瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2026年02月

象頭山金毘羅全図1 新町 阿波町
金毘羅五街道 五街道が集まって一本の参道となる
「四国の道は、こんぴらに続く」と云われるように、五街道が金毘羅門前町で合流し、一本の参道となって本社につながっていました。そのうちの阿波から金比羅への道を「阿波みち」と呼んでいました。その街道の付け根に、お旅所(神事場)があり、街道にはノコ屋、目立て屋、ヤスリ屋、鍛治屋などがひしめていました。今回は、この阿波町について見ていくことにします。
  テキストは「町史ことひら3 民俗編 83P」です。
まず略図で阿波町の位置を確認しておきます。

金毘羅門前町
街道の合流位置は、次の通りでした。
①の髙松街道に、
②の丸亀街道が新町で北から合流
③の阿波街道が鞘橋手前で南から合流
⑤多度津街道が内町で北から合流
④伊予土佐街道が、谷川町で合流。
ここでは、③の阿波街道は鞘橋の東側が起点になっていたことを押さえておきます。それを18世紀初頭に描かれた「金毘羅大祭行列屏風図」で見ておきます。

金毘羅大祭行列屏風図 10
「金毘羅大祭行列屏風図」(金刀比羅宮宝物館)

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
            大祭行列屏風図 寺領入口の木戸から鞘橋まで

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
鞘橋周辺の拡大図 右下が阿波町

この部分からは次のような事が読み取れます。
①池の御領(天領)の榎井村から寺領への入口には木戸が設けられていること
②木戸から鞘橋まで街道沿いに「新町」が形成されていたが、その背後は田んぼであったこと
③新町の丸亀街道の合流点に石造の白い鳥居が建っていること
④鞘橋手前で南からの阿波街道が合流していること
⑤そして街道沿いに阿波町が形成されていること。
DSC01023鞘橋から阿波町
金毘羅門前町 阿波町
この絵図では阿波町が鞘橋を起点に、石淵附近までのびていたことが分かります。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新以後のことです。神事場のたりには雑木林が描かれています。注目したいのは、街並みが戸切れるところに柵のように見える木製の鳥居が描かれていることです。これは、あとで見ることにして幕末の阿波町を、讃岐国名勝図会で見ておきましょう。

大祭絵図 鞘橋・阿波町・金倉川 讃岐国名勝図会
           瀬川神事(後の大祭行列) 金毘羅参詣名所図会
この絵図からは次のような事が読み取れます。
①頭家行列が本社から下りてきて内町から鞘橋を渡ろうとしている
②金倉川の対岸には、神事場に続く阿波町の街並みが続く。
③建物は川にせり出すような2階建ての建物が並ぶ
④鞘橋の上流には小さな板橋も渡されている。
この絵図からは幕末の阿波町は、金倉川沿いに南に伸びて、その沿道が市街化していったことが裏付けられます。 文政五年(1822)に片岡正範が著した「証記」の中に「当地町方の事」には次のように、阿波町が記されています。
阿波町の事 是又昔はとぼとぼにこれ有り、今は繁昌し町並に成り阿波国え越く出口故阿已町と云う事
意訳変換しておくと
阿波町については、昔はぽつぽつとしか家がなかったが、今は繁盛して街並みとなっている。阿波への出口なので阿波町という。

先ほど見た阿波町の入口にあった鳥居を見ておきましょう。
 
3 阿波町鳥居
阿波町の鳥居(現在は学芸館前 もともとは南神苑(神事場)東側に立っていた)

この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の人たちによって奉納されています
鳥居の銘文にある講中の村々を挙げてみます。

 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町)・中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)

こうして見ると三好・三野・三加茂・井川・池田など三好郡の吉野川の両岸に分布する村々の人達の寄進で建立されたことが分かります。昼間村から講元引請人と世話人四人を出しているので、このエリアの人達が中心になって寄進奉納が行われたことがうかがえます。昼間には「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があって、箸蔵の修験者たちが金比羅周辺でも活動していたので、そんな関係もあったのかも知れません。ここでは、昼間村を中心とした勧進活動が行われ阿波町の入口に鳥居が建立されたことを押さえておきます。
 どうして阿讃山脈の向こう側の三好の人達が金毘羅門前町に鳥居を寄進したのでしょうか
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。金比羅は品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
阿波の人達によって寄進された石畳と玉垣・灯籠・鳥居などの寄進を歴史順に並べると次のようになります。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)  「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
4 玉垣桜馬場21
⑤の文久二年(1862)阿波敷石講中による桜馬場の玉垣 「阿州穴吹」と見える
ここからは、阿波の蜂須賀家の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進層の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことは以前にお話ししました。

DSC01447阿波町 阿波街道
琴平町阿波町 
「町史ことひら3 民俗編 83P」には阿波町の賑わいを次のように記します。

阿波町界隈には、ノコ屋九軒、ノコ目立て屋四軒、ヤスリ屋四軒のほか、農鍛冶屋、ヤリ屋、下駄屋布団屋、小間物屋、麦わら帽子屋豆腐屋、肥料屋、箱製造、表具屋、染め物屋、能屋、提灯屋八百屋、古物屋、酒屋、たばこ屋質屋果物屋、風呂屋、床屋、建材店、桶屋、精米店、佛壇屋、運送屋、魚屋、うどん屋等々が建ち並んでいた。徳島県からの参拝客だけでなく、ほかの街道を通った人達も、何でもそろっている阿波町に立ち寄った。

 ノコは山林用に使う大物から小物まで多彩。こんぴら参詣のついでに目立てノコを持参して、お参りする前に阿波町に立ち寄り、帰りに仕上がったノコをもらって帰った。日数のかかる目立てノコは、近所の人がこんぴら参りをするとき、持って帰ってくれた。その代わり、以前預けた人のノコを持ち帰ることもあった。

 阿波町のノコ製造は、江戸末期ごろから始まり、明治末期からは、谷口清太郎、山下長松浅田(庚申堂)の三人が「こんぴらノコ」の基礎を作った。材料のハガネは山陰の東郷や安木から仕入れ、フイゴと「トッテンカン」の荒打ち作業、仕上げ作業を経参詣客用の土産ノコを作った。
 
ヤリ屋は「ぼう屋とか」、ロクロを回すので「ロクロ屋」とも呼ばれる。

 江戸時代、槍の柄を作っていたので「ヤリ屋」と呼ぶ。ヤリ屋の仕事は、真樫で鍬の柄(え)を作ることだった。両方の掌にすっぽりと収まる柄は、真ん中にいくほど、細くなるように仕上げる。材料の真樫は、満濃町、仲南町・綾南町のヤリ屋仲間と一緒に、徳島県の半田や高知県の大辺りまで木を見に出かけて手に入れる。いい木があると伐ってもらい、柄が取れるように、クサビを打ち込み、カケヤを使って「フロワリ」する。あとは、フロワリした材を束ねて運び出す。原木のまま運ぶより、その方が作業がはかどる。フロワリした材は、二年以上仕事場で干す。しっかり乾燥した材は、狂いが少ない。一本作るのに、すべて手作業である。(中略)阿波町のヤリ屋の手仕事は、五色台の瀬戸内海民俗資料館に収蔵されている。

以上をまとめておきます。
①金毘羅門前の鞘橋から神事場にいたる街道沿いに阿波町が形成された。
②この町筋は、ノコやヤリ屋などの職人や阿波からやってきた人達が商売をしていた
③阿波三好の人達は、徳島城下町よりも金比羅の方が便利であったので、何かの折には阿波町の贔屓の店を利用した。
④そのため阿波町の鳥居は、三好郡の有力者の寄進によって建立されている。
⑤阿波街道を経ての人とモノの流れの起点となっていたのが阿波町であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら3 民俗編 83P」 
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P1190798
田野々の庚申塔
 阿波のソラの集落を廻っていると、お堂と庚申信仰の痕跡によく出会います。

庚申信仰=山伏形成説

山伏たちによって庚申信仰がソラの集落に拡げられ、そこをテリトリーとしていたことがうかがえます。ところが、私の住む金毘羅周辺には、庚申信仰はあまりみられません。どうしてなのか疑問に思っていましたが金光院日帳を見ていると疑問が解けてきました。今回は金光院と庚申信仰の関係を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら3 民俗編274P」です。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領 桃色が高松藩領

