瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2026年09月

中世宇多津の復元図

最初に西光寺が姿を現す16世紀の宇多津の復元地形を見ておきましょう。
今の宇多津の旧市街は、江戸時代の塩田と昭和の埋め立てで、
海は遙か北に退き陸封化されてしまいました。しかし、中世までは、青野山と聖通寺山に挟まれた大きな湾に、大束川が流れ込む自然の良港でした。上の地図の実線が海岸線になります。そして、西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の前の船着場にこぎ寄せることが出来ました。石山本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきて、ここに道場を形成していきます。
 
宇多津の繁栄ぶりを、復元イラストで見ておきましょう。

中世宇多津の復元図 イラスト版
中世宇多津の復元イラスト
中世後半の宇多津は、管領細川氏の守護所で政治都市(県庁所在地)で、讃岐最大の交易港でもあり、最も繁栄していた都市でした。その政治力と経済力が、この復元図に描き込まれています。青野山から伸びて、海に突き出した半島の付け根に宇夫階神社が鎮座します。この神社の下を髙松街道が東西に抜けて行きます。そして、山手には建立順に本妙寺、四国霊場の郷照寺などの寺が並びます。海岸線にはいくつもの船着き場があります。中世の港の施設は貧弱で、船員グループ毎に船着場も分散していました。いくつもの船着き場を併せて港を形成します。真宗の寺院が生まれるのはここです。この附近は鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。鋳物師など手工業に従事する人々が、住んでいたことがうかがえます。今もこの附近の家は西光寺の檀家が多いようです。

 宇多津は讃岐NO1の港町で、海運業に関わる人たちや職人・商人がたくさん住んでいました。彼らを本願寺からやってきた僧侶は信徒に組織していきます。ここでは、今まで見てきた内陸部の道場とは信者層が違っていたことを押さえておきます。

幕末の宇多津2 西光寺 讃岐国名勝図会

幕末の宇多津(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた宇多津です。海岸線は大束川の堆積物と埋め立てで沖に伸びています。髙松藩の米の集積地として藩の米蔵があります。江戸時代になっても海運拠点だったことが分かります。高松街道が大束川とぶつかる所に西光寺が立地しています。写真で見ておきましょう。

宇多津西光寺縁起3
西光寺の大門 前は大束川の川港

大門の前は今は大束川ですが、かつては海でした。そこにはいくつもの船着場があり、周辺には運輸関係(船頭・水夫・船持ちの問屋・金融業者などが集まり住んでいたことが発掘調査から分かっています。
 縁起を見ておきましょう。
開基は1550年、開基者は本願寺の僧侶です。16世紀になると本願寺は、石山に拠点を移し、瀬戸内海へ教線拡大を本格化させます。その流れが安芸や宇多津にもおよんできたようです。
 その中で西光寺は、どのようにして姿を現すのでしょうか? 西光寺文書で一番古いものを見ておきましょう。

篠原長房の禁制(保護状:西光寺文書
篠原長房が西光寺に与えた禁制(1567年)

三好実休が亡くなった後に、讃岐方面の支配権を握ったのが篠原長房です。篠原長房は1567年に、この保護状を西光寺に与えています。しかし、ここには西光寺という名前は出てきません。「鍋屋下の道場」です。鍋屋というのは地名です。さきほど、この周辺は鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が多かったと述べました。その職人や船乗りの住むエリアの港に面した場所に道場が開かれたようです。注意しておきたいのは、道場で正式な寺院ではなかったことです。しかし、保護状をもらえるのですから、それなりの勢力をもっていたのでしょう。 そして3年後の「元亀貳(1570)年正月」には、「西光寺道場」という寺院名を持つまでに成長しています。
 この年に勃発するのが、石山本願寺と信長の間で戦われる石山戦争です。

要塞都市 石山本願寺
要塞化された石山本願寺

当時の本願寺です。大阪の淀川沿いの石山にあったので、石山本願寺と呼ばれていました。現在の大阪城の黄色い部分が当時の本願寺エリアになります。ここに大阪御坊を開いたのは第8代門主・蓮如(れんにょ)で、 1496年(明応5年)のことでした。蓮如の死後、山科本願寺が兵乱(1532年)によって焼失したために、大阪御坊へ本山を移し、「石山本願寺」と呼ばれるようになります。
 石山本願寺の周囲には「寺内町(じないちょう)」と呼ばれる数千軒規模の町があり、一大商業・宗教都市を形成するようになります。周囲に深い堀や強固な土塁を巡らせ、「難攻不落の要塞」へと変貌を遂げていきました。その周囲には多くの門徒達が集まります。これが寺内町です。そのような中で顕如は、1570年に信長との戦いを決意します。これが10年間の石山合戦始まりです。戦いを続けるためには、資金や食糧がや物資が必要になります。そのために全国に支援物資の調達が求められます。石山本願寺の顕如が阿波の僧侶や門徒に宛てた文書を見ておきましょう。


石山本願寺の開戦宣言
顕如の支援依頼文

顕如が阿波の僧侶や門徒に宛てた文書です。信長との戦いに際して、本山への支援を求めたものです。もう少し激烈な開戦宣言が述べられているのかと思いましたが、簡単な内容で、具体的なことは担当僧侶に任せるので従うようにとあります。必要な事以外には何も書かれていません。

これを受けて、阿波の安楽寺も動き出し始めます。それは讃岐の末寺までおよびます。食糧や戦略物資の調達のために本山からオルグ部隊がやってきて、各道場や寺々を廻っていきます。この時に興正寺派のネットワークは、強化されたと私は考えています。丸亀平野の真宗末寺は、どのような支援活動を行ったのでしょうか?

 宇多津の西光寺に残っている本願寺からの礼状を見ておきましょう。

本願寺より西光寺への礼状

本願寺から西光寺への支援物資輸送への礼状

これは本願寺からの礼状になります。

①送り主は、本願寺の管理グループの法橋頼兼で、送り先は西光寺の専念。

②内容は「青銅七百貨、法米五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状

青銅七百貨は銭70万枚です。これを西光寺が単独で集めたとは考えられません。丸亀平野全体の信徒から支援物資が西光寺に集められ船で送り出されたと私は考えています。つまり郡家の末寺にも、支援割当は課せられたはずです。西光寺は、支援物資の集積と積み出し拠点の役割を果たしていたことになります。江戸時代の絵図には、年貢の集積のための髙松藩の藩の米蔵が描かれています。阿野郡や那珂郡の米は、宇多津から運び出されていました。その先駆けとも云えます。
 どちらにしても、石山戦争時代の非常時には、
西光寺だけでなく、安芸門徒(広島)も物資や兵力を送っています。丸亀平野の興正寺派の信徒も、その流れ中に放り込まれたはずです。資金調達のために本山からオルグ部隊もやってきたはずです。それが興正寺派ヘットワークの強化にもつながります。ここでは瀬戸内海の海運活動を通じて、石山本願寺は瀬戸内海の港町にも道場を形成したこと。それが石山戦争の時には、本山の支援拠点として機能したことを押さえておきます。
 丸亀平野への本願寺と興正寺の末寺の3つの教線ラインを次のようにまとめておきます。

真宗の丸亀平野への教線伸張ルート

A 南から阿讃山脈を越えての安楽寺ルート

B 三木から内陸部を西に進む常光寺ルート

C 大坂の石山本願寺を拠点とする海運ルート

この3つのルートがあったことを押さえておきます。

真宗興正寺派が讃岐で教勢拡大できた背景には、次のような追い風があったからだと私は考えています。

安楽寺の教線拡大の背景要因


①第1派は、最初に見たように阿波三好氏の讃岐支配と、そこでの布教活動を安楽寺に認めたことです。
②第2波は、石山戦争の長期化です。そのため本願寺は、資金や食料の調達に追われます。讃岐にも僧侶を派遣し信徒集団の組織化をはかります。この時には宇多津の西光寺が、讃岐の戦略物資の集約と搬出口になりました。また、この時に三好氏は、信長と敵対関係にあったので本願寺を支援して「信長包囲網」の一陣を担います。そのため本願寺が讃岐での戦略物資を調達することを認めています。これらの活動を通じて、丸亀平野の道場のネットワークは強化されていきます。石山戦争が浄土真宗の門徒拡大の第2にステップになります。
③第3波は、本願寺の東西分裂です。この結果、両寺は競って末寺獲得に乗り出します。その結果、讃岐でも多くの道場が寺号を得ることになります。この時期に寺号を得た真宗寺院が讃岐でも多いことは以前にお話ししました。
④第
4派が1635年の江戸幕府の宗門改めと檀家制度の開始です。どこかのお寺の門徒になることが強制される時に、髙松藩の殿様としてやってきたのが松平頼重でした。彼は真宗興正派に肩入れします。髙松藩の政策的な保護を通じて、興正寺派のお寺は増えていきます。
 
松平頼重が興正寺派を保護した背景としては、次のように言われます。

松平頼重の真宗興正派保護の背景2


 水戸黄門のお兄さんに当たる松平頼重が初代髙松城主としてやって来るのが1640年のことです。彼は、幼少期には嫡男として認められずに京都の寺院に預けられて、そこで成長します。僧侶としての知識と世界観と人脈をもっていた人物でした。そのため上のような興正寺と姻戚関係を持っていました。以後も、
髙松藩や家老などの家臣団と興正寺の間には幾重にも婚姻関係が結ばれて、緊密な関係を作り上げて行きます。戦国時代の三好氏に代わって、江戸時代になると髙松藩という後ろ盾を興正寺派は得たのです。

安楽寺が真宗興正寺派を讃岐で拡げられた背景

しかし、ここで注意しておきたいのは、安楽寺の存在価値は髙松藩では終えていました。阿波という国外にあるある安楽寺に讃岐の寺が貢納するというのは髙松藩にとっては面白くないことでした。それが18世紀後半以後の大量離末につながるのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記 丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれた本願寺派の寺院とされます。
 年紀をそのまま信じることはできませんが、秀吉の京都の大仏開眼式典には浄土真宗を代表する7つのお寺として呼ばれているので古くからあった拠点寺周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺など興正寺派の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。宇多津の西光寺の流れを汲むのかも知れませんが、史料がなくてよく分かりません。髙松藩のリストには次のように記されています。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。
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前回は美馬の安楽寺が三好氏の保護を受けて、真宗興正寺派の教線を讃岐に伸ばしたことを見ました。今回は、興正寺派のもうひとつの拠点となった三木の常光寺が十河氏の保護を受けて、丸亀平野方面まで教線を伸ばしていく様子を見ていくことにします。まず、垂水にある常光寺の末寺だったとされる寺院を押さえておきます。

垂水の常光寺末寺
丸亀市亀水町にある常光寺の旧末寺 3ヶ寺

それでは常光寺とは、どんなお寺なのでしょうか?

