瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2026年07月

かつての讃岐では、村々で雨乞踊りが踊られていました。しかし、その踊りが雨乞踊りと称するようになるのは、江戸時代末から明治以後であることがおおいようです。それまでは風流踊りの流れを汲む盆踊りとして踊られていたようです。それがどうして、雨乞踊りと称するようになったのでしょうか。これについて、幕府や明治政府から盆踊り禁止令を出すようになったこと関係があるのではないかと私は考えています。禁止された盆踊りを、雨乞踊りと称する事で正当化して、踊る機会を確保しようとしたのではないかという仮説です。そこで今回は、明治政府が出した禁止令と、どうして盆踊りが禁止されたのかについて見ていくことにします。テキストは「伊東佳那子・來田享子  明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」です。

風流踊りから盆踊りへ

次の表のように1870年(明治3)年の群馬県を先頭にして、16県で盆踊り禁止令が出されています。
各県の盆踊り禁止令一覧
盆踊り禁止令を出した各県一覧表 
最初に禁止令を出した群馬県のものを見ておきましょう。
古来ヨリ盆踊ト申事当国ニ於テハ右様賤敷 風俗無之筈之処近来越後辺ヨリ下賤ノ者入込候故歟悪風ヲ佩ヒ盆踊ト唱ヒ夜遊等イタシ候向相聞既ニ昨年中モ厳重取締為致回勤之者見当次第召捕候筈ニ侯処当年之儀モ等一制禁ヲ犯シ相催候儀於有之ハ甚以不埓之事ニ侯以後心得違於有之ハ左之通申付侯事
一、踊之当人ハ其身分ニ応シ相当之過怠金可申付事
一附下女下男ハ其主人ヘ過怠金可申付候事
一、右之催致シタルニ於テハ其居町居村ノ役人共ハ勿論一統ヘ相当ノ過怠金可申付候
一又社寺之境内ニテ催シ候而モ過怠ノ儀同断 猶其上社寺迄可及事
意訳変換しておくと
古来より当国には、盆踊りというような風俗はものはなかった。ところが近年になって越後から下賤の者が入り込んできて、彼らがこのような悪風を拡げ、盆踊りと称して、夜遊などを行うようになったと聞く。すでに昨年中に、巡回して(盆踊りを)見つけたらすぐに逮捕するように命じてある。当年についても、この禁止令を犯し盆踊りを開催することは、大変不埓なことである。以後、心得違の者に対しては、以下のような罰金を申しつける
一、踊った者は身分に応じて相当の罰金を支払うこと。
一、使用人が踊った場合、その主人が罰金を支払うこと
一、盆踊りを主催した村や町の役人はもちろん、その一族も罰金を申しつける。
一、社寺の境内で開催した場合、その社寺も同罪で罰金を支払うこと。
ここでは越後から流入者(民俗芸能伝播者=修験者や山伏)が盆踊りを持込んで、夜遊びなどの「悪風」をひろげたので禁止するとあります。

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
場所は、山形町愛宕山地蔵院の境内や黒石陣屋(藩政時代)の周辺で行われていた明治初年も盆踊り風景。
よく見ると次のような事が読み取れます。
①円形で盆踊りが踊られていること。
②踊りの輪の下には、別の踊り集団がいくつもあって、同時並行で踊られていること

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』2
                   明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
③仮面を被ったり、いろいろな出で立ち姿であること、上半身裸の踊り手もいること。
④真ん中の着飾った歌い手の女性は柄杓で酒(水?)を飲みながらやっていること
⑤手にいろいろな持ち物を持って踊っていること

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』3
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

⑥輪の外にも、いろいろな人がいて面白おかしく踊っている。
⑦上半身裸で三味線を持って演奏している女性もいる。
⑥仮装した踊り手達が町中を上(カミ)から下(シモ)へ、下から上へと踊りながら行進し、これらの場所で夜更けまで踊り明かしたこと
これを見ると、明治初年の盆踊りは、現在の郡上八幡の盆踊りからは想像も出来ないほど、猥雑であったことがうかがえます。だから禁止対象となったいえるかもしれません。

愛媛県の禁止令(明治6年8月29日)を見ておきましょう。

  略)盆踊ハ大概夜中ノ嬉戯ニシテ①男女混同頗ル猥褻ニ渉リ竟ニ言フベカラザルノ嫌ヒナキヲ免カレズ殊ニ妙齢ノ者共心気ヲ浮藻ノ地ニ動カシ本業ノ妨害タル(略)

意訳変換しておくと

 略)盆踊はだいたい夜中に踊られもので、そこに①男女が混同して集まり、非常に猥雑になり、言葉に云い表せられないような忌むべき光景が見られる。特に妙齢の若者男女の心気を浮藻にさせて、本業を疎かにさせる(略) 

ここには男女混同が風俗を乱すものになっていることを指摘して、今後一切の禁止を命じています。しかし、布告だけで大衆がやめるはずもありません。4年後の明治10年には「自粛」に後退しています。そして、14年には路上での男女混同手踊り(盆踊り)を禁止しています。つまり全面禁止から場所を限定してへの禁止に後退しています。このことは、禁止にもかかわらず盆踊りがなくなったわけではないことを示しています。ここでは、盆踊り禁止理由のひとつ、男女の風紀の乱れにつながってるとしていることを押さえておきます。 

田舎教師/田山 花袋|岩波文庫 - 岩波書店
 
  それを裏付けるのが1909(明治 42)年の田山花袋の「田舎教師」に描かれた盆踊りシーンです。
盆踊りのある処は村の真中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まってくる。樽拍子の音が揃うと、白い手袋を被った男と女が手をつないで輪をつくって、調子よく踊り始める。(中略)
村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことが、それとなく清三の胸を通った。男は皆一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻なことを平気で話している。世の羈絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちが四辺に充ち渡った。垣の中からは燈光がさして笑い声がした。
「田舎教師」は、青年教師である小林秀三氏の日記を基に、現地調査によって執筆した小説です。この盆踊りの舞台は、埼玉県羽生市発戸とされています。このような光景は、ここだけではなく、全国で見られたシーンであったようです。これが「男女が一箇所に集まり風紀が乱れる」という理由になるようです。これを参加する男女から見れば盆踊りは、唯一の開放的な娯楽の場所で、性解放の機会だったようです。これは期待が膨らむ場所です。しかし、禁止スル側から見れば「それが問題なのだ!」ということになります。 


歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり
               歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり

 一方、岐阜県や小倉県(福岡県)の禁止令では、「老幼男女群集」、「多人数相集」るものとし、男女だけではなく、多くの年齢層が集まる場と捉えています。権力者は、人が大勢集まる場所を嫌います。それは、一揆などの政治活動の場に転化・利用されてきたからです。研究者の中には次のように指摘する人もいます。

「盆踊りの輪がつくりだす非日常的な社会編成は、集会条例が禁止の対象とした政治演説のアジテーションと同様(あるいはそれ以上に)、治安当局にとって警戒すべき事態だった」

 しかし、自由民権運動が高まり、『大日本帝国憲法』の発布や帝国議会開設へ向けて、大衆の政治熱が大いに盛り上がりをみせるのは明治20年代になってからのことです。盆踊り禁止令が出されているのは明治初頭です。時間的なズレがありますので「盆踊り禁止令=政治運動規制」説は、無理筋のようです。
風俗画報 明治24年より(湘南盆踊り研究会所蔵
明治24年の盆踊り
 各県の禁止理由を、研究者は次のように4つに分類します。
① 一箇所に男女が多人数集まること
 盆踊りは「男女が集まる場所」であり、そのことによって風紀が乱れることを問題視しています。たとえば秋田県の禁止令には、盆踊りが「男女群ヲ成」すことが挙げられます。
② 盆踊り禁止理由の2つ目は「裸体や奇妙な格好をすること」です。

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』4
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

 禁止令は 「裸体」「異形之体」「奇異ノ姿」などの姿で行われる盆踊りを次のように問題視します。
A 1871(明治 4)年 和歌山藩の禁止令では、男女が化粧をして舞い踊ること
B 1872(明治 5)年 宇都宮県の禁止令では、盆踊りを「裸体や異形の体にて舞い跳びするもの」と捉え、「奇異の姿で行われる」こと
C 1874(明治 7)年 神奈川県の禁止令では、「女児聯伍シ衣服等頗ル美麗ヲ競ウ」とあり、女児が衣服などで美麗を競い合う見世物的要素があったこと
これを裏付けるのが、「田舎教師」(1909(明治 42)年)と同じ年に発行された森鴎外の自叙形式の小説「ヰタ・セクスアリス」の描写です。そこには森鴎外が10 歳の記憶として盆踊りの場に「男が女装」、「女が男装」した人がいたことが描かれています。以上からは、盆踊りには異性装で踊る慣習があったことが分かります。異性装は風流踊りの要素のひとつでもありました。
 異性の服装で踊ることについては、研究者は次のように解釈します。
①仏教的宗教性に加えられた演出として、盆踊りの仮装性を捕らる視点
②祝祭空間での異性装が「神性」に近づこうとするものであったという視点
盆踊りに異性装するのは、当時の庶民感覚では「当たり前」のことでした。ところが文明開化を推進する明治政府の役人達の中には、異性装は恥ずべき風習と考える人達がいたようです。両者に大きな隔たりがあったと研究者は指摘します。政府の役人達は、大衆を無知で遅れた存在ととらえ、彼らを文明開化に導いていくという指命感があったようです。別の言葉で言い換えると、政府役人が庶民を「矯正」しようとしているのです。これは政府の庶民の娯楽的風俗への介入です。それが「親心」であれ、実態は庶民の宗教的感性の抑圧になります。

③ 盆踊り禁止理由の3番目は「楽器等を打ち鳴らすこと」です
 盆踊りに楽器を叩きながら踊ることは、一遍の念仏踊りに原点があると研究者は考えています。
神奈川県の禁止令では、「大鼓竹甄」を打ち鳴らすもの、秋田県の禁止令では「管弦等を鳴らして歌舞をする」ものと記します。ここからは「邦楽器の使用」も政府のめざす文明開化には、そぐわないとされたようです。絵図には、いろいろな楽器を打ち鳴らす姿が描かれています。しかも、いくつも集団が混じり合って、同時に演奏しています。これは「騒音」とされてもしかたない面もあったようです。

月百姿 盆の月 月岡芳年作 画像は復刻版

④ 
盆踊り禁止理由の4番目は「町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)もの」です
夜中に町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)ことが禁止の理由とされています。
秋田県では「深夜外歩」、若松県では夜中に道路で踊り騒ぐこと、栃木県では夜中の路頭を徘徊することが問題視さています。念仏踊りの頃には、盆踊りは神社の境内などで円形隊列で踊られていました。ところが江戸時代中頃になると伊勢踊りの「道行き」の要素が加わってきたようです。道行きとは、一箇所に留まらず往還をゆっくりと踊りながら進んでいくスタイルです。これを「踊(練)り歩く」と表現しました。これは江戸時代以降に加わったものです。これが禁止理由のひとつになっています。
 山形県の禁止令では、盆踊りと同じように「群行市在踊リ歩」くことと、通りがかりの家で酒や食事を貪る風習を問題視して「卑陋」として禁じています。

1873(明治 6)年に出された磐城県(現:福島県)の「念仏躍」禁止令は、次のように記します。

磐城之風俗旧来念仏躍ト相唱ヘ湛秋之際仏名ヲ称ヘ太鼓ヲ打男女打群レ夜ヲ侵シテ遊行シ中ニハ如何ノ醜態有之哉之由文明ノ今日有間敷弊習ニ付管内一般本年ヨリ右念仏躍禁止申付侯条少年児女ニ至迄兼テ相達可申事

 意訳変換しておくと
磐城の風俗である念仏躍は、晩秋に仏名を称えて太鼓を打ち鳴らし、男女が群集し夜を徹して、遊行する。中にははなはだ醜態をさらす者もいる。これは文明開化の今日では許されない悪習である。ついては県内では本年より、念仏躍を禁止する。少年・少女に至るまで通達するように

 ここで禁止理由は、男女が群れ夜中に遊行することが問題視されています。明治時代の念仏踊りは、盆踊りとして踊られていました。娯楽的な面が高まるにつれて、男女が一夜を共にすることが普通のこととされるようになります。そのため、磐城県ではこうした行為が醜態であるとし、念仏踊りを「文明の今日あるまじき弊習」と指弾します。
 以上、明治初年の禁止令の4つの禁止理由を見てきました。
 盆踊りは、江戸時代にも禁止令がだされています。
しかし、明治時代の盆踊り弾圧と江戸時代とのものは、禁止背景が異なると研究者は指摘します。例えば、江戸で出された 触れには、次のように記します。
1677(延宝 5)年 「8 月になって踊り続けるのはいけない」
1709(宝永 6)年6 月 夜中に町々に踊る者がいるので、交通の妨害になるから差し止める」
ここに書かれている禁止利用は、盆踊りによって人々が家業などを忘れ怠惰すること、江戸の秩序が乱れること、交通の邪魔、近所迷惑になることから禁止、制約したものです。ところが、明治時代の禁止は、諸外国との不平等条約改正を目的に行われた近代化政策の一環でもあったようです。盆踊りを「文明国として欧州に伍する為に廃止すべき弊風」とみなす延長線上にありました。ここでは、同じような表現を用いた禁止でも、江戸時代と明治時代とでは、その意味は大きく違っていたことを押さえておきます。
 また、禁止することは、大衆の反感を招き、騒動になるおそれがあることを役人達は知っていました。そこで踊りの日数を短縮させて許可するなどの懐柔策も併用しています。天皇制を浸透させる祝日である天長節が盆踊りを許可する日として指定いるのも象徴的です。

風俗画報明治30年より、河内音頭の図

もうひとつ盆踊りが弾圧対象とされた背景には、神道の神仏分離・廃仏毀釈の攻撃目標になったのではないかと私は考えています。
明治初年に明治政府の意志決定場面に近い所にいた神道学者たちは、仏教だけでなく、修験者や民間信仰までも排斥対象としていました。そのような目で見ると、庶民のなかで大きな娯楽であり、影響力をもつ盆踊りは潰しておきたい存在だったのではないでしょうか。それは、文明開化を推進するの近代化官僚と目的は違えども利害は一致します。民衆の中にある猥雑な大衆娯楽を取り除くというスローガンで、穢れの多い盆踊りを排斥したのではないかと私は考えています。

