瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2026年04月

4344102-55郷照寺2
           四国霊場 郷照寺(道場寺) 讃岐国名勝図会
前回は郷照(道場)寺について、史料から次のような事を見ました。
①郷照寺は寺伝にあるように、中世から時宗寺院であったのではない。
②中世は、高野聖や廻国行者たちの布教活動拠点として、さまざまな宗教活動者が混在していた。
③それが髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として再整備され、時宗に改宗された
今回は郷照寺と時宗本山の藤沢市の清浄光寺との関係を史料で見ていくことにします
テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。

時宗総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)について、ウキに書かれていることを要約しておきます。

時宗総本山清浄光寺 郷照寺本山

①神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院で、藤沢山無量光院清浄光寺と号す。
②明治時代からは法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人なので、 遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれるようになった。また藤沢道場ともいう。
③中世の西俣野(藤沢市)の領主だった俣野氏の一族・俣野五郎景平が開基。
④景平の弟である遊行上人第四代呑海が、正中2年(1325年)に俣野領内の廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山
⑤延文元年(1356年)八代渡船が鋳造した梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされている。
⑥永享7年(1435年)足利持氏が仏殿120坪を寄進
⑦永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。
⑧天順が慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のこと。
⑨寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行へ清浄光寺は「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出し、時宗274寺の総本山と認められる。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 郷照寺本山
時宗の総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)

「第1表」は、本山藤沢清浄光寺や京都七条道場金光寺に残る「藤沢山日鑑」「「行日鑑」「遊行在京日鑑」などの郷照寺の記録を研究者が抜き出したものです。

時宗総本山清浄光寺(遊行寺)to 

この表からは次のようなことが分かります。
①郷照寺は本山に対して年始伺い、暑中見舞い、上人相続の際、その都度、白銀などを献上している。
②僧侶昇進に関わる記録からは、両者が本山末寺の関係であったことが裏付けられる

例えば「藤沢山日鑑第6巻」安永9年7月の条を見てみましょう。
ここには、郷照寺の僧雪山の本山勤仕についての記載が次のように記されています。(要約)

雪山は高松藩寺社役所より百日間の暇をもらい本山の学寮で修養していた。その成果が良かったのか安永8年に本山の学寮主を拝命した。そこで、本山の衆役から高松藩寺社役所に雪山の「長之暇」を申し入れた。ところが松藩の寺社奉行からの回答は「他国の寺院に入ることは許可できない」というものであった。

ここからは末寺の郷照寺から本山に修行に出て、そのまま本山に残るようなシステムがあったことが分かります。しかし、それを髙松藩は認めていません。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 一遍像
清浄光寺の一遍像
江戸時代の時宗の僧階と郷照寺の関係を史料で見ておきましょう。
時宗の浅草日輪寺が享和元年(1801)に幕府寺社奉行に提出した「時宗法眼井法開階級之次第」に次のように記します。
「右剃髪仕世寿十五歳以上、藤沢山 京都七條道場 遊行回国先、右三会下之内、最寄を以掛錫仕、法騰相立候」

ここからは次のような事が分かります。
①仏門に入るのは15歳以上
②修行場所は、本山の藤沢清浄光寺や京都の金光寺の他に、廻国先でもよかったこと
③掛錫(修行)の年数を経るごとに僧階を昇格すること

僧階の序列と昇進については次のように記されています。
①掛錫が4年で茶執司となり「茶執司、掛錫より四夏相満候間を茶執司と申候面、藤澤上人遂行上人而上人之侍者為政給仕申」と藤澤上人や国先にて遊行上人の側で給仕を務める役となる。
②さらに6年で十室(漢室・岩室・純室・連室・伝室・行室・学室・了室・同室・聞室・安室)となり「十室、五夏相満候後、此十室二入候、此位階面宗門之安心伝法等相承仕」とあり、この段階で時宗の修行や教学を師匠から伝授された。
③9年で五軒(慈照臥龍軒文峰軒萬生軒衆領軒)の斬号を付与され「五軒、掛八夏相調候ハマ軒号を蒙り申候、宗門之伝法宗威血脈不残相承仕、初て和尚号を付(中略)在家之引導香仕事を差許申候」とあり、時宗の伝法、宗、血脈を相伝し、和尚と称することが許された。また在家信徒の引導や葬式などの仏事を執り行うことができるとうになった。
④13年で「二常住庵等覚庵」となり「二庵掛錫合十二夏相満、此階級二相進み、庵りを蒙り(中略)此法綸旨参内差許申候」とあり、「上人号」の旨を寺社伝奏勧修寺家へ申請、皇居への参内が許されるようになる。
⑤18年で、本寮(四院)(桂光院院興院東陽院)となり「本寮,十七年之法相談、十八年二宗門之書籍之内何でも壱部講釈相済、此階級=相進み、惣じて一宗之法務、右本寮四院有之之之是を司り、本山貴主を補佐する所之老僧と相唱中、是迄末寺井所化昇進之次第二御座」とあり、僧侶の最終階となる。そして時宗の書籍の講釈や宗派の運営に携わり、本山貫主の補佐も行う。また弟子を取ることができる