常光寺
真宗興正寺派常光寺(三木町氷上)
この寺は銀杏が有名なようです。本堂の前の碑文には次のようなことが刻まれています。


常光寺縁起1
常光寺縁起

①開基年 応安元(1368)年 
②開基者 駒浄
泉で泉州の鳶城主出身の生駒浄泉

③全盛期には末寺が75

④明治維新には、27の末寺

⑤本堂が17世紀半ばのもの。

幕末に高松藩から求められて提出した縁起には、次のように記します。

常光寺記録』〔常光寺文書
常光寺縁起(常光寺文書)

この縁起には、仏国寺(興正寺)が四国に派遣したふたりの僧侶が開いたのが常光寺と安楽寺で、両寺は兄弟寺院にあたること、そして両寺が讃岐の真宗布教の拠点であったと強調されています。しかし、これは前回見た安楽寺の縁起とは違っています。安楽寺と常光寺の縁起を比較しておきましょう。 

常光寺縁起の検証
常光寺と安楽寺の縁起比較

安楽寺由緒の中には、興正寺も常光寺もでてきません。出てくるのは上総の守護だった千葉氏です。千葉氏が北条氏との権力闘争に敗れて、真宗僧侶となり阿波にやってきて安楽寺を天台宗から転宗させたことでした。つまり、安楽寺はもともとは本願寺の末寺だったのです。興正派に転じたのは、讃岐亡命の際に、興正寺が安楽寺を助けてくれた16世紀初頭以後です。ここからは、常光寺の縁起が安楽寺との関係を強調して、後世に作成されたことがうかがえます。研究者の中には、常光寺自体が安楽寺の末寺と考えている人もいます。次に常光寺の位置を押さえておきます。


十河城・常光寺・髙松御坊
常光寺は十河城の勢力下にあった

ここが三木町の香川医大です。琴電長尾線を越えた南方の尾根上に十河氏の十河城があります。十河一存は三好長慶や実休の実の弟で、十河家に養子として入っていたことは前回お話しました。常光寺は、その十河城の勢力範囲下あります。
 十河一存の息子が
興正寺派の高松御坊に出した保護状(上の右)を見ておきましょう。
ここからは次のような事が読み取れます。

①もともと髙松御坊は野原郷の潟(港)(現在の高松城周辺)にあったが退転した。

②そこで寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することにした。

③ついては、十河氏が課税免除などの特権を与え保護する

「寺内」とあるので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアが併設されていたことがうかがえます。池戸の四覚寺原とは、現在の三木町井上の始覚寺周辺です。退転した高松の御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを保護しているのが十河氏です。ここからは常光寺や髙松御坊が十河氏の保護を受けて髙松平野で教線ラインを伸ばしていたことが見えて来ます。

三好氏の安楽寺保護

ここでは安楽寺が三好実休の保護を受けていたように、常光寺は十河氏の保護を受けていたことを押さえておきます。その
年代は1583年で秀吉の時代になります。これは丸亀平野で安楽寺が教線を伸ばしていた時期とも重なります。

次に常光寺縁起と一緒に髙松藩に提出したる末寺リストを見ていくことにします。

常光寺末寺リスト3
常光寺
末寺リスト

これを見ると次のような事が分かります。

①常光寺周辺の三木郡に多い。寒川や大内など東部は、水主神社の勢力が強くて入り込めない。

②赤◎をつけた垂水の西教寺と善福寺が末寺となっている。しかし、西の坊が見えない。

③那珂郡の円徳寺に注目。この寺は現在の満濃池の下手にあるお寺。

次のページに移ります。

常光寺末寺リスト2 円徳寺
                       円徳寺(まんのう町照井)の末寺

①髙松藩の最後に垂水の西坊があります。そこには円徳寺末寺とあります。「右の通り、御領分に御座候」とあるので、ここまでが高松領です。

②丸亀藩の末寺を見ると、佐文の法照寺 琴平苗田の西福寺も円徳寺の末寺だったようです。

円徳寺と3つの末寺をツリー化したのが上図左です。ここからは、この3つの末寺は円徳寺が創建や寺号の獲得の際に力を貸し、本寺となったことがうかがえます。 このように常光寺の教線ラインが三木から阿野郡を経て那珂郡・多度郡にのびてきたことがうかがえます。

丸亀平野の常光寺の末寺分布図を見ておきましょう。

常光寺末寺分布図(丸亀平野).2JPG

                     丸亀平野の常光寺の末寺分布図

常光寺の末寺を地図に落としてみました。黄色い星が末寺です。円徳寺が右隅のここです。円徳寺の末寺はは、佐文の法照寺 → 苗田の西福寺→ 垂水の西の坊と伸びていきます。注目したい点を挙げておきます。

①土器川以西の那珂郡・多度郡に分布。安楽寺は鵜足郡に集中。安楽寺と棲み分けている?

②丸亀平野南部に多く、海岸線部にはない

③三野・三豊平野は麻の光照寺ほか2つだけ

①に関しては、安楽寺と進出エリアを棲み分けていたことが考えられます。また、坂出の白峯寺、宇多津の郷照寺、多度津の道隆寺、金倉寺、三野の弥谷寺など真言系修験者の勢力が強かったエリアには教線は伸びていません。善通寺は、この時期に退転していたようで、末寺が生まれています。

 ここでは常光寺の教線ルートが内陸部を通って西に進んで円徳寺まで及んで、そこから更に丸亀平野の北部や麻方面に伸びていたことを押さえておきます。このように常光寺が教線ルートを順調に伸ばせたのは、背後に十河氏や三好氏の保護があったからだと私は考えています。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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安楽寺 赤門1

本日は、次のような三部構成でお話しを進めていきます。

西教寺 三部構成

讃岐には真宗興正寺派のお寺が多いと言われますが、それを数字で確認しておきます。

四国の各宗派寺院数と真宗の占める割合

一番上が讃岐です。真宗寺院が424 真言332、讃岐の寺院数910ケ寺の内、真宗占有率は約47%で約半分が真宗です。これは私としては思ったよりも少ない感じです。丸亀平野南部では8割が真宗寺院のような気がします。分布に濃淡がありそうです。例えば東讃には真宗寺院はあまりありません。真宗が多いのは髙松より西になります。真宗の中の約半分が興正寺派だそうです。興正寺に属する寺は、全国で800寺程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。
ついでに各県の状況も見ておきましょう。

A 阿波については、真言宗が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。

B 伊予では、真言宗も多いのですが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護があったためです。

C 土佐は、お寺の数自体が他県の半分しかありません。明治の廃仏毀釈運動を藩主が率先して行ったために多くの寺がなくなってしまいました。

四国全体では、真宗寺院は700寺で23%。それが讃岐では47%です。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いことが分かります。なかでも興正寺派が多いのです。本願寺と興正寺の関係を、最初に押さえておきます。

本願寺と興正寺
本願寺と興正寺
本願寺と興正寺の関係を簡単に見ておきます。京都駅の西側の堀川通りの一角に西本願寺があります。その南側に龍谷大学があります。そのとなりが興正寺です。面積は西本願寺の1/4程度でしょうか。●両者の関係は、なかなか複雑な関係にあるようです。それぞれ独立していたものが、15世紀後半に蓮如の吸引力で興正寺が本願寺と同一歩調をとるようになります。そして、16世紀になって本願寺が瀬戸内海への教勢拡大に乗り出すと、興正寺は阿波への布教活動を開始します。浄土真宗の阿波や讃岐への本格的な布教の始まりは16世紀になってからと研究者は考えています。それでは興正寺による阿波へ布教活動の拠点になったのが安楽寺です。

安楽寺 千葉乗隆

安楽寺住職で、龍谷大学学長も務めた千葉乗隆(じょうりゅう)氏
千葉乗隆氏は安楽寺の住職で、若い頃に自分の寺に残された文書を整理・研究します。その成果が認められて龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長も務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。彼の研究成果から興正寺派の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。それを参考にしてお話しを進めます。

