介があった後に次のように記します。
「遂に讃岐にも日本民俗学の旗が立てられた事を第一に喜びたい。然し旗は比較的容易に立てられるものだが、それを護り成長させる事は、百倍の困難さを伴って居るものであるから、そのつもりで大いに頑張って頂きたい」

同じ号では、
「○讃岐民俗は続刊 遅くなりましたが創刊号送りました。誤植が多くて残念でした。紙材不足の折柄続刊を遠慮してはとの意見もありますが今の庭では続刊の決心です。年末には土佐長岡郡豊永村へ採集へ行きましたが葬制資料として素晴らしいものがありました。柳田先生の酒と民俗の放送も遠く拝聴しました。(讃岐 武田明)」

さきほどみたように「讃岐民俗』第一号では、武田のペンネームと思われる人の投稿が多く、会員からの採集報告は限られていました。 その一方で、民俗学の概論や禁忌習俗や年中行事の採集標目が示され、採集調査の際の共通の土台が築かれたことは大きな意味がありました。特に武田明が「郷土人の調査」を呼びかけたことは、現在でも学会のモットーである「郷土人の民俗学」の発端になったと研究者は評します。
最後に武田明と讃岐民俗研究会発足までの流れを整理しておきます。
①大正三年、武田明は「多度津の七福人」と称される武田家の次男として生まれた
②武田明とともに讃岐民俗研究会を設立する和気周一は、武田の兄の同級生であり、讃岐民俗研究会発足以前より知り合いであった。
③旧制多度津中学5年生の時に、「石神問答』を読み民俗学に出会い、道祖神探訪などを行うようになる。
④慶應義塾大学予科で折口信夫に国文学を学びながら、昔話の採集を始める。
⑤1935年、関敬吾主催の『昔話研究』に投稿をし、関が柳田に紹介する。
⑥木曜会や日本民俗学への出席を通じて、各地の研究者と交流を行っていた。
⑦柳田國男の指示に応じて各地に採集調査を行った。
⑧1936年6月に、民間伝承の会に三宅(和気)周一が入会する。
⑨和気周一は、民間伝承に投稿を続け、編集部から激励をうけ、研究活動(語彙収集)を続けた。
⑩1937年、慶応大学大学院を修了後、兄の召集で研究生活を諦め多度津に帰郷する。
⑪高松高等女学校教諭として、女学生による昔話採集などの実践を行った.
⑫1038年9月以降、和気周一と語彙の収集を行うほか、石川和夫らと座談会を行う.
⑬民間伝承の会会員を中心に、讃岐民俗研究会を発足させ、その中心として活動する

以上から讃岐民俗研究会の設立に至る特徴について研究者は、次のように指摘します。
A「民間博承会員が中心」に設立されたこと
B「民間伝承の会」の讃岐版として讃岐民俗研究会を構想していたこと
C「綜合的な全般的な意同のもと」「お互いが連絡をとって無駄な採集の重複」をしないように武田明は考えていたこと
これらはどれもが、柳田国男が民間伝承の会に込めた構想を継承したものです。1935年の民間伝承の会設立後、武田明によって讃岐に「移植」されたとも云えます。それだけに武田明の果たした役割が大きかったとも云えます。
以上のような整理の上に立って、研究者は次のように指摘します。
①武田明は柳田國男に師事してきたようにみえるが、古典に造詣が深く、万葉集についての講義を家族にしたことがあるほか、能や太鼓についても明るかった
②慶応大学で折口に学んだ国文学がベースになって、昔話の採集に進んでいった
③そのため折口の民俗学をも含みこむ内容でスタートした。
④その間口の広さが、讃岐民俗研究会の特徴でもある。

最後に柳田國男から武田明への葉書で印象的なものを紹介しておきます。
武田明は戦後の多度津町長選挙に立候補して、当選します。その当選直後のもののようです。

武田明宛の柳田國男の葉書


柳田國男から武田明への葉書

最初に出征していた兄の戦死の知らせが届いたことへの悔やみの言葉があります。その後に町長当選によって武田明が民俗学から離れることを危惧して、次のように記します。

「世のために学業をおすてにならぬよう願い上げ候」

ここには、武田氏の研究者としての器を評価し、学問から離れることを惜しむ柳田國男の心情が表れているように思えます。また武田明の子息総一郎氏は次のように述べています。
「柳田氏を師に持ったことを何よりも喜びとしていた父にとって、このはがきは一番の心のよりどころだった」
柳田國男氏が弟子を気遣っていることが見て取れます。武田明が柳田氏からどんな指導を受けていたかや、その関係性を知る手がかりにもなります。

讃岐の風流踊りについて書かれた書物や論文を読んでいると、否応もなく「讃岐民俗研究会」の残した業績に出会います。その中心にいたのが多度津の武田明です。しかし、武田明の生い立ちや業績については、断片的な知識しか私にはありませんでした。そんな中で出会ったのが「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月)」です。これを読んだ跡を読書メモ代わりに残しておきます。
 
   北前船の寄港地として、船主と、北前船を利用して各地の物産を売り買いする商人が現れます。それらの商人を廻船問屋といい、多度津でとくに有名な廻船問屋で財を成した商人を「多度津七福神(武田3・塩田2・合田・景山)」と呼んでいました。

