瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年10月

借耕牛のことについてお話しすることになったので、改めて「借耕牛の研究」を読んでいます。
借耕牛の研究 四国農業試験場報告(第6巻)

1962年に発表された論文なので60年以上経っていますが、借耕牛についてこれに優るものはありません。読む度に新しい発見があります。改めて気づいたり、「発見」したことを補足しておきます。
借耕牛は、阿波の貸方と讃岐の借方の最短距離に近い峠を越えてきました。

借耕牛 搬入ルート

借耕牛の阿波供給地
丸亀平野には美馬・三好郡のソラの村々の借耕牛がやってきた

5借耕牛 峠別移動数jpg


堀川氏は次のように記します。

「猪鼻峠を汽車が通過するまでは西讃地方の借耕牛は全部各峠を通っていた。その数,何千頭にものぼり、その当時は県道も開通せざりし故俗にいえる往還を毎日毎日14日~15日位,道も通れぬほど,耕牛が続き牛の腹に釣りたる鈴が終日,チリン,チリンと鳴り続けたるを覚ゆなり」

関田氏は次のように記します。

「当日は一大市場の如く牛群の往来を遠方より望むときは恰もキャラパンの如き壮観を呈すると云ふ」

小野蒙古風5

借耕牛 美合口
美合口にやってきた親子連れの借耕牛

借耕牛 塩入
まんのう町塩入に集められた借耕牛
借耕牛 財田戸川
財田町戸川での借耕牛の取引風景

借耕牛の貸出は、かつては博労(ばくろ)の家や仲継所へ牛の持ち主が連れて行きました。しかし、昭和30年代になると、遠い村では頭数がまとまれば、地元業者がトラックに載せて運ぶようになります。
 借耕牛の「追い上げ(貸し出し期間)」は、戦前では次の通りでした。
A 夏は毎年6月1日ころより中日(6月22日)の前日までで、7月3日の半夏の翌日4日まで約1ヶ月間貸借し,4日には必ず返す
B 秋は11月1日ころより約2カ月後の俗にいう「おたんや」の翌日返す
 秋の場合は、かつては麦の除草に牛を使ってから返すのが常でした。それが昭和30(1955)頃になると、レンタル期間は以下のようになります。
借耕牛 貸し出し期間
             借耕牛のレンタル期間
上表からは次のような情報が読み取れます。
①借りた日は6月7日を中心としてその前後数日間で、6月10日以後になることはなかった。
②夏の返却日は7月2~3日が多く、半夏に田植えの足洗いがおわると返却する。
丸亀平野では満濃池のゆる抜きが6月15日でした。満濃池の水がやってくる前に荒起こしをして、水が入れば代掻き → 田植え → 7月4日の半夏の足洗いとなります。その期間がだいたい6月一杯となります。田植えが終わると、牛は阿波に帰っていきます。

田起こし 長崎県佐世保市
牛耕荒起こし(佐世保市)
 秋のレンタルの開始日は11月7日を中心に前後数日間で、11月10月以後にはありません。秋は、稲の収穫が終わった後に、麦を蒔くための田起が行われます。

畝立てと麦まき 白木町
秋の田おこしと麦まき(白木町)

麦まきと畝立て 牛耕
麦まきのための田起こし
秋の返却日には広い幅があります。その中心は12月5日前後ですが、それ以降も相当数が返却されていません。これは麦の牛で中耕を行なってから返すもので、従来は2ヵ月程度のレンタル期間だったようです。それが戦後には1ヶ月程度に、ずいぶんと短くなっています。
借耕牛の秋のレンタル期間が短くなった要因は何なのでしょうか?
これは麦まきが終わってからも中耕のために、その後も約1ヵ月借りておくのが経済的かどうかという次のような要因があると研究者は指摘します。
①讃岐の農家は農作業が終了したら飼料費がかかるので、一日でも早く返したい
②農家によっては少し休息させ飼いなおさないと可愛そうだという心理もある
③阿波の貸方農家の心情としては、大切な牛だから仕事がすめば1日でも早く無事な姿をみたい
④反面少しでも飼いなおして、元の状態にもどして返してもらいたい
返却時期の設定については、双方の複雑な思惑や感情があったことを押さえておきます。

阿波では借耕牛は「米牛」と呼ばれました。それはレンタル料として米俵2俵を背中に乗せて帰ってきたからです。これは春秋で、約一石前後になります。

借耕牛 美合落合橋の欄干
まんのう町明神橋の借耕牛 左右に米俵(60㎏×2)を背負っている。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

上表のように牛の力量や能力、需給バランスなどによって、価格格差があったようです。
 また、米で支払われていたのは明治末期までで、大正末期にはほぼ現金に代わったことは以前にお話ししました。そして昭和14(1939)年に米穀配給統制法が制定されると、米が国家統制下に繰り入れられます。これによって支払いは総て現金払いとなります。つまり、戦後には米俵を背中に積んで阿波に帰る牛の姿は消えていたのです。 
借耕牛 現金へ
借耕牛レンタル料の米から現金への変化時期

借耕牛は、何軒で利用されていたのか?

借耕牛 荒起こし

借耕牛を何軒もの家で使い回して、その結果痩せ細って牛は帰ってきたという話が伝わっていますが本当だったのでしょうか? これを資料で確認しておきます。
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上図からは次のような情報が読み取れます。
①昭和28年(第1次調査)では、個人(一戸)利用約36%、共同利用が64%
②昭和32年(第2次調査)では、個人(一戸)利用が24% 共同利用が76%
③2次調査では、3~4戸による共同利用が30%に増えている。
④一戸利用の牛の耕耘面積が6~8反なのに対して、4戸ではその倍近くに増える。
確かに、借耕牛を3~4軒で使い回すことがあったこと、そして耕耘面積も広くなり、牛にとってはハードになることを押さえておきます。

最後に 「借耕牛の研究」の論旨を要約整理しておきます。
①借耕牛は、阿波からの讃岐への「人による出稼 →人畜共稼 →家畜のみの出稼」へと発展ししたもの。
②阿波の 畑作商品作自給農業と、讃岐の水田作副業農業という対照的性格の上に借耕牛は成立した。
③つまり阿波は成牛で生産使役、讃岐は仔牛育成で借耕牛依存という形に発展した
④借耕牛の流通は, 貸方は徳島県三好, 美馬郡で, 借方地帯は香川県の綾歌, 仲多度両郡を中心に東西へ広がった。 
⑤大正初年には3,000頭、昭和5年には5,000頭, 昭和10~15年の最盛時には8,000~8,500 頭が阿讃の峠を越えた
⑥戦後混乱期には急減したが、昭和30年代になると 3000頭近くに復活した。
⑦借耕牛成立の条件として、 阿波と讃岐の農業事情のちがいの上に, 耕耘時期のずれや、借方の讃岐側の仔牛調教のうまさなどがあげられる。
⑧借耕牛の取引慣行については、 阿讃の両方に家畜業者(博労)の存在が大きい。
⑨全体的には借方の讃岐の利益が大きく、そのリードのもとに取引が行なわれていた。
⑩レンタル期間は20~30日で、6月と11月の2回行なわれた。
⑪レンタル料は、昭和32年の平均で夏が5400円, 秋が45000円程度で, 年間米一石と云われた明治以来の価格を堅持していた。
⑫昭和33年頃になると、70%以上の牛が2~4戸の複数農家で共同利用されている。
⑬使用日数は13~15日で,1頭の耕転面積は平均 1~1,2㌶で、共同化が進むにつれて耕作面積も増えている。
⑭1日の仕事量は65~75万kgm で激役の部類に属する。
⑮借耕期間中の体重減少は、調査によると平均7kgで、おおむね良好な飼養がなされている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛の研究 四国農業試験場報告(第6巻)

前回は美馬市郡里の安楽寺訪問記をアップしました。今回は安楽寺周辺のお寺巡りを載せておきます。

美馬市寺町散策.2JPG
美馬市寺町散策パンフレット(表)
美馬市寺町散策
                 美馬市寺町散策パンフレット(裏)
安楽寺を後にして、その北側にある西教寺を訪ねます。


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西教寺は、慶長14年(1609年)に安楽寺から分かれた寺です。本堂・経蔵・山門が有形文化財に登録されています。
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西教寺の登録有形文化財
安政5年(1858) 建立の本堂
天保14年(1843)建立の山門
昭和5年(1930) 建立の経蔵
このなかで案内人の方の説明が一番長かったのは山門でした。

西教寺山門 美馬市寺町

西教寺山門(三間薬医門)
研究者は、この山門に対して次のように評しています。(阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7)
山門は三間一戸の薬医門で,正面向かって中央に桟唐戸,右手に潜戸(くぐりど),左手に板壁を設け,屋根は切妻,本瓦葺とする。棟南鬼瓦の正面に「天保拾四歳卯七月吉日」(1843)とある。

西教寺山門の妻飾り

本柱の上に冠木を置き,控柱は貫で繋ぎ,龍の木鼻が付く。妻飾は上部に男梁,下部に女梁とし,二重となるのが特徴である。その間に蟇股を挟み,先端には異様な形の拳鼻が付く連三斗を設ける。また,男梁の上に太瓶束笈形を置き,棟木を支える。破風の飾りは,くだり・外部側が菊,境内側は雲である(図20)。

美馬市寺町西教寺山門 軒裏

軒は二軒,飛檐垂木は板軒で雲の模様が施されているなど,山門の意匠には目を止めるものがある(図21)
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西教寺山門の説明を聞く参加者

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西教寺経蔵
経蔵は、昭和の初期らしくどっしりとして近代的な感覚がします。

安楽寺の西側が林照寺です。ここも安楽寺から分家されたお寺です。

林照寺 美馬市寺町

唐破風屋根を載せたものを唐門といいます。林照寺の山門は正面前後に唐破風のある一間一戸の向唐門です。


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林照寺の唐門
林照寺の唐門 美馬市寺町


林照寺本堂

寺町に浄土真宗のお寺が集まっていうのは、どうしてでしょうか?
美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
美馬市寺町の寺院分布

「安楽寺文書」には、安楽寺から分離した常光寺について次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家600軒を分与されています。安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。安永6年まで200年余り檀家がなくて、「寺中あつかい」だったことになります。
安楽寺の隠居寺として創建された林照寺も、当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです
それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺(真言宗)に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その門徒は西教・常念・林照の各寺に振り分けられた
こうして、安楽寺を中心とする真宗の寺院が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院を周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
こうして寺町には、浄土真宗興正寺派の拠点として機能していたようです。ただ、明治の宗教改革で、安楽寺は興正寺派から西本願寺に移ります。現在の安楽寺の看板には「西本願寺派」とありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

まんのう町文化財保護協会仲南支部 秋の一日研修会を以下のように実施しました
2025年10月26日(日)  参加者  20人
 9:00 仲南支所出発
10:00 安楽寺(途中・道の駅みまの里でトイレ) 安楽寺・願勝寺など訪問
    地元ボランテアガイド西前さんによる案内
11:30 道の駅(みまの里)で各自昼食
12:45 バス集合・出発
13:00 脇町道の駅 藍ランドうだつ着 自由散策
14:15 脇町発
15:00 仲南支所解散  
その報告をアップしておきます。

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集合は仲南支所です。ありがたいのは町のマイクロバスが借りれることです。県内と隣接の徳島県や愛媛県の市町村が運行可能エリアです。今回の美馬市は、県外ですが「隣接地」ということで運行可能でした。費用は燃料費だけです。バス代が高くなった昨今では、これは大変ありがたいことです。定員いっぱいの参加者を乗せて、仲南支所を出発します。

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安楽寺の赤門(美馬市)
一時間ほどでやってきたのは、美馬市郡里の安楽寺です。紫のジャンパーを来た「寺町案内人」の人達が、立派な赤門で迎えてくれます。案内人の方から、この赤門の由来について次のような説明がありました。

「この赤門は、末寺からの手切金で作られたと言われています。安楽寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、上納金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの山門です。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)
意訳変換しておくと

尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があり、最後に「讃岐長炭村尊光寺」の名前があります。
 この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)も安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。尊光寺も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺の末寺で、徳島城下町にあった東光寺が触頭寺として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に転換します。そして18世紀半ば以後になると、讃岐の末寺が次々と「有償離末」していきます。その「手切金」で建てたのが、現在の赤門ということになるようです。そういう目で見ると、この門は、讃岐門徒の寄進で建てられたともいえるのかもしれません。
安楽寺

 安楽寺と讃岐の興正寺派の寺との本末関係を確認しておきます。

安楽寺の拠点寺院

安楽寺が興正寺派の中本寺であったことを押さえておきます。安楽寺文書に、末寺として出てくる丸亀平野の寺院を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