安楽寺4

千葉氏が代々住職を務めている安楽寺です。吉野川の河岸段丘の上にあり、周辺には安楽寺の隠居寺が4つあり寺町と呼ばれています。中世には門徒集団が寺内町を形成して武装化していたようです。後ろに見える山が三頭山で、その向こうは美合・勝浦になります。この三頭越の道を通じて阿波から布教のための僧侶が入ってきます。手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内(じない)町」が姿を現したと研究者は考えています。


安楽寺の赤門3

昨年、まんのう町の文化財協会のフィルドワークで、この寺を訪れました。立派な赤門(山門)が迎えてくれました。「寺町案内人」のボランテアの人は、この赤門について次のように説明してくれました。

「この赤門は、讃岐の末寺からの手切金で作られました。この寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、手切金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの赤門です。」


境内に入ってみましょう。

安楽寺 ボランテイアガイドの案内

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。ガイドの方は、次のように話してくれました。
①江戸時代には、讃岐や阿波に100近い末寺があったこと。
②讃岐から若い僧侶たちがやって来て修行にはげんだ学問寺でもあったこと
③若い僧侶が讃岐への布教のために送り込まれたこと
④讃岐に出向いた人達の中には千葉氏を名乗る僧侶もいたこと。
⑤赤門は、讃岐の末寺が手切れ金で建立されたこと
安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺の由緒記には、次のような事が記されています。
安楽寺開基由緒

ここには次のようなことが書かれています。
①開基は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護であったのが北条氏との権力闘争に敗れた。
②そのため親鸞聖人の高弟の下で真宗に出家。
③その後、一族の阿波守護の小笠原氏を頼って阿波にやってきて安楽寺をまかされた。
④天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗した。
ここで注意しておきたいのは、千葉氏が興正寺派であったことは、ここまでの所はどこにもでてこないことです。
浄土真宗の布教戦略は、蓮如によって次のように説かれています。

真宗の布教方法
浄土真宗の布教戦略 拠点は「道場」
こうして見ると、仏の教えを百姓にまで本気で届けようとして、ムラの中まで入ってきたのが真宗の僧侶達と云えそうです。身近の道場を通じて信徒を組織化していきます。仏前勤行で行われていることは、「常会」「お座」として、今でも私には馴染みの深いものです。五百年前の布教手段が、今に引き継がれていることになります。

安楽寺の拠点末寺
安楽寺の本末関係
①蓮如の本願寺
②蓮如によって本願寺に属するようになった興正寺
③中本寺としての美馬の安楽寺
④三豊への布教拠点となった寶光寺
⑤丸亀平野への布教拠点となった長善寺
⑥髙松方面への拠点となった安養寺
安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点となったのがこの3つの寺院です。


丸亀平野方面の安楽寺末寺をおさえておきます。

丸亀平野の安楽寺末寺

地図で位置を確認しておきましょう。
安楽寺末寺分布図 丸亀平野

 これが土讃線、ここが琴平、これが土器川です。 緑点が安楽寺の末寺です。ここからは次のような事が見えて来ます。
①勝浦の長善寺を拠点に土器川沿いに分布 
②阿野郡南部の土器川東岸に多く、海岸部にはないこと。
③長尾城周辺に多く、開基を長尾氏とする寺が多いこと。
長尾氏は長宗我部元親に敗れた後に帰農して、安楽寺末寺の住職となったとされています。それぞれの寺に長尾氏を開祖とする系譜が残されています。どちらにしても、教線の流れは美合方面から土器川を下流へという方向です。垂水の浄楽寺の由来もそれを裏付けます。

垂水の浄楽寺

 垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転再建された寺と伝えます。これは、垂水の檀家の誘致に応えてのことでしょう。教線拡大の動きは、山から里へだったことが裏付けられます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

安楽寺から一番近い末寺である勝浦の長善寺を見ておきましょう。


勝浦の旧長善寺


勝浦のかつての長善寺です。石垣の上の白壁は、まるでお城のようです。お寺の下が庄屋を務めた佐野家です。江戸時代には、長善寺と佐野家で勝浦村の田畑の三分の一を所有していたと言われます。長善寺は檀家が阿波と讃岐で千軒近くあります。旧本堂は惣ケヤキ造りで、門徒達の集落の持ち寄られた檜材が使われたと云われています。阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていいったことが考えられます。丸亀平野と安楽寺を結ぶ真鈴越の拠点寺院であったことがうかがえます。

長善寺の鐘楼 鐘がない
茅葺きの鐘楼 鐘がない

茅葺きの鐘楼です しかし鐘がありません。換わって吊されているのは、石柱です。鐘はどこにいったのでしょうか? 残念ながらこのケヤキ造りのお寺はいまはありません。更地になっています。今は里に下りています。

現在の長善寺
現在の長善寺

今は旧勝浦小学校跡に下りてきています。
次に讃岐の末寺は、本寺の安楽寺に対してどんな貢納を義務づけられていたのかを見ておきましょう。

西長尾城と超勝寺(長尾氏居館跡)


長尾の城山と超勝寺。この寺は長尾氏の居館跡に、その一族によって建てられたと伝えられています。長尾場周辺の興聖寺派のお寺はそれぞれ長尾氏の系図を持っています。
超勝寺が安楽寺に提出している詫び状を見ておきましょう。

長尾超勝寺の安楽寺への詫び状


これは長尾の超勝寺が安楽寺宛てに出した詫び状(始末書)です。

①最初に、いままでの非礼を詫びて、次のようなルールと守りますという内容です。逆読みすると、讃岐の末寺であった寺は安楽寺に対して、上のようなしきたり(義務)を、果たす義務を負っていたことが分かります。年3回の本山へのお勤め以外にも多くの勤めがあったことが分かります。この義務を果たすためには、讃岐山脈を越えて、年に何回も安楽寺に通わなければなりません。その際に、手ぶらではいけません。18世紀後半になると様子がかわってきます。安楽寺は、末寺総数83ケ寺の内の約半分の42ケ寺が安永年間に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第二箱一〇八)。どちらにしても、超勝寺が安楽寺の末寺であったことはこの文書で裏付けられます。

尊光寺 タイトル

長炭の種の尊光寺です。石垣の上の白壁。まるで山城のような偉容です。周囲を睥睨する雰囲気。「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。この寺も長尾氏の一族によって建立されたと伝わります。この寺には宝暦7年(1757)に安楽寺が出した離末状が保存されています。それを見ておきましょう。

尊光寺始末状
安楽寺から尊光寺に宛てられた離末状

尊光寺に残された離末文書を見ておきましょう。ここには安永六年(1777)に、中本山安楽寺が尊光寺が離末することを認めていることが分かります。(尊光寺文書三の三八)。

安楽寺からの離末寺

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)も安楽寺から離末しています。同時期に、3つの寺が離末しています。集団離末が、この時期に行われたのです。裏返して見ると、安楽寺が82の末寺を讃岐に持っていたことが裏付けられることになります。それでは、阿波のお寺がどうして讃岐に数多くの末寺を持つことになったのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?
 安楽寺の末寺分布を見ておきましょう。

安楽寺の供せ院拡大の要因は?

これを見ると阿波では吉野川沿いだけで、吉野川より南に安楽寺の末寺はありません。これは真言系修験者の勢力が強くて信者が獲得できなかったことがうかがえます。これは、東讃や坂出・三野平野、さらに小豆島・塩飽の島嶼部が空白地帯なのも同じ理由だと私は考えています。そこには勢力を持つ修験者集団がいました。大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。これらは真言密教系寺院で、多くの修験者や聖、僧兵を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては、また別の機会にお話しします。同時に、安楽寺の布教を保護する政治勢力がありました。


三好4兄弟

阿波の三好4兄弟


安楽寺を保護したのが三好氏です。三好氏は現在の三好市氏三野町芝生(しぼう:池田と美馬の間・大川山の裏側・真鈴峠)を拠点とする武士集団です。応仁の乱後の16世紀になると讃岐や阿波の守護であった細川氏が一族で争うようになります。その中で台頭するのが阿波の三好氏です。三好氏は、細川氏の守護代として力を伸ばします。そして、戦国時代に現れた元長の4人の息子の時代に全盛期を迎えます。

三好四兄弟と天下人

三好四兄弟の勢力範囲
①長男の長慶は、畿内を制圧し、天下人とよばれます。信長の20年前です、それを支えたのが3人の弟です。
②次男の実休は阿波を堅め、丸亀平野や西讃方面に侵攻し、これを制圧下に収めます。
③四男一存(かずまさ)は、三木町の十河家に養子に入って、東讃・髙松方面で勢力を拡大し、香西氏などを配下に置きます。ここでは長宗我部元親が侵攻してくる以前に讃岐は、三好氏の勢力下にあったことを押さえておきます。その三好氏から安楽寺は、讃岐での布教の自由を認められたということになります。それを裏付ける文書を見ておきましょう。

三好千熊丸(長慶の幼名)諸役免許状2

 

「三好千熊丸(長慶の幼名)諸役免許状」と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗文書の中でも、最も古いものです。読み下しておくと

 ①興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々にかんじゅう候て、②前々の如く堪忍あるべく候。③諸公事等の儀、指世申し候。④若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。


文書を見る場合に、最初に見るのは誰が誰に宛てた者かとものかうことです。財田への逃散から5年後の1520年に出されたもので、発行者は「
三好千熊丸」  宛先は、郡里安楽寺です。この文書からは次のような事が読み取れます。