多度津七福人
P1240919 多度津七福人
多度津七福人 商業資本から産業資本へと脱皮していく
彼らは明治時代になると、鉄道・銀行・電力など近代産業に積極的に投資して、産業資本家へと成長して行きます。武田明の生家は、曽祖父の代までは北前船で砂糖を商い、分家して以後の祖父熊造の代には肥料を商うようになります。
祖父の武田熊造は、1915(大正4)年の「人事興信録」には、次のように記されています。
香川縣平民  職業 多度津銀行、四國水力電氣株式會 各取締役 
安政元年((1854)九月二十三日生武田茂祐の二男  妻 リサ 
(略伝)
君は香川縣平民亡武田茂祐の二男にして安政元年九月二十三日を以て生れ後、分れて一家をなす。現時前記諸會の重役たり。家族は前記の外、
七女秀子(明二九、八生)・八女艷子(同三三、一二生)・九女子(同三八、二生)
孫淳(同四五、二生、二男亮太郞長男)あり。
三女ツネ(同一八、四生)は香川縣平民武田茂?
四女タメ(同二一、九生)は同縣平民大西利三郞二男豹治郞に
妹ヱイ(安政四、二生)は同縣平民景山甚右衞門に
同モト(元治元、一〇生)は同縣平民武田定治郞に 
五女末(明二三、五生)は同縣平民武田定次郞長男謙に嫁せり」
祖父熊造について、多度津町の作成したパンフレットには次のように記されています。
 安政元年(1854)9 月 23 日 生 ~ 大正 11 年(1922)3 月 28 日 没 69 歳 
菩提寺:宝性寺(本通一丁目)
廻船問屋・米穀肥料を営む。武田家分家。初代 武田茂祐の次男に生まれ、分家して米穀肥料商を営んだ。㈱多度津銀行の創立に携わり、讃岐電気㈱・四国水力電気㈱では取締役として、景山甚右衛門とともに事業の再建と安定化に尽力した。また、多度津商工会議所の前身団体や教育団体「明徳会」の設立に携わったほか、県立多度津中学校の設立に際して寄付を行ったり、私財を投じて公会堂「楽水館」を建てたりするなど、教育・産業発展のための活動にも熱心であった。政治家としては、多度津町会議員を数期にわたって務めるなどして活躍した。妹は景山甚右衛門の妻エイ。また、第14代町長で民俗学者でもある武田明(1913~1992)と、版画家の武田三郎(1915~1981)は熊造の孫である。
   ここからは祖父の熊造は、多度津銀行や讃岐電気株式会社の経営者でもあり、香川の近代化のパイオニア的な人物だったことが分かります。また、「多度津七福神」の総帥と言われた景山甚右衛門の妻は、武田明の伯母になるようです。。

   武田明の父・武田亮太郞については1928(昭和3)年版に次のように記されています。
多度津銀行、共益、多度津製氷各(株)、取締役 慶尚共立銀行、多度津魚市場、讃岐土地各(株)監査役
明治二十年二月 (1887)生 武田熊造の二男  妻 ハナ 
君は香川縣人武田熊造の二男にして明治二十年二月を以て生れ大正十年家督を相續す。現時前記各銀行會社の重役にして、縣下の多額納税者たり。
家族は二男明(大二、一二生)・三男三郞(同四、一二生)・五男迪雄(同九、四生)・六男睦也(同一二、一一生)・七男杢夫(同一四、三生)・八男克也(同一五、七生)
ここからは、武田明が8人兄弟の次男として、1913(大正2)年に生まれたこと、長男の戦死後は跡継ぎとなったことが分かります。

武田明の長男・総一郎氏が近所の人から聞いた話として、次のようなことを伝えています。
①武田家は多度津町から琴平にむけて、幅50m×14㎞の大地主だった。
②商家・大地主だった武田家には、小作人を束ねる支配人や、家に勤める男衆など様々な人々がいた。
以上からは武田家が北前船の寄港地で富を蓄積した「商業資本家」から、明治になって近代産業の「鉄道・銀行・電気」などに投資して、「産業資本家」へと成長して行く姿が見えてきます。同時に、彼らは利益を土地購入にも向けて大地主としての性格も持ちます。武田明は「多度津七福人」と称される飛び抜けて裕福な家の次男として育ったことを押さえておきます。同時に、大地主でもあった家には、多くの農民達や出入りしていたようです。これが「常民」への視線につながっていくのかもしれません。
武田明は、祖父が開設に尽力した旧制多度津中学に進学します。それまでは多度津に旧制中学はなかったので、その設立は地域の願いでもありました。
石川和夫は、旧制多度津中学校時代の武田明について次のように記します。(1938年)
①「(多度津)中学時代から民間伝承に趣味を持っていた
②「旧制中学5年のころに、家にあった柳田の『石神問答』と出合い刺激された。
③そして、一人で山深く道祖神をたずね歩くようになった
④もともと絵画が好きで、美術史を専攻したかった
⑤しかし、美術大学は学生数が少ないのと、美学という哲学のジャンルも学ぶことが求められるのが厭で断念
ここからは、柳田國男の本が家にあったこと、大学選択に関してもいろいろな情報を手に入れているなど、知的な環境の中で育ったこと、そして旧制中学時代から道祖探訪などを行っていたことが分かります。
1931(昭和6)年、武田明は、折口が教鞭をとる慶応義塾大学へ進学します。
そこで「万葉集をはじめとして源氏物語国文学史芸能史」などを学ぶと後に書いています。同級生には、加藤守男や池田爾三郎など後の国文学・民俗学者がいました。武田が昔話を専門とするようになったのは、折口の講義の影響があるようです。
1934(昭和9)年の春休みには、昔話採集のために初めて阿波の祖谷に入って、人形劇の三番雙まわしに出会います。そこで翁の神歌とちがって伝承されていない歌詞があると知ります。これが後の「祖谷山民族誌」につながっていくようです。

祖谷山民俗誌 (1955年) (民俗選書 民俗学研究所編)  武田 明,


武田明と子泣き爺
子泣き爺を阿波で最初に発見したのは武田明 

1935(昭和10)年、7月31日から8月6日には、日本青年館で日本民俗学講習会が行われます。この時の開会の辞で柳田國男は、次のように述べています。

三重、宮城、島根、香川、福岡等の重要な数県から一人も賛同者を得なかったことは残念である

ここからは、香川県からは参加者はいなかったようなので、武田明も入会していなかったことがうかがえます。

民間伝承 第十一巻第二号 民間伝承の会

しかし、その年の12月20日発行の『民間伝承』第4号に、新入会員として武田明の名があるので、この頃に民間伝承の会に加わり、柳田國男と出会ったと研究者は考えています。

1935(昭和10)年、7月31日から8月6日には、日本青年館で日本民俗学講習会が行われます。
武田明は「柳田先生の絵はがき」と題した追想で、柳田との出合いを次のように述べます。

「成城のお邸に始めてお伺いしたのは、確か昭和十(1935)年で関敬吾さんの御紹介でした。丁度その頃は雑誌「昔話研究」が刊行されて居り、阿波の祖谷の昔話を集めて来たのを先生にお目にかけると、大層励まして下さいました。それからは月に二回ぐらいお伺いしていました」

