瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2026年06月

たいむタイムトラベル 博多全体
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
 ここに描かれているのは15世紀頃の博多です。
当時の東アジアは中国は明帝国の時代で、鄭和による南海遠征後には東南アジアとの南海貿易が開始されます。そこに琉球や日本・朝鮮との東アジア交易圏なども組み込まれて、アジアの「大航海時代」が始まっていました。当時の日本列島における拠点が博多で、多くの人とモノが行き交う貿易港の役割を果たすと同時に、中国人が数多く定住しチャイナタウンを形成していました。今回は、このイラストからいろいろな情報を読みとっていこうと思います。

中世の博多地図

  博多は、「息浜」という自然の砂州から発展した港湾都市でした。砂浜が拡がるだけの港の背後の中洲に町は発展していきます。
たいむタイムトラベル 博多左上

 息浜の港には多くの船が停泊しています。港から伸びてくる一本の道の両側には、店が建ち並んでいます。燕の巣があるので季節は5月初夏のようです。表通りの道は瓦の破片を敷きつめた舗装道路で、側溝もあります。これなら雨が振っても泥濘むことはありません。港と町の境には木戸があります。周囲は柵(釘くぎ貫ぬき)で囲まれています。町屋は板葺の屋根で、その上には石や太い木がおかれています。よく見ると,草葺や柿こけら葺ぶき(木羽板葺)の屋根もあります。しかし、瓦葺きの大きな家はありません。中世の町屋は,近世と比べるとまだ小さく,粗末だったようです。

たいむタイムトラベル 博多 商店
表通りの店先 一番手前が反物屋

表通りの一番手前にあるのが反物屋で、反物が並べられたり、吊されたりしています。
注意して欲しいのは、完成した呉服が売られていないことです。近代までは、着物は反物を買って、自分で縫っていたようです。完成品の着物は売られていませんでした。反物屋の軒先を見ると、売り手も買い手も女性です。そういえば、一遍上人絵伝の福岡の市の反物屋も売り手は女性でした。中世は性別分業がはっきりしていて反物商売は女の職業だったようです。その向こうが酒屋です。軒先には男性たちが酒をあおってたむろしています。時代が変わっても、人間の酒好きは変わらないようです。
その隣が曲げ物屋です。桶師(桶屋)が地面に座り込んで,桶に箍(たが)をはめています。

職人絵図 桶師
結桶は室町時代に登場した優れもので、頑丈なので水などの液体を運搬することができるようになりました。酒などもこの時期には瓶(かめ)でつくっていましたが,近世になると大きな結桶で大量の酒を醸造するようになります。それが醤油や味噌などにも転用されます。そして江戸時代になると樽に入れられた酒が、大量に灘から江戸に船で運ばれるようになります。現在のコンテナの出現のように、ある意味では運輸革命につながります。
 桶屋の前では、喜捨を求めた黒い僧服を着た僧侶が追い払われています。阿弥陀浄土信仰を説く念仏聖かもしれません。讃岐でも中世には、志度寺・白峰寺・弥谷寺などは念仏聖の拠点となって、多くの聖達が住み着いて、周辺への布教活動を行っていたことは以前にお話ししました。富み栄える港町には、いろいろな宗派の僧侶がやってきて布教活動を行っていました。

その向こうが米屋で,枡(ます)で量り売りをしています。次は刀剣を商っている刀屋。一つ道をはさんで向こう側が,陶磁屋です。中国からもたらされた陶磁器も扱われていたのでしょう。
博多 中国人の墨書陶磁器

 博多区店屋町冷泉(てんやまちれいせん)公園東側では、波打ち際に廃棄された12世紀初めの白磁の山が出土し、当時の博多の荷揚げ場(港)は「博多浜」の西部にあったと推定されます。また、「博多浜」の中央部にあたる店屋町や冷泉町周辺からは多くの中国製陶磁器類が一括して出土し、これらを取り扱う事務所や倉庫が軒を連ねていたと考えられます。

 今度は通りを行き交う人々を手前から見ていくことにします。
市女(いちめ)笠をかぶっているのが女主人で,頭上に包みをのせているのは侍女でしょう。頭上に薪をのせて売り歩いている女性もいます。かつては日本のどこでも、頭上に荷物を載せて運ぶことが普通に行われていたようです。

たいむタイムトラベル 博多左下
画面手前には,粗末な木の鞍をつけた馬が描かれています。これが運輸業者の馬借(ばしゃく)で、依頼に応じて荷物や商品を指定地まで運んでいました。馬借の登場で陸上輸送が発達し、商品がより大量に円滑に流通するようになります。宅配の出現で、アマゾンや楽天が成長するのと同じです。また馬借は、トラックやタクシー運転手と同じで、ネットワークを持ち情報伝達の役割ももっていました。そのために、土一揆などの広がりなどにも大きな影響を与えたとされます。

その向こうには、杖をついた2人づれの琵琶法師や猿曳ひき(猿回し)もいます。
芸能集団も孤立した存在でなくネットワークを持ち、活動していました。そして、それぞれの守護神をもち信仰団体としての側面を持っていました。
猿曳の芸を見物している人垣の背後には、守護の率いる武士集団が近づいてきます。それを町の有力者が迎えています。ここで注意しておきたいのは、中世の都市が支配者である武士集団の支配下に置かれていたのではないことです。都市は、自治権をもって独自に運営されていました。武士居館が都市の中にあることはありません。これが近世の城下町とは異なるところです。近世の城下町は、商人や有力寺院などを強制的に移住させて出来上がった人為的な空間であることを押さえておきます。
 町屋の壁のところに小さな屋根の小屋があって、乞食の親子と覆面をした「癩者(らいじゃ=ハンセン病患者)が物乞いをしています。
一遍上人絵伝の中にも、彼らは何度も登場してきます。中世の都市や寺社の門前には,けがれた存在として差別された人々も生活していたことを押さえておきます。

たいむタイムトラベル 博多 守護 陶器屋

木戸からの道の真ん中を、赤と青の長い袖の中国服を着た明の商人たちが歩いてきます。
律令体制が解体していく平安末期になると、古代からの官衛センターの鴻臚館(こうろかん)は機能しなくなります。それに代わって始まるのが、中国商人による私貿易です。そのために中国商人たちが、博多に住みつくようになります。彼らは「博多綱首」と呼ばれ、寺社や貴族などと結びつきながら、船主や船長として日中間を盛んに往来し、東アジア海域の貿易活動の主役になります。
 こうして博多は「博多綱首」と呼ばれる人達を中心に多くの中国人が定住するようになります。史料に出てくる「博多津唐房」の「房」は「坊」で、町の区画を表す言葉です。明代末期の伝承では「大唐街」と呼ばれるチャイナタウンが形成されていたとも記されます。そうすると、日本で最初のチャイナタウンができたのは博多と云うことになります。
「博多浜」の東部では、宋人が建てた「博多百堂(仏堂)」の跡地に、12世紀末に栄西によってわが国最初の禅宗寺院聖福寺が建立されます、また、1242年には博多綱首謝国明(しゃこくめい)によって聖一国師(しょういちこくし)を迎えて承天寺が創建されました。いずれも博多居住の中国人の直接・間接の援助によって建てられたもので、チャイナ・タウンの中核として、かれらの活動のより所となります。こうして、中国商人の保護を受けながら初期の禅宗寺院は博多に根付いていきます。

 町屋の裏は生活空間でした。

たいむタイムトラベル 博多右下
井戸や菜園があり,女性が洗濯や立ち話を,子どもは桶で水運びをしています。牛車には酒の瓶がのせられています。牛車の横の建物は土蔵です。また,乞食小屋の後ろで,子どもが独楽を回して遊んでいます。
ここで登場する人達の、衣類や髪形を見ておきましょう。

たいむタイムトラベル 博多 古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた
烏帽子を被る人と露頭の人 後は小屋掛けするハンセン病患者
中世中頃までは,男は烏帽子をかぶっていたのですが,この頃になると,なにも被らない露頭の人々も増えてきます。ただし,髷(まげ)はまだ登場しません。髷は近世のもので、この時代には見当たりません。
 中世の働く女性はも,褶(しびら)と呼ばれる布を腰に巻いていました。
*
褶(しびら)