 金光院住職は、金比羅社領330石の小さいながらも領主で「お山の大将」でした。

そのため領主として禁令やお触れを出しています。禁令が出されると云うことは「禁止すべきようなことが当時は行われていた」ということです。そういう目で見ていきます。
①元禄二年(1689)十一月  髙松藩より境内での殺生禁止、山林竹木切るべからざるの制札下さる。
②元禄七年(1694)十月 宿貸し・遊女博奕停止のこと触す。
③正徳四年(1714)六月二十日 庚申待無用申し渡される。
④享保六年(1721)十一月八日 近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑥享保二十年(1735)一月十九日 町方で綱引のとき口論があり、以後綱引停止。
⑦寛保三年(1743)六月二十二日 (金倉川)川筋にて殺生禁の札を建てる。
⑧延享四年(1747)五月二日  内町虎屋兵次郎、入口玄関の普請分不相応につき閉門八日、破風玄関式台取り除き閉門御免。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用申渡す。
⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。
⑪宝暦二年(1752)二月九日  愛宕町の平兵衛、南の山にて小松を伐採したので追放。
⑫宝暦三年(1753)二月 曜日婚礼の折り、石打ちする者があり組頭とも閉門。
⑬宝暦五年(1755)七月二十九日 昼の葬礼また川より西にて火葬のこと無用申し渡す。
 十一月二十八日 醤油仕込みの節、老女呼び上げること無用。
⑮宝暦九年(1759)七月十三日 笛田村の相撲見無用。
⑯          七月二十四日 桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門
十二月十七日 町方借者に念を入れるよう申し渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
⑲明和二年(1765)五月十七日  神前近辺で薪をこしらえること御法度。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月   奉公人の宿貸しするのは風儀上良くないので無用申し渡す。
 十一月  会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。
㉓寛政四年(1792)八月  高松様御逝去の忌中のところ、謡をうたった者があり遠慮申し付ける。
㉔天保元年(1830)五月二十一日  社領の者に、一向宗法談聞のこと差し止める。
 九月十六日、   十二日夜に石打徒党の者に閉門申し付ける。
㉖天保五年(1834)五月十四日 五日の夜、鞘橋の下で殺生した内町屋太兵衛の清之助、同嶋屋金蔵伜十太、金山寺町弥三郎作俊吉、取調べのうえ入牢申し付けた。このほど格別を以て御免になり、それぞれの親へ預けるよう仰付られる。
       十一月二十九日  神前の灯籠を盗んだ甚兵衛件磯吉を召し捕え、裸乱髪に橋の下にさらし、五日目に追払い申し付ける。
㉘天保六年(1835)六月十九日 前町にて御守札に寄せの小絵図を売る者があるのを指し止める。
㉙天保七年(1836)五月十一日  出来屋善左衛門外二名、十二景図を土産に紛らわしく仕立てて売り出した咎により戸閉め申し付ける。
㉚弘化三年(1846)三月二十五日  榎井村口の諸殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。
 六月二十三日  石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。

まず庚申講について、見ておきましょう。

庚申待2

③の正徳四年(1714)の「庚申待無用申し渡される。」が、最初のお触れです。18世紀初頭に金毘羅周辺でも庚申信仰が広まってきたことがうかがえます。それに対し「庚申待無用」を金光院は通達しています。しかし、人々の信仰熱は押さえられません。約40年後の⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。」と再度の通達が出されています。
 補足すると次のようになります。

「夜遅くまで会合しても、決まり通り法中は法衣を着し修法などして、在家も真言を唱えて殊勝に待つのであれば祈疇にもなることであるが、そうではなく深夜まで遊興がましいことばかりするのでは無益であるだけでなく悪業をも増すことになって全く良くないので、法事のあとは夜食切りで解散するように心懸けること」

これは「深夜まで遊興がましいこと」を行う庚申待ちが流行してきたので、それにブレーキをかけるものです。しかし、「禁止」ではありません。一晩中寝ずに庚申待ちをするのは止めよと、後退した内容です。
庚申待ち2
庚申待ちの様子を描いた絵図 床の間に庚申さまが掛けられているが拝んでいるのはひとりだけ。あとはどんちゃん騒ぎの様子。
 以上をまとめておきます。
①金毘羅門前町では18世紀初頭には庚申信仰が流行神として拡がってくるようになった。
②これに対して金光院は「庚申講無用」とするが、広がりを押さえることは出来なかった。
③そこで18世紀半ばには、「庚申待は夜食切に仕舞え」と再度通達している。
④この背景には、庶民の中での庚申講の盛行があり、頭から禁止できないほどになっていたことが考えられる。
⑤しかし、金毘羅周辺には庚申碑は見られないので、庶民は金光院の意を汲んで石碑を建てることは
控えていたのかもしれない。

①⑦に見られるように社領内では、早くから殺生と竹木伐採が禁止されていました。
⑯では「桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門」とあり、自分の家の中の木を切ることも許可が無ければできなかったようです。
には「神前近辺で薪をこしらえる(採取)こと御法度」とあり、本社周辺では薪拾いも禁止されています。㉖には、「鞘橋の下で殺生した三人に取調べのうえ入牢申し付けた。」とあります。
㉚の弘化三年(1846)になると、(髙松街道の入口の)「榎井村口に殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。」とあり、㉛には、「石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。」とあります。ここからは幕末には、榎井村口、石渕、佐文の牛屋口(西口峠)など、社領と隣村の境には領内での殺生禁止と木竹伐採禁止の立札が建てられていたことが分かります。鞘橋のかかる金倉川には社家による大祓や、僧侶の流れ勧進が行われていました。また参詣者が垢離をとる所でもありました。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋の下の金倉川は垢離取り場でもあった(金毘羅大祭行列屏風 18世紀初頭)
金倉川は神聖な川であり、そこで殺生を行うことは禁止されていたことを押さえておきます。

金毘羅周辺の村々で行われる行事には、金比羅領民は参加すべからずというのが金光院の基本方針だったようです。
④享保六年(1721)十一月八日  近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用中渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。 
以上からは近在の村で芝居・相撲などがあっても、領内の者には「見物無用(行ってはならぬ)」という氏姓です。これは領内の芝居の繁栄を考えたためなのでしょうか? 私にはよく分かりません。

 金毘羅は門前町として繁盛するにつれて、周辺からの人口流入が強まり、都市化が進みます。
そのため流入者が増えて住宅需要が増大します。流入者は借屋を探すのですが、治安にも関係するので勝手に貸すことは禁止されて、借人諸状のこともやかましく言われていたようです。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月 奉公人が参詣人に宿貸しするのは風儀上良くないので無用。
十一月 会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。

逆にいうと18世紀後半頃から参拝客の増加や、周辺農民の流入による住宅不足が深刻化していたことがうかがえます。金毘羅の都市化は、18世紀後半になって拍車がかかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
]
参考文献 「町史ことひら3 民俗編274P」
関連記

 金光院の初代院主宥盛は、高野山で学んだ真言僧侶であると同時に、修験者で天狗信仰の持ち主でした。彼は象頭山にあったいろいろな宗教施設との権力闘争に勝ち抜いて支配権を得ていきます。明治以前の金毘羅大権現は別当寺の金光院が寺領の小領主となり「お山の大将」として支配するようになります。ある意味では、金毘羅大権現は「流行(はやり)神」として急成長していった「成り上がりもの」でした。そのため周辺寺社から羨望や反発を受けることもあったようです。その例が善通寺誕生院から出された「金光院は、我が寺の末寺である」という次のような提訴であることは以前にお話ししました。

善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い

以後、金光院は周辺寺院との反発や軋轢を生まないような対応を心がけたようです。それでは金光院は周辺の真言寺院と、どのような関係を保っていたのでしょうか。テキストは「町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」です。
 初代高松藩主松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、18世紀初頭の元禄年間になると讃岐の諸寺院を圧倒する力を持つようになります。その結果、近郷諸寺院からも色々な依頼や願い出を受けるようになります。その依頼や対応について、金光院日帳の中の記事を抜き出したものを見ていくことにします。 

享保十一年(1726)
十一年二月二十日 予州宅善寺から、三月二十二日には多度郡明王院(道隆寺)から灌頂道具を借用依頼
十七年三月十九日 三野郡威徳院から灌頂道具を借用依頼、四月四日返納
十九年二月十七日 多度郡明王院と阿野郡摩尼珠院から、三月十一日には伊予誓源寺と一ノ宮大宝院から法衣借用を申し出る。

この年は、弘法大師九百年遠忌の年であったので法衣の借用申し入れが多かったようです。多度津の道隆寺は、潅頂用具や法衣などを金光院から借用しています。その他の借用依頼のあった寺名を挙げておきます。
享保二十(1730)年十月二十二日 阿州雲辺寺から曼荼羅供の道具借用
寛保三(1743)年十月十七日 高松無量寿院へ法衣貸与。
宝暦二年二月二十六日 中津村正花寺から天満宮年忌につき法衣借用申し出る。
宝暦十三年六月七日 白峯寺より法衣借用依頼。
文化元年(1804)九月二十五日 善通寺五重塔落慶供養につき丸亀藩役人より法衣借用申し来る。
文化十年二月八日 崇徳天皇六百五十年忌につき、摩尼珠院より霊宝拝借したき旨願い出る。
ここからは、雲辺寺・無量寿院・白峰寺などからも特別な行事に着用する法衣を借りに来ていることが分かります。財政的に豊かだった金光院は、高価な法衣もそろえていたようです。また、本末論争を展開した善通寺誕生院も19世紀初めには、法衣借用を丸亀藩を通じて申し出ています。