 一方で、関敬吾は次のように記します。

「武田君と初めて会ったのはいつか、もう定かに記憶していない。多分、わたしが雑誌「昔話研究」を編集していた昭和十年か十一年ごろであったろう。柳田□男先生の引合わせで、私の隔居を訪ねてこられた」

柳田國男から武田明への葉書3

柳田國男から武田明への葉書2
柳田國男から武田明への葉書(東京からの帰郷後のもの)

以上をまとめておきます。
①武田明と民俗学の出会いは、家に出入りする農民たちの暮らしに興味を持ったことに始まる。
②家にあった柳田國男の「石神間答」を読んだことで、民俗学を志す。
③慶応義塾大学予科で折口に学んだことで昔話採集をはじめ、「昔話研究」への投稿を通じて柳田と出会った。

当時の柳田國男は、木曜日ごとにほぼ毎週、砧(きぬた〔現世田谷区成城〕)の自宅で、民間伝承論を講義していました。
この聞き取りにあたったのが、後藤興善・比嘉春潮、大藤時彦、杉浦健一、大間知篤三、橋浦泰雄などでした。この中の後藤興善は後に早稲田大学の教授としてマタギの研究などで知られるようになります。この講義はのちに『民間伝承論』という題名で出版されます。このあつまりが1934年(昭和9)1月から戦後の1947年3月までつづく「木曜会」の始まりになります。「木曜会」は柳田邸を拠点とする民俗学サロンで、月に1、2回開かれ、300回以上続きます。このサロンで、全国の山村・海村調査などが計画され、研究が深められていくことになります。そして、国男の書斎は「郷土生活研究所」と呼ばれるようになります。
 木曜会に出入りしていたのは次のような人達でした

桜田勝徳・守随一、山口貞夫、最上孝敬、瀬川清子、萩原正徳(「旅と伝説」編集長)、佐々木彦一郎、倉田一郎、関敬吾、島袋源七、和歌森太郎、丸山久子、金城朝永、鈴木棠三

この中に慶応大学在学中の武田明も飛び込んでいくことになります。ある意味では木曜界に集ったメンバーが柳田國男の弟子ということになります。

柳田國男と木曜会
柳田國男と木曜会のメンバー
三軒茶屋に下宿していた武田は、柳田邸での木曜会のことを次のように記します。

木曜会の皆さんの採集報告を聞かせて戴いたり、先生のお話を伺って私にとってもこれほど有益なことはありませんでした」(武田1969)

同席していた大藤ゆきは、昔話の報告をした武田を次のように評します。
「黒い詰衿学生服の清楚な慶應ボーイ」

柳田國男は1936(昭和11)年8月に「山の神とオコゼ」と題して、次のような報告を発表しています。
「志々島では、漁の初めに葉オコゼが網にかかると、其日はマンが悪いと云って嫌ふ」(柳田1936年)

この記述は武田明の報告に依拠しています。ここからは柳田の問題提起に応じて、香川県の事例を木曜会で報告していたと研究者は考えています。

以上をまとめておきます。
①武田明と民俗学の出会いは、家に出入りする農民たちの暮らしに興味を持ったことに始まる。
②そして柳田國男の「石神間答」を読んだことで、民俗学を志す。
③慶応義塾大学予科で折口に学んだことで昔話採集をはじめ、「昔話研究」への投稿を通じて柳田と出会った。
1936(昭和11)年には、雑誌『民間伝承』に志々島の餅無し正月や三豊のモモテなどの多数報告をするようになります。そのやりとりを研究者は次のようにまとめています。
①6号で柳田が田植えの夢を見ると近親が死ぬ言い伝えを紹介
②8号で宇和島市の会員山日常助が夢の良し悪しを報告、
③9号で広島県の山田次三の夢についての報告
④これを受けて第10号で、武田明が財田村で田植えの夢が忌まれることを報告
ここからは『民間伝承』では、柳田の話題提供の後に会員がそれに関する資料を報告するという流れで進められていたことが分かります。
 雑誌への報告だけでなく、当時の武田明の次のような活動が確認できます。
①1936年8月開催の第2回日本民俗学講習会に参加
②8月11日から、山村調査で三豊郡五郷村(観音寺市五郷)を訪れた瀬川清子に随行
③「柳田先生から行って来いと言われ」、福島県双葉郡に昔話の採集調査を行い、その成果を「昔話研究12巻4号」に報告
④1937年10月末から、長野県八ヶ岳山麓での採集調査。
④の八ケ峰山麓の調査のことについて、武田明は次のように記します。

「福島県の双葉郡や信州の南佐久郡、伊予の怒和二神の島々へ先生から昔話採集に行くようにすすめられて行って来ました。双葉郡の昔話は採集して来たのをお目にかけた処、方言の記述の仕方が間違っていると散々おしかりを受けました。雑誌「昔話研究」は方言研究の人々も見ているのだから、よく注意するようにと言われ、その後は行く前には土地の方言を調べてから行くようにしました」(武田1992)

この時には、柳田國男から少額ながら旅費が渡されています。柳田國男の手足として調査活動を行う一方で、厳しい指導を受けていたことが分かります。

武田明氏の調査ノート、テープ、カメラ
武田明愛用のノートやカメラ
1937(昭和12)年4月末には、渋沢敬三にも出会います。
  渋沢栄一の孫敬三は、実業家、政治家のかたわら民俗学にも関心を寄せ、自宅にアチックミュージアム(屋根裏博物館)を私設し、宮本常一らを全国に派遣し、漁村・漁業資料や民具の収集に力を注いでいたことは以前にお話ししました。渋沢は、1937年に自ら船を仕立て、「瀬戸内海島嶼巡訪調査」として岡山から香川県域の備讃瀬戸の島々を調査を行うことになります。大学院在籍中の武田明もこれに誘われたようです。