以上をまとめておきます。
①一遍上人の踊り念仏は、江戸時代になり風流化され、村々で盆踊りとして踊られるようになった。
②その中で、仮面や女装男装姿で踊ることが定着し大衆化し、猥雑化し、人びとの最大の娯楽となっていた。
③明治になると、文明開化=近代化を掲げる明治政府は、猥雑さを伴う盆踊りを禁止した。
④しかし、庶民は禁止令を無視し、盆踊りを続けようとする。
⑤そこで、取り締まる側と、庶民との間で攻防戦が展開されるようになる。
⑥その中で、讃岐では「この踊りは、ただの盆踊りではありません。雨乞踊りなのです。旱魃の時に踊られ続けて来た神聖な踊りです」という由緒が強調されるようになる。
⑦その結果、盆踊りであった滝宮念仏踊りなども、雨乞踊りというキャッチフレーズが付けられて紹介されるようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東佳那子・來田享子 明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」
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八朔の団子馬3

私の住んでいる丸亀平野南部のまんのう町では、旧暦8月1日の八朔を「馬節供」と称し、団子馬を作って男児の誕生と成長を祝っていました。八朔は、稲の穂が出る時期にあたり、農村では豊作祈願など次のような儀礼が行われてきました。

八朔の団子馬4
A 初穂を刈って神にささげる
B 主人が田をめぐりながら田の神に豊穣を祈願する「田誉め」
C 稲作が害虫の被害に遭うことを防ぐための虫送り
D 八朔に上巳(3月3日)や端午(5月5日)の節供と同じような行事を行う。
八朔は季節の節目とも考えられて、次のようなこととも関連していたようです。
夜なべ仕事が始まる日
奉公人の任期が終わる日
一連の盆行事の終わる日
ある意味では、特別な日で「ハレ」の日でもありました。八朔の行事としては『日本民俗地図』には、広島・香川・愛媛・福岡・佐賀県では、八朔に米の粉で作った馬や人形を飾り、子どもの成長を祈願する風習が報告されています。どうして、これらのエリアだけに残ったのでしょうか。この疑問には、また別の機会に考えることにして、先を急ぎます。

八朔の団子馬 馬台
馬台と団子馬
西讃地方では、男児の誕生と成長を祝う「馬節供(うまぜっく)」が行われてきました。
これは馬台と呼ばれる骨組みに、米粉を使った団子を盛り上げて作る「団子馬」を、武者人形などとともに床の間や玄関などに飾るものです。私の家でも幼年期にも作られたようで写真や馬台が残っています。今回は、八朔の団子馬について見ていくことにします。テキストは「服部 比呂美 八朔の馬節供 西讃地方の団子馬製作を中心に」です。

八朔の団子馬7

  この論文には、八朔や馬節句に関する先行研究史や史料、聞き取り調査などが載せられていて、読み応え充分です。検索すればPDFでも読むことができます。

西讃府誌34

  まず、西讃府史にどのように書かれているかを見ておきましょう。
西讃府誌は幕末の安政5年(1858)、丸亀藩主・京極高朗が、儒臣の巌村秩と加藤穀の願いを受け、那珂郡櫛梨神社の祠官秋山惟恭らに命じて作らせた編纂所で、各村の庄屋などが書き上げたレポートをもとにして編纂されたことは以前にお話ししました。。『西讃府志』には「猪駒」とでてきます。
猪駒(ししこま)
八月朔日、此日田実トテ男子ノアル家ニハ、米ノ粉ノ団子ニテ馬ヲ作リテ飾ル、是猪駒ト
云、子生レテ初テナルハ、初馬トテ親キ人ナド招き、宴ナド設ケテ祝フモアリ、又三野豊田ノアタリニハ、雛祭リスルモアリ、又丸亀アタリノ町人ハ、船ヲ作リテ飾ルモアルナリ、又奴隷ヲ養ヘル家ニハ、今日ヨリ夜作(ヨナベ)ヲサシム11)
意訳変換しておくと

八月の八朔には、男児のある家では、①団子で馬を作って飾る。これを猪駒と呼んでいる。特に生まれて②初めての八朔は初馬といって、宴席を設けて子どもの親族などが祝う。また、③三野豊田あたりでは、八朔に雛祭りをし、④丸亀あたりの町人は、船を飾って飾る。また⑤奉公人のいる家では、この日から夜なべを始める。

西讃府誌 団子馬34

ここからは「①団子馬はかつてはシシコマと呼ばれていたことが分かります。その他にも番号をつけた4つの情報を得ることができます。
 
次に団子馬(=シシコマ)が登場する最も古い史料を見ておきましょう。
讃岐国豊田郡和田浜村(観音寺市豊浜町)の豪農であった藤村家の年中行事を記録した文化12年(1818)の「讃岐藤村家年中行事録」に、次のように出てきます。
八月一朔日 頼節句
獅子駒   祝
酒肴
此又世上有ふれにてよし 格別珍敷沢なる事無用
ここに登場する獅子駒が団子馬のようです。八朔の団子馬の風習は、史料的には19世紀初頭までした遡れないようです。
嘉永5(1852)年に宇多津の『阿比野家祭式 八朔の馬節供全』には、次のように記します。
男子出生ニテモ馬ハカざらす 男子無之候而も有無ニハカゝわらず吉米五合粉ニ引テ牛馬斗り作り 牛ハクラヲイ馬ハクラ俵三俵置 粉之余りニ而作物心次第ニ作り 足付膳ニ乗テ座敷床ニのし付テかざり晩ニヲロシ祝事 前日ニ拵ヘテ一夜置テ翌朔日晩ニさけてアフリ祝フテクウ事
意訳変換しておくと

男子が生まれたから馬を飾るのではない。男子のあるなしに関わらず吉米五合を製粉して牛馬を作る。牛は鞍を背負わせ、馬は俵三俵を置く。余った粉でいろいろな作物を作り 足が付いた膳に乗せて座敷の床間に飾る。その晩に祝事宴席し、前日に供えて、一夜置いて翌朔日晩に下げてきたものを炙って食べる

ここには、男児の有無に関係なく団子馬がつくられたことが記されています。これについて秋山照子氏は、次のように評します。

「馬の鞍に置いた俵などからは農耕との強い関連がうかがえ、近づく稲刈を予祝する行事ともとれる。このような慣習は、西讃地域に伝承される馬節供のより素朴な形態であり、団子馬の前段階の風習が推定できる」

つまり、馬節供に先行する形で、「稲刈を予祝」行事があり、それに男子の健やかな成長を願う思いが後世に接ぎ木されたということになります。

八朔の団子馬 着付け

『四国新聞』の前身である『香川新報』は、明治22年4月10日に創刊されました。『香川新報』に載せられた八朔記事を見ておきましょう。
○香川新報 明治24(1891)年9月3日(旧暦8月2日)八朔の獅子駒 
昨三日ハ陰暦の八月朔日俗に八朔と称へて市中の男児持つ家甲所乙所には米の粉で作りたる獅子駒を派手に飾り立て楽むなりし故か一昨夜より昨夜へ掛けては市内大通り辺ハ人の出却々に多く随分賑しきとなりき
意訳変換しておくと
昨日ハ陰暦の八月朔日で俗に八朔と呼ばれる。髙松市内の男児がいる家では米の粉で作った獅子駒を派手に飾り立て楽しむ。そのためか一昨夜から昨夜へかけては市内大通りの賑わいが普段よりも格別だった

この記事からは、明治24年には、高松市内の大通りでは、男児のいる家で団子の獅子駒が飾り立てられ、これを見るために多くの人々が町へ繰り出して、いつもよりも人通りが多かったことが分かります。夕凪のため夜が更けるまで蒸し暑い夏の夜には、獅子駒飾りを見ることは一つの楽しみでもあったのかもしれません。明治には、髙松でも八朔に団子馬が作られていたことを押さえておきます。

八朔の団子馬 仁尾6

○香川新報 明治25(1892)年9月21日 旧暦8月朔 獅子駒の入費三百円 (現代語訳)
今日は陰暦八月の朔日で、俗に八朔と呼ばれる。男児のいる家では座敷に獅子駒を飾る日である。そのため髙松市内でも例年夜分になると賑ふのであるが、今年は格別であった。また多度津では会議員の小国茂吉方が獅子駒の飾付けを三日前に完成させ。それは実に目を驚すばかりの立派さで、見物人が昼夜引も切れず訪れている。明治になって、讃岐では古いものは総て破棄すべきとの風評があるが、これには見るべきものがある。大広間の中央に二間四方の泉水を作り、その周りに他の物を飾り附けてある。泉水に五十円、大人形には七十余円を要し、総ての費用は約三百円に達したという。
この記事で取り上げられている「獅子駒」も団子馬のことのようです。準備に3日もかけ、大広間に泉水を作ってその周りに武者人形などを配置して飾る様子は、髙松にはない風習だったようです。

八朔の団子馬 飾り付け
これは仁尾や多度津などの港町で栄える商人たちの家で行われていたデコレーション方法だと研究者は指摘します。団子馬を飾るときに、蚊帳で作った山や砂で作った川に松や竹を植えるといった「景色をつくる」手法です。この記事からは、こうした豪華な飾り方がこの頃には多度津では行われていていたことが分かります。獅子駒は派手に飾り立てるもので風流(ふりゅう)的な要素がありましたが、明治になると藩の倹約令の制約がなくなり、「目を驚かす」景色を作り出すより派手さと豪華さが演出されるようになったことを押さえておきます。

八朔の団子 丸亀駅展示6
丸亀駅に飾り付けられた団子馬
香川新報 明治25年9月22日(旧暦8月2日)八朔と市の商業(現代語訳)
例年旧暦八月朔日は周辺の村々から祭りの買ひ物に出かけてくる人達が多く、市内でも獅子、駒等の団子(馬)細工に相当のお金をかけて飾り付けをおこなう。それに使用する縮緬、鹿の子なども売れるのだが、今年は団子細工屋も鹿子屋も八朔のお陰にはあずかっていないようだ。その背景には、今年が不景気であるからだと云う。周辺の村々は、収穫はまだだだし、髙松市内は岩瀬尾八幡さんのお祭りには、小遣いが消費されるようになるかも知れない。
先ほどの翌日の記事になります。前日の記事には、多度津町の獅子駒の飾りには300円かけたという景気の良い内容がありましたが、高松市内の八朔には景気のいい記事はありませんが、こからは次のような情報が読み取れます。
①「獅子、駒の団子細工」と表記されて、獅子と駒が別のものであったこと
②「団子細工屋」という専門店があったこと
③獅子駒も、団子馬に帯揚げや帯を巻き付けたように、縮緬や鹿の子などの布で装飾されていたこと
④八朔は高松市内では経済効果が期待される日でもあったこと

八朔の団子馬 着付け

香川新報 明治36(1904)年9月22日 西讃の八朔(現代語訳)

高松以東の八朔は、獅々と駒を陳列し祝うが、その飾りつけは温雅なものが多く、華美なものは少ない。ところがこれに反して綾歌郡坂出以西は、端午の菖蒲人形にプラスして鹿、駒などを飾る。その華美なことは、初めて見る人のを驚かすに充分なものがある。五節句すべてを祝ふことは明治になって衰へ頽れても、この八朔の飾り付けについては今でも数百円を投じる家もある。昨日も坂出、宇多津、丸亀等の家々を見てまわったが、宇多津町の久住泰三といふ家では間口三間半奥行二間の表座敷を舞台しえ、城郭を築き、その内外に松樹を植へ込み、城内には一個数円の武者人形を、城外には白に栗毛、黒毛毛色様々の野馬、乗馬を約数十頭もレイアウトして置いてある。これだけでも数十円を投じていると思われる。これを見ながら親族や友人を招いて宴会を開く。その費用は百数十円にもなろうと思われる。こうして見てみると、八朔行事でも高松と丸亀とには、大きな違いがある。これも東讃と西讃と区分する一つの原因かもしれない。

ここからは次のような事が読み取れます。
①八朔の飾り付けが高松以東は華美ではないが、西讃の飾りは「眼なれぬ人をして驚かしむる」ほど華美であること
②西讃の都市部の商家では、座敷には数十頭の馬の人形が配され、親戚や知人を招いての宴会も費用をかけておこなわれていた
③明治になって仁尾 → 多度津 → 宇多津と海運業や塩田業で栄える港町に豪華な八朔人形の飾り付けが拡がっていったこと。
④明治期には、西讃のように派手な飾りではないが、東讃にも「獅子駒」の団子馬の習俗はあったこと
八朔の団子 1940年6

先述したように、近世の西讃地方では「獅子駒」に次の二つのタイプがありました。
A 豊作を予祝するタイプ
B 男児の誕生を祝うタイプ
新聞記事からは、明治になると東讃でも西讃でもAの豊作を予祝するタイプは見えません。八朔行事のテーマは男児の節供です。その中で東讃では飾りが華美になってゆく気配がありません。これに対し、西讃では飾りが次第に豪華になります。、中でも馬の飾りが存在感が増していくと研究者は指摘します。

八朔の団子馬 飾り付け2

 また、西讃でも八朔飾りが豪華になっていくのは明治以後のことです。
安政年間(1854~59)の丸亀藩の倹約令は、次のように記します。(現代語訳)
一 雛人形の衣裳などは、四代に渡って使い、その分限に応じたものにすること。
一 節句の五月幟は一本だけにすること。彩色や紋様入のものは使用しないこと
一 七月の盆灯籠(とうろう)は、代金二匁以下のものにする
一 八朔飾馬(はっさくうま)については、これまでよりも減らすこと
一 来客者に対してはさ湯と薬物だけの接待で、決して酒宴の席を設けないこと
ここからはひな人形や、五月の幟(後の鯉のぼり)の本数も一本だけに制限されています。また八朔の飾馬については、数を減らすように通達されています。ということは、何頭もの馬や飾られていたことがうかがえます。幕末には、豊かな商家や庄屋では八朔飾りが華美になっていく傾向があったのでしょう。それに歯止めをかけるために、この通達は出されています。
 このような倹約令の下では、豪華な飾り付けはできません。それが変化するのは制約がなくなった明治以後のことで、そこから豪華化は始まると私は考えています。その動きが始まる場所は、仁尾や多度津、宇多津などの豊かな商家です。特に幕末期からの多度津は、多度津藩の政策もあって商人達が活発に動き始めるようになります。それが「多度津の七福神」と呼ばれる商業資本集団を形成していき、鉄道、銀行、電力などの近代工業に出資して、産業資本家へと成長していくことは以前にお話ししました。彼らが江戸時代の制約が亡くなり、経営基盤が軌道に乗った明治半ば以後に、豪華な八朔飾りを始めたと私は考えています。また、多度津や宇多津は金比羅大権現への参詣者が押し寄せた港町でもあります。そこでは「人の目を驚かす」という風流(ふりゅう)意識が富裕層には脈々と生きていました。それが豪華な八朔の飾り付けの原動力となったとしておきます。

