当時の東アジアは中国は明帝国の時代で、鄭和による南海遠征後には東南アジアとの南海貿易が開始されます。そこに琉球や日本・朝鮮との東アジア交易圏なども組み込まれて、アジアの「大航海時代」が始まっていました。当時の日本列島における拠点が博多で、多くの人とモノが行き交う貿易港の役割を果たすと同時に、中国人が数多く定住しチャイナタウンを形成していました。今回は、このイラストからいろいろな情報を読みとっていこうと思います。
博多は、「息浜」という自然の砂州から発展した港湾都市でした。砂浜が拡がるだけの港の背後の中洲に町は発展していきます。
息浜の港には多くの船が停泊しています。港から伸びてくる一本の道の両側には、店が建ち並んでいます。燕の巣があるので季節は5月初夏のようです。表通りの道は瓦の破片を敷きつめた舗装道路で、側溝もあります。これなら雨が振っても泥濘むことはありません。港と町の境には木戸があります。周囲は柵(釘くぎ貫ぬき)で囲まれています。町屋は板葺の屋根で、その上には石や太い木がおかれています。よく見ると,草葺や柿こけら葺ぶき(木羽板葺)の屋根もあります。しかし、瓦葺きの大きな家はありません。中世の町屋は,近世と比べるとまだ小さく,粗末だったようです。
息浜の港には多くの船が停泊しています。港から伸びてくる一本の道の両側には、店が建ち並んでいます。燕の巣があるので季節は5月初夏のようです。表通りの道は瓦の破片を敷きつめた舗装道路で、側溝もあります。これなら雨が振っても泥濘むことはありません。港と町の境には木戸があります。周囲は柵(釘くぎ貫ぬき)で囲まれています。町屋は板葺の屋根で、その上には石や太い木がおかれています。よく見ると,草葺や柿こけら葺ぶき(木羽板葺)の屋根もあります。しかし、瓦葺きの大きな家はありません。中世の町屋は,近世と比べるとまだ小さく,粗末だったようです。
表通りの店先 一番手前が反物屋
表通りの一番手前にあるのが反物屋で、反物が並べられたり、吊されたりしています。
注意して欲しいのは、完成した呉服が売られていないことです。近代までは、着物は反物を買って、自分で縫っていたようです。完成品の着物は売られていませんでした。反物屋の軒先を見ると、売り手も買い手も女性です。そういえば、一遍上人絵伝の福岡の市の反物屋も売り手は女性でした。中世は性別分業がはっきりしていて反物商売は女の職業だったようです。その向こうが酒屋です。軒先には男性たちが酒をあおってたむろしています。時代が変わっても、人間の酒好きは変わらないようです。
その隣が曲げ物屋です。桶師(桶屋)が地面に座り込んで,桶に箍(たが)をはめています。
結桶は室町時代に登場した優れもので、頑丈なので水などの液体を運搬することができるようになりました。酒などもこの時期には瓶(かめ)でつくっていましたが,近世になると大きな結桶で大量の酒を醸造するようになります。それが醤油や味噌などにも転用されます。そして江戸時代になると樽に入れられた酒が、大量に灘から江戸に船で運ばれるようになります。現在のコンテナの出現のように、ある意味では運輸革命につながります。
桶屋の前では、喜捨を求めた黒い僧服を着た僧侶が追い払われています。阿弥陀浄土信仰を説く念仏聖かもしれません。讃岐でも中世には、志度寺・白峰寺・弥谷寺などは念仏聖の拠点となって、多くの聖達が住み着いて、周辺への布教活動を行っていたことは以前にお話ししました。富み栄える港町には、いろいろな宗派の僧侶がやってきて布教活動を行っていました。
その向こうが米屋で,枡(ます)で量り売りをしています。次は刀剣を商っている刀屋。一つ道をはさんで向こう側が,陶磁屋です。中国からもたらされた陶磁器も扱われていたのでしょう。


博多区店屋町冷泉(てんやまちれいせん)公園東側では、波打ち際に廃棄された12世紀初めの白磁の山が出土し、当時の博多の荷揚げ場(港)は「博多浜」の西部にあったと推定されます。また、「博多浜」の中央部にあたる店屋町や冷泉町周辺からは多くの中国製陶磁器類が一括して出土し、これらを取り扱う事務所や倉庫が軒を連ねていたと考えられます。
今度は通りを行き交う人々を手前から見ていくことにします。
市女(いちめ)笠をかぶっているのが女主人で,頭上に包みをのせているのは侍女でしょう。頭上に薪をのせて売り歩いている女性もいます。かつては日本のどこでも、頭上に荷物を載せて運ぶことが普通に行われていたようです。
画面手前には,粗末な木の鞍をつけた馬が描かれています。これが運輸業者の馬借(ばしゃく)で、依頼に応じて荷物や商品を指定地まで運んでいました。馬借の登場で陸上輸送が発達し、商品がより大量に円滑に流通するようになります。宅配の出現で、アマゾンや楽天が成長するのと同じです。また馬借は、トラックやタクシー運転手と同じで、ネットワークを持ち情報伝達の役割ももっていました。そのために、土一揆などの広がりなどにも大きな影響を与えたとされます。
その向こうには、杖をついた2人づれの琵琶法師や猿曳ひき(猿回し)もいます。
芸能集団も孤立した存在でなくネットワークを持ち、活動していました。そして、それぞれの守護神をもち信仰団体としての側面を持っていました。
