瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2025年11月

室町時代の国人館や大名館の居館レイアウトは、よく似ています。
飛騨の江馬氏館と、洛中洛外図屏風に描かれた幕府(将軍邸)や細川氏館と比べて見ましょう。

江馬氏下館
飛騨の江馬氏館 下は発掘平面図

飛騨の江馬氏館

ふたつを比べて見ると
A 館の正面に堀(薬研堀)と築地塀を設けて二つの門を開け
B 門を入ると広場と建物群
C 右に大きな園池
これを見ると飛騨の江馬氏は、都の花の御所をモデルにして自分の館を造営したことがうかがえます。 江馬氏は、南北朝初期から室町幕府と密接な関係がありました。飛騨の在地支配を行なう上でも、幕府の権威を目に見える形で表す建造物を目指したのでしょう。鎌倉期に在地性を強めた国人領主たちが、室町時代になると幕府と個別に関係を結びつき、国人領主同士が協働して地域秩序を形成するようになります。そのような中で、将軍家の舘のレイアウトを真似た建物群が地方にも現れるようです。これを研究者は「花の御所体制」と読んでいます。
 応仁の乱後になると守護が戦国大名化するようになります。そして国衆(国人領主)は、その被官となり組織化されるようになります。
 この時期の守護大名も室町幕府のモデルをコピーにしたようで、その構造はよく似ています。

朝倉一乗谷舘復元
 越前の一乗谷 朝倉氏館
大友宗麟武家屋敷
豊後の大友氏館(豊後府内)

今川義元居館
今川義元居館
越前の一乗谷朝倉氏館、豊後の大友氏館(豊後府内)、今川義元居館などの発掘調査で、分かってきたのは
「館の正面に堀(薬研堀)と築地塀を設けて二つの門 + 広場と建物群 + 池のある庭園」の共通点があることです。岐阜城の麓にある織田信長の館でも、大規模な庭園があったことが近年の発掘調査で分かってきました。

岐阜城の信長居館2
岐阜城下の信長舘と庭園
ここでは信長が安土城を築いて、天守に象徴される近世城郭モデルが普及するまでは、室町幕府の「花の御所」モデルが規範となっていたこと、それを真似て戦国大名達は自分の居館を造営したこと押さえておきます。
 戦国期までは、室町幕府に連なることを目に見える形で示すために、京都の将軍と同じような館を築くことが、ステイタスシンボルとして求められたようです。これは、前方後円墳というモニュメントを築くことで、広域的政治連合に加わり、地元での地盤を固めた古代豪族と共通点があるようにも思えてきます。
 次に犬追馬場と儀礼の共通性を見ていくことにします。
犬追物は40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです。つまり、競技場となる「犬の馬場」には、共通の規格性があったことになります。

犬追物 洛中洛外図屏風(歴博甲本)
洛中洛外図屏風歴博甲「本」に描かれた「犬追馬場」

犬追物に熱心だったのが管領の細川政元でした。
彼は15世紀末に、細川一族をまとめて上げて権力を握ります。しかし、天狗になろうとして修験道に凝って奇行が多かったとされます。その細川政元に可愛がられたのが香西又六(元長)です。政元は、犬追物を頻繁に行っていますが、その中心として活躍している元長の姿が、史料から次のように見えて来ます。
1489(長享3)年正月20日 元長の最初の登場記録

 細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

1489年(長享3)年8月12日
蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
(「蔭涼軒日録」同前、3巻470頁)
 都に300人を集めての「犬追物」が行われています。ここからは次のような情報が読み取れます。
①軍事的示威行動でもあり、権力示威イベントでもあったこと
②「香西一党」は、在京武士団の中では最強の軍事集団だったこと
 管領細川政元が越後に下向した際の記録でも、連日のように馬場に出ています。これは政元が熱中していたと云うこともあるでしょうが、別の意味があったことが考えられます。それは犬追物が屋外での接客の場で、中央権力者と地方有力者をつなぐ「名刺交換会」の役割をもっていたことです。
 中央の権威を反映した館(モニュメント)を建造すると同時に、有力国衆は、犬追物を行うための施設・装置も求められていたことになります。また、そこで名を上げるためにも大小の国衆たちは自前のトレーニング場が必要になってきます。犬追物は、縦の武士社会の中で求心力を持つための装置であったと研究者は考えています。

三宅御土居の復元模型
                                                            益田市七尾城 三宅御土居の復元模型
 そのため武士居館の付属施設として犬追物が馬場(犬の馬場)が設置されています。地名から残る犬の馬場の一例を挙げると
①益田氏の七尾城の麓にある小字名「上犬ノ馬場・下犬ノ馬場」
②朝倉氏の越前一乗谷
③大友氏の豊後府内
④六角氏の近江観音寺城
⑤上杉氏の越後府内
など、多くの事例が挙げられます。

佐料城周辺図
例えば香西氏の居館跡とされる佐料城跡の西側にも「馬場の谷」が見えます。ここでも乗馬以外にも、騎射や犬追物のトレーニングが行われると同時に、一族の「犬追物大会」が行われていたことが推測できます。ここでは武家としての儀礼を行なう場として、居館とセットで犬追物の施設が作られていたことを押さえておきます。 
 犬物は、多くの参加者が集う場で、地域の武士を集め、自らの権威を増すための装置として機能もあったはずです。

犬追物屏風3 17世紀
犬追物屏風(右2枚) 17世紀

犬追物屏風2 17世紀
               犬追物屏風(中央) 17世紀
犬追物屏風 17世紀
                犬追物屏風(左2枚) 17世紀
最後に中央の権威を反映した館(モニュメント)と共に、「犬の馬場」は、武士社会の中で求心力を持つための装置であったことを押さえておきます。そこで犬追物が行われる時には、物見高い民衆が集まってきたはずです。犬追物は、地域の一大イヴェントに成長して行きます。武士の居館は、イヴェント会場の施設でもあったことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
小島道裕 儀礼の場としての武士居館
参考文献


香西氏と
香西寺の「天正年間香西氏居城古地図」には、香西氏の勢力下にあった城館が次のように描かれています。
勝賀城周辺の城

隅櫓を溝え土塀を巡らした勝賀城の城郭
東麓に堀を巡らす佐料城
岬状に突出した柴山城
天神川沿いの小山に藤尾城と作山城
内間城(香西氏累世の要城)
北麓庄吉川をのぼって植松城(加藤兵衛)
南方に連らなる袋山の鬼無城(香西兵庫)
これらを見回すと、香西氏の関心が平野部よりも、むしろ海に向かって開かれていたような気がすることは前回お話ししました。今回は、その中から佐料城跡を見ていくことにします。
佐料城は勝賀山築城の時に、山麓の居城として同時期に築かれたと伝えられます。
「詰の城」の勝賀城に対し、佐料城は里城の役割をもっていて、日常の居館の構造形式を備えていたと研究者は考えています。天正3 (1575) 年に、18代佳清が藤尾城を築き、移り住むまで約350年間、香西氏の拠点であったことになります。

佐料城周辺図
香西氏の居館 佐料城跡周辺図

城跡は、鬼無町佐料にあって、旧国道11号線から250ほど西に入った佐料公会堂の北側一帯にあたります。ミカン畑の一角には堀跡が残り、周辺にも城跡の名残りがあります。地形的には、新池に向かって下ってきた尾根が平地に至る尾根先端部にあたります。南北側は緩い谷状で、微高台地の上に位置します。
城の痕跡を地図で見ておきましょう。
1の「城の内」には人家があり、 堀跡を「内堀」と呼ばれます。「内堀」は明治初期の佐料地引図面(高松市役所鬼無出張所蔵)にも記されています。
2の北西隅に「北堀」の屋号を持つ家。
3の北東角は「御屋敷」「せきど」)
4の公会堂横に「城の本家」の屋号の家
8の南東一角には「城の新屋」の屋号の家
5は「城の内」から北へ200mほどのミカン畑の中にある「城の台」
6は、西へ200m の貴船神社で、その北側の谷あいが「馬場の谷」
7は東へ200mの、 国道11号線に接して「東門」の屋号の家
さらに南へ200mの市道交差点が「泉保池」で、城で使用する水がここで確保されたと伝えられます。
以上の古地名や屋号からは、ここに中世の武士居館があったことを示します。

佐料城地籍図
佐料城の縄張復元を見ておきましょう。
香西氏佐料城跡 内堀

①「城の内」 の堀跡は、幅4~5m、長さ約 80mで L字形に折れた形状
②「城の内」周辺の細長い地目と一段低い地形、「北堀」などからもともとは正方形状に囲む形
③「城の内」は65m前後四方の広さ。
④南東隅に「南海通記」の著者・香西成資の父植松吉兵衛時蔭の募碑(慶安 2・1649年)
⑤その近辺に来歴不明の社祠2基

勝賀城 佐料城 黄峰城 十河城 前田城 由佐城 神内城 余湖

以上のような情報から佐料城跡の縄張を研究者は次のように考えています。
①「城の内」は堀を伴う方形館な形状
②主要部の郭と前面の郭、連接した2郭の複郭式館跡、
③2郭を堀が巡っているので、単堀複郭式の縄張形式
城の要 - 岡山県ホームページ


中世前半期の方形館は、約1町の規模が普通です。佐料跡は、それより少し小さく見えますが、南の1郭を加えると120×130 mになるので、見劣りするものではないと研究者は考えています。

飯山国持居館1
中世の武士居館モデル

 単郭方形館から複郭式方形館への推移期は、鎌倉末~室町初頃とされます。この城跡の縄張形式が示す年代もほぼその時期に当てはまります。累代の居館となって何度かの改築、再改築が加えられたのでしょう。
 最後に佐料城跡をもう少し具体的にイメージするために、西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)の中世居館を見ておきましょう。
 
中世武士居館 「西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)
西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)は、東大寺領木本西庄だったところで、弥生時代から江戸時代にかけての遺構や遺物が確認されているようです。1977(昭和52)年の発掘調査によって、鎌倉時代後期から室町時代にかけての住居の遺構が発見さました。約15m×10mと大きい基壇を持つ、堀立柱建物跡が出てきています。 中世にこれだけの規模の建物を造れるのは、武士をおいてほかにいません。これを武士居館と研究者は考えています。周辺には、井戸や馬場、柵・墓などもあります。佐料城跡も、このような武士居館に近かったのではないかと私は考えています。
 戦国大名は山城を居城化することが多いのですが、日常的に暮らす平地に設けられた館の構成は基本的に同じであることが分かって来ました。
勝瑞城館跡
阿波海瑞城復元図
越前の一乗谷朝倉氏館、豊後の大友氏館(豊後府内)、阿波の勝瑞(三好氏館)などで発掘調査で、分かってきたのは池のある庭園を持った共通の構造であることです。岐阜城の麓にある織田信長の館でも、大規模な庭園があったことが近年の発掘調査で分かってきました。ここでは、信長が安土城を築いて、天守に象徴される近世城郭モデルが普及するまでは、「花の御所」モデルの室町幕府の館が規範スタイルであったことを押さえておきます。戦国期までは、幕府に連なること、そして武士の頂点である将軍と同様の館を築くことが、在地領主としてのステイタスシンボルだったようです。そう考えると、国衆レベルの香西氏の佐料城(居館)も西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)と共通するところが多かったと私は考えています。ちなみに「勝賀城調査報告書2022年」には、佐料城以外の周辺城館については次のように記されています。
2.藤尾城跡
 藤尾城跡は、勝賀山東麓に所在する。城跡は標高約20mで、神宮寺山から北東に延びる尾根の先端に位置する。現在は宇佐八幡神社によって改変されており、縄張り等の構造は不明である。 『南海治乱記』には、天正3(1575)年に香西氏が藤尾山にあった八幡宮を遷し、築城したと記されている。発掘調査が行われたが、中世の遺構は検出されておらず、近世~近代の遺構が 確認された(高松市教委編2008)。包含層から中世に遡る丸瓦が出土したが、藤尾城跡と比定できるものではなく、他にも13~14世紀の遺物が包含層から出土していることから、藤尾城築城前後の八幡宮に伴うものである可能性も考えられる。

3.作山城跡  
作山城跡は、勝賀山東麓に所在する。城跡は標高約16mで、薬師山から北東に延びる丘陵 の先端に位置する。現在は開発によって破壊されており、縄張り等の構造は不明である。発掘 調査が行われたが、中世の遺構は検出されておらず、近世~近代の遺構が確認された(高松市 教委編2008)。
4.芝山城跡  
芝山城跡は、勝賀山の北側、標高44mの芝山の山頂部に位置する。山頂部の南端は芝山神 社によって改変されており、中世山城の遺構として可能性があるのは、山頂部中央にある約 30 ×20mの方形状の削平地のみである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
勝賀城跡 1979年 髙松市教育委員会
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HPTIMAGE

勝賀城が国の史跡に登録されました。そのための準備作業として調査報告書が刊行されています。第三巻は総括報告書(考察篇)で、以下のような内容です。

勝賀城調査報告書 目次

ここには香西氏をとりまく情勢だけでなく、讃岐全体を視野に入れた記述がされています。例えば、天霧合戦や元吉合戦などについても、従来の南海通記などの軍記ものに頼らない歴史叙述です。これは20世紀後半から歴史家たちが目指してきた方向です。それが、ある意味で実現しています。讃岐中世史叙述の新たな展開ともいえる出版物だと私は思っています。この調査報告書を読書メモとしてアップしていきます。今回は、香西氏の瀬戸内海へ乗り出していく過程を見ていくことにします。テキストは「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」です。 

ヤマト政権以来の中央政権は、瀬戸内海交通路を押さえることが重要な政治戦略の一つになります
そのためいろいろな対応をとってきました。例えば、ヤマト政権は吉備や讃岐の有力勢力と結びつくことで、瀬戸内海の権益を確保し、それが古代の国家形成につながっていきます。また、平清盛以後も瀬戸内海交易路の確保のために、次のように伊予に拠点を確保しようとしています。

瀬戸内海航路の掌握2

瀬戸内海の有力者を巧みに利用して、瀬戸内海を確保するという政治的戦略を実現していきます。中央政府が備讃瀬戸確保のために利用されたのが香西氏だという見方も出来ます。そういう視点から香西氏の備讃瀬戸進出を見ていくことにします。

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勝賀城周辺4
 勝賀山の北麓に瀬戸内海に面して海浜集落がいくつかありました。これが香西浦です。その中に本津川の下流域の河口を利用する湊が形成されます。兵庫北関入船納帳の讃岐の湊中に「香西」や「幸西」と表記された船が出てきます。この香西浦を支配したのが佐料城を居城としていた香西氏です。香川氏や安富氏のように香西氏も香西浦を拠点として、瀬戸内海に進出することで経済的基盤を固めていきます。
香西氏が海に出ていくきっかけを要約しておくと次のようになります。

香西氏の瀬戸内海進出のきっかけ

①平安時代末期になって国家の支配体制が弛緩し、瀬戸内海で海賊が横行
②海賊追補の下知が出されるも成果は挙がらず
③そこで中央政府は、有力豪族を追補使に任命して、鎮圧をはかりる
④これを契機に平氏は西国へ勢力を伸ばし、瀬戸内海の在地武士と結びつき、政権基盤強化
⑤日宋貿易と瀬戸内海交易で、平清盛は巨大な富を築き、平家全盛へ
⑥平氏を滅ぼした源氏は鎌倉に幕府を開くが、西国に基盤を持たないため、瀬戸内海地域では海賊がまたも横行
⑦鎌倉幕府は西国沿岸の地頭に海賊を召し捕るように命じた。
⑧寛元 4(1246)年 3 月、讃岐国御家人の藤左衛門尉は海賊を搦め捕り六波羅探題へ送った(『吾妻鏡』寛元 4 年 3 月 18 日条)。
⑧の吾妻鏡の記述を『南海通記』(1719年)は、次のようにフォローします。

藤ノ左衛門家資は香西浦宮下に勢揃いし、手島比々より押し出し捕虜百余人を六波羅探題へ送った。その功績により讃岐諸島の警護役に任じられ、直島と塩飽に息子を置いて統治した。これが、直島の高原氏、塩飽の宮本氏の祖と伝える(『南海通記』巻廿一)。

ここでは吾妻鏡に、海賊退治に活躍した藤左衛門尉が、香西家資とされています。そして、香西浦の宮下から船を出して海賊盗伐に出陣したこと、その功績によって「讃岐諸島の警護役」に任命されたとあります。『南海通記』は享保 4(1719)年に香西成資が古老からの聞き書きを基に著した書です。祖先の香西氏の功績を過大評価するなど、史料的に問題があることはこれまでにもお話しした通りです。

讃岐綾氏から羽床氏へ

 吾妻鏡に出てくる「藤左衛門尉」は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の一門のようです。それが香西家資だと云うのです。「古代の讃岐綾氏 → 讃岐藤原氏 → 羽床氏 → 香西氏」という流れを南海通記は強調します。ここでは香西氏が香西浦を拠点にして、備讃瀬戸にでていくのが鎌倉時代の海賊盗伐が契機になったという説を押さえておきます。
それから約200年後のことです。
応永 27(1420) 年に、李氏朝鮮の官人宗希璟が回礼使として日本を訪れます。
その紀行文『老松堂日本行録』に、瀬戸内海の海賊が出てきます。海賊衆は海賊行為を行わない代わりに海上警固と称して、酒肴料・中立料などの名目で警固料をとっていました。宗希璟が京都からの帰途、備前沖を過ぎる時に護送の一員であった謄資職が乗船してきて酒を飲んでいます。これは酒肴料を支払ったことを示すものです。「謄資職=香西資載」のことで、当時の香西浦付近を航行する船の警固衆だったというのです。そうだとすると、香西氏は塩飽・小豆島を含む備讃瀬戸一帯の通航権を握っていたこと、その基地が香西浦にあったことになります。以上を整理しておきます。
①鎌倉期から香西氏は目の前の備讃瀬戸一帯へと勢力を伸ばした
②その拠点となるのが香西浦だった
③香西浦は軍港と商港を兼ね合せた湊で、船が多数係留されていた
④船と水運に関わる人々によって形成された集落が早い段階から香西浦に出現していた。
 ここからは香西氏が、備讃瀬戸一帯に勢力を伸ばし、交易や海上輸送を行う一方で、警固役と称して警固料を徴収するなどして莫大な利益をあげていたことがうかがえます。その拠点となる香西浦にも、多数の軍船や輸送船が停泊していたということになります。
 