三好千代丸免状から読みとれることは


⓵最初に、三好氏と安楽寺の間を取り持ったのは興正寺だったとあります。これを契機に安楽寺が興聖寺の末寺になったのか、それ以前からそうなのかはよく分かりません。どちらにしてもこれ以後は、安楽寺は興正寺を本山とします。②からは、安楽寺を阿波から追いやった敵対勢力があったことがうかがえます。それは阿波の真言系修験者勢力であったと私は考えています。③三好氏から「讃岐からの帰還許可 + 諸役免除 + 安全保障」の3つの保護内容を得ています。これは
安楽寺の全面勝利宣言的な内容です。そして、三好氏の支配下での布教活動の自由も得ます。これは讃岐にも適応されることになります。安楽寺の教線拡大と、三好氏の讃岐侵攻は重なります。
 

  ここまでで第一部の終了です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 カザミノ丘に建つ高灯籠(右)と大門(左)
前回紹介したカザミノ丘の上には、大門が南面して建ちます。

箸蔵寺大門5
箸蔵寺大門(重要文化財)
この山門の棟札には明治13年(1880)の年紀が記されています。しかし、この山門は、もともとはここにあったものではなく、土佐藩の山内家のお寺にあったようです。ところが土佐では明治初年の神仏分離の際に藩主自らが廃仏毀釈を進めます。そのため廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの寺院が消えたことは以前にお話ししました。その余波で、この山門も土佐では不用とされたものを箸蔵寺が譲り受けてきたようです。その輸送方法は、海路と吉野川を水運で運ばれ、現在地に建立されたと伝えられますが、どこの寺からどのようにして運ばれたのかは今の私には、よく分かりません。 
 そういえば、本殿の東の隅にある観音堂も徳島から移築したものです。

箸蔵寺観音堂
箸蔵寺 観音堂
「ふるさと箸蔵」』(昭和51年刊行)には、古老の回願として次のように記します。

「観音堂は大正九年徳島の清水寺から移築し、材料は牛車で運んだ」

これを裏付けるのが、明治28年(1895)の「阿波地誌』の箸蔵寺の俯瞰図です。ここには観音堂が描かれていません。ここでは箸蔵寺の大門は土佐から、観音堂は徳島の清水寺から移築されたものであることを押さえておきます。そのため他の建物群と建設時期や様式が異なります。
このことについてAIに訊ねると、次のように答えてくれました。

  この仁王門(大門)だけでなく、境内にある徳島県指定有形文化財の「観音堂」も、大正時代に徳島市の清水寺から移築されたものとされています。明治期の神仏分離や廃仏毀釈、あるいは他寺院の諸事情によって役目を終えそうになった他県の優れた建築物を、箸蔵寺が境内の復興に合わせて譲り受け、移築・保存した背景がうかがえます

視点を変えると、廃仏毀釈で不用とされた建物や仏像・聖典が、資金力のあるお寺に集まってきたことになります。例えば金毘羅大権現を追放し、神社にリニューアルした金刀比羅宮も不用な多宝塔や仏像・仏具・曼荼羅などの多くをオークションを開いて販売していたことは以前にお話ししました。資金力のある善通寺や箸蔵寺などの周辺の寺院がやってきて買い付けていったことが禰宜の松岡調の日記には記されています。ここでは、幕末から明治にかけて象頭山からは金毘羅大権現が追放されたこと、その中で箸蔵寺は今まで通りに金毘羅大権現を守り通したこと。それが結果として、金毘羅信仰を持つ人々を箸蔵寺に引き寄せることになったようです。その資金力と勧進力を背景に、山門を譲り受け、高灯籠を建立し、参道整備を行うということになります。ちなみに、箸蔵寺が金毘羅大権現を守り通せたのは、仁和寺の御室派で、その門跡が天皇家出身であったため、廃仏毀釈の難から逃れることができたとされるようです。
山門の細部の造りとデザインについて、報告書は次のように記します。

箸蔵寺大門3


箸蔵寺山門8
                  箸蔵寺大門(重要文化財)
①低い切石積みの基壇上に建つ
②三間一戸二階二重門のスタイル
③脇間に金剛力士像を安置しているので、仁王門と呼ばれる
④桁行三間(8,85m)× 梁間二間(6,34m)
⑤桁行の中央の通路を強調するために柱間を広くし、上層の柱は下層の柱位置をずらして、規模を小さくし、均整をとっている。

箸蔵寺大門6
               箸蔵寺大門(重要文化財)
⑥軸部は上部のみ棕のついた丸柱を立て、下層は貫を、上層では長押を廻し、上下層とも木鼻の付いた頭貫と台輪で固めている 
⑦組物は上下とも同じで、出組(一手先)の詰組で柱間に間斗束を立てている。
⑧柱間装置は、正面の桟唐戸は藁座で吊り、両脇には火灯窓を入れる 
⑨上層内部の床は板で敷かれ、天井は大柄な竿縁天井とし、琵琶板の間斗束は省略
⑩正面奥全面と側面一間分を仏間として、中央に釈迦如来座像と左右に十六羅漢を安置する 
⑪粽柱、台輪、詰組、桟唐戸、藁座、火灯窓、逆蓮頭親柱などに禅宗様式を多用
⑫要所に和様の間斗束 配付垂木、長押、舞良戸を組み入れた折衷様式の建物
  箸蔵寺旧記聞伝覚書には、大門の守護神が次のように記されています。
右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である
しかし、今は③のように金剛力士像を安置され、仁王門と呼ばれています。
  
箸蔵寺大門4

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箸蔵寺大門
   山門(仁王門)をくぐると、広い参道が本堂に向けて伸びています
 
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箸蔵寺大門からの参道
①山門からは、右側の山を切り開いたなだらかな参道が続く。石畳ではない。
 
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箸蔵寺大門からの参道
長く続く参道は、西に開け開放的で、両脇に石玉垣や石灯籠などの石造物が整備されています。参道左側は箸蔵谷で、この下に聖地である蔵谷巌窟の行場があります。谷沿いには玉垣が156間(約230余m) 続きます。ここには全国からの寄進者の名前が並びます。箸蔵寺が明治期には全国区の宗教組織であったことがうかがえます。

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箸蔵寺参道の鞘橋
玉垣は赤い屋根の鞘橋まで続きます。この手前右側に、不動明王など四体の石像を安置した水場があります。これも聖地のようです。

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赤い屋根の鞘橋を石段上より振り返る

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    鞘橋からは西にドッグレッグして、129段の幅の広い長い石段の始まり

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二の鳥居から上は、階段の幅が少し狭くなります。さらに85段登ると分岐点で、右手方向に進めば護摩殿、正面に進むと本坊です。
玉垣の柱は、下側(西進部)は擬宝珠柱、上側(北進部)では猿頬柱です。整備された時期によって違いがあるのかも知れません。
箸蔵寺玉垣 大連
箸蔵寺参道の玉垣 「大連」と地名が刻まれている
 気になったのは、玉垣の寄進者の地名です。この明治の玉垣を見ていると、日本国内だけでなく、「旧朝鮮」や「旧満州(大連など)」から奉納された玉垣、石灯籠、満願石などいくつも並んでいることです。どうして、朝鮮や中国東北部(旧満州)からの寄進があるのでしょうか? 私は、これは日清戦争後の大陸進出の機運の中で、箸蔵寺が布教師(修験者)を大陸に派遣し、信者を獲得した成果を示すものではないかと推測しました。そこで、AIに質問すると、次の答えが返ってきました。

「徳島県の箸蔵寺(はしくらじ)自体が「大陸への海外布教」を直接・組織的に行っていたという具体的な歴史的記録はありません。次のようなことが考えられます。
A 大陸へ渡った開拓民や商人の信仰説
明治から昭和にかけて、四国や日本各地から朝鮮半島・満州(現・中国東北部)へ渡った移民や商人が、海上安全や商売繁盛の神仏である「金毘羅大権現」への信仰を現地でも持ち続けた。遥か大陸の地から故郷の、あるいは本尊である箸蔵寺へ玉垣などを奉納したケース。 
B 大陸へ進出した宗派のつながり
箸蔵寺の属していた真言宗御室派は、大陸にいる日本人を対象に「開教使(かいきょうし)」と呼ばれる布教僧を派遣し、満州や朝鮮に数多くの寺院や説教所を設立した。こうした活動(大陸開教)の広がりが、本山や有力寺院である箸蔵寺への寄進という形で反映された。
 以上から箸蔵寺が修験者(布教師)を大陸に派遣し、独自の布教拠点を置いたというよりは、「大陸に渡った日本の人々や、そこで活動した真言宗のネットワークを通じて、国境を越えて金毘羅信仰・箸蔵寺への信仰が大陸にまで届いていた」というのが歴史的な実態に近いとAIは云うのです。私の仮説は、打ち砕かれてしまいました。
以上をまとめておきます
箸蔵寺伽藍整備年表
①1826年に伽藍が全焼した箸蔵寺は、明治末までには建築物の再建が終わった。
②そこで明治になると順調な教勢拡大を背景に参道整備に乗り出した。
③まず1880年に土佐藩から大門を譲り受け参道起点とした。
④その4年後に、大門下にシンボルタワーとなる高灯籠を建てた。
⑤そして、大門から本殿への参道整備を行い、玉垣・燈籠・鳥居が姿を見せた。
⑥その寄進者は、日本全国だけでなく遠く朝鮮半島や大連など中国東北部からのものもある。

