
屋嶋城 讃岐の郡司達の動員によって作られた
日本書紀には、667 年に次のふたつの記事が並びます
A 屋嶋城が築城されたB 王宮を飛鳥から近江大津に遷した。
この両者の背景にあったものは何なのでしょうか?
まず考えられるのは 663 年の朝鮮半島の白村江海戦での大敗北です。これによって、日本列島が唐の軍事攻勢の直接の対象になったという危機意識が、当時の支配者に働いた結果と推測できます。
例えば空海の実家の佐伯直氏は、多度郡の郡司を務めていました。当時の中央政府から佐伯直氏にどのような指示があったかを推測し歴史順に列挙すると次のようになります。
①白村江への兵士の軍事的動員②坂出城山の朝鮮式山城の築造工事③軍事的機能を持つ南海道の整備④南海道に沿って整備される条里制造成工事⑤新都・藤原京造営への資材提供⑥中央政府から許可を得て氏寺(古代寺院)建立⑦国造から郡司に任命され、郡衙などの建設⑧律令制に基づく貢納品の藤原京への輸送⑨国分寺建立工事への動員
このような郡司たちに下りてきた動員命令等は、国家のどのような政策判断のもとで出されたものなのでしょうか。その国家意思は、どのようにして形成されたものなのでしょうか。別の言い方をすれば、地方行政に国家意思がどのような形で下ろされてくるのかが知りたいと思います。「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」をテキストにして見ていくことにします。
た
まず、7世紀の「東アジア世界の中での日本の立ち位置」について押さえておきます。
日本における国家成立は、外圧への対応策として出発したようです。これは戦前の皇国史観に基づく一国史観の見方とは異なります。中国における随唐帝国の出現と、その脅威に対する対応策として、古代律令国家は生まれたとする考え方です。
日本における国家成立は、外圧への対応策として出発したようです。これは戦前の皇国史観に基づく一国史観の見方とは異なります。中国における随唐帝国の出現と、その脅威に対する対応策として、古代律令国家は生まれたとする考え方です。
6世紀の末に、中国大陸は隋王朝によって統一されます。隋以前は、後漢の滅亡以後の三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代と北方民族の侵入による分裂抗争の時代が長く続き、軍事的ベクトルは中国大陸の内向きに働きました。ところが隋は、華夷イデオロギーを掲げて、皇帝権力拡大のための征服戦争を開始し、外向きにベクトルを転換し世界帝国を目指します。しかし、これはうまくいかずに、煬帝の高句麗遠征の失敗がきっかけとなって、隋帝国はわずか 30 年ほどで滅亡します。隋帝国の出現と高句麗侵攻は、大きな衝撃を東アジア各国に与えます。日本列島で律令国家のスタートは、隋の成立に促されての現象だと研究者は考えています。その時に、ヤマト政権の中心にいたのは蘇我馬子です。その対応策は、日本書紀には厩戸皇子の業績として記されている緒改革です。
隋にかわて政権を握ったのが、唐王朝です。
628 年 唐が隋滅亡後の国内の混乱状況を平定。
628 年 唐が隋滅亡後の国内の混乱状況を平定。
629 年、北からの脅威であった東突厥を攻め、国王を殺害して滅亡
631 年 これを見て高句麗は唐との国境に千余里の長城を建設し、防衛線構築。
630 年 大和政権は飛鳥の最奥部への王宮遷都
このヤマト政権の飛鳥への遷都も、高句麗と同じ対唐防衛策であったと研究者は考えています。
そういう意味では唐帝国の誕生と膨張策への警戒が、飛鳥の地に宮殿を置かせることになったと云えます。
これが上図の明日香村・岡の飛鳥宮跡になります。同じ場所に引き続いて宮殿の造営が繰り返されるのは今までになかったことです。飛鳥岡本宮以前は、歴代遷宮の名が示す通り、天皇(大王)の代替わりごとに王宮が別の新しい、広やかな場所に新造されていました。この大王家の長い伝統は 630 年を境に途絶えたことになります。
同じ年に、舒明政権は第1次遣唐使を派遣します。硬軟両面策を講じることによって、王権維持、ひいては国家の存続をはかったものと研究者は考えています。
この時期、大和政権を実質的に担っていたのは蘇我蝦夷でした。
この時点では、日本列島への唐の軍事的脅威は直接的なものではありませんでした。唐による征服戦争は西域諸国や、東に向かってはもっぱら高句麗に限定されていました。ある意味では、海の向こうの遠い国通しの争いでした。ところが660 年に、唐は新羅と連合し、百済を攻撃して、首都扶余を陥落させます。新羅を挟んで百済と同盟関係にあった大和政権は、百済再興のために援軍を派遣します。そして663 年、白村江の海戦で唐艦隊に完敗します。日本列島が唐の軍事的攻撃の直接の対象となる状況が生まれます。支配者たちの危機感は一気に高まります。これに対して中大兄皇子政権が取った対処法は
この時点では、日本列島への唐の軍事的脅威は直接的なものではありませんでした。唐による征服戦争は西域諸国や、東に向かってはもっぱら高句麗に限定されていました。ある意味では、海の向こうの遠い国通しの争いでした。ところが660 年に、唐は新羅と連合し、百済を攻撃して、首都扶余を陥落させます。新羅を挟んで百済と同盟関係にあった大和政権は、百済再興のために援軍を派遣します。そして663 年、白村江の海戦で唐艦隊に完敗します。日本列島が唐の軍事的攻撃の直接の対象となる状況が生まれます。支配者たちの危機感は一気に高まります。これに対して中大兄皇子政権が取った対処法は