それがこの頃から前垂れ(エプロン)に変わり始めまます。この時期は,衣類や頭髪スタイルは古代と近世の二つの時代のものが混じり合う過渡期だったようです。奈良時代や鎌倉時代と比べると、次のような事が云えます
①着物の柄があざやかになったこと
②下駄をはく人が増えていること
③古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた。
④これが月代(つきやき)につながっていくこと
 
港と沖に浮かぶ船を見ておきましょう。

たいむタイムトラベル 博多右上の港
博多
港の船(港湾施設はなく、着岸はできない)
右端の大きな船を拡大して見てみます。

たいむタイムトラベル 博多 沖の船

A 一番大きな船が右側の明船(ジャンク船)
B その左隣の船が朝鮮の船
C その奥が日本の貿易船
D 四番目は軍船
港には着岸できないので、沖合に停泊して渡船で乗り降りしています。中世の港湾施設は質素なモノであったことは以前にお話ししました。大型船が着岸できるような岸壁はありません。
Aの明船に乗りこむために、禅宗の留学僧が小舟に乗っています。それを多くの人達が見送っています。この時期には禅宗僧侶が数多く中国に留学しています。彼らは禅宗を学ぶとともに、中国語を学び、商売のやり方まで学んで帰ります。そして、日明貿易が大きな富をもたらすことを支配者たちに教えます。武士集団の多くが禅宗に帰依していくのは、信仰心だけでなく、富をもたらす交易に参画したいという経済的な背景もあったようです。それは、イエズス会修道士に布教の自由を認める代わりに、交易権を得ようとした大名達と同じです。
Bの船の小舟から下船した人達の服装は、朝鮮スタイルです。朝鮮半島とも活発な交易活動が行われていたことは以前にお話ししました。

当時の博多が国際都市であったことを、もう一度押さえておきます。
史料からも16世紀の博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えて、日本の女を妻にしている者がいたことが分かります。そして倭人も貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたのです。そして彼らの中には軍事集団として、沿岸周辺を襲う倭寇にも姿を変えました。この港に描かれている軍事集団は、そのような性格をもっていたと考えられます。
 博多を舞台に国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶たちです。
例えば禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)がいます。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
 そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景があったからできたことです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。このように博多は、東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
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タイムトラベル 中世の村 武士居館

前回は中世の農村を描いた絵図の武士居館から、次のような情報を読みとりました。
① 地域の軍事拠点であったこと
② 武士集団が武装集団で、暴力装置であったこと
③ 周囲の名主や百姓から領主として徴税する権利を得ていたこと
つまり、東国からやって来た武士集団の棟梁は、地域の警察署長と税務署長を兼ねるような存在であったということです。今回は、武士居館の背後に描かれている名主の活動を読みとっていこうと思います。テキストは「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。
 武士居館の背後に見える大きな建物は、名主の屋敷です。

タイムトラベル 中世の村 名主

街道両側の田んぼは稲刈りが終わって、稲の切り株が綺麗に並んでいます。秋祭りが開かれている②鎮守の岡の麓に、大きな家が建っています。これが③名主の家です。そのとなりに④下僕の竪穴式の小さな家があります。拡大して見ると、名主の舘の前には米俵が積み上げられて脱穀が行われているようです。しかし、右隣の下僕の家には何もありません。両者のちがいがくっきりと描かれています。名主の家の左隣は、鍛冶屋小屋です。この時代は、鍛冶屋職人は有力者に呼ばれて出向いて、そこで鍛冶仕事をしていました。経済的基盤がないと鍛冶屋は呼べません。当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。

中世の鋤の改良

タイムトラベル 中世の村 鋤

 当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。有力者は、当時ハイテク技術で改良された鋤を先行使用することで、新田開発や治水灌漑工事を進め耕地を増やして行きます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。
たいむタイムトラベル 中世農村解説1 名主


池田町史(上巻190P)には、中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活が物語り風に次のように記されています。
応仁の乱が終わって間もない時期。
夫婦と子ども三人の百姓の家庭。
子どもも生産のにない手。
田畑五反ほどを耕作している。
常食は麦で、正月や節句には米も食べる。
食事は朝・昼・晩の三食(鎌倉期までは朝晩の二回)。
おかずは、最近このあたりに作られるようになったウリ、ナス、ゴボウ、
特にコイモ(里芋)は保存がきくので評判がよい。
食器は、木地屋から買った木の棚に並べてある。
父が男の子をつれて山へ狩に行く。兎や猫の肉はごちそうである。

中世になると、新たに開発された谷田などでは二毛作が行われるようになります。平地の皿田では排水が難しかったのですが、谷田の場合、排水は比較的容易でした。 そのため谷田の私有田は、二毛作に適していました。二毛作には、麦と米、麦と豆がありました。山村の焼き畑では、奏と大豆の組合せも早くから行われていたようです。古代の稲作が「かたあらし」という隔年で耕作したり、何年も荒らしておいたりしていたのと比べると、二毛作は農民達により多くの収穫物をもたらすようになります。

 昔(南北朝ころ)は松の枝をたいて明りをとっていたが、今では油をしぼって燈明にできるので明るいし、目に煙がしむこともないと母親はよく昔話をする。燈明に照し出された家の中を見ると、部屋はふた間で、板の間にむしろが敷いてある。この板の間も、父の自慢のもので、村の半数位の家は土間にむしろを敷いている。土間は広く、この土間で父は仕事をし、母は糸をつむぎ布を織る。糸の原料は梶とひゅうじの皮であるが、ひゅうじの皮を集めるのは、弟妹の役目で長男は父の仕事を手伝う。
 土間のすみには①木製の鍬やすきが置かれている。その側に②備前焼の壺が黒光りに輝いている。二、三年前に種物を入れるために、大事にしていた銭を出して、医家大明神の市で買ったものである。種が、いつもねずみに食い荒らされるので、無理をして買ったものである。

①の農具については鎌倉時代には、鉄製の鍬、鎌、馬把などが使われるようになります。
しかし、当時は貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことがうかがえます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。ここでは鎌倉時代には鉄製の鋤は、有力者に限定された農具で、それを使用できたものが谷田などを開き、名主へと成長していったことを押さえておきます。

中世の農業経営=集約化・多角化


たいむタイムトラベル 中世農村解説2 灌漑施設

「タイムトラベル中世の農村」には、右奥に谷川沿いに開かれた水田と灌漑施設が描かれています。
水田を開かれた順に3区分すると次のようになります。
A 荘園の荘司(上図の大きな屋敷)によって開かれた左岸水系
B 名主によって開発された右岸水系
C 地頭としてやってきた東国武士(西遷御家人)が開いた下流エリア
タイムトラベル 中世の村 潅漑施設


Aのエリアは、開発領主としての荘司の館の前に広がる水田の水源は、上流から取水されているようです。不足する用水に対応するために川からの④揚水用水車が登場しています。これは水不足の際には、威力を発揮して、安定生産に貢献したでしょう。それでは、Bエリア(右岸)の水源はどこなのでしょうか。よく見ると定期市の奥に、①ため池が見えます。そこから②用水路が伸びて③「かけい(用水橋)」で川を渡って右岸に水を供給しています。これらは名主によって開かれたことが考えられます。そして、Bエリアが新たな水田地帯として開かれたという筋書きです。
 さらにCは、東国からやってきた武士団が進んだ土木技術で治水灌漑工事を行い、谷間出口の扇状地を開発したことが見えてきます。川から取水した用水路は、武士居館の堀に導かれ、下流に分配されていきます。こうしてみると堀は軍事的防御施設としてだけでなく、灌漑用の分水機能を持っていたことになります。
 各地の荘園研究からは、荘域と灌漑エリアが一致することが報告されています。
例えば播磨国斑鳩荘や近江国江部荘でも、荘域エリアと、井堰の灌概エリアが一致します。井堰の設置が平安末期にさかのぼる場合は、荘園開発のために開発開削されたこと、その灌概エリアが荘園一円化・荘域確定の際の根拠となっていったと研究者は考えています。ここでは「用水の掌握が領域支配確立の基盤の一つであった」ことを押さえておきます。
 これは「中世の灌概用水の管理権・給水権が、領主の中枢的権力を構成する」 と指摘する研究者(宝月圭吾、福留照尚)もいます。戸田芳実氏は、次のように述べます(要約)