   南海通記の「香西氏が塩飽を支配下に置いていた」という説に対する疑問
しかし、史料的には香西氏が塩飽や小豆島を支配下に置いていたと云うことを裏付けることはできません。史料が語るのは次のようなことです。
①管領細川氏は、従来は宇多津と塩飽の管理権を、西讃守護代の香川氏に与えていた。
②文安2年(1445)に、宇多津・塩飽の港湾管理権を、香川氏から安富氏に移管させた。
③文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家へ、兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるようにとの通達が送られている。
④ここからは塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、安富氏の管理下に置かれていたことが分かる。
香西氏が浦代官を派遣し管理権を握っていたのは仁尾なのです。塩飽は安富氏の管理下にあったことは以前にお話ししました。
 以上からは南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということをそのままは信じることはできません。時期を限定しても15世紀後半以後は、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。そして、南海通記は香西氏が仁尾の管理権を持っていたことについては何も触れていません。 

塩飽の支配権推移

   その後の塩飽をめぐる管理権を見ておきましょう。
 香西氏によって管領細川政元が暗殺されます。これによって細川氏内部での抗争が展開し、「永世の錯乱」という大混乱に陥ります。その中で台頭してくるのが周防の大内氏です。永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。大内義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権を握ろうとします。そのために、海賊(海の武士団)村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。
   永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         (細川)高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から能島村上氏へと移ったのです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここでは16世紀初頭には、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させ、塩飽は村上水軍の管理下に置かれたことを抑えておきます。ここでも香西氏による塩飽支配は認められません。
 村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえます。香西氏は、このような中で大伴氏と結び、村上水軍に従う形で瀬戸内海や東アジア交易で富を獲得していたとしておきます。

惣村形成背景

 室町期になると、産業経済の発展に伴い、各地の特産物などの多くの物資が瀬戸内海を利用して輸送されるようになります。香西湊へも周辺地域から物資が集積され、畿内へ輸送されるとともに、各地へと出向きその地の特産物などを輸送する輸送船が活動するようになります。

中世の瀬戸内海交易の持つ重要性が史料として見えるようになったのが『兵庫北関入舩納帳』の発見でした。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
 
『兵庫北関入舩納帳』は、東大寺が摂津国に設置した兵庫北関の通行税徴収台帳です。ここには文安 2(1445) 年 の約 1 年余りの入関船の記録が記されています。この史料の研究が進むにつれて、瀬戸内海の人とモノと富の動きが見えてくるようになりました。例えば讃岐については、西讃守護代を務めた香川氏が多度津を拠点にして、交易活動を行い、大きな富を得ていたこと。それが戦国大名への脱皮の原動力となっていたこと。また東讃守護代の安富氏も宇多津や小豆島などの備讃瀬戸東部の交易を通じて富を得ていたことは以前にお話ししました。つまり、讃岐の有力武士団は、瀬戸内海への進出拠点(湊・浦)を持ち、瀬戸内海や東アジアとの交易活動を通じて富を得ていたことになります。それが武士団成長の原動力でもあったのです。それでは、香西浦はどうだったのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
                兵庫北関入船納帳の讃岐の湊分布図

兵庫北関1
兵庫北関に入港して関税を納めた讃岐船の船籍と、その数が示されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①讃岐からは17の湊の船が入港していたこと。船籍地の数は、播磨国に次いで第 2 位。
②入関回数は合計237 回で、摂津・備前・播磨に次ぎ第 4 位
③香西(幸西)湊の入港数は1年間で6隻、一番多い宇多津船は47隻
それでは、讃岐の船は何を積んでいたのでしょうか?

兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
横欄が讃岐の各湊一覧、縦が積載品目(全30品目)と積載量です。一番多いのは宇多津です。
讃岐船の積載品は 30 品目ですが、積荷の8割が塩です。讃岐船は、「塩船」だったことになります。
左から7番目が香西です。塩がどのように表記されているのかを見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
讃岐船の積荷で一番多いのは・・塩
讃岐の欄の下から2番目に香西湊があります。4回の入港の際の積荷が「詫間2・方本1・小島1(児島)」と見えます。これはすべて塩で、生産地名で呼ばれています。これを「地名指示商品」と呼ぶようです。他の船の積荷の「地名指示商品」を見ると、詫間・方本が当時の塩の主要生産地だったことが分かります。讃岐各地の船が、詫間や方本に出向いて塩を積んで畿内に輸送しています。面白いのは香西船は備讃瀬戸対岸の小島(備前児島)で生産された塩も運んでいることです。香西氏をつうじての関係があったことがうかがえます。船乗りたちにとって、海は隔てるものではなく、船で結びつけるものだったのです。
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載量も記されています。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表
兵庫北関入船納帳 船籍地別の入港船規模一覧
ここからは次のような情報が読み取れます。
①300石以上の大型船は、30隻で全体数の1/8。
②大型船は塩飽・嶋(小豆島)・方本などに多く、塩専用船であった。
③100石以下の小型船は、137隻で、過半数を占める。
④香西には、50石未満1隻、100石未満4隻、300石以上1隻の6隻が入港している。

香西船だけを取り出して、入港日と積荷を見てみましょう。
兵庫北関入船納帳
 5月15日の便は、タクマ350石とあります。これは詫間産の塩350石を運んだということです。研究者が注目するのが、米に混じって「赤米」とあることです。『入舩納帳』全体で赤米輸送は 10 船で、そのうちの77 船が讃岐船です。これは赤米が讃岐の特産物であったことを示すと研究者は考えています。赤米はは西讃地方に多かったようですが、高松周辺では香西船だけが輸送しています。このことから香西周辺で赤米が栽培されていたことがうかがえます。赤米は貧弱な土地でも栽培できます。また、米の輸送量からみると、香西では稲作が盛んに行われていたとは考えにくく、香西周辺は決して豊かな穀倉地帯ではなかったことがうかがえます。

DSC03842兵庫入船の港
    「兵庫北関入船納帳」記載の船の動き 香西湊がひとつの拠点となって機能している

赤米など本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出されたとしておきます。このように『入舩納帳』からは、15世紀半ばの香西浦が讃岐の湊の一つとして機能していたことが分かります。

問丸から問屋へ2

 次に讃岐の各湊の問丸を見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
下から6番目が香西湊で、問丸は「道観」とあります。「道観」の名前は志度にも見えます。更に一族と考える道祐・道念などの名があります。彼らはあるときには競合しながらも、ネットワークを結んで、情報を共有しながら交易活動を展開していたことが考えられます。瀬戸内海交易ネットワークの一端に香西湊もあったことを押さえておきます。

 それでは香西浦の湊は、どこにあったのでしょうか?
  幕末の讃岐国名勝図会の香西浦を見てみましょう。

香西浦 2

①勝賀山の裾野に寺社が東西に建ち並んでいます。
②中央の小高い岡の上に藤尾八幡が鎮座し、中宮寺などが囲んでいます。ここが藤目城跡です。
③手前に愛染川が流れ、髙松街道にかかる橋の北側から広くなります。
④ここには多くの船や、川をさかのぼって行く川船が描かれています。
⑤ここが香西浦で、加茂明神が鎮座しています。

2香西合戦図2b
香西浦周辺

明治期の「笠居村之内字香西地引図面」を見ておきましょう。
香西氏 藤尾城と湊

①「舩入川」とあるのが愛染(あいぜん)川。船が入ってきていたことが分かる。
②舩入川の岸に沿って家屋が並んでいる。
③湊から町中への通路は迷路化していて、袋小路・かぎ形の様相を呈している。
④江戸時代には、漁業基地として多数の漁民が集住していた。
⑤「香西の町はむきむき」と称されるように、多数の民家が勝手な方向を向いて立ち並んで繁栄していた。
⑥平時は漁業に従事していたが、参勤交代の際には臨時御用として水主役が課せられた。

以上から、「愛染川=舟入川」で河口部に舟入があり、漁民たちなどが密集した集落を形成していたようです。現在の香西港も愛染川の河口部にあって、いまもそこには多くの漁船の船溜まりがあります。以上の史料から、愛染川の河口に湊があって、香西氏はこの湊を水運・水軍の拠点として、備讃瀬戸へ勢力を伸ばしたとしておきます。
 また藤尾城は、天正3(1575) 年に築城されたといわれています。湊は城のすぐ北に位置するので、藤尾城の築城は湊と連携する地を選んだことがうかがえます。

最後に当時の香西浦の地形復元を見ておきましょう。

北山氏は、地形図や現地踏査を行って中世の香西浦を次のように復元しています(北山 2009年)。

香西氏 藤尾城と湊2

本津川の河口に東西に伸びる砂堆があり、その内側に港湾機能をもつ入江があった姿で復元されています。しかし、これについては次のような異議が出されています。
①精密地図で見ると、北山氏が砂堆とする場所は微高地にはなっていない
②髙松平野の扇状地形成過程からみても本津川が運んだ堆積物によって香西浦は陸地化していて、砂堆があったとは考えにくい
③北山氏が入江とした部分からは、中世の遺構が出土している
そして、次のような復元図を示しています。
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香西浦の海岸線復元図(黒太実線)
 これだと愛染川に河口にあって、すぐ海に出られたことになります。本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出すには最適な場所だったようです。

以上を整理して起きます。
①佐料城を拠点としていた香西氏は、香西浦を勢力下に置いて備讃瀬戸への進出を計った。
②それは海賊盗伐や瀬戸内海航路の安全確保など中央政府の意向に沿うものでもであった。
③香西氏は、塩飽や小豆島を権益下を置くことによって備讃瀬戸警護の役割を担った。
④兵庫北関入船納帳には、香西浦が瀬戸内海交易ネットワークのひとつの拠点として機能していたことを示す。
⑤瀬戸内海交易や情報は、香西氏に経済的利益をもたらし、これが京都で活躍する財政基盤となった。
⑥香西湊は愛染川河口にあり、後にはその近くにあらたな拠点である藤尾城を築城した。
⑦これは瀬戸内海交易への積極的な進出を示すものと考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」
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本日の授業

中寺と大川山に登って、上のような「授業」を行いました。その5時間目を報告します。
中寺展望台で昼食後に、大川山へ向かいます。

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大川神社前の紅葉(11月16日)
モミジとイチョウが紅葉で迎えてくれました。真っ青な秋のソラが赤や黄色を際立たせます。参加者からの歓声の声が上がります。まさに天からのプレゼントです。

大山神社1
大川山頂上の大川神社
大川神社の鳥居の前で、大川神社のお話しをします。まず、現在の大川神社が、どのように語られているのかを説明版で確認します。

大山神社2 2025 11月11日
大川神社の由来
 この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀で出てくる神々と、その神話だけが書かれています。これでは、中世や近世の大川山については何も知ることが出来ません。古代の大川山は、霊山として人々の信仰を集めていたことは、1時間目にお話ししました。その信仰を担ったのは密教系の修験者で、霊山大川山の遙拝所として登場したのが中寺でした。つまり、明治以前には大川山は修験者(山伏)たちの管理下に置かれていたのです。それでは、江戸時代には大川山は、どのように紹介されていたのでしょうか。

讃岐国地図 大川山権現
大川山権現 讃岐国図(髙松藩が幕府に提出した絵図)
讃岐国図には、独立峰であることを強調する姿で「大川山権現」と表記されています。「権現」は、修験者たちによって開山され、そこに彼らの信仰する神や仏が祀られた霊山であったことを表します。ここからは、大川山が修験者の山として認識されていたことが分かります。ちなみに、西側の「篠田尾」は1時間目にお話しした「笹ケ田尾(タオ=鞍部)」のことです。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。

①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。
④かつては
天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が寄進した鉦鼓

 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。
⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと

これくらいの予備知識をもって、山伏たちの痕跡を探しにいくことにします。
大山神社神域
大川神社の宗教施設
まずは、拝殿の裏側の①本殿を直接に参拝させていただきます。

大山神社 本殿 2025年
大川神社の本殿
本殿は近年に改修され、覆屋ができて直接に見ることは出来なくなりました。以前の写真がこれです。

大川神社 本殿東側面

この本殿が先ほど見たように髙松藩の歴代藩主によって改修が行われたものになるようです。それでは、この本殿は、いつころ建てられたものなのでしょうか?。本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立と、同時期に建立されたものと研究者は考えています。

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど説明版で見たように、現在祀られているのは上表下側の神々です。しかし、明治以前には大川山権現とされていました。権現と名が付く山々では、石鎚山などのように蔵王権現と役行者が祀られていました。
権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大山大権現の別当寺・新宮寺の役割を果たしたのが中寺廃寺でした。中世になって中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖としていた役業者や蔵王権現がもっとも相応しいことになります。 

石鎚 蔵王権現
石鎚山山頂に運び上げられる蔵王権現

高越山 役行者
阿波 高越山の役行者

修験道の成立と蔵王権現の登場

 明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように大川山からも権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っていることを押さえておきます。
 次に見ておきたいのが本殿の後側の石垣と玉垣で高く築かれた神域です。

大川神社3
            緑の屋根が本殿の覆屋 その手前のふたつの燈籠が並ぶ所
高い石垣を組んだ方形の区画があります。正面に立ってみます。
大川神社 松平家御廟
髙松松平藩の霊廟
階段がないので上れません。登れない聖域なのです。先ほど見たように本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたことが考えられます。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大川山権現のランクを高める物になったでしょう。
 次に見ておきたいのは、神域の西北隅にある小さな神社です。

大川神社 秋葉神社2
           大山神社の神域の玉垣(明治28年 日清戦争の戦勝記念?)
玉垣の北西隅に鳥居があります。

大山神社 秋葉神社3
鳥居には秋葉神社とあります。
秋葉大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神です。もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
 秋葉大権現の三代誓願は次の通りでした。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
秋葉大権現
 その姿は飯縄権現や愛宕権現と同じように白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿で描かれました。飛行自在の神通力を持ち、観音菩薩の化身(本地仏)ともされます。ここからは天狗信仰の修験者に担われて秋葉大権現が大川山に勧進されたことがうかがえます。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。 しかし、この秋葉神社が鎮座する位置は微妙です。

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大川神社神域の外に鎮座する秋葉神社
横から見ると、鳥居は神域の玉垣の内側ですが、社殿は石垣の外側に鎮座しています。これをどう考えればいいのでしょうか? 大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したのなら内側にあるのが当然です。しかし、どうみても玉垣の外にあります。

P1290009
              大川神社の玉垣の外に鎮座する秋葉神社
 もともとは神域の中にあったのが明治維新に「秋葉大権現」なので「秋葉神社」と改名し、その後に神域の外に追いやられたことが考えられます。その時期は、玉垣が整備された日清戦争後のことでしょう。しかし、もともとの信者たちの抵抗で、鳥居と入口は神域内に残されたのではないかと私は推察しています。そうだとすれば大川山周辺には、秋葉大権現を信仰する人達が数多くいて、講組織を作っていたことがうかがえます。その背景として考えられるのが、ソラ(山間部)の焼畑です。焼畑では、火を使います。火をコントロールし、最後にはきちんと鎮火させることが大切です。その火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。ここでは火を扱う焼畑の神様として、ソラの集落の人々の信仰を集めていたとしておきます。これも山伏たちの残した痕跡です。

神輿蔵の裏側に、ふたつの石造物が残されています。

 大川神社 魔除寺蔵と不動明王
            大山神社神域の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
 左が魔除け寺蔵です。地蔵信仰は、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。これを広めたのも廻国の修験者や高野の聖であったとされます。右は不動明王のようです。

P1290012
                大山神社の不動明王
不動明王は修験者が守護神として大切にした明王です。小さな不動明王像を持ち歩き、行場に入るときには安置して外敵や己の弱い心を打ち砕いたとされます。大山神社に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。
 
大川神社 龍王社
大川神社の龍王堂
本殿の東側に、東面して建っているのが龍王堂です。
どうしてここに龍王堂があるのでしょうか。それは龍王が雨を降らせる神様とされたからです。空海祈雨伝承では京都の神仙苑の池で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされてきました。これが近世になって讃岐にも拡がるようになります。そうすると、雨乞いが行われる山には、修験者たちによって龍王神が祀られるようになります。こうして大川山も雨乞いの霊山として信仰を集めるようになります。もともとは山頂に小さな池があったというのも、そこが善女龍王の住処であったことを暗示しています。ここに龍王神が祀られているのは納得できます。それを主導したのも、芸能伝達者としての修験者たちであったと研究者は考えています。彼らが、近世後半になると風流踊りを雨乞踊りにアレンジしていきます。これは滝宮念仏踊りや、佐文綾子踊りと同じ流れです。その背後には、修験者の姿が見え隠れします。
以上見てきた大川神社の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの施設は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。それではこの聖域が作られてのは、いつなのでしょうか。玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備されたことが分かります。現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。
 
中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺の遙拝殿跡から望む霊山・大川山
最後に中寺が衰退した後の大川山権現が歩んだ道程について考えておきます。
古代国家によって建立された山林寺院は、中世になって国衙の保護を失うと急速に衰退します。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。中寺に替わる勢力が、大川山を行場として活動するようにます。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説として最後にお話ししておきます。
  五流修験は、紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて分社したのが五流です。そのため「新熊野」とも呼ばれます。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとって泣き所は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領の児島に分社されたので高い山(霊山)がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚・大三島・宮島などです。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍の船に乗り込み、瀬戸内海や九州にも布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の丸亀平野にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは土器川・金倉川沿いにまんのう町にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡を地名で見たのが次の表です。

霊山大川山と五流修験

大川山の北側の麓には「吉野」、南側に勝浦の集落があります。吉野修験のコリトリ場として天川(てんかわ)が有名です。これは造田に天川神社としてあります。ここで身を清めて大川山に参拝したのでしょう。これらは熊野や吉野にある地名です。また、山伏たちが開いた坊集落が炭所の金剛院です。中寺が中世に衰退した後は、五流修験のネットワークの中に大山大権現は組み込まれていたと私は考えています。
本日の授業

 以上で、本日の授業を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社の玉垣と紅葉(2025年11月11日)
参考文献
 大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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本日の授業

ハイキングで中寺の遺構をめぐっています。前回は展望台と、B(祈りゾーン)で「授業」を行いました。今日は3限目をA(仏ゾーン)で行います。

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の3つのゾーン
Aゾーンの遺跡は、旧郡境尾根の東側のテラスに点在します。このあたりが前々回に見た江戸時代末の絵図には、「中寺」と表記されていた所になります。ここには、次のように本堂と仏塔があったとされます。
「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔

中寺廃寺 A(祈り)ゾーンの復元図
仏塔跡で3限目の「授業」を始めます。

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3時間目 中寺廃寺A(仏ゾーン)の塔跡にて
塔跡の発掘時野の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
 中寺廃寺A(仏ゾーン) 塔跡の発掘時写真
正方形に礎石が並んでいます。4つの礎石なので三間×三間の正方形です。真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。そして、この心礎から出てきたのが、次の土器です。

中寺廃寺 心礎地鎮用2
中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器

中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
①地鎮祭用に埋められたもので、10世紀前半のもの。
②製作場所は、綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯。
③特徴しては、赤みが強いこと
②からは、地鎮祭用に作られたとすると、この塔が作られたのも10世紀前半のことになります。時期的には、国司としてやって来ていた菅原道真が帰った後のことです。③からは、このような赤みを出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの手の込んだ仕上げが必要になるようです。どうやら、この壺も国衙の発注で焼かせた可能性が高いようです。そうすると、ここにも讃岐国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたと研究者は考えています。

次に仏塔の上の仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。
中寺廃寺 A遺構仏塔2
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡

最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。
礎石の数から大きさは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)です。いまから見ると非常に小さい本堂になります。小さなお堂のようです。ここからは、10~11世紀の遺物が出土しています。さきほど見た塔と同じ時期に建てられたようです。
①平面図を見ると本堂と塔は、両方とも真南を向いています。
②本堂は小さく、その中で儀式を行う事はできません。
③そこで考えられたのが本堂前に広場をつくり、野外で儀式を行うこうことです。
④全国の類例を探すと、古代の山林寺院には、この規模の本堂があるようです。
⑤山林寺院として出発した屋島寺の創建時も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、これが古代の山林寺院の姿だったようです。
⑥そして伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺様式だと研究者は考えています。
中寺廃寺 A 本堂から塔跡
中寺廃寺 A(仏)ゾーン 本堂跡から見る仏塔跡中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図

以上の情報をまとめて、推察します。
中寺廃寺への国衙の関与2
中寺廃寺の出土品が物語る国衙の関与

A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式でした。また、心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。つまり、地鎮用の須恵器は、国衙がこの寺のために作らせた特注品です。
以上から、中寺建立には国衙や国分寺の力が働いていたことがここからも裏付けられます。しかし、このAゾーンの仏教施設が登場するのは、Bゾーン(遙拝所)の割拝殿より半世紀後のことになります。歴史的に云うと、山林修行者が活動していた霊場に、国衙が仏施設を後からプレゼントしたとも考えられる関係になります。言い方を換えるなら、霊場大川山の遙拝所に、仏教施設が国衙によって接ぎ木されたとも云えます。このあたりの関係が面白い所です。

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礎石に座って一休み 仏塔跡にて 当時は前の木々も切り払われ、大川山が目の前の見えたはず・・

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間です。これが菜園だというのです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図 上のテラスには菜園があった?