  もうひとつ団子馬は、米粉で作られます。そのためには米を大量に粉にしなければなりません。これが可能になるのは水車の普及を待たなければいけません。水車もやはり18世紀後半から讃岐の川筋に出現するようになります。これと小麦からつくるうどんの大衆化は重なります。団子馬も、このような水車の普及を背景に、拡がったと私は考えています。言うなれば、うどんが半夏(はんげ)というハレの日の特別食であったように、団子馬は八朔の時の特別食だったと云えそうです。

大正7年の『多度津町史』には、馬節供のことを次のように記します。
今も郡内に於て男児ある家には、米の粉にて団子馬を作り、室内に樹石などを配置して山川を形造り、武者人形等を並べ飾る風習あり。之を馬節句とも云ふ。初めは丸き胴に短き首足を作りて猪駒など称せしが、今は胴とて木又は金にて骨格を組み、一、二升乃至一斗余の糯を以つて造り、鬣、尾、轡、手綱、腹帯等を着く。之を馬の衣裳と云ふ。男児生れて初めなるときは、初馬とて  親戚知友より糯馬或は忠孝武勇に秀てし人形等を贈り、初馬の家には奇麗に之を飾付け、贈り人を招きて酒宴を為す。之れ其の児の出世を祝ふなり。而して翌日其の馬を割きて配贈す。
 八朔に馬を飾るは、足利時代に此の日将軍家より 朝廷に御馬を献上するに習へりと云ひ。又 崇徳院当国に在らせ給ひし時、村嫗院の無聊を慰めむと、団子を馬の形に造りて奉りしに起る。故に此の儀西讃に盛なりとも云ふ。馬飾りの事団子馬の腐敗すとて一時衰へしか、近来美しき人形を主として、今も盛に其の儀を行へり12)
意訳変換しておくと
今でも仲多度郡内では男児がいる家では、米の粉で団子馬を作り、室内に樹石などを配置して山川のジオラマを作って、武者人形を並べ飾る風習がある。これを馬節句とも云う。団子馬は、初めは丸い胴に短き首足をつけたもので猪駒など呼ばれた。しかし、今では胴は木や鉄で骨格を組み、それに一、二升から一斗余の米粉の団子で作って、それに、尾、轡、手綱、腹帯等を飾り付ける。これを馬の衣裳と云う。特に男児生れて初めテキストの時には、、初馬と称して  親戚や友人が糯馬や忠孝武勇に秀てし人形を贈る。初馬の家では、それらを飾付け、贈っていただいた人を招いて酒宴を催す。これはその児の出世を願う行事でもある。そして、翌日に団子馬を割って配贈する。
 八朔に馬を飾るようになったことについては、足利時代にこの日に将軍より朝廷に御馬を献上することに習ったつ伝わる。又、崇徳上皇が讃岐に流刑になった時に、その寂しさを慰めるために、団子を馬の形に造って、奉ったことに始まるという説もある。そのために、この行事は西讃で盛んに行われている。団子馬については、腐敗するとされて一時は衰退したが、近年になって美しい人形を中心に復活して、今でも盛に作られるようになった。
八朔の団子馬5

観音寺中央公民館刊行の『郷土の文化』には、大正時代の八朔の団子馬製作について次のように記します。
「少年時代 八朔の思い出」
私の少年時代である大正七・八年頃と言えば、もう半世紀以上も昔となりました。楽しかった旧八月一日八朔人形の事を思い出します。私は大野原の農家に生れましたので、その付近の事を書くことにします。当時の農家の土間は、どこでも広くできていました。八朔が近づくと、まず広い土間に涼み台(三尺×六尺)を二台も三台も敷き詰め、その涼台に御座とか莚を敷きます。野原より芝草の土が付いている物を沢山取ってきて、その芝草を奥を高く山に見立て積上げ、前を平に敷詰めます。芝草で山や谷、野原や川等も造り、松や笹で繁みを造っていきます。木の沢山繁っている奥の方から虎が出て来ている様に見せます。その虎を加藤清正の人形が槍をかまえて向っている様に見せるのです。山の上では、足柄山の金時が獣を集めて相撲の稽古をしている風に飾りつけます。色々な人形を高い所から谷川附近や平野の所へうまく飾っていきます。当時の人形は現代の様に小型化し上品にできていない時代の事で、さも素人くさい人形で土俗的なにおいがぷんぷんとしていました。どの人形も大型にできていたようです。讃岐や阿波地方の方言では、人形のことを「でこ」とも言っていました。男の子の生れた初馬の家があると、村中の男の子も女の子も大人迄もが見に集ったものです。仲間同志「どこそこのでこは、ほんとうにきれいやぜ」と言って何度も見にいったものです。
 ダンゴ馬は、前足、後足、頭の部分は鉄ででき、胴体と台は木材でできている馬の型に、米ダンゴの蒸した物を上手にくっつけて造り上げて行きます。家によっては前足を高く上げている馬、後足をはね上げている馬等色々な型の馬がありました。身長はでき上りが五十糎前後と思います。時には割箸を折って骨組にして小さなダンゴ馬を何頭も造り上げている家もありました。立髪や尾には麻が用いられていました。こうしてできた馬に派手なしぼりの帯を胴中に結びつけると素晴しいダンゴ馬になったものです。その馬は前列に飾ら
れました。沢山の人々に見てもらい、八朔が終るとダンゴ馬は適当に切り取られて隣近所へもおすそ分けをしました。そのダンゴを焼いて食ると仲々おいしい味がしたものです。現代の様にラジオ・テレビ、映画等何でも楽しむ事ができる時代ではなく何にもこれと言う娯楽のない時代の事ですからそれを見に行くのが何よりの楽しみでありました。集った子供達は子供なりにどこそこのが一番良かった、二番がどこ、三番がどこと言う風に子供なりに等級をつけて楽しんだものです。少年時代の八朔のおもかげが少しでも残っているだろうかと思って見るだけでもほのかな心地良い思い出がよみがえってきます
八朔の団子馬 善通寺 

こうして多度津や仁尾・宇多津の八朔人形の飾り付けは、金毘羅の旅館などにも取り入れられ、人びとの楽しみとなります。明治末から大正時代になると、それが周辺の村々の富裕層の家々にひろがります。さらに、一般の家でも馬節共の飾りがおこなわれるようになったとしておきます。
  
八朔の団子馬 変遷 

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「服部 比呂美 八朔の馬節供 西讃地方の団子馬製作を中心に」
動画については

変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成

讃岐の馬節供

江戸時代の農村 全景図
         タイムトラベル 近世の村 帝国書院 中学校社会科歴史教科書 
ここには東海道が貫く江戸時代の村が描かれています。秋の収穫の終わった村では、アで米の脱穀・選別が行われ、それがウの庄屋の屋敷に運び込まれています。計量後に俵に詰め換えられて白壁の土蔵に一旦納められています。そして決められた日時に、藩の蔵に搬出されることになります。そのはるか向こうには、海が見えます。帆を上げて出港していく船が描かれています。

タイムトラベル 江戸時代の街道 木綿畑
新田開発で生まれた塩田と綿花畑
手間の塩田では、多くの人夫が働いています。この塩田も干拓によって新しく作られたものでしょう。。そこで作られた塩を積み込んで、帆船は出港していきます。その手前(ウ)には白い花のような作物が育ています。これが綿花畑です。今回は、江戸時代の綿花栽培について見ていくことにします。
テキストは「田中裕子 カムイ伝講義 小学館」です。
近づいてゆくと、白い花が丸い毬のように見えます。

綿花の開花 カムイ伝

白土三平のカムイ伝には「ポン」と音がしてはじける様子が描かれています。

「ポン」「ポン」「ポン」と、あちこちで花が開く。その様子を、一方で百姓たちが、別の方向からは穢多たちが、見つめている。花は開いてワタになった。畑一面、白いワタの色で次々と被われてゆく様子が想像できる。「正助、「よくやった」と父親が言う。百姓たちが思わず駆け出す。穢多たちも駆け出す。そして抱き合う。

江戸時代に入って、綿花の真っ白な花が日本中でみられようになります。
綿花は室町時代に国産化が始まっていましたが、それが拡がるのは江戸時代になってからです。そして、明治になると消えていきます。つまり、日本で綿花が大量に栽培されたのは江戸時代だけのことになるようです。「江戸時代=綿花の時代・木綿の時代」であったことを押さえておきます。
 江戸時代に農民が種から実験を繰り返し、肥料を試し、さまざまな種類を作り出し、糸を紡ぎ、機械を改良してゆき、機織りの技術を向上させていったのです。かつて村は、加工技術を含む「木綿づくり」の現場だったことになります。工業が農村から分離したのは明治になってからです。開国と同時に、安価な綿布が入ってきます。さらに、トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎の父である豊田佐吉 が動力織機を発明します。これをきっかけに、各地でいろいろ改良され力織機が普及するようになります。すると、国内産綿花は追いやられてしまいます。機械で紡ぐのに適していたのは、繊維の長い綿や細い外国産の綿花でした。国内産綿花は、外国産に比べて繊維が短く、糸が太いため機械で紡ぐことには適していなかったのです。そのため明治30年代には、各地の綿花地帯は姿を消してしまいます。日本で大規模に綿花が栽培されたのは、明治前半までなのです。
江戸時代の農書「綿画要務」で綿花栽培の過程を見ていくことにします。

「綿画要務」大蔵永常と
           大蔵永常 「綿画要務」(1833年)
 江戸時代は、農民が積極的に農業技術マニュアル書き、技術を共有しようとした時代でした。大蔵永常は前回紹介した『農具便利論』の著者でもあります。町家に奉公していた大蔵は、天明の大飢饉に苦しむ農家を目のあたりにして、暮らしの安定には換金作物の普及が重要と感じて農学を志したと云います。彼の農業への関心のスタートは、実家で祖父が行っていた綿の栽培でした。祖父は、町家でありながら農業にくわしく、なかんづく綿花栽培に優れた知識と経験があり「わが子を育てる心で臨んだ」と本書冒頭の「惣論」には書かれています。大蔵永常が力を入れた商品作物のなかでも、綿はとりわけ思い入れの深いものだったようです。
 まず種蒔きです。
綿の種は麦を刈った後に、その場所に蒔くのがいいとされました。まだ麦を刈り取っていないなら、麦の根によせて蒔く。そのために、まず麦を蒔くときの畦の作り方を、道具まで示して具体的に示しています。
綿作 『農具便利論』
種まき 大蔵永常の農業便利論 

秩序正しく蒔いた麦は、その種の位置の通りに麦の穂が出ます。その麦の根に寄せて、綿花の種を蒔くのです。これは手間がかかりますが、麦と同時栽培を行うためには必要です。土や養分との関係で、作物どうしの組み合わせにも、経験的なノウハウがあったのかも知れません。
 種を蒔く前に、綿で数珠つなぎになった種をばらばらにする作業から始まります。綿の繊維は丈夫で、それを分けるのは一苦労です。そのために使ったのが小便と薬灰です。灰を小便で溶き、それを種にまぶしてもむと、種はきれいに分かれる、と記します。小便と灰という組み合わせは、肥料の役目も果たすと記します。

そして水やりです。
 綿花の成長には大量の水が必要でした。そのために水やりは欠かせません。たんごを担いでの水やりは重労働でした。その際に水を無駄にしないための用具が開発されます。

おけ 『農具便利論』
綿花への水やり作業   大蔵永常の農業便利論    
「小生(こおい)の綿に底穴桶(そこあなおけ)をもて水をかくる図」と記します。桶ひとつに水 15 リットル程度入れています。その底から布が垂れているのが見えます。別の挿絵を見てみましょう。

水やり桶 『農具便利論』
             ・図版□    底ぬけタンゴの桶 大蔵永常の農業便利論 

これが底抜けタンゴ桶です。大蔵永常の農業便利論には、その使用方法と制作方法が絵図入りで紹介されています。これを見て底抜けタンゴを作って使用した人もいたはずです。それが技術伝播を早く、広くします。
底抜けたんご
     堺市石津(1958年) 底抜けタンゴの底板の穴を棒で持ち上げ、効率よく散水する。

綿花は肥料にお金がかかりました  

金肥 干鰯

  二葉が出たときに、綿の根元へ穴をあけ、菜種油やごま油の油かす、干鰯を入れるからです。これは高価なものでした。さらに、約2週間後に、鍬で筋を引き、人糞尿を薄めた「水肥」をやります。これを夏までに3回、施肥しますが、早くしないと葉だけ茂って実のつき方が少ないと言われました。
 綿花は、肥料のやり方で収穫に大きな差が出たようです。それだけに栽培に知識と経験が必要でした。
 間引きもする必要がありました。
15㎝ほとまで伸びたときに1,5mに10本ずつ残して他は捨てます。そして、油かすや干鰯を施肥すします。このように、様子を見ながら手入れを怠らないようにするのが綿作でした。その際に、どんな手入れが必要かを指導するのが農書でした。 江戸時代になると、知識と手間によって収穫量に違いが出てくることや、質の高さが市場を動かすことを農民達は学びます。そして彼らは、努力と知恵が人生を変える、という信念をもった百姓に育って行きます。
 いよいよ収穫です。
糸繰り、糸紡ぎまで行う家もあれば、綿花のままで出荷する家もありました。さらに綿布にまで織り上げる集落も、あればそこまでおこなわない集落もあります。 大規模になってくれば、分業もすすんで、関係する人びとも多くなり底辺が拡がります。その広がりを箇条書きにしておきます。
①綿花栽培しかしない家は、綿仲買がやってきて、実をつけたままの綿花を問屋に売る。
②繰屋が多くの人を雇って、繰綿機で実を取り去り「繰綿」にする。その繰綿を問屋に売る。
③綿問屋は海運、陸運を使って各地方に販売する。
④受け取った先の荷主が店で売り捌く。
⑤店から「綿打」に出すと、綿弓で「打綿」にして、篠巻(篠竹に巻くこと)にする。
⑥これを糸に紡いで枠にかけ、「かせ糸」にする。
⑦かせ糸が仲買に売られ、さらに諸地方の織口 (織り人)に売られる。
⑧織口は縞木綿にする場合はこの段階で染め屋に出し、 染め屋からもどってきたものを織る。
⑨仲買が織所をまわって布になったものを買い集め、問屋へおろす。
⑩問屋から呉服屋へ行く。
⑪糸を染めずに織った白木綿は、仲買から仕入れ屋の手にわたり、 そこから染めや絞りなどに出してから、呉服屋へおろす。
このような綿花産業には裾野の広がりがありました。水常は次のように記します。

「綿は人手にかかる事十四、五段を経て用をなすもわたといや  綿花栽培のはじまりのなれば、国民をにぎはすの大益あり」

経済活性化とは、働く機会(人手にかかる事)が増え、多くの人が職を得ている状態です。輸入に頼れば国の支出ばかり増えるが、自分たちで働いて布を織り上げれば、国内で人を豊かにできる、と考えていました。彼の考える豊かさとは、いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるというものでした。
綿花 河内の問屋制家内工業
               河内の綿織物業者と買付問屋
 河内では豊かな百姓が、問屋(商人)と結びつき、問屋から原料や道具などを借りて、家内で手工業による綿織物をつくるようになります。木綿の問屋制家内工業の形成です。上図には、農家に織機をおき、織物を織っているところや綿織物を買いに来ている商人が描かれています。

