瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年09月

徳島高速道路の美濃田SAは吉野川の美濃田の淵に面しています。ここの吉野川は、いままでの瀬から瀞へ流れが変化し、ゆったりと流れます。ここは網場(あば)で、木材が筏に組まれて吉野川の流れに乗って下流に輸送されていたことは以前にお話ししました。しかし、それに関わっていた筏師たちの輸送集団については、分からないままでした。池田町史を読んでいると、「最後の木材流し」というタイトルで、これに関わった人の回想が載せられていました。今回はこれを見ていくことにします。
テキストは、「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」です。
  まずは、池田町史上巻837Pで、吉野川を使った木材の流送を押さえておきます。
吉野川による木材の流送は、藩政時代に始まったとされますが、私は中世の大西氏の時代には行われていたと思っています。吉野川が木材輸送に使用されるようになったのは、元和年間に土佐藩が幕府への木材献上と藩財政建直しのため、吉野川上流の藩林の伐採を行い、流送したのが始まりとされます。そして19世紀になるまでは、盛んに木材の川流しが行われていました。しかし、新田開発などで流域の開発が進むと村々を護るために、徳島藩は天明年間に木材流しを禁止します。
 それが再開されるのは、明治期になって徳島・高知の両県の間に協定が成立してからです。
明治30年代以降になると徳島の木材商人は、高知県の本山周辺の国有林のモミ・ツガを買付け、徳島市場へ流送するようになります。大正期になると人工林の「小丸太」が新たに出回るようになり、官材の購入ができなかった地元の業者が買付けるようになります。

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菅流し 那賀川
那賀川の管流しの再現 

伐り出された木材は「どば」からばらで流し、一本木に乗って、とび口で上手に体をあやつりながら瀬を下ります。大歩危小歩危を越えて流された木材は白地渡しの上流の流れの緩やかなところで、網場(あば:木材を止めるために張った木をつけたワイヤー)に集められて筏に組まれます。敷ノ上の川原には、袋のような「止め」がつくられてあって、増水によって流された木材は、ここに流れ込んで山のように集められます。そして敷ノ上の渡し附近で筏に組まれました。

筑後川の網場
土場 木材の集積地

 こうした仕事を協力して行うために、大正から昭和のはじめにかけて、白地木材労働組合が結成されます。会長には、祖父江勘平や山西崎歳らが就任し、組合員も40名近くいたようです。戦前の白地・三繩は、木材送の根拠地でした。

昭和初期のトラック 阿波池田通運

 それが昭和の初めころからトラック輸送が始まります。さらに高知県に森林軌道が敷設され、越裏門以西の伐採木はすべて軌道輸送に切り替えられます。そのため吉野川流送の木材輸送量は減少します。明治大正を通じて平均年間11万石前後が流送されていたものが、昭和期戦前には数万屯規模に半減しています。
 1回あたり「一山一五万石」が標準で、40人グループの人夫で上流(本川)より、池田まで30日前後で流してきます。流送期間は11月から3月までの冬期で、これ以外の時期には県の許可が必要でした。
以上を押さえた上で「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」を見ていくことにします。
終戦になって、遊んでもいられないので、川向いにあった野田村の工場長から日給二円四十銭ぐらいで来ないかと誘われました。従兄で、流材をやっていた影石涼平に相談に行きましたら「せっかく製材へ入るんなら、本川(吉野川)へ行って村木流しをしたり、寸検もしたり、すべて終えてから入っても遅うはないぞ。」と言われ、食い捨てで日給十円ぐらいになるというので、本川の材木流しに行くことに決めました。
 昭和20年11月9日、大霧の朝、大杉の駅まで行って、トンネルを抜けて大槌へ流してきよるところへ行きました。小笠原という人が庄屋でした。
「庄屋」というのは、山の所有者(秋田木材など)で親方から一切を任された責任者で、仕事の段取りをはじめとして、全てを掌握する役です。一万石なら一万石の山を、親方から庄屋が詰負います。
これを流すために、次のような組を作ります。
「会長」は賃金の会計経理を預かります。「味噌会長」というのは、毎日の味噌とか、じゃことかとかを「人夫」から聞いて「炊き」に指示する役でした。「炊き」は、飯炊きで「人夫」25人に一人の割りで、女もいますが男も構わんので、25人の飯を炊いて、現場へ届ければ、男の一人前と同じ賃金をくれるわけです。

菅流し

現場の組織は、大材(国有林物で何万石というもの)の場合は、70人から80人ぐらい、小さい材木量の場合は、30人前後で「木鼻(きばな)」「中番」「木尻(きじり)」に分かれ、それぞれに各一名の「組長」がつき、これを束ねる役が「会帳」です。「組長」の下に「日雇」(人夫)がつくわけです。
 日雇は「目先ビョウ」「ムクリビョウ」「セキセイビョウ」など呼ばれる人に分かれていました。「目先ビョウ」というのは頭を働かせて、「この中石のところを通すよりは、こちらを回ったのがええとか、この石をいっちょうダイナマイトかけたら、ツゥーと通るから、こりゃすか」とか、頭を使う日雇いです。
「ムクリビョウ」というのは、言われたとおり仕事をする人夫でした。
「セキセイビョウ」というのは、足元の軽い(身の軽い)日のこと
「木」には「日先ビョウ」や「セキセイビョウ」が道をつけていくわけです。
「ムクリビョウ」は、「トンコの先でもお山を返すわ」というんで「突いとれ、突いとれ」 で材木を突いて流すという風な人夫で「中番」に多いわけです。
「セキセイビョウ」は、「木尻」におって、足元が軽く、一本木に乗って、スースーと、どこへでも行けるので、どんどこどんどこ追いかけてくるという風なことで流すわけです。「木鼻」(先番)「中番」「木尻」という組を作って、「日番」と「ムクリ」を混ぜていくことで一つの流れになるんです。

木材 管流し2

「庄屋」にだれがなるかは、山から伐り出した材木が大川に出たところで決められるんです。今度の山は、大体一万石(七二寸二分五厘、八寸五分の二間材で一石)とか五千石とか、三千石とかいうことで、庄屋が決まります。まあ、あいつにやらしてみたらというようなことで、組長しよったのが抜擢で庄屋になるわけなんです。一万石以上のようなものは、影石涼平のような大物がおって、庄屋しよった奴が組長に格下げみたいな調子になるわけです。
 人夫の中にはお年寄りもいました。            
弁当負うて、次はどこそこの河原で茶沸かしとけとか、豊かな経腕が物を言うことも多かっです。白地の涌谷政一さんは、元老と呼ばれ、天気予報の名人で、重宝がられていました。絶えず空を眺めて、親父どうぜよって言うたら、これはおいとけ、明日の朝は降るぞって言うてな。無理して押し込んどいたら、ようけ流れ出て、陸へ打ち上るで、中半な水だったら平水の時分に流しよるやつが、パァッと水が出て、打ち上げられたら、また、引っぱり込むの大変だから、今日はおかんかという風なことでおいたり、いろいろそういう相談役みたいな元とクラスの人が六十前後、七〇でも元気な人が二、三人はおりました。「ムクリ」は、二〇代から三十四、五歳まででした。
材木流しにも角力界のような厳しい掟が、自然にできていました。  
村木流しになるには、庄屋に対する誓いの言葉があるんです。
「本川煙草のドギツイ奴を、桐の木胴乱しこたま詰めこみ、越裏(えり)門、寺川、大森、長沢、猪、猿、狸のお住いどこまでついて行きます。」というのです。本川煙草というのは、ものすごく辛いんです。私らが持っているのは、黒柿の胴乱なんですが、桐の木胴乱ていうのは、水に浸かっても蓋がビッシャリしとるけん、煙草が湿らんのです、川へ落ちても心配ないわけです。とにかく、猪、猿、狸の住家までもついて行くわけで、これで親分子分の盃を交すんです。
 上下の規律は厳しくて、庄屋とか何とか役職がつくと、個室をくれるんです。旅館でも、組長とか、「トビ切り」の質をもらうものは、個室で、布団もちゃんと敷いてくれるし、お膳も猫脚のついた高膳で、酒も飲み放題なんです。「トビ切り」以上は箔仕がつてくれるが、上質取りになると、脚のないお膳で、自分でついで食べる。一番貨、二番賃やいうものになると、ちょうど飯台の上にレール倣いとりまして、木で作ったトロッコみたいなものに鉢をすえて、「おいこっちへ回してや」と、押して持って来て食べるわけです。
 そのほかに、味噌会長が「コウさん飯八台、じゃこ二〇円とか、味噌何匁」とかいう場合は「モッソウ」という木の丸いもんに入れて計り飯ですわ。そのときでも、「トビ切り」になるとお茶碗でした。本山へ着きますと、別館と本館があり、上質以上は新館、一番貨以下は旧館で寝るわけです。
管流し4
.修羅出し
 木材を運び出すのは大変な力のいる仕事で、集材地点までの、木集めの代表的なものが、修羅(シュラ)で、 丸太を滑り落とす桶のような設備。

昭和2年 木材を木馬で運ぶ様子 天龍木材110年
木馬出し
 一週間おきぐらいに「スズカケ」じゃ、「大瀬」じゃ、「荒瀬」じゃという瀬があります。
その瀬を乗り切ると「切り紙」ちゅうて、小さいお銭を書いた切り紙をくれるんです。いわば辞令みたいなもんですな。「太郎殿十一円五〇錢、次郎殿十一円二〇錢」という風に、賃金で三十銭、五十銭と違うわけなんです。ほしたら、ゆうべまでは次郎が先へ風呂へ入りよっても、太郎が十銭上へあがると、太郎の方が「ちょっとお先に」というわけなんです。
 寝床も上質取りは、一人一つの布団ですが、一番貨、二番賃になると、二人ずつ、ニマクリ、茶沸かし、日になると雑魚寝というわけです。厳しい上下の規律があり、実力によってどんどん変わるわけです。
賃金を決めるのは、組長の下に「不参回り」というのがあって、みんなの仕事ぶりを見ているんです。あれは仕事しょらなんだ、あれは仕事はしよったが、水に落ちこんで火にあたりよったとか、詳しく見ているわけです。
 前にもちょっとふれましたが、野田製材の工場長が、日給二円四十銭ぐらいのとき、材木流しは、食い捨てで一〇円が上質でした。飲み食い全て親方持ちで一〇円ですから「ヒョウさんかえ神さんかえ」ちゅうぐらいだったんです。私のやめた昭和二十五年の暮、池田通運の方が月一万円取るときに、私など、食うて二万円ぐらいもろうていました。本山で言えば河内屋とか伊勢屋とかいうところに芸者はんがようけおりまして、そこで飲食したりするのは自弁でした。才屋で泊って、才屋で飲み食いする分には全部親方持ちでした。

 庄屋は、名義人というか、親方代人と言っていて、流送許可願に署名するのは庄屋で、秋田木材株式会社親方代人影石涼平と言ったものです。親方から請け負った金で庄屋が差配していたわけです。
材木 管流し3
                  鉄砲堰(テッポウゼキ)
昭和13年 川狩りで川をせきとめている様子 天龍木材
               堰をつくる 左が上流
水量の少ない川で水を溜めて、これに集材し、堰を開けて一挙に流します。

 行儀作法もやかましかったもんです。   
まず服装ですが、「わしゃ一生懸命しよるのに、賃金が上がらんぞ、どしたんぞ。」と言うと、
「お前そんな格好でや駄目じゃ」ちゅうことですな。
「一円も二円も違うんだったら、これ縫てもろた方がましじゃ」ということで、きりっとしたズボンをみんなが履くようになったんです。大膝組んだりしても賃金が上がらん。
「お早うございまおたぐちす」「お疲れさまでした」という風なことも口に出さなんだら「あれは半人前じゃから」ということでバッサリ下がる。中には酒飲んで包丁ふり回したり、鳶口でけんかしたり、いろいろあるんですが、これは放逐ということになります。放逐されると、半年なら半年、どこの庄屋も使わんわけです。親分の義理があるから、なんぼ手が要っても使わんのです。
 私が初めて現場へ行ったときは、影石源平の従弟だというので大事にされて、大槌から大田口まで十六日で着きました。十六日で金百六十円、その上に影石の親父にとドブ酒二升と小遣い五十円もらって、影石涼平に報告に行きました。すると、奥へ行けというので、大田口に着いて土場祝いがすむと、一番奥の田の内へ行ったんです。二回目からは厳しくなり、従兄が来てからはもっと厳しくなったんです。もうやめようかと思いましたが、従兄と一晩酒を飲んで、わしの顔に泥を塗らんといてくれと気合を入れられました。その後、一人前にしてやるというので、鴬の引き方、つるの張り方など相当教育されました。もともと川で泳ぐのは達者でしたから、なぁに負けるものかという気持ちでがんばり、昭和二十二年の二月末か、三月ごろから、こんまい川の庄屋か、先前の組長かで、上賃トビ切りということになりました。脚のついた高膳で得意になったものでした。
 (中略)
今は架線で飛ばしますけれど、その当時は、スラガケとかセキ出しというもんで大川(吉野川本流)へ入ってくるわけです。 大川へ入ると、大川入りというお祝いをします。 その大川入りとか泥落しとかを区切りに、古くは越裏門、寺川、大森、長沢から流していたのですが、現在は日ノ浦にもダムができて、流木溝ちゅうて、材木を飛ばす水路が別にあるわけです。それから、高薮の発電所の水路を十二キロほどずっと流して、沈砂池でもある程度足場こしらえて調整し、田之内の発電所へついたとき、流木濤へつっこんで、そこから水といっしょに飛ばすんです。水といっしょに飛ばすんと、空で飛ばすんとでは村木のみが相当違います。我々も、日ノ浦から請け負うて流したのですが、トンネルの中で詰ったり、いろいろしたことがありました。結局、中番、木尻が協力して流してくるわけです。
 途中、高知県にも「渡し(渡船場)」が相当ありまして、「渡し」には上賃取りを二名つけて、舟には一切あてないという条件もあるんです。例えば、「ジヶ渡し」は「今晩夜遅うになっても、こまわりをかけよ」と言うんです。ここまでという請け負いをさせることを「こまわりをかける」と言います。知人の組長に「こまわりをかけて、トキ渡しは切れよ」と言ったら、流して来よる過程でトキ渡しだけは木尻を切って、ここを過ぎたら今日の上質とか、三台つけてやれという風に、こまわりかけてでも、渡しだけは切って行くという風なことでやっておった訳です。

 白地までは(一本一本)バラで流すわけですが、木の上に乗って下るんです。
早明浦(今のダムより上流、橋のあるあたり)の下流、今のダムのある付近を、中島とか大淵と言っていました。その大淵にアバ(網場)をかけて、いったん大水では止める。大水が出ると一万石と三〇〇〇石の木が一緒になるので、それを選り分けつつ流すわけです。早明浦の橋までは筏に組まず、バラ木で来るんですが、村木の浮き沈み(大きい小さい)によって二人で乗って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりする場合もあります。一本に一人ずつ乗るのが普通なんです。
早明浦を越えると四本を縄でくくって筏にし、その筏であっち行き、こっち行きして流すのが普通です。大歩危小歩危も四本で下るわけです。豊永の駅の前に大きな瀬があり、雨でも降れば一本になります。あれがビヤガ、カナワ瀬と言うんです。いちおう、本山から下流になりますと、舟を一杯つけるんです。一丈八尺ある舟を一船つけるんです。
 本山から下には、ワダノマキとかクルメリとか言いまして、材木が流れ込むと舞う渦がありまして、絶対に出ない。このときは、舟で引っぱって出すわけです。それで本山から下は、舟を一杯つけ、筏は二杯三杯に増やすわけです。

筏 本川への合流

 流すシーズンは、正規の許可は十月一日から五月末までで、六月になれば徳島県の許可がいりますし、七月以降は絶対禁止でした。鮎釣りの漁業組合との関係もあったのでしょう。ですから十
月初めまでに伐らないと、木の皮がむけんのです。そのため皮をつけたまま来るわけです。ただし、重いので流送賃が高いんです。けれども、伐りだちは皮をつけて放り込まんと、皮をむいたら沈むんです。三〇〇石とか、五〇〇石の少ない場合や、急ぐ場合、注文材だったら皮をつけたまま流してくるんです。その場合はアクがあるというのか、艶が違うんです。

 いちおう秋伐りでも、お盆越えたら伐り初めます。お彼岸を過ぎると杉の皮をむいて使っていた時代です。杉の皮がもとまむけなくならないよう、三尺の元だけむいておくとか、苦心したものです。その当時一坪の杉皮が六十円か八十円もしましたから、杉皮むきは奥さんが、木伐りの方で親父さんがもうけ、夫婦で共稼ぎっていうのが相当いたんです。ぜいたく物も米版と味噌とじゃこぐらいでしたが、一般の家よりは米飯であるだけ贅沢だったかもしれません。

 流材の仕事に従事していたのは、主として大利、白地、川崎の人々でした。
川崎、白地、大利あたりでも250人くらいが従事していたのでないかと思われます。 尼後、石内、松尾、宮石から百五十人から二百人ぐらい行っきょったと聞いています。その中には、川崎の原瀬大作さんや西林さんなど今でも名を語り伝えられた人もいます。大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付したりで、不幸な生まれで苦労したそうですが、帰省するときは、村長さんが迎えに出たほどだったと言われています。

本格的な筏流しは三繩や白地・池田から始まります。
そのため筏師の親方が、この辺りに何人もいたようです。昭和8年の三縄村役場文書には「筏師九名、管流し百名」と記されていることがそれを裏付けます。この管流しの百名は、ほとんどが白地と中西(三繩)出身だったようです。つまり、中西や白地には大きな「木材輸送集団」がいたことになります。「大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付」と記されています。ここからは彼らの信仰を集めていたのが周辺の寺社ということになります。

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管流しの網場(あば:木材集積場)だった猫坊

三縄駅南の猫坊は、吉野川が大きく屈曲して大きな釜となり、下流で流れが緩やかになります。
ここは当時は、網場(アバ)と呼ばれ、村木の流失を防ぐために張る縄が張られていました。アバに集められた木材が筏に組まれる筏場(土場)でもありました。そのため多くのモノと人が集まって周辺は栄えていたようです。そこで三繩の漆川橋と山城谷村猫坊の商人が渡船を共同経営で運営していました。利用者は、船(渡)賃を支払っていた。しかし、昭和3年に三好橋が開通すると利用者が激減し、昭和9年ごろ廃止されています
 ここで池田や白地周辺の神社と木材流しの関係を探っておきます。
池田町上野の諏訪神社は、小笠原氏の氏神として創建されましたが、小笠原氏がこの地を去ると、氏子を持たない神社として退転します。これを復興させたのが商人や水運関係者たちです。諏訪神社は、池田の港から見上げる所に鎮座します。船乗りたちは、水の安全を守る神として信仰するようになります。更に、池田町が刻煙草の町として発達するようになると、氏子の数も増え神社は繁栄を取り戻します。諏訪神社の再建がいつのことなのかは、よく分かりません。ただ屋根瓦・彫物などに舟や魚に関するものが多くみられるので、舟運に関係する人々によって17世紀に再建されたと研究者は考えています。石燈籠や寄付者の氏名を刻んだ石柱などにも、船頭中や刻煙草商人が名を連ね、正面の絵馬にも船頭中の名が見えます。

漆川二宮神社 三好市
漆川二宮神社
 幕末ごろには一万数千人の信者が集まったと言われる漆川二宮神社も見ておきましょう。
この神社は先ほど見た猫坊の奥に鎮座します。吉野川から離れていますが、網場(あば)であった猫坊の筏運送者のから水上安全の神として信仰を集めたようです。そのためかこの神社は、山間部の神社とは思えない壮大な構えをして、本殿前の広場も広大で祭りには大勢の人々が集まっていたようです。この神社も船頭・木材流しなど、林業や運輸に関係する商人たちの寄進によって建立されたものと研究者は考えています。極彩色の花流しの絵馬がその名残を留めています。
 また一宮神社にも「船頭中」と刻まれた手洗いが残されています。箸蔵大権現も、この地域の煙草業者や、船頭など舟運関係者も水上(海上)安全の神として信仰を集めていたようです。それを示すのが本殿前の巨大な燈籠に、「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られています。  
 ここでは、池田周辺の大きな寺社は水運関係者や木材流しの信仰をあつめ、多額の奉納を受けていたことを押さえておきます。回想を続けて見ていきます。

 10月から5月末まで働くと、夏に遊んでいても、かなり裕福にいけたのでないかと思います。池田辺の普通賃金の四倍ぐらいが材木流しの賃金で、木馬引きで七人前というのが、常用としての基本賃金だったのです。賃金が高い原因は、ひとつは寒さです。鳶棹が、川につけて出すとすぐ凍ってしまいます。本川なんかでは、猪が飛び込んで、氷が厚いためによう出んと、水を飲んで死ぬというくらいの寒さです。「寒い日あいの言づけよりも、金の五両も送ればええが」と言うくらいですが、寒さはものすごかったものです。

賃金が高いもうひとつの理由は危険な仕事だったことです。
戦前は、ひと川流すごとに三人、五人と亡くなったこともありました。中石へモッコといって材木がひっかかっているときなど、一本木で乗り込んだりすると、前の方へ乗っているので、ずうっと潜水艦みたいに沈みこんで行って、着いたとき、チラチラッと向うへ走って行く。これが間違うと木の下へ潜って出てこれなくなる。
 吸い込まれたら相当泳ぎの達者な者でも、村木の下でお参りしてしまうわけです。だから、落ちこんだら、精一杯下まで行って、材木のない所まで行って頭をあげないと、材木の下になって死んでしまうんです。そういう命がけの仕事でした。
 朝一番に、ドブ酒を一台か二合飲んで仕事をする。唐辛子を焼いて闇に浮かして、ぐっとやる。加減を知らんと飲み過ぎてドブンと落ち込んでしまう。戦前に、ひと川で「今年は二人で済んだのう。三人ぐらいだったのう」というようなことで、今の交通事故みたいな死に方をしていたらしい。土地の人を「地家の人」と言いますが、一本木に乗るようなことはようしなかったもんです。
 大木のときなど、材木が狭い川の中で詰ってしまうと、バイズナというシュロの三分ぐらいにのうたやつで人間をくくって、岸の両岸から人間をつり込むんです。材木を崩しとるのを上流から村木が押しかけて来たら、両方からしゃくりよったが、あばら骨がばりばりっと言いますよ。「とび切り」という者が、そうした命がけの仕事をやるのです。そうした仕事を見ていて賃金を決める不参回りの制度などは、現在の会社などにも取り入れられると思います。

 朝、夜が明ける時分には現場へ行って火をたいて、夜が明けたら仕事を始めるんです。
日が暮れての先が見えんようになったら「届ぬかのお」というて帰る。朝は三時半に起きて、行って、火をたいて、鳶の先とかトンコの先とかツルの先を鍛治屋代わりに自分でやって、夜が明けるのを待って仕事にかかる。今の労働基準法みたいなことはなかったです。賃金は、だてにもろうとるのでないというのは、常に頭に置いとったです。
 夜の夜半に、ちょうど手ごろな水じゃけん、何とかせんかとか、それに発電所がある関係で、水が、材木流す手ごろなときが夜の場合と昼の場合と、また春先と冬とも違うんです。どんなに昼のカンカン照りの良い天気で、仕事をしたいと思っても、四花(四国電力)さんが断水しとったら水の流れが少なくで仕事になりません。その時には、昼寝しょっても良い。ところが夕方とか、朝早くでも、ダムから水が出た場合は、どんどん流さないかんという具合です。


管流しは、漆川の猫坊の浜がひとつのゴールでした。
ここに集められて筏に組まれます。川幅百mあまり両岸の岩にはローブをくくる太い留め金跡がいまも残ります。管流しの木材を受けとめるため、両岸の留め金の間にロープが張られ、そのローブに沿って村木が一列に結びつけられます。これが網場(アバ)です。筏師は網場の中で材木を集めて筏に組みます。11月から3月までの間の作業で、朝の寒い日でも筏師たちの勇ましい掛け声が猫坊の川から流れてきたと伝えられます。
私らの仕事は、バラ流しとか管(くだ)流しとか言って、その後は白地や猫坊などで筏を組んで徳島へ流すわけです。大体は、材木を流して来た者が、夏仕事に筏流しをやんりょったです。水量がありますと二日、穴吹で泊って行くんです。ちょっと水が出たら一日で徳島へ着きよったです。筏を宵に組んどいて、朝ちょっと早よ出たら一日でした。ハイタというて、端寸の板で、手元持ってこいで行ったんです。白地が主体です。筏流しは、中西、白地など三好橋から下が筏流しというわけですが、猫坊辺の人も行っとったです。

網場での筏組
網場での筏組
 集材組合っていうのがありました。あれは、大水に流れた流材を集めて保管して、拾得賃(保管料や用地費)を取る組合でした。
流村主は金を払って、また川へつけて流していく。自動車の入る所は自動車で積んでいったものです。一例をあげると「一本ここへかかっとるから損害十円払いましょう。」と言うと、「そりゃ困る、うちは十円もらいとうてしとるんじゃない。一晩中かけまいとして、つき放しつき放ししょったんじゃけど、力つきて帰んて来た後へかかったんじゃ。つき流した一晩の賃金をくれんかったら渡さん。」ということになる。
 材木を買うた方が安くつく場合もあるが、刻印を打ってあるので会社のメンツで受け取るということになる。河原にソネという名の石グロがあるが、あれが集材組合がこしらえたものです。集材の収入を白地のお宮へ寄付したとも聞いています。(中略)
  管流し中に洪水で木材が漂流した時には、どうしたのでしょうか?
その時には、所有者は流れた木材を取得した人に収得料を支払って引き渡してもらいます。
明治41年の三縄村役場文書によると、受渡しには世話人があって、出水の高低により取得料が定められています。収得料には一定した標準はなく、低水には長さによって一本につき一五銭より、中位は20銭前後、最高位は30銭ぐらいと記されています。沿岸住民は、このため出水時には夜を徹し、時には組を作り、舟を出して漂流木材を拾いをして稼ぎとしたようです。

筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門
附近を下る筏(徳島県立文書館蔵)
 私が最後に池田まで流送したのは、昭和24年でした。
そのころから、時代が変わりはじめ、早明浦に橋がかかり、どんどん道路が吉野川の奥に伸びていきました。これでは陸送に勝てん、村本流をしょったんでは食えん時代だなと考え、昭和25年の暮からトラックの助手をして、26年に自動車の運転免許をもらいました。
 一日に二万円ももらっていたのに、三〇〇〇円のトラックの助手になったのは大変なことでしたが、やはり流送というものの見通しが全く立たなくなったからでした。それに、年齢のいかないうちに免許を取っておかないとと考えたわけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと
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大具の渡しと三好大橋.2jpg
大具の渡し 三好大橋の完成と渡り初め(1958年12月6日) 
三好大橋ができる前までは、大具の渡しが人と車を渡していました。その船頭を務めていた人の回顧が池田町史下巻の「町民の歴史」に載っていましたのでアップしておきます。

大具渡し 3
大具渡し跡の説明版
大具の渡しの説明版
上の説明版を整理しておきます。
明治22年(1889)三好新道(R32)の開通で、非営業渡船から営業渡船へ
明治28年(1895)4月に県営となり、船頭には俸給が支給され、運賃無料化。
大正3年(1914)4月1日 岡田式渡船を導入し、大型化し輸送量増大。
昭和33年(1958)三好大橋の完成で廃止
それでは回想を見ていきます。
前略
昭和24(1949)年、大具(おおぐ)渡しの船頭になったんです。(池田町史下巻895P)
大具浜船場は県営になって、池田土木出張所の管理下にありましたが、請負い制度でした。箸蔵小学校の横の茶園清蔵さんが元締めになっていました。正式な職名は船夫だったんでしょうが船頭と言っていました。船頭は四名で、後に五名になりました。常時二名が勤務につき、二名は待機しているわけです。
船は岡田式が一隻と普通の舟が一隻で、人は小さい方の楫取(かんどり)で渡しました。
楫取りは漁の船を渡船に使ったときに言われたんで、渡船は楫取りではなかったが、小舟だったんでそう呼ばれたんです。県営ですから渡し賃は無料でした。昭和25年から請負い制度が廃止になり、県の直営になり、私たちも県職員になりました。今まで元請けからもらっていた賃金も、県から支給される給料になりました。このころ、警察予備隊(のちの自衛隊)に入りたいという気持が強かったんですが、母が年をとっていたので果たせませんでした。

岡田式渡船2
岡田式渡船

岡田式渡船
 岡田式というのは、川の両岸に高い柱を立て、この間をワイヤでつなぎます。
このワイヤに滑車で連絡した、少し細いワイヤを船の舷側前寄りの金具に掛けるようになっています。船は、人間なら定員50人という大きな船になっています。船を少し沖へ押し出すと、流れの力で自然に向う岸へ着くようになっています。岡田式は、昭和2年に、白地と大具で同時にできたそうですが、それまでは、猫車でも荷物を一たん降ろして船に積み、また向う岸で猫車に積まないかなんだんです。ところが岡田式では、大八車・四つ車はもちろん、乗用車、四トン積みのトラックや三論も乗せることができました。三輪は酒積んだまま大丈夫ですが、四トン車の場合は、荷物を積んだままでは無理でした。
大具渡し 1
大具の渡し(岡田式渡船)
 四つ車(大八)に七百才ぐらい原木を積んで、馬一頭乗せて渡すこともあります。この車を乗せるにはコツが要るんです。二人で手木持って、馬車引きは大きな止め持って、船頭が「よっしゃ」と言ったら、両方のタイヤを止めで止めるんです。船はパシャッとあおぐんですが、その後から馬を乗せて、船の平均は馬の位置で調節するんです。失敗して落としこむこともあります。
 四トン車も船の幅より長いんで、乗せるのに技術が要ります。長いあゆみ板を置いて、前車が船の上からはずれて水の上へ出るようにせんと乗らんのです。これを下駄をはかすといいます。
美濃田の渡しと橋の渡り初め
美濃田大橋の開通と渡し
 昭和25年ごろには、手木の三崎が一日十数台ぐらい、乗用車が十台前後というところでした。それでも自動車でも運べる船ということで、高知県や香川県、京阪神方面からも見学に来たもんです。説明役を私がやりました。一時は観光の役も果たしとったんです。
 渡船の寿命は五年ぐらいですが、岡田式の船が最初は8000円でしたが、5年後には、9万円になっていました。そのころのインフレの様子が思い出されます。
 戦争中ですが、無理して乗って牛や人が流れたことがありました。
船はワイヤでつないどるんで流れんのですが、船がずいろに入る(潜水する)と、上に乗っとるものは、人も牛も車も全部とばされてしまうんです。遠足の子供さんを乗せるときや箸蔵祭りのときなどは、定員以上絶対乗せんようにしていました。
青石渡し
青石の渡し
 一番苦しかったことは洪水のときでした。ときには一秒間に15mも水が増してくるんです。それもたいてい夜中です。船を流すまい、小屋や桟橋を流すまいと必死でした。一度桟橋を流しました。後から探しに行ったところ、一八枚のうち六枚が、三野町の太刀野に掛っていて、取ってきたことがあります。洪水や風、雪のときなどは大変ですが、春日のホカホカしたときなど八割履いて、小唄で、のん気にやったもんです。岡田式で力もいりませんので、暖かい天気のときはいいもんです。

 昭和33年、三好大橋ができるのと同時に、大具渡しは廃止になりました。私は、池田財務事務所へ転勤になっていました。昭和51年まで勤務し、いったん退職し、五五年の三月まで、徳島県土木監視員を勤めました。

大具の渡しと三好大橋
         大具の渡し 背後は建設中の三好大橋の橋脚(昭和33(1958)年

白地の私から見た三好大橋

大具渡船場も何回か事故があったようです。徳島毎日新聞は次のように報じています。

大具の渡し 大正の沈没事故

大正12(1923)年5月1日に池田尋常小学校の児童が遠足からの帰途、130名が一遍に乗り込んで転覆事故を起こしています。この時には、引率教員3名が着衣のままで川に飛び込んで、子ども達をすくい上げています。幸いにも一人の溺死者も出さなかったようです。犠牲者を出さなかったのは、箸蔵大権現の「おかげ」と、翌年5月1日には、お礼の遠足を行っています。定員が50名に130名を載せたことになります。これを教訓にして「定員厳守」「安全運転」が徹底されたのでしょう。