 郷照寺の位牌や過去帳には、18世紀の後半になると時宗僧階の最終位の院号をもつ住持が4人登場してきます。
A 洞雲院但阿存海和尚(寂年 天明4年(1784)第33世)
B 興徳院覚阿一浄智存和尚(寂年 文政13年(1830)第35世
C 興院覚阿和尚(寂年 安政6年(1859)第36世)
D 大僧都桂光院其阿上人本空和尚(寂年 明治42年(1909)
この4人に共通するのは、本山の遊行上人の廻国の際の受け入れを行っていることです。その功績を背景に昇任を果たしたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の宝暦10年(1760)9月の第52代遊行上人他阿から郷照寺□□相阿弥仏へ宛てた書状です。

「鵜足郷照寺義 此度建立等出精二て、地頭表殊、之外首尾能御領分動化相済、其上右勧化御城主今から御取会被下候由」

とあって、境内建物の整備に務めた功績として木蘭衣(軒号)が与えられています。ここからは地方の末寺住持にとって遊行上人の廻国などの本山勤行に励むことは、位階の昇任につながる功績として評価されていたことが分かります。
 さらに文化9年(1812)第55代一空上人の相続の前年に本山への出仕を行っていることや、万延元年(1860)年の京都七條道場金光寺の意に沿わない郷照寺住持の交代を命じた通達などからも、人事権を含む支配関係があったと研究者は考えています。ここでは、時宗本山が僧階権を握ることによって末寺の郷照寺を支配下に置き管理していたことが見えて来ます。

時宗の総本山は藤沢の遊行寺でしたが、西国を束ねる実質的本山は京都七条道場の金光(こんこう)寺でした。
 総本山の清浄光寺は法主の遊行上人が隠居した藤沢上人の住坊でした。それに対して京都の金光寺は、遊行上人が住職である寺で、西国の事実上の本寺でした。例えると、藤沢・遊行両上人の関係は、上皇と天皇の関係に置き換えると分かりやすいようです。

時宗総本山 京都金光寺1 書評

時宗総本山 京都金光寺1
金光寺の年表

 一遍によって開かれた時宗は、京都でも活発に布教が行われ、次々と時宗の寺院が建立されるようになります。その中で金光寺(こんこうじ)は、鎌倉時代後期の正安3年(1301)に七条東洞院(京都市下京区材木町)に建立されます。場所は、七条慶派仏師仏師定朝の屋敷跡に呑海が創建したもので、七条道場とも呼ばれ、周辺の仏師集団が信徒となっていたようです。彼らによって、優れた彫造が残されています。こうして、この寺は時宗遊行派の京都での拠点として隆盛を誇りました。現在の京都駅烏丸口のすぐ東側がその境内地でした。

時宗総本山 京都金光寺1 平面図
金光寺の境内緒堂建物絵図

 14世紀初めには、善阿が連歌師として活躍し、1461年(寛正2年)の飢饉では、金光寺の願阿弥という僧が勧進して六角堂の近くに小屋を建て、苦しむ市民に粥を施したり、五条橋の修復も行っています。
 豊臣秀吉の京都の都市改造の際には、七条仏所を他に移して拡張し、400石が与えられています。和漢三才図会では寺領197石と記します。 江戸時代には学寮が置かれ、それに隣接して火葬場が元禄年間に設けられています。しかし、明治40 年(1907)に長楽寺に合併され、跡地は民地となり、その跡形は消えてしまいました。なお、下京区本塩竈町には金光寺(市屋道場)が現存しますが、これとは別の寺院のようです。
 それでは金光寺と宇多津の郷照寺の関係を物語る史料を見ていくことにします。

郷照寺 万延元年(1860)年に作成された「[書状〕(智覚へ看住申付けるにつき)」(k-89)

「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-8987)

万延元年(1860)年に作成された書状「智覚へ看住申付けるにつき」(k-89)です。
ここには京都の七条道場金光寺より郷照寺世話人中宛に、郷照寺が無住となったため智覚を看住として取り急ぎ寺務を取らせることが記されています。ここに登場する智覚は、安政5年(1858)に作成された郷照寺の「人別御改帳」(k-60)に次のように記されています。