綿づくりは、どのくらいの収入があったのでしょうか?
 1反(約 0.1ha)あたり 30 ~ 40 貫(約 110 ~ 150㎏)の収穫でした。多くは、そのまま仲買人や操屋(くりや)(綿の種を取り去り繊維だけにする)に売ると、一反あたり、銀 240 匁ほどの売り上げになったようです。これを米に換算すると、ほぼ4石の値段と同じになります。当時は、上田でも一反あたり1,55 石くらいの収穫でした。綿花は米の倍以上の収入がある換金作物だったことになります。綿花栽培にチャレンジしていく意欲的な農民は、富裕になっていきます。一方で、そうでない農家は貧しいままで、村の中で農民の二極分裂が始まります。

綿の普及は江戸時代の経済を変えたとさえ云われます。この意味を最後に見ておきましょう。
綿布は、麻などのそれまでの繊維に比べるとはるかに丈夫でした。その丈夫さゆえに、17 世紀後半になると帆布として用いられるようになります。

松右衛門帆で航行する北前船
                               松右衛門帆で航行する北前船(復元船)
A 当時の構造船技術の進歩で、大型の帆船が登場します。そうするとそれまでの菰や筵の藁による帆の船に比べて、綿の帆布は横風や逆風に強く、水夫の数も少なくて済み、航海の所要日数を短縮させる効果がありました。北前船などの遠距離航海が可能となったことで、廻船業が発達につながります。
B 綿糸は地引き網や船曳網に使用されるようになます。

鰯網漁 九十九里

漁網の改良は、鰯の漁獲量を増加させます。綿の栽培には多くの肥料を要することは、先述しました。地引き網で大量の鰯が獲れて、干鰯に加工され金肥として流通するようになります。綿花栽培と鰯漁は、ウインウインの関係になります。
C 阿波では、藍の生産が飛躍的に増大します。それは木綿の染料として需用が大幅に増加したことが背景にあります。 
このように木綿産業の発展が新たな産業を生み出して行くことになり、社会を発展させる原動力になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中裕子 カムイ伝講義 小学館」
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江戸時代の農村 全景図
        タイムトラベル 近世の農村(帝国書院 中学校社会科歴史教科書)
ここに描かれているのは江戸時代後半の東海地方の村で、前回はアの農家の庭で使用されている農具を見ました。今回は、その前を通る東海道を行き交う人びとの中のエを見ていくことにします。

備中鍬を買う百姓

エの場面は「百姓がお金を払って、新しい鍬を買っているところ」とあります。百姓が手に入れた鍬とはどんなものだったのを今回は見ていくことにします。
テキストは「大網白里町史451P 農具の発展」です。
近世になると有肥、連作農業が行われるようになります。そのためには深耕する必要がありました。それを可能にしたのが鍬です。また、鍬は牛耕装備などに比べると安価なので、下層農民にまで普及するようになります。
その中でも、備中鍬(びっちゅうぐわ)は別名の「万能鍬」のとおり、画期的なものでした

鋤の改良

備中鍬は、平鍬(風呂鍬)から分化した打(うち)鍬専用の鍬です。鍬身が三本か四本の刃に分かれていて備中鍬と呼ばれました。この鍬は、総てが鉄で出来ていて重量があり、丈夫なために、より深く土地を耕すことが出来ました。また、刃先が分かれているので、土がつきにくいという利点もありました。そのため深く耕せます。中世後半から西日本で使われていましたが、この時期に全国的に普及します。

『農具便利論』に記された備中鍬
備中鍬 農具便利論
農具便利論には、三本備中鍬、四本備中鍬などが描かれています。刃の先端部が広がったものは、ばち付き備中鍬とよばれました。同時に、深耕用に便利であることが詳しく紹介されています。それまでは、一つの鍬で荒起、砕土、うね立て、中耕、土寄せ、除草などを行っていて、用途別に使い分けると云うことはありませんでした。備中鍬の登場で、用途に応じた鋤が登場するようになります。「諸国の鍬」として『農具便利論』には、いろいろな鍬が紹介されています。

掘り起こし 『農具便利論』
諸国の鋤(農具便利論)掘りあげ起こし
意訳変換しておくと
種子をまくときに、(地面に)筋を細かく切る時に、この鍬を使用すること。ゴボウ、にんじん、かぶなどを掘り起こす時にも、この鍬を用いる。
 
諸国の鍬 『農具便利論』
  『農具便利論』諸国鍬之図
諸国の鍬
すべて鍛冶は、泉州堺のものがよい。研ぎも細工も器用である。


諸国の鍬3 『農具便利論』
                 (農具便利論)金さし 地ならし
意訳変換しておくと
(右側)金さしへ
広島のものと同じく麦や菜種の代株を起出して、土を深く耕すときに使用する。土の塊を砕き、ならすのに効率が良く、役立つことこの上ない。その他にもいろいろな使用用途がある。
本起こしつるはし 『農具便利論』
          『農具便利論』地起こし鍬(農具便利論)本起こし(つるはし)
意訳変換しておくと
この鍬は砂地で主に使用する。綿花栽培の時には、砂地に水がしみこむように先を作物の根際に突き入れて、水肥を注ぎ入れる。

備中鍬は、鍬先に錬鉄が使用されていて、使っている内に摩耗していきます。そのために修理が必要でした。中世には「回遊職人」が村にやって来て「庭先製造」していました。それが、次第に注文生産となり、近世中期になると商品化されるようになります。鍬を求めてわざわざ奥州まで、出向いている史料を見ておきましょう。(大網 苅谷英二家文書)。

文化十年(1813)、大網村の平右衛門が、奥州棚倉領河下村の近藤建吾のところまで、「遠路被成御出、鍬荷直段取極、御売(買)受」

ここからは次のような事が読み取れます。
①平右衛門は、大網村で鍬の仕入・販売を営む農具商人
②鍬を入荷するのに、遠路奥州まで買い入れに出向いていること。
③それだけ鍬の需用があり、小農たちにも普及していたこと

安良盛昭氏『幕藩体制社会の成立と構造』には、小農と備中鍬の関係が次のように記されています。

「近世農業の基本的な形態は、畑作の二毛作、三毛作などの連作、あるいは水田裏作農業であり、それを可能とする刈敷(かりしき)を投入しての有肥農業には深耕が不可欠である。が、近世初頭に地主が用いていた牛馬用の犂は、その構造上非常に安定的であるにもかかわらず、深耕には甚だ不向きであった。これに対し、小農が使用する鍬は、手軽な人力用具であっても、深耕によく適し、夫婦中心の家族労働力だけで十分に連作、有肥の農業を発展させることができたとした。こうして、生産用具における犂から鍬への転換が、近世農業を発展させる上で「てこ」の役割を果たした」

以上を整理して箇条書きにしておきます。
①畑作の二毛作、三毛作などの連作や水田裏作農業が行われるようになった
②そのために刈敷(かりしき)で山野の草木をすき込みむ有肥農業と深耕が不可欠であった。
③しかし、名主層が行っていた牛馬用の犂は、深耕には不向きであった。
④これに対し、小農の鍬は、手軽な人力用具である上に、深耕によく適した
⑤また、夫婦中心の家族労働力だけで連作、有肥の農業を発展させることができたとした。
⑥こうして、犂から鍬への転換が、近世農業を発展させる上で「てこ」の役割を果たした。

ここで出てくる小農とは、次のような農家です。
①一町歩以下の耕地を保有し、
②その農耕は単婚小家族の家族労働力のみの投入に依拠し、
③鍬・鎌の人力農具で耕作する小規模な農民
このような小農が自立し、生産力向上の推進役になっていきます。その武器となったのが備中鍬だというのです。
 中世には「名田地主」は、多くの隷属農民達を抱えていました。当時の低い生産力の下では、本家を離れて生活を維持できませんでした。自分たちの生活を守っていくには、名主や本家に従属するしかありません。それが寛永期から元禄期になると、小農民が自立できる条件が整ってきます。それをもたらしたのが備中鍬に代表される農具の改良だと研究者は考えています。

名主経営から小農経営へ

 検地帳などからは、時代が下るにつれて田畑一枚が細分化され、分地が行われたことが分かります。ここからは名主から土地を分けられ独立(分家)していく姿が見えてきます。名主(主家)に隷従していた人々は、独立(自立)していきます。このような小農民が、次第に村の主体となっていくようになります。そうすると、いままでの「名田地主」を中心的として近世初期の村は、変化せざるえなくなります。それは、惣百姓を中核とする横のつながりのある村への変容でした。備中鍬は、世の中を変えた農具といえそうです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大網白里町史451P 農具の発展」 

江戸時代の農村 全景図
タイムトラベル 近世の農村(帝国書院 中学校社会科歴史教科書)
ここに描かれているのは江戸時代後半の東海地方の村で、次のようなシーンが描き込まれています。

タイムトラベル 近世の村 4
今回は、その中でアの場面を見ていくことにします。拡大して見ます。

タイムトラベル 江戸時代の街道左

本百姓の家の庭先では収穫した稲の脱穀・餞別が行われています。ここから読みとれる新しく登場した農具のことを今回は見ていくことにします。テキストは「農具の発展 大網白里町史451P」です。


江戸時代の農村 全景図 解説1

庭先には、千歯扱きや唐箕など、当時最新の農具が揃っています。
 農具は、A 耕耘(こううん)用具  B 脱穀調整用具、 Cその他に大別されます。


江戸時代に登場した農具
江戸時代の農具改良

これらの農具がどのように改良され、進歩していったかを見ていくことにします。まず、脱穀用具から見ておきましょう。
千歯扱き以前は、次のような竹を割ったコキバシが使われていました。

千歯扱(せんばこき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
上がこきはし、下が千歯扱き

              テレビアニメ「天穂のサクナヒメ」第2話でチラっと登場した「こき箸(こきばし)」。 脱穀、つまり稲穂から籾(もみ)を落とすときに使われていました。  農研機構職員がこき箸を再現して作ってみました! #サクナヒメ

扱き箸(こきはし)は、2本の竹棒の一端を藁などで結び、その間に穂先を挟んで籾を扱き落とします。扱き竹とも言いました。割り竹を用いる場合と丸竹のままの場合があったようです。もう少し長いものを二人で用いる方法があって、大コハシと呼ばれていました。能率は高いですが、やや荒っぽい方法だったようです。白土三平のカムイ伝には、コキバシが次のような場面が描かれています。

カムイ伝 コキグシ 脱穀

このような中で元禄期に出現した千歯扱(せんばこ)きは、画期的な効率性をもたらします。

『農具便利論』に記された千歯扱き3
千歯扱き(大蔵永常「農具便利論」)
台上に先の尖った鉄刃を数十本取りつけ、固定した鉄刃の間に稲束をひっかけて一気に籾を落とします。この千歯扱きは、それまでの扱き箸に比べて十倍もの能率向上をもたらしました。そのため急速に普及します。そのころ、脱穀作業は婦女子の担当でしたが、千歯扱きの出現によって、婦女子の生業が奪われるようになったので「後家倒し」とか「後家泣かせ」などとも呼ばれるようになります。
 
『農具便利論』に記された千歯扱き2
            千歯扱き(大蔵永常「農具便利論」)

千歯扱きは、歯が多くあるから千歯扱き、千把扱くことができるので千把扱きと呼ぶなどの説があります。歯の数は、実際は19本、23本、25本で奇数が一般的です。歯の間隔は、約2~3mmです。江戸時代は歯の断面は長方形でしたが、明治時代には台形となります。その後、半円形、三角形と、隙間に稲が詰まらないように工夫が重ねられました。また、歯の並べ方を湾曲形にして、稲束を扇状に広げ、扱手(こきて)からそれぞれの歯が等距離となるようにしました。
 千歯扱きの生産地は、もともとは釘の産地だったところが多く、鉄歯作りは釘作りの技術が元になったと考えられています。千歯鍛冶は全国各地を訪れて修理をし、商人と組んで「直しと行商」のスタイルを作り出します。こうした行商により日本中の村々に千歯扱きが行き渡るようになりました。大正時代に回転式の足踏脱穀機が出現するまでの約200年間、広く愛用されました。

籾磨(もみすり)は、それまでの木の磨臼(すりうす)から、土の唐臼(からうす)が使用されるようになります。

唐臼1

これは寛永元年(1624)頃に、中国から長崎にやってきた土臼作りが、日本人にその製法と使用方法を伝え、それが各地に拡がって行きます。臼は地面に固定し、杵をシーソーのような棒の先端につけ、反対側を足で踏んで放せば、杵が落下して臼の中の穀物を搗きます。米や麦、豆など穀物の脱穀に使用し、踏み臼とも呼ばれました。
唐臼』
 木臼の能率が一日一石程度なのに対し、土の唐臼は一日三石を摺ることができました。

選別用具としては、箕(み)や篩(ふるい)に代わって、唐箕(とうみ)が使われるようになります。

風起こし選別 『農具便利論』
              箕(大蔵永常「農具便利論」)
箕は籾摺(もみすり)後の米などを入れて上に放りあげ、風によって殻、塵などを選別する農具です。どこの農家にも2~3枚あり、穀類を干したりするときにも使われました。
「箕売り」は、秋の収穫作業が始まる頃、真っ白い箕を10枚ぐらい重ねて肩にかけ、手にを持ち、人が集まる精米所にやってきます。作業の合い間に、地元の人達と作物の出来具合いなどの話をしながら、使い手の好みを聞き取って帰り、次の年の同じ時期にもやって来て箕や箒を売りさばきました。箕も元禄期に中国から伝来したといわれます。

籾篩(もみふるい)
             籾篩(もみふるい)
脱穀した籾をすくいとって、両手で持ってふるいます。籾は篩の目から落ち、切れた穂や藁くずなどが篩の中に残ります。篩による籾の選別は少しずつしかできず、根気のいる仕事でした。

『農具便利論』に記された選別板
                      淘板
唐箕が登場するのは17世紀後半で、中国から伝来したようです。

唐箕(天工開物 風力を利用した穀物選別機)の挿絵 
               天工開物の「風扇車」
明末17世紀)に宋応星の天工開物には、「風扇車」として唐箕が載せられています。
日本側の記録として残るのは、佐瀬与次右衛門の『会津農書』(1684年刊)、図が最初に記されるのは寺島良安の『和漢三才図会』(1712年刊)なので、元禄年間に伝来し、急速に普及したことがうかがえます。

