古来ヨリ盆踊ト申事当国ニ於テハ右様賤敷 風俗無之筈之処近来越後辺ヨリ下賤ノ者入込候故歟悪風ヲ佩ヒ盆踊ト唱ヒ夜遊等イタシ候向相聞既ニ昨年中モ厳重取締為致回勤之者見当次第召捕候筈ニ侯処当年之儀モ等一制禁ヲ犯シ相催候儀於有之ハ甚以不埓之事ニ侯以後心得違於有之ハ左之通申付侯事一、踊之当人ハ其身分ニ応シ相当之過怠金可申付事一附下女下男ハ其主人ヘ過怠金可申付候事一、右之催致シタルニ於テハ其居町居村ノ役人共ハ勿論一統ヘ相当ノ過怠金可申付候一又社寺之境内ニテ催シ候而モ過怠ノ儀同断 猶其上社寺迄可及事
古来より当国には、盆踊りというような風俗はものはなかった。ところが近年になって越後から下賤の者が入り込んできて、彼らがこのような悪風を拡げ、盆踊りと称して、夜遊などを行うようになったと聞く。すでに昨年中に、巡回して(盆踊りを)見つけたらすぐに逮捕するように命じてある。当年についても、この禁止令を犯し盆踊りを開催することは、大変不埓なことである。以後、心得違の者に対しては、以下のような罰金を申しつける
一、踊った者は身分に応じて相当の罰金を支払うこと。
一、使用人が踊った場合、その主人が罰金を支払うこと
一、盆踊りを主催した村や町の役人はもちろん、その一族も罰金を申しつける。
一、社寺の境内で開催した場合、その社寺も同罪で罰金を支払うこと。
場所は、山形町愛宕山地蔵院の境内や黒石陣屋(藩政時代)の周辺で行われていた明治初年も盆踊り風景。
②踊りの輪の下には、別の踊り集団がいくつもあって、同時並行で踊られていること
⑥輪の外にも、いろいろな人がいて面白おかしく踊っている。
⑦上半身裸で三味線を持って演奏している女性もいる。
⑥仮装した踊り手達が町中を上(カミ)から下(シモ)へ、下から上へと踊りながら行進し、これらの場所で夜更けまで踊り明かしたこと
愛媛県の禁止令(明治6年8月29日)を見ておきましょう。
略)盆踊ハ大概夜中ノ嬉戯ニシテ①男女混同頗ル猥褻ニ渉リ竟ニ言フベカラザルノ嫌ヒナキヲ免カレズ殊ニ妙齢ノ者共心気ヲ浮藻ノ地ニ動カシ本業ノ妨害タル(略)
意訳変換しておくと
略)盆踊はだいたい夜中に踊られもので、そこに①男女が混同して集まり、非常に猥雑になり、言葉に云い表せられないような忌むべき光景が見られる。特に妙齢の若者男女の心気を浮藻にさせて、本業を疎かにさせる(略)
ここには男女混同が風俗を乱すものになっていることを指摘して、今後一切の禁止を命じています。しかし、布告だけで大衆がやめるはずもありません。4年後の明治10年には「自粛」に後退しています。そして、14年には路上での男女混同手踊り(盆踊り)を禁止しています。つまり全面禁止から場所を限定してへの禁止に後退しています。このことは、禁止にもかかわらず盆踊りがなくなったわけではないことを示しています。ここでは、盆踊り禁止理由のひとつ、男女の風紀の乱れにつながってるとしていることを押さえておきます。
盆踊りのある処は村の真中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まってくる。樽拍子の音が揃うと、白い手袋を被った男と女が手をつないで輪をつくって、調子よく踊り始める。(中略)村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことが、それとなく清三の胸を通った。男は皆一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻なことを平気で話している。世の羈絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちが四辺に充ち渡った。垣の中からは燈光がさして笑い声がした。
一方、岐阜県や小倉県(福岡県)の禁止令では、「老幼男女群集」、「多人数相集」るものとし、男女だけではなく、多くの年齢層が集まる場と捉えています。権力者は、人が大勢集まる場所を嫌います。それは、一揆などの政治活動の場に転化・利用されてきたからです。研究者の中には次のように指摘する人もいます。
「盆踊りの輪がつくりだす非日常的な社会編成は、集会条例が禁止の対象とした政治演説のアジテーションと同様(あるいはそれ以上に)、治安当局にとって警戒すべき事態だった」

A 1871(明治 4)年 和歌山藩の禁止令では、男女が化粧をして舞い踊ることB 1872(明治 5)年 宇都宮県の禁止令では、盆踊りを「裸体や異形の体にて舞い跳びするもの」と捉え、「奇異の姿で行われる」ことC 1874(明治 7)年 神奈川県の禁止令では、「女児聯伍シ衣服等頗ル美麗ヲ競ウ」とあり、女児が衣服などで美麗を競い合う見世物的要素があったこと