郷照寺 安政5年(1858)に作成された「人別御改帳」(k-60)

「鵜足郡宇足津村郷照寺 現住鵜足郡土器村出生 智隆 当年五拾八才一、同郡宇足津村出生弟子智覚当年拾六才」

ここからは智覚が第36世住持智隆(58歳)の弟子で、地元宇多津村出身で16歳であったことが分かります。その後の智覚については「郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)次のように記されています。
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87no)

「智覚 病身に付寺務難相勤二付 後住之僧差向候処」

ここには、智覚が病身なので寺務が勤め難くなったため、後任の僧を本山の金光寺より派遣されるようになったことが記されています。ところが、これに対して智覚は、異議を唱えて次のように返答しています。

「御領法御指支之儀有之候ニ付御断 且智覚儀病気追々快方二付弟子致無話取立居候」
意訳変換しておくと
金光寺より当寺(讃岐の郷照寺)に僧を送り込むことは、藩の法に差し支える。また私自身の病気も快方に向かっているため、そのような話は無用である

これに対する本山金光寺の回答は次の通りです
「智覚儀 宗法相背候麁有之候二付 此度取上退院申付候(中略) 当寺差向智学僧江後住職被仰付候様強面御願申上候」

意訳変換しておくと
 智覚については本山金光寺の意向に沿わないことが度々あったので郷照寺からの退去を申し付ける。今後については、金光寺より智学を後任住職として派遣することを高松藩に申し出ている。

 ここからは、末寺の郷照寺の住職については、七条道場の意向に沿わない者は辞めさせ、後任を派遣する権限を本寺は持っていたことが分かります。郷照寺も時宗本山の本末関係の中にあったことが裏付けられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月
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イメージ 2
宇多津の郷照寺 四国霊場で唯一の時宗寺院

宇多津の郷照寺は、四国霊場の中で唯一の時宗寺院です。この寺については、時宗開祖の伊予出身の一遍によって時宗の拠点であったとされてきました。しかし、最近刊行された調査報告書には、この寺が時宗に改修されたのは、髙松藩初代藩主の松平頼重によってであると記されています。どうして、そう言えるのかを今回は見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。



宇多津地形復元図
DSC03878宇多津
中世の宇多津海岸線の復元図と各寺院

6宇多津1
中世宇多津の景観復元図

6宇多津2
中世の宇多津地形復元図と各寺院

6宇多津の寺院1

郷照寺の開基由来について

郷照寺縁起

 郷照寺の開基については、A「寺開基山来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
①天台宗寺院として創建後、空海の四国霊場開基の際に78番札所となり、その後の退転
②一遍が正応元年(1288)に(1239-1289)が時宗に改めて再興
③中世後半は、24代遊行上人不外(1460-1526)より讃岐国内に末寺7か寺を賜るなどの寺勢を誇った
④天正期(1573~1592)の四国兵乱により悉く焼失(「寺開基由来帳」)。
寺蔵文書であるB「開帳中記録」には、次のように記します。「開帳中記録」天明4年(1784)
①弘仁3年(812)に弘法大師による阿弥陀如来の彫像を契機に「仏光山道場寺」として開山
②天台宗恵心僧都(942-1017)の後に退転していた諸堂を、仁治4年(1243)に讃岐へ配流された僧道範(1178-1252)が「大師古跡の場」「真言止観の床」として再興
③正応元年に一遍が時宗寺院の「郷照寺」に改めたと
ふたつの縁起ともに、18世紀になって書かれたもので、札所霊場としての弘法大師空海の由緒や、一遍の晩年の伊予帰郷や讃岐・阿波の遊行(「一遍聖絵」正安元年(1299))をもとに、後世に創作され付け加えられたものと研究者は考えています。どちらにしても、これらの由緒は同時代史料ではなく、そのまま信じることはできません。 建立時期の参考になるのは、次の二点です
A 本尊の阿弥陀如来坐像が平安時代後期の作と想定されること
B 境内から古代末から中世初頭の丸瓦(工芸品4・5)が出土していること
ここからは郷照寺は、古代に遡ることはできず、中世初頭頃までの創建と研究者は想定しています。
縁起が説く弘法大師空海伝説の「道場寺」と一遍の「郷照寺」の由緒は、中世以前の諸宗派による複数坊が並立していたことを伝えるものなのでしょう。ここからは、何人もの念仏聖や廻国修験者たちが、それぞれの坊を持ってこの地で活動していたことがうかがえます。それは善通寺や白峯寺・弥谷寺でも同じで、そのような姿が中世の一般的な寺院の姿だったことを押さえておきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
            讃岐国名勝図会 宇多津