在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。

荘園の安定的な支配のために、灌漑用紙を自らの管理下におくことは大きな意味を持っていたはずです。鎌倉時代の初期の居館が河川の水利開発と深い関わりを示していたこと、 初期在地領主がさかんに用水支配を行う存在であったこと、水利開発と用水支配が「所領」支配の根拠となり、その領主権のひとつの要素 となっていったと研究者は考えています。

 このような風景が讃岐で見えてくるのが丸亀平野の土器川と大束川に挟まれた法勲寺周辺です。
飯山法勲寺開発1地図
鵜足郡法勲寺荘(丸亀市飯山町)
法勲寺荘は土器川と大束川に挟まれ、飯野山の南側です。このあたりは古代寺院の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。しかし、かつては土器川が流れ込み、大束川と合流し河津方面に流れ込んでいた痕跡があります。
大束川旧流路
飯野山南側の土地利用図 土器川の流入跡が見られる

飯山法勲寺古地名全体
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域である
②東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割は一部のみ
③大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えない
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと研究者は考えています。

東小川を拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg

「新名出水」という地名は、新しく開発された名田の水源となった出水のことです。土器川の伏流水を利用して、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した開発領主がいたようです。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げてみます。

「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

「馬場・馬よけ場」という地名からは、武士集団の存在がうかがえます。彼らによって、いままで放置されていた氾濫原に用水がひかれ水田化したことが考えられます。つまり新田開発のための治水潅漑の土木技術をもった集団の「入植・開発」があったということです。

飯山法勲寺古地名2jpg

 中方橋の北側のエリアを見ておきます。

「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」

地名の後につく接尾詞の「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。
 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
荘司は荘園の管理者のことですから彼の屋敷か、直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。そこには宇多津の郷照寺などを拠点として活動する念仏聖が住み着き、阿弥陀信仰や念仏信仰の布教場所になっていきます。同時に、芸能伝播者としての聖から風流念仏踊りなどが地域の人々に伝えられる場所にもなります。
高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。

(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

滝宮牛頭天王社に奉納された坂本念仏踊りは、このような時宗系念仏聖によって伝えられたと私は考えています。
下のリストは承久の乱後に地頭として讃岐にやってきた東国の西遷御家人のリストです。

飯山地頭一覧
この中に鵜足郡法勲寺領の地頭職を得た壱岐時重が右から4番目にいます。 
 法勲寺地頭職を得た壱岐時重は、承久の変後に讃岐に置かれた新補地頭の一人です。『吾妻鏡』に、彼の地頭職を巡る判決が次のように記されています。(書き下し文)
 廿八日、発巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、本補新補両様を兼帯せしむるの由、雑掌之れを訴え申すに就いて、評定有り、年序を経るの由、地頭之れを申すといえども、其の理無きの間、一方に於いて者停止せらるべし、然らば本司の跡たるべきか、はた又、新補たるべきか、望み申に随って、仰せ下さるべし、一方注中すべきの旨、今日仰せ下され、云々
 ここに出てくる法勲寺とは法勲寺領のことで、荘・郷などと同格に扱われています。その地頭職持っていた壱岐七郎左衛門尉時重が「本補と新補」の両方の権利を主張したのに対して、評定では、その理はないので、一方どちらかを選ぶようにとの裁定が降されたとあります。ここからは、壱岐尉時が法勲寺領の地頭であったことが裏付けられます。
 それでは法勲寺領の地頭として讃岐にやって来た壱岐時重の居館はどこにあったのでしょうか?
 その候補地の一つが讃岐富士の麓のダイキ飯山店の下に眠っている居館跡です。

飯山国持居館2地図
土器川の支流が飯野山にぶつかり90度流れを変えるところにある飯山北土居遺跡

飯山国持居館3グーグル地図
グーグルマップで見た飯山北土居遺跡(武士居館跡)

武士居館
武士居館の復元モデル
この地図からは土器川支流の河川跡がはっきりとわかります。ここにはいまも伏流水がながれていて、この旧河道沿いに用水路が古代から確保されていたことが発掘調査から分かっています。それが下図の上井用水です
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
上井用水は、大窪池の下の谷間の出水を水源として、古代寺院の法勲寺や、鵜足郡郡衙跡(推定)を経て河津地区までまで用水を供給していました。古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたようです。これらの治水灌漑工事を中世初期に完成させたのが、飯山北土居遺跡の武士居館の武士集団=地頭としてやって来た壱岐時重であったと私は考えています。
灌漑用水網と居館群
 地頭などによって開発された用水路も後世になると、維持するのは各地域の農民達です。潅漑施設の維持管理のために、彼らは共同作業・共同管理を行うようになります。そのために各集落の人々が地域の郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうスタイルが生まれます。滝宮牛頭天王社に踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。

タイムトラベル 中世の村

 最初の中世の農村イラストは、以上のような潅漑施設の整備を通じて、地域の支配権を強化しようとする名主や武士集団の戦略が見えてもきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。



タイムトラベル 中世の村
中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル中世の農村

ここに描かれているのは、鎌倉時代の領主屋敷がある村です。承久の乱後に、東国からやってきた西遷御家人の地頭舘かもしれません。
谷間を流れる川沿いに水田が開かれ、谷の出口に領主屋敷があります。その前を川沿いに街道が走っていて、多くの人が行き交います。街道沿いには、定期市も開かれるようです。田んぼを見ると、稲刈りが行われ、刈り取った稲がはぜに架けられて干されていてます。収穫の秋の一日が描かれています。村の小高い丘には鳥居が見え、幟が立っています。神社の秋祭りのようです。そのために、琵琶法師や風流踊りの集団が街道をやってきています。今日は賑やかな秋祭りのようです。そして稲刈り跡の田には,貧しい女性(寡婦)や老女,子どもが落ち穂拾いをしています。落ち穂拾いは,こうした人々の権利であり,彼らの大切な食料となりました。
 今回は、その前面に描かれた武士居館を見ていくことにします。
武士居館を描いた史料絵図として、最も古いのが次の粉河寺縁起とされます。

武士居館 『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘 
         『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘 
 門前には、飾り付けた馬が繋がれています。門の前は深い堀があって、丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。その横を農民達が、唐櫃を担いで運び入れています。
 居館内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。このような絵図史料を参考にして、イラストは描かれています。

たいむタイムトラベル 中世農村解説3 武士居館
櫓(矢倉)門付近を拡大して見てみましょう。

タイムトラベル 中世の村 軍事拠点としての居館

ここでは居館が、武士という軍事集団(暴力装置)の軍事拠点であったことを押さえます。
周囲には堀が掘られています。ここでも唐櫃を担いだ人々が入って行きます。門を入ると馬屋があり、駿馬の世話をしています。中世の武士のたしなみは「弓馬の道」でした。源平合戦のスターは屋島合戦の那須与一です。彼は乗馬からの騎射で有名になりました。剣の道がもてはやされるようになったのは、江戸時代になってからです。武士にとって騎馬と弓射が最重要の武芸ですから,馬屋は大切にされ,きれいに掃除されていました。そして、高級車を持つことステイタスシンボルであるように、名馬を持つことが誉れでもありました。そのために馬には惜しげもなく投資したのです。高級外車は玄関前の車庫にあるように、玄関前に馬小屋があり、何頭もの馬がいます。

たいむタイムトラベル 中世農村解説4 武士居館

武士達が何をしているのか拡大して見ましょう。

タイムトラベル 中世の村 弓の作成


 庭では武士が弓の弦を2人がかりで張っており,もう1人の武士は弓の強さを試しています。中門廊では,武士が自ら矢をつくっています。弓の羽根などの材料については、強いこだわりがあって、どの鳥のどの羽根が矢羽根には相応しいとランキングまでされていました。ここからは、戦いのプロ=軍事集団としての武士の姿が垣間見えます。
武士達には、もうひとつ徴税官としての性格がありました。それが先ほど見た粉河寺縁起の中に描かれています。
『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘2 貢納物 
粉河寺縁起
縁先の唐櫃(からひつ)には、山の幸である柿・栗・梨・石榴など、後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなど海の幸が盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。

