①中世の志度寺や郷照寺・弥谷寺・白峰寺などは、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)で、そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していたこと
②彼らは、いろいろな要素を持っていて、真言系や時宗系、熊野系などのように区分できるのではなく、混淆とした存在であったこと
③同時に彼らは、諸国をめぐる芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布したこと。そのなかに滝宮念仏踊りの元になったや風流踊りもあったこと。
④中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えたこと。その背景は、時宗本山との本末関係の中に入ったため。
⑤しかし、郷照寺は「道場寺」とも呼ばれたように、中世の混沌とした信仰活動を受け継いだ部分があったこと。
以上から以前にお話しした弥谷寺の阿弥陀浄土信仰の拠点化と同じ動きが郷照寺でも考えられます。

郷照寺では、阿弥陀念仏信仰と弘法大師信仰がどのようにミックスされながら伝えられたのでしょうか。それを江戸時代以降の堂宇変遷で、見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32pです。
郷照寺の地形区分図を見ておきましょう。
②彼らは、いろいろな要素を持っていて、真言系や時宗系、熊野系などのように区分できるのではなく、混淆とした存在であったこと
③同時に彼らは、諸国をめぐる芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布したこと。そのなかに滝宮念仏踊りの元になったや風流踊りもあったこと。
④中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えたこと。その背景は、時宗本山との本末関係の中に入ったため。
⑤しかし、郷照寺は「道場寺」とも呼ばれたように、中世の混沌とした信仰活動を受け継いだ部分があったこと。
以上から以前にお話しした弥谷寺の阿弥陀浄土信仰の拠点化と同じ動きが郷照寺でも考えられます。

郷照寺では、阿弥陀念仏信仰と弘法大師信仰がどのようにミックスされながら伝えられたのでしょうか。それを江戸時代以降の堂宇変遷で、見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32pです。
郷照寺の地形区分図を見ておきましょう。
平場1 本堂や庚申堂(太子堂)、茶堂、本坊平場2 本堂の上に鎮守社跡(熊野権現)平場3 大師堂
郷照寺の諸堂建立や建て替えは、上記の3つの平場を中心にして行われてきました。この3つのエリアに諸堂は展開していたことを押さえておきます。
郷照寺の遺構変遷について、研究者は次のように5つに時代区分します。
(1)第1期 17世紀から18世紀中葉
郷照寺の「寺開基由来帳」(延享5年(1748)k-119)には、次のように記されています。
四国兵乱による堂宇の焼失で退転していたものを、文禄年中(1592-1596)に覚阿弥により再興された
ここでも長宗我部元親によって兵火にかかった伽藍が、生駒藩時代に再興されたとします。しかし、ここに登場する覚阿弥による再興については詳しいことは分かりません。
それから百年後の刊行物には、次のように記されています。
「四国路日記」(承応2年(1653) 「道場(郷照)寺 本尊阿弥陀」「四国遍路道指南」(貞享4年(1687)「少山上、(本堂)ひがしむき」
そして、「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689) には「少山上、(本堂)ひがしむき。(中略)本尊阿弥陀第一尺八寸御作」と書かれ、以下のような絵図が添えられています。
①尾根上の平場に阿弥陀堂(本堂)、鎮守社(熊野社)、鐘楼のみが描かれている。
②髙松・丸亀街道沿いには家が建ち並んで、宇多津の町場が形成されている
③参道には石段や石垣のようなものは見えない。
鐘楼には、貞享3年(1686)「仏光山江照(郷照)寺」の銘が刻まれています。ここからは郷照寺は、戦国時代に一度退転した郷照寺は17世紀後半には「中興」されていたことが裏付けられます。
ここで私が注目するのは、鎮守社が熊野神社であることです。熊野神社の別当寺として創建された四国霊場は多いのですが、例えば登禅「四国辺路日記」(1653)には、愛媛の八坂寺のことが次のように記されています。(意訳)
ここからは八坂寺は、熊野権現を勧進した別当寺で、本尊は阿弥陀如来だったとされています。どちらにして、熊野行者の痕跡が色濃く残ります。郷照(道場)寺も八坂寺と同じようなルーツをもつ寺であったことがうかがえます。そこに、阿弥陀念仏信仰が高野の聖たちによって持ち込まれます。そして近世に入って弘法大師信仰が接ぎ木されていくという筋書きが描けます。この構図は、四国霊場の多くの寺院に見られるパターンです。なお、瀬戸内海沿岸への熊野権現の勧進の拠点となったのは、児島の五州修験であったことは以前にお話ししました。