大具渡し 2


大具の渡し跡

背後の赤い橋が三好大橋。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻893P 岡田式渡船の船頭
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荷馬車2
馬車   
前回は、讃岐との境の猪ノ鼻峠越えの牛荷馬による輸送について見ました。今回は祖谷街道の馬の荷車引きを見ていくことにします。まずは、荷馬車をとりまく背景を、池田町史909Pで見ておきましょう。
HPTIMAGE
池田町周辺の荷馬車数の変遷

ここからは次のような情報が読み取れます。
①三繩・佐馬地村ともに、日露戦争後に荷馬車が普及した
②これは馬の大型化と道路整備が急速に進んだことが背景にある。
③大正末期がピークで、それ以後は三縄村でも減少
④大正末から昭和にかけて増加しているのは、土讃線建設による資材運搬の急増が考えられる
⑤昭和になってから急減するのは、土讃線開通後の「運輸革命」による
⑥それでも昭和10年ごろまでは荷馬車とトラックは並行して利用されていた
それでは「池田町史下巻1143P 祖谷街道の荷馬車引き」を見ていくことにします。
回想者は、明治31年11月1日生まれで、聞き取り調査時点で83歳の男性です。
前略
 大正10(1921)年、24歳の時に大利で家を借りて、一年ほどは炭焼きに行きました。そのあと自分で山買うて、自分で窯ついてやりました。そのころは白炭でしたが、山買うて炭焼いていては金儲けにはならんのです。そのうち、①四国水力の隧道工事の土方に雇われて行ったんです。土方をして二百円貯め、それで②馬と車を買うて祖谷街道の馬車ひきを始めたんです。
上鮎食橋東詰 阿波沢庵の出荷
上宍喰橋 沢庵樽の出荷(徳島県立文書館蔵)
 約二十年馬車ひきをやりました。車は、四つ車で前の車が小もうて、車の軸が自由に動くようになっている。後車は大きくて車台に固定し、四つとも車には鉄の輪を入れとって、手木がついていて、これを馬の鞍につけるようになっとる。後の車が三七貫あった。台も三〇質はあった。前車も十四、五貫ぐらいはあった。荷物は、鉄の輪だと三百貫ぐらいのもんです。
三繩発電所

祖谷川は両岸にけわしい断崖絶壁が立ちふさがり、人馬の往来を許しませんでした。それが明治30年頃になって、祖谷川沿いに車の通る道路を通そうとする気運が関係三村の間に起り、大正9(1919)年3月に全線が開通します。
祖谷街道看板

 白地―中西―大利―出合―一宇―善徳―小島―和田―京上―下瀬―落合―久保
 総延長 12里28町55間(約50km)
 工費総額 420,209円
 内訳 県費補助金  108,969円
    郡費〃  51,255円
    三縄村費   116,512円24銭
    西祖谷山村費 57,460円48銭
    東祖谷山村費 79,012円28銭
祖谷街道建設三ヶ村契約書
祖谷街道建設三ヶ村規定
 この新道の開通によって祖谷川流域の住民は峠越えをすることなく容易に出合に出ることができるようになります。同時期に土讃線も伸びてきます。つまり祖谷山に「運輸革命」がもたらされ、モノと人の流通量が飛躍的に増えます。これに拍車をかけたのが交通事情の大幅な改善を背景に、水力電源開発計画が進められたことです。
三繩発電所2
 四国水力発電KK(多度津本社:社長景山甚右衛門」の年表を見ると、1910(明治43年)に増大する電力需要を賄うために、三縄水力発電所の建設工事に取りかかり、翌年には完成させています。これを皮切りに祖谷川周辺では電力開発事業が進められていきます。①「四国水力の隧道工事」②の「馬と車を買うて祖谷街道の馬車ひきを始めた」というのは、以上のような「交通革命 + 電力開発」が進められる時期と重なります。
築地コンクリート工業のパイル管運搬
荷馬車 築地コンクリート工業のパイル管運搬(徳島県立文書館蔵)
続いて荷車をひく馬についての回想です。

 初めに買うた馬がオゲ馬(おくびょう馬)でひっぱらんで困りました。家内が、「何とか金は工面するけん、強い馬買うて来なはれ」言うて、四八〇円ちゅう錢こっしゃえたんです。里から借ったんか、娘のときからへそくりしとったか。それで、ええ馬探したら、徳島の近くのハタ(現在所不明)という所にええ馬居るちゅうて、馬喰の大下さんに頼んで四八〇円で買うてもろたんです。その馬は、結局四年しか使わなんだです。日射病にかかって死にました。仕方がないんで、これに負けん強い馬ということで、火傷しとったが良い馬を、大下さんに頼んで徳島から買いました。一六〇円でした。ところが、この馬も出合の奥の壁というところで殺しました。
 ③四国水力のトランスホーマーという重い機械を石井運送店から頼まれて運んどったところが、馬が後へのした拍子に、急な坂道じゃけん車が後もどりして、狭い道をはずれて、機械積んだまま、馬もろとも下の川へ落ちたんです。山鳴りがして落ちました。

祖谷川出合発電所
      出合発電所(三好市池田町大利 大正15(1926)年10月完成
③の運んでいたトランスホーマーは、時期的に考えると出合発電所のものだったと推察できます。工事のために、多くのモノと人が流入し、運送業も好景気だったことがうかがえます。
 あのとき、車ひきやめたらよかったんですが、また、方々借銭して馬と買いました。
ところが、その馬が、四本のうち三本まで足を痛めて、世話するのに困りました。治療して伊予へ持って行って二〇〇円に売りました。二〇年の間に馬六頭使いましたが、馬は生き物ですので苦労しました。暴れたり、かみついたりする馬もありました。そんなのは、そのときにがいにひつけ(せっかん)するんです。がいにしばいてしばっきゃげるんです。そのときすぐひつけせな癖になる。
 そやけど、馬は利口で可愛いもんです。商売道具でもあるし、ふけ取ってやったり、足洗ってやったり、精一杯大事にしてやります。馬屋の中へ、乾いた草やわらを入れてやると、すぐ、まくれまくれしてな。あれで疲れがとれるんですな。
荷馬車1

回想録には、祖谷と池田を結ぶ輸送サイクルを、次のように述べています。
A 1日目 自宅(大利)から池田へ行って荷物を積み、大利まで帰って来る。
B 2日目 大利から西祖谷の一宇まで行って泊る。
C 3日目 落合まで行って泊まるんですが、途中、荷物を配達しながら行くんです。
D 4日目 さらに久保まで行って荷物を配達し、下げ荷と言うて、村木や、三塁などを積んで泊るんです。
E 5日目 久保から一宇まで下り、
F 6日目 一宇から大利までが一日
6日目に大利へ帰りつくことになります。その翌日は、また池田へ荷を積みに行くわけです。6日サイクルで祖谷街道を往復していたことになります。
祖谷街道 出合橋
              祖谷街道の入口 出合橋 
池田から積む荷物は、四国水力の機械やセメントのように、石井運送店などから特別に依頼されるものもあるんですが、上げ荷と言うて、商売人が注文受けて送る荷物がおおかたです。肥料、米、味噌醤油、干竹からあらゆる食料品、雑貨などです。
 そのころの道路は狭かったし、舗装はできとらんし、金輪(かなわ)の筋が入って、よけ重かったですわ。雨の日は仕事ができんが、降りやんだらいご(動)ける。雪があったらなかなか動けん。車も重いし、馬の足に雪がついて通れんのです。車を川へ落とすやいうことはめったにありませんが、荷物ころがしたりは時にありました。でも、これは荷主さんが損ということです。四川水力のトランスを落としたときは石井将太さんが弁償してくれた。
 宿屋へ泊るときは、馬宿というのが別にあった。
そこでは、ちゃんと馬屋こっしゃえとった。出台の奥の南日浦にもあったし、一宇にも、眠谷にも、そこここに馬宿がありました。車に飼葉桶をつけて、休むときにも、宿についても、まず馬に水や飼葉をやります。馬が好きなのはそら豆で、玄麦や粉やわらをまぜて食わす。そら豆一日に六升ぐらい食わすんです。馬だけでも大分いります。

祖谷渓絵葉書 祖谷街道
祖谷街道 大宮谷附近
 賃金は、大正十年ごろで一日三円でした。
このころ人夫の賃金は最高で一円、普通は七十銭か八十銭でした。人賃の三倍以上ですが、馬糧に大分とられる。それに雨や雪が降って、ひとつも引けなんだら、自分も泊まらないかんし、馬にも食わさないかん。宿賃が七十銭もいるんじゃきん、祖谷へ行って雨や雪が降って滞在したら大けな借銭してもどるんです。馬も向こうの家で買うたら高いし、宿銭も払えんのじゃ。
 それに、馬が死んだり、病気したり、車がめげたり。税金もとられるし、罰金もとられることがある。裸で歩いてはいかん、車に乗ったらいかんいう規則があってな。車に乗っとて巡査によってはこらえてくれて人もあったが、五円とられたこともある。

祖谷街道の荷馬車
祖谷街道の荷馬車
戦争がはげしくなったころ、馬の微発があって、私も追うて行きました。
夜の十二時に三好橋に集まって徳島まで十五、六頭で行きました。一五〇円で買いあげてはくれたんですが、また金足して買うわけです。戦争の終りごろ、池田の建物疎開のとき、壊した家の古材を一週間ほど島の川原へ捨てに勤労奉仕しました。私らは金光さんに泊って、馬は池田のホームにつないで一週間ただ働きでした。
 車引きは、私が始めたころからしばらくが最盛期で、そのころ、六十五頭おりました。池田にもようけおったし、出合、大利、川崎、それに祖谷にもおりました。祖谷街道馬車組合を作っていましたが、新年会を清月でやったり、親睦が主だったです。荷馬車も、ゴム輪になって、荷物が倍の六百貫ぐらい積めるようになったり、楽に運べるようになってきたんですが、昭和十何年ごろからトラックが祖谷に入るようになったんです。
   何とかいう人が初めてトラックで入って来たときは、荷物とられるっていうんで邪魔しました。我々の生命線を守れ言うて、一宇では自動車の前に大の字になって寝た人もありました。けんど時代の波には勝てまへん。だんだん荷馬車が減っていって、仕方なしに、自動車には道をよけてあげるということになりました。
 戦争が終わったのをしおに車引きをやめました。二十幾年車続けましたが、貧乏から抜け出せませんでした。
トラック輸送については、次のような新聞記事があります。
昭和初期のトラック 阿波池田通運
 
昭和に入るとトラック輸送がはじまり、徐々に後退していきます。トラックの出現は荷馬車従事者の生活を脅かすとして、県にトラック営業不許可を陳情しています。

祖谷街道4
祖谷渓谷
大正時代の祖谷街道の出現の意味を整理しておきます。  
「明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。
徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。
これが祖谷街道完成後の大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞も、その日の午後には読めるようになります。昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。
明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
祖谷街道によって祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります。
戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は脇町から、池田へと比重を移します。その結果、昭和25年1月1日には、祖谷地方は美馬郡から三好郡へと編入されます。そして、平成の合併では、三好市の一部となりました。ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1143P 祖谷街道の荷馬車引き
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池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

池田町史の下巻には、明治・大正・昭和を生きた町民の回想録が載せられています。これは約半世紀前(1980年頃)に収録されたモノで、私にとっては興味深いものが数多くあります。また史料的にも貴重です。その中からいくつかをアップしておきます。
 まず牛車の普及状況について見ておきましょう。
牛車の普及 池田町
  池田町の牛車 池田町史上巻907P
この表からは次のような情報が読み取れます。
①徳島県内の牛車は、明治26年ごろから増加し、 大正13年~昭和初期頃がまでが最も多く、以停は減少した。
②牛車増加の背景には、四国新道によって基幹道が整備され牛車が通行できる条件整備が行われたこと
③牛車減少は、昭和初期から土讃線整備が進み「運輸革命」が進展したこと。
④三繩村周辺は、後背地が広く、傾斜のきつい道路が多く、牛車が残ったこと

それでは猪ノ鼻越の馬車引きを30年続けられた伊丹久平さん(明治23年5月1日:聞き取り時点で91歳)の回想録を見ていくことにします。(一部、読みやすいように改変)

二軒茶屋コース
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 荒戸
前略
大正元年に台湾で除隊し内地に帰り、それから馬と牛を相手に暮らしました。
わしの親父は、讃岐から米買うて、池田へ運んでいました。わしも若いしになったころは、親父の手伝いをしたもんです。①明治22年までは猪ノ鼻街道(讃岐新道)が抜けとらなんだ。そのため馬を追うて船原へ上り、②二軒茶屋を越してアラト(荒戸)という今の財田駅のあるあたりへ降りる。朝の三時ごろ、州津を出たら、朝が白みかける6時ごろアラトへ着き、③馬に三斗負わせて、自分は一斗担いでもんて来る。そして昼飯食うて池田へ売りに行くんじゃが、わらじも作らないかん、馬の靴も作らないかんし、二日に一回ですわ。その二日で25銭儲かる。四斗で買うたもんを四斗で売るんで、升を上手に計っても茶碗一杯出るか出んかで、駄賃が25銭ですわ。こんなことした人は、もう皆死んでしもうたわ。牛の靴作れる人はあるかわからんが、馬の靴作れる人間は、わししかないだろうな。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①②からは、猪ノ鼻越の四国新道が抜ける以前は、船原→箸蔵寺→二軒茶屋→財田荒戸経由で米が讃岐から入っていた。
③からは、馬に三斗、自分で一斗、合計四斗で25銭の儲けになっていた。
ここからは財田荒戸には、阿波への米の集積店があったことがうかがえます。

四国新道が猪ノ鼻峠を抜けるまでの経過は次の通りです。(池田町史892P)
明治19年3月10日に高知県、3月25日に池田小学校、4月7日に琴平神事場で起工式。
明治19年春、東州津赤鳥居に県土木出張所が設けられ、浅谷付近の雑工事竣工
明治20年春には、落まで開通、
明治23年に猪ノ峠の掘削工事竣工し、香川県財田に通じた。
新道完成後すぐに、猪ノ鼻街道を利用するようになったのではないようです。回想録には次のように記します。
大正元年、馬車引きを始め、やがて馬を牛にかえて猪ノ鼻から荷を運ぶようになりました。
馬は足は速いがよくおぶける(驚く)んです。キン(睾丸)は抜いとるんですが、おぶけて走ったら馬が死ぬか人間が死ぬか、それでなくとも荷物は転落するし、危険が多いんですわ。それで牛車に替えたんじゃ。
大八車を引く牛
大八車(別名:天秤) 
大八車の名前の由来については、次のような説があるようです。
①一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
②牛の代わりに八人で動かすところから(代八車)
③車台の大きさが八尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ
④芝高輪牛町の大工八五郎が発明した。
全国的にも運送車といって、大型の大八車を牛や馬に引かせて、運び賃をとって荷運びをしていたところが各地にあったようです。回想を続けて見ていきます。
牛車いうても大正10年ごろまでは、二つ車の天秤という大八車の大きい奴ですわ。大正10年ごろからは四つ車になって、荷物も三百貫ぐらい積めました。 讃岐の米を阿波へ運ぶんですが、ここの浜から米俵一俵一七貫を井川や池田まで運ぶんが三銭、川口までだと十銭です。池田へ行ったら、あすこ持って行け、ここ持って行けって、配達までするんです。それで三銭です。一五俵積んで、川口まで行って一日一円五〇銭ですな。
 猪ノ鼻から運んで一円八十銭くらいになる。ところが猪ノ鼻へ行っても荷のないときもありました。くじ引きで当らな荷がないんです。それに大具の渡しの渡し賃が一車二五銭とられる。
そやけんど一円五〇銭いうたら当時の人夫賃の三人前以上ですわ。そのころは土方人夫が四〇銭、職人が五〇銭です。米一石が一二円で人夫貨は米三升といったもんです。一円五〇銭
と言えば米一斗以上です。 でも毎日毎日一円二〇銭はなかなか取れん。それに牛は米六石(七十円ぐらい)、馬は米一〇石と言われるぐらい高いんです。田(一反)は米三〇石、畑は麦三〇石と相場です。阿波池田からの荷物は、専売所の煙草が多かった。

四輪車を引く牛
牛の曳く四輪車
州津の人は他に仕事がないきん、牛車買える者は牛車引き、そうでない者は土方でした。
それも昭和4年に土讃線 が池田までが開通すると、荷物がばたりと止まりました。その後はカン木って、薪を運んだんです。個人の家では女子衆が薪しましたけん、酒屋や醤油屋、うどん屋などへ薪運ぶんですわ。そのうちにトラックが入って来まして、仕事がだんだん無くなりました。四つ車では三百貫ぐらい、トラックやったら四〇〇貫積めるし、牛車で一日かかるところが一時間で運べますわ。それでも、ぽつぽつやっていましたが、昭和15年ごろやめて百姓することになりました。 息子は一人戦死し、手元に残って鉄道に勤めていた息子も死んで、長女と末っ子が残っています。長女が今年七三歳になります。
考えてみると、わしの親父は、うもないもの食べて働きづめで死んでまことに気の毒じゃった。わしは親父と違うて、ええ時代に回り会うた。今は孫がアーンと泣いたら、そらそら言うて抱き上げる。昔の殿様の若様じゃ。
 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①四国新道開通後には、二軒茶屋経由から猪ノ鼻越にルート変更があった
②道が整備され、馬の背から牛が曳く大八車にかわり、後に四輪車にグレードアップした。
③猪ノ鼻峠に中継所ができて、讃岐側が運び上げたものを、阿波側に運び下ろすスタイルになった。
土讃線が財田まで伸びてきたのが1923年になります。この時点では、財田駅が土讃線の終点で、人とモノはここで降ろされ、猪ノ鼻越を目指しました。そのため財田駅の駅員は50名近くいて、荷物の扱いにあたっています。この時期が猪ノ鼻越の人とモノの量が最盛期だった時期です。それが昭和4(1929)年に土讃線が阿波池田まで開通すると、人とモノ流れは劇的に変化します。
 
猪ノ鼻峠2
猪ノ鼻峠                                  
猪ノ鼻峠3
かつての猪ノ鼻峠

次に明治34年生まれ(収録80歳)の方の回想「猪ノ鼻峠の運送と馬喰  池田町史下巻921P」を見ていくことにします。
(前略)
わしの家では、二反半に畑二反ぐらい作りよったが、それでは食うて行けん。それで、おやっさんは馬で荷物を運んどったんじゃ。馬買うて、讃岐へ米運びに行っきょった。阿波には米が無い。讃岐には米がようけあるきんな。明治20年代までは、猪ノ鼻の道が抜けとらんきに車が通れん。そこで船原へ上って、箸蔵時から山の峰を通って二軒茶屋を通って財田の戸川へ降りる。そこで讃岐で米買うて、馬に三斗負うせて、自分が一斗かたいで、夜の12時ごろもんて来る。早う出ても、帰るんは夜中になる。そのあくる日(翌日)、渦の渡し舟にのって池田へその米を売りに行く。一番上の姉が口取りに一緒に行くんじゃ。姉が馬の口元持っとる間に、おやっさんは米を運んだり注文取ったりした。姉が16歳で明治30年ごろのことじゃ。姉がよう話しとったわ。私は八人兄弟のおと子(末子)じゃ。
牛の曳く大八車
大八車を曳く牛 
猪ノ鼻街道が抜けると、近くの人はいっせいに車をこしらえて、牛車になった。
二つ車(天秤大八車)で、車の幅が四寸あって、四分か五分の厚さのかね(鉄)を巻くんじゃ。高さ(車の直径)が「ごに(五二)」いうて二尺五寸ある。「ごこう」いうて中心から、木が車の枠まで御光のように出とる。大八車のような形をしていて、米俵が二十俵から二十五俵ぐらい積める。一袋が十六貫六、七百ある。二五俵とすると四百貫以上になる。車が二つじゃきん、前と後がつり合わないかん。天びんじゃ。そして、それに懸けるんじゃ。
   讃岐に米の商売人が五、六人おって、阿波へ注文取りに来る。
百姓の家では、米はよけ食わん。麦一升に米一合か二合しか入れんのじゃ。讃岐の商人は池田の町人や酒屋が得意先で、注文取って帰って米を買い集めて、水車でふんで(精米して)、讃岐の車引きが猪ノ鼻まであげるんじゃ。これを「上げ荷」言うとりました。猪ノ鼻には運送店があって、一袋にいくらか口銭をとってそれを扱う。阿波の車引きは、この荷物を阿波へ選ぶ。これを「下げ荷」言うとった。下げ荷に一五人も(猪ノ鼻に)行ったが、荷が十人分しかない時は五人は仕事にあぶれることになる。が、翌日も行かな権利がなくなってしまう。荷物も、川口の酒屋とか、辻、池田と行先も違うので、くじで決める。くじはホービキという、かたい紙ででこっしゃえとるんじゃ。州津にも、大北と安藤という二軒の問屋があって、阿波からへ行く荷物を扱っとった。そこへ行って荷物があったら、猪ノ鼻まで積んで行く。そんなときは朝早く出ないかん。けんど、下げ荷と言って、わざに昼から行くことも多かった。
 わしが十九のときこんなことがあった。葉たばこが猪ノ鼻の運送店へかかって、池田の専売局へ送ることになった。「六貫の丸」というて、こも(薦)に包んである。米五俵の上に「六貫の丸」を、天びんの車に二十積んで、猪ノ鼻から帰りよった。讃岐からの荷物が遅うなって、猪ノ花で暗うなった。七、八町も下りた所で荷がくずれて積みなおしとった。十人くらい行っとったが、みな先に行って一人だけになってしまった。すると、今下りて来た猪ノ鼻の方から「がじゃがじ」と大きな妙な音が近づいて来る。すかして見ると、何と大きな象じや。足に鎖がつないである。矢野というサーカス団が、讃岐から高知へ行くのにを豬ノ越しに歩かせていたのじゃ。 
大正9年19歳のとき、天びんから四つ車に替えた。
ちょうど池田に煙草専売所が建っとったんで、仕事はようけあった。猪ノ鼻へ行かんでも、砂、バラスを、吉野川の河原から西井川の須賀の道路へ上げているのを、一日に五回ぐらい専売所へ運んだ。
 牛車ひきの賃金は、人夫の三倍というのが標準だった。そのころ、人夫の賃金は一円ぐらい。車引きは四円五十銭儲かった。そのころ、時計買うたんじやが九円だった。車ひきの二日分の賃金で、人夫氏の六日分ですわ。猪ノ鼻までは一俵で三銭五厘じゃった。州津、落、船原、中尾にかけて車が五十五台あった。
 兵隊から帰って、また百姓と車ひきじゃ。大正の終わりごろから土讃線の工事が始まり、坪尻へ砂、バラスを運んだ。一日に二回いった。賃金が一日4円20銭じゃ。昭和に入ると不景気で、それまで一貫目六円ぐらいしとった繭が二円になった。琴平銀行がつぶれたりしたが、鉄道の仕事は昭和四年ごろまで続いた。
昭和四年に土讃線が開通し、運送の仕事も少なくなったんで、牛馬商の資格を取って、ばくろうを始めた。この辺の車ひきもみなやめた。車を置いとったら税金かかるんで、みな売り払った。
たくあん用大根干し作業 徳島県立文書館
沢庵用の大根干しと牛車(徳島県立文書館蔵)

つぎの回想録は、戦後に中国から引き揚げてきて自動車輸送を始めた人のものです。(1101P)
 昭和二十一年一月の旧正月ごろ三縄へ帰り着きましたが、防寒や下着など今も保管しています。帰ってまた商売始めたんですが、自動車使って運送商売したんは、わしやが早い方だったです。三輪の新車で手木のハンドルでした。五百㎏積みの小まいやつで、十四、五万したと思います。免許証とったんは昭和二十六年だったと思うが、それまではぬけで走りぬいたです。試験は徳島であったが、向うに検定の車がないんで、こちらから乗って行って、その車で試験受けたんですよ。無免許で乗って行っても、それで通ったんです。
 
川島の渡し
川島の渡船に乗る三輪自動車
自転車や荷車と違うて、早くてようけ荷物運べるから、商売はしよかったですな。そやけんど、三輪や言うても、今のと違って弱かったです。猪ノ鼻越えるのに一、二へん止まってエンジン冷やさないかんのです。空冷のエンジンじゃきん十分くらい止まって、団扇であおいでやるんです。エンジンかける時にもようケッチン食うて痛かったでわ。車も頂々に良うなったけんど値段も上ったです。
 終戦後しばらくは統制で苦労したが、まあ乗り越してきました。二人の男の子も、池田と大阪でそれぞれ独立しとります。隠居というわけではないが、孫も三人できて、安心です。
 三人の回想録から分かることを整理しておきます。
①明治22年に猪ノ鼻越えの四国新道ができるまでは、二軒茶屋ルートが物流の主流だった。
②阿波の米を馬の背で運ぶ運送人が箸蔵には、何人もいた
③四国新道ができると、馬の背から牛が曳く大八車に主役が交代し、輸送量も飛躍的に増えた。
④讃岐から猪ノ鼻峠までの輸送を「上げ荷」、猪ノ鼻から池田までの輸送を「下げ荷」とよんだ
⑤米だけでなく煙草などの商品も活発に運ばれるようになり、大八車から四輪車へ移行した。
⑥昭和4(1929)年に、土讃線が池田まで開通すると人とモノの動きは、劇的に変化した。
⑦猪ノ鼻峠を往復する牛車は、薪運びなどに限定されるようになった
⑧戦後は自動車が登場し、牛馬は次第に姿を消した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史下巻 町民の記録889P
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池田町史に「お話し歴史教材」として、中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活が物語り風に記されていました。それを紹介しておきます。(池田町史(上巻)190P)

応仁の乱が終わって間もない時期。
夫婦と子ども三人の百姓の家庭。
子どもも生産のにない手。
田畑五反ほどを耕作している。
常食は麦で、正月や節句には米も食べる。
食事は朝・昼・晩の三食(鎌倉期までは朝晩の二回)。
おかずは、最近このあたりに作られるようになったウリ、ナス、ゴボウ、
特にコイモ(里芋)は保存がきくので評判がよい。
食器は、木地屋から買った木の棚に並べてある。
父が男の子をつれて山へ狩に行く。兎や猫の肉はごちそうである。

中世になると、新たに開発された谷戸田などでは二毛作が行われるようになります。平地の皿田では排水が難しかったのですが、谷戸田の場合、排水は比較的容易でした。 そのため谷戸田の私有田は、二毛作に適していました。二毛作には、麦と米、麦と豆がありました。山村の焼き畑では、奏と大豆の組合せも早くから行われていたようです。古代の稲作が「かたあらし」という隔年で耕作したり、何年も荒らしておいたりしていたのと比べると、二毛作は農民達により多くの収穫物をもたらすようになります。

 昔(南北朝ころ)は松の枝をたいて明りをとっていたが、今では油をしぼって燈明にできるので明るいし、目に煙がしむこともないと母親はよく昔話をする。燈明に照し出された家の中を見ると、部屋はふた間で、板の間にむしろが敷いてある。この板の間も、父の自慢のもので、村の半数位の家は土間にむしろを敷いている。土間は広く、この土間で父は仕事をし、母は糸をつむぎ布を織る。糸の原料は梶とひゅうじの皮であるが、ひゅうじの皮を集めるのは、弟妹の役目で長男は父の仕事を手伝う。
 土間のすみには①木製の鍬やすきが置かれている。その側に②備前焼の壺が黒光りに輝いている。二、三年前に種物を入れるために、大事にしていた銭を出して、医家大明神の市で買ったものである。種が、いつもねずみに食い荒らされるので、無理をして買ったものである。

①の農具については鎌倉時代には、鉄製の鍬、鎌、馬把などが使われるようになります。
が、それらは貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことが見えて来ます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。

②の備前焼については、鎌倉時代の壺が三好市の馬路・松尾・川崎、白地の各民家に茶壺として伝世しています。
 備前焼の壺は、農民のための種壺や酒壺として焼かれたものです。また、池田城跡の発掘の際も、室町末期の備前焼の破片が出土しています。前回見た阿波と讃岐の交通路であった中蓮寺からも、安土・桃山期の備前焼の鉢の破片が出てきています。ここからは備前で焼かれた壺が瀬戸内海を渡り、財田まで運ばれ、中蓮寺を越えて持ち込まれたことが裏付けられます。

福岡 大壺・高瀬舟
福岡の市で売られる備前焼の大壺(一遍上人絵伝)

惣村の小百姓台頭背景

物語に帰ります。
 最近、もう一つ無理をして買ったものがある。下肥を運ぶ桶である。今までは、用便は近くの川へ行ってしていたが、近ごろでは、どの農家でも屋外に便壺を掘って溜め肥料にするようになり、柚子桶がはやって来た。
 夜なべのないをしながら、父は京都での戦争に連れて行かれた体験を子供に話す。母には③宮座の寄合いのことを話して聞かせる。父は、村の長老である名主が、最近都から取寄せた大鋸の使い方を百姓たちに教えてくれるというので楽しみにしている。
 今まで、板を作るのに、木を割ってヤリガンナでけずらねばならなかったが、近ごろ挽鋸と台ができてが安く手に入るようになったと聞いていたが、その製材用の大鋸と台を名主が手に入れたのである。父が楽しそうに話しているのは、新しい道具への期待だけでなく、寄合いの後で行われる酒盛りであるらしい。お面を被って踊ったり歌ったり、夜更けるまで酒盛りは続く。父は、秘かにその様子を想像しながら話し続ける。夜なべ仕事の手を休めることもなく。
 15世紀後半の応仁の乱以後)は、「惣」の組織ができ、その団結の核となったのが社寺です。神社に集まって、同じ神事を行い、同じ神社の氏子として、共同体としての意識を強め、時にはお神酒を飲み団結を誓いあいます。一味神水の行事などもその一つでした。田井ノ荘の社寺がどのような状況であったか、記録や古文書は残っていません。ここでも「惣」を中心とする、村落の祈蔵寺が形成せられていたと研究者は考えています。

室町時代になると地域毎の特産物が登場し、流通経済に乗って遠くまで運ばれて行くようになります。

室町時代の特産品

池田町史には、田井の庄の特産物として次のようなモノを挙げています。
山村は平野部に比べて、耕作地が少なく生産力が低いという先入観が私にはありました。しかし、山村でないと手に入らない特産品がありました。それが次のようなモノです。
  A 荘内に産する砂金
荘内を流れる伊予川(銅山川)、相川が主産地で、馬路川の谷、川崎・大利付近でも産出したようです。砂金の産出は江戸時代まで続き、近代になっても一時、盛んに採集されました。また、古代からの銅山なども各地に開かれていたようです。金や銅以外にもさまざまな鉱山資源を産出していたことがうかがえます。
B 漆川の地名が示すように、漆は三縄の山分で多く産していました。
漆川の古名は志津川ですが、この地名が漆川に変わったようです。応永年間は志津川と表記されていて、江戸時代に入ると漆川となっています。ここからは戦国時代には漆が多く作られ、大西氏の領内特産品の一つになっていたと研究者は考えています。
 C 紙の原料である楮(こうぞ)は、荘内山分の特産品でした。
中世には、衣類は楮を原料とする太布織が中心で、田井ノ荘の山分で生産されていました。阿波の太布織は京都へも送られた記録が残っています。布は、麻が好まれたようですが、この地方は太布の産地だったので太布を人々は着ていた可能性があります。養蚕も三木文書(美郷村)に見えるので、田井ノ荘でも行われていたようですが、製品は調として都へ送られたのでしょう。
D 三好郡は、古代から良馬を産することで知られます。
美馬郡(含三好郡)の名もここから生まれたとされます。宇治川の先陣争いで有名な名馬の生月は井内谷の生まれであると『阿波志』は記しています。池田地方でも牛馬の飼育が行われていたことがうかがえます。
E 吉野川を通じて木材が大量に下流に流されています。これらは撫養から堺などに運ばれていたようです。
以上が田井庄の特産物で、これらが大西氏の財政基盤となったことが考えられます。三好氏に従って畿内に遠征し、長期間滞在するには財政基盤がしっかりしていないとできません。 

これらの特産物が登場すると、それを生産する農家にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
 農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には、戦乱を避けて地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが豊かな村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていく姿です。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。田井の庄の大西氏もこのような中で、大きな勢力へと成長して行ったことが考えられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史上巻190P お話し歴史教材 中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活



秋がやって来たので原付ツーリング兼フィールドワークを再開しようと思って、その「調査先」選考のために阿波池田町史を読んでいます。その中に中世の中蓮寺のことが載せられていましたので読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは「池田町史220P 中蓮寺」です。

中蓮寺峰 香川用水記念館から
中蓮寺峰(財田の香川用水記念館より)
 ウキには中蓮寺峰について、次のように記されています。

 香川県と徳島県の県境にある山で、雲辺寺山から猪ノ鼻峠まで若狭峰(787m)と共に延びている峰である。平安時代に雲辺寺の隠居部屋として創営されたと云われている中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置にあった。しかし、戦国時代に長宗我部元親が阿波国に進攻した際に寺は焼撃ちに遭った為、現在は存在しない。中蓮寺峰の山名はこの寺の名前を戴いたものである。
  
中蓮寺越 

中蓮寺越の道(四国の道説明板)

私の今の関心のひとつが「中世の山林寺院と修験者」です。そういう視点で中蓮寺を見ると、この寺は東の中寺廃寺・尾背山と西の雲辺寺を結ぶ位置にあったことになります。中世の山林寺院は、孤立していたのではなく修験者や熊野業者・高野聖など廻国の宗教者によって結ばれネットーワーク化されていたことは以前にお話ししました。その例が尾背寺と萩原寺・善通寺の関係でした。そのネットワークの拠点の一つが中蓮寺ではないかというのが私の仮説です。
池田町史220Pには、中蓮寺について次のように記します。

この寺には、次のような話が伝わっている。①中蓮寺は雲辺寺の隠居寺で、雲辺寺より格が上であった。②本尊が金の鶏であったので、下野呂内地区では大正の初めごろまでを飼わなかった。廃寺になった原因は、猫を殺した住職がそのたたりで相ついで変死したためである。③七堂伽藍のあった立派な寺院であったが、④長宗我部元親の焼討にあって廃寺となった。⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門であった。

上のような伝承はありますが、それを裏付ける古記録や古文書は残っていないようです。 ここで押さえておきたいのは「中蓮寺は雲辺寺の隠居寺」であったということです。雲辺寺のネットワーク下にあったことがうかがえます。また、「⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門」とあります。相当に広い寺領を有していたことがうかがえます。
現在の三好市は田井の庄という広大な荘園で、その庄司が大西氏でした。この下野呂内も田井の庄に組み込まれ、白地城の大西氏の支配下にあったと研究者は考えています。それは近くに大西神社が鎮座することからも裏付けられます。

中蓮寺峰と金の卵

ここには中蓮寺の御神体が金の鶏であったので、下野呂内地区では鶏を飼ってはならないことになっていたことが記されています。寺の御神体というのもおかしな話ですが、当時は神仏混淆で社僧たちには何の違和感もなかったのでしょう。そのため明治の末年ごろまで実際に鶏を飼わなかったといいます。
池田町史下巻903Pには、次のような地元の人の回想が載せられています。

 かしわも食べん。
 昔は時計がないきん一番鶏が鳴いたら一時、二番鶏が鳴いたら二時、バラバラ鶏になったら夜が白んでいて六時ですわ。時を告げ鶏は神さんのお使いのように思とったんでしょうな。卵も食わなんだ。昔は肺結核を労症と言っとったが、労症が家に入ったら三人は死ぬと言われとりました。鶏はその労症のたんをすすっとるから、卵を食うたら労症になると親父からよう聞いた。 牛肉や卵を食わんのは、わしが十七、八になるころ、日露戦争ごろはそうだった。そういう考えのしみ込んでいる人がようけ生きしとりました。

ここからは、「中蓮寺の金の鶏」伝説が深く住民の心に根付いたいたことがうかがえます。下野呂内地区が中蓮寺の強い影響下にあったことが分かります。中蓮寺によって周辺が開発され、そこに人々が住み着いたことも考えられます。
 雲辺寺文書の嘉暦三(1305)年「田井ノ荘の荒野を賜う」とあります。この時に雲辺寺に寄進された「荒野」が雲辺寺の東側の上野呂内だとされます。そうすると、下野呂内も中蓮寺の寺領のような形で、その支配を受けていたかも知れません。
 それでは中蓮寺はどこにあったのでしょうか?