次に立札の依頼を見ていくことにします。

天明四年(1784)1月多度郡善通寺から、弘法大師九百五十年遠忌の建札の件願い出る。坂口に建てさせる。
文化十一(1814)年十一月十七日 丸亀円光寺が法華経講釈致したく、小坂下に建札したき旨願い出る。
文化十四(1817)年三月九日 多度郡生野村浄証寺、開帳につき建札願。
文久二(1862)年一月十七日 予州石槌山開帳に付き、当建札のこと願い出る。
文久八年七月一日 隣村榎井村玄龍寺社領内に建札したき旨願い出る。
那珂郡西念寺、説法の建札社領内に建てたい旨願い出る。
 善通寺や石鎚山から賑わう金毘羅門前町に開帳などの立札を立てさせてくれとの依頼もあります。

また、他寺の火災再建などについても、次のように援助の手を差し伸べています
宝暦元年(1751)6月2日 天領池領の龍松寺から材木をもらいたいと願い出た。それは断り、代りに本尊へ三百疋供える。
安永五年(1776)10月27日 高野山浄菩提院焼失につき寄進を願い出る。
文化九(1812)年十月二十日 那珂郡恵光寺(買田)全焼、助情として文銭十貫文遣わす。
天保十二年(1841)十一月五日 三野郡財田村伊舎那院楼上棟につき鏡餅を献上する。使者を以て金三百疋・昆布三連遺わす。
同月二十三日 京都愛宕山福寿院社頭再建に付き寄附を願い出る。
慶応三年(1867)六月二十日 榎井村興泉寺へ本堂再建資金二百両遣わす。
こうして見ると、周辺の天領や買田などの寺に対しては、多額の援助を行っています。疑問なのは、榎井の興泉寺は真宗興正派に転宗していますが、宗派を超えて「本堂再建資金二百両」を提供していることです。金光院と興泉寺の特別な関係がうかがえます。また、京都愛宕山福寿院の社頭再建を援助しています。象頭山に続く愛宕山は、愛宕信仰の拠点として修験者たちが活発な動きを見せていた所であることは以前にお話ししました。本家の京都の愛宕山との関係があったことが、ここからはうかがえます。

また、面白い所では次のような記録も残っています。

宝暦六(1756)年四月九日 阿州極楽寺隠居、四国巡拝の途中路の借用を頼み来る。三十目貸与。

これは四国巡礼に出た阿波の極楽寺の隠居が、金毘羅に立ち寄った際に路銀借用を願い出てきたので三十目貸したというものです。この時期には、四国の真言僧侶が四国巡礼に出ていたことが分かります。また、当時の四国巡礼では金毘羅大権現は札所ではありませんが、参拝するのが当然であったことは以前にお話ししました。
このように金光院が社領を朱印地として認められ、勅願所でもあり、徳川家祈願所でもあるという格式を持つようになると、周辺寺院から頼りとされるようになっていたことがうかがえます。また宗派の寺院でも、住職交替の挨拶に登山し、以後は出入りを願うというような例が多かったようです。それに対して金光院は、たいていの願い事は聞き届けていたようです。そのため善通寺よりも金比羅の金光院の方が頼りになると云われていたようです。

金光院歴代院主一覧
歴代金光院院主一覧

次に9代目金光院院主の宥弁の一周忌の法事について、どんな寺院がやってきているのかを金光院日帳で見ておきましょう。
 宥弁は宝暦10(1760)年十二月五日に江戸で亡くなりました。一周忌の法要には、次のような寺に使僧が案内しています。
丸亀藩領内
下勝間威徳院・仁尾覚成院 仁尾瑞雲院 本山持宝院・財田伊舎邪院・同所宮坊・上ノ村萬福寺・上高ノ村延命院・西ノ村宗運寺・中ノ村薬師坊・姫ノ浜満願寺・大野阿弥陀院・下高野延寿寺・上高野宝積院・大野薬王寺・加茂明王院・笠岡長林寺・
高松藩領
円明院・東福寺・愛染寺・行徳院・大宝院・栗熊能満寺・栗熊円福寺・羽床菩提院・滝宮龍灯院・四条村の浄願院・弘安寺・長尾村の佐岡寺・川津村の宝珠院
讃岐以外
伊予川之江の宅善寺・阿波の舞寺・林下寺・極楽寺
案内した寺院の分布を見ると、高松領よりも丸亀領の方が多いようです。特に三豊とのつながりがうかがえます。以上が金光院と密接な関係にあった寺院と云えるようです。気になるのは、近隣の天領のこう
十一月二日に、法要に向けた役割分担が院主から次のように言い渡され準備が進められます。
膳方奉行役人二人・膳方働人十四人・富士の間給仕人 内町綿屋清兵衛・同山屋富弥新町つねや惣右衛門・阿玉屋半蔵・同伊せや伊助・片原町國屋条松同石田屋孫七(四日の朝六時、羽織袴で登山する)
町料理札之前丹治郎・金山寺町吉次・横町金二郎・西山長七
夜具奉行役人二人 風呂奉行は玄関を兼ねて役人一人・台所奉行役人二人・長屋奉行役人一人・御次役人三人・玄関役人九人・生菓子方役人一人と手明日雇二人。町方からの夜具二十通・木綿の夜具十通借り上げる。寺には絹の夜具十通は備え付けがある。 
十一月四日 二日法要なので前日から案内があった住職がやってきます。

阿波林下寺以下三十一か寺で、うち羽間佐岡寺は隠居が来られ、川之江宅善寺・高松蓮花寺・栗熊円満寺は代僧が見えた。諸寺院の弟子衆は二十六人、下部は六十人ばかりであった。右の寺院方へまず落付の煮染と茶を差し出した。諸寺院がそろったところで、お上は、上之間でお逢いになった。終わって午後四時、二汁五菜の食事を出す。膳部は百人前用意しておく。濃茶は五人詰にして出す。茶葉は羊羹・鰻頭・川葺である。食事の間に、お上は顔を出してあいさつされ、脇坊・役人もあいさつに出て来る。院内の出家分、先住実家の当主等へも二汁五菜の料理・茶菓子を出す。

金光院日帳は、後のための記録資料として記録係が書いていたので、出されたお茶やお菓子などが具体的に記録されています。これが後世の担当者にとっては、役立つ史料となったのでしょう。暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、本堂の観音堂ではありません。表書院で行われています。