まんのう町周辺の浄土真宗の寺の多くが安楽寺の末寺ででした。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分布図

安楽寺の赤門には「千葉山安楽寺」とあります。

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千葉山と称するのは、この寺の代々の住職さんが千葉氏であるからです。安楽寺の由来は、次のように記します。
安楽寺 開基由緒

鎌倉時代に上総(千葉県)守護であった千葉氏が、北条氏との権力闘争に敗れて、阿波に亡命たこと。その際に、阿波守護の小笠原氏から安楽寺を任され、それを浄土真宗に改めて住職となったとあります。だから「千葉山安楽寺」なのです。

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赤門には千葉氏の家紋が描かれています。

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大きな枝振りの松が本堂に伸びています。
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安楽寺本堂
本堂に上がらせていただきます。

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この日は11時から法事が営まれるとのことで、その準備が整えられていました。
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上には三本爪の龍が描かれています

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本堂から赤門をのぞむ

まんのう町長尾の超勝寺も安楽寺の末寺でした。
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺は末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。阿讃の峠を越えて末寺として安楽寺に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)

意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
   讃岐国鵜足郡長尾村  超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
ここからは安楽寺の末寺には、このような義務が課せられていたことががうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。同時に末寺の跡取り住職たちは、安楽寺で修行し、学問を身につけたのでしょう。安楽寺が学問寺と呼ばれる由縁です。
 安楽寺の格の高さを示すものを2つ紹介しておきます。

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本堂に置かれたピアノ
このピアノがピアノ教室に使われているのではないそうです。ピアノ演奏でお経が歌われるのだそうです。奥さんのソプラノの詠歌が美しく本堂に響くそうです。

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本堂横の能楽堂(安楽寺)
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能舞台

こちらの能舞台では、能や狂言師を京都から呼んで年に何回か公演が行われています。それを支えているのが地域の会員やボランティアの方々とのことです。秋の公演では、午前中は中学生対象、午後は一般対象と2回の公演が行われているとのことです。地域の文化発信の拠点ともなっているようです。
改めて、讃岐への真宗興正寺派の教線拡大の拠点となった安楽寺の底力というものを垣間見たような気になりました。

安楽寺山門正面

最後に安楽寺山門のデータと研究者の評価を載せておきます。 阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7
安楽寺山門 平面図
安楽寺山門(赤門)
3)安楽寺山門 木造 三間三戸二階二重門 入母屋造 本瓦葺 円柱(粽柱) 
宝暦6年(1756)棟札写
桁行8.09m,梁間5.13m,入母屋本瓦葺の三間三戸二階二重門で中央及び両脇に桟唐戸がつく。近世社寺建築の記述によると,建立は宝暦6年(1756)棟札写とあり,江戸後期の建物である。禅宗様の礎盤のうえに粽柱が立ち,頭貫の上に台輪が載る。特徴としては,下層の組物に斗供(ときょう)を省略して,柱を桁まで伸ばし,柱を取り巻くように井桁に組んだ肘木と,壁付け方向のすけ材を交互に積み上げ軒を受けるといった独自の形式である(図16)。
安楽寺赤門 井形組物
それに対して,上層の組物は正統的な禅宗様(唐様)三手先組物で柱頭部に大斗を載せ肘木で受ける。火灯窓、縁腰組出組の上に四方切目縁が付き,逆蓮高欄が回る。軒についても下層は二軒繁垂木,上層は放射線状に広がる扇垂木と禅宗様の様式を見せる。内部では,下層の格天井を大斗に代わる井桁詰組を外側に鬼,内側に蓮華の彫刻で支える。上層は通し肘木の上に丸桁が乗り,桁や虹梁で小屋組を支え,中桁まで垂木を引き込んで天井板を張るものの中央部は天井を張らず野小屋を見せる。中央の棟束を支える虹梁型の梁には,梵鐘を吊る穴の痕跡がある。しかし、鐘楼門として実際に使われたがどうかは確認できなかった。
 また,上層の外側の大斗は付大斗であった。全体に禅宗様が色濃く,時代相応に華やかであり,細部に奇抜な意匠を取り入れた,本格的な二重門である(図17)。
 

今回はここまでで・・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

美馬市寺町散策
美馬市寺町散策パンフレット

日時 11月2日(日)
場所 サンポート高松 第1小ホール
12:00 受付・会場 入場料無料(入場整理券が必要)
13:00 開演 開会式
13:30 綾子踊り 佐文綾子踊保存会
14:15 滝宮念仏踊り
15:10 香川町農村歌舞伎「祇園座」
興味と時間のある方の来場を歓迎します。
今年は5月に大阪万博で踊って以来のことになります。この公演のための練習が佐文公民館で今週から始まりました。1年生から始めた小踊りの小学生3名も、大分慣れてきました。踊る機会を与えてくれたことに感謝しながら舞台に立ちたいと思います。
 綾子踊りは佐文自治会約140軒全員がメンバーです。踊る前にその都度、役割が決められます。次回は来年9月6日(日)に、佐文賀茂神社での定期公開公演になります。

高松電灯と牛窪求馬
            髙松に電灯を初めてともした髙松電灯と牛窪求馬
日本で最初に電灯が灯るのは明治15年のことでした。13年後に髙松に電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)で、彼は髙松藩家老の息子でした。資本金は5万円で、旧藩主の松平氏が大口の出資者です。髙松に電灯が灯ると、中讃でも電灯会社設立の動きが活発化します。ここで注意しておきたいのは「電力会社」ではなく「電灯会社」であることです。この時期の電灯会社は、町の中に小さな発電所を作って電線を引いて灯りを灯すという小規模なものです。電灯だけですから営業は夜だけです。これが近代化の代名詞になっていきます。しかし、電気代は高くて庶民には高値の花でした。誰もが加入するというものではなく、加入者は少数で電灯会社の経営は不安定だったことを押さえておきます。
     髙松に習って中讃でも電灯事業に参入しようとする動きが出ています。

中讃の電灯会社設立の動き

ひとつが多度津・丸亀・坂出の資産家連合です。その中心は、多度津の景山甚右衛門で、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家の連合体です。もうひとつが、農村部の旧地主系で、助役や村会や郡会議員を務める人達のグループです。
景山甚右衛門と鎌田勝太郎の連合ですから、こちらの方が有力と思うのですが、なぜか認可が下りたのは旧庄屋連合でした。その中心メンバーを見ておきましょう。

西讃電灯設立発起人

西讃電灯の発起人と役員達です。ここからは次のような事が読み取れます。
①発起人には、当然ですが景山甚右衛門など多度津の七福神や坂出の鎌田勝太郎などの名前がないこと②大坂企業家と郡部有力者(助役・村会議員クラスの名前があること。
③七箇村からは、増田穣三・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)の3名がいること 
実は、この会社設立には増田穣三が深く関わっており、郡部の有力者を一軒一軒訪ねて投資を呼びかけています。ここからは旧庄屋層が電力会社という近代産業に投資し、投資家へと転進していこうとする動きが見えます。当時の増田穣三は「七箇村助役」で、政治活動等を通じて顔なじみのメンバーでした。こうして資本を集めて会社はスタートします。ここでは、この電灯会社が素人の郡部の元庄屋たちの手で起業されたことを押さえておきます。しかし、この事業は難産でした。なかなか創業開始にこぎつけられないのです。その理由は何だったのでしょうか?3年経っても火力発電所ができない理由を株主総会で次のように説明しています。

西讃電灯開業の遅れ要因

資金不足で、発電機械が引き取れなかった。土地登記に時間がかかり電柱が建てられない。要は素人集団が電力会社経営を始めたのです。ある意味では「近代化受容」のための高い授業料を払っていたことになります。これに対して、いつまでたっても操業開始に至らずに、配当がない出資者たちは不満がたかまります。なんしよんやという感じでしょうか。そこで名ばかりの社長と役員の更迭が次のように行われます。

西讃電灯の役員更迭と増田穣三

赤が社長、青が役員です。③1897(明治31)年に、西讃電灯は発足し、翌年9月に発電所建設に着工します。 ④しかし、3年経っても操業できずに、その責任と取って社長が短期間で3人交代しています。そして⑤1900年10月には、役員が総入れ替えています。彼らは経営の素人集団でした。操業にこぎつけられないための引責辞任です。こうしたなかで「七箇村村長+県会議員」であった増田穣三への圧力がかかります。「なんとかせい、あんたが有利な投資先やいうきに株式を購入したんぞ。あんたが社長になって早急に営業開始せえ。」というところでしょうか。⑥1901年8月、前社長の「病気辞任(実質的更迭)」を受けて、増田穣三が社長に就任します。これは「火中の栗」をひろう立場です。この時に⑦増田家本家で従兄弟の増田一良も役員に迎え入れられています。こうして、増田穣三体制の下で操業開始に向けた動きが本格化します。そして1年後には操業にこぎつけます。西讃地域で最初に稼働した発電所を見ておきましょう。

西讃電灯 金倉寺発電所
西讃電灯の金倉寺発電所(JR金蔵寺駅北側)
創業から5年目にして、金倉寺駅の北側に完成した石炭火力発電所です。土讃線沿いに、空に煙をはく煙突が木のように描かれています。発電行程を見ておきましょう。
①貨車で石炭が運び込まれる
②線路際の井戸から水が汲み上げられて
③手前のボイラー棟で石炭が燃やされ、蒸気が起こされる。
④蒸気が発電棟に送られ弾み車を回して発電機に伝えて電気を起こす。
⑤蒸気は、レンガ積の大煙突から排出される。
⑥ボイラーの水は鉄道路線沿いの井戸より吸い上げ、温水は南の貯水池に流していた。
⑦手前の小さい建物が本社で、社長以下5人位の事務員がいた。
どうして金蔵寺に発電所が作られてたのでしょうか?

金倉寺発電所の立地条件

火力発電所の立地条件としては土地と水と原料輸送です。まず多度津の近くには安い適地が見つからなったようです。さらに港に運ばれてきた石炭輸送を荷馬車などではこぶと輸送コストがかさみます。鉄道輸送が条件になります。そうすると、もよりの駅は金倉寺です。金倉寺周辺が旧金倉川の地下水が豊富にあります。こうして、金蔵寺駅の北側が発電所設置場所として選ばれます。就任して1年で開業にこぎ着けた増田穣三の手腕は評価できるようです。それでは、営業成績はどうだったのでしょうか?

讃岐電気 開業1年目の収支決算

営業開始から1年で、契約者は480戸。収入は支出の1/3程度。累積赤字は80000円を超えています。
これに対して、増田穣三の経営方針はどうだったのでしょうか?

増田穣三の拡大策

増田穣三の経営方針は「現時点の苦境よりも未来を見つめよ」でした。「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」とイケイケ路線です。その見通しは「善通寺11師団や琴平の旅館が契約を結べば、赤字はすぐにも解消する。今は未来を見据えて、投資拡大を行うべきだ」と、「未来のためへの積極的投資」路線です。
これに対して株主たちはどう動いたのでしょうか?

讃岐電気 経営上の対立

会社が設立されてから約10年。出資者は一度も配当金を受け取っていません。その間に、出資総額の12万円の内の8万円を赤字で食い潰しています。このまま増田穣三のいうように拡大路線を進めば、赤字は雪だるま式に膨らみ、その負担を求められる畏れがでてきます。株主たちは、「新体制でやり直すべき」という意見でした。そして譲三は、実質的に更迭されます。

増田穣三更迭後、西讃電灯はどのように経営の建て直しが行われたのでしょうか?