野呂内 中蓮寺跡
三好市野呂内 中蓮寺跡(池田町史下巻446P)

ウキには「中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置」とありました。

旧野呂地小学校に、いまはサウナができていますが、そこから開拓地として開かれた小谷にのぼっていくと三所大権現があります。敷地は二段になっていて、上段に小社が建って、下段は相当の広さの広場となっています。鐘楼の跡とされるあたりには礎石らしいもの、前庭には風化した凝灰岩の石仏と五輪塔が残っています。どちらもおそらく中世のものです。地元では、この付近一帯を中蓮寺と呼んでいます。これらの遺品を見ていくことにします。
中蓮寺跡周辺の遺物について、池田町史は次のように報告しています。

中蓮寺の五輪塔
中蓮寺の五輪塔(池田町史下巻450P)
①神社の庭に凝灰岩の約30㎝の仏像が風化して残されていて、付近には同じ凝灰岩の五輪塔の一部が散乱している。
②明治24年寄進の唐獅子一対と、明治41年の銘ある燈籠一対があり神社風である。 
③約50m下に相撲場と称する地名が残り、ここから幅約5mの参道がつづいている。
④参道両側に松の古木の並木が現在23本残っている。約2/3は枯れて株が残っているが、最近枯れた松の木の年輪を数えてみると350まで数えられたという。約四百年の古木であることがわかる。並木は初め約八十本から百本ぐらいあったものと推察される。
⑤中蓮寺跡の建物敷地に隣接した地点で、土地造成中に弥生式土器の破片と須恵器及び鎌倉期以後(安土桃山時代)のものと思われる備前焼のスリ鉢の破片を出土した。
⑥少し下に、 中蓮寺のお堂があった地点と言われるところがあり、空堂と呼ばれている。
ここからは次のような事がうかがえます。
①の仏像からは、ここが寺院跡であったこと。
②の明治時代寄進の唐獅子燈籠からは、明治維新の神仏分離後に神社化が進められ整備されたこと
③の「相撲場」からは祭りには相撲が奉納され、周辺の村々から人々が集まっていたこと
⑤の備前焼スリ臼については「口縁は、内面の線がびっしりつけられてなく、十条ごとに間隔をあけて引かれており、口縁が三重になっている様子などから安土桃山期のもの」と推定しています。弥生土器も出てきているので、弥生時代から阿讃を結ぶ峠越の交易路があり、その中継地の役割を果たす人々がいたことがうかがえます。
以上を総合してみると、次のルートで人とモノが移動していたことが見えて来ます。

池田→西山→洞草→下野呂内→空堂→中蓮寺→ 讃岐財田

中世に中蓮寺越を通じて運ばれたものとして考えられるのは次の通りです。
A 讃岐財田から池田へ 塩・陶器(備前焼)
B 池田から讃岐財田へ 木地物・太布・茶・砂金・朱水銀
阿州大西(三好市池田町)から讃岐へのルートとして「南海道記」は次の四つをあげています。
中通越  阿州大西より讃州増須(真鈴)へ六里。増須より西長尾へ三里
山脇越  阿州大西より讃州藤目へ六里、藤目より円(丸)亀へ六里
財田越  阿州大西貞光より讃州財田石野へ三里、白地より財田へは六里
海老救越 阿州大西より讃州和田へ三里、和田より杵田へ四里
右の外、山越の道ありと云へども荷馬の通らざる路は事に益なし
この内で中蓮寺越ルートは「財田越」にあたるのでしょう。このルートは縄文人たちが塩を求めて讃岐に下りていった時以来のルートだったのかもしれません。
次に下野呂内の三所大権現に残された棟札を見ておきましょう。
下野呂内 三所神社棟札
下野呂内の三所神社棟札(池田町史より)

社名 三所大権現
導師 箸蔵寺及密厳寺住職
年号 文化元年、文政六年、天保一三年、宝永七年
ここからは次のような情報が読み取れます。
①中蓮寺という名はない。江戸時代には寺院としては退転して、三所大権現に姿を変えた。
②導師を箸蔵寺の住職が務めているので、神仏混淆下では別当寺は箸蔵寺であったこと
三所大権現は、大きい社ではありませんが、明治初年まで相撲や競馬が行われて栄えていたようです。別当寺が箸蔵寺、権別当に箸蔵寺の末寺である密厳寺が当たっています。小規模神社であるため、神官はなく、氏子の頭屋が雑務を処理し、祭りの進行を取り仕切っていたようです。 中西一宮神社・川崎三所神社の棟札にも、遷宮大導師は雲辺寺と記します。池田町内のほとんどの神社は、雲辺寺か箸蔵寺が別当として管理にあたっていました。小規模の神社については、その末寺が権別当などの名で実際の管理にあたっていたようです。
 ここでは寺院が神社を支配し、祭礼にも仏式が取り入れられ、神社で般若心経が称えられていたことを押さえておきます。これは藩の強い支持があったからできたことです。神社側はこれに対して訴訟を起こしていますがすべて寺院側の勝利に終わっています。神社の氏子にこれが無理なく受け入れられた原因は、中世から表われていた仏教の民俗化とそれに伴う神仏混交の思想、さらに、宗門改めなどに見られる寺院の行政的性格の強化があったからでしょう。

中蓮寺の東にあった中世山林寺院の尾背寺(まんのう町春日)は、多くの僧坊がありました。
善通寺の杣山管理センターの役割を果たしていたこと、ここを拠点に廻国の修験者たちが写経をし、次の行場(目的地)目指して旅立っていったことは以前にお話ししました。その時に書かれた経典類が萩原寺地蔵院には残されています。その尾背山の西に位置したのが中蓮寺です。ここも大西氏出身の僧侶達が住職を務めながら、野呂内の開発や、森林管理、交易路修繕などにあたっていたことが考えられます。
鎌倉時代になると守護や荘園の本家や領家が、領内の安定、荘園経営の円滑などを願って、自己の尊ぶ神仏を領内に持ち込んだり、その地方の神社仏閣を修復したりするようになります。荘園が社寺保有の場合はもちろんですが、そうでなくとも、氏寺、氏神として勧請されることが多かったようです。
 例えば阿波守護として名西郡鳥坂城に入った佐々木経高は、承元二年(1208)頃に雲辺寺を再興しています。

雲辺寺千手観音
                  雲辺寺の千手観音坐像
寿永三年(1184)頃に、雲辺寺の千手観音坐像、毘沙門天立像が相ついで奉納されているので、雲辺寺が衰微していたとは思えません。佐々木経高の雲辺寺再興は、それから約30年後のことです。これは自らの守護の役目が十分果たせることを願っての寄進だったと研究者は推測します。
 承久の変の後、守護としてやってきた小笠原氏は現在の池田中学校に池田舘(大西城)を築いてここを守護所とします。そして城の東へ、自らの氏神である一ノ宮諏訪大明神を勧請して、諏訪大明神とします。これが城跡の東に残る諏訪神社です。小笠原氏は、その他にも各地の神社を創建したり、再建したと伝えられます。
 田井の庄の荘官であった大西氏も菩提寺だけでなく、各地域の祈祷寺を建立し、修験者たちを保護しています。大西氏も、村落の信頼を得るために、それらの寺社へ寄進をすることが有効だと考えていたのでしょう。それが支配の円滑化にもつながるので、「必要経費」であったのかもしれません。大西氏は荘内の多くの社寺へさまざまな寄進をし、荘民の信頼を得べく努めています。その例を挙げて見ると
① 一宮、二宮、三宮神社の再建
② 雲辺寺へ鰐口寄進
③ 三好町願成寺へ薬師如来座像寄進
④ 西山密厳寺へ大般若経20巻寄進
⑤ 山城の長福寺、梅宮神社等への寄進
このような寄進をしていることは、「惣」へ強い影響力を保つために、「惣」の信仰する社寺へ寄進をしたと研究者は考えています。こうした寄進を通じて、大西氏の一族は地域に根付いていきます。それを示すかのように、野呂内にも大西神社が鎮座します。
ところが、白地城が落ち大西氏が離散すると、多くの寺々は後援者を失い一挙に廃寺へと追いこまれていきます。
一方、雲辺寺は寺伝によると文禄二年(1593)蜂須賀篷庵(小六)の参拝登山の記事があります。ここからいち早く新しい支配者の支持をとりつけたことがうかがえます。三好町の願成寺は大西覚用の支援を受けて禅宗の寺院として栄えていました。覚用の死後、真言宗に改宗し、庶民の寺として生きかえります。このときに勧進活動を行うのが修験者や聖たちです。ある意味では、修験者や聖の勧進活動なしでは、寺院は生き残れなくなっていたのです。どちらにしても中世後半に多くの寺院が一挙に廃寺に追いこまれたことは確かなようです。
 ここでは新たに支配者としてやって来た蜂須賀家の保護を受けることの出来た雲辺寺は存続し、大西家に代わるパトロンを見つけられなかった中蓮寺は廃寺化したことを押さえておきます。

大西氏離散後の下野呂内
長宗我部元親の白地城占領は無血入城だったとされます。その際に大西一族が逃げ込んだ先として考えれるのが野呂内です。野呂内の伝承に、大西石見守 (大利城主)の弟大西角兵衛が隠れ住み、やがて長宗我部の軍に討ち取られる話などが残っていますが、それに似た事件はあったかもしれません。また長宗我部元親は、西讃に兵を送り込んでいく際には中蓮寺越えを利用したことが考えられます。箸蔵街道が主要街道として利用されるようになるのは近世以後のことで、中世には中蓮寺越が利用されていたと私は考えています。その街道の管理センターの役割を中蓮寺は果たしていたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 下野呂内小谷の戦後の開拓のことが「池田町史下巻953P 町民の回想」に載せられていましたので追補しておきます。
 (前略)
小谷の開拓地には、箸蔵村村長の横野繁太郎さんに勧められて入ったんです。開拓農家の組合長を横野さんがやめてからは、私がやらしてもらっています。入ったころは、まだ松やに採りよった。開墾せないかんのじゃけんど、松をまだ伐っとらんのじゃけん。県からは「開墾いくらした」と催足が来るけに、「何町何歩やりました」と報告して補助をもらう。昭和28年に会計検査があって、だいぶん油をしぼられました。開墾しとらんのに補助金がきとる。今まで出した分の面積を開墾するまでは浦助金出さんということになったんです。それでは困るから、栗畑を作ることにし、全部開墾せんでも、少しずつ開墾して栗植されば良いということで、穴うめをしました。
 道つくりに苦労し、ブルドーザが入るようになってから全山の開墾をやった、畑を作ったり、田を造成して、米ができたときは嬉しかったです。食料不足の時代ですから。その後、缶詰用の桃やら、アスパラガスなどやってみましたが成功せなんだ。栗は良くできて、私は栗の主みたいに言われました。郡内で一番早かったですからな。
現在、開拓地の七戸の中四戸が豚を大規模にやっています。自分の資本でないので面白くないと言っています。会社の委託飼育で、月に三〇万くれて、後で精算するんだそうです。飼料が高いですけんねえ。私は、栗と椎茸やっとりますが、このごろは一パック三十円くらいで、ただみたいなもんです。二百円もするときがあったんです。八、九十円もすれば採算が合うんじゃ。自分の木切って原木にしとるのやけど、原木買ってしたんでは引き合わん。
参考文献 池田町史220P 中蓮寺
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池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図.4jpg
  三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承

三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。

「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」

土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。

「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)

蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
大西家系図 池田町史

大西家系図(池田町史)
長宗我部元親と大西覚用の関係はどうだったのでしょうか?
  池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)

「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」

ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。
B  『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。
C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
 長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。

 このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。

天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。

しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、
十一月廿三日       (長宗我部)元親(花押)
栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
白地城周辺
白地城の西の粟野屋敷

このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。

 阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。

意訳変換しておくと
 阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」

香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
 大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。

「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」

 阿波・讃岐・伊予への進入路となる白地城の大西覚用を味方に付けたことの戦略的な重要性をよく認識しています。元親にとっては「大西覚用を手繰りてみん」という謀略の一環だったのでしょう。

阿波大西氏5

 ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。

 来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。

 大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。

「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」

意訳変換しておくと

「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」

上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。

天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
 長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。

白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。

つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した
②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。
③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。
④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
一方、雲辺寺文書の中には、次のような年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状が残っています。

大西覚用から雲辺寺への借用書
  年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状
 馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言
閏七月十二日             (大西覚用) 覚(花押)
俊崇坊
雲辺寺 
意訳変換しておくと
 荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言
閏七月十二日
                                 (大西覚用)覚(花押)
俊崇坊参
雲辺寺 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
 この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。

これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。 

阿波田尾城2 大西覚用
白地山(田尾)城
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。

 第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。

阿波田尾城 大西覚用
阿波田尾城

 第二日目
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。
 その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城3 大西覚用
阿波田尾城

 夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
 すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
 相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。

白地城 大西覚用 池田町史
白地城(池田町史)
3日目

 一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
 和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。
 白地城2

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
 「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。
 こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡
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 天正7年(1579)から翌年にかけての長宗我部軍の阿波侵攻の経過を史料で追いかけていきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」です。
 この時期になると、土佐軍によって三好軍はじりじりと追い詰められていきます。そのような中で、天正8(1580)年3月に大坂石山本願寺の顕如と織田信長との和睦(勅命講和)が成立し、翌月には顕如が大坂を退去します。この事件は本願寺方を支援していた三好氏に大きな転換点となったようです。次の史料は、天正7年後半頃の阿波をめぐる情勢を伝えるものです。
 阿波平定中の長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】(東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」)(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固申付、一旦休汗馬候、敵方手成於武篇者手二取見究申間、可御心易候、
一(4)先度之御報に紀州者阿州無競望様二可被仰上之旨、尤大慶存候、既今度彼等謀略之状懸御目候、殊四国行之段御朱印頂戴仕旨、厳重申洩依致蜂起、万一如何様仁被成 御下知候哉と一先戦申加遠慮候、迪之儀詳に被仰上、委曲之御報所仰候、
一(5)阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走、可詢粉骨念願計候、
一(6)三好山城守(康長)近日讃州至(寒川郡)安富館下国必定候、子細口上可申分候、
一(7)淡州野口方(長宗)ノ所来、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被(中略)
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますので使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一(3)先日、陣中から注進したように、讃州の十河・羽床両城を攻撃中のことですが、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために(讃岐に)出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀と連携するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして勝瑞に迫りましたが、この城は要害化されて、もっとも手強い城なので一旦、兵馬を休め、敵方の様子を窺いながら攻城することにしました。
一(4)先だって報告したように、紀州者が阿波に侵入することがないように仰上いただいているのは大慶の至りです。なお、紀州衆の阿波への侵入事件について、私が四国統一の御朱印を頂戴していることを伝達し、これに従わないことがあれば一戦も辞さないことを申し伝えました。
一(5)阿波と讃岐の大勢は、西国方面の情勢を察して、相当の国衆が帰順しました。
一(6)三好山城守(康長)が近日中に、讃州の(寒川郡)安富館に下国するとのこと、詳しいことについては使者が口上で報告します。
一(7)淡路の野口方(長宗)については、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被一中略一
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
(3)条に「讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、 一宮之城を取巻候」とあります。長宗我部氏が讃岐の十河・羽床両城を攻囲中に、大坂石山本願寺を退城した「牢人共」が紀州勢・淡路勢とともに、阿波勝瑞に入城に立て籠もり、さらに一宮城を包囲したとあります。この「牢人共」というのは、顕如の大坂退去後も教如(顕如の子)に従って本願寺に籠城・抵抗していた者たちのようです。その勢力が紀伊雑賀衆(門徒衆ヵ)・淡路の反織田勢と合流して阿波勝瑞に入城したというのです。これは、当時三好氏本拠の勝瑞城が織田権力に抵抗する拠点の一つであったためのようです。反信長の旗印が磁場となって、同士たちを引き寄せたとしておきます。

阿波一宮城
阿波一宮城
阿波一宮城5
阿波一宮城
 「牢人共」の攻囲した一宮城は、城主一宮成相が長宗我部方に従属し、三好勢と敵対する関係にありました。この一宮城の攻防戦は、麻植郡内領主の木屋平氏がこの城に籠城していたことが史料から裏付けられます。
 同条(3条)には「阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に「令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計」とあります。ここからは、牟岐城主の新開道善らが雑賀衆と連携して、長宗我部氏に抗戦する動きがあったことが分かります。
(6)には、織田信長配下の三好康長が近日中に讃岐の安富氏館へ下向することが記されています。この時期の安富氏は、織田方の東讃岐における拠点であったことは以前にお話ししました。
研究者が注目するのは(4)で、長宗我部元親が「紀州者」の行動について、「謀略」・「蜂起」と表現して、その経緯について説明を求めている点です。これは「牢人共」の行動を、裏で信長が操っているのではないかという疑念が長宗我部元親にあったと研究者は推測します。そのため信長に説明を求めていると云うのです。さらに(7)では「紀州」勢を制圧してくれるならば、「阿・讃両国即時被及行可相果候」とも述べています。
このように天正8年後半は、教如の石山本願寺退出に伴う余波が阿波にも及んでいたことが分かります。具体的には、反信長の旗印のもとに三好勢と雑賀衆(反織田方)が阿波海瑞に集結し、そのベクトルが長宗我部勢への抗戦に向かっていたことを押さえておきます。このような情勢に対応するために長宗我部元親は、織田方に対して紀伊雑賀の制圧と淡路への対応を求めていたのです。
長宗我部元親と明智家の系図
次の史料は、「石谷家文書」に含まれる長宗我部氏関係の史料です。
この史料は、長宗我部氏家臣の中島重房らが明智光秀家臣の斎藤利三・石谷頼辰(利三兄)宛に出した全9ヵ条の書状です。

①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
(前略)
一(1)阿州之儀者、来春一行可被差競候、落着之段、兎角大坂・雑賀御手遣之節、可被探果候
一(2)淡州へ之御一勢、於御遠慮者、是非雑賀を被押置候やう之御申成肝要候、勝瑞をハ雑賀者過半相踏候、可被成共御分別候、
一(3)讃岐国之事、勝瑞一着を相願躰に候、当分此方敵心候へ共、至極之無遺恨候、千時中国二被搦、此方と敵筋候、勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候、連々調略子細候間、今一握にて可相下候、
(4)被申入人候 御朱印之事、早速御申請候て可被差下儀、大用に存候、此隣国之儀、誰在之而只今可申請仁有間敷候へ共、とても元親無二御味方に被参事候間、能被人御精、安堵之 御書可被下候、(中略)
(7)(中略)伊予州表之事者、手間入ましき躰候へ共、阿州之儀被懸念第一、淡州・紀州遺恨に付而、与(予)州口之儀成次第之躰二候、 (中略)
十一月廿四日        忠秀(花押)
        (中島)重房(花押)
意訳変換しておくと
(前略)
一(1)阿波のことについては、来春に最終的な軍事行動を起こし、落着する予定です。その際に、雑賀衆への対応が重要になります
一(2)淡路の織田方が、紀州雑賀を押さえておくことが必要です。阿波勝瑞に立て籠もるのは、半分が雑賀者ですので、それへの対応がポイントになります。
一(3)讃岐については、阿波勝瑞が落ちれば、自然と平定は進むと思われます。讃岐衆は、当分は長宗我部方へ敵心を抱くかもしれませんが、遺恨はありません。また中国筋(備中遠征)をめぐって毛利氏とは敵筋になっています。それらから考えて、勝瑞が落ちれば、讃岐のことは如何ようにもなります。連々調略子細候間、一握にて済みましょう。
(4)申請していた「四国平定」の御朱印について、早速に差下しいただけること大用に存じます。元親を織田方の味方に加えていただけることに安堵しています。(中略)
(7)(中略)伊予州方面については、今後も手間がかかりそうそうです。しかし、全体的に見ると、阿波が第1の障害です。特に、淡州・紀州勢の動きが気がかりです。第2に与(予)州という順になります。
(中略)
(天正6年)十一月廿四日        忠秀(花押)
              (中島)重房(花押)
ここには長宗我部氏の阿波と讃岐攻略の見通しが述べられています。その概略は次の通りです。
(1)条に阿波攻略の最後の軍事行動を来春に行うこと
(2)条で三好氏の勝瑞城に雑賀衆が立て籠もっており、織田方に紀州雑賀の制圧を望むこと
(3)条に、讃岐については勝瑞を攻略すれば、その後は容易に攻略できるという見通しを持っていたこと
(4)条に「被申入人候 御朱印之事」「元親無二御味方に被参事候」とあり、信長の朱印状の存在が確認できます。ここからは次のようなことが分かります。
①元親による四国平定の戦いが信長の了解を得て行われていたこと
この時期の長宗我部元親は織田氏に臣従して行動していたこと
元親家臣らが元親と信長の関係が好ましいものと考えていたこと、


徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
阿波勝瑞城

この書簡が出された時期については『石谷家文書』の編者は、天正6(1578)年と推定しています。この史料で研究者が注目するのは、史料中に雑賀衆の勝瑞入城や織田方への雑賀衆制圧の要請など、先ほど見た長宗我部元親から秀吉宛の史料⑥とよく似た記述が何箇所かあることです。この時期になると、長宗我部氏の阿波攻勢に対し、三好氏側では雑賀衆などの反織田方勢力と合流して抗戦しようとする動きが出てきます。
 (3)条には「勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候」とあります。ここからは、讃岐国衆は長宗我部元親に遺恨もなく、抵抗意欲が低く、三好氏が抵抗を止めれば戦うことなく帰順すると考えていたことがうかがえます。以上から長宗我部氏にとっては、三好氏本拠の勝瑞城攻略が阿波・讃岐制圧の最大の目標となっていたことが分かります。その達成のために長宗我部氏は、三好氏と提携して戦う雑賀衆の制圧を期待したと研究者は考えています。

次の史料は、この時期の讃岐・阿波の国内情勢を示す長宗我部側の史料です。阿波攻略を担当した香宗我部親泰から桑名氏(長宗我部氏家臣)に宛てた天正8年の讃岐・阿波の情勢を述べた書状です。
【史料⑧】「香宗我部家文書」
猶以去廿四日 財田よりの御書も相届申候、去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候、
一(1)隣国而々儀、悉色立俵相申趣、香中(香川信景)始証人等被相渡、其外之模様条々、無残方相聞申候、是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者、可有如何候哉、家中者心底可被難揃と申事候、
(2)昨日此御書到来、即刻先(一宮)成相ハ乗物にて(那東郡)桑野迄被越候、所労儀もしかじかなく候へとも相進候、
(3)御屋形様(旧阿波守護家細川真之)御進発事、此上者不及用捨事候間、可致御供心得候、常々さへ御いそきの事候間、以外御いらての事候間其覚悟候、兎角無人体見所之儀も如何候へとも左候とてためろふへきニあらす候間、先乗野迄御供いたすへく候、但其方今御一左右可待申覚悟候、
(4)牟岐辺事、此刻調略事候、成相申談相越候、
(5大栗衆手遣事、急度可申遣事、去廿八日太栗衆此方者相加佐那河内不残放火候時者能打入候、恐々謹言、
              (香宗我部)香左       親泰(花押)
十二月四日
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田からの御書が届き、26日の御書が昨日三日に到着した。その要点を述べておく。
一(1)讃岐隣国の情勢が不安定な中で、香中(香川信景)を始め国衆が人質を出してきた。しかし、その他の情勢は見通しが付かない。十河城についても、いつ落城させられるか見通しがたたない。家中の者たちも、困難な状況だと感じている。
(2)阿波から昨日届いた御書によると、長宗我部方の(一宮)成相が、途中の傷害もなく(那東郡)桑野までやってきたこと
(3)で、「御屋形様(旧阿波守護家細川真之)」の出陣の際には、桑野まで御供をする用意があること
(4)の「牟岐辺事、此刻調略事候」は、牟岐城主新開道善への調略のようで、これに一宮成相とともに当たること
(5条)で、「太粟(名西郡山分)衆」の軍事動員のこと
(1)は讃岐情勢で、香川信景が人質を出して以後、有力国衆も次々と従っているが、抵抗が激しい十河城をいつ墜とせるかは分からないとしています。同時に、讃岐の情報が財田に集められ、そこからまとめて長宗我部元親のもとに送られてきたことがうかがえます。財田は土佐軍の情報収集センターだったのかもしれません。
(3)からは長宗我部元親と「阿波御屋形(守護)」の細川真之が連携していたことが裏付けられます。(4)条は、(1)の「新聞道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心」への対応のようです。ここからはこの時期の長宗我部氏は、阿波南方の拠点は桑野(那東郡)であったことが分かります。史料⑧の年次は、内容から見て天正8年と研究者は判断します。

天正9年(1581)になると、織田信長が阿波・讃岐の経略に直接乗り出してきます。

具体的には、阿波三好氏一族の三好康長を阿波攻略の責任者として派遣したことです。京都馬揃の準備を命じた天正9年1月の織田信長朱印状写に「三好山城守(康長)、是ハ阿波へ遣候間、其用意可除候」と記されています。ここからは三好康長が阿波へ派遣される予定であったことが分かります。康長が四国にいつやって来たのかは、一次史料で確認できないようです。軍記ものには同年二月とする記事があります。以後、三好康長を取次として織田信長は、長宗我部氏の外交・軍事を担当した香宗我部親泰に書状を発給するようになります。そのひとつを見ておきましょう。
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候、猶以阿州面事、別而馳走専一候、猶三好(康長)山城守可申候也、謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
意訳変換しておくと
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔について、阿波平定について、別心なく誠意を持って勤めていることは珍重である。よって、阿波方面のことについて馳走を行う。なお今後は、三好(康長)山城守に従うように申し伝える。謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
史料⑨は、信長が長宗我部氏に対し三好式部少輔(美馬郡岩倉城主)を支援して阿波での馳走を伝えたものです。
【史料⑩】(「香宗我部家伝証文」)
爾来不申承候、乃就阿力初表之儀、従信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申す旨候、随而同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就公心劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎於我等可為珍重候、恐々謹言、
(天正九年)六月十四日            康慶(花押)
香宗我部安芸守(親泰)  殿御宿所
史料⑩は三好康慶(康長)の副状で、同族で若輩の式部少輔への「御指南」を依頼した内容です。ふたつの史料は織田信長の対長宗我部氏政策に関わる史料として、これまでは見られてきました。史料の年次比定は諸説ありますが 三好康長の阿波派遣の時期から考えて天正9年と研究者は判断します。
史料⑨については、次の3つの説があります。
A 長宗我部氏に対し、式部少輔を支援して阿波支配を行うよう指示したことは、それまでの信長の長宗我部氏に対する政策変更を意味する
B 阿波で苦戦する長宗我部氏を支援するため、信長は三好康長を派遣して同国を康長と長宗我部氏との共同戦線強化に乗り出した
C 三好康長が長宗我部方の同族式部少輔に目を付け、信長と康長が式部少輔への支援を長宗我部氏に命じることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入しようとした

このふたつの史料をどう評価するかについては、三好式部少輔をどのように捉えるかが問題となります。
「長宗我部元親」が、「岩倉城」城主「三好式部少輔」宛てに発給した書状
天正6年十月の長宗我部元親書状

天正6年十月の長宗我部元親書状(史料④)と併せて考えると、この時期に長宗我部氏が式部少輔と連携していたことは、史料⑨の「三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候」からも裏付けられます。三好式部少輔は、長宗我部方として行動し美馬郡内に一定の支配領域を持っていたことが推測できます。このことから、織田方が三好式部少輔に注目し、その支援を長宗我部氏に命ずることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入したとするC説を研究者はとります。
 長宗我部方に属した一宮成相と日和佐氏の間で交わされた文書を見ておきましょう。
日和佐権頭宛の一宮成相書状には「其表御在陣御辛労不及是非候」、「此方諸口無異儀候、可御心易候」とあます。ここからは一宮・日和佐両氏が連携して長宗我部方として軍事行動をしていたことがうかがえます。
  天正9年11月、羽柴秀吉は淡路へ出兵し、織田権力の支配領域を拡大します。
その経過については「信長公記」や(天正9年)11月20日付の羽柴秀吉書状から裏付けられます。この書状には、次のように記します。

淡州之儀十六日七日先勢差遣、十八日二我等令渡海、所々令放火、洲本(津名郡)迄押詰候(中略)
始安宅各令懇望候条、則人質等取置候て召直、野口孫五郎をも本之在所三原之古城普請等申付入置、一国平均五十三日之中二申付」

意訳変換しておくと

淡路については、16・17日に先陣が先勢が出陣し、18日に我等も淡路に渡海し、所々に放火しながら、洲本(津名郡)まで押詰った。(中略)
洲本の安宅氏を降し人質を取って配下に加え、野口孫五郎に三原之古城(志知城)の普請を申付けた。一国平均五十三日之中二申付」