表書院平面図
表書院平面図 もともとは仏間があった
 食事が終わり、暮時分から法事が始まる。光明三昧の導師は上高村延命院、光明真言頭は下勝間威徳院、前讃は高松東福寺、伽陀は阿州林下寺が勤める。七賢の間から虎の間にかけて仏前の荘厳として檀・三方・折敷・玉幡二流・小幡四流・花鬘三ツ大幡六流を飾る。お供え物は御本尊へ饅頭二盛(盛五十積)干菓子二盛・柿一盛(以上塗三宝)・羊羹一盛・金子台、御神前へは饅頭一盛(五十積)・干菓子一盛・団子一盛・祐一盛(以上白木脚打)羊羹一盛・金子台、先寺様総牌前へは干菓子一盛・饅頭一盛(五十積、共に白木脚打)を供えた。外に諸方から到来した品々を見合わせに少しずつ供える。
 お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。
今夜は客僧衆また院内の出家迄、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。院内の侍以下にも夜食を出す。
 加羅風呂屋に据風呂を二つ建てて客僧衆が追々に入られる。客僧衆のお供は長屋で朝夕とも一汁二菜の食事を出す。ここでも長前に据え風呂を二つ建てて入らせる。
 今夜は夜廻りを出し、拍子木を打って院内を回らせる。台所の使い水が不足なので町方から汲み上げさせる。今晩から明日にかけて非人たちに施行をする。
導師の名前、仏前の荘厳(飾り付け)、お供え物、夜食などが記されています。夜食には、饂飩が出されています。讃岐における饂飩の普及は、法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。また、臨時の風呂も用意されています。非人立ちへの施しがされています。金毘羅門前町にも非人たちがいたことが分かります。
翌日の法要です。 
焼香は役人・侍分から始め、焼香台を富士の間の敷居の内一畳目くらいに置き直して手代・料理人・諸方の屋敷守と続く。そのまた、台を持仏堂入口に置き直して町方重立の者たちが焼香する。終わって、持仏堂正面の虎の間敷居際へ焼香台を出し、客僧衆焼香がある。
 終わって昨日の通り二汁五菜のお膳を出す。お膳の途中で、お上また脇坊役人中があいさつに出られることも昨日と同じである。茶菓子は餅と煮染を銘々盆で出す。薄茶も出す。
 お膳の後、お布施を拵えて払方が脇坊中へ渡し、脇坊中の取り計らいで列座の場へ盆に乗せて給仕の者に取らせる。本寺衆・一寺衆は金二百疋宛、末寺衆は金百疋宛である。諸寺院の弟子たちは銀二両ずつ、当山の脇坊中は金百疋、同宿は銀二両ずつであっ客衆がだんだん帰られるので、お上も表へ出て来られお暇いをされる。
   お墓所へ五寸角一丈二尺余の卒都婆を建て香花を供え、墓前に縁取りを一枚ほど敷いておく。役人はじめ侍中へは餅と煮染を銘々に盛って、通りの間・六畳敷きなどで見合わせに出す。中通り以下の者にも食べさせる。法事のお供え料として十疋ずつ役人中から、五十銅ずつ差し上げる。お次表諸役手の侍中からも豆腐・菓子などを差し上げる。(以下略)
焼香の順番、お膳内容が記され、お布施については金額や、その渡し方まで記されています。その後に墓所にも出向いて卒塔婆を建てています。
  こうしてみると金毘羅大権現は金光院という別当寺が支配し、近隣の真言寺院のネットーワークの核として機能していたことがうかがえます。しかし、注意しておきたいのは最初に見た本末争論を展開した善通寺の誕生院は呼ばれていないことです。誕生院と金光院は、その後も反目状態にあったのかもしれません。 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  
町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」
金毘羅庶民信仰資料集 年表編
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金光院日帳 1834年 正月
江戸時代に金刀比羅宮を管理していた別当寺の金光院の日帳を見ています。前回は金光院院主は元旦には、まず護摩堂で護摩祈祷を行った後で、神前奉納を行っていたこと、「仏が先、神は後」であったことを見ました。今回は正月三日から始まる参籠について見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
 金光院日帳には、次のように記されています。
正月三日 午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。
正月四日  お山の口明け。小頭・中間が神酒一升持参ででかけ、薪一荷ずつ拵える。 松葉は瓦屋へ渡す。
三日から参籠が始まります。子房(脇坊)も、これに従っています。
四日の「口明け」というのは、「はじまり」を意味する言葉で、象頭山への入山解禁を山の口明けとか山の口と云っていたようです。小頭と中原が神酒をもって山に入り、山を浄めた後に、薪を一荷だけ山から下ろしています。作業というよりも、これも儀式です。
正月五日 町方重立の者へお節を下さる。正午ごろ登山、料理一汁二菜、酒肴三種、吸い物なし。東西領の出入りの中、今日も登山。
 正月六日 参籠の中日なので台所で①饂飩(うどん)を拵えて籠所へ差し上げる。ただし、②切り火で整える。③金剛坊宥盛の祥月なので尊前へ仏供を供える。

 ここで注目したいのは、参籠の中日に饂飩が出されていることです。饂飩が讃岐で最初に確認できる史料は、元禄時代の「金毘羅大祭行列屏風」です。

金毘羅大祭行列屏風図 10
元禄時代の金毘羅大祭行列屏風図(金刀比羅宮宝物館)
この大きな屏風図の中には、次の3軒のうどん屋が描かれています。

1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風

1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

1 金毘羅祭礼図のうどん屋2

1 うどん屋の看板 2jpg

軒先に、この招牌が掲げられているのでうどん屋であることが分かります。現在の所では、これが讃岐で最初に登場する饂飩屋の絵図史料になるようです。文書史料としては、金光院日帳のものが一番古いのではないかと思います。空海が饂飩を持ち帰ったというのは俗説で、饂飩が登場するのは近世になってからです。それが金光院では正月参籠の中日に出されていたことを押さえておきます。
 
参籠中日に出す饂飩の調理は「切り火(きりび)で整える」とあります。
これは火打石と火打鎌(鉄片)を打ち合わせて火花を出し、厄除け、清め、邪気払いを祈願する日本古来の伝統的な風習です。鬼滅の刃にも、次のように登場します。
鬼滅の刃】狛治と恋雪さん、かまぼこ隊に切り火で魔除けをする 【コラ注意】

  正月七日
 七草の雑煮を籠所で差し上げる。 年男が若餅を籠所へ持参して、お上に直接差し上げる。
「弘化行事」 脇坊・役人そのほか一統 籠所で人日のあいさつを申し上げる。
  正月八日 
神前お経の口明。 籠所での鏡餅を雑煮にして出す。また小附飯も出す。 本坊でも鏡餅を雑煮にして出勤している者一同に下さる。酒は出さない。
「宝暦九年日帳」 お経の口明、雑煮だけであったが蓋の飯も出すようせ出される。
  正月九日
 いつものように当月御祈の札守を高松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げるので、寺社奉行まで使僧を差し出す。昨年の暮れ、お申越しの五穀成就の祈祷の札守も一緒に差し上げる。明日からの会式の役割を申し渡す。 夜、町方から寄進の掛行灯を御神前までの道筋にともす。 表門へ菊の紋付の雪洞一ツ台行灯ともす。 黒門は平常の金灯籠で済ませる。 御守所へ晒幕を掛け、菊の紋付の雪洞一ツ、内に大行灯をともす。
「弘化行事」 参籠結願なので脇坊・法中が籠所へ恐悦のあいさつに上る。
  正月十日 
役割の通り、銘々詰所へ出動する。 護摩堂で恒例の大般若の修行があり、衆僧へ昼食に焼飯を出し、斎(とき)・非時(ひじ)は籠範所で出す。焼飯は切り火で拵える。
 参籠中の食事は、「籠堂へ持参」とあります。お籠もりなので。本坊には下りてこずに籠所で夜も過ごしたことが分かります。また、正月に院主が護摩堂で祈祷祈願したお守りは、「髙松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げる」とありますが、丸亀藩については何も記されていません。9日が参籠結願の日です。この日には、参道の燈籠に灯りが灯されます。こうして3日から9日まで続いた参籠が終わります。
 それでは院主が参籠した籠所とは、どこにあったのでしょうか?
金毘羅大権現 本社と観音堂 讃岐国名勝図会


讃岐国名勝図会の絵図をつなぎ合わせてみます。右が金毘羅大権現の本社、左が松尾寺本堂の観音堂です。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
            金毘羅大権現の松尾寺本堂 観音堂(讃岐国名勝図会)
伽藍の一番南に「籠堂」とあります。ここに金光院主は正月に1週間ほど参籠していたようです。しかし、そこで何を行っていたのかは、いまの私にはよく分かりません。
 中世の参籠の流儀を見ておきましょう。
 まず、七日七夜をかけて参籠に先立って精進潔斎します。到着すると祓殿(はらえどの)で身を清め、斎屋(ゆや)で斎戒沐浴(さいかいもくよく)します。夜になると本堂に上がり、御師(おし:祈祷僧)に願文を託して、夜通し祈りを捧げ、夢のお告げを待ちました。夜が明けると、一旦、籠所に下がります。籠所のない所では、斎屋・橋殿・僧坊などが利用されたようです。そして、夜になるとまた本堂に上がることを繰り返します。裕福な層の人たちは、あらかじめ本堂と籠所にスペースを局(つぼね)を確保しました。そうでない人たちは、床下などに籠ることもあったようです。帰宅すると精進落としをして一区切りとなります。
 金光院院主は金毘羅大権現の最高指導者で、330石の寺領朱印地の小領主でもありました。ここでは、その地位にある人物が一週間の参籠を年頭に行っています。その背景には、金光院院主の出発地点が、天狗信仰の修験者に始まると云うことを示す者ではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事
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 金刀比羅宮は、明治維新の神仏分離までは神仏が習合した信仰の場で金毘羅大権現という神号社号で呼ばれていました。山号・象頭山、寺号・松尾寺、院号・金光院と称する古義真言宗の無本寺で、金光院住職は金毘羅大権現の別当職として神前奉仕を行っていました。それでは具体的にはどんな宗教活動を金光院院主は行っていたのでしょうか。それを「金光院日帳」で見ていくことにします。

金光院日帳
金光院日帳(記)
金光院日帳 1834年 正月
金光院日帳1756年 正月

金光院日帳は金光院院主側近の側用人と、脇坊と重役が勤める役の両方から提出された情報を、用人部屋で記録したものです。そのため院主の動静がよく分かります。院主は、「御上(おかみ)」「御前(ごぜん)」「旦那様」などと記されています。宝暦年間 (1751~64)に、院主がどんな活動をしていたか、まず正月元旦の様子から見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
正月朔日
 お上(金光院院主)、午前零時お目覚め、若湯を召される。このとき土蔵奉行が湯を差し上げる。午前一時、①護摩堂へ出仕、天下泰平・国家安全祈疇のため護摩供を開白、二時ごろ終わり居間へ入る。

ここからは金光院院主が、年の初めにまず行う事は、護摩堂での護摩祈祷であったことが分かります。
ここに出てくる護摩堂について見ておきましょう。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂と、その本尊の不動明王(金刀比羅宮宝物館)