盆踊りに異性装するのは、当時の庶民感覚では「当たり前」のことでした。ところが文明開化を推進する明治政府の役人達の中には、異性装は恥ずべき風習と考える人達がいたようです。両者に大きな隔たりがあったと研究者は指摘します。政府の役人達は、大衆を無知で遅れた存在ととらえ、彼らを文明開化に導いていくという指命感があったようです。別の言葉で言い換えると、政府役人が庶民を「矯正」しようとしているのです。これは政府の庶民の娯楽的風俗への介入です。それが「親心」であれ、実態は庶民の宗教的感性の抑圧になります。①仏教的宗教性に加えられた演出として、盆踊りの仮装性を捕らる視点②祝祭空間での異性装が「神性」に近づこうとするものであったという視点
秋田県では「深夜外歩」、若松県では夜中に道路で踊り騒ぐこと、栃木県では夜中の路頭を徘徊することが問題視さています。念仏踊りの頃には、盆踊りは神社の境内などで円形隊列で踊られていました。ところが江戸時代中頃になると伊勢踊りの「道行き」の要素が加わってきたようです。道行きとは、一箇所に留まらず往還をゆっくりと踊りながら進んでいくスタイルです。これを「踊(練)り歩く」と表現しました。これは江戸時代以降に加わったものです。これが禁止理由のひとつになっています。
磐城之風俗旧来念仏躍ト相唱ヘ湛秋之際仏名ヲ称ヘ太鼓ヲ打男女打群レ夜ヲ侵シテ遊行シ中ニハ如何ノ醜態有之哉之由文明ノ今日有間敷弊習ニ付管内一般本年ヨリ右念仏躍禁止申付侯条少年児女ニ至迄兼テ相達可申事
磐城の風俗である念仏躍は、晩秋に仏名を称えて太鼓を打ち鳴らし、男女が群集し夜を徹して、遊行する。中にははなはだ醜態をさらす者もいる。これは文明開化の今日では許されない悪習である。ついては県内では本年より、念仏躍を禁止する。少年・少女に至るまで通達するように
ここで禁止理由は、男女が群れ夜中に遊行することが問題視されています。明治時代の念仏踊りは、盆踊りとして踊られていました。娯楽的な面が高まるにつれて、男女が一夜を共にすることが普通のこととされるようになります。そのため、磐城県ではこうした行為が醜態であるとし、念仏踊りを「文明の今日あるまじき弊習」と指弾します。
盆踊りは、江戸時代にも禁止令がだされています。
1677(延宝 5)年 「8 月になって踊り続けるのはいけない」1709(宝永 6)年6 月 夜中に町々に踊る者がいるので、交通の妨害になるから差し止める」
また、禁止することは、大衆の反感を招き、騒動になるおそれがあることを役人達は知っていました。そこで踊りの日数を短縮させて許可するなどの懐柔策も併用しています。天皇制を浸透させる祝日である天長節が盆踊りを許可する日として指定いるのも象徴的です。

もうひとつ盆踊りが弾圧対象とされた背景には、神道の神仏分離・廃仏毀釈の攻撃目標になったのではないかと私は考えています。
明治初年に明治政府の意志決定場面に近い所にいた神道学者たちは、仏教だけでなく、修験者や民間信仰までも排斥対象としていました。そのような目で見ると、庶民のなかで大きな娯楽であり、影響力をもつ盆踊りは潰しておきたい存在だったのではないでしょうか。それは、文明開化を推進するの近代化官僚と目的は違えども利害は一致します。民衆の中にある猥雑な大衆娯楽を取り除くというスローガンで、穢れの多い盆踊りを排斥したのではないかと私は考えています。
以上をまとめておきます。
①一遍上人の踊り念仏は、江戸時代になり風流化され、村々で盆踊りとして踊られるようになった。
②その中で、仮面や女装男装姿で踊ることが定着し大衆化し、猥雑化し、人びとの最大の娯楽となっていた。
③明治になると、文明開化=近代化を掲げる明治政府は、猥雑さを伴う盆踊りを禁止した。
④しかし、庶民は禁止令を無視し、盆踊りを続けようとする。
⑤そこで、取り締まる側と、庶民との間で攻防戦が展開されるようになる。
⑥その中で、讃岐では「この踊りは、ただの盆踊りではありません。雨乞踊りなのです。旱魃の時に踊られ続けて来た神聖な踊りです」という由緒が強調されるようになる。
⑦その結果、盆踊りであった滝宮念仏踊りなども、雨乞踊りというキャッチフレーズが付けられて紹介されるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東佳那子・來田享子 明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」
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