ここからは秀吉が淡路侵攻し、洲本の安宅氏(神五郎)を服属させて、人質を取ったこと。また野口孫五郎(長宗)に「三原之古城」(志知城)の普請を命じたことが分かります。こうして淡路は羽柴勢によって平定され、織田信長のもとに置かれたと研究者は判断します。

淡路 志知城
羽柴秀吉の淡路制圧を踏まえ、織田信長側近(堺代官)の松井友閑が讃岐東部の安富筑後守・同又三郎に発給した書状を見ておきましょう。
【史料⑪】(「東京大学史料編纂所所蔵志岐家旧蔵文書」)
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就其阿・讃之儀、三好山城守(康長)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時二両国不残一着候様二可被仰付候、可被得其意之旨、惟可申届之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
                        宮内卿法印
            友感(花押)
(天正九年)十一月十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度の淡路についての平定戦は総て終了したので、隠す必要はなくなった。ついては阿波・讃岐について、三好山城守(康長)を担当責任人者に命じた。阿讃両国の国衆は残らずに、これに従うことを仰せつかった。(信長様の意向を)申届る之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
ここでは信長は淡路平定を終えた11月時点で阿波・讃岐両国の攻略を三好康長に仰せ付け、安富氏に
その加勢を命じています。これによって、織田信長は三好康長を阿讃両国経営の責任者とする制圧政策を進めたことが分かります。これは一方では、長宗我部元親の反感を招き、両者の対立が一層高まったことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年
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長宗我部元親の阿波侵攻1
ふたつの方向から阿波に侵入した長宗我部軍
戦国末期の阿波情勢 1573~76

天正3(1575)年に土佐国内を統一した長宗我部元親は、阿波に対して南部(海部郡)と西部(三好郡)の二方面から侵攻します。阿波南部への出兵時期に関しては、「元親記」に天正3年秋と記されています。しかし、現在一次史料で確認できるのは天正5年になるようです。長宗我部軍の阿波侵攻については、これまでも何回か見てきましたが、今回は一次史料で押さえておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 です。

日和佐城

この時期の阿波南方領主の動向を示す史料として、海部郡内の日和佐肥前守に宛てた長宗我部氏方の起請文があります。
【史料3】(「高知県立歴史民俗資料館所蔵旧浜家文書」)
今度当方帰参之儀、尤珍重存候、自今以後猶以忠節御覚悟専用候、然上者御進退等儀、不可有疎意候、若此旨於偽者、 弓矢八幡・愛宕山殊氏神可蒙御罰者也、傷起請文如件、
天正五(1577)年 十一月十七日           香宗我部安芸守  親泰(花押)
日和佐肥前守殿
同新次郎殿
この史料は、香宗我部親泰(元親の甥)が日和佐氏の長宗我部氏への「帰参」に際して、今後は忠信を誓うことを誓約させたした起請文です。親泰は海部郡内への侵攻後、攻略した海部城に入城し、周辺領主への調略を図っていたことがうかがえます。これが長宗我部の日和佐方面の軍事行動が最初に見える史料のようです。
 翌年9月には、長宗我部元親自らが日和佐肥前守に起請文を発給して同盟関係を強化しています。天正5年から翌年にかけて阿波南方における長宗我部氏の勢力範囲は、香宗我部親泰の指揮のもとに拡大したことが裏付けられます。調略が順調に進んだ背景には、天正4年に三好長治と対立して阿波南方へ出奔した旧阿波守護家細川真之の強力があったと研究者は考えています。長宗我部氏が反三好方の細川真之を何らか利用しようとした可能性はありますが、両者の連携を史料で裏付けることはできません。

白地城2
大西覚用の白地城
次に、長宗我部氏の阿波西部(上郡)への侵攻を見ていくことにします。
この方面では三好郡内の白地城の大西覚用との役割が重要です。しかし、彼に関する一次史料はほとんどないようです。ウキは大西覚用について、次のように記します。

大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。城主の覚用は、一族の大西頼包を人質として一旦は和議を結んだ。しかし、三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、覚用は三好笑岩の求めに応じ、和議の条件を破り戦闘準備に取り掛かった。それを知った元親は、まずは阿波の三好軍を破り、続いて天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とすと、覚用は讃岐国麻城へ逃げ延びた。天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した
白地城と大西氏
三好郡の阿波大西氏

「元親記」には、次のように記します。
①天正四年に大西覚用は長宗我部氏の調略に内応するが、その後離反し、翌年長宗我部氏の大西攻めで覚用は讃岐の麻口城の近藤氏の元へ落ちのびた。
②一方、大西覚用の弟・上野守〔介〕頼包?)は、阿・讃・予州の境目で長宗我部氏に対し忠功を励んだ。
③その後、長宗我部氏が重清城(美馬郡)を攻略し、その際に岩倉城主三好式部少輔が降伏した
これらを、一次史料で見ておきましょう。
前回に見た史料「(天正5年)二月付大西覚用・同高森書状」には、前回に見たように毛利氏に対して接近し「隣国表(讃岐国)第一申合候」とあって、この時期に長宗我部氏の侵攻の気配を窺うことはできません。従って阿波西部への侵攻は、天正5年以後と考えられます。
次の史料は、長宗我部元親が三好式部少輔に宛てた書状です。
【史料④】(天正6(1578年)十月十三日長宗我部元親書状「長宮三式少 御宿所  一九親」

尚々虎口之様林具可示給候、脇上・太丹へも此由申度候、①先度至南方被示越即御報申候き敵動之事、②頓而引退之由御飛脚日上之間、乗野方之儀も堅固申付、為番手昨日打入候、③然者又自勝瑞十日二相動候由大西方注進候、ホ今居陣候欺、於事実者加勢之儀不可移時日候、⑤将亦大西之儀覚用下郡被取組之由候、⑥大左・同上此方無別義趣共候、乍去彼邊之事弥承究機遣緩有間敷候、⑦定而敵表之儀為指事雖不可在之候、御手前堅固御武略肝要候、猶追々可申入候、恐々謹言、
拾月十三日        元親(花押)
三式少御宿所

意訳変換しておくと
三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して10月13日に連絡をとった書簡
①返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②それを受けて10月12日に那東郡桑野についても堅岡に命じ、番手を配置した。
③10月10日には、勝瑞から岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
⑥「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑦虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。」
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)とされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。つまり、岩倉城は毛利方が握っていたことになります。内容としては、
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど
以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④「このような情勢のもとに元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6(1578)年と研究者は判断します。
以上からは、天正6(1578)年前後について、次のような事がうかがえます。
A この時期の長宗我部氏の勢力範囲が南部では那東郡桑野周辺まで、西部では三好・美馬両郡(上郡)に及んでいたこと
B これら地域で三好氏勢力と交戦状態にあったこと、
C 上郡では、大西氏(覚用を除く)をはじめ三好式部少輔、武田氏等が長宗我部氏に従属していたこと
 .次の史料は、岩倉表(美馬郡)での三好氏と長宗我部氏との合戦の様子を伝えるものです

岩倉城2
岩倉城(脇町)
【史料⑤】(「藩中古文書」穂出5郎右衛門蔵)    38P
今度於岩倉表不慮儀、不及是非□、渡辺源太差越候処、関二相帰国候、然者左右延引候、然処二従其方人数可被越之旨、従両所中被申越候、誠不始千今儀快然候、此表之儀、敵於相働者、以一戦可討果候、兎角其方ョリ馳走段、可為喜悦候、恐々謹言、
正月朔日              (三好存保)義賢判
穂出五郎右衛門尉殿
これは、三好義堅(存保)が紀伊雑賀衆の穂出氏に宛てた書状(写)です。この時期、三好氏と穂出氏などの紀州雑賀衆が「反信長」で団結して軍事行動していたことがうかがえます。この史料で研究者が注目するのは、「今度於岩倉表不慮儀」です。これは三好氏が岩倉表で長宗我部勢と戦い、敗退したことを示しています。
 この合戦については、同時期の麻植郡山間部領主の木屋平越前守に宛てた長宗我部元親書状にも「今度於岩倉被及一戦、彼表へ歴々無比類手柄共候」とあります。元親は従軍した木屋平氏の戦功を賞しています。これがいつだったかについては、「元親記」などから天正7年末~天正8年のことと研究者は考えています。ここからは三好氏の勢力範囲が、本拠地の勝瑞に向かって後退を続けていることが見えて来ます。
 この時期の長宗我部元親は、阿波国内への侵攻作戦と同時に、織田信長との関係強化を図ります。
(天正6年)十月の(A)織田信長書状写や(B)同年12月の長宗我部元親書状には、信長から元親嫡男弥三郎(信親)への偏諄授与のことが記されています。
(A)の信長書状写に「阿州面在陣尤候」
(B)の元親書状には「阿州之儀、調略不存由断候」
とあるので、長宗我部氏は織田信長との関係を強めながら、織田権力を背景に隣国への侵攻と調略を進めたことがうかがえます。この時期の三好氏は、国内で長宗我部勢と対戦する一方で、毛利氏らと大坂本願寺を支援して織田権力に対峙していたと研究者は判断します。
以上 1576年から77年までの阿波三好氏を取り囲む情勢を史料でみてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 

 長宗我部元親の阿波侵攻1
守護小笠原時代の大西氏

 細川・三好氏の讃岐侵攻、その後の長宗我部元親の讃岐侵攻を追いかけていると、白地城の大西氏の果たした役割を見逃すわけにはいかなくなります。大西氏がどのようにして勢力を拡大したかについて見ておくことにします。テキストは「白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P」です。
大西氏は、田井ノ荘の庄官として京都からやってきた時には近藤氏を名乗っていました。
それが、次第に武士化していきます。その過程を、まず追いかけます。
建武二年(1335)年7月12日付で田井ノ庄(三好町と井ノ内谷以西の三好郡)は西園寺家が管領することになり、庄官として近藤氏(後の大西氏)が派遣されます。〔阿波国徴古雑抄所収西園寺家所蔵文書〕
 田井ノ荘の本家である京都の西園寺家は、承久の乱で大きな権力を獲得し、その影響は田井ノ荘にも及んだことが考えられます。例えば、小笠原氏が守護として池田大西城に入ったときにも、田井ノ荘に対してはむやみに手をつけることはできなかったと研究者は推測します。当時は守護・地頭の荘園押領は日常茶飯事のことだったので、田井ノ荘にとってはプラスに作用したでしょう。そのうちに小笠原氏と縁組みなどにより親類関係を結び、その一族として協力関係を作り上げていったのでしょう。
 建武中興によって西園寺家が衰えると、武士の荘園侵略が横行しはじめます。その頃には小笠原氏の支援を受けて、田井ノ荘を自領として確保したのでしょう。南北朝時代になると京都の西園寺家は名目だけの本家として、わずかばかりの貢租を納めるだけになっていたことが推測できます。
正平4年(1349)の紀伊国の野川氏所蔵文書に、「南朝方の野川氏ヘ田井ノ荘の年貢の内30石を宛下さる」とあります。この内容からも西園寺家の田井ノ荘支配は名目的になっていたことがうかがえます。
 南朝方に付いていた大西氏は、小笠原氏とともに康永2年(1343)に、細川氏に降ります。そして、小笠原氏が三好と改姓して勝瑞に移ります。これ以後は、近藤氏(大西氏)が池田城を管理するようになり、次第に大西氏を名のるようになります。

池田大西城
池田の大西城

一方三好氏は、細川氏の下で阿波の統治権を握るようになります。そして、阿波全域に広がった軍事動員権を通じて己の基盤を強化していきます。例えば、応仁の乱では、細川成之は8000騎を率いて東軍の中心として戦っています。この時に三好氏は従軍しています。三好氏の一族であり、被官でもある大西氏も従軍しているはずです。 応仁記には「細川の陪臣」と記されています。大西氏が三好氏の軍団に属して海を渡り、応仁の乱に参戦したことが分かります。
馬場の佐々木家には、応永9年の日付のある呪法(?)の秘伝の巻物、室町期の銅銃などともに、佐々木家の系図が伝わっています。

大西家一族 佐々木家の系図
鳥坂城主の流れを汲む系図で、遠祖は源氏の出で詳しくその事情が書かれています。その真偽は別として、系図の終末が戦国末期で終わっていることに研究者は注目します。つまり、この系図は戦国時代に近いころに書かれたもので、その附近の記述は相当正確でないかと考えられるからです。この佐々木系図には、応仁の乱に参戦したことが記述されています。内容は、もちろん出陣し功名をあげたという記述です。この系図の記述も「応仁記」の記述と相応ずるものです。ここからは応仁の乱に際して、大西氏も従軍し、それに伴って田井ノ荘の人たちは兵士として駆り出され、戦傷や戦死者がでたことがうかがえます。遠征のための戦費も当然、農民の肩にかかって来ます。一面、農民は自ら視野を広め、農耕の技術を見間する機会とし、新しい中世の農民の社会や文化を形づくる契機となったかもしれません。

大西氏が畿内に遠征したことが分かるのは、大永7(1527)の桂川原の戦いの時です。

              大永7(1527)の桂川原の戦い
三好元長に従軍して、大西元高が戦死したことを記す文書を見ておきましょう。
去十九日従泉乗寺一取二出於西院口自身手砕則切崩遊佐   弾正忠阿部大西如百餘人討捕之趣忠節無二比類・候或討死  或被庇之族且者感悦者愁歎候弥可被励軍功事尤候恐々 謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
意訳変換しておくと
去る19日に泉乗寺より出撃して、西院口で敵軍を切崩し遊佐弾正忠や阿部大西など百餘人を討捕えた武勇は忠節無比で、感悦する働きであった。この軍功を認める。恐々謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
細川道永とは細川高国の剃髪後の号で、細川氏の敵対者でした。その高国が朝倉氏に対して、遊佐氏や大西氏を撃破したことに出した感状です。この時に敗れた側が細川晴元方の阿波屋形の細川氏であり、三好氏でした。大西氏は三好氏に従軍していました。上の布陣図では青軍になります。両軍は大永7年にも何回か戦っていますが、越前の朝倉太郎左衛門教景が高国側について、三好元長が西院に陣したのは年も押しつまった12月のことです。この戦いに、大西元高が戦死しています。この戦いに参加したのが大西元高とする根拠は、元高の死亡が大永七年であることです。
池田町白地の八幡寺には、この時に戦死した大西元高の位牌がまつられています。

白地八幡寺の大西元高の位牌
この位牌には次のように記されています。

「享坤院天恵祖芳大居士  千時大永七亥天 三位乙暦十一代維遠後胤 七月初八日 故藤原大西出雲守元高 当院中興開基大壇越、

意訳変換しておくと
「享坤院天恵祖芳大居士  大永七(1527)亥天 三位乙暦 十一代維遠  七月初八日
 故藤原大西出雲守元高 は当院中興・開基の大壇越である、

ここからは次のような情報が読み取れます
①大西元高の死亡は大永7(1527)年7月8日であること。
②大西元高の姓が藤原氏であること
③白地の八幡寺は大西元高が中興・開基した寺院であること
先ほど見たように三好元長が応仁の乱で、京都の西院で敗死したのは12月です。この位牌の死亡日時との間にはズレがあります。しかし、元長と高国の戦いは、大永7年の2月ごろから断続的に続いているので、元高の戦死はそうした一連の戦いの中で戦死したことがふたつの史料からはうかがえます。史料には残っていませんが、三好氏の遠征に大西氏がほとんど加わっていたと研究者は考えています。ここでは、大西氏は三好氏の一族であり、忠実な被官であったことを押さえておきます。

白地 八幡寺
白地八幡寺
大西氏は畿内への出兵以外にも、阿波国内や讃岐への遠征にも三好氏に従軍したことが分かります。
次の古文書は、大西氏の被官である佐野氏が三好義賢からおくられた感状です。
「三好郡佐野村百姓卵兵衛所蔵文書 
坂東河原合戦之剋、敵阿助被討捕之、特自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陳無覚束候、弥可抽戦功之状如件
八月十九日             義賢 墨印 
佐野次郎左衛門尉殿」 (『阿波国徴古雑抄』所収)


三好氏系図.4jpg

阿波三好氏系図(池田町史上)

三好元長(長基・海雲)が堺で憤死したとき、三好長慶(千熊九)はわず14歳でした。その後、臥薪嘗胆し着々と勢力を増し、父の仇を討つ機をねらっていました。白地城大西氏は頼武の時代になっていましたが、上の系図のように長慶の妹を妻とし、長慶の重臣として深い関係にありました。大西頼武は三好氏の重臣として、勝瑞にあり、さらに長慶に従って畿内で活躍したと研究者は考えています。細川氏も三好氏も阿波と畿内に分かれて「二重生活」で活躍したように、白地城大西氏も、三好氏の被官として勝瑞や畿内で頼武が活躍します。白地城では、弟の元武が幼主大西覚用を補佐して四国中央部で勢力を拡大します。この間も田井ノ荘の人たちは、細川・三好氏に動員され、阿讃や畿内に転戦し、敗れれば大西へ帰って疲れを癒し、また、動員されて出征するという苦しい試練に飲み込まれていたのかもしれません。讃岐の中世武将たちが管領家の細川氏に動員されて、畿内で戦って「細川家四天王」と称されたように、阿波の大西家も阿波細川氏に従軍して畿内で活躍したことを抑えておきます。
大西家系図 池田町史
大西家系図(池田町史)

 大西頼武が勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。
もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは最初に見ました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それと併行して留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
①頼武の弟の源兵衛を井之内に住まわせ、井之内地方一帯を固める
②田野を井川に住まわせ、井川荘(湯川荘)の中に勢力を植えつける。
③大西田野は、氏神の白地八幡神社の分霊をまつって井川の鎮守とする。これが井川町中村の八幡神社
④池田へは宗安を住まわせたのが、現在の「宗安通り」

「故城記」の勝瑞屋形218家の中には、大西氏の家紋である鳳凰と雁を使用している家が七家あります。
武家家伝_大西氏

「故城記」に記載されているので、三好氏の有力な一員であったことがうかがえます。この七家は大西氏の一族と推測できます。「故城記」所載の七家は次のとおりです。
一、片穂殴 鳳凰 
一、中務殴 鳳胤 
一、大西角用殴  鳳凰・雁
一、忠津川殿
一、片山殿 昼間・雁 
一、大谷殿 池田・雁
一、宗安殿
この七家について、研究者は次のように推測します。
①最初の片穂、中務の館がどこにあったかは分かりません。
②忠津川は、志津川の草書体の写し誤りで、漆川の古名志津川はここから来ている。
③片山については、州津と昼間の境に片山の地称が残っているが、片山殿の館跡は場所不明
④宗安ついては、池田の「宗安通り」あたり

次に大西氏が創建・再建した神社仏閣や、寄進した仏像などを見ていくことにします。
  A 報恩寺創建 
報恩寺銘瓦の拓本が三好郡志に載せられ、現物も田村家に保存されているようです。
「文明癸巳歳十一月吉日 大檀那 藤原之高」 (文明五年(1473) 元高との説あり)

山城梅宮神社

 B 山城梅宮神社創建


山城梅宮神社創建並再建棟札2 大西覚用

B 山城梅宮神社創建・再建棟札

大西家に関わる最古の棟札です。「永正十□酉年」は永正十年癸西年(1513)で報恩寺瓦から30年後のものです。元高が京都で戦死したと言われる大永七年は、さらに14年後になります。「大施主並女大施主藤原□□」とは何者なのでしょうか? 大西氏のことなのでしょうか? 国司やその要(娘)が名目だけに名をつらねたのでしょうか。私には分かりません。彼らが藤原性を名乗っていることを押さえておきます。
  ここには次のような大西覚用の棟札もあります。 
「奉建之梅宮五社大明神御宝殿 天正二(1574)年甲成十二月十二日 大西覚用
 阿波国郡村誌には「梅宮神社天正三(1575)年甲戊十二月十二日 大西覚用祀之」
 
徳島県 四所神社】銅山川沿いの総氏神三好市 山城町
四所神社(山城町大月名)
C 四所神社(山城町大月名)の棟札には、次のように記されていたとされます。

 「…大檀那大西覚用公 大願主大月寺(現長福寺)現住金智」

この棟札は、安永年中紛失と「古事書上帳」に記されていて今はないようです。四所神社は、大西覚用が大西氏の菩提寺として大月寺(現長福寺)を建立したとき、その守護神として建てたものとされます。大月寺と四所神社は、神仏混淆下では、大月寺の社僧が管理していたはずです。この下を流れる銅山川を遡っていくと、新宮の熊野神社があり、この辺りの熊野信仰の拠点であったことは以前にお話ししました。新宮の熊野神社の別当寺が四国霊場の三角寺でした。この辺りは中世には熊野行者や密教系修験者の活動が色濃く残るところであることは以前にお話ししました。
D 四所神社の別当寺大月寺(現長福寺:山城町大月名)も大西覚用の建立とされます。
「古事書上帳」には大檀那大西覚用の名が正朱で記されていたとします。やはり安永年間に紛失しています。
長福寺の大銀杏
長福寺(大月寺)の大銀杏
現在長福寺には大西覚用が植えたと伝えられる大イチョウが県指定の天然記念物となっています。 なお、覚用自筆の法華経が寄進され、伝えられています。
川崎三所神社の棟札 

山城梅宮神社創建並再建棟札 大西覚用

左の棟札が所蔵されています。三所神社は小笠原長経の創建と伝えられます。それを永禄5年5月1日に「藤原(大西)元武」が再興したということになるのでしょうか。この神社には応永年間の般若心経六百巻が伝わっています。ここからは、この神社が郷社的な存在であったことがうかがえます。
大西覚用系図
 D  中西一宮神社(池田町三繩)には、次の棟札があります。

「上棟一宇大明神天正三乙亥 小春初日 大檀那覚用居士藤原頼武

大西氏の系図は、混乱をきわめ、頼武と覚用が同一人物とするものもあります。しかし、この棟札には、両名の氏名の間に「並」の文字があります。ここからは二人が別人であることが分かります。
一宮神社には、「嘉暦三年(1328)、城主宇清藤太夫信幅宝納」と朱書した鎌倉時代の面(五作の面)が伝えられています。城主についてはよく分かりませんが、これも大西氏の一族でしょう。
   
紫雲山 願成寺 « 紫雲山 願成寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

昼間願成寺へ薬師如来寄進 
「天文十六(1547)丁未六月十七日、当寺住職五叔等川木願三蔵大檀  那(大西)元武

この他にも、雲辺寺鰐口(現在紛失)や、西山密厳寺般若心経20巻なども白地城の大西氏の寄進と伝えられています。このように大西氏は周辺の拠点に、新たに神社や寺院を建立・中興し、自らの支配を根付かせていったことがうかがえます。これらの信仰活動の中心となったのが、熊野行者や真言密教系の修験者たちであったと私は考えています。それは、伊予新宮の熊野神社や、土佐の豊前寺と修験道ネットワークで結ばれていたようです。それが近世になると、箸蔵寺などに姿を変えていくのでしょう。このような濃厚な修験者たちの存在が、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の教線が三好郡に及んでくるのを妨げたのかもしれません。

 大西覚用は、吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達に熊野参詣の費用を支出しています。
白地城城主の大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げた文書「大西覚用熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書)」からは、次のような先達と檀那の「詩壇関係」が見えてきます。

檀那 大西覚用 → 十川先達 → 御師 → 熊野大社

このときに、大西覚用自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって代参したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石=5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは現在の米価格に換算すると約4000万円ほどになります。これは、熊野の御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。ここからは、大西覚用は大西一族の棟梁として、このくらいの「参拝料」を収める経済力があったことがうかがえます。同時に、大西覚用が熊野信仰を持っていて、熊野行者や修験者を保護していたことも見えて来ます。
 その他の古文書、古記録等より、大西氏の領地、石高、経済力などを見ておきましょう。
伊予西条藩が藩の儒学者日野和煦に命じて編纂した地誌「西條誌」は、次のような記述があります。

西條史 
『西條誌』(伊予西條藩編集)

「大西備中守元武の氏は小笠原氏にて阿州三好郡白地の城主たり。五代の祖左衛門亮勲功あり。足利将軍より阿予の内にて五万石を賜わり、当国宇摩郡桑鳥村にも五百石の領地あり」

ここには大西氏が足利将軍より「阿伊の内にて五万石を賜り」とあります。これはそのまま信じるわけにはいきません。「故城諾将記」には「大西出雲守(頼武)の領地三百貫」と記します。中世の武家の知行高で、一貫は約田畑十石です。三百貫は三千石となり、『西條誌』の「五万石」とは大きな隔たりがあります。しかし、大西氏の領地が、伊予、土佐、讃岐にまたがり、四国中央部を占めていたことは推察できます。また、その領地は石高では測れない「山野の財」を産出したのではないかと私は考えています。それは、古代以来の銅や水銀などの鉱山資源や、木材、木工製品などが考えられます。
 領地を伐り取り、勢力を広めてゆく状況は、「大西軍記」(元武功徳明視録、金記、馬路記)に詳しく述べられています。
大西軍記
大西軍記
『大西軍記』は、大西元武の武勇伝を中心にした軍記物語で、元武の五代の孫武政が元禄時代に、現地を調査して書きあげたものです。軍記ものなので、すべてが史実ではありません。ただ伊予の金川で書かれているために伊予のことは正確で、阿波のことには誤りが多いとされています。元武が、戦いに継ぐ戦いで、最後に、 一族の裏切りに会って戦死するまでの生涯を描いています。
一部を紹介しておきます。
  「大西軍記   巻の六
宇摩郡松尾城合戦斯くて大西備中守源の元武は、竊かに忍ひを以て 土佐守か振舞を探り聞くに、岩倉の城にあつて日ならすして土州へ帰陣の由告け来らは、是れ必す虚実 の計事ならむ、急に当国へ寄来るへし(と)衆臣を 集めて曰、思ふに元親阿州に出張し必す土佐帰陣は 空虚ならん、此時山中の小路より土佐へ討て出、急 に責め立つれは大に利を得む、若元親急に進めは臨機応変の処置し、或は引或は進み、二、三度土佐勢をなやまさは終には勝利となるへし、林密計を語る 所に人あつて当国の諸将残らす変心の由告けゝれ は、元武大に驚き其故を尋るに、真鍋左衛門佐土佐勢の強勇なるを恐れ、義を破り諸将をして元親に一 味同心のよし進めけると聞けれは、備中守大に怒 り、左衛門佐臆病なれは、彼壱名の去就何そ怖るゝ に足らむ、然れ共、衆将を引分る事奇怪なり、不意 に押寄彼れを責取、向後東に帰らむと出陣の用意し けれ共、未夕痛み頻りなれは志摩守を差し向けらる へきよし申しけれは、衆評是非に及はす、急に兵を 調へ松尾の城江押寄せける、其勢弐百五拾には過き さりける、抑伊予国松尾城と申すは、後は大山峩々として山 の流れを切開き尾上に櫓をかけ、東西は谷深ふして 大手斗りの責口と見へにけり、さしもの一城要害は 堅固にして中々容易に落かたく備へたる城なれは、 志摩守の勢をはかつて責寄せける、城中にも兼而存 する事なれは、兵三百余騎を一手になし、城外四、 五丁出てゝ陣を取り待ちかけたり

久米田の戦い…三好長慶が弟の三好実休を失い、三好氏凋落のきっかけとなった合戦 - YouTube


白地城大西氏は、頼武が義兄長慶に従って畿内で活躍しました
その最後の参戦は、三好義賢(実休)が戦死し、三好氏衰亡のきっかけとされる久米田の戦いでした。『南海通記』には「大西出雲守(中略)等七千余人」と記されますが、 この戦いから頼武が白地城に帰ってきたときは、相当の老年になっていて隠退の時期を迎えていたはずです。久米田の戦い以後は、大西氏は三好氏の被官というよりも、独立した戦国大名として動き出すことになります。
 それが三好氏と距離を置いて、毛利氏に接近しながら讃岐への勢力拡大を図ろうとする動きだったようです。ここでは戦国末期の大西氏は、三好氏の意志にも反して行動するようになっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P
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戦国末期の三好氏の動きは複雑で、きちんと一次史料を元に追いかけたものがなくて、なかなか見えて来ません。そんな中で、史料で基づいて戦国末期の三好氏を追った論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」 
戦国末期の阿波三好氏についての研究史を次のように整理します。
A 藤田達生氏
織田・三好両氏の関係に着目して信長の東瀬戸内支配の推移を明らかにする中で、信長の三好氏に対する政策を信長の統一戦の観点から論じている。

B 天野忠幸氏
藤田氏の研究を批判的検討し、阿波三好氏の動向を分析しつつ、信長の四国政策を段階的に捉え、その変遷を信長の統一戦に位置づけた。さらに三好好長治・存保・神五郎兄弟(実休三子)の動向を跡づけて、織豊期の阿波三好氏の歴史的評価を行った。

C 中平景介氏
信長の四国政策を論じる際に三好存保ら阿波三好氏の動向が十分に整理されていないとして、三好存保の動向を追究して信長の四国政策の意味を捉え直した。

各氏の研究は、信長の統一戦とからめて三好氏を見ているところに共通点があります。一方、阿波三好氏については、当主の存保の捉え方にそれぞれ異なった見解があるようです。存保をどう評価するかが、阿波三好氏の歴史的評価と結びつくことを押さえておきます。

研究者が対象とするのは、次の9年間です。
A 天正4年(1576)末以後、阿波三好氏の当主長治が自害に追い込まれた年
B 天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国平定まで
この9年間を、次のような4つの視点で捉えようとします。
①長宗我部氏の侵攻とそれに対する阿波三好氏(当主存保)との攻防
②織田権力による統一戦と、対立勢力の毛利氏・大坂本願寺等との交戦
③「織田 対 毛利・本願寺」抗争の中で、三好氏もその対立抗争に巻き込まれたこと。
④信長亡き後、長宗我部氏の攻勢が強まる中で、三好氏が羽柴秀吉との関係をどうするか
渦巻く情勢の中で阿波国衆は、もはや三好氏一辺倒ではなくなっていきます。三好方か長宗我部方につくかの判断をそれぞれ求められ、異なった軍事行動を取るようになります。この時期になると、阿波国内は三好氏支配下に一元化されていたわけではないようです。阿波国の政治情勢は、中央権力の動向と密接に関係しつつ、阿波をめぐって複雑な様相を見せていたことを押さえておきます。

研究者は9年間を、さらに次のように3期に時期区分します。

戦国末期の三好氏時代区分表

A 第一期(天正9年1月以前)
三好長治没後、三好(十河)存保(長治弟で讃岐十河家を継承)が阿波に入国し、阿波三好氏の家督を継承したとされる天正6年の前年から、織田信長による三好康長の阿波派遣が史料に見える
B 第2期 天正10年9月頃まで
康長の阿波派遣から、三好存保が長宗我部氏に中富川の合戦で敗れ、讃岐に退去する
C第3期は 天正13年8月まで
中富川合戦以後、羽柴秀吉による四国平定が終結し、新国主蜂須賀家政が入封する

今回はAの時期を見ていくことにします。
三好(十河)存保入国前後の阿波の政治情勢      讃岐国元吉合戦と阿波三好・毛利両氏の関係
次の史料は、阿波西部の白地城城主・大西覚用が毛利氏と結んでいたことを示すものです。
【史料①】(「乃美文書」)
先度同名越前守以書状申入候之処、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宣者口上申候之条、可被成御尋候、恐々謹百、
(大西)覚用 (花押)
(大西)高森  (花押)
(天正五年)二月廿七日               
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
日羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿 まいる御宿所
  この書簡は、白地城の大西覚用とその息子の高森が毛利氏重臣の小早川隆景などに宛てたものです。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①足利義昭(備後国鞆に滞在)の入洛について、今村紀伊守と相談している
②その実施については「隣国表」(讃岐国)の情勢を第一に考えることを申し合わせているので不確定である。
③文面からは、これまでに両者の間に書状が交わされていたことがうかがえる
以上から、白地城の大西覚用が毛利氏と相談しながら足利義昭の入洛のための軍事行動の準備を進めていたことが分かります。かつて大西氏は、三好氏に従軍し讃岐西部へ侵攻を繰り返し、領地や利権を得ていたことわお話ししました。しかし、この時期は三好氏と毛利氏は備中をめぐって対立関係にありました。その毛利氏と大西覚用が緊密な関係を結んでいることを、どう理解すればいいのでしょうか? 三好氏の指導力が低下する中で、西讃への進出を計る大西覚用は毛利氏と結ぶという独自の外交政策をとって、三好氏から離反していたことが考えられます。