 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。(意訳)
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では、金光院の僧侶達によって連日護摩が焚かれたことが分かります。
この護摩堂の本尊が、現在宝物館に展示されている不動明王になります。この不道明王は「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出している」と報告されています。「ただれ跡の剥落」は「かつて護摩を焚いた熱によるもの」と研究者は考えています。ここでは、金光院院主の年頭最初の仕事は、護摩堂で不動明王に向かって護摩祈祷をおこなうことであったことを押さえておきます。

弘化年間の日記には、次のように記されています。
護摩修行を終えて帰りがけ、御影堂・阿弥陀堂・持仏堂歳徳神・大黒天・奥の間毘沙門天を順拝される。

ここからは、阿弥陀堂や大黒天・毘沙門天なども当時の金毘羅大権現には安置されていたことが分かります。

konpira_genroku 元禄末頃境内図:
                    金刀比羅宮 元禄末頃(1704)境内図
午前2時頃に護摩祈祷から帰った後の動きを見ておきましょう。

ほどなく、②書院の間で寺院のあいさつを受ける。続いて同宿役人・人・医師・侍・神役・茶道がお礼を申し上げる。次に③富士の間で御供禅門・男・五師・冶師などの御礼を受けられる。右の者と同席に百姓組頭・三条村百姓町方独礼のがお礼、大井宮神主も御礼申し上げる次に、次に④通りの間で小頭共、さらに⑤大台所で草履取・中間・堂禅門伽藍中間・勝手門番・畑男・前屋敷番・太鼓打・下屋敷番・地方肝煮・山留共がそろってお礼。
   次に、⑥お上へ蓮菜・口取・大福茶を差し上げ、寺院書院・法中・役人へ大福茶を出す。
つづいて⑦寺中・法中・役人御相伴にて雑煮を差し上げる。酒は三献、肴は二種、梅干とせり。次に七賢の間で町方御用のお礼を受けられる。
ここからは次のような事が読み取れます。
②③④⑤からは、各スタッフや町衆の指導者から年頭の挨拶を表書院で受けています。そこには、だれがやって来て、どの部屋に通して、何を出したかがきちんと記録されています。

表書院3
ここで注意しておきたいのは、身分によって使用される部屋が異なることです。
『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が客殿であったことに触れた後、次のように記します。(意訳)

公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿(表書院)を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここからは、各間が次のような役割を持っていたことが分かります。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

表書院展開図2
江戸時代後期の表書院各間は、身分可視化の場でもあった

年頭の挨拶を受けた後は、神前に向かいます。
 しばらく居間で休憩して神前出仕。供は奥の者六人、外に七人。
 ⑦神前では恒例の神事、五人百姓・神役も出仕する。⑧終わって午前八時、本坊へ降りる。
⑦からは、護摩祈祷後に本殿に上がって、五人百姓や神官とともに神事を行っています。ここには、僧侶は出席していないようです。その神事の内容については、よく分かりません。神事を終えて、本坊に下りてくるのが午前8時です。そこで、また次のように挨拶を受けます。
⑨休息のあと七賢の間で町年寄また重立の者のあいさつを受ける。つづいて⑩富士の間で町医者・各町組頭のあいさつを受ける。この時、町重立の者は前々通り、御守所でお守りを頂戴する。
 ⑪小松庄の五條・榎井・苗田・四条の四ヶ村また隣郷の、前々から出入りしている人達が登山してお礼のあいさつを申し上げる。今日は朝夕とも、院内上下の者に雑煮とお節、また酒も下さる。お節は脇坊・役人・法中は富士の間でお相伴で頂く。
 ⑫明後三日からの参籠のお供のお触れがある。高松のお船の祈祷を船行宛に手紙を添えて使僧に持たせてやる。

⑨⑩⑪などからは町年寄や町医者・町組頭など身分に応じて、通される部屋が違っています。身分を可視化するための装置として、表書院の各部屋は造られていたことを押さえておきます。

表書院平面図
江戸時代中期の表書院平面図
 表書院の間取図を見ると、上段・二之間・七賢間・虎の間(広間)・鶴の間・富士の間などの名称や間取りは、現在とほとんど変わらないようです。大きい違いは、上段・二之間と富士の間に挟まれて仏壇と仏間があることです。この仏間は、持仏堂と呼ばれて法要が営まれていました。これは、明治の神仏分離で取り払われます。正月などに町方の者が登山して料理や酒が振る舞われるのが「通りの間」や大台所が表書院に、もともとはあったことを押さえておきます。 
それでは正月二日に進みます。
 朝飯後、高松領・丸亀領のこれまで出入りの人達があいさつに登山、お次の広間で逢われる。登山の人々に吸い物・酒を出す。恒例の畑の耕し初めがあり、銚子に酒を少し入れ、畑で松幣を建てる。

「弘化年間」には、「町方重立の者・御用組頭のあいさつを受ける。 夜、座の間で謡初、酒がある。」と記されています。
  正月三日  
昨日と同じように東西領の出入りの人達があいさつに登山する。 財田中之村の百姓も毎年のように登山。 丸亀・高松・萱原の屋敷守も御礼に参上する。近在の寺院が三ヶ日のうちに登山した場合は酒と吸い物を出す。午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。

正月年賀の挨拶参りの人達のがやってきますが、その参賀日にはルールがあったようです。元旦は、各院主からはじまり、スタッフ、門前町の町衆代表などで、2・3日には周辺の人達と同心円的に拡がって行きます。正月3日に「財田中の村百姓も毎年のように登山」とあるのは、金光院主を輩出する山下家の出里が財田であったためのようで、その縁から来ているようです。
そして、3日4時からは6日間の参籠が始まります。これについては、また次回に
以上をまとめておきます。
①明治以前の神仏混時代の金毘羅大権現では、真言僧侶の金光院院主が「小領主」として支配していた。
②正月年頭に、最初に行う事は護摩祈祷であり、金光院の修験者的性格を引き継いでいる。
③「仏道が先、神事は後」で、神前儀式は護摩祈祷の後に行われている。
④金光院の客殿(表書院)には、年頭挨拶に訪れる時間帯が身分毎に決められていた。
⑤また、身分毎に通される部屋も異なっており、各身分を視覚化し、再確認させる場ともなっていた。
⑥金光院日帳には、やって来た人々、通された部屋、出された飲食物などが記載されて、後の参考にされた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」
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法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部


法照寺寺史の歴代住職一覧は、15代霊順法師について次のように記します。

大正2(1913)年 12月31年没 
未生流皆伝(諸国総会司)。経済力に強く、寺田1町を小作人に耕作させ、寺経済に寄与していた
 
    前後の在職年数を整理すると、先代は幕末から明治半ばまで34年に渡って住職を務めています。
                 在職期間     在職年数
14代 勧浄法師 万延 元年~明治27年  34年    漢方薬「奇妙湯」調合販売
15代 霊順法師 明治27年~大正 2年  19年  未生流皆伝(諸国総会司)                             
先代の勧浄による漢方薬「奇妙湯」調合販売が経済的にプラスに働いたのか、霊順については「経済力に強く、寺田1町歩を小作人に耕作させ、寺経済に寄与」と、「未生流(立花)皆伝(諸国総会司)」と記されています。法照寺には、未生流の「初傳・中傳・奥傳」の3冊と、立花絵図と「天円地方」論などの書物が残されています。これらの書物は総て、師範である如松斎丹波法橋の署名と印があり、彼から免許の授与と同時に渡されたもののようで、時期は明治13年前後のものになります。この時期に、霊順が如松斎丹波法橋から未生流を学んでいたことが分かります。今回は、これらの花伝書を見ていくことにします。
初傳表紙
高井流 立花初傳關疑抄 (法照寺文書)
巻末を見てみます。

如松斎丹波法橋 初傳 明治14年10月

              高井流 立花初傳關疑抄の巻末
如松斎丹波法橋(藤原氏貫)が、明治14年10月に三好霊順に初傳を相伝したことが分かります。次に中傳を見ておきましょう。

如松斎丹波法橋 中伝巻末明治13年11月

中伝の巻末は、虫に食われてボロボロになっています。名前の部分が失われていますが、如松斎丹波法橋が三好霊順に与えたものでしょう。注意しておきたいのは、以下の二点です。
①如松斎丹波法橋が「未生流家元 国會司師範代」と名のっていること
②日付が明治13年11月で、相伝された花伝書の中では一番早いこと

次に奥傳の「如松流 立華奥傳秘極書」を見ておきます。

如松流 立華奥傳秘極書            嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
年号はありませんが、如松斎丹波法橋が未生流から独立して「如松流」を名のり、その家元と称していたこと、また、三好霊順の華号が蓮甫であったことが分かります。

如松斎丹波法橋 花伝絵図1

       嵯峨御所御立花職 兼未生家師範代 如松齊園田丹波法橋撰 慶応初年

如松斎丹波法橋 花伝絵図巻末 三好家宝物
巻末に「佐文村 三好家有宝物」と記されている
ここからは、これらの花伝書が「宝物」として、法照寺に伝えられてきたことがうかがえます。
明治初期に、未生流立花を三好霊順に伝えた如松斎丹波法橋とは何者なのでしょうか?