道場(郷照)寺 四国遍礼霊場記(1689年)
この絵図からは次のような情報が読み取れます①尾根上の平場に阿弥陀堂(本堂)、鎮守社(熊野社)、鐘楼のみが描かれている。
②髙松・丸亀街道沿いには家が建ち並んで、宇多津の町場が形成されている
③参道には石段や石垣のようなものは見えない。
鐘楼には、貞享3年(1686)「仏光山江照(郷照)寺」の銘が刻まれています。ここからは郷照寺は、戦国時代に一度退転した郷照寺は17世紀後半には「中興」されていたことが裏付けられます。
ここで私が注目するのは、鎮守社が熊野神社であることです。熊野神社の別当寺として創建された四国霊場は多いのですが、例えば登禅「四国辺路日記」(1653)には、愛媛の八坂寺のことが次のように記されています。(意訳)
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。
ここからは八坂寺は、熊野権現を勧進した別当寺で、本尊は阿弥陀如来だったとされています。どちらにして、熊野行者の痕跡が色濃く残ります。郷照(道場)寺も八坂寺と同じようなルーツをもつ寺であったことがうかがえます。そこに、阿弥陀念仏信仰が高野の聖たちによって持ち込まれます。そして近世に入って弘法大師信仰が接ぎ木されていくという筋書きが描けます。この構図は、四国霊場の多くの寺院に見られるパターンです。なお、瀬戸内海沿岸への熊野権現の勧進の拠点となったのは、児島の五州修験であったことは以前にお話ししました。


江戸時代中期の延享5年(1748)の「寺開基由来」には、聖徳太子堂(庚申堂)、石像弘法大師堂、熊野権現社、鐘楼、客殿、境内用水池が記されています。それを研究者が平面図に落としたものを見ておきましょう。
18世紀後半の郷照寺
上記の伽藍配置を、次の年表と対比して見ておきます。
①天明4年(1784) 大師堂が本堂の上の平場3に建替えられ、尾根の上に伽藍が拡大。
②享保19(1734) 弘法大師絵像が奉納(「当寺諸寄附宝物」延享4年(1747)
①天明4年(1784) 大師堂が本堂の上の平場3に建替えられ、尾根の上に伽藍が拡大。
②享保19(1734) 弘法大師絵像が奉納(「当寺諸寄附宝物」延享4年(1747)
③延享5年(1748)までに石造弘法大師堂建立
④明和元年(1764) 高松正覚寺で本尊開帳、その際に高松藩松平家の帰依により弘法大師繍画が製作寄進され、その安置のために奥の院が建立された。(「開帳中記録」天明4年)
⑤天明3年3月から4月 弘法大師950年遠忌に伴う本尊開帳 → 弘法大師信仰の高揚
⑥天明4年2月 大師堂が落慶(開帳中記録)
⑦大師堂の落慶までは、奥の院を「仮堂小屋」としています。明和元年に弘法大師繍画が寄進されてから天明4年の大師堂落慶までの期間おいて御影は奥の院に安置されていたようです。しかし、奥の院がどこにあったかは分かりません。
⑧寛政5年(1793) 塩飽や備前国下津井の講中の寄進で茶堂建替願を髙松藩に提出。
⑨寛政7年の本山の第54代遊行上人の来国を控え、本堂や客殿・庫裏の建替を出ている。
この絵図から読みとれる情報を挙げておきます。
①参道を上った平場1の石段の南側に鐘楼と本坊、北側に茶堂、平場奥に裳階付の本堂がみえる。
①参道を上った平場1の石段の南側に鐘楼と本坊、北側に茶堂、平場奥に裳階付の本堂がみえる。
②太子堂(庚申堂)は、現在と位置が異なる。天明3年の弘法大師950年遠忌の本尊開帳では「庚申堂台進行上人御居間江幅壱之仮廊掛ル」(「開帳中記録」)とあるので、本坊(客)脇にある宝形造の小堂は太子堂(庚申堂)考えられる。
③本堂と茶堂との間の石像が描かれる場所は、石像大師堂の跡地
④平場3の宝形造の小堂が四国遍礼名所図会で「大師堂本堂のうらにあり」とされる大師堂
⑤平場2の小舎は、鎮守社(熊野権現)
この時期には、明和元年(1764)の弘法大師繍画寄進から天明3年(1783年)の弘法大師950年遠忌に合わせて、大師堂改築、本堂建替など、伽藍整備が活発に行われた時期になるようです。
④平場3の宝形造の小堂が四国遍礼名所図会で「大師堂本堂のうらにあり」とされる大師堂
⑤平場2の小舎は、鎮守社(熊野権現)
この時期には、明和元年(1764)の弘法大師繍画寄進から天明3年(1783年)の弘法大師950年遠忌に合わせて、大師堂改築、本堂建替など、伽藍整備が活発に行われた時期になるようです。
第3期 19世紀前葉
郷照寺 第3期19世紀前葉の堂宇配置
諸堂の配置は、平場1に本堂、鐘楼、茶堂、平場2には熊野権現社、平場3に大師堂が建ちます。先ほど見た「四国礼名所図会」(寛政12年(1800)と比較して見ると、次のような点が読みとれます①本堂に変更はない。
②太子堂(庚申堂)は、本堂前の北側に移築されている
③客殿と庫裡が別棟になって大規模化している。
④平場2・3の斜面落ち際には、土塀や石垣を表すとみられる二重線がみられる
郷照寺に石垣が登場するのは19世紀になってからです。
郷照寺の石垣 3・4・5 19世紀のもの
旧参道の2基の石垣記念碑(参道4:文化7年、備前下津井萩野屋久兵衛、播磨屋喜八郎、茶堂宗玄 参道5:再建発願人当山茶堂宗玄、施主当所井近郷分講中)は、平場2・3への石垣3~5の築造や平場1の石垣修理の祈念に建てられたものと研究者は考えています。寄進碑に名前のみえる宗玄は、寛政5年(1793)に茶堂に置かれたとみられる道心者と同一人物のようです。第4期19世紀中葉
この時期に書かれた「金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))や「讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854~)に描かれた境内絵図を見ておきましょう。