 翌年の元吉合戦の際にも、元吉城を攻めたのは丸亀平野以東の讃岐国衆と三好氏です。そこにも大西覚用や近藤氏の名前はありません。ここからも、大西覚用は三好氏の支配から脱して、「親毛利」という独自の歩みをはじめていたことが裏付けられます。このように天正4~5年にかけて、阿波国内の領主の中には大西覚用のように毛利氏と連携する動きがあったことを押さえておきます。

三好長治没後の天正5年(1577)間7月に、讃岐の元吉城(琴平町櫛梨)で三好氏配下の「讃岐惣国衆」と毛利勢との間で元吉合戦が戦われます。
この戦いは何度もお話ししたので、ここでは概略だけ押さえておきます。
 この時期の毛利氏は、石山本願寺支援のために信長との対立を深めていく時期です。天正4(1576)年7月に、村上水軍などの毛利配下の水軍は、紀伊雑賀衆と連携して木津川河口で織田方の水軍を破り、大坂本願寺に戦略物資を搬人することに成功します。こうした中で、毛利氏は三好氏勢力下の讃岐国に進出します。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

三好氏の家督を継承する三好存保がまだ阿波に入国していない時期です。
元吉合戦後の和睦について、小早川隆景は次のような文書を発給しています。
      【史料2】「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」とありました。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。

和睦成立後、三好氏は毛利氏と連携したようです。
天正6年2月のものとされる小早川隆景書状に次のように記します。

「播州衆現形二付而、諸警団至岩屋(淡路国津名郡)来上、阿・淡・雑賀。大坂申談及行候」

ここからは毛利方が「播州衆現形」(別所長治の挙兵?)に応じて、阿波・淡路・紀伊雑賀・大坂本願寺と連携した行動を取ろうとしていたことが分かります。このような中で三好氏は、元吉合戦後の毛利氏との和睦を経て、反織田戦線に加わったと研究者は判断します。

十河存保の阿波入国に際しては、毛利方の史料に次のように記します。

「阿州十川〔河〕所へ入国為祝儀使僧差渡可然之由、御内儀得其心候」

ここからは、毛利氏が十河存保が阿波に帰って三好を名のることになったことについて、祝儀として使僧を遣わしたことが分かります。ここからも元吉合戦の和睦後に、三好・毛利両氏の関係が良好になったことが裏付けられます。
ここで私が気になるのは香川氏のことです。天霧城退城後の香川氏について、次のように私は考えています。
天霧城落城後の香川氏

これについて、①②③④⑤については、史料的にも裏付けることができます。しかし、⑥についてはよく分かりません。
以上を整理しておきます。
①戦国末期の三好氏を取り巻く状況は、信長・毛利・長宗我部元親の動きに翻弄される。
②三好長慶や実休の死後、三好家は混乱・衰退期を迎える。
③そのような中で、白地城の大西覚用は三好氏から自立し、独自外交を行うようになる。
④それは讃岐への進出を計ろうとしていた毛利氏と結んで、讃岐方面への勢力拡大を図るものであった。
⑤そのため大西覚用は、毛利氏側に立った政策をとり、元吉合戦にも三好側には合力していない。
⑥元吉合戦の和睦後、毛利氏と三好氏は接近し、反信長戦線を形成した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」
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   「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

今回は、上の視点から長宗我部元親の讃岐侵攻を見ていくことにします。 
伊予・讃岐・阿波への要となる白地城を大西覚用から手に入れた長宗我部元親は、ここを拠点にして四国平定戦を進めていきます。その手足となって働くのが、大西覚用の弟ともされる大西上野介です。彼によって、周辺国衆への調略工作が行われたようです。そのひとつが阿讃山脈の向こうの藤目城(豊田郡紀伊郷)の斎藤下総守師郷です。1577(天正5)年、斉藤師郷の縁者である大西上野介を通じて師郷を説き、師郷はその孫を人質に出して、元親に従うことになります。元親は、家臣の浜田善右衛門を斉藤師郷に添えて、共に藤目城を守らせます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

長宗我部元親讃岐侵攻図


  以下について、南海通記に基づいて「満濃町誌200P」は次のように記します。
これに対して三好家の総帥となっていた①十河存保は、天霧城主香川信景と聖通寺城主奈良太郎兵衛に命じて、藤目城を奪還させようとした。香川信景は、この命に従わなかったが、②奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還した。奈良太郎兵衛は、新目弾正を城主として城を防衛させた。③元親は、今度の藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田城に進出した。
 財田城は、藤田城の東南の三野郡大野郷財田にあって、阿波の自地に最も近い讃岐の要衝である。財田城主財田和泉守は、香川信景の救援を求めたが得られず、土佐軍に囲まれて奮戦した。④200余名の部下を激励し、死戦を試みて生を得ようと、囲みの一角を破って打って出たが果たさず、部下と共に討死した。
 財田城が占領されたので、藤目城の運命も定まった。城主となっていた。⑤新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した。藤目城は土佐軍によって確保され、元親は、斉藤下総守を入れて城を守らせた。

①については、天霧城香川信景が三好氏の従属化にあったという認識を南海通記の作者は持っていたことが分かります。しかし、香川氏は「反三好」を貫き、天霧城陥落後は備中に亡命し、毛利氏の傭兵として活動していました。それが毛利氏の支援で帰国できたのです。香川氏は反三好の急先鋒で、三好氏の配下になったことはありません。三好氏が香川氏に出陣命令が下せる体制ではなかったことを押さえておきます。
DSC05470藤目城(粟井)
藤目城(大野原粟井)
②には「奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還」とあります。
聖通寺山城の奈良氏に関しては「謎の武将」で、管領細川氏の「讃岐の四天王」のひとりとして、名前だけが一人歩きしています。史料を見る限り、讃岐では存在感がありません。一部の史料では、「奈良氏=長尾氏」としているものもあることは以前にお話ししました。どちらにしても、戦国末期のこの時点で、奈良氏が那珂・鵜足・阿野の兵3000を率いることはできなかったと研究者は考えています。さらに、その配下に長尾氏や羽床氏が加わることは、当時の軍事編成としては考えられません。例えば奈良氏の配下に入って従軍して、恩賞はどうなるのかという問題が発生ます。出陣を命じるというのは「恩賞」とセットなのです。恩賞付与権が奈良氏にはありません。この体制では、羽床・長尾氏は従軍しないはずです。「郷土防衛戦」という意識は、当時の武将達にはありません。さらに、西庄城の「香川民部少輔」というの武将は、南海通記だけに頻発して登場する人物で実在性が疑われていることは以前にお話ししました。
 前年に戦われた毛利氏との元吉合戦に従軍している讃岐国衆のメンバーを見ると「元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口」とあます。ここにも香川氏の名前はありません。そして讃岐国衆を率いているのは、三好安芸守です。備中遠征の時には篠原長房が率いています。ここでは配下に置いた讃岐国衆を率いるのは、三好氏であったことを押さえておきます。以上から「奈良氏が国衆を率いて、藤目城を奪取」というのは、そのままは受けいれられない記述と研究者は考えています。

DSC06256本篠城(財田)

財田本篠城
③には「元親は藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田(本篠)城に進出」とあります。
香川氏が「反三好」であることは、長宗我部元親は以前から知っていました。「兵力温存=調略優先」を基本戦略とする長宗我部元親は、早くから香川信景の調略に動いていたはずです。ちなみに近年の秋山文書等の分析から香川氏については「天霧城陥落 → 香川氏の10年あまりの亡命 → 元吉合戦を契機に毛利氏の支援を受けて帰国」説が受けいれられるようになっています。帰国してすぐの香川氏にとっては、支配基盤も戦闘態勢も整っていません。土佐軍と戦うという選択肢はなかったと思われます。そのことを見抜いた元親は、早くから香川氏への調略活動をおこなっていたと私は考えています。だから、土佐軍の侵入に対して香川氏は動かなかったのです。
④⑤については、「新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した」とあります。
ここには讃岐武将の奮戦ぶりが軍記ものらしく描かれます。しかし、何度も言いますが長宗我部元親の基本戦略は「兵力温存=調略優先」です。山里の小さな城に、700人の犠牲者を出す戦法をとることは考えられません。長期戦になっても「兵力温存」が第一なのです。これは、以後の讃岐での攻城戦を見ても分かりますが、徹底的な抗戦を行ったのは十河城だけです。あとは、調略で戦う前に降伏させています。南海通記には「戦った・抵抗した」とあるのも、そのまま信じることはできません。

天霧城3
天霧城

天霧城の香川信景の降伏について、満濃町誌(201P)には次のように記します。
元親は、西讃に進入するのに先だって、大西上野介(大西覚用の弟?)と謀り、土佐国分寺の西の坊を使僧として、香川信景の舎弟で観音寺景全の家老香川備前守を説き、香川氏が長宗我部氏に味方することを求めた。信景は、織田信長に通じてその一字を承けて信景と称していたのであるが、長宗我部軍の進撃が領内に迫ったので、ついに長宗我部氏に通じ、藤目城にも出陣せず、財田の救援にも兵を動かさなかった
天正七年春、信景は岡豊城に元親を訪い、元親への服属を誓った。元親は信景を厚く馳走して、五日間にわたって歓待した。その年の冬、元親の次男親和が、香川信景の娘の婿として香川家に迎えられた。かくして元親は、藤目・財田・天霧の諸城を制して、中讃への進入の時機を待った´
ここには、観音寺景全の家老香川備前守を通じて、香川信景を味方に引き入れたとあります。そして、長宗我部元親は次男の親和を養子に入れて、香川家の跡継ぎとします。こうして香川信景は、元親の同盟軍として讃岐平定に加わります。ちなみに、香川氏の影響力のあったエリアでは、寺社は焼き討ちされていません。そのために観音寺や国宝の本山寺本堂も残っています。すべての寺社を焼き払ったというのは、後世の軍記ものの「長宗我部元親=悪者」説に由来することは以前にお話ししました。

長宗我部元親の基本戦略をもういちど振り返っておきます。

   阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

1579(天正七)年4月、元親は1、3万の兵を率いて丸亀平野に侵入します。
 土佐軍の本隊は、白地から曼陀・六地蔵を越えて藤目城に集結し、香川信景の家老三野菊右衛門の兵800余を先導として出陣します。元親に服属した東予の金子・妻収・石川などの連合軍3500は、自ら求めて先陣を勤め、競い立って丸亀平野の南部に進入してきます。
待ち受ける羽床伊豆守は、一族郎党合わせても1000人の動員力しかありません。これに長尾大隅守の兵力を加えても、その数は土佐軍の約1/5に過ぎません。なお、長尾氏は羽床氏に従軍する立場であったと記します。
この時の戦いの様子を、後世の軍記ものに基づいて書かれた満濃町誌(203P)には次のように記します。
 4月28日、土佐軍の先鋒となった①東予軍は、櫛梨山の南方から高篠一帯にかけて布陣した。②羽床方が寵城して戦うものと思い込み、何の備えることもなく夜を迎えた。③羽床軍は闇に紛れて敵に接近し一斉に鉄砲を打ちかけ、突撃して東予軍を打ち破った。東予軍は退勢を立て直し、29日の早朝から激戦を続けて昼に及んだ。昼過ぎ元親の本隊が戦線に加わり、羽床伊豆守はこの本隊と戦ったが破れ、土器川を渡って退却した。土佐軍は、羽床軍を追って一気に城を落とそうとして、土器川器川の西岸に達したが、対岸の安造田・中津山一帯に有力な部隊が陣を張っているのを見て、あえて攻撃しなかった。④羽床方の留守部隊であった老人や子供が後詰めとして出陣し、擬陣を交じえて陣を張っていたのである。

 ⑤西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った。戦いは混戦となり、長尾方の部将で炭所西村の国侍であった片岡九郎兵衛が、土佐方の勇将大山孫九郎を討ち取った。土佐軍は兵を返して櫛梨山付近に集結した。その夜、長尾大隅守は、土佐軍の陣営に夜討ちをかけたが、敵陣の警成が厳しく充分な戦果を挙げることができなかった。
 ⑥長尾方の部将片岡九郎兵衛は、聞の中の戦いで湿田に馬を乗り入れ、流弾を受けて討死した 今も大歳神社の北東の本田の中に、片岡伊賀守の墓が残っている。
仲南町の今田家に伝わる「今田家系図」に、今田景吉と今田掃門丞が西長尾城の落城の時に討死したと記されているのも、この日の戦いのことであろうと思われる
①②③からは、先陣をつとめる東予軍は櫛梨山の南方に無防備に布陣し、それに羽床軍は夜襲をかけたと記します。しかし、ルート案内から布陣までを手引きしているのは、同盟軍の香川氏なのです。入念な調査を行った上で布陣させているはずです。また、櫛梨山は前々年に元吉合戦が戦われたところで、毛利軍によって要害化されていました。毛利氏の讃岐撤退の後は無傷で残っていたようです。ここには5000の兵を収容する能力も防備力もありました。香川氏は迷うことなく、櫛梨城(元吉城)に毛利軍を導いたと私は考えています。そうだとすれば、羽床氏による夜襲は考えられません。
④については、太平記の楠木正成の軍略に出てくるような子供だましの記述です。こういうことが書かれること事態が、虚構であったことがうかがえます。
⑤には「西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った」とあります。しかし、先ほども見たように「長宗我部軍13000VS 羽床・長尾軍2000」で、圧倒的な兵力差があります。これに対して、城を出て突撃するのは無謀な戦いです。戦国時代の武将達は、このような戦いはしません。負けると分かっている戦いに対しては、逃げるか、降参するかです。ここにも南海通記の作者である香西成資の軍学者として「美学」が紛れ込まされている気配を感じます。
私は羽床氏も、長尾氏も戦っていないと思っています。理由はいくつかありますが、ここでひとつだけ挙げておくと、一度刀を抜き合って血を流し合った一族は、相手を許すことはありません。「敵討ち」は武将の誉れでもありました。自分の一族を殺した武将たちを仲間内に迎えることはできません。降伏するのなら血が流れる以前に、軍門に降る必要があります。一度血が流れた後で降伏しても、配下に加えられることはありません。そのときは命を取られず落ちのびていくことを許されるのみです。つまり籠城はあっても、羽床氏も長尾氏も、城を討って出て戦うことはなかった、最初から籠城で挑んだと私は考えています。
羽床城縄張り図
羽床城(綾川町羽床)
南海通記には、その後の羽床氏と長尾氏の取った選択を次のように記します。

⑦長尾大隅守と羽床伊豆守は、それぞれの城に籠って戦おうとした。土佐軍は、那珂地方の南部の麦畑を「一畝隔てに薙ぎ払って」、夏以後の軍糧を脅かすと共に、農民に恩情を示して民心を得ようとした。

籠城した羽床城を長宗我部勢が包囲したことについては、次の史料が裏付けます。
この史料は、長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】「東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固中付、(後略)
                                                             長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますの使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一 先日、注進したように、(A)讃州の十河・羽床両城を包囲中です。さて、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀に与するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして残る勝瑞に迫りました。
(A)からは、天正8年11月24日には、長宗我部勢が二手に分かれて、讃岐の十河・羽床両城を攻囲中だったことが分かります。包囲中に、大阪石山本願寺を退城した紀州雑賀衆や淡路の門徒が三好氏の勝瑞城に集結したために、それを討つために羽床城の包囲を解いて、阿波に転戦したと記します。
南海通記は、羽床氏と長尾氏の降伏を次のように記します。

⑧元親は、香川信景を通じて羽床氏に降伏を勧めた。羽床伊豆守は、情勢を判断して、実子係四郎を入質として降伏した。長尾大隅守も、信景の扱いで元親に降伏した。

この後に、羽床氏と長尾氏は長宗我部元親の先陣として活動しています。ここからは城は取り囲まれたが、刃を交えることはなかったことがうかがえます。

元吉城 地図1
元吉城 丸亀平野の南部
それでは、櫛梨山の南方では戦いは何もなかったのでしょうか?
実は、「櫛梨山城=元吉城」で、前々年に元吉合戦が行われた所なのです。小早川隆景に元古合戦の詳細を報告した連署状を見ておきましょう。

急いで注進致します。一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。①攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた我々警固衆は山を下り、(金蔵)川を渡り、一気に敵に襲いかかりました。②敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)


元吉城 縄張図
元吉城
  ここからは、元吉城(櫛梨城)を攻めた讃岐国衆が大敗し、多くの戦死者がでたことが記されています。戦いの後に櫛梨城の南側の地帯には、多くの供養塔や塚が建立されたことが考えられます。そのひとつがの「長尾方の部将片岡九郎兵衛」の慰霊碑でないかと私は考えています。つまり、元吉合戦の際の戦死者が、長宗我部元親と長尾氏の戦いの時のものと、後世の歴史書では混同したという説になります。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦
 
元吉合戦の毛利方の戦略的な目的は次の2点でした。
大坂石山戦争の石山本願寺への戦略物資の運び込みのために備讃瀬戸南航路を確保する
備中に亡命していた香川氏を讃岐に返し、毛利氏の西讃支配の拠点とする
このため毛利氏には、丸亀平野に対する領土的な野心はなかったようで、元吉合戦の後は三好氏と和平工作がトントン拍子で進められます。

元吉合戦後の11月20日付の小早川隆景の書簡には、和睦条件が次のように記されています。
史料「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②その条件として、讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」でした。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。どちらにしても羽床氏と長尾氏が人質を出しているのは、元吉合戦後の毛利氏に対してです。

元吉合戦のことは、南海通記にはでてきません。それは西庄城の香川氏と混同されて書かれていることは以前にお話ししました。つまりは、南海通記が書かれた頃には、元吉合戦のことは忘れ去られていたのです。そのため元吉合戦の時の慰霊碑や墓碑が長宗我部元親の侵攻時のものと混同されるようになってきたとしておきます。

以上をまとめておきます。
①長宗我部元親の四国平定戦の基本戦略は「兵力温存=調略優先」で、味方についた適地の有力者の協力を得て平定と支配を進めた
②讃岐侵攻でも香川氏を凋落し、「同盟関係」を結ぶことで兵力や戦略物資の調達をスムーズに進めた。
③征服軍としての土佐軍の前には、同盟軍としての香川氏がつねに存在したことを念頭におく必要がある。
④南海通記に書かれていることは、疑ってみる必要がある。
⑤南海通記には、元吉合戦のことは忘れ去られていたようで何も出てこない。
⑥元吉合戦と長宗我部軍と羽床・長尾軍が交戦したという櫛梨山南方の戦場は一致する。
⑦後世の軍記ものは、これを混同して記述している。
⑧羽床・長尾氏は、毛利氏とは元吉合戦でったかっているが、長宗我部元親に対しては戦うことなく軍門に降った可能性が高い。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 長宗我部元親の讃岐進出 満濃町誌200P
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讃岐戦国史年表2

1563年に天霧城陥落し、その2年後以降は、香川氏の発給文書が途絶えます。代わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が萩原寺の地蔵院などの各寺に残されています。ここからは三好氏による讃岐支配が固まり、天霧城を追われた香川氏は備中に亡命し、毛利氏の傭兵部隊として活動しながら讃岐帰国のチャンスをうかがっていたと研究者は考えるようになっています。三好氏の讃岐制圧によって、讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。その結果、三好家に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料は今のところは見つかっていません。しかし、その一端を窺うことができる史料を以前に見ました。今回は、阿波白地城の大西氏が、三豊にどのような利権を持つようになっていたかを見ていくことにします。テキストは「中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年」です。
まず、天霧城退城後の香川氏の発給文書を香川県史の年表で押さえておきます。
1563年8月7日
A 香川之景・同五郎次郎、阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の秋山藤五郎の奮戦に対し感状を発する(秋山家文書)
8月18日 
B 香川之景・同五郎次郎が、三野菅左衛門尉に、天霧籠城と退城の時の働きを賞し、本知行地と杵原寺分を返付することを約する(三野文書)
C 12月6日 帰来秋山氏、財田で阿波の大西衆と戦う(帰来秋山家文書)
1564年2月3日
D 香川五郎次郎、秋山藤五郎が無事豊島に退却したことをねぎらう(秋山家文書)
E 3月~  三好の重臣篠原長房、豊田郡地蔵院に禁制を下す(地蔵院文書)
5月13日 香川之景・同五郎次郎、三野勘左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返却
 1565年6月28日 
F 香川之景、秋山藤五郎に、三野郡熊岡・上高野御料所分内の父秋山兵庫助の所領分を安堵し、家弘名を新恩として宛行う(秋山家文書)
1568年 
G  篠原長房、讃岐国衆を率いて備前児島に出陣し、毛利軍と戦う。
この年表からは次のような情報が読み取れます。
①A・Bより1563年8月に、三好氏との攻防戦の結果、香川氏は天霧城を退城したこと。
②C・D・Fから、香川氏はその後も約2年間、三豊を拠点に三好氏に抵抗を続けていたこと
③1565年6月28日を最後に、香川氏の発給文書が途絶える。これは香川氏が讃岐から備中に亡命したことを示す。
④Gから三好氏の重臣篠原長房の備中遠征に、讃岐国衆は従軍し、毛利軍と戦っている。

上の年表のC帰来秋山家文書の感状を見ておきましょう。
A 閏年永禄6年(1563)の香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言閏十二月六日   五郎次郎(花押)
             香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。
謹言閏十二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること

同じような内容の感状が、翌年の3月20日も香川五郎次郎から発給されています。ここでは、天霧城落城の後も財田方面で「大西衆」と香川氏の戦闘が続き、従軍していた帰来善五郎が軍功を挙げていたことを押さえておきます。
 香川氏の抵抗は2年ほど続きますが、1565年には篠原長房の圧迫を受けて、毛利氏を頼って備中に落ちのびます。そこで傭兵活動を行いながら臥薪嘗胆の時期を送ります。西讃の香川氏の領地は、阿波の武将たちに論功行賞として与えられたのです。この文書に登場する大西衆が、阿波白地城の大西覚用を中心とする一族だったようです。彼らが西讃地方に領地や権益をを確保するようになったことがうかがえます。
阿波大西氏は、阿波三好郡の白地城を中心に讃岐豊田郡・三野郡・伊予宇摩郡・土佐長岡郡にまで勢力を持ったとされる国人とされます。
阿波大西氏についてのまとまった研究としては、以下の2つが挙げられます。
A 田村左源大「阿波大西氏の研究」(1937)
B 池田町史 上巻(1983年、132P~183P)
池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

しかし、史料不足のために詳しいことは分かりません。
大西覚用系図
阿波大西氏系図
例えば系譜については、系図・軍記によって違いがあります。大西出雲守頼武と覚用については、親子関係が逆転していたり、同一人物として扱われるなど混乱しています。『池田町史 上巻」は、頼武を親、覚用を子とします。なお、覚用の母は三好元長女(実休妹)とされているので、覚用は三好長治・存保の従兄弟になります。また、大西覚用の妻は三好長慶の妹とされます。三好氏と何重もの婚姻関係を持ち、深いつながりがあったことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
天正年間の当主である大西覚用について、ウキの前半部には次のように記します。
「大西 覚用(かくよう)- 天正6年(1578年))は、阿波国の国人領主。出雲守と称す。俗名は輝武。父は大西元高、子は大西頼武(親子が逆転している)
①大西氏は鎌倉時代に荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したもの。
②承久の乱で功のあった小笠原長清の子小笠原長経が、守護代として阿波池田に赴任してきた際に小笠原氏に属した。
③南北朝時代には大西氏と小笠原氏は南朝方として戦っていたが、南朝方が不利になると小笠原氏は細川氏と和議を結びこの地を離れ三好と改姓。これを契機に大西氏は小笠原氏より独立、戦国時代には阿波西部の最大勢力となっていた。
④大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。
⑤阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。

①~④までについては、軍記ものに書かれている内容で、これを裏付ける史料はありません。しかし、①では、大西氏も従来は近藤氏と名乗っていたとします。
④からは婚姻関係を通じて三好家と大西家は強く結ばれていたことが分かります。三好氏の讃岐制圧戦の先陣を切って、大西覚用が西讃の丸亀平野や三豊平野に侵攻し、領地を確保したことがうかがえます。それをうかがわせる史料が冒頭の財田合戦に出てくる「大西衆」です。

大西覚用の西讃侵攻の「相棒」となったのが二宮・麻の近藤氏です。
中世の近藤氏については、以前にも触れましたのでここでは省略します。

大水上神社 近藤氏系図

近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えています。この背景には、永世の錯乱によって、阿波細川家と讃岐細川氏が対立し、阿波勢力が讃岐に侵攻してきたことが背景にあります。その先兵が三好氏でした。三好氏の讃岐侵攻は東讃地方では、十河氏を中心に進められたことは以前にお話ししました。それに対して、西讃については三好氏の侵攻制圧過程が史料からは、なかなかたどれません。そのため、南海通記ばかりを見ていると、西讃は天霧城の香川氏の配下にあったと思えてきます。しかし、長尾氏や奈良氏・羽床氏・滝宮氏なども三好氏に従属していたこと、また香川氏は1573年に天霧城を退城後は、備中で毛利軍の「傭兵部隊」として10年近く活動していたことが分かっています。そして、讃岐国衆の安富氏や中讃の滝宮氏などは、三好氏の重臣と婚姻関係を結び、三好氏の遠征に従軍するようになっていたことは以前にお話ししました。そのような流れの中で、三豊の近藤氏を捉える必要があります。
 
三好氏の近藤氏への懐柔策の一つが「近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えた」という婚姻政策でしょう。
そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。国雅の代になると、三好氏との連携強化が進みます。三好氏から見ると西讃制圧が進み、讃岐の国人衆を配下に入れで動員できる体制が整ったといえます。こうして近藤氏は、阿波三好氏に従軍しして動くようになります。これに対して、反三好を旗印とする天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます。
信長と三好氏の対立
         織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

永禄三(1560)年、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは先ほどお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで近藤国雅が永禄三年に討死しています。三好氏の侵攻が天霧城をめざして、じりじりと迫っていることがうかがえます。近藤氏は、この時点で大西覚用と同盟関係にあったことがうかがえます。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう。
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。国祐を取り巻く肉親関係は少々複雑です。国祐は大平氏を名乗ります。母親は阿波白地城の大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。とすると、近藤氏は、当主の嫁を三好氏に続いて、大西家から迎え入れていたことになります。近藤氏の阿波勢力とのつながりが深化していることがうかがえます。

大西覚用が讃岐において何らかの権益を得ていたことは次の史料から分かります。
 次の史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が、備後亡命中の香川信景に讃岐に帰国し、反三好的な行動を起こすことを求めたものです。
「【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿

上洛してきた香川氏に対して反三好的な軍事行動を起こすなら「大西跡職」を与えるとあります。「大西跡職」というものがなんのことか私にはよく分かりません。ただ大西覚用が西讃に持っている権益を香川氏に与えると読み取れます。そうだとすると、大西覚用は三好氏から恩賞として、なんらかの権益を讃岐に持っていたことになります。以上からも篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと考えられます。一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えるようになります。この中には近藤氏も含まれていたことが推測できます。こうして阿波三好氏による讃岐平定は着々と進められて行きます。奈良氏・長尾氏・羽床氏も三好氏の配下となり、香川氏追放後の西讃は三好氏の氏配下にあったことを改めて押さえておきます。そういう視点から見ると、これまでの南海通記に基づいて書かれてきた歴史は辻褄があわなくなってきます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

例えば1574年10月に「大西覚養(用)が香川氏を討つために那珂郡へ侵入」とあります。しかし、香川氏はこの時点では亡命中です。そして、奈良氏や長尾氏は三好氏へ従属しています。大西覚用は、二宮や麻の近藤氏と婚姻関係を結び、同盟軍として動いています。すでに10年前から讃岐国衆は三好配下にあるのです。そこに大西覚用が「讃岐侵入」するはずがありません。ここにも南海通記の時代認識の誤りが見られます。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 このような中で三好氏の讃岐支配をひっくり返す動きが起こります。それが次の2つの事件です。
A 毛利軍の支援による香川氏の天霧城復帰と元吉城占領
B 長宗我部元親による阿波侵攻
長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親は、阿波や讃岐でも懐柔策を進めます。『祖谷山旧記』には、次のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここにはいち早く長宗我部元親に帰順した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。祖谷山間部の土豪を、豊永の豊楽寺の信仰集団に組織し、見方に引き入れた土佐軍は、吉野川上流から大西覚用の白地城に近づきます。そのような中で、長宗我部元親が栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。
十一月二十三日長宗我部元親書状

雖未申入候、令啓達候、
貴国が今不昇平御心
遣令察候、自今以後
別而可得御意候条、於御
入魂者可畏存候、就中
大西方・三好安藝守方
和睦
之儀、此中申試候
殊被添御情由大慶至候、
重而使者差越申義
候之間、双方納得之御助
言所仰候、傷御太刀一腰
馬一疋進覧之候、卿
表御祝儀計候、猶
委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

意訳変換しておくと

今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方の納得を得れるように助言していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

内容を次のように整理して起きます。
①長宗我部元親から栗野氏への初信で、阿波国内の混乱に言及した上で、今後の従属を求めています。
②阿波大西氏と三好安芸守の和睦を試みていることについて喜び、重ねて調停の使者を派遣するため双方が納得するような助言を求めています。

ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。

白地城周辺
阿波白地城と栗野屋敷

白地城から西へ1㎞ほどにある池田町白地字井ノ久保には栗野屋敷という城館跡があり、栗野大膳を祀った塚があります。この栗野氏は白地城主の一族ともされます。この栗野氏の三好郡内における立場がどんなものだったのかはよく分かりませんが、阿波山間部の南朝年号文書に見える南朝武将の中には、粟野三位中将が出てきます。三好部内に子孫を称する家が多数あると「池田町史 上巻115P」には記します。しかし、南朝年号文書については近年は、近世の偽書の可能性が指摘されていて、そのまま信じることはできません。
 ここでは栗野氏が、阿波大西氏・三好安芸守の懐柔に影響力を持つ人物と元親は見ていたことがうかがえます。この後の天正5年に、大西氏・三好安芸守は帰順します。

ウキには、大西覚用の後半部が次のように記されています。
⑥城主の大西覚用は、一族の大西頼包(弟?)を人質として一旦は長宗我部元親に従属した。
⑦しかし、三好氏が織田氏と同盟し、長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、大西覚用は三好笑岩の求めに応じ三好側に寝返った。
⑧それに対して元親は、天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とし、覚用は讃岐国麻城の近藤氏のもとへ逃げ延びた。
⑨天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。
⑩阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。
⑪覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した

この時期の大西覚用の動向を、一次史料と『元親記』『昔阿波物語』「三好記』などの軍記でもう少し詳しく見ておきましょう。
    ⑥については「元親記(上)」には、次のように記されています。(要約)

天正四年(1576)、前年に阿波南部に侵攻を果たした長宗我部元親は大西入りを評議した。当時、大西覚用は土佐の寺院の住持だった兄を通じて元親と音信を交わす関係にあった。このため元親は、覚用を調略し、覚用は甥の大西上野介頼包を元親への人質とした。しかし、その後覚用は三好長治に寝返り頼包を見捨てた。しかし、元親はその後も人質の頼包を重用した。

「大西覚用の兄」については、「芝生大西系図」「阿波志」六に覚用の弟として土佐野根万福寺の僧である了秀の名が記されています。長宗我部元親は修験者をブレーンとして重用して、情報収集や凋落などの外交交渉にも当たらせていたことは以前にお話ししました。ここにも、その一端が見えてきます。

⑦については、元親から離反する前の大西覚用の動向を次のよう史料で確認できます。
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏の重臣「御四人」に宛てたものです。
小早川左衛助殿参
吉川駿河守殿御宿所        
先度同名越前守以書状申人候之虎、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宜者日上申候之条、暉被成御尋候、恐々謹言、
  二月廿七日       (大西)覚用(花押)
                  高森(花押)
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
口羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿
参 御宿所
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏重臣「御四人」に宛てたものです。大西越前守からの書状に対する毛利氏の返信を受けての書状で、覚用らが足利義昭の入洛について前年より今村紀伊守と相談し、隣国表(讃岐)を第一とする申し合わせをしていることを伝え、毛利氏にその了承を求めています。内容からは、元吉合戦のあった天正五(1577)年のものと研究者は判断します。
  ここからは前年の天正四(1576)年に、大西覚用が、毛利氏の進める義昭の入洛(織田氏に対する軍事行動)に従軍していたことが確認できます。毛利氏と長宗我部元親の間には不戦条約的なものがあり、準同盟的な関係にあったと研究者は考えています。この頃の毛利氏は「海陸行」と称される対織田氏の大規模な軍事行動を計画していて、大西氏の讃岐への侵攻計画もその一環と研究者は考えています。なお、毛利氏の軍事行動は2月に実施され、讃岐では7月に元吉合戦が戦われています。大西覚用は、天正四年から義昭人洛について協議し、翌5年には毛利氏と連携した讃岐への軍事行動を予定していたようです。しかし、これは長宗我部元親の侵攻で頓挫します。
「元親記』上には、長宗我部氏の大西攻めは、大西頼包の先導によって行われ、在地領主の離反にあった覚用は讃岐三野郡麻城に逃亡したと記されています。西讃府志には、麻城主は近藤出羽守国久で、国久は大平伊賀守国祐の弟と記されています。大平国祐の母は、先ほど見たように大西備前守長清女とされます。その関係で大西覚用は縁戚関係にあった近藤国久を頼って麻城に逃れたようです。なお、覚用弟の長頼も覚用敗死後に麻城に逃れたと西讃府史は記します。