唐箕 とうみ

手作りの世界史実物教材 備中ぐわ、千歯こき、唐箕

これは米と籾殻を選別するのに効果的で、より早くより多くの餞別が出来るようになり、労力省略につながりました。
唐箕 カムイ伝
カムイ伝に登場する唐箕

次に登場するのが千石簁(せんごくとおし)です。
千石とおし

傾斜させた木枠に網目の異なる金網を複数段重ねて、上から穀物を落とし込むことで、粒の大きさや種類(米、糠、くず米など)ごとに効率よくふるい分けました。作業の流れとしては
 千歯こき(せんばこき)で稲穂から籾を外し、
②千石とおしで米粒と籾殻や糠を選別
③さらに唐箕(とうみ)の風力でゴミを飛ばす


以上をまとめておきます。
江戸時代の農業技術の発展

 このように江戸時代の農具の改良・発達が農業生産力の発展に大きく貢献することになります。
これらの新しい技術を、よりはやく、よりひろく普及させたのが農書の出版でした。
A 17 世紀末 宮崎安貞(やすさだ)の『農業全書』
B 1822年 大蔵永常(ながつね)の『農具便利論』や『広益国産考』
特にBは、何度も版を重ね、明治期になっても多くの人々に読まれるベストセラーとなりました。この本が読み継がれた理由を挙げておくと
絵が豊富に用いられていて見やすく、全体的にやさしい文体で書かれていること。
②図には、農具の寸法や重量も記されていて、本書を参考に実際に農具を製作できること
農具を用いて農作業をしている風景も多く挿入されていること
④「便利な農具で労力が軽減されれば、女性や子どもも農事に参加することができる」など編集方針が合理的なこと
 これらの農書によって、改良された農具は早く広く世間に広まっていきました。
しかし、これらの農書を百姓達は読めたのでしょうか?
江戸時代は、それまでの時代と違って庶民階級への教育が急速に広まり、識字率をいっきに上昇させた時代だったようです。小さな村にも手習い(寺子屋)ができ、親たちに求められて僧侶、神官、富農、医者などが読み書きを教えるようになります。これは都会に出て金を稼ぐためではありません。読み書きそろばんができなければ、一人前の百姓とはいえなかったのです。宮崎安貞や大蔵永常のような人々によって大量の農書が書かれ、技術が伝播していく背景には、農民が本を読めた、という事実がありました。肥料・農具の知識の拡大も、その上に立っています。肥料は商人が持ってきたものを使えばいい、というものではなく、育てている植物と肥料の量や施肥方法との組み合わせ次第で成功も失敗もします。
 大蔵永常は「農稼肥培論』で、次のように記します。

「肥しのかけ引、良医の薬を配する如し」、
つまり肥やしは医者が薬を処方するようなものだ。
なぜなら、「虚弱の病人に強き薬を用ふれバ却て害をなす道理なり」
弱っている病人に強い薬を使えばかえってよくない結果になる、逆に成長している最中のものには少し強いくらいの肥やしをやった方が生育する。
「肥を施すに薬と同じくかげんあるものなれ」
肥やしのやり方はの処方と同じような加減があるのだ、

 ここでは、医術と農業を比べて、肥やしはやればやるほどいいのではなく、加減やあんばいが大切だ、と説きます。現在でも、薬は毒でもあるから「服用の決まりを守りましょう」と表示してあります。肥料も、これと同じかもしれません。江戸時代の百姓は、土や作物の状態を見て、量を決めたのである。そのような知識の上に、豊かな実りは生まれました。そういう自覚が一部の百姓達の中にうまれだしていたとしておきます。
17世紀中頃になると、それまで家父長的地主層を中心の農業形態にも変化があらわれます。
小家族で農業経営を行う小農が村の新たな担い手として姿を見せるようになるのです。

名主経営から小農経営へ

このような小農経営の発展は、農業生産力の向上によるものでした。その原動力として分かりやすいのが、農業技術の進歩と新田開発です。今回は農具改良に焦点を当てて、農業生産力の発展の軌跡を追ってみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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タイムトラベル 城下町
           中学校の歴史教科書(帝国書院)のタイムトラベル 太閤検地と築城

ここでは天守が立ち上がる城郭と整備が進む城下町が描かれています。天守の遙か向こうの山上に見えるのが中世の山城です。中世の城は、土塁と空堀と曲輪で構成され、石垣が使われていないのが特徴です。それが信長・秀吉の時代になると、石垣で囲まれた堀と、その上に天守が姿を見えるようになります。検地が行われている田んぼの横の道を巨石が運ばれて行きます。

タイムトラベル 城下町 石材運搬

拡大すると次の3つの運搬集団が描かれていることが分かります。
A 先頭  巨石を引っ張って運ぶ修羅(しゅら)集団
B 2番目  牛に牽かせた牛車
C 3番目 人が担いで運ぶ集団
これらの参考になっている『築城図屏風』(愛知県指定文化財)を見ておきましょう。

『築城図屏風』 全体

 この屏風は建築中の城周辺の様子を描いたもので、城の構造や芝居小屋、町並みの様子などが6枚の屏風に描かれています。慶長12年(1607)の第一期駿府城とする説が有力ですが、駿府城の縄張り(建物配置)と一致しないので、名古屋城や金沢城説もあるようです。この屏風絵図で運搬集団を見ておきます。
『築城図屏風』 牛車
         築城図屏風 牛車が曳く切出石 背後に石垣が組まれている
『築城図屏風』2
石材を大勢で担いでいく集団
この集団の上方に2軒の店がありますが、その右脇が饂飩(うどん)屋であることは以前にお話ししました。拡大したものが下図です。

『築城図屏風』 うどんや.2jpg

うどん屋の店内では、 半裸の男がのし棒で生地を伸ばし、その右では朱色の椀を手にした男がうどんををすすっています。見世棚には、外が黒で内側が朱の椀や、全体が朱の椀、盆が重ねて置かれ、栓のある樽もあります。これはお酒でしょう。うどんの他に酒も売っていたようです。そして店の前では、喧嘩が起こっています。
屏風図の最後(左下)に描かれる運搬集団が修羅です。

『築城図屏風』 修羅
築城図屏風の修羅集団

これほどの巨石となると牛車には乗せられませんし、人間が担ぐことも出来ません。修羅(シュラ)が丸太をかませながら曳かれています。100人以上の大人数でこの巨石は引かれています。修羅の語源は、仏陀の守護神・阿修羅に由来するようで次のように説明されます。

「だれにも動かすことができなかった帝釈天を、唯一動かした神が、阿修羅だった。この故事から、帝釈(たいしゃく)と大石(たいしゃく)をごろ合わせし、大石を動かす木ゾリを修羅と呼ぶようになったらしい」

古墳時代に石室運搬に使用されていた修羅は、近世になっても使われます。私が気になるのは、修羅の上に乗っている人達です。ズームアップしてみましょう。

『築城図屏風』 修羅の集団

おどけた表情のお面をつけ、思い思いの楽器を持ち、変わった形の帽子を被って、服装は統一性がありません。てんでんばらばらの独創的いでたちです。高烏帽子のような被り物は、加藤清正を模しているのかも知れません。その隣の人の帽子は、西洋のカーニバルの被り物で南蛮風です。その右隣のほら貝を吹くしゃくれあごのパンチパーマは山伏のようです。その隣は、南蛮装束で軽やかなステップを踏むカールひげ男などは、異人のようにも見えます。ここには当時の風流(ふりゅう)集団の雰囲気が漂います。
 彼らは、どんな集団で、何のために修羅の上に上がっているのでしょうか?
 巨石巨木には強い霊魂が宿ると、当時の人達は信じ、信仰対象になっていました。築城現場に運ばれる前は、どこかの聖地で崇拝の対象だったかもしれません。それを切り離して、城に運び入れようとしていることになります。その際には強力な霊魂を鎮めたり、逆に霊力を高めたりの儀礼が求められたのかも知れません。そうだとすると、この集団は、霊的呪術をつかさどるシャーマンたちということになります。お城に神聖な巨石がたどり着くまで、いろいろなパフォーマンスで巨石に宿る霊魂のパワーをコントロールするのが彼らの役目だったのかもしれません。そこでは当然、「重くて動かないのは石に宿る霊魂の仕業、そんなトラブルは俺たちにお任せ」とばかりに呪術的パフォーマンスを行っていたかも知れません。そうだとすると、築城の石曳きは、風流芸能集団の仕事場であったのかもしれません。
 関西地方のダンジリや曳山の中には、築城石曳きをルーツとするとの伝承を持つものがいくつもあります。そのような流れは、この修羅の上の集団が、「呪術者集団=風流芸能集団」として演出したものかも知れないと私は思っています。

風流踊りとは

何かを大勢の人間が曳く作業は、単なる土木作業を越えた霊的な意味があったようです。
それが祭礼行事に育って行くこともありました。都市で修羅を曳くのは、宗教的な意味を持ちお祭りにつながっていました。例えば近世では、運河や開拓地の砂ざらえが行われ、さらえた砂を皆で引っ張って運びました。これを砂持ち作業と呼びました。これが祭礼化するのです。下絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。

DSC01581

この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。

DSC01582

 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。ここからは。このようなパフォーマンスを演出する芸能集団が江戸時代後期になっても活動していたことがうかがえます。

巨石運搬の祭礼化
 巨石運搬の祭礼化
このような動きは幕末の宇多津でも見られました。「歴世年譜」は次のように記します。

「(宇多津)城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」

ここには各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景が記されています。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。これは、高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったようです。以後、高松藩はこのような動きに対して規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。
以上をまとめておきます。
①古墳時代の石棺運搬などには修羅が使用されているが、それは運搬作業以上の神霊的な意味を持っていた。
②巨石の運搬には呪術者が伴い、独自のかけ声や踊りをしながら行われる霊的な行道(パレード)であった。
③それは近世の築城の際の巨石運搬にまで受け継がれていて、修羅の上に独自の呪術者集団が乗った。
④彼らは派手な衣装と身なりで、独自の踊りやパフォーマンスを行い、修羅運搬という土木作業に神霊的な意味づけを行い、祭礼パレードへと発展させた。
⑤修羅や荷車を大勢で引くことを祭礼につなげる感性を民衆は持っていた。
⑥同時に、それを演出する風流=呪術者集団がいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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タイムトラベル 太閤検地 全体図
   タイムトラベル 秀吉の太閤検地と刀狩り 中学校社会科歴史教科書(帝国書院)

前回は、秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれた絵図で太閤検地を見ました。
 今回は刀狩りを見ていくことにします。この絵図で刀狩りが描かれているのは右端のシーンです。拡大して見ます。

タイムトラベル 刀狩り寺院に対する刀狩シーン
豊臣政権は「刀狩令」によって、百姓から武器を取りあげましたが、寺社勢力からも取りあげています。それは中世の大きな寺院が比叡山の延暦寺や紀州の根来寺のようにたくさんの僧兵をかかえ一大軍事拠点でもあったからです。善通寺も室町時代には軍事集団の拠点として機能していたことは、以前にお話ししました。そのため信長や秀吉は、寺社勢力の勢力を削ぐ政策を進めました。
 
刀狩り セリフネーム

門前にやって来た刀狩執行役人と対応する住職は、どんなやりとりを行っているのでしょうか。セリフを入れさせて、生徒の理解度を測ることが授業では行われているようです。たとえばこんなやりとりでしょうか。
担当役人
太閤秀吉様によって、天下泰平の世の中がもたらされた。もはや刀や薙刀などの武具は不用である。ちなみに、平和な世の中の到来を感謝して、太閤さまは京に大仏を建立することになった。ついては、その工事に使うのでお寺にある武具を、差し出すようにとの命令である。この寺には、多くの武具がしまい込まれていると聞いているぞ。隠し立てすると、ためにならんぞ。すべてここに持って参れ
住職
はは、分かりました。秀吉様のありがたい功績に感謝して、武具を差し出します。大仏建立に使われるのであれば、本望です。
こうして兵農分離が進みましたという授業の流れのようです。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

しかし、近年では短期間で一気に変わったのではないと研究者は考えるようになっています。その説を今回は見ていくことにします。テキストは「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」です。

刀狩については、太閤検地以上にわからないことが多いようです。
刀狩令の原本は13通が伝わっていますが、九州方面に残っているものが多いのです。その背景として、天正15年(1587)の秀吉の九州征伐の際に、国衆や農民の一揆を鎮めに出されたためと研究者は考えています。つまり、最初は九州限定で発布されたが、徐々に全国的な法令として広められたという説になります。その内容を押さえておきます。

刀狩り令1
 秀吉の刀狩令 第一条
 条々
一 諸国百姓刀わきさして鑓(やり)てつぽう(鉄砲) 其外武具の類所持候事堅御停候。いらざる子細ハ不入道具を相たくハへ 年貢所当を難渋しめ自然一揆を企て給ひ人に対し非儀動(ひぎのうごき)をなす族(やから)勿論可有御成敗 然者(しかれば)其所の田畠令不作 知行ついゑになり候間 其国主給人代官として武具悉取集 可致進上事
一 右とりをかるへき刀脇指ついゑにさせらるべき 儀にあらす 今度大仏御建立の釘かすかいにおおせつけらるべし。可被仰付然者今生の儀者不及申 来世までも百姓たすかる儀に候事

一 百姓ハ農具さへ持耕作専に仕候へは子々孫々まで長久に候百姓御あれミを以てかくのごとくまことにらく如此被仰/出候誠国土安全万民快楽之基異国にてハ唐のそのかミ天下を鍛のうきにもちう撫宝剣利刀を農器用となり本朝にてためしあるへからす此旨をまもり各々趣を存知百姓い農桑を精に可入事いるべき右道具急度取集可致進上候不可油断候也
                            秀吉朱印
天正十六年七月八日印 

意訳変換しておくと
 条々
一 諸国の百姓は刀(わきさし)・鑓(やり)てつぽう(鉄砲)以外の武具のの所持を禁止する。不必要な武具を持ち、年貢徴税に抵抗し、一揆を企てるような非儀を行う者達は成敗する。ついては、その国の大名はすべての武具を集めて、進上すること。
一 差し出された刀や脇指については、今度に建立される大仏の釘やかすかいに使用される。刀が大仏建立のために役立てば、来世でも百姓たちは救済されることになる。

一 百姓は農具のみを持ち耕作に専念し、子々孫々まで長久に暮らしていけるようにとの太閤様のはからいである。国土安全・万民快楽の基礎とする。中国の唐の時代には、天下を耕すために宝剣利刀を農器用したこともある。この趣旨に学び、百姓は農業に精をだすべし。よって農業に不必要な武具などは急ぎ回収するので差し出すこと。この布令に従い協力すること 
                                    秀吉朱印 
天正十六年七月