瀬戸内島嶼巡訪調査時の記念写真
瀬戸内海島嶼巡訪調査のメンバー
 こうして5月15日から20日にかけて、備讃瀬戸の島々を船で巡るの調査活動が行われます。

瀬戸内島嶼巡訪調査

その時の旅行の記録をまとめたもので、採訪先で各々がノートに書き留めた土地ごとの暮らしや生業、民具、民家のつくり、信仰、行事、語彙といった事柄が記されています。この船には、澁澤のほかに宮本常一など著名な民俗学者や、岡山の郷土史家・岡長平も参加していていたようです。参加メンバーを挙げておきます
〈東京〉礒貝勇、岩倉市郎、小川徹、櫻田勝徳、澁澤敬三、高橋文太郎、武田明、宮本馨太郎、村上清文、山口和雄
〈岡山〉岡長平、高戸都三、永山卯三郎、花田一重
〈大阪〉宮本常一
〈広島〉結城次郎
〈高松〉高野敏夫」
巡回コースは次の通りです

  第一日】  八濱
【第二日】 味野  釜島  興島  岩黒島  櫃石島  田ノ浦
【第三日】 六口島 手島  小手島 佐柳島  眞鍋島  小飛島  大飛島 走島
【第四日】 魚島 高井神島 股島  伊吹島  室濱   志々島  高見島
【第五日】 鹽飽本島  牛島 沙彌島 瀨居島
【第六日】 牛窓町  前島  豐島  男木島 女木島
このような調査活動には宮本常一も参加しています。船での調査活動を通じて、研究者からいろいろなことを学ぶと同時に、ネットワークを形成していったことがうかがえます。同時に、武田明の瀬戸内海への島々の関心は、この時期から生まれていたことが分かります。

備讃瀬戸の民俗と風土(文 武田明 写真 高橋克夫

武田明は慶応時代の学生生活を振り返って「授業に出ずに、ほとんど調査をしていた」と回顧しています。それが頷けるほど各地で調査活動を行っています。こうして「木曜会や日本民俗学講習会への出席 + 各地への調査活動 = 民俗学者間のネットワーク形成」へと繋がっていきます。

1938(昭和13)年3月には、武田明は慶応大学大学院を修了します。
その後も研究生活を続けるつもりでしたが、兄が招集を受けたために東京での研究者としての道を諦め、地元多度津に帰ってきます。そして選んだが高松高等女学校の教員でした。この時の武田は、木曜会や民話伝承の会に後ろ髪を引かれながらの帰郷だったかもしれません。しかし、それが讃岐民俗研究会の発足につながっていきます。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
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「秀吉の四国平定」の讃岐侵攻については、「黒田家譜」や「改選仙石家譜』、「森古伝記」などの編纂資料を比較すると、多少のちがいはありますが、その推移はほぼ一致します。それを整理すると次のようになります。

四国征伐・宇喜多軍
           宇喜多軍の進撃ルート 讃岐を通過して阿波へ (黒 毛利軍)

秀吉の四国出兵 讃岐方面

ここからは東讃では、長宗我部方の抵抗はほとんどなく、短期間で軍事行動は終わったようです。宇喜多勢が植田城を放置して阿波に転戦できた背景には、讃岐東部には十河氏や安富氏をはじめとす反長宗我部勢力がいたことがあげられます。放置して通過しても、十河・安富氏がいるから大丈夫と判断したからでしょう。長宗我部軍による東讃制圧から僅かに期間で、地に根を支配体制がまだ出来上がっていなかったと研究者は考えています。
それを裏付けるものとして、秀吉軍の上陸を手引きをした香川郡の横井氏がいます。
横井家家系 丸亀市今津
羽柴軍を手引きした横井氏の系図

横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住んで、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主がこれ戦ったことが分かる文書もあります。そして秀吉軍の四国侵攻の際には、その手引きをしたことを示す文書も残っていることは以前にお話ししました。そのことが記されているのは天正13(1585)年5月4日付けの横井家当主の丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。ここからは横井氏が小豆島に亡命中の安富氏や十河氏と連絡をとりながら諜報活動等を行っていたことが見えて来ます。横井元正は、この書状を受け取ると同時に、仙石氏の屋島上陸作戦に備えるための行動を開始したことでしょう。そして、長宗我部方の城の情報なども伝えたのでしょう。このような反長宗我部方の土豪たちが東讃には数多くいたようです。ここからも長宗我部元親による東讃支配は不安定だったことがうかがえます。
 こうして屋島に上陸した宇喜多直家軍は、限定的な戦闘だけで阿波に転戦していきます。阿波が主戦場で、讃岐は通過のみのような印象を受けます。このように軍記ものに出てくる秀吉の讃岐侵攻は東讃だけが舞台で、それも植田城を放置しての「通過」として記されています。
書かれていない西讃方面は、どうだったのでしょうか? 
 具体的には、長宗我部氏と親族関係を結び同盟関係にあった天霧城主香川氏に対しては、秀吉はどのような対応をとろうとしていたのでしょうか? 従来は、秀吉の四国出兵の際の讃岐攻めは、東讃だけが想定戦闘エリアとされてきました。つまり、香川氏に対しては、兵力を差し向ける意図もなかったというのです。それに再考を求める【史料】を見ておきましょう。
前回も見た毛利方の吉川元長が国元に送った書簡には、次のように記されています。
毛利軍の天霧城攻撃目標設定史料

意訳変換しておくと

「また阿波方面については、羽柴軍が一宮・岩倉・脇城を取り囲んでいるが、これらも近日中には落城するだろう。そうすれば、(香川氏の居城である)雨霧城にも兵を差し向けることになろう。それで、阿波・讃岐・伊予の三国共に決着することになる。

ここには阿波戦線が片付けば、香川氏の居城雨霧(天霧)城への攻撃も予定されていたこと、そして香川氏を叩いて、四国平定の決着をつけると認識していたことがうかがえます。しかし、天霧城攻めは、それよりも先に長宗我部氏が降伏したために実行されませんでした。それでも和議成立後の8月には、羽柴秀長と小早川隆景が実際に「西讃岐」まで赴いて、香川氏と面会したようです。ここからは秀吉の戦略上の想定に讃岐西部が含まれていたと研究者は判断します。

香川氏の安芸亡命
香川氏は天霧城落城後、毛利を頼って安芸亡命 帰国は元吉合戦の時であった。

それでは香川氏は、羽柴軍や毛利軍の動きをどのように警戒していたのでしょうか?
三野郡の秋山氏に宛てた(香川)四郎五郎の書状を見ておきましょう。
毛利氏の伊予侵攻 香川氏の警戒