発掘以前には、仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくるのでは期待していたそうです。しかし、出てくるのは、直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。しかし、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシや鹿の対策に柵が必要だったことが分かります。中寺でも生活のために野菜などが、日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。

 それでは午前中のまとめに入ります。パンフレットの表紙をもう一度見てください。

中寺廃寺と空海

ここには、いままで見てきた建物などの出現期が表にまとめられています。中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末でした。また、ここから発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年で、空海の20歳台のことです。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身は太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この間に中寺を訪れていたことは十分考えられます。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説
 もうひとつのチャンスは、821年の満濃池改修工事の時です。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海による満濃池修復想像図(大林組) ①が、護摩祈祷を行う空海
この時に空海は讃岐に帰ってきたと伝えられます。後の史料には工事成就と安全祈願のために護摩壇岩で護摩を焚いて祈祷を行ったと記します。その時に、どんな神様に祈願したのでしょうか。先ほど見たように、満濃池の正面に見えるのが大川山です。
満濃池と大川山2
満濃池から見上げる大川山
空海は、大川山に向かって祈ったと私は思います。当然、祈祷の前には中寺に参籠し、大川山に行道していたことが考えられます。満濃池修復の際に、空海は大川山に向かって祈願した可能性はあります。

これで3限目は終わりです。
予定していた4限目のC(願い)ゾーンについては、時間がないので現場には行かずに「リモート」で、次のようなお話しをしました。
パンフレットの地図を見てください。
中寺廃寺 3つのゾーン2

A・Bゾーンから谷を隔てて、向かいに河原場があります。そこにあるのがいくつもの石積み(塔)です。
中寺廃寺Cゾーン 石組み

この石組は、平安時代にさかのぼるものであることが分かりました。平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。河原に石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為(=供養・願掛け)の一つとされました。人々が霊山である大川山への参拝の時に、ここを訪れ、石を積んで石塔を作り、祈った場所と研究者は考えています。
 平安時代に丸亀平野に棲むの人たちは、春にはその年の豊作を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などに、霊山である大川山に参拝にやって来ました。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願にやってきた人達が、参拝道の周辺にある河原を訪れて、願いや供養を込めて石を積んだというのです。それが1200年前のままで残っています。平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所と云えるかもしれません。
 このような平安時代に庶民が積んだ石塔が見つかるのは、ここが初めてでした。ふつうは後世の人達によって石が転用されたり、破壊されることが多いのです。それがここには残っています。忘れ去られた場所だったから、そのままの姿で残ったと云えるのかもしれません。
   Cゾーン「石塔」は、大川山や中寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったとしておきます。これで午前のお話しを終わります。午後は、大川山でお待ちしています。

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中寺廃寺から旧郡境尾根を笹ケ田尾へ向かう
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追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

中寺・大川山でお話しした時間割です。

本日の授業


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中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。

山林寺院の役割

 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。

富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。
③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。 
 若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。

空海が行っていた修行

①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。

誓願捨身2 高野空海行状図画
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。

山林寺院出現の背景

それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
 ③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
 これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。

中寺廃寺 3つのゾーン2


上地図で現在地点の展望台を確認してください。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
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           Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山

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見上げると大川山
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2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。
石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。
 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

三鈷杵と柵状の破片

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

飛行三鈷杵との比較

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊

ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。

割拝殿とは・・
Bゾーンの割拝殿
ここから霊山大川山を仰ぎ見て祈りを捧げる拝殿ということになります。

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そして、中央に通路があって分かれているので「割拝殿」と呼ばれます。

そして、割拝殿の下の斜面を平らにして造られた僧坊跡を見ます。

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2限目 中寺廃寺 Bゾーンの僧坊跡にて
ここからは柱穴から変わった瓶が出てきました。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
いくつもの口があります。これは日常生活に使われるものではなく、仏事に使われたものです。これを復元すると下のようになります。

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶
現在の考古学では、土器編年体表が整備され、いつどこで作成されたかが専門家には分かります。
多口瓶(屋島寺・法勲寺)
中寺周辺の寺院から出てきた多口瓶の類例

この多口瓶が物語ることを整理しておきます。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと
②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること
③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。
④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと
⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと

最後に1・2限目のまとめを行っておきます

割拝殿 祈りの場

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


HPTIMAGE

中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
⑨9世紀半ばになって、讃岐国衙や国分寺の保護を受けてAゾーンの仏教施設が現れる。

ここからは、中寺で活動をはじめたのは山林修行者であったこと、その信仰の中心はBゾーンであったことが分かります。佛教的要素は、それに遅れて入ってきたことになります。また、若き空海が中寺で修行を行った可能性が生まれてきます。

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2限目終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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 11月16日(日)の勤労者山岳連盟のハイキングに招かれて、中寺と大川山でお話しすることになりました。本隊は江畑から登りますが、体力に自信のない私は笹の田尾(峠)の駐車場まで車で登ります。そこから車道を歩いて下って、中寺展望台で合流するという流れです。その模様をアップしておきます。
中寺廃寺 アクセス

中寺・大川山マップ
中寺・大川寺ハイキングマップ(まんのう町教育委員会) 各登山口に置いてあります。

 登山口の中通の野口から車で40程度で大川山への分岐を越えて、阿波大平の県境稜線尾根に出ました。ここではもう落ち葉が車道を埋めています。

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大川山西側の大平の県境尾根
このあたりのことについては、江戸時代末に高松藩主が鷹狩りと称して、大川山周辺の阿波との国境視察をおこなった時の模様が造田村庄屋の西村文書に記されています。そのルートは、次の通りです。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
この絵図からは次のようなことが分かります。
①大山社の西側の尾根筋には鳥居があったこと。
②この鳥居ルートが江畑・塩入や阿波の大平からの参道になっていたこと
③絵図の右端(西側)の尾根の分岐が「笹ケ多尾(タオ=峠)」と呼ばれていたこと
④「笹が多尾」から北西に伸びる尾根が中寺へのルートであったこと。
⑤大川山と笹が多尾を結ぶ県境尾根の北側は「新御林」とあって新たに藩の管理する山林に指定されたこと
この辺りの山林は髙松藩の藩有林で、それが明治維新に国有化され、一部は個人や各村に払い下げられたようです。
 大平への車道を一旦下って、分岐を笹ケ多尾へと登っていきます。高原キャベツ畑の奥の稜線上に中寺駐車場があります。

中寺廃寺 駐車場
笹ケ多尾の中寺駐車場

ここからの車道は一般車は通行できません。急勾配なコンクリート道を下って行きます。

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。先ほどの絵図と同じように、殿様の国境視察時に時に、藩の求めに応じて造田村の庄屋西村市大夫が作成し提出したものです
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ田(多)尾」
③「笹ケ田尾」から江畑へ伸びる郡境尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
同時に次のような報告書も提出しています。
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。これに対して、藩はさらに詳しく知らせよと求めてきます。それに対しての造田村庄屋・西村市太郎の返答書です。
飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だというが、何免(村)にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」の尾根ルートは、かつては那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④このルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていて西側には鳥居もあったこと

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笹ケ田尾から急な車道を30分ほど下ると見えてくるのが休憩所です。
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中寺休憩所
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この休憩所は避難所の役割もあるようですが、バイオトイレがあるのがありがたいところです。
この休憩所のそばを通って林の中を抜けて行きます。

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中寺展望台と仏ゾーンへの分岐点
北側が明るくなると展望台はすぐそこです。休憩所からは5分弱です。
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中寺展望台
ここからの展望は「丸亀平野を見下ろす随一の展望」とありますが、そのとおりだと思います。
中寺廃寺 髙松方面展望
         髙松方面 屋島・その後ろの小豆島・峰山・その間にサンポート 

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                     髙松方面 
伊方原発など西からと、阿波の水力発電所からの高圧送電線が変電所に集まる。その向こうが屋島と小豆島。
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坂出方面 五色台・城山・飯野山 手前の尾根は長尾の城山から大高見峰

中寺廃寺展望台1
     丸亀・善通寺方面 直下に満濃池・その向こうが象頭山・その左が荘内半島
空海の生まれた善通寺と五岳も見えます。善通寺と満濃池と大川山が一直線に結べます。満濃池は、空海が改修したといわれ、工事中は護摩壇を築いて祈祷を続けたとされます。その間も空海は、この山を見上げ睨み続けていたのかもしれません。
 瀬戸に浮かぶ島々としては、小豆島・瀬戸大橋・本島・広島・高見島・荘内半島・紫雲出山・伊吹島がそれがパノラマのように一望できます。塩飽の島々や備讃瀬戸を行き交う船も見えます。瀬戸内海は古代から富と人の通る大動脈。ここを押さえることは、戦略的意味があります。中寺には髙松藩の殿様も鷹狩りと称して阿波藩との国境視察のために訪れたことはさきほど見た通りです。初めて江戸から帰国した若殿に対して、育成係はここでどんなことをレクチャーしたでしょうか。
こんな山を国見山とよびます。
国見山とは、領地が一望出来て、領内の異変などをいち早くとらえて通報することのできる場所でもあります。その意味では大川山は戦略的な意味を持つ山でした。支配者としては、監視人を置いておきたい場所です。 

中寺展望台から丸亀平野
中寺展望台からの満濃池と、その左手の象頭山
快晴の中、展望台でボケーとしながら考えていると、江畑からの本隊が登ってきました。一休みした後で「授業」開始です。
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中寺展望台での1時間目授業
本日の時間割は次の通りです。
本日の授業


与えられたテーマは 中寺廃寺と大川山についてですが、この2つに空海を搦ませてお話ししたいとおもいます。時間割は上図の通りです。昼食後の5限目に大川山にいって、大川山と中寺が神仏混淆下で、一体であった痕跡を探そうと思います。こんな時間割で進めていきたいと思います。
以下は、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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私がいつも御世話になっている宮川うどんは、幼い頃の空海が遊んだという仙遊寺が近くにあります。

旧練兵場遺跡群 拡大図
旧練兵場遺跡群 農事試験場と国立病院に挟まれたエリアが仙遊地区
古代善通寺地図
善通寺北側の黄色いエリアが仙遊エリア
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡群
練兵場遺跡群は、漢書地理志の奴国の「分かれて百余国」の王国のひとつだったと研究者は考えています。地図からは旧金倉川や中谷川が網の目状に流れる微高地に、集落群は建ち並んでいたことが分かります。しかし、弥生時代の仙遊エリアは川の中にあったとされていたために、ノーマークだったようです。1985年7月に住宅建設中の工事現場から箱式石棺が発見されます。調査の結果、石材には線刻画が書かれていることが分かりました。今回は、この線刻画について見ていくことにします。テキストは「仙遊遺跡発掘調査報告書1986 年」です。
   
仙遊寺遺跡
仙遊遺跡 病院と農事試験場に挟まれた住宅地帯

東側が農事試験場地区、西側が病院地区で、その間の住宅地地帯が仙遊エリアになります。古代の復元図からは、仙遊遺跡のすぐ東側には旧河道があったとされます。仙遊遺跡は、「集落からややはずれの旧河道添いに造られた墓域」と研究者は考えています。

仙遊寺遺跡 箱式石棺1号
仙遊遺跡 1号箱式石棺

仙遊遺跡 組みあわせ石棺 発輝調査報告書
 箱式石棺は、頭部側に立派な石材(額石)を置き、これを挟むように左右に板石を立て、次にその石材の下端を挟むように、逆八字形に外側から板石を立てていました。この石材から線刻画が見つかります。
  線刻画が、どの段階で刻まれたかについては研究者は次のように考えています。
①石材表面は軟質なのに、移動時の傷や磨耗が認められないこと。
②葬送儀礼の一環として、被葬者を取り囲む石材に呪術的な意味を持って刻み込まれること
③以上から石材採集後、棺材として手を加える直前に墓坑付近で行われた。
それぞれの石材に線刻画は刻まれていますが、その中で目をひく人面画を見てみましょう。

仙遊寺遺跡 箱式石棺の線刻図

仙遊遺跡 組式石棺1の石材9の人面文

ひときわ目を引くように石材の真ん中に人面文が描かれています。これについて報告書は次のように記します。
1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059

鼻や口の表現はやや暖味であるが、両耳は比較的はっきりしている。顔の入れ墨についても目を基調に施されており、この人面文の周囲にも目だけの表現らしいものが多く認められる。また、石材2の内面にも人面文が認められるが、これは顔の輪郭と目だけの表現であり、やはり人面文は目が呪的な力を発揮するようである。

これとよく似たものが愛知県安城市の亀塚遺跡の人面文を施した壷形土器です。

人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土
人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土
人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土4

人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土

これを見ると仙遊遺跡のものと、表現がよく似ています。これ以外にも入れ墨を施した人面文は各地で見つかっています。この顔は、壺の年代が弥生時代終末期(約1,800年前)なので「弥生人の顔」とされます。目の周囲に描かれた多くの線は入墨とされます。『魏志倭人伝』には「男子無大小皆黥面文身」(男は年齢に関係なく顔と体に入墨をしている)の記述を裏付ける資料になります。そして、この壺や仙遊遺跡は、ちょうど邪馬台国の時代のものになります。
 愛知県亀塚遺跡の人面文壺形土器についてHPに次のように記します。

 「人面文土器」は、弥生時代の祭祀さいしにおいて、瞳のない眼によって悪霊をにらみつけて退散させる辟(へきじゃ=魔除け)の思想などを表した特別な土器と考えられているが、その全形をうかがい知ることができる例はまれである。また、表現の精緻せいちさにおいて群を抜く優品であり、人面文部分の遺存状態も良く、弥生時代の風俗を物語る貴重な資料である。

 どうして、全身に入墨をしたのでしょうか?
一見不気味に見える瞳のないレンズ形の目
目の周囲の入墨
ヒゲまたはアゴの入墨
耳と耳飾りを持つ顔は、「辟邪(=魔除け)=禍」から身を守るためだった
と研究者は考えています。つまり、にらみつけることで悪霊を退散させようというのです。こうした人面文の出土は、全国に30点近くあるようです。しかも表現に一定の規則があるのです。文様のひとつとして「人面文」と呼ばれていますが、一種の情報が、どのように伝播、拡散したのかはよく分からないようです。
 どちらにしても入墨が災いが及ぶことを祓うとするものなら、箱式石棺を線刻画で覆うとは、被葬者を禍から守ろうとしたこととつながります。各地の人面文にみられる入墨の線条は、よく似ています。ここでは、仙遊遺跡の箱式石棺の線刻画も、被葬者に対する守護や鎮魂的願い、あるいは封鎖のために刻まれたとしておきます。
この起源になるようなものが中国の饕餮紋です。

          饕餮紋(とうてつもん) 戦国 紀元前4世紀

饕餮文は殷周代から青銅器等に用いられた怪獣の紋様です。饕は財貨をむさぼること、餮は飲食をむさぼることを意味します。大きな眼と口、角、爪などが特徴で、人を食らう凶悪な野獣とされていますが、転じてその力は邪悪なものを除くとも考えられていたようです。

次に仙遊遺跡の石材7の線刻画を見ていくことにします。
仙遊遺跡石材7 石材7外面の鳥の線刻
これは鳥の線刻というのです、私にはもうひとつよく見えてきません。羽を拡げている姿なのでしょうか。鳥の線刻については、古墳時代には死者の魂の運搬者としてよく登場するモチーフのようです。西日本の弥生遺跡では木で作った鳥の発掘例が多く、鳥を用いる習俗が稲作とともに普及していたようです。
纏向遺跡の石塚古墳周濠出土の鳥形木製品
纏向遺跡の石塚古墳周濠出土の鳥形木製品