第1条は、農民の武具の所持を禁じて、国主らに農民の武具の没収と進上を命じている。
第2条は、取り上げた刀などの武器は、大仏(方広寺)を建立する際の釘などに活用すること。これにより、農民は現世だけでなく、来世までも救済されると説く。
第3条は、農民は農具をもって耕作に専念すれば、子々孫々まで長く続き、それは秀吉が農民を憐れむ気持ちの顕れである
ただ差し出せと云わずに、「大仏殿の釘などに使う。それがお前達の功徳となる」という言い回しが秀吉らしいところです。しかし、この刀狩には例外事項が数多くあると研究者は指摘します。例えば、町人には帯刀を許しています。また、寺社などの神事のときには刀などの使用を認め、所持を許しています。言わば祭器として許可されていたとも云えますが、総てが没収されたわけではないことを押さえておきます。農民の場合も、害獣(鹿、猪)駆除のためには鉄砲の所持を認めています。こうして見ると、総て一律に武器所有を禁止したものではないのです。そういう意味では、刀狩そのものは不徹底なものだったと研究者は指摘します。
 また、村々に代官を派遣して、一軒一軒を訪ねて調査したうえで、武器を取り上げることは現実的には無理がありました。そのため村の代表者に依頼し、適当に済ませることもあったようです。例えば加賀・前田家の場合は、村の代表者が誓紙(誓約書)を提出し、辻褄合わせだけをしたと伝えられます。そうすると、「刀狩り=農民の全面的な武装解除」というイメージとは程遠い現状であったことになります。
 以上から、刀狩の目的は、農民の武装解除ではなく、身分標識(帯刀できるのは武士身分だけ)を明確にする点にあったと考える研究者もいます。
 中世社会は危険な社会で、農民も脇差しを手放さなかったことは以前にお話ししました。
村では水争いや、入会権など縄張り争いが頻発していました。戦乱に巻き込まれることもありました。日頃の治安維持や害獣の駆除にも武器が必要です。これはアメリカの西部劇と同じで、自分たちの身は自分たちで守らねばならなかった時代だったのです。そんな中では、刀などの武器は農民に必要不可欠でした。そんな中で、刀狩令という布告だけで農民達が刀や鉄砲を手放したと考えるのは不自然です。江戸時代になっても農民は武器を所持し続けていたことが次のように報告されています。
A 1588 年8月に京から贈られた加賀の大聖寺領内への 「加州江沼百姓らの武具の請取状」の添え書には次のように記します。

「町人で田畠をつくらない者には、人を指定して、刀・脇差 をもたせてもよい」

ここからは町人に対しては、免許制にして協力的な者には帯刀を認めていたことが分かります。百姓は禁止し、町人には認めると云うことは「農と商の分離」の身分分断政策の一環として刀狩令が出されたと研究者は指摘します。(藤木久志『刀狩り』岩波新書、pp.77 ~ 78、要約)
B 同じく刀狩令が出されてから1カ月後の加賀の大聖寺領内ではすでに刀狩が終了し、刀1073腰、脇差1540 腰、 鑓身 160 本、こうがい 500 本、小刀 700 本の多量 の武具が集められました。ところが、ここにはもっとも強力な武器である弓矢や鉄砲は一つも記されていません。しかも、京の取次ぎ役からは「刀・脇差の員数が少ない」と催促されています。(前出『刀狩り』pp.75 ~ 77、要約)
C 1590 年の出羽仙北の一揆解体を進めた上杉景勝軍の奉行は、一揆方の村々から 4473 点の武具を没収しています。その中から秀吉方で受けとったのは刀・脇差だけで、鉄砲はありません。すると17世紀末の農村には、武士層のもつ以上の鉄砲が残されていたことになります。それを裏付けるのが徳川綱吉の時代に、仙台藩には 3948 挺、尾張 藩 3080 挺以上、長州藩 4158 挺、紀州藩に至っては 8013 挺もの鉄砲があったことを研究者の報告です。(塚本学『生類をめぐる 政治』講談社学術文庫、p.13、要約)
以上からは、刀狩令以後も村には鉄砲などの大量の武具が残されていたことが分かります。すぐに兵農分離は実現したわけではないようです。

 織田信長が戦に強かったのは、兵農分離を実現し、農閑期以外も戦えたためと云われてきました。
しかし、これは史料によって裏付けられたものではありません。断片的な史料をつないで推測されているに過ぎないのです。先進的とみられる織田軍団でさえも、兵農未分離だったと研究者は指摘します。   
兵農分離の通説と異説

 歴史教科書に書かれていることを要約すると、次のようになります。

近世の城下町には武士が集住し、町人の居住地が定められたり、寺社も集中配置され寺町を形成する。そして百姓は村落で農耕に専念する。つまり、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになった。そのため近世の村には武士はいなくなった。

しかし、兵農分離による城下町の形成は、どうもこのように円滑に進んだわけではないようです。
武士は、それまでは自分の所領に住んでいて「一所懸命」で土地とのつながりが強かったのです。そのため所領から引き離し城下に集住させるのには、いろいろな困難がありました。讃岐生駒藩では、江戸時代になっても生駒藩に登用された地元の武士集団が、相変わらず自分の領地に居住し、盛んに新田開発などを進め、農業に従事しています。これが生駒氏が連れてきた家臣集団と対立し、生駒騒動の原因となることは以前にお話ししました。 そのため高松城の城下町には、家臣団の屋敷が建設されずに空き地が数多くあったのです。そうなると藩主が描いた城下町プランは、なかなか進まずに「絵に描いた餅」状態になります。その一例が、生駒藩時代の高松城だったと研究者は考えているようです。
 
最後に  香川叢書第二(名著出版1972年)の「高松領郷中帯刀人別」という史料を見ておきましょう。
高松藩 郷中住居の御家来

ここには宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化されていて、帯刀を許された由来が記されています。「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、上記の12名の名前が挙げられています。  郷居武士とは、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。ここからも、一律に兵農分離が行われた訳ではないことが見えて来ます。
兵農分離が実現しなかったからといって、秀吉の行なった諸政策が否定された訳ではありません。
秀吉の目指した政策は、現実社会との葛藤のなかで、実現のためには長い時間を要したということになります。そういう意味では、秀吉の政策は江戸幕府に継承されながら時間をかけながら整備されていったということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」
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タイムトラベル 太閤検地 全体図
          中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル 太閤検地

 このイラストは秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれているようです。
前面には田んぼと農家、その背後に姿を現しつつあるお城と城下町が描かれています。遠くの山の上には中世の山城が見えます。それがやって来た藩主によって、海の近くに新しいお城が築かれています。丸亀城や高松城もこんな風に作られたのかも知れません。 城の周りには同時並行で、城下町が作られます。これについては、また別の機会に見ていきます。今回見るのは、中央の田んぼの中です。

太閤検地 kakudai

竹竿と縄で測量が行われています。これが太閤検地です。田畑の面積は、それまでは百姓の自己申告による「指出検地」でした。それがひとつの土地にひとりの年貢請負人(=土地所有者)を決め、面積と田畑の質によって年貢を決める仕組みになります。役人が田畑に直接入り込んで検地をするというのは、それまでなかったことで画期的な出来事です。今回は、秀吉によって行われた太閤検地を、阿波に残された史料で見ていくことにします。テキストは、徳島県立文書館の展示史料です。

上のイラストをもう一度見てみます。
中央の田んぼの中では、棹を立て縄を張っているようすが見えます。これは検地をしている場面です。編笠をかぶり刀を差している武士らしい人が何人か見えます。彼らは検地役人です。戦国時代の検地は,その土地の持ち主の自主申告による差出検地でした。しかし、ここで行われている太閤検地は,検地役人が実際にその土地に入り,決められた基準で検地を行っています。これを丈量(じょうりょう)検地といいます。土地の所有者、面積、生産力ランクなどが決められると、それに応じた年貢が定められます。
検地2
         『徳川幕府県治要略』に描かれている江戸時代の検地
①真ん中の十字の器具をもった人がいて、この「十字木」を中心に縄が張られる。
②田んぼ周囲には長い竿をもった人達が8人。
③四角形の頂点に立つのが「細見竹持(さいみだけもち)」
④各辺中点に立つのが、先に梵天のついた竿をもつ「梵天竹持(ぼんてんたけもち)
⑤指揮・記載していく役人(二本差しの武士)

検地用用具 茨城大学
復元された十字木と縄(茨城大学教育学部)
面積を測りたい土地について、それがどんなに複雑な形だったとしても、同程度の面積の四角形に見なします。そして梵天竹持や細見竹持の動きで、さまざまな形の土地を等積の四角形にしていきます。
検地台帳には何が記録されたのでしょうか。阿波に残る史料で見ていくことにします。

検地帳 阿波那賀郡
阿波那賀郡の検地帳
 
阿波の本格的検地は1589(天正十七)年に始まります。
その前年に佐々成政が秀吉の命令を無視して肥後で検地を強行して失敗します。それを受けて秀吉は、蜂須賀家政、浅野長政・加藤清正・福島正則などを肥後に派遣して検地を行わせます。その経験を活かして翌年に、蜂須賀家政は自国阿波で検地を行います。この時の「阿波天正十七年検地」は、里の村だけでなく、ソラの村も含めた全域で実施されています。
太閤検地 阿波の検地台帳
                      阿波天正十七年の検地台帳

検地の4つの項目
土地ランクを灌漑の実利便性・作物の生育状況等から、上々田・上田にランク分け、
田畑一筆ごとに検地縄と検地竿を使って土地の面積を計測
その土地の生産力を米の収穫高として表示する石高を算出
名請(名負=所有権を認められた)百姓を定めて検地帳。
具体的な表記例を見ておきましょう。
阿波の 太閤検地の記載例 

太閤検地 天正検地帳の基本石高

上記のように検地によって田畑の面積が確定され、それに応じた税が決定されます。
これは農民にとってはそれまでになかった利点がありました。名負人に名前が記されれば、その土地の所有者として認められたことになります。もっと云えば、農民の土地所有が新たにやってきた大名によって保障されたことになります。これは、古代以来の荘園制にとどめをさします。
太閤検地が中世を終わらせた
同時に、荘園の財政基盤としてきた寺社勢力にとっては大きな打撃となります。ある意味で、太閤検地によって中世は終わったと云えそうです。そういう意味では、秀吉は中世を終わらせ、近世の幕を開いたといえるのかもしれません。
  検地を行う役人への注意書きも残されていますので見ておきましょう。

「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三 役人への注意書き1
意訳変換しておくと
 (「御両国御検地御作法之事(出原家文書九三)
一 検地をする村々については、前年の収穫高の善し悪しを考慮して竿を入れること。
一  検地に出かけた時は、村全体を見た上で、土地の善し悪しを考慮して検地を行う事
一 御検地之村々、第一用水之有無、悪水仕之趣洪水之害被是相考、田畠之差別尤矩之了簡可仕事
一 方円曲直之外異形之地面竿立難随其地形、猶又地主難心得於地面引地主とも致得心候様可仕候地面之広狹相改候儀竿立肝要之事
一 大地を以小切ニ仕入、尤間数相延口地面ハ是又ヲ引、随其縄打可申事
一 竿立之次第雖為委細、竿之打様依善悪余田不足地有之事二候故、竿ニハ両手をかケヲ折右之ヲ、竿先不曲候様打可申旨、打之者とも二可申付候、竿立竿打悪敷、縦ハ壱反之地壱歩広ク成候へハ壱歩之御年貢百姓永代作取仕、赤壱反之地壱歩狭ク成候へハ壱歩之無地御年貢永代百姓まとひ中段、彼是ヲ以無物仕合、不安義二候事【後略】
(「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三)
意訳変換しておくと
一 検地をする村々については、用水の有無、排水の状況洪水の害など、いろいろ考えて、田畠のランク付けを行い、石盛の基準を決定すること。
一 方形・円形・曲線・直線のほか特異な地形の土地の検地は、その地形にしたがって計測すること。それでも、地主が納得しない土地は地縄を引いて、地主共が承服するように検地をせよ。土地の広さ・狭さを再調査する場合も竿できちんと測ることが大事である。
一 広い土地は検地縄で小さく分割して竿で測れ。長さが長い土地も検地縄を引いて、縄に沿って竿で測ること。
一 検地竿の立て方の善し悪しにより、実際の土地より広くなったり狭くなったりする。そこで竿には両手をかけ、腰を折り、右膝を突き、竿先が曲がらないように測れと打ちの者共に申し付けるべし。検地の仕方が悪く、例えば一反の土地で一歩広くなれば、一歩の年貢を百姓が永代作り徳になり、逆に一歩狭くなれば、実際には一歩の土地が無いにもかかわらず、百姓はその年貢を永代払い続けねばならなくなる。あれこれ無駄になるのが惜しく、心配である。
【後略】                 
ここには農民達の反発に学んで、できるだけ納得のいく形で検地を進めていこうとする藩の意向が具体的に示されています。ここには悪代官と大庄屋の賄賂や癒着などは入り込めない緊張感が感じられます。
 時代は下りますが19世紀の住吉新田の検地古文書を見ておきましょう。
住吉新田は、笹木野村の東側に広がる扇形の干潟で干拓されたものです。天明三(1783)年に阿波郡伊沢村(阿波町)の伊沢亀三郎が大坂の商人鴻池清助の出資を受け天明七(1787)年に37町歩の新田を完成させます。その後、弘化四(1847)年に初めて検地を受けています。この時の検地文書を対岸の村の大松村の中家の人が写したものには次のように記します。(意訳)
御検地に付き、氏神の前にて以下のことを誓った
起請文前書きのこと当新田(住吉新田)にご検地が仰せ付けられた。田畑は一カ所も一歩も隠すようなことはしないこと。また道・溝(用水路等)・堀・岸等を田畑にするようなことは少しもしないこと。もちろん、村境もはっきりと申し出ること。
1 田畑であると言って掠めるようなことはしないこと。
2 この度のご検地で、万一竿違い(土地の計り違い)があり、田畑の広い狭いがあった場合は、遠慮なく申し出ること。
3 この度お断り申し上げた、道・畦・用水・堀などに仰せ付けられた土地は、後年になって田畑にすることがないようにすること。
4 この度ご逗留中のお奉行様方は当然ですが、お竿打衆、ご家来衆まで草履、草鞋、雑子(人夫役もしくは粗末な食事の外は、少しもお礼のようなことはしないこと。
この文書が村の氏神(住吉神社?)の前で検地について間違いがないように、起請文形式で取交わしたものであることが分かります。第四条の「お礼をするな」というのは、役人へ賄賂を送るなと云うことです。ここでも同じような細かい注意がされています。(「起請文前書之事」中財家文書二〇)