増田穣三解任後の西讃電灯

①経営陣に景山甚右衛門と武田熊造を迎えます。
②そして累積赤字を資本金で精算します。資本金全体は12万円でしたから、残りは3,4万円と言うことになります。出資者達は約2/3を失うことになります。
③これでは会社の経営ができないので、11,4万円の増資を行います。
④注目しておきたいのは、この増資引受人を5人だけに限ったことです。つまり、この電灯会社の資本・経営権をこの5人で握ったことになります。この人達が「多度津七福神」と呼ばれたメンバーです。その顔ぶれを見ておきましょう。

多度津七福神の不在地主化

1916(大正16)仲多度郡の大地主ランキングのトップ10です。一目盛りが50㌶です。
塩田家2軒、武田家が3軒、合田家、その統帥役とされたのが景山甚右衛門の7軒です。彼らは江戸末期から持ち船を持ち多度津港を拠点にさまざまな問屋活動を展開し、資本を蓄積します。そして、明治になって経済活動の自由が保障されると、近代産業に投資して産業資本から金融資本へと成長して行きます。
多度津七福人.1JPG
多度津銀行の設立者

その拠点機関となったのが多度津銀行でした。彼らは銀行経営を通じて情報交換し、より有利な投資先を選んで投資をして金融資本家に成長していきます。同時に互いに姻戚関係を結んで結びつきを強めます。この時期の地方の資本家は、地方銀行・鉄道・電力を核に成長して行く人達が多いようです。多度津銀行にあつまる資本家も、この機会に電力事業への進出を目論んだようです。そのためには営業権をもつ西讃電灯(讃岐電気)を傘下に置く必要がありました。増田穣三更迭後の経営権を握りますが、そのやり方が増資出資者を5人限定するという手法だったのです。こうして電灯会社の経営権は多度津銀行の重役達に握られたのです。その中心人物して担ぎ上げられたのが頭取の景山甚右衛門です。

景山甚右衛門と福沢桃介2
景山甚右衛門と福沢桃介
新しく社長に就任した景山甚右衛門は前経営陣の失敗に学びます。新しい産業を起業するのは素人集団には無理、プロに頼るのが一番ということです。景山甚右衛門が見込んだのが福沢桃介です。桃介は福沢諭吉の娘婿で、甲府に水力発電所を作って、それを東京に送電し「電力王」と称されるようになっていました。大都市から遠く離れた渓谷にダムを造り、水力で電気を起こし、高圧送電線で都市部に送るというビジネスモデルを打ち立てたのです。この成功を見た地方資産家達は、水力発電事業に参入しようと福地桃介のもとに日参するものが数多く現れます。桃介の協力・支援を取り付けて、資本参加や技術者集団の提供を実現しようとします。その中の一人が景山甚右衛門ということになります。こうして讃岐電気は「四国水力発電(四水)」と名称変更します。
ちなみに、この桃介の胸像は、現在の四国電力のロビーにあります。四国電力が自分の会社のルーツをどこに求めているかがうかがえます。一方、景山甚右衛門の銅像は、四国電力本社にはありません。この胸像があるのは、多度津のスポーツセンターの一角で、人々に目には触れにくいところです。

大正15(1926)の四水の送電線網です。

四水の送電線網大正15年

祖谷川出合いの三繩からの電力が池田・猪ノ鼻峠をこえて財田で分かれて、観音寺と善通寺方面に送電されています。髙松方面には、辻から相栗峠をこえた高圧電線が伸びます。こうして水力発電所で作られた安価で大量の電気を、讃岐に供給する体制が第1大戦前に整いました。

花形産業に成長した電力産業

これが第一次世界大戦の戦争特需による電力需要を賄っていくことになります。この結果、巨大な利益が四水にはもたらされることになります。10年前のほそぼそと火力発電所で電灯をともしていた時代とは大きく変わったのです。

四水本社(多度津)

景山甚右衛門の業績

こうして電力会社の経営権を握り、水力発電に大規模投資して電源開発を進め、四国水力を発展させた景山甚右衛門の業績は高く評価されるようになります。

一方、社長を退いた増田穣三はどうなったのでしょうか?
増田穣三は電灯会社設立の時には、投資を呼びかけて廻るなど中心メンバーでした。それが「資本減少」という形で出資者に大きな損益をあたえる結果になりました。このことを責める人達も現れ、増田穣三への信用は大きく傷きます。これに対して増田穣三は、どんな責任の取り方がをしたのでしょうか? 

増田穣三の責任の取り方.2jpg

讃岐電気社長辞任の後、村長も辞任し、その年の県会選挙にも出馬していません。公的なものから身を退いています。これが彼の責任の取り方だったと私は考えています。これは政治家生命の終わりのように思えます。ところが5年後に、景山甚右衛門引退後の衆議院議員に押されて当選しています。これは堀家虎造や景山甚右衛門の地盤を継ぐという形で実現したものです。ここにはなんらかの密約があった気配がします。


増田穣三は、電車会社の設立にも関わっています。その経緯を見ていくことにします。

讃岐電気軌道設立趣意書
讃岐電気軌道株式会社の設立趣意書
①彼が設立したのが讃岐電気軌道株式会社です。耳慣れない会社名ですが、後の琴平参宮電鉄(ことさん)のことです。琴平から坂出、多度津を結ぶチンチン電車でした。営業申請したときの社名はここにあるように「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。これは、増田穣三が電力会社の社長を辞任する2年前のことになります。電力会社として、電力需要先を作り出すこと、沿線沿いの電力供給権を手に入れるという経営戦略があったようです。

讃岐電気軌道 増田穣三

上図で線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。今の多度津駅の位置ではありません。朱色が電車会社の予定コースです。坂出から宇多津・丸亀・善通寺・琴平を結んでいます。気がつくのは、多度津への路線がないことです。この時点では、多度津を飛ばして、丸亀と善通寺を結ぼうとしていたことが分かります。面白いのは、善通寺を一直線に南下するのでなく、わざわざ赤門前にまわりこんでいます。これは11師団や善通寺参拝客の利用をあてこんでいたようです。この電車会社が営業を開始するのは1922年のことになります。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?

讃岐電気軌道特許状 発起人
讃岐電気軌道認可特許状
①電気鉄道敷設の「認可特許状」です。
②年紀は明治43(1910)年5月20日の認可になっています。申請から認可までに6年の月日が流れています。増田穣三は1906年に電力会社の社長は辞めています。
③12名の発起人のトップが丸亀の生田さん。2番目が増田家本家で穣三の従兄弟・一良です。
④四条村の東条正平や高篠村の長谷川氏は、先ほど見た西讃電灯の発起人でもありました
⑤5番目に増田穣三の名前が見えます。その後には坂出の塩田王鎌田勝太郎、多度津の景山甚右衛門がいます。
⑥その後に県会のボスであり、衆議院議員でもあった堀家虎造がいます。その下で裏工作を担当していたのが増田穣三でした。いわば、これは中讃の主要な政治家連合という感じがします。ところがこの会社は、その後に次のような奇々怪々な動きを見せます。
認可翌年の明治44年(1911)5月に認可された営業権の譲渡承認書です。

讃岐電気軌道譲渡契約
               讃岐電気軌道特許状の転売承認書
①明治44年2月7日の年号と、総理大臣桂太郎の名があります
②譲渡先は堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家7名の名前が並びます。この結果、創立総会も大阪で行われた上に、本社も大阪市東区に置かれます。株式の第一回払込時に、讃岐の地元株主の株数は全体の二割程度でしかありません。つまり、先に出された開業申請書は、開業する意志がなく営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないか考える研究者もいます。その後、営業免許は初代社長才賀藤吉が亡くなると、以下のように権利が転売されます。
A 三重県の竹内文平とその一族
B 高知県の江渕喜三郎
C 広島県桑田公太郎
そして大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
讃岐電気軌道経営権をめぐる不可解な動き

実は、同時期にもう一枚の認可状が讃岐電気に内閣総理大臣の桂太郎から出されています。
 
讃岐電気軌道への電力供給権

発起人総代が増田穣三と大塩長平となっています。内容は讃岐電気が電車事業へ電力供給権とその沿線への電力供給を認めるものです。これからは、沿線への電力供給権を得るために電車事業を計画したことがうかがえます。つまり、線路をひく予定はこの時点ではなかったことがうかがえます。そのため電車部門は特許状だけ得て、会社も設立せずに転売した可能性があります。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。しかし、琴電の設立に関して、大西氏の動きを見ると讃岐電気軌道を反面教師にしながら起業計画を考えたことがうかがえます。

最後にJR塩入駅前の増田穣三像をもう一度見ておきます。 

増田穣三の3つの側面

増田穣三には三つの面がありました。仲南町史などでは地元で最初に国会議員となったことに重点が置かれて、他の部分にはあまり触れられていません。起業家として電力や電車産業に関わったことや、前回お話しした未生流華道の家元であったことなどはあまり触れられていません。
この銅像は亡くなる2年前の昭和14年に建てられたことは前回お話しました。ということは、着衣は彼が選んでいたことになります。

増田穣三4
増田穣三(左は原鋳造所で戦後に再建されたもの)
右側は衆議院議員時代のモーニング姿の正装です。政治家なら右の姿を銅像化するのが普通のように思います。しかし、穣三が選んだのは右手に扇子を持った着物姿です。着物を着た銅像というのは、戦前の政治家としては少ないように思います。この銅像を見ていると、増田穣三自身は華道家元としてお墓に入ろうとしていたのではないかと私には思えてきます。政治や経済界で活躍しながらも、晩年は華道や浄瑠璃を窮め、心の平安を得ていたのではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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借耕牛 美合口
借耕牛 美合口2
借耕牛 美合口
借耕牛 美合口3
美合口の博労(ばくろ)の庭先にあつまってきた借耕牛
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財田戸川口で競りにかけられる借耕牛
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増田穣三レジメ表紙

今日は増田穣三についてお話しします。
「政治家 + 電力・鉄道の起業家 + 華道家元」でもあった増田穣三をいろいろな面から見ていこうと思います。同時にその背後の明治という時代がどんなものであったのか。かみ砕いて云うと「村にやって明治=近代」というものがどんなものだったのかが見えるような視点で進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
   さて、増田穣三についてご存じの方は? 私も10年ほど前までは何も知りませんでした。忘れ去
られようとしている存在かもしれません。私が増田穣三と出会は、この銅像です。この銅像が今は、どこにあるかご存じですか?

増田穣三 塩入駅前
              増田穣三像 JR塩入駅前の像は2代目
やってきたのは塩入駅です。駅を見守るように立っています。正面から見てみましょう。着流し姿で右手に扇子を持っています。政治家という威圧感やいばった感じがしません。どこか茶道や華道の師匠というのが私の第一印象でした。台座の正面は「増田穣三翁之碑」とあります。代議士という言葉はどこにもありません。台座下の銅板プレートを見ておきます。

増田穣三像の供出と再建
増田穣三像の台座プレート「銅像再建 昭和三十八年」とある
台座プレートには「銅像再建昭和38年3月」とあります。昭和38(1963)年に再建された2代目の銅像であることが分かります。先代に銅像からの流れを確認しておくと、次のようになります。
昭和12年 増田穣三の銅像建立(七箇村役場前 生前建立) 
昭和14年 増田穣三 高松で死去(82歳) 
昭和18年 銅像供出 
昭和38年 銅像再建。
再建時には、町村合併で七箇村役場はなくなっていました。そこで、塩入駅前に再建されたようです。 その時に鋳型は原鋳造に残されていたものが使われます。この銅像は2代目で、最初のものは戦前に役場前に建てられたことを押さえておきます。

増田穣三 碑文一面
             増田穣三像の台座碑文(冒頭部意訳) 
台座を見てみます。周囲3面には、増田穣三の経歴・業績がびっしりと刻まれています。最初の部分を上に意訳しておきます。ここからは次のような事が分かります。
①春日の増田伝次郎の長男。 
②明治維新を10歳で迎えた。
人間は「時代の子」なので、どんな時代に自己形成をしてきたかが大きな意味を持ちます。例えば1945年の敗戦を何歳に迎えたかによって「学徒動員世代」「戦後焼け跡世代」「戦争を知らない子どもたち世代」と価値観や考え方に大きな違いがありました。同じように明治維新を何歳で迎えたかがポイントになります。ちなみに大久保諶之丞は20歳前後、増田穣三や景山甚右衛門は10歳前後です。そのため小学校がまだありません。増田穣三が近代的な学校教育ではなく儒学などの江戸時代の教養の中で育ったことを押さえておきます。
増田穣三が教えを受けた人達を見ておきましょう。
A 日柳三州は燕石の息子 のちに大阪府の教育行政の役人として活躍。
B 黒木啓吾は、吉野の大宮神社の宮司さんで、髙松藩の藩校教授
三人ともに、このあたりでは有名な文人たちです。その下で「和漢の学」をおさめたとあります。私が注目するのは。⑤丹波法橋のもとで華道をならい。池元を継承し、多くの門下生を育てたことです。これについては後で触れるとして、これくらいの予備知識をもってフィールドワークにいきましょう。
まず春日の生家を訪れてみます。

春日神社

塩入駅から県道四号塩入線を塩入温泉方面にのぼっていくと春日神社があります。春日神社は、尾野瀬神社や、福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社を摂社としていた時期あります。ここからは春日がこのあたりで最も早く開かれた地帯で、七箇村の中心地だったことがうかがえます。さらにのぼっていくと・・・
春日の増田家の本家と分家
増田穣三と増田一良の生家(まんのう町春日)