那珂郡小松郷佐文村の太郎兵衛からの貢納品でございます。赤く大きな伊勢えびに、縁起物の鯛に、よろコンブに、朝取れたばかりのサザエです。

なんて云っていたのかもしれません。
その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男など、貧富さまざまです。しかし、その表情をよく見ると、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。それに対して、縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられていると研究者は指摘します。
 これらの貢納品が長者(武士)の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され、納めなければならない従属的な関係にあったことが見えてきます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。この絵図を参考にイラスト化されているのが次の部分です。

タイムトラベル 中世の村 貢納品

屋敷には米俵などがかつぎこまれ、家来たちが俵を調べています。縁には家司の武士がいて、唐櫃(からびつ)の中の年貢を,目録と照合しているところです。横にいる女性(領主の妻)は,織物・布を見ています。そばには,猫が紐でつながれています。中世ではつながれて飼われていました。また、この時代の屋敷は板敷きが基本で、畳は敷きつめられていませんでした。

以上からは中世の武士居館には、次のような機能があったことが読みとれます。

タイムトラベル 中世の村 地頭の定着


タイムトラベル 中世の村 武士居館

こうしてみると地頭として東国からやって来た西遷武士達は、武力を持った軍事集団で、警察署長と税務署署長のふたつの役割を持っていたことになります。そして彼らは新参者で、集落から離れた所に拠点を構え、武力を背景にして名主や荘司たちを圧迫していきます。同時に彼らは、東国で培った土木工事を梃子にして周辺開発を行います。
発掘調査などから分かってきた武士居館の復元模型を見ておきましょう。

武士居館
武士居館の復元模型
武士居館は各地域でばらばらなスタイルがあるわけではなく、全国的な定型モデルがあるようです。その背景には、鎌倉時代に東国武士達の西遷で東国スタイルの居館モデルが全国に普及したためと研究者は考えています。その際に、東国武士の信仰の厚かった八幡信仰が氏神(守護神)として持ち込まれ、それが近世になると村の鎮守に脱皮成長していくという筋書きになります。
 また、周囲の堀は上流から引いた灌漑用水の分水池の役割を果たしていたことは以前にお話ししました。その水域の水源と灌漑用水網を支配することで、地域の生命線を握る戦略もあったようです。武士集団が灌漑整備を積極的に行った痕跡が丸亀平野にも見られます。

例えばこれは江戸時代に描かれた「大(王)堀佐古絵図」(まんのう町吉野)を描いたものです。

武士居館 まんのう町大堀左古絵図

この絵図は、次のような情報が読みとれます。
①右上の濃紺部分が佐古(さこ=出水)
②土器川からの取水路が右方につながり、各方面に用水路が分配されていること
③堀の中央が江戸時代には水田化していたこと
④右側の堀の内部に社が祀られていて、少し小高くなっていてここに居館があったこと。
まんのう町周辺では、近世後半になっると神櫛王伝説が流布されるようになります。そのため、神櫛王の舘跡で「大(王)堀」と呼ばれるようになります。しかし、先ほどの居館模型と見比べると一目で、中世の武士居館跡であることが分かります。

大堀居館と潅漑施設

土器川や金倉川からの取水し、それを居館の堀に引き込み、下流の灌漑地域を自己の支配下に置いていた武士集団がここにはいたことになります。そして、その居館では、イラストに描かれたような武士達の活動や生活があったことが想像できます。
灌漑用水網と居館群
中世居館と井堰型水源4
武士居館の水堀で分水されて下流に用水が提供されている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書店 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村
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タイムトラベル 奈良時代
中学校の歴史教科書(帝国書院)の「タイムトラベル 奈良時代」のイラスト
中学校の歴史教科書(帝国書院)には、絵図史料の時代考証をきちんと行ったうえで、各時代のようすが載せられています。今回は、その中の奈良時代の国分寺建設の風景を描いたものを見ていくことにします。
 まず季節を確認します。右端で、女性が稲の刈り入れを行い,調・庸などの税を納めるようすが描き込まれているので秋ということがわかります。男達は半袖や上半身が裸で働いているので晴れた暑い日のようです。画面は左側の国分寺建設と右側の大道部分に分けられます。
 国分寺は、741(天平13)年に、聖武天皇の発願で国府近くに僧寺と尼寺をセットで建てるように勅命がだされました。これにもとづいて各国に派遣された国司は争うように国分寺建設に着工します。そのための資金と労働力集めが彼らの手腕の見せ所となります。讃岐では国府の東の国分台の麓で建設に着工し、金堂・講堂・五重塔・僧坊などの伽藍が姿を見せるようになります。『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」とあるので、この頃には伽藍が整っていたようです。

 全国の国分寺の伽藍は、方2町(約210m四方)が標準で,中門と金堂を回廊でつないだ空間の外側に,塔・講堂・僧坊(共同生活所)などを配置するのがスタンダード版でした。

讃岐国分寺 伽藍
讃岐の国分寺の伽藍配置
讃岐の国分寺は、南北240m×東西220mで、南北が少し長く、現在は東隣に隣接する宝林寺も寺域に含んでいました。大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていました。
 国分寺建設の目的は,疫病や兵乱,新羅との緊張関係などから国家鎮護を願ったものとされます。その建設地の立地条件については、人々の集まりに便利な「好処」を選べと命令されています。讃岐国分寺は、南に南海道が東西に走り、国府にも近く、五色台をバックに南面して髙松平野を望む「好処」といえます。ここに描かれているような工事作業が行われたことが想像できます。

タイムトラベル 奈良時代 国分寺
        タイムトラベル 奈良時代の拡大 国分寺建設(帝国書院 教科書)

  国分寺の建設現場では,人夫たちを監督する役人たちが描かれています。
役人は、次のように服の色で身分(位階)がわかるシステムでした。
A 四位と五位の貴族は緋(あけ)色 ( 四位は深こき緋,五位は薄緋)
B 六位と七位は緑色
C 八位と初位は縹(はなだ)色

古代官職と衣類の色
そうすると、ここに描かれている人の中で一番偉いのはウの緋色を著て馬に乗っている役人になります。
国司の編成 丸亀市史
国司の編成表
上の編成表からすると、
① ウは五位以上の貴族で,中央から派遣された長官(国司の守)
② そのまわりで緑系の服のを着て木簡や笏を持つ役人たちは六位以下
③ 青い服の役人は、さらに下級の者で、地方採用の官吏
ということになります。青色系の役人は、地方の郡司クラスの子弟が採用されることが多かったようです。
讃岐国分寺建立の頃の三木郡大領の小屋県主の宮手を見ておきましょう

宮手は、罰を受けた妻の虫女を救うために多くの財を東大寺に寄進したと日本霊異記は次のように記します。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

しかし、東大寺への寄進の目的は、それだけだったのでしょうか? 『続日本紀』765年の「天平神護」には次のように記します。

「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く。」

ここには讃岐の日置(叱)登乙虫が銭百万両を国家に奉納する代償として、外従五位下の爵位を得ています。銭を献上することで、官位を得ています。いわゆる売官制度です。771年(宝亀二)には、三野郡の丸部臣豊球は、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられています。この時期になると、郡司などの地方役人の経済基盤が掘り崩されてうまみがなくなります。そのため空海の実家の佐伯直氏などの本家も本貫を京に移し、中央貴族化をめざす動きが現れることは以前にお話ししました。その兆しが見え始めているのかもしれません。讃岐国分寺は、このような有力者の寄進を受けて進められたようです。
古代国家が姿を現す頃の讃岐