箸蔵寺 高灯籠と大門
        箸蔵寺ロープウエー 背後の右が高灯籠、左が大門 下が蔵谷
いまは参道の上空をロープウエーが往復して参拝者を運んでいます。そのために、この大門からの参道を登る人は、ほとんどいません。そういう意味では、静かな祈りの参道としてお勧めです。同時に、琴平でロープウエーの建設計画が何度も立ち消えしていく理由が分かります。これができれば石段の参道沿いの店は閉店に追い込まれることになります。反対運動がおきるはずです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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郷土史講座 西長尾城2026年10月

1年に3回、まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。今回は、丸亀平野南部を勢力下において、天霧城の香川氏と対峙した長尾氏を取り上げることになりました。時間と興味のある方の参加を歓迎します。
お話する内容については、以下の記事がベースになります。

   
箸蔵寺高灯籠7
                  箸蔵寺ロープウエーと高灯籠
 箸蔵寺へは1970(昭和45)年にロープウェイが出来るまでは、山門下からリフトが庫裡まで伸びているだけでした。ここは自動車参道の終点で、駐車場もあり、旅籠や食堂・土産屋が並び賑わっていました。しかし、下からのロープウエーが出来ると、ここは空中を素通りするだけで、参拝者が訪れることもなくなってしまいました。そのため宿や店も閉じられ、今では、駐車場にロープウェイの柱脚が立っています。しかし、ここからは吉野川流域の素晴らしい展望が拡がります。この辺りは「カザミノ丘」と呼ばれて。かつての名勝でもあったようです。

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        箸蔵寺カザミノ丘からのJR土讃線の吉野川橋梁と高速道路の橋
                   
 箸蔵寺高灯籠は、吉野川流域を眺望するカザミノ丘に建つ木造二重の大型灯籠です。下に流れる吉野川や流域一体を一望できる所にあります。大正5年(1916) 刊の「箸蔵村誌」には「何時も夜燈を燈す」と記し、十数㎞先からも明るい灯りが見えたと云います。「この燈籠は吉野川を行き来する川船の目印(標識)として使われていた」とする説もあります。ただ、燈籠や燈台は、人や船を安全に導くだけではありません。毎夜灯る高燈籠の灯りは、地域のシンボルでもあり、人々の信仰を箸蔵寺へと導くモニュメントでもあったと私は考えています。今私たちが考える以上の役割と機能をこの高灯籠は持っていたのではないでしょうか。

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箸蔵寺高灯籠
 それでは高灯籠は、いつ姿を見せたのでしょうか。
高灯籠上層の壁隅に打たれている棟札には、明治17年(1884)建立と記されています。この年代記事を、幕末から明治にかけて勧められた伽藍整備年表の中に入れてみます。

箸蔵寺伽藍整備年表

この年表からは、次のようなことが読みとれます。
①1826年に、箸蔵寺では伽藍焼失し、再建が勧められた。
②1854年に、最後に本殿に着工し、明治維新までには本殿が完成した
③その後、明治になってカザミノ丘に山門が土佐から移築され、護摩堂や本殿への参道が整備された
④その一環として、讃岐の金刀比羅宮の高灯籠に模した建築物が造営された。
つまり、幕末に上部の伽藍が出来上がると、明治になって参道入口に山門が建てられ、参道整備が進むと同時に、賑わい造り創出やシンボルタワーとして、この高灯籠が姿を現すようになったことがうかがえます。
箸蔵寺高灯籠8
高灯籠の様式やデザインについて、報告書は次のように記します。
①初層方三間四方(3,5m四方)、中層方二間、上層方一間
②初層の正面には一間の唐破風向拝を付ける。 
③建物用途は火を灯して灯台の役目なので、室内装飾はなく簡素な仕上げ。
④袴腰を付けた初重は中層とし、上部は漆喰塗り、下部は本来は板張りであったが現在は鉄板。
⑤向拝と初重柱頭部のみに組物や彫刻使用
⑥屋根は全てに桟瓦を用いており、軒裏は初重が扇垂木を組み、二重は二軒の角繁垂木とする
⑧明治期の建築らしく、中層部の壁全面に筋違を使用。
⑨風が強いところに建つので風圧に備えて土壁 (芯壁)
⑩軒裏や火灯窓などに禅宗様式を取り入れた建物

この建物は周囲によく生えたでしょうし、夜に灯りが灯されれば宗教的な意味を持つ存在になったことでしょう。これに先駆けて造られたのが金刀比羅宮の高灯籠です。

金刀比羅宮 高灯籠
金毘羅大権現の高灯籠

金毘羅大権現の高灯籠
           金毘羅大権現の高灯籠の寄進募集のちらし
金毘羅大権現の金光院に次のような願いが提出されるのが、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)のことです。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。特に、当時好景気に沸いていた砂糖産業に関わる人たちからの寄進が多かったようです。建設資金は3000両とされます。これより前の金堂が30000両でした。
琴平に現れた高灯籠を見て、阿波箸蔵寺の修験者たちは同じような高灯籠を整備が進むカザミノ丘に建てようとしたのではないでしょうか。デザインもよく似ています。

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺の高灯籠(右)と山門(左)
こうして山門と高灯籠が並び立って、箸蔵寺の入口周辺が整備されていきます。それが参道で、護摩堂や本殿とむすばれます。今度は、その参道整備が課題となっていきます。ここに玉垣や燈籠がならび、参道は石で白く輝く境内へと変身していきます。
箸蔵寺の高灯籠を眺めていて思い出したのが、四国中央市新宮町上山の安楽寺の近くにある泉田の高灯籠です。
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                     泉田の高灯籠
まるで燈台のようですが、ここからは海も川も見えません。どうして、ここにこんな灯籠が建てられたのでしょうか。これは「金毘羅 → 箸蔵寺 → 安楽寺」という流れがあるのではないかと私は考えています。確かに金毘羅の高灯籠は、沖ゆく船の燈台の役割を果たしたかもしれません。しかし、夜も航海するのは少数でした。それに対して、箸蔵寺は海は見えません。川船を導く燈台の役割を果たしたとされますが、座礁の恐れがあるので夜に行き来する川船はほとんどなかったようです。箸蔵寺の高灯籠が川船の安全のために建てられたという説には、私は疑問を持っています。そして、次のようなことを考えています。
①尾根の先端部に建つ高灯籠は、「私たちの心の支えとなるお寺(安楽寺)があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰に灯りをともす役割。
②箸蔵寺や安楽寺の存在証明のためにソラの高灯籠は建てられた。
③船のための燈台と云うよりも、ソラの集落の人々の心の燈台の役割を果たした

それでは高灯籠が姿を見せるようになったのは、いつころなのでしょうか?
高灯籠のルーツは、大阪の住吉神社にあるようです。

長谷川貞信(初代)『浪花百景之内 住吉高灯籠』
     長谷川貞信(初代)の『浪花百景之内 住吉高灯籠』(幕末から明治初年頃)
大阪住吉神社の高灯籠 大正時代の絵はがき
住吉神社の高灯籠(大正時代の絵はがき)
  住吉神社の社前には、白砂青松の美しい海岸風景(住吉津)が広がっていました。住吉高灯籠ももともとは、住吉大社の常夜燈ですが、次第に航路標識としての役割が増大していきます。とくに大阪湾の潮流が激しい難波津に比べ、穏やかな海の住吉津は、海上交通の要衝となり、江戸時代になると夜間の航行を守る灯台としての役割が強くなります。 住吉公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、もともとは住吉大社の表参道で、鎌倉時代に創建された初代の高灯籠は「日本最古の灯台」として、ここに建っていたようです。琴平の高灯籠が、これをモデルにしていることがよく分かります。こうして、住吉神社モデルの高灯籠が瀬戸内海の港町には姿を見せるようになります。

御手洗の高灯籠
御手洗の高灯籠(呉市 大崎下島)
 瀬戸内海の風待ち港として栄えた大崎下島の御手洗(みたらい)にある石造りの高灯籠です。天保3(1832)年に北前船などの航行安全を祈って千砂子波止の突端に造り替えられています。金毘羅に約30年あまり先行します。

鞆の常夜灯
              鞆(福山市)の常夜灯
 鞆は、御手洗に遅れること約30年後の安政6年(1859年)に建てられています。港の常夜灯としては日本一の大きさ(海中の基礎から最上部の宝珠まで約11〜12m)です。

敦賀の日本最古の高灯籠
庄山の高灯籠(敦賀市)
敦賀市の観光ホテル前庭に建つ高灯籠は、享和2年(1802)に建てられた現存する日本海側最古の石積み灯台です。底辺2.3m四方、高さはおよそ7.5m。茶町(現:川崎町)の船問屋・庄山清兵衛が自邸の一角に建てたことから「庄山の高灯籠」とも呼ばれています。沖ゆく北前船を港に誘引する効果があったのかもしれません。

高燈籠変遷

 このような港への高灯籠建設が、「海の神様」としての信仰を集めつつあった内陸部の琴平に建てられ、それがさらに明治になると箸蔵にも伸びていくということになるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追記 高灯籠は蔵谷巌窟への入口でもあります。
高灯篭の横の木の鳥居をくぐり、参道を下っていくと約20分ぐらいで丸木橋が見えて来ます。それ渡るとお堂があります。ここが弘法大師が金毘羅大権現から寺院を建立するように誓願された場所とされているようです。修験者たちにとっては、聖なる行場であったことになります。