意訳変換しておくと
 戦況に対する情報がもたらされたので伝えておく。秋山氏が派兵した兵力について、早々の帰還についてを羽久地(白地)の長宗我部元親にお伺いしたところ、近々に帰還予定とのことであった。なお、油断することなく細心の対応をすること。櫓などの修築なども怠らないこと。観音寺方面の情勢については、油断のないように注視・対応すること、新居・西条あたりからは今朝より、兵火が上がっているようだ。伊予方面の情勢を今後も注意深く見守ること。
 与岐(余技崎)・ミの(箕浦)浦に煙(狼煙)が立ちのぼっているという報告も受けているが、その実態は分からない。観音寺については、主人が留守でであるので、その動向を注視したい。三孫(三野氏)へも、その旨のことを伝え、警固を強化するように指示した。明日にも、柞田・観音寺方面で軍事的な動きが発生することも考えられる。西表之衆(反長宗我部勢力?)が集結し、進軍してくることもありえる。そのために観備(観音寺香川氏)と連絡を取り、協議しておく必要ある。与次兵が帰還して、詫間衆へは連絡がついている。大見(秋山氏?)には番衆を派遣した。 くれぐれも貴所次第被相談候へと被仰候、其御心得候て、可然様御才覚肝要候、西表之事も其分別たるへく可被仰談候、恐々謹言、      
 (天正十三(1585年) 七月十九日                                (香川)四郎五郎(花押)
(秋山)木工御宿所
ここからは次のような情報が読み取れます
①天霧城の香川氏の関係者である「四郎五郎」から、三野の秋山氏(木工)への書簡であること。
②毛利軍の伊予上陸で戦闘が激化し、新居・西条あたりで火災が起きていること
③伊予との国境の与岐(余技崎)・ミの浦(箕浦)からの煙(狼煙?)が上り、三豊地方に軍事的な警戒感が強まっていること
④「三孫(三野氏)」や「観備観音寺(香川)備前守)」を、香川氏配下の自軍の者としてあつかっていること
⑤それに対して、観音寺方面の軍勢を「西表之衆」と呼んでいる
⑥香川氏が派遣した軍勢の帰還に「羽久地(白地=長宗我部元親)」の指示が必要になっていること、

天霧城3
香川氏の天霧城
西方で発生した兵火が新居や西条方面ものであることは、日付からみて金子元宅が籠る高尾城攻めの戦火と研究者は考えています。その根拠は次の通りです。
A 金子氏の高尾城落城は17日夜の出来事である(【史料】「十七日亥刻落去仕候」)
B 翌18日以降にもたらされ伊予東部の異変に関する報告
C その報告への返書が、19日付のこの四郎五郎書状
つまり、この史料に年紀は入っていませんが、天正13(1585)年のものと研究者は判断します。この香川氏の書簡からは、毛利勢が伊予制圧後に讃岐方面に東進してくるのではないかと警戒を強めていたことが分かります。そして、配下の三野氏や秋山氏、「観備観音寺(香川)備前守)」と連絡を取り合いながら、軍勢配置を確認するとともに、防御施設の準備を進め、毛利軍の侵攻に備えています。ちなみに観音寺方面の敵対する軍勢を「西表之衆」と表記しています。これがどのような勢力を指すのかも、今の私には分かりません。
 この史料からは、秀吉の「四国平定(出兵)」が今まで言われてきたように、讃岐東部に限定した作戦でなかったことが分かります。東讃を通過した宇喜多勢は、一旦阿波へ転戦しますが、長宗我部氏の出方次第で、香川氏を攻めるために西讃にやってきて、三豊も戦場となる可能性があったのです。このあたりのことは、南海通記などの軍記ものでは何も触れていません。

 次に、秀吉が戦後の讃岐支配について、どんな指示を出していたかを見ておきましょう。
  8月4日ニ「秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に書状で伝えています。その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)

一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、
意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)

一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、国衆で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行として与えること
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと

仙石秀久に讃岐を与えることが指示されています。そして、与力として、安富氏と十河氏をつけるとことが記されています。しかし、占領した緒城の扱いなどについては何も触れていません。これについては、各地の城についてまで詳細な指示を出していた阿波の戦後占領方針とは対照的なことを押さえておきます。
 こうして讃岐には秀吉の命を受け仙石秀久が入部しています。仙石氏は、最初は宇多津の聖通寺城に入城し、讃岐東部に拠点をもつ十河氏、安富氏を与力とします。
それでは、無傷のままに接収した天霧城はどうなったのでしょうか?
先ほど見た史料の中に「讃州■吉・雨霧可取懸との由候」とあったように、天霧城攻めが当初の攻撃目標にリストアップされていたことは確かです。しかし、無傷で残った天霧城を、仙石氏が活用したという痕跡はありません。
 ここからは、秀吉の西讃への軍事行動は城主香川氏を標的とした作戦であったと研究者は考えています。その背景には、長宗我部元親の次男が香川氏を継いで、長宗我部元親の同盟軍として讃岐制圧を行ったことへの報復・見せしめ的なものではなかったかと云うのです。それは、前回見た伊予の金子氏と同じ立場であったことになります。そうだとすれば、香川氏は秀吉に降伏しても、厳しい措置が待ち受けていたはずです。その後の仙石氏や生駒氏に登用される道も閉ざされていたことになります。在野に下っても、「長宗我部元親の手先」として厳しい世間の目が待ち受けていたことになります。香川氏が、土佐に亡命するという道を選んだのも納得できます。ここでは、予定されていた天霧城攻撃も伊予東部と同様に、拠点確保ではなく、香川氏を標的とした作戦であったこと。それを知っていた香川氏はいち早く土佐に落ちのびたことを押さえておきます。
こうしてみると秀吉の対讃岐戦略には、東讃と西讃では異なる戦略方針があったことがうかがえます。
東讃では、出兵の前から十河氏や安富氏などの羽柴方に味方する勢力が根強く残っていました。そのため屋島に上陸した宇喜多軍が直面したのは、長宗我部勢を牽制する程度の局地戦にとどまりました。そして、上陸後は植田城を無視して、短期間で阿波の木津城攻めに合流しています。ここからは羽柴軍の当初の戦略は、讃岐よりも阿波の制圧を優先したことがうかがえます。
 一方、長宗我部方の香川氏が支配した西讃については、毛利軍が天霧城攻めが計画していました。そのため元親の降伏が遅れれば、西讃は戦場となり、天霧城をめぐる攻防戦が展開された可能性があったと研究者は考えています。
 平井氏は毛利氏の伊予侵攻について、次のように述べています。