『万葉集』の山上憶良「貧窮問答歌」には、ムチをもって税を取り立てにくる里長が描かれています。里長のような下級の役人には、徴税権と刑罰権がセットで与えられていました。ここに登場する人夫達も里長によって割り当てられ、動員された農民達であったことになります。彼らの労働は「雑徭」で、賃金が支払われることはなく、無償の労働提供でした。つまり人頭税でした。
  税の名前  納めるもの    納め先      対象
租(そ) 稲(収穫の約3%) 地方の正倉 口分田を持つ男女
調(ちょう) 布・絹・地方特産物 都(中央政府) 成年男子
庸(よう) 都での労役10日(または布2丈6尺) 平城京 成年男子
雑徭(ぞうよう) 無償労働(年最大60日)地方の役所 成年男子
出挙(すいこ) 稲の利子(50〜100%) 国・郡や貴族 農民全般
道路に面した竪穴式の作業小屋では、国分寺を荘厳する金属製品が作られています。

タイムトラベル 奈良時代 大道と側溝

足踏みのふいご
炉とるつぼ
鋳型
などを使って技術者集団が釘などを作っています。その背後の建設現場では材木の加工が,やりがんなや手斧により行われています。これらはハイテク技能を持つ技術者集団でなければ担当することはできません。そのような職能集団を確保することも国司の手腕だったのかもしれません。絵図には,過酷な労働で倒れている人夫も描かれています。建設材料の運搬には荷車や修羅(しゅらら)が使われています。
 寺院は瓦葺きでした。そのため瓦を焼く半地下式の登窯が粘土が確保できる所に作られます。
遠くに煙が何本も上っているのが登り窯です。この姿は、藤原京の宮殿の瓦を製造するために誘致された三豊市の宗吉瓦窯の登窯を連想させます。

宗吉瓦窯 想像イラスト
宗吉瓦窯(三豊市) 船で遠く藤原京に運ばれた
寺院の瓦を焼くために作られた窯なので、工事が終了するとうち捨てられ、技術者集団も次の作業現場へと去って行きます。これも渡来人集団のハイテク技術に頼らなければなりませんでした。ちなみに瓦を作る粘土は、左の前方後円墳を削り取った土が用いられています。この時期になると、かつて権力の象徴であった前方後円墳は、その用途も忘れ去られ、信仰の対象でもなかったことがうかがえます。

タイムトラベル 奈良時代 大道と側溝

画面右側には、真っ直ぐに伸びた「官道」が描かれています。いろいろな人々が歩いています。
まず調庸を平城京に運ぶ「運脚夫」が大きな荷物を背負って役人に引率されて歩いています。大きな荷物の中身は,何だったのでしょうか。荷物の脇には,調庸の種類や量,納税者の所属する国郡名を記した「木簡」がつけられています。手前の人物の木簡には「遠江国」と記載されているのが読み取れます。
貢納品荷札の例
調として都に運ばれた荷物に付けられていた木簡
この木簡からは尾張国知多郡の農民が調として納めた塩が納められていたことが分かります。
讃岐からも塩が運ばれたことを裏付ける木簡を見ておきましょう。

讃岐国三野郡阿麻郷・戸主佐伯直赤猪調塩三□〔斗

讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年 調塩」平城京
この他にも讃岐から運ばれたモノとしては、次のような木簡が正倉院に保存されています。
讃岐から運ばれた調 木簡


庸は、平城京での労役10日か布2丈6尺でした。これは布で納める方が、農民達には有利だったので布が納められています。調は、布・絹・地方特産物で、その長さも決まっていました。23は鵜足郡小川郷の戸主大伴首三成が調(特産品)として納めた布です。讃岐からは布が調や庸として実際に都に運ばれていたことが裏付けられます。その他に伊豆からは鰹節が送られています。
都に送られた調 特産品

イラストの運脚の中には、疲れのためにうづくまる者も描かれています。
 
都に調を運ぶ農民達
授業実践例の中には、それぞれの人達のセリフを考えさせて、そのあとグループで集団決定して、それを演じるという事例も報告されています。楽しい授業になりそうです。
A もう歩けない 疲れた
B 何をしているのだ! それでは今日の駅家までたとりつけないぞ。立って歩け
C こっちは重い荷物をかつがされているんだ。あんたは馬に乗って怒るだけか
D 振り返るな さっさと歩け 
E おおい! 水を持ってきてくれ!
運脚夫の後ろに隊列を組んでやってくる一段は、都や九州などに送られる兵士たちのようです。
防人が残した手紙

野田嶺志『防人と衛士』教育社歴史新書、p144には、次のように記されています。
「防人の武器は、自前の随身兵器と国家営造の戎器からなっていた。(中略)
防人の私自備の器杖は、兵器と戎具であった。刀剣・弓箭を自装したと思われる。しかし、(中略)私有を禁じた兵器として、弩・甲があげられているところから、甲冑を自装していたとは思われない。(中略)
防人ひとりひとりの武装状況は、刀剣と弓箭であったと考えられる」。
防人達は、武具も食糧も自弁で徴兵されていたと研究者は考えています。国家支給のGI(ガーバメント イッシュ)とはほど遠い存在でした。世界中の古代国家の財政基盤は、土地税ではなく人頭税です。律令国家でも租よりも、庸や雑徭の方が農民にとっては負担が多かったのです。その中でも防人や衛士として徴兵は最大の負担となりました。別の見方をすれば、このイラストには農民の最大の負担である労働地代(人頭税)としての以下の三つが描き込まれています。
A 雑徭(国分寺造営工事や官道整備)
B 都への庸調の運搬
C 防人や衛士としての徴兵   

都と諸国を結ぶ交通動脈として、白村江の敗北の後に軍用道路としてして整備されたのが東海道・東山道など七道の「官道」です。

1300年前のハイウエイを探る -古代官道ロマン-:古代官道ロマン

紀伊と四国は南海道に属し、讃岐には紀伊・阿波を経て南海道が伸びてきました。この道路は以前にお話ししましたが、側溝をもつ幅10mを超える直線道で,16㎞ごとに馬を常備した駅家(うまや)がおかれていました。まさに「古代の高速道路」でした。この官道を使って、平城京へモノは運ばれました。瀬戸内海の海運が利用されるようになるのは、もう少し後のことになるようです。
絵図には、道の両側に側溝を掘っている人夫が描かれています。

古代の山陰道の復元イラスト
                古代の山陰道の復元イラスト(鳥取県埋蔵文化財センター)

この側溝が丸亀平野からも出てきたことは以前にお話ししました。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
丸亀市飯山町の岸の上遺跡 南海道の側溝 道は一直線に善通寺の我拝師山に続く

こうしてみると、南海道は人とモノの輸送を円滑に行うためのものではありますが、そこに次のような明確に国家意思が表れています。
①始皇帝の大道のように、軍事道路で軍隊移動の円滑化
②全国の物資を支配者のすむ平城京に運ぶための輸送道路
つまり、地方のモノと人を収奪し、中央の支配者に納めさせるシステムの一部だったとも云えます。これを中央集権制度と呼ぶのでしょう。戸籍と土地台帳で、個別人身支配体制を作り上げたヤマト政権が中央に富を運び、軍隊を円滑にスウイングさせるために必要なシステムとしておきます。そして、中央に富を吸い上げられた均田農民たちは、有利な場所を求めて有力者の庇護下に入っていきます。それが荘園制への移行へとつながると中学校では教えているようです。
たタイムトラベル 均田農民の没落背景 

 この絵図は、讃岐の古代の姿が垣間見えてきます。想像力を羽ばたかせながら絵図をみることを楽しんでいる今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 奈良時代
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講演会 満濃池と西嶋八兵衛ポスター

今年もまんのう町の町立図書館で、3回のお話しをすることなりました。最初は、満濃池シリーズの3回目で、西嶋八兵衛について上記の通り取り上げます。興味と時間のある方の参加をお待ちしています。

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https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw(動画)


  前回までに、召集令状(赤紙)と、役場の兵事掛かりについて見てきました。今回は、徴兵された兵士達がどのようして村の人達から見送られて出征していったのかを見ていくことにします。テキストは「 吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」です。
国防婦人会/藤井 忠俊|岩波新書 - 岩波書店