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺
 蔵谷巌窟

箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
蔵谷巌窟に祀られる金毘羅大権現
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺本社は権現造り
箸蔵寺の本社
幕末に建立された箸蔵寺の建物群は、重文指定になっています。その内の金毘羅大権現を祀る本社を今回は見ていくことにします。本社(本殿)は、上の写真のように3つの建物が連なって構成されています。きつく長い階段を登って正面に建つと見えるのは、拝殿だけです。そのために、私は若い頃にはその背後にある石の間と本殿に気づかないでいました。側面から見ると本殿は、後の斜面の上にあり、拝殿よりも相当に高い所に建っているのが分かります。これは金刀比羅宮(旧金毘羅大権現)と同じ社殿配置です。今回は箸蔵寺の本社(本殿)について見ていくことにします。テキストは、「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」です。 調査報告書には、建築群について次のように記します。(要約)
箸蔵寺は近世には金刀比羅宮の奥の院として信仰を集めた。現存する建築群は,文政9年(1826)の火災後に再建されたものである。建築年代は,
A 方丈が安政3年(1856)頃
B 護摩殿・薬師堂・鐘楼堂・天神社本殿が文久元年(1861)頃
C 本殿は少し遅れて江戸最末期(彫刻は明治)
箸蔵寺は,本殿,護摩殿,方丈を中心に,神仏習合を色濃く残す寺院である。特に本殿と護摩殿は,傾斜地を意図的に利用し,複雑な構成と特異な造形を併せ持つ雄大な複合建築として貴重である。また,いずれも装飾細部に巧緻かつ高度な技法を駆使した彫物を多用しており,四国における江戸末期の建築意匠の傾向を代表する壮麗な建築のひとつとして,価値が高い。」

 
箸蔵寺の建築物年代
        
嘉永七(1854) 夏に出された「御本社再建寄進蝶」には「文政九年(1826) の「春当山諸堂を焼失。御本殿は旧来の通り再建したい」として、本殿の平面図と正面図を掲げて寄進が募られています。 さらに「徳島県の諸職」(諸職関係民俗文化財調査報告書・徳島県教育委員会編) からは、本殿の彫刻が初代・猪口国太郎 (1824~78)と、二代・猪口安太郎 (1861~93)の手によるものであることが分かっています。これらによって、本殿が幕末のもので、伽藍の中で最後に姿を現したこと、また彫刻類は明治になって出来上がったことが裏付けられます。
 「傾斜地を意図的に利用し,複雑な構成と特異な造形を併せ持つ雄大な複合建築(権現造り)」とされる建物群を見ていくことにします。

神 社 建 築 の 種 類
権現
権現造り
権現造りは「外陣(拝殿)+ 内陣(石の間) + 奥殿(本殿)」の三構造です。


                  日光東照宮の平面図 
 権現造は、北野天満宮をモデルにして、各藩が日光東照宮のミニ版を建立する過程で様式が整えられて行きます。その特長は、上から見ると本殿と拝殿を石の間で連結した工字形に見えることです。間の石の間は、「相の間」とも呼ばれます。古代の神社建築では、本殿と拝殿が別棟で、その間は床を石敷としていました。そのため「石の間造」と呼ばれることもありました。近世になると、「本殿 + 石の間 + 拝殿」の3つの空間がひとつの棟となります。しかし、床を同レベルとしないで、石の間を設けて本殿よりも拝殿を一段低い位置に置いて、そこから御本尊や御神体を仰ぎ崇拝するスタイルをとるようになります。箸蔵寺の本殿は、山を背にして建ているので、高低差が大きいのが特徴です。別の言い方をすると、高低差を石の間で作りだして、本殿を仰ぎ見る演出空間を生み出していると研究者は評します。これは、象頭山の金刀比羅宮の社殿と同じです。これが模倣されたことが考えられます。
2式大艇を壊した! 権現造 | ミカオ建築館 BLOG - 楽天ブログ
 ちなみに拝殿から本殿までの社殿全体の奥行は約39mあります。これは、全国に点在する権現造や複合神社建築と比べてもひけをとるものではないと研究者は評します。

3つの建物の役割と構造を見ていくことにします。
A 外陣 手前の四方切目縁を廻した大規模な拝殿
B 内陣 一段上がった幣殿(石の間)
C 奥殿 木階と中段を挟んだ本殿
床は
A 外陣 64帖の畳を敷き詰めて、拝殿にあたる礼拝の間 
B 内陣 護摩壇が置かれ、中央は板で周辺三辺を畳を廻し、外側に畳敷き
C 奥殿 一間毎に畳敷き、木階と続き、丸柱を立てて結界線を設け、三間分を拭板を敷き、最奥の一間分を仏間にして秘仏を安置する。
内陣(石の間)に護摩壇があることが修験者の拠点であったことを物語ります。

箸蔵寺と天狗
箸蔵寺拝殿正面の天狗面と修験者

本殿(奥殿)の正面には、一段高くした仏間を設けて秘仏を祀られているようです。そこには弘法大師に寺を建立するように誓願した金毘羅大権現や、その化身(本地仏)である薬師如来、その守護神の天部、修験者の守護神不道明王が祀られているようです。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺が配布した金毘羅大権現の掛け軸
権現造といえば東照宮(栃木日光・東京上野・静岡久能山・京都福地・滋賀日吉)や北野天満宮などのように、極彩色された組物や彫刻を多用するのが特徴です。
しかし、箸蔵寺には彩色物がありません。拝殿の軒裏や向拝には、三手先の尾垂木や木鼻に、唐獅子・龍・獏息などの想像上の霊獣が彫刻さます。それを見ておきましょう。

箸蔵寺拝殿 彫刻1
箸蔵寺拝殿 彫刻がびっしりと刻まれている
箸蔵寺拝殿 彫刻2
箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻1

箸蔵寺拝殿 彫刻5
               
箸蔵寺拝殿 彫刻6
             箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻3
箸蔵寺拝殿 彫刻4
箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻4
 奥殿の軒裏は、禅宗様の詰組みであ五手先で埋めつくされているようですが、私はまだ見たことがありません。このような大規模な装飾的社殿建築は、本家の金刀比羅宮だけでなく、四国でも珍しいと思います。彫刻が好きな人にはお勧めの場所です。幕末の貴重な遺構として重要文化財に指定されるひとつの要素でしょう。
 この建物の彫刻や組み物は宮大工ではなく、専門の彫刻師が手がけていたことが分かっています。
「徳島県の諸職」(諸職関係民俗文化財調査報告書・徳島県教育委員会編) には、初代・猪口国太郎(1824~78)と、二代・猪口安太郎(1861~93)の手によるものと報告されています。建物が幕末に完成した後で、明治になって彼らによって彫刻や組み物が掘られて、飾られたことになります。護摩堂と本殿との前後関係は、護摩殿が先に完成し、その後に本殿が完成することは先に見たとおりです。そのため組物などは、本殿の方が一段と派手になっていること、外陣軒裏・同向拝・奥殿軒裏などに彫刻師の技の進歩が見られると研究者は指摘します。

この本殿建立のための資金は、どのようにして集められたのでしょうか。
寄進募集のために出された「御本社再建寄進蝶」嘉永7(1854)年夏には次のように記します。
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。ついては、資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募ることになった。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行う。家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じることを乞う。
                          箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事
定
一 式朱   五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事
一 金百疋 右同断御札可進之事
一 金弐百足 右同断木札可進之事
一 金壱両  右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事
一 金式而  五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入
一 金五両  右同断講座之砌三七日之護摩修業木札 
       可進之事 ○永代内陣人
一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札 
可進之事 〇永代内陣入日護摩講
一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事
一 金三拾両  永代木札可進之事
内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候
一 金五拾両  永代木札可進之事 右之御神楽
内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候
右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上
以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。寄付額によって、与えられる特権やランクがちがうようです。
以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。

以上をまとめておきます。
①文政9年(1826)に箸蔵寺は被災した。
②その1856年頃までには、方丈も含めて再建(創建?)された。
③最後に残ったのが本殿で、幕末から明治にかけて完成した。
④本殿は「拝殿+石の間+本殿(奥殿)」から構成される権現造である。
⑤奥殿には金毘羅大権現とその本地仏や守護する天部が祀られている。
⑥石の間には、修験者の祈祷場として護摩壇がある。
⑦建物は見事な彫刻で飾られているが、これは明治の彫刻家の作品である
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺境内図