「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」「秀吉にとっ四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」

 藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

以上を要約・整理しておきます。
①秀吉は讃岐制圧のために宇喜多直家を大将とする軍を小豆島を拠点に送り込んできた。
②宇喜多軍は屋島に上陸して、最小限の限定的な戦闘だけで阿波に転戦した。
③ここには秀吉とって、四国平定の主戦場は阿波にありと認識されていたことがうかがえる。
④宇喜多軍の屋島上陸で、安富氏・十河氏など反長宗我部の諸勢力が抵抗が活発化して、讃岐は放置しても脅威にはならないと判断したのかもしれない。
⑤一方、天霧城の香川氏の対応については、従来の軍記ものは何も語たらず、土佐に亡命したことだけが記される。
⑥しかし、毛利側の戦略には新居浜・西条制圧後は、東進して天霧城を攻めることが予定されていた。
⑦それは、香川氏が秋山氏に送った書状などには毛利軍の動きと、戦闘準備の対応策が記されていることからも裏付けられる。
⑧しかし、長宗我部元親は早期に降伏し、香川氏は土佐に落ちのびることを選択した。
⑨無傷で残った天霧城は放置され、これを仙石氏や生駒氏が活用した痕跡は見られない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

毛利の伊予出兵は、秀吉の戦略方針・指示のもとにおこなわれたと研究者は考えています。毛利氏は秀吉から、4月の段階で伊予方面の担当を命じられ、さらに5月下旬には、次のような指示を安国寺惠瓊を通じて受けています。
「仍動方角之儀、以安国寺従羽筑被申候間、至上伊予新居・宇摩郡諸勢差渡候」

意訳変換しておくと
「伊予方面への兵力派遣については、安国寺惠瓊が羽筑秀吉より指示された通り、伊予新居・宇摩郡方面へ差し向けること」

ここからは「秀吉 → 安国寺恵瓊」というルートを通じて、新居・宇摩郡へ侵攻するよう指示を受けていたことが分かります。なぜ新居・宇摩郡だったのでしょうか? それは後ほど見ることにして、先に進みます。
 五月下旬の時点で、小早川隆景はすでに出港準備完了段階だったようです。しかし、先述したように、秀吉と長宗我部氏の国分案に毛利氏(特に小早川隆景)が強く反対し、水面下での交渉は難航し、出兵が伸びます。最終的に小早川隆景が毛利勢を率いて伊予に渡したのは、1ヶ月後の6月27日のことでした。この時には、秀吉から伊予一国領有の確約を得ています。伊予戦線の簡単な経緯は、次の通りです。
四国征伐・毛利軍
毛利軍の進撃コース
秀吉の四国出兵 伊予方面NO1

 ここからは毛利軍がまず目指したのが新居郡の金子元宅の城であったことが分かります。金子氏を撃破した後に、東の川之江方面、西の今治・松山方面に進撃しています。
毛利家と吉川家
そのことを押さえた上で、小早川隆景の甥の吉川元長の書状をもとに伊予の戦いをみていくことにします。
毛利氏の伊予侵攻 吉川氏の書状

 意訳変換しておくと
 現在は、土州長宗我部征伐のために、(川之江の)仏殿城から六里ほどに後備えとして布陣している。今までの経過を述べると、日に今治に着岸し、そこで叔父の小早川隆景と今後の方針を協議した。そして竹子まで進軍し、陣を敷いた。14日に高尾城と丸山城を包囲し、出城の丸尾城は当日に落城させた。高尾城も、その日のうちに攻め落とそうとした。しかし、隆景公が云うには、この先の数ヶ所の城には、土佐勢が入って加勢してるので士気も高く、強引に攻めるとこちら側の負傷者も増え、今後の戦闘に支障がでるかもしれません。そこで、翌日十五日から仕寄戦法を採用して、負傷者が出来るだけでないようにしながら、戦意高揚を図った。その結果、17日亥刻に落城させた。城内の金子(元宅)備後守を始め、六百余の兵を打果した。これを見て、高峠・近藤しやうし山・小城・岡崎・金子本城の兵は戦わずして逃亡した。下伊予方面の五つの城からも兵は逃走し、今では川之江の仏殿城だけが残っている。これも近々に落城するであろう。
 長宗我部元親の籠もる本陣がどこに置かれているのかが分からない。ちなみに今張津(今治湊)から高尾城までは道前と云う。そして、このあたりは新居郡と呼ばれる。これは宇摩郡の仏殿城を境に、阿波や讃岐と国境を接する。現在、阿波の一宮・岩倉・脇城は羽柴軍が攻城中であるが、近日中には落城するであろう。
 また讃州方面の雨霧城へも進軍して取り囲む予定である。阿波・讃岐と伊予の境界の戦いも、今少しで決着がつくであろう。そうすれば急ぎ帰陣し、みなを安心させることができよう。又某気分きとくニ能候、今日迄ハ如形候、可御心安候、定而無御心元可被思召と存、申上事候く、万慶重畳可得尊慮候、恐惶敬白、(天正十三年)
 七月廿七日                     元長(花押)
ここには今治に上陸し、先に渡海した小早川隆景らと合流しています。そして、まっすぐに新居郡の金子氏が籠る高尾丸山両城に攻めかかっています。そして、「仕寄」戦法で攻め寄り、17日の夜に高尾城を落城させ、金子元宅をはじめ六百余名を討ち取ったと伝えます。