 藤井忠氏は著書「国防婦人会」には、次のように記します。

日中戦争からアジア太平洋戦争の時代は、出征兵士と送り出す側の「別れ」が生み出す一体感が、戦争を「聖なるもの」とした。

出征兵士を送り出すセレモニーが、送る側と送られる側の一体感を作りだし、それが戦争を浄化し、「聖なるもの」としたというのです。それでは、実際にどのような見送りが行われていたのか見ていくことにします。
1932年の満州事変後に、市町村では入営・除隊兵の歓送迎会が毎年開かれるようになります。
長野県南佐久郡野沢町でも、小学校で会費10銭で歓送迎会が開かれています。その準備のために在郷軍人会と青年団の役員は、入場券を売りさばくために各戸を訪問し、出席を要請してまわっています。これが軌道に乗った4年後の1936年1月5日の兵士送迎会の案内状には、次のように記されています。
 兵士送迎会は除隊の兵士諸君を迎へてその労を謝し、新に入営せらる兵士諸君の行を壮にしてその前をする意味を以て全町を挙げて送迎会でありますから、子供が会員券を持つて来て受付で菓子を貰ってそのまま、すぐ帰ると云ふやうなことでなく、(中略)
なるべく大人の方々が出席せられて終りまで会に列せられ、奉公の大義に出入する町出身の兵士諸君を心から送迎するの誠を現はしていただきたいことであります。
 ここからは、子供らが大人のかわりに菓子をもらいに来るような「お祭り」感覚の雰囲気が強かったことがうかがえます。そういう意味では、「兵士を支える銃後体制の構築」という軍のねらいには、ほど遠い性格だったようです。
 1932年2月23日になると、第14師団管下の松本第五〇連隊にも動員令が下されます。
長野県下で召集された兵士達は翌24日から3月1日にかけて、松本、宇都宮、水戸の各部隊に入隊し、第五〇隊は3月5日に松本を出発します。その連隊が帰還するのは、1934年5月のことです。この時期になると兵士が出征する度に、小学校で壮行会や送別会が開かれ、在郷軍人会が分会旗などを先頭に町村長分会長小学校長、町村会議員、助役、各種団体員、町村民が、旗やとともにパレードで停車場まで兵士を見送るようになります。
「野沢町報」は、次のように報告しています。

青年訓練所生徒が行列の整理にあたり、小学校生徒は途中まで軍歌「天に代りて不義を打つ」を合唱しつつ見送った。主婦会・女子青年団等の婦人団体員の参加が特に多かった

 ところが戦争熱がおさまった1934(昭和9)年になると、昭和恐慌の影響もあって入営除隊のあり方が問われるようになります。
12月13日頃に、第二師団管下の独立山砲兵第一連隊長が、各町村に入隊の際の祝費節約について次のように通達しています。
現下 非情時局に直面し珠に最近東北地方一般に凶作不況の折柄、入営者に対し各町村に例の如き祝意を表せらる事は努めて省略せられ、単に物質的よりも精神的の意に止められ、以つて冗費の節約と将来除隊に際しての返礼用土産物の費用を成るべく節約せしめられ度き考えに有之、当隊にては毎年等の習を打破する如く努め居りふも往々入営前に是等祝儀及祝品を預かる関係上、自然除隊に際してかる返礼に苦慮し相当の金銭消費致し家政上からさる工面と苦慮にはされ居る者も有之、次第に就き、各位特に在郷軍団、青年団員各位の御賢察と御指導により是非此際無汰を省略する様御取計らい相成度(44)

意訳変換しておくと 
非常時の時局に加えて、最近は東北地方が凶作不況なので、入営者に対して例年のような過剰な祝意を行う事を省略するように伝えること。物質的よりも精神的に祝意を表し、冗費の節約につとめるべし。また将来の除隊の際には、返礼の土産物用費用が必要となり、それが家計を苦しめているとも聞く。当隊では、毎年の悪習を打破することに努めているが、入営前に祝儀や祝品を貰った以上は、除隊の際に返礼品を送ることが恒例化しており、家計を圧迫している。ついては、在郷軍団、青年団員各位の指導により、これらの悪習を省略するように取計らって欲しい

 隣接する東北農村が凶作に苦しんでいる中で、入営兵への送別餞別や除隊兵の返礼などの冗費節約を求めています。
 同年の12月24日には、高田連隊区司令官が市町村長へ次のような指示を出しています。
入営壮丁や付添人や町村吏員について、宿舎の設備や待遇などについて苦情を漏し不平を述べ不合理なる要求をなすものありとの噂を聞く。しかし、その多くは入営壮丁ではない。
(中略)付添人、町村吏員の中に不心得の言動をなすものあるようだ。宿舎に蒲団寝巻(中略)の差し入れ以外に酒食を強要したり、飲酒が横行して無垢の青年達を毒している。
ここからは、満州事変から数年が経過して、軍隊内部での士気や規律が弛緩して、入営兵の付添人や役場吏員の中には入隊に際して、目に余ることが多かったことがうかがえます。しかし、これらの通達でも改善はされなかったようです。翌年の1935年10月19日にも、再度市町村長に「入隊兵の別及除隊兵の土産物廃止に関し御協力相成度件通牒」を送付し、次のように要望しています。
 除隊兵か土産物を購入するためには在給せらる、給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)中より毎月(一人平均二十五円位にて貯蓄せる金額の殆んと全部手拭等を購入し除隊前人をして郷里に小包郵便等を送せしめ置くを一般の風習とす)を消費しある状況にして、此際家市町村民の時弊矯正を断行するの勇気に欠くるには、を旨とし勤の美をしを郷里に及ぼすべき所謂良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することはさる次第と存しと述べた上で、さらに次のことを要請した。
 市町村民を一層徹底的に啓発指導せられ、入除隊の際は各戸に国旗を掲け入隊兵の壮行会除隊兵の歓迎会等は貧富の別なく一様に氏神の社殿に於て之を行ひ、神殿に詞を捧げしむる等、天皇親の皇軍の本義に基づき最も熱誠ある精神的行事を挙行し、一方幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)餞別、土産物等市町村民の負担に係はる物質的儀礼は一切之を廃止する様致度存し居り右重ねて御依頼申上候
意訳変換しておくと
 除隊兵が土産物を購入するためには支給される給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)の中から毎月25円位を貯蓄して、手拭等を購入して除隊前に郷里に小包郵便で送付させておくようにしている。この際に、市町村民の悪習矯正を勇気を持って断行して欲しい。それが郷里に良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することにつながる。
市町村民を啓発指導して、入除隊の際には各戸に国旗を掲けること。
入隊兵の壮行会や除隊兵の歓迎会などでは貧富の別なく氏神の社殿で、式典を行い、神殿に詞を捧げること。
皇軍の本義に基づく精神的行事を挙行すること。
幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)や餞別、土産物など市町村民の負担なるような物質的儀礼は一切廃止すること
以上を、重ねて依頼申上げる。
ここまでをまとめると次のようになります。
①満州事変以後の段階では、入営・除隊兵の歓送迎会は、戦争に民衆を送り出すための装置として盛大に行われていた。
②それが世界恐慌後に農村が疲弊すると、軍は民衆の負担となる餞別や返礼などの廃止を要望するようになったこと。
③代わりにお金のかからない精神的なセレモニーを行うように市町村に指導通達を繰り返していた。

満州事変から5年後の1937(昭和12)年7月7日、軍部は柳条湖事件を引き起こし、日中全面戦争へと突入します。
このため軍は大規模動員に迫られ、全国で在郷軍人への赤紙が配られ始めます。この年には93万人の兵士が動員されます。そのうちの約60万人が赤紙召集兵で、現役兵約34万人に対して、ほぼ倍の人数が召集されます。満州事変に比べると桁外れの動員が行われ、社会に不安と動揺を与えたようです。
 日中戦争開始後の長野県の南佐久郡の動員を見ておきましょう。
① 7月16日、桜井村では郷軍分会長が会旗とともに、召集兵を中込駅まで見送り。
② 7月20日、戦勝祈願祭が村社桜井神社で開催。
③ 7月16日、八月村でも平賀神社で武運長久祈願祭が挙行
④ 小学校で村民参加の壮行会が開催
 こうして兵士が召集されるたびに、各村社で各種団体、小学校、村民一同等による皇軍戦出征軍人安祈願祭を開催され、小学校では村民による壮行会が開かれることがパターン化します。