住吉新田の検地前には、担当名主に対して次のような心得が出されています。
  申渡覚【中略】
板野郡住吉新田が、この度御検地を仰せ付けられ、名主の心得は誓紙前書きの通り大事なことなので、すべて忘れることがないようにしなさい。少しでも心得にくいことがあれば指図を受けなさい。
 御検地のことは百姓にとってずっと気にかかることであり不安なことである。だから心して取り組んで行くが、問題は多岐に渡るので、土地の善し悪しをきちんと掌握することは難しく、不行届になることもある。だから名主(庄屋)の覚悟が肝心である。御検地に出来不出来があっては、後々まで煩わしいことになり、作人共の苦労はとても重いことになる。名主はすべてに心を配り、問題が生じたときには申し出なさい。言うには及ばないことだが、不埒な申し出に対しては、監督不届きとして処罰もある。
一 検地の際に、周辺に戸外に出て見守ることは、役目を勤める者以外で無用の者が出てくることは、絶対に止めさせること。
一 郷役の雑子(人夫役もしくは粗末な食事)、草履、草鞋以外、少しのお礼(賄賂)も厳禁でである。そのことは役人の家来の者共へも申し付けてある。万一家来の理不尽な行動があったならば、早速申し出なさい。そのことを隠しおいて後で分かった場合は、あなた方が不届きなこととなり処罰の対象となる。
一 役人の旅宿へ名主の外、無用の人々の出入りは差し止める。もっとも、名主であっても用事が済んだならば、早速退出すること。
 火の用心を堅く申し付けておく。
 右の条文の通り、忘れないように、堅く心得ておくこと。
(「申渡覚」中財家文書二〇七)
 これを見ると起請文前書きを受けて、さらに細かな名主の心得が書き出されています。第六条には起請文前書きと同じく検地役人に対する賄賂の禁止が繰り返して記されています。さら第七条では、農民が検地役人に近づくことまで規制しています。幕末になっても検地作業の現場は、緊張感でピリピリしていたことがうかがえます。研究者は次のように指摘します。
私たちは、映画やテレビドラマから、ともすれば、検地役人が一方的に土地の面積を測り、等級を決め、石高を定めたように思いがちですが農民側の意向も踏まえながら慎重に検地をしたようです。検地帳は、土地基本台帳として、筆写されたり、付箋が貼られたりし ながら幕末・明治初めまで、大切に使用・保管されてきました。 
次に一番手前の農家の庭先を見ていくことにします。

タイムトラベル 太閤検地 升

庭先には、役人がやってきて、村絵図を見ながら枡を主人に渡しています。なんと言いながら渡しているのでしょうか?
こことここが、お前の土地に間違いないか。この土地の面積や等級は検地台帳の通りに決まった。ついては、これらの土地の所有をみとめるので、定められた石高の年貢をきちんと納めること。その際には、この升を使用すること。今まで使っていた升は廃棄せよ。

秀吉の度量衡


この農家を見ると、築地塀に囲まれ、牛や馬がいるので、この村を代表する指導的な本百姓のようです。彼らは戦国時代には国衆として、戦国大名の軍事力を担う存在でもありました。新たにやって来た大名とっては彼らを支配下にうまく組み込んでいき、年貢徴収などに協力させることが大きな課題となります。江戸時代になると彼らに,年貢の徴収や村の中のさまざまな事件の処理,人心の掌握などを任せるようになります。その最初の接点が、検地であり、刀狩りであったことになります。

石高制の確立
太閤検地 年貢米の計算

こうしてみると、秀吉は課税をしにくい畠や宅地(居屋敷)についても、米価に換算するための価値尺度を作ったことになります。豆類や大根やニンジン、野菜などの農作物を、米だったら○石○斗になりますと換算表示するのが石高制です。そしてその石高をもとに徴税するシステムです。また、田も畠も土地の善し悪し(土質)や水利によって収穫高は異なるります。そのために田畠をランク分けして、公平に徴税できるようなしくみをつくったことになります。現在なら、給料30万円の月収といえばその人の財力をだいたい知ることができるように、30石の米がとれる農地を持っている百姓とか、30万石の米がとれる領地を持っている大名とかいえば、同じ米という価値基準でその人の財力をはかることができます。石高や徴税の原則を立ててしまえば、米という価値に一本化するので、徴税・納税もやりやすくなります。ここでは石高制とは、お金の代わりに米で農民や武士の収入基盤を表現し、課税したり知行地として支給したりするために考え出された制度であるとしておきます。しかし、米はお金と違って、年によって収穫量が変化します。
 
検地帳に基づく年貢徴収は、村役人の高度な簿記・計算能力が求められました。
同時に、年貢割りつけの本百姓同士の連帯と調整能力も必要です。村役人の高い能力があって初めてできることでした。同時に、検地で本百姓に登録され、土地所有を認められたことは、子孫に至るまでずっとこの土地を耕し、年貢を皆済し、家を存続させていくことが勤めという意識が生まれることにもなりました。

ここまでは阿波蜂須賀藩の検地を見てきましたが、讃岐生駒藩の状況はどうだったのでしょうか?
生駒藩では組織的な検地が行われなかったようです。そして家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収する昔ながらの方法が続きます。生駒藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

意訳変換しておくと

家臣団も先代(生駒時代)は、地方で知行取が行われていた。そのため城下に家臣の屋敷は少なかった。それが松平家の入部以後に、家臣団の多くが城下に屋敷を構えるようになった。そのため新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁などに、侍屋敷が形成拡大されることになった

ここからは次のような事が読み取れます。
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
つまり太閤検地によって否定された「国人領主制」が生駒藩では温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。つまり、生駒藩では検地も不徹底で、家臣団の髙松城下町への集住も進まなかったことを押さえておきます。言い換えると、讃岐では太閤検地は、農村に劇的な変化をもたらさなかったし、兵農分離も進まなかったということになります。
歴史の授業では、次のように展開します。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

ここまでは太閤検地の統一性に重点を置いて見てきましたが、近年になって報告されている不統一性や不完全性を挙げておきます。
1590年の小田 原攻撃後に、秀吉は腹心の増田長盛を安房国に派遣して検地を行わせていますが、その知行充行状には次のように記します。

「一、本銭百六十五貫文 三百三拾石 な かさ郡かいすか村」

ここには知行高が石高で表示され ていますが、その実体は本銭の貫文を1貫文=2石の比 率で換算しなおしたものです。(川名登『戦国近世変革期 の研究』岩田書院、pp.230 ~ 233、要約)
②1597 年に徳川家康が行った武州入西郡妙覚寺内桃木村の検地では「一 畑百弐拾文」と貫文表示しか記録されていません。(中野達 哉『近世の検地と地域社会』吉川弘文館、pp.44 ~ 48、要約)
③太閤検地には朝鮮侵略の兵力動員の割当て を定める目的もあったと研究者は指摘します。。
④長宗我部元親が行った検地帳には石高の記録がない。長宗我部が秀吉に申告 した石高は9万8千石でうが、関ヶ原の戦い後に土佐国領主になった山内氏の報告では、24 万8千石だっ た。(三鬼清一郎「天下人秀吉の誤算」NHK取材班『歴史誕 生7』角川書店、pp.46 ~ 53、要約)

秀吉による近世の幕開け
秀吉による近世社会の幕開け
このような報告から近年の研究者は、秀吉の太閤検地や刀狩りで兵農分離が劇的に進行したとは考えていないようです。それは江戸時代を通じて長い年月を経て形成されたと考えるようになっています。次回は、この絵図に書かれている刀狩りを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県立文書館の展示史料
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長谷川喜平次

中讃ケーブルテレビ 歴史の見方で、満濃池と長谷川喜平次についてお話ししました。その内容をアップしておきます。また7月中に毎日放送中です。時間と興味のある方は御覧下さい。
Q1 江戸時代の満濃池の底樋やユルは、どんなものだったのか?   
                              
満濃池の底樋模型

 当時はコンクリートはありませんので池の底樋とユルは木で作られていました。時代を経るに従って技術力が高まり耐用年数は長くなりますが、木製ですので永久的なものではありません。20年から30年で交換しなければ腐食して、水漏れを起こして堤防の決壊を招く危険性がありました。

木製底樋
木製の底樋 当時の最先端技術で専門の大工によって作られたもの
Q2 どうして長谷川喜平次は、木製から石組みの底樋に変えようとしたのでしょうか
木製底樋では、決壊を防ぐためには定期的に交換する必要がありました。交換のためには堤防を掘り下げなければなりません。そのために多くの農民が讃岐中から動員され、約一週間ほど寝泊まりして従事しました。この負担は大きく、農民達は次のようなザレ歌を残しています。
 
満濃池普請
 
ここからは農民が満濃池普請を嫌がっていたことが伝わってきます。   
 そのような中で19世紀になると「技術革命」が起きます。そして平賀源内や伊能忠敬のような新しい科学知識や土木技術新を身につけた人達が登場します。そのような中には、底樋を石組みで作る技術者も現れます。そうすれば、交換する必要がありません。メンテナンスフリーになります。これを見た長谷川喜平次も「石組みの底樋」を満濃池に採用します。その根底には、農民の負担軽減という思いがあったのだと思います。
Q3  この時の様子を描いた満濃池普請図からは、どんな情報が読みとれますか?

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
長谷川喜平次による石組底樋への転換工事
① 左側の丘が護摩壇岩です。空海がここで護摩を焚いて安全祈願したといわれます。
右側の丘に池の宮が鎮座しています。
③ このふたつを結んで当時の堰堤は造られていました。
一番下の矢倉樋が備え付けられています
堰堤が掘り下げられて、底樋が据え付けられようとしています。
⑤ 石材が牛に曳かれて運び込まれ、それを大勢で引っ張っています。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー

 面白いのは見物人まで描かれていることです。

満濃池普請見学

川のこちら側には、金毘羅に長逗留している金持ちたちが芸者をつれて、工事見物にやってきています。大工事は、見物人が数多く集まる所でもありました。同時に、新工法に対する当時の人びとの期待感もあったのかもしれません。

Q4 満濃池が決壊した原因は?
 ひとつは、技術的には未熟で、堤防にかかる水圧に耐えきれなかったことです。
 近年に見つかった榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書には次のように書かれています。

長谷川喜平次 農民の訴え

ここからは改修工事は「欠陥工事」で、近々に壊れるだろうという認識が農民達の間にはあったことが分かります。
 これに追い打ちを掛けたのが大地震です。改修が終わった翌年1854年6月14日に畿内を中心に大きな地震が起きます。この揺れで石材が折れたようです。それから約20日後に、底樋あたりから濁り水が噴出し始めます。そして4日後には亀裂が拡がって堤防は決壊します。こうしてみると決壊原因は、新採用の石組底樋工法の未熟さと大地震が重なったためと云えそうです。

Q5 石組底樋を導入した長谷川喜平次の評価は、どうでしょうか
彼には2つの評価があります。まず当時の農民達は、未熟な技術を導入し、決壊を招いた張本人というキビシイ評価をしています。
 これに対して、後世になると再評価の動きが出てきます。それは、明治維新前後に満濃池再築を行った長谷川佐太郎が喜平次の失敗に学んで、岩盤に穴を開けて底樋とする手法としたからです。これは喜平次の先例がないと実現しなかったかもしれません。こうして最先端技術の導入者として彼を評価する見方が出てくるようになります。今では、郷土史の書籍は、後者の面からプラス面で彼を評価するものが多いようです。

Q6 長谷川喜平次が導入した石組みとは、どんなものだったのでしょうか

満濃池底樋石組化

  金倉川の改修工事中に、川の中から決壊でながされた石組みの一部が出てきました。その底に当たる部分を並べたのがこれです。このような形で石組で底樋としたと推測されています。底の部分がまっぷたつに折れています。想定外の力が石組みにかかったことがうかがえます。

満濃池底樋石造化工事2


番組は、こちらのユーチューブからも御覧いただけます。
https://youtu.be/t-oyJJ76eok

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郷土史講座 満濃池と西嶋八兵衛

上記講座で使用した資料を中心にアップしておきます。時間と興味のある方は御覧下さい。

満濃池 3人の再築した人物

満濃池は8世紀初頭に築造されたとされますが、何度も決壊しています。空海の修復後も源平合戦頃には決壊したまま放置されます。そのため池跡が開発されて、池之内村ができていたと伝えられます。それが再築されるのは天下泰平になった江戸時代初期です。それを指揮したのが西嶋八兵衛ということになります。今回は、この西嶋八兵衛について見ていくことにします。

西嶋八兵衛 どうしてやってきたのか

これらについては、西嶋八兵衛が藤堂高虎の子飼いの腹心であったためであったと答えられます。まず主君の藤堂高虎を見ておきましょう。

西嶋八兵衛と藤堂高虎


藤堂高虎は、今年の大河ドラマの主役である秀吉の弟秀長に見いだされます。その後、主君を秀吉→家康と乗り換えて、戦乱を生き延びていきます。「戦乱の風見鶏」と評される由縁です。さらに晩年に駿府に隠居した家康の傍らに仕えて、絶大な信頼を得ます。外様大名でありながら譜代大名あつかいとなり、時の老中と親族関係を結ぶなど大きな政治力をもつ存在になっていきます。西嶋八兵衛は、その藤堂高虎に、若い頃に仕官します。英才教育を受けて栄達していきます。それを年表で押さえておきます。

西嶋八兵衛 藤堂高虎の英才教育を受けた

西嶋八兵衛の父は、もともとは藤堂高虎に仕えていましたが病気で浜松に隠居していました。八兵衛が17歳になると、駿府にいる高虎を訪ねています。見所があったのでしょう150石で小姓に取り立てられています。以後、高虎の身近にあって、英才教育を施されていきます。そして高虎の信頼を得た若者に成長していきます。
  
どうして西嶋八兵衛は、讃岐にやってきたのか?