高尾城と金子氏


 伊予東部における中心的人物であった金子元宅が討ち取られたことは、長宗我部方の諸将にとっては大きな衝撃だったようです。高尾城の落城後、高峠城・近藤城生子山城や小城・岡崎城・金子城の諸城、さらには「下伊予(伊予東部より西側の地域を指すか)」の拠点も「退散」したとしています。つまり戦わずして逃げたようです。
 一方、近世編纂の地誌「西條誌」には、周辺寺社が戦火の被害を受けたという伝承が多数残されています。ここからは高尾城や金子氏の本拠の金子城の周辺では小規模な戦いが継続した模様です。その後、毛利勢はさらに東進を続け、七月末の頃には予讃国境に近い宇摩郡川之江の仏殿城を取り囲みます。
金子山城(新居浜市)
 伊予の高尾城攻めにおいても阿波と「仕寄」を用いて敵城を包囲する作戦が採用されています。しかし、阿波とは異なる点は、包囲して籠城軍を疲弊させるのではなく、積極的に城を攻撃する所に主眼が置かれていることです。毛利軍は、短期に伊予を制定する方針だったことがうかがえます。

秀吉の四国出兵 伊予方面金子氏g
毛利軍の伊予出兵と金子氏の抵抗

毛利軍は
新居郡の高尾城高峠城金子城を次々と攻め落とし、宇摩郡に転進して仏殿城を攻め落とします。しかし、長宗我部元親が降伏したこともあって終戦となります。そのため毛利軍が讃岐に進行することはありませんでした。仏殿城には吉川元長が城主として入り、天正14年(1586)には福島正則の持ち城になりますが、その後に廃城となり、現在はその跡地に「川之江城」が建っています。

川之江城 - お城散歩
仏殿城(現川之江城)
伊予の戦後処理について、秀吉の指示書を見ておきましょう。
  一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉・くろた官兵衛両人差遣、城々請取、小早川二可相渡、自然何かと申延城を不渡輩在之ハ、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻悉成敗可被申付旨、小早川懇二可申渡旨、両人二可被申付事
一、いよの国城ともさかい目かなめの城と申て、自然わたし候てハ如何と、はちすか彦右衛門尉・黒田官兵衛秀吉かたへ可尋事も可在之候、早与州儀ハ小早川へ出置候上、何たるおしき城成とも与州の内ならハ、此方へ不得御意、請取次第毛利かたへ可相渡候事、
〔十六十七条目略)
意訳変換しておくと
 一、伊予へは蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛の両人を城の受取役として派遣する。その後、両人から小早川に引き渡すこと。この際に、何かと不平を述べて占領した城を渡さない者も出てくることも考えられる。その際には、後代の見せしめに、毛利家の取巻連中であろうとも成敗することを申付ける。この件については、小早川にも両人にこのように伝えていることを言い含めておく。

一、伊予の国城であるとか、重要な城であるからと言い訳して、蜂須賀彦右衛門尉や黒田官兵衛秀吉に引き渡すのは如何なものかという者も現れるかもしれない。その際は、伊予は小早川が領有するするという決定なので、どんな城でも伊予の城なら受け取り次第に毛利方へ渡すこと。

伊予では、蜂須賀正勝・黒田孝高が諸城を請け取り、小早川隆景に渡すことが第十四条に定められています。十五条には、どんなに重要な城であっても秀吉の許可を得るまでもなく、請け取り次第に毛利に渡すべきことが重ねて指示されています。ここでは、伊予では、阿波とちがって、「どの城を残して整備しろ」などという、具体的な城郭整備についての指示は何もありません。新しく統治担当者となる小早川氏に委ねる方針だったのでしょう。

七月十四日の小早川隆景からの高尾・丸山両城攻めの報告に対する羽柴秀吉の返書を見ておきましょう。
(天王十三) 去十四日之書状、今日廿一至大坂到来、令披見候、
一、州内金子城被取卷候之?、為後卷長曾我部人数出候処、則被及一戦、切崩、数多被両城被乗捕之誠御手柄之段、昔中難中尽候事(*)
一、其表弥被申付、新広・宇麻郡へ被相移、阿讃在陣候美濃守可被仰談旨尤候、無越度様行専用候、永陣之儀不苦候条、可被得其意候事、
七月廿一日              秀吉(花押)
小早川(隆景)左衛門佐殿
吉川治部少輔殿 
意訳変換しておくと
(天王十三(1585)年 14日の書状について、今日21日に大坂に届いたものを見た。
一、伊予国の金子城を取り囲み、長曾我部勢が討ち出てくる所を切り崩し、両城を落城させたのは なかなか挙げられる手柄ではない。
一、伊予方面の戦後処理については、新広・宇麻郡へ移、阿波・讃岐に在陣中の美濃守とよく協議し、独断専行のないようにすること、長引く陣中で生活に苦労が多いと思うが、励むように。
七月廿一日              秀吉(花押)
小早川(隆景)左衛門佐殿
吉川治部少輔殿 
ここでは秀吉は、毛利勢が金子城を取り巻き、後巻の長宗我部勢を撃退したことを称賛しています。研究者が注目するのは、毛利勢の攻撃対象を最初は「金子城」としながら、後半で「両城」と記している点です。毛利方は伊予東部に土地勘があり「高尾」「丸山」と正確に書き分けています。「両城」とあるということは、毛利方からの報告には「高尾」・「丸山」と記してあったはずです。 それをどうして、秀吉は「金子城」と書いたのでしょうか?。
 開戦前の天正13年5月下旬の段階で秀吉は、攻撃目標として金子氏の支配領域である新居・宇摩郡を攻撃するよう毛利氏に指示していたことは、最初に見た通りです。
 毛利勢がおこなった高尾城攻めでは、「仕寄」を用いた包囲戦が採用されています。しかし、これは前回見た阿波の攻城戦のように、敵に圧力をかけるというものではなく、非常に攻撃的なものです。そして、降伏や落ちのびることを許さずに「殲滅」を図ろうとしていた節が見えます。これは高尾城や丸山城の占拠ではなく、金子氏の殲滅が目的であったからと研究者は推測します。先ほど見た史料に出てくる「金子城」という表現は、城の名称ではなく、「金子氏が籠る城」の意味で秀吉は用いたものとすると、「金子氏殲滅」の秀吉の意思が見えて来ます。
 これを裏付けるのが阿波戦線・副大将の羽柴秀次の7月21日付の小早川隆景への返書です。
「敵方両城令落去事」
「長宗我部内金子相蹈候城」
ここからも羽柴軍のなかは、伊予の金子氏に対する憎悪的感情が生み出されていたことがうかがえます。 この感情は、毛利方にもあったことを裏付ける史料を見ておきましょう。毛利輝元が元康に伊予の戦況を伝えた書簡です
 呉々今度之御粉骨之段、無比類存候隆景・元長へも即申遣候、弥御吉左右所仰候、河原山之儀被差寄、即被切崩由御注進、真無比類御粉骨之至、中々申も疎之候、就中与州表儀去十七日金子城高尾之儀被切崩、敵千余討捕之候、以其響石川城其外十ヶ所二余落去候、即至土州境一昨日陣易之由候、打続諸方任存分候と本望此事候弥吉事承可申入候、恐々謹言、
(天正十三年) 七月廿日               右馬元(毛利輝元)  (花押)
 元康 参御返報
  意訳変換しておくと
 今度の無類の粉骨の働きぶりについて、隆景・元長へも即申遣候、弥御吉左右所仰候、河原山之儀被差寄、即被切崩由御注進、真無比類御粉骨之至、中々申も疎之候、就中伊予方面の戦いについて17日に金子城・高尾で敵を切崩し、千余討を捕虜としたこと。さらに石川城やその外十ヶ所以上の城を落城させたこと、そして、昨日は土佐の国境まで進軍して布陣していること、打続諸方任存分候と本望此事候弥吉事承可申入候、恐々謹言、
(天正十三年) 七月廿日               右馬元(毛利輝元)  (花押)
元康 参御返報
ここでは、高尾城を「金子城高尾之儀」、高峠以下の諸城を「石川城其外十ヶ所」と記しています。ここでも城の名称ではなく、金子・石川の家名を冠した表現となっています。これをみると、金子氏のほかに石川氏も攻撃の対象のトップに置かれていた可能性があるようです。  ここでは金子氏を第1標的とする方針は、毛利勢を含めた羽柴軍の共通認識となっていたことを押さえておきます。
最後に、秀吉の四国出兵の意図について見ておきましょう。
四国出兵の根本的な目的は、長宗我部氏を降伏させ、土佐一国に封じることでした。そのうえで秀吉は、第一に四国東部の平定、特に阿波の直接支配を目論んでいました。秀吉は、国分交渉で阿波と讃岐の二か国の領有を基本目標としていました。その中でも、秀吉の出した細かな作戦指示や戦後処理の方針から見て、とりわけ阿波を四国のおさえとして重視したことがうかがえます。
その意味は何なのでしょうか?
 淡路を支配下に置いていた秀吉は、阿波を確保したことで、大坂湾・瀬戸内海東部の制海権の支配権を手にしました。これは大坂方面から淡路を経て阿波に至る四国へのルートの確保も意味します。小牧・長久手の戦いの際には、織田・徳川方が長宗我部氏に淡路に攻め上がるよう促しています。そういう意味では、このルートは四国攻略だけでなく、大坂防衛の観点からも重要な意味をもつと秀吉は判断していたはずです。
 秀吉の伊予方面での戦略的な目的のひとつに金子氏懲罰がありました。
秀吉は、伊予の戦後処理の方針を示した第十四条に次のように記します。