この大西覚用追放の功績で、頼包は元親より白地城の領地を認められます。さらに三好郡西部の馬路を得て、三好郡東部の足代を攻略します。この長宗我部氏の大西侵攻については、一次史料によって4月頃であったことが分かります。

長宗我部元親文書の中に、大西覚用や弟たちが登場するものがあるので見ておきましょう。

長宗我部元親 【史料②】十月十三日長宗我部元親書状
上の右部分の拡大
【史料②】十月十三日長宗我部元親書状 拡大

【史料2】十月十三日長宗我部元親書状
「 (墨引)   長宮
三式少御宿所  一九親」
尚々虎口之様林具
可示給候、脇上・太丹へも
此由申度候、
先度至南方被示越
即御報中候き敵動之事、頓而
引退之由御飛脚日上之間、
乗野方之儀も堅固申付、

為番手昨日打入候、然者又
自勝瑞十日二相動候由大西方
注進候、ホ今居陣候欺、於事
実者加勢之儀不可移時日候、
将亦大西之儀覚用下郡被取
組之由候、大左・同上此方無別
義趣共候、乍去彼邊之事
弥承究機遣緩有間敷候、
定而敵表之儀為指事雖
不可在之候、御手前堅固御武
略肝要候、猶追々可申入候、恐々
謹言、
拾月十三日  元親(花押)
三式少
御宿所
意訳変換しておくと
①三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して連絡をとった際に、返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②そのため那東郡桑野についても堅岡に命じ、十月十二日に番手を配置した。
③勝瑞から十月十日に岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑧虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)にとされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。書かれていることを、もう少し詳しく見ておきましょう。
①については「御飛脚」と敬意を表していることから、「南方」とは阿波南部で阿波三好氏と敵対していた阿波守護家細川真之を指すと研究者は考えています。
この史料の中で注目したいのは、⑤の大西覚用とともに文中に出てくる⑥の「太左」「同上」です。
⑥のふたりは覚用の弟たちで、(A)大西左馬頭長頼と(B)大西上野介頼包と研究者は考えています。
(A)「太左」=大西左馬頭長頼については、次のように考えられています。
(1)「善正寺系図」(三豊郡史 1921年、328P)では、讃岐三野郡麻城主
(2)「芝生大西系図」(大西徹之「阿波大西氏明視録(その四)」『宇摩史談」八八号)では、讃岐豊田部不二見城主
(3)「日本城郭大系』第15巻160頁は、讃岐三野郡麻口城を「大西左馬守長頼の居城」(典拠不明)
麻口城は、高瀬町史などでは讃岐では麻近藤氏の居城とされています。そこが大西覚用の弟たちの城だったというのです。それほど近藤氏と大西覚用の一族は関係が深かったと言えるのかもしれません。ただ、大西覚用の弟たちが讃岐の城主として活動していることは押さえておきます。
(4)「太左」については、『阿波志』六は、阿波三好郡漆川城主とある大西左衛門尉の可能性もあると研究者は指摘します。
(B)大西左衛門尉は、人質として長宗我部元親に出されていた人物ともされます。
(5)「漆川村大西鎮一所蔵系図」では「大西七郎兵衛 後上野守」、「阿波志」六では「頼包 称上野介」として記され、いずれも覚用の弟とされます。
(6)「元親記」上は「上野守」として覚用の甥、「みよしき」「昔阿波物語」「三好記」では「七郎兵衛」と見え、覚用の弟とします。
⑨の「太丹」「脇上」は、三好式部少輔重臣とされる大島丹波守と岩倉城に程近い美馬郡脇城主の武田上野介信顕と研究者は考えています。いずれも三好式部少輔に近い人物で、式部少輔とともに長宗我部氏に服属し、阿波三好氏と敵対していたようです。

内容としては、次のような事が分かります。
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)から注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど。以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、弟の大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6年と研究者は判断します。
 内容を整理すると、次のようになります。
A 長宗我部元親が三好式部少輔に対して、阿波三好勢の侵攻があった阿波南方の状況を伝えている。
B 同時に、大西より三好勢侵攻の注進があった岩倉表の状況について問い合わせ、大西覚用ら阿波大西氏の動向についても知らせたもの
この史料は「史料綜覧』巻11に天正四年十月十日条の「阿波三好長治、其将大西覚泰の長宗我部元親に降るに依り、之を攻む」の出典として挙げられているものです。

以上をまとめておきます。
①三好実休の時代には、東讃は十河一存を中心に三好氏の勢力浸透が行われた。
②一方、西讃においては白地城の大西覚用などが三豊地域への進出を行う
③その際に大西覚用は、二宮・麻の近藤氏と婚姻関係を深めながら進出を計る。
④近藤氏の麻口城は、阿波の大西覚用の進出拠点として機能した
⑤そのため周辺では、天霧城の香川氏配下の秋山氏などとの小競り合いが多発した。
⑥しかし、三好氏の重臣篠原長房の西讃制圧によって、香川氏は備中への亡命を余儀なくされた。
⑦以後は、香川氏の領地は阿波国衆に配分され、大西覚用も西讃に領地や利権を得た。
⑧このような中で1577年に、元吉合戦と同時並行で毛利氏支援による香川氏帰国が実現する。
⑨一方、長宗我部元親に従属していた大西覚用は寝返り、白地城を追われ麻口城に落ちのびてくる。
⑩大西覚用と近藤氏は、長宗我部元親の西讃侵攻に対して徹底して抵抗する。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年
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  若い頃に、重いテントとシュラフをキスリングザックに入れて、地図を片手に四国の山々を歩いていました。地図を読んでいるといるといろいろなことが見えてくるのですが、その中で不思議に思ったのが山の中に書き込まれた地名です。サコ・クラ・タキなどの接尾語を持つ言葉が多いのです。これは何らかの共通性があるのだろうと思っていましたが、その疑問に答えてくれる文章に巡り会えましたのでアップしておきます。テキストは「楠瀬慶太 研究ノート 高知県旧物部村の地名に見る山の生活誌   四国中世史研究NO12 2013年」です。

地名のほとんどは複数の語によって構成されます。例えば、「大谷」と言う地名は、次の二つで構成されています。
A 前部の「大」という土地の性質・状態を表す形容語
B 後部(接尾辞)の「谷」という地形名
  研究者は、地名の接尾辞を研究者は次のように3つに分類します。
①「ヤ」「ヤシキ」「タク」「ヂ」「ハタ」「夕」「バ」など人為的に作られた社会的要素
②「タニ」「サコ」などの地形を表す自然的要素
③「キタ」「ミナミ」などの方位、「シモ」「カミ」などの方向を表す位置関係要素

旧物部村の地名のカテゴリー分類
              表1 旧物部村の地名のカテゴリー分類

旧物部村で使われる地名接尾語を、一覧表にしたものが上表です。そのうちでよく出てくるものを見ていくことにします。
物部村

monobe1.gif



  A ダキ(タキ:瀧)
山中には崖崩れがおきて、岩肌がむき出しになっている所です。このような断崖は「ダキ(瀧)」と呼ばれました。川を流れ落ちる滝とは違って、水は流れません。危険な場所で、山林修行者の行場となったところで、普通の人は近寄ってはいけない場所とされたようです。大字別府の「瀬次郎ダキ」、大字安丸の「白滝」「神滝」などがあります。

山林修行者が選んだ行場とは
  B 「ツエ」
新しくできた崩壊地のことで、次のような「ツエ」があります。
「土佐地検帳」のツエノ村(現在の大字頓定の内)に「杖谷」
大字笹の「潰野々川」
大字市宇の「ツエ谷」
大ヅエで知られる大字高井の「冬谷」の周辺にある「ツエ」
これらは地形的には深い渓谷に多く、谷川が山崩れなどで剥がれてできた地形につけられたようです。
  C タビ(滝)
水の流れる滝(瀧壷)のことを「タビ」と呼んだり、滝の下が深くなっているものは「お釜」と呼びました。大字別府の「百間タビ」、「タビノロ」という地名が大字五王堂・中谷川・大栃にあります。また、「お釜」は水神様がすんでおり、金物で水をすくってはいけない、女の人は近づいてはいけないなどと伝えられます。「お釜」には釜の主がいて、大鯰や大鰻が住んでいることもあったようです。
D トウ・タヲ・タワ  
四国では峠のことを「トウ(タヲ:塔・頭)」ということが多いようです。
また、嶺続きの低くなった所を「タワ」といい、獣類の通り道にもなっています。峠は、人間にとっても山越しに欠かせない交通路でした。大栃には、土のような峠があります
①大北の集落から栃谷へと抜ける峠道付近に「越トウ」の地名
②中屋の集落から大字山崎の塩の集落へ抜ける峠道付近には「仏ノ頭」
③字笹の「赤仁尾」、大字五王堂の「西仁尾山」などがあります。
E ナロ 平たな場所、ナルイ場所のことを「ナロ(平・タイラ」
F ニオ  高山や奥山のことを「ニオ」
G ワダ(和田) 山の窪地や低い所。山の低地部の窪地
H ウド・ウドウ  雨水に洗い流されて深く凹んだ所を「ウド」、谷のやや深く入り込んだ所を「ウドウ」
I イソ  カモシカなどのいる断崖絶壁の岩山
J クラ  石山のこと。ニク(カモシカ)をクラシシというように、カモシカは岩場に棲む習性があります。獣のつく所を「クラ」、広い岩壁を「ヨコクラ」、更に高くのびた岩壁を「タテクラ」と呼びます。岩場、特に岩壁には自然の洞窟も多く、ここも山林修行者の行場となるところです。大字柳瀬の「大倉山」、大字岡ノ内の「マガリクラ」「コガネクラ」「藤蔵ノ畝」など。
K ヌタ  山腹の湿地に猪が自ら凹地を設け水を湛へた所
『後狩詞記」に次のように記されています。

「猪(イノシシ)は夜来つてこの水を飲み、全身を浸して泥をぬり、近傍の樹木にて身をこする。故にヌタに注意すれば、猪の棲息するや否やを知り得たるべし」

 旧物部村にも各地に「奴田(ヌタ)」「奴田ノ尾」などの地名があります。
L ヒウラ・カゲ  日当たりの良い山の側面を「ヒウラ」、日当たりの悪い山の側面を「カゲ」
日当たりの多い日浦には、影側より集落が多いようです。

M 土居田  各大字には、「土居」という地名や屋号があります。これは、名本と呼ばれる開発領主が初めて開発した土地のことです。「土居」と呼ばれる屋敷の周辺には、「土居田」と呼ばれる田地があります。「土居田」は、開発領主が最初に開発した土地で、谷の水掛かりがよい平地にあって、収量もよく、面積の大きい田地であることが多いようです。大字押谷に「土居田」。

L セマチ  田の一区画を「セマチ」。
M ホリタ  開墾地のことで、『地検帳」にも「堀田」(大字大栃)、「ホリ田」(大字庄谷相)
N ハルタ  年中いつも水の溜まっている泥田、鋤返して泥深い田、或いは深田のこと。大字安丸に「春田」の地名があり。
O ヤケ   焼畑では山焼きを行い、土地に地力をつけます。「ヤケヤノタワ(トウ)」は、応永23(1416)年の仙頭名(現在の大字仙頭)の領域を記した文書に載る村の境界の地名です。。また、大字仙頭には「ヤケノ(焼け野)」「ヤケヤノ平」などの焼畑に関わる地名です。
P アレ・ヤレ  焼畑では輪作を行うため、数年間耕作されない荒地ができます。大字南池の山には「長荒」「麦荒」「水荒」「カジ荒」などの地名が、それにあたるようです。

 次に、今見てきた地名を地図上で見ていくことにします。まず、峠(トウ・タヲ・タワ)は、人間の交通路です。
同じ様に、峠は獣達の通う道でもありました。交通路でもありました。大字中谷川の③「山犬トウノウ子」は「地検帳」にも載っている古くからの峠です。戦前には中谷川の子供達が、ひと山越えた大字拓の⑤拓小学校へ通う通学路でもありました。
大栃の峠2
   中谷川の①キウネ集落か④ら山神山を越えて、大字拓の⑤北舞集落へいたる峠道。その途中に、③「山犬トウノウ子」はあります。峠は、山犬(オオカミ?)の通り道でもありました。山犬は、収穫期の焼畑に集まる猪や鹿を退治してくれる益獣であった反面、人を襲う害獣でもありました。その山犬への信仰は、焼畑文化圏に特徴的地名でその発生も古いものがあることは以前にお話ししました。また、峠道の周辺には、中谷川側に②「奴田(ヌタ)」、拓側に「ヌタ久保」があります。「ヌタ」は猪の集まる場所です。猪は「奴田」から「ヌタ久保」へ峠を越えて移動していたことがうかがえます。

峠は山と山の境にもあたります。そのため村々の境界争いの対象になることもありました。
例えば、次のようなトウ(峠)が係争地となっています。
A 応永23年の仙頭名の領域を記した文書には「ツツミノトウ」「ヤケヤノトウ」、
B 延慶2年の槙山と韮生の争いでは、安次名(現在の大字中谷川)の境界地名として「クイミノタワ」
大栃のヤケノトウ
応永年間の文書の地名を地図上で押さえておきます。文書には、次のように記されています。

「限北ヲ ①シャウシ(庄司)屋敷ノ爪ヲ堺(境)、山モト堂ヲヤケヤノタワヲツツミノトウヲカナワ足ヲ堺テ、カナワ足ヲ栗ノクホノエミヲ堺テ、フキサロノ下ナルエミヲ堺テ、次ニアサシクノ下ナルエミヲ堺テ、柿ノモトマテ」

  北側は、隣の押谷名との境界が問題になったため以上のように設定されたようです。前半部を現地比定をしておきましょう。
①「庄司屋敷」→「山モト堂」(現在の大師堂)→「ヤケヤノトウ」→「クリノ久保」の尾根が境界争いの対象だったようです。この時に引かれた境界は現在のものとほぼ一致します。村の境界が、このときにで設定されたことが分かります。
ここに出てくる「ヤケヤノトウ(焼け野の塔)」は、焼畑が行われた峠という意味です。ここからは境界争いが焼畑の活発化から起きたことがうかがえます。また、現在も峠道が通るように、交通路としても「ヤケヤノトウ」は重要な役割を果たしてきました。「クリノ久保」の上には「ヌタノ久保」の地名があり、猪の集まる場所で狩猟場だったところです。猟場をめぐる境界争いも重なっていたのかもしれません。

もう1つ交通路・境界に関する地名を見ておきましょう。「中山」です。.
旧物部村には、大字大栃・押谷・根木屋に「中山」の地名があります。その位置を地図上で押さえておきます。
まず、大字大栃の「中山」です。下図を見れば分かるように、大栃と山崎のちょうど字界にある地名です

大栃の中山

.次に、下図の大字押谷の「中山」も、押谷と山崎のちょうど字界にあります。
大栃の中山2

私は、「中山」は、村の中央にある山とばかり思っていました。しかし、山村の中山は、真ん中にあるのではなく、隣村との境界上にある山ということになります。そのため境界上に位置する中山は、軍事的な意味を持っていたと研究者は考えています。
最後に、大字根木屋の「中山」を見ておきましょう。
大栃の中山3


この地図を見ると、大栃や押谷のように境界上にある地名ではないように見えます。しかし、もともとは、この中山も境界上にあったと研究者は次のように考えています。文保二年(1218)の同ノ内名の四至境を記した文書には、「中山」が境界の地名として次のように記されています。
「西限、上ハカフリノタキヲサカヒ、下ハアラセ(荒瀬)谷シヤウシヤウチトチサコノウヘ中山ヲ谷口、カケハウヘノ谷ヲサカヒ、峰ハウヘノタキクロ又タノニシノクホヲサカヒ」
岡ノ内名の西側の境界です。「荒瀬」「中山」「クロヌタ」は上図で比定できます。「カケハウヘノ谷」は並びからして、「中山」の北西にある「影藪(かげやぶ)」の谷(小字は「蕗ノ谷」)と研究者は推測します。このように見てくると、文書から復原できる鎌倉後期の岡ノ内名の境界は、近世の岡内村の領域とは、まったくちがっていたことがうかがえます。この時期の岡ノ内名の境界は、根木屋名(村)の中央部まで大きく延びていたことが見えてきます。
 また「中山」は交通路にあります。野久保集落から影藪集落への山道の途中に「中山」があります。「中山」を越えていく山道は、その上の連合集落へと続きます。ここでは「中山」は交通路・境界を示す地名であったことを押さえておきます。

 狩場としての「ヌタ・クラ」
「ヌタ」は、イノシシのぬた場のあったところであると同時に、次のような特性を持ちます。
A 村の境界に多い地名
B 高い山の尾根を越える峠下に広がる地名
根木屋の「クロヌタ」は、応永34年(1427)の仙頭名内の送畑の境界を記した文書にも係争地でした。この文書には、他にも「いまぬた」「むかしぬた」の地名があります。このように、「ヌタ」という地名が中世の相論文書に載るのは、単にそこが境界だからというだけでなく、何らかの利権を生じさせる土地だったからではないと研究者は推測します。そこで、鳥獣に関わる地名として類似する「クラ」の空間的分布を見ていくことにします。
武士団の狩猟場としての「クラ」
中山武士団の譲状や相論文書には、「カグラ」(狩倉・鹿倉など)という地名がよく出てきます。「カグラ」というのは領主(地頭)が狩猟をするための山で、一般の農民(名田百姓)が狩を禁じられた所領でした。猟の目的は、獣肉とその皮です。獣皮は武具や敷物に使われ、武士に欠かせないものです。
「カグラ」という地名は、旧物部村にはありませんが、「クラ」はあります。その空間的分布には、重要な特徴があると研究者は次のように指摘します。

大栃のクラ
A「大倉山」「上大倉」「中大倉」「下大倉」がある大字柳瀬
B「マガリクラ」「コガネクラ」「藤蔵ノ畝」などがある大字岡ノ内
これらは中世の韮生郷・槙山郷の有力名主層の根拠地になるようです。特に、柳瀬氏は韮生郷で大きな勢力を持った武士層です。大字柳瀬における「クラ」地名の分布を上図で見てみると大字神池・格佐古との境界に位置しています。中世には、楮佐古名は柳瀬名の脇名で、「大倉」は柳瀬氏の領域でした。「クラ」地名に沿った山道には、「熊ノ内」や「兎ノ内」など鳥獣に関する地名があります。ここからは、このエリアが狩猟場であったことがうかがえます。
 江戸後期の『南路志』柳瀬貞重筆記に次のように記されています。

「昔ハ猪鹿を弓にて射たるよし、矢ノ根山々にすたり有りしを、予幼少の時、拾い来たりしを数々見たり」

鉄砲導入前には、弓矢による狩猟が盛んであったことが分かります。近世には、鳥獣害対策のための「農具としての鉄砲」が普及し、藩と村の管理下で使用され続けます。土佐藩による村ごとの鉄砲の本数の把握は、こういった流れの中で捉える必要があると研究者は考えています。

以上をまとめておきます。
①村の境界には「ヌタ」や「クラ」という地名がある
②これは、中世の武士団の狩猟場で、大きな利権でもあった。
③また、焼畑農耕の活発化で境界をめぐる相論も起きるようになる
④その利権や境界をめぐって、領主や村々で境界争いが起きる
⑤物部村の名(村)同士の境界紛争が頻発化するのは、材木利用や耕地利用の活発化だけでなく、狩猟場としての山地利用も含めた総体的な山地利用の活発化という背景があった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
楠瀬慶太 研究ノート 高知県旧物部村の地名に見る山の生活誌   四国中世史研究NO12 2013年
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大山祇神社 1
伊予三島社(大山祇神社)の海から参道 一遍上人絵伝
今回は一遍が参拝した当時の伊予三島神社(大山祇神社)の景観を見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。絵図を見る前に、史料で、鎌倉期の三島社の焼失と造営について押さえておくことにします。
研究者がまとめた以下の表を見ておきましょう。

中世の大山祇神社の焼失と再建表
大山祇神社の焼失と造営

大山祇神社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)に所蔵されている「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」には、次のように記されています。
A 建保五年(1217)の火災で「三嶋社屋」が焼失
B 貞応二年(1323)の火災で「御宝殿以下贄館 并神主殿政所、地頭殿政所、并神官荷宿等惣数四十余宇」が焼失
Aでは、当時は「三嶋社」とよばれていたこと、大山祇神社という社名は近代以後のものであることを押さえておきます。
Bには焼失した建物が列挙されています。その中に「地頭殿政所」があります。ここからは、南北朝の時期には、地頭の拠点として政治的な機能を持っていたことがうかがえます。ちなみに焼失した建物が再建されたかどうかは「臼杵本」は、何も触れていません。
  次に南北朝期にまとめられた「伊予三島縁起」を見ておきましょう。
この書は、天孫降臨から始めて推古朝における三島大明神の「雨降」、それ以降の社殿の造営、世上のできごとなどを年代順に記した縁起です。最終記事は、元亨二年(1322)の社殿焼亡の記事です。末尾には次のように記されています。

「自大宝元年至永和四年六百七十八年、於三嶋社壇一七日参籠之時菅大夫殿所持本書写畢」

A 宝暦四年(1754)の奥書を持つ「一島宮御鎮座本縁」は、神社伝来の古文書や記録に依拠しながら元禄四年(1691)までの社殿造営、神官任免、宝物管理などについて整理したものです。鎌倉時代の記事については、「臼杵本」や伝来の古文書を参照しながら書いた部分もありますが、典拠を示さない部分もあります。
「御鎮座本縁」は、建保・貞応の火災については「臼杵本」に基づいて記述されています。ここで注目したいのは、造営については次のような独自記事を記していることです。
A弘安三年(1280)の条
「建保・貞応の焼失以後に仮殿を建てていたが、この年分国中の造営米を以て社殿を造営すべしとする鎌倉殿の仰せがあった
正応元年(1288)の条
この年4月にそれまで仮殿であった宝殿、諸末社の造営が悉く調った、
正応元年といえば、まさに一遍が参詣した年に当たります。「御鎮座本縁」の記事が本当だとすると、一遍参詣の直前に社殿造営を終えていたことになります。しかし、5百年後の記事をそのまま信用するわけにはいきませんが。
研究者は、その他の造営についての同時代史料や信憑性の高い史料を、次のように挙げます。
A 建長七年(1255)4月22日付 修造雑事同時勘文。
これは陰陽師賀茂在盛が上津宮・下津宮・諸山社等の修造の日を「澤申」して三島社に伝えたものです。ここからは上記諸社が同年六月に上棟される予定になっていることが分かります。焼亡から30年が経過していますが、この頃本格的な再建が始まったことがうかがえます。
B 「帝王編年記」の永仁二年(1294)の記事で、7月30日の条。
「伊与国三嶋社造営日時定」、
C 十一月二十八日の条に「日時定也、伊与三島社御正外可被渡正殿」
詳しいことは分かりませんが、「御正然」を正殿に移すこと記されています。ここからは、造営がある程度進んでいることが推測できます。
D 正安四年(1302)2月28日付の三島社あて官宣旨。
同年四月に「当社十六王子御然」を新造の正殿に移すことを命じたものです。これについて解説を加えた「御鎮座本縁」は、浦戸大明神など一六の本社を本社境内の「長棟」に遷宮させたと解釈します。しかし、これは室町期に境内の一角に「長棟一(現十七神社)」を設けて、そこに諸山積社と十六王子社を併せ祀ったことを念頭に置いたものです、宣旨中にある「正殿」とは、しばしば宝殿、大宮などと表記される本殿にあたるものと研究者は考えています。この官宣旨からは、正安四年の時点で本殿が完成していたことが分かります。
ただ、この時点ですべての社殿の造営は、まだ完了してはいなかったようです。
応長二年(1312)3月に、国衙の目代・惣大判官代や三島社の大祝が連名で、一国平均役として造営段米を施行すべきことを国内の各荘郷に命じています。つまり、造営資金のための徴税を行っているのです。ということは、この時点では完成していなかったことになります。
 また正和五年(1316)8月には、清長という人物が三島社の鳥居造営のために「布反、銭百貫文」等を寄進しています。同時進行で、鳥居など周辺整備も進められていたようです。
以上を次のように整理して起きます
①鎌倉時代の三島社再建は、建長7年ころには始った。
②長い年月をかけながら正安4年には「正殿」が完成し
③応長二年以降に何年かして造営を終えたと
これらを一遍の参拝時期とすり合わせてみます。
①一遍が三島社に参詣した正応元年や「聖絵』が完成した正安元年は、ちょうど再建の途上にあった
②正安四年に「正殿」への十六王子の遷宮が行われているので「聖絵」の制作時というのは、本殿等主要な社殿は完成に近づき、付属の諸施設の造営に取り掛かる時期になる
このような点を押させた上で、一遍上人絵伝の伊予三島社の絵図を見ていくことにします。
まず、「三島社古絵図」で俯瞰的にレイアウトを押さえておきます。
三島社古絵図
三島社古絵図
①入江の奥まで海が入り込んできている。
②港の砂浜に鳥居が建ている。
③神域から流れ出した小川が、参道に並んで海に伸びている。
④鳥居から松林の中を真っ直ぐに参道が延びている
⑤神域の中に何本もの巨樹(神木)が描かれている
⑥背後に3つの山が描かれている。
上の三島社古絵図と比較しながら、今度は一遍上人絵伝を見ていくことにします。

大山祇神社1
伊予三島社(一遍上人絵伝) 海に面する参道と鳥居

この絵図を見るとまず気がつくのは、門前にまで海が迫り、上陸するとすぐ大きな鳥居があることです。船でやってきた参拝者は、船を砂浜に乗り、鳥居をくぐって参道を歩き始めることになります。これは現在の景観とはかけ離れているかのように思えます。現在の神社は海辺からはかなり離れているからです。今は港に上陸した人々は、門前町の街並みを500mほど進んでから神社の人口に達します。しかし、この門前町の一帯が、「新地」と呼ばれています。港からの門前町は近世の開発地なのです。地形復元すると、中世には参道の入口まで波が寄せていたようです。実際、室町期の古絵図でも参道入口の鳥居まで海が迫っている状況が描かれていることが確認できます。これらのことを考えれば、『聖絵』は当時の海と社地の関係を比較的正確に描いていると研究者は考えています。
次に川を見ておきましょう。
『聖絵』は、背後の山から流れだした小川が本殿の傍を通って参道沿いに、そのまま海にそそいでいる姿を描いています。この川の流れは古絵図も同じです。そして、いまも明治川(御手洗川)と呼ばれる小川が同じところを流れています。この川の流れについても「聖絵』は当時の景観をほぼ正確に描いていることが分かります。

大山祇神社2 巨樹

 境内景観で目をひくものに、参道終点の一本の巨木です。樹種は分かりません。枝を大きく張り、青々とした葉を茂らせています。大山祗神社境内の巨木といえば、参道の広場の奥にそびえる楠の巨本です。高さ16m、根回り約20mで、神木としてあがめられています。境内の各所には、ほかにもこの神木に準じるような巨木が数多く繁茂しています。この巨木の位置については、現在のものが小川の内側にあるのに対して、『聖絵』では外側になっているという「ずれ」はあります。しかし、『聖絵』が境内の数ある巨木のうちの一本を描いたと研究者は推測します。

次に本殿の背後に描かれた山の姿を見ておきましょう。

伊予三島神社

①そびえ立つ二つの岩山
②岩山の中腹には横雲
③手前には少し低い、樹木の茂った丸みを帯びた木の茂った山
しかし、実際にはこのような岩山や丸みを帯びた山はありません。描かれた山の姿は、実際の姿とはかなりちがいます。ここには絵師によってデフオルメが加えられていると研究者は指摘します。その絵師の意図については、研究者の意見は次のように分かれています。
A 黒田日出男氏の説

背後にそそり立つ岩山が、大通智勝仏が大明神となって現れた聖なる山。それは描かれているたなびく奇妙な雲によって裏付けられる。(瑞兆の雲がかかる山は霊山)

B 砂川博氏の説
一遍にとって最も重要な場所(聖なる場所)である天王寺や熊野の場面にはそのような雲は描かれていない。ここに描かれたたなびく雲を特別な雲と見るのは行き過ぎではないか

C 水野僚子氏の説
ここに描かれた屹立した岩山は現実には存在しない山で、それは神仏の宿る山として描かれている。岩山を聖なる山と見る見方は黒田氏と同じであるが、それが現実には存在しないものを描きこんだとする点で黒田氏と異なる。屹立した山と樹林におおわれた丸みのある山は、両方とも御神体として描かれた山の表現。
 ちなみに地元の人達は、奥の一番高い山を鷲ヶ頭山と呼んでいます。この山は古く神野山とも呼ばれたと伝えられます。これらの山は三島社背後の実在の山々を描いたもので、それを屹立した山としてデフォルメして描いたのは、その聖なる山としての性格を強調するためとしておきます。


次に、建物・回廊などを見ておきましょう。

P1240650
伊予三島神社の回廊と楼門の屋根は痛みが激しい(一遍上人絵伝)
研究者が注目するのは、破損が目立つ回廊や楼門の屋根です。どうして、絵師は荒れ呆てた状態で描いたのでしょうか。黒田氏は、『国史大辞典』(大山祗神社の項、是沢恭三氏執筆)を参考に、次のように述べています。
伊予一宮の破損状況については「国史大辞典』の「大山祗神社」の記述がある。それによれば、社殿は1217(建保五)年と1322(貞応元)年に焼亡した。1255(建長七)年、幕府は、宝殿以下諸末社を国中平均段米をもって造営すべきことを下知し、1288(正応元)年には悉く造営がなったとある。とすれば、ここに描かれている大三島社の有様は、造営前ないし途中の状況を示していることになる。

 これに対して、先にも述べた造営の時間的経過は以下の通りでした。
①建長七年(1255)頃に造営が始まり、
②正安四年(1303)には本殿が完成し、
③応長二年(1313)以降、何年かして造営を終えた

以上からはこの場面は、本殿や拝殿については完成が近付き、楼門や回廊についてはまだ改修の手が及んでいなかった時期の情報に基づいて絵師が描いたものと研究者は考えています。
 「大三島社」が荒廃した姿で描枯れている理由を、聖戒が氏神である「大三島社」の荒廃を描くことで、都の貴族に改修の必要性を訴えるためという説もあります。しかし、三島社など諸国一宮の造営は各国の国街の責任で行うのが当時の原則でした。現に三島社でも、荘郷ごとに造営段米が課されています。
三島社の場面で研究者が注目する三つ目のポイントは、社殿の構造です。

P1240655
伊予三島社の社殿(一遍上人絵伝)

『一遍上人絵伝』は、手前に、檜皮葺、切妻造で、横に細長い(梁間四間 × 桁行十一間、中央に向拝)拝殿を描き、その奥に檜皮葺、入母屋造の本殿が描かれています。このような社殿の全体的な印象は、応永34年(1427)の再建とされる現在の社殿のよく似ています。現在も横に細長い拝殿(梁間四間×桁行七間)と、その背後の本殿という組合せです。

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大山祇神社の社殿と拝殿
しかし、本殿の構造は、『聖絵』のものと、現在のものは大きく違っています。現在の本殿は、梁間三間、桁行三間で切妻構造の三間社流造です。(古絵図も同じ)。
このような本殿の構造の違いを、どう理解すればいいのでしょうか?
ひとつは、応永の再建時にそれまでとは異なった構造で再建したと考えられます。これについて『大三島町誌(大山祗神社編)』は、焼失した本殿の再建にあたっては特別な事由がない限り、焼失前の様式を踏襲するのが普通で、『聖絵』の入母屋造の本殿は、作者の思い違いであろうとしています。
また建築史家の藤井恵介氏は、神社の屋根の古典的な形式は切妻であって、それが後世に入母屋に改造されることはあるが、それが逆に創建時に入母屋であったものがのちに切妻造に変更されるとは例がないとします。三島社の本殿の場合も、古くは入母屋屋根を持ち、後世の建替えで流造となったとはまず考えられないとしています。
 以上から藤井氏は、『聖絵』の三島社について、建築群としては正しく認識されていたかもしれないが、本殿の屋根が入母屋造に描かれたことは正確ではないとします。とすると、自然景観や社殿の配置などについては比較的正確ですが、本殿の構造など細部になると正確ではなく、他の寺社に多くみられる類型的な描き方をしていると研究者は考えています。別の言い方をすると、絵師が三島社の全体像についてはかなり正確な情報を持っていても、必ずしも実際に見て実景を書いたわけではないことがうかがえます。これは一遍上人絵伝の全体についても云えるようです。一遍上人絵伝に書かれている山や建物をそのまま信じることには、無理があることを押さえておきます。
絵詞に三島社の全体像についての情報をもたらしたのは、一遍の縁者として同社をたびたび訪れたことがあったであろう聖戒が第1候補に挙げられます。以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の三島社の表現は、自然景観や社殿の配置については比較的正確に描いている
②一方、本殿の構造などの細部は、他の寺社に見られる類型的な描き方で描かれている
③また、回廊や楼門が著しく破損した状態で描かれているのは、 一遍の参詣や『聖絵』制作時期が、社殿造営の途中にあたっていたからである
④絵詞に三島社の全体像についての情報をもたらしたのは聖戒であった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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前回は、一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)の詞書の前半部は、先祖越智氏のことや祖父河野通信とのかかわりなどが書かれていることを見ました。今回は、その後半を見ていくことにします。テキスト「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。
大山祇神社 (伊予三島神社)
一遍上人絵伝 伊予三島社(現大山祇神社)
後半部を要約したものを見ておきましょう。
⑥一遍が大三島を去ったあと、正応二年正月24日に供僧長観の夢の中に大明神が現われて次のように述べた。
「昔、書写の上人(性空)が参詣して(不殺生のために)鹿の贄を止めさせた。今、一遍上人が参詣して桜会の日に大行道にたちて大念仏を申し上げる。この所で衆生を済度させようとするのである。これに合力しない輩は後悔するであろう」

⑦その月の27日には地頭(代)の平忠康も神のお告げを受けた。神の詞は大略同じで、ほかにも夢想を受けた者が多くいた。
⑧そこで、2月5日に聖(一遍)を「召請」申し上げたところ、聖は6日に再び三島社に参詣し、9日には桜会が行われた。その大行道の最中に聖は、大明神が出現された山を見上げて、何の必要があって一遍をお招きになったのかと思案したが、贄をとどめるためであると思いあたった。
⑨正月と11月の魚鳥の供えをとどめることなど、人々の夢想に示されたことが多くあった。それについて何も聞いていないのに聖の言葉は一つも違いがなかった。人々は次のように語った。

「昔永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。それ以来恒例の贄をとどめ、仏経供養を行ってきた。いままた霊夢のお告げがあって昔にかわらず感応の趣があらたかです。」

⑩そこで参詣した神官や国中の「頭人」等二七人が夢のお告げや聖の教えに従って制文を書き、連判を加えて記録した。

ここで有力者の夢の中にでてくる性空とは何者なのでしょうか? 
 