造田に抜ける農免道路を越えてさらに南下すると田んぼの中に大きな屋敷が2つ見えて来ます。左側が、戦前に長きに渡って七箇村村長や県会議員を努めた増田一良の家で、こちらが本家です。そして右側が、その分家の増田穣三の屋敷で、こちらが分家です。ふたりは従兄弟同士で、年は一回り違いますが兄弟のように仲が良くて、一良はいろいろな面で穣三を助けています。
 増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられています。増田家が阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の財田の法光寺門徒であることも、「阿波出身」を裏付ける材料の1 つです。増田家のルーツを見ておきましょう。

仲南町史には次のように記します。

増田穣三生家と尾野瀬神社

1856年は、増田穣三の生まれる2年前のことになります。曾祖父の増田伝左衛門は、拝殿を寄進するだけの財力をもっていたこと、それが林業によるものだったことを押さえておきます。
現在、増田穣三の家として残っているのは、穣三が本家と同規模で新築したものです。もともとは、塩入街道沿いにあって、穣三が若い頃には呉服商や酒造業も営んでいて、「春日正宗」という日本酒を販売もしていたこと、呉服の仕入れに京都に出向いていたことなどが仲南町史には記されています。
増田一族の系譜を見ておきます。

増田穣三系図2

先ほど見た尾野瀬神社に拝殿を寄進したのが穣三から見て曾祖父の伝左衛門。伝左エ門の子が伝蔵(祖父)になります。伝蔵は4人の男の子がいました。長男の伝四郎が本家(東増田家)、次男が伝次郎(西増田家)、三男が鳶次郎(下増田家)です。しかし、長男には子どもがなかったので、後に末弟の4男伝吾を養子とします。結果的には、四男傳吾が本家を継ぐことになります。
 次に伝蔵の孫たちを見ておきましょう。伝次郎の子が穣三・蔦次郎の子が米三郎、傳吾の子が一郎です。彼らは従兄弟同士で穣三が一番上になります。そして、増田穣三を筆頭に、米三郎・一良が村長・県会議員として活躍するようになります。これを見ると戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めていたいたことが分かります。どうしてこんなことができたのでしょうか。
それは後で見ることにして、増田一族の財政基盤を見ておきましょう。

大正初めの仲多度郡長者番付

仲多度郡史に載っている大正初めの仲多度郡の大正時代の長者番付です。
NO1は、多度津の塩田家
NO9が、景山甚右衛門まで、「多度津の七福神」と呼ばれた多度津に資産家がトップテンを占めます。商売だけでなく、この時期になると不在地主として広大な農地を所有していたことが分かります。この人達については、後で触れます。
NO10が金刀比羅宮の宮司の琴丘さんです。以下は、まんのう町の地主だけを拾ってあります。
NO18の三原氏は、大庄屋で三原監督の家です。
NO36が帆山の大西家です。
NO38に増田一良の名前が見えます。これが先ほど見た増田家の本家になります。所有する山林のひろさです。ここからも増田家本家が山林に基盤を置く資産家であったことが裏付けられます。
NO48が三男が分家した下増田家です。
この資産に対して、地租3%がかけられます。仲多度で一番多く税金を払っていたのは塩田家ということになります。ここには増田穣三の家は出てきません。しかし、仲南町史によると酒の鋳造所で独自銘柄の酒を販売していたこと、呉服屋を営んでいて若いときの増田穣三が京都に着物の仕入れに行っていたことなどが書かれているので、手広く商いを行っていたことが分かります。
増田穣三はどんな青年時代を送ったのでしょうか。先ほど見た銅像の台座には「華道の家元を若くして継承した」とありました。

それを裏付ける碑文が宮田の法然堂(西光寺)の境内に立っています。
宮田の法然堂
法然堂(西光寺) まんのう町宮田
法然さんが讃岐に流されたときにここまでやって来たと伝わるので、法然堂と地元では呼ばれています。
園田如松斉の碑文 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑 (まんのう町宮田の法然堂)
その境内にある石碑です。「園田翁之碑」とあります。これが園田如松斉のことです。内容を意訳して見ておきましょう。ここには次のように記されています。
①丹波からやってきた廻国の僧侶(放浪僧)で法然寺に住み着いて再興に尽くしたこと
②晩年は生間の庵で未生流生け花を教えたこと 
③その結果、600人近くの門弟を抱えるようになったこと。
④その高弟が増田穣三で、若くして華道の家元の座を譲られたこと。
明治16年に亡くなっていますから、穣三が26歳の時になります。それから7年後の七回忌の明治23年4月に、この碑は建てられています。裏面を見ておきましょう。

園田如松斉の碑文 裏面 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑裏面

碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。その先頭にくるのが増田秋峰(穣三)です。これは穣三が、園田如松斉の後継者であることを裏付けています。穣三の次に田岡泰とあります。この人は穣三の幼なじみで、この年に初代七箇村町長となる人物です。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順です。以下、細川・泉・近石・山内など、十郷や七箇の有力者の名前が並びます。
わたしが不思議なのは、どうして若い増田穣三が選ばれたかです。
門下にはもっと年長者もいたはずです。しかし、園田如松斉は若い増田穣三を選んだのです。死に際の枕元に増田穣三を呼んで、奥義を伝えたと伝えられます。これは増田穣三の人間的な魅力や人間性を見込んでのことだったのでしょう。それが華道家元として多くの人達と接し、鍛錬する中で磨かれていったとしておきます。若い頃からただの呉服屋や蔵元のお坊ちゃんを越えた存在で、一目置かれていたと私は考えています。 
これは未生流家元の秋峰(増田穣三)が出した免許状です。

増田穣三の華道免許状 尾﨑清甫宛

「当流の口授者なり」とあり、明治24年12月の年季が入っています。穣三28歳の時のものになります。家元になって翌年のものです。伝授者として最後に名前が記される尾﨑伝次は、佐文の住人で、穣三の次の家元となる人物です。また、佐文綾子踊りについての貴重な史料を残した人物でもあります。尾﨑家には未生流の作品が写真として残っています。それを見ておきましょう。
 
未生流の作品 尾﨑清甫
                未生流の作品(尾﨑清甫蔵)
作品を見ると大きな松が一本真ん中に生けられいます。このように大きな作品が特徴だったようです。こんな花材が手に入るのは山村だからの強みでしょう。金毘羅の旅館の依頼で伝次は旅館の玄関をこのような作品で荘厳して好評だったようです。当時は生け花や作法は、裕福な家の男たちの社交場でした。女性が多くなるのは女学校で、茶道や華道が必須科目になって以後のことです。
増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ
 いずれに20代の穣三は未生流一門を束ね、指導していく立場にありました。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながります。そして後の政治家としての素養ともなったと私は考えています。
園田如松斉の七回忌に追悼碑が建てられた年は、初めて七箇村会が開かれた年でもあります。
増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出されています。政治家としてスタートの歳になります。次に、その模様を史料で見ていくことにします。

七箇村村会議事録
七箇村村会議事録 明治23年(まんのう町仲南支所蔵)
増田穣三が法然堂に師匠の石碑を建てた明治23年は、新しい村が生まれ、初めての村の選挙が行われた年でもありました。この史料は仲南支所に残されたい七箇村の村会議事録です。ここに明治23年の年号があります。前年に大日本帝国憲法が施行され、各村々に村議会が開設されることになった年です。右側が香川県知から七箇村村会議長の増田傳吾(増田家の本家)への認可状です。「田岡泰を村長として認可ス」とあります。議長の増田傳吾は、増田家の本家当主で穣三の叔父にあたります。それでは議員や村長がどのように選ばれたのかを見ておきましょう。

明治の村会議員選挙のシステム

①選挙権が与えられたのは、2円の税金納付者です。農民なら2㌶程度の田甫をもっていないと納められません。つまり普通の農民には参政権がありません。②さらに選挙人を差別化します。たくさん税金を納めている選挙人たちを1級、残りを2級に差別化します。その分け方は、納税総額の半分を納めている上位選挙人が議員定数の半分を選出できました。多度津だと上位9人で税金の半分を納めていました。そのため9人で議員の半分を選びます。のこりをその他大勢の2級選挙人が選ぶということになります。そのために大口納税者の増田一族は、親族の近石氏などを含めると過半数の6名を送り込めたのです。そして、村長は議員の互選です。こうして増田一族の中から村長や助役が選ばれます。さらに、村長や助役は名誉職(ボランテア)で、給料が一般職員よりも安かったのでだれでも立候補できるものでもありませんでした。議会録を見ておきましょう。

七箇村村長選出結果報告書
七箇村の村長選挙報告書(明治23年)
県への村長選挙の報告書です。田岡泰11点と増田喜代太郎(穣三)1点とあります。ふたりは幼なじみで同級生で、未生流門下の高弟同士です。年齢は二人ともに33歳です。続いて助役選挙の結果です。ここでも増田穣三は4票を得ています。次期の村長候補であったことがうかがえます。明治維新の面白さは、年寄りが自信を失って道を若い人達に譲ったこと。そのために若い人達によって国造りが担われていくことです。地方議会でも、50・40歳台の人達が道を譲って、30代の若者を村長に選んでいます。
 今までの所を年表で整理して起きます。

増田穣三経歴

①維新に増田穣三13歳・景山甚右衛門16歳、同世代にあたること。近代の学校教育を受けていない世代になること。
②20歳台は酒倉と呉服屋の若旦那、華道の家元
③30代前半からに村会議員
④37歳で助役をしながら、電力会社設立へ
⑤42歳で村長と県会議員を兼職
こうしてみるとつまり、42歳の時には村長と県会議員を兼務し、44歳の時には、電力会社の社長も務めていたことになります。当時の増田穣三が担っていた課題を見ておきましょう。

増田穣三・村長・県会議員・社長

七箇村村長としては、丸亀三好線の開通が大きな課題でした。これは現在の県道4号線で、阿波昼間から男山・東山峠・塩入・切通・琴平までの里道開通です。
明治32(1899)年3月15日の日付の増田穣三宛の書簡が残っています。

11師団からの礼状2増田穣三.jpg2

宛先は七箇村長増田穣三殿で、送り主は善通寺歩兵第二十二旅団長小島政利とあります。内容を見ると
「新練兵場の地ならしすは、目下の急務である。貴村人民の内60名の助力を頂いた結果・・・」スムーズに完成したことに感謝する内容です。練兵場は、現在のこどもと大人の病院と農事試験場に作られましたが、その整地作業に七箇村から60人のボランテイアを出した事への礼状です。日露戦争前に急速に進められた整備に周辺の村々からも奉仕作業が提供されていたことが分かります。

次に県会議員としての働きぶりを見ておきましょう。

増田穣三評
讃岐人物評論の増田穣三評(意訳)
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を紹介したものです。(読み上げながら下の解釈を同時に行う。)どんな風に表されているのか見ておきましょう。
①夜の金毘羅界隈で名の知れた存在、浄瑠璃がうまい 
②村長兼務で県会議員の参事会員になっている
③調停斡旋役に徹して、
④時には切り崩し工作のために買収工作なども担当し
⑤堀家虎造の下で存在感を見せていること。
また、「香川新報」も「県会議員評判録」では次のように記します。

「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」

ここでも議場における寡黙さが強調されています。しかし、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の下で実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一だったようです。それが「寡黙ながら西讃の頭目」と評されたのでしょう。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や景山甚右衛門や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないかと私は考えています。
 大久保諶之丞のような名言や大言壮語はない。議場では静かなもので、夜の料亭で根回しを充分に積んで周到に進めておくというやり方がうかがえます。その際にお花の師匠としての客あしらい・接待方法は役だったはずです。粋でいなせな姿が見えてきます。
今回は、生育歴とお花の師匠・政治家の側面を紹介しました。次回に実業家としての増田穣三をみていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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青竜寺徳源院1
青龍寺徳源院のパンフレット表紙
 丸亀藩・多度津藩の京極氏の菩提寺である滋賀県米原市の青竜寺徳源(とくげん)院に、お参りする機会がありましたので、報告記を載せておきます。

青龍寺徳源院参拝報告記2

東海道本線松原駅近くの青龍寺 関ヶ原の西側に位置する。

鎌倉時代に近江守護となった佐々木氏は、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれていきます。
佐々木氏から京極氏へ 系図


その中で本家筋に当たる六角氏は、信長に滅ぼされますが、京極氏は戦国時代末期の大変動をくぐり抜けて丸亀藩主として明治まで存続します。霊通山清瀧寺徳源院は、この京極氏の菩提寺です。寺の由緒は、京極家初代氏信(法号:清瀧寺)によって1283年に建立された、そのため氏信の法号の清瀧寺殿から青竜寺を称したと伝えます。
徳源院のパンフレットには次のように記します。