「自然何かと申延城を不渡輩在之い、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻悉成敗可被申付」

つまり城郭接収(武装解除)に応じない領主たちを「後代のこらしめ」に成敗するよう命じています。阿波一宮城攻めの「菟角国々こらしめ、旁以千殺二仕可然候」の指示も同じような匂いがします。

伊予の金子元宅

 金子元宅は四国出兵の直前にも、周敷郡の知行獲得を画策していました。
こうした領土拡大を天下人の秀吉に対しても露骨に示す金子氏は、秀吉から見せしめとして成敗の対象とされた可能性があるというのです。ただ、見せしめにするだけであれば、阿波の一宮城などと同様に包囲して圧力をかける戦法でもよかったはずです。しかし、高尾丸山両城への攻撃は厳しく、金子氏を殲滅しようとする強い意思が感じられます。なぜ、金子元宅は討ち取られなければならなかったのか。これについては、私にはよく分かりません
ウキには、金子元宅について次のように記します。
 「天正13年(1585年)の羽柴秀吉の四国攻め(天正の陣)の直前、妻の実家の石川家中で毛利軍との和戦の議論が行なわれた際、「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。」「勝負は時の運なり、死力を尽くして一戦を交えて、刀折れて矢尽きる迄身命を賭して戦うべし」と元宅は敵に臆することなく戦いを決意する。
 羽柴秀吉の命を受け圧倒的な兵力数(3万人)で瀬戸内海を渡り侵攻してきた小早川隆景率いる小早川・毛利軍を総勢2千とも云われる金子軍が迎え撃った。岡崎城、金子城などが陥落する中、元宅は氷見の高峠城に入り敵の大軍を迎え撃つべく残党兵を高尾城に集結させた。
 高峠城主石川備中守をはじめ金子・高橋・松木・藤田・菰田・野田・近藤・塩出・徳永・真鍋・丹・久門・難波江などが高尾城に拠って抵抗した。全軍を指揮をとったのは元宅であり、総勢6百程であったとされている。小早川・毛利軍の多勢に対し、最期を悟った元宅は自ら高峠城に火を放ち、百人程で野々市ヶ原に打って出て奮戦。その生涯を終えた。
 小早川隆景は元宅らの見事な散り様を称え、将兵たちの亡骸に向かって合掌し、鎧の上に法衣を置いて自ら弔いの舞を舞ったと言われ、居合わせた将兵の舞に合わせた拍子がトンカカと聞こえた事から、トンカカさんという踊りが生まれたとされる。その後、供養のために金子山麓の金子氏居住跡に元和4年(1618年)頃に元宅の実弟である金子元春によって慈眼寺が建立された」
  以上を整理・要約しておきます
①1585年6月 毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢3万から4万は、小早川隆景を総大将として出港した。
②毛利氏の伊予での重点的な攻撃目標は、新居郡の金子元宅の高尾城であった。
③元宅は、長宗我部元親と同盟関係にあり、反秀吉・反毛利の急先鋒の象徴的な存在であった。
④そのため天下人となった秀吉に抵抗する金子氏が第1の攻撃目標に選ばれた。
⑤このような機運は、金子氏に対する憎悪を高め「殲滅戦」が展開されることになった
⑥毛利勢は東進して川之江の仏殿城を攻略中の25日に元親が降伏した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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