鳥と人面文の組み合わせ例が、島根県出土とされる邪視文銅鐸です。

島根県出土とされる邪視文銅鐸
島根県出土とされる邪視文銅鐸2
邪視文銅鐸 弥生時代中期 22.3cm  島根・八雲本陣記念財団蔵
 
大きな目と鼻(邪視)で、先ほど見た睨み付ける目つきです。先ほど見た饕餮文と似ています。 眉とともに目尻が極端に長く表現された特徴的な眼。そして大きな鼻。そこには口の表現はありません。静かに何ものかをにらみつけているかのようなその独特な眼は、悪霊や邪悪なものすべてをにらみ威嚇する「邪視(じゃし)」を表現したものとも言われています。その下に水鳥が鋳出しています。水鳥は稲魂を祭る祭器と使用されました。
仙遊寺 箱形石棺 石材1
仙遊遺跡石材1
  こうなるとモダンアート的で、私には何が描かれているか見当も付きません。研究者は大きく描かれている扇形図形に注目します。細部まで念入りに描写されていて、下方に描かれた槍先状の図形と併せて、何か呪的な性格を持った構造物を写し取った具象図形の可能性を指摘します。また、上方には扇形の図形と一部重ねて直弧文系の図文が措かれています。どれも抽象図形で多数の直線を平行に並べたものが多く、中に片側が閉じて扇形に見えるものがあります。ここには様々な文様の原単位となっているモデルがあって、その組み合わせによって複雑な文様が構成されていると研究者は考えています。
仙遊寺遺跡 箱式石棺石材4の線刻図 2
仙遊遺跡 石材4

最後に県内の線刻画の類例を見ておきましょう。
①旧練兵場遺跡から出土した器台形土器の破片に、類似した図文
②岡古墳群中の箱式石棺の蓋石に、無数の線条からなる線刻画
③髙松市の鶴尾神社4号墳(積石の前方後円墳)では、石室内や石室周辺の墳丘上からへラ措文様を施した壷の破片。
③の中には仙遊遺跡の箱式石棺の線刻画と共通したものが多くあります。仙遊遺跡出土の土器は鶴尾神社4号墳出土の土器よりもやや古い時期のものになります。両者の関係は、どんなものだったのでしょうか?  今の私にはよく分かりません。

宮が尾古墳の線刻画5
miyagao11
宮が尾古墳の線刻画
また善通寺市内には、線刻画で有名な宮が尾古墳があります。それ以外にも10基あまりの後期古墳に線刻画が描かれています。仙遊遺跡の箱式石棺は、最も古い直弧文系図文によって装飾された墓になります。墓に呪的な線刻による装飾を施すことが弥生時代後期には成立していたこと、その線刻画古墳の原型が仙遊遺跡の箱式石棺であることを押さえておきます。

宮が尾古墳の線刻画の共通モチーフ
      善通寺周辺の線刻画の共通モチーフ 殯屋(もがりや)?
以上をまとめておきます。
①弥生時代後期の仙遊遺跡の箱式石棺には、線刻画が刻まれている。
②その中の人面文様は、入墨があり、瞳のない眼によって悪霊をにらみつけて退散させる辟(へきじゃ=魔除け)の思想がうかがえる。
③それ以外の文様も
被葬者に対する守護や鎮魂的願い、あるいは封鎖のために刻まれた
④これらの線刻画は、宮が尾古墳にも受け継がれていく要素で、善通寺王国の伝統かもしれない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

土器川の流路変遷を研究者は次のように考えています。

金倉川 土器川流路変遷図
土器川は、台風などの洪水時にはまんのう町の長炭付近で平野に出ると、暴れ龍となって次のように幾筋も分かれて瀬戸内海に流れ落ちたようです。
①は、一番西側の紫ルートで金倉川や弘田川の流域を経て白方方面へ
②は、櫛梨山をまわりこんで生野・与北町から現在の河口方面へ
③は、祓川橋付近から垂水から八丈池→金丸池→道池を経て現在の河口へ
④は、小川・法勲寺から大束川に流れ込んで川津・宇多津方面へ
④の破線は、長尾・打越を抜けて岡田台地を下って、大窪池から大束川へ
この中で④破線の流路(長尾→打越→岡田→大窪池)については、分かりやすい史料が手元にありませんでした。そんな中で「今昔マップ」で遊んでいると、「傾斜量図」という機能があるのを見つけました。この機能で描かれた地図で④の旧流路を追いかけて見ることにします。まず現在の打越池周辺の地形を押さえておきます。

土器川旧流路 長尾から打越
         まんのう町長尾・佐岡附近の土器川 左が現在、右が傾斜量図
現在の土器川は、打越の南側を流れています。しかし、土地利用図でみてみると

土器川 旧河道(打越峠周辺)
           土器川の旧河道跡 長尾 → 打越 → 岡田  (土地利用図)
土地利用図を見ると、長尾から打越に向けての旧流路跡が残っています。
ここからは、旧土器川は打越峠の下を岡田方面に流れていたことが分かります。
現在でも長炭の亀越池に蓄えられた用水は土器川に落とされ、長尾で取り込まれて打越池にストックされて、岡田台地の仁池や大窪池に配水されています。ここでは土器川は打越峠を浸食し、ここを流路としていたことを押さえておきます。 打越池周辺を今昔マップで拡大してみます。

打越峠
今昔マップ 左が明治39年測量図 右が傾斜量図
傾斜量図からは、打越峠の西側が一段低くなっていて、用水路が通過しています。先ほど見た土器川の浸食作用で、ここが切り開かれたようです。
次に打越池を超えた土器川は、どうなったのでしょうか。研究者は次のように記します。

岡田・上法勲寺断層

岡田台地は丸亀市飯山町から綾歌町にかけての土器川右岸にある台地で、①約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地です。②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖とされますが、崖そのものは南東から北西に流れた③古綾川によって浸食された段丘崖です。断層はその北側の平野に伏在している可能性があります。

要点をまとめると
①岡田台地は約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地
②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖
③その崖を古綾川が浸食した段丘崖
以上を言い換えると岡田台地は、土器川の堆積で出来た扇状地に「東西圧縮」の力が加わり、南北にいくつもの尾根が走る台地になったようです。その時に形成された台地を「古綾川」が浸食して、それが現在の段丘崖だというのです。それを地図で見ておきます。

土器川と綾川の旧流路
①が土器川の旧流路
②が綾川の旧流路(古綾川)
③旧土器川も、古綾川も、現在の大束川に流れ込んでいた
④旧土器川の扇状地である岡田台地が上図の茶色部分
⑤その台地の北側を②の綾川が侵食し、段丘崖が南東から北西に形成された

②の羽床の古綾川の屈曲点を見ておきましょう。
綾川シラガ渕
綾川の羽床での流路変更について
①南西から北西に流れてきた綾川は、堤山の北の「しらが渕」で東に大きく流れを変えて滝宮方面に向かう。
②しかし、かつては堤山と快天塚古墳の間を西に流れ、富熊を経て大束川流域に流れ込んでいた。
③近世には、渡池(斜線部)が綾川から取水して、富熊方面に供給していた。
旧土器川の扇状地だった岡田エリアが「東西圧縮」を受けて台地となります。そこを土器川はどんなルートで流れたのでしょうか。
土器川 旧河道(打越峠から大窪池)
打越池から大窪池への土器川の旧河道
土地条件図を見ると、打越池から大窪池には旧土器川の侵食によって出来た旧河道が今も残っています。その河道跡に近世になって、いくつもの溜池が造られています。段丘崖の末端部に作られた大窪池と仁池は、その中で最大のものになります。

大窪池から法勲寺 土地条件図
             旧土器川流路 大窪池から法勲寺周辺
旧土器川の流路は、大きく窪んでいました。そこに近世になって造られた溜池は大窪池と名付けられます。この辺りは流路が変更してからも、出水が湧きだしていて農業用水の水源地でした。ここからの用水を利用しながら法勲寺周辺の古代の開発は進められたと私は考えています。

大束川旧流路(旧土器川の流れ込み)
                    旧土器川の流路跡
大束川・飯山の古代遺跡


 飯野山の南側エリアには、旧土器川と古綾川が流れ込んで、遊水地となっていたことが考えられます。
この状態が、いつまで続いたかは分かりませんが、弥生時代に稲作が始まった頃は、低地部の周辺の微高地に住居を造って生活していたようですが、これも洪水が来れば流されています不安定なものだったのかもしれません。
古墳時代後期になると、集落遺跡の立地に変化が出てきます。
岸の上遺跡や名遺跡など大束川低地の中央の旧河道近くの微高地上で、竪穴建物や総柱建物が姿を見せるようになります。名遺跡からは古代の自然流路と水田跡が出てきて、微高地の上に集落を作って、その周辺の低地を水田として開発したことがうかがえます。低地への進出が始まります。

白村江敗北後から壬申の乱にかけての7世紀後半頃になると、岸の上遺跡には大型掘立柱建物群を持つ郡衙的施設が現れます。
8世紀前半頃には、この施設に沿って南海道が伸びてきます。そして、郡衙周辺には条里型地割が進められていきます。この時期は「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」と、大規模な土木工事が行われた時期になります。鵜足郡の郡司は、このような古代国家の求める土木工事を担当・遂行することで権益を確保していったのでしょう。 沖遺跡周辺では、大型掘立柱建物群が東原遺跡や遠田遺跡などから見つかっています。岡田台地上の開発が活発化していく様子がうかがえます。また、沖遺跡南方に近接する沖南遺跡からは、法勲寺と同文の軒瓦や多くの輸入陶磁器類が出土しています。ここに氏寺としての法勲寺を建立した鵜足郡の住居があったことが考えられます。それを敢えて予想するなら神櫛王伝説の主人公である古代の綾氏が浮かんできます。坂出の福江を拠点に、大束川沿いに内陸部に勢力を伸ばしてきた綾氏の活動とダブらせておきます。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

以上をまとめておきます。
①旧土器川は打越峠を浸食し、その北側に扇状地を形成した。
②扇状地はプレートの東西圧縮により岡田台地となった。
③岡田台地の北側の先端を「古綾川」が浸食し、段丘崖を形成した。
④土器川・綾川は、どちらも大束川に流れ込んで、飯野山の南側の低地を遊水地化した。
⑤流路が変更されると、遊水地は河床平地となり、弥生人が定住するようになった。
⑥しかし、台風などの洪水時には微高地の住居は流され、生活は不安定であった。
⑦白村江敗北後の7世紀後半になると、「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」を進める勢力が現れ、開発が進められた。
⑧これを進めたのが古代の綾氏の一族で、古代寺院の法勲寺などを氏寺として造営した。

綾氏と法勲寺開発

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.192724&lng=133.866477&zoom=15&dataset=takamatsu&age=5&screen=2&scr1tile=k_LCM25K&scr2tile=slopemap&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


先日、まんのう町の中寺廃寺と大川山を御案内することがありました。中寺のことをお話ししながら古代の山林修行者の具体的な活動内容が押さえられていないことに改めて気がつきました。そこで日光修験の活動について読書メモをアップしておきます。テキストは「大和久震平 日光修験と偽書の成立」です。
 古代以来の山岳信仰の霊山には奈良時代からの山林修行者が活動し、彼らがのちに修験道に組織されていきます。修験は山中修行によって獲得した「験」で、民衆を救済するという現世利益を目指しました。中世に教団が成立してからは、山中の修行は集団で実施されるようになります。「峰入り」などといい、春夏秋冬の四季の入峰がありました。過酷な峰中修行を体得したものでなければ修験者の資格はあたえられませんでした。
修験の山中修行は秘密の行で、俗人の目には触れることはありませんでした。まして見聞の記録はありません。山中での法の伝授は口伝で、先達の山中手控えが残されていても、ここから分かるのは修行の順路や行事の経過だけです。口伝の部分は何も記されず、内容は分かりません。退転した日光修験の散逸した記録も集められていますが、ほとんどが近世のもので、中世のものはほとんどないようです。その不十分な史料をつなぎ合わせて、日光修験の行事を見ていくことにします。

日光修験行程表

修験の行事の大部分は集団入山修行で、これは入峰・峰行とよばれていました。
このほかに下宮地域である山内の諸堂に奉仕する行があります。これらの修行は専門職のプロの修験者だけに限られていました。このほかに凡俗が参加し、修験が引率して実施する行事があり、これを禅頂と読んでいたようです。
①入峰は、冬・春・夏・秋の四季の峰に分れ,日程や規模を違えて入山します。四季のうち夏峰は中世末に廃絶し、復興することはありませんでした。冬峰は金剛界、春峰は胎蔵界の修行で、このふたつは継続して行われて総称して両峰とよばれます。春峰には、最後に花を供える行事があるため華供虫峰と呼ばれ、四季の峰を三峰五禅頂と総称します。江戸幕府支配下の入峰は日光山内をスタートして、山内に戻る回峰の形をとります。これが中世では日光からいったん出流(現栃木市)に向い、ここから入山することになっていました。その背景にはついては、別の機会に見ていくことにして、先を急ぎます。

冬峰は師走も押し迫ってから入峰し、極寒を山中で過して春に出峰します。

日光修験 第2図冬峰・華供峰順路図今印冬峰口印華供峰
日光修験 冬峰ルート

冬峰は積雪期なので、山野を行道することよりも山中の宿での篭り修行が中心だったようです。順路は危険で登るのが難しい日光山地の高嶺を避けて、中禅寺湖南東部の足尾山地の低い山々で行われました。上図の「1-3-5-8-1」の道筋が冬峰の順路で、横根山から入り,薬師岳・三宿山・鳴虫山と通過して山内に戻るルートです。日程は次の通りです。
2月上旬に山内で入峰山伏に対する饗応
13~25日まで山内で前行
26日出立して古峰原に1泊
27日に山中に入り,深山宿・化荘宿・星ノ宿で長期の参龍を行い
3月2日に出峰し
翌3日に金剛送りを済ませて行事終了
これを見ると山中を動き回らず一か所に寵る修行が中心です。これを「晦日(みそか)山伏」といい、山中修行の古い形態とされています。冬峰は山中移動を含んでいるので、古い形態の修行とその後に発達した新しい修行形態がミックスされたタイプといえます。

春峰(華供峰)は、日光修験独特のものでなく他山からの移入された行事と研究者は考えています
冬峰に引き続いて行われる修行で、冬峰の金剛送りの3月3日に大宿に集合して開始されます。順路は先ほどの図の1-3-5-10-1の道筋で,1-5までは冬峰と同じ道をたどり,薬師岳の手前で分れて中禅寺湖畔の歌ケ浜宿に出,現在のイロハ坂を下って山内に戻る。日程は次の通りです。
3月3~12日が前行
13日に出立
14日に横根山に入り,深山宿・旧谷宿・歌ケ浜宿で長期の寵り修行
4月22日に中禅寺に花を供え,下山して出峰となる。
華供峰も冬峰と同じように寵り修行中心です。この修行で法が伝授されます。

中禅寺湖・男体山(半月山展望台)
中禅寺湖・男体山(半月山展望台)

夏峰 日光山地のほとんどの山を駆ける難行です。
 苛酷な大行で、犠牲者が出ることが度々あったようで中世末には廃絶します。宿の設営に多額の費用が必要だったこともなくなった要因かもしれません。あるいは幕府の思惑があったのかもしれません。この入峰については、中世の直接の史料がないようです。

日光修験 夏行ルート
                    日光修験 夏峰ルート
 夏峰は「順逆不二峰」とも云われ、順峰・逆峰が一体の峰行という意味です。道筋は上図のように山内からスタートして華供峰の道を逆に入り,中禅寺湖畔の歌ケ浜宿から夏峰独自の道に駆け入ります。
これは南岸を迂回して錫ケ岳から日光火山群の西端に取りつくもので、途中で黒桧岳・宿堂坊山を往
復します。錫ケ岳の山頂からは山稜を渡って前白根山に進み、白根山を往復して金精山・温泉ケ岳・山王帽子山を通過し,男体山周囲の山にとりつきます。その後は、太郎山・小真名子山・大真名子山・男体山を駆け、女峰山を通って山を下り山内に戻るコースです。この縦走だけでも難行です。その上に、途中の行場や拝所で勤行があり,柴宿という野宿の数も多かったようです。宿では定められた修行があり、峰行の眼目である潅頂が執り行われます。これは大峰の奥駆けに相当する重要な峰行でした。その日程は5月12~29日まで前行,30日に入峰,山中の修行を経て7月14日に出峰となっています。40余日を山中で過す大行です。その上に
A 途中冬・春峰と同様の寵り修行
B 古野宿では7日間の断食行
C 出峰直前の一の宿では9日間の修行
こうして見ると夏峰も山行と篭り修行を併用した修行で,単なる山中走行の鍛練行ではなかったことが分かります。ただ歩くだけではないのです。

秋 峰
日光山入峰修行 秋峰
秋峰 秋季の山中修行で、五禅頂と呼ばれました。
入峰者の集団が1日置きに1番から5番まで5組入山したことから、このような名称になったようです。中世では5組でしたが、近世は3組に減っています。

日光修験 秋行ルート 五禅頂
道筋は上図のように夏峰の順路を逆に入って、まず女峰山に出ます。その後、西の稜線を下って小真山頂に登り,太郎山との間の鞍部から裏男体の道をつめて男体山頂に立ち,ここから下ってイロハ坂を通過し山内に戻るルートです。中世では女峰山から太郎山に登頂したようですが、近世になると太郎山の山頂は略されるようになります。日程は8月14~18日まで1番が前行を行い19日に入峰,22日に出峰
以下1日ごとに1組ずつ入山します。
山伏の修行ですから峰中作法や勤行があり、定められた拝所に参詣していきます。秋峰の特徴は、山中3泊と入山の期間が短かく,途中に参寵り修行がないことです。この程度の峰行なら山馴れた登山者なら今でもできそうです。これは修行というより儀式臭が強い行事だと研究者は指摘します。

大千度(遥堂) 修験が行う諸堂・神仏勤仕の遥堂修行で,比叡山の回峰に似ています。
日光山は今は天台宗ですから比叡山の修行形態が移入されます。勝道・空海.円仁によって加持されたという神社仏閣や自然物を拝礼して廻る修行で、勝道の弟子教畏によって弘仁年間に始められたということになっています。古くは3年間にわたって昼夜3回巡っていたようですが、近世では年間を3区分にし,各1000回と定められます。この行の満願によって大先達職が授与されます。大先達の号は本来夏峰を完遂した先達に与えられるものです。ここに日光修験への幕府の宗教支配が強くにじみでています。これに関して、日光修験には強飯式が輪王寺に伝えられています。これは「日光社参の諸大名・富豪に大量の食事を強要するもので、東照宮鎮座の日光山の権威を支配者層に見せつける儀式で、政策臭が著しく強い。」と研究者は指摘します。

俗人参加の行
山伏が先達となって、行人とよばれた凡俗(一般人)を引率する集団行事です。これは入峰とは呼ばれずに、禅頂と呼ばれました。禅定には山頂登拝の男体禅頂・黒桧禅頂・白根禅頂と、中禅寺湖岸に点在する拝所を舟で回遊遥拝する船禅頂があります。船禅頂は浜禅頂・補陀洛禅頂ともよばれました。
 これらの中で、最も重視されたのは男体禅頂でした。
日光山地における山岳信仰の原点で、勝道開山以後今日の登拝祭まで連続されてきた基本行事です。湖畔の中宮伺から上は結界された聖地で、山頂へは定められた時期に,定められた潔斎を経てのみ登ることが許されました。古くは専門職(プロ)のみの行でしたが、次第に凡俗にも解放され、さらに後になると講が組織されるようになります。男体山の登頂のみを目的とする禅頂行の確実な資料は、男体山頂遺跡出土の禅頂札によって13世紀までさかのぼることができるようです。
 