増田穣三法然堂碑文.J2PG
        園田翁(如松斎丹波法橋)顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
 丹波法橋の顕彰碑が宮田の西光寺境内に建っています。これについては以前にお話し、内容を年表的にまとめると次のようにまとめておきました。
①如松斉は丹波国、園田市左衛門の二男で、悟譽蓬山和尚という浄土宗西山派の僧侶
②文久2(1862)年 西光寺第17世住職となり堂塔修繕など功績多し
③明治4(1871)年2月10日、生間の豊島家の持庵に移り、未生流師範として活動
④遠近から教わりに来る者が多く、各地方に招かれて出張指導も行った。
⑤その結果、未生流は広く那珂郡南部一帯に広がり、門弟は六百余名に達した。
⑥明治13・14年 三好霊順に初・中・奥傳を伝授
⑦明治16(1883)年2月17日死去、享年76歳。
⑧生前に春日の増田秋峰(穣三:後の国会議員)に家元を継承させる
ここからは幕末に丹波法橋が廻国の僧侶として、西光寺にやってきて勧進活動を進めて堂塔修繕をおこなったこと、その後は引退して10年余りを未生流華道の普及に尽くしたことが分かります。
丹波法橋の七回忌にあたる明治23(1890)年4月に、この碑は建立されています。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。

増田穣三法然堂碑文

その先頭にあるのは、池元を継承した増田秋峰(穣三)です。2番目の田岡泰は、穣三の幼なじみので、初代七箇村村長になる人物です。この二人は、丹波法橋が亡くなった時には27歳でした。そして3番目に三好霊順の名前があります。ここからは次のような情報が読み取れます。
①筆頭に名前のある増田穣三が如松斉亡き後の門下を束ね、如松流家元を継承した
②三好霊順も丹波法橋に高く評価され、如松流立花集団の中で髙い立場にあり、さまざまな文化人との交流があった
③立花集団の指導者の年齢が20代後半で、非常に若いこと

尾﨑清甫 華道作品
如松流立花の作品 (尾﨑家)
 如松流の創始者である如松斎丹波法橋が住職を務めた「法然堂」の春市には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていたようです。それらを取り仕切ったのも若き日の増田穣三や三好霊順だったのでしょう。華道を通じて霊順の人的ネットワークも広がります。また、霊順は地元の佐文でも青年たちに、未生流立花の指導を行ったようです。その中から現れるのが三好霊順と同じ佐文に住む尾﨑伝次(蔵)です。伝次は、霊順の指導で如松流を学ぶようになり、明治24年に次のような皆伝を2代目家元の増田秋峰(穣三)から受けています。

尾﨑清甫華道免許状
               尾﨑伝次(清甫)の免許状 秋峰(穣三)の名前が見える

以上の未生流の家元継承を表にすると以下のようになります。

増田穣三・尾﨑清甫

ここでは三好霊順は、浄土真宗の僧侶としてだけでなく、如松流立花の高弟、漢方薬「奇妙湯」の製造販売元という肩書きをもって活動していたことを押さえておきます。

未生流物販 – 未生流
未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。
江戸時代後半になって町人文化が成熟期に入ると、生花にも多くの流派が生まれます。中には花をいけるに理屈は関係なく、ただ上手に生けられればいいとする風潮や、変わった形や、複雑化、単に形のための形を求めるといった流れも出てきます。
そのような中で 未生斎一甫は、文化十三年(1816年) 「生花百錬」を著します。

流派のあゆみ – 未生流

花とは何か。どうして美しく咲いている花を切って活けるのかということを問いかけます。そして「未生自然の花矩(はながね)」にたどりつきます。これは「天地創造に当たって、混沌としたカオスが生命の根源として存在する。」という立場で、立花を通じて、宇宙観、生命観を追求していくというスタイルをとります。
本朝 挿花百練(著:未生斎一甫 画:蔀関牛) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

未生斎一甫の「生花百錬」
この中で未生自然の花矩とは「天円地方説」という宇宙観から成り立っているとします。

天を円形、地を正方形で表し、円に正方形を内接してできた図形に天、人、地の三才(三つの働き)を配し、天と地の間に森羅万象が存在するとして「天地間の形するものにこの三角形より出ざるものなし」とした。これはガリレオの人体図にもみられる構図で、盛花の造形理論にも同じ図形が取り入れられます。この天・地・人の長さの比は、西洋の「黄金比」(1:0.618)とほぼ同じで「白銀比(はくぎんひ)」(1:0,708) )とも呼ばれ、美しい構成比とされました。一甫は、格外に枝や蔓(つる)が伸びるのも臨機応変に認め、「格に入って格を出よ」と説きます。
 こうしていままでのルールに縛られることなく、自己否定によってさらに美の追求を可能とする自由な芸術論の地平に立つことができるようになります。これは当時の知識人にとっては、今までにない新鮮でアカデミックな雰囲気がする華道の流派と感じられたようです。そのため知識人を中心に広く受け入れられ、門人を増やします。
 未生流二代目をついだ未生斎広甫は、大覚寺の華務職となり、多くの未生流の著作を世に出します。その結果、未生三百といわれるほど多くの未生流系の諸流が各地に生まれることになります。ちなみに、遠州流は約八十流派以上に、古流は百以上に分派します。こうした中で、未生流生け花が丹波法橋によってまんのう町にもたらされます。
 幕末の金毘羅周辺の村々には、遍歴の宗教者(僧侶・山伏・修験者)が集まってきて住み着きます。
その例を挙げておくと
A 棒術などの武芸を身につけた修験者
B 街道整備の勧進集団を率いる土木集団系勧進僧

道造行人 智典
会津からやってきた智典法師
丹波法橋もこのような廻国の勧進僧だったのでしょう。宮田の法然堂(西光寺)の改修活動を通じて、人々の信頼を集め、その後は未生流華道を広め、如松流として独立し家元を称することになります。
 明治維新によっていろいろな封建的な束縛から解放された若者は、新たな知識や習い事に飢えていました。若者たちが生間に隠居した丹波法橋の庵を訪れ、立花を習ったのです。そのメンバーが建立したのが西光寺の顕彰碑になります。ある意味で、外部からやってきた僧侶(知識人)が新しい文化を植え付けたことになります。現在の「町作り支援隊」にもつながるものがありそうに思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町佐文 法照寺の文書
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三好製薬所 表紙

  まんのう町佐文の法照寺の文書の中に「大正3年度 緒薬原品買入及使用 三好製薬所」があります。中を見てみましょう。
三好製薬所2

                三好製薬所(法照寺)の漢方薬の材料買入一覧
ここに出てくるのは、その薬草などの原材料の買入表になるようです。
  右が6月15日、左が7月20に仕入れた薬草になるようです。1ヶ月毎に薬材を仕入れていたことが分かります。仕入品目には、次のようなものが並びます。
A 露房
B 大黄
C 耳草
D 甘枝(草)
E 丁子
F 玉阿曜
G 山帰来
D 龍黄
私は漢方薬についてはまったくの素人なので、AIに教えられながら調べたことを記しておきます。
A  露房
 露蜂房 | スターの漢方専科

   「露蜂房」は、スズメバチやアシナガバチなどの巣を乾燥させた生薬(蜂房)です。「雨露に当たった巣の方が良い」ということからこの名前で呼ばれています。 効能は、殺菌解毒作用、血液凝固促進作用、利尿作用、鎮痙・鎮静作用、抗炎症作用など、様々な効果がある。
B 大黄( ダイオウ)はタデ科のダイオウ類の根茎を乾燥したもの。

ダイオウ
瀉下、清熱、活血、駆瘀血の作用があり、便秘、熱性疾患、打撲、月経異常などに用いられます。

C 耳草(ユキノシタ)
ユキノシタ(虎耳草)の販売店
ユキノシタを乾燥させたもの
漢名は「虎耳草(コジソウ)」で、毛が生えた肉厚の葉が虎の耳に似ていることから付いた名前といわれます。漢方のバイブル『本草綱目』には急性の中耳炎に対して生のユキノシタをついた汁を耳に垂らすという用法が記されています。中耳炎に対する効果があり、耳と関係が深い薬草のようです。

D 甘枝(甘草:カンゾウ)
カンゾウ属 - Wikipedia
炙甘草(しゃかんぞう)|生薬辞典|漢方薬・生薬大辞典 - 漢方薬のきぐすり.com

  甘草はカンゾウの根や根茎を乾燥させたもので、有効成分はグリチルリチン酸です。この成分は砂糖の50倍もの甘みを持ち、医薬品や食品の甘味料として幅広く利用されています。 多くの漢方処方(約7割)に配合され、「国老」という重要な称号で呼ばれたりもします。主な効能は、鎮咳・去痰: 咳や痰を抑える効果、 炎症やアレルギー反応を抑える作用、鎮痙・鎮痛: 筋肉の痙攣や痛みを和らげる効果、胃の働きを活発にする効果があります。化粧品の成分としても使われ、「芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)」などの漢方薬に用いられます。