出征兵士2
皇軍戦出征軍人安祈願祭 出征兵士の名前が並んでいる

そして8月23日になると、中込駅長の音頭で、郡下の桜井前山・野沢・大沢・平賀・内山・申込の七つの村が協議して所定の場所での送迎会を合同でおこなうことが決定します。こうして応召兵を送り出す宴と武運長久を祈る祈願祭である「赤紙の祀り」が始まります。

イメージ 1
婦人会による駅での見送り

 その中で問題になってくるのが、動員に関する機密秘密の漏洩です。
 軍の機密事項である軍用列車の発着日時をめぐり、時刻等を事前に知らされていた駅長と在郷軍人等各種団体との間に軋轢が生じます。兵士の送迎では、駅長の役割が大きかったことは先ほど見たとおりです。出征兵士の壮行会や歓送会を盛大にやることは、動員の秘密事項保持と矛盾します。
 8月19日、高田連隊区司令官が町村長在郷軍人分会長に「出征軍人部隊送に関する指示」を送付して次のように指示しています。
 精神的歓送は盛大に行われることを希望するが機密保持も絶対必要である。ついては、
駅での見送りは入場数を制限する。そして出発前に各市町村で盛大なる壮行式を行ことにする。その席には、官民や出征兵家族を出させるが、駅での歓送は、機密保持のために、以下の人間のみに制限する
 1、官公術、市町村並学校(中等学校、青年学校小学校等)の代表者(学生を含む)
 2、在郷軍人連合分会及同分会代表者
 3、各種団体 男女青年団、婦人団体、教育会、神職会仏教界、自警団、町会代表者
 4、出兵兵の家族
ここでは駅での見送りは、規模が縮小されたことを押さえておきます。
そして、次のような注意書が付けられています。
一、歓送用国旗は携行してなきも、之を列車内の将兵に手渡し
二、発車の際は列車に向ひ隊列を整へ、知事又は市長等の声にして万歳をへられたし
三、在郷軍人会、愛国婦人会、国防婦人会青年団等は補充に援助を与へられたし、但し発車の直前定位に復せられたし
しかし、この通達はすぐに展開されて、9月27日に新しい通達「第二師団司令部の要望事項に関する件」が市町村長へ送付されてきます。

 今次動部隊の各編成地出発に方り、停車場の見送りは連隊区司令部又は部隊より出発時刻を通知せる最小限の人数以外は、停車場構内への入場は禁止すべき方針にして、後の熱誠なる後援にゆるには極めて冷淡にして情に於てはひさる所なるも、発動完結後の部隊の行動は全くの軍事行動にして、特に輸送の日時等は絶対とする為め、必要止むを得るに出てたるものなることを諒せられ度

つまり、人数制限して駅での見送りを認めた前通達を撤回し、駅構内への入場を禁止するものになっています。今までは盛大な歓送を奨励していたのに、冷淡と批判されようが、動員の秘密事項は守らざるを得ないことを銃後民衆には納得してもらいたいという内容です。こうして駅での見送り禁止されました。しかし、応召兵の祈願祭や壮行式、駅までの見送りが禁止されたわけではありません。長野県南佐久郡内の「桜井時報」や「野沢町報」にも、それらのその壮行式等が盛大に行われたことが記事として掲載され続けています。
 
武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

こうした中、12月23日に南京が陥落すると、戦争は終わったとする弛緩した空気が広がります。
そして任務を終えた部隊が郷里に帰還するようになると、これを盛大に迎えようとする動きが高まります。これに対して、1938年3月初めには、陸軍省兵務局長の通牒「帰還軍隊の輸送間に於ける送迎に関する件」が市町村長に送付されてきます。その内容は次の通りです。
此等部隊は事変の終結により帰還するものに非すして、今後の長期持久に即応する如く、出動部隊一部の整理交代に基つくなるをて、其の歓送迎は専ら精神的方面に意を用ひ、形式的事項は力めを抑制し、以て緊張したる国民精神を消せしめ延びてつ地に在る出動部隊に及ぼす等の事からしむる如く深の考慮を払必要がある

意訳変換しておくと

この度の帰還部隊は事変終結により帰還するものではない。今後の中国戦線での長期持久に対応するための部隊の整理交代である。そのため歓送迎については精神的面に限定し、形式的祝い事などは抑制すること。緊張した国民精神を弛緩させる出動部隊の戦意を弱めることのないような考慮が必要である

ここでは戦争は終わったという気分と、長期戦になるという軍部の思惑のちがいがあったことがうかがえます。かつての露戦争時の凱旋とは、意味が違うというのです。別の所では次のような注意も行っています。

 帰還者に対する歓迎の様式程度に就ては、色々の考方もあろうと思ひますが、決論的に申せば、官民が今迄やつて来た還送勇士に対すると同様にするのが適当と存するのであります。一切の歓迎会、祝賀会等は之を行はず、幟や流し等は之を廃し、最も精神的に感謝の意を披して之を迎へ、其の労功をたいと思ふのであります。特に帰還兵に対しては、凱旋の辞句を使はしめぬ様にせられたいのであります。村に帰った際、氏神様の社頭を挙行し、神前に供た冷酒を戴いて武運の加護を謝し、将来の報告をふ等は最も望ましい事であります。未だ勝利したのではありません。(中略)
貴き犠牲者の遺骨さへ尚、大部は帰還して居ないのであります。又その慰霊の行事さへ十分出来ぬ情勢に於て祝賀会を実施すると云ふ事は適当でないと考へます。

 軍としては、兵士の帰還は単に部隊の交代であり、まだ戦争が終わっていないことを強調しています。死者の家族のためにも、凱旋気分で帰還兵士の歓迎会や祝賀会をしないよう、幟やアーチや旗などで迎えぬよう指示しています。
入営祝い幟
入営祝いの幟

さらに3月5日に陸軍省副官は「召集解除者の贈答等虚礼廃止に関する件」を通知しています。
 部隊の交代整理等により召集を解除せらるる者か、応に当り受けたる送別に対し餞別返礼等贈答に腐心するからさる様にして、巷間にも之が制止方要望し来るものあり。
 時局は尚愈々重大を加ふるの秋、多くの戦友たち召集を解除せらるる者は充分其の言動を慎重ならしむるは勿論、特に無意義な贈答等の虚礼は百害ありて一利なきものなることに深く留意し、断然之を廃止し、寧ろ帰郷後は率先銃後の核心となって尚戦地に残戦友の労に報ゆる如く、此等召集解除者に対しては充分なる指導を加へられ度。
 帰還兵が出征前に受けた餞別についての返礼を・贈答を行わないように通達指導せよとの内容です。ここからは、餞別の返礼等が依然として残っていたことが分かります。
以上をまとめておきます
①満州事変後に、軍は入営兵への餞別や除隊兵の返礼などの冗費の節約に力を入れるようになった。
②日中戦争後に、多くの兵士が動員されるようになり、応召兵の赤紙の祭礼が始まった。
③戦争が長期化すると、軍は防諜を理由に入営・応召兵の壮行会や歓送会、激励会、武運長久を祈る祈願祭の簡素化を試みた。
④特に日中戦争の帰還兵士の歓迎には神経をつかい自粛を求めるようになった。

このような軍の方針は、1941年7月のが独ソ戦開始と、12月のアメリカとの開戦で、紆余曲折をたどることになります。それはまた別の機会に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」
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前回見たように徴兵名簿作成で大きな役割を担っていたのは、役場の兵事係でした。彼らは、徴兵検査や召集令状の交付だけを行っていたのではありません。今回は、兵事係の果たしていた役割について見ていくことにします。テキストは「吉田敏浩 赤紙と徴兵」です。

赤紙と徴兵

各役場には兵事係という担当者がいました。彼らの業務を挙げておくと次のようになります。
A 出征兵士の見送り
B 武運長久祈願祭の開催
C 戦地への慰問袋の取りまとめ
D 戦死者の告知と公葬
E 出征軍人家族や遺族の援護
DSC00582
A 出征兵士の見送り (観音寺)


DSC00572 戦死者村葬 昭和13年 仁尾町
戦死者の村葬(仁尾)