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていて、ふたつの名前を持っていたようです。
高松藩初代藩主松平頼重の命により、寛文9年(1669)に各大政所(大庄屋)に郡内の寺社を書き上げさせたC「御領分中宮由来同寺々由来」には次のように記します。

藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡 郷照寺 
一、開基永仁年中、一遍上人建立之、文禄年中、覚阿弥再興仕事」

意訳変換しておくと
「藤沢遊行上人の末寺で、時宗の鵜足郡郷照寺
 一、開基は永仁年中で、一遍上人が建立。文禄年中に、覚阿弥が再興した」
寛文年間(1661~1673)の藩政資料にも、遊行上人末寺の時宗寺院と記されています。
寺院名については、藩政史料や時宗本山との記録には「郷(江)照寺」の名称が使用されています。ところが江戸時代に刊行の四国遍路関係の案内本などには「道場寺」と記され、弘法大師ゆかりの札所と紹介されています。例えば真念の「四国辺路道指南」(貞享4年(1687)では、次のように記されています。
「讃州丸亀城下へわたる時は宇足津道場寺より札はじめよし」
「七十八番道場寺 少山上 堂ひがしむき 鵜足郡宇足津村 本尊阿弥陀 座一尺八寸
 御作おどりはね念仏 道場寺 ひやうしをそろえかねを打也」
意訳変換しておくと
「讃州丸亀城下へ船で渡るときには、宇足津道場寺から巡礼を始めるのがよい」
「七十八番道場寺は、小さな山の上にある。本堂は東向きで鵜足郡宇足津村にあり、本尊は一尺八寸の阿弥陀仏が座している。御作おどりは、念仏を唱えながら拍子をそろえ、鐘を打ち鳴らして飛び跳ねる」
  ここからは道場(郷照)寺には、時宗の念仏踊りが近世初頭まで伝わっていたことが分かります。

1 郷照寺踊り念仏
跳ね踊る時宗の念仏踊り 中央が一遍 (一遍絵図)
滝宮念仏踊りの由来の中には「菅原道真の雨乞成就を祈念して踊られるようになった」と記されます。しかし、古代に念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、中世の一遍です。一遍によって時宗の布教手段として全国的に広がります。それが風流踊りとして、近隣の村落に受けいれられるようになります。滝宮念仏踊りの起源は、時宗の念仏踊りにあることを押さえておきます。

郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。


南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺
   弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を宇多津で広めたことが分かります。ここには高野系念仏聖の存在がうかがえます。この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろな宗教者が巡っていました。この中で高野聖や時宗経系念仏聖は、弘法大師信仰を持ちながら念仏行や念仏踊りを踊っていたことが分かってきました。つまり、近世以前の郷照寺は、志度寺と同じようにさまざまな宗教者が集まって布教活動の拠点となっていたのです。だから「道場寺」なのです。時宗単独の寺とは云ず、真言系や天台系などの修験者や廻国行者の活動拠点となっていたことを押さえておきます。

 志度寺や郷照寺・海岸寺などの海沿いの霊場を拠点に活動した高野聖を見ておきましょう。
高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖でした。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や郷照寺も別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があったようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

五来重「高野聖」読書メモ 四国霊場の弘法大師一尊化を進めたのは高野聖だった。 : 瀬戸の島から
高野聖
 高野聖の廻国のことを「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺・郷照寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。
 ここでは次のことを押さえておきます
①志度寺や郷照寺・弥谷寺)は、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)であった。
②そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していて、真言系や時宗などに区分することができなかった。
③廻国行者たちは芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布した。そのなかには念仏踊りもあった。

中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えます。 
貞享四年(1687)頃の真念『四国辺路道指南』には、次のように記されています。

「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

ここからは真言宗本来の光明真言が唱えられるようになっています。南無阿弥陀仏の念仏は、各霊場から「追放」され、弘法大師の一尊化が確立していたことがうかがえます。つまり、江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。郷照寺の版木は、弘法大師の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。彼らの伝えた念仏踊りが、滝宮念仏踊りとして伝えられていると私は考えています。それは中世の道場寺(郷照寺)の性格を表すものなのです。