A 北部九州から瀬戸内海沿岸地域への朝鮮山城の築城B 城塞施設を結ぶ烽とぶひ(狼煙台)の設置。C 軍用道として南海道などの建設
以上のような唐の軍事的侵入に備えての防衛体制づくりを行います。
大和飛鳥でも上図のように王宮と後飛鳥岡本宮を取り囲む丘陵の尾根に沿って長大な掘立柱塀を設置するなど、防御施設の営造が進められます。飛鳥の周囲にも山城が設けられたとみる研究者もいます。
ここでは、このような防衛施設は、百済亡命者が首都・扶余の防衛システムを踏まえて築造したものであったことを押さえておきます。
中大兄皇子は、このような防衛体制だけでは不十分だと判断したのでしょう。
667年には近江・大津に新たに王宮を造営し遷都します。そして、」翌年に天智天皇として即位します。ここで研究者が指摘するのは、唐の侵入に対して、百済はこのシステムで対応しきれなかったということです。百済の防衛システムは朝鮮半島の三国間で相互抗争に備えたものでした。対唐戦争を前提としたものではありません。
667年には近江・大津に新たに王宮を造営し遷都します。そして、」翌年に天智天皇として即位します。ここで研究者が指摘するのは、唐の侵入に対して、百済はこのシステムで対応しきれなかったということです。百済の防衛システムは朝鮮半島の三国間で相互抗争に備えたものでした。対唐戦争を前提としたものではありません。
百済の王宮防備システム
効果が怪しい百済・扶余の防衛システムを北部九州と、瀬戸内海沿岸地域に整備したことになります。これは一億総玉砕を掲げて、戦闘機もないのに各県にいくつも飛行場を建設させた敗戦直前の大本営のやり方を思いださせます。もっぱら軍事施設、しかも旧式の百済方式の防備システムを作りあげようとしたところに、天智政権の限界があったと研究者は指摘します。これに対して、批判的に見ていた人達もいたはずです。このままでは、国家が危ういと・・・
671 年に天智天皇がなくなると、壬申の乱に勝利し政権の在に着いたのが天武天皇です。
天武政権は大津宮を廃して、飛鳥に帰還します。そして新たな王宮を造営することなく、新しい国家防衛策を打ちだして行きます。それが唐帝国の支配イデオロギーや支配システムの導入です。具体的には
天武政権は大津宮を廃して、飛鳥に帰還します。そして新たな王宮を造営することなく、新しい国家防衛策を打ちだして行きます。それが唐帝国の支配イデオロギーや支配システムの導入です。具体的には
次の通りです
律令の編纂地方行政制度の整備地方有力者の郡司登用耕地管理制度(条里制)の構築戸籍管理による個別人身支配体制確立官道網の建設
このような中で、象徴的で最も重要な事業が大陸式の巨大な矩形都城・藤原京の造営だったと研究者は指摘します。
藤原京は20 年以上の歳月を費やして造営が続けられます。
694年、飛鳥浄御原宮から藤原宮に王宮が遷されます。ただし、完成はさらに遅れ、704 年のことになります。しかも完成しないままに終わったと研究者は考えています。
藤原京については、1996年以来の発掘調査から次のようなことが分かってきました。

694年、飛鳥浄御原宮から藤原宮に王宮が遷されます。ただし、完成はさらに遅れ、704 年のことになります。しかも完成しないままに終わったと研究者は考えています。
藤原京については、1996年以来の発掘調査から次のようなことが分かってきました。

藤原京
①10 条 10 坊の正方形の全体プラン②王宮が中央に設置
この参考史料になったのは、次の古代中国の周の国の制度を記したとされる『周礼』に説かれている理想の王城スタイルです。
これを強く意識したのが藤原京と研究者は考えています。藤原京造営の目的のひとつが、唐長安城をしのぐ皇都実現にありました。つまり、長安を強く意識した、基本的な設計図が作られたのです。こうして「藤原京 + 大宝律令」の完成という実績を積みし、古代国家の確立という自負をもって702 年(大宝2)に、遣唐使が派遣されます。これは669 年に中絶して以来、33 年ぶりの復活です。反新羅・反唐という外交政策の転換点でもあります。執節使(長官)に撰ばれたのは民部卿・粟田朝臣真人(あわたあそんまひと)でした。第7次遣唐使の一行が目にした長安城は、壮大で華麗な外観を呈する世界的基準の構築物でした。それまで自負していた藤原京が、かすんで見えたはずです。
これを強く意識したのが藤原京と研究者は考えています。藤原京造営の目的のひとつが、唐長安城をしのぐ皇都実現にありました。つまり、長安を強く意識した、基本的な設計図が作られたのです。こうして「藤原京 + 大宝律令」の完成という実績を積みし、古代国家の確立という自負をもって702 年(大宝2)に、遣唐使が派遣されます。これは669 年に中絶して以来、33 年ぶりの復活です。反新羅・反唐という外交政策の転換点でもあります。執節使(長官)に撰ばれたのは民部卿・粟田朝臣真人(あわたあそんまひと)でした。第7次遣唐使の一行が目にした長安城は、壮大で華麗な外観を呈する世界的基準の構築物でした。それまで自負していた藤原京が、かすんで見えたはずです。
藤原京のどこが問題だったのでしょうか?