郷照寺 讃岐国名勝図会(1853年)
伽藍で現存する建物としては、次の通りです。
A 本堂(桁行3間、梁間5間、二重、向拝1間、寄棟造、本瓦葺19世紀前業)B 庚申堂(正面3間、側面2間、青画仏壇突出、向拝1間、宝形造、本瓦葺18世紀中葉)C 大師堂(正堂正面1間、背面3間、側面2間、宝形造、本瓦葺明治10年(1877)D 礼堂・桁行3間、梁間3間、入母屋造、向拝1、本瓦葺大正6年(1917E 鐘楼(桁行間、梁間1問、入母屋造、本瓦葺19世紀中葉)
Aの本堂は、玄関(軒唐破風付入母屋造、本瓦葺)や客殿(入母屋造、本瓦葺)は江戸後期のもので、本山の遊行上人の宿舎として整備されたもので、格の高い建物となっています。「身舎の四隅の柱や柱などの重要な柱を残しつつも、柱を省略して大空間を設ける架構が特徴的」と研究者は評します。
Bの庚申堂は、建立年代が最も古い建築であり、「軸部に当初材をよく残し、組物や彫刻に整った意匠を有する小規模な仏堂」です。
Eの鐘楼は、昭和50年(1975)に本坊前から北へ移築されていますが幕末の建築です。
讃岐国名勝図会に描かれた宇多津 本妙寺の隣に郷照寺
以上をまとめておきます①現在の郷照寺境内は、江戸後期の18世紀後半に基本的な構成ができあがった
②その後、四国遍路の盛行や遊行上人廻国の受入を契機として、幕末までまで整備拡充が行われた
③3段の平場の伽藍地は小規模だが、他の札所寺院と比べて、二重、寄棟造、階付きの本堂や客殿は、大掛かりである
④この背景には、時宗総本山の遊行上人廻国の化益賦算所と宿坊となったことによるところが大きい。 ⑤四国遍路札所として、大師堂や茶堂はあるが、それよりも時宗寺院としての讃岐での中核末寺としての寺歴が現在の伽藍には反映されている。
投影されていると考えられる。
⑥近代になっても諸堂の充実が進められるとともに、参道の両脇や本堂と大師堂との間の平場2は墓地化した。墓地の拡大は、江戸時代の檀家が2軒、だったのに対して明治以降には40軒に増加したことを反映するものである。
⑦昭和30年代に大師堂の礼堂前に鞘堂(回廊)が設置
⑧昭和50年には参道が北へ振替えられ、旧参道の石階部分は埋め戻され、石垣に参道石段が新設された。
⑦昭和30年代に大師堂の礼堂前に鞘堂(回廊)が設置
⑧昭和50年には参道が北へ振替えられ、旧参道の石階部分は埋め戻され、石垣に参道石段が新設された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32p関連記事
四国霊場 郷照寺 ただひとつの時宗の寺
中四国の霊山 児島の五流修験は讃岐への熊野信仰流布の拠点となった
四国霊場弥谷寺 中世の弥谷寺は時衆系高野聖によって、阿弥陀浄土信仰の「別所」となった。