E 丁子(ちょうじ)は、
チョウジ - Wikipedia
常緑高木「チョウジノキ」の開花直前の蕾を乾燥させたもので、別名をクローブといい、香辛料や生薬として広く利用されています。丁子は「釘」に似た形をしていて、和名や中国名の「丁」、英名のClove(クローブ)」の語源もこの形状(釘を意味する言葉)に由来しています。甘く濃厚で独特な香りを持っており、その香りの強さから「百里香」という別名もあります。
 用途と効果としては、丁子は香辛料としてだけでなく、漢方薬やアロマテラピー、防虫剤など幅広い用途で使われています。効能は、 消化促進や体を温める作用があり、冷えによる腹痛、消化不良、嘔吐、しゃっくりなどの漢方処方に用いられます。主成分である「オイゲノール」には鎮静・抗炎症作用があり、歯科の痛み止めとしても利用されていました。その他: 強い香りを利用して、ペスト予防のポマンダー(匂い玉)として使われた歴史や、ゴキブリなどの虫除けとしても効果があることが知られています。
 G   山帰来(サンキライ)は、「サルトリイバラ」 
No.73 サルトリイバラ(山帰来) – 株式会社 宮城環境保全研究所
 
名前の由来は、「山へ捨てられた病人が、この根を食べて病気が治り、元気に山から帰ってきた」というエピソードからきているようです。薬効としては、 根茎は「山帰来」や「土茯苓(どぶくりょう)」と呼ばれ、解毒や利尿、関節痛などの生薬として利用されます。 花言葉は、「不屈の精神」「屈強」「元気になる」など、生命力の強さや薬効にちなんだポジティブな意味を持っています。 

H 「龍黄(りゅうおう:牛龍黄):」

 【楽天市場】【ポイント20倍】【第2類医薬品】ウチダ和漢薬の牛龍黄 20カプセル ごりゅうおう 牛黄 ごおう ウチダ : あおき漢方堂

希少な動物性生薬である牛黄(ごおう)、蟾酥(せんそ)、鹿茸(ろくじょう)が配合されています。
効能: 動悸、息切れ、気付けなどに効果があるとされています。
以上は買入リストでしたが、次のような使用リストもあります。

法照寺 製薬使用
出てくる薬剤品名は買入リストと同じです。使用した分を確認し、翌月に補填していたことがうかがえます。どうして、このような漢方の薬剤買入リストが大正時代の法照寺にあるのでしょうか?
その答えは、「法照寺寺史の歴代住職一覧」にあります。

法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部
法照寺歴代住職一覧 後半部

14代観浄法師(明治27年没)の欄には、次のように記されています。

「奇妙湯(淋病・しょうかち・寝小便・血の下り等に特効有りあり)医薬を製造販売していた」

ここからは明治から大正3年には、法照寺が「奇妙湯」という漢方薬を製造販売していたことが分かります。お寺が薬品を製造するというのは、現在から見るとミスマッチのような感じがします。しかし、伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、宗教者(修験者)にたどりつくと研究者は考えています。 
 例えば修験者は、自ら狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に薬として病人に与えていました。ここからは「呪医=狩猟者 + 修験者」という姿が垣間見えてきます。熊の肝臓は高級漢方でした。 修験者と漢方の関わりを見ておきましょう。
修験者の拠点であった埼玉県秩父地方の三峰神社では現在でも次のような漢方が販売されています。

普寛行者と三峰山 | 角笛山空間
A 胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
B 心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
C 眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
D 胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
金毘羅神信仰の修験者たちが数多く集まってきた金毘羅大権現にも、独自の漢方薬が製造販売されていたことは以前にお話ししました。参拝客の多い寺社では、お土産としても人気があったようです。また、山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。

  「越中富山の万金丹」で有名な富山の薬は、もともとは砺波平野の里山伏たちが開発したものでした。彼らは農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていて、次のような薬が里山伏系の寺社で販売されていました。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
  野尻村法厳寺の薬は明治維新の神仏分離後になると真宗等覚寺に伝授されます。こうして、真言修験者系の専売特許的な漢方薬が浄土真宗などの寺院にも伝わっていきます。佐文の法照寺も、このような流れの中で漢方薬の製法を学び、製造販売を始めたことが考えられます。そして報恩講などでは、次のようなやりとりがあったかもしれません。
門徒「うちの孫は、いまだにおねしょが止まらないんですわ。」
住職「それならうちの奇妙湯を飲ませなさい、これは寝小便には良く効く。試しに、これを持って帰りなさい」
とセールスしていたのかもしれません。
 しかし、法照寺で漢方薬で調合されていたのも大正3年までのようです。これ以後の記録がありません。また、前年に住職が交代しています。新しい住職になってからは、調合をやめたようです。
以上をまとめておきます。
①法照寺では明治になって奇妙湯という漢方を調合・販売していた。
②奇妙湯製造のための漢方薬剤の仕入・使用の帳簿が残っている。
③薬剤を仕入れて、調合していたようで当時の住職が漢方薬剤の知識を持っていたことがうかがえる。
④これらは薬剤使用量からしても少量で、信徒など限られた人達だけへの販売で、手広く製薬業をおこなっていたのではない。
⑤しかし、定期的に仕入れているので、薬材行商人的な行者が定期的に法照寺を訪れていたことが考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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私の家の檀那寺は、法照寺(まんのう町佐文)です。年初のお参りにお出でになった若い住職さんから法照寺の史料を見せていただきました。それに刺激を受けて法照寺の歴史について、私に分かる範囲で書残しておこうと思います。

佐文誌

法照寺については、佐文誌には、次のように記します。
佐文 法照寺2
法照寺 仲南町佐文(十八代住職釈俊昭)
 真宗興正寺派鶴林山法照寺。本尊阿弥陀如来、①万治元年(1658)戌五月開基。
②当初生間村字明通寺にあったが、享保年間佐文村下地に移転した。本堂六間半に七間、境内三七六坪、鐘堂五坪、山門九坪、檀徒150軒。
同寺所蔵の古文書に、その昔生間村より佐文村へ引寺した移転申請書なる「奉願上口上覚」に③「生聞村一向宗法照寺貧寺に御座侯処に(中略)
④享保七(1722)年寅二月、門徒総代、佐文村庄屋、七ケ村庄屋、山地六助右門殿」と記され、まず、下地に移転し、さらに現在地の北岡に移転した。
⑤(後世の)本堂屋根ふき替えの申請書「奉願上口上之覚」には
「拙寺本堂五間四面、右は去る享保八年(1723)卯の年生間村より当村へ引寺仕り当年より数十年前より、堂舎かや葺であるを…………」
と記され、(生間より移転数十年後に)かやぶきから瓦屋根にふきかえた様子がうかがえる。
⑥また、「御慈悲おうかがい口上の覚」(旱魃に伴う減免願書)には、
「寛政九年(1797)巳十月十八日、佐文村法照寺組頭二名、佐文村庄屋連名で土居村庄屋高木久太夫殿」とあり、当時は、寺住職も村役人と共に、政治に関与していたことがわかる。
⑦また、「和談離縁御願」と称して、養子縁組の解消を証明する役割も住職の業務であった。
 その昔、徳川幕府の宗教政策であるキリシタン禁制を徹底させた「門徒人別帳」も保存されているが、長年月を経過して破損が甚しい
  これを法照寺の歴代住職一覧と付き合わせてみます。

法照寺の歴代住職一覧
法照寺の歴代住職一覧(前半部)
  (享保7年5代の竜玄法師の時に屋根の葺き替えを行ったとするのは、史料の読み違えで佐文移転後のこと)
2つの史料からは、次のような情報が読み取れます。
①万治元(1658)戌5月 2代目大玄法師によって生間村字明通寺に開基
②享保8(1723)年 6代目正玄法師の時に佐文村と七箇村の庄屋の協議の末に佐文村下地に移転
③その後、現在地(佐文北岡)に移転し、茅葺きから瓦葺きに屋根を葺き替えた
④寛政9(1797)年   7代目秀玄法師の時に旱魃時の減免嘆願書に庄屋と連名