 黒桧禅頂は湖南の一山である黒桧岳の登頂を目的としたものすが、組織や順路・日程などはよく分かりません。この山は夏峰の順路になっていましたが,なぜ禅頂行の対象になったのか理由もわかっていないようです。白根禅頂も同じ様に分からないことが多いようです。

以上、中世に行われていた日光修験の活動を見てきました。
①プロの修験者たちの荒行の厳しさ
②修験中の活動エリアが中禅寺湖を中心に広いこと。
③俗人用のプチ修行版として秋峰(五禅頂)があったこと
④それが男体山への一般人の信仰登山へとつながり、講組織が形成されていくこと
②の修験の活動範囲の広さには改めて驚かされます。これを大川山の中寺で当てはめると、阿讃山脈の稜線沿いに、東は大滝山、西は雲辺寺まで、南は阿波の高越山あたりまでは山林修行者たちの活動範囲に含まれていたことになります。修験者の活動を捉える場合には、ひとつの山と言う視点でなく、周辺の霊山や行場もネットワークの中に含めて見る必要があることを改めて感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和久震平 日光修験と偽書の成立

空海による雨乞祈願の伝承が、どのようにして形成されてきたのかを追いかけています。
その際の根本史料になるのが御遺告と大師御行状集記でした。
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このふたつの史料をもとに、『高野大師御広伝』(元永元年成立)がどのようにして作られるかを見ていくことにします。
高野大師御広伝
高野大師御広伝

高野大師御広伝では、上のように守敏との祈雨の験比べ譚から始まり、善如竜王を勧請する場面から善如竜王出現譚へと接ぎ木して、両者をうまく一つの話に「合成」することに成功しています。詳しく見ておきましょう。
aの部分は『行状集記』からの引用です。空海が守敏と祈雨の験比べを行うようになった発端から、空海の時に守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めて妨害したところまでが述べられています。
bBの部分も『行状集記』からの引用です。この部分は『御遺告』とも重なるところで、両方のモチーフを結び付ける重要な役割を果たしています。内容としては、善如竜王を神泉苑に勧請したことを述べています。
Cは『御遺告』からの引用で、善如竜王の出現とそれを七人の弟子が見たことを述べています。
cは『行状集記』からの引用で、雨がよく降ったこととそれによって少僧都に任じられたことを記します。
※は両伝記にありません。著者独自の書き加えです。内容的には『御遺告』のDに近いものです。そして、最後のEは『御遺告』からの引用で、もし神泉苑の竜王がよそに移ったならば、公家に知らせずとも弟子達で祈願するようにという内容です。
 以上から『高野大師御広伝』の空海請雨伝承は、次のように成立したと研究者は考えています。
①『御遺告』と『行状集記』の両伝記を手元に置いて、うまく構成しながら一つの話にまとめあげた
②似た構成をとっているものに、『行状集記』の「日記」がある。全く同じと言ってよいほど似ており、これも『御遺告』と『行状集記』からの引用による合成と考えてよい。
ここでは『高野大師御広伝』の空海請雨伝承は、『御遺告』と『行状集記』からの合成で、新たな空海請雨伝承が作り出されたことを押さえておきます。
 この完成度の高い空海請雨伝承が、いつの時点で登場したのかについてはよく分かりません。
ただ同じような話が天永二年頃に成立したと言われる大江匡房の『本朝神仙伝』に載せられています。

昔於神泉苑行請雨経法。修因呪諸竜入瓶中。但久不得験。大師覚其心。請阿御達池善如竜王。金色小竜乗丈余蛇。 有両蛇腹。於是大雨。自是以神泉苑。為此竜住所。兼為行秘法之地。

意訳変換しておくと

昔、神泉苑で請雨経法が行われた。①その時に諸竜を瓶中に入れられたために、験を得ることができなかった。②そこで大師はインドの阿御達池の善如竜王を呼び出した。その姿は、金色の小竜が大蛇に乗った姿の双蛇で、善女龍王が姿を見せると大雨となった。これより神泉苑は龍の住む所とされ、雨乞祈願の秘法の地となった。

 ここには、諸竜を瓶に入れるという守敏との祈雨の験比べ譚になるモチーフ①と、金色の竜が一丈余りの蛇に乗るという、善如竜王出現譚にあるモチーフ②が見られます。このことから、この時期には『高野大師御広伝』と同じような伝承がすでに世間には語られるようになっていたことがうかがえます。
 この『本朝神仙伝』の内容について、酒向伸行氏は守敏が修因と記されていることに注目して、次のように記します。
「大江匡房は『本朝神仙伝』を記すにあたり、文壇に語り伝えられていた口伝を素材として用いている部分が多々あることから、このA伝承(空海請雨伝承)が書承ではなく、口承で貴族社会に伝えられていたため、匡房は守敏を修因と記してしまったとかんがえられる」

 以上から『高野大師御広伝』の空海請雨伝承の成立期を研究者は次のように考えています。
①守敏との祈雨の験比べ譚が永保二(1082年)から寛治三年(1089)までの間に成立した
②それに善如竜王出現譚が合成されて天永二年(1112)までの間に口承化された
ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚は成立後間もなくして、善如竜王出現譚と合成されたことになります。どちらの話も天長元年の祈雨を舞台としているので、それぞれが別個に伝承され続けることがむしろ不自然で、その矛盾を解消するために両者の合成が早くになされたと研究者は考えています。 しかし、その口承化の広まりについてはすぐには進まなかったようです。真言宗の僧(修験者・聖)の周辺だけで拡がって行った程度だったのかもしれません。それは前回見たように『今昔物語集』には「善如竜王出現譚」のみで「守敏との祈雨の験比べ譚」は出てこないからです。
 少し時代が下って、仁平二(1153)年の『弘法大師御伝』では、空海が修円の行う栗の加持を妨げたことから験力を争うことになり、神泉苑での祈雨の場面へとつながっています。
ここでは、善如竜王が「一尺の金色の竜王」であったり、「勅使と十弟子が善如竜王の出現を見る」とあるなど、『御遺告』や『行状集記』の記事と異なっています。これは口承化がこの時期に進んだ結果と研究者は考えています。また、これまでなかった茅竜についての話が新たに加えられてもいます。そして、話の前後に修円との験比べ譚が配されます。

空海の雨乞祈願伝承の継承
 これまで見てきた空海請雨伝承の展開過程を図示したのが上図です。この図からは、一つの伝承を基軸として、そこに新たに発生した伝承が、合理的に統合されながら発展していく様子が見えて来ます。そして、その合理的統合が新しく生まれる空海伝記によって行われています。これは、この伝承の管理者が僧侶であったことからくるものと研究者は考えています。

最後に、空海請雨伝承の成立と展開が、その社会背景とどのように関わっていたのかを見ておきましょう。
①空海請雨伝承の成立は、益信が行った寛平3年(891)の祈雨祈祷の少し以前。
②その背景は真言宗の衰退期にその復興を目指した醍醐寺の聖宝やその弟子観賢の弘法大師伝説化の動きがあった。
③真言宗祖師の空海が神泉苑で祈雨を行ったとすることによって、祈雨における真言宗の優位を主張しようとした
④この成功によって、国家事業である神仙苑での真言宗の雨乞観賢へと受け継がれていく。
⑥これを受けて『御遺告』に見える善如竜王出現譚が成立する。
⑦これは空海の遺言という形で、神泉苑が祈雨の場として相応しいことを善如竜王が棲むということで説くものであった。
⑧そして善如竜王がよそへ移った場合には弟子達が祈願しなければならないとして、真言宗と神泉苑の深い関係を強調する。
以上のように、真言宗による祈雨の優位性をさらに強調し、神泉苑の結び付きをより強固なものとするねらいがあったようです。その成果があったもようで、以後神泉苑は真言宗がほぼ独占的に祈雨を行う場となっています。

神仙苑の祈雨法一覧
 それ以後は、『御遺告』の善如竜王出現譚が祈雨の場面でのこととして、より祈雨との結び付きを強めた話となっていきます。10世紀後半から11世紀前半にかけてては請雨経法の全盛期で、元呆・仁海という傑出した祈雨の験力をもつ僧も登場します。彼らの業績が、空海が請雨経法を修したことへと変化していきます。
 続いて登場するのが、『行状集記』に見える守敏との祈雨の験比べ譚です。
行状集記は応徳三年(1086)の成立は院政開始頃とされます。この頃は祈雨の面でも大きな転換期であったようで、結果的にはそれまでの読経関係の祈雨が姿を消し、真言宗による神泉苑を中心とした祈雨修法だけが残ります。この理由の一つとして、この時期の貴族層の密教的修法や験者の霊験力への期待感のたかまりがあったことを研究者は指摘します。高僧の持つ験力に強い期待が生まれたときに、それに呼応するように生まれてきたのが「守敏と空海の祈雨の験比べ譚」になります。真言宗の祖空海が他者を圧倒する験力を持っていたことを説くことにより、真言宗の修法の優位を主張していることになります。それは請雨伝承だけでありません。空海の伝記類に、空海の験力を説く新たな説話が数多く登場してくるのもこの時期のことです。そういった社会の動きを敏感に感じとって、新たな伝承を作り上げていった僧侶達がいたのです。
 こうして「守敏との祈雨の験比べ譚」+「善如竜王出現譚」が合成されて一つの話となります。
それが発展をとげながら口承化され、人々に広く知られる話として拡がっていきます。これが弘法大師伝説の始まりともいえます。同時に、真言宗による神泉苑での祈雨をゆるぎないものにしていくのです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
籔元晶   国家的祈雨の成立」
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「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
御遺告 10世紀半ば成立
 空海の請雨伝承を伝える史料は『御遺告』と『大師御行状集記』が代表的なものとされます。このふたつは成立年代がちがうので、空海請雨伝承に違いが出てくるのは当然です。しかし、それ以上に両者の内容は隔たりがあり、全くちがう話と言ってもよいほどです。どうしてこんなに内容が異なるのでしょうか。今回はこのふたつを比較しながら見ていくことにします。テキストは「籔元晶   国家的祈雨の成立」です。
   『御遺告』は、空海の遺言を記録したものというスタイルなので、成立は空海が没した承和二年(835)ということになっています。しかし、それを信じる研究者はいません。実際は百年後の10世紀半ばと研究者は考えています。御遺告は、空海の祈雨祈願について次のように記します。
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 従爾以降帝経四朝奉為国家建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺御願祈雨霊験其明。上従殿上下至四元。此池有竜王名善如。元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心。以何知之。御修法之比托人示之。即敬真言奥旨従池中・現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色長八寸許蛇。此金色蛇居在長九尺許蛇之頂一也。見此現形弟子等実恵大徳并真済真雅真照堅慧真暁真然等也。諸弟子等敢難覧着。具注言心奏聞内裏。少時之間勅使和気真綱御幣種種色物供二奉竜王。真言道崇従爾弥起也。若此池竜王移他界浅い池減水薄世乏人。方至此時須不火知公家私加中祈願上而已。

  意訳変換しておくと
神泉苑での祈雨が行われる理由は、この池に天竺の無熱達池にいた善如竜王が棲んでいるからである。その姿を空海は、正月の後七日の御修法の時に人々に示した。その姿は八寸ばかりの金色の蛇で、九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っており、その姿を見ることができたのは七人の弟子に限られており、他の弟子は見ることができなかった。そのことを天皇に奏上すると、和気真綱が勅使となって竜王を祀ることとなった。このことによって、真言宗はますますさかんとなったのである。そして、もしこの竜王がよそへ移るようなことがあったならば、公家に相談せずともすぐに真言宗の僧侶が祈願をしなければならない。

読んで気がつくのは、空海による祈雨が話の中心に据えられていないことです。中心は、善如竜王が神泉苑に棲んでいるという所にあります。作者の一番伝えたかったのは神泉苑で祈雨を行うことの意味だったようです。なぜ神泉苑という場所で祈雨を行うのか、神泉苑が祈雨の場所としてなぜふさわしいのか、その理由を善如竜王が棲むということ説明しています。ここでは、話の中心は善如竜王で、空海ではないこと、そういう意味では御遺告の雨乞祈願は「善如竜王出現譚」とも云えることを押さえておきます。

2善女龍王 神泉苑g
神仙苑に現れた善女龍王
 この内容は神泉苑での祈雨を行うことについての理由付けです。この話が生まれてくる前提を考えると、実際の神泉苑で祈雨が行われるようになってから出来上がったことが推測できます。つまり、真言宗が神泉苑での祈雨を行うようになってから作られた話であることを押さえておきます。それでは、その説話の成立はいつ頃のことなのでしょうか 。
真言宗による神泉苑での祈雨が定着するのは延喜8年(908)以降のことのようです。
『祈雨日記』長暦2年(1038)の記事に、次のように記します。
被綸旨云。炎気日増。雨雲永隠。田水忘溝。農業納鍬。皇情御歎。相同湯代。爰聞無熱池水通神泉。阿御竜類移法水。加之祈請者弘法祖師之慈悲願力応化者。善如竜王利生誓力。仰而仰之。憑而憑之。但任先例。〔率〕廿口伴僧。於大師霊験古跡。可被勤修請雨経法也者。綸旨如此。悉之。
長暦二年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
意訳変換しておくと
 炎気は日増しに高まり、雨雲は見えない。田に水はなく、農民は鍬をおさめたままで旱魃に苦しんでいた。天皇はこれを嘆き、救済したいと願った。ある時に①無熱池水が神泉苑に通じていること。龍が雨を降らせること、②祈請者の弘法大師の慈悲願力によって③善如竜王に祈雨を祈祷して雨を降らせた先例があることを聞き及んだ。そこで20人の高僧を引き連れて、④大師霊験古跡の神仙苑で請雨経法を襲封させた。綸旨如此。悉之。
 長暦二(1038)年六月十四日左中弁源四匹経 奉
  勤奉  仁海法印房
ここには次のような事が記されています。
①無熱池水が神泉苑に通じていること。
②空海の験力のこと、
③善如竜王のこと
大師霊験古跡の神仙苑
これを書いた人が『御遺告』をベースにしていることが分かります。つまり『御遺告』記載の空海請雨伝承の成立年代は、延喜八(908)年から長暦二(1038)年までの間と研究者は推測します。
 
 次に、『大師御行状集記』(以下『行状集記』)の空海請雨伝承を見ていくことにします。
この『行状集記』は、寛治三年(1089)の成立であることがはっきりとしていて、伝承の変遷を考える上で基準となります。そのなかの「被勧請神泉苑於竜王条第六十九」には、「有書曰」という形で先の『御遺告』と全く同じ記事が載せられています。それに続いて「又或曰」という形で、もう一つ次のような空海請雨伝承が載せられています。

 又或曰。淳和帝御即位天長元年甲辰。依旱災 奉勅於神泉苑。可修請雨之法者。爰守敏大徳奏状僊。守敏已上陽也。同修之。須先勤仕。而令雨西京者。依請早修者。即以勤仕。七箇日結願之朝。西京如暗夜 雷響尤盛也。其雨成洪水 衆人感嘆也。但遣使令検地之処。雨界内不及山外云々。亦大師勤修 雖経七日無雨。大師入定思惟。守円大徳駈取諸竜 既入水瓶已云々。即出定 延修二ケ日夜。大師告曰。池中有竜王 号曰善如 元是無熱達池竜王之類所勧請也云々。乃至結願之日。重雲覆天雷鳴於四方急降膏雨・池水涌満。至于大壇之上 自是以後。三箇日之間普雨三天下 自然傍佗。水愁已以絶。賀其功一任小僧都慶賀之間不好有威勢出入之処自然施面目・云々。
意訳変換しておくと
天長元年(824)に旱魃があり、神泉苑で請雨経法を修するように勅が下った。そこで、守敏は自分が上陽であることを主張し、先に西の京に雨を降らすことになった。そして、西の京が洪水になる程雨が降った。しかし、検分したところ、狭い範囲でしかなかった。
 次に空海が祈雨を行ったが、七日たっても雨が降らなかった。そこで入定して考えたところ、守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めていることが分かった。そこでインドの無熱達池の善如竜王を神泉苑に勧請して雨を祈った。そうしたところ、三日間雨が広く降ることとなり、その功績によって空海は少僧都に任じられた、という。

 このように『行状集記』では、神泉苑での空海の祈雨は守敏との験比べという形で書かれています。この話は「空海の守敏との祈雨の験比べ譚」とも云える内容です。先ほど見た御遺告の内容と大きく違います。これと同じモチーフが天永二(1111)年成立と言われる『本朝神仙伝』や元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』にも載せられていて、伝承として定着していったことがうかがえます。
2善女龍王 神泉苑2g
 ところが、同時期の成立とされる『今昔物語集』には、この「守敏との験比べ」のエピソードは出てきません。
巻第十四の「弘法大師、請雨経の法を修して雨を降らせたる語」と第四十二「空海が神泉苑で請雨経法を修したところ、壇に五尺ばかりの蛇が出現した」の2つの話を見ておきましょう。

今昔、□□天皇の御代に、天下旱魃して、万の物皆焼畢て枯れ尽たるに、天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下の人民に至まで、此れを歎かずと云ふ事無し。其の時に、弘法大師と申す人在ます。僧都にて在しける時に、天皇、大師を召て、仰せ給て云く、「何(いか)にしてか、此の旱魃を止て、雨を降して、世を助くべき」と。大師、申て云く、「我が法の中に、雨を降す法有り」と。天皇、「速に其の法を修すべし」とて、大師の言ばに随て、神泉苑にして請雨経の法を修め給ふ。七日に法を修する間、壇の右の上に五尺許の蛇出来たり。見れば、五寸許の金の色したるを戴けり。暫許(とばかり)有て、蛇、只寄りに寄来て池に入ぬ。而るに、廿人の僧、皆居並たりと云へども、其の中に止事無き伴僧四人こそ、此の蛇を見けれ。僧都はたら更也。此れを見給ふに、一人止事無き伴僧有て、僧都に申して云く、「此の蛇の現ぜるは何なる相ぞ」と。僧都、答へて宣はく、「汝ぢ、知らずや。此れは天竺に阿耨達池と云ふ池有り。其の池に住む善如竜王、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の験し有らむとて、現ぜる也」と。而る間、俄に陰(くもり)て、戌亥の方より黒き雲出来て、雨降る事、世界に皆な普し。此れに依て、旱魃止ぬ。此より後、天下旱魃の時には、此の大師の流を受て、此の法を伝へたる人を以て、神泉苑にして此の法を行なはるる也。而るに必ず雨降る。其の時に阿闍梨に勧賞を給はる事、定れる例也。于今絶えずとなむ語り伝へたるとや。」