 「箸蔵寺旧記」には、箸蔵寺の由来や建物履歴などが書かれていますが、その成立については次の2つの説があるようです。
A 箸蔵寺の山号は「宝珠山」だが、修験者たちの山岳修行の行場・道場だったので「仙岳」とも呼ばれた。その箸蔵寺に伝わる縁起や歴史を記したので『仙岳誌』である。
B 幕末に活躍した住職の仙岳が記したことに由来する。
どちらが正しいのかは、追々考えることにして、書かれている内容を冒頭から見ていくことにします。
テキストは「箸蔵寺調査報告書49P 池田町教育委員会」に掲載されている「箸蔵寺旧記聞伝覚書」です。)。
箸蔵寺旧記聞伝覚書1
          箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO1
冒頭部を意訳変換しておくと
一、この鳥居から箸蔵寺までは十八丁。鳥居の高さは三間、橫は2間半、柱は五尺四寸。
一、A長宗我部元親が土州より侵攻し、大西氏の白地城が落城するまでは、箸蔵寺は上の堂にあった。兵火で焼失して、夜ごとに山中で光るものが見える。これを長曾我部の手勢が見つけて訪ねてみると、樹下に靈像があった。これが当山の権現の本尊薬師如来とその眷属たちの像であった。火中に残り姿を見せていることに深く感じ入った土佐出身の男は、この霊像を祀った。しかし、約三十ヶ年間も、堂寺はなく庵があるだけであった。男は妻を娶り、二人の男の子を得た。そうする中で夢の中に金毘羅大権現が現れ、次のように告げた。「兄に家名を継がせ、弟を出家させて寺堂宮を造立すべし」と。そこで、奥社では遠いので朝暮の山坂で充分に祀ることができないので、寺を現在地に移した。
ここに書かれていることを要約しておきます。
①箸蔵寺は、長宗我部元親と大西氏の兵火の中で焼失した。
②焼失後、退転した寺の管理を行ったのは土佐出身者で、上の堂から現在地に寺を移した。
ここで注目したいのは、退転した箸蔵寺を復興したのが土佐出身者であることです。前々回に紹介した地福寺旧記には、次のように記されていました
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②弟子の宥寛は、土佐浪人の倅であった。
 箸蔵寺復興者については、地福寺旧記の内容を補完する内容です。退転した箸蔵寺の復興者は、土佐出身の修験者であることがうかがえます。さらに、箸蔵寺に中世の歴史はないとすると、これが実質的創建者とであったと私は考えています。琴平の金毘羅大権現の別当寺の松尾寺も長宗我部元親が土佐から呼び寄せた修験者のボスである宥厳に任されます。金毘羅も箸蔵寺も、土佐の修験者によって復興(創建?)されたことを押さえておきます。また金毘羅神は、近世初頭に天狗信仰者によって生み出された流行(はやり)神であることは以前にお話ししました。中世にその起源を遡ることはできません。
 次は長宗我部元親に代わってやってきた蜂須賀藩の対応が、どのように書かれているかを見ていくことにします。 

箸蔵寺旧記聞伝覚書2
           箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO2
意訳変換しておくと
一 阿波藩主の先代蓬庵公が巡国の際に、当庵に隠者がいることを聞いて、庵までやって来た。住持は、以前の領主様(大西氏? OR 長宗我部元親?)は、金毘羅大権現の本尊へ供田を寄進されるとともに、自分の祈祷所として保護されていましたと申上げた。これを聞いて蜂須賀家の藩主は、箸蔵寺に対して山内七十七町七反四畝の山林の證文と禁令の制札を下し、藩の祈願所に取立てて保護下に置いた。そして、本社・幣殿、拝殿本堂、鐘楼堂、大門、宝蔵方、庫裏等などが(藩主によって)再興された。
 ところが寛文七(1667)年四月に、火事が起り、寺、諸堂、 社宝物、 證文などが焼失した。この時に、御手板だけは燒残ったので、現在も箸蔵寺で保存されている。その後、長谷川越前様の仕置の際に、杉桧が生え重るようになっていたので(藩の)御林に組み入れられた。
箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 高灯籠 左が大門
  高燈籠の高さは、三丈 石口より四間半、周囲は2間四方
昔は、ここに制札場があり、次のような藩主の禁令が掲げられていた。
一 当山では他所の者が無断で材木を切ることを禁令で禁止する。もし伐採する者があれば成敗する。
一 竹の子やひね竹一本でも切ることは許さない。これは堅く守るべきこと。桑や茶の木も、また伐るべからず
                         文禄三年四月三日蜂須賀 御判
ここでは蜂須賀家の保護を受けることで箸蔵寺は大伽藍をもつ大寺に成長したことが記されています。
しかし、前々回に見たように近世の史料からは、箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたことは記されていますが、多くの神域を保障されていたことなどには触れられておらずよく分かりません。
 私がここで気になるのは、「長宗我部元親=破壊者=悪玉説、蜂須賀家=復興者=善玉説」に色分けされて歴史が叙述されていることです。
その延長線上に書かれている『池田町史 上巻』は、次のように記されています。

長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これが本当なのかという疑義を私は持っています。香川県でも長宗我部元親は悪玉として描かれてきましたが、その見直しが始まったばかりです。長宗我部元親は短いけれども支配者として君臨しました。その間に「スクラップ & ビルド」を行っています。ビルドの面があったことも見ていく必要があるように思います。

箸蔵寺旧記聞伝覚書3

縁起 - こんぴら奥の院 箸蔵寺
箸蔵寺全景 大門は右下
意訳変換しておくと
一 茶堂は三間×四間
一 大門は三間×六間の規模であったが、35年前に焼失。それを文政九戌年に復興した。
一 大門・諸堂社の再興時の材木は祖谷山の喜多源内殿からの寄進で、栗ヶ仁尾という高山に生えていた槻木を吉野川を流して運んできたものである。
一 祓(はらい)川と云うのは、弘法大師の加持水で、この水を使って当山参拝者たちが身体の不浄をはらためである。弘法大師は、この川について次のように詠んだ。
○身体に積もる不浄(コリトリ)を浄める祓川。
○清浄の積る塵垢(こり)拂ひ川
(大門の)右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である

IMG_3656
箸蔵寺大門
ここには大門や緒堂の材木が祖谷から吉野川の川流しによって運ばれてきたと記されています。吉野川流域では、現在の早明浦ダムの奥の土佐からも木材が流されていたことは以前にお話ししました。これらは吉野川河口に運ばれ、中世には堺の商人の手を通じて畿内に売りさばかれていました。堺商人の阿波進出は、木材と関係あるようです。そのルートをつたって、吉野川沿いに真宗興正寺派の教線が伸びてきて、美馬が安楽寺がその拠点となることは以前にお話ししました。
 祓川については、讃岐の金毘羅大権現では、髙松街道が土器川を越える辺りが祓川と呼ばれていました。髙松方面からやってきた参拝者たちは、象頭山を仰ぎ見ながら土器川(祓川)で身を清めました。山岳信仰の寺院は、不浄を浄める川や泉は不可欠でした。また大門の右に祀られている深沙大様は珍しい守護神です。 

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺奥の院 金毘羅大権現を祀る蔵谷巌窟
箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
箸蔵寺 蔵谷岩窟に祀られる金毘羅大権現

一 この鳥居の内側は、弘法大師の開山時より、邪(じゃ)結界の霊地で、地名を蔵谷と云う。当山の魔所とされてきた。一年に三度、八丁四方の注連縄を回して、諸人の立ち入りを禁じているエリアである。ここは巌窟から(金毘羅)現権が現れ、弘法大師と出会った場所である。弘法大師は金毘羅大権現から「参詣する諸人に除災興楽を興へよ」という誓願を受けて七堂伽藍を建立した。そして、一年に一度は諸人に不思議を見せ、信仰を生じさせんとして、讃州金比羅から十月十一日の夜に眷属(天狗)に、祭礼に使った頭人祝ひの箸や土器を、この霊窟に運び収めさせたと申し伝えられている。こうして、大祭後の十月十一日の夜の間に箸や土器は金毘羅には壱本も残らずなくなるようになった。

一 これについては天保巳年讃州金光院より御役場へ、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥の院と称する由縁についてお訊ねがあった。そこで、箸を蔵谷へ運び収めるとの契約あるによって箸蔵寺と号し、権現出現の時の威光を輝く姿をもって真光院と号すことを伝えた。

ここには、江戸時代に半ばに高野山の高僧が書いた箸伝説縁起が下敷きになったものがそのまま引用されています。そして、琴平の金光院からの詰問に対して弘法大師と金毘羅大権現との間に結ばれた「箸を蔵谷へ運び収める契約」があることを証としたと記されています。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近

しかし、これは箸蔵寺の一方的な言い分で、
本家の琴平の金光院には、箸蔵寺関係の修験者によるの贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。それが幕末の伽藍整備の勧進力になるのと私は考えています。続いて見ていきます。
一 当山は東西に伸びた山の形が宝珠に似ているので寶珠山と弘法大師が名付けた。
一 以来、この山は不入の山とされてきた。文政年間の初めからは修験者宗休が蔵谷の八丁下りに堂を作り、十二ヶ年余りに渡って長期間の修行を行ってきた。その後、当山に身を隠した。この行者の験のお陰か、三月、六月、十月十一日十二日の一年に三度、金毘羅大権現が現れた。人々は、山に拝礼し、信心の者は精進潔済して当山に参詣した。年を経て、この行堂も痛みがひどくなったので、七年巳前に三間四方の行堂を再興した。この地は、谷底なので百三十間の岩石が一面に続く瀧がある。
一 ここは今は畠地になったが、昔はここに三重塔があって、字名も三重塔床(跡)と伝えられている。
ここには文政年間に箸蔵山で修行した修験者宗休のことが紹介されています。多くの行者が長期間にわたって修行を行う行場が数多く点在していたこと、そこで数多くの修験者たちが修行に励んでいたこと、幕末の箸蔵寺は修験者の密度が濃かったことがうかがえます。それが阿讃の山を超えて財田から三豊への勧進活動の原動力だったのかもしれません。
  最後に、善女龍王の勧進について見ておきましょう。
一 当山、霊山とされるのは、本社より25丁上の山の峯に、弘法大師が善女龍王を観請し、往来の諸人の渇の乾きを癒やすために、加持して湧き出した一杵(いっしょ)の由来にもとづく。旱魃之際にも、この泉が水量が一定で枯れたりすることないので、諸人は「壱升水」と呼ぶ。
今年のような旱魃の時には、諸国からこの霊水を持ち帰り、雨乞祈祷を行う。その効験あることは世間の知る所である。ある時には善女龍王は小蛇に化身して社頭に姿を見せることもある。まことに不思議の霊場である。
善女龍王は、弘法大師伝説のひとつのジャンルです。善女龍王が讃岐で最初に勧進されるのは、17世紀後半の善通寺です。善通寺を中心に善女龍王伝説は広がっていったようです。その流布ラインが箸蔵寺にまでおよんでいたことがここからはうかがえます。