 第5代高氏(道誉)は婆娑羅大名としてその名をはせ、その活躍は『太平記』や『増鏡』に詳しい。境内の桜は道誉が植えたものと伝えられ道誉桜と呼ばれている。(県指定名木、2代目)。江戸時代には、高和(第21代)の代に讃岐の丸亀に転封されたが、その子である高豊(第22代)、寛文12年(1672) に領地の一部とこの地を交換して寺の復興をはかり、三重の塔(県指定文化財)を建立し、院号も高和の院号から徳源院と改称した。このとき、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集めたものが、現存の京極家の墓所である。

青龍寺徳源院=「京極家初代氏信(法号:清瀧) + 高和の院号徳源院」ということになります。

京極氏についての詳しい歴史については、別の機会に譲って、現在の徳源院の姿を報告します。

清瀧寺 京極氏墓所
青龍寺徳源院 黄色ゾーンが坊を含むエリア 赤が墓域

谷から流れ出す小川沿いにかつては16坊が建ち並んでいたようです。その奥、左手に本堂や三重塔はありました。
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                     青龍寺京極家墓所
伽藍内部のレイアウトを見ておきましょう。
青龍寺徳源院参拝報告記1
正面から入ると右手に大きなしだれ桜が枝を広げています。

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これが婆娑羅大名・佐々木道誉にちなむ道誉桜です。
青龍寺徳源院三重塔
桜の咲いているときの三重塔
この木は2代目で樹齢350年とのことでことでした。左手が3代目でこちらは、40年前後のようです。ちなみに丸亀城にも、この道誉桜を挿木したものが植えられているようです。

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青龍寺徳源院の三重塔 屋根が改修されたばかり
左手の三代目桜の奥に三重塔があります。小ぶりでスマートで、お洒落な感じがします。これも丸亀城主高豊が墓域を整備し、この寺を整備したときに建立されたものになります。何十年ぶりかの屋根の葺き替えを終えたばかりの姿です。ちなみに、この寺は京極氏の菩提寺なので檀家が一軒もないそうです。そのためサラリーマン住職として、この寺を代々住職家が守ってきたそうです。この塔の改修費は文化財に指定されているので、8割は国の補助が受けれるそうですが、2割は個人負担です。次に代には後継者はなく、維持が難しいとのことでした。
 案内され通されたのが庫裡の庭に面した部屋です。

青龍寺徳源院参拝報告記4


P1280850

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枯山水の味のある庭です。

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庭を見ながらお茶を飲みながら住職さんから京極氏とこの寺の関係をお聞きします。贅沢な時が流れていきます。香川からの墓参りということで、特別に墓所に入ることが許されました。燈籠などの転倒の可能性があり、通常は立ち入りを行わなくなっているとのことでした。

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京極家墓所入口

京極家墓地1
京極家墓所配置図

いただいたパンフレットには次のように記します。
篋印塔と墓所は、境内の裏手の山裾に上下段に分かれている。上段は向かって右より始祖の氏信の古塔(花崗岩製、高さ278cm)  筆頭に高吉(第18代)に及ぶ歴代当主の墓18基が並ぶ。下段には、衰微していた京極家を立て直し中興の祖と崇められる高次(第19代)の墓が石廟の中に祀られ、歴代当主や分家(多度津藩)の墓が14基配列されている。
 大きい墓や小さい墓は、京極家の栄枯盛衰をそのままに表している。墓に刻まれた梵字や蓮華は長い間に風雪に削られて、容易に判読はできない。鎌倉時代から江戸時代に及ぶ各世代の特徴と変遷を示す30余基の宝篋印塔が、1カ所にあり、各時代の流行、特徴の変化が見られるのは、石塔研究家にとって貴重な資料となっている。 

青龍寺徳源院参拝報告記3 墓所
青龍寺徳源院の墓所配置図

京極家墓所


京極氏家系


京極高次
淀殿の妹・はつをめとった京極高次(たかつぐ)

門を入ってすぐに眼に入ってくるのが19世の松江藩主として京極家の復興を果たした高次の石廟です。
しっかりした石廟の中に納められています。
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青龍寺徳源院 石廟正面

青龍寺徳源院参 石廟展開図
石廟展開図

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高次の石廟の右側に、歴代の宝篋印塔が並びます。高次だけが石廟のなかに納めれていて、あとは木廟です。そして歴代順ではありません。2つ置いて高次の息子で松江藩主となった忠高、そして丸亀初代藩主高和・高豊と並びます。

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軒瓦には京極家の家紋があります。
青龍寺徳源院参 京極氏の宝篋印塔

そして裏側に多度津藩主の宝篋印塔が並びます。
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青龍寺徳源院 多度津藩墓石
歴代多度津藩主の宝篋印塔

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下段の丸亀藩・多度津藩主の宝篋印塔と、上段の宝篋印塔

上の奥の方に並んでいるのが「氏信以下歴代当主の墓18基」になるようです。上には上がれませんので近くからお参りすることはできませんでした。調査報告書に載せられているものを見ておきましょう。
京極始祖氏信 以下の宝篋印塔
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上段に並ぶ18基の内の十基です。もう一度パンフレットの言葉を読み返します。

大きい墓や小さい墓は、京極家の栄枯盛衰をそのままに表している。墓に刻まれた梵字や蓮華は長い間に風雪に削られて、容易に判読はできない。鎌倉時代から江戸時代に及ぶ各世代の特徴と変遷を示す30余基の宝篋印塔が、1カ所にあり、各時代の流行、特徴の変化が見られるのは、石塔研究家にとって貴重な資料となっている。 

清瀧寺の創建から高豊による中興までの歴史を振り返っておきます。
京極氏の始祖・氏信は、弘安7年(1284年)に出家して道善と号し、自分の没後追善のために清瀧寺へ料田を寄進しています。(「佐々木氏信寄進状」徳源院蔵)。これ以降、京極家の菩提寺となったようです。その後、高氏が母方の祖父・宗綱の供養のために西念寺を建立し、「清瀧西念両寺々務条々」を制定したほか、高詮の菩提寺である能仁寺の整備、高光の菩提寺である勝願寺など、清瀧寺周辺の整備が進みます。しかし、応仁の乱後の京極氏の衰退の中で、寺も退転したようです。
清瀧寺の整備は、中興の祖とも称される高次から高豊に至るまで段階的に実施されます。松江城主となった高次が発給した「清瀧惣坊中宛」の書状(「京極高次書状」徳源院蔵)に次のように記します。

「正祖屋敷」の「台所」を建てるために、「少し地形せばく」、「北の方」を増築したい

高次の子・忠高は、高次の墓所を清瀧寺に営み、清瀧寺参道の整備や参道に面して僧坊などの建物を建てたと伝えれてきましたが発掘調査で裏付けられます。高和は、丸亀へ転封になりますが、引き続いて「清瀧寺諸宇観を改む」とあるように整備を継続します。(『佐々木氏信寄進状』奥書)。
 さらに高豊は、寛文12年(1672年)に京極領だった播磨の二村を幕府に返上し、その代わりに清滝村と大野木村の一部を清瀧寺の寺領として経済基盤を整えます。同時に、三重塔、位牌堂、客殿を建て、庭園を整備し、周辺にあった歴代当主の墓を集約して墓所とし、十二坊を再興するなどの整備を行います。こうして整備された寺を父・高和の法号から「徳源院」とします。

清瀧村及び清瀧寺境内図
                 清瀧村及び清瀧寺境内図
高矩の代に描かれたとされる「清瀧村及び清瀧寺境内図」には、徳源院の庫裡や本堂の北西に「本堂」が描かれています。これが清瀧寺の本堂で、高豊が整備した徳源院は、位牌堂や墓所域を整備した清瀧寺境内にある院であったと研究者は考えています。
京極氏が松江や丸亀に転封になっても、本貫地の菩提寺を守り通そうとしたことが伝わってきます。しかし、この寺は京極氏の菩提寺で、他に檀家がいません。明治以後の近代になっての維持には苦労があったことがうかがえます。
青龍寺徳源院 大正時代

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 史跡清滝寺京極家墓所保存活用計画 米原市教育委員会

現在のところ弘法大師が四国遍路に関わったことを記す最古の史料は、第51番札所・ 石手寺(松山市)の由緒を記した「通宣刻板」のようです。
これは厚さ1、6㎝の板で、戦国時代の「永禄10 (1567年)の年号が刻まれています。内容は
表面には、和銅 5 年(712)から文明13年(14811)までの安養寺(石手寺の旧名)の由緒と河野伊予守通宣の名前・花押
裏面には建物・文書・寺社領田・宝物の一覧
ここからは、この寺に、白山信仰・薬師信仰・真言密教・熊野信仰・弘法大師信仰・三島信仰など、さまざまな信仰が流れ込み、新たな要素が付け加えられきたことがうかがえます。

弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
衛門三郎と弘法大師
この中に天長 8 年(831)のこととして、次のような浮穴郡江原郷の「衛門三郎」の話が載せられいます。
A
天長八辛亥載、浮穴郡江原郷右衛門三郎、求利欲而冨貴破悪逆而仏神故、八人男子頓死、自尓剃髪捨家順四国邊路、於阿州焼山寺麓及病死、一念言望伊豫国司、爰空海和尚一寸八分石切、八塚右衛門三郎銘封左手、経年月生国司息利男子、継家号息方件石令置当寺本堂畢

意訳変換しておくと
A
831(天長8) 年、江原郷に住む衛門三郎という富豪が、私腹を肥やして神仏も信じなかった。そのためか8人の男子が次々と死んだ。そこで心を入れ替えて剃髪し、四国遍路に出た。衛門三郎は阿波焼山寺(徳島県神山町)のふもとで病死する前、伊予国司になることを望み、現れた弘法大師は「八塚右衛門三郎」と書いた石を左手に握らせた。月を経て国司の河野家でこの石を握った男子が誕生した。この石は今は、安養寺(石手寺)の本堂奉納されている。

澄禅の『四国辺路日記』(承応2年(1653)にも、衛門三郎のことが次のように記されています。

B
河野氏の下人である衛門三郎は悪人で、八坂の宮(八坂寺)を訪れた①弘法大師の鉢を八つに割ってしまう。その後、衛門三郎の子八人が次々に亡くなり、それが②大師への悪事の報いであることをさとった衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に出る。衛門三郎は死ぬ間際に阿波国焼山寺の麓でようやく大師に出会い、河野の家に生まれ変わることを願う。大師は衛門三郎の左手に、③南無大師遍照金剛衛門三郎と書いた石を握らせる。三年後河野の家にその石を握った子が生まれ、衛門三郎の生まれ変わりであることがわかる。

A・Bを比べて見ると次のような違いがあることがことが分かります。
①Aには、衛門三郎が四国遍路に出るまでの部分に弘法大師は出てこないこと。
つまり、衛門三郎が大師の鉢を割ったことや大師を慕って四国遍路に出たことは書かれていません。書かれているのは、子が死んだのは、衛門三郎が貪欲で仏神に背いたためとされています。
②後半部に出てくる衛門三郎が握った一寸八分の石の銘も、Bは「南無大師遍照金剛衛門三郎」と記されていたとしますが、Aには「衛門三郎」としかありません。こうしてみるとBは、衛門三郎と大師の関係で話が進みます。それに対して、Aでは大師は死ぬ間際の衛門三郎に石を渡す役割だけです。

八坂寺 衛門三郎A
八坂寺版の「弘法大師と衛門三郎」
 このように衛門三郎伝説にはAとBの二つが伝わっています。
「記述量の少ない史料の方が古い。後世に付け加えられて伝説は長くなる。」というセオリーからするとAが原形で、Bが後世の付加物版と推測できます。研究者は、Aの「石手寺刻版」が「本来の衛門三郎伝説」であったと判断します。そして「本来の衛門三郎伝説は、現在伝えられるよりもはるかにシンプルなものであった」と指摘します。そうだとすると、衛門三郎は、弘法大師の鉢を割ってもいないし、弘法大師に会うために四国遍路に出たのでもないことになります。伝説の中の弘法大師は、もともとは影が薄いものだったのです。ここでは本来の衛門三郎伝説(A)が、弘法大師信仰の「肥大化」により四国遍路縁起にみられる(B)に付加変容していくこと、これが衛門三郎伝説の初見であることを押さえておきます。
実は「石手寺刻版」には、先の引用部分に続いて次のように記されています。

 寛平三年辛亥、創権現宮拝殿新堂、同四壬子三月三日奉請熊野十二社権現、改安養寺熊野山石手寺、令寄附穴郡江原?、順主伊予息方

意訳変換しておくと

寛平3年(891)に熊野権現宮拝殿・新堂を創建し、翌年に熊野十二社権現を勧請して、安養寺を熊野山石手寺と改める。これは河野氏の息子の手にあった石から「熊野山石手寺」とした。