ここには弘法大師の神仙苑での雨乞祈祷は記されますが、「守敏との験比べ」の話はありません。詳しく見ると『行状集記』と今昔物語を比較すると細かな点に多くの違いがあります。これは、時間経緯と共にかなり口承化が進んでいたことをうかがわせるものです。

2善女龍王2
神仙苑に招来された善女龍王と空海

 また、「今昔物語集」には別な話として、「弘法大師、修円僧都に挑みたる語 第四十」があります。
その内容は修円が加持をして生栗を煮て天皇に献じますが、空海がそれを妨害したことによりお互いに呪咀するようになります。そこで、空海は死をよそおって修円を油断させて、呪咀して殺すという話です。この二つの話と非常に関係が深い守敏との祈雨の験比べ譚が、『今昔物語集』にはないのです。これについて研究者は次のように記します。

「当時一般に口承化されていた空海の請雨伝承は、『御遺告』に見られる善如竜王出現譚が主流であった。『行状集記』に見られる守敏との祈雨の験比べ譚は、まだそれほど一般に広まっていなかった」 

守敏との祈雨の験比べ譚が初めて登場した『行状集記』の時点では、口承伝承としてはこの話はあまり知られてなかったことが推測できます。そうだとすると『行状集記』の成立した寛治三(1089)年を余りさかのぼらない時期に、この説話が誕生したことになります。
実はこれと関係する出来事が、永保二年(1082)7月16日の範俊と義範の神泉苑の祈雨をめぐる事件なのです。『祈雨日記』は「大蔵卿為房記」を引用して次のように記します。
 今日神泉苑以阿闇梨範俊匹被行請雨経法。先例先被仰一宗長者。次及此門徒云々。一宗長者信覚僧正一門 上陽義範律師也。義範隠居山門之故欺。人以相傾云々。範俊奏云。義範吾弟子也。越吾不可修此法云々。但宣下修之。爰義範難思登上醍醐山真言参龍居発願云。仰願大師三宝。吾若彼弟子者。雨必降給。若又彼奏虚妄者。不可雨降。心誓願祈念三宝。遂雨不降。範俊此間於真言院勤修愛染王云々。
 ここには神泉苑で範俊が請雨経法を行ったことが最初に記されます。しかし、先例からすると義範が行うべきものであったようです。そこで、義範は範俊に対抗して、醍醐寺にこもって止雨の法を行ったというのです。これを読んで気がつくことは、空海と守敏との祈雨の験比べ譚と次のように類似点が多いことです。
①神泉苑での請雨経法をめぐっての対立であること
②実施者の決定に際して上屋などの理由がうんぬんされていること
③一方が祈雨を行っている時に、もう一方が止雨を行っていること
ここからは、この事件を元にして「空海と守敏との祈雨の験比べ譚」が生まれたことが推測できます。そうだとすると守敏との祈雨の験比べ譚は永保二(1082)年から寛治三(1089)年の間に成立したことになります。

弘法大師雨乞祈願伝承


 次に『御遺告』の善如竜王出現譚と『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚が空海請雨伝承の展開の中でどのように位置付けられているのかを見ていくことにします。
 空海請雨伝承の成立期の内容は、『贈大僧正空海和上伝記(寛平七年(895)成立』にあるように、天長年中に空海が神泉苑で祈雨を行い、その成功によって少僧都に任じられたというシンプルなものでした。それに続いて、十世紀に『御遺告』の善如竜王出現譚が成立します。御遺告は『贈大僧正空海和上伝記』の伝承をもとにしていること、そして直接的には祈雨場面について語っているものではないことは、先ほど見てきた通りです。空海の遺言という形を取りながら、神泉苑が祈雨の場としてすぐれている理由が述べられていて、その重点は神泉苑と真言宗の深い関係にあります。つまり、空海の祈雨そのものを説いた説話とは言えず、空海請雨伝承から少し離れた位置にある説話であったと研究者は考えています。 ここでは『御遺告』の善如竜王出現譚は、厳密には空海請雨伝承とは言えないことを押さえておきます。
2善女龍王 醍醐寺2
唐服姿の善女龍王
しかし、時間とともに空海の祈祷場面の方が重視されるようになります。
空海の伝記の一つで『御遺告』より成立が後とされる『金剛峯寺建立修行縁起』は、次のように記されています。
天長元年甲辰依旱災奉勅於神泉苑請雨経法 長八寸許金色竜王。現在二九尺許蛇頂是無熱池河女危
 
①天長元年の祈雨の場面となっていて、そこに善如竜王が出現したこと
②『贈大僧正空海和上伝記』などの初期の空海請雨伝承に、『御遺告』の善如竜王出現譚が挿入・接ぎ木されたもの
③祈雨の修法については何も触れていなかったのが「請雨経法」と限定されていること

神仙苑の祈雨法一覧
上表を見ると神泉苑での祈雨については、初期の段階では請雨経法と孔雀経法の両法が行われています。また請雨経法がまさっているとは書かれていません。いろいろな流儀で雨乞が行われていたのです。それが延長七年(929)からは、請雨経法だけが行われるようになります。この時期に、空海の祈雨法が請雨経法へと限定されたことが分かります。それは醍醐寺の聖宝から観賢の時期にあたります。この二人によって弘法大師伝説は作られていったとされます。
 こうしてみると聖宝から観賢の頃に、『御遺告』を参照しながら空海請雨伝承の充実が行われたことがうかがえます。内容的には、天長元年のこととし、請雨経法を修したとして『金剛峯寺建立修行縁起』を継承しています。また研究者が注目するのは、善如竜王について「所勧請也」としている点です。つまり、空海が善如竜王を勧請したことになっています。これまで善如竜王は天竺の無熱達池より神泉苑に来ているとしか記されていませんでした。それが、初めて空海の勧請によって天竺からやってきたことが記されるようになります。善如竜王が神泉苑に棲む理由について説いている中に、「空海伝来」という言葉が書き込まれたことになります。これもまた伝承の発展でしょう。
 また「結願之日(中略)自然傍詑水愁已絶」の文は、これは『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚の中の文とほぼ同文です。ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚が、『弘法大師伝』を参考に書かれたことが分かります。
 以上のように、『御遺告』から『行状集記』までの期間は、『御遺告』の善如竜王出現譚を取り込む形で空海請雨伝承の発展が見られ、そこに天長元年のこと、請雨経法のこと、善如竜王勧請のことが盛り込まれていったことになります。その中心にいたのが聖宝や観賢ということになります。

観賢について、佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージア

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弘法大師像 真如親王モデルの誕生 

前回までに見てきたように弘法大師の肖像が盛んに造られるようになったのは、鎌倉時代になってからでした。このことは遺品の数が鎌倉時代になると、各段に増えることからもうかがえます。それでは、どうして鎌倉時代に入って弘法大師像が盛んに造られるようになったのでしょうか。今回は、この謎を追いかけて見ようと思います。

空海6

テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。

 「肖像彫刻の概説書  日本の美術 10号肖像彫刻」、至文堂、一九六七年)は、鎌倉時代に肖像製作が盛んになる理由を次のように記します。

「近代以前の日本彫刻史のうえで、鎌倉時代ほど精神につらぬかれた時期はなかったといってよい。それと同時に、人間に対する興味深い観察がこれにともない、肖像彫刻あるいは肖像画のいちじるしく発達する温床が設けられることになった。」

 確かに、鎌倉時代の時代精神が肖像製作の背景にあったことはあるかもしれません。しかし、それだけでは納得できません。研究者は、別の観点からこのことについて次のように説明します。
背景要因のひとつは、鎌倉時代に、一時途絶えてい入宋僧の肖像が増大していくことです。
ここには鎌倉初期に入宋した禅宗僧侶の影響が考えられます。彼らは肖像製作が盛んであった中国の実情に触れ、それを日本に伝え、高僧の肖像が作成されるようになったと云うのです。


 例えば重源については、鎌倉時代前半期の肖像彫刻が四体遺されています。栄西や俊芿(しゅんじょう)の肖像画もあります。

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俊芿(しゅんじょう) 泉涌寺
特に俊芿については、亡くなる直前に中国人の画人によって描かれた泉涌寺本の肖像画があります。
寿福寺 | かまくら・れぽじとり
                栄西 鎌倉の寿福寺
さらに、栄西も鎌倉・寿福寺に二体の肖像彫刻の古像があります。
これら三人の僧侶は教団はちがいますが、いずれも入宋僧で、帰国後鎌倉時代の仏教史に大きな足跡を残した人物です。彼らが中国の肖像製作や最新の情報を多量に日本にもたらしたことが、肖像製作につながったと研究者は考えています。
 もちろん、奈良時代には鑑真のような中国僧の来日もありました。また空海を始めとする入唐八家のような著名な高僧たちもいました。 彼等の中には、中国の肖像製作の実情に通じていた人物もいたはずです。
円珍坐像 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺
鑑真(688~763) や円珍(814~891)のように亡くなる前後に肖像彫刻が製作された人物もいます。しかし、この時期は肖像の製作が始まったばかりでその数は限られています。ところが10世紀を過ぎると入宋者が激減し、中国の肖像情報が減少します。その結果、奈良時代から平安時代半ばにかけて高まった肖像製作機運が継続せずに中折れ状態になります。そんな中で鎌倉時代になると宋元との交流が復活して、高名な中国人禅僧の来日が続くようになります。日本の禅僧も中国に赴き、修行を積んで帰国する者が数多く出てきます。禅僧の中国への渡航は明朝になっても変わりません。こうした交流は新たな肖像情報を日本にもたらし、肖像製作意欲を高めます。これが鎌倉時代半ば過ぎに禅宗の拡大と共に、肖像が数多く造られるようになる背景だと研究者は考えています。

鎌倉時代に入ると、 新たな宗教教団の誕生が相次ぎます。
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鎌倉時代は、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗 禅宗などの諸宗派が誕生します。各宗派は信仰基盤を固め、発展していくために宗派、教団のシンボルを求めるようになります。そこで登場してくるのが、法然・親鸞・日蓮などの宗派開祖の像です。彫像は大勢の礼拝に適しているので布教面での効果は大きく需要が高まります。宗派開祖たちの肖像が数多く作られるようになったのは、新興の宗派や教団だけではありませんでした。伝統的な顕密宗派 (奈良時代以来の伝統的宗派と、平安時代に興った天台宗や真言宗などの密教宗派でも再興運動が活発化します。この動きと肖像の需要増大はリンクしているようです。
どの教団や寺院でも、祖師像の需要が高まります。
例えば、 南都では戒律の再興運動を目指してさまざま社会活動を行った西大寺の叡尊の肖像彫刻が弘安三年(1280)に造られます。

西大寺の叡尊の肖像彫刻
                叡尊坐像 奈良西大寺
後年、興正菩薩と呼ばれる叡尊は大和国箕田に生まれ、はやくから仏門に入り、醍醐寺や高野山で密教を学びました。さらに東大寺で修学を積み、当時荒廃の一途を辿っていた西大寺に住み、律院として復興しました。その後、鎌倉にも戒律の種を蒔き、後の西大寺流律宗(今日の真言律宗)の隆盛の基礎を築きました。叡尊の80歳を寿して善春によって造られた西大寺の寿像がよく知られています。叡尊の肖像彫刻は、幾つかの模刻像が造られ、末寺におさめられるようになります。 

白毫寺 叡尊(興正菩薩)坐像
           叡尊坐像 白毫寺 像高74cm、檜材寄木造(国宝.鎌倉中期)

白毫寺の像は、西大寺のものを忠実に模したものとされます。模作ですが形式化が目立たず、各地の西大寺系寺院に伝わる叡尊の肖像彫刻のなかでも優れた作であり、造立時期も叡尊没後まもなくの時期と研究者は考えています。このように、本山で開祖像が造られると、そのコピー版が各地の末寺にも姿を見せるようになります。これが彫造や画像の需要背景です。

 天台宗でも宗祖を始めとして兵庫・円教寺の開山性空(910~1007)などの過去の高僧の肖像彫刻製作が行われるようになります。

性空 書写山
性空

その中でも盛んに造られたのが慈恵(じえ)大師(良源)の肖像です。

慈恵大師坐像(ヒノキ寄木内刳)弘安9年(1286年)蓮妙作。
慈恵大師坐像 東京国立博物館
慈恵大師は、元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれ、比叡山延暦寺の中興の祖として知られます。また、中世以降は「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになります。「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物を伝え、これが沢庵漬けの始祖ともされているようです。
 このような流れを受けて真言宗でも、開祖空海弘法大師の肖像が盛んに造られるようになります。
 弘法大師像についても文献史料から平安時代にある程度の数の肖像が造られていたことが分かります。しかし、平安時代のものは少数で、本格的に肖像が造られるようになるのは、嫌倉時代に入ってからであることは、前々回に見た通りです。このことは、残された弘法大師像の製作年代からも次のように裏付けられます。
東寺御影堂に祀られる大師像

天福元年(1233)の康勝の東寺像が先駆けで、鎌倉時代後半期になると造像が活発化します。

紀美野町津川の遍照寺
永仁2年(1294) 和歌山 遍照寺 弘法大師像
弘法大師 奈良・元興寺
             正中2年(1325) 奈良・奈良・元興寺像
天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺

大興寺(三豊市) 弘法大師坐像      建治二年(1276年)
この像は、後世に彩色されているので新しそうに見えますが13世紀後半のものです。
前回見た通り、高野山の真如親王モデルの絵画を踏襲したスタイルのものが、各地に拡がっていったことが分かります。真言宗は、いくつかの流派に分化しますが、その場合も宗祖像として、流祖像とともに末寺に祀られます。そのためにも膨大な数の弘法大師像が造られるようになります。四国遍路をしていると真言宗でない札所にも大師堂があり、そこには大師像があります。そういう意味では、大師像はいまでも需要があり造り続けられていると云えます。

以上から弘法大師像が鎌倉時代に造られるようになった背景には、次の3点が考えられます。
①鎌倉時代頃から活発化する中国との文化交流で肖像文化が伝わる
②教団の団結や教勢拡大のためのシンボルとしての祖師像の需要増大
③系列化された末寺への祖師像の安置
ただ弘法大師像は他の始祖像と比べると、その数が圧倒的にが多いようです。これに対して天台宗の始祖伝教大師最澄像は、はるかに少ないのです。そして、天台宗では、延暦寺の中興の祖・慈恵大師良源や、寺門派の始祖智証大師円の肖像の方が数多く遺っています。これらをどう考えればいいのでしょうか?

円珍坐像2 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺 

天台宗の祖師像の製作状況について、研究者は次のように述べています。
①慈恵大師良源像については、悪鬼をも畏怖させるような力を持つ人物という「特殊な信仰」が大きく反映していたこと
②円珍については天台宗の山門派と寺門の対立を背景に、寺門派教団では派祖としての円珍が教団のシンボルとなり、崇拝対象となっていたこと
これらが肖像が数多く造られた背景だと云うのです。
一方、真言宗における弘法大師空海の位置づけは、新派として新義真言宗が生まれても、始祖としての空海の地位は揺るぐことはありませんでした。新しい真言宗の勢力が生まれても弘法大師像は製作され、宗派の始祖の像として後世まで広く製作されていきます。さらに言えば、弘法大師信仰の広がりから、真言宗の枠組みを超え、偉大な高僧といイメージが広く世に流布します。これは、先ほど見たように四国霊場の真言宗以外の札所にも大師堂が建てられ、そこには弘法大師像が本尊として安置されるということが近代になっても進められてきたのがひとつの例かもしれません。
こうしたことも弘法大師像が鎌倉時代以降盛んに製作された要因の一つなのかもしれません。
以上をまとめたおきます。
①平安時代にも高僧肖像画は、描かれていたがその数は限られていた。
②それが鎌倉時代になると、入唐僧の激増を背景に高僧の肖像画が数多く作られるようになった。
③肖像画や彫造は、教団や流派の布教活動や信者の団結を培うものとして有用であった。
④そのため鎌倉時代に生まれた新教団は、教祖の肖像画や遺品を信仰対象(聖遺物)とした。
⑤これは旧仏教教団にも広がり、今まであまり描かれなかった高僧の肖像画が信仰対象となった。
⑥こうして真如親王モデルの弘法大師像が各地の真言寺院の大師堂に本尊として祀られることになった
⑦この背景には、弘法大師信仰を持った高野聖や真言系密教修験者の活発な活動があった。
⑧こうして讃岐でも13世紀後半頃から弘法大師像が造られ安置する寺院が現れるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
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前回は弘法大師の画像の出現について次のように整理しました。

弘法大師像 真如親王モデルの誕生 

今回は弘法大師の彫造が、どのように現れるのかを見ていくことにします。
弘法大師像の初期のものが京都・安祥寺にあります。これは真言八祖像の中の中のひとつで、9世紀半頃のものです。ここからは次のような情報が読み取れます。
①彫像も、真如親王様の図様平面を抜き出して立体化したものが多いこと
②真如親王モデルの画像は、頭部のみ右に振っていつが、彫刻では頭部も体も正面向きとしているものが多いこと
その中で例外的なのが高野山三宝院の弘法大師像です。

高野山三宝院の弘法大師像

この像は頭部だけを右に向けています。ある意味では、真如親王様の画像をそのまま立体化したものといえます。大師の彫像が頭部を振らないのは、礼拝者と像の頭部が正対することで礼拝しやすくなることが考えられます。さらに頭部の特徴的な出っ張りがよく見えるということもあります。頭部の出っぱりは、「エスパー」の証拠ともされていたようですから・・・。
 いずれにしても彫刻も真如親王様の影響が強いことを押さえておきます。
正中二年(1325)に作られた奈良・元興寺の弘法大師像を見ておきましょう。

元興寺 弘法大師坐像(重文.1325頃?正中二年)

 鎌倉期の400年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになります。この像もその頃の作で、願主珠禅の願文には「大師の哀愍によって後生に兜率天(弥勒仏の浄土)に往生したい」と記されています。ここからは、弘法大師像は単なる祖師像ではなく、弥勒仏としても祀られていたことがうかがえます。それを裏付けるように、像内には理趣経が朱書きされ、数多くの納入品が発見されています。全国に数多くある大師像中の白眉とされます。この時期のものは、ふくよかな顔立ちをしているものものが多くなるようです。