西嶋八兵衛 生駒家と藤堂家は親族

生駒家3代目の正俊が突然若死にします。残された4代目の高俊は11歳の幼年です。この時期の幕府は、難癖を付けては外様大名を取り潰したり、無理難題を押しつけていた時代です。生駒藩も幕府の標的になる可能性がありました。生駒藩の危機です。これを救おうとしたのが伊勢津藩藩主の藤堂高虎です。
 高虎は生駒親正
に深い御儀がありました。高虎には、主君の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、無能な主君に仕えること嫌って高野山に出家して隠遁生活を送っていた時期がありました。その時に秀吉への再就職を勧誘・説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名にリクルートできました。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。その後は、上図のように高虎の娘が生駒家に嫁いできていて子どもを産みます。それが生駒家4代目の高俊になります。つまり高俊は高虎の孫でもあったのす。高虎と父正俊から一字ずつもらって高俊です。高虎は、このように親密な関係にあった生駒藩の危機に対して一肌脱ごうとしたようです。そこで全権委任大使として生駒藩に派遣されたのが若き西嶋八兵衛ということになります。
 家老待遇として生駒藩にレンタルされた西嶋八兵衛を待ち受けていたのは大旱魃でした。

西嶋八兵衛来讃時の讃岐は大旱魃


 八兵衛がやってきた
のは寛永二年(1625)ですが、翌年から災害が続きます。旱魃・台風と2年続きの凶作で餓死者がでます。農民達は土地を捨てて他国に逃散するものも現れます。生駒藩存続の危機が訪れたのです。これに対して右往左往する生駒藩の指導者達に対して、藤堂高虎はレンタルしている西嶋八兵衛にやらせろと命じます。こうして西嶋八兵衛を中心としての災害対策、つまりそれは丸亀平野や髙松平野などのの総合開発プロジェクトでした。

 ここで注意しておきたいのは、満濃池だけを西嶋八兵衛は作ったのではないと云うことです。ため池 + 土器川・金倉川の治水工事 + 灌漑用水路の整備という3つの要素を同時に行っているのです。しかもこれを讃岐全土で同時進行で行っています。これは西嶋八兵衛が単なる技術者ではなく、当時の政策担当者の中枢部にいたからできたことです。それを裏付ける史料を見ておきましょう。

大川神社へ寄進された鉦 西嶋八兵衛・尾池玄蕃


これは1628年(満濃池着工時)に、琴南の大川神社(権現)に寄進された鉦です。ここには上記のような文字が刻まれています。ここからは次のようなことが分かります。


①大川神社は権現で、修験者たちの管理運営下にあったこと。


②雨乞い祈願用に、生駒藩奉行(家老)が寄進していること


③それをとりまとめたのが尾池玄蕃であること。


②の三人の奉行の中に西嶋八兵衛の名前があります。彼が生駒藩中枢にあり、政務を担当していたことが裏付けられます。また丸亀平野の担当が尾池玄蕃であったこと、当時の生駒藩が大旱魃に対して、権現の力を借りて雨を降らせようとしていたことも分かります。
それでは、西嶋八兵衛が讃岐にやってきたときに満濃池はどうなっていたのでしょうか?

満濃池営築図2 矢原家
満濃池営築

西嶋八兵衛がやって来た時の満濃池跡です。地元の矢原家に残っていた絵図です。

①の左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川で、川の中には大小の石がゴロゴロと転がっている

②右側が「うてめ」(余水吐)跡で、機能を失って川のように描かれている。

③金倉川を挟んで2つの岡があり、左(東)側が「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる。この岩は今では満濃池に浮かぶ島となっている。

④右(西)側の丘に池の宮(現神野神社)が鎮座している。

古代に空海が再築した満濃池も③と④の二つの丘を堰堤で結んでいたとされています。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿が描かれています。つまり、ここに描かれているのは17世紀初頭の「古代満濃池の堤跡」なのです。


絵図の上方に描かれた堤跡の内側を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 池之内村

④の池の宮の南側(上側)には、民家と農地を区切るあぜ道が描かれています。讃岐国名勝図会(1853年)には、次のように記します。

(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石(25丁㌶)ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。


ここからは源平合戦の頃に決壊した満濃池は、中世には農地化されて、内部に村ができていたことが分かります。これを「池内村」と呼んでいたようです。位置的には現在の神野寺の下あたりになります。ここには豊富な湧水があったようなので、それを水源とする村ができたのでしょう。

 
さらに絵図上部には、文字がぎっしりと書かれています。何が書かれているのか見ておきましょう。

西嶋八兵衛と矢原家

ここには工事が始まる2年前の寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へやってきたことが記されています。矢原家というのは、当時の池の内村の有力土豪だったようです。そして、西嶋八兵衛は当主と那珂郡の毎年の旱害について懇談します。その話を聞いて、矢原正直は池の内に所持している田地(500石=25町)を残らず差し出すことを申し出たと記されています。これに藩主は喜んで、後に褒美を取らせると約束します。ちなみにこれは後の池守となる矢原家にとっては、その正当性をしめす証拠資料ですから、記録として残され大切に保管されてきたようです。つまり、旧満濃池跡地の池之内村の領主が矢原家であったことになります。

 矢原家には、次のような文書も残されています


西嶋八兵衛と矢原家文書
御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、
常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。
よってくだんのごとし。 

寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)  
                  浅田右京 直信(花押)
矢原又右衛門(正直) 
ここからは池跡の25㌶(500石)を、藩に差し出したことへの恩賞として、藩主から代替地を満濃池周辺で与えられたこと、満濃池の池の守(管理人)に任命されたことが記されています。

こうして矢原家の土地寄進を受けて、工事が始まります。先ほどの絵図をトレスしたものを見ると、工期が日程が上段にはびっしりと書き込まれています。

満濃池着工と完成

冒頭の着工日と末尾の完成日時は上記の通りです。こうして西嶋八兵衛によって満濃池は再び姿を見せます。その満濃池を見ておきましょう。
西嶋八兵衛の満濃池
堰堤は、護摩壇岩と池の宮を結ぶようにして築かれています。そして現在の堰堤よりも前方にありました。この堰堤は戦後の嵩上げ工事によって、護摩壇岩だけを残して、今は池の中に沈んでしまいました。西嶋八兵衛が再築した満濃池の約200年後の姿を見ておきましょう。

満濃池遊鶴 
満濃池遊鶴(まんのう町蔵)
護摩壇岩と池の宮を結んで堰堤が築かれています。その向こうに拡がる池面を鶴の群れが飛んでいます。こうして満濃池は名勝地としても知られていくようになります。この絵図の5年後の讃岐国名勝図会に載せられた満濃池も見ておきましょう。

満濃池 讃岐国名勝図会2
ドローンで堤防北側上空から俯瞰した姿が満濃池を描く定番になっていきます。

江戸時代の満濃池は西嶋八兵衛が再築したスタイルが変化することなく踏襲され、維持管理されたことを押さえておきます。それだけ優れた設計だったことになります。これが崩壊するのは、新しい技術を取り入れ底樋を石造化したときに、技術が未熟で決壊します。同じ讃岐国名勝図会に載せられた矢原氏の屋敷です。

矢原邸 讃岐国名勝図会

矢原邸には空海が持ち帰ったかりんの大木があったとされますが、この絵図にはそれは見えません。描かれているのは大きな松の木が2本です。矢原家は移転地として満濃池の下の「池下」や「池尻」などに土地を支給され、江戸時代を通じて存続していきます。今でも満濃池周辺の土地は矢原家が所有しているようです。現在の矢原家周辺を見ておきましょう。


満濃池からの矢原家

満濃池堰堤から見た矢原家跡(こんもりとした森)

西嶋八兵衛は満濃池を再築しただけではない。丸亀平野総合開発プロジェクトを推進した。
地元でも西嶋八兵衛のことを知っている人は、そんなに多くありません。多くの人が空海が作った満濃池が存続していたと思っている人の方が多いように思えます。知っている人も「満濃池再築者」という点に限られています。しかし、彼が築造したのは満濃池だけではありません。同時進行で、次のようなため池の築造を行っています。
西嶋八兵衛 讃岐における業績一覧

これらのため池が西嶋八兵衛が作ったため池とされています。しかし、先ほど見たように彼は生駒藩の三人の奉行のひとりで、藩政の中枢にいた人物です。ただの技術者とはちがいます。各地の築造現場に頻繁に出向くことは難しかったのではないかと思います。また重臣が工事現場に常駐して指揮すると云うことは、当時の建設システムからは考えられません。黒鍬組のような土木技術者集団を引き連れていて、指示を受けた技術者たちが請け負っていたことが考えられます。その際の各地の庄屋たちの協力を取り付けるためのお膳立てはしたかもしれません。しかし、満濃池に西嶋八兵衛がかかりっきりで陣頭指揮をしたとは私には考えられません。問題提起としておきます。

もうひとつの問題提起は、満濃池を作っただけでは丸亀平野に水はやってこないということです。

西嶋八兵衛 丸亀平野総合開発事業の一環としての満濃池

池の水を下流に提供するためには、上記のように治水工事(既存の川の流路変更)と、灌漑用水路の整備がセットで求められます。つまり、丸亀平野の総合開発計画の実行ということになります。これはひとつやふたつの村の協力ではできません。多くの村々の庄屋たちの協力なしではできることではありません。西嶋八兵衛は、藤堂高虎が派遣した目付で、国奉行として藩政の中心にいたことからこそ立案・実行できたのです。満濃池の築造と同時期に行われた治水・灌漑を見ておきましょう。

満濃池水掛かり図.JPG 1870年
この絵図は、明治になって長谷川佐太郎によって再築された満濃池水掛の各村々とそこに至る用水路が水色で書き込まれています。上図を拡大して90度回転させて見てみます。

近世:治水整備後に整えられた灌漑網

これを見ると、用水路が東は土器川の左岸まで、西は金倉川を越えて、善通寺から多度津白方方面にまで伸びていることが分かります。灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。ここからは次のような事が読み取れます。
①満濃池の受益面積は桃色の髙松藩が最も多いこと。最大の受益者は髙松藩。
②土器川から分水導入している用水路は左岸にはないこと 土器川左岸は満濃池に依存していたこと
③金倉川も善通寺・多度津方面以外は、分水を行っていないこと。つまり、土器川と金倉川には灌漑機能はなく、放水路の機能を持たされていたこと。だから白色で描かれている。
④黄色の天領(五条・榎井・苗田)は、丸亀藩の給水分岐点であり、戦略的な意味を持っていたこと。
⑤善通寺・多度津白方方面は苗田村で一度金倉川に水を落とし、その下流で再度導水していたこと
⑥この水掛図で、最も灌漑用水が不足するのが多度津の白方方面であったこと。
このように丸亀平野一円に用水路を張り巡らせるために、どのような治水工事が行われたのでしょうか金倉川から満濃池用水路の導入口の③附近を拡大して見ます。③でそれまでの流路が変更され、新しく金倉川が人工的に作られたと丸亀市史は次のように記します。

西嶋八兵衛 四条川治水と用水路建設
つまり、満濃池再築以前には、③→④→⑤という流路で「四条川」が流れていたのを、③で放水路として金倉川を開削し、丸亀平野の西端に移動させ、中央部を洪水の被害を受けないようします。その上に新たな用水路網を開いたというのです。言い換えれば、満濃池用水は旧四条川の流路変更の上に作られたことになります。この工事が満濃池築造と同時期に、庄屋たちの分担作業で行われていたことが考えられます。その段取りをつけたのが西嶋八兵衛とその配下の土木技術者集団だと私は考えています。

③の金倉川からの分水点である水戸大横井を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 水戸大横井

③の水戸大横井堰(まんのう町吉野下)は、パン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に何代目かの堰が今もあります。ここでせき止められた水がコントロールされて用水路に流れていきます。附近には旧四条川の痕跡が残っています。また、金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという手法です。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊勢藩に帰国して開いたのが雲出井用水です。規模も建設方法、完成後の管理方法が満濃池用水によく似ていることは前回お話ししました。讃岐での経験が伊勢藩で活かされているように思えます。

西嶋八兵衛の雲出井用水

伊勢の雲出井用水 満濃池用水と類似点が多い

西嶋八兵衛は満濃池を完成させた後も、重臣の座にいながら各地で総合開発プロジェクトを進めます。

西嶋八兵衛の讃岐滞在2

そして満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒騒動が勃発した年です。生駒藩の家臣団の亀裂は深まるばかりで、押さえが効かなくなっていきます。沈み行く船を見捨てての、伊勢藤堂藩への帰国という形になります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
 ところが帰国した西嶋八兵衛に幕府から呼び出しがかかります。どんな用向きだったのでしょうか

西嶋八兵衛 生駒藩転封後の来讃

生駒騒動で生駒藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西分割することにします。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。彼は満濃池再築の責任者として、他国人ではありますが庄屋たちからはリスペクトされていたようです。庄屋たちから水利や里山利用の問題点を聞き取り、それを文書化して後に問題が起きないようにまとめて幕府要人に提出しています。そこには例えば満濃池管理について、次のように記されています。

西嶋八兵衛 満濃池水掛村鷹

西嶋八兵衛 満濃池水掛村高末尾鷹

これをまとめたのが西嶋八兵衛です。これを見えも西嶋八兵衛が満濃池の諸問題について、よく理解していたこと、同時に丸亀平野一円の庄屋たちの信頼を得ていたこともうかがえます。西嶋八兵衛の働きぶりに対して幕府要人は、小太刀一振りを与えてねぎらっています。有能な働きぶりだったことが裏付けられます。
伊勢帰国後の働きについては、前回にお話ししたので省略します。最後に西嶋八兵衛の業績と評価を振り返っておきましょう。

西嶋八兵衛 業績と評価

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。軍用技術の民政への転用というこになります。こうして家臣団の中に『民政臣僚』と呼ばれる集団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。彼の場合は、その場がレンタル客臣として赴いた讃岐で、そこで讃岐平野全体の総合開発事業に家老として関わるようになったのです。そのシンボル的な事業が満濃池再築だったとしておきます。
 それでは西嶋八兵衛の讃岐での満濃池周辺での評価はどうでしょうか。
最初に見たように3人の満濃池再築者の中で、空海には遠く及ばず、長谷川佐太郎よりも知名度は低いといったところでしょうか。それでは西嶋八兵衛があまり知られていないのはどうしてなのでしょうか? 例えば満濃池に空海の銅像や長谷川佐太郎の顕彰碑はあります。これらは20世紀になって姿を見せるようになりました。

満濃池 空海の銅像
満濃池の空海像と長谷川佐太郎顕彰碑
ところが西嶋八兵衛のものは見当たりません。どうしてなのでしょうか?
それには次のような背景が考えられます。

西嶋八兵衛 銅像がないのはどうしてか

第1に西嶋八兵衛が讃岐の人ではなく他国人であったことです。そのために、後世に応援団(顕彰団代やファンクラブ)が育ったなかったことがあります。また、生駒藩がなくなったことです。そのため西嶋八兵衛の業績についての資料の多くが失われました。また、その後にやってきた松平髙松藩では、初代松平頼重がカリスマ化されていきます。その結果、先代の生駒藩の偉人伝は語られることがありませんでした。西嶋八兵衛は江戸時代には讃岐では忘れ去られた存在のようになていました。それが再評価されるのは、近代になってからです。こうして満濃池周辺では銅像も顕彰碑も建てられなかったようです。ただ髙松では、木太北部公園のように地域興し事業の一環として顕彰碑が姿を見せるようになりました。
西嶋八兵衛功徳費 

西嶋八兵衛が満濃池に着工し、完成させた年をもう一度見ておきましょう。

西嶋八兵衛 満濃池再築400周年
2年後が着工400周年 5年後が完成400周年にあたるようです。これを機会に、西嶋八兵衛の再評価が進み、銅像建立につながればと願っている私です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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