猿曳の芸を見物している人垣の背後には、守護の率いる武士集団が近づいてきます。それを町の有力者が迎えています。ここで注意しておきたいのは、中世の都市が支配者である武士集団の支配下に置かれていたのではないことです。都市は、自治権をもって独自に運営されていました。武士居館が都市の中にあることはありません。これが近世の城下町とは異なるところです。近世の城下町は、商人や有力寺院などを強制的に移住させて出来上がった人為的な空間であることを押さえておきます。
町屋の壁のところに小さな屋根の小屋があって、乞食の親子と覆面をした「癩者(らいじゃ=ハンセン病患者)が物乞いをしています。
一遍上人絵伝の中にも、彼らは何度も登場してきます。中世の都市や寺社の門前には,けがれた存在として差別された人々も生活していたことを押さえておきます。
画面手前には,粗末な木の鞍をつけた馬が描かれています。これが運輸業者の馬借(ばしゃく)で、依頼に応じて荷物や商品を指定地まで運んでいました。馬借の登場で陸上輸送が発達し、商品がより大量に円滑に流通するようになります。宅配の出現で、アマゾンや楽天が成長するのと同じです。また馬借は、トラックやタクシー運転手と同じで、ネットワークを持ち情報伝達の役割ももっていました。そのために、土一揆などの広がりなどにも大きな影響を与えたとされます。
その向こうには、杖をついた2人づれの琵琶法師や猿曳ひき(猿回し)もいます。
芸能集団も孤立した存在でなくネットワークを持ち、活動していました。そして、それぞれの守護神をもち信仰団体としての側面を持っていました。
猿曳の芸を見物している人垣の背後には、守護の率いる武士集団が近づいてきます。それを町の有力者が迎えています。ここで注意しておきたいのは、中世の都市が支配者である武士集団の支配下に置かれていたのではないことです。都市は、自治権をもって独自に運営されていました。武士居館が都市の中にあることはありません。これが近世の城下町とは異なるところです。近世の城下町は、商人や有力寺院などを強制的に移住させて出来上がった人為的な空間であることを押さえておきます。
町屋の壁のところに小さな屋根の小屋があって、乞食の親子と覆面をした「癩者(らいじゃ=ハンセン病患者)が物乞いをしています。
一遍上人絵伝の中にも、彼らは何度も登場してきます。中世の都市や寺社の門前には,けがれた存在として差別された人々も生活していたことを押さえておきます。
木戸からの道の真ん中を、赤と青の長い袖の中国服を着た明の商人たちが歩いてきます。
律令体制が解体していく平安末期になると、古代からの官衛センターの鴻臚館(こうろかん)は機能しなくなります。それに代わって始まるのが、中国商人による私貿易です。そのために中国商人たちが、博多に住みつくようになります。彼らは「博多綱首」と呼ばれ、寺社や貴族などと結びつきながら、船主や船長として日中間を盛んに往来し、東アジア海域の貿易活動の主役になります。
こうして博多は「博多綱首」と呼ばれる人達を中心に多くの中国人が定住するようになります。史料に出てくる「博多津唐房」の「房」は「坊」で、町の区画を表す言葉です。明代末期の伝承では「大唐街」と呼ばれるチャイナタウンが形成されていたとも記されます。そうすると、日本で最初のチャイナタウンができたのは博多と云うことになります。
「博多浜」の東部では、宋人が建てた「博多百堂(仏堂)」の跡地に、12世紀末に栄西によってわが国最初の禅宗寺院聖福寺が建立されます、また、1242年には博多綱首謝国明(しゃこくめい)によって聖一国師(しょういちこくし)を迎えて承天寺が創建されました。いずれも博多居住の中国人の直接・間接の援助によって建てられたもので、チャイナ・タウンの中核として、かれらの活動のより所となります。こうして、中国商人の保護を受けながら初期の禅宗寺院は博多に根付いていきます。
「博多浜」の東部では、宋人が建てた「博多百堂(仏堂)」の跡地に、12世紀末に栄西によってわが国最初の禅宗寺院聖福寺が建立されます、また、1242年には博多綱首謝国明(しゃこくめい)によって聖一国師(しょういちこくし)を迎えて承天寺が創建されました。いずれも博多居住の中国人の直接・間接の援助によって建てられたもので、チャイナ・タウンの中核として、かれらの活動のより所となります。こうして、中国商人の保護を受けながら初期の禅宗寺院は博多に根付いていきます。
井戸や菜園があり,女性が洗濯や立ち話を,子どもは桶で水運びをしています。牛車には酒の瓶がのせられています。牛車の横の建物は土蔵です。また,乞食小屋の後ろで,子どもが独楽を回して遊んでいます。
ここで登場する人達の、衣類や髪形を見ておきましょう。
中世の働く女性はも,褶(しびら)と呼ばれる布を腰に巻いていました。

褶(しびら)
それがこの頃から前垂れ(エプロン)に変わり始めまます。この時期は,衣類や頭髪スタイルは古代と近世の二つの時代のものが混じり合う過渡期だったようです。奈良時代や鎌倉時代と比べると、次のような事が云えます