性空 書写山
性空
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように記します。
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列。
早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があった。
1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
性空について整理しておくと、次の通りです。
①はじめ比叡山に登って天台教学を学んだが、それにあきたらず、
②日向国霧島山や筑前日背振山に籠り、「山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者」で
③播磨国の書写山円教寺を開いた山林修験者

霧島にある 性空上人の像と墓: ジオパークくろちゃんのブログ
霧島の性空像 山林修行者の姿

詞書後半には「永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。」とあり、性空が三島社に参詣したと書かれています。

しかし、「性空上人伝」や「一乗妙行悉地菩薩性空上人伝」などには、三島神社に立ち寄ったことは書かれていません。ただ、円教寺の縁起や「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」には、筑前国背振山で修行をした後に書写山に帰る途中で伊予国に立ち寄ったこと、書写山で二、三年を過ごした後、もう一度伊予国へ赴いたことが記されています。どちらが本当か分かりませんが、伊予国との縁が全くなかったわけではないようです。三島社の側では、著名な参詣人の一人として性空の名を記録にとどめています。
 このように詞書の後半は、人々の夢想を借りる形で、性空らによる贄の停止が語られます。これをうけて一遍が再び贄を停止するという話が、桜会などの祭礼とからめて語られています。

伊予三島社に性空が登場してくる話は、どのようにしてできあがったのでしょうか?。
またそれは何を意味しているのであろうか。
実は、詞書の性空の話も、三島社の縁起を取り込んで書かれたものであること研究者は指摘します。
 
 伊予三島神社の根本史料としては、三島社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)の「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」と略記)が挙げられます。

内子町臼杵 三島神社 | 何処へ行くんだ! 土佐瑞山
臼杵三島神社(愛媛県内子町)

この冒頭に「伊予国臼杵谷」、「伊予国寒水山三島大明神御垂跡」とあることからもわかるように、もともとは臼杵三島神社の縁起として書き始められています。それが二条目以降は本社三島社の緑起・記録に替わります。内容は年代ごとに本家・領家・地頭・神主の変遷を簡略に記した記事が大部分です。そのほかにも、性空や能因の参詣、社殿の焼失や造営などについても記述しており、領主の変遷を中心にしながら三島社にかかわるできことをまとめた縁起・記録です。
 末尾には、「芋時正和五年□月廿八日三嶋殿御人之時以其御本写畢」と記されています。ここから正和五年(1316)に三島社の「御本」を写したものであることが分かります。内容的にも、正和五年の書写として矛盾はないことから、三島社に伝えられていた縁起・記録を鎌倉末期に写したものと研究者は判断します。もちろん縁起・記録なので問題はありますが、少なくとも鎌倉期の記述については、かなり信憑性が高いとされます。
  「臼杵本」には、性空のことが次のように記されています。
円融院御時永観二年岬二月廿二日、播摩国書写山性空上人詣□堪延阿闇梨講師不殺生戒経誦□七日内第三日有神感云、随喜々々、随云□殺可依之、供僧妙尊并社司等国方就披露申、被止生贄之供、引替仏経供養、桜会井二季御祭仏経供養自是始ル
意訳変換しておくと
  円融院の永観二年二月廿二日、播摩国の書写山性空上人と叡山の堪延上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。そこで参詣した社僧や神官や国中の「頭人」は相談して、恒例の贄を止めて、仏経供養を行うことにした。これが桜会や御祭仏経供養の始まりである。

  また、「三島社縁起」にも、次のように記されています。
永観二年二月廿一日、書写聖(性)空上人堪然大徳相共、毎日之生贄鹿一頭被申止、同和尚請講四巻経給剋、自天稲種雨下、取其種令耕作、至当代無断続、毎年二月九日、号桜会御神事、四月十一日祭魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

意訳変換しておくと
永観二年二月廿一日、書写山の聖(性)空上人と叡山の堪然大徳がともに当社にやってきて、生贄に鹿一頭を捧げているのを止めるように申し入れた。生け贄にかわって仏講を開き仏典四巻を読経した。すると天から稲の種子が降り、その種を植えて耕作するようになった。これを祝って毎年二月九日に行われる神事を桜会と呼んでいる。4月11日の魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

二つを比べて、研究者は次のように考えています。
①表現に違いはあるが、内容はほぼ同じで、もともとは同じ内容の原伝承があること。
②それを異なった形でそれぞれ筆録したのが「臼杵本」や「縁起」であること。
③「聖絵」の詞書も同じようにその原伝承を取り入れつつ書かれたもの

ここで研究者が注目するのは、「臼杵本」と詞書の間にも同じ文言があることです。
それは「臼杵本」の「随喜々々、随云□殺」と、詞書の「随喜、随云不殺」です。ここにも聖戒が縁起や伝承を取り入れる際に、単に神社で耳にしたことを書くのではなく、「臼杵本」など典拠となるものとそばに置いて執筆を進めていたことがうかがえます。聖戒は、縁起だけを題材にして詞書をまとめ上げたのもなさそうです。
もうひとつ研究者が注目するのは、詞書に供僧長観、地頭(代)平忠康などの人物固有名詞が登場してくることです。この二人は何者なのでしょうか?
供僧長観の名は他の史料で確認することはできませんが、三島社の供僧の例としてはいくつかの記述があります。最も古い者は「臼杵本」の中に、永観二年(984)、性空の参詣のとき贄の停止を行った人物として出てくる供僧妙尊です。近世の「御鎮座本縁」は、妙尊は神主為澄の二男で、社辺に一寺を建てて、それがのちの東円坊となり、妙尊が供僧の初めである、と解説を加えています。この時代から三島神社では神仏混淆が始まったことがうかがえます。

 また「臼杵本」は、保延二年(1136)6月に「大宮」を造営したときの供僧が勝鑑で、「院主」と「検校」を兼帯したと記します。そして「御鎮座本縁」は、供僧妙尊と勝鑑が社の傍らに「神供寺」、大通智勝仏等をまつる「仏供寺」を建立し、それ以後上官社家の二男を供僧とするようになったと述べています。 これらを見ると10~12世紀ころの三島社では、神仏習合が進み、供僧が置かれたことがうかがえます。同時に近世三島社では、東円坊や神宮寺など神社に付属する堂舎の起源をこれに求めていたことが分かります。
 その後、一遍参詣の直前の弘安九年(1286)2月に、悲田院領伊予国井於、同船山、角村等での三島社神人の妨を停止させる旨の某御教書が三島庄の神官・供僧等あてに出されています。ここからは東寺の三島社神人たちが、周辺地域で紛争を起こしていたことが分かります。逆に見ると、この頃になると供僧は神官たちは社領の経営に関与して「俗人化」していたことになります。詞書に見える長観も、このような流れのなかに位置づけることができる人物ということになります。
次に、神の「示現」をうけたとされる地頭代平忠康についても見ておきましょう。
まず、地頭代平忠康はどこの地頭なのかということです。これは宣陽門院領三島庄だと研究者は判断します。「臼杵本」は建久二年(1191)に「宣陽門女院、後白河院乙姫宮」が三島庄の本家となったと記します。これは同年十月の長講堂目録のなかに三島庄が含まれていることによって裏付けられます。
 また年未詳ですが、鎌倉期の伊予の荘園の面積を列挙したと思われる伊予国内宮役夫工米未済注文には、「三嶋御領嶋々八十九町一反小」とあります。これが三島庄だと研究者は考えています。これらの島々はのちに三島七島などと呼ばれるようになります。三島社自体も、そのような荘園支配の対象となっていたことを押さえておきます。多くの有力寺社が神社と社領が一体となって荘園化し、皇室や権門によって領知されるという形態が三島社でも見られるのです。
三島庄の地頭について「臼杵本」は、次のように記します。
建久八年四月四日三嶋地頭始御補任 北条四郎嗣相模守御事也、御代官藤七盛房下着上下廿九人
ここには建久八年(1197)に北条義時(鎌倉幕府の第2代執権)が最初の地頭となり、代官藤七盛房がやってきたと記します。建久八年といえば、義時は25歳で、時政の子として幕府内での存在感を大きくしていたころです。この記述を、そのまま信じることはできません。
「臼杵本」には次のような記述もあります。

正治二年 地頭改大夫志人道殿息進士信平代官□云有慶下着。

3年後の正治二年(1200)に地頭が大夫志入道殿息進士信平に改められ、やはり地頭代がやってきたというのです。ここに登場する大夫志入道は、この頃『吾妻鏡』に、「大夫属入道」とか「大夫属入道善信」などと記される初代の門注所執事三善康信である可能性があると研究者は指摘します。三善康信については

 「京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に、頻繁に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。鎌倉に下向してからは、頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。さらに訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事(長官)に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に貢献しました。承久の乱が起こると、京都へ進撃することを提案した大江広元を後押しし、勝利に貢献しました。」


三善氏と三島社とのかかわりについては、「予章記」に次のように記します。

三嶋七嶋社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ョリ善家ノ者ヲ進止セラルヽ事、誠無念ノ次第也、善三嶋卜云ハ飯尾末葉也、

意訳変換しておくと
  (伊予)三嶋七嶋社務職等は、領地関係に含まれないはずなのに、京都から三善家の者がやってきて管理することになった。誠に無念の次第である、善家の者と云うのは飯尾氏の末葉である、

ここからは、次のような情報が得られます。
①河野通信から三島社の社務職が没収されたこと
②京都より善家の者が派遣されて三島七島の社務職を握ったこと
③善家の者とは飯尾の末葉である
②について、「予章記」が成立した戦国になると三善氏と三島社の関係は、このように説明されていたのかもしれません。こうして見ると、三善康信の子・信平が地頭職を持っていて、その代官が現地にやってきていた可能性は高いと研究者は考えています。
以上から、平忠康が大三島とその周辺地域を荘域とする宣陽門院領三島庄の地頭代としてやってきていたと研究者は判断します。
 「臼杵本」によると、貞応二年壬午正月一日に火災が発生した際、宝殿以下の建物といっしょに「地頭殿政所」も類焼したと記します。ここからは、地頭が三島社の社殿の一角に政所を設けて、支配拠点としていたことがうかがえます。もう少し、突っ込んで云うと、三島社自体が地頭の支配拠点となっていたということです。このような例は、中世の寺社ではよくあることは以前に善通寺の例でお話ししました。
詞書後半の物語に出てくる「桜会」について見ておきましょう。
この神事の開始については、次のように説明されていました
A 「臼杵本」は、永観二年に性空と堪延が参詣して鹿の贄を止めさせた際に、それにかわって仏経供養としての桜会を始めた
B 「縁起」は、その時に天から稲の種子が降り、それを以て耕作したこと、毎年二月九日に祭礼が行われていた。
この桜会についてはかつては、「縁起」の記述を参考にして、京都紫野の今宮神社で行われる「やすらい祭り」と同じで、豊作を祈り、同時に疫病退散を析る神事であったとされてきました。 しかし、近年発見された文政十三年(1830)成立の今宮神社の社家記録には、次のように記されています。

四月桜会之御祭礼八日より十五日迄、寺社家参詣仕、神前江献新茶、御祈祷相勤、寺家ハ経陀羅尼読誦法楽仕候、同十五日より二十三日迄本地仏(大通智勝仏)開帳寺社家出合申候
意訳変換しておくと
  四月の桜会の御祭礼は八日より十五日迄、寺社家が参詣し、神前に新茶を奉納し、祈祷相勤、社僧は経陀羅尼を読誦し法楽を奉納する。同十五日より二十三日まで本地仏(大通智勝仏)の開帳に寺社両家が立ち会う。

ここには、日時は『聖絵』や「縁起」の記す2月9日から4月にかわっていますが、「寺社家」出仕の祭礼がおこなわれています。そこでは神前への献茶、法楽のための読経、本地仏大通智勝仏の開帳が行われていたことが分かります。
 あらゆるいのちを大切にする不殺生という願いが、性空と一遍を結ぶ糸として見えて来ます。性空と一遍とが霊的に通い合っている、深い関係を伝えたかったとしておきます。

大通智勝仏
伊予三島神社の本地仏大通智勝仏
以上からは、研究者は次のように判断します。
①供僧長観や地頭代平忠康は、実在の人物であり三島社や三島庄の歴史の中にきちんと位置付けられること。
②桜会も聖戒が実際に見聞した祭礼であったこと
③ 詞書後半は、三島社での聖戒の実際の体験と、縁起・記録類に残されていた性空の参詣伝承を結び付けて新しい物語を作ろうとしたもの
それでは聖戒は、わざわざ性空と一遍を結びつけるような物語を伊予三島社の場面に挿入したのでしょうか。
それは、聖戒が生前の一遍が性空に対して熱い思慕の念を持っていたことをよく知っていたからだと研究者は考えています。一遍の性空に対する思いは、性空が開いた書写山円教寺に前年に参詣したときの記事からうかがえます。それを詞書は次のように記します。

DSC03542書写山圓教寺
書写山圓教寺(一遍上人絵伝)

弘安十年(1287)の春に円教寺を訪れたとき、 一遍は本尊を拝見することを望んだが、寺僧は「久住練行の常住僧」のほかは例がないとしてこれを拒んだ。そこで一遍は、本尊の意向を仰ぎたいと四句の偶文と一首の歌を棒げた。すると本尊が受け入れたのであろうか、寺僧の許しが出て本尊を拝することができた。また一遍は、「上人の仏法修行の霊徳、ことはもおよひかたし、諸国遊行の思いて、たヽ当山巡礼にあり」と述べて一夜行法して、翌朝去って行った。

ここからは、書写山参詣に対する一遍の思いがひとかたならぬものであったことがうかがえます。人跡未踏の深山幽谷をめぐりながら修行を重ね、ついに書写山で悟りを開いた性空の生涯と自らの遊行の生涯を重ね合わせるところがあったのもしれません.
また兵庫観音堂での臨終の直前に、 一遍が所持の書籍等を自ら焼き捨てたことはよく知られています。
その前に持っていた経典の少々を渡したのも書写山の寺僧でした。ここにも性空と書写山に対する思いが込められていたのかもしれません。.
 このような一遍の想いをよく知っていた聖戒は、一遍が三島社参詣しただけでは終わらすことができなかったのでしょう。性空と伊予三島社との関係、具体的には桜会の起源を通じての性空と一遍の結びつきだったとしておきます。
以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)参拝場面の詞書後半には、性空が桜会を始めたことが記される
②性空は比叡山で修行した後に、九州の霧島などで山岳修行を行い、播州書写山を開いた。
③一遍は性空に対して、強い尊敬の念を抱いていた。
④それを知っていた聖戒は、性空が伊予三島社にやってきて鹿の生け贄を奉納することを止めさせたエピソードを挿入した。
⑤そこに登場する僧侶や地頭は、実在性の高い人物で、当時の三島社の置かれた状況が見えてくる。⑥例えば、地頭としてやってきた平忠康は、三島社の境内に地頭舘を置いた。
⑦ここからは三島社自体が荘園支配の対象となっていて、皇室や権門によって領知されていたことことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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DSC03562宮島厳島神社の鳥居
安芸の宮島(一遍上人絵伝)

一遍は、正応元年(1288)12月、伊予三島社(現大山祗神社)に参詣します。前年の弘安十年(1287)春に天王寺を出発して播磨の教信寺、書写山円教寺、備中の軽部の里、備後の一宮、安芸の厳島神社を経て四国に渡った最後の遊行の途中でした。一遍は河野氏出身ですが、その河野氏が信仰していたのが三島社です。今回は、伊予三島社が一遍上人絵伝の詞書にどのように書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。まず、詞書の前半部を見ておきましょう。
① 正応元年(1288)、 一遍は安芸の厳島神社から伊予に渡り、菅生の岩屋への巡礼、繁多寺での三日間の参籠を経たのち、12月16日に三島社に参詣した。
② 三島の神の「垂跡の濫腸」を尋ねると、文武天皇の大宝3年3月23日に跡を垂れたという。それ以降、五百余年を過ぎ八十余代の天皇の御代を守ってきた。
③一遍の始祖越智無窮は、当社の氏人であり、幼いころから老境にいたるまで朝廷に仕えて武勇を事とし、我が家にあっては「九品の浄行」をつとめとした。その念仏往生の様子は往生伝に記されている。
④一遍の祖父通信は、神の精気をうけて三島社の氏人となった人物で、参詣のたびに神体を拝した。
⑤一遍は、「遁世修行」の道に出た身ではあるけれども、三島の神の垂跡の徳をあおぎ、読経念仏を捧げて島を去った。
これが詞書に書かれていることです。この中には、三島社の縁起を取り入れて記された部分があると研究者は指摘します。その部分を見ておきましょう。
まず②の、文武天皇の大宝三年二月二十三日に三島の神が垂迹したのが三島社の創始であるとする記述です。この記述は「伊予三島社縁起」に、次のように記されています。

「同(文武)三年癸卯初宮作在之、大山積明神卜申也、鳴」

これを取り入れたものです。研究者が注目するのは、その際に詞書がわざわざ「依一説」と注記を加えていることです。ここからは、次のような諸説があったことを作者は知っていたことがうかがえます。
①「臼杵本」の大宝元年開創説 「文武天皇御時大宝元年并大明神御社改」で、
②「予章記」(長福寺本)の大宝二年説

此時(大宝二年)奇瑞有テ三嶋大明神造営アリ、(中略)
大宝二年妊文武天皇御尋二付テ、当社ノ深秘ヲ奏達有ル間勅号ヲ被成、正一位大山積大明神卜額二被銘之」

このように三島神社の起源については諸説があった中で、詞書はわざわざ「依一説」と注記しているのです。これは作者の聖戒が、漫然と三島社の縁起を取り入れて記述したのではなく、異説のあることを知った上で、それらを検討したうえでこの説を取り上げたことを示していると研究者は考えています。そうだとすると詞書の構想を練る聖戒の傍らには、いろいろな異説を記したメモがあったのかもしれません。
 もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。   
大権現・大明神は、修験者(社僧)によって管理運営されていたことを示します。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。
話を元に戻します。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
③に記された一遍の先祖・越智益男についての伝承などもそうです。越智益男は、河野氏の家譜や系図では、河野氏の祖とされる伊予皇子の17代の孫とされる人物です。この人物についての詞書は次のように記します。
聖(一遍)の嚢祖越智益窮は、当社(三島社)の氏人なり。幼稚の年より、衰老の日にいたるまて朝廷につかえては三略の武勇を事とし、私門にかへりては九品の浄業(念仏阿弥陀信者)をつとめとす。鬚髪をそらされとも、法名をつき十成をうけき。ついに臨終正念にして往生をとけ、音楽そらに聞こえて尊卑にはにあつまる。かるかゆへに名を往生伝にあらはし、誉を子孫の家におよほす‥

意訳変換しておくと
一遍)の始祖・越智益窮は、三島社の氏人である。幼年時代から、年老いるまで朝廷につかえ武勇を誉れとした。また私的には九品の浄業(念仏阿弥陀信者)であり、剃髪はしなかったが、法名を持ち、十成を受けた。臨終正念して往生をとげた際には、天から迎えの仏たちがやって来て音楽が聞こえ、尊卑大勢に見送られた。そのため彼の名前は往生伝にも載せられている。今もその誉は子孫の家に及んでいる。

整理すると次の通りです。
①三島神社の氏子であったこと
②優れた武人であったこと
③同時に、九品の浄業を勤める熱心な念仏信者であったこと
④念仏信者として往生伝に名前が載っていること

④の往生伝とは「日本往生極楽記」のことで、10世紀後半に養滋保胤が著したものです。この中の越智益窮の項には詞書とよく似た、次のようなフレーズが出てきます。

「費髪を剃らずして早く十戒をうけて」(極楽記)
 → 「費髪をそらざれども、法名をつき十成をうけき一(詞書)、
「村里の人、音楽あるをききて」(一極楽記一) 
 → 音楽そらにきこえて尊卑にはにあつまる」(詞書)
ここからも聖戒が「日本往生極楽記」を、そばにおいて引用しながら詞書の執筆を進めていたことがうかがえます。
もうひとつは一遍の祖父通信に関する記述です。これも河野氏に伝えられた伝承が取り入れられています。
一遍 河野家系図

河野通信は、源平争乱時には平家の優勢な瀬戸内海にありながら、いちはやく早く源氏方に味方して兵を挙げ、源氏の西国支配に大きく貢献します。その戦功によって、伊予での支配体制を固めます。ところが承久の乱では、京方に味方して奥州に流されていまいます。そこで、祖父通信は無念の死を迎えます。
祖父の墓参りに奥州を訪ねたシーンが一遍聖絵の中にも載せられていることは以前にお話ししました。

祖父河野通信の墓
祖父・河野通信の墓参り 奥州江刺郡(一遍上人絵伝)
幼いころの一遍と、祖父通信との間にどのような交流があったのかは分かりません。一遍や聖戒の時代になると、一族の中の偉大な祖父として語られるようになっていたようです。それが一遍を遠く奥州江刺郡にまで墓参りに訪ねる原動力となっていたのでしょう。
 通信に関する記述は長いものではありませんが、興味深い内容があると研究者は指摘します。
例えば、「祖父通信は、神の精気をうけて、しかもその氏人となれり」などという記述です。これは「予章記」などの河野家伝承を受けたものです。その伝承について「予章記」は、次のように記します。

通信の父通清は、その母が三島大明神の化身である大蛇によって身ごもって誕生した。そのため通清は、「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、小シ賜テ
背溝無也」

「その躰は常人よりも大きく、身長八尺(240㎝)、顔と両脇には鱗のようなものがあった。

「予章記」の家伝では、母親が三島大明神に通じて誕生したのは通信の父通清となっています。ところが「聖絵」では通信自身に変更されています。これには2つの説が考えれます
①「聖絵」が通信と通清を混同した
②鎌倉期には『聖絵』の記すような家伝があって、それが戦国期になると「予章記」に見られるような形に変化していった
本当はどうであったのは分かりませんが、聖戒が河野氏に関する詳しい知識を持っていて、それを取り入れたことは間違いないことを押さえておきます。
このように詞書の前半部を見て分かることを整理して起きます。
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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造田開発史
       
以前に、造田は土器川の氾濫原であったことをお話ししました。今回は、寛成年間の山津波で大きな被害を受けた造田が、どのように復興していったのを見ていくことにします。テキストは「 大林英雄 難渋地の百姓 造田村の記録   琴南町誌322P」です。
 まず、造田の地形復元をイメージしておきます。
 大川山の奥に源流を持つ土器川は、急勾配な渓流を流れ落ち、明神の落合で勝浦川と合わさって勢いを増し、中通を抜けて造田の天川神社にやってきます。ここで杵野川を合わせて水量を増し、造田の中央を流れ、備中地川と合流して更に水量を増します。その上、備中地川の合流点付近からは再び川幅が狭くなる地形でした。そのため出口を塞がれた袋のような形で、近世以前には洪水の時には造田盆地全体が湖水となってと研究者は考えています。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

そのため中世においては、備中地川周辺の山裾や谷間は開墾が行われますが、盆地中央部の土器川氾濫原周辺に開発の手が伸びることはなかったようです。杵野川や大川(土器川)に、本格的な横井が設けられて耕地が増加するのは、江戸時代になってからのことです。その背景には、土木技術の発達や、村切りによって地域の団結が強固になったことが挙げられます。小池が各地に作られて、二毛作田が増えるは江戸時代後半になってからであることを押さえておきます。こうして造田盆地には、徐々に美田が拡がって行きました。

造田ハザードマップ
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)

造田ハザードマップ.2JPG

 しかし、造田盆地を囲む周りの山々は、土質が軟弱で、山崩れや土石流の危険をはらんでいました。軟らかい土は水に流されやすく、大雨が降れば泥土で井手に塞がれて、田畑に流れ込み土砂が深く堆積します。また土器川の両岸が抉り取られて田んぼが流されることもありました。水が引けば川は畿筋にもなって流れ、盆地を流れる光景が拡がりました。

『高松藩記』には寛政三(1791)年8月20日に、大風と洪水に襲われたことが記されています。
この時に造田村の内田免の、黒の谷・森の谷・池の谷・竹の谷一帯で山津波が起こります。流れ出た土石流が、たちまちにして谷地を埋め、土砂を含んだ濁水が井手から田畑に流れ込み、土砂が堆積し、耕作不能地になってしまいます。
 これに対して秋から翌年の春にかけて、復旧作業が進められます。まず、やらなければならないのは、押し流されて泥土と化した被害地の田畑や百姓自分林の境界線をひくことです。これに苦労しています。何度も寄合を開いて、翌年の寛政4(1792)年2月14日の寄合で、くじ引きで決定しています。そのやり方は区画化して、その所有者をくじ引きで決めるという次のような方法です。
「内田村 黒の谷 森の谷 池の谷・竹の谷・奥砂山林に相成人別割付間取帳(西村文書)」には、くじで決まった土地配分が次のように記されています。
黒の谷分(一人前十間四方)で、東西十間に付、三畝一二歩八厘 田方一つ
〇一番 小七郎  東西十間に付同  田方一つ
〇二番 清三郎  東是より喜三八谷前三畝一二歩 田方一つ
〇三番 忠右衛門 (以下略)
〇一番 権助 下林三畝一二歩
〇二番 磯七 同 西尾切
〇三番 彦助 同 同西谷口
(二一番に至る以下略)
つまり、一番の札を小七郎が引き当て、黒の谷の一区画を得たというこになります。ここからは困難な問題に対して、村民が話し合いを重ねて乗り越えていく姿が見えて来ます。村の自治機能が発揮されていることがうかがえます。
 このほかにも、池の内森上谷・竹の谷・中尾・竹の口東分・珠数谷・森江谷などでも、くじで畑や山林の所有地が決められています。くじに参加している百姓の総数は104人にのぼります。ここからは、この時の被害が大きかったことが改めて分かります。

翌年の寛政四(1792)年になると、田んぼから泥上が取り除かれて、田植えが行われます。
しかし、表土が流され地力がなく、稲は育たず、ほとんど収穫できません。百姓を続ける気力をなくした小百姓48名が、持高を差し上げて逃散しています。こうして158石7斗1升8合の土地が、耕し手がいなくなり、藩の「御用地」になってしまいます。このままでは、年貢が徴収できません。そこで藩は、復興対策として新池築造に乗り出します。場所は、上内田の熊野権現の東側の低地を中心にした「順道帳面田代九反八歩、畑地二反歩」です。ここに池の谷の水を導いて、遊水地とする計画でした。この池のねらいは、灌漑用というよりも洪水の時に池の谷から流れ出る濁水を、導水路によって池に貯水し、徐々に放水して下流の井手に落とすというものです。そうすることで、水の流れをよくして、田代が土砂で埋まるのを防ぐというものだったことが政所久太夫から大政所に差し出した手紙によって分かります。池は、寛政五(1793)年に完成して、深田新池と呼ばれ、その後は遊水池的機能を発揮します。

 寛政六(1794)年になると、藩は耕作者のいなくなった「上り地」を、再度百姓に耕作させるための準備を進めます。
そのためには検地を行う必要があります。この時に作られた検地帳「鵜足郡内田村上り地下し米定順道帳」の政所控(「西村文書」)には、次のように記されています。
上り地
○内田免   三八八筆
○畝〆 一〇町九反九畝二七歩
○高合 一二八反四斗二升三合
○取米 六九石五斗八升二合
この検地に基づいて、面積・石高・年貢が決められていきます。
  一方で高松藩では、郷普請方小頭岩崎平蔵に、造田村の水利について調査し、その対策を立てるように命じています。岩崎平蔵は、吉野村の庄屋で長らく大政所(庄屋)を勤め、水利技術に長けていたために髙松藩の郷普請方に登用されていたことは以前にお話ししました。藩の命令に対して平蔵は、天川の大岩を切り抜き、大川(土器川)の流れをよくして洪水を防ぐこと、同時に内田大横井の水のりを良くするように藩に答申しています。そして寛政11(1799)年正月から普請に取りかかります。

造田 天川神社周辺
天川神社の前を流れる土器川、合流する柞野川

しかし、この工事は難工事だったようです。天川神社の前の土器川は、川幅が狭く、大岩盤が露出し、その上に大岩が累々と横たわっています。そのため一度に多くの人足が働くことができず、工事は遅々として進みません。
「造田村天川岩切抜場所野取帳「岩崎文書」には、次のように記します。
①3月末までに、造田村の人足延べ833人を投入し普請場を整理
②4月からは近村の人足を召集して、普請を続行
③6月に柞野川が大川と合流する地点から南にあった大岩の切抜き終了。
この成果を褒賞するために寛政11年6月8日に、高松藩主頼儀が、岩切普請場を視察することになります。造田村では、政所の久太夫が、炭所西村の政所与三兵衛、炭所東村の政所七郎四郎、中通村の政所八郎右衛門と協力して準備を進めます。ところが巡視の前日に藩主頼儀が急病になり中止となってしまいます。「西村文書」の中に、四か村が準備のために支出した「人夫424人の賄料、職人作料、飛脚賃、万買上物などの総計費572匁4分5厘」の明細帳が残っているようです。(殿様造田村岩切抜御覧の儀被二仰出一御昼所扱に付買上物其外入目帳)。
 続いて文化九(1812)年に、岩崎平蔵は天川の杵野谷の入口から下流の巨岩の取り除き普請に着手し、翌年4月に完成させます。これで水路が広くなったので、以後、造田村は水害を受けることがやや少なくなったようです。しかし、根本解決となったわけではありませんでした。
 ここで疑問に思うのは、岩崎平蔵は寛政年間(1791―1801)に、満濃池の貯水量確保のために財田川の水を引くことを思いつき、計画図を残しています。天川で二回にわたって大普請を行ったのなら、ここから満濃池へ水を引くことを思いついたはずです。しかし、彼が土器川からの導水を計画することはありませんでした。
以上、寛政三(1791)年8月20日の山津波に襲われた造田村が、どのように復興していったかについて見てきました。続きは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 難渋地の百姓 造田村の記録   琴南町誌322P
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IMG_6883煙草の天日干し
たばこ葉の天日干し(まんのう町美合)