①都城の顔となる羅城、羅城門がない②広大かつ長大でなければならない中央道路(朱雀大路)は、長安城の1/6の規模③藤原京の周囲には城壁がめぐらせてない
長安を実際に見て、粟田朝臣真人はすぐに感じ取ったはずです。藤原京では唐や新羅などの周辺諸国の使節団を迎えた時に胸を張って誇示できるものではない、この貧弱さでは、天皇の権威に傷が付くと思ったかもしれません。
当時の政権の中心人物・藤原不比等は藤原京遷都後に政権内での実権をほぼ掌握していました。しかし、まだ絶対的な権力を得てはない段階です。そのため彼は、造営プラン段階から藤原京では天皇の威信誇示装置としては、貧弱であると思っていたのかもしれませんが口が挟めなかったのかもしれません。そこで不比等は、未完成状態の藤原京建設を中止し、長安城タイプの新都を建設することの必要性を説いて、政権内部での賛同者の獲得を計ります。そのひとつの方策として、側近であり、当代きっての知識人でもある粟田真人を遣唐使を唐に派遣したことが考えられます。
704 年( 慶 雲 1) に 遣唐使が帰国すると、長安城を強く意識した新都の建設計画が動き始めます。そこには不比等の意向があったのでしょう。そして708 年(和銅1)には、平城京遷都の詔が発せられます。
完成した平城京を見ておきましょう。
平城京は南北に長い矩形に見えるので、横に長い長安城とはスタイルが違うようにみえます。しかし、上図のように長安城の4分の1の横長の矩形を90度回転させると、平城京と一致すると研究者は指摘します。また平城京の朱雀大路は幅が75mで長安城の朱雀街の1/2までに広くなっています。
平城京は南北に長い矩形に見えるので、横に長い長安城とはスタイルが違うようにみえます。しかし、上図のように長安城の4分の1の横長の矩形を90度回転させると、平城京と一致すると研究者は指摘します。また平城京の朱雀大路は幅が75mで長安城の朱雀街の1/2までに広くなっています。
平城京を初めとする日本古代都城は、その特質として羅城がなかったといわれてきました。
しかし、発掘調査から、外周を高さ5mほどの築地塀(城壁)があったことが分かってきました。長安城の城壁は「高さ一丈八尺(約5,3 m)とされるので、遜色のない高さのものがあったことになります。
平城京には、東南隅に大規模な人工の苑池が今もなお残っています。これも長安の東南隅の皇帝の離宮であった芙蓉苑と曲江池を真似た人工のもので、当初から設計図に書き込まれたものであるようです。このように平城京は、長安を引き写しにしたような要素がいくつも見られます。この背景には、唐の使節団に対しては、唐に対する恭順の姿勢を目に見える形で表現しようとしたと研究者は考えています。
①唐の圧倒的な軍事攻勢の中で、国家としての存亡を計ろうとした天武政権によって築造された。②独自の華夷システム=天皇を頂点として、隼人、蝦夷、新羅、のちには渤海を夷狄や蕃国として位置付ける統治システムを目に見える形で示す政治的な舞台としての役割が込められた。③唐に極力配慮しつつも、周辺の諸国、諸民族に対して天皇権力を誇示するシンボルモニュメントが平城京だった
言い方を換えると、藤原京、平城京の建設は、国家統合のシンボルとして、大陸式の都城を造営し、顕示する必要性があると不比等たちは考えたのでしょう。そして、ふたつの都城を作り上げて行くことは、それまでのように畿内だけの資材や資源で対応できるものでなかったのです。例えば、藤原京の宮殿は「本邦初の総瓦葺」でした。そのために畿内以外でも最新鋭のハイテク瓦工場を建設する必要がありました。それに応えたのが三野郡の丸部氏だったことは以前にお話ししました。丸部氏は、瓦職人である渡来系技術者たちを迎え入れ、粘土や燃料の木材を用意し、船で畿内に輸送する体制を整えていきます。これをやり遂げることで、郡司としての勤務評定はよくなります。このようにして、地方豪族をヤマト政権の忠実な下僕へと取り込んでいく道が開けます。
藤原京・平城京造営は、単なる土木事業ではなく、日本列島における国家構築の歴史の一コマでもあったようです。古代律令国家は、6世紀末の隋による中華統一帝国の誕生と、それに始まる対外征服戦争の緊張感の中で、どのようにして日本列島を防衛していくかという危機意識の中から生まれたと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」































































































































































































































































