ここからは徴兵制に関わる村役場の業務を兵事係が一人で担当していたことが分かります。

次に徴兵名簿が出来るまでのプロセスを見ておきましょう。
①戸籍簿と徴兵適齢届に基づいて家庭環境、経歴、病歴、性格、品行、風評などを調べて「現役兵身上明細書」を作成
②「在郷軍人名簿(在隊時の勤務状況、品行、賞罰等在隊間成績調査)
③赤紙(召集令状)の交付記録、動員日誌、召集令状の交付手順を記した動員実施業務作成
④家の不動産や戸主の収入、課税額の調査
⑤「特に注意すべき件」には「他人の無品を掠めるかもしれない性癖」等の個人情報記入
⑥在郷軍人名簿の作成
こうして出来上がった一覧表リストは、次のように各師団に集約されていきます。
①市町村は毎年1月10日までに県の兵事官に提出
②県の兵事官は、1月20日まで陸軍の連隊区司令部に提出
③連隊区司令部は、1月31日まで所属師団長に提出
④各師団長は「師管壮丁人員表」を作成し、2月10日までに陸軍大臣に提出
⑤大臣は天皇の裁可を経て毎年の徴集人員を連隊区司令部に割り当て、更に末端の市町村に割り当て
こうして徴兵名簿が各村に送られてきます。 兵事係を務めた人の回想が載せられているので見ておきましょう。
「赤紙は昼夜の別なく来ましたが、来るのはなぜか夜間が多かったです。軍事機密に関わるからでしょうか。警察署から「動員令予報」の電話があり、役場の宿直の使丁(小使い)が自宅に知らせにくると、すぐに役場に行きました。村長と兵事係と書記と収入役が役場に集まって、警察官が赤紙を届けにくるのを待ちます。それが届くと「在郷軍人名簿」と照らし合わせて氏名など間違いがないか確認するんです。人の命がかかっているので、間違いがあってはいけません。何回も見直して、とても神経を使いました。兵事係の責任は重大なんです」

「そして、自転車に乗って赤紙を届けました。大阪や京都に出稼ぎや丁稚奉公に行っている人も多かったので、本人がいないときは家族が受け取りました。本人には家族が電報などで知らせるようにしていたんです。赤紙を朝、配るときもあり、本人が家にいなくて田や畑に出ていれば、そこまで行って渡したものです」

「また、私だけでは配りきれないので、信頼できる青年団員にも赤紙を配る使者の役目を頼みました。「動員令予報』があると、前もって決めてある村内令状配達区域の青年団の若者を役場に呼び集めたんです。そして自転車で配達させました。」
「ただ、家によっては何人も召集された家もあります。だから、すでに出征者のある家や戦死者が出ている家には、必ず私が届けるようにしました。やはり気の毒でしたから……
   出征した五人の息子さんのうち三人が戦死した寺田利兵衛さんの家に赤紙を届けたとき、本人が不在で代わりに利兵衛さんが受け取り、「そうですか、また来ましたか」とじっとうつむいて、ぽろっと涙を落とされたこともありました。あのときは、こっちまで泣けてきました……。
どの家も働きざかりの息子や夫を軍隊に取られて、戦争で命までも取られるかもしれないのですから。赤紙というのはただ簡単に渡せるものじゃないんです。赤紙を配るのはつらいことでしたが、国のため、役目だと思ってやりました」
赤紙通達人 1
赤紙通達人2
赤紙を各家まで配ったり、戦死の知らせを家族に伝えたりする「陸軍動員用急使」の札。札の裏には、次のように記されています。

「これを持っている者は動員用の書類をもち最重要な任務についているので、万一事故にあった時には、最寄の巡査駐在所か村役場に急報するように。

軍からは兵事係などの「動員用急使」に対して13条の「赤紙を配達する者の心得」を次のように示しています。
①途中乗り物が破損して急に修繕のできないような場合には、直ぐ下りて少なくとも1時間4キロ以上の速さで行かねばならない。
②自転車は全速力で走らせ、途中で誰かに話しかけられても、決して応じてはならない。自転車は止めてもいけない。 
⑨令状等はなるべく5分以内に渡すように心がけねばならない。
⑨は到着して相手と話す時間まで決めています。感情移入が起こる人間の心を察して、それを押し殺して渡して、指名押印させたらすぐに引き上げよということでしょうか。

兵事係には、赤紙を渡した後の「町内巡視」報告の提出も義務づけられていました。
規則では「条令(赤紙)発送後、巡視係を命じ巡視せしむ」とあります。そのため役場の書記や書記補佐を巡視係として赤紙受領者(応召員)の身辺を監視しました。赤紙を受け取った応召員の士気とその家族の様子、その周りの住民の様子などを含めて巡視係は兵事係に報告しています。兵事係はそれを詳しく記録して報告しています。まとめられた報告書の一部を見ておきましょう。

「応召員 志気最モ旺盛ニシテ、令状受領セバ直チニ体ヲ潔メ、自家の神仏に生還を期セジトノ出征ノ旨ヲ告ゲ、家族又応召者ニ対シ志気ヲ激励シ、村民一般国家的観念盛ニシテ応召員ノ出発二際シテハ全村民挙ゲテ駅頭ニ歓送セリ。」p132

「自家の神仏に生還を期セジ」と「一般国家的観念(天皇陛下万歳)などのフレーズが決まり文句となって綴られています。
しかし、戦後になって兵事係は次のように回顧しています。
「当時、村の人たちはみんな、口にこそ出しませんが、自分の家に私(兵事係)が来なければいいと思っていたはずです。私が自転車に乗って走っていると、いったいどこに行くのか、どこかの家に赤紙を届けているのではないかと、いつもみんなが私を見つめて、注目していました・・・・・・。
兵事係が召集の人選をすると思い込んでいる人もいました。だから私を恨んだ人もいたでしょう。面と向かって言われたことはありませんが。そう感じていました。」
「すでに何度も赤紙が届いて、息子さんたちが召集されていたある父親が、自分で捕った大きな鯉を私の家に持ってきて、「なんとか、もう自分の息子たちを召集しないでほしい」と、私に頼み込んだこともありました。自分が召集の人選をしているわけではないと、繰り返し説明しましたが、とても気の毒で、本当に弱りました……」

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル
戦時下の国民生活 中学校歴史教科書(帝国書院)

戦況が悪化すると兵事係の業務は、多忙を極めるようになります。
それまでの徴兵検査の手続きや召集令状の交付など、男たちを戦場へと送り出すことにとどまらなくなります。
A 国防献金や戦地に送る慰問袋の取りまとめと発送
B 武運長久祈願祭の執行
C 出征軍人家族や戦没者遺族や傷痍軍人とその家族への援護
D 戦死の告知
E 戦死者の公葬や慰霊祭の執行
など、戦場の後方にあって戦争を支える銃後の護りの最前線に立つことになります。

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル2


例えば出征した兵士が戦死した場合を見ておきましょう。

①市町村長に戦死の電報(内報)が届く。
②「内報」は兵事係から遺族に伝えられ、部隊長からの「戦死公報」は数ヶ月後に届けられた。
③戦死者の葬儀は役場(兵事係)が主宰
兵事係は戦地からの出征兵士が使者となって帰ってきた場合の対応まで含まれていたことになります。

 戦没者の公葬について、元兵事係は次のように語っています。

遺体は白木の箱に入って帰ってきました。それを遺族が連隊に受け取りに行きます。その時に兵事係の私は在郷軍人会の分会長と、駅まで迎えに行き、汽車からご遺族が白木の箱を抱えて降りてくると、一緒に村を歩いて帰りました。在郷軍人会の分会長が分会旗を捧げ持って歩きました。白木の箱に遺骨は入ってなくて、名前を書いた紙が一枚入っているだけだと、ご遺族から聞きました」
 
 そして慰霊祭が行われ靖国神社合祀となって英霊と崇めらることになります。こうして村ぐるみ、
地域ぐるみで戦争を支える体制が出来上がっていました。
元兵事係の最後に次のように回顧しています
  
  赤紙を配るときに「兵事係の〇〇さんがやってきた」と嫌がられ、戦死の通知のときにま「また兵事係の〇〇さんが来はった!」彼の動きは死を告げる使者であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「吉田敏浩 赤紙と徴兵」
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