衛門三郎の生まれ変わり記事に続いて、熊野権現が勧進されて拝殿や新堂が創建された経緯が記されています。また『予陽郡郷俚諺集』では、石を握りしめて生まれた子を「熊野権現の申し子」としています。そして「衛門三郎の再生=河野家の子の生誕」を熊野権現の示現と考え、「石手寺十二所(熊野)権現始めは是なり」と締めくくります。以上から衛門三郎伝説は、もともとは石手寺の熊野信仰の由来譚だったと研究者は判断します。
安養寺から石手寺への改名が、この地への熊野信仰の時期にあたることになります。それはいつごろなのでしょうか?
①正安 3 年(1301)の六波羅御教書(三島家文書)に「石手民部房」の名
②建武 3年(1336)の河野通盛手負注文写(譜録)に「石手寺円教房増賢」の名
ここからは安養寺に代わって、石手寺の名前が出てくるのは14世紀初頭であることが分かります。この時期までには、安養寺から石手寺に改名されたいことが分かります。同時に、衛門三郎伝説もその頃までに成立していたことになります。
 ここでは、14世紀には石手寺は熊野信仰の拠点として、熊野行者の管理下にあったこと、そのために安養寺から石手寺に寺名が替えられたこと。その背景には、熊野行者たちによる信仰圏の拡大があったことがうかがえます。それは以前にお話しした同時代の大三島の三島神社と同じです。その背後には、備中児島の新熊野勢力(五流修験)の瀬戸内海全域での信仰圏の拡大運動があったと私は考えています。
もう一度、衛門三郎伝説を見ておきましょう。研究者が注目するのは、この中に四国巡礼に出た衛門三郎が権力者に生まれかわりたいと望むことです。
 出家して四国遍路に出た衛門三郎が伊予国司に生まれ変わりたいという世俗的な望みを持つことは、私から見れば仏道を歩んできた者の最後の望みとしては不自然のように思えます。しかし、これには当時の宗教的な背景があるようです。12世紀末の仏教説話集『宝物集』には次のように記します。

「公経聖人が一堂建立を発願したが果たせず、死後国司に転生することを望んだ」

衛門三郎が伊予の国司へ生まれ変わりたいと望んだのも、自分の望む身分に生まれ代わって目的を達したいという遊行聖の性格が反映されていると研究者は考えています。また、よく知られた話として頼朝坊という六十六部聖が源頼朝に生まれ変わったとする六十六部縁起の話があります。これが「頼朝坊廻国伝説=頼朝転生譚」で、衛門三郎伝説とつながりがあるように思えます。
 このように伊予国主という権力者に生まれ変わるという衛門三郎伝説のモチーフは、それより以前の説話や縁起にすでにみえています。ここで注意しておきたいのは、転生しているのは「遊行聖」や「六十六部」たちであることです。
自分が生まれ変わりであることを知った権力者は、次のような「積善」を行っています。
A 『宝物集』 国司となった藤原公経が聖人の宿願である仏堂の供養
B 六十六部縁起 前世が六十六部聖であったことを知った源頼朝が法華堂(法華経信仰による仏堂建立
 以前にお話ししたように、六十六部は全国に法華経を奉納する巡礼を行う廻国僧(修験者)でした。つまり、生まれ変わった権力者の行為は、前世の聖と密接に関連しています。衛門三郎の生まれ代わりである河野氏の息子も、熊野権現宮などを創建し、熊野十二社権現を勧請しています。これは衛門三郎やその転生者が熊野信仰と深く関わっていたことを示すと研究者は考えています。

やまだくんのせかい: 江戸門付
             廻国の聖たち
以前に、こうした視点で一遍の熊野信仰の関係を次のようにまとめておきました
 この時期は、高野聖たちも本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏信仰を全国に広めていた時期です。
熊野信仰と阿弥陀念仏信仰の混淆と一遍
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。」
川岡勉氏は、石手寺の堂舎の配置や規模などから、中世において熊野行者たちが大きな勢力を有していたこと、そして近世になると熊野信仰が本来の薬師信を圧倒するようになったと指摘します。石手寺の衛門三郎伝説は、こうした熊野信仰隆盛の中で作り上げられたものと考えられます。そうだとすれば、衛門三郎伝説に八坂寺や阿波の焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられ寺院が、各地にあらわれるのは当然のことです。当時は、熊野行者たちは強いネットワークで結ばれ、活発な活動を展開していたことは、三角寺と新宮村の熊野神社の神仏混淆関係のなかでもお話ししました。

四国巡礼の由緒は衛門三郎伝説
 
以上を整理しておきます。
①もともと衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰由来譚で、弘法大師信仰にもとづくものではなかった。
②中世の四国辺路には熊野信仰や阿弥陀念仏・山岳信仰などさまざまな信仰が流れ込んでいた。
③それが近世の四国遍路は弘法大師信仰一色になる
④その結果、当初は少なかった大師堂が各札所に建立されるなど「大師一幕化」が進む。
⑤弘法大師信仰が高まる中で四国遍路の由緒譚が求められるようになる。
⑥そこで石手寺の熊野信仰受容の由来譚であった衛門三郎伝説が、四国遍路の由来説話に接ぎ木・転用された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 四国巡礼縁起と西国巡礼遍礼縁起 霊場記衛門三郎伝説 四国遍路研究センター公開研究会
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まんのう町立図書館の郷土史講座を年に3回担当しています。今回は増田穣三についてお話しします。

増田穣三公演ポスター2025 10月

興味と時間のある方はご参加下さい。なお会場が狭いので予約をお願いします。
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景山甚右衛門と福沢桃介
景山甚右衛門と福沢桃介
 多度津に設立された讃岐電気株式会社は、社長増田穣三のもとで設備投資を回収するだけの利益が上がらず、経営権が「多度津の七福神」のリーダーである景山甚右衛門に経営権を譲ることになったのは以前にお話ししました。景山甚右衛門は、「電力王」と呼ばれた福沢諭吉の娘婿の福沢桃介を社長に迎えるという形で、経営陣容を整えて祖谷川に水力発電所を作って、これを高圧送電線によって讃岐まで送電するという「水力電気開発事業」を進めることになります。

三繩発電所説明版2
電力王福沢桃介の顕彰に重点が置かれた現在の三繩発電所の説明版
 当時は石炭の値上りで各電力会社共に経営が悪化していました。そのため祖谷川の豊富な水量に目を付けて水力発電への参入を開始します。1909(明治42)年8月30日、徳島県知事に水力利用認可申請を提出し、12月27日に認可を得てると、翌年3月には工事に着工します。このあたりは、多度津の商業資本家たちが景山甚右衛門を中心として多度津銀行を組織し「金融資本」への道を歩み始めていたことが、事業展開を円滑に進められた背景です。三縄発電所の建設は、投資額からしても会社にとっても「大きな挑戦」となるので、これを期に社名を「四国水力電気」と改称しています。

三繩発電所

 三繩発電所は77万円の経費で、2年後の1912(大正元)年10月23日に完成します。
同時に、当時最先端の高圧送電線網も姿を現し、11月10日より香川県に送電されるようになります。三繩発電所の設備は次の通りです。
①高さ13m、長さ7mの堰堤で、祖谷川をせき止め、約1700mの送水トンネル建設
②下流の大水槽に導き入れ、直径2m、長さ50m鉄管四列で水を落とし、
③相交流発電機を回転させ、出力2000キロワットを送電する(後、2400キロワット増設)
三繩発電所2
三繩発電所 (1)
                現在の三繩発電所の廃墟

 ここで産み出された電力は、三好郡内の三繩村・池田町・佐馬地村・辻町・昼間村・足代村・井内谷山村で、主に香川県に供給されていくことは以前にお話ししました。それが可能になる高圧送電線の技術をアメリカから技術輸入しています。これも福沢桃介の送り込んできた技術者集団によるものです。

四水送電線(1925年)
1926年 四国水力電気の送電線網

 続いて、1925年は三繩村大利字路の出合発電所に着工します。  916P
『徳島毎日新聞』(大正14年4月12二日付)は、着工前の状況を次のように記します。
 四國水力電気株式會社の第二發電所(出合発電所)工事 いよいよ起工
前略
落差四百五尺 發電力九千 水路延長祖谷川で四千三百間 松尾川千二百間 殆ど全部隧道工事にて電氣工費を合せば四百萬円の大工事にて三月二十二日準備に着手したる。請負人は福井市の飛島文吉氏にて四國水力電氣会社大利出張所には村井技師金久保土木擔任者外事務員三十名計りにて目下工夫其他人夫等五百名程が入り込み三縄發電所より西祖谷一宇までは電氣線布設の工事中。近日起工式挙行する筈で竣工は来年十月の予定。工夫は少なくとも一千五百名を使用すべく既に数ヶ所に五六間位宛の開坑をなしあり。附近一帯は此の大工事により大いに活気を呈して居る。
祖谷川出合発電所
出合発電所
ここからは出合発電所は、西祖谷山善徳にダムをつくり、この水を一宇の上の貯水タンクに導き入れ、このタンクから約8千mのトンネルを掘って出合の中腹の小タンクに落とし、そこから四本の鉄管で123mの落差を利用して、発電機を廻すものだったことが分かります。大規模な水力発電所で作り出される安価な電力が、四水の競争力となり、他の電力会社との競争に勝ち抜いていく原動力となります。この会社が後の四国電力へと発展していきます。四国電力の百年史を見ると、「祖谷川電力開発」には、多くのページを割いていて、この事業が会社のターニングポイントとなったことを物語らせています。
 しかし、この電力開発事業が地元との紛争を引き起こしていったことについては何も触れていません。
池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」という項目を設けて、三繩村と四国水力電気株式会社(旧讃岐電気株式会社)との間の紛争を記します。ここからは、その紛争を見ていくことにします。
1909(明治42年8月30日)、三繩発電所の着工前に讃岐電気株式会社は三繩村との間に次のような契約書を取り交わしています
①祖谷川上流の木材の流下は隧道内を流すか、入口で適切な方法を設けて木材などの川流しに支障のないようにする。
②三繩村には他村へ供給する定価より減額して供給する。
これ以外にも四水は、相当額の寄付金を口約束で支払うことを申し出ていたようです。こうして両者は円満のもとに工事は着工します。ところが三繩ダムが竣工直前の1912(大正元)年9月に堰堤上部に亀裂が生じ、近くの民家が被害を受け、四水から見舞金が支払われています。この補償額をめぐって両者の関係がギクシャクし始めます。さらに発電所が完成しても事前に結んだ契約書の内容が守られません。材木の川流しのために発電用のトンネル内を流すというのは、どう考えてもできるものではありません。出来上がった材木運搬用の施設も、形ばかりで使えるものではありませんでした。京都の琵琶湖疏水のようにはいかないのです。出来ないことを、四水は約束していたことになります。
 その上に次のような種々の問題が続出します。
①土地買収のトラブル
②開通した祖谷街道の荒廃
③風俗の悪化
地元住民にとっては発電所の建設は何のメリットもなく、犠牲を強いられることばかりでした。
これに対して四水は、三繩村に2200円を寄付を申し入れています。これも事前の口約束よりも、はるかに低額だったようで、村側は受理を保留し受け取りません。
 このような中で1913年9月に、三縄村長に就任した坂本政五郎は、強気の態度で会社と交渉します。これに対して四水は、のらりくらりと要領を得ない対応をとります。村民の怒りは更に高まり、1915(大正4)4年3月18日に村民大会が三縄小学校運動場で開かれます。村民は「四国水力電気株式会社発電所撤廃期成同盟会」を組織し、「発電、送電設備で三縄村にあるものを徹頭徹尾撤廃せしむ」ことを決議します。 その理由として挙げられているのが、次の10項目です。
 一、個人有土地ヲ強制的に安価ニ買収シタル事。
 一、堰堤ノ不完全。
 一、個人(所)有土地ニ損害ヲ与ヘ居ル事。
 一、地方民ニ各種ノ横暴手段ヲナシ居ル事。
 一、上流地ノ水害・山崩壊・保安林・殖産。
 一、魚道ノ件。
 一、地方民俗ヲ悪化シタルコト
 一、負担ノ重課ヲ忍と開盤シタル道路ヲ破壊シタル事。
 一、軌道ノ設備不完全ナル事。
 一、道路変更ノ不備。
(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
 これを受けて村民大会で、次の三項を決議します。
一、四国水力電氣株式会社へ対シノ契約基キ三繩全部電灯ノ供給ヲ要求シ 若しセサル其筋ニ訴訟提起スルコト。
二、同会社ノ事業ニシテ将来物質ノ供給の素ヨリ建築物の貸与人民供給等一切拒絶スル。
三、本村内者ニシテ従来同会社ノ雇人タルモノハ此際解雇ヲ求亦土地建物等ヲ使用セシメアルモノハ解約セシムル(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
意訳変換しておくと
一、四水に対して契約書に基づいて、三繩村全部への電灯点灯のための設備を要求する。もし、それが実現しない場合は裁判所に訴訟すること
二、四水の事業にたいしては、今後は物資・労働力を始め、建築物の貸与などを一切拒絶する
三、三繩村村民で四水に勤めている者に関しては解雇し、借用している土地建物は解約返還すること
これを受けて村長は、村民492名の連判をとり、会社あてに上記内容の「催告状」を内容証明書付で送付しています。これに対して四水は、8月になって次のような返答書が送られてきます。
①全村への電力供給については、県の工事施行認可がないので期日は明言できない。
②電気料割引率は需要の多少によるので、調査の上決定する
村民には誠意ある回答とは受け取れなかったようで、両者の関係はさらに悪化します。これに対して、12月になると徳島県と郡が仲介に入ります。その結果、同意した和解書の内容は次の通りです。