こうして見ると、法照寺は江戸時代初期に生間に道場を開いた付玄法師を開祖とし、2代目大玄法師の時に寺格を得て、その後約80年間は生間にあったようです。
  どうして生間から佐文に移転してきたのでしょうか?
  江戸時代になって新たな村が作られます。村が安定化してくるとお寺がないと不便なことがいろいろと起きてくるようになります。お寺は藩の末端行政機関でもありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向かなければなりません。村にお寺のないのはプライド的にも許されなくなります。そこで寺がない村は、誘致運動を展開するようになります。村によっては、檀家ではないのに他宗派の寺をわざわざ誘致して、門徒でない村人が全員でその寺の維持に関わっている所もあったようです。
享保七(1722)年寅二月、門徒総代、佐文村庄屋、七ケ村庄屋、山地六助右門殿」
とあるので、佐文村や七箇村の庄屋や門徒総代が協議して佐文への移転が決まったようです。そして最初は「下地」に建立されます。ここで注意しておきたいのは、この時点では佐文の人達は法照寺の門徒(檀家)ではなかったことです。法照寺がやってくる前からある家は、檀那寺変更をしなかった家もあります。
 ちなみに我家は、法照寺が生間からやって来ることになった時に、寺にくっついて佐文にやってきたと伝えられています。その時には、開墾の進んでいなかった佐文の南側斜面の尾郷原や神田原への入植が許されたようです。このように寺だけでなく門徒も一緒についてくることもありました。お寺さんは、変わりなく同じ場所に有り続けるものと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院や農民は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
 次に法照寺の本末関係を見ておきましょう。

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野南部の常光寺末寺(黄色の星)

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図(満濃池築造以前)
①満濃池跡に七ケ村池内村が見える 満濃池再築以前
②池内村の北に照井、金毘羅の南に相見(佐文)が見えるが生間は見えない。 

以前にお話しした三木町の常光寺の末寺リストの中に法照寺が次のように出てきます。

常光寺末寺リスト 円徳寺
三木町の常光寺の末寺リスト

これを見ると円徳寺末寺として3つの寺が記されています。 円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。
髙松藩
「円徳寺末寺那珂郡垂水村西坊」
丸亀藩
「円徳寺末寺那珂郡佐文村 法照寺」
「円徳寺末寺池御領苗田村 西福寺」
常光寺末寺リスト3 円徳寺 法照寺

円徳寺(まんのう町照井)に今は照井にありますが、もともとは本目にあったと伝えられています。
円徳寺は、末寺の法照寺の佐文移転をどう考えたのでしょうか? 本寺の承認なしには、移転は進みませんので、円徳寺も同意の上に移転は進められたはずです。考えられるのは、照井と生間という距離です。両寺は3㎞あまりしか離れていません。檀家の持ち替え整理などをしながら、法照寺をもう少し離れた新天地に移すことで新たな門徒獲得を狙ったのかもしれません。
 佐文は金毘羅大権現の土佐・伊予街道の入口に当たります。当時の金毘羅大権現は髙松藩主松平頼重の手厚い保護で伽藍は一新して参拝者が急増していた時期にあたります。招来の発展性がある佐文の地への移転を決めるひとつの要素であったかもしれません。
以上をまとめておくと、 
①法照寺は浄土真宗興正寺が本寺で、常光寺が中本山、円徳寺(まんのう町照井)の末寺であったこと。
②常光寺 → 円徳寺 → 法照寺という教線ラインの中で、17世紀初頭に寺格を得たこと(?)
以前にお話したように、讃岐への真宗興正派の教線伸張は、阿波美馬の安楽寺と、三木町の常光寺によって進められました。その中で常光寺の那珂郡南部の布教拠点となったのが円徳寺だったようです。この寺を拠点に周辺の村々に道場が開かれ、江戸時代になると寺へと成長して行ったことがうかがえます。
真宗興正派の教線伸張には、以下のような3つのステップがあることを以前にお話ししました。
興正派の教勢拡大 時期

蓮如が指示した布教方法は

蓮如の伝道方策(岐阜県大野郡旧清見村)

布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように記します。

お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。」

このような布教活動が三好氏が支配下に置かれた讃岐の山沿いの村々で始まります。三好氏は16世紀初頭の永世の錯乱以後、讃岐に侵入し支配地を拡大していきます。長尾氏や二宮の近藤氏も三好氏配下に組み込まれていきます。そして三好氏の保護を得た阿波美馬の安楽寺の伝道活動が活発化します。
 もうひとつの波は、秀吉の四国制圧後です。新たな領主となった生駒氏にリクルート出来なかった長尾氏や三好氏は、在野に下るしか生きる道がありませんでした。彼らはその際に浄土真宗に改宗し、その宗教的な指導者として在野における指導力や影響力を残そうとします。長尾城周辺の尊光寺や超勝寺慈光寺などの真宗寺院には長尾氏出自の系図を持つ寺院が多いことがそれを裏付けます。
 そういう視点で法照寺を見ておきましょう。
法照寺18代院主故三好俊昭氏は、次のように話していたそうです。

 うちの開祖は阿波より来た武士であったが、殺生な戦をするのに無常の感を覚え、仏門に入った。

開祖の付玄法師は1636年没です。そして姓は「三好」です。ここからは想像になりますが、もともと三好氏一族として讃岐支配にやってきていた人物が、長宗我部元親の讃岐侵入や秀吉の四国制圧の中で敗残兵となり、その後にやってきた生駒氏へのリクルートが適わずに在野に下ったことが考えられます。これは長尾氏の身の振り方と同じです。そして、中本寺の常光寺や、円徳寺で修行を重ねた後に生間で道場を開いたという物語になります。それでは法照寺は、寺号を得ていたのでしょうか?
西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。
『木仏之留』とは、本願寺が末寺に木仏などを下付したことの控えです。17世紀末成立の「高松藩御領分中寺々由来書」に出てくる真宗寺院で、西本願寺の「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など次の22ヶ寺だけです。その中でまんのう町周辺で木仏が下付されている寺院は次の通りです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
「木仏之留」に記されたまんのう町周辺の真宗寺院
ここには円徳寺の名前は見えません。もちろんその末治であった法照寺もありません。「木仏下付=寺号付与」はセットでした。その時期が讃岐では寛永18(1641)年前後に集中しています。これはどうしてなのでしょうか?

尊光寺本尊 本寺からの下付
まんのう町の尊光寺の木仏(2回目に下付された18世紀の木仏:阿弥陀仏)

 木仏下付が始まるのは、慶長6年(1603)に本願寺が東西に分裂して以後のことです。
分裂を契機に、東と西の本願寺は激しい勢力拡張運動を展開してしのぎを削るようになります。翌年になると西本願寺は、勢力維持のために地方の念仏道場に寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。このような動きが讃岐にも波及してきます。そして、讃岐で木仏下付が一気に拡がるのが寛永18(1641)年です。その背景には、生駒藩転封後に松平頼重が初代髙松藩主としてやって来ることがあったようです。松平頼重と興正寺との間には深い関係があったことは以前にお話ししました。西本願寺派の真宗寺院の数を増やすために、松平頼重の承認を受けて髙松藩内で木仏付与が一斉に行われたことがうかがえます。それは自藩における興正派寺院の培養という松平頼重の政治的なねらいとも一致します。以後、髙松松平藩と興正寺は明治に至るまで、強いつながりをもって政治力を発揮していきます。
 これを法照寺の歴史と搦ませて見ておきましょう。
法照寺が生間に建立されたのは万治元(1658)戌5月のことでした。しかし、西本願寺の『木仏之留』リストには、法照寺はありません。ちなみに本号免許や法宝物の下付については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されています。
木仏御礼      両2分
木仏寺号御礼
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼両1分
こうしてみると木仏御礼に16両が必要だったことが分かります。この金額を生間時代の貧寺と自称する法照寺が納めることができたかは疑問です。法照寺は正式に寺格を認められていなかった可能性が高いと私は考えています。

佐文 法照寺
土佐伊予街道沿いにある法照寺(まんのう町佐文北岡)
 佐文に移ってきた法照寺は、行政・文教センターの役割を担っていくことになります。
先ほど見たように寛政9(1797)年に、大旱魃がやって来た時には7代目秀玄法師は庄屋たちと連名で減免嘆願書を藩に提出しています。ここからは、佐文にやってきて70年あまり経過した法照寺が佐文の行政センターとして機能していることが見えてきます。
以上をまとめておきます
①長尾氏や三好氏が在野に下ったものの中には、真宗興正派の僧侶として布教活動を行う者達が現れた。
②その拠点となったのが、阿波美馬の安楽寺と三木の常光寺であった。
③常光寺は、円徳寺を拠点に布教活動を展開し各地に道場を開いた
④その中のひとつがまんのう町生間に開かれた法照寺であった。
⑤開祖は阿波からやって来た元武士で、姓は「三好」を名のっていた。
⑥当時の佐文は、発展する金毘羅大権現の西の入口として人口増加が続いていたが寺院がなかった。
⑦そこで本寺の円徳寺や七箇村と交渉して、1723年に法照寺の佐文下地への移転を実現した。
⑧その後、現在地(佐文北岡)に移転し、茅葺きから瓦葺きに屋根を葺き替えた
⑨寛政9(1797)年、7代目秀玄法師の時に旱魃時の減免嘆願書に庄屋と連名している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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