以前にお話しした四国霊場大興寺(三豊市)の弘法大師像(建治2年(1276)も、その系譜にあると研究者は評します。

天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺
大興寺 弘法大師坐像      建治二年(1276年)
この像は、後世に彩色されているので新しそうに見えますが、実は13世紀後半のものです。
像内に、次のような墨書が見つかっています。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流 
讃州大興寺
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系修験者だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。これは与田寺の増吽と同じような信仰を持っていた僧侶ということになります。
 銘記から仏師佑慶は「丹慶法師弟子」で「東大寺流」を自称しています。丹慶は運慶の嫡男湛慶のことと研究者は考えています。彼は、建長八年(1256)から湛慶が主宰した東大寺講堂本尊千手観音像の仏に小仏師として加わった可能性があります。どちらにしてもふたつの像は、この時期の讃岐だけでなく四国の慶派仏師の動向を知る遺品として重要です。また弘法大師像としても四国内最古銘記をもつ彫像になるようです。
 このように平安時代後期には弘法大師が真言宗宗祖として信仰されはじめ、鎌倉期の400年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになったことを押さえておきます。

このような中で登場するのが東寺御影堂の弘法大師像です。この像は、それまでのものと顔立ちがかなり違っています。

東寺御影堂に祀られる大師像

 作者の康勝は運慶の四男で、湛慶の弟で、運慶工房の優れた担い手として次のような業績を残しています。
①建久8 - 9年(1197 - 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治初頭に焼失)の造立に運慶らとともに携わったのが初見。
②建暦2年(1212年)完成の興福寺北円堂復興造仏では、四天王のうちの多聞天像を担当。(現在所在不明)
空也上人像(六波羅蜜寺蔵)制作
重要文化財 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
           
康勝の代表作が空也上人像(六波羅蜜寺蔵)

康勝の東寺の弘法大師座像について、研究者は、次のように評します。

「この像のおかげで、東寺は弘法大師信仰の京都における拠点として復活した。そう考えると、運慶一門の修復によって、東寺講堂の諸像が蘇り、それに続いて康勝によって東寺そのものの存在が高まったということになる。そしてこの坐像は、その後の大師像のベンチマークとなる。」

運慶は、空海が唐から請来したり、新しく世に送った平安初期の仏像には多くを学んでいます。それを土台に自身の作風を作りあげます。そして、運慶一門によって、東寺が再興されたことを押さえておきます。
東寺御影堂の弘法大師像

 東寺御影堂の弘法大師像の特徴は、その写実性だと研究者は次のように指摘します。

この像の面貌は後補の漆塗りのために現状では少し強ばったように見えるが、横顔を見ると頭部の骨格の把握が的確で、実在の人物を写したように表現されていることがよくわかる。また、体部に目を移せば肉身の抑揚も感じられ、それを覆う着衣には彫り口の深い衣文が刻まれ着衣の質感までを捉えたかのような着衣表現が認められる。

 このような写実的な描写は、鎌倉時代の写実への関心の高まりと従来は捉えられてきました。これに対して、研究者は別の視点を次のように打ち出します。

 この像は、弘法大師没後四百年ほどの時を経て、運慶の子息、康勝によって造られたものである。像主を目の当たりにして造られたものではなく、在りし日の人物を再現した肖像彫刻なのである。運慶一門は、興福寺北円堂無著世親像や、やはり康勝が造った京都六波羅蜜寺空也上人像などをこうした再現的で写実的な表現をもって造り上げるなど、この種の手法による肖像彫刻の製作をしばしば行っているが、この像もこうした肖像彫刻の一例と言えるのである。改めてこの写実性の問題を考えると、写実的な手法でなされたこうした描写は、礼拝者と像主との時の隔たりを縮める手段として採用されたところがある。

 さらに、弘法大師再生願望を高まる意図があったと指摘します。

戦乱や自然災害が続く世を生き残った者たちは、弘法大師のような聖人が再び現れ救済してくれることを待ち望んでいたのかもしれない。この世に再び現れた大師の姿を思わせるこの肖像彫刻は、こうした人々の祈りに応えるために造られたとも考えられる。さらに言えば、こうした思想は、生身仏を待ち望む信仰を産み出すことになる。生身仏とは、現世に現れ、様々な奇跡を起こした仏像のことだ。特に十二世紀の院政期から鎌倉時代前半期頃までの時期はこうした生身仏が現世に現れ奇跡を起こすことを待ち望む期待が高まり、仏師たちは如何にしてこうした生身の仏を造り出すかに腐心するようになる。仏像や高僧像の写実的な表現も、実はこの世に現れた像をわれわれが実感するための一つの拠り所に用いられたという側面もある。
 
 運慶を始めとする慶派仏師は、こうした写実的表現に秀で、優れた仏像や肖像彫刻を数多く造り出します。その課題の一つが、一種の生身仏を造り出すことだったと云うのです。その到達点のひとつが東寺御影堂弘法大師像ということになります。

東寺の弘法大師像をモデルに江戸時代に造られたのが威徳院(三豊市高瀬町)にあります。

威徳院の弘法大師座像 清水龍慶
威徳院(三豊市高瀬町)の弘法大師像

この弘法大師坐像には、座背面に朱漆で次のように造立寄進の経緯が次のように記されています。

天明四年甲辰丁高祖遍照金剛九百五十年之遠忌 此有檀越矢野武右衛門常昌法諱壽量院猷祥良仙優婆塞其室寂照院 最珍貞忍優婆夷者欲投若干資財彫刻高祖塑像奉安之 本院真影堂住持體同法印随喜遂使佛工清水隆慶摸刻京師東寺祖師云  
正月吉辰日
意訳変換しておくと
高祖遍照金剛=空海の950年遠忌の天明4年(1784)に檀家の矢野武右衛門昌とその妻寂照院が財を投じて大師像を造らんと願いでた。これを受けて住職體同法印は、京都の仏師清水隆慶「京師東寺祖師(東寺の弘法大師像)」をモデルに制作させた。

 施主の矢野夫妻については、威徳院に遺る位牌から没年が武右衛門は天明六年(1786)、妻は宝暦十年(1760)であることが分かります。武右衛門は20年以上も前に他界した妻とともに寄進を行なったことになります。「古記録檀家施入井院号帳」には、妻の名で御影堂天井の寄進も行われたことが記されています。
 仏師の清水隆慶とは何者なのでしょうか?
 四代にわたって京都を舞台に活躍した仏師であることが先行研究から分かります。この像を手がけた二代目については、寛政七年(1795)に67歳で没しています。2代目は、醍醐寺文書の安永七年’(1778)「佛師清水隆慶起請文」に「京建仁寺町五條上ル町、佛工毘首門亭清水隆慶隆(花押)」とあります。その事績は安永七年の実原寺(奈良県)の木造聖徳太子立像をはじめ、京都だけでなく新潟や長野での作例が報告されています。
 手本とされた「京師東寺祖師(東寺御影堂像)」とは、先ほど見た東寺御影堂に祀られる大師像のことのようです。両者を比べて見ると、似ているのでしょうか? 両者を比べて三好賢子氏は、次のように評します。

①側面、背面には共通性が認められず、左肩にかかる袈裟の高さなどもちがう。
②東寺像の特徴である衲衣の左袖と左腕にかかる袈裟の一部が座面より垂れ下がる表現もない。
③共通点としては、左側面袖と袈裟端が膝頭へまわり込んで前方にわだかまる所は同じ
④威徳院像の衣文は、東寺像の現実感のある着衣表現による衣文と比べ、個々の隆起が強く装飾的で、仏師隆慶の個性による造形表現が発揮されている
⑤左肩にかかる袈裟の四筋の襞、前をわたる袈裟の下縁のゆるやかな翻りや、膝前の大きな弧を描く衣文、右腕や右膝付近に見せる松葉状衣文の位置や向きは概ね同じ
確かに、型自体は東寺像のそれに似せて、顔立ちも少し厳しさがうかがえます。しかし、顔立ちの写実性は希薄となり、着衣の襞の表現も異なっているというのです。この違いはどこからくるのでしょうか。

実はこの時に東寺像は正徳三年(1713)に出来上がったばかりの厨子内に安置されるようになっていたようです。そのため厨子中に入った弘法大師の正面しか見ることが出来なかった可能性があります。像全体を詳しく見ることは出来なかったために、完璧な「模倣」ができなかったのかもしれません。 しかし、そのことが幸いして「すべてを忠実にうつすことより、東寺模刻像という由緒にこそ意義が保たれていた」と研究者は評します。

清水隆慶作の威徳院の弘法大師座像の評を見ておきましょう。
  
 衣の上から袈裟を右肩にまとい、左手に数珠(後補)、右手に五鈷杵(後袖)をとり、椅子式の座に正面を向って座す。真如親王タイプの大師御影の彫像である。眼窩を窪ませ、小鼻の脇から頬骨の下に向けて法令線を細い線で表し、口角から皮膚のたるみを表す。顎下に括り線を刻み、後頭部は下方に肉をたるませる。ヒノキ材による寄木造りで、目には玉眼が入れられています。彩色があつい当初の状態が良くのこるため、詳しい構造は判然としない。
  耳は肉厚で平板的で、衣文は彫りが深く技巧的である。自然な立体表現というより形式的で人形に近い感をもつ。だが、鼻がそう高くなく、下顎が前に出る側面観は理想的なバランスには至らず、また正面観において求心的かつ左右非対称の目鼻立ちにはかえって人間味も感じられる。

最後に松尾寺(琴平町)の弘法大師像を見ておきましょう。

4 松尾寺弘法大師座像
松尾寺(琴平町) 弘法大師坐像
この弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置されたものが、慶長九年(1604)になって、金毘羅大権現の金光院住職宥盛の手に移り、新しく建立された金毘羅御影堂の本尊として再デビューされたもので、その時にお色直しされたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際に、松尾寺にもたらされたようです。
この像も着衣方法などは真如親王様と同じで、三好賢子氏は次のように評します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。
 胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。
 研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれない。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」

このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。
4 松尾寺弘法大師座像4
弘法大師像内の墨書銘  
4 松尾寺弘法大師座像t体内銘4
びっしと文字が書かれています。この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が次のように記されています。
 讃岐国 仲郡善福寺 御木願主
     弘法大師御形像壹鉢
右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白 
大願主夏衆 偕行慶 偕宗円
文保三年(1319)己未正月十四日造立始之
大佛師唐橋法印門弟           
    法眼定祐
   小佛師兵部公定弁
「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。気をつけたいのは願主が「善寺」でなく「善寺」です。この寺は、史料にも出てこない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。
②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたのでしょう。ここからは弘法大師信仰が14世紀前半には丸亀平野南部でも拡がっていたことが分かります。その担い手は、廻国の修験者や高野聖・熊野行者だったようです。 

4 松尾寺弘法大師座像5

この像を作った仏師について見ておきましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分からないようです。
以上をまとめておきます。
①初期の弘法大師彫造像は、画像の真如親王モデルを参考に、立体化されたものが多い。
②鎌倉期の400年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになる。
③その中で運慶の四男康勝が作った東寺御影堂の弘法大師座像は、後世の模倣モデルとなった。
④13世紀後半には、四国霊場大興寺(三豊市)に弘法大師像が天台大師像と共に、奉納されている。
⑤寄進者は廻国の修験僧達で、熊野信仰と弘法大師信仰などを同時に担った与田寺の増吽のような性格がうかがえる
⑥文保三年(1319)に仲郡の善福寺に奉納された弘法大師像にも修験者や高野聖などが人々の寄進で制作したことがうかがえ、讃岐での弘法大師信仰の広がりが見えてくる。
⑦江戸時代には威徳院に、東寺の弘法大師像を模倣した坐像が信者から寄進されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
三好賢子 清水隆慶の弘法大師像について 同上
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髙松ユネスコ協会ポスター2025年

髙松ユネスコ協会創立50周年記念式典に次のような日程で参加しました。
 8:00 佐文公民館集合・荷物積込 
 8:30 出発 (マイクロバス2台33名)
  9:40 サンポート到着 搬入
10:00 リハーサル(入庭隊形・位置・音量確認・鳴物)
10:45 昼食 → 終了後に着替え開始
13:20 入庭隊形で待機
13:30 入庭(いりは)
14:10 退場  着替え・撤収
15:00 サンポート出発 
16:00 佐文公民館帰着(片付終了後解散)
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会場はサンポート第1小ホールです。

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サンポート第1小ホール舞台
入庭のルートや舞台の広さを確認し、立ち位置を決めていきます。
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全体を通してみて、地唄の音量を見て、大団扇を振れるだけの空間があるかなどを確認します。

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リハーサルを見守る保護者たち

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リハーサル後に早い食事をいただき、着付けを始めます。全員の着付けには、約1、5時間ほどの時間がかかります。小学生達が小姫姿で化粧して踊るのが、綾子踊の大きな魅力です。着付けが終わると、最後に花笠を被ります。いよいよ出番です。

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いよいよ入庭(いりは:入場)です。
風流踊りでは、会場への入庭も「祭礼隊列パレード」として、おおきな意味を持っていました。舞台で踊るだけではなく、入庭も大切にしたいと思っています。
舞台上の流れ
13:30 客席より入庭 

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13:36 保存会長挨拶
こんにちわ まんのう町の綾子踊保存会会長の白川です。
髙松ユネスコ協会創立五十周年 誠におめでとうございます。この式典に呼んでいただいたことをありがたく思っています。
 私たちの住むまんのう町佐文は金毘羅さんが鎮座する象頭山の南側にある小さな盆地で、百四十軒ほどの集落です。水利の便が悪く、香川用水が通じるまでは水不足に悩まされてきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。そこで踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
  笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る姿は、中世の風流踊りにつながるものとされています。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っております。
 髙松ユネスコ協会のますますのご活躍を祈念しながら、本日は踊らせていただきます。
今回は次のように簡単な役割紹介をしました。
雲竜の幟(保存会長の右側)
雨を呼ぶ善女龍王の昇り龍が描かれています。空海がインドから迎えたという龍で、満濃池や竜王山に済んでいたとされます。
法螺貝
頭巾に袈裟(けさ)の山伏姿です。綾子踊を伝えた修験者との関わりがうかがえます。
13:37 棒と薙刀(なぎなた)
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棒振りと薙刀(なぎなた)は、演舞と問答で穢れを祓い、会場を浄めます。

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舞台右手は 
露払い 入庭の際に、榊(さかき)の枝をもって、道中を浄めながら先導します。
棒   薙刀と共に踊りの前に会場の邪鬼を祓い、浄めます
佐文村雨乞踊の幟

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地唄(一番右で座っている)
麻の上下に小脇差(こわきさし)姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。
台笠(青い笠)
烏帽子をかぶり、神職姿で台笠を持ちます。台笠の下は神聖な空間とされました。
拍子    
龍王に供える榊を(さかき)持って入場します。黄色い大きな団扇を持ち、芸司を支える役割を果たします。
芸司 (げいじ)
全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた芸能伝達者の僧侶でした。大きな団扇には、日と月が描かれています。
太鼓  袴(はかま)姿に白たすき掛けで黒足袋です。
僧侶姿で、白衣に、黒い袈裟を架けて鉦を持ちます。風流念仏踊りの影響がうかがえます。
笛  黒紋付の羽織袴(はおりはかま)で、白足袋に草履姿です。
鼓    裃(かみしも)、袴(はかま)姿で小脇差しを指します。
側踊(がおどり)
浴衣姿で竹皮の笠を被ります。側踊りは人数にきまりがありませんでした。そのため雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったと伝えられます。
善女龍王の幟 綾子踊を捧げたのは、雨を振らせる善女龍王に対してでした。 
13:50 踊り開始(水の踊り→綾子踊→かえりの踊り)
14:00 退場  

最後にサンポートの屋上広場で瀬戸内海をバックに記念写真をとりました。

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秋の海風を受けながらみんなの顔には充実の笑顔がありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」で綾子踊りと尾﨑清甫を紹介したもの
https://www.youtube.com/watch?v=2jnnJV3pfE0

  善通寺御影とよばれる独特な弘法大師像について興味を持っています。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
善通寺御影 香川県立ミュージアム

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(1449~52)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

善通寺御影は、弘法大師の背景に釈迦が描かれているのが大きな特徴です。

空海の捨身行 我拝師山

これは空海が真魚と呼ばれていた幼少の時に捨身行を行った際に釈迦が現れて救ったというエピソードに由来するとされます。このエピソードは中世善通寺の信仰活動の原動力になったともされます。これを描いたのが東讃の与田寺の増吽とされます。増吽には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 大般若経写経集団 + 仏画作成工房」など、さまざまな要素があったことは以前にお話ししました。増吽が弘法大師像を描くようになった頃の時代背景を知りたいと思っていました。そんな中で弘法大師像作成の変遷について、コンパクトにまとめられている文章に出会いましたので要旨をアップしておきます。テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。
 肖像には、生前に造られた寿像と、没後造られる遺像があります。空海の場合は、生前に造られた記録はないので、総て死後に作られたものになります。その中で一番古い肖像が高野山にあるとされます。それが空海が入定(生死の境を越えて永迎の眼想に入ること)の際に、佐伯直氏出身で空海の高弟・実恵(786ー847)が、真如親王(平城天皇の子で、空海の弟子)に描かせたという画像です。この真如親王筆とされる像が高野山の御影堂には安置されているとされています。この真如親王筆という画像は後世、弘法大師の肖像画の根本モデルとなるのもで、後世への影響は多大なものがありました。でも、実物を見た人はいないようです。しかし、それを写したというものがあります。

 高野山御影堂安置の根本画像第三伝(模写)として伝わるのは大阪・天野山金剛寺の弘法大師像です。
大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
                大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
この画像は承安年中(1171~74) に創建された金剛寺御影堂の本尊像で、平安時代最末期の作とされます。この像を元に真如親王様の図様を「復元」すると次の通りです。
①茶褐色の柄衣 (人が拾てたぽろを税って作った袈娑)を縫い、
②斜めに描かれた背もたれのある椅子式の座(方形の床に、短い四脚を設けた台座)に
③ 花文様の敷物を敷いて坐し、
④右手は体を返して五鈷杵(インドの武器で先が五つに分かれた密教法具)を胸前にもち
⑤左手は 数珠を執る
⑥椅子の前には木履と、横には水瓶が置かれる
⑦顔は、右向かって左に少し振る
⑧頭立ちはふくよかで、後頭部が出っ張っている
この空海像は、体を正面に向け、頭部のみを右に振る姿です。こうした描き方は、高僧が後頭部が出っ張っている異相を持つ者が多いので、それを強調する構図であるともされます。どちらにしても真如親王モデルを元にして、数多くの像が産み出されていくことになります。