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていた。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
道場寺と表記されている郷照寺 (金毘羅参詣名所図会)
各書物には郷照寺の呼名が次のように記されています。
A 寂本の「四国編礼霊場記」元禄2年(1689)
「仏光山道場寺此寺本尊阿弥陀大師の御作鎮守社・鐘楼あり 
 いつのよ(世)りか、時衆の寺となれり」
B 四国遍礼名所図会(寛政12年(1800) 
「七十八番道場寺「仏光山江照寺」と両寺名併記
C 金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847)
「仏光山道場寺宇足津にあり四国遍礼第七十八番の札所なり」
D讃岐国名勝図会(嘉永7年〈1854)、
「江照寺 仏光山広徳院道場寺と云ふ 寺領五斗二升 時宗相州藤沢浄光寺末寺 
 四国八十八ヶ所の一、七十八番札所
寺院境内や周辺の道路道沿いにある明治期までの道標の多くには「道場寺」と記されているようです。 以上をどう考えればいいのでしょうか。研究者は次のように指摘します。

江戸時代から明治時代にかけては時宗寺院としての「郷照寺」と、弘法大師ゆかりの四国霊場第78番札所である「道場寺」という2つの名称をその性格により使い分けていた

このためふたつの名前が併存していたようです。

4344102-55郷照寺
四国霊場 郷照寺 (讃岐国名勝図会)

どうして郷照寺は、江戸時代になってもふたつの寺号を使い分けたのでしょうか?
それは時宗末寺の「郷照寺」でありながら、17世紀後半になると四国遍路が盛況になり、「弘法大師古跡の場」として札所の由緒を示す「道場寺」の寺号を手放すことができなかったためと研究者は指摘します。
 「四国遍路道指南』には次のように記されています。
(大坂から船で)讃州丸亀城下へわたる時は、宇足津道場寺より札はじめよし」

ここからは全国からの金毘羅参りの盛行と併せて、畿内からの四国遍路たちは丸亀湊に上陸し、郷照寺が打ち始めの札所としていたことが分かります。そのため郷照寺には多くの遍路がやって来るようになります。それが郷照寺に経済的利益をもたらすようになります。
 寛政5年(1793)の茶堂寄進の「下津井講中」「普請中順留諸法一件書出控」や、文化7年(1810)の石垣寄進碑にみられる「備前下津井萩野屋久兵衛」、「同播磨屋喜八郎」(石造物参道4)などです。これらは備讃瀬戸対岸の備前児島下津井の寄進者達の名が刻まれています。これは当時の丸亀湊へ備瀬戸主要航路の活発な交易活動の中で捉えられるものと研究者は指摘します。

それでは江戸時代の郷照寺が本山の記録に、どのように記されているのかを見ておきましょう。
寛永10年(1633)の時宗本山の末寺帳には、郷照寺の名はありません。つまり、この時点では、郷照寺は時宗末寺ではなかったことになります。それが享保6年(1721)の七条道場の末寺帳の讃岐の項目に次のように「讃岐七ヶ寺」が記されています。
「興善寺 爾保、興勝寺 勝間、荘厳寺 一宮、江(郷)照寺 宇多津、興徳寺 太田尼、
 浄土寺 由祐尼、高称寺 観音堂尼」

 これ以降の末寺帳には郷照寺の名が記されるようになります。つまり、高松藩初代藩主の松平頼重がやってくる寛永19年(1642)以前に記された史料には時宗寺院としての郷照寺の一次史料はないようです。 それが松平頼重が寛文9年(1669)に作成させた「御領分中宮由来・同寺々由来」には、次のように記します。
「藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡郷照寺」
「寺社記」(天保4年(1833)書写)には
「一、高五斗弐升 相州藤沢山清浄光寺末寺鶴足郡宇足津村時宗郷照寺」
藩政史料には、郷照寺は藤沢市の時宗総本山の清浄光寺の末寺とされています。
そして、「寺開基由来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
「一 寺領高五斗弐升 従古来附来り候処 龍雲院様御代古来之通御改御寄附候由」

ここからは高松藩主松平頼重(龍雲院)から寺領として5斗2升の経済基盤が保証さます。以後は、寺領が保護され続けてたことが分かります。

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四国霊場 宇多津郷照寺
松平頼重は政治的な意図をもって、次のような藩内の宗教政策を進めたことは以前にお話ししました。
松平頼重の宗教政策

郷照寺を時宗に改宗させて、保護を与えた背後にはなんらかの意図があったことが考えられます。
以上をまとめておくと
①郷照寺は、寺伝にあるように中世から時宗寺院であったのではない。
②髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として、時宗寺院として再整備された
 松平頼重の宗教政策については以前にお話ししました。そのなかで讃岐の真言宗勢力の抑制のために、金倉寺や白峰寺・根来寺・長尾寺などを天台宗に改宗して整備保護していました。郷照寺の時宗への改宗もなんらかの政治的な意図があったことがうかがえます。それが何なのかは、今の私には分かりません。  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。








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