四国水力気株式会社は、6800円を十か年に分割で、毎年680円を三繩村に寄付する。

寄付額が2200円から三倍近くに上がっています。四水からの寄付金で、三繩村は妥協したようです。しかし、三縄村地域への電燈の点火などは未解決のままでした。根本的な解決ではなく、この和解に不満を抱く人達も多かったようです。

大正時代の送電線と鉄塔

 そのような中で第二期工事計画(出合発電所)が出てくると不穏な空気が出てきます。
1923(大正12年8月2日付の『徳島毎日新聞』は次のように報道しています。
四水に対する三縄の不平
四國水電に対する祖谷川筋第二工事損害賠償除外工事につき三好郡三縄村及西祖谷村関係地主に村会より県に対して屡々陳情せし事は既報の通りである。既に一ヶ年を経過するも何ら解決を見ざるは両村会議の不熱心の結果となし村民中は大いに不平をとなえ村当局へ解決を迫るものあり
中略
これに続いて、次のように記します。
①いまだに四水が地元に電灯点灯事業を行わないことに村民の怒りは高まっていること
②これに対して四水が誠意ある態度を見せない
③村民は大きな不満を抱き、今回の第二期工事に対して、会社の対応次第では大反対運動を起こすと息巻く者も多い。

電源開発にともなう地元の犠牲と、それに見合うメリットを補償しない四水の動きが報じられています。これは戦後の国による「地域総合開発」事業のダム建設へと引き継がれていく問題となります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」
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民家検労図の「烟草(たばこ)」
民家検労図の烟草(たばこ)
煙草葉栽培1
煙草畑(阿波池田)
 わが家はもともとは農家で、私の生まれる前は煙草葉を作っていたようです。わが家の主屋の横には使われなくなった煙草の乾燥小屋が倉庫代わりに建っていました。

煙草乾燥小屋(ベーハ小屋)三豊市高瀬町
          煙草の乾燥(ベーハ)小屋 三豊市高瀬町
煙草乾燥小屋(ベーハ小屋)の構造
明治37年頃の煙草乾燥小屋の構造
天井が高くて涼しくて、夏には縁台を出して昼寝をしていたことを覚えています。ソラの集落を原付ツーリングしていると、煙草の乾燥小屋が残されているのに気づきます。それも次第に消えつつあります。煙草小屋が残っていると云うことは、その農家がかつては煙草葉の栽培をしていたことを物語るものです。ソラの集落で煙草葉が、どのように作られていたかに興味があります。そんな中で出会ったのが「池田町史下巻 939P 町民の歴史 箸蔵の煙草農家」です。栽培していた当事者による回想というのは、なかなか出会えません。貴重な資料だと思うので見ていくことにします。
 
私の家では、私の生まれるずっと前から煙草が中心の農家だったんです。
小さいときから煙草摘みや煙草のしは、よくやらされました。兵隊に行くまでは、家族の者と一緒に煙草を作り、大正10年に善通寺へ現役兵として入隊しました。シベリア出兵の留守部隊だったんです。(中略)
 除隊後、戦時体制が厳しくなった昭和18年、大政翼賛議員に推薦されて村政にもかかわりました。それから、終戦後、池田町の合併までずっと村会議員をしました。合併のときは、横野太郎さんが村長で、私が議長でした。 箸蔵村は、小さい村で、中学校建てたり、坪尻の駅をしたりしよるうちに赤字になって弱ったんです。そのうち、国から、町村合併せえといわれ、箸蔵村は指定町村になったんです。赤字も大きいし、合併を議決したんです。
(中略)
煙草作るのには、まず土を作らないけません。     939P

農具 六つ子
六つ子
 六ツゴという孫で(マゴデ)で一ぺん一ぺん返して、土が下へ崩れ落ちるから、また六ッゴでさらい上げるんです。きぶい(傾斜が急な)畑作らんようになったらどんなに良かろうと思うくらい苦労しましたわ。

徳島農業 急傾斜実習
戦前の徳島農業校の急傾斜地実習 
肥草はたくさん刈らなんだら煙草はできんので、鎌で一つひとつ刈りましたわ。草刈りができたのは最近です。刈ったのを乾かしといて、また、運びだす。今開拓しとる付近は共同の草刈り場じゃったが、普通は自分の山を刈ったんです。共同の草を刈るには金がいったんです。刈った肥草は、みそ肥という、みそのような村の肥土に苗は、自分で落葉集めて、角な苗床つくって、一日おきぐらいに水やって、上へふご張って、寒いときにはテント張って養成するんです。苗が大きくなったら、苗床広げて、間隔広げて植えて、葉が七枚ぐらいついたら本甫へ植えるんです。今は、農協が苗を育てて植える前に送ってくれるようになりました。
 
煙草栽培歴
煙草栽培暦
煙草の生育ステージ

前の年の煙草の後へ野菜植えて、10月の末ごろに植えて、その次の年の5月までに麦を刈って、その後へ煙草を植える。麦の間へ植えることもある。麦は青うても刈るんです。植える前に肥料をやって土で隠し、十四、五日して煙草が少し大きくなったら、本中(ほんなか)というて、両方から土盛りして、中の溝へ麦わらでも山肥でも入れて溝が固まらんようにする。これが5月の末ごろです。

 次は、虫の防除です。
今では楽でするが、昔は薬がなくて、山のカワラ樫ちゅう大きな葉のある木を刈ってきて、そこへ竹串を立てたりして方々へ配置するんです。それに虫が晩に入るんですわ。深い玉網みたいなのを用意して、揺すって蛾を取る。それでもわくときは、手で一匹一匹取ったもんです。煙草のニコチンが好きな虫がいるんです。取っても取ってもわいてきて、虫取りに苦労しました。現在でも、最低三回は薬で消毒します。その虫取りがすまんうちに、下から土葉(どば)というあか葉ができて、もう収穫せないかんのです。
煙草 黄色くなったら『収穫時』
黄色くなった葉から収穫
煙草葉 下から生長の順に切り取られる。
                   下から生長の順に切り取られる。
収穫は、土葉から始まって、やがて中葉、本葉と熟れてくるんです。黄色くなった収穫です。
熟れとるかどうかは、葉の様子を見ればわかる。葉がきちんと上を向いている間は熟れてない。熟れれば葉がひねくれてくる。葉がねじれたよなると熟れている。土葉、中葉、本葉といくんですが、最近は、天葉を先に採る。昔は下から上へ順に採りよったが、今では下から採り上から探りして、全部採ってしまう。土葉をかぎ始めるのが7月の20日ごろで、8月下旬には収穫が終わってしまう。一か月の間ですが、暑い盛りの作業ですから、朝、暗がりで起きて、採って帰って、お昼過ぎまで後始末する。それから吊らないかんきん、ようけ採ったら一日かかる。縄に順々にはせていくんです。

IMG_6883煙草の天日干し
たばこ葉の天日干し(まんのう町教育委員会蔵)
黄色葉の共同乾燥 美合
葉煙草の共同乾燥(琴南町誌)
 乾燥させた葉を、今度は一枚一枚のすんです。

煙草葉のし
のしと選別
のした葉をクロ(積み重ねた杉)にして、発酵させ、それをしわいて、また積みなおして充分発酵させる。そして今度は選別する。のすのも一枚一枚、へぐのも一枚一枚です。一貫目の葉が五千枚ぐらいはある。それを手でのして、一枚一枚、また、へぐんです。のすのは、南(南風、空気がしめる)をみて、前がしたらしめるんで、そのときおろして、むしろかぶせておいて、のすんです。本葉になったら水をかけてのす。昔は噴霧器がなかったので、ほうきに水をつけて振ったもんです。
 納付が、また大変でした。                    941P
阿波葉 計量作業
葉煙草の計量出荷
道も、自動車もないときですから、みんなで背負って運ぶんです。煙草(乾燥済み)の反収は、八十貫ぐらいですから二反八畝ぐらい作って、二百五十貫ぐらいの収量がありました。かさ(容量)がありますから、男で一二貫、女で八貫くらいが一回に運べる量です。今は一度に納付していますが、昔は三回に分けて、12月から2月ごろに納付しました。それでも一回の納付に何回も何回も運ばないかなんだ。出しちゅうて、何日も前から出すんです。納付は寒いときで、雪でも降ったら、坂道ですべったりころんだり。それに、渡し場まで行ったら、びゅうびゅう風の吹く所で長いこと待って、そら大変でした。

勝山専売公社への収納
専売公社への収納作業
 それでも、畑の作としては煙草にかなうもんはありません。
今は、苗は農協が作ってくれるし、消毒は薬があるし、のすことはなし、選別も機械にかけて葉が流れとるのをひらうになっとる。五人組で、優等ひらう、一等ひらう、二等ひらう、三等ひらう、四等、五等は下へ流してしまう。一枚一枚へいで選別したことを考えたら、今は楽なもんです。
池田町史の回想録の中には、戦後混乱期の煙草の闇売りについて語られたものがあります。
次の「煙草葉の闇市場(抜け荷)」は、公的な記録には触れられませんで、これも貴重な記録だと思います。

戦地から帰ってから煙草を中心に農業したんです。       1157P
反別は少なかったんですが、煙草耕作組合の千足(せんぞく)山貝の総代をおおせつかりました。煙草耕作組合の下に各部落の総代があり、総代の下に五人組がありました。総代の役目は、煙草を作る申請や納付の世話です。専売所から組合へ来た連絡事項は、総代が五人組の組長に知らせるのです。煙草の闇は、お互いにせられんことを隠れてするんじゃから、「せえ、すな」(しなさい、するな)ですわ。戦後直後は煙草があったら、何でも必需品が交換できた。金で買えんものでも手に入った。たばこの抜け荷は、どこの家でも程度の差はあってもみんなしょったが、総代の私はできなかった。

たばこの苗床(昭和55年頃)(下柏崎 小堀政六提供
煙草の苗床
煙草専売公社は農民達を耕作組合を通じて、指導・管理を行っています。
種子の採収から苗床の作り方から、肥培管理、収穫、乾燥と調理の全過程について細かく規定がつくられていました。また明治38年の専売所の指導は次の通りです。
①「苗床作りについて」(2月17日)
②「植付けについて」(5月29日)煙草収納所から講師がきて役場二階で講演。
③5月24日苗床検査
④6月19日植付け検査
⑤8月18日第1回葉数検査
⑥8月28日第2回葉数検査
⑦9月7 日第3回葉数検査
ここからは、収穫直前まで指導員が派遣された、様々な検査が行われていたことが分かります。耕作反別は耕作者の許可申請をうけて専売支局から大字毎に配当されました。専売公社の指導に従わない農家には申請した面積が認められないなどの「選別化」が行われていたようです。
たばこ栽培の許可書
専売公社が発行した煙草耕作認可証(明治38年)