さて、最初の疑問に戻ります。この文書は何のために書かれたかということです。末尾には「このように藩からのお訊ねがあるときには、住職は以上のように答えてきた。」とあります。これからは藩などの公的機関からの問い合わせに対する想定問答集であったことが分かります。江戸時代後半になると大きな寺院では藩の問い合わせに対して、このような想定問答集が常備されていきます。それを書き写し残したのが幕末から明治にかけて活躍した仙岳だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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P1160245ha箸蔵寺 天狗面
箸蔵寺本殿 金毘羅大権現の両脇をかためる天狗たち
江戸時代後半の箸蔵山が阿波の人々からどのような目で見られていたのかを今回は見ていくことにします。
まず「阿州寄事雑話(あしゅうきじざつわ)」を取り上げます。

阿州寄事雑話1
この本は阿波国の奇談や地誌、伝承を集めた地誌・随筆集で、著者は横井希純(よこいきじゅん)です。阿波の狸伝説や山川町の妖怪伝説の種本になっていて、近年は人気があるようです。そこには箸蔵山のことが次のように記されています。
三好郡洲津村箸倉山は讃の象頭山の南方に当て四五里を隔つ、昔より伝え云ふ、金毘羅にて用ひ捨つる箸は皆此の山に飛来るとなり、此の山も霊異多し、近年仔細有りて此の山の大木を伐りたるに山騒しくして寺中の小僧等失せて山中に迷ひ居し事度々に乃べり、又白昼に単衣を着せし男身を縮めて紙鳶の如く中天を飛て此の山に至るを近所の民打見およびたる多しと云ふ、
此の辺の人家の内一軒如何成る山神の憎しみを受けし事にや、ある時つぶ打事夥し、且大木をも投げぬ、家人皆逃れ去りしが竟に此の家を打潰しぬ、並に此の伐たる木の末木抔鍛冶炭になせしに其の鍛冶有りし処に火起りし事有りとなり、かやうの山には此の類多し。 (此の類の怪事は今に所々
にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
意訳変換しておくと
三好郡洲津村箸倉山は、讃岐の金毘羅大権現の象頭山の南方四、五里に位置する。金毘羅(大祭)で使用済みで捨てられた箸は、すべてこの山の飛来すると昔から伝えられる。箸蔵寺も霊異が多い山である。近年に仔細あってこの山の大木を伐ったところ、山騒しくなって、箸蔵寺の小僧が山中に迷い込みいなくなってしまった。白昼に単衣を着た男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくるのを近所の人々は何度も見たという。
 箸蔵寺の人家の内の一軒がどうしたことか、山神の憎しみを受けることになってしまった。すると、つぶてが飛んできたり、あるときには大木も投げつけられ、家人は皆逃れ去ったが、それでも許さずに、ついにはこのの家を打潰してしまった。また、この伐った木で炭焼きをして鍛冶炭にしたところ、鍛冶屋が火事になったこともあった。箸蔵山にはこのような類の話が多い。 (此の類の怪事は今に所々にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
ここには 箸蔵山は、奇っ怪なことが起きる不思議な山であることが書かれています。
このような話は、疫病退散のために寝ずに一晩をお堂で過ごす庚申の時に、村人達が語り合った物語が今に伝えられていることが多いようです。これらの物語を伝えたり、創作したのは山伏(修験者・聖)だったと民俗学者たちは考えています。山伏たちは、あるときには薬草をあつかう漢方医であり、悪病退散を祈祷する医術者でもあり、剣山や石鎚山へ信者を誘引することもしました。妖怪伝説や悪霊伝説などの物語が色濃く残っている所には、それに比例して山伏の痕跡が濃いと研究者は指摘します。
 ここには箸蔵山が特別な霊威の空間であることを伝える意図が見えます。例えば「男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくる」というのは、天狗伝説です。中世の山伏たちは、鞍馬天狗や弁慶の物語に出てくるように、修行で天狗になることができると思っていました。そして天狗のように空が飛べる飛行術を身につけようと修行に励んでいたのです。このような天狗信仰者が象頭山に金毘羅大権現を開き、それを箸蔵寺にも勧進してきたということになります。「阿州寄事雑話」で語られた物語が時代を下ると、村々で起きた事件として残されるようになります。
今度は、「燈火録(とうかろく)」に出てくる著倉山を見ていくことにします。
この書は、文化9年(1812年)に出された阿波の総合的な地誌・歴史書で、著者は元木蘆洲(もときろしゅう)です。
箸蔵寺 燈火録
                燈火録(文化9年(1812年)
意訳変換しておくと
讃岐の讃州金毘羅神は、例年十月の御祭礼行啓を終えると陪従の人々に摂侍所にて宴席が設けられる。それが終わると、腕も箸も総てを置いたままで下山する。そして、翌日の十日十一日は申刻過から山門に竹垣を結て登山を禁じる。ところが、どうしたことか、置き残した箸が総て三好郡箸倉山の岩倉へ夜中に山神(天狗)によって持運び納められると云う。また除災の衛護のためにと宿所へ持帰ったものも、土蔵にしまい込んだものも、悉くなくなっている。奇異な事だ。

まずは金毘羅大権現と箸蔵山を結ぶ「箸運搬と天狗伝説」が語られます。次に、その神域を犯す者への天罰が次のように述べられます。

箸蔵寺 燈火2
意訳変換しておくと
 箸倉山の樹を伐ることは、山神の嫌うところある。また霊窟のあたりへは、人々は近寄らない。箸蔵寺の僧ですら、行て帰らないものもいる。神域の林樹を買った者でさへ伐取人はもとより、木を仲介した先々まで神罰があったという。そのため、それを知っている人々は神罰を怖れて、箸蔵山産の薪炭を買うことを避けようとする。
 ある年、当山の寺の木を樵って渓間に多く積み置いていたところ、洪水で流されてしまった。 それが麻植郡の何某の家の垣に流れついた。そこで二階に積み置いて、外へ出て畠の仕事をしていた。すると拾った樵木が水に濡れて乾いてもいないのに火がつき燃え出し、家は跡形もなく焼失してしまった。
 徳島新町鍛冶屋の某は、炭を買て積置いていたところ、火が出て隣家までも焼亡してしまった。後日に聞けば、この炭が箸蔵山で切り出し焼かれた炭だったとのこと。また寛政の頃に、、箸蔵山の樹を買取りって伐出した杉丸太三間を十本ほど、三好郡芝生村の酒屋へ売却し、門内の隅に立懸けて置いた。その家の庭は広いので、七月の盆踊り会場となっていて、周辺の若者たちが集って踊っていた。すると、虚空よりぱらぱらと小石が降ってきたので、人々みな家の内へ駆け込んで、興が冷めてしまった。この家主があやしみ怒って、これは狸の仕業にちがいないと空鉄砲を発射して威嚇すると、小石はますます激しく降ってきた。ついには、二人で持たなければ動かない大石が打ち降り、家の屋根が打ち抜かれ瓦が砕け落るすさまじい音がして、人々は恐怖におののいた。主人が非難すると暫時にして止んだ。家宅は壊れたが、怪我をした人はいなかったのが吉兆だったと、翌日に近隣の人々を集めて酒を勧めて無事を祝した。その時に人々が云うには、箸倉の神の御咎だろうということになり、この丸太を前の川に流した。その後は何の障怪もなかったという。この辺りの人が来て、離したことを語るままに書き付けたものである。

ここには箸蔵山で切られた木がいろいろな禍をもたらすことが繰り返し述べられています。この物語を創作した山伏の伝えたかったことを推論してみます。
①箸蔵山が神域であること
②その木を切ったり、妄りに立ち入った者に対しては神罰が下されること
このような物語を拡げることで、箸蔵山周辺の山伏たちは自分たちの行場ゲレンデであり、聖域であるテリトリーを守ろうとしたことが考えられます。つまりは、箸蔵寺が彼らにとっては守るべき聖域であったことになります。そのために多くの山伏(修験者)がやってきて修行にはげんでいたのでしょう。

全国にある大師堂の多くは、山伏(修験者・高野聖・熊野行者)などの遊行の跡だった研究者は考えています。
ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまいました。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。修験者の中で、最初に吉野川流域にやってきたのは熊野行者のようです。熊野行者は、次のようなルートで吉野川の上流をめざしたことは前にお話ししました。

熊野業者による吉野川流域への教線拡大

熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

  例えば土佐の本山町では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神です。それに対して、聖神は人々の信仰対象になっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者(修験者)が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。このような塚が阿波のソラの集落にも数多く見られます。
 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。
例えば、彼らは讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。妖怪街道と呼ばれる山川町の藤川谷川流域も、山伏たちの密度が濃く、活発な活動が行われていたエリアです。彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつもの話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通性があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。以上から山伏が自分たちの行場であり、活動エリアである箸蔵寺周辺を聖地として守るために、意図的にこのような物語は作られたのではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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