まず、美合にたばこ栽培が、いつころ、どのような形で根付いたのかを押さえておきます。
江戸時代の農学者、佐藤信淵の著書『草木六部耕種法』には、次のように記します。

我が国へのたばこ伝来について、天文十二(1543)年、ポルトガル人が種子島にやって来て、鉄砲・ソーメン・トウガラシを伝えた。その中に、たばこの種があった。それを種子島で栽培したのが我が国たばこ耕作の初めである。

 これに対して寺島良安著『和漢三才図絵』では、次のように記します。

天正年間(1573~91)年に南蛮人がたばこ種をもたらし、これを長崎東大山に栽培したのがのはじまり

佐藤信淵の説を信じるなら「たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた」ということになります。
それでは、美合地区には、いつごろ、どこからもたらされたのでしょうか?
美合のたばこは阿波葉と呼ばれ、その名の通り阿波から伝えられたものとされます。「阿波葉」は、きせるで吸う刻みたばこが主流の時代、火付きの良さが評判で阿波で作られ全国に出荷されました。それが紙巻きたばこの普及に押されて、2009年には栽培が終わったようです。

たばこ 阿波葉の栽培 口山
2009年 最後の阿波葉 (美馬市口山)

たばこ 調理工程 品質分類
最後の阿波葉の「調理」(2009年)(美馬市口山)
最後の阿波葉 2008年

阿波葉 計量作業
阿波葉の計量と出荷(美馬市口山)
徳島県半田町の町誌は、次のように記します。

端山村政所武田家文書に、武田右衛門が、①天正年間に数種のたばこの種子を②長崎から持ち帰り、③半田奥山で栽培したのがはじめとある。

『香川県煙草三十年史』には、生駒藩時代に美合地区でたばこが栽培されていたこと、その後、瓜峯たばこを藩主の喫煙用として毎年献上していたと記します。以上から美合のたばこは、元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美馬郡、三野の野田院を通じて美合に入ってきて栽培されていたと研究者は判断します。
 天文年間(1532~54)に、鉄砲と共にポルトガルから種子島に渡来したたばこは、最初は薬用として重宝がられたようです。ところがその麻酔性から一度喫煙すればやめられないようになり、全国に急速に拡がっていきます。江戸幕府は、たばこを絶減しようと慶長6(1609)年に最初の喫煙禁止令を出しました。その理由は、次のように挙げられています。
①都市火災の原因となること
②「かぶき者」が長大なキセルを腰に差して風紀を乱すこと=反権力的な動き取締り
③たばこ栽培による米の作付面積の減少
この禁止令に伴い、幕府はキセルを収集する「きせる狩り」を行いました。

花魁:9 件の「キセル花魁」のアイデアを見つけましょう | 芸者アート、花魁 画像 など
花魁とキセル
そして、喫煙者を発見し訴え出た者には、売買した双方から没収した全財産を褒美としてつかわすというお触れを出しています。 さらに元和二(1616)年には、たばこを売った者は、町人は50日、商人は30日、食糧自前で牢に入れらました。また自分の支配下の者で、たばこに関する罪人を出した代官は、罰金五貫文を課せられています。しかし、幕府の度重なる禁令にも関わらず、「たばこ」を楽しむ人々は増え続けます。徳川3代将軍・家光の代となる寛永年間(1624〜1645年)に入ると、「たばこ」に課税して収入を得る藩も現れ、「たばこ」の耕作は日本各地へ広まっていきます。やがて、禁令は形骸化し、元禄年間(1688〜1703年)頃には、新たな禁止令は出されなくなりました。つまり黙認されたということです。
 阿波の蜂須賀藩は、上畑に耕作することを禁じ、焼畑・畔などにつくるのは暗に許したようです。髙松松平藩は、奨励はしませんが積極的禁止もしていません。そのため藩政時代には、旧勝浦村・川東村ではたばこがある程度裁培され、阿波へ送られていたようです。 こうして「たばこ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくことになります。

 江戸時代後半になると、美合ではたばこ栽培がある程度の規模で行われていたことが次のような史料から分かります。
『讃岐国名勝図絵』の鵜足郡の巻頭には、勝浦村土産品としてたばこの名が挙がっています。
また文化三(1806)年の牛田文書の中に、次のようなたばこに関する記述が出てきます。
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆致啓上候。甚寒二御座候所御家内御揃弥御勇健二御勤可被成候旨珍重不斜奉存候。誠二先達てハ参り段々御世話二罷成千万黍仕合二奉存候。然バ御村御初穂煙草丹今参り不申候二付今日態々以人ヲ申上候。此者二御渡シ可被下候。奉願上候。
年末筆政所様始御家中江茂宜様二御取成幾重二も宜奉頼上侯。最早余日茂無御座候て明春早々御礼等万々可得貴意候。恐樫謹言
大西左近
十二月十一日
勝浦村蔵元福右衛門様
意訳変換しておくと
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆啓上します。はなはだ寒い時候ですが、ご家族はお元気にお過ごしのようで安心しております。先日はいろいろとお世話になり、お礼の言葉もありません。ついては御村の上納初穂品として煙草丹今を、そちらに派遣した者に、預けていただくようお願いします。
年末には政所様をはじめ御家中始め茂宜様にも歳暮としてお届け予定です。つきましては、日も余りありませんので、明春早々の御礼としたいと思っています。恐樫謹言
                   大西左近(滝宮牛頭天王社神官)
十二月十一日
  勝浦村蔵元(庄屋) 福右衛門様
   (牛田文書)

滝宮神社(牛頭天王社)の大西左近という神官が、勝浦の庄屋に上納初穂品として、たばこを至急送れという手紙を勝浦村の庄屋に出しています。滝宮(牛頭天王)社は、丸亀平野の牛頭信仰の拠点で、社僧たちが周辺の村々を廻って牛頭札を配布していました。また、七箇村念仏踊りなども奉納されていたように、密接な関係を周辺の村々と結んでいたことは以前にお話ししました。ここからも19世紀には、琴南町美合地区にはたばこ栽培や製品製造が行われ、それに庄屋たちが関わっていたことが裏付けられます。また、その製品が優良で評価が高かったことがうかがえます。
 明治時代に入ると、「営業の自由」が認められたばこ栽培は自由になります。
明治9(1876)年1月に、たばこ税制が実施されます。これは次の二本立て税制でした。
A たばこ製造・販売業者に課す営業税
B 個々のたばこ製品に貼付する印紙による印紙税
つまり、税金さえ払えば、自分で作ったたばこを自分で売りさばくことができるようになったのです。
明治12年12月の勝浦村戸長から鵜足郡長への次のような照会文書があります。
       照 会 
村民自作のものに限り、そのたばこは無鑑札で里方べ売りさばいてもよいということであるが、外部から買い入れ、自作と称して売ることがあっては不都合である。そこで戸長が調べ自作を確認して、それに添書を交付することにしてもよいか。(意訳変換)
回 答(原文のまま)
他作ノ葉畑草フ自作卜偽ソ売捌者アレハ 其時々証左ヲ取最寄警察署へ告訴スヘシ 依テ其役場ニオイテ現品改メ添書ヲ附スル等一般成規無之二付其義ニ不及候 条精々規則上ヲ説明シ犯則者無之様注意スルニ止ル義卜可相心得候事
意訳変換しておくと
他地域で栽培された葉煙草を、自作として偽って販売する者があれば、その時には証拠を押さえて、最寄も警察署へ告訴すること。よって役場で現品を検査して添書を発行することは、法令にもないので行う必要はない。よく規則を説明し、法令を犯す者のないように注意するに留めることと心得るべし。

ここからも明治16年7月以後は、鑑札を受けて税金を払えば、たばこを売ることも、刻みたばこを製造販売することもできるようになります。これがいわゆる「たばこの民営時代」の幕開けとなります。
    沖野の黒川久四郎は、明治20年ごろから、刻みたばこを製造していました。

たばこきざみ機 美合
沖野の黒川久四郎所有

黒川家には明治20年代に使ったというぜんまい式葉たばこ刻み機が残っていました。その外に「荀一暴」という刻みたばこの包み紙も残っていました。これは木版で図柄をおしたもので、そこには次のように刻印されています。
たばこ 一光 美合産
量目五十目 定価六銭
一光  讃岐鵜足郡美合村川東
製造人 黒川久四郎
ここからは美合村川東の黒川家は、「一光」という刻みたばこを製造販売していたことが分かります。
また、中熊の造田未松も、刻みたばこを製造していました。
阿波葉は刻みたばこ用でした。そのため家の中でたばこを刻み、家の納屋に「切り場」という一間をとっていました。切り場には、 飼い葉切りのような道具があって、切り子という、たばこを刻む専属の職人が、阿波から泊まり込みで来ていました。美合で生産されていた刻みたばこには、 一光、金雲などがあり、その木印が今も残っています。販売のために、陶・羽床方面へ行商に行ったと伝えられます。
     たばこ民営時代に、旧琴南町でたばこ製造販売業を行っていたのは次の人々でした。
川東   造田秀太郎 折目文太郎  石井時太郎    黒川久四郎    増田 久吉   
勝浦 笠井熊太郎      小野 武平    
造田   岩崎宥太郎   大野市太郎         「大日本繁昌懐中便覧」
民営たばこ 明治期 民営煙草 包み紙 計1点 阿波国 徳島県 三好郡 池田町 西木弥太郎 商標 朝雲 量目百匁 極撰葉薫製
阿波池田の西木弥太郎の「朝雲」 火力利用 ぜんまい切りとある。

ぜんまい切りとは何なのでしょうか?
当時使われていた乾燥させた葉を切る機械を見ておきましょう。

刻みタバコの製造工程

江戸時代後期に誕生した細刻みたばこが広く市場に出回るためには、こすり技術に対応できる熟練技術を持つ刻み職人の確保が必要でした。18世紀の半ばになると、従来の夫婦単位の刻みたばこ屋から、複数の刻み職人を抱える刻みたばこ屋が江戸市中にも出現します。同時に、細刻みを職として労賃を稼ぐ「賃粉(ちんこ)切り」職人も登場するようになります。そして19世紀初頭になると、刻み工程に「かんな刻み機[剪台](せんだい)」と「手押し刻み機(ゼンマイ)」という機械が考案されます。
  かんな刻み機は、寛政12年(1800)頃、四国の池田地方で北海道の昆布切り機をヒントに考案されたといわれ、その後関西を中心に普及しました。

かんな刻み機2 池田
「かんな刻み機[剪台](せんだい)」(阿波池田たばこ記念館)
原料の葉たばこは、一塊の木材のように硬く固めなくては刻めません。〆台(しめだい)という圧搾機で強く圧搾した葉たばこの塊をかんな刻み機にセットして刻みました。これは一人の労力で1日に約20㎏前後刻める能力がありました。それまでは熟練した職人が手刻みした場合には、3、5㎏程度だったので、5倍強の製造能力です。しかし、圧搾の際、油を塗らなければならなかったので品質が落ち、主として下級品の製造に使われました。でも逆に火付きが良く、瀬戸内や日本海側の漁師に人気があり、讃岐の仁尾や粟島から北前船に乗せられて遠くまで販路を広げました。

ぜんまい刻み機
ぜんまい式葉たばこ刻み機(阿波池田たばこ資料館蔵)
   もうひとつがぜんまい式葉たばこ刻み機で、江戸後期(文化年間)に江戸で発明されたとされます。。手包丁で刻むのと同じように刃が上下しながら、原料が一定の速度で送り出されるという機械で、かんな刻み機に比べると生産性は劣ります。しかし、製品の品質がよかったため高級品に使われ、ラベルには「ぜんまいぎり」などと書かれました。

明治31年1月に、日清戦争後の財政難への対応策として、政府は「葉煙草専売制」が実施します。
これは葉たばこを政府が生産農家からすべて買い上げて、製造を独占的に管理し、財源とすることを目的としたものでした。つまり、葉たばこ栽培の自家用栽培や民間製造を禁止されます。耕作者が生産した葉たばこは、すべて専売局が買収ることになります。たばこ民営化の時代は終わります。たばこ専売制への転換です。しかし、「葉煙草専売法」は、不正取引や安価な輸入葉たばこの流入を招き、十分な税収が得られませんでした。
 そこで日露戦争の戦費調達に迫られた政府は、明治37年に葉たばこの製造・販売までを一手に担う「煙草専売法」を出して、法令を強化します。これによって民間のたばこの製造販売が禁止されました。生産された葉たばこは、総て琴平専売支局まで運び納付することになります。当時は、道が整備さえていなかったので、葉たばこを天稀棒で担ぎ、琴平まで五里余りの道程を、前夜から出発して歩き、帰りは提灯をともして家路についたと云います。その末に買い入れ価格が低かった時には、帰り道の足は重かったと古老は述懐しています。
たばこ 葉のし 琴南町誌

専売化当時の旧美合村では、約百町歩のたばこ耕作地がありました。
見方を変えれば、畑地の多い美合にとって専売化されたたばこは総てを政府が買いとってくれるので安定作物でもありました。そのため生産者や作付面積も急速に伸びたようです。ただ、道路がなく琴平まで担いで出荷するのは、大変な苦労でした。そこで村長堀川嘉太郎は、村内有志の者と相談して、収納所を美合に設置することを陳情します。代議士三土忠造の協力を得て、地元の費用で建てれば、それを政府で借り入れ使用することになります。こうして耕作者に対し、反当たり6円の出資を求め、総額7000円を集めて、明治42年9月に新しい収納所を尾井出に建てます。これが池田専売局貞光出張所美合取扱所です。以後は、ここに出荷するようになり、琴平までの長く苦しい輸送から解放されます。
 たばこ葉の代金は、農家の最大の現金収入で、これで年内の「店借り」等の決済が行われるなど、地域の経済上にも大きな意味をもっていました。
 
黄色葉の共同乾燥 美合
(琴南町誌563P) 
 明治になって栽培・販売が自由になり、耕作者も増えたこと、さらに明治31(1898)年の煙草専売法によって、栽培農家が保護されると、美合のたばこ栽培は全盛時代を迎えます。
最盛期の明治末から大正の初めには、栽培反別は120町歩、耕作者は600人を越えます。
このような盛況をみた理由を研究者は次のように指摘します。
①美合地区は、温暖小雨であり、日照は豊富、そして土壊は砂質性が強く、水はけがよかった。
②水田でなく高地の畑で栽培可能であった。
③専売制になってから、販売の安定性ができた。
④換金性がよく、収納すれば必ず現金が入った。
⑤労働力を必要としたが、当時は余剰労働力があり、農業経営が可能であった。
美合地区の葉煙草作付け面積・農家数推移
美合地区のたばこ耕作面積と生産農家数の推移(琴南町誌560P)

 その後、太平洋戦争には食糧生産が最優先され減反を強いられ、70町歩に低下します。また、戦後物価の変動で、たばこを耕作して家計を保つことが難しくなり、耕作面積は50町歩までに減少します。戦後の昭和24(1949)年に日本専売公社が発足しますが、 一般物価との均衡がなかなかとれなかったようです。世の中が落ち着いて後に、買い上げ価格を上げるなどの増産対策を推進した結果、昭和40年には、90町歩まで回復しました。以下の推移は次の通りです。

葉煙草耕作面積の推移 美合
美合の葉煙草の作付面積と生産量
以上を整理しておきます。
①たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた。
②阿波半田の武田右衛門が天正年間にたばこの種子を長崎から持ち帰り半田奥山で栽培した
③元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美合に入ってきて栽培されていた
④江戸時代後半には、たばこが勝浦の特産品として紹介されている。
⑤明治の民営化時代には、旧琴南町でたばこ製造販売業が10軒近くあり、滝宮・陶方面で行商していた。
⑥専売制になって価格が保証され、全量買い入れられるようになると生産農家は急増した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌558P

IMG_6877炭焼き
美合の炭焼き窯(まんのう町教育委員会提供)
 まんのう町アーカイブス写真の中に、炭焼きを記録したものがあります。今回は、美合でどのようにして炭焼きが行われていたのかを見ていくことにします。テキストは、琴南町誌855Pです。

美合産の木炭の立地条件として、琴南町誌588Pは、次のように記します。
①自然森林が多く、木炭の原木が豊富であること、
②山間僻地で他の産業があまり盛んでなく、労働力が豊かであること
木炭の生産スタイルは、どんなものだったのかを見ておきましょう。
木炭の生産は、山請け親方が山持ちから一山いくらかで請け、人夫を雇って炭窯を造り炭を焼きました。人夫は、一窯当たり2・3人で、山に宿泊して焼きます。白炭で二週間、黒炭で10日ぐらいかかります。出荷は、山から二俵ずつ肩に担いで小出しして林道まで出します。その後、猫車に載せて道路まで運びだします。販売は家庭用は、坂出・琴平・高松方面に仲介人が売りさばきました。工業用とか、大量に出荷する場合は、森林組合を通じて出荷しました。単位価格は、 一俵400~500円程度でした。
次にどのようにして木炭が作られたのかを見ていくことにします。
①まず初めに炭焼き窯を造ります。炭焼き窯の土は赤土が一番とされました。そのため赤土がなければ遠いところまで赤土を掘りに行きます。赤土は粘土質で、粘りがあって火にあってもなかなかひび割れしません。
炭焼き窯 石積み
ドイフミ (写真は【共生の里 さゝ郷】)
②周りに石を置き、窯の形に積み上げていきます。これが「ドイフミ」です

炭焼き窯 壁

炭焼き窯 内壁
炭焼き窯の内側
③その石積みを透き間がないように粘土を、ヒラヅチ(ヨコバイ)でたたいて締めつけていきます。

炭焼き窯 6

炭焼き窯断面

④横壁ができると木材を積み込みます。最初の時は天井がありません。

炭焼き窯の天井
ツベハリ(天井はり)
⑤一番難しいのはツベハリで、ツベというのは炭焼き窯の天井のことです。この時には何人もの人に加勢に来てもらいます。天井が落ちないように、ニガリを混ぜた土を使って何度も何度もヨコバイでたたきます。
⑥出来あがると「ツベハリの祝い」をします。それはツベ(天井)とヒジリに御神酒・イリコを供えての宴会です。
炭焼き窯には、住吉さまや弘法大師が祀られていたようです。弘法大師が祀られる由縁は、次のように伝えられています。
昔は、窯の後ろに煙出しの穴がなく、炭がうまく焼けなかった。それを弘法大師がやって来て穴をつくることを教えてくれた。それからうまく焼けるようになった。

 出来た初めの窯はアラガマ(新窯?)と呼びます。アラガマの炭は悪いが、三度目からはよい炭が焼けるといいます。炭焼き窯の大きさは、高さ十尺、奥行き七、八尺のものが多かったようです。

炭焼き窯2

いよいよ点火です

    燃焼室に燃えやすい小枝などを入れておき、別の場所でおこした火を投入します。燃焼が確認できたら、薪を次々と投入していく。この時点で、投入口を石、レンガなどで狭める。
 炭化の始まり
窯の中が一定温度になれば、炭材が熱分解して炭化が始まる。煙突口から白い煙が勢いよく立ち昇る。
炭化の進行
窯内では、天井の方から窯底へと炭化が進行していく。炭化の速度は、煙突口(煙道口)の開口面積で調整する。最初は開いているが、炭化が進むにつれ徐々に塞いで最後には閉めてしまう。
炭焼きする木は、樫・ほうそ・くぬぎ・くるまみずきなどで、あとは雑木です。

窯が家から離れていると、焼き上がった炭を入れておく納屋のほかに、ネゴヤ(寝小屋)なども造らなければなりません。寝小屋について、琴南町誌は次のように記します。
ネゴヤ(寝小屋)に寝泊まりして炭が焼き上がるのを待つことになる。構造は掘っ立てで、萱葺き、周りは萱で囲った。幅一尺半か二尺ぐらいの入口を入ると、そこは土間になっていて、オイエにはムシロを敷いてある。大きさは、横が一間で縦が一間半ぐらいのものが多い。入った奥には、 一間半四方ぐらいの大きさの炉を切ってあるが、天井の桟から竿をつるしてある。ここで煮炊きをする。布団は大抵の場合、隅に積み重ねてある。板で簡単な棚をつくって、箱膳・茶碗。小さい米缶などを置いてある。炭を焼くのに二、三日もかかるし、煙の色で焼き具合を見なければならないので、寝泊まりしているわけである。
 窯に火を入れてから二日ぐらいは焚き、炭になってからは密閉して三日ぐらいおいて熱をさましてから口をあけてかき出す。

炭焼き窯1
これは黒炭の場合ですが、白炭(シロズミ)の場合はまだ赤く焼けているのをエブリで引き出します。そしてアクの中へ埋めます。白炭の方が値段もいいし、堅くて重宝がられますが、造るのも手間がかかります。火が付いたままで引き出すので高温です。そのため木綿の布を何度も何度も継ぎ足してつくったドンザを着て、顔も頭も布で覆います。その上に、水を用意して体に水を振りかけながらの作業でした。
白炭と黒炭については、次のように記します。
白炭はシロスミウバメガシ・アラカシ・ナラ・ホオなどの樹木を 1,000度以上の高温で焼いた硬質の炭のこと。火付きは良くないが、一酸化酸素の発生の少なく火持ちの良いので料亭などで良く使われています。炭の密度が高いので、叩くと金属のような音がします。白炭という名称は、焼きあがった炭に灰と土を混ぜた消し粉をかけて消化するために表面に灰が付着して白っぽくなることからこの名称になっています。ウバメガシの木を原料とする備長炭は白炭の代表格。
黒炭とは、白炭の技術を基礎に日本独自の工夫で完成した炭焼き技術で、低温(約700度)で焼いた軟質な炭です。消火は、釜を完全に密閉してゆっくり消火させます。白炭より軟らかく火付きが良く、立ち消えしないために昔から重用されてきました。炭材になるのは、ナラ・クヌギ・コナラ・ミズナラ・マツなど。
IMG_6875炭焼き荷造り
黒炭の俵詰め作業(美合)(まんのう町教育委員会提供)
IMG_6874炭焼き荷造り2
炭俵の荷造り(美合)(まんのう町教育委員会提供)

木炭の出荷
山からの出荷(美合)

IMG_6873炭焼きの集荷 日通
集荷場からの出荷 日通のトラックに積み込まれている

 かつては炭問屋は皆野と明神にありました。炭が出来るとそこまで持って行ったようです。炭俵は、女たちが農閑期や夜なべに作っていました。炭焼きは一か月に二ハイのペースで焼いていました。一パイで50俵ぐらい生産できます。

木炭需要が多かった頃は、麦をまいてから後の晩秋から冬にかけて炭を焼く煙が琴南の山々に見られたと云います。
農繁期の副業として、いい稼ぎになったようです。木炭は琴南の代表的な産物で、最盛期は戦後(昭和25(1950)年ごろで、香川県全消費量の1/3にあたる15万俵を美合産が占めていました。

木炭生産推移.5JPG
香川県の木炭生産の推移表

上表を見ると、日中戦争開始後に第一次急増期があり、太平洋戦争に突入すると燃料不足から木炭需要が激増していることが分かります。それが戦後には落ち着き、プロパンガスなどが普及するようになるころから急減していきます。琴南町勢要覧には、1955年の3207俵が、1964年には1809俵へとほぼ半減、そして11年後の1977年の『町勢要覧』には、木炭の記述はなくなっています。この間に、木炭生産は姿を消して行ったことが分かります。急速な需要変動で、生活を根底から揺さぶられた人達の困惑があったはずです。
家庭用燃料推移表
家庭用燃料推移表
この表からは次のような情報が読み取れます。
①1955年以後、10年で木炭生産が1/4に激減したこと
②代わって、灯油・電気・都市ガスの需要が高まったこと
③1960年代の「家庭燃料革命」で、木炭は家庭から姿を消したこと。
④琴南の木炭生産も1970年代には、終焉を迎えたこと
美合の年間木炭生産



  炭焼きは姿を消しましたが、炭焼きにまつわる話は今に伝わっています。次のような話が琴南町誌には載せられています。
①初めての窯のときは、必ず入口にチョウナを立て掛けておく。チョウナには三本の筋を掘ってあるので、 マモノが来ても眼三つの妖怪がいるといって、魔よけになるのだという。
②ネゴヤにねずみがやって来たら、お福さんが来たといって喜ぶという。
③家から出掛けに、箸が折れたとか、茶碗が割れたとか、鎌の柄が折れたとか、女房がぐずぐず言ったりしたら、その日は山へは行かない。
④ネゴヤで寝ていると、何物かがやって来て小屋を揺すったとか、向こうの山が燃えたが朝起きてみると何のなかったといったふうな、怪異の話は多い。
⑤来るはずもないのに、夜更けてから我が家で飼っている猫がやって来たという話もある。猫は魔性のものだから、七谷を越えてやってきたのかもしれない。
炭焼き仕事は、山中での仕事なので縁起をかつぐことが多かったといいます。それらを伝える写真資料がまんのう町教育委員会にあることを報告しておきます。

香川県史14巻民俗583Pに、美合で行われていた炭焼きについての聞取り調査報告が載せられていました。長くなりますが載せておきます。
炭に焼く木を決定するバンドウニンは、何年バエの木が何町歩あるから炭は何貫焼けると計算する。目の確かなバンドウニンは狂いがないが、バンドウする人が未熟だと損をする。25年バエ、30年バエと木の育ちぐあいで決定した。決まると、山がオリタ、スミ山に渡した、山をオロスなどと言う。ノサン(共有林)は炭焼きにオロス。共有林は、一戸前のブ(持ち分)がそれぞれ違い、ブにしたがって利益も割る。ブは家によって、半戸ブンとか三戸ブンとかを持っている。ブを持っていないと、利益の配分にはあずかれない。また、ジバイ(個人所有の山)をオロスこともある。個人の山の収益はもちろん山持ちが握る。
 スミ山は木が多い。木はモトギリにする。モトギリにしておくと、後から芽が出て木が茂る。旧暦の3月3日を過ぎると、モトギリをしてはならない。芽が出なくなるおそれがあるので禁じた。切ってから10年もたつと、また炭が焼けるように木が育つ。
 炭焼きにする木は多種類である。
ホウソ・フクロタ・カシ・ナラ・モミジ・クルマミズキ・カワラサシチシの木・リョウブ・クヌギなどでクヌギは歩どまりがいい木、ホウの木の皮は印刷用アルミ版のみがきとしていた。また、塗りものの研ぎとして使用する上等の炭が焼けた。反対に、クリの木は炭には焼けずになってしまう。ウルシの木は炭にすると軟らかいときらわれた。外に、竹炭を焼いたこともある。竹は3年目には切ることができるので自家用の孟宗竹で焼いていた。
 松の木は鍛冶屋、刀鍛冶の炭としてフイゴ炭と呼ばれた。松は、火力が強くて鉱物の精錬には欠せないものだった。鍛冶屋と呼ばれた松災は、鉄や刀を鍛えるとき炭素と鉄とが結合していい刀物になる。刀の切れ味の秘密は災にあると言い、鍛治屋炭はよく売れた。
 炭木の木その他を切ると、東にして運ぶ。山のナルイところはいいが、イシワラや谷を避けて木を集める。
 炭木はドエにかけたりドウマンにして運び出す。584P
 ドウマンというのは、モトギリした木をカズラで固く束ねることで、それを山の上から転がり落とす。簡単といえば簡単だが、途中で東が崩れたり、見当違いの方へ落ちたのでは困る。目的の場所へきちんと転がり落ちるように工夫する。ドエにかけるというのも共通の方法である。
 いい山、ジフクがいい山とは、日あたりがよくて谷が小さく、スミ木のよさはもちろんのこと、木出しにも適したところで、こういう山が喜ばれる。
  木を切るのは、大体二日で切り終る。一窯に焼けるスミ木を二日で切るということになっていた。

 炭焼きはヤキコがあたる。ヤキコは美合在住の人たちで、炭焼きにやとわれてヤキブ(日当)をもらう。炭焼専門なので、木灰にしないで上手に焼き、能率があがった。
 炭焼きの方法には、テントウ焼炭、ロテン焼がある。材料は松の木、60㎝くらいの長さに松の木を切りそろえ、太さも大体同じようなものを選ぶのは小皿のように中央を少し深くする。太い松の木は割っておくこともある。これらを二段三段と積み重ねる。上へは松葉をかぶせて、土を置く。火気が外へ出るのを防ぎながら、盛りあがった中央に出しの穴をあける。火は下からつける。煙が出はじめると最初は黒い煙、だんだん白くなり、薄青く煙の色が変化する。煙の色の変化にともなって、においも変わってくる。
 煙の色の変化により、煙の出る穴を少しずつ小さくする。これを、シメルと呼ぶ。火がついてから一昼夜置き、空気穴も、煙穴もふさいで火を消す。消したはずの火がおきるときもあるので、水の用意も怠らない。こうして鍛冶屋が焼きあがる。
 炭焼窯をつく土は、赤土がもっともよい。粘土質の赤土があるところはいいのだが、ガラ山などは客土を必要とする。ガラガラ山では炭が灰になってしまうし、オンジ土もあまりよくない。
 床も粘土で固め、周りへ石を置く。石と石とのすき間がないよう粘土でふさぐ。炭木は一メートルくらいに切りそろえたものを窯のかたちにたて並べる。炭木を並べた上へ、小枝をかぶせ、さらに薬を敷く。そして、土をおおうわけだが、上手にしないとツベが抜けてしまう。窯のツベハリには手慣れた人が三、四人も加勢に来て共同でハッてもらう。このツベとは天井のことで、赤土を置いてはヨコバイでたたきつける。また、天井の土にはにがりを混ぜた土を使うとひび割れしない。にがりは塩を籠の中に入れ下へ桶をすえて取ったものを使った。
 窯のツベハリは一日仕事で、しっかりシメておかないとツベが抜けてしまうとしっかり土を固めた。そして夜、カメのツベハリまつりをする。炭窯うったらお客をするとも言い、窯のてっぺんとヒジリに御神酒とにぼしかめざしを供えた。
 むかし、炭窯には煙突がなかったが、弘法大師がこられて、窯の後ろへ穴をあけてくれた。それから炭がうまく焼けるようになったという。だから、炭焼窯の火は大切にし、魚などは焼いてはならない。もし焼くと、小屋が焼けてしまうし山火事にもなるという。
 窯に火を入れてから一昼夜、窯の大きさにもよるが、大体、二日焚きくゆらして三日、火を消してからさら三日ほど置いて熱をさます。煙の色は、はじめはホケが出て白くなり、青白く、青くと変化する。煙が薄紫色になると、炭は焼きあがる。炭木は上からになってゆくが、煙突から出る煙に混じって水分も出るので、煙の色を見ていると炭の焼け具合がわかる。
 黒は、焼きあがると火口をふさいで窯の中で火を消す。だが、白は真っ赤に焼けたものを取り出し、アク(アク灰)のなかへ埋めこんで消火する。白炭はちんちんと鳴るので堅とも呼ばれ、高価だった。だが、生木の割合は白より黒炭のほうが率がよかった。

 炭を出すときは、焚き口の奥にある障子を壊して出す。そして、すぐに生木をつめかえておく。これをヌキカエとも言う。ヌキカエて炭木をたてておかなければ、窯がくずれやすいからである。すぐ火を入れない場合には、窯の天井へ薬束などを置き、おおいをして保護していた。炭焼窯は二、三年くらい使い、後はそのままにし炭木のある山へ移って行く。
 炭焼きは、一か月で二杯焼くという。窯の大きさにもよるが、大体一杯で50俵計100俵を焼いていた。
 炭木にする雑木林が相当広くないと炭焼窯はつけなかった。なお、大正時代になり炭焼窯は大幅に改良された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
琴南町誌 588P
まんのう町教育委員会アーカイブ写真 美合の炭焼き

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