 空海像 高野山と善通寺の2つの様式

 初期の弘法大師像は単独で描かれるよりも真言八祖の一人として描かれたものが多いようです。
   空海は真言宗の法脈を示すために祖師たちの画像を持ち帰りました。それは空海の帰国の際に、曼荼羅とともに、師の恵果が宮廷画家の李真(りしん)らに制作させたものとされます。

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              長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
これが『請来目録』には、金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)・大広智(だいこうち)(不空(ふくう)・恵果(けいか)・一行(いちぎょう)の五祖師で、各三幅一鋪(三枚の絹を継いだ画面に描かれた掛幅)とあります。教王護国寺に伝わる真言七祖像のうち五幅が、これにあたるとされます。

真言七祖像 不空(東寺 国宝)
さらに、龍猛と龍智は帰国後の弘仁十二年(821)に空海が補作します。これに空海の像が加えられたのがいつのころかは分かりません。しかし、先に真言七祖像の様式に似せて空海像が描かれたことはうかがえます。

真言八祖像 室生寺
真言八祖像 室生寺 右下が空海
 
 空海の肖像が真言八祖の一体として描かれたものとしては、延喜四年(904)に建立された京都・仁和寺円盤院の障子に描かれたものが番古いようです。東京国立博物館には、この障子絵の影響を受けた「先徳画像」という平安時代の白描画像があります。ここでは、空海の肖像画が真言八祖像の一人として描かれるようになったことを押さえておきます。
 奈良国立博物館の真言八祖像を見ておきましょう。

真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像のうち 金剛智
真言八祖像 金剛智(奈良国立博物館)

真言八祖像 恵果
真言八祖像 恵果

真言八祖像 空海 南海流浪記
真言八祖像 空海 奈良国立博物館 
 奈良国立博物館の真言八祖像について、研究者は次のように評します。
鎌倉時代のもので神護寺本に次ぐ大きさをもち、明快な象形と彩色による清爽な印象の作風を示し、保存も良好な一本として貴重である。恵果と空海は、椅子式牀座(しょうざ)に坐る真如親王モデルが普通であるが、ここでは他の六祖と同じ単純な形の四脚が付くのみの低い牀座に坐らせ、また履き物や水瓶の配し方についても、全体の統一感を重視する風が見受けられる。像をできるだけ大きく表そうとする点にも、構図の特色がうかがわれる。
香川県立ミュージアムの真言八祖像として描かれ弘法大師像を見ておきましょう。

真言八祖像の中の空海像 香川県立ミュージアム
        弘法大師像(香川県立ミュージアム) 真言八祖像のひとつ
香川県立ミュージアム本は室町時代の作とされます。この画像も真言八祖像の一福で、少し周囲が裁断されたところがあるようです。
 顔をやや右に向けて椅子式の座に坐し、右手に五鈷杵、左手に数珠をもつ姿です。真如親王モデルを踏襲しています。しかし、背もたれと肘掛けのない座に坐しています。 座面の濃紺の縁の四隅に方形布が描かれているので、座具は布製と研究者は推測します。その他の三祖師も布製座具です。敷物に坐す八祖像には實金剛寺(神奈川県)や洞光寺(長野県)のものがありますが、数は少ないようです。伸びやかなびやかな描線に穏やかな彩色、具の文様も丁寧に描かれ、室町時代初期までの制作と研究者は評します。
①全体的に真如親王様の図様を忠実に継承している。
②右手は掌を返して五鈷杵を胸前に構え、左手は数珠を執る
③右に振った頭部のふくよかで鼻や唇を小さく表した顔立ち
これを見ると、初期の大阪・天野山金剛寺像本の真如親王タイプをよく継承していることが分かります。平安末期までは、真言八祖像の一部として弘法大師像は描かれていたこと、それは真如親王様式を踏襲していること、そして真如親王モデル自体が真言八祖像の様式上にあることを押さえておきます。
ここまでを整理しておきます。
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 
             
真如親王様は真言七祖像の一部として生まれた。

ところが鎌倉時代後半期になると、様々な図様が描かれてくるようになります。

東寺 談義本尊 弘法大師像
東寺の談義本尊
その代表的なものが東寺に伝わる「談義本尊」像です。これは史料(「東宝記)から正和二年(1313)に後宇多法皇が東寺西院御影堂(弘法大師の肖像彫刻を祀る御堂)に施入されたものであることが分かります。姿は真如親王様と同じですが、背もたれのない椅子に坐っています。

水原堯栄「弘法大師御影」及び「宸翰英華」には次のように記します。

絹本着色。竪四尺五寸八分、横二尺五寸、
桐箱裏に寛延二巳巳年十月補修。于時年預。寶菩提院法印大僧都覺空。
軸の表装に後宇多院宸翰談義本尊。八祖様式、・・・線は潤達遒倒である。
念珠は百八果半装束様である。
床冗は四脚唐草模様金具附上に茵(しとね)をしいてある。
衣袈裟は香染衣である。
東宝記には「大師御影一鋪一幅、後宇多院宸筆、右談義本尊となして法皇施入これあり」等とあるによって明らかである。・

御影の上段には大師「御遺告」の中から後宇多院宸翰で次のように記します。

竊以大法同味興廢任機。師資累代付法在人。鷲峯視聽傳流中洲鐵塔傳教利見烏卯。探流尋源鑒晃討本。大唐曲成既有血脈。日本末葉何無後生。吾初思及于一百歳住世奉護教法。然而恃諸弟子等忩永擬即世也。但弘仁帝皇給以東寺。不勝歡喜。成祕密道場。努力努力勿令他人雜住。非此狹心護眞謀也。雖圓妙法非五千分。雖廣東寺非異類地。以何言之。去弘仁十四年五月十九日以東寺永給預於少僧勅使藤原良房公卿也勅書在別。即爲眞言密教庭既畢。師師相傳爲道場者也。豈可非門徒者猥雜哉・・・」

書き下し文では

ひそかにおもんみれば、大法は同味にして興廃は機に任せり。師資累代付法は人にあり。鷲峯の視聽(お釈迦様が霊鷲山で説法された法は)傳を中州(インド各地)に流る。鐵塔の傳教(南天の鉄塔からでた密教は)烏卯に利見す(すみやかにひろまった)流を探り源を尋ね晃を鑒みて本を討ぬ。(法の流れを探り、源泉を尋ね、暗夜に光の所在をよく考えてそのもとを求める)大唐の曲成に既に血脈有り。日本の末葉、何ぞ後生無んや(日本の真言宗の末徒としても、この教えを後世に伝えないことがあろうか)吾れ初めは思ひき一百歳に及まで世に住して教法を護り奉らんと。然而れども諸弟子等を恃んで永く即世んと擬す也。但し弘仁の帝皇給ふに東寺を以ってす。歡喜に勝えず。祕密道場と成す。努力努力他人をして雜住せしむる勿れ。此れ狹き心にあらず。眞を護るの謀也。圓かなる妙法なりと雖ども五千の分に非ず。廣き東寺といえども異類の地に非ず。何を以ってか之を言ん。去じ弘仁十四年正月十九日東寺を以って永く少僧に給預はる。勅使は藤原良房公卿也。勅書在別。即ち眞言密教の庭となること既に畢ぬ。師師相傳して道場とすべきもの也。豈に非門徒の猥雑すべきならんや。門徒数千万、併しながら吾後生の弟子等祖師吾顔を見ずと雖も心有る者は必ず吾の名号を聞き、恩徳の由を知れ。是吾、白屍の上に更に人の勞を欲するに非ず。密教寿命を護り継ぎ、龍華三庭に開かしめん謀なり。微雲間より見て信否を察すべし。是の時懃有る者は祐を得、不信の者は不幸ならん、努々」)」

 研究者が注目するのは、画像本紙の絹と肌裏紙の間に五輪塔の形の紙型が修理の際に発見されたことです。五輪塔は中世では「釈迦の遺骨=舎利(聖遺物)」とされていたので、弘法大師の姿そのものが舎利と同様に聖なるものとされていたことを示しています。弘法大師を神聖視する思想が、鎌倉時代後半にはますます深化していたことがうかがえます。
神野真国荘(こうのまくにのしょう)と呼ばれた高野山の根本寺領の一つにある遍照寺の弘法大師像です。
紀美野町津川の遍照寺
 遍照寺の真如様(しんにょよう)の弘法大師像

 謹直な描線で輪郭を描いた丁寧な作風から南北朝時代(14世紀)の制作とされます。高野山のまわりでは一番古い大師像になるようです。画像を本尊とすることは珍しいように思いますが、高野山壇上伽藍御影堂の本尊は真如自筆の弘法大師画像と伝えられるので、それを踏襲しているのかもしれません。この遍照寺弘法大師像からは、次のような情報が読み取れます。
①画面上部には、仏の姿を文字によって表す種子(しゅじ)という梵字が書かれていること。
②右から「アーク(胎蔵界大日如来)」「バン(金剛界大日如来)」「キリーク(千手観音)」「ソ(弁才天)」
③この種子は、高野山の鎮守の神である四社明神(丹生明神・高野明神・気比明神・厳島明神)を表したものであること
つまり、ここには「弘法大師 + 四社明神」で5人の神と人が描かれているということになります。弘法大師の方ばかり見ていると、四人の神を見落としてしまいます。しかし、この画像が表す内的世界は、高野山の象徴としての弘法大師と四社明神とが織りなす信仰世界、すなわち高野山浄土ともいえる大きな広がりを含んでいると研究者は指摘します。ここでは弘法大師像の新たな展開が始まっていることを押さえておきます。そして、次の段階になると四明神も姿を見せるようになります。
高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像と呼ばれている画像があります。

高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像
             高野山金剛峯寺の「問答講本尊」像
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席

これは中央に真如親王様の弘法大師像、その前方の左右に高野・丹生の両明神像を配した三尊形式の絵図で、その後には奥の院院廟境内と天野社が描かれています。この絵図は天野社で正応四年(1291)に始められた問答講の本尊として描かれたものと伝えられています。空海がやってくる前の高野山の先住者が信仰していた地主神(その土地の主となって守護する神)や、丹生(朱水銀)採掘者の信仰する丹生神と空海の神仏信仰思想を基に作られたものとであることは以前にお話ししました。このような流れは讃岐へも伝わってきます。

延命院弘法大師四社明神像
       延命院(三豊市) 弘法大師四社明神像 縦136㎝ 横43㎝ 14~15世紀
①右手に五鈷杵 左手に念珠
③弘法大師像の四隅に、高野山の地主神である四社明神像
④上部の色紙形に兜卒天にいる空海が各地に影向することを述べた「日々影向文」
四隅の四社明神像は、向かって右上が丹生明神、左上が高野明神、下段は右が気比明神、左が厳島明神とされます。四神に比べて主人公の弘法大師を大きく描かれています。上段二神の本地仏を表す梵字や、空海を高野山に導いたという二匹の犬のほか、獅子・狛犬などが描かれます。これも鎌倉時代以降の弘法大師入定信仰が高野聖たちによって全国に広められた中で登場してくるものです。「日々影向文」をする弘法大師像と、聖地高野山を象徴する四社明神像を組み合わせた図柄で、弘法大師には生きていることを表すために髭が描かれています。これを見せながら高野聖たちは「大師は生きている、どこにも現れ救ってくださる」と弘法大師信仰を説いたのかもしれません。それが四国霊場成立へとつながります。
 繊細な描線や彩色などから制作時期は南北朝から室町時代初期と研究者は考えています。この時期、弘法大師信仰がさまざまな形で各地に広がり、人々の心に届いていったことを押さえておきます。

神仏習合思想の影響下で製作されたものとしては、「互いの御影」と呼ばれる弘法大師像が有名です。
互いの御影 弘法大師と八幡神

互いの御影の八幡神
互いの御影 八幡神(神護寺)

互いの御影 弘法大師 神護寺
互いの御影 弘法大師像(神護寺)
京都・神護寺の所伝には八幡大菩薩と弘法大師が互いに御影を描いたとものとされます。ここでは当時の真言僧侶や修験者たちは、八幡神と弘法大師を混淆して信仰したことを押さえておきます。この絵の弘法大師は背もたれのない座に坐し、胸元を大きく開けずに、 襟をしめ、衣の袖から筒袖状の内衣があらわれるように描かれています。これもそれまでの真如親王像とは異なっている新しいタイプの弘法大師像です。
四国霊場八栗寺のもともとの本山とされる六萬寺にも弘法大師との神仏混淆を示すものがあります。

香川・六萬寺 熊野曼荼羅図 弘法大師との混淆
        六萬寺 熊野曼荼羅図 横103㎝ 横41㎝ 13~15世紀

熊野三山に祀られる祭神やその本地仏を描いたもので、85番札所八栗寺を奥院とする六萬寺に伝来するものです。三つに区画された部分に次のような仏たちが描かれています
A 中段 熊野十二所権現の本地仏と弥勒菩薩(満山護法)
B 下段 礼殿執(らいでんしつ)金剛を中心として、紅葉する自然景の中に九体熊野王子と座す弘法大師(右下隅の赤四角部分)
C 上段 岩山の中に役行者や大八大童子大威徳明王(阿須賀社)などが見え、右端に那智とその本地仏でる千手観音
 熊野曼荼羅にはモデルがなく信仰形態が変化すると、いろいろな図像が生み出してきました。この画中には弘法大師が描かれています。智証大師円珍を描いた天台系の聖護院本などに対して、真言系の修験に関わるもののようです。ここからは弘法大師信仰と熊野信仰が結びついていて信仰されていたことがうかがえます。一遍は熊野信仰と八幡信仰と阿弥陀信仰を混淆しようとしたことは以前にお話ししました。一遍の試みも、このような動きの上に立って立ってのことだったのかもしれません。
 「一部に補彩もあるが、張りのある的確な線で描かれており、南北朝時代から室町時代の作」と研究者は考えています。

日輪大師像 極楽寺
                 日輪大師像 極楽寺     
 赤い輪の中に紅蓮華の上に座した異形の空海御影です。姿勢や着衣、右手に五鈷杵をとるのは真如親王タイプの弘法大師像に同じですが、左手は掌に五輪塔ささげます。
研究者は次のように評します
日輪の上には小さな月輪、蓮華座の下には輪宝が敷かれ、さらに下方には蛇のようにうねる水波らしきものが描かれ、左右両袖に渦文を表すなど特異な図像である。画面上方に五字四行の文が隷書体で墨書されるが、今その判読は難しい。
 日輪大師は彫像も含めて数例で数は少ない。五輪塔は密教では万物を構成する地・水・火・風・空の五つを象徴的に造形化したものだが、弥勒の持ち物でもある。この図については、空海が高野山で永遠に瞑想を続け、弥勒が下生して生を救済するのを待っているという入定留身信仰を背景に作り出された物という説が出されている。
 密教の灌頂の影響を受けて神道でも灌頂が行われるようになります。その際に掲げられたのが日輪大師像でした。大師信仰の神道への波及という流れを示すものになります。

このような流れの中で登場するのが「善通寺御影」です。

善通寺御影(瞬目大師)善通寺
善通寺の瞬目大師像 
このタイプは先ほど見たように弘法大師自体は真如親王様と変わらないのですが、背景がちがいます。右上方に松山(我拝師山)が描かれ、その上に釈迦如来が現れています。これは弘法大師の我拝師山での捨身伝説が拡がりだしたあとに描かれるようになったものです。ここには善通寺の「弘法大師生誕地」の自己主張と布教戦略がうかがえることは以前にお話ししました。

こうした大師像とまったく異なるのが椎児大師像の出現です。

「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます。

「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」

意訳変換しておくと 
私が5、6際の頃に生まれた家にいた頃に、八葉蓮華の上に座って、諸仏と共に語る夢を見たものだ。しかし、そのことは父母は、もちろん他人に語ることはなかった。この間、父母はひとえに私をを慈しみ「貴物」と呼んだ。

ここに出てくる「諸仏と語る空海の姿」が映像化さたのが大師稚児像です。

稚児大師御影(ちごだいしみえ)※高野山霊宝館寄託2
 稚児大師御影(ちごだいしみえ)清浄心院蔵 高野山霊宝館寄託

箱書に「童形大師」と墨書する。空海が入定する前に弟子・信徒へ後世の為への戒めを25箇条にわたって示された遺言の「御遺告(ごゆいごう)」の中に「5~6歳の頃、蓮華座に座して諸佛と物語る」とあるのに基づいて図像化されたもの。
 袴を着けた垂髪(すいはつ:たれ下げた髪)姿の童形の空海が合掌し、蓮華座に座して、月輪を後背としている。稚児大師像と言えば、本図が普及しているが、中世以前の作例は少なく、清浄心院蔵の稚児大師御影は貴重である。


稚児大師像 兵庫・香雪美術館
             稚児大師像 十三世紀 兵庫・香雪美術館 
肩まで切りそろえた型の髪をきれいに揃えた小袖・袴姿の稚児姿の空海で、蓮華に座っています。蓮華は仏教では聖なる者を生み出す最も重要な花です。その台に座って合掌し、月輪の中に浮かぶ様子は、空海が幼少の頃から仏に近い聖性を備えていたことを象徴的に表したものです。
 また中世には童子を聖なる者とみなしていました。南無仏(なむぶつ)太子(聖徳太子二歳)像や稚児文殊像など童子が多く登場するようになります。こうした童姿の空海画像は「稚児大師」と呼ばれ、十数例が残されていますが、その中でも本作品は最も早い時期のものとされ重要文化財に指定されています。
 稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀
画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。

秘鍵大師
秘鍵大帥像
他にも「般若心経秘鍵」を根拠にして、空海が宮中で般若心経を講じる姿を表した図で、右手に剣、左手に念珠を持つ姿を描く秘鍵大帥像などいつかの型の弘法大師像があります。こうした様々な大師像は中世後期以後に製作されたものが多く、この時期になると多種多様な弘法大師像が描かれるようになります。
 さまざまな弘法大師の画像を見てきましたが、顔立ちや姿は真如親王様が大本になっていて、それを継承していることが改めて分かります。ここでは真如親王タイプの権威が、その後の弘法大師肖像の原形として影響力を持ち続けてきたことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①空海像死後に真如親王に書かれたという肖像画が一番古い
②初期の弘法大師像は真言八祖像の一つとして書かれたものが多く、その数は多くない。
③また様式は真如親王モデルを忠実に踏襲したものが多い
④鎌倉時代以後になって、新宗教の各教団が団結や布教のために教祖像を用いるようなる。
⑤この動きを受けて、真言教団でも弘法大師像が数多く描かれるようになる。
⑥それは真如親王モデルの枠を越えた広がりをもたらす。
⑦こうした中で、善通寺御影や稚児大師像、弘法大師の神仏混淆像などが現れる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海6
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム

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