 専売所の検査は、「植付検査」、成長したときは「量目査定」があり、総代立会いで査定をしたもんです。横流しが多くなったから、今度は「葉敬査定」になった。葉のつき方が八枚とか十六枚とか査定して、全部で何万何千枚と決められる。作る者もへらこいから、ええ所抜いて、ワキ芽を伸ばしてそれを収穫した。それも見つかればやられる。本木延長といって普通は、ワキ芽の出たやつは全部とらないかんのです。特別にできの悪い、黒い煙草ができたような場合には、本木延長も認められているんですが、かくれて葉数を増すために、もう一べん芯を止めるんです。そのワキ芽を乾して三枚なり五枚なりをよけ取るわけです。
 あんまり葉数が足らなんだら理由書がいる。理由書は、闇に流したと言えんから、虫が食うてのせんとか、雨風におうて腐ったとか言うのです。廃楽処分は収納所へ持って行ってせよということになっていたんです。収納の金額は一貫二千円くらいで、闇が五千円くらいでした。
 (抜け荷)煙草の運び出しには苦労したらしいです。立番をして晩に山越しで負うて運び出すわけです。昼間でも、いろんなもんに包んで車に載せて出るのもあるし、山越しに歩いて出したらしいです。祖谷の方からは、相当負い出したらしいです。闇の全盛は三、四年だったでしょうか。当時大分金もうけた人もありました。

 そのころの煙草作りは、一反作るのに百二十工ぐらいかかりました。今は、その半分の六十工ぐらいですみます。特に煙草のしは、雨降りとか、外の仕事のできんとき、ほとんど夜業で老人や子供も動員したんで、子供は勉強どころではなかった。何組のしたら幾らやろうということで、子供
にもどうせ小遣いやらないかんしな。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻 939P 町民の歴史 箸蔵の煙草農家
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筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門附近を下る筏
  前回は、吉野川上流の材木が白地周辺の「管(くだ)流し」職人によって、徳島に流送されていたことを見ました。しかし、これは明治になって以後のことで、阿波藩は19世紀になると「管流し」や筏流しを原則禁止としていたようです。その辺りの事情を今回は見ていくことにします。テキストは「池田町史上巻504P 土佐流材」です。
 中世後半には吉野川は木材流しに利用されたと私は考えています。阿波藩時代の初期には、文書で木材流し行われていたことが次の文書から分かります。
今度祖谷御村木筏之御下シ被成候ニ付□
いかたのり(筏乗り)拾人仰付二付其□
いかたのり無御座候所我等共方へ御屋
右拾人之いかたのり我等共方今頤より□
此ちん銀之儀百五拾目ニ相定外二後□
御公儀樣より御下侯舍右銀之内七□
只今湖取申侯 残る八拾目御公儀□
被下候筈若御公樣八抬め(目)□
ハ百姓方より百五拾目之通可被仰
加様ニ相定拾人分請取申上候此儀ニ付
六ヶ敷儀出来侯共我等共罷出御断申
□毛頭六ヶ敷儀かけ申間敷候為□□
書付取遣加件
延宝二(1674)年六月廿六日                            太刀野村弥六 同村宅□

花還村庄屋半兵衛殿 
同村五人案百姓方へ
(三野町長谷均所蔵)
 この文書は下部が欠落しているので、不備な点もありますが、次のような情報が読み取れます。
①阿波藩が祖谷御木材を筏にして流すことになり、筏乗りの人数を各村に割当てたこと。
②花還村(現・三野町花園)に割り当てられた十人が用意できないので、代わって太刀野村の弥六などが引き受けたこと
③その際の賃金についての花還村との契約書であること
ここからは阿波藩が祖谷山の木材を筏流しによって、下流に運んでいたいたことや、筏流しの専門的な職人がいたことがうかがえます。
 江戸前半期の木材輸送は、土佐の業者が吉野川上流で木材を伐り出し、川岸に積み、洪水のとき吉野川に放流して下流で拾い集めるという少々荒っぽい方法でした。これは陸送に比べて輸送費がほとんどかからず、木材業者にとっては魅力的な輸送方法でした。しかし、弊害が出てきます。新田開発が進み吉野川流域に耕地が拡大します。そうすると洪水と共に流れてくる流木が、堤防を壊し、田畑や家屋に大きな被害を与えるようになります。特に、天明の大洪水のときは流材による被害が大きかったようです。そのため天明8(1788)年に、西林村の農民達から木材の川流し禁止が次のように申請されています。
『阿波藩民政資料』
阿波郡西林村 土州材木之義に付彼是迷惑之后願出候に付去る正月別紙添書を以各様迄被出候處共儘打過恢付狗亦其後も願出候1付追願紙面添書を以申出侯共節坂野惣左衛門台所へ罷出居申候 付右願迷惑之義に候得は土州御役所懸合侯得は可然を惣左衛門へ被仰聞惣左衛門より委曲承知仕候に付右迄紙面添書之共節伏屋岡三郎指引有之由御座候然所此節尚又別紙之通願出候土州村木に付村方迷惑有之候へは不相當義に候得は何卒急々御設談被遣度此上相延候は興惑可仕候て先而願書宮岡相指上申候                                          以上
天明八年 正月                                         江口仁左衛門
片山猪又樣 
内海一右衛門様
右之通
御城に而片山猪又殿懸合侯處被申出段致承知候併土州材木台件之儀は御断被仰義に候然此度差下之村木之義は残材木に候最早切に而後に無之后被申聞侯事
二月三日
ここには前段で、木材流し禁止を願い出たが御返事がいただけないので、早急に結論を出してもらいたいという再度の願いたてが記されています。後段は役所からの返書で、現在行われている木材流しが終了すれば、禁止すると記されています。

こうして天明8年以後は、吉野川の材木流しは「原則禁止」となります。
寛政年間に禁裏修築用木材の吉野川流送の申出がありましたが、阿波藩では実状を訴えてこれを断っています。さらに享和年間には、取締りを強化するために吉野川流木方を新設しています。吉野川の上流三名村から山城谷までを三名士、池田村から毛田村までは池田士に取締りを命じ、洪水時の祖谷分は喜多源内、徳善孫三郎、有瀬宇右衛門にも応援させ、川沿の庄屋五人組にも流木方の指揮に従い油断なく取り締ることを命じています。
 「取り締まり強化=犯罪多発」ですから、天明8年の以後も、秘かに木材流送が行われていたことがうかがえます。川岸や谷々に積まれた木村が洪水の度に散乱し、これが吉野川に流れ出て、既成事実としての流送が黙認されていたようです。
 取締りが強化されると、今度は土佐藩からの流送許可を求める運動が繰り返されるようになります。
これは土佐からの交通路にあたる三好郡の組頭庄屋や庄屋を通じて行われます。
A  文化12年(1815) 白地村庄屋三木晋一郎が藩へ報告した文書には、次のような点が指摘されています。
①土佐流材の許可が阿波と土佐の両国に便利・利益をもたらすこと
②阿波藩の流材禁止が撤回されない時には、土佐藩は吉野川上流を堰き止めて流路を替えて土佐湾に流す計画があること、
③そうなると吉野川の水が一尺五寸も減って平田舟の往来にも困るようになること
B 文政5(1822)年には、佐野村組頭庄屋の唐津忠左衛門が「春冬の三か月の平水のときのみにして流してはどうか」という提案を藩に提出しています。これは 土佐の大庄屋高橋小八郎、長瀬唯次の要請を受けて阿波藩に取り次いだものです。その要旨は次の通りです。

「天明のころの大被害は、木材を増水時を見はからって流したので、洪水で決壊した護岸を越えて材木が散乱して起こった。だから①増水の時節は除き、春冬の平水のときに②筏を組んで川下げすればよいのではないか」

これに対して、西山村組頭庄屋の川人政左衛門、他六人の組頭庄屋が連名で、調査結果をもとにして次のように禁止継続を訴え出ています。長くなりますが見ておきましょう。

隣国が仲良くしなければならない事も良くわかり、材木流しが土州阿州の両方に利益があることも良くわかる。それで、郡々の川筋を実際に見分し、村々の趣もよくたしかめ相談してこの訴えを決めた。

材木流しを「二月より山へ入り、五・六月ごろまでに筏流し、六・七月ごろより九月まで谷へ出し、十月より三月まで川下げを許可する」という提案について。

A まず、土佐境か山城谷の川までは約五里、この間は岩石が多く、平水のときは流せないので、ちょうど良い増水を見はからって流すのであろう。ところが天気のことでいつ大水になるかもわからない。そうなると池田でいったん取り上げて置くなどとうていできない。天明年中の災害のときを考えてもはっきりしている。あれは正月下旬のことであったが、阿波部西林村岩津のアバ(網場)が平水から四、五尺の増水で岸が切れ、材木が散乱、村々の堤防へつき当てて破損した。
 川幅広く流れのゆるやかな岩津でもこうであるから、池田あたりではもっとひどい。土佐から川口までは、山間二、三町の谷筋を流れ出るので、洪水時には山の如く波立ち、どんな坑木も役立たず材木が散乱する。特に六、七、八月に谷に材木を置くと、台風などの大雨が降ればどんな方法でも材木を留めて置くことはできない。また、池田村の往還は川縁より四、五尺から三余も高い所にあるが、それでも水が乗る。材木を引き揚げて水の乗らない遠方まで移動させるには費用がかかり過ぎる、いろいろあって、とても材木の川下げを認めることはできない。


B 吉野川は、祖谷山西分、山城谷、川崎、白地、その他から年貢の炭・娯草・椿などの品、徳島や撫養から塩・肥料等を乗せた平田船が多く行き交っている。特に十月から三月は一番多い時期である。材木を流したら池田・川口間の船が通れなくなって、年貢収納にも差支える。天明の洪水では、岩津から川口までの漁船が止って大変難渋したことは老人は皆知っている。

C 先年の増水のときには、村々へ流れ込んだ材木を人村役を雇って川へ出した。この度も賃銀で人夫を召使う予定のようだが、材木を担ぎ出す費用は各村々の負担となる。田畑は崩れ、川に成り(川成)、川除普請もかさむ上に、そのような負担まで課せられたらやっていけない。

D 天明、寛政の洪水では、下流の方でも木材が川の曲った所へ突き当り、岸が崩れるなど至るところで大損害を受けている。(中略、具体的に各所の状況説明)
先年の大災害は天災ではあるが、深山の諸木を伐払い水気(水分)を貯えることができなかったからだと今も言い伝えられている。その後、流木御指留(禁止)によって、近年洪水もおこっていない。私達の相談の結果をさし控えなく申しあげた。
これを受けて阿波藩では材木川下しを禁止し、唐津忠佐衛門からも土州大庄屋へ、徳島藩の流材禁止の方針を伝える文書を送付しています。なお、この文書の中で天明の禁止は、大阪鴻池善右衛門を通じて土佐へ通されたことが分かります。ここからは材木川下し復活運動には、大坂商人が介在していたことが分かります。
このような中で天保9(1838)年、江戸城西ノ丸の用材を吉野川よって搬出したいという申し入れが土佐藩からあります。阿波藩はこれに対しても実状を説明し、幕府の了解のもとで川下しを断って陸送されることになります。またこの時に、土佐藩が本山郷木能津村へ集材し、陸送の予定にしていた材木が、4月25日の大雨で、約800本が吉野川へ流れ込んでしまいます。この時には幕府の水野越前守が仲介し、その処理案を次のように決めています。
①阿戸瀬(山城町鮎戸瀬)まで流れ着いた材木約30本は陸送で土佐境まで運んで土州に引き渡す。
②阿戸瀬より下流に流れ着いた材木は陸送で、撫養まで送り土佐藩の役人へ引き渡す。
 ここからは阿波藩は、下流の村々を護るために土佐材は一本も吉野川を川下しさせないという方針を貫いたことが分かります。江戸城修復のための木材流送を、こうした形で処理した徳島藩は、天保9年11月6日に「吉野川流訓道書」を出します。この中には次のように記されています。

幕府の用材さえ川下しを拒否したのであるから、今後他国の者が過分の御益を申し立てて許可を求めて来ても絶対に相手にしてはいけない。若し背く者は厳しく罰する

こうしてこの流材問題は決着し、明治になるまで禁止されることになります。
以上を整理しておきます。
①中世以来、吉野川は土佐や阿波の木材搬出のために使用されてきた。
②その方法は、筏を組まずに一本一本を増水時に吉野川に流し、河口付近で回収するというものだった。
③そのため輸送コストが格安で、これが畿内での阿波・土佐産の木材の価格競争力となった。
④この木材運送と販売で、財政基盤を整えたのが中世の三好・大西氏、近世の蜂須賀氏であった。
⑤しかし、吉野川流域の新田開発が進むと、洪水時の「管流し」は流域の被害を拡大させた。
⑥そのため19世紀の大災害を契機に高まった農民達の「管流し」廃止運動が高まった。
⑦それを受けて、阿波藩は吉野川の材木流しを廃止し、取り締まりを強化した。
⑧これが復活するのは明治になってからである。
ここで押さえておきたのは、木材流しが禁止されるのは19世紀になってからのことで、それまでは行われていたこと、もうひとつは池田周辺の網場(あば)で筏に組まれるのは、明治になって始まったことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「池田町史(上巻504P) 土佐流材」
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