ここで登場する人達の、衣類や髪形を見ておきましょう。
烏帽子を被る人と露頭の人 後は小屋掛けするハンセン病患者
中世中頃までは,男は烏帽子をかぶっていたのですが,この頃になると,なにも被らない露頭の人々も増えてきます。ただし,髷(まげ)はまだ登場しません。髷は近世のもので、この時代には見当たりません。中世の働く女性はも,褶(しびら)と呼ばれる布を腰に巻いていました。

褶(しびら)
それがこの頃から前垂れ(エプロン)に変わり始めまます。この時期は,衣類や頭髪スタイルは古代と近世の二つの時代のものが混じり合う過渡期だったようです。奈良時代や鎌倉時代と比べると、次のような事が云えます
①着物の柄があざやかになったこと
②下駄をはく人が増えていること
③古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた。
④これが月代(つきやき)につながっていくこと
港と沖に浮かぶ船を見ておきましょう。
A 一番大きな船が右側の明船(ジャンク船)B その左隣の船が朝鮮の船C その奥が日本の貿易船D 四番目は軍船
港には着岸できないので、沖合に停泊して渡船で乗り降りしています。中世の港湾施設は質素なモノであったことは以前にお話ししました。大型船が着岸できるような岸壁はありません。
Aの明船に乗りこむために、禅宗の留学僧が小舟に乗っています。それを多くの人達が見送っています。この時期には禅宗僧侶が数多く中国に留学しています。彼らは禅宗を学ぶとともに、中国語を学び、商売のやり方まで学んで帰ります。そして、日明貿易が大きな富をもたらすことを支配者たちに教えます。武士集団の多くが禅宗に帰依していくのは、信仰心だけでなく、富をもたらす交易に参画したいという経済的な背景もあったようです。それは、イエズス会修道士に布教の自由を認める代わりに、交易権を得ようとした大名達と同じです。
Bの船の小舟から下船した人達の服装は、朝鮮スタイルです。朝鮮半島とも活発な交易活動が行われていたことは以前にお話ししました。
Aの明船に乗りこむために、禅宗の留学僧が小舟に乗っています。それを多くの人達が見送っています。この時期には禅宗僧侶が数多く中国に留学しています。彼らは禅宗を学ぶとともに、中国語を学び、商売のやり方まで学んで帰ります。そして、日明貿易が大きな富をもたらすことを支配者たちに教えます。武士集団の多くが禅宗に帰依していくのは、信仰心だけでなく、富をもたらす交易に参画したいという経済的な背景もあったようです。それは、イエズス会修道士に布教の自由を認める代わりに、交易権を得ようとした大名達と同じです。
Bの船の小舟から下船した人達の服装は、朝鮮スタイルです。朝鮮半島とも活発な交易活動が行われていたことは以前にお話ししました。
当時の博多が国際都市であったことを、もう一度押さえておきます。
史料からも16世紀の博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えて、日本の女を妻にしている者がいたことが分かります。そして倭人も貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたのです。そして彼らの中には軍事集団として、沿岸周辺を襲う倭寇にも姿を変えました。この港に描かれている軍事集団は、そのような性格をもっていたと考えられます。
博多を舞台に国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶たちです。
例えば禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)がいます。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景があったからできたことです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。このように博多は、東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。博多を舞台に国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶たちです。
例えば禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)がいます。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景があったからできたことです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。このように博多は、東